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ÿþM icrosoft W ord - 0 2 0 9 normandie
ノルマンディ IX
図版博物館 vol.18
人の記憶 8
Musée imaginaire philatélique
Régions Normandie au travers des timbres français
4e éd. 2013
しばらく、文学の世界に寄り道をする。そのあとで政治の世界へ。
【2-9-1 バルベィ・ドルヴィリィ】 Barbey d´Aurevilly 1808-89
YT-1823
ドルヴィリィは、マンシュ県サ
ン・ソヴール・ルヴィコント Saint-Sauveur-le-Vicomte の旧家の生まれで幼
少よりカトリク、王党派、反動思想家であったという稀有の作家であ
る。長じて「文学界の大元帥」Connétable des lettres と称された小
説家、詩人、評論家、ジャーナリストで毒舌家であるが、またそのような
立場から文壇に影響を与えたことは確かであった。ボードレールは彼
を敬愛し、ヴィクトル・ユゴ-、フロベール、ゾラは彼
を蛇蝎視した。非妥協的な王党主義でブ
ルジョアの世紀(19 世紀)の進歩・価値を否定
し、カトリクの偽善を批判しながらも教皇至
上主義、絶対主義を貫いた。他方で、イギ
リスのジョージ・ブルンメルに傾倒したど外れなダンディズムでも有名だが、
それを支えたのは強固なカトリク信仰と原罪意識だというから判らな
いものである。作品として最も有名なのは、晩年にまとめられた
小説集「悪党たち」Les Diabolques で、これによってドルヴィリィは
文学界の大元帥
インモラリストの烙印を押されたという。2-9-1
【2-9-2 ギュスターヴ・フロベール】 Gustave Flaubert
1821-80 YT-930
フロベールは、ルーアンの外科医
の家に生まれ、パリで法律家にならんとしたが、癲癇症に苦しみ小説家となる。19 世紀自然
主義文学の傑作といわれる『ボヴァリー夫人』Madame Bovary(1857)での赤裸な表現は風俗紊
乱で刑事事件の対象となるほどであった(判決は無罪)が、作品としては時代に受け入れら
れたというべきである。ここで想起されるのは、誤解を恐れずに言えば、バルザクの小説「30
歳の女」との共通性であり、個性的な 2 人の作家がそれぞれ 19 世紀前半のフランス社会に見出
した女性の生き方(というよりその描き方)である。写実を重視した自然主義文学のもう 1
つの代表作は『感情教育』Education sentimentale(1869)である。7 月王政末期から 2 月革
命、第 2 帝政へと激変する時代の苦悩と成長を描いた小説であるが、自伝的要素が随所に
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見られるように思う(とくに、Madame Marie Arnoux との出会い
あたり)。日本でもよく知られた作家で、最近でも
評論や研究書がかなり出ているようである。切
手とその原画と思われる肖像画が見つかったの
で同じ大きさにして並べてみた。肖像画の力と
いうべきか、この種の絵をいったん見ると小説
のどのページを読んでも作家の顔が浮かんで、読
書の邪魔をするものだ。2-9-2
Eugène Giraud 画
【2-9-3 ギィ・ド・モォパサン】
Guy de Maupassant
1850-93 YT-2799
モォパサンもノルマンである。
前に【ノルマンディ 7】で見たコタンタン海軍元帥と同郷のセェヌ・マ
リチム県トゥルヴィル Tourville-sur-Arques の出身。ルーアンのリセ・
コルネイユからパリ大学法学部に進んだばかりのところで
普仏戦争で召集、良いところの全くない敗走兵に終わ
る。その後の役人生活に
も慣れず体調も優れず、
そのようななかでゾラを
中心とした同人集に発表した短編の「脂肪の塊」Boule de suif
が好評で、30 歳で作家として知られる
ようになった。6 本の長編小説があるが、
最も有名なのは『女の一生』Une vie で
ある。少女ジャンヌが現実のさまざまな不
幸に翻弄されながらロマンチストの心を持ち
続けて老境に至る一生を描く。 彼もま
女の一生
た自然主義の代表的な小説家で、ゾラからフロベールを経てモーパサンに至るこの時代の
文学者たちが、前世紀までは小説の主人公にはなりえなかった女性の生き方を丹念にリアル
に
描こうとすることを注視すべきだろう。晩年は、不眠、薬物依存、精神病諸症状、自殺未
遂、精神病院への収容、そこでの死まで。2-9-3
次の 2 人は詩人である。ノルマンディ(オルヌ県タンシュブレ Tinchebray)に生まれパリに死んだアンドレ・
ブルトンと、パリに生まれノルマンディ(マンシュ県オモンヴィル・ラプチト Omonville-la Petite)に死んだジャク・
プレヴェール、かたや神をも超越したシュルレアリズムの「法王」ブルトン、かたや生涯にわたってわか
りやすい言葉で語りかけた人生の友プレヴェール、しかし、対比するだけではいずれの詩人の
魂も宙にさまよう。
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【2-9-4 アンドレ・ブルトン】 André Breton
1896-1966 YT-2682
ブルトンはリセ在学時代から
文学的才能を認められ詩作を公にする機会を得ていたが、第 1 次大戦で兵役の一環として
配属された病院で傷病兵であった Jacques Vaché(作家、デザイナー)と出逢い、その「自己の
内面への脱走、l’umour にのみ従え(〈h〉がつかない造語
心の動き?)」なる思考に衝撃
をうける。志願して精神病医となりフロイドの影響を受け、精
神病患者に創造の能力を見出す。彼の文学的行動・経験やダ
ダイストとのかかわりについては他に譲り、1924 年の『シュールレア
リズム宣言』、その方法としての「自動記述」Automatisme に
ついて理解できる範囲で抜き書きをすると、こうだ(シュールレア
リズム絵画などに溢れている表象的イメージと混同しないこと)。
《思考の現実の作動を口頭であれ、筆記であれ、その他の方
法であれ表現する純粋の自動記述。理性の働きによる一切の
制御なしに、また一切の美的、倫理的な先入観の埒外でなさ
れる思考の記述。シュールレアリズムは、それまで意識されなかった
一定の連想のありかたという上位の現実があり、夢想にその
力があり、捉われることのない思考の働きというものがあることへの確信の上に立ってい
る。それは、他のすべての心理的メカニスズムを最終的にぶち壊し、生きる上での基本問題の解
決においてそれらに取って代わろうとするものである。》
自動記述は、その実験的作品「溶ける魚 Poisson
soluble」の題名からして魅力的だが、読破してその
思想を読み解くなどとさらさら考えない方がよい、
と言うのではじめから脱力感がある。私はここにも、
〈送り手〉と〈受け手〉があらかじめ設定された位
置取りがあるようで気に入らない。シュールレアリズムの「法
王」は終身で、多くの同調者を弾劾し、放逐し、み
ずからは孤立してなお教条的であった。秘蔵の子ダリはその「父」より優れていたがゆえに
父のもとを去った、と言われている。とはいえ、このような運動が大戦間に大きなうねり
として生起し、時代を隔てて第 2 次大戦後の芸術のあり方に否定できない影響を与えたこ
とは事実だ。フランス郵政としては著名人シリーズ「20 世紀の詩人」として彼を登場させた。し
かし、その実は、「代表的詩人のひとり」としてここに押し込めたと言うべきか。とにか
く扱いにくいのは詩人であり、その魂である。2-9-4
【2-9-5 ジャク・プレヴェール】
Jacques Prévert 1900-77 YT-2685
「扱いにくい」と言ったが、
ジャク・プレヴェールは別だ。1925 年ごろブルトンらシュールレアリストと往き来があったが、やがて互いに
疎遠となり、プレヴェールは演劇(クロォド・オオタン・ララ、ジャン・ルイ・バロォらと)、映画(マルセル・カルネ、ジャ
ン・ルノワール、ミシェル・モルガン、ジャン・ギャバンらと)、シャンソン(ジョゼフ・コズマ、エディト・ピアフ、ジュリエット・グ
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レコらと)の世界に入る。
戦時中は南仏
に蟄居、戦後すぐ
に出版した文集
『パロール』(1946)
がフランス人にどれ
ほど読まれたこ
とか、その版数は
数百に上るという。晩年は子供のために童話を書き、大人のために美術書に解説を書いた。
彼についてはこれ以上述べるよりも、シャンソン「枯葉」の一節をここに写し、越路吹雪のため
につくられた自由な訳詞を添えよう。自由だから、原詩に対応していない。
Oh! je voudrais tant que tu te souviennes
des jours heureux où nous étions amis
En ce temps-là la vie était plus belle,
et le soleil plus brûlant qu'aujourd'hui
あれは遠い想い出 やがて消える火影も窓辺赤く輝き
光満ちたあの頃 時は去りて静かに降り積む落ち葉よ
夢に夢を重ねて 独り生きる哀しさ
木枯らし吹きすさび 時は帰らず (岩谷時子)
ここで【ノルマンディ】編の一コマであることに立ち戻ろう。なぜ、パリで生まれ、百貨店「ル・
ボンマルシェ」の使い走りとして苦労しながら文芸の道に入ったプレヴェールをノルマンディに結びつけ
るのか。地中海岸のアンチーブ Antibes に長く住みその地をこよなく愛して永住する心算であっ
た彼は、突然に家主から立退きを迫られ無法に追い出されてすぐには行き場もなく、知人
でハンガリー出身の映画装置家アレキサンドル・トロォネル
Alexandre Trauner の誘いでやってきたのがマンシュ県の
小村であった(左の写
真)。しかし、7 年後、ヘ
ビースモーカーの宿命か肺が
んでこの地で死亡、亡骸
はそこから遠くない同
じマンシュ県のサンジェルマン・デ
ヴォー Saint-Germain-des-Vaux で妻、娘それに晩年の友人トロォネル
の傍らに埋葬された。忌日(4 月 11 日)には遠くから、プレヴェ
ールを慕う人たちが心に響くシャンソンのことばに誘われてこの墓所
(右の写真)にやってくる。2-9-5
ここでしばらく芸術の領域から政治の領域へ目を転じよう。およそ肌合いの異なる世界
だが、切手になる政治家はいずれもかなり変わっていて、その意味では面白い。この世界
に登場する人物はもとより多種多様であって、政治家としての評価においても一義的な規
準を見出しにくい。大統領経験者は別として、歴代の首相であっても特別のテイスト(持ち味)
がなければ切手の印面を飾れない。濫造・濫発の時代であってもである。ここでは 5 人を取
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り上げる(うち 2 人は次号)。大統領経験者が 1 人、あとは相当の付加価値か話題性がある
人士である。5 人のうち 2 人は 20 世紀の生まれだが、ここでは一纏めにしておいた。
【2-9-6 アレクシス・ド・トクヴィル】
Alexis de Tocqueville 1805-59
YT-3780
トクヴィルの出生地
はパリだが、その家系はノルマン・コンクェストの際のヘースティングの戦い(1066)
以 来 の 生 粋 の ノ ル マ ン 人 で 、 彼 の 父 Hervé Louis François Jean
Bonaventure Clérel は comte de Tocqueville を称するマンシュ県トクヴィル
の旧家であった。両親ともに革命下で処刑さ
れるべき運命にあったところイギリスに逃避し
て免れ、帝政期に帰国して Pair de France に
叙せられ王政復古では知事に任じられてい
る。アレクシスは Alexis Henri Charles Clérel と父の
姓を名乗るとともに vicomte de Tocqueville
(子爵)を称していたが、1839 年以降国政や県政にかかわるころ
からは単に Alexis de Tocqueville と称した。また 1851 年のナポレオン・ボナパルトのクゥデタに反対し
て拘束され釈放されたのちは Tocquville の城館に引きこもって著述に専念した。このよう
に見れば彼は紛れもなく Tocqueville に
深く根をおろしたノルマンデ
ィの政治家であった、と 言うべきである。
トクヴィルは保守の「秩序党」
に属しながら 1849 年のオディロン・バロォを首
班とする共和国政府に外
務大臣として入り、執行府の一員として
も政治にかかわった。し
かし、このように政治家として手腕を振
るったトクヴィルでありなが
ら、今日その名はもっぱら、アメリカの政治
史と政治思想史に関する
不世出の著述家として知られるばかりに
なった。とくにアメリカの民
主主義に関する 2 次にわたる著作は、そ
の自由主義の観点からの
深い洞察のゆえに今日まで変わることなく読まれ、現代的事象の分析においても参照され
るところが多い。つまるところ、彼は政治に具体的にかかわりながらそれを忘れられるほ
ど大きな貢献を政治学、歴史学、社会学の領域で成し遂げた巨人であった。代表作は『アメリ
カの民主主義』De la démocratie en Amérique である。当時、裁判官で
あったトクヴィルは監獄制度の研究のためアメリカに派遣された。その際に得
た広範な情報・資料を素材に自由の理念に支えられたアメリカの民主主義
を実証的に描くのであるが、同時にその特質として「多数派=世論の
専制」を指摘し、多数派=世論が形成される上で重要な役割を果たす
新聞とそれによる世論形成=誘導によってもたらされる民主主義の
腐敗を示唆しようとした。現代まで読み継がれた不朽の著作である所以である。晩年の作
品ではあるが、フランス革命を過去からの断絶としてではなく、既に旧制下において始まって
いた貴族政への批判や、形成されてきた平等の思想との連続性でとらえ、革命はそのよう
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にして進行していた変化が急激な政治的対応を迫られた過程と見る『旧制と革命』L’Ancien
Régime et la Révolution(1856)も、当時においてなお重要な著作であったことは間違いがない。
なお、切手の初日発売はトクヴィル村に近接するヴァローニュ Valogne とパリでなされたが、ここで
はパリの消印しか手に入らなかった。2-9-6
【2-9-7 ルネ・コティ】
René Coty
1882-1962 YT-1412
次のルネ・コティについては、切手に
なった特別の事情を語る必要はない。大統領経験者(つまり共和国における元首である以
上、諸国の王と同様に対外的に国を代表する顔でなければならない。生存中または逝去直
後でも切手に登場する資格がある)だからである。しかし、ただの大統領経験者ではない。
ルアーヴルに生まれ、法学を学び、海商法に詳しい弁護士として格好の地、フランス随一のこの
港湾都市で名を知られるようになった。そのかたわら文学サークル
を作ったが、その活動を通じて ガンベッタ,ジュール・フェリィ, ヴァルデク・ル
ソォなど共和主義者の大立者の知己を得たことを契機に、郡会
(1907)、市会(1908)、県会(1913)、下院議員(1923)と政治
家としてのステップを昇った。所属政党は当初、急進社会党 Radicaux
であったが、下院議員となったのち共和主義連盟左派に転じた。
のち上院議員(1936)となり 1940 年にはペタン元帥 Maréchal Pétain
への全権授任に賛成した上で公職
を退いた。この「賛成票」の故に戦
後被選挙資格を剥奪されたが特別
の名誉回復審査で復権、1945 年 10 月と 46 年 6 月の憲法制定
議会選挙に独立共和派 Républicains Indépendants から当選し、
同年 10 月には第 4 共和制議会議員にも選出されて入閣、副首
相、復興=都市計画相を務めた。1952 年に上院議員に転じたが、
翌年オーリオール大統領 Vincent Auriol が死亡。後継者の選出が左右
の対立によって難航した。右派優勢のもとでの第 12 回の投票
で立候補もしていないコティに若干数の票が投じられ、13 回投票
では逆転して大統領となった。1958 年には「最も立派なフランス人」と信じたドゴールに首相就
任を求め、議会がそれに応じない場合には辞任すると言明した。軍部のクゥデタの気配が感じ
られる中で社会党、急進社会党議員の半数が賛成に転じて、ドゴールの第 5 共和国誕生とな
る。期せずして大統領となり、生前にその職を辞したコティ。その人間像を知るには上の叙述
で十分であろう。あえて加えるならば、次の逸話だ。メルヴェイユ・ド・ヴィニョォ Charles Merveilleux
du Vignaux は大統領府官房長に就任を求められたが固辞、再三の要請に嫌気がさして「私
は共和主義者じゃないですよ」との捨て台詞を吐いたところ、コティは「実は俺もだ」、唖然
としたメルヴェイユ君はこれまでと投了、就任を引き受けた。2-9-7
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【2-9-8 レオポォル・セダール・サンゴール】
Léopold Sédar Senghor
1906-2001
YT-3537
サンゴール大統領、といってもフランス共和国ではなく、セネガル共和国のそれである。ジョアル(セネガ
ル)の出身で 22 歳でフランスへ。それからが彼の言う大戦終了までの「彷徨の 16 年」だ。ソルボン
ヌに入学するがついていけず、リセ・ルグランからやり直し、高等師範を志したが果たさず、帰化
して国語文法教師資格を取り中学の教員となった。しかし、この数年は無駄ではない。リセ・
ルグランではジョルジュ・ポンピドゥ(ドゴールの後継大統領)と同窓となっ
た。アフリカ人で初めてのフランス語文法教師となった彼は有名中学でフラン
ス人子弟を教える。その傍ら、アフリカの言語をフランスの専門学者から学
んだ。徴兵されて(帰化にかかわらず)植民地歩兵部隊に編入され
るが、1940 年に Charité-sur-Loire でドイツ兵に逮捕され他のアフリカ系
兵士とともに即日銃殺となるところ「人種による虐殺はアーリア人たる
ドイツ人の恥だ」とドイツ兵を諌めたフランス人士官の訴えで助けられた。
サンゴールはその礼として獄中
のフランス人の脱走を助け、自ら
は病気のため釈放されるまでの 2 年間獄中で詩を書
いて過した、という。釈放後教壇に戻り大学人連盟の
抵抗運動に入って終戦を迎えた。その彼が戦後フランス
とアフリカの間の最良のかけ橋となったことは言うまで
もない。1946 年の第 4 共和制発足とともにセネガルーモ-リ
タニア選出のフランス国会議員となり、1951 年以降はエドガー・フォール内閣で国務相に任じられるなど
〈フランスにおけるフランス人によるフランスのための政治家〉となるが、1960 年 9 月セネガルの独立とと
もに同国首相に就任、のちに大統領制に改めて 1980 年までその職にあった。引退後は『自
由』全 5 巻(1964-93)の執筆・編纂にあたる傍らフランスとアフリカ諸国の関係改善に務めたが、
2001 年 12 月に死去。1983 年に詩人としての業績を理由としてアカデミー・フランセーズの会員に選
ばれたが、死後、その空席〈16 番〉には元大統領ジスカール・デスタンが選出された。
上の切手は 2002 年に発行され
た記念切手である。初日印は逝去地
のカルヴァドス県ヴェルソン局 Verson。サン
ゴールは 1946 年にフランス赤道アフリカの黒
人総督 Felix Eboué の娘 Ginette と結
婚したが、1956 年に離婚、その後
ノルマンディ出身の Colette Hubert と再
婚した。ヴェルソンはこの再婚の妻の郷
里で最晩年を過ごした地である。
左は、ヴェルソンに置かれた記念碑「バ
オバブと林檎の樹」。2-9-8
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