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はじめに 日本人にとって東日本大震災は未曾有の災禍であったが

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はじめに 日本人にとって東日本大震災は未曾有の災禍であったが
Yamaguchi Noboru
はじめに
日本人にとって東日本大震災は未曾有の災禍であったが、同時に、国際社会が日本に寄
せる好意をひしひしと感じさせる機会でもあった。ことに米国の援助は破格であり、日米
同盟の有難さを目に見える形で実感させた。太平洋艦隊司令官ウォルシュ海軍大将を指揮
官とする統合支援部隊(JSF: Joint Support Force)は、人員約 2 万人、艦艇約 20 隻、航空機約
140 機の規模をもって、東北地方の被災地における救援活動を行なった(1)。米軍が「トモダ
チ作戦」
(Operation “Tomodachi”)と命名したこの作戦は、10 万人を上回る自衛隊派遣部隊との
協力の下に行なわれ、いわば史上最大の日米共同作戦となった。また、福島第 1 原子力発電
所の事故に際して米国は、原子力規制委員会(NRC: Nuclear Regulatory Commission)の専門家
を含む支援チームを長期にわたって日本に派遣し、事故の対応にあたる日本政府に助言す
るとともに、このチームを窓口とする調整枠組みを通じてさまざまな支援を提供してきた。
これらの活動の記録は教訓の宝庫であり、今後広範かつ深い研究の対象になるべきもの
である。本稿は、そのなかからとり急ぎ、
(1)
大震災が日米同盟への信頼に及ぼした影響、
(2)
自衛隊および米軍の緊急展開、
(3)
危機に際する日米両国間の調整の 3 点に絞って、日米
同盟と日本の安全保障にかかわる教訓を抽出しようとする試みである。
1 大震災の経験が日米同盟の信頼に及ぼした影響
米海軍の空母「ロナルド・レーガン」をはじめとする大艦隊が三陸沖に展開し、陸・
海・空軍・海兵隊の米軍人が自衛隊員とともに救援活動に従事する姿は印象的であった。
日本国民にとっては頼もしい同盟国を実感させたし、周辺諸国に対しても日米関係の強固
さを表わす明らかなシグナルとして伝わったはずである。日本の安全保障という視点で言
えば、日米同盟に対する信頼が大きく増し、米国による抑止力の信憑性が高まったという
ことである。
日本にとって米国による抑止力が信頼するに足るものであるのか否かという点は、これ
までも専門家の間で頻繁に議論されてきた。特に、米国の核抑止力、いわゆる核の「傘」
が同盟国にまで及ぶという考え方、すなわち「拡大抑止」の信憑性に関しては、
「米国は自
分が核攻撃を受ける危険を冒してまで日本を守る意思があるのか?」という疑問が繰り返
されてきた。核兵器保有国であるロシア、中国、北朝鮮と隣り合わせでありながら、国是
国際問題 No. 608(2012 年 1・2 月)● 9
東日本大震災後の日米同盟
として非核三原則を貫こうとする日本にとっては、米国の核抑止力が及ぶのか否かという
問題は死活的だからである。
オバマ米大統領は、選挙運動の期間から一貫して核兵器廃絶を長期的な目標としてその
削減を目指すとしてきた。政権発足間もない 2009 年春、日本や韓国の安全保障政策関係者
の多くは、核兵器削減を公約した米国が同盟国に対する「拡大抑止」を提供し続けるのか
という点に懸念を抱いていた。核兵器のない世界に向けて歩を進める米国を歓迎する一方、
米国だけが一方的かつ急速に核兵器を削減するような場合、同盟国に提供してきた抑止力
が損なわれるのではないかと懸念したのである。また、ブッシュ前政権がグローバルなテ
ロとの戦いに強い関心を寄せる一方、北東アジアを含め世界の各地域に対する政策が細や
かさを欠いていたこともあり、オバマ政権としてどの程度この地域に関与するのかという
点も疑問であった。
2010 年春、オバマ政権は、一連の安全保障政策関連文書を公表してこれらの懸念を払拭
する姿勢を示した。
「4 年ごとの国防計画見直し(QDR)」
、
「核態勢見直し(NPR)」
、
「弾道ミ
サイル防衛見直し(BMDR)」および「国家安全保障戦略(NSS)」である。たとえば NPR は、
同盟国との協議なく「拡大抑止」に関する政策を転換することはないとしているし、QDR
は日本と韓国に対する「拡大抑止」の提供について名指しで言及している。また、QDR は、
北東アジアにおける米軍のプレゼンスについて、日本および韓国に対する「拡大抑止」の
提供を含めた地域安定上の意義がある旨特記するとともに、在日米軍再編を通じて、その
長期的なプレゼンスを保証し、グアムを地域安全保障上のハブとする狙いがあるとした(2)。
韓国、日本、グアムを足場とした地域的なプレゼンスの将来像を明らかにし、この地域に
対するコミットメントを再確認したと言える。
さらに NPR は「米国は引き続き友好・同盟国の安全保障に対するコミットメントを確保
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
(3)
するとともに、これを言葉だけでなく行動で示していく」
としている。東日本大震災に際
・ ・ ・ ・ ・ ・
する米国の対応は、まさにそのコミットメントの強さを行動で示したと言える。3 月 11 日、
たまたま米韓合同演習参加のために日本近海にいた空母「ロナルド・レーガン」は、急遽
日本に向かい、3 月 13 日には三陸沖に到着して救援活動を開始している。また、災害救援活
動に関する訓練のために東南アジアに展開していた第 31 海兵遠征部隊(31MEU)も急遽呼
び戻され、東北地方に出動した。避難所を訪れた米兵は、アメリカ人らしく陽気に握手を
求めるのではなく、被災者に対してお辞儀をしたという。日本の文化を理解していること
の表われである。彼らを目の当たりにした日本人に「米国がともに戦ってくれるか?」と
問えば、疑う人は少なかったであろう。少なくとも日本人の心のなかでは、抑止の信頼性
はこれまでになく高まったと言うことができる。
一方、東北地方で被災者の救援にあたる米兵は、災禍に見舞われつつも秩序正しく相互
に助け合い、黙々と復旧にあたる日本人をみて覚悟を強くしたという。彼らに「いざとい
う時に日本を守る覚悟があるか?」と問えば、おそらく全員が強く肯定したであろう。日
本人が自らを守りぬこうとする強い意思が米兵を突き動かし、米国の同盟へのコミットメ
ントをより強固にするのである。
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東日本大震災後の日米同盟
日米同盟の信頼性をめぐる問題に関してよく聞かれる質問のひとつは「米国は尖閣を守
ってくれるのか?」というものである。2010 年秋、日本を訪れた元米政府高官に国会議員
の一人がこの問いを発した。答えは「日本次第(depends)」ということだった。日本の施政
権下にある地域において日米両国が共同して防衛にあたるのは安全保障条約上の義務であ
る。尖閣諸島は明らかに日本の施政権下にあり、安保条約の適用を受けることに疑いはな
い。しかしながら、元高官が言いたかったのは「日本が防衛する意思がある限り米国はと
もに戦うが、日本が守る意思のない場合に米国が単独で戦う義理はない」という単純な事
実である。
東日本大震災対処において、日本人が行動をもって覚悟を示した好例は、福島原発事故
に際する現場関係者の身を挺した活動にみられる。福島第 1 原発の吉田昌郎所長以下、現地
で事態の収拾にあたった東京電力の関係者に対しては、米国 NRC の専門家をはじめ多方面
から賛辞と激励の声が寄せられてきた。10 月 22 日、スペイン政府は、福島原発事故で活動
した自衛隊、警察、消防の関係者に「福島の英雄」として平和賞を授与した。3 月 12 日から
15 日にかけて 1― 4 号機で相次いで水素爆発が起きたことを受け、原子炉を冷却するために、
自衛隊、警察、消防の要員がヘリコプターおよび特殊消防車で決死の注水活動を行なった
ことに対する表彰である。この活動が行なわれた 3 月中旬、米政府のなかには、情報の錯綜
もあり、日本の対処能力と事態収拾に向けての覚悟を疑う声が聞かれた。決死の注水活動
によって「日本は本気で事態に立ち向かっている」という印象を与え、米政府が支援に本
腰を入れたと考えても不思議ではない。日本の防衛ということを考えるとき、自国を守る
強い意思があってはじめて、同盟国の青年が生命を賭けてくれるのだという、当たり前の
ことを肝に銘じておくことは思いのほか大切である。
2 自衛隊および米軍の緊急展開
(1) 既存の基地を活用した自衛隊の展開と活動
自衛隊は発災後直ちに行動を開始した。3 月 11 日当日 8400 名の隊員が救援活動を開始、
13 日までに 5 万名、1 週間後の 18 日までに 10 万 6000 名の隊員が救援活動に参加する態勢を
整えた。全自衛隊員の 40% に相当する規模の救援部隊が 3 ヵ月にわたって活動を続けた。10
万人と言えば、ほぼ地方都市ひとつに相当する。この規模の部隊が、迅速に被災地に展開
し、地震と津波によって社会インフラが破壊された地域において長期にわたって活動し続
けることができた背景にはいくつかの要因がある。
第 1 に、阪神・淡路大震災の反省に基づき、自衛隊の初動を迅速にするための準備が整っ
ていたことがある。そもそも自衛隊の災害派遣活動は、被災者救援の一義的な責任を負う
都道府県知事などの要請によることを基本としており、事態が特に緊急を要し、要請を待
つ暇がない場合には、一種の例外的な措置として自主的な部隊派遣が可能な仕組みとなっ
ている(4)。阪神・淡路大震災の後、震度 5 強以上の地震が観測された場合には部隊が自動的
に情報収集などの活動を開始する制度が整備された。また、各駐屯地・基地に所在する部
隊の一部を常に出動できる態勢に置くこととなった。
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東日本大震災後の日米同盟
自衛隊が、各種の大災害に際して地方自治体などと協力して対応するための訓練を重ね
てきたことも救援活動を迅速かつ円滑にした要因となった。陸上自衛隊東北方面隊は、2008
年 10 月 31 日から 11 月 1 日の 2 日間にわたって、陸海空自衛隊部隊のほか、24 の自治体、35
の防災機関の参加を得て震災対処訓練「みちのく ALERT 2008」を行なった。大震災におい
て出動した東北地方所在部隊の多くは、出動地域の地理に詳しく、また、関係機関との調
整要領に長じていた。これらの部隊にとっては、被災地への進出経路、指揮所や通信所の
設置に適した地点、調整すべき地方自治体の窓口などに関する情報を熟知したうえでの出
動となった。
第 2 に、自衛隊の部隊が全国から移動・展開して活動するうえで、被災地および被災地周
辺に存在した陸上自衛隊の駐屯地および海空自衛隊の基地を後方支援のための拠点網とし
て活用できたということがある。震災に際して自衛隊は、岩手、宮城、福島 3 県にわたる被
災地における救援活動に 10 万人以上の部隊を参加させた。これらの部隊が被災地に展開す
るにあたっては、平素から東北地方に配置されている約 2 万人の部隊が核心となり、それら
部隊が所在する駐屯地や基地のネットワークを増援部隊に対する補給支援の拠点として活
用した。青森、弘前、八戸から福島、郡山まで十数ヵ所の自衛隊施設は、活動する部隊に
対する補給・整備のための後方支援地域、隊員の疲労回復のための休養地域、被災地に物
資を届けるための輸送中継点として活用された。北海道から派遣された部隊を支援するた
めに岩手駐屯地に前方支援拠点が設けられ、関東以西から派遣された部隊の支援のために
は、郡山駐屯地に設けられた前方支援拠点と土浦に所在する関東補給処がフル稼働した。
陸上自衛隊の東北方面隊だけをみても、平素の 2 万人弱の規模からなる部隊が 7 万人以上に
膨れ上がったことになり、後方支援部隊にとっては、平素の 3 倍以上の支援所要をこなした
ことになるが、結果的には対処可能な範囲に収まったと言える。他方、仮にこれらの自衛
隊施設がなかったとすれば、今回ほどの展開速度と持続性を発揮することはおよそ不可能
であったと断言することができる。
第 3 に、自衛隊が独自の通信網を展開して、活動のための神経とも言うべき情報・通信イ
ンフラを確保したという点が挙げられる。被災地における固定電話、携帯電話などの通信
インフラは壊滅的な打撃を受けた。津波によって電源を失ったことが基地局の機能喪失の
主たる原因であり、これらの基地局の機能が回復するまでには数週間を要した。たとえば
福島第 1 原発周辺地域で携帯電話が使えるまでに回復したのは震災後 1 ヵ月以上を経た 4 月
中旬であった。その間、被災した市町村と県災害対策本部あるいは市町村が各地に開設し
た避難所との間で通信連絡することは困難を極めた。
この間、自衛隊は、野外で行動するために装備している独自の通信網を構成した。特に、
リアス式地形のため、隣接する市町村相互の連絡が困難な三陸地域においては、気仙沼、
陸前高田、大船渡、釜石、大槌、宮古などを結ぶ十数ヵ所にマイクロ波による多重無線可
搬局(NTT の固定電話と同種のものの可搬型)を配置して、通信網を構成した。これらの可搬
局の約 3 分の 1は 3 月13 日までに、残りの大半は 16 日までに構成を完了している。自衛隊は、
それぞれの可搬局を中心として 100 ― 200 回線の有線電話網を設置して部隊間の連絡を確保
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東日本大震災後の日米同盟
した。有線電話が設置されている地域のさらに前方では、車載もしくは個人携帯用の無線
機で通信を確保した。被災地の避難所や地域自治体、市長村災害対策本部、県災害対策本
部などの間における通信が途絶している間、自衛隊の通信網を通じて相互の情報交換、認
識共有を図ったケースも頻繁にみられた。
(2) 米軍による後方支援拠点の緊急開設
一方、米軍は、空母「ロナルド・レーガン」をはじめとする艦艇を拠点として活動する
とともに、津波の被害を受けた仙台空港の機能を緊急に回復して補給支援のための拠点と
して活用した。
3 月13 日に行なった空中偵察の結果、米軍は仙台空港を後方支援の拠点(logistic hub)とし
て活用することとした。この間、仙台飛行場管理当局は、地元建設業者と協力して 15 日ま
での間に主滑走路の半分から瓦礫を撤去し 1500 メートルを辛うじて使用できる状態にして
いた。米軍は、16 日、国土交通省の許可を得たうえで、米太平洋軍特殊作戦コマンドの
しゃ か
MC-130 輸送機を着陸させて、工兵器材など飛行場機能回復に必要な器材を卸下し、約 2 日
間で主滑走路 3000 メートルを使用可能な状態まで復旧し、19 日には空軍機による物資空輸
が開始された。その後、飛行場の本格的な回復作業を進めつつ、野外で航空管制を行なう
能力のある部隊や空輸物資の卸下・仕分けを行なう部隊(最大約 260 名)を配置して輸送機
を受け入れた(5)。3 月 31 日までには、飛行場灯火や空港消防機能が回復し、また、非常用管
制塔の運用が可能となり、空港当局として航空管制の責任を負うことができる状態にまで
復旧した。4 月 10 日までに飛行場外周の保安柵などの保安施設を仮復旧したうえで、13 日に
は民間航空機の運行が再開されたが、米軍部隊は、その間に撤収を完了している。
(3) 南西地域の防衛へのインプリケーション
上に述べた自衛隊および米軍の緊急展開から学ぶべき点は多い。特に、2010 年 12 月に決
定された「平成 23 年度以降に係る防衛計画の大綱」
(新「防衛大綱」
)が重視する南西地域の
防衛や島嶼の防衛を考える場合、より重要な意味をもつ。新「防衛大綱」は、
「南西地域も
含め、警戒監視、洋上哨戒、防空、弾道ミサイル対処、輸送、指揮通信等の機能を重点的
に整備し、防衛態勢の充実を図る」とし、また、
「自衛隊配備の空白地域となっている島嶼
部について、必要最小限の部隊を新たに配置するとともに、部隊が活動を行なう際の拠点、
機動力、輸送能力及び実効的な対処能力を整備することにより、島嶼部への攻撃に対する
対応や周辺海空域の安全確保に関する能力を強化する」としている(6)。
南西地域、すなわち
摩半島の南端から与那国島までの海域は、青森県下北半島から山
口県までとほぼ同様の広さであり、本州全域に匹敵する地理的な広がりをもっている。東
北地方に約 10 万人の部隊を集中するために十数ヵ所の自衛隊施設からなる支援拠点網を活
用したことは上述のとおりであるが、この経験を南西地域の防衛に当てはめてみると、こ
の地域の島嶼に対する緊急展開の困難さが明らかになる。鹿児島以南の地域に所在してい
る部隊は小規模であり、有事に拠点となりうる自衛隊施設も沖縄本島のほかにはほとんど
ないからである。
南西地域で島嶼を防衛する場合、急速に部隊を展開するための拠点群を整備していくこ
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東日本大震災後の日米同盟
とが重要である。この点、与那国島に陸上自衛隊の沿岸監視部隊を新設する計画があるこ
とは心強い。部隊の規模は 100 ― 200 人程度になるものと思われるが、有事に増援部隊を受
け入れる拠点としての意味は大きい。また、南西地域の島嶼にある空港・港湾を災害時の
国際拠点とし、災害対応ロボットや援助物資の備蓄、多国間の共同訓練などを進めていく
構想もある。東日本大震災において同盟国である米国、隣国である中国および韓国をはじ
め、世界各国から暖かい支援の手が差し伸べられたことは記憶に新しい。世界の他地域に
おける災害に際してわが国が救援に当たるケースを考えれば、地震、津波、水害が頻発す
る東南・南西アジアに近い南西地域に、救援部隊を迅速に送り出すための拠点を設けるこ
との意味は大きい。
一方、自然災害やわが国に対する武力攻撃など各種の事態への対処に際して、既設の拠
点がない地域に展開する必要が生じる可能性は高い。そのような場合においても、汎用の
港湾や飛行場を活用し、あるいは、これらを急速に造成して、部隊を前方に展開するため
の基盤を作ることも考えておくべきである。この点に関し、東日本大震災において米軍が
仙台空港の機能を急速に回復して拠点化したことから学ぶべき点は多い。社会インフラが
ない地域において応急に拠点を造成するノウハウは自衛隊にとってまったく新しい発想で
あったし、米軍が自衛隊、空港当局、現地建設業者、非政府組織(NGO)などと調整を進め
つつ、仙台空港拠点化構想を実現していく要領はわれわれに鮮烈な印象を与えた。一方、
このオペレーションに使われた輸送機、建設機材、移動式の航空管制用レーダーや無線機
などは自衛隊も保有している在来型の装備である。いわばすでにある機能を新しい考え方
で組み合わせさえすれば、自衛隊が離島などに機動展開する能力は飛躍的に向上するとい
うことであり、この経験を活かして米軍のノウハウを自らのものとすることが喫緊である。
3 危機に際する日米両国間の調整
2011 年 6 月 21 日、松本剛明外務大臣、北澤俊美防衛大臣、クリントン米国務長官および
ゲイツ米国防長官は、日米安全保障協議委員会(いわゆる 2 プラス 2)文書「東日本大震災へ
の対応における協力」を発表した。以下は日米調整に関する部分の抜粋である。
・自衛隊は、その歴史上、最大の災害救援活動に従事している。この努力を支援するため、米
国は、
「トモダチ作戦」の下、人道支援、災害救援及びその他の活動を実施した。この大規模
な共同対処の成功は、長年にわたる二国間の訓練、演習及び計画の成果を実証した。
・自衛隊及び米軍は、市ヶ谷〔防衛省本省〕
、横田〔在日米軍司令部〕及び仙台〔陸上自衛隊東
北方面総監部〕に、日米両国の要員が配置され、意思疎通及び運用調整の中心としての機能
を果たした日米調整所を立ち上げた。この経験は、将来のあらゆる事態への対応のモデルと
なる。
・原子力発電所事故への対応には、両国の政府及び民間部門の専門家並びに日米両政府の複数
の省庁が関与した。その経験は、リアルタイムの情報共有、効果的な調整及び複合的な非常
事態への包括的な政府全体としての対応を促進するための二国間および多国間のメカニズム
の重要性を示した(7)。
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東日本大震災後の日米同盟
齋藤隆元統合幕僚長は、11 月 8 日東京都内で開催された日本経済新聞社・米戦略国際問題
研究所(CSIS)共催のシンポジウム(「東日本大震災、トモダチ作戦と日米同盟の未来」)の席
上、震災対処に際する日米共同のための調整機構について「有事に立ち上げるのではなく、
平時から運営する信頼性の高い調整メカニズムを構築しておく必要がある」と述べている。
実を言えば調整メカニズムの構築は、1997 年に「日米防衛協力のための指針」を見直して
以来、十余年越しの課題である。同指針は、
「日米両国政府は……協議の促進、政策調整及
び作戦・活動分野の調整のため、
(1)
計画についての検討を行なうとともに共通の基準及び
実施要領等を確立するため、包括的なメカニズムを構築する。これには、自衛隊及び米軍
のみならず、各々の政府のその他の関係機関が関与する。……
(2)
緊急事態において各々の
活動に関する調整を行なうため、両国の関係機関を含む日米間の調整メカニズムを平素か
(8)
と謳っている。ここで言う「包括的なメカニズム」は平素からさまざま
ら構築しておく」
な事態に関する計画を検討するためのいわば準備のためのメカニズムであり、
「調整メカニ
ズム」は実際に危機に対応する際の実行段階のためのメカニズムである。これらのメカニ
ズムに言及した背景には、日米共同に関する調整への参加者の範囲と調整内容を拡大する
必要があるとの認識があった。1978 年に策定された旧指針は、米軍と自衛隊の間の調整に
ついてのみ言及しており、また、調整内容も作戦、情報、後方支援といった純軍事的な分
野に限定していた。いわゆる周辺事態など、関係省庁や地方自治体などの関与が不可欠な
ケースにおいては、日米調整の場に、より広範なアクターが参加すべきであり、また調整
の内容も純軍事的な範囲に限定すべきでない、との認識が深まりつつあったのである。
ともあれ、これらのメカニズムがこれまで日米間で設置されたことは寡聞にして聞かな
い。一方、東日本大震災における日米調整の全体像は、指針見直し作業に際して理想像と
して描いたものと変わらない。むしろ、当時のイメージを凌駕するものである。筆者は
1996 年から 1997 年にかけて見直し作業に参加した際、両メカニズムの必要性を痛感してい
たが、その形は、東京もしくは横田に関係省庁などの代表者を含めた共同調整所を設け、
そこですべての調整を行なうことを想定していた。いわば、日米両政府が、一本の「線」
でつながるイメージである。一方、東日本大震災後の日米調整は、中央司令部から救援活
動の現地に至る多層にわたって、シームレスな「面」の形で行なわれた。市ヶ谷の防衛
省・統合幕僚監部には在日米軍副司令官クラウ海兵隊准将を長とするチーム、横田の米統
合支援部隊司令部には陸上幕僚監部防衛部長番匠幸一郎陸将補を長とするチーム、仙台の
統合任務部隊・東北司令部にはティンバーレイク海兵隊大佐を長とするチームが派遣され
て、それぞれのレベルで調整に任じた。仙台空港、空母「ロナルド・レーガン」および揚
陸支援艦「エセックス」にも自衛隊からの連絡官が派遣されたし、救援活動の現地では部
隊同士が密接に協力した。前に引用した 2 + 2 文書が「将来のあらゆる事態への対応のモデ
ルとなる」としているのは正鵠を射ている。
福島第 1 原発事故の収拾に関する日米政策調整の過程は、自衛隊および米軍だけでなく、
関係諸機関を含めたメカニズムを考えるうえで多くの示唆を残している。3 月 11 日の発災以
降 15 日までの間に 1 ― 4 号機の原子炉建屋が相次いで水素爆発を起こすなど事態が深刻化す
国際問題 No. 608(2012 年 1・2 月)● 15
東日本大震災後の日米同盟
るなか、米国政府のなかには、日本側から必ずしも効果的な情報提供が行なわれていない
ことにフラストレーションが溜まっていった。米国としては、発災直後から、無人機など
の機材の供与や、スリーマイル島原発事故の経験に基づくノウハウの提供など原発事故収
拾のため具体的支援策を提案するとともに、早々に NRC の専門家などを派遣して協力を申
し出ていたが、日本政府としてこれに十分に対応できていなかった(9)。このような事情もあ
り、日本側の情報提供や政府の意思決定について強い懸念が生じていたのである。このよ
うななか、3 月22 日、原発事故対応に関する日米政策調整会議が設けられた。日本側からは、
福山哲郎内閣官房副長官、細野豪志総理大臣補佐官および長島昭久衆議院議員を中心とし
て内閣府、経済産業省、文部科学省、防衛省などの関係府省、自衛隊、東京電力の関係者
からなるチームが、米側からは、在京米大使館、在日米軍、米海軍、NRC、米エネルギー
省などから原子力に関する専門家を含むチームが参加した。この場においては、日米間で、
福島第 1 原発各炉の状況に関する認識を共有するとともに、収拾のために必要な方策やその
ための技術や器材などについて幅広く意見交換することができた。また、この会議の下に、
放射性物質の遮蔽や汚染水の処理などの具体的な方策に関するプロジェクト・チームが設
置されて、対応策の検討、米国からの協力の受け入れなどが協議された。日米政策調整会
議は、日米間の認識共有のために有効であったばかりでなく、日本側における関係省庁間
の縦割りを排して風通しを良くするうえでもきわめて有効であった(10)。このことは、福山
副長官、細野補佐官、長島議員が政治サイドのリーダーシップを発揮したことの結果でも
ある。
これらの成果と教訓を十分に咀嚼したうえで、齋藤元統合幕僚長が指摘するように平時
からメカニズムを構築しておくことは、喫緊の課題である。また、鉄を熱いうちに打つこ
とさえできれば、良い結果を残すことは決して困難でない。
結 び
米国との同盟はわが国外交政策の基軸であり、また、わが国自身の防衛力とともに安全
保障政策における両輪のひとつである。米国としても、わが国との同盟関係をアジア太平
洋政策の礎石としてきわめて重要な要素としている。東日本大震災に際する米国の支援は、
同盟国ならではの善意を示すだけでなく、米国という超大国のみがもつことのできる大規
模で高度な能力を明らかにするものであった。日本国民として強力な同盟国がいることを
実感するとともに、国際社会に対しても日米同盟の堅固さをアピールする機会でもあった。
とはいえ、鳩山由紀夫政権下において普天間基地移転問題のハンドリングをめぐって日米
関係が冷却したことを思い起こせば、今感じている同盟の堅固さの上に胡坐をかくことは
できない。日米両国が、ともに将来を見据えて同盟の姿を描く努力を続けるのと同時に、
現下の懸案に地道に取り組んでいくことがきわめて重要である。
かつてある外交官が日米同盟を庭いじりに譬えたことがあった。同盟は、庭の草花と同
様に日々手を入れ続けなければ劣化する。解決すべき問題が残っている場合はなおさらで
ある。言うまでもなくそのひとつは在日米軍再編をめぐる問題であり、普天間基地の移転
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東日本大震災後の日米同盟
は特に重要である。日米両国が合意した辺野古への移転が完了すれば、住宅密集地にある
普天間基地が沖縄に返還され、ヘリコプターが学校や民家の上空を飛行することもなくな
る。また、これに伴って 8000 人の海兵隊員と家族がグアムなどの沖縄県外に移転すると同
時に、嘉手納以南の都市部にある米軍基地のほぼすべてが返還され、長年にわたって生活
地域の中心部を米軍基地に占められていた沖縄に対する負担が大きく軽減されることとな
る。これに伴う跡地利用に際しては、単に土地をどう利用するかということだけでなく、
米軍基地の存在によって制約を受けてきた沖縄の経済・社会の歪みを是正しつつ、明るく
力強い将来像を描くことが肝要である。
朝鮮半島をめぐる問題をはじめとして、わが国周辺における情勢は予断を許さない。残
念なことではあるが 20 世紀型の伝統的な軍事安全保障に対する配慮を欠いてはならないの
である。日米同盟に関しても、このような観点から日本に対する武力攻撃やいわゆる周辺
事態のようなケースについての戦略的な議論を深めるとともに、そのような議論に基づい
て自衛隊と米軍の間で共同作戦計画の策定を進め、また、共同訓練を深化させていくこと
が重要である。さらに前節で述べたように、東日本大震災でみごとに機能した日米間の調
整メカニズムを制度として残すことは、誇りをもって果たすべき責務である。
わが国におけるバブル崩壊後、いわゆる「失われた 10 年」以来、日本国民はともすれば
内向きであった。日本経済に対する自信を失うのと同時に、今なお世界有数の経済大国で
ある日本の国際的地位に伴って生じる国際的な責任感までも失いかけていたのである。東
日本大震災は、日本人にとって未曾有の災禍をもたらすのと同時に、日本がもっている国
際社会とのかかわりの強さをみせつけるものでもあった。同盟国である米国、隣国である
韓国および中国、さらには、これまで政府開発援助(ODA)などで日本が経済援助してきた
開発途上国の多くを含む世界各国から差し伸べられた援助の手は記憶に新しい。将来これ
らの国々のいずれかが災禍に見舞われるようなことがあれば、日本としても看過すること
はできないということを強く感じたはずである。東日本大震災という国難から立ち直る過
程において、わが国がもっている国際社会との絆を強めていくことを忘れてはならない。
ことに日米同盟の有難さを身をもって感じたわれわれにとって、米国との関係をより強固
な形で次世代に引き継ぐことは、天命とも言うべき義務である。
( 1 ) U.S. Department of Defense, “Department Ends Voluntary Departure Authorization From Japan,” April 15,
2011(http://www.defense.gov/news/newsarticle.aspx?id=63583)
.
( 2 ) U.S. Department of Defense, Quadrennial Defense Review Report, February 2010, p. 66.
( 3 ) U.S. Department of Defense, Nuclear Posture Review Report, April 2010, p. 31.
( 4 ) 自衛隊法 83 条は「1 都道府県知事その他政令で定める者は、天災地変その他の災害に際して、
人命又は財産の保護のため必要があると認める場合には、部隊等の派遣を防衛大臣又はその指定
する者に要請することができる。/ 2 防衛大臣又はその指定する者は、前項の要請があり、事態
やむを得ないと認める場合には、部隊等を救援のため派遣することができる。ただし、天災地変
その他の災害に際し、その事態に照らし特に緊急を要し、前項の要請を待ついとまがないと認め
られるときは、同項の要請を待たないで、部隊等を派遣することができる」と規定している。
( 5 )「日米官民をひとつにした『ミスター・カサマツ』という男」『President』2011 年 7 月 18 日号、
国際問題 No. 608(2012 年 1・2 月)● 17
東日本大震災後の日米同盟
166―169 ページ、Martin Fackler, “U.S. Airmen Quietly Reopened Wrecked Airport in Japan,” New York
Times, April 13, 2011.
( 6 )「平成23年以降に係る防衛計画の大綱」
、2010年12月 17日安全保障会議・閣議決定。
( 7 )「東日本大震災への対応における協力」
、2011年 6月 21日、日米安全保障協議委員会。
( 8 )「日米防衛協力のための指針」
、1997年 9月 23日、日米安全保障協議委員会。
( 9 ) 日米政策調整会議が設置される経緯については、長島昭久「原発対処―日米協力の舞台裏」
(
『ボイス』平成23年 7 月号、134―139ページ)が詳説している。
(10) 筆者は、3 月末以降、内閣官房参与としてこの調整会議に参加した。通例、日米間の調整に先立
って日本側のみによるミーティングをもち、各府省および東京電力からの参加者の間で情報を共
有するとともに認識の統一を図った。この機会は、日本側関係機関相互の役割分担や協力の要領
を詰めるうえでも有益であり、結果として府省縦割りを排した対応が可能となった。
やまぐち・のぼる 防衛大学校教授/前内閣官房参与
国際問題 No. 608(2012 年 1・2 月)● 18
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