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サンク ト ・ ベテルプルグにおける文久遣欧使節団

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サンク ト ・ ベテルプルグにおける文久遣欧使節団
サ ンク ト ・ペ テ ル ブル グ にお け る文 久遣 欧使 節 団
KLIMovVadim
サ ン ク ト ・ペ テル ブ ル グ 国 立 大 学 東 洋 学 部
文 久 使 節 団 に つ い て 主 に ロ シ ア 語 の 史 料 は ロ シ ア 帝 国 外 交 文 書 館(ABHPH)、
ロ シ ア 国 立 歴 史 文 書 館(prHA)、
ロ シ ア 国 立 海 軍 文 書 館(prABMΦ)、
ロシ ア 国
立 連 邦 文 書 館(r:APΦ)に
あ る。 他 の 文 書 館 に も あ る か も しれ な い 。 さ ら に ロ シ ア
の 新 聞 と雑 誌 は 貴 重 な 史 料 が あ る。 ロ シ ア の 学 者 が 研 究 論 文 を発 表 した 。 特 に フ ァ
イ ンベ ル グ1(Φa齟6epr9』.)、
ク タ コ フ(:KyraKoBJI。H.)2、 テ ェ レ ヴ コ(qepeBKo
KE)3,セ
ンテ ン コ(CeHqeHKoH.A.)4、
ソ コ ロ フ(CoKo■oBA.P)5の
日 ロ関 係 研 究 の
成 果 が 上 げ られ た 。 そ れ ぞ れ の 研 究 者 の本 に も こ の テ ー マ が 触 れ られ た 。
サ ン ク ト ・ベ テ ル ブ ル グ に お け る 竹 内 使 節 団 に つ い て 日本 の 研 究 者 が 書 い た 論 文
が 少 な く な い の で あ る。 す な わ ち安 田 孝 一 「
ペ テ ル ブ ル グ の 福 沢 諭 吉 」 、 山 ロー 夫
「
福 沢 諭 吉 の 西 航 巡 歴 」 、 芳 賀 徹 「大 君 の 使 節 」 宮 永 孝 「
文 久 二 年 の ヨ ー ロ ッパ 報
告 」 、宮 永孝 「
幕 末 遣 欧 使 節 団 」 、 鈴 木 健 夫P・
ス ノ ー ドンG・
ツ ォ ー ベ ル 「ヨ
ー ロ ッパ 人 の 見 た 文 久 使 節 団(イ ギ リス ・ ドイ ツ ・ロ シ ア)」
。 日本 語 の 貴 重 な 資
料 は 団 員 た ち の 日記 や 幕 府 へ の リポ ー トな どが あ る。
使 節 団 は ヨー ロ ッパ へ 行 く前 に 国 際 国 内 事 情 は と て も複 雑 で あ っ た 。 大 老 井 伊 直
弼 は 安 政5年6月(1858)日
米 修 好 通 商 条 約 に 調 印 した 。 彼 は 天 皇 陛 下 の 勅 令 を 得
られ な い ま ま調 印 した 。 そ の こ ろ13代 将 軍 は 徳 川 家 定(1824-1858)で
あっ た。 幕
府 は つ い で オ ラ ン ダ 、 ロ シ ア 、 イ ギ リス 、 フ ラ ン ス と も 同 様 の 条 約 を 締 結 した(安
政 の 五 力 国 条 約)。
こ の 条 約 に は 、1)神
大 阪 の 開 市 、2)通
商 は 自由 貿 易 とす る こ と、3)開
奈 川 ・長 崎 ・兵 庫 ・新 潟 の 開 港 と江 戸 ・
港 場 に外 国人 の居留 地 内で の
領 事 裁 判 権 を認 め 、 実 際 に は 日本 が 自主 的 に 改 正 で き な い 不 平 等 条 約 で あ っ た 。
日米 修 好通 商条 約
第三条
下 田、 箱 館 の港 の外 、 次 に い ふ所 を場 所 を左 の期 限 よ り開 くべ
し。
神 奈 川(中
略)西
洋 紀元 千 八 百五十 九年 七月 四 日
長 崎(中
略)同
断
新 潟(中
略)千
八 百六十 一 月一 日
兵 庫(中
略)千
八 百 六 十 三 年 一 月 一 日(中 略)
神 奈 川 港 を 開 く 後 六 ヶ.月に して 下 田 港 は 閉 鎖 す べ し。 此 箇 条 の 内 に 載
た る 各 地 は 亜 墨(米)利
加 人 に居 留 を 許 す べ し。 …
双方の国
人 、 品 物 を売 買 す る 事 總 て 障 りな く、 其 払 方 等 に 付 て は 日本 役 人
これ に 立 会 はず 。
第 四条
總 て 告 地 に 輸 入 輸 出 の 品 々 、 別 冊 の 通 、 日本 役 所 へ 運 上 を 納 む べ
し。(中
第六 条
略)
日本 人 に 対 し、 法 を 犯 せ る 亜 墨(米)利
加 人 は 、 亜 墨(米)利
加
コ ン シ ュ ル 裁 断(判)所
に て 吟 味 の 上 、 亜 墨(米)利
加 の法 度 を
193
KLIMovvadim
以 て 罰 す べ し。 亜 墨(米)利
加 人 へ(に)対
し法 を 犯 した る 日本
人 は 、 日本 役 人 糺 の 上 、 日本 の 法 度 を 以 っ て 罰 す べ し。
(『 大 日本 古 文 書 』 、 幕 末 外 国 関 係 文 書20)
幕 府 は 孝 明 天 皇 と朝 廷 と反 対 派 の 大 名 と衝 突 した 。 万 延 元 年(1860)、
は 桜 田 門外 で 水 戸 藩 の 志 士 に 暗 殺 され た(桜
井伊 直弼
田 門外 の 変)。
井 伊 直 弼 の 暗 殺 の 後 、 幕 政 の 中 心 に あ っ た の は 老 中 安 藤 信 正(1819-187Dだ
。
そ の 頃 、 貿 易 は 大 幅 な 輸 出 超 過 と な っ た 。 日本 か ら は 、 生 糸 ・茶 ・蚕 卵 紙 ・
海 産 物 ・絹 織 物 な ど の 半 製 品 ・食 料 品 が 多 か っ た 。 毛 織 物 ・綿 織 物 な ど の 繊
維 製 品 や 艦 船 ・鉄 砲 な ど の 軍 需 品 が 輸 入 さ れ た 。 物 価 が 上 昇 し た 。 さ ら に 、
日本 と 外 国 と の 金 銀 比 価 が 違 っ た 。 金 銀 の 交 換 比 率 は 、 外 国 で は1:15、
本 で は1:5と
日
著 し い 違 い が あ っ た の で 、 ヨ ー ロ ッ パ 人 は 銀 貨 を 日本 に 持 ち
込 ん で 、 日本 の 金 貨 を 安 く手 に 入 れ 、 約50万
両 の 金 貨 が 流 出 した 。 多 量 の 金
貨 は 一 時 的 に 外 国 に 流 出 した 。 庶 民 の 生 活 は ひ ど く な っ た 。 そ の た め 貿 易
に 対 す る反 感 が 高 ま っ て 、 激 しい 攘 夷 運 動 が 起 こ る原 因 の 一 つ に な っ た 。
幕 府 は 修 好 通 商 条 約(第 三 条)に 規 定 され た 江 戸 ・大 阪 ・兵 庫 ・新 潟 の 開 市 開 港 を 実
施 す る 間 に 合 わ な い 状 態 に な っ た 。 開 市 開 港 延 期 を 条 約 締 盟 国 の 公 使 と交 渉 を 始 め
た 。 イ ギ リス 公 使 ラ ザ ー フ ォ ー ド ・オ ー ル コ ッ ク(1809-1897)は
文 久 使 節 団 を派
遣 す る 準 備 に 大 き な役 割 を 果 た した 。 江 戸 幕 府 の 長 い 政 治 の 中 で 、 ヨ ー ロ ッパ に使
節 団 が 派 遣 され る の は 最 初 で あ っ た。
使 節 の 人 選 は 、 主 に 老 中 安 藤 信 正 が 当 た り、1861年3,月
中 に 正 史 ・副 使 ・立
合 監 察(目 付)ら が 決 ま っ た 。 正 史 に は 、 外 国 奉 行 兼 勘 定 奉 行 竹 内保 徳(下 野 守)、 副 使
に は神 奈 川 奉 行 兼 外 国 奉 行 松 平 康 直(石 見 守)、 立 合 監 察 に は 京 極 高 朗 らが 特 命 全 権
公 使 に 決 定 した 。 老 中 安 藤 は 回 訓 を 発 し、 開 市 開 港 延 期 の 談 判 と な ら ん で 政 治 ・経
済 ・軍 事 な ど広 義 の 西 洋 文 明 全 般 に わ た る調 査 研 究 を命 じた 。
使節 団員
特命 全権公 使
1)正
使
勘 定奉行 兼外 国奉 行
2)副
使
神奈 川奉 行兼 外 国奉行
3)目
付
京 極 能 登 守(38歳)
4)組
頭
5)勘
定役
外 国 奉 行 支 配 組 頭 柴 田 貞 太 郎(39歳)
日高 圭 三 郎 為 善(25歳)
6)調
役並
水 品 楽 太 郎(31歳)
8)普
請役
岡 崎 藤 左 衛 門(27歳)
進物 取次 上番 格普 請役
9)定
役元々
上 田 友 助(44歳)
7)同
10)定 役
心
斉 藤 大 之 進(40歳)
12)徒
目付
福 田 作 太 郎(29歳)
13)小
人 目付
高 松 彦 三 郎(43歳)
14)同
194
森 鉢 太 郎(28歳)
11)同
山 田 八 郎(40歳)
竹 内 下 野 守(56歳)
松 平 石 見 守(31歳)
益 頭 駿 次 郎(33歳)
サ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル グ に お け る文 久 遣 欧 使 節 団
15)通
詞
福 地 源 一 郎(21歳)
16)同
唐通 事
神奈 川 奉行 所勤務
17)外
交 方 翻 訳 局 員(中 津 藩 士)福
18)同
19)翻
立 広 作(17歳)
訳 方兼 医師
箕 作 秋 坪(37歳)
20)同
太 田源 三 郎(27歳)
沢 諭 吉(27歳)
松 木 弘 安(30歳)
21)医
師(幕
22)同
府 漢 方 表 医 師)高
川 崎 道 民 勤(佐
島 祐 啓(38歳)
賀 藩 医)(31歳)
家僕
竹 内下 野守家 来
23)高 間 応 輔(48歳)
24)長
尾 丈 輔(32歳)
松 平石 見守 家来
25)野
沢 都 田(42歳?)
26)市
川 渡(39歳?)
京極 能登 守家 来
27)黒
沢 新 左 衛 門(53歳)
28)岩
崎 豊 太 夫(35歳?)
柴 田貞太 郎家 来
29)長 持 五 郎 次(16歳?)
船 中賄 方並小 使
30)加
賀藩
31)佐
加 賀 中納 言家 来
賀藩
佐 野 貞 輔 鼎(33歳?)
松平 肥前 守家 来
32)同
33)長
州藩
34)阿
波藩
35)杵
築藩
36)伊
勢 屋 八 衛(ご
石 黒 寛 二(40歳?)
岡 鹿 之 助(30歳?)
松平 大膳 大夫 家 来
松平 阿波 守家 来
松 平親 貴 家来
用 達)手
杉 徳 輔(孫
原 覚 蔵(一
七 郎)(27歳)
介)(24歳?)
佐 藤 垣 蔵 秀 長(41歳?)
代
重 兵 衛(26歳?)
イ ギ リス 人
イ ギ リス 公 使 館 員
37)勘 定 格 調 役
38)調
マ ク ドナ ル ド
淵 辺 徳 蔵(45歳)
役 格 通弁御 用頭 取
森 山 多 吉 郎(42歳?)
淵 辺 と森 山 は帰 国 す る イ ギ リス 公 使 オ ー ル コ ッ ク に 随 行 し て ヨー ロ ッパ に 来 て 、
ロ ン ドン で 使 節 団 に合 流 し た 。 仕 官 は24名 で 、 召 し使 え は11名 で 、 コ ッ ク は3名 で
あ る。 万 延 元 年 新 見 正 興 の 遣 米 使 節 団 の 数 は77名 で 、 ほ ぼ 半 数 で あ る 。
ロ シ ア 国 立 文 書 館 に い く つ か の 使 節 団 の ネ ー ム リ ス トが 保 管 さ れ て い る 。 ア レ ク
サ ン ドル2世
が 日 本 使 節 団 を 謁 見 し た ネ ー ム リ ス トを 参 考 に す る 。
1.CTap田H苴Hoc皿aHHm(TaKeHay四CHMo耳KeHo-KaMH(Takeno-OuzySimozk6noKami).
195
KHMovvadim
2.
71BaMna八iiiHxHoc/laHHMKaKetiroKyHoToHo-KaMH(Ken-go㎞Noton6-Kami)H
Ma耶
3.
4.
5.
6.
珥aHpaHBaMHHo-KaMH(Matsu-dairaYwamino-Kami).
HpoKypopCH6aTaCa八aTapoo(Si-bataSada-ta-ro).
Ce即erapbMop圏MaTaKH叩poo(M6ri-yamaTakitsiro).
HoMo田H皿
叩o町)opaΦaKy[[aCaKyrapoo(Fa㎞daS自
㎞ 一ta-r6)
0Φ 皿epbmepBoroK[[accaOKa3aKHTbA3aeMoM(OkasakiT6-sayemom),1>㎞BI3HHa
PaKyrapo(Midsus丘laR五ku-ta-r6),XH八aKaKa血3a6ypoo(Hid瓠
【aKei-Sabu-rδ),
Φ 》q3四 〇6eTb馴o(Futsi-no-beT6kUso)
7.
0Φ 皿epHBroporD砌acca牙Ma八oXaTHpo(Yamada:Hatsir6),TaKaMaロyXHKoca6ypo
(TakomatsuHiko-Sabur6),CatiToII[atiHocvaH(SaitoDaimosin),MopHXall3vaTapoo
ダ
(MoriHatsi一Thr6),ya以aIOcKe(UyedaYUsk6)HMacH耶yCy田13Hpoo(Masidsu
S㎜ 一Ds血6).
8.
BpaqH(nepBorDHBToporomaccoBcoσrBeTcTBeHHo)TaKacHMaIOKe(Takasima
YU-kei)HK:aBacaKz!loMmH(Kawasa』dD6-mih)
9.
ノノ
IIepeBo刑HKHO八aI「eHH3a6ypoo(Ohodaqen-S'aburδ),ΦyKycaBayKセ
皿H
(Fu]㎞lsawaJtd(itsi),Ta取nωCaKy(Tatsi-k6Saku)HΦyKyll3varea卿oo(Fukudsi
Gen-itsi-r6)
ノ
10.r㎞cBMoBo以
πre∬HMH恥 聘pHHIyxe(MitsikuliScu-hei)HMa耶
㎜KbxaH(Mats劔d
Ko-an)6.
こ の ネ ー ム ・ リ ス トに よ る と 、 ロ シ ア 語 の 日 本 使 節 団 の 名 字 と 名 前 は 読 み に く い
だ 。 ま だ 日本 語 単 語 の ロ シ ア 文 字 に よ る ふ さ わ し い 記 号 も な か っ た だ 。 ま た ロ シ ア
人 は 日本 の 公 家 と武 家 の 称 号 も 分 か ら な か っ た と 思 う 。
文 久 遣 欧 使 節 団 に は 下 級 の 団 員 は6名
団)に
第 一 回 目 の 外 交 団(万
延 元 年 の遣 米 使 節
派 遣 され た 。
徒 目付
日高圭三郎
勘定 組頭 支配 普請 役
増頭 駿 次郎
御雇 医 師
川崎 道民
賄方
佐 野鼎
賄方
佐藤 垣蔵
傭通 詞
福 沢諭 吉
ジ ョ ン ・ヘ イ 艦 長 は 日本 使 節 団 と と も に 品 川 を 出 向 す る の は 、1862年1月21日
で
あ る。 文 久 使 節 団 は イ ギ リス 艦 長 オ ー デ ィ ン号 で ヨー ロ ッパ へ 向 か っ た 。 ル ー トは
江 戸 ・香 港 ・シ ン ガ ポ ー ル ・ トリカ マ リ(セ イ ロン)・
ン ・ス エ ズ で あ る。
1862年4月3日
ガ ー ル(セ
イ ロ ン)・
アデ
に竹 内使 節 団 は ヒ マ ラ ヤ 号 で マ ル セ ー ル 港 に 着 い た 。1862年4月
7日 、 汽 車 は 午 前10時 ご ろ 出 発 し て 、 パ リー に 着 く の は 、 夕 方 の7時
で あ る。1862年4年13日
ごろ リヨン駅
、 フ ラ ン ス 皇 帝 ナ ポ レオ ン 三 世 は(1808-1873)日
本使 節
団 を謁見 した。 ホテ ル に戻 った使 節 団 は写 真 師ナ デ ール に記 念写真 を撮 っ て も らっ
た 。 使 節 団 は パ リー で フ ラ ン ス外 務 省 の 代 表 委 員 と の 会 談 が 三 回 あ っ た 。 日本 使 節
団 は 外 交 交 渉 に お い て は 成 果 を 挙 げ る こ とが で き な か っ た の で あ る。 イ ギ リス へ 向
か った。
竹 内使節 団 は フラ ンス軍艦
196
「コル ス 」 号 に乗 っ て 、 イ ギ リス へ 行 っ た。
サ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル グ に お け る文 久 遣 欧 使 節 団
5,月9日
に 日本 使 節 団 は ラ ッセ ル 外 相 を訪 れ て 、 「ロ ン ドン 覚 書 」 に 調 印 した 。
そ の 議 定 書 に よ る と、 新 潟 ・兵 庫 の 開 港 と江 戸 ・大 阪 の 開 市 を 延 期 す る こ と 、 そ の
代 償 と し て 対 馬 の 開港 の 建 議 す る こ と 、 酒 類 とガ ラ ス 器 具 の 税 率 の 軽 減 す る こ と 、
横 浜 ・長 崎 に保 税 倉 庫 を設 け る こ と 、 平 民 の 雇 入 れ に 関 す る制 限 の 徹廃 す る こ と 、
大 名 ま た は 代 理 人 が 直 接 外 国 人 と 交 易 す る こ と を妨 げ な い こ と、 外 国 人 と 日本 人 と
の 自 由 交 際 を妨 げ させ な い こ と を 同 意 す る そ うで あ る。 ヨー ロ ッパ 締 盟 各 国 は こ の
「ロ ン ドン 覚 書 」 を参 考 に した 。5.月15日 に 文 久 遣 欧 使 節 団 は 約 一 ヵ,月半 ほ どイ ギ
リス に滞 在 して 、 イ ギ リス を発 っ て 、 オ ラ ン ダ の 軍 艦 「ア ル ジ ュ ノ 」 に 乗 っ て 、 オ
ランダ に向 か った。
5,月17日 に オ ラ ン ダ に 到 着 した 。6,月5日
に 日本 使 節 団 は オ ラ ン ダ 国 王 の 謁 見 を
も ら っ た 。 オ ラ ン ダ か らプ ロ シ ア(ベ ル リン)へ 汽 車 で 行 っ た 。6月22日(7月
18日)に ベ ル リ ン に 到 着 した 。24日 に 正 使 と副 使 らは 外 務 大 臣 、 内務 大 臣 、 式 部 長
官 を訪 ね た 。25日 は 謁 見 の 日で あ っ た 。7月10日(8,月5日)は
ベル リンの出発 の
日で あ っ た 。
日本 使 節 団 は7月18日
か ら8,月5目
は 港 湾 都 市 シ ュ ウ ィネ ミ ュ ンデ(現
蒸 気艦
ま で19日 間 ベ ル リ ン に滞 在 した 。 竹 内 使 節 団
在 の ポ ラ ン ド領 ス フ ィ ノ ウ イ シ チ ュ)で
ロシア
「ス メ リイ 」 号 に 乗 っ て 、 シ ュ ウ イ ネ ミ ュ ンデ を 出 航 し た 。 乗 組 員 の海 軍 大
尉 の モ ザ ー ス キ(Mozhaiskii)は
プ チ ャ ー チ ン使 節 団 の 団 員 の 一 人 で あ っ た 。 下 田
に 行 っ た こ とが あ る。 彼 は 日本 語 を多 少 解 す る こ と が で き た ら しい 。
8月8日(7月13日)夜
る10時 ご ろ ク ロ ン シ ュ タ ッ ト港 内 に 到 着 した 。 気 温 は13度
で あ っ た 。 日本 人 は 防 寒 着 物 を着 た 。 ク ロ ン シ ュ タ ッ トか らサ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル
グ の イ ギ リス 川 岸 通 りの 桟 橋 ま で 蒸 気 船
「ス ト レル ナ 」 丸 で 到 着 し た 。 こ こ で 歓 迎
式 が 行 わ れ た 。 使 節 団 員 は ロ シ ア 政 府 の 代 表 者 と一 緒 に 立 派 な 馬 車 に 乗 っ て 、 「予
備 宮 殿 」 に 向 か っ た。 向 か い に 行 っ た 外 務 省 ア ジ ア 局 館 員 は 大 和 夫(ヤ
マ トフ)で
あ っ た 。 サ ン ク ト ・ペ テ ル ブ グ の 当 時 の 人 口 は 約55万 人 だ そ うで あ る。 日本 使 節 団
は フ ラ ン ス で も、イ ギ リス で も、オ ラ ン ダ で も、プ ロ シ ア で もホ テ ル に 泊 ま る こ と に
な っ た 。 ロ シ ア 帝 国 の 政 府 は サ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル グ に 適 当 な ホ テ ル が 見 つ か ら な
か っ た か ら、 竹 内 使 節 団 は い わ ゆ る予 備 宮 殿 に 泊 ま っ た 。 皇 帝 の 望 み は 暖 か っ た ら
エ ラ ー ギ ン 島 宮 殿 に 留 め る こ と 、 寒 か っ た ら予 備 宮 殿 に 留 め る こ とで あ っ た 。 「
予
備 宮殿 」 は皇 帝 の離 宮で あ る 「
冬 の 宮 殿 」 に 近 い し、 中 心 地 に あ る し、 見 所 が 多 い
と い う理 由 も あ っ た 。 福 沢 諭 吉 は(「 西 航 記 」)に お い て 厂第 四 時 、 国 帝 の 客 館 に
着 。 館 は 帝 宮 と相 隣 りて 、 館 の 前 は ナ わ 川 な り。 眺 望 最 好 し。 此 館 は 帝 宮 に 」 属
し、 外 国 の 貴 客 を 持 っ 為 め 設 け る 者 に て 、 尋 常 の 旅 宿 に あ らず 」 と述 べ て い る。 山
ロー 夫 と 宮 永 孝 に よ っ て 、 「
予 備 宮殿 」 は 「
大 理 石 宮 殿 」 と見 做 され て い る 。 しか
し今 「予 備 宮 殿 」 は 残 っ て い な くて 、 再 建 設 され て 「ウ ラ ヂ ミル ス キ ー 宮 殿 」 に な
っ た ら しい で あ る7。 厂予 備 宮 殿 」 は 修 繕 され て 、 時 計10個 を 運 ん で き て 、 じ こ く
を合 わ せ た 。 日本 人 の 習 慣 を 合 わ せ る よ うな 努 力 が な さ れ た 。 す べ て の 準 備 は ロ
シ ア 外 務 省 ア ジ ア 局 の 日本 人 仕 官 ヤ マ トフ(大
和 夫)が
書 い た 覚 書 に よ っ て 行 われ
た 。 福 沢 諭 吉 の 「翁 自伝 」 に よ る と、 ロ シ ア 首 都 に は 日本 人 が い る に 違 い な い と考
え た。
8,月11日(7月16日)予
備 宮 殿 に は ロ シ ア 外 務 省 の 高 官 が 姿 を 見 せ た 。 来 る べ き謁
見 式 の 打 ち 合 わ せ に 着 た だ ろ う。 歓 迎 謁 見 の た め の 儀 式 が 大 和 夫(橘 耕 斎)の 覚 書
に よ っ て 編 成 され た 。 儀 式 を編 成 す る に あ た り、 ペ ル シ ャ全 権 大 使 の 接 待 の経 験 に
197
KLIMovvadim
基 づ い て 編 成 され た 。 ペ ル シ ャ 大 使 は1855年12 ,月に サ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル グ に 到 着
した 。
8月12日(7,月17日)に
は12時 過 ぎ 三 使 は 馬 車 で 外 務 省 に 出 か け た。 式 部 官 長 を
訪 れ 、 午 後1時 半 過 ぎ 予 備 宮 殿 に 帰 っ た。
8月14日(7.月19日)日
本 使 節 団 は 「ゲ オ ル ギ ー の 間 」 で ア レ ク サ ン ドル ニ 世 の 謁
見 を貰 っ た。
「ゲ オ ル ギ ー の 問 」 は 玉 座 の 間 で あ る。 竹 内 下 野 守 は 、 「
大 君 の 皇帝
宛 書 状 を 手 に も ち 、 つ ぎ の よ うに あ い さ つ した 。
「
皇 帝 閣 下、
、 私 ど も は 、 大 君 の 命 に 従 い 、 今 日、 閣 下 に謁 見 す る
栄 誉 を 得 ま した 。 両 国 の 間 の 条 約 の 締 結 以 来 、 両 国 の 関 係 は 徐 々
に は っ て ん して き て い ま す 。 そ の 結 果 、 大 君 は 、 わ れ わ れ に 、 大
君 の 親 書 を 閣 下 に 差 し 出 し、 大 君 の 率 直 な 誠 意 を示 し、 条 約 に あ
る約 束 を 更 新 す る よ う、 命 じ られ ま し た 。 こ の 機 会 に 、 わ れ わ れ
は 、 皇 帝 閣 下 は の 栄 誉 と 臣 民 の 幸 福 を 祈 ります 。
こ の 挨 拶 は 、 私 設 秘 書 官 森 山 に よ っ て オ ラ ン ダ語 に 訳 され 、 そ れ を イ ェ ッセ ン が
ロ シ ア 語 に して 読 み 上 げ た 。 正 使 は 次 い で 大 君 の親 書 を 取 り出 し、 そ れ を 皇 帝 閣 下
に 差 し 出 した 。 皇 帝 閣 下 は そ れ を 大 法 官 代 理 の 手 に 渡 した 。
閣 下 の 返 書 は 、 ゴ ル チ ャ コ フ公 に よ っ て 次 の よ うに読 み 上 げ られ た。
大 君 も代 理 人 を 迎 え た こ と は と く に 喜 ば しい こ と で あ りま す 。 ロ
シ ア と 日本 と の 関 係 は 常 に 親 密 で あ り ま した 。 両 国 が 隣 接 して い
る こ と とそ こ か ら 生 じ る 共 通 の 利 害 は 、 両 国 の 関 係 の 継 続 と 強 化
の 保 障 と な っ て い ま す 。 私 は 、 大 君 が 使 節 を 派 遣 す る こ とに よ っ
て 示 し た 友 情 と あ な た 方 の 仲 介 に よ っ て 閣 下 が 示 して い る気 持 ち
を 評 価 しま す 。 私 の 首 都 で の あ な た 方 の 滞 在 が 、 ロ シ ア の 日本 に
た い す る誠 意 を あ な た 方 に 納 得 させ る こ とを 期 待 しま す 。
そ の挨 拶 は 、 イ ェ ッセ ン に よ っ て ロ シ ア 語 か らオ ラ ン ダ語 に訳 され 、 森 山 に よ っ
て 日本 語 に訳 され た8。
鈴 木 健 夫 に よ る と、 使 節 団 の 正 使 は ロ シ ア 帝 国 の 皇 帝 に挨 拶 を か け る と き 、 皇 帝
閣 下 の 称 号(皇 帝 陛 下 で は な くて 、 殿 下 で は な く て 、 閣 下?)を 使 っ た そ うで あ る 。
鈴 木 健 夫 が 引 用 す る 信 任 状 の 内 容 は 称 号 以 外 に ロ シ ア 国 立 歴 史 文 書 館 に保 管 して い
る文 書 に ま っ た く一 致 し て い る 。 ロ シ ア 史 料 に よ る 、 ロ シ ア 帝 国 の 皇 帝 は 大 君 に た
い し て殿 下 で は な くて 、 陛 下 の 称 号 を使 っ た そ うで あ る『9。お そ ら く そ の 時 ロ シ ア
で は 天 皇 陛 下 と大 君 殿 下 との 関係 と権 限 は ま だ は っ き り理 解 す る こ とが で き な か っ
た ので ある。
謁 見 式 が す む と 、使 節 団 は 予 備 宮 殿 に帰 っ た 。
ロ シ ア 政 府 は 大 君 お よ び 使 節 団 員 へ の 贈 り物 を差 し上 げ た 。 贈 り物 は ロ シ ア 帝 国
の 文 化 的,科 学 的 、 産 業 的 発 展 の 成 果 を 示 す た め で あ っ た 。 将 軍 へ は 、 サ ー ブ ル を
2本 以 外 に 船 の 模 型 、 地 図 も 贈 呈 した 。 ロ シ ア 帝 国 の 皇 帝 へ 幕 府 の 贈 り物 は14の 箱
を ロ ン ドン滞 在 ロ シ ア 大 使 館 か ら蒸 気 船 「デ ル フ ィ ン 」(「 海 豚 」)が 運 ん で き
た 。5個 の 竹 の 屏 風 や2本 の サ ー ブ ル(刀?)や
鞍 や カ ー テ ン や10点 の 絵 な ど が
あ っ た 。 贈 り物 の リ ス トが 残 っ て い る10。2本
(現 在 プ シ キ ン 市)の
198
の 刀 と 鞍 は ツ ァ ル ス コ エ ・セ ロ ー
武 器 庫 に 保 管 され た 。 日本 の 絵 は10点 ガ ッ チ ナ 宮 殿 の 中 国 画
サ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル グ に お け る文 久 遣 欧 使 節 団
廊 に 展 示 され た 。 使 節 団 員 へ は み ん な 贈 り物 は 差 し上 げ られ た 。 総 額 は763ル ー ブ
ル で あった。
8月15日(7月20日)。
正 使 と副 使 は 三 人 で 午 前11時 過 ぎ 予 備 宮 殿 を 出 て 、 皇 太
子 宅 、 ロ シ ア 駐 在 フ ラ ン ス 公 使 、外 務 省 次 官 な ど を 訪 れ た。 午 後 か ら 冬 宮 殿 を 見 学
して5時 過 ぎ 帰 っ た。
8,月16日(7月21日)日
外務 省 ア ジ ア局 の伯 イ グナ テ ェフ が予備 宮殿 に来 て、 サ
ハ リ ン境 界 画 定 の 件 で 訪 れ た だ ろ う。
8月17日(7月22日)三
8.月18目(7,月23日)午
使 ら は冬 宮 殿 を 訪 れ て 見 学 した 。
後10時 過 ぎ 三 使 は 各 国 の 大 使 館(公
使 館)訪
問 に 出か け
た 。 午 後1時 過 ぎ ペ トロ パ ブ ロ ヅ ス カ ヤ 要 塞 を 見 学 した 。
8,月19日(7月24日)午
後2時 過 ぎ 競 馬 見 物 の た め ク ラ ス ノ エ ・セ ロ ー に 出 か け
た。
8,月20日(7月25日)日
本 使 節 団 は 午 前7時 半 に予 備 宮 殿 を 出 て 、 汽 車 に乗 っ て ま
た ク ラ ス ノエ ・セ ロ ー へ 向 か っ た 。 皇 帝 を は じ め ロ シ ア の 貴 族 と一 緒 に 歩 兵 、 砲
兵 、 騎 兵 の調 練 を 見 た 。 動 員 され た 兵 力 は35000人 、 大 砲93門 で あ っ た 。
8,月21日(7.月26日)日
本 使 節 団 と の 会 談 始 ま っ た 。 第 一 回 目の 会 談11は 予 備 宮
殿 で 行 わ れ た 。 ロ シ ア 側 の 全 権 代 表 者 は 外 務 省 ア ジ ア 局 長 ニ コ ラ イ ・イ グ ナ テ ェ フ
伯 で あ っ た 。 彼 は 先 年 ロ シ ア公 使 と し て 清 国 に 駐 在 した とき 、満 州 境 界 問 題 を 解 決
す る成 功 が あ っ た 。 経 験 が 深 い ロ シ ア 外 交 官 で あ っ た 。 サ ハ リ ン の 境 界 は会 談 の テ
ー マ の 一 つ に な っ た 。 ア ジ ア 局 長 は 、 ロ シ ア が 最 恵 国 最 恵 国 待 遇 を 受 け て 、 ヨー ロ
ッパ 列 強 と 同 じ条 件 で 、 「ロ ン ドン覚 書 」 に あ る 、 対 馬 の 開 港 ・関 税 の 引 き 下 げ ・
保 税 倉 庫 の 設 置 に つ い て の 実 行 を 約 束 した 。 イ グ ナ テ ェ フ は 、 日本 の 内 外 情 勢 を考
慮 し て 、 い くっ か 譲 歩 した 。 す な わ ち 、 常 設 の ロ シ ア 政 府 代 表 団 を任 命 せ ず 、 開 市
・開 港 延 期 に 対 して も賠 償 を 要 求 し な か っ た 。
ロ シ ア は 他 の 列 強 と 同 じ よ うに5ヵ 年 の 延 期 を承 諾 した 。 サ ハ リ ン の 境 界 問題 は
一 番 難 し か っ た が 、 日本 出 発 ま で の 間 に そ の 問 題 を め ぐ る談 判 は 六 回 行 わ れ た 。
イ グ ナ テ ェ フ は 、 皇 后 は 絵 が 好 き だ か ら、 絵 を描 く 団 員 が い る の で す が 、 皇 后 の
た め に3枚
書 い て くれ な い か 、 とい っ た 。 高 島 祐 啓 、 川 崎 道 民 は 墨 絵 を3枚(富
士
山 、 ネ バ 川 の 景 色 、 鳶 の絵)描 い た そ うで す 。
8,月22日(7 ,月27日)、 こ の 日 もイ グ ナ テ ェ フ 伯 は サ ハ リ ン境 界 問題 の 件 で 予 備 宮
殿 を 訪 れ た 。 第 二 回 談 判 で あ っ た 。 「境 界 を論 ず 未 だ 決 せ ず 」(淵 辺 の 日記)。
8月23日(7月28日)、
三 使 は 午 前10時 ご ろ馬 車 に 乗 っ て 南8里 ほ ど の 所 に 位 置 す
る 「
ニ コ ラ ー ル 天 文 台 」 を 見 学 した 。 正 午 に展 望 鏡 で 金 星 と大 角 を 観 た 。
8月24日(7月29日)午
後2時 、 三 使 と随 員 は ネ バ 川 の 川 口 の イ エ ら ギ ン 島 に イ エ
ラ ギ ン 宮 殿 に 招 か れ た 。 夕 方 に な っ て 、 花 火 を 見 た 。 ヨー ロ ッパ で は な び を 沢 山見
たが、 そ の晩一 番最 大 で あった。
8,月25日(8月1日)、
午 前 中 、 イ グ ナ テ ェ フ は 予 備 宮 殿 を訪 れ て 、 第 三 回 目の 会
談 で あ っ た 。 境 界 の 問 題 に つ い て 交 渉 が あ っ て 、 決 着 に至 らな か っ た 。 イ グナ テ ェ
フ は 、 サ ハ リ ン の 現 地 を 検 分 して 、 両 国 の 全 権 委 員 が ニ ジ ョラ エ フ ス ク ・ナ ・ア ム
ー レ(ロ シ ア 領 土)か 函 館(日 本 領 土)で 会 談 を再 開 す る こ と を提 案 した 。 ロ シ ア か ら
R.V.カ
ザ ケ ウ ィ チ 沿 海 州 総 督 を委 員 と して 出 す 用 意 が あ っ た 。 これ に 対 し て 目本
側 は 実 地 検 分 した 上 、50度 内 外 で 境 界 を 画 定 で き る か 聞 く と、 イ グナ テ ェ フ は 「
ペ
テ ル ブ グ で も、 日本 ま た は サ ハ リ ン で の 交 渉 の と き で も 、 受 け 入 れ る 訳 に は い け ま
199
KLIMovvadim
せ ん 」 と答 え た 。
8月27日(8,月3日)、
午 後 、 日本 使 節 団 は 川 蒸 気 船 に 乗 っ て 、 イ エ ラ ギ ン 島 で
散 策 して 、 休 ん だ 。 園 池 で 投 網(と
の とき に食 卓 に 出 し て も ら っ た 。
8,月28日(8,月4日)、
あ み)で
は 鱒 が5匹
ほ ど獲 られ て 帰 っ て 、 夕食
午 後 、 三 使 と随 員 は 汽 車 で コル ビ ナ??コ
場 を見た。
8月29日(8月5日)、
ル ピノに あ る工
午 前 中、イ グナテ ェ フは予備 宮殿 を訪れ て 、三使 と交渉
して 、 サ ハ リ ン境 界 問 題 に つ い て 談 じた 。 サ ハ リン に 対 して 第 四 回 目の 会 談 で あ っ
た 。 午 後 、 昨 日訪 れ た 工 場 か ら ロ シ ア 人 の技 師 が 二 人 予 備 宮 殿 に 来 て 、 水 車 図 面 な
ど を 淵 辺 に贈 っ た 。
8,月30日(8月6日)、
三 使 と随 員 は ツ ア ル ス コエ ・セ ロ ー へ 行 っ て 、 エ カ テ リ
ー ナ 宮 殿 を 見 学 した 。 武 器 庫 で 日本 の 武 器 や 馬 具 や 金 蒔 絵 を 見 た 。 こ の 日、 福 沢 諭
吉 や 淵 辺 らは 、 ネ フ ス キ 修 道 院 、 ガ ラ ス 工 場 、 磁 器 工 場 を 見 学 し た。
8,月31日(8.月7日)、
夕 方 、 三 使 は 皇 帝 の 招 待 を受 け て 劇 場 に行 っ た 。 福 沢 や
淵 辺 な ど は 高 山学 校 に 行 っ た 。
9月2日(8月9日)、
イ グ ナ テ ェ フ伯 は 予 備 宮 殿 を訪 れ て 、 サ ハ リン に対 して 境
界 問題 に つ い て 談 判 が 続 い た 。 成 果 が な か っ た 。 第 五 回 目の 会 談 で あ っ た 。 福 沢 諭
吉 は動 物 学 博 物 館 を 見 学 した 。 マ ンモ ス(マ モ ウ ト)を 見 た。(「 西 航 記 」)。
9月3日(8月10日)、
午 後6時 ご ろ 、 正 使 と副 使 は 外 務 大 臣 の 私 宅 の招 宴 に 行
っ た。福 沢 、箕作 、松 木 、 医師 た ち は 「
陸 医 学 校 」 と 「陸 軍 病 院 」 を訪 れ た 。 手 術
室 で 手 術 の 時 、 患 者 の 血 液 を 見 て 、 た ち ま ち 気 が 遠 くな っ て 、 小 人 目付 山 田 八 郎 に
室 外 に連 れ 出 して も らっ て 、 水 を 飲 ま せ て も ら っ て 、 や っ と気 に 返 っ た 。
9月5日(8月12日)、
の 宮 殿)に
使 節 団 は 河 蒸 気 船 に 乗 っ て 、 ピイ テ ル ホ フ(ピ
イ テル 夏
行 っ た 。 使 節 団 は 船 着 場 に 着 い て か ら、 陸 上 の 砲 台 よ り十 一 発 の 祝 砲 が
発 せ られ た 。 見 学 して か ら夕 食 を す ま せ 、 汽 車 に 乗 っ て 夜10時 過 ぎ 予 備 宮 殿 に 帰 っ
た。
9,月7日(8,月14日)、
福 沢諭 吉 は 「
帝 国 図 書 館 」を訪 れ た 。 こ の 図 書 館 は!814年 に
創 設 され た 。 夕 方 よ り 日本 使 節 団 は イ エ ラ.ギン 島 に 遊 び に行 っ た 。 こ の 日は ロ シ ア
皇 帝 の 即 位 式 記 念 日の た め 、 祝 日で あ っ た 。
9月8日(8,月15日)、
市 川 渡 は 午 後 か ら写 真 館 に 行 っ た 。 淵 辺 徳 蔵 は 汽 車 で コル
ピ ノ の 製 鉄 所 を 見 学 した 。
9月9日(8,月16日)オ
ラ ンダ公 使 は予備 宮殿 を訪 れ て、文 久 二年 五月 、松 本藩
士 が イ ギ リス 公 使 館 で あ る東 禅 寺 を襲 撃 した 事 件 の ニ ュ ー ス を伝 え た 。
9,月10日(8,月17日)、
日本 人 は コ トリ ン 島 に あ る ク ロ ン シ ュ タ ッ ト軍 港 を 訪 れ
た 。 軍 港 以 外 に 、 製 鉄 所 、 武 器 庫 、 ド ック 、 砲 台 、 博 物 館 を 一 覧 した 。
9,月11日(8,月!8日)、
イ グ ナ テ ェ フ伯 は 予 備 宮 殿 に 来 て 、 来 る9月14日
に「
エ
カ テ リナ 宮 殿 」で 日本 使 節 に 暇 乞 い し た い と い っ た 皇 帝 の 伝 言 を 伝 え た 。 ま た 彼 は
三 使 お よ び 随 員 全 員 へ の 贈 り物 の 目録 を 渡 した 。
9,月12日(8,月19日)、
午 前10時 ご ろ 、 三 使 は 馬 車 に 乗 っ て 外 務 大 臣 ゴ ル チ ャ コ フ
の 官 邸 を 訪 れ た 。 ロ シ ア 側 は 開 市 開 港 の5ヵ 年 延 期 お よ び 日本 の 貨 幣 制 度 の 変 更 に
同意 す る 旨 を認 め た 。
「
覚 書 」(協
定 書)を
サ イ ン し た 。 サ ハ リン に対 して 第 六 回
目の 会 談 で あ っ た 。 プ チ ャ チ ン は1853年 に 長 崎 に 来 て サ ハ リ ン の 境 界 を 画 定 し よ う
と提 議 した 。1854年 に プ チ ャ チ ン は 再 来 日 して 、 「日露 和 親 条 約 」 を締 結 して 、 サ
200
サ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル グ に お け る文 久 遣 欧 使 節 団
ハ リ ン に 対 し て 決 着 を つ け な か っ た 。 両 国 の 共 有 領 地(雑
居 地)と
な った。 次 に東
部 シ ベ リ ア総 督 ム ラ ビ ヨ フ が 軍 艦7隻 を 率 い て 江 戸 湾 に入 っ て サ ハ リ ン 問 題 に つ い
て 交 渉 を 始 め た 。 問 題 は 解 決 され な か っ た 。 文 久 遣 欧 使 節 団 は ロ シ ア 帝 国 の 首 都 に
来 て こ の 問 題 を 解 決 す る の は 、 三 回 目の 試 み で あ っ た 。 ロ シ ア 側 の 最 後 に 、 北 緯
48度 内 外 を露:・ 日の 境 界 と した い 旨 を 発 議 した12。 京 極 能 登 守 以 外 に 、他 の 団 員 た
ち は ロ シ ア 側 の 提 案 を 受 諾 し よ う と思 っ た 。 京 極 能 登 守 は 日本 の 国 土 を一 寸 た り と
も譲 与 して は な らぬ 口実 で反 対 して 、 ロ シ ア 提 案 を 拒 否 す る に 至 っ た13。 結 局 、 露
・日両 国 の 全 権 委 員 が サ ハ リ ン で 会 っ て
、 実 地 に地 形 を 臨 検 し て 、 協 議 の うえ 境 界
を画定 す る といった 「
協 定 書 」 に調 印 した 。 夕 方 に 三 使 は 劇 場 に 行 っ た 。
サ ン ク ト ・ペ テ ル ブ グ滞 在 期 間 中 、 使 節 団 員 た ち は サ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル グ で 訪
れ た 場 所 は 他 の ヨー ロ ッパ の 首 都 で 訪 れ た 場 所 と 同 じ ぐ らい で あ っ た 。 お そ ら く 団
員 た ち は 予 め に 問題 集 を持 っ て 興 味 の あ る場 所 を検 査 に 行 っ て 、 資 料 を 集 め た の で
あ る。
9月13日(8月20日)、
カ メ ラマ ン が 予 備 宮 殿 に 来 て 、 写 真 を 撮 っ た 。 今 文 久 遣 欧
使 節 団 の 写 真 コ レク シ ョン は東 大 史 料 編 纂 所 に保 管 され て い る が 、 エ ル ミ タ ー ジ ュ
美 術 館 の 冬 の 宮 殿 に も ま だ 整 理 され て い な い 使 節 団 の 集 合 写 真 は1枚 残 っ て い る1
4。 団 員 た ち は 予 備 宮 殿 の 広 間 に 集 ま っ て 写 真 を 撮 っ て い た だ い た の で あ る。 残 っ
て い な い 予 備 宮 殿 の 広 間 も よ く見 え る。
9月14日(8月21日)、
予 備 宮 殿 を外 出 して 、 汽 車 に 乗 っ て ツ ァル ス コエ ・セ ロ ー
に 行 っ た 。 エ カ テ リナ 宮 殿 に 告 別 の 謁 見 が 行 わ れ た 。 夕 方 サ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル グ
に帰 った。
9,月15日(8,月22日)、
三 使 は 午 後 各 国公 使 館 に挨 拶 に 出 か け た 。
9,月16日(8月23日)、
荷 物 は 早 くベ ル リ ン に 送 達 した 。
9,月17日(8,月24日)、
日本 使 節 団 は 午 前 九 時 ご ろ 予 備 宮 殿 を 出 て 駅 に 向 か っ た 。
10時 ご ろ汽 車 はベ ル リン に 向 か っ て 出 発 した 。
ロ シ ア 帝 国 政 府 は 竹 内使 節 団 の す べ て の輸 送 費 が3914ル ー ブ ル に 達 し た 。 す べ て
の 費 用 の 総 額61115ル ー ブ ル53%コ
ペ イ カ に 達 した15。
注
1ΦahH6epr9.月:.PyccKo一
牙noHcKHeoTHo皿eHH牙Bl697-1875rLM
.H3以aTe∬LcTBoBocToqHo営
∫【HTepaTypLI,1960.C.206-210.
2KyTaKoBJLH.PoccH∬H月HoHH牙.M.haBHa∬pe八aKH圏BocToqHo貢
朋TepaTypblH3以aTe∬LcTBa
<<Hayl(a>〉,1988.C.150-152.
3q:epeBmKl.E.3apo細eHHepyccKo一
199。
册oHcKHxoTHomeHH苴XVII-XIXBeKa
最 近 、 セ ソ エ ワ が1855∼1875露
日 関 係
.M.HayKa,1999,C.
に つ い て 学 位 論 文
た 。CHcoeBaEACaxa∬HHHI〈ypH肪cKHeocTpoBaBpyccKo一
を 書 い て1862年
の 交 渉 に も 触 れ
册oHcKHxoTHoHIeHH∬xl855-1875rL
(OTCHMo;耳cKoroTpaKraTa八oHeTep6yprcKoro八oroBopa).ABTopeΦepaT八HccepTaロHHHacoHcKaHHe
yqeHo営cTeHeHHKaHA呶aTaHcTop困ecKHxHayK.B∬a朋MHp,2004.さ
で 新 聞 の 資 料 を 纏 め た 資 料 集
が 発 表
ら に サ ン ク
ト ・ペ テ ル ブ ル
グ
さ れ た 。nepBHe册oHcKHeHocoπBcTBaBPoccHHBra3eTHbIx
ny6JIHKauH∬x1862-1874rLCI]16.,2005.
4CeHqeHKoH.A.Caxa朋HHKソpH■H-HcTopHHocBoeHH朋pa3BHTH牙
5CoKo∬oBA.POnpHe3鵬BCaHKT-rleTep6ypr册oHcKoronoco∬LcTBaBl862ro八y//日
.M.,2006.
ロ 関 係 史 料
201
KLIMovvadim
を め ぐ る 国 際 研 究 集 会2006.予
稿 集 。2006年3,月2日
、 日本 学 士 院
・東 京 大 学 史 料 編 纂 所 。
頁42-57.
6PFHA.ΦoHA.473.OHHcb3.双elπ0326.JIHcT99.
7「
ウ ラ ヂ ミ ル ス キ ー 宮 殿 」 の 住 所 は ドォ ル ツ ォ ワ ヤ 川 岸 通 り 、26.CaM磁
∬oBH.A.r【aM∬THLIe
MecTa,cB∬3aHHLIecnpe6LIBaHHeMBneTep6ypre觚oHcKoroHoco肪cTBaB1862n//BocToKBKo册e珊
nepBoHcToqHHKoBCaHKr-HeTe6ypra.HHHraTa,2004・C・40-49(BepcH∬Ha∬
圏x
∬oHcKoM牙3blKe-TaM)Kec・
10-14).
8鈴 木 健 夫 。 ヨ ー ロ ッ パ の 見 た 文 久 使 節 団 。 早 稲 田 大 学 出 版 部 。 東 京 、2005.頁172-173.
9PrHA.ΦoH八469.OHHcbl.ノ]〔eJlo378.JIHcT26-2606.
10PrHA。
ス コエ
Φo瓢469。0皿cb8.双e∬02209.∬KcTLIl-22.残
念 な が ら第 二 次 世 界 大 戦 の 時 、 ツ ァ ル
・セ ロ ー も ガ ッ チ ナ も ナ チ ス 軍 隊 に 占 領 さ れ て 、 贈 り 物 は 残 っ て い る か ま だ 確 認 し な
か っ た の で あ る。
11日
付 は 複 雑 で あ る 。 日 本 の 日付 も あ り 、 西 暦 の 日 付 も あ り 、 ロ シ ア の い わ ゆ る 旧 暦 の 日
付 も あ りま す 。 矛 盾 が 残 っ て 、 全 部 確 認 す る 間 に 合 わ な か っ た の で あ る 。 ロ シ ア 史 料 に よ る
と 、 第 一 回 目 の 会 談 は8,月4日
は8,月10日
で あ り 、 第 二 回 目 の 会 談 は8,月9日
で あ り 、 第 四 回 目 は8月14日
目 の 会 談 は8月20日
で あ り、 第 三 回 目 の 会 談
で あ り 、 第 五 回 目 の 会 談 は8,月17日
12宮
永 孝 。 幕 末 遣 欧 使 節 団 。 講 談 社 学 術 文 庫 。 東 京 、2006年
13宮
永 孝 。 前 掲 論 文 、 頁283,
14エ
ル ミ タ ー ジ ュ 美 術 館 の 研 究 員 で あ る ボ ゴ リ ュ ボ ブ(Boro∬m60BA.M.)の
を 見 る こ とが で き た 。
15PrHA.ΦoH八565.OHHcL1.刀;eJIo2665.JIHcTHl-7.
202
で あ り、 第 六 回
で あ っ た そ う で す 。 Φ詑H6epr9』.yka3.Coq.C.209.
、 頁282.
お 陰 に集 合 写 真
Fly UP