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第 7 章 文法・修辞用教材にみる聖パウロ学校の「言葉の教育」 前章では
第 7 章 文法・修辞用教材にみる聖パウロ学校の「言葉の教育」 前章では、コレット自らが定めた「聖パウロ学校規則」 を取り上げ、設立時にあたって掲げ られた彼の理想的教育理念を明らかにした。本章では、そうしたコレットの教育的理想を踏ま えた上で、聖パウロ学校で使用された文法及び修辞用テキストを取り上げ、実際に行われた言 葉の教育とはいかなるものであったのかを考察する。 学校規則の定めによれば、コレットの求めた理想的教育内容とは、純粋な言葉で語られると ころの、キリスト教という宗教性を強く意識した作品のみを扱ったものであった。それは、彼 が人としての生き方・在り方を問うた場合、ロンドン社会に生きる都市市民というよりも、キ リストに連なる精神的共同体に生きるキリスト者としての一市民の姿を想定していたからであ る。 ところが、実際に使用された教材としてのテキストの内容をみてみると、コレットの理念に 反してギリシャ、ラテンといった異教的古典作品、特に道徳的に問題のある文章を含めた引用 文が利用されていた。テキスト執筆過程を辿ると、これらの引用文を載せたのは、エラスムス であったことが分かった。執筆過程を巡って交わされたコレットとエラスムスとの折衝から、 彼らの言葉の教育に対する相違が浮き彫りとなるのである。 そこで第 1 に、聖パウロ学校で教えられていた実際的教育内容を把握することに努める。 現在までのところ、学校で教えられたとされるテキスト等の明確なリストは残されていない。 しかし、少なくとも現存する聖パウロ学校用教科書『編纂』Aeditio、 「学校規則」で指定された 教材、 或は実際に使用が確認されている教材等から、 設立時の教育内容が確定されるであろう。 第 2 に、聖パウロ学校で使用された、特に文法用、修辞用テキストの執筆過程を分析しなが ら、コレットとエラスムスそれぞれの、言葉の教育に対する異なった立場を明らかにする。 第 3 に、コレットとエラスムスそれぞれの聖書解釈上の相違に留意し、そこから導き出され る彼らの異なった捉え方をされたイエス像を明らかにする。その上で、理想的人間の教育に向 けたコレットとエラスムスとの異なった教育的見解を明確にし、子どもたちへの道徳的教材と していかなるものが適切であるべきとされたのかをみてみる。 第 4 に、テキスト分析によって、聖パウロ学校で実際に教えられた教育内容のみならず、教 育方法をも明らかにする。聖パウロ学校の教育内容及び教育方法は、テューダー期に隆盛した 人文主義的文法学校の一つのモデルとなった。このようなルネサンス期に特徴的な新しい教育 方法の導入に実際的役割を果たしたのが初代校長ウィリアム・リリーであった。リリーを通じ て、新しい言葉の教師としての役割についても言及する。 第 1 節 聖パウロ学校用教材にみる教育内容の実際 最初に、聖パウロ学校で実際に使用された教材がどのような内容のものだったのかについて 整理してみることとする。本節では第 1 に、聖パウロ用教科書『編纂』の中に収められていた 「学校規則」において言及され且つ実際に使用 3 つの教材、第 2 に、これら 3 つの教材以外に、 されていた教材、そして第 3 に、 『編纂』の中の教材や、 「学校規則」で指定された教材以外に も、使用の事実が認められたその他の教材を紹介する。 159 1-1『編纂』に収められた教材 「編纂」Aeditio と名付けられた聖パウロ学校用テキストの現存する最古の版は、1527 年の ものである(1)。現在ペテルブルグ大聖堂図書館に所蔵されており、本論文で取り上げる『編纂』 は、ラプトンJ.H.Lupton(1974)がペテルブルグ大聖堂図書館から転写したものを引用している。 さて、この『編纂』自体は、3 つの教材を編集し、所収したものである。3 つのテキストとは、 「カテキズム」Cathechyzon、 「八品詞構文について」De constructione octo partium orationis、そ して「道徳についての詩」Carmen de Moribus である。それぞれの執筆者とその内容は以下のよ うになっている。 1) 「カテキズム」 ;宗教教育を目的に、コレットが散文体で書いた英語のカテキズム。内容は 以下のようになっている。 「教師から親にむけた入学前の子どもの心構え」Articles of admission to St.Paul’s School;カテキズムの前に聖パウロ学校入学に際しての規約が付いている。実際の カテキズムは、以下のものである。なお、コレットによって書かれた入学規約は、 その一部抜粋を註に載せた(2)。子どもの学びに対する自発性を重んじるコレット の姿勢が伺えよう。 カテキズム Cathechyzon ・ 「使徒信経」(3)The Artycles of the Fayth ・ 「七秘跡」(4)The Seuen Sacramentes(叙階、婚姻、洗礼、堅信、聖体、ゆるし、塗 油) ・ 「愛」Chartyte(5)(神の愛、自分自身の愛、隣人の愛) ・ 「信仰上の決意」(6)(悔悛、聖体拝受、病床にある時、死を迎える時) ・ 「日常生活における教訓」(7)Preceptes of Lyuynge ・ ラテン語による「使徒信経」Simbolum Apostolorum、 「主の祈り」Oratio Dominica、 「天使祝詞」Salutatio Angelica ・ラテン語によるコレット作成の祈祷文「聖母マリアよ…」 「わが主、イエスよ…」 2) 「八品詞構文について」De constructione octo partium orationis ;コレットが起草し、リリー が執筆、エラスムスが改訂したラテン語中級文法書。リリー宛のエラスムス書簡には、この文 法書の事が言及されている(8)。なお、後世において国王からの認可を得た権威的文法書『リリ ー文典』Lily’s Grammarとされた、この文法書についての詳細な執筆過程に関しては、ワトソン Foster Watson(1968)が明らかにしている(9)。 「八品詞構文について」自体の構成は以下のようになっている。 ・序 ・八品詞から成る簡潔な文法構文 160 ・八品詞構文に関する説明文 ・あとがき 3) 「道徳についての詩」Carmen de Moribus;リリーのラテン語による、80 の詩編を含んだ良 い行いに関する処世訓。そこには、子どもたちが身ぎれいにすること、教師に挨拶をすること、 羽ペン、インク、紙を用意してラテン語を学ぶこと、明瞭に話すこと、進度の遅れた友達を助 けること等が書かれている。また、時間を無駄にしないこと、自分の高い身分を自慢しないこ と、他人の家柄を侮辱するようなことは決してしないこと、神の名をみだりに軽々しく扱って は決していけないことなどが忠告として唱われている。 リリーが子どもたちに身につけされるべき、と考えた道徳的内容は、このように実生活に即 して自己を律し、他への思いやりを忘れず、そして何よりも神への崇拝の念をもつ等である。 但し、この種の道徳訓は、中世初期の学校においてもよく使用されていたことが確認されてお り(10)、時代的な新しさを示すものではない。 1-2「学校規則」で指定されたテキスト 1)「キリスト者の手引き」Institutum Hominis Christiani (1514)、英語名Institution of Christian Man;上述のコレットの英語によるカテキズムを、エラスムスがラテン語訳にしたもの。それ は、ラテン語の優雅な 6 歩格詩文体で書かれ、非常に高い評価を得て、たちまちヨーロッパ全 土の学校に普及したものだった(11)。なお、これはカトリックの様式のものであるが、ヘンリー 8 世の宗教改革期にも公認されたカテキズムとなっている。 2)『言葉と内容の豊かさについて』De copia verborum ac rerum(1512);エラスムスによる修辞 教育のためのラテン語用語集。同じくエラスムスが執筆した、次に示す『学習の方法について ーならびに諸々の著作家を読んで解釈する方法について』De ratione studii ac legendi interpretandique auctores(1511)の実践書として位置付けられている。また『言葉と内容の豊かさ』 自体は、18 世紀を通じて数百も版を重ねるなど大きな成功を収め、数百年の間実に多くの人が 使用した一般的修辞テキストとなった(12)。 3) ラクタンティウス、プルデンティウス、 プロバ、 セドゥリウス、ユウェンクス、 バプ ティスタ・マントゥアヌスなどのキリスト教的著述家の作品。しかし、実際に使用が確認され た著述家の作品としては、前章でも取り上げたように、バプティスタ・マントゥアヌスの『パ ルテニアエ(無垢なる子どもたち)』Partheniae のみである。 1-3 『編纂』 、 「聖パウロ学校学校規則」以外で認められた使用教材 1)『学習の方法についてーならびに諸々の著作家を読んで解釈する方法について』De ratione studii ac legendi interpretandique auctores;上述の『言葉と内容の豊かさについて』扱う教師のた めの、エラスムスによる教育方法論上の指導書。当初は、一般生徒の学習用にと目論まれたが、 コレットの要請で聖パウロ学校の教師用に増補されたという事情がある。このため、 「ならびに 161 諸々の著作家を読んで解釈する方法について」という副題と、第 2 部にあたる教授手引き部分 が後になって付け加えられた(13)。 2)「少年イエスの演説」Concio de puero Iesu(1511);僅かな断片として現存する、エラスムス が執筆した、ラテン語による少年司教式用の説教演説。 「少年司教」に扮した一人の少年が、ク ラス或いは学校全体の生徒の前で朗誦するための演説として書かれた。リージャーJames Henry Rieger(1962)は、この演説の中には詩的な文体上の価値はあまりなく、むしろ深淵に潜む道徳的 価値を認めている(14) 。また彼の見解によれば、この演説にはエラスムスが教育的な見解を凝 縮したものとしての意味があるばかりか、16 世紀の初頭においてオックスフォードでキリスト 教人文主義の前提とされるような見解の一致を得ている。エラスムスが演説の詩の中で示した illiteratae literae 、 或いは inerudita eruditio と言う言葉と、コレットが「学校規則」中で 使用したblotteratureという彼の造語は、同じ意味合いを有するものとして考えられるとしてい る。加えてリージャーは、エラスムスが、言い回しの純化と生活の純化とを注意深く関連つけ、 聖パウロ学校の生徒が「全き子ども」に倣うため、子どもたちを奨励するというような内容の 説教演説を書いたとみている。 ところで、これと関連して、エラスムスの提案により少年イエスの像が教師の椅子の頭上に 建てられた。そこには、 「 (これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者)これに聞け」Ipsum audite( 「マタイによる福音書」17 章 5 節)という銘刻が施されている。カウフマンPeter Iver Kaufman(1982)によれば、 「聖パウロ学校規則」の中でコレットが示した「良きキリスト者とし ての生き方」good christian lifeと、エラスムスが作成した「少年イエスのまねび」 」imago pueri Jesu という子どもの祈り文にある生き方とは、根本的に同じ事を言っているとされる(15)。すなわち 「新しい敬虔」Devotio Modernaという精神運動に触発されたコレットとエラスムスは、 「キリ ストを真似る」ことを、子どもたちの教育の中で具現化していこうとする教育的理念において 根本的な共通項を持っていたのである。 以上が、現在確認できる聖パウロ学校で使用されたとされる教材と教育内容である。これら を今一度整理してみると、以下のような教材一覧が示されよう。 ・ 生徒用教材 「カテキズム」catechism ;コレットが作成した散文体による英語のカテキズム 『初級文法書』accidence ;コレットが起草、リリーが書いた初級ラテン文法書 「キリスト者の手引き」Institutum Hominis Christiani ;コレットのカテキズムをエラスムスがラテン語に書き直したカテキズム 「八品詞構文について」De constructione octo partium orationis ;コレットが起草、リリーが執筆、エラスムスが改訂した中級ラテン語文法書 『言葉と内容の豊かさについて』De duplici copia verborum ac rerum commentarii duo ;エラスムスが執筆したラテン語修辞用教材 キリスト教的著述家の作品(バプティスタ・マントゥアヌスの『パルテニア』) 162 ;コレットの推薦図書。ラテン語読解を通じた最終教材 「道徳についての詩」Carmen de Moribus ;リリーが書いたラテン語による規範的道徳用教材 『少年イエスの演説』Concio de puero Iesu ;エラスムスが作成したラテン語による祈りの文 ・教師用教材 『学習の方法についてーならびに諸々の著作家を読んで解釈する方法について』De ratione studii ac legendi interpretandique auctores ;エラスムスが執筆したラテン語教育のための教師用手引書 上述に示した教材から、これらはキリストの精神性を伝えるための教材とラテン語の文法・ 修辞用教材とに分類されうる。しかし実際には、各教材がキリスト教教育と言葉の教育との二 重の要素を有していたのである。すなわち、聖パウロ学校で使用された教材は、キリストの徳 を涵養する教育と、知識に裏打ちされるところの古典語の教育という二つの目的を負っていた と言える。コレットが学校規則の中で明言していたように、この学校ではキリスト教教育を第 一の目的とされていたので、ラテン語の読み・書き・話法・読解を通じてキリスト者としての 生き方を学ぶ「学識ある敬虔」への教育が行われていたと捉える事が出来よう。この正しいラ テン語の修得と道徳的教育とを兼ね備えた、ルネサンスの新しい教育が、コレットとエラスム スによる周到な計画の下に体系的なカリキュラムとして立案され、実施されたのであった。 第 2 節 教材編纂過程にみるギリシャ、ラテン作品を巡る問題 上述で示した教材一覧のうち、文法、修辞用教材にあたる『八品詞構文について』と『言葉 と内容の豊かさについて』には、ギリシャ、ラテンの所謂「異教的」(16)古典作品が模範文とし て載せられていた。 また前章で「聖パウロ学校規則」を分析してすでに明らかにしたように、コレットは人とし てのあり方の道徳的礎には、キリストの精神性が強く醸し出されるような作品を置いていた。 よって、異教作品の模範文が盛り込まれた文法、修辞用教材が実際に使用されたことは、コレ ットの教育理念に反したものと考えられる。この理念上の教育と実際上の教育の乖離は、いか にして起こったのか、またコレットはどのような決断をもって、異教作品の含まれた教材を最 終的に採用したのであろうか。 そこでこれら文法、修辞用教材が誰によって作成されたのかという点をみてみることにした い。既に前節で紹介したように、これらの教材作成に関わったのは、設立者であるコレット、 コレットの良き理解者とされ、聖パウロ学校の教育に積極的に協力したエラスムス、そして文 法学者にして初代校長に任命されたウィリアム・リリーの 3 人のみであったことが分かる。彼 等共にキリスト教的人文主義者として、キリスト教教育を目的とする、ラテン語の話法・文法・ 修辞・読解という一連の「言葉の教育」のために教材作成、選定、改訂等を行っていたのだっ た。 聖パウロ学校を人文主義的文法学校のモデル校としてその礎を築いた、コレット、エラスム 163 ス、そしてリリーという 3 人の、とりわけこれまでの先行研究において明らかにされることの なかった指摘されることのなかったコレットとエラスムスとの、 「言葉の教育」を巡る見解の相 違をみていくことにしたい。こうした分析によって、コレット独自のキリスト教的人文主義教 育というものが一層鮮明となるであろう。 2-1 修辞用テキスト『言葉と内容の豊かさについて』を巡る問題 まず、エラスムスが執筆した『言葉と内容の豊かさについて』を取り上げてみてみることと する。ノットBetty I.Knott (1978)によれば、そもそも『言葉と内容の豊かさについて』とは、エ ラスムスがコレットと知り合う以前に、その草稿が出来上がっていたとされている(17)。1501 年 には最終原稿がほぼ出来上がり、1508 年には試用版が完成、1511 年にコレットの求めに応じて 聖パウロ学校用教材のために献呈され、1512 年に初めて出版されたものなのである。 さて、 『言葉と内容の豊かさについて』は、生徒が主題、内容、或は意味自体を変えることな く、多種多様な言葉によって自由自在に表現し得るよう考えられた修辞用教材であった。第 1 部にあたる「表現の豊かさ」Abundance of Expressionは、生徒の考えの表現方法を広げることが 主眼に置かれている。具体的な一例を挙げるとするならば、全 206 章のうちの第 33 章では、 「あ なたから手紙を受け取り光栄です」tuae litterae me magnopere delectarunt の意味を、他の言葉に よって言い換えるために、実に 194 通りもの言い回しが例文として載せられているのであった (18) 。また、第 2 部にあたる「内容の豊かさ」Abundance of Subject-Matterでは、生徒が表現しな ければならない多くの考え、内容そのものを広げるための 11 から成る補足的な説明となってい る。例えば「彼は幅広い学問を修めた」という内容に対して、まず「幅広い」という点に注目 させ、それはどのような教科だったのかを列挙させ、その次にそれらの教科をどのような視点 から取り組んだのかを考えさせていくといった具合である(19)。 J.B.トラップJ.B.Trapp(1990)によれば、聖パウロ学校で初めて使用されたエラスムスの『言葉 と内容の豊かさについて』や『学習方法論』等は、イタリアの代表的な修辞学テキストから着 想を得て作成されたものであることが判明した。したがって修辞教育の点からみれば、聖パウ ロ学校はイタリア人文主義の教育的流れを汲んでいると言うことが出来る(20)。 では、この修辞用テキストを道徳的教育の効果といった点からみるとするならば、どのよう なことが言えるのであろうか。 そこで、 例えば第 1 部の第 158 章に示された 「堕落する」 corrupting という意味内容を示す例文をみてみると、以下の模範文から、エラスムスが聖書からの引用文 以外に、ギリシャ、ラテンの古典作品から模範文として載せているのが分かる(21)。 「悪い会話は、良い習慣を台なしにする。 」corrumpunt bonos mores colloquia mala. (「コリントの信徒への手紙 1」15 章、33 節) 「悪い仲間は、伝染病(道徳上の腐敗)で、自分のかさぶたを広げるものだ」malus vicinus scabiem suam adfricat vicino.(セネカ) 「彼は、金メッキの金貨を本物といって私に渡した」obtrusit mihi subaeratos nummos ]pro aureis.(ペルシウス) エラスムスは、この「堕落すること」という言葉について、同じ意味でありながらも、違う 164 表現方法を用いていくつか例示している。そこには、聖書からの引用もあれば、セネカやペル シウスPersius(34-62)といった古典作品からの引用も見られる。グリーソンJ.B.Gleason(1989)によ れば、エラスムスは『言葉と内容の豊かさ』において、その根底ではキリスト教とギリシャ、 ラテンという非キリスト教文化における最高善との究極の調和を当然のこととしていたとみる (22) 。それは、エラスムスがこれら古典作品に通底する道徳的価値を認めていたことを意味する。 しかし、実際のところコレットは、エラスムスの修辞様テキストの出来上がりに対して強い 不快感を表したと言われている(23)。最終的な仕上がりを前にして、コレットとエラスムスとの 間で、言葉の教育に対する見解の相違が露呈したのであった。コレットはテキストの出来映え に対して、いかなる賛辞さえも送らなかったと同時に、教材作成にかかる対価としての 15 エン ゼル金貨を出し渋った結果、エラスムスの方もコレットに対し、強い調子で報酬の催促状を書 かなければならなかったのである(24)。コレットは、神に向かってその本性が高められるための 必要最小限の知識だけを認め、特に人間的堕落を誘うかのような肉的部分を含む古典作品から の模範文を子どもたちの道徳的テキストとして利用することを全く認めようとしたのだった。 エラスムスとコレットの古典作品に対する対照的な態度を物語るエピソードには、他に次の ようなものもある。1505 年、エラスムスは、ギリシャ語版新約聖書Novum Instrumentumの校訂 のために、コレットからいくつかの原稿を借りた。後にエラスムスは返礼の印にと、ルキアノ スLoukianos(B.C.120?-80?)(25)の本をコレットに献呈したが、ルキアノスは下品で気に入らないと の理由で受け取りを拒否されたという(26)。 コレットが道徳的側面からみたギリシャ、ラテンの文芸作品に対して何らの価値も認めてい ないことは、ハービソンE.Harris Harbison(1956)も明らかにしている(27)。ハービソンは、コレッ トがオックスフォードにおけるパウロ書簡の講義で、このような異教的古典作品をキリストの 教えを理解するために利用してはならないと述べていたことを指摘している。グリーソンも、 コレットがパウロの解釈に従い世俗的学問への価値を認めることはキリスト教の外側にあるも のへの服従になるとして認めていなかったと論じている(28)。そのため、コレットの教育は中世 を引きずるものであったと主張する意見もある(29)。ギリシャ、ラテンの古典作品に対しては拒 絶反応を示す態度は、確かに当時の知識人の間では少数派であったようだった(30)。 しかし、ここでコレットの聖書に対する態度、そこから導出される信仰観というものを今一 度思い出さなくてはならない。ある部分、彼の神への接し方には中世的要素が認められよう、 他方で原典に戻った原始キリスト教の、改変のない原典に基づいた解釈に努めた人文主義的性 格や、ルネサンスに復興した新プラトン主義の影響にみる信仰理解もまた彼の思想的特徴とし て確認してきたのである。中世からルネサンスという歴史の中の思想的変遷過程が、重なり合 い連続した動きの中にあったということを忘れてはならない。 そこでコレットとエラスムスの生涯に渡った思想的交流を振り返ってみたい。エラスムスは 1499 年 6 月に初めてイギリスを訪れ、同年 8 月にコレットの聖書解釈講義を聴講し、それまで 自分にはない強い宗教的関心を抱いたとされる。10 月だけでも両者の間で 6 通の往復書簡が交 わされているのであった(31)。この時のコレットとの出会いは、後にエラスムスが新約聖書校訂 を手がけるきっかけを作ったとさえ言われている。 エラスムスの 3 度目のイギリス滞在は、1509 年から 1514 年までの 5 年間で、彼の生涯の中 で最も長かった。これはちょうど聖パウロ学校設立時期と重なっている。1512 年に完成された 『言葉と内容の豊かさについて』であったが、実際には、先述したごとく、エラスムスがコレ 165 ットと知り合う前にイタリアにおいて草稿が出来上がっていたのである。この頃、エラスムス は、イタリアの世俗的或は市民的人文主義の影響を強く受け、古代ギリシャ、ラテンの作品に 対する価値観は終世変わるものではなかったのだが、そうしたものをキリスト教理解のために 利用とするという宗教的視点は薄かったのである。やがて、1512 年に最終版の完成をみたとこ ろで、先に述べたように、コレットとエラスムスとの見解の相違が明らかとなったのである。 とは言え、1512 年には聖パウロ学校が本格的に開始されることとなった。 この頃、コレットはエラスムスに宛てて次のような書簡を送っているのである(32)。 私はあなたに少々面白いお話を致しましょう。賢い人だと思われていた一人の司教が、 或は私にはそのような人だと耳にしていた人が、大勢の人の集まった所で、私が役に立 たない施設、むしろ邪悪な施設、或は彼の言葉を使うならば「邪教の家」を設立したと さえ言って、私の学校の悪口を言いました。なぜ彼がそのような事を言ったのかにつき ましては、私の学校で詩人を教えているせいではないかと私は思われます。そのような 考えに私は腹を立てません。けれども、エラスムスよ、彼らは私を心から笑わせます。 (中略) 私はあなたに私の演説の入った小さな本を送ります。印刷工は、数枚の写しをケンブ リッジに送ると言っておりました。お元気で。どうか、私の学校の生徒のためにあなた が書いている詩を忘れないで下さい。私はあなたには魅力的な詩を気軽に書き上げても らいたいと思っているのです。私に、あなたの『言葉と内容の豊かさについて』の第 2 版を下さることを忘れないで下さい。 上述の書簡からは、いよいよ聖パウロ学校開校に向け、古い教会勢力に屈することのないコ レットの前向きな意欲が感じ取れるであろう。文中にある「賢い人」とは、ロンドン司教フィ ッツジェームズの事を指すと推測される。この保守的な老司教は、改革派のコレットに対しあ らゆる点で常に批判していた人物であった。1512 年という年は、コレットが聖職者会議開会式 で改革説教を行った年であることが思い出されよう。この説教は、老司教フィッツジェームズ を激怒させていたという経緯がある。そして、コレットがエラスムスに宛てて出したこの書簡 は、2 月に行われた改革説教の僅か 1 ヶ月後の、3 月に書かれていたのである。保守的な聖職者 によって、異教的詩人を教材として使用する廉で異端の嫌疑が掛けられていたコレットの状況 を考慮すれば、この文面からは、むしろエラスムスと一層強く団結して共に新しいキリスト教 教育を目指そうとする気概さえ感じられる。 なるほど確かに、コレットはオックスフォードの聖書解釈時代には、すでに述べたように古 代ギリシャ、ラテンの異教的作品そのものを悪魔の書であると明言し、拒否的態度を示してい た。しかし、その後エラスムスと出会い、親交を深く重ねていく過程で、互いが思想的影響を 受けていったことは当然であろう。両者の間に横たわる思想的相違は、周囲の社会的状況に応 じて揺れ動くことがあったとしても不思議ではない。トラップもまた、異教作品に対する両者 の思想的相違を認めつつも、その相違の幅というものは、生涯を通じた親交を通じて変化して いったと指摘しているのである(33)。1512 年の学校規則で列挙された、キリストの精神性と合致 するところの異教詩人たち、1513 年の国王に対する反戦的説教で非難されたカエサルやアレキ サンドロスといった異教の英雄たちにみるように、コレットの異教作品に対する態度は、その 166 根本においては肉的要素を多分に含む文芸作品に対して批判的であることには変わりないので あったが、かつての異教作品全般ということから、特に子どもたちを堕落へと誘うような、不 道徳な文芸作品へと限定されていったと解すことができよう。 2-2 文法用テキスト「八品詞構文について」を巡る問題 聖パウロ学校の子どもたちに不道徳的な箇所を含めたギリシャ・ラテンの作品を模範文とし て示すことに良しとしたエラスムスの考えは、ラテン語文法書「八品詞構文について」におい ても同様に捉えることができる。 1513 年に完成したこの「八品詞構文について」は、現在 1527 年版の『編纂』Aeditioの中に みることができる(34)。ワトソンによれば、この文法書は元々コレットが「ラテン文法入門」 Accidence(1510)なるものを草稿として書き起こし、それを基にリリーがラテン構文論を書き 起こし、最終的にはエラスムスがラテン作品からの模範文を付記して改訂したものとされてい る(35)。この「八品詞構文について」なる文法書自体は、その後の 1549 年、国王によって「ロ イヤル・グラマー」Royal Grammar or national Latin Grammarとして認可を受け、所謂『リ リー文典』Lily’s Grammarの名で 18 世紀末まで広く文法学校において使用されたのである。つ まり、聖パウロ学校のために作成された文法、修辞用教材というものは共に、後の他の文法学 校で広く使用されたのだった。 さて、1513 年版の「八品詞構文」は次のような構成になっている。まず「序」があり、次に 「八品詞に関する簡潔な文法説明」 、 「活用表」 、 「模範文」と続き、最後に「あとがき」となっ ている。なお文法説明部分に関しては、(1) 名詞 nōmen ; noun、(2) 代名詞 pronoun ; pronoun、(3) 動詞 verbum ; verb、(4)分詞 participium ; participle、(5) 副詞 adverbium ; adverb、(6) 接続詞 conjunctiō ; conjunction、(7) 前置詞 praepositiō ; preposition、(8) 間投詞 interjectiō ; interjection の 順に八品詞が扱われている。 リリーは、コレットからの草稿を受け取ってすぐに英語による入門編と中・上級編の文法書 を作成した。この時点では、コレットの意図から大幅に離れた内容とはなっていなかったとさ れる。問題は、リリーが作り上げたこのラテン文法書を、コレットがエラスムスに送り、改訂 を依頼した後に起こった。結局のところリリーは、最終版が大幅に改変されてしてしまったこ の文法書に対して、執筆名に自分の名を冠することを「慎み深く」拒否したのである。そこで なおまた、リリーの意図を尊重したエラスムスも、自身の名を執筆者名として表に出さなかっ たという経緯があるのである。そこでこのラテン文法書には、コレットの名さえも盛り込まれ ず、出版当初は作者名は伏せられたのだった。 以下に、出来上がった文法書に収められていた模範文の一例を紹介する(36)。 ・ 「私と君は、討論する」Ego & tu disputamus. ・ 「誘惑する女と放蕩男は、不貞をはたらいた」Lena & scoetum sunt impudicae. 上に示したように、模範文の中には明らかに青少年によっては道徳的に有害だと思われるも のが含まれていたのだった。 エラスムスは、 コレットとは異なりルキアノスを気に入っていた。 ルキアノスの特徴的教授方法とは、学習者がより楽しく学ぶために、快楽的要素を取り入れて 167 いたと言われている(37)。その点でエラスムスが、不道徳的要素のある模範文をテキストの中に 時折盛り込むことによって、子どもたちを飽きさせることのない教育方法論上の工夫をしたの か、或は「知識と祈り」を武器にして不道徳さに打ち勝つとした考えにあったのか、その真意 は定かではない。しかしながら、ここで明確に言えることは、草稿段階とは大幅に異なるよう な模範文を載せたのは(この文法書が後に『リリー文典』と言われるものであったとしても)実 はエラスムスの手が十分に入ったものであり、コレットやリリーにとっては、そうした模範文 は許しがたいものであったと言うことである。 このように、コレットとリリーの二人が、子どもたちへの道徳的教材としていかなるものを 良しとしていたのかという点を巡って、エラスムスと明らかに異なった視点を有していたこと が言える。それは、子どもたちへの範となる人間に対する見方が本質的な部分で異なっていた からである。次節では、人間の模範とされる理想像、すなわちイエスの捉え方にみる彼らの信 仰観の相違を取り上げる。 第 3 節 イエス・キリストという模範的人間の捉え方 聖パウロ学校の子どもたちに模範とするべき人としての在り方に関し、上述で示した教材の 執筆過程から、エラスムスが明らかに他の二人と異なった見解を有していたことが分かった。 すなわち聖パウロ学校の道徳的、倫理的規範意識の拠り所をキリストの教えにのみに求められ るか、或いはキリストの教えを教えるのに役立つという条件の下で、人間中心的要素の強いギ リシャ・ラテンといった古典的教訓の中にも認められるのかである。ここではそうした点を「人 間的弱さ」と信仰との関係から捉え、狭義の意味におけるキリスト教的人文主義、つまり特に エラスムスとは異なるコレット独自のキリスト教的人文主義というものを明らかにしたい。 1499 年、コレットとエラスムスとの間で、聖書の「ゲツセマネの園」に描かれた「キリスト の苦悩、悲嘆さ」Christ’s Agony in the Gardenについての解釈上の論議がなされた(38)。トラップ は、二人の解釈の違いを次のように説明する(39)。エラスムスにとって、キリストの苦悩、悲嘆 さは、死に対する恐怖を意味する。よって、死の恐怖を感じているキリストは、人間に近い存 在である。エラスムスは、キリストの本性Christ’s natureに人間性human elementを認め、それは 神性さdivineと対峙しているものであるとの立場をとった。 他方でコレットは、このエラスムスの信仰観を、キリストの神性さを軽視するものだとして 反論した。コレットにとって、キリストは、完全なる神性さを有した人間であった。そのため キリストは、その本性において道徳的な弱さとは隔絶されるべきもので、キリストの中に人間 の弱さ、不完全さを認めることは出来ないのである。コレットによれば、 「ゲツセマネの園」に 書かれた、キリストの苦悩や嘆きとは、死の恐怖から出たものではなく、ユダの裏切りに対す る「意識」consciousness の表われにすぎないとされたのであった。 なおまた、ロックマンDaniel T. Lochman(1989)によれば、 「ゲツセマネの園」にみられた両者 の思想的相違は、次のように説明されている。エラスムスは、キリストや人間の諸活動に対し て言語文献学的聖書解釈方法から、キリストと人間の在り方を可能な限り接近させて捉えたの だが、 一方でコレットの方はアウグスティヌスの影響を受けた新プラトン主義思想の下で、 「神 を知ることよりも神を愛すること」という立場の霊的解釈を重視していたため、キリストを通 してみる神の神性さ、或いは完璧さを強調する傾向にあったのだと(40)。 168 「コ 実際、コレットの「キリストの完全なる人間性」(41)Christ’s perfect humanityという見方は、 リントの信徒への手紙 1」に対する解釈においても現れていた。 「天上の人であるキリストは、 自身の生涯において、あたかも易しく教え、話しかけているかのように、神的な完全さとは人 間性において証明されるものであると、我々人間にお示しになられたのでありました」(42)と。 これまでの幾度もみてきたように、コレットは、人間自身の本性の中に神性さを認めていた。 キリストとは、生涯を通じた愛の行動によって自らの神的性を体現した、人間の本来的な姿で あったのである。 「イエス・キリスト」の捉え方が両者間で異なるということは、 「キリストに倣う」というこ との意味も自ずと異なってくることを意味する。彼らが、共に聖パウロ学校の教育目標として 「少年イエスに倣う」ことを、言わば教育目標として掲げていたことは先にも述べた点である が、その中身については実は違っていたと言わざるを得ない。 エラスムス自身、イタリア人文主義の学芸復興で再評価された古典作品の中に、人間を聖書 に導く有益な側面res honestaと、人を堕落に陥れる側面res turpiaとがあることを知っていた(43)。 それでもなお、イタリアからイングランドへ渡った直後に書いた『痴愚神礼賛』(44)Moriae encomium(1511)には、人間の愚かさを諷刺しがらも、そのような人間を許容する眼差しがある。 聖職者の父をもちながらも私生児として育ったエラスムスの中には、人間の弱さに対する寛容 さが認められるのである。二宮敬(1984)によれば、エラスムスは、弱い人間が悪と罪とに対す る不断の戦いに打ち勝ってキリストの教えの道を進むことを求めていたという。更に、エラス ムスが『キリスト教兵士必携』Enchiridion Militis Christiani(1504)の中で、悪と罪とに対する不断 の戦い、そのための武器は「祈りと知識」precatio et scientia以外にはないと述べていたことが明 らかにされている(45)。 このようにみてくるとエラスムスにとって、人間とは本性的に弱い存在であり、そうした人 間性を有するキリストが、知識と祈りによって人間的弱さを克服したのだから、我々人間も、 そうしたキリストの生き方を真似て神に近づくべきである、との見方がなされていたと言うこ とが出来よう。彼の中では、聖パウロ学校の子どもたちに、難解な聖書を理解してもらうため に、自然科学的知識はもとより、異教的作品にみられた不道徳な引用文をも含めたあらゆる知 識が教訓として必要とされ、 それらを学校用テキストに盛り込む事に抵抗がなかったと言える。 彼の人間観には、肉をまとった人間の姿を本性として認めた、ある意味では、より現実的で楽 観的な生身の人間の見方が垣間みえるのである。 このような捉え方からすれば、エラスムスにみる、信仰の求め方とは「キリストに倣う」が ごとく、知識と知識にあるとする一方で、コレットは、そのようには求めてはいなかったこと が分かってくる。 コレットは、人間には弱い側面があるものの、それは決して人間の本当の姿であるとは認め ていなかった。人間の本性には、弱さとは決別した神性さがあり、神より与えられたその本来 の姿に戻っていくことが、神との約束、義であるとされたのである。禁欲的な生活の中で、瞑 想体験を行い、神の恩寵とは何たるかを感知し、それを実践していくというキリストの姿には 弱さはなく、それはまた人間の本性的傾向として受け取られていたのである。彼は聖書解釈の 中で「真実は、神の恩寵によってのみ理解され、神の恩寵は祈りによってもたらされ、そして 祈りは、献身や克己によってかなえられる」(46)と述べていた。神の恩寵と共に、自己に厳しさ を課すことで弱さを克服し、弱さとは無縁の、本来的な神性さにあるキリストに倣った生き方 169 をすることことが求められたのである(47)。それ故、聖パウロ学校のテキストで扱う引用文には、 神性さに裏打ちされるところの、キリストの模範的な生き方が示されている作品が望まれ、聖 書の教えを子どもたちに理解させるために、道徳的なキリスト教的著作からのみ扱うことをコ レットは勧めたのだった。 このようなコレットの宗教性の強いキリスト教的人文主義を、ハントErnest William Hunt(1956)は「キリスト中心的人文主義」(48)Christocentric humanismと表現した。トラップもま た、キリスト教的人文主義という概念を狭義の意味で捉え直した時、コレットの方がエラスム スよりも「異教の汚れ」pagan taintの脅威から教育を受ける者を守りたいという意志が強く働い ていたと論じているのである(49)。 以上、聖パウロ学校で実際に使用された文法・修辞教教材の模範文を巡る問題を、エラスム スとコレットの信仰観に注目しながらみてきた。子どもにとって不道徳な箇所を多く含む異教 作品を引用した背景には、エラスムスとコレットとの間における、聖書解釈の方法論的相違と 密接に関連するキリストの捉え方の相違があったことが明らかとなった。彼らが共に目指した 「キリストに倣う」教育は、実はそれぞれのキリスト理解に基づいてなされようとしていたと いうことが言えるのである。 では最後に、やはり言葉の教育に教材作成と教育の両面で関わった、初代校長のウィリアム・ リリーが、人間的弱さと信仰との関係をどのように捉えていたのかについて言及してみたい。 実際、リリー自身に関する資料は、現在僅かしか見つかっておらず、今ここで明確な見解を下 すことは困難であると言わざるを得ない。 マックドンネルやナイトは、リリーに関する若干の史料を明らかにしてくれているので、そ れらを検討しながらみていくこととする。まず、彼らによれば、リリーは 1469 年頃、オディハ ムodihamの小さな町に生まれたとされる。名付け親は、イギリス人文主義の先駆者と言われた グロシンである。リリーはウィンチェスターの文法学校で学んだ後、1486 年の 17∼18 歳の頃 オックスフォード大学モードリン・コレッジに奨学生として進学した。そこで「学問復興」 Revival of Learningの影響を受け、ヨーロッパ大陸に渡ったようだ(50)。更にヴェネツィア共和国 や、 聖地巡礼のためにグロシンと共にエルサレムを巡り、 イギリスへの帰路でロードス島Rhodes に長期滞在してギリシャ語を習得し、その後もアカデミア・ローマーナを創設した、ポンポニ ウスPomponius Sabinus(生没年不詳)の下でギリシャ語の勉強を続けたとされる。 リリーはこの時点で、ギリシャ語を母語とする者から直接教授された数少ないイングランド 人となり、1492 年のイングランド帰国後、ギリシャ語とラテン語を操れる当代随一の文法家と して活躍したのである。このためリリーはグロシン、リナカーと共にギリシャ研究をイングラ ンドに最初に持ち帰った一人という栄誉を分かち合ったのである。帰国当初のリリーの足取り については定かではない。しかし、オックスフォードで神学の准教授readerをしていたという説 もある(51)。 エラスムスが当時のロンドンにはギリシャ語を扱える人間が 5,6 人しかいなかったと証言し (521 、またコレット自身も「学校規則」の中で、 「仮に」ギリシャ語を教えられる人がいれば、 と明言していたように、16 世紀初頭のイングランドにおいてギリシャ語を理解できる者は、ほ とんどいなかったようである。コレットは、先駆者にして、確かな発音を修得した数少ないギ リシャ語文法教師であるリリーを、聖パウロ学校の初代校長として迎え入れたのである。しか も、リリーは、既に述べたところではあるが、フィレンツェで研究されていた新プラトン主義 170 思想からの影響を受け、霊魂の在り方と人間の生き方とを信仰という形で結びつけ、理解して いた人物だったのだ。 結論から述べれば、コレットはリリーの「人間の弱さ」に対して出した信仰上の決断に対し、 崇高な敬虔さをみてとったと言えるだろう。その理由は次の通りである。すなわち、すでに聖 職禄を受けていたリリーは、モアと同様に、結婚せずに高位聖職者の道を歩むか、或いは結婚 し俗人として人生を送るかという問題を抱えていた(53)。結局彼は、結婚の道を選んで聖職禄を 破棄し、家庭をもって多くの子どもに恵まれ、良き父親として一生を過ごした。その高い学識 learningと崇高な人柄virtueに対しては、リチャード・ペイスRichard Pace(1483?-1536)もまた賞賛 の辞を送り、グロシンの遺言書にもリリーに所蔵書を譲る旨書かれていた程である。 当時のローマ教会の教皇や枢機卿といった高位聖職者たちは、いるはずもない自分たちの子 どもを枢機卿といった高位の聖職に就かせていた。言わば公然となっていた高位聖職者による 婚姻関係は、教会内部の規律を正す改革的説教を行っていたコレットにとって、人間の最も堕 落した行為と受け止められていた(54)。聖職という道にある以上は、神の高みに近い存在との自 覚の下で、霊的指導者という立場から、禁欲的な信仰生活を守ることこそが、敬虔さと結びつ いて考えられていたのである。コレットは、自らが規定した「学校規則」の中の、学校運営や 同規則の改変に関する項目で、それらに関わる権利を聖パウロ司教座教会ではなく、絹織物組 合に与えたことを明記している(55)。エラスムスによれば、コレットは「最も堕落が少ないと判 断した類の人間」(56)であるとの理由から、俗人の団体に新しいキリスト教教育の学校の管理・ 運営を任せたと言っているのである。また「学校規則」の「校長の職」に関する項目では、聖 俗の別なく敬虔なる者がふさわしいとされ、良き学問と良き行いを子どもたちに教えることの できる者が適切とされたのだった。 そのコレット本人がリリーを校長職に直接指名したことは、聖パウロ学校においてコレット が俗人の子弟に対して内的信仰に根ざして実社会で活躍することを望み、そしてまたそのため の生きた手本を信仰上堕落のない俗人であるリリーに求めたということを意味する。校長たる べき人物には、文法能力のみならず、その信仰に対する敬虔さが非常に重視されていたのだっ た。また副校長は、このような校長によって任命され、絹織物組合の監督者或いは代表者によ って承認されることとなっていた。ここには、一切の教会権力が介在せず、あくまで校長が人 事権を握り、そして学校の実質的教育を担っていた。それは、神へと向かう本性を目覚めさせ るための宗教教育を重視するコレットの、校長の信仰に対する全幅の信頼があって初めて成立 するものだと言える。 このように、キリスト教的人文主義を広い意味で捉えた時、キリストの教えを主軸におく宗 教教育を志向した聖パウロ学校の「言葉の教育」は、 「文法や修辞のキリスト教への潜在的な連 (57) 関性を賛美した」 と言えよう。しかしながら、それを狭義の意味で捉えた時にはギリシャ、 ラテンの古典作品に流れる道徳性をも容認するエラスムスと、キリスト教的作品にのみこだわ るコレットとの間で、 理論と実態の乖離にみられるような教育観の差異が認められるのである。 この教育思想上の差異を実質的な形で埋めるために、敬虔なる俗人にして文法、修辞教育に精 通するリリーの裁量に任されたのだった。 後に聖パウロ学校の教育は、人文主義の学校と変わらなくなったと言われている(58)。それは、 時代の推移とともに、ギリシャ、ラテンという古典作品からの模範文を含んだテキストだけが 一人歩きし、使用され続けたことが一因であろう。ここに、宗教性に強くこだわったコレット 171 の教育的限界をみる。 第 4 節 聖パウロ学校の人文主義的教育方法—古典的知恵の再興 以上、文法、修辞教育に載せられた道徳的教材としての模範文のあり方に関して、コレット とリリー、そしてエラスムスとの教育思想上の差異を、信仰理解の違いから分析してきた。他 方で、このような「言葉の教育」に対して、3 人には方法論上の類似点も認められるのである。 本節では、彼らが共通してもちえた方法論的類似点について分析する。 4-1 文法教育における実用的方法論 最初に、文法用教材「八品詞構文について」の編纂過程にみる文法教育への方法論的アプロ ーチを検討する。この文法書は、先述したようにコレットが起草し、コレットの依頼を受けて リリーが文法に関する中心的部分を執筆し、そこにエラスムスが模範文を付けて改訂したもの である。コレットは、 「八品詞構文」に付された「序」及び「あとがき」の部分で、自身が目指 した新しい教育方法について次のように述べている(59)。 まず冒頭で、コレットは中世の代表的文法家であるドナトゥスAelius Donatus( 4 世紀)(60)の名 を挙げ、16 世紀初頭当時でも広く使用されていたドナトゥス文法書よりも「分かりやすい順序 で、若い人たちにより理解されやすいように」文法書を起草したことを明らかにした。 「ラテン (61) 語話法は文法規則の前にあるべきで、文法規則は話法の前にはない」 とし、そのためにラテ ン語学習の初級段階では文法の活用規則をできるだけ簡潔にし、 「説明」から「格言」 、そして 「長めの演説」へと発展的な内容構成を組み、何よりも原典にみられる模範文を練習すること の重要性を説いているのだった。 当初コレットは「八品詞構文について」を起草する前に、リナカーに聖パウロ学校用の文法 書の作成を依頼していた。ヘンリー8 世の侍医も務めていたリナカーは、 「ギリシャ語とラテン (62) 語による優美な人文主義的書き方を習得し」 、また、エラスムス、コレット、モアらと共に、 「新約聖書をテキストとする人文主義」(63)evangelical humanism者としても知られていた人物だ った。医師という肩書きを持ちながらも、信仰篤い人文主義的教養を有するリナカーは、コレ ットの求めに応じる形で、最初のラテン語文法書を執筆した。しかし、コレットにとってリナ カーのそれは、子どもにとって難解すぎるとの理由で採用されなかったのだった(ただし、聖パ ウロ学校では不採用となったものの、結局リナカーは 1523 年の『ラテン語の正しい構文につい て』De Emendata Structura Latini Sermonisを始めとする多くの文法書を書き上げたのだった)。さ て、このことが原因となってリナカーとコレットは仲違いをし、エラスムスが間に入って仲を とりもったとも伝えられている(64)。ここに改めてコレットが、幼い子どもたちのために教育内 容を分かりやすく工夫し、順序立ててより高度な内容へと学習を進ませていきたいという意図 があった事が理解されよう。なおオルムNicholas Orme (2006)も指摘しているように、聖パウロ 学校の文法書の在り方に問題意識をもって積極的に取り組んだコレットの姿勢には、宗教的動 機が背景にあるとしても、宗教家のみならず文法研究家としての一面もまた確かに認められる のである(65)。 さて、ルネサンス以前の中世における文法教育とは、文法規則の説明に終始し、学習者はそ 172 の説明を暗記することに重点が置かれていた(66)。それは実践性にも欠け、また道徳的な目的を も負ってはいなかったのである。また読解では、原典にあたらせるというよりは、むしろその 注解書を読むというものであった。先のドナトゥス文法の一例として、次のような授業展開が 「品詞はいくつありますか。8 つです。それは何と何ですか。名詞、代名詞、 知られている(67)。 動詞、副詞、分詞、接続詞、前置詞、間投詞です。名詞とは、どんなものですか。固有のある いは普通の物体ないしは事物を表現する格のある品詞の一つです。 」 この意味でドナトゥスのラテン文法書は、実用性とはほど遠く、極めて抽象的で役立たない と感じられるようになっていた。子どもにラテン語を 2 年学ばせても、全く身に付かないとい う親の嘆きが聞かれていた時代だったのである。 規則に縛られた文法書が長く使用されていた一方で、15 世紀末期にもなると、コレットの起 草したラテン文法書「八品詞構文」に限らず、それまでの退屈な教科書より一層改善されたジ ョン・ホルトJohn Holt(1497?-?)やジョン・スタンブリッジJohn Stanbridge (1463-1510)などの文法 書が徐々に登場してきた(68)。このことは、言葉というものに対して人々の意識が変わってきた ことを意味する。 言葉の獲得は実用性をもって社会に進出する条件と捉えられてきたのである。 ホルトの文法書は、子どもにとって興味や関心を引くよう工夫されていた。しかし、そのよう な工夫はかえってつじつまの合わない文法的説明になってしまい、文法書としては無理があっ た。スタンブリッジのそれは、 「スタンブリッジ文法」Stanbridge Grammarと称され、学校のし きたり、作法、地元・地域の諸行事を文法書の導入部分に配し、その後に文法規則を学ぶとい う体系立った構成となっていた(69)。コレットの文法書は、文法規則を言葉によって説明するの ではなく、できるだけ説明部分を省き、より実践性をもたせて簡潔な語形変化の活用表を駆使 しようとした点に大きな特徴がある(70)。こうして聖パウロ学校では、文法規則の詰め込みを極 力排除し、 「沢山読んで実際的な練習を沢山積む」(71)ことによって、ラテン語を分かりやすく、 且つ早く効果的に習得し、実際の場で活用せしめる文法教育が行われたのである。 1513 年にコレットは、最後に改訂を行ったエラスムスからコレットの元へと戻された「八品 詞構文について」の完成版を、再びリリーに送っている。そこには、 「最も有能で、かつ最も学 識のあるリリーよ」Optime ac literatissme Liliという呼びかけで始まる、コレットから書簡が同 封されていた。ここでは、その後半部分のみを以下に紹介する(72)。 私はあなた(筆者註;リリー)に「八品詞構文について」の小さな教材をお送り致 します。この教材自体は、小さいものであります。けれども、仮にあなたが喜んで教 え、説明して下さるのならば、この教材は、私たちの生徒たちに小さな進歩を促すも のにはとどまりません。あなたはホラティウスが簡潔な教授方法を推奨していたこと をご存知でありましょう。この点に関しては、私は彼の意見におおいに賛同しており ます。仮に、あなたが古典的作品を読んでいて、このような方法上の規則を述べてい る留意すべき模範がありましたら、その都度印を付けていただくことがあなたの役目 となるでしょう。 この書簡の前半部分は、学校の設立動機を扱った章ですでに紹介しているが、コレットの学 校設立に対する熱意、 特に単に学校を設立するために自身の財産をあてがうだけでは満足せず、 聖パウロ学校のキリスト教教育に積極的に関わっていきたいという思いが綴られていた。また 173 後半部分では、コレットが古代ラテン詩人であるホラティウス Horatius(B.C. 65-A.D.8)を引き合 いに出して、簡潔なる言葉の習得に対する古典的方法論を高く評価したということが理解され る。 ストローは、コレットがホラティウスに言及している点に注目して、古典的作品を容認して いたと主張する(73)。しかし、コレットが古典的作品を評価しているのは、そこで示されている 文法学習の方法論的側面にあったのである。ホラティウスの教授方法は「益あるものを楽しさ と混ぜ、読者を楽しませると同時に強化する者は、万点を得る」(74)とあるように、子どもたち の学びの中に楽しさを加味した点が特徴的だった。コレットがホラティウスを、そしてエラス ムスがルキアノスを好んだことは、彼らの対照的な性格を物語るものではあるが、彼らが共に 子どもたちの学びの中に楽しさを求めていたには違いないであろう。 このように、 「八品詞構文について」を通して導き出されるコレットの求めた文法教授の方法 論は、中世で行われた方法論からの脱却、古典的知恵の再興と言えるのである。それは、退屈 な文法説明を可能な限り省き、簡潔さをもって、一層早く実践的ラテン語を修得することが、 子どもたちにとっての楽しい学びへとつながっていくという考えがあったと考察される。リリ ー自身にもまた、コレットの意図に応えるだけの資質、力量が備わっていたのであった。 4-2 修辞教育にみる段階的且つ発展的方法論 次に、修辞学用教材『言葉と内容の豊かさについて』にみる方法論を検証する。すでに述べ たように、この「言葉と内容」は、エラスムスがコレットと知り合う以前のイタリア滞在時代 に元原稿を書き起こし、後にコレットの求めに応じて聖パウロ学校用教材として完成させ、献 呈したものである。この「言葉と内容」にみる教育方法もまた、 「八品詞構文」と同様に革新的 なものだったと言うことが出来よう。 ジュール・サンジェJules Senger(1986)によれば、中世の修辞学教育もまた、修辞学上の規則 を棒暗記することだったとされる(75)。従来の修辞学用教材は、各種修辞法の分類・羅列を行 い、それに関する説明が主であり、規則にのっとって論述が進められているかどうかという議 論自体が修辞教育の目的となり、公衆を前にして話すという技術の学習からはほど遠いものだ った。 しかし、エラスムスのそれでは、いかにして議論を通観的なアウトラインから、その主題に 沿った詳細さへ、また修辞的に整備された論述へと展開させるかという実践的な工夫が施され ていたのである。エラスムスは、 『言葉と内容の豊かさについて』の執筆に関し、最初にできる だけ簡潔な要約を提示し、そこから論旨をより綿密かつ詳細に展開させていくことに留意した と言っている。このように人文主義者による古典研究の成果は、実例にあたらせ、立派な手本 に従ってラテン語の論述を作成し、朗誦するというルネサンスの新しい修辞学の教育方法を推 「人の言う事を理解する、自 奨したのである(76)。オリヴィエ・ルブールOlivier Reboul(2000)は、 分の言わんとしている事を理解してもらう、論拠を見つける、議論の構想を練る、書く、話す といった技術を教えるレトリックは、これと習得した人間が社会で闊達に活動し、言葉の影響 力を行使することを可能にした」と指摘する(77)。そこには、文法や修辞といったことばの学習 に対する実用的な側面からみた社会的要求があったのだった。 さて、先述したようにエラスムスは、この『言葉と内容の豊かさについて』を使用する教師 174 のための手引き書『学習の方法についてーならびに諸々の著作家を読んで解釈する方法につい て』(78)をも書いている。この本を献呈されたコレットは、エラスムスに宛てて次のような感想 を送った(79)。 ラテン語とギリシャ語の両方において、型にはまった衒学者が言葉を意味不明にする 教育を子どもたちに要求する期間よりも、一層短期間に、そして論理的に筋が通ってい て、かつ表現を自在に駆使する能力を若者に付けさせる、とあなたが断言した末尾の文 章を(私が)読んだ時に、エラスムスよ、私はあなたを私の学校の教師として迎えたいと 強く思ったことでした。 コレットは、 『学習の方法について』で論じられたところの、実例にあたらせ、豊かな表現方 法を実践的に学ばせるという古典的知恵の再生を図った人文主義的方法論に強く共鳴したのだ った。トラップによれば、エラスムスの『学習の方法について』や『言葉の内容の豊かさ』に は、イタリアでみられた人文主義的教育方法論が採用されており、これらを使用した聖パウロ 学校を通じて、イタリア人文主義の教育はテューダー期イングランドへと入ってきたとされて いるのである(80)。 なおヨーランHanan Yoran (2001)は、エラスムスの修辞的技法がキケロのそれを基盤にしてい たことを確認した上で、古典から得られた人文主義者の修辞学上の最大の特徴は「事実factsに 「主旨」 内容contentを付け加える責務を負った」ことであるとも指摘している(81)。エラスムスは、 とそこに「用いられる言葉」との二つの観点から文章を書く事を捉えていた。ワトソンもまた、 エラスムスが「体に対する衣服という捉え方と同じで、考えに対する文体」ということに常に 『言葉と内容の豊かさ 即して論じていたとする(82)。ワトソンの明らかにするところによれば、 について』は、言葉、言い回し、そして文法的、修辞的表現形式における最も適した言い回し 方への手引きとされる。多様な言い回しができる力は、練習によってのみ培われ、既にその一 部については紹介した通りであるが、具体的には、 「私が生きている間、あなたを忘れることは ないでしょう」Semper dum vivam, tui memineroという主旨の 150 通り以上の多様な言い回しの例 文、模範文が挙げられたのだった。エラスムスは、寓話、教訓話、ことわざ、比喩、類推など を用いて、いかに読者が話題の主旨を広げていかれるかの方法を示しているのである。 実践的な練習を重んじる授業のため、生徒は前の授業時間に扱い、また先生から指示された トピックにまつわる事例を予習として探しておかなければならなかった。それは、歴史、有名 な詩、喜劇、悲劇、風刺、英雄伝、牧歌的著作、多様な学派からの哲学、そして宗教的著作か ら引用してくるというものである。これらの事例は、幅広い地域や時代のものとされ、主題の 質に関しても、軍人や市民もの、慈悲、勇気、賢さなど、例は無限である。また扱う人物は、 王子、判事、親、奴隷、貧しい者、富める者、婦人、家政婦、少年なども含まれていた。生徒 たちは、多岐にわたる事例を集め、それらを選択し、書き留めていき、自分の感覚や判断力を 刺激し、高めるのである。より良く書くということは、裸の体のような飾り気のない事実を、 根底にある本意をしっかりと判断した上で、もてる限りの知性を投入し多様な表現によって生 き生きと相手に伝える手段、雄弁さに結びつくものである(83)。エラスムスのみならず、コレッ トもまた、そのようなキケロにみる技術的文体上の手法を高く評価していたのだった(84)。 175 4-3 初代校長ウィリアム・リリーの実際的役割 文法家として優れた能力を発揮したリリーもまた新しい教育方法を試みていた。彼は、同じ く人文主義的文法学校のウィンチェスター及びイートンの校長であるウィリアム・ホーマン Wiliiam Horman(生没年不詳)と共に、他の中世的文法学校の教師ロバート・ウィッチングトン Robert Whittington(生没年不詳)に対し、ラテン語教授法を巡って論争していた(85)。植え付け式の 文法教授を行う他の文法学校の教師と論争をした「文法家戦争」grammarians’ warの記録が残さ れている(86)。またリリーは、聖パウロ学校初代副校長トマス・パーシーとも、文法教授の方法 論を巡って衝突していた。着任後数年で離職した副校長パーシーの離職理由に関し、学校の管 理・運営母体である絹織物組合Mercers’ Companyは、校長と教育方法に関する見解の相違が原 因だったと、聖パウロ学校に関する議事録の中に記している(87)。一方でリリーは、エラスムス が聖パウロ学校の副校長に推薦した、2 代目の副校長モーリス・バーチンショウと共に人文主 義的ラテン語教育に対する取り組みを行い高く評価されることとなった(88)。先のホーマンの文 法書『日常ラテン語』Vulgaria (1519)の序においても、リリーの卓越した文法教授に関する賛辞 が記されているのである。 このように実践家として、それまでの中世とは異なる方法で文法を教えようとするリリーの 革新的な姿勢が多く記録に残され、また高く評価されているのである (89)。エラスムスは、リリ ーについて「最も礼儀正しく、同時に最も経験豊かな人物 」(90)honestissimus simul et peritissimus virと評し、また「彼(筆者註;リリー)は、ラテン語とギリシャ語の両方の学芸に際立って優 れており、若者を育てることにおいては、巨匠の如く達人であります」と伝えている(91)。 こうしてリリーの教え子の中には、国王の側近になった者も少なくない(92)。リリーの実際的 な能力としてのラテン語を身につけた聖パウロ学校の生徒たちは、その後オックスフォードや ケンブリッジに進み、やがて社会の中心的役割を担っていったのである。実際に、ヘンリー8 世の 14 人の遺言執行人のうち、少なくとも 4 人がリリーの教え子であった(93)。 文法・修辞教材にみられる新しい教育方法という点では、それを理念として目指したコレッ ト、優れたテキストという形で具現化しえたエラスムスとリリー、それを現場で実践しえたリ リーという三人の中に類似性をみるのである。 彼等は一様に、 中世の言葉の教育とは異なった、 実用的な言葉の習得を目指した。その方論的側面においてワトソンは、聖パウロ学校の教育は 文法教授におけるルネサンスの理想であると評価しているのである(94)。それはまず「若者」の 特性に配慮した上で、説明に終始しない理解しやすい授業、そして次第に、生徒自らの判断で 収集していった原典からの模範的引用文を模倣していく、 実際的人文主義的練習方法であった。 コレット、エラスムス、リリーとも中世では見られなかった生きた言葉の学習を目指したと言 えよう。それは、古代ギリシャ、ラテンの手法から学んだ、実例の模範文を使って実際的な練 習を十分に積むという方法論を復興させたということを意味する。 おわりに 以上、コレットが理想として求めた教育理念とエラスムスが関わった実際的な教育内容との 相違に着目し、コレット独自のキリスト教的人文主義教育とは如何なるものであったのかを明 らかにした。 176 コレットが自ら規定した「学校規則」の中で示した教育内容と、実際に使用された文法・修 辞用テキストでみられた教育内容にはズレが生じていた。それは、コレットがギリシャ、ラテ ンといった異教作品に対して否定的態度であったにも関わらず、実際にはそうした古典作品か らの模範文が使用されていたということである。そこで、両テキストの執筆過程を分析してい くと、テキスト作成に深く関わったエラスムスの、異教作品を使用したいという意向が強く働 いていたことが分かった。コレットが拒否的反応を示していた異教作品とは、時として快楽を 求める人間の堕落や弱さまでもが肯定的に扱われる、人間の本性を謳歌するようなギリシャ、 ラテンの古典作品だった。コレットは、幼い子どもたちが使用するテキストにそうした作品か らの引用文を載せることによって、彼らの道徳性を汚す危険性があるとし、その使用を拒んだ のだった。 そこでまずコレットとエラスムスとが共有していたところの、言わば広義の意味におけるキ リスト教的人文主義教育というものを述べるならば、 それはラテン語という言葉の教育の中に、 道徳的教育を主たる目的とした「ことばの教育」を通じて、 「学び」と「敬虔さ」との兼ね備え る教育であったということである。換言するならば、彼らは聖パウロ学校設立という形で、ル ネサンスの時代が生んだ革新的教育とも評すべき、古典的作品に通底する道徳的側面と実際に 使える実践的な言葉の習得を目指す実用的側面の二側面を携えた、キリスト教的人文主義教育 の礎を築いたのである。人文主義教育とは、それまでの中世では意識されなかった、古典的作 品からその精神性を学びとることによって人間性が高まる教育である。そこで聖パウロ学校に おいては、常に神に対して目を向け、そして良きキリスト者となれるような人間性の教育、キ リスト者としてのあるべき生き方を自ら選択できるような教育が目指された。且つまた、ギリ シャ、ラテンの古典的手法を再興した、言わば機械的な暗記に依らない方法が採用されたので ある。この点においては、コレットとエラスムスとが共有するところの、広い意味でのキリス ト教的人文主義教育であったと言えよう。 しかしながら、コレットとエラスムスの聖書解釈上の相違に着目し、そこから異なるイエス・ キリストの捉え方、或はあるべきキリスト者像といったものが明らかとなった結果、彼らに固 有の、狭義の意味でのキリスト教的人文主義教育が導き出されたのである。霊的解釈に重きを おくコレットは、 その聖書解釈方法において、 イエスの中に堕落に陥りやすい人間性ではなく、 神性さのみをみてとっていた。そのため、彼が捉えるキリスト教的人文主義教育とは、子ども の道徳上の手本としてのイエスの中には、一切の弱さもなく、禁欲的で、自らに厳しさを課し ていきながら、全き神へと向かっていこうとする姿をとらえたのだった。子どもたちのための テキストには、堕落や弱さへの道を示すかのようなものではなく、純粋に宗教的作品のみが認 められるのである。 他方で、言語文献学的解釈に重きをおくエラスムスは、その聖書解釈上の特徴から、イエス の中に人間性を認める信仰理解がなされていた。そのため、人間の弱さや堕落などが描写され る異教的古典作品をも、イエスの姿、神の言葉を知る補助的材料として容認されたのである。 子どもたちには、人間の良い面だけでなく、より多くの事を知り、そこから理性的判断を伴っ た祈りによって、すなわち祈りと知識によって悪と戦い、全き神へと自らを高めていかんとす る姿勢が求められたのだった。 こうして「イエスに倣う」という事の意味理解の違いからくる、彼らの異なったキリスト教 的人文主義教育というものが明らかとなったのである。だが実際には、エラスムスが望んだ異 177 教作品を盛り込む教材が採用されることとなった。このような聖パウロ学校にみるキリスト教 的人文主義教育の実態には、子どもたちの道徳的な礎としてキリスト教的作品に依拠したいと 願いつつも、エラスムスとの思想的交流の中での揺らぎ、或はまた実践性にも優れた教材を強 く求めていた設立者コレットの最終決断とみてとれるのである。結局のところ、このような古 典作品を巡る問題は、現場の教師の裁量によって適切な模範文が選ばれることとなったのだっ た。 コレットは「学校規則」の中で、子どもたちに実際に教える教師の資質に関する規定を定め、 子どもたちの模範となるべく、学識と敬虔さを兼ね備えた自らの理想とする教師像を示してい た。彼が求める聖パウロ学校の教師とは、徳を有し、ギリシャ、ラテン語の両方に精通する者 とされていた。そこで初代校長としてコレットから直接任命されたウィリアム・リリーは、信 仰心篤く、新しい方法論を実践しえた卓越した文法家でもあり、こうしたコレットの理想に十 分応えるだけの資質を備えていたと言えよう。 このようにコレットとエラスムスは、ギリシャ、ラテンのテキストを巡って異なった見解を 有しながらも、理想的キリスト教社会の実現という崇高で壮大な社会改革的精神の下で、リリ ーに実際的教師の重責を任せることによって、道徳的教育を第一目的とする言葉の教育に積極 的に取り組んだのだった。 註 (1) John Colet, Cathecyzon, in J.H.Lupton, A Life of John Colet, D.D.,Dean of St.Paul’s, and Founder of St.Paul’s School.WithAn Appendix of Some of His English Writing, Burt Franklin Reprints,1974(repr. of 1887), pp.285-292. (2) Ibid., p.285.「カテキズム」の前には、聖パウロ学校の教師が入学を希望する保護者の前で、 以下 の入学規約を読み上げるよう定められている。 教師たちは、入学前に親に対して次の諸規約を読み上げること。 ・仮に、あなた方の子どもが授業についていくために、ラテン語と英語を十分に読み書きで きるならば、その子どもは生徒として入学を許可されます。 ・仮に、あなた方の子どもが道理をわきまえた年齢を過ぎても、学校で学ぶ意欲がなく、 或は学習することが困難なことが判明したならば、それを理由に子どもがみだりに教室 を使用することがないよう、あなた方は子どもの退学の警告を受けます。 ・仮にあなた方の子どもに学習する意欲があるならば、彼が十分に勉強を身に付くことが 出来るまでこの学校で学び続けることに同意するべきであります。 (中略 ; 病気等で学校を休む際の規定) ・あなた方は、子どもを少年司教式に出席させ、献金を持参させなさい。 ・あなた方は、冬期に子どもに蜜蝋を持参させなさい。 ・あなた方は、子どもたちの勉学のために、彼らに適切な書籍を与えなさい。 これらの規約に納得するならば、あなた方の子どもは入学を許可されるでありましょう。 178 (3)「使徒信経」の内容は以下の通りである。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 われは天地の創造主、全能の父なる神を信ず。 われはその御ひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。 すなわち聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれた。 ポンショ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、 古聖所にくだった。 三日目に死者のうちよりよみがえった。 天に上りて全能の父なる神の右に座したまえる。 かしこより生ける人と死せる人とをさばかんために来たもうた主を信じ奉る。 われは聖霊を信じ奉る。 聖なる公教会、諸聖徒の交わりを信じ奉る。 罪のゆるしを信じ奉る。 肉身のよみがえりを信じ奉る。 終わりなき命を信じ奉る。 (4)「七秘跡」 われはまた教会の七秘跡によって神の恩寵がそれらを従い入れる全ての者に来ること を信じ奉る。 1 聖なる叙階の秘跡によって司祭に権能が与えられる。 2 聖なる婚姻の秘跡によって私たちはこの世に生まれる。 3 聖なる洗礼の秘跡によって神の子として新たに生まれる。 4 聖なる堅信の秘跡によって信仰のあかしをたてる力を与えられる。 5 受肉の化身であるキリストという聖体の秘跡によって、私たちは永遠の糧を養われる。 6 聖なるゆるしの秘跡によって罪のゆるしをえて、神および教会と和解する。 7 聖なる終油の秘跡によって私たちは生命が危機に陥った時、助け強められる。 (5)「カリタス」(ここでは「キリスト教的愛」についてコレットが子どもたちにカテキズムとし て示そうとしたと考えられるが、原語 CHARYTE のまま訳した) 1「神の愛」The love of God 2「自己愛」The love of thyne owne self 3「隣人愛」The love of thy neyghbour なお、その内容については既に第 4 章において扱っているため、ここでは割愛することに する。一つ確認しておくべき点としては、三様の愛における愛の秩序として、自己愛により も神の愛、神の恩恵の先行性を説いたアウグスティヌスの愛の捉え方が、コレットの中にも 認められ、それが子どもたちのカテキズムとして教えられたということである。金子晴勇『ア ウグスティヌスの恩恵論』知泉書館、2006、p.26f 参照。 (6) 信仰上の決意 179 1 懺悔 Penaunce 仮に私が罪に陥るならば、懺悔と純然たる告解によって、まもなく再び生まれ変わ ります。 2 聖体拝受 Howselinge 秘跡において主を受け止める毎に、私は全身全霊で自分自身を純粋さと信仰に向か わせます。 3 病床にある時 In Sekenes 死が近づいている時、私は最後までキリストの秘跡と正しさを声に出し、私の主は 認められ、受け入れられ、そしてイエス・キリストを覚えるでしょう。 4 死を迎える時 In Deth 死にある時、私は喜んで to be enealed であることを声に出し、我らの主イエス・キ リストの恵み深い信仰に守られて、神に向かってこの世を出発するでしょう。 (7) 「これを生活の中で実践しなさい」Hoc fac et uniues という言葉の後に示された、生活 する上での 49 の教訓とは、次のようなものであった。それは、幼い子どもたちが行う べき厳格な生活態度として具体的に記されているものであった。 1 神を恐れなさい。 2 主イエス・キリストを信じ、信頼しなさい。 3 神を愛しなさい。 4 主イエス・キリストと聖母マリアを崇拝しなさい。 5 神と共にあることを望みなさい。 6 祈りをもって毎日神に仕えなさい。 7 聖霊の恩寵を頻繁に求めなさい。 8 慈善の心を常に持ちなさい。 9 平和と平等を愛しなさい。 10 情欲に打ち勝ちなさい。 11 死を感謝しなさい。 12 高ぶりを捨てなさい。 13 神の審判を恐れなさい。 14 復讐しようとする心を捨てなさい。 15 神の恵みを信じなさい。 16 他人の罪を許しなさい。 17 常に忙しくしていなさい。 18 寛容でいることを喜びとしなさい。 19 時間を無駄にしないようにしなさい。 20 体を鍛えなさい。 21 恵みの中に身を置きなさい。 22 真面目な話をしなさい。 23 絶望に陥らないようにしなさい。 24 暴飲暴食を避けなさい。 25 常に新しく良い目標を持っていなさい。 180 26 おしゃべりを謹みなさい。 27 誇張を避けなさい。 28 常に耐えなさい。 29 汚らしい言葉遣いをしないようにしなさい。 30 頻繁に告解を行いなさい。 31 清潔と純潔を愛しなさい。 32 上手に掃除しなさい。 33 誠実な仲間と付き合いなさい。 34 自分の罪を悔いなさい。 35 節度のない娯楽に注意しなさい。 36 頻繁に神の恵みを求めなさい。 37 金銭は節度をもって使いなさい。 38 怠けないようにしなさい。 39 不誠実にならないようにしなさい。 40 早起きをしなさい。 41 言行において正しくありなさい。 42 徳をもって自分を高めなさい。 43 一所懸命学びなさい。 44 自分が学んだ事は、愛情を込めて教えてあげなさい。 45 年配者を敬いなさい。 46 優れた人に従いなさい。 47 自分と同じ様な人についていきなさい。 48 劣った人には恵み深く接し、愛してあげなさい。 49 神の下で全ての人を愛しなさい。 この教えによって、あなたは恵みと栄光にあずかれるでしょう。 (8)エラスムスの、リリーに宛ての書簡に、聖パウロ学校用の文法書作成について言及され ている。Cf.,J.B.Trapp, ‘William Lily’in edit. by Peter G.Bietenholz, Contemporaries of Erasmus;A Biographical Register of the Renaissance and Reformation-Vol.2 (F-M), Univ.of Toronto Press, 1986, p.330. また、聖パウロ学校の文法教材としては、ここで示した『八品詞構文について』の他 に、コレット起草の「ラテン文法初歩」Accidence を、リリーが書き直した『ラテン語 初級文法』Grammatices rudimenta や、リリーのみで執筆した名詞と動詞に関する小型の 教材等がある。Cf., J.B.Trapp, Erasmus, Colet and More:The Early Tudor Humanists and their Books, The British Library, 1991, p.114. (9) Foster Watson, The English Grammar Schools to 1660 :Their Curriculum and Practice, Frank Cass. Schools,Frank Cass, 1968(repr.of1908), pp.247-250. (10) Joan Simon, Education and Society in Tudor England, Cambridge ay the Univ.Press, 1966, p.79 (11) John B.Gleason, John Colet, Univ.of California Press, 1989, p.231. (12) Ibid., p.233 181 (13)二宮敬『エラスムス』講談社、1984、p.197. (14) James Henry Rieger, ‘Erasmus, Colet, and the Schoolboy Jesus’, Studies in the Renaissance, Vol.9.(1962), pp.187-194. (15) Peter Iver Kaufman, Augustinian Piety and Catholic Reform, Augustine, Colet, and Erasmus, Mercer Univ.Press, 1982, p.65. (16)ここでギリシャ、ラテンの古典作品に対して、特にキリスト者の側からみた「異教」とい う用語を当てることに関しては、F.カスパリ、J.B.トラップ、そして J.B グリーソンらの先 行研究において一様に用いられていることを踏まえ、本論文でも用いることとした。 ① Fritz Caspari, Humanism and the Social Order in Tudor England, Teachers College Press, 1968. ②J.B.Trapp, Erasmus, Colet and More:The Early Tudor Humanists and their Books, op.cit.③John B.Gleason,, op.cit. (17) Edit.by Craig R.Thompson,op.cit., op.cit., Vol.24, p.280. (18) Ibid., pp.348-365. (19) Ibid., p.572. (20) すでに言及したことではあるが、J.B.トラップは、 「ヴェローナのグァリアーノからジョ ン・コレットまで」‘From Guarino of Verona to John Colet’というタイトルの論文の中で、 北イタリアの人文主義教育者グァリアーノ・ダ・ヴェローナ Guarino da Verona(1374-1460) の手による、イタリアの代表的な修辞学テキスト『ヘレンニウス修辞学』Rhetorica ad Herennium が、聖パウロ学校用の修辞用テキストであるエラスムスの『言葉と内容の豊か さについて』や、聖パウロ学校の校長ウィリアム・リリーの教育に影響を与えていたこと を明らかにしていると指摘している。Cf., J.B.Trapp, From Guarino of Verona to John Colet’, in Essays on the Renaissance and the Classical Tradition, XIII, Variorum, 1990, pp.45-53. (21) Edit.by Craig R.Thompson,op.cit., op.cit., Vol.24, p.526. (22) J. B.Gleason, op.cit., p.230. (23) J.B.Trapp, op.cit.,p.114. (24) J.B. Gleason, op.cit., p.230. (25) エラスムスがコレットにルキアノスのどの本を渡したのかについては不明。ルキアノ ス自身は、ギリシャの風刺作家。対話篇を書き、世相・哲学などあらゆるものを嘲笑・ 諷刺。 「ティモン」 、 「神々の対話」等がある。 (26) J.B.Trapp, Erasmus, Colet and More:The Early Tudor Humanists and their Books, op.cit.,p.81. (27) E.Harris Harbison, The Christian Scholar, in the Age of the Reformation, Porcupine Press, 1956, p.66. (28) J.B.Gleason, op.cit., p.226. (29) Kenneth Charlton, Education in Renaissance England, Routledge and Kegan Paul, 1965, p.55. (30) J.B.Gleason, op.cit.,, p.138f. (31)Translated by R.A.B. Mynors and D.F.S. Thomson, annotated by Wallace K. Ferguson, Collected Works of Erasmus, The Correspondence of Erasmus, Vol. 1, Univ.of Toronto Press, 1974. (32) 1512 年 3 月にロンドンのコレットからケンブリッジのエラスムスに向けて発信された この書簡は、 『エラスムス書簡集』の中で書簡番号 258 として収められている。 182 Cf.,Translated by R.A.B. Mynors and D.F.S. Thomson, annotated by Wallace K. Ferguson, op.cit., Vol.2, 1975. (33) Cf., J.B.Trapp, Erasmus, Colet and More:The Early Tudor Humanists and their Books, op.cit. (34) John Colet, Aeditio, in selected and edit., by R.C.Alston, English Linguistics 1500-1800(A Colletion of Facsimile Reprints)no.298,The Scolar Press , 1971. (35) Foster Watson, op.cit,p.249.ワトソンは、 「八品詞構文について」の成立過程の複雑さを 指摘しながらも、執筆経緯を分析しながらその変容過程を詳細に辿っている。 (36) John Colet, Aeditio, in op.cit.当時の「八品詞構文について」自体にページ数がついてい ないため、ここでも抜粋した模範文が載せられたページを載せることはできない。 (37) 澤田昭夫「エラスムスの『モア伝』について(二)ーヒューマニストの人間像ー」 『アカ デミア』第 76 号、南山大学、1970、p.88. (38) J.H.Lupton, op,cit., pp.101-108. なお、 「ゲツセマネの園」におけるイエスの苦悩の様子は、次の箇所である。 「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちを従った。 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに『誘惑に陥らないように祈りなさい』と 言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまづいてこう祈られ た。 『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願 いではなく、御心のままに行ってください。 』 〔すると、天使が天から現れて、イエス を力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地 面に落ちた。 〕イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧にな ると、彼らは苦しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。 『なぜ眠っているの か。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。 』 」 「ルカによる福音書」(22 章 39 節 「マルコによる福 から 46 節)。他にも「マタイによる福音書」(26 章 36 節から 46 節)、 音書」(14 章 32 節から 42 節)に描かれている。 (39) J.B.Trapp, Erasmus, Colet and More:The Early Tudor Humanists and their Books, op.cit., p.119. (40) Daniel T.Lochman, ‘Colet and Erasmus:The Disputatiuncula and the Controversy of Letter and Spirit,’ Sixteenth Century Journal, Vol.20, No.1,(Spring, 1989), p.79. (41) Peter Iver Kaufman, op.cit., p.67. (42) John Colet, Opera, Vol.2, op.cit. p.208. “Cujusmodi autem profectio illa coelestis in hominibus sit, docuit ipse Jesus homo coelestis sua ipsa vita, quasi loquens expressius et instruens homines.” (43) 赤木善光「エラスムスのキリスト観についての一考察—Enchiridion militis christiani『(キ リスト教兵士必携)』を中心として 」(東北学院大学文経学会)『東北学院大学論集』一 般教育、第 45 号、1964、12 月、p.32. (44) デシデリウス・エラスムス、渡辺一夫、二宮敬訳「痴愚神礼賛」(渡辺一夫編『エラスムス トマス・モア』中央公論社、1980 所収). (45) 二宮敬、前掲書、p.373. (46) John Colet, Opera, Vol. 2, op.cit., p.110f. (47)エラスムスの『対話集』Colloquies(1522)においても、聖パウロ学校生であるトマス・ラプ セットが、コレットの下で送った厳格で実践性を伴った禁欲的信仰生活について記され 183 ている。Cf., Trans. and annot. by Craig R.Thompson, Collected Works of Erasmus, Vol.39 (Colloquies), Univ. of Toronto Press, 1997, pp.88-108 . (48) Ernest William Hunt, Dean Colet and His Theology, S・P・C・K, 1956, p.12. (49) J.B.Trapp, Erasmus, Colet and More:The Early Tudor Humanists and their Books, op.cit., p.118. (50) ①Michael F.J. McDonnell ,Annals of St.Paul’s School, Privately printed for the Governors, 1959,p.59. ②Samuel Knight, The Life of Dr.John Colet, Dean of St.Paul’s in the Reigns of K.Henry VII. and K.HenryVIII. and Founder of St.Paul’s School, Oxford at the Clarendon Press, 1823(repr. of 1724), p.315. (51) Michael F.J. McDonnell , A History of St.Paul's School, Chapman and Hall, 1909, P.69. (52) エラスムスは、1505 年にロンドンから友人セルヴァティウス Servatius Rogerus に宛て、 ロンドンには 5,6 人しかラテン語とギリシャ語の両方を操れる者はいないと記した書簡 を送っている。この書簡が収められている『エラスムス全集』第 2 巻の注釈者 Wallace K.Ferguson は、これらの人物として、Thomas Linacre, Wiliam Grocyn, William Latimer, Cuthbert Tunstall, Wiliam Lily, Thopmas More の名を挙げている。Cf.,Translated by R.A.B. Mynors and D.F.S. Thomson, annotated by Wallace K. Ferguson, op.cit., Vol.2, p.99. (53) Frederic Seebohm, The Oxford Reformers : John Colet, Erasmus, and Thomas More, AMS Press, 1913.p.146. (54) John Colet, The Sermon of Doctor Colete, made to the Convocation at Paulis, in J.H.Lupton, op.cit., pp.293-304.邦訳文献 ; 中村茂訳「聖職者会議開会説教(1512)」(八代崇編『宗教改革著 作集 11 イングランド宗教改革 I』 教文館、1984、pp.9-25 所収) (55) John Colet, Statutes of St.Paul’s School, in J.H.Lupton, op.cit., pp.280-282. (56) Trans.by R.A.B.Mynors, edit.by Peter G.Bietenholz, The Correspondence of Erasmus, Vol.7,op.cit.,1987, p.236f. (57) E.Harris Harbison,op.cit., pp.34-37. (58) J.B.Gleason,op.cit., p.227f. (59) John Colet, Accidence, in J.H.Lupton, op.cit., pp.290-292. (60) 4 世紀のローマのラテン文法家で、文法書 Ars Grammatica(大・小の文法書、Ars maior; Ars minor)を著わし、彼の文法書は中世を通して使用された。 (61) John Colet, Accidence, in J.H.Lupton, op cit., p.291f. (62) J.B.Trapp, Erasmus, Colet and More:The Early Tudor Humanists and their Books, op.cit., p.98. (63) Ibid.,p.79. (64) Trans.by R.A.B.Mynors and D.F.S.Thomson, Annot.by Wallace K.Ferguson, op.cit.,Vol.2, p.170. (65)Orme, Nicholas, Medieval Schools ; from Roman Britain to Renaissancw England, Yale Univ.Press, 2006. (66)ジュール・サンジェ、及川かおり、市ノ瀬正興訳『弁論術とレトリック』 、白水社、 1986、p.46f. (67) 田口仁久『イギリス学校教育史』 、学芸図書、1975、p.13. (68) Nicholas Orme, op.cit., pp.118-127. (69) J.H. Lupton, , op cit., p.24. (70) John Colet, Aeditio, in selected and edit., by R.C.Alston, op.cit., 184 (71) J.B.Trapp, Erasmus, Colet and More:The Early Tudor Humanists and their Books, op.cit., p.114. (72) Foster Watson, op.cit., p.248f. (73) Eric Edward Stroo, John Colet and the New Learning, The Univ.of Texas , 1982. (74) 澤田昭夫、前掲論文、p.88. (75) ジュール・サンジェ、前掲書、p.47f. (76) 同書、p.48f. (77) オリヴィエ・ルブール、佐野泰雄訳『レトリック』白水社、2000、p.42. (78) Eidit. by Craig R.Thompson, op.cit., Vol.24. (79) Trans.by R.A.B.Mynors and D.F.S.Thomson, Annot.by Wallace K.Ferguson, op.cit.,Vol.2. 本文に示した書簡は、1511 年 9 月下旬に、コレットからエラスムスに宛てて出された書 簡である。この書簡は、元々1511 年 9 月 13 日にエラスムスからコレット宛に出された 書簡の返事であった。そこで以下に、まずエラスムスから出された最初の書簡、次にそ の返事としてコレットが送った書簡を紹介しておく。(これらの書簡は、 『エラスムス書 簡集』においては書簡番号 227、及び書簡番号 230 として収められているものである。) ①エラスムスからコレット宛の書簡(書簡番号 227)。発信元;ケンブリッジ。1511 年 9 月 13 日。 私は、あなたの要請でクライストン Chrysostom の書物と、そして私の勘違いでなけれ ば、あなたが賛同しそうにもない書物も共に送ろうと思っています。なぜなら、私が特 に教師にとっては重要であると思っている体系的方法ややり方の本を、あなたは軽蔑し ているからであります。 リナカーについて、人の噂を軽々しく信じてはいけません。彼があなたに対して最高 の敬意を表していること、そして彼の文法書をあなたが拒絶したことに対して、彼がそ れほどショックを受けてはいないであろうことを、私は確信しています。自分の著作に 愛情をもつことは、丁度親が子どもにするように、人間の生まれながらにもった本性で ありますが、実際、彼がこの件で心を痛めているのでしたら、あなたは自分の感情を表 に出さないで、また再び彼を苦しめることをしないで、そして弁解をするよりもむしろ あなたの表情や親切な振る舞いによって、彼の失地を取り戻すようにうまく役割を演じ なければならないでしょう。特に弁解は、あまり意味がないでしょう。このようにして、 彼に刻み込まれたどんな傷も、時と共に消え失せてしまうでしょう。けれども、私があ なたにこのような事を言うとは、何と出過ぎたことでしょうか。 今のところ、私はあなたの学校の副校長として適切であると思われる人物には出会っ ていませんが、このまま続けて探していこうと思っておりますし、見つかり次第、出来 るだけ早くあなたにお知らせ致します。お元気で。 ②コレットからエラスムス宛の書簡(書簡番号 227)。発信元;ロンドン。1511 年 9 月下 旬。 あなたの言葉にあったのですが、私が何か賛同しないことがあるでしょうか。エラス 185 ムスについて私が賛同できなかったことがありますか。私は動揺してしまい、あなたの 手紙を注意深く読み通すことが出来ず、慌てて読んでしまいました。私は、手紙を読ん だ時に書物に関して賛同するのみならず、あなたの熟練した技術、学識、饒舌さ、表現 力と同様にあなたの才能に対して極めて賞賛しています。私は、私の学校の子どもたち を、あなたの教育方法で訓練され、あなたが指図したように子どもたちが為されるべき であると、しばしば願っておりますし、あなたの素晴らしい学識においてあなたが描写 したような人から子どもたちが教育を受けることが出来たならば、と願っております。 あなたが、ラテン語とギリシャ語の両方において、型にはまった衒学者が言葉を意味 不明にする教育を子どもたちに要求する期間よりも、一層短い間に、そして論理的に筋 が通っていて、かつ表現を自在に駆使する能力を若者に付けさせる、と断言した末尾の 文章を(私が)読んだ時、エラスムスよ、私はあなたを私の学校の教師として迎えたいと 強く思ったことでした。けれども、あなたがケンブリッジの方々から承諾を得た時には、 私の学校の生徒を教育する、校長の下で働く幾人かの教師を送っていただけたら光栄に 思います。 私は、あなたの立派な原稿を、あなたの要請通りにそのままの形で保存しておきます。 私達の共通の友人であるリナカーの件については、あなたのお心遣いに大変感謝し、ま た、あなたの鋭敏なご忠告通りに振る舞うこととします。もし、次期副校長に就任する ことを鼻にかけない、慎み深い人物があなたの周辺にいましたならば、どうか、私のた めにそのような人を探す努力を惜しまないでいただきたいと思います。 (80)Cf., J.B.Trapp, ‘From Guarino of Veraona to John Colet’ in op.cit. (81) ヨーランによれば、キケロは修辞学上、res と verbum の二つの点に留意した。res は、 「本質」などを意味し、英語では「内容」content に当たる。一方で verbum は、 「表現」 を意味し、英語では「文体」style に当たる。ここで注意しなければならないのは、 「内 容」の意味である。それは、著述家の意図、真意ということと密接に関連している。キ ケロの修辞的方法は、真意から外れることなく、豊かにそれを表現するということであ る。クインティリアヌスは、 「町に嵐が吹いた」という単純な文章は、修辞学的技法に よって、炎に包まれる家々や教会、パニックに陥っている住民たち、略奪行為をする者 などを読み手が心の目で見られるように、細かく鮮明な描写によって書き換えられなけ ればならないとしている。Cf., Hanan Yoran, Thomas More’s Richard Ⅲ : proving the limits of humanism, Renaissance Studies, Jouranl of the Society for Renaissance Studies, Volume 15, Number 4, Oxford Univ. Press,2001, p.524f. (82) Foster Watson, op.cit.,p.437f. (83)そもそも主知主義的立場を採るドミニコ会の流れにあるエラスムスの思想の根底にお いては、知識によって神を知るという姿勢が認められる。結局のところ、修辞学を通 したエラスムスの「言葉の教育」は、キリストの哲学を知るためにある。彼にとって は、修辞学で扱われる異教作品もまた、キリスト教教育の副教材に他ならないのであ る。それは、 「聖書の中に出てくる動植物等に関する自然的知識や場所についての地誌 的理解が、聖書の内容理解を豊かなものにしてくれる」とのエラスムスの聖書解釈か ら来た考えなのであった。木ノ脇悦郎『エラスムスの思想的境地』関西学院大学出版 186 会、2004、p.40 参照。 (84) Leland Miles, John Colet and the Platonic Tradition, George Allen and Unwin, 1962, p.26. (85) Michael F.J. McDonnell , A History, op cit., p.72. (86) J.B.Trapp, William Lily in edit.by Peter G.Bietenholz, Contemporaries of Erasmus, Vol.2, Univ.of Toronto Press, 1986, p.330. なお、 「文法家戦争」に関しては、近年の研究では人文主義的方法 を巡る問題とは無関係で、単なる個人的ないさかい事であったとの報告もされている。Cf., Nicholas Orme, op.cit.,p.122. (87) Michael F.J. McDonnell , Annals ,op.cit.,p.60. (88) Michael F.J. McDonnell , A History, op cit., p.73. (89) Michael F.J. McDonnell , A History, op.cit., p.72f. Michael F.J. McDonnell, Annals, op.cit, p.60. (90) Michael F.J. McDonnell , A History, op cit., p.71. (91) Samuel Knight, op.cit.,p.317. (92) MacDonnel, Annalsl,op.cit., p.62. (93)Thomas Wriothesley(生没年不詳);大法官のサザンプトン伯爵の子弟。Edward North(生 没年不詳);絹織物組合員の子弟、四人の為政者に仕えた優れた政治的経歴の持ち主。 Sir Anthony Denny(生没年不詳);国王付き私設顧問官。Sir Edmund Denny;財務裁判所 主席裁判官の子弟。William Paget(生没年不詳);旧家の家柄ではあるが、他の 3 人と比 して、やや下の階層。 (94) Foster Watson, op.cit., p.246. 187