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287 - フランスの切手

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287 - フランスの切手
イールドフランス
図版博物館 vol.218
為政者 7
人の記憶 113
Musée imaginaire philatélique
Région Île de France au travers des timbres français
Politiques
4e éd. 2013
vol.217
【228-7-1 エドモン・ミシュレ】 Edmond Michelet
1899-1970
112
YT-1825
パリで生まれたが学歴
はほとんどなく、小学校終了証 certificat d’études primaires だけで父親と同様に商品販売員
として働いた。1918 年に 19 歳で歩兵として兵役に就いた
が、前線に出ずに休戦となった。退役後、リムゥザンのブリヴ
市 Brive に住んで食料品の販売員で生計を立てながら、カ
トリク青年運動 Jeunesse cathlique に加わって活動をした。
29 歳までは極右団体のアクシオン・フランセーズにも関わっていた
が、やがてカトリク系の社会運動にシフトしてコレーズ県でのリーダ
ーとなった。カトリクとしてはシャルル・ペギィに傾倒し、1940 年
以降抵抗運動にかかわるようになる。ペギィの言葉を普及
する形をとって各戸の郵便受けに対独降伏を批判するビ
ラや抵抗を呼び掛ける文書を入れた。「降伏する者に対し
て、降伏しない者は、道理を有する。戦時において、降伏しない者は、だれであろうと、
どこから来ようと、どの党派に属そうとわが仲間である。譲歩する者は、わが聖堂区の世
話役であろうとも、馬**郎以外の何者でもない。」
ミシュレは、ぺギィが第 1 次大戦下での
こしたこの言葉をマロール Fréderic Malaure なる男にタイプライターで印刷させ、1940 年 6 月 17 日の
夜各戸に配布した。フランスの抵抗運動史上最も早い日の行動として、歴史に残る事件であっ
た。
後日、組織的には《Combat》の系統に属し,〈Duval〉の名でリムゥザン地方のリーダーとなった
が、43 年 2 月ブリヴの町でゲシュタポに逮捕され、パリのフレーヌ刑務所に秘密裡に移されたのち、
ドイツのダッハウへと送られた(9 月)。この強制収容所は各地から抵抗運動の指導者等重要人物
を集めて最終的な判別をする機関でもあって、ナッツヴァイラー強制収容所から移送されたシャルル・
ドレストラン将軍 Charles Delestraint(ノォル・パドカレ 5)とも一緒になった。同強制収容所は戦況に
合わせて転々と移動したため解放が遅れ、ドレストランは 45 年 4 月に処刑された。処刑を前に
して彼は「ミシュレを中心に闘え」と遺言したという。ミシュレは政治的傾向が異なる収容者の中
に共助の組織を作りだした。ある収容者は、
「私は無神論者だが、われわれのすべてにとっ
てミシュレは聖者とはこういうものかと意識させる存在であった」と語っている。ダッハウ強制収
©bibliotheca philatelica inamoto
1
容所は 45 年 4 月 29 日に解放されたが、ミシュレは他の収容者の帰還を優先させ、自分は 5 月
30 日になってダッハウを出た。ドゴールの広報担当モォリス・シューマンは、5 月 6 日にダッハウではじめて
ミシュレに会いドゴールにその存在を知らせた。
ミシュレは 45 年の選挙でコレーズ県から MRP(人民共和派)の候補として当選し、同年 11 月か
ら 49 年 1 月まで第 2 次ドゴール臨時政府の軍務相 ministre des Armées となる。このわずかな
期間のドゴールとの接触が--やや大げさではある
が--それぞれが死を迎えるまでの長い良き関係
を作りだしたのではないか。「ドゴール派」gaullistes
には多くの有名政治家を数えるが、ドゴールを盟主
とすること、政権担当のための党派であることの
2 点をもって結集する多様な人士の集合であって、
理論的な規準となる共通の綱領に同意し、または
それを支えとして行動する者の政治集団とは言
い難い面がある。難しい話はやめるが、内政・外
政の両面において政権を担当するために必要とされた多くのテクノクラートを擁し、それとは別に、
ドゴールに気に入られ、信用されて党派の存続を支える屋台骨になった少数の番頭がいると
考えた方がよさそうだ。後者に間違いなく入るのは、ミシュレ、ポンピドゥ、シャバンデルマの 3 人で
あろう。ある人は、たとえばアンドレ・マルロォはドゴールの秘蔵子であると言うかもしれない。し
かし、ミシュレとマルロォはドゴールとの関係では正反対の位置にあると私には思える。マルロォは間違
いなく彼の方からドゴールと政権担当党を必要としたが、ミシュレはドゴールから頼まれてドゴール
派を守り続けてきたのであってそれ以上でも以下でもない。それでは、マルロォはドゴールにと
ってどのような部下であったか。最も優秀な天才的な能力を具えたテクノクラートと見るべきでは
ないか。
ミシュレが入閣した第 2 次臨時政府は、いわば PS(社会党)、PCF(共産党)、MRP(人民共和派)
の 3 党政府であり、意見が分かれる場合には MRP がドゴール派を演じた。のちに MRP の分
裂に際して離党者を MRPI(独立人民共和派)に組織してドゴール派 RPF との脈絡を付けたの
はミシュレであった。事実、ミシュレはドゴール派に入りながら、MRPI にも属し 2 つの政党に席を
置いたことは事実であった。
1958 年のドゴール再登場によって、副首相として入閣し、在郷軍人相、ついて司法相とな
る。1962 年から 67 年までは憲法院 Conseil constitutionnel の
評定官 をつとめた。退任後、ポンピドゥ内閣で公務員担当の国
務相、シャバンデルマ内閣で文化相となったが、後者の任半ばで脳
溢血に倒れ、第 2 の故郷ブリヴで生涯を終えた。71 歳。アンドレ・
マルロォは、ミシュレの死に接して《Aumônier de la France》(フランスの
宮廷司祭)と呼んだ。大番頭をやや古風に言ったところがマルロ
ォらしい。
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2
ところで、マルロォが友情をもって交付した「宮廷司祭」の辞令を越える
大辞令が出る可能性があることが話題となっている。リムゥザンの宗教都市
チュ-ル Tulle(リムゥザン 2)の司教区で 2006 年 9 月 16 日 から、ダッハウ強制
収容所でのエドモン・ミシュレの言動には俗人には及ばない秘蹟が含まれていた
のではないかについて、またそれを立証するために 71 歳の生涯とさらに
その死後についてまで詳細な調査が開始されたからである。結論がいつ
出されるかはわからないが、「積極」の判定が行われればこの案件は大司教を経てローマ教皇
庁に上げられる。第 1 段階の列福(福者となる)が認められれば将来において新たな「聖
エドモン」が現れる可能性があるというものである。これについては
2010 年に刊行された
Bernard Zeller, Edmond Michelet est-il un saint ? Librairie Cawa がある。前半は伝記で、後半は
秘蹟につながるあれこれを記述しているが、列福を目指す宣伝文書でないところがよい。
勿論結論の先取りはできないし、そもそも列聖・列福の「人事」はあくまでも人による「神
事」の代行であって、世界遺産の登録とは性格が違うのである。ここまで書いて逆に心配
になってきたところ、フランス司教会議のホームページにチュールの司教の報告が掲載された。それは、
2010 年 12 月 10-11 日にパリで「エドモン・ミシュレ
政治生活におけるキリスト者」をテーマにして開催さ
れたたコロキウムの総括に相当するもので、チュール司教ベルナール・シャリエ(右)はその中で、教会がこの
キリスト者で抵抗者で政治家であった男の聖性を認める日が早からんことを願い、同コロクで歴史
学者が意見を交わした 3 つの柱について簡潔に述べた。①ナチのイデオロギーと占領行為に対し
てその初期からミシュレを抵抗に立ち上がらせた人格形成と人的環境
特にシャルル・ペギィの思想、
ロベール・ガリクが創始した「エキプ・ソシアル」の研究サークル、強制収容所での生活(前述)、の 3 点を中
心とする。②ドゴール政府における大臣としての政治責任
とアルジェリア戦争下での司法大臣の経験について
③和解
具体的には解放直後の軍務大臣
ドイツとフランスおよび独立したアルジェ
リアとフランスの和解への寄与 司教によれば、列福調査はコレーズ県カトリク文化研究所 ICCC の申し
立てによるもので、ローマの世俗教皇会議の元幹部リュシアンヌ・サレ Lucienne Sallé を申請代理人と
して、リール大学名誉教授イヴ・マリ・イレールを委員長とする 7 人の歴史家の委員会が上記 3 点を列
福事由として詳細に検討する、という。最後に切手について、特筆すべき事項がある。
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3
[YT-1839]Ponpidou
[YT-1825] Micheret
[YT-1826] Schuman
[YT-1827] Thomas
それは 1975 年の著名人切手 5 点のうちピエール・ガンドンが 4 点を担当したことである。ガンド
ン に は 前 年 4 月 に 死 亡し た ホ ゚ ン ヒ ゚ ト ゙ ゥ の 追 悼 切手
(YT-1839) も依頼してあったのでそれをあわせると
5
点の肖像切手を制作した。1960 年代からは高度な美
術切手を中心に彫版の仕事をしてきたガンドンに比較
的地味な肖像切手のシリーズを依頼したことの方が異例
かもしれない。いずれにしても凹版の愛好者にとって
嬉しいことである。肖像切手として最高の出来であろ
[YT-1858]
う。人物が生きていると言うと陳腐な表現だが、それ以外に何か言うことはない
だろう。このうち、ポンピドゥ、トマ、ジークフリートの 3 人は紹介済みである(オォヴェルニュ 8,ノォル・パド
カレ 4、ノルマンディ 10)が、ロベール・シューマン Robert Schuman*については留保している。フランス人で
フランスの首相も務めた政治家をどこの地域圏で取り上げたらよいか未定なのだ。生れが隣国
のリュクサンブゥルであるためだが、いずれ別個のカテゴリーを設けて、同じ境遇にある著名フランス人、
外国人を収めようと考える。228-7-1
*ザクセンで生まれた音楽家のロベルト・シューマンの場合は〈Schumann〉で-nn となるが、リュクサンブゥル辺りまでくるとドイツ
語圏であっても〈Schuman〉で-n となる場合がある。他方、この項に顔を出した Maurice Schumann はフランス人だが
アルザス系で、-nn である。
【228-7-2 マルセル・ポール】
Marcel Paul
1900-1982
YT-2777
戦後フランスの基幹産業国有
化政策を推進した政治
家で、フランス共産党から
5 人が入閣した第 2 次
臨時政府の閣僚として
工業生産相を務めた。
在任期間は 2 カ月であ
ったが、その間に石炭
会社 (1944 年 12 月)と
ルノォ(45 年 1 月)を実
現し、以後のエール・フランス、フランス銀行ほか 4 行、ガス・電力、保険
会社等の金融・経済諸部門の国有化への道を開いた。フランス郵政は、マルセル・ポールの死後 10 年
で記念切手を発行すると言う異例の迅速さを見せたが、1992 年当時それを理由づける特別
の根拠があったとは思えない。
彼は孤児であった。この小論で 700 人ほどの著名人を取り上げてきたが、完全な孤児と
いうのは、マルセル・ポールだけである(パリ 14 区の捨て子)。施設で育てられ、13 歳でロワール・サルト
地方の農園労働者となった。15 歳のとき大戦に反対する「青年社会主義」のグループに入っ
たが、徴兵で配属された海軍で、ブレストでの乗組員の反乱やサン・ナゼールの発電所の操業拒否な
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どの活動に関わったらしい。除隊後しばらくして、パリ地域共同運送会社に電気工として就
職し、1923 年にフランス共産党に入党した。1931 年からは労働組合の専従となり、公役務・病
院・電灯・動力部門の組合で働いたのち、電燈会社労組の連合会書記長となった。党内で
はモォリス・トレズに近く、推挙されてパリ 14 区の区会議員となった。
39 年に徴兵令状を受けたが、海軍は前歴があるので拒否され、歩兵となる。独ソ不可侵
協定のあと、組合幹部の「正常化」つまり共産党排除によって電灯会社労働組合連合会か
ら締め出され、逮捕されること数回、いずれも脱出して電灯と公務労働を中心に組合活動
をつづけたが、それだけでは満足できず、41 年 8 月にナチスドイツの
ヘルマン・ゲーリンクの暗殺を計画。不首尾に終わり密告もあって 11 月
に逮捕された。警察署からサンテ刑務所まで移しかえられ、43 年 2
月に判決が下された。禁固 4 年。ロワールのフォントヴロォ大修道院の刑
務所から 44 年 2 月にドイツに送られた。脱獄に失敗しアウシュヴィツへ
送られ、囚人番号を刺青で入れられたうえでブヘンヴァルトに集めら
れた。ブヘンヴァルトでは模範囚による自治が一定の範囲で認められていたが、マルセルは 5 人のリー
ダーの 1 人として労働部署の調整にあたり多くの要人(マルセ・ダソォなど)を救ったといわれる。
解放後、収容所側は先にポールなどを送りだしたようだが、ポールはまた収容所に帰ってきて
残る収容者全員の帰還に尽くした、と言う美談もある。
帰還後直ちに 6 月のフランス共産党第 10 回大会で中央委員に選出され、48 年まで議員をつと
めたが、組合活動や強制収容所関係の団体に専念するため引退した。パリ 14 区には彼の名
を掲げる広場がある。これを好ましく思わない人たちもいて、彼の死後においても、ブヘンヴ
ァルトでの所業に疑問あり、とする動きもあった。その多くは、社会の右傾化に伴う現象のよ
うであるが、関係者の記憶も薄らぐなかでブヘンヴァルトも忘れられてしまうのかと懸念する人
びとがいる。228-7-2
【228-7-3 ピエール・マンデス・フランス】
Pierre Mendès France 1907-1982
YT-2298
戦後のフランスで首相として政権を担当した政治家の中で、その総合的
な政務処理能力と廉直性および一貫した方針に基づいて植民地問題
の処理をすすめた実績においてピエール・マンデス・フランスを越える者はいな
い。それだけに党派を超えて信頼を寄せられ、政権の座にいない場合
にも困難な状況を打開するために他から協力・支援を求められた政治
家であった。自らが属した急進社会党は党派として政権を担う能力を
失い、マンデス・フランスがその個人的信頼によって権力を委ねられたときも
組織的な対応に欠けるところがあった。最後にはマンデス・フランスを除名す
るにまで至ったが、彼は国民の強い期待に支えられてその職責を果た
した。ドゴールの強権とその残影のもとで戦後四半世紀が過ぎた後に、
また「5 月革命」なる嵐が吹き抜けた後に、国民の記憶に残ったリーダーは誰かを問うアンケートがあった。
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そのデータは今手元にはないが、回答者はいわゆる「有識者」たちで、(国際面を含めて)経済
の分野でジャン・マネ、政治の分野でピエール・ マンデス・フランスが一頭地を抜く評価を与えられていたこと
を覚えている。小柄で風采は冴えず、だが庶民的で驚くほど率直に話をするポルトガル系ユダヤ人、
このような一般的なイメージがそのまま生身の人間として現れ、誰もがなしえなかったような「解
決」solutions を提示していくのを見て、快い印象と同情とを禁じ得なかった、とは留学時代か
ら長いお付き合いがある老弁護士 B....の懐旧の言葉であった。
家族は« Mendes de França »の姓をもつ
ポルトガル系で、ボルドォ、ロシュフォールと北上して
ノルマンディのルゥヴィエに至り、パリへやってきた。
父親は非宗教 a-religieux と言う点で徹底し
ていたらしく、ドレフュス事件の支援には全力
を挙げたが、ユダヤ人としてではなく「怒れ
る市民」としてだ、と言っていた。息子の
教育には、小学校から博士課程まで公立校
のみと言う方針であった。
息子は 15 歳でバ
カロレアを取り、21 歳で弁護士資格を取った。
法律より経済・財政に関心があったのか、
その年に提出した論文は「レイモン・ポワンカレの
フラン再建政策」と言うものである。学生時代には「共和・社会主義大学行動連盟」を設立し
てアクシオン・フランセーズを背景とする右翼学生とやりあったという。すでに 16 歳で急進社会党に
加入していたとは驚きであるが、要するにピエール・コトやジャン・ゼィらとワイワイやりながらこの党
派の再生(左翼化? エドゥアール・エリオのイメージからの脱却)に熱心であったらしい。25 歳で
ウル県選出の全国最年少議員となり、28 歳でルゥヴィエ市長を兼ね、30 歳でウル県会にも議席を得
た。代議士として何をしたか。社会党と手を取り合って「人民戦線」政府を支え、レオン・ブル
ム改造内閣では国庫担当次官に取り立てられた。当時のフランスはベルリン・オリンピクに参加するか
で紛糾していた。共産党を含む左翼は関連案件に棄権し、彼のみが反対票を投じた。
最若手の政治家であったことと持ち前の率直さ、それを経
済・財政の知識が急進社会党を
「人民戦線」に引き込み、また
戦後のドゴール臨時政府への起用
につながった。戦時下で抵抗運
動にかかわったのは勿論だが、
自由フランス空軍としてであったと
いうのにも驚く。開戦のとき中
東にいてそこで応召して偵察
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機の免許を取ったようだ。政府がパリからボルドォに移転するとき、同僚数人とともに北アフリカ
で闘うべく彼の地に渡ったが、モロッコで逮捕され、戦線離脱の罪でクレルモンフェランの軍事法廷で有
罪判決を受けた。その後、ヴィシィ政府によって身柄を拘束されたままであったが脱走に成功
してロンドンに渡り、自由フランス空軍に編入された。与えられた指令はパリへ電力を供給する発
電所補の空爆などだが、戦果については不明である。
43 年にはドゴールに認められてアルジェの国民解放フランス委員会の財政委員となり、ブレトンウッズ
会議にもフランスを代表して出席した。戦後の臨時政府で国民経済相に任じられたのは当然の
ことであったようだ。
1954 年 6 月から翌年 2 月までの 7 カ月ほどの期間、マンデス・フランスは政府首班となる。わず
かの期間ではあったが、外務大臣を兼任してインドシナ問題に決着を付け、アルジェリアに関する政
府方針の大転換をはかった。この時点で政治家を含めてアルジェリアがもたらしてきた利権と
の戦いとなり、マンデス・フランスは力及ばすして辞任した。1956 年の社会党ギィ・モレ内閣にも乞わ
れて無任所国務相となるが、モレの路線は利権路線と変わらす、マンデス・フランスはモレを見限って
辞任した。以後、彼は、ドゴールへの全権委任の投票に反対して決別し、みずからも議員職
を辞した。急進社会党はドゴールに急接近し、マンデス・フランスを追放した(59 年)。60 年代、知
識人系の統一社会党 Parti socialiste
unifié PSF の結成を助け、自ずか
らもそれに加わり、一時的に国民
議会に議席を得たことがある。し
かし、その後議席を維持すること
はできず、「5 月革命」の学生た
ちに支持を与えるなど思うままに
過ごして、1982 年に 75 歳で死去
した。フランソワ・ミテランの新社会党結成
には好意的で、術策家のミテランも本
心からマンデス・フランスを敬愛していたという。誰にとってもフランスの良心であった。228-7-3
【228-7-4 マクス・イマン】 Max Hymans
1900-61
YT-2638
1930 年代に何度も閣僚経験の
ある第 3 共和制末期の
政治家で戦時中は抵
抗運動に参加し、戦後
は 1948 年から 61 年ま
でエールフランスの会長を務
めた。
学歴は文理並行、職
歴も両面兼併の巨漢
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7
として見ると面白い。バカロレアを取った後,パリの中央工芸学校で技芸・製作技師の資格と取
ると同時に法学部に学ぶ。手元の資料で見ると卒業後クレロワ Clairoix の現場で主任技師となる
とだけ記されているが、この町はドイツ系タイヤメーカー「コンチネンタル」の城下町であるから、おそら
く同社であろう。だが、入社してフランス人労働者の賃金水準の低さとさらに低い外国人労働
者への切替えに疑問を呈したところ使用者と対立、辞表を出して特許侵害事件専門の弁護
士事務所を開設し、工業技術と特許法務の両面に詳しい弁護士として繁忙を極めたが、同
時に社会党から議会に出て数次にわたって閣僚を務めた。大戦前夜の召集では議員特権と
しての召集免除を潔しとせず、徴兵を願い出た(願い出た国会議員はマンデス・フランスを含めて
わずか 4 人)。徴兵部は国会議員に兵士の実情を知られることを望まず司令部付きとした
が、談判の末第 31 砲兵連隊 75 サンチ砲装備野戦部騎馬隊大尉となってリュクサンブール国境方面に
配備された。40 年 5-6 月に3度の戦闘を経験して休戦により退役、従軍功労賞を貰って議
会に戻った。彼は、続々と南へ向かう避難民の大群をみてその安全を憂慮し、ペタンへの授
権に票を投じたが、「ペタン=隠れ抵抗者」の期待はほどなく破れ、抵抗運動に入る。
マクス・イマンの活動は、これまでに触れることのあった抵抗運動の
諸相とはかなり異なる。 1/ 彼はドゴールを指導者とする「自由
フランス」との接触を求め、その意思を表明する手紙の投函を信頼で
きる渡航者に託した。そのうちラヴァルト André Labarthe あて 1 通
が先方に届いた。イマンは、ラヴァルトがすぐれた編集者で「自由フラン
ス」に属していることを知って手紙を書いたが、ラヴァルトは「自由
フランス」に属し、かつ、月刊誌『自由フランス』を発行しながらもドゴ
ールとは対立する左派の代表的人物であることを知らなかった。
2/ ラヴァルトはイマンの手紙をイギリスの特殊機関 SOE(Special operation executive)に伝達した。フラ
ンスに対する SOE の活動は、独自の情報網を作ってイギリスからの物資や情報要員(主として
無線技士)を送りこむことであった。そのためのほぼ唯一の方法はパラシュートによる降下であ
ったから、安全性の高い着陸地点を確保すること、物資や要員の受領・受入れに協力する
住民と地下運動者を組織し、目的地まで届ける連絡網を作ることであった。3/ SOE はドゴ
ールに対して警戒的であったイギリスの機関として、ドゴールの「自由フランス」とは情報を共有しな
かった。その結果、イマンは、「自由フランス」とは関係の
ない国際的な軍事工作組織 SOE のために働くことと
なった。つまり、英軍に情報を送り、英軍機が落下さ
せる物資・要員に受け取り方として全責任を負うこと
←落下コンテナの確保に当たるイマン
となった。危険極まりない
仕事で概ねは成功したが、犠牲者(被逮捕者)も出し
た。4/ その結果、イマンの存在と役割、身許がドイツ軍に知られるところとなり、42 年末には
国内に居場所がなくなった。この時点では SOE と「自由フランス」の関係は改善され、両者の
指示と了解のもとにロンドン行きが決定された。
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その行程は、リヨンから汽車でアンチーブへ、そこから潜水艦でジブラルタルへ、スペインの汽船でイギ
リスへというものであった。イマンはリヨン駅で検問があったため列車に乗り遅れ、潜水艦は出航
してしまったのでスペインを縦断する以外になく、結局、徒歩で雪のピレネ山脈を越えてジブラル
タルに行った。このようにして大幅に遅れたため、ジブラルタルでハイファから帰るドゴールに会う機
会を得た。イギリス到着は 7 月となった。5/ ロンドンで与えられた任務は BBC 放送局から「フラ
ンス人がフランス人に」のレギュラー・担当者である。ラジオネームを〈Fromuzeau〉とした。彼がヴァランセイ
で最初に住んだ村の名が〈Museau〉であったことから from museau としただけだが、これ
によってかつての選挙区民には、彼が「今ロンドンで頑張っている」ことが判る。イマンはが農
産物をドイツ軍に徴発させず、できるだけ市場に出せと語りかけると、たちどころに反応が
あったという。6/ 42 年 10 月、パリ弁護士会はイマンを登録抹消とした。7/ ドゴールは、彼
に多くの任務を与えた。捕虜支援中央委員会。ここでは、ドイツの収容所にいる 160 万人の
被収容者に対して全世界から赤十字を介して送られる小包を最大月 80 万個運び込んだと
いう。 8/ 42 年 9 月 12 日に、マンデス・フランス、フェリクス・グゥアン等と連名でアメリカのルーズヴェルト大統
領に「ドゴールは抵抗運動のシンボルであって極右ファシスト軍人ではない」と釈明する手紙を送っ
た。これは同日の北アフリカ上陸作戦を連合軍は 4 時間前
までドゴールに知らせなかったことへの反応でもあった。
9/ 43 年 1 月、司法、公教育大臣(委員)に任命 10/
BBC 放送担当を降り、アルジェに渡って「空輸局長」とな
る。解放後の臨時政府でドゴールが彼を「民間・商用航
空局本部長」に任命する先触れである。これに先立っ
て、イマンは 44 年にシカゴで行われた国際民間航空機構創
設会議に出席している。
マクス・イマンは、1948 年 4 月に国営企業エール・フランス社
抵抗運動の同志 François d'Astier との再会を喜ぶ
会長に就任し、1961 年 3 月に死去する少し前までその職位にあった(エール・フランスのジェット機
導入に反対するパイロットのストラ
イキの余波が続く中での退任
であった)。また、49 年から
逝去の日までヴァランセイ市の市
長であった。3 月 5 日、大統
領府官房長ルネ・ブルイエがドゴー
ルの名代として見舞い、6 日、
SOE 時代からの知己でイマンの
特別秘書であったピエール・バ
ベを呼び、翌 7 日、担当医の
モォリス・メイエル教授に対し
ヴァラン
セイ市長イマン、ブルジェ大司教を迎える
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て手振りで安楽死の執行を命じ、生涯を終えた。病名などの記載はなく死亡確認書には
「ウタナジー」と記された。社会党の旧い同志ジュゥル・モクは「彼のように、1 つの命で多くの人生
を生きる喜びを知った者はいない」と述べたが、それは回顧されるまでもなく、生来のも
のであったのではないか。61 年の生命を受け取り、休むことなくそれを全うした、としか
言えないように思う。228-7-4
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10
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