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臨床作業療法(2013 MAY/JUN)

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臨床作業療法(2013 MAY/JUN)
ゼロの「日常」からの
新生を共にして
〔宮城県・女川町〕
Haruhisa Kato
加藤 晴久*
●はじめに
私が勤める女川町地域医療センターは,宮城県牡鹿郡女川町の中心部にありま
す。
東日本大震災による,女川町の人的被害は約 830 人(2011 年 10 月 26 日
宮城県牡鹿郡女川町
現在:被災前人口の約 8%)
,建造物被害は全壊・大規模全壊のみでも約 3,200
震災前後の変化
棟(2011 年 7 月 1 日現在:被災前総数の約 70%)に上りました。女川町を
会話
襲った最大津波の高さは 14.8 m。300ha に浸水し,被害額(推計)は 785
億円超(2011 年 7 月末日現在)に上りました。
震災当時,私の勤務先は女川町立病院という名前で,地元の方たちからは「町
立」と呼ばれていました。16 m の高台に建っていますが,1 階が津波に飲まれ,
地震による被害も甚大でした(図 1)。2011 年 9 月に現在の名称に変わり,
2012 年 4 月に現在の体制になりました。名前は変わりましたが,今でも「町
立」と呼んでくださる方もいて,懐かしい気持ちになります。
今,私は診療所での入院・外来リハビリテーション(以下,リハ),訪問リハ,
宮城県復興基金事業健康支援事業(リハ支援事業)での戸別訪問・集団運動指導
を仕事としています。住まいも女川町内で,ここに来て丸 5 年になろうとしてい
ます。
本稿では,そんな私が女川町や石巻市東部で仕事をする中で,震災前後で変化
したと感じることを書かせていただきます。
人との出会い
まず,最初の会話が変わったと思います。
自分が,初めてお会いする方たちにお話を聞かせていただく際に,質問しているこ
*
女川町地域医療センター リハビリテーション室,作業療法士
〔〒986−2243 牡鹿郡女川町鷲神浜字堀切山 51−6〕
0917-0359/13/¥400/論文/JCOPY
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とを書いてみます。
「どこの部落だったの? 家,どのあたりだったの?」
「津波の時,どこにいたの? どこに避難していた
の? いつ,ここに来たの?」
「病院通院とか,どうしていたの? 今は,どうして
いるの?」
「誰か,津波で亡くなったの? 家族親戚はどうして
いるの?」
「これからどうしていくの?」
図 1 被災した女川町立病院玄関
一方,自分が聞かれることは,こんなことです。
「今,どこにいるの? どこから来たの?」
「ご飯,どうしてるの? 休みの日,何してるの?」
「いつまで,いるの?」
相手の方の,震災前,震災発生時を
知ること
私自身が初めて女川町に来た時のことを,なんとな
く覚えています。石巻線女川駅に降りて,改札を抜け
て,ロータリーに行く…。今,駅舎もロータリーも,
何もかもありません(図 2)。だから私自身が,その光
図 2 女川駅に停車していた汽車は,波の力で
離れた墓地まで流された
景を知らない人にその話をすることは,基本的にあり
ません。胸の中で,押しつぶします。
震災当時,女川町に住むようになって丸 3 年が経と
うとしていましたが,町内のことを本当に分かっていませんでした。何もなくなって
しまった今,相手の方からお話を聴いても,その様子は見えません。私がそのままに
してしまえば,相手の方は,私の前で,気持ちを押しつぶすでしょう。
ただ,やっぱり,実際見られないけれども,いろんな人からいろんなことをお聞き
するうちになんとなく分かってくる,つながってくる,ということもあります。
その場に一緒に行ってみて,何もないけれども,せめて土台とか,海との位置関係
とかを見て,震災前のことを話したりすることもあります。そういうところに行く時
は,相手の方の歩行能力などから考えて,もちろんリスク管理に気をつけます。車い
すをいつも車に積んで,休憩しなくてはいけない時に使用したり,まださまざまな津
波が残していった破片などが残っているので,足元の危険にも注意しなくてはいけま
せん。人は慣れ親しんだところに行くと,勝手に身体が動き出してしまいます。その
身体を押さえておくことも必要です。
が れき
中には,今,瓦礫置き場になっていて,行きたくても行けないところもあります。
そういう時,震災前の住宅地図で確認したり,遠くから一緒に眺めることもあります。
たまたま,私が担当している方お 2 人が,震災前は隣同士だった,ということもあ
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りました。仮設住宅への入居は,くじで決められました。元々隣同士でも,どの仮設
住宅地区に当たるかは,関係ありませんでした。現役世代の方は,震災後,町内会を
どう廃止するかなどの問題で会うこともあるでしょう。が,より年配の方は,震災後
まったく会えていないということも,往々にしてあります。お 2 人に会っていただい
たところ,お一方の配偶者の方の最期の様子を,もう一方の方が話し始めました。
「一
度避難所に避難した後,娘さんの様子を見に行かなくてはいけないと言って,避難所
を出て行ったんだ。そのまま,波に持ってかれてしまった」。その配偶者の方は震災
発生時,家に 1 人でいたので,ご遺族は最期の姿を知りませんでした。
どの学校にいつ通ったのか,というのも,とても重要な情報です。「部落は違って
いても同級生だった人と会いたい。今,元気でいるだろうか」,そんな言葉もよく聞
きます。
まだ私が聴けなかった頃
震災から 2 週間経過した頃から,私や同僚は,医師,看護師,保健師,薬剤師の方
たちと一緒に,町内の避難所を巡回していました。勤務先の院長が,「外に行って,
リハビリしてこい」と送り出してくれたので,行くことができました。避難所には,
震災前から知っている人もいましたが,ほとんどは知らない方たちでした。
リハ職ですから当然,相手の方の心身機能の把握,運動指導,必要な福祉用具の見
極めや調達,福祉避難所につなぐべきかどうかの相談などに行ってきました。一方,
この出会いの会話,知らない相手の方との関係づくりは積み重ねられませんでした。
話をする環境でもありませんでしたし,お互いの心身の状態もそれどころではありま
せんでした。そもそも,現在のようには道も被災地域も片づけられていなかったので,
避難所だけをはしごしていました。私自身の自動車は津波に取られたので,原付で動
ける範囲しか,被災地域を個人的に見て回ることはできませんでした。
震災から 7 週間経過した頃,最初にできた仮設住宅への入居が開始しました。避難
所で関わった人たちを支援し続けるために,仮設住宅への訪問を始めました。砂利だ
らけの屋外環境,問題点の多い入浴環境などに対する環境整備をどうしたらいいのか,
その時からノウハウの積み重ねは始まりました。また,震災前に住んでいた部落がま
るで異なる人たちが,一緒に何かできる場を提供したいと思って,畑を整備したり,
炊き出しを支援したり,そんな活動も始めました(図 3)。相手の方には,話す場所が
できました。でも,私がまだ,相手の方と話をする準備ができていなかったと思いま
す。
“いたましさ”の共有
今,この地で,「いたましい」という言葉を聞くことが,よくあります。もったい
ないという意味で使われていると思うのですが,「悼む」とか「痛む」とかという言
葉と関係もあるのかな,と思って聞いています。
お互いの被災の話をするようになったのは,震災から 3 カ月が経過した頃でした。
やっと,それまでずっと聞けなかった,相手の方のご家族のことを,私自身が聞いて,
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泣くことができるようになりました。
「人間は二度死ぬ。肉体が滅びた時と,みんなに忘れ
去られた時だ」という言葉を聞いたことがあります。だ
から,津波で流された人,震災の後亡くなった人,ある
いは震災の前に亡くなった人,そういう人たちのことを
話すということは,まだ二度目の死が訪れていないとい
うこと,その死を悼んでいるということだと思います。
震災後,死を話題にすることも増えましたが,そればか
りでなく,線香を上げさせていただくこと,お悔やみに
図 3 仮設住宅に畑を作る
伺うこと,一緒に墓参りをすることも増えました。普段
やっと歩くような方が,一度お墓の掃除を始めると,まっ
たく身体の動きが違うことに驚くことも多々ありました。
町内の避難所の劣悪な環境に留まるよりも,県北や県外の旅館に二次避難をするこ
とを選んだ人たちが多くいました。心配で一度,県北に様子を見に行ったら,女川町
から来た人たちをまとめるのではなく,10 カ所の旅館に分けて,ほかの被災地の人と
一緒にされていたので驚きました。旅館の方たちは心配してくれていて,「ぜひ話を
してあげていってくれ」と言われて,時間の許すかぎり,お話をしていきました。皆
さんが,「仮設住宅に当たったら帰るのを楽しみにしているんだ」「今,町はどんなふ
うになっているんだか分からない,私たちは町から見放された」
,という話をしてい
ました。そんな希望を壊さないように,仮設住宅の環境整備を急がなければならない
とか,この思いを行政に伝えなければならないとか,そんな思いで帰ってきました。
その時の経験もあり,町外のみなし仮設住宅(自治体が民間賃貸住宅を借り上げて
提供する仮設住宅)に入ったり,町外で家を直した人のところにも,行けるかぎり行
きました。
仮設住宅に入ると,部屋から出ない人も増えました。震災前まで,お茶飲みだ,兄
弟を訪ねるんだ,海藻を取るんだ,畑をするんだ,と歩いていた高齢者は,同じよう
に仮設住宅に住んでいたり,町から出てしまった兄弟を訪ねることができなくなりま
した。海藻を取っていた海岸は変わりはて,畑をする土地もなくなりました。また,
震災避難中に心身ともに無理をしたことが影響して,歩けなくなった人も多くいまし
た。そんな人たちを動かすために,私が音頭を取って,電動スクーター自操や,車い
す介助や,ボランティアさんの運転支援で,海岸や畑や選挙などに出かけることもあ
りました。
また,高齢者の人たちは代替わりしたからと言って,まちづくり説明会に自分自身
では参加しなくなっていたので,私ができるだけ聴きに行って,説明会で得た情報を
伝えるようにもしてきました。私が知るかぎり,女川町の人は,仮設住宅にいても,
元の住所を変更している人は数少ないです。一方で,所有していた土地を行政に買い
取ってもらう手続きは進めるしかなく,さまざまな思いを抱えていることは分かって
いました。そんな気持ちを聴かせていただいてきました。
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日々の作業と感謝
よその人がただ見れば,津波にすべてをさらわれた土地に雑草が伸び,海水が上が
り,何も変わっていないと感じるのかもしれませんが,生まれたばかりの赤ん坊が成
長するように,ここでは「日常」が成長してきて,2 歳になろうとしているように思
います。
「日常」というのは,関わる 1 人ひとりが日々努力して作業するおかげで初めて存
在できるもので,人間の力を越えるものが起きれば,いとも簡単に消えてしまうこと
を,この震災で私たちは改めて知りました。
たとえば,高齢者の方たちは,家の中でかせいだり(仕事をしたり),季節ごとに
祭事などを行ったりすることで,夢物語になってしまった「日常」を,再び目に見え
るようにしようとしています。また,その一方で,私のように単身で暮らす男の食事
を心配してくれたり,震災前には「日常」に属していなかったけれど,今では「日常」
に属す人間とも「日常」を分かち合おう,としてくれています。
私はそのことに感謝して,「いつまで,いるの? ずっと,いたら良いっちゃ」と言
われたら,「ここにいられるかぎり,いっから」と答えています。
●おわりに
神戸に伺った時,「『震災から何年』という時間の数え方をする」と言われまし
た。その時,震災から 18 年が経ったとはいうものの,震災はまだ終わっていな
い,と思いました。
震災から時間が始まるのだとすれば,この土地ではまだ 2 年。人でいえば,ま
だ 2 歳です。だから,来てみていただければ分かると思うのですが,まだ支援が
必要なんです。
「震災が残してくれたもの やさしさ 思いやり 絆 仲間」。
「阪神淡路大震災 1.17 希望の灯り」
(神戸市中央区の東遊園地内に設置されている慰霊と復興のモ
ニュメントの 1 つ)に刻まれた言葉の一節ですが,この言葉を思い出すたびに,神
戸の人たちが私の心を慰めてくださったことを思い出します。痛みを知っている
人こそが優しいんだと思います。私自身も,そうありたいと思います。
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