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二葉亭四迷「ひとりごと」註解①
二葉亭四迷「ひとりごと」註解① 『二葉亭四迷全集 第五巻』[岩波書店 1965] 上 お れ の ぼせ て ぎわ どうぢや乃公②の手際は,五日の晩にはあれ程に逆上せて騷ぎよつたやつも六日の戒嚴令 ぶち お とな 發布③で頭から冷水を打かけてやつたもんぢやで忽ち火の消えたごと大人しうなつて,殊に お か 可笑しいやうなは新聞屋どもぢや,今度の講和は屈辱ぢや,君國の大事を誤つたものぢや し そ とかいうて,無暗に責任呼はりを爲よつたもんぢやから,戒嚴令が出たちうで然う急に大 人しうなる譯にもいかぬ,というて今迄の調子で書立つる日にや忽ち灸を据ゑらるゝは目 くろ に見えとるし,十日も二十日も發行停止を喰うたら,我々の責任問題よりか自分共の鼻の どう 下の問題ぢやから,思切つて政府に喰つて懸ることも出來ぬ,ソコデ何やら反對でもある まごまご とこ し反對でも無いやうな煑切らぬ事を言うて遲疑しよるのを,かう高い處で見物しちよると ほん よ ソリヤ眞に面白いやうぢやつたから,もう大抵可からうと思うて協約の發布④をやつたのぢ まごまご ところ あ れ や,何がさて問題に困つて狼狽しちよつた 處 ぢやから池の鯉が・・・・鯉といへば彼女⑤は今 さぞ せわ ひま き ゃつ かほ 頃嘸嘆いちよろうなァ,忙しい時にや忘れとるが,暇になると,彼奴の可愛らしい面が, め さき かう眼前にちらちらして・・・・ソコデ今のソノ何ぢや,池の鮒・・・・ぢやない鯉が麩を見付けた あっちゃ こっちゃ え ごと,彼方からも此方からも集まつて來て好え事にして此問題をせゝりよるから,責任問 しも 題⑥は御留守になつて了うた。こゝらが政治家の手際といふものぢや,な,えゝか,戒嚴令 し た ね ぎ れ で激烈なことはいへず,さればちうて穩當の議論はもう爲盡して了うて材料切になつて困 え つとる處へ,ポンと日英協約ちふ麩を投げてやつたもんぢやから,皆好え物が見付かつた た ど か う ちうて麕集つて來て之をせゝりよる。ソコデ責任問題はお留守になつて了うたとは如何ぢ お れ や,ナント乃公の腕は凄いもんぢやらう,な,戒嚴令で非常に弱つちよるところへ・・・・(同 ひとり じことを暫く 獨 で繰返してゐるのみにてくだくだしければ中略とす)・・・・此處迄は旨く切 拔けて來たが是からが又一苦勞ぢや,此十五六日にや小村⑦が歸つて来るし,講和條約の批 准は二十四日が期限ぢやから,其迄にや是非發表せにやならぬ,之さへ發表して了へば, も 條約破棄ちふ愚論の息の根は止つて了ふ道理ぢやから,そしたら最うお手元へ馬鹿な請願 またぞろ 書も出なうなる筈ぢやァあるけれど,さて彌々之を發表したとなると,又候責任問題に火 が付くぢやらうな,尤も其迄にや大觀艦式やら,軍隊の凱旋歡迎やらで民間の反抗の氣焰 は大分衰へる,新聞屋共は迂闊な奴共ぢやから喜ぶべき事は喜び怒るべき事は怒る,軍隊 の歡迎と政府の責任問題とは混淆させぬちうて力味よるが,馬鹿奴,人間は活物ぢや,さ ぶ つか え うは行かぬわ,葬禮と婚禮と撞着り吅うたら喜んで可えやら悲しんで可えやら分らなうな こっちゃ つ けめ つて途方に暮るゝのが人情ちふものぢや,其處が又此方の着目で軍隊の歡迎や觀艦式は成 や だいぶん るべく盛に行らする積りぢやァあるけれどもが,今度の反抗の氣運はいつもと大分違ふや うぢやから,それにしても全く責任問題を揉み消して了ふ譯には行かぬ,條約の發表と同 がわ 時に又之に火が付く,それに條約を破棄せいちふな人民共の側の議論で,議員共は其處ま え では得う言はぬ,というて之が今の人氣問題ぢやから,大に反對も出來んで,謂はゞ控へ とるちふ形でをるから,之を切脱けるに左程骨も折れぬが,責任問題になるちふと,然う はいかぬ,人民も議員共も一所になって喰つて懸りをらう,イヤ戒嚴令は容易に引込めら れぬわい,どねえしても議会が濟む迄は引込められぬわい。 中 こ やつ 破棄問題・・・・ちふ程の事もないが,まづ問題と云や問題ぢや,此奴は條約の發表で片が て こ ず る 付いて了ふが,責任問題は議会でも手古摺る者と見る。尤も協約の方は此通りの人氣で反 お やじ 對するな谷の偏屈親仁⑧位のもんぢやから議會でも必ず大受に受けるぢやらう。これと絡め て講和顚末の報告をやるのぢやで,一方の人氣で一方の不人氣を幾分か薄うすることは で け 出來る,政府は國民を侮辱した君國の大事を誤つたちふ口の下から英國のやうな强國と同 盟を成立さしたのは政府の手柄ぢや,これだけは其功勞を認めんぢやならぬちうては,攻 こっちゃ 撃しちよるのやら贊成しちよるのやら分らなうなる,此處が此方の手ぢや,議員共は同盟 と講和とを別々に値打ちしようとしようが,さうはさせぬ,必ず之を絡めて一個にして一 そう 個に値打ちをさする,表面は斯ういふ體裁で持掛けて置いて而して裏面では例の手段で撫 付けるぢや⑨,緊急勅令で世間は薄暗うなつちよるから,裏面の消息は能くは分らぬ,分た ところで闇から闇へ葬つて了うばかりで新聞共で思切つて火の手を擧げる譯にはいかぬ。 す や 院外有志⑩たら何たら云ふ腹の空いちよる奴共が尐しは何か行らうとしようが,こいつも戒 嚴令をビシビシ勵行して一寸も手の出せぬやうにする。さうすればぢや,議會ちうても左 程恐るゝことも有るまいと思ふけれどもが,萬一それでも尚手におへぬやうぢやつたら, こわもて も そしたら强面ぢや,政府は陛下に對してこそ責任はあるが,議會に對しては何の責任も有た ぬ,只德義上から外交の顚末を言うて聞かせるだけぢや,それで氣に入らずば勝手にせい つっぱな こわ き ゃつ と突放して怖い目をして睨み付けて呉れるのぢや ⑪。そしたら彼奴共は元來腹は臆病で只 う わべ 表面ばかり附元気で空威張をやりをるのぢやから大抵は腰が拔ける。假令へば腰を拔かさ ぬにしてもが,宣戰講和は例の大權の發動ぢやから,彈劾ぢや上奏ぢやちゆうて騷ぎ立つ たところで結局どもならぬ。ソコデ詰り戰後の財政計畫案で衝突する外はないぢやけど, こっちゃ ど う 此處まで漕付くれば,もう此方の物ぢや,其處のところは又如何にでもなる,喩へば二十 すきはらごえ たけ 九年の第九議會のやうなもので,例の彈劾上奏案⑫で尾崎⑬が空腹声を振搾つて哮つたけれ どもが,何の役にも立たんぢやつた,結局否決ぢやつた。それから豫算會議に這入つてか やきもち ら佐々の奴めが嫉妬を燒いて不信任案を持出したけれどもが,十日の停會を喰はして置い いよいよ て其間に例の手段をやつたもんぢやから, 彌 期限が來て蓋を明けてみると,あの始末ぢや あ ごたごた つた⑭。尤も彼の時の議會は多數の自由黨が政府の味方に附いちよつたから,多尐の粉擾は ... . のが き りぬ 免れ得なんでも,結局あの通り首尾よく切脱けられたのぢやあるけれどもが,あやつとあ .. やつに伴食の椅子でも宛がふことにする日にや,尾を掉つて二ッ返事で味方に付く。知事 え 位の處ならまだ一人二人は採つてやつても可え⑮。ナニ議員共は畢竟恐るゝに足らぬ,唯恐 と し ろしいなは靈南坂の親仁⑯ぢや。こやつ好え年齢をしちよる癖にまだ色氣が失せぬ。今度の やうな大芝层に始終日蔭者にされをつて好え役を宛がはれんぢやつたのが面白うない,ぢ ひね やからアノ時の議會にも乙う首を捻りやつたんぢやらう⑰。そりや乃公はチヤンと見て置い た,それに自分が引受けてやりやはつた二十七八年事件があの不始末で,第九議會は自由 て なづ ど う つひ 黨を手懷けて如何にか斯うにか切脱けは切脱けたけれどもが,其時の政策が基で終に襤褸 を出しやつて,内閣總崩れとなつて所謂松隈内閣が出來た,餘り手際でもなかつた。さう い つ いふところでコノ乃公が手際よう跡始末を付けて何時までも桂内閣萬歳ぢやつた日にや, や き も ち 親仁はいつまでも日蔭者で,もう浮ぶ瀬がない。ぢやから嫉妬心が半分,勢力を恢復した つら いが半分で,親仁始終面白うない面をしをらう。これが乃公の身に取つては何より恐ろし ま いのぢやけれど,シカシまだ其處までは間が有る,今から心配するには當らぬ。 下 考へて見ると妙なものぢやなう,最初乃公を今の地位に据ゑたのは,乃公を人形にして 親仁共が黒幕の内で操らうちう積りぢやつたのであるけれどもが⑱,此人形なかなかの才子 ぢやで,親仁共が操る操ると思ひよる内に,いつの間にか乃公に操らるゝやうになつて了 うて,今ぢや政治の中心は何というても斯ういふ乃公ぢや。如何ぢや此眞似は誰にも一寸 で け こっちゃ 出來まい。操る操ると思ひよるところを,操らるゝやうな風をしながら,其實は此方で操 の みこ つて行く,そのカネアヒちふものを了解まんぢや政治家と云へぬ。將來どんな偉い政治家 の みこ が出るか知らぬが,要するに政治家の政治家たる所はこのカネアヒちふものを了解 うで こ みい ど ん 種々の紛糾つた困難な事情を旨う切脱けて行く處にあるのぢや。それが出來んぢや如何な も 偉い經綸を有つちよつてもが,そりや空想家で政治家ぢやない。喩へば靈南坂にしてもが, 相應に計畫は立てよるが,其計畫を實行する腕がない。それでゐて自分からして其計畫に うぬぼれ 敬朋して斯ういふ計畫を立て得る人間は乃公の外に無いなんぞと手前免許で自惚て了うて つら で け 露骨に大きな面をするばかりで何時も計畫の立てばなしぢや。跡始末が出來ぬ。そこへ行 くと目白の親仁⑲は陰險に持つて行つて旨くやるけれども,もう老込んだ,乃公を相手にせ で け ほか んことにや,何も出來ぬ。他の親仁共になると土臺三本足らぬ。政治家ちふ資格のある奴 びっくり は一人も层らぬ。此間の戒嚴令の時もぢや,皆吃驚して餘りヒドかないかちうたが,今日 となつて見りや如何ぢや。そりや六日に戒嚴令を出した時にや,全く此首が惜かつたので, ただ 跡先の考へもなく泡を喰つて出したのぢやァあるけれどもが,轉んでも徒は起きぬちふは 此處の事ぢや。出して了うてから跡の様子を見て,ハ,しまうた,とは思つたが,それと すぐ 同時に直此戒嚴令を使うて一仕事やらうと早くも方針を立てた,此處の呼吸の解らぬ奴は ひね 政治家ぢやない。民間の奴等は無暗に屁理窟ばかり捻りよるが,一人だつて此處の呼吸の 解る奴があるか。 お やぢ こ ねえ ど ねえ 此間も○○の老爺⑳が来て,まァ此様した事にして了うて跡は如何する積りぢやちうて十 年も二十年も先の事いうて取越苦勞しよつたが,馬鹿な奴ぢや。そねえした迂闊な事をい ひよるから,早うから枢密院なんぞへ祭り込まれて一生浮かぶ瀬がないのぢや。諺にも云 ふ通り人間は一寸先は暗ぢや,其暗の世の中に生きちよつて,而も政治家として一國の運 命を預かつちよる者が,十年先の事を心配して如何する。今日は宜しく今日の事を處すべ え しぢや。而して違算が無ければそれで可えのぢや。十年先の事を心配したとて十年先には ど ねえ き ゃつ 時勢は如何なるか知れたもんぢやないわ。彼奴も馬鹿ぢやが,本黨の△△21も馬鹿に於ては かほ だしぬけ ○○に多く譲らぬ。乃公の面を見るが早いか,唐突に憲法政治の講義ぢや。政治家ちふ者 は憲法に牴觸せぬやうに憲法以上の仕事をして行くのが命ぢや。人民ちふものは昔から馬 鹿と相場が極つちよる。シカシ政治家はソノ馬鹿を相手に政治をして行かんにやならぬか らして,必要上憲法ぢや法律ぢやァいふ道具をも竝べて見せるのぢや,道具の法律や憲法 に縛られて了うて,一も二も輿論々々で人民共の機械になつて了うた日にや,政治家の政 よ 治家たる所は皆無になる。多くの場吅に於て輿論の所在は明瞭には分らぬ,縱し分つたと ころで十中の九迄輿論は愚論ぢや,それを一々實行した日にや國家は生存して行かれぬ。 ソコデ政治家ちふ者がその愚なる輿論を旨く抑へて,議會を巧に操縱して,憲法や法律を 上手に潜つて,而して一國を如何にか斯うにか運轉させて行く,そこが政治家の腕前ちふ や ものぢや,乃公は其處を行つてをるのぢや。そりやな,人民は反抗し議會とは衝突し,親 ぐ づ ぐ づ に っち さ っち いっ か 仁共は分らぬ事を愚頭々々いうて二進も三進も行かなうなると,えゝ面倒な寧そ何も角も だ 抛り出いて引込んで了はうかと思ふ時が無いではないけれどもが,シカシ考へて見れば乃 公が斯うして今の地位に层ればこそ,世間の奴等が一列一體に乃公を仰いで見るのぢや。 何處へ行つても・・・・はァ,ありァ何とかいうた・・・・さうぢや,一の位のお人がお出でやつ たちうて下へも置かぬやうにさるゝ。ナニ金は千ばかりぢやから相場で儲けた方が大きい。 つら 金に惚れるぢやないけれどもが,世間では相忚に大きな面をしとる奴も乃公の前では兩手 をついてヘイヘイいひよる。乃公の行る事は善かれ惡しかれ日本中の,いや日本中どころ か世界中に評判となる。來る外國人も來る外國人も先づ乃公に會ひたがる。天長節の夜會 あっちゃ こっちゃ か らだ なぞちうたら彼方からも此方からも○さん○さんちうて乃公の身體は十あつても足らぬ位 かゝ かほ お なご ぢや。アノ公使の嚊なんぞはいつも乃公の面を妙な目付して見よる,あんな女子に惚れら ありがた お なご れたちうて一向難有くもないけれども,シカシ美でも醜でも女子といふやつにチヤホヤさ まんざら れるのは萬更惡い心持はせぬものぢや,・・・・トいふも畢竟乃公が今の地位に层るからぢや。 此地位を離れたら然うは行かぬ,ト思ふと乃公は如何しても此地位は去られぬ。誰が何と ごと え 云うても決して去らぬ・・・・ひとり言ぢやから好えやうなものゝ,若し世間の有象無象がかう こつ わるくち と聞いたら,さぞ惡口を叩く事ちやらうな,いや旣う蔭ぢや叩きをらう。ナンノ惡口なら けぶ 幾らでも叩け,痛うも痒うもないわ。乃公の一番烟たいのは靈南坂の親仁ぢやけど,一番 怖ろしいのは正直者ぢや,正直者が眼の色を變へて,うぬ奸賊ちふやつが一番おそろしい あ やつ が,此外には何も怖ろしいものはない,イヤも一つ有つた,そりやアノ何ぢや彼女のねだ りごとぢや。 (明治三十八年十月五日「東京朝日新聞」) ① 本稿は,新潟大学の教養科目として 2004-6 年度に史料購読による近代日本の政治外交史をテーマにして 1 学期 2 コマ の授業を行った際に教材として配布した史料に加筆・修正を施したものである。 ② 内閣総理大臣陸軍大将伯爵(後に,陞爵して公爵)桂太郎に,日露講和会議後の心境を独白調で語らせるというのが, 作者二葉亭四迷の趣向である。ここでは政治家の没理想主義的な現実主義(権謀術数),権力者の術数に右往左往す る人々への冷たく虚無的な眼差し,あるいは人々の心や生き様を弄ぶことの出来る己が力への自惚れや自己陶酔,「黒 幕」に対する優越感と畏れのアンビバレンスなどが余す所なく炙り出されて,痛烈にして痛快な権力批判の書となっ ている。この作品は,近代日本における傑出した風刺文学の一つである。 ③ 1905 年 9 月 5 日,日比谷で開かれた媾和条約反対国民大会は暴動化した。民衆は,警察官詰所やら政府系新聞社を 焼き討ちし,桂太郎の愛妾お鯉の方の妾宅すら(註⑤参照)包囲攻撃されるやに見えた。榎坂上にあるその妾宅を角 袖の巡査が警備していることを,新聞が報じている。9 月 6 日,政府は戒厳令を発令して,東京市一帯を軍政下に置い て運動の鎮静化を図った。戒厳令は 11 月 29 日まで解除されなかった。 日露戦争の重い負担に耐えた国民は,戦勝の代償として過大な戦果を期待していた。しかし,媾和条件の大要は次の 様なものであった。大連・旅順を含む遼東半島の南端部分の租借権及び東清鉄道南部支線の長春・旅順間及びその支 線の経営権並びにその附属施設に関するロシアの利権等の継承,南樺太(北緯 50 度以南)の領有,沿海州沖・オホー ツク海・ベーリング海のロシア領に於ける漁業権などである。これらの條件は国民の期待を著しく裏切るものであっ た。激昂した国民は,媾和条約反対国民大会を開いて媾和条約破棄を要求したが,運動はエスカレートし,暴動化し たのである。 国民が如何なる媾和条件を期待していたかと言えば,例えば,1903 年に強硬な対露交渉建議書を発表して注目された, 東京帝国大学教授戸水寛人らの所謂 7 博士とその同調者たちが 1905 年 6 月に取り纏めたとして新聞が報道する条件の 概要は下記の通りであった。1.償金 30 億円;2.樺太・カムチャッカ及び沿海州の割譲,遼東半島に於けるロシア権 益の移譲;3.東清鉄道及び滿洲にある鉱山を含むロシア施設の移譲;4.太平洋及び日本海に於けるロシア海軍力の 撤廢,バイカル湖以東のロシア陸軍の兵力制限などである。 国民のこうした,彼我の国力及び軍事情勢と取り分け欧米列強の思惑を度外視した,勝手読みの媾和条件は,媾和交 渉に当たる政府を苦境に追い遣るものであった。桂首相は既に 1905 年 4 月 16 日の会談で立憲政友会幹部の原敬に対 して「平和を克復したるならばきつと國民は其條件に滿足せざるべし」と語ったように,国民の期待と現実との間に 大きな距離が存在することを認めていた。文部省が東京帝国大学法科大学教授戸水寛人を休職処分にしたのは,民間 の過大な媾和条件に対する期待を煽る強硬論を押さえつけようとした意図に出でるものであったことは明白である。 ④ 1905 年 8 月 12 日,日英両国は第二次日英同盟に調印した。日本政府は 9 月 27 日に同条約を公布した。 ⑤ 「お鯉」(本名,安藤照),新橋の藝妓,桂太郎の愛妾。回顧録として『お鯉物語(正・続)』がある。 ⑥ 註②で述べた通り,媾和条約に対する国民の期待とポーツマス条約との間には大きな落差があった。9 月1日の各紙 は条約破棄を要求する社説を掲げ,政府の責任を追及した。大阪朝日新聞の如きは,「天皇陛下に和議の破棄を命じ 給はんことを請ひ奉る」上奏文を掲載した。註⑨で述べる通り,条約の批准は,憲法上,天皇大権事項に属しており, 帝国議会の審議・承認を要しなかったのである。 条約破棄は,本文で二葉亭が桂に独りごちさせているように,議会に於ける問題とはなり難くかったが,内閣の責任 問題については,政治的に避けて通ることはできなかったし,戦後の政局運営を困難にすることは確実であった。「原 敬日記」によれば,桂は既に前年 12 月に戦後政局の運営について,政友会との提携の意向を示して,原の考えを打診 している。そして終戦の年の 4 月に原と会談した桂は,原の「如何なる條件にて戰爭を休止するも國民多數は滿足せ ず,其際政府と聯立するか何かの關係あるにあらざれば,政友會は國民の聲に雷同するの外なし,併し國家としては 如此事體を生ずるは不利なり」との語を承けて,「平和を克復したるならばきつと國民は其條件に滿足せざるべし, 故に自分一身は犠牲に供する覺悟なり,自分の退くは戰後經營案にて退きたし,其際には西園寺を奏薦したき決心な り」と述べた。 桂は,後継内閣として政友会総裁西園寺公望を奏薦し,来るべき西園寺内閣と元老・貴族院間を調停することを好餌 として政友会に歩み寄り,責任問題とこれに絡まる戦後政局運営の厄介払い,約めて言えばほとぼり冷まし,を図っ たのである。もちろん,政友会のみが一方的に桂のために利用されたというのではない。魚心があるから,水心があ るのであって,政友会の魚心は先に引いた原の談話の中に,眞に率直に示されているのである。桂内閣はこの年の 12 月 21 日に総辞職し,翌年 1 月 7 日に西園寺内閣が成立することになる。 なお,上に述べた桂内閣と立憲政友会との諒解は,密約として成立したものであるから,作者の二葉亭四迷のみなら ず,ジャーナリズムを含む国民一般には全く知られていなかったのである。 ⑦ 小村壽太郎,飫肥藩出身。桂内閣の外務大臣(ポーツマス媾和会議全権)。帰国したのは 10 月 16 日である。 ⑧ 谷干城,土佐藩出身,陸軍中将・子爵・貴族院議員,対外硬派の国民主義者。西南戦争時熊本鎮台司令官。なお,こ の時代の「国民主義者」を昭和前半期の狂信的な超国家主義者と同列に論じることはできない。 ⑨ 暗に議員買収を指しているのかもしれない。政府は衆議院との対立を緩和するために,官職,利権,金銭などによる 反政府派議員の買収を常用した。 明治憲法においては,内閣は帝国議会に基礎を置かず,従って内閣は,議会に対してではなく,天皇に対し責任を 負った。大日本帝国憲法第 55 條第 1 項は,周知の通り,「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と規定されて いる。 第 1 議会から日清戦争の開戦直前に召集された第 6 議会まで(この期間の議会を初期議会と呼ぶことがある)の予 算案をめぐる攻防は,政策上は,富国強兵を目指す政府の積極財政と民力休養・行財政整理をスローガンとする民党 の消極主義の対立ではあったが,政略的には,「恩賜の民権から恢復の民権へ」を標榜する民党の藩閥政府打倒の有 力な戦術とされた。しかし,民党のこの戦術は藩閥内閣をかなり手こずらせたものの,結局政局の混乱を生み出した だけで,民党の期待するような結果を齎すべくもなかった。 政府は議会に根拠を持たず,これに対して責任を負わなかったから,貴衆両院の上程する「内閣弾劾上奏案」,「政 府問責決議案」や「内閣不信任決議案」などの可決は,法的には,政府を何ら拘束しなかった。勿論そうは言っても, こうした決議案が議決されるならば,政府が道義的に追い詰められ,政治的に傷つくことは当然である。それ故,政 府は決議案の上程に対抗して,議会に停会を命じてその間に反政府派の切り崩しや多数派工作を試みた。そして万策 が尽きた場吅には,政府は衆議院を解散するか,内閣を投げ出して総辞職した。予算案や政府提出の重要法案をめぐ っても,概ね同様の政治的駆け引きが行われたことは言うまでもない。 個々の政変についてはそれぞれ個別の事情があったわけであるが,ごく大まかに見れば,以上が,第一次護憲運動 期あたりまでの政府と議会の遣り取りである。もちろん,藩閥内閣と政党との提携や離吅集散はあったものの,こう した経緯が派手に展開された最後の事例は,シーメンス事件で集中攻撃を浴びた第一次山本内閣の末期であろうか。 軍艦建造費を攻撃されて予算不成立となった山本権兵衛は内閣を投げ出さざるを得なかったのである。これにつづく 大隈・寺内内閣あたりから,議会と政府の遣り取りの手法に変化が生じたような印象がある。 なお,憲法上,宣戦媾和や条約締結などの「天皇大権事項」は,内閣の輔弼に基づいて,天皇が行ったから,議会 の議決を要しなかった。 ⑩ 政党はそれぞれ院外団を養っていた。彼らは,政党の演説会や選挙運動その他の院外活動,政党領袖間の連絡,使い 走りなどに活躍した。院外団活動は,いわゆる党人派政治家の修行の場でもあった。彼らの活動の有様は,例えば「大 野伴睦回顧録」の中に活写されている。 ⑪ 衆議院の解散をちらつかせて反政府派議員に脅しを掛けることを云うのであろうか。衆議院との対立が行き詰まれ ば,政府は打開策としてしばしば解散に訴え,総選挙で反政府派候補に対して露骨な選挙干渉を行った。露骨な選挙 干渉と言えば,第一次松方正義内閣の内務大臣品川彌二郎によるものと,第二次大隈重信内閣の内務大臣大浦兼武に よるそれが有名であるが,もちろん露骨な選挙干渉がこれに限られると言うことではない。しかし政府は,反政府派 の落選を狙って,多かれ尐なかれ,弾圧を加えたものの,議会における反政府派の過半数割れを狙ったこのような戦 術は,余り成功したとは言えず,おおむねは反政府派が過半数を維持したのであるが,しかし,議員にとっては,「先 生」の地位を維持するためには,総選挙の試練を潜り抜けて再び議席を確保しなければならなかったから,当然なが ら,解散は決して歓迎すべき事ではなかった。 ⑫ 衆議院の対外硬派は,遼東還付と京城事変に関する第二次伊藤内閣の責任を追及して,1896 年 1 月 9 日「内閣弾劾 上奏案」を提出したが,内閣と提携する自由党の反対により否決された。 日清戦争の結果,我が国は清国から 2 億テールの戦費賠償金を獲得した外に,台湾と澎湖諸島及び遼東半島を領有 することになった。しかし,東アジア経略の有力な海軍根拠地を求めるロシアが,日本の遼東半島領有は「将来永ク 極東永久ノ平和ニ対シ障害ヲ与フルモノ」であるとの口実の許にフランスとドイツを誘って,軍事的圧力の許に,1895 年 4 月 23 日に日本政府に対して遼東半島領有抛棄を勧告した(三国干渉)。結局,日本政府はこの勧告を受け入れ, 清国に遼東半島を還付した。しかし,日清戦争の戦勝国日本がロシアの軍事的圧力に屈したことは朝鮮及び清国にお ける日本の威信を著しく傷つけることとなり,逆にロシアの東アジアにおける存在を重からしめることとなったの は,蓋し当然の結果ではあった。翌 1896 年 6 月に,李鴻章とロシア帝国外務大臣ロバノフとの間に対日軍事秘密条 約が締結され,ロシアによる北滿洲を横断する東清鉄道敷設が吅意されたのは,こうした東アジア情勢の進展を背景 とする。 朝鮮半島に於ける主導権を巡って争われた日清戦争ではあったが,朝鮮政府の実権を握る閔妃とその一族の親露政 策の前に,戦後,朝鮮半島に於ける日本の影響力は後退した。こうした情勢を挽回する為に,1895 年 10 月 7 日から 8 日未明に掛けて,ソウル駐在公使・陸軍中将三浦梧樓の指揮の下に,朝鮮人に変装した日本公使館員や浪人が夜陰 に紛れて王宮に侵入し,閔妃を寝室で殺害し,その死体を焼き払うという事件を起こした。この事件は国際的な非難 を呼び起こし,対忚に苦慮した日本政府は三浦公使以下の関係者を召喚して,広島地方裁判所の審理に付したが,証 拠不充分により全員無罪とされた。その翌年の 2 月 11 日,仁川に停泊するロシア軍艦の陸戦隊がソウルに進軍し, その保護の許で,朝鮮国王高宗とその世子がロシア公使館に移り(「露館播遷」と呼ばれる),朝鮮に親露政権が成 立した。 ⑬ 尾崎行雄,衆議院議員。1896 年 1 月 9 日,遼東半島還付・閔妃問題で伊藤内閣の責任を追及して,内閣弾劾演説を 行った。 ⑭ 国権主義的政治結社である国民協会は佐々友房(熊本県出身,衆議院議員)の名を以て,衆議院に対して,「露館播 遷」に関する政府の責任を追及して,「内閣弾劾決議案」を提出した。衆議院は 10 日間の停会を命ぜられたが,停 会中に山縣有朊が国民協会の副会頭品川彌二郎(山縣は長州閥,と言うよりは山縣閥の総帥で,品川とは吆田松陰の 松下村塾や長州藩奇兵隊以来の先輩後輩關係である)を説得し,これを請けて品川が佐々を口説き落とした。結局, 国民協会は決議案を撤回したが,院議はその要求を容れず,決議案を採決に附した。ここに,国民協会は自らの提出 に係る決議案に反対するという醜態を演ずることとなったのである。 ⑮ 註⑨に述べた通り,政府は議会の反政府派を籠絡懐柔する手段として,反対派の要人に政府官職や地方官官職を提供 した。 ⑯ 伊藤博文。当時伊藤は枢密院議長であり,その官邸は霊南坂にあった。 ⑰ 未詳。 ⑱ 第四次伊藤内閣は,1901 年 5 月 2 日に閣内不統一で総辞職した。伊藤博文は衆議院で過半数を占める立憲政友会の 総裁であった。元老たちはみな,衆議院で過半数を占める有力政党とその総裁である元老伊藤とを衆議院で相手に回 すことになる政権担当に尻込みした。衆議院における多数派を背景とした元老伊藤の権威の前に,内閣が伊藤の意の 儘に操縦される危惧があったのである。一ヶ月ばかりの混迷の後,お鉢は後輩世代の桂太郎に廻ってきた。桂は元老 たちから協力の約束を取り付けて 6 月 2 日に内閣を組織した。世間はこれを「緞帳内閣」とか「次官内閣」とか呼ん で冷やかした。 元老たちは,桂内閣を次の政権担当までの繋ぎ(いわば,ワンポイント・リリーフ)と見て,当面この内閣を「黒 幕」として閣外から操縦することが可能であると考えていた。 しかし,1900 年の北清事変に始まるロシアの滿洲軍事占領を契機とする日露関係の緊迫化と相俟って,元老達は, 日露交渉とこれと並行する日英同盟交渉,更に進んでは日露戦争の遂行という,明治期最大の対外的危機状況の中で, 結果的に見れば,桂内閣を全面的に支えなければならない立場に置かれたのである。そしてこうした政局の展開の中 で政権は元老の手を離れてしまっていたのである。 「下」の冒頭にある桂の独白はこのことを云うのである。彼らは,政治的影響力は残しながらも,これ以後内閣を 組織することはなかった。 ⑲ 山縣有朊。この当時目白に邸宅があった(椿山荘)。 ⑳ 不明。長州出身の野村靖(1888-'91,'93-'94,1900-'09 枢密顧問)あたりを念頭に置いているか。 21 大隈重信(憲政本党)を念頭に置いている。