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私は敵になりません! - タテ書き小説ネット

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私は敵になりません! - タテ書き小説ネット
私は敵になりません!
奏多
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
私は敵になりません!
︻Nコード︼
N1075CO
︻作者名︼
奏多
︻あらすじ︼
キアラは伯爵家の養女。王妃の女官にされる予定で引き取られた
が、そのために二回り年上の人と結婚するよう命じられる。絶望し
た彼女の頭の中に湧きだしたのは、前世の記憶。そしてよく遊んで
いたゲーム﹁ファルジア王国戦記﹂のことと、そこに登場する敵の
女魔術師のことだ。
﹁結婚したら、まんま敵キャラと同じ名前になっちゃう!﹂
彼女は嫌すぎる結婚と敵キャラになって死ぬ運命から脱出するため、
1
逃亡を企てる。その際、こっそり便乗させてもらった馬車には、な
んだか見たことがあるような人達が乗っていて⋮⋮。
現在王都へ向かって進軍中。
※主婦と生活社PASH!ブックス様よりH29.2.24書籍5
巻目発売!
2
地図と人物紹介
︵前書き︶
110話現在の人物紹介と地図です。
また、活動報告でも書きますが、主人公と他二名、当初より年齢を
上げて修正しました。
地図は一番下になります。
3
地図と人物紹介
キアラ・コルディエ 16歳。
茶色の髪に灰緑の瞳の土属性魔術師。現在はキアラ・コルディエと
名のり、エヴラール辺境伯の縁者の姪ということになっている。
レジナルド・ディアン・ファルジア 17歳。
銀髪青目のファルジアの王子。
アラン・エヴラール 17歳。
黒髪青目のエヴラール辺境伯子息。レジーやキアラとは友人関係。
カイン・ウェントワース 21歳。
黒髪茶眼のエヴラールの騎士。騎士見習いだった12歳の頃よりア
ランに仕え始める。翌年のルアインとの戦争で、家族を失う。
ホレス 70歳
人間時=宇宙人顔の枯れ木のような老人
攻城戦以降=遮光器土偶の中にin
イサーク 25歳
赤味の強い茶髪に灰色の目のサレハルド王国の第二王子。
兄エルフレイムとは異母兄弟。その兄を幽閉し、自らが強引に王に
なる。
ミハイル 14歳
金髪青目のサレハルド王宮の侍従。イサークが戦場へ連れてくる。
いつもお菓子を持っている甘党。元はイサークの兄エルフレイムの
4
侍従。
ヴァシリー 27歳
金の髪、灰色の目のサレハルドの伯爵。イサークの配下、元帥代理。
エイダ 18歳。
薄茶の髪に青緑の目の王妃の侍女。衝動的に家出をした際にクレデ
ィアス子爵に拾われ、魔術師にされ、名目上は子爵夫人となってい
る。
ジナ 23歳 茶の髪のサレハルドの傭兵。魔獣の氷狐を3匹飼っている魔獣使い。
ギルシュ 31歳
オネエ。サレハルドの氷狐団の副団長兼お母さん。
エメライン・フィナード 17歳。
黒灰色の髪に灰紫の瞳の、デルフィオン男爵の姪。
ヘンリー・デルフィオン男爵 40歳
ルアインに降伏したデルフィオン男爵家の家長。
ルシール・デルフィオン 12歳
デルフィオン男爵の娘。人質にとられたが、エメラインによって脱
出させられていた。
アーネスト・フィナード 38歳
デルフィオン男爵弟。昔はチャラ男だったが妻によって矯正される。
ヴェイン・エヴラール 42歳。
5
黒髪に灰緑の眼のエヴラール辺境伯爵。
ベアトリス・ルディア・エヴラール 37歳。
銀髪に青い目のエヴラール辺境伯夫人
グロウル 33歳 黒鳶色の髪に鋭い目つきの、レジーの近衛騎士
メイベル 57歳。レジナルド王子の侍女。
マイヤ 23歳。ベアトリスの侍女その1。褐色の髪。布を扱う商
人の娘。
クラーラ 25歳。ベアトリスの侍女その2。金の髪。
トリメイン 40歳。エヴラール辺境伯家の騎士隊長。負傷のため
休養中。
デクスター 32歳。エヴラール辺境伯家の騎士隊副長。トリメイ
ンの代理。
ゲイル 50歳。エヴラール辺境伯家の守備隊長。
エダム・レインスター 51歳。レインスター子爵の叔父。白髪交
じりの紳士
ジェローム・リメリック 35歳。リメリック侯爵の弟。体格の良
い中年男性
オーブリー 41歳。カッシア男爵家騎士。スキンヘッドで涙もろ
い。
チャールズ 9歳。カッシア男爵家子息。
フローラ 14歳。カッシア男爵家令嬢。
セシリア 18歳。くすんだ金の髪に翠の目のトリスフィード伯爵
家令嬢。
マリアンネ 24歳。
赤茶色の髪に琥珀の瞳のファルジア王国王妃。パトリシエール伯爵
6
と通じ、ファルジア王家乗っ取りを画策。ルアイン軍の侵略に手を
貸す。
オーウェン・パトリシエール伯爵 43歳。
一時期、キアラを養子にしていた。
パトリシエール伯爵領は、先々代王の代でルアインに勝利した時、
飛び地としてルアイン領内に土地を得ていた。その関係でルアイン
の令嬢が嫁いできている。
クレディアス子爵 45歳。
ウシガエル系の顔をしている、実は魔術師。領地のない貴族。
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7
記憶
まさかね、と思っていた。
たまに不思議な夢は見ていた。
TVという代物を見ている自分の夢だ。
魔法なのかわからないが、硝子を貼り付けたような箱に、いろん
な人の姿が鮮やかに映し出されている品だ。映っている人達の中に
は脚を露出している女性も多いし、みんなドレスを着ていない。
目覚めてから、自分は露出願望があってそんな夢をみたのかと少
々悩んだ。
どうやって自分の脳がTVだとか現実にありえない代物を想像し
てしまったのかも謎だけど。
そして鏡の中に映っている、自分以外の人間を見ている夢も見た。
ワンピースも着ていない。胴衣もない鏡の中の自分は、まっすぐ
な黒髪に黒っぽい目の色をしていた。
今の自分はマロングラッセみたいな髪の色だし、目だって灰緑の
冴えない色だ。黒髪黒眼になりたい願望があったのだろうかと、磨
いた銀器に映った自分の顔をまじまじと見たことがある。
でもそんな気持ちは湧かなかった。
むしろ鏡に映る自分の姿は、どこか懐かしさを感じる。亡き母に
似ているからだろうか。
ただ夢を見始めてから、自分の考え方が変わった。
8
父の後妻に冷たく扱われ、ほんの三人ほどしかいない使用人も強
い者になびいて、自分を避け始めた頃のことだ。
私、キアラ・パトリシエールは7歳だった。
それまで通りだったのは自分の部屋だけだったから、部屋の中で
泣いてすごすばかりだった私は、夢を見るようになってから︱︱た
ぶん、ふてぶてしくなった。
まず、父が助けてくれないかと期待するのをやめた。
今まではぐずぐずと泣いてばかりいたけれど、父自身が若い後妻
に夢中で、私を目の上のたんこぶ扱いしていることを、冷めた気持
ちとともにすっと受け入れられたからだ。
心は少し軽くなったけれど、さらに辛いことが自分に振りかかる。
父が亡くなると、私は使用人にされてしまった。
内情が苦しいから、実子じゃない私には衣服を買い与えるのも嫌
だと言われ。使用人用の汚れが目立たない黒い服を一着だけなげつ
けられ、部屋もなにもかも取り上げられた。
一方で、後妻は父との間に生まれた異母弟には絹の服を買い与え
る。使用人たちも強い方になびく者ばかりで、私に慰めを言うこと
すらなかった。
それでも辛うじて耐えられたのは、夢の中で見た今とは違う﹃家
族﹄に優しくされた思い出があるからだ。
後妻も異母弟も自分の家族ではない。そう考えることで、自分を
保っていた。
けれどその生活は三ヶ月ほどで終わる。
見知らぬ貴族の家に養女にされたのだ。
9
私を引き取った貴族、パトリシエール伯爵は、自分の影響力を広
げるために手駒になる娘が欲しかったらしい。
必要とされていたから、養女先では食事を抜くなんてことはなか
った。
綺麗な衣服も与えられ、きちんと令嬢扱いする使用人達もいてく
れた。
愛情は一欠片もなかったが。
それでも令嬢らしく教会学校の寄宿舎に入れてもらうこともでき
て、それから三年間は普通のお嬢様らしく行儀作法などの花嫁修行
的な学業をこなしながら生活できた。
それで十分だと私は思っていた。
一応安心できる寄宿舎の自室の中、あの不思議な夢は間遠になっ
ていったので、自分が現実から逃れたかったせいで見たのだと思っ
ていたのだが。
﹁考えが甘かったのよね⋮⋮﹂
教会学校の寄宿舎の中で、うずくまっていた私はため息をつく。
寄宿舎の自分の部屋で、私は養女先からの手紙を見て、動揺して
叫びそうになり、それを我慢するとものすごい絶望感に襲われて座
り込んでしまっていた。
手紙に、年の差が二回り上のおじさんと結婚せよと書かれていた
のだ。
しかもその相手、愛人が三人も四人もいるとか、お世辞にもロマ
ンスグレーとは言い難いという噂を聞いていた人なのだ。
一度養女先に来たことがあるので、三年前のではあるけれど姿も
見たことがある⋮⋮お顔はウシガエル系だ。
10
自分もそう自慢できる顔じゃないけれど、まだ14歳なのよ。結
婚相手に夢を見たっていいわよね!?
養父のパトリシエール伯爵は、すぐに結婚させるので迎えを寄越
すとまで書いていた。
読んだ瞬間﹁嘘だ!﹂と大声で叫ばなかっただけ、私は偉いので
はないだろうか。
思えば私を引き取ったパトリシエール伯爵は、私を王宮の侍女に
するつもりだと言っていた。だから卒業後は王宮で働けばいいのだ
とだけ考えていたのだが⋮⋮私は無知すぎた。
王妃様の側に上がらせたいとなると、既婚者であることを求めら
れるのだという。
貴族階級の貴婦人であれば、万が一国王のお手つきになる事態と
なっても、その貴族の娘や息子という扱いに出来るからだ。
庶子は認めないというのが国の方針で、そのおかげで王妃の地位
を脅かす心配がなく、王位継承問題が少ないらしいが。
万が一に備えて、そして実家が王妃から睨まれないようにするた
めとはいえ、仕事のために結婚とか、仕事して好みでもないだろう
おじさん年齢の国王に言い寄られたら拒否できないとか、もう逃げ
たい⋮⋮って感じだ。
王宮で働くのって、心理的ハードルが高すぎる。
そうまでして王妃の侍女になっても、ロマンスに心ときめかせる
こともできないし、王妃様の評判もさほど良いものではない。
しかも王妃様って隣国から輿入れした人の上、最近隣国が不穏な
空気を漂わせてるらしい。他の隣接した国に侵略を繰り返して併合
しているそうだ。
11
王妃が隣国ルアインの王妹なので、ファルジア王国は大丈夫だと
言われているらしいが、警戒している人も多い。
そんな王妃の下につくってことは、私、もしかして侵略なんてこ
とが発生したら、王妃の味方にならなきゃいけないってこと? 国
中にとって敵になるんじゃない?
お先真っ暗だ。
未来に光が見えないよ。
悪役まがいのことしたくない︱︱!
と思った瞬間、脳裏によみがえったのは、小さな頃から見た夢だ
った。
そして夢にまつわる様々な記憶までもが泡のように浮かんだ。
地球と呼ばれる星の、日本で生きていた14歳の自分。
姿形は、夢の中で何度も見た黒髪黒目の女の子のものだ。
高いビルはあるけれど、どこかのどかな雰囲気の町に住んでいた。
記憶は14歳のものまでだったけれど、当時の私がよく遊んでい
たゲームのことを思い出して息を飲んだ。
私はシミュレーションゲーム系が好きだった。
リアルを追及したような戦闘シーンはめまぐるしすぎて、自分の
番と敵の番、とターンで行動できるのがわかりやすくて、自分に合
っていたのだ。
そんなシミュレーションゲームの中に、乗っ取られかけた王国を
取り戻すために戦う主人公の話がある。
この国の名前が使われた、ファルジア王国戦記。
主人公は王族が殺され、隣国に侵略された国を救うため立ち上が
り、敵国とそれを引き入れた王妃の軍を相手に戦うのだ。
12
ゲームの中には、進軍する主人公の邪魔をする魔術師がいた。
毒妃マリアンネの側近、キアラ・クレディアス。
嫁に行けと言われてる先が、クレディアス子爵って人なわけで。
結婚したら、私がその名前になるんだけど⋮⋮。
ちょっ! 私まさか、悪役!?
と頭の中がパニックになってるのが、今現在の私の状況だ。
13
逃亡します!
﹁うそうそ⋮⋮悪役とか何なの⋮⋮。いや絶対夢。夢よ﹂
誰だって悪役になんてなりたくないだろう。
そもそもゲームと同じ世界って何ですかそれ?
思わず口から乾いた笑いが漏れる。
きっと夢を見てる時に、脳がなんか変な妄想を作り上げただけ⋮
⋮と思ったところで、気づく。
︱︱この世界らしい考え方でいくならば、鮮明でしっかりと記憶
に残る夢って、正夢って認定されてしまうってことを。
﹁教会の修道士達の仕事の一つが、夢解きじゃないのよー!﹂
近隣の王国に至るまで、ほとんどの人達が信仰しているエレミア
聖教。
その教えは清く正しく生きましょうという、よくある代物。
だけど夢占いみたいなのが、オカルトではなく神からの恩寵と位
置づけられている。
例えば﹁昨日、なんかすごく鮮明にあこがれのカレに告白される
夢みちゃった! きっとカレも私のこと好きなのよ!﹂と言うと、
前世の日本では﹁夢と現実の区別ついてない変な奴だ﹂と思われる。
しかしこっちの世界で修道士のみなさんに夢の内容を話すと、夢
解きの解説書をめくりつつ、
﹁それは相手があなたを思っているからかもしれませんね﹂
14
とか
﹁残念ながらこれは逆夢と言いまして、むしろあなたが恋慕うあま
りに見たものでしょう﹂
とか大真面目に解説されるわけだ。
誰も彼女の夢が現実と関わりがあることを否定しない。
この常識に当てはめるのなら、私は未来を夢に見たことになって
しまう。
むしろ脳内妄想だと片付けたいこの気持ちの根拠は、前世の記憶
にある﹃正夢なんてあるわけない﹄という考え方なのだ。
八方塞がりな状況に絶望しそうになりながら 正夢じゃない可能
性を探して、脳内に唐突に増えた記憶を検証してみる。
﹁そうだ、そもそもゲームのキアラは魔術が仕えたはずだけど、私
まだ使えないし。それに、周りで使ってる人も見たことないんだけ
ど﹂
魔法がこの世界にあることは知っている。
王宮お抱え魔術師なんてのもいて、戦場ではかなり良い戦力にな
るので国が保護するらしい。
が、魔術師は希少なのだ。
どうやってなるのかは門外不出で、魔術師からその弟子へと伝え
られていくようだ。ただ、悪魔と契約するのだとかまことしやかに
噂されている。
なら、これが前世の記憶だとして、ここがゲームとそっくり同じ
世界だとしたら、近い将来、私は悪魔と契約させられるということ
になるのではないのか?
15
﹁やだよ悪魔と契約なんて。清く正しく生きていきたいんだけど私﹂
家族にも恵まれず。結婚でも恵まれないことは決定している。
その上ファウストみたいな真似させられるかもしれないだなんて、
人生ハードすぎないか?
他に否定材料はないかと探すが、王妃の名前も一致。
主人公の家であるエヴラール辺境伯家というのも聞いた事がある。
隣国の名前も一致。
⋮⋮もう詰んだとしか思えない。
しかも敵役だ。
ゲームで王妃の引き入れた隣国の軍が駐留する砦や町に戦いをし
かけると、何回かに一度、キアラが敵として参戦してくる。
後半までは、攻撃できない場所で巨大土人形を作成して戦う相手
を増やす、面倒な敵だ。
その後王城の近くでの戦いにて、ようやくキアラは離脱すること
なくフィールドに留まっているので、主人公と仲間たちが倒すこと
ができるようになるのだ。
土人形を呼び出して使役するキアラの場合、自分を守る壁役の土
人形を倒されると、ストーリーシーンに切り替わり、誰かの剣で刺
し貫かれる様子がアニメーションで表示される。
まぁ、倒す相手の絵なんて出せないだろう。
主人公側パーティの誰でもキアラを殺せるわけで、人数分なんて
用意してられないのは当然だ。ラスボスでもないしね。
あと、主人公側も魔術師を仲間にすることができるのだが、その
魔術師が魔法でキアラを倒したとしても、同じように剣で刺される
16
アニメーションが出る。
﹁一つでいいや﹂という製作者側の決定によるものだろう。
そのたった一つの殺害シーンを思い出した私は、自分のことだと
思うと鳥肌が立ってきた。
﹁うう、若い身空で死にたくない⋮⋮ってそうだ。結婚しなきゃい
いんじゃない?﹂
キアラ・クレディアスにならなければいい。
今現在魔法は使えないのだから、結婚後に悪魔と契約させられる
のだろう。
魔術が使えない今ならば一般人として生きていけるのではないだ
ろうか。しかも戦争に駆り出されることもない。
これで前世の記憶どおりに状況が進んでも、生きて行ける。
︱︱よし、逃げよう。
決めると、私はまず寄宿舎に入る時に持ってきたトランクを寝台
の下から引き出し、鍵を開けて財布を取り出す。
たいていの物は養女先から送られてくるのだが、時折小金が必要
になる時というのはある。例えば寄宿舎の寮母をしている修道女に、
何か便宜をはからってもらう時とか。部屋の掃除をしてほしい時と
か。
そういう目的で持たされていたお金が、10万シエントほど。
金貨8枚と銀貨19枚に銅貨10枚が入っていた。
それが残っているのは、部屋の掃除を決して他に頼まず自分でや
っていたからだ。
なにせ私は毒物を所持している。
17
養女先のパトリシエール伯爵が、持たせたのだ。
万が一のためにとか言ってたけど、私になにをさせる気だったん
だ⋮⋮。幸いにも、なにも指示とかされなかったけど。
捨てようにも、庭の花とか木とか枯れないか心配だったので捨て
られなかった。人が死ぬ量だけは教えられたけど、成分とかまった
くわからなくてお手上げだったので。
⋮⋮そうか。毒を持たせるような養女先のことだ。結婚した私に
悪魔と契約させる可能性って、すごい高いじゃないか。
今更そんなことに気付き、自分に呆れながら、私は財布を着てい
た黒のスカートのポケットにねじ込む。
そして誰もいない部屋の中だからと、スカートを上げて、太腿に
大ぶりのナイフと毒薬の瓶を特製の革ベルトで括り付けた。
ナイフでの戦い方は、伯爵家に養子になった直後に教えられた。
⋮⋮護身のためとか言ってたけど、筋肉痛になるまでとか、毎日一
時間訓練とか、今考えると護身が目的とは思えない。
毒をもたせたり刃物で戦えるようにしたり、パトリシエール伯爵
は私を暗殺者にでもしたかったのだろうか。
しかしこれからは身一つで生きていかなければならない。
結構物騒なこの世界で、武器も無しに生きていける気がしない。
そこに関しては、毒の扱いとナイフの扱いを教えられたことに感謝
しよう。
さて準備はこれでいい。
荷物は他に持たなかった。誰かに寄宿舎から出るのを見られても、
これなら﹁教科書を忘れて、授業棟へ取りに行くの﹂とか誤魔化せ
るからだ。
18
誰かを頼ろうとは思わなかった。
浅く付き合う友達はいても、彼女達は生粋の貴族のご令嬢。親に
逆らって一人で生きる! と話したところで、驚かせ、戸惑わせる
だけだ。下手をすると親切心から親元に連絡してくれようとするか
もしれない。なのでうかつに話すわけにはいかなかった。
部屋を出た私は、なるべく落ち着いた足取りで寄宿舎を後にする。
そこから人に見られないルートを通って、教会学校の敷地の端ま
で移動した。
生け垣と学校の石壁の間に隠れ、少しほっとする。
後はここから出るのみ。
教会学校のある丘から一番近い町までは、目と鼻の先だ。人ごみ
に紛れて衣服を取りかえてしまえば、教会学校から逃げてきたこと
を、少しでも隠せるだろう。
その後は、養女先が追いかけてくるかもしれないので、最速でこ
の領地から外へ出よう。
できれば他国へ行きたいが、この国はそこそこ広い。有名な都市
へ行かなければ見つかりにくいだろう。貴族令嬢として育てたはず
の娘が、どこかの貧しい町で生活できるとは思うまい。
﹁田舎よ。田舎に行こう。でもちょっとは裕福な商人とかが暮らし
てるぐらいのちょっと大きな町がいいわ﹂
そういう所なら、ちょっとお嬢様っぽい行動をしてしまっても奇
異には見られないだろう。そして仕事もそこそこありそうだ。
大まかな方針を決めた私は、夕暮れを待たずに教会学校の壁が崩
れた場所から抜け出した。
19
学校の周囲は、丈高い木の林に囲まれている。
そこをつっきろうと足を動かしかけたその時、ふいに馬のいなな
きが聞こえた。二頭⋮四頭はいるだろうか。
﹁⋮⋮?﹂
門の近くだ。
普段は、司祭が出入りする時と、食料を運ぶ馬車が朝やってくる
以外には教会学校に訪れる者はほとんどいない。
後は学期の終わりや始まりに、帰る生徒を迎えに来たり、入学す
る生徒を送ってくる時にだけ馬がやってくるのだ。
急遽、家に帰る必要が発生した生徒がいるのだろうか。それとも
パトリシエール伯爵が、すぐにでも私を連れ戻そうと、手紙と同時
に馬車も寄越していたとか?
様子をうかがいに行った私は、乗り込もうとしている人物を見て
ほっとする。
自分と同じくらいの年齢の男子生徒が一人いた。
どこかで見たことがあるような気がする人だ。
この教会学校には貴族やその親族だけが入学しているので、彼も
貴族だろう。ということは領地で何か起きて、親から呼び戻された
のかもしれない。
自分と関係ないのがわかって、気持ちに余裕ができたせいだろう
か。
荷物を積んだもう一つの馬車に目が行った。
幌がかかって中にどれだけの荷物があるのかはわからないが、そ
こに潜り込めないだろうか?
馬車に乗れば、早く遠くまで逃げることができる。養女先が追い
20
かけて来たとしても、姿をくらましやすい。
こっそり便乗して、教会学校の王領外へ出たところですぐ降りた
ら、相手にもそう迷惑はかからないだろう。
これは良い思い付きだと思い隙をうかがっていると、乗り込もう
とした子息が学校内へ反転した。なにやら忘れ物をしたようだ。従
者らしき銀の髪の少年も後に続く。
護衛についてきたのだろう、馬上の騎士達5名もそちらに気を取
られた。
︱︱女神が笛を吹いた。
思いがけない好機がやってきたとき、人はそう言う。美しい女神
の笛の音に引き寄せられるように、奇跡がやってきたのだと。
その時の私にも、笛の音が聞こえた気がした。
とたん、私は衝動的に走り出し、幌付きの荷馬車に乗り込んでい
た。
女神の奇跡のおかげか、誰も私に気づかなかったようだ。ややし
ばらくして、馬車は何事もなかったかのようにゆっくりと動き出す。
ガタゴトと荷物が音を立てて揺れ出してから、私は馬車の奥へと
移動した。
これなら物音を立てても見つかりにくいからだ。
大小さまざまな箱が詰まれた荷馬車の上は、足の踏み場もなかっ
たが、大きな箱の中に布で撒いた小さな棚が入っていたので、それ
を取り出して転がり落ちない場所へ置き、代わりに自分が入る。
閉ざされた空間の、しかも見つかりにくい場所を見つけた私は一
息ついた。
21
すると緊張の糸がほぐれたのか、急に眠くなってくる。
うとうとしていた私だったが⋮⋮外から聞こえた声で検問を通り
がかったことに気づいて息を詰めた。
﹁検問?﹂
﹁なんでも風狼の集団が現れるのと同時に、盗難事件が起きたそう
です。風狼を操る盗賊だった場合はやっかいですからね。盗品を持
って移動する盗賊の仲間がいないか、調べているそうです﹂
﹁まぁ、うちは通過するだけで済むだろうが⋮⋮急ぎなんだがな﹂
幌馬車の近くに、護衛の騎士達がいたようだ。荷馬車の御者と会
話している。
内容から、盗賊を捕まえるための検問らしい。
間違っても貴族の荷を改めることはないだろうと思い、私も彼ら
と同じく時間の方を気にしていた。
なるべく学校から早く遠ざかりたかったのだ。
さっきまでは素晴らしい案だと思ったのだが、他人の馬車に潜り
込んで逃げるというのは、見つかりやすい方法だったのではないか
と思い直したのだ。
滅多に馬車など来ない教会学校。
逃げ出そうとした女生徒が、歩くより速いと馬車に便乗している
可能性に、だれでも気付いてしまうだろう。
﹁うかつだったかな⋮⋮﹂
そうは思ったが今更だ。
本当にあの時は、女神の笛の音が聞こえたように思ったのだから。
ただひたすら祈るしかないのだが、さすが貴族の馬車。検問でも
優先されたらしく、ややあってがらがらと車輪が回り出す。
22
よし、これなら早々に検問を通過して、今日中にもっと遠くにま
で行けるだろう。
安心したら、さらに眠くなってきた。
再び動き出した馬車の中、私は箱の内部にぶつかって多少痛むこ
とも気にせず、いつのまにか眠り込んでしまったのだった。
23
不審者をみつけました
エヴラール辺境伯家の一行は、教会学校を出発して五時間後に小
さな町へ到着した。
手配していた宿も小さなもので、煉瓦造りであることだけが利点
としか思えない民家を改造したような建物だった。子息であるアラ
ンにあてがわれた部屋も、手を広げて二歩歩いたらすぐに手が壁に
つくような狭さだ。
食事も加工肉を焼いたものと野菜が入ったスープに固めのパンと
いう簡素さ。
それでも問題ないと辺境伯家の一行が思えるのは、騎士の家系で、
質実剛健を旨としてきたからだろう。
アランも幼い頃から戦場を想定した粗食や野営訓練に慣らされて
いるので、文句は言わない。随伴者達も当然のように食事を変える
べきかとアランに問うことはなかった。
食事後、アランは同じような年頃の従者と一緒に、宿の外を歩い
ていた。
久しぶりに再会した者同士、話し合いたいことはいくらでもあっ
たのだ。
護衛を一人連れた状態で、二人は仲よさそうに会話をしながら先
へ進む。
しかし彼らの会話の内容を聞く者がいれば、奇妙なものだとわか
っただろう。
﹁正直、大人しく馬車に乗ってるのは息が詰まるな﹂
﹁私もだよ。多少足が辛くなっても、馬を駆けさせた方が気分はい
24
い﹂
﹁かといって、馬車以外に乗るわけにもいかないし﹂
﹁君はウェントワースの後ろにでも乗せてもらえばいいよ﹂
﹁嘘だろ。十五歳にもなって男と二人乗りとかありえないって﹂
﹁馬が足りない以上、それしかないだろう?﹂
嫌そうな表情になるアランと、くすくすと笑う従者の少年。まる
で対等の関係にしか思えないような会話だ。
しばらく軽口をたたきながら歩いていた二人だったが、馬車を停
めた厩の近くで、従者の少年が足を止めた。
﹁⋮⋮どうかしたのか? レジー﹂
﹁アラン、耳を澄ませてみて﹂
レジーと呼ばれた従者が青い瞳を閉じる様子に促され、アランも
口を閉ざして耳に集中する。やがてアランの耳にも、レジ︱が何を
聞き取ったのかわかった。
﹁⋮ソーセージ⋮⋮クリーム⋮⋮もう食べらんない﹂
かすかに聞こえる声。
その発生源は、厩の横にある車宿の馬車の中だ。今、そこに馬車
を停めているのはアラン達一行しかいない。
アランは表情をこわばらせる。
漏れ聞こえる声は女の子のものだが、でも油断はできない。なに
せ辺境伯家の馬車に潜り込んでいるような人間だ。暗殺目的か、物
盗りかもしれない。
﹁眠り込んでの寝言か? 物盗りや暗殺者なら、今のうちに引きず
25
り出さないと﹂
護衛を呼ぶアランとは違い、レジーの方は首をかしげる。
﹁でもさ、暗殺や物盗りしようなんて人が、馬車に乗ったまま居眠
りする? 護衛だって宿の人間だっているんだから、悠長に寝てた
らすぐ見つかるのに﹂
﹁レジーは暢気だなぁ﹂
呆れるアランだったが、レジーも寝言らしきつぶやきの主を調べ
ることには賛成のようだ。
背後から近づいてきた護衛に、アランが命じる。
﹁誰か馬車の中にいるみたいだ﹂
﹁お調べしますので、離れていて下さい﹂
上背の高い騎士は表情を変えずに、隠れてついてきていた他の騎
士を手招きしてアラン達の側につけ、車宿へと入っていく。
声の発生源を確かめると、人が潜んでいるのはアラン達が乗車し
ていた方ではなく、荷物を積んだ幌馬車の方だったようだ。
馬車に乗り込んだ騎士が、大柄なせいで奥に入れないのか、箱を
いくらかどかそうとしている。
﹁待ってウェントワース﹂
それを見ていたレジーが、するりとそちらへ駆けて行った。
﹁おい、レジー!﹂
大声で呼ぶわけにもいかず、小声で引き留めようとしたアランだ
26
ったが、その間にレジーは馬車の前側から荷台に乗り込んでしまっ
た。
後部にいた騎士ウェントワースも、急いで止めようとやってきた
が時既に遅し。呆然としている間に、レジーが再び前側の幌をかき
分けて顔を出したので、全員がほっと息をついた。
﹁おい、レジー。勝手なことすんなよ。立場考えろよバカ﹂
﹁大丈夫だよ。⋮⋮ほら﹂
そう言って幌を脱けだしたレジーが抱えていたのは、見覚えのあ
る黒の制服を着た、茶色の髪の少女だった。自分達よりも年下のよ
うに見える。
﹁中で寝てたよ﹂
レジーはにっこりと微笑んで言う。
﹁しかもアランがいた学校の制服着てるってことは、身元も確かな
んじゃない?﹂
特に危険はなさそうだと言うレジーに、アランはそれでもむっつ
りとした表情で注意する。
﹁制服なんて誰かの物を拝借して着ることだってできるだろ。⋮⋮
まぁ、確かに平民の女には見えないけど。しかし抱えられても熟睡
してるってどういう神経してんだ⋮⋮﹂
﹁箱から引き上げても、全然起きないんだよね﹂
異常だった。
普通、熟睡していても抱き上げられるようなことになれば、幼子
27
でもなければ起きるはずだ。
﹁レジー様、その少女の身柄をお預け下さい。調べる必要がありま
す﹂
騎士ウェントワースに言われて、レジーも腕の中の少女を差し出
す。
ウェントワースは少女を抱えたまま、宿の部屋に戻る。アラン達
もついて行った。
宿の一室に入ると、寝台に少女を横たわらせる。
それでもまだ目覚めない彼女は、室内の明かりの中で見ると益々
貴族令嬢にしか見えなかった。
少し乱れていても、毎日梳られていたのがわかる艶やかな淡い色
合いの茶の髪。日に晒されすぎていない白い肌。水仕事の痕などな
い手や指。脱がせたブーツも、誰かのを借りたものではないようだ。
ぴったりと彼女の足に合っているので、彼女のために仕立てさせた
代物だろう。
さすがにウェントワースも、貴族令嬢がたまたま潜り込んだとい
う線が濃厚になったと考えたようだ。
﹁本当に身元が確かな人物でしたら、アラン様から謝罪をお願いい
たします﹂
そう言いながら、衣服のポケットの中を改める。
ポケットに入っていたのは、柔らかな木綿のハンカチ。そして財
布。財布の中身もそこそこあり、平民の疑いはますます遠ざかる。
そして白い便せんを上着の隠しから見つけた。
28
﹁手紙?﹂
﹁やはり学校の生徒だったようですね。ご覧下さい﹂
ウェントワースがアランに手紙を差し出す。受け取り、短い文面
が書かれた手紙を、のぞき込んできたレジーと一緒に読んだ。
送り主は、パトリシエール伯爵。彼女は娘らしい。
それにしては乱暴というか、使用人に命じるかのような内容で、
しかも結婚相手が決まったこと。学業を切り上げ急ぎ婚儀を上げる
ので、迎えを寄越すというものだった。
﹁しかもクレディアス子爵か⋮⋮﹂
﹁さすがに気の毒だね﹂
親子ほどの年の差だけならまだしも、好色で妾を何人も家に囲っ
ているという噂は、アラン達でも知っていた。しかも見たところ彼
女はアラン達よりも年下だ。状況を考えると悲惨と言っていいだろ
う。
ということは、手紙の宛先であるキアラという名のこの少女は、
結婚を嫌がって逃げてきたのだろうか。
それにしても彼女はまだ目覚めなかった。
着衣を探られたのだから、驚いて飛び起きてもおかしくないのに。
疑問に首をひねるアランの横で、レジーがすん、と何かを嗅いで言
った。
﹁ああ、これが原因だよアラン﹂
﹁何が?﹂
﹁手紙。便せんに眠り薬が塗られてる﹂
﹁は!?﹂
29
アランは思わず手紙を取り落としそうになった。それを人差し指
と中指で、ふわりと挟んでレジーが取り上げた。
﹁匂いがするから、中身を読んでいるうちに吸い込んで効果が出る
ようになっているんじゃないかな。時間が経ってるからもう効力は
薄まってるみたいだけど、封筒から出した瞬間ならまだ拡散しきっ
てないし、この子はかなりの量を吸い込んでると思うよ﹂
そうしてレジーが、じっと真剣な表情でキアラという少女を見下
ろす。
﹁伯爵は、眠らせて逃げられないようにした上で、彼女を連れて行
く気だったんだろうな﹂
﹁⋮⋮自分の娘にしては、扱いがひどくないか?﹂
アランも自分の表情が渋いものになるのを感じた。
無理矢理政略結婚させるため、睡眠薬までも使うというのはどう
いうことだろうか。
いつもは無表情なウェントワースも、気の毒そうな目を彼女に向
けていた。
﹁嫌がるのは織り込み済みで、目が覚めたら既成事実後⋮⋮にでも
して、結婚から逃げられないようにするつもりだったんだろうな﹂
レジーは彼女に起こるはずだった出来事をさらりと推測する。
﹁なんにせよ、私達を狙う暗殺者などではないようだね﹂
30
不審者をみつけました︵後書き︶
変更:侍従↓従者
31
平身低頭で謝罪します
そんな話し合いがもたれていたとは露知らず。
私はぐっすりと眠り続け、日がそこそこ高くなる頃に目を覚まし
た。
随分と深く眠っていた感覚は身体に残っていたので、固い木の箱
の中にいるっていうのに、どうしてこんなにぐっすり眠れたんだろ
うと思いながらみじろぎする。
意外に自分は眠る場所が気にならない質なのだろうか、とまで考
えた。
でもなんだかちゃんと寝台の上に横たわっているみたいだと考え
ながら目を開けると⋮⋮私をのぞき込んでいたのは見知らぬ年上の
男性でした。
﹁!! わわっ、ぎゃああああっ! げほげほっ﹂
驚きに叫んで、そのせいで咳き込んでそのままくの字に身体を丸
める。
目に涙が浮くほど咳き込み続けていると、誰かが背中を撫でてく
れる。うう、ありがとうございます。でも安心できない。
﹁あの、すみませ⋮ごほ⋮ん﹂ 少しは落ち着いたところで礼を言って、手の主を見上げる。
やっぱりさっきのお兄さんでした。
黒髪の青年は私の様子に動揺した様子もなく、実験結果を見守る
人のような目を向けてくる。
32
一体どうしてなのか。
寝起きでぼんやりしていたせいで、最初はほんとに何も理解でき
なかった。
けれど一瞬後に、あ、ここ馬車の中じゃないや、と気づき。
次にようやく自分が寝ていたのが寝台で、箱の中じゃなくどこか
の部屋だと認識し。
飛び起きると速攻で土下座した。
﹁ひぃぃぃっ、無断乗車すみませんでしたあああっ!﹂
黙って乗せてもらったことを許してもらうには、とにかく謝るし
かないと思ったのだ。だから平身低頭で私は謝り倒した。
﹁つい出来心で乗ってしまって、申し訳ないです! 馬車を見た瞬
間、私の脳内で女神の笛の音が響いちゃって! あの、すぐにおい
とましてもうご迷惑をおかけしませんので! そうだ乗車賃置いて
いきます! お詫びの気持ちも込めて色つけますんで、これで勘弁
してやってください!﹂
ひどい動揺の中、震える手でポケットの財布から取り出したのが
金貨だったので、私はそのままそれを置いて立ち上がろう︱︱とし
てそのまま前のめりに寝台から落ちた。
﹁ぎゃあ!﹂
がたんと結構大きな音を立てて木の床に落ちた私は、痛いのと、
心理的ダメージが大きすぎたのとで起き上がれなくなる。
33
無断乗車の上、居眠りしていたところを発見されて、介抱された
あげくに寝台から落ちるとか、めちゃくちゃ恥ずかしい。今すぐど
こかに隠れたい。
しかも青年は笑ってくれもしないのだ。気まずい⋮⋮。
どうしていいのか分からなくて、落ちて手を突いた態勢のまま動
けずにいると、誰かが笑い出した。
﹁くくっ、あははっ、初めて女の子が寝台から落ちるの見た!﹂
屈託無く笑う声に、思わず顔を上げる。
今まで部屋の中には無表情な青年しか居なかったのだが、いつの
間にか部屋の扉が開いていて、二人の少年が立っていた。
どちらも織りのしっかりとした高級そうな服を着ている。
私が乗った馬車の持ち主だろう、教会学校の黒い制服を着た黒髪
の少年は、呆然としている。けれど隣にいた、銀の髪の少年が笑っ
ていた。
首元で結んだ銀の髪は艶やかで、耳にかかる横髪に縁取られた顔
も、それに負けないほど色素の薄い肌の色だ。
笑いすぎて涙が浮かんでいる目は深い青で、濃紺のジャケットも
その下の詰め襟の白い上着も、非常に質が良さそうだが、衣装の種
類としては従者のものだ。裾長のジャケットには手紙等を入れてお
けるような大きなポケットがあるからだ。
でも彼の衣服が聖者の衣装と錯覚しそうになるのは、やたら綺麗
な顔立ちをしているせいだろう。
﹁て⋮⋮﹂
天使がいる。そう口走りそうになって、私は自重した。
34
私と同じぐらいの年頃の男子だ。天使みたいだと言われて喜ぶか
どうかわからない。
けれど目が離せない。
どこか懐かしいその顔から。
ややあって、こちらもどこか見覚えのある黒髪の少年が、銀髪の
少年の腕をつついた。
﹁おいレジー笑いすぎだ﹂
﹁ごめんアラン。なんかツボに入っちゃって。⋮⋮ところで君、大
丈夫? 立てる?﹂
そう言ってレジーという名らしい銀髪の少年が手をさしのべてく
れる。
ぼんやりしていた私は、なにげなくその手を借りようと手を伸ば
したが、
﹁レジー!﹂
﹁レジー殿﹂
2方向から一斉に制止目的の呼びかけが響いて、思わず手の動き
を止めた。
そんな、触ったからって噛みつかないよーと考えたものの、二人
が警戒する理由に気付いた。
そうだ。私ってば無賃乗車した不審者じゃないか。従者の身でも、
どうやら大切にされてるらしい彼が、不用意に不審者と接触するの
を他の二人が危惧するのも当然だ。
だから自分で立ち上がろうと思ったのだが、はっしとひっこめか
けた手首が握られる。
35
﹁問題ないよアラン、ウェントワース。だってこれ、たぶん薬の影
響じゃないかな﹂
引っ張り上げられて自然と立ち上がる形になった私だったが、
﹁えっ? わわっ﹂
足の力が入らなくて、その場に座り込んでしまう。
寝過ぎたからといって、足が萎えるものだろうか。自分の状態の
おかしさに驚いていると、まだ手を握っているレジーが他の二人に
話しかけていた。
﹁ほらね。逃がさないための薬の影響だと思うよ。慌てたぐらいで、
寝台からああまで見事に落ちるのは変だと思ったんだ﹂
﹁え? 逃がさないため?﹂
どうやらレジー達にも寝台から落下する姿を目撃されてしまった
ようだが、それよりも気になる単語があった。
逃がさないためって、一体誰からなのか。
そのせいで立ち上がれないってことは、薬を使われた?
いつ、どうやって、まさかこの人達のせいなのかと疑心暗鬼にな
る私に、それまで黙っていた黒髪のアランが教えてくれた。
﹁お前は馬車の中で眠っているところを発見された﹂
うんそれは理解できる。うとうとしている所までは記憶にあった
から。
﹁夜中に見つけて荷馬車から引きずり出しても、お前は目覚めなか
った。それだけでも異常だが、話しかけても揺すっても起きなかっ
36
た。とりあえず不審者だからな。持ち物を改めさせてもらった。そ
うしたらお前の持っていたこの手紙に、薬が塗り込まれていること
がわかった﹂
アランが差し出したのは、養女先のパトリシエール伯爵から送ら
れてきた、結婚宣告の手紙だ。
﹁え⋮⋮なんで、手紙に⋮⋮?﹂
そこまでする必要があるのかと恐れおののいていると、アランが
言う。
﹁キアラ・パトリシエール嬢。君が手紙に書かれている結婚から逃
げ出さないように、眠らされることになっていたんだろう。けれど
薬が効くより先に、君は逃げ出した。パトリシエール伯爵は、君が
逃げ出しかねないと考えて、先手を打ったのだろう﹂
﹁う⋮⋮﹂
確かに私は手紙をもらってすぐ逃亡した。
なにせ養女で、肉親の情はない︵実家の面々にも肉親の情はない
けど︶。だから政略結婚が壊れてもかまわないと考えて、すぐさま
逃亡を決意したわけだ。
もう14歳になったのだから、がんばれば自分一人でも生きて行
けるかもしれないと、そう思って。
しかしまさか、政略結婚のために薬で眠らされて連れ戻される手
はずになっていたなんて。⋮⋮おい、クレディアス子爵って同年配
の男から見ても、薬で縛り付けないと結婚したくないと推測できる
ほどすごい酷い男だったのか。
37
逃げて良かったと思ったとたん、安堵やら衝撃的すぎやらで、私
はがっくりとうなだれてしまう。
なんか、疲れた。
﹁大丈夫?﹂
まだ手を握ったままのレジーが、親切にも尋ねてくれる。
﹁⋮⋮気絶したいです。けど、そしたらまた面倒をおかけしそうな
んで、耐えてます﹂
人事不省になった人間は、運ぶのも厄介だろう。ただでさえ一度、
眠りこけていたのを寝かせてもらったりしてたのだ。これ以上、悪
印象を持たれたくない。
だから必死に耐えていたら、またレジーが噴き出す。
本当によく笑う人だなと私は思った。
38
事情聴取されました
そうして私は、彼らに事情を話すことになった。
お金で買われて養女に入り、手紙に書いてある通り結婚させられ
そうになったが、相手の評判が悪すぎて逃げ出したことを。
やーそれしか言えないでしょう。
だって前世の記憶とか、ゲームの記憶がーなんて話せるわけもな
い。
むしろ不幸になる正夢を見ました! の方が信じてもらえそうだ
が、それは私の中に増えた前世の記憶が﹁頭オカシイって言われる
のは嫌!﹂と拒否するので口をつぐんだ。
なので肝心要の﹁悪役になって死ぬとかカンベンして!﹂という
話はできなかったのだが、養女として買われた身だという話だけで、
彼らは私が強制的に結婚させられそうになった理由に納得してくれ
たようだ。
世の中に情を持たない親子は沢山いるだろうが、薬まで使って逃
げ出さないようにするのは、なさぬ仲だと聞けば尚のこと理解しや
すかったのだろう。
﹁しかし一人で家を飛び出して、どうする気だったんだ﹂
呆れたように言ったのは、私と対面するような位置にある寝台に
腰掛けたアランだ。
彼は私より一つ年上の15歳。
どうりで教会学校で見かけたものの、よく知らなかったわけだ。
学校の授業はたいていが男女別、もしくは年齢別になっていて、
39
ごくわずかな神学の時間だけが男女合同の授業だった。
男子の噂話もあまり入ってこないので、誰がいるのやら、よほど
興味があって調べるのでなければ知りようがないので仕方ないと思
う。
﹁いえ⋮⋮路銀も一応あるし、どこか別な領地の片隅で、縫い子で
もして暮らして行こうかと⋮⋮﹂
﹁その前に、どこかの路上で人狩りに攫われるでしょう﹂
ぼそりと言ったのは、あの無表情な青年ウェントワースだ。
アランの護衛の騎士だという。
ウェントワースさんの言葉はまったくもって正論だが、私には他
にも逃げねばならない理由があるわけで。しかも養女先にて、ある
程度ではあっても短剣と毒の扱いを教えられていた私としては、ま
だ逃げた方が安全を確保できそうだったのだ。
⋮⋮内緒にすることが多いって、あれこれと素直に話せないんで
結構面倒だな。
誤魔化すために目をそらしていたら、レジーという名の、アラン
の従者が言った。
﹁結婚しても、誘拐されて買われたのと変わりない状況になっただ
ろうけどね﹂
確かに、見知らぬ人に売られるか、噂を聞き知ってる身元の確か
なトンデモ親父に売られるかの差でしかない。
﹁どっちへ転んでも、泥沼に落ちることになるだけには違いないで
すね﹂
40
レジーのおかげで、ウェントワースさんもそれ以上追及してくる
ことなく、口を閉ざした。
よしよし、レジー君ありがとう。
それにしても彼は変な人だ。
従者だっていうのに、主であるアランにもへりくだった様子もな
いし、何か複雑な出自の末に貴族に仕えることになった人なんだろ
うか。
不思議には思ったが、彼らとはここまでの縁だ。追及すまい。
むしろ関わっちゃいけないのだと思っている。
なにせアランの名前だけではぱっと思い出せなかったのだが、私
は彼の家名を聞いて悲鳴を上げそうになった。
アラン・エヴラール。エヴラール辺境伯の子息だという彼。
レジーのことも見覚えがあるなとは思ったのだが、それはアラン
も同じだった。
その原因は、教会学校で見たからというわけではなく、ゲームの
主人公だったからだ。
⋮⋮ゲームよりも幼い顔立ちなので、感じが違ったから、気付く
のが遅れたんだよ。
開始時の彼は17歳だったはずなので、まだウェントワースさん
の顎までしかない身長がもっと伸びて、顔立ちも今よりずっと大人
びたものになるのだ。
男子の顔立ちって、中学生から高校生になったら、やたら大人っ
ぽくというかごつい感じになってくるもんね。
それにゲームのアランはもっと影がある表情だったのだ。必死さ
と言うか、まっすぐ前しか見る気はない、みたいな感じの。
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あともう一つ、アランって名前でぴんとこなかった理由がある。
アランという名前がそれほど特別な代物ではないのだ。教会学校
で時々話をしたたご令嬢の兄弟の中にも、二人ぐらいアランという
名前の人がいた。
おかげで﹁あー、この人もアランさんなんだ。生まれた当時流行
してたのかなー﹂とか適当に考えてしまっていたわけである。
なんにせよ、王家の血縁者である彼が戦う話なわけで、まだ悪役
にはなってないものの、一緒にいるのはなんか居心地が悪い。
だって順当に︵?︶進んでいたら、私を殺すはずだった相手なん
だから。
それにゲームのようなしがらみはないとはいえ、無賃乗車した身
だ。やっぱり身の置き所がないような気がして、私は再び別れを促
した。
﹁あの、とりあえず勝手に乗って済みませんでした。身動きできな
いのも、そのうち治るでしょうし。ご予定があるでしょうから、ど
うぞ私を置いて出発なさって下さい﹂
私が眠りこけていたせいで、日は大分高い位置にある。もうすぐ
お昼じゃないかな。
予定に支障がでるだろうから先に行ってくれと申し出たのだが、
なぜか彼らは受け入れてくれなかった。
﹁でも、眠り薬まで使って学校から連れて行く予定だったんだよね
? ちょっと逃げたぐらいで、君の養父は諦めてくれるのかな?﹂
不穏な言葉を口にするレジーに、アランが渋い表情をする。
﹁ただでさえ教会学校を出入りする者なんて少ないんだ。女の足で
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行ける場所を探しても見つからなかったら、あの日出発した僕達に
も接触してくるだろう。おまけにあっちは使った薬の効果は良くわ
かってるはずだ。まだ効果が切れてない以上、道端に倒れていない
のなら、宿に泊まっていないかしらみつぶしに探すだろう。お前、
ここにいるとすぐ見つかるぞ?﹂
﹁う⋮⋮﹂
アランの言う通りだ。
眠らせたところを連れて行くつもりなら、昨日のうちにパトリシ
エール伯爵は迎えを寄越しているだろう。すぐに私が居ないことは
わかってしまっただろうし、学校に近い町を探すのなど、それほど
時間がかかるものではない。
あげく、急いで私を確保するため、アランの後を追う者と、町を
探す者とに手分けして探していたとしたら。もうこの近くまで迫っ
てきていてもおかしくない。
宿にいたら、すぐに捕まるだろう。とはいえまだ動けない。
進退窮まった。
どうしようかと頭を悩ませる私の耳に、ため息が聞こえた。
﹁正直、訳あってこちらも不審者を抱えたくはないんだが⋮⋮﹂
アランがちらとレジーに視線を向ける。
﹁私はいいと思うよ。それに君は優しいからね。足が動かずに狩ら
れるのを待つだけの子羊を、見て見ぬ振りなんてし難いだろう?﹂
誉め言葉なのだが、それを聞いたアランが顔をしかめた。
﹁お人好しだと言いたいんだろう。だが、それを薦めるお前も、相
43
当なお人好しだと思うぞ﹂
﹁そう?﹂
レジーはけろっとした表情で返した。
﹁だって、彼女を抱えることになるのはアラン、君のエヴラール辺
境伯家だからね﹂
﹁ふん﹂
アランは何か言いたそうにしながらも、レジーの言葉を否定も肯
定もせず、私に向き直る。
その頃には、私もさすがに察していた。
どうやらアランが、私になんらかの手をさしのべてくれる気でい
るらしい。
遠くの町まで馬車に乗せて行ってくれるんだろうか。
じっとアランを見つめると、彼も私が期待でいっぱいになってい
るのがわかったのだろう。
﹁そう喜ぶな。お前にとってはあまり歓迎できない話かもしれない
ぞ﹂
﹁でも、聞いてみないとわからないですし!﹂
だから早く話して下さいな。そう言うと、レジーが﹁薬を盛られ
たりしたはずなのに、なんか前向きな人だなぁ﹂と感心したように
つぶやいた。
だって落ち込んでなんていられない。逃げるのが先で、泣くのは
後だ!
そう心の中で答えながら待っていると、アランがため息交じりに
告げた。
44
﹁⋮⋮お前の逃亡に手を貸してやらなくもない。お前が望むのなら、
僕の家で雇ってやる。適当な町で放り出しても、身を持ち崩すのが
関の山だろう。寝覚めが悪くなるぐらいなら、連れて行った方がマ
シだからな﹂
雇う? てことは、主人公側の人間になるってことだ。なら、悪
役になる可能性も低いと判断した私は、即答した。
﹁もちろん良いです! ぜひよろしく!﹂
﹁話を最後まで聞け﹂
勢い込んで返事をすると、アランにストップをかけられた。
﹁今はこれ以上良い選択肢がないからお前も乗り気だろうが、うち
で働く場合、パトリシエール伯爵といざこざを起こさないよう、お
前の身分も家名も伏せてもらわなければならない。しかも良い仕事
が空いてなければ、平民の仕事をさせるしかなくなるだろう。それ
が嫌になっても、養子先へ帰ることも領地から出ることも許さない。
うちにもいろいろ事情があるから、城で雇う場合は情報を漏らさな
いようにさせてもらう。決まりを破ったら、即牢屋行きだ﹂
それでもこの話を受けるか?
念を押されたが、私にとっては願ってもない内容だ。
もしこの前世の記憶が本当だったら、アランの領地から出なけれ
ば敵役になる可能性はぐんと下がるだろう。
それに領地から出さないというのなら、もしかすると誘拐されそ
うになっても、誰か監視していて私を追いかけてきてくれるかもし
れないではないか。
45
何より、だ。
馬車に無断で乗った女を、アラン達は寝台で眠らせてくれたあげ
く、今まで無体なことなどしなかった。きっとエヴラールの人々は
紳士が多いのだろう。
まぁゲームの主人公だもんね。品行方正に決まってる。
しかも家で雇うということは、町でお針子仕事をもらって生活す
るよりも実入りが多いだろう。こんな好条件で安全な勤め先は他に
ない。
﹁問題ありません! ぜひエヴラール家に就職させてください! あ、平民扱いってことは家名は邪魔ですよね、ぽいっとします! ただのキアラと呼んで下さいませ! 名前も変えた方が良いですか
ね? ご要望があったらそうしますよ!﹂
満面の笑みでそう言えば、アランは毒気を抜かれたように呆然と
した表情で﹁本気か⋮⋮﹂とつぶやき、ウェントワースは無表情な
がらも目を丸くした。
そしてレジーは、またしてもお腹を抱えて苦しそうに肩を震わせ
ていたのだった。
46
無賃乗車娘についての考察
無断乗車していた貴族の少女、キアラを連れて行くことに決まっ
た。
出発の準備は既に整っているのは知っていたが、アランは﹁準備
がある﹂と言ってレジーを連れて宿の外へ出た。
﹁ああホントに面白いねあの子﹂
レジーは笑いすぎて目に涙が浮かんでいる。
﹁養女だとはいっても、貴族令嬢として生活してたんだろう? 淑
女なのに箱の中で寝てるだけでも十分おかしかったのに、寝台から
落ちるわ、平民扱いでもいいとか、女の子としても規格外すぎるよ﹂
話しながらも、思い出してまた笑いそうになっているレジーに、
アランは肩をすくめた。
ちょっと笑いすぎだとは思うものの、止めようとは思わない。
レジーはそもそも、こんなに笑う人間ではなかった。いつだって
微笑んではいるが、その笑顔はあいまいに誤魔化すためのものであ
ることが多い。あと、軋轢をあまり生まないようにするためでもあ
る。
アランの領地まで遊びに来た時には、それ相応にはしゃぐことは
あるが、彼の本来いる場所で、こんなにもあけっぴろげに笑う所な
ど、アランは見たことがなかった。
47
﹁確かにお前の近くには、絶対いないようなタイプの人間だな。だ
からそんなにツボに入ったんだろ﹂
﹁うんそうだね。正直、君を迎えに行こうとしている時には、こん
な面白いものが見られるとは思わなかったな。来て正解だ﹂
﹁僕の方は、お前の従者姿を姿を見て仰天したんだがな⋮⋮。お前
が変なことをしたせいで、皆の注意が全部お前に向かったから彼女
に気付かなかったんじゃないのか?﹂
人は気になるものがあれば、他への注意力が下がるものだ。
教会学校前に停車した時だって、荷馬車の周囲には誰かがかなら
ずいたのだ。なのに彼女が乗り込むのに、誰一人として気付かなか
った。
あの時隙ができたのだとしたら、見送りに来た修道院長に気付い
てアランが馬車を降り、それにレジーまでがついてきた時ではない
だろうか。
大人しく馬車に乗っているはずのレジーが、思いがけず外に出て
しまって慌てたのだと考えたら、騎士達が注意をそちらに惹かれて
しまったのもやむを得ない。
だが、寝言を聞くまで荷馬車に乗ったキアラの存在に気付かなか
ったのも、ちょっとひどすぎる。
休憩のために何度か馬車を停めたりもしたのに、自分を含めて誰
一人として気付かなかったのだから。
やはり予想外の要素が増えたため、人が乗るには不便だろうと思
うほど荷物が積まれた幌馬車は﹃大丈夫なはず﹄だと認識されて、
見逃されてしまったのだろう。
原因を作ったレジーはひょうひょうと﹁かもね﹂と言う。
﹁悪いとは思ってたけど、たまには羽を伸ばさせてほしくて。君の
48
父上も了承してくれたしね﹂
﹁あのバカ父め⋮⋮﹂
許可したのはアランの父だと聞かされて、アランは憎々し気につ
ぶやいた。
﹁だけどお前、ほんとに彼女を連れて行っていいんだな?﹂
アランがレジーに尋ねる。
その話がしたくて、アランはレジーを連れ出したのだ。
﹁うん、いいよ﹂
レジ︱は何の気負いもなく、あっさりと答えた。
本当に考えているのか疑わしくて、アランは念を押す。
﹁お前は軽く返事してるが、警備上も秘密を守る上でも、余計な拾
い物をするのはあまり褒められた事じゃないんだぞ?﹂
﹁わかってるよ。でも君だって、彼女を放り出すのは気分が悪いだ
ろう? だから秘密がバレても大丈夫なように、領地外には出さな
いとか、そういう注文を付けて許可したんだろう。うっかりパトリ
シエール伯爵と接触されても困るしね﹂
パトリシエール伯爵は王妃側の人間だ。
エヴラール辺境伯側とは、違う派閥に属するので、色々と漏らさ
れたくない話も、隠したいこともある。
﹁でも、いくら条件をつけたところで、完璧なんてことはありはし
ないんだ⋮⋮パトリシエール伯爵とクレディアス子爵だ。隣国の影
響の強い人間が、養女までとって、婚姻で結びつきを強めようとし
49
ているのだから不穏すぎる。まだ僕は、あの女がうちの馬車にもぐ
りこんだのは故意かもしれないと疑ってるぐらいだ﹂
真剣な表情になるアランに、レジーは微笑む。
﹁大丈夫だよ。キアラは、裏表とかあんまりなさそうだし。自分が
薬でおかしくなってるのも気付かずに失敗してることから考えても、
彼女はたぶん自分が結婚から逃げることで頭がいっぱいで、そのた
めならなんでも了承しそうだし⋮⋮ま、私も注意して見ておくよ﹂
レジーの言うことにアランも納得はできる。
キアラはどうも策略に向く人間には見えない。それが演技だとし
たら、相当な手練れだ。それに暗殺などをしようにも、あの筋肉な
どどこにもなさそうな様子では、すぐに見つかって捕まるのを覚悟
の上で、毒を食事に混ぜたりすることしかできないだろう。
﹁あともう一つ。私が君の領地に行くと決めたのは、本当につい先
日のことだよ。従者に扮して君を迎えに行くことにしたのも、出発
間際だった。なのにそれを見越して伯爵が手紙を送り、キアラが睡
眠薬で眠ったふりをして馬車に乗るなんて、とうてい不可能だろう﹂
突発的にどうするのか決めるレジーの行動を、先読みするのはた
やすくない。おかげで彼は、政争の中でも無事でいられるのだ。
アランもレジーのこの理由にはうなずくしかなかった。
﹁なら本当に、女神の笛が響いたのか﹂
キアラはそう言っていた。
神の奇跡だと思って、馬車に乗り込んだのだと。
50
﹁ウェントワース達の目を盗んで馬車に乗り込めたんだからね。本
当に女神の奇跡かもしれないよ? それに、彼女を確保しておくの
は悪いことばかりじゃない。パトリシエール伯爵と何かことを構え
た時に、彼女を理由に避けるっていう使い方もできるだろう?﹂
一応、養女とはいえ娘なんだし。何かに利用できるかもしれない。
そう言うレジーに、アランはがっくりとうなだれた。
﹁お前は本当に怖いやつだよ⋮⋮﹂
ため息をついて、でも一言付け加える。
﹁でも珍しいな。お前が初対面の人間を俺の領地に置くようしむけ
るなんてな。気に入ったんだろ、彼女のこと﹂
言われたレジーは、曖昧に微笑む。
﹁そうだね。退屈はしないな。だから君の家で末永く仕えてくれて
いると有り難いよ﹂
レジーの表情からは、それ以上のことは読み取れない。
けれど近づく女性には通り一遍の愛想を見せて終わりにするレジ
ーが、末永く自分と交流できるような場所に置くと言うのだから、
十分珍しい出来事だ。
しかし、領地に連れて行った後どうするか⋮⋮
変に底辺の仕事をさせても、貴族令嬢として過ごした身にはきつ
すぎて反感を持たれる恐れがある。
何の仕事をさせるよう父伯爵に頼むべきか、アランは悩み始めた。
51
危険物は提出しましょう
一行はしばらくして出発した。
私の回復をゆっくり待ってもらうわけにもいかないので、まだ歩
けなかった私は、荷馬車の中に座らせてもらっていた。
その時にウェントワースさんというあの青年騎士にお姫様だっこ
にて運んでもらったんだけども、あれ、結構恥ずかしいね⋮⋮。
二人だけだったとしても動悸息切れで薬が欲しくなると思うけど
も、レジーやアラン他、騎士の皆さまに見られている中というのも、
なかなか落ち着かない。
けれど持ち上げてもらって改めて、なぜ足が上手く動かせないの
かが分かった。痺れて感覚が全くなかったのだ。
おかげでひざ裏を支えられても、むしろ触られてないのに足が浮
いてるよ! みたいな感じで気味が悪かった。
実は乗車する馬車も、本当は女の子だからアラン達と一緒の馬車
に⋮⋮とも言われたのだが、私が断った。
平民扱いにするって言われたし、それなら仕える家のお坊ちゃま
と同乗とかありえないんじゃない? と考えたのだ。
ただ、荷馬車に触っちゃいけないようなものがあるとか、そうい
う意味で馬車に載せようとしているのならと心配になったので、誰
かの馬にでもくくりつけてもらえたら十分ですが⋮⋮と申し出たら、
またレジーに笑われた。
レジーは本当によく笑う人だ。笑い上戸なのだろうか。彼の腹筋
52
が筋肉痛にならないことを私は祈っている。
﹁それにしても、誰なんだろ⋮⋮﹂
湧いてきた記憶の中にあるゲームに、レジ︱のような人はいただ
ろうか。
けっこう大まかなことと、メインになる戦闘や攻略のことしか覚
えていないせいで、見覚えがあるのに思い出せない。
でもあれだけ主人公と親しいんだから、ゲームに出ているはずな
んだけどなぁ。
﹁戦闘シミュレーションで、従者の出番がないから、なのかな?﹂
そう考えると納得できる。そもそもあのゲーム、簡単な会話とか
ちょっとしたシーンのアニメーションは出てくるけど、それ以外は
本当にストイックに戦闘ばかりのゲームなのだ。むしろ﹁どうせ戦
うんだよね?﹂と思って、ストーリーシーンをスキップしたことも
ある。
﹁でも、戦闘に参加しない傍系王族のお姫様も出てきたりしたはず
だし⋮⋮あれかな。なんかそういうシーンの端っこに、台詞無しで
映ってたのかな﹂
その可能性が高そうだと思いながら、私は足を少しぱたぱたと動
かす。
実は荷台の箱を少し動かしてもらった上、ちょうどいい高さの箱
の上に、クッションを敷いてもらって座っているのだ。
ほんと、エヴラール辺境伯領の人はみんな紳士で涙が出そうだよ
⋮⋮。
足を向けて寝られないかもしれない。
53
そんな状態でも、最初は足の力が入らなかったせいで、馬車が揺
れる度に転がり落ちそうになっていたが、一時間も経つ頃になると
ようやく足でふんばりが効くようになった。
自由に足が動かせるようになってくると、そのありがたみを感じ
たくなってつい足を動かしてしまう。
﹁それにしても、やっぱり逃げて良かったわ﹂
眠り薬の事を聞いて、しみじみと自分の判断は正しかったと思っ
た。
あの時逃げなかったら、危うく昏倒したところを﹁家の者でーす﹂
とやってきた人間に回収されて⋮⋮ああ、その先は考えたくない。
王宮に勤める前提とはいえ、しばらくは年上すぎるおじさんの慰み
者になりかねない状況だったんだから。
﹁ああ、だからかな⋮⋮﹂
ゲームのキアラが敵役として、王妃にくっついて言われるがまま
に主人公達の邪魔をするのは。
そんな目に遭ったら精神的にどん底に落ちるだろう。
逃げられないことに絶望している時に、王妃の傍へ行ったら苦し
いことから解放されるのだ。しかも王妃の側にい続ければ、婚家に
戻らなくて済むのだ。王妃に依存して離れられなくなるのもわかる。
魔法も、もしかすると王妃の側にいるためにと、自ら方法を探し
て使えるようになったのではないだろうか。
こういった事情があるのなら、ゲームの中のキアラが、王妃のた
めに戦場にまで出ていく行動も納得できる気がした。
54
⋮⋮むしろ、パトリシエール伯爵がそうやって王妃に懐くよう仕
向けた、とも考えられるので、あのおじさんの顔を思い出してぞっ
としたわけだが。
考え事をしているうちに、お昼になった。
私もパンに切れ目を入れて、炙った肉をはさんだものを渡されて
口にした。ちょっとぱさぱさしているのは仕方ない。水で流しこん
で一息ついたところで、私の視界に入る場所にレジーがやってくる。
少し離れた場所でレジーは手招きしていた。
周囲の騎士達も、それを見ているのに何も言わない。
何の用事だろうと私はレジーの元まで歩いていくと、そのまま道
を外れた木立の中に連れていかれる。
内緒の話があるのだろうか。首をかしげていると、立ち止まって
目の前に立ったレジーが微笑みながら言った。
﹁⋮⋮君の足。見せてくれる?﹂
﹁え、ええっ!?﹂
足見せてくれって何!?
だってこの世界で、10歳以上の女の子は足首から上は露出しち
ゃいけないし、うっかり見られたら﹁破廉恥な!﹂って怒られるん
だよ? 見せてほしいって言われるシチュエーションなんて、色ご
とが関係することぐらいのはずだ。
はっ⋮⋮まさかレジーって、こんな穏やかな顔をしておきながら、
女の子をつまみ食いするようなとんでもない人なんだろうか。
怖くなって、私は一歩後退る。
男女のことについて予備知識はあるものの、前世の記憶もなんで
か14歳どまりの自分だ。そんな経験など頭のどこをさらってもな
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いし、だから冷静に受け止めることなんて不可能だった。
そして前世知識では、不埒な人間は突き飛ばして逃げてもいいこ
とになっているが、この身分の上下がきっちりしてる世界で、平民
扱いオッケーした後の自分が、お坊ちゃまと親しい従者のレジーを
殴ってもいいのだろうか?
結果、私はさらに一歩、もう一歩と後退る。けれどレジーも同じ
だけ距離を詰めてきた。
何歩か後退を続けた末に木に背中がぶつかると、逃げられないよ
う両腕の手を突かれてしまう。
それを見て、私は線路の遮断機を思い出した。脳裏にカーンカー
ンという﹁列車が通りますよ﹂な音が蘇る。
もう逃げられないと悟ったとたん、体が震え始める。
するとレジーが小さく笑ってささやいた。
﹁ナイフと、瓶かな?﹂
彼の言葉を聞いて、はっとする。
足に、そういえばナイフと毒薬の瓶を装備したままだ。足の感覚
がさっきまで無かったせいで、すっかりそのことを失念していた。
スカートの下のガサガサとやたらかさばる十枚は布を重ねたパニ
エ越しの上、小ぶりの品物だったおかげか、今まで他の二人には気
付かれずに済んだのだろう。
けれどレジーは物騒な物を持っているだろうことに気付き、主の
アランに何かがあってはいけないと警戒したから、脅して取り上げ
ようとしているのではないだろうか。
﹁ウェントワース達に知られると、もっと厄介なことになるよ﹂
56
続く彼の言葉から、私の推測は正しかったとわかる。
しかもレジーは、今大人しく武器を提出したら、他の人には言わ
ずに見逃してくれるようだ。
おそらく﹁足を見せろ﹂というのは、隠さないことで害意がない
ことを示せ、と思われているのだろう。
そこまで理解して、私はかっと顔が熱くなった。
すごい思い違いをしていた。めちゃくちゃ恥ずかしい。
なんで私、そういう色事の方だと勘違いしたのよばかー! そん
な誘い掛けられるような見てくれじゃないでしょうに、自意識過剰
すぎたのよ!
だって今の対応、完全に自分にレジーが女として興味をもってる
んだと思っての怯え方じゃないのよ。そうじゃなかったのに!
申し訳なくて泣きたい気分になりながら、私は蚊の鳴くような声
で告げた。
﹁あの、後でお渡しします⋮⋮﹂
今後のことを考えても、レジーに自分は敵ではないとわかっても
らわなくてはならない。だから素直に武器を引き渡すが、今すぐは
難しいと申し出る。
だってスカートを目の前でめくるのはちょっと⋮⋮と思ったのだ
が、彼の口から思いがけない台詞が飛び出した。
﹁今ここで外して?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
思わず彼を見上げると、レジーは実に優しそうな笑みを浮かべた
まま繰り返した。
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﹁私の目の前で外してほしいな。ちゃんと武器がそれで全部か確認
したいんだ。私に無理やりはぎとられるよりは、良心的だろう?﹂
﹁う、うう⋮⋮﹂
レジーの言うことは正論だ。
昨日今日会ったばかりの人間が何もしませんと言ったところで、
信じられないだろう。
だから言う通りにはしたいが、見られた状態でスカートを持ち上
げるとか、どんな羞恥プレイよ!?
しかし言う通りにすべきだろうと思い、なんとか私は私の現世の
慣習に染まった意識を変えようと試みる。
どうせスカートの下には脹脛まである半ズボンみたいなドロワー
ズを着ているのだ。革ベルトもドロワーズの上から装着してるし。
前世基準でいうなら、スカートの下にジャージを着てるような状
態だ。体のラインもわからないだろうし、素足をさらすわけではな
い。
そうだよ、前世なんて太もも露出しまくった短パンとか履いて外
歩いてたんだし! プールや海だと下着同然の水着姿さらしてたん
だよ。
⋮⋮よし、あまり恥ずかしくない気がしてきた。
それでも最後に残った羞恥心から、一言レジーに断って後ろを向
いた。
﹁ちょ、ちょっとお待ち下さい﹂
私が従うと察してくれたのか、レジーも両脇についた手を離して
一歩遠ざかってくれる。
ほっとしつつ、極力レジーから見えないように、太ももに巻き付
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けた革ベルトを取る。
スカートを持ち上げる関係上、後ろにいるレジーにもふくらはぎ
までは見えてしまっただろうけど、なんとかひざ上の露出は死守し
たはずだ。
私は急いでスカートを直し、はい、と革ベルトごとレジーに渡す。
受け取ったレジーも、それ以上確認させろとは言ってこなかった。
⋮⋮まあ、それ以上不審物を身に着けてないことを、先に確認して
たのかもしれない。
ってことはあれか? レジーはあちこち見たってこと!?
今更ながらに気付いた私が羞恥心で叫び出しそうになるのをこら
えていると、レジーが尋ねてきた。
﹁なんで君はこんなものを持ってたの? 一人で外を歩くから用心
しようというのはわかるけど、貴族令嬢は普通持ってないよね?﹂
﹁その⋮⋮養父のパトリシエール伯爵が、どうしてかナイフでの戦
い方を教えた上、学校へ入る時に毒薬を私に持たせたんです﹂
﹁⋮⋮ふうん?﹂
今更隠すようなものでもないと思うので、素直に私は答えた。と
ても興味深い話だったのだろう。レジーは真剣な表情になる。
﹁学校に持って行った後は、どこに捨てたらいいのか困ってそのま
ま⋮⋮。見つかったら騒ぎになるじゃないですか。けど、今回は一
人旅をするつもりだったんで。護身のために⋮⋮﹂
﹁確かに一人旅は危険だろうね。私でも護身用に何か持つだろう⋮
⋮わかったよ﹂
﹁あの、本当に信じてくれますか? 決してアラン様やレジーさん
に使おうとか、そんなことは考えもしませんでした﹂
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私はぎゅっと両手を握りしめてレジーを見る。
わかったとは言ってくれたけれど、毒薬とナイフを隠し持ってい
たのだから、私の話を信じてくれるかどうかはわからない。﹃わか
った﹄と言っても、警戒を強めてしまっているのではないか。
それでどこかに置き去りにするのならまだいいが、エヴラール辺
境伯領に着いた途端に牢屋行きにでもなったら⋮⋮一生出してくれ
なかったら⋮⋮。
結局は悲惨な最後が嫌で逃げたはずなのに、元の木阿弥になって
しまう。
それを恐れてレジーに尋ねたのだが、
﹁君が素直に出してくれなかったら、いろいろ対応を考えなければ
ならなかっただろうけどね。でもキアラ、君は自分の羞恥心よりも
私に信用される方を選んだ、そうだろう?﹂
レジーの微笑みに、私はようやく理解した。
彼は自分達に私が無茶な要求をされても従うかどうか、そうして
まで信用されたいと思っているかどうかを推しはかるために、目の
前でスカートの下の武器を外せと要求したのだ。
そして私は、前世のもっと露出して生活していた頃の意識を呼び
覚まし、なんとかレジーの試験にパスした、のだろう。
レジーの信用を失わずに済んだようだようで、ほっとする。
その後、レジーは私の手を引いて、近くを流れている川の傍まで
移動した。
毒薬はレジーが蓋を開けて匂いを嗅いで確認したところ、草木を
枯らすようなものではなかったらしい。適当な木の根元に中身を空
けてしまう。
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その時に、庭に捨てて局所的に草木を枯らしたら大騒ぎになるか
と思って、棄てられずに困っていたと話すと、レジーはくすくすと
笑った。
それからナイフと革ベルト、空き瓶を、レジーは川の深い場所を
狙って投げ捨てた。
身を守る道具がなくなってやや不安にはなったが、少しほっとす
る。
前世の記憶がよみがえったせいなのか、どうも物騒な物を持ち続
けるのは、心理的に緊張させられるのだ。
すると、レジーが私の顔を見て目を見開いた。
首をかしげると、彼は言う。
﹁護身になるものを捨てられたのに、なんだかすっきりしてるみた
いだね﹂
﹁⋮⋮そうかもしれません。なんか、これでいよいよ伯爵家から遠
ざかることができた気がして、少しせいせいしてるせいかも﹂
素直にそう言うと、なぜかレジーは私の頭を撫でてくれた。
柔らかく撫でられる感触に懐かしくなる。
こんな風に撫でられたのは、いつ以来だったろう。今世の母が亡
くなるまでのことではなかっただろうか。あのろくでなしな父は、
そもそも私に構ったりしてこなかった。
亡き母をしのんでしんみりとした気持ちになっていると、レジー
は私の手を引いて行った。
﹁さ、戻ろう﹂
私はうなずいて、素直に彼の後をついていった。
61
その草にはご用心
ナイフ等を捨てたことで、レジーは私に対して少しだけ警戒を解
いてくれたようだ。
私は気楽だからということもあって、相変わらず荷馬車に乗せて
もらっているのだが、レジーは休憩時間になると私を構いに来てく
れる。
それどころか手を引いてアランや騎士達がいる場所まで連れてい
く。
ついでに皆と同じようにカップにお茶まで入れてくれて、談笑の
輪に強制参加だ。
どうもレジーは、私をみんなと交流させようとしてくれているら
しい。
アランや騎士達も、最初こそどう話していいのかというようなぎ
こちない表情をしていたが、二日経つ頃には私という存在に慣れて
くれたようだ。
主に学校の話をするのだが、数々の私の失敗に彼らは笑い。
そしてアランから勉学の質問をされて、真面目に勉強していなか
ったこともバレてしまった。
﹁お前⋮⋮そんなんで成績大丈夫だったのか?﹂
アランには本気で心配された。
けど私、勉強は得意な方じゃないんだよ⋮⋮。運動系も、それほ
ど得意なわけじゃないけど。
ナイフの使い方を伯爵家で慣わされた時には、うっかりナイフが
手からすっぽ抜けるとか、避けられなくて切り傷を作って叱責され
62
るとか、こちらも失敗に枚挙のいとまがない。
訓練続けてからは、さすがにそういうことはなくなったけど。
ようは平凡というか、普通なんです。
そもそも、運動能力が高くてチートだったら、継母の下で苦難に
耐えていた頃、一人で家を飛び出してどうにかしてたんではないだ
ろうか。
まぁ、物騒な話なのでそれは言わなかったけれど。せっかくレジ
ーが黙っていてくれているみたいなのに、自分から墓穴を掘らない
ようにしなければ。
しかしナイフの話はしなくても、私の運動能力の平凡さはすぐに
露呈した。
さて、この世界には、魔獣なるものが生息している。
前世の狼が、こちらでは突風を吹かせられるとか。
禿鷹が、その鳴き声で一瞬こちらの動きを止められるような力を
持っているとか。
ファンタジーだ。
思えばゲームの時も、よく風狼が敵の操る兵隊代わりに使われて
いた。
すばしこいせいで、こっちの攻撃を﹃かわした!﹄とか字幕が出
て、すごく奥歯をギリギリした覚えがある。
ようやく教会学校のある王領地を抜けたところで出会ったのは、
そんな魔獣の一種だ。
岩が転がる草原を抜けた後、深い森にさしかかったところだった
ので、一行の騎士達は周囲を警戒していた。
けれど動物らしい姿ではなかったこと、森ではなく草原からやっ
てきたので、警戒しきれなかったのだろう。
63
ざわりと、草の波が大きく揺れた気がした。
強い風が吹いたのだろうと、なにげなく私は馬車の後部から外を
見て、
﹁わ、わわっ!﹂
驚いた。だって草原の一画だけ、草原の上にバチバチと火花が散
ってたからだ。
火花というか、電気だろうか。
紫電が草原の上を走り、あちこち広範囲で火花を散らし始める。
﹁雷草だ!﹂
誰かが叫んで、正体がわかる。
強い風が吹いたりすると、お互いの草の先をふれあわせて静電気
を発生させる草⋮⋮いや動物か? 球根から生える根で歩いて移動
するらしいと聞いたが。
﹁わ、やだホントだ。そしてこっち来る!﹂
めきょ、と自分の根を持ち上げた草が、もぞもぞ移動してくる。
しかも静電気でバチバチさせながら。
球根部分の皺が、なんか好々爺の顔に見えるのが微妙だ。
馬車の中に思わずひっこんだ私は、火花が飛んでこなさそうなこ
とに安心したが、繋がれた馬のことを忘れていた。
甲高いいななき。
馬車との連結具がつながったまま馬が跳ねたのか、馬車がぐらぐ
らと左右にゆさぶられた末に、後部の幌から私は投げ出された。
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﹁痛っ⋮⋮ひぃぃ!﹂
やわらかな草の上に落ちたのと、かさばるほどのパニエのおかげ
でちょっと激しく尻餅をついたくらいの痛みだけで済んだ。
けれど、すぐ目の前に根っこをずるずる動かしながら進軍してく
る、腕の長さほどの球根付きの草が迫ってくるのが見えた。
慌てて逃げようとするが、突然のことに立ち上がれない。
無様に四つん這いで移動したものの、馬車は離れた森の手前にい
た。
そんな私の腕に、ばちっと静電気の火花が当たる。
﹁痛っ、あちちっ!﹂
やけどしたかもしれない。けれどその痛みで恐怖が頭からふっと
んでいった。
足がしゃっきりとして、私は脱兎の如くその場から逃げ出す。
暴れる馬を抑えるのと、アラン達の方に雷草が近づくのを防いで
いた騎士達が、一人で走る私にぎょっとした顔をする。
﹁え! 落ちたのか!?﹂
どうやら私が落ちたことに、気付いてももらえてなかったようだ。
﹁とにかく後ろへ!﹂
隊長格であるウェントワースさんに指示されるまでもなく、私は
そこを駆け抜け、ようやく落ち着かされた馬と、手綱を引いて逃げ
出さないようにしているアランとキースの側に行く。
息を切らせながら座り込んだ私を見て、二人も目を見開いた。
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﹁え! 乗ってなかったのか!?﹂
﹁落ちたんですよ⋮⋮﹂
ぜいぜいと息をつきながら答えると、アランが﹁どうりで静かだ
と思った⋮⋮﹂とつぶやいた。
私、そんなにうるさくしてましたっけ?
とにかく私の呼吸が落ち着く頃には、騎士達も雷草を追い払うこ
とができたようだ。
なにせ草なので。木の棒でフルスイングするとぺしゃっと気絶し
てくれる。
それをなるべく遠くへ放り投げて終了だ。
ああ、でもなんでこの辺が草原になっているのかわかった。雷草
が生息してると、樹が生えにくいからなんだよね。物理的に焼け焦
げるから。
ほっとしたものの、街道沿いはまだあちこちでパチパチと火花が
散っているのが見える。なんだか数が多い。大量発生と言う奴かも
しれない。
﹁しばらくは道が使えないみたいだね﹂
レジ−の言葉に、馬車の側にやってきたウェントワースさんがう
なずく。
﹁しかし雷草が収まるまで待つわけにもいかないぞ?﹂
アランがそう言って、ちらりと私を横目で見た。
まさか、パトリシエール伯爵が脱走した私を追いかけてくるかも
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しれないから、先を急ぐべきってことだろうか。
気にしてくれているんだと思うと、なんだか心がほっこりする。
知己でもない私を雇ってくれる上、逃げ切れるように配慮してくれ
ているのだ。
良い人だな。そして申し訳ないなと思った私は、思いついた次善
の策を口にした。
﹁あの、良かったら私だけ森の中抜けて行くんで⋮⋮﹂
食料と、ナイフを拝借できれば、よほどのことがない限りは大丈
夫だと思ってそう言ったのだが。
﹁嘘でしょ﹂
﹁バカかお前﹂
﹁賛同しかねます﹂
三者三様の否定の言葉を頂戴した。
﹁先ほどの雷草からの逃げ方をみていても、とても一人でどうこう
できるとは思えないな。なにせ、ここは茨姫が棲む森だ﹂
﹁イバラヒメ?﹂
ウェントワースさんの言葉に、私は首をかしげる。どこかで聞い
たような気がするのだが、こう、はっきりと思い出せない。
するとレジーが付け足すように教えてくれた。
﹁ファルジア王家の始祖の姫君だって話なんだけどね。茨を操る魔
術を使う、永遠の命を持つ魔法使いがこの森に棲んでるって話なん
だ。どうしてか男嫌いらしくて、うかつに奥へ踏み込もうとすると
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茨に行く手を阻まれるそうなんだ﹂
ファルジアの元姫⋮⋮茨の魔法⋮⋮男嫌い。
それらの単語を聞いて、ハッと思い出す。
﹁あ⋮⋮ショタコン姫﹂
無意識に私はつぶやいてしまった。
ゲームに出てきた助っ人キャラ。
その森には女性しか入れず、説得に向かわせることができる女性
キャラを仲間にしていれば、心強い魔法使いとして参戦してくれる、
外見幼女の魔法使いだ。
ただしキャラの設定資料が出た時、短い説明書きの最後に﹃ショ
タコンである﹄と書かれていたせいで、プレイヤー達の彼女を見る
目が変わってしまった。
︱︱おい、ショタコンかよ! と。
これにて茨姫が男嫌いなんかではないことが発覚。
その後制作者側が更に明かしたところによると、彼女は12歳ぐ
らいまでの男の子までを眺めるのが好きで、彼らを怖がらせないよ
う、自分の容姿も12歳のもので留めているとか。
それより年上の男は見たくもないと森の外に放り出すので、森の
中は女性しか入れなくなったらしい。
実に裏設定が無駄に濃いキャラだった。
ちなみに女性には攻撃的ではないらしい。そのため近隣の町や村
の人々からは、ただ女しか入れない森と認識されてるそうな。
そりゃそうだよね。設定とか見るわけにもいかない同じ世界に生
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きている人には、森の奥から出てこない茨姫の内心など推し量りよ
うもないのだから。
﹁ショタコン?﹂
近くにいたせいで聞こえてしまったレジーに聞き返されたが、説
明するわけにはいかない。
﹁ううん。そうだ、そんなお姫様の話し聞いたことあるって、そう
思っただけだよ!﹂
苦しい言い訳ながらも、レジーはそれで納得してくれた。
たぶん、ショタコンっていう単語がこの世界にないからだな。聞
き間違えだと考えてくれたのだろう。
﹁でも男嫌いの姫がいるところなら⋮⋮って、そうか﹂
続けて思い出したのは、ここが魔の森扱いされていることだ。
長年、一人きりで暇をもてあましている茨姫。
彼女はペットを飼っているのだ。それも狼から山猫からネズミま
で、ちょっと凶悪系な動物を。
で、ペットの餌やりは﹁森の中にはいっぱいあるから狩っておい
でー﹂となるわけで。狩りの邪魔と判断された人間が襲われる。
男性が入れないので、ある程度駆除するということも難しい。
よって、ペット達があまり来ない森の端っこで、女性と子供が採
取するのが関の山、という魔の森になったわけだ。
諸々のゲーム設定を思い出して、無理かと肩を落とした私だった
が、そこでアランが言う。
﹁なら、外縁を回ろう。ほら道があるだろう?﹂
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言われてみれば、外縁部には轍の痕がある。ここで雷草に遭遇し
た人達が同じようなことを考えて、森の外を通って行ったのだろう。
雷草も日影では日光が当たらないからなのか、あまり寄って来な
いので静かだった。
なので皆がアランの案に賛同した。
70
追手がきたら
﹁けど、轍ができるほど馬車が通ったなら、街道が通りにくくなる
くらい、雷草が増えてるってことじゃないのかな﹂
窓の外を眺めながら言うレジーに、アランが同意する。
﹁そうかもな。ここの領地を治めてるのはベルトラン子爵家か。対
策はしていないんだろうか﹂
﹁貴族が通らないと、なかなか掃除しないんじゃないかな?﹂
﹁かといって、僕たちの方からあれこれとは話しにくい相手だ﹂
﹁違いない﹂
なるほど。雷草は討伐じゃなくて掃除なんだ。
微妙に政治的な臭いのする二人の会話を聞きながら、私はレジー
の横にちまっと座っていた。
不測の事態が起きた時に、荷馬車に乗せていてはまた転がり落ち
るのではないかと判断され、護衛の騎士達も含めた全会一致でアラ
ンお坊ちゃまの馬車に同乗させてもらっている。
⋮⋮なんか、大人しく乗ってることすらできない子みたいで、大
変申し訳ない。
情けなくてずーんと落ち込んでいる私も、やがては窓の外の景色
に興味を引かれる。
なにせゲーム画面の俯瞰図とアニメーションの背景で見ていた風
景が、現実に広がっているのだ。
深い森だとは言ってたけど、さすがに綺麗に描かれた絵そのまま
ではないようだ。枯れた蔦が垂れ下がっていたり、地面も枯葉が降
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り積もっている。
そこをちょろっと姿を現して走り去ったのは、リスではないだろ
うか。
ああ、現実なんだな⋮⋮としみじみ感じられた。
ちなみにこの森。ゲームの進行上で通りがかった時に上手い選択
肢を選べば、ゲームでアランは茨姫の助力を得られる。
茨姫が愛でたくなる年齢からは外れているアランだが、王家に縁
のある茨姫は、王家の血族には協力するのだ。
⋮⋮でも、とある代物を持ってこいという要求をされ、そのため
にクリアしなければならない戦闘がある。
また、実は茨姫が仲間にならなくても、ゲームはクリアできる。
多少レベルを上げて挑めば大丈夫だ。
そのため茨姫のイベントを外してクリアしてしまう人も、そちら
のイベントに行くきっかけを見逃したまま、クリアする人も多いと
聞いている。
ぼんやりとゲームのことを考えていた私は、馬車の横にいた騎士
が振り返る姿に、なにげなくその視線の先を追おうとした。
どうやら誰か人が来たらしい。
馬車が止まったので、レジー達も異変に気づいた。
﹁何だ?﹂
眉をしかめるアラン。
﹁誰かに呼び止められたみたいでしたよ﹂
私が言うと、その表情が険しくなる。
72
﹁うちの馬車を呼び止めた?﹂
するとアランは、馬車の前側の座席を上げ、荷物入れにするため
か空洞になっているその底板を探る。
すぐに取っ手を探し当て、底板を持ち上げた。もちろんその向こ
うに見えるのは地面だ。
﹁万が一の場合がある。お前とレジーはそこから外へ出ろ。森の中
に隠れておけ﹂
﹁後で迎えに来てね﹂
レジーはあっさりと言って、猫のようにするりと馬車の下の地面
に下りる。
なんだかわからないが、緊急事態っぽいので私もそれに従った。
地面の上にしゃがみこんでから気づいたのだが、これ、うっかり
したらまたレジーにドロワーズが見えるとこだったよ。
当のレジーは、姿勢を低くして馬車の下に潜ったまま、外の様子
をうかがっていたのでこちらを一顧だにしなかったわけだけど。
ほっとしながら私はレジーに並んだ。
馬車の下は狭くて、ほとんど這いつくばる状態だったけれど、外
にいる護衛の騎士達の足や馬の足が見える。そして会話も聞こえた。
﹁ですから行方不明のお嬢様を、もし保護されていらしたらと⋮⋮﹂
﹁保護したのなら、家に知らせを走らせている。居ないと言ってい
るのにまだ確認させろということは、貴様は我らを疑っているのか
?﹂
73
ウェントワースさんの抑えていながらもやや憤りを感じさせる口
調に、相手もひるんだようだ。
﹁いえいえ! ただ辺境伯のご子息は同じ日に学校を出発されたと
聞きまして、何かお気づきのことがないかお伺いしたいので﹂
﹁アラン様を煩わせるわけにはいかん。それに我らがお迎えに行っ
たのだ。異変があれば私達でも気づくだろう﹂
﹁けれど皆様は校内をくまなくご覧になったわけではないでしょう
? 本当に困っているのです。なにせ王妃のご縁戚であるクレディ
アス子爵の花嫁になられる方でして。もうお式の準備も終えている
のですよ﹂
へりくだりながらも、しっかりと脅し文句を含ませてきている相
手の言葉に、私はぞっとする。
王妃の縁戚に不快な思いをさせるようなことがあれば、お前たち
の領地に何があるかわからないぞと言っているのだ。
﹁それを言うのなら、我がエヴラール辺境伯家は王の縁戚だが?﹂
ウェントワースさんも負けてはいない。
そうなんだよ。アランの家はというか、彼の母親である辺境伯夫
人が国王の姉なので、アランは王位継承権を持っているのだ。
格としてもエヴラール家の方が上ではあるが、なにせ相手は王妃
だ。競り合った末に面倒なことになっては困るだろう。
どうする気なのかと思ったその時、アランが馬車から顔を出した
ようだ。馬車の扉が開く音がした。
﹁おいウェントワース。一体何があった? なぜ馬車を止めた?﹂
﹁はい。パトリシエール伯爵の配下だという者が、ご令嬢を我らが
連れ出したのではないかという疑いをかけてきまして﹂
74
﹁何だそれは。貴様、僕を疑うのだから、覚悟とそれ相応の理由が
あるんだろうな?﹂
アランの尊大とも言える口調にも、パトリシエール伯爵の配下は
怯みもしない。
﹁いえ、決して疑っているわけでは。ただ、そうと知らずにお連れ
になっている場合もあるかと思いまして、少し馬車の中を拝見させ
ていただけないかと⋮⋮﹂
話を聞いている途中で、ちょいちょいとレジーに服の裾を引っ張
られた。
何かと思えば、馬車の下を覗くようにして手招きしている騎士が
いる。森側にいる騎士の傍は、どうやらパトリシエール伯爵の配下
とは反対側になるようだ。
音をたてないよう、慎重に這ってそちらへ出た私とレジーは、急
いで森の中へ行くよう指先で指示される。
一時的に姿を隠せということのようだ。
パトリシエール伯爵の配下が、どうやら馬車の中をのぞき込んで
いるようだ。それを見て、私とレジーは森の中へ移動して、ひとま
ず茂みのかげに隠れた。
しゃがみこみ、無事に姿を隠せたことにほっとしていると、指先
にぱちっと静電気が走った。
﹁!?﹂
右手の下を見れば、ちょうど根っこを自分でひっこぬこうとして
いる、小さな雷草が一株。
えっこらしょと作業を終えて歩き出そうとする雷草を、私は思わ
75
ずひっつかんで遠くへ投げた。
ごめん。馬車から落ちてから雷草に追いかけ回されたことが、け
っこうトラウマになってたみたいで、一秒でも早く自分の近くから
排除したかったのだ。
レジーが目を見開く中、雷草は綺麗な放物線を描いて︱︱馬車の
向こうに落ちた。
バチバチバチ。
落ちた雷草が、怒ったように火花を散らし、静かにしていた側の
雷草が反応したようだ。
突然火花が散り始めた状況に、再び馬達が大騒ぎする。
いななきが重なり、竿立ちになる馬に騎乗していた者達が焦り、
馬車が走り出した。
﹁ひょあああああっ!﹂
馬車から悲鳴が上がったが、アランの声ではなかったので⋮⋮大
丈夫だと思う。
そして素晴らしい速さで走り出した馬車とそれを追いかける騎士
達、乗り手の居ないパトリシエール伯爵の配下のものらしい馬がど
こかへ逃げてしまうと、残されたのは乗り手の居ない怯えきった馬
と、森の側に避難したウェントワースさんだけだった。
ウェントワースさんはさっと馬を森の中に乗り入れると、大きす
ぎない声で呼びかけてくる。
﹁レジー様、いらっしゃいますか?﹂
﹁僕はここだよウェントワース﹂
立ち上がったレジーを見て、ウェントワースさんはほっとしたよ
76
うに言った。
﹁申し訳ないのですが、しばらく森の外縁部をお進み下さい。剣を
ここに置いて行きます。馬車を早めに落ち着かせた後で別な者を迎
えに寄越します。それまで、森の外にはお出でになられませんよう
に﹂
﹁わかってるよ。君は相手と話しているし、人数が少ないから欠け
るとすぐに不審に思われるだろうからね。伯爵の配下に気取られな
いように気をつけて﹂
﹁承知いたしました﹂
ウェントワースさんはその場に馬にくくりつけていた剣を置くと、
すぐに立ち去る。レジーはすぐに剣を拾いに行き、腰帯に鞘につい
ている金具で固定した。
﹁どうしてレジーも残るの?﹂
私は、それが疑問でだった。
みんな、アランもレジーのことを大事にしている。なのに、護衛
も無しに放置するというのだ。
私の所まで戻ってきたレジーは、にっこりと笑みを浮かべて答え
た。
﹁君よりは強いからね。女の子一人を放置するのは忍びないだろう
?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
正直、答えになってないと思う。
だって私を放置したところで、特に問題はないはず。貴族令嬢と
してではなく、平民として雇おうという相手に、そこまで手厚くす
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るのはオカシイのだ。
けど、さっきは私のこと隠してくれたんだよね。あれはトラブル
を避けるためだったのかもしれないけど、思えばその時にレジーも
馬車から抜け出させたのも変だった。
私が惚れ薬並みの効果を発揮する容姿や、何か希少性を持ってる
ならまだしも、私のためにしてくれたとは考えられない。
ならば、レジーも他の人間に見られたくない理由があるのではな
いだろうか?
私は思わずじーっとレジーの顔を見てしまう。
学校では、アランの後を追いかけて行くのを見た。だから子供相
手ならば、そう隠すことはないのだろう。けれど貴族に仕える大人
を警戒しているのだとしたら?
教会学校は義務で通う所じゃない。
繋がりを作りたい貴族や、子供達に結婚相手を探させるために入
れる場合もある。ほんのちょっとではあっても、男女共学の授業が
あるので。
それが必要ない貴族は、通わせない。
もしかしてレジーは⋮⋮。
﹁⋮⋮ひゃっ!﹂
突然レジーに手で目を覆われて、考え事が全てふっとんだ。
﹁ぼんやりしてどうしたの? ずっと同じ場所に留まりすぎると、
獣が寄って来る。行こう?﹂
私を驚かせたレジーは、さっと手のひらを離すと今度は私の手首
を掴み、森の中を歩き出す。
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素手の感触が手首に緩く触れて、私は妙に緊張してしまった。
手を掴まれたのは初めてじゃない。寝台からころがり落ちた時に
も、レジーに手を掴まれて吊り上げられたわけで。
ただ、急に顔に触れられたせいで、変に意識してしまったのだ。
で、でも騙されないんだから、と気を引き締める。
たぶんレジーは、私が彼を凝視していたので、詮索されたくない
ことに気づきそうだと思って、わざと驚かせたのだろうから。
でも私の中では既に確信になってしまってるので、びっくりした
程度で忘れたりはしない。
⋮⋮多分レジーは、貴族だ。
しかも侍従というのは本当のことではあるまい。周囲とアランの
対応から、今は﹃侍従の役﹄に甘んじているだけに違いないだろう。
79
茨姫は微笑む
だけど、アランと同年代の友達の貴族ってゲームにいただろうか?
ゲームの記憶は所々曖昧だ。
攻略順路とパーティー編成と、騎士をどこに配置するとかまで覚
えてるってのに、他が微妙で困る。
あの時は本当に、いち早くクリアするのが楽しかったんだよ⋮⋮
台詞も半分くらい読み飛ばしたし。勝つことが楽しくて楽しくて。
そんな私の記憶では、アランの仲間になる人というとお年を召さ
れた男性か、酸いも甘いもかみ分けた頼りがいのありそうな青年期
終了間際の人だったような⋮⋮。
内心で唸りながら考える私を連れて、レジーはまず森の奥へ向か
った。
森の外縁を廻る道から、万が一にも姿を見られないようにするた
めだろう。
馬車が暴走して乗ったままになったパトリシエール伯爵の配下が、
森の外縁を廻って元の地点へ戻ってきたら、見つかってしまうかも
しれないものね。
私はレジーに大人しくついて行った。
森の中を歩くなんて、人生でそうそうないことだ。
前世では夏休みとか、山登りなんかで木で囲まれた場所を歩きは
したけれど、なにせ静電気を発生させる変な草が生えてる世界だ。
知識がある人に従った方がいい。
案の定、触ると怪しい紫の煙を吐く草があって、レジーが慌てて
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手を引いて逃げてくれた。
﹁君、なんで、あんな怪しい物を、わざわざ、触るの⋮⋮﹂
﹁ご、ごめんなさい﹂
さすがに息を切らせたレジーに、私は謝る。
触った草というのが木に蔓で巻き付いていて、ブドウみたいな実
が生っていた。
しかもなんか甘い香りがして、美味しそうだなと触れたところで
レジーが私の行動に気付き、ブドウっぽい実がはぜて紫の煙が噴射
された直前に引き離してくれたのだ。
﹁あれ⋮⋮毒なんだよね。軽いけど、しびれるんだよ﹂
﹁しびれ⋮⋮うわぁ﹂
こんな森の中で痺れて動きが鈍くなったら、間違いなく獣のサン
ドバックになってしまう。
﹁お、お世話かけました⋮⋮﹂
私も言葉の合間にぜいぜいと言いながら謝る。本当に最近は謝っ
てばかりだ。
﹁まぁ、今後気をつけて﹂
ため息交じりながらも、レジーはそう言ってくれた。
迷惑だとか、本当にわかってるのかとか責めて来ない彼は、けっ
こう寛容な人だ。実家はいわずもがな、これが伯爵家だったとして
も﹁せっかくいい生活をさせてるんだから言うことを聞け!﹂と八
つ当たりに物を投げつけられてもおかしくないところだ。
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しかし走ったせいで喉が乾いた。
ただでさえ直前に雷草で悲鳴を上げたりしたので、声がガラガラ
になりそうだ。水がほしい⋮⋮と思った私は、ふいにバチっという
放電の音がかすかに聞こえて辺りを見回す。
﹁こんな森の中にまで雷草がいるのかな?﹂
レジーにも聞こえたようで、雷草を探すように首をめぐらせた。
やがて私よりも目がいいのか、レジーが見つけたようだ。
﹁⋮⋮あっちだ﹂
今度こそは勝手な行動をさせまいと、強く手首を掴まれたまま移
動する。
やがて見つけたのは、
﹁水!﹂
森の中。ごく低いくぼみになった所に、岩と木の間からさらさら
と流れ出す水と、滝壺のように水が溜まった場所があった。
それをなんでか、雷草が輪になって囲んでいる。
﹁ああ、そうか。増えすぎたから、生息範囲を広げようとしてるん
だね﹂
﹁え、これ、開拓準備?﹂
輪になって水場を交通規制してるだけに見えたのだが。
﹁雷草も水は必要だからね。開拓するにも水を確保しながら仲間を
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少しずつ呼び寄せて、ある程度溜まったら、光を遮る木を少しずつ
焦がして行くんだ。そうして開墾するって聞いたよ。私もこれを見
るのは初めてだな﹂
﹁でも、森の中から木を焦がしていったら、うっかり火事になりま
せん? 雷草も丸焦げになるような気が﹂
火花を散らして電気を発生し焦がすのはわかるが、炭になった木
は熱を持っている。倒れた先で乾燥した木や枯葉があったら、引火
するだろう。
﹁そのための水でもあるんだよ。時々辺りを湿らせていって、延焼
しないようにするんだ。時には運悪くそのまま火事になって、雷草
ももろともに炎上するんだけど﹂
やっぱりリスキーな開拓方法だな、雷草。
これのせいで山火事が起きるという話は聞いたことがあるけど、
これでは当然という気がする。
﹁じゃあ、これって迷惑ってことですよね﹂
﹁そうだろうね﹂
相づちをうつレジーに、私は﹁ならば﹂と提案する。
﹁この雷草、どけたいですよね﹂
﹁どうやって? 剣だと雷草の電気で、こっちの手がしびれてしま
うよ?﹂
レジーの驚いたような表情に、私はふふふと笑う。
そもそも私に剣が振るえるわけがない。だから別な方法を試した
いのだ。
83
なにせ水があります。
電気があります。
⋮⋮実験するべきだと思う。
しかも上手くやったら、すぐ水が飲める! おまけに湧き水! 煮沸しなくても安全だなんて素敵すぎる。
喉が渇いて仕方ない私は、急いで大きな石を探した。ちゃんと持
ち上げられる程度の石を見つけたが、苔むしている。探し直し、そ
れよりもやや小さいが、表面が乾いたものを発見。
今度はそれに生えていた蔦をくくりつける。
柔らかいものを選んだので、しなやかでつり下げてもすぐにはち
ぎれなさそうだ。
石を抱えた私は、湧き水近くの木の根元に移動するが、雷草は﹁
ここは通さん!﹂みたいな感じで動かずにバチバチして縄張り主張
をするのみで、動きはしない。
レジーが困惑の表情を浮かべる中、私は蔓の先を持って振り子の
ように動かし、湧き水の溜まった場所へ放り投げた。
勢いがついているおかげで、石が落下すると大きく水が跳ね上げ
られた。
それは周囲の雷草に降りかかり︱︱。
﹁思った以上に派手だったな⋮⋮﹂
水たまりの周囲には、炭化した雷草のなれの果てが転がっていた。
それも指先で触れるともろっと崩れる。
かかった水のせいで、火花を上げるほどの電気が本体に通電し、
黒こげになってしまったのだ。
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横たわる草の燃えかすに、私は思わず合掌。
﹁なむなむ⋮⋮成仏してちょうだいね﹂
つぶやいてしまうのは、自立移動する草だったからだろうか。
そんなことを考えつつ、私は早速湧き水に手を伸ばす。
口に含むと実にマイルド。冷たくておいしゅうございました。
﹁レジーも飲んだら?﹂
そう言って振り返ると、レジーは困惑を通り越して呆然としてい
た。
私に呼ばれてもしばらくじっと黙っていたが、やがて笑い出す。
彼は水を飲んでからも、まだくすくすと笑い、それから尋ねてき
た。
﹁君、伯爵家の養女だって言ってたけど、前の家は平民? それと
も騎士の家とか?﹂
たぶん、私の振るまいがやたら乱暴だったから、貴族の子供じゃ
ないと思ったのだろう。隠す必要もないのでさらっと話す。
﹁ほとんど平民同然でしたね。準爵士の家でした﹂
﹁それなら土地を持ってるんだね﹂
準爵士は土地持ち貴族の端くれだ。王家の財政を補填するため、
王様がお金と引き替えに売った貴族位です。ドームや施設のネーミ
ング権みたいだよね。
﹁ある程度は⋮⋮。でも年々切り売りするような有様だったみたい
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です。でもそれほど貧しかったわけではないみたいでしたね﹂
全て伝聞と推測なので、曖昧な言い方しかできない。
完全に貧しくなっていたら、使用人を雇ったり絹の服を季節毎に
新調するのも迷うはずだ。一方で使用人の数は、半年ごとに1人の
ペースで減っていた。じわじわと資産が減っていたのだろう。
そんなだったから、私を養女にするかわりに金銭の提供をすると
いわれて、すぐに差し出したのだろう。
﹁キアラって名前は元の家族がつけたままのもの?﹂
﹁そうです。私がまだ文字も読めないほど小さかった頃に亡くなっ
た、母がつけたそうで﹂
急に私のことを聞きたがるレジーに付き合って、私は休憩がてら、
近くの乾いた倒木に座った。レジーも隣に座ったので、内心ちょっ
とだけ、気恥ずかしい気がする。
だって今の私の年齢って、前世の中学生くらいなのだ。前世でも
共学とはいえ思春期なのでお互いに意識してしまって離れる年頃だ。
でも今世は、そもそも同年代の男子とあまり関わらなかったんだ
よな。
継母にいじめられてほとんど家の外には出られなかったし、伯爵
家では厳しく使用人達と区別されて、遊ぶとかそんな感じじゃなか
ったし。
学校は基本的に女の子としか話さない環境だもんな。
⋮⋮なんか、前世の記憶がうっすらとでもなかったら、私コミュ
障になってもおかしくなかったんじゃないの?
﹁君は元の家族のことはあまり話さないね。⋮⋮亡くなったお母さ
86
ん以外は、君にあまり優しくなかったんだね﹂
避けていることだけで、レジーは察したようだ。
でも﹁優しくなかった﹂と言われて、私はほっとする。大抵の人
というのは、家族はお互いに思い合っていると信じている。だから
愛情を持てない場合もあることを、理解してはくれないのだ。
わりと乳母任せの貴族でさえ、皆、家族は自分の事を思っている。
何かあっても、愛情が損なわれることはないと考えているようなの
だ。
あげくに美しい家族の形を押しつけようとする。﹁そんなことは
ないわ、きっとお父様だって愛情があるはずよ。だって家族だもの。
最後には理解しあえるはず﹂と。
そうされないことが、すごく安心できた。一方で、それを理解で
きてしまうレジーは⋮⋮。
﹁レジーも、優しくない家族がいるのね?﹂
私が言うと、レジーは柔らかく微笑む。
﹁理解してくれる人がいて、嬉しいよ﹂
その瞬間、彼との間に信頼感が結ばれたような気がした。
他の人には理解してもらいにくい感情を、分かち合える唯一の人
になったからかもしれない。
もちろん、レジーが私と同じことを感じてくれたかどうかはわか
らない。けれど、
﹁キアラの話、もっと聞きたいな﹂
87
私を知ってくれようとするくらいには、レジーは私に心を許して
くれたと感じた。
そんな風に、少しほんわかとした気持ちになった時だった。
﹁あら、私が来なくても良かったみたいね﹂
足音もしなかった。
気配も声を出されるまで気づかなかったのに、その人は唐突に出
現していた。
湧き水の溜まりを隔てた向こうに、青みがかった銀色の髪の少女
が立っていた。
梳られた艶やかな髪は、真っ直ぐに黒みの強い赤の長衣にかかっ
て、腰まで伸びている。
紫色の宝石みたいに大きな瞳も綺麗で、うっとりするほど白い肌
の中、薄赤の唇が動くのを、私は固唾を飲んで見つめてしまう。
﹁最近、草が増えすぎたのか、縄張りを森の中まで広げようとして
て困っていたのよ。なにせあの草、木を黒焦げにして開拓するでし
ょう? うちのペットがやけどしたら困るし、森を焼かれたらもっ
と困るものね﹂
まるで知り合いに話すかのように語り出す少女の姿に、私は何度
も瞬きする。
⋮⋮うん、実物だ。
絵をリアルにしたらこうなるだろうっていう感じだった。
﹁⋮⋮茨姫﹂
彼女こそ茨姫だ。
88
この森の中で生活しているっていうのに、宮殿から出てきたのか
よ、と言いたくなる綺麗にセットされた髪や衣服。
絵で見た時はそれほどじゃなかったけど、むっとする枯葉の匂い
の中では、違和感がすごい。
とたんに、馬車から落ちたり、石をぶん投げたりとさんざん暴れ
た私は、自分の身繕いがしたくなる。絶対、髪ぼさぼさだよ⋮⋮。
教会学校の制服もさぞかし汚れてるだろう。
そそくさとスカートを払う私を、茨姫は驚いたように見ている。
あれ、何かしたっけ?
﹁あなた⋮⋮私のことを知ってるの?﹂
尋ねられて、ようやく意味がわかった。名乗ってもいないのに、
相手の正体を言い当てたのだから驚かれたのだろう。
慌てて私は言いつくろう。
﹁あの、この森には茨姫が住んでるって聞いてましたし、森の中に
急に現れた人を見て⋮⋮きっとそうだろうと﹂
﹁あなた、私の顔を見てそう言ったように見えたけど⋮⋮﹂
﹁いえいえ、滅相もございません﹂
違いますよーと主張し続け、ようやく茨姫は納得してくれたよう
だ。
多少、疑いの残る表情をしていたが、彼女自身も私に見覚えがな
いので追及しようがなかったのだろう。茨姫は私から視線を移した。
﹁⋮⋮っ﹂
茨姫がレジーを見て息を飲む。
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その眼差しが向かうのは、レジーだ。
︱︱しまった! レジーは茨姫の対象年齢外だ!
﹁あの! 彼はちょっと発育がいいだけで、まだ十二歳なんです!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
レジーが一体何を言い出すんだ? と言いたげな顔をしている。
うう、変なこと言ったとは思ってるんだよ。けど、ここで恩人の
レジーを茨でぐるぐるにされたあげく、適当に放り出されたら困る
んだ。
茨姫が無言でじーっと私を見つめる。
﹁あなた、やっぱり私の知り合いか何か?﹂
またしてもぎくっとした。うあああ。茨姫が年少男子の観賞が趣
味だなんてこの世界の人は知らなかったんだった!
﹁いえいえ。噂を聞いて、そうかなーって。あははは﹂
最終的に笑って誤魔化そうとした。
すると茨姫は、うっすらと笑みを浮かべたのだ。
﹁そう⋮⋮あなた、そうなのね﹂
よく聞き取れないけれど、何か不穏そうなことをつぶやいたらし
い表情になっている。美少女がそういう顔をすると、本当に悪女み
たいに見えるので怖いですよ。
﹁まぁいいわ。とにかく雷草の駆除をしてくれてありがとう。手間
が省けて良かったわ。それで貴方達は、森を抜けたいの?﹂
90
雷草を倒したおかげで、どうやら茨姫は私達に好意的なようだ。
﹁えっと、仲間とはぐれたというか。仲間の傍に遭いたくない相手
がいるんで、別行動をとって、森の外縁を歩いてこそこそとついて
いこうとしているというか⋮⋮﹂
﹁貴方は本当に茨姫なのですね?﹂
そこでレジーが茨姫に直接話しかける。
私は緊張した。だって守備範囲外の年齢の男子が話しかけて、茨
姫の機嫌が直滑降で落ちていっては困る。
しかし心配はいらなかったようだ。
﹁そうよ。私はこの王国の原初から終わりまでを見つめていく者。
私が幼い姿をしているから疑わしいのかしら? でも私はずっとこ
の姿を保っているだけよ﹂
彼女は静かに答えて微笑む。
お、わりに友好的だった。
茨姫は、本当にレジーが12歳説を信じてしまったのだろうか?
首をかしげつつも、丸く収まっているので藪をつつかないように
する。
﹁あの、それじゃ先を急ぎますんで、これで失礼します﹂
前世の記憶の量が増えたせいか、日本人的にぺこぺことしながら
その場を去ろうとした。
﹁あなた方が合流したいのは、ここから100メル先の森の側に停
まっている馬車かしら? 幌馬車と箱馬車の二台でしょう?﹂
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﹁? 見えるんですか?﹂
茨姫はふふ、と笑う。
﹁森の中と、すぐ近くならば私は知覚できるのよ。住処においたを
するモノがいたら、すぐに片付けなければなりませんもの﹂
言われて私が想像したのは、森の木々に人感センサー付きのカメ
ラが設置されている光景だ。
たぶん茨姫の知覚って、警備システム並みなんだなと私はうなず
き、レジーは驚いていた。
﹁森の中で起こったことは全てわかると?﹂
﹁そうよ?﹂
当然のことのように茨姫は答えた。
﹁その気になれば、森の外のこともわかるわよ? 王族にどんな花
嫁が来たのか。花嫁の故郷のことなんかもわかるわ。王都に暮らす
人のことも、これから行く先のこともね。それ相応の代償があれば、
知りたい事を教えてあげるわよ?﹂
全てを見通す魔女のように語る茨姫に、レジーは表情を固くする。
なんだろう。
とにかく引き離した方が良さそうに思えたので、私はレジーの手
を引いて茨姫の前から立ち去ろうとした。
すると、レジーは我に返ったように私に苦い笑みを見せ、茨姫に
暇を告げて先へ歩いて行く。
﹁じゃあ本当に、これで失礼しますね﹂
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私も追いかけていこうとしたのだが、
﹁ああ、あなた﹂
呼び止められた瞬間、私の手に冷えた指先が触れる。
ぎょっとして振り返ると、いつの間にかうっすらと微笑む茨姫が
私のすぐ側にいた。
え、テレポーテーション!?
しかも握らされたのは、小さな磨りガラスを丸めたような赤い石
のペンダントだ。端の方にじわりと染みるような黒い色が入ってい
て、なんか不吉そうだ。
﹁女の子だけに、特別にあげるわ。無くしたら⋮⋮どうなるかわか
らないわよ?﹂
﹁え⋮⋮ええっ!?﹂
なんか怖い代物を持たされた? それに呪いの品っぽいこと言わ
れてるんだけど!
でもここで逆らったら茨姫の機嫌をそこねて、森の中から出して
あげないとか言い出しそうで困る。
だから愛想笑いをして、私はその場を逃げ出した。
その時は、どうして茨姫がそんなものを私にくれたのか、意味が
わからなかった。
私が彼女の真意を私が知るのは、ずっと後のことである。
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エヴラール辺境伯領と彼のこと
茨姫の言う通り、森の中を100メル進んでから森の外の様子を
うかがうと、馬車が見えた。
ほっとしそうになるが、油断はできない。
またパトリシエール伯爵の配下がいるかもしれないからだ。
ウェントワース達もこちらが移動していることは分かっているの
で、もし安全ならば、誰か騎士が迎えに来るだろう。
レジーにそう言われた私は、彼と共に森の中にしゃがんで待って
いた。
やがて枯葉を踏み分けて歩くような音が聞こえ、一人の騎士が現
れた。
﹁お待たせしました。もうあの者はおりませんので、お戻り下さい﹂
彼の先導で、私とレジーは馬車の中に戻る。
すぐに動き出した馬車の中で、レジーがあれからどうなったのか
をアランに尋ねた。
﹁パトリシエール伯爵の配下は、振り落とした? それとも捨てて
きた?﹂
にこにことした表情ながら、レジーが酷い二択を口にした。
え、レジーってばもしかしてあのパトリシエールの配下のことす
ごく怒ってるの?
アランは特に驚きもせず、普通のことのように受け止めていた。
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﹁馬車の扉が開いたままだったから、振り落とせるかと僕も期待し
たんだがな。落ちなかったんだ。おかげで自分の足で馬がいた場所
まで戻らせることができた。暴走中はたっぷり馬車の中にいたおか
げで、キアラがいないことは確信できたそうだ。⋮⋮ただ馬は雷草
に怯えて逃げただろうし、あの男が馬を探し歩いた時に、レジー達
とかち合わないかという所だけが不安だったが﹂
するとレジーが楽しげにうなずく。
﹁騒ぎのおかげで、私達は悠々と隠れることができたよ。それに馬
を探す方に忙しくて、こちらを気にする余裕もなかっただろうね﹂
﹁しかし急に雷草が騒ぎ出したのはなんでだ?﹂
﹁あ、はい。私が雷草を投げたからだと﹂
私が手を上げて発言すると、アランにぎょっとされる。
﹁投げた!? おい、火傷しなかったのか?﹂
﹁ぱちっとしましたけど、森の中に一匹だけしかいなかったせいか、
あまり痛くは⋮⋮って、うわっ﹂
身を乗り出したアランに、両手を引っ張られる。
アランは私の手のひらを検分して、ほっとしたように手を離す。
﹁本当だ。何ともないな⋮⋮﹂
﹁遠ざけたくて思わず投げたんですけど、一匹なら問題なかったで
すよ?﹂
﹁そうは言うがな。お前も一応女だろう。残るような怪我をするの
は好ましくない﹂
真剣な目でそう言われて、私は言葉に詰まる。
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⋮⋮くそう、さすが主人公だ。
小物属性な自分には、この格好良さがまぶしすぎる。思わず顔を
うつむけて﹁はい﹂と言ってしまう。
しかし惚れる気にならないのは、ゲームで自分がアラン側として
キアラを何度も倒したせいだろうか。
一番簡単な倒し方が、遠距離で茨姫の魔法で土人形にダメージを
与えておいて、次のターンで刺しに行くことだったんだよなぁ。
それはさておき、アランは座り直してレジーに話を振った。
﹁それにしても随分と戻ってくるのが遅かったな﹂
﹁ああ、途中で茨姫に会ってね﹂
﹁茨姫に!?﹂
さらりと答えたレジーに、アランが再び立ち上がりかけるほど驚
いた。
﹁おいレジー、怪我させられてないだろうな!? あの魔女は高笑
いしながら棘のある茨で男を打ち据える怖ろしい奴だと聞くが⋮⋮。
しかも気に入らない男は頭から丸呑みするともいうぞ!?﹂
おいおいアラン君。
君、いずれ仲間にするかもしれない人に対して、そこまで言わな
くても⋮⋮。あと、嫌いな相手って誰も丸呑みしたくないと思うん
だ。もし相手がバーコードな頭の中年貴族男性だったら、丸呑みし
たくないでしょう?
﹁怪我してるように見える?﹂
﹁いいや﹂
レジーは﹁問題なかったよ﹂とアランに言った。
96
﹁それで、茨姫はどんな奴だった?﹂
﹁なんかちっちゃくて可愛い女の子だったよ。僕等よりも二つか三
つは年下の。だけど本人はずっと生きてるって言ってた﹂
もうアランの興味は茨姫のことに移ったようだ。
二人の話を聞きながら、私はポケットに突っ込んでおいたペンダ
ントを手で探って握る。
よくわからない石のペンダント。なんで茨姫はこんなのをくれた
んだろう。
理由は良く分からないものの、とりあえずレジーが対象範囲外だ
からと放り出されなく手良かった。うん。
考えているうちに、その日の目的地へ到着し、私達は一泊した。
その後の移動は、特に追手が再度やってくることもなく、順調に
進んだ。
五日後にはエヴラール辺境伯領に入り、翌々日には遠く丘の上に
建つ辺境伯の城が見えてきた。
よその領地の城を見るのは、初めてだった。
灰色でごつそうとか。周りの木の大きさから考えてもけっこう広
そうだとか、色々と推測しつつ馬車の窓から眺めていると、アラン
が自分に注意を向けるよう声をかける。
﹁これから我が城で働いてもらうにあたって、必要だろうから教え
ておく﹂
そうして教えられたのは、エヴラール辺境伯領の状況についてだ。
エヴラールは隣国ルアインと、その北にあるサレハルド王国と接
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する国境地帯を治めている。
度々各国と衝突あったので、辺境伯家は王から軍総督の地位を与
えられ、有事には多領からの応援で駆け付けた軍を統括指揮するこ
とができる権力を持っている。
そのためファルジア王家の軍も、ほぼエヴラール辺境伯家が掌握
していた。
さて、今回アランが領地に帰ってくることになったのは、勉強よ
り優先しなければならないような緊急事態になったわけではなく、
むしろ領地が安全になったからだという。
しばらく前はルアインからの盗賊団が出入りして、辺境伯家の分
家の屋敷が焼打ちに遭ったりと、不穏な状況だったそうだ。なまじ
大人数ではない上、複数の集団があちこちで活動するため、辺境伯
領の軍も後手に回りやすかったそうな。
それがルアインがいずれ侵略するための斥候代わりではないかと
いう話が出て、暗殺の危険も考慮されてアランは遠くの教会学校へ
避難させられたようだ。
﹁だが、別に僕が強くないわけじゃないからな? 一か所に一族の
人間がいたら、万が一の場合に誰か一人でも生き残らせることがで
きなくなるからだからな?﹂
アランは自分が保護される立場になったことが嫌だったようで、
やたらと私に念押ししてきた。
こっちとしては、お、おう⋮⋮としか言いようがないが。
反抗期に入ってるはずのお年頃のアランに、お父さんお母さんは
心配だったんだよとか年下の私が言ったら、拗ねかねないからね。
思えばアランは突撃型主人公だったな⋮⋮。
98
ゲームの性質的に戦闘回避はできないわけで、殲滅しろ! なノ
リでゲームを進めるしかないんだけども。なにかあっちゃ﹁よし戦
おう﹂て言っちゃうの、リアルじゃ結構怖いかも。
あ、思い出した。
アランて序盤でお父さんとか亡くしてるんだよね。城が襲撃され
てさ。でも助かったのって、突出して城から離れた場所にいたから
で⋮⋮。
ん? んんん!?
ちらちらと記憶が浮かんでは消える。
何かを思い出しそうになったんだけど、アランの話を聞かずにい
るわけにもいかず、その場ではとりあえず保留にする。
﹁一応、族は捕えて処分したと聞いている。だから問題はないと思
うが、城の外に出るようなことがあれば十分気を付けろ。ただでさ
えうちの城は国境に近いからな﹂
﹁わかりました﹂
うんうんとうなずく。
その後の注意事項といえば、アランのお母さんが王姉だという既
に知っている情報と、ついでにお母さんはたいてい国境警備に出て
るという話。
⋮⋮え、辺境伯夫人て武闘派?
もし仕事がアランのお母さんに関わるものになったら、あちこち
連れまわされるかもしれないと言われて真っ青になる。
しかも貴族令嬢として数年間を過ごした私は、問題がなければア
ランのお母さんが監視がてら手元に置く可能性が一番高いという。
99
ううぅ。体力とか微妙なんだよ私⋮⋮。
辺境伯夫人付きになっても、城に引きこもる方向でなんとかなら
ないものかと小さな声で言えば、アランも﹁まぁ、お前の場合は体
力で侍女に引き抜くわけじゃないからな⋮⋮﹂と答えた。
体力で侍女に引き抜くって、そこが既におかしいよ!?
そっちに気をとられているうちに、辺境伯の城へ到着した。
ゲームでは綺麗な筆致の絵で描かれていた城壁の門は、石のごつ
ごつとした表情や見上げるばかりの高さに威圧感がすごかった。
鉄で作られた重たい門が開かれると、千人で走り回っても十分に
広いだろう空間の向こうに、館がある。
石の階段を数段備えた玄関ホールの扉が開かれ、出迎えに来たと
思われる人々が姿を現す。
両脇に並ぶのは使用人だろう。炭染めの淡いグレーの衣服を着て
いるので、ともすると城の石壁に溶け込んでしまいそうだ。
中央に立つのは、濃緑色の上着を着た中年の男性だ。上背と肩幅
がある彼は、アランが成長したらこうなるだろうという顔立ちをし
ていた。彼が辺境伯ヴェイン・エヴラールだろう。
隣にいる黄色い橡色の派手すぎないドレスを着ているのが、辺境
伯夫人にして王姉のベアトリスに違いない。ベアトリスの背後には
二人の侍女が控えているが、どちらも背が高くて⋮⋮見間違えでな
ければ、剣を下げている。
うん⋮⋮体力や剣技で採用したのか、夫人の傍にいるために習得
したのかわからないけど、アランの言ったことは本当だったと納得
できた。
ベアトリス夫人自身も、辺境伯ヴェインよりは小柄だが、走り込
みとかしてそうな雰囲気だ。
100
馬車が止まると、騎士達がアランとレジーを降ろし、私もエスコ
ートしてくれる。
いよいよ辺境伯との最初の挨拶になるのかと、私は話が自分に流
れてくるまでじっと待つつもりで、アランの後ろにいた。
その時、なぜかレジーがアランより一歩前に出る。
すると辺境伯達が一斉に膝をついた。
レジーに向かって、だ。
﹁ご無事にお戻りになられて、宜しゅうございました、レジナルド
様﹂
辺境伯が様付け?
それを受けたレジーも当然のことのように受け取った。
﹁私のわがままを聞いて下さってありがとう辺境伯。またしばらく
ここに滞在させて頂くよ﹂
明らかにレジーが上の地位にあるような対応だ。
一体何で? ぽかんとする私に、ウェントワースさんが後ろから
小声で教えてくれた。
﹁まだお聞きではなかったのですか?﹂
﹁え⋮⋮﹂
ウェントワースさんは気の毒そうな顔をする。
﹁レジー様は、ファルジアの王子レジナルド様でございます﹂
聞いた瞬間、私は両手で自分の口を必死で押さえた。さもなけれ
101
ば﹁はああああっ!?﹂と大声で叫んでしまいそうだったのだ。
同時に、自分の脳裏によみがえった絵がある。
ゲームのオープニングでほんの数秒だけ、辺境伯の城が襲撃され
たその時に、主人公アランが失った友人の様子が出てくる。
サレハルド王国との緊張状態を鑑みて、先方と会談をすることに
なったため、代表として来ていた王子レジナルドだ。
襲撃のさなか、彼を庇った辺境伯が殺され、そしてレジナルド自
身も遠くから射られた矢に傷つき、その後斬りつけられて死んでい
く。
そのレジナルド王子の髪は、確かに銀色だった。
102
王子の運命と就職面接︵前書き︶
今後の展開の関係で、念のためR15指定を入れさせていただきま
した。
103
王子の運命と就職面接
⋮⋮どうしよう。私は途方に暮れた。
レジー⋮⋮改めレジナルド王子は、私を振り向いて実に楽しそう
に口の端を上げている。
私を驚かせようと思って、わざと教えなかったのだろう。
彼の意図は察したけれど⋮⋮私は思い出したことが衝撃的すぎて、
レジーのお遊びに乗って拗ねるどころではなかった。
今、目の前で笑っているレジーが、死んでしまう。
数日の旅の間に、友達のように思えた人が、この世から死によっ
て消えてしまう運命にある。
でも自分に何ができるのか。
オープニングムービーなんてたった2分か3分の短い代物だ。
ゲーム世界の全体図、戦いの様子を表現するために始まるエヴラ
ール攻城戦の様子。押される兵士達の様子に破壊される門。そして
なだれ込んだ兵に対抗するよう指揮するヴェイン辺境伯とレジーが
映ったかと思うと、あっという間に彼らは殺され、駆けつけようと
したアランの場面に変わってしまう。
ほんの短い映像からは、彼を助け出せる材料を見つけられない。
この時、アランは陽動の敵を討つため出ていったことで、攻城戦
に巻き込まれず、生き残る。
そして始まるのが、親と友人達を失ったアランが王国を取り戻す
ため、ひいては仇を打つための戦いだ。
104
そうだ⋮⋮。﹃友人達﹄の中にレジーは入っているのだ。
レジーがここへ来ることを止められないだろうか。
⋮⋮無理だ。国王の代理で来るのに、私の一言ぐらいで日程の変
更などできようはずもない。
そもそもレジーがやってくるのは、仕組まれたことだ。サレハル
ド王国にしても、ルアイン王国の奸計にはまってのことだった。
なら、アランと一緒に城の外へ出てもらうか。
⋮⋮王子を突撃させるだなんて、辺境伯が許可するはずもない。
もしくは王子が守りの薄い状態になる好機だからと、アランともど
も狙われる可能性もある。
知っていても、何も手の打ちようを思いつけないことに、私は愕
然とするしかなかった。
﹁キアラ?﹂
レジーが心配そうにこちらに向き直って声をかけてくる。
﹁あっ、ごめんなさい﹂
気付けばその場にいた全員が、私の方を見ていた。
注目されすぎて逃げ出したくなる。でもぼんやりとしていた私の
せいだ。
もしかしたら辺境伯夫妻に紹介しようとしたのに、あまりに長い
時間反応がなかったとか、そういうことをやらかしたのか?
焦りで額に汗が浮かびそうだったが、誰も怒った様子はなかった
ので長く思考に浸っていたわけではないようだ。
良かった。今は目の前のことに集中しなければ。
﹁殿下、その娘は?﹂
105
﹁道の途中で拾いました。彼女の件で、少し話したいことがありま
す﹂
レジーはそう言うと、中に連れていってもらいたいというように
視線を城へと向ける。察したヴェイン辺境伯が先導し、私はレジー
やアランと共に城の中に招き入れられた。
通された場所は城の外縁にある城塞塔にある部屋の一つだ。三階
部分まで上がってしまえば、下に声が漏れにくく、窓の向こうは空
なので、扉の前だけ立ち聞きを警戒するだけでいいからだろう。
あまり広くはない部屋に入ったのは、辺境伯夫妻とアランにレジ
ー。私とウェントワースさんだ。
﹁それで、あまり聞かれたくない事情をお持ちなんですね? その
お嬢さんは﹂
ヴェイン辺境伯の問いに、レジーとアランがうなずく。
﹁パトリシエール伯爵の養女です﹂
レジーがそう言った瞬間、ヴェイン辺境伯が眉をしかめる。
﹁その彼女がなぜここに?﹂
﹁クレディアス子爵との結婚から逃げてきたようで。⋮⋮狂言では
ない証拠もあります。嫌がることを想定してか、眠らせた上で家に
戻すつもりだったようで、手紙に薬が含まされていたことも確認し
ています。そのせいで、彼女は目覚めた後でもしばらく足が麻痺し
たままでした﹂
﹁嘘ではないと?﹂
106
尋ねられたアランとレジナルド、そしてウェントワースさんまで
が苦笑いし、私は恥ずかしくてうつむいた。
﹁⋮⋮言っていい?﹂
レジーが私に確認してくれる。本当は話してほしくはないが、こ
れで信用してもらえるならと、非常に泣きそうな気分でうなずいた。
﹁キアラは、アランの荷馬車に潜り込んでまして。その後で薬が効
いたのか、ゆすっても呼びかけても起きないほどぐっすりと眠って
ました。僕らは彼女の寝言で、キアラが荷馬車に入り込んでいたこ
とに気づいたんです﹂
﹁ね⋮⋮ごと?﹂
ヴェイン辺境伯の問いに、レジーは重々しくうなずいた。
﹁翌日の昼近くになって目覚めた彼女は、薬を盛られていたことに
気づかず﹃運賃払うので許して下さい﹄と言って立ち上がろうとし
て、足が動かずに寝台から転落しました﹂
レジーの話を聞きながら、私は羞恥心でスカートを握りしめた腕
がぷるぷるしていた。
でも今後のこともあるから、辺境伯達がどういう反応をしたのか
知っておきたい。だから勇気を持ってチラッと様子をうかがったん
だけど。
⋮⋮すごく、残念な子を見るような目を向けられてました。
警戒は解けたみたいだけど、傷つく⋮⋮。
﹁本当か? ウェントワース﹂
107
﹁残念ながら。ずっと監視してましたが、間違いなく王子殿下の仰
るとおりの行動をとっておりました。それにパトリシエール伯爵も
彼女を探していたようで、追っ手に一度呼び止められました﹂
ウェントワースさんにまで保証され、ヴェイン辺境伯はふっと疲
れたように息を吐く。
﹁それで⋮⋮このちょっとざ⋮⋮お嬢さんを連れて行くことにした
のか﹂
辺境伯様、今おもいきり﹃ちょっと残念な子﹄と言いそうになり
ましたね?
いえ、いいんですよ。それで済むなら。
こっぱずかしい話を広められたあげくに、でも敵に違いないとか
言われたら、我慢をした甲斐がないってものですし。
ちなみに辺境伯の後ろにいた夫人は、口を引き結んではいるけれ
ど、端がぷるぷるしている。笑うの堪えてますよねそれ。まぁいい
んですよ。嫌われるよりツボにヒットしてくれた方が、今後の人間
関係も円滑になりそうというものです。
前世の時はここまで考えなかったんだけどね。今世はほら、多少
自分の残念さにも悟りを開かないと生きていらんなかったから。
ていうかレジーといい、王族って笑い上戸なの? そうなの?
やさぐれている間に、アランがいい話として締めてくれていた。
﹁人助けというか。僕達の年下の女の子が⋮⋮っていうのは寝覚め
が悪くて。養女で伯爵に情はないといいますし、平民扱いにしてく
れてかまわないと言うので、うちで雇えないかと思いまして﹂
﹁雇う⋮⋮か﹂
108
ヴェイン辺境伯が考え込むような表情になる。
﹁しかし本当に平民扱いで、耐えられるのかい?﹂
﹁はい大丈夫です! 準爵士だった実家で、継母に使用人扱いされ
てましたから、芋の皮むきとか掃除も余裕です﹂
なるべく元気に言ってみたが、アラン一家とウェントワースさん
が可哀想にといわんばかりの表情になっていた。悲劇の映画を見た
後の観客に似ている。
ごめん、悲惨ぽいよね。そんな気持ちにさせるような話を、私も
したくはなかったんだよ。
アランの家は、なんというか普通に貴族らしい愛情とか絆がある
家っぽかったからさ、なおさら胸を痛めると思ったんだ。
だけど嘘をついても仕方ないし、安全と敵役にならない保証を得
たいなら、やっぱりここに置いてもらった方がいい。
それに、レジーやアランを守ろうと思うのなら、この城にいなく
てはならない。
そして何か、できることを見つけなければ。
可能性があるとしたら、敵として魔術を使ってたんだから、味方
の魔術師に早々にクラスチェンジすることだろうか。来る攻城戦で
も役に立つだろう。
問題はどうしたら魔術師になれるかだけど、魔術について調べる
には、やっぱり権力者の側っていう方がいいんじゃないかな。
すると辺境伯夫人が私に尋ねてきた。
﹁貴方⋮⋮剣はお使いになれるの?﹂
非力な14歳の女の子が就職面接で、剣技の有無を問われるなん
109
て思いもしませんでした。
さすが国境の守備隊に紛れて走り回るというお方である。さっき
背後にいた侍女さん達も、間違いなく選考基準が戦闘能力ぽかった
し。
とりあえず私に剣を振り回すのは無理なので、首を横に振った。
﹁護身術などは心得はおあり?﹂
﹁養父だった伯爵が、王宮に勤めさせようとしてたみたいで、ナイ
フぐらいの刃物は持てるようにさせられましたが、それだけで⋮⋮﹂
﹁なるほどね﹂
辺境伯夫人はうんとうなずき、ヴェイン辺境伯の肩に触れていっ
た。
﹁私のところで、この子を引き取ろうと思いますわ、あなた﹂
﹁侍女にするのかい? 奥さん﹂
﹁ええ。結婚前から私の側にいたロナは今お休みさせてますでしょ。
他の子達は基本的に私の外の活動についてこられる人ばかりを選ん
だので、一人ぐらいは貴族として礼儀作法を学んだ子を側に置こう
とは思ってましたのよ﹂
ベアトリス夫人の話を聞いて、アランが明るい表情になる。レジ
ーは微笑んだままだ。
⋮⋮そういえばレジーだけ、さっきの不幸話でも﹃うわぁ﹄みた
いな顔をしなかったな。普通に聞いてくれるのって、なんだかほっ
とする。
﹁雇って頂けるんですね?﹂
アランの確認に、ヴェイン辺境伯は﹁ああ、うちの奥さんがうん
110
と言ったからね﹂と肯定する。
﹁確かにうちの奥さんは活発な人だけど、内向きの事に長けている
女性が少ないと思っていたんだ。宜しく頼むよ、キアラさん﹂
ヴェイン辺境伯の言葉に、私はほっとして﹁宜しくお願いします﹂
と頭を下げたのだが。
﹁でも、ここは国境の守備の要。いつ何時どういった状況になるか
わかりませんから、逃げ足だけは鍛えてもらうわ﹂
辺境伯夫人の言葉に、私は凍りつきそうになる。
運動苦手なんですが⋮⋮まずは侍女として、足が早くなるようが
んばらなきゃならないようです。
⋮⋮その合間に、魔術師になる方法って調べる余裕はあるのかな
?
111
魔術について調べます
この度、私キアラは改名しました。
キアラ・コルディエと名乗ることになりました。
思えば人生変転しすぎかもしれません。
準爵士から、伯爵令嬢になった後、子爵夫人の予定を蹴って、現
在辺境伯家で侍女になったんだから。
ちなみに侍女になるにあたり、そこそこの家の娘だという背景が
ないといけないということで、辺境伯の遠縁の娘ということになっ
てます。
当のコルディエさんの家は、領地の南の山間にありまして、のん
びり羊を飼ってると聞きました。
ヴェイン辺境伯が手紙でその人の姪っ子ってことにしてくれ、と
お願いをしてあるそうです。そのうち名前を貸してもらった挨拶に
行きたいものです。
さて、本日は侍女になって一週間目です。
王姉にして辺境伯夫人であるベアトリス様にお目覚めを知らせ、
ご要望にお応えして目覚めの水を一杯差し上げた後、朝の鍛錬に送
り出⋮⋮そうとして、剣を素振りするベアトリス夫人の近くで庭を
十周させられるところから、私の朝の仕事が始まります。
朝食を見守った後は、ベアトリス夫人は周辺の見回りに行くので、
送り出したところでようやく私も朝食をとることができる。
けど、一週間経ってようやく慣れたけど、初日と二日目ぐらいは
走り込みした疲労で食が進まなかったわ⋮⋮。
112
その後、ベアトリス夫人の寝室を整えたりするのは掃除の召使い
さん達の仕事なので手は出さず。
暇になるかと思いきや、レジナルド王子付きの侍従さん達の交代
要員として手伝いに行きます。
というか、レジーに私がとある要望をしたことで、そういうこと
になったのだけど。
レジーの部屋を訪問すると、彼は自分が王都から連れてきた護衛
の騎士を連れて、辺境伯の城の城塞塔の一つ、西側のものへと向か
う。
そこは書庫になっているのだ。
伯爵家にも教会学校にも書庫はあったが、辺境伯家のものは瀟洒
でも落ち着いた雰囲気だった。飴色の木の壁と柱で支えられた吹き
抜けのホールに、壁全体が書架で埋め尽くされている。
湿気ないようにか、書架の合間に所々換気のための小さな窓もあ
るが、基本的には木の雨戸でしっかりと閉じられていた。
明かりは中央の広いテーブルに置かれた燭台のみだ。
︱︱調べたいことがある。
エヴラール辺境伯の城へ入ったその日に、私はそんな切り出し方
で、レジーに辺境伯の書庫に出入りできないか相談したのだ。
実は切り出す前まで、どう説明したもんかとすごく悩んだ。
素直に﹁魔法のこと調べたいんだけど!﹂とか言ったら、なんか
企んでると思われたら怖いし。
かといって﹁この地方の魔術師について知りたいんですよ、私の
ライフワークで、いつかまとめた本を書こうかと思ってましてね⋮
⋮﹂なんて言っても、まず信用されまい。魔術師について調べる理
由があまりにも私にないからだ。
113
と、そこで思い出したのが茨姫のくれたペンダントである。
あの磨りガラスを丸めたような赤い石。無くすなと言われたもの
の、魔術師である茨姫が寄越したのだ。何か魔術と関わりがあるか
もしれない。
なのでこれを使うことにした。
呪われた品じゃないのか調べたい、とレジーに入手経緯を説明し
たら、彼も難しい顔をして協力すると言ってくれた。
きっと茨姫が﹁無くしたら大変なことになる﹂と言ったのを伝え
たので、彼も何かしら魔術に関した品だと思って警戒したのだろう。
おかげで石のことを調べるなら、きっと魔術関連だよね? とい
う経緯で、そちらの文献を堂々と探すことができた。
⋮⋮レジーまで参加するとは思わなかったけど。
そして現在、毎日のようにこの書庫へ通っている。
私としては、二日に一回ぐらいのペースで図書室に寄ってくれた
ら十分だったんだけど、レジーは﹁キアラは仕事があるから、じっ
くり読む時間がないだろう?﹂と気を遣ってくれたのだ。
⋮⋮これは、茨姫に呪われたかもしれないとか、怯えた振りした
せいかもしれない。騙してごめん。
でも代わりに、君や辺境伯が死なないようにできるか、がんばっ
てみるよ!
改めて決意しつつ、明るいとは言えない書庫の中で、燭台を引き
寄せてじっと本を探す。
さすがに﹁初めての魔術講座﹂とか、教科書的なものはない。だ
から歴史上で魔術師が出てくる本を探してまず読んだ。
⋮⋮なんか﹁その時川の水が逆巻き﹂とか﹁森が一気に火を噴く
ように燃え﹂とか、前世の聖書っぽい抽象的な話ばかりだった。
114
歴史書だから、もっと詳細なものがないかと期待したんだけど⋮
⋮。
だから魔術師の手記みたいなのはないかと思ったが、そんなもの
が都合良く見つかるはずもない。
むしろ書庫の二階部にあった、何代か前の辺境伯の記録の方に興
味深い記述があった。
○月○日 魔術師ローファンに金16枚。緑閃鉱を10斤。
かねてから懸念されていた樹妖の処分を依頼する。
○月○日 魔術師ローファンに金32枚。藍瑛鉱を30斤。
急きょ必要になった、水害防止の対策を依頼する。
近来稀にみる豪雨だった。晴れたらすぐ農村の被害を
確認したい。
この辺境伯は、どうも金銭出納帳代わりに日記を付けていたよう
だ。
彼が統治していた時代は、魔術師が近くにいたらしい。度々、国
境争いや災害、魔獣等の対処に手を借りていたようだ。
記述から、どうも魔術師は鉱石を必要としていたらしい。一斤は
金貨16枚分の重さなので、ローファンさんは依頼料の何分の一か
を鉱石として要求していたと思われる。
多分、魔術に使うような気がする。でもここに書かれている短い
補足説明では、推しはかるにも材料が足りなさすぎる。
加えて、魔術師の記述はほんのわずかだ。それを見つけるのも結
構骨が折れる。
そして読める時間は限られていた。
﹁殿下、昼餐のお時間です﹂
115
静かに扉を開いて書庫に入ってきたのは、レジナルドの侍女兼乳
母のメイベルさんだ。
老齢という年齢ではない彼女だが、医療や栄養状態の関係でこの
世界での平均寿命が60歳ということもあるせいか、御年57歳だ
がやや年老いて見える。
でもそこがまた落ち着きと頼れる感じを醸し出していて、ふくよ
かな体型と相まって﹃お母さん﹄ぽい人だ。
メイベルさんは優しく促す。
﹁本日はヴェイン辺境伯様の同席はございません。急ぎ捕らえた者
の検分に行かねばならないということでした﹂
﹁辺境伯が自ら? そんな大物の犯罪者って⋮⋮盗賊団の首魁とか
?﹂
本を閉じたレジーの問いに、その本を書架に戻しながらメイベル
さんが首を横に振る。
﹁なんでも、魔術師くずれのようで。捕らえた村の自警団員ではど
う始末したらいいのかわからないようですよ﹂
魔術師!?
私は立ち上がりかけた。
ぜひ会いたい! 話を聞きたい! くずれでもなんでもいい。魔
術を使ったから警戒されたのなら、魔術のことについて知っている
ってことだ。なら、魔術師になる方法も知ってるはず。
レジーも同じ事を思ったのだろう。
﹁それ、私がついて行くことはできないかな?﹂
116
さらっとメイベルに要望する。
しかしすげなく却下されるだろうと私は思った。なにせ王子様だ。
危険だから捕らえたのだろう魔術師に近づけさせたくはないに違い
ない。
が、とても予想外なことに、メイベルさんは一呼吸分ほど考えた
末に言った。
﹁一応ヴェイン辺境伯様にはお伝えしてみましょう。まずは昼餐の
ために食堂へお移りくださいませ﹂
﹁宜しく頼むよ﹂
え、メイベルさん止めないの!? と驚きながら、私も移動する。
今の私は侍女役なので、レジーを食堂に送り届けるお伴をした後、
私は使用人用の食堂になっている厨房横の部屋へ向かった。
魔術師に会えるかもしれない好機を逃したくないので、鍋と大き
なボールの中に入れて置いてある食事を全部一皿に盛る。
それを見ていた料理人見習いが目を丸くしていた。
変かな? パンと小さなトマトみたいな物の上から野菜の具だけ
シチューをどっちゃりかけただけですが。ああ、パン用の皿あるか
ら使うと思ったのね。
でも驚いた顔をするだけで彼は目を逸らす。
仕方ないよね。一週間ですぐみんなと親しくなれるほど、私も交
流が上手いわけでもないし。まぁ一ヶ月後ぐらいには、挨拶くらい
はできるようになりたいものだ。
私は手近なテーブルにつくとパンを口に詰め込むように食べ、ス
プーンで残りのシチューを一気にかきこんだ。
117
お行儀が悪いのは承知してるんだけども、流し込むように食べな
いと、とてもメイベルさんが返事を持ち帰るのに間に合う気がしな
かったんだよね。
こんな早食いする人を見たことがないのか、隅っこに三人で固ま
って食べてた召使いのおばちゃん達がぎょっとした顔でこっちを向
いていた。
ちなみに味は普通。
前世と比べて香辛料系がほとんどないせいか、不思議なハーブ風
味シチューになってるけど、今世ではこの味付けに慣れ親しんでい
るため、懐かしい家庭の味として感じられる。
約一分ぐらいで食事を終えると私は立ち上がり、下膳台に皿を置
く。
﹁ごちそうさまでした﹂
まだ鍋の横に立ったままだった料理人見習いの少年に言うと、私
は急いで食堂を出て行く。
扉を開ける前に、少年が﹁おいハリス、遅せぇぞ! なにぼんや
りしてる!﹂と誰かに怒鳴られてたのが聞こえたが、彼は大丈夫だ
ろうか。
*******
キアラが食堂を出ていった後のこと。
﹁ハリス! なに油売ってやがった!﹂
怒鳴る料理長に、料理人見習いのハリスは呆然とした表情で言う。
118
﹁奥様の侍女が⋮⋮早食いしてました。流し込むように⋮⋮﹂
﹁はぁ!? 奥様の侍女さん方なら、骨付き肉をむさぼり食う奴だ
っていただろうが﹂
﹁いえ、新しくはいった、あのちっちゃくて筋肉とかなさそうな人
です。奥様の侍女って、みんなそんな人ばっかりなんでしょうか?﹂
料理長は﹁類友じゃね?﹂と心の中で思ったが、口には出さなか
った。
﹁⋮⋮早く慣れろ。他の侍女も早食いしてたって聞いたことがある
しな。奥様はそういう野性的な一面を見抜いて侍女にしたんだろう
よ﹂
一方、食堂の隅では召使の女性達が頭を寄せ合ってひそひそと話
し合っていた。
﹁ありゃー、あの子1分だった?﹂
﹁おどろいて測りそこねたよ!﹂
﹁前に見たのが確か4分の子だったかねぇ﹂
﹁あの水のように流し込む技術。あれが勝利の秘訣なんだろうね﹂
奥様の侍女達の食事時間ランキングを作って遊んでいた。
﹁しかしなんで他所から来た子を侍女にとりたてたかと思ったよ﹂
﹁お行儀のいいお人形さんみたいだったから、一家離散した商家か
田舎貴族の娘が、何かの伝手でとりたてられたのかと思ったよ﹂
﹁やっぱり奥様基準の選考だったんだねぇ。よく初対面で、早食い
王者になれそうな子を見出したもんだよ奥様は﹂
﹁やっぱ王女様ってすごいんだね﹂
119
そんな会話が繰り広げられていたのだった。
120
魔術師との遭遇
私が戻った時には、まだレジーの食事は済んでいなかった。
そりゃそうだよね。王子様がシチューを皿に口つけて胃に流し込
むわけがない。
ついでにメイベルさんも未到着だった。これで結果を聞き損ねる
ことはないだろう。
待っていると、メイベルさんが急ぎ足でやってきた。
ノックをしたら、中から出てきた給仕が食事が終わったことを教
えてくれたので、メイベルさんと私は食堂に入る。
立ち上がったレジーに、メイベルさんが報告した。
﹁残念ながら、ご同行は危険すぎるとのことで遠慮なさっていただ
きたいとのことでした。ただ辺境伯はその魔術師を城の牢に入れる
おつもりのようで、その際にならば殿下が見ることも可能だろうと
仰っておられました﹂
﹁ありがとうメイベル。なら、辺境伯が戻ったら教えてほしいな﹂
﹁かしこまりました﹂
メイベルさんがおじぎするその時に、レジーの視線が私に語りか
けてくる。﹃これでいい?﹄と。
もちろん、私が単身ついていくのはレジーよりも許可されにくい
だろう。だから、会えるのならばどんな方法でもかまわない。
うなずくとレジーもうなずきを返してくれた。
﹁その時にはキアラも連れて行きたいんだ。調べ物に関係しそうだ
から、手伝ってくれてる彼女にも見ておいてもらいたいんだよ﹂
121
﹁キアラも⋮⋮ですか﹂
私も一緒と言ったことに関しては、メイベルさんも驚いたようだ。
けれど彼女はレジーの要望に添うようにすると言ってくれる。お
かげで、その時にベアトリス夫人がいたとしても、レジーが呼んで
いるのでということで私を連れ出してくれることになった。
とりあえず打ち合わせは終わったので、レジーは迎えに来た騎士
と共に中庭へ向かった。小競り合いの多い時代の王子らしく、剣や
乗馬の訓練を欠かせないらしい。
私はベアトリス夫人が帰るのを待ちがてら、部屋の様子を確認し
に行こうと考えた。
そこで、不意にメイベルさんがつぶやいた。
﹁殿下はよほど、貴方を信頼されているのですね﹂
ため息混じりの声に、私は冷や汗をかく思いで姿勢を正した。
う、これってあれかな。
王子が出会って間もない、どこの馬の骨どころか⋮⋮な私と親し
くしていることを、良く思ってないってことかな。
これ以上レジーに近づかないようにと言われたらどうしようか。
魔術のことが調べられなくなって、レジーを救う手段を探しにく
くなってしまう。
いよいよとなったら、解雇されるのを覚悟した上で、何か手がか
りがありそうな茨姫の所へ突撃するしかない。
もう一つだけ、確実に魔術を学べる環境を思い出すが、それはで
きればやりたくない。
悩みで頭がパンクしそうになっていた私だったが、
122
﹁信じられる者が増えたことは、本当に喜ばしいと思っていますよ﹂
﹁えっ﹂
メイベルさんの言葉に、思わず疑問の声を上げてしまう。
するとメイベルさんは、困ったような顔をして笑った。
﹁貴方を疑ってはおりませんよ。殿下もうかつに危険な者を傍に置
かないでしょうから。貴方も子供だからこそ何のしがらみも考える
ことなく、ただ殿下という同じ年頃の子として仲良くなったのでし
ょう。殿下は今までそういったことなど望みようもないお立場だっ
たので、嬉しく思っておりますよ﹂
﹁あの、それは王子だからですか?﹂
自分を支持する家の子とだけ仲良くしなくちゃいけないとか。そ
ういうことだろうか。
﹁それもありますが、複雑な生い立ちのせいでもあります。なにせ
殿下は、今の陛下にとってはご養子になりますので。お立場が複雑
すぎて﹂
﹁確かに⋮⋮﹂
レジーは、現王の兄の子供として生まれた。けれど現王の兄が王
太子時代に早世したため、まだ幼かった彼は、まだ世継ぎなど居な
かった現王の子となったのだ。
ゲームはそんな複雑な事情はなかったな、と思う。
最初から居ないキャラにもしそんな設定があったとしても、わざ
わざストーリー中に話題にしないだろうけど。
けれど現王にはまだ子供がいない。
唯一の跡取りとなるのだから、血が繋がっていなくともレジーの
123
ことを無下にしないと思ったが⋮⋮そこで、レジーの﹃優しくない
家族﹄のことを思い出す。
﹁ご家族も⋮⋮配慮はしてくれないのですね﹂
優しくない家族ならば、レジーのことを思って、安心して付き合
える相手を選別することもないだろう。
私のその一言で、メイベルさんも私が何らかの事情を知っている
ことを悟ったようだ。
﹁殿下は本当に、貴方に色々とお話になっておられるのね﹂
ふっと息をついたメイベルさんの肩から、力が抜けたように見え
た。
そして彼女が色々と語ったのは、もしかするとメイベルさんもず
っと誰かにこういう話をしたかったのかもしれない。
﹁レジナルド殿下は陛下の兄君のご子息でした。当時王太子でいら
したので、兄君がそのまま即位をしていたら、レジナルド殿下は陛
下よりも継承権の序列が上になっていたでしょう。けれど父上を亡
くし⋮⋮お母上はその後、悲しみのあまり王城から離れた別な館で
静養中に滞在中に行方不明となられ、殿下一人が残されました﹂
実の父母を失った時、レジーはわずか5歳だった。
﹁けれど先代王であるお祖父様がいらっしゃるうちは良かったので
す。殿下を可愛がり、庇護してくださいました。けれどあまりに庇
護が厚いので、叔父である今の陛下の継承順位が危ぶまれるのでは、
と噂が立ちました。そのため先代王は、レジナルド殿下を陛下のご
養子とされたのですが⋮⋮この経緯から、まだ幼いレジナルド殿下
124
を敵視することもありました﹂
おいおい⋮⋮と私は呆れそうになる。
継承順位が変わることを嫌がったから、養子になったんだろうに。
それでもまだ﹃怖いんだよー﹄と幼児をいじめっ子扱いですか⋮⋮。
そうして幼少期のレジーは、先代が連れていかなければ誰も関わ
って来られない、強制ぼっちの状態になりかけたとのこと。
みんな先代さんとは仲良くしたいけど、今の王様を無視すること
もできないしで︵だって先代が亡くなったらご利益が無くなっちゃ
って、不利な状況になりかねないから︶困った末に、先代さんがい
る場所でだけ交流するのが関の山だったらしい。
とんでもない幼少期を過ごしたんだなと、私はレジナルドに同情
した。
﹁やがて陛下も妃を娶られましたが、消耗戦になりかねないルアイ
ン王国との戦を回避するための政略婚です。王妃はもちろんこちら
に歩み寄ることもありませんし、殿下に対しては、今後自分が子を
成してもレジナルド殿下が阻害要因になりますので、母として慕え
る状況ではありませんでした﹂
そうしてレジーは優しくない家族とばかり関わる生活を続けてい
たのか。
針の筵だな⋮⋮。似た者同士だって雰囲気は感じていたけど、本
当に恵まれてなさすぎる。
ただ王妃との婚姻で良かったこともあったらしい。
現在の陛下も、ルアインに国が乗っ取られることだけは良しとは
していなかったのだ。
そこで継承者にルアインの血を入れたら問題になると考え、レジ
125
ーを継承順位一位からは変えなかった。そして貴族たちの結束を強
めようと、王子との交流を勧めるようにもなり、貴族達も王妃を警
戒する者はレジーの側についたようだ。
その最たるものがエヴラール辺境伯だ。
﹁こちらは王姉であらせられるベアトリス様がいらっしゃいますし、
ベアトリス様は以前より不憫な身の上のレジナルド様を気に掛けて
下さる方。幸いアラン様との仲も良く、そのため度々こちらへ滞在
なさるのです﹂
とはいえ、王子という身の上では気ままに交流するわけにもいか
ない。それを承知しているレジーも、近しい親族でもあるアラン以
外とは、あまり深くは関われなかったようだ。
﹁貴方は身の上の関係上、すべてのしがらみを断ち切った状態なの
も望ましかったのかもしれませんね。⋮⋮できる限り、殿下のお味
方でいてほしいと思っていますよ﹂
メイベルさんはそう言って話を終えた。
彼女の声音から、けっこう切実な気持ちなんだろうなと私は感じ
た。
今は味方になってくれる人がいる。政治情勢がそう動いたからね。
けれどその人達はみんな、情勢が変われば好き嫌いに関わらず離れ
てしまう相手だ。
⋮⋮信頼できるわけがないよね。
前世じゃ、あまりそんなことはなかった。
多少、主力グループに睨まれるのが嫌だからとか、そういう人達
に同調しておかないとハブられるからと曖昧にしておくとか、って
こともあった。
126
けど、でもそれが自分の家庭環境にまで影響することはまずなか
った。
家は家、学校は学校だからね。
あ、家庭環境まで影響する場合ってのはあれだ。社宅で親が同じ
会社の人と顔を突き合わせる生活で、上司が自分や親を嫌っていた
場合ならそうだよね。
レジーの状況はそれと近いのかな。
なんにせよ、どこにも逃げ道がないというのは苦しいものだ。だ
から枠外の私の存在を、メイベルさんも快く思ってくれたのだろう。
レジーも私がイレギュラーだからこそ、哀れに思って助けてくれ
たのだろうか。だとしても、その分くらいは彼に返すことができた
らと思う。
﹁レジーは友達だから、なにかあったら助けますよ。なんたって命
の恩人みたいなものですから﹂
そう、例えば二年後。
決定的瞬間が来るのを防げなかったとしても、私は手段を探すだ
ろう。
さて、レジー達を守るために手に入れたい情報源は、それから一
時間ほど過ぎた頃に城へ到着した。折よくベアトリス夫人が巡回か
ら戻り、食事と着替えを済ませてくつろぎ始めた頃だった。
メイベルさん自身が私を迎えに来たので、ベアトリス夫人もちょ
っと驚いたようだ。
﹁レジナルドが魔術師に興味を持ったの?﹂
うちの甥っ子、今度はプラモに手を出したの? みたいな調子で
127
尋ねたベアトリス夫人に、メイベルさんは曖昧な笑みを浮かべた。
﹁先だって茨姫とお会いになられたことで、興味を持たれたそうで
す。度々キアラと共に書庫で文献を調べておりましたよ﹂
﹁それではさしずめ、キアラは研究助手ってことかしら? 良いで
しょう、その件に関してはレジナルドにキアラをお貸しするわ。私
も見に行こうかしら﹂
快諾してくれたベアトリス夫人とともに、私は城門へと移動する
ことになった。
万が一のことがあってはいけないと、ベアトリス夫人は玄関ホー
ルの階段の上から見下ろすことを選択。レジーも同じようにするこ
とを約束させられたので、自由な身の私だけがするりと階下へ降り
た。
魔術師を警戒して、階段前や扉の前には衛兵たちが集まっていた。
その隣にちょこんと立っていると、なぜかぎょっとされた。きっ
と侍女なんて仕事をしている人間が、わざわざ危険な相手を近くで
見るために、傍まで来ないと思っていたのだろう。
レジーにも﹃あまり勧めたくない﹄という視線を向けられたが、
もし何か知りたいことへの鍵を見逃してしまったら、それこそ後悔
する。
どうしても見つけ出したいのだ。魔術師になる方法を。
今か今かと待っていると、外へつながる大扉が開かれた。
重厚な黒樫の扉の向こうから現れたのは、ウェントワースさん達
騎士が二人。
それから色あせたマントを着た泥酔中みたいな男を両脇から支え
る兵士が二人。最後にヴェイン辺境伯と残りの騎士だ。
128
たぶん、この酔っぱらって道端で寝転がっていそうな男が、魔術
師くずれなのだと思う。
正直、魔術師らしさがあまり感じられない。
短く刈った後でそのまま伸ばしたような髪は、農村を歩けば同じ
ような人を何人か見つけられるだろう普遍的なものだ。衣服も、生
成りのシャツの上にくたびれたこげ茶のジャケットやズボンを身に
着けていて、町に住んでいる人間とそう変わりはない。
でも何かひどく気になる。
ずっと見ていると、なんだか胸の辺りが苦しい。どくどくと脈が
速くなっていく気がする。
風邪を引いて具合が悪い時に少しだけ似ている。寒気がする。け
れど頭だけはすっと冷えていくようだった。
同じ魔術師のはずなのに、茨姫にはそんなことを感じなかった。
どうしてだろう。私は訳がわからないまま、その場に座り込みそ
うになるほどの気持ちの悪さに耐えていた。
129
魔術師の最期︵前書き︶
※今回人死にの描写がありますのでご注意下さい
130
魔術師の最期
﹁魔術師と言っても、あまり普通の者と変わった様子はないけれど
⋮⋮﹂
ベアトリス夫人のそんな声に気付いたのだろう、ヴェイン辺境伯
が階段の上を見上げて応える。
﹁君まで見に来ていたのか。あまり楽しいものではないんだよ。そ
れに彼は正式な魔術師ではないようだし、何らかの事情があるよう
だが周囲に迷惑をかけかねないんで連れてきたんだよ﹂
﹁それならば、城に置くのも危険では?﹂
二人の会話を聞いている間にも、私の胸苦しさが強まっていく。
そこに、話を聞いてやってきたらしいアランが近くの扉から入っ
てきた。魔術師を珍しそうに見た後、私がいることに気付いたんだ
ろう。近寄ってきて、階段の上に行くよう勧めてきた。
﹁キアラ、お前がなぜ危険人物の傍に居るんだ。もっと遠ざかれ。
何かあってからではおかし⋮⋮どうした?﹂
答えられないほどの異常を抱えていることに、アランが気付いた
ようだ。
その間にも、ヴェイン辺境伯が魔術師の移動を再開させようとし
た。
﹁ここまで容体が悪い魔術師は、一人で静かにさせておくしかない
んだよ。刺激するのが一番良くないと、先代から教わっている。だ
から地下牢に⋮⋮﹂
その時、支えられて立つのがやっとだった魔術師が、急に顔を上
131
げた。
彼の視線はなぜか私にまっすぐに向けられている。なんで!?
﹁た、助け⋮⋮ごふっ﹂
魔術師くずれの男はせき込んだ。
灰色の石床の上に、何か黒い浸みがつく⋮⋮血?
そうと察した瞬間、私はめまいがする。なぜ血を吐いているのか。
脇を支えている兵士達も、ぎょっとしたように身じろぎした。そ
れでも彼を離さないのだから、すごい。私だったら血を吐かれたら
逃げ出すかもしれない。
﹁怪我をしているの?﹂
﹁いや⋮⋮だめだ。君たちは早く上へ。この男は急いで地下に連れ
ていく﹂
辺境伯の指示通り、兵士達は魔術師を歩かせようとした。けれど
それまで大人しく従っていた魔術師が、よわよわしい声で訴え始め
る。
私に向かって。
﹁お願いだ、助けて。このまま死にたくな⋮⋮っ、ああっ!﹂
悲鳴を上げた魔術師は、足の力を失ってそのばにくずおれそうに
なる。兵士が支えていたので倒れはしなかったが、石床に座り込む
形になった。
そうして、腕を押さえられたまま魔術師は呻き続けた。
見ていられない。
怖いと思うのに、私は魔術師から目を離せなかった。
そのうちに、ぎょっとしたように兵士達が魔術師の腕から手を離
してしまう。彼の手の甲が、がん、と人体にあり得ない固い音をた
132
てて石床にぶつかった。続いて魔術師がうつぶせに倒れる。その時
にも、石をぶつけあうような音がした。
﹁ひっ!﹂
誰かが息をのんだ。
私は胸の苦しさがひどくて、その場に座り込みそうになった。け
れどアランに背中を支えられる。
﹁お前、本当にどうしたんだ? 具合が悪いのか?﹂
アランは問いかけに答えられない私を、どこかへ連れていこうと
した。
その前に決定的瞬間が訪れる。
魔術師の外套を突き破るように、鋭い四角錐の石が生えた。突き
立った剣のように鋭い石は、次々と増えていく。
傍にいた兵士が、悲鳴を上げて逃げていく。ベアトリス夫人も口
元に手をあてて絶句しているようだ。
レジーは渋い表情で魔術師を見つめ、アランは言葉をなくしてい
たけれど、私の背を支える手がわずかに震えている。
やがて魔術師は、うめき声すら漏らさずに︱︱砂のようにその姿
が崩れた。
はたり、と中身を失ってしぼむ衣服と、ざらりと襟ぐりや袖口か
ら流れ出る灰のような色の砂。
人だったことすらもわからない状態になってしまう。
一方、私は自分の息苦しさが消えうせたのを感じた。足にもしっ
かりと力が入る。
けれど頭は混乱しそうだった。
どうして私の体にまで異常が現れたのか。魔術師はなぜ私を見た
133
のか。
なぜ魔術師は今のような死に方をしたのか。魔術師はみんな⋮⋮
死ぬと砂になってしまうのだろうか。
そもそもどうして魔術師は、あんなに苦しんでいたのだろう。
呆然としていたが、幸いにもそれは私だけのことではなかった。
ヴェイン辺境伯が解散するように指示を出すまで、皆が同じ状態に
なっていたことで私のことは目立たなかったようだ。
私もこの場にとどまり続けるのもおかしいので、ベアトリス夫人
の元へ行くべく歩きだそうとした。
﹁お前、もう大丈夫なのか?﹂
私の不調に唯一気がついていたアランがそう尋ねてくれる。
﹁もう大丈夫です。ありがとうございますアラン様。たぶんびっく
りしただけだと思うんです﹂
適当な言い訳をして、私はアランと共に階段を上りはじめる。そ
して途中でまだ立ち止まったままだったレジーと合流した。
﹁キアラ、顔色が良くないよ?﹂
レジーにまでそう指摘されてしまったが、私は首を横に振った。
﹁大丈夫です殿下。余りに予想外で驚いたせいだと思います﹂
そう言い訳をすると、レジーも納得はしてくれた。けれど彼も、
先ほどのことを見て思うところがあったのかもしれない。
﹁茨姫も⋮⋮最後はあんな風に砂になるのかな﹂
レジーは視線を階下へ向ける。ヴェイン辺境伯に指示をされた兵
士が、砂を掃き集め、衣服と一緒に誰かが持ってきた麻袋に詰めて
いる。
134
魔術師みんなが、あんな最後を遂げるのだろうか。
でもゲームでそんな描写はなかった。
だからといってそうなるわけじゃないとは言えない。今までだっ
て、どれだけゲームが戦闘を楽しむために描写や背景が排除されて
いるのか実感してきたのだ。
キアラ・クレディアスが剣に刺された後、砂になるかどうかなど、
ゲームの進行上はどうでも良いことなのだから。
思考のついでに、一瞬自分が砂になってしまう姿を想像してしま
う。
⋮⋮さすがにちょっと気持ちが悪い。背筋がぞわっとした。
そのせいだろうか、このまま魔術師になることを目指して大丈夫
なのか、本当に自分はそれでいいのか不安になってくる。
ぐずぐずとしていた所に、ヴェイン辺境伯が階段を上がってきた。
﹁殿下どころか、アランまでいたのか⋮⋮﹂
﹁すみません。先日から魔術に少し興味があって。魔術師を見かけ
たことはあっても、僕はほとんど関わらなかったので拝見したかっ
たんです﹂
レジーが言うと、ヴェイン辺境伯もうなずく。
﹁確かにそうそう会うものではありませんからな、魔術師は。けれ
どおわかりでしょう⋮⋮希少な存在である理由は﹂
ヴェイン辺境伯の言葉に、私は息をのみこむ。
それはまさか、魔術師がみんなああいう死に方をするということ
なのだろうか。
﹁特に魔術を手に入れようとして無理をした者は、わずかながら術
を操ることができても、すぐに力が枯渇するからなのか、あのよう
135
に消滅してしまうことが多いようなのです﹂
⋮⋮どうやら、すべての魔術師があんな死に方をするわけではな
いようだ。ちょっとだけほっとした。
でも無理をしなければ大丈夫、ということだろうか。
﹁完全に魔術を操れるようになれる者自体が少ないと聞いています。
けれど誰に適性があるかなどまるでわからないようですよ。だから
魔術師が十人、二十人と弟子を取っても、本当に魔術師になれるも
のは一人か二人。しかも適性がなければ、あのように死んでしまう
恐怖をのりこえて試さなければなりません。しかも魔術師になれた
としても、やはり自分の力を超えるほどに術を使えば、同じように
死ぬ可能性があると聞きます﹂
レジーもアランも、じっと黙り込む。
私も同様だ。
魔術師には、もっと簡単になれるものだと思っていた。誰かに弟
子入りして、レベルを上げるがごとくに修行をしたらなれるものな
のだと。
けれどそうではなかった。
﹁だから味方をしてくれる魔術師には、敬意を払わなければならな
い、と私は父の先代辺境伯から教わりました。敵ならば最大級の警
戒を。その身を削ってでも相手を倒そうとする者は恐ろしいのだか
ら、と。
そして不完全にしか魔術師になれなかった者は、術を使わずとも
死にゆくことしかできません。せめて心を落ち着けられる場所にい
れば、崩壊を先延ばしにすることはできると聞いたのですが⋮⋮上
手くいきませんでしたね﹂
ヴェイン辺境伯がため息をつく。
私は、胃の底から湧き上がる恐怖にじっと耐えていた。
136
ゲームで魔術を使えていた以上、私に素質があるのは確かだろう。
希少だというその条件はクリアできているのが分かった。
けれど魔術師になれたとしても、使い方によっては死ぬ可能性も
あるというのだ。
だから今更ながらに⋮⋮魔術師になることが怖くなった。
ゲームのキアラは、状況からして自分の死すら怖くはなかったの
かもしれない。けれど今の私は、そこまで追い詰められていない。
今の自分にあるのは、友達を救いたいという気持ち。
けれどレジーを救うことができたら、自分が魔術師になったこと
は皆に知られるだろう。その後、王国を取り戻すためにきっとみん
なが戦にその身を投じるに違いない。私も手伝って欲しいと望まれ
るだろう。
味方を救うために自分の命を削るかもしれないのに、一緒に戦い
続けられるだろうか。
だけど戦争は嫌だと言ってこの城に引きこもったところで、レジ
ーが死んでしまったら後悔するだろう。
けれど自分が死ぬのは怖い。
戸惑いと恐怖で、私は自然と自分の唇をかみしめていた。
137
魔術師の最期︵後書き︶
13話目魔術について調べます、に閑話を追記しました。
138
捜索願いは続行中?
それから、私は時々上の空になりやすくなっていた。
体を動かしている間はそれほどでもない。
朝食の席から仲がいい雰囲気全開の辺境伯夫妻の様子を見たり、
アランが呆れたような顔をしていたり、それを笑って見ているレジ
ーの表情などは、穏やかな日常を感じさせてくれるし、おかげで﹃
考えるべきこと﹄を忘れていられた。
けれど魔術のことを調べようとすると、本の内容が頭に入ってこ
ない。
思い出してしまうのだ。砂になって崩れた魔術師になりそこなっ
た人のことを。
自分がそうなってしまうのではないかと思うと、調べるのが怖い。
だから穏やかな生活を実感させてくれるものに注意を向けたくなる。
それと同時に、思ってしまうのだ。
自分がこうして来るべき運命から逃れられたのだから、もしかし
たら、この城が襲われない運命に変わるかもしれない。レジーだっ
て死なないかもしれないと。
それどころか、やっぱりこれはゲームなんて関係ない世界かもし
れないじゃない? なんて夢みたいなことまで想像して、自分で握
りつぶして絶望する。
﹁わかってるのに⋮⋮﹂
思わず口をついて言葉がこぼれる。
そんな風になんでもうまくいくわけがない。私は﹃先に起こる出
139
来事﹄を知っていたから、逃げることができた。けれど他の人々は、
この先自分に何が起こるのかなど知りようもない。
世界は本来、何も分からない闇の中を手探りで進むようなものの
はずだ。
だからこそ知っている自分がどうにかしなければ、と思う。けれ
どそこで心が立ち止まろうとするのだ。
死にたくない、怖い、と。
﹁キアラ、具合が悪い?﹂
レジーに尋ねられて、はっと我に返る。
﹁あ、ごめん。なんかぼーっとしてたの。レジーに無理を言って調
べ物させてもらってるのに、本当にごめんなさい﹂
﹁謝らなくてもいいよ。ただ⋮⋮最近ずっと、物思いにふけってる
ように見えるから。魔術師が死んだのを見てから、だよね?﹂
ぎくりとする。
と同時に、あまりに分かりやすくふさぎ込みすぎたのだろう自分
が、嫌になった。せめて本当の理由を知られないよう、言葉を探し
た。
﹁あの⋮⋮やっぱり、人が砂になってしまうっていうのは、ちょっ
と刺激が強すぎて﹂
魔術師の最期の様子にショックを受けただけ、ということにした。
私ぐらいの年齢の女の子なら、まさに悪魔と契約したからとしか
思えないあの様子に、怯えたっておかしくないはず。
﹁そう? それにしては考え込みすぎるというか⋮⋮まさか﹂
え、まさかって、何に気付いたの?
レジーの言葉にびくびくしていると、彼は静かに告げた。
140
﹁誰か知り合いに似ている人だった? だから余計にショックが強
かったとか﹂
内心で盛大に息を吐きたい気持ちになった。
⋮⋮レジーが斜め上に暴投してくれて助かったわ。
でも、そうか。
亡くなった魔術師に似てる知り合いが居たというのは、ある一面
で間違いではない。それが二年後の私だというだけで。
そう考えるとレジーは鋭い。
私はごまかすためだけに﹁そうなのかも⋮⋮﹂と曖昧な答えを返
してうつむく。顔を見せたら、嘘だとバレてしまうのではないかと
思ったのだ。
しかし、私の顎に指が添えられる。
え、ちょっ、レジーが触ってるの!? と驚いている隙に、顔を
彼の方に向けられた。
いつのまにかすぐ側に来ていたレジーは、机に片手を突いて、も
う片方の手で私の顎を捕らえていた。
燭台の明かりが揺らぎながら照らす、レジーの顔から目が離せな
い。
みじろぎすらできなかった。
なんですかこれ! この、なんかすんごい恋愛物みたいなシチュ
! そしてさらりとやってしまうレジ−! しかもこの人ってば慣
れてるっぽいし、まさか今までにもやったことがあるんじゃないの
とか、考えると頭がごちゃごちゃしてくるんだけど!
前世でも、こんな甘酸っぱいシチュエーションなど未体験ゾーン
だ。未知との遭遇だよ。
おかげでどう動いたらいいのか、なんと言ったらいいのか全くわ
141
からない。
わからないのに、レジーの指の感触がくすぐったくて、顔が熱を
持っていくのがわかる。
でもそのせいか、レジーは疑いを消してくれたようだ。
﹁もう、顔色は悪くないみたいだね?﹂
そう言って顎から手を離してくれる。
ほっとした私に、レジーは誘いかけてきた。
﹁でも捜し物に身が入らないみたいだし、気分転換しないか? た
まには外に出よう。キアラは辺境伯夫人について歩くわけじゃない
から、ほとんど城の外に出ていないだろう?﹂
言われてみればその通り。
エヴラール辺境伯の城に来てからというもの、私は魔術について
調べることに気持ちが向いていて、仕事で用事がある時でなければ
庭にすら出なかった。
確かに少々、日の光に当たらない生活は身体にも精神的にも良く
ないように思える。
うなずいた私の手を引き、レジーが書庫を出た。
﹁殿下、どちらへ?﹂
﹁城の外を一周したいんだ﹂
書庫の外で待機してくれていた騎士がレジーの予定を聞き、近く
にいた従者が走り去る。
レジーと共にゆっくりと城の中を進んで厩舎に到着すると、先に
知らせに走った従者のおかげで、厩舎番がレジーのものと騎士のも
のと思われる馬を引きだしてくれていた。
教会学校から逃げ出して二月近く経つが、久々に貴族らしい対応
をされる側に回ったなと感じる。貴族令嬢は乗馬の練習などしない
142
けれど、こんな風にやりたいことを伝えると、仕えてくれている人
々が準備をしてくれるのだ。
﹁キアラ、馬には乗れる?﹂
尋ねられて私は首を横に振る。
乗ってみたいとは思っていたが、伯爵家では馬に近づかせてもく
れなかった。
⋮⋮今思えば、逃亡防止のためだったのだろう。
そんな乗馬初心者の私は、さっと鐙に足をかけて馬上に落ち着く
レジーの所作の美しさに感嘆した後、手を握られて自分も馬上に引
っ張り上げられた。
意外に力強い引きに驚きながら、鞍の前に横座りで落ち着く。
﹁わ、高い﹂
自分の背丈以上に高いばしょから下を見下ろすことになって、私
は好奇心半分、高所への恐怖が半分で、落ち着きがなくなる。
するとレジーがするりと私の腰に手を回して手綱をつかんだ。
﹁あまり身を乗り出さないで、キアラ。落っこちても知らないよ﹂
くすくすと笑ったレジーは、私が背筋を伸ばし直したところで馬
を歩かせ始めた。
褐色の馬はゆっくりと歩いてくれたが、それでも大きく揺れた。
慌てて鞍の前側を両手で掴んだ私だったが、それでも安定しない。
うっかりすると鞍から滑り落ちそうで怖い。できれば横座りなんか
ではなく、レジーみたいに座りたいと思ったところで、レジーが私
の腰に回した手に力を込めた。そのとたん、とても安定してほっと
する。
143
﹁ごめん、落とさないから大丈夫だよ。ちゃんと掴んでるから安心
して﹂
またしても笑いながらレジーに言われて、私はうなずいた。
レジーと後ろを騎乗してついてきた騎士は、やがて城から外へ出
た。
跳ね橋も掘もない城だが、その先に広がっているのは丘を包み込
むような草原だ。そこを伸びているゆるい坂道をレジー達は進む。
その頃には、私もようやく騎乗することになれてきていた。
揺れの受け流し方がわかってきて、周囲を見渡す余裕ができる。
やがて道は、葉を茂らせた林の中へと入っていく。
﹁ここの林、結構木が丈高い。来た時はもっとうっそうと茂ってる
ような気がしたんだけど、そうでもないんだ﹂
独り言まじりに感想を口に出すと、レジーが応じてくれる。
﹁行きは馬車の中だったからね。小さな窓だけでは、景色を堪能で
きなかっただろう?﹂
﹁うん、なんか錯覚してたみたい。あ、林が終わる﹂
その向こうは、さらに緩やかな丘が平らになった大地と、畑があ
る。
畝をつくった土の盛り上がりだけが見える場所は、種をまいたば
かりの所だろうか。丸い野菜のようなものが生っているのは、あれ
はキャベツ?
緑がちょぼちょぼと生えてきているのは何の畑だろう。
左右の畑に気をとられていた私は、突然にレジーが息を飲んだこ
とに我に返った。
何があったのか。
聞く余裕もなく、レジーは馬を反転させて走らせた。
144
﹁しがみついて!﹂
跳ね飛ばされそうな速度で走る馬の上で、私は無我夢中でレジー
にしがみついた。
﹁な、何!?﹂
﹁君の追っ手だ﹂
﹁え!?﹂
追っ手とはどういうことだろう。けれど落とされないようにする
ので精いっぱいで、周囲を見ることすらできない。
ようやく馬が並足ほどに速度を落としたところで、もう林の中に
戻ってきていた。
﹁お、追っ手? どういうこと?﹂
﹁君がここへ来る途中で追ってきた、パトリシエール伯爵の配下の
人間がいた。見間違いじゃないと思う﹂
どうして、と私は驚く。
あの直後ならまだしも、もう雷草の生える草原で遭遇してから随
分経つのに。
﹁まさか、やっぱりアランたちと一緒にいると思って、ずっとここ
に張り込みしてたのかな?﹂
けれど、私はそうまでして捕まえて連れ戻したいほどの人間じゃ
ないはずだ。魔術師になっていない今なら、なおさらだろう。
道の先を振り返り、レジーは﹁わからない﹂と私に答えた後で騎
士と話す。
﹁あの先にあった小屋から出てきた男。追ってきているようだった
か?﹂
﹁いえ。馬に乗っている様子はありませんでしたので、追いかける
145
ことは難しかったでしょう﹂
﹁なら、大丈夫か⋮⋮﹂
レジーがふっと息をつく。
﹁もしかするとまだ君のことを探してて、途中で宿泊した場所で君
のことを聞きつけてしまったのかもしれない。それで遅れながらも
追いかけてきていたのかも⋮⋮。でも一か月近くも経つのに﹂
レジーも、これほど長く私が探されるとは思わなかったのだろう。
渋い表情になる。
﹁まだ君の姿は見られなかったとは思うけど、とにかく城に戻ろう
⋮⋮君を連れ出すには、まだ早かったのかな。今度は周囲を探らせ
てからにしないと﹂
﹁えと、そこまでしなくても、城に引きこもりますから⋮⋮﹂
﹁ずっとそうしているわけにはいかないだろう?﹂
話しながらも馬は進む。
すると、城の方から騎乗した騎士らしきマントを羽織った男性が
数人、やってくるのが見えた。
私は、彼らがレジーの護衛騎士だと思った。
なにせ彼は王子である。護衛が一人きりの状態で、外に出すわけ
がない。追って数人が追いかけてくる手はずになっていたのだろう
と考えたのだ。
が、甘かった。
彼らは私達を視認すると、剣を抜き放ったのだ。
146
襲撃と言いそびれたこと
そもそも敵を見分ける方法というのが曖昧なものだ。
ゲームなら画面の敵味方のカラーリングで一目瞭然だ。鎧の色や
らを色分けしてくれるし、その範疇にないボスなんかはまぁ、あき
らかに他と違うので一目瞭然。
当然、この世界はそれに酷似しているので、マントの色が青だか
ら味方だ、と勘違いした。
けれどゲームの色分けって、ルアイン王国とファルジア王国を別
けてるってことでもある。
ならば同じ国の人間が敵だった場合はどうなるのか?
︱︱私のように、味方が来たとほっとしたところで、裏切られた
感を味わうことになるのだろう。
同士討ちって、こんな感じで引っかかりやすいのかもしれない。
そう後で反省したものだったが、今現在の私はそれどころではな
かった。
﹁⋮⋮!﹂
悲鳴にならない声を上げつつ、このままでは殺されてしまうと焦
る。
しかし侍女らしく青のドレスを着ているので、逃げ足は極遅。ナ
イフすら携帯してない。でもこのままではレジーの邪魔になるので
は!? と思うが、馬を下りたら標的になりそうで怖くてできない。
﹁グロウル! キアラは馬にしがみついて!﹂
レジーが騎士に呼びかけるより前に、グロウルと呼ばれた護衛騎
士がレジーの前に出る。
147
私はレジーに押しつけられるようにして、伏せの態勢で鞍の前に
しがみついた。
その状態で、視線を前に向ける。
状況を見た私は、思わずゲーム形式で理解をしようとしてしまっ
た。
1ターンに攻撃は一回のみ。それで相手を倒せても、他三回の攻
撃をグロウルは避けるか防御をすることしかできない。HPを削ら
れないかどうか冷や冷やする。
しかも敵が1騎、1ターン使ってレジーに迫ってきた。
﹁ひっ!﹂
接近してきた1騎が、レジーに向かって剣を振りおろす。
レジーが受け止めるのと同時に、怖くなるような金属音が頭上で
起こり、馬にまでその震動が伝わった。
同時に馬が動いた。反転するような動きに振り落とされまいと必
死になる間に、敵が落馬していた。
どうやったのか知らないが、レジー、すごい!
けれどそこで驚いていられない。馬が落ちた敵をふみつけるよう
にして走り始める。
私はもう、その辺りでかなり怯えきっていた。
殺されるかもしれないことも、剣を振り回されるのも、逃げるた
めには必要だけど相手を傷つけるのもみんな怖い。
しかもそこから自力で逃れる手段を、私は持っていないのだ。
できるのは、ただレジーの邪魔にならないようにすることだけ。
本当はそれも辛い。レジーに重荷を負わせてるのだから。
けれど走り出した馬は、すぐに足を止められる。
148
再びレジーが剣を打ち合う。しかもすぐ劣勢に追い込まれた。も
う一人がレジーの左手に回り込んだからだ。
目の前の男が、結びあった剣を離し、一歩馬を引いてレジーに要
求してきた。
﹁その娘を渡してもらおう﹂
やっぱり標的は私だったようだ。レジーはすかさず彼らに返答す
る。
﹁断る﹂
レジーの言葉を聞いた敵二人が、すぐに剣を構えた。
このままじゃレジーが殺されてしまう。ゲームのレジーが死んだ
姿を思い出した私は、慌てて彼を止めようとした。
﹁だ、だめだよレジー! 死んじゃったらどうするの? 私なんか
を助けて⋮⋮﹂
レジーは王子だ。世継ぎが死んだら重大な問題になる。
それにこの戦闘は、イレギュラーな事態だ。本来ならば発生する
はずのない、私が学校から逃げなかったら起こらなかったはずのも
の。だからレジーが死なないでいられるかわからないのに。
﹁私なんか、なんて言っちゃだめだキアラ﹂
レジーは敵を見すえながらも、私を支える為に腰に回していた手
に力を込めた。
﹁友達だろう。死んで欲しくないなら、助けるのがあたりまえのこ
とだよ﹂
レジーの言葉を聞いた私は、息が止まりそうな感覚に陥った。
助けるのが当たり前。
死んでほしくない。
149
私が呆然としている間に、敵が斬りかかってくる。再び馬にしが
みつく私の頭上で、金属音が続いた。
レジーの苦しげな声に心臓がわしづかみにされたような感覚にお
ちいる。
けれど見上げようとしたところで、レジーに援護が入った。
グロウルだ。
護衛のグロウルにかばわれるようにして、レジーは再び馬を駆け
させる。今度は前途を邪魔する者はいなかった。
助けに入れたということは、グロウルも一人か二人は敵を倒せた
のだろうか。それでも一人きりでは死んでしまうのではないか。
別な恐怖に囚われ始めた頃、今度こそは助け手が現れた。
﹁レジー様!﹂
そう叫びながら馬を走らせてくるのは、ウェントワース達と一緒
にいるのを見たことがある騎士達三名だ。
﹁後ろをグロウルに任せてきた!﹂
レジーが短く叫んだそれだけで、彼らはすべきことを了解したよ
うだ。
一騎がレジーの側につき、他二騎が走り去る。
これでグロウルも助かるかも知れない。レジーも無事に城まで逃
げ帰れる。
ほっとした私は、気が抜けた瞬間に手から力が抜けそうになる。
でもここで落ちたら、万が一にも他にも敵がいたら殺されてしまう。
だから城の中までは我慢した。
けれど我慢しすぎたのか、今度は鞍から手が離せなくて、降りら
れなくなった。
150
﹁キアラ、手伝ってあげるよ﹂
気づいたレジーが、手を添えて一本一本指を開いてくれる。
ようやく離せたものの、力を込めすぎた手が震える。レジーはそ
んな私を馬から抱えるように下ろしてくれた。
迷惑ばかりかけてしまっているけれど、初めて巻き込まれた剣で
の戦闘で、おびえきっていた私には、その手のぬくもりがありがた
かった。
﹁レジー様、お嬢様をお運びしますか?﹂
一緒についてきた騎士がそう尋ねてくれたが、レジーはそれを断
った。
﹁いや、それより辺境伯を呼んで欲しい。そして周囲を捜索する必
要がある。人を集めてくれるよう言ってもらえるかな﹂
そう伝えたレジーは、私を近い場所にあった花壇の側まで連れて
行ってくれる。
抱えられるようにして座ってしまうと、厩舎からは、間仕切りの
ように植えられている低木のおかげで姿が見えなくなる。
馬からも下り、喧噪からも隔絶された場所に来て、少しずつ手の
震えは止まっていった。
﹁どう、落ち着いた?﹂
﹁うん⋮⋮ありがとう。でも、だめだよレジー﹂
安心してもまだ震えてしまう声で、私はレジーに言った。
﹁私を庇っちゃだめだよ。置いて行って、レジーだけでも逃げてね。
レジーは王子なんだから、私なんかより自分のことを⋮⋮﹂
﹁それは無理だよキアラ﹂
自分よりも王子であるレジーの命を優先すべきだ。そう言ったら、
151
彼に却下された。
﹁言っただろう。友達は助けるのがあたりまえだろう﹂
﹁どうして、そこまで﹂
﹁⋮⋮君以上に、私を理解してくれる人がいないと思うから﹂
レジーの言葉に、私は彼の言いたいことを理解する。
お互いに、理解されにくい思いを持っていたからこそ、通じ合え
たと感じたあの瞬間を思い出す。
それを肯定するように、レジーは言った。
﹁心の奥底にため込んだ、醜い感情が付随するようなことを、聞い
ても受け入れてくれる人なんてそういないんだよ。だから曖昧に濁
して誤魔化すしかない。普通はそうやって口をつぐむんだ。けど君
はそれすら見通して私に言っただろう? ﹃レジーにも優しくない
家族がいるんだね﹄と。僕はそれを聞いて、やっと息ができたよう
な気がしたんだ﹂
だから、とレジーが続ける。
﹁そんな君を、失いたくないと思ってはだめなのかい?﹂
ダメだとは言えなかった。
でも自ら剣をとり戦ってくれたということは、レジーに私を助け
るために命をかけさせてしまった、ということだ。
そうまでしてくれた人のために、どうしたら恩を返せるのか。私
には、命をかけ返すぐらいのことしか思いつけない。
けれど⋮⋮怖い。
﹁でも、私の方は、レジーのために命をかけることができるかどう
か、まだ迷ってるのに⋮⋮﹂
申し訳なさに、思わず気持ちを吐露してしまう。
152
﹁命をかける?﹂
そのせいで、レジーは何かに気付いたようだ。
﹁どういうことだい、キアラ。君、今の言い方だと命をかけなきゃ
いけない事態が起こると思っているように聞こえたよ? どうして
そんなことを言うの?﹂
レジーが私の顔を覗き込むように尋ねてくる。その表情は優し気
でも、目が嘘をつくことを許さないという意思を感じさせた。
言い逃れができない、と感じた。隠そうとしても、レジーは納得
できるまで追及してくるだろう。
でも、とその時私はふと思った。
命を賭けることよりも、頭がオカシイのではないかとだマシなの
ではないだろうか、と。それに、一人で悩むのも苦しくてたまらな
くなっていた。
﹁聞いて、レジー﹂
私は彼に語った。
﹁私のこと、教会の熱心な信者とか思ってくれていい。理由は詳し
く言えないけど、私が夢のような世界で知ったことを、聞いてほし
いの﹂
﹁夢?﹂
﹁二年後、レジーは多分サレハルドとの交渉で国王の代理人に決ま
るの。その時にこの城へ来ることになる。交渉をする場所への通過
点として、滞在しに。その時に、ルアインの軍が攻め込んでくるの﹂
﹁二年後に⋮⋮ルアインが?﹂
レジーは理解しきれないというような、驚いた表情をしている。
それを見て怖気づきそうになったが、私はぐっとお腹に力を入れ
て、続きを語った。
153
﹁その時、レジーが殺されてしまうかもしれない。だけど、代理人
を断ったからって無事かどうか分からないの。だからルアインと王
妃の動向に気を付けて。そしてここへ来て。そうしたら二年後まで
には⋮⋮私も覚悟が決まると思うの。レジーを守れるように。でも
出来ないかもしれない。怖くて、だから⋮⋮﹂
﹁待ってキアラ。落ち着いて。君は夢を見たの? それが二年後に、
私が殺されるかもしれない夢だったんだね?﹂
私はうなずいた。
それと同時に、私は胃がきゅっと閉まるような重苦しさを感じた。
これでレジーは、私が熱心なエレミア聖教信者なんだと思ったに違
いない。
エレミア聖教は熱心な信者となれば、司祭の夢占いが神の声のご
とく語られるなど、やや夢見がちな側面がある。そういった行き過
ぎた人間だと思われたのは確実だ。
けれどレジーの反応を知ることができなかった。
知らせを受けたヴェイン辺境伯とウェントワース達がやってきた
のだ。
レジーは私の代わりに事情を話し、ヴェイン辺境伯達は直ちにパ
トリシエール伯爵の配下を探し出すため、その場を立ち去った。
入れ替わるようにレジーの護衛、グロウルが戻ってきて、レジー
は彼とともにパトリシエール伯爵の配下について話すため、辺境伯
達を追っていく。
そして私は、全てを言わなくて済んだことにほっとしていた。
154
追跡者の謎
﹁大丈夫、私の側にいる限りは必ず守ってあげるわ!﹂
その後、自分で歩けるようになった私がベアトリス夫人の元へ行
くと、話を聞いていたらしい夫人が力強くそう請け負ってくれた。
どん、と胸を叩く姿が、美麗な上に迫力満点だ。
﹁まぁ母上がいらっしゃるならかなり安全だろう。だが城の中から
出なければ問題はないと思うぞ﹂
これまた知らせを聞いてやってきたアランが、ベアトリス夫人に
同調する。
でもちょっと待って。
アランの言い方だと、辺境伯夫人が護衛の女騎士みたいな扱いな
んだけども。そもそもベアトリス夫人て元は王女なおのに、どうし
てこんな武官みたいなことをし始めたのやら。
﹁私も奥様のように強ければ良かったのですけれど⋮⋮。奥様は、
いつから剣を習われたのですか?﹂
他のことから意識を逸らすためにも、エヴラール辺境伯家の不思
議一つに切り込んでみると、母親の部屋までやってきて戸口に立っ
たままのアランが答えた。
﹁それはな、母上は父上に⋮⋮﹂
﹁ちょっとアラン、それ以上は内緒よ!﹂
とたんにベアトリス夫人がソファから立ち上がってアランを止め
に走る。掴みかかられてぎょっとするアランに低い声で訴えていた。
155
﹁言っちゃダメって教えたでしょう!﹂
﹁でも城の人間は皆知っておりますよ﹂
﹁どうして!?﹂
﹁いえ、むしろ隠す気あったんですか?﹂
二人のやりとりを見て、いいなぁ、と私は思う。
想い合っている夫婦。そして愛情で結ばれた親子の姿に、羨望を
おぼえる。
今生ではほんと家族に恵まれてないからなぁ。でもでも、前世は
普通だったんだから。
心の隅っこで﹃前世の父さん母さんもラブラブだったもんね﹄と、
いじけた気分になりながら言い訳していると、アランとじゃれあい
を終えたベアトリス夫人が、真面目な表情に変わって私に向き合う。
﹁それにしても、問答無用で襲いかかるような真似をするなんて。
家出した娘を取り戻すにしても、方法というものがあると思うのだ
けど。これでは辺境伯家に喧嘩をしかけているようなものだわ﹂
﹁抗議はしないのですか?﹂
アランの問いに、ベアトリス夫人は首を横に振る。
﹁しても、対した謝罪は引き出せないでしょう。むしろつけ込む隙
を与えるだけよ。ここでのキアラは伯爵の養女ではなく、平民を侍
女に取り立てただけなのだもの。平民に危害を加えただけでは、実
行した騎士達の過失で収められても文句を言えないし、逆にキアラ
が何か粗相をしたのではと因縁をつけられて、連れていかれる口実
にされてしまうかもしれない。養子とはいえ、娘にした子に睡眠薬
まで使って結婚させようとした下衆ですもの。そうなったら何をす
るか分かったものではないわ﹂
ベアトリス夫人の言う通りだ。
156
正直、パトリシエール伯爵は私に娘として接したことはほとんど
ない。対外的に必要だと判断された時だけだ。通常は、豪華な服を
着せて同じような食事を食べさせている特別扱いの使用人、という
扱いでしかなかった。
それもこれも私を手駒として使うためだ。そんな風に飼っていた
犬が意に反して逃げ出したのだ。見つかったら折檻は免れない。
つくづく、こうしてかばってもらえるエヴラール辺境伯家に勤め
ることができて良かった。
﹁では、我々がキアラを平民として遇しているのを知っていて、一
番簡単な方法として襲撃を仕掛けたのではないでしょうか。貴族令
嬢として連れ戻すことになると、母上が同情して保護者に名乗りを
上げて抗議した、という体裁をとった場合、伯爵も無理には連れ戻
せません﹂
アランの推測にベアトリス夫人が首をかしげる。
﹁そうね⋮⋮そうだと思うのだけど。何かひっかかるのよ。辺境伯
家と関わりたくないから、襲い掛かって奪って逃げようとしたのか
しら?﹂
それに対する答えを持っている者が捕まったのは、夜も更けた頃
だった。
就寝の準備をしようとしていた私は、部屋の扉をノックされた。
部屋を訪ねて来たのは、ウェントワースさんだ。黒髪のやや表情
に乏しい青年騎士は、辺境伯が呼んでいると言って私を連れ出した。
最初、何も説明されなかったため、私は今日のことについて何か
聞きたいことがあるのだと考えていた。だからまだ着替えていなか
った青いドレスの上から簡単にショールだけを羽織って部屋を出る。
そうして連れていかれたのは、城の外︱︱正確には城を囲む壁の
157
内側だ。
館の周囲を囲む壁の内側は広い庭や、馬で走り回れそうなほどの
土がむき出しの運動場、城に勤めている者のための宿舎などがある。
春とはいえまだ夜風は冷たくて、ショールを羽織っただけだった
私は思わず肩をすくめた。
一体どうして外へ連れてきたのだろう。
不安になる私だったが、それを察したようにウェントワースさん
がぽつりと言った。
﹁教会学校からここへ来る道すがら、貴方を探していた者を探しあ
てました﹂
﹁え⋮⋮見つけたんですか!﹂
今回の襲撃に確実に関わっているだろうパトリシエール伯爵の配
下を、捕まえたのだ。それを知らせに来てくれたのかとほっとした
私は、なぜ私を連れ出したのかをよく考えもしなかった。
だから安心してウェントワースについていく。ややあって城の外
側から地下へ入る通路へ到着すると、そこを降りるように促された。
言われた通りに地下へ進みながら、私はどこへ行かされようとし
ているのか不安になる。
﹁ウェントワースさん、ここは?﹂
尋ねると答えが返ってきた。
﹁ここは囚人を閉じ込める地下牢です。中にヴェイン辺境伯とレジ
ナルド殿下がいらっしゃいます﹂
中にはちゃんとヴェイン辺境伯がいるらしい。そしてレジーもい
ると聞いて私は少し落ち着いた。何かあったとしても、レジーなら
ば私に悪いようにはしないと信じられるからだ。
158
けれど、なぜ牢の中なのだろうか。
他に漏らしたくない話をするためか。それとも、捕まえたパトリ
シエール伯爵の配下の様子を私に見せたいのか。
まだ?マークを頭の中に浮かべながら進むと、不意に心臓の拍動
が気になりだす。夜にウェントワースが持つ燭台の他、壁にも灯さ
れた燭台の明かりだけの中で、地下に入るというのが、私は怖いの
だろうか。
けれどようやく二人の元にたどり着いても、胸の動悸が治まらな
い。
﹁ここまで来てもらって済まないね、キアラ君﹂
ヴェイン辺境伯は、さきほど外から帰ってきたばかりなのか、マ
ントを羽織り、胸甲まで身に着けた姿だった。腰には剣も刷いてい
る。
﹁ごめんね、こんな夜中に﹂
そう言ったレジーも、きっちりと服を着てマントを羽織った姿だ。
﹁えと、私に何か?﹂
とりあえず呼ばれた案件について尋ねると、ヴェイン辺境伯が頼
んできた。
﹁牢の中にいるのが、昼間君も見かけた男だ。捕まえた直後から様
子がおかしくなってね。先ほど落ち着いたようなので君を呼びに行
かせたんだ﹂
辺境伯が指さすのは牢の中だ。そちらを見ようとする前に、レジ
ーが私に忠告した。
﹁一度見ていると思うけど、少し⋮⋮ショックを受ける姿になって
159
いると思うから、心構えはしておいてキアラ。彼は多分、魔術師に
なりそこなったんだ﹂
なりそこなった。そしてショックを受ける姿と聞いて、私は牢の
中にいるパトリシエール伯爵の配下がどんな姿になっているのか、
覚悟をしながら振り向くことができた。
その男の姿を見た瞬間、胃まで揺らすかと思うほどに、私の心臓
が強く跳ねた気がした。
理由はわからない。だって男の姿は、衝撃を受けはしたものの、
息苦しくなって目をそらすほどのものではなかったからだ。
あの魔術師よりも若干、穏やかなものだった。
背中が盛り上がっているけれど、突き立つような石の柱が生えて
いるわけではない。
今日の昼に見かけたときよりもずっと、顔も体もむくんで膨れて
いる。何か悪い病魔に侵されたのではないかと思うほどだ。
彼はぶつぶつと呟いていた。
あれを飲まされなければ。あれを飲んでから苦しくてたまらない。
妖しいと思ったのだ。赤黒い飲み物など、今まで見たことが無い。
きっと毒だったんだ。そうに違いない。
延々と、どこともしれない虚空を見上げて彼は言葉を紡いでいた。
それだけで、彼の心がもう壊れているのだろうと察せられる。
自分を捕まえて過酷な環境へ連れ戻そうとした人間だ。だから同
情はしないけれど⋮⋮目にするのは辛い光景だ。
﹁彼の言うものに、何か心当たりはないかい?﹂
﹁毒とか、パトリシエール伯爵から聞いたことがあれば、教えてほ
しい﹂
160
ヴェイン辺境伯に続けて、レジーがそう私に問いかけてくる。
首を傾げていた私だったが、やがて牢の中の男の言葉を聞いてい
るうちに思い出した。
︱︱血のように赤い飲み物を口に入れられた。
私はその言葉にはっとする。
まさかと思った。
体調を崩した時に飲まされたことのある、赤い液体を思い出す。
果実の汁で割ったからだと思った、少し暗い赤の飲み物。
最初はいつだったか。
伯爵の家に連れて来られた日に、特別な日だから出したのだとい
われて飲まされたのが初めてだったかもしれない。
後で私は三日ほど寝込んだ。
けれど回復したその時だけは、細かなことで私を怒るパトリシエ
ール伯爵が、やたらと穏やかだったと思う。
似た色のものを飲んだ男は、魔術師くずれと同じ状態になってい
るらしい。ならばそれは、魔術師にさせるために投与していた薬だ
としたら?
砂にならなかった私を見て、喜んでいたのだとしたら⋮⋮つじつ
まが、合う。
でもそれだと、私はもう既に魔術師くずれと同じような状態にな
っているということだろうか。でも魔術なんて使えた試しもないの
に?
けれど心当たりはそれしかない。ないけど⋮⋮。
私はぐっと下唇をかみしめる。
161
どうしよう、言いたくない。言えば私までその液体を飲んでしま
ったことがバレてしまう。もし魔術師くずれと同様の状態だと思わ
れたら、私まで牢に繋がれてしまうかもしれない。
力を暴走させて、誰かを傷つけないためだ。我慢して、といわれ
ながら。
︱︱想像してしまった私は、もう赤い液体の話など喉の奥に引っ
込んでしまった。かわりに口から飛び出したのは、
﹁わ⋮⋮わかりません。見たこと、ないです﹂
否定の言葉だった。
162
約束1
﹁毒のことは、あんまりよく分からないです。私はずっと王宮で働
くことになるからと、実家ではほとんど身に着ける機会がなかった
礼儀作法とか勉強なんかをさせられてばかりで⋮⋮﹂
私の否定の言葉を、ヴェイン辺境伯は疑わなかった。
﹁そうか。もし心当たりがあれば、魔術師になるために必要なもの
に、特殊な毒でも関係しているのかと思ったのだが。実はね、この
男や連れていた騎士達が入り込んだのを、我々が察知できなかった
理由がわかったんだ﹂
ヴェイン辺境伯とて、紛争に関わりやすい土地を収めている以上、
周辺の状況や不審者の出入りを警戒するために諜報員を使っている
ようだ。それにより、いち早くどこの国が領内の状況を探りに来た
のかを察知し、情勢と合わせて侵攻してくるのか、取引を持ち掛け
てくるのかを判断するためだ。
﹁城下の諜報員が何人か、殺されていることが分かった。急いで別
な人間を手配して監視を強化させたが、二人ほどはこの男と連れて
いた騎士が殺したようだ。けれど他の者のうち二人が、焼け死んで
いるのが見つかっている。他に燃えた物もないのに本人だけが燃え
たとなれば⋮⋮ということで、私はパトリシエール伯爵が魔術師を
作り出す方法を編み出して、そうして魔術師になった者が我が領に
入り込んでいるのではと考えていたんだ﹂
だからパトリシエール伯爵の傍にいた私に尋ねたらしい。赤い飲
み物は、もしかして魔術師を作り出す特殊な薬か毒薬ではないのか、
と。
163
質問の原因を聞きながら、私は舌にざらりとした粉の感触が蘇っ
ていた。
甘酸っぱいあの飲み物は、砂みたいな粉が混ざっていたのだ。混
ぜた粉が溶け残ったものだとは思うが、不快だったのでよく覚えて
いる。
けれど飲み物の正体を私も知っているわけではない。だからもう
一度、ヴェイン辺境伯に対して首を横に振った。
﹁そうか⋮⋮﹂
﹁でも、パトリシエール伯爵が何らかの方法で魔術師、もしくはな
りそこねを作る方法を編み出したことは確実でしょうね。でなけれ
ばこの男といい、他の諜報員を殺した者といい、抱えている魔術師
が多すぎます﹂
今まで黙っていたレジーが、静かに問題を指摘する。
そして私も内心でレジーの言葉にうなずいていた。おそらくゲー
ムのキアラ・クレディアスが魔術師になれた理由もそこにあるのだ。
パトリシエール伯爵は、魔術師になる方法を知っているのだろう。
そしてもう一つ気付いたことがある。二年後のエヴラール攻城戦
だ。
国境の向こうとはいえ、気付かないうちに至近まで進軍されてい
たということがあり得るだろうか。見張りや、国境の向こうに入り
込んでいるだろう諜報員などが、何らかの方法で殺されていたと考
えれば、つじつまが合う。
二年後のことも、今回のように動向を監視していた者が殺され、
だからこそ気付けなかったのだろうと推測できた。
そんなことを考えてうつむいていた私に、ヴェイン辺境伯は﹁も
う戻ってもいいよ﹂と言ってくれる。
164
﹁夜中に済まなかったね。また何か尋ねることがあると思うので、
その時は協力してもらいたい。レジナルド殿下も、今日はもうお休
み下さい﹂
促され、私とレジーは地下牢から外へ出た。
そこにはレジーの護衛であるグロウルさんがいた。特に怪我もな
い様子でしゃんと立っているグロウルさんの姿に、私はほっとする。
﹁ご無事でなによりでした﹂
そう言うと、グロウルさんはちょっと驚いたように目を瞬き、小
さくうなずいて﹁ありがとうございます﹂と礼を言ってくれた。
とりあえず挨拶はしたしと、私は部屋にさっさと帰ろうとした。
昼間に言いそびれてしまったので、本当はレジーにもっと二年後
について注意点を話そうかと思っていた。けれどだめだ、と思い直
したのだ。
さっきの男の話を聞いた後では⋮⋮私が危険人物だと思われかね
ないのが怖い。せめてもうちょっと心を落ち着けてから、必要なこ
とと必要じゃない情報を選り分けて話そう。
﹁じゃあレジー。私はこれで⋮⋮﹂
﹁グロウル。部屋に戻る前にキアラを送るよ﹂
﹁承知いたしました﹂
また明日ねと言う前に、レジーがついてくることになってしまっ
た。
ううぅ、肩身がせまいというか、初めてレジーと一緒にいて居心
地の悪さを感じていた。
思えば、レジーと居て落ち着かないってことがなかったなと思い
出す。
なんでだろう。
165
この居心地の悪さをバカな話をして紛らわせようにも、グロウル
さんが聞いてると思うと口が重くなる。
今更なんだけど、レジーは王子様なんだよ。
今まで通りに、と言われて二人でいる時にはタメ口聞いてたけど、
今生の知識からいくとその申し出は断るべき相手なんだよね⋮⋮だ
いぶん私、前世の自分に浸食されてるなと今更気付いた。
とはいえ今更それを崩すのも不自然だ。
結果、何も気の利いたことが言えずに部屋の前に到着したが、レ
ジーも何も言わなかったのでほっとする。
さて今度こそと私はレジーに言いかけた。
﹁じゃあレジーおやす⋮⋮﹂
﹁話があるんだ。グロウルは悪いけど外で待ってて﹂
笑顔でそう言ったレジーが、私が半開きにしていた扉から、部屋
に入ってしまう。
おおおーいレジー! 勝手に部屋に入っちゃだめ! いや、今日
は襲撃されたことでベアトリス夫人からお休み命令出てたから、部
屋の片づけとかはしてたけど⋮⋮。深夜に女の子の部屋にさっと入
っちゃうのってどうなの?
﹁ちょっ、レジー!﹂
声をかけながら私も部屋に飛び込んだものの、戸口で立ち止まる
笑顔のレジーに何を言ったらいいのかと戸惑う。
﹁えと、もう夜も遅いし疲れたでしょう? 明日。話は明日にしま
しょう?﹂
やんわりと断りを入れたのに、レジーが無情にも私が開けたまま
だった扉を片手でバタンと閉めてしまう。
166
﹁え⋮⋮﹂
レジー君や。一応私と君は成人前とはいえ思春期の男女だからし
て。一応護衛さんが見ている前で、密室に二人きりと言う状況だけ
は避けようとしたのに、これは何の真似?
訳の分からない行動をとったレジーは、私をじっと見つめてくる。
思わず後退りすると、背中が扉に当たる。
するとレジーはとんでもないことに、扉ドンどころか、私の両肩
を掴んで押さえつけた。
﹁ななななな、どどどどど﹂
一体何なのどうしたの! そう言いたいけど、異常事態に私の口
が上手く回ってくれない。
一方のレジーは、暖炉の燭台の明かり一つだけの部屋の中で、楽
し気に微笑んだ。おい怖いよ! いろんな意味で!
﹁私は話し合いを今日すべきだと思う。君は動揺してる時に押した
方が、ぽろっと全てを白状しやすいから﹂
﹁げ﹂
ちょっと待って。まさかそのために、パトリシエール伯爵の配下
の様子を見た直後に、しかも二人きりで部屋にこもる状況を作った
ってこと!?
﹁グロウルに聞かせていい話ではなさそうだったからね。彼には遠
慮してもらうことにした。だけど君と私の仲では、隠し事はなしだ
よキアラ?﹂
部屋に入ったのも、グロウルさんを排除して私の口を割りやすく
するためとは。なんでそんな黒いこと思いつくの!?
167
﹁くくくく、くろいよレジー!﹂
思わず言ってしまうが、それでレジーが気を変えたりはしなかっ
た。
﹁キアラ﹂
さっと真剣な表情に変わった彼が、私の肩をつかんだ手に小さく
力を込める。
﹁君は何をどこで知って、私に二年後のことなんて忠告したんだい
?﹂
﹁え、ええっと。夢で⋮⋮﹂
昼間そう言ったはずなので、私は同じことを繰り返した。
﹁夢にしてはあまりにも確信的だったよね?﹂
﹁ええっと、私実は教会学校でエレミア聖教に傾倒⋮⋮﹂
﹁その割には朝夕の祈りの時間とか、完全に無視しているし、食事
の祈りも結構おざなりだったと思うけど﹂
﹁う⋮⋮﹂
誤魔化せない理由が、全て自分の行動のせいだった。確かに不信
心者の見本みたいなことしてたな私。だけど前世のことがあるから
なおさらだけど、元から信仰心薄いんだよ⋮⋮。
だって教会の言うような神様だったら、今生の家族の元からも救
い出してくれるだろうし、パトリシエール伯爵みたいな人が養女先
にはならなかっただろうと思うから。
もっとこう機械仕掛けの神的な、システマティックな存在だって
いうならちょっと信じなくもない。前世の、しかも別世界の記憶を
持ってる私がいるのは、誤作動によるエラーの結果だと納得しやす
いから。
女神の笛の音も、私にとってはエラー信号だと考えると理解しや
168
すい。
そんな私に、レジーは追及の手を緩めてくれなかった。
﹁私に嘘をつくのかい? そんなに信じられない?﹂
言った後で、レジーの表情がやや悲し気に歪む。私は心臓を掴ま
れたように苦しい気持ちになる。レジーを傷つけてしまったと感じ
たから。
﹁信じられないわけじゃ⋮⋮﹂
思わずそう言ってしまった私を、レジーが追い詰めていく。
﹁何かが怖くて言えないの?﹂
そうだと、言うことはできなかった。
だって知られたくない。もしかしたら自分がさっきのパトリシエ
ール伯爵の配下みたいになるかもしれないとか。それを話して、レ
ジー達に警戒されてしまいかねないこととか。
⋮⋮とにかく嫌われたくないのだ私は。それが一番怖い。
﹁私が怖いのかい? それとも話すことそのものが?﹂
問いを重ねたレジーは、なかなか口を割らない私に、やがて諦め
たようにため息をついた。
﹁キアラ、君は脅され慣れすぎてる。それなら、話した方が怖くな
いと思うようなことをする?﹂
﹁えええぇえ!?﹂
レジーの方針転換案に私は驚く。
ま、まさか首を絞められるとか? 剣で斬りつけられるとか。怖
い想像が頭の中をぐるぐるとまわる。
けど怖い気持ちが拭えない。
戸惑った末に何も言えずにいると、ふいに頬に何かが触れた。柔
169
らかで、決して皮膚を傷つけることがないその感覚に、目を瞬く。
まさか、今のってく⋮⋮。唇!?
頬にキスされたのだと気付いた瞬間、私は思わず座り込みたいほ
どに脱力した。
そこを狙ったかのように、レジーがささやく。
﹁質問を変えようか。君は、自分が魔術師になろうとして、色々な
ことを調べようとしていたんじゃないのかい?﹂
﹁え、どうして気付い⋮⋮﹂
なぜそこまで感づくのか。驚いて問いを口に出してから、私は息
を飲んだ。
しまった。これじゃ肯定したも同然だ!
そもそもレジーがこんな、色仕掛けみたいなことするから! て
いうか、なんでこんなやり方知ってるのよレジー! 十五歳でそれ
って怖いんだけど!
気が動転する私の顔を、レジーは覗き込んで微笑んだ。
﹁茨姫に渡された石について調べるにしては、君はずっと石のこと
など怯えた様子はなかった。むしろ魔術師そのもののことばかり気
にして、熱心に調べていただろう?﹂
だから変だと思ったらしい。そして魔術師くずれが死んでからの
私の様子から、その可能性を考えていたという。
なんて頭のいい人だと私は呻く。
そんな人がどうしてあっさりと殺されてしまったのか⋮⋮いや。
こういう人だから、王妃達が邪魔に思って彼を抹殺したのだろうと
気付く。
﹁でも魔術師になれる人なんて希少だ。なれるかどうかもわからな
170
いのにと不思議に思っていたけれど、君には確信があったんだね。
だから二年後までに魔術師になるつもりで、私を守ると言い出した
んだろう﹂
なんてこと口走ったのよ私ぃぃぃ! 過去に戻って己に文句を言
いたい。
けれどここまでまるっとお見通しな人を、私のあまり宜しくない
頭でどうやったら言いくるめられるというのか。
私はとうとう観念した。
﹁赤い飲み物に、心当たりはあるの。私も、飲まされてた⋮⋮から﹂
171
約束2
やっぱり、と言いたげにレジーがため息をつく。
﹁体はなんともない⋮⋮みたいだね。今までだって変わった様子は
なかったし。さっきの驚き方からして、飲まされてたのが魔術師に
関係するものだとも知らなかったんだろう?﹂
私はうなずく。
﹁そうか。ならよかった﹂
レジーがほっとしたように微笑む。
え、と思って彼をじっと見てしまう。
﹁あの魔術師くずれみたいに、辺りに魔術をまき散らしたり、体が
おかしくなるかもしれないからって、私を幽閉とか⋮⋮することに
なったりしないの?﹂
﹁何を言っているんだキアラ。そんなことしないよ﹂
きょとんとした表情でレジーが言う。
﹁今現在問題が出てないし、君は魔法が使えてない。なのにどうし
て閉じ込める必要があるんだい?﹂
﹁でも、もしかしたら今後、そういうこともあるかもしれないし﹂
﹁そうだな⋮⋮﹂
不安の原因を訴えると、レジーは少し考えて応えてくれた。
﹁とはいえ、魔術師の知り合いもいないから調べるのは難しいし、
このまま辺境伯の書庫を漁っていても見つかりそうにないからね。
王宮に戻った後で、私もそれについては調べてみるよ﹂
172
﹁え、本当!?﹂
レジーはしっかりとうなずいてくれる。
私はほっとした。王宮ならもっと情報が溢れているだろう。それ
に王家が雇っている魔術師もいたはずだ。そういった人からなら、
かなり正確な情報を聞きだすこともできるだろう。
﹁でもキアラは、それを飲まされてからどれくらい時間が経ってる
? さっきの男の場合、雷草が生えていた所では問題なかったよう
だから、一度パトリシエール伯爵の元に戻った後か、この近くまで
来たところで別の物に飲まされたということだろう。きっと飲まさ
れてから長くても二週間しか経ってないと思う﹂
﹁うーん。養子にもらわれた直後ぐらいには飲まされたから、もう
何年も経ってるよ。最初は三日ぐらい寝込んで⋮⋮その後も何度か
飲まされたけど、ちょっと気持ちが悪くなるくらいだったような。
だから何か、特殊な毒か伯爵家に連綿と伝わる何かゲテモノ系の滋
養薬でも飲まされてるのかと思ってた﹂
﹁滋養薬? また君は突飛な発想をするね﹂
レジーが少し笑う。
﹁でも毒⋮⋮みたいなものだろうね。本当に魔術師くずれみたいに
なって死んでしまうのなら、効果は毒と大差ないわけだし。でもそ
れを飲んで平気だったキアラは、本当に魔術師の素質があるのかも
しれないな﹂
レジーの言葉に、私はうなずく。
素質がなければ死んでしまうというのだから、何も体に異変が起
こらなかった私は、素質があったということなんだろう。前世のゲ
ームの通りに。
とはいえ疑問なのは、魔術が一カケラも使えないことだが。
﹁それより聞きたいのは、どうやって君が二年後のことを話し出し
173
たのかってことだよ。パトリシエール伯爵から、何か聞いたのかい
? 二年後に侵略の予定で動いている、というようなことを﹂
レジーとしては、そちらの方が重要な問題だったようだ。確かに、
侵略戦争の動きがあるのなら、今のうちに動きを掴んでおきたいこ
とだろう。
しかし私は誰かから見聞きしたわけではない。
﹁それは本当に、夢⋮⋮白昼夢みたいに見たことなの﹂
﹁夢か⋮⋮﹂
渋い表情をするレジーに、私は夢物語だといわれてしまわないか
と焦った。
﹁上手く説明できないんだけど、とにかく私が見たままの状態で、
世界が動いてるの。私も、もし伯爵のところから逃げていなかった
ら、結婚させられた後で王妃の女官になるはずだったの。そしてク
レディアスという家名を名乗ってる私が、魔術師として王妃の言う
がままに戦うことになってて⋮⋮もしかするとアランたちと戦って
たかもしれなくて。だから結婚相手の名前を手紙で見て、すぐに逃
げたの﹂
今ではもう、あの時とは違う理由で私はみんなの敵になりたくな
い。
私を馬車に乗せ、領地で雇ってくれたアラン。息子のアランが信
用したのならと、受け入れてくれた辺境伯夫妻。
その全てを援助してくれた上に、友達だからと助けてくれるレジ
ー。
殺されるからという以前に、誰かを敵として傷つけるなんて考え
られない。
けれどそこまでレジーに話しても、彼を混乱させるだけだろう。
だから私は話を切り上げた。
174
﹁何の根拠もない荒唐無稽な話なの。でも私のこと頭がオカシイと
思ってくれてもいいから、お願いだから気を付けて。二年後に、私
の見た通りになってしまったら、私が恩返しにちゃんと守ってみせ
る。だから、その時は拒否しないでいてくれたら⋮⋮嬉しいんだけ
ど﹂
私は全てを理解してほしいとは思わなかった。
ただレジーが危険なこと、私が魔術師になれることと、レジーを
助けたいと思ってることを知ってくれればいい。そう思ったのに。
レジーは考え込んだ後で提案してきた。
﹁確かに根拠がない話を信じてもらうのは難しいだろうね。相手が
エレミア聖教の司祭なら、夢だと言えば簡単に肯定してくれるだろ
うけど。でもキアラ。私としては今回のこともあるから、パトリシ
エール伯爵が何か大々的なことを企んでいるのではないかと思って
はいたんだ。だから皆に、君の不安を上手く知らせたらどうかな。
城が攻め落とされそうになるなんて、誰だって嫌だろう?﹂
﹁でも信じてくれないかも⋮⋮﹂
﹁君一人でやる必要はないよ。私から王妃が不審な行動をしている
ことと、パトリシエール伯爵の今回の動きからも、かなり注意が必
要だと言っておく﹂
その言葉に、私は肩の荷が降りる気持ちになった。
王子で、王妃の人となりを知り、貴族達の動きについても熟知し
ているだろうレジーの言葉なら、ヴェイン辺境伯もかなり気にして
くれるだろう。
ようやく息がつける。そんな風に安心していた私の耳に、レジー
が再び顔を寄せてささやいた。
﹁そうしたら⋮⋮君が魔術師になって、私を守らなくてもいいはず
175
だ﹂
﹁え⋮⋮﹂
頬に口づけされたことを思い出して体が硬直しかけた私は、思い
がけない言葉に目を丸くする。
﹁でも、侵略が本当に起こったら、魔術師がいた方が﹂
その後の戦況だって断然有利になる。だってもしレジーが攻城戦
で死ななくても、その後の王国侵略が無くなるわけじゃない。必ず
アラン達は戦わなくてはならなくなるはずだ。
﹁君が安全に魔術師になれる保証は? それに魔術師になるのは君
が一番嫌いなことだったんだろう? そうしたくないから逃げたし、
今度は酷い死に方をするかもしれないとわかったから、尚のこと君
は魔術師になりたくないと思っているはずだ﹂
反論はできなかった。
黙り込んでしまうと、レジーはようやく一歩離れ、肩を掴んでい
た両手で私の手を握りしめる。
﹁約束をしよう、キアラ。私に黙って、勝手に魔術師になんてなら
ないって﹂
﹁なっちゃだめ⋮⋮?﹂
禁止されるとは思わなかったので、私は驚いてレジーの顔を見直
す。
レジーは言い間違えたわけではないようだ。はっきりとうなずく。
﹁決して危険な道を一人で選んじゃだめだ。必要があれば代わりに
私がやる。だから私に許可無く、貴重な友達を奪うかもしれない真
似をしないって約束してほしい。いいかい、キアラ?﹂
私を失わないために、禁止する。
176
そう言われて間もなく、目の前のレジーの顔がにじんでいく。
頬を流れ落ちるのは、涙だ。
鼻がつんとする感覚も、目を開けていられないほどの瞼の熱さも、
どれくらいぶりに感じただろう。
ずっと泣かずにいたのに、気付けば嗚咽をもらしながら顔を伏せ
てしまうほど涙が次から次へと溢れてくるのは、ずっとそう言って
欲しかったからだ。
魔術師になんかならなくていい。
一人で危険なことをしなくていい。
普通の子供みたいに、そう言って守ってくれる人がほしくて。
でも親など居ないも同然の身では、無心に頼れる人などいなかっ
た。
だから喉から手が出そうなほどだったのに、前世の記憶がからん
だ荒唐無稽な話をしたら、仲良くしてくれている彼らも私から離れ
てしまうかもしれないと怖くなって、どうにもできなかった。
けど、レジーは全て受け入れてくれたのだ。
安心しすぎたらもう、涙を止めるのが難しいほどになっていた。
それなのにレジーは、もっと泣きそうなことを言う。
﹁約束をやぶったら、あとでお仕置きするからね?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
何かあって約束を破っても、レジーは怒っても離れないと、そう
言ってくれているのだ。
そんな約束してくれるような人を、本当に失いたくないと私は心
の底から思った。
177
考えすぎはろくなことにならない
﹁れ⋮⋮﹂
階段を上がったところで、アランはかけようと思った言葉を飲み
込んだ。
レジーと一緒にいたのは、護衛騎士のグロウルだけではない。キ
アラもだった。
しかもレジーは、キアラの部屋に入って扉を閉めてしまう。
﹁な⋮⋮﹂
アランは声を上げるのを寸前でこらえた。
待てレジー。お前まさか逢い引きか!? と心の中だけで叫ぶ。
しかも相手はキアラだ。レジーがやけに同情して援助していると
思ったら、まさかそういう理由だったのだろうか。
︵まてまて俺。レジーがそう簡単に手を出すわけがない︶
レジーが普通の王子なら、つまみ食いごときで問題にはなるまい。
けれど彼の場合は複雑すぎて、つまみ食いなどしたら、相手と縁
故がある貴族とごたつくだろう。しかもうっかりルアインと繋がり
がある貴族が関連していた場合、首に鈴をつけられた上にいつ毒を
盛られるかわかったものではない。
︵いや、だからか?︶
キアラは家を飛び出した天涯孤独の身だ。アランの親族というこ
とにはなっているが、ほとんど血縁があるのを知っている程度の土
地を持つ人物の娘ということになっている。手を出して何かあった
としても、アランの父がもみ消して終わるだけ⋮⋮。
178
︵いやいや待て! 父上がそんな無情なことをなさるわけがない︶
なにせ母ベアトリスの熱烈なアプローチに根負けして嫁に迎えた
後は、庶民もうらやむオシドリ夫婦っぷりを見せつけているのだ。
そんな両親なら、自分の羽の下に保護した娘が使い捨てられるよ
うな目に遭うのを放置はすまい。アランの父は生い立ちの気の毒さ
からレジーにかなり甘いが、臆することなく王子相手に雷を落とす
だろう。
でもその前に。
︵レジーがそもそも女遊びをするわけが⋮⋮ないと思いたい相手だ
よな?︶
キアラは容姿が悪いわけではない。けれど誰も敵わないと思うほ
どの麗姿を持つレジーの隣に立つには、キアラは⋮⋮性格がひょう
きんすぎる。
それでも伯爵令嬢ならばしとやかにしていればいいものを、平身
低頭で謝罪を叫びながら寝台から床へ真っ逆さまとか、雷草をなげ
つけるとか、意外なことばかり実行しているのだ。今や彼女を見て
伯爵令嬢だと連想することはない。
それに現在の彼女の身分だ。
本人もそれでいいと受け入れたし、あの時レジーも反対しなかっ
た。
だから一緒にいるという未来を望んではいないと思うのだが⋮⋮。
︵仲が良すぎるんだよな︶
いつもならば、辺境伯家に遊びにきたレジーとアランは四六時中
一緒にいた。けれど今回、レジーはかなりの時間をキアラのために
割いている。午前中はずっと書庫で一緒だし、時には今日のように
午後まで時間をとることもあった。
179
おかげで剣の稽古の相手がいない日は、アランもなんだかつまら
ない。
︵い、いや違うぞ。何も悔しいからキアラのことを駄目出ししてい
るわけではないんだ。ただ心配しているだけで⋮⋮︶
と、そこでレジーがキアラの部屋から出てきた。
アランの父に襲撃者について知らせたりと、駆け回っていたレジ
ーは出かけた時のままの格好だ。
ふとその肩だけ、濡れたように羽織ったマントの色が濃い緑に見
えた。
﹁殿下、何のお話を⋮⋮﹂
﹁野暮なことは聞かない方がいいんじゃないのかな? グロウル﹂
レジーはそんな返答をして、グロウルを絶句させていた。
﹁ま、まさか別れ話のもつれ⋮⋮?﹂
深夜に逢い引きして、服に濡れた跡まであるのだ。きっとあれは
涙の痕⋮⋮その主はキアラに違いないと考えたら、もうその想像で
アランの頭の中はいっぱいになってしまった。
そのせいで、アランの声が聞こえてしまったのだろう。レジーが
振り返り、アランが見つかってしまった。
﹁か、帰りが、遅かったんだな﹂
慌てながらも絞り出した挨拶の言葉がそれだった。
﹁うん、パトリシエール伯爵の配下がね、キアラをどうしてもとり
かえしたいらしくて。詳しいことはアランも後で聞かされると思う
よ。ちょっと大事になりそうな気配だから、ヴェイン辺境伯から説
明と対策に駆り出されるはず﹂
﹁うわ⋮⋮僕、考えるの苦手なんだよ﹂
180
貴族が関わるいざこざだ。真正面から打ち倒して終わりというこ
とにはなるまい。その後の頭脳ゲームさながらのやりとりや根回し
のことを考えると、アランはさっきまでの動揺をすっかり忘れて、
うんざりとした。
﹁予行演習にはいいんじゃないかな、次期辺境伯殿。少しは慣れる
べきだよ、君だって頭脳労働が全くの不得意なわけじゃないんだか
ら﹂
﹁向いてないんだよ。あげくにやたらその辺りが上手い奴が側にい
ると、尚更やる気が失せるのをわかってくれよ﹂
﹁それ、辺境伯殿に言ったら殴られるんじゃないのか?﹂
﹁その辺りは母上の方が怖い。父上より先に手が出るんだあの人﹂
はーっとため息をつくと、レジーが笑う。
﹁でも慣れておいた方がいいよ。私や辺境伯殿だってずっと側にい
られるかわからないのに、一人になった時にどうするんだ?﹂
﹁⋮⋮なんだ、それ﹂
珍しく暗い未来を暗示するようなことを口にしたレジーに、アラ
ンは思わず聞き返す。
﹁世の中のものは有限なんだよアラン。私も、もちろん君も。備え
ることによって、失わずにいられることもあるだろう?﹂
だから、忠告だよとレジーが言う。
けれどアランの中に浮かんだ不安が消えない。そのせいだろう、
思わず口走ってしまう。
﹁有限なのは仕方ない。だけどお前、そんな弱気でいて、もし本当
に何かあったらキアラはどうするんだ?﹂
レジーが珍しく目をみはる。
181
﹁キアラが、どうして?﹂
﹁えええ? だって、お前⋮⋮その﹂
部屋から出てきたじゃないかと言おうとして、今のレジーの一切
気にしていない様子に、追及するのがためらわれる。
﹁気に入ってたみたいだし、キアラだってお前に一番なついてるだ
ろ。その⋮⋮拾った責任というか﹂
﹁キアラは拾った相手に全力でよりかかる子じゃないよ。多分私が
いなくたって、一人で生きて行ける﹂
レジーに笑われてしまい、アランはちょっと拗ねた気持ちになっ
た。
﹁だってレジー。お前やっぱりキアラのこと相当気に入ってるだろ。
四六時中側にいたって気にならないくらいじゃないのか? それっ
てほら、好きってことじゃないのか﹂
アランに追及されても、レジーは表情を変えたりしなかった。
﹁うん、キアラは面白いよ。傍に置いておけたなら、だいぶん私も
気楽に過ごせそうだなと思う。でも⋮⋮そうだね。彼女がそれを良
しとするかは別の問題だと思うよ﹂
わけのわからない回答がきた。
面白いし傍にも置きたい。けどそれはキアラが決定権を握ってい
るというのだ。それでいてアランの質問に全て答えているわけでは
ない。
男女の仲なのかどうかが知りたかったのだが、それは綺麗にうわ
べをなぞって放置された格好だ。
だが親友が複雑な人間だということをアランは承知している。よ
く心がばらけないなと、心配になるほどに。
そんなレジーは、たまにこんな謎かけみたいな答えしか返さない
182
ことがある。おそらくは本心を明かして裏切られることを怖れて⋮
⋮それが癖になっているのだ。
ただこうい言い方をする時、レジーはもうなにかを決めていなが
ら、まだ誰かに話すべき時期ではないと考えているのだと、アラン
は気づいている。
︵でも、何をどう決めたんだ?︶
キアラを傍に置き続けることを決めているのか。いずれ離れる相
手として、友人としての距離を保つと決めたのか。でも今は追及し
ても話さないだろう。
アランはため息をつく。
﹁なんていうか⋮⋮もし何かあれば言ってくれ。キアラはうちで雇
ってる人間なんだし、もし見捨てなくちゃいけなくなっても、こっ
ちで責任持つから大丈夫だからな?﹂
﹁⋮⋮ねぇ、アラン。彼女を見捨てることは、私にとって自分を見
捨てるようなものなんだ﹂
そう答えたレジーは、いつになく真剣な表情をしていた。
﹁自分を見捨てるって﹂
どうしてそこまで、と思うほど気負いを感じさせる言葉に、アラ
ンは続く言葉を言えなくなる。
﹁だから最後まで見捨てないよ。心配をする状況になるぐらいなら、
たぶん私は彼女を連れて行くと思う。君に背負わせなくてもいいよ
うにね﹂
﹁レジー⋮⋮﹂
どこまで連れて行くつもりだ、とは聞けなかった。
それを口にしてしまったら、怖ろしい言葉を引き出しそうな気が
したからだ。
183
次の日、泣いたと思われるやや目の腫れたキアラの顔を見て、ア
ランはさらに混乱する。
﹁別れ話⋮⋮じゃないんだろうけど﹂
見捨てないと言うぐらいだ。たぶん別れてくれという話をしてた
わけじゃないだろう。なのになぜキアラが泣くのか。
泣く女性への対応をどうしていいのかわからないアランは、彼女
の目の腫れが収まるまで、なんとなくキアラを遠巻きにしながらぐ
るぐると考えてしまう。
﹁まさか、正妻にできないとか、そういう話か?﹂
しかしその予想は、アランでも信じられない。だってレジーなら
ば、決めたらどうあってもその考えを実行できるよう、様々な隙を
通り抜けるだろうからだ。
更にアランを混乱させたのは、翌日になってみても、レジーとキ
アラが今まで通り恋人らしいそぶりが一切ないことだった。
そんなアランの苦悩を他所に、レジーは滞在期間を終えて王宮に
帰る日となった。
﹁また来年には、ここに遊びに来るよ﹂
レジーはにこやかにアランやキアラにそう言った。
﹁アランとはまた、新年祝賀の席で会うと思うけど。来てくれるよ
ね?﹂
﹁もちろんだ﹂
とうなずくアランは、ようやく苦悩していた問題に決着をつけて
いた。
184
︵そうかわかったぞ。レジーはキアラの保護者のつもりなんだ︶
娘ならば、一緒にいるのが苦ではないと感じてもおかしくないし、
娘を見捨てるぐらいなら! と言う父親は世の中に沢山いる。あの
涙も、思えば襲撃されて怯えていた娘をなぐさめるため部屋に入っ
たのだと思えば納得がいった。
疑問が解決し、すっきりとした気分だったので、アランは実にに
こやかにレジーを見送る。
そして隣でやや暗い表情をしていたキアラを励ました。
﹁まぁ、なんだ。気を強く持てキアラ﹂
﹁えっと⋮⋮はい?﹂
何故か驚かれてしまったが、最終的にキアラは笑顔を見せる。
だからアランは、自分の多大なる勘違いになかなか気づかなかっ
たのだった。
185
エヴラール辺境伯家の打ち合わせ
レジーが王宮へ帰った。
いつか帰るということは分かっていたし、そもそも王子があまり
に長く王宮を空けているというのも宜しくないことだろう。
それでもここは時間に正確なあまりに﹁電車が来なくてさー﹂み
たいな言い訳ができない前世とは違う。
自然現象に太刀打ちできないことが多すぎるのと、人馬しか移動
手段を持たない世界では、時間のながれはゆっくりだ。
そのためか、レジーも一ヶ月ほどゆっくりとエヴラール辺境伯家
に滞在していた。
それに教会学校に迎えに来てみたり、それから王都へ帰る時間の
ことも考えたら、都合二ヶ月ほど彼は王宮を離れていた計算になる。
移動時間の長さとか考えたら、そりゃ一年に一度しか来られない
よね。
正直なところ、一番気の合う人がいなくなったことは悲しい。何
も言わなくてもわかってくれる人というのは稀少だ。
それに⋮⋮うん。
どう言ったらいいのかな。
自分が死にたくないってことだけを考えてばかりいたのと、前世
でもそんな事態に遭遇したことがなかったせいで⋮⋮正直どうした
らいいのかわからない。
前世だったら、人に話せば間違いなく自意識過剰だと言われかね
ないこの状況。
いや、むしろ前世だったら気がないのに頬にキスとかする!? 186
と言われるか。
とにかくあの魔術やこれから起きる出来事について告白した日か
ら、私は動揺を引きずっていた。
頬にキスとか、キスとか!!
泣き止んで正気に返った後で、どう理解したらいいのかわかんな
くなったよ!
前世だったら自分の価値とか無視しまくって、期待したかもしれ
ないけどね? この世界だと、ほら、欧米的な感じだから親が子供
の頬に口づけることとかあるのよ。
だから頬キスの敷居が低いというか。
兄妹でっていうのも一度見たことあるし。
なら、親愛のキスなんてものが家族同然に思えばすることもある
⋮⋮かもでしょ?
その辺り、自信がないのは普通の家庭生活を送ってこなかったせ
いだろう。実家は幼少期から父親なんて私にかまわなかったし。母
親がするのは幼児だったから当然だろうし。継母は手も触れない。
そして養女先は完全な部下か使用人の類的な扱い。
無理無理。この世界の一般家庭がまったくわからないから想像つ
かない。
それにレジーや辺境伯が無事に二年後を越えるまでは⋮⋮そこか
ら派生しそうな感情のことを考えると本当に何もかもが怖くなって
動けなくなりそうだと感じた。
とにかく今の私の居場所はエヴラール辺境伯家だ。ここで働くと
決めたのだからがんばろうと思う。
さてここで問題になるのが、パトリシエール伯爵の手下による襲
撃事件だ。
187
先方にヴェイン辺境伯が抗議をしたところ、部下が人違いをして
暴走したのだろうという返事が返ってきたようだ。もちろん伯爵家
の恥さらしなので、エヴラール辺境伯の方で好きに処罰していいと
のことだった。
もちろんヴェイン辺境伯は、そのうちの一人が魔術師くずれであ
ったことをネタにつついてみたようだったが、当然ながら知らぬ存
ぜぬ。いないことになっているので、私の証言を使えるわけもなく、
お手上げ状態になったらしい。
﹁今一番問題なのは、領内に入り込んで私の部下を殺したはずの、
他の魔術師が捕えられていないことだ﹂
最終的に残った問題はそれだった。
私とベアトリス夫人、アランとその護衛のウェントワースさん、
そして私の事情を知らせている老齢の家宰のローレンスさんが集ま
った場で、ヴェイン辺境伯がため息混じりに言った。
﹁こう何人も魔術師や魔術師くずれが出てくることなどあり得ない。
なので私はレジナルド殿下が仰った通り、パトリシエール伯爵が何
らかの企てを行っていると考えている﹂
﹁父上、企てとは⋮⋮?﹂
アランが問う。
﹁魔術師を使うなど、通常の小競り合いの範疇を逸脱する。王宮内
の勢力争いにしろ、魔術師を確保することで威圧するなら一人で十
分だ。捕まえた者は、何らかの魔術的な代物を飲んだ事で、魔術師
くずれとなったというなら、大量に魔術師もしくはそのなりそこね
が生産できるのだ。たとえなり損ねであったとしても、一時的に戦
力として使えるというのにそんなことをするのは⋮⋮王国を覆しか
ねない戦を起こすつもりなのかもしれない﹂
戦、という言葉に、その場にいた者達が小さく息をのんだ。
188
﹁でもあなた。戦といっても⋮⋮﹂
﹁パトリシエール伯爵が関わるとなれば、ルアインですか。しかし
王女が王妃になったわけですから、動く理由がないのでは﹂
ベアトリス夫人とウェントワースさんの意見に、ヴェイン辺境伯
は首を横に振る。
﹁しかし殿下を亡き者にしない限りは、王妃が王子を産んでもルア
インの血が王家に入るわけではない。その次の代を狙うにしても、
ルアインがそこまで待てない可能性もある。もしくは⋮⋮王国の弱
体化を見て、一気に叩くことにしたのか﹂
王妃が自分の子供を王位につけられない状況から、ルアインが侵
略するよう仕向け、そのために縁者であるパトリシエール伯爵を動
かしているという可能性を、ヴェイン辺境伯は考えたようだ。
私は心の中でうんうんとうなずく。
ゲームの開戦理由はそこなのだ。むしろ元からルアインは開戦す
るつもりで妹姫を嫁に出した。そして王妃は、国内に協力する貴族
を増やして虎視眈々と好機を狙っていたのだ。
おかげでスムーズにルアインの侵略が成功し、アラン達が追い込
まれた状況だったのが、ゲームの初期状態である。
アランは戦いに勝ってその勢力に押されていた貴族達を救い、そ
れによって勢力を強めていくのだ⋮⋮正しくは、レベルの高いキャ
ラが参加する形で、アレンの軍が増強されるわけだが。
﹁でもそれなら、殿下だけを標的にするのでは?﹂
六十代に近い、白い髪に白髭の家宰のローレンスさんが疑問を口
にした。
実はこの人を最初に見た時、私は﹁あ、フライドチキンのおじさ
んに似てる﹂と言いそうになってしまった。件のフライドチキンが
189
売りのお店の大佐が、中世風のコスプレをした感じだったもので。
﹁殿下を殺しても、王家には他に傍系の男子がいる﹂
﹁⋮⋮アラン様ですか﹂
ウェントワースさんがヴェイン辺境伯の言葉を引き継げば、他の
者の顔にも理解の色が広がった。
口に出したウェントワースさんも、微妙にわかりにくいながらも
渋い表情をしている。彼もよくよく思い出してみれば、ゲームに出
ていた。騎士なんで移動距離も長くて、度々彼を使っていた。そん
な感じの騎士キャラが何人かいたもので、すっかりウェントワース
という名前が脳内で埋もれていたようだ。
﹁まさか、だからエヴラール辺境伯家に魔術師を次々と送り込んで
いるの? 次に障害になるだろうアランを殺すために?﹂
﹁私はそう考えているよ、奥さん。次々に魔術師くずれを作り出し
て送り込んできたのも、キアラのことは口実にすぎないだろうとね﹂
この話の流れで、ヴェイン辺境伯はエヴラール家がルアインを支
持する派閥に狙われていて、ルアインから攻撃を受ける可能性があ
ることを認識させてくれた。
しかも私の荒唐無稽としか言いようがない、夢の話を持ち出さず
に、だ。
もしかするとこれを考えてくれたのはレジーかもしれないが、本
当に有り難い。
誰だって、夢の話をされて半信半疑で振り回されるより、状況か
ら導き出された現実的な予想の方が、行動しやすいだろうし。
そしてレジーは、私のことを正確にヴェイン辺境伯に伝えてくれ
たようだ。
﹁さて、話がここまでなら、キアラを呼ばずに済ませたのだが⋮⋮。
190
彼女もこれに関連して難しい状況にある﹂
きた⋮⋮と思って私は思わず緊張で肩に力が入る。
ベアトリス夫人の後ろに立っていた私に、みんなの視線が向けら
れた。
﹁キアラも魔術師くずれになった男と、同じ物を飲まされたことが
あるという﹂
﹁え、じゃあキアラも⋮⋮﹂
驚愕の表情に変わるアランに、今にも泣きそうに目を潤ませ始め
るベアトリス夫人。
﹁おおおおい、大丈夫なのかお前?﹂
しかもアランは立ち上がって私の手首を掴む。
何かあったら、保護者のレジーにどう言ったら⋮⋮なんてよく分
からないことを口にしているが、間違いなく心配してくれている。
⋮⋮なんかほっとした。
間違いなくこの二人は、恐怖とか嫌悪を感じたりしなかったみた
いだ。今一番私に近く接している二人が、私を異質なものとして怖
がらなかったのだから。
ローレンスさんも気の毒に思ってくれているようで、ベアトリス
夫人と顔を見合わせてしんみりと目の端を拭い⋮⋮。
って、私まだ死んでませんよー。死にたくないんですよー。その
ためにあがいてたんですよう。
主張したいが、するわけにもいかない。言えないことがあるって
いうのは、面倒なものだ。
さすがにウェントワースさんは、色々な状況を想定し始めている
のか、腕を組んで考え込んでしまっている。けれど子供にまでそん
なことをするのかとつぶやいているあたり、さすがヴェイン辺境伯
のところに士官しただけあって、情に厚そうな人だ。
191
﹁素質があったせいなのか、運良く効かなかったのかはわからない
が、体に問題はないようだ。今のところ魔術が使えるわけでもない
ので、キアラはそれが魔術に関係するものなのかどうかも知らなか
ったと聞いている。そうだね、キアラ?﹂
そこでヴェイン辺境伯が説明してくれるので、私は大人しくうな
ずいた。
﹁それに魔術師くずれと同じ物を口にしたと言っても、本当にその
飲み物が原因で魔術師にされそうになったのかどうかは不明だ。現
物がないので確かめようがないし、捕らえた男が何かを勘違いした
可能性もある﹂
けれど念のため、ということで、私は状況が落ち着くまで城から
決して出ないこと。そしてベアトリス夫人に私を出さないようにと
ヴェイン辺境伯は命じた。
﹁結婚をさせるために探しているのならまだしも、もし魔術師にな
る可能性を買われてキアラを狙っているのだとしたら、危険だ。敵
魔術師となるのも困るが、殿下からの預かりものでもあるので、皆、
彼女のことについて注意を払ってやってほしい﹂
そうして私は、城外へ出ることを禁じられた。
なにせ襲われた直後なので、私としても出るのは怖い。
詳細を知らない城内の人達も、襲撃のことをベアトリス夫人が話
した上で﹁可哀想に外へ出るのが怖くなっちゃったみたいで。しば
らく遠ざけて心を癒してもらおうと思うの﹂と言ったことで、この
処置に納得していたようだ。
むしろ外に出る機会すらない私のことを、ちょっと気の毒に思っ
ているようだった。
そうして三ヶ月後。
192
辺境伯領のとある川原で、魔術師くずれが死んだ痕跡が見つかっ
たのだった。
193
それからの1年
魔術師くずれが死んだ痕跡⋮⋮というのは、本当に﹁そうかもし
れない﹂という感じのものだったらしい。
砂が詰まった人の衣服。その近くに一つ、黒焦げになって形すら
ほとんどなくなった人の遺体を発見したのだそうな。
けれど見つけるまでに何日もそこに放置されていたせいか、魔術
師くずれの遺体だったのだろう砂は雨で流れ出て周辺の土に混じり、
衣服も着ていた状態で砂になったのかどうかは分からない状態だっ
たという。
なのでさらに一か月ほど、私への引きこもり指令は続いた。
それまでの三か月で領内の監視体制を強化していたヴェイン辺境
伯は、一月の引きこもり延長期間の間に、不審者がいないことを確
認した。
それにより、発見された遺体が魔術師くずれのものだったのだろ
うということも断じられた。
そこでようやく私の引きこもりは終わりを告げることになる。
とはいっても、ベアトリス夫人の侍女が私の仕事だ。そして剣が
使えない上、一人で馬にも乗れない私では、ベアトリス夫人の外出
という名の領地や国境への見回りについて行けるわけもない。しか
も冬まっただ中だったこともあり、今後も同じ生活が続くと思った
のだが⋮⋮
﹁さ、キアラ。外に出ましょう!﹂
194
雪が解けたとたん、ベアトリス夫人が私を城外の見回りに連れ出
そうとした。
﹁えと、でも奥様と一緒にいて何かあったら⋮⋮﹂
もし運悪く襲撃されたら、今度こそ私は詫びを叫びながらエヴラ
ール辺境伯領から出ていかなければならない。
間違いなく自分に魔術の素質があるとわかっている私は、またパ
トリシエール伯爵に狙われるのではないかと、不安だったのだ。
けれどベアトリス夫人は、からっとした表情で私に言った。
﹁大丈夫。むしろ元王女な私と一緒だからこそ、手を出せないでし
ょう。それに私の侍女なのですもの。使いに出す必要も出てくるで
しょうし。それなら少しずつ城下の人間や守備隊の人間とも関わら
なければね﹂
そうしてベアトリス夫人や侍女のマイヤさんとクラーラさん、更
にはお伴の騎士二名と外出することに相成ったのだ。
私はマイヤさんの馬に同乗させてもらった。
マイヤさんはベアトリス夫人の結婚前から側にいる人だ。商家の
娘だったが、背が高くて力持ちだった。そんな彼女は、登城した際
に父親を手伝って荷物を持っていた所を、ベアトリス夫人に見初め
られたという。
⋮⋮さすがベアトリス夫人。剣を振るえそうな人かどうか、とい
うのが侍女の基準なのは今も昔も変わらないらしい。
凛としたたたずまいのカッコイイお姉様といったマイヤさんは、
実に穏やかな人だ。私の質問にもゆったりと答えてくれる。
そんな風に私は城下や国境の壁までを往復するのが日課になった。
そうして一月経つ頃には、乗馬の訓練までさせられるようになり、
195
更に三ヶ月後には自分の馬を与えられてベアトリス夫人に随行でき
るようになる。
⋮⋮うん、そこそこ訓練を積まされました。足腰が筋肉痛で呻か
ない日はなかったほど。
そうして出歩くようになると、私のことを城下の人々も見慣れて
きたようだ。
見回りのついでに害獣駆除もしてしまう夫人は、時々御礼に領民
から贈り物をされることもある。そんな時は剣を持っていない小柄
な私に話しかけやすいようで、
﹁剣のないお姉ちゃん、これ奥様に差し上げて。こないだ丸鼠を退
治していただいたからねぇ﹂
大人から言付けられた子供やお婆さんが、私に風呂敷包みに入れ
た果物なんかをくれる。
最初は、一緒に随行する騎士達がやや緊張した眼差しを向けてき
ていたが、何事もなくなっていった。
そんな見回りも、冬が近づくと少しずつ減っていく。
辺境伯領付近は積雪がそこそこある地方なので、まずルアインも
進軍して来ないらしい。ということで、ベアトリス夫人の見回りは
天気の良い日に二日に一度となった。
穏やかな日が続く中でも、私は魔術のことを忘れてはいなかった。
切り札は必要だ。けれど一人で書庫の本を見るわけにもいかず、
手をこまねいていた。
そんな折、辺境伯夫妻とアランは王宮へ行った。
新年祝賀の宴に出席するためだ。
196
アランはレジーと会うのが楽しみだったのだろう、隠しきれない
うれしさを顔に浮かべていた。
残された私は、たまに話すようになった召使いのおばさんたちと、
城内や城下の話をしたり、一気食いをした後から﹁それで食事、足
りるのか?﹂と尋ねてくるようになった料理人見習いのハリス君と
話したりして、過ごした。
やがて帰って来たアランは、レジーからの手紙を預かってきてく
れていた。
そこにはレジーが魔術について探ろうとしたところ、王家で雇っ
ていた魔術師がいつの間にか辞去していた。なので、使いをやって
茨姫に接触させたらしい。
﹁え⋮⋮うそ。そこまでしたの!﹂
私は読んですごく驚いた。一体誰を突入させたのかと思えば、茨
姫の好みは十二歳以下男子発言を聞いていたレジーは、しっかりと
森の近くの村の子を使い、茨姫接触に成功したそうだ。
⋮⋮釣ったのか。茨姫を。
きっとか弱い男の子の﹁茨姫様ー﹂という呼びかけに、茨姫もほ
いほい出てきたに違いない。
そうしてレジーが尋ねたのは
﹃魔術師になる方法と、魔術師も最後は砂になるのかどうか。パト
リシエール伯爵が飲ませたようなもので、魔術師を作ることはでき
るのか﹄
というものだ。
茨姫の返事というのが﹃何のために石をあげたと思ってるの? とキアラに言って。あと、絶対その石以外を使わないこと﹄だった。
197
ごめん、わけがわからないよ。
レジーもこればかりは自信なさそうに﹃これで分かる?﹄と書い
てきている有様だ。
とにかく、茨姫にもらった石さえ肌身離さずにいれば、諸々のこ
とはなんとかなりそうな感じだ。それに好物のショタを鑑賞する機
会に恵まれた茨姫が、嘘を言っても仕方ない。
なにせ茨姫はお使いの少年に森の中に生える高価な薬草やらをお
土産に持たせ、森の入口ではらはらしながら待っていたレジーの使
いの騎士を驚かせたらしい。だからとっても喜んでいたはずなのだ。
そして魔術に関する情報はこれ以上手に入らなさそうだ。
茨姫が石を持っていればいいというのだから、どこかで必要な時
に、役に立ってくれて、魔術師になる必要があった時にも利用でき
るのだろう。
その後、春になってから一週間だけエヴラール辺境伯領へ滞在し
に来たレジーも、同じ結論に落ち着いたようだ。
﹁茨姫も、理由があって言えないことがあるようなんだ﹂
内密の話だからと、私はレジーに連れられて城外の小高い丘の上
に来ていた。
露出した岩の上に二人で並んで座ると、彼が一年と数か月の間に
急成長したことがわかる。
足が長い。去年は既に私より頭半分背が高かっただけなのに、立
ち上がって並べば私の顔はレジーの胸あたりまでしかない。私だっ
て少しは身長が伸びてるのに。
銀の髪も前より伸びた。顔立ちも鋭角的になってきて⋮⋮以前の
天使みたいな美しさから、神像の美しさに移行した気がする。
198
おかげで彼の雰囲気も大分大人びたものになっていた。元から落
ち着きのある人だったので、尚更だ。
アランも成長痛らしきものに悩まされながらぐんぐん伸びていっ
たので、ある程度は想像していたけれど⋮⋮なんだろう。初めて見
る人みたいに感じてしまって、なんだか気恥ずかしくなる。
実は出かける前から、なんだか調子が狂って困っていた。
だって、二次元世界の綺麗さを3Dにしたらこんな感じ、みたい
な人が﹁やぁキアラ﹂と気軽に私の名前を呼ぶのだ。
多少引き気味になるのは許してもらいたい。
アランは毎日会うせいで慣れてたけど、それでも横顔なんかに時
々ハッとさせられるのに。
そんなだから、馬に一緒に乗ろうといわれた時は、自分一人でも
大丈夫と言えるようになっていて良かった。
この岩に腰掛ける時も、距離をとろうとしたのだが、それはレジ
ーにあっさりと間を詰められていた。
一年ちょっと前に、茨姫の森で並んで座ったときと変わらない距
離。
だけどそれが心の底をかすかにくすぐる。
それを悟られないよう、私は平気そうな顔を装って返事をする。
﹁縛られてるっていうと、魔術師には何か制約があるとか?﹂
﹁そうみたいだね。でももらった石があればと言うのだから、何か
あっても酷い事にはならないと私も思うよ。⋮⋮それで、キアラは
魔術に手を出さずに大人しくしていたんだろうね?﹂
﹁う、うん。ていうか調べようもないし﹂
大人しくしているというより、手も足も出ないというのが正しい。
199
じつはこっそりと魔法が使えないかと試してみたが、魔法の技名
を口にしても何も起こらず、しかもマイヤさんに目撃されるという
恐ろしい黒歴史を刻んでしまったのだが、絶対レジーには言わない。
﹁そう? アランからも一応暴れてないとは聞いているけど⋮⋮心
配なんだ﹂
レジーは表情を曇らせて私を見下ろしながら、岩についていた私
の手に自分の手を重ねる。
うぉぉ。レジーよ、これ、すごく恥ずかしいんだけど!
だって離れてはいるけど、君の護衛騎士二人がこっち見てるんだ
よ?
二人の視線から隠れるように手に触れるとか、何この秘密の関係
っぽい感じ! 春の陽射しに照らされても、生ぬるい温度にしかならない岩と違
って、レジーの手が温かい。
そのせいで心臓がばくばくした。
全力疾走したみたいに脈拍が激しくて、なんだかめまいがしそう
で、錯乱しかけた私はつい素直に尋ねてしまう。
﹁それで、えっと、レジー、この手は⋮⋮なんで?﹂
﹁ああ、確認だよ﹂
﹁何の!?﹂
﹁君はまだ知らなくていいよ﹂
何その意味深な言葉! 意味深だってのはわかるけど、訳はまっ
たく分からないんだけど!
しかも質問を逸らすように、レジーはその後城へ戻ることにして
しまった。
200
レジーの滞在は一週間だったので、あまり長く話すこともできず
に彼は去っていった。
けれどさすが頭の良い人だ。
この往復路で、二つ貴族家を訪問して味方にしてしまったらしい。
聞けばゲームで中立だったがために、容赦のないルアインの侵攻に
後れをとって滅亡した家だった。
もちろん王宮にいる間に、それなりに旗色を鮮明にさせるための
種をまいていたのだろうが、それでも中立の方針を貫いていた家の
意見を覆させたのだ。私にとっては魔法のような所業としか言いよ
うがない。
一体どうやったのか、今度会った時に聞こう。って⋮⋮
﹁あと、半年?﹂
レジーが死ぬ運命がめぐってくるまで、あと半年しかない。
次に彼がやってくるのも、ゲームの通りならば半年後になる。
そう思うと焦りが心を支配しはじめて、たまらない気持ちになる。
でも私にできることは、茨姫を信じてペンダントにした件の赤い
石を身に着け続けることぐらいだ。
魔術師になる方法についての問いにも、まとめて﹁持っていれば
大丈夫﹂と言うのだから、この石が魔術師になる時にも必要なのだ
ろう。そして死についても関係するため、砂になって死ぬのかとい
う問いにもはっきりとは答えなかったのだと思う。
なんにせよ、最も強力な情報源である茨姫からもこれ以上聞きだ
せないとなれば、私はじっと待つことしかできない。エヴラール領
を勝手に出ることもできないのだから。
せめて、その時が近くなったら気を付けるよう知らせるべきこと
をリストアップしてみて、辺境伯に渡せるようにしておいた。
201
そして初夏。
今まで何事もなく過ぎたことで、誰もが油断していたのかもしれ
ない。
ベアトリス夫人に同行して、領地の北にある辺境伯の分家を訪ね
ていた私は、そこで新たな事態に出会うことになる。
202
不審者を引き取りに行ったのですが
辺境伯の分家を訪ねたのは、強化された領内の監視のおかげで、
怪しい者を見つけたという報告があったからだった。
既に捕らえた後だということで、私達は検分と引き取りをするた
めに向かうことになった。
訪問者はベアトリス夫人と領内の仕事を手伝い始めたアランとウ
ェントワースさん、そして私や侍女さんと騎士2名に、護衛のため
の兵士が5人。
正直、私以外は全員戦闘能力を持っている一隊だ。
そんなところへなぜ私が連れて行かれたのか。それはひとえに、
ベアトリス夫人のためだ。
﹁ありがとう、キアラ。やっぱりあなた腕がいいわ﹂
朝、部屋で朝食を簡単に済ませた後。
髪を結い終えると、ベアトリス夫人がにこやかに礼を言ってくれ
る。
今回のベアトリス夫人は、辺境伯夫人として分家を訪ねたので、
髪をきちんと結い上げなければならない。あとは格式の問題もある
ので、分家の夫人がどんな衣装や髪飾りを身に付けても、その上の
格になるような飾り付けも考える必要がある。
その打ち合わせを分家のご婦人や令嬢と行い、一日の衣服の予定
をたて、華やかに着飾らせるのが私の役目である。
センスの有無的にはマイヤさん達でも問題はないのだが、やはり
相手が貴族となれば、その侍女もたいていは貴族の傍系だったりす
203
るもので、平民出身のマイヤさん達では上手くいかないこともある
らしい。
そこで私の出番だ。
貴族出身らしくやんわりと、でも強気で押すのだ。そもそもが伯
爵令嬢として教育されていたので、貴族らしい話し方はお手のもの。
傍系出身だったり、他所の領地の分家の子女だった分家の奥方の侍
女達は﹃ホントの貴族出身の子が来た!﹄みたいにちょっと引き気
味だった。
けどごめん。これは完全に高飛車猫被ってるだけです。
たぶんつつかれたら、すぐにすっ転んで化けの皮がはがれます。
なのに、分家の館を歩いていたら、アランに﹃お前ほんとにキア
ラか?﹄なんてことを訊かれた。
失礼ですわね。私だって教会学校で子爵令嬢とか侯爵家の四女と
かと交流してたんですのよ。
私がそう主張すると、今の今まで忘れていたかのように﹃そうだ、
お前は学校から逃亡したんだった⋮⋮﹄と言われた。
もっと腹立たしいのは、アランと一緒にいたウェントワースさん
まで、疑いのまなざしを向けてきたことだった。
とにかく、久々にベアトリス夫人の体面を保つため役に立てたと
私は喜んでいた。
そんな侍女の私の仕事の一つに、髪結いがある。
この世界はほとんど化粧をしないので、素材とうっすらとファン
デーション的なものを塗ることと、髪を結う他は、装飾品で顔周り
を華やかにするのだ。
銀糸のような髪を編み込みを混ぜて結い上げた上で、簪できっち
りと止めた髪型をベアトリス夫人は気に入ってくれたようだ。なに
せ輪ゴムがない世界なので、編み込みを作ってから結い上げて⋮⋮
204
がとても難しい。なので、これができるだけで他にない髪型がつく
れるので、喜んでもらえると思っていたのだ。
鏡で後ろ髪の様子を見ようと顔を左右に向けて微笑んでいた。
﹁でもあなたみたいな髪型の方が、楽そうでいいわ﹂
﹁辺境伯夫人としての威厳のためにも、これは向かない髪型でしょ
うから⋮⋮﹂
私は茶色の髪を簡単に編み込みをした上で首元に緑のリボンをか
けて結んでいる。その先の髪は結わずに背に流しているだけである。
子供と大人の中間点らしい髪型でありながら、きちんとまとめてあ
るので邪魔にもならない。
エヴラール城では乗馬のために簡素なお団子の髪型か、結わずに
いることが多いベアトリス夫人としては、複雑に結われた髪は綺麗
でも、簡素な方がうらやましいらしい。
﹁城へ戻りましたら、この髪型をなさっても大丈夫かと思いますが﹂
﹁そうね。でもキアラも、もうすぐ17歳でしょう? 今度はこう
いう場でも、お揃いの髪型に結ったりしましょうね。もう成人した
んですもの﹂
エヴラール城へ初めて来たのは14歳だったが、それからすぐの
冬には15になっていた。さらに一年経ったので、すでに私も16
歳だ。誕生日には、ありがたいことに皆に祝ってもらった。
その時にはベアトリス夫人が﹁侍女は雇った主人にとって、使用
人よりは同志に近い存在よ。だからなるべく貴族から選ぶのですも
の。その同志を祝うのは当然でしょ? 身内だけになるけれど、ち
ょっと楽しんでもいいじゃない﹂なんて言うので、身内なら⋮⋮と
は思ったのだが、その身内の範囲が広かった。辺境伯夫妻やアラン
だけではなく、城に勤めている人全員というのは、内輪とか身内と
いうには広すぎて、城内がちょっとした宴状態になっていた。
205
ちなみに私よりずっと前に済ませたアランの16歳のお祝いは、
かなり盛大なものだった。跡取り息子だもんね。
城下に暮らす市井の人々も招いて、酒や料理を出してお祭り騒ぎ
になっていたのだ。
その時、料理の手伝いが足りないと聞いて、隅っこで芋の皮むき
を請け負っていたら、探しにきたアランにびっくりされたことがあ
る。
その後、なんか過剰に芋の皮むきができることを気の毒がられた
⋮⋮。
でも前世でも私、お母さんの料理のお手伝いしてたから、包丁で
芋の皮むけるんだけどな。
しかしいつまでものんびりと話している暇はない。
今日は分家で捕らえてくれていた人達を連れて帰る日なのだ。犯
罪者を捕縛した状態で馬車に乗せるにしても、夕方までに帰りつく
ためには、早々に辞去する必要があった。
ベアトリス夫人にマイヤさん達と付き従って館のエントランスへ。
出迎えた分家の一家に見送られて馬車に乗る。
乗車するのは私とマイヤさん達とベアトリス夫人だ。
騎士達とアランは騎乗し、兵士達は犯罪者を入れた幌馬車と私達
が乗る馬車の御者台へ。残り三人もそれぞれ馬に騎乗する。
馬車が動き出すと、私は少しほっとした。ひさびさに他所の場所
で宿泊したからだ。
さて、今回ベアトリス夫人がここまで訪問した理由。それは分家
の警備隊の人々が捕まえた者の様子がおかしかったからだ。
ぱっと見は、間違って越境してしまった狩人という感じの男だっ
た。
206
頭髪もぼさぼさで、人らしい匂いをごまかすため毛皮を被ている
ところも、発見時に矢筒と弓を持っていたところも、まさにマタギ
だったらしい。
しかし警備隊が近づくと、男は獲物を捌くナイフで攻撃してきた
ため捕縛。
それから気付いたらしいのだが、異常なことに、男の周囲には何
匹かの狼が死んでいた。何か血よりも薄い液体を吐いていた痕跡が
あったそうだ。
そして男は、赤い液体がうっすらと底に付着していた瓶を、いく
つか持っていた。
分家は﹃毒物を持ち込んだ不審者を見つけた﹄と考え、そう連絡
してきた。その時に瓶と入っていた毒だと思われる色を伝えてきた
ので、ヴェイン辺境伯は思い出したのだ。
魔術師くずれのことを。
ただ折悪く、ヴェイン辺境伯は他の貴族の家へ訪問する予定にな
っていた。そのためベアトリス夫人と、名代となるアランが出かけ
たわけだ。
ベアトリス夫人もアランも、もしかしたら魔術師くずれかと警戒
していたのだが、特に何か問題が起こったりはしなかった。
掴まっていた男も大人しく⋮⋮というか放心しているような有様
で、何も聞きだせない代わりに暴れもしなかった。それでもしっか
りと縄をかけていたが。
話に聞いていた瓶も受け取り、後は帰ってから詳しく調べること
になっている。
仕事はほぼ終わったようなものだ。
私は馬車に揺られつつ、城に戻ったらしようと思っている仕事の
優先順位について思いをめぐらせていたのだが︱︱。
207
﹁わっ﹂
﹁⋮⋮っ、何事!?﹂
馬車が急停車して、私は馬車の壁に頭をぶつけてしまった。痛い。
﹁あ、ベアトリス様!﹂
私が頭を押さえて呻いている間に、ベアトリス夫人が馬車から出
てしまう。
﹁マイヤ、キアラを守ってやって! クラーラ風狼よ、五匹なら私
達も加わればすぐに終わるわ!﹂
﹁承知いたしました奥様﹂
﹁ええっ!?﹂
驚いている間にクラーラさんまで馬車を降りてしまう。
ていうか、みんな辺境伯夫人を戦闘要員に数えすぎですよ。私な
んかより守るべきだと思うんですが?
そうは言っても、以前から騎士みたいに巡回や魔物討伐に参加し
てしまっているので、本人も周囲も戦闘に参加するのが当然になっ
てしまっているのだろう。
﹁でも、なんでこんなところに風狼?﹂
街道周辺って人間が頻繁に通る場所だから、その匂いを嫌ってあ
まり風狼は出てこないはずだ。彼らが攻撃を加えてくるのは、その
テリトリーを犯した時だけである。
走る時に風をまとわせる狼達のせいで、風狼との戦いは、風や舞
い上がる土埃で視界を遮られるのだ。
ゲームで障害物的に遭遇することがあったので、特徴は知ってい
る。
風狼を押さえるには、とにかく足を斬りつけて走れないようにす
208
るしかないのだが。
﹁って、なんか風強すぎないですか!?﹂
馬車は強い風が吹き付けたようにがたがたと揺れる。
﹁確かにこれは⋮⋮﹂
マイヤさんが剣の柄に手をかけた態勢のまま、眉をひそめる。
確か風狼の風って目くらまし程度だったはずだ。それが効いてし
まうと、3ターンほどそのキャラは目が効かなくなる。なので一撃
離脱で攻撃させて、見えなくなった味方はさっさと後方に下げなく
てはならない。
というのがゲームのセオリー戦法だったのだが。
馬車は次第に、海の上の小船みたいにゆっさゆっさと揺らされた。
﹁ひえええええ!﹂
外がどうなっているのか知りたいが、とても窓から覗いてる余裕
がない。座席にしがみついているので精いっぱいだ。
しかも、あきらかにジャンプした生き物がぶつかったような衝撃
とともに、
﹁いやああああ!﹂
﹁キアラさん!﹂
馬車が横倒しになりかけた。
私は必死の思いで傾いたのとは反対方向の扉にぶつかっていく。
間一髪。馬車の位置を戻すことができて、横倒しの危機は免れた。
けれども私は、勢いをつけすぎてそのまま外に転がり落ちてしま
う。
﹁痛っ﹂
外開きの扉だったことが災いしたのだ。またしても人がいる場で
209
転がり落ちるという失態を犯したものの、今は恥ずかしがっている
場合ではない。スカートがめくれていないのを確認したら、大人し
く引っ込んでいないと邪魔になる。
そう思って立ち上がった私は︱︱その瞬間を見てしまった。
﹁ベアトリス様!﹂
少し馬車から離れた場所で、ベアトリス夫人が風狼に足を噛みつ
かれて倒れたのだ。
210
早すぎる事件の発生
﹁母上!﹂
すぐにアランが駆け付けて、剣の一閃で狼を退ける。
ぎゃんと鳴き声を上げた狼は飛びのいたものの、胴から血を流し
ながらも距離をとってこちらを伺っている。
ベアトリス夫人は立ち上がるものの、ひどく足を怪我したのだろ
う。狼の歯でドレスも一部引き裂かれ、血にまみれている。
﹁どうして⋮⋮ベアトリス夫人が負傷?﹂
そんな筋書はゲームではなかった。だからベアトリス夫人は大丈
夫だと思っていた。
ゲームでもエヴラール城から離れていたために助かったアランが、
一時身を寄せた砦から出陣する時に、領主夫人である母親に後を頼
む短い会話もあったのだ。
むしろ、それしかベアトリス夫人が出てこないので、こんな戦闘
系だとは思わなかったというか⋮⋮。
でもそうだ。ベアトリス夫人は自ら戦うような人なのに、なぜア
ランの軍について行かなかったのか。
国家の存亡の危機となれば、反抗後に負けたら親族の命など無い
も同然。後を任せて安全な場所に置いても、あまり意味がないだろ
う。そんな状況なら、ベアトリス夫人は自ら従軍するはずだ。
﹁まさか、できなかった?﹂
負傷して、一緒に行くことができずに拠点である砦の守備の指揮
しかできなかったとしたら?
211
そのベアトリス夫人は、これ以上戦うのは不可能だという判断に
至ったようで、足を引きずるようにして馬車に向かって移動し、ア
ランが庇うように前に立った。
そうしてベアトリス夫人は、馬車の前で呆然としてしまった私を
見つけて叫んだ。
﹁キアラ!? 早く馬車に!﹂
私は首を横に振って、近づいたベアトリス夫人に駆け寄った。
﹁ベアトリス様が先です!﹂
風狼の突風が吹きつけるが、足を負傷して歩くのがやっとの夫人
が倒れないよう支える。ベアトリス夫人の様子を見て、クラーラさ
んが私達を庇う位置についた。
他の騎士や兵士達も、馬から降りて対峙している。時折吹く突風
に、騎乗したままでは対応できないからだ。
とりあえずみんな、負傷している者がいるようだが、大事に至っ
ていないのがわかる。
馬たちは荷馬車の後方にまとめられていたが、不思議と狼達はそ
ちらへ見向きもしなかった。
⋮⋮普通、狼は食料になる馬を狙うのに?
疑問に思ったが、すぐにベアトリス夫人を馬車に押しこむだけで
頭がいっぱいになる。
﹁マイヤさんお願いします!﹂
呼びかければ、馬車のタラップを上がれない夫人を、マイヤさん
が力強く引き上げてくれる。そうして私も、と手を伸ばしてくれた
その時、心臓がやけに強く拍動した。
212
﹁うっ⋮⋮く﹂
一瞬だけ息がつまるほどの変な動悸に、思わず私は振り返る。
﹁キアラさん!﹂
クラーラさんが、叫びながら私にとびかかってきた︱︱いや違う。
横から走り込んできた風狼が、ぎゃんと声を上げて、クラーラさ
んの剣に刺された。どっと地面に横倒しになった風狼は、痙攣しな
がらも私に視線を向けている。
え、この風狼は私を標的にしてたの?
﹁キアラさん、早く馬車に!﹂
﹁は⋮⋮わっ!﹂
返事をして馬車に乗ろうとしたら、だん、と音をたてて馬車の屋
根に風狼が一匹降り立つ。
風を巻き起こして飛び乗ったのか、吹き付ける突風で私は転び、
クラーラさんも態勢をくずした。
そして風狼はまっすぐ、私めがけて飛び降りてくる。
﹁ちょっ⋮⋮!﹂
どうして!? と驚くことしかできない。なんかほんとに私を狙
ってる!?
私は風狼の牙が並ぶ口を見つめながら、その場を動くことができ
なかったが、
間一髪のところで、黒のマントと濃緑の上着の背中が私の前に立
ちはだかり、飛び降りた一匹を一刀両断する。
飛び散るのは赤い血。
それをいくらか被ったウェントワースさんが、振り返って眉間に
しわをよせる。
駆け付けようとしてくれたのか、先ほどよりも私に近い場所にい
213
るアランも、荷馬車の傍にいた兵士も、私をめがけて襲い掛かろう
とする風狼を相手に、近よらせまいと戦ってくれている。
間違いない。風狼は私を狙っている。
風狼の目がひっきりなしに私に向けられているので、勘違いなん
かじゃないはずだ。
でもこれじゃだめだ、と私は思う。
風狼は身軽だ。すぐに風を巻き起こして、剣が届かないほど高く
飛び上がる。四方八方から狙われているようなものだ。
なのにこっちは馬車や私を守るために動けない⋮⋮ん?
四方八方から狙われなければいい?
私は立ち上がった。足は震えていない。ちゃんと力が入る。
そして起き上っていたクラーラさんがぎょっとする中、ドレスの
裾を広がらないよう、少しでも短くなるよう結んで︱︱走り出した。
﹁キアラさん!?﹂
﹁おい!﹂
クラーラさんが悲鳴のような声で名前を叫び、ちょうどこちらを
振り返って周囲を確認していたアランが、目を見開いている。
けれどかまっていられない。
私は一端馬車の後ろ側に回る。そこで風狼達が騎士の頭上を飛び
越えてやってくるのを目の端で確認すると同時に、反転してアラン
の脇を駆け抜けて木立の中へ。
﹁ウェントワースさんもう少し前へ出て! ライルさんとアランは
そこにいて挟撃を!﹂
走れ私!
死にもの狂いで足を動かしながら、私は木を避けながらじぐざぐ
214
に走った。
案の定、私を追いかけてきた3匹の狼達が、木立を避けて私の後
をついてくるせいで一列に並ぶ。
混んだ状態で生えた木立の中では、風を使って飛び上がりにくい。
だから風狼も走るしかないのだ。
けれどすぐ追いつかれてしまいそうになるのはわかっているので、
私は早々に木立を飛び出してウェントワースさんを目指す。
途中でもう一度アランとライルさんの間を駆け抜けてウェントワ
ースさんの背後に駆けこむと、彼の真正面に風狼が迫っていた。
﹁なるほど﹂
何かを納得したようにつぶやいたウェントワースさんが、剣で鮮
やかに風狼を串刺しにする。
仲間の遺体で足を止められた風狼2匹をアランとライルさんが横
からしとめた。
それを横目に私はまた走り出す。
別方向からまた2匹が迫って来たのだ。
息が切れて立ち止まりそうになる。でもここでドジって転ぶわけ
にはいかない。
﹁お、願い!﹂
滑り込むように三人の兵士が固まった場所へ私は突入する。
対峙していた狼の突然の方向転換と、私を追いかける有様に驚い
ていた彼らだったが、すぐにまっすぐに向かって来る狼達を打ち払
う。
地面に倒れた狼を、追ってきたアランとライルさんが仕留めた。
︱︱私が狙いなら、私が動けば風狼はそれだけを目標に走ってく
215
る。盲目的に私を狙っていたので、きっと木立でも私の後ろを忠実
に追いかけると考えたのだ。
だから私は風狼の意識を私に向け、風狼が飛び上がらないように
誘導した。
アラン達の腕ならば、自分に意識を向けていない相手を倒すのは
容易い。その予想通り、彼らは私という獲物に注意を集中していた
風狼を倒したのだ。
私は地面に座り込んで手をつく。
ようやく全部倒せた。だけどもう、息が上がって喜ぶどころでは
ない。
なんとかドレスの裾だけ元に戻した後は、風狼を倒す様子を確認
し、もう走らなくていいということだけを認識して息を整えていた
のだが。
﹁この、バカ者!﹂
こちらも剣を持って走り回り、ぜいぜいと肩を上下させるアラン
に怒鳴られる。
声の大きさと威圧感に、私は思わず肩を縮めた。こ、こわいよア
ラン。
でも怯える私に、アランは容赦してくれなかった。
﹁弱すぎてすぐ死んでしまいそうな奴が、どうしてあんな真似をし
た! 無事でいられなかったらどうする気だった!﹂
﹁だってあのままじゃ﹂
みんなが怪我をしていたではないか。しかもベアトリス夫人が戦
に参加できなかったということを考えれば、恐ろしい推論が成り立
つ。
あの怪我なら、治って走り回れるようになるまで一か月くらいか。
216
けれどベアトリス夫人はエヴラール城攻防戦後も戦場に出なかった。
ならば、もっと深い傷を負った可能性もある。
もし私が馬車にいたなら、風狼に馬車を壊され、怪我をしながら
もベアトリス夫人が戦わなければならない状況になったかもしれな
いのだ。
これ以上ベアトリス夫人に、痛い思いなどさせたくない。
しかもこの状況では、他の騎士や兵士はもっとひどい怪我を負う
かもしれない。これから一国の軍と辺境伯領の軍だけで戦わなけれ
ばならないかもしれないのに。
実はもっと怖い推測もある。
もしベアトリス夫人が参戦しない理由が私の予想通りなら。
ゲーム通りに事態が推移したなら、ベアトリス夫人が負傷して戦
えない頃にルアインが攻めてくるはずだ。
あと一年近くの時間を待たずに⋮⋮秋には攻めてくるかもしれな
い。
予想外の方向に状況が変わったら、どうなるのか予想がつかない。
サレハルドも今のところ動きがないというのに、一体何の理由で
レジーが辺境伯領へ来なければならなくなるのかも、わからなくて
怖い。だからこそ、アラン達に軽い怪我すらさせるのも怖かった。
結局私は魔術を扱えない状態なのに。戦力が減ってはどうなるか
⋮⋮。
けれど全てを説明できない。
説明できないもやもやを抱えてうつむいた私だったが、その肩に
手を触れる人がいて顔を上げた。
﹁キアラさんは怪我は?﹂
217
ウェントワースさんだ。いつも通りの冷静な眼差しに、私はうな
ずく。すると彼は、アランを諌めてくれた。
﹁過ぎたことを責めても、仕方ありませんよアラン様﹂
﹁しかし⋮⋮﹂
﹁彼女のおかげで、皆が無事だったのも事実です。それに今は、こ
の場を離れることを優先しましょう。血の匂いに引かれた他の獣が
やってきたら厄介です。ベアトリス様も負傷していらっしゃいます
し﹂
アランがはっとした表情になり、それから素直にうなずく。
﹁わかった⋮⋮言いすぎたな、キアラ。だが説明、してもらうから
な?﹂
私はアランにうなずいて立ち上がると、心配そうに私を見るクラ
ーラさんの手を借りて、馬車の中に入る。
﹁キアラ、大丈夫だったの?﹂
中で気をもんでいたベアトリス夫人に、私は微笑みかけた。
﹁平気です。風狼も全滅しました。急いで帰りましょう、ベアトリ
ス様﹂
そうして手当をしていたマイヤさんを手伝いながら、私はどうや
ってこの危機感を説明したらいいのかと、頭を悩ませていた。
218
わかりあえない時もある
城へ帰ると、皆が騒然となった。
辺境伯夫人が負傷したのだ。多少のかすり傷を負うことがあって
も、この元王女が歩くのもやっとという有様になることなど、今ま
でになかった。
ヴェイン辺境伯の驚愕ぶりもすごかった。
表面上こそ冷静に、妻の治療の手配と他の負傷者への対応、風狼
の異常行動への情報収集、捕まえた男への訊問を命じたのだが、そ
れをすべて妻から離れずに行った。
絶対離れるものかという意思を感じて、皆ある意味で微笑ましく
思ってしまったのだが、その分だけ城内の者は気を引き締めてこと
に当たっているようだ。
治療が終わってもまだ離れないヴェイン辺境伯に、むしろベアト
リス夫人の方が困ったように笑う有様だった。
﹁後は治るのを待つしかないのよ。ずっと傍にいたって早まるわけ
ではありませんよ、あなた﹂
﹁しかし⋮⋮﹂
言葉を濁しながらも動かないヴェイン辺境伯を見て、皆とりあえ
ず二人だけにしてあげようという流れになる。
おおまかな状況の説明は既に終わっているので、アランやウェン
トワースさん達も退室していく。侍女のマイヤさんとクラーラさん
も居なくなるつもりのようで、私も一緒に遠慮した。
とりあえず夜も更けてきたので、今のうちに夕食をもらおうか。
219
そんなことを考えて廊下を数歩進んだところで、手首を掴まれた。
振り返れば真剣な表情のアランがいた。
﹁待てキアラ。話がある﹂
真剣な表情を見て、私はうなずく。
ベルクフリート
アランに連れていかれたのは、城塞塔の上だ。
監視の歩哨はより高い主塔にもいるから、ここでまで常時監視を
しなくてもいいのだろう。おかげで誰も居なくて静かだった。
ここなら誰かに話を聞かれることもないだろうけれど、急速に夕
闇に閉ざされていく空の下、空気が涼しすぎるような気がした。
先に塔の端まで歩いて行ったアランが、階段を上り切って数歩進
んだ私を振り返って言う。
﹁まず最初に言っておく。スカートをたくし上げるな。他人に足を
見せるな。お前には恥ずかしいという概念が足りないのではないか
!?﹂
﹁あ⋮⋮まずそっちですか﹂
薄暗がりの中、渋面で言うアランに、私も悪いことをしたと思い
出す。
﹁ええと、変なもの見せて大変申し訳ありません。お目汚しをいた
しました。できれば夫人には内緒にしておいていただきたく⋮⋮﹂
前世の記憶を思い出そうとする度、今生の倫理観が抜けがちにな
るせいか、私はスカートが短くても恥ずかしいという気持ちがなく
なりつつあったようだ。が、はしたない事だという認識はあった。
なので謝った上で、侍女をやめさせられては困るからベアトリス
夫人に黙っていてくれと頼むと、アランは目を瞬いた。
220
﹁は? 変なもの!?﹂
﹁え、だって興味がない女の足なんて見たいもんじゃないでしょ?﹂
なんていうかあれですよ。好みの女の子の秘密は見たくても、好
みじゃない女の秘密は知らされたって困るだけ、みたいな。
だからアランも見たくないものを見るはめになったのではないか
と思い、気を使ったのだが。
﹁⋮⋮お前は気を使う方向を間違っている﹂
﹁え? 男の人だって、見たい足と見たくない足があると思ったん
ですが﹂
﹁何だその区分は?﹂
﹁やっぱり綺麗な女の子の足の方がいいでしょう? アラン様だっ
てこっそり女の子の足の一つや二つ拝んだことのあるお年頃でしょ
うし、それを考えると私の足はむくみやすいからいまいちおめがね
に適わな⋮⋮﹂
﹁別に変じゃな⋮⋮! ていうか他の女の足なんて見たくてもまだ
見たことが⋮⋮! いや違う! 僕はそんな足の優劣の問題を論じ
てないだろ!﹂
慌てたように否定してくるが、なんかアラン、君ってば変なこと
口走ってるのわかってるかな? いやオモシロイこと聞いたなって
思ったけど。
とにかく違うと言われてしまったので、私は彼がこれ以上失言を
しないように、謝り直してみる。
﹁じゃあほんとに、マナー的な問題でのお叱りですよね? 大変申
し訳ありません﹂
﹁⋮⋮なんか、これについて詳細な認識をすり合わせるのは危険な
気がするからやめておく。あと、レジーには言うなよ?﹂
なんでそこでレジーがでてくるかなと首をかしげる。レジーに言
221
えるようなことではないけど⋮⋮緊急事態だから、許してくれるん
じゃないかな?
だって外出するのでブーツ履いてるから裾丈が足首より上とはい
え、長すぎて走りにくかったし、それですっころんで狼の餌食にな
ったら、目も当てられないもんね?
でもわざわざ言うようなことじゃないので、私は素直にうなずい
ておいた。
なんでかアランが深いため息をつく。
﹁じゃあ本題だ﹂
その一言に、私は思わず背筋を伸ばす。
﹁あの風狼は、なぜお前だけを追いかけた?﹂
アランの質問に、私は用意していた答えを返す。
﹁その、よくわかりませんが、たぶん一番弱そうだからじゃないか
と﹂
あの場で武器を持ってないのは私だけ。しかも狼でも私がトロそ
うなのはすぐわかったはずだ。だからそれを言い訳にしようとした。
障害物を利用しつつ、長距離を走らず、武器を持つみんなを利用
しての作戦が功を奏しただけで、襲われたらひとたまりもないのは
本当だったから。
しかしアランはそれでは納得してくれなかった。
﹁違うな。弱いだけなら、負傷した母上に一斉に襲いかかったはず
だ。けれど風狼はそうしなかった。あの時も、奴らの目はお前に向
いていた。そしてお前だって必ず自分を狙いに来るとわかって行動
しただろう。でなければあんな策を考えないはずだ﹂
はっきりと言われてしまい、私はうつむきながらも白状した。
222
﹁たぶん、あの狼達は⋮⋮魔術師くずれの男と同じものを飲まされ
たんだと思います﹂
﹁魔術師くずれと?﹂
私はうなずく。
﹁ほんの少し、わかるんです。魔術師くずれの人達と近づくと、熱
があるときみたいに息苦しくなったり、変な感じがするんです。今
までは、初めてそういう人を見たり、緊張したせいだと思ってまし
た。けど、あの風狼達にも同じように感じて、まっすぐに私を見て
ることで、たぶんそういうことなんだろうと﹂
﹁確定、というわけではないのか?﹂
﹁魔術に詳しい人も本もないですし、私は何も知らないも同然なん
です。だから推測でしか⋮⋮﹂
話を聞いたアランは考え込むように目を閉じる。
﹁レジーにも調べてもらったんですけど、はっきりとしたことは何
もわからなくて﹂
﹁あいつでもか⋮⋮﹂
彼の名前を聞くと、さすがのアランも追及を諦めてくれた。
﹁しかしなぜこんなに魔術師くずれの事件が多発するんだ﹂
﹁ルアインと国境を接してる領地の一つだから⋮⋮だと思います﹂
ゲームの設定では、主人公の出発点だ。物語上、攻め落とされな
ければならない場所だが、その理由付けとしては、ルアイン軍が侵
攻する途上にあることが挙げられていた。そして王子がやってくる
場所だから。
﹁しかしルアインが侵略を考えているのなら、南のエレンドールで
もかまわないだろう﹂
223
﹁レジーが来るからでは⋮⋮いや、レジーが来るように仕向けてる
?﹂
王子を引っ張り出すためには、国家間の交渉などがなければ難し
いだろう。ゲームでもサレハルドとの間で緊張状態が発生し、その
ためレジーがやってきたのだ。
そしてレジーにとって、ここは親交の深い領地だ。エレンドール
でことを動かすよりも、交渉役にレジーが選ばれやすい素地がそこ
にもある。
だからエヴラール辺境伯領を、敵も標的にするんだろう。
しかし今、サレハルドとファルジアは事をかまえていない。その
気配もない。だから私はまだ時間があると考えていたし、レジーが
王宮で何らかの手を打っていることを信じて、魔術に手を出さない
ように大人しくしていた。
︱︱でも、少しずつ話が変化しているとしたら?
ゲームでは、風狼が暴れたなどという話はなかったし、魔術師く
ずれがひんぱんに登場もしなかった。
けれどゲームどおりの動きを敵がしにくくなって、そのために方
針を変えたのだとしたら。
﹁もしかすると、サレハルドの近くでも魔術師くずれに事件を起こ
させてるのかな⋮⋮﹂
あまりに必死に考えすぎていたのかもしれない。アランの前だと
いうのに、口からだだ漏れていたことに気づかなかったのだ。
﹁おい、キアラ。今のはどういうことだ? どうしてサレハルドの
近くでも事件が起こると思う!? お前は何を知ってるんだ? 話
224
せ﹂
言われて我に返り、私は顔から血の気が引いた。
どどど、どうしよう。なんて説明すれば?
しかし慌てたのは数秒だ。もしかすると戦争が迫っているかもし
れない。予想より早く。レジーにはまだ二年後としか伝えていない
のに。
ならもう今のうちに、アランに話して辺境伯領の備えを早めても
らうしかない。
﹁あの、レジーにも実は話したんだけど﹂
そう切り出して、私はレジーにしたのと同じような話をアランに
言った。
夢で見たのだと言い訳して。
けれど焦りが、もっと詳細なことを私に語らせる。
ファルジア王国がサレハルドと交渉をしなければならない事態に
陥ること。夢で見た時は、ルアインの側が工作して、ファルジアの
人間が越境して盗賊行為や山を焼き払ったりしたのが原因だったと。
そんなサレハルドとの交渉にレジーがやってきた時、エヴラール
城が攻撃されること。その際、ベアトリス夫人が出てこない件と、
負傷していたのではないかという私の推測。
もし夢の通りなら、ベアトリス夫人が療養している間にもルアイ
ンが攻撃してくるかもしれないことを⋮⋮。
﹁夢かもしれないけど、不安でたまらなくて。だからレジーに話し
て、ヴェイン辺境伯様にもルアインに備えるように知らせてもらっ
たりしたの。だけど夢と状況が違ってきてるから⋮⋮﹂
もしかするとこの一か月か二か月の間にレジーがやってきて、ル
アインが攻撃してくるかもしれない。
225
急がなければ、と思う。急いで備えてもらわなければ、ルアイン
の侵攻が早まった時に対処できなくなる、と私は焦っていた。だか
ら促されるままに話してしまった。
そうして語った私は、アランが困り顔ながらも話の内容を検討し
てくれる⋮⋮と甘いことを考えていた。こうして話をしたのが二度
目で、レジーが疑わずに聞いてくれたせいかもしれない。
だからアランの顔を見上げれば、にらみつけるような彼の視線に、
私は言葉を飲みこんでしまう。
﹁夢だなんて、嘘なんだな?﹂
﹁え、どうして⋮⋮﹂
予想外の状況に、私は戸惑ってそれしか言えない。するとアラン
が言った。
﹁お前は確信的に話しすぎる。そんなはっきりしたものが夢である
わけがない。それにあまりに長期間の出来事について知り過ぎてい
る。一体幾晩夢の続きを見続けたらそれが可能なんだ?﹂
レジーがつついてこない場所を、アランはぐさりと刺してきた。
多分、変だと思っても、レジーは言いたくないことだと察したら
聞かないでいてくれたのだろう。
それよりもレジーは自分の目を信じているのだ。嘘をついている
のかいないのか。私が本当にあの人のことを思って言っていること
なのか、それは私の自己犠牲を必要とするのか要らないのか。
けれどアランは不確定要素を許してはくれない。すべてをつまび
らかにして、判断したい人なんだと思う。
でも言えないよ、と私は泣きそうな気持ちになる。
226
言ったら夢だと言うより陳腐な話になってしまう。もっと信じて
もらえなくなるだろう。
でも危機的状況が迫ってるかもしれないのに、それじゃ困る。
悩みながらも、私はアランを説得しようとした。
227
手がかりと協力者
﹁でも本当に起こるかもしれないの⋮⋮﹂
訴えても、アランの表情は変わらない。
﹁お前はそもそも、エレミヤ聖教をまじめに信仰しちゃいないだろ
う。お前をここに連れてくる道中、食事時の祈りの文句はわりとお
ざなりだった。今の話以外に、夢占の話だってしたことがない。聖
日の祈りだって、母上と一緒になって教会に行くのはすっぽかす。
それで夢で見たことだけは信じるとかないだろう? お前と同じよ
うな程度しかエレミヤ聖教を信じてない僕なら、夢で何をみたとこ
ろで現実とは違うと考えるだろう。本当になると信じて、危険を触
れ回るようなことなんて思いつかない﹂
アランの言葉は正論すぎた。
普段の私は、とても信仰心が薄そうな態度だった。辺境伯家の人
々もあまり熱心ではないので、ほっとしていたぐらいなのだ。
﹁むしろ僕は、お前がパトリシエール伯爵とまだ繋がりをもってい
ると言われた方が納得がいく。それなら、我が辺境伯家の人間に恐
怖心を蔓延させようとしている方が、現実味があるからな﹂
疑うのはもっともだ。
でも違う。私は王妃の元へ行くことや、パトリシエール伯爵の命
令から逃げてきたのだ。それだけは信じてほしい。
でも敵ではないと、どうやって証明したらいい?
﹁お願いだから信じて﹂
でも私は頭が良くないから、上手い言い方が思い浮かばない。
黙り込むしかない私に、アランがため息をつく。
228
﹁話にならないのは自分でもわかってるだろう、キアラ。まぁ、何
が情報源であっても、不穏な状況には変わらない。一応父上にも、
お前がそう言っていたと伝えて⋮⋮﹂
私は息を飲んだ。
そんなことを言われたら、きっと私の今までの話は信じてくれな
くなる。
それじゃレジーがルアインの動きについて話したことも、私と仲
良くしていたせいで、変な事を吹き込まれたのだろうと、疑われて
しまう。
それじゃレジーを守ってもらえない。
辺境伯も、何の警戒もしてくれなくて、殺されてしまう。
もうどうしたらいいのかわからなくて、私は泣きたい気持ちで叫
んだ。
﹁だって、信じないでしょう!? 前世の話なんて!﹂
﹁前世?﹂
アランが不審そうな表情になる。
でも、もうアランは私の言葉を疑ってかかってるのだ。これ以上
頭がおかしいと思われたところで、気にならない。だからぶちまけ
てしまった。
﹁そうよ前世よ! 生まれる前にも一回別な人生送ってたのよ! その時遊んでたゲームと同じ名前と顔の人達がこの世界に生きてる
って、思い出しちゃったのよ! このままじゃエヴラール城はルア
インに占拠されて、王国が侵略されてしまうのよ! 私だって学校
からすぐに逃げなかったら、魔術師にされて王妃の仲間にされて、
戦場でアラン達に殺されるはずだった!﹂
叫ぶように吐き出せば、アランは呆然とした顔をしていた。
229
﹁どうよ、こっちの方が荒唐無稽でしょ! 頭オカシイって思った
でしょう!? だから言いたくなかったのに!﹂
私はもういたたまれなくて、その場を逃げ出した。あてもなく城
塞塔から駆け下りて、とにかく一人になれる場所を探す。
でも城壁の上だって歩哨がいる。
塔の上にだって見張りはいる。当然だ、居ないと困る。だって辺
境を守備する場所なんだから。
探し回った末に、私は城壁のすぐ下、居館から少し離れた茂みに
座り込んだ。
とりあえず人が来ないところで、じっと立てた膝に自分の額をお
しつける。
今更ながらに後悔が押し寄せてきた。
あんなことを言ったら、アランは益々私を警戒するだろう。ここ
を出て行くしかなくなるだろうか? でもそれだと、レジーとの約
束を破ることになる。
けど、辺境伯だってアランの話を聞いたら、私をスパイだと疑う
かもしれない。きっとレジーに事情を書いた手紙でも送って、私を
拘束するか、温情があったら放逐するかもしれない。
あげく、今までどうにかレジーが上手く誘導してくれていたルア
インの動向へ注意を払うことだって、私の流言飛語だと思われて、
必要ないと断じられるようになるんじゃないか。
それじゃ、レジーやみんなが危険すぎる。
﹁⋮⋮内側から、壊すしか﹂
もうパトリシエール伯爵の所に戻って、人生投げ捨てるつもりで
子爵と結婚させられて、魔術師になるしかない。
このまま待っていられないのだ。茨姫は大丈夫だと言うけれど、
230
それじゃ遅いかもしれない。
思わず首から提げていた石を服の上から握りしめる。
﹁どうして、茨姫は正解をくれないんだろう﹂
今すぐ魔術師になる方法が知りたいのに。そうしたら、もっと別
な方法で説得できるし、信じてもらえなくても、守ることだってで
きるのに︱︱。
そこで、ふと変なことに気付いた。
﹁え?﹂
私は手の中の石を見下ろす。
石は何の変化もない。けれど握りしめて目を閉じると、何かを感
じる。
自分から広がっていく波。どこまでもどこまでもそれが広がって、
それがふいに左斜め方向で何かにぶつかるような気がした。
﹁これは⋮⋮何?﹂
視覚じゃないから上手く表現できないけど、なんとなくレーダー
装置が頭の中にあるような感覚だ。そして自分から広がる波がどこ
かにひっかかると、心臓が強く動く気がした。
今までなんの変化もなかったし使い方も全く分からなかったけど、
まさかと思うけど、これは。
﹁まさか、魔術?﹂
使えはしなくても、今まで風狼や魔術師くずれの人々への異常を
感じていた。
小さくても、その感覚に似ているということは。
﹁この方向に行ったら、もしかして魔術師が見つかる?﹂
思いついた私は、すぐに侍女として与えられていた個室に戻った。
231
騎乗しやすい服に着替えて、短い書き置きを残した⋮⋮もう、戻
れないかもしれないから。
何の力もない身で突撃するなんて、あまりにも一か八かなので、
十中八九は死んでしまうだろう。だから死んだと思って探さないで
下さいと書いた字は、震えて今まで一番みっともない字になった。
それからいつも使わせてもらっている馬を厩舎から引き出して騎
乗した。自分の足で探し回ってはいくらがんばっても追いつけない
だろうから。
顔見知りになっていた門番は、緊急の用だと言えば通してくれる。
そうして夜の闇に沈む道の中、馬を走らせた。
夜道は静かで、城下を抜けると夜目の効く鳥の鳴き声しか聞こえ
ない。
時々立ち止まって、方向を確認しながら馬を走らせる。けれどな
かなかたどり着けない。
一度川岸で馬に水を飲ませ、近くの木につないだ。
自分も休むべく、その場に座り込もうとしたのだが、不意に腕を
掴まれて飛び上がりそうなほど驚く。
﹁ひゃっ!﹂
まさか物盗り!? 女一人でふらついてたから? と思った私だ
ったが。
﹁私ですよ、キアラさん﹂
冷静な声に闇になれた目を向ければ、側に立っていたのはウェン
トワースさんだった。
黒髪や暗い色の衣服が闇にとけこんでいるが、少し日に焼けた顔
と淡い茶色の瞳が見える。
232
私は別な意味で緊張した。
雇われる時に、逃げたらスパイだと判断するかもしれないと言わ
れていたのだ。まさか、疑った末にこのまま始末されるんじゃない
だろうか?
するとウェントワースさんがため息をついた。
﹁多分、私はあなたが不安に思っていることがわかっています。脱
走だなんて疑っていませんよ。むしろ、心配はしています。いたた
まれなくて家出したのではないかと﹂
﹁いえ、で⋮⋮﹂
心配が杞憂だとわかったとたん、私はその場に座り込んでしまう。
腕を掴んでいたウェントワースさんが慌てた。
﹁怪我でも?﹂
﹁いえ、まだしてません﹂
﹁? とにかく戻りましょう﹂
そう言ってくれるウェントワースさんに、私は首を横に振った。
﹁⋮⋮帰れません。たぶん、アランも辺境伯夫妻も今頃は、私が帰
ってくることを喜んではくれなくなってるはずです﹂
荒唐無稽な虚言を吐く、スパイ疑惑のある娘。
そんな人間は戻ってくるより、どこか遠くに行ってくれた方がい
いはず。だから私は、もう信じてもらうためには魔術師になる方法
を探すしかないと飛び出したのだ。
ウェントワースさんは﹁なぜ﹂と尋ねてくると思った。けれど、
﹁アラン様とのお話は、聞かせていただきました﹂
﹁え?﹂
予想外な言葉はまだ続く。
233
﹁その上で、アラン様には他の誰かに不用意に内容を告げないよう
に言ってあります。そしてキアラさんが、敵ではないと説得してお
きましたので、大丈夫です﹂
﹁⋮⋮どうして、です?﹂
あの話を聞いたら、誰だって私を疑うはずなのに。
しかしウェントワースさんは、泣いている子供を見て苦笑う親の
ような表情をした。彼のそんな表情の変化が珍しくて、私は驚いて
しまう。
するとウェントワースさんが言った。
﹁乙女の恥を捨ててまで仲間を助けようとした人を、疑えるわけが
ありません。あのままでは重傷者が出たでしょう。ありがとうござ
います﹂
うれしい言葉だった。
ありがとうと言われて、目に涙がにじみそうになる。
だけどちょっと待って。
﹁あの、ウェントワースさん。お願いですから乙女の恥のことは忘
れて下さい⋮⋮﹂
目の端をぬぐいながら言えば、ウェントワースさんがくくっと低
く笑う。どこか落ち着きを感じさせるレジーとも、まっすぐに感情
を表に出すアランとも違う声音だ。
﹁もちろんわかってますよ。でもあなたは不思議な人ですね。わき
目も振らずに戦場を走る英雄みたいなことをしたかと思えば、年頃
の女の子みたいなことを言う﹂
そんな感想を言われたものの⋮⋮どんな反応をしたらいいのやら。
﹁いやまぁ、年頃ですし⋮⋮もう成人しましたし﹂
234
16歳になったんだもの。前世の記憶も14歳までしかどうして
も思い出せなくて、それ以上の年齢になってからは、一歩未来に踏
みだすような気持ちになっていた。それに結婚してもいい年齢にな
んだから、お年頃で間違いないもんね。
﹁そうでしたね。ああ、ウェントワースと家名を呼ばれるのもなん
ですから、カインと呼んで下さい﹂とウェントワースさんには軽く
流されたけれど。
あれ、そういえばウェントワースさんて、カインって名前なの?
みんなそれで呼んでるし他の人は名前呼びだから、それが名前な
んだとばかり。
﹁私が仕える時に、同じカインという名前の人がいましてね。区別
するためにそのまま家名で呼ばれ続けているわけで﹂
﹁はぁなるほど﹂
同名さんがいたのなら、なるほど納得。そういえば﹃アランさん﹄
だって複数人いるんだし、そういうこともままあるだろう。
﹁ではキアラさん、城へ戻りましょう。領内をくまなく警備できる
わけではありませんから、ここのように街道から外れた場所はなお
さら危険です﹂
﹁はい、そういうころならば戻りたいとは思います。アランも黙っ
ていてくれるみたいですし⋮⋮。だけどもう少し探させて下さい﹂
﹁探す?﹂
ウェントワース改めカインさんに、私はうなずいた。
﹁魔術師を、探します﹂
もうそれしか、迫る戦火の中でみんなを守る方法が思いつけない。
今見つけられなくても、何日かかっても魔術師に接触するんだ。
235
まっすぐにカインさんを見上げて宣言した私は、心の中でレジー
に謝った。
⋮⋮約束、守れなくてごめんね。
236
魔術師、捕獲します
それからは、私の予想が当たったかのように、魔獣の動きが活発
化した。
﹁矢を射ろ!﹂
討伐に出たアランが命じると、彼の背後に並んだ弓兵が矢を放つ。
木立に隠れるアラン達から放物線を描いて飛ぶ火矢が、少し離れ
た草原の空に浮いている空クラゲの一団に向かって行く。
十匹はいるくらげ達は、その長い半透明の足で矢をたたき落とし
たりもするが、三分の一が火矢が当たって蒸気を上げながら落下し
ていった。
アランたちがいるのは、城から一時間ほど離れた場所だ。
こうした討伐は、一週間に二度ほど行われるようになっていた。
近隣の町や村から、魔獣が出たと報告がやってくるようになったか
らだ。
討伐が終わらないうちにと、私はその様子から視線を離し、林の
中を馬で走り出した。
その後ろにいるのはカインさんだ。
一ヶ月前のあの夜、魔術師を探すと言う私に﹃それが辺境伯家を
守ることになりますか﹄と尋ねられた。うなずくと、カインさんは
協力してくれると言ってくれたのだ。
でも疑問だった。
カインさんはアランにした話を聞いて、私を敵ではないと言って
くれた。だから私を信じてくれるとは言ったけれど、前世の話を荒
237
唐無稽だとは思わなかったのだろうか、と。
疑問をぶつけてみると、彼は言った。
﹁私の両親は、先のルアインとの戦で亡くなりました。あの時はル
アインの巧妙な罠に気づかず、南のランドールに援軍を送っている
間に不意打ちされたのです。その頃、皆はルアインがランドールに
派兵した数を聞いて、辺境伯領には手を出せないと思っていました。
しかも大雨で、ルアインへ通じる道が崖崩れで使えなくなっていた
と聞いていたからです。それならば軍など通行できないと考えられ
ていました。ルアインは、復旧工事にかりだした工員の振りをさせ、
軍を伏せておいていたというのに。その策だとは気づかなかったの
です﹂
カインさんは苦い笑みを浮かべる。
﹁油断していたせいで、国境付近で採取に訪れていた民も、畑に出
ていた者も巻き込まれました。だから私は、どんな些細な情報でも
無視はしないようにしたいと思っているのです。実際に現在は、今
までにない事態が発生しています。そこから考えても、あなたの警
鐘を無視できないと判断したんですよ﹂
カインさんなりに、状況から﹃万が一﹄の場合があるかもしれな
いと考えての判断だという。
盲目的に信じられるより、確固とした理由を挙げてもらえて、私
も安心した。だから喜んでカインさんの協力を受けることにしたの
だった。
私は林の中を、焦げたパンみたいに所々が濃い黒の馬を走らせる。
その後から、カインさんの葦毛の馬が後を追う。
そうでなければ見つけられないのだ︱︱魔術師を。
あれから一ヶ月、これを繰り返す間に、移動していても茨姫の石
238
が伝えてくる感覚を受け取れるようになっていた。
けれど毎回、察知したように魔術師だと思われる相手は移動して
逃げられてしまっていた。
しかも魔術師の近くには、大抵魔獣がいる。戦闘能力ゼロの私と
カインさんの二人組だけでは、とても近づけないのだ。
カインさん曰く﹃魔術師は魔獣を操っているのではないでしょう
か﹄とのことだ。
その予想は当たったようで、頻発しだした魔獣による町の襲撃と、
魔術師の居場所は必ずぶつかる。
カインさんは、それを辺境伯夫妻に報告した。その魔術師を倒せ
ば魔獣の被害も収まるだろうと。おかげでカインさんが補助につき、
私が魔術師を探すことを許可してもらえた。
とはいえ、私が魔術師の居場所がわかるなどと、現時点で広く話
せるものではない。
期待させすぎて失敗した場合、そして魔術師くずれと誤解されて
私が迫害されるのを防ぐため、辺境伯夫人などはとても心配して話
を伏せ、危険を回避するために二人だけで魔術師を探すことを了承
してくれたのだ。
アランは⋮⋮今はまだ、黙ってくれている。
彼もいろいろと考えているのだろう。時折、物問いたげな視線を
感じるものの、何かを言ってくることはない。彼の視線から敵意と
かは感じないけれど、会話もほとんどなくなっていた。
けれど私が身の証を立てるには、魔術師になるのが最速の道だっ
た。それまでは、どんなに説明したってアランを納得させられる材
料を提示できないので、何も言えない。
根拠がないからだ。
また根拠は待っていればやってくるが、それでは全てが遅すぎる。
239
だから待っていてと願いながら、私は魔術師との接触を急いだ。
﹁⋮⋮近いです!﹂
報告すると、警戒のためにカインさんが馬を下りて近づくよう指
示してきた。
不意打ちするために、馬にくくりつけていた道具を持ってゆっく
りと近づいていく。カインさんは毛糸の束を。私は水筒を二つだ。
人数は二人きり。戦闘ではお荷物に近い私がいるので、魔術師を
捕まえる方法は相談して決めていたのだ。
20メートル先に行ったところで、林の倒木に座る一人の老人の
後ろ姿を見つけた。
どこかの世捨て人かと思うような砂色の足首まである貫頭衣を身
につけた上から、闇に紛れることを考えてか、黒っぽいマントとフ
ードを羽織っている。杖は側に立てかけてあるが、まっすぐな枝を
切り出した、しっかりとT字の持ち手がある歩行用だと分かる杖だ。
老人の視線の向こうは木立が開けていて、暴れる空クラゲと宙を
舞う火矢が確認できた。
私は心の中でガッツポーズをする。
この老人は、一ヶ月探し続けた魔術師に間違いなかった。感覚を
頼りに追いかけて、魔獣に襲いかかられて逃げながらも、三度ほど
遭遇している。
今老人の側に魔獣は何もいない。遠く隠れた場所にいることと、
アラン達が魔獣に集中していることで、安全だと思っているのだろ
う。
もう一つ有利な点は、魔獣を操っているせいなのか、こちらにま
だ気付かないでいてくれていることだ。
私はカインさんとうなずきあう。
240
そして数秒後、カインさんが投網を投げた。
﹁ぬお!?﹂
驚く魔術師だが、川魚用とはいえ身体を覆うほどの大きさの網に
やすやすとかかる。しかしそれだけではだめだ。魔術を使って網を
破ろうとする老人に、近づいた私は大きめに作った水筒の水をばら
まいた。
﹁冷たっ﹂
老人が悲鳴をあげるが、かまいはしない。
仕上げに私は、もう一つの水筒のなかから掴みだしたものを、老
人に投げつけた。
木漏れ日を受けて、きらきらと輝く葉。その下にくっついている
球根みたいな身体と顔。根っこを嬉しそうにばたばた動かすのは、
雷草だ。
暗い場所に閉じ込められていた雷草は、陽の光に喜んでパチパチ
と放電しつつ落下する。
そして着弾。
﹁ぎゃあああっ!﹂
目には見えないものの、老人の身体に水を伝って電気が走ったよ
うだ。
悲鳴をあげた後は、ぐったりとそのばに倒れ込む。 魔法を使えない私が、唯一思いつける攻撃法だ。しかも一匹分な
らば死ぬまい、むしろほどよく老人を身動きできなくしてくれるで
あろうと思ったのだが。
﹁⋮⋮死んだわけじゃ、ないよね?﹂
私が問いかけると、カインさんもちょっと不安そうだった。
241
とりあえず一緒に感電して動かなくなった雷草を、適当な枝を拾
って遠くへ放り出し、安全を確認した上で、網を使って老人を拘束
した。
その間、老人が呻いていたので生きてはいるようだ。
ようやく身動きをとれなくしたところで、カインさんに老人に剣
を突きつけてもらい、ゆさぶって起こすことにする。
﹁起きてくださーい。おはようございまーす魔術師さん?﹂
どう呼びかけていいのかわからなかったのでそんな言葉になって
しまったが、老人は無事に目を覚まし、目をかっぴらいた。
﹁何じゃ貴様等!﹂
﹁あなたを捕獲した者です﹂
真正直に言えば、カインさんが﹁そういう言い方は⋮⋮どうなん
ですかね﹂と呟いていた。
一方の老人は、私の顔に見覚えがあったようだ。
﹁ふん、この間もわしの魔獣にちょっかいかけておった奴らだな?
覚えておるぞ、あれは三日前のことじゃった。ヒヒッ﹂
枯れ枝みたいな魔術師は、奇妙な笑い声を漏らした。
﹁この老いぼれを捕まえて、魔獣をけしかけるのを止めさせようっ
ていうのかいな? ヒヒヒ﹂
﹁いいえ。魔術師になる方法が知りたいんです。答えてくれません
か?﹂
私が言うと、予想外の言葉だったようで、老魔術師は一瞬だけ目
をみはった。
﹁ほう、お前さんは若い身空で砂になって死にたいのかね? ヒヒ
242
ッ﹂
え、魔術師になろうとしただけで、砂になって死ぬの!?
私の動揺を察したように、魔術師がにやりと小悪党みたいな顔で
笑う。
﹁魔術師になれる者などそういないのだよ。たとえ師が導こうとも、
半数は砂になるのじゃ。全ては契約の石に己が耐えられるか耐えら
れないかでな⋮⋮イッヒッヒ。まだ先の人生が長いだろう嬢ちゃん
にはできまいよ。だから魔術師になろうなんて者は、もうそれ以外
に生きていく道がない人間ばかりじゃ。ウヒヒ﹂
243
魔術師になる方法
﹁石に耐えられない?﹂
この老人、気味悪い笑い方をするしバカにした言い方もするけど、
質問には意外と素直に答えてくれる。
⋮⋮良い人なんだろうか。捕まったから投げやりになってるのか
な?
よくわからないけど、しゃべってくれるのは有り難い。
﹁契約の石は万物の創生に繋がる力が凝縮されておる。それを自分
の身体に取り込むことで、魔術師は森羅万象を操るのだ、ヒヒッ﹂
﹁へー﹂
なるほど、この世界の魔術ってそういう原理になっているのか。
ゲームでは普通に技として魔法の名前が書いてあって、それを押し
たら、はい魔法発動ーって感じだったのだ。
ただ使える魔法は最初からほぼ決まっていて、使う回数で術のレ
ベルが上がって強くなるとか、キャラのレベルが上がって威力が増
すとかいう感じだったのだ。
﹁そのように巨大な力の固まり⋮⋮言うならば、太陽を飲み込むよ
うなものだ。それに耐えられる者だけが魔術師になる。それでも単
体でそれを成せる者など皆無フヒヒッ。だから魔術師は、師と一つ
の石を分け合うのじゃ、イヒッイヒッ⋮⋮げほげほっ﹂
変な笑い方をしすぎたせいか、咳き込んだ魔術師を見下ろしなが
ら、私は思考する。
﹁分け合うって、割るの?﹂
244
﹁さよう。片方の小さな石を師が、大きなカケラを弟子が取り込む。
同じ石であるからして、弟子が飲み込まれないよう干渉することが
できるのだヒヒヒ。師の方は既にそうやって大きなカケラを取り込
んでおるからの。今更小さなカケラの力でどうこうされぬのさフッ
ヒヒ﹂
ようするに、既に体の中で炎を燃やせるようになってる師匠は、
今更燃料を投下されたって平気。だけど初めて火を飲みこむ弟子は、
そのままだとやけどしかねない。だから既に耐性がある師匠が片割
れを飲みこむことによって、弟子側の炎をやけどしないように抑え
ることができる、ということだろうか。
魔術師が師弟関係を作る真相を知って、私は納得した。
なるほど。弟子が死なないように、師とビスケットのように石を
分け合わなくてはならないのだ。しかも単独で魔術師になれる可能
性はほとんどない。
となれば、方法は一つしかない。
﹁⋮⋮では、あなたに師になってもらうよう頼むこともできるんで
すか?﹂
﹁フヒ?﹂
ストレートに頼むのが意外だったようだ。倒れていた老魔術師が
目をまたたく。
﹁キアラさん! いくらなんでもこの男は危険です!﹂
カインさんにも止められる。でも時間がないのだ。できれば今す
ぐ魔術師になりたいのなら、この老人に頼むしかないではないか。
しかし当の老魔術師も、ニヤニヤしながら私を止めた。
﹁そうだの。そこの騎士の言う通りじゃな。無駄に死にたくないの
なら辞めておくことじゃ。師弟関係となれば縛りが発生⋮⋮いや、
245
縛ることができるからの。イヒヒ﹂
﹁縛る?﹂
﹁弟子の魔術に干渉できるからこそ弟子は生き残る確率を高められ
る。だがそれはひっくり返せば、弟子の中に取り込んだ石の力を暴
走させることもできるということだ。生死を握られる覚悟があるの
かね? イヒヒ﹂
﹁生死!?﹂
魔術師になれたとしても、生殺与奪まで握られてしまうとは。
予想外だったけれども、ある意味納得できることではあった。ゲ
ームのキアラも、魔術師になったのなら師がいたはずだ。負け戦に
なっても後に引けず、逃げられなかったのは、師にあたる人間に強
要されたのではないだろうか。
逃げても殺される。逃げなくても殺される。どちらかを選択する
ことに苦悩した末に、最後の戦場で逃げないことを選んだのだとし
たら。
﹁そうか、生死⋮⋮﹂
﹁ま、他人に人生や目的までねじまげられたくないのなら、魔術師
になるのは辞めるこったな⋮⋮イッヒヒヒ﹂
﹁それは、使う魔術も﹂
﹁制限されるであろうなフヒヒ。過去には師を殺すため建物の破壊
を目論んだが、あっさりと妨害されたこともあったとかいうなイッ
ヒヒヒ。愚かなことよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
それじゃ、魔術師になっても師を選ばなければどうしようもない。
けれど私が知っている魔術師は、他には茨姫しかない。けれど魔
術師になる方法を尋ねて、曖昧な言葉で濁した彼女が、弟子にして
くれる可能性は低いだろう。
246
いや、それよりも茨姫には気になることがある。話せないことが
あるようだったとレジーが言ってたのだ。なら、彼女にも師がいて、
そのせいで何らかの束縛がかかってるとしたら?
弟子など取ってくれない。もしくは弟子にできないだろう。
他に方法はないか。悩む私に、カインさんが怖ろしい提案をして
きた。
﹁魔術師になった後で、私がこの老人を殺すというのは?﹂
﹁いやカインさん。殺されるとわかってたら魔術師にさせてくれな
いでしょ﹂
効率だけ考えた血も涙もない発言に、私も思わずカインさんを止
めた。
﹁魔術師をあなどるでない。そうなれば命をかけてお前達をみんな
消滅させてくれるわ﹂
宣言した一瞬だけ、老魔術師の目が鋭くなる。多分本気だ。
とにかく、詰んだ。それだけはわかった。
扉が閉ざされたような気がして、気が抜けてしまったその時。
﹁危ない!﹂
カインさんが私を突き飛ばし、自分も転がるように老魔術師から
逃げる。
目の前を半透明の触手がよぎる。︱︱クラゲだ!
刺されたら、海のクラゲ以上にまずいことになる。慌てて私も老
魔術師から遠ざかった。
その間に、クラゲの他にも人が現れていた。
口元を布で覆った、旅人風の男が数人。彼らは老魔術師を担ぎ上
247
げると、カインさんを牽制しながら逃げて行く。
魔術師は稀少。だから助け出したのだろう。
担がれた老魔術師は男の背に揺られながら、じっと私を見つめて
いた。観察するような目で。
カインさんはすぐさま方針を変更した。追いかけるそぶりを見せ、
旅人風の男の一人と切り結ぶ。そのまま魔術師の方には目もくれず、
目の前の男に猛攻をしかけて足止めし、そのまま切り伏せた。
右腕から血が舞い、男の持っていた剣が落ちる。
左手も血とともにだらりと垂れ下がり、剣の腹で頭を横殴りされ
た男はその場に昏倒した。
怖いけれど、鮮やかな手並みだった。
﹁キアラさん、これで敵の動向がいくらかわかるのではないですか
?﹂
元々そのつもりで、敵を一人捕獲したようだ。さすが年の功とい
うか、判断が素晴らしい。
﹁ありがとうございます。たぶんこれで、また魔術師を捕獲するの
も楽になります⋮⋮よね﹂
けれど捕獲したところで、私を魔術師にしてくれるかわからない。
その気持ちが、言葉の歯切れを悪くさせた。
私とカインさんは、捕まえた男を縛り上げて連れて行くことにし
た。魔術師になるのが難しいなら、なんとしても情報を吐かせて、
別な対策をとる必要がある。
そうして城に帰った私は、騒然とする城内の様子に驚いた。
皆が駆け回り、特に召し使いのおばさん達が居館や兵舎へひっき
248
りなしに出入りしているし、明らかに急な増員を呼びかけられたの
か、私服姿の上からエプロンをした女性達もいる。
驚く私達に、通りすがりの衛兵が教えてくれた。
﹁あ、侍女さんに騎士様! 今日か明日には王子様が到着されるそ
うですよ!﹂
﹁え?﹂
﹁なんでもサレハルドと急遽交渉を行うことになったとか。それで、
伯爵様が騎士様と侍女さんを探しておりましたよ﹂
満面の笑みで教えてくれた衛兵が、次の瞬間にはぎょっとした顔
になる。
﹁侍女さん!?﹂
﹁キアラさん!﹂
カインさんが捕虜にした男を放り出して受け止めてくれなかった
ら、私はその場に倒れていたかもしれない。
レジーを救う手段を手に入れる前に、彼が来てしまうのだから。
249
そして運命の鐘は鳴る
その日の夜のうちに、レジーが到着した。
出迎えたのはヴェイン辺境伯と、軽傷だったおかげで歩けるほど
に回復していたベアトリス夫人、アランとその護衛騎士、侍女の私
達だ。
宵闇の中、馬を走らせてきたらしいレジーは、以前よりも物々し
く二十騎以上の騎士達に囲まれていた。
騎士達が馬から下り、レジーが最後に地上に足をつける。
すぐさま控えていた兵士が馬を厩舎へ引いていくと、レジー自ら
先頭に立ってヴェイン辺境伯に話しかけた。
﹁ご無沙汰しています、辺境伯。早馬で連絡を送りましたが、慌た
だしく訪問することをご容赦願いたい﹂
レジーは、ますます青年らしい出で立ちになっていた。改めて見
れば、背丈も肩幅も、周りの騎士達と遜色ないほどになっている。
夜駆けのためだろう、目立たないよう黒のマントとフードを被っ
ていたが、こぼれる銀の髪がたいまつの炎に照らされて赤金に輝い
ていた。
その姿に、キアラは泣くまいと唇を噛みしめる。
レジーが来た理由はわかっている。
サレハルドでも魔獣が頻繁に出没するようになり、それを扇動し
ていたらしい人間を捕らえてみれば、ファルジアの者だったという
事件があったのだ。
すぐに対処するようにというサレハルドからの要請と、エヴラー
ルの事件とを鑑みて、国王は両国で事件の解決にあたることを提案
250
し、サレハルドとの交渉の席を設けることになった。
その国王の代理人として、レジーが来たのだ。
時期と詳細以外はほぼ同じだった。
サレハルドとの交渉。
レジーがやってくること。
ならば既にルアインが兵を伏せていてもおかしくはないのに、エ
ヴラール辺境伯家では何もつかめていない。
⋮⋮レジーがここに来てから、どれくらいでルアインが攻撃を始
めるんだろう。早くさっき捕まえた男から情報を聞き出したい。
焦れる気持ちを抑えながら立つ私に、レジーの護衛隊長として再
びついてきたグロウルさんが辺境伯に伝えている。
滞在期間は二週間。
滞在するのはレジーとその近衛騎士が25人。
サレハルドとの交渉は、エヴラール辺境伯の城をお借りしたい⋮
⋮。
え、ここでやるの!?
驚いていると、レジーと目が合った。びっくりした? と聞きた
そうな視線に、私はうなずいてしまいそうになる。
なんで、どうして。聞きたいけど、今は一侍女の私が口を挟むわ
けにはいかない。
そして私の不安は払拭されない。
サレハルドの一団を迎え入れるため、門を開いた瞬間を狙って襲
撃してきたら?
交渉役だと思ったら、実はルアインの潜入部隊がそれに扮してい
ただけだったとしたら?
251
ああ、早く捕まえた男が目を覚まして、白状してくれないだろう
か。何のために魔獣を扇動しているのか、それがルアインの隠れ蓑
だとしたら、ルアイン軍の居場所を教えてほしい。
カインさんに相談しようと思いながら、私はベアトリス夫人に付
き従って居館の中に戻る。
レジーを迎えての晩餐へ向かうベアトリス夫人は、私が昼日中に
戦闘をしたりしているのを考慮して、明日いっぱいまでのお休みを
くれた。
捕まえた男の証言内容によっては、そちらに専念してしばらく侍
女の仕事も休むよう言われる。
有り難くそれを受け、私はまず地下牢へと向か⋮⋮おうとしたが、
止められた。 先に来ていたカインさんが、私を制止したからだ。
﹁あまりキアラさんのような方が見るようなものではありませんよ﹂
やんわりと言われて、最初は理由がよくわからなかった。
﹁え、どうして⋮⋮﹂
﹁尋問ならお見せしてもいいとは思うんですがね、それ以上になっ
たらお見せできないものになりますから﹂
その言葉で察する。
もう捕まえた男は起きているんだ。そして今は尋問しているけど、
芳しくないのだろう。
正直、前世の感覚が残っているせいで﹃それ以上﹄を想像するの
が怖いし、やめてほしいという気持ちもある。けれどその犠牲を厭
ったあまりに、エヴラールの人々を沢山死なせてしまうわけにもい
かない。
私は聞かなかった振りをして、遠ざかることしかできない。
252
でもこうして耳を塞いでいる間に、カインさん達が私が受け入れ
られないことを肩代わりしてくれているのだ。それがとても後ろめ
たい。
﹁どうも雇い主に義理立てしている者のようで、時間がかかってい
ます。けれど弱みを握られてのことでもあるようで。酷い事になら
ないうちに、報告ができるくらいは聞き出せると思いますよ﹂
﹁そう⋮⋮ですか﹂
私はうなずいて、部屋に戻ろうとした。けれど、カインさんが不
意に私の手を掴む。
強く引き留めたわけではない。やんわりと、気になったのでふれ
た、という程度の力加減だ。
﹁あまり我慢しすぎなくてもいいんですよ﹂
何を言いたいのだろう。見上げると、カインさんが痛々しいもの
を見るようなまなざしを向けてきていた。
﹁まだあなたは成人したばかりだ。その年頃まで不幸が続いて、感
情を飲み込むことを先に覚えてしまったのかもしれない。けれど慣
れない事から遠ざかることに、負い目を感じる必要はないんですよ﹂
見透かされたのと、気遣ってもらえたことに驚いてしまう。その
せいか、素直に嬉しいと言って喜びたいのに、言葉を飲み込んでし
まった。
だからなのか、カインさんが言葉を重ねて、私の心を軽くしよう
としてくれる。
﹁女性は生死に敏感にならざるを得ない生き物です。殺すことを怖
がる人の方が、感覚としては正しいのだと思いますよ。同時に、私
達としても女性には見せたくないとも思いますしね。汚れ役をした
後は、綺麗な存在と関わりたいものなので。あなたはそうやって庇
253
われていて下さい﹂
﹁う⋮⋮﹂
今、私の顔はゆでだこにも勝るほど赤くなっているに違いない。
だって綺麗な存在だなんて言われるとは思わなかったのだ。恥ず
かしい。とてつもなくいたたまれない。
そんな素晴らしい存在じゃありませんのでと、土下座して撤回さ
せたくなる。
あああ、こんなことなら、すぐに﹁ありがとうカインさん﹂とか
言っておけばよかった! そしたら、こんな恥ずかしい台詞聞かさ
れなくて済んだのに!
ていうかこの世界の人って、さらっと格好良さそうなこと言っち
ゃうのが普通なの!? そんなわけないか? 料理人見習いのハリ
ス君だって、中学の同級生男子とそう変わりない調子だったよ!?
それともあれだ。年の功?
いや考えてみればレジーだってそうとう格好つけたこと言ってな
かったっけ? でもあの人の場合は、こう、変な色気でその場の空
気がコーティングされてるみたいで、なんかすんなり聞いちゃうん
だよ!
あまりのことに口がきけないながらも、片手で顔を覆ってしまっ
たら、どういう反応が心の中で起きたのかお見通しになってしまっ
たのだろう。カインさんがくくっと笑う。
﹁慣れていないんですね、誉め言葉に﹂
言い当てられて言葉もありません。
しかも余裕そうな態度で、手を握り直さないでくれませんか⋮⋮。
どうしよう、これがもし前世だったら、ころっと転がり落ちてる
254
よ私。翌日からカインさんの追っかけしたり、お菓子作って差し入
れとかやらかしてるんじゃないかな!?
レジーを助けなきゃとか、アランにぐうの音もでない証拠を突き
つけたいとか、死ぬかも知れないとかいう状況だから、そんな場合
じゃないと自制できてるけど。
それでもどうしたらいいのかわからなくて、しまいに呼吸の仕方
も忘れそうになる。
するとカインさんが言った。
﹁ああ、さっきよりも随分元気そうな表情に戻りましたね﹂
﹁え?﹂
﹁後悔しすぎるのも、落ち込みすぎるのも良くありませんよ。判断
を狂わせます。さ、今はとにかく休んで下さい、明日のためにね﹂
﹁あ、はい⋮⋮﹂
にっこりと微笑んで手を離され、私はうなずいてきびすを返して
歩き出した。
えっと、これはもしや、思い詰めていた私の緊張を取り去るため
だった?
そう思うと、恥ずかしさがぶり返す。
きっとカインさんだってそれなりにモテる人生を歩いてきただろ
うから、私みたいにのぼせる人間を何人も見て来ただろう。いつも
のことだと思って、気に留めないでいてくれると有り難い⋮⋮じゃ
ないと明日からやりずらいし。
そんなことを考えながら歩いていたからだろう。
いつも通り部屋に戻って中に入って、ふーっとため息をついたと
ころで、ノックの音に素直に扉を開けたのだ。
255
﹁はい、誰です⋮⋮うわっ!﹂
﹁開けながら確認したら、意味ないんじゃないかな、キアラ﹂
そこに立っていたのは、レジーだ。
﹁私の顔を見て驚くとか、ちょっとひどいよね?﹂
﹁あ、いやその全然予想してなかったもんだから、驚いて⋮⋮﹂
と答えている間に、またしても人の部屋に入ってきっちり扉締め
ちゃうんだけど。なんか扉の外に、またグロウルさんが待機してる
の見えたよ!?
﹁レジー。あなたも私も成人したのに、これまずくないの?﹂
これ、と言いながら扉を指さすが、レジーは表情をちらとも変え
ない。
﹁問題ないよ。キアラは問題があるの?﹂
﹁いやその、だってそっちは王子なのにほら、変な噂が立ったら⋮
⋮﹂
まずいでしょう? いずれ王様になる人がさ、女使用人の部屋に
入り浸ってるとか言われたら、遊び人だと思われてイメージが傷つ
くんじゃないの?
﹁噂が立つくらい別に。むしろ君の評判を気にするべきかな? 私
と噂をたてられるのは、迷惑?﹂
嫌だとは言えない⋮⋮。
なにせ自慢して回りたいほどの、カッコイイ友人だ。噂だけでも
たてたい人は沢山いるだろうし、私だって嫌じゃない。
でも逆に、レジーのスペックが高すぎて、今現状で何の力も持っ
てない私に本気になったりはしないだろうと思うんだけど。
むしろ、気が無いからこそホイホイと女子の部屋に入って来るん
256
じゃないの?
そんなことを悩む私に、レジーがさらにささやく。
﹁それより、今までどこへ行っていたの?﹂
唐突に方向性の違う質問をされて、私は思考がついていけなくな
りそうだった。
すぐに答えが出てこないことに、レジーは変な疑惑を抱いたのだ
ろう。
﹁私には言えないような、悪いことをしていたの?﹂
﹁い、言え⋮⋮﹂
ないや。
とてもじゃないが話せないよ! うっかり﹁言えるもん﹂とか口
に出しそうになったけど、言わなくてよかった!
私ってはレジーの約束破って魔術師に襲い掛かったり、その仲間
をひっつかまえたり︵主に実行してくれたのはカインさんだけども︶
その尋問結果を待ってもう一度魔術師を捕獲に突撃しようと思って
いるのに。
でも何も言っていないのに、レジーの笑みがだんだんと怖くなっ
てる気が⋮⋮するんだけども?
﹁悪い子は、お仕置きするって言ったよね?﹂
レジー、その台詞ってナマハゲみたいだよ!?
心の中では茶化すようなことを考えながらも、私の頭の中は完全
に修羅場だった。
え、何? 何かもうバレてて、だから悪い子呼ばわりしてるの?
と。
緊張で背中に汗がにじむような気がする。
レジーが一歩私に近づいた。一歩遠ざかりそうになったが、
257
﹁後ろ暗いことがないのに、どうして逃げるの?﹂
言われて立ち止まると、侍女の部屋なのだからと置いてくれてい
たソファに、私は手を引かれて座らされた。
レジーのすぐ隣だ。しかも掴まれた手はそのままである。完全に
尋問される態勢だ。内心で震えあがりながら、うっかり白状しない
ように緊張していたのだが、
﹁まずは、伯母上を助けたのはいいけれど、君は囮になったあげく
に、スカートを捲り上げたらしいね?﹂
﹁捲ってなんていなくて! 走りにくいだろうからちょっと足元を
すっきり⋮⋮うぁぁ﹂
反論した後で、頭をかかえそうになった。いや、抱えようとした
けど、それより先にレジーに両手とも掴まれてしまった。しかもレ
ジーは身を乗り出してくる。
﹁まぁ、それは君にとっての危機も回避したということで、少しは
我慢しようと思う﹂
﹁お、怒られない?﹂
﹁保留ということにするよ⋮⋮代わりにアランが君の分まで被って
もらうつもりだけど﹂
近づいたその顔に、私はソファーにのけぞるように遠ざかろうと
した。
こんな至近距離でも変に見えない顔って、本当にすごいな! と
か余計なことを考えてしまうのは、恐怖から逃れたいからかもしれ
ない。
ていうか、アランが被るって何? よくわからないけども、そも
そも私、どうしてこんなにレジーに怒られてるの?
258
﹁あの、でもレジーは別にお父さんでもないのに、どうしてそんな
⋮⋮ひっ﹂
レジーが口を耳元に近づけた。
﹁君を拾うようアランや辺境伯に勧めてそうさせたのは私だよ。君
のことに責任を持つのは当然だよね? もちろん目に余る行動があ
れば、直すように言うことも私の役目だと思うんだ。君の最終的な
保護者は私なんだからね﹂
﹁うぅ⋮⋮﹂
納得するしかない。確かに王子のかわいそうな子を助けたいとい
う望みを叶えるため、辺境伯は私を雇ったのだ。なら、最初に助け
たいと望んで、辺境伯家に負担を強いたレジーにも責任と言うのは
あるだろう。
﹁で? さっきはどこに行っていたのかな? というか、最近頻繁
に城の外にウェントワースと出かけていると聞いたよ?﹂
こ、これは⋮⋮確実にレジーは知っている、と私は理解した。
誰かに私の行動について聞き、約束を破ったと確信したからこそ、
問い詰めに来たのではないか。そうとしか思えない。
﹁もちろん、命じられたことだったら君のせいではないから、確認
はしたんだよ? そうしたら辺境伯も、事情はキアラに聞いた方が
いいというのでね﹂
ヴェイン様⋮⋮梯子外したんですかい。
そんなことされたら、もう私は落下するしかないじゃないですか。
﹁もう⋮⋮知ってるんでしょう?﹂
私が言うと、肌のきめまで見えそうなほど近くにあったレジーの
表情が曇る。
259
﹁⋮⋮私との約束を破ったこと、だね。焦らなくてもよかったはず
だよキアラ。こちらも最大限状況を変更させようとしてきたんだ﹂
﹁サレハルドとの会談場所の変更のこと?﹂
レジーはうなずく。
﹁サレハルドの交渉役にも王族が来る。だからあちらもそこそこの
兵力を割いているはずだ。あと、隣の二つの領地を治める貴族に、
領地の境界に軍を待機させてくれるように依頼した。エヴラールで
被害を発生させている魔獣が、そちらにも流れていくかもしれない、
という名目でね。万が一の増援として呼ぶ話もしているし、エヴラ
ール領内までゆっくりと進軍してくるはずだ。魔獣退治の名目だか
ら、それほど大規模ではないけれど﹂
﹁増援? 本当に!?﹂
増援がくるのなら。もしかしたら攻城戦でも城の中に踏み込まれ
ずに済むかもしれない。
思わずほっと笑みが浮かんでしまう私に、レジーが微笑んでくれ
る。
﹁ようやく笑ったね、キアラ﹂
そう言って手の拘束を解いて、私の頬をそっと撫でた。
まるで寄り添う恋人みたいな仕草に、心臓の鼓動が強く跳ねる。
﹁けど、私が努力をしても、君には不足だったみたいだね。どうし
たら君は満足してくれるんだろう﹂
﹁そうじゃないよレジー。私だってレジーに死んでほしくないから。
だからできることを全てやって⋮⋮﹂
なんとかわかって欲しくて説明しようとしたが、途中で言葉は途
切れてしまう。
頭を抱えるようにして、レジーに抱きしめられたからだ。
260
肩口に埋まるようにして口が塞がれてしまった私は、レジーが耳
上をかすめるようにして唇を寄せたことに、背筋がふるえそうにな
った。
﹁いくら茨姫が何も言わないからといって、無事でいられる保証も
ない。絶対はないんだ。もし君が⋮⋮それで砂になったら。他の人
がもし砂になったとしても、本人が決断したのだからと私は諦める
だろう。けど、君が相手だとどうしていいのかわからないんだよ。
だから約束させて止めたのに、どんな約束なら君を拘束できる? もう、どこかの部屋の中に軟禁するしかない? それでも君は飛び
出すだろう。本当は鎖でつないでしまいたいけど、君に嫌われるの
は嫌なんだ﹂
私はその言葉にこもった熱に、圧倒されていた。
鎖でつないで監禁したいほど、私を閉じ込めて死へ向かわせたく
ないといわれているのに。怖いことを言われているはずなのに、拒
否できる気がしない。ただ熱に流されてしまいそうになる。
死なせたくない。そう思うのは私だけ、なんて。
言われて、こんなにも辛い気持ちになるとは思わなかった。胸が
苦しくて、呼吸困難になりそうだ。これがレジーのお仕置きだとい
うのなら、なんて辛いのだろう。
空気を求めて上を向けば、レジーの青い瞳と視線が合う。
何かを渇望するようなまなざしに、私も今同じような目をしてい
るのだろうと思えた。
だから多分、二人とも同じことを考えている、と感じた。相手を
死なせたくない。そのためならどんな無茶もするだろうと。
同じ望みなのに、噛み合わない。
261
それをわかっていてお互いに無視している。
だからせめて、気持ちの強さだけでも相手に伝えたくなって、そ
んな想いが少しずつお互いの距離を近づけそうになって︱︱。
その時、扉が強くノックされた。
同時に、窓を通して部屋の中にまで響いてくるのは、金槌で叩く
警戒を促す半鐘の音だ。
我に返り、急いでレジーから離れた私は、扉をすぐさま開けた。
そこにいたのは、厳しい表情のグロウルさんだった。
彼は私と、立ち上がったレジーに告げた。
私とカインさんで捕らえた男が白状したらしい。
ルアインの軍が、既に国境の近くまで迫っていることを。
262
自分がここにいる意味
ヴェイン辺境伯は、すぐに偵察を向かわせたようだ。
その偵察が情報を持ち帰り、男の自白が正しいのか確認できるま
での間、現状の報告と対策を話し合いたいとレジーに連絡してきた
らしい。
物言いたげなレジーを見送った後、私の所にも召使いのおばさん
が連絡に来てくれる。
﹁あんたちょっと、軍議においでってさー。奥様が呼んでたよ? それにしても、こんな細っこいのに最近は魔獣の関係で城の外まで
行ったり、大丈夫なのかい?﹂
よく食事時に﹁もっと食べんさい﹂と、ご飯を大盛りにしようす
るおばさんだ。ちょうどベアトリス夫人の所に出入りしていて、用
を頼まれたのだろう。
心配されて、有り難いやら申し訳ないやら。
⋮⋮あと、現実に戻った気分になった。
うん、なんかほんの数秒前まで、どこか現実じゃないような感覚
でふわふわとしていた。だから、いつもなら考えないような発想が
浮かんで、レジーのことを抱きしめてあげたいとか、もっと近づき
たいとか思ってしまったのかもしれない⋮⋮。
さっきまでのことを振り返ると、とたんに恥ずかしくなる。
何浸ってたのよ私!
しかもあのままじゃうっかりき、き、き⋮⋮すとかしちゃったか
もしれない?
263
いやいやありえない。レジーは王子なんだよ?
お互いにしか理解できないことがあるから、そういう意味で特別
だと思ってくれてるだけで、心配だけどつい、どうしたらいいのか
わからなくなったから、あんな行動に出たのに違いない。
私も少しの間、どう言ったら分かってくれるんだろうって混乱し
たから。
本当なら私は、大丈夫だよ。心配しなくても私だって死にたくな
いから逃げ回ってるんだし、そこまで危機的な無茶はしないよ。そ
のためにカインさんに手伝ってもらったんだよとか言えば良かった
んだ。
だけど上手く言えなくて。
妙な雰囲気に、流されそうになっただけで⋮⋮お互いに。
でもおばさんが心配してくれたおかげで、ふっと気付いた。私が
守りたい物は、今やレジーだけではない。辺境伯も、父を失うかも
しれないアランのことも、私と仲良くしてくれるおばさんたちや調
理場の人達も、みんな無事でいてほしいんだ。
とにかく正気に戻してくれてありがとうおばさん、と思いながら、
私は軍議を行うという主塔二階の会議場へ走った。
そこに集まっていたのは、辺境伯夫妻とアランとカインさん。そ
して辺境伯領の騎兵隊や守備連隊の隊長、そして一足先に来ていた
レジーやグロウルさんだ。
私は侍女としてヴェイン辺境伯の隣に座っているベアトリス夫人
の後ろに立つ。マイヤさんとクラーラさんもいたので、その隣に収
まって、ちょっとほっとする。
侍女が参加するのは私だけだったら、肩身が狭すぎるからね。
264
けれどヴェイン辺境伯による話が始まってすぐ、私は頭からいろ
いろなものがすっとぶほど驚いた。
﹁北から!?﹂
それは予想外の侵攻ルートだった。
ゲームでは普通に東側の国境に築かれた壁と門を破って進軍して
くるのだ。不意打ちだったため、守備の兵が少なかったこと、商人
の出入りのためすぐに開けるようになっていたことが原因だ。
攻め込まれた辺境伯達は城にこもるのが精いっぱいで、戦ってい
る間に、情報を操作して兵を多数潜ませていたルアインは王都へ進
軍。
更にエヴラール領内に潜んでいた兵もいて不意打ちされたりして、
散々な結果になるのだ。
けれど捕まえた男を吐かせたら、ルアインは北から進軍してくる
つもりだという。
彼らが守っていた老魔術師達は、南側にエヴラール辺境伯側の目
を引きつけておく役目があったらしい。
でも北側から侵入するなら、これから交渉を行おうとしていたサ
レハルドを通らねばならないはずだけど⋮⋮。
﹁サレハルドは裏切ったのでしょうか﹂
長卓の上座に座ったレジーの言葉に、すぐ右手斜めに座ったヴェ
イン辺境伯が首を横に振る。
﹁そこまでは捕えた男も知らされていないようです。北から軍が来
ること。それに呼応するように城を攻めることを命じられていた、
とだけのようですね﹂
﹁では、魔獣や魔術師まで同時に襲撃してくる可能性があるのです
265
ね?﹂
﹁そうだ﹂
アランの問いに、辺境伯がうなずく。
思わず私は唇を噛む。あの魔術師を倒しておけば、そちらの部隊
に気を払う必要がなくなっていただろうに。
﹁軍の規模はどうなんでしょう﹂
﹁それも知らされていないようだ。敵も陽動に動いた者が捕まえら
れることを、想定していたのだろう。ただ、サレハルドを通過して
の進軍だ。ルアインからの国境を直接通るより、大軍を動かしても
こちらは察知しにくい。それなりの規模だろうということは考えら
れる﹂
ベアトリス夫人の問いにヴェイン辺境伯が答えたものの、情報の
足りなさをその場にいた皆が実感しただけだった。
﹁まずはそれが正確な情報だったとしての、対応を話そう﹂
レジーが話を振ることで、ヴェイン辺境伯は現状で立てられる作
戦について話す。
まず敵は二方向から来るのが確実として、国境も北から進入する
ルアイン軍への対応を遅らせるため、ルアインの別働隊がなんらか
の行動を起こすだろう。
そのため、少なくとも三箇所での戦闘が行われる。
私は唸りそうになる。
ゲームの場合、城だけの戦闘になっていたのは、城へと攻め込ま
れるまで対応がとれなかったからだ。
そう考えると、攻城戦よりも前に対処できる状況ではある。
けれど国境の防備の要としてある程度の兵力を常に保っていると
266
はいえ、国を挙げての兵力に勝てるものなのか。
というか、ゲームというのは騎士や兵士や傭兵、重歩兵に弓兵と
いった、キャラが地図上に配置され、それを倒していく形になる。
そのキャラ一つ一つが、おそらく小隊単位か中隊単位なのだろう
けれど⋮⋮兵力の想像がつかない。部隊ごとの位置を、駒で示して
いると考えればいいのか?
しかも攻城戦は、映像で流されるので兵力さも﹁圧倒的多数﹂と
かそんな表現をされているので、数字もわからないのだ。
プレイヤーの手慣らしに戦闘が行われるわけでもないので、兵の
配置も不明。
こうなると、何度か戦を経験している大人の采配に期待するしか
ない。
ヴェイン辺境伯も、敵が大多数で侵入してくることを想定してい
るので、激しく読み誤る、ということはないと思う。それはもう信
じるしかない。
﹁国境の守備はある程度残さねばならないだろう。茨と峡谷と山の
おかげで、国境の防壁以外からはこちらに進入できない。だから3
00を残す。あとの300を招集した軍に加える﹂
明日の朝までに城に集められるのが1000人。
これは城の内と外に待機させている数だ。魔獣の討伐他で警戒を
していたため、通常よりも多い人数だという。それ他分家からの派
兵を合わせたら最終的に3300人にはなるとのこと。
紛争時には倍以上の人数を抱えていたようだが、お互いの王族が
婚姻して和平を結んだ以上、戦時と同じ数を運用するのは信用問題
に発展するため、数を減らさざるをえなかったのだ。
267
ここには民間からの徴兵は含んでいないらしい。そちらは招集す
るのに時間がかかるのだ。
集められたら1万にはなるけど、急場は約三千人でしのぐしかな
い。
今すぐ伝令を走らせて、2日あれば近隣から招集した兵が集まっ
て6000。
3日あれば、なんとか1万になる。
辺境で紛争に慣れた土地だからこそ、この数が可能らしい。
しかし自白によれば、ルアインの軍はもう侵攻を始めてもおかし
くはない頃合いだという。
︱︱レジーの到着に合わせているからだ。
﹁ルアインは王位継承者であるレジナルド殿下を殺害するつもりだ。
その後王都へ駆け上って王を殺せば、王権の代理人が王妃となる。
王妃がルアインの要求を飲めば併合は完了だ。そのためにレジナル
ド殿下を、サレハルドとの国境近くまで出向かせるタイミングを狙
って実行しているのだろう﹂
ルアインは交渉が必要になるよう、サレハルドとエヴラール領に
問題を起こし、たのだ。そして王妃派の貴族もいる現状で、ルアイ
ンの側にレジーの動きを隠すのは難しい。公務であればなおさらだ。
﹁私は偵察が戻り次第、軍を率いて進路上に布陣する。出立は明日
か明後日の朝になるだろう﹂
﹁自らがですか?﹂
ベアトリス夫人が表情をやや曇らせた。
﹁私どもがついておりますよ。必ず辺境伯には城にお戻り頂きます
ので﹂
268
騎兵隊長がそう請負う。ベアトリス夫人はうなずくしかない、と
いう表情になった。
﹁私も足は完治しております。代わりにと言いたいのですが、大軍
を指揮するのは未熟な身ですもの。足を引っ張る結果になっては申
し訳が立ちません。だから城の守備と殿下の警護は私にお任せ下さ
いませ﹂
そう、ベアトリス夫人の足は完治したのだ。戦に彼女が参加でき
ることも、ゲームの時よりずっと有利な点だろう。
更に言うと、辺境伯が先にルアインの気勢を制すことができれば、
少しは防衛戦も有利になるだろう。そう言ったのは辺境伯自身だ。
﹁ルアインは全ての軍をエヴラール城にだけ傾けるわけにはいかな
いだろう。日数をかけてこちらを攻略しようとしたなら、他の領地
でも防備を固められて攻めにくくなる。攻略しきれなければ、数隊
を残して先を急ぐか、奇策を講じるだろう﹂
﹁奇策ですか?﹂
﹁魔術師がいるのだろう? 魔獣を扇動して城に攻撃をしかけてく
るだけではなく、魔術師自身も攻撃をするだろう﹂
問いに答えを得たアランは、渋い表情をして言う。
﹁では、そちらの対処へは私が行きます﹂
アランの回答に、辺境伯も目を見張る。
﹁お前はベアトリスと一緒に城の防備と、万が一には殿下を脱出さ
せる役目を頼むつもりだったが⋮⋮﹂
﹁この一ヶ月、私も魔獣の討伐に参加しております。魔術師を探し
出せる者と一緒に、城へ攻撃を加える前に抑えに出ます。ただ魔獣
を連れていることが予想されるので、弓兵と歩兵をいくらかお貸し
頂きたいのですが﹂
269
ヴェイン辺境伯は、しばらく目を閉じてアランの申し出を吟味し
ているようだった。
目を開いた後は、もう引き留めることもなくなっていた。
﹁ではお前に任せる。兵の数の要望はあるのか?﹂
﹁130もあれば充分かと。魔獣そのものは、毎回30匹程度の集
団で襲撃を繰り返していました。それに対処するためと、魔術師と
敵兵に対処するためにはその前後の数が必要かと﹂
この一ヶ月の討伐で、アランは魔獣の出現数の限界をそれと見極
めたのだろう。
さすがは主人公。用兵のために必要な観察眼とかが備わっている
のだろう。
そして﹃魔術師を探し出せる者﹄というところで、アランはこち
らに視線を向けてきていた。
アランは一緒に来いと言っているのだ。私が魔術師の居場所を見
つけられるから。
いつもはアラン達の討伐に、キアラが乗じて魔術師を探すという
形だった。連携をしていたわけではなく、ただカインさんが許可を
とってくれたから同時に行動ができていただけで。
そのアランが、私を自分の作戦行動の中に入れようとしているの
だ。
受け入れてくれたという気持ちと同時に、この状況になるまでア
ランに信じてもらえなかった自分が嫌になる。
それでもアランが手を差し伸べてくれたから、
﹁キアラをお借りしたい、母上。彼女のことはまたカインに任せま
す﹂
ベアトリス夫人が私に﹁どうする?﹂と視線を向けてきても、は
っきりとうなずくことができた。
270
﹁しかし彼女は、とても戦えるようには⋮⋮。それに今から狼煙を
上げたら、協力者となってくれる南西の二家からの援軍が、二日ほ
どで到着できます﹂
レジーが苦言を呈する。あくまで私を守ってくれようとしている
のだろう。
ヴェイン辺境伯や騎兵隊長達も、その言葉に心動かされた表情に
なる。あきらかに剣など振るえない柔な腕とかに、不安を覚えるの
だろう。
だから私は言った。
﹁既に一度、魔術師を捕まえることには成功しています。魔術師を
守る人間がいたことは予想外でしたが、今度は逃がしません﹂
厳しい表情になるレジーと、視線が合う。
どうしてわかってくれない、と言われている気がする。
けれど私の答えはもう揺るがない。この緊張感のある場が、私の
心をも引き締めてくれた。
︱︱私は、みんなを守りたい。
それに死にたくないけど、今ここで動かなければ絶対に後悔する
から。
しかも攻城戦に魔術師の存在があることも、魔獣の襲撃も予想外
だ。ルアイン軍の侵攻ルートまでもが知っていることと違う。
なら、万全に備えても、城を守りとおせないかもしれない。
だから魔術師と魔獣だけでも減らさなければ。剣が使えない私で
も、それなら役に立てるだろう。
それが起こりうることへの知識を持って生まれた、私の居る意味
だと思うから。
271
魔獣討伐
一人一袋。
大きくはないものの、小さな袋を通常の荷物とは別に背負った集
団が、朝日に背中を押されるように出発した。
﹁小さいのに重いな⋮⋮﹂
﹁お前のは粉か? 俺のはごつごつして背部の鎧に傷つきそうだよ﹂
﹁僕の袋さ⋮⋮もしかして肉?﹂
兵士達はひそひそと話しながら、先導する騎馬に従って進む。
おしゃべりしたくなるのも無理はない、と私は思う。使用法は説
明されたけれど、変なものを持たされて行軍するのだ。
しかもそう遠くはない場所にいる、魔術師と魔獣という、人間よ
りもやっかいだろう相手と戦うのだ。
討伐である程度慣れている者は、本当に自分達が持っているもの
は役に立つのかと、考えてしまうだろう。
私としてもこれは﹃上手くいったらしめたもの﹄という作戦なの
で、確実なことが言えないため、彼らの不安を取り除くことができ
ないでいる。
そんな私は、男物の衣服を借りて、カインさんの馬に同乗させて
もらっている。
手には鎖を巻きつけて石のペンダントを持ち、魔術師のいる方向
を探っていた。
﹁このまままっすぐ⋮⋮﹂
私がつぶやく言葉を拾ったカインさんが、他の騎士に伝えて進路
272
を修正していく。
そうしてかなり近づいたと感じたのは、城から数時間離れた街道
だ。
私は方位しかわからないので、森の中をつき進むルートをとって
しまうことになったが、おかげで人の背丈二つ分ほどの小さな崖の
上から、敵の様子を先に視認することができた。
﹁いた⋮⋮﹂
囁き声で発見が伝えられ、攻撃のために整列しながら兵士達も敵
の姿を確認している。
街道を進んでいるのは、主に老魔術師とそれを囲む五人の兵士達
が行動しにくいからだろう。森を突っ切るのは重労働だ。うっかり
操っていない魔獣に遭遇することも考えてのことだろう。
ただ魔獣の数が多い。
いつもは30匹程度だが、今回は50は連れているのではないだ
ろうか。風狼と空クラゲの両方を同数連れている。もしかすると、
今までは力を温存していただけで、50匹を操るのがあの老魔術師
の限界なのかもしれない。
しかし混成部隊のせいか、時折魔獣同士で諍いをはじめそうにな
ったりしていた。
⋮⋮魔術師が押さえているようだが、やはり生存競争を行ってき
た相手なので、魔獣たちは相手を追い払いたいという欲求が時々噴
出するようだ。
やがて魔術師は風狼を先行させ、やや後方に空クラゲを配置し、
自分達はさらに後方から追う形に組み替えていた。
273
しめた、と私は思う。
すぐにカインさんを振り返れば、彼も今後の行動を察してくれた
のだろう。馬首をめぐらせてアラン率いる一隊から離れようとした。
﹁キアラ﹂
アランがそんな私を呼び留める。
﹁10騎連れていけ﹂
﹁え、でも﹂
10人も騎士を連れていけば、兵の数が減ってしまう。風狼も空
クラゲも、こんな低い崖はものともしないだろう。すぐに白兵戦に
なってしまうかもしれない上、今までにない大量の魔獣を相手にし
て大丈夫なのだろうか。
﹁人間の兵を相手にするなら騎士が一番だ。そして魔術師の攻撃に
対応しやすいのも騎士だろう﹂
確かにアランが言う通りではある。
﹁ありがたく好意を受け取りましょう、キアラさん﹂
カインが騎士を貸してもらえと言う。
﹁そうしてもらわなくては困る⋮⋮レジーになんて言われるか、わ
かったもんじゃない﹂
アランの方も、さらに勧めてくる。レジーという単語を聞いて、
私もさすがに断り切れない気分になる。
私がこうして出ることに、結局良い顔をしなかったレジーだ。大
怪我を負って帰ったら私も怒られるだろう。
お互いにレジーにお小言をもらうのが嫌な者同士で合意する。た
274
だ少し人数を減らしてもらい、5騎を借りることにした。魔術師を
守る敵兵も5人なので、その人数がいれば十分だろう。
私達は、すぐに崖を迂回して街道へ向かう。
その間にアランは攻撃準備を整えていた。
崖下に数人が袋の中身を撒き、弓兵は弓に矢をつがえ︱︱一斉に
射た。
放物線を描いて落下する弓矢に、さすがに魔獣たちも気がついた。
風狼は一斉に弓を放ったアラン達へ向かって走り出し、空クラゲ
はふわふわと移動を開始する。
︵やっぱり警戒されてるか⋮⋮︶
さすがに兵士達は、老魔術師を置いてはいかなかった。私達が不
意打ちで老魔術師を捕まえたことがあったので、また狙ってくると
考えたのだろう。
裏をかくには、時期を見定める必要がある。
離れた場所で馬から降りた私達は、木立に隠れて敵の様子を確認
する。
先行していた風狼達は、すでに崖下に迫っていた。そのまま登っ
て来ようとしたところで、風狼達が逡巡したようにその場をうろつ
き始めた。
彼らが気にして匂いを嗅いだりしているのは、肉である。
ここまで兵達に運ばせ、先ほどアランがばら撒かせた物である。
やがて風狼達は、アラン達の元へ急行するよりも、食事を優先さ
せることにしたようだ。
﹁おい、なんで狼どもが動かないんだ?﹂
﹁わしゃちゃんとやっとるわい!﹂
275
老魔術師と行商人風の恰好をした敵兵達が、この事態に騒ぎ出す。
それを見た私は、しめしめと思った。
私は魔獣が操られているとわかって、その理由を推測していた。
たぶん魔獣は魔術師くずれと同じように、あの赤い飲み物を飲ま
されたのだ。そして師弟関係と同じ制約に縛られて彼らは従ってい
るのではないか、と。
なら、どうして魔術師くずれのように砂にならないのか。それは
魔獣が元々魔術師のような存在に近いからだと思う。契約の石を体
内に取り込まなくても、魔術を使える身体なのだろう。
だから砂になって死ぬことはない。けれど同じ石を取り込んだ魔
術師の命令を聞くようになるのではないか。
けれど少量の契約の石では、師弟関係のような強制力を持たせる
のは難しいはずだ。それなら⋮⋮生きていく上で必要な欲には、勝
てないのでは?
予想通り、狼達は食欲を優先した。
ていうか魔物だからって、食事のこととかあんまり気にしてなか
ったのでは。狼のがっつき方がすごい。あまり大きくない肉の塊を
飲みこんでしまっている。
ある程度食べた所を狙って、アランがまず矢で攻撃を加えた。
肉につられて油断していた狼が数匹、矢が刺さって動けなくなる。
しかし攻撃されたことで、狼達の気持ちが食欲から逸れた。崖を
駆け上がり、アラン達に襲い掛かろうとする。
風の力を使って飛び上がった狼達は︱︱飛び上がりすぎてアラン
たちの頭上を越してしまう。
風狼自身もぎょっとしたように足をばたつかせ、それでもなんと
か着地したが、動揺して行動が遅れたことで、アラン率いる兵士達
276
への対応に遅れが目立つ。
﹁上手くいきましたね﹂
カインさんのささやきに、私はうなずいた。
﹁こんなドンピシャだとは思いませんでした﹂
種明かしをすると、肉の中に鉱石の粉やカケラを入れていたのだ。
風を起こす魔術を使うため、時折魔術師が媒介として利用する流
晶鉱だ。この知識を得たのは、エヴラール辺境伯の城の書庫にあっ
た、何代か前の領主の日記からだ。
魔術師が集めていた魔獣にはパターンがあった。
全て風を起こす属性のもの。風狼、空クラゲ、どちらもそうだ。
そして風狼は、この鉱石が採掘される近くに生息している。風狼
は定期的にこの石をかじって、風を起こす力を維持しているらしい。
そこで考えたのが、魔獣達に媒介となるこの鉱石を過剰摂取させ
ることだ。
取り込みすぎた魔術を使う媒介。そのせいで魔術が暴走するので
はないかと思ったのだ。
でも失敗する可能性もあった。
その時には魔獣の数だけ減らし、一度退却。それからもう一度態
勢を立て直してアタックすることにしていたのだが。
予想通りの結果に、私の口角が上がる。
風狼の様子がおかしいことを見て取った老魔術師は、空クラゲを
急いで向かわせた。
しかしそちらには粉にした流晶鉱をばら撒く。これの用意に、一
番時間がかかったかもしれない。崩れやすい鉱石で助かった。
277
浮く力に魔術を利用していたのだろう空クラゲは、高さを調節で
きずに空高く舞い上がりすぎたり、地面に設置するほど降りてきた
りと、こちらも混乱していた。
接近戦を挑むには、長い触手や棘が怖い空クラゲだが、そうして
混乱しているおかげで、弓兵達は次々と射落とすことができている。
落ちたクラゲはばたついていて、止めを刺すにはさらに矢を射な
ければならない。けれどアランはそちらではなく、浮いているもの
を射落とすことを優先させていた。
完全に倒せなくとも、無力化できればそれで十分だ。
この状況に、真っ先に焦ったのは老魔術師だった。
﹁わ、わしゃ逃げるぞい!﹂
﹁おい!﹂
反転して駆け去ろうとした老魔術師を、兵士の一人が捕まえる。
﹁契約が違うだろうが!﹂
﹁これは契約違反じゃないわい、また魔獣を集めてここまで来れば
いいんじゃろが? ヒヒッ﹂
﹁しかし本隊の行動に間に合わない!﹂
﹁だが手駒が足りないのは事実だ⋮⋮﹂
一気に混乱し、敵は逃げたい者と逃げるわけにはいかない者とに
分かれて言い合いをはじめた。
私達はそこへ突入する。
間近まで迫ったところで気付いた敵兵が剣を抜くが、もう遅い。
カインさんの一閃で斬り伏せられる。
血しぶきに私はひるみそうになるが、今度こそ魔術師を倒すのだ。
歯を食いしばる間に他の四人の兵士も、一緒に行動していた騎士
278
によって倒された。
あっという間の出来事に、老魔術師は呆然とした表情をしていた。
けれどくっと笑い声を漏らす。
﹁ヒヒッ。これは僥倖じゃな。おかげでわしは自由の身だ。ウヒヒ
ヒ﹂
﹁⋮⋮どういうこと?﹂
カインさんの後ろから尋ねた私を見て、老魔術師は目を瞬く。
﹁ほう、こないだの嬢ちゃんか。ウヒヒ。もう敵対する必要もなく
なったからの、教えてやろう。わしは自病のための薬と引き換えに
この仕事を受けたんじゃ。その際の契約で、エヴラールの城を攻め
ることと、こいつらを傷つけちゃならんと言われてたんだがの﹂
そう言って老魔術師は、近くに倒れた敵兵の一人の荷物を取り上
げる。
﹁この薬さえあればいいのよ。もうお前さんたちの敵にはならん。
さらばだイッヒヒヒ﹂
笑う老魔術師が浮かび上がる。風の魔術だ。
﹁ま、待て! そんな理屈が通るか! 自由にさせておいたら城を
攻めるつもりだろうが!﹂
こちら側の騎士が叫んだが、老魔術師はヒョッヒョッヒョと笑う
ばかり。
しかしその笑い声が唐突に途切れた。
飛来した矢が老魔術師の肩に突き刺さったのだ。
279
魔術師の契約
飛ぶ力を保てなくなったのか、ゆるゆると地上へ降りてくる老魔
術師の背中に、更に矢が突き刺さる。
﹁え!?﹂
何が起こったのか、私はすぐには理解できなかった。
しかも矢は三度飛来する。
老魔術師の頭に刺さりかけたそれをカインさんが弾いたものの、
地面に力なく倒れ落ちた老魔術師は、明らかに致命傷を負っていた。
遠くに、駆け去る騎馬が見えた。一騎のみということは、もしか
してこういう事態に備えての監視をつけていたのだろうか。
﹁口封じかいな⋮⋮ヒヒッ﹂
老魔術師もそう考えたのだろう。
カインさんが、すぐさま矢を放った者を五人の騎士に追わせる。
私はどうしたらいいのかわからないまま、老魔術師の傍にひざを
ついた。
﹁だ、大丈夫です?﹂
﹁大丈夫に見えるかのう?﹂
オーソドックスな質問に、皮肉で返されてしまう。
老魔術師はくくっと笑った。
﹁これで⋮⋮わしの人生も終わりか。まだすべきことがあったとい
うのに⋮⋮﹂
280
つぶやいた老魔術師は、一度目を閉じてから私を見上げた。
﹁お前、魔術師になりたいと言ったな? 本当に成れるんかいな﹂
﹁なれるわ。私は魔術師になれるのを知ってるの﹂
﹁ほぅ、なんでじゃ?﹂
﹁あるかもしれない未来を一つ、知ってるの。その未来ではエヴラ
ールが王子がやってきたとたんに襲撃されていたし、私は魔術師と
して土人形を操ってた﹂
この場にカインさんと老魔術師しかいないので、私はそう告げた。
言ったはいいものの、バカにされると思っていた。妄想を未来とは
き違えているんだろう、と。しかし老魔術師は違った。
﹁未来視に、土人形か⋮⋮ヒヒヒッ。そうか、そういうのもいいか
もしれん。夢がある﹂
私の答えを聞いた老魔術師は、一瞬遠い目をした後でぐっと目を
細めて私に問いかけてきた。
﹁お前さんが、わしの願いを叶えるのに挑戦するなら、弟子として
魔術師の契約をしてやっても良い﹂
え、本当に?
驚くが、死に瀕したこの老魔術師が今更嘘をつくようには思えな
い。
﹁願いって、どういうもの?﹂
﹁⋮⋮土人形に命を吹き込むように、わしの魂を土人形の一つに閉
じ込められるか試すがいい。失敗しても、このままでは死ぬのだか
らの。しかし上手くいけばわしはさらに長い時間を魂だけでも生き
ていける⋮⋮とにかくまだ死にたくないのだよ。試すのなら、お前
さんの要求通りにしてやる。どうせ一端死んだ後、魂になってしま
281
えば師弟間の戒めなんてものも働かないじゃろ。ヒヒヒッ﹂
ああそうか、と私は納得した。
以前捕まえた時、逃げる時にこの老人は私をじっと観察していた。
もしかすると、魔術師になった私に自分の延命に協力させられない
かと考えていたのかもしれない。
今も、少しでも現世にとどまる方法があるのならと、私に取引を
持ち掛けたくらいなのだから。
しかしこれは好機だ、と私は思った。
この切羽詰まった状況で、他に師になってくれそうな魔術師が居
るとは思えない。それに老魔術師が言う通り、死に瀕した彼ならば、
妙な制限をつけられることもない。
﹁いいわ。でも成功は期待しないで﹂
﹁キアラさん⋮⋮﹂
即決した私を、カインさんが困ったような表情で止めようとする。
けれど私は首を横に振る。
﹁元々の目的が達成できるんだもの。この機を逃せないわ﹂
﹁ヒヒッ、思い切りの良い若者はいいもんじゃな。早く契約の石を
寄越すがいい⋮⋮その赤い石じゃ﹂
老魔術師は、私が持っていたペンダントを指さす。
やはりこれは契約の石だったようだ。
茨姫がこれ以外使ってはいけない、と言ったのは、契約のため?
もしかして私の未来を予想していたのだろうか。
ペンダントから石を外すと、地面から持ち上げる力も尽きた老魔
術師の手に載せる。老魔術師はぐっと石を掴んだ。
カチッと音がした後で老魔術師が手を開けば、十分の一の欠片と、
282
欠けた石に割れていた。
﹁本来なら、弟子への負担を考えて大きさの比率は3:7くらいに
するのだがな。死にかけの老いぼれにはこれが限界だ。後は己でな
んとかせよ⋮⋮わしに石を飲み込ませたら、お前さんもすぐに飲み
込め﹂
うなずいて、私は老魔術師の手から二つに割れた石を取り上げた。
緊張しているのだろう、指先が震える。
それでもかけらを老魔術師に口に押しこむ。するりと呑み込めた
ようだ。それから私も、思いきって残りの石を飲みこむ。
口の中に含んだ石は、喉を傷つけることなく、まるで液体になっ
たかのように胃に落ちていく。
そうしながら、食道から肺へ、心臓へ、さらに血管を伝って内臓
から自分の全身に何かが広がっていき︱︱。
﹁⋮⋮⋮⋮っ!﹂
内側から、灼熱の太陽に飲み込まれたような不思議な感覚と痛み
が走る。
細胞の一つ一つに、何かが針を刺すようにして侵入してくるよう
な感覚だ。
自分が叫びながら地面を転がっているのを感じるけれど、どこか
別な人の出来事のように遠い。
いつまで続くかわからない痛みと熱が、じわじわと身体に染みこ
んでいく。
染みこんだそこから液体のように崩れては元に戻るような、嫌悪
感をもよおす感覚に、私は頭の片隅で悟る。
たぶん魔術師になりそこなった人たちが砂になって崩れるのは、
283
戻らなかったからだろうと感じた。死に際して暴れたりするのは⋮
⋮この痛みを感じ続けていたからではないだろうか。
私の身体も、時折元に戻りにくくなる。
そのたびにどこからか指令を受けたように、攻撃してくる力が押
し留められ、その間に体の戻る力が回復する。
たぶんこれが、師によるフォローなのだろう。
やがて内側から熱を発しているように、汗が浮かぶのを感じ⋮⋮
私はハッと目を覚ました。
﹁キアラさん、キアラさん!?﹂
いつの間にか、私はカインさんに抱き起こされていた。
真っ青な顔色で私に呼びかけていたカインさんは、しっかりと目
を開き、瞬きする私を見て、ほっとした表情になる。心配してくれ
たようだ。大変申し訳ない。
﹁無事ですか?﹂
﹁⋮⋮大丈夫です、生きてる⋮⋮と思います﹂
なんとか答えた私は、自分の身体を見回し、指先を動かして確認
する。
大丈夫。どこも砂になったりはしていない。でも麻酔が切れかか
った時のように、自分のものじゃないような、変な感覚がうっすら
とある。
まるで体が変質したような︱︱と想像して、背筋がふるえそうに
なる。
私は魔術師にはなれたと思う。けれど魔術師というのは人間と同
じ存在なんだろうか。人じゃない何かに変質したのだとしたら⋮⋮。
けれど考えたってどうしようもない。
284
とりあえず体は動かせるので、カインさんに礼を言って起き上が
ってみる。
動くと違和感も無くなっていって、私の心の中の不安も小さくな
っていく。ほっと息を吐いた。
そんなわたしの隣に、まだ老魔術師はいた。
けれど呼吸がとても小さく、今にもとぎれてしまいそうだ。
﹁⋮⋮宣言したとおり、魔術師にはなれたようだな? ヒヒッ﹂
かすれた声で笑う老魔術師に、私はうなずく。
﹁魔術ってどう使うの?﹂
次にすべきは、老魔術師との約束を果たすことだ。
﹁お前さんは⋮⋮土人形を作れると言っておったな。なら⋮⋮地面
に手を当てて想像するがいい。自分の内にあるのと⋮⋮同じ力を土
から集めて⋮⋮成形﹂
老魔術師の言葉は、とぎれとぎれになりつつある。その目もうつ
ろだ。
⋮⋮さっきの契約で力を使い果たしてしまったのだろう。
言われた通りにしようと思って、座り込んだまま地面に手をつい
た私は、はたと思い出して尋ねる。
﹁ところで私の師になる人の名前は?﹂
名前を聞かないと、魂なんて呼べないんじゃないか。そう思った
のだ。
すると老魔術師は、かすれた声で一言告げた。
﹁ホレス﹂
それ以後、老魔術師は瞬きもしなくなる。ややあって、端から少
しずつ砂のように崩れ始めた。
285
⋮⋮やっぱり魔術師は、亡くなると砂になってしまうようだ。
﹁キアラさん、魔術師が⋮⋮﹂
﹁うん、急ぐ﹂
私は目を閉じ、言われた通りに自分の中に感じる﹃魔術﹄の力と
同じ物を、土の中から感じようとする。
﹁しかし、もうこうなっては、約束を果たさなくてもいいのでは?﹂
カインさんが、老魔術師を放っておいてもいいのではないかと言
う。たしかにそういう選択肢もある。けれど私はそれをしたくなか
った。
﹁約束はなるべく守りたいんです。だって人生の最後を私のために
使ってくれたから﹂
これでレジー達を私でも守れるようになったのだ。その分の恩は
返したい。
私は意識を集中する。初めて尽くしの上、これ以上導いてくれる
人もいない。
言われた言葉を思い出して試行錯誤しながら、なんとか土の中全
体に、自分の中にある熱と同じものを感じられるようになった。
これを成形して⋮⋮と考えたところで、ふと﹃土人形ってどんな
形がいいんだろ﹄と思ってしまった。
普通に考えるなら、ゲームで見たような巨大ゴーレムだ。
けれどホレスという名前の老魔術師が宿ると考えると、さすがに
巨大すぎる。でも小さいとなると、なんかレゴみたいなのしか思い
浮かばない。
何かこう、両手で持てるぐらいのやつがいいんじゃないかな。
もし会話ができるなら、口とか目とかもいるよね?
そんなことを考慮した末に浮かんだのが、宇宙人顔な土偶で。⋮
286
⋮そういえばホレス師匠の顔は、どこか宇宙人っぽいよね。ぴった
りかもしれない。
いやいやそれは可哀想だから別なものにしようかな、そう思った
瞬間に集中が切れてしまい。
﹁げ⋮⋮﹂
目を開くと、そこには土偶ができ上がっていた。
私が抱えやすい大きさの、高さ30センチ未満の小さな土偶だ。
しかも半分ほど砂になっていたホレス老人から、小さな赤い石の
粒がいくつか漂ってきて、あれよあれよという間に土偶の中に入り
込んでしまう。
その瞬間、カッと土偶の宇宙人みたいな目が光った。
﹁おお、これがわしの新しい身体か!﹂
壺の中に顔をつっこんでしゃべったような声が聞こえた。もちろ
ん、目の前で全部砂になりかけた老人と同じ声だ。
えっと⋮⋮成功はしたけど。これ喜んでいいの?
ちらりと横を見れば、カインさんの頬がひきつっている。やっぱ
変だよね?
でも師匠のホレスは器用に土偶の手足を動かしてご満悦の様子だ。
そして初めて魔法に成功した私が考えたことは、ホレス師匠に鏡
を見せちゃいけないかもしれない⋮⋮ということだった。
287
私の師匠を紹介します
まぁ、ホレス師匠の外見はとにかく、確認したいことはいくつか
ある。
﹁えっとホレス師匠?﹂
﹁師匠? ウッヒッヒッヒ﹂
師と呼ばれたのがうれしいのか、赤茶けた土の色をした遮光器土
偶が身をよじらせる。
一応、肩と首と大腿部と腰が動かせるようだ。そんなつもりで作
ったわけじゃないが、可動域の広いプラモデルみたいなことになっ
てる。
そして恥ずかしがる土偶はなんかキモいです。
﹁あの、この術ってどれくらい持つんでしょ? 私初めてでよくわ
からないんですけれど、師匠の新しい体っていうか、この出した人
形っていつまで持つんでしょ?﹂
﹁ヒッヒッヒ、若い娘の初めてを、わしが奪ってしまったとはのぅ﹂
ホレス師匠の返事に、慌てたようにカインさんが私の耳をふさご
うとしてくる。きっと女の子に下ネタを聞かせちゃいけないと思っ
たのだろう。
しかし隠喩がわからなければわからない程度だし、私は前世にて
鍛えられた素地がある。⋮⋮ほら、中学生男子とかって下ネタ好き
だから。耳に入っちゃうんだよね。だから心配しないでとカインさ
んに言おうと思った私は、ふと気付く。
この土偶師匠、やっぱり私と一緒に移動するんだよね? てこと
は、レジーやアランのみならず、辺境伯夫妻の前でもいろいろ口か
288
ら駄々漏れる可能性がある。
よし、今から注意しておこうと考えた私は、下ネタをほざく土偶
に、淡々とデコピンの刑を執行した。
﹁おうっ、痛くはないが何か衝撃だけは来るな﹂
﹁なんだ痛くないんですか⋮⋮まぁ、次はこれでは済まないかもし
れませんよ? 私は流せますけどね? 周りの人がうっかりこの新
しい体を踏み潰して壊すかもしれませんし、自由すぎる発言はなさ
らない方がいいのでは?﹂
﹁ちっ、やっぱり普通じゃない弟子では、恥ずかしがりもしないか。
面白くないのぅ﹂
やれやれといったジェスチャーをした土偶は、諦めたように答え
た。
﹁わしの体は、お前さんが力を注ぎ忘れない限り持つじゃろうな。
通常の人形なら時間が来ればそれで終わりだろうが。通常は命を吹
き込むといっても、術者の魔力が吹きこまれているだけだが、これ
はわしが入ってるからの﹂
ホレス師匠の魂が入っている分、耐久時間が増すようだ。
﹁まぁ、補給無しでも三日ぐらいはなんとかなりそうな感じかのぅ﹂
﹁距離とかは別に関係ないわけで?﹂
﹁魔力さえ切れなければ問題ないじゃろ﹂
そう言われて連想したのは、電池式のおもちゃだ。
電池が切れたらとたんに動かなくなる。けれど電池がある限りは、
持ち主が旅行に行ったって平気、みたいな。
﹁どちらにせよ、わしの魂が有り続けるためには、おまえさんと一
緒にいなければならんだろう﹂
﹁うん、まぁそんな気はしてました﹂
289
﹁え、連れて行くんですか!?﹂
ぎょっとしたようにカインさんが叫ぶ。
今まで静かだったのは、やたら奇矯な造形の土人形を私が作って
しまったり、あまつさえその人形がしゃべりだすのについていけな
かっただけだろう。
﹁魂を生き延びさせる⋮⋮っていうと変な表現ですけど、それと引
き換えに魔術師になる手伝いをさせたんですから、そのつもりでし
たよ。あとここで放置したら、恨みごとを叫びながら砂になってい
く土偶の話が、数日後に近辺で広まって、たぶん恨みごとの中には
私の名前とかあったりすると思うんで、変な噂が立つと思うんです。
それは勘弁してほしいです﹂
この戦で生き残っても、変な評判がある子になってしまっては、
やっぱりエヴラール領に居辛くなってしまう。それは嫌だ。
﹁⋮⋮いや、まぁ⋮⋮そうか﹂
私の説得に、カインさんはなんだか苦悩するような表情でうなず
いた。
ややあって、先ほどホレス師匠を射た男を探しに行った騎士達が
戻ってきた。逃げ足が速く、捕まえられなかったようだ。
﹁でも大丈夫。師匠の魂は捕獲しましたし、後できりきり吐かせま
すから問題ありません﹂
﹁捕獲とか、物騒な表現を使う娘だのぅ。まぁ、わしの弟子になる
ような人間ならばそんなものか、イヒヒッ﹂
証言者は確保してるので、落ち込まないでも大丈夫ですよと言っ
たのだが、騎士達はぎょっとしたように土偶な師匠を凝視していた。
﹁え⋮⋮これ﹂
﹁ちょっと待て。今確かにしゃべったよな?﹂
290
﹁空耳じゃない⋮⋮だと?﹂
突然の師匠のメタモルフォーゼについていけないようなので、彼
らのことは一度置いておくことにした。
私は師匠の砂になった体と衣服を、街道脇の林に埋める。今の私
には、スコップも必要ない。ただ土を掘り起こすイメージを、大地
に散在する魔術の力に伝えるだけだ。
このとき魔術に驚いた騎士達に、カインさんが訳を説明してくれ
ていた。代わりに事情を話してくれてありがとう。
埋め終えると、師匠が持っていくべき&できればとっておいてく
れという代物を、師匠の背負い袋に入れて持つ。
魔獣対策は終わったのだ。早く城に帰らねばならない。
小脇にホレス師匠を抱えた私は、またカインさんの馬に乗せても
らった。
カインさんはやっぱりまだ複雑そうな表情をしており、彼につい
ていくように自分の馬に跨った騎士達も、困惑顔でちらちらと土偶
を見ている。
慣れるのにはしばらく時間がかかるかもしれないな⋮⋮。
そんなことを考えながら、私はホレス師匠の魔術的な拘束が途切
れ、魔獣たちが三々五々に散って静かになった崖の上まで戻った。
﹁アラン!﹂
手を振ると、真剣な表情のアランが馬を駆けさせて近づいてきた。
﹁おいキアラ、お前倒れていたみたいだが、無事⋮⋮のわぁっ!?
何を持ってるんだお前!﹂
私の腕を掴もうとしたアランは、その小脇に抱えていた師匠な土
偶を見て、思わず手をひっこめていた。
291
﹁初めまして、これが私の魔術の師匠になったホレスさんです﹂
アランに紹介せねばならないと考えた私は、はいこんにちわーと、
私は土偶師匠の両脇を支え、お人形のようにお辞儀させてみた。
﹁おい弟子よ。わしゃぬいぐるみとは違うんだがの?﹂
﹁わかってますよ。だから初めましての挨拶は必要だと思ってやっ
たんですが﹂
﹁しゃべって⋮⋮る⋮⋮﹂
どういうことだ? と困惑した表情のアランは、助けを求めるよ
うに私の後ろにいるカインさんに視線を向けた。が、カインさんは
ゆっくりと首を横に振る。その後目を向けられた騎士達も、何かを
悟ったような表情で首を横に振った。
﹁アラン様、やはり魔術師というのはこちらの想定を超える存在な
のかもしれません⋮⋮﹂
﹁むしろ想定外な考え方をするからこそ、キアラ嬢は魔術師になれ
たのではと﹂
騎士達の言葉にアランが首を傾げ、それから目を瞬いて私に向き
直る。
﹁お前、本当に魔術師に⋮⋮なったのか?﹂
遠くから見ただけでは、何をしているのかよくわからなかったの
だろう。私がうなずくと、アランがほっとしたような、困ったよう
な表情になる。
﹁そうか⋮⋮じゃあ、お前が言ったことは、本当に⋮⋮﹂
つぶやいたアランは、おもむろに馬から降りた。
彼を追ってきた騎士も慌てて下馬し、アランの馬の手綱を掴む。
その間に私の足元まで来たアランは、うつむいたまま膝をついた。
292
﹁え、なんで!?﹂
﹁必要だからだ﹂
アランは淡々と告げる。
﹁僕はお前に謝罪しなければならない﹂
顔を上げたアランは、心細そうな目をしていた。
私はとっさに小脇に抱えた土偶をカインさんに渡し、馬から滑り
降りる。
土偶を押し付けられたカインさんが慌てた声を出す。薄気味悪そ
うな顔をしながらも、落とさないでいてくれる。
﹁あの、謝罪ってまさか⋮⋮﹂
﹁君を嘘つき呼ばわりしたことだ、キアラ﹂
一か月ほど前のあの日。私が前世のことを、アランに叫んだ時の
ことだ。
アランは信じてはくれなかった。ただカインさんの説得にうなず
けるものを感じて、黙って私のすることを見ていた。そして昨日か
らは、本当にルアインがエヴラールを攻めてくるとわかった上、私
は言ったとおりに魔術師になった。
私の話が嘘ではなかったのだと疑いようもない事態になって、ア
ランは謝罪しなければならないと思ったのだろう。
律儀な人だ。
でもこんな風にみんなが見ている場所で、主家の人間が使用人に
膝をついちゃいけない。だから私は止めようとしたのだ。
﹁ま、まぁ、それはいいから⋮⋮﹂
﹁いや、よくない。けじめはつけるべきだ⋮⋮僕はお前を傷つけた
293
んだから﹂
しかし馬から降りたのは更に失敗だったかもしれない。
立ち上がってほしくてアランの肩に手を伸ばしたら、その手が掴
まれた。
﹁え⋮⋮と、ちょっ!﹂
次の瞬間には、私の指先に額を触れさせる︱︱それは、尊敬すべ
き女性にする仕草だ。
﹁キアラ・コルディエに謝罪をささげる。これで許してくれるとは
思っていない。後でもかまわないから、謝罪を受け入れるために何
をすべきか僕に教えてほしい﹂
慌てる私をよそに、アランは謝罪を終えてしまう。
﹁何をするべきかって、えっと﹂
正直、こんな大公開状態で公式に謝罪されたら、人の注目を浴び
てしまってどうしたらいいのかわからなくなる。
﹁ほんとは、こっそりと、にしてほしかった⋮⋮﹂
すると謝罪をしてすっきりしたのか、アランは笑顔で立ち上がる。
﹁うやむやにしたくなかったからな。その要求はもう呑めないから、
別なことを考えておいてくれ﹂
そうしてアランは再び騎乗し、騎士や兵士達に帰還すると告げる。
呆然としてしまった私は、カインさんに笑われて我に返り、仕方
なくカインさんにまた同乗させてもらう。
﹁アラン様にしてやられましたね﹂
﹁本当ですよもう⋮⋮。カインさんはアランと付き合いが長いんで
すから、止めて下さっても良かったのに﹂
294
﹁基本的には、思い立ったら即行動の人ですからね。今のは私も止
める間もありませんでしたし、区切りがついてキアラさんも少しは
すっきりしたでしょう?﹂
そう言われると、もう疑われていないとわかって、私も心が軽く
はなっている。けれど素直にうなずきたくない。
﹁若いっていうのは、いいことだのぅ﹂
のんびりとそんなことを言う土偶の首を絞めてみたが、なにせ相
手は無生物。苦しがりもしなかったので、ちょっと悔しい。
そして移動を始めた私達は、約2時間後にはエヴラール城に近い
場所まで戻って来ることができた。
行きのようにホレス師匠の居る方向を探りながらではないので、
半分以下の時間で戻れたようだ。
そこで私達が目にしたのは︱︱エヴラール城へと迫っている軍勢
と、ルアインの旗だった。
295
エヴラール辺境伯領攻城戦 1
﹁なんで⋮⋮なんで!?﹂
理解できなかった。
今朝、斥候からの報告が来た時には、今だ敵の姿は見えず、だっ
た。
それでも次の斥候が帰って来るまでの間に、何かあって後手に回
ると不利になる。だから城から1000の兵を率いて、私達とほぼ
同時に出発していた。
移動先で次に戻ってくる斥候の報告を受けながら、布陣場所を変
えることもできるからだ。最初の中継点では、前日のうちに通達を
出した分家からの軍も到着して、3000にはなるはず。
なので、ルアイン軍がこんなに早く進軍してこられるはずがない。
足止めすらもできずに、ヴェイン辺境伯は蹴散らされてしまった
のか?
確かにルアイン軍の数は多いように思える。けれど軍のおおよそ
の人数を、ぱっと見であてられるほど、私は軍隊を見慣れているわ
けではないので、わからない。
だから予想ができなくて。気が焦った。
﹁カインさん、早く、お願いです!﹂
﹁わかってる⋮⋮!﹂
カインさんは顔をしかめながら、馬に拍車を当てた。
体が跳ね飛びそうになる私を、片腕で抱きとめてくれる。私は鞍
296
にしがみつきつつ、師匠を抱きしめるので精いっぱいだ。
そしてルアインの旗を見た瞬間、誰もが馬を走らせた。
アランも、歩兵には後からついてくるように言い置いて城へ向か
って疾走している。
とにかくみんなにまだ無事でいてほしい。その情報が欲しかった。
そしてルアイン軍の攻撃が始まっているなら、すぐにも駆け付けて、
全力で阻止するのだ。
けれど間に合わなければ何もかもがお仕舞いになってしまう。せ
っかく魔術師になれても、何の役にも立たない。
馬から放り出されないように耐えながら、目裏にちらつくのは、
血を流して倒れるレジーの姿だ。
せめてレジーが外に出ないように。それだけを願って願って、よ
うやく全容が見える、けれど木立と岩に隠れられる場所まで来て、
私達はようやく馬を止める。
緩い丘陵地帯の坂に、進みゆく兵士達の波。その先にあるのは、
私の目にも1年半の間に﹃帰る場所﹄として馴染んだエヴラールの
石積みの城だ。
ルアインの黄色の地に黒で描かれた獅子の紋が、刻一刻と城へ迫
っていく。その歩みが止まるのは、城壁から射かけられた矢が降り
注ぐ間だけだ。
矢が途切れると、ルアインの黒っぽい鎧を着た兵士達は盾を降ろ
し、じわじわと間を詰める。城壁を乗り越えて侵入するつもりなの
か、長いはしごまでも担いでいた。
こちら側からは見えないけれど、門がある側にもルアインの軍は
大挙しているのだろう。
﹁ち、父上は⋮⋮﹂
297
アランが呆然としたように目の前の光景を凝視している。
ヴェイン辺境伯はどうしたのか。それすらもわからない。
しかもこんなにも早く敵軍がやってきたということは、徴兵して
集めようにも、ほとんど兵力を集め切れていないだろう。分家から
の派兵も、ごく近くの者が間に合ったという感じではないだろうか。
なら、城の兵力は⋮⋮そう多くない。
私はめまいがしそうだった。
まるで、ゲームのオープニングそのものの状況だ。
このままでは負けてしまう。城に火を放たれて、中にいるレジー
やベアトリス夫人達も無事ではいられない。
どうにかできそうな手はただ一つだ。
千の兵士に匹敵するだろう圧倒的な力。それを使える自分がなん
とかするのだ。
私はカインさんの馬から滑るように降りると、地面に手を当てて
ゴーレム
魔術を使おうとした。やり方はわかっている。後はゲームでキアラ
が呼び出したような巨大な土土人形を作りだして⋮⋮。
﹁待て、弟子よ﹂
﹁師匠、だってっ!﹂
なんでこの状況で待てというのか。
反論しようと振り返って、投げ出した後で上手く着地し一人で立
っている土偶の顔を見た瞬間、ふっと私の中にあった焦りが鎮火す
る。
不意に日常に引き戻されたような感覚になった。
そういえばさっき師匠に顔が似てるからと土偶をつくっちゃった
んだとか。みんなにぎょっとされたこととかを思い出したせいだろ
298
う。
思い出し笑いをしそうになって、だけど何も口から出てこない。
焦りと攻撃的な気持ちが消えうせたら、急に絶望に襲われて、涙
がこみ上げてきそうだった。
﹁ししょお⋮⋮﹂
﹁おいおいおい、わしの弟子のくせに泣くな。わしは昔からふてぶ
てしいのが売りなんじゃ、イヒヒッ﹂
いっひっひと笑う土偶に、私は﹁うーっ﹂と唸る。
ゴ
﹁だって、もうルアインの軍を魔術で蹴散らす位しか方法が思いつ
けないのに、どうして止めるんですか!﹂
ーレム
﹁何をする気なのかはだいたい予測できるがのぅ。お前、巨大な土
ゴーレム
人形を出して兵士をつぶして行けば良いと思ったのだろう? しか
しちゃんと良く見るがいい。土人形で踏み潰した先に、仲間がいて
は元も子もなかろうが﹂
﹁なかま?﹂
息を飲んで、遠くを見つめる。
黒っぽい兵士達の群れの中に、ルアイン以外の旗はない。ないけ
れど、人並みがずっと向こうの方でわずかに混乱を起こしてるのが
わかる。
ぱっと火花が上がったように見えた。とても松明が火花を散らし
たとか、そんな小さなものではない。悲鳴のようなものも聞こえる。
﹁あれ、まさか魔術!?﹂
﹁そうさのう。肉体を失った今だからこそ言えるが、ルアインに通
じておる奴らは、魔術師が上手く作れないならば、魔術師くずれを
戦に利用できないかと考えていたようでな。もしかするとそういっ
299
た奴が投入されて、あそこで暴れ狂っておるのかもしれん﹂
ホレス師匠の言葉に、私は叫んだ。
﹁もっと悪いじゃないですか!﹂
完全な魔術師ではないとはいえ、魔術師くずれも術をまき散らし
て辺りを破壊するのだ。厄介な相手に違いない。
しかしホレス師匠は﹁イッヒッヒ﹂と笑う。
﹁考えてみよ、不肖の弟子よ。そんな魔術師くずれなんぞを使うと
いうことは、そこに敵がいるからではないのか?﹂
﹁え⋮⋮あっ!﹂
そこで話を聞いていたアランが割って入ってきた。
﹁まさか、向こう側で父上が戦っているのか!?﹂
﹁お前さんの親父かどうかはわからんがな、軍を率いて外に出てい
るのなら、可能性があろう﹂
ヴェイン辺境伯が生きている可能性がある。少しだけ心が上向い
たし、アランも希望を持てたおかげか冷静な表情に変わってきた。
が、そんな私達にホレス師匠は更に悪い材料を指摘してくる。
﹁もう一つ問題がある。魔術師になったばかりのお前では、すぐに
は全ての魔力を扱えぬのだよヒヒッ﹂
﹁なんでですか?﹂
﹁契約の石だ。あれがお前の体に馴染んだばかりで、下手に魔術を
使い続ければ、活性化して契約時のようにお前の体をむしばむだろ
う。わしを入れる小さな人形や、一人分の墓になりそうな穴だけな
ゴーレム
らまだしも、大軍を蹴散らして仲間を救うことまで考えるのなら、
奴らを踏み潰せるほどの巨大な土人形を⋮⋮まぁ、十体は必要だろ
うのぅ。契約したばかりのお前さんには耐えられまい。死ぬぞ? 300
ウヒヒヒ﹂
思わず唇をかみしめる。
死ぬ⋮⋮。私が最も避けたいことだ。けれど出し惜しみして、レ
ジー達が死ぬのも嫌だ。このままでは生きているかもしれないヴェ
イン辺境伯も危険だ。
だから﹁それでも⋮⋮﹂と言いかけた時だった。
﹁弟子よ心して聞け。あれは川の流れだ。無理に背後に岩を落とせ
ば、その衝撃で下流へ向かう勢いが増すだけじゃ。水の道を変える
にはどうする。川を埋め立てたいのならどうするべきだ?﹂
﹁川⋮⋮?﹂
ホレス師匠の言葉に、私は睫の先に火花が散ったようにハッとす
る。
ゴーレム
ゴ
もし、城の正門前に一体だけ土人形を置いたとする。城の正門へ
ーレム
は容易に近づけないと悟り、兵士はそこから離れ、騎士達がまず土
人形を攻略するため集まるだろう。もしかすると魔術師くずれをぶ
つけてくるかもしれない。
ゴーレム
一方で、兵士達はそれならと、ヴェイン辺境伯達の方へ殺到する
ゴーレム
のではないか。そして土人形が動けばやはり正門へ移動してきてし
まう。であれば私は、もう一体土人形を作るしかないが、下手をす
るとイタチごっこになって、私の力がつきたらもう手をこまねいて
見てることしかできなくなる。
それは洪水に対して、土嚢を積む作業に似ている。
対処はできても、応急処置に近いものだ。
ではもっと効率よく、ルアインの軍を城に寄せ付けないようにし
たなら⋮⋮?
そんな私の思考に、アランが援助してくれる。
301
﹁動きが早い騎兵じゃなくて⋮⋮歩兵が攻城のために前面にいる。
ほとんどが平民からの徴兵だ。魔術師くずれが、父上達を堰き止め
るのに使われていると仮定するなら、その傍には状況を管理し、自
分達に害が及んだら始末できるように騎士がいるはず。それらの動
きを統括しているのは本陣で、それはおそらく歩兵たちの中心だ﹂
最も守られ、兵達の流れが避けていく中洲のような場所が、ルア
インの本陣だとして想像する。そこは将である人間を守るため、騎
兵で固められているだろう。
その騎兵たちは、何かことが起これば流動的に動く。
ゴーレム
﹁歩兵は1ターンの移動距離が短くて、彼らは命令がなければ動け
ない。移動距離が多い騎兵は、どこに土人形が現れても先に仕留め
に来る? となれば⋮⋮﹂
頭の中で、ゲームの兵の配置図を思い描く。
けれど動かすのまでも頭の中で処理するのは難しくて、私は草の
生えていない地面にがりがりと近くに落ちていた石を使って描いて
いく。
﹁ホレス師匠⋮⋮こんな感じ?﹂
﹁ほう。いい感じだの﹂
分かりやすく騎士を﹃K﹄と兵士を﹃P﹄、魔術師くずれを﹃M﹄
で表記して配置すると、師匠が感心したような声を出す。
カインさんとアランが頭を寄せてきて、私は彼らに自分の計画を
話す。
そうして話し合った動きを加味して別な図を描けば、二人もうな
ずき、ホレス師匠も不敵な笑い声を立てた。
方針が決まった。
302
﹁行こう、カインさん。アラン⋮⋮敵将を討つ﹂
そうして私は地面に手をついた。
﹁さぁ出ていらっしゃい、ゴーレム!﹂
自分の中の魔力と同じ力がゆったりと近くに集まる。
ゴーレム
密集した場所は、周囲の物質を動かし、形を私の意思を感じ取っ
て変え、やがて地表に現れた。
やや角ばった輪郭の、巨大な人の形。
石を組み合わせたロボットのような形をした二足歩行の土人形は、
地の底から這いあがるように立ち上がった。
樹木の枝先ほどの丈があるので、たぶん身長は10メートルほど
だろう。
想像どおりの土の人形は、私の意思を感じ取ってルアインの軍へ
と向き直った。
303
エヴラール辺境伯領攻城戦 2
その時、ルアイン軍の兵士達は、不自然な地響きにうろたえた。
﹁な、何だ?﹂
﹁地震?﹂
ファルジア王国は地震の多い国ではない。けれども火山がある関
係で、時折微動を感じる地域はあるし、十年に一度はやや揺れる程
度の地震は起きる。
だからこそ地震かと思ったが、その揺れには地を穿つような音ま
で付随していた。
そして城へ向いている彼らにとって、右手側に、もうもうと舞い
上がる土煙に気付いた次の瞬間、現れた奇怪な代物に誰もが悲鳴を
上げた。
﹁何だあれは!?﹂
指をささずにはいられない。
なにせ自分達の何倍もの高さや幅のある、土色の巨人が走ってく
るからだ。
その組成が土なのはわかる。所々に、黄色い野の花が咲く草やら、
枯葉なんかが混じっているからだ。
それでも巨人が恐ろしくないわけではない四角い頭にある暗い闇
がとどまったような眼窩を見た瞬間、一斉にその進路から逃げ出す。
﹁ぎゃあっ﹂
支え手を失った梯子の下敷きになった者が、さらに土の巨人に踏
まれてその姿が土くれの中に埋まって消える。
304
ゴーレム
草の根っこが飛び出す足に蹴られた者が、宙を舞った後で動かな
くなる。
ゴーレム
その光景に戦慄する者たちの前を、二十騎ほどの騎馬が土人形を
追いかけるように駆け抜けた。
そのマントの色は青。ファルジアの騎士だ。
わかっても、誰もがすぐには動けない。こんな土人形と相対した
ことなどないのだ。もっと小さなサイズの魔獣が相手ならばまだ討
伐の経験がある者がいただろうが。
動けないうちに、城から矢が降り注ぐ。
ゴーレム
そちらへの注意を怠っていた者が、矢に倒れ、さらに軍が混乱す
る。
ゴーレム
しかし果敢に土人形に立ち向かう者がいないわけでもない。
本陣から駆けてきたらしい騎士達が何人か、土人形に向かって剣
を振りおろす。
けれど何の痛痒も感じさせることができない。
ゴーレム
土と草が飛び散り、青いマントの集団が駆け抜ける。
ルアインの軍に、土人形の駆け抜けた痕が刻まれるように、一筋
の人垣の道ができていった。
一方で、青いマントの集団である、私達も必死だった。
﹁まっ、まだ!?﹂
ゴーレム
﹁もう少しだ! おい構うな走れ!﹂
遅れないように、馬に土人形を追いかけさせるアランと私を乗せ
ゴーレム
たカインさん、そして騎士達。
早すぎれば土人形の足に蹴られそうになるし、遅ければ我に返っ
た兵士や騎士の標的にされかねない。誰だって得たいの知れない、
305
倒せるのかもわからない代物より、斬れば血が出るとわかっている
人間を相手にしたいだろう。
けれど今の目的は、驚いている敵を倒すことじゃない。
まっすぐに戦場を突っ切りながら、敵兵の注意を城からこちらに
向けさせるのだ。
行き先はルアイン軍の向こう、火花が散っていた、おそらくは友
軍⋮⋮もしくはヴェイン辺境伯がいるのではと思われる地点だ。
ゴーレム
巨大土人形の走りは意外に早い。
一歩一歩が大きいので、もっと歩く程度だと思ったが、しっかり
と腕を振って太腿を上げてのフォームにしてはとろいものの、馬で
追いかけるのがぎりぎりの移動速度だ。
現在の私達は、移動することに全精力を傾けているので、戦いな
がら移動するよりもかなり早いはずだ。
ゴーレム
それに対して、土人形を見たショックで1ターン消費するような
ゴーレム
有様の、敵の動きは鈍い。
まず一度土人形から逃げ、呆然としている間に私達は追いかけら
れない場所まで遠ざかるのだ。
ゴーレム
けれど幻惑の魔法にも似た効果が影響を及ぼすのは初期だけ。遠
くからでも土人形が見える以上、少しずつ皆、行動が早くなってい
く。
ゴーレム
その証拠にルアインの騎士達がやってきていた。けれど私として
も、土人形を走らせる以上のことができそうにない。
﹁くっ⋮⋮片手間に土の壁でも作れたらいいのに⋮⋮﹂
﹁イッヒッヒ、欲張るな弟子よ。お前さんは魔術師になったばかり
であろう﹂
小脇に抱えるわけにもいかず、背負った袋に入れたホレス師匠に
306
笑われる。
私もそれは分かってる。いうなれば、まだ魔術師LV1の状態だ。
それじゃあれこれと出来るはずがない。やりすぎれば、戦いが始ま
ったばかりだというのに砂になって戦線離脱だ。それは嫌だ。
だからできる限りのところで、何もかもを満たそうとしているの
だ。
ゴーレム
手に余る部分を補うのは、カインさんやアラン達の努力だ。
私達を守る盾でもある土人形は走り続ける。必死についていくだ
けなのに、万の軍勢の中をたった20騎で横切ることが怖くて、早
く早くと焦る。
時間が引きのばされたかのように長く感じた。
その合間に、巨人に蹴り飛ばされた死体。その前に矢で射られて
捨て置かれた遺体を見かけて、思わず目を閉じそうになる。
肩をぎゅっと縮めてその光景がもたらす嫌悪感に耐える。
吐き気がする。怖い。
ゴーレム
戦で死ぬ人の姿を、私は初めて目撃したのだ。
けれど心が揺らぐと土人形の動きも悪くなる。だから地上を見な
いようにして、まっすぐ向こうを睨む。
そんな私を支えてくれている、カインさんの腕に少しだけ力がこ
もる。私の怯えに気付いてくれたのだろう。優しさに、私は優先さ
せるべきことを再確認する。
ゴーレム
そして、待ち望んだ時がやってきた。
ゴーレム
土人形の前に人垣ができていく。その先に、炎が見えた。
﹁着いた!﹂
私は急いで土人形の足を止めさせる。
307
土煙を上げて立ち止まったその先に、人魂のように炎をいくつも
発生させては、火薬のように破裂させてまき散らす人の姿があった。
かなり広範囲で爆発が起き、魔術師くずれだろう人物の向こうに
いる兵士達の集団は、後退を余儀なくされている。
魔術師くずれの方は、黒っぽい皮鎧に、焼け焦げて煙を上げる黒
いマントを羽織っていた。
それだけで、どういうことなのか私は察した。ルアインは魔術師
くずれを作るため、兵士を一人犠牲にしたのだ。
﹁なんてむごい⋮⋮﹂
前線に立って戦っても、待つのは死かもしれない。けれど抗う術
はわずかながら残る。けれどこんな風になっては、もう苦しみなが
ら死ぬ以外に何もないではないか。
ゴーレム
助ける方法などない。近い手段は、たった一つだけだ。
それを土人形に命じようとする前に、私の横から飛び出す人がい
た。
﹁せぇええっ!﹂
気合いとともに、飛び込んで行ったアランが剣を振りおろす。
馬上用の剣は長く重く、その刃の餌食になった魔術師くずれの頭
から赤い血しぶきが上がった。
息をのんだ。
どっと倒れた魔術師くずれの兵士は、すぐにさらりと砂へ変じて
いく。赤い血までもが。
斬り捨てたアランは、その向こうにいる人々を見て、厳しい表情
308
ながら目を輝かせた。
彼らは青いマントを身に着けていた。槍を構えた兵士の後ろに、
騎馬がいる。中に青翠の房をなびかせた兜を被った人がいた。
﹁父上!﹂
アランが叫ぶ。相手は手を振る。青いマントの兵士達も嬉しそう
に表情を緩め、手を振った。
間違いない、ヴェイン辺境伯だ。
よかったと思った瞬間、気が抜けそうになった。
﹁次の行動に移りましょう﹂
カインさんが声をかけてくれたおかげで、完全に油断することは
なくなった。
馬が反転したおかげで、背後の人垣が閉じかけていることや、こ
ちらを警戒しながらも、魔術師くずれに巻き込まれないようにして
いた敵兵が、輪を狭めようとしてくるのを目にする。
まだ敵兵の混乱が続いている。けれどすぐに終わってしまうだろ
う。
私は二通り考えていたプランの内、一つを実行することにする。
﹁アラン、次の手に出るわ!﹂
私が促せば、ヴェイン辺境伯に駆け寄りかけたアランも表情を引
き締める。
﹁大丈夫なのか?﹂
﹁私にしか、できないことだから﹂
お互いに短い言葉を交わし、そして動く。
アランはヴェイン辺境伯率いる兵500人ほどと、ここまでつい
309
てきた騎士達を固め、ヴェイン辺境伯にざっと予定を伝える。
すぐにこちらへ振り返って、うなずいた。
﹁カインさん、ここまでありがとう﹂
そう言って私が馬から降りる。ここからは私一人でやらなくては
ならない。馬も邪魔になってしまうのだ。
しかしなぜか、カインさんもいっしょに降りた。
﹁え?﹂
驚く間に、カインさんは自分の馬を辺境伯が連れていた歩兵の一
人に預けてしまう。
﹁な、何してるんですか!?﹂
﹁君について行くんだ﹂
そう言った彼は、ひょいと私を抱えてしまう。
﹁ちょっ、カインさん!?﹂
手足をばたつかせて暴れようにも、私はカインさんをけっ飛ばし
たいわけでもないし、うっかり落ちて怪我をする余裕はない。困り
果てた私に、カインさんが実に爽やかな笑みを見せる。
﹁さぁこれで私を連れていくしかなくなりましたね?﹂
﹁でもカインさん、ここからは都合があって私一人で⋮⋮﹂
﹁邪魔はしないよ。でも君が力尽きそうになったら、抱えて逃げる
人間も必要だろうと思いましたからね﹂
笑いながらも、間近で見るカインさんの目は笑っていない。
私はきゅっと唇を引き結んだ。
﹁もう大分、疲れているんでしょう?﹂
お見通しだとい言葉に、でもうなずくわけにはいかない。認めた
310
ら、そこから崩れていきそうで怖くて。
だって本当に、私の気力が何かに集中し続けているように疲弊し
てきて、それを支えるうちに吐き気までしてくるような状態だった
から。
﹁ベアトリス夫人には、君を連れ出すにあたって私が守るからと約
束しました。だから離れませんよ﹂
宣言され、私は観念してうなずく。
いずれにせよ、もう時間がない。敵兵の驚きを利用するにも、私
の魔術を操れるだろう時間にも。
ゴーレム
そして土人形に腕を伸ばさせ、その掌の上にカインさんに上がっ
てもらった。
311
エヴラール辺境伯領攻城戦 3
ゴーレム
元が土なので、固くても岩のように痛いわけではない。
そんな土人形の肩に上がると、
﹁うわ、眺め良すぎ⋮⋮﹂
私は思わず顔をしかめてしまった。
丘陵を埋め尽くすおびただしい人の数に、威圧を感じる。集団を
見なれない私でも、だいたい数に予想がついた。絶対万はいる。カ
インさんやアランの予想した通りだ。
圧倒的な数としか言えない。これは、不意を突かれたらもう逃げ
る以外の選択肢がなくても仕方がない。備えをしたつもりの今でも、
籠城するのがやっとだったゲームの状況を笑えないのだ。
すぐに全てをひっくりかえせるとは思えない。けれど、できるだ
けのことはする。
ゴーレム
見回した後、私は抱き上げてくれていたカインさんに礼を言って、
土人形の肩に下ろしてもらう。
ゴーレム
少し休ませてもらえたおかげで、立つのに支障はない。
やはざま
でもそのままでは土人形が動いた瞬間に滑り落ちるのが分かって
いるので、肩に少し埋まるような形で、矢間みたいな囲みをそなえ
たくぼみをつくって、そこにカインさんと二人で入った。
ゴーレム
ややあって土人形に矢が射られ始めた。
巨大土人形の動きを警戒しているルアイン軍が、肩によじのぼっ
たことで私が術師だとわかったのだろう。けれど矢は届かない⋮⋮
柵に届きそうなのもあって、ちょっとびびったけれど。
312
実はそこだけ少し不安だった。
ゴーレム
弓ってけっこう遠くまで届く。高い木ぐらいの土人形の肩に乗っ
ている状態では、いい的になりそうだったからだ。でもこれでなん
とかなりそうだ。
ゴーレム
視線を転じて、城への距離を測る。
土人形を走らせて20歩ほどだ。近くて良かった⋮⋮と思ったた
ところで、城壁上の矢間にいる人影に目が吸い寄せられる。
青いマントを羽織った兵士だと思った。けれどマントの長さが違
う。
姿勢の良さに目を引かれたのかと思ったら違う。淡い色の軍衣を
着た姿に、私は悲鳴を上げそうになった。
﹁なんであそこにいるの!? ちょっ、誰か早く引っ込ませて!﹂
レジーだ。
高所に吹く風に銀の束ねた髪がなびいているのがわかる。
ゲームの映像が脳裏をよぎった。
私は足が震えそうになった。そんな場所にいて矢を射られたらど
うするのか。城門を突破されて、真っ先に危険になるのはそこじゃ
ないのか。
﹁カインさん、どうにか、どうにかして! レジーに矢が当たっち
ゃう!﹂
﹁落ち着いてキアラさん﹂
思わず隣のカインさんの襟元を掴んで訴えてしまうが、カインさ
んも真剣な表情をしながらも、私をなだめてくる。
313
﹁大丈夫ですよ。あの城壁より高い場所は、主塔だけです。まだ侵
入されていない上、この風の方向なら、レジナルド殿下のいる場所
に敵の矢は届きません﹂
﹁でも⋮⋮﹂
同じになってしまったらどうするのか。
思わずレジーを睨んでしまうが、遠くに小さく見える彼が、ふと
笑みを浮かべて右手を上げる。
矢間から、何か藁のようなものがばら撒かれ、次いで何かの液体
が城壁から降り注ぐ。
﹁油か?﹂
カインさんの言葉通りのものだと思ったのか、敵兵もやや距離を
取っただけで留まる。油さえかからなければ、火矢を放たれても消
えるまで待てばよいのだから。
レジーが手を振りおろすと同時に、城壁から火矢が放たれた。
ほぼまっすぐ下へ向かって射られた矢は、過たずに焚き付けのか
わりだろう藁に着火したが。
﹁⋮⋮煙が﹂
巻き起こったのは予想以上の煙だった。しかもやや緑っぽい。
煙はその場に雲をつくるようにもうもうと固まり、少しずつ敵側
へと流れていく。
姿勢を低くしながら煙をやり過ごそうとした敵兵だったが、とり
まかれたとたんに苦しみ出し、這うように逃げ始める。それを見た
他の敵兵が一目散に走り出し、城に近い前線が混乱していった。
﹁何の煙? 毒? そんなの城に⋮⋮あ﹂
私はようやくその意図を察した。予定変更だ。唾を飲みこんで、
私は下のアランに手を振る。
314
﹁まっすぐ進んで! 城の門へ飛び込むつもりで!﹂
声は届いただろう、うなずくのが見える。ややあってアラン達が
固まって走り出した。
ゴーレム
﹁行きますよ、掴まってて下さいカインさん!﹂
気合いを入れ、アランに先行するように土人形を走らせた。予定
よりも短い10歩。
︱︱そこですぐに90度反転した。
ゴーレム
土人形も城へ駆け込む騎士と共に動くと思ったのだろう、進路を
避けたと思ったルアインの兵士達の上を進む。
﹁⋮⋮っ﹂
私は唇を引き結ぶ。
ゴーレム
きっと沢山の人が踏み潰されてるはずだ。だけどひるんじゃいけ
ない。考えちゃいけない。
ゴーレム
土の柵にしがみつきながら、土人形を動かすことに集中した。
それにあまり上半身を動かさないよう土人形を進ませているが、
どうしても上下に揺れてしまう。なのでどこかにしがみつかないと、
ぽんと放り出されそうになるのだ。
﹁おっと﹂
最初は慣れずに困惑していたカインさんも、すぐに順応して私の
腕を掴んでいてくれる。本当に細かなところにも配慮してくれて、
有り難い。無事に帰ったら、感謝を評して土下座しよう。
ゴーレム
地上は土人形の方向転換に混乱しているようだ。
単体でルアイン軍の中に突っ込んで来る巨大な土の塊が、恐ろし
315
くない人がいるわけがない。踏み潰されないよう進路上から逃げ出
す者達と、矢を射ろと指示する者とで、全てがごちゃまぜになって
いた。
一方のアラン達は、真っ直ぐに城を目指す。
アラン達の目的は、ヴェイン辺境伯達を逃がすことだ。辺境伯達
は出陣後にルアイン軍と遭遇して、かなり長い時間戦っていたはず
だ。
出発時は千もいない兵力だったが、途中で他と合流出来た上で減
ったのかはわからないが、間違いなく半数以下に減らされるほどの、
熾烈な戦いを強いられていたのだ。疲労と共に、絶望的な状況では
心も折れそうになっていただろう。
疲弊しきった辺境伯達では、自ら血路を開いて城へ飛び込むこと
など不可能だ。
だからこの作戦が必要になる。
まずはエヴラール城へ向けて巨人も突撃するとみせかける。そう
ゴーレム
して道を作ったところを、アラン達とヴェイン辺境伯一行が走り抜
けるのだ。
幸い、辺境伯達があまり遠くには離れていなかった上、土人形が
脅したことで道は開けている。
その上レジーの起こした煙のおかげで、近くにいた敵兵が城門側
へすぐに駆け付けることができなくなっていた。
かなり楽に城門近くまで到達できるだろう。
私はその間に、ルアイン軍に攻撃をしかけるのだ。
ゴーレム
カインさんが支えていてくれるおかげで、私は土人形を走らせる
ことだけに集中できた。
何人の人を踏み潰しただろう。何人を蹴り飛ばしてしまっただろ
う。頭が混乱しそうになりながら、私はようやく目的地を見つける。
316
十重に騎士達に囲まれた場所。
中心に騎乗する何人かの、きらびやかな勲章をマントに着けた中
ゴー
年の男性達を見つけて、私はそこを目をつぶって、一気に駆け抜け
させた。
一度通り過ぎて、土人形を反転させる。
確認しようかと思った。
自分がちゃんと殺せたかどうか。確認しなければ。
レム
ゴーレム
そう思ったら、背筋がぞわりとした。吐き気がこみ上げて、土人
形に伝えている魔術がとぎれそうになった。土人形の左腕がもろり
と取れ、ただの土くれになって落下する。
次の瞬間、カインさんが自分の胸に押し付けるようにして、私の
視界を隠してしまう。
﹁急いでください。そのまままっすぐこの巨人を進ませて﹂
﹁⋮⋮うっ﹂
ゴーレム
ゴーレム
うん、という言葉も出なかった。けれどカインさんの言う通りに
土人形の足を動かさせた。
ゴーレム
足を止めた土人形が、再び走る。
今度は矢が当たらないようにしっかりと身を伏せて。土人形の柵
に掴まり続ける。
そうでなければ、その場に吐いて倒れてしまいそうだった。
ゴーレム
カインさんは、そんな私の状態に気付いて、視界を遮ったのだろ
う。見ればショックを受けて、なんとか保っている土人形が崩れか
ねない。
317
﹁あと10歩です﹂
ゴーレム
言われて、少しは心が落ち着いた私は顔を上げた。
再び走る巨大な土人形から逃げ惑い、前線の軍は崩れている。け
れど城門ではまだ競り合いが続いていた。
敵の中にも予想以上に勤勉な騎士達とその配下の兵士がいたよう
だ。奮起したのかアラン達を押しのけて中に入ろうとしている。
外から辺境伯達を招じ入れるためには門を開かなければならない。
ゴーレム
それは敵にとって千載一遇のチャンスでもある。特に、こんな巨大
な土人形がファルジア側に味方しているならば、なおさらだろう。
それをアラン達が抑え、薄く開いた門から他の者が中へと退避し
ていた。
私はアラン達を手伝うつもりだった。
ゴ
もう、疲労で上手く頭が回らないけれど、敵を追い払わないと城
に入れないことはわかる。
ーレム
城壁に飛び移ることも考えたが、それだと私が離れたとたんに土
ゴーレム
人形がくずれる。
城壁近くに土人形分の土嚢を積み上げ、敵に城の中に登りやい山
をつくってあげることになる。それは困るので、どうあっても手前
ゴーレム
で解体しなければならないのだ。
だから土人形に膝をつかせたのだが。
﹁ひょえええっ!?﹂
ゴーレム
背負い袋の中で大人しくしていた師匠が、悲鳴を上げる。
土人形を動かす加減を間違えて、落下する速度が早すぎたのだ。
遊園地のフリーフォール同然の感覚に、カインさんも息をのんでい
る。
ゴーレム
ジェットコースターが好きではない私も、それがダメ押しになっ
てしまい、とうとう土人形へのコントロールを失ってしまった。
318
土が崩れた。
もろりと固着していたものが離れたばかりの柔らかい土の上に落
ちたおかげで、投げ出されたショックは酷くはなかった。
失敗したのがわかったけれど、ここで後悔している暇はない。
起き上ろうとしたが、腕や足が震えて上手くいかない。けれども
私を抱き上げてくれる人がいた。薄くだけ開けられる目で確認でき
た。一緒にいてくれたカインさんだ。
﹁しっかりしてください!﹂
そう言いながらカインさんが走る。
けれど敵も魔術師を倒す好機を逃さない。
カインさんに肩に担がれたかと思うと、鉄が打ち合わされる音に
胃が縮む思いをした。
周囲は、私をめがけて走ってくるルアインの兵士達ばかり。
それを庇うように。アランが馬で駆け付けてくれた。馬上からど
こで手に入れたのか、槍をふるった。
一気に四人の兵士を薙ぎ払う。
私では決して手が届かない膂力といい、まさに主人公の名に恥じ
ない戦いぶりに見とれそうになる。
その間にカインさんが私を連れて走ってくれる。
けれど行く手もかなり混乱している。
青いマントの味方と黒の敵が入り混じって、けれどその中で私は
一人だけ目立ってしまっている。
抱えられている女の子。
それだけで他の屈強な男だらけの兵士の中では嫌でも目につくの
だ。抱えて走るカインさんも、息をきらせている。
319
なのに私も、見捨ててと言えない。
死にたくない。そう思ったから逃げ回ってきた。だからもう、自
力ではどうにもできなくなったのに、見切りをつけることができな
い。
だからカインさんやアランにごめんと謝るしかない。
そんな自分が嫌になりそうで、けれども一つの声が、ぎゅっと閉
じていた目を開かせる。
﹁キアラ!﹂
ちょうどカインさんが、私を抱え直してくれたところだった。
声と共に、前方の門が大きく開かれて、雪崩れるように兵士達が
飛び出してくる。
槍を構えて突進してくる兵士に、アラン配下の騎士達と戦ってい
た敵兵が次々と葬られた。
そうして吸い込まれるようにアラン達と共に、私は門の中へと移
動していた。
閉じられた門に、鉄の柵が下りた。
喧騒が一気に遠ざかり、私は自分が助かったことを知る。
私の意識を保つのは、そこまでが限界だった。
堪え切れずに瞼が閉じる。すっと首の後ろを引かれるように意識
が遠のいていく。
ただ、誰かが自分の頬に触れたことだけは感じた。
﹁君はバカだ⋮⋮﹂
カインさんから奪うように抱きしめられる感覚。その腕の力と、
匂いに、私はぼんやりと思う。
まだレジーは生きてる。
ほっとしたとたん、でも限界が来ていた私の意識は、そのまま暗
転した。
320
SS 未知との遭遇∼カイン・ウェントワースの場合∼︵前書き
︶
エヴラール辺境伯領攻城戦 1の前後の話です。
321
SS 未知との遭遇∼カイン・ウェントワースの場合∼
なぜ、これだったのか。
カインはじっと目の前の物体を見つめる。
素焼きの陶器のような赤茶けた色といい、土で人形を作って崩れ
ないのか? と思っていたが、それは大丈夫そうだ。
しかしこの大トンボかバッタのように大きな目。
変なくびれがある、三頭身か四頭身かというような胴体のつくり。
古代遺跡から出土したような、奇妙な模様はやや芸術的とも言え
るが、とにかく奇妙な形の人形だった。
せいぜい熊やウサギのようなものを作るか、老人の姿を模したよ
うなものが出来上がると思っていたカインは、絶句するしかない。
そうしてカインは思い出す。
彼女の部屋を訪ねたことはある。戸口で応対するキアラの肩越し
でしかないが、部屋の中にはこの土偶の気配を香らせるような代物
は無かったように思う。
ごく普通。
というか、むしろ女性としては簡素すぎると思うくらいだった。
年頃の女性の部屋ならば、ぬいぐるみや可愛らしい柄のカバーな
どで彩られているものだが、キアラはとんとその方面には興味がな
いのだろうか。
せいぜい出元が侍女のマイヤだとわかるような、フリルがついた
クッションが目に入るぐらいだった。
322
⋮⋮マイヤの趣味については、カインとしても理解しがたいもの
を感じている。
一度彼女と付き合ったことのある騎士が、上着のほつれを直すと
いうので彼女に預けたら、なぜか﹁時間があったので﹂と袖口にフ
リルを付けて返されたという話も聞いたことがある。
マイヤの作ったベアトリス夫人のハンカチは全てフリル装備だっ
たとか、いろいろ逸話がある上、実際それをカインも目撃している
からだ。
とにかくそこから考えると、キアラはもしかして⋮⋮センスがお
かしいから、部屋を自分の好みで飾らないのだろうか?
そして今回の人形は、彼女のセンスそのものの表れ、ということ
ではないだろうか。
術を終えたキアラも、自分が作りだした土人形を見てしばし呆然
としていた。
﹁げ⋮⋮﹂
つぶやくような声でそんなことを言うのだから、彼女にとっても
予想外の状況なのだろう。
⋮⋮やっぱり、無意識で作ったんですね、キアラさん。
カインがキアラのセンスに慄いている間に、もう口を動かさなく
なった老人から、光が立ち上ったかと思うと赤い石の欠片のような
ものが浮かび上がる。
それが土人形の体に溶けるように消えた。
幻想的⋮⋮な光景のはずだ。
魔術を見るのは初めてだったカインとしても、やや感動しかけた
のだが、出元が奇妙な笑い方をする老人で、行き先が奇怪な人形だ
323
と、驚きも変な形にしぼんでいく。
﹁おお、これがわしの新しい身体か!﹂
その人形がしゃべりはじめると、ますます奇怪さが増した。
成功して良かったですね。
そう言いたいのだが、口元がひきつって言葉が出てこない。
他の騎士達も、アランも皆、このキアラの作った土人形には唖然
としていた。
彼らの顔を見て、ちょっとばかりほっとした。やっぱり自分の感
覚は変じゃなかったと再確認できたので。
そうして城へ帰る途中のことだ。
﹁なぁ、ウェントワース⋮⋮﹂
一時間ほど移動したところで休憩を入れた時、アランがこそこそ
と話しかけてきた。
﹁キアラはなんで、あんな奇怪な物を作ったんだ? あれに人の魂
を入れるとか、どう考えても趣味が悪い﹂
﹁聞かれてしまいますよ﹂
さすがに趣味が悪いと言われたら、わかっていても傷つくものだ
ろう。だから注意したのだが、アランの口はそれでは止まらなかっ
た。
﹁だって考えてもみろよ、夜中にあれが廊下を歩いてるところを!
子供じゃなくてもびびるぞ⋮⋮。そんなことになったら、うちの
城が幽霊城呼ばわりされかねないだろ﹂
﹁いえ⋮⋮別にもう死人が出てる城ですから﹂
324
何度も攻城戦を耐えてきた城だ。周囲に埋められた遺体も多く、
城内で死んだ者だっている。
幽霊など今更のことではないだろうかと、カインは思うのだ。
﹁まさかアラン様、幽霊が怖いのですか?﹂
﹁いや幽霊は別に怖くは⋮⋮。見たことはないが曽々お祖父さまは、
十年ぐらいさ迷い歩いてたとか、いやあれは見回りの習慣が死んで
も忘れられなかったんだとか言われて、町民にまで笑われていたっ
ていうからな。ちょっとそういう話は恥ずかしいだろ﹂
怯えている様子はないので、これはアランの正直な気持ちだろう。
﹁だからな、あの人形が歩き回ってたり、そのうち慣れて普通にあ
の人形と話すようになったらだな、僕たち辺境伯家の人間があのセ
ンスを受け入れてるということになるわけで⋮⋮﹂
﹁ようはあのセンスを受け入れたくない、と﹂
﹁お前だってどうなんだよ。キアラは平気そうだし、あの人形をこ
れからもずっと連れ歩くんだろ? いつでも一緒なのはお前の方な
んだぞ?﹂
言われて、カインも思わず考えてしまう。
どちらかというと、笑顔で駆け寄ってくるキアラが、あの人形を
抱きしめている姿を。
上手く微笑み返せるだろうか⋮⋮頬がひきつりそうだ。
もう一つ想像してしまう。
逃げてくるキアラが、あの人形を持っていたら。
抱きとめた後であの人形と目が合ったら、驚きで叫ぶのをこらえ
るのに苦労しそうだ。
325
そんなことを考えていたカインだったが、城が近づいたところで、
何もかもが頭から吹き飛んだ。
まだ時間があるはずだった。
なのにもう、城がルアイン軍に包囲されている。
カインは昔、こうしてルアインが攻め込んできた時のことを思い
出す。
戦いに備えて母や弟の行方を探すこともできず、どうして騎士な
どになったのか。下っ端の兵士であれば、今すぐにでも家族の元へ
走っていけるのにと、悔しくてたまらなかったことを。
今度は家族はいないけれど、主として尊敬していた辺境伯夫妻を
失うかもしれないのだ。
もう一度、あんな目に遭うのかと奥歯を噛みしめていたカインだ
ったが。
キアラが魔術を使うと言う。
けれどまだ魔術師になったばかりのキアラには、できることが限
られるらしい。
それでもできる限りの範囲で策を考え出し、キアラはそのために
魔術を使って剣よりも強い兵器を作った。
どんな者にも倒せそうにない、巨大な土の人形を。
﹁おい、ウェントワース﹂
ゴーレム
数秒ほど口を開けて巨大土人形を見上げていたアランが言った。
﹁さっきまでの暴言を撤回しようと思うんだ﹂
暴言というのは、キアラの師匠ホレスが入っている人形について
のことだ。
326
﹁どんなに不格好だろうと、あの人形がいなければこれが出来なく
て、だからこそ城を守れるかもしれないと思えば⋮⋮どうでも良く
なった﹂
そんなアランに、カインはうなずいた。
ゴーレム
﹁同感ですね。今なら崇めてもいいと思えます﹂
そうして土人形を見上げる二人に﹁やったできたー!﹂と喜んで
ホレスを振り回していたキアラが声を掛けてくる。
﹁行きましょう!﹂
そしてカインとアランは、同時にうなずいたのだった。
327
2あたりの小話になります。
SS その時城で∼グロウル∼︵前書き︶
本日もエヴラール辺境伯領攻城戦1
328
SS その時城で∼グロウル∼
北の方で狼煙が上がった。
けれど一瞬だったらしい。
念のため報告を持ってきた兵士がエヴラール辺境伯夫人ベアトリ
スの部屋へやってきた時、レジナルドとその近衛騎士グロウルも同
席していた。
﹁一瞬だけだったので、見間違いかもしれませんが念のためお知ら
せに﹂
頭を垂れて報告する兵の話を聞いてすぐ、レジナルドはベアトリ
スに目を向けた。
﹁伯母上、おそらくルアインの軍が来たのでしょう﹂
﹁こんなに早く?﹂
﹁農村で物を燃やしたのだとしたら、一瞬で煙は途絶えないでしょ
うから﹂
そうね、とうなずいたベアトリスは椅子から立ち上がった。
﹁主塔からの監視を強化。城壁上で弓兵待機。町民の避難を急かし
てくるわ﹂
そうして部屋を出ていこうとするベアトリスに、レジナルドも立
ち上がって言う。
﹁防衛の件については私にお任せ下さいませんか、叔母上。急なこ
329
とですから、手が足りないでしょう﹂
﹁私もエヴラールに来てから、防衛戦は経験したことはあるけれど
⋮⋮﹂
立ち止まったベアトリスが、きゅっと唇を引き結んでから、何か
に耐えるような声で言った。
﹁そうね。予定通り準備が終わっていれば良かったのだけど、手伝
ってくれると嬉しいわ。それに防衛戦の時にも、城の外へヴェイン
は連れて行ってくれなかったから。戦に出たことのある貴方が指揮
をとった方が、いいのかもしれないわね﹂
何が一番最善かを、考えての返事だったのだろうが、勝気なベア
トリス夫人には、自分一人で全てをまかなえないことが、少し悔し
いのだろう。
辺境伯が好きだからこそ、父王にも内緒で剣を使えるようになり、
馬で遠乗りに出かけたと思ったら騎射の練習をこっそり繰り返して
いたという人だ。
話によるとそんな努力を続けた末に﹁戦場でもお役に立てますか
ら、私を妻にしてください!﹂と、夫人の方から辺境伯に求婚した
というのだから、今の状況は口惜しいにもほどがあるはず。
そんなベアトリスにレジナルドが言う。
﹁辺境伯は、伯母上が大切なんですよ﹂
だから危険な城の外へは出したくなかったのだろう。
ベアトリスはふと肩の力を抜いて、苦笑した。
﹁あなたは子供の頃から口が上手いのよね。あなたのお父様︱︱エ
ルドレッドお兄様はそれほど口が上手くなかったのに。リネーゼお
330
義姉様だって大人しくて素朴で、詐術に向かない方だった。一体誰
に似たのかしら。とりあえず私は皆に、戦時の準備を急がせるわ﹂
そうしてベアトリスは部屋を出ていった。
﹁さて、もう戦闘のための装備を整えておこうか。用意はしてきて
あるんだからね。荷物はどこにやったかな、グロウル﹂
﹁ただいま侍従を呼んで参ります﹂
すぐに着替えるというレジナルドにそう答え、グロウルは部屋の
外へ出た。
廊下で、すぐにグロウルはレジナルドの侍従と会えた。侍従の少
年は、お茶の用意をして部屋に戻ってくるところだったのだ。
グロウルから戦用の服に着替えると言われて、侍従の少年は慌て
た様子で部屋に入っていく。
グロウルはその後を追わず、他の騎士達に戦時の対応が必要にな
ったことを知らせに行くことにした。
それもすぐに配下の騎士を捕まえてしまえば終わる。
ならば自分も準備をしようと、部屋で鎧を身に着けながら思い出
す。
昨日のことを。
部屋の扉を閉め切って、レジナルドがキアラと二人きりで話をし
た時。
グロウルの呼びかけに応じて出てきたレジナルドの様子が、おか
しかったことを先程の会話で思い出したのだ。
正直、中で何の話をしていたのか気にならないと言ったら嘘だ。
王子の近衛として傍にいるグロウルは、王子の交友関係にも気を
331
配ってきた。
命じられたわけではない。そもそも養父である国王が、むしろ堕
落してくれと思っていたぐらいなのだから。
レジナルドの方も、自分の命を縮めそうなもの、そうでないもの
を見分けるためにそのあたりは慎重だった。
そんな彼が裏を考えることなく接したのが、キアラだ。
他の者より特別扱いはしていたが、女性には優しく応対するレジ
ナルドのことだから、と思うこともあった。
配下の騎士フェリックスなどに聞けば﹃隊長、二人っきりで椅子
に座って手を握り合ってたんでしょう? じゃあもう、あれじゃな
いですか?﹄と言われるだろうが。
グロウルからは、レジナルドが二人の間に何らかの線を引いてい
るように思えたのだ。
少なくとも伯爵令嬢だった彼女を平民扱いにすると決めた時は、
レジナルドもそのつもりだったのではないかと考えていた。
それは王子自身のためかと思っていたのだが⋮⋮昨日の会議の場
で、その時一番有効だろう策を押し留めるようにキアラを止める発
言をしたレジナルドを見て、グロウルは迷ったのだ。
王子も大切だから、あの娘を止めたのだろうか。
それはどれだけの大切さなのか。
辺境伯が、夫人に向けるのと同じ気持ちだったとしたら。
﹁だからといって、どうするんだ⋮⋮﹂
思わずグロウルはつぶやく。
どうにもできないだろう。
332
レジナルドは彼女を愛人の位置に置くことを、了承しないはずだ。
それは王子の両親である王太子夫妻が関係するのだが⋮⋮。
だからレジナルドは、いくら彼女を思っても手放さなければなら
ない。
そう思っていたから、レジナルドがキアラに対してやや逸脱した
行動をしていても、グロウルは見ないふりをしていたのだ。
せめてその時まではと。
その全てをひっくり返したのは、キアラだった。
ゴーレム
とうとうやってしまったのか。
巨大な土人形を見たとたん、そんな言葉がグロウルの頭の中に浮
かんだ。
ゴーレム
城壁の上に居るグロウルには、どすどすと走っている土人形の姿
がよく見えた。
ゴーレム
弓兵達も、ここぞとばかりに動きの鈍いルアイン軍に矢を射ては
いるものの、どうしてもあの土人形が気になって、ちらちらと目を
向けているのがわかった。
それも仕方のないことだ。
絵物語以外で、誰があんな物体を見たことがあるだろうか。
そしてこんな事をやり遂げる人物など、おそらく魔術師になれる
と言って魔術師を探してたキアラしかいないだろう。
﹁殿下、あれは⋮⋮﹂
﹁やっちゃったみたいだね、キアラは﹂
ゴーレム
口調は優しくとも、レジナルドは厳しい目を土人形へ向けている。
そのすぐ下を駆けていく、少人数の青いマントの集団にも。
333
おそらくそこに、彼女がいるからだろう。
ゴーレム
そして魔術師になったのは、間違いなくキアラだったようだ。
巨大土人形に乗った姿に、確信せざるをえなかった。カイン・ウ
ェントワースがそんな賭けみたいな真似をするとも思えないからだ。
しかし、とグロウルは思った。
魔術師なら、キアラは王の隣にも堂々と立てる存在になったのだ。
レジナルドにも意見できるだけの権力を得ることになる。⋮⋮グ
ロウルが密かに心配していたように、心を傾けられる相手と離れる
しかない状況だけは避けられたはず。
﹁嬉しくはないのですか?﹂
ゴーレム
そう聞いてしまったのは、レジナルドにとっては有利な状況にな
ったこともそうだが、巨大土人形の存在でエヴラールが救われると、
グロウル自身も少し安心してしまっていたせいかもしれない。
しかしレジナルドはうつむいたまま、城壁の上から降りるための
階段へ向かっていった。
﹁キアラは⋮⋮自分を縛ってしまったんだよ。その選択は彼女が自
分の意思で決めたものでも、彼女が一番逃げたかった死に近づいた
んだから﹂
そうしてぽつりとつぶやいた。
﹁どうして君は逃げてくれなかったんだ⋮⋮﹂
334
つかの間と教育的指導
気付けば、石の天井が見えた。
まばたきをしながら、ぽつりぽつりと思い出す。
その直前までどこにいたのか、何をしていたのか。何を見たのか。
﹁⋮⋮っ﹂
呼吸が苦しくなる。
必要だったから戦った。自分にしかできないとわかっていたから、
逃げる気はなかった。
だけどやったのは、沢山の人を殺すことばかり。
城はまだ無事だった。ヴェイン辺境伯も助けることができた。敵
をある程度倒すこともできたと思う。
でも上手くいった喜びなんて、心の中に見つけられない。必死に
なる時間が終わって、少し休めると思うだけ。
後は目裏に蘇る、人の死体、死体、死体⋮⋮。
全部覚悟してやったことだった。最初から、私は戦争に積極的に
関わるつもりだったんだから。そのために魔術師になったのだから。
﹁キアラ、気がついたの?﹂
優しく声をかけられる。
傍に人がいたのだ。寝返りをうって顔を横に向けると、そこにい
たのは同じベアトリス夫人の侍女であるマイヤさんだった。
部屋の中は薄暗くて、小さな卓の上に置かれたろうそくしか光源
がない。そのせいだけではないだろうが、マイヤさんは疲れたよう
335
な顔をしている。いつもは邪魔にならないようきっちりとシニヨン
に編んだ、褐色の髪もほつれていた。
﹁⋮⋮たし﹂
私、ここで何時間眠ってしまったんだろう。まだルアインは城を
囲んでいた。あれからどうなったのか。
みんなは、まだ無事でいてくれてるのか。
質問したくても、声が枯れてうまく言葉にできない。
するとマイヤさんが私の体を起こしてくれて、傍に置いていた冠
水瓶から水を注いで飲ませてくれた。
⋮⋮手が震えて、一人で飲んだらこぼしそうだったのだ。マイヤ
さんには手間をかけさせてしまった。
﹁あれから、どれくらい時間が経ったんでしょう﹂
﹁三時間くらいよ。今は夜﹂
﹁ルアイン軍は、どうなっ︱︱﹂
いろいろ聞きだそうとした私から、空のグラスを受け取って卓に
置いたマイヤさんが、ぎゅっと抱きしめてくれる。
どうしたんだろう。何か言い難いような悲しいことでもあったの
かと慌てる私に、マイヤさんが優しく背中を叩いてくれる。
﹁大丈夫。全部キアラのおかげよ。ルアインの軍は今、城から少し
距離を置いてる﹂
ああ、自分がしたことはちゃんと役に立ったんだ。ゆるゆると心
が緩み始める。けれどそれも次の言葉で凍り付く。
336
﹁あなたが敵の将軍を討ち取ったから、指揮系統が混乱してるのよ﹂
﹁討ち取った⋮⋮﹂
ゴーレム
たぶんそれは、私が土人形に踏み潰させた相手。
自分がしようとしていることが怖くて、彼らの顔を見たりはしな
かった。騎士に囲まれて、立派な上着を着ている人達がいたから、
たぶん彼らさえ倒せば、他の沢山の兵士を手に掛けなくても引いて
くれるだろうと。それだけを考えてた。
討ったというからには、たぶん一緒にいたカインさんが見ていて
くれたのだろう。確認するのも怖かった私の代わりに。
﹁おかげで、みんな少し休むことができているわ。ヴェイン様も無
事にお戻りになれたし、あなたという魔術師がいることで、敵もお
いそれとこちらには攻め込めないはずよ。本当にありがとうキアラ﹂
もう一度ぎゅっと抱きしめたマイヤさんは、私が起きたことを知
らせてくると言って部屋を出ていった。
私はぼんやりとしてしまう。
感謝されるようなことができた。それは喜ばしいことなのに、嬉
しいという感情が湧いてこない。
私⋮⋮うれしくない?
心の中に疑問が浮かぶ。なんで自分が喜ぶこともできないのか、
よくわからない。ただ疲れたような気がする。
だからか、扉をノックされても、返事が喉につかえてなかなか出
てこなかった。うつむいたまま顔を上げられなかった。
けれども相手は、返事がなくても入室してきた。
337
黙って歩み寄ってくるのは誰なのか。顔を上げて確認するのもお
っくうだった。
その人物がマイヤさんがいた椅子に座ったかと思うと、黙って私
を抱きしめた時には、もう無視することはできなかった。
見覚えのある淡い色の軍衣に、覚えているその匂い。
﹁れ⋮⋮﹂
﹁大丈夫、無理に何か言おうとしなくていい。こうしてるのが、嫌
じゃなければ、だけど﹂
ああでも、とレジーは笑いを含んだ声で続けた。
﹁嫌だと言っても離さないよ。君は随分とまた無茶をしたみたいだ
からね。私の寿命を縮ませた分だけ、嫌がらせをしようと思って君
が目を覚ますのを待ってたんだから﹂
レジーはそんなことを言うけれど、嫌がらせでこんなに優しく背
中を撫でたりはしない。手の温かさに、背骨の奥まで凝ったものが
溶けるような錯覚を起こしてしまうほどなのに。
でもこれに、どこかで覚えがある感覚だと思った。本当に小さか
った頃、もしくはずっと昔、前世で母親に甘えていた時のようで、
どこか不思議だった。
そのせいか、いつの間にかくったりとレジーに寄りかかってしま
っていたら、レジーが私の左手を掬い上げるように掴んだ。
﹁私はね、君が魔術師になることを選んだのは、どうしようもない
と思っているんだ﹂
独り言のように告げながら、レジーが指先に口づけてくる。
338
人差し指の先に感じる、柔らかな感触。え、と思って肩が跳ねた。
﹁私が手配した援軍も早くて明後日の朝の到着だ。ルアインがいざ
こざで警戒されているはずのサレハルドを、強引に押し切って軍を
なだれ込ませたことも読めなかった。すべて⋮⋮私の読みの足りな
さが招いたことだ﹂
淡々と言葉を並べながら、悔しさを表すように軽く指先を噛まれ
た。
﹁⋮⋮っ!?﹂
ちりっと甘い痛みに、どうしてそんなことをするのか理解できず
に混乱する。
﹁あの、レジー﹂
今度は掌の中央に唇が触れた。くすぐったさに息を飲んだ。
ま、待って待って!? これってどういうこと?
私とレジーって友達だよね? でも友達が相手の指をかじったり
とか、唇くっつけたりってしないよね!? 男同士でそんなことさ
れたらおかしいってことは、男と女の友人同士でもしないってこと
で。
その時に思い出したのは、昨日、会議の前に抱きしめあったこと。
わかって欲しい。なんでわかってくれないのかと思って、どうや
ったらレジーにうなずかせられるかわからなくて︱︱近づきすぎた
ことを。
私の混乱をよそに、レジーは話を続ける。
339
﹁ヴェイン辺境伯を助けたところまではわかるんだ。でも、その後
のことは、もう少し君自身を守ろうと考えて欲しいと思ってしまう
んだよ。君は私がいることに気付いていた。それなら、辺境伯を助
ける手伝いをするよう言えば良かったんだ。なぜ頼ってくれなかっ
たのか⋮⋮。そんなにも私は、頼りないんだろうね﹂
レジーが手首の内側にやわらかに口づけた。
﹁やっ﹂
背中がぞくりとした。
﹁嫌⋮⋮?﹂
私を覗き込んでくる顔が悲し気で、思わずやめてという言葉を飲
みこんでしまう。
﹁え! 嫌っていうか、怖いっていうか﹂
﹁私のことは、嫌いになった?﹂
﹁嫌いになんて⋮⋮なれないよ。たぶん一生﹂
心の中のどこを探しても、レジーが嫌いという気持ちはないのだ。
困惑しているだけ。
もし他の知らない人にされたら、とんでもなく嫌なことだろうに。
﹁どうして君はそんなことを言ってしまうんだろうね。いっそ嫌わ
れた方が、抱きしめるだけで、大人しくしてくれるようになるのか
と思い始めてるところなんだけど﹂
﹁なんでそんなに、私に嫌われたいの?﹂
340
﹁無茶をしてほしくないのに、一向に伝わっていないみたいだから
ね。ウェントワースがついていかなかったら、君は一人でやるつも
りだっただろう? そうしたら、君は途中でルアイン軍のただなか
に投げ出されて⋮⋮﹂
ゴーレム
私から身を離したレジーが語る言葉に、思わず想像してしまう。
ありえる話だった。
ウェントワースさんが支えてくれなかったら、走る土人形の肩に
つかまるのが必死で、途中で魔術を使えなくなってしまっていただ
ろう。そうしたら、沢山の仲間を殺した魔術師がたったひとりでそ
こに倒れていたら。
千の剣や千の槍で突き刺されるだけで、済むかわからない。
血の気が引く私に、ようやくわかってくれたのかという表情で、
レジーが続けた。
﹁君は自覚が足りなさすぎるように思うんだ。兵士でさえどうなる
かわからないのに、女の子が敵地に一人で投げ出されて⋮⋮しかも
私達もすぐには助けられないような場所でだ。そこまで自分の身を
粗末にするのをどうやったら止められるか、私も考えたんだ﹂
確かにレジーの言う通り、無謀な行動だった。
だからお説教が始まるのかもしれないと思ったのだが︱︱。
毛布の上からだけど足を掴んだレジーに、さすがにキアラもぎょ
っとする。
﹁え、何!?﹂
﹁ここまでへりくだって、君に懇願したらわかってくれるかと思っ
て﹂
言いながらレジーが足先だけ毛布をよけ、甲側に顔を近づけるよ
341
うに身をかがめようとしてって、ちょっ、まさかそこに!? 手み
たいなことする気なの!?
﹁やっ、だめっ、だめだったら! 王子様がそんなことしちゃマズ
いでしょ!﹂
靴をお舐め! みたいなことをどうして王子なレジーがしようと
するの!
﹁けど、普通のお願いじゃ君は聞いてくれないし⋮⋮﹂
悲しそうに目を伏せがちにするレジーに、思わず力が抜けそうに
なったけど、でもだめだから!
﹁悪かった! ほんとに私が悪かったと思ってますから、そんな真
似しちゃわあああああっ!﹂
足を引っ張られて悲鳴を上げる。しかし未遂のまま顔を上げたレ
ジーは、けろっとした表情で指摘してくる。
﹁暴れると毛布、めくれて脚がみえちゃうよ?﹂
﹁レジーが放してくれたら問題解決よっ!﹂
必死になって叫べば、レジーがくすくすと笑い出す。
﹁じゃあこう言ってくれたらやめてあげるよ。﹃今度はちゃんと手
伝ってもらうから﹄って﹂
﹁わ、わかった。今度はちゃんと手伝ってって言う⋮⋮﹂
ようやく足から手を離してもらえて、肩で息をつきながらレジー
342
の言う通りにした。
たぶんかなり怒ってたんだろうけど、レジーの教育的指導が⋮⋮
すごい怖い。
さすがの私も、逆らうまいという気持ちにさせられたのだった。
343
喜べない気持ち
肩で息をするほど、今のやり取りで疲れ果てた私に、間髪を入れ
ずにレジーが続けた。 ﹁でも君のおかげで沢山の味方が救われたのは確かだ。みんなが君
を英雄だと言ってる。良かったねキアラ。君の望みはちゃんと達成
できたんだよ⋮⋮うれしいだろう?﹂
﹁うれし⋮⋮くな⋮⋮﹂
不意打ちに、ぜいぜいと息をついていた私は、喜ぶ振りもできな
かった。
だから言ってしまってからハッと気づく。
︱︱うれしくないなんて言っちゃだめだ。
レジーが言っていることが、嘘じゃないとは思う。みんなが助か
ったのは良かった。だけどうれしいと言えない。
喉の奥につっかえたように、その言葉だけは出てこないんだ。
ややあってレジーが﹁そうか、君はそのことが引っかかってたの
か﹂とつぶやく。
この反応で、彼は察してしまったようだ。
﹁知らせてくれた辺境伯夫人の侍女が、君の様子がおかしいと言っ
ていたが、そういうことだったんだな。でも君はうれしいって気付
くべきなんだよキアラ。喜んでいいんだ﹂
﹁でも⋮⋮私の感覚がオカシイのかもしれない。やっぱり人を殺し
344
たことが⋮⋮どうしても⋮⋮﹂
﹁罪悪感がある?﹂
尋ねられて、うなずく。
してはいけないことをした。それが大きい。
ゲームの中ならば﹃倒した﹄で済んだけれど、現実になってしま
った今では、倒すこと=殺人だ。
今世もどちらかというと踏みつけられる側で、伯爵令嬢だった時
なんて、殺生からは遠い場所にいた。そのせいか、前世の道徳観が
私を縛る。
﹁悪いことをしたと思う必要はないよ。だって殺さなければ、君だ
って殺されていたかもしれない﹂
レジーは私に言い訳を与えてくれる。
確かにその通りだ。こうして誰かを殺すことが辛いと思っていて
も、それと引き換えにレジーや辺境伯を救えないのは嫌だった。
近しい人達を守るために、どうしても誰かを犠牲にするしかなか
った。天才じゃない自分では、それ以上の方法を探せなかった。
でもやっぱり人を殺したくなどなかった。
必死な間は考えないようにできたけれど、命の危機が去った後で
はもう無理だ。体が震える。
誰かの人生をそこで止めてしまった。悪いことをしたとは思う。
でもその責任なんてとれるわけがない。
どうにもできないけれど、自分が恐ろしいことをしたという罪悪
感で、頭の中が混乱しそうで。
﹁それでも納得できなければ、君が殺した相手は、私が殺したのだ
と考えてほしい﹂
345
﹁え、でもレジーに背負ってほしいわけじゃ⋮⋮﹂
﹁私にとっては、それは重荷にならない﹂
レジーはきっぱりと言い切った。
﹁それが上に立つよう生まれてきた私の役目だよ。戦を指揮する代
わりに、私や責任をとるべき人間が誰かを殺すこと、味方にも死ん
でもらうことを決めて実行している。だから私のような者が責任を
負うのは当然のことだよ。だから慣れているから心配しなくていい﹂
レジーの言葉に、私は息を詰める。
正直、そんな風に戦争のことをレジーが考えているとは思わなか
った。
だから言われて初めて私は考えた。指揮官が、何の責任も感じて
いない人ばかりじゃないということを。
彼は号令一つで、味方を死地に追いやる立場だ。
特に作戦の最終決定をするレジーのような立場なら、考えが足り
なければ、味方を全滅の憂き目に遭わせることにもなりかねない。
怖いことを実行していると自覚していながら、レジーは慣れてい
ると言う。
でも、と思う。彼だって全く辛くないわけじゃないだろう。
﹁ねぇ、キアラ。だから私は君が矢面に立つことに反対したんだ。
君は察しも悪くない。機転もある。だけど良くも悪くも普通の女の
子だ。人を殺し、殺される恐怖にさらされる場所に立つのは辛いだ
ろうと思った﹂
レジーはこうなることを見越して、私を止めていたようだ。
346
﹁君では耐えられない。だから魔術師になどさせたくなかったんだ
⋮⋮。それで私が生き延びられるのだとしても﹂
反論はしにくかった。
そこまで考えた上で反対していたレジーに、彼の予想通りに打ち
のめされた私は何も言えない。
落ち込んでしまう私の耳に、扉をノックする音が聞こえた。
私の頭をぽんと撫でて、レジーが立ち上がる。たぶんノックは、
何かの時間が迫っていることを、レジーに知らせるものだったのだ
ろう。
﹁今からでも君がそうしたいのなら、魔術師として積極的に戦いに
出なくてもいいようにできるだろう。だから決めると良い。この城
に留まり続けても、何らかの形で守るために君は力を使うことにな
るかもしれないけれど。戦争に連れて行かないと押しきることなら
できるからね﹂
静かに私の逃げ道を提示して、レジーは部屋を出ていった。
なんて人だろう。
家出をしたことを隠していたのに、理由も全部言わせるよう仕向
けて、何事もなかったかのように帰り道の地図まで渡された気分だ。
﹁なんだか、落ち込む⋮⋮﹂
少しは気分がマシになったことも、なんだか悔しくなる。
すると、小さな笑い声が聞こえた。
﹁⋮⋮青春だの。イヒヒヒッ﹂
﹁っ!? ホレス師匠なの?﹂
347
この声は間違いない。ていうかどこ?
慌てて探せば、寝台があるのとは反対の壁、今は火を入れていな
い暖炉の上に、置物のように鎮座していた。頭がいっぱいだったせ
いで気付かなかった。
﹁や、うそ、まさか全部見て⋮⋮﹂
見られてたの!? と慌てた私に、ホレス師匠がほけほけと楽し
気に言う。
﹁いやーいいものが見れたわい。魂だけでも生き残った甲斐がある
ってもんだの。せっせと動物の世話をしてた間は、こんなに楽しい
ものまで見られるとは思わんかったが﹂
ぐ⋮⋮やっぱり全部見られてたんだ。ていうか、魔獣は動物扱い
ですか。
あまりの恥ずかしさに、私はついホレス師匠に言ってしまう。
﹁いるなら教えてくださいよ師匠! もー、どうして人のプライベ
ートをじっくり黙って見てるんですか!﹂
わかっていれば、レジーが来た時にグロウルさんに預けるように
頼んだのに。
﹁お前さんの背負った袋の中で、上下にゆさぶられるわで、さすが
に魂が入ってるだけの人形であるわしも、ちょっと具合がわるくな
って休んでおったのよ。そうして黙っておったら、なんだかお前さ
んの私物だと思われたらしくてな。お前さんのこと看病してた娘っ
子が大事に飾ってくれたのだがな。ヒヒヒッ﹂
348
﹁う、ううう⋮⋮﹂
私物扱いというのもすごく不本意だ。
自分で作っておいてなんだけども、さすがに土偶は女の子の持ち
物としては⋮⋮こう、ちょっと可愛い代物じゃない。すごい変なセ
ンスの子だと思われたのではないだろうか。切実にマイヤさんの誤
解を解きたい。
﹁やだなぁ、師匠が趣味だと思われるの⋮⋮﹂
思わずそうこぼすと、ホレス師匠が﹁ほ?﹂と声を上げる。
﹁おい、ちょっと待て弟子よ! わしは一体今どんな姿を!?﹂
あ⋮⋮しまった。師匠が一体どんな姿をしてるのか、ほとんど説
明してないんだ。
ゴーレム
﹁えーっとほら、あの土人形の縮小版みたいな﹂
﹁本当とは思えんな。あんな感じならば、お前さん、そこまで嫌が
らぬだろうが﹂
師匠、察しが良すぎです。
突っ込まれてしまうと、上手い良いわけが思い浮かばなくて、私
は思わず黙り込んでしまう。
すると、かちゃかちゃいわせながら師匠がじだんだを踏み始めた。
﹁この体、少しは首を動かせるからな。ちらっと手とか足とか見え
るのだぞ! なんぞ細かな模様が入っておって、陶芸品みたいな感
じではないか。じゃからちょっとわし上品な代物になったかも、な
んて思っておったのに! そうだ、思い返せばわしを見た人間が皆、
349
やたらとぎょっとしておったな⋮⋮﹂
﹁いや、ほら、土人形がしゃべったら誰だってびっくりするじゃな
いですか﹂
﹁そんな風ではなかったであろう! その後も気味悪そうな顔をし
てる者もおったぞ! 気にしないようにしておったが、まさか、と
んでもない形をしておるのではないだろうなぁぁぁあっ!?﹂
ホレス師匠がヒートアップする。
﹁せっかく生き延びたというのに、くぅぅ。一体わしはどんな姿を
⋮⋮﹂
とうとう土偶がその場に膝と手をついて嘆きだす。
⋮⋮どうしよう、面白い。
それと同時に、なんだか気持ちが浮き上がる気がした。
目の前で殺されたはずの師匠。ほんとうなら、砂になって何も残
らずに消えるはずだった人だ。
魔術師くずれが死ぬのを見た時は、自分の未来の姿もこうなるの
かと怖かった。けれど師匠の時は、不思議と怖くなかった。
それは多分、師匠が死にたくないと言って、魂だけでも生き残る
ことを選択してくれたからかもしれないと思う。
そんなことを考えていたからか、つい気持ちが口に出てしまった。
﹁師匠、生きたいって言ってくれてありがとう﹂
ぽつりとつぶやけば、ぴゃっと立ち上がった遮光器土偶が、カタ
カタっと後ろによろめいた。
350
﹁な、なんじゃ急に? 取引の条件じゃろうそれは。⋮⋮急にどう
したんだこの娘は⋮⋮、わしまで懐柔する気か、恐ろしいっ﹂
﹁何の話ですかそれ⋮⋮﹂
一体誰が私なんかに懐柔されたというのだろう。師匠が言ってい
るのが⋮⋮だという可能性はあるけど、別に彼の場合、そういうわ
けじゃないだろうし。たぶん何があっても、あの人は自分の立場を
考えずに行動はしないだろう。
ほぼ全員が味方のエヴラール城内だから自由にしているだけで、
他の場所だったら、使用人な私の部屋にさくさく入ってきて長話し
て出ていくわけがない。
﹁懐柔というのは、弟子が、情に訴えようとしておるという話じゃ﹂
情に訴えられたら、ほだされそうってこと?
﹁てことは⋮⋮デレそうだってことですか? 師匠のカテゴリはツ
ンデレじゃなくてツン素直ですよ。尋ねるとやたら素直にしゃべっ
てくれるので、拷問要らずですよね﹂
﹁ご、拷問!? お前は一体何をする気じゃ!?﹂
またカタカタっと後ろに退くホレス師匠。
なんだこのオモシロイ土偶。私は堪え切れずに笑ってしまった。
本当に、この変な笑い方をする老人を師匠にして良かったと思う。
選択肢がなかった状態で即決したことだけれど、師匠選びだけは
運を天に任せた末に、賭けに勝ったという満足感がある。
だから素直に喜べたおかげで⋮⋮少し、気が楽になった。
351
雇用契約の変更
会議がある。来てほしい。
そう言われたのは、ひとしきりホレス師匠をいじって遊び、その
後マイヤさんが持ってきてくれた食事を食べた後だ。
ついでに師匠は置物ではないことを説明しようとしたら、師匠が
置き物のふりをしたために、マイヤさんに可哀想な子かもしれない
と思われそうになって非情に焦ったりもした。
結局は師匠が魔法の産物で老人がインしていることを納得しても
らったのだが⋮⋮﹁魔術ってすごいのね﹂と感心しながら、マイヤ
さんが﹁でもデザインはキアラがしたんでしょ?﹂と爆弾を落とし
たことによって、私のセンスがオカシイという認識が確定したりも
した。
その後、やっぱりおかしい外見なのかと騒ぐ師匠に、鏡を見せて
愕然とさせてみたりもしたわけだ。
そんななごやかな場に、呼び出しが来たのだ。
今度は、召使のおばちゃんが呼びに来たわけではなかった。
辺境伯の騎士が、正式な呼び出しとして私の元へやってきたのだ。
⋮⋮私は、自分の立場が変わったのを感じた。
たぶん辺境伯は、私が魔術師になったことで扱いを変えたのだろ
うと思う。
そして呼び出しを受けて、私は数秒だけぼんやりとしてしまった。
軍議に出る。再び敵を殺すための算段をすることになるのだ。
戦争がきれいごとじゃないのは思い知った。この期に及んでも、
352
誰も殺したくないという気持ちがあったり、どうにかできないかと
思ったりもする。
けれど思わず悩んで唇をかみしめた私に、師匠がささやくように
言った言葉に、決心する。
﹁お前は、仲間に生きていてほしいんじゃろが?﹂
私が魔術師になろうとした理由。
砂になりはてるような、普通じゃない死に方になってしまうとし
ても、その最期を選んだ理由を、ホレス師匠に思い出させられたの
だ。
召集に応じることにした私は、まず着替えなければならなかった。
失神している間に木綿の柔らかな寝衣を着せられていた私は、騎
士さんに部屋の外で待ってもらうよう頼んだ上で、マイヤさんに手
伝ってもらって衣服を改めた。
しかし服を選ぶのに、迷うことになる。
魔獣討伐時は、動きやすいので男物の小さな服を借りて着ていた。
すぐに活動するのならそういうものの方が良いかもしれないと思っ
たが、マイヤさんはぜひこれを着ていけと、一着のドレスとマント
を差し出してきた。
厚地でしっかりとした作りのドレスだけれど、私の持っていた物
ではない。
色は派手ではなかった。むしろ私の目の色に近い、灰がかった深
い緑。そしてマントは、ファルジア王国の軍のものである証の青い
色だ。
﹁ベアトリス様が、キアラにこれを着せなさいって下さったのよ。
353
あなたが魔術師として動かなければならなくなった時に、普通の軍
衣ではだめだと言って﹂
ベアトリス夫人は、就職お祝い的な意味でこの装備を用意してく
れていたようだ。しかも私が﹁魔術師に、俺は、なる!﹂みたいな
ことを言い始めた辺りから、作ってくれたという。
なんかお母さんみたいだ⋮⋮。目からしょっぱい液体がにじんで
くる。
しんみりしながらマイヤさんに押されるままに着てしまったが、
ゴーレム
そこでふと気付く。
あれ。これだと土人形に乗って突進とかできなくない?
さすがにLV1な私だと、触れていないと魔術が解けてしまうの
だ。それでずっと傍にいるために、巨大ロボの肩に乗るような真似
をしていたのだけど、スカートじゃ風でめくれたりして足が⋮⋮。
﹁それも織り込み済みよ﹂
マイヤさんはにっこりと微笑む。
﹁こんなドレスを着ていたら、無茶な行動はできないでしょう? だからこれは、貴方への戒めよ﹂
ぐうの音も出ませんでした。ベアトリス夫人にもマイヤさんにも、
私は無茶な子だと思われてしまったようだ。
スカートを着せておけば、裾がめくれてしまうのが嫌で、家の屋
根から飛び降りたりしないだろうみたいな、そんな意味合いで服を
選ばれるとは。
でも確かに。足を見せたくないのなら、抱き上げて運んでもらう
か、かなり慎重に自分の保護について考えながら行動しなくてはな
らない。
ベアトリス様は策士でございました⋮⋮。しかも同性視点なので、
354
衣装と言う細かな代物で行動を縛ってくるとは。
敗北感を胸に、着替えの最中は恥ずかしいので毛布の中に突っ込
んでいた師匠を取り出す。わたわた動いていた師匠が、ちょっとモ
グラみたいで面白かった。
その師匠は文句を言いながらも、テディベアのように私に抱えら
れて会議の場へ移動する。
移動中、すれ違った人達が、私の姿よりも師匠を抱きしめている
ことに、ぎょっとした顔をしていたが、気にしない。
会議室に到着すると、着替えの最中も扉の外でじっと待っていて
くれた辺境伯の騎士さんが、扉を開けてくれる。
広い長卓が置かれた会議室にいたのは、昨日の会議とほぼ同じ人
間だ。
レジーが一番上座に、その後ろにグロウルさんが立つ。
その両脇を固めるように辺境伯夫妻がいる。辺境伯も無傷ではい
られなかったのだろう。憔悴した顔色で、袖口からちらりと包帯が
のぞいていた。
ヴェイン辺境伯の隣にはアランが座っていた。さすが主人公とい
うべきか、あの乱戦の中にいて、しかも私を助けてくれたりもした
のに無傷を通したようだ。リアルで考えるなら、今の彼の技量がL
V的にどれくらいなのか気になる。
そして騎兵隊の隊長⋮⋮が、かなり負傷している。生成りの包帯
も、腕を吊って上着を羽織っているところなど痛々しい。辺境伯と
共に出陣したので、たぶん残っていた人達の中に隊長もいたのだろ
う。守備隊長は城に詰めていたからか、大きな怪我はしていないけ
れど、難しい表情だ。
355
そして何よりも変わった部分は、私の席が用意されていたことだ。
アランの隣、騎兵隊の隊長との間にある空席。そこにヴェイン辺
境伯の騎士が案内してくれて、私に座るよう促す。
魔術師として、戦に参加せよということだ。
緊張で唾をのみこむ。足が震えて、上手く綺麗に座れるのか不安
になったが、よろめいたりせずになんとか着席できた。
全員が揃ったので、ヴェイン辺境伯が口を開く。
﹁まずは自らも指揮を担って下さった殿下に謝意を。そして今回尽
力してくれた皆に敬意と、命をかけた者への哀悼を捧げる﹂
辺境伯の言葉に、全員が小さく首を垂れて黙とうする。
ややあって、震える声で騎兵隊長が悔恨を口にした。
﹁敵の動きを知るのが遅く、みすみす閣下の兵を無駄死にさせるこ
とになってしまいました⋮⋮﹂
﹁それは私も同じことだよ、トリメイン。よもやサレハルドが裏切
っていたとは﹂
前回の会議よりは、状況が明らかになったものがあるようだ。ど
うやらサレハルドが裏切っていたらしい。敵軍にサレハルドの人間
がいたようだ。
﹁だが、彼女が助けてくれた﹂
ヴェイン辺境伯の目がこちらに向く。同時に、みんなの視線が一
気に集まった。
うっ⋮⋮怖い。
思わず腕の中の師匠土偶をぎゅっと抱きしめてしまう。
﹁うろたえるな弟子よ﹂
ホレス師匠がささやいてくれる。
356
﹁この程度の賞賛の視線でひるんでどうする。お前は万の軍を相手
に、勝利を得たいのだろうがイヒヒッ。戦場に立てば殺意に満ちた
視線にさらされるじゃろうな。しかも数時間前には一度それに耐え
たのだから、これくらい軽いもんじゃろ﹂
﹁う⋮⋮はい﹂
ホレス師匠の言う通りではある。ついさっき、万の兵に大注目さ
れながら、とんでもないお立ち台に上って走り回っていたのだ。
ただあの時は必死だったんですよ⋮⋮。
周りの事だって、人を殺したショックを考えないようにするだけ
で精いっぱいで。
でもホレス師匠の言葉で、少し勇気が湧いた。
ぎゅっと目を閉じてからヴェイン辺境伯を見返すと微笑んでくれ
る。
﹁ありがとうキアラ。君が身に負うものを覚悟した上で力を手に入
れてくれたこと、それで私達を助けてくれたことに礼を言う﹂
﹁え、その⋮⋮なんとか少しでも助けることができて、私もうれし
いです﹂
緊張で心臓がばくばく言っているが、なんとか無難な返事を返せ
た。
やっぱり﹁うれしい﹂と言うのは、少し抵抗があったけれども⋮
⋮。
﹁ついては、私を救ってくれた魔術師であり、敵の主要陣を討った
策を考え付いた君を、侍女という立場ではなく、正式に魔術師とし
て遇したい。受けてくれるだろうか﹂
﹁ぐ、ぐうす⋮⋮﹂
騎士を士官させるように、私を魔術師として召し抱えたいという
357
ことだ。
侍女生活に慣れてきていたので、そんな滅相もないと言いそうに
なって口を一度つぐむ。
だめだめ。これは受け入れないと話にならない。
魔術師じゃなくて侍女のままでいい、なんて言ったら私の処遇に
みんなが困るだろう。
この返事だと、私が魔術師として公にされたくない、と言ってる
ことになってしまう。ヴェイン辺境伯達は、そのために対策を練っ
てくれるだろう。さっき暴れた私のことは死んだことにでもして伏
せるという、余計な仕事も増やしてしまうことになる。
あげく、軍議に侍女でしかない私を毎回参加させることなどでき
ない。でも魔術師として協力してもらいたいなら、私に作戦を知ら
せるため、同席させるための面倒な言い訳を探したり、誰かに伝言
を託してみたりと煩雑な手順をヴェイン辺境伯達に踏ませることに
なるのだ。
うぉぉ、すごい面倒そうな奴じゃないか。だから受けるべき、と
小市民根性で逃げ出したい自分を叱咤して返事をした。
﹁あ、ありがとうございます﹂
私の回答に、ヴェイン辺境伯達がほっとした表情になる。
︱︱一人だけ、固い表情を崩さない人もいたけどね。もちろんレ
ジーだ。
私が魔術師として活動することで、傷つくのではないかと心配し
てくれているのだろうと思う。
だけど⋮⋮後戻りはしない。状況が変動してわけがわからなくな
358
ってるのに、大っぴらに従軍できない立場じゃアランやレジーを守
れないかもしれない。
まだ人を殺すことへの踏ん切りなんてついてない。
全部レジーに背負わせるつもりもない。
だから今は、味方が死なないように。みんなが生きて切り抜ける
ことだけを考えて、また苦しめばいいと決めたのだ。
とはいっても気が大きくない私なので、ついつい私の保護者に参
入したばかりの人に、話をぶんなげた。
﹁それもこれも、私を弟子にしてくれた師匠のおかげで。まだ師匠
がいないと、右も左もわからないんです﹂
ゴーレム
師匠がいたからこそ! と強調した。
あの土人形でダッシュ作戦も、一体しか操れないだろうという師
匠に、どこまでの範囲なら私にもできるか、教えてもらった上で実
行したのだ。
話の中心に投げ込まれた土偶が、カチャっと動揺したように身じ
ろぎした。
そしてヴェイン辺境伯達の視線も、抱きしめていたホレス師匠に
移ったようなので、私はその背後に隠れる気持ちで机の上に師匠を
鎮座させた。
さぁ行け師匠。弟子を守ってくださいな。
心の中でエールを送ると、師匠がちらりと私を振り返る。遮光器
土偶の宇宙人みたいな目が、なんだかじとーっと私を見ている気が
したが、気付かなかったことにした。
359
作戦立案
﹁その土人形に、君の師匠である魔術師の魂が入っているとは、ア
ランやカインから報告を受けているよ。⋮⋮初めまして、ホレス殿
と名前を伺っておりますが﹂
﹁いかにも、わしの名はホレス。流浪の魔術師⋮⋮まぁ魔術師なん
てものは、流浪するか引きこもるかどちらかだがのぅ﹂
さすが人生経験を積みまくった師匠。突然話の中心に投げ込まれ
ても、堂々と受け答えた。
﹁しかも今は私の肉体もなく、弟子であるキアラの力をもらって動
いている仮初の存在じゃがな、イッヒヒヒ﹂
いつもの笑い声を漏らすと、土偶姿がさらに不気味さを醸し出す。
辺境伯から同じような説明を聞いているだろう騎兵隊長や守備隊
長、ベアトリス夫人もやや不安そうな顔になる。
でもこういう人なんで、慣れてくれるとうれしいな。外見の不気
味さは、私のせいだし⋮⋮。
﹁さて、軍議を行うのであろう。弟子の補助としてわしもここで聞
かせてもらうわい。イヒヒ﹂
変な笑い方ではあるが、議事進行を促す師匠に、ヴェイン辺境伯
がうなずく。
﹁経緯の確認をしよう﹂
まずはヴェイン辺境伯側の状況が説明された。
私達が出発後、ヴェイン辺境伯も城を出発。
360
予定では進軍しながら分家や国境守備からの兵を合流させていく
はずだった。
けれど国境が一番早くルアイン軍の攻撃を受けてしまう。敵の数
は多くなかったようだが、そちらへの対応で国境からの増援が20
0だけとなった。
その後、斥候の報告がないまま至近の分家の増援と町や村からの
義勇兵を合流させ、なんとか2000で布陣した。
ここでようやく戻ることができた斥候から、敵は一万だと知らさ
れる。
手持ちの兵力とルアインの軍の数から、ヴェイン辺境伯もすぐに
行動指針を変更した。
城の前に布陣し直し、ルアイン軍を遠ざけるというものだ。
けれど魔術師くずれによる不意打ちで、城の近くに布陣しなおす
こともできなかった。
結果、ある程度城まで近づけたものの、辺境伯は4分の3の兵を
失う結果になったのだ。
一人きりで無数の火球を放つような真似ができる人間相手では、
うかつに近づけない。あげく魔術師くずれに手間取るうちに、四倍
の敵に周囲を囲まれてしまったのだ。
⋮⋮辺境伯が、私達が駆け付けるまで無事だったのが奇跡だ。
私の心に、助けることができて良かった、という気持ちと、その
ために土人形に踏み潰させた人の姿がよぎる。
いいや、今は考えちゃだめだ。他の人の言葉が、頭の中に入って
来なくなる。
師匠にも﹁仲間に生きていてほしいんじゃろが﹂と言われた。
大事なことを聞き逃して、私を守ったり仲良くしてくれた人が死
361
ぬようなことになったら、本末転倒もいいところだ。
次に守備隊長が城のことについて報告し始めていた。
私は頭をしゃっきりさせようと、手の甲を自分でつねりながら耳
を傾けた。
さて城側の動きだ。
昨夜から籠城する方向で準備をしていたため、ルアイン軍が来る
前に、なんとか城下の人々を収容することができ、城の守りは間に
合った。
でも予想以上の敵軍の数に、辺境伯を救いに行くこともできずに
いた。城門を開けたら敵がなだれ込んで来るからだ。
また、実は城にも魔術師くずれの攻撃があったようだが、これは
恐ろしく容赦のない攻撃をレジーが提案し、真っ先に倒したそうだ。
城門を破ろうとしていたそうなので、対応としては間違っていな
い。
けれど聞いた傍から忘れたい方法だったので、話を聞いただけの
私も、戦いにおけるレジーの容赦のなさを実感させられた。
レジーこわい⋮⋮。
私を気遣ってみたり、今も平然と報告に耳を傾けている姿からは、
とてもそんなことをした人のようには思えない。
さすがに何も感じないわけではないだろうけれど⋮⋮彼が言うよ
うに、慣れているということなのだろうか。
なんにせよ辺境伯のことは私やアラン達の動きで解決し、現在は
交代で、敵の攻撃を警戒しているようだ。
敵の動きが止まったままなので、今夜は監視だけで済みそうだと
のこと。
362
ルアイン軍が動かないのは、昼間のレジーによる煙を焚いての作
戦と、私という魔術師がいること。何より私が敵軍の本陣を潰して
⋮⋮将軍格の人間を殺したので、敵も行動指針が定められずにいる
のだろうという推測が、ヴェイン辺境伯から語られた。
多少、無茶をしてでも敵の本陣を攻撃しておいて良かった。なに
より、意気地なしの私の代わりにカインさんが見届けてくれたおか
げで、敵将の状況を把握できているのだ。
アランの後ろにいるカインさんをちらりと振り返ると、彼は目を
細めて小さく口の端を上げてくれる。
後で御礼を言ったり、謝ったりしておかなければ。今回は、本当
にカインさん無くしては何もできなかったし、最後には意識もうろ
うの私を抱えて戦うという無茶まで強いてしまったのだから。
﹁さて、ここからが問題だ﹂
ヴェイン辺境伯がやや渋い表情になる。
﹁敵将を倒したことで、敵が引いてくれればいい。けれども数時間
経った今もその様子はない。こちらとしても敵が遠ざからなければ、
新たに民兵を召集することもできない。兵力がなければ、領地から
追い出すことすら敵わん﹂
そこで初めてレジーが口を開いた。
﹁おそらく、ルアイン側は次の指揮官を決めかねているだけでしょ
う。キアラ殿の攻撃で、代理になりそうな人間までがいなくなった
のだと思います。明日にはそれも終わって、新たな指揮系統を構築
して、再び攻撃をしかけてくる可能性が高いのでは?﹂
レジーの静かな声で﹃キアラ殿﹄と名を呼ばれ、私は胃が締まる
ような気がする。今は仲の良い友達みたいに接する場ではない。だ
363
からそんな呼称を使ったのだと思うけれど、今更ながらにレジーと
自分の遠さを感じる。
﹁他の分家が、兵を集めて威圧するなど、独自に動いてくれたらい
いのだが⋮⋮﹂
守備隊長の言葉には、ホレス師匠が応じた。
﹁無理じゃろうな。北側は引きこもっていられたら御の字じゃろ、
イヒヒヒ。進路におったら蹂躙されておるだろうからな﹂
﹁そう言えばルアインは北から進軍してきたわけですが⋮⋮ご老体、
ルアインの侵攻ルートをご存じなので?﹂
ヴェイン辺境伯の尋ねに、ホレス師匠は笑う。
﹁わしとて、しかと作戦を聞いたわけじゃないがのぅケケケ。わし
に今回のことを依頼した男の元に、サレハルドの人間が出入りして
おってな。あそこの国はルアインと手を結んだのだろうと思ってお
ったら、北から進軍するから同時に城を攻撃しろと言われて、これ
は間違いないだろうと思っておったのよ。⋮⋮万の数の人間を通過
させたのじゃから、ルアインに与するのはサレハルドの総意と思っ
て間違いあるまい﹂
﹁二国間で示し合わせたのなら、こちらが動きを察知しずらくても
当然、ということか。サレハルドの兵が混じっていたのは、それゆ
えだったと⋮⋮﹂
騎兵隊長が眉間に縦じわを刻んで呻く。
これから同じ被害を受けたから相談しようね、と話していた相手
が裏切ったのだ。サレハルドの魔獣被害も嘘に違いない。
ヴェイン辺境伯も魔獣討伐のためにサレハルドが軍を動かしてい
たことは察知していたようだが、それもルアインの軍の偽装だった
364
のだろうと結論付けていた。
﹁そこまで協力しているんだ。領土の割譲について、既に話がつい
ているんだろうね﹂
レジーが言えば、ベアトリス夫人も嘆息する。
﹁下手をすると、今回の交渉についてやり取りしていた使者⋮⋮フ
ァルジア側の者も、ルアインの息がかかっていたのかもしれません
わね。会談の予定そのものが幻で、騙されていたという可能性もあ
るかと﹂
﹁中枢はルアイン側に傾倒している者ばかりなのですか?﹂
アランの問いに、ベアトリスは﹁正確なところはわからないわね﹂
と答えた。
﹁そもそも、王妃が輿入れしてから年数が経っているとはいえ、ル
アインに近しくなる貴族が多すぎるのも、おかしいことなのよ。ク
レディアス子爵もパトリシエール伯爵もルアインと縁があるから仕
方ないとして、他の者には一体どんな手を使ったのか⋮⋮﹂
﹁ヒヒヒッ。脅されたか、なんぞ魅力的な土産を渡されたのじゃろ。
しょせんは人の子。己が一番可愛いものよ﹂
サレハルドがこちらを裏切ったという話で、状況はさらに厳しい
ことを再確認してしまったせいか、皆表情が暗い。
レジーが口にした言葉は、そんな空気を更に重くした。
﹁リメリック侯爵とレインスター子爵の援軍は、異変があれば進軍
するよう依頼をしています。既に狼煙も上げたので、おそらくここ
から二日ほどの地点には近づいているでしょう。ただルアイン側も
こちらが援軍を用意していることに、気付く頃です。短期決戦でま
た魔術師くずれなどを使って、門を破ろうとしてくることも考えら
れます﹂
365
﹁援軍がいなければ我々は動けず、援軍に気付かれれば明日が決戦
となる可能性もある、ということですか﹂
まとめたヴェイン辺境伯の言葉に、レジーがうなずいた。
﹁他に、サレハルドが裏切っていたと分かった以上、たった1万の
兵で辺境を侵略するためだけに軍を進めたとは考えられないでしょ
う。別な軍が、既に王都へ進軍しているとも考えられます﹂
レジーの予測に、再び皆が沈黙する。
ゴーレム
打開策を考えているのだろう。その策の中には、おそらく私を使
うことも含まれているはずだ。
けれど私にできることといったら、土人形を一体走り回らせるこ
とだ。しかも時間制限アリである。それではルアインの軍を打ち破
るのは難しい。
でも、と私は思う。
ルアインの軍をある程度城から引き離せればいいのだ。そしてこ
ちらの攻略をあきらめさせる。
﹁勝利条件は、撤退させること⋮⋮﹂
つぶやいてしまった私は、しまったと思った。
勝利条件とか、完全にゲームな考え方だ。でも分かりやすかった
のかもしれない。ヴェイン辺境伯がそれに応じた。
﹁勝利条件か。確かに守り切れば我々にとっては勝利したことにな
るだろうな﹂
﹁撤退させることは確かに重要だ。兵力を増強するにも、遠ざけな
ければ話にならない﹂
応じた騎兵隊長の言葉に、アラン達もうなずく。
受け入れてくれた空気に押されるように、私は思いきって言って
366
みることにした。
﹁あの、王国への侵攻を止めるのは、兵力のことから考えても現時
点では不可能です。だからまずそれは考えない方がいいと思うんで
す。そしておそらく明日になっても、兵は引かないと思うんです。
目的がレジナルド王子殿下の殺害ですから﹂
ゲームのオープニングで、敵の主力部隊がエヴラール領から早々
に出ていったのは、レジーの殺害と辺境伯の城を落とし、王位継承
者がいなくなったと思ったからだ。
﹁そうだね﹂
私の意見に、レジーが賛同してくれた。
﹁ルアインはファルジア王国を乗っ取るために侵攻してきた。なら、
今の状況で得られる最上の勝利は、王位継承者である私が生きてる
こと。たとえ王都を占領しても、こちらは王妃よりも継承順位が高
い。併合を行おうとしても、他国は黙認できなくなるだろう。他国
の簒奪を見逃せば、自国でもそれがまかり通ることになるからだ﹂
どの国の王も、武力による下剋上は望んでいない。
そう語ったレジーはしばし瞑目し、目を開いた時には何かを決め
た表情に変わっていた。
﹁ルアインが他国から合意を得られなくなる状況になる、というの
は先方もわかっているだろう。それでもなお、こちらの攻略を保留
したくなるようにするしかない﹂
彼が続けて語ったのは、援軍要請をしていた他領の軍を使う策だ
った。
兵力をエヴラールの潜在兵力と合わせたら、1万五千にはなる。
367
そして魔術師を擁するエヴラール領の軍とことを構えるのは、魔術
師くずれを作りだせるルアインとしても避けたいだろう。
﹁ルアインは今のところ、魔術師くずれを二人しか出していない。
それは、大量に作りだすことができない、ということだ。だからこ
そこちらに魔術師がいることを印象付けるため⋮⋮協力してもらい
たい、キアラ殿﹂
更に、レジーが初めて私の力を積極的に使おうとしてくれた。
その表情はいっそ冷たいと思えるほどだけど、理性的に私が必要
だと判断してくれた上でのチャンスだ。
だからうなずいた。
﹁承知いたしました﹂
その策が、どうしようもなく私を守るものだとわかっていても。
368
謝罪と御礼は危険です
会議が終わった。
騎兵隊長と守備隊長が人員について打ち合わせをしながら立ち去
り、父である辺境伯は母上に気遣われながら自室へ向かった。
自分が発言したことに緊張と興奮のせいだろう、やや落ち着きの
ない様子のキアラが、師匠の魂を封じた変な土人形を抱えて立ち上
がった。
その時に、キアラはレジーの方を見た。レジーも表情を消したま
まキアラと視線を合わせていた。
時間としては、ほんの一秒くらいだったと思う。それで何を伝え
あったのか⋮⋮僕にはよくわからない。
そもそも今回のレジーの行動が、僕には信じられないものだった。
レジーは初めて臣下扱いをして、キアラに協力要請をしたのだ。
さっきまで、キアラを戦闘から外す方法を考えていると言ってい
たのに。⋮⋮いや、レジーのことだから、彼女を使う策を考えた上
で、キアラ無しで実行する策を立てようとしていたのかもしれない。
でもキアラは魔術師として席についた。
彼女は戦いから逃げるつもりはないということだ。
だったらレジーは、あくまでキアラを遠ざけるかと思ったら、戦
場に立たせることにしたのだ。今までだったら、絶対になかったこ
とだ。
⋮⋮あいつ、キアラの足晒し事件だけでも、あんなに不機嫌だっ
たってのに。
369
今回もウェントワースがいなかったら、危なかっただろう。なの
にまた同じことさせるのか? と僕は首を傾げたのだ。
風狼の一件だって、せっかくみんなで口裏合わせて隠してたって
のに、ウェントワースの様子がオカシイとか。城内の騎士が妙にキ
アラに親切だとか言って、問い詰めたんだよ。
いや、親切はいいことだろ? うちの騎士に年下の女の子をいじ
めるアホがいたら、情けなくて涙が出るって。
だから変なところでピンとくるなよって言ったら、
﹁君、自分の母親がそんなことをしたらどう? ヴェイン辺境伯が
それを知ったら、きっと見た全員に﹁記憶を失え﹂と言い出すだろ
うって、思わないかい?﹂と返された。
僕はすぐにレジーに謝った。ごめん⋮⋮。父上が乱心するだろう
ってのはわかる。ただ母親と父親のいちゃつきを想像するのは、ち
ょっと⋮⋮精神的ダメージがきついって⋮⋮。
本当にレジーは恐ろしい奴だ。
なのに、許可したのだ。
﹁まさか、巣立ち?﹂
はっと気づき、小さく言葉が漏れる。
親元を飛び出そうとするひな鳥がキアラで、巣立ちの時期が来た
と思ったレジーが、それなら自分一人でやってみせろと言い渡すよ
うなものか?
納得できるようなできないような変な表現だな⋮⋮。
どっちにしろ、戦うことを決めたんだったら、これはキアラにと
っては本望のはずの状況だ。なのにキアラは、どうしてそんなにも
責めるような目をレジーに向けたのか。
二人の様子に、僕は思わず言いたくなる。見つめ合ってないで、
370
普通に話せばいいだろ⋮⋮と。親子だって話し合わなきゃ理解でき
ないんだぞ?
そう思うくらい、この二人は異常なのだ。
最初から、なぜかお互いに理解し合っているような変な雰囲気を
つくっていた。これが普通の恋愛感情だったら、僕もこんなに混乱
はしない。
でも周囲は完全にそう思っているだろう。
数時間前に城に帰り着いた時、キアラを奪うように抱きしめる姿
だけを見たら、恋愛感情があるのだとしか思わないだろう。
ウェントワースも目を丸くしてたんだぞ⋮⋮。
でもレジーも、何分の一かはわざとだったはずだ。
王子の保護下にいると喧伝する行動だ。出発前にキアラのスカー
トの件にこだわっていたことが尾を引いて、虫がつかないよう見せ
つけたのかもしれない。
とにかく複雑そうな二人のことを見ていてもしょうがない。ウェ
ントワースを連れて部屋を出ることにする。
﹁行くぞ﹂
しかし時を同じくして、キアラも部屋を出るべく動きだしてしま
った。
﹁あ、カインさんとアランも。明日のことで相談したいんだけど﹂
一緒についてくるキアラに、内心でげっと思ったが、ちらりとレ
ジーを振り返れば、彼は後ろに控えていたグロウルと話し始めてい
た。
ちょっとほっとしつつ、会議室を出て三人で中庭に出る。
371
﹁それで、相談したいことっていうのは?﹂
﹁えっとここじゃちょっと⋮⋮﹂
キアラが周囲に目を向ける。城下の市民を避難させているため、
中庭には即席のテントが立ち、人がひっきりなしに行きかったり、
集まっている人達が不安そうな表情で兵士や自分達を見ている。
確かにあれこれと話すには場所が悪い。
だから領主館の居間の一つを陣取った。ソファに僕と一緒にウェ
ントワースも座らせたのだが、キアラは重いのか、師匠である土人
形だけを卓の上に起き﹁すぐ済む話だから﹂と首を横に振った。
﹁レジーが矢で狙われたり、もしくは潜入した敵兵に襲われたりし
ないように、気を付けてほしいの﹂
彼女の話に、すぐにピンときた。
﹁それは例の前世の記憶の話か?﹂
最初は荒唐無稽としか思えなかった話だ。けれど言う通り、彼女
は魔術師になって﹃あらかじめわかっていた﹄素質を証明した。し
かもルアインはレジーが交渉に来た時に攻めてきた。交渉相手もサ
レハルドだった。
⋮⋮正直、僕はキアラに畏怖を感じた。
未来を知る者など、夢物語の預言者しかいないと思っていた。い
たら便利だろうとは思ったが、実際に目の前にすると、全てが同じ
ではなくとも、誰も知ることなどできないことを見通す者を畏れず
にはいられない。
キアラが僕の問いにうなずいた。
﹁私が前世のことそのまま話した相手は二人だけだから、相談でき
るのもアランとカインさんだけなの﹂
372
﹁レジー様には、夢だと説明したのでしたよね?﹂
﹁そうです。あの人は、何も追及せずに私の話を聞いてくれたので
⋮⋮。だからまだ、前世の話はしないままになってるんです﹂
⋮⋮嫌われたくないのだろうな、最大の保護者であるレジーに。
そしてレジーの方は、隠しながら話しているとわかっていて、全て
信用したのだ。根拠を求めずに。
﹁レジーにも、矢で射られる話はしてあります。けれども城の中で
と伝えていたので、外なら安全だろうと、さっきみたいな案を出し
たんだと思うんです﹂
本当はレジーの作戦に異を唱えたかったようだ。けれど作戦の立
案など、今まで侍女として暮らしていたキアラの手に余るので、口
を出しにくかったらしい。
まぁ、これについてはキアラもそこそこ﹃できる﹄と思うんだが。
城へ帰還する際の、父上を救ったあげく敵に打撃を与える作戦は、
確かに魔術師がいてこその反則技かもしれないが、妥当な作戦だっ
たのだから。
そう考えると、キアラはレジーの作戦に口を出せなかったのでは
なく、レジーの作戦を﹃良い﹄と思ってしまって、どこもつつけな
かったのだろう。
だからレジーの傍にいるだろう僕やウェントワースに頼むのだ。
﹁でも今回の経過からして、私が知ってた通りの状況になってるわ
けじゃないのよ。ルアインは国境を越えてきてたし、サレハルドと
手を組んだりはしてなかった。だからレジーに矢だけを警戒させた
らいいのかもわからなくて⋮⋮﹂
﹁わかった。そのあたりは僕から父上にも進言しておく。レジーも
備えるだろうが、旗印になる人間を守るのに、手は多いほどいいだ
ろう﹂
373
﹁ありがとう、アラン﹂
少しほっとしたようにキアラが微笑む。
﹁私はそれに関しては何もできそうにないようですね。貴方に付く
つもりですので。辺境伯閣下からも再度そのように指示を受けてま
すので﹂
ウェントワースの言葉にキアラが目も眉尻も下がって、困った表
情になる。
﹁そんな申し訳ないです﹂
﹁でもキアラさん、魔力が切れてしまってはご自身ではどうしよう
もないでしょう?﹂
﹁仰るとおりでございます⋮⋮﹂
キアラとしても、城へ突入する際に倒れたことを反省はしている
ようだ。確かにカインが無理やりついていかなかったら、どうなっ
ていたか。
カインの方も長いことキアラについて回っていたせいか、彼女の
行動を読んで言いくるめる方法も鮮やかだ。
と、そこで僕は思い出した。そもそもカインがキアラに付き従う
ようになった理由と、その結果を。
﹁そういえばキアラ。お前、謝罪の内容を決めたか? 欲しいもの
があれば言うといい。俺にできる限りのことはする﹂
魔術師になって自分の言葉を証明してみせたキアラ。確実に魔術
師を見つけるところからも、半信半疑にはなっていた僕だったが⋮
⋮。
後から、土人形の中にいるホレスという魔術師は、体が砂になっ
て朽ちたと聞く。それを見てわかっていながらやり通したキアラに、
僕はなおさら全面的に降伏する気持ちになっていた。だからちょっ
と厄介な頼み事でも受けるつもりだったのだが。
374
﹁えっ、謝罪!? あ⋮⋮﹂
キアラはすっかりこのことを忘れていたようだ。僕に言われて戸
惑っている。だからまたの機会でもいいかと思ったのだが、ややあ
ってキアラは何かを思いついたらしい。
﹁じゃあこうしましょう!﹂
キアラが両手を打って満面の笑みで言った。
﹁ちょうど私、カインさんに助けて下さった御礼をしたいと思って
いたんです。だからカインさんがしてほしいことを、アランにお願
いして、アランがそれをかなえるのが私への謝罪の証ってことにし
ましょ!﹂
ね! と言われた僕とウェントワースは、顔を見合わせる。困っ
たような顔のウェントワースを見て、たぶん僕も同じ表情をしてい
るのではないかと思った。
﹁とりあえず聞く。お前、キアラにどんな御礼をしてほしいんだ?﹂
﹁キアラさんに、と限定するのは危険だと思いますよ。アラン様に
本当にしなくてはならなくなります﹂
﹁だよな﹂
品行方正なウェントワースのことだ。キアラが御礼をしたいと言
えば、無理難題にならない範囲を考えた末に、貴族令嬢に願うごと
く﹁祝福を﹂と願うだろう。
ようは、ウェントワースの頬に口づけをという程度なのだが⋮⋮
キアラ、お前それを僕に振るのか? 変な意味で恐ろしいな。
とはいえ視覚の暴力としかいえない光景になるだろうし、僕とし
ても男に女みたいな祝福をするのは御免だ。
キアラが持っている師匠人形も、声をひそめながらくつくつと笑
375
ってる。僕等と同じ考えに至ったのだろう。
するとウェントワースが提案してくる。
﹁なら、やはり当初の通り、アラン様が謝罪を、私に感謝を贈って
いただく方がいいのでは?﹂
﹁ああそうだな。いいだろう。じゃあキアラ﹂
僕は彼女の前で、剣を床に置いて跪く。良く分かっていないのか、
キアラがやたらと動揺した。
﹁えっ!? なんで?﹂
﹁僕はどちらかというと謝罪だろう? なら、お前が許すと言うま
でこうするのが筋だろう﹂
﹁だって別に謝罪してほしいわけじゃないから⋮⋮。もうアランは
謝ったじゃない?﹂
どうやら跪かれるのが困るらしい。だからとりあえず立ち上がっ
たのだが、そこにウェントワースが、珍しく楽し気に割って入って
きた。
﹁では私も、キアラさんから感謝の証を頂きたいと思います﹂
﹁うう⋮⋮﹂
キアラが戸惑って目を泳がせている。なにせ自分から頬に口づけ
をするのだ。二の足を踏んでいるのだろう。
﹁では、女性同士の感謝の表し方の方が宜しいので?﹂
キアラの様子を見越していたウェントワースが、笑顔で提案した。
﹁あ、それぐらい気軽だと⋮⋮って、それってまさか!?﹂
﹁おいウェントワー⋮⋮﹂
キアラは伯爵令嬢をやってた時期もあったはずなのに、すぐに考
えが及ばなかったようだ。そして僕が止める間もなかった。
376
さっと立ち上がった彼は、キアラを引き寄せ頬に口づけしてしま
う。
ウェントワースが離れてしまうと、右の頬を押さえてキアラは顔
を真っ赤にしていた。
一方のウェントワースは、目を細めてそんな彼女を見ていた。
そんな様子に、僕は思わず瞬きをした。
ウェントワースは、こんなことをするような人間だっただろうか。
女性にはわりと淡泊で、それなりに付き合いがあるのは見聞きして
いたが⋮⋮年下の女の子をからかうような姿は見たことが無い。
﹁私への御礼はこれで十分です。アラン様の謝罪はどういたします
か?﹂
飄々と言ってのけるウェントワースは、知らない人間のようで、
少し⋮⋮不安にさせられる。
キアラも﹁あの、また今度で⋮⋮﹂と蚊の鳴くような声で答えた
ので、その場では無しになったのだった。
ちなみに後日、僕はキアラには謝罪代わりとして魔術の媒介にな
りそうなものを贈っておいた。
377
ディルホーン丘陵の反撃 1
翌日、予定よりも早く目覚めてしまった私は、ふと思いついてス
カートの裾に銅貨を縫い付けていた。
﹁何をしとるんじゃ? お前さん独自のまじないかいの?﹂
不思議そうにするホレス師匠。この土偶顔もかなり見慣れてきた
ので、表情がなんとなく伝わってくる気がしてくる。
﹁裾に重りとして縫い付けるとね、スカートがめくれにくくなるの﹂
またしてもやたら高いお立ち台に登るのだ。せめてひるがえらな
いようにしたかった。
﹁なんじゃつまらん⋮⋮お色気で敵を驚かせるくらいの気概がほし
いのぅ﹂
﹁いや、師匠。私に色気なんぞどこにもないですし﹂
前世よりもね、この世界の人って少しだけ大柄ですぐ大人びちゃ
うんだけども、まぁ見事に胸の成長は遅れ気味でさ⋮⋮。日本人だ
った頃よりはずっとマシだけど、やや心もとない。教会学校に通っ
てる頃は、年上のご令嬢さんとか見ていて、すっごく期待してたん
だけども。
しかし師匠はイッヒッヒと笑う。
﹁いやいや。成長しきっていない状態もまた⋮⋮うべっ!﹂
またとんでもないことを言い出す師匠を、毛布の中に突っ込む。
もがいている師匠を横目に着替え、マントをブローチと紐で固定。
次に、護身用にと渡された短剣と言っても良さそうな大ぶりのナ
378
イフを、腰にベルトを付けて下げる。
ささやかな装飾がほどこされた銀の柄のナイフは、レジーからの
贈り物だった。
彼が直接来たわけではない。レジーの護衛騎士の一人が﹁魔術師
殿に用心のためお渡しするよう申し付かりました﹂と言って持って
きたのだ。
ナイフは懐かしい大きさだった。
﹁覚えてたんだね⋮⋮﹂
レジー達に無賃乗車の末に拾ってもらった後。物騒な物は外すよ
うに言われて、捨てたナイフと同じような大きさだったのだ。
剣は重たすぎるしで、刃物はナイフまでが限度の私だったので、
これはとてもちょうどいい。
そして戦える物を持たせてくれたレジーは、多少の不満はありな
がらも、私が戦場に出る決意をしたことを認めることにしたのだろ
う。
作戦の内容を思い出せば、渋々だったのだろうと思うが。
とはいえナイフでは槍や剣のリーチを無にするため、相手の懐に
飛び込むしかない。
それこそ無理難題なので、魔術と合わせてどうにかするしかない
だろう。⋮⋮使うとするなら、だ。
それから毛布の中をうぞうぞと移動していた師匠をつかみだして、
ナイフの横に、革ひもでベルトに括り付ける。胴に紐を引っかけた
状態だ。
固定されたホレス師匠は、ややご不満のようだ。
﹁⋮⋮おい弟子よ。わしの扱いがナイフなんぞと一緒とは、ぞんざ
379
いすぎやしないかの?﹂
﹁背負い袋に放り込まれるの、嫌だって言ってたじゃないですか。
これなら外が見えますでしょ?﹂
袋の中に放り込まれると、何も見えなくて退屈だと文句を言って
いたのはホレス師匠である。
朝食を食べると、城門近くに500人の騎兵が集まっていた。
空はようやく明るくなってきたばかりだ。
前に並ぶことになった私は、500人と共に目の前で騎乗したレ
ジーを見つめる。
真っ青な長いマントを羽織ったレジーは、すぐに汚れてしまいそ
うな薄青の軍衣の下に、目立ちそうな白の衣服を身に着けていた。
美しい銀の髪には、日の光にきらめく金の飾環。
目立つ、目立ちすぎるよレジー。馬が鹿毛なのが救いだと思った
ら、騎乗したら馬の毛色が見事にレジーを浮き立たせていた。ちょ
うどいい背景色になってしまっている。
青年の年に差し掛かっているのに綺麗なその姿には、中庭の端に
寄せられた天幕にいた女性達が陶酔するような目を向けていた。
私は危険すぎるその姿に、不安をかきたてられて落ち着かない。
正直、弓矢の的にしか見えない。意図的なものだとわかっている
から、なおさら怖い。
﹁今日の作戦については、皆よく理解していると思う﹂
怪我のため、今回はついていけないヴェイン辺境伯が、レジーの
傍に立って声を張り上げた。
﹁必ず我らが旗印を死守せよ。この戦いで、我が領、そしてファル
ジアの未来が変わるのだ! 我が軍に栄光を!﹂
380
﹁我が軍に栄光を!﹂
約500人の騎兵が、それを見守り城に残る者たちも皆、一斉に
呼応した。
私は⋮⋮両手を握りしめて祈るようにつぶやいた。
栄光を。勝てますように。
そんな私の肩を、アランが軽く叩く。
﹁⋮⋮気になることはわかるが、まず自分が流れ矢に当たるなよ?﹂
﹁うん、ありがと﹂
ふり仰げば、アランが快活そうな笑顔を浮かべていた。けれどそ
の目だけは笑っていない。心配してくれている。そしてアランも、
不安を感じているのだろう。
自分と同じ感情を抱く人の存在に、私は少し心を慰められる。
みんな不安なんだ。アランはまだそれでも、護衛騎士が救いの手
を差し伸べてくれるだろう。けれど後ろに並ぶ、私みたいに超常的
な力で身を守れない兵士は、その身一つで白刃が向けられる場所へ
飛び込んで行くのだ。
私は自分の頬をつねる。思いきりすぎてちょっと痛い。
﹁うう、ひっぱりすぎた﹂
﹁何やってんだお前?﹂
﹁ちょっと、気合いを入れようかと﹂
首をかしげたアランは、次に﹁気合いを入れたいならこうやるも
んだろ?﹂と私の背中をバシンと叩いた。
﹁痛った、アランちょっとやりすぎ!﹂
こっちは君みたいに鎧着てるわけじゃないんだからね? 鋼鉄製
の鎧の上からのつもりで叩かれちゃ、たまらん。
ちなみに中世の騎士みたいなフルアーマーじゃないけど、アラン
達は肩や胸と背を守るような鎧を身に着けてる。脚甲も装備してる
381
のは、馬に乗るからだろう。
﹁悪い悪い。つい他の奴と同じつもりで﹂
けどアランは全く悪びれた表情をしていない。そうこうしている
間に、皆がそれぞれ騎乗したりと戦列を作り始める。アランもその
まま馬に乗ろうとしていたので、私は思わず小さくぼやいた。
﹁いくらファウストしたからって、私、か弱いんだから﹂
﹁ファウストってなんだ?﹂
聞きとめたアランに、私はまた口が滑ったなと気付く。でも言っ
た言葉は戻せない。それならついでに、荒唐無稽な話まで飲んでく
れた友達に隠さなくてもいいかと思えた。
﹁悪魔と契約すること。魔術師になる方法、そんな風に噂されてた
のを聞いたことがあるから。じゃあね﹂
私はカインさんが少し離れた場所で手招きしているのを見つけて、
そちらへ向かう。
その時腰にぶら下がった師匠が﹁悪魔か⋮⋮言い得て妙だのぅ、
イッヒヒヒ﹂と、しみじみした口調でつぶやきながら、でも妖怪み
たいに笑うあたりが、師匠らしいなと私は思う。
そして皆が戦列を整えた。
興奮しているのか不安なのか、無数の馬の息遣いが静まった城門
前を満たした。
敵はまだ城のすぐ傍には迫って来ていないと、物見からの確認を
受け、城門が開かれる。
駆け足で飛び出す兵士達。
彼らが行き過ぎるのを待って、城門を出てすぐの場所で、地上に
382
降りた私は大地に手をつく。
﹁⋮⋮出てきなさい!﹂
ゴーレム
昨日と同じ、四角に切り取った石を積み重ねた形をした土人形が、
湧きだすように現れる。
ゴーレム
すぅっと体の中から活力が抜けるような感覚は、魔術を使ったせ
いだ。
そして私は、昨日のように土人形の肩に乗る。今日もカインさん
が一緒だ。
﹁しっかり掴まって。昨日も振り落とされそうでしたからね﹂
何事もなかったように言って、カインさんが私の左腕を掴む。
肩が跳ねあがりそうになった。意識しちゃいけないと思い、私は
なるべく平静を装ってうなずく。
内心では大きく深呼吸して動揺を鎮めたいが、それを気取られる
のも困るので、小さく深く息を吸って自分を落ちるかせる。
だってさ、昨日のことはカインさんが女の子をからかってみよう
と思ってしたことなんだよ。うん。
昨日の一件を見ていたホレス師匠が﹁イシシシ﹂と、いつもと違
う笑い方をしているが、無視だ無視。
正直なところ、自分が好かれてるとか思ったりして違ったら、ほ
んとに恥ずかしいことになるから気にしない!
ゴーレム
よし、と思って辺りを確認する。
土人形を作りだした分、城の門前には深い塹壕のようなものが出
来上がっていた。
この一体分の深い窪みが、城を守ることにもなる。埋めなければ
大きな破城槌は運べない。持ち運びできる丸太程度では、そうそう
破られないだろう。
383
埋めるにはかなり時間もかかるので、兵を寄せ付けないだけで城
門前の防備は楽々アップできる。
そこまで考えられたレジーの策に、私は密かに舌を巻いていた。
さすがにレベル上げだけして突撃させて敵を撃破するだけのゲーム
をやっていた私より、視野が広い。
ゴーレム
出発した兵士達は少し先へ進んでいた。
﹁よし、行きます!﹂
カインさんに声をかけ、私は土人形を歩かせた。
﹁おうおう、動く旗持ち見たいなもんだのぅ﹂
師匠が腰にぶら下がった状態で土柵の隙間から外を見下ろしてい
る。
その向こうには、こちらを伺っていた敵軍が、にわかに動きだし
た様子が見える。
まるで小さな蟻が右往左往して準備しつつ、私達の進む方向へ動
ゴーレム
いていくようだった。
敵軍は私が乗る土人形を見て、次にその先を走る白っぽい人影に
注目していく。
﹁ううぅ。目立つよレジーぃぃ﹂
ゴーレム
どうあっても、複数人に囲まれて進むその姿は、俺が王子だ! と叫んでいるに等しい。私はやや土人形を急がせて、レジー達の横
につくようにする。
ちょっとでもいい。その目立つ姿を隠したかったのだ。
すると気付いたレジーに、手振りで少し下がれと指示される。
私は聞こえない見えてないよーというフリをして、尚も横を進も
うとしたら、すぐに叱られた。
384
﹁君の配置はどこだった? 言われたことだけを実行してくれ﹂
レジーの刺すような視線に息が詰まりそうになった。見放された
のかもしれないという不安感が湧いてきて⋮⋮どうしよう、なんだ
かすごく泣きたい。
﹁キアラさん。軍行動中の命令無視はいけません﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
カインさんにも促され、私はしおしおとうなだれて後方へ移動す
る。
﹁決定した戦術を変更してはいけませんよ。今回は300人なので
どうにか繕えるでしょうが、これが万になった時、特に影響力が強
い貴方の行動が、戦術を阻害する可能性もあるのです﹂
﹁すみません⋮⋮﹂
私は謝るしかなかった。
わかってはいるのだ。レジーをあえて動かすというのが、今回の
作戦だったから。
援軍は遠い。けれどこのまま時間を置けば余計にこちら側がじり
貧になっていく。
ならばとレジーが提案したのは﹃こちらから援軍を迎えに行く﹄
ことだった。
同時に城から敵を引き離す。レジーを狙っているのなら、レジー
ゴーレム
が囮になれば敵軍が追いかけてくる。目当ての人物がいる信憑性を
高めるために私も土人形を作って追いかけるのだ。
万が一敵軍が城内の兵が減ったからと城を攻めるそぶりを見せた
ら、私は城へ戻るように言われていた。
だからレジーが目立たなければならない。
385
しかもこの作戦、籠城戦が長引いて兵糧が尽きてしまうまで手を
こまねくより、更に多い軍勢がいる方へ、エヴラールが王子を逃が
したという形にする必要がある。
魔術師も移動したとわかれば、王子を逃がすことに信憑性が増す。
私はそのためだけに、レジーの一行についていくことを求められた
のだ。
ゴーレム
ゴーレム
目立つことが重要なので、出発時には土人形を歩かせ、休憩時に
は﹃襲撃できない﹄とい思わせないために、土人形をひっこめる。
それが私の役目だ。
ゴーレム
もちろん土人形を消している間に敵が攻めてきたら、カインさん
に抱えられていち早く逃亡させられるだろう。
レジーが﹁魔術師の方が貴重だ。王位継承権だけなら、最悪でも
アランが残れば主張できる﹂と私やアランを優先させるように言っ
たからだ。
その場でヴェイン辺境伯様からも否定の言葉が出たし、レジーを
守るということを優先すると決められたけれど。
レジーはそれでも満足なようだ。なにせそう彼自身が発言したこ
とによって、レジーが居なくなった場合にはアランと私をみんなが
守るという、認識の道筋を皆の頭に植え付けたのだから。
前世のことを言うんじゃなかったと、こんなに後悔したのは初め
てだった。
レジーは、彼が死んだ場合にはアランが兵を率いてルアインを倒
すことを知っているのだ。だから自分に万が一のことが起こっても、
私が守られるようにと考えたのだろう。
386
そして計画通り、無事に援軍の元に駆け付けた場合。今度はその
数がいれば容易にルアイン軍は攻めて来られない状況にさせること
ができる。
ゴーレム
私は、積極的に出なくてもいい。
同時に、移動中ずっと土人形を操っていれば、長時間は戦に参戦
できないだろうことまで計算されてるのだから困る。
﹁戦うって決めたのに⋮⋮﹂
人を殺すのは怖いと言って、それでも戦うと決めた私のために、
見学をして戦闘に慣れる時間をあげると言われたようなものだった。
でも気は抜きたくなかった。
いつだって世の中には、予想外のことが発生する。その時に、心
の準備すらできなかったら手遅れになるだろうから。
387
ディルホーン丘陵の反撃 2
敵軍は徐々に移動してきている。
全てをこちらに振り向けはしないが、やはり王子らしき人影と魔
術師がいる方を優先することにしたようだ。
﹁動きが系統だっていますね。殿下の予想通り、敵将は代わりを据
え直したのでしょう﹂
それでも急速に追い上げてこないのは、昨日私がさんざん敵軍を
蹂躙した結果だ、と言うのはカインさんの推測だ。
﹁それでも過半数が追跡することを優先したとなると。引きつける
ことには成功したと言えるでしょう﹂
﹁十分じゃろうな、イッヒヒヒ。あの王子も顔に似合わず大胆な﹂
ホレス師匠が笑いながら応じる。
彼らの視線の先では、ルアイン軍の戦列が長く伸びあがる蛇のよ
うになっていた。とはいえあちらも騎馬と歩兵が入り混じっている。
それほど行軍速度が早いとはいえない。
対してレジー率いるエヴラール軍側も、歩兵たちの走れる距離と
いうものに限界がある。
少し距離を稼いだところで、一度小休止となる。
こちらの動きを丘陵の向こうから先発隊に確認させていたルアイ
ン軍も、少し間隔を詰めたところで進行を止めた。
ゴーレム
﹁キアラさん、一度降りましょう﹂
カインさんに促されて、私は土人形の手を動かし、手動エレベー
ター状態にて地面に足をつける。
388
⋮⋮ちょっとロボットもののアニメを思い出した。パイロットが
他の人を移動させる時って、こう掌に乗せて上げたり下げたりする
よね。
ゴーレム
その後土人形は一時解除。
ゆっくり歩かせるだけで、しかも二度目とはいえ、30分は動か
し続けただろうか。ルームランナーで五分も走った位の疲労感があ
る。
﹁そこまで辛くないのって、二度目だからかな⋮⋮﹂
﹁魔力のとらえ方と扱い方に慣れれば、もっと楽に動かせるように
なるだろうよ。魔力の通り方は意識できたじゃろ?﹂
疑問に答えてくれたのはホレス師匠だ。
昨日、すぐに倒れてしまわないようにできないのかと尋ねた時に、
ゴーレム
秘訣を聞いていたのだ。
それが、自分が操る土人形の動かしたい部分に、必要なだけ魔力
を使うようにすること。
また、そもそもは大地の中に散在する魔力を利用して動かしてい
るので、それを使うことで自分から魔力を分け与える量を減らす方
法だ。
実践として、師匠でいろいろためしました。
土偶がくすぐったがって﹁ウヒョヒョヒョ﹂と笑いながら転がる
様を見ることになりましたが、大変面白かったです。
ちなみに師匠にも多少なりと私の魔力が流れている。けれど契約
の石が土偶創造時に含まれたため、定期チャージで間に合うらしい
し、それほど多くは必要ない。
そんなこんなで、私は今回の作戦で早々にダウンする危機を退け
389
ることができた⋮⋮わけだけど、この30分でこれでは先が思いや
られる。
もっと稼働時間を伸ばせるようにできないものか⋮⋮。
悩む私は、カインさんが持ってくれていた荷物から水筒を出して
口をつける。
﹁あの子が魔術師だろ? すげーな﹂
﹁俺、国境勤務だったから初めてみた﹂
﹁魔術師って正式な、だろ? まがいものと違って、魔術をまき散
らしたりしないんだよな?﹂
﹁ちっちゃいな⋮⋮。自分の目で見てなきゃ信じられんかったわ﹂
少し離れた場所で、騎士の従者だろう人と︵騎士に準じた青の軍
衣を着てるので見分けがつく︶城や国境勤務の兵士︵こっちも鎖帷
子に頭に帽子型の簡素な兜を被っているので判別がついた︶が数人、
集まってしゃべっていた。
噂されてる現場に立ち会うのは初めてだ。なんか居心地悪い。
とりあえず、私は間違って踏みそうになる以外には、魔術を暴走
させながら死ぬとかしないよと言いたい。
けど、こっちをちら見しながら井戸端会議をしている人達ところ
に、堂々と歩み寄って輪に入るほどの度胸はない。それをしようと
思えるのは、本当に井戸端でおしゃべりしてるおばちゃんたちが相
手の時だけだ。
にしても、魔術師だからと注目されてる話は聞いたが、ちっちゃ
いと魔術師に見えないんだろうか⋮⋮。師匠だってそんな背が高く
なかったんだけど。
心の中であれこれと考えていたら、ふいに頭をこつりと指先で叩
かれる。
390
﹁こら、任務に違反しただろう﹂
﹁わ、レジー﹂
いつの間にか少し離れた場所にいたレジーが傍にいる。さっき自
分の馬を連れた従者を呼びに行ったカインさんは、少し離れた場所
まで馬を引いてきていたが、苦笑いしていた。教えようとしてくれ
たけど、間に合わなかったのだろう。その隣にいるアランは、どう
したものかと困った顔をしていた。
とりあえず謝っておこう。
﹁えっと、ゴメンナサイ﹂
ちょっと視線が横を向いた上、誠意が足りない棒読みなのは、今
だにこの作戦に私が不満を抱いているせいだ。
戦いたいわけじゃない。誰かを殺したいわけでもない。
だけど既に手を汚したのに、守られてそのまま逃げ続けるのは、
もっと卑怯だと思うから。
レジーもそんな私のわだかまりは察しているけれど、完全に無視
する気のようだ。
﹁従ってくれたら問題ないよ? でも⋮⋮﹂
話しながら耳元に口を近づけてくる。ちょっ、それヤバいでしょ。
王子が軍の中で別枠扱いとはいえ、公衆の面前で女子に近づきすぎ
だって!
﹁万が一の場合の行動が縛れないのは、良く分かっているよ﹂
言われて、焦っていた私はざっと血の気が引く。う⋮⋮。私がい
ざとなったら単独行動だーとか思ってるの、ばれてるし。
そっちに気を取られていたら、またしてもひそひそ話がうっすら
と聞こえてくる。
391
﹁王子のアレか?﹂
﹁城では仲がいいって噂だったな。奥様の侍女だってのに、遠乗り
に連れだしたりして⋮⋮﹂
﹁まさか愛人?﹂
﹁うそ! うちのアラン公子だって浮いた話一つないのに﹂
﹁アラン様はほら、まだ男同士で剣振り回して暴れるのが楽しい年
頃なんだろ。⋮⋮まさかモテないとか?﹂
﹁しかもあの魔術師さんちっこくて可愛いけど、色気は⋮⋮﹂
﹁ああ、うんわかる。魔術師の方じゃなくて色仕掛けならぜったい
王子の方だよな。だとすると益々謎なんだが﹂
﹁魔術師の素質が元々あったからとか?﹂
ほら⋮⋮なんか変な噂になってるよ。しかもアランまで巻き込ま
れてさ。
ちらりと見れば、アランが悲壮な表情になってうつむいてる。
落ち込むよね、モテないとか言われてさ⋮⋮。
ゲームだと主人公なのに可哀想すぎる。てか、あのゲームに恋愛
要素がほとんどなかったわ。あれ、まさかアランてば、ほんとにモ
テない? しまった、慰めの言葉が思い浮かばないよ。
あちゃーと思って、片手で顔を隠してうつむいてしまう。
その間に何があったのか﹁ひっ﹂という悲鳴と共に、話し声が止
んでしまった。顔を上げた時には、ひそひそ話をしていた兵士さん
達はどこかへ行ってしまっていた。
代わりに微妙な表情のカインさんと落ち込んでいるアランがすぐ
近くまで寄ってきていて、レジーは私から一歩離れた場所で、なん
だか氷のような笑みを浮かべている。
何があったか⋮⋮聞くの怖いな。
私は早々に忘れることにした。追及すまい⋮⋮。なんか聞いちゃ
392
いけなさそうな気がするし。
そしてレジーは、何事もなかったかのようにアランに声をかけた。
﹁そろそろ移動しよう。予定通りに進んでるし、アラン君はもう一
方を﹂
﹁わかった﹂
アランはこれから別行動となる。そのための布石は、昨晩のうち
に打ってあるらしい。
気を取り直したように顔を上げたアランは、ふと青空を見上げて
⋮⋮ため息をついてからその場を去って行った。
だめだあれ。まだ気に病んでるよ。
﹁さ、私達も移動しよう﹂
レジーの言葉で私はカインさんの連れてきた馬に、同乗させても
らう。
ここからは敵との駆け引きが始まった。
ゴーレム
レジー率いる兵達が急ぎ足で移動を始める。私も魔力温存を兼ね
て馬で進む。
ルアイン軍がそれを追うように移動を始め、土人形が出てこない
ゴーレム
ことから急速に騎馬部隊が追い上げて来ようとする。
すると様子を見ていたレジーが私に土人形を出すように指示する。
ゴーレム
ゴーレム
次の休憩地で土人形を登場させると、ルアイン軍の歩みが遅くな
って距離を置こうとする。
ゴー
するとレジーは次の休憩地まで土人形に殿を歩かせ、また魔法を
解除させる。
レム
再びルアイン軍が様子を見ながら後を追い、次の休憩地から土人
ゴーレム
形がいないと、再び距離を詰めてきた。
ちょっと慣れてきた私が、次の土人形はもうちょい強そうな感じ
393
にしようと、鬼の角をつけてみたりもする。
すると敵をあまり混乱させるなとレジーにやんわりと叱られて、
胃が縮む思いをすることになった。
ゴーレム
その隣で笑っていたカインさんは、物見台の代わりである土人形
から見えたものをレジーに報告。それを聞いたレジーが、地図を出
して部下達に進む速さを指示し直した。
そんな過程を踏みながら、半日近くかかって丘陵地の草原に差し
掛かったところだった。
ゴーレム
ゴーレム
敵もこちらのリズムを見て、それなりの時間の休憩をはさまない
と土人形が出せないと思ったのだろう。
丈高い草が生い茂る場所で行軍を止め、土人形を土塊に戻してカ
インさんと馬に乗ったところで、ルアイン軍が進撃してきた。
進軍を指示するラッパの音が耳に届いた。
鬨の声に、私は思わず肩をびくつかせる。
﹁大丈夫。そのままこらえていてください﹂
私の後ろで馬を操るカインさんが、そう言って馬を走らせた。
何度も休憩を繰り返す間に、レジーや騎馬で進む兵は後方に、徒
歩の兵を前に配置していた。歩兵は草原にさし掛かったところから
は立ち止まらせてはいない。今頃は必死に走り続けて草原の中を逃
げているはずだ。
レジーや私達は歩兵を追いかけるように、草原の続く左手の丘陵
へ向かって馬を駆けさせた。
左手の丘陵は、途中が土砂崩れが起きたのか小さな断層が見えて
いる。そこまでは馬の丈ほどの草が生い茂っていた。けれど馬上に
いれば、騎乗している人の姿は見える。
394
敵もこちらを逃がしたくはないのだろう。一気に叩くつもりで騎
馬兵を前に据えていたようだ。一定の距離はあるものの、引き離さ
れずについてくる。
お互いの馬の疲労度は同じくらいだ。
何度も休憩を重ねたので、ある程度疲れてはいても走るのに支障
はない。
草が生い茂っているせいで馬は走りにくいようだが、それでも細
い道らしきものがあり、それをレジーが率いる兵は辿っているので、
なんとか進むことができていた。
私はカインさんに支えられるように馬にしがみつきながらも、ち
らちらと後ろを見てしまう。
﹁かかか、カインさん、なんかさっきより近づいてきています!﹂
﹁そうでしょうね﹂
馬上にいると、背後から迫る敵の集団がしっかりと見えるのだ。
当然彼らも、私達が通っている小道を走っている。
恐れをなした私と違い、カインさんは余裕の表情で前を見ている。
﹁私、ほんとに何もしなくて大丈夫ですかね!?﹂
﹁⋮⋮何かしないと落ち着きませんか?﹂
尋ねられて、こくこくとうなずく。
作りだした危機的状況とはいえ、一歩間違えると全滅の憂き目に
遭う。そんな中、何かができるのに手を出すのはご法度となれば、
誰かが犠牲になるのではないかと気が気ではない。
﹁では⋮⋮﹃始まったら﹄足を引っかけるぐらいは目をつぶります
よ﹂
﹁わ、ありがとうご⋮⋮﹂
御礼を言いかけた時だった。
395
左手の草原の中から無数の矢が放たれた。
﹁ひいっ﹂
あと少しで私達も巻き込まれかねない矢の軌跡に、私は思わず身
を縮めた。
けれどこれがレジーの策だ。
逃げる私達を追いかけるルアインの騎兵は、弓矢に足止めされ、
あるいは馬に矢が当たって振り落とされたり、兵士自身が射抜かれ
た。
後方に下がりたくともそちらは火矢が撃ち込まれ、一部だけだが
草原が燃え始める。本来ならば、青々と水を含んだ草はそう簡単に
火がつかない。けれどもこの策のために、特定箇所には火だねにな
る枯草を撒いていたのだ。
そのため騎馬は火を忌避して前へ進もうとした。
ある程度数が減らされたそこに、右手の草原に伏せていた兵が姿
を現す。
﹁突撃!﹂
号令に応じて、数千はいるだろう無数の兵がルアイン軍を横から
叩いた。
まず先頭にいたルアインの騎兵が壊滅した。
後方にいた兵も、こちらを追いかけることに集中してしまったせ
いか対応が遅れて戦列が崩れた。
レジーの計画通りだった。
昨晩の早いうちに、城から騎士数人が抜け出し、この丘陵地に近
い分家まで走った。そこは城よりも少し南側なので、まだ被害が及
んでいないはず。そこで兵を集めて丘陵地に伏せさせたのだ。
396
抜け出したアランは、そちらに合流して兵を指揮しているはず。
また、近くまで迫っているはずの、レジーが依頼した二貴族の援
軍もここへ誘導していた。
先に出発した騎士の一人は、まっすぐに援軍の方へ作戦を知らせ
に走ったのだ。
一方のレジーは自分を餌にルアイン軍を連れてきた。そして援軍
と合流しながら、つられるように戦列を伸ばしたルアインの軍を叩
いて減らしたのだ。
これでルアインも、援軍の存在を知るとともに、兵を失って攻城
を考えざるを得ない状況になるはずだった。
でも勢いで押しているとはいえ、ルアインも後方にまだ五千以上
の兵が控えている。長引けば、援軍の兵やこちらもある程度の消耗
を強いられるだろう。
﹁完全な勝利を得るのが目的では、なかったですよね?﹂
ゴーレム
私はカインさんにそう言って、戦場から離れた場所で馬を降りた。
﹁キアラさん!?﹂
止められる前に、私は土人形を再び作りだす。
この半日間で何度も使ったせいで、ちょっと息切れがしそうだ。
でもまだやれる。
ゴーレム
ゴーレム
土人形に手を差し伸べさせ、どっこいしょと掌に乗る。
土人形には両手で私を包み込むようにして胸の辺りに持ってもら
い、私はルアイン軍に向かって進ませた。
﹁威圧をさせるつもりかの? イッヒヒヒ﹂
397
察したホレス師匠に私はうなずいた。
ゴーレム
巨大な土人形を見たルアイン軍は、攻城戦での悪夢を思い出した
のだろう。じわじわと兵を引いて行き、丘陵地の北まで撤退して行
ったのだった。
398
ディルホーン丘陵の反撃 2︵後書き︶
日付変更線超えちゃいました⋮。
一応26日夜も、間に合ったら更新したい⋮予定です。
399
彼女についての彼なりの願い
丘陵地では、その後二日に渡ってにらみ合いが続いた。
南西に位置するリメリック侯爵家とレインスター子爵が派遣して
きた軍は、合わせて6千。アランが指揮した分家で集めた兵が2千。
ルアイン軍はこちらに数を減らされたこともあって、目算で6千
といったところか。
キアラさんがアラン様と話している間に、私は他の騎士達の様子
を見に行く。
今回の作戦に連れてきた騎士は、私のようなアラン様の護衛とレ
ジナルド王子の護衛騎士が主だ。旧知の人間が多いとやりやすいの
で、有り難い。
﹁お、ウェントワースじゃないか﹂
私の従者をからかっていた騎士の一人が手を振ってくる。同じア
ラン様の騎士として仕えているチェスターだ。くすんだ金の髪の彼
は、うっすらと鼻先にそばかすが残る顔で笑う。
﹁今日も魔術師ちゃんのお守りお疲れ﹂
お守りというのは少々違うような気がするが、この場では曖昧に
濁しておく。
魔術の使い方やその詳細について、すべての人間に話すのは避け
ているからだ。うっかり広まって、彼女が術を使える上限なんかを
測られてしまえば、後々面倒だ。
﹁魔術師様のお目付け役殿、今日はもうお役御免ですか?﹂
近くにいたレジナルド王子の騎士フェリックスも寄ってくる。砂
400
色の髪の彼は、私とそう年が変わらない。22だったと思う。
﹁まだ昼だろうフェリックス。彼女のことはアラン様が見ていてく
れるから、少し馬の様子を確認しに来たんだが﹂
﹁馬とロニー君の面倒なら俺たちが見てるし、問題ない。それより
魔術師ちゃんの、昨日の戦闘について教えてくれよ﹂
﹁そうだな。一瞬で終わったように見えたから、詳細を知りたいね﹂
わくわくしながら尋ねてくるチェスターと、期待した目を向けて
くるフェリックス。
聞かれるだろうなと思ってはいたので、問題ないだろう部分だけ
かいつまむことにした。
﹁端的に言うと、ルアインがまたしても魔術師くずれを作りだして、
こちらに攻撃をしかけようとしたのを、キアラさんが阻止した﹂
﹁⋮⋮⋮⋮端的すぎるだろ?﹂
軽く説明したというのに、チェスターが非常に不服そうな顔にな
る。
﹁しかし⋮⋮普通に解説すると、やや問題が﹂
﹁何の問題が?﹂
フェリックスが不思議そうに尋ねてくるので、迷った末に答えた。
﹁悲惨すぎてな﹂
あれは悲惨としか表現のしようがなかった。
あの日、突然ルアイン軍が数騎近づいてきたかと思うと、殴られ
た痕が顔に残る中年と若い兵士が馬から投げ捨てるように降ろした
のだ。
最初、どういうつもりなのかわからなかった。
けれども魔術師であるキアラさんはすぐに察したようだ。すぐに
401
ゴーレム
土人形を作り出し、そちらに移動させた。
突然地面から現れた土人形に、味方も騒然となったが、彼女の意
図はすかさず同乗した土人形の上から見ていればすぐに分かった。
投げ捨てられた二人の兵士は、打撲のせいだとは思えない苦しみ
方をして、その場でもがいていた。
そんな彼らの体が浮き上がったかと思うと、竜巻が湧きおこって
彼らを包み始めたのだ。
魔術師くずれにさせられたのだ。
そしてエヴラール軍をかく乱、もしくは兵を削ろうと思ったのだ
ろう。
どういう基準で選ばれた二人だったのかはわからない。ただ薬を
⋮⋮魔術師になったキアラさんの予想によると、契約の石を砕いた
ものを飲まされて、魔術師になる儀式に似た状態にされ、素質がな
い彼らは早々に力を暴走させたのだ。
キアラさんは彼らを見て、一瞬戸惑っていた。けれど彼女の師が
言ったのだ。
﹁楽にしてやれ、我が弟子よ。肉体の全てを魔力に変えて放出する
のは苦しいものだ⋮ヒヒヒ。お前にも、覚えがあろう?﹂
不気味な笑い声をたてると、呪いの人形にしか見えない。けれど
ゴーレム
それに慣れてしまったキアラさんは、真剣な表情でうなずくと一気
に土人形で二人に向かって突撃した。
︱︱そして死ぬ未来しかなかった敵兵を、一瞬で踏み潰した。
ゴーレム
地面に飛び散った血は、ゆったりと崩れた土人形に覆われて見え
なくなる。
今度は倒れることなくその上に立ったキアラさんは、じっとルア
402
イン軍を見つめてから、土の小山から降りた。
表情は強張り、歯を食いしばっているところから、魔術師くずれ
を殺したことが、彼女にとって心の負担になっていることは察せら
れた。
そんな彼女に、ホレス師が言う。
﹁現状、あれが一番楽な死に方であろう﹂
﹁でも⋮⋮痛いでしょう﹂
﹁ああなっては、何も感じる余裕などないじゃろ、ウヒヒヒ﹂
私は、そんな師弟の会話に口をはさむこともできなかった。魔術
師でなければわからないことに関しては、何も言えないのが口惜し
い。
なのでルアイン軍が兵を走らせて来ないかを警戒しながら、キア
ラさんに付き従うようにして自陣に戻ったのだ。
一連の出来事を、私は師弟の会話を省いて聞かせてやる。
﹁ほー一瞬か。やっぱりマジもんの魔術師はすごいな﹂
チェスターが口笛を吹き、フェリックスも感心したような表情に
なる。
敵を倒しただけだ。話を聞けば皆、そうやって褒めるだろう。
あの直後、キアラさんのことを侯爵家と子爵家からの代理人達も
ほめそやしていた。
キアラさんは、疲れたような顔で口元だけ笑みの形にして受け取
っていた。
でもアラン様はキアラさんの表情に気付いて、黙って彼女の肩を
叩いた後、私に後で話を聞かせるよう指示してきた。
そしてレジナルド王子は、功労があったのだから褒めねばならな
かった。
403
﹁ご苦労だった。魔術を使ってどれだけ疲労するのかは、使えない
私には想像もつかない。次に何かあったときのためにも、まずは休
んでほしい﹂
ねぎらいながらも、彼はすぐにキアラさんが下がれるように言い
訳を作り上げた。
それを受けて私はキアラさんを、女性だからと彼女のために用意
された小さな天幕へ引き取らせた。
彼女を見送って振り返れば、離れた場所にいるレジナルド王子が
こちらを見ていた。
問うようなまなざしは、おそらく﹃様子はどうなのか、大丈夫な
のか﹄と尋ねているのだろう。だてにアラン様の護衛となってから、
何年もアラン様ともども王子の面倒をみてきてはいない。それぐら
いは理解できる。
私が一礼してみせると、レジナルド王子は何事もなかったかのよ
うに視線をそらす。そのままこちらを振り返ることはなかった。
アラン様とは違って、出会ったころから心の奥底までは誰にも見
せない、大人びた少年だった王子。
彼は明らかにキアラさんを特別に感じている。
幼い頃から、彼は他人と自分の間に壁をつくっていた。
王宮ではそれがさらに顕著だった。アラン様に対しても決して悪
ふざけなどは仕掛けない。それを見る者たちがどう思うかを考える
と、うかつに動けなかったのだろう。
キアラさんへの態度も、最初は壁を作っていた。珍しいトカゲを
見つけた子供のように構ってはいても、彼女の様子も観察していた。
なのにいつからか、彼女のことを過保護とも言えるように羽の下
に隠したがるようになったのだ。
404
あれは執着⋮⋮なのだろうか。
恋だとしたら、それに気付いた王子はもっと慎重に彼女から距離
を取るだろう。自分の気持ちを明かすことが、相手の命を奪う契機
になる可能性があるから。
だけどキアラさんに対しては違った。
一見して、大事にしていることはわかる。けれど彼の行動を見て
いる者は、それが恋なのかと言われたなら戸惑うだろう。
彼女が自由に動けるよう一歩引く様子は、恋人というより保護者
じみているからだ。
アラン様は、王子のことを親鳥なんだと言っていたが⋮⋮。
もしかするとレジナルド王子自身もよく自覚できずに、保護者の
立場を守っているのかもしれないが。
考えに沈んでいた私に、チェスターが言った。
﹁でもお前いいよな。この男だらけの大所帯の中、一人だけ可愛い
女の子と一緒なんだから﹂
我に返った私は笑う。
﹁希望しても譲るつもりはないからな﹂
﹁⋮⋮お?﹂
あっさりと拒否されたことに、チェスターが目を丸くする。一方
のフェリックスも、目を瞬きながら尋ねてきた。
﹁まさか、本気なのかい?﹂
﹁そう見えるか?﹂
私は答えをはぐらかした。
一度決めたら、何の力も無いのに勇者のように全てを救うために
405
走り出す姿や、苦しくても絶対にあきらめない眼差しの強さとか。
そういった彼女の良さを教えたくなかったからだ。
彼女が強いからこそ、頼られるのが心地良い。
そして普通の女の子のような弱さを知ることも、未知の存在に触
れるような懐かしい気分になる。
でもそんなことを思うのは私だけでいい。
だから願う。
親鳥の庇護から、彼女が早く離れることを。
そして王子がすべてに気付いて鳥かごに閉じ込めてしまう前に、
止まり木があれば飛んでいけることを教えなければ、と思うのだっ
た。
406
私なりの区切り方
睨み合いが続いた三日目。ルアイン軍が動いた。
城へ戻る方向ではない。北西へ向かっていくので、おそらく王都
へ直進している軍に合流するのだろうと推測された。
﹁⋮⋮終わり?﹂
ゲームみたいに音楽が流れるわけじゃない。
これが転換点だという劇的なこともなく、遠ざかる人の姿を見送
るのは、終わったようなまだ終わらないような変な気分にさせられ
た。
その後敵が視界から去り、斥候に出た者が半日をかけて追跡した
結果、ようやくエヴラールの軍は城へと帰還することを決めた。
その間に行ったのは、戦死した味方の遺品の回収だ。
遺品を集めた後は、遺体を運ぶわけにもいかない。なのでまず焼
くことで土に還りやすくした上で、埋めるのだ。ただ、これも相当
に労力が必要な代物だ。
﹁それでも魔術師様がいたから、埋めてやる奴が少なくて助かった
なぁ﹂
﹁俺たちも、お仲間になるところだったからな﹂
なごやかに会話している兵士達の目の前には大きな窪みがあり、
そこには枯草や枯れ木がくべられ、遺体が焼かれていた。
木の燃える臭いが強すぎてむせそうなおかげなのか、どこかで噂
に聞いた悪臭はあまり気付かなかったのは幸いだ。
407
そんなことを考えながら、私は兵士達から少し離れた場所を歩く。
草むらに埋もれるように倒れたままの黒いマントの兵士を見つけ
て立ち止まり、次にまた見つけた遺体の傍に、三日放置したために
醸成された腐敗臭に吐き気をもよおしながら、近くに小さな銅貨を
一つ落とす。
﹁う⋮⋮﹂
口を左手で覆いなら、また次の放置されている遺体を探して歩き、
地面に銅貨を落とす作業を続けていた。
﹁我慢できんのなら、一度離れるがいいぞ弟子よ、ウヒヒヒ﹂
相変わらず腰に革ひもで括り付けている師匠が、そう促してくれ
る。なので一度作業を中断して、誰もいないだろう場所を求めて、
近くの林に入った。
草いきれと木立を抜けてくる新鮮な風に、ほっと息をついた。
﹁軟弱だのぉ﹂
﹁だってこういうの⋮⋮慣れてないし﹂
現世で馴染みがない上、前世など事件事故に出くわさない限り、
ご遺体と遭遇するのは近親縁者のお葬式だけだ。
とにかく作業はまだ半ばなのに、吐き気がもうどうしようもない
レベルになっていた。
﹁うぇぇぇぇ﹂
誰もいないと思って、木に腕をついて下を向く。吐くわけじゃな
いけど、声に出すだけでちょっと気分が良くなるわ。
なんにしても、カインさんが傍に居なくて良かった。こんな有様、
なんか完璧っぽいお兄様なカインさんに見せられないわ。美貌もな
んにもない私だけども、こんな姿晒すのは女子としてマズイと思う
408
し。
カインさんが張り付いていないのは、ルアインの軍が撤退して行
き、周囲に味方しかいないからである。もう一つ言うと、女子が私
しか居なさそうに見えるが、敵が引いたことで環境が変わったとい
うのもある。
近くの町の人がやってきて、ここぞとばかりに鍛冶師が悪くなっ
た剣の代わりを売り、日用品を売る商人の他に、食料を売りに来る
人などで女性も出入りしているのだ。
あげくにしゃべる土偶を連れてる怪しげな魔術師ならば、皆滅多
なことでは近づかない。
カインさんも用事があるようで、私に﹃何かあれば魔術で排除し
ていいですよ﹄と言って離れているのだ。
おかげで自由に、私がしたいことはできているのだが。
﹁うう、しんど⋮⋮﹂
思った以上にしんどい。けどやめる気はなかった。
︱︱敵兵の遺体を埋葬する。それがあちこちをうろうろしていた
理由だ。
敵兵の遺体は放置することが決定されている。労力がかかるので、
明日には城へ移動する都合上、長々と作業するわけにもいかないと
いうのが建前。本音としては、突然侵略され、仲間が殺された恨み
も重なっていることが考慮されてのことだ。
だから兵士達が剣などの装備や持ち物を取り上げた後は、野ざら
しになっている。
それを懇切丁寧に埋めると知られたら、まぁ⋮⋮兵士の皆さま方
409
には賛成してはもらえないだろう。
一応理由は考えている。近くの町の皆さんに、腐敗臭でご迷惑に
なるからということと、疫病を予防するためだ。
前世では戦争による疫病のことなど考えたこともなかった。けど、
災害による疫病の発生、という単語を何度か見たことがある。ハエ
なんかが媒介するんだよね。だから早く埋めるのは味方のためでも
ある、と理論武装した上で、でもそれをみんなが理解してくれるか
不安なので、こっそりと行動しているのだ。
﹁うう、でもまだ終わってない。おひさまが出てるうちじゃないと
わかんなくなっちゃう﹂
既に日は傾き始めていた。でもあと少し休みたい。
そう思って木を背にして座り込んでいると、
﹁キアラか⋮⋮?﹂
左手の木の影に、青い顔をして座り込んだアランがいた。
﹁⋮⋮アラン?﹂
なんでそこにいるのか。
﹁具合悪いの?﹂
風邪かと思ったが、アランは言いにくそうに顔を背ける。一体な
んだと思ったら、師匠が﹁キシシシ﹂と笑った。
﹁お前さん、さっきまで死体運びの手伝いをしておったな。部下に
任せておけばいいものを、余力がある時には手伝うなどと見栄を張
ったはいいが、具合を悪くしたのだろうイヒヒヒ﹂
﹁うぐ⋮⋮﹂
師匠の読みが当たったようだ。アランが恨めしそうに師匠を見て
いる。
410
﹁なんで言うんだよ恰好悪ぃだろ﹂
﹁外面を繕えるのは、余裕がある人間だけよウヒョヒョヒョ﹂
師匠に言い返されたアランは、精根尽き果てていたのかそれ以上
反論しなかった。そうか私と同じなのかと思うと、ちょっと安心し
た。
﹁で、お前は仲間なのか? 吐き気をもよおしているように見えた
が﹂
むしろ分が悪いので標的を変えたようだ。ていうか、やっぱ見て
たか⋮⋮。
私は観念してアランに返事をする。
﹁アランと同じ。ご遺体の臭いが予想以上で﹂
﹁でもなんでだ? お前は別に死体運びもさせてなかったが⋮⋮﹂
と、そこでアランは気付いてしまう。
﹁⋮⋮そうか、敵兵の死体か?﹂
とっさに返事ができなかった。そうだと認めたら、ヴェイン辺境
伯様が怪我を負わされているアランなら︱︱ゲームでいつも厳しい
表情を崩さず、お父さんや他の人を失った悔しさを語っていたアラ
ンを思い出すとなおさら、理解してはくれないかもしれないと思っ
たから。
ややあって、アランはため息とともに木を仰ぎ見る。
﹁そりゃ、誰だって死体なんざ見たくないだろうな。放置されてる
のを見れば、いつか自分もこうなるんじゃないかって気になってく
る。こんな酷い姿をさらして朽ちていくのは嫌だ、そう思ってる奴
も兵士の中にはいるだろう﹂
意外なことに、否定する言葉ではなかった。私は驚いてまじまじ
411
とアランの顔を見てしまう。
これはもしかして、辺境伯様が死ななかったからなのだろうか。
友達を失わず、城までも蹂躙されるという憂き目に遭わなければ、
アランはこんなにも穏やかに死んだ敵のことを語れる人だったのか
もしれない。
⋮⋮少し、私は自分が頑張った証を新たに手に入れられた気がし
た。
﹁あとは、お前が⋮⋮敵であっても殺したくないって泣いてたって
レジーが言ってたからな﹂
予想外の言葉に、私は目を丸くする。
﹁え、レジーが⋮⋮? しゃべっちゃったの!?﹂
恥ずかしくてなんだか顔が熱くなる。なんでそんなこと教えちゃ
うかなもう。せめて泣いてたとか言わないでくれたらよかったのに。
顔をあわせ辛くなってうつむくと、アランが慌てたように弁解し
てきた。
﹁あ、もちろんレジーだって考えがあってのことでだな、お前が⋮
⋮戦うのを拒否した時のために、レジー一人だけで強行に反対して
も難しいだろうから、俺にも手を貸してほしかったんだろうと⋮⋮﹂
﹁そ⋮⋮そっか﹂
私が魔術師として人を殺したくないと言った時のため、根回しを
していたのだといわれては、納得するしかない。確かに迷惑をかけ
たのは私の方なのだから。
すると、アランがゆっくりと立ち上がった。
﹁じゃ、手伝ってやるよ﹂
412
﹁え?﹂
﹁まだ終わってないんだろ、敵兵を埋める⋮⋮埋めてるわけじゃな
いよな? 何やってたんだ?﹂
﹁うんと、印つけ。みんながあまり気付かないうちに、夜ささっと
埋めちゃおうと思って。ホレス師匠に土に関する魔法の助けになる
媒介を教えてもらったから、いっぱい両替してもらってきたの﹂
ざらっと見せたのは、小さな1シエント銅貨だ。10枚で大銅貨
1枚分。100枚で小銀貨1枚と等価になるもっとも小さな硬貨だ。
流晶鉱のように、銅は魔術の媒介になる。
それなら銅貨を使えばいいじゃないかと思い、町からやってきた
商人さんに、限界まで両替してもらったのだ。これで全員ではない
だろうけれど、魔術を使って私でも大量の人数を埋葬できるはずだ。
﹁じゃ、少し貸せ。俺も多少は持ってるが、そこまで大量じゃない
からな﹂
﹁うんいいけど⋮⋮ほんとに、手伝ってくれるの?﹂
尋ねると、アランは笑った。
﹁俺だって野ざらしの死体が腐ってくのを見ていたいわけじゃない。
⋮⋮死んでしまえば敵も味方もないんだからな﹂
アランの言葉に私は息をのむ。
それに、と彼は続けた。
﹁お前は人を殺したくないって気持ちを、これで決着つけることに
したんだろ? お前なりのやり方がこれだっていうなら、手をかし
てやる﹂
殺したくない。でも戦争で、戦わないと殺される。
そんな中で自分の中で折り合いを付けようと思った末に、私はと
413
にかく死んだ人だけでも同じように眠らせてあげたいと思った。死
んでしまったのなら、もう敵にはならない。なら、同じように扱っ
てもいいだろうと考えたから。
だからアランが﹃死んでしまえば敵も味方もない﹄と言った時、
まるで自分の気持ちを代弁されたように感じて、驚いた。そしてア
ランは、私が埋葬にこだわる理由をわかってくれた。
⋮⋮うれしい。
同じ考えを持ってる人がいる。そう思うと、もっと頑張ろうと思
えてくる。
﹁レジーも表立っては言えないだろうけど、たぶんお前の意見には
賛同してくれるだろうさ。ただなぁ、王子が敵兵に手厚くするって
のは兵の士気にかかわるだろうから、あいつにはさせられないから
な﹂
﹁それ、私もどうしようかと思って。だけど一応言い訳は考えたの。
腐敗したものから疫病を虫が媒介するから⋮⋮って﹂
﹁げ、そんなのがあるのかよ﹂
﹁知らなかった?﹂
そんな話をしながら、私はアランと一緒に硬貨が尽きるまで戦場
を歩き続けたのだった。
そして夜。
みんなが寝静まってからではなく、食事が済んで気が緩み、敵が
いないことで談笑することに気が向いている間に、私は敵兵の埋葬
を実行した。
真っ暗な中でこそこそ行動してたら、さすがに今度ばかりはカイ
ンさんに見つかって、彼もついてきた。そしてアランから聞いたの
414
か、目立つ銀髪をフードで隠したレジーも。
みんなが見ている前で、ホレス師匠の指導の元で、私は離れた場
所の土を操る。
暗くてよく見えないけれど、銅貨の在り処は感じられた。
最初に、カインさんが持つ明かりの近くにあった遺体が、陥没し
た地面に吸い込まれるように消え、上に土が盛られる。草原にぽつ
んとむき出しの地面が現れたような状態になった。
順番に作業を続けていったが、皆同じようになったのだと思う。
終わった頃にはさすがに疲労困憊してその場に座り込んでしまった。
﹁お疲れ様﹂
優しい声でねぎらってくれたレジーが、軽く頭を撫でてくれる。
心地よくて、つい目を閉じてしまいそうだ。
でもここで眠っちゃだめだ。
最後に、私は葬送の聖句をつぶやく。全ての者の眠りを守る神よ、
と。
本来は教父や司祭が葬儀を執り行う時に、歌いあげるように朗々
と詠唱するものだが、ひそやかな埋葬なのでつぶやくくらいでもい
いだろう。
すると教会学校で同じように習い覚えたアラン、知っていたらし
いレジーが合わせてくれた。
翌日、当然ながら敵兵の遺体が埋まっていることに気付かれてし
まった。
後の祭りなので、文句を言われももう遅いし、誰ももう一度掘り
だせとは言えないだろう。
だが、兵士達の反応は賛否両論だった。
もっと反対が大勢を占めるかもしれないと思っていたので、ちょ
415
っと意外だった。
反対者も、レジーによる近隣への臭いによる害や疫病の問題から、
埋める方針を取ったと発表されると大人しく受け入れてくれた。
さすがに、埋めないことで病気が蔓延するのはたまらないと思っ
たのだろう。
でも、レジーの指示によって私が力をふるったということになっ
てしまった。
またレジーに庇われたことに、私はちょっと後ろめたくなったの
だった。
416
エヴラール城への帰還
ようやく城が見えてきたその時、ああ帰って来られたんだなとい
う感情がこみ上げた。
帰りは急ぐ必要がない上、リメリック侯爵とレインスター子爵の
軍が増え、そして負傷兵も抱えているので二日がかりになった。
それでもたった数日離れていただけだ。けれど二年近く暮らして
来て、エヴラール城は私にとっての家になったんだなとしみじみ思
う。
しかも帰って来られて良かったと思える家だ。
こっちの世界に生まれてから、生家は魔窟にしか思えなかったし、
伯爵家は檻だった。いずれ帰るのだと思えば、学校の寄宿舎もいず
れ出ていかなくてはならない仮の宿でしかなかった。
だからこそ、家のように思える城に帰って来られたのはうれしい
のだが、ここに来て私は思い出す。
﹁そうだ。ここでもお葬式をしなくちゃ﹂
エヴラール城周辺にも、敵兵の遺体が野ざらしのはずだ。ルアイ
ン兵も、私という魔術師がエヴラール側にいたせいで身動きが取れ
なかっただろうし、もちろん戦死した兵を埋葬できたわけがない。
そして包囲していたルアイン軍が去った後、城の兵や城下の遺族
なんかが遺体を回収などしたとは思うが、敵兵の遺体は何もしてい
ないかもしれない。もしかしたら、城下町が近いので臭気を嫌がっ
て埋めたかもしれないが。
すると、私のつぶやきをカインさんが聞き咎めた。
417
﹁また、敵のことですか?﹂
私を鞍の前に座らせて手綱を操るカインさんの表情は、振り返ら
なくともわかる。きっと微妙に渋い表情をしているのだ。
彼は基本的に私のすることを妨害したりしないけれど、これだけ
は嫌がる。なぜならカインさんもまた、過去にルアインに家族を殺
されているからだ。
心情的に納得できないのだろう。私だって、カインさんやレジー、
アラン、ヴェイン辺境伯様達の近しい人のうち誰かが殺されていた
ら、こんなにも戦で殺すことにためらいを感じなかっただろう、と
想像できるから。
きっと悲しくて辛くて、それをぶつける相手を求めてしまう。敵
を殺すことに罪悪感など抱かなかったに違いない。
だからカインさんに無理を言うつもりはない。
﹁うん。でも病気が発生しやすいのは本当だから。お城の人や城下
の人に何かあったら困るし。ね?﹂
﹁まぁ⋮⋮以前そのような話は聞いたことがありますが。籠城して
いるところに動物の死体を投げ込まれた後、まるで呪いをかけられ
たかのように、城内の人間が病に倒れたとか﹂
﹁う⋮⋮﹂
カインさんの声から嫌悪感が消えたのは喜ばしいが、代わりにち
ょっとグロい話を引きだしてしまった。
﹁ま、まぁそういうことで﹂
話は切り上げたけれど、腰にぶら下げた師匠が﹁キシシシシ﹂と
笑う。
笑うだけで何も言わなかったので、私はそのまま無視した。
418
城へ到着すると、こちらの姿が見えていた時点で開かれていた門
の前には、ヴェイン辺境伯様とベアトリス様が立っていた。
二人とも既に早馬で勝利を伝え聞いていたので、明るい顔をして
いる。けれども怪我をしていないか心配だったのだろう。アランや
レジーの姿を見つけると頬を緩ませていた。
可愛い子供と甥だもんね。
辺境伯夫妻は、先頭のレジーから型どおりの短い報告を受け、さ
らにリメリック侯爵の弟だという体格の良い中年男性とレインスタ
ー子爵の叔父だという白髪交じりの紳士との挨拶を交わした上で、
カインさんに手伝ってもらって馬を降りた私の元へも来てくれたの
だが。
﹁キアラ、ありがとう。貴方がいてくれたおかげで、多くの兵が無
事に帰って来られたわ﹂
ヴェイン辺境伯様が話し出す前に、感極まった様子でベアトリス
様が私を抱きしめてくれた。
柔らかな腕とか胸に、お母さんって感じがして、なんだか⋮⋮目
に涙が浮かびそうになる。
最近接していたのが、自家製土人形の地面的感触とか、カインさ
んの頭ぶつけたら死にそうな固い胸甲とか、抱きしめても素焼きの
壺っぽい師匠とかばっかりだったから、なおさら戦場から帰ったん
だという感覚が強くなる。
⋮⋮今度師匠をふわもこの毛皮で覆ってみようかな。師匠をより
癒し系にできそうなので、ちょっと考えてみよう。
抱きしめられてる感触を堪能していた私を、ベアトリス様がよう
やく離した。けれども肩に手を置いて、顔を覗き込むようにして言
う。
419
﹁あなたがやると決めたから、私には何も言えなかった。自分を守
るためでもあるって私に言ってくれたけれど、普通の死に方すらで
きない運命を選ばせてしまったのは、私達だけでは太刀打ちできな
い相手だったからだわ。せめてあなたに救われた分、せいいっぱい
の援助を約束するから、どうか何でも言ってね﹂
その言葉を聞いていた周囲の人々が、さっと表情を改めた。
普通の人とは違う存在になってしまったことを、知っていた人達
はベアトリス夫人の言葉にうつむいた。
その他の人は、魔術師がいるというだけで戦力が倍になったに等
しいことを喜んでいたけれど、よもやそんな風に言うほどのことだ
とは知らなかったのだろう。
ざわざわっと近くにいた歩兵さんたちが小声で話し出す。
﹁魔術師って⋮⋮そんなに大変なのか?﹂
﹁バカ、魔法使いすぎても砂になって死んじまうって話だぜ﹂
﹁だから王子やアラン様達まであんなに過保護に⋮⋮﹂
﹁護衛がつくのも仕方ないだろうな、なるべく温存して、ここぞと
いうところで使わないと死んでしまうんじゃな﹂
そうして周囲がすごく重苦しい雰囲気になった。
でもごめん、あまり真剣に気の毒に思わなくてもいいよと思う。
私も今思い出したぐらいだし。なんかすっかり忙しさと、その後ぼ
んやりしていたものだから忘れてた位だから。
私は慌てて辺境伯夫妻に言った。
﹁今のところ大丈夫ですし、ほら私には師匠がいますから、私がう
っかりしてても管理してくれますし!﹂
﹁ホレス殿、私からもくれぐれも頼みます﹂
420
しかしヴェイン辺境伯様の礼儀正しい一礼と、涙ぐむベアトリス
夫人の姿に、周囲の雰囲気は一向に変わらなかった。
師匠が﹁まぁボチボチやるわい﹂と適当な返事をしても、効果な
し。
どうしよう。ほら、今って凱旋だよね? 敵は退けたんだし、み
んなでバンザーイって喜んでお祭り騒ぎになるのかと思ってたんだ
けど、お通夜風味でいいのかな?
正直私も、感謝してくれるのは頑張った甲斐があるからうれしい
けれど、暗い雰囲気の中心に置かれ続けるのはいたたまれなかった。
困った私は助けを求めて視線をさまよわせ、こちらに歩いて来る
レジーとアランを見つける。
レジーはヴェイン辺境伯様の肩を叩いて苦笑いした。
﹁辺境伯殿、そのくらいで。今日は無事戻ることができたのですか
ら、まずは危機が去ったことを喜び、ねぎらいましょう﹂
﹁そうですな。殿下﹂
はっと我に返ったように顔を上げたヴェイン辺境伯様がうなずく。
そうしてようやく私達は入城することができたのだった。
とはいえ兵士達をこのまま解散させることもできず、また、リメ
リック侯爵とレインスター子爵の軍も加えて兵力が肥大化している
ため、彼らを収容する場所を確保したりと、城の人はおおわらわだ
っただろう。
そんな中、とにかく休んでいいからと皆に言われて、私は自室へ
戻ったり久々に入浴できたりと人心地つくことができた。
そのまま熱を出して寝込んだのは、まぁ、仕方のないことだと思
う。
421
﹁知恵熱じゃろ、イヒヒヒ﹂
今度は寝台脇のテーブルの上に鎮座した師匠が、ぐったりと横に
なっている私を笑う。
﹁やっぱりそうかなぁ。でも知恵熱⋮⋮まだ16歳なら、アリかな﹂
前世で16歳の時どうだったっけと思うが、熱のせいか上手く思
い出せない。
﹁後はだな、普通は魔術師の契約をしたら寝込むな。一日は普通使
い物にならん﹂
﹁え、寝込むの!?﹂
知らなかったと驚けば、師匠が﹁お前がオカシイんじゃ﹂と酷い
ことを言う。
﹁考えてもみよ。自分の体中に異物がしみ込んでおるようなもんじ
ゃろが。だから魔術をを使いすぎれば、肉体まで魔力として使って
しまって砂になるのだろ、ウヒヒヒヒ。そんな真似をして、熱も出
さずにぴんぴんしておる方が例外じゃな﹂
まぁわしも微熱程度で動けたのだから、なかなか適性があったの
じゃろとホレス師匠が自慢した。
﹁あー⋮⋮なるほど﹂
私もさすがに納得する。確かにあれだけ細胞が全部溶けちゃうん
じゃないかと思うほど苦しんだのだ。発熱の一つや二つするだろう。
でもなんで私、こんなに軽かったんだろう。
﹁お前の場合は、あれじゃな。先に契約の砂を取り込んでおったの
だろ? それが多少なりと助けになったのだろ﹂
こればかりは喜んでいいのかわからなかった。
だって敵が私を利用できるものかどうか判別するためだまして飲
422
ませたものが、助けになったのだというのだから。
確かにあの時そのまま寝込んでたら、師匠の魂をとどめておくの
がやっとで、辺境伯様を助けに行くとかそんなこともできなかった
だろうけど。
⋮⋮まぁ、ちょっとそれは考えなかったことにする。
ため息をつくと、なんだか眠たくなってきた。
﹁なんにせよ契約後にあれだけ暴れた上、墓づくりにまで精を出し
たんだからのう、寝込むのが普通じゃろ﹂
﹁そうだ⋮⋮敵の埋葬⋮⋮﹂
早く終わらせるつもりだったのに、どうしよう。そう思っていた
ら、ホレス師匠が教えてくれた。
﹁さっきお前が寝ておる間に、聞いてやったぞい。異臭が酷いので
数か所にまとめて焼いたらしい。その後は野ざらしのようだが、埋
めるのを急がなくとも良いじゃろ、ヒヒヒ﹂
師匠の言葉にほっとすると、さらに眠たくなる。
﹁そっか⋮⋮良かった⋮⋮わふ⋮⋮﹂
あくびまで出てきた。
﹁だからもうひと眠りしておくがいい﹂
﹁そう、する⋮⋮﹂
答えたのはぎりぎり覚えている。その後ふっと意識が浮上するま
での間の記憶が無いので、たぶん私はぐっすりと眠り込んでしまっ
ていたのだろう。
ゆっくりと水底から浮かび上がるように、意識が目覚めていく。
でもどうして起きたのか。
423
たぶんこの、頭を撫でる手の感触のせいだろう。
その手は私の髪から離れると、頬をなぞる。
まだはっきりと目覚めていないせいか、どこかその感覚が布越し
のもののように曖昧で。
﹁おやすみ﹂
かすれるようなささやき声は小さすぎて、誰のものなのかも判別
できない。
けれど最後に、唇に何かが触れたことだけはわかった。
424
犯人は誰ですか?
﹁⋮⋮え?﹂
はっきりと覚醒したのは、窓から朝日が燦々と降り注ぐ頃だった。
明るい部屋の中を、ぼんやりと眺める。
さっきまで、真っ暗だった気がした⋮⋮のは途中で起きたせいだ
ろうか。
それなら頭を撫でられたのも夢? 誰かが﹁おやすみ﹂って言っ
たのも? 今までそんな夢を見たこともなかったし⋮⋮。
思わず指先で自分の唇に触れる。
なぞるように自分で触れた感覚が強すぎて、夢うつつの中で感じ
たものと同じかどうか、わからなくなってくる。いや、同じような
感覚だった?
でもなんで唇?
まさか、私ってば誰かにキス⋮⋮されたとか?
そこで私はぞっとする。
﹁え、まさか不審者!?﹂
だって私の部屋、熱を出したせいでマイヤさんとかが出入りして
て、鍵かけてなかっただろうし。不審人物だったのかな?
でもすぐ近くに辺境伯夫妻の部屋とかある棟なのに、おいそれと
夜間に近づけるわけもない。
しかし凱旋直後で城内は騒然としている。既に城下の民は町へ帰
しているとはいえ、こっそり残っている不心得な人間がいないとも
限らない。盗みを働こうとして、領主の館に忍び込む人がいないと
425
も言えないのだ。
だけど館の前には見張りの人がいる。館の中にはレジーだって宿
泊しているので、その護衛騎士の人だっているんだ。見つからない
ようにしのび込めるだろうか? むしろその中の誰かが⋮⋮。
﹁いやいやちょっと待て自分。身内を疑っちゃいけない﹂
思わず自分に突っ込みを入れる。
そもそも、あれはキスだったのか? そこが変わるだけで大分推
理にも影響が出るはずだ。キスじゃなくて、手が滑っただけかもし
れないではないか。
﹁手が滑っただけ⋮⋮ほんとにそうかも?﹂
正直、前世も今も全く経験がないので、あれがキスの感触かどう
かっていうのも私にはわからない。むしろ指で触ったのと同じよう
な気がしないでもない。
だとすると、熱を出した私の様子を見に来て、頭を撫でて帰る人
間だけを推測したらいいのだ。
ベアトリス夫人、レジー、マイヤさん、クラーラさん⋮⋮。
﹁でも声が男の人だったような? だとしたらヴェイン様とか。ア
ランは⋮⋮来ないんじゃないかなぁ? カインさんなら心配して様
子を見に来そうだけど﹂
でも私の頭を撫でて﹁おやすみ﹂なんて言う人、そのくらいしか
思い浮かばない。
誰だろうと思いつつ、どうしても一番﹃ありそう﹄な人物の銀の
髪が、脳裏をちらついて仕方ない。でもいつだって私をからかって、
隠したいことを暴いていく人が該当者だった場合⋮⋮手が当たった
だけだとは思いにくいけど。
426
でも、もし﹃そう﹄だったら、どうして⋮⋮と思ってしまう。
自分を自分で守らなければならなかった人間同士だからわかる。
もしレジーがそんなことをしたとして、私が起きてしまったら。
私がそれを受け入れても拒否しても、私、絶対何事もなかったかの
ようになんて過ごせない。
折しも、間もなくルアインが王都を占拠するこの時期だ。王妃が
王位を宣言したなら、彼は身を捨てる覚悟で戦うしかなくなる。れ
っきとした王子であるレジーが生きている以上、アランではなく彼
が旗印となって戦わなくてはならないのだから。
だというのに、私という戦の趨勢を決めかねない人間を、一時で
も冷静でいられない状態に置くだろうか。
じゃあ、別な人⋮⋮?
でも他の人が私にそんなことをする理由が浮かばない。
﹁いやいや、別に手があたっただけだとしたら、ほんとにマイヤさ
んの代わりに様子見てただけかもしれないから、疑い過ぎも良くな
いよね。あ、そうだ師匠に聞けば⋮⋮って、あれ?﹂
寝台脇のテーブルの上、水差しの隣に鎮座していた師匠の姿が見
えない。
なんだこれ。今度は土偶消失ミステリー?
﹁師匠、どこです?﹂
﹁ここじゃここじゃ﹂
返事はすぐに返ってきた。声が聞こえた方向を調べようと、私は
寝台の上に起き上る。うー、まだちょっと熱が高いみたい。少しく
らくらする。
けれどそれぐらいじゃ師匠の姿は見当たらなかった。
427
仕方ないので寝台から降りて立ち上がる。足がふらつくけれど、
歩けないわけじゃない。
そうして水差しが置かれたテーブルの向こう、ソファの上に籐編
みのバスケットが置いてあるのを見つけた。
そこにin土偶。しかもきっちりとそのサイズに作られた敷布と
毛布に枕までセットされてあった。
思わず目をこすった。それからじわじわとこみ上げてくる笑いに
耐えきれず、ぷぷぷと笑ってしまう。
﹁なんじゃ。どうしてそんなに笑うんじゃ﹂
﹁や、ちょっと師匠⋮⋮うぷぷぷ。お人形さんのベットに寝てると
か、うぷぷぷぷ﹂
﹁くっ⋮⋮わしだってこの状況は大分不服なんじゃがの!﹂
﹁一体誰がこんな可愛いことしたんですか?﹂
﹁お前さんの看病しておった、マイヤとかいう侍女じゃ。⋮⋮くっ﹂
悔し気にホレス師匠が犯人の名前を上げる。
﹁あー、マイヤさんですか﹂
確かあの人は布を扱う商家の娘さんだ。お裁縫も得意と聞いてい
る。きっと城を留守にしていた間に作って待ってたんだろうな⋮⋮
うぷぷぷ。
﹁そうだ。ところで師匠、私が眠ってる間に、マイヤさん以外にこ
の部屋に出入りした人っています?﹂
師匠は魂こそその場につなぎとめてるけれど、人間としては生き
ていない。睡眠も必要ないのだ。⋮⋮だからこそお人形さんベッド
が可笑しくてたまらないのだけど。
尋ねられたホレス師匠は、首をかしげそうな感じで答えた。
﹁はて。わしも深淵なる思考に沈むことはあるからの。全てを見て
428
いるわけではないのじゃが。ただ⋮⋮そうだな。王子が来てわしの
姿に笑いを堪えておったが、あのけしからん侍女が満面の笑みで意
見を期待していたので、心にもなく褒め、わしの抗議は無視して行
きおった。あとはお前の護衛をしていたカインといったか。あやつ
と別な侍女、年かさの召使いと、あの領主夫妻も来ておったか﹂
うん⋮⋮多すぎる。
でもなんとなく私が目を覚ましかけた理由は推測できた。
頭撫でられたからってだけじゃないなこれ。ただでさえ何時間も
眠ってたから夜中に眠りが浅くなってたんだろうし、いろんな人が
出入りして、こそこそながらもしゃべったりしたことで、目を覚ま
しそうになったんだろう。
面倒を見てくれてたマイヤさんだって休憩は必要だっただろうし、
だからお見舞いに来たらしい人達の他に、召使いのおばさんとかが
出入りしてたに違いない。
そんな中の一人が頭を撫でていったわけだ。
師匠の口振りから、レジーの時にはマイヤさんが同席してたみた
いだし、他の人だってしのび込むような隙はなかっただろう。
そもそも、師匠がいるんだからこっそり侵入なんて不可能だった。
でもちょっとほっとした。不審者ではなく、これはたまたま指先
が当たったかなんかしたんだろうって結論が、濃厚になったからだ。
安心してきたら、なんか喉が乾いてきた。
水差しの中の水をコップに注いで飲んだら、今度はおなかがすい
てくる。
マイヤさんを待つより、ちょっとだけだから何かもらいに行こう
かな。
立っているうちに少しふらつかなくなってきたし、私はマイヤさ
429
んたちが着替えさせてくれたのだろう寝間着の上から薄青のガウン
を重ねて着て、部屋を出る。
その時、ぼそぼそと師匠がつぶやいていた。
﹁⋮⋮全く。最近の若い者の考えは理解できんのぅ﹂
430
気にせずにはいられない
さて、領主館の厨房は一階だ。
内履きの柔らかな布靴を履いて、私は固い灰色の石床の廊下を進
む。
多少ふらつくが、やはり歩くのには問題ないようだ。いつもより
遅めだけれど、ちまちまと歩いて階段までたどり着き、下へと向か
う。
ちょうどみんなが会議をしたりと忙しくしている時間なのか、館
の中に人の姿がなかった。
ちょっと息切れはしたものの、私は厨房にたどり着く。
お昼の用意を始めているのだろうか。野菜や肉を煮こんだスープ
の香りがする。口の中に塩気のあるまろやかなスープの味がよみが
えって、よだれが出そうだ。
垂れてたら困るので一度口元を袖で拭いてから、厨房横の使用人
用の食堂の扉を開ける。中から話し声が聞こえていたので人がいる
のは分かっていたので、何かしら余り物がまだ残っているのではな
いかと思ったのだ。
慣れた調子で扉を開けると、いつも通り、午前中は三人で洗濯を
終えた服などの繕い物をしている召使のおばさん達がいた。
﹁おはようございます、あの、何かごはん余って⋮⋮﹂
ませんか? まで言うことは出来なかった。
﹁ちょっ、キアラちゃんたら何してんの!﹂
﹁熱出したんでしょ寝てないと!﹂
431
﹁あんたらそうじゃないよ、魔術師様がこんな使用人の溜まり場に
なんぞ来ちゃいけないよ!﹂
一斉に注意された。雨礫か猛吹雪に直撃されたかのように、私の
言葉などかき消される。
﹁それにしても魔術師になったんだってね! あんたはいつかやる
子だと⋮⋮﹂
﹁こんな小さな女の子が戦うだなんてねぇ。あたしよりうちの孫の
方が年が近いぐらいなのに﹂
﹁あんたの孫はまだ2つでしょ?﹂
﹁ええっと、ごはん⋮⋮﹂
ささやかな私の言葉は、透明な障壁にはじかれるように流された。
﹁戦場に出たんだろ? それで熱を出したって﹂
﹁万の兵士を蹴散らしたんだって!? さすが奥様の侍女になる子
は違うね﹂
もうこの嵐が収まるまで待つしかない。ちょっとぼんやりした頭
でそう考えていると、天の助けがやってきた。
﹁みんな、相手は病人なんですからあまり話し込んじゃだめだよ!﹂
扉にすがるように立ち止まったままの私と、席から立ち上がって
迫って来ていたおばさん達の間に割って入ったのは、顔なじみの料
理人見習いの少年ハリス君だ。
おばさん達もそれで我に返って、弾丸トークを収めてくれる。助
かった。
けれど私を振り返ったハリス君は、今度は私に注意をしてくる。
﹁そっちもそっちだ。部屋にベルが置いてあっただろ?﹂
﹁うんあったけど⋮⋮﹂
それで人を呼びつけるのはちょっと⋮⋮と思って、歩いてきたわ
432
けで。けれどハリス君はそれがダメだと言う。
﹁病人なだけじゃなくて、キアラはもう普通の使用人とは立場が違
うんだから﹂
﹁でも、私は私に変わりないんですし⋮⋮﹂
﹁そうなるってわかってて魔術師になったんじゃないのか? 魔術
師は王族にだって物申せる立場だって聞いたぞ。実際、キアラは王
子とも親しく話してるって聞いたし。その立場に合った振る舞いを
するべきだろ?﹂
叱ったハリス君は、ちょっと吊り上がり気味になっていた眉の端
を下げて、困ったように付け加えた。
﹁誰も代われない立場になったんだから、それに見合った行動とる
しかないだろ。キアラの仕事が変わったんだよ﹂
そう言われていまうと、私としてもうなずかざるをえない。確か
に自分は、侍女ではなくなったのだ。そして会議は騎士隊長や守備
隊長より上の席次だった。
確かに騎士隊長や守備隊長が、直接ここまで来てご飯をねだった
りしないだろう。
﹁うん⋮⋮ごめん。そしたら、お腹空いたから部屋まで何か持って
きてくれるとうれしいな﹂
﹁じゃあマイヤさんに頼むから、大人しく部屋で待っててくれ﹂
表情を和らげたハリス君が請け負ってくれたので、私は自分の部
屋に戻ることにする。
食堂の扉を閉めようとしたところで、﹁お前さん⋮⋮がんばった
ね﹂というおばさんたちの声と﹁今日は休んでいいぞお前。敗れ散
った想いってのは切ねぇもんだな﹂という料理長の声。﹁は!? そんなんじゃないんだけど!?﹂というハリス君の声が聞こえた。
433
どうやらハリス君、同年代の女子である私と仲良くしてたことで、
みんなに勘違いされていたようだ。彼の名誉のために私が訂正しに
行ったら、逆にその場を混乱させそうな気がしたので、申し訳ない
がそのまま離れることにする。
というか、少々立って歩くのがしんどくなってきた。
﹁ちょっと甘く見過ぎた⋮⋮﹂
寝起きの時は、熱が少し下がったせいか元気になった気がしたん
だけど。
早めに戻ろうと階段を上る。でもそれが一番大変だった。二階に
たどりついたところで、その場にしゃがみこんでしまう。
﹁うぅ。早まったわ﹂
こんなことなら大人しく二度寝でもして、空腹に耐えておけば良
かった。そしたら優しいマイヤさんが、いろいろと手配してくれた
だろうに。
﹁なんで私自分で動こうなんて思ったんだろ﹂
熱で頭が変になっていたのだろうけど、本当にバカみたいなこと
をした。
反省と後悔をしつつ休んでいたら、二階のどこかの扉が開閉する
音の後で、驚いたように私の名前が呼ばれた。
﹁キアラ? こんなところで何をしてるんだ?﹂
ちょっと顔を上げると、珍しくも焦った様子でレジーが駆け寄っ
てくるところが見えた。
彼も館の中だけを移動していたのか、護衛もなく、衣服もシャツ
に淡い浅黄色の上着を羽織るだけの簡素なものだった。
階段の端でしゃがみこんでいるので、具合が悪いことは分かった
434
のだろう。近くに膝をついたレジーは、すぐさま私の額に手を当て
る。
私は思わず肩をびくりと上下させてしまった。⋮⋮眠っている合
間に、頭を撫でられたことを思い出したからだ。
一方のレジーは、表情を曇らせた。
﹁まだ熱が高いよ。どうしてこんなところまで一人で出てきたの﹂
﹁うう、お腹減っておねだりしに⋮⋮﹂
空腹のあまりに徘徊したことは黙っておきたかったが、どうせ内
緒にしてもレジーには白状させられるだろう。諦めて正直に話せば、
レジーは困ったように微笑む。
﹁キアラは本当に子供みたいだね。じゃ、掴まって﹂
﹁え、あっ﹂
肩につかまってと言われたかと思うと。あっと言う間にひざ裏と
背中を支えられて抱き上げられる。
二年でさらに成長したせいだろう。以前に抱きしめられた時より
もすっぽりと包みこまれるような形になって、それがすごく恥ずか
しい。
でもそれだけじゃない。間近になったレジーの顔の、ついその唇
を見てしまったら、もういたたまれない気持ちになってしまった。
キスされたんじゃないかとレジーを疑ったことを思い出したら、
なんだか急に意識してしまったのだ。私は思わず顔をうつむけてし
まう。
﹁あの、ちょっと休めば自分で移動できるからっ﹂
私はなんとか脱出できないかと考えて言ってみるが、レジーにや
んわりと拒否された。
435
﹁そんな風には見えなかったよ?﹂
﹁でもでも、具合悪くなってレジーの肩に吐いたら大惨事に!﹂
だから私を降ろしてほしいと説得したつもりだったのだが、レジ
ーには一顧だにされなかった。
﹁別にかまわないよ。病気の人間が不可抗力でしたことを怒ったり
はしないから。安心して。ほらもっと楽になるよう寄りかかった方
が良いよ﹂
レジーは私を少し持ち上げて腕で支える場所をわずかにずらし、
私の頭を自分の肩に寄りかからせた。
ううう。確かにこの方が楽な態勢なんだけど、レジーの綺麗な顎
が目と鼻の先にあって、口の動きまでしっかりと観察できるのがい
たたまれない。
熱が余計に上がった気がする。
そんな私をお姫様抱っこした状態で、レジーはさっさと階段を上
っていく。
全然重たそうじゃないのがすごい。身長差でいうと、私が小学生
高学年くらいの子を抱えて階段上るようなものだ。絶対無理だよ私。
ていうか、レジーってば重くないんだろうか。重いと思われてた
らどうしよう。
そこではっと気づく。カインさんも私の体重知ってるんだ! う
わあああああっ、この熱下がったらもう絶対ダイエットしよう。
頭の中で大騒ぎしているうちにレジーは三階まで上がり、私の部
屋まで到着した。
器用なことにレジーが自分で扉を開けると、そこにはマイヤさん
と、たぶん様子を見に来たのだろうカインさんが居た。
436
﹁キアラ、どこに行っていたの?﹂
﹁お腹すいたんだって﹂
くすくすと笑いながら、レジーが私を寝台の上に寝かせてくれる。
その前にマイヤさんが、さっと靴を脱がせてくれていた。
掛け布にくるまった私は、とりあえず礼を言わなければと思った。
﹁あの、レジーありがとう。それとカインさんも、お見舞いに来て
下さって⋮⋮﹂
﹁少しは熱が引いたようですね。良かった﹂
カインさんはうっすらと分かる程度に、口元をほころばせてくれ
る。
﹁もう無理しちゃだめだよキアラ﹂
﹁殿下の言う通りよ。お腹がすいたからって、まだ熱が高いのに歩
き回ったりしてはだめよ。お水は?﹂
レジーに注意され、続いてマイヤさんに水がいるかどうか尋ねら
れる。歩き回ったせいなのか、熱があがったせいなのか、また喉が
乾いたのでもらうことにした。
ちょっとだけ体を起こして、マイヤさんからコップを受け取って
飲む。
少しぬるいはずの水が冷たく感じる。でもおかげで、少し煮えそ
うだった頭の中が、落ち着いた気がした。
コップを返すと、受け取ったマイヤさんはそれをテーブルに戻し
た後、盥に布を浸し始めた。熱が高いから、覚ますために用意して
くれているのだろう。
その時、不意にカインさんが傍に来て手を伸ばしてきた。
﹁ああキアラさん、水が﹂
上手く飲めなかったのか、こぼしてしまったのだろうか。
437
私は自分の手でぬぐおうとしたのだが、その前に、指先が私の唇
の横に触れる。
思わず背筋が震えた。
カインさんの指が、子供みたいに口の端をぬぐった後、ほんの一
瞬だけ唇の一部を指先でなぞったからだ。
思わず目を丸くした私に、カインさんが﹁どうかしましたか?﹂
と尋ねてくる。
何事もなかったかのような、いつも通りのやや感情がわかりにく
い彼の表情。
私は⋮⋮これは事故なのだ、と思うしかなかった。
たまたま触れてしまっただけ⋮⋮だと思う。そうじゃないと、カ
インさんとこれからどう会話していいのかわからなくなる。
﹁い、いいえ﹂
小さく首を横に振って、私はさっと寝転がって上掛けを顔を隠す
ように引き上げた。
﹁もう休んだ方がいいわね。また後で見に来るわねキアラ﹂
その間、テーブルの上に用意した盥の水で浸した布を絞っていた
マイヤさんは、それを私の額に乗せて、頭を撫でてくれる。
けれど彼女がレジー達に退出を促す前の一瞬。
問うようなまなざしをカインさんに向けるレジーと、珍しくもそ
れをじっと見返すカインさんの姿が見えた。
彼らもすぐに部屋を出ていく。
今度は私の容体が落ち着いたこともあるからだろう、ずっと誰か
がついている必要がないと思ってなのか、最後に部屋を出たマイヤ
438
さんが鍵をかけていく音がした。
師匠以外には誰も居なくなって、ほっとする。
そしてさっき見たものの、何が私は気になったのかを考えたかっ
たけれど、熱によって促される眠りが私の思考を散らしてしまう。
﹁なるほど、そういう効果か、イッヒヒヒ﹂
そして師匠のいつもどおりの笑い方が、今日はなんだか私を不安
にさせたのだった。
439
歓迎できない訪問者
結局、私の知恵熱が完全に下がるまで一週間かかりました。
とはいえ風邪を引いたりした場合の、この世界の薬の効き具合と
かからして、全快するまで一週間かかることなどめずらしくもない
ので、それほど長く病んでいたわけではない。
その間にエヴラール側の状況も、だいぶん変わってきた。兵が集
まり、サレハルドに近い地域の分家の人間や兵が逃げてきて合流し
てくる。
彼らの情報によって、サレハルドの裏切り行為は確定した。
⋮⋮情報がここまで上手く集まらなかったのは、私にも原因があ
る。
丘陵地におけるルアイン軍を追い払う戦いの時、土人形で威圧し
て兵を引かせたため、情報源として役に立つ指揮官クラスの捕虜を
捕えることができなかったのだ。
兵力の消耗をしなかったことは良かったが、刃を交えないと情報
源をひっとらえられないというのはなんともはや。
お庭番みたいな人欲しいなとは思うが、魔術がありふれていない
この世界では、忍者みたいな驚きの動きができる人などいない。せ
いぜい紛れてスパイをするのが精いっぱいなようだ。
とにかく分家の皆さまの情報により、サレハルドでも色々なお家
事情があるようで、王位継承をめぐって弟と兄が争った結果、弟の
方がルアインと手を組んで兄を幽閉。弟王子本人は割譲地のことや、
そもそもが戦好きも相まって王都へ進軍する方に、サレハルドの少
440
なくない軍と一緒に加わっているらしい。
その話を私に教えてくれたのはアランとレジーだ。
正直な私の感想といえば﹃中ボスがチェンジしたあげく、敵が増
えてる⋮⋮﹄というものだ。
ゲームの時、サレハルドはこちらにもルアインにも与していない。
制作者がそこまで設定しなかったからなのかはわからないが、とに
かく関わっちゃいなかった。
ルアインも国内に味方の魔術師を抱えていたし、エヴラールに侵
入したのは普通に国境を越えてきたわけだ。サレハルドに取引を持
ち掛ける必要がなかったのだろう。
しかし今回はエヴラールも警戒していたので、国境をやぶってな
だれ込む作戦が使えなかったのだろう。
そこでサレハルドを勧誘したのだろうけど。正直、魔術師一人よ
り、サレハルドの軍2万の方が怖いと思うんだ。
なんだか状況がハードモードっぽい様相になってきて、私は怯え
るしかなかった。
これはなんとかレジーやヴェイン辺境伯様達の知恵に縋るしかな
い。
頭が良くない私は、とりあえず土偶な師匠に祈っておいた。
﹁ああ、どうにかこぶし大の雹が降ったり、大雨で増水した水に流
されたり、突如雷が落ちて司令官がいなくなって軍が離散しますよ
うに﹂
﹁他力本願すぎじゃな。熱で気が弱くなったのではないか? イヒ
ヒヒ﹂
呆れたように私を見ていた師匠は、あげく私の最も痛いところを
441
突いて来る。
﹁おおかた、他に気になることがあるから、他の問題に意識が向け
られんのだろうが。もっと自分の頭でなにができるか考えておけ、
クックック﹂
⋮⋮師匠の攻撃で、私は心に10のダメージを負った。
真実って胸に痛いわ。
でもね、戦いがひと段落したところで熱出して、他の情報がない
から考え事するには最適な状況の中。あんなことされて気にならな
い人が居る!?
特にカインさん⋮⋮。犯人は間違いない。
じゃなかったら、あのタイミングでわざわざ私のありもしないこ
ぼした水をぬぐうために手を伸ばし、あろうことか指先で唇に触れ
ていくとか⋮⋮一瞬だけど、するわけないよね?
しかもそんなことされたら気になるでしょう!? 気になるよね!
状況から類推するに、たぶん以前のキス疑惑も、マイヤさんの目
を盗んで指で触れただけだったのだと思う。キスじゃなかったぽい
のでちょっと安心したけど⋮⋮どうして、そんなことをする必要が
あるのか。
普通は、気のない人にあんなことしないって私もわかる。罰ゲー
ムでそんな真似するような子供じゃないし。
でも同時に、何らかの思惑があればああいうことができるのも知
ってる。でもカインさんが、私に対してわざとそんなことを仕掛け
る人だとは思いたくない。
かといって⋮⋮。
442
﹁好きとか。そんな馬鹿な﹂
一体どこに惚れるというのか。正直出会いの頃から、奇矯な行動
しかとってない。しかも前世の話をするような電波。信じてはくれ
ているけれど、それでも﹃私は神より夢で神託をたまわったのです
!﹄と叫ぶ人並みに、ずっと一緒にいるのはちょっと避けたい人種
のはず。
理由がわからないので私は混乱しっぱなしだ。
かといってバカ正直に尋ねて、もし本当に気があるといわれてし
まったら。
気になって戦えないよ。私はそんなに器用じゃない。これで二回
か三回ぐらい誰かと付き合ったり別れたりした経験があれば、恋愛
は恋愛、こっちはこっちって割り切れるのかもしれないけど。
あと万が一だけど恋愛関係になったとして⋮⋮自分がどういう行
動に出るのかわからない。
カインさんが怪我するのを見ていられなくて、護衛を任せられな
くなるかもしれない。もしくは、私が全力で寄りかかって傍にいな
いとだめになってしまうとか。あり得ないかもしれないけど、いち
ゃつくことで頭がいっぱいになって、戦争どころじゃなくなるとか。
そんな風に周囲にも迷惑になる可能性があるじゃない?
前世だって今世だって、一度もおつきあいしたことがないから、
想像つかないんだよね。
それにレジー。
カインさんのこと、じっと探るように見てた。その表情がなんか、
すごく冷たくて。
保護責任者として⋮⋮厳しい目になってしまったんだろうか。
私の方は、レジーにあの瞬間を見られたということが、とてつも
443
なく不安をかきたてられて仕方なかった。彼はあの瞬間を目にして、
どう思ったのか気になって気になって。
それを考えると落ち着かなくて、レジーが今まで通りに話をしに
来てくれたりするのに、私は変な緊張感を感じてしまっている。
レジーとカインさんは、表面上こそ特に変わった様子はない。け
れど、時々お互いに相手を意識しているような節がある。
時々それを察してしまったアランが、困惑した表情になるのが気
の毒だ⋮⋮。けど、本当にそれが私のことがきっかけなのかもわか
らないので、何も言えない。
それ以外はカインさんも今までと変わらずだ。そして警戒してい
たが、あれ以来は全く私に手を伸ばしたりしてこない。
結局考えてもわからないし、二人のどっちにも﹃なんで?﹄と聞
くのは怖いしで、私はとりあえず何もなかったことにした。
忘れろ忘れろと思いながら過ごしている。
さてルアイン軍の話に戻ろう。
私が回復して城の外の遺体埋葬をこっそり終えた頃︱︱城に帰っ
て二週間が経った頃だったろうか。西のトリスフィード伯爵領が落
とされ、デルフィオン男爵領がルアイン軍を受け入れた報が届いて
いる。
そんな風にルアイン軍に味方する領地があるため、ルアイン軍は
エヴラールが援軍を通さないようにがんばっても、兵力も物資も補
充できる。
しかもサレハルドに接した別な小領地が占拠されてしまい、補給
路も確保できてしまっているようだ。
444
このままでは、王領地ともう一つ別な侯爵領を越えたら、ルアイ
ンは王都へ到達してしまう。ファルジア国王はルアインを撃破せよ
と軍を召集したものの、人前には姿を現さないという噂も届く。
とはいえ、エヴラールの軍としてもそうそう動けない。
まずゲームじゃないので、戦場が変わると同時にみんなのHPが
マックスまで回復というわけにはいかない。ヴェイン辺境伯の怪我
も完全回復はしていないし、負傷者は王都まで遠征になるというの
に連れて行けない。
そして二家にレジーが頼んで寄越してもらった応援。彼らも一度
領地へ戻った上で、今後王都へ進軍する場合に備えて軍を再編して
くれるらしい。
が、パトリシエール伯爵やらの兵力を吸収して膨れ上がっている
ルアイン軍に対するには、こちらの戦力が小さすぎる。
辺境伯とレジーは、王都へ参集するにはルアインに阻まれて身動
きしにくい領地へ対して、協力を要請する使者を出していた。
現在のところ、それ以上はやりようがない。
そして兵力が集まり次第、エヴラール軍はレジーを旗印にしてル
アイン軍と寝返った領地を制圧するために出発するのだ。
だから皆、遠征になると思って準備を進めていた。
そんな最中のこと。
少数の騎馬に守られて城へとやってきた人物がいた。
ややくすんだ金の髪。それでも綺麗に梳られて丁寧に扱われてい
たのだろう長い髪は、燦々と降り注ぐ太陽の光の下で、彼女の存在
を明るく彩る。
善良そうな可憐な造作の顔立ちも、透き通るような翠の瞳も、旅
のためにまとった枯草色の大きなマントに包まれたか細い体も全て
445
が、彼女は深窓のお姫様だということを表しているようだった。
私より1つ2つは年上だろう女性は、旅の疲れが残っていても可
愛らしい顔に、涙を浮かべながら城門前まで出てきたヴェイン辺境
伯とレジーに挨拶していた。
﹁わわわ、私、トリスフィード伯爵の娘、セシリアと申しますっ﹂
その名前を聞いた瞬間、
﹁厄介な⋮⋮﹂
一緒に少し離れた場所から彼女を見ていたカインさんが、小さく
つぶやいたのが耳に届いた。
446
トリスフィード伯爵令嬢の願い
トリスフィード伯爵家。
先々代王の娘が降嫁している家で、先代の伯爵までは末席ながら
も王位継承権を持っていた。
と同時に現在絶賛占領されている領地である。
十中八九、占領されている領地を助けてくれという救援要請だろ
う。誰もがそう思った。
けれど彼女の要求は違った。
﹁城から離れた館にいたおかげで難を逃れましたが、もっ、もはや
我が領は右を向いても左を向いてもルアインの軍ばかり。逃げる場
所を求めた時に、知己を賜りました殿下がいるエヴラールはルアイ
ンを退けることができたと聞き⋮⋮﹂
そのまま彼女は言葉を濁してうつむいた。
涙目で下を向いたせいで、茜色のドレスの膝に、ぽつりぽつりと
涙が落ちて滲みをつくる。
可哀想になってしまうが、私は口を出すわけにはいかない。なに
せこれは訪ねられたレジーとヴェイン辺境伯様が判断すべきことだ。
私では政治的なことは詳しくわからないので、うかつなことも言え
ない。
何よりこんな時期にやってきたこともあって、エヴラールの人々
が皆警戒モードに入っているのを感じていたせいもある。
﹁王都か、他のご親族の元は?﹂
ヴェイン様が短く尋ねる。
447
遠回しだが﹃そっちに行けばいいのに、どうして親戚もいないう
ちに来た?﹄と言いたいようにも聞こえる。戦火を逃れるのに、親
族ではなく知り合い程度の相手を訪ねて来たので、不審に思っての
質問だろうけど。
レジーの方もやや困ったような表情をしている。ただこの人の場
合、さっきまでは氷のように寒々とした無表情で彼女を見ていたの
で、本当に困ってそんな顔をしたのかどうか⋮⋮。
﹁君と会うのは半年ぶりになるかな。新年の宴では顔を合わせてい
たね﹂
レジーが告げると、セシリア嬢は顔を上げた。
その瞬間、私はどきっとする。
涙にぬれながらも、もっと話して欲しいと言いたげな眼差し。悲
し気な表情は変わらなくても、そこに抑えきれない熱が頬に浮かん
でいるように見えた。
⋮⋮好き、なのかな。
私はすぐにそう思った。
確かにレジーはかっこいいし優しいしで、理想の王子様みたいな
人だ。⋮⋮時々すごく怖いけど。あげくに次期王位を約束された人
となれば、親からレジーの関心を引くように言われて、素直に気持
ちを向けてしまう貴族令嬢は沢山いるだろう。
そして唐突に私は気付く。
攻城戦の時にやってくるはずだった死を回避して、先の人生を手
に入れたレジー。このままゲーム通りにルアイン軍を倒したら、王
位に就くことは間違いない。
平和になった国で、仲間の貴族から国を奪還したことで尊敬を集
448
め、沢山の女の子たちに憧れられるし、告白されたりもするだろう。
ルアインを倒したことで、貴族達の忠誠は強固になるはずだ。代
わりに戦で荒れた王国を守るために、財力のある貴族のお嬢さんと
結婚して⋮⋮。そうして彼の人生は続いていくんだ。
助けて、そこで終わりじゃない。
私も魔術師にはなってしまったけれど、死なずに済めば、私もの
んびり暮らしていけるはず。⋮⋮二年近く前の私が望んだように。
辺境伯夫妻は、役に立ち続けていたら私をここに置いてくれるだ
ろう。
命の心配もなく、結婚を無理強いされることもない。そうしたい
なら、誰とも結婚せずにいることだってできる。そんな力を手に入
れたのだ。
ルアインに勝つことができれば。いずれ王妃を倒すことができれ
ば。こういった未来は実現する。
ルアインを倒したいと願っていたカインさんも、それまでのよう
にアランの傍に仕えて暮らすだろう。親を失うことがなかったアラ
ンは、友達であるレジーを助けるために王宮で過ごすようになるの
だろうか。
そんな将来を想像した私は、だけど寂しいと感じてしまう。
私がみんなに依存しているからだろうか?
でも将来的にみんなバラバラになるのは間違いない⋮⋮いや、私
は離れるしかないだろう。王様になる人やその側近になるだろう人
達の傍にいたら、私は穏やかな生活を続けられるかわからない。
中枢に居たいのなら、王宮の魔術師になるしかない。そうなれば
居ればいいってものではないだろう。自分一人を養う以上のことを
考えなければならない立場になるし、師匠に助けてもらっても、そ
449
んなことができるのか自信はないし。
そうして、いつかはみんなから離れなければならないと気付いた
私は、ひどく不安な気持ちに陥った。
一方のセシリア嬢は、内気な人なのだろう。すぐに堂々と返事を
紡ぐことができずに、ややあってから﹁ご迷惑をおかけします。で
も、おすがりできるのは殿下しか⋮⋮﹂と切り出す。
﹁王都への道は既に、ルアインの軍に閉ざされ⋮⋮。その直前に陛
下が軍の要請を出してきましたけれど、使者を追ってやってきた我
が領の者は、しばらく前から陛下がお姿を見せなくなったという噂
を持ってきていて。何が起きているのかわからない状況では、とて
も恐ろしくて王都へ逃げることができなかったのです﹂
そこでヴェイン辺境伯様が言う。
﹁セシリア殿が我が領にお越しになられた理由はわかりました。け
れどここもルアインと国境を接する場所。ルアインがまた襲撃する
可能性も高いのです。また殿下としても、王国の危機ともなれば王
都を守るために軍を率いなければならなくなるでしょう。⋮⋮ここ
に長くご滞在頂くのは難しい。ですので、南の領地へ使いを出しま
す。そちらに身を移していただきたい﹂
決定を告げられたセシリア嬢は、悲しそうな表情ながら、素直に
うなずいた。もしかするとこんな時期だからと、断られるのを覚悟
していたのかもしれない。
﹁とはいえ連絡をとるのに数日かかります。その間は我が妻に対応
を任せますので、滞在なさるといいでしょう﹂
﹁辺境伯閣下のご厚意に感謝いたします﹂
それで話し合いの場は解散となった。
450
すぐに同席していたベアトリス夫人がセシリア嬢を部屋から連れ
出す。その際の会話から、城の中を案内しながらというのが聞こえ
た。
二人と侍女のクラーラさんが出ていくと、今度は辺境伯に指示を
受けた騎士達が慌ただしく出ていく。
セシリア嬢にあてがう部屋の周囲を、警備で固めるためだ。
﹁警護という名の監視ですか﹂
立ち上がったレジーの言葉に、ヴェイン辺境伯がうなずく。
﹁怪しすぎますからな﹂
﹁怪しい⋮⋮んですか?﹂
私も外からやってくる人が警戒されるのは分かるが、怪しいとま
で言うと思わなかったのだ。
するとアランが説明してくれた。
﹁あの女が正直に全てを話しているかどうか、こっちは確かめよう
がないからだろ﹂
陥落したはずのトリスフィード。本当に彼女が領主の城とは違う
場所にいたのかも、領地に攻め入られて無事にここまで来られた理
由も、確かめようがない。
﹁トリスフィードが陥落したという報が届いてすぐの来訪は、彼女
の理由からしてありえることだけど⋮⋮。女性連れでそんな報告か
らそう遅れることなく到着できた速さが、少し気にはなるかな﹂
というのはレジーの言だ。
なにせセシリア嬢は、ルアインやサレハルドの軍が通過した地帯
を抜けてきたのだ。
451
従軍していけば仕事にありつける商人なども軍の後から追いかけ
ていくので、戦場だった場所に軍人以外の人間がうろついても目く
じら立てるほどではないらしいが、貴族令嬢に騎士だとわかる組み
合わせで通り抜けるのは難儀するはずだ。
ただ無下にはできない。
もし本当に彼女の言う通りだったとしよう。なのに入城もさせな
いでいたら、援軍を募っているエヴラールへの他領主からの不信感
につながりかねないからだ。兵力は欲しくても、手を貸してはくれ
ないのか、と。
﹁もう一つあるでしょう殿下﹂
そこでヴェイン辺境伯が付け加えた。
﹁王子妃候補だった娘を見離せば、殿下の評判に傷がつきます﹂
え、王子妃候補? てことはレジーのお嫁さん候補⋮⋮?
あまりの驚きに、私は目を丸くした。
452
わずかな混乱をもたらす日
そっか、王子様ってお嫁さん候補とかいるよねそりゃ。
三秒後にそう思い、とりあえず私は会議室を出た。
私もそこそこやることがある。国境に壁をちょいちょいと作る予
定だったのだ。
会議室のある主塔を出て厩舎へ向かう。
そこでもはや専属の護衛となってしまっているカインさんを連れ
て⋮⋮と思ったら、先に馬を用意したカインさんにひょいと脇から
腕をまわされ、驚いて後ろに倒れそうになったところを、掬いあげ
るように持ち上げられた。
﹁ひょえっ!?﹂
一体何が、と驚く。こんな持ち運び方を強引にされたのは、戦の
最中、私を無理やり移動させる必要がある時だけだった。
だからもしかして敵が!? と思ったのだが違う。
ここはエヴラール城で厩舎の前で、つぶらな瞳のお馬さん達がじ
っとこっちを凝視してるだけ︱︱いや違った。厩舎のおじさんが、
通りがかった召使の女の子が、顔をそむけてしらんぷりしながらも
こっちに目だけ向けてる!
日常のさなかにお姫様だっこされて、それを﹃見なかったふり﹄
されるのもすごい恥ずかしい。
﹁かかかカインさん。おろろろろおろ﹂
﹁何かあった時に、こっちの方がいいですから﹂
453
カインさんはそう言って、自分の馬にひょいと私を横向きに乗せ
てしまう。そして厩舎のおじさんを呼ぶと、私が引きだしてしまっ
た馬を戻させてしまった。
ああハニ丸号が帰っちゃう⋮⋮。
せっかく外を走ることができる機会だったのに、お預けさせてご
めんよとその背中に向かって心の中で詫びた。けど、なんだかため
息つきそうな顔してるのは、気のせいだろうか。
その間にカインさんが私の後ろに乗ってしまう。
二人とも座れる鞍になっているのは、私の護衛を初めてからずっ
とのことだが、カインさんの胸に背中が当たると、いつもは鎖帷子
の痛さとか頑丈さを感じたのに、今日は布越しの体温がじんわり感
じられて、急に気まずくなる。
なんかこう、男女がこんな近くに接してるのって良くないよねっ
て言いたくなるような。ハニ丸号を全力で呼び戻したくなるけど、
カインさんは親切でやってるわけで。異性だと意識するのって申し
訳ないというか、ああどうしたら。
てかなんで今日に限ってこんなに意識するのかと思った私は、忘
れようとしていたキス未遂事件のことを思い出してしまう。
するとカインさんが、私の前に手を回すようにして手綱を手にと
りながら、ささやいてきた。
﹁守らせて下さい、キアラさん﹂
吐息が頭のてっぺんに触れて、悲鳴を上げかけた。そして返事が
できない。
﹁それが私の役目ですから﹂
454
⋮⋮⋮⋮あ、うん。役目だよね。お仕事だもんね。
続けられた言葉に、なんだか妙に落ち着いた。ヴェイン様から命
じられた役目だし、私はおっちょこちょいだし。正直そんなに乗馬
が上手いとはいえないので、何かあった時にに小脇に抱えて馬を走
らせた方がいいと思ったのだろう。
﹁あ、はい。宜しくお願いします﹂
﹁⋮⋮⋮⋮では、参りましょう﹂
素直にうなずくと、なんかカインさんの返事に妙な間があったん
だけども。どうしてなんだろう。もっと大きく感謝を伝えるべきだ
ったのだろうか。
首をかしげていた私だが、馬は進み出す。
そうして一時間ほどで国境まで到着したが、ここまでの間に私も
多少冷静になれた。どきどきせずにカインさんの手を借りて馬から
降りて、国境に作られた砦の前に立つ。
国境は岩山をぐるりとめぐる川の傍にある。
川を渡るための古い時代に作られた石橋があり、その先に国境の
砦と壁と門が作られている。
壁はそこそこ長く作られていて、過去に川が長い年月をかけて削
り取ったのだろう河岸の崖があるおかげで、それほど高く作らなく
ともいいという場所だ。
問題は石橋を壊しても、広くても浅い流れの川なので徒歩や馬で
進む兵を止められないことだ。
先だっての攻城戦時も、ルアイン兵が攻めてきていた。
壁は健在だし、壁がない崖上には茨が繁茂しているのでめったな
ことでは越えて来られないというが、茨が焼き払われでもしたら乗
り越えられる可能性がある。
455
しかしルアイン軍を追いかけて大半の軍を出発させてしまったら、
対応できるか不安が残るのだ。
そこで私の登場だ。
﹁さー壁作るぞー﹂
右腕をぶんぶん回して気合いを入れる。
次に近くの大岩に両手で触れるのだから、回す意味は全くないの
だが。
土いじりは慣れてきたものの、岩というのを動かしたことはまだ
ない。なので今のうちに練習を兼ねて岩にトライすることにしてい
た。
岩の中にも、魔力を帯びた力が存在する。師匠曰く、これは世界
にあるすべての物に含まれているらしい。てことは水が得意な人と
いうのは、人間を干からびさせるとか、そういう魔術の使い方もで
きるわけで⋮⋮こわいな。
私は自分がはっきりと﹃できる﹄と思っているせいか、土いじり
に適しているらしい。頑張れば他の物も操れるかもしれないのだが、
現時点で強化すべきはこっちだろう。
私が触れている岩が、やがてぐにゃりと歪み始める。土よりあっ
さりといかないのは、やはり固いからだろうか。
変な力が肩に入りながらも、なんとか大岩を人形っぽくして、歩
かせる。
このとき自分が触れながらついていかないことも練習のうちだ。
視界にある岩人形が、そろそろとすり足で移動していくのは、も
しかすると不安で地面に手を突いた状態で﹁動けー前進ー﹂と私が
言っているせいかもしれない。
456
やがて崖の縁にたどり着いた岩を、長方形に遠隔で変える⋮⋮な
んかいびつになって、撫でるとつるつるな表面にはならなかった。
要修行だ。だけど遠隔でここまでできるなら進歩だ。
それを何度か繰り返し、最初よりは上手く岩人形を動かせるよう
になったところで強制終了がかかった。
﹁そこまでですよ、キアラさん﹂
結果的に納得いくところまで続けたら、さすがに疲れ果てて座り
込んでしまったのだ。
速やかにカインさんに回収され、馬に乗せられて撤収されたのだ
が、今度は考える余裕もないほどだったせいか、行きのようにあれ
これと気にして頭が煮えることがなくて良かった。
そして国境警備の兵士さん達にも、あっという間に壁が延長でき
たと大変喜んでもらえたので、万々歳である。
その日の晩は部屋食になった。
希少な魔術師になってしまったせいで、私は警戒するべきセシリ
ア嬢一行との接触を控えるよう言われたため、みんなと一緒になる
わけにはいかなかったのだ。
でも運んでくれた召使のおばさんがおしゃべりしていってくれた
ので、寂しくはなかった。
ただ召使のおばさんは、レジーの行動を詳しく私に教えて行った。
時々しかお客が来ない土地なので、召使のおばさんは週刊誌大好
きな前世のご婦人方よろしく、話題を提供して一緒に盛り上がって
ほしかったようだ。
レジーは今日、セシリア嬢とお茶をしていたらしい。
お茶の席にはベアトリス夫人もいたらしいが、どうもセシリア嬢
457
は長旅をしてきたばかりだというのに、お茶なら私が入れましょう
と席を立って、椅子に足をひっかけて転びそうになったらしい。
なんか、想像するととても可哀想だ。
剣を振るえない貴族令嬢の身では、人の好意にすがるしか生きて
いく術がない状況なので、居心地を良くするために、なんとかお世
話になっている伯爵家とレジーの印象を上げたかったんだろうに。
私も時々失敗する方なので、とても同情した。
レジーはそんな彼女の失敗を、すぐに立ち上がって着席を促すこ
とで、かばってあげたようだ。王子様だなレジー⋮⋮。
うん、おばさん。それ以上はレジー関係のこと私に教えようとし
なくていいよ?
食事が終わると、今度は部屋で一日放置していた師匠と、私の魔
法の習熟度についての話し合いだ。
ちなみに師匠にとって相性がいいものは風系であるらしい。
そういえば魔獣も、風系統の種類多かったね。
あれは契約の石を砂状にしたものを魔獣たちに摂取させ、同じ石
の小さなかけらを師匠が取り入れることで操ることができていたよ
うだ。
﹁契約の石は、普通の鉱物のような産出のされ方はしないのだ、イ
ヒヒヒ﹂
﹁どっかからぽこっと生えてくるの?﹂
﹁岩の中から取り出すのは同じだがの。必ず指先ほどの大きさで、
単体で掘りだされる。鉱脈に沿って延々と鉱物が含まれる、などと
いうことはないのだ﹂
どうもあの石は、普通の石ではないらしい。
458
鉱物って色んな物質がマグマの熱で溶けたり、土が堆積して地層
をつくっていく過程で昔の物が圧縮されてできたりするんだよね?
熱で溶けたらどろっとした形になりそうだし、圧縮されても一定
の大きさになるのは難しそうだ。
あ、でも形そのままで出てくるって化石みたいだ。
そう話したら、師匠が﹁面白い発想じゃな、ウヒヒヒ﹂と喜んで
いた。
そんなこんなでしゃべってばかりいたら喉が乾いてしまった。
夜も遅いのでもう誰かが来てくれる時刻ではない。体の調子も良
くなっていたから、今回は怒られないだろうと思い、水差しを持っ
て廊下に出たのだが。
階段でレジーと顔を合わせてしまった。
﹁う⋮⋮﹂
しまった。誰か呼びなさいと怒られるだろうか。
思わず身構えた私だったが、レジーはいつも通り微笑むだけだっ
た。
﹁また喉が乾いたの?﹂
﹁えと、師匠と語り合いすぎて⋮⋮﹂
﹁よかったら、私の所には人が常駐してくれているから、誰かにや
ってくれるよう頼んであげるよ?﹂
言われて、前回のこともあるのでレジーに頼むことにした。
﹁じゃあ、お言葉に甘えようかな﹂
﹁うん。そしたらまた明日﹂
レジーはあっさり手を振って自分の部屋に向かおうとする。
私も自室に戻るべく後を降りかけていた階段を上ったのだが、上
を向いた瞬間、二階へ上がったところに所在なさげに立っているセ
459
シリア嬢を見つけた。
彼女は先に上がっていたレジーを見て、ややしばらく視線をさま
よわせ、次に私を見て⋮⋮なぜか走り去った。
ちなみに彼女の部屋は三階だ。
一体何だったのか。
首を傾げた私だったが、部屋に戻ってから気付いて⋮⋮ちょっと
もやっとした気持ちになる。
もしかしてセシリア嬢は、結婚するかもしれなかったレジーと私
が親し気に話していたのを見て、何か誤解をしたのかもしれない、
と。
460
閑話∼血にまみれた手
ふらり、歩くその人の前にいた召使達は、黙って廊下の端に避け
て膝をつく。
けれど黒い影を思わせる衣服を着た年若い召使が、その人の手を、
白大理石で化粧された床に落ちるものを見て、声を上げかけた。
とっさに、横にいた同じ黒い服の老婆が彼女の口をふさぐ。
中央宮殿ではさておき、この東翼の宮殿では何も言ってはいけな
いことになっているのだ。
ここは王妃の宮殿。
その主が何をしていようと、どんな姿であろうと、侍女や王妃の
騎士でもなければ口に出してはいけないのだ。自分の身が可愛けれ
ば。
四年前に嫁いで以来、その人がずっと身に着けているのはルアイ
ン様式の腰帯を結ぶ形のガウンドレスだ。暗い緑に染められたドレ
スの裾にも、右の指先から滴り落ちる血が落ち、染みを作っている。
ルアイン人特有の赤茶色の髪は、半分だけ無造作に結いあげられ、
骨の浮き出た背中に流れ落ちている。
とても国内で最も高貴な地位にいるとは思えない、痩せた体の王
妃は、そのままふらふらと歩み去った。
王妃マリアンネが居なくなってから、老婆はほっとして若い召使
の口から手を外す。
﹁はあっ、びっくりした!﹂
﹁こちらこそ驚きましたよ。不快と思われたらすぐにむち打ちされ
461
てもおかしくないというのに。うかつですよ﹂
ぜーはーと息をしながら空気を肺に取り込む若い召使は、たしな
める老婆にうなずいた。
﹁あの、悪いとは思ってますよ。助かりました。でも⋮⋮びっくり
して﹂
そして若い召使は付け加える。
︱︱手を怪我するという話は聞いていたんですけれど。
王妃マリアンネは、時折腕を怪我する。飼っている鳥に王妃は必
ず自ら餌をやるのだが、その時に齧られるようだ。
だから彼女の手は齧られた傷がいくつもついている。
﹁⋮⋮最近は特に頻繁なようですからね﹂
以前は軽い怪我だけだったというのに、最近は流れる血を止めも
せず、放置したまま宮殿内を歩くのだ。
すると若い召使が身を震わせながら言った。
﹁そういえば先輩が見たことあるって言ってました﹂
部屋の掃除に入っても、基本的に貴族達は召使の存在を無視する。
だからマリアンネ王妃はいつも通り、自分で餌を取り換えていた。
飼われているのはそれほど大きくはない鳥なのだが、大きな鳥か
ごなので、腕まで中に入れないと餌箱に手が届かない。そうすると
鳥は嫌がって、王妃の手を齧るのだ。
けれど王妃は痛いことが楽しいかのように笑う。
皮が破れて血が流れても、そのまま指を齧る鳥を見つめているの
だ。
462
﹁それがまるで︱︱自分の血を捧げているみたいだったって﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
なぜ王妃がそんなことを続けるのか。誰も理由などわからない。
侍女たちも理由を聞けば叱責されるので、決して口には出さないら
しい。
そんな話をした後、別な貴族が通りがかるのを見て、若い召使と
老婆は離れ、自分の持ち場へと移動していく。
歩を進めながら老婆は思う。
﹁パトリシエール伯爵が頻繁に来るようになってからは、クレディ
アス子爵が姿を見せない⋮⋮。何か戦場に動きがあるかもしれない
から、お知らせしたいけれど﹂
立ち止まり、彼女はため息をつく。
王都から鳥を飛ばしたいけれど、王子の宮殿は出入りが厳しく監
視されていて、とてもそんな身動きはとれない。せいぜい召使に扮
して王宮の中を動き回るのが関の山だ。
王宮から出ようとしたならば、一人一人顔を改められるので、す
ぐに自分が王子付きの侍女メイベルだと露見してしまうだろう。
王宮の噂で、エヴラールがルアインの攻撃をしのいだという話は
聞くことができた。
レジナルド王子は無事。辺境伯側に魔術師が現れて加勢したらし
い。
ほっとはしたものの、ここで安心はできない。立場上、レジナル
ドは必ず王都へ攻め上ろうとするルアイン軍を倒さねばならないの
だ。
逃げてくれたらどんなにいいだろう、とメイベルは思う。これ以
上、あの王子が苦しみを背負う必要はないと、そう言って友好国へ
463
逃がして一騎士としてでも生きられるようにできるなら。
けれど目立つ銀の髪が王子を追いかける者の目印になる。
父も失い、母までも犠牲にされたファルジア王家など、捨て去り
たいと願っているだろうに。
だからメイベルは、いつか伝えられる日が来ることを願って、情
報を集めることしかできない。
今日こうして王子の宮殿を抜けだしてきたのは、ルアインに対し
て軍を召集し将軍を任命して送り出したものの、以降全く姿を見せ
なくなった王を探してのことだ。
おそらくは、王妃などルアイン側の人間が監禁しているのだろう
と考えていた。できることなら助け出すべきだ。⋮⋮私情を挟むこ
とが許されるのなら、メイベルだってあの王を助けたくはないのだ
けれど。
しかし王が居なければ、王妃が代行として国を動かすことになっ
てしまう。実際、王が体調不良でこもっているということで、王妃
が伝言役として既に様々なことが動き始めていた。おかげで先に送
り出したルアインを迎え撃つ将軍の元に、兵が予想以上に集まらず
にいるらしい。
そして王妃が許可をしているので、何の追及も行われないまま、
領地内をルアイン軍にやすやすと通過させたパトリシエール伯爵な
どが、堂々と出入りできてしまっているのだ。
しかしここ数日王宮内を探しても、王は見つからない。だからメ
イベルは王妃の宮殿にやってきたのだ。
掃除を続けるふりをしながら、メイベルは次第に奥へ奥へと移動
する。
けれど不審な場所が見当たらない。
464
疲れ果て、けれど貴族が近くを通りかかったため、隠れるために
礼拝堂へ入る。
王族のための礼拝堂は、けれど儀式などが行われない限りは、神
官以外が出入りすることはない。
そこでしばしの間しのいだ後、メイベルは礼拝堂から出て︱︱血
の匂いを感じて、礼拝堂へ引き返した。
その日から、召使達の間に密かに噂が広まった。
王は既に、王妃によって殺されたのだと。
※※※
﹁うふふ⋮⋮わたくし、夫殺しの王妃と噂されているそうよ? 誰
かがアレを見つけてしまったのかしらねオーウェン﹂
訪ねてきたオーウェン・パトリシエール伯爵に、マリアンネは微
笑みながらそう言う。
彼女は全く、その噂にいらだつことも怒ることもなかった。まる
で他人事のように語る彼女に、パトリシエール伯爵はややいかつい
顔をしかめるようにして言う。
﹁またそのように、美しい指に傷をつくられて⋮⋮﹂
立ち上がって鳥かごの傍に立つマリアンネに近づき、パトリシエ
ール伯爵は彼女の右手に両手で包み込むように触れる。
けれどマリアンネはくすくすと笑ってその手を引きぬいてしまう。
﹁どこが美しいというのかしら。こんな骨と皮だけになった指など﹂
﹁いいえ、お美しくていらせられます。それは全て貴方様が今日ま
で耐えて過ごされた結果﹂
パトリシエール伯爵はその場に跪き、ドレスの端に触れて口づけ
る。
465
﹁初めてお会いした時と変わらず、私にとって貴方は輝いて見える
のですマリアンネ様﹂
﹁あなたは、まだ私が愚かだった13歳の頃のように見えるという
のね。バカな人だこと﹂
パトリシエール伯爵は、キアラがそれを見ていたなら驚くほどに
真摯な眼差しでマリアンネを見上げていたが、彼女はそれを見つめ
返すこともない。
ただ鳥かごの中の翠の鳥を見つめて、微笑み続けていた。
466
思いがけない宣言に︵前書き︶
サブタイトルと日数等を変更しました。
467
思いがけない宣言に
セシリア嬢と気まずい遭遇をした翌日。出発日が本決まりになっ
た。
その打ち合わせのために行う今日の会議には、もちろんセシリア
嬢はいない。
会議の流れは、基本的にヴェイン辺境伯様が淡々と決定を伝えて
いく形だ。既にレジーとは打ち合わせが済んでいるのだろう。
装備も整い食料の輸送についてもめどがついた、兵もルアインと
の戦等の問題で、数こそ8千ほどではあるが集まった。
なので3日後に出発し、さらに6日後に南西のリメリック侯爵領
へ到着、そちらに来ているレインスター子爵の軍とも合流する予定
だ。
知らせでは先方の軍が合わせて7千だというので、1万と半分く
らいの軍勢になる。
国内の離反者が提供する兵力をも受けてルアイン軍は膨れ上がっ
ているはずなので、心もとない数字ではある。けれどヴェイン辺境
伯曰く、各所においては激しい戦力差とはならないだろうと言う。
ルアイン軍は各所に散らばっているのだ。
兵力を受け入れて増えるものの、一つの領地を侵略後はそこをが
ら空きにするわけにもいかない。そこで援軍が来るまではある程度
の兵力を残す。それを繰り返しているのと、嫌々ながらルアインと
手を結んだ領地はそれほど多くの援軍を出さないだろうという予想
もあった。
468
これから進軍する先でまず出会うのは、そうして援軍が来るまで
領地を臨時統治する軍がいる場所だ。
なるほどと納得して、会議は終わりになる。
これが夕方近くのことだったので、私はお風呂を使わせてもらう
ことにする。
出陣すると、そうそうお風呂に入れない。
実は先日ルアイン軍を撃退する時に、なかなかお風呂に入れない
泣ける生活を余儀なくされたのが、微妙に堪えたんだよね。
できれば身ぎれいにしておきたいというのは、女子としては当然
の欲求だろう。前世ほどではなくとも、病気の予防も兼ねて、就寝
前には体を拭うかさっと水を浴びるのが、貴族の間で習慣化してい
るこの世界では、なおさら哀しかった。
だから今のうちに堪能しておくのだ。
一応、今後のために対策は立てている。何度か土で川の周囲を囲
むのプライベート空間を創ってみたりして、水浴びくらいはできる
環境は整えられるようになった。なんにせよ、暖かい季節で良かっ
た。冬だったら行水なんてもっての外だから。
そんなことを考えながら、予め湯を頼んでおいた風呂を楽しんだ。
ちなみにエヴラール城は風呂の場所が固定で、部屋にバスタブの
持ち込んだりはしない。井戸から離れていない部屋が浴室になって
いて、大きな桶に水を入れ、焼いた石を入れて温めてくれる。湯を
運んでもらったりする必要がないので、少しは気楽にお湯の用意を
頼めるので嬉しい。
風呂上り後、ほくほくした気分でいたのだが、部屋に戻る途中で
私は表情をひきしめた。
469
階段を上がったところで出会ったのが、あまり近づかないように
と言われていたセシリア嬢だったからだ。
セシリア嬢はこの後の夕食の席につくことを考えてか、髪を結い
上げ、きっちりとドレスを着こんでいた。だから待っているのはレ
ジーだろうと思い、私は会釈だけして通り過ぎようとしたのだが。
﹁ああああのっ、お話が﹂
呼び止められてしまった。仕方なく振り返ると、私と目を合わせ
たセシリア嬢が、ばつがわるそうに視線をそらす。
﹁⋮⋮⋮⋮?﹂
話をしたいと望んだのはそっちではないだろうか、と首をかしげ
てしまう。何も話すことがないのなら、早く部屋に入りたいものだ
けども。
発言を待っていると、セシリア嬢は﹁ええと﹂とか﹁あの⋮⋮﹂
とやや迷った末に、ぎゅっと目を閉じて言った。
﹁殿下と、あまり親しく、しないでほしいのですっ﹂
ようやく聞けた話は、どうもセシリア嬢が嫉妬しているらしい、
というものだった。
王子妃候補っていうんだから、セシリア嬢は親族にまで結婚する
のにふさわしいと認められた人だ。本人もそのつもりで過ごしてい
たから、レジーと私が一緒にいるのを見て不愉快に思ったのだろう。
きっとセシリア嬢は、友達であっても他の女子が傍にいるのも嫌
だっていうタイプなんだろうな。前世で母親の読んでた雑誌に、そ
ういう人がいるという話が書いてあったのを覚えている。
セシリア嬢にとってレジーは、彼氏どころか夫候補だ。
しかも領地は敵の手に落ち、父母の生死もわからない心細い状況
470
では、現実になるかどうかわからないまでも、頼れる相手として細
い糸で繋がっているレジーを、自分のものだと思いたくもなるのか
もしれない。
かもしれないけれど⋮⋮嫌だな、と思ってしまった。
婚約者とか結婚後だというのなら仕方ない。友情は団扇で仰ぐよ
うに冷まして、レジーに近づかないようにするしかないと思うのだ
が、セシリア嬢はまだ結婚するかどうかもわからない立場だ。まし
てや父母を失ったとなれば、王子の妃になるという話は立ち消えに
なってもおかしくはないだろう。
でも私は不必要にレジーとべったりしているわけではないのに、
制限されるのも⋮⋮と思ってしまうのだ。
とそこで、不意に思い出してしまう。
レジーが私を抱きしめたこと。手に口づけようとしたことだけな
らまだセーフか? でも足を掴んだのはどうだろう。
うわ、そうだ。噂とか聞かれたらどうしよう。絶対嫌われる。こ
の泥棒猫! とか思われるんじゃないだろうか私。
色々と今までのことを思い出して、微妙に焦った私だったが、ふ
と強い視線を感じて我に返る。
気付けば、セシリア嬢を見守るように、少し離れた場所に茶の髪
の騎士が立っていた。
なんていうか、守るためだとわかってるけれど、私が彼女に何か
をするのではないかと思っているような、ちょっと鋭い目つきだっ
たので、やや不愉快になる。
何もしませんよと言いたい。
一方のセシリア嬢は、私に言いたいことを口にするだけで精いっ
ぱいのようだ。
471
﹁お、お願いよ。せめて殿下に近づかないで。じゃないと困るのよ﹂
建物の中が暗いせいではっきりとは言えないけれど、怯えている
かのように彼女は青い顔をしていた。
私が魔術師だから、怒らせたら何をされるかわからないと思って
るのかな? こんなことで何かする気は全くないんだけど⋮⋮。
とはいえ、はいそうですかと言うのもなんだか嫌だった。でもこ
の場では分かったフリをした方がいいだろうか。話が長引いたら、
髪が生乾きのままだと風邪を引きそうだし。
悩み始めたところで、救いの手がやってきた。
﹁どうしたんですか? セシリア殿﹂
階段を降りてきたレジーだ。
彼も明らかにくつろぐ気満々の腰をコルセットで固定しない服の
私とは違い、きっちりと上に裾長のジャケットを羽織っている。
レジーを見たセシリア嬢は、泣きそうな顔をして﹁な、なんでも
ございません!﹂と言って逃げてしまった。
一緒に、こちらを睨むように見ていた騎士もいなくなる。一体何
だったんだ。
﹁⋮⋮⋮⋮なんか、リスとか小鳥みたいな人ですね﹂
餌を見て近くまで寄ってきても、人が一定以上近づこうとすると
一目散に逃げてしまう。今の場合、餌と人のどちらもがレジーなわ
けだが。
素直な感想を漏らしただけだったのに、レジーはくくっと笑い出
す。
﹁キアラ。君はセシリアに絡まれてたんじゃないのかい? なのに
感想がリスとか小鳥とか可愛い物だし、彼女が噛みつくくらいは何
472
とも思わなかったんだ?﹂
﹁なんとも⋮⋮ないわけじゃないけど﹂
楽しい気分ではなかったのは確かだ。どこの世界を探したって、
特に利害もない相手から敵認定されて嬉しい人はそうそういないだ
ろう。
﹁彼女も、以前はあんなことを言いに来られるような人ではなかっ
たんだけどね﹂
レジーが考え込むような表情になる。
﹁小さい頃から内向的だったみたいでね。最初に会ったのは王宮の
宴だったか。彼女はずっと母親の後ろに隠れていたんだよ。それで
も親の方は、どうにか王族とも交流させうとしていてね。ろくに話
もできない彼女の、絵を贈ってきたりもしたんだよ﹂
﹁セシリア嬢は、絵がお得意なんですか?﹂
﹁風景画なんだけどね、性質そのままの繊細そうな綺麗な絵を描く
人だよセシリア殿は。どうも他人と交流するのは苦手で、毎日のよ
うに絵を描いたりして過ごしているらしい﹂
だから、自分もちょっと驚いたんだと、レジーが言う。
﹁まさか彼女が、近づくなと言い出すとはね﹂
﹁⋮⋮そんな最初から聞いてたの?﹂
﹁ごめんね。気になることがあったから﹂
レジーは悪びれずに微笑んで謝ってきた。そうして私に手を伸ば
し、髪に触れた。
髪が動いたことで、かすかに首筋がざわっとする。
﹁引き止めるようなことになってごめんね。部屋に戻った方がいい
よ、キアラ。これ以上濡れた髪のまま、他の人と会うことになった
473
ら困るからね﹂
うんまぁ、風呂上りに長話なんて、こっちの世界⋮⋮もしくはフ
ァルジア王国ではあまりしないもんね。ドライヤーで髪を乾かせな
いからだとは思うけど。こっちでは火のある場所でじんわりと乾燥
させる必要があるから。
だからはしたないという意味でレジーは言ったのだと思ったのだ
が、部屋の前までついてきた彼は、扉を閉める前にさらに忠告して
きた。
﹁できれば入浴後には、何か被っていてほしいかな。キアラももう
すぐ成人だろう? 濡れた髪のままだといつもより大人っぽく見え
るから、他の男にはあまり見せないようにしてほしいんだけど﹂
じゃあおやすみ、と言ってレジーは去っていく。
私は⋮⋮あまりのことに開いた口が塞がらなかった。
前世から数えて約29年。今まで一度だってそんな忠告されたこ
となかった。
﹁ほほほほほ、ほか?﹂
他の男に見せないようにって、見せないようにって。見︱︱られ
たくないってことで。普通の、大人の女性みたいな対応をされたせ
いで、動揺しすぎて言語中枢が仕事をしない。
﹁なんじゃ、頭の中身まで茹で上がったのかいな? イッヒヒヒ﹂
今日ばかりはそんな師匠の言葉に、全く反論できなかったのだっ
た。
474
運命は背中を追いかけてくる
昨日、セシリア嬢から直々に接近禁止令を出された。
そんなわけで、出陣するまでの間はレジーと離れていようと私は
考えていた。幸いなことに、探せばやることが色々あるのだ。昨日
の壁をさらに強化してみたりとか。
なにより先の一戦の後、未だに殺した敵には恨まれてるんでるだ
ろうなとか考えてしまうというのに、さらに人から恨み買うのは御
免こうむりたい。精神的ダメージが蓄積されすぎる。
﹁女の嫉妬は怖いからのぅ。キシシシシ﹂
相談したホレス師匠は、そう言って私の考えにうなずいてくれた。
﹁しかしあれではないのか、キアラよ。お前さんは、女の戦いをす
る気はないのか? 応援してやってもいいぞ? イッヒヒヒ﹂
完全に見せ物として期待してるらしい師匠の言葉に、私は困って
しまう。
﹁私、セシリアさんと争うつもりはないんだけど⋮⋮﹂
﹁ほぅ? あれだけわしの前でいちゃついておきながらか?﹂
﹁いちゃ!? いや、なんていうか。うーん﹂
レジーが誰かと結婚すると聞けば、それなりに衝撃は受けた。そ
れは友達から﹁結婚相手に考えてた人がいるんだ﹂と言われて驚く
以上には。
だからといって、恋愛感情と思えないんだよね、これ。
普通、好きになったら四六時中その人のことが気になるんじゃな
475
いのかな。
確かにレジーがふざけて足を掴んだ時も、レジーが異性だから恥
ずかしいと思ったわけで。それだけなら、16歳過ぎてたら兄弟相
手でもそう思うよね?
レジーのことは思い出すとほっこりと安心するし、居なくなると
思った時には寂しくなる。そして王子妃候補の話を聞いて思ったの
は、友達が別の友達に取られてしまうような、そのせいで自分が取
り残されるような気持ちだ。
置いて行かれるのが怖い。だから行かないでほしい、と。
それってなんだか⋮⋮ちょっと違うような気がする。上手く説明
できないけれど。
とりあえず私は師匠を連れて外へ出ようとした︱︱のだが。
﹁レジー。どうして私が鍛錬の見物までしなくちゃいけないの?﹂
部屋からでて間もなく、レジーに会ったとたんに居残り組となる
ヴェイン様との、物資関連の確認に付き合わされた。次に護衛との
打ち合わせにも付き合わされ、その後の筋力を落とさないための鍛
錬にまで付き合わされた。
今日のレジーは忙しい合間に私を連れ歩こうとする。どうしたら
いいんですかねこれ。
﹁ホレス師の話を参考にさせてほしくてね﹂
と言うが、それなら別に私がくっついていなくてもいいはずだ。
アランとの打ち合いを終えたレジーに、この後はこの土偶様を連
れて行ってほしいと差し出した。
﹁貸してあげるから、持っていって! ね!?﹂
﹁おい、わしは貸し借りする代物では⋮⋮﹂
476
﹁ホレス師は自由に動けないんだから、キアラが連れて歩いてくれ
ると助かるんだけど﹂
﹁師匠は一日ぐらい一人でも大丈夫だから! それにここに括り付
けちゃえば、誰かが持たなくてもいいし!﹂
受け取ってくれないので、私は師匠をレジーの腰に括り付けよう
とした。
﹁キアラ、だめだよ﹂
﹁ええいダメじゃない! ほらこうして剣のベルトにくっつければ
大丈夫!﹂
逃げ腰のレジーを捕まえて師匠の取り付け紐を結ぼうとしていた
ら、地面の上に一度放置した師匠が言った。
﹁わしはどっちでもええがのぅ。それより弟子よ、その体勢はとて
もマズイのではないのかのぅ、キシシシ﹂
﹁え?﹂
思わず振り返った私は、今の自分の状況に気がついた。
レジーの腰のベルトを、ちょっと屈んだ状態で両手で掴む私、そ
んな私の肩に手を置くレジー。
これはもしかして、青年と言っていい体格になったレジーに、成
人女性間近の女がしがみついているように見える⋮⋮のでは。
視線を外に向けると、レジーの護衛騎士であるグロウルさんはや
や斜め横を見ているし、他の若い騎士などは顔を背けたり、口元を
手で覆って笑いそうになっている人までいた。
止めに、近くにいたアランがぼそりとつぶやいた。
﹁⋮⋮安定の考え無しだな﹂
﹁うああああっ、ごめんなさいぃぃぃ!﹂
私はレジーから離れてその場にしゃがみこんだ。ちょっと大きい
477
土偶を押し付けるだけで、他の人からどう見えるのかとか、全く考
えなかったのだ。
頭を抱えて苦悩し、どうにかこの恥ずかしい現場から走り去る算
段をしていた私は、両腕を掴まれて顔を上げる。
レジーが傍に膝をついていた。
﹁私は別に問題ないけどね? そんなに一緒にいることに慣れてく
れてたのなら、ますます一緒にいてあげよう﹂
﹁はぁっ!?﹂
レジーの謎理論に頭の中が混乱した私は、立ち上がったレジーに
腕を掴まれ、再びその場から連れ去られる。
やってきたのはレジーの部屋の控室。
レジーが着替えている間に、侍女代わりをしていた召使のおばさ
んと、従軍する侍従の少年とのレジーに関する打ち合わせに巻き込
まれた。
いつもレジーの面倒をみているメイベルさんは、今回は戦がある
かもしれないと王都へ置いてきたらしい。
でもこの子鹿色の髪の侍従君だって王宮でもレジーの下で働いて
いたので、私が何か助言をする必要はないと思うのだけど。
打ち合わせが終わる頃、衣服を内向きのものに整えたレジーが、
更に私をけん引していく。
セシリア嬢と会う時間になったらしいが、そこへ私を連れて行こ
うとしているのだ。
﹁いやいやいやいや、だってレジーも昨日聞いたでしょ。遠慮した
いんだけど﹂
﹁聞いたけどあくまでお願いだし、彼女の言葉に私が従う必要はな
478
いんだよ﹂
笑顔で王子様らしく他者の要求をシカト宣言したレジーは、さら
に﹁他にも理由はあるけどね﹂とつぶやく。
﹁え、何? まだあるわけ!?﹂
﹁沢山あるけれど?﹂
しれっとレジーが答えた頃には、セシリア嬢が待っている館の居
間へ到着していた。
レジーが護衛の騎士に、キアラも一緒にいてもらうからと念を押
したため、結局レジーに続いて入室することになってしまう。騎士
さん達が私の背後に壁のように後ろに立ったので、逃げだせなかっ
た⋮⋮。
でも、入ってすぐに私は胸がどきっとする。セシリア嬢の表情が
おかしかったのだ。
なんでそんなに⋮⋮怯えてるの?
とても恋敵がやってきた! という態度ではない。普通なら青ざ
めるよりも、嫌そうな顔をしそうな気がするんだけども。
彼女の応対を一手に引き受けているベアトリス様もその場にいた
のだけど、困惑したような顔をしていた。ということは、今までは
怯えた様子はなかったのだろう。
それからのセシリア嬢は、目も当てられない有様だった。
お茶は彼女が注ぎたいと言っていたようで、召使が茶器や湯を運
んできたのだが、触れようとする前から指先が震えていた。
みんなが思わず彼女を見つめて黙り込んでしまったせいで、カタ
カタと鳴る茶器の音が、やたらと大きく響く。
なんだか動作の一つ一つが危なっかしくて、手伝いたくてたまら
ない。その時には、彼女が近づかないで発言をしたことなど、私の
頭の中から吹っ飛んでいた。
479
そして決定的な瞬間がやってくる。
﹁あっ!﹂
ぶるぶると震えていたセシリア嬢の手が滑り、湯が入っていたポ
ットが落ちた。
陶器の割れる音にびくりとしてしまう。けれどすぐ、お湯の傍に
いたセシリア嬢が気になって席を立った。駆け寄ったのは私が一番
早かった。セシリア嬢が私の近くで作業をしていたからだ。
﹁やけどは!?﹂
まず足元を見て、ドレスが床につきそうな長さだったことが幸い
して、足にはかかっていないだろうと判断。次に手を確認しようと
指を伸ばしたら、セシリア嬢の方から握りしめてきた。
﹁た、助けて⋮⋮﹂
かすれた、本当に小さな声は、最初私から離れたくて言ったもの
かと思った。
けれどセシリア嬢は、まっすぐ私を見つめていた。
⋮⋮まさか私に、助けてと言っているの?
どうして、と考え始めた時には、既にセシリア嬢は彼女の騎士に
引き寄せられていた。
﹁怪我をしたようです。申し訳ありませんが、この場を辞去させて
頂きたく﹂
昨日私を睨んでいた茶の髪の騎士は、ベアトリス様とレジーにそ
う頼み、退出の許可を得てセシリア嬢を連れ出してしまった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
私は、今感じていた違和感を誰かに相談したかった。けれどその
場には、まだセシリア嬢が連れてきた騎士もいて、割れたポットと
480
お湯をかたずけるために召使達も複数人やってきていた。
とても内密の話ができる状況ではない。
間の悪いことに私はベアトリス様に連れていかれ、旅装束の衣装
合わせなどをさせられることになってしまい、レジーに相談するこ
ともできなかった。
ベアトリス様は有り難くも自分の旅装束を供出し、それをマイヤ
さんが私に合うように直したらしい。どうりでマイヤさんの裁縫熱
が、師匠の寝具だけで留まっていたわけだ。他にぶつける対象があ
ったからだったようだ。
ただこの時、ベアトリス様にはセシリア嬢の様子を話すことはで
きた。
﹁⋮⋮助けて?﹂
私がうなずくと、ベアトリス様は難しい表情になる。
﹁トリスフィードからまっすぐこの領地に来たことを疑ってはいた
けど⋮⋮。護衛の騎士にルアインの者が紛れているのか。他に監視
がいるのか⋮⋮。そうね、ヴェイン様にお話ししてみましょう﹂
﹁お願いします﹂
ベアトリス様にこの件を預けた私は、ひとまず安心した。
︱︱けれどそれすらも遅かったのだ。
その日は、物資を運ぶ商人が馬車でひっきりなしに出入りしてい
た。明後日の出発に向けて最後の搬入を受け入れていたからだ。
馬車には、一人の雇われた少年が乗っていたという。
北側の分家が収める町から逃げてきたという少年は、商人になん
でもするからと頼みこみ、下働きとして働き始めたばかりだった。
481
けれど城の中に入った少年は、疲れ果ててへたりこんでいたとこ
ろで、城の中にいた兵士らしき人物から飲み物を分けてもらった。
それを渡した者のことも、少年が疑いもせず飲んだ瞬間も、誰も見
ていない。
けれど数分後、城の一画で少年は変貌を遂げた。
少年の体から噴きだす炎。
近くにあった馬車は、繋がれていた馬が暴れて横転し、ふらつい
た少年が触れたために炎上した。
商人たちが悲鳴を上げて逃げ、代わりに城内警備の兵が駆け付け
る。
喧騒に気付いた私が館の外へ出た時、崩れていく人の姿がそのま
ま炎となって、蛇のように四方八方へ頭を伸ばす光景が広がってい
た。
火傷を負って逃げる者。
魔術師くずれだと叫ぶ声。
それを聞きつけて館から外に飛び出した私は、炎を避けて建物に
隠れながら、地面に手をついた。
﹁キアラ﹂
ホレス師匠にうなずき、私はすぐさま遠くから土を操った。
大地の中の魔力が、既に半分崩れたその姿を覆うように周囲の土
を盛り上がらせ、本人の足下の地面を抉る。
あの様子ではもう、生きてはいられない。だから閉じ込めて他へ
の被害を軽減しようとしたのだ。
私は無事にそれらをやりおおせ、炎は土の壁の中に閉じ込められ
た。
482
城内にほっとした空気が流れる。
すぐさま兵士達は負傷者を運び出し始めたり、恐怖でうずくまっ
ていた商人たちが荷物を確認したり怪我人を知らせたりと、別な喧
騒が生まれる。
﹁まだ近づかないで﹂
兵士達の一部が、土壁にふれそうなほど近づこうとしていた。私
は彼らを止めるために中庭をよぎって走って︱︱その途中のことだ
った。
﹁キアラ!﹂
誰かの叫び声に振り返った私の目に、飛来する矢が見えた。
483
私にとってのあなた
私にとって、レジーはちょっと特殊な存在だ。
命の恩人で、他の人とは共有できないことも全てわかり合える人。
ほんの一歳差だけど、身分の高さからも私の後見人みたいな立場
で、私を叱る人で、命をかけてまで助けようとしてくれる人でもあ
る。
彼と似た存在を思う時、思い浮かぶのはホレス師匠だ。
他の人とは共有できない魔術の話ができるし、わかり合える。そ
もそも魔術師としての修練を監督し、教え導く保護者みたいなもの
でもある。更に命と引き換えになる状況で私を魔術師にしてくれた。
師匠とレジー。
二人のような立ち位置の人は、今の人生ではずっと見当たらずに
いた。
レジーが私の保護者だと言った時、確かにそうだと思うと同時に、
家族がいるような安心感を感じたのは、レジーが保護者のようにふ
るまってくれたからだ。
まるで前世のお父さんみたいに。時々反抗する娘を、それでも最
後まで見守ってくれる存在に感じて。
セシリア嬢が近づかないでと言う言葉に、反発を感じた時は良く
分からなかった。
恋してたわけじゃないのに、どうしてそんなことを思うのかと自
分の気持ちが分からなかったけれど、今なら他の人にも説明できる。
同じ言葉を師匠に対しても言われたら、私はやっぱりむかっとし
484
ただろうから。人で、年の近い異性のレジーだったからこそ表に出
すのは誤解されそうで嫌だったし、自分の感情の向く方向が何なの
か理解しにくかったけれど、人外の師匠がその対象だったら、私は
はっきり言っていたと思う。
﹁師匠と離れるなんて、絶対に嫌だ﹂と。
同じようにレジーの時にも言いたかったのだ。
﹁家族と引き離される筋合いはない﹂と。
でもそうして﹃父代わり﹄として甘えられる人を手に入れた私は、
彼を守り切ったと思って油断しすぎたのだ。後はレジーが考えてく
れると思って。
私が知っているものとは違う状況がいくつもあったのに。
︱︱その時私は、名前を呼ばれて振り返った。
飛んでくる矢を視界に捉えることができただけでも、私にとって
は奇跡だった。
ほんの一瞬の出来事だったから、逃げることまでは出来ずに、呆
然と死ぬのかな、と思うだけで精いっぱいで。
視界の端に、駆け付けようとしていたカインさんの姿が遠くに見
えた。けれどカインさんがたどり着く前に、私の腕が引かれ。それ
だけでは足りないとばかりに抱え込まれたのは、青い上着に覆われ
た胸だ。
ほぼ同時に、重たいものがぶつかったような音がした。
うめき声。歯を食いしばったその人の首筋に力が入るのが見える。
︱︱矢が刺さった。
485
その事に、全身から血の気が引いた。
いつも庇うように抱きしめてくれたレジーの匂いと、起こって欲
しくなかった事態に、私の頭が混乱する。
﹁レジー。レジーっ?﹂
うそだうそだ。
攻城戦はもう終わった。魔術師もいて、援軍も得て攻めにくいと
考えたルアイン軍は、他領へと去った。既に仲間にした貴族達から
の援軍を受け入れ、先に王都へと攻め込むために。
遠い記憶の中にあった、矢に射られて倒れるレジーの姿はもう現
実にはならないはずだったのに。
﹁レジー、そんな、うそでしょう!?﹂
けれどレジーは答えてくれない。
うめき声だけを漏らすレジーは、体を支えられなくなったように
私に寄りかかってくる。
そんなレジーを支えられず、私はその場に膝をついた。
でもそれ以上どうしていいのかわからない。怪我を確かめる? どこに刺さったのかを見る? それでもうどうにもならないことが
分かってしまったら。
﹁やだ⋮⋮﹂
怖くて確かめられない。全身が小さく震えて、指一本動かせなか
った。
﹁殿下!﹂
ようやく誰かが来てくれた。
その人はレジーを私の代わりに抱えようとしてくれたけれど、今
度はレジーの腕が離れない。引き離すのをあきらめた誰かは、とに
かく矢の方をどうにかしようとしたらしい。
486
﹁殿下、失礼します﹂
服が切り裂かれる音がした。怪我を見るためだろう。
私は思わず身をすくめてしまう。
聞きたくない。助からないなんて言われたら、どうにかなってし
まいそうで、怖くてたまらない。だけど耳をふさぐ手は背中ごとレ
ジーに抱きしめられたままだ。
けれどレジーの腕が、私の怯えを感じたように、ぎゅっと力が籠
められる。
まだ生きている。それがわかっただけで、私はほんの少し肩の力
が抜ける。
やがて聞こえたのは、意外な言葉だった。
﹁肩に刺さっているだけなのに⋮⋮﹂
だけなのに、とは一体何なんだろう。胸が全力疾走をした時のよ
うに強く拍動し続けて、息が止まってしまいそうだ。
﹁殿下はどうなんだ!﹂
﹁矢は肩口だ。心臓には刺さっていない。遠くから射られたせいで、
肺を傷つけるほどには深くもない﹂
﹁ならどうして、殿下は動かないんだ?﹂
⋮⋮心臓に刺さっていない。
会話からわかったことで、私はようやく頭の中が動き始める。
傷は深くない。レジーは、死なない?
致命傷ではないことは分かってきた。けれどレジーが動かないと
いう。それは、レジーならば矢傷でこれほど痛みに苦しんで動けな
くなるわけがない、ということではないのか。
487
﹁毒か?﹂
﹁早く矢を抜くしかない⋮⋮キアラさん、殿下の体を抑えていて﹂
すぐ近くまで顔を寄せて話しかけてきてくれたので、先ほどから
会話している人の片方がカインさんだとようやくわかる。
﹁は、はい﹂
答えたものの、泣いた後みたいにみっともない声しか出ない。ま
だ私の心臓は、どくどくと音を立ててうるさいほどだ。
﹁殿下、ご辛抱を!﹂
もう一人が声を掛けた直後、レジーが喉の奥でくぐもった声を出
し、そのまま腕の力が抜けて行く。
﹁レジー!﹂
﹁殿下!﹂
私やカインさんに抱きとめられたレジーは、目を閉じて気絶して
いるように見えた。
今までレジーの体にかばわれて見えなかったが、周囲には沢山の
人が集まって来ていて、さっそくレジーの傷に応急処置をほどこそ
うとしたり、どこからか担架が運ばれてきたりしていた。
﹁何か矢に塗られているような⋮⋮﹂
﹁やっぱり毒か? 早く医師を呼んで毒出しを!﹂
﹁医師はまだか!﹂
叫ぶ人々の中で、レジーにしがみつくようにしていた私は引き離
され、レジーの体が兵士達が持ってきた担架に乗せられる。
その時だった。
胃が押されるかと思うほど、息が詰まった。
同時にレジーの肩の辺りで火花が散る。
488
﹁わっ!﹂
﹁落とすな!﹂
レジーの左前方で担架を持っていた兵士が、取り落としそうにな
って叱責される。
けれど火花は酷くなって、慌てて担架が地面に降ろされた。そし
てレジーの肩口は焼けただれたように赤くなっていき、傍の布は焦
げて行く。
⋮⋮まさかこれ、魔術師まがいになりかけてる!?
はっとした私は、師匠に尋ねる。
﹁師匠、これ、まさか契約の石を取り込まされたんじゃ﹂
﹁矢に落ちないよう塗り固めておったのかもしれん。体内に入り込
めば、少量でも十分に⋮⋮毒以上に確実に相手を殺せるからの﹂
﹁なんとかする方法は⋮⋮﹂
﹁普通は、同じ石を取り込んだ者だけが、相手の中に入った石に影
響を与えられる。だからこその師弟制度だ﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
レジーの体に入っただろうものと、同じ石などない。けれど私が
魔術師になった時とおなじことが起こっているのだといたら、今す
ぐどうにかしなければ、レジーはこのまま砂になって死んでしまう。
﹁おい、キアラ!?﹂
叫ぶ師匠を無視して、私は呆然とする騎士から矢を奪い、その矢
じりをなめとった。
血の鉄くさい味がする。⋮⋮ちょっとはざらつくのは、なんとか
レジーの体に入り切れなかった砂が残っていたのだろうか。固めて
塗りつけるために何を使ったのかわからないが、クリームを舐めた
489
ような嫌な感覚がした先に残った。
そのまま驚く周囲を無視してレジーの傍に膝をつき、触れようと
した。
﹁っ、痛っ!﹂
飛んだ火花で、指先が痛んだ。
けれど泣いていられない。腕にも痛みが走るけれど、無視してレ
ジーの背中に触れる。
ふと頭を横向きにしていたレジーが薄く目を開けた。
﹁キアラ⋮⋮。危険だから⋮⋮殺⋮⋮﹂
かすれ声は聞き取りにくいが、レジーが自分に起きていることを
察して、殺せと言ったのがはっきりとわかった。
痛みでひるんだ心が、怒りで一色に染まる。
﹁絶対に嫌!﹂
拒否を叫んだ私は、そのまま土の中を探るようにレジーの中の魔
力を探した。
ほんのちょっとだけ口の中に入った契約の砂が、ちりちりと焼け
て喉を熱くしていく。そんな中、レジーの中に同じような熱を探す。
ぽつりぽつりと、真昼の月のように希薄な気配だけれど、レジー
の中に入り込んだ魔力が意識に引っかかる。ほぼ一か所にあるので、
まだ傷口近くに集中しているように思えた。
けれどそこから、紙を焼くようにじわじわと焦げさせていこうと
している。
私はその熱を抑えようとする。おかげで火花が散っていたのは治
まった。
でも中にある契約の石の魔力は熾火のように赤く熱したままで、
なかなか鎮火してくれない。このままではレジーの体を少しずつ破
490
壊してしまう。
どうしたらいい。
﹁師匠⋮⋮レジーの中に入った契約の石⋮⋮収まらない﹂
師匠に助けを求めると、ホレス師匠は唸るように言った。
﹁矢を舐めたのは同じものを取り込むためか⋮⋮だが少量を取り込
んだところで、影響を与えるのは無理だ。できないならば取りだせ。
わしにはもう魔法が使えない以上、手伝ってやることもできん。お
前が諦めるかどうか選べ﹂
﹁⋮⋮諦め、ないっ﹂
取り出すということは、レジーの傷を広げることになるかもしれ
ない。それでも、このまま死ぬよりは。
そう思って、私は土人形を作りだす時のように、レジーの中の魔
力を集めた。
気を失っているらしいレジーは、何も反応しない。
意識を集中しながら目を開けば、レジーの傷口から黒く変色した
皮膚と筋肉の一部が盛り上がっていた。
取りかかったのが早かったにも関わらず、傷口を越える範囲で表
出したそれは、切り取れば大量出血をしてレジーが死んでしまうの
ではないかと怖くなる。
戸惑った私だったが、ここまで操ったおかげで、レジーの中に入
り込んだ魔力を動かしやすくなっていることに気付く。
ふと別な方法を思いついた私は、レジーにもらったナイフを鞘か
ら抜き、自分の手の甲に切り傷をつけた。
流れる血をレジーの傷口に塗りつけるようになじませながら、侵
入させようと試みる。
私の魔力が一番伝わりやすいものは、私の血肉だろう。そう考え
491
て血を使ったが、予想通り私の魔力が傷口からレジーの中に侵入し
ていく。
そうして少し抑えることができた余計な魔力を、広がらないよう
に私の魔力で遮断。それから私の魔力を強めて︱︱閉じ込めたレジ
ーの体の一部に馴染ませていく。
二つの魔力が、熱されながらコーヒーとミルクのように交ざり合
い始めるのが感覚でわかる。
魔力の熱に侵されているのか、レジーは首筋や額に汗をにじませ
ていた。
きっと苦しいだろう。適性がないだろうレジーでは、私よりも辛
いに違いない。でもどうか、終わるまでなんとか我慢して。
祈るように私は作業を続けて。
﹁終わっ⋮⋮た﹂
レジーの中にあった契約の砂の魔力を制した。そう感じたとたん、
ほっとした私はレジーの横に倒れ込んだ。
492
そして引きだされた真相に
﹁キアラさん!﹂
矢を口にし、王子の血で口の端を赤く汚したキアラが、火花をも
のともせずに突っ込んで行った。
追いかけようにも、それが正しいのかとカインは逡巡してしまう。
彼女にしか、魔術のことはわからないからだ。だから勝算があっ
ての行動なのか、やみくもに突き進もうとしているのかも判断でき
ない。
けれどレジナルド王子は救わなければならない。彼は旗印なのだ
から。だからキアラの行動が成功することを祈ってはいるけれど。
カインは手を握りしめる。
何も手伝ってやれない。あの火花から守るために触れることすら、
彼女の邪魔になる可能性を考えてしまうからだ。
だが今は自分ができることをするしかない。
﹁射手を探せ! 西側の城壁だ!﹂
カインの言葉に、あまりの状況に動けずにいた兵士達や騎士達が
走り始める。
﹁門を閉じろ!﹂
﹁見張りに合図を送れ!﹂
騒然とする中、カインはその場から動かなかった。何者かの攻撃
がこれで終わりではなかったら、キアラを狙うことも考えられるの
だ。彼女の護衛騎士の任務がある以上、カインが犯人を探しに行く
わけにはいかない。
493
カインはキアラ達を囲むように、別な兵士四人に四方を見張らせ
る。
先ほどの矢は、軌跡から城壁から放たれたものだとわかっている。
そこには出入りの商人など上がれない。城内勤めの兵士や領主一族
とそれに近しい者までだ。
それ以外となれば、城内に客として滞在している者しかいない。
警戒はしていた。
なのに一体どうやって彼らは監視の目をすり抜けたのか。それと
も犯人はセシリアの騎士ではないのか。
考えている間に、キアラの方も様子が変化していく。
切れ切れに、師と仰ぐ人形と会話する様子から、相当に厳しい状
況のようだ。レジナルド王子が魔術師くずれになりかけていること
がわかる。
けれどカイン達には手が出せない。全て彼女に任せるしか方法が
ないのだ。
彼女が火花が散る度に衣服が焼け焦げ、痛そうに顔をゆがめても。
必死に﹁死なないで﹂と繰り返していても。
カインは、こんなにも何もできないことを思い知らされるとは、
夢にも思わなかった。
魔術が使えない、しゃべる人形でしかない彼女の師でさえ、諦め
るか運を天に任せるしかないというのに、キアラは首を横に振って、
しまいには自分の手を切って血を捧げてまで尽力していた。
そして、いつの間にかレジナルド王子の周囲に散っていた火花が
収まっていた。
やがてキアラが力尽きたように倒れる。
息を飲んだカインや他の兵士達に、ホレスが叫んだ。
494
﹁早く、二人ともを安全な所に移動せんか!﹂
兵士達が慌ててレジナルド王子を担架に運ぶ。もう異常な状態は
起こらなかったので、兵士達は安心して館の中へと走った。
カインはキアラを抱き上げる。
彼女は目を閉じたまま、全力疾走をした後の人間のように息をし
ていた。こちらも状態がいいとは言えない。
﹁ホレスさん、キアラさんは⋮⋮﹂
﹁うちの弟子は無茶をしおったんじゃ﹂
もし表情が変えられたなら、苦虫を潰したような顔をしていたの
ではないかという声でホレスが応じた。
﹁小量だったことが幸いしたが、同量を取り込んだぐらいで、全く
自分が関わりない契約の石の力をねじ伏せるなど、できるものでは
ない。通常ならば砂になるのを見送るしかないところを、無理やり
捻じ曲げたのだ⋮⋮どれだけ力を使ったのか、わしにも想像できん
わ﹂
﹁危険な状態なのですか?﹂
カインの問いに、ホレスは土偶の体で﹁さあな﹂とばかり手を上
に上げてみせた。
﹁ここまで保ったのだから死にはせんだろう。ただこんな使い方を
しては、気付いたら指先が砂になって崩れていてもおかしくなかっ
ただろうな﹂
わかっていても、やったんだろうが。
そう言うホレスがキアラを見上げる。その様子は、どこか憐れみ
がこもっているようにカインには感じられた。
495
﹁おぬしは弟子の護衛だったな。この娘は親しくなった人間を、今
後もそうやって助けようとするだろう。心せよ。契約の石が簡単に
見つかるものではなくても、敵が同じ手を使う可能性が今後もある
だろうからな﹂
ホレスの忠告に、カインはうなずく。
同じような危険には合わせたくない。それは自分も感じていた。
けれど⋮⋮どうしたら守れるだろうか。彼女だけ救えばいいわけ
ではないのなら、レジナルド王子どころか、アランや自分までもそ
の範疇にいる可能性がある。
全員を一人で守れるわけではない。
完璧なものなどこの世にはないのだ。そして最も最適な方法は、
何かがあった時に、彼女以外の人間の生死をあきらめさせることか
もしれない。
けれどそんなことをしたら、キアラはきっと反発するだろう。
その後の犯人の捜索は、微妙な結果に終わった。
矢を射た人物は、騒ぎに紛れて消えようとしていたところを、捜
索の方に参加していたアランが不審すぎると引き止めようとした。
それは4人いたトリスフィードの騎士の一人だった。
その騎士はアランが捕縛しかけたところで、レジナルド王子に使
ったと思われる代物の残りを口に含み、壁の一部を砂にしながら、
自身も砂になってくずれたという。
他の騎士は、二人が城外へ逃げおおせた。
その日、城内に出入りしていたのが兵士だけだったら、まだ探し
ようはあったのだろう。けれど商人たちが出入りしており、いち早
く逃げようとする者や、留まっておろおろとする者、怪我をしたと
496
泣き叫ぶ者がいて混乱していたため、対応の遅れと、警備の穴を作
ってしまったのだ。
最後の一人は、セシリアを殺そうとしていた。
こちらはキアラがベアトリス夫人にセシリアの様子の異常を伝え
ていたおかげで、未然に防がれた。
話を聞いたベアトリス夫人は、すぐに自らの侍女クラーラと騎士
達を送り出したのだ。そしてクラーラは部屋からの返事が遅れたそ
の瞬間に、自分の責になってもいいからとすぐに扉を開けた。
キアラの不安がる様子を見ていたクラーラは、助けてと訴えるよ
うな状況なのに監視の兵が何も異常を報告してこないことから、敵
が巧妙にごまかすことが得意なのだと考えたのだ。
それならば、取り繕えないように不意をつく必要があると、返事
がおかしいと感じた時点で部屋に飛び込んだ。
トリスフィードの騎士の方は、その時まさにセシリアを始末しよ
うとしていた。
けれどクラーラの訪問にその場をやり過ごすと決め、ひとまずセ
シリアに自分の指示通りの返事をさせようと考えた。おかげでセシ
リアは事前に殺されるのを免れたが、剣を突きつけられていたため、
クラーラ達が急襲して助け出すまでの間に、首に薄い切り傷ができ
てしまった。
トリスフィードの騎士は激しい抵抗の末、クラーラ達によって殺
された。
セシリアの方は、怪我をしたもののようやく安全な状況になった
ことで、クラーラにしがみついてなかなか泣き止まなかったらしい。
時間が経ち、ようやく聞きだせたところによると、セシリアは騎
497
士達に監視され、脅されていたのだ。
しかも騎士達はトリスフィードの人間ではなかった。全員、クレ
ディアス子爵の配下だったのだ。
ここで、トリスフィード占領にクレディアス子爵が関わっていた
ことがわかった。
更にセシリアだが、母親に毒を飲まされ、命を救ってほしければ
王子と魔術師の命を奪えと命じられてエヴラールへ連れて来られた
という。
彼女は王子が同席している場で、毒を飲ませるよう指示されてい
た。
いつも泣きそうになりながら失敗していたのは、王子だけでも守
ろうとして、失敗の末にお茶事態に自分が触れなくても良いように
するためだった。
また、セシリアが告白していたらしいが、彼女はキアラに対して
王子に近づくなと言っていたらしい。これは万が一の場合は二人同
時に殺されないよう、お茶の席に居合わせないようにしたかったよ
うだ。
もし失敗が上手くいかず、毒を盛る状況になっていたら、セシリ
アは王子だけでも助けるため、レジナルドの飲み物を取り上げて自
害するつもりだったようだ。
キアラに﹁助けて﹂と言ったのは、もうこんなことを繰り返した
くなかったからだ。
セシリアがわざと失敗を続けたのと、エヴラール軍の出発日が迫
っていたため、クレディアス子爵の部下達は、せめてキアラを襲撃
して殺そうと考えた。魔術師がいなければ、戦力が半減したも同然
だと判断したらしい。
498
更にセシリアの口も封じて、誰の指示で凶行に及んだのかをぼか
そうとしたのだ。
キアラを射る矢に契約の砂が塗られていたのは、彼女を必ず殺す
ため。
魔術師であっても怪我を治せる者などそういない。しかも怪我の
ために契約の石の作用を打ち消すのが難しくなるのだという。
しかし矢はレジナルド王子に刺さった。
魔術師が相手でなければ、致命傷は与えられなくとも王子は確実
に死ぬ。予定は変更になったが、敵はそれで良しとして逃亡を図っ
たようだ。
泣きはらしたまま話を終えたセシリアは、辺境伯夫妻と騎士達が
いる場から、クラーラに支えられるようにして出て行く。
それを見送ったホレスが、嫌そうにカイン達に告げた。
﹁⋮⋮クレディアス子爵は、魔術師だ﹂
﹁え? 魔術師?﹂
ホレスの言葉を聞いたヴェイン辺境伯も、アランも、ベアトリス
夫人も皆青ざめる。
﹁どうしてですか?﹂
ベアトリス夫人に尋ねられたホレスは、居心地悪そうに陶器のよ
うな手で腰を掻きながら言う。
﹁わしがなんで辺境地まで来て、獣に餌を撒いてせこせこ働いてい
たと思う?﹂
﹁雇われたんじゃないのか?﹂
アランの答えに、ホレスが自嘲するように笑った。
﹁フヒヒヒ。雇われたなどという可愛いもんではないわ。不意打ち
499
で奴隷契約を結ばされたようなもんじゃ。⋮⋮契約の石を飲まされ
たのだからな﹂
﹁金に目がくらんだのだとばかり⋮⋮﹂
アランがさらっと酷いことを言った。
﹁わしゃ長生きしたかったんじゃ、こんな戦争に関わる気なんぞさ
らさらなかったわ。しかも奴は姿を見せず、おかげでどいつがわし
を罠にはめたのかわからずに復讐できなかったが⋮⋮そいつだろう。
魔術師について知り過ぎているからの﹂
500
否定される思い
私は一日寝込んだ。
目覚めた時には体がだるく、しかもレジーから発生した火花であ
ちこち火傷を負っていたので、腕に何箇所も包帯を巻かれていた。
看病の交代要員だった召使いのおばさんには﹁嫁入り前なのに⋮
⋮﹂と嘆かれたが、マイヤさんには﹁王子を救った勲章ですわね﹂
と言われた。受け取る人によって、反応って違うんだなとしみじみ
感じた。
腕がこの有様ということで、服は焼け焦げてとても使えない代物
になってしまったようだ。そのためマイヤさんから﹁今、ベアトリ
ス様と別なものを作っておりますから﹂と言われた。
ホレス師匠からは力の使いすぎだといわれ﹁無茶しおってからに
⋮⋮﹂と苦言を呈されてしまった。
それでも、レジーのために力を尽くしたことは後悔していない。
私がそう考えていることは分かってたようで、師匠はため息をつい
ていた。
﹁まぁお前さんがあの王子に執着しておったのは知っていたがな。
それでも一か八かでしかなかったのは間違いない。ただこれは覚え
ておくがいい。今度同じことをしたら、お前さんの腕一本ぐらいは
砂になるだろうよ。それを見た相手が、自責の念で潰されかねない
ことを忘れるでない﹂
﹁⋮⋮はい﹂
この言葉は効いた。
501
レジーを助けようとしたときには頭から飛んでしまっていたけれ
ど、夢中になって魔力を使い続けたあげく、自分の体まで崩壊など
したら⋮⋮。きっとレジーは誰より自分を責めるだろう。
﹁それで、レジーは?﹂
﹁今のところ生きておる。しかし素質のない人間が、契約の石の影
響を受けたのだ。体の維持に体力の全てを奪われたようなものだか
らな、まだ昏睡状態じゃ﹂
素質があれば、レジーはここまで苦しまなくても済んだのだろう。
けれどもしそうだったら、とてもマズイことになるだろうなとも私
は思う。
絶対にレジーは、自分も魔術師になろうとしただろう。
そうしてエヴラール領に私を押し留めて、戦争が終わるまで待た
せるに違いない。私だってそうしたいのだから、レジーがやりたく
なるだろうことは理解できるから。
結局、レジーが目覚めたのはそれから二日後のことだった。
医師の診断の後にすぐ私が呼ばれたのは、魔術的な方面から、レ
ジーの状態が問題ないかを診て欲しいからだろう。
部屋の前には、フェリックスという砂色の髪のレジーの騎士が立
っていた。
フェリックスが扉を開けてくれると、寝台とその傍に立つ騎士グ
ロウルの姿が見える。
﹁医師はもう問題ないと言っております。あと、先に申し上げてお
きたいのですが﹂
珍しくグロウルさんが、私に話がある様子だ。まさか私を庇わせ
てしまったことについて、怒られるのだろうか。
502
﹁殿下が世迷いごとを口になさっても、気になさいませんよう。殿
下が魔術師殿を庇ったのは、戦力のことを考えても、ご婦人を助け
るべきだという考えからも当然のことで、毒矢や今回のように特殊
な事象を誰も想定していなかったのですから、仕方ないことでした。
そんな中。殿下を救うため死力を尽くして下さったことに、我々は
感謝しております、魔術師殿﹂
話し終えたグロウルさんは部屋を出て行く。きっちりと扉が閉ま
る音に、レジーと二人きりにされた私はまだ首を傾げていた。
世迷いごとって何のこと?
そしてグロウルさんまで出て行くと言うことは、レジーが話しを
することを望んでいるのだろうか。
疑問に思っていたら、寝台に横たわりながらも目は覚ましていた
レジーが﹁グロウルが変なことを言って悪いね﹂と言い出す。
多少は頬がこけていたけれど、レジーの秀麗さが損なわれてはい
なかった。まだ体がしんどいのだろう。顔だけをこちらに向けてた
レジーは、いつも通りに微笑んだ。
﹁それよりも君は大丈夫なのかい、キアラ?﹂
﹁うん、私は平気。レジーは気分とかどう?﹂
﹁⋮⋮そうだね。問題ないと思うよ﹂
私はとりあえず彼の状態を確かめることにした。
寝具の上に出ていた力が入りにくい様子のレジーの左手を握り、
彼の中の魔力が問題ない状態かを軽く確認する。⋮⋮うん、問題な
さそうだ。
﹁大丈夫みたい。よかった﹂
やっぱり確認してみないと、自分のやり方で良かったかどうかが
503
わからないので、とても安心した。
ほっとして手を離そうとしたのだが、レジーが握り返して引き止
める。
﹁でも、こうして私を生かすために、君も相当危険な橋を渡ったと
聞いたよ。もし二度目があっても、今度は私を助けようとしちゃい
けないからね﹂
優しい表情と声でレジーが言う。
﹁それは無理だよ⋮⋮。レジーは私の恩人だし、それにみんなの旗
印じゃない﹂
ルアインに侵略されつつある国を取り戻す、その総大将はレジー
だ。レジーが居なくなっては士気に関わるし、他の貴族達がすんな
りと協力する気になってくれるか怪しい。だからアランが主人公だ
ったゲームでは、戦力を建て直し、集めるまでに時間がかかったの
だろう。ゲームの出発時、既に王都は陥落していたのだから。
﹁確かにこのままでは、エヴラールは近い将来に再度攻撃されて蹂
躙されかねない。でもそれを打ち払う旗印が私である必要はない﹂
﹁え、何を言って⋮⋮﹂
﹁君はわかっているはずだ。⋮⋮君が知っている物語では、私は存
在していなかったんだから﹂
私は息を飲む。
物語。レジーは確かにそう言った。
けれど私はレジーに、ゲームの話などしていない。レジー達が死
んでしまうかもしれない夢を見たと話しただけだ。なのに。
﹁⋮⋮ウェントワースから聞いたよ。君が生まれ変わる前、別な人
間として生きていた頃の記憶を持っているって。夢で曖昧に出来事
504
を予知したわけじゃなくて、そういう筋書きの未来があり得ると分
かっていたんだってこと。その場合はルアインと戦うのがアランだ
ということもね。だったら⋮⋮私が居なくても、国は守られるんだ
ろう?﹂
私は返事ができなかった。
レジーの言うことは本当だったからこそ。
旗印になるのはレジーじゃなくてもいいのだ。多少苦労すること
になるけれども、アランも王位継承権を持っているから。彼がゲー
ムの時のように先頭に立てばいいだけだ。
でも生きているのに。なんでそんなことを言うの? と言いたか
ったけれど、あまりのことに言葉が出てこない。
それでも私の言いたいことが顔に出ていたのが、レジーが続ける。
﹁自棄になっているわけじゃないよ。むしろ私は少し⋮⋮ほっとし
ているんだ。もう走らなくてもいいと、言われたみたいで﹂
彼の落ち着いた表情は変わらない。でもその穏やかさが、私の心
を波立たせる。もう走らないと決めてしまった人のようで、怖くて
相槌も打てない。
﹁小さい頃から⋮⋮私にとって死は近しいものだった﹂
けれどレジーは黙っていてはくれない。
﹁最初は本能的に死にたくないと思っていた。だから母を見捨てた
祖父を上辺だけをでも好きなフリをした。王位に関心のない子供ら
しい行動をした。何も気付いていないフリをしながら全てをかいく
ぐって。けれど本当は面倒で、終わってしまえばいいと思った時に
⋮⋮君と会った﹂
﹁アランを教会学校に迎えに来た⋮⋮時?﹂
従者のフリをして、アランを迎えに来た一行に混ざっていたレジ
505
ー。
﹁鬱屈していることは察していたんだろうね。ベアトリス伯母様が
私の気晴らしになるならとアランの迎えに同行させてくれたけど、
よもや私が出奔のために、道々の様子を観察する機会を求めてつい
て行ったなんて思わなかっただろうね﹂
﹁出奔って⋮⋮王子がそんなことできるわけないじゃない﹂
私でも世間知らずで、一人で生きていこうとするのは厳しいだろ
うと思い、レジーの提案を受けてアランのところで雇われることを
選んだのだ。それ以上に浮世離れしたレジーが、そんな真似ができ
るだろうか。
﹁生活のことなんて考えていなかったよ。王宮を一人で出て行けば、
誰かが必ず私を殺しに来るだろうから﹂
﹁それじゃ自殺⋮⋮﹂
つぶやいた私に、レジーが﹁そうだよ﹂と肯定する。
﹁終わりになるなら、それでも良かった。だから君が逃げようとし
て忍び込んだのを見た時に、まるで自分がしたいことを代わりにや
っているように思えたんだ﹂
だから、最初からレジーは親切だったのだ。
見ず知らずの私に、アランやカインさんだって最初は難色を示し
ていたのに、レジーだけはあんなにも受け入れてくれたのは、自分
ができないことを私がやろうとしていたから。
﹁私と違って非力で、何もできない上、薬を盛られたと知っても、
普通の女の子みたいにそこで泣き出さない。とにかく生きるために
前に進もうとしてて⋮⋮。君を見てたら、私もようやく自分が、そ
うやってあがくのに疲れていたことに気付いた﹂
だから私を救ってみようかと思った、とレジーは言った。救われ
506
た人を見たら、自分も助かりたいと思うようにだろうかと。
そこでレジーは、私から視線をそらした。
﹁君みたいに、私も誰かのために生きたら、少しは苦しくなくなる
のかと思った。でも君は、大人しく守らせてくれさえしない。私は
どうしたらいいのかと迷ったよ。君を閉じ込めたらいいのかとね。
飛べなくする方法はいくらでも思い浮かぶんだ。ちょっと実行しよ
うと思ったこともある﹂
⋮⋮なんかすごい怖い言葉が聞こえたけど、確かに言われたこと
はある。本気で私を閉じ込めるつもりだったのか⋮⋮。冗談かと思
ってた。
﹁でも、レジーは実行しなかったよね﹂
魔術師になった私が戦に参加すると決めても、レジーは妨害した
りはしなかった。
﹁最終的に君の人生を決めるのは君自身だ﹂
レジーは迷うことなく答えた。
﹁ずっと他人の決定で人生を左右されてきたのは、君も私も同じだ。
自分で選ぶことを決めて逃げた君に、それ以上決定権を奪うことは
したくない﹂
だから、と続ける。
﹁助けられないことも、私の選択だよ。だからキアラ、君はそれを
尊重すべきだ﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
助けちゃいけないだなんて。
自分が助かるため、レジーや辺境伯を助けるために魔術師を目指
して、今は殺すのが怖くても戦おうと心に決めたのに。理由が欠け
507
たら⋮⋮どうしたらいいのかわからなくなりそうで、足下が見えな
くなるような暗闇に放り込まれた気分になる。
﹁私が居た方が良いのならと思って、軍を率いることを承知したけ
れど。⋮⋮いなくても大丈夫なら、私を優先するよりは君の身の安
全を優先することの方が、アラン達の勝利には重要だろうし﹂
﹁必要ないなんてことはないでしょう!﹂
私は思わずレジーに向かって身を乗り出し、寝台の上に手をつい
た。
﹁みんなレジーに死んで欲しくないはずだよ! どうしてそんなこ
と言うの!?﹂
﹁そうだね⋮⋮君やアラン達はそう言ってくれると思った。でも実
際、私が生き残るよりは、君が生き残った方が沢山の味方が死なず
に済む。そして君が死ねば、私の死ぬ確率も格段に上がるだろうね﹂
自分の死と引き換えに、味方を殺すつもりか。
暗にそう言われたことを察して、私は心が凍り付くような思いが
した。
もう殺したくない。殺させたくない。そんな葛藤を、自分ができ
る限り埋葬して、せめて敵を尊重することで区切りをつけようとし
た。けれど味方は、それだけでは思いきれない。
悩む私を追い込むように、レジーが告げた。
﹁それでもうなずけないのなら、王子として君に命じるしかない。
仕える魔術師が主を守ろうとすること自体はわかる。ある程度は許
そう。けれど戦力としての君は貴重すぎる。私の騎士達にも、万が
一の場合には君を優先させる。ウェントワースにも、既に優先順位
は伝えてある﹂
皆、王子の命令には逆らえない。彼らは王子のために尽力しても、
キアラが犠牲になる可能性があれば、そこから弾かれてしまう。
508
私は、レジーを助けることもできないの。
魔術師になったから? でも魔術師にならなければ、私は何もで
きないのに。
徹底的に拒否されたキアラは、途方に暮れたままうなだれるしか
なかった。
﹁⋮⋮わかった﹂
仕方なくそう答えながらも、キアラはどうにかできないか、頭の
中でぐるぐると考え続けていた。
509
エヴラール辺境伯領出発
翌日、予定から数日遅れてエヴラール軍は出発した。
まずは動きが遅い軍を先に移動させる。
総指揮をする大将はアランだ。まだ本調子ではないため、遅れて
出発することになったレジーの代理である。
私も軍と共に移動することになった。
また私は移動中、馬車に詰め込まれることになっている。
前回ルアイン軍を撤退させた時と違って、今度は長距離、長期日
数の移動になる。目立たない箱型馬車だが、一人だけ楽をさせても
らうようで心苦しい。
そう言うと、皆が口をそろえて﹁いざと言う時に役に立たないと
困る﹂と言うので、確かにその通りですと納得した次第だ。
騎乗してついて行って、筋肉痛でへろへろ状態になっていたら、
魔術を満足に使えるか大変に怪しい。役に立たない私など、ただの
お荷物である。
騎士や兵士の皆さんも、私が馬車に乗るのは固定砲台を運んでる
ぐらいの気分らしく、特に問題には思っていないようだ⋮⋮歩き疲
れたらどうかわからないけど。その時は、士気を上げるために何か
考えよう。
心配なのはレジーの回復具合や、その後の移動の時に狙われない
かどうかだが⋮⋮。これも私が心配しても仕方ない。何の備えも無
しにレジーが出発するわけがないし、むしろ狙われるだろうツート
ップが別行動している方が、良いのかもしれない。
510
そう自分を説得しつつ、私はマイヤさんが準備してくれた新しい
服に袖を通す。
赤紫系の深い色合いのドレスは、私のお願い通りドレスの裾は足
首より少し上の丈になっている。代わりにブーツを履き、乗馬が必
要になった時のために、暗い色のズボンを履く形になっている。
⋮⋮ドレスでまっすぐ乗ったら、思いっきり足が露出するでしょ。
騎乗時とか、乗ってる時もアブナイ。あと万が一にも再び全力でダ
ッシュすることがあった時のために、スカートをたくし上げても大
丈夫な状態にしておきたかったんです。
私もね、危機じゃなければスカートをめくり上げるだなんて恥ず
かしいことしたくないわけで。
そんなことを力説して、ズボンまで仕立ててもらったのだ。
﹁私もズボンにしようかしらね⋮⋮﹂なんてベアトリス様が言って
いたので、無事に帰った時には、ベアトリス夫人の男装を見ること
ができるだろう。
あとはマントもいいけれど、防寒にもなって動きやすそうなジャ
ケットも仕立ててくれていた。
なかなか可愛いながらもかっこよくて、腰にくくりつける師匠が
激しく浮きそうだ。暑い季節になっていたので、ずっとは着ないだ
ろうけれど、夜間などに必要になるだろう。他にも替えの衣服など
も揃えてくれていた。
一揃いを身に着けた私を、ベアトリス様が抱きしめてくれる。
﹁無事に帰ってきてちょうだい。⋮⋮もし上手くいかなかった時の
ために、ヴェイン様と一緒に国外脱出の準備はしておくから﹂
万が一の時には一緒に逃げよう。そう言ってくれるベアトリス様
に、私は笑ってしまった。
511
﹁ぜひお願いします。でも、勝てるよう頑張ります。そしてアラン
をここに帰らせますから﹂
﹁待っているわ﹂
必ずとか、アランをお願い、とはベアトリス様は言わなかった。
戦争だから、何がどうなるかはその時にならないとわからない。
しかもアランは、レジーの代理として先頭に立つことも色々ある
だろう。既に無事では済まない、という覚悟を決めているのだ。私
のことも、アランのことも。
けれどベアトリス夫人は、深手を負ったヴェイン辺境伯の代わり
に、辺境伯領を防衛しなければならない。一緒についていけないこ
とを、ベアトリス様も悔しく思っているはずだ。
﹁行ってきます﹂
私はそう言って、部屋を出た。
荷物は既に、召使のおばさんたちが運んでくれている。私は乗車
するだけだ。
城門の外には、既に出発する兵士達が整列していた。
中央には荷物の一部を詰んだ馬車と、騎士達やアラン、私が乗る
馬車が待機している本陣。その後ろにさらに兵士の列が続き、物資
運搬の馬車や、商魂たくましくも従軍する商人達がしっかりと荷物
を載せた馬車を連れていた。
﹁来たか、キアラ﹂
アランが私に気付いてうなずく。
﹁早く乗れ。ウェントワースが待ってる﹂
﹁うん﹂
私はうなずいて、馬車の方へ歩いていく。
512
そこには自分が騎乗する馬を連れたカインさんが居て、まるで従
者のように馬車の扉を開けてくれた。
﹁宜しくお願いします、カインさん﹂
馬車の横を並走してくれるカインさんに言えば、笑われる。
﹁お手柔らかにお願いしますよ、キアラさん﹂
差し出されたカインさんの手を借りて、私は馬車の中に納まる。
やがてラッパの音が、馬車の窓を震わせるように何重にも響く。
それから進み始めた馬車の中から、私は高くそびえる城壁を見上げ
た。
まだ寝台にいるよう医師に指示されているレジーはいない。
ベアトリス様とヴェイン辺境伯様は門の前に立ち、出発していく
兵士達をずっと見送っていた。
その後、辺境伯領を出るまでの四日間は、特に問題もなく過ぎ去
った。
領内の移動だけとはいえ、ルアインが伏兵を潜ませていないかな
ど、警戒してはいたけれど、幸いなことに問題はなかったようだ。
軍は一路西へ。
大きな町の近くに夜は逗留する形で移動し、その時にはなるべく
私は町中へと入らされた。
なにせ男ばかりの中に女子が一人。魔術師という、ある意味魔物
以上に恐れるべき相手と思われていても、眠っている間に何かあっ
てはいけないし、隔離した方が周囲の人間も安心できていいらしい。
建物の中で休ませてもらうのは心苦しいけれど、仲間に精神的疲
労を背負わせる気はないので、私はアランの指示に粛々と従った。
その方が、私の分のテントを組立ててもらうとか、そういう手間
513
をかけさせることもないしね。
そんなことを考えながらカインさんと共に町中の宿の一室に入っ
た私は、ふとおもいつく。
﹁あ、でもテント代わりの土の小屋みたいなのって、自分でも作れ
るんじゃないかな﹂
明日にでもアランに提案してみよう。なにせ師匠も属性の違う魔
術師だったので、自分と相性の良い土で何をどこまでできるのか、
よくわからないのだ。
とりあえず想像力と気合いと慣れが全てだというのは、なんとな
く理解しているんだけども。
﹁しかしお前の魔力とて、有限じゃろが。力尽きた時に、お前の分
は勘定の中に入れなくていいと思ってたとか言われたら、お前さん
どこで寝るつもりじゃ? ウヒヒヒ﹂
すると師匠がツッコミを入れてくるので、それなら、と答える。
﹁アランかカインさんとこで、間借りさせてもらえばいいじゃない﹂
﹁⋮⋮え!?﹂
意外なことに、カインさんが一番驚愕していた。あまり表情豊か
な人じゃないのに、今ははっきりと頬がひきつっている。
﹁あ、ごめんなさい。迷惑でしたよね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そういうことでは﹂
謝ったが、カインさんの返事がやや遅かったので、やっぱり迷惑
だったのだろう。師匠はそうなることを知っていたのかどうかわか
らないが、心底おかしそうに﹁ウヒャヒャヒャ﹂と笑っている。
カインさんはそれでも断ったことを心苦しく思ってくれたのか、
理由を話してくれた。
514
﹁テントもそう何張も立てていられませんから、私などは他の者と
一緒なので﹂
﹁あ、そうだったんですね。本当に何も考え無しに言ってしまって
すみません。アランだったら一張占領してますよね? そこに緊急
時は間借りできるようにします﹂
アランに頼まなくちゃ。
そう思いながら私は、部屋の中にあった机の前に座り、手荷物の
中からペンとインクと紙を出す。
紙はノートのように端を糸で綴じたものだ。
﹁キアラさん、何か記録する必要があったんですか?﹂
ようやく元の冷静さを取り戻したカインさんに、何を書くつもり
なのかと尋ねられた。
﹁私の⋮⋮知ってる限りのことを書くんです﹂
それは、私が考えたレジーのためにできることの一つだった。
515
その感情の先にあるもの1
私を守らないでほしい。
レジーがその言葉を告げたとたん、彼女は目を見開いて、それか
ら泣き出しそうに顔を歪めた。
︱︱拒絶された。
彼女がそう考えていることが伝わるような表情に、レジーは少し
だけ心が痛む。
そんな顔をさせたいわけではなかった。できることならいつも無
邪気に笑って、子猫みたいに自由に走り回る彼女を見ていられれば
良かった。
でも王子という身分まで持っているにも関わらず、レジナルド・
ディアス・ファルジアである自分は、こんな方法でもとらなければ、
キアラを守れないのだ。さもなければ、いつまでも自分を守ろうと
してキアラは余計な危険を背負い込む。
それを避けるために、どうしても彼女の望む通りにはできなかっ
た。
今回のルアイン侵攻のことについても、彼女からヒントを得てい
たのに思った以上に先を越されたという悔恨の残るものになった。
つくづくこの手が届くものは少ないのだと、思い知らされるほどに。
そもそも、何かを覆すにはレジーの手にしている武器が弱い。
祖父を信望する貴族達。国王がルアインに取られるぐらいならと、
方針転換をして急きょレジーに近づけさせた貴族達。そんな自分の
支持基盤も、誰がルアインに弱みを握られ、また操られているかわ
516
かったものではない。
なにより、国王が祖父の勢力を嫌い、祖父が使う者も信用できな
いと、間者として使っていた者たちを遠ざけたのが痛かった。
伯母の手を借り、一部の商人とだけでもつながりを保てたのは、
不幸中の幸いだった。けれどその商人とて、南の国を通してルアイ
ンとつながりがある程度のため、情報の遅れや漏れがあるのだ。
ルアインと直接取引する商人は、ルアイン国王の息がかかってい
る。人を潜り込ませようにも、あちらも警戒が強くて新入りを本国
の店に連れて行くようなことはしない。⋮⋮だからこそ、ルアイン
がまだファルジアを侵略するつもりがあるのだろうとは思っていた
が。
しかも今回の侵攻は、ファルジアとは諍いの多いサレハルドを経
由したことも響いた。サレハルドも時にルアインとことを構えてい
た国だったのだから。
結果、追い詰められた気持ちになったキアラは、援軍が来ること
がわかっていても、魔術師になることを選んでしまった。
誰かを切り捨てるだなんて考えたこともない彼女は、犠牲が出る
戦に目を背けて、隠れていることなんてできなかったのだろう。
けれどそれでもいい。
自分が矢面に立たない代わりに、誰かが戦って死んでも仕方ない
のだと、そんな風に考えるのはキアラらしくないと思えるから。
それが彼女の選択なら、認めたいと思う。自由にならない自分だ
からこそ。
代わりに、彼女の足かせになりそうなものについては、遠ざけさ
せてもらう。
517
軍が出発した翌日。
部屋の中で動くことは許可されていたので、ベアトリス伯母様と
一緒に、とある人物の訪問を受けた。
グロウルや他の護衛騎士が部屋の各所に立つ物々しい中、開かれ
た扉から入ってきたのは、セシリアだ。
旅行用の薄茶の地味なドレスを身に着けた彼女は、これから南の
ロデルク領に身を寄せることが決まっている。
今日が出発日なので、最後の挨拶にやってきたのだ。
セシリアは扉から数歩進んだところで、くずれるように膝をつい
て頭を垂れた。
﹁この度はわたくしが関わることで、大変なご迷惑をおかけいたし
ました。許していただけるとは思っておりません。それでも、旅立
ちの前にお時間を設けていただけましたこと、誠にありがとうござ
いました⋮⋮﹂
一息に言いきったセシリアは、こちらの様子を伺うように顔を上
げる。
許してくれるかどうか。怒っていないか。もしくは︱︱少しは自
分を想って哀しんでくれてはいないだろうか。
そんな感情がゆれる表情に、レジーは冷静に観察する眼差しをむ
け、視線を合わせることはない。
わずかにも変わらないこちらの様子に、セシリアは少なからず苦
しさを感じたようだ。
けれどこれでいい。レジーの方に婚約者候補を少しでも案じる様
子がなければ、彼女が持つ淡いあこがれも、優しい人かもしれない
という期待も無くなる。二度とレジーに対して、甘い感情を求める
ことはなくなるだろう。
518
求められても困るのだ。
レジーは自分の隣に立つ者として、どちらにせよ彼女を選びはし
なかっただろうから。共に戦う気概すらない女性では、共に居る意
味がない。壊れてゆくのを観察する趣味はないのだから。それは彼
女にとっても不幸なことだろう。
何も言うつもりがないレジーの代わりにか、ベアトリスがセシリ
アに話しかけた
﹁ご両親のことも、私たちは承知しています。抵抗する術を持たな
い中、殿下を守ろうとなさったことも。セシリア様には長旅に次ぐ
長旅ということになりますけれど、お体を大切に。共に行く従者に
くれぐれも言い含めておりますので、ロデルクまでは間違いなく送
り届けさせていただきますわ﹂
﹁ご厚情⋮⋮感謝申し上げます﹂
セシリアが再び頭を下げる。それから立ち上がり、ほんの少し未
練まじりにレジーを見た後、別れの挨拶を告げようとした。
﹁わたくしには何もできないのが口惜しいばかりですが、皆さまの
勝利と、ファルジアの安寧を願っております。平和になりました暁
には、両親と改めて御礼に⋮⋮﹂
﹁残念ですが、そのことについては覚悟をしておいていただくしか
ありません﹂﹁え?﹂
セシリアもベアトリスも、突然口をはさんだレジーに視線を向け
る。レジーの方はそこで言葉を止めることもなく、続けて彼女に言
い渡す。
﹁サレハルドがトリスフィードを占領しているというのですから、
519
かの国から近いあの地方は、元からサレハルドが所有するというこ
とでルアインと話がついていると予測できます。ならば、伯爵や伯
爵夫人を生かしておくことは、彼らの利にはならない。⋮⋮確実な
報はまだになるでしょうが、まず生きているという可能性は低い﹂
﹁レジナルド、それは⋮⋮﹂
紙のように真っ白な顔色になったセシリアを気遣って、ベアトリ
スがレジーの言葉を止めようとした。けれどそれをレジーは無視す
る。
﹁ロデルク男爵は、先頃幼いご令嬢を亡くしたばかりです。だから
こそ快くあなたを迎え入れてくれるでしょう。この時勢で貴方を匿
うことを良しとして下さったぐらいですから。まずは今の生活を安
定させることをお考えになるべきでしょう。道中は、気をつけて﹂
﹁は⋮⋮はい﹂
家族は助かる見込みがない。はっきりと言われてしまったセシリ
アだったが、呆然とした表情ながらも、なんとかレジーの部屋から
促されるまま退室していった。
セシリアが去り、レジーとベアトリス。そして護衛の騎士達だけ
になった部屋に静寂が訪れる。それをすぐに破ったのは、深々とた
め息をついたベアトリスだ。
﹁あいかわらずね﹂
ベアトリスが、やや困ったような表情でレジーを見る。
容赦がないと言いたいのだろう、とレジーはわかる。確かに、希
望を打ち砕くようなことを言うのは、厳しい対応といわれても仕方
ないと思うが。
﹁考えようによっては、かなり寛容な手法だと思いますがね﹂
520
﹁そうかしら?﹂
﹁これで彼女は、誰が接触してきても惑わされることもないでしょ
う。しかも居候ではなく、第二の故郷として受け入れてくれる場所
となれば、そこに馴染むために他のことなど構っていられなくなる。
今の辛さも、その間に薄れるでしょう﹂
亡くした娘の代わりにとはいえ、ロデルク男爵夫妻にかいがいし
く慰められ、世
話を焼かれていれば、エヴラールで腫れ物扱いをされるよりも心地
よく過ごせるだろう。
しかも頼る者はもうないと宣言されたのだ。セシリアも全力でロ
デルク男爵夫妻に気に入られなければならないと思い定め、早くか
の土地に馴染めるようになるだろう。
同時に、トリスフィードのことで再びこちらの前に現れたなら、
今度こそ彼女を排除することができる。
安心できる場所を作ったというのに、それを捨ててまで戦場へ押
しかけることなどあり得ない。間違いなくルアイン軍の指示で動い
ているのだと判断できるからだ。
その時にはキアラが彼女と会うのを避けさせることもできる。
優しすぎるキアラは、家族が大事だから、生きているかもしれな
いから助けてくれと懇願されたら信じてしまうだろう。救えないこ
とに気をとられて、彼女に何かあってはこちらの方が悔やみきれな
い。
敵味方関係なく、死者を出すことに傷ついてしまうキアラを、わ
ずらわせたくなかった。
﹁それに懐き始めた頃に、ロデルク男爵夫妻から実親が亡くなった
521
という辛い報告をさせることもなくなる。何より、これだけ辛辣な
対応をした私を頼ってくることはもうない﹂
新しい家族を得た双方の輪を崩さないためでもあり、自分のため
でもあると言えば、ベアトリスは額に手をあてていた。
﹁相当面倒だったのね、あなた⋮⋮﹂
﹁敵だろうとわかっているのに門前払いができない相手は、本当に
厄介でしたから﹂
仕方ないのでキアラを遠ざけたり、それなのに接触してきたので、
万が一のために連れ歩いたりしたのだ。それでも完全に守り切れな
かったのだから、苦々しい気分になるのは許してもらいたいと思う。
﹁そうだ伯母上。三日後には私もここを発つことにします﹂
﹁体は大丈夫なの?﹂
レジーはうなずく。
﹁傷はほとんどないようなものです。あの﹃毒﹄の影響で、体が高
熱で侵されたような状態だっただけで﹂
おかげで熱が下がった後は、回復も早い。この三日という日数で
すら、グロウル達に大事をとってもう少し休むよう説得されて延ば
したのだ。
レジーはできる限り、軍に早く追いつかねばならない。
もちろん、キアラのことであれば決して離れずに守るだろう人物
が傍にいるのは承知しているのだが。任せきりにする気は全くなか
った。
522
その感情の先にあるもの2
思い出すのは、ルアイン軍との戦いを終え、城へ帰ってきた後の
ことだ。
キアラが熱を出した時。
発熱自体は、魔術師になったりと、体に負担をかけたせいだと土
人形のホレス師から説明を受けていた。
だから大人しく眠っているだけだと思っていたのに⋮⋮急にキア
ラの反応がおかしくなったのだ。
彼女が自分を異性として気にし出した。
こちらがからかい交じりに意識するように接したら、慣れていな
いキアラが面白いように顔を赤くするのは知っている。逆にそうな
らない場合、慣れさせてしまった相手がいるということだ。
だからレジーは折に触れて、彼女に虫がついていないかどうかを
確認もしていた。
手に触れて恥ずかしがる様を見ながら、安心していたのだ。
なのに一体誰が。
ざわつく気持ちを抑えるのは結構骨だった。
ただ、キアラはレジーが知らないうちに誰かと気持ちを交わした
わけではないとわかる。けれど過剰反応するような状況があったと
いうことだ。
キアラが接触する人間は多い。
最も近しくなりそうなのはアランだと思っていたが、意外とアラ
523
ンの方が奥手すぎて、女性とそういう形でかかわろうとしないので
違うだろう。
ならば騎士の誰かなのか。
エヴラールに来て早々に、毎回キアラの身辺について聞き込みを
させられて、嫌そうな表情になるグロウルによると、料理人見習い
の少年とは仲良くしているらしいが。そういった立場の者こそ、魔
術師になったキアラには近づき難く思えるのではないだろうか。
心当たりは一人だけだった。
そしてキアラを送り届けた部屋にウェントワースが居たのを見た
瞬間、間違いないと感じる。
以前は全く、キアラにそういうたぐいの興味を示したこともなか
ったのに。今は彼女の姿を追わずにいられなくなっている。
戦場を駆けた上、ヴェイン辺境伯を連れて城内へ帰還した時も、
キアラを抱きしめたレジーに、仕方なさそうな顔をしていた。手放
したくなかったのだろう。
レジーの目の前でウェントワースがキアラの唇に触れて見せた。
その時、レジーは胸の奥がすっと冷たくなるような感覚が走った。
理性ではわかっている。そんなことをわざとして見せたこと、先
ほどまでのキアラの様子を考え合わせたなら、ウェントワースはま
だ彼女の心を手に入れてはいない。だから確実に落ちて来るまで待
っている。
そういう意味でキアラに意識させるため、以前にも彼女に同じこ
とをしたのだろう。おかげでキアラは異性に触れられることを、変
に意識するようになった。
更にはキアラの保護者の立場であるレジーに、知らせるためのつ
もりだったのだろう。
⋮⋮いつか、誰かがキアラを欲しいと言い出すのではと考えてい
524
た。
容姿も悪くはない。素直なところも、前向きなところも彼女の美
質だろう。しかも彼女には、魔術師という価値までついた。
だからこそ彼女には、平凡な人間を近づけるわけにはいかない。
その点で、自分よりも直接キアラを守れる立場にいて、実行してみ
せたウェントワースは、レジーにとって弾きにくい人物だ。
しかもいつの間にか、キアラは彼を名前で呼ぶようになっていた。
カインさん、と告げる高すぎない耳に優しい声を聞く度に、思考
が阻害されるような気までする。
しかもウェントワースは、キアラが欲しいのなら、最大の庇護者
である自分の了解は得なければならないとわきまえているのだろう。
一緒にキアラの部屋を出た後で、ウェントワースは言う。
﹁殿下は、今でもキアラさんの保護者と考えて宜しいのでしょうか﹂
そうだと答えたら、レジーに彼女を攫いたいのだと言うのだろう。
同時に、レジー自身が彼女を得たいと思っいるのかどうかを確か
めたかったに違いない。レジーの過保護さが、家族のように思って
いるからなのか、それとも独占欲からのものなのか、はっきりさせ
たいのだろう。
答えたくない、と思う。
けれど答えなければ不審に思われるだろう。
﹁病み上がりの子に、いたずらをしかけるなんて感心しないね、ウ
ェントワース﹂
少し的を外しながら、けれど察せられる程度の曖昧さで応じる。
先ほどのことはちゃんと見ていた。それも伝えると、表情のあま
り動かないウェントワースがわずかに苦笑いする。
525
﹁そうでもしないと、わかってもらえなさそうな人だったので﹂
﹁君がそこまで彼女に傾倒するとは思わなかった。意外だったよ﹂
アランの兄代わりのように接し、守る彼は21歳だったか。もう
すぐ15歳になるというキアラとは、それほど年の差があるわけで
はないが、彼にとってキアラは幼く見えると思っていたのだ。
事実、今までは彼女にそれほど強い関心を持っている風ではなか
った。
そんなウェントワースが、どうしてキアラに特別な感情を抱くに
至ったのか、それには興味がある。
尋ねたレジーに対して、ウェントワースはあっさりと答えた。
﹁彼女が⋮⋮恥も外聞もかなぐり捨てて味方を助けようとするのを
見て、考えが変わったのかもしれません﹂
ほらやっぱり。キアラ、君はうかつなんだよと思う。
それは、足を晒した一件のからみだろう。だとすると、強烈に印
象に残ったのはウェントワースだけじゃない。そこも苛立たしい。
あげく、思いがけず手助けされたり、必死に守ろうとされたりし
ては、どんな形でも気を向けずにはいられない。
守るべき対象の一人から、興味を引かれるただ一人になってしま
ったら、意識するまで時間はかからない。
けれどウェントワースの言葉には続きがあった。
﹁あとは彼女の記憶でしょうか﹂
﹁記憶?﹂
問い返した時、ウェントワースの目に一瞬だけ優越の感情が揺れ
たように見える。そうして、誰もいない廊下だというのに、彼はや
や声を潜めて答えた。
526
﹁殿下には、まだ夢だとしか話していないと聞いています。彼女は
生まれてくる前、別な人生を歩んでいたと言っていました。ルアイ
ンの侵攻も、全てその以前の人生で見た物語に書かれていたことな
のだと、話していましたよ。キアラさんは転生と言っていましたが﹂
﹁転生⋮⋮?﹂
聞いたことはある。魂は肉体がほろんだ後、別な命に宿って新し
い人生を歩むという思想だ。
続けてウェントワースが説明したのは、彼女がそうなると知って
いた未来の、レジーに話したものの続きだ。
レジーや辺境伯を失った後、辛うじて継承権を持つアランが軍を
率い、王妃やルアイン軍を倒す話を。
だからか、と思った。キアラはあまりアランのことを心配しては
いなかった。辺境伯領に攻め込まれるのならば、アランだって巻き
込まれる可能性があったのに。
だから必死で⋮⋮レジーを救おうとしたのだ。
同時に思う。
それはもしかして、アランさえ生きているのなら、キアラはルア
イン軍と戦って死ぬことはないのではないか、と。
︱︱その考えは、数日後には覆えされるのだが。キアラが無理を
押してまで、自分を救おうとしたことで。
戦場ではアランさえいれば国は取り戻せるかもしれないが、キア
ラ自身は近しい人間が危機に陥ったなら、どういう行動に出るのか
わからない。
そのために彼女を泣かせかねないことを話さざるをえなかったの
だ。
一方、キアラの記憶の話を語り終えたウェントワースが続けて言
527
った。
﹁もし未来を知ることができたら、と家族を戦で亡くした時に思い
ました。実際にそれができる人間がいる。そして救えることを目の
当たりにしたら⋮⋮。手を貸したいと思うものではないでしょうか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ウェントワースは、キアラに理想を見たのか。とレジーは感じた。
あの時別な道を選んでいたら、とは誰もが思うものだ。それを実
現したキアラに、ウェントワースは﹃自分ができなかったこと﹄を
思い出させられたのだ。
未来の変更を成し遂げたキアラに、それを実現するために努力し
た彼女の姿に、魅せられてしまったのだろう。
けれどそれを知ったからこそ、レジーは彼に疑問を投げかける。
﹁それなら君には一つ疑問があるよ、ウェントワース﹂
﹁疑問?﹂
﹁君がルアインに家族を殺されたことは知っている。でもキアラは
敵味方分け隔てなく、死を悼む。今後も、彼女が敵を埋葬し続ける
のを見た時⋮⋮しかもこちらに多大な被害が出た時であっても、キ
アラが敵を悼む姿を見て、彼女に落胆せずにいられるのかな?﹂
現状、戦場で最も彼女を守れるのはウェントワースだ。キアラも
彼を頼みにするだろう。
けれどこの答えを出せなければ、いずれウェントワースはキアラ
の傍には居られなくなる。その時ウェントワースは彼女の意思を曲
げようとするだろうか?
でも羽をもがれた鳥など、もう鳥とは呼べない。彼女の意思を潰
してしまうようなら、レジーは彼を遠ざける。
たとえキアラがそれを望まなくても⋮⋮彼女を守るために。
528
そんなレジーの内心が含まれた言葉を察したのか、それとも別な
意味にとったのか。とっさに答えが出ない様子のウェントワースを
置いて、レジーは自室に戻ったのだ。
あれから時間が経った今、ウェントワースは何を選択するだろう、
とレジーは思う。
答えによっては、キアラの護衛は交代させるしかない。自分の護
衛騎士を代わらせるという方法もある。
けれど、とレジーは思う。
もしウェントワースが閉じ込めようとしたなら、彼女自身が言う
のではないかとも思うのだ。あの意思を曲げる気はないというよう
なまなざしで、まっすぐに相手を見ながら。
もう決めたの、と。
キアラにはもう、思ったことを一人で実行できる力がある。
レジーとて、悲しませるのを覚悟の上でしか、彼女が自分を救お
うと無理をするのを止められないのだ。ウェントワースもじきに知
ることになる。彼女を泣かせることでしか、彼女を守れないことも
あるのだと。
﹁私達は、同じ泥沼に足を踏みこんだんだ。私は沈むつもりだけど、
ウェントワースはどうなのかな﹂
這い上がることを選ぶのか。
殉じて沈むことを選ぶのか。
どちらにせよ、自分からキアラを取り上げようと思うのなら、彼
女に染まる以外のことを選択させる気はなかった。
それがレジーにとって、キアラを守ることに繋がると思うから。
529
本当は自分に縛り付けてしまいたい。けれどもそれは、得策では
ないことが今回の暗殺未遂でわかってしまった。
キアラもまた、レジーの存在に依存してしまっている。
喜ばしいことでもあり、だからこそ避けなければならないと思い
知らされた。
これ以上、今彼女にとって特別になるわけにはいかなかった。キ
アラの身を守るためには。
530
リメリック侯爵領に到着
前世から引き継いだ知識。
その中には、戦場の兵の配置、伏兵の場所や投入タイミングなど
も入っている。
状況も変化してしまったし、その通りに戦も進むかどうかはわか
らない。リアルタイムで事態が動く以上、移動中の敵の一隊と遭遇
することもあるだろうし、サレハルドの軍がトリスフィードから動
く可能性もある。
それでも何らかの助けにはなるだろう。
﹁この後確実にあるだろう場所はクロンファード砦。ここで駐留し
てるルアイン軍と戦って、ティロン河川で逃げてきた人達を守って
の山賊との戦い。途中で敗走してきたカッシアの騎士と合流できる
んだよね。メイナール市街戦で傭兵相手に戦闘があって、デルフィ
オン男爵領のラグモア平原での戦い⋮⋮﹂
最初の砦は結構苦戦するんだ。
砦から、一定時間後に敵兵が出てきて敵戦力が増えるんだよね。
10ターン後だったけど、この世界の時間でどれくらいなんだろ
⋮⋮。時間がわからないので、後から出てくるとだけ書こう。
向こうもこっちを攻撃するつもりで砦から出てきてくれるので、
砦近くでの戦いになる。確かこの辺りに弓兵が配置されてて、騎馬
兵と歩兵がいて⋮⋮。
林の中に敵がいると敵弓兵の攻撃力が上がるんだよね。でもわか
ってたら、横から突撃して蹂躙できるかな? ユニットが3つぐら
531
いだったから30人とか? もっと数が多いかな。
本当なら私が敵兵が出てくる前に蹴散らせたらいいんだけど、私
の持続力的に、戦場が広すぎると途中で息切れするだろうし。援軍
来てからが辛くなる。
かりかりと書きながら、難しい顔で図を眺めているカインさんに
尋ねる。
﹁これどうでしょ。予め潜んでる場所さえわかったら、全部闇討ち
とか可能ですか?﹂
﹁闇討ちとは、凶悪で良い手じゃのぅ。ヒッヒッヒ﹂
おぬしも悪よのぅみたい調子で、師匠が楽し気に笑う。
一方のカインさんは﹁不可能というわけではありませんが⋮⋮﹂
と真面目に検討してくれた。
﹁この図だと結構大雑把ですよね。扇状地をさかのぼった場所なの
で、けっこう勾配があります。敵に気付かれないよう山側を移動す
るのに時間がかかるでしょう﹂
﹁あ、やっぱり﹂
矢だって下に向かって射る方が楽だっていうもんね。
﹁ただ確実にこの辺りにいると分かっているなら、最初からその部
隊を先行させ、本体は遅れて行くことができれば⋮⋮先に我々の方
が、隠して布陣しておくと言う手が仕えるかと思います﹂
﹁あ、時間差か﹂
敵だってこちらが接近してることを、斥候かなんか出して調べて
から移動するんだよね? てことはその前に隠し部隊を置いてしま
えばいいのか。
﹁でも相手が場所を変えると厄介⋮⋮﹂
鉢合わせでもしたらと思うと、おススメできないやり方かもしれ
532
ない。
﹁それならば、少し距離を置いた場所に待機させて、本体が動いて
から再度敵がどこにいるのか確認して動くように指示しては?﹂
﹁その手があったか⋮⋮。戦わなくちゃいけない状態だったら、そ
の方向で頼みますか﹂
カインさんの案をメモ書きして次へ。
﹁ティロン河川⋮⋮これ、アランが少数で移動してる場合の話なん
だよね。一万の軍と移動してたら、山賊が出ないんじゃないかな﹂
ゲーム時には騎士達が移動距離の長い戦力として使えたけど、今
の状況だとどうだろう。
﹁同国人ですから、無視はできないように思えますね。軍の先行隊
に、そういった者たちがいたら保護するように言づけるのが一番で
しょう﹂
ふむふむと、これまたカインさんの言葉を書きこむ。
﹁メイナール市街戦とは?﹂
﹁ルアインが雇ってた傭兵隊が、賃金代わりに略奪してるって設定
だったの﹂
言いながらふと思う。
ゲームだと煙が上がる町の絵とか悲鳴だけだったけど、略奪か⋮
⋮。今度は非戦闘員の遺体や、もっとひどい状況を目の当たりにす
ることになるのか。
気付けば、無意識に唇をかみしめてた。
これも軍が到着することが察せられたら、助けるどころか傭兵隊
は逃げ出すんだろう。
533
﹁軍としてぶつかりそうなのは、デルフィオン男爵領のラグモア平
原での戦いかな﹂
﹁デルフィオンは降伏してルアインに明け渡されたわけですから、
ルアイン軍とデルフィオン軍とが敵になるわけですか﹂
カインさんの言葉にうなずく。
﹁ただデルフィオンは、さすがに一枚岩じゃないから。男爵は娘を
人質にとらわれた上、ルアインに敵わないと諦めて降伏したけど、
当然納得していない親族もいるの。男爵の弟は、たとえ令嬢を犠牲
にしても素直に明け渡さず、せめて軍を移動させておいて、ファル
ジア王国の軍と合流すべしって人でね﹂
彼と合流して呼びかけることによって、デルフィオンの軍は半数
がこちら側に寝返ることになる。
むしろそれができないと、戦力差がかなり厳しい場面だ。
ゲームでは回復薬があったけど、一気に傷が無くなるような代物
は存在しないのだから。
多少、魔法があるせいで世界を形作る成分とかが違うのか、効き
目のすごい傷薬とか、いい熱冷ましとか、薬の面では前世にも勝る
だろう部分はあるけれど。
なので戦闘中に薬を使う暇が存在するなら、血止めや痛み止めを
使って、急場しのぎは可能だ。怪我は怪我なので、骨折などしたら
一気に戦力外だが。
そもそも軍といっても1ユニットで何人分なのか。あれが100
人だったとして、HPを半分削られたということは50人死亡する
ということかもしれない⋮⋮想像して、背筋がぞっとした。回復っ
て、もしかして人員補充? それなら確かに回復したことにはなる
けど⋮⋮こわっ。
534
とりとめのないことを考えるのは、ここまでにしよう。
こうしてエヴラールの城を出発してから五日。思い出せるだけの
ことを紙に書く作業を繰り返した。
六日目、ようやくエヴラール南西のリメリック侯爵の居城へと到
着する。
リメリック領はルアインの進軍路から外れている。
それもあって通り過ぎた町の人々も、エヴラール軍が行進してい
くのを不安そうに見てはいたが、落ち着いた様子だった。国境はさ
すがに要所にかなりの兵を配置していたけれど。
エヴラール辺境伯領のように、常に兵の備えをしている領地では
ないので、国境に詰める兵も農村から賦役でやってきたのだろう人
が散見された。
そんな中、エヴラールとともに遠征の軍を出すというのだから、
リメリック侯爵も、先にこちらへ合流しているレインスター子爵も、
状況を憂えているのだろう。
エヴラールと比べて、堅固さよりも優美さが優先されたようなリ
メリック侯爵の城は、白味が強い壁石だ。この土地で産出される石
がそういう種類なのだろう。
出迎えたリメリック侯爵は、こちらも歴戦の勇士というよりは穏
やかに年を重ねた紳士という様子だ。隣にいた侯爵の弟の体格の良
さからすると、一回りほど肩幅なども細く見える。
レジーの代理でアランと騎士団長が挨拶する。
こうして少し離れて見ると、アランはほぼゲーム通りの立ち姿だ。
15歳の時よりもやや伸びた黒髪といい、堂々とした立ち振る舞
いといい、立派だ。そのアランが私も呼ぶので、後ろについてきて
535
くれるカインさんとともに、おずおずと前に出る。
﹁この者が当家の魔術師キアラ・コルディエです﹂
﹁⋮⋮紹介にあずかりました、キアラでございます﹂
なんと言えばいいのか分からず、私は戸惑う気持ちを押し隠して、
とりあえず一礼してみせる。
一応貴族令嬢としての礼儀作法は学んだ私だけど、魔術師ってど
う挨拶したらいいのかわからない。とりあえずご令嬢時代を思い出
しつつ行動したのだが、問題はなかったようだ。リメリック侯爵も、
まだ三十代になったばかりというレインスター子爵も不愉快そうな
顔はしていなかった。
﹁これはまた、叔父から話は聞いておりましたが⋮⋮美しい魔術師
殿ですね﹂
三十歳からすると子供にしか見えないだろう私に驚いたのだろう、
金茶の巻き毛を首元で結んでいる貴公子らしい出で立ちのレインス
ター子爵が目を見開いていた。
しかもお世辞までありがとうございます⋮⋮。みっともないとか、
こんな子供が? とか言われないかとドキドキしていたのでほっと
する。
あ、でも子供みたいだとかは言うわけがないのか。そんなことを
口に出したら、私の一個上なだけの代表代理のアランも、真の指揮
官であるところのレジーも、バカにすることになっちゃうものね。
﹁こんな可憐なお嬢さんだとは、私も思いもしませんでしたよ。戦
場に同行していただくのが忍びないほどですが、私たちは貴方にご
協力を仰ぐしかない身。どうぞ宜しく頼みますよ、キアラ殿﹂
私の親より上の年だろうリメリック侯爵も、丁寧に応じてくれた。
536
希少な魔術師が味方にいることが重要であって、年も外見も関係
ないとわかっているのだろう。
軍を率いていた彼らの親族と会ったときも、魔術師には敬意を、
という姿勢で接してくれていたので、貴族は皆こんな風に魔術師に
応対するようになっているのかもしれない。
とにもかくにも、ここで打ち合わせと補給を兼ねて二日逗留する。
その後北上して、カッシア領のクロンファード砦を落とす予定に
なっている。
﹁できれば殿下が来るまでに、露払いしておきたいですからね﹂
そう言うアランを、侯爵達は頼もしそうに見ていた。
私も心の中でアランに同意する。
怪我をしたばかりのレジーには、まだ少しは安静にしてもらいた
い。早めに攻略を終えてしまわなくては、と。
537
手製攻略ガイドだけじゃ足りない?
﹁クロンファード砦は街道のすぐ傍。本来ならば外敵からの侵入を
防ぐための、エヴラールに次ぐ第二の砦のようなものですがな⋮⋮﹂
﹁エヴラールからも警戒をするよう早馬で知らせたのですが、予想
以上に早く占拠されてしまったようですね﹂
現在、リメリック侯爵とアランの会話を聞きながら、食事をして
いる。
考えながら食べるのは、消化に悪いのではないかと思うが仕方な
い。
話せることは、話しておかないと時間がないのだ。
滞在日数二日とはいえ、今日はもう打ち合わせのみ、明日は軍の
編成等と最終確認、明後日朝には出発してしまうのだから。
それでも兵は一時の休暇を得て、リメリック侯爵の城下町へ出て
必需品を買い足したりと、自由に過ごしているはずだ。
指揮官達上層部に、休む余裕はない。
情報交換を今日中に終えて、体力温存のために早く休まなくては。
明日は私も、自分の魔術に慣れてもらうために、デモンストレーシ
ョン的に沢山の人が見える場所で、軽い訓練を行うことになってい
る。
その時になってから、魔術に驚いて逃げだしたり予定外の行動を
取られては困るのだ。
思えばディルホーン丘陵では、リメリックさんやレインスターさ
んところの兵士さんがすごく動揺してた。エヴラールの兵士さん達
があまり驚きもせず受け入れてくれたのは、背に腹は代えられない
538
状況だったからだろう。危機的状況で、助けてくれるなら何でもい
い、みたいな感じで。
慣れてもらうためにも、段階を追って土人形を動かすべきかとか
んがえる私の前で、アラン達の会話は続く。
﹁カッシア男爵の消息はご存知ですか?﹂
﹁情報が二転三転しまして、今まで掴みにくかったのですが⋮⋮ど
うも城へ攻め入られた時に逃げだしたものの、掴まって殺されたら
しいと﹂
﹁首がさらされたという話を、逃げてきた市民が話していたそうで
すよ﹂
リメリック侯爵の話に、年若いレインスター子爵が、難しい表情
で補足した。
﹁しかしこうまでカッシアが完膚無きまでに蹂躙されるとは⋮⋮。
ルアインが前面に出した魔術師くずれに押されて、軍が潰走したと
か。ルアインは魔術師くずれを簡単に作り出す方法を知っているそ
うですな﹂
﹁そのようですね。非人道的としか言いようがありませんが﹂
応じたアランに、リメリック侯爵がうなずく。
﹁ディルホーンで一瞬だけ見ましたが、予備知識もなく襲い掛から
れては、兵達もなすすべもなかったでしょう﹂
ディルホーン丘陵に来ていたレインスター子爵の叔父エダム将軍
が同意した。
魔術師くずれか⋮⋮。
確かにあれが出てきてしまうと、魔術師無しで戦うのはきつい。
これもゲームとは違う所だ。アランが戦うフィールドに、敵とし
て魔術師くずれが頻出することはなかった。時折魔獣が含まれてい
539
るぐらいだ。
厄介だが、ルアイン側もそう簡単には出さないようだ。軍の本陣
がついていく戦いでも、素早く蹂躙するつもりだったエヴラール、
次に激戦になることが予想されたクロンファード砦には出してきた
ようだが、カッシアの城を落とす時には投入しなかったらしい。
やはり契約の石が貴重なので、ルアイン軍本隊の誰かと、クレデ
ィアス子爵あたりの主要人物のみが使用できる状態なのだと思う。
それでも十分に恐ろしい。
ついでに、クレディアス子爵までもが魔術師だったと知って、私
は納得した。
ゲームのキアラを魔術師にしたのはクレディアス子爵だったのだ。
そのつもりで、パトリシエール伯爵は私を彼に嫁がせようとしたの
だろう。密かに魔術師にするために。
クレディアス子爵は王妃側についている。その師の命令で、逃げ
ることもできずにゲームのキアラは戦っていたのだろう。
でも、アランとの戦いではクレディアス子爵なんて一度も出てこ
なかった。なんでだろう? もう死んでたとか?
そのあたりがまだよくわからないが、このまま進軍していけば戦
うことになるかもしれないのだ。あちらの手を探りつつ、対策を考
えなければ。
﹁しかしディルホーンには魔術師殿がおられましたからな。すぐさ
ま倒して下さったおかげで、被害もほとんどなかったのは僥倖でし
た﹂
﹁さすが魔術師殿⋮⋮﹂
感心したようにリメリック侯爵がうなずく。
540
﹁どのように倒されたのですか?﹂
侯爵が私に視線を向けてくる。ついでにみんなが私を振り返る。
う、どう返したらいいんだろう。
戸惑っている私に代わって、アランと共に同席していた騎士団長
が答えてくれた。
﹁巨大な土人形を出現させ、その足のひと踏みでした﹂
﹁⋮⋮ひと踏み、ですか﹂
目を見開く人々に対して、私はうつむく。
褒めてくれないよりは、賞賛される方がいいのは分かっている。
けれど、思い出してしまうと喜べない。
苦しがっていた人達のこと。助けられない彼らに私がしてあげら
れることは、もう死なせてあげることぐらいしかなかったことを。
土人形をその場で崩して彼らを埋めたのは、墓標代わりだ。
遺体をそのまま晒しておきたくはなかった。せめて死んだ後くら
いはそっとしておいてあげたかったから。
﹁⋮⋮しかし毎回魔術師くずれを出してくるわけでもないのは、や
はり作りだすにも制限があるということでしょう﹂
そこに口をはさみ、アランが彼らの意識を引きつけてくれた。
視線が私から外れて、ほっとしてしまう。
﹁ならばこれからクロンファード砦を攻めるにあたっては、出てこ
ない可能性がありますかな?﹂
﹁ルアイン軍は、本隊をデルフィオン男爵領から王領地へ向けて進
めているといいます。制限があるのなら、そちらに振り向けている
のでは?﹂
そのまま話題が私から離れていってくれた。
541
夕食が終わった後は、建物に宿泊した時だけのご褒美とばかりに
入浴させてもらい、リメリック侯爵家の召使さん達が、乾いたまま
温めたタオルで、髪を拭ってくれる。
綺麗に乾いた髪をさっとまとめた私は、リメリック侯爵夫人が用
意してくれた替えのドレスを着用してアランの元を訪れた。
部屋の中には、小ざっぱりとしたアランとカインさんがいた。二
人で何か打ち合わせをしていたのだろう。
﹁さっきはありがとう、アラン﹂
﹁いや⋮⋮俺としてもあまり長く続いてほしくない話題だったから
な。延々と人の死にざまを語るのは趣味じゃない。お前もそうだろ
?﹂
軽く話を振られ、私はうなずく。
どうやらアランは、私と同じように思っていたようだ。
アランの感覚は私に近いみたいで、レジーのように予想するので
はなく、自分が違和感や不快感をおぼえることで、似たようなこと
を私が考えるのではないかと気遣ってくれるのだ。
大変ありがたい。
﹁それで、どうした?﹂
﹁これをちょっと見てほしいんだけど﹂
差し出したのは、手製攻略本状態になった、ゲームの時のことを
思い出して書いた冊子だ。
﹁ああウェントワースから聞いている。お前が記憶してる、敵の配
置や場所だろう?﹂
﹁そう、使えそうかな?﹂
﹁まぁ待て。⋮⋮ふーん﹂
冊子を開いたアランは、真剣な表情になって私が記述した、やや
542
いびつな図や説明書きに目を通していく。
少し、へたくそな図を見せるのが恥ずかしかった。もうちょっと
絵心があったら、綺麗な図が描けたんだろうなと思うが、前世も今
世も絵心は備わらなかったのだ。
とにかくわかればいいんだからと自分を励まし、アランの返事を
待つ。
﹁僕もこの通りに敵が動くとは思わないが、それでもこの配置に似
た形にするだろうことはわかる﹂
﹁そうなの?﹂
﹁場所から言って、教科書通りに配置するならこうだって感じだか
らな。兵力としては、これ一つが100とか、そういう単純な分け
方はできないかもしれないな。こっちの数に応じてって感じだろう。
弓兵も接近戦になれば剣を使わせれば歩兵扱いになる。弓の腕があ
るやつを選ぶから、完全な歩兵扱いにはしないけどな。盾兵だって
乱戦になれば大盾を捨てて戦うことになるし、それを考えると⋮⋮﹂
どうやら現実には、歩兵が弓兵になったりと、状況に応じて隊ご
とにクラスチェンジさせられるようだ。
そして1ユニットは何人分? という私の疑問は﹃その時による﹄
という曖昧な数字のようだというのが分かっただけだった。
﹁使えると思うぞ。こっちも国内のことだから、土地勘もある程度
あることだし、布陣の場所に当たりがつけられれば、ウェントワー
スが言ってたように、別働隊を潜行させておいて敵をかく乱したり、
側面を突くこともできる﹂
﹁それなら良かった﹂
とりあえず役に立たない落書きを作りだした、なんてことにはな
543
らなかったようだ。
しかしこれでも、参考になる程度だ。
起こることを知っていても、全てがそのままというわけにはいか
ない以上は仕方ない。けれど夕食の席の会話から、私は考えてしま
っていた。
敵を倒すのは仕方ない。減らさなければ、他の場所を占拠したル
アイン軍に加わって、その後の戦いを難しくさせるばかりだ。
けれど味方の被害くらいは、もう少しなんとかならないだろうか?
何かもっと違う方法を思いつければ。
⋮⋮それこそ少数の犠牲だけで、砦を落とすくらいのものを。
544
予期しないイベントの変更?
翌日は準備と魔術披露に追われて、バタバタと過ぎ去った。
そんな中でも私はまだ考えていた。
せっかくの序盤から魔術師になって参加しているという、この有
利な状況。これを上手く使えば、もっと被害を小さくできるのでは
ないだろうか、ということだ。
問題は私の持続力と、使える手である。
問題1:持続時間は作成するものによる。
小さなものなら半日ぐらいは維持できる。けれど巨大土人形レベ
ルになると、歩かせることだけの動作は一時間。走らせたりと色ん
な動きをさせたら20分持てばいい方だ。
歩かせるにしても、弓矢が飛びかい、敵兵が土人形の足にダメも
とで斬りつけてきたりするような状況では、私が気を払うものが多
すぎて、精神疲労を起こして維持に集中できなくなるから、30分
ちょい持てばいい方だろう。
たった30分、敵をかく乱するだけというのも、そこそこは効果
があると思う。けれど乱戦になった場所には手を差し伸べられない。
味方までかく乱しかねないからだ。
問題2:土人形で砦を破壊しに行くのは難しい。
持続時間から考えて、なんとか至近まで忍び寄って土人形を登場
させなければならない。さもなければ、えんやこらと砦を叩いてい
るうちに時間制限がきて、敵を脅しただけで終了になりかねない。
545
私一人じゃ無理なので、潜行部隊を作ってもらうしかないだろう。
移動がなんとかしたとしても、砦の壁を壊したら、たぶん私の限
界が来る。
へろへろになった私を抱えることになるカインさん達には、追い
かけてくる敵数千からの、死の逃走劇を実行してもらわなくてはな
らないのだ。
ならば味方の軍に近くにいてもらったとしても、やっぱりかなり
の距離を逃げ回ることになるだろう。一歩間違えば私もろとも全滅
だ。リスクが高い。
そもそも、毎回決死隊を作らせるのか?
ちょっと現実的じゃないというか。ランダム選考やくじ引きにな
ってしまったら、兵の士気が心配だ。
そこで私が離れた距離から、土人形を動かすという手を考えたが、
それも問題がある。
あまり遠くには離れられない上、どうしても地面に手をついたま
まじゃないと、土人形を動かせないのだ。
下手をすると、戦場のど真ん中で地面に座り込んだ私を、皆に守
ってもらうというとんでもないことになる。だめだめ、リスク高い
わ。
それぐらいなら、軍と一緒に行動し、進軍とともに一目散に砦ま
で走って、砦を殴って土人形に乗って帰る、というのを繰り返すの
が関の山だ。
アランとも相談した時は、それが最善だろうという結論に至った。
でも、それでどれだけの効果が出るだろう。
﹁そういえば師匠って戦争には参加したことが?﹂
﹁若かりし頃にはあったかのう、ククッ﹂
就寝時間。早々とベッドの中に潜り込みながら、枕元に置いた師
546
匠に尋ねれば、師匠は昔を懐かしむように答えてくれる。
師匠が若かった頃っていうんだから、40年くらい前のことだろ
うか?
﹁その頃はサレハルドにおったのぅ。内乱があってな、とりあえず
師とともに居住地周辺があらされるのが嫌で、色々やったのだった
か。ウヒヒヒ﹂
﹁主に何をしたんです?﹂
他の魔術師がどんな風に戦うのか、興味がある。それを聞いてい
たら、もっと何か思いつくんじゃないかと思ったのだ。
﹁まぁ、風で矢が届かぬのは所の口よな。師が炎使いであったゆえ、
扇よりも効率よく仰いで山一つごと敵を焼き尽くしたこともあった
かのぅ。イヒヒヒ。あれからずっと禿山になっておったと耳にして
おったが、今はどうなっているやら﹂
﹁あれ。ずっとサレハルドに居たんじゃないんですか?﹂
﹁寄る年波には勝てんでの。あそこは寒い地方じゃ。南の方が過ご
しやすかろうと移住したんじゃ﹂
なるほど。実に生活臭漂う理由だ。師匠らしい。
その後ホレス師匠は、どうしてかファルジアをうろつき始め、小
金を稼ごうとしてパトリシエール伯爵の言葉に騙されて、クレディ
アス子爵に支配される契約の石のかけらを飲みこまされたとか。
とにかく、魔術師の戦い方自体は、私が想像していたファンタジ
ーな魔法の戦いみたいなもので間違いないようだ。
﹁やっぱり火とかって、一番攻撃には最適ですよね⋮⋮﹂
その点土というのは、石つぶて程度を投げても痛いだけで、火ほ
ど恐怖にかられないだろう。
547
そりゃ巨人を作って踏み潰されそうになったら怖いけど。けれど
あのサイズのものを維持して動かすのって精神力の摩耗が激しい。
﹁術を維持するとなると、媒介使うぐらいか⋮⋮﹂
銅貨というか、銅鉱石をヴェイン辺境伯様からある程度譲っても
らえたので、今回はそこそこの量を所持している。これを使って使
用時間はどれくらい延長できるだろう。
﹁やや長くなる程度で考えた方がいいじゃろな。まぁ作成する代物
の大きさにもよるじゃろ。銅そのもので作るなら、二倍と考えれば
良いだろうがな。イッヒヒヒ﹂
﹁それ、銅鉱山でも手に入れないと不可能じゃないですか﹂
巨人が作成できるほどの銅の量って、もう鉱山レベルじゃないと
手に入らないだろう。
ようするに、不可能だ。
がっくりとしたが、とりあえずは銅を使っての作戦を考えること
にして、その日は就寝した。
翌日の朝、私達は予定通り1万5千になった軍を二つに分け、別
々に出発させた。
目指すは北北西、カッシア領にあるクロンファード砦だ。
砦はエヴラールから王都まで、枝分かれしながら伸びる街道の傍
にある。ようは王都からルアイン等に遠征するにも、ルアインが王
都へ進軍するにも、街道を通るのが一番楽だということになる。
だからこそ領ごとに砦が築かれ、万が一のために兵を置くことに
なっているのだが。
エヴラールから侵攻の知らせを送ったものの、魔術師くずれと敵
548
軍の数の前に、あえなく明け渡すこととなってしまったという。
対抗できたエヴラールが幸運だったのだろう。
ルアイン本隊がかなり西へ移動しているので、現在砦を占拠して
いるのは、多くても1万5千人くらいだろうと予想された。けれど
砦に籠られてしまえば、二倍の兵力があっても長期戦になってしま
う。
そこでアラン達が合議の上、軍を二つに分けることにした。半分
が先行し、半分がやや遅れて後を追うことになっている。
これで砦にいるルアイン軍をおびき寄せておいて敵を減らし、砦
に残った者たちに降伏させるのだ。
アランや私達は先行組にいる。
軍の構成としては七割がエヴラールの兵で、三割がリメリック、
レインスターの兵だ。
クロンファード砦までは5日かかる。
5日かけて至近まで移動。6日目に攻略を開始する手はずになっ
ている。
そんな移動を始めて4日と半分近くが経った頃、エヴラールを出
発した時と同様に馬車の中で揺られていた私は、揺れる馬車の中か
ら外を眺めていた。
スプリングなど存在しない馬車は、馬上よりはマシだが、けっこ
う揺れる。特に石畳で舗装された町から出て、砂利を入れて踏み固
められただけの道では、クッションがなければ酷い目に遭っただろ
うと思うぐらい、体が弾む。
書き物などもっての外という状況では、景色を見る以外に何もで
きないのだ。
549
それでも、もうすぐ休憩時間だ。
騎馬や馬車を操る者以外は徒歩なので、兵士の体力温存のために
も時々休憩時間をとる必要がある。
昨日は久々の野宿だった。
魔術の練習ついでに、いくらか兵士用にと、十人は入れる土のド
ームを作ったりもしたので、少しは従軍している人々の体力維持に
協力できたと思う。
突然に盛り上がる土の様子を見た兵士は、最初土のドームになか
なか入りたがらなかったけれど。勇気を出して寝泊まりした者には、
おおむね好評だったようだ。テントよりも防音性が高いので、家の
中にいるような安心感があったらしい。
私も自分用に作成したものに寝泊まりしたのだが、おおむね問題
なかった。
おかげで割に元気だったので、休憩時間になった時に、私は銅鉱
石を使って巨大土人形を作成してみた。
もちろん休憩中な兵士の皆さんをびっくりさせないよう、少し離
れた場所で、だが。
﹁おーいい眺め﹂
今回も土人形の左肩に搭乗スペースを作り、そこに乗り込んでぐ
るりと見渡す。
﹁それより、お前さんの術の感じはどうなんじゃ?﹂
﹁あ、そうでした﹂
ホレス師匠に、術の安定度や持続時間はどうなんだといわれて、
今土人形に割いている魔力なんかを確認する。
⋮⋮うん、なんかいつもより楽だな。
550
核に使った銅鉱石が少し増幅してくれてるみたいで、くるくると
歯車が綺麗に回っているような感覚がある。
﹁いつもよりいいみたい。1.2倍くらいは維持できそ⋮⋮﹂
ホレス師匠に話していた私は、ふと遠くに人の集団を見つけた。
街道脇の山の裾野を下る細い道だ。
木立などのせいで、休憩場所からは見えないだろう。
街道から外れていることもあって、軍の進路を確認しているだろ
う斥候もまだ見つけていないかもしれない。
目を凝らせば、馬車と、蟻よりも小さく人が何人か固まっている
のと、それを追いかけるような集団がいるように見える。
そこへ駆け付けようとしているのか、街道側から駆け登って行く
別の集団がいる。
﹁師匠、なんか追われてるっぽい人がいる﹂
﹁なんじゃ、カッシアからの逃亡者か? しかしただの庶民が追わ
れるというのもおかしいのぅ。混乱に便乗して出てきた山賊かいな
?﹂
師匠の言葉に、私はハッとする。
︱︱イベント?
でもあれはクロンファード砦の後のことのはず。
そうは思ったけれど、もしこれが﹁ティロン河川で逃げてきた人
達を守っての山賊との戦い﹂の変則イベントだとしたら?
私が行動したり、エヴラールが壊滅せずにルアインを退けた影響
だったとしたら。
助けようとしているのかもしれない、別な集団が気になる。
だから地上でこちらを見守ってくれているカインさんに言った。
551
﹁この先に追われてる人がいるの! 助けに行きます!﹂
552
イベント順序の変更なのか
その場所までは、土人形を走らせて戻ってくるのに支障はない距
離だ。
詳細な場所を伝えると、カインさんは一緒にいたアランの護衛騎
士さんに私の行動を伝え、移動を始めた私を馬に乗って追いかけて
きてくれる。
とはいえ私は道を無視して木立を横切るルート。カインさんはさ
すがに街道から横道へ入るルートを選んだようだ。
ずどーん、ずどーんと地響きを立てながら進む土人形に、先方の
馬車で逃げる人々達もややあって気がついたようだ。
追いかけていた方も逃げる方も、ちらちらとこちらを見ている。
特に馬車に乗っている町で暮らしているような恰好の大人や子供達
は、顔を私の方に向けたまま動かない。
しかし近づいてはっきりと判別できたのだけど、追いかけていた
者たちは山賊風ではなかった。黒いマントなのでもしやと思っては
いたが、やっぱりルアイン軍の兵だ。
馬車を守るように走る騎馬は、どこともつかない朽葉色のマント
なので、乗車している人達の仲間なのだろう。
街道側から駆け上がる騎兵の方は、青いマントのファルジア軍の
ようだけど⋮⋮カッシアの兵なのだろうか。エヴラールの領境から
はそう遠くはない場所だが、なぜこんな所にいるのか。
けれど彼らのおかげで、私が駆け付けるよりも早く、馬車の人達
は助かりそうだ。とはいえこれがイベントなのかどうか気になる。
553
後々の状況に影響があると嫌なので、とにかく様子を知りたかった。
私は土人形を走らせながら、馬車より酷い揺れに必死に耐えた。
これも最近少し慣れてきた。というかしがみつく腕の筋肉がついた
だけかも?
私の腰に括り付けられている師匠も、一緒にシェイクされて悲鳴
を上げている。
﹁おいっ、うぐっ。弟子っ⋮⋮ぐおっ⋮⋮何をしようとしとるんじ
ゃ? うげっ﹂
﹁ゲームのっ、イベントかもなんです!﹂
﹁絶対っ⋮⋮参加⋮⋮せねばなら⋮⋮んのかっ!? ⋮⋮げふっ﹂
﹁今後のぉっ、予測のためっ、にもっ、現場に行きたいだけっ﹂
説明をしている間にも、歩幅が大きな土人形はべきべきと木を折
り倒しながら現場に到着した。
その時には、既に青いマントのファルジア騎兵がルアイン兵と切
り結んでいた。
敵は20人、ファルジア側も20人で同数。
馬車を守る騎士は疲労困憊の上、私の土人形のせいで上手く行動
がとれないようだが、それでも問題なかったようだ。
状況に戸惑うルアイン兵を、ファルジア兵が鮮やかに刈り取って
いく。
横に薙ぐ剣とともに飛び散る血。
凄惨な光景なのに、どこかハッとさせられる剣筋の鋭さに、私は
一瞬目を引きつけられてしまう。
けれどすぐに我に返った。
554
血を吸って黒さを増す道や、転がる死体に、これが現実だと思い
出す。
とっさに、分が悪いと逃げ出したルアイン兵を見つけて、土人形
の手を伸ばさせる。土人形は狙い違わずルアイン兵をむんずと手で
掴んで、持ちあげた。
﹁ひぎゃあああっ!﹂
強く締め付けたつもりはないのだけど、ルアイン兵が絶叫してか
くんと首から力を失ったように頭が前に倒れる。
﹁え、まさか死んじゃった!?﹂
そんな、と思いながら土人形の左手の上に載せてみる。あ、胸の
辺りが上下してるから、ちゃんと呼吸してる。気絶しただけだった
ようだ。
ほっとしながら、今度は左手の上に右手で蓋をするように持ち直
す。
その時には、既に戦闘は終わっていたようだ。
﹁キアラ殿!﹂
下から呼びかけられて見下ろせば、そこにいたのはグロウルさん
だ。
﹁え⋮⋮グロウルさん、なんで?﹂
レジーの護衛騎士のはずのグロウルさんがここにいるということ
は、ファルジアの騎兵だと思ったのは皆レジーの騎士だろうか。で
も見慣れたあの銀の髪の人はいない。
﹁レジーはどうしたんです?﹂
まさかあのまま体が治らず、療養を延長することになったとか?
でもそれなら、グロウルさん達がここにいるのはおかしいのに。
555
と思ったら、騎兵の一人がグロウルさんの横にやってきて言った。
﹁だめだよキアラ。一人でこんなところまで来たなんて、後でお説
教ものだね﹂
﹁え⋮⋮﹂
フードを払ったそこに現れたのは、長い亜麻色の髪を半ばで束ね
た人の姿だ。
でもその顔も青い瞳も、間違いなくレジーのものだ。
﹁レジー?﹂
﹁そうだよ﹂
微笑む彼は、昔からそうだったかのように思えるほど、金の髪が
しっくりと似合っていた。いや⋮⋮これは顔がいいからだろうな。
﹁髪染めたのっ!?﹂
﹁色々考えた末なんだ。それより捕虜にするなら、その人を降ろし
てくれないか? とりあえず縛り上げるよ﹂
言われて、私はレジーの言うとおりにした。いつまでも土人形を
出してもおけないし、捕獲するということならお任せしたかった。
気絶したままの中年のルアイン兵は、グロウルさんの指示を受け
た騎士達が、あっという間に縛り上げる。
その他の騎士達は、馬車で逃げていた人々と話し合いを始めてい
た。馬車を守っていた騎士達ともども、助けられた人々は感謝の言
葉を連呼していた。
その様子にほっとする私を、レジーが呼ぶ。
﹁おいで、キアラ﹂
﹁うん﹂
安全になったことだし、味方も沢山いる。何よりいつまでも土人
556
形を維持していて、この後いざと言うことになった時に、余力が無
くなっていたのでは困る。
土人形から降り立った後、道の脇に土人形を移動させて解体する
と、大きな土の山ができた。
そういえば銅鉱石はまだあるのかな? 魔力の媒介として使っち
ゃうと、黒い炭みたいになっちゃうんだけど⋮⋮。
もったいないから掘り出したいなと思っていると、不意に右手を
掴まれる。
﹁わっ﹂
﹁何か気になることでも?﹂
手の主はレジーだった。
﹁あの、媒介になる鉱石を使って作ってみたんだけど、まだ使いき
ってないはずだから残ってるかなーって﹂
﹁でもある程度は消費しているんだろう? それなら新しいものを
使うといい。必要だったら先々で用立ててもらうよう指示しておく
よ﹂
⋮⋮さすが王子だな。あっさり買おうか、って言われてしまった。
それとも貴族生活を送っておきながら、なんかもったいないと思
う私が、前世の気質を引き継ぎすぎなのか。
﹁あーうん。その方が色々いいかもしれないもんね⋮⋮。えっと﹂
答えながらも、私はなんとなく恥ずかしいので手をそっと放そう
とするのだが、レジーが手をしっかりと繋ぎなおしてしまう。
や、それはどうなのレジー。こんな場所で二人だけ手を繋いでる
とか、ちょっと恥ずかしいと言うか、王子と魔術師という関係性的
557
にふさわしくないというか。
なので私が再度放そうと指を動かしかけたところで、レジーに手
を引かれて機会を失う。
﹁とりあえず、助けた相手がどういう人だったのか、もう聞きだし
たみたいだから行こう﹂
確かに、結局これがイベントだったのかどうかも知りたい。
でも手を繋いだまま彼らの近くに行くと、なんだかいたたまれな
い気分になる。でもレジーは放してくれない。飼い犬がリードを手
放したら、どこかへ走り去ってしまうと警戒している飼い主のよう
だ。
﹁グロウル、事情は分かったかい?﹂
﹁はい殿下。カッシア男爵領の城下から逃げてきた者と⋮⋮中に男
爵家の方がおられるそうで﹂
﹁男爵家の生き残りか﹂
レジー達の会話を聞いて、私もなるほどと思う。どうりで騎兵な
んかが護衛についていたわけだ。
もろともに逃げる途中で一緒になったということはないだろうか
ら、不思議だったのだ。それは主に騎兵と市民が逃亡するなら、タ
イミングが違いすぎるからだが。騎士なら市民を逃がした後で、撤
退すると主が決めてから逃げるだろうから。
すると、グロウルさんの傍にいた騎兵が口を開いた。
年の頃は40代といったところだろうか。体の幅も丈も、グロウ
ルさんより大きい。しっかりと日に焼けた肌は、訓練を欠かさなか
ったからだろうか。毛の一本も見当たらない頭の上まで一色に血色
よく日に焼けた人だ。
そう、彼は変身前の師匠よりも堂に入ったスキンヘッドだった。
558
しかもスーツとか着てたら、見事にその道の人にしか見えない強面
だ。
﹁お助けいただき感謝を申し上げます、殿下。わたくしはカッシア
男爵に仕える騎士、オーブリーと申します﹂
膝をつき、深々と体を折り曲げたその頭頂までつるりとしている。
﹁自国民を救うのは当然のことだよ。それで、男爵家の方というの
は?﹂
﹁はっ。⋮⋮おい、ブレナン﹂
﹁今お連れします。よっこいしょ﹂
もう一人の、ややひょろひょろとしたカッシアの騎兵が、馬車の
中から一人の子供を抱き上げて下ろした。
そこそこ裕福な商人の子供のように、生成りのシャツに黒のベス
トとズボン姿の少年は、まだ10歳にもなっていなさそうだ。
﹁カッシア男爵のご子息、チャールズ様でございます﹂
スキンヘッドなオーブリーさんに紹介されたチャールズ君は、お
どおどとした様子ながらも、横から促されてレジーにお辞儀をした。
チャールズ君を見ながら、私は悩む。
⋮⋮ゲームの中で、助けられた人の中にカッシア男爵の子供など
居なかった。
山賊に追われている人達とは騎士が一緒にはいたけれど、馬車の
御者を代わりにやっていた人がそうだったはず。現在御者をやって
いるのは、騎士ではないようだし、ゲームで彼らを助けて得られる
のはルアイン側の状況についての情報だったはず。
何かが確実に変わって来ている気がした。
559
それが私のせいなのかもしれないと思うと、背筋がひやりとする
ような恐怖を感じた。
560
カッシア男爵家の状況
﹁キアラさん、これは⋮⋮殿下もいらっしゃったんですか﹂
そこに、遅れて追いついたカインさんが、街道の方からやってき
た。
私を見つけて尋ねてきたものの、私もまだ事情がわからないので
どう答えたものか。困っていたら、グロウルさんの傍にいたフェリ
ックスさんが、説明をしてくれた。
その間にも、チャールズ君の横で、オーブリーさんが事情を語り
始める。
﹁涙無しには語れぬ状況でございました⋮⋮﹂
言った通りに目に涙を浮かべるオーブリーさん。
﹁カッシアの城に攻め込んできたルアインの軍は、2万にも上りま
した。砦が落とされたことから、先に城下の者たちは避難させてお
りましたが、その際、念のためにご子息を逃されることになったの
です﹂
そうして一足先に城から離れたものの、それからのオーブリーさ
ん達もなかなか隣の領地まで逃げることができなかった。
ルアイン軍の他にサレハルドの軍が居り、王都へ向かう道までも
封鎖されていたのだ。
仕方なく近隣の町に潜伏しつつ機会を伺い、チャールズ君を隠す
ためにも他の逃亡者と共に移動を繰り返していたという。
﹁逃亡の最中に、男爵の首がさらされたという話と、ご長女のフロ
561
ーラ様が囚われて姿を消したと聞きました。もう我がカッシア男爵
家はチャールズ様しか生き残っておられません﹂
仕えていた主を亡くしたオーブリーさんは、とにかくチャールズ
君を安全な場所へ移動させるためにも、兵を挙げたというレジーの
元へ行こうとしていたらしい。その途上、男爵家の子息を探してい
たルアイン兵に見つかったのだという。
彼らを救うのに間に合ったことは良かったが⋮⋮本当に、ゲーム
とは違う。
男爵家の皆さんについては、ゲームで言及はなかった。ただ占領
されて、ルアイン兵しか居ない状態だったのだ。ということは、皆
殺しだったのだろう。
けれどチャールズ君が生き残った。それはエヴラールからの知ら
せのおかげなのかもしれないし、こうして駆け付けたレジーが生き
ていたからこその結果なのかもしれない。
でも発端を作ったのは私だ。
生きている人が増えるのはいいことだけど⋮⋮。考えてみれば、
知らせを受けても砦はあっさりと落とされ、男爵家はチャールズ君
を生き残らせるだけで精いっぱいだったのだ。
これって、かなり攻略するには、ハードモードだってことじゃな
いだろうか。
ルアイン軍がこんなに魔術師くずれを使うのも想定外だし、サレ
ハルドを味方につけるのも予想できなかった。
こちら側も他国を味方につけられないかとも思うが、国王はそう
動いてはいない。王領地とシェスティナ侯爵領の間あたりに兵を集
合させる命令を出したらしいが、それ以外の対策は何も為されてい
ないに等しい。
562
レジーも王子として挙兵はしているが、国王を差し置いて他国と
交渉しようにも、他国の方がレジーを国の代表として扱ってくれる
かどうかわからない。味方をする利益を示そうにも、レジーはどこ
かの領地の割譲を勝手に決めるわけにもいかないからだ。他の物の
交渉についても同様だ。
魔法使いが一人、序盤から加わっているだけでは、覆すのが難し
すぎる⋮⋮。
思わず悩んでしまう私だったが、とりあえずエヴラール軍の休憩
場所まで移動することになる。
﹁キアラさん、とりあえずこちらへ﹂
カインさんに呼ばれたので、素直にそちらへ行くことにする。ま
だ手を繋いでいたレジーを見ると、彼は小さく笑って放してくれた。
⋮⋮何のために手を繋いだのかと思っていたけれど、もしかして
私がふらふら移動するのを防止するために、犬のリードよろしく繋
いでおこうと思ってのことだったのだろうか。
傍に行けば、カインさんに軽く注意される。
﹁緊急事態なのはわかりましたが、できれば私を待って突撃してい
ただきたかったですね。万が一の場合に、あなたを庇えないと困り
ますから﹂
﹁すみません﹂
﹁では参りましょう﹂
私を馬に乗せようとするカインさんに、ちょっと待ってとお願い
する。
﹁みんなが居なくなった後で、ちょっと残ってやりたいことが⋮⋮﹂
﹁何を⋮⋮ああ、なるほど﹂
563
私が見ているものを視線で追ったカインさんが、納得してくれる。
私が捕まえた一人をのぞき、他のルアイン兵は斬り殺されているの
だ。
時間が経つにつれて、血臭いが強く漂ってくる。だいぶん慣れて
しまったのか、気持ち悪くはなっても、これだけで吐きそうになる
ことはなくなっていたが、素直に喜べない。
と同時に、この強烈な臭いは獣を誘因する。放っておけば、獣に
食い荒らされてしまうだろうけれど、争いの結果であっても、そこ
まで無残な姿にさせたくはない。
だから埋めたかったのだが⋮⋮馬車に乗っている人達は、助かっ
た安堵の気持ちが通り過ぎると、その死体に憎々し気な眼差しを向
けていた。彼らの前では埋める行動をするのははばかられたので、
立ち去ってから行動したかったのだ。
私とカインさんが少し離れていると、レジーがそれを察したよう
に、馬車とカッシアの人々を先に移動させてくれた。
レジーと数人の騎士が残ったところで、私は小山になって積もっ
ていた土を、人の二倍の身長ぐらいの人形にして道の端に死体を運
び、土をかぶせていった。仕上げに土人形をその上で解体して終わ
ると、カインさんに馬上に乗せられた。
それを見て、レジー達も馬を歩かせ始めた。
レジー一行を追うように進みながら、カインさんがぽつりと尋ね
てくる。
﹁どうしてあなたは⋮⋮敵の埋葬にこだわるのですか?﹂
前にもカインさんに似たようなことを聞かれたな、と私は思う。
あの時は衛生上のことを理由にしたけれど、今回はそれでは理由
564
が弱いのだろう。人家が遠い場所で、亡くなったのも多数というわ
けではない。獣に食われてしまって終わりだったのにと、思われた
に違いない。
レジー達とは、少し距離がある。
だから私は、カインさんの方に少し振り向いて言った。
﹁私は⋮⋮人が死ぬとか、殺すということに慣れるのが、怖いんで
す﹂
﹁慣れた方がいいのでは?﹂
そう返したカインさんは、私が辛いと感じるならばと心配してく
れたのだろう。だけど私は首を横に振る。
﹁前世の記憶があるせいなんだと思うんです。あの遠い世界で培っ
た、自分を守るためでも殺してはいけないという倫理観があるから
⋮⋮どうしても耐えきれなくて﹂
敵を前にしたとたんに心に重たい石を落とされるような感覚に変
わる。
﹁それじゃ大切な人達を守れない。だから考えないようにして戦い
たい。けど、人の命を奪った自分に慣れそうで、それも怖い﹂
﹁慣れたくないのですか? その方が楽でしょう﹂
カインさんは理解できないという表情をしている。
﹁それに、あなたの守りたい人達を、傷つけているのに⋮⋮憎いと
は思わないんですか﹂
ヴェイン辺境伯様は傷を負った。ベアトリス夫人も危うい所だっ
た。それなのに、敵を憎むこともないのかと。
カインさんはルアイン軍に家族を殺されて以来、ずっと憎んでき
たのだろう。この世界に生きている人は、皆そんな風に思うのが自
然なのだと思う。
565
たぶん、前世でもそんな状況に陥ったら、私も憎んで殺すことに
ためらいがなくなったのかもしれない。
攻城戦の後、そう思おうとはしてみた。だけど、私は前世を忘れ
られない。
﹁前世は前世。今は今だと思った方が楽なんだってわかってるんで
す。けれど、そんな風に今生きてる自分には関係ないって思ってし
まったら⋮⋮ずっと私を支えてきた昔の家族の思い出も、関係ない
ものだとおもわなくちゃいけなくなる﹂
私にはまともな家族がいなかった。だからずっと、記憶の中の前
世の家族をその位置に置いていた。
目を閉じれば思い出す。何の恐怖もなくまっすぐに伸ばすことの
できる自分の手と、それに答えてくれる無償の愛をたたえた手を。
それを否定してしまったら、どうしようもなく寂しくて、立って
いる場所すらわからなくなりそうな恐怖を感じる。
今の私を形作っているのは、前世の家族だから。
その家族は決して害されることのない場所にいる。だから彼らが
望んだ通りの道徳観念を持った人間でいたいと思ってしまうのかも
しれない。
﹁忘れたくないんです。だから私、昔の考え方も捨てられない。き
っと⋮⋮カインさんにはよくわからないかもしれないけど。だけど
みんなを守りたいのも本当で。だから前世の私らしい考え方が怖が
る気持ちをなだめて戦うために、埋めたいって思うんです。死んだ
人を弔うことができれば、殺してしまった贖罪になるような気がす
るから﹂
それも、私の気持ちを満足させるだけの独りよがりの行動だ。そ
れでも、せずにはいられない。
566
精いっぱいカインさんに説明したけれど、理解してもらえただろ
うか。
不安だったが、私の話を聞いたカインさんは、どこか考え込むよ
うな表情をして、ただ一言。
﹁そうですか﹂
とつぶやいたのみで、黙り込んでしまう。
やっぱり理解してもらうのは難しかったのかもしれない。
自分でも、何度も何度も考えて、でも全部わかってるのかも定か
じゃない。だからこそ、無意識に刻まれるほど前世の考え方が染み
ついてしまっている、ということなのかもしれないけれど。
並足で進む馬は、ほどなくエヴラール軍が休憩のためとどまって
いる場所へ近づいた。
そこまで来て、カインさんがようやく口を開く。
﹁⋮⋮私はたぶん、あなたを守ることには躊躇しません。そのため
にためらいなく誰かを殺すでしょう。後の禍根になると思えば、捕
獲することで済ませられる相手でも、殺してしまうかもしれない。
そんな私を嫌いになりますか?﹂
﹁いいえ。カインさんが、私を守るためにしてくれたことだってわ
かりますから。私が記憶に足を掴まれているだけで、カインさん達
がそう思うことは、理解してます﹂
答えると、カインさんは﹁それならいいのです﹂と、小さく息を
ついた。
カインさんの中では、何かの答えが出たのだろう。
一方で、私はまた考えてしまう。
567
結局、私は前世とは違う世界で生きているのだ。いつかはこの世
界の方の考え方に染まらなければ、どこかで周囲と考え方が違う自
分に悩み、周囲からも困惑されてしまうだろう。
いつかは⋮⋮受け入れられるようになるのだろうか。
568
バージョンアップに必要なもの
休憩地に着くと、馬車の一行とカッシア男爵子息達はすぐにリメ
リック侯爵領へ送られることになった。護衛の兵士を付けられて、
彼らが出発していく。
それを見送る私達と一緒に、スキンヘッドのオーブリーさんがハ
ンカチを噛みしめるようにして目を潤ませてた⋮⋮って、オーブリ
ーさんは残るの?
﹁ああ、魔術師殿ですか。先ほどはお助けいただきかたじけない﹂
﹁いえいえお役に立てたようで⋮⋮。あの、一緒に従軍なされるの
で?﹂
﹁はい。既にカッシア男爵領の兵は散り散り。けれどこれより殿下
が進軍されるのは、我が領を解放するも同然。ならば幼いチャール
ズ様の代わりに、私もお役に立たねば申し訳が⋮⋮ううっ﹂
頭を剃ってるのに墨染めの衣や袈裟を装備していないので、怖い
雰囲気の人だと思っていたのだが、すごく涙もろいようだ。
おかげで話しやすくて良かった。
﹁既に旗下に加えて頂きました。伯爵子息のアラン様の隊を一つ預
からせていただきますので、魔術師殿も宜しくお願い申したい﹂
オーブリーさんにとっては子供みたいな年齢の私に、丁寧にそう
言ってくれる。良い人だ。
一方のレジーだが、野営地で食事を囲む頃に、ようやくここまで
来ていた経緯などがわかった。
569
レジーは私達が出発した三日後には城を出たそうだ。そしてこち
らの予定を加味して、クロンファード砦攻略前に合流しようと、途
中の街道で待つつもりだったらしい。
その時に、耳の良い騎士のフェリックス君が悲鳴や馬のいななき
を聞いたらしく、カッシア男爵子息が乗った馬車が追われているの
を見つけたと。
レジー達もルアイン兵の数に﹃何かある﹄と考え、彼らを救いに
行ったらしい。
そこへ現れたのが私だったわけだ。
﹁まぁ、助かったよ。ほぼ同数だったけど、あっちが君の魔術に慣
れていなかったおかげで、ひるんだすきに刈り取れて楽だったから﹂
あっさり刈り取るとか言いましたよこの王子様。おっかない。
﹁で、髪を染めたのは?﹂
﹁グロウル達がすごく心配してね。せめて髪の色ぐらいはなんとか
してくれって言われて。でも合流したからには落としたいんだけど
ね。これじゃ私がレジナルドだって遠目にわからないだろう?﹂
矢で遠くから射られた直後だというのに、旗印らしく目立つつも
り満々とは⋮⋮。
﹁いや、もうちょっとお前自重しろよレジー。旗印が真っ先に的に
なったらまずいだろ﹂
一緒にレジーのテントで食事をしていたアランが、ため息をつき
そうな声でツッコミを入れた。
﹁でも大将が隠れてたとか言われるのも、士気に関わるよ?﹂
﹁ウヒヒヒ、目立ちたがりだのぅ﹂
﹁目立たないと、半分くらい役割を果たして無いようなものですか
570
らね﹂
師匠に笑顔で返したレジーは、自分の髪をひっぱって続けた。
﹁だから早く染粉落としたいんだけどね。これじゃ他に紛れてしま
うから﹂
﹁砦を落とすまではそのままでいろよ﹂
アランに言われて﹁それしかないだろうね﹂とため息をつくレジ
ー。
そうして話しているうちに、皆の食事が終わった。
﹁私置いてきてあげるよ﹂
立ち上がった私は、他二人の皿とカップを回収した。
﹁侍従を呼ぶよ? キアラ一人でうろつくのは⋮⋮﹂
﹁いいよ。ちょっとのことだもん。カインさんがすぐ傍にいるだろ
うし、リメリックでの魔法披露からこっち、みんな私のこと怯えて
るから変なことにはならないでしょ﹂
私の言葉に、アランが﹁ああ、あれか⋮⋮﹂と嫌そうな声を出す。
﹁何かあったのかい?﹂
﹁リメリックやレインスターの兵が魔法を見て驚かないように、魔
法を見せてやったんだよ。そしたらこいつ、気合い入れ過ぎて土人
形でわけのわからん動きをさせたあげく、侯爵の城壁の一部を壊し
たんだ﹂
﹁え、えへへへ⋮⋮。でもちゃんと直したし﹂
私は笑ってごまかした。土人形で正拳突きとかしてみせたらカッ
コいいんじゃないかとか、血迷った末にやらかしたことは自供した
くない。ついでにしっかりと言い訳も付け加えた。
571
﹁直したのはいいけどな。くずした時に、調度落下地点に兵がいて
な⋮⋮﹂
﹁怪我でもしたの?﹂
﹁キアラがとっさに土人形でかばったから大丈夫だった。けど考え
てみろよ。そいつらにしてみれば、自分の背丈ほどもある手が襲い
掛かってきて、掴み上げたんだぞ。二人は失神。見てた奴は巨人に
絞殺されたかもしれないって悲鳴を上げて、大騒ぎだ﹂
兵士二人は驚いて気絶しただけだとわかり、すぐに騒ぎは治まっ
たが、私への恐怖は、確実に見ていた人々の心にも刻まれてしまっ
た。
慣れさせようと思っただけなんだけど、むしろこいつに近づくな
! な方向で認識されてしまったのだ。
レジーは目を瞬いてから、ややあって噴き出した。
﹁ははっ、キアラは本当に予想外なことするよね﹂
﹁⋮⋮ま、まぁそういうことで。大丈夫だから﹂
と言って、これ以上追及されないように、私はさっさとテントを
出る。
しかしちょうどそこに、カインさんが歩いてきた。
﹁キアラさん、そういうことなら侍従が来るまで待っていただいた
方が良かったのでは⋮⋮﹂
カインさんにまで言われてしまうと、もう逃げられない。
自分が持っていくと言ってくれる彼に食器を取り上げられ、大人
しくまた笑われる作業に戻らなければならなくなり、ため息をつき
そうだ。
すごすごとレジー達のいるテントに戻ろうとした私だったが、入
口の布に手をかけようとしたところで、中の会話が漏れ聞こえ、手
572
を止めてしまう。
﹁⋮⋮無理すんな。そこそこ悪いんだろ、怪我﹂
﹁さすが私のことを良く分かってるね、アラン﹂
﹁何年お前とつきあってきたと思ってるんだよ。左肩か?﹂
肩。
それは私を庇って、矢を受けた場所だ。私は息をのむ。だってあ
れあ普通の怪我じゃない。契約の石の作用によるものだ。
普通のお医者さんでは、何がどうなってるのかわからないだろう。
なのに、どうして私に黙っているのか。
﹁傷は塞がってるんだよ。動くのに支障は⋮⋮っ﹂
レジーが言葉を切ったのは、私が勢いよく入ってきたからだ。
﹁キアラどうし⋮⋮﹂
﹁怪我、見せてレジー!﹂
私は逃げようとしたのか、立ち上がったレジーに掴みかかる。
﹁痛むかなんかしてるんでしょう? そこそこ悪いって聞こえたん
だから!﹂
﹁聞いてたのかい、キアラ。でも怪我は治って﹂
﹁あれは普通の怪我じゃないんだから。私しか診られないんだもの、
さあさあ!﹂
私は背後の簡素な寝台にレジーを追い込み、勢いにたじろいで座
ってしまったレジーから、上着を剥ぎにかかる。
﹁や、ちょっとキアラ⋮⋮﹂
﹁患者は抵抗しないの! アラン手伝って!﹂
573
言うと、アランが楽し気に寄ってきてレジーの腕を押さえてくれ
た。よし、これで楽に脱がせられる。
一方のレジーは、いつになく焦った表情になった。
﹁アラン!? 君、むしろキアラを押さえなよ!﹂
﹁いやこっちの方が楽しそうだ。それに俺も怪我の様子は気になる
し、こうでもしないとお前は確認させないだろうからな﹂
﹁もうっ、楽しくなんてないわよ! 私のせいで怪我したようなも
のなのに⋮⋮アランこれ腕から引っこ抜いて﹂
アランに袖を腕から引き抜かせ、ようやく上着を取り去ったので、
シャツのボタンを外す作業にかかる。
﹁キアラ、さすがにこれはマズイよ﹂
やや恥ずかしそうな表情で私を止めようとするレジーだったが、
怪我の様子を見なければ引く気はない。
﹁いいから大人しくしてて!﹂
﹁そうだ大人しくしてろよ、面白いから﹂
ぷくくくと笑うアランは、それでもレジーを押さえていてくれる。
どこからかもう一つ笑い声がするんだけど、師匠はいつだってイッ
ヒッヒと笑ってるから無視だ無視。このシャツさえ剥いでしまえば
肩が見えるんだから。
﹁アラン、君ってそんな趣味だったのか﹂
﹁お前だって悪い気はしてないだろレジー﹂
恨めしそうな目を向けられても、アランは鼻で笑う。それに反論
しないので、レジーも一応怒ってはいないようだ。よかった。
しかしシャツをはだけさせた時に、意外に筋肉質な肩と鎖骨を見
574
て、あれ、なんか私今酷いことしてる? という気分になったのだ
が。
そんなテントの中に、カインさんが入ってきた。
﹁え、襲ってる⋮⋮?﹂
戸口で立ち尽くすカインさんは、まるで巨大なカタツムリが目の
前にいるよ! みたいにぽかーんとした表情をしていた。
﹁おそ⋮⋮う?﹂
なんでそんなことを言われてるのか。
そう思った私だったが、ここは寝台の上。アランに後ろから羽交
い絞めにされたレジーと、シャツを引っ張り脱がせようとしている
自分が⋮⋮限りなくレジーに迫っているような態勢だということに
気付き、固まった。
そんな私を見て、レジーの拘束を解いたアランが大爆笑し始める。
﹁あっははははは! だめだもう耐えきれない!﹂
﹁⋮⋮ほら、だからマズイよって教えただろう? キアラ﹂
ため息をついたレジーは、硬直した私に苦笑いしつつ﹁仕方ない
人だな﹂と呟きながら解放された腕で抱きしめてくる。
﹁えっ、ちょっ﹂
どうして私を拘束するの? ていうかほ、頬にレジーの素肌が触
れるんだけど! 意外にすべすべしててなんか恥ずかしさに逃げだ
そうとするが、レジーが離してくれない。
﹁私が恥ずかしい思いをした分、君にも存分に恥ずかしがってもら
おうね。そのままでも怪我の状態は見れるだろう?﹂
確かにそうだけど、そうだけど! こんなにぴったりくっついて
575
寄り添いながら見る必要ってあるの?
ていうか脱がせようとしたときよりも、なんかマズイ恰好だよ!
半裸の異性に抱きしめられてるとか、られてるとかっ! ほらア
ランがドン引きした目を向けてきてる!
﹁やりすぎだろレジー⋮⋮﹂
﹁君らが悪いんだよアラン? 止めてくれないかと私は言ったのに、
ねぇキアラ?﹂
そうして至近で、うっとりしそうなほど綺麗な笑みを見せられて、
私の頭はショートしかけた。
と、そこで私は背後からの腕に、レジーから引き離される。
﹁お戯れが過ぎますよ殿下﹂
いつも通り能面のような無表情で言うカインさんに、私は肩をつ
かまれていた。レジーは笑った。
﹁カインに怒られたくないからね、それでキアラ、怪我だっけ? 見れば納得するなら⋮⋮ほら﹂
レジー自ら、左のシャツの袖を脱いで背中を見せてくれるのだが。
くっ⋮⋮なんか並の女の子より色気があるとか、何なの!? と
妙な敗北感まで味わわせられつつ、でも怪我は確認せねばならない
と、一歩レジーに近づいた。
城を出発する前にははっきり確認しなかったそこは、矢傷のあっ
た場所を中心に皮膚が縦に長く黒ずんでいた。まるで、ぎざぎさに
焼け焦げた痕みたいになっている。
﹁触っても?﹂
576
﹁どうぞ、魔術師殿の診察に必要なら﹂
触れても、レジーは痛がる様子もない。そのまま魔力の様子を探
る。落ち着いてはいるけれど、そこに間違いなく異質なものがある
のはわかる。
﹁前に見た時と同じ⋮⋮かな。辛いの?﹂
﹁古傷が痛む程度だよ﹂
レジーはそれ以上言う気がないといわんばかりに、にこりと微笑
んでシャツを着直した。
私自身もこれ以上はどうにもできないので、黙るしかない。
本当なら、黒ずんだ部分を切除できたら、レジーの体に影響して
いるのだろう痛みの原因はなくなる。多分そこに契約の石のカケラ
の力を全部集めたから。
でもこの世界の医療技術で、そんな手術はさせられない。
私も前の世界の医療知識なんて詳しくないのだけど、輸血も、衛
生用品も整っていないのは分かっている。
けれど大丈夫だよと言わないのだから、レジーは無理を押して来
ているんだと感じた。
体力が回復することや、時間が経ってこの魔力が馴染んだら、平
気になるんだろうか。
どちらにせよ、もう少しレジーには休んでいてもらいたい。けれ
ど彼は旗印として、戦場を駆けるつもりだろう。
でもどうやって止める?
悩みながらも、就寝するために私はレジーのテントを出る。そう
して自分で作った土の小屋まで戻りながら悩んだ。
土人形の維持時間は、銅鉱石を多めに使用したら少しは改善でき
577
ると思う。
本当は遠隔操作ができればいい。師匠みたいに、自立できればい
いけど、まだそこまで出来ないし。せめてもっと私の力が影響を与
えられれば、できる事が広がりそう⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮⋮あ﹂
﹁ん?﹂
私のつぶやきに、一緒に外に出たアランがこっちを振り返り、非
常に嫌そうな表情になった。
まさかこの私の笑み崩れそうな顔が、奇妙すぎるんだろうか。
﹁えへへへー。アラン、ちょっと相談があるんだけど?﹂
578
クロンファード砦攻略戦 1
﹁なんで僕なんだよ﹂
﹁レジーに言ったら止められそうだから、次の最高権力者ポストの
アランに許可をとろうと思って﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
私の言葉に、アランは納得せざるをえなかったようだ。
あと、この人をうなずかせないと私が何も行動できないんで、カ
インさんも話に巻き込む。
そうして二人に私の思いつきを話せば、アランは考慮する価値が
あるという表情になり、カインさんは﹁ちょっとそれは⋮⋮﹂と難
色を示した。
けれど戦端が開かれてから突入とか、その前に普通に奇襲をかけ
るより、私も絶対安全だからと言えば、カインさんも渋々うなずい
てくれる。
一応試せとアランに言われて、小規模実験を行ったが、わりとす
んなりできたことで、アランは認めてくれた。
そして忘れちゃいけないグロウルさん。レジーを押さえておくた
めにも、ぜひとも彼と護衛騎士の協力は必要だ。
カインさんに呼び出してもらい、私の計画の詳細を話して、実行
時に私を止めに来ないよう要請した。
グロウルさんはややしばらく難しい顔をしてはいた。
﹁悪くない案ですが、おそらく気づきますよ⋮⋮殿下は、勘が良す
ぎますから﹂
579
﹁だからこそです。気付いても賛成多数で決まった後じゃ、レジー
だって覆せなくなるはずです。そして実行時には、グロウルさんに
止めてもらえたら障害はほぼなくなります﹂
﹁意外に策士ですな⋮⋮﹂
つぶやいたグロウルは、三秒ほど視線を明後日の方向に彷徨わせ
てから、私の案に同意してくれた。
そして翌日。
砦の様子を探るべく偵察を出すとともに、私は作戦会議にカイン
さんと共に出席する。
大きな天幕の中、設置された机と椅子に、次々と人が座っていく。
まずはエヴラール辺境伯領側から、アランとカインさんに代わっ
て彼を護衛する隊長になっていたチェスターさん。
そして先代が負傷のためエヴラールに残ることになったので、騎
士隊長に昇格した30代のデクスターさんと、辺境伯家の守備隊長
だったゲイルさん。
エヴラール城の防衛に関しては副隊長に任せて、戦争経験が多い
ゲイルさんが派遣されることになったのだとか。
更にレインスター子爵の叔父エダムさん。頭髪が白髪交じりのお
じ様だ。
エダムさんより若い、デクスターさんとそう年が変わらないだろ
うリメリック侯爵の弟、ジェロームさん。彼ら二人も騎士を連れて
きている。
最後にグロウルさんを連れた、まだ金髪状態のレジーが着席した。
そして会議が始まり、レジー達によって作戦が話される前に私は
立ち上がった。
﹁クロンファード砦を落とすにあたって、魔術師である私から提案
580
があります﹂
まっさきに応じたのは、素知らぬふりをしたアランだ。
﹁あの土人形を動かすというのは、作戦としてこちらも含めている
が、それ以外に案があるということか?﹂
﹁そうです﹂
うなずくと、魔術師というものにとても期待をしているエダムさ
んとジェロームさん、協力領地組の表情がやや楽し気なものになる。
﹁ぜひ教えてもらいたいものですな。これから長く連戦することに
なる以上、兵の損失は抑えられる方が良いのですから﹂
年長のエダムさんに、経験値が一番高いだろうエヴラール守備隊
長ゲイルさんがうなずく。
﹁それならばなおさらです。有利な立場を保つためにも、有効です。
敵の士気はかなり下がるでしょう。脱走による兵の減少も見込める
はずです﹂
﹁一体何をなさるので?﹂
どんな策だろうと身を乗り出すデクスターさんを見て私は言った。
﹁砦を意味のないものにします。端的に言うと、土人形で砦の壁を
壊すところまでします﹂
﹁確かに壁を壊すことは可能でしょうな﹂
とうなずくのは、城壁を一部損壊されてしまったリメリック侯爵
家のジェロームさん。その節はすみませんでした。
﹁でも、キアラ殿は共に移動することになるのでは?﹂
穏やかに発言したレジーは、けれど嘘は許さないという目で私を
見る。
私はまっすぐに見返した。
581
﹁移動はしません。遠隔操作を会得できましたので﹂
もちろん、皆それならば問題ないと意見の一致を見た。
旗振り役はアランだ。レジーとしても、私が戦場に突入するわけ
ではないとなれば、反対しにくかったようだ。
そうして無事に、土人形の突入による撹乱、砦破壊を組みこんで、
攻略するための作戦行動が練られたのだった。
作戦が決まった後、軍は一度二つに分けていた兵を合流させ、そ
れから北上したのちに街道を西へと進む。
途中、私は午前中の休憩で、カインさんと少し離れた場所で再度
実験を行う。
師匠よりも大きいくらいの土人形が、とてとてと走る姿に私は口
の端が上がった。よしよし可愛いなぁ。
﹁ウヒヒヒヒ。上手くいっておるようじゃな﹂
﹁うん、大分いいよ師匠。なんで最初からこうしなかったんだろっ
てくらい﹂
思いつかない時って、なんか壁があってその先に進めない状態な
んじゃないかってぐらい、近い部屋にたどり着けないような感じで、
その案に気付かないんだよね。でも気付いてしまったら、こんなに
効率のいいものもない。
しかしカインさんが苦々しい声で言う。
﹁最初からこんなことをするなら、全力で止めてましたよ⋮⋮﹂
﹁でもきっと、最初っからこれを使ってたら、魔術ってそういうも
のだと思ったんじゃないですか? 剣で戦えば怪我をしかねないけ
れど、でも戦争ってそういうものだからと、皆止めないでしょう﹂
それと同じことを思うんじゃないかと言えば、カインさんは眉間
に縦しわができる。
582
﹁どうしてこういう時だけ、あなたは饒舌になるんでしょうね。今
からでも殿下に加担して、あなたを戦闘が終わるまで、どこかに閉
じ込めておきたいくらいですよ﹂
ため息をつきながら、カインさんが私に近づいて手を持ちあげ、
手首をやわらかくつかむ。
え、もう閉じ込める方向に転換するのかと思ったが、カインさん
はそれ以上は何もしなかった。
﹁それでも今回は、敵地を少数で駆け抜けるわけじゃありませんか
ら、多少はマシですが﹂
﹁でもカインさん。この方法でも、やっぱり私は戦場のまっただ中
に立つことになると思う。レジーは守らなくちゃいけない。私を守
らせちゃいけないから、レジーよりは前に立つつもりでいます。だ
から面倒ばかりかけて申し訳ないんですけど、護衛よろしくお願い
します﹂
手首に触れていた手を、私の方から握って願う。
もう私はレジーに守られる存在でいてはいけない。頼り過ぎちゃ
いけないのだ。隣に並ぶ仲間なら、保護されるがままにしていては
いけない。
だからレジーに相談しなかった。
あの人は、先回りして私のために全てを整えすぎてしまうから。
私はレジーが射られた事件以来、彼を保護者として見てはいけな
いんだと、きつく自分を戒めようと思ったのだ。
もうすぐこの世界で成人を迎える年頃なのに、いつまでも親を恋
しがっていちゃいけない。助言を求めるだけで、あとは自分で立て
るようにすべきだろう。
反抗期⋮⋮みたいなものなのだろうか。
583
けれど私は親から離れたり、倒したりして自立を手に入れるので
はなく、私は親の立場の人達が私同様にか弱いことを知ったからこ
そ、守るべきだと考えただけ。
そう。レジーだって私より一つ上の、前世ならまだ未成年で庇護
されるべき人間だ。
ただ私は身体能力的にはゴミレベルだ。
誰かに物理的に防御してもらえないと、魔術を使っている間にど
こからか飛んできた矢に刺されたり、突撃してきた人に斬り殺され
てしまう。だからカインさんには、協力してほしいんだけど。
カインさんはじっと私を見下ろしていた。
﹁キアラさん、アラン様とエヴラール城で言い合いをした時のこと
を覚えていますか?﹂
﹁え? はい⋮⋮﹂
転生の話をして、アランに信じてもらえなかった時のことだ。
﹁私は、何があっても⋮⋮自分で立って進もうとする姿を見て、あ
なたを手伝おうと思った。そのことを、ずっと忘れていたように思
います。あまりにあなたが小さくて、か弱いから、すぐに見誤って
しまう。でもあなたは、ただ守られるだけの存在じゃない﹂
じっと見つめられてそんなことを口にされて、私は恥ずかしくて
顔を伏せたくなる。赤くなってるんじゃないだろうか。
まるで物語の中で、尊敬の気持ちを告白するかのようなカインさ
んの言葉が、むずがゆくてしかたなかったのだが。
﹁あなたは、懐かれたせいで見離せなくなった暴れ馬みたいなもの
です﹂
﹁⋮⋮え?﹂
584
あばれうま?
カインさんの続けて言った言葉に、むずがゆさは吹っ飛んだ。
しかも懐いたから見離せなくなったとか、どうなの? ちょっと
私がダメ人間っぽくないですか? いやダメじゃないとは言えない
けど⋮⋮。
﹁この戦いが終わるまでは、行きたい場所へ行かせてあげましょう。
それが手伝うと決めた私のやるべきことでしょうから﹂
えっと⋮⋮とりあえず、今回は協力してくれるってことだと思う。
次はわからないけどね。
﹁良かったな、弟子よ﹂
つぶやいた師匠に、私は無言でうなずく。
とにかく認めてくれる。それが何より重要だ。
その日の昼、エヴラール軍はクロンファード砦間近に到着した。
585
クロンファード砦攻略戦 2
戻ってきた斥候の報告により、敵がこちらに応じた布陣を敷き始
めていたとわかる。
あちらも街道筋に、偵察を置いていたのだろう。
それにしても、二人組になってとはいえ少数で敵地に侵入して帰
ってくるとか、斥候の皆さんてすごい。剣の腕に自信があるよりも、
忍んで近づく技術がいるようだが、見つかったらまず命はない。ど
れだけ勇気が必要かわかったものではない。
報告により、エヴラール軍は一気に砦近くまで軍を進めた。
弓兵に挟撃されかねない地点よりは手前だ。弓兵に対しては、既
に別働隊が動き始めているはずだ。
私はカインさんと、カッシアの騎士オーブリーさん率いる十騎と
ともに軍の先頭へ出た。
ルアイン軍が数百メートル先に見える。
ずらりと並んで待ち構える弓兵や歩兵の姿に、きゅっと胃が縮む
ような感覚が起きた。すべての兵の目が、前に出てきた自分に向け
られていることに、足が震えそうになる。
けれど怖気づいていられない。
カインさんの馬から降ろしてもらった私は、上着のポケットに入
れていた銅鉱石を両手いっぱい地面に置いた。
次にナイフを鞘から抜き、手の甲を浅く切りつける。
痛いという言葉は、喉の奥に押しこんだ。
ためらいながら指先を切るのでは、必要量に足りないと思ったの
で甲にしたんだけど、思ったより深くなってしまったようだ。
586
だらりと血が流れ出た手で、置いた鉱石に触れる。
﹁⋮⋮さぁ、始めよう﹂
ゴーレム
血と鉱石を通じて、目の前に転がる石を数えるようにはっきりと、
土の中の魔力が認識できる。
ゴーレム
それを一気に形成し、血塗られた鉱石を内包した土人形が立ち上
がった。この地方の土の色なのだろうか、やや白っぽい土人形は、
エヴラール城の前で作ったものと同じ大きさだ。
するりと自分の体温が下がるような感覚から、自分の魔力が吸わ
れたことを感じるが、予想よりも軽い。
﹁あ、ちょっと楽?﹂
﹁油断するでないぞ。楽だからと言ってあれこれやりすぎると、気
付いた時には枯渇する危険があるからのぅ。イッヒヒヒ﹂
ホレス師匠の注意に、私はうなずいた。
ゴーレム
土人形を見たルアイン軍側から、動揺の声が上がる。ルアイン軍
もエヴラールの北を通過した際、城攻めに加わった者といなかった
ゴーレム
者がいるだろう。
土人形を見たことがあれば、それによって指揮官まで殺されたこ
とを思い出すだろうし、見たことがなければ、魔術師くずれのよう
にむやみにまき散らすのではない魔術を見て、大いに動揺してくれ
ゴーレム
ているはずだ。
ゴーレム
そのまま土人形を維持して数分待ってから、カインさんから合図
をもらって、土人形の手に残りの鉱石にまた血のりをつけた上で握
らせ、私は命じた。
﹁行きなさい﹂
命じると、一歩一歩クロンファード砦へ向かって歩み始める。
今回はまるで自分の分身のように、動かせた。動かし方がわから
587
ずに悪戦苦闘していた操り人形を、急にスムーズに動かせるように
なったような快感がある。
やっぱり血を使えば、今まで以上に魔力を操りやすくなるのだ。
小さなもので実験はしていたが、大物で実証できたので、私はほっ
とした。
これを思いついたのは、レジーの中に入り込んだ契約の石を、治
めようとした時のことを思い出したからだ。
とっさに﹃自分の体にも契約の石が溶け込んでるんだし﹄と、手
っ取り早くレジーの体に命じやすい契約の石の力を入り込ませ、上
手くいったのがきっかけだ。
それなら血を使えば、もっと簡単に魔力を操れるだろうと考えた。
ある意味レベルアップ前に、ドーピングで上の能力を発揮したよ
うなものだろうか。
ゴーレム
でも予想は当たった。これなら間違いなく自陣の中から土人形を
ゴーレム
操って砦の破壊までが可能だ。それ以外にも動かすことができる。
だから土人形を操る間、私は安全な場所にいられるのは間違いな
い。レジーに嘘はついていないので、自傷行為をしたことを今更レ
ジーが知っても、もう止められないのだ。
そんな私の周囲を、オーブリーさん達騎兵がカインさんと共に囲
む。
カインさんは私の傷を見てやや顔をしかめたが、乱戦の中に飛び
ゴーレム
込むよりはマシだと許可した以上、文句は言わなかった。
一方のルアイン軍は、悲鳴を上げながら土人形の進路から逃れよ
うとしていた。なにせ相手は矢を射ても痛がらない。剣で削っても
再生する化物だ。
実は再生させるのに魔力を使うので、私の魔力量的には痛いんだ
けど。
588
真っ二つに分かれるルアイン軍を見て、エヴラールの軍が突撃を
始める。
すぐに私達のいる場所を追い越していく大勢の兵。
予定では、既に森側の弓兵には伏兵が襲い掛かっているはずだ。
だからこそ騎馬も兵士もまっすぐに走っていくし、予定通りそちら
も抑えたのだろう、森側からは矢が飛んでこなかった。
地響きが足と地面に触れている手を揺らす。
その中にいるだろうレジーやアランのことを思い出すと、怪我を
ゴーレム
するんじゃないかと不安でたまらなくなる。けれどそっちに集中す
るわけにはいかない。
更に歩き回っていくらか敵軍をかく乱した土人形は、そのまま砦
へ向かわせた。
砦のルアイン軍は、かなりパニックに襲われたようだ。
狂ったように打ち鳴らされる警鐘が、ここまではっきりと聞こえ
る。
﹁キアラさん、もうここまでで十分では?﹂
ゴーレム
﹁あとちょっと⋮⋮はい、ここでいいです﹂
土人形が歩き回る必要がない地点へ到着したことで、私は地面か
ら手を離した。
カインさんが手当をするよう促し、私を抱えて馬上に戻る。
とんでもない腕力だなと思いながら、これまたポケットに入れて
いた怪我用の薬を塗って油紙に包んでいた綿紗を切り傷に当てた。
﹁⋮⋮しみる﹂
切った時とは違う痛みで、目の端に涙が浮かびそうになる。
﹁当たり前でしょう。早く包帯を巻いて﹂
カインさんが急かしながら剣を鞘から抜いて警戒する。
589
急いで包帯を巻いた私は、血と鉄の匂いが立ち込める戦場に呻き
そうになりながら、周囲へ目を向けた。
クロンファード砦からは、中に居れば危険と判断した者が、門を
開けて飛び出してくる。けれどそれも行動としては遅い。
先ほどまでは、一度吐きだした軍だけでまずは対応し、分が悪く
なれば砦に籠城してやり過ごそうとしていたのかもしれない。
けれど砦そのものを壊せそうな代物が近づいてきたのだ。そこに
いては潰されると思ったのだろう。
ゴーレム
事実、私はその通りに土人形を動かした。
爆発音にも似た音が聞こえる。それにより、逃げ込む場所を失っ
たルアイン兵が更に動揺し、その端からエヴラール軍の兵士に刺し
貫かれていく。
同時に、戦場からは投降を呼びかける声が聞こえ始めた。
﹁お前たちの避難先はもうない! 投降すれば命までは奪わん!﹂
﹁武器を捨てろ! 手を上げて恭順の意を示せ!﹂
最初は、それでもルアインの兵士達は抵抗していた。指揮官の命
令にしたがって、固まるようにして戦い続けている。
けれどそこに踊り込むようにして指揮官を打ち倒す、騎兵⋮⋮あ
れはアランか。立ちふさがる兵を馬で蹴散らすようにして討ち取る
彼の姿に、ルアイン兵は慄き、金の髪をなびかせる騎士が率いた騎
士の一団が、駆け抜けて行った後は、砂糖にたかる蟻のように押し
寄せてくるエヴラールの兵に、悲鳴を上げながら武器を捨てていく。
主戦場がクロンファード砦へ近づいていったので、私を乗せたカ
インさん達も先へ進んだ。
進むほど、周囲には立って手を上げたまま捕縛されるルアイン兵
590
の姿が多く見られるようになる。
﹁魔術師めえええっ!﹂
そんな中、私を倒せば状況が覆ると思ったのか、やり場のない怒
りをそれで晴らそうとしたのか、遠くからまっしぐらに突撃してく
る騎士や兵士達もいた。
けれどある者はオーブリーさん達がふるう槍に貫かれ、カインさ
んの剣で斬り飛ばされる。
ゴーレム
私は、今度は目をそらすわけにはいかなかった。
土人形を見ていなければ、離れているのに操作ができなくなるか
ら。
けれど時々歪む視界に、無事な右手で目元をぬぐわなくてはなら
なかった。
﹁ここで止まりましょうキアラさん。仕上げをしなくとも、十分で
しょう﹂
カインさんがそう言うが、まだここではちょっと遠い。
﹁もう少し先までお願いします。⋮⋮逃げ道を用意していても、砦
の中にいる人はもう先がないと思って、背水の陣を敷いてしまいま
す。死ぬと分かっていて戦うのは、どちらにとっても労力がかかる
ものでしょう?﹂
作戦会議の時に、そういう理由で砦から逃げていく兵は追わない
と決めていた。けれど人は、恐怖を感じすぎると足が動かなくなっ
ゴーレム
てしまう。
土人形の恐ろしさにその場にとどまってしまった兵士は、人の姿
を見た途端、そちらの方がまだ怖くないからと、必死になって剣を
振るっているようだ。
作戦時に想定した以上に、長く抵抗が続いているのがわかる。
だから戦意を喪失するほどの状況を作るのだ。
591
そのためには砦に近づく必要があった。これを話した時など、カ
インさんは大層顔をしかめたものだ。
ゴーレム
土人形は轟音を立てて、砦の外壁に新たな出入り口を作っていた。
ゴーレム
弓矢や剣で斬りかかられて、さすがに体が少し削られてきている。
そろそろ持たなくなるかもしれない。だから私は、土人形に手に
握らせた銅鉱石を、少し離れた外壁の上に置かせた。
﹁⋮⋮仕上げ、します﹂
ゴーレム
私は馬を降ろしてもらう。そして再び地面に手をついた。
先に土人形を解体する。近場にいたルアイン兵達を埋め尽くすよ
うに。
それから外壁の上にあるだろう、銅鉱石の気配を追う。さすが自
分の血を使っただけあり、なんとか補足できた。これで砦が木造だ
ったりしたら、気配なんてつかめなかったんだろうなと思いながら、
魔力を届かせた。
ゆるりと、砦の外壁の上が震えたように見えた。
それから雪崩れるように砂になって石がくずれていく。
ざらりと溶けるように外壁が大きくえぐられ、悲鳴のような声が
聞こえてきた。
これで、壊された場所さえ死守したら、砦に籠れるという逃げ道
はなくなったはずだ。逃げることを忘れて抵抗していた者も、砦を
捨てて走るしかなくなったことに気付くだろう。
何より人の力ではなし得ない事象に、ルアインの兵士達の中には
戦意を失った者も多いはずだ。
ぼんやりと考えながら、壁が一部えぐれるように無くなってしま
った砦を見つめて立ち上がる。
592
エヴラール軍から、更なる鬨の声が上がった。
戦いは、もう終わったようなものだった。
﹁キアラさん、調子はいかがですか?﹂
カインさんが馬から降りて、私の腕を掴んだ。
﹁え、ああ⋮⋮﹂
そうだ、最近魔術を使って倒れることが多いから、それでカイン
さんに尋ねられたのだろう。でもそんなに疲れた感じはしない。
﹁大丈夫です﹂
﹁手は痛くないんですか?﹂
﹁え? そうですね、思ったよりは﹂
というか、カインさんの表情が今までになく険しい。表情筋があ
まり動かない人なのに、こんなあからさまな表情になっているのだ
から。
﹁あの⋮⋮怒ってるんですか?﹂
﹁自分の手をナイフで切りつけてるのを見て、気分がいいわけがな
いでしょう。自分を粗末にしているようにしか思えませんよ。しか
も予想以上に大きな傷を作って⋮⋮﹂
確かにこれ、リストカットみたいな真似だよね。傷薬が優秀なも
んだから、平気だろうって思っちゃうだけで。
﹁しかも砦に近づきすぎました﹂
﹁でもカインさん、これは計画通りですし﹂
﹁あなたが安全だとわかる策だったからですよ。それに予想以上に
ルアイン兵も戦意を喪失するのが早かったから、私やオーブリー殿
達で守れると思ったからです。でなければ移動は許しませんでした﹂
実際、戦いは既に掃討戦に移っていた。
593
周囲では怪我をしたエヴラールの兵士を仲間が助け起こしたり、
手当をはじめたりしている。捕縛されたルアインの兵士を一か所に
集めたりと、事後処理を始める者もいた。
私の周りはほとんど戦争が終わった状態だった。
ゴーレム
﹁あと、本当にあなたが決めたら絶対に引かないとわかるからです。
どうせ止められたら、こっそり実行したあげくに、また土人形に乗
って前線に行くつもりだったのでしょう?﹂
呆れたように言われて、私は笑って誤魔化す。
﹁だって、こんな小さな傷で沢山の人が助かるなら、ためらう方が
非人道的じゃないですか﹂
﹁そんなことを言って、あなたは⋮⋮自分一人が犠牲になってすべ
ての人が助かると分かった場合、死ぬつもりなんですか?﹂
表情も変えずに急にそんなことを聞かれて、私は戸惑う。
﹁え、でも。知らない人でも無差別にってわけじゃ⋮⋮﹂
全く知らない人十人のために、そう考えられる自信はない。たぶ
んカインさんやレジー達がその中に入っているなら、悩んだ末に私
はそうするだろうけど。
素直にそう思って、私は気付く。
あれ。私って案外そういうのは怖くないのかな? 殺されるのが
嫌で逃げてきたはずなのに。
あの時は悪役として死ぬのが嫌だったし⋮⋮。え、私悪役じゃな
ければいいの? でも死ぬのは怖い。なんか昔ほどじゃない気がす
るけど。そう思うけど、一方でレジーを助ける時とか、全く死ぬか
もしれないことが怖いとか考えなかった。
どこか死ぬっていうのが遠い世界のことみたいで⋮⋮。痛いのは
嫌だけど、そんなに、怖くない?
594
なんだろう。戦場に立ちすぎて、麻痺してるのかな。自己犠牲精
神にあふれてる人間じゃないと思ってたんだけど。
私がこんがらがっていると、近づきながら呆れたように言う人が
いた。
﹁ウェントワース、キアラはそんな脅しぐらいじゃ屈してくれない
よ﹂
レジーだ。こちらも王子が率先して行動する必要がなくなって、
引き上げてきたのだろう。けれど戦の中を駆け抜けたために、彼の
軍衣にも血の跡がいくつもあった。
﹁今回は砦の攻略で、長引く心配があったから許可したけど⋮⋮他
人に傷はつけられなくても自分で付けるんじゃね﹂
レジーは、じっと私の左手を見た。う⋮⋮こわい。
﹁私に良い案があるんだ。ぜひキアラの傍にいる君には協力してほ
しい﹂
レジーに誘い掛けられたカインさんは、ため息をついて﹁ぜひ後
で伺わせて下さい。そのお話に乗った方がいいようですから﹂と返
事をしている。
ということは、今度はレジーの計画にカインさんが賛成しちゃっ
たわけで。
げ⋮⋮なにされんだろ私。こ、こわい。
どうやって逃げようかと思った時、ふとどこからか視線が向けら
れている気がした。
振り返っても、街道をはさんで向こう側には、山しかない。
気のせいだろうと、私は思った。
◇◇◇
595
﹁子供⋮⋮か?﹂
灰色の目をすがめて遠くを見る青年の、やや乱暴に伸びた赤味が
がった茶の髪を風が更に乱す。馬足を止めさせてしまった彼を、傍
にいたやや年下の少年が促した。
﹁ちょっとイサーク様。イサーク様ったら、お遊びの時間はおしま
いですよ! 早くここから離れましょう!﹂
﹁もう少し観察しても、別に構わんだろうが? せっかく魔術師が
いるという話を聞いて下見に来たってのに。それに俺には優秀な部
下が何人もいるんだ。奴らに任せておけば占領地の運営も残党の掃
除も問題ないだろ。⋮⋮何せ殺すだけの作業だからな。それより俺
は、殺すのに時間がかかりそうな奴と遊びたい﹂
くくっと喉の奥で笑う青年が口の端を上げると、風狼のように獰
猛な顔つきが、更に凶悪な雰囲気に変わる。
青年を促そうとしていた少年が、ため息をついた。
こういう顔をしている時のイサークは、後からでもどうにかして
目的の相手と遊ぼうとするのだ。自分も被害に遭ったので、しみじ
みと狙われた相手に同情しそうになる。
今ならば⋮⋮あの土の巨人を呼び出した魔術師に。
﹁しかしミハイル。あの土の巨人、足を一気にぶっ潰せば倒れると
思うか?﹂
﹁どうやってそれを実行するんですよ⋮⋮﹂
﹁お前が考えろよ。俺の軍師じゃねぇか﹂
﹁軍師じゃないですよ。僕はただの侍従のはずなんです﹂
従軍させられてることそのものが不服だという意味を込めて抗議
したが、ミハイルの主は一顧だにしない。
596
﹁俺がそうだと認めたらそうなるんだよ。王なんだからな﹂
597
砦攻略の後始末
ルアイン軍は倒した。
私という魔術師がエヴラールにいたこともあって、警戒していた
ルアイン側は2万近い数の兵を置いていたようだが、その四分の一
は私によって土の下に埋められ、さらに四分の一がエヴラール軍兵
士達によって倒されたらしい。
ルアイン軍としても、私の能力がエヴラールの時と同じと見込み、
限界が来る時間を待って総攻撃をかける予定だったようだ。そのた
め砦に半数を温存していたらしいが⋮⋮上手くいかなかったのは、
ひとえに私のせいらしい。
むしろ最初から私を無視して総攻撃をかけられたら、味方の被害
が大きかっただろうというのが、通りがかりにねぎらって下さった、
戦場で軍衣をまとっていても紳士に見えるエダム様の談だ。
その時私は、レジーによって頭からマントを被せられていたので、
どこか怪我をしたのだと思われたようだ。
怪我は、自分でつけたものだけだった。
それよりもレジーには、泣きはらした顔だったことを問題視され
たようで。彼は指揮をとるためその場を離れる時に、自分のマント
を被せて行ってしまったのだ。
でも、私どうしたんだろう。
大っぴらに泣いてたせいか、今回はあまり戦争に参加することが
苦しくて辛い感じが薄い。慣れてしまったのだろうか。そう思うと
どうしようもない罪悪感が湧いてくるけれど。
598
それに沢山の人がいる場所で泣き顔のままでいたら、自分で恥ず
かしいと思って隠したと思うのに、何とも思わなくなってた。戦場
で、殺し合いだなんて極限状態に置かれたせいだろうか。
とりあえずクロンファード砦は奪還した。
そして砦としての機能が目減りした。私が壁を壊してしまったか
らだ。
あげくに砦の中の死者を片付けないと、捕虜を入れておくにも一
休みするにもちょっと⋮⋮な状態だった。
なので今度は血を使わずに、一度休みを入れてから掃除を手伝う
ことにする。私が壊した分については、人力で掃除をするのも、壁
を戻そうとするのも、何か月かかるかわかったものではないからだ。
ホレス師匠には、疲れや自分の中の魔力の状態はどうなのかと聞
かれたが、思った以上に調子は悪くない。
そこで現場復旧および補修に手を上げ、兵士の皆さんにもろ手を
ゴーレム
挙げて歓迎されたわけだが。
ゴーレム
困ったのが、土人形でやるには砂や土って動かしにくいってこと
だ。土人形の手からさらさらこぼれちゃうので。
﹁人型にしなくても良いのではないか?﹂
﹁それもそうですけど、なんか動いてる姿を想像できないというか
⋮⋮﹂
ホレス師匠にそんな提案をされたものの、私は悩む。
掃除だと思うと、むしろ巨大箒が欲しい。しかしこの土の下には
思いきり私が殺してしまった人達がいる。あまり死に顔をさらさせ
たくないし、掃き出すような乱暴な真似もしたくない。
こう、ベルトコンベアーで運ばれるように土が移動してくれたら
599
いいんだけど。でも土全部を動かせばさすがに私もすぐに力尽きて
しまうし⋮⋮。
﹁あ﹂
思いついて、とりあえず銅鉱石を使って、背丈が低くて下に足で
はなく車輪のようなものを四つつけ、前面にアームと横に広いシャ
ベル部分をつけた、いわゆるブルドーザーをつくってみる。
シャベル部分はもちろん、下に滑り込ませるようにして土を乗せ、
運べる形にした。
﹁なんじゃこりゃ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
出来上がりを見て、ホレス師匠がすっとんきょうな声を上げ、カ
インさんが目を丸くしていた。
この世界でブルドーザーなんて見たことある人いないもんね。
ぶるるんとエンジン音をさせたりはしないが、魔力によって固ま
った車輪がごろごろと動き始めた。そのまま目の前の砂をざざざと
救い上げ、落とさないように持ちあげて砦から少し離れた場所へ移
動。
車なんて運転したことがなかったので、ちょっと動かすのにこつ
が必要だったけれど、人の手の何倍もの速度でくずれた土人形の残
骸も、砂になった砦の壁も撤去していく。
一時間ほどしてようやくなんとか形になったところで、穴を開け
た場所に即席の壁を作る。高さとしては3メルほどあればいいだろ
う。急場しのぎなので。
そして積み上がった土は、その下に深い穴を作成して埋め、誰も
踏まないように土の柵を作った⋮⋮ここは墓地なのだから。
600
一仕事を終えて、深く息をついた私を、カインさんが休める場所
へ連れて行ってくれる。
砦の中はまだ敵兵がいないかの確認や、状態のチェックなどが必
要なので刃入れず、砦の傍にあるやや大きな川の傍だ。
むしろそれがあるから砦を立てたのだろう。飲み水は用心のため
井戸から汲み上げるとしても、それだけで生活用水をまかなうには、
砦じゃ使用人なんていちいち雇っていられなくて不便なのだろう。
私が誘導されたのは上流側だ。
兵士達いなくて静かなそこで、まずは手を洗う。
それからずっと被ったままだったレジーのマントを外す。折りた
たんで横に置き、右手で髪を束ねた私は、岸辺に膝をついて川に顔
を突っ込んだ。
泣いたせいでまだ腫れていた目の周りが気持ちいい。
﹁ちょっ、飲んじゃだめですよキアラさん﹂
慌てたようにカインさんに言われてしまった。いや、さすがに川
の水は飲みませんよ。元の世界の衛生観念的にも、川の水を直で飲
むとかせっぱつまらないとしたくはないです。
﹁大丈夫ですよ。でもたまにこう、豪快に水に顔を突っ込みたい気
分になりません?﹂
おかげですっきりした。
血や土で汚れた手も洗えたし、気分も良くなった気がする。
そうして一息ついている間に、砦の内部の確認が終わったらしい。
逃げた敵を追い散らす方へ向かっていたレジー達が戻ると、私も中
に案内されたのだった。
砦の中には貴族や将官用の居住区が主塔にあった。
601
石造りの建物は、あまり居住に適さない。守りを主眼にした作り
なので窓も小さく、昼でも落日の頃のように薄暗いのだ。それでも
夏なので、冷たい石造りの主塔の中でもある程度は問題ない。
日が暮れると、ほんの少し肌寒い気がするほどの涼しさだ。
しかし本格的な夏に足を踏みこんだこのころ、昼間はそこそこ暖
かい。
食事後にお湯だけ少しもらった私は、濡らした布でぬぐって埃や
汗を落としすっきりした。
お湯を入れてもらった小さな水甕を、煮炊きする場所へ戻しに行
った後、その近くで髪が濡れたレジーと会った。
﹁あ、染めてたの落としたんだ﹂
廊下の燭台の暗い明かりでも、元通りに銀の髪に戻っているのが
わかる。いつも通りにきらきらしているから。
﹁ずっと気になってたからね。いつこんなことができるかわからな
いから、今のうちにと思ったんだ﹂
確かに、今日は砦に入ることができたから余裕があるけれど、今
後行軍先の町は、基本的にルアイン兵がいると思わなければならな
い。
立ち寄るにも戦闘後になるだろうし、もし市街地で戦闘など起こ
った日には、町の復旧で悠長なことも言っていられなくなるし。
野宿でも私が頑張れば風呂ぐらい用意できるけれど、気を抜いて
いる所で襲撃される可能性があるので、結局我慢することになるだ
ろう。
結果、水浴び時間を交代で取るのが関の山になる。
染粉はさすがに水をかけたぐらいでは落ちないので、下手をする
とレジーはカッシア男爵の城まで金髪のままの可能性もあったのだ。
602
なんとなく、髪を拭くレジーと一緒に部屋の近くに戻る私は、後
ろからバタバタとした足音に振り返る。
息を切らせて走ってきたのは、子鹿色の髪のレジーの侍従君だ。
﹁殿下、お待ちいただければ髪もわたくしがっ⋮⋮﹂
﹁ああ気にしなくていいよ。お前も私の世話の他にすることがある
だろうし。慣れない行軍に参加したんだ。初めての場所では上手く
回らないのはよくあることだよ﹂
レジーの慰める言葉に、侍従君の目にじわっと涙が浮かぶ。
そうか。彼も軍行動についていくのが初めてだし、そんな中でレ
ジーの身の周りをあれこれ配慮しようとして、何かに手間取ってし
まったんだろう。
﹁でもせめて髪を乾かすのは私が⋮⋮﹂
侍従君が抱えているのは、温められ乾いた布の束だ。どうにかし
なければと用意して、駆け付けたのだろう。
なんだか本当に大変そうだったので、私はつい口を出してしまっ
た。
﹁よかったら、私が代わりになる? 髪乾かすの、自分だけじゃ大
変でしょ﹂
髪が長いがための苦労は私もわかる。腰近くまである私よりは短
くても、レジーだって乾かすのに時間がかかるはずだ。
﹁え、でもキアラ様にさせるわけには⋮⋮﹂
渋った侍従君だったが、レジーが布をひょいと取り上げたところ
で言葉が止まる。
603
﹁良ければキアラに手伝ってもらおうかな。さっき水も取り替えて
もらったばかりだし、お前はもう休んでていいよ。私達みたいに鍛
えているわけじゃないし、明日に備えておくといい﹂
﹁え、あの﹂
びっくりした顔の侍従君を置いて、レジーが﹁それじゃおやすみ﹂
と言って歩み去る。
私の手を引いて。
え、えっと。呼べばついていくのに、どうして手を引く必要があ
ったのかな。
わけがわからないながらも、侍従君が安心して休めるよう、笑顔
で手を振っておく。侍従君は申し訳なさそうながらも、ちょっと恥
ずかしそうな表情でぺこりと一礼してくれた。
そうしてレジーの部屋まで行くと、レジーの騎士の一人、砂色の
髪のフェリックスさんが立っていた。
こちらを見て、すごく楽し気ににやにやとしている。
⋮⋮手を繋いでるのが悪いのかな。そうなんだろうな。でも人前
で、王子の手を振りほどくっていうのも失礼な気がするし。
まごまごと考えているうちに、フェリックスさんが扉を開け、レ
ジーと一緒に部屋の中へ入ってしまう。
しかもフェリックス君、なぜか一緒に中に入らずに扉を閉めてし
まった。
⋮⋮⋮⋮いいんだろうか。
確かにレジーは、ついこないだも私の部屋に入って扉を閉めてし
まったりしたけど。もうレジーの周囲では、私はこういう扱いと決
まってしまっているんだろうか。
まぁ今回は侍女みたいな仕事をするわけだしと思い、何も言わな
いことにした。
604
中は砦の将軍が使う部屋だったのだろう、簡素ながらソファセッ
トなんかもある。
とにかくレジーの髪だ。暖かい季節だからといって、放置してお
いて風邪をひかれては困る。
﹁座って座って﹂
レジーをソファに座らせ、背もたれの後ろに立って乾いた布でレ
ジーの髪の水分をとっていく。
夏で空気が乾燥しているおかげか、乾きも早い。後ろ髪をだいた
い終えたので、今度は前側に回った。
と、レジーがじっと見つめてくるので、なんだかやりにくい。
思わず乱暴にレジーの頭に布をかぶせてしまった。でもそれでレ
ジーの視線が隠せたので、私は中腰になって作業を続ける。
なんかもう早く終わらせたい。だけど王子の髪を乾かすのに、犬
の毛を乾かすみたいな乱雑なこともできないし。
それにいつまでも被せておくわけにもいかない。横髪を拭うため
に布を取り去ると、レジーは目を閉じてくれていた。ほっとして、
私は作業を仕上げることに集中する。
そしてもうすぐ終わるというところで、ふと耳に触れるものがあ
った。
﹁ひゃっ﹂
くすぐったさに驚いて飛びのこうとしたが、耳に触れていた手が
肩を掴んでいて、引き戻される力がかかる。
おかげで態勢をくずした私は、レジーの方へ向かって倒れこんで
しまう。
足でふんばろうとしたが、引き寄せられるようにレジーに抱きし
められてしまった。
605
触れた頬や肩、支えるように背中にまわされた腕が、暖かい。暑
い時期だけど夜の砦の空気は冷えていて、それでいつの間にか私の
肩や腕も冷たくなっていたのだろうと思う。
ぬくもりが居心地よくて⋮⋮。何度かレジーに抱きしめられたこ
とがあったせいで慣れてしまったのか、逃げだしにくい。
でも緊急の理由もないのに、こんな態勢でいちゃいけない。
とっさに自分を支えようと、ソファの上にのせていた右ひざに力
を入れて、起き上ろうとする。
けれど私の動きを阻止するように、レジーが背中に回した腕に力
を込めてくる。
どうして離したくない、というようなことをするのか。
﹁あの、レジー? ごめん、その、おどろいたものだから、倒れち
ゃって﹂
だから受け止めてくれたのはうれしいけど、このままだと良くな
い。どうしようと思っていると、レジーの手が、なぜかぽんぽんと
背中を軽く叩く。
﹁キアラも今日は疲れただろう?﹂
﹁えと、うん⋮⋮﹂
答えながら私は困惑していた。なんだろう、暖かいし、背中をな
だめるように叩かれて⋮⋮まるで、寝かしつけられているような感
じだ。
思わず体から力が抜けて行きそうな気がした。こう、布団に丸ま
って眠ってしまいたいような感覚になる。
あくびがでそうになったところで、レジーが言った。
﹁明日決めるけど、たぶん砦に数日滞在するから、今日はゆっくり
606
休んでおくんだよ﹂
そうしてレジーが自分の腕から解放してくれる。
名残惜しいような気持ちに戸惑いながら、縋り付いたままになっ
ては迷惑になるからと思って私は立ち上がる。
すっかり髪が乾いたレジーもソファーから立った。
そうしてレジーに部屋まで送られたのだが、すっかり眠くなって
いた私は、部屋の机の上に置いた師匠に挨拶だけして、すぐに寝台
に潜り込んだのだった。
翌日、ドレスを着たまま眠ってしまったせいで、スカートがしわ
になってしまっていた。
607
実験します
その日の夢は、とても懐かしくて苦しかったような気がする。
傍にいた人が消えてしまったような。
探してさまよって、さまよって。ようやく腕に触れられたと思っ
た瞬間に、相手を見ようとしたら泡のように消えてしまう感じの、
曖昧な夢。
起きてみて、昨日よりも暑いなと思って、袖なしの服に着替えた
時にはもう、忘れてしまったけれど。
しかしどうしてあんなに眠くなったんだろう。
自分の反応もおかしいけれど、レジーも変だ。
世話をして欲しいとねだる様に手を掴まれて連れていかれたとこ
ろまでは、レジーも気安い人間と話でもしたかったのかと思ったが、
何もしゃべらなかったし。
侍従君を休ませてあげたかっただけかと思ったら、急に抱きしめ
てくるし。
かといってそれが恋愛感情からのものかと焦っていたら、どこか
のお母さんみたいなことをするし。
⋮⋮それでなんとなく眠くなる私も私だ。
なんにせよ、レジーの気持ちがよくわからない。
レジーは、自分のしたいことをしていた私に、自分を重ねていた
から優しくしたと言っていた。だから友達ではあるけれど、過剰に
私を気にしてくれるのは、自分を投影しているからだと⋮⋮恋愛と
かそういうことじゃないんだと思った。
なのにどうして、あんな風にしたのか。
無事を喜ぶ家族というには、ほんの少し違う行動だと思うのに。
608
﹁いや、わかっても困る、か⋮⋮﹂
もし恋だったとしても、私はどうにもできない。
彼はファルジアのただ一人の王子だ。その人から請われても、ど
うしたらいい?
元を正せばぎりぎり貴族の出身で。それがどうにかなっても⋮⋮
私は魔術師だ。
たぶん、普通の人とは違ってしまっているのに。普通の人は、死
ぬ時に砂になんてならないんだから。
魔術師を失えないから、自分を優先するなと言われてから、私は
より強く疑問に思うようになっていた。
私は、本当に人間のままなんだろうかと。
なんにせよ、慌ただしく出発したり、戦闘を警戒するような状況
じゃなくて良かった、と私は息を吐く。
エヴラール軍にも負傷者等がいることと、カッシア男爵領の内部
を斥候に調査させるため、私達は数日砦に滞在することになってい
るのだ。
そして今日は急に気温が上がったため、行軍がストップすること
自体は、兵士達にとっても良かったようだ。
窓から見れば、軍衣の下は半そでシャツ状態の兵士達が、交代で
警備や戦場跡の処理などをしながら、川で涼んで暑さをやり過ごそ
うとしていた。
そんな中で、近隣からカッシア男爵城まで偵察に向かった兵士さ
んたちには頭が上がらない。暑い中お疲れ様です。
﹁もう夏だもんね﹂
ふと前世の夏を思い出す。
609
かき氷が恋しい。だけど私は土魔法しか使えない。悲しい。
せめて水が使えたりしたら、簡易シャワーとかやって遊べるんだ
けども。
砦の中にある部屋は、石の洞窟のようにいくらか涼しいけれど、
やっぱり暑い。
なのでベアトリス夫人が仕立ててくれていた袖なしのドレスだけ
を着て、部屋でごろごろしていた私は、師匠に尋ねてみた。
﹁師匠。私って土以外の魔術って使えないんですかね?﹂
暑さを感じない土偶なホレス師匠は、あっさりと答えてくれる。
﹁使えぬこともない﹂
﹁ふぁっ!?﹂
うそほんと!?
﹁ただしこれも素質じゃの。ただ主となる素質の術以外は、効果は
まぁやらない方がマシ程度の代物になるが﹂
﹁え、でもできるんですよね?﹂
﹁かすかに火の素質を持っている奴が、10年ねちねちと頑張って、
ようやく火打石の代わりに火種が出せる程度じゃな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮10年﹂
﹁そう、10年じゃ﹂
そんなに時間がかかるんじゃ役に立たない。しかもそんなちょび
っととか。努力するだけ無駄だ。
﹁稀にそこそこの努力で二種類目が使える者もいると聞いたが、1
00年に一度の逸材じゃろ﹂
そういえばエヴラール辺境伯城の書庫で知った魔術師は、二種類
の術を使っていた。あの人はとんでもない天才だったのか。なんて
610
ことだ。
ため息をついて水や氷の魔法を模索することをあきらめた私は、
とりあえず土を操ることについて極めようと考えた。
ちょうど午前中から、私は土木作業機械として駆りだされた。
昨日は戦闘で疲労困憊していたので、後回しになっていた戦場の
ご遺体の処理があるのだ。
袖なしドレスの上から、肩が見えないようにとベアトリス夫人が
用意してくれていたボレロを羽織った私は、まず仕事を片付けてし
まう。
﹃暑いと臭いがひどくなるから!﹄と前置きして、敵味方問わず
ぽこぽこと全ての遺体を埋葬。
血の浸みこんだ土も処理をすると、空気が清々しくなり、暑さと
臭いで鬱屈していた兵士の皆さんも、誰も批判を口にしなかった。
暑さは辛いけれど、お天道様ナイスです。
もう一つ言うなら、この暑い中、えっちらおっちら穴を掘る作業
をしなくて済んだ兵士さんたちは、それだけで私を褒めた。
﹁エヴラールの奴に聞いてたが、こりゃほんとに便利だ!﹂
﹁毎回ってわけにはいかないんだろうが、助かるなぁ﹂
﹁魔術師様ありがとうなぁ!﹂
喜んでくれる彼らに、私は黙って微笑む。
これで状況に慣れてくれたら、夏が過ぎてからも敵兵埋葬が自然
なものだと思ってくれるようになるだろう。よしよし。もし慣習に
なったりしたら、私が埋葬しなくても自主的に埋めてくれるに違い
ない。そうなることを祈ってます。
そんな作業後、日影でちまちまと実験をする。
611
レジーやカインさんには嫌がられたけど、血塗られた銅鉱石とい
うホラーな代物で、使用時間が伸ばせることはわかったのだ。今度
は数を増やしたい。
ゴーレム
そこで小さな土人形をできる限り作ってみた。隣に師匠に立って
ゴーレム
もらって、同じ大きさで作成。でも土偶にすると師匠の見分けがつ
かなくなるので、いつもの石が積み重なったような形の土人形ミニ
チュア版にする。
﹁ひい、ふう、みい⋮⋮10体か﹂
ゴーレム
﹁この大きさだと結構行けますね﹂
このずらっと並んだ土人形の群れ⋮⋮何かを思い出すな。歴史の
教科書で見たことがある。なんていったっけ⋮⋮。
﹁兵馬俑?﹂
どこぞの皇帝の墓地に、本物の人や馬の代わりに埋められてたあ
れだ。小さい物ならまだしも、実物大のはけっこう怖かった。
実際、ざっざっと歩くミニチュア達でさえ、それを見た兵士達が
﹁なにあれ怖い﹂﹁魔術師の発想っておかしい﹂とか言っている。
変にちょっかいを出されるより、そういう評判の方がいいかなと
思うので放置。腕力も逃げ足もゴミな私なので、男の人に絡まれた
上、手で触れるのが板だけとかいう場所に連れ込まれたら、本気で
抵抗できなくなるので怖がられておく方針なので。
ゴーレム
とりあえずこのミニ土人形兵馬俑を並んで歩かせてみる。
心の中で﹃いっちに、いっちに﹄とリズムをとりながら前進。く
るりとターンさせて戻ってこさせる。⋮⋮なんだこれ楽しいな。
﹁ね、師匠! これがいっぱいあったら、もっと怖いですよね?﹂
612
﹁これでも十分奇怪じゃろ⋮⋮﹂
﹁でもちょっとだけじゃ、戦場で目立たないですし﹂
いっぱいないとね、と思いながら、どこまで量産できるか限界に
挑戦。⋮⋮結果、同じ動作をさせるだけなら、50体まで可能らし
いことがわかった。
﹁何かに使いたいなぁ⋮⋮﹂
ゴーレム
じっと見つめた私は、とりあえず遠隔操作がどこまでできるかを
試すため、ミニ土人形を前進させ続けてみる。
ゴーレム
三列になって進む土人形は、出会った兵士を﹁わっ!﹂と驚かせ、
やってきたカインさんの目を見開かせ、アランが踏みそうになって
飛び上がる光景を見せてくれてもまだ進む。
ゴーレム
﹁いいねいいねー﹂
ゴーレム
そうして土人形は、視界から遠ざかり⋮⋮見えなくなった。
﹁あ、結構もつんだね﹂
びっくりなことに、見えなくなるまでミニ土人形は歩き続けた。
ゴーレム
止まれと指令を出した上で後を追いかけてみると、かなり先の方で、
くずれて土になった土人形達がいた。
傍を通りがかった騎士が、目の前でくしゃりと崩れたのを見て、
腰を抜かしていた⋮⋮ごめんなさい。
そんな実験を色々と繰り返して過ごすこと二日。カッシア男爵領
の中でも砦に近い町へ偵察に行った人が帰ってきた。
その町は、カッシア男爵領メイナール市。
今後の行動予定としても次に訪れることになる町で、ゲームでは
ルアインが雇った傭兵団によって占拠、略奪されていた場所だった。
613
メイナール市傭兵団討伐 1
﹁アラン様が仰られていた通り、メイナールは傭兵団が占拠してお
りました。ルアインが報酬の代わりに略奪を許可していたようです。
傭兵団の人数は合わせて200人程度かと。3つの傭兵団がいる
ようです。メイナールは一度ルアイン軍によって領主等が殺害され
ていることもあり、市民自身にも抵抗するだけの武力はないようで
す﹂
報告を聞くため召集されたのは、いつものメンバーだ。
レジーとアラン、エヴラールの隊長二名。各家の代表と私、それ
ぞれの護衛だ。
メイナール市は、既にルアイン軍が押し寄せてきた時に壊された
家などもあり、少なくない人が死傷し、市から逃亡しているという。
逃げられなかった人は、傭兵達の要求に応じるしかなく、怯えなが
ら店を開いたりいているそうだ。
傭兵団は略奪を行った後は、拠点となる館や宿などに逗留してい
るらしい。
どうもルアイン側から、クロンファード砦及びカッシア男爵城に
ファルジア貴族の軍が来た場合には、駆け付けるよう依頼を受けた
ため、逗留しているそうだ。
そしてクロンファード砦が落とされたことで、ならばと、カッシ
ア男爵城へ向かう準備を始めているらしい。
﹁おそらく、今を逃すとメイナールの傭兵団がカッシア男爵城にい
るルアイン軍と合流してしまうかと﹂
614
合流されてしまうと、やっかいなことになる。
傭兵というのは、戦闘技術を売りにしている集団だ。
世界に小競り合いが溢れている状況だからこそ、彼らの商売は成
り立っている。むしろ戦争が少なくなると、別に大金出して雇わな
くてもいいし、みたいに各国から無視されて、商売ができずに解散
することもあるとか。
商人の護衛等は傭兵団に依頼するほどの大掛かりな代物でもない
ので、そういった仕事で稼ぐことなどできないらしい。
彼らが戦争に参加することで何が問題になるかといえば、戦争経
験だ。
軍の主戦力は、普段農村で働く徴用兵が大半を占める。彼らは戦
争経験がほとんどないことが多い。だからいざと言う時に恐怖で逃
げだすこともあるし、敵に押されているなんていう流言飛語が耳に
届けば、すぐに負けてしまった気になって降参してしまう。
けれど傭兵たちは戦争経験があるから、それが噂だけなのか、戦
況をある程度判断することができる。また金銭契約がある以上は雇
主を勝たせなくてはならないので、それなりに士気が上がるように、
徴用された兵士達を鼓舞することもあるのだ。
戦闘になっても、慣れている彼らは厄介だ。騎士と一騎打ちをし
て十数人を血祭りに上げる者もいるのだから。
ちなみに、エヴラール軍に関しては、私が戦意高揚の役目を担っ
ている状況だ。
使い方によっては数千人の兵に匹敵する戦力だ、なんて私を持ち
あげてくれたのは、老紳士なエダム様だったか。
そんなわけで、カッシアの軍に傭兵がいないのなら、その方がい
い。
615
ぜひ合流させたくない。
だから傭兵団をメイナール市で倒すことになった。
﹁しかし軍全体でメイナールへ行けば、移動も遅くなる。そのため
事前にあちらに察知され、こちらが到着する前に逃げられるだろう﹂
発言したのは、テーブルの下で私の攻略ノートをこっそり片手に
持ったアランだ。
﹁だからその前に叩くため、僕が500を率いてメイナール市へ向
かいたい。魔術師キアラ殿も同行する﹂
視線を向けられ、私はうなずいた。
少数で向かうのが最適だけれど、傭兵部隊には確か風狼使いがい
たはずだ。人ではないからこそ厄介な敵である。傭兵の倍の数をそ
ろえただけでは、かく乱されて勝てないかもしれない。
そこでもしものための保険で、魔術師は一緒に行くべきとアラン
と決めたのだ。
カインさんも、策としてはその方がいいと同意してくれた。
⋮⋮止められるかもしれないと思っていたので、許可したのは意
外だったのだけど。
そして意外なことに、レジーもその提案を否定しなかった。
﹁わかった。そちらはアランに任せよう﹂
あっさりと承認し、他の人々も同意する。
この順調さがなんだか怖かったが、私とアランは早速メイナール
市へ向かうことになった。
メイナール市まではそこそこ距離がある。昼を過ぎてから出発し
た私達がメイナール市の手前まで来た時には、既に日が暮れ始めて
いた。
616
﹁傭兵団が三つっていうのは、お前の記憶と同じようだな﹂
﹁うん、てことはやっぱりこの三つが拠点になってると考えていい
と思う﹂
この辺りならば、まだ敵が哨戒を出していたとしても見つかるま
いと、メイナール市の少し手前の休憩地点で私達は最終確認をして
いた。
たたき台になっているのは、私の肉筆で文字が書かれたノートだ。
小さなノートの上に、三人で頭を突き合わせながら、現在地と攻
撃するルート、ポイントを決めていく。
地図を書いたおかげで分かりやすいし、説明しやすいのは間違い
ないんだけど、やっぱり恥ずかしい⋮⋮。しかも後から書き足した
カインさんの字が、綺麗で泣きたくなった。
ああ、もっと綺麗な字だったらなぁ。
そんなことを思ってたら、アランが横から炭筆で小さく書き足し
た。
﹁ここはほら、あれじゃないのか?﹂
それを見て、私は心が安らいだ。⋮⋮良かった。アランの字が下
手で。
君は救世主だ、と思いながらにこにこと笑顔を向ければ、アラン
は嫌そうな表情になった。
﹁おい、なんで急に上機嫌になったんだ?﹂
﹁え? なんでもないよ? うふふふ﹂
彼の心を傷つけないよう、字が下手だと言うわけにはいかない。
字が下手仲間として、仲良くしたいのだから。
﹁気持ち悪いなぁ。何企んでるんだ? どうせろくでもないんだろ
617
うけど﹂
しかしアランは君が悪そうに私から距離を離す。う、そんな嫌わ
なくてもいいのに。
﹁そういう表情は、アラン様にはもったいないだけなので、気にな
さらない方がいいですよ、キアラさん﹂
するとカインさんが、慰めるように私の頭を軽く撫でた。
言葉だけならひどく好意的で戸惑うが、撫でるまでがセットだと、
なんだか妹扱いされているみたいでくすぐったくて、拒否しずらく、
なんとなく大人しくされるがままになってしまう。
﹁もったいないって何だ?﹂
心底意味がわからないという表情のアランに、カインさんが﹁ア
ラン様はそのままでいいんですよ﹂と、彼にしては珍しくうっすら
と微笑みを浮かべていた。
さて、メイナール市に駐留している傭兵団は三つだ。各々が大き
な宿や市長の館を拠点にしている。
それを叩いていくのだ。
この戦闘では、傭兵団を逃すと10ターン後には周囲の家を燃や
そうとし始める。それから5ターン後に着火させるので、ちょっと
厄介だ。
リアルな事情から考えると、やはりここは大きな傭兵団から速や
かに排除が必須だろうということで意見がまとまった。
小さな傭兵団ならば、カッシア男爵城に合流したとしてもそれほ
ど大きな脅威にはならないからだ。
また、連れてきた兵を分散させて各個撃破してもいいのだが、戦
力はあまり分散すべきではないというのがアランとカインさん双方
の意見だった。せいぜい私が100人ほどの兵と共に別行動を取る
618
ぐらいなら、場合によっては認めるということだった。
そこで、まずは大きな傭兵団を排除。それから二手に分かれると
いうことになった。
記憶があって良かったことは、わざわざ内情を再度調べに行かな
くても、敵の拠点が分かっていることだろう。
﹁持ち主には申し訳ないが⋮⋮閉じ込めて、燃やしたら手っ取り早
そうな感じだな﹂
場所が分かっているので、むしろ囲い込んでしまえば、一気に傭
兵団を壊滅できそうな感じがしたのだろう。アランの言葉に、カイ
ンさんが苦笑いする。
﹁中で働かされている人間がいなければ、そういう手も有りなので
しょうが⋮⋮﹂
それなりの生活環境を求めるなら、傭兵たちだけでは手が足りな
い。それに脅せば些末な用事を押し付けられる人間がいるなら、そ
うするだろう。だからきっと、どの拠点にも下働き扱いをさせられ
ている市民がいるだろう。
彼らを見殺しにしなければならないほど、私達はせっぱつまって
いない。
そして私達は、メイナール市を傭兵団から解放したいのだ。その
立場で、無下なことをするわけにはいかない。
私も、ゲームだったらアランみたいに考えたんだろうと思う。
けれど相手が人だと認識してしまったら、逃げられなくする時点
で⋮⋮きっと怖くてたまらなくなる。
砦にいたルアイン兵を埋めた瞬間のことを考えるだけで、指先か
ら体が冷たくなっていくような気がするのに⋮⋮。
だめだめ。考えちゃいけない。
そう思って私はこっそり自分の右手の甲をつねる。
619
次に、今回の作戦で兵士を直接まとめる役としてついてきた、ア
ランの護衛騎士でもあるライルさんとバーナードさんも交えて作戦
を説明。その上で兵士達にも行動予定が伝達される。
休憩時間はこれで終わりだ。
出発した私達は一気にメイナール市間近まで接近した。
最終確認のために斥候を出す。これで問題がなければ、最初の標
的となるメイナール市長の館を襲撃する予定だ。
月明かりが届く林の中。私達は斥候に出た兵士を待っていたのだ
が⋮⋮そのうちの一人が早々と戻ってきてしまう。
﹁どうした?﹂
尋ねたライルさんに、暗闇の中で表情はわからないものの、兵士
は困惑した声で応じた。
﹁その、近くに不審な子供と魔獣が居りまして。まずはご報告をと﹂
﹁魔獣!?﹂
聞いていた私達も、思わず声を上げてしまう。
それと同時に、兵士の後ろから現れたのは、薄青灰と白の毛をま
とった、犬よりもほっそりとした脚と顔の狐。氷孤だった。
しかもその背には、5・6歳くらいの男の子がくくりつけられて
いた。
620
メイナール市傭兵団討伐 2
カインさんとアランが私の前に出る。二人の手は既に剣を抜き放
っていた。ほぼ同時に背後の兵士達も警戒して立ち上がった。
けれどその氷狐は怯える様子もなく、むしろ早く縄を解けと、隣
に立っていた斥候の兵士に背中を押し付ける。
ぐりぐりとなすりつけられて、なんだか⋮⋮羨ましいなそれ。
斥候兵の方も懐っこいのかわからないこの氷狐の態度に、どうし
ようと目線をアランに向けた。
アランが困惑した様子で言う。
﹁とりあえず⋮⋮ほどいてやったらどうだ?﹂
﹁そうだよね、荷物を降ろしたいだけかもしれないし⋮⋮﹂
同意すると、カインさんがしっかりと﹁キアラさんがしちゃだめ
ですよ﹂と釘を刺された。⋮⋮どうして触りたいと思ったことがば
れたんだろう。
とにかく兵士さんは、噛みついてくるわけでもなく、むしろすり
寄ってくるようなしぐさの氷狐から、おっかなびっくり子供を降ろ
した。
氷狐は﹁はーつかれた﹂と言わんばかりにその場でお座りして、
後ろ足でしゃかしゃかと肩の辺りを掻き始めた。確かに普通の狐よ
りやや大きい体をしているとはいえ、子供を背中に乗せて歩くには、
狐の足はほっそりしすぎてて華奢に見える。
﹁すごく人慣れした氷狐だな﹂
﹁そうなんですよ。最初から敵意は無いというように、きゅーと鳴
621
いて可愛くて⋮⋮それでどうしようかと﹂
アランの感想に、兵士がでれでれしたように答えていた。
なにそれきゅーと私も鳴かれてみたい。触りたい、抱きしめたい。
あの毛のふかふかっぷりを堪能したくてうずうずしていたが、カ
インさんが私の肩に手を置いて、注意を促すように言う。
﹁しかし氷狐は魔獣です。知能も人間並にあるはず。それがただ懐
いてくるだけならまだしも、子供を乗せていたのだから⋮⋮使役し
ている者がいたはずです﹂
そこで兵士も私もはっと息を飲んだ。
確かに。この氷狐を大人しくさせ、子供を乗せさせ、紐でしばり
つけた人がいるはずだ。そこまでできるのは、氷狐という魔獣を使
役できる、魔獣使いのはず⋮⋮。
﹁ん⋮⋮リーラぁ? リーラどこ⋮⋮﹂
そこでようやく、兵士が抱き上げていた子供が起きた。柔らかな
亜麻色の髪の子供が兵士の腕の中で、小さくみじろぐ。
きゃーぅと氷狐が鳴くと目を開けたようだが、眼前に見知らぬお
じさんの顔があったからだろう、子供は﹁ひゃあっ!﹂と悲鳴を上
げて驚いた。
﹁わわっ、落ちる落ちる! 落ち着きなさい!﹂
﹁りりり、リーラっ、リーラはっ!?﹂
可哀想な兵士はそれでも子供をなだめようとしたが、子供の方は
混乱したのか氷狐のものらしき名前を連呼する。
それももう一度氷狐が鳴き、子供は﹁リーラ!﹂と叫んでそっち
へ行きたいと手を伸ばしてじたばたとする。
622
兵士がやれやれといったように氷狐の前に子供を降ろしてやると、
子供は暗い中でもよくわかるほど笑顔になり、ぱっと氷狐に抱き付
いた。
﹁うう、リーラぁ。おばちゃんどうなったの? お家は? 火が⋮
⋮﹂
次第に何かを思い出したのか、子供は涙声になっていく。
こちらは大人しく子供のなされるままになっている氷狐の姿に驚
いていた。普通の魔獣が、飼い犬みたいに大人しくしていることな
どめったにない。せいぜい調教した人間相手ぐらいだ。けれどこの
子にそんなことは不可能だろう。
不思議すぎて私はアランやカインさんと顔を見合わせてしまう。
一方、子供の言葉を聞いた氷狐は、何かを探すように私達を見回
した後、こちらをじっと見た後で子供に私の方を向くように鼻先で
つついて促す。
﹁リーラ、このお姉ちゃん達に言えばいいの?﹂
子供が氷狐の意図に気がついたかのようにそう口にした。すると
氷狐は、私を見つめたまま、犬が喉から出したような甲高い声でキ
ャンと鳴く。
︱︱この子の話を聞いてくれと言うように。
それを子供も察したのだろう。恐る恐るながらも、私達に向かっ
て話した。
﹁あの、おばちゃんやお父さんたちを助けて! メイナールが、他
の傭兵の人たちのせいで燃えて無くなっちゃいそうなんだ!﹂
﹁え、燃えて⋮⋮って、傭兵が火をつけたの?﹂
うなずくと同時に、斥候の兵士がまた一人戻ってきた。
623
﹁大変です! メイナール市が火事に! 傭兵どもが火を放ったよ
うです!﹂
子供の話が裏付けられた。
聞いたアランはすぐに出発を呼びかけながら、兵士に尋ねた。
﹁火はどこから出火している?﹂
﹁中央の市長の館と思しき場所、あと北の広場の辺りが数か所﹂
﹁⋮⋮こちらの動きに気付いたのかもしれませんね。消火で手間取
らせている間に、逃げおおせるつもりでしょう﹂
カインさんの言葉にアランがうなずく。
﹁三手に分ける。本隊は予定通り市長の館の方へ。逃げる途中の傭
兵たちを叩く。退路を断つため、騎馬の100騎は僕と一緒に西側
の門へ。他は東側から侵入。傭兵団を叩く者が300、残り100
が﹂
﹁⋮⋮それなら、中の人のことは気にしなくてもいいね﹂
私はぽつりとつぶやく。
放火を確認し、斥候の兵士が戻ってくるまでにもそこそこの時間
がかかっている。傭兵以外の中にいた人は⋮⋮助かる可能性が低い。
逗留していた傭兵が中に居た人を助ける確率は低いだろうから。
﹁市長の館を一気に消火したら、市内を回りたい。土で消火できる
はずだから﹂
手を上げて言えば、アランがうなずいた。
﹁カイン、キアラのことは任せた﹂
アラン達が騎乗し、その間にも兵士達が移動を始める。私はカイ
ンさんに手を引かれ、騎乗した彼の前に乗せられた。
624
氷狐は子供のことをまだ傍にいた斥候の兵士に押し付けるように
押し出し、自分は私が乗った馬の傍に来た。
おう、馬がちょっと怯えてる。
この氷狐は何をしたいのだろうと戸惑っていると、ふさっとした
太い尻尾を揺らし、馬を歩かせ始めた私達について歩きだす。元々
の飼い主のところへ戻るのだろうか。子供の方はそのままにしてお
くわけにもいかず、先ほどの斥候兵が連れてくるようだ。
私達は林を抜け、開けた土地に作られたメイナール市へと道を進
む。
徒歩の兵を置いて突出するわけにはいかないので、一気に進むこ
とはできない。けれど距離はそれほど離れていないので、すぐに市
壁の内側に入ることができた。
背丈の二倍ほどの高さがある市壁に作られた門は、既に開かれて
いた。この混乱の間に逃げだそうとしたらしい、一般の人達が逃げ
だしていたからだ。
そして見えたのは、建物の屋根の向こうに上がる煙だ。その火元
が空を明るくしているため、はっきりと見える。
夜なのに明るくなった市内を、私達は進む。
石畳の道は、市外へと出ていく人がほとんどだ。傭兵たちは、逆
らわなければそれでいいのか、わざわざ追いかけて虐殺するという
ことはないようだ。おかげで、今まで目立つことを避けて潜んでい
たのだろう人々が、手持ちの荷物と家族を連れて、必死に走ってい
く。
逆流するように中央を目指した私達は、市長の館の前へたどりつ
いた。
館は左側のほとんどが炎に包まれていた。中から逃げてくる人は
625
いない。⋮⋮そして運のいいことに、まだ傭兵たちは館を出たばか
りだった。
﹁カインさんもっと近づいて、私が投げたら止まってください!﹂
﹁剣の届く範囲までは行きませんよ﹂
私の要望に応えて、カインさんが馬を走らせる。その腕に支えら
れながら、私は振り返った傭兵たちに向かって、銅貨を2・3個投
げつける。
石の上を、硬貨が跳ねる硬質の音が響いた。
カインさんが馬を止めてくれたところで、私は馬から飛び降りて
石畳に触れる。
石と土で繋がってさえいれば、私の力は使えるのだ。
距離を取って止まった私達に気付いた傭兵たちが、攻撃しようと
反転してきた。
けど、私の方が早い。
走りだした彼らは、私の作った石壁にぶつかり、隆起した石畳に
転がり悲鳴を上げた。
﹁魔術師だ!﹂
﹁あの小娘が魔術師だ!﹂
起き上った傭兵が私を指さし、転ばなかったもっと後ろにいた傭
兵たちが猛然と走ってくる。
自分が標的にされ、体格差のある人間が駆け寄ってくるという状
況は結構怖い。けれどここで怯んでいては何もできない。それにカ
インさんがいてくれる。
カインさんは後方から追いついた兵に馬を預けて降り立ち、私の
前に立つ。その間に私はすべきことを実行した。
626
石畳の石一つ一つが、みょーんと伸びていく。
長細い人の姿になった大人ほどの大きさの石人形10体を作りだ
す。石人形達は私の指示を受けて、整列して傭兵たちに向かってい
った。
627
メイナール市傭兵団討伐 3
﹁な、何だこれ!﹂
﹁うわキモっ!﹂
傭兵たちの声に、よしよしもっと気持ち悪がるがいい、と思いな
がら石人形達を進ませる。
傭兵の中には石人形を避け、こちらに向かってくる者もいた。
ばらばらと、速攻で魔術師である私を殺そうとしてきた彼らは、
カインさんの剣が一閃する度に倒れていく。
さすがカインさん⋮⋮。ゲームでは壁役とかさせてた人だけある。
攻撃力も防御力も申し分ない。
そのうちに一緒にここまできた兵士達が追いつき、アランの騎士
ライルさん達の号令で攻撃を始める。
その間にも石人形は前進。
途中から細長い腕を伸ばさせ、近くにいた傭兵に抱き付かせる。
横幅も縦幅も私とはくらべるべくもない大柄な傭兵たちが、野太
い声で驚愕の叫びを上げた。
怖いだろうなぁ。火事の火で揺らめく明かりの中、表情もなく前
進してくる細長いお化けみたいな人影に掴まるんだから。
しかも石なので、捕縛している腕は斬り落とせず、もがくしかな
い。
その様子に周囲の傭兵も怯え、こちらの兵士達がつけ入る隙が増
える。
石人形達はそのままに、私はカインさんに遠くへ銅貨を投げても
らい、さらに向こうで石畳をうねらせ、逃げようとした傭兵たちを
628
転倒させる。
ここで少しでも多く倒しておけば、他の場所にまで火を付けて回
られずに済む。
そこにさらに群がるエヴラールの兵達。さすがに傭兵も剣を持っ
ているため無傷とはいかないが、通常の戦闘よりも楽に戦えている。
あっという間に市長館の傍の道は、倒れた傭兵達と、その手を縛
り上げたエヴラールの兵という図だけになった。
石人形に捕まえられた者もきちんと縛られたのを確認し、石人形
を解除。
捕まえた傭兵は、市の人々に引き渡し、どうするかを決めてもら
うことになるだろう。
﹁この周辺にいるのはこれだけでしょう﹂
カインさんも周囲を見回して、一度剣を鞘に収める。そこに、ラ
イルさんが残りの傭兵を追って西門へ移動すると知らせてきた。
バーナードさんは半分を率いてもう一つの傭兵団の根城へ向かう
という。彼の目指す場所も火の手が上がっているので、逃げだした
傭兵を追いかけることになるだろう。
そこで私は、延焼を防ぐために市長の館に向かう。
巨大土人形を出し、火を覆うように燃えている部分へ倒れ込ませ
ながら術を解除。大量の土砂に押しつぶされ、覆われていくらか火
が消えた。
それを二回繰り返したところで、市長の館は左端の、燃えて炭に
なった部分から煙を上げるばかりになっていた。これで周囲に燃え
移らないだろう。
うなずいたところで、くん、と私のスカートが引っ張られる。
何かにひっかけたかと思えば、後をついてきていた氷狐だ。青白
629
い毛が火事の照り返しでオレンジ色に輝いている。
リーラと子供に呼ばれていた氷狐は、しきりにバーナードさんが
向かった方向へ、私を引っ張ろうとしていた。
﹁あっちに、お前の主がいるの?﹂
尋ねてはみたものの、狐に返事ができるわけもない。
困ってカインさんの判断を仰ごうと見上げた私は⋮⋮そこで気付
いた。
傭兵団は三つ。だけど今、火の手が上がっているのは二か所だ。
市長の館を根城にしていた傭兵団が逃げたはずの西の方向と⋮⋮む
しろこれから向かおうとしていた北側は、いくつかの建物が燃えて
火が大きいように見える。
もう一つの傭兵団がいるだろう東門の近くでは、火の手が上がっ
ていない。
﹁カインさん、燃えているところを優先しよう﹂
そう言うと、我が意を得たりとばかりに、氷狐リーラが私のスカ
ートから口を離した。どうもこの狐はそうしてほしかったらしい。
﹁消火してほしいの?﹂
ゆらりと、細い顔よりも太そうな尻尾が揺らされる。そうだよ、
と言うかのように。
﹁リーラは僕の家を心配してくれてるんだ!﹂
そこへ割って入ったのは、市外に一人で置いてくるわけにもいか
ず、例の斥候兵が抱えて連れてきたあの子供だった。
﹁おばちゃんが放火を止めようとしてくれてたけど、リーラ達だけ
じゃおばちゃんたちを守るのが精いっぱいで⋮⋮おばちゃんが、僕
を先に逃がしてって、リーラに⋮⋮﹂
630
そのまま子供が涙ぐみはじめ、斥候兵さんが慌ててなだめる。
﹁⋮⋮傭兵の仲間割れでしょうか。市の人々に同情した氷狐の使役
者がいて、子供を逃がした後もまだ放火された場所にいるのでは﹂
カインさんの推測に、私は同意してうなずく。
それはもしかして、三つ目の小規模な傭兵団の人間ではないだろ
うかと思うのだ。氷狐の使役者が、普通に暮らしている市民のはず
はない。だからそちらからは火の手が上がらなかったのではないか
と考えたからだ。
﹁行きましょう!﹂
カインさんがうなずき、預かってくれていた兵士さんに礼を言う
と馬に飛び乗り、抱え上げるように私を馬上に引き上げた。
氷狐のリーラが先導するように走りだす。
遅れて馬を駆けさせながら、カインさんは子供を連れて他の兵達
も追って来るように指示し、後はリーラの姿を追うことに専念した。
火元はそれほど遠くはなかった。
けれども夕暮れ時かと思うほどに明るく感じるほど、何軒もの家
が炎に包まれている。
近くの道端では、家の持ち主だろう人が立ちすくみ、膝をついて
呆然としている。近くには、放火を阻止しようとしたのか、殺され
た人が血を流して倒れていた。
少し先の方で、誰かが争っている音がする。
剣が打ち鳴らされた音。倒れる音。
氷狐リーラは、そちらへ向かって走り去った。カインさんも更に
リーラを追いかける。
角を曲がった所で、真正面から吹きつける風雪に思わず顔を背け、
けれど前を見ないと危険だからと細く目を開いた私が見たのは、た
631
った二人で立ち向かう男女と、彼らを囲む十数人の剣を持つ男たち
だ。
二人も負けてはいない。
鳶色の髪を一つに結んだ女性の号令に、足下にいた二匹の氷狐が
一斉に吹雪を生み出す。吹きつける風雪にひるんだところへ、勢い
よく突っ込んで行くのは、筋肉でがっしりとした短髪の﹁行くわよ
ぉぉ!﹂男⋮⋮?
女性口調で叫んだ男性は、自分にも吹きつける風雪にエリザベス
カラーみたいな大きな襟がついたマントをはためかせつつ、幅広の
曲刀を構え、振りぬく。
風雪に混じる血しぶき。一瞬で三人を倒すと、さらに曲刀が炎の
投げかける明かりの中できらめき、血を散らした。
その間に横から走り込んできた氷狐が風雪で数人の腕を氷漬けに
し、その頭を土台に飛び上がって、鳶色の髪の女性の元に降り立っ
た。
﹁ギルシュ下がって! ルナール!﹂
女性の声に一歩下がった男性の代わりに、すかさずその身に氷を
まとった狐が前へ出る。
その尻尾に触れた者たちが、鋭い氷の刃に足を斬られて呻き、さ
らに風雪が襲い掛かる間に、先ほどの狐は女性の後ろへと戻ってい
た。
ゴーレム
けれどたった二人なので、敵を倒すにも時間がかかっている。
ゴーレム
私は急いで馬から降り、石畳交じりの土人形を作り出した。突然
の土人形の登場に混乱する傭兵達。
蹴散らされて宙を舞う者、その手に握られて気絶する者がいる中、
こちらへ向かってくる傭兵はカインさんがことごとく斬り伏せた。
632
その間に氷狐を連れた男女も、目の前の敵を一掃。
落ち着いたところで、私は土人形を燃え盛る家を抱きしめるよう
にして解体。近くの家が一軒、くずれながらも土に半分埋まって炎
が静まる。
﹁消火してくれるの? ⋮⋮て魔術師!?﹂
氷狐を操っていた女性が、目を丸くして尋ねてくるので、私はう
なずいた。
﹁リーラの主はあなた? その子がこっちに来いって連れてきたの﹂
﹁え? リーラ⋮⋮あんたケネス君どこやったの!?﹂
傍にいた氷狐をひっつかまえて、彼女は鼻先に顔を近づけて尋ね
ている。
リーラと思われる氷狐は﹃何言ってるんでしょうね﹄という顔で、
ふんと鼻息をついた。
そこに、当のケネス君と思われるあの子供が、兵士に抱えられて
連れて来られた。
﹁おばちゃああああん!﹂
﹁ケネス君!﹂
女性が立ち上がり、走ってくる子供をしゃがみこんで抱きとめた。
って、え? 彼女どう見たって私と数歳しか違わないのに、おば
ちゃん? 親戚の子?
疑問が頭の中に浮かんだものの、とりあえず私は消火活動の方に
精を出し、追いついた兵士達にはカインさんが十人単位でまとまっ
て、周辺に傭兵がいたら討伐するよう指示した。
一方のアランも、私達が戦っている間に西から逃げようとしてい
た傭兵達を倒し、放火を防ぐことができたようだ。
633
こうしてメイナール市での戦闘及び消火は終了し、半分黒焦げに
なったあげく土砂で埋まった市長の館の前で、他の傭兵を討伐した
アラン達と合流したのだが。
﹁⋮⋮おいキアラ、なんで氷狐が増えてるんだ?﹂
﹁えっと⋮⋮なりゆき? あと氷孤の飼い主さんと、そのお兄さん
も一緒に連れていきたいんだけど﹂
そう言って、私は後ろに立っていた鳶色の髪の女性ジナさんと、
筋肉隆々で短髪の男性⋮⋮なのに、エリザベスカラーみたいな大き
な襟がついたマントを羽織った、やや内またのギルシュさんを紹介
する。
﹁ルアイン軍と一緒にファルジアに入ったんだけど、メイナールで
は市民の皆さんの避難とかに尽力してくれてた、サレハルド出身の
傭兵のお二人で。氷狐の面倒を見てるのはジナさんなんだけど、こ
の氷狐が私から離れなくて、それならついて行かせてくれないかっ
て⋮⋮﹂
﹁はぁ!?﹂
アランが口を開けてぽかーんとした。
うん、びっくりするよね。私も予想外⋮⋮。だって私作成攻略本
には、傭兵を仲間にできるとは書いてなかったんだもんね。
あともう一つ言うと、私達が勧誘したわけじゃないんだよ。
私の足にぴったりとひっついた、他二匹よりちょっと大柄で、尻
尾の毛がやや長いルナール。
彼がね⋮⋮私から離れなかったんで、それなら一緒について行っ
ていい? と聞かれてこうなったわけで。
上手く説明してくれないかなと思いながらカインさんを振り返る
と、彼は名状しがたい表情をうっすらと滲ませながら、目を細めて
634
ルナールを見下ろしていた。
635
閑話∼魔術師の砂
その城は、規模が大きいわけでもなく、外側だけを石積みにした
小さなものだった。
高い城壁がないのは、城下町を含めて覆う壁があるからだ。
壁が破られたら降伏するしかない。代わりに破られない限りは、
町民も防衛戦に参加するのが、今までのカッシア男爵領の戦い方だ
った。
城の中も広くはない。砦としての機能がないため、内装も瀟洒な
館という趣の白漆喰の壁に美しい絵画が飾られている。
そんな部屋の一つ、来客をもてなす部屋の中で、今現在カッシア
城を所有するルアイン貴族、ウェーバー子爵がソファに座る人物の
前で床に膝をついていた。
白髪まじりのウェーバー子爵が若年の彼にへりくだる様を、青年
の後ろに立つ金髪を肩まで伸ばした少年が、じっと見つめていた。
﹁このような狭い部屋でおくつろぎいただき、誠に申し訳⋮⋮﹂
﹁いや、気にするな。どうせ用はすぐ終わる。これを渡すだけだ﹂
ソファに座っていた赤茶けた髪の青年は、指先でつまんで持つの
が相応しい小さな瓶を差し出した。瓶の底に溜まる砂の色は黒っぽ
い赤だ。
﹁お、おお。魔術師の粉を私に?﹂
ウェーバー子爵が感嘆したように、青年が持つ瓶を見上げる。
﹁ファルジアの魔術子爵殿からだ。エヴラールの王子の軍には魔術
636
師がいるだろ? これを使って殲滅しろということだろうな﹂
ウェーバー子爵は額づく勢いで礼を言う。
﹁ありがとうございます! クロンファード砦が想像以上に早く落
ちてしまい、兵が動揺して参っておりました。これで少しは対抗手
段もとれますな﹂
相当焦っていたのだろう。ウェーバー子爵の笑みは、心からのも
のに見えた。
﹁じゃあ俺は行く。武運を﹂
青年は立ち上がり、金髪の侍従の少年とともに歩き出す。
﹁お見送りを致します、イサーク殿下﹂
ついてこようとしたウェーバー子爵を、イサークは手で押し留め
た。
﹁気にするな。野暮用ついでにしのんで来たんだ。あまり大仰にさ
れたくない。⋮⋮あと、俺は殿下ではない﹂
﹁は、失礼しました、イサーク陛下﹂
かしこまるウェーバー子爵を見て、イサークはさっさと部屋から
退出する。
城の敷地から出たところで、一歩後ろを歩いていたミハイル少年
は、ため息交じりにつぶやいた。
﹁言いなおさせるんだったら、戴冠式なさっておけば良かったでし
ょうに⋮⋮﹂
﹁仕方ないだろー。親父ぶっつぶして、兄貴を閉じ込めるのにちょ
うど良かったのが、兄貴がファルジアと交渉に出る時だったんだぞ。
お前だって、やるなら今が一番好機だっつったろ﹂
637
小さな声だったというのに、イサークには聞こえていたようだ。
彼の返答に、ミハイルが﹁わかっちゃいますがね﹂と付け加える。
﹁別にルアインと同時にファルジア攻めに参加しなくても、問題な
かったですし﹂
﹁ルアインに恩が売れる。ファルジアの状況を見て回れるから、後
でルアインと決裂した時にも有利。トリスフィードを押さえた時に、
元気な兵を改めて入れればいいから、一万ぐらいの兵を長旅させた
って問題ない。お前が挙げた利点が良すぎたんだろが﹂
﹁ぐぅぅぅ⋮⋮﹂
確かにミハイルがそう入れ知恵したのだ。
﹁しかし、よくお前あの魔術師の砂、余分に手に入れられたよな﹂
尋ねられたミハイルは、あっけらかんと言う。
﹁簡単ですよ。他人の飲食物に混ぜようとしたのをすり替えただけ
ですから。誰って言いましたっけ。トリスフィードのお嬢さん。あ
の人と一緒に出る人達が二瓶持ってたんで、その一つを拝借してお
きました﹂
﹁⋮⋮は?﹂
ぽかーんと口を開けたイサークは、ややあってミハイルに言った。
﹁お前手品とかできるクチ?﹂
﹁驚いたあげくに聞くのがソレですか。出発のどさくさに紛れたか
ら上手くいったんですよ。連れてくのが体力も頭も警戒する必要が
ないお嬢さんだったんで、一緒の騎士達がまぁよく油断してくれた
んで﹂
聞いたイサークはくつくつと笑い出す。
638
﹁お前、それでこっちの実験のために、別な奴を冥府に落とすのか﹂
﹁これも全ては国のためですから。⋮⋮一度失敗させてみなければ、
問題点を洗い出せないものでしょう﹂
魔術師がいることはわかっていたのだから、その力量を測りたい
なら、魔術師を出すよう仕向けるしかない。ならば魔術師くずれが
最適だ。
﹁やっぱお前頭いいな﹂
笑うイサークに、ぽつりとミハイル。
﹁僕は⋮⋮頭がいいわけじゃないんですよ。悪知恵みたいなもんで
しょう。巻き込まれて幸せを捨てにかかってるくせに、なんで褒め
るんですか﹂
じっと睨んでも、イサークは何も答えない。
しかし楽し気に先を急ごうとしたイサークの足が、悲鳴と怒号、
歓声が聞こえてきたことで止まる。
その出どころは離れた場所⋮⋮町を囲む壁の、四方にある門の一
つのようだ。
﹁⋮⋮早くねぇ?﹂
イサークの言葉に、ミハイルも目を瞬いてうなずいた。
﹁クロンファードの後で、ろくに休みもせずに出たら、そういうこ
ともあるかもしれませんけれど⋮⋮﹂
﹁て言うかな。これ、俺らも出られないんじゃね?﹂
﹁隠れましょうイサーク様。僕たちは目立つわけにはいきません﹂
ため息交じりにミハイルが言う。
﹁なんにせよここは間もなく落ちるでしょうし。住民もルアイン軍
を負い出すために、万々歳で他の門からもエヴラールの軍を中に入
639
れてしまうでしょうし。その町の人が老いも若きも決起して斧やら
振り回し始めたら、まずカッシアに駐留している兵じゃ勝てないで
しょ。不意打ち並みに早い襲撃でしたし﹂
伏兵を置かなくとも、兵を招く者ならごまんといるのだ。備えが
遅れたルアイン軍は、すぐにカッシアの町に兵を侵入させてしまう
に違いない。
﹁いやいやミハイル。隠れるのはいいが、実験結果を見ないと﹂
そのためには門の近くへいくべきだと歩き出すイサークのマント
を、ミハイルが引っ掴んで止めた。
﹁そんなこと言ってられる場合ですか!? 貴方は大将なんですか
らね! サレハルドの!﹂
640
閑話∼魔術師の砂︵後書き︶
一話が長くなり過ぎたのと書ききれなかったので、続きは明日投稿
します。
641
とある傭兵達の事情
ひょうこ
﹁やーそれでですね。国内の傭兵なら、従軍しろとお触れが出まし
て。特にうち、氷狐飼ってるでしょ? 目立つから参加しないわけ
にいかなくて、渋々ついてきたんですよ﹂
とりあえず話し合おう。
頭痛をこらえるような表情のアランに言われたので、私達はメイ
ナール市の商館に招かれて一晩の宿を借り、そこで話をしていた。
既に夜遅い時間になっていたことあり、連れてきた兵達は、今日
は別の宿や商館にて泊まらせてもらうことになって、既に解散させ
ている。
メイナール市を救ってくれたのだからと、人々が喜んで滞在させ
てくれたのだ。
傭兵達の始末は終えているので、今日ばかりは羽目をはずさせて
あげるらしい。
⋮⋮明日になったら、また亡くなった人を埋葬しなくちゃ。
そんなことを考えながら、ジナさんの話を聞く。
先に話し合いの方を優先しろと言われたので、遺体になった傭兵
達は、怒れる市民の手によって市外に放りだされるままにしていた
のだ。
実は捕まえた傭兵も、何人かは投げられた石や、抵抗できなくな
った時に襲い掛かった市民によって殺されている。
見かけた瞬間、カインさんが私の目をふさいで抱えるようにして
遠ざかったので、私がその場面を目撃することはなかったけれど。
戦争なんだな、と思ったものの、なんだか遠い世界のことがすぐ
目の前で起きたようなショックを受けて、私はカインさんになされ
642
るがままになってしまった。
話し合いを優先しろと言ったアランにしても、人々が殺気立って
いる中、敵を埋葬することで、私が恨まれたり危害を加えられる可
能性を考えて、遠ざけたのだろう。
一晩経てば、もう少しは気が収まる。
それから伝染病や臭いで商売に支障が出るかもしれないと話せば、
遺体を放置する以上の利益があるのだとわかって、埋葬することに
同意してくれるだろうとアランも言っていた。そう願いたい。
変なことを考えていた私の腿の上に、ぽす、と小さな重みがかか
った。
見れば椅子に座っている私の脚の上に氷狐が一匹、頭を乗せてい
た。ルナールはさっきから私の足首にからむように寝そべっている
ので、もしかするとこれはリーラだろうか。
もう一匹のサーラは、さっきまではジナさんの傍にいたが、今は
部屋の隅でお座りをしている。
今回、あの子供がリーラの背中に括り付けられて脱出してきたの
は、この三匹があの子供に懐いていたからだという。
普通の子供にあんなにも懐くのは、珍しく、ジナさん達はあの子
供の家族と仲良く交流していたそうな。
でも子供と出会ったそもそもの発端は、メイナール市に他の傭兵
に遅れて到着したジナさんと、流れでまとまっていた傭兵達十数人
が、大所帯の傭兵団によって荒らされようとしていた店を助けたこ
とだった。
ジナさん達は他二つの傭兵団と違い、サレハルド出身者だった。
新たな王が傭兵達に参加の命を下し、氷狐を連れていたジナさん
643
達はとても目立ったので指名されていて、雲隠れするわけにもいか
ず、仕方なくファルジアまでついてきたらしい。
カッシアまで到着し、傭兵は報酬代わりに略奪をという話を聞き、
それに紛れて彼らは故国へ帰ろうと考えていた。
そこでとりあえずメイナール市まで来た上で、姿をくらまそうと
していたのだが。
略奪の酷さに他の傭兵団をルナール達の力を使って牽制し、メイ
ナールの商業組合との間に取り決めをさせ、滞在中の便宜を図る代
わりにこれ以上の破壊行動をしないことを約束させるに至った。
その約束が履行されるよう、監視のためにも、ジナさん達はメイ
ナールから動けなくなってしまったのだ。
けれどカッシア男爵城への召集が伝えられると、もうここに用は
ないとなったルアインの傭兵団二つは、腹いせに町の建物に放火し
て引き上げようとしたのだという。
﹁まぁ、放火はエヴラールの軍を足止めするつもりもあったんだろ
うな。町の半分も焼けてしまっているとなれば、放置して去ること
もできない﹂
﹁そうだと思うわぁ。国の民を救う大義名分があるそちらさんが、
焼け出された人を放置してすげなくカッシア城まで攻め上れないと
思ったのねん﹂
頬に手をあててため息をつくのは、ジナさんの仲間であるギルシ
ュさんだ。
近くに立てば身の丈がカインさん以上という高身長にがっちりと
した筋肉の、戦うために生まれたんじゃないかという恵まれた体躯
のお人なのだが⋮⋮オネェらしい。
戦場に出ると、お金は稼げてもひらひらした服が着られない、マ
644
ントを飾りつけるのがせいぜいよ、と嘆いていた。
しかし世紀末救世主伝説にいそうな人っぽい容姿と声で、オカマ
口調というのはなんともいえない。やや高めの声を出してるところ
も、女性らしさを心掛けているんだなと思うと、その努力に泣けて
くる。
﹁まぁとりあえずそんな感じで、私達も本当はこれ幸いと逃げだし
たかったんですけどね。ルナール達にも良くしてくれた人達の店が
燃やされて⋮⋮﹂
ジナさん達はその店の人を助けようとして、彼女達を目の上のた
ん瘤として憎々しく思ってた傭兵達と、そのまま乱闘にもつれこん
でしまったようだ。
﹁エヴラールの人がすぐ来るとは思えなかったし、なんとか放火を
やめさせようとしたんだけど、多勢に無勢。せめて子供だけでも先
に逃がそうと思って、リーラに括り付けて市から出したんです﹂
﹁うちの傭兵団ってね、基本的に孤児を拾って育てちゃう系なもん
だから、サレハルドに置いてきた子と重ねちゃうと、なんとかあの
子だけでも助けなきゃって気になっちゃったのよねー。あ、ほんと
はうちの団、村一つ分くらいの人数がいるんだけど、子供もいるわ
非戦闘員もいたりするし、他国まで出ての遠征だから、私らと他所
の希望者だけでここまで来たのよ﹂
ジナさんの言葉で、ようやく子供と氷狐だけが夜の林に現れた理
由がわかった。
子供だけでも助けて、彼らも限界まで他の人が逃げる余裕を作り、
それから逃亡するつもりだったようだ。
だからリーラが戻ってきて、しかも私達を連れてきたので仰天し
645
たらしい。
﹁でも貴方達のおかげで、燃やされる家も少なく済んだから良かっ
たわ﹂
﹁それで、お前たちの他の仲間はどうした?﹂
ジナさん達は、出稼ぎついでに出てきた人々と二十人ほどで固ま
っていたはずだった。
ほかの傭兵達はどうしたのかとアランが尋ねれば、市内の人を逃
がす手伝いをするついでに、先に脱出させたという。そのまま彼ら
はサレハルドまで帰るだろうとのことだった。
しかしジナは帰るわけにはいかない。
﹁ルナール⋮⋮あんたいつもよりくっついたまんまよね﹂
恨みがましそうな声でジナが言っても、私の足下にいるルナール
はどこ吹く風といった様子だ。
﹁なんで私に懐いたんでしょう﹂
﹁あ⋮⋮なんかね、この子たち魔力を消費すると親和性高い人にく
っつくらしくて﹂
﹁親和性?﹂
﹁魔術師じゃなくても、水とか火とか土とか、なんか属性っていう
のを人間も持ってるらしいんだ。ルナール達って、同じ氷の属性の
人と、くっつきたがるらしいのよ。魔力を補充してるんだって、氷
狐の飼育法を代々伝えていた師匠みたいな人に聞いたよ。私も水と
親和性があるから、この子たちが懐いてくれたみたいで、飼い慣ら
すことができたんだけど。あとキアラさんの場合は、魔術師だから
ダイレクトに魔力が欲しくてくっついてるんじゃないかなと﹂
646
それを聞いて、私が連想したのは、魔術師くずれになって死んで
いった人のことだった。
みんなそれぞれに発現する魔法が違っていた。それがたぶん、彼
らが元々持っている属性によるものだったんだろう。もちろん私が
土魔法だけをほいほい操れるようになったことも、その属性のせい
に違いない。
⋮⋮なんだか最近、魔術師くずれの人のこと、冷静に思い出せる
ようになったな私。慣れたのかな? なんだかテレビで見たことの
ある映像を思い出すような感じで、何も感情が湧かない自分が怖い
んだけど。
そう言えば、傭兵と戦っている時も、なんとなく今までみたいに
苦しくはなかった。クロンファード砦でも、怖かったけれど前より
は⋮⋮薄かった気がする。
なんにせよ、ルナールが私にひっついてるのは魔力補充の上、私
が女性だからのようだ。
魔術師になったおかげで、こうして安易に撫でられない動物に懐
かれたんだから、ちょっと良かったかもなんて思ってる。
﹁ところでお前の師匠はどうしたんだ? さっきから異様に静かで
何もしゃべらないが⋮⋮﹂
ジナさんが師匠という単語を口にしたからだろう。思い出したア
ランが尋ねてくる。
647
行き先に変更あり
﹁いや⋮⋮なんか、狐に嫌な思い出があるらしくて﹂
土偶のふりをして、黙っているのだ。
けれど不自然に魔力があるのはわかるのだろう。ルナールやリー
ラがふんふんと匂いを嗅いで⋮⋮あ、舐めちゃった。
師匠が携帯みたいにぶるぶると小刻みに振動し始める。
﹁師匠、そろそろ慣れようよ﹂
そう言って、私は師匠をルナール達が届かないよう腰に下げてい
た紐をほどき、高い高いする。
天井を背景にした土偶は、狐と離れてちょっとほっとした様に思
えた。
﹁わしゃ、こいつらとは合わんのじゃ! 人様と縄張り争いなぞす
るあげく、わしの腰痛を酷くして南へ追いやったのも、そもそもは
こいつらの⋮⋮﹂
師匠の移住原因は、氷狐だったらしい。
﹁でもそれ、リーラ達じゃないでしょ﹂
﹁そんなもん十把一絡げじゃ!﹂
ホレス師匠が清々しく言いきる。
﹁そもそもタラシな弟子が悪いんじゃ。人の男だけならまだしも、
なぜ魔獣まで引っかけよるのか⋮⋮。そんなとこだけ師を見習わな
くても良いであろうに、ウッヒッヒッヒ﹂
師匠のとんでもない発言に、私は悲鳴を上げる。
648
﹁ちょっ、いつ私がタラシとか⋮⋮っ!? 人聞きが悪いでしょう
!﹂
﹁ふん、その無い胸に手を当てて聞いてみるがいいわ、クックック﹂
﹁なッ、無くないもん!﹂
普通ぐらいはあるはずだもん! 転生したことで新たに得たささ
やかな喜びって、そこだけだから間違いないのに!
抗議した私に対し、ホレス師匠はニヤついているような口調で更
に私の怒りを煽る。
﹁そうかいな∼? わしの感覚じゃと、だいたいはち⋮⋮ぐへぇぁ
っ!﹂
私は師匠をシェイカーのように上下に振った。口をふさいだって、
別に師匠は口でものをしゃべっているわけでもない。叩いたってろ
くに打撃と感じないのだ。これが一番効く。
﹁うへぇっ、ちょっ、やめっ⋮⋮!﹂
﹁もう言わない? むしろ記憶から抹消した?﹂
﹁したしたした! うげふっ、まいった、助け⋮⋮﹂
そこでようやくシェイクを終了する。こっちも腕がつかれてきた
し、ここまでにしておこう。
⋮⋮赤裸々な話を耳にしたカインさんやアランが、顔を背けてい
るので、早々に話題を変えたい。
二人とも、変なこと聞かせてごめんよ。もっと土偶の躾けはちゃ
んとしておくから。
﹁あんまり私のこといじめると、師匠と同居してあげませんからね
? どっかに師匠地蔵とかいって祠立てて、そこに置き去りにして
時々魔力足しに通うだけにします。きっとマイヤさんが素敵なべべ
649
かけとか作ってくれると思いますよ。あ、自力で戻って来ようとし
ても、みんなにちゃんと巣に返すようにお願いしておきますから安
心してね﹂
﹁なっ、師を晒し者にする気か! わしをこんな体にしたのはお前
さんだろうに!﹂
﹁乙女の秘密をさらそうとした罪は重いんですよ。で、どっちがい
いんです?﹂
﹁くっ⋮⋮同居がいいに決まっておろう! わしゃお前が死ぬまで
傍に居てやるんだからな!﹂
︱︱死ぬまで傍に居てやる。
その言葉に、私はおもわずどきっとしてしまう。
外見土偶で元は干物老人の言葉に、一瞬でもときめいた自分が悔
しいので、私はことさらツンとした態度で答えた。
﹁いいでしょう。責任取って介護してあげます﹂
﹁あっはっは。すんごく仲いいんだねー﹂
私と師匠のやりとりに、ジナさんが大笑いする。
それでも彼女は下品に見えない。顔立ちが前世の女優かと思うほ
ど可愛いこともあるだろうけど、明るい雰囲気が、何をしてもそう
いう印象を抱かせないような、そんな人なのだ。
ちなみに23歳の彼女は、私よりも出るべきところが適度に出て
いる。素直に羨ましい。
﹁そんで師匠さんて、呪いの人形みたいなもんなの?﹂
オカルト扱いされたことが地味にショックだったらしく、師匠は
がっくりとうなだれた。
くっ、私の言葉より衝撃的だったらしいことが、なんか悔しいわ。
650
とりあえず私は、ジナさんとギルシュさんに師匠の説明をした。
私が作った器に、師匠の魂が入っているんだとうごく簡単なことだ
けど。
二人は魔術師ってそんなこともできるんだ、とすごく驚いてくれ
た。
﹁それで⋮⋮お前たちは、狐がくっついて歩いている間だけ、こち
らの軍に厄介になりたいってことか?﹂
咳払いをし、話を仕切り直したアランに、ジナさんとギルシュさ
んは顔を見合わせ、それからジナさんが言った。
﹁氷狐を連れて目立たないように国外脱出するのは、難しいと思う
んです。だから、皆さん方はいずれトリスフィード伯爵領を解放し
に行かれますでしょう? そこまで雇われるという形を取らせてい
ただいて、トリスフィード伯爵を辺境伯子息様が解放した後、そこ
からサレハルドへ戻りたいと思います﹂
﹁お金はいくらあってもいいしねん﹂
ギルシュさんが付け足したところで、ジナさんがちょっと身を乗
り出して言う。
﹁魔術師がいても、魔獣っていろいろ役に経つと思うんです! な
にせ居るだけで敵も警戒しますからね! 今までは遅れたふりして
後をついて歩いて、私達前金泥棒してた状態なんで、ファルジアの
方の恨みを個人的に買ったりはしてませんし、お得ですよ!﹂
﹁二人雇って、氷狐の分を含めて一日銀貨5枚! でも長期契約で
すもの、お安くして今回の契約で何日までかかても金20枚くらい
でどうかしらん! 私もお仕事がんばっちゃう!﹂
﹁大特価ですよダンナ!﹂
651
ジナさんとギルシュさんが一生懸命売り込みをかける。さすが値
段交渉もする傭兵稼業といったところか。
その様に、私は前世で見たスーパーの安売りの文字が躍るチラシ
を思い出す。
ギルシュさんはアピールのために、隣のカインさんに﹁アナタの
ためにも頑張るから、お願い!﹂と迫って、カインさんをドン引き
させていた。
思えばこの世界でオネェな人を見るのって初めてだなぁ。
しかしアランはなかなかうんと言わない。
金20枚は結構大金だけど、トリスフィードまでの日数を考えた
らそんなもんかな? と思ったんだけど、高いんだろうか。でも私、
傭兵の相場とかわからないし。
すると、腿の上に顎を乗せていたリーラが、すん、と鼻を鳴らし
た。
机の上に置いた師匠は、びくついてかちゃっと肩を動かしたが、
私の心はきゅんとした。
思えば最近、じっくりと犬猫と戯れて遊んでない。
エヴラール城にはどっちもいたので、ほどほどに遊んでいた。こ
の世界の狐もイヌ科なのか、毛質は犬っぽいなぁと思いながら、リ
ーラの背中を撫でた。
そういえばアランて、犬が好きだったよね。
さっきから、部屋の隅でお座りしていたサーラを横目で見てたし。
氷狐でもいいから触りたいんだろうな。
そんなことを考えながら、隣のカインさんにこそこそとささやく。
﹁ねぇカインさん﹂
カインさんも犬好きなんだろうか。足下のルナールを、時々じっ
と無表情に見ていた彼は、はっとしたようにこちらを見る。
652
﹁一日銀貨5枚て、相場より高いんですか?﹂
﹁そこそこですね。魔術攻撃ができる氷狐を連れているのですから、
高いものではありません。ただサレハルドの傭兵を、自分の一存で
連れて行っていいものかと思っているのでしょう。雇えば、あの狐
たちはキアラさんの傍に度々べったりとくっつくでしょうし﹂
確かに、戦闘に氷狐を伴えば、魔力補充をしに私の所へ来るだろ
う。
でも顎を載せてくるとか、足下で丸まるぐらいなら可愛いものだ
と思うんだけど。私の傍にいることで、何か不都合なんてあるだろ
うか。
﹁殿下が許容されるかどうかを、アラン様は気にされているのでは
ないでしょうか﹂
﹁レジーって動物の毛にアレルギーなんてないよね?﹂
レジーも犬猫と戯れていたので、大丈夫なはずだけど、カインさ
んはうなずいてくれない。
その後、アランはジナさん達を迎えることに決めた。
正直、魔術に対抗できるリーラ達の技能はとても得難い。それが
手に入るのならとアランは決断したのだ。
話がまとまったので、その日はようやく休むことができたのだが
⋮⋮翌々日、私はとんでもない話を耳にすることになる。
傭兵達の遺体を埋めた後、焼けてしまった家の後始末を手伝い、
人手を使ってやるよりも楽でとっても感謝してもらえていた私は、
メイナール市を出発する時になって初めて知った。
﹁クロンファード砦に戻るんじゃないの!?﹂
653
驚く私に、アランがうなずく。
﹁既にレジー達は、カッシアの城を攻撃している頃だ﹂
動じないところからして、カインさんも最初から知っていたよう
だ。
﹁どうして⋮⋮? 何か急ぐ理由でもあったの?﹂
けれどその問いには、曖昧にはぐらかすだけで、二人とも答えて
はくれなかった。
654
カッシア男爵城へ
レジーがカッシア男爵の城にいると聞いて、私はわけがわからな
かった。
メイナール市と同時に攻める理由は何なのか。メリットは? 何
よりもレジーは無事なのか。
急いで駆け付けたいと思うのに、カインさんもアランも急いでは
くれない。
﹁だったら一人で行きます。馬を貸して下さい﹂
﹁それはできません。あなたを一人にして何かあったらどうするん
ですか﹂
そう言われてようやく悟った。
私はメイナール市に、不必要に長く滞在させられていたのだ。
みんなが助かったと喜んでくれるのは嬉しかったけれど、遺体を
埋め、燃えた家の残骸を避ける手伝いをしたらすぐに帰ると思った
のに、さらにもう一泊していくと聞いて、ゆっくりし過ぎではない
かと思ったのだ。
しかも出発だって、朝のうちに出れば夕暮れ時にはクロンファー
ドに到着すると思ったのに、昼にしようなどとアランが言い出した
りもした。
その上行先をギルシュさんが尋ねるまで、言わなかったのだ。
﹁魔術師が邪魔だった?﹂
レジーの作戦に、私がいると不都合なことがあるというのだろう
か。
尋ねられたアランが、答えを渋る。
655
すると私を馬に同乗させていたカインさんが言った。
﹁クロンファードで言ったでしょう﹃この戦いが終わるまでは、行
きたい場所へ行かせてあげましょう﹄と﹂
確かに言われた。あれは、今回ばかりは私のしたいことをさせて
あげるけれど、次はないということだったと私も分かっている。
﹁今後はこちらの方針に従ってほしいのですがね﹂
﹁でも、戦場から遠ざけることはないでしょう﹂
﹁本来ならば、万が一のためにも魔術師を戦場から引き離すのは得
策ではないと分かっています。でもキアラさんを近くに連れて行け
ば、間違いなく予想外なことをするからと、レジナルド殿下と一計
を案じました﹂
レジーとカインさんが、私を今回は戦場から遠ざけると決めて実
行したのだ。
﹁これでお分かりになったでしょう。貴方だって唯一無二の魔術師
で、王子殿下と同じくらいには貴重な存在なんです。けれど貴方が
必ず居なければ戦に勝てないわけではない。それを殿下が証明する
はずです。だから⋮⋮自分を過剰に傷つけてまで、私達を守る必要
はないのだと、貴方にわかってほしいのです﹂
カインさんの言葉に、私は唇をかみしめた。
二人が何をしたいのかは分かったけれど、どうしようもない。魔
術でカッシア男爵城まで一気に飛べるわけではないし、カインさん
を急かすことくらいしかできないのだ。
それでもメイナールはまだクロンファードよりはカッシアに近い。
だから私はレジーの行動が遅れて、まだカッシアを攻撃していな
いことを願っていた。
656
カインさん達は私が心配で、大人しく従ってくれないからこんな
方法を取ったと言う。私が必死にならなくても大丈夫だと見せて、
彼らの言葉に大人しく従って、なるべく守られた場所にいるように
と。
けれど同じだけ私はみんなが心配だった。
何か遭った時に、剣や弓だけでは対処できないことだってあるだ
ろう。
LVを上げて、自動的に強い魔法を習得できるゲームのようには
使えないけれど、普通の人には操れない時点で、魔術は敵に対して
強い効果を与える。魔術師くずれ相手でも、対処が困難になるのだ。
だから私は城壁の外で立っているだけでも、十分に役に立てるだ
ろう。なのにどうしてレジー達は身を守るために私を使ってくれな
いのか。
特にレジーは、大丈夫だと思ったのに一度同じ状況で死にかけた。
彼が死ぬまで、何度でも同じことが起きないとも限らないのに。
野営中は、じりじりと焦ってなかなか眠れなかった。
この一晩だけ我慢したら、明日の昼過ぎにはなんとかカッシア男
爵の城へ到着できるとわかっていても。夜を徹して進みたくなる自
分を、抑えるのが辛かった。
そのせいで眠りにくかったのかもしれない。自分で作った土の小
屋の中、女性だからと一緒に泊まっていたジナさんが、途中で起き
てなだめてくれた。
﹁私ね、魔術師がこんな若い女の子だと思わなくて、びっくりした
んだよね﹂
ジナさんは、体育座りしていた私の傍に、被っていた毛布を巻き
つけた姿で座る。
657
ふわりと香るのは、女性らしい淡い花のような香水の匂いだ。そ
の瞬間、私は少し自分の気が緩むのを感じた。
思えば軍は男だらけ⋮⋮。戦場の血の匂いで何もわからなくなっ
ちゃううちに慣れてしまったんだけど、こうした柔らかな匂いとい
うのから離れすぎてた気がする。
綺麗なお姉さんが、仲良くしてくれているのもうれしい。
だからついぽろっとこぼしてしまった。
﹁こんなちまっこいのが魔術師とか、頼りなさそう、ですよね⋮⋮﹂
だからレジー達は私を守ろうとしてしまうのだろうか。
落ち込みそうになりながら言うと、ジナさんが慌てた。
﹁えっ!? そんなわけないでしょ! むしろ魔術師の神秘性が増
していいんじゃない? ってかほら、私だって女なのに傭兵で、し
かも自分の剣の腕はそれほどすごくないけど、リーラ達が懐いてく
れてるから、周りから怖がってもらえてるだけなんだし!﹂
﹁でもジナさんは大人の女性で、ちゃんとしっかりしてそうに見え
ます﹂
だから仲間のギルシュさんとも、対等に話し合えているのではな
いだろうか。そんなことを思いつつ、他二匹と違い、私の傍に居座
っていたルナールが、私の足の甲に顎を置いて寝そべる。
ちょっと暑いけど、物言わぬ生き物が懐いてくれるのは、嬉しく
て心が緩みそうになる。
﹁やーねぇ。私だっていっつもギルシュがお母さんみたいに小言言
われるのよー。ジナったら早く起きなさいよっ、とか。それにほら、
どうせ一緒に行動するなら、可愛い女の子の方がいいわよ﹂
ね? と慰めてくれるジナさんに、私は悪いなと思って反論を止
658
める。
﹁傭兵で女の人って多いんですか?﹂
﹁そこそこいるわよ。ほら戦になったら女も男もないじゃない。畑
を荒らされて夫を亡くして、家族を養うために従軍する人とかいる
の﹂
確かに、戦争があれば戦って終わりというものではない。
村や町があれば、その傍には畑がある。育ち始めた作物があって
も、そこが襲撃しやすい場所だったり、迎え撃つのにふさわしいか
らと戦場になって踏み荒らされることもある。
そんな中、男性の力ばかり当てにはできない。夫や父親を亡くし
て、腕力に自信がある女性が傭兵に混ざることはままあるそうだ。
﹁ただ絶対数は多くないわよ。なかなか男並の腕力や体力がある人
ってそういないし。後は私みたいに特殊な戦い方ができる人や、弓
なんかの技量がある人とじゃないと﹂
﹁ジナさんは、ルナール達を飼ってたから傭兵になったんですか?﹂
正直これだけ綺麗な人が傭兵をやっているとか、何かの間違いじ
ゃないかと思うのだ。
マンガやゲームとかなら、様式美だからと思うのだけど。実際に
存在されるとびっくりするんだ。
けれどそう考えた時に気付くべきだった。相応の理由があっての
ことだと。
でも察したのは、ジナさんが言い難そうに苦笑したのを見てから
だ。
﹁あ⋮⋮何か言いにくいようだったらいいですから、無理には⋮⋮﹂
﹁ううん。それほど必死で隠すようなことでもないんだけどね。私、
659
ほんとはサレハルドの貴族の子なのよ。分家の人間だから、そこそ
こ自由にさせてもらってたんだけど⋮⋮結婚の関係で、いざこざが
あって。婚期も逃したからもういいやってなっちゃったの﹂
サレハルドもファルジアも、女性の婚期というのは成人の16歳
から20歳くらいまでの間だ。どうりでジナさんが23歳まで独身
だったわけだ。
結婚運が悪かったのだとしか言いようがない。
﹁本家に迷惑をかけたくないから、元から交流があったギルシュ達
のとこに入れてもらって、一人で生きていこうかと思って。⋮⋮私
のわがままなんだけどね﹂
話してくれたジナさんが、じっと私を見る。
﹁キアラちゃんは⋮⋮どうして魔術師に? 師匠さんが死にかけて、
あのお人形の形になったのは聞いたけど。前から師匠さんの弟子と
して小さい頃から修行してたとか?﹂
ジナさん達に、魔術師になる方法については説明していなかった。
師匠のことは、死にかけた時にどうしても生き延びたいというので、
魂だけ閉じ込めたのだと説明している。
私は少し迷ってから理由を口にした。
﹁友達が死ぬかもしれないって思って。それで魔術師になったんで
す﹂
レジーや辺境伯様達を助けたかったからだ。
あの時の私は、本当に身近な人のことだけしか考えられなくて。
魔術師になってからようやく、そのために何千という人を自分が殺
さなければならないことをわかっていなかったのだ。
660
それに気付いて、殺すのは辛いと言ってしまったから。毎回情け
なくも泣いてばかりいるから、レジー達は私を前に出て戦わなくて
もいいと思えるようにするべく、今回のことを実行したのだろう。
物思いにふけりそうになった私に、ジナさんが言う。
﹁だからなのね。皆がキアラちゃんのこと、大事にしてるのは。愛
されてるんだね⋮⋮﹂
﹁愛されてる⋮⋮?﹂
﹁そうじゃない? 傷つけたくない。悲しませたくない。極力そう
ならないようにしたいから、あの騎士さんもキアラちゃんが戦場に
必ずしもいなくてもいいんだって言って、キアラちゃんが背負い込
まないようにしたかったんじゃないかな﹂
傷つけたくない。悲しませたくない。
その気持ちはわかる。私もレジー達に対してそう思っているから。
でも、愛情って一方的なものを受けとってそれで終わり、っても
のだろうか。
私が助けたいと思っても、彼らは有り難いと思っても、自分達を
庇うのは嫌がる。私には守らせてくれない。
私がうなずかないから、内心で葛藤していることを察したのだろ
う。ジナさんが小さく笑った。
﹁でも、キアラちゃんの周りは、思い通りに動かして守りたいって
人が多いのかな。だからキアラちゃんは、自分のためでも受け入れ
がたい?﹂
﹁なんていうか、私は、守りたかったんです。ジナさんだって、ル
ナールを守って、でもルナールが守ってくれるでしょう? そんな
風になりたかったんです﹂
私の話を聞いて、ジナさんは目を瞬いた。
661
﹁信頼が欲しいの?﹂
﹁⋮⋮たぶん、私のことをみんな信じてはくれてない、とは思いま
す﹂
能力のことはわかっているし役に立つのも理解しているけど、認
めたくないといわれているような、そんな感じがしてしまう。
﹁そっか。求めるものが違うんだね。⋮⋮私も、覚えがあるなそれ。
他人だからこそ失いたくないと思ったら、守って隠してしまいたく
なるんだよね。こっちが女だから。戦う力があればあるほど、私も
プライドが傷ついた気になったもの。あっちは大事すぎてどうした
らいいのか分からなかったのかもしれないけど﹂
大事にしてくれている。ジナさんの言葉は確かに正しいと思う。
私が、その大事にするやり方が、嫌なだけで⋮⋮。
守ってもらっているのに、何を考えているんだろう私。でもやっ
ぱり、のけものにされてる気分は無くならない。
だからせめて、近くで見ていたいと思った。何かあったら私が手
を出せる距離にいたい。
そう思って、翌日も結局カインさん達を急かしてしまった。
たどり着いたカッシア男爵の城と城下町は、今日攻撃を受けたば
かりだったのか、まだ喧騒に包まれていた。
けれど既にあらかたの勝敗は決していたようだ。
今になって明かしてくれたところによると、日がずれたとしても、
昼過ぎにレジーが攻撃を加えることは決まっていたらしい。
私がたどりついたのがそれから二時間近く経った頃だ。
町を囲む壁は、既に二つの門が開かれていた。それどころか、門
662
の傍を守っているのは、エヴラール軍の兵士だった。
壁の内側へ入ると、私はまだ戦闘の名残が濃い町の様子に唇をか
みしめた。
ゴーレム
市街戦では、私一人ではどうしようもないというのは分かってい
る。土人形で突っ込めば家を壊してしまうから、一気に押しつぶす
ことなんてできない。
だから道端にルアインの赤鉄で作られた胸当てをした兵が倒れて
いたり、槍や矢が突き刺されたまま絶命している遺体があちこちに
転がっている状態になるのも、仕方のないことだった。
時折そこに、町の住民の遺体も混じっている。
ルアイン兵を負い出したい一心で、エヴラール軍に呼応して自分
も武器を手にしたのだろう。
その光景に、私の心が少し揺らいだ。
でもこんな所でうろたえてはいけない。じゃなければ、私の傍に
いる人は私に戦わせてくれなくなるから。
何も感じない。今はまだ、みんなを悼む時間ではない。それに泣
けば、弱いと思われてしまうから。
自分にそう言い聞かせると、次第に苦しさは遠ざかっていく。
そうして更に進むと、カッシア城の前で本陣にいるエダムさん達
と会うことができた。
けれどレジーの姿はなかった。
﹁レジナルド殿下はどこですか?﹂
尋ねると、エダムさんは困った表情をして教えてくれた。
﹁殿下は、先に抜け道を使って城内に侵入していらっしゃるんだ﹂
663
受け入れられないもの
この時点までの、伝聞を合わせたカッシア城での戦いのあらまし
は以下の通りだ。
ウェーバー子爵が駐留していたカッシア城には、約3000の兵
がいた。
数が多くないのは、攻め込まれたなら門を閉じて籠城するつもり
だったからだ。しかも兵糧はファルジアの民から食料等を取り上げ
てしまえばいい。だから兵の数もそれほど多く必要だと考えていな
かった。
それにクロンファードが一気に落とされるとは思わなかったとい
うこともある。あちらの状況が悪ければ、クロンファード砦を放棄
してこちらに合流する手はずになっていたからだ。それで兵数をそ
ろえられる予定だったのだろう。
しかし予想外にファルジア軍が素早くカッシア城までやってきた。
焦ったウェーバー子爵だったが、クロンファード砦から逃亡して
きた兵だけでも4000はいて、籠城戦をするならば十分な兵数が
そろったはずだった。
けれどここはファルジア国内。そして相手は正攻法を使うアラン
ではなく、レジーだったのだ。
既に斥候を送った時点で、レジーは手を打っていた。
十人ほどをルアインの軍装をさせてカッシアへ落ち延びた兵のふ
りをさせ、城下町や城へと潜入させていた。そうして生き延びてい
664
たカッシアの市民に根回しをしていたのだ。
︱︱エヴラールの軍がすぐに解放に向かう。その時に門を開け、
共に戦うようにと。
突然の侵略に苦渋を舐めるしかなかった人々は、それを素直に受
け入れた。何よりもエヴラールとクロンファード砦の勝利が、彼ら
を期待させたらしい。
内部に入り込んだ兵に、見張りの兵を倒させた上で近づいた、レ
ジー率いるエヴラール軍は、町の人々が開けた門から一気になだれ
込んだ。
ルアインのウェーバー子爵は慌てた。門を破られた後に彼の元に
知らせが入ったからだ。
仕方なく城の防備を固めさせ、王子か主要な貴族の首をとるしか
ないと指示するも、アランも魔術師の私もメイナールへ行っていた
ため不在。
肝心のレジーも影武者が王子の騎士に守られている有様だった。
更に城内にも、レジーの手は伸びていた。
レジーはアランの騎士と共に城へ潜入していた。レジーの方も、
守りを固められる前に、さっさと子爵の首をとるつもりだったのだ。
城主の脱出路を案内したのはオーブリーさんだ。彼はチャールズ
君を逃がすため、カッシア男爵から脱出路を教えられていたのだ。
しかもレジーは先に潜入させた兵を使い、城下の商人が納めさせ
られる食材に毒を含ませていた。
昼食の後を狙って潜み、毒の効果があったことを確認してから突
入するという手の込みように、オーブリーさんも怯えたらしい。
﹁⋮⋮容赦ないですな﹂
﹁侵略者に情けは無用だろう? 真正面から討つ必要などないから
665
ね﹂
レジーはあっさりとそう答えたらしい。
そんな風に城へ潜入したレジーを追って、私もエダムさんが指揮
する兵とともに城内へは進もうとした。
その前に、カインさんを説得せねばならなかったが。
﹁あなたまで行く必要はないでしょう﹂
エダムさんの後についていこうとする私の手首を掴んだカインさ
んは、いつになく怖い顔をしていた。
﹁心配なら私が行きますから、ここでアラン様と待っていて下さい﹂
確かにカインさんはゲームでは死なないキャラだった。ずっとア
ランと戦っていく人だ。だから安心だろうけれど、違うんだ。私が
したいのはそういうことじゃない。
﹁でもここまで来たんだもの、少しでも役に立ちたい﹂
するとアランまでが私を止めようとする。
﹁大丈夫だ。レジーが魔術師くずれに対して、手をこまねくわけが
ない﹂
﹁こまねかなくても、咄嗟に身を守れないでしょう。火を噴くよう
な人がいたらどうするの? 雷を落とすような人がいたらどうする
の? 私なら守れる。だから⋮⋮﹂
喉元まで出かける言葉。
そんなに私を守らないで。だってそのために魔術師になったのに。
何もできないなんて、役立たずもいいところじゃない。
でも私を思って守ってくれる人に、そんなこと言えない。
666
﹁⋮⋮私が連れて行こう﹂
そこで割り込んだのが、意外なことにエダムさんだった。
一見老紳士にしか見えないエダムさんも、胸当てや鎖帷子の上か
ら軍衣をまとっている。その下に身に着けた黒い服に包まれた手が、
私の肩に置かれた。
﹁彼女は魔術師だ。成人年齢に達している彼女を、いつまでも子供
のように保護し続けるのは感心しない﹂
驚く二人⋮⋮主にカインさんに、エダムさんがゆっくりと噛んで
含めるように告げる。
﹁しかし彼女は、魔術を使えなければ普通の女性でしかありません。
その魔術も、とっさの事態には使えないんです﹂
カインさんの反論は耳に痛い。
確かに私一人で突っ込んで、突然横合いから斬りかかられたら対
処できないだろうから。
﹁それが本人の決めたことなら、倒れるほど傷ついても、自分の責
任だと諦めるだろう。そこから何を学ぶかも、本人の問題だよ。ま
ぁ私の兵を張りつかせるから、彼女が魔術で身を守る隙くらいは必
ず作らせてみせる﹂
軍首脳部の年長であるエダムさんの決定に、カインさんはうなだ
れる。同じだけの地位を持っているアランは、何か感じるものがあ
ったのだろう。﹁そうかもしれませんね﹂と言ってうなずいてしま
った。
すると今まで黙って聞いていた師匠が、ケケケと笑う。
﹁若者には、時に暴走させることも必要だろうよ。失敗して、恥辱
の中で学ぶことも人生の通過点じゃろ。しかもキアラの年頃の娘が、
667
そうそう考えを改めるわけがない﹂
﹁まったくですな﹂
エダムさんがホレス師匠に同意した。老境にある二人には、それ
なりに通じるものがあるのだろう。
師匠の言葉はひっかかるものの、これで私はレジーを追っていけ
る。
﹁ありがとうございます、エダムさん﹂
﹁軍議に参加する権限を持てる場所に立つことを選んだのだ。自分
の意見を実行する権限もあっていいだろうと思っただけだ。ただ貴
女の騎士が言う通り、とても無防備な人であることは先の戦いでも
わかっている。そういう意味で心配されていることは、心に留めな
ければならないだろうな﹂
学校の先生のように、柔らかく諭されて私は頭を下げた。
促されて私はエダムさんについていこうとする。そんな私を、カ
インさんが珍しく不安そうな表情で見ていた。
エダムさんも兵を連れているのにと思ったけど、常に専属で誰か
が保護する形で守ってきたので、せめて騎士をつけたかったのかも
しれない。
それを察したように、一緒に着ていたジナさんが進み出た。
﹁キアラちゃん、わたしとルナール達がいくよ。人間より動物の方
が気配に敏いからね﹂
﹁それなら私が⋮⋮﹂
言いかけたカインさんを、ジナさんが遮る。
﹁カイン様はお休みしてなよ。せっかくお給金もらってるんだから、
その分きちんと働くし﹂
668
そう言って笑顔でジナさんが肩を押し、カインさんが不意をつか
れてよろけたが。
﹁あら、貴方はアタシとお話しましょうよん?﹂
つつつ、とギルシュさんが寄ってきたので、カインさんは顔色を
変えてアランの近くまで離れていった。
もうカインさんはギルシュさんを警戒するのでいっぱいの様子だ。
もちろん私を守ってくれる人が他にもいるからだろうけど。
そんな様子に、少し安心して歩きだした私は、隣に並んだジナさ
んに尋ねる。
﹁ところでギルシュさんて、恋愛対象は男性ですか?﹂
﹁うん。でもあの人もちょっと歪んでてね。ノーマルな人が好きな
のよ⋮⋮﹂
はぁっとジナさんがため息をつく。
困ったという顔をするのも無理はない。だってそういう趣味の人
同士で固まるならまだしも、どう考えても不毛の荒野で一人叫んで
る状態にしかならないだろう。
﹁せ、性癖は自分じゃ変えられませんもんね⋮⋮﹂
私としても、そう言うのがやっとだ。
﹁最初に好きになった人がね、本当にノーマルな人だったらしくて。
告白せずにずっと片思いしてたせいか、同じタイプの人を好きにな
りやすいみたいなの﹂
﹁人を好きになる感情というのは、分かっていて左右できるもので
はないでしょうからね。だからこそ相手に押し付けるわけにもいか
ないでしょうが﹂
しみじみと言った調子でエダムさんが会話に入ってくる。
669
酸いも甘いも噛み分けた年齢の男性の意見に、私はとても興味を
引かれた。
﹁ただ特殊な例をのぞいて、押さずにいるのも男の場合は問題です
な。押さねばならない時も多いでしょうから﹂
﹁そうですよねー。ずっとこっちの顔色伺って、好きだと言われる
まで待たれても、男らしくないわーって白けちゃいますもんね﹂
﹁おや経験がおありで?﹂
﹁伊達に婚期逃してないですから﹂
ジナさんはエダムさんと話が合うようだ。楽し気に微笑んで
﹁だから、水を張った池みたいに落ちてきたら受け入れるけど、足
を滑らせて入ってくるまでは動かず何もしない何もしない、こう、
ふわっとした状況って、なんでそうなったのかなと興味はあります
よ、わたし﹂
﹁同感ですな。そのためには池の水をあふれさせるか、落ちるよう
に背中を押してみたくもなりますからな﹂
何かをわかり合ったように、二人が顔を見合わせてうなずいてい
た。
とにかくそんな彼らと一緒に、私は城内へ踏みこんだ。
まだあちこちで乱戦が起きているようだ。剣戟の音が聞こえる。
それでもレジーの毒作戦のせいで、戦闘も厳しいものではないよう
だった。
エダムさんの兵は、主に諦めて投降する兵を捌くのに忙しそうだ
った。縄をかけておけば、とりあえず無抵抗なことはわかるので、
後続の兵が連れて行くだろう。
気が急いた私は、気付けば一行から離れて駆け出していた。
数人の兵と、ジナさん達がついてくれているので、時折兵士が出
670
てきても、ルナールがとびかかって押し倒して昏倒させ、リーラと
サーラが相手の足を氷で固めてしまうので平気だった。
ジナさんがついてきてくれて良かった。
そうしてたどり着いたのは、主塔だ。ここを占領しているウェー
バー子爵という人は、毒による異変やレジー達の攻撃に、人質であ
るフローラさんを連れ出しに行き、そのまま主塔へ逃げこんだらし
い。
二階、三階と階段を駆け上がり、ようやくたどり着いた扉の向こ
うから、
﹁武器を捨てなければこの娘を殺す!﹂
そう叫ぶ声が聞こえた。
671
カッシア男爵城戦の終わり︵前書き︶
※自殺描写がありますのでご留意ください。
672
カッシア男爵城戦の終わり
ルアインのウェーバー子爵の部下の中には、いち早く毒に気付い
た者がいたらしい。
来客があって昼が遅れ、そのため先に毒の食事を食べた者が倒れ
たので、難を逃れたようだ。
彼らはレジーが現れたのを幸いと、彼を殺すべく襲い掛かった。
けれど辺境伯家で揉まれ、二度の戦いを経験してきたレジー達は、
子爵の護衛兵を返り討ちにしてしまった。
進退窮まったウェーバー子爵は、逃げながら生かしていたカッシ
ア男爵の令嬢フローラさんを人質にして、ナイフをつきつけながら
叫んだ。
これが後から聞いた、ここまでの流れだ。
その瞬間に、私は踏みこんでしまった。
視線の先に見えるのは、倒れた二十人には及ぶ騎士や兵士達の遺
体と床を染めていく血。
小さな広間になった部屋の奥には、何もかもあきらめきった、生
気の抜けた顔の私とそう年が変わらない女性⋮⋮たぶんフローラさ
んと、彼女を後ろから抱きすくめて首に剣の刃を当てている男。
その両脇に、五人のルアインの騎士がいた。
ジナさんが険しい表情をした。
それもそのはず。フローラさんがどんな扱いを受けていたのか一
目で分かった。胸元が裂かれた薄手の簡素なワンピース。だらりと
力なく垂れ下がる手首にも、刃がつきつけられた首にも、縄の痕が
あった。美しかったのだろうチャールズ君とよく似た茶色の髪は、
梳かれた様子もない。
捕まってからもう何日も経っているし、服も薄汚れてはいないか
673
らこそ、何が彼女の身に起きたのかがわかる。
似たような年頃だからこそ、私はよけいに胸が痛い。
助けてあげたいと思う。もしかすると、彼女はもう恥を背負って
生きていくことを望んでいないかもしれないけれど。
でも動けない。フローラさんの命がかかっているというのに、う
かつに彼女を殺させるような真似はできないと思った。
しかしレジーは非情だった。
﹁殺せばいい。その娘のために、他の多くの兵の命や、私の命を投
げ出す気はないよ﹂
どんな顔をして言ったのか、私からは後姿しか見えないからわか
らない。ただ青の長いマントにも返り血を浴びているレジーの声か
ら、いつになく酷薄な響きを感じる。
あっさりと断られたウェーバー子爵はこれ以上は手がないと思っ
たのだろう。不意に上着から何かを取りだすと、フローラさんの口
に突っ込んだ。
仰向かせるために、腕を無理に動かしたせいで、フローラさんの
首に剣が押しつけられて血が滲んだ。
それからの出来事に、私は身動きできずにいた。
気付いたレジーが話の騎士が不意をついて子爵を殺す前に、フロ
ーラさんの体から突き出した氷の刃で、ウェーバー子爵は絶命した。
﹁フローラ様!﹂
嘆くけれども近づくわけにもいかないオーブリーさんが、自棄に
なって打ちかかってきたルアインの騎士を薙ぎ払う。
ルアインの騎士達も、一人がフローラさんの氷の刃の犠牲になっ
た。他三人が戦意を失ってその場に膝をついた。
フローラさんの体から、一度氷の刃が折れて崩壊した。
彼女の背後にいたウェーバー子爵も剥がれ落ちるように倒れた。
けれど再び、その腕が氷におおわれ今度は指先までが氷に変わる。
自分の身が凍り付いて、痛くないわけがない。悲鳴を上げるフロ
ーラさんにオーブリーさんが駆け寄ろうとしたが、彼女に拒絶され
674
た。
﹁いや、いやっ!﹂
フローラさんは、逃げるように斜め後ろの窓へと移動していく。
そこでようやく少しだけ冷静さを取り戻したのだろう。なすすべな
く立ち止まったオーブリーさんに言った。
﹁オーブリー。チャールズをお願い﹂
彼女の頬に、涙が凍り付いたように白い氷が一筋張り付く。苦悶
の表情でその腕で木の雨戸を開く。力がかかったとたん、窓が開く
のと引き換えに、彼女の氷った腕が落ちて、床で砕けて粉々になっ
た。
﹁夢だったら⋮⋮よかったのに﹂
泣き出しそうに顔をゆがめて、彼女は︱︱ふらついて倒れる人の
ように窓から身を投げ出した。
重たいものが、地面にぶつかる鈍い音がした。
見開いた目が、閉じることを忘れたようにその一部始終を見送っ
た。けれど誰かが私抱きしめて覆い隠してくれる。甘い花の香り、
ジナさんだ。
﹁大丈夫。落ち着いてキアラちゃん﹂
ジナさんはそう繰り返してくれる。けれどどうしてそんなに私を
なだめようとするのか。最初は意味がわからなかった。
けれど、こんなにジナさんは暖かいのに、私は一向に寒いままで。
やがて自分が震えていることに気付いた。
なんでだろう。私は怖いの?
でも怯える必要なんてないはずだ。だって私が死んだわけじゃな
い。ただ、こうなることは予想するべきだった。フローラさんが囚
われたことは知っていたのに。
先に彼女だけでも救い出せなかっただろうか。私がメイナールに
行かず、レジー達に先んじて潜入するなりできていたら。
でもそんなことをしていたら、メイナールの火事は広がっていた
だろう。ルナール達氷狐の吹雪では魔術師の操るものより規模が小
675
さい。それに風で煽って、余計に火を強める可能性だってある。
おまけに私はレジー達の行動に気付かなかったのだ。先手をとる
ことだって出来なかっただろう。
考えている間も、ジナさんに抱えられるように、私はどこかに移
動させられていた。
小さな部屋は、来客用のものだろうか。奥に寝台があり、ソファ
なども揃えられている。
それをぼんやり見ている間に、ようやく震えは治まってきた。け
れど体は寒くてたまらない。ルナールがまた私の足にぺったりとく
っついて座っていたけれど、それでも温まって来ない。
そんな私にジナさんが言う。
﹁キアラちゃんが凄惨な光景が苦手だって、メイナールで見た時に
わかってたんだけど、こんなにショックを受けるなんて思わなかっ
たわ⋮⋮。ギルシュも連れて来たら良かった。あいつの方が私より
慰めるの上手いのよね﹂
﹁ショック⋮⋮は受けたと思います。けど、フローラさんを助けら
れない自分が、情けなくて﹂
レジーの役に立つと思ってやってきたけれど、フローラさんが自
害したことで彼らが危険な目には遭わなかったけれど、私は何もで
きなかったのだ。
あの時レジーは何をしていた?
身動きが取れない私と違って、あの人は⋮⋮いつでもフローラさ
んを倒せるように剣を握って、じっとその動きを見ていた。
﹁もうっ、キアラちゃんそんなことじゃないよ! それにフローラ
さんは、事前に助けたとしても生きていてくれるかどうか⋮⋮。そ
れにあの状態じゃ、誰かが殺すしかなかったもの﹂
フローラさんは気高くも、優しい人だったのよ。誰も傷つけない
ように自分で死を選んだ彼女を、褒めてあげなくちゃいけないよ。
ジナさんに言われてうなずくけれど、なぜかそれだけのことが辛
い。
676
﹁師匠さん⋮⋮﹂
なぜかジナさんが弱り切った声で師匠に助けを求めた。
﹁そういう奴なんじゃ。軟弱なくせに強情だから始末が悪い。おま
えさんも諦めた方がいいじゃろうよ。ヒヒッ﹂
﹁笑ってる場合じゃないですよ。だってこれじゃ﹂
ジナさんが続けて何か言おうとしたその時、部屋の扉が開かれた。
ルナール達もついてきていたのだろう。他人が入ってきたので、
足下にいた一匹が、身構えるように姿勢を低くした。
﹁キアラは⋮⋮ここだね﹂
入ってきたのはレジーだった。
顔を上げて彼の顔を見れば、仕方ないなという風に苦笑いしてい
る。
きっと、こうなると思っていたのだろう。
それなのに反発して、できると言っておきながら誰かに助けられ
て引き下がることしかできなかった私は、顔を合わせにくくてうつ
むいてしまった。
677
すれ違うと分かっていても
﹁君はメイナールで雇われたって言う傭兵?﹂
銀の髪ならば王子だとわかっているので、レジーの問いにジナさ
んは素直に答えた。
ジナさんは抱きしめたままだった私を離し、その場で膝をついて
礼を示した。
﹁アラン・エヴラール様に雇っていただきました、傭兵のジナと申
します。この氷狐達は私が飼っている相棒たちでございます﹂
﹁そう、彼女のことは代わって見ておくから、席を外してくれる?﹂
あっさりと人払いをする言葉に、けれど雇われている身のジナさ
んは反論すべきではないと思ったのだろう。
﹁承知いたしました﹂
そう言って、ちょっと私のことを不安そうに見ながら立ち上がる。
そこでレジーが私に近づき、紐で引っかけられただけの師匠をさ
っと外してジナさんに渡した。
﹁ああ、これも預かって。ウェントワースにでも預けておいて﹂
土偶を押し付けられたジナさんは困惑していたが、師匠が﹃ヒヒ
ヒッ若いっていいのぅ﹄と楽し気に笑うので、問題はないと判断し
たのだろう。
師匠を抱え、ルナール達を連れて退室していった。
レジーはジナさんと入れ替わるように、私の隣に座る。
ふっと息をつくので、彼も疲れてはいるのだろう。男爵の城へ潜
入するために、ほとんど朝から動き続けていたはずだ。
678
お疲れ様、ぐらいは言うべきだろうかと思った。けれどその前に
レジーがつぶやく。
﹁⋮⋮君が来ないうちに始末しようと思ったのに﹂
そうして右隣に座ったレジーが、珍しく乱雑に私の頭を撫でて、
すぐ手を離した。
﹁ウェントワースやアランにも、なるべく時間を稼げと言ったんだ
けど⋮⋮。でもこっちも少し手間取ったからね。追いつかれたのは
私の失点だ﹂
彼は少し私の顔を覗き込むようにする。
﹁言わなかったことを怒ってる?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮でも、レジーが決めることでしょう。私は従うだけだも
の。どうせレジーは全部言いたくない人だってわかってきたから﹂
本当は怒っていた。けれど自分が上手くできなかったから、レジ
ーを責められない。でも拗ねた言い方になってしまうのが止められ
ない。
レジーはため息をついた。
﹁そうだね。私は人に自分の考えていることを全て言うのは苦手だ
よ。そして止められるのも好きじゃないから、君のお願いを聞きた
くないこともある。だけどそれはキアラだってそうだろう?﹂
言われて唇を引き結ぶ。うなずかざるを得ない。
最初に止めようとしたレジーを振り切るように、戦に参加すると
決めたのは私だ。
だけどうんとは言いたくない。納得してしまったら、自分の願い
がかなわないことを知っているから。
﹁拗ねないで、キアラ﹂
679
そう言って頬を両手で包みこまれる。
暖かい。
ほんの少し触れる程度だからか、頬から、指が触れる顎から、耳
の下から、少しだけくすぐったい感覚が伝わる。
すると悔しさや他のよくわからない感情でいっぱいの心が溢れて、
泣き出しそうになる。
﹁君が戦うと決めたから、連れてきた。けれど私は君を壊したくな
い。だから不必要に君を戦わせたくない﹂
レジーは不意に顔を近づけて、わかってほしいんだ、と私の耳元
でささやく。
首筋がざわついて、さらに心が揺れてしまいそうになる。
崖っぷちに立っているのに、その背中を押されそうになっている
みたいだ。怖くて叫びそうになる。
﹁私が決めたことだもの、壊れるとかそんな大げさな⋮⋮﹂
﹁でも耐えているうちに君は変わってしまう。今の君を形作ってい
るもののほとんどが、君がこうして生まれてくる前に得たものばか
りなんだろう? 誰かに優しくする気持ちも、前向きに進もうとす
ることも、こうして私に反抗するのも、幼い頃から虐げられ続けて
いただけでは、思いもつかなかったはずだ﹂
反論できないのも、結局は前世の記憶のせいだ。
今でも私の父母は、前世の二人だと思っている。そこで教えられ
たことを元に、今の自分の自我を育ててきたようなものだった。
この世界の父親はろくな教育なんてしたことがなかった。だから
パトリシエール伯爵に引き取られた後、家庭教師にどうしてこんな
に物知りなのかと驚かれたぐらいだ。
⋮⋮知識に偏りがあったり、知っていておかしくないことが抜け
ていたりもしたけれど。その辺、ある程度は前世と同じような世界
680
で助かったわ。
だから倫理観の物差しだって、幼い頃に何度も幸せに浸ろうとし
て思い出した前世のものだ。
だから人を殺すのが怖い。戦うことが怖い。
ゲームの出来事が、リアルに見えているだけだと思わないと、と
てもまともに戦場なんて見ていられない。
この世界の倫理観だけだったら、私は自分が生きるためなら誰か
を犠牲にしても仕方がないと割り切ってしまっていただろう。庶民
基準だったらなおさら、他者のことを気遣って庇うゆとりがある時
ばかりではないと感じるだろうから。
そして確かに何度か﹃ゲームのキアラだったら﹄と考えたことが
ある。前世の記憶がなければ知識を得る手段もないまま伯爵に売ら
れ、虐待のせいで保護者の立場の人間に逆らえば生きていけないと
怯えてしまい、逃げることすらできなかっただろうと。
﹁私も君に、誰かを殺して欲しくはないよ。ただ君が決めたことを
止めたくない。自由を奪いたくなかった。だからせめて、君が本来
の気持ちに沿わないことをし過ぎないようにと思ってる。戦場に出
ることが止められないなら、目をそらしていられるように、せめて
身近に感じすぎるような凄惨さは見せたくない。そうできるってこ
とを、それでも私がキアラが心配するような危険な目に遭わないこ
とをわからせたかった﹂
そうしてレジーは、頬に触れていた手をずらして私の目を隠して
しまう。
目を開けても薄ぼんやりとレジーの手の平が見えるか見えないか。
﹁レジー?﹂
681
﹁ほんとはずっと目隠しをさせておきたいけれど、そういうわけに
はいかないからね。分かってくれなくても、私はやめないよ。私も
少し、意地になっているから﹂
目隠ししながら、レジーは耳元で囁き続ける。
これは予告だ、と思う。
目隠しされている時のように、今後もレジーは勝手に私に知らせ
ずに行動するからと。どんなに私が怒ったって、止めないと言って
いるのだ。
﹁だからって私が変わるわけじゃ⋮⋮ん、あにするのっ﹂
急に鼻をつままれた。抗議して手を振りはらおうとしたら、レジ
ーはしれっと応じた。
﹁じゃ、こっちにする﹂
﹁んむ!?﹂
唇を摘ままれたんだけど!
痛くされてるわけじゃない。大きく動かせばレジーの指先は離れ
るだろうけど、あまりにびっくりして目を瞬いてしまう。
レジーの指を払おうと上げた私の手も、無意識に止まってしまっ
た。
﹁くくっ、びっくりしてる。キアラの睫が動いてくすぐったい﹂
笑いながらレジーが手を離す。
ついでに目隠ししていた手も離れて、レジーの笑った顔が見えた。
⋮⋮なんだろう。すごくむかっとした。
原因は分かっている。レジーが話をそらして終了させたからだ。
何度言われてもわかるつもりはないって、そう態度で示すからこん
なに苛立つんだ。それなのになだめるのが上手くて、掌で転がされ
ているように感じるから反発したくなる。
682
だから思わず私はレジーに言ってしまった。
﹁レジーのバカっ!﹂
﹁バカって何で? 君のお願いを僕が聞かないから?﹂
レジーは怒った様子もなく聞き返す。
﹁当たり前でしょ。だって戦うためについてきたのに、私を参加さ
せないために、こんな早くカッシアを攻めたんだもの﹂
﹁君に全てを隠しているつもりはないよ。だからメイナールも行か
せただろう? あそこだって、市民が犠牲になっていたはずだ。悲
惨さに差はない。ウェントワースには注意させていたけど。でもこ
の城に来たら、嫌でも君はフローラ嬢の最期を見るはめになってい
たはずだ。それは危険だろうと思っていた﹂
それに、とレジーが続ける。
﹁いつも君という最後の壁がいる戦ばかりしていたら、君に何かあ
った時、兵が気弱になって潰走することだって考えられる。確かに
君が戦うことで助かる者もいるだろう。けれど君が使えない状況に
も慣れさせないと、いずれその甘えは多くの兵に死という形で返っ
てくる。だからすべての兵が君に頼り、いなければ負けかねない状
況に甘えさせることだけは、認めるわけにはいかない﹂
王子として、統率者として語ったのだろう。レジーはすっと表情
を消していた。
私は口をつぐむ。自分が怪我しないでいられるとか、行軍が辛く
て体調を崩すとか、そういう不測の事態はないと言えないから。
﹁今回はそのためにも必要な措置だった。君のためだけじゃない⋮
⋮わかって、キアラ﹂
そう言って、レジーは私を一度抱きしめると、部屋を出て行った。
683
残された私は、ぎりぎりと奥歯を噛みしめる。
⋮⋮じゃあ、レジーのためにはどうしたらいい? どうしたら守
らせてくれるの。
言いたくても、震えて動けなかった上、正論の前に負けてしまっ
た私には、口にできる言葉が何も無くなっていた。
684
疑問の答えは
﹁カインさん﹂
声をかけられたのは、エダム将軍の連絡で城内の敵及び、ルアイ
ンの子爵が討ち取られたことを聞いた後のことだった。
高くも低くもないその声は、最近軍に加えた女性の傭兵のものだ。
振り返れば案の定、サレハルド出身らしい灰がかった眼の色をし
た女性が歩いて来る。
﹁これ、殿下から預かってきました﹂
そして渡されたのは、キアラさんの師匠だった。
﹁え⋮⋮﹂
ぽんと渡されたキアラさん曰く﹃土偶﹄という人形は、薄目を開
けているのか瞳孔が横型なのかよくわからない眼で自分を見ている
気がして、居心地が悪い。
﹁くくっ、その驚いた顔。もっと狼狽させてやりたい気分になるの
ぅ。イッヒッヒッヒ﹂
物語の悪い魔女のような台詞を吐くホレス師に、一体どういうこ
となのかと聞けば、とんでもない答えが返ってくる。
﹁わしゃ、野暮なことはせん主義でなぁ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮っ!?﹂
その単語を聞いた瞬間、すぐにでもキアラさんを探さなければと
思った。
ホレス師はこういうことに関しては、自分のこともわざと見逃す
ような人だ。⋮⋮時々、弟子が心配にならないのかとは思うが。
685
﹁アラン様、少し外させて下さい。ホレス師、キアラさんはどこに
⋮⋮﹂
なので断りを入れて立ち去ろうとしたが、それを止めた人がいた。
﹁ちょっと待って!﹂
私のマントを掴んだのは、傭兵のジナだ。何をするのかと思った
が、その表情が真剣すぎて放置するわけにもいかない。
﹁キアラちゃんは、今までなんども戦に出てきたのよね? それな
のにどうして、彼女はあんなに普通のままなの?﹂
﹁普通、とは?﹂
よく理解できずに問い返すと、ジナの足元にいた氷狐が一匹、ふ
んと鼻息を漏らした。鈍いと言いたいのか? ちょっとだけ不愉快
な気分になったこちらにはかまわず、ジナが一瞬の大雨が通り過ぎ
るような勢いで続けた。
﹁おかしいでしょう。普通戦場になんていたら、命のやり取りなん
て慣れてくはずなのに、あの子は慣れてきてるつもりでいるみたい
だけど、ぜんっぜんダメなのよ!? あれじゃおかしくなっちゃう
わよ! 貴方達は何かそうなるようにあの子に変なことを言い聞か
せてない? 戦災孤児だってあそこまで酷くない。見てらんないわ
!﹂
彼女の言った内容に、私は唸るしかない。
それは気にしていた。自分も、レジナルド殿下も、アラン様でさ
え。だから魔術師くずれが出そうな戦場を一度でも避けさせて、心
を休ませてやりたいと思った。案の定キアラさんは怒っていたが、
それでも彼女のためになると思っていた。
なのに今回、こうしてジナが抗議してくるということは、何かあ
686
ったのだろう。
しかし現状でこれ以上何をすべきなのか。
出来ないことは出来ないと言うし、頼ってはくれる人だが、こと
魔術での戦いに関してはこちらにわからないことがある分、キアラ
さんの意見を覆せた試しがないのだ。
そう言って突き放したいが、ジナはキアラさんのことを年上の女
性らしく気に掛けてくれている人だ。暑さのせいで食欲がない時に
はギルシュと一緒に甲斐甲斐しく世話していたし、女性同士だから
か、キアラさんも彼女手を借りることもあった。無下にしずらい。
すると、気の毒そうな顔をしたアラン様が割って入った。
﹁心配するのはいいんだがな、俺たちじゃどうしようもない事なん
だよ﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁キアラは剣で戦うこともできない、争い事をしたことがない奴な
んだ。そもそも、生い立ちのせいか、倫理観が綺麗すぎる﹂
彼女が以前に一度、人生を送っているという話を知った後。何度
か私とアラン様は前世の生活について話を聞いたことがある。
その国では、彼女が生きているうちに戦争はなかった。むしろ遥
か過去の出来事で、殺人事件すらこの国の比ではないほど低い発生
率だったらしい。人が死ぬのは病気か寿命か、馬車や馬とぶつかる
事故ぐらいだと認識していた彼女が、戦場で泣いてしまうのは仕方
のないことだと思った。
だからこそ戦争で戦うことが、彼女の中では平和な町中での無差
別な人殺しと同じように思えて忌避感があったのだ。
今はようやく、集団で襲い掛かる盗賊に対して殺すしか術がない
から仕方ないという程度には、認識が変わっているようだが。
687
アラン様の言葉は、そういった事情を的確に表していた。
﹁殺すのが怖い奴に無理強いしたいか? 本人がすると言っても、
見てる方はたまったもんじゃない。だけどあいつの力は借りたいっ
てこっちの事情を、あいつは誰よりわかってるんだよ。だから今回
のことからは遠ざけた。それ以上は、あいつが自分で妥協点を考え
るしかないだろ﹂
ジナの方は、まだ数日しか一緒にいないことで、そこまでは知ら
ない。だからアラン様の言葉に苦い表情になった。
﹁貴方達がキアラちゃんを大切にしてるのは分かってるよ。それな
ら、どうしてキアラちゃんは誰かを頼って、心の整理がつくまで休
んだりしようとしないの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
それについてはアラン様も口を閉ざした。
ジナの質問に答えるためには、キアラさんが隠したがっていた前
世の話をしなくてはならない。
ある程度は、彼女が記憶を頼りに書いたものを見せてもらったの
で、アラン様や私も知ってはいる。けれど彼女が知っているものと
は少しずつ違ってきているという。
だからこそ、仲間を死なせたくない彼女は無理をしてでも、戦場
を自分で把握して、何かあれば救うのだと心に決めている。
特に死んでいるはずだったレジナルド殿下。彼が難を逃れたと思
った後で矢を射られ、た時以来、なおさらにキアラさんは不安定に
なったように思う。
答えが得られなかったジナは、やや困惑した表情になった。言え
ないようなことがあるのに、無理に聞きだす形になったのに気付い
たのだろう。
688
そんな彼女の肩を叩く人物が現れる。
どこの興行人かと思うマントを身に着けた、彼女の傭兵仲間ギル
シュだ。
﹁ジーナっ、あんたが人の面倒すぐ見ようとしちゃうのは知ってる
けど、ほどほどになさいねん﹂
﹁うん⋮⋮﹂
あの女言葉で諭されたジナは、大人しくうなずき、落ち込んだよ
うに下を向く。
﹁心配するのはいいけど、ジナは突っ走っちゃうからいけないのよ
ん。⋮⋮お二人もごめんなさいね、言えないことだってあるでしょ
うに。で、私達は今のところ何をしたらいいのかしらん?﹂
﹁ああ、とりあえずは城内にもう敵兵がいないかの確認だな。⋮⋮
ウェントワースはキアラをどこかの部屋に放り込んで休ませておけ。
あいつの体力は深窓のご令嬢よりちょっとある程度だからな﹂
ギルシュとアラン様の会話で、その場の話は流された。
命じられたことでもあるし、気になってはいたので、私はキアラ
さんのいる場所をジナに聞き、城内の客室だと思われる場所へ入っ
た。
⋮⋮なぜかキアラさんは、泣くのではなく怒っていた。
何したんですかレジナルド殿下。
心配した方向ではなかったというか、そんなことはしないだろう
と思ってはいたものの、少しはほっとしたのも事実だが。
しかし口を尖らせていると、幼く見えるのでちょっと笑いそうに
なる。
思えば彼女は16歳になったところだ。
689
勇気があって、決断したらなんとしてもやり抜く人だが⋮⋮いや
待て。この年頃の﹃少年﹄ならば大いにありうる行動だと気付く。
彼女が違うのは、英雄志願者ではないこと。やりたくないけれど、
仲間を守るためだけに決めて、突っ走っているだけなのだ。
思えば今までの行動もこの年齢らしいものなんだなと思うと、思
わず口元に笑みが浮かぶ。
﹁拗ねてないで、とりあえずこの部屋は荒らされてもいないようで
すし、休んでいてくださいキアラさん﹂
﹁私⋮⋮まだ納得していませんから。カインさんまでレジーと共謀
したこと﹂
﹁はいはい﹂
あしらうように返事をすると、キアラさんが﹁え、子ども扱い!
?﹂とショックを受けたように目を見開いた。
けれどそのおかげで、さきほどまで拗ねながらも背負っていた陰
のようなものが吹き飛んだように思えた。
その様子を見るに、同じ年頃の男友達のようにやや雑に放り出し
たアラン様のような対応の方が、今の彼女には気楽でいいのかもし
れないと思った。
だから彼女を手間のかかる子供に見たてて言った。
﹁退屈だったら、後でジナと狐達を呼んであげますから、しばらく
部屋から動かないように。ああ、それまでは師との対話でもして﹂
﹁師匠と話しても心安らがないもん⋮⋮﹂
キアラさんも、子ども扱いしないでとは言わない。
﹁ウッヒッヒッヒ。暇ならわしのエレンドールでの魚料理漫遊記で
も聞かせてやるかいのう﹂
﹁だからそれが、安らがないの! おなか空くから勘弁してくださ
690
いってば!﹂
拗ねてはいるが、先ほどよりは元気がよさそうにホレス師とやり
あいはじめた。
それを見て、とりあえずこれでいいかと、私は再び静観する方を
選んだのだった。
691
眠れない夜の先
夜にも魚介たっぷりパエリア的なメニューの話を師匠にされて、
完全に気持ちが逸れてしまった私は、寒気などもどこかに行ってし
まった。
代わりに空腹を抱えて眠ることになってしまった。
絶対にこれは師匠の嫌がらせだ!
エビの濃厚でコクがある出汁とコンソメの深い味わいが合わさっ
たスープがお米に浸みこんでいるんだろうなとか、ムール貝みたい
な歯ごたえの貝類食べたいとか、久しぶりに前世の食事のことを思
い出してしまった。切ない。
ファルジアには、コショウみたいな香辛料になる葉っぱとかがあ
るので、それほど食事に激しい不満を抱いたことはない。
たぶんその木、虫に食われないように辛味成分を葉に溜めてる木
なんだと思う。でも人間に増やされて、でも食べられてるので一長
一短かも。
栽培したり加工したりする手間賃もあるので、そこそこのお値段
はするため、料理に沢山使われることはない。
そしてやっぱりどこか淡い味の食事は、体に良さそうでも時々物
足りないのだ。
けれど夜食などもっての外。
しかも戦時中。
カッシア男爵領城下も、侵略の後遺症で物資に乏しい。
元々の人口が1000だとして、そこにルアイン兵という余計な
消費者が1000人押し寄せてきたような状況だったのだ。
692
助けたとはいえ、エヴラールからの軍はそれよりも兵数が多い。
そこで近隣農家から急きょ買いつけなどが行われるようで、その
ための一隊が本日中に出発していた。元手はルアインのウェーバー
子爵の持っていた私財らしい。それも半分くらいはカッシア男爵の
ものだったので、復興やこれからの防衛のためにもカッシア側に戻
す必要があって、派手に使うわけにもいかないようだ。
それに農村だって影響を受けている。
ルアインも併合を目的にしているせいで、都市部を中心に攻略し
ているけれど、道中の補給となれば、末端の兵士達は﹁ヒャッハー
!﹂とか言いながら略奪しているのだ。あげく抵抗した農民は殺さ
れている。
畑を荒らされなくとも、働き手が減って手をかけられないとなれ
ば、収穫にも影響するので、レジーがオーブリーさんや、城下に隠
れていたカッシア男爵領の文官などと打ち合わせをしていた。
忙しいレジーに、いつまでも怒ったって仕方ないとは思っている。
子供っぽいことをしていると見抜かれたのか、カインさんにまで
子どもをあしらうお母さんみたいなことをされて、ちょっと私も冷
静になった。
そう思っていたのだけど。
眠りについてすぐ、フローラさんの夢を見た。
泣いている彼女の腕がごろりと落ちて、彼女が言った。
﹃そのうち、あなたも﹄
言われて見れば、私の手が土になってた。息をのんだ瞬間にぼろ
ぼろと崩れ、思わず叫んでしまう。
いや、やだ、怖い、死にたくない。
693
﹃死んだら、もしかして戻れるかもしれないわ⋮⋮夢だったら良か
ったのに﹄
フローラさんの声に彼女を見れば、その顔が私のものになってい
た。凍り付いた涙はなく、土の色になったその姿が頭からぼろぼろ
と崩れて行って⋮⋮。
息苦しくなって目を覚まし、全力疾走した人のように必死で空気
を吸い込んだ。
窓の外はまだ暗い。だからもう一度目を閉じる。
けれど今度はなかなか眠りに落ちない。そのうちに空が薄ら明る
くなってきて、眠るのを諦めた。
かといって何をしたらいいのか途方にくれる。
万が一魔術を使いすぎて倒れることを想定して、私は軍の仕事を
割り振られていない。今後の戦闘についてをまた書く作業でもする
かと思うが、そんな気にもなれない。
疲れているだろうに、カインさんを起こして尋ねるのは気の毒す
ぎる。
そしてこのお腹が空いている時に、空腹感とは無縁になってしま
った師匠に声をかけたら、またしても料理の話をされたらたまらな
い。
じっとしている間にも、外の気温が少しずつ上がっていくのを感
じた。
お昼になったらまた暑くなりそうだ。
外へ出るのなら、今の方がいいだろうなと思った私は、初めて来
るカッシアの町を歩いてみることにして、半そでの白のワンピース
の上から、編み上げる形で幅が少し調節できる灰緑の胴衣と同色の
694
スカートを身に着けて外に出た。
﹁あれ、魔術師様?﹂
夜の見張りをしていた兵士だろうか。眠たそうに目をこすってい
た、父親ぐらいの年の二人組と、広い城の廊下ですれ違った。
﹁お疲れ様です﹂
なんでもないことのように挨拶して横を通り過ぎる。
二人は驚いたように話し合っていた。
﹁眠くて幻でも見たかな⋮⋮うう眠い﹂
﹁いや間違いなく魔術師様だろ。この城に、あの年頃の女の子は魔
術師様しかいないんだから﹂
﹁いつも誰か護衛がいるけど、一人きりでいいのかな﹂
﹁大丈夫なんじゃないか? なにせ魔術師だし﹂
こんな朝早くから私が歩き回っているのが不思議だったのだろう。
そんな二人から足早に離れる。
その後、十人くらいの兵士にしか会わずに済んだのは、早朝だっ
たおかげだろう。私を見知っている兵士達は、一人で歩く私を不思
議に思いながらも、魔術師だから何か必要があって出歩いているの
だと思ったのか、黙って見送ってくれた。
そうして出た城の外は、意外と人の姿があった。
ぼんやりした後で思い出す。
そうだ。庶民の働いている人達は、夜明けごろには起き出す。
城の近くには、食料等を奪われた町の人と従軍してきた兵士に、
まとめて食事を配給する炊き出しが始まっていた。
お腹が空いていた私も一椀もらおうと、町の人の列に並んだ。
695
そうすると私の背格好だと人の中に溶け込めてしまうのか、誰も
私が魔術師だとは気付かなかった。
ややしばらくして、そうか、と気付く。私はこの町で戦っていな
い。だから魔術師を町の人は見ていないのだ。
やがて配給をしていた町のご婦人から受け取ったのは、豆と芋と
乾燥させたトマトに豚肉を少々入れて煮こんだスープだ。
香草をきちんと入れていたので、ひどい味ではない。そこそこ食
べられる。具は少ないけれど、この粗食が懐かしい。小さい頃はこ
んな食事だったなと思い出す。
それからパトリシエール伯爵家での肉が多めの豪華なスープと、
エヴラールで食べた人参なんかの根菜が多めのスープを思い出す。
この世界で過ごすと、本当に前世がすごく恵まれた環境だったん
だなとわかる。
スーパーに行けばいつでもお肉も野菜も買えた。シチューにもご
ろっと鳥や豚のお肉を入れてくれていた。お父さんはビーフシチュ
ーが好きだったので、たまにお母さんが奮発してくれていた。でも
この世界では、庶民にそんなことは望めない。
﹁懐かしいな⋮⋮﹂
なんだか酷く、前世のあの家へ帰りたくなる。
戻れやしないのに。
食べ終わった後は、城に戻る気にもならずにふらふらと町を歩い
た。
解放された喜びと、生活環境を取り戻すためにするべきことに頭
が向いているのか、町の中で争い事などみかけなかった。みんな明
るい顔をして歩いている。
696
自国の兵が、ルアイン兵が隠れていないかと巡回しているせいも
あるだろう。
石畳の町の中を歩き疲れて、キアラは目についた見知らぬ煉瓦の
家の横に積まれた木箱の上に座った。
そこはちょっとした広場になっていて、中央に大きな木が一本立
ち、傍には井戸がある。
共用井戸の広場だ。
座ってしまうと動きたくなくなった。
それどころか、城に戻りたくなくなる。
何か理由があるわけじゃないのに、戻る気になれない。もっと町
の中にいたいと思ってしまう。
だからといってずっとここにいていいわけがない。みんな私が居
なければ探すだろう。師匠なんかは心配する必要はないと言うかも
しれないけど、レジーやカインさんが放置するわけもない。
そうしているうちに、だんだんと家から出てくる人の数が増えて、
広場を行きかう人の居ない瞬間がないほどになる。
やがて白髪交じりのおじさんが、小さな屋根付きの台車を引いて
きた。それを見た通りすがりの男性が嬉しそうに声を上げる。
﹁おや、屋台再開するのかい?﹂
﹁そうともさ。一日だけだがな。ルアインから隠しきったミードだ﹂
ルアイン軍がいる間、商売ができなかった人のようだ。馴染みの
店の再開だったのだろう、あっと言う間に数人が集まって、そこで
酒盛りが始まった。
﹁レジナルド王子殿下に乾杯!﹂
﹁エヴラールの辺境伯様に乾杯! あとリメリックとレインスター
697
だったか?﹂
﹁とにかくファルジアに乾杯!﹂
彼らの歓声にも似た声が、じりじりと生暖かくなる空気を震わせ
る。
聞いていた私は少しうれしくて、何もしていない自分が悔しかっ
た。
歯噛みしかけたその時。
﹁⋮⋮え、魔術師か?﹂
町の中に出てきてからは初めてそう呼ばれた。
誰だろうと顔を上げた私は、目を見開いてこちらを見ている、赤
味ががった髪の背の高い青年を見つけた。
698
変な人との遭遇
彼の方も思わず口走ってしまったのだろう。あっ、というように
自分の口を抑え、それから左右を見回し、もう一度私を見る。
年はカインさんよりも上だろう。赤味がかった茶の髪はやや長め
で、灰色の目がなぜか困惑の色を浮かべていた。
体格はいい。剣を振り回していてもおかしくないタイプに見える。
前世でいう欧米映画の戦争ものに出てくる青年みたいな人だ。
けど、ファルジアの青いマントをしていないので、うちの軍の人
ではない。カッシアの町の人ならば、まだ私のことを知らない。と
いうことは、
﹁軍についてきてる商人さんです?﹂
軍を動かすということは、大量の人が集まっているということだ。
それすなわち、商人にとっては都市一つ分のお客がいるようなもの。
そのため従軍鍛冶師やらの軍で雇っている人とは別に、商人なん
かも馬車を引いてついてくる。
そして戦場へついていくということは、巻き込まれた時のために、
ある程度剣が使えるか、護衛を雇っていることが多いのだ。
﹁え、その⋮⋮まぁそんなもん?﹂
返事も歯切れが悪かったが、
﹁お前、ほんとにその⋮⋮魔術師なのか?﹂
近づいてきて小声で問いかけてきた彼は、やっぱり困った顔をし
ていた。
顔はどこかで見たことがあったけれど、ともすれば町娘みたいな
699
恰好をして一人でぽつんと座っていたので、信じがたかったのだろ
う。
どう答えるか迷ったが、私は正直に話すことにした。
魔術師だとわかっていれば、後ろ暗いことをしようとする人であ
っても、私のことを警戒するはずだ。いつどんな形で私に反撃され
るかわからないから。
﹁そうですよ﹂
うなずくと、彼は愕然とした表情になる。
﹁上には上がいた⋮⋮﹂とつぶやいていたように聞こえたが、一体
誰と比べたんだろう。
﹁希少な魔術師がこんなとこに一人でいていいのかよ?﹂
気を取り直した彼は、私が魔術師だと周囲にわかるのを避けたい
のかもしれない。私の隣の箱に腰かけて、小声で尋ねてくる。
⋮⋮思わず拳二つ分、離れて座り直してしまった。
ちょっと傷ついたのか、青年は愕然とした表情で開いた空間を見
つめている。
なんだろう。この人、今まで女の子にこんな対応されたことなか
ったのかな。二度ほど開いた空間と私を見比べて、それでもまだ﹁
え⋮⋮﹂と言っている。
そんな彼に構わず、私は答えを返した。
﹁ルアインの兵はもういないですし。町中で、いっぱい人もいる上、
叫べば巡回の兵士も来るでしょう。それでも何かあったとしても、
私もそこそこ強いですし、一人でどうにでもできますから﹂
﹁⋮⋮ああ、確かに﹂
しみじみと言われた。どうやら仲良く話そうとした彼は、思いっ
きり線引きされて驚いたようだ。
700
﹁まぁでも、会話するぐらいなら大丈夫なんだな﹂
﹁話すぐらいなら問題ないですよ。ただ初対面の男の人と、くっつ
くほど並んで話すのって苦手です﹂
﹁ずいぶん率直だな。悪くない﹂
そう言って、青年はくつくつと笑う。
﹁楽しんでいるところ申し訳ないですけれど、私と仲良くなっても、
軍に必要なものは何も買ってあげられませんよ。私にはさして権限
なんてないんですから﹂
魔術師だから偉そうな立場においてもらっているけれど、ほとん
ど全ておんぶにだっこだ。中身はただの16歳の小娘だから、周り
が気にして先に用意してくれている。
﹁じゃあ、しがない商人の好奇心に答えてくれるか? あ、年上だ
からって敬語は使わなくていい。まどろっこしいからな。あと俺、
イサークって言うんだ﹂
ニッと笑う表情は、まるで太陽のようだ。明るくて社交的そうな
商人イサークは、話していてそう嫌な人ではなかったし、隣に座る
以外にはなにもしてこない。それに私もすることがあったわけでは
ないので、うなずいた。
﹁⋮⋮あなたがそう言うなら。で、好奇心って何?﹂
魔術師のことを知りたくて声をかけたんだろうか。
﹁なんでこんなところに一人でいるんだ? 護衛の一人や二人、ど
こかに潜んでんだろ?﹂
尋ねられて、私は首を横に振る。
﹁え⋮⋮。俺が言うのもなんだが、大丈夫なのかそれ﹂
701
﹁息苦しいから﹂
そう、今日は特に息苦しかった。
心配させないように誰か護衛を連れて行くことも考えたのにしな
かったのは、結局何かしようとしたら、護衛についた人の意見を受
け入れて、私の行動が制限されそうだったからだ。
こうして城から出てきてしみじみと思った。
私は、息が詰まりそうだった。だから一人きりになりたかったの
だ。
﹁いや気持ちはわかるけどよ﹂
なんだろう。この人自分でも剣を使って戦えそうなのに、護衛に
守られる生活送ってるんだろうか。そう思って横目で見ると、なぜ
かイサークはうろたえたように言い訳した。
﹁昔の話だよ⋮⋮。俺いいとこの坊ちゃんだったからな、子供の頃
は乳母日傘の護衛付で育ったから。あ、そうだこれ、これ食え! ほら!﹂
そう言ってイサークがポケットから取り出して差し出してきたの
は、小さな缶入りの乾燥果物だった。保存が効くよう、砂糖がまぶ
されている。
﹁くれるの?﹂
﹁そのために出したんだよ、とにかく食え。なんか疑ってるのか?
ちゃんとまだ食えるはずだぞ、ほら﹂
食べて見せられては断り難い。とりあえず一つつまんで口に運ん
でみる。
甘い。
頬の奥から喉へ、そして脳に伝わっていく甘味に、なぜか涙腺が
702
緩んだ。ぽろ、と目に留めきれなかった涙が頬を滑っていく。
﹁えっ、ちょっ、なんでそれで泣くんだよおい!﹂
﹁甘くて⋮⋮﹂
﹁え、甘すぎ!? 嫌だったか? 水飲むか?﹂
﹁ううん。おいしいから﹂
おいしくて甘くて。だから我慢していたのに心の堰から、感情が
こぼれそうになるのだ。
﹁おいしいのに泣くとか⋮⋮。やっぱりお前、さっきも泣きそうに
なってたんだろ﹂
﹁え、私そんな顔してた?﹂
驚いて顔を上げると、困り顔のままイサークが微笑んでいた。
﹁誰にも内緒にしておいてやるから、悩みがあるなら言ってみろよ。
聞くだけなら聞いてやらんでもない。てか、誰も周りに泣きつける
相手はいないのか? 大事にされてるんだろ、魔術師なら﹂
イサークの言葉に、私はハッとする。
私は自分がため込んでいることを、誰にも話せなくて、だから息
苦しかったのかもしれない。不満について訴えても、お互いに堂々
巡りになるだけだから。
でもレジーが悪いわけじゃない。カインさんが悪いわけでもない。
二人とも、私のことを大事に思ってくれているからこそだってわか
ってる。
そんなことを考えて黙り込んでしまった私に対して、イサークが
ため息をついた。
﹁話ができる相手はいるけど、その相手と話せない理由があるって
ことか?﹂
703
黙っているだけでも、イサークには私の心の声が読み取れてしま
うようだ。
﹁⋮⋮過保護すぎて﹂
だからかもしれない、またしてもほろりと言葉がこぼれてしまう。
⋮⋮なんで初対面の人にそんなことを言っちゃうのか、自分でも
わかってる。
誰かに話したいんだ。だけど城にいて私に近い位置にいる人は、
たぶん私の意見よりもレジー達の意見に同意しそうで、言うのが怖
いだけで。
﹁魔術師様に過保護っていうとあれか、魔術を使う時以外はお守り
しますーとか言われて自由にできないとか。アブナイのでこっちに
行っちゃいけませんって四六時中つきまとわれるとか﹂
﹁だいたい合ってる﹂
イサークが言ったそのままの状態ではないけれど、近い。
するとイサークは、なんだそんなことかと呆れたように言った。
﹁女なんてなぁ、大人しく守られてりゃいいんだよ﹂
﹁弱いから、何もするなっていうの? 何にも知らせずに、さっさ
と自分達だけで解決するのが楽しいの?﹂
思わずむっとして言い返してしまう。するとイサークが面白そう
な表情になった。
﹁それなら、有無言わせなきゃいいだけだ。お前さっき自分で強い
って言ったんだからできるだろ。なにせ魔術師だし﹂
﹁私は強いつもりだけど、剣も使えないし、魔術とったら何もでき
ないし。だから他の部分では周りの人に頼ることしかできないから、
無下にもできないし⋮⋮﹂
704
﹁小難しいこと考えるなよ。他人がやってくれりゃ楽だろ?﹂
﹁そうして他人に手を汚させてるのに、何も考えずに笑って出迎え
ればいいっていうの? 自分の方が力が強いのに、女だからって、
私の心が弱いからって、閉じこもってるだなんて酷いでしょう﹂
だんだん怒りが湧いて来る。
そんな私の様子に、なぜかイサークがうろたえた。
﹁えっと、まぁ、そんだけ怒るなら、お前が完膚無きまでにたたき
のめしておけば?﹂
﹁私?﹂
﹁お前の方が強いんだろ? なら、力を認めさせればいい。それな
のになんでお前の仲間はお前を頼らない?﹂
理由はわかってる。
﹁私が⋮⋮人を殺すのが怖いから﹂
それを聞いたイサークは、しばらくぽかーんと呆けた表情をして
いた。
うん、呆れたんだろう。
魔術師が戦争に参加してるのに人を殺すのが怖いとか、本当にバ
カみたいだから。下手をすると、そんな魔術師がいる軍について来
てしまって大丈夫かと思ってしまったのかもしれない。
やっぱり私の考えは、異端なんだ。そう思うと自然とうつむいて
しまう。
すると困惑したような声で、イサークが言った。
﹁あー、でもお前、わかってて戦ってるんだろ? よもや周りに言
われるがまま実行してるとか、そんな話じゃないよな?﹂
うなずくと、イサークは安堵の息をもらした。
705
﹁で、お前は大事なものを守るために自分も戦いたい。けど周りは
極力アブナイことをさせたくないって言ってるってことか⋮⋮﹂
﹁たぶん、そういうこと﹂
﹁なるほど過保護だな﹂
イサークはそういって納得したようにうなずく。
彼が肯定してくれたことで、なんだか私は少し胸がすっとした。
そんな私にイサークがすっぱりと言った。
﹁じゃあお前、やっぱり完膚無きまでにやっちまえよ﹂
﹁え?﹂
顔を上げて彼を見れば、少し高い位置にあるイサークの顔に、好
戦的な笑みが浮かんでいた。
﹁有無を言わせないほど強いとわかったら、過保護なことは言えな
くなるだろ。自分の身の安全もその時にきっちり確保できりゃ言う
ことない。それで解決だ。あとはお前がなんとか知恵を絞ればいい
だけだ﹂
そうか、と私は思った。
私は敵を倒していたけれど、結局カインさん達に保護された状態
での行動だ。私一人では無理だと判断して頼ったことで、むしろ一
人では危険だと印象づけたのかもしれない。
もう私は敵を殺すことは怖くない。それをわかってもらえばいい。
私に語ってすっきりした様子だったイサークだったが、数秒後、
急に苦悩しだす。
﹁うがああぁぁぁっ、俺なんでお前にこんな話してんだよ!﹂
頭をかかえて後悔した表情になったイサークに、私は首をかしげ
た。商人が戦争に口を挟んじゃったとか思ってるのかな。
706
最初は変な人だと思ったけど、聞いてくれて私はすっきりしてい
たので、話しをして良かったと思えたので、申し訳なくなる。だか
ら謝ってしまった。
﹁ごめんね変な話して。イサークが聞いてくれちゃうから、つい﹂
するとイサークがこちらに恨めし気な表情を向けた。
﹁⋮⋮女が泣きそうな顔してりゃ無視できんだろうが﹂
﹁女だからなの?﹂
﹁当たり前だろ。野郎がめそめそしてたって、かーちゃんとこに泣
きつきに行けようぜぇって言って終わりだ﹂
なるほど、彼は男の子が泣きそうな顔をしていても、放置して通
り過ぎたのだろう。
﹁ああ、でも私そんなこと言われても、天涯孤独だから⋮⋮男の子
だったとしても、泣きつく先がないかも﹂
﹁ちょっ、家族なしだと!? 泣かせんなよこのバカ!﹂
くくぅっと涙をぬぐう真似をしたイサークは、がしがしと私の頭
を撫でつけた。ちょっと乱暴だけど痛くはない。
彼はもしかして、こんな風に年下の子の頭を撫ぜることが多いの
だろうか。
されるがままにしていると、また困ったような表情で手を離し、
つい撫でてしまったのか、自分の手と私を見比べてため息をついた。
﹁俺もお人好しって言われるけどなぁ、お前の周りがお前のこと心
配するのもわかるんだよ。お前、初対面の俺に最初は警戒してたく
せに、話し出したら緩むの早すぎじゃないか?﹂
﹁うん⋮⋮。私の目が確かとか、そういうことは思ってない﹂
﹁⋮⋮そこは俺が良い人に見えたとか言っとけよ。地味に傷つくわ﹂
どうやら良い人に見えたと言ってほしかったらしい。ほめてくれ
707
ないんだ、と拗ねる年上の男の人を初めて見た私は、思わず笑って
しまった。
﹁でもイサークがぽんぽん私に言うの、なんか新鮮で気分が楽にな
るような気がする﹂
レジー達もやっぱりみんな貴族だったり貴族に仕える人だったり
するから、どこか上品だ。一番私に遠慮がないアランだって、女の
子をいじめてはいけないと思うのか、すぐに引いてしまう。
﹁なんか、懐かしいような気がして、ずっとしゃべっててほしいよ
うな⋮⋮﹂
どうしてか彼と話していると、前世の学校を思い出す。
イサークは確実に年上だから、年齢からいうと先生とかそういう
人になぞらえるべきなんだろうけど。なんだかクラスの男子か、お
世話になってる先輩みたいだ。
そう思いながらイサークを見たら、
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ちょっと目を反らして、口元を抑えているイサークがいた。
﹁どうかした? 私何か言っちゃった?﹂
﹁このバカ。そういう台詞はあまり人に言うなよ。男相手だったら
なおさらやめとけ。⋮⋮くそ可愛いすぎだろが﹂
﹁かわ⋮⋮!?﹂
急に褒められて、私はどきまぎしてしまう。
﹁ずっと話してたいとか、口説き文句だろうが。しかも涙目で言う
んじゃねぇ、反則だ﹂
﹁え、え!? 口説いたつもりは⋮⋮でも、嘘じゃないけど﹂
﹁ちょっ、そこで嘘じゃないとか何なんだお前!﹂
708
周囲に注目されたくないのか、イサークは小声で私に怒ってくる。
でも本気じゃないのは、その顔がちょっと赤いからわかるけど。
照れてるんだね。褒められ慣れてない人なのかな。
﹁でもほら、私みたいなのに言われたって、イサークは大人だから
子供に懐かれたぐらいにしか思わないかと思って。小さい子供にお
話したいって言われて、口説き文句だと思う大人なんて居ないでし
ょ?﹂
戸惑った末に正直にそう言えば、イサークが急に顔を近づけてく
る。
﹁魔術師様よ、お前がいくつか知らないけどな、もう16は超えて
るんだろ? 子供の年齢は過ぎてんのに無警戒すぎだろが。いやま
ぁ、ちょっと童顔ぽいなとは思ったが﹂
﹁それはそうだけど、私そんなに美人じゃないし﹂
﹁⋮⋮可愛いだろ。十分だ﹂
そんなことを真面目な顔で言うから、私は息をすることも忘れて
イサークの顔を見返してしまった。
﹁なんだ、お前の周りの男は褒めもしない、気が利かない奴ばっか
りなのかよ?﹂
﹁そういうわけじゃ⋮⋮﹂
ないと答えようとした時だった。
﹁キアラちゃん!﹂
呼ばれて、はっと周囲を見回す。
広場を隔てた向こう側から、私を探していたのだろうジナさんが、
氷狐と一緒に走ってきた。
私と同じ方向を見たイサークが、ひゅっと息を飲む。
709
﹁なんであいつがここに⋮⋮うおぁっ!﹂
ジナさんと知り合いなんだろうか。驚くイサークのことが視界に
入っていないのか、ぱっと立ち上がって数歩離れた彼と入れ替わり
に、ジナさんが突撃してきて抱きしめられた。
﹁ひゃっ!﹂
﹁ああもう、一人で勝手に出歩いて! 心配したじゃないの!﹂
そう言ってぐりぐりと私の肩に頭を押し付けてくるジナさんは、
なんだか大型犬みたいだった。
何故か負けまいとして、氷狐達までくっついてくる。
ぎゅうぎゅうのおしくらまんじゅうは嫌じゃない。うれしいんだ
けど、暑⋮⋮。
気温が上昇する中、ひと肌と毛皮で温められて死にそうになって
いる私に、離れたイサークが手を振って遠ざかった。
﹁じゃあまたな!﹂
魔術師に関わったせいで護衛になん癖つけられると思ったのか、
素早く逃げていく。
﹁え、誰かいたの?﹂
私の様子に気付いたジナさんが、ようやく身を離して私の視線の
先を追い⋮⋮。
﹁ジナさん?﹂
凍り付いたように、走り去るイサークの後ろ姿を見つめていた。
‡‡‡
﹁ちょっ、何やってんですか! バカなんですかあなた!﹂
710
路地に入った瞬間に、イサークは待ち構えていた少年に罵倒され
た。
﹁お前な⋮⋮仮にも国王陛下を好き放題言いすぎじゃないか?﹂
﹁言われるようなことするからですよ! だいたいなんで敵魔術師
と接触してるんですか!﹂
腰に手を当てて怒る町民の恰好をしたミハイルに、イサークは頭
をかきながら答える。
﹁いや一人きりみたいだし、上手く勧誘して、さらってこられたら
いいかなって思った﹂
最初はそのつもりだったのだ。
泣きそうな顔をして一人でぽつんと座っている少女。
きっと人間関係で何か上手くいかなかったか、失敗でもして飛び
出してきたのだろうと予想はついた。
それなら、上手く誘ったら騙されて、攫って来られるんじゃない
かと考えた。
人が行き交う場所だったので、荷物担ぎをして走って逃げるわけ
にはいかないが、口先三寸で上手く誘導できると思ったのに。
うっかりファルジアとルアインの戦いに巻き込まれて、カッシア
から脱出できなくなったけれど、これは不幸中の幸いと思ったのに。
﹁それがなんで焚き付けることになってんですか⋮⋮。全部は人に
紛れて聞くのが難しかったんで、詳細は僕にはわかりませんでした
けど、上手く誘導したら、魔術師を戦わずして排除できたでしょう
に﹂
﹁いや⋮⋮俺もよくわからん﹂
﹁はぁっ!?﹂
ミハイルが目を丸くする。しかしイサークにも上手く説明できな
711
いのだ。
泣いてるだけならよくある話だ。戦に絡んで女が泣かないはずが
ない。
じゃあ砂糖菓子をやったのがいけなかったのか? 甘かったから
と泣くから⋮⋮ではないと思う。
とにかく何か、調子を狂わされたのだ。
でもミハイルにこれ以上つつかれるのも嫌だったので、イサーク
は堂々と言いきった。
﹁いんだよ、気にすんなよ。俺は強い敵の方がいいんだよ! ほら
今日なら上手く外に出られんだろ。行くぞ!﹂
そうしてイサークは、魔術師誘拐の失敗を誤魔化したのだった。
712
反抗期なのかもしれないけれど
二つ目の人生にして、初めて家出まがいのことをしました。
キアラです。
衝動的に家から飛び出して、しばらく帰らないつもりだったのだ
から、家出だったと思う。
しかしその家出娘である私のスペックが問題だった。
魔術師なんて、ロケットランチャーを片手に持ち歩いているよう
なものだ。そうとわかっている者はまず下手なことをしない。
ただし私はその重さにすぐへたって倒れる。そうなると武器ごと
誰かに誘拐される可能性があるのだ。
ということを、こんこんとカインさんに説教されました。
もちろんカインさんが前世の武器のことなど知るわけもない。な
ので、実際にはもっと普通の表現をされたのだけど。要約したらそ
ういうことを言いたかったのだと思う。
一緒にいたアランは黙ったまま、カインさんを止めてはくれなか
った。まるでお父さんに怒られてきなさい、というお母さんみたい
だ。
十四歳の頃、反抗期にさしかかって言うことをきかなかった私に、
お母さんはよくお父さんから説教させてたんだよね。
だが今、遅い反抗期だと言われても、私は意見をひるがえす気は
ないのだ。
﹁一人で外出たのは悪かったと思います。けど私一人でも問題ない
と思うんです。町中で、卒倒するような魔術を使う必要はありませ
713
んから﹂
﹁魔術を使う前に、気絶させられたらどうするんですか﹂
﹁殺されることはないはずですよ。基本的にはどこの陣営だって魔
術師は欲しいでしょうから﹂
﹁逃げられなかったら⋮⋮﹂
﹁なんとでもできます。たいていのお城は石ですし。牢にでも放り
込まれたら、私としては万々歳なんです﹂
自分で道作って逃亡できるもん。
同じことを想像したのか、カインさんが渋面になる。私なら絶対
やるだろうとわかったのだろう。
﹁ちょ、ちょっとすみませんがカインさん﹂
そこで割り込んだのは、私を連れ返ってそのまま一緒にいたジナ
さんだった。
﹁キアラちゃんを完璧に守るなんて、誰にもできないことだと思う
んです﹂
﹁確率は減らせます﹂
即答したカインさんに、ジナさんは﹁でも﹂と負けずに言う。
﹁減らすだけでしょう? 相手がキアラちゃんを魔術師だとわかっ
ていて誘拐するつもりなら、なおさらです。護衛がいたなら、その
護衛を倒せるだけの戦力を用意します。もしくは隙を突くために、
行動を監視することもあるでしょう。決して絶対はないはずです﹂
﹁だからといって放置は⋮⋮﹂
﹁何もしない方がいいとは私も言いません。ただ、行動を縛ってが
714
んじがらめにするのは違うと思うんです。それなら、私やギルシュ
がついていきますから、キアラちゃんを少し自由にさせてあげたっ
ていいはずです。女の子らしいことだって、軍行動の中じゃ難しい
でしょうし、少しはキアラちゃんが気を抜けるようにしてあげても
いいんじゃないですか?﹂
ジナさんの言葉に、カインさんが考え込むように目を閉じた。
再び瞼を上げたカインさんは、じっと私の方を見る。
﹁町へ出て⋮⋮少しは楽しいと、感じられましたか?﹂
問われて、すぐに思い出したのはイサークのことだった。食べさ
せてくれた砂糖菓子。甘いなと思った瞬間に泣いてしまった私に、
慌てた顔。変な人だったけど、話して楽しかった。
だからうなずいた。
﹁楽しかったです﹂
そんな私の言葉を吟味するように、カインさんが私の顔に視線を
滑らせてくる。何もしていないのに、頬やこめかみに触れられてい
るみたいで、落ち着かない。
やがて小さく息を吐き、カインさんが言った。
﹁わかりました。誰か護衛が一緒であれば、ルアイン兵が少ないだ
ろう場所に滞在する時は自由になさってください。私も、あなたを
閉じ込めたいわけではないので。でも気を付けて﹂
そう告げたカインさんは、部屋を出て行った。
私は拍子抜けしていた。カインさんは何が何でもダメだと言うか
と思ったのだ。
それくらい、エヴラールを出発する前からカインさんは私につき
っきりだったから。最初の頃はそれが申し訳なくて。そのうちに自
715
分の思い通りのこと以外は許してくれないカインさんに、拘束され
ている気がしてきていたから。
でも束縛と言うなら、レジーはどうしたんだろう。
早朝から行方をくらまして勝手をしたのに、私が戻ってきたこと
は聞いていると思うのだけど、来る様子はない。
﹁そういえばレジーどうしたんだろ。真っ先に怒ると思ってた﹂
ちょっと拍子抜けしながらつぶやくと、それを耳にしたアランが
ため息交じりに言った。
﹁レジーは端からお前の行動を縛ろうとはしてないさ。むしろこっ
ちが、キアラの行動範囲を決めるべきだと言ったって、その必要は
ないって言うくらいだ﹂
︱︱ただ君が決めたことを止めたくない。自由を奪いたくなかっ
た。
昨日レジーに言われた言葉を思い出す。
彼は確かに、私の決定したことに強行に反対することはなかった。
魔術師になることを選んだ時も。戦場に出ると決めた時も。止める
べきだと反対し、良い顔をしてくれはしなかったけれど、実行する
と私が決めたら、妨げない。
代わりにカッシアの件では、予め私の行動を推測した上で、別な
方向へ行くよう誘導させられたのだけど。
レジーが優しいからなのか。それとも、自由を奪うことを極端に
恐れているのか。
彼の行動も、どこか不思議だ。
けれど同じようにレジーの決定を覆そうと思うなと言われたこと
716
を思い出し、どうしてが私は、寂しいと感じる。
﹁まぁ僕は反対だ。たとえ兵士千人分の戦力を発揮する規格外とは
いえ、お前は間抜けなことをする奴なんだ。レジーが認めている以
上、どうせ僕もカインもこれ以上反対などできないんだが、行先は
言わなくても、護衛だけは連れていけ﹂
そう言って、アランも出て行った。
彼はこれから、カッシア男爵領をどうしていくのかという打ち合
わせもしなくてはならないらしい。
思えばレジーは、そちらの会議を優先して、私のことは放置した
ようなものだ。
家出の件はこれで収まったとはいえ、なんだか落ち着かない。
ため息をつくと﹁よーしよしよし﹂と頭をぐしゃぐしゃにされた。
﹁怒られちゃったけど、これで無事に出歩いても大丈夫になってよ
かったね、キアラちゃん﹂
﹁ジナさん、口添えしてもらってありがとうございます﹂
頭を撫でて喜んでくれたジナさんにお礼を言う。
あのままでは、私とカインさんが堂々巡りの口論だけして、だけ
どレジーが決定したのならカインさんが嫌々引き下がるほかなく、
お互いに気まずい状態が続いたかもしれないのだから。
﹁いいのいいの。気にしないで。私が勝手にしたいと思って手をだ
しただけなんだから。メイナールで火を消したりとかしてくれたで
しょ。だから私が個人的にキアラちゃんのこと気に入ったし、こう
いうのは私も覚えがあるから﹂
﹁ジナさんも、誰かに束縛されたり⋮⋮?﹂
717
﹁うふふ。23年も生きてると、私みたいなのでも色々とあったり
するのよー。束縛の過ぎる男とかもいたしね。あげくに捨てるよう
な真似してみたり。ほんと男って不器用なことばかりするもんだか
ら⋮⋮﹂
遠い目になるジナさんは、どうやら恋愛がらみのもつれで、束縛
の強い人と色々あったらしい。それで婚期を踏み越えてしまったよ
うだ。
﹁大変だったんですね﹂
同情してしまった私だったが、ふとその時、去っていくイサーク
を厳しい視線で見ていたジナさんの姿を思い出した。
ジナさんは知り合いではないと言っていた。私に絡んでいる男だ
と思って、警戒したのだと。
それにしては厳しすぎるような気がしたのだが⋮⋮。まさか、イ
サークに似た年頃の人といざこざがあったのだろうか。
そんな余計なことを考えながら、私達も部屋の外へ出る。
﹁あ、リーラ﹂
廊下の先に、一匹の氷狐がいた。首に目印として緑のリボンを結
んでいる。リーラだ。
実は氷狐が敵や退治すべき魔獣だと間違われないよう、何か目印
をつけるようアランに言われていたのだ。そこで私が提供したリボ
ンを、三匹に結んでいる。
そのリーラは、さっき町でジナさんと合流した後、一匹だけどこ
かへ走って行ってしまったのだ。イサークの去った方へ向かったの
で、ジナさんは彼が誰なのか探らせようとしたのだろうと思う。
718
﹁おかえりリーラ﹂
出迎えたリーラは、うんともすんとも言わず、サーラやルナール
と一緒にジナさんの傍に合流した。
そうして部屋に戻ると、師匠がいつも通り笑っていた。
﹁おう家出娘が帰ってきたか。冒険は上手くいったんかいな? イ
ッヒヒヒ﹂
出迎えた師匠はマントルピースのさらに上にある、壁の飾り棚に
鎮座していた。おかげで手が届かないからと、リーラ達がいても余
裕の態度だ。
先に一度ジナさんが来た時に、氷狐を嫌がってジナさんに高い場
所に置いてもらったらしい。
﹁ふっ、犬どもめ。今日はお前たちを見下ろせるので気分が良いわ﹂
﹁犬じゃないよ師匠﹂
﹁あははっ。怖がってるお人形ってなんか面白い﹂
安全圏でふんぞりかえる師匠に、ジナさんは大ウケだ。
するとそんな師匠に向かって、ルナールが飛びかかった。細い前
足が届き、師匠が﹁ぎゃあっ!﹂と悲鳴を上げる。
﹁か、か弱い老人をいじめるとは、ほんとに狐どもは性悪でいかん
!﹂
すたっと床に降り立ったルナールは、もう師匠を一顧だにせず、
その場にお座りする。しかもそのまま後ろ足で頭をかきはじめた。
⋮⋮何か言ってるけで聞こえないなぁ、ってことだろうか。
同じ解釈にたどりついたらしい師匠が﹁きぃっ!﹂と悔しがって
いる。
あ、でもなんで師匠が嫌がるほど、氷狐と遭遇したのか想像はつ
719
く。たぶん師匠の魔力に惹かれたんだ。だから懐かれたけれど、氷
狐の冷気が寒いので近づかれたくない師匠には、嫌がらせみたいな
ものだったのだろう。
氷狐の片思いだったわけだ。
さて、カッシアの基盤を整えるためにも、レジー達は数日の滞在
が必要になった。
軍を動かすことはできないので、私も移動はない。
だからと、私はリーラを連れてイサークを探しに町に出た。魔獣
である氷狐を連れていたら、さすがにそれが村娘でも誰を手を出す
まい。
昨日と同じ場所に来たけれど、もちろんイサークが現れる気配も
ない。
そこで物は試しと、リーラに尋ねてみた。
﹁ねぇ、イサークの居場所がわかる? 昨日追いかけてたんだよね
?﹂
するとリーラが、先に立って歩きだす。案内してくれるのだろう
と、私はリーラについて行った。
ややあって、昨日の広場から近い宿の前に到着した。
まさかここに宿を借りてるのだろうかと思い、宿の主人に尋ねて
みたのだが。
﹁昨日のうちに出発したみたいだなー。軍についてきてた商人? だとしたらなおさらかもしれないね。売る物を調達するにも、カッ
シアの町はルアインに徴収された後だ。だから少なくない数の商人
が、他の町に仕入れに行ってるみたいだよ﹂
親切に教えてくれた宿の主人にお礼を言って出る。
720
やっぱりもういないようだ。
がっかりしながらも、イサークはまた仕入れを終えたら軍を追っ
て来るかもしれない。その時には会えるだろうかと考える。
昨日はありがとうって言いたいし、また話をしたい。
なんでこんなこと考えるんだろうと、自分でも不思議に思いなが
ら。
721
ソーウェンへ
さてカッシアを攻略した、王子レジナルド率いる私達。
カッシアの北には、ルアインから攻撃を受け、ルアイン兵が占拠
しているソーウェン侯爵領がある。
その日の会議では、デルフィオンへ突き進み、ルアインの本軍を
撃破することを優先するか、それともソーウェンの解放を優先する
のかを話し合っていた。
どうしてその二つを天秤にかけるのかといえば、ソーウェンの特
殊な事情と、エヴラールではソーウェンの状況が今一つ正確に情報
が入って来なかったため、当初はソーウェンを放置するという選択
肢があったせいだ。
ソーウェン侯爵領は北に山脈を擁する領地だ。
鉱山が多く、侯爵の城も鉱山にほど近い場所に置かれている。
人々は鉱山技師や鉱夫、採掘したものを加工する職人だったり、
それを売り歩く商人として働ていることが多い。
山脈から離れた南側の領民は、南は畑作をする者がほとんどだ。
そんなソーウェンを領有する侯爵は、ルアインからの軍が迫って
いるという連絡を受けてすぐ、領民を鉱山近くの山の町等へ避難さ
せたという。
鉱山を守るために作られた山道の仕掛けを使い、ルアインの侵入
を拒んだことと、ルアインも王都へ向かうことを優先したため、ソ
ーウェンが擁する軍の損耗は軽微らしい。
急に3万ほどの兵で襲い掛かられて、一領地の兵力で押し返せな
いと判断したソーウェン侯爵は、領民ごと余裕のある鉱山で匿い、
722
籠城することを選んだのだろう、というのはエダム様の発言だ。
﹁正直なところ、逃げる場所があるのなら私でもそうします。ソー
ウェンは天然の要塞がありますから、すぐにその判断に至ったので
しょう﹂
﹁うらやましいとは思いますね。リメリックも山はありますけれど、
ソーウェンほど鉱山が多いわけではありませんし。街道の流通の潤
滑さを優先していましたから、逆に進軍しやすい道が多いですしね﹂
うなずいたのはリメリックのジェロームさんだ。
そんな話が続いた後、それならしばらくソーウェンには耐えても
らい、先にルアイン軍を倒す算段をした方がいいのでは、という意
見が出た。
距離が離れていることと、ルアインが制圧・もしくは協力してい
る領地以外からの情報になるため、遅れてしか届かない王都や国王
軍の状況が悪いからだ。
王が姿を見せないとか、ルアインの軍に押されて陣を退かせ続け
ているとか、あまり良い話が伝わらない。
国王軍との挟撃ができるのなら、楽にルアインを倒すことができ
る。
しかし先に国王軍が倒れたなら、その後の状況が厳しくなると、
焦る者もいるのだ。
﹁しかし、ルアインから国を救うべく進軍している我々が、見捨て
るというのも問題があるだろう﹂
渋い表情で言ったのはアランだ。
﹁確かに外聞が悪いだろうね﹂
レジーが長卓に肘をつき、組んだ手の上に顎を載せて微笑む。
723
﹁それに、ソーウェンにとっても時期が悪い。⋮⋮鉱山へ引き上げ
たのは町の人々だけではないだろう。農村の人々もいる。この夏の
うちに手を抜けば、秋の収穫に影響が出るはずだよ﹂
それはエヴラールとて例外ではない。
ゲームで兵糧のことなど考える必要はなかったが、ここは一つの
現実世界なのだ。人が生きるのには食べ物が必要で、前世のように
世界中で生産時期が違う場所から輸入したり、科学技術の発達に支
えられた貯蔵技術なんていうものはない。
除草剤もない。除虫剤も天然のものがあるくらいだ。
よって何日も放置していたら、収穫に多大な影響が出る。
ジェロームさんが厳しい表情になった。
﹁やはり一時的になったとしても、ルアイン兵をソーウェンから少
し追い散らすことは必要でしょう﹂
﹁我が父上達の方で、南のエレンドール王国に働きかけをしている
はずです。あちらが協力を確約してくれたなら、エヴラールの北か
らの侵入路を封じるため、攻め上ることができる。ルアイン兵が新
たに入ってくる心配もなくなるでしょう﹂
現在のエヴラールは、ルアインが北の地方を蹂躙し、そちらに住
んでいた者が避難してきている状態だ。
本当なら兵力を集めて失地回復をするべきだが、エヴラールだけ
が被害を受けたわけではなく、ルアインの軍を叩かなければ王城へ
攻め上られるかもしれない。
こんな状況でエヴラールを守るためだけに、他貴族から兵を募る
のは難しい。だからルアインの本軍を叩くための派兵を募り、その
際に一部の貴族にはエヴラールからのルアイン軍の侵入阻止のため
の兵力を、割いてもらうしかなかった。
724
代わりにエヴラールの方については、他の貴族家とエレンドール
王国をベアトリス夫人が王女としての肩書きを使って説得し、援軍
要請をとりつける算段になっている。
それが上手くいけば、ソーウェンを通過しようとするルアインの
兵は少なくなるだろう。
そこでレジーが発言した。
﹁南のアズールとエニステルから、こちらに援軍を向かわせたとい
う連絡が来ている。そちらの援軍が来たなら、疲弊した兵をカッシ
アとソーウェンの兵力増強に充て、それ以外を連れてデルフィオン
を攻めたい。
そのためにも、できればソーウェンのルアイン兵を追い払い、新
たな流入をソーウェンには抑えてもらいたいね﹂
﹁なるほど。ソーウェンは自前の兵力を温存しているわけですから
な。ある程度草刈りをしておけば、彼らも自力で虫を追い払えるよ
うになる、と。
ルアインも兵力のほとんどは⋮⋮今頃はシェスティナ侯爵領の近
くに移動させていることでしょうし。追加の派兵さえ警戒したら、
なんとか領地は保持できるでしょう﹂
エダム様が言うのは、国王が呼びかけて集めた軍が集結している
場所だ。主に西側の貴族家が兵を出しているはずだ。そちらのファ
ルジア軍を破るために、ルアインの軍は兵力を集中させている。
むしろ、だからこそ東側の領地はルアインの目が向いていない。
解放しやすいだろうということになる。
話はソーウェンを解放する方向で進む。
レジー達は、ソーウェンへ向かわせる兵力の打ち合わせに入って
725
いる。
指揮官はレジーだ。アランと、ジェロームさんがついて行く。エ
ダム様はカッシアに残るようだ。
ゲームでも、アランはソーウェンで戦っていた。ソーウェンは天
然の要害と鉱山に至る道を工夫して、ルアイン軍の侵入を拒むこと
に成功していたので、戦いが終わればアランの軍に派兵もしてくれ
るのだ。
だから行くべきだとは思う。
ただ最近、私は不安がある。
ゲームそのままの戦闘にはならないのではないだろうか、と。
メイナールではぎりぎりで、都市が火の海になるのを免れたが、
危うく戦闘どころではなくなるところだった。
カッシアは最終的に状況を聞いてみれば、正攻法ではやはり厳し
い戦いになっていただろうと思った。
⋮⋮悔しいが、市街戦になったら私の魔術は少し役に立たせ難い。
やるのなら、裏をかくぐらいのことをしなければならなかったし、
オーブリーさんの情報を得て、カッシアの城下の人を鼓舞し、毒ま
で使ったレジーの方法は、速やかに最小限の被害でカッシアを取り
戻す、最前だったのだろう。
だからこそ、ついて行きたい。
﹁私も行きます﹂
行きたい、とは言わなかった。希望を出すんじゃない、私は行く
んだ。
イサークと話して以来、私はそんな風に思うようになっていた。
今までは嫌々ながら、だけど友達を守りたかったからついてきた。
726
でもそれは私を抑え込む口実になってしまうとわかったから。
有無を言わせない成果が必要だから、なおさらに私はソーウェン
へ行かねばならない。
絶対に行く、という意思を込めてレジーを見れば、彼はうなずく。
﹁わかった。キアラ殿にも従軍していただこう﹂
彼は反対はしなかった。
私が自由にする代わりに、彼も私のお願いを聞かないという、あ
れを守っているのだろう。
それでもいい。まずついて行かなければ話にならないのだから。
私が次にやるべきことは、自分で馬に乗って移動することだ。
幸い、軍には歩兵がいる。長距離を極力脱落させずに歩かせるた
め、移動中は早駆けする必要はない。であれば、私でも馬を進ませ
るのに支障はないのだ。
カインさんに自分で馬に乗りますと言うと、彼はやや諦め顔で馬
を用意してくれた。
先日の家出と反抗期で、言っても無駄だと諦めてくれたのかもし
れない。
代わりにとばかりに、傭兵二人組とカインさんの三人態勢で護衛
されることになったが。
﹁そうなのよー。あたし、お嫁さんっていうよりは、お母さんにな
りたかったのん﹂
翌々日出発すると、道中では私にとってそこそこ謎な人物、ギル
シュさんの話をじっくりと聞くことになった。
そもそもは女系家族に生まれたギルシュさん。
家事手伝いをしていた幼少時から、自分はこれが性に合っている
727
と密かに思っていたらしい。
特に子供の世話と料理とお裁縫。
お裁縫は子供のものを作るのが楽しいとか。
小さいお洋服とか、可愛いわよねーと言っていたので、マイヤさ
んと会わせたら、すっごく気が合いそうだ。そして二人で土偶用の
小物を大量生産するのではないだろうか。怖いけどちょっと見てみ
たい。
そんな私の考えを察したのか、師匠が嫌な顔をしていた。
さてそんなギルシュさんと家族は、戦争に巻き込まれた。
畑も家も放棄して逃げるしかなく、途中で家族も亡くなった。
妹たちを亡くしたギルシュさんは、針と糸の代わりに剣を持ち、
義勇兵として戦争に身を投じた。
ギルシュさんは戦うことに適性があったようで、次々と敵を倒し、
認められていったが、同時にちょっとがっかりしたそうだ。
﹁悔しいことに、あたしってお裁縫よりも剣を振り回す方が上手か
ったのよね﹂
布を断つよりもうまく敵を斬り、そこそこ褒章も給金も稼いだギ
ルシュさんは、でもやっぱり子供たちの世話をして暮らす日々を送
りたいと願っていた。
そんなある日運命の人に出会ってしまった。
今ギルシュさん達が所属している、傭兵団の人だった。
﹁とってもカッコイイ人でねん。子供好きで、このまま兵士として
働きたいわけじゃないって聞いたその人が誘ってくれたのよ。剣の
腕も、その願いも両方叶う場所があるって﹂
728
その傭兵団は、そもそもが戦火に焼かれた村人達が集まって作っ
たものだった。だから彼らが結婚したら、その妻は村に住み、子供
が増え、成長すると傭兵団の一員として戦争に参加するという循環
ができていた。
ギルシュさんは﹁これはいい﹂と思って、迷いなく飛び込んだ。
﹁だけどあたしを誘った彼って、自分が結婚するために故郷へ帰る
道すがら、ついでにあたしのこと勧誘したのよね。
あたしも最初は腕が認められたんだって喜んでたんだけど。あた
しのこと熱心に勧誘してくれた時は嬉しかったのに、お嫁さんと話
している彼も嫌いじゃないけど、なんだかさみしいとか考えちゃっ
て。兄みたいな人に甘えてたのかなってその時は考えたんだけど、
違ったのよねぇー﹂
頬に手をあて、ギルシュさんがため息をついた。
端的に言うと、彼は元から女性的なことが好きで、よくよく考え
ると女性にあまり好意を抱いたことがなくて、年上の男性をかっこ
いいと思っていたのは憧れとかじゃなく、恋愛感情だったことをそ
の後知ってしまったそうな。
とはいえ既婚者の彼は実にノーマルな人だった。
そして彼の子供の世話を、奥さんと一緒に見るのも結構好きだっ
た。
どうせ彼の恋心は成就などしない。なら、そんな人達の子供の面
倒を見られるのは、ある意味幸せなのではないかと考えるようにな
ったのだ。
結果ギルシュさんは﹃私は、みんなの母になるのよん!﹄と、現
在のように方向性を転換したのだそうな。
729
傍で聞いているカインさんが、理解不能って顔をしていたが、私
は結構楽しかった。
だってオネェな人が、保父さんやってるだけでしょ。
というかギルシュさんて男性が好きでも、結局は恋愛感情が薄く
て、母性本能が強い人なんだろう。
ギルシュさんに小さい頃から面倒をみてもらったらしいジナさん
にとっては、ギルシュさんは剣の先生でもあるとか。
﹁結局あまりわたしは強くならなかったけど、ルナール達が懐いて
くれたおかげで、なんとか1.5人前ぐらいになれてほっとしてる
の﹂
そう休憩時に語ったジナさんは、何故かルナールに前足で背中を
叩かれ。膝に頭を乗せていたリーラが離れてふんと息をつき、サー
ラに体当たりされていた。
どうも氷狐三匹は、自分達が三匹もいるのに1.5人前とはどう
いうことだ、三人前と言えという不満を抱いたようだ。
そのうちにジナさんの頬にルナールの前足がヒットしたけど、ジ
ナさんは機嫌よく笑うばかりだった。
そんな話をしながら、カッシアの城を発って一日と半分の行程を
進んだ。
到着したのは、カッシアから北上した場所にある、ソーウェン領
の砦の近くだ。
ルアイン軍もカッシアはしっかりと攻略できたので、そこにルア
イン貴族を借りの領主として置いて地盤を築こうとしたのだが、引
っ込んでしまったソーウェンに関しては、統治しようにも、温存さ
れた兵で攻撃されて邪魔される。
そこでルアインは、砦を拠点にソーウェンの兵力を削ることにし
730
たようなのだ。
いずれ改めて制圧するにしろ、ソーウェンは出て来られないよう
にしておけば、収穫時期を越えたら食料が尽きて干からびると考え
たのだろう。
だからこそ、ソーウェンの領主館に近い砦は籠城すると考えられ
ていたのだが。
﹁⋮⋮いない?﹂
先鋭を務めるジェロームさんのによる報告に、レジーは眉をひそ
め︱︱すぐに命じた。
﹁急げ、後方の守りを固めろ。敵は包囲してくるつもりだ﹂
731
ソーウェン包囲戦1
﹁もし回り込まれているのなら、戻るより進んだ方がいいな﹂
﹁砦に籠るのは?﹂
﹁却下だよアラン。置き土産をされていたら厄介だし、それを調べ
てから入るまでの時間が惜しい﹂
﹁包囲するなら、ここから近い場所に潜んでいるでしょう。迎え撃
つのにふさわしい場所といいますと⋮⋮﹂
﹁まっすぐ北に、ソーウェンの鉱山がある。そこまで行く﹂
ジェロームさんやアランと行先を素早く決めたレジーは、すぐに
軍の編成を変えさせる指示を出す。
走り回り始める騎士達。一部の騎兵が弓兵を連れて砦の向こうへ
先行した。
歩兵達は移動を続けさせる。
補給物資等を載せた馬車も、できる限り急がせていた。
その最後尾に、アランが率いる一軍と共に私も移動する。背後に
回り込んで攻撃された場合に敵を跳ね返すために。
﹁これは、お前の知っている通りではないようだな﹂
背後を警戒しつつ歩兵の後を追うように進みながら、アランが言
う。
﹁うん。複合されてる感じがする﹂
ソーウェンで戦う場合、まずはこの砦に駐留していたルアイン軍
を倒し、それからソーウェン侯爵のいる鉱山へ向かうのだ。
けれど砦の兵は囮だ。
732
途上で、砦の兵力を囮にしたルアインの将軍が、予め伏せていた
兵を使って挟撃を仕掛けてくる。その順番通りではなく、砦の兵力
をも使って挟撃、もしくはレジーが考えるような包囲攻撃をするの
ではないだろうか。
﹁こういう場合も備えてただろ。気にするなよ﹂
どうやら私の情報が役に立たなかったことで、私が悔しい思いを
するのではないかと心配してくれたようだ。
アランは相手の気持ちを汲んでくれる。
そんな所は、沢山の人を仲間にして戦える主人公らしいなと思う。
私なんて自分のことだけで精いっぱいで、誰かへの気遣いとかが
結構ずさんになっている有様だ。しかも今は、どうにか認めさせた
いあまりに、カインさん達の気持ちを無視しているのだから。
﹁ありがとう﹂
礼をいいつつも、私の心は暗い。
せめて、包囲を仕掛けてきたなら、すぐに邪魔に入れるようにし
たいと思いながら、得意とは言えないけれど馬を歩かせた。
﹁移動だ! なるべく急げ!﹂
休憩していた木陰から、兵士達が次々と列を作りながら行進して
いく。
とはいえまだ暑い季節だ。午前中から曇り空に風が吹いていたの
で過ごしやすいが、兵士達もマントの下は腕まくりをしている者が
ほとんどだ。
レジー達だっていつもより軽装だ。鎖帷子とかどこいったの? な有様だし。まぁ暑くて動きが鈍るようでは、鎖帷子どころの話じ
ゃないからだろう。
733
正直、普通に考えれば夏に戦争などとんでもない。
敵も味方も暑さに苦しんだあげくの、泥沼になるってわかってい
るからだ。ルアイン軍が夏の盛りに動きを止め、国王軍と睨み合い
になっているのはそのせいだ。
だから秋になれば、事態は大きく動く。
レジー達はその前に、ある程度の成果を上げておく必要を感じて、
夏にも動き回るしかない状況なのだ。
それでも、カッシアで一度足を止めるしかないという計画だった。
ここから一か月が、一番暑い時期になる。
なのに今回の作戦を行うことに決めたのは、一つこちらに明確な
利点があったからだ。
﹁みんな、行っておいで﹂
ジナさんの掛け声で、ルナール達氷狐が兵士達の周囲を走り回る。
時折吹雪を生みだしながら。
おかげで多少の駆け足で移動をしても、負担が少ない。冷房を連
れて行軍しているのだ。前世でもこんな真似は不可能だっただろう。
クーラーと発電機を車に乗せて追いかけるようなものだもんね。
おかげで兵士のみなさんも、元気を保っている。ソーウェンの兵
士達は暑い時期の行動に、恐ろしく疲弊しているだろう。
そんな推測は、やがて結果として現れる。
砦よりも向こうへ先行した騎兵と弓兵の列を越えると、砦付近の
林からルアイン兵が飛び出してきた。
予め配置していた弓兵の攻撃に足を止め、それからさらに追いか
けて来ようとするが、かなり元気がない。
暑さよりも怪我を防ぎたかったのだろうが、しっかりと鎧を着て
いいるため、とてつもない苦行を味わいながら行進しているのだろ
734
う。
遅くて、しかも脱落者がぽろぽろ出ている。
速足で進むエヴラールの軍に、追いつけるのかはなはだ疑問な状
態だ。
年のために私がちょっとした小山を道の途中に作ったら、登るの
に一苦労していた。馬もしかりだ。
しばらく駆け足で軍を進めている内に、後方から迫ったルアイン
兵は、姿が見えなくなった。
レジーは行軍速度を落とさせながらも、さらに前進させ続けた。
止まれば後方のルアイン軍も追いついてきてしまう。そこで挟撃
されては厄介だからだ。
案の定、短いながらも休憩してから出発して間もなく、左右から
弓が射られた。
暑さで鎧を着込めない代わりに、レジーが盾を持たせるようにし
たことで、防ぐことはできている。
けれどこのまま戦っては、相手の思うままだ。
そのためレジーは行進を続けさせ、弓での攻撃が収まった後に対
応するため、足の速い騎兵を動かし始めていた。
左で指揮対応しているのは、レジーの騎士達だ。右はジェローム
さんが引き受けている。
どちらも手伝うのは無理だ。
迷った末に、私は左へ向かうことにした。ゲームだと左の方が敵
の層が厚かったからだ。
馬を向かわせようとしたところで、カインさんに引き止められる。
﹁キアラさん、連れて行きますから乗って下さい﹂
735
一瞬だけ迷った。
何かあればカインさんの判断で引き返させられるのではないか、
と。でも彼が戦場で、完全に私の意思を無視して連れ去ったことは
ない。
﹁わかりました﹂
疑心暗鬼になって、こんなことすら信じられないのかと自分が嫌
になりそうになったが、なんとか返事をした。
すると馬を降りるまでもなく、カインさんが馬を寄せてきてあっ
さり私を持ちあげて移動してしまう。
﹁ひえっ﹂
驚いている間に移乗完了。
まるで米袋10キロ程度を持ちあげました、程度のあっさりな行
動に、いつもながら私は驚愕する。
だって体重ってそんなに軽くないはずだよ。前世よりはちょびっ
とだけ背もあるから、その分は重⋮⋮いはずなんだけど。
カインさんは近くの騎兵に馬を任せ、ジナさんとギルシュさんに
声をかけて味方の左側へと駆けていく。
矢の雨は既に途切れて、ルアインの兵が伏せられていた、林の中
から街道を中心にした平原へ突撃してくるところだった。
﹁ギルシュさん、お願いします﹂
﹁うふ、遠投なんてお手のものよん﹂
ギルシュさんは予め預けていた銅石を投げてくれた。
得意だと言うだけあって、かなりの距離を飛んだようだ。そこま
で目が良くないので、どこまで飛んだのかは確認できなかったが、
問題ない。
私は馬から降りて地面に手をつける。
736
﹁落とし穴!﹂
気合いを入れて大きな穴を作る。上手くルアイン兵の先頭が、突
然できた穴に落ちた。
後から走ってきた者も、立ち止まるのが間に合わずに落ちてしま
う。
左側からの兵の動きが完全に止まってしまう。
﹁あらぁ、結構深かったみたいねぇ﹂
目の良いギルシュさんがそう評した私の落とし穴を、ルアイン兵
は避けていこうと迂回し始める。
なので移動しながらいくつか落とし穴を量産した。二個ぐらい敵
のど真ん中に作ったみたいだけど気にしない。
﹁クックック⋮⋮、大分コツを掴んできたみたいだのぅ﹂
それを観察していた師匠が笑う。
﹁しかし飛ばし過ぎると後が辛くなるぞ?﹂
﹁問題ありませんよ師匠﹂
落とし穴の10個や15個ぐらい、なんでもないと言えなきゃい
けない。効果はあるけど地味だから。
と、ほのぼの話していたら、ジナさんが注意を呼びかけてきた。
﹁騎兵がこっちに来るわ。一端引きましょう﹂
騎兵もまっすぐ進んで来られないので、私が落とし穴を生産して
いない前方側から回り込んでくるつもりのようだ。
﹁⋮⋮こちらを追っているようですね﹂
しかも兵士に目もくれず、まっすぐこっちに来た!
カインさんが馬首をめぐらせて反転する。
737
﹁魔術師の保護を優先する!﹂
そうして駆け出したのは、カインさんとジナさんギルシュさんだ。
この動きに気付いた左側面を指揮していた騎士達が、ルアインの
騎兵を少しでも刈り取ろうとしているが、完全に目的を私に据えた
のか、数人が風よけをしている間に他の騎兵が馬で駆け抜けていこ
うとする。
﹁敵もお前さんを倒せば、有利になると思ったのか⋮⋮いや、不利
にならないと考えたのか。砦を放棄したのも、クロンファードから
落ち延びた者から何か聞いて、我が弟子が最も厄介だと考えたから
だろうな﹂
師匠の言葉に、カインさんがうなずいた。
﹁おそらくそうでしょう。普通の兵と違って、魔術師相手の戦いは
厄介です。私だったとしても真っ先に潰すことを考えたでしょう﹂
クロンファード砦にいた者なら、すぐに想像がついただろう。建
物の中にいれば、一気に潰される恐れがあると。
それならば魔術で迎え撃ちたいが、カインさんにしっかりと抱き
こまれてしまっている状態の上、うっかりすると舌を噛みそうな揺
れの中では、とてもちょっと指先を切って血を使うだなんて、でき
そうにもない。
そうこうしているうちに、後方のアランがいる場所までやってき
た。
﹁キアラさん、意見も聞かずにつれてきましたが、ここなら迎撃の
邪魔にもなりませんので﹂
カインさんに説明された。
側面攻撃をしてくるルアインへの対応をするはずの騎兵に、その
まま私の保護までさせるのは厳しいと考えたのだ。
738
だからまだ後方を警戒し、次の情勢を見て動きを決める予定のア
ランと、アランの騎士達の元へ行ったのだ。
﹁アラン様、キアラさんの保護をお願いします﹂
そうして説明を受けたアランも、カインさんに連れられた私を囲
むように騎士と騎兵達を配置したのだが。
﹁ちょっと待って!﹂
ジナさんが結んでいた髪を解いて、ギルシュさんから渡された灰
緑の布を腰で結んでスカートみたいに身に着けた。防具はもちろん
外し、短剣だけは手に持つ。そして乗っていた馬はギルシュさんに
預けた。
﹁これでいいわ、カインさん私を乗せて行って。ギルシュも私と一
緒。アラン様はキアラちゃんを連れて行って下さい。キアラちゃん
は逆に髪結んでね﹂
髪を解いた瞬間に、周囲は何をするつもりなのかを悟った。
﹁囮か﹂
ジナさんはつぶやいたアランにうなずいた。
今まで私を連れていたカインさんにジナさんを乗せてもらい、私
は囮になったジナさんに敵が引きつけられているうちに、アランと
遠くへ移動してしまえということだ。
﹁相手が魔術師を狙ってくるなら、なおのこと有効でしょう。騎兵
を倒せても、弓で狙われるのが一番怖いわ。それなら遠目に誤魔化
す方法をとるべきだと思うの﹂
﹁採用する。キアラ、乗れ﹂
﹁でも⋮⋮﹂
739
ためらってしまう。
ジナさんが囮になって、100人以上の騎兵に追い回されること
になるのだ。自分でもぞっとする状況なのに、他人にそんな目に遭
えだなんていうのは辛い。
逡巡する私を叱咤したのはアランだ。
﹁二手に敵の目を分かれさせれば、カインが同時に狙われる確率も
下がる。その後ジナ達が囮だとわかれば見向きもされなくなる。そ
の間にこちらが逃げておけばいい。お前が術を使いやすい状況を作
らなければどうしようもない、急げ﹂
急げと言いながら、アランは腕を伸ばすと、カインさんが無言で
持ちあげた私を、ひょいと受け取って自分の鞍の前で乗せてしまっ
た。
問答無用である。
馬から馬へ、またしても軽々と移動させられて、なんだかボール
みたいな気分になってきた。
とにかくこうなったら、ジナさんのふりをするべく髪を結ぶしか
ない。ジナさんに結び紐まで渡されたのだから。
﹁俺は魔術師を連れて前方へ向かう。後方はまだ追いつかないだろ
う。お前たちは左右の支援に回れ。五人ついて来い。⋮⋮キアラは
早く髪を結べ。行くぞ﹂
﹁えっ、ちょっ!﹂
まだ手を後ろにやって結んでいる間に、アランが馬を走らせ始め
た。
﹁キアラちゃん、またあとでねー﹂
私の罪悪感を消すためか、慣れているのか、にこやかに手を振る
ジナさんと、無表情なカインさんの姿が遠ざかる。
740
手を振り返すこともできずに、私はなんとか髪を無理やり結んだ。
﹁うおっと﹂
女の子らしくない驚きの声を上げたのは、何もつかめないせいで
馬から滑り落ちそうになったからだ。
がっしりとアランが私のお腹を支えてくれたので事なきを得たが、
﹁もうそれ諦めろ。そして掴まってろ﹂
と言って、なぜかアランは自分の肩に私を押し付けるようにして
自分は手綱を掴みなおす。そうしてさらに速度を上げた。
私は振り落とされるのが怖くて、アランの左腕にしがみつくよう
にしていたのだが、そこで私をぽいぽい持って受け渡しができる理
由を、しみじみと感じた。
いつも服で見えないけど、わたしの二倍以上腕の太さが違うんだ
もの。
思えばこんな風にじっと誰かの腕にしがみついたことがなかった。
そんなことを考えながら、私は後方の敵の様子を見て、それから
自分が向かうべき場所を探し始めた。
741
閑話∼氷孤の傭兵
﹁準備がいいんだな﹂
馬上に引っ張り上げながらカインが言うので、ジナは答える。
﹁だってキアラちゃんの護衛でしょ? 女の傭兵を雇うなら、もち
ろんこういう使い方を想定していると思って。っていうか、アラン
様と殿下はそのつもりだったと思うし﹂
ジナとしても、雇ってくれと言った時から、氷狐という魔術が使
える生き物を連れているので、キアラと行動を共にすることになる
だろうと予想していた。
大事な魔術師を守るため、あとは魔術が使える者を一か所に固め
ておくために。
﹁だからって私がスカートはいて駆け回るとか、戦うのに邪魔だか
ら、そんな恰好するわけにはいかないし。で、ギルシュと相談して
こういう準備をしてたってわけ﹂
ぱぱっと身に着けられて、多少遠目にごまかせる物であればいい
のだ。
髪の色は茶系統なら似て見える。あとは女だとわかるようにほど
いておけばいい。
案の定、アランもあっさり許可したので、ジナの予想は当たって
いたのだと思う。
ジナを乗せて、追ってきた騎兵をおびき寄せるために、行軍の後
ろを進み始めたカインが言った。
﹁わかった⋮⋮キアラさん同様、君のことも守るとしよう﹂
742
さらりと﹃守る﹄といわれて、さすがのジナのびっくりして目を
瞬いた。
﹁え、私はいらないよ?﹂
傭兵を守ってどうするんだと言ったが、カインは無表情に言う。
﹁しかし、ジナがけがをしてもキアラさんは傷つく﹂
それは嫌だといわれたジナは、周囲に視線を配って敵騎兵の位置
を捕捉しつつ、戻ってきたルナールとサーラに手招きしながら渋面
になった。
そうでもしないと、照れた表情になりそうで嫌だったのだ。
﹁ちょっとさ⋮⋮あなた割と本気でマズイと思うのよ﹂
﹁何がだ?﹂
ジナにこんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。カ
インは心の底からわけがわからない様子だ。
それを見て、ジナは思う。
さて、これは育った環境のせいもありそうね、と。
﹁騎士道精神っていうの? サレハルドよりもファルジアって品行
方正な子が多いのは聞いてたけどね。女の子を守ろうとするのは結
構だし、基本的にはそうすべきだと思うのよ。だけど相手を見て区
別して﹂
なにせジナは戦うために雇われた人間だ。守ってもらうためにお
金をもらったわけじゃない。ジナはキアラや他の兵士達を保護し、
もちろんカイン達と肩を並べて戦うためにここにいるのだ。
⋮⋮とはいえこういう人間に心当たりはある。
基本的に女性には優しく、と教えられて育った⋮⋮いわゆる良い
人だ。
743
ジナが以前知り合ったその手の男も、結局最後までジナを守ろう
としてばかりいた。ジナより弱かったのに。
だがそこで、ジナは約一名そうでもなかった人間を思い出した。
ついでに彼に絡む出来事を思い出し、ちょっとむっとしてしまいな
がらもカインに言った。
﹁いい? わたしだって凶悪に強いわけじゃなくても、男どもに認
めさせるだけの腕があるから、戦場に出てきてるの。あなたの配慮
は不用。お金の分は働くわ。それにキアラちゃんのことも心配しな
くていい。万が一の場合は、カインさんだけじゃなくてうちの可愛
い仲間もいるから、これぐらいなら平気よ。⋮⋮ルナール!﹂
相棒の氷狐の名前を呼びながら、短剣を鞘から抜く。
先ほどのルアイン騎兵達が、近づいてきていた。
左側面を担っていた騎士達が、囮を立てたことに気付いて、ジナ
の方へおびき寄せて倒そうと考えたのだろう。背後から覆うように
エヴラールの騎兵がルアイン騎兵に斬りかかっている。
それでも魔術師さえ討ち取れば、と思っているのだろう。後方で
倒されていく仲間には目もくれず、戦闘集団がジナ達の前へやって
くる。
その前に、
﹁ルナール、剣を!﹂
いつもは犬にも見まがう氷狐から、猛獣のような咆哮が上がる。
それと同時に、ジナが持つ短剣の刃が身長ほどに伸びた。そのほ
とんどが、白く揺らめく冷気の煙をまとう、氷の剣だ。
﹁えぇいっ!﹂
薙ぐように振れば、触れた近くの騎兵達の肩や腕、何より騎乗し
ている馬の頭が凍り付いてその場に倒れていく。
744
投げ出された騎兵は、後続の味方に踏まれ、そこから逃げようと
してエヴラールの兵に斬りかかられて命を落としていく。
この剣は触れるだけでいい。
代わりに30秒ほどしか持たない。けれどその間、ジナはカイン
に頼んで、自らルアイン騎兵のただなかへ突入させていた。
ただ横に構えて突き進む。
左側に剣を向けていたので、逃れるため右手に飛びのいたルアイ
ン兵が時々ジナに斬りかかってくるが、合間にはサーラが氷の礫を
飛ばし、時にはカインが剣で敵の刃を振り払った。
氷の刃で傷ついても、まだ馬が無事な騎兵はジナたちの後方に回
ろうとするが、動きが鈍くなった彼らは、後続のアランの騎士達に
刈り取られる。
さすが、とジナは心の中で称賛した。
国境の要、エヴラールの騎兵の強さは、サレハルドでも知られて
いる。国境を接していて時々は刃を構えることもあるため、身を持
って体験するからだ。
エヴラールの騎士の強さは、紛争に出ることが多すぎて、騎士に
なる頃には実践を経験することになるためだといわれている。
戦争慣れしているので、本人たちもどこまでなら危険なのかを実
地訓練しているようなものなのだ。
サレハルドもそこそこルアインとはやり合っているのだが、接す
る国境が広い範囲のため、常に紛争を請け負う領地というのがある
わけではない。
エヴラールという一領地が紛争経験度がやたらと高いのは、自然
の要衝があるからこそなのだ。
おそらくカインも、一度や二度は紛争で戦った経験があるだろう。
745
もしかすると、あの王子やアランもそうではないか、とジナは思
う。
特にレジナルド王子だ。17歳だというのに軍の指揮も慣れきっ
た様子の上、判断も早い。
︵それだもん、キアラちゃんがいなくても城を落とせるって言って、
有言実行できちゃうわけだよね︶
メイナールで出会ったキアラは、カッシア城攻めから遠ざけるた
めに、あそこに来させられたのだという。
普通の軍なら、そんな真似はできないだろう。常に非常事態に備
えて、魔術師という戦力を置いておきたくなるはずだ。
しかしレジナルド王子は、不測の事態すら起こさせないようにし
て、ほぼ計画通りことを勧めたらしい。
とんでもない人だ。
氷の刃の持続時間が終わり、崩れ落ちる中、再びカインによって
騎兵の群れから遠ざかるように前方へ向かう。
追いかけてくるはずのルアイン騎兵は、あらかたアランの騎士達
やギルシュに減らされて、半数以下になってしまっている。
もうジナが目的の魔術師ではないと気付いているだろう。
その目が傍を並走するルナールやサーラを追い始めていた。これ
でまず、キアラ達の方を追いかけに行こうとは思うまい。
﹁カインさん、もう一度ぶつかりましょう﹂
これを急いで処理しなければ、既にキアラの作成した落とし穴を
避けて進軍するルアイン軍が、既に左側面に迫って来ている。
﹁わかった。右手は私に任せろ。無理がかかった時は間違いなく私
が離脱させるから、すぐに知らせろ﹂
あっさりと請け負われて、だからこそジナはちょっとうろたえた。
746
思う存分やっていい。後ろで見守って、危なければ保護するとい
うのだから。
﹁⋮⋮危ないなぁここの人達って。もう完全に割り切ったと思って
たのに、思わず普通の女の子みたいな気分に戻されそうになっちゃ
うじゃないの﹂
ため息をつき、ジナは誰にも聞き取れないような口の中だけで愚
痴をこぼす。
﹁何もかもあんたのせいよ、イサーク。⋮⋮死んでも恨んでやるん
だから﹂
そしてジナは一度目を閉じることで意識を切り替え、ルナールに
指示した。
再び氷の刃を剣にまとわせるために。
747
ソーウェン包囲戦2
ジナさん達のことは心配だった。
けれどゴーレムを使わず移動している時の私では、ただの足手ま
といになる。しかも走る馬の上では、銅鉱石を使ったって術が使え
ないだろう。
だから必死にアランに掴まって、落とされないようにして言った。
﹁アラン、あそこの崖の上は?﹂
﹁行くまでの間に的になる﹂
短い返答で却下されてしまった。
しかし他に、めぼしい場所がない。ソーウェンの鉱山がある山の
ふもとへ行くまで、戦場を俯瞰できる場所がないのだ。
となると、できることは一つだ。
﹁レジーはどの辺りで行軍を止めるのかな⋮⋮﹂
﹁そろそろだろう。砦を空にしてまで背後を突こうとした兵力が、
こちらに来る前に決着をつけたいはずだ﹂
わざわざ兵を進ませ続けたのは、挟撃と後背からの追撃を防ぐた
めだ。同じ兵力でも、前面から受けてたつのと挟撃に備えるのでは
負担が違う。
だからレジーは戦う場所を選定しているのだ。
﹁あとは、この辺りからであれば、ソーウェン侯爵もこちらの様子
は見えるだろう。山から監視はしてるはずだ。軍がぶつかり合って
いるのを見たら、派兵してくるはずだ﹂
そちらの増援が見えたら、敵も引くしかなくなる。それを見込ん
748
でいるのだという。
﹁王子の軍だ。今後のことを考えたら、兵を出さないということは
ないじゃろうの、ウヒヒヒ﹂
師匠もアランの意見に同意のようだ。
けれどその前に味方が減らされては元も子もない。なら、この辺
りが私の戦場だ。
﹁アラン、もう少し行ったところで降ろして﹂
そう言いながら、私はポーチの銅鉱石のカケラを一つかみ取り出
し、少しずつ撒き始める。
﹁まだ軍は止まってないぞ﹂
﹁いいの。軍の先に少し進んだところで少し街道から離れた場所が
いい。お願い﹂
頼まれてしまえば、アランも否とは言わない。
魔術師は尊重されるもの。術を使えば本人の身を削りかねないか
らこそだ。
さらに、レジーが頑なに私の魔術を戦術に含めないので、私が何
をするかは、言うまでわからないせいだろう。
この状況こそは、レジーの優しさだと分かってる。
もし私が誰も殺したくないと思ってもいいようにしてくれている
のだ。
そしてどんなに止めたくても、私が戦いたいのなら止める気はな
いことと、どんな形でも私が敵に利することはないと信じているか
ら。
ただし信じていても、レジーは認めていない。
私が戦いたい、守りたいという気持ちを。
749
軍よりも前に走り出る時に、一瞬だけレジーと視線が合った。
厳しいまなざし。こうして戦場に出るようになってから、レジー
は時々私をそんな目で見る。その度に私は、心の中の恐れを見抜か
れているみたいな気持ちになる。
でも止まる気はない。
やがてアランが私が指さす場所へ到着する。
少し離れた場所に林が立ち並ぶ街道を抜けて、その先にある広が
った場所へと出る。
遠くに見えるのは、おそらくは鉱山を出入りする者を規制するた
めの柵と、そこにできた町だ。
町からここまでは広い平地になっている。
畑もいくらかあったけれど、既にルアインとここで一戦交えたの
だろう。踏み荒らされた後だったようで、ほとんどの作物が茶色く
なって枯れているのがわかる。
ここでいい。
街道から左に少し離れた場所で、私は滑るように馬から降りた。
﹁ありがとう﹂
﹁他にやることは?﹂
アランに言われて、私は告げる。
﹁⋮⋮ううん。私のこと、止めないでいてくれてありがとう﹂
何をする気か、とアランは訊かなかった。ただ渋い表情で言った。
﹁そんな言い方をするんだから、ろくでもないことを考えているん
だろう。本当は、頭でも叩いて、レジーに投げ渡したいくらいなん
だがな﹂
アランはふっと息を吐いた。
750
﹁だが最近、俺は少し考えを変えたんだ。レジーもお前も、このバ
カらしい戦争を早く終わらせることができれば、こんなにもこじれ
ないはずなんだ。だから俺は勝つことを優先したい⋮⋮だからお前
のバカな行動を見て見ぬふりしておいてやる﹂
そうして彼は、ついてきた騎士達に指示をするためそちらを振り
向きながら付け足した。
﹁死なないことさえ約束するなら、後は好きにしろ。最終的に、お
前は自分の選んだ道しか進まないだろうからな﹂
アランはよく私を理解してくれている。主に、頑固だという方向
について。
だから私はそれに寄りかかった。
﹁ありがとう﹂
そして私はその場に膝をつく。
やることは決めている。ソーウェンの兵力もこちらの兵力も極力
削らず、カッシアともども防備を固めさせるんだ。
その為に必要なことも分かっている。既に布石も打った。
ゴーレム
私は銅鉱石を取りだして、土人形を出現させた。その手に乗せら
れて肩に移動して座ると、地上の様子が少しは俯瞰できるようにな
る。
軍の先頭は、この広がった場所に到着できたようだ。
レジーはそれよりは狭い手前の場所で、ルアイン軍を迎え撃つつ
もりらしく、前面に歩兵を置き、後ろに弓兵を配置している。
⋮⋮と、そこで師匠が叫んだ。
﹁んぎゃっ! 貴様いつの間に!﹂
751
﹁え?﹂
ゴーレム
見回せば、私とは反対の土人形の右肩に、リーラがちゃっかり載
っていた。
危なげなく立つリーラは、じっと私のしていることを見ているよ
うだ。
肯定も否定もしない、そんな感じがする。多分彼らは、生きるた
めに他者を殺すことを自然の一部だと考えているからだろうか。
気負わずにやろう、という気持ちになれた。
﹁大丈夫師匠、リーラは心配でいてくれてるだけだし、師匠はもう
土製なんだからぎっくり腰にもならないし、寒くて節々が痛むこと
もないでしょ﹂
﹁そうだがのぅ⋮⋮魂に苦手意識が刻まれておるのよ﹂
熱さも寒さも感じない体でも、過去の記憶には苛まれるらしい。
可哀想だが、リーラ達氷狐の戦力は魅力的だから、師匠にはなん
とかトラウマを乗り越えてもらいたい。
﹁私も頑張るから、師匠も我慢しててね﹂
そうして私は術に集中する。
力の向かう先は、少し離れた場所にばら撒いた、銅鉱石だ。
距離が離れてるせいか、少し銅鉱石に魔力を集めるのが難しい。
それでもおおよその鉱石の場所は補足できる。
エヴラール兵に引き寄せられるように、後を追ってきたルアイン
兵達が鉱石をばらまいた場所の上に来るのを待つ。
そしてぐっと奥歯を噛みしめた。
鉱石の周囲から、ぐずぐずと地面が、踏み固められた街道が、ぬ
かるみのように溶けていく。
752
そう見えるほどさらさらと細かな砂になっていったのだ。
ルアイン兵も騎馬も、足下が突然沈んだことに驚き、動きにくい
砂の中に足首まで埋もれて歩きにくくなる。
私はしっかりと彼らの足が埋もれるように、砂を動かす。
⋮⋮結構広い範囲なので、キツイ。
胸に手を当て、ぐっと息をつめた。
しょせんは足止めだ。そう鼓舞する声に、彼らは尚も前進する。
砂地になっただけだし、落とし穴とは違って回避する必要はない。
突っ切ればいいと思ったのだろう。
それでも魔術師の力だと、恐ろしくなって遠回りしようとする者、
後退してしまう者もいる。しかし敵は目の前だ。突撃する者の方が
多かった。
私は深呼吸しながらルアイン兵の三分の一が砂場に足を踏みこむ
のを待つ。
千人、二千人、三千人。
沢山の人が私の操る砂に足を踏みいれる。
耳元で太鼓を鳴らされているみたいに、脈拍の音が響いてうるさ
い。
そして時が来た瞬間︱︱砂を一気に固めた。
片足を、もしくは両足をその場に縫いとめられて、ルアイン兵達
は焦った。
身動きできないということは、剣を振ることはできても、逃げら
れない。かわすこともできないのだ。
そしてレジー達指揮官は、それを見逃さなかった。
﹁嫌だっ、助け⋮⋮っ﹂
かわすことのできない白刃が、ルアイン兵の命を麦のように刈り
753
取っていく。
足止めなんて、RPGのゲームでは些細な魔法に分類されてしま
うものだ。けれど足を完全に固められてしまえば、こんなに恐ろし
ゴーレム
いものもないだろう。
それを私は、土人形の首にもたれかかるようにして、ぜいぜいと
息をしながら見下ろしていた。
ゴーレム
⋮⋮思った以上に辛い。土人形を二体ぐらい同時に動かすよりは
楽だと思ったんだけど、距離が遠いのも悪かったのだろう。とはい
ゴーレム
っても、私だってすぐ餌食になる場所にはいたくないわけだし。
土人形の肩に座っていてよかった。立っていたら、間違いなくよ
ろけて落ちていただろう。
﹁ウヒヒヒ、えぐいのぅ。地味だがこんなに恐ろしい物はない。敵
も味方も、お前さんの力をじんわりと思い知らされるだろうて﹂
苦笑気味な師匠の言葉に、私も苦笑いする。⋮⋮上手く笑えてい
るかわからないけど。
恐れられることが目的だから。そう言われて、本望のはずなのに。
754
ソーウェン包囲戦2︵後書き︶
最後まで書ききれてなかったので、続きは明日また更新します。
755
ソーウェン包囲戦3
私は弱いから、頼りにされない。
私を守ろうとしてみんなが遠ざけるんだったら、力を認めさせる
ことができたら、レジー達だって私のことを頼ってくれるようにな
るのではと気付いた。
そう考えたのは、イサークに言われたことがきっかけだった。
︱︱お前が、完膚無きまでにたたきのめしておけば?
依存させたいわけではない。ちゃんと戦力として数えて欲しい。
そうしたら、カッシアの時のように私を連れて行くことさえしない、
なんてことにはならないと思った。
ルアイン兵達は、この有様に混乱をきたしていた。
逃げられない状況だというのに抵抗する者はあらかた弓の的にな
り、剣の餌食になって倒れていく。もうだめだと諦めた者は、早々
に剣を手放して降伏する。
ゴーレム
それでもまだ、後方のルアイン兵は戦いを止めない。早く撤退し
てほしいのに。
仕方なく私は土人形を動かした。
﹁⋮⋮いけるのか?﹂
師匠は自分が魔術師だったから、私の習熟度であれだけ広範囲の
術を使うことが、どれだけ負担になるのかわかるのだろう。
私はその問いにうなずいた。
﹁まだ大丈夫﹂
756
完膚無きまでに、やらなければ意味がない。そのつもりで私はル
アイン兵を潰走させるため、土人形を歩かせた。
さすがのルアイン兵も、止めを刺されるのかと怖気づいて逃げて
いく。
レジーは背を向けた兵に向かって、短い距離だけ追討させていた。
⋮⋮たぶん、これで今回は終わりだ。
成果は出したと思う。
これで従軍して行って、レジー達を守ろうとしても、エダム様達
が後押ししてくれるだろう。私のことを度外視するなら、兵は減ら
なければ減らないほどいいのだから。
アランも早く戦いを終わらせたいと言っていた。兵の損失を抑え
ることができれば、先に王都を占拠してしまうだろうルアイン軍を
早く倒すことができる。
なにより、私を作戦から外さなくなるだろう。
遠い場所に置かれて、レジー達の誰かが、また矢で射られるのを
心配しなくてもいい。守れる場所にいられる。
ゴーレム
ほっとした私は、固めていた場所の土を元の柔らかさに戻す。
次にやや急ぎ足で土人形を移動させた。作り上げた場所にほど近
い、防風林らしきものと、低木が生えている場所だ。
ゴーレム
手前で土人形をゆっくりとくずしていく⋮⋮でなければ、そのま
ま転がり落ちてしまいそうだったからだ。
なんとか木陰になるところへ座り込み、けれどそれすらも辛くな
って、仰向けに転がってしまう。
久々に息が切れて、せき込みそうなほどだ。メイナールでもいろ
いろと術を使ったのに、こんな風になったのはクロンファード砦以
来だろうか。
757
﹁クロンファードも、ここまでじゃ、なかった⋮⋮のに﹂
なんだろう、苦しい。
はっ、はっ、と息をしているのに酸素が取り込めていないような、
そんな息苦しさだ。
すると師匠が呆れたように言った。
﹁仕方あるまい。血で自分の魔力を含ませたものを動かすのと、他
者の魔力同然のものを動かすのでは、負担が10倍以上違うだろう
⋮⋮わしは、現役時代に、わざわざそんな真似をしたことはないが
のぅ﹂
やっぱり血を使うのと使わないのとでは段違いみたいだ。結構辛
い。今度はこっそり血を使えるように考えるべきだろう。
けれど、できればそれを使わなくても十分大きな術を使えると見
せたかった。その上で平気なフリをしたら、間違いなくレジー達は
納得せざるをえなくなる。
﹁ねぇ、師匠。誰にも、言わないで⋮⋮ね﹂
辛い。でも誰にも言いたくない。誰にも知られたくない。
知られたら、今度こそ私は何もさせてもらえなくなる。
ホレス師匠はしばらく答えを渋るように黙り、小さくぽつりと言
った。
﹁お前のしたいようにせい。自分の命を使う方法は、お前が納得で
きるものを探すしかあるまい。そもそもこれだけの魔術を使えるお
前を止めるとしたら⋮⋮まぁとんでもない方法を使うしかなくなる
だろうて。イヒヒヒッ。まぁ、泥沼に沈んで行く弟子を見たいわけ
ではないしのぅ﹂
﹁ありがと、ししょ⋮⋮﹂
758
きっと師匠ならそう言ってくれると思った。
命の使い方、という形で魔術のことを捕えられるのは、魔術に触
れた者だけだ。何をしても生きたいと願い、最後に残った命のとも
しびを私が魔術師になるために使ってくれた師匠だから。命の使い
道を決めた私のことを、止めはしないだろうと。
私は皆の目から隠れる場所を探して、近くの花が咲いている繁み
の陰にうずくまった。
じっと自分の体の中を動き回る魔力が収まるように念じて、耐え
る。
でもそれが上手くいくのかわからない。なかなか治まらない体の
中の反乱は、魔術師くずれが砂になっていく姿を思い出させて、怖
い。
もう死んでしまうのだろうか。
ここで誰にも知られずに? 最後の言葉も言えずに消えるのは、
寂しくて。
目に涙が浮かんで、もがく様に焦って手を伸ばしたところで、軽
い足音と共にふわっと腕に触れる感触があった。
青白い毛並み。緑のリボン。リーラだ。
すんすんと私の頬のあたりを嗅ぎ、それからヒヤッとする体をく
っつけて伏せる。
冷たさが気持ちいいなと思った次の瞬間、す、と自分の中から熱
が引くのを感じた。
物理的に、冷されたのではない。魔力がうごめいて作りだされは
じめた熱が、少し魔力が吸い取られるのと同時に御しやすくなった。
そうだ。リーラ達は魔術師の魔力が好きで寄ってくるんだった。
おかげで体の中の魔力は、次第に治まって行った。
759
心細かった私は、助けてくれたリーラに抱き付く。リーラは逃げ
ずにじっとしてくれた。
安心して、ほっと目を閉じた。それだけの瞼の動きで、目に溜ま
った涙が流れだして。それでも、誰かが来るまでの間に拭って置け
ばいいと思ったのだが。気が抜けたせいで、少しの間だけ意識が遠
くなった。
そしてざりっと、足音が鳴る音で目を見開いた。
はっと振り向いたそこにいたのは、カインさんだ。
﹁カインさん⋮⋮﹂
私はしまったと思った。明らかに疲労困憊した姿を見られてしま
っては、強がることもできない。せめてもう少し経ってからなら、
カインさんが見間違えたとでも言い逃れできただろうに。
けれど言い訳を探しながら、私は違和感に気付く。
どうしてか。カインさんがいつもより苦しそうな、それでいてど
こか嬉しそうな表情をしている気がした。でも気のせいかもしれな
い。
﹁レジーには言わないでください。ちょっと疲れただけなんです﹂
そう言って、起き上って大丈夫だと見せたかったけれど、まだ貧
血になった人みたいにだるくてふらつく。それでも根性で起き上っ
た。
またカッシアの時みたいに、不意を突いて置いて行かれては困る
のだ。
そんな私に、カインさんは苦笑いする顔になった。
﹁ほんとうに、頑固な人だ﹂
その場に膝をついて、カインさんが手を伸ばす。その指先が、頬
760
に残った涙の痕を拭うように滑った。
﹁私の負けですよ⋮⋮。だからせめて、頼って下さい﹂
頬に触れた手は、首筋を撫でて私の肩をわずかに跳ねさせた後で、
もう一度頬を包み込む。
剣を握って、血と鉄錆びた匂いにまみれた手は暖かい。
﹁こんな風に、私の手など何一つ必要ないと言われる方が辛いんで
すよ。見ているだけで手を出させてもらえないぐらいなら、共犯者
になって傍にいる方がいい。いいえ、むしろ私のためにも戦って下
さい。ルアインを倒すためなら⋮⋮﹂
ぞっとするような暗いまなざしで、カインさんが私を抱き起こす。
その動作には、必要があって触れるといういつもの建前をどこか
へ捨てて、自分の腕の中に囲ってしまうような熱を持っていた。
﹁もしそれが殿下の意に反しても、私はあなたの意思を尊重します﹂
聞いた私は、冷水を浴びせられた気がした。
ただ私が、全てのものに馴染めないと思って、そんな中でやりた
いただ一つのことのために、レジーの意見を聞かずに行動をするた
め私の我を通したせいで。この人に、私はなんて選択をさせてしま
ったんだろう。
私の意に反しないで傍にいるということは、彼にとってそんな意
味になってしまったのだ。
まるで主を変えるといわんばかりの言葉に、私は思わず身震いし
た。
﹁そんな⋮⋮﹂
怯える私に、カインさんも自分の言葉がどう聞こえたのかを察し
たのだろう。安心させるように微笑む。
761
﹁大丈夫ですよ。ただ私が、貴方が戦うのなら手伝いたいだけです。
⋮⋮どうあっても、私は貴方が敵までも殺したくないという気持ち
を理解できない。それほど、ルアインがどうしても憎いんだと。貴
方が殺させたルアイン兵の様子に、私はそれを思い知らされました﹂
あの、戦うのではなく、一方的に蹂躙するような戦闘の様子に、
カインさんは自分の恨みを思い出してしまったのだと言う。
⋮⋮彼は家族を失ったから。彼がルアインと戦うのは、仇を討つ
意味合いもあるからだろう。
それにずっと、私が埋葬をするのを黙って見ていてはくれたけれ
ど、嫌だと思う気持ちは残っているのを感じていた。
もしサレハルドが相手の戦争だったら、カインさんもそうは思わ
なかったのだろう。ただ役目として、敵と戦ったに違いない。
﹁ずっと、あなたが可哀想だと思って、遠ざけようとしていました
が⋮⋮貴方が戦う方針を変えないのなら、それを支える方へ回れば
いいと、そう思ってしまったんです﹂
そうして彼が、私の片手を持ちあげて指先に口づける。
﹁貴方にはその方が都合が良いはずです。殿下も貴方の決めたこと
を、止めるなと言っていますから大丈夫。万が一にもあなたが殿下
の敵にでもならない限り、問題はありません。だから⋮⋮私の望み
を叶えていただけませんか﹂
レジーの敵にならないこと。それはアラン達の敵にもならないこ
とだ。間違ってもルアインの味方になるようなことなど、私は選択
しようと思わない。
それなら⋮⋮大丈夫、と思った。
何よりもカインさん達を守りやすくなるのだ。
762
﹁⋮⋮お願いします、カインさん﹂
私は彼の申し出を受け入れた。
763
変化する意識︵前書き︶
前半カインさん視点、後半キアラ視点本編です
764
変化する意識
自分の協力を受け入れてくれたキアラに、カインは笑みを浮かべ
た。
ほんの少しだけ胸が痛んでも、結局彼女が戦うのなら、これが一
番の方法のはずなのだ。自分にとってもキアラにとっても。
そうして思い出すのは、先ほどまでの力ない相手を蹂躙していく
だけの戦いだ。
身動きが取れない相手でも、手に剣を持っているのなら、近づけ
ば傷つけられる。だからこそ、どれくらい続くのかわからない奇跡
がそこにある間にと、敵の命を奪うために味方の剣が振るわれた。
騎兵を倒した後のカイン達は、エヴラールの戦列の中でその戦い
を見つめていた。
﹁圧倒的⋮⋮ね﹂
近くにいたギルシュがつぶやき、
﹁これが本当の魔術師の恐ろしさ、なのね。一騎当千どころじゃな
いわ。使い方によっては一人で全軍を滅ぼせる﹂
既に馬を降りたジナが、やや青ざめながらつぶやいたのが聞こえ
た。
本来ならそう思うべきなのだろう。
周囲の兵も、青い顔をしている者も、怯えた様子を見せている者
もいる。
けれどカインは、けれどなぜ二人とも不満そうな言い方なのか、
765
と不思議に思ってしまっていた。
より多くのルアイン兵を倒すため。二度とエヴラールに侵入する
気にならないようにするために戦ってきたのだから、喜ぶべきだと。
︱︱そう、仇を討つためにも。
だからこそ目の前の光景に、心が高揚してしまう。
今までは魔法と言う力でなぎ倒されていたからこそ、どこか現実
味を欠いた力に圧倒されるばかりだったが、今回は魔術の助けを借
りて、人の手で倒していく姿に⋮⋮ずっとこんな風に、ルアインを
叩きのめしたかったのだという、心の奥に眠っていた願望を自覚し
た。
背中から、槍で串刺しにされて倒れる姿は、母を思い出させた。
涙と血を流しながら、開いた目を空に向けてこと切れる死体は、
弟と同じ目に遭わせたのだという感慨をもたらす。
屍の積み重なる光景が、仇を討っているのだという実感を持たせ
た。
自分で思う以上にカインはルアインを憎んでいて、無残な姿を見
ることで、それを晴らしたかったのだろう。
⋮⋮今までその憎しみを、自制できているふりをすることで、抑
えようとしてきんだなと自覚する。
エヴラール辺境伯家に仕える者として、手足となって戦うのに、
憎しみだけにとらわれて相手を殺すことだけを考えていてはいけな
い。命令を違えないためにも、仕える時にそう教えられるから。
それに彼女が可哀想だったからだ。女性が泣いているのに、さら
に泣かせるようなことはしたくない。
けれどキアラ自身は、あれほど止められてもそれを望んでいる。
奇しくも、つい先ほどジナに言われたことを、カインは思い出さ
766
ずにいられなかった。
カインは傭兵として戦うために雇われたジナであろうと、女性は
守られるべきと思っていた。
戦うと決めた相手なら、仲間として守ればいい。
そうして彼女に思うまま戦ってもらえば、カインの望みは叶う。
心の中に悪魔がささやきを吹きこんだように、そんな考えが浮か
んで消せなくなった。
元から彼女を気に入ったのは、敵を倒すために進む彼女の姿を見
たからだった。
自分にはできないことをやり遂げる英雄として彼女を想うのなら、
思いきるべきは自分だ。
彼女は既に選択していた。泣いてもわめいても、王子達や、エヴ
ラールの兵を多く助けて、この戦争で多くのルアイン兵を殺すこと
を。
そして今、カインの心の中にある望みはただ一つだ。
思いきってしまうと、魔術を使ったためにひっそりと隅でうずく
まる彼女を、怒ろうとは思わなくなっていた。
いつもならば、どうして具合が悪くなるようなことをするんです
か。もっと自分を大切にして下さいとでも言ったのだろう
弱い彼女を支えて戦わせるつもりなら、そんな必要はない。
彼女を休ませ、彼女の望むように不調を隠す手伝いをするだけだ。
敵を倒すために。彼女が英雄であり続けてくれるように。
そして誰よりも自分が傍にいればいい。そのために一層、大切に
扱うのだ。
‡‡‡
767
協力してくれるというカインさんのおかげで、私は何食わぬ顔で
自軍の中に戻ることができた。
まだふらつくが、馬の上に乗せられて移動するので、隠せている。
カインさんの態度は、私への認識とともに少し変化したようだっ
た。
それまでは子供を守るような、ともすれば彼女を気遣うような感
じでむずがゆい時もあったんだけど⋮⋮恭しさが加わったという表
現が、適当な気がするほど、余計に丁寧になった気がする。
なぜそこで崇拝なのか、全くわからないけれど。
その瞳が向けられた時に感じる熱も、どこか強さが増して⋮⋮。
何かに熱狂している人のような色を感じるのは、私の勘違いなんだ
ろうか。
発端が、大量殺戮をしたことだというのが、受け入れるには辛い。
けれどそのことで慰められる人がいるということに、苦い気持ち
になることで、逆に流されてしまいそうな気持ちが押し留められて
いるようにも思う。
辛すぎると、戦の様子がゲーム画面の向こうの出来事のように思
ってしまいそうになるから。
戦い続けるには、その方がいいのかもしれないけれど。
さて、戦闘が終わる頃には、件のソーウェンの町からも人がやっ
てきていた。
出陣するつもりだったのだろうけれど、途中でルアイン軍が潰走
したからだろう。武装した20騎ほどが駆け付けて、レジーに取り
次いでくれと申し出た。
そのうちの一人は、もちろんソーウェン侯爵だ。
ゲームでは30歳だっただろうか。父親を鉱山の落盤事故で亡く
768
して、若くして爵位を継いだ人だ。領地を商業発展させてきたこと
もあって、青年商人という雰囲気がある。
騎馬に乗って軍衣を身に着け、剣を下げているのがちょっと似合
わない。というか着られてる感じの、肩まで金茶の髪を伸ばした人
の良さそうな顔をした人だ。
﹁間に合わずに大変申し訳ないことを致しました。殿下の進軍に関
しては、一度噂が届いたのですが、いかんせん攻め込まれた直後で
は商人すら身動きできぬ有様で。他地方の商人も、我が町に避難し
たまま帰れぬ有様でした。いやーほんとうにルアインを撃破してく
ださってありがとうございます!﹂
揉み手なところも、まんま商人ぽい。
﹁いいえ。もっと早くここへ来ることができればとは思ってました
よ﹂
レジーの答える声は、落ち着いた穏やかなものだった。
そんな様子を、私は近づくことができずに、少し離れた場所から
見ていた。
カッシアでの言葉を信じるなら、特に疲労している様子も、ショ
ックを受けている様子も隠した私に、レジーが何かを言うことはな
いと思う。
けれど、どこからか見抜かれそうで怖くて、いたずらをした犬が
飼い主の様子を伺うように、隠れたくなってしまうのだ。
﹁大丈夫ですよ﹂
カインさんが肩に手を置いて、安心させようとしてくれる。私よ
りもずっと長くレジーと付き合ってきた人だ。その言葉は本当だと
思う。
ただ私を止めなくても、その私の意思を変えたいとは思っている
769
だろう。もしくは、また何か一計を案じて遠ざけられてしまうかも
しれない。
早く、先にエダム様やジェロームさんに話をつけてしまおう。そ
れとなく、私の魔術を含めた作戦を立てるようにしてほしいとお願
いするのだ。
けれど侯爵と王子の会話を遮って、傍にいるエダム様達に話しか
けるわけにもいかない。
じりじりと待っていると、レジーがこちらを見た。
カインさんが、励ますように私の手を握ってくる。思わずそれを
見て、顔を上げた時にはレジーはもう別な方向を見ていた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ただそれだけなのに、心の中の不安がかきたてられる。水の中に
手をつっこんでかき回して、ぐちゃぐちゃになるような感覚。
そんな自分に戸惑っている私を、我に返らせる声が聞こえた。
﹁いやん、大胆なのねこんなと・こ・ろ・で﹂
﹁ちょっ⋮⋮!﹂
見れば、ぱっと手を離して飛びのいたカインさんと、いつの間に
か私の傍に寄ってきていたギルシュさんが見えた。
どうもギルシュさんは、カインさんの手に自分の手を重ねようと
したらしい。
ギルシュさんは、うふふと自分の頬に手をそえて微笑みながらカ
インさんに言う。
﹁こんな男だらけの場所で、女の子と手を繋ぐなんてダメな人ねん。
みんなに注目でもされたら、キアラちゃんが気まずい思いをするで
しょう?﹂
770
男の子はデリカシーがないんだから、といわんばかりのギルシュ
さんの様子は、確かに年頃の男の子を躾けるお母さんみたいだ。
でも待って、カインさんだってそんなつもりじゃなかったはず。
﹁あ、ち、違いますよ。ほら、私まだ子供だから。カインさんが心
配して手を繋いでくれただけですよ﹂
慌てて私はギルシュさんに言い訳する。私が不安がったせいなの
に、カインさんが誤解されては迷惑がかかる。
だってそんな気がすると思ったって⋮⋮ただの、私の勘違いかも
しれない。勘違いにしておいた方がいいのだ。
﹁そうなのん? でもキアラちゃんだって16でしょ。やっぱり男
性と手を繋ぎ続けるっていうのは⋮⋮﹂
﹁いいえ、キアラさん﹂
そこでカインさんが笑みを浮かべて言った。
﹁貴方の事を子供だなんて思ってはいませんよ﹂
﹁え⋮⋮う⋮⋮?﹂
子供だと思っていない? なのに手を繋いだ?
ギルシュさんが﹁まっ﹂という顔で、しとやかにも自分の口を手
で覆う。
私は混乱した。どう考えたらいいのこれ。
771
ソーウェン侯爵領にて
困った私を助けてくれたのは、リーラだった。
てんっと飛び上がると、馬の上、私の後ろに器用に乗り、ふさっ
とした尻尾を私に触れさせながら、肩に顎をのせてきた。
そうして馬上からギルシュさんどころか、カインさんまでも睥睨
する。
まるでうちの子に何してんのよ、みたいな感じなのだけど、どう
したんだろうリーラは。
驚いていると、やってきたジナさんがくすくす笑っていた。
﹁リーラ。今度はキアラちゃんの面倒を見たくなったの?﹂
リーラはそれの何が悪いという顔で、ジナさんを見て、ふんと鼻
息を鳴らす。
﹁え、どういうことです?﹂
﹁あのねぇ、リーラってサーラのお姉さんでねん。ちょっと前まで
は子狐もいたお母さんだったのよう﹂
ギルシュさんの説明に、ジナさんがそうそう、とうなずく。
﹁だけど子供を亡くしちゃってね。母狐になると、うちでは戦に連
れて行かないことにしてるんだけど、リーラがその頃傭兵団に出入
りし始めた私のこと、面倒見始めて。そのまま戦闘にもついてくる
ようになっちゃったの﹂
どうもそれはジナ限定というわけではなく、面倒をみなくちゃい
けなさそうな人間全てを対象にしているらしい。
おかげでリーラは、故郷でも気に入った子供の面倒を見たりする
772
ことがあるし、メイナールの件は、まさにその一例だった。
﹁その時私、既にルナールと奥さんのサーラを連れてたんだけど、
ほら、ルナールってば、一緒についてくるリーラを口説くのに熱心
になっちゃって、くっついて歩いては、サーラに噛みつかれて大変
大変﹂
そんな話を暴露されたくなかったのか、ジナさんの背中に、ルナ
ールがジャンプして前足でどつく。けれどジナさんは慣れたものな
のか、全く動じた様子がない。
﹁そのうちリーラもちょっとルナールにほだされちゃってみたりし
て﹂
リーラがぐるぐると唸りだす。
いや、私に怒ってないのはわかるけど、耳元でぐるぐるされると
なんか怖いよリーラ。
﹁やだなぁみんな。恥ずかしがっちゃって!﹂
そう言ったジナさんに、とうとうリーラが飛びかかった。満面の
笑みを浮かべてリーラを受け止めたジナさんの靴を、サーラががじ
がじと噛んでいる。
﹁みんなの愛が痛い、でもかわいい﹂
噛まれても嬉しそうにしているジナさんの姿に、とうとう三匹は
根負けして、一斉にため息をついた。
でもそのおかげで、妙な空気はなくなってくれていた。
その間にレジーとソーウェン侯爵との話も終わったようだ。アラ
ンの騎士、ライルさんが、町へ移動するよう伝言を伝えてくれる。
移動中に、なんとかエダムさんやジェロームさんに近づこうとす
773
るが、ふっとレジーが振り返るのでなかなかできない。
くっ⋮⋮視線で結界をはるなんて! と奥歯をぎりぎりしてしま
う。
しかもさっきのことを追及されたくないので、どうしても私は逃
げ腰になってしまう。なので近づけない。
やがて、ソーウェン侯爵が軍とともに滞在している町へと入った。
盗難を警戒して壁や柵を設けて囲んだ町は、今まで守り切ったこ
との証のように、特に戦いの痕もない光景が残っていた。
石畳の道には、戦闘が終わったことを知り、また王子の軍が来た
ことで家々から人が出てきて道の脇に並び、もしくは窓から見下ろ
していた。
庶民の娯楽ってそう多くはないし、戦時中では物も芸人達の往来
もない。恰好の見せものだろう。
しかもレジーやその周囲は、観賞に値する人ばかりだ。
﹁ねぇあの銀髪の人!﹂
﹁王子様でしょ、かっこいい⋮⋮﹂
﹁若いわね、うちの娘ぐらいの年かしら? 隣の騎士様も渋くてい
いわぁ﹂
﹁あの人も貴族? 黒髪の﹂
﹁エヴラール辺境伯の代理で、ご子息が来てるって聞いたことある
わ﹂
一行は、特に女性達の目を引きつけてやまない。
戦いに出て町を守れるわけでもない、外に出られるわけでもない
と言う鬱屈を抱えているだろう女性にとって、これは良い気晴らし
になったんじゃないだろうか。
レジーもそのあたりは分かっているんだろう。時折笑顔で手を振
って見せている。こういうのも王子様生活で慣れてるんだろう。
774
そうして明るい様子を見せるというのも、老若男女に良い影響を
与えると思う。あれだけ余裕そうなんだから、ルアイン軍をきっと
追い払ってくれると、希望を感じるだろう。
想像通り、レジーの姿を見た人の中から歓声が上がる。
﹁王子殿下万歳!﹂
﹁ファルジアに勝利を!﹂
大元を辿れば、ファルジアは王権神授説な国だが、戦乱が多くな
ってからは例の夢のお告げ宗教基準よりも、戦に強い王だと民衆の
人気が高い。
それと同じくらい、見た目というのは結構強く左右する。
レジーの容姿は、人にこの王子ならば手を貸そうと思わせる力が
あるだろう。
一方、少し後ろを行く私は、移動のためにまたカインさんと相乗
りしている。⋮⋮沢山の人の前だというのが、おそろしく恥ずかし
い。
ついでに言えば、魔術師ががんばりますよ! とばかりに堂々と
するのは私には⋮⋮無理だ。怖い。なんだあの小娘とか思われてる
だろうに。
ただでさえ馬に相乗りしているだけで目立つ上、カインさんによ
ってフードを被ることを却下されてしまった私は、軍の中で珍しく
も女の子がいるというのを、思いきり宣伝しながら進んでいる状態
だ。
﹁堂々として、下を向いちゃだめですよ。せっかくの可愛い顔が台
無しですから﹂
カインさんには恥ずかしい台詞をささやかれて、悲鳴を上げてど
775
こかに走り去りたくなるのだけど、そんなことをしたらただの不審
者だ。
変な人間だと思われてしまうのは嫌なので、自分でも頬をこわば
らせた表情で、それでも前を見る。
﹁女の子がいる。誰?﹂
﹁どっかの貴族のお嬢様?﹂
囁きが聞こえる度、私はびくびくと肩を揺らすしかない。
そんな私の後ろで、カインさんがくすくすと笑う。
くっ⋮⋮、なんか悔しい。それでもカインさんがお腹を支える手
を離さないことで、守られている感じがするのも確かだった。
頼ってくださいと言ってくれた彼は、間違いなく私が戦う限り、
守り支えてくれるだろう。
⋮⋮うれしい言葉のはずだ。協力者は欲しかったのだから。
けれど、カインさんを泥沼に引きずり込んだような後味の悪さを
感じる。多分彼がそう考えた発端が、ルアイン軍を壊滅させるため、
だからだろう。
ずっと我慢していたんだと思う。
けれど、本来ならそんな気持ちも引いてしまいそうな虐殺を見て、
カインさんは逆に自分の望みを思い出してしまった。
そうさせたのは、イサークの言葉を聞いて、敵を叩きつぶすほど
の勝利を得ようとした私だ。
憎い気持ちと同時に、きっと亡くした家族のことも思い出させた。
落ち着いて考えれば、私のことを大事に思ってくれるのも、そう
した気持ちの裏返しだろう。
謝っても謝り切れない。
776
唇を引き結んで、うつむくのを耐えているうちに、侯爵の領主館
に到着した。
到着した領主館は、町の外壁と比べて物々しさの少ない、煉瓦造
りの瀟洒な建物だった。
まずは一室に案内され、世話係りの召使さんを付けてもらった私
は、水浴させてもらう。暑い時期なので、温めの水は気持ちよく、
土埃と汗と血の匂いを洗い流させてもらうと、少し気分が良くなる。
召使さん達は、連れていた師匠に戸惑いつつも、埃をとってくれ
れば⋮⋮とお願いしたのでさっと布で拭いてくれたようだ。師匠の
方も、若い召使さんに手をかけてもらって、ご機嫌である。
その後、少し仮眠をとらせてもらった。けっこう限界だったので、
すとんと眠りに落ちてしまう。
起こされたのは三時間ほど後だったが、かなり回復できた。さっ
きの状態では、とても食事が喉を通らなかったので、夕食まで時間
があって助かった。
食事は一度に人数が増えたこともあるのだろう、小広間といって
良い場所で、レジー達爵位持ちだけではなくそれぞれに従う騎士達
まで同じ場所で取ることになった。
館の警備を担う人以外の兵士は、町の鉱夫達や兵士が駐屯できる
場所へ案内されて、宿泊と食事を提供されているはずだ。
ジナさんとギルシュさんは領主館の方にいる。私の護衛を担うこ
とが多い上、女性がいて、魔獣を飼っていることもあって、逆に他
の兵士と混ぜるわけにいかなかったのだろう。
広間の端の方で、動物好きの騎士が、二人をダシにしてリーラや
ルナール達に話しかけている。
﹁お、お手するかな⋮⋮﹂
777
なんて会話が聞こえるが、それ、犬じゃないよ?
ちなみにアランが、そこに混ざりたそうにしていた。ちらちら目
線がルナール達の方へ向いている。
しかし私もアランも、そちらに行くわけにはいかない。
ソーウェン侯爵の会話が自分達に向くというのもあるし、
私に関しては、傍に座ってくれたカインさんがそつなく対応して
くれて、魔術に関する疑問を端から端まで尋ねられる、なんてこと
もなくて助かった。
その後は﹁魔術師殿はお若いんですね﹂という、お世辞なんかも
言われた。
あとは﹁コルディエというと、どちらのお家ですか?﹂と聞かれ
て、エヴラール辺境伯様の親戚ですと答えたりとか。
さらには﹁実はうちの親族にも同じ年頃の男の子がいて﹂と話を
振られたので、そうしたらアラン達と話が合うかもしれませんねと
応じて。
やっぱり話し相手は女の子がいいんだろうと気をつかってくれた
のか﹁分家の娘が私と同じ年だから、明日にでも挨拶をさせたいの
で、明日お茶の時間を⋮⋮﹂と言われた時には、なぜかカインさん
が師匠を小さな声で呼び、師匠があの気味の悪い笑い声をたてた。
なので﹁女の子相手だと、うちの師匠を連れていたら怖がられる
だろうから﹂と、やんわりお断りした。
思えば軍の中で行動していると、女の子と友達になるどころか、
話す機会がほとんどない。ジナさんがいてくれる今は、微妙に相談
しずらかったことなんかも話すことができて、実は結構助かってい
る。
なのでソーウェンにいる短い間だけでも、気軽に話せる女の子と
778
知り合いたいとは思ったが、師匠連れでは無理そうだ。
断った私に続いて、カインさんが魔術師殿には戦闘後には少し休
養が必要でと話し、アランまでが﹁そういえば最近寝込まなくなっ
たが、無理をするな﹂と言い出したので、ソーウェン侯爵は私を誘
うのを諦めてくれたようだ。
その一連の会話後、なぜか少し離れたところにいたレジーの騎士
グロウルさんが、レジーのことを見ながら、こめかみをつまんでた
め息をついていた。お疲れですか?
そんなこんなで、私はお茶会などをせず、明日もそこそこゆっく
りできそうな状態になってほっとした。
なのに、昼間に眠ったせいなのか、夜中にぱっちり目が覚めてし
まった。
こうしてエヴラール領から出るようになって、少し寝つきが悪く
なったなと思ってはいた。けれどまだだるい感じが残っているのに、
目が覚めてしまうほどとは思ってもみなかった。
二度寝しようと思っても、全く眠い感じがしない。
仕方なく私は、少し体を動かすことにした。気分転換をしたら、
また眠れそうな気がしたから。
779
星鳥の舞う空の下
滞在させてもらっているのは客室の一つなので、そこそこ広い部
屋だ。
余裕のある広さの寝台と書き物机にソファ。衣装棚もあるけれど、
軍と共に動く私の荷物はそれほど多くはないので使わない。今着て
いる薄青の寝間着にしても、侯爵の妹さんの借り物だ。
窓の外も静まり返って、そよ風に揺れる葉擦れの音が聞こえるだ
けだ。まだ空は明るみも差していないので、夜明けまでは遠いのか
もしれない。
夜はかなり涼しけれど、風に当たったらもっと気分がいいんだろ
うなと思えた。
なので部屋を出ることにした。
本当は暑くなりそうで何も着たくないのだが、万が一人に会った
ら困るので、薄手のガウンを重ねて羽織った。
師匠は荷物になるので置き去りだ。
部屋を出ると誰もいなかった。まぁ、真夜中だもんね。今日の戦
闘のせいで、みんな疲れているはずだ。
けれど、続き間に召使さんが控えていたようだ。慌てたように出
てきた中年女性がいた。
﹁魔術師様。何か入り用でしょうか?﹂
﹁あ、目が覚めちゃったので、ちょっと散歩してきたいだけです﹂
素直に話せば、彼女が館の庭まで案内してくれた。
ありがたい。だって貴族の城って広いから、うっかり間違えると
780
外に出るまですごく時間がかかってしまう場合あるから。それに付
き添ってくれる人がいるなら、安心だ。
召使さんのおかげで、掃き出し窓になっている場所から外に出る
ことができた。
さらりと肌を撫でていく風が心地いい。
昼間に体の中にため込んだ熱が、吹き散らされていくようだ。
ふっと息をついて振り返ったが、召使さんの姿はない。遠慮して
建物の中にいるのだろうか。
庭は真っ暗だったけれど、登り始めていた月の光で、辛うじても
のの輪郭はわかる。
何よりも空の星がくっきりと見えた。
この世界でも、星座は神話とか民族伝承なんかと結び付けられて
いる。すごく代表的なことだけは教会学校で聞きかじったけど、実
はしったかぶりしていたので、しっかりと教えてもらったことはな
い。⋮⋮乳母からおとぎ話とか聞かされるはずのお嬢様が、そんな
ことも知らないとなったら、変に思われると思って。
でも、何も知らなくても星空は綺麗だ。
この世界は魔法があるけど、地動説って思ってもいいのかなとか。
光ってる星は恒星って認識でいいのかなとか考えつつ眺める。
その中を、移動していく星がいくつかある。
え、なんで? 空の星があんな高速移動する? 飛行機のライト
でしたーっていうならわかるんだけど?
なんだあれと思って凝視し、移動する星をじっと目で追えば、前
世界よりも大きな月の前を、鳥影が過って行った。その尾羽の辺り
が、星みたいに輝いている。
﹁あ、鳥だったんだ⋮⋮﹂
781
さすが魔法のある世界。鳥の尾羽が星みたいに光ることもあるん
だろう。
不思議で綺麗だなと思っていると、思いがけず答える声があった。
﹁星鳥というのですよ。ご存じありませんでしたか﹂
知らない声に驚いて振り返れば、私が出てきた掃き出し窓から、
一人の男性が歩いてきた。
暗くてよくわからないけど、明るい髪の色だと思う。彼が持って
きたのだろうランタンが扉の近くに置かれていて、その照り返しで
髪がきらめいている。
柔和そうな顔立ちは、どこかで見た気がする。けれど人の顔を一
目で覚えるのは苦手なので、誰なのか思い出せない。
夜だから、彼も長袖ではあってもかなりラフな恰好だ。白っぽい
シャツに、濃い色のズボンだけの姿なので、なおさらどこの誰だか
わからない。
﹁眠れないのですか魔術師殿﹂
魔術師とわかっているということ、数歩の距離まで近づいたこと
で、腕の細さがわかる。内向きの仕事をしている人なのだと思う。
ということは軍関係の人や兵士ではない。
それなのに私に気軽に話しかけるのだから、ソーウェン侯爵の縁
者だろうか。
﹁せっかくお会いできたのです。宜しければ、私とお話いたしませ
んか?﹂
﹁あなたはどなたですか?﹂
問いかければ、さっとお辞儀はしてくれる。
﹁ソーウェン家に連なる者でございます。こちらに魔術師殿が滞在
782
するということで、お会いできればと思っておりました。どうぞ私
と、ご厚誼を結んでいただく機会を頂けませんでしょうか﹂
彼に何の気負いもなく腕を掴まれて、私はぎょっとする。
こう、ナンパとかがとても得意そうな人だ。⋮⋮て、ナンパ?
その可能性にようやく思い当たって、私は戸惑った。だってそう
いう誘いに乗る気はないし、そもそも彼は初対面の人だ。一目ぼれ
したってわけもないし。
﹁魔術師殿﹂
せっぱつまった声でささやかれ、抱きすくめられていた。
背筋がぞっとした。
レジーともカインさんとも違う。包み込まれるような安心感とか
が全くない。むしろ危険だという気持ちがせり上がってくる。
でもこれが敵なら、問答無用で叩きのめせばいいんだけど。侯爵
との関係とか考えると、過激なことしていいんだろうか。
というか私、殺すことは簡単にできるけれど、加減をして昏倒さ
ゴーレム
せるだけとかできるのかな。
土人形出して殴らせたら、固すぎて骨を粉砕しちゃうだろうし。
あ、そうだ足下固めちゃえば。
と思いついた時だった。
﹁うちの魔術師に手を出さないでもらえる?﹂
声の主は左手。庭の奥から現れた。
夜歩きの途中だったのだろう。軍衣は着ていないが、念のために
持っていたのだろう剣を腰に下げている。
何よりも月光に映える、珍しく結んでいない銀の髪が、彼の身元
を証明していた。
783
男の人の結んでいない長髪って、なかなか似合う人って見ないの
けど、彼だけは幻の世界の人みたいにただ綺麗だと感じられて、夢
を見ているようにぼうっとしてしまう。
﹁で、殿下⋮⋮﹂
﹁戦闘後、誰もが疲労困憊している所にこれとは。ソーウェン侯爵
も人が悪い﹂
レジーは笑みを浮かべているが、眇められた目が怖い。標的を見
定めたような視線のまま近づいて来るレジーに、私に声をかけた侯
爵家の男が、私を離して無意識に一歩後ろへ下がった。
﹁ソーウェン侯爵にも釘を刺したばかりなのだけどね。君が勝手に
行動した、ということで言い逃れしようとしたのかな彼は?﹂
﹁いいいい、いいえっ、何も、何もしておりません! ちょっと話
しかけただけで、ご、御前失礼!﹂
侯爵家の男は焦ったようにまくしたて、そのまま逃げて行った。
見事な逃げっぷりに思わずその背中をぼんやりと見送ってしまっ
た私だったが、とりあえずレジーにお礼だけは言わなくてはと口を
開いた。
﹁あの、助けてくれてありがとう。お、おやすみ﹂
それ以上話したら、色々と怒られそうな気がした。なので私も逃
げようとしたのだが。
ふわりと、背後から抱きしめられた。囲むだけのような緩い力だ。
﹁逃げないで、キアラ﹂
懇願するような声に、思わず足を止めてしまう。
784
﹁怖がらないで。怒ったりしないよ、今日は﹂
そう言われて、私は肩の力を抜いた。
怖いとは思ってはいなかった。むしろ安心して、ゆるく自分の肩
と腰にまわされているレジーの両腕を振りほどけなくなる。
だってレジーに拒絶はされていない、ということだから。そう思
うくらい、レジーは私が慣れてしまうほど同じことをしてきたのだ、
と思う。
まだ、私のことを見捨てないでいてくれる。そうわかるだけで、
こんなにも嬉しい。
だからこそ今日のことは言って欲しくはない。けれど一方で、取
りすがってでも言ってほしいと思ってしまう言葉が、喉元にせり上
がってきそうだった。
お願いだから私の助けが必要だって言って。私が必要だから、連
れて行くって。
でもレジーは何も言わない。
全てわかっていると、だからあえて追及しないとでもいうように。
けれど黙ったままだということは、レジーも言うのを我慢している
のかもしれない。
じっと黙って立っていると、昔からこうして一緒にいたような、
そんな穏やかさを感じる。
そんな雰囲気に押されて、ぽつりと尋ねた。
﹁今日も⋮⋮眠れなかったの?﹂
﹁うん﹂
レジーは眠りが浅い。エヴラールに滞在している時も、度々夜中
に起きていたのを知っている。
﹁でも庭に出ていて良かった。君を助けられたから﹂
何故出てきたのか、とは追及してこない。怒らないと言ったから
785
だろう。
﹁随分疲れたんだろう? 遠くからでも、顔色が良くないのは分か
ってた。それでも隠そうとしたのは、私に否定されたくないからな
んだね。けどウェントワースは⋮⋮君のしたいことを受け入れるこ
とにしたのかな﹂
﹁したいように、させてくれるって﹂
カインさんの言ったこと全ては伝えられない。彼が心の内を晒し
たのは、私に全てをゆだねるためだ。あの苦しい誓いは、誰にも言
えない。
それにあんなことをカインさんが言ったのは、私のせいだ。
﹁そうか﹂
どうしてカインさんがそう決めたのか。レジーは多分知りたかっ
ただろうと思う。でも彼も聞かなかった。
言葉がとぎれて、私は再び空を見上げた。
また、星を連れた鳥が飛んでいる。闇に隠れても、きらきらと光
る星が、その存在を教えてくれる。
﹁星鳥だね﹂
レジーも私が見上げているものに気付いたようだ。
﹁昼間は眠っている夜行性の鳥だね。魔獣の一種だといわれてる。
夜の闇を見通す力があるから、闇夜を平気で飛んでいられるんだっ
て﹂
﹁尾羽が星みたいに光って綺麗﹂
﹁ほしい?﹂
﹁え、引っこ抜くのはかわいそう。あ、でも落ちてたりするの?﹂
786
生え変わりで落ちた物なら、良心の呵責を感じずに眺められるだ
ろう。とはいえ、旅の途上ではもらっても荷物になるだけだが。
﹁いいや。あの鳥けっこう獰猛でね。遠くを飛んでるから小さく見
えるけど、大きいものだから、豚とか襲って食べてしまうから、時
々駆除されるんだ﹂
﹁え⋮⋮豚!?﹂
なんか、いっきに恐ろしい鳥に思えてしまった。飛ぶ姿は綺麗だ
ったのに。夢が吹き飛んだような気分だ。
驚く私の様子に、レジーがくすくすと笑う。
﹁そうだ、さっきの男のことだけど。ソーウェン侯爵にはさっきも
釘を刺したんだけど、改めて注意をしておくよ。君を商売上のこと
に利用したくならないくらいにね﹂
﹁商売?﹂
疑問に思うと、レジーが教えてくれる。
﹁鉱山があるからね。土に関する力が使える魔術師なら、色々と協
力してほしいことが山ほどあるだろう﹂
﹁ああ、なるほど⋮⋮﹂
魔法でさっと坑道も掘れるだろうし、土魔法使いなんて、鉱山を
運営している人にしてみればとんでもなく魅力的だったのだろう。
言うことをきかせてでも、私を取り込みたいという理由がよく分か
った。
﹁本当は、君に触れた腕ぐらいは突き刺してやりたかったけど﹂
﹁え、ちょっ、そこまでしなくても!﹂
驚いて振り返れば、柔らかな表情のレジーと間近で顔を合わせる
ことになってしまった。
787
綺麗なその顔が、すぐ近くにあったことに思わず硬直したが、レ
ジーは嬉しそうに言う。
﹁ようやく顔を合わせてくれたね﹂
たったそれだけのことなのに、そんなに嬉しそうにされると、な
んだか落ち着かない。急に周囲の空気が薄くなったように感じて、
どこか息苦しいような気持ちにさせられる。
﹁一つだけ、お願いを聞いてほしいんだキアラ﹂
﹁な、何?﹂
ぼんやりとしていた私に、レジーが顔を覗き込むようにして言っ
た。
﹁無茶だけはしないで。だめだと思ったら、どんな状況でも真っ先
に逃げて。私だって君が心配なんだ﹂
私はすぐに返事ができない。場合によっては、多少の無茶はする
と思う。なのに約束だなんて、と思った私に、レジーがささやく。
﹁うん、って言って?﹂
﹁えっと⋮⋮っ!﹂
レジーが顔を近づけて、私のこめかみのあたりに頬をくっつけて
きた。近いってもんじゃない! すでに接触してる!
前にも既にレジーには頬に口づけされたりもしたけれど、抱きし
められるのは、なんだかボールみたいに受け渡しとかされてる間に
慣れてしまった気がするけど、でも、顔と顔ってやっぱり恥ずかし
いでしょう!
﹁ほら、早く答えて﹂
なのにレジーが急かしながら、私が逃げないように肩に回してい
788
た手を反対側の頬を押さえた。
﹁うんって言うだけだよ?﹂
更に私を追い込むために、レジーがこめかみの近くにあった耳に
唇を触れさせた。ちょっ、くすぐったい!
﹁やっ、待って、うん! ほら言ったから! ね!﹂
なんでなんで、どうしてこの人は、こういうことばかりしてくる
の!
慌てて言う通りにすると、ようやく顔を離してくれた。それでほ
っと息をついた私は、でも無理やり言わせたレジーをちょっと睨ん
でしまう。
﹁でもこんな言わせ方して⋮⋮。私、約束守れるかわからないよ?﹂
最初から破る前提だなんて。嫌じゃないんだろうか。
けれどレジーは満足そうだ。
﹁いいんだこれで。約束したなら、君は後で破った時に後悔するだ
ろう? 私のことを思い出して、悪いなと思いながら気にしてくれ
る﹂
﹁う⋮⋮﹂
なんてことだろう。私に後悔させるためだけに約束させたという
のだ。
﹁代わりに、このまま部屋まで送って行かせてほしいんだ﹂
﹁送るのは別にいいけど。って、ちょっ﹂
許可したとたん、あっという間にレジーが私を横抱きにしてしま
った。
あげくすたすたと歩き始めてしまう。
789
こ、ここの世界の人って、重さの感覚とか筋力オカシイの!? なんで私のこと簡単に抱え上げられるわけ?
そう思ったが、確かに首をもたれかけさせる肩は広くて、抱えら
れてる私がそれほど大きくないんだと思えてしまう。
出会った時に比べると、明らかな体格差ができているのがよくわ
かる。
﹁レジー、重いから降ろして⋮⋮自分で歩く﹂
それでも羞恥心から離れたくなって言えば、
﹁キアラ、猫の子みたいにあったかいから手放したくないんだけど﹂
そんなことを言われて、私の方まで鎧も厚手の衣服にも隔てられ
ずにレジーの体温を感じてしまって、悲鳴を上げたいほど恥ずかし
くなった。
そのせいで⋮⋮何も言えなくなってしまった。
翌日、カッシアから早馬が来た。
ルアインの侵攻から逃れている南の領地を経由して届けられた情
報は、ルアイン軍と対峙していた国王の軍が潰走した、というもの
だった。
790
閑話∼運命の転換点︵前書き︶
今回、敵パートです。
791
閑話∼運命の転換点
人が炎に包まれる。
温度の高い青白い炎は、絶叫も、涙も、苦痛をもたちまちのうち
に焼き尽くし、後には黒い炭しか残さない。
エイダが一歩進む度、犠牲者は増えていく。
剣を振り上げた相手も、剣先が届く前に武器を手から取り落とし、
人の形を失って崩れ落ちた。
馬で突撃してくる相手は、彼女を守る兵士によって押し留められ
ている間に、じっくりと焼き尽くす。
﹁化物だ⋮⋮!﹂
そんな声が聞こえたが、エイダは特別傷つきはしなかった。
もっと強くなければ、エイダが嫌な目に遭うのだ。そんな可哀想
な自分のために、もっと彼らは怖がってくれなければならない。
ただ、ファルジア王家の近親者なのだろう。ごく淡い色合いの髪
を見ると、自分は何をやっているのだろうと疑問に思う瞬間があっ
た。
エイダだって、元からこんな考え方をしていたわけではなかった。
別に同じファルジアの民や、どこかですれ違っていたかもしれな
い貴族を殺そうと望んでいたわけではなかった。
このシェスティナに近い平原に来たかったわけでもないし、ルア
イン軍に対峙するファルジアの軍を、背後から攻撃したのは全て命
じられてのことだ。
792
何が悪かったのだろう、と思い返す。
婚約者が駆け落ちしなければ良かったのか。
自分を好きじゃないと感じた時に、どうにかして別な男を探せば
良かったのか。
結婚式を行う教会から逃げなければ良かったのか⋮⋮。
一年と少し前のあの時、エイダは初めて家出をした。
やみくもに走ったせいで転んだり、迷い込んだ繁みの枝にひっか
けたりしたため、ドレスの裾はぼろぼろだ。
それでもエイダは力の続く限り走った。
相手は駆け落ちをしたのだ。自分が一人で外を走って何が悪い。
どんな人にでも美しいほ褒めそやされ、沢山の求婚者がいたエイ
ダが、夫になるべき男に逃げられるなど、耐えきれない侮辱だった。
こんなにも可哀想な自分なのだから、何をしたって許されるはず
だと思った。
ついに疲れ果ててどこかの道端でうずくまるまで。
そこに悪魔がやってきた。
﹁ああ、アンナマリーにそっくりな髪の色だ﹂
倒れたエイダの淡い茶にやや赤味がかった髪を一筋すくいとった
のは、呪いをかけられてウシガエルにされたのではないかという顔
の男だった。
横に大きな口とエラの張った顎がカエルをほうふつさせる。大き
くはないが、ぎょろっとした感じの目も。
﹁ようやく見つけた。連れていけ﹂
悪魔に命じられた部下達によって運ばれたのは、どこかの貴族の
館だ。けれどエイダが放り込まれたのは、小さな即席で建てられた
793
ような小屋。
そこでエイダは召使に差し出された飲み物を、疑うこともなく飲
み干し︱︱そのまま昏倒した。
うっすらと意識を取り戻しても、喉が焼けるような痛み。次に胃
が痛み、そのうち体が内側からあふれる熱で、のたうちまわった。
三日三晩苦しんだエイダは、ようやく体の具合が落ち着いた頃、
満面の笑みを浮かべるウシガエルの悪魔と再会した。
その時ようやく、男がクレディアス子爵で、自分が囚われている
ことを知ったのだった。
﹁さぁ、お前は私の花嫁になるのだ。私の馬車が通る道で倒れてい
たのだから、これは運命だったのだよ。花嫁に望んだ娘が失踪した
せいで、とんだ迷惑をこうむったが、代わりが手に入ってこんなに
も喜ばしいことはない﹂
ウシガエルが語る言葉に、エイダはハッとした。
噂は聞いていた。
可哀想なキアラ・パトリシエールの話を。
父親であるパトリシエール伯爵が懇意にしているから、ウシガエ
ル子爵との縁談が断れなかったのだろうと、お茶会や女性達の集ま
りがあれば皆でささやいた。
それにしても気の毒。たった14歳で40を越える中年男の元へ
嫁がされるのだ、と。
白い結婚になるわけがない。相手は愛人を囲っている男だ。
せめてクレディアス子爵が男色だったら、まだ救われたでしょう
に、なんてエイダも口にしたものだ。
そんな、一歩間違えれば下品になりかねない会話は、お茶と一緒
794
につまめる極上の砂糖菓子のようだった。そんなものに興じていた
頃に帰りたかった。
今の私なら、逃げたキアラを﹃覚悟のない人﹄などと嘲笑うこと
はできない。悪魔からは逃れたのだ。それだけでも羨ましい。
しかも彼女が逃げ出したせいで、この男が代わりを探していたの
なら、自分がこうして捕まったのも、キアラのせいなのだ。とても
憎たらしかった。
なぜ逃げたのキアラ・パトリシエール。
そうでなければ、自分にこの男が目をつけることもなかっただろ
うに、と。
しかも子爵はエイダが結婚を拒否できないよう、エイダの父に手
を回していた。
翌日やってきた父は。
﹁夫となる人間に逃げられた、不名誉な娘だというだけならまだ良
かった。家の隅で暮らしているうちに、誰か物好きな人間が妻に望
むこともあったかもしれない。だがお前は子爵の家に無断で泊まっ
たのだ。付き人の一人もいない状態で、だ。それを言いふらされて
醜聞が広まってしまっては、結婚させるしかないだろうが!﹂
エイダは驚いた。
寝込んでいる間に逃げ道をふさがれているとは思いもしなかった
のだ。女が一人で、独身男性の屋敷に泊まったのが知れ渡っている
なら、もうどうしようもない。
エイダは結婚にうなずくしかなかった。
そもそもエイダは、標準的な貴族令嬢の教育を施されて育った。
以前の結婚相手だって、エイダの父が決めた相手だ。特別愛情が
あったわけではなく、エイダは自分が婚約者に逃げられた無様な令
795
嬢、という評価に耐えきれずに錯乱しただけだ。
だから親に逆らって二度も逃げる勇気などなかった。
それから二週間ほどで、結婚式が身内だけで行われたが、その短
い期間ではエイダは、覚悟を決められなかった。
だから式の夜に、無様に這いつくばって泣いて懇願した。
﹁お、お許しください! 何でも言うことを聞きますから、せめて
もう少し、わたくしがこのお屋敷に馴染むまででもかまいませんか
ら!﹂
夜の相手を拒否したら、一体何をされるかわからないとは思った。
けれどどうしても、エイダは受け入れられなかったのだ。
けれどそれが、クレディアス子爵の琴線に触れたらしい。
﹁⋮⋮ふ、ふ。アンナマリーが必死に懇願しているようで、無様で
いい⋮⋮。そうしている方が、髪と後ろ姿しか見えないから、より
似て見える。⋮⋮お前の顔はあまりアンナマリーに似ていないな。
キアラの方がより近かった。本当に惜しいことをした﹂
どうやらクレディアス子爵は、死別した最初の妻のことが忘れら
れないらしい。
だから彼は同じ茶色っぽい髪色の少女を好むらしい。
思えばキアラ・パトリシエールもそうだった。エイダの方が淡く
赤味がかった色をしているけれど、どうやら目の色もキアラは亡き
妻に近いらしい。
そして今の発言で、どうやらクレディアス子爵の最初の妻は、儚
げな雰囲気の少女のような人だったとわかる。
エイダはややたれ目気味の大人びた顔立ちをしている。口元の下
にあるほくろがそれをさらに引き立て、まだ15歳だというのに、
796
早々に少女らしい型のドレスが似あわなくなっていた。
そしてエイダの顔はあまり気に入らなかったらしいクレディアス
子爵は、2・3日考えると言って放置した後、愛人たちに飽きるま
ではと猶予をくれた。
だからといってエイダは、悠々と部屋にこもって嘆いてはいられ
なかった。
屋敷にいる間中ぼろぼろの使用人の服を着せられ、顔を隠すよう
に髪を結わずに床掃除をさせられるようになった。
惨めな立場に置いたエイダを見て、亡き妻を虐げている感覚にほ
くそ笑みたいらしい。クレディアス子爵はとことん歪んでいる男だ
った。
その後まもなく、輿入れしたエイダ・フォルツェンは、ウシガエ
ル子爵にすら気に入られず、召使のように扱われていると笑われる
ようになった。
なぜなら、子爵が他家へ行く時にエイダを召使として連れて行っ
たからだ。
悔しかった。
でも穢されるよりはましだったから、耐えるしかない。
貴族令嬢として育ったエイダには労働も、寒さも辛くて、何度も
熱を出して寝込んだ。
でもあの子爵の慰み者になるよりはと呪文のように唱えて過ごし
た。
そうして半年が経った頃だった。
クレディアス子爵が、突然エイダのために仕立て屋を呼び寄せた。
以前より痩せたエイダに、いくつもドレスを注文するクレディア
ス子爵の行動に、とうとう愛人に飽きたのかと暗い気持ちでいたエ
797
イダだったが、違った。
﹁来月からお前は王妃の元で働くのだ﹂
女官になれということらしい。
エイダは喜んだ。これでみじめな使用人扱いからは逃れられるの
だ。
けれどクレディアス子爵は、交換条件によくわからない石を飲み
こませたのだ。それを飲めば、王妃の元にいる間も手を出さないで
いてやると。
喜んで飲みこんだエイダは、いつか経験したような苦しみに、の
たうち回った。そうしてやはり三日寝込んだ後で、クレディアス子
爵に告げられた。
お前は魔術師になったのだ、と。
適性があるお前は特別な存在で、それがわかっていたから、王妃
に仕えさせることにしたのだと。
嫌悪している子爵の言葉が、これほど心に響いたことはなかった。
まるでさんさんと光が差しこんだかのような心地だった。
特別な存在。
今まで辛い目に遭ったのは、この幸運を掴むためだと思った。
ただ、魔術師ならば、どんな相手でも屈服させることができると
思ったけれど、クレディアス子爵を滅ぼすことはできなかった。
魔術師になったことで、魔術による主従関係が結ばれたらしく、
子爵が命じたことに反抗すれば、また苦しさに呻く目にあわせられ
るからだ。
﹁私がお前の主人だということは、魂に刻みつけてある。逆らえば
798
また、地獄の苦しみを味わった末に、砂になって死ぬだろう﹂
そう言われても戸惑うエイダの目の前で、クレディアス子爵は愛
人の一人を殺した。
エイダを脅すためだけにだ。
石をほんの一かけら。エイダとそう年の変わらないだろう女性は、
それを飲んだとたんに、のたうち回って苦しがり、その後砂になっ
てくずれたのだ。
これが魔術師の適性があるか否か、ということらしい。
恐怖したエイダだったが、それでもクレディアス子爵とは離れて
いられると思えば心が躍り、恐ろしさは薄れてしまった。
実際に会った王妃は優しく、エイダは彼女の魔術師として雇われ
たものの、表向きには話し相手をするだけ。王宮から出たりしなけ
れば、庭も建物の中も自由に歩ける。
貴族令嬢らしい安らかな暮らしを送ることができた彼女は、幸せ
に浸った。
しかも王宮にいれば、憧れの王子様を垣間見ることができるのだ。
美しい銀の髪の、同い年のレジナルド王子。
新年の祝宴には出ていたけれど、エイダの父は王家に強い伝手も
なく、国王に嫌われている王子は利がないから近づくなといわれて
いた。それを仕方ないと思っていたエイダだったが、美しい姿に憧
れてはいたのだ。
それに王子は、エイダが王宮に上がったばかりの頃に話しかけて
くれたのだ。
子爵に虐げられている噂のせいで、顔見知りの令嬢たちに嘲笑わ
れていた時のことだった。通りがかった王子が彼女達を遠ざけ、エ
イダを気遣ってくれた。
799
﹁この王宮に勤めているんだね。陛下の元で?﹂
尋ねられて、エイダはついうなずいてしまった。
レジナルド王子や国王が、ルアイン出身の王妃と反りが合わない
という話は聞いていた。だから正直に言って、嫌がられたくなかっ
たのだ。
それでも心を気遣うような短い応答をいくつか重ねただけでも、
十分に夢のような時間だった。
感情が漣のように揺れ動いて、思わず手に入れたばかりの魔術を
発現してしまいそうになったほどだ。
﹁そう、王宮にいるのは嫌じゃないんだね﹂
女官として働くのは辛くはないかと尋ねた王子に、不安なことは
ないと答えると、そう言って微笑んでくれた。
もしかするとエイダのことを気に入ってくれたのだろうか、と錯
覚しそうなほど。
だってエイダも綺麗だといわれて育ってきたのだ。
更にもう一度、王子が彼女を探して話しかけてくれたことで、エ
イダのその思いは強くなる。
自分の夫は、あんなひどい年上の男であっていいはずがない。王
子のように綺麗な人こそふさわしいのだと。
そんな甘い感情に浸るエイダに、王子と一緒にいた姿を見かけた
王妃が言った。
﹁殿下もおかわいそうな方なのよ。国王陛下にも疎まれて育ち、今
は先王陛下もお隠れになったので、後ろ盾になる方が少ないの。可
哀想だけれど、私も元は敵国の人間。いつかあの方も、救ってあげ
られたらいいのだけど﹂
気の毒な王子を、優しい王妃は気遣っていた。
800
その言葉に同意しながら、エイダは今の自分ならば王子のために
出来ることがある、と強く思う。
エイダには、王子の後ろ盾になれるだけの力があるのだ。魔術師
が彼に臣従していれば、貴族達もこぞって彼の後押しをしたがるだ
ろう。
そのためにも彼女は待っていた。
ルアインによって合併されれば、彼はもう国王に虐げられること
はない。
しかも合併が達成されたら、クレディアス子爵は離縁してくれる
というのだ。
﹁そうしたら、貴方は気兼ねなく王子と結ばれることができるわ。
そうね、ファルジアの王子ではなくなるけれど、貴方が彼と一緒に
なるというなら、公爵位を与えてファルジアの西側を領地としてあ
げてもいいわ。結婚祝いにあげましょう﹂
王妃のささやく甘い夢に、エイダは浸った。
︱︱それからずっと、彼の隣に立つ日をエイダは夢に見続けてい
る。
﹁そのためにも戦わなくちゃ﹂
魔術で自国の人々を焼きながら、エイダは迷うな、と自分に言い
聞かせ続けた。
801
ソーウェンにての会議
国王軍が潰走。
朝食の後で、商談のついでに優雅に会食をするのだろうなという、
漆喰の白も柱の木目も美しい会議室に召集されて、告げられたのが
それだった。
集まった人々は皆、落ち着いていた。
レジーやアランは私の前世知識ノートを見ていた、というせいも
あるだろう。
他の人に関しては、この世界の文明レベル的に慌てようがないか
らかもしれない。
どんなに急いで行きたくても、飛行機も鉄道もない世界だ。普通
にシェスティナ侯爵領まで行こうとしたら、何日もかかる。ルアイ
ン軍を倒しながらとなれば、一か月で済むかどうか。
前世の日本だったら、その連絡が来た時点で食事抜きで集合しろ
とか言われたり、すぐに出発するといわれそうな事態だが、どうし
ようもないので、慌てないのだろう。
一番落ち着きがなかったのは、朝から真っ青な顔をしていたソー
ウェン侯爵かもしれない。
青い顔の原因は、おそらく夜中の件だろう。
当主として身内の管理が行き届かなかった件について、レジーに
いじめられたのに違いない。会議室に入る前に、レジーから﹃あの
件についてはきちんと話がついたから﹄といわれた。
ちなみに私の方も、夜のうちに、何かあったら魔術を使ってオー
802
バーキルになった場合は、まずいだろうかと聞いておいた。
レジーは笑いながら﹃問題ないよ。思いきりやると良い﹄って許
可してくれた上、そのことも侯爵に告げると言っていたので、十分
に脅してくれたのだと思う。
私の方は、やりすぎてもおとがめなしと確認がとれたので、十分
だったのだけど。
そんなソーウェン侯爵も、報告を聞いてそちらに意識が向いたよ
うだ。
でも気にしているのは商売上のことのようだ。レジーに勝っても
らわないと、ルアインに併合されては、取り立てができなくなる可
能性を案じているらしい。
小さく﹁ウリカケキン、ウリカケキン﹂とつぶやいているので、
隣にいたジェローム様が嫌そうな顔をしている。
アランは予想はしていたけれど、実際にそうなると面倒だな、と
いう表情だ。
国王軍が健在ならば、挟撃することもできる。
王宮はおそらく王妃によって占領されているだろうけれど、ルア
イン軍に対処した上で、貴族達の連合軍で王宮を囲んでしまえばい
いのだ。
けれど国王軍が潰走、しかも国王が行方不明となれば再度召集す
る者はいない。
代理をするべき人間が、王宮内で無事でいるかも不明だ。
むしろシェスティナ侯爵を含む王都近隣の貴族達は、自分の領地
を守るか、夜逃げをする準備で今頃おおわらわだろう。とても応援
が望めるとは思えない。
それでもレジー率いる軍が、諸侯が壊滅的打撃を受けてしまう前
に、その近くまで到達できれば別だが。
803
﹁さすがにこの夏の暑い時期に、兵を動かし続けるのは不可能です
な。秋風が吹くまでは、留まるしかありますまい。ルアインがいつ
王都を攻撃するのか不安は残りますが、我々がこれ以上のことをす
るのは無理でしょう。予め立てていた計画通りには、進んでいます
からな﹂
色々な事情を含んだ上でのジェロームさんの言葉に、皆がうなず
く。
出発した当初から、まずは王都への順路を確保すること、そして
素早く攻めることで、ルアインがこちらに備えをする前に叩きつぶ
すことを目的としていた。
おかげでソーウェンまではなんとかルアイン軍から奪還すること
ができた。
けれどこれ以上は、無理だ。
クロンファード砦は、まだ激しい暑さになる前に攻略した。
カッシアは砦を落とした以上、安全性の面においても落さなくて
はならなかった。
ソーウェンに攻め入るのは、エダム様と半数近くの兵をカッシア
に置いてきたため人数が少なかったので、氷狐三匹で涼をとらせる
作戦も、ぎりぎり使えた。
しかしデルフィオン男爵領へ攻め込むとなれば、別だ。
カッシアを放置できないので、兵力がこころもとなくなる。
できれば暑さが引く一月後に合流するだろうアズールとエニステ
ルの軍を加えなければ、国王軍を破って余裕ができただろうルアイ
ン軍を撃破するのが難しくなるだろう。
それにサレハルド王国の軍もデルフィオンの北、トリスフィード
804
伯爵領に逗留したままだ。
ルアインが攻撃された場合、そちらの軍も出てくるだろう。
敵も暑さで上手く身動きできないとはいえ、少ない兵数で強行す
るのは得策ではない。
表情を全く変えずにいるレジーが、口を開く。
﹁既に国王陛下が暗殺された可能性が高い、という情報は入ってい
た。だから将軍に任命された者が軍をまとめきれず、結局はルアイ
ンに敗退するのは、予想されていたことだ。今後の方針に変わりは
ない、ということでいいと思う﹂
﹁暑い間は、エヴラールからカッシアまでの守りを固めましょう﹂
ジェローム様がうなずく。
﹁ソーウェン、カッシア内にいる残党はどうする?﹂
﹁基本的に投降を呼びかけるか、狩ってエヴラールへ送ろう。エレ
ンドール経由にて捕虜の扱いについてはやり取りができたと連絡が
きている。先方から支払人が来たら、金銭と引き換えで戻す。それ
までの間は、エヴラールで既に行っている通りに、なるべく北の土
地で畑の世話をしてもらおう﹂
アランの問いに、レジーが捕虜交換について話す。それを聞いて、
ウリカケの呪文を唱えていたソーウェン侯爵がふっと顔を上げた。
﹁ということはあれですな。手間ではありますが、ルアイン兵を殺
さず送りつければ、その分だけルアインの資金力を削ぐことに⋮⋮﹂
﹁その分、こちらは監視の兵や捕虜の衣食住を賄うお金がかかって
いますからね﹂
レジーから即座にツッコミを受けて、ソーウェン侯爵は捕虜での
儲けを考えることをやめたようだ。
たぶんそれ、面倒見るエヴラールの方でもらった上で、レジーか
805
らという形で再分配されるんだろうけど、半分くらいは負担がかか
ってるエヴラールにとられるし、ソーウェンの取り分はほとんどな
いと思うけど。
﹁進軍しないとなれば、あとの懸念は収穫についてでしょうな﹂
エヴラールの騎士隊長さんの言葉に、ソーウェン侯爵がとっても
大事! と何度もうなずいている。
﹁畑に戻る者たちのために、近隣の巡回をさせましょう。カッシア
でも既にエダム殿に采配を任せている。ソーウェンについては侯爵
に秘蔵の兵を使っていただこう﹂
優し気に微笑むレジーの顔に、なぜかソーウェン侯爵が身震いし
た。元々そのつもりで何か侯爵に言っていたのだろうか。
でもカッシアのように男爵までが討ち死にし、兵のほとんどを失
うに等しい状況の領地と違い、引きこもったソーウェンには余力が
ある。
しかも砦にいた一軍は撃破した後だ。ソーウェンだけでもなんと
かなるといわれても仕方ないだろう。
ソーウェン侯爵もだから抵抗などせず、レジーの言葉に頭を垂れ
た。
それから言葉を切り、レジーは全員を見回した。
﹁さて、今までは国王陛下の軍がいることを考え、私達は国防のた
めの義勇軍という体裁をとっていた。けれど国王陛下が不明、軍を
指揮することができない状況になったということで、私は王位継承
者として、改めて自分が率いるものをファルジア王国軍とする﹂
今まで、レジーは王子という立場で軍を率いていた。
本人も王族として元帥としての地位を持つことはできるし、エヴ
806
ラール辺境伯が元帥代理の称号を持っているので、それ自体は問題
ない。でも国王がいて、別に召集した軍がある以上、ファルジア王
国軍、と呼称することを控えていたのだ。
﹁後は従来通り、私を元帥、アラン・エヴラールを元帥代理とし、
エダム・レインスターとジェローム・リメリックを将軍とする。魔
術師のキアラ・コルディエは元帥代理付きとして、階級については
将軍と同じ扱いだ﹂
最後の言葉に、私は思わずレジーの顔を凝視してしまった。
立場としては今までとさして変わらない。けれど違うことがただ
一つ。
ずっと枠外の存在として扱われていた私を、アランが率いる兵の
中に組み入れ、立場を明確にしたのだ。
レジーが、認めてくれたのかもしれない、とちょっとだけ思った。
もしかしたら、これから別領地の兵士がやってきた時に、混乱し
ないためだったりするだけかもしれないけど⋮⋮。
エダム様やジェローム様が将軍の呼称で呼ばれるのは、この国の
軍というのが、その領地の貴族が率いてくることに、関係するのだ
ろう。
騎士も兵士も民から徴兵された人も、領主が殺されたりしない限
りはまとめてその領地ごとに管理される。
そんなわけで爵位を持たないお二人を将軍にしなければ、領地事
の兵の指揮系統や後々の処理が、色々と面倒なことになるのだ。
と、そこに別な伝令兵がやってきたと、会議室の外にいた騎士の
一人が取り次いできた。
少々くたびれ気味な伝令兵のおじさんが差し出したのは、書状が
807
入った筒だ。
受け取ったレジーの騎士グロウルさんが筒を開け、中の紙をレジ
ーに渡した。
﹁⋮⋮エレンドールと話がついたらしい。あちらの兵がエヴラール
に数千だが入る﹂
﹁数千でも十分ですな。エレンドールとまでことを構えたくないの
なら、ルアインは手を出せません。引くしかなくなるでしょう﹂
ジェロームさんが笑みを浮かべた。
私達もほっとする。
ルアインの真南に位置するエレンドール王国が、協力してくれる
のだ。
これでエヴラール側からのルアインの侵入はかなり抑えられる。
大軍を移動させるルートとしては、ルアイン側も使えなくなるだろ
う。
この報告もあって、ルアインに王都を奪われる瀬戸際という状況
に変わらないものの、穏やかに会議は終わった。
﹁あの、魔術師殿﹂
部屋を出ると、先ほどの伝令兵がなぜか私に話しかけてきた。
珍しいことだったので、立ち止まった私は思わず自分を指さして
﹁ホントに私?﹂と尋ねてしまう。
伝令兵はこくこくとうなずいて肯定した。
﹁お手紙を、魔術師殿宛てに預かりました﹂
差し出された封筒には、確かにキアラ・コルディエ様へと書いて
ある。送り主はベアトリス夫人だ。
一体何だろうと思い、部屋に引き上げてすぐに中身を読んだ。そ
うして私は、
808
﹁あ、そうだった!﹂
思わず声を上げてしまった。
﹁どうなさったのですか? キアラさん﹂
私に付き添っていたカインさんに尋ねられる。
﹁誕生日!﹂
﹁はい?﹂
﹁アランの! このままだと過ぎちゃうんだ!﹂
809
真夏のケーキ1
もう二日もすると、8月の聖シスルの日。
アランの誕生日になる。
この世界では、誕生日を毎年のように盛大に祝う風習はない。
節目の三歳、七歳、成人の16歳には、城下にも振る舞い酒を配
って祝うが、あとは質素なものだ。
考えてみればそのはず。
前世の中世ヨーロッパ的世界から比べたら、恐ろしくマシな状況
ではあるが、食料品なども冷凍物が出回っているわけでもない。生
ものにしろ服にしろ、お店に行ったらいつでも望んだ物を買えるわ
けじゃないのだ。
服は基本的にオーダーメイドか自力作成。そのため、庶民の女性
は自分や家族の服を縫えるようにするのが常識。
そんな事情から、毎年の誕生日は家族だけにひっそりおめでとう
と言われ、両親からだけプレゼントをもらうのだ。
富豪や貴族はその限りではないが。
つながりを作りたい人間が、相手の子供の誕生日にかこつけて贈
り物をする場合もあるし、年頃になれば、誕生日にかこつけて贈り
物をする人間もいる。
ちなみにエヴラール辺境伯家では、わりと質素に身内だけで贈り
物をし、ちょっと贅沢なお食事をする。これは子供がアラン一人だ
からということもあるのだろう。
そんなアランの17歳の誕生日が迫っている。
810
しかし両親である辺境伯夫妻は遠い空の下。いやこっちが遠い空
の下なのか。
なのでベアトリス夫人から、アランのお誕生日についてのお願い
が、手紙につづられていたのだ。
誕生日から遅れからでもいいので、逗留地のどこかで何か甘味を
アランにあげてほしいらしい。そのための軍資金も封筒に入ってい
た。
実はアラン、けっこうケーキとか甘いものが好きな人だったりす
る。
なのでベアトリス夫人も毎年ケーキを料理人に焼かせていたのだ
が、今年はそんなことをする余裕はないわけで。そこで何かを夫妻
からのプレゼントとして買って与えてほしいようだ。
戦時中ゆえにケーキを作る材料が枯渇していることも考えた上で、
甘味ならなんでもいい、という判断に至ったのだろう。
本当はエヴラールから送りたかったのだろう。
もしレジーもヴェイン辺境伯も亡くなっていたら、それどころで
はなかっただろうことを考えると、母親らしく息子のことに心を砕
く様は、見ていてほっこりした気持ちになる。
けれど生ものを伝令兵に持たせるわけにもいかないので、比較的
余裕がある私に頼んできたのだ。
実際、私は他の人よりも余暇時間がある。
体力勝負なので、兵士やレジー達は筋力が落ちないよう訓練する
必要があるようだが、私に限ってはそれほどでもないし。
軍の運営もほとんど関わっていない。
大規模戦闘や砦の改修とかじゃないと、護衛付でしか動けない希
少職種の私を軍行動に参加させるわけにもいかず、結果として大人
しく師匠と遊ぶか、単独行動をするしかない。
811
だから甘味を買いに行くのはわけもないことだ。
あとソーウェン侯爵領は町が荒らされていないので、物資の流通
こそ心もとないことにはなっているが、ある程度の物は調達できそ
うだ。
昨日の夕食や朝食にも果物などが置いてあったし、料理の内容も
戦時中ですよ、という貧しさは見られなかった。
それならケーキの材料を買うことはできるだろう。
問題は焼いてもらう人のことだ。
一気に大量の人数が押し寄せたので、館の料理人さん達は毎食大
変だろう。合間の時間に、ケーキを作ってほしいと頼むのははばか
られる。
﹁時間があるなら⋮⋮焼くか﹂
﹁何をするんですか?﹂
﹁ベアトリス様の代理で、ケーキを焼こうかと。簡単なものを﹂
パウンドケーキなら作れるだろう。
私がケーキを作るのだと言うと、カインさんが意外そうな顔をし
た。
﹁珍しいと思いまして。キアラさんが庶民の女性らしいことをして
いるのを、見かけたことがないもので﹂
﹁あ⋮⋮それもそうですね﹂
貴族令嬢はお菓子など作らない。
労働をしないことが貴族のステータスだ。人を使う、ということ
が尊ばれる。だから貴婦人が生産的なことをするとしたら、刺繍や
編み物ぐらいだろう。
料理をするなどもっての外。
812
私が一時的にとはいえ、元伯爵令嬢だったので、カインさんは不
思議に思ったのだろう。
エヴラールでも忙しそうな時に芋の皮むきとかを手伝ったことは
あるが、それも誰も見ていない時にこっそり行っていた。ベアトリ
ス夫人は許してくれそうだけど、夫人の侍女が料理をすることを誰
かが耳にして、ベアトリス夫人が悪く言われては困るので。
料理人さんたちには口止めしていたし、目撃してしまったアラン
にも言わないようにお願いしたものだった。
アランには﹁母上の侍女は騎士の真似事までしてるんだ。料理ぐ
らい今更じゃないか?﹂と言われたのだが。
それはさておき、前世の私もお菓子作りはしたことがある。
家庭科の時間とか。バレンタインに友達同士でお菓子を持ち寄る
ためとかね。
エヴラールの料理人さんが作っている所は見たことがあるので、
ある程度の調理道具の扱い方は承知していた。
﹁でも、ソーウェン侯爵の料理人にお願いしてみては?﹂
﹁できればそうしたいんですけれど、大所帯でおしかけてきてる上、
王子っていう気が抜けないお客までいるわけですから、余計な仕事
を増やすことになるんじゃないかなと。ただ、他人が入るのは嫌っ
て場合もあるかもしれませんから、一応聞いてみますけれど﹂
懸念を伝えると、カインさんが﹁それなら﹂と私をさっきまでい
た会議室へ連れていく。
調度ソーウェン侯爵が廊下へ出てきたところだった。カインさん
は侯爵に近づくと、あっさりと話をした。
﹁侯爵閣下、お話があるのですが﹂
813
ソーウェン侯爵はカインさんと私を見て、一瞬だけぎょっとした
顔をしたものの、調理場を使いたい旨を了解してくれた。料理人に
頼むも、自分で作るもご自由にという感じだ。
ただ、私が作るという話については、本気でそんなことをする気
かと変な顔をされた。
ソーウェン侯爵は生粋の貴族だから、身分ある女性が料理をする
なんて変だ、と思ったのだろう。ただ私は魔術師という、人間社会
からやや踏み外した位置にいるので、何も言わなかったのかもしれ
ない。
というわけで、まずは材料を買いに行くことにした。
カインさんに手伝ってもらい、流通が止まっていたこともあって
やや高かったけれど、小麦粉も砂糖もバターも卵も手に入れること
ができた。乾燥果物もみかけたので、それも購入。
⋮⋮そこでちょっと果物の砂糖漬けをくれたイサークのことを思
い出し、自分で持って歩く用に、オレンジピールの砂糖漬けを買い
足す。
少量を小袋に分けてもらっていたら、カインさんに尋ねられた。
﹁食べ歩くつもりなんですか?﹂
﹁え、ええそうです。たまにいいかなって﹂
もう会えないかもしれない人だ。けど、あんなに邪険にしたのに
話を聞いてくれたイサークにはとても感謝している。
だから真似をしたら、イサークにあやかれるかなと思ったんだけ
ど。恥ずかしくてそんなこと誰にも言えない。
だから内緒だ。
カインさんにも荷物を持つのを手伝ってもらい、館に戻る。
814
そうして昼食を終えてやや経ってから館の調理場へお邪魔すると、
既に侯爵から話が通っていたようで、快く場所を提供してくれた。
しかも、好きに使えるよう、万が一の場合に使う予備の調理場を
整えてくれていた。
これで夕食の準備までの間に、休憩をとったり仕込みの準備を始
めている料理人さんの邪魔をすることなく作ることができそうだ。
本格的に夕食をつくる頃になれば、本調理場の隣にあるそこも使
用するようだが、それまでには終わらせてみせる。
早速私はケーキ作成にとりかかった。
ちょっと多めに作るつもりなので、急がなければならない。
火が入れられていたかまどの様子を見た後、水を入れた鍋を置い
て湯をつくる。
分量を計る方法は、天秤しかないので、分銅を使って型5つ分の
量を分けていく。砂糖は少な目に。アラン用だからっていうのと、
私が甘みの強すぎるものは苦手なせいだ。
バターを湯煎で溶かす算段をつけたら、私は勝手口から庭に出る。
ちょっと大きめの石に触れて、それを石人形に変化させた。
石を人型にしようと思ったら、なんとなく紙人形ぽくなったが、
使えれば問題ない。ちゃんと両手に指も作成した。
それを二体準備。
石人形の前には卵を入れたボウル、泡だて器を持たせ、ミキサー
よろしくかきまぜさせた。
﹁ふふふふ。これで労力をかけずに泡立てられる⋮⋮﹂
﹁⋮⋮魔術の使い方、間違ってませんか?﹂
﹁ませんません。筋肉痛になるより、こっちの方が断然楽です﹂
815
カインさんの言葉に、即座に反論する。
石人形には筋肉はない。疲労する代わりに筋肉痛にもならないの
だ!
微妙そうな顔をしているカインさんには、せっかく傍にいるのだ
からとバターの様子をみてもらっていた。
石人形に任せていたボウルの様子を見て、次のボウルを持たせて
またかき回させながら、私は卵液に粉やバター、乾燥果物やオレン
ジピールなどを混ぜていく。
それを五個分繰り返したら、型に流し入れ、火傷をしないよう石
人形にかまどに入れてもらった。
そうして焼けるのを待っていると、やがてバターの良い香りが漂
って来る。
くんくん嗅いで出来上がりを期待しながらじりじと焼けるのを待
っていると、カインさんがぽつりとつぶやいた。
﹁懐かしいですね⋮⋮﹂
お菓子作りは、カインさんの郷愁を呼び起こしたようだ。
﹁昔、母親が作ってくれたことを思い出しましたよ﹂
﹁カインさんのお母さんは、お料理上手な方だったんですか﹂
﹁普通ですね。うちは代々エヴラール辺境伯様の騎士の家ですから、
生活自体は安定していましたが、料理はもっぱら母が自分でしてい
ました。だから下手ではありませんが⋮⋮でもその味が懐かしくな
るのは、小さい頃から馴染んだものだからなのでしょう﹂
それを聞いて、私は思った。
カインさんはお母さんを亡くしているから、もう一度お母さんの
ご飯が食べたくてもできなくて、だから寂しいのだろうと。
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﹁寂しい、ですよね﹂
なにげなくつぶやけば、カインさんがうなずいた。
﹁その分だけ、ルアインと戦えることでほっとしています。亡き母
のために、まだしてやれることがあるのだと思えるので。だから⋮
⋮戦うことを迷わないでいて下さいね、キアラさん。私がその分支
え続けますから﹂
817
真夏のケーキ1︵後書き︶
書き終わらなかったので、続きはまた明日投稿します
818
真夏のケーキ2
﹁戦うのは止めませんが⋮⋮﹂
その言葉に、うんとは言いにくい。
今日はさほど暑くはない日だけど、かまどの傍だから熱気がこも
る。調理場の扉から窓へ風が抜けて行くけれど、空気は重たかった。
﹁できれば戦いたくはない、と今でも思っています﹂
今でも戦うのは怖いまま。レジー達を死なせたくない、そして穏
やかに暮らせるような状況に戻りたい。そのために、人を殺したく
ないという気持ちを、押しこめているだけだから。
﹁それにルアイン兵だって、徴兵されてきた人が大半のはずです。
生活のために戦あざるをえない人達がいると思うと⋮⋮。だから私
としてはできるだけ圧倒的な差を見せることで、逃げてくれること
を期待したいと思っています﹂
完膚無きまでにルアイン軍を叩こうと決めたのは、そういった理
由もある。
先日の戦いで、逃げたルアイン兵は恐怖しただろう。私という魔
術師のいるファルジア軍と戦いたくないと考え、ルアインに帰って
くれるかもしれない。国へ戻してくれと言って捕虜になった人もい
るらしい。
それを聞いて私はほっとした。
逃げてくれたら、殺さなくてもいいからだ。
だから怖がってほしいのだと言えば、カインさんは目を眇めるよ
うにして私を見た。
819
﹁慈悲をかけた相手が、その場限りの嘘をついて、逃れた先でファ
ルジアの民を殺していたらどうします?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
ありうることだと思う。
否定できずにうつむいてしまった私に、たたみかけてくる。
﹁皆、あなたのように高潔ではいられないのですよ。逃げる途中に
食料が尽きて、他国の民ならば良心の呵責が薄いからと、殺して奪
う者もいるはずです。
それにいずれは同じファルジアの兵と戦うことになるでしょう。
王妃の側に回った貴族は、誰かを殺してでも自分だけは生き残り
たいと考えて、敵に仲間を差し出す者が多い。そんな敵を許す必要
も、慈悲をかける必要もないと思うのですが﹂
私は唇を引き結ぶ。
黙り込む私を包んでいた甘く暖かな香りが、再び吹いた風に散ら
される。
しばらく続いた静寂の後、カインさんが優しく尋ねてきた。
﹁今まで沢山殺してきたのに、まだ怖いのですか﹂
カインさんの言葉に、思わず彼の目を見つめ返す。
いつも優しいカインさんが、そんなことを言うとは思わなかった。
私の戸惑いを察したカインさんは、自然な仕草で傍にいた私に手
を伸ばす。その指先が頬をなぞり、大きな手が包み込むように私の
首に添えられた。
その手に気をとられている間に、カインさんの顔が近づく。
﹁大丈夫、怖いことではありませんよ。あなたはファルジアの民を
救っているだけなのです。戦って敵を殺す分だけ、侵略されて逃げ
820
回ることしかできないか弱い人々を、苦しみから解放しているんで
すよ﹂
じっと見つめてくる彼の瞳から、目をそらしたくなる。けれどで
きない。
まじないをかけるように、じわじわと何かを浸みこませてくるよ
うな言葉と視線がなぜか怖い。
この人は、私を傷つけたりしないはずなのに。
﹁みんなあなたに感謝するでしょう。助けてくれた、救ってくれた
と言って。あなたはそれを受け取るために戦っていると思えばいい
のです。その間、私が支えます。心弱いところも全て﹂
﹁心⋮⋮弱い﹂
カインさんにとって、怖いと思うのは弱いということなのだろう。
確かに弱いのかもしれない。覚悟を決めたのに、それでもいつだ
って心の中では迷って、謝って、悔いてる。
悔やむ私を、カインさんは歯がゆく思っているのだろう。
例えばゲームのアランのように。まっすぐに敵に向かっていって
ほしいのかもしれないと思うから。戦って人を殺すのなら、それく
らい潔い方がいいのかもしれないけれど。
﹁私は⋮⋮弱いんですか?﹂
﹁そのために、協力者がいるとあなたも考えていたのではありませ
んか? キアラさん﹂
なだめるような口調のカインさんに、そうかもしれないと少し思
う。
彼が協力しようと言ってくれるのは、物理的に私が弱いからだと
考えていた。全力でことにあたる時に、どうしても防御がおろそか
821
になりがちな私は、誰かに守ってもらうしかないから。
そこでふと思う。
イサークだったどう答えるだろう。
あっけらかんと、敵を倒すのに迷いなんてムダだろうとか言うか
もしれない。それでもきっと、最後には弱くってもいいだろ、とか
言いそうだ。
思い出し、気がつけば物思いにふけってカインさんから視線をそ
らしてしまっていたのだが。
さらに近づいたカインさんの顔に驚き。
だけど思わず動いた頭を顎をとらえるように固定されたと思った
時には、頬にやわらかくつつくような感触を残して、カインさんは
離れていた。
﹁えっ、なっ⋮⋮!?﹂
え、これってまたしてもカインさんに、頬にきす、された!?
当人の方は全く悪びれた様子も、照れた様子もない。
﹁そう過剰反応するようなものではないでしょう。二度目ですし。
それとも、私では嫌でしたか?﹂
﹁え、嫌って、嫌ってそんな⋮⋮ことは⋮⋮﹂
嫌悪感はなかった。心底びっくりしたけれど。
考えてみれば、前回も不意打ちだった気がする。
カインさんは﹁嫌じゃないなら良かった﹂と小さく微笑んだ。
﹁前は感謝の証でしたけれど、今度は誓いの証ですよ﹂
私に向けられたカインさんの視線がなんだか強すぎて。思わず目
を泳がせながら逃げ場を探してしまう。
誓いの証なら、拒否するのもおかしいか、と思う。
822
それに恋愛感情じゃない⋮⋮と思うのだ。
師匠も、カインさんは恨みを晴らしたい気持ちが強すぎるから、
私にも同じように敵を憎んでほしいんだろう。
だからだとわかっていても、傍にいて優しいことを言われると、
弱い私は頼りたくなってしまって怖い。
ぐらついてしまいそうで、無意識に一歩離れながら視線を下に落
とす。
その時、時間を図るために置いていた砂時計が落ち切っているこ
とに気付いた。
石人形に、かまどの中から型を出してもらった。
﹁さ、そろそろ様子を見ましょうか! あ、そこそこいい感じ。火
加減にムラありそうだけど、火は通ってるみたいだし﹂
上手いこと焼きあがったので、わたしはそちらにかかりきりにな
る。
だから私は、カインさんがぼそりと﹁まだ時期ではありませんか
ら、味見程度にしておきましょう﹂と不穏なことをつぶやいていた
のに、気付かなかった。
私は焼き加減を見るため、石人形に型から外してもらったケーキ
の端を、ちょいと摘まむ。
うん、大丈夫みたいだ。
そしてお手伝いをしてくれたカインさんにも端を切って差し出す。
みんなよりも先に味見をしてもらうのと、さっきのことをこれに
かまけて流してしまおうと思ったのだが。
﹁味見しませんか?﹂
私の申し出に目をまたたいたカインさんだったが、素直に受け取
823
って口にしてから、ぽつりとつぶやいた。
﹁女の人は、みんなそういうことをしたがるんでしょうかね﹂
﹁どうかしました?﹂
﹁味見をさせようとするキアラさんに、母みたいなことをするなと、
ちょっと驚いたんですよ﹂
‡‡‡
アランには、夕食後に時間をとってくれることと、お腹いっぱい
食べ過ぎないようにカインさんから頼んでもらった。
同時にレジー達にも声をかける。
アランが身内だと思っている人に囲まれて、お茶の時間を持つこ
とができたら、それが一番彼の誕生日の贈り物になるだろうから。
他の人には、アランの誕生日であることを伝えてある。
そうして集めたのは私やカインさんと、レジーとグロウルさん。
アランの騎士達に、エヴラールからついてきた騎士隊長と守備隊
長。そしてジナさんとギルシュさんだ。
﹁お誕生日おめでとう、これ、ベアトリス様からお預かりしました﹂
そう言って、できたケーキをふるまう。
アランには特別に、大皿に切ったケーキを円状にずらして重ねて
積んである。型一個分くらいは使っているのではないだろうか。
アランはこれぐらいの量など、ぺろりと食べてしまうのだ。
けれど普段は、男がそんなに大量にケーキを食べるものではない
と思っているのか、やや控えめにしか口にしない。
でもこんな風に最初から盛っていたら、食べざるをえなくなるも
んね?
824
もちろんそのまま盛っても味気ないので、前世を思い出しつつ、
生クリームを少々塗って、デコレーションケーキ風を目指してみた。
大皿を受け取ったアランは、とても感激してくれたのだが。
﹁母上が⋮⋮って、え、これエヴラールから送ってきたわけじゃな
いんだよな?﹂
﹁それはムリでしょ。ベアトリス様は軍資金を送ってきたんです。
で、なんか甘いものを買ってやってくれっていうから、お誕生日だ
からと思って私が焼いたの﹂
﹁え、お前が!? ⋮⋮変な物入れてないよな?﹂
アランが疑わしそうな顔になる。
言いたいことはわかるけど、私だってできそうにないことだった
ら、人の贈り物だというのに手は出さないよ。失敗したら嫌だもん。
﹁カインさんに味見させたから大丈夫。生焼けでお腹こわすような
代物だったら、今頃カインさんは部屋で七転八倒してるってば﹂
そこまで言われて、カインさんが平気そうな顔で苦笑いをしてい
るのを見て、ようやく安心したらしい。アランはケーキを口に運ん
で、ちょっと顔を赤くしつつ言った。
﹁ま、そこそこ⋮⋮うん、感謝するキアラ﹂
素直な言い方ではないが、どうやらお口に合ったようだ。
﹁17歳、ようやく私に追いついておめでとう﹂
そう言った先に17歳になっていたレジーが祝福すると、他の人
達もアランにおめでとうと言っていく。
アランは幸せそうにそれを受けて、やっぱりちょっと顔を赤くし
たままケーキを食べていた。
825
私達も一緒に皿で配られたケーキをつつく。型五個分などあっと
いう間になくなった。
食後にはアランにもう一つプレゼントをした。
ジナさんにはあらかじめ頼んで、ルナール達がアランの足にじゃ
れついてもらったのだ。
犬が大好きなアランは、もしかするとケーキより喜んでくれたか
もしれない。
まぁどっちでもいいんだ。アランにも色々とお世話になっている
んだから。
そうして無事、アランの誕生日というミッションを終えた私は、
ベアトリス夫人に完了報告の手紙を送ったのだった。
826
秋のはじまり
その夏、私達はしばらくしてからカッシアに戻った。
カッシアへ移動した後の方が、私はやることがあった。
なにせルアインに町を囲む柵などが壊された場所も多い。その柵
は本来敵兵の侵攻を阻むというより、獣の侵入を阻むためのものだ。
なので私は護衛の騎士を貸してもらい、カッシア男爵城の近隣の
村や町へ行って石壁をこしらえる作業をした。
⋮⋮一部、子供たちにねだられて滑り台みたいなものをつくって
みたり、リーラやルナールを見て羨ましがった子供のために石像を
こしらえてみたりもした。
怪我をしない物か実験を! と言って、ちょっと高く作り過ぎた
滑り台で遊ぶ若い兵士さんもいたけど、楽しそうで良かった。
いくら戦争でも、ずっと緊張を続けたまま何か月も戦うなんて、
心が持たないだろうし。
そうしているうちに、暦は9月へと移り変わった。
同時にアズール侯爵家とエニステル伯爵家の援軍が到着した。
どちらも四〇〇〇人規模の兵を連れてきたらしい。
そのため城内で会うのではなく、カッシアの城下町の門前で彼ら
を出迎えることになった。
アズールの侯爵もエニステルの伯爵も、初めて会うのだから覚え
てもらう必要があるからと、私はレジーの隣に立たされていた。
後ろにはカインさんの他に、私の傍にいることが多いジナさんや
ギルシュさんもいる。
827
ジナさんの場合は、これまた私と同じく、ルナール達がうっかり
討伐されないよう、軍の一員ですよと知らせるために来ていた。
他にいるのはアランにジェローム将軍、エダム将軍の護衛騎士な
人達ばかりだ。それでも五十人近い人数になっていた。
特に戦闘をする予定もないので、私は薄紫のドレスの上から青い
マントを羽織っている。だいぶん気温が下がったので、羽織りもの
をしても平気だ。
実はこのドレス、着ているとちょっと気恥ずかしい。
布が厚くなくて着心地もいいんだけど、ベアトリス夫人からいた
だいたものではないからだ。
行軍の関係で多少は現地調達するつもりではあったし、ベアトリ
ス夫人もそのための心づけとかをもらっていた。
⋮⋮なにせ当初の予定では、兵士の中に女子は私一人だけとなる
はずだったわけで。男性には言えない買い物だってしたいだろうと
いう、心遣いだったのだ。
今回はカッシアに長逗留するのならと思って、自分でも一着、替
えを作ろうと思っていたのだが。
︱︱ある日、ジナさん経由にてレジーから贈られたのだ。
ソーウェン侯爵の懐を痛ませて作らせたものだということづけは
あったものの、本当かどうかは定かではない。侯爵からのお詫びの
一環だと言えば、私が受け取りやすいと思って、そういうことにし
た可能性もある。
拒否しずらいようにか、高価なものではない。
ジナさん以外に内緒で渡してきたのも、侯爵のお詫びの品という
信憑性を高めているが⋮⋮侯爵家の人がやらかしたことがバレてし
まうからね。
828
でも後から﹃見立て通り、良く似合ってる﹄なんて言われたら、
もう疑ってしまっても仕方ないではないか。
ちなみにサイズ確認に協力したのはジナさんだ。私の服を洗濯を
お願いした時に、それを元にしたと、聞く前に白状されてしまった。
﹁キアラちゃん可愛いんだし、わたしやギルシュみたいに剣振り回
さないからさ、もっと可愛い服とか着ても、行動に支障ないと思う
んだよね!﹂
なんてにこにこ言ったジナさんには、私から服をプレゼントしま
した。
剣を持って自分で馬に乗るジナさんには、ドレスじゃ邪魔になっ
てしまうので、シャツなどを。
そんなことを考えているうちに、馬車が十分にすれ違える広い街
道の向こうに見えていた無数の人影が、大分近づいてきていた。
日の光を反射する槍や盾の輝きに瞬きしながら、傍まで来るのを
じっと待つ。
やがてほんの数百メルまで先頭が近づいてきたところで、騎乗し
た人が十数人、こちらへ先に駆けてきた。
﹁キアラ、耳をふさいでいた方がいいよ﹂
﹁え?﹂
首をかしげたが、レジーの言う通りにする。
見ればアランも同じようにしているし、訳知り顔のグロウルさん
達やエダム様までみんな同じようにしている。
何だろう? と思っていたら、接近してくる騎馬の集団からとん
でもない大声が聞こえてきた。
﹁お久しゅうございます殿下ぁぁぁ︱︱︱っ!!!﹂
829
﹁うぎゃっ!﹂
この世界に拡声器ってあったっけ!? そう思うくらい、耳塞い
でるのにすんごい大音量!
一体誰だろうと思えば⋮⋮なんか、馬上にマントを羽織って鎖帷
子を着こんだ、小太りなおじさんがいた。燕尾服を着せたらオペラ
歌手とかに見えそうな人だった。
ぶんぶんと無邪気に手を振りながらやってきたそのおじさんが、
すぐ傍まで来て馬から降りた。それからようやくレジーが耳をふさ
いでいた手を離す。
﹁お元気そうですね、アズール侯爵﹂
話しかけたレジーに、アズール侯爵が膝をついていて一礼する。
﹁ニーヴン・アズール参上いたしました。殿下におかれましてはご
無事なお姿を拝見することができ、恐悦至極に存じます。侵略を受
けた当初はエヴラールにいらっしゃったと聞き、胸がつぶれる思い
でございました﹂
⋮⋮話す時はふつうの声量だった。ほっとして私も自分の耳から
手を離す。
しかしゲームでこのおじさんは出てこなかったはず。
アズールは⋮⋮覚えがある。ルアインの南にある、エレンドール
に接する国だ。確か歌が好きな人達で、アランの元にやってきたの
は、ふんふんと鼻歌を歌ってる人だったような?
確かアズールの兵士達が声が大きくて、宴会になると大変な目に
遭うって話があった気がする。
思い出していると、レジーとの話が終わったらしいアズール侯爵
が、にかにかと笑いながら私に目を向けた。
830
﹁おやこれは可愛いお嬢さんだ。声が大きくてびっくりさせてしま
ったようですな﹂
﹁え、その⋮⋮ちょっと驚きました﹂
正直に言ってしまったが、アズール侯爵は全く気にした様子はな
かった。
﹁我がアズールは山岳地帯でしてな。放牧をする者も多く、仲間に
所在を知らせ合うのに牧歌を口ずさむ風習があるんですな。それが
いつしか大声で歌うようになりましてな。声量が鍛えられ、いつし
か歌のアズールと近隣の領地から呼ばれるようになるほどで。この
声は我が領地の自慢でもあるのですよ!﹂
語れば語るほど、アズール侯爵はだんだんと声量が増していく。
⋮⋮後で聞いたが、この大声のせいでエレンドールから度々迷惑
だと文句が来るらしい。峠を夜通っても、寝静まる時間でもないと
全く静かではないとか。世にも奇妙な騒々しい山の峠って⋮⋮にぎ
やかで、いいのかな?
そのため場所としてはエヴラールの援軍として駆け付ける方が早
いのだが、エレンドールの協力をとりつける関係で、アズールの民
がいると知って嫌がられないよう、こちらに回されたそうだ。
ヴェイン辺境伯から﹃ぜひ殿下をお守りください﹄と頼まれたと
アズール侯爵が笑みを浮かべていた。⋮⋮実はレジーに引き取られ
たなどとは思わないようだ。なんてこった。 ようやく話終えたアズール侯爵が、レジーに私のことを尋ねた。
﹁殿下、こちらはどなたです?﹂
﹁魔術師のキアラ殿ですよ﹂
﹁ほぅ、このお嬢さんが噂の魔術師ですか。体力とか⋮⋮声量とか
大丈夫なのかい?﹂
831
そんなことを真面目な顔で聞かれたが、別に声量は必要じゃない
と思う。
しかしすっぱりと思ったまま言うわけにもいかず、返答に困って
いたら、
﹁声量なぞ、そなただけで十分であろう﹂
やや震えた老人の声に、腰に吊るした師匠ではないしと見回せば、
﹁⋮⋮ヤギ?﹂
馬とそん色のない⋮⋮いや、さすがに馬よりやや小さいが、大ヤ
ギに跨った仙人みたいな人がいた。
さっきは他の馬が前にいたせいなのか、集団の中にヤギがいたよ
うには見えなかったのだ。
そしてヤギを見た瞬間、私は思い出した。
﹁つっ⋮⋮!﹂
叫びそうになって私は慌てて自分の口をふさぎ、感動に震えた。
わ、この人本物の杖仙人だ! ほんとにヤギに乗ってる! 白い
ひげ長っ! 師匠と違ってまだ禿げてない!
ゲームではこんな風に加入して来なかった人だ。
カッシアの次に、一度仲間を集めるということでアランの方が、
このファーデン・エニステル伯爵の元へ行って協力を仰ぐのだ。
味方キャラの最高齢、65歳のエニステル伯爵は、杖が武器だ。
杖のくせに攻撃力が高いとんでもお祖父さんである。
なので私は杖仙人と呼んでいた。
﹁まことそなたの声は大きすぎる。それがしは耳が遠くないという
のに、近場で騒音を出しおってからに。耳の痛みが引くのを待って
832
おったら、殿下へのご挨拶が遅れてしまったではないか﹂
震え声で文句をいいつつ、ヤギからよっこらしょと降りたエニス
テル伯爵は、世捨て人のごとき薄灰色の裾長の軍衣をまとっている
だけだ。
なんというか、鎖帷子のアズール侯爵の横にいると、実に紙装甲
すぎて不安にさせられる。
﹁無理なさらんでくださいよ先生﹂
﹁まだまだ手伝いは必要としとらんわ﹂
気遣うアズール侯爵に、エニステル伯爵な杖仙人が強がりを言う。
﹁ファーデン・エニステル、殿下をお助けせんがため、ファルジア
を救うために駆け付けましてございます﹂
膝をついたエニステル伯爵に、レジーが微笑みながらうなずいた。
﹁よく来てくれた、ありがとう﹂
そんな二人の貴族は、部下である兵達の他にも人を伴ってきてい
た。
茶色の髪の少年は、以前は商人の子供に偽装していたけれど、今
回はその必要がないからだろう。
避難させていたリメリック侯爵の元で揃えたのだろう、黒っぽい
上着は貴族のものらしく縁に刺繍がほどこされ、白いシャツに、首
元にはクラヴァットを結んでいた。
カッシア男爵家の生き残りチャールズ少年。彼の優し気な面立ち
に、私は思わずきゅっと唇を引き結ぶ。
フローラさんととてもよく似ていた。
ファルジア軍が取り戻し、ある程度破壊の跡も修復した城に、彼
は帰ってきたのだ。カッシアに残るエダムさんは、戦が終わるまで
833
彼を支える役目も担うことになると聞いていた。
レジーに挨拶したチャールズ君は、他の人々と一緒に城へ戻った
後、すぐに両親や姉の眠る墓地を訪れた。
カッシア城の西側。
小さな庭園が男爵家の墓となっている。
男爵と夫人の遺体は、一度殺された臣下達と共に適当に掘った穴
に放り込まれていたため、そこから探し出すのが大変だったと聞い
た。
フローラさんの遺体は、落ちてすぐだったため、なんとか回収す
ることができたという⋮⋮砂になってしまったからだ。
砂になっても、フローラさんの体だったことに変わりはない。だ
からその砂を、男爵夫妻と一緒に埋めた。だから墓は三人で一つだ
けだ。
チャールズ君も、逃がされる時に散々悲惨な光景を見たせいだろ
う。墓の前に立っても、取り乱すことはなかった。
ただ静かに、居なくなったことを確かめるように涙を流していて、
そんなチャールズ君を抱きしめたオーブリーさんの方が、大泣きし
ていた。
これからも、私達は同じような光景を見るのだろう。
もしくは、今後は寝返ったファルジア貴族と戦えば、こんな風に
墓を作ることさえはばかられる有様を見ることになるのか。
私は泣き続けるチャールズ君を遠くから見つめながら、これから
起きる出来事の重たさに、ぐっと手を握りしめることしかできない
のだった。
834
閑話∼王都陥落∼︵前書き︶
再び敵パートです。
835
閑話∼王都陥落∼
ルアイン軍が王都をとり囲んだのは、夏の暑さが凪いですぐのこ
とだった。
しかし彼らは、王都を攻め落とす必要すらなかった。
既に王都に住む者たちの多くが、方々へ逃げてしまっていたのだ。
国王が死んだという噂が駆け巡ってすぐ、隣国の餌食になるのを
恐れた人々は持てるだけの物を手に、王都近隣の領地へ走ったから
だ。
逃げた者の中には貴族もいた。
王妃にも良い顔をしながら中立を保っていたけれど、完全に友誼
を結んでいなかった者。そして王族に忠誠を誓った者たちだ。
貴族が少なくなれば、それを守る私兵もいなくなった。
商売相手を何事もなくルアインに切り替えられるか不安に思った
商人達も、近隣の領地へ移動した。
国王がいないと分かれば、城を守る衛兵達や女官たち、召使いも、
そこにいて守り切る旗頭がいないとなれば、逃げだそうとしていた。
けれど王妃達はそれを阻害していた。出入りを監視する衛兵を自
分達の配下に変えてしまったからだ。
そんな折、恐怖にあおられた者が見張りの衛兵を殺してしまうと、
堰を切ったように人々は逃げだした。
ただあまりにも一斉に皆が逃げたため、それを扇動したものがい
るだろう、というのが、王妃達の見解だ。
836
傍にいたエイダは、王妃や足しげく通ってくるパトリシエール伯
爵の話を耳にしたからこそ、それを知っているだけだ。
そのような状態だったので、王都には王妃に従う貴族やその配下。
彼らに保護されている商人達と、逃げる先が思いつかない貧しい市
井の人間ばかりが残っていた。
彼らがルアインの軍に、門を閉ざすことはない。
ルアインの将軍や兵士達は、戦うこともなく、粛々と王都へ足を
踏みいれたのだ。
だからエイダは、王都を守ろうとする者たちと戦う必要はなかっ
た。
むしろルアインの将軍が王宮に入ったその後からが、エイダの仕
事の時間だった。
﹁燃えろ燃えろ、燃えておしまいなさい﹂
エイダは手を広げてくるくると回る。
そうして手を触れた壁の絵画もカーテンも、、ステップを踏んで
回っている絨毯も、つま先が当たったり、踏んだりした死体も全部
燃えていく。
炎に満たされた控えの間を抜け、エイダは広間へと踊りながら移
動した。
そこは石の床なので、エイダが靴先でこつこつと叩いても石は燃
えてくれない。
とたんにつまらなくなって広間の様子を眺めれば、阿鼻叫喚が広
がっていた。
﹁待て! 待ってくれ! お前たちは味方では⋮⋮っ!?﹂
叫びながら後退る騎士が、容赦なく槍で刺殺される。彼の傍には、
837
既に冥界へ旅立った仲間たちの姿があった。
王宮にやってきたルアイン軍の将軍とその配下は、招いた王妃の
もてなしで、テーブルに並べられた料理を食べていたところだった。
戦闘もなく王都へ入り、ルアインの王妹である王妃の支配下にあ
る王宮へやってきた彼らは、とても油断していた。
同じルアインの人間、侵略に手を貸した王妃が自分達を殺そうと
するわけがない。
そう思っていた彼らは、王妃が伏せていた兵によって殺された。
﹁さぁエイダ、燃やしてちょうだい。刺し傷なんてわからなくなる
くらいにね﹂
敬愛する王妃の命令に、エイダは炎を放った。
木でできたテーブルも、そこに伏せたり、足下に転がったりする
死体も皆一気に赤い炎を上げて燃えていく。
﹁明るくなったわね。シャンデリアが沢山あっても、ちょっとこの
広間は暗いと思っていたのよ﹂
明るい声で喜んでいるのは、何人もの兵に守られた赤茶色の髪に
琥珀の瞳の王妃だ。彼女はいつも通りにルアイン様式の衣服を着て、
嬉しそうに微笑んでいた。
﹁ほ、本当にこれで⋮⋮宜しいので?﹂
ルアインの将軍たちを殺す兵士を指揮していた男が、恐る恐る王
妃に尋ねる。
ルアインの侵攻に手を貸したのに、ルアインの兵を殺させたのだ。
どうするつもりなのかと不安になったのだろう。
838
王妃は笑顔を崩さず答える。
﹁もちろんよ。既存の王族を排除して、わたくし達の王国を作るの
ですもの。そのためには利用をしても、他国であるルアインから支
配者を受け入れるわけにはいかないわ。だからお兄様の寄越した将
軍は不用。私たちは戦力だけが欲しかったのですもの﹂
その言葉を聞いた兵士達は、ほっとした表情になる。
﹁いずれにせよ私が女王になるのよ。私を操ろうとする者はいらな
いわ。他国にも私というルアインの人間を王として認めさせ、他国
が介入するのを防ぎたいのなら、お兄様は結局私に従うしかないの。
大丈夫よ、みなさん。土地の配分も、エヴラールから進軍する王子
達を排除したら、取り決め通りに分け合いましょうね﹂
笑顔の王妃に、兵士達はうなずく。
そうして兵士達は、他のルアイン兵達を抑えるために次の行動へ
向かった。
﹁次の行動は、どういたしましょうか、マリアンネ様﹂
尋ねるパトリシエール伯爵と一緒に、会いたくはなかった人物が
王妃の傍に寄る。
クレディアス子爵。
彼は戦闘に参加したわけではない。でっぷりとした体では俊敏に
動けず、剣を振るっても、さして強くはない。
ただ私を監視するためだけに、ここにいるのだ。
ああ、この男をなんとか殺せないだろうか、とエイダは思う。
そうしたらエイダは自由だ。
王妃様は﹃わたくしもあの男の言葉を拒否することは難しいのよ。
839
だからあなたが殺してくれるなら、それでもいいわ﹄と言ってくれ
ている。
王妃はどうしても魔術師の力を借りる必要があって、だからパト
リシエール伯爵を通じてクレディアス子爵の協力を得ているのだと
いう。けれどその代償に、王妃は何人もの自分の侍女を彼に捧げな
ければならなかったと聞いた。
﹁でも今はエイダがいるもの。わたくしの可愛いエイダ。あなたが
いればあの男はいらないわ﹂
⋮⋮幸いにも、今この場所には炎が溢れている。エイダから溢れ
る魔力が、遺体を炭にするまで尽きずに、天井まで届く炎を生みだ
しているからだ。
王妃や子爵達がいるのは燃えあがる死体から離れているけれど、
届かないわけじゃない。
ちょっとそれを操って、子爵の上に落とすだけ。
ふと王妃がこちらを見た。
笑みを深める美しい表情と一歩遠ざかる行動に、エイダは歓喜し
た。
避けてくれるのなら、王妃を巻き込まずに子爵だけを燃やせる。
喜び勇んだエイダが、炎を一気に子爵へ向けて引き伸ばし、蛇が
食らいつくようにその体を飲みこもうとしたのだが。
﹁愚か者﹂
いわれる直前には、エイダは全身の血の気が引くように体から力
が失われ、床に倒れた瞬間には、体内の水分が沸騰したかのような
熱さにのたうちまわった。
840
絶叫する。
助けて助けて。
けれど誰も手を出さない。
王妃は辛そうに顔をそむける。力ない身の彼女にはそれしかでき
ない。
パトリシエール伯爵は、言うことを聞かない馬を見るような目を
向けてくるだけ。
クレディアス子爵は、エイダを嬲る口実を得たことを喜んでいる
のか、口の両端をつり上げて笑っていた。
﹁忘れていたのか? 私はお前のわがままを聞いてやってるのだ。
今この瞬間も。反抗すればすぐにでも思い知らせてやろう﹂
そうして使いもせずに腰に下げていた細身の剣を抜くと、エイダ
に近づいて服の背中を掴むと、剣で斬り裂いた。
悲鳴を上げて転がり逃げるエイダを、クレディアス子爵は笑う。
いつでもエイダを動けなくさせることもできるし、動けなくなっ
たエイダを好きにできるのだと、そうして脅した。
人前で肌をさらされた悔しさに、エイダは涙するしかなかった。
そんなエイダの目に、黒く炭化して既に人の姿を失った死体が見
えた。
ああ、このカエルも燃えてしまえばいいのに。
憎々し気に睨みつけながら、エイダは這いつくばるしかない。
もう力が一つも出てこないのだ。ようやく収まった体の熱に、全
て使いつくされたかのように。
何よ蝋燭に火をともすこともできないくせに。肥え太るばかりで、
みにくい男でしかないのに、どうしてこんなに憎んでも殺せないの。
﹁わかったら次の戦場へ行くぞ。お前には王子の軍を壊滅させても
841
らわねばならないからな﹂
﹁いやっ、嫌!﹂
こんなウシガエルと一緒には、会いたくない。何をされるかわか
らないからこそ、エイダは酷い姿を王子に見せたくなかった。
腕を引っ張り上げられて抵抗する私に、クレディアス子爵が忌々
し気な表情を向けたその時だった。
﹁お待ちになって、クレディアス子爵﹂
そよ風みたいに静かに近くへきていた王妃が、エイダの傍に膝を
つき、耳元に唇を寄せてささやきかけた。
﹁大丈夫。今のままの方が、とても哀れに見えるから、きっと殿下
もあなたに同情してくれるわ。可哀想なあなたの方が、心優しい殿
下ならば興味を引かれて救ってくれるでしょう。そうなったら、後
はあなたの頑張り次第よ﹂
王妃の言葉にエイダはハッとなる。
そうか。こんなにも可哀想な私なのだから、きっとレジナルド王
子は同情してくれる。優しい王子は私のためにクレディアス子爵を
殺してくれるかもしれない。そうして自由になった私が、今度は王
子を助けてあげるのだ。
彼をだましている、人々から。
‡‡‡
楽しいことを思いついたかのように、くすくすと笑いながらエイ
ダはひきずられていく。
そんな彼女を見送った王妃は、くつくつと笑う。
842
﹁随分とあの娘がお気に召したようですな﹂
パトリシエール伯爵の言葉に、王妃は﹁もちろん!﹂と満面の笑
みを浮かべて答えた。
﹁ああ可哀想なエイダ! でも決して報われないのよ。どんなに耐
えても、どんなに待ったって王子様は来ないの! まるでわたくし
みたいね﹂
﹁しかし反抗的すぎませんか? 王子を手に入れた時に﹂
パトリシエール伯爵は、クレディアス子爵の命令を聞かず、身動
きがとれなくなっても抵抗する姿に不安を感じたようだ。
﹁いっそ完全に子爵に屈服させて、心を折った方が使いやすくなる
のでは?﹂
﹁あら、だめよ。今の方がいいわ﹂
マリアンネは微笑んだ。
﹁清い乙女であるからこそ、いつまでも叶わない夢を見続けられる
のよ。手に入らないものを眺めても、もしかしたらと夢想できる余
地があるからこそ執着が強くなる。諦めさせて奴隷として使うより、
自ら憎悪を育てさせた方が、使える人間になると思うわ﹂
それに、とマリアンネは付け加える。
﹁レジナルド。あの子は命惜しさに相手の夢物語を肯定してくれる
ような、意気地のない人ではないもの。きっと綺麗にエイダのこと
を突き落としてくれるでしょう。
どうなんでしょうね。追い求めた相手に、拒否される絶望感は。
そうしたら自分の理想とは違うレジナルドを殺してしまうかもしれ
ない。けれどそんなことをした自分も認められずに、エイダは自殺
するかもしれないわね?
ほら、自滅してしまうのだから、怖くないでしょう?﹂
843
﹁⋮⋮怖い人だ、あなたは﹂
﹁あら、嫌い?﹂
﹁いいえ。この命ある限り、お慕いし続けます﹂
パトリシエール伯爵の言葉に、王妃はくすくすと楽し気に笑う。
﹁オーウェン、利用することしかできない私をどうか許してね。私
には貴方の望むような心を捧げる愛がよく分からないから﹂
愛を口にしながら、無邪気に愛情は持っていないと語る王妃を抱
きしめて、パトリシエール伯爵はうなずく。
﹁もちろん存じ上げております、マリアンネ様。お約束通り、私の
隣に貴方さえいてくだされば⋮⋮﹂
﹁わたくしの望みを叶えてくれているのだもの、もちろんよ。計画
通りわたくしは、あなたの隣に居ましょう。けれどねぇ、あなたが
座る椅子がまだ崩れやすい状態ですものね。早く、椅子の足を齧る
悪い子供を捕まえて、火あぶりにしなくては﹂
﹁大丈夫ですよ。クレディアス子爵も上手くあの娘を操ってくれる
でしょう。悪い子供ともども、あの娘は自ら火あぶりになりたいと
願うようになるはず﹂
﹁破滅的な愛ね。わたくしには無理だわ﹂
﹁貴方はそれでいいのですよ。どんなに壊れてしまっていても⋮⋮
あなたでありさえすれば﹂
844
カッシア出発前日
近日中にはカッシアを出発して進軍する、という日の午後。
私はカッシア男爵城下の町にある、教会に来ていた。
自発的にというよりは、ギルシュさんが最近ここに通い詰めてい
るので、それについて行った形になる。
それほど長い時間ではないこともあり、付き添いはカインさんだ
けにしていた。
しかし教会へ到着したところで、最後に町を一回りしていたレジ
ーとアランに出会い、彼らも一緒に教会の中についてきた。
そこは正確に言うと、教会の裏庭だ。
遊んでいるのは、今回の戦で親を亡くした子供たちだ。
カッシアに戻って、ギルシュさんが即始めたのがそういった子供
たちを保護している場所に手を貸すことだった。さすが、みんなの
お母さんを目指しているだけある。
子供たちも、最初は親兄弟を失い、住む場所も無くして呆然自失
状態だったようだ。気丈な子供だけが教会の修道女を手伝って、年
少の子供の面倒を見る以外には黙って座り込むか、時折思い出して
は泣くばかりだったそうな。
ギルシュさんは、戦災孤児を拾っては、自分の村に連れてくると
いうことを繰り返していたので、そういった子供に慣れていた。
教会の修道女は、彼のおかげで子供たちが一気に明るくなったと
感謝していた。
ギルシュさんに﹁一緒にどうかしら?﹂と誘われて行った私も、
845
少しは子供たちの遊び相手として役に立ちたいと考えた。
そこで思いついたのがこれだ。
﹁やぁ、僕はホレスくんだヨ!﹂
私が甲高い声を作ってアテレコすると、打ち合わせ通りに右手を
上げて見せる師匠。
ちょいと腕が細かく震えてカチカチ言っているけれど、見なかっ
たことにする。
﹁みんな仲良くしてネ!﹂
私の声に続けて、師匠は手を振ってはくれた。そのまま動きがス
トップする。
くるっと華麗に一回転してみせて! と頼んだはずなのだが、師
匠の矜持が許さなかったのかもしれない。
この世界にはない土偶人形は摩訶不思議なのだろう。興味津々の
子供たちが、師匠の傍ににじり寄ってくる。
﹁これ陶器のお人形?﹂
﹁ホントに自分で動いてんのかよ﹂
先頭にいた男の子が指先でつんつんと師匠をつついた。
師匠は、カタカタと怒りで震えている。けれど言質をとられてい
るので反抗できない。
子供の相手なぞ朝飯前じゃあああ、と言ったのは師匠である。私
の売り言葉に買い言葉だったのだけれど。
﹁お前⋮⋮悪魔のような奴だな﹂
﹁悪魔じゃないよアラン。良い思い付きだねって言ってほしいわ﹂
846
それを見ていたアランがやや気の毒そうにしている。なので私は
悪魔じゃないと訂正しておいた。
70近い年まで生きた人が、今更言を翻さないよね? と退路を
断ったりもしたが、それでもやると言ったのは師匠である。
隣では、レジーが久々に笑いの発作が来たのか、言葉もなく肩を
震わせていた。
そして子供たちは、約束通り自分でかしゃかしゃと歩きだした師
匠を、鴨の雛のようにおいかけながら、無慈悲な言葉を口にする。
﹁お人形さんなんかしゃべってー﹂
﹁なんだ歩くだけかよつまんね﹂
﹁本物なら側転してみせろよー﹂
と、例え動ける師匠でも、形態的に無茶な要求をしてくる始末。
カシャンと音を立てて立ち止まった師匠が、もう沸点に到達した
らしい。
﹁⋮⋮くうっ、もう、限界じゃあああああっ! 誰がガキの面倒な
ど見るかああっ! わしゃ子供が苦手なんじゃあああっ!﹂
﹁ぎゃあっ、人形が怒ったああっ!﹂
﹁呪われる!﹂
﹁オバケこわーい!﹂
腕を振り回して飛び跳ねて怒る師匠の姿に、子供たちが一斉に逃
げていく。
﹁まて! 貴様ら訂正せんかっ! わしはお化けではなーい!﹂
﹁いやーん悪魔の人形が追いかけてくる!﹂
﹁うえーん!!﹂
たちまち鴨の行進が、ちょっと大きな遮光器土偶と子供の追いか
けっこに発展していた。
847
﹁かわいいわねぇ、お人形さんに本気で怯えられるのなんて、あの
年頃くらいまでよねん﹂
眺めながらほのぼのとしたコメントを口にするのは、ギルシュさ
んだ。
﹁いや、アレ怖いだろ。昼間でも突然追いかけて来たら、僕は逃げ
るぞ?﹂
アランの言葉に私も同意したい。特に夜なんてめっちゃ怖いだろ
う。けれど自分のしたことが発端なので、私は賢く口を閉ざした。
﹁でも今日で、慰問も最後よねぇ。司祭様達に挨拶してくるわねん﹂
ふう、とため息をつきながら、ギルシュさんは少し離れた場所に
立っていた教会の修道女さんと司祭さんの所へ向かった。
それを見送りながら、レジーがつぶやくように言う。
﹁今後は、教会は保護されてるかもしれないけど、子供たちの状況
も悪そうだね﹂
この世界は解明できない自然現象が山ほどある。
だからこそ、原因として神々の存在をある程度信仰しているので、
教会はルアインも保護するだろう。その分だけ、各国とも重要人物
を教会に匿わせることはよくあることだ。中に入ってしまえば、手
を出しにくいからだ。
だからこそ、教会の出入りなどは監視されることがある。心ある
修道士がいても、子供の保護などさせてもらえない。子供たちは路
頭に迷い、餓死していくこともあるだろう。
﹁早くどうにかしたくても、無理を押せば兵を維持できないから限
界はあるけれど⋮⋮。キアラ、君の記憶ではこの後、デルフィオン
848
男爵の軍とぶつかるんだったんだよね?﹂
レジーの言葉にうなずく。
﹁私が知っている状態だと、デルフィオン男爵の軍がこっちに向か
ってくることになる。ルアインへの恭順を示せとかいって。ルアイ
ンにそうしろって言われてのことらしいんだけど。ただルアインが、
王都まで占領し終わった翌年の出来事になるから、状況が違うしど
うなるか⋮⋮﹂
今までの状況は、ルアインが王都を陥落させた後でも前でも酷く
変わりはしないものだった。全てエヴラールからアラン達が攻めて
くることによって、動く事態ばかりだから。
けれど今後は違う。
﹁先方がどう出るか、だな。ルアイン、サレハルド、そしてルアイ
ンについた貴族達﹂
続けたのはアランだ。
﹁個人的には、現時点だとサレハルドが一番気になるね。トリスフ
ィードに引きこもったままでいてくれるなら、協定でも結んであの
土地を一時的に放棄することで、サレハルドとの戦いを無視できる
んだけど﹂
﹁一緒に従軍してきて、それはムリなんじゃないか?﹂
レジーの意見に、アランが渋い表情をする。
﹁あとルアインが完全に支配したとは言えない状況で、デルフィオ
ン男爵や他の貴族がどう出るか、だね。王都が陥落した後は、王妃
達がこちらを脅威に思って、他の領地の兵を送ってくるようになる
かもしれない。⋮⋮デルフィオン男爵は、ご令嬢が解放されればル
アインに従いたくないんだったんだよね?﹂
849
レジーの言葉に私はうなずく。
デルフィオン男爵は、娘が人質に取られたことで、ルアインに与
することを選んだ。ルアインとしても、ソーウェンとカッシアの抵
抗が激しかったので、デルフィオンと戦うのもある程度で手打ちに
したかった、という事情があってそれを受け入れたという経緯だっ
たはず。
デルフィオンはカッシアを占領したところで、こちらに攻め込ん
でくる。もちろんルアインにせっつかれてのことだ。
アラン達は同国人同士の戦いになることで、とても辛いと感想を
漏らしていた。前世の私も心から同情したんだよね。
﹁デルフィオン戦。何回かぶつかる間に⋮⋮王妃の侍女が魔術師と
して参戦するんですよね﹂
ゲームのキアラ・クレディアスだ。
そう思うと、デルフィオンの地というのは、なかなか複雑な気分
になる土地ではある。
﹁代わりに、クレディアス子爵が出てくる可能性もあるだろう﹂
アランの指摘に、私はうなずく。
そもそもトリスフィード伯爵領を攻撃する時に、クレディアス子
爵が関わっていたのは分かっている。あれから時間が経っているの
で、一度は王都に戻っているかもしれないが、まだ周辺にいる可能
性だって無いとは言えない。
﹁クレディアス子爵がどんな魔術を使うのかはわからないけれど、
なんとしても倒さないと﹂
決意を込めてそう言った私を、レジーは何か言いたげな表情で見
ていた。
850
城へ戻った後は、カインさんと師匠を交えてクレディアス子爵へ
の対策を話し合った。
﹁しかしのー、相手の能力がわからんことにはなー。ヒッヒヒヒ﹂
子供たちと追いかけっこをしてお疲れの師匠は、テーブルに足を
伸ばして座り、ややなげやりな調子で言う。
まぁ、確かにクレディアス子爵が炎使いなのか、水使いなのかと
かがわかれば、どう対応するのか決めやすくていいのだけど。
﹁何かこう、魔術師の噂とか聞いたことないんですか? 近くまで
接触したんですし﹂
私の方は、相手が魔術師だとかわからない時期に、ちらっと顔を
見ただけだ。話もしていないので人となりも伝聞でしかしらない有
様だ。
でも師匠はどうかと思ったのだが、パトリシエール伯爵が主に接
触を持った相手で、クレディアス子爵とは顔を合わせていないので、
どうしようもないようだ。
﹁用心深いんじゃろ。魔力押しで戦うタイプならば、堂々と儂の前
に出てきて、威圧してくるだろうがなぁ、フヒヒヒヒ。契約の石を
飲まされた後ですら出て来んのだから、よほど能力を知られたくな
かったんじゃろ﹂
﹁では、型どおりの能力を持っているわけではない可能性も?﹂
カインさんの問いに、師匠は土偶の体で器用に肩をすくめてみせ
る。
﹁もしくは隠ぺいすることで、万が一にでも儂が全力で潰しに来た
時に、対抗しやすいようにしたかったんじゃろ。儂が飲まされた分
では、師弟ほどの強い拘束力はないだろうからのぅ。それもあって、
仲間にもできん、拘束力も強くない相手だからと、役目を果たさせ
851
たら始末してしまおうなんて思って、儂を殺そうとしたんじゃろ、
ヒッヒヒヒ﹂
そうだった。師匠は契約の石の主である子爵がいない上、見張り
も兼ねていた兵士が殺されたので逃亡をしようとしていた。
そのとき矢を射られて殺されたのだ。
師匠という魔術師が、どうあっても仲間にはなってくれないだろ
うと思って、そんな手に出たのだろうと思う。うっかり野放しにし
て、ファルジアの味方をされても困ると考えたのだろう。
とにかく判断材料が少なすぎた。
だから子爵が出て来たら、なるべく速攻で土で潰すか抑え込み、
それで間に合わなければ、カインさんに止めを刺してもらうか、と
いう話になった。
私という魔術師がいる以上、子爵が戦うなら、かならず私にぶつ
かってくるはずだから。私と一緒にいるのなら、カインさんも魔術
師との戦闘に巻き込まれるのだ。
ただ解せないのは、ゲームで子爵が出てこなかった理由だ。
できれば、同じようにこれからの戦いでも子爵が現れないことを
祈るばかりだ。
そんなことを考えていた夕食後のこと。
ソーウェンとデルフィオンの領境で哨戒をしていた部隊から、進
軍する敵を確認したと早馬が来た。
敵はデルフィオンに駐留していたルアイン軍とデルフィオン男爵
の軍だという。
そしてサレハルドの旗も確認できたらしい。
852
デルフィオン領境戦1
﹁サレハルドか⋮⋮﹂
そうつぶやいたレジーが座っているのは、馬車の隣の席だ。
デルフィオン男爵の軍が来たことを受けて、翌日には私達ファル
ジアの軍も出発していた。
私の乗った馬車には、他にもアランが座っている。後はいつも一
緒の師匠だ。彼らは通常の軍議の他に、打ち合わせるべきことがあ
るからと言って、馬車の中に集まっていたのだ。
﹁やっぱりサレハルドがどう動くかわからないな﹂
﹁それでも、敵の配置がキアラの記憶と一致するみたいだし、そこ
は楽かもしれないぞ﹂
レジーの懸念に対して、アランが私の記録冊子を開きながら応じ
ている。
ゲームの記憶と同じだったことは幸運だ。
行動を起こすタイミングが違うから、全く当てにならないかと思
っていたからだ。
﹁だとすると、森林地帯での戦いになるんだよね﹂
デルフィオンとカッシアとの領境近くには森林地帯がある。
木を避けながらの移動になるので、障害物を一つ二つ隔てても攻
撃できる弓兵が、とても厄介な敵になる戦場だ。
兵を進めたと思ったら、その間に弓兵が逃げて、重装歩兵が前面
にでてくるので叩くのに時間がかかるのだ。しかも叩いている間に
853
歩兵の後ろから弓兵が射てくるという、二重攻撃がくる。
ゲームでも味方のHPがカリガリと削られた戦場で、ちょっと苦
手だった。
しかもゲームなら回復薬を使えばいいけど、現実ではその分だけ
兵士さん達の命が削られるのだと思うと、余計に恐ろしい。
でも私がそれを知っているからこそ、レジーは味方の被害が少な
い策を考えていてくれているはずだ。
出発が慌ただしかったので、まだ正式な配置こそ指示はしていな
いけれど、私の意見を聞いた後で、敵の配置予想を参考に軍の編成
を考えると言っていたので、とても期待している。
多分私が考えて実行していた兵の配置より、レジーの方がより良
い方法をみつけられるだろう。
﹁サレハルドの軍はトリスフィードにいるはず。ソーウェンが近い
のにそうしないということは、私達に出てきて欲しいんだろうな﹂
﹁⋮⋮デルフィオンを前面に押し出して、威力偵察みたいなことす
るつもりで、か?﹂
﹁でなければサレハルドも来ないだろう。彼らも、次に戦うかもし
れない私達の様子を見たいんだよ。ちょうどいい噛ませ犬がいるの
だから、使わない手はない﹂
﹁デルフィオン男爵の軍と、ルアイン軍が混合で来るのは予想でき
たことだからな。あそこは領地は小さいが、ちょうどトリスフィー
ドとソーウェン、カッシアと接する土地だ。そこを押さえたんだか
ら、有効利用したいだろう﹂
デルフィオン男爵の軍は、私達の軍の力量を図るため、前面に出
されるのだ。ゲームでもデルフィオン男爵軍の兵を倒すと、ルアイ
ン兵は逃げてしまうのだ。あからさまに利用されてる状況だ。
854
そう考えると、デルフィオンは結構酷い扱いを受けているように
思える。
ゲーム同様に言いなりになってしまっているのは、やはり男爵の
娘が囚われているのだと考えていいだろう。
けれどデルフィオン男爵は、娘のために、自領地の民や兵を消費
しているのだ。そのせいで彼は、民達に延々と恨まれ続けることに
なるのだ。
⋮⋮親としてはこの上なく子供を愛していて、優しい父親なのだ
ろう。個人的には、そんな父を持ったデルフィオン男爵の娘が羨ま
しくなる。
けれど彼は領主なのだ。
貴族は世襲だし身分差があるから、税を取り立てる相手としてし
か民のことを認識していない人の方が多い。
その民の方は、領主が自分達の生活を守ることができない、むし
ろ利益を無視して破たんさせようとしている場合、反旗を翻すこと
もある。なまじ戦争の多い時代なので、領主や王に求められるのは、
自分達が住む場所を戦火から守る力や才覚なのだ。
だからレジーも、ルアインを撃退できなければ、民によって国を
追われることになるだろう。
ゲームでアランが王位についた理由もそこにある。
強さが大事なのだ。
デルフィオン男爵も、圧倒的な勢いで不意をうたれただけならば、
まだ同情の余地もあっただろう。ルアインに与しても、市井の人々
の生活が守られたなら、そう不満は出なかったと思う。
でもデルフィオン男爵は自分の感情を優先させて、いたずらに領
民を消費しようとしていた。私の記憶の中にある男爵と同じように。
855
﹁とにかく、ここで兵を削られるわけにも、態勢を建て直し始めた
カッシアを攻撃されるわけにもいかない﹂
レジーはそう言って、私に視線を向けてきた。
﹁そこでキアラに聞きたかったんだけど、君って木をなぎ倒すこと
ってできる?﹂
﹁なぎ倒す? できなくもないけど﹂
﹁どれくらいの範囲で? 方法は問わない。ただ無理をしない状態
で、だけど﹂
ゴーレム
方法を問わないといわれて、私は考える。
木をなぎ倒すというと、また土人形を使って踏み倒すことになる
だろうか。でもべきべきやってたら効率が悪そうな気がする。
木を掘り起こすというと、ショベルカーだろうか。それもちまち
まやることになるので、時間がかかりそうだ。
おそらくレジーは作戦に使いたいのだろうから、あまり長くかか
る方法は遠慮したいことだろう。
掘り起こせば木は綺麗に避けられる。とすると、地面が隆起すれ
ばいい? でもどれくらいの範囲でできるだろうか。
ソーウェンで、地面を砂にした時は結構な広範囲だった。幅だけ
で100メルぐらいあったと思う。
あれと同じことをしようとすると、血を用いないと辛い。けれど
血を使ってでも実行しようとするのは、師匠には止められそうだ。
通常の術の使い方で疲弊するようなものは、多少操りやすくした
ところで、かなり体に負担がかかるのだといわれている。
しかも戦場でそんな術を展開したら、うっかり不意打ちされた時
に魔術で対抗しようとして、力を使いすぎてしまって七転八倒する
はめに陥るだろう。
856
とすると、あの時使っていた土人形を出さないと考えた上でなら、
同じくらいの範囲はなんとかなるのか?
﹁そこそこの幅の道を作れって言うなら、200メルとか行けると
思う。もっと広範囲ってなると、休みながら何回か繰り返すか、土
人形に走り回らせた方が早いかも﹂
私の回答を聞いたレジーは、少し何かを考えるように目を閉じて
からうなずいた。
﹁うん、ありがとう。現地で何か頼むかもしれない﹂
作戦に使えるかどうか検討してくれたのだろう。勝つために。
私はそれがうれしかった。頬が緩むのを抑えるのが大変なほど。
魔術を使って戦いを最短にすることができれば、レジー達が危険
な目に遭うことが少なくなるのだから。
857
デルフィオン領境戦2
私達は三日かけてデルフィオンとの領境に到着した。
目の前にあるのは領地の境目となっている森だ。
ゆるやかな丘を内包する以外は、平らな大地に木が鬱蒼と茂って
いる。
この森の中に、敵が既に兵を展開しているのだ。
本来ならば、森の中へ踏みこんでの戦闘となるのだろうが、軍議
の結果、森の近くに陣を敷くことになった。
森の中で戦うのは、軍も動かしにくいし、伝達だけでも苦労する
だろう。
ゲームの時は、今回の戦場は森なんだなと思って意識しなかった
けれど、実際に戦うとなれば、地形はとても重要だ。
ただ敵だって、有利な状況を手放したくはないだろう。一週間や
二週間放置しただけでは、森から出てこないとレジーは読んでいる
らしい。
レジーはそのための計画を立て、森が見える場所に陣を敷いた。
そのまま、敵の方が攻撃してくるのを待つという。
森からほど近い場所に陣を置いたのもそのため。敵が﹁あとちょ
っと移動してくれればいいのに!﹂と焦れてくるのを待ちたいらし
い。
このやり方なら、敵は森の中に誘い込みに来るという予想がつく。
そこで交代制で、襲撃部隊に対応することになっていた。
前面に立つのは、オペラおじさんアズール侯爵と、杖仙人エニス
858
テル伯爵の組だ。
﹁先生はヤギ、気を付けて下さいよ。何でも食べちゃうんで、すぐ
立ち止まるんですからそいつ﹂
﹁そなたのところから贈ってきたヤギであろう。野生の中で生きて
おった代物が、たまさか儂を乗せておるだけ。時に立ち止まっても、
それは自然に呼ばれておるのだ。自由にさせてやることも必要﹂
いや、自由にさせちゃだめじゃないですかね?
ツッコミを入れたくなったが、我慢する。会って間もなかったり
して、このお二人とは親しく話したことがないのだ。
心の中では、﹃杖を使ってても、剣を教えてたって設定はそのま
まなんだ!﹄とか。前世のゲーム知識と比べて感動していた。
このお爺さん、けっこう強いんだよね。ヤギだからか、崖とか足
場の悪い場所でも移動距離があまり変わらないという、素敵な特典
もあった。惜しむらくは、高齢ゆえのHPの低さだろう。
⋮⋮戦場に出ても本当に大丈夫かな。不安になってきた。
﹁先生それじゃダメでしょ!﹂
剣の弟子だというオペラなアズール侯爵が、ツッコミを入れてく
れている。きっと彼がエニステル伯爵のことは目を配ってくれるだ
ろう。
さて、敵のことだ。
彼らはファルジアの軍を森に引きこみたい。そしてゲームのよう
な消耗戦を強いたいはずなのだ。
だからお誘いをしてくるだろうけれど、夜襲はかけてこないだろ
うと思われている。暗い森の中を夜に移動するとなれば、少数での
行動でなければ不可能だ。敵だって配置した場所から大軍を動かす
859
など、森の中ではやりたくてもやりにくいことに違いない。
かといって、少数で仕掛けても、敵の軍を引き寄せる効果は薄い。
一気に敵を多数打倒せるかもしれない、ここでこの人数を仕留め
ておけば、この後の戦いも有利だと思わせないと、わざわざ森に逃
げ込む数十人を追いかけたりはしないからだ。
よって敵の攻撃は、日が出ている間になると軍議で主だった人の
意見が一致していた。
⋮⋮詳しくはない私は、それをじっと聞いていただけだけど。
私の方も役目があるので、カインさんと共にアズール&エニステ
ル軍の横の方で待機していた。
私という魔術師は一人しかいないので、必ずしも毎回攻撃に参加
する必要はない。けれどできれば、早めにこの予定を消化したかっ
た。
戦の期間短縮のためにも。
﹁ええと、レジーから指示された最初のルートがここ⋮⋮﹂
紙に書かれた簡単な図を見て、私は一回目の行動予定を確認する。
その後はひたすら待ち続ける作業だ。
一日目は何も起こらなかった。
ひたすら師匠ともっと大きな技を使えるようになるためにはどう
するか、という相談をしたあげく、師匠の研究結果を延々語られた。
﹁この体はしゃべるのに都合がいいのぅ。喉も乾かん。口も疲れん
! 最高じゃ、ヒッヒヒヒ﹂
事実、聞き手として時々うなずきを返す私の方が、ぐったりとし
てしまったほどだ。
860
二日目、デルフィオン側による一度目の襲撃が来た。
朝ごはん前だったせいで、お腹を空かせたアズール侯爵がなんだ
か辛そうだった。
けれどさすが戦場へ軍を率いて来ただけあり、その大声で号令を
かけ、ついでに伝令いらずなことに、後方のレジーやアランの軍に
まで襲撃を知らせていた。
アズール侯爵の軍はたたき起こされたかのようにしゃっきりと行
動し、敵に向かって行った。
敵側は、予想通りデルフィオン男爵の軍を前面に押し出してきた。
デルフィオンの兵は、青を緊急で黒く染めたようなマントを羽織
り、旗色を変えたことを表している。
こちらを森へ引きずり込む役目の彼らは、重責を負っているけれ
ど、失敗すると消耗するだけの役だ。
だから嫌々ながら従軍してきたと思ったのに、デルフィオンの兵
の勢いが良い。
しかもルアイン兵が相手ではないせいで、ファルジア側の兵が戦
いあぐねることも危惧されていたけれど、アズール侯爵の軍は大声
で圧倒しつつ、意気揚々と押し返していた。
ゴーレム
その間に、私はいつもより二回りは大きな土人形を出す。
思った以上に、周辺の土を大量に巻き込んだようで、背中や腕に
木が生えている状態になってしまったけれど問題はない。矢避けに
なるだろう。
ゴーレム
接地する足のサイズも大きくした。
森の木を越さんばかりの大きな土人形の肩にカインさんと一緒に
乗り、進ませる。
私が進むルートは、アズール侯爵達から離れた場所だ。
861
上下運動でぽんと放り出されないぎりぎりの速度で、森を北へ向
かって迂回する。
そうして戦場から離れたところで、一気に西へ。
﹁敵が回り込んでくる!﹂
﹁土の巨人だ、魔術師が来た!﹂
ゴーレム
慌てる敵兵が、土人形の足下を右往左往した。
みんな、元はファルジアの人達。でも剣を振り上げられた以上は、
助けたいと思ったって、そんなことできない。
逃げ遅れた人もいるだろうけれど、私は前だけを見て、魔術が途
切れないようにすることに専念する。
しばらく進ませたところで、今度は森を南下する。
ゴーレム
ファルジアの軍から見ると、森を横断しているような形だ。
森は、土人形を進ませた分だけ、後ろに気をなぎ倒しただけの道
ができていく。
馬車二台くらいは通れる広さだろうか。
ゴーレム
普通に歩かせると、足跡を残すようにしか木をなぎ倒せないので、
土人形は小幅でちょこちょこと進むことになる。
そのせいで、距離が長く感じた。
矢を射る敵も、だんだんとこちらの高さを狙うことに慣れてきた
のだろう。
ゴー
もしかすると、森の中で弓兵を使って有利に戦うため、デルフィ
レム
オンの兵の中でも、弓の名手がそろっていたのかもしれない。土人
形の高さも上げたというのに、予想以上に矢が届くまで短い間しか
稼げなかった。
時々木の柵にぶつかって跳ね返され、カインさんの剣に払われる
862
ことが多くなってきた。
﹁キアラさん、急げませんか?﹂
カインさんも危機感に駆られたのだろう。
﹁予定通りの道を作るには、これ以上急ぐのはムリです。⋮⋮って、
わっ!﹂
頭の横を矢が飛んで行った。
この高さに届く頃には、矢だって勢いを失っているのが大半だと
いうのに、私に刺さりそうになった矢は、さらに斜めに高く飛んで
から、地上に落ちていった。
こ⋮⋮こわい。
でもレジーに任された仕事だ。まずこれをやり遂げないと、計画
が上手くいかないことも分かっている。それに二度と、私に何も任
せてくれなくなりそうで、そっちの方がもっと嫌だ。
行程の四分の三を越えた。
あともう少し。そう思った時だった。
続けざまに矢が飛んできた。先ほど射られそうになった矢みたい
に、勢いがあるものだ。
ゴーレム
二つはカインさんが払った。
一つは土人形に当たって弾かれる。
ゴーレム
四本目の矢が、腕を切り裂いていった。
﹁いっ⋮⋮!﹂
悲鳴をあげてしまう。けれど、土人形を進ませるのは止めない。
﹁キアラさん、怪我の程度は?﹂
﹁刺さってはいません。それより傷、塞げますか?﹂
863
﹁揺れが収まるまでは厳しいですね﹂
ゴーレム
カインさんの方も、他の矢を払うのと、土人形に捕まるので手い
っぱいだ。
﹁それなら、戻ってから﹂
私は血が流れているのを見つつ、それほど出血量は多くないなと
ほっとする。
⋮⋮血まみれになってしまったら、誤魔化せなくなるから。
ゴーレム
そして土人形も縦断するべき場所へ到達した。すぐに自陣へ帰る
方向へと向き直らせ、また道を作っていく。
ずきずきと痛む腕。でも気になるのは、やっぱり気付かれそうな
怪我なのか、そうではないか、だ。
アズール侯爵の軍が見えてくる。無事に敵兵は追い返したようだ。
味方に近づいたことで、飛来する矢も少なくなり、やがて絶える。
﹁キアラさん、傷を診ましょう。痛みは?﹂
﹁それほど酷くはない、と思います。⋮⋮目立ちそうですか?﹂
﹁一部服が引き裂かれていますけれど、そう大きなものではありま
せん。傷の方が深いかもしれませんね。血が腕を伝って落ちてしま
ってる。でも痛みの程度から考えて毒などは塗られていないでしょ
う﹂
カインさんは剣を鞘に収めると、袖を捲り上げて手早く手当をし、
血を拭ってくれる。
﹁マントで隠れますか?﹂
﹁大丈夫でしょう﹂
ゴーレム
カインさんの判定にうなずき、元の場所へ戻った私は、地上に降
りて土人形を元の土に戻す。
その後、私は速やかに自分のテントに戻った。
864
誰の目にも見えない場所に来て、ようやくほっとする。
﹁痛った⋮⋮﹂
これで安心して痛がることができると思うと、つい何度も痛いと
言ってしまう。なんでか痛いと言うと、痛みがマシになる気がする
のだ。
﹁それほど病むのか?﹂
腰に下げていた師匠に尋ねられ、苦笑いしながら師匠をテントの
奥にある毛布の中に突っ込む。
﹁たぶん、これなら軽傷だと思います。けど確認したいので、師匠
はそこで大人しくしててくださいね﹂
たとえ人外な存在になったとはいえ、師匠の前で服を脱ぐなど言
語道断だ。
そうして私は、上着を脱いで裂けた部分を確認した。カインさん
の言う通りだ。それほど服の損傷は大きくない。血が固まっちゃっ
てるけれど。
マントの損傷はなしだ。これならさっと繕えば、何事もなかった
ように怪我が隠せるだろう。
さて今のうちに着替えて、さっさと服の血を洗ってしまわなけれ
ば。
そう思った時、テントに声をかけてくる人がいた。
﹁キアラさん、入っても大丈夫ですか?﹂
カインさんだ。
でも入っちゃ良くない。
だって私、怪我と服の様子を見るために、上着を脱いじゃってる
865
から、スカートとシュミーズだけなんだけど!
﹁あの、ちょっと待って下さい。傷を見るためにちょっと上着を脱
いでて⋮⋮﹂
﹁それならむしろ都合がいいです﹂
は? 都合がいい?
どうしてと尋ねる間もなく、カインさんが堂々と入ってきた。思
わず手に持っていた服を抱きしめて、体の前面を隠してしまう。
けれど肩とか腕は、カインさんの目に映っているはずだ。
シュミーズなんて下着なのだ。そんな姿を見られて視線を右往左
往させる私とは違い、カインさんは落ち着き払って、持ってきた袋
の中から、包帯や薬の瓶を取りだす。
﹁さっきは布を巻いただけでしたからね。綺麗に治療しなおしまし
ょう。傷が早く治るのに越したことはありません﹂
私の傍に膝をつき、さっさと巻いていた布をほどくと、カインさ
んは腕に残っていた血の跡を拭って薬を塗り、手際よく包帯を巻い
てしまう。
こうされると、服を着ているより巻きなおすのには都合がいいの
はわかる。
けど恥ずかしいのは仕方ないわけで。私は下を向いてしまう。
するとカインさんが笑う。
﹁⋮⋮慣れていただきたいですね。協力者が私だけということは、
大怪我を負っても、隠したいのなら治療をするのは私だけなんです
よ?﹂
カインさんの言う通りである。
腕くらいならまだしも、肩とかに矢が刺さって、自分でどうにか
866
できるとは思えない。
﹁また何かあったら、宜しくお願いします﹂
納得して頼んだ私に、カインさんは目をすがめる。
そこからは、あっと言う間のことだった。
私に身を近づけたカインさんと、むき出しの肩に触れる吐息と、
羽で触れるような感覚。
立ち上がったカインさんが、うっすらと笑みを浮かべて﹁また後
で来ます﹂と言って出ていく。
﹁おい、キアラ?﹂
私の方は、自力で毛布の中から這い出してきた師匠に声をかけら
れるまで、呆然としてしまったのだった。
867
デルフィオン領境戦3
その日、私は悩んだ。
いくら何でも私だって、これはまずいと思ったのだ。
今まで感謝を表すためとか、誓いのためという説明をされたから、
頬の口づけについては納得することにしていた。
危うい発言も、私が頼りないから心配しているのだと考えた。
⋮⋮考えることにしていたのだ。
しかし今回のは宜しくない。からかいの範疇を越えてる気がする。
だからといって、カインさんが本気だとは限らない。
もし疑問をぶつけてみても、本当に﹃そう﹄だと答えられても、
私はどうしていいか⋮⋮。
頭をかきむしりたくなる。その後でむしょうに泣きたくなった。
お付き合いとか、そういうのを思い浮かべてはみたものの、私は
カインさんに頼り切りになる自分の姿しか想像できなかったのだ。
頼らせてくれると思った瞬間、今まで我慢している苦しさとか、
そういうものを全部吐き出してしまって、もう耐えきれなくなるか
もしれないのが怖い。
そんなことになったら戦えない。
守りたくてここまでついてきて意地を通してきたのに、全部無駄
になる。
ルアインを倒してほしいカインさんだって、私に失望するだろう。
それだけしか目に見える長所がないのに、それを捨てた私に価値を
見出してくれないかもしれない。
868
だから気にしないふりをするしかない。
戦い続けるために、カインさんの協力は絶対必要だ。
気まずくなりたくないなら、カインさんが﹃大したことではない﹄
ようにふるまったのに乗って、こちらもさほど気にしていないふり
をするしかないだろう。
そこまで決めたはいいけれど、ため息をつきたくなる。
前世でもいいから、恋愛経験があれば良かったのに。そうしたら、
もう少し余裕を持って﹃気にしないふり﹄ができると思うのだ。
顔を合わせるのも恥ずかしいやら困惑するやらで、避けたくなる。
でもそんなことをしたら、無かったことにもできないので、自分
に忘れろ忘れろと暗示をかけてみた。
一応、そんな感じで心理的な平静を取り戻した私だったが、もし
かしたら妙案があるかもしれないと、師匠を振り返った。
酸いも甘いも噛み分けて食べ尽くしたはずの師匠に、私がショッ
クを受けている理由を話してみたのだ。
師匠はしばらく黙り込んだ。顔は遮光器土偶ゆえに、表情が変わ
りようもないので推しはかれない。
やがて短い感想を漏らしたのだが。
﹁ケッ⋮⋮これだからモテる男は﹂と毒づきなさった。
色々察した私は、師匠にそれ以上尋ねることはしなかった。
そんな翌日、夕刻にルアインの兵が攻めてきた。
昼日中に移動し、潜んでいたのだろう。ルアイン側は、このまま
薄暗くなる頃に、森の中に引きこみたいのかもしれない。
869
今度はエニステル伯爵の軍が対応した。
ヤギに乗った老人の指揮する軍に、ルアイン側は森からあまり出
ずに矢を射かけてくる。
おかげで突撃系の仙人様も、やや攻めあぐねているようだ。
こちらも矢を射て対応し、様子を見始める。
ゴーレム
そんな中、私はちゃきちゃきと土人形に乗り、またしてもレジー
の指示した通りに木をなぎ倒していった。
今回は、森の区切った部分を、さらに小さな区画に分割していく
のだ。
ゴーレム
土人形に踏み潰されないように逃げていく兵士達が、残された緑
地へと移動する。
私の任務の進行具合を確認したのだろう、区画整理を終える前に、
レジーがエニステル伯爵の後ろに軍を移動させ、見晴らしの良い倒
木の上を移動するルアイン兵を、長弓で射抜かせていた。
しかし、双方ともに矢はいつか尽きる。
そうなると、剣を抜いて戦うしかない。だというのに、ルアイン
兵は勢いよく向かって来られないようだ。
エニステル伯爵の軍は、そこを急襲する。
一区画ごとに隊を分けてはいるが、薄暗い夕刻の森の中を埋め尽
くすように、かなりの人数を投入するのでかなり有利に敵を押して
いった。
手薄な場所には、レジーの指揮する兵も投入される。
敵は倒木のせいで、すぐに逃げられない。味方を助けに行こうに
も時間がかかる上、自分達が潜む場所にまでファルジアの兵が押し
寄せてくる。
そうして各個撃破されていくのだ。
870
レジーはこの状況を作ろうとしていたのだ。
まず敵が潜む場所を限定すること。
隠れて近付いた上でこちらを攻撃したいなら、敵はその道を渡っ
た前面にやって来なければならない。
しかも一定以上の兵が障害物の木がある場所に潜んでいる所に、
兵を投入するのはかなり消耗を覚悟しなければならない。
そのために、各個撃破できるように、横断道以外にも道を作り、
ひそめる場所をさらに細分化したのだ。
敵兵は後退したいのだろう。
私が最初に作った森の横断道を渡り、森の奥へと戻っていこうと
している人影が、ちらほらと増えだした。
けれどルアイン軍としては、逃げ帰って来られては困るようだ。
横断道の向こうでラッパが吹き鳴らされ、戻る兵を押し返すよう
に、まとまった数のルアイン兵が横断道を越えようとしている。
そこで私は、カインさんに下に降りてもらうように指示した。
﹁もう森の方には行きませんから﹂
﹁⋮⋮本当ですか?﹂
訝しむカインさんに何度もうなずき、なんとか了承を得る。
一人になると少しほっとした。⋮⋮カインさんも、結局今日は普
通に接してくれたけれど、やっぱり﹃普通﹄を装うのは疲れた。
離れた今になって、心臓がどきどきしてくる。
ゴーレム
土人形の頭に縋るようにして立ち、収まるまでしばし待つ。
高い場所だから、そこからは森の向こうへ沈んで行こうとしてい
る、熟れた色をした太陽が見える。
陽が落ち切ってしまう前に、次の仕上げを済ませるべきだ。
871
敵の目に、危険なのだと焼きつけなければならないから。
﹁で、お前さん一人で、こんな遠くからどうするんじゃ?﹂
師匠に尋ねられて私は答えた。
﹁こうするんです﹂
ゴーレム
私は土人形の右腕を石に変える。それからぶんぶんと振り回させ
た。
ゴーレム
そして勢いをつけたところで、その右腕を分離する。
飛んでいく土人形の右腕。
それは横断道を越えた場所に、ボールのように投げ込まれた。
どすんという音。
舞い上がる砂塵。
軽い地響きが私のところまで届き、そこに悲鳴が混じっていた。
ルアインのものと思われる、合図のラッパの音があちこちで吹き
鳴らされる。
予想していた場所よりもちょっとずれていたけれど、ルアインの
後方の軍が被害を受けたに違いない。
コントロールが悪いのは致し方ない。運動音痴な私の操作で、お
およその範囲に着弾したのだから褒められてもいいくらいだ。
ゴーレム
﹁どうです師匠。土人形型固定砲台です﹂
﹁また奇矯なことを思いついたものだな⋮⋮﹂
ホレス師匠が、呆れたように応じた。
ゴーレム
当初、レジーからは区切った場所までをレジー達が占拠したら、
それを追う形で土人形が森に踏みこみ、倒木を投げ込んでほしい、
と依頼されていた。
872
ゴーレム
けれど、どうせならもう少しインパクトが強い方がいい。
私としても矢を射られそうな地点で、土人形が木を拾うためにし
ゃがむなどという姿勢はとらせたくなかった。
そこで考えたのが、離れた場所から投石器のように、岩かなんか
をルアインの本隊を誘導した場所へ投げ込むことだった。
ゴーレム
私は土人形の左腕も、同じようにして投げつける。
更なる悲鳴とともに、ルアイン兵が森の奥へと引いて行くようだ。
その森の奥、少し木がまばらな地点には、いくつかの旗が見える。
中には、緑に、王冠を戴く鷲があった。
サレハルドの旗だ。
けれどその旗が動くことはないようだ。むしろルアインに先んじ
て、退却して行くように見える。
とりあえず現時点でサレハルドとまで戦わなくて済んだのだ。良
かったと思いつつ、じくじくと痛む足に、キアラは顔をしかめた。
先ほど森の中に踏み込んだ時、今度は足を矢が掠めて行ったのだ。
刺さらなかったのは良かったが、やはり痛い。
でも今度こそはカインさんに気取られないようにしなければと、
私は思った。
◇◇◇
﹁なんですか、あの無様な状況は! 森に誘い込むことすらできな
いとは!﹂
あまり気迫のない怒鳴り声を上げているのは、がちがちに甲冑を
着こんだ、巻き毛の青年だ。その後ろにはルアインの旗を持った従
者や、彼を守る騎士が数人控えている。
873
彼はデルフィオンに駐留している、ルアインの伯爵アーリングだ。
一方、アーリングの前に跪いているのは、中年を通り越そうとい
う年齢の黒髪の男性だ。
やや小太りな体を軍衣で包み、窮屈そうにしている彼こそ、デル
フィオン男爵ヘンリーである。
﹁申し訳ございません。けれどこちらも精いっぱいで⋮⋮﹂
﹁言い訳は聞きたくありませんね! 成果も出せない、この役立た
ず!﹂
アーリング伯爵の手に持つ鞭がうなる。
その度にデルフィオン男爵が、悲鳴を上げた。
なにせアーリング伯爵は憎々しげに鞭を振りおろすものの、上手
く肩や腕に当たらず、時にはデルフィオン男爵の頭にまで当たって
いるのだ。
アーリング伯爵が下手なために、あまり強く鞭打たれているわけ
ではないが、八つ当たりと言ってもいい状況に、後ろにいる騎士達
は見ないように視線をそらしている。
やがて痛みにうずくまるデルフィオン男爵の姿に溜飲を下げたの
か、アーリング伯爵がにやつきながら告げた。
﹁ふん、あまり協力的な態度を取れなければ、我が方の戦力になっ
てもらうため、娘達の命は捧げてもらうからな!﹂
﹁それだけは、それだけはっ!﹂
その言葉を聞いた瞬間、デルフィオン男爵が飛び起きた。
涙ながらにアーリング伯爵にとりすがり、どうにか気を変えてほ
しいと訴えた。
874
アーリング伯爵は鼻先で笑い、もう一度鞭を振りかぶったが、
﹁よぉ、ルアインの。俺たちの用は終わったみたいだからな、一度
引き上げさせてもらうわ。それに、お前らの元締めかなんかが到着
してるって言ってたろ? それなら俺たち、トリスフィードに帰ら
せてもらうな﹂
発言者は、筋肉のつき方も美しい鹿毛の馬に乗っていた。
鷲の紋章を刺繍した緑のマントを羽織る、赤味がかった髪の背の
高い男は、灰色の瞳を鋭く眇めて、アーリング伯爵を見下ろしてい
た。
﹁あっ、へっ、イサーク陛下! そんな、もうお発ちになるのです
か!?﹂
デルフィオン男爵に対するのとは、ころっと態度を変えたアーリ
ング伯爵は、へりくだって愛想笑いをしながらイサークの足元に駆
け寄った。
﹁そうおっしゃらずに、もう少しご協力を⋮⋮﹂
﹁俺たちが依頼されたのは、ソーウェン側からの襲撃を警戒するこ
とだ。どっちにしろ、あの方式でじわじわ削ってこられたら、森に
潜伏して誘い込んでも、袋叩きにするための兵が足りないだろうが。
計画は失敗したんだよ。なら今回の件は終わりだ。じゃあな﹂
すげなくされたアーリング伯爵は、慌てて馬を歩かせ始めたイサ
ークを追いかけてくる。
それを面倒そうに振りかえりながら、イサークはデルフィオン男
爵が彼の配下によって抱え起こされ、その場を離れるのを確認しつ
つ言った。
875
ゴーレム
﹁ああ、あっちは魔術師が監視塔みたいに、土人形に乗って高い場
所から森を俯瞰できるはずだ。森を出なきゃ、探し出されてあの足
で、木みたいに潰されるかもしれん。早く逃げることを勧めておい
てやる﹂
ゴーレム
いわれたアーリング伯爵も、土人形のことを言われれば、怯えた
ように撤退を指揮するために走って行く。
﹁胸糞わりぃ⋮⋮。ああいう奴は好かん﹂
つぶやきながら、イサークは少し離れた場所にある、自陣へと向
かう。
近くで待っていたミハイルと騎士達が、途中で彼に合流した。
﹁もう、変に相手を刺激しないでくださいよ。殿下は喧嘩っ早いん
だから。計画が全部水の泡になるので、止めるなら間合いを見てほ
どほどに﹂
﹁殿下じゃねぇ、陛下だろミハイル。⋮⋮俺だってそんなことは分
かってる。だから殴らなかっただろうが﹂
﹁手は出さなくても、脅してたじゃないですか﹂
何を言っても打ち返されるので、イサークは口をつぐむことにす
るどうあってもイサークはミハイルに口で勝てないのだから。
﹁しかし魔術師はすごいですね。
雰囲気を変えるためか、付き従っていた金の髪の騎士が話題を変
えた。
﹁いいよなぁ魔術師。やっぱ俺もあれ、欲しいわ﹂
店に売ってる飴が欲しい、という調子で口にしたイサークに、ミ
ハイルも変更された話題に乗ることにしたようだ。
876
﹁確かに、クロンファードでも凄まじいと思いましたが、戦術を考
えて使えば、もっと効果が高くなるのだと感じましたね﹂
どうのこうのと言って、ミハイルだって魔術師は喉から手が出る
ほど欲しいのだ。
ミハイルは企むことが得意だが、イサークと気が合うくらいには、
簡単に物事が片付くといいなと夢見ている節がある。
﹁ルアインからも、ついこないだ二人ぐらい魔術師が来たんじゃな
かったか? 一人はほら、トリスフィードにも来てたあの中年オヤ
ジだろ?﹂
﹁そのようですね。陛下の仰る中年オヤジと、もう一人はファルジ
アの王子の魔術師と、そう大差ない年頃の娘のようですが。味方し
ているんですし、サレハルド側にも有利に動いてくれるんじゃない
ですか?﹂
﹁んなわけねぇ。ルアインだって、できればこの戦に引っ張り込ん
だサレハルドにも、打撃を受けてもらいたいだろうよ。そのまま、
ファルジアの次はうちを侵略したいはずだ。なら、魔術師の手なん
か貸さずに、極力こっちの戦力が削れるまで高みの見物をされるだ
ろうさ﹂
まぁ、でも気になるな、とイサークはつぶやく。
﹁ああ、そのルアインの魔術師ですがね﹂
短い金の髪の騎士、ヴァシリーが言った。
﹁手の者から、デルフィオンに入って間もなく、娘の方が姿を消し
たと報告が来ていますよ﹂
877
デルフィオン領境を越えて
翌日、デルフィオンとの領境にある森に、敵兵がいないことを念
を入れて確認した。
うっかり見逃して、カッシアに侵入されては面倒なことになるの
で。
⋮⋮といっても、全てに目を光らせるのは不可能だろうけれど。
個人で国へ逃げ帰る場合とか、ひっそりファルジア人として生き
ていく人なんかは、上手く隠れられたら見つけるのは困難だ。
なので確認は一日だけで切り上げる。
その間にルアインやサレハルド、デルフィオンの軍が引き上げた
ことは確認した。
サレハルドはトリスフィードの方へ戻っていったようだ。この一
戦だけ、助力を請われたのだろう、とレジー達は判断したようだ。
そんなデルフィオンとルアインの軍は、そのままデルフィオン男
爵の居城の近くにある砦へ向かったらしい。
次の日、私達も森の横を伸びる街道を西進し、デルフィオン男爵
領に入った所で、行軍を止めた。
浅いけれども比較的大きな川がある場所だ。
なので、交代で警戒しながらにはなるものの、水場で洗い物をす
る者が多い。
鼻歌まじりで血で汚れた甲冑を洗う者や、土埃で汚れたルナール
に構って、幸せそうな顔で深みに蹴り飛ばされる者。普通に洗濯を
始める者も多い。
878
一番多いのは、水浴びをする人だ。
私も入浴するつもりで、やや離れた場所にジナさん達とやってき
た。
ギルシュさんやリーラが近くを見張ってくれているし、後でギル
シュさんと交代する予定だ。
⋮⋮ギルシュさんの心は乙女なのである。
特に自覚してからは、どうも男性に混じるのは恥ずかしくてだめ
なのだそうな。
かといって性別は男なので、彼︵彼女と言うべき?︶は、ジナさ
んなどの気心が知れた仲間がいない時には苦労したようだ。
﹁でもいくらギルシュがいるって言ったって、こんなおおぴらに水
浴びなんて普通できないもの! ほんとキアラちゃんには感謝!﹂
ジナさんが両手を広げてばんざいしている。
いくら岩を変化させて簡易シャワー室みたいに囲んでいるとはい
え、ジナさんたら服着てないのに開放的すぎですよう。
﹁でもさすがに水、冷たくなってきましたね﹂
真夏ほど暑くないので、冷たさが堪える。長く浸かるのはもう無
理だ。
﹁今度は傍で火を起こしておいてさ、焼いた石を溜めた水に放り込
もう﹂
ジナさんはこれからのお風呂計画に、目がぎらぎらしていた。
女の子だけあって、ジナさんも身綺麗にするのは大好きなようだ。
もちろんギルシュさんもね。
まだ暖かい日が多い上、陽が登っている時間なのでそれほど寒く
ないからと、二人とも髪まで洗ってさっぱりとする。
879
それでもやや寒かったのだが、服を着て出てみれば、気遣いの人
ギルシュさんが火を焚いてくれていた。
﹁風邪ひいちゃいけないからねん。ちゃんと温まりなさぁーい﹂
そう言ってギルシュさんが入浴タイムに入ったので、私とジナさ
んで火の番をする。
﹁はーあったかい。そういえばねぇ、キアラちゃん﹂
﹁なんです?﹂
﹁足、大丈夫? 矢傷でしょそれ﹂
左足のふくらはぎのあたりを指さされて、はっとする。
先日の戦闘で、矢が引っ掻いた場所だ。
緊張していたせいか痛みをひどく感じなかったので、カインさん
に気付かれるのは防げた。けれど自分のテントで確認してみたら、
流血してたし傷もちょっと深かった。
この世界の優秀な傷薬のおかげで、傷そのものはすぐ塞がったけ
ど、自分でも痕が残りそうだなぁと思っている。
﹁もう痛くはないんですよ﹂
﹁でも痕が残ったら⋮⋮。嫁入り前の女の子なのに﹂
ジナさんが心底残念そうに私の足を見ている。
﹁すぐに治療した?﹂
﹁えっと、自分でそこそこ早いうちにがんばったんですけども﹂
﹁自分で? まさか傷薬だけ?﹂
うなずけば、目を見開かれた。
﹁でも、他の人に怪我したって知られたくなくて。また戦場から騙
されて遠ざけられたらと思うと⋮⋮﹂
880
﹁それならカインさんにでも頼んで、わたしやギルシュを呼んでく
れたらいいのに﹂
そこをつつかれると困る。
﹁カインさんは⋮⋮ちょっと﹂
﹁何があったの?﹂
鋭いですジナさん⋮⋮。
そのままジナさんに、ここだけの話で吐いちゃいなさいよとつつ
かれて、どうせ男だらけの軍の中、女の子らしく﹃ここだけの話﹄
で広まるわけもないし、傭兵業やってたジナさんは口が堅いだろう
しと、私はしょぼしょぼと告白した。
問題の、先日の肩に口づけされたことを。
﹁なるほどね⋮⋮﹂
聞いたジナさんは⋮⋮真剣な表情になっていた。
﹁もう一つ聞きたいのだけど、気付いているのよね? ⋮⋮彼の好
意については﹂
﹁さすがに、気付かないのはムリです﹂
私は苦笑いした。
勘違いの範囲を越えられては、思惑があるにしろないにしろ、そ
ういう気がある、ということを感じないわけにもいかない。
﹁受け入れるのは難しくて、躱してるの?﹂
かわす、という単語に。確かに自分がしているのはそういうこと
だな、と思った。
真正面から向き合わず、なかったことにしているのだから。
881
﹁⋮⋮っていうか、今の状態からして推して知るべしって感じかな。
今は答えられないって思ってるのね?﹂
私はうなずく。
﹁今答えたら、たぶん依存して、自分の足で立てなくなりそうで﹂
右足を一歩踏み出すのにも、安心したいがためにカインさんを仰
ぎ見てしまうだろう。
﹁でもそれって恋愛感情じゃない、ですよね﹂
もし、の話。
前世の⋮⋮今の年齢から考えて、私が高校生だったとして。学校
に通って、受験のことだけに頭を悩ませている生活を送っていたと
したら。
素敵な人に思わせぶりなことをされたら、恋するかもしれないと
思って、受け入れてしまっただろう。
けれど今の私は、そうするわけにはいかない。
やることがある。だから優しさに浸って、足を止めるのはもって
の外。
﹁それにカインさんは本当に恋愛感情から、私にそんなことをした
んでしょうか﹂
これについても私は疑問に思っている。
カインさんが一番してほしいことは、私がルアインと戦ってルア
インを滅ぼすことだろう。
一緒に戦ってくれる。そして防御を引き受けてくれる時、カイン
さんの優しい気持ちを感じるし、想われていると勘違いしそうにな
ることもある。
でもカインさんの望みを聞いたら、切れ味のいい剣︵私︶をメン
882
テナンスする、っていう気分なのかも、という気持ちにはなってし
まった。
おかげで、カインさんの眼差しに飲みこまれずにいられるという
面もあるけれど。
もうここまで話したんだし、ジナさんは私が戦いたいということ
に対して、反対したことはない。
だからカインさんに、レジーから邪魔が入っても阻止してもらえ
るよう協力してもらう約束をしたことを話した。そしてカインさん
がルアインを恨んでいて、ルアイン兵を倒す私に、感謝しているら
しいことも。
﹁恋愛感情だって認めたくないって思ったことは、私も理解できる
わ。男って、深い恋情がなくたってキスとかできる生き物だもの﹂
その声にやや憤りが混じっているのは⋮⋮どこかでそういうご経
験が?
﹁騙そうとしてるんじゃないのかって思うわよねっ。うかつにその
気になって、挨拶みたいなもんだよとか言われた日には、ぶん殴っ
たって気が晴れないわ﹂
ジナさんは語りながら、自分でうんうんとうなずいている。
﹁でも恋愛感情の出どころって、どこが発端かわからない時がある
からなぁ﹂
けれどジナさんは、それでも恋愛感情が絡まないとは言えない、
という判断をしたようだ。
﹁ジナさんは、どうだったんですか?﹂
色々語るからには、ジナさんは恋愛経験者だ。しかも結婚は破談
になったようだけれど、婚約はしていたようだし。
883
私なんかよりもずっと色んなことを沢山知ってるはず。
だから教えて下さいとじーっと見つめたら、ジナさんは生乾きの
横髪をかきあげる。濡れた髪のジナさんは、ざっくばらんな調子だ
というのに、どこか艶めいていた。
﹁私は憧れが発端だったかなぁ。そんな人みたいになりたい、って
最初思って。だから好きだと思ったんだけど。どうも向こうは私に
憧れられるのは嫌だったみたいでね。拒否されたらまぁ、諦めるし
かないって感じで﹂
なんと、ジナさんは恋した人に思いを受け入れてもらえなかった
らしい。
聞いている私も胸が痛くなる。
﹁ま、とりあえずキアラちゃんは、戦いに専念したいのよね? で、
カインさんが大人な行動することに困ってると﹂
﹁そうです⋮⋮。そんなわけで、怪我しても黙ってるしかなくって﹂
毎日が落ち着かない。
そう言うと、ジナさん以外から答えがやってきた。
﹁なら、怪我する時はアタシのところにくるよう言われてるって、
カインさんに言っておくといいわん﹂
入浴を済ませて着替えたギルシュさんが、タオルを頭から被って
やってきた。
﹁聞いちゃってごめんねん﹂
謝られて、私はぶんぶんと頭を横に振る。
﹁いいえっ、だって聞こえるような場所で会話してて、いろいろ自
分で口滑らせたわけですから﹂
ギルシュさんが悪いわけではない。それにギルシュさんは乙女で
884
ある。これは女子会みたいなものだ。
﹁よかった。ならさっきの話に戻るけど、アタシもなるべくキアラ
ちゃんのところに、戦闘後に駆け付けるようにするわね? アタシ、
傷の縫合も経験あるし、細い糸とか特注してあるのん﹂
ギルシュさんは布以外も縫う技術をお持ちのようだ⋮⋮。
﹁それがいいわね。ギルシュからその話をされたら、カインさんも
さすがに察するしかないでしょ。キアラちゃんがそういうの苦手っ
てことや、それにまだついていけないってことがね。ギルシュがわ
かりやすく説明してくれると思うし﹂
ただギルシュさんからそういった話をされて、カインさんが傷つ
かないか気になる。
不安顔をしていたら、隣に座ったギルシュさんに頭を撫でられた。
﹁大丈夫よん、ギルシュ母さんにお任せなさい。ジナのこじれ恋愛
だって、アタシが面倒みたんだから﹂
﹁んもー、最後の余計よギルシュ!﹂
一言多かったらしく、ジナさんが顔を真っ赤にして恥ずかしがっ
ていた。
話をすると、すっきりしてしまった。
明るい気持ちで川辺からテントへ戻る時、兵士達に熱視線を向け
られているサーラを見かけた。
﹁サーラちゃん、これ、どうかな?﹂
顔を赤らめながら、若い兵士がパンの欠片を差し出す。
﹁サーラこっちの方がいいぞ!﹂
885
そっちはどうやら、スープに使って多少塩が抜けた干し肉のカケ
ラだ。
サーラ大人気だ。
ルナールはやっぱりやんちゃだからか、一緒に犬と遊びたい! という感じの兵士に人気だが、大人しく見えるサーラは、懐かせて
傍に寄り沿いたい、という兵士が集まってくるようだ。
リーラはわりとジナさんにくっついていることが多いのと、落ち
込んでいるとたまに優しくしてくれるということで、自ら近づかな
くても見守ってくれてているお母さんのように思っている人が多そ
うだ。
なんにせよ、命をかけて戦う中で、アニマルセラピーを堪能して
いる人が多いのは、いいことだと思う。
と、そこに川から上がってきたらしいルナールが、歩いてきた。
直前まで川に浸かったのか、びっしょりと濡れている。
ルナールは、サーラに餌を捧げる兵士達の後ろにとっとこ近づい
たかと思うと、ぶるぶるっと身震いする。
﹁ぎゃー!﹂
﹁そこで水を飛ばすなばかー!﹂
﹁可愛いけど憎らしいぃぃ!﹂
﹁今度はお前を餌付けする!﹂
叫びながら逃げて行った彼らを見て、ルナールがふんと鼻息を吐
く。
一連の出来事を遠目で見て、思わず私もジナさん達も笑ってしま
った。
そうしてギルシュさんがぽつりと言った。
886
﹁ま、彼がやってるのも、ルナールと変わりない行動だと思うのよ
ねん﹂
887
もう一度戻れたら 1
デルフィオンへ入ると、イベントが多くなる。
デルフィオン男爵領奪還。そのためにルアインの兵を追い払って
いくことが必要になるのだけど、その時に、デルフィオン男爵の弟
を救出せねばならない。
デルフィオン男爵の弟アーネストさんは、ルアインに従わない勢
力をまとめている人だ。彼の協力を得ることで、ゲームでは戦いが
有利になる。
具体的に言うと、土地勘のあるアーネストさんのおかげで、敵の
背後を突くことができる。
ゴーレム
戦闘時の攻撃力にも防御力にもプラス補正がつくのは、とてもう
れしかった。なにせこの辺りから、もし私が敵だったら土人形との
戦闘が待っていたのだから。
そこでふと思う。
ゴ
魔術師くずれと戦っていて、まだ土魔術を使う相手ってほとんど
ーレム
会ったことがない。もしそんな相手とぶつかった場合、やっぱり土
人形を使うのだろうか?
﹁ゲームの絵を見る限りは、私が作ってるのよりも小さめだったよ
ね? 体長3∼4メルぐらいだったら、ゲームみたいに倒せるのか
な﹂
ゴーレム
確かにゲームの土人形は、キャラクターの二倍の大きさぐらいだ
った。私がいつも作っている10メル以上のものより、なんとかで
きそうには思える。
888
ゴーレム
﹁お前の知ってる知識だと、あの土人形を倒せるのか?﹂
独り言を耳にしたアランが訪ねてくるので、私はうなずく。
﹁HPが100だから、短期決戦を目論むなら弓兵使って二撃ぐら
い入れてから、回避の高いアランと防御が高いカインさんやジェロ
ームさんで力押し。レベル15とかあればそのメンバーで囲んで3
ターンぐらいでなんとかなるかな﹂
﹁なんだそりゃ﹂
アランと、その隣にいたカインさんが変な顔をする。
うん、ゲームの数字で説明されてもわからないだろうなとは思っ
た。
ゴーレム
ゲームで土人形一体を、なるべく短い時間で倒す方法である。
他のゲームと違って、魔術師がほとんど出てこないゲームなもん
ゴーレム
だから、ゴーレムの防御力の高さがけっこう辛かったのを覚えてる。
ただ土人形一体にそれだけキャラを集中させてると、他がおろそ
かになるので大変だ。
そんなことを私は二人に説明した。
この場にはレジーもいる。
デルフィオンはルアインに侵略されたものの、男爵がルアイン軍
を受け入れたために、カッシアとは状況が異なる。
入念に斥候を送って、近隣の町や村の状況を確認する必要があり、
もう一日デルフィオン領境の川辺にいることになっていた。
その間にと、これからのことについてこのメンバーにて確認をし
ているのだ。
﹁お前の解説を現実に置き換えると、俺やジェローム将軍が指揮す
889
ゴーレム
る兵の他に、弓兵で囲んで攻撃を加え続ければ、各々三度ほどぶつ
かった所で小さい土人形なら倒せるだろうってことか﹂
﹁うんそんな感じ。でね、もしかして練習で戦ってみた方が、いい
のかなって﹂
練習資材提供、私で。
﹁確かに、キアラさんと同じ魔術を使う者が敵に居ないとも限りま
せん。その場合の対策を考えるのは有効かと思いますし、兵も慣れ
ておいた方がいいでしょう﹂
カインさんが、私の思いつきに同意してくれる。
⋮⋮とはいえ、まだカインさんと一緒にいると、緊張した。
もうギルシュさんは話をしたのかな。それともまだ聞いていない?
だとしたら、やっぱり自分から話した方がいいのだろうか、と思
う。カインさんは私が警戒しているのを察したのか、先日みたいな
ことはする素振りもないけれど⋮⋮。
私が悩んでいる間に、レジーが決定を下した。
﹁そうだね。味方としての魔術師に慣れても、エニステルやアズー
ルの兵は、まだ魔術師くずれとぶつかっていない。いきなり未知の
ゴー
物と対峙させるよりは、ある程度安全がわかっている物で慣れさせ
るといいかもね。やってみるといいよ﹂
そしてレジーの顔をちらっと見てしまう。
レム
アランと即席の訓練計画について話し始めたレジーは、使う土人
形は一回につき一体で十分だろうとか、三回繰り返せば、見学だけ
になる兵士も十分に戦い方の想像がつくようになるという相談をし
ていた。
ソーウェンから、彼は私に反対する意見を言わなくなった。
890
何も言わないから、と言ったのは、あの夜だけのことだと思った
のに。
私が止めれば止めるほどエスカレートする、とんでもない人間だ
からと、諦めてくれたのだろうか。
とにかく、言いたくても言わないだけだろうというのはわかる。
アランはソーウェンの戦いで、戦争を終わらせること優先! と
決めて、他には口を出さないと決めているようだ。
彼は、元から真正面から戦うのが性に合ってる人なので、むしろ
魔術師の保護に関してある一定以上は気にしないと決めてから、す
っきりしたように見える。
そんな風に、言えないことができたり、踏みこめる場所が決まっ
てしまった状況だけど、この場の空気は嫌じゃなかった。
四人だけで集まって、何かの目的について話していると、ほんの
少しだけ、教会学校を飛び出して旅をしていた時のような気持ちに
なる。
一人きりで生きていこうと思って、馬車に飛び乗ってしまった私
だったけど、思いがけず助けて庇ってもらえて、心の底からほっと
していた。
だから受け入れてくれたみんながとても大切で。
ずっとこんな時間が続いてくれないかと、前世の家族の夢を見て
いる時のようなことを考えてしまうのだ。
そんなことはムリだと思うのに。
ゴーレム
それから一時間後、早速訓練が始まった。
私が出した小柄な土人形でも、いざ剣を持って目の前に立つと、
とても戦いにくい相手のようだ。
最初だからと、攻撃側のアズール侯爵の騎士や兵士達の中にカイ
891
ンさんが混ざる。
﹁始めましょう、キアラさん﹂
ゴーレム
カインさんの掛け声に、私はとりあえず土人形を歩かせて彼らの
元へ向かわせた。
ゴーレム
どすんどすんと足音も高らかに進む土人形に、アズール侯爵の騎
士達は及び腰になっている。
怖いのかな、と思った私は、とりあえず緊張をといてもらいたい
と考えた。何をしようと考えた末に、ちょっと遊んでみた。
手をばたばたさせながら一回転させてみたり、スキップさせてみ
たり。
しかし兵士の皆さんは、緊張が解けるどころか理解不能と言いた
げな顔をしている。
失敗した?
﹁その珍妙な動きは止めてください。多分敵もやりません﹂
あげくカインさんにズバリと指摘されて、私は反省した。
﹁ごめんなさい﹂
謝ったその後は、カインさんの指導を受けて、敵らしく襲ってみ
たりした。
スローモーションで手を振りおろして、攻撃側の人々が慌てて避
けたりするのを数度繰り返した後、試しにとカインさんが攻撃を加
えてきた。
ゴーレム
⋮⋮これ、クリティカルじゃないのかな。
大上段から振りおろされた剣に、土人形の腕が一本分離されてし
まった。
え、ええええ? ゴーレム腕一本分って、HP何個分なんだろ。
892
ゴーレム
土人形って防御力結構あるし、それ越えての数字だから、攻撃力⋮
⋮なんかすごそうな。
確かにこれ、デモだし。倒されるために出してるから恐ろしくイ
ージーモードな敵だから、クリティカル出やすいとは思うけど。
ゴーレム
そんなカインさんの攻撃に力を得たのか、アズール侯爵家の皆さ
んも活気づき、一斉にたかるように攻撃を加えたので、私の土人形
はすぐにHP限界を超えた。
ゴーレム
ゴーレム
指令も出していないのに、土人形が崩壊した。
今までこういうことがなかったけど、土人形を倒すとこうなるん
だなーと私は思わず感慨深くその光景を見てしまった。
さて、何度も同じように一方的なやられやくになるわけにもいか
ない。
演習なので。
だから次のエニステル伯爵家の皆さんには、ゆっくりめだけどが
んばって攻撃してみた。
ゴーレム
先のアズール侯爵家の戦いを見ていただけあって、こちらの人々
は、それほど怖がらずに土人形を攻撃できていたようだけど。
﹁ひるむでない!﹂
もしかすると、背後で睨みを聞かせていたエニステル伯爵が怖か
ったせいなのかもしれない。
三回目は混成部隊だ。
こちらには一度体験したいと希望したグロウルさんや、再びフォ
ゴーレム
ロー役のカインさんが入って、他五名ほどの兵士や騎士さん達が戦
うことになる。
人数が多いので、私はやや大きめの土人形を用意した。
893
ゴーレム
それでも二度の慣れがあったからか、みんな怖気づいたりはしな
かった。
ちょっとゆっくりめではあるが、前二回よりもずっと土人形らし
く攻撃してみる。
時に兵士さんを持ちあげて悲鳴を上げさせてみたり。
足を強く踏みだして、驚かせてみたり。
大きく腕を薙ぎ払ってみたり。
上手くみんなが避けてくれる上、グロウルさんがなんだか楽しそ
うだった。
そんな様子に、私は気を良くして油断してしまったのだろう。
連続で右手で彼らをなぎ倒そうとしたせいで、ちょっと疲弊した
兵士さんを弾き飛ばしてしまった。
﹁あっ!﹂
怪我をさせたいわけじゃなかったのに。
慌ててゴーレムに受け止めさせようとしたが、それよりも先に、
落ちる兵士さんを庇ってくれた人がいた。
カインさんだ。
地面に投げ出されそうになった兵士を受け止めたカインさんは、
彼を庇って左腕を地面に擦ったようだ。
ゴーレム
私は喉の奥で悲鳴を上げる。そのとたん、土人形がもろりと崩れ
てしまった。
けれど大事なかったようで、兵士もすぐに立ち上がり、カインさ
んも平気そうに歩いていた。
もちろん戦闘演習はそこで終了だ。
894
見学者は、むしろ最後の事故を見て臨場感を得たらしく、やや満
足気だ。
けれど私は達成感などカケラもなかった。
﹁ごめんなさい、カインさん!﹂
駆け付けてすぐに頭を下げると、カインさんに笑われた。
﹁気にしなくてもいいですよ。手加減されていることを忘れて、こ
ちらも油断していましたから。それより腕なので、ちょっと自分で
は手当がしにくいので、手伝っていただけますか?﹂
被害者にお願いされて、私は勢いよくうなずいた。
私が手当をする側だし。それにカインさんが何かを話したそうな
表情をしていたから。
895
もう一度戻れたら 2
案の定、カインさんは腕だけだからと、人からちょっと離れた倒
木の上に座って治療を受けた。
話し声は届かなくても、人の目がある場所なので私もほっとして
カインさんの左の袖を捲り、手当をした。
くるくると包帯を巻いていると、それまで黙っていたカインさん
がようやく口を開く。
﹁ギルシュに言われましたよ﹂
思わず手が止まる。
﹁キアラさんの心は、まだ子供のまま止まってしまっているんだろ
うって。普通の人のように慣れさせようとしても、置いて行かれて
迷子になるから、待ってやりなさい、と﹂
﹁こ、子供⋮⋮ですか﹂
前世だったら花の女子高生で、恋愛話にきゃあきゃあ言っていた
年齢なのに。
小さな子供同然だとギルシュさんに思われていたらしいことに、
ちょっとショック。
でも納得できる。
私はきゃあきゃあと恋愛に浮かれるどころか、怖がって頼れる大
人の後ろに隠れてしまった。だから大人役のギルシュさんが、カイ
ンさんに話をつけるような状態になってしまったのだ。
それに甘えた時点で、私は子供であることを選んでしまった。
内心でうなずきながら、私は包帯の端を結んだ。
896
﹁子供と言われるのは嫌ですか?﹂
嫌ではないなと感じている。
私って子供だったんだ⋮⋮という事実に衝撃は受けたけれど、不
愉快なわけではなかった。それにカインさんにも、大人っぽいこと
に不慣れなのだと知られたことで、少し肩の力が抜けた気がする。
﹁いいえ。だって私は子供なんです。どうしたらいいかわからなく
て。でも真正面から自分でカインさんに、私が戸惑っていることを
話した方がいいのかなって言ったら、ギルシュさんには、私じゃカ
インさんに丸め込まれるだろうって言われました﹂
正直に話せば、カインさんがくっくっと笑う。
﹁ギルシュはあなたのことを良く分かっているようだ⋮⋮でも子供
だというのなら、これは大丈夫ですね﹂
そう言って、カインさんは擦り傷を作らなかった右手を持ち上げ、
ふわりと私の頭を撫でた。
子供にするように。
でも最初は、思わず肩に力が入った。けれど何度かその手の動き
が繰り返されて、少しずつ慣れてくると、私は小さく息を吐く。
大丈夫。もうカインさんは急な行動は起こさないと、一秒一秒私
の中に理解が浸みこんでくるようだった。
﹁しばらくこれで様子を見ておくことにしましょう。私も、逃げら
れたいわけではありませんからね。キアラさんは決めたらなりふり
構わず走り出す人ですから。困るから逃げると決めたと思ったら、
あっと言う間に、こちらが追いかけられない場所へ姿を隠してしま
いそうですからね。それは困るので﹂
897
そう言ってくすくすと笑う。
逃げ足の早い動物みたいなことを言われて、ちょっと私は拗ねた
気分になる。
それでも口を尖らせることすらできないのは、頭を撫でる手が心
地良くて、固まろうとする傍から心が溶かされるせいかもしれない。
﹁私も貴方に嫌われたり、貴方が混乱した末に戦えなくなるのは困
りますから。今のうちはまだ、兄代わりのような気持ちで傍に居ま
すよ﹂
兄代わり、という言葉に心臓が強く波打つ。
なんだろう。郷愁みたいな、そんな感覚だ。
﹁いつか貴方が、兄以上のものを求める気になれるまでの間は﹂
そう言って、少しだけ私の耳の上を指先で撫でる。
悲鳴を飲みこみながら、私は心に刻んだ。
今は我慢しているだけ。そう言いたいのだとカインさんが思って
いることを。
でも私にはまだ、受け入れるには困惑が大きすぎて。
心が追いつかないから、まだしばらくは兄のままでいてほしいと、
願ってしまった。
とにもかくにも、私はカインさんとのすれ違いを修正することが
できたと思う。
ギルシュさんやジナさんを探して御礼を言いたいが、その前にま
ゴーレム
だ私はやることがあった。
私が失敗して、土人形に薙ぎ払われた兵士さんに謝らなければ。
うろうろと探して尋ね回ったら、ほどなく問題の人の居場所はわ
898
かった。
なぜかレジーに呼ばれた兵士さんは、レジーと一緒に彼の天幕に
いるそうだ。
訪ねていくと、グロウルさんが待っていたとばかりに私を通して
くれた。
私の父親ぐらいの年齢の兵士さんは、ほぼ無傷だった。そして王
子の前に一人で座らされて、大変居心地悪そうにしていて、私の顔
をみたとたんにほっと頬をゆるめたほどだ。
うん⋮⋮突然一国の王子に呼びつけられて、二人きりで話をしよ
うなんてされたら、普通にびっくりするよ。
そんな状態だったから、兵士さんは一刻も早く天幕から出ていき
たいと目で訴えてきていた。
﹁あの、怪我は⋮⋮﹂
﹁何もありません、大丈夫であります!﹂
﹁それは良かった⋮⋮﹂
﹁ご用事はそれだけですよねっ!?﹂
この檻から出して∼と鳴く犬のような目を向けられて、私は折れ
た。
﹁はい、それだけです。今回は本当にすみませんでした。もう戻ら
れて大丈夫ですよ﹂
﹁気になさらないでください。それでは!﹂
兵士さんは元気よく話を切り上げて、いそいそと天幕を出て行く。
それを見ていたレジーが、くすくすと笑った。自分で連れてきて
困惑させていたのに、笑うだなんてひどい人だ。
それにしても、どうして兵士さんを自分の天幕に連れてきていた
のだろう。
899
﹁どうして?﹂
そう尋ねただけで、レジーには私の言いたいことがわかったよう
だ。
﹁君がきっと気にすると思ってね﹂
﹁会わせようとして待ってくれていたの?﹂
﹁元の集団に戻ってしまったら、探すのが大変だろう? それにた
だでさえ女性が少ない集団なのに、女の子がうろうろ歩くのは避け
させたいからね﹂
私の問いにうなずいたレジーは、兵士さんを引きとめていた理由
を話してくれた。手間と、私の身の安全のためと言われて、私は苦
笑いする。
﹁大丈夫だよ。ついこの間、魔術を使って沢山の人を踏み潰してみ
せたばかりなのに。そんな人間、わざわざ近づきたくないと思うよ
?﹂
一応、万が一のことはないように、と入浴とかの時には気を付け
ているけれど。今のところわざわざ近づこうだなんて人はいなかっ
た。
だから問題ないと言ったのに、レジーは目を眇めて私を見る。
﹁⋮⋮辛くはない?﹂
言われた瞬間、ずきりと胸が痛む。
たぶん、そんな風に恐れられて、気分のいい人間はいないとレジ
ーはわかっているから、そう聞いたのだろう。
本当は辛い。だけど弱味を見せるのは嫌だ。それに恐ろしいと思
われようと思ったのは自分だから。
900
﹁大丈夫﹂
だから微笑んでそう言ったのだけど、レジーはそれで納得してく
れなかった。
﹁本当かな? 嘘じゃないなら、私の目をまっすぐ見て﹂
立ち上がったレジーが私に近寄る。そうして、自分よりも背が低
い私の顔を覗き込むようにする。
私の方は、そんな彼に疑いを抱かせてたまるかと、正面から見返
す。
レジーの美しい青い瞳。
そこに少しからかうような光があったけれど、じっと見つめてい
るうちに、ふいにその光が消えて青の色に深みが増す。
﹁キアラ﹂
気付かないうちに伸ばされていた彼の指先が、私の横髪を掬いあ
げる。
指先で耳にかける瞬間、さらりと耳の後ろを撫でていく。首筋が
震えた。
どこか甘い感覚にたじろぐけれど、もう一度髪を撫でていく手に
その感覚は薄れていく。
﹁私は君を、縛りつけて止めることはしないから。ただ、このまま
いけば君がより傷つくだろう。だからせめて、苦しくなったらそう
言って﹂
レジーの優しさに、私は心臓をくすぐられたように感じた。
けれど約束はできない。きっとあの時みたいに、私は破ってしま
うから。
901
約束したら、今度こそレジーは私を安全な場所に閉じ込めようと
する。
やっぱり戦争に関わるべきじゃなかったんだって私を言いくるめ
て、何もかもから遠ざけられている間に、矢に射られてしまうなん
て嫌だ。
ゲームじゃないから前にセーブした所に戻るなんてできない。
そうであれば、主人公のアランだって無事でいられる保証もない
のだ。アランを守ると、私はベアトリス様達と約束してきたのに。
だから教えない。
既に協力者はいる。戦いたい私を喜んでくれている。
戦いたくないと言っても、カインさんは私の背中を押し続けるだ
ろうけれど、望むところだ。
傍にいることに不安を感じてしまったけれど、その問題も解決さ
れたのだ。
だから沢山の言葉を飲みこんで、私はレジーに微笑んだ。
﹁大丈夫。私はもう、そんなに苦しいって思わなくなってきたから﹂
それでも嘘をつけば、ほんの少し胸の奥が痛んだ。
902
男爵の弟を訪ねよう
さて、ゲームよりも早い段階でここまで来てしまったが、今度は
デルフィオン男爵の弟アーネストさんを仲間にしたいところだ。
ゲームでも、レジーが送った斥候の報告でも、やはりアーネスト
さんはそこそこの兵力を持っているようなのだ。
﹁そもそもアーネストさんて、戦争初期は分家として運営してる土
地に引きこもってたんだよね。そこに降伏した男爵に従うのは嫌な
好戦的な人達が集まってきた、って経緯のはずなんだけど﹂
﹁ここは君の記憶の通りみたいだね。アーネスト・フィナードの領
地には、半数の分家の兵が集まっているようだし。畑を荒らされて、
徴兵してくれと押しかけた者も多いようだから、予想よりも多くの
兵力を抱えてると考えていいんじゃないかな﹂
畑を荒らされた農民側は、恨み骨髄だろう。
鍬を持って襲い掛かろうにも多勢に無勢。そこで旗印になる人物
のところへ、集まったのだ。
私にそう話すのは、隣で馬を進ませるレジーだ。
私達は、デルフィオン領内を南へ移動していた。
全軍を挙げて移動しているわけではない。
本軍の方は、こちらの動きに気を向けないよう、森で戦ったルア
インとデルフィオンの兵を擁した砦の近くを、じわじわと西進して
いる。
そちらを指揮しているのはアラン達だ。
903
レジー率いる一隊と私は、デルフィオン男爵の弟アーネスト・フ
ィナードさんと会うべく、彼がいると斥候から報告が上がった南の
フィナード家の領地へ向かっていた。
ゲームでは主人公アランが行ったのだが、現在の軍の大将はレジ
ーだ。
やはり説得に行くのなら、レジーが最適だろうという話になった
のだ。
というか、先に私やアラン達、事情を知る者だけで打ち合わせを
行い、決定した上でジェロームさんやエニステル伯爵達に実行する
内容を知らせたのだ。
いくらなんでも、短期間でそんなことがわかるわけもないからだ。
デルフィオン男爵の弟が兵力けっこう持って避難してますよとか、
知っていたからこそピンポイントで斥候を派遣できたので、その理
由を他人には説明できない。
よって他の人々には﹃たまたま﹄斥候がそんな噂を途上で拾い、
彼の判断でアーネストさんのことを調べたことにした。彼にはその
あたり黙っていてもらうため、報奨金をはずんである。
﹁もっと前世の記憶を持ってる人が沢山いたら、いろいろ楽なのに﹂
ついぼやいてしまう。
﹁そうですね。でも、どうしてキアラさんだけが、そういった記憶
を持っているんでしょう﹂
カインさんもそのあたりは不思議に思っているようだ。私も不思
議です。
﹁そうだね。だけど君の前世の世界に、こちらのアランが戦った結
果の物語があるんだよね? それって、あちらの世界で前世を思い
904
出した人が、アランの話を伝えたってことじゃないかな。そう考え
ると、別世界の記憶を持っている人って、意外にいるのかもしれな
いね﹂
レジーの意見に、なるほどと思う。
ゲームと詳細まで同じなのだから、誰かがこちらで見聞きしたこ
とを覚えていて、あっちの世界で語るなり書くなりした、と考えた
方が自然なのは確かだ。
でもその誰かって確実に軍の人だよね? ある程度敵味方の事情
を知ってて、敵の布陣とかにも精通してて⋮⋮って、誰!?
それに、その人が前世の記憶として持って行ったのは、レジーが
居ない世界の記憶だ。
﹁タイムパラドックスとかどうなるんだろ⋮⋮﹂
私が勝手に動いている分なのかなんなのか、色んなことが変わっ
てしまっている。
そうしたら、あっちに転生する人の記憶も変わるはず。
てことは私の記憶だって、こっちの現状に準じたものになるはず
だけど⋮⋮今のところ変わりないわけだし。
﹁はっ、まさかこれは分岐した世界とかそういうやつとか? レジ
ーが生きてる世界と、生きていない世界の二つがあって、アラン主
役の世界に生きてた人が、たまたま前世を思い出したとか?﹂
想像はしてみるものの、考えても正解などわかるわけもない。
とにかく今までの記憶については、紙に書いて残してあるわけだ
し。それと自分の記憶に齟齬が起こったら、何かしら影響があった
んだろうと思うだけだ。
なので別なことを考えることにする。
905
﹁それにしても、ルアインはどうしてアーネストさんを、今まで放
置していたのかな﹂
ゲームでもそうだったけれど、普通に考えたら、そこそこ兵力を
持っている相手を無視することなんてできないはずだ。
疑問を口にしたら、レジーが仮定ではあるが答えてくれた。
﹁もしかすると、そのサレハルドを仲間に引き入れた弊害かもしれ
ないね﹂
﹁どうして?﹂
仲間に入れたことで、何の弊害が起きるというのだろうか。
﹁サレハルドはルアインの属国じゃないから。何か目的が一致した
から連合して侵略してきているけれど、ルアインのために動いてい
るわけじゃないからね。トリスフィードをもらっても、もう少し南
まで領地が欲しいと思うかもしれないし、それをルアインも警戒し
ているんだろう﹂
ルアインは西進して王都を落とすことを優先したけれど、そのた
めに残したルアイン貴族の兵力は、それほど多くはない。サレハル
ドが何かを目論んで動いたとしても、抑えるのがやっとの数なのだ
ろう。
だからサレハルドに後ろを見せられなかったのだ、というのがレ
ジー予想らしい。
﹁でも、この間の森では一緒にいたみたいだよ?﹂
﹁共通の敵がいる間はね。ファルジアに対しては、既に同調してこ
とに当たると決めてある分、行動しやすかったんだろう⋮⋮さて、
そろそろ見えてくるんじゃないかな﹂
906
私達は、既にデルフィオン領境から、二日離れた場所に来ていた。
連れているのはレジーの騎士達と騎兵ばかり50騎。プラス私と
カインさんだ。
最初、レジーだけで行くと言っていたのだが、さすがにそれでは
心もとない⋮⋮もとい、死亡フラグを回避したと安心したとたんに
射られた実績を持つレジーを、少数で送り出したくない私が、つい
ていくと言い張ったのだ。
アーネストさんに関わる情報を一番知っているし、何より少数し
か連れていけないのなら、私はいい戦力になる。
そんなわけで同行を主張し、協力すると言っているカインさんは
反対せず、さらにジェロームさん達にもぜひにと言われて、レジー
に同行してきたのだ。
ちなみにカインさんは、今のところ大人しい。
ギルシュさん達お目付け役がいなくても、彼は以前のようにきわ
どいことはしなくなった。
軍の方が魔術師くずれとぶつかった時のため、ルナール達が居た
方がいいだろうと思い置いてきたのだが、問題がなくて私は内心ほ
っとしていた。
それと同時に、カインさんが自ら言った通り、妹の面倒を見る兄
のように接してくれるので⋮⋮ちょっと楽しいなと思ってしまって
いる。
前世が一人っ子、今世は一人っ子同然だったので、いまいち兄妹
っていうのがどういう感じなのかわからないけれど。
疲れたかと気安く声をかけてくれたり、大丈夫と言ったら﹁いい
子だ﹂と背中を軽く叩かれるというのが、なんともいえず⋮⋮うれ
しい。
907
カインさんの方は、それだと女の子相手にはちょっと乱暴だと思
うのか﹁つい弟のつもりになってしまいますね﹂とこぼしていたが。
むしろ私はこれでいい。
こっちの方が、カインさんと近い感じがするのだ。
﹁まぁ、わしゃわかっとるがの⋮⋮ヒッヒッヒ﹂
とその様子を見た師匠が笑っていたけれど。なんだんだろうなぁ
もう。
そんなこんなでここまで来たのだが、アーネストさんがいるフィ
ナード家の土地というのは、わりと何の変哲もない場所に見えた。
町が見える丘に私達は経っているのだけど、町へ下る斜面から畑
のある川の傍までが、妙に草が禿げてる場所が転々と広がっている。
﹁何かいます、殿下﹂
レジーの騎士グロウルさんが進行を止め、私達は斜面をじっと見
つめる。
すると、ひょこっと草が生えてない場所の土が盛り上がり、引っ
込んだかと思うと、そのまま大きな穴が開く。
見れば、そんな場所がいくつも出来ていく。
と思ったら土が掻き出されるように盛り上がって、また穴が塞が
れた。
﹁土ねずみですね﹂
グロウルさんと一緒に、レジーの前に出た砂色の髪の騎士フェリ
ックスさんがそう断じた。
とたんに、一つの穴からひょこっと頭を出した動物がいた。
ふわふわの黄金の毛。つぶらな黒い瞳。小さな手。
大きさだけは人間ほどもあるけれど、間違いない。ハムスターそ
っくりだ。
908
﹁かっ、かわいい⋮⋮﹂
きゅるんと潤んだ黒い瞳に、思わずうっとりしてしまうと、レジ
ーがくすくすと笑い出した。
﹁キアラ、あの大きさでも可愛いんだ?﹂
﹁だってあの顔、もう可愛さで一杯でしょう!﹂
どんなに大きくたって、あのハムスターのごときあどけない顔立
ちが、全てを吹き飛ばしてくれる。そう力説する私に、横から声が
割り込んだ。
﹁なんでもいいが、あいつらがいるんじゃ、街道も穴が開いている
んじゃないのか? ウヒヒヒ。町まで行けるんかいの?﹂
﹁あ⋮⋮﹂
師匠に言われて見れば、確かに丘を下る街道も、思いきり穴が開
いてる。
でも心配はない。私がいるのだから。
﹁じゃ、街道だけ穴埋めさせてもらいましょう﹂
馬から降り、私は地面に手をつく。そうして街道の土を固く変え
て覆っていく。これで馬が通っても大丈夫なはずだ。
ただ、川まで全部を、一気に覆うことはできなかった。
﹁私、先の方を固めてきますから、ゆっくりついて来て下さい﹂
そう言って、私は先を歩いた。
﹁一応、念のために降りて行こう。敵影も見えないから問題ないだ
ろうし﹂
909
レジーの提案で、全員が馬から降りて歩き出す。
そのすぐ先を、私がてってこ小走りに進んだ。そうして固めた場
所が途切れるところで、もう一度膝をついて地面に右手を当てる。
無事、川に架かった橋までを、固めたその時だった。
不意に柔らかくて重たいものが、私にから抱きついてきた。
﹁キアラ!﹂
﹁殿下!?﹂
叫ぶ声が聞こえた時には、視界は土だけになり、真っ暗になる。
﹁え!?﹂
叫ぶ間も、私は柔らかな毛に覆われたまま、穴の底へと連れ去ら
れたのだった。
910
土ねずみの巣の中で
毛皮に包まれたマシュマロに、抱きしめられているような感覚だ
った。
不愉快じゃないのだけど、一体自分はどこに連れていかれようと
しているのか。
視界は暗くて何も見えないし、毛皮しか手に触れない。
手も足も土に触れないので、抵抗する方法が限られる。
こうなったらいよいよ指先を噛み切って血を使うかと思ったとこ
ろで、キアラは少し明るい場所に出た。
目がくらむほどの明るさではない。
細い隙間からうっすらと入り込む光が、灰白い石灰岩に反射して
いる。
その中央に、銅色の石の小山ができていた。
高さとしてはそれほど大きくはない。私が横に立ったら、腰のあ
たりぐらいの高さだ。
ごろごろとした石がすそ野を作るなだらかな小山に、私はひょい
と載せられた。
﹁いったたたた!﹂
いくらなんでも石ころの山の上に座るのはキツイ。痛い。
勘弁してほしいと思いながら降りたが、そうした当の土ねずみは、
この部屋に居さえすれば問題ないのだろうか。私を山の上に戻そう
とはしなかった。
911
﹁一体なんで⋮⋮?﹂
どうして自分がこんなところまで攫われてきたのだろう。
首を傾げていた私に答えたのは、一緒にさらわれてきた師匠だ。
﹁くくっ、たぶんあれだ、ほれ、こいつらは魔獣じゃろうが。ウヒ
ヒヒ。甘味の代わりに貯蔵されとるんじゃないのか?﹂
﹁甘味代わり? 貯蔵?﹂
魔獣がなんでそんなものを⋮⋮と思ったところでようやく気付く。
﹁え、土ねずみって、まさか私から魔力をもらいたくて、ここに連
れてきたってことですか?﹂
ルナール達氷狐が私に懐いたのは、魔力のおこぼれを欲しがって
のことだ。それと同じことが土ねずみに起こっているようだ。
﹁そんな可愛い表現でええのかいのぉ。うけけ。なまじお前さんの
力が同じ属性だけあって、あの狐どもより執着が酷いのではないか
いな? 逃げたってどこまで追って来そうだのぅ﹂
﹁え、それは困ります⋮⋮﹂
土ねずみのフカフカ感は実に素晴らしかった。けれど、常に囲ま
れた上、彼らを引き連れていては、戦うことなんてできやしない。
なんとか出なければ。
幸いなことに鉱石が転がっているので、それを使って地上への道
を作ろうと考えた。
そうして地面に手を触れて魔力を扱おうとしたとたん。
ぼふぼふぼふっ。
その白い空間へ続く三つの道から土ねずみたちが走って来て、ラ
グビーのタックルのごとく私の上に折り重なっていく。
一匹ならまだしも、十歳くらいの子供が六匹も七匹もとなれば、
912
重くてたまらない。
﹁うぐぅぅ、死ぬ、圧死する!﹂
﹁おい、とりあえず力を使うのをヤメロ!﹂
﹁もうやめてますってか、使えませんよぉぉ!﹂
肺が圧迫されて息苦しい。
溺れた人のようにもがいた私だったが、土ねずみは全力ですりす
りしてくるので逃れられない。
魔力を使うどころではない。
そのうち毛皮に覆われた暑さで、頭までぼんやりしてきたところ
で、助け手が現れた。
キュイッ!
チチッ!
土ねずみ達が、突然可愛らしい鳴き声を上げて、私の上から飛び
のいた。
何があったのかとは思ったが、ようやくまともに呼吸ができるよ
うになった私は、ぜいぜいと息をつくだけで精いっぱいだ。
倒れ伏したままだった私を、誰かが抱き起してくれる。
突然他人に抱えられて、驚いた。
最近はボールのように受け渡しまでされたりするものの、相手は
知り合いだったから、多少緊張したものの安心していられた。
でも知らない人はさすがに怖い。と思ったが、その抱きしめ方に
覚えがあった。目を瞬いて見上げれば、銀の髪の優し気な面立ちの
レジーだった。
﹁キアラ、大丈夫?﹂
913
やや焦った顔をするレジーが、ふっと横を見ると、私を抱え直し
て左手で払う仕草をする。
彼の手の動きを目で追った私は、レジーの指先が土ねずみのお腹
に触れたとたん、ぱちっと火花が散った。
土ねずみは﹃キュイッ﹄と可愛い高い声で鳴くと、すぐさまレジ
ーから離れ、通路の方へと逃げていく。そこから恐る恐る私達の様
子を伺っていた。
気付けば三つの通路全てに、そんな土ねずみがいる。顔が見える
だけで10匹はいるようだ。
﹁え⋮⋮レジー、どうして﹂
そのどうして、には色々な意味が総括されていた。
どうしてレジーがここにいるのか。他の騎士達はどうしたのか。
何より、左の指先から火花が出たのは、一体どうしてなのか。
らいていせき
﹁今のはちょっとした手品だよ。雷霆石をソーウェンで手に入れて
持ってたんだけど、彼らはそれが苦手だったみたいだね﹂
尋ねられたレジーは、やや苦し気な表情で微笑んで答えてくれた。
けど⋮⋮。
どこか誤魔化してる、と感じた。
レジーは本当のことを言ってくれてない気がする。
そもそも雷霆石は、確かに落雷が多い場所とか、雷草の群生地と
かに多い代物だけれど、そんな簡単に火花が散る作用があっただろ
うか。
でも追及したところでレジーは教えてくれないだろう。しかも私
じゃ、気のせいだとレジーに言いくるめられてしまうのは目に見え
914
ているので、口をつぐんだ。
納得できたわけではないので、ついレジーをじっと見てしまう。
私と目が合ったレジーは、
﹁キアラ、心配しないで﹂
視線を避けるように私の頭に、頬を摺り寄せた。
﹁ひゃっ⋮⋮﹂
抱えられている状態は慣れたものの、顔をこんなに近くまで触れ
させると、さすがに恥ずかしくなる。
顔にあたる上着は、夏を過ぎてから下に着こむようになった鎖帷
子の硬さを感じた。
レジーにくるまれてしまったような感じに、思わず息を止めそう
になるが︱︱
﹁ふぃー。助かったわい。このわしの新しい体まで、壊れてしまう
かと思ったわ﹂
一緒に土ねずみに圧殺されかけた師匠が、短い手で頭をかいた。
師匠の言葉に、レジーが応じる。
﹁無事でしたかホレスさん﹂
﹁ウヒヒ。口先だけ気遣ったフリをしおって、見せつけてくれるの
ぅ﹂
見せつける、という言葉に、抱きしめられたままの私は慌てる。
師匠に見られていることをすっかり忘れていた。それもこれも、
やたら接触の多いレジーに、慣らされてしまったせいかもしれない。
慌てて離れようとするけれど、レジーは離してくれない︱︱どこ
ろか﹁動かないで﹂と注意してくる始末だ。
そうしておきながら、レジーは師匠に何でもない様子で返す。
915
﹁心から気遣ってますよ。キアラの保護者同士ですからね、私達は。
貴方が欠けたらキアラが泣くでしょうし﹂
﹁お前さん、清々しいほど自分の欲求に素直な奴だのぅ⋮⋮﹂
呆れた、と言わんばかりに師匠が肩をすくめる。
が、私にはなんだか意味がわからない。
﹁で、うちの弟子は土ねずみにさらわれてきたが、お前さんは一人
で飛び込んだんかいな?﹂
﹁私の方は巻き込まれたようですね﹂
レジーが苦笑気味に話してくれたところによると、キアラを狙う
ように大量の土ねずみが地面の下から現れたのだという。その数十
数匹。
土ねずみたちはキアラを攫った直後、馬を降りて追いかけようと
した騎士達を突き飛ばし、その途上にいたレジーは、巻き込まれる
ように土ねずみと一緒に穴の中に落ちたようだ。
﹁でもおかげで、巣の中にやすやすと入ることはできたから、キア
ラを探すこともできたし。追い払う方法も見つけたから、助けるこ
ともできて良かったよ﹂
﹁⋮⋮お前さんが居て良かったのは間違いない﹂
渋々といったように、師匠がレジーの言葉にうなずく。
﹁とりあえず、レジーが土ねずみを追い払えるのなら、地上に戻れ
るかな? また連れ戻されたりしなきゃいいんだけど⋮⋮﹂
﹁試してみるしかないね﹂
そう言ったレジーがようやく私を離してくれたので、立ち上がる。
916
ほっとしながら、どこの通路が一番土ねずみ率が低いのだろうと
見回した私は、ようやくそれに気付いた。
通路近くにやってきた土ねずみが、いつの間にか一人の女の子を
抱えていた。
いや、女の子を抱えた土ねずみが、他のねずみと入れ替わるよう
にして、前へ進み出てきたのか。
女の子は黒茶色の髪の上半分をまとめて幅広の緑のリボンを結ん
でいて、共布だろう緑のドレスを着ている。年は十二歳くらいだろ
うか。
成長したら艶っぽい美人になりそうな、目の下に泣き黒子がある
子だった。
無表情なその子は、腕に抱えていた麻袋をぽいとそのあたりに放
り投げる。
すると土ねずみが彼女を離したので、慣れた様子で着地し、淡々
と尋ねてきた。
﹁初めまして。お二人はどこのどなたでしょうか?﹂
917
隠されたご令嬢
彼女は先に名乗ったりはしなかった。
じっとこちらを見て、答えを待っている。
その様子から、私でもなんとなくわかった。
彼女は、私達を警戒している。敵か味方か、彼女は見分けなけれ
ばならない状況にいるのだ。
身なりからすると、貴族に連なる家の令嬢か裕福な商人の娘だ。
でもこの時期や情勢からすると、ほぼ貴族の家の娘だろう。
そしてここにいる意味を考えると⋮⋮と思ったが、私は首をかし
げる。
アーネスト・フィナード氏の娘なら、私より一つ上ではなかった
だろうか。こんなに幼くなかったはず。
するとレジーが、先に声をかけた。
﹁君は追われているんだね。こちらの身の証は、この紋章と私の髪
の色で納得してくれないかな﹂
彼は剣を抜いて、柄の飾り模様を見せる。
竜が描かれた盾の周囲を、銀の枝葉の円環が飾り、交差する剣が
二つと王冠が上に飾られた意匠。それがファルジアの紋章だ。
その意匠が使われた剣の柄は金が使われていて、特別なものだと
いうことがわかる。
何よりも、レジーの銀の髪。これはファルジア王族に特有のもの
だ。
それを知っているからだろう、少女はその場でお辞儀をしてみせ
た。
918
﹁御身に疑念を持ちましたこと、お詫び申し上げます。わたくしは
この一帯を治めます、ヘンリー・デルフィオンの娘、ルシールでご
ざいます﹂
﹁男爵の娘⋮⋮?﹂
え、と私は思う。
﹁デルフィオン男爵の令嬢は、ルアイン軍に捕まっているんじゃ⋮
⋮﹂
するとルシールは表情を曇らせた。
﹁君は誰かの手引きで脱出してきたんだね?﹂
レジーの問いに、ルシールはうなずいた。
﹁従姉の、アーネスト叔父様の娘であるエメラインお姉様が、わた
くしを逃がして下さったのです﹂
﹁アーネスト氏の娘か﹂
私は、またもゲームと変わってしまったのかと思った。
いやそうとも言えないか? 今現在、ゲーム開始よりも半年ほど
早く行動しているのだ。とすれば、ゲーム開始前にこういうことが
起こっていて、だけどもう一度囚われてこのルシールが亡くなって
いたとしたらどうだろう。齟齬はない。
レジーは彼女に問いを重ねる。
﹁では、ここに来たのは?﹂
﹁隠れるためです。アーネスト叔父様の土地にも、度々ルアイン兵
がわたくしを探しにやってくるのです。叔父様はルアイン兵を追い
払いに行きましたが、万が一のためわたくしは隠れるように、と。
見つかったら、私が殺されるだけではなく、匿っていた町の人にま
919
で何か害があるかもしれないからということで﹂
そうしてルシールは、ここがいかに隠れるのに適した場所なのか
を説明した。
﹁このあたりは、エメラインお姉様が増やした土ねずみが巣にして
まして、穴だらけで軍を突撃させることができない場所になってお
ります。なのでルアイン兵は近づきませんし、土ねずみも普段は、
人を巣に近寄らせようとはしないのです﹂
だから隠れるにはちょうどいいようだ。
﹁中に入るには、銅を抱えているだけで済みます。土ねずみが抱え
て、ここまで連れて来てくれますし、手放せば横を素通りして外に
出られるので﹂
土ねずみを使って、上手くルシールはルアインの目を逃れていた
ようだ。
﹁しかしどうして、そのエメライン嬢は土ねずみを増やしたのかな
? 分家同士とかで、争いことでもあった?﹂
﹁お姉さまは、その頃婚約を断ろうとしていらっしゃって。しつこ
い方だったそうで、そのために嫌がらせと上手く利用する方法を見
つける研究のため、魔獣を使いたかったようです。結果的に、いい
落とし穴が楽して作れる、と仰っておりました﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
なんていうか、気持ちはわかる。
私もたいして変わらないことしてるし。魔術で穴掘ったり壁壊し
たりとかね。
でもわっかるー! と同意するのははばかれた。
するとルシールは夢見るように両手を組み合わせて明後日の方向
920
を見た。
﹁さすがはお姉様だと思いました。ああ、わたくしが男だったら、
お姉様をお助けするため剣を手に掛けつけ、お姉様に求婚したかっ
たのですけれど﹂
﹁え、いいんだ⋮⋮﹂
どうもルシールは、破天荒なエメラインに心酔しているらしい。
﹁アーネスト氏が迎え撃っている、ルアインの兵の数はわかるかい
?﹂
﹁今回は三千人ぐらいだと聞いています。叔父様の方は二千ほどで
したが、大丈夫だろうと言っておりました。ちょっと前までは、も
っと多かったのですけれど⋮⋮お姉様を助ける作戦のために、一部
の分家の者が先走って男爵家の城へ向かってしまって﹂
﹁どうして?﹂
﹁殿下の軍と交戦するため、カッシア側の領境にルアインと父の軍
が移動したからです。今のうちに攻め落とすのだと言いまして⋮⋮
分家の子女や、有力者の子供達が、結構囚われてしまっているもの
ですから﹂
なるほど、と思う。
男爵がこれ以上、領内を戦火に荒らされないようにするためルア
インに服従したわけだが、男爵に追従する兵が領境の戦闘で以外に
頑張っていた理由がわかった。
従っている分家などの子供まで、ルアイン側は虜囚にしていたの
だ。
しかも男爵令嬢ルシールはこうして無事だ。
助けに行くと息巻いている勢力がいるのだから、エメラインさん
921
達もまだ生きている可能性が高い。
今のうちに救助を強行したら、男爵たちもすんなり寝返らせるこ
とができるだろう。デルフィオン内のルアイン軍を倒すこともたや
すくなる。
﹁殿下はもしかして、この近くまで軍を率いていらっしゃったんで
しょうか。どうか叔父をお助け下さいませんでしょうか﹂
ルシールの願いは当然のものだ。
そして戦力はある。騎兵の数はそれほど多くないけれど、私がい
る分だけでかなり戦いが楽になるはずだ。
﹁問題はここから出る方法かな⋮⋮﹂
私はそう言って、自分でため息をついてしまう。
力を使わなくても、横からかっさらわれたわけで。果たしてここ
から出してくれるのかどうか。
﹁大丈夫だよ。さっきみたいに追い払えばいいんだから。ルシール、
君はまだここにいるといい。君の叔父には私達も用があるんだ、追
いかけるよ﹂
言いきったレジーに私は手首を掴まれる、そして待機と言われた
ルシールは、その場に膝をついた。
﹁叔父は北西の浸食地におります。宜しくお願いいたします﹂
うなずいたレジーは、私の手を引いて土ねずみがいる通路の一つ
へと向かう。
その左手には、やや大きめの石を握っていた。
雷霆石を使ってる、というのは間違いないようだ。
彼がその石をつきだすように一歩踏み出せば、土ねずみは困惑し
922
たようにじりじりと後退していく。
そうして私とレジーは、土ねずみの穴の中をさかのぼった。
レジーは足下が見やすいようにか、比較的明るい道を通る。
彼を嫌がって後退した土ねずみは、途中で横道へ隠れた。通過し
た後も、その目だけが光っていたので、こちらの様子を伺っている
ことはわかったが、そこからはレジーが後ろについてくれたので、
近づいてはこなかった。
やや傾斜した坂道を行けば、外へ通じる縦穴にはほどなく到着で
きた。
外から降り注ぐ光が、とてもまぶしい。
問題は、自力で這い上がるにはちょっと辛い高さだということか。
﹁キアラが先に出て。君を後に残したら、目を離した隙にねずみた
ちが攫って行きそうだ﹂
﹁そうしたいんだけど、自分だけじゃ手が届かないから手伝⋮⋮わ
っ!﹂
介助をお願いしようとしたところで、レジーが私を抱き上げた。
肩に座らせるようにして抱えて、レジーの腕力にびっくりしたり、
足が異性の顔のすぐ傍とかほんとにいたたまれない気分になるしで
私は悲鳴を上げる。
﹁大丈夫、落とさないから。登って﹂
言われた私は、すぐに地上へ出ることを選択した。
この状態から逃れて、土ねずみに連れ戻されないようにするため
には、それしかない。大急ぎで穴の縁に乗り上げるようにして脱出
を心みたのだが、いかんせん腕の力がもう微妙すぎて、自分の体を
引き上げるのに苦労する。
923
﹁⋮⋮っ!﹂
それを助けようとしたのだと思う。レジーに脹脛のあたりを抱え
られるようにして押し上げられた。
レジーが足に抱き付くような態勢だったので、恥ずかしいやらで
ちょっと涙目になる。
なんとか地上へ戻ると、レジーは軽々と上がってきた。
それを見て私は決意した。
もうちょっと腕の力つけよう。こっそり腕立て伏せでもするべき
だ。
外へ出ると、穴の多い大地の少し向こうに、川に架かる橋と、と
りあえずそこまで移動したらしい、グロウルさんやカインさん達の
一隊が見えた。
無事に戻れてほっとする。
さぁ、グロウルさん達と合流して、アーネスト氏に助力しなけれ
ば。
924
フィナード浸食地の戦闘
﹁キアラさん、殿下!﹂
駆け寄って来ようとしたカインさん達を制し、私達の方が彼らの
元へ行く。
またうっかり土ねずみが出てきても、私の方はレジーがいるから
なんとかなる。けれどカインさん達が巻き込まれたりしたら、出て
くるまで待たなければならなくなるのだ。
ようやくたどり着いたところで、
﹁無事で良かった⋮⋮﹂
ほっとするカインさんは、私の肩に手を伸ばそうとして、けれど
寸前で止め、それからそっと肩を掴んだ。
﹁土ねずみに食われたかと﹂
﹁ご心配おかけしました。でも大丈夫でした。あと、人間は食べな
いみたいですよ。中ではデルフィオン男爵の娘さんにも会えました
し﹂
﹁デルフィオン男爵の娘、ですか?﹂
うなずくと、カインさんの後ろからグロウルさんがぬっと顔をの
ぞかせた。
﹁こちらにも報告したいことがあります。殿下、まずは川を渡った
場所までご足労下さい﹂
そうして指し示した所には、町からやってきたのだろう、ファル
925
ジアの青いマントを羽織った兵士が数人立っていた。
早速そちらに移動する。
グロウルさんによると、やはり彼らはフィナード家が拠点とする
町の兵士だった。
ファルジアのマントを見て、友軍がやってきたのかもしれないと、
確認しに来たらしい。
﹁王子殿下、我らが土地までお越し下さってありがとうございます﹂
六人のフィナード家の兵士はレジーの前で膝をつき、現状説明を
行ってくれた。
﹁現在、フィナード家が治めるこの地に、ルアインの兵およそ三千
人が進軍してきております。フィナード家当主アーネストが二千の
兵を率いて出陣いたしまして、不在にしております。殿下には、宜
しければ町の領主館にてお待ちいただければと﹂
﹁それよりは、戦況がどうなりそうか聞きたいな。アーネスト殿は
無事にルアインを押し返せそう? 先ほど、アーネスト殿の姪にお
会いしたんだ。私もアーネスト殿を追いかけると言ってしまったの
でね、状況を教えて欲しいんだ﹂
﹁そっ⋮⋮﹂
すると受け答えをしていた年長の兵士が、驚いたようの声を詰ま
らせた。
﹁それはさすがに殿下は豪胆なお方ですな。左様でございましたか。
ルシール様が無事なようで安心いたしました﹂
﹁入ったことはないんだ?﹂
926
﹁魔獣の巣でございますれば、とてもそのような胆力があるものは
少なく⋮⋮。エメラインお嬢様とともに、ルシール様はフィナード
家では一目置かれているくらいでして﹂
確かに、魔獣の巣を隠れ場所にしようなどと考える者はそういま
い。発案者のエメラインさんが、かなり常識をフルスイングで打ち
上げた人なのだろう。
会ってみたいなぁ。
説明した兵士さんは、気を取り直したようにルアイン側の兵力と、
交戦するだろう場所について話した。
﹁アーネスト殿が陣を置くのは、北西の浸食地だと聞いたよ﹂
﹁はい、岩が柱のように林立した場所がありまして。我がフィナー
ドが紛争の度に戦場にする場所でもあります﹂
そこでの戦闘は、屋根がない柱だけの広い建物の中で、戦うよう
なものだという。
おかげで不意打ち、弓による攻撃と地形について知識があれば、
急な断崖に潜んで急襲することもできるので、とても戦いやすいら
しい。
とはいえ千人の差はそこそこ厳しい。
レジーは兵士に案内を頼むと出発した。
もちろん私もついて行く。
フィナード家の兵士さん達の内一人が案内に立ったが、兵士さん
は戦闘要員ぽくない私までついてきたことに、目を見開いていた。 混乱させて申し訳ないが、スカート着用なのは、私が無謀なこと
をしないためにベアトリス夫人から義務付けられたのであって、酔
狂ではないのです。
927
戦場はそれほど遠い場所ではなかった。
土ねずみ地帯を避けるように下流へ向かい、別な橋から北へ向か
う。
その先に、低い段が重なるようにして出きた広い窪地があった。
この一帯が、浸食地なのだろう。
兵士さんが説明したように、石柱のような岩が、緩やかなすり鉢
状の土地に林立している。
南側にはアーネストさんの軍がいた。青いマントとファルジアの
旗があるので間違いないだろう。
固まっているのは千人ほどに見える。
アーネストさんの背後にいるので、私達からは他の千人がどの辺
りに散らばっているのかがわかった。
対する北側に、ルアイン兵がいる。
ルアイン兵も石柱を警戒しつつ、いくらかの兵は散開させている
ようだが、基本的には中央部の石柱が少ない場所を進軍してきてい
る。
と、そこでこの盆地を見ていた私は、何か似てるものを見たこと
があるような気がした。
球を転がすと、ピンに当たって違う方向に転がっていくの、なん
かあったよね?
そうそうピンボールだ。
窪地になっている場所は、ちょうどよく球が転がっていきやすそ
うだ。
ゴーレム
レジーが率いている50騎と共に私が加わっても、土人形が操り
難いだけになりそうな気がする。なら、離れた場所から球転がしし
た方が効率がいいんじゃないだろうか。
928
そして離れている分には、レジーに無茶をしようと発覚しにくい
はず。
レジーも前線から遠い場所なら、許可してくれるだろうと思って
話をしてみた。
﹁いいよ。でも10騎は連れて行ってもらうから﹂
案の定了解してくれたので、私はカインさんと、騎士フェレンツ
さん含む十騎の兵と共に、窪地を大きく回った西側へと移動した。
やや北よりのその場所は、窪地の中心へ向かってちょうどいい傾
斜がある。途中に石柱があるので、上手くいけば、やや北側へと転
がってルアイン兵の後部の兵にぶつかってくれるだろう。
ゴーレム
まずはいつもの土人形を作成した。
ゴーレム
次にそちらを維持しながら、自分の背丈よりも大きな石球を作っ
て、土人形に所定位置まで移動させる。
ゴーレム
眼下では、矢の射かけ合いが始まった。丁度いいだろう。
そう思って球を土人形に転がさせたのだが。
﹁あ⋮⋮﹂
球が大きすぎたのか、勢いよく転がった石球は、途上の石柱をべ
っきりと降り砕き、まっすぐルアイン兵の先頭に襲い掛かった。
悲鳴が上がる。
逃げ回るルアイン兵は、その隙にアーネストさんの兵に射られて
いった。
一部の兵は、突然襲い掛かった石球に混乱し逃げ惑う。
魔術師が来たー、という叫び声が聞こえた。私も有名になったよ
うだ。
でもこちらを倒すべきと判断したのだろうか、百人単位の兵が、
段になった坂道を駆け登って来ようとしている。
929
カインさんとフェリックスさん達が剣を抜いた。それでも十人で
百人を相手にするのはキツイ。
まずは周辺に石の柵を設けた。
万が一こちらまで押し寄せても、柵を乗り越える間にカインさん
達が倒すということも可能になる。
﹁すごいなこれ﹂
フェリックスさんが、剣で石の柵を突いている。かん、と良い音
がした。
一方カインさんは、私の方に視線を向けてきた。
ゴーレム
これだけの力を使っても、まだ大丈夫なのかと聞きたいのだろう。
私はうなずいてみせた。
﹁もう一個いっきますか⋮⋮﹂
その上で石球を作成、今度は三つ作っておいて、土人形に連続で
転がさせた。
まるでインディージョーンズの地下迷宮の仕掛けのごとく、石球
が転がりながらルアイン兵に襲い掛かる。
何人かは潰された。さらに弾き飛ばされた者もいる。
傍ですごいすごいと喜ぶフェリックスさんの声を聞きながら、私
はぎりっと奥歯を噛みしめた。
三つ転がす頃には、こちらへ向かう者の数も十数人に減っていた。
アーネストさんの軍と相対するルアイン軍の方は、転がった石球
のせいで戦い難さが極まり、じわじわと遠隔攻撃だけでその人数を
減らされて行った。
やがてルアイン軍はここを攻略するのはムリだと諦め、撤退して
いった。
930
ゴーレム
遠ざかり始めたルアイン軍の姿を見ながら、土人形を元の土に戻
して、ふ、と息をつく。
意外に疲れてしまった。ちょっとめまいがしてふらついて、気付
いたカインさんに背中を支えられる。
﹁力を使い過ぎましたか?﹂
﹁そんなつもりはなかったんですけど⋮⋮﹂
いつもより疲れが激しいような。首を傾げていたら、師匠がイヒ
ヒと笑う。
﹁さっきの土ねずみのせいじゃろ﹂
言われてようやく気付く。
そうか。土ねずみは魔力に引かれて私にくっついてきた。てこと
はぎゅうぎゅうに押しつぶされてる間も、魔力が吸い取られてたの
かもしれない。
魔力が減少していた上での魔術使用だったので、こんなに疲れた
のだろう。
﹁あー⋮⋮魔力ゲージとか、数値が見えたらなぁ﹂
そうしたらこんな失敗しないのに。
ため息をつく私に、カインさんが馬には乗れるか尋ねてくれる。
うなずいて横座りに騎乗する。
それを見たフェリックスさん達も騎乗し、アーネストさんの所へ
移動を始めた。
私の後ろに乗ったカインさんは、ゆっくりと馬を進めながらささ
やいた。
﹁疲れているのなら、少し眠ってはいかがですか?﹂
﹁でも、アーネストさんとの話し合いが⋮⋮﹂
﹁少しの間です。起こしてあげますから﹂
931
その申し出は実に魅力的で、疲れてうとうとしかけていた私は、
すっと淡い眠りの中に滑り込んだ。
だからその後の二人の会話を聞くことはなかった。
﹁お前さんは、気付いておっただろうに⋮⋮﹂
﹁何がですか?﹂
﹁うちの弟子の疲労が、かなり積み重なっておったことじゃ﹂
﹁本当に限界だったら、キアラさんも自分でわかるでしょう。それ
までは何も言いませんよ。この人のやりたいようにさせてあげるつ
もりですから⋮⋮でも、ホレスさんもおっしゃいませんね﹂
﹁わしはギリギリで止めるつもりじゃったからの。ヒヒヒっ。この
程度でふらついていては、これからの戦で保たないじゃろうて。極
力使わせて、少しでも魔力を伸ばさせるつもりでおったとも。⋮⋮
もっと危機的な状況で、お前さんに潰されては元も子もあるまい?﹂
﹁そうなったら、私もキアラさんにお伴しますよ。泥沼へ向かって
背中を押したのは私ですし⋮⋮。どうせならもろともに堕ちてほし
いですね﹂
﹁重傷じゃな﹂
﹁⋮⋮邪魔なさいますか?﹂
﹁わしゃ人の色恋には首を突っ込まんことにしとるんじゃ。ただの
ぅ﹂
そこで土偶はチカチカと目の横線部分に赤い光をひらめかせた。
﹁弟子と心中するということは、わしも一緒じゃからのぅ。じじい
も一緒じゃが、それでもというならそうするがいい。イッヒヒヒヒ﹂
932
アーネスト氏の父心
アーネスト氏との話し合いを行ったのは、フィナード家の町、ル
エンデに戻った後だった。
というか、そこまで私ずっと眠ってました⋮⋮。カインさんに起
こしてって言ったのに。
なんで起こさなかったのかと言えば、カインさんはしれっと答え
た。
﹁殿下とアーネスト氏も挨拶しかしませんでしたから。詳細を話し
合うには場所も状況も不適切でしたので、町に行ってからというこ
とになりました。それなら起こさなくても良いだろうと思いました
ので﹂
その後に、いつもより柔らかい声で
﹁少しは疲れがとれたのでは?﹂
と言われ、心配したからだと思えば、それ以上は何も言えなくな
ってしまう。
お兄さんがいるってこういう感じなのかな、とか想像してみると、
なんとなく口元が笑っちゃいそうになった。
それを察したのか、師匠がキシシシと笑う。
土偶を指でつついた私は、アーネスト氏の館に到着すると、召使
いの女性にレジーともども案内され、応接間へと到着した。
部屋の中に入った瞬間︱︱アーネスト氏がべたーんと平伏した。
﹁もうほんっとに、殿下ありがとうございましたぁああっ!﹂
933
髪を振り乱しながら顔を上げたアーネストさんは、こげ茶色のち
ょい伸ばし気味な髪や長い前髪に切れ長の目の、若いころはさぞ女
性が騒いだのだろうと思える人だった。
けれど号泣しかけの表情といい、色々なものが崩れてるけども。
﹁正直、私は軍事に疎いもので、この方面は兄に任せてばかりいた
もので、今回も周囲に助けられてなんとか保っておりまして。殿下
が采配を代わって下さって本当に助かりました﹂
どうやら兵の指揮をレジーにとってもらったようだ。
負けるよりも得意そうな人間に回した方が、勝率が上がるのは確
かだよね。私でもそうする。
でも軍を動かすのが苦手だったら、今までさぞかし恐怖で一杯だ
っただろう。
兄が敵に与した以上、自分がどうにかしなければならない重責は、
アーネストさんの心をぎりぎり締め上げたに違いない。
レジーは苦笑している。
﹁しかし、あの浸食地での戦術は良かったと思うよ﹂
﹁あ、全部分家の当主が代々やってきた方法を、娘が訓練しておく
よう勧めてくれていたものでして﹂
せっかくレジーが持ちあげたのに、台無しにしてしまった。
しかも照れて頬を染めてるアーネスト・フィナード氏35歳。
レジーの斜め後ろにいるグロウルさんの頬が引きつってる⋮⋮。
﹁実は弓兵の訓練も娘が担当してまして﹂
何気にエメラインさんすごいな!?
934
私のイメージの中で、エメラインさんの姿がどんどん変わってい
く。
最初はルシールさんを成長させた姿の、ハムスターな土ねずみを
だっこしたお嬢様だったんだけど。今や弓用の肩当てにマントと弓
を装備した、たくましい女性にチェンジしてしまった。
﹁弓を教えたのはアーネスト殿ですか?﹂
﹁それは亡き妻が教えまして。私などよりも娘の方が得意です﹂
どうやらフィナード家は女傑の家系らしい。
入り婿なアーネストさんだけど、娘を褒めているところからして
家庭は円満そうだ。適材適所で役割分担してるのかな?
そこまででれでれと娘のことを話して照れていたアーネストさん
だったが、ふいに膝をついたままたたずまいを直し、レジーに向き
直ると表情を真剣なものに変えた。
﹁殿下がこちらへ足をお運びになったのは、私の元へ集まった兵力
をご所望ゆえのことと思います。もちろん、ファルジアをルアイン
の手から救うため、我がデルフィオンを解放するためにも、殿下に
お預けする所存です。私のもとへ参りました分家の者達も依存はあ
りますまい﹂
ただひとつ、アーネストさんはお願いごとをしてきた。
﹁できれば娘エメラインと、共に囚われているだろう、兄デルフィ
オン男爵夫人や他の子女達の解放をしていただければ⋮⋮。理由を
無くせば、兄デルフィオン男爵も必ずや殿下の前に膝をつくことで
しょう﹂
アーネストさんの言葉に、レジーはうなずく。
男爵家に連なる人々の親族を解放できれば、誰もが後顧の憂いを
935
減らして事にあたれるだろう。
﹁そういえばルシール嬢から、エメライン嬢を助けに行った者がい
ると聞きましたが⋮⋮﹂
﹁左様でございます。おそらく男爵城に囚われているだろうという
ことで、ルアインの軍も移動している隙に⋮⋮と行動を起こしてし
まったようです。私としては、男爵の城とは違うのではないかと思
っているのですが﹂
そう言うアーネストさんが挙げたのは、男爵の居城に近い町だっ
た。
理由は、エメラインさんにあった。
デルフィオン男爵家がルアインの侵攻を受けた時、エメラインさ
んは土ねずみを一匹ほど連れて城を訪問していたらしい。⋮⋮ルシ
ールへの土産として。
だから城にいるなら、なんらかの方法で土ねずみを操り、手紙の
一つでも送って寄越すと考えたそうだ。
城内にはデルフィオン男爵領の人達もいて、やむなく味方をして
いるだけで、アーネストさん達を敵視しているわけではないからだ。
そこでレジーが尋ねた。
﹁良ければ教えて欲しいのだけど、デルフィオン男爵殿はルアイン
に与することを選択したのに、貴方はそうしなかった。それはどう
してですか?﹂
それは私も気になっていた。
なぜアーネストさんは娘可愛さにルアインに従わなかったのだろ
うか。
936
﹁そんなことをしますと、娘に﹃男のくせに気概がない﹄とか﹃娘
よりも家の存続を優先させなさい﹄とか言われるのが目に見えてま
して⋮⋮﹂
エメラインさんは、かなりクールなお方らしい。
言い出してしまったら、アーネストさんもちょっとタガが外れた
ようだ。そのあたりの経緯が口からぽろぽろこぼれてきた。
﹁そもそもあの子の母親もすごかった⋮⋮。私も若い頃はそこそこ
放蕩したこともありまして。まぁ、誠実な方ではありませんでした。
結婚してからしばらくも、大人しくはできなかったといいますか﹂
そこから続く話を総合すると、アーネストさんは当時遊び人だっ
たらしい。
しかしあちこちの女性を口説いて歩く彼に、奥様が言ったそうな。
浮気をしたいなら、仕事してからにしろ、と。
売り言葉だろうと思ってその通りにしたアーネストさん。
しかし奥様は本当に気にしなかったようだ。
戸惑っていると、今度はさらに追加で﹁外に子供を作ったら養子
にするから、相手に了承を取っておいてね﹂と言い出したそうな。
アーネストさんは大層驚いたらしい。
今までそんな女性とは、会ったこともなかったからだ。
⋮⋮聞いていたグロウルさんが、そりゃそうだと言いたげにうな
ずいていた。
するとアーネストさんは、奥様に言われたらしい。内政に口を出
されるよりはマシ、と。
奥様は、フィナード家を自分が自由に切り盛りしたかったようだ。
937
むしろアーネストさんが遊び人だから勝手ができると思っていた
ので、邪魔になるから外で遊んで来いと言ったのだ。
そうして奥様は、堂々と夫から領地の管理を取り上げたわけだ。
あからさまに政略結婚ですというあっけなさに、そこそこ自分の
容姿やらに自信があったアーネストさんは反発。
どうにか奥方を自分にデレさせようとして、そのまま奥方にべっ
たりとなってしまったらしい。時々デレる様子がいいんだとか。
そんな両親を持ったエメラインさんは、母親の性質を受け継いで、
実にあっさりした女性に育ったらしい。
なんにせよ、雄々しいエメラインさんのおかげで、デルフィオン
の反ルアイン勢力は、旗印を保持することができたわけだ。そして
私達も、デルフィオンの兵力を宛てにできる。
そんなエメラインさんを奪還するのだ。
デルフィオン男爵も、ゲームとはやや状況が違うようだが、奥様
が囚われているせいで身動きがとれないようだし。
エメラインさんも同じ場所に固めて軟禁されているようなので、
一気に解放できれば色々なことも片付く。
とにかく今日は、フィナード家に宿泊させてもらうことになった。
私の調子も今一つだし、レジー達も一戦交えた後だ。休養が必要
だった。
それに明日か明後日になれば、男爵の城に出かけた人達から、何
らかの一報が来るだろうとのことだった。
それでエメラインさんの居場所が確定できたら、一度アラン達の
元に戻ってから、救出に向かおうということになった。
土まみれになっていた私は、平然と土ねずみの巣から帰ってきた
938
ルシールさんと共に、入浴して身綺麗になり、割り当てられた部屋
の寝台に転がる。
そこでふと気付いた。
﹁あれ、師匠がいない⋮⋮あの短い足で、歩き回ってんのかな﹂
たまには師匠も散歩をしたいのであろう、と思った私は、一休み
するつもりで目を閉じた。
◇◇◇
彼は部屋に入ると脱力したようにソファに座り、体を支えるのが
辛そうに横たわった。
﹁殿下!?﹂
部屋の中にいたグロウルが、慌てて駆け寄ってくる。
・・・
﹁殿下⋮⋮怪我を? 今までなぜ黙って⋮⋮﹂
﹁いや、怪我はしていない。あっちの方だよ﹂
疲れた様子で答えたレジーに、グロウルが眉をしかめる。
﹁どちらにしても怪我のせいですな。どうしてこんなことに?﹂
尋ねられたレジーは、いたずらがばれたというように笑ってみせ
る。
﹁土ねずみがね。追い払うのに丁度よく使えたから⋮⋮つい。キア
ラが集られて潰されそうになっていたしね﹂
﹁別な方法でも追い払えたのでは?﹂
﹁あまりキアラの目の前で残酷なことをするのはね。ただでさえ女
の子を戦場に連れて行っているんだから﹂
939
﹁やはり使えるかどうか実験するのをお止めするべきでした⋮⋮か
なり障りますか?﹂
﹁いや、少し休めば戻ると思う﹂
そう言いつつも、レジーの顔色は悪い。青白いのに、グロウルが
握った左腕は熱い。
﹁冷やすものをご用意しますか?﹂
﹁頼もうかな﹂
そうしてレジーの側にいたグロウルは立ち上がったのだが。
﹁イッヒヒヒ。なんぞ様子がオカシイと思えば⋮⋮﹂
﹁何奴!?﹂
﹁わしじゃあ、わし﹂
振り返れば、ケケケと笑う土偶が扉の横にいた。
﹁いつの間に⋮⋮﹂
﹁そなたにひっついておったんじゃよ。ウヒヒ。⋮⋮で、王子よ。
もしかしてそれは後遺症か?﹂
レジーが顔をしかめて訴える。
﹁ホレスさん、キアラには内緒にしてくれますよね?﹂
﹁隠しておいてどうするんかいのー、ウッヘヘヘ﹂
土偶だからかゆいはずもないのに腰をこりこり掻いたホレスは、
意地悪そうにレジーの秘密を暴いた。
﹁いつまでも黙って置けるわけではあるまい? お前さんが粉付き
の矢を身にうけてから、調子が悪かったことと関わりがあるんじゃ
ろうに﹂
ホレスはちょこちょこと小さな足で近寄った。
940
﹁まーわしもこんな形で発現するとはな。初めて見る現象だが⋮⋮
お前さん、操るのは危険じゃろうに﹂
﹁普通にしていても、熱は出るし、指先から微小でも火花が散って
痛いし、どうせなら使えないかなと思ったんですが﹂
レジーはため息交じりにつぶやく。
﹁魔術師の適性がないと、やはり厳しいようですね﹂
﹁こっちだって命がけじゃからのぅ。しかしそのまま使い続ければ、
魔力の暴走が抑えきれなくなって崩壊じゃ、クケケケ。うちの弟子
は死ぬほど泣くじゃろうのぅ﹂
ホレスの言葉に、喉の奥で悲鳴を上げたのはグロウルだ。
﹁ほらごらんなさい! やはり危険な代物ではないですか。今後は
一切禁止ですよ!﹂
﹁まぁ⋮⋮仕方ないかな。でも、使える手が増えるのはいいことだ
し﹂
﹁このくらいのこと、考えればすぐわかることであろう。お前は賢
いと思ったんだがの?﹂
ホレスが呆れたように言う。
﹁⋮⋮バカになりたいと思うことって、あると思いませんか?﹂
そう言って、うっとりするほど綺麗な笑みを浮かべたレジーに、
ホレスがカチャっと音をたてて一歩後退る。
﹁お前も意外に重傷じゃな⋮⋮わしゃ、忠告はしたからの?﹂
941
アーネスト氏の父心︵後書き︶
活動報告に書籍の表紙絵アップしました。
942
秘密の交換
夕食の時間に、レジーが現れなかった。
﹁殿下にご負担をかけてしまったのですね⋮⋮。こんなことでは、
お姉さまに怒られてしまいます﹂
ため息まじりにつぶやいたルシールさんの言葉に、アーネストさ
んがびくっと肩を跳ね上げた。
フィナード家って⋮⋮エメラインさんの恐怖政治でも敷かれてる
の?
﹁ま、とにかく召し上がってください、ささ﹂
アーネストさんに勧められて、私達は食事に口を付けはじめた。
同席しているのは、私とグロウルさんにカインさん。そしてここ
まで付いて来ていたレジーの護衛騎士10人だ。
人数はそれなりにいる。正餐室の長いテーブルはほどよく半分と
少しが埋まっている。
しかし主にアーネストさんから話しかけられるのは⋮⋮私だった。
これはアーネストさんが女好きだとかいう理由ではない。ただた
だ、序列的なことなのだ。
グロウルさんは護衛騎士の隊長さんだが、元々の家は騎士爵のお
家である。私の本来の家よりは上なんだけどね。
たたき上げの騎士さんだということで、その経歴も実に渋くて素
敵なお方である。
むしろ他の騎士の方が、貴族の出の人が多い。一番高い地位の人
943
が、タリナハイア伯爵家の三男だったかな?
さて私だ。
戸籍ロンダリングにて分家の娘という出身になっている私だが、
それだけならアーネストさんと変わらない。むしろ下。
そこで加味されるのが軍の地位だ。
魔術師の私は、元帥代理になれるアランの下だが、将軍と同じ扱
いとなっている。おかげで自由勝手にさせてもらえているのだが⋮
⋮。
ようするに、私が一番ここで地位が高い。
もう一つ言うなら、食事の前にレジーの欠席を伝えたグロウルさ
んが、ずっと渋い表情をしていて怖いので、話しかけ難いのだろう。
もちろんルシールさんも、女の子なので私に話しかけるのが妥当
だ。
よって、二人と私しか会話しないお食事会となってしまった。
﹁魔術師と伺って、また実際にお力を拝見して驚きました。お若い
のに大したものです﹂
﹁あははは﹂
アーネストさんのお世辞に、笑ってみせる。
誰も魔術師になる方法を良く知らないので、そう考えてしまうよ
うだ。
するとルシールさんが、鹿肉のソテーをナイフで切る手を止めて
話に入ってきた。
﹁魔術師って悪魔と契約すると聞いたことがありますわ。デルフィ
オンに攻め入ったルアイン軍は、その魔術師になりそこねた人を使
い、悪魔の呪いをまき散らして軍に打撃を与えたそうです。本当な
944
のですか?﹂
こちらは私も知っていた噂の真偽を知りたいらしい。
さてどこまで話したものか⋮⋮。
契約の石のことを話したとして、それがあまりに広まり過ぎて、
魔術師になってやろう! なんて軽い気持ちでトライする人が出ち
ゃ困るし。
﹁悪魔ではありませんが⋮⋮。魔術師になるには特殊な儀式が必要
でして。それに無事に魔術師になれるのは、素質がある者だけなん
です。失敗すると魔術師くずれと同じように死んでしまうんですよ。
だから悪魔と契約したんだ、と言われるようになったのでしょう﹂
話しながら私は思い出す。
そういえば師匠どこ行ったんだろ。結局、私が転寝した後も、ま
だ戻ってこないのだ。
居場所が分かったのは、食後のことだった。
夕食前よりもさらに苦悩が深そうな表情で、グロウルさんが私に
言ったのだ。
﹁大変申し訳ないのですが、殿下の部屋までご足労頂けますか﹂
﹁レジナルド殿下が呼んでるんですか?﹂
﹁殿下というより⋮⋮キアラ嬢の師匠殿が⋮⋮﹂
それでわかった。
﹁まさか師匠、ずっとそちらの部屋に居座ってたんですか!?﹂
一体またどうしてと思うが、グロウルさんは理由を語ってくれな
い。
とにかくついて行けば、部屋のなかでは軍装は解いたレジーが横
たわる寝台上で、土偶が飛び跳ねてた。
945
﹁ちょっ、師匠何やってんの!?﹂
慌てて捕まえようとしたら﹁うひょう!﹂と言いながら、師匠が
寝台の反対側に転がり落ちる。手を伸ばして、ついでに伸びあがっ
たが捕まえられなかった。
﹁ちぃっ!﹂
さすがにレジーを飛び越えるわけにはいかないので、急いで反対
側へ走って、寝台によじ登ろうとしていた土偶を捕獲した。
﹁ちょこまかとっ、虫みたいにっ⋮⋮﹂
息が切れる。ていうか師匠、なんで逃げるのさ!
﹁助かりました、キアラ嬢。うかつに掴まれると、崩れると言われ
まして⋮⋮どうしようもなく﹂
グロウルさんから御礼を言われて、私はぺこぺこと頭を下げた。
﹁ほんとうにすみません! 嘘ついたんですよこの土偶! 投げた
ってそう簡単に壊れませんから! ね、師匠?﹂
にっこり微笑んで、師匠の体に魔力を注ぐ。
そうしてポケットに入れていた銅貨を使って、コーティングする
ようにしてみた。
﹁な、なんじゃ? むずがゆいんじゃが?﹂
﹁ちょっと師匠をさらに頑丈にしてみただけですよ。うん、なかな
か良さそうですね﹂
手の甲側でこんこんと叩けば、金属っぽい音がする。
重ね掛けの魔術だからか維持には別に魔力が必要そうだが、数時
間は大丈夫だろう。
946
そうしてレジーの部屋の窓を開け、師匠を窓の外につきだす。
﹁さ、下は花畑みたいですし、たぶん壊れません。グロウルさんに、
三階下に落としても平気だってこと、見てもらいましょうね?﹂
﹁ふわっ!? まさかお主、わしをこのまま﹂
﹁落とすんですよ? 頑張って戻ってきてくださいね?﹂
﹁うひょあああああっ!﹂
師匠の悲鳴の後、ぼふっと音がした。
やはり花壇の土は柔らかかったようだ。
ふう、と息をついて窓を閉めると、くすくすと笑い出したレジー
がグロウルさんに頼んだ。
﹁子供か犬にでも玩具と間違われたら可哀想だから、回収してきて
もらえるかな? 土まみれになってるだろうから、フィナード家の
人に頼んで、汚れも落としてもらうといいよ﹂
グロウルさんは小さなため息をつきつつ、部屋を出て行った。
﹁ごめんねレジー、うちの師匠がお騒がせして﹂
体調不良だというのに、師匠が飛び跳ねていては休めもしなかっ
ただろう。
レジーの側に戻ってしおしおと謝ったが⋮⋮起き上ったレジーに
手首を掴まれた。
あげくレジーは、実にいい笑顔をしていた。
﹁ついでだから聞きたいんだけど、キアラ。その足の傷、どうした
の?﹂
﹁ひっ⋮⋮﹂
947
⋮⋮しまった。
衣服を着替えたものの、楽だからとブーツを履かずに靴を借りて
いたのだ。ブーツがないと、手を伸ばして伸びあがればスカートの
裾がやや上がると、怪我が丸見えに⋮⋮。
﹁ええっと、これは⋮⋮その⋮⋮﹂
うああああっ。カインさんには見つからずに済んでたのに、どう
して一番見られたくない人にっ!
なんて説明したらいいんだこれ?
カインさんに足を触られる原因になるから、怪我したことも黙っ
てたとか言ったら、どんだけ怒られるかわかったもんじゃない⋮⋮。
内心で汗だらだらな状態で沈黙するしかない私に、レジーがささ
やく。
﹁それなら、秘密の交換をしようか?﹂
﹁交換?﹂
﹁君は足の傷が残るようなことになった理由。私は体調不良の理由
だ。私の方はね、矢傷に入り込んだ、契約の砂の影響がまだあるら
しくて、熱が出たんだよ﹂
さらりとレジーが自分の側の話をしたことで、卑怯な! と思っ
た。先に言われたら、こっちが言わないで逃げたらずるをすること
になってしまう。
けどすぐ後で、私は慌てる。
﹁痛いの? 怪我の状態とかは? 見せ⋮⋮﹂
﹁だめだよ?﹂
948
伸ばした右手をレジーが掴まえてしまう。それでも﹁むぅぅぅ!﹂
と言いながら押せば、くすくすと笑い出した。
私は全力でやっているのに、レジーは笑える余裕すらあるのがま
た憎たらしい。
﹁君が内緒にしていることを話してくれないと、触らせてあげない﹂
﹁うぐ⋮⋮﹂
私は迷った。
迷った末に脳内からぎりぎりの回答をひねり出した。
﹁怪我の手当をされるのが⋮⋮恥ずかしくて﹂
﹁恥ずかしいから? 衛生兵のことじゃないね? カインかな?﹂
迷った末に、小さくうなずく。
﹁ふうん?﹂
﹁後でギルシュさんとジナさんに診てもらったんだけど、ちょっと
⋮⋮放置しすぎたみたいで﹂
ようやくレジーが、掴んでいた手を離してくれる。
ほっと息をついて、レジーに尋ねた。
﹁それで、傷はグロウルさんに診てもらったの?﹂
﹁ああ、傷口がどうこうってことはないんだよ﹂
うなずくレジーに頼む。
﹁触っていい?﹂
﹁約束だからね﹂
私は寝台に片膝をついて、レジーの肩に手を伸ばした。
そっとシャツ一枚の上から肩と背中に触れる。指を滑らせると、
949
痛そうにはしなかったけれど、レジーが数秒目を閉じた。
少し熱を持っているように思える。
やや魔力がざわついてるようにも感じられたから、外側から自分
の魔力で抑え込めないかと念じてみた。
土や大地に関わるものを動かすのは問題ないけれど、人の体はや
っぱり勝手が違う。何かに阻まれているように、上手くいかない。
あの時傷をふさげたのは、奇跡だったのだろうか。
それでも活性化しているように感じられる、私と近しい魔力を大
人しくさせることができると、レジーが少し肩から力を抜いたよう
に見えた。
﹁ごめんね⋮⋮私を庇ったから﹂
後まで響くような怪我をしたのは、私を助けようとしてのことだ。
するとレジーが苦笑いする。
﹁庇うだけで満足した私のせいだよ、キアラ。でもまだ悪いと思う
なら、これで無しってことにしよう﹂
そう言って、すぐ傍にいた私を抱きしめてきた。
驚いたけれど、レジーに頭を撫でられて、抵抗する気を失う。
この落ち着く感覚はなんだろうと思う。
ただなんとなく、レジーがこれ以上何かをすることはないとわか
る。だからじっとしていると、レジーがまた笑った。
﹁なんだか人懐こい犬みたいだねキアラ﹂
﹁犬扱いするなんてひどい、レジー﹂
私の耳とレジーの首がくっつくような態勢だから、彼に顔が見え
950
るわけはないんだけれど、思わず口をとがらせてしまう。
すると、すねないでとレジーがささやいた。
﹁君が逃げずに側にいてくれるのは、嬉しいんだ﹂
その言葉を聞いた時、心の奥に一つまみの砂が落とされるような、
そんな感覚があった。
951
閑話∼ファルジアの魔術師
その男は、実に戦場にそぐわない人物だった。
戦乱の時代なので、貴族の領主で自ら馬に乗れない者などバカに
されがちな時勢に、貴婦人のごとく馬車で移動し、剣の一つも持っ
ていない。
走れば邪魔になりそうなたるんだ腹が、ダブレットの上からでも
見て取れる。きっと腕は、剣を十回も振れば筋肉痛に悩まされるこ
とだろう。
思わず﹁けっ﹂と彼が小さくつぶやけば、隣にいたミハイルが彼
の足を軽く蹴ってくる。
なんて侍従だ。
しかしミハイルに、この遠慮ない態度を許したのはイサークだっ
た。しかも痛いわけじゃないので我慢する。
とにかく馬車から降りてきた男︱︱クレディアス子爵を眺める。
イサークには、とても彼が魔術師には見えない。
トリスフィードで一度目にはしているものの、彼自身が何かをし
た、というわけではなかったからだ。
この男がしたのは、命尽きるまでわずかとなった魔術師崩れたち
を動かし、トリスフィード伯爵の城の壁を壊し、炎で炙り尽くし、
氷漬けにしたのだ。
むしろサレハルドの兵まで巻き込まれそうになって、イサークは
冷汗をかいたものだ。
なにせ魔術師くずれ達は、理性というものを無くしている。目の
前にいる相手に襲い掛かるか、ただただ魔術をまき散らすだけだ。
952
敵味方なんて区別してくれない。
それでも、この子爵に攻撃しなかったということは、一応魔術師
として彼らを操ることができた、ということなのだろう。
その他にはどんな魔術を使うのか全く不明。
イサークとしては、情報が何もないということが一番厄介に思え
た。
とにもかくにも、今は友好な態度が必要だろう。
出迎えたアーリング伯爵に続いて、イサークは一歩踏み出す。
﹁アーリング伯爵のお願いを聞いて良かった。魔術師殿にはもう一
度会ってみたいと思っていたんだ﹂
にこやかに話しかけてはみたが、クレディアス子爵はちらとも笑
みを見せない。
自分の価値が高いこと、そんな魔術師である自分に誰もが媚びる
ことをわかっているのかもしれない。
興味もなさそうに鼻で笑う。
﹁北の地サレハルドよりここは暑かったことでしょう、陛下﹂
﹁いや、トリスフィードの住み心地はなかなかだ﹂
﹁それはそれは。私も手を貸した者として喜ばしく思っております。
では﹂
面倒そうに一礼して、クレディアス子爵は砦の中へ入っていく。
イサークはそれを追いかけず、じっと子爵の背中を見ながら考え
ていた。
﹁あのウシガエルが来たってことは、本気で王子の軍を潰す気なん
だろうなぁ﹂
953
﹁ちょっ、ここじゃ聞こえますって!﹂
つぶやいたイサークを、ミハイルが慌てて入り口から遠ざける。
離れた場所で剣の打ちあいをしている兵士が見える、砦の中庭へ
と引っ張って行く。
イサークが移動すると、隣にいたヴァシリーもついてくる。
しかし砦なので、花壇やら樹木やらの気の利いたものがない。仕
方ないので井戸近くに人がいないことをいいことに、そこを彼らは
陣取った。
見える範囲の人間からかなり距離があるので、話が聞こえてしま
うことはないだろう。
﹁で、陛下は何を思いつかれたので?﹂
移動が終わると、小声でヴァシリーが尋ねる。
﹁さすが話が早いなヴァシリー!﹂
イサークもマズイとは思ったのか、ささやき声でヴァシリーを称
賛した。
﹁だからよー、あの魔術師が来たってことは、本腰入れて王子の軍
を潰す予定になったんだろ? 王子の軍が敗退する可能性もあるっ
てことだ﹂
﹁どうだかわかりませんよ。あちらにも魔術師が居るでしょう⋮⋮
あの魔術で動く土の人形はかなり厄介でしょうな。火も水も土に損
傷を与えにくい﹂
反論したのはミハイルだ。
意外に、地味そうなあの魔術は攻撃にも防御にも使えるので、ミ
ハイルはとても警戒している。
954
﹁そりゃアーリング伯爵だってウシガエル子爵だってわかってるだ
ろ。だから策の一環じゃないかと思うわけだ﹂
﹁何がですか?﹂
﹁ウシガエル子爵とは別の魔術師が、ここまで一緒に来なかったこ
とだよ﹂
イサークの話に、ヴァシリーがうなずく。
﹁なるほど⋮⋮﹂
﹁敵にやっかいな人間がいるなら、一気に崩したいなら内通者を作
るか、もしくは内部から同時にコトを起こさせるかだ。エヴラール
の魔術師ちゃんの対策に、もう一人の魔術師が潜り込んでるのかも
しれねー﹂
そう言ってイサークがにやっと笑う。
﹁だから、単独行動してるだろうその魔術師を、今のうちに始末す
る﹂
どうだ! と言わんばかりの顔を見て、ミハイルが渋い表情にな
る。
﹁⋮⋮簡単に行きますかね?﹂
﹁もし潜入しているとしたら、すぐにばれたくはないはず。隙は多
いでしょうね﹂
ヴァシリーが同意したことに、イサークは気を良くしたようにミ
ハイルを説得にかかる。
﹁だってよー。今ヤっておいた方がいいだろうよ。あのウシガエル
子爵はどうも、他人を使って戦うタイプみたいだかんな﹂
魔術師くずれだけならまだしも、魔術師という武器を、あの子爵
の手に持たせておきたくない。
955
﹁なぁ、どうだ?﹂
﹁う⋮⋮まぁ、悪くはない手ですが﹂
そこに、彼らの元へ駆け寄っていく少年がいた。
サレハルドの騎士の従者だ。
﹁陛下方のご夕餐について伺いたいのですが、本日はアーリング伯
爵とご同席になりますか?﹂
そう尋ねながら、隣にいたミハイルに小さな紙を渡した。
従者に答えたのはヴァシリーだ。
﹁本日陛下はご不調だ。夕餐も欠席される。部屋に運ぶように伝え
ておけ﹂
そうして従者が走り去った後、紙の中見をさっと確認したミハイ
ルが告げる。
﹁子爵が、砦の前に寄った場所がわかりました⋮⋮イニオンという
町です。近くには小さな砦が一つあったはず﹂
﹁そこにもう一人の魔術師がいる可能性は高いな。よしそこに行く
か。ヴァシリーまたあいつに影武者させとけよ﹂
﹁⋮⋮やっぱり、最初から自分で行く気だったんですね、殿下﹂
ミハイルが深くため息をついた。
﹁陛下だっつの!﹂
ミハイルに抗議はしても、イサークは行動予定については否定し
ない。
﹁もう諦めなさいミハイル。単独行動好きなのは前からですし、こ
の人が注意して聞くような人間だと思いますか?﹂
956
﹁思いません、ヴァシリー将軍閣下﹂
﹁ならば勝手に逃亡する前に、お目付け役を選んで出発させなさい。
ちゃんとこの我がまま陛下が操れる人を選んでくださいよ﹂
ヴァシリーに次善の策を立てろと言われて、ミハイルは肩を落と
した。
﹁みんなにもう、さんざ嫌がられてるんですよね⋮⋮。この間もカ
ッシアに二人で閉じ込められてしまうし。胃薬が足りないって嘆か
れました﹂
﹁でもミハイルは常にいたでしょう﹂
﹁あれは子供を連れてるとカモフラージュになるからって、殿下が
連れて行ったからです﹂
﹁ではミハイル、君がまた一緒に行くように﹂
ヴァシリーの言葉に、ミハイルは心底嫌そうな表情になったのだ
った。
957
イニオン砦救出作戦 1
囚われているエメライン・フィナード嬢とその他の子女達は、デ
ルフィオン男爵城にはいない。
そう知らせが来たのは、フィナード家に宿泊した翌日のことだっ
た。
意外に早かったのは、アーネストさんが予め連絡のための人を、
ついて行かせたからだ。
違う場所に囚われているだろうと予想していたアーネストさんだ
ったが、それはあくまで推測でしかない。万が一にも城に囚われて
いたにしても、そうではなかったにしても、増援や助けが必要だろ
うと考えてのことだったようだ。
どうもアーネストさんは情報を集めたり、推測する方が得意らし
い。
城への突撃組も、さすがに猪突猛進におしかけたわけではなく、
先に人を潜入させて中の様子を確かめさせたという。
そしてここがデルフィオンである以上、下で働かされているのは
デルフィオンの民だ。
彼らの力も借りてすぐに調べがついたので、突撃組も早々に引き
返しているという。
それならばと、私達はアーネストさんが予想した場所へ向かうこ
とにした。
デルフィオン男爵の城から南の、イニオンという町。
その近くにある砦だ。
958
ルアイン側が掴まえているのは貴族の人質だ。場合によっては、
当座の資金が厳しくなった時に、親族から身代金をとることもでき
る、人の形をした資産でもある。
どういう使い方をするにせよ、当面の間はそれなりの生活をさせ
るはず。
だけど閉じ込めて、容易には敵に奪われないようにしたいとなれ
ば、男爵家の親族が反乱を起こした時、塔を一つ牢に改修したとい
うその砦がうってつけだとか。
地下牢じゃだめな理由は、衛生状況も環境も酷いので、女子供は
すぐに死んでしまうからだ。
エヴラールの地下牢は、結構良い方なのだとカインさんが教えて
くれた。
場合によっては、通風孔なんてのも無いらしい。そして年月が経
てば経つほど⋮⋮まぁ、酷い有様になるとか。考えたくないな、そ
れは。
そうでなくとも、貴族令嬢が牢に閉じ込められて、長い時間を過
ごせるかどうか。
そういうことを考えるに、ルシールさんではなく自らが囮になっ
て捕まったらしいエメラインさんの、男気を感じる。小さな女の子
に、地下牢よりマシとはいっても、牢獄生活はキツイだろう。
行動予定が決まった後、速攻でその砦を落とさなければならない。
と言ったのはレジーだ。
﹁人質を抑えていないと、デルフィオンに離反される可能性がある
からね。軍を動かせばあちらも動く可能性がある﹂
そのためにも、救出のためにしてはならないことがあると言う。
959
﹁キアラ、今回は砦を壊さない方向で﹂
﹁えっ?﹂
﹁ルアイン軍が私達を追いかけて攻めてきた時に、他の兵士や囚わ
れていた人を守りにくくなるよ。君も戦闘直後に大規模改修は、難
しいだろう?﹂
﹁そうですよね⋮⋮。ああでも⋮⋮難しいなぁ﹂
思わず私は呻いてしまう。
何事も、壊すのは簡単なのだ。そして魔力の使用量もそこそこで
済む。
しかし砦を壊さない︱︱ようは城壁をくずさずに土人形等で対処
するのは、けっこう大変だ。
まず城壁の上にいる兵士。
これをどうにかしないと、ファルジア軍の人が上から矢とか熱湯
とか、恐ろしいことに煮え立った油なんてのまでぶちまけてくるの
だ。
⋮⋮毒攻撃したレジー、なんて例もあるのでほんとうに損害が怖
い。
ゴーレム
それをなんとかするために、火も油もどんと来いな土人形を近づ
かせたいのだけど、私が乗ってたら私がいい的になる。
剣で打ち落とそうなんてハイスペックな技など使えないし。
あ、でもカインさんも今回は何も言わないだろうし、私も前より
ずっと魔力の扱いも慣れてきたから、自分の血を混ぜたら遠隔操作
は可能か。
レジーには﹁私、レベルアップしたの!﹂とか言っとけばいい。
でも近づいて、壁を壊さずに兵士を排除するということは、一人
960
一人摘まむ? しかし私は遠くにいるわけだから、目隠ししてスイ
カ割りするレベルの難業だ。
うーんと唸っていると、師匠が笑う。
﹁わしが生きていればのぅ⋮⋮ヒッヒッヒ﹂
﹁え、師匠何かできましたっけ?﹂
﹁何を言っとる。わしの専門は風じゃろが。現役時代は空を飛んで
移動もしたもんじゃ﹂
﹁えっ、なにそれうらやましい! 私も飛んでみたかった! なん
で土魔法なのぉぉぉ!﹂
頭を抱えてがっくりとうなだれると、師匠が勝ち誇ったように笑
う。
それと共に、くすくすと笑ったのはアーネストさんだ。
﹁魔術師殿は可愛いですね。まるで小さい男の子みたいなことを言
うとは﹂
最初はお世辞なのかと思ったアーネストさんの台詞だったが、
﹁うちの子も、男の子だったらと何度思ったことか⋮⋮﹂
どうやらエメラインさんのことを思い出したらしいです。という
か、男の子みたいという辺りで娘のことを思い出すって⋮⋮。いよ
いよ私の中のエメラインさんへの期待が高まる。
と同時に、空を飛ぶ師匠を想像した私。
どうしても老人が空を飛ぶというより、土偶が空を飛ぶ光景にな
ってしまう。
それにしても師匠を飛ばすのって良さそうだなあ。
師匠って中空洞に作ったからか、結構軽いんだよね。小型犬並み
961
の重さ。
だから師匠の頭にプロペラ付けて飛ばす⋮⋮というのも考えたけ
れど、どうだろう。
ラジコンの飛行機とかヘリコプターとか、ドローンみたいな感じ
になるのだろうか。
でもずっとプロペラ回すんだよね? 私の手が届かなくなったら
回らなくなって、落ちてくるんじゃないだろうか。
そんなことを考えつつ、まずは戦力を確保するために、まず私達
はファルジア軍の本隊へ戻った。
本隊は、じわじわとデルフィオン男爵の兵とルアイン軍が駐留す
る砦の近くへ移動してきていた。
ほぼ予定通りの位置だったので、見つけて合流するのは楽だった。
そして警戒しつつ、アランの方もむやみに攻撃を仕掛けることも
なかったようだ。
﹁やるなら安全策を採るのが一番だ。攻城戦をお前無しにやるだな
んて、兵達の損耗が高すぎることをしていられるか﹂
言われた私は、ちょっとじーんとしてしまった。
私、役に立ってたんだなと実感できたから。
﹁うん、砦を襲う時には精いっぱいがんばって、破壊しつくすから
任せて!﹂
﹁おい破壊しつくすって⋮⋮﹂
﹁キアラさん、ちょっと単語の選び方が⋮⋮﹂
珍しくカインさんが困惑した表情で私を止めてきた。
しかし時すでに遅し。近くを通りがかったアズール侯爵がそれを
聞いてしまっていた。
962
﹁な、なななな﹂
立ち止まったアズール侯爵は、ばっと両腕を天に掲げる。
﹁やはりファルジア王家への神の加護は厚かったのですな! こん
なにも我が軍に惜しみない貢献を約束する魔術師など、滅多にない
ことです! だというのに王子殿下の傍には、その意を受ければ即
願いをかなえる、戦女神が舞い降りたのですからな!﹂
﹁えっと、あの⋮⋮﹂
戦女神とかものすんごく恥ずかしいのですが。
﹁キアラさん、ちょっ、急いで離れますよ!﹂
カインさんがものすごく焦った顔で、私を小脇にかかえて走り出
した。
﹁うげ、苦し⋮⋮!﹂
﹁お前のせいだ、耐えろバカ!﹂
一緒に走り出したアランに怒られる。
私は一体何の虎の尾を踏んだというのか。
その間にもアズール侯爵のボルテージは上がっていく。
﹁さすがは神に選ばれし銀の髪の王の末裔! このファルジアの地
は、銀の髪の王が統べるべしという神の意思を感じますぞぉぉぉ!﹂
周囲にいた兵士は、誰もがわき目もふらずにその場を逃げだした。
離れたというのにはっきりと聞こえるのだから、側にいたら耳が
痛くてたまらないだろう。
﹁ああ栄光のファルジアあぁぁぁ!! ⋮⋮あぐふっ﹂
けれどアズール侯爵の歓喜の叫びはすぐに立ち消えた。
963
遠くにいたはずのエニステル伯爵が素早く駆け付け、持っていた
杖で殴り倒したのだ。
﹁お前のその癖は、なぜゆえに治らぬ。それがしの耳が遠くなって
いたからいいようなものの、戦闘以外で兵士を負傷させるでない。
⋮⋮全く、つまらぬことに杖を使ってしもうた﹂
そう独白すると、エニステル伯爵は何事もなかったように立ち去
った。
取り残されたアズール侯爵は、大声に耐性がある部下によって、
どこへともなく連れ去られていく。
その姿が見えなくなったところで、ほっとした空気が軍の中に広
がっていった。
カインさんもため息をつきながら私を降ろした上で、説明もして
くれた。
﹁アズールは、エレミア聖教の信者が最も多い土地です。そもそも
我が国に限らず、古参の国は皆、神のお告げを夢で見た王が、その
土地に国を作ったということで、王家が国を統べる理由付けをして
いたものです。他の領地などでは、武力の強さが王家への信頼や忠
誠の根拠となっていますが、エレミア聖教信者のアズールの人々は、
今でもその神から王位を約束されたのだということで、ファルジア
王家は銀の髪の王が統べるべきと考えているのですよ﹂
﹁なるほど⋮⋮だから、あんなにヒートアップ⋮⋮﹂
今後は、もう少し公爵を刺激しないようにしようと思いつつ、私
は息をついた。
964
イニオン砦救出作戦 2
﹁ここまで来るのは、楽勝だったな﹂
そう言って笑いながら、イサークは赤いリンゴを手の上で弾ませ
た。何度かそうして遊んでから、齧りつく。
その姿は、まさに町についたばかりの、旅人だ。
鎧も隠し、衣服も中古の品を人に譲ってもらった上で着替えたの
で、旅人のようによれた感じの枯葉色をしたフード付きマントを羽
織り、薄い黒の衣服を着ている。
ミハイルも似たような服装だ。
﹁んー、うま﹂
﹁うまーじゃないですよ! のんびりリンゴ買ってる場合ですか﹂
ミハイルが渋面になるのは、理由がある。
﹁ファルジアの軍も、別働隊がこっちの町に向かっているんですか
らね。おかげで見つかった時のことを考えて、またしても護衛で周
りを固められないんですから。急いで忍び込まないと⋮⋮﹂
二人は既に、イニオンの町に入っていた。
けれど到着する頃になって、それまでルアインが駐留する砦に近
づいていたファルジア軍から、イニオンの町へ向かう部隊が出発し
たという報告が、ヴァシリーから送られてきたのだ。
その数は、攻城戦を行うにはやや足りない。
けれど問題ないのだろう。魔術師さえいれば。
﹁クロンファードみたいに一気に潰されたりしないうちに、見つけ
965
て戻って来られればいいんですけれどね⋮⋮もしくは、上手く内部
に溶け込むか﹂
ミハイルが眉間にしわを寄せて悩み始める。
﹁しっかし魔術師ちゃんが邪魔だよなぁ﹂
﹁暗殺⋮⋮するしかないんじゃないんですか?﹂
つぶやいたミハイルに﹁もったいねぇ﹂と言うイサーク。
﹁せっかくの魔術師。しかもだまそうと思えばだませそうな、小娘
だぞ? 上手くこっちに引き入れなくてどうするよ。だから落とせ
たら一番だろ﹂
ミハイルがため息をつく。
﹁そんな簡単に行くもんですか⋮⋮。ところで、やっぱり食料品は
砦に運んでいるんでしょう? それで中に紛れ込むしかないんじゃ
ないですかね?﹂
﹁おう、じゃあ早速行くぜ﹂
﹁え、どうやって商人見つけるんですか。ていうかどうやって紛れ
込む気ですか!﹂
﹁お前が頑張って演技してくれりゃいい。というわけで、泣く演技
の準備しとけよ﹂
﹁は⋮⋮?﹂
戸惑うミハイルを連れたイサークは、さっと陽気そうな表情を改
める。
それから町中を行く兵士をさりげなく追いかけた。特にデルフィ
オン男爵の兵を。
彼らは表情に沈鬱さが混じっている。
それもそうだろう、与したくもないルアインの仲間になっている
966
のだ。いずれは、故国の別な軍とも戦わなくてはならない。
町の人々も同じだ。笑顔を浮かべても、次の瞬間にはやや曇る。
ここはルアインに降伏して、平和を保った場所だ。
そのため兵士達を責めるわけにもいかず、かといって敵国に占領
されていることに不満はあるのだ。少なからずルアインに対して、
デルフィオンの民は一段劣る扱いを受けているのだから。
だからこそ、隙があるとイサークは考えていた。
やがて町の路地の隅で、ひそひそとルアインに対する愚痴を口に
しているデルフィオンの兵二人を見つける。
彼らの話に耳をそばだてていると、捕えられた男爵夫人などの話
が登る。
どうも男爵夫人は食が喉を通りにくく、衰弱しかけたようだとい
う情報や、同情する言葉が彼らの口から出てきたことで、イサーク
は彼らに声をかけることにした。
﹁あのさ⋮⋮あんたら、デルフィオン男爵様の兵士さんだよな?﹂
声をかけられた兵士達は、さっと警戒した表情になる。
しかしイサークの兵士とは違う服装に、少しほっとした様子にな
る。
﹁男爵夫人が囚われてる砦にさ、俺の雇主のお嬢様もいるらしくて
さ⋮⋮ちょっと、話聞いてやってくれないか?﹂
下手に出た上、話しをする相手はまだ幼い少年だと言われて、兵
士達もちょっと興味を引かれたようだ。先ほどよりも警戒感は薄れ
ている。
967
兵士達の愚痴を耳にしていたミハイルも、イサークの考えを察し
たようだ。
くしゃりと顔をゆがめ、すん、と鼻をすすってみせた。
﹁あの、お嬢様、お嬢様も⋮⋮僕がぐずで、お隠しすることも間に
合わず。お父上に従って人質となることに⋮⋮。たぶん、あの砦に
いらっしゃるんです﹂
そうしてせいいっぱい目を潤ませたミハイルは、じっと彼らを見
上げた。
﹁お嬢様はお体が弱かったんです。せめてお薬だけでもと思います
けれど⋮⋮。それが叶わなくとも、せめてお顔を拝見したいんです。
何か伝手はありませんか?﹂
そのまま、うう、と涙をこぼすミハイルの姿に、兵士達もほださ
れてくれたようだ。
﹁俺たちが物を差し入れるのは難しいが⋮⋮﹂
﹁子供なら、警戒されにくいんじゃないのか? 手伝いが足りない
って言ってただろ。それなら顔を見るぐらいならさ﹂
二人で話し合った兵士は、ミハイルに砦の使用人の仕事を紹介し
てくれることになった。
イサークは護衛としてついていけるのは、食料品を送る馬車の積
み下ろしの作業員としてまでだ、と言われたので、それでイサーク
は了承する。
正直、潜り込んでしまえばこっちのものだと思っていたからだ。
しかしあいにく、その日は品を納入しに行ったばかりだと、兵士
に連れられて行った商人に言われてしまう。
次に行く日を尋ねれば三日後だと言う。
968
イサーク達は仕方なくその日を待つことにした。これ以上は動き
ようがなかったからだ。
そして︱︱︱︱二日後。
イニオンの砦には、ファルジアの兵が到着してしまった。
大騒ぎをする町の人をよそに、町の端まで移動したイサークはの
んびりと砦を落とす様子を観察する。
﹁おーすごいすごい。ありゃ、もう今日中に陥落だな﹂
﹁陥落ですか⋮⋮。てことは、僕等も撤収すべきですね﹂
はぁやっと帰れるとため息をつくミハイルに、イサークが反論し
た。
﹁ここであきらめるわけないだろ?﹂
﹁え! まだ砦に行くつもりですか!?﹂
﹁そりゃそうだろ。俺たちの行動と、ルアインが占拠してる砦が落
とされることは関係ないからな。それに魔術師ちゃんがいるなら、
上手くいけば内部情報をしゃべってくれそうだ。だから、ほれ﹂
イサークがミハイルに掌を上にして手を差し出した。
ミハイルは眉をしかめる。
﹁⋮⋮なんですかこの手は﹂
﹁何か持ってるだろ、甘いもの﹂
﹁貢物ですか? 貢ぐんですね!?﹂
﹁わいろだよわいろ! 女はみんな最初は警戒すっから、菓子で釣
った方が油断しやすいんだよ! ジナイーダの時だって、それでう
まくいったんだって﹂
イサークの言葉に、ミハイルは遠い目をして空を見上げた。
969
﹁あの方にも迷惑をかけましたよね⋮⋮﹂
﹁いいだろ。結果的にあいつの不利益にはならない。好きな奴とく
っつける道筋つけてやろうってんだから、あいつも大人しくしとけ
ばいいんだよ﹂
﹁そういえばジナイーダ様、ファルジアの軍に今いるって聞きまし
たよ﹂
﹁結果オーライってやつだな。計画としては、意図せず最上の場所
に落ち着いてくれたわけだ﹂
﹁でもこれから潜入したら、見つかったあげくに蹴り殺されるんじ
ゃないですか?﹂
﹁いや⋮⋮もう会った﹂
イサークの返事に、ミハイルが驚きのあまり声が裏返った。
﹁はあっ!?﹂
﹁もう会って、睨まれてる。今更だ﹂
気まずそうに言って、横に視線をそらせたイサークに、ミハイル
はため息をついた。
﹁⋮⋮計画が完了するまで、死なないでくださいよ﹂
﹁それまでは、みっともなくあがいてでも死なないから安心しろ⋮
⋮死に場所は決めてあるんだからな﹂
970
イニオン砦救出作戦 3
壁を壊しちゃいけない。
そんな無茶な要望を出されても、私はついて行かないとは言わな
い。
魔術師がいなければ、軍の人員を二つに分けるなんて、リスクの
高いことはさせられないからだ。
﹁うーん、砦の上に人⋮⋮人⋮⋮﹂
どうやれば壁を壊さずに一気にいけるのか。
私はあれからずっとこの課題に悩んでいた。
あまりに悩みすぎて、もしかしてこれはレジーの罠かとも疑いそ
うになる。でもそうだとしたら﹁思いつかないなら、置いて行くか
ら﹂とレジーなら言うはず。
けれどそうはしないのだから、レジーも意地悪で言っているわけ
ではないのだ。理由も納得がいくものだし。
クロンファード砦とか、直すのちょっと時間かかったしね。
できると思うから課題を与えられたのだとしたら、役に立ちたい
私はこれを受けて立ち、実行してみせなくてはならない。
だから絶対に引くまいと思うが⋮⋮悩む。
そんな私がレジー率いる兵と出発する時には、アランにも激励さ
れた。
﹁お前がいれば大丈夫だろう。頼んだ﹂
爽やかに任せたと言ってくれる、さすが主人公なアランの言葉も、
971
今のキアラにとっては後ろから突き刺されているようなものだ。
﹁プレッシャーがきつい⋮⋮﹂
﹁大丈夫ですか?﹂
カインさんが心配してくれた。
﹁な、なんとかします﹂
悩んだ末に、砦までの道筋の休憩時間、ちょっと実験もしてみた。
例の、師匠の頭に石製プロペラを付けるものだ。
⋮⋮頭が煮えて、変なことを思いついた、というのは否定しない。
自分でもそんな気はしてたけど、何事もやってみるべきだ。
﹁これが上手くいくのなら、私が乗る飛行物体を作ることもできる
! てことで師匠、飛んで見せて下さい!﹂
﹁うーむ。飛べるというのはなかなか画期的かもしれん﹂
元魔術師の師匠も、こういう実験は嫌ではないようだ。
知的好奇心を満たすため、私の実験に付き合ってくれた。
とりあえず空高く飛ぶため、私から離れるので血を少々⋮⋮、ギ
ルシュさんが所持していた針を使用して指先から採血。それを塗っ
た鉱石で作った、師匠の体長よりも大きな石のプロペラを、師匠の
頭に装備した。
上はプロペラ。下はお餅型の帽子みたいにして、上のプロペラだ
けどっかに飛んで行かないように、でもプロペラが回転するように
作る。
傍で見ていたカインさんは、私を﹁正気なんですか?﹂という目
972
で見ていた。
﹁大丈夫です! 理論上は飛べるはず!﹂
ヘリコプターだってこれで飛ぶんだし!
力強く言いきったが、カインさんは信じがたいという表情のまま
だった。ヘリを知らないカインさんには、これで飛べるとは想像も
つかないのだろう。
﹁さぁ! 師匠、大空へ向かってゴー!﹂
掛け声と同時に私はプロペラを回すべく術を使う。
だが、ここで予想外のことが起きる。
﹁うぉっ、なんぞムズムズする⋮⋮⋮ひょああああっ!﹂
急に頭のプロペラからふしゅーと空気が吹きだしたかと思うと、
恐ろしい勢いで空へ舞い上がっていった。
⋮⋮そして師匠は、消えた。
わけじゃなく、落ちてきた。たぶん私の魔力が尽きたんだろう。
﹁ひょええええええい!﹂
痛みは感じずともフリーフォールの感覚はある師匠は、絶叫しな
がら地上へと落下してくる。
﹁し、師匠ぉお! 誰か、師匠を受け止めて! 代わりに私にでき
ることはしますから!﹂
焦る私の言葉に、遠目にこちらを見ていた兵士さんたちが走り出
973
した。
﹁おい、受け止めろ!﹂
﹁あっちに行った!﹂
﹁⋮⋮うぉぉぉ! 捕まえたー!﹂
誰かが掴まえてくれた。
走って確認しに行くと、プロペラの動きが止まった師匠と、それ
を握りしめているまだ若い兵士さんがいた。
﹁ありがとう!﹂
私が近づくと、見事師匠をキャッチした兵士さんは、ちょっと顔
を赤くしながら私に言った。
﹁あの⋮⋮できることはしてくださるってお話、本当、ですよね?﹂
﹁は、はい。私でできることなら!﹂
返事をした私の腕を捕まえて、カインさんが困った表情で制止し
てきた。
﹁キアラさん、そんな簡単に請け負っては⋮⋮﹂
﹁大丈夫ですよ、言ってみてください!﹂
促すと、兵士さんは思いきったように願望を口にした。
﹁土の巨人の肩に乗ってみたいんです!﹂
ゴーレム
ゴーレム
その兵士さんによると、ひそかにそう思っていた兵士さんは多か
ったらしい。
なので私は土人形の肩にその兵士さんを乗せ、自分は土人形の掌
の上に乗って動かしながら、野営地の周囲をぐるりと一周した。
それを見ていたギルシュさんがぽそりとつぶやいた。
974
﹁子供が見たら、遊びたくなる感じよね。一回あたりの料金を設定
して、遊具として商売ができそう﹂
傭兵だからなのか、ギルシュさんがとらぬ狸のなんとやらを始め、
ジナさんに呆れられていた。
﹁それにしてもあれは一体何だったのか⋮⋮﹂
私は首を傾げる。
その直後に、プロペラだけ動かしてみたんだけど、プロペラを回
す分だけ浮くけれど、空気が吹きだすことはない。
原因を追及したいが、今は時間がないので後日にしよう。
ちなみに、私が掴むことができる大きさの代物を作ったら、重さ
で浮かず、やがてプロペラの石の方が折れて飛んで行き、カインさ
んに﹁わあああああっ!﹂と珍しくも悲鳴を上げさせてしまった。
その後危険すぎるからと、使用を止められました。
うん⋮⋮自分でもあれは危険だと思った。
そんなわけで、イニオン砦では、私は実に地味な手に出た。
レジーには、兵を矢が届かない場所で待機させてもらった上で、
ゴーレム
私とカインさんだけちょっと前へ出る。
そうして土人形を作成。予定通り、遠隔操作にて対応した。
ゴーレム
まずは門の前に、土人形の手に握らせた銅のカケラをいくつか落
ゴーレム
とさせておく。
その間にも土人形には矢が降り注ぐが⋮⋮領境の森で射られた時
ゴーレム
より矢の数がすごい。一点だけの的に集中しているせいだろう。
やっぱり土人形に乗らなくて良かったようだ。
975
ゴーレム
それをいいことに、私はカインさんと共に、土人形を城の矢から
盾にできる場所を狙って近づいた。
ゴーレム
﹁キアラ!?﹂
土人形とは一緒に行動しないと言っていたからか、驚いたレジー
が止めようとするが、それを遮ったのはカインさんだ。
﹁お守りしますので、大丈夫です﹂
今日は盾を手に持っていたカインさんは、レジーに答えると、前
側に乗った私を庇いながら、城壁の様子がそこそこ見える場所まで
移動してくれた。
ゴーレム
これで準備完了だ。
まず、土人形には近くにまた銅の欠片を放り出してもらう。
﹁大きい穴⋮⋮ていっ!﹂
キープ
そこそこ大量の物が入るだろう、深さは二階建ての家、広さは砦
ゴーレム
の主塔ぐらいはありそうな穴を作成。
ゴーレム
その後で土人形を砦の壁に向かって進ませる。
ゴーレム
ルアイン兵は焦ったように土人形に矢を射かけさせ始めた。おか
ゴーレム
げで土人形の前側がハリネズミっぽくなってきた。
でもちゃんと動くし、矢を刺しただけでは土人形のHPには問題
が出ないのかな? やっぱ倒すなら削るとかしないとだめなんだろ
う。
ゴーレム
痛覚などない土人形は、矢を無視して城壁上に手を置き、砂を集
めるようにそのあたりの兵士を掌の中に集めた。
兵士達をそのまま持ち上げ、先ほど作った穴の中へ移動してしま
976
う。
城壁の上にいるルアイン兵は、矢を射かけることを忘れたかのよ
ゴーレム
うに、呆然とその光景を見ていた。
土人形に持ち上げられた人々は、絶叫しながら穴の中に降ろされ
て、これまた呆然としている︱︱中には気絶している人もいるけれ
ど。
﹁穴は、簡易地下牢か﹂
師匠がほほぅとつぶやいた。
﹁そんなもんです。これでちょっと地味ですけど、ルアイン兵を無
力化できる場所にせっせと移動させて、安全確保しようかと﹂
壁も壊さないので、レジーの要求は満たしているはずだ。
﹁ま、直接お前さんが手を下さないで済む上、壊さないという問題
も満たしたわけか。しかし穴の中に置いておいた奴らは、どうする
んじゃ?﹂
それを聞かれると辛い。けれどこればかりはどうしようもない。
﹁始末は⋮⋮レジーに任せます﹂
身代金を引きだすため、捕虜にするという方法もある。
労働力が減りすぎるのも国にとっては痛い。多少の兵は領主から
の申し出で、ある程度の人数は身代金で国に戻る機会がある⋮⋮命
さえあれば。
だけど輸送や引き取りにくるまでの間、多くのルアイン兵を抱え
るのは負担になる。
その負担が重すぎると判断したら⋮⋮レジーは彼らを殺すと決め
るだろう。
977
ルアインの方も、耕作地での労働力と天秤にかけ、問題がなさそ
うなら切り捨てるだろうし、基本的には末端の兵は、負けたら死ぬ
ものとして放置されるのだ。
私にはその判断まではできない。
それに今さら、キアラが彼らの命を惜しむ資格など無い以上、何
も言えない。
ゴーレム
話している間にも、土人形は淡々と作業を終える。
それでもルアイン兵達は、しつこく上に上がろうとしてきたが、
そこは土を盛って容易には上がれないように、歩けないようにして
しまう。
けれどこれでは籠城されるだけ。
なので私は二つ目の手段にとりかかる。
ゴーレム
土人形を移動させ、城門を破壊させたのだ。
木と鉄柵とで二重に作られた門は、ちょっと手間取ったが無事に
壊すことができた。
この辺りでちょっと疲れていたが、まだやれる。
ゴーレム
最初こそ、ルアイン兵は門周辺に物を積み上げてなんとか塞ごう
としていたが、私が土人形に、城内へ向かって土砂をざらーっと何
ゴーレム
度も落とさせていると、中にいても無駄だと諦めたようだ。
門からルアイン兵達が一斉に出てくる。
そうして突撃しようとしたかれらの足下に、先ほど土人形に撒か
せた銅の欠片をつかって穴を作成した。
疲れから失敗したのか、やや浅い穴になってしまったが、人馬が
978
倒れ込んで十分にルアイン兵の勢いは殺せたようだ。危なかった⋮
⋮。
そこにレジーの指揮で、ファルジア軍が襲い掛かって行った。
979
イニオン砦救出作戦 4︵前書き︶
今回ちょい短いです。救出作戦は5までの予定です。
980
イニオン砦救出作戦 4
ここから、私は次の行動に移る。
﹁じゃ、カインさん城壁まで行きましょう﹂
﹁⋮⋮わかりました﹂
促せば、カインさんはやや苦い表情をしながらも、うなずいてく
れる。
身の安全のことを考えれば賛成し難い状況だけど、協力すると決
めた以上は拒否できないと思っているのだろう。
ゴーレム
土人形は崩さずに、そのままオブジェとして置いておいた。少し
の間は、これに視線が集中して、私達のことから気がそれるだろう。
その間に、私とカインさんは城壁の傍まで行き、馬を降りた。
カインさんは馬だけ自陣へ戻す。
その間に私は、砦の壁に穴を開けた。
イニオン砦の中に、潜入するためだ。
ここを攻撃するにあたって、一番危惧されるのは人質の安否だ。
いざとなったら盾に使う可能性もある。一番身分が高い人質のため
に、身分の低い人質である分家の女の子が、見せしめに殺される可
能性だってあった。
逃げられるともっと困る。
もちろんレジーの方でも、そちらへ差し向ける人員は用意してる。
けれど彼らが人質の居場所に到達するまでは、城門で押し返そう
981
とするルアイン兵を倒して、さらに途中で妨害してくるだろう他の
兵を倒さなければならない。
通常の攻城戦から考えると、かなりの短時間で砦攻略を行ってい
るとはいえ、城門を突破されたらすぐに人質を移動させようとした
りするはず。
だから急いで、キアラは彼女達の居場所をつきとめ、石の壁を築
いて匿いたかったのだ。
よってこの潜入を決行することにした。
ただ二人きりでの行動なので、あまり敵兵に姿をさらしたくない。
そのため城壁に穴はあけたものの、壁の向こうまで通じるものには
しなかった。
厚い壁の内部を進むのだ。
時々のぞき穴を作って、中の状況を見て移動する。
通路を作りながら少しずつ進んでいると、三度目に覗き穴を作っ
てみたところで、見える範囲には人影がほとんどいない場所に出た。
城門から離れた場所から入り込んだのは、正解だったようだ。あ
ちらに人が集中しているのだろう。
﹁土の巨人は動かないぞ!﹂
﹁もう魔術師の力が尽きたんだ! なんとか押し返せ!﹂
そんな声が聞こえてくる。
移動するには調度いいので、カインさんにも外の様子を見てもら
い、判断を仰ぐ。
﹁どうですか?﹂
﹁この距離なら、走ればなんとかなるでしょう。一応向かい側に見
える内砦の主塔や、壁上にいる見張りには気付かれるでしょうが、
982
見張りが叫ぶ前に入ってしまえば、似たような手段で移動したら十
分に逃げられると思います。こちらがどの辺りに居るのか、相手に
は補足できなくなるでしょう﹂
イニオン砦は、外側の城壁の内側に、また砦を作ったような形を
している。
そのため、大抵の砦は主塔も何もかも壁にくっついて作られてる
のが常だけれど、ここの主塔や建造物は内側の砦にある。
ということは人質を閉じ込める牢もそっちにあるのだ。
なので内砦に忍び込まなければならない。
﹁行きましょう﹂
カインさんの指示するタイミングで、私は目の前の壁を通り抜け
られる分だけ砂にして崩し、出口を作る。
手を引かれながら走った私は、緊張で周囲の物音を拾うどころじ
ゃなかった。
ゴーレム
戦場は慣れてきたけれど、潜入なんて初めてだ。
しかも土人形に乗っているというイニシアティブ無し。けっこう
恐ろしい。あげくの上に味方が周囲に居ないのだ。
大勢味方がいたらいたで、忍べないので困るのだが心細い。
無我夢中で足を動かし、なんとか転ばずに内砦の壁に張りついた
しへき
瞬間に、壁に穴を開けた︱︱が。
﹁壁うっすい?﹂
穴を開けてみたら、砦壁内に通路があったらしく、そこへ入り口
を開けただけになってしまった。
その上、すぐ横には一人の兵士がいた。
983
通路だから採光口から光が入っても、薄暗い場所だけど、あなた
の着ているのが黒いマントってことは、ルアインの方ですね? な
んて尋ねる必要すらない。
だから敵だとわかっているのに、驚き過ぎて私は硬直した。
そんな私を、カインさんが抱えて走り出した。
﹁キアラさん、正気に戻って下さい!﹂
﹁わ、わ、わ、うわぁぁぁぁっ﹂
今頃小声で叫びながら、私はカインさんに連れていかれ、急いで
そこから逃走した。
けれど突然の遭遇に驚いたルアイン兵も、私同様にしばらく硬直
してくれていた。
ややあって追いかけてきたけれど距離がある⋮⋮って、他の方向
からも来た! 慌てて中庭に向かって入り口を開けて砦壁の中から外へ出る。
出てもそこは、挟み撃ちされない場所というだけだ。
砦ってことは構造的に壁の向こうは中庭みたいになっているから
して、内側で働ている兵がいるわけで。
案の定、遠くに固まって内門を固めようとしていた人達の何人か
が、こちらに気づいてしまった。
しかも明らかにうろついているわけのない女と、青いマントを羽
織ったカインさんを見て、すぐに敵認定したのだろう。こっちに向
かって来る!
﹁ひぃいぃぃ!﹂
またしても腕を引っ張られるがままだけど、必死に足を動かした。
984
﹁キアラさん、早くこの辺りで!﹂
カインさんに急かされるままになんとか入り口を作成。
今度はどこかの部屋に入ったみたいだ。
急いで穴をふさぎ、さらにカインさんに従って走って、次の部屋、
次の部屋へと移動して⋮⋮ようやく行きついた所には、兵士の姿は
なかった。
出入り口にした場所をふさいで、ほっとその場に座り込んでしま
う。
静かな場所だったから、私の呼吸音がやけに耳につく。
そこは、礼拝堂だった。
石畳の床が広がるのは、ほんの二十人くらいしか膝をついて座る
ことができない面積しかない。静かに司祭や修道士の説法を聞くた
めの椅子などもない。
狭いけれど天井が高く作られ、人に運命を知らせる夢を与えると
いう運命の女神の像が祭壇に飾られているだけだ。
﹁ここが礼拝堂⋮⋮てことは﹂
元はデルフィオン男爵家が管理していた砦だ。
内部構造については、アーネストさんから図を描いてもらってい
た。
紙を広げて、カインさんと場所を確認し、次に移動する方向を決
めた。
985
イニオン砦救出作戦 5
不意にぎょっとした顔で、グロウルが振り返る。
﹁どうかした?﹂
尋ねれば、グロウルは﹁いえ⋮⋮﹂と戸惑うように前へ向き直っ
た。
おそらく舌打ちが聞こえてしまったのだろう。あまりに無いこと
だったので、驚いたに違いない。
レジーとしても舌打ちなどしていないで、このまま馬を走らせた
い。
前線の中を先陣を切って砦の中へ飛び込んで、中に突入したキア
ラを確保できたら気分が楽になるだろう。
でもレジーが不用意に動くわけにはいかない。
自分が出ていく必要がある場面は今ではないから、城門を突破し
ていく兵達の姿を見守る。
ウェントワースを信じていないわけではない。
命と引き換えにしてでも、キアラを守るだろうとは思う。彼がそ
れに関して言葉を違えることはないと信じていた。アランやレジー
達を護衛し続けてきた人物でもあるのだから。
なのに、最近はやや不安にも感じていた。
その理由は分かってはいる⋮⋮ウェントワースとキアラの距離が
近くなったからだ。
きっかけを作ったのはレジー自身だろう。
986
キアラの願いを拒否し続けていた。だからレジーよりも同調して
くれそうなウェントワースを、仲間に引き入れることにしたに違い
ない。
それならそれで、ある程度は彼女を止めてくれたらと思うのだが、
ウェントワースは完全にキアラを制止しなくなってしまったようだ。
二人だけで城内に潜入するほど、無謀な行動ですら、だ。
それをウェントワースが許すということは、キアラと何か特別な
約束でもしたのだろうか、とレジーは思ってしまう。
彼女に選ばれるために、ウェントワースが全てを受け入れると決
めて、それをキアラが了承したのだとしたら⋮⋮。
﹁もう完全に、手放すべき⋮⋮なのかな﹂
彼女がもしウェントワースを選んだのなら、レジーは認めるしか
ないと思っていた。
キアラを縛りたくなかった。
抜けだせない状況に疲れ果てるのは自分だけでいい。キアラはせ
っかく繋がれていた場所から逃げだしたのだ。自由でいて欲しい。
それが彼女を守れる一番いい方法でも、閉じ込めることなどレジ
ーにはできない。想像して、そうできたらと願っても、したくはな
かった。
そう思うからこそ今までだって、迂遠な方法で止めようとしてき
たのだ。
そんな彼女が、自由意志で決めたのなら、レジーに反対すること
などできない。
だからキアラが怪我をしたことにウェントワースの件が絡んでい
ても、結局彼には何も言わなかった。キアラは既に別な人間の手を
借りて、その問題を終わったこととしたようだし。
987
それでもウェントワースを傍に置き続けているのだ。キアラの意
思を無視している様子もないとなれば、口は出せない。
たとえ心の中にわだかまるものがあっても⋮⋮。
ただ、やはり心配は残る。
キアラが強いのは知っている。けれどいつでも災禍を跳ねのけら
れるわけではないだろう。
急いで砦の攻略を終えることでしか、キアラを守る術はないと気
持ちを切り替える。
兵は既に門を突破した。砦の外に出ていたルアイン兵の中には、
逃げていく者もいる。もうすぐ門内での闘争も終わり、次の段階へ
進めるだろうと思ったその時だった。
門の内側で一際大きく悲鳴が上がった。
燃え盛る炎に包まれた兵士が転がるように出てきて、味方の兵士
に土を被せられて火を消されている。
押し返されてくるのは、ファルジアの兵だ。
おそらく魔術師くずれが出たのだろう。
氷の魔獣を従えた傭兵ジナが、走って行く。
混乱するだろう前線にはキアラを投入できないので、魔術師くず
れが出た場合に、ジナとギルシュが駆け付ける手はずになっていた
のだ。
﹁行こうか、グロウル﹂
うなずくグロウルを連れたレジーは、槍を手にしながらも馬を降
りて門へ向かった。
砦の中に入れば、馬は邪魔にしかならないからだ。
988
駆け付けた門の中では、決められた通りに歩兵達は魔術師くずれ
を遠巻きにしながら、他のルアイン兵に専念し、ジナとギルシュが
炎が広がらないように氷狐達を動かしながら守り、その合間に弓兵
数人と共に攻撃を加えようとしている。
けれどその兵士は、やや適性があったのだろうか。
自分の体から煙をくすぶらせ、手から流れる血をばら撒いては、
その血から炎を発生させて、周囲に火柱を絶え間なく上げていた。
射られた矢は、ほとんど魔術師くずれの体に触れる前に燃え上が
ってしまっている。
﹁お先、失礼します殿下﹂
レジーの騎士、砂色の髪のフェリックスがそう言って前に出る。
フェリックスは手に持っていた槍を構え、勢いを付けて投げた。
一度空を目指して高く飛んだ槍は、魔術師くずれの頭上に来たと
ころで、鋭い切っ先を向けて落下していく。
燃え上がることなく魔術師くずれを目指した槍だったが、体を貫
くことができず、皮膚と肉をいくばくか斬り裂いた。
﹁うわ、外したっ!﹂
フェリックスは悔し気に叫んでいたが、レジーにはそれで十分だ
った。
レジーは、槍が投じられると同時に走っていた。
槍を避けた魔術師くずれを、自らが持つ槍の先で刺し貫く。
眉間に槍の先を受けた魔術師くずれは、次の瞬間全身が燃え上が
り、数秒で黒い砂に変わって消えた。
◇◇◇
989
私はアーネストさんに描いてもらった図を見て、おお、と声を上
げかけた。
目指す牢に改修したという城塞塔が、すぐ近くにある。これはい
い。
﹁魔術の方は、まだ使えますか?﹂
尋ねるカインさんに、私はちょっと目を閉じて自分の体の様子を
測る。
ゴーレム
多少疲れているけれど、まだ大丈夫。銅鉱石も持っているし、ま
だ土人形を出して壁を破壊する程度はできるだけの魔力は扱えるだ
ろう。
⋮⋮と、そこでふと変なことに気付く。
﹁え、あれ⋮⋮?﹂
走ってばかりで気付かなかった。ぜいぜいといっていた呼吸が治
まっても、まだ少し胸苦しさがある。
どこからか届く小さな波。それが伝わるごとに、心臓が強く拍動
するような⋮⋮。
﹁まさか、魔術師くずれがいる?﹂
師匠を探していた時、感じていたような感覚だ。あとは魔術師く
ずれが近くにいる時。
方向を探れば、なんとなく二方向のように思える。
一方は砦の門の方だ。
そっちはジナさん達が備えていてくれたはず。でももう一方は︱
︱目的地の城塞塔の方、の気がする。
990
﹁どうしました?﹂
﹁カインさん、急ぎましょう。人質が魔術師くずれにされてるかも
しれません!﹂
私は急いで、城塞塔に近い壁へ駆け寄った。
﹁あまり力を使い過ぎないで。隣は司祭の部屋です、こちらから入
りましょう﹂
カインさんに言われ、一理あると思った私は彼と一緒に祭壇の横
にある扉へ向かう。礼拝堂が使われていない様子から、司祭は居な
いのだろうから。
それでもカインさんは慎重に扉を開いた。剣を構えて中を確認し、
それから私を呼んでくれる。
案の定司祭は常駐していなかったらしく、石壁に白漆喰を塗った
簡素な部屋には、寝具の無い木の寝台、書き物机が置いてあるだけ
だった。
扉を閉めてしまうと、司祭の部屋からは出る扉がない。外郭の砦
壁が見える窓くらいしか出入りできそうにない。
カインさんは扉の鍵を閉める。
﹁まずは壁の向こうを探った方が良いでしょう。人質を上階にまと
めて、下の階を兵士達が固めている可能性もあります﹂
﹁そしたら、直接上に行った方がいいですもんね。わかりました﹂
万が一ルアイン兵との戦闘に時間をとられて、その間に人質が魔
術師くずれに全滅させられてしまうかもしれないからだ。
もしそうではなかったとしても、こっそり連れ出して、こっそり
戦闘が終わるまで匿えるのが一番だ。
991
私は壁の向こう側へ通じる小さな穴を作る。前世の玄関扉にある、
のぞき穴くらいのものを。
すると向こう側に人がいたようで、声が聞こえてきた。
﹁今投降するならば、貴方の身の安全を保障してさしあげます、と
言っているのです﹂
﹁う、うそをつくな。たかが人質に、そんな権限があると思ってい
るのか!﹂
﹁くくっ⋮⋮権力に近い人間の妻子だからこそ、人質にしたのでは
ありませんか? 私たちは父や夫、親族に権力者と近しい者がいる
わけです。きっとここを襲撃している殿下にも、お話を通してみせ
ましょう。あなた方数人くらい、なんてことありません﹂
﹁⋮⋮?﹂
私は首をかしげる。なんだか様子がオカシイ。
投降を呼びかけているのが、女性の声だった。信じられないと言
っているのが男の声。
しかも女性の笑い方がやけに悪役じみている。
困った末に、カインさんにも聞いてもらった上で、穴を手で塞い
でこそこそと相談する。
﹁これ、たぶん捕まってる方達⋮⋮ですよね?﹂
﹁自分で志願して来なければ、女性を兵としては使いませんからね
⋮⋮。そう考えるのが自然だとは思いますが﹂
にしても、状況がよくつかめない。
もう少し向こう側の様子をさぐるため、私は向こう側の壁を残す
ようにして、分厚い石積の壁を砂に変えていき、その上でもう一つ
992
のぞき穴を作って、カインさんと共にあちらの様子を覗いた。
壁が分厚くて、ゆうに一メルほどあったせいで、さっきは音を拾
うだけで何もよく見えなかったのだが、今度は大丈夫だった。
城塞塔の一階も、牢として作っていたようだ。
漆喰で綺麗に化粧されているわけではない、無骨な石がむき出し
の壁の部屋の中、鉄格子の向こうには十五人の女性達がいた。
まだ一桁年齢の子供も二人混ざっている。
残り半分が若い女性。残りが分家や男爵家の奥方なのだろう、年
かさの人達だ。
彼女達の先頭に立っているのは、私とそう年が変わらない、暗い
色の真っ直ぐに長い髪の少女だ。
まっすぐに背筋を伸ばした彼女は、物静かそうな面立ちながら、
灰紫の瞳を牢の外にいる兵士達に向けている。
ルアイン兵は三人いた。
中の一人が、女性を羽交い絞めにしている。
私より一つか二つ上の年だろう彼女の、シニヨンにしていた薄茶
の髪はほつれ、青緑のやや吊り気味の目が苦し気に細められていた。
でもこの状況なら、兵士達が女性達を脅しているはずなのに、先
ほどの会話は何なのか。
悩んでいる間に、どうやら内側の砦にレジー達が攻撃を仕掛け始
めたのだろう。窓から剣を打ちあわせる音や、叫び声が聞こえ始め
た。
イニオン砦は、内側の壁には随所に出入り口が作られているので、
外の砦を越えてしまえば侵入路はいくつでもあるのだ。
993
﹁ほら、もう考えている時間は残り少なくなりましたよ? その女
性を離して、わたし達の元に投降なさい﹂
暗い色の髪の少女はそう兵士達に語りかけた。兵士達の方は、外
の喧騒に怯え始めながらも動かない。
それにしても⋮⋮と私は思った。
魔術師くずれの姿がない。
この場所ではないのだろうか⋮⋮。それならその方がいいんだけ
ど。ジナさん達が駆け付けられる場所にいるのなら、マシだ。こん
な戦闘能力がなさそうな女性達の中にいたら、全員死んでいてもお
かしくないのだから。
それでもこのままにはしておけない。
私はカインさんとうなずきあい、壁を一気に壊してその場に飛び
出した。
カインさんは、真っ先に人質を羽交い絞めにした兵士を襲う。一
気に剣を突き刺し、女性を引き離して背にした牢の方へと庇った。
その間に牢の傍で壁に触れた私は、一気に兵士達との間に石の壁
を築こうとしたが、
﹁くそっ!﹂
一人の兵士が、赤い液体が入った小瓶を取りだした。そしてカイ
ンさんに刺されて倒れた兵士の口に、中身を突っ込む。
私の心臓が、驚いた時のように強く脈打つ。
とたん、倒れていた兵士の体が氷ついた。
傍に膝をついた兵士も凍り付く。
私が無意識に攻撃に転じた。
気付いた時には、作りかけていた石壁を何本もの鋭い槍のように
994
伸ばし、倒れた兵士の体を貫かせていた。
ふっと背筋が凍るような冷気が漂った直後、兵士は砂になった。
凍り付いた兵士はそのまま。物言わぬ躯になってしまっている。
残りの一人は、この事態に気絶してしまっていた。
私は石の槍を元の壁に戻す。
そうしてカインさんが気絶した兵士を拘束する中、まずは助け出
されて呆然としている女性の手を握って尋ねた。
﹁大丈夫ですか? 怪我はしていませんか?﹂
﹁え⋮⋮ええ﹂
曖昧な表情でうなずく。薄茶色の髪の彼女は、まだショックから
抜け出られないようだ。
とりあえず怪我もしていないようなのでほっとするが、ふとまだ
私の胸苦しさが消えていないことに気付く。
ごく近いその方向を見れば、助けた薄茶の髪の女性がいる。
まさかと思ったが、ふと彼女が首から下げたペンダントの石に目
を引かれた。赤黒い⋮⋮暗くてはっきりと色が見分けにくいけれど、
これは契約の石だ。
私はほっとする。この石のせいで魔術師くずれがいると勘違いし
たのかもしれない。
とにかく状況を知らせようと考えた私は、兵士を脅していた真っ
直ぐな髪の人に話しかける。
﹁私、ファルジア第一王子レジナルド殿下の元にいます、魔術師で
す。皆さんを助けに来ました﹂
すると真っ直ぐな髪の人が、私にすっと一礼して名乗った。
995
﹁デルフィオン男爵ヘンリーの弟、アーネスト・フィナードの娘エ
メラインでございます。わたくし達と、そちらのエイダもお救い頂
きありがとうございます、魔術師様﹂
なるほど、この人がエメラインさんか。
思わずまじまじと見てしまっていた私は、斜め横にいたエイダさ
んが、唇を噛みしめて私を見ていたことに気付かなかった。
996
イニオン砦の戦闘後
レジー達が砦を制圧するまでの間、私はさすがにカインさんから
止められて、城内の乱戦に加わることはなかった。
⋮⋮まぁ、結構疲れていたから、途中でへばって足手まといにな
るだろう、というのも大人しくしていた理由の一つだ。
師匠にも﹁そろそろマズイじゃろ、イッヒッヒ﹂と言われたし。
人質になっていた女性達を守るため、私は城塞塔の扉を全て石壁
で埋め、カインさんと一緒に塔の上から状況を観察していた。
その間女性達はというと、一か月近く暮らしていた牢の各部屋へ
と戻ってもらった。
やはりルアイン側も彼女達にすぐ死なれたり病気をされては困る
からと、出入り口は鉄格子ながらも、必要な家具や寝具を提供はし
ていたようで、2∼3人ずつの相部屋だったが、きちんと休めるよ
うに物が揃っていたからだ。
レジー達が攻めてきたことで、ルアイン側は彼女達を一階の牢に
集めていたらしい。
万が一人質が奪われそうになった場合、誰か一人を魔術師くずれ
にして、対抗する予定だったようだ。
それを止めていたのがエメラインさんだったとか。
詳しいことまでは話せなかったが、概要としてはそういうことだ
ったらしい。
色々とまだ気になることはあるけれど、彼女達と話し合うのは後
にするしかなかった。
997
まずは戦が終わるのを待つしかない。
私は城塞塔屋上の、矢はざまから様子を見ることにした。
必要なことだったけれど、私は見たことを少し後悔する。
砦の中へ入ってからは、敵味方が入り混じる乱戦になっていた。
広い戦場とは違って、建物の中で息絶える人の姿というのは、日
常生活に近い感じがするせいでまた違った凄惨さに⋮⋮忘れかけて
いた怖さを思い出しそうな感覚に、少し身震いする。
青いマントの兵士も、黒いマントの兵士も血にまみれて倒れ伏し、
壁に寄りかかって座ったまま息絶えていく。
ルアイン兵の中には、デルフィオン男爵家の兵もいるだろう。
同じ国の人が戦ってしまっていることを思うと、もう少しどうに
かできなかったのかと、そんなことを思ってしまいそうになった。
﹁目を閉じて、休んでいてもいいんですよキアラさん。私が見てい
ますから﹂
カインさんがそう言ってくれるけれど、私は首を横に振る。
﹁大丈夫です。むしろ⋮⋮どうして私、こんなにも慣れるのが遅か
ったんでしょう﹂
戦争に行けと言われれば、怖いとは思うだろう。
殺されたい人など居ない。けれど殺すことそのものをためらった
ままの人は、兵士にもいないように思う。
この世界の人が、戦うことに、疑問を持っていないからだろうか。
でも私だって、ルアインと話し合いをもったからといって、軍を
引いてはくれないだろうとわかっている。
要求を通すためにも、力を示すしかない。侵略された立場では無
視されてしまうから。そのための戦いで、必要で、だけど時々苦し
い。
998
まるで目の前にいる、もう一人の自分を殺しているみたいで。
﹁ずっと、私達があなたを止めていたせいでしょうか。ある意味、
貴方に慣れさせないようにしてしまっていたのかもしれませんね﹂
カインさんはそんなことを言う。
﹁逃げてほしいと言い続けていたら、戦うことをためらっても仕方
ないでしょう﹂
本当にそうだろうか、という気持ちもある。けれど気遣ってくれ
ているのだろうカインさんに、そんなことは言えない。
そして戦いが終わるまで、一時間ほどかかった。
直後に、私はまずギルシュさんの襲撃に遭った。
﹁んまあキアラちゃん! 怪我はしていない? 大丈夫ううう!?﹂
主塔の旗が変わったのを見て、城塞塔から降りた私は制圧を指揮
していたグロウルさんの元へ報告と状況を聞きに行ったところだっ
た。
横からすっ飛ぶように走ってきたギルシュさんにぎゅーっとされ、
肩を掴まれて前を確認される。次にくるりと後ろを向かされて、そ
っちも怪我がないのをざっと確認された。
そのとたんにギルシュさんは﹁いいわよん﹂と言ってどこかへま
た走り去る。
あっけにとられていたグロウルさんに聞けば、どうもギルシュさ
んは縫いの技量を見込まれて、怪我人の看病の方へ回っているらし
い。
ジナさんもそっちの応援をしているようだ。怪我の血止めや打撲
や骨折部の治療に、氷狐達を使っているんだとか。
999
﹁あ、なるほどー﹂
うなずく私に、カインさんからそちらへ行ってはどうかと言われ
たが、私は首を横に振った。
怪我の手当てが上手いわけではないので、それならけが人を運ぶ
手伝いをしようと思ったのだ。
さきほど戦況を観察しながらじっとしていたおかげで、魔力も安
定しているように思えたので。
ゴーレム
報告のたぐいをカインさんに任せ、私は近くの壁を材料に、紙人
ゴーレム
形みたいな石人形を作りだした。
石人形の背丈はカインさんやグロウルさんよりも高いので、大柄
な人も楽々運べるだろう。
ゴーレム
長時間剣を振り回し、走って移動したりを続けていた兵士さん達
は、無事な人も疲れていただろう。
喜んで私の手を借りてくれたので、石人形を四体ほどに増やして
けが人を抱えて、ギルシュさんのいる砦の広間と他の場所を何度も
行き来した。
ゴーレム
持つのは石人形だけど、付き添って歩いたのでけっこうな運動量
になった。
体力的にきつくなったところで一度休んだ頃には、砦の中の掃討
も終わっていた。
そうして体力無しの私は、休めそうな場所に案内してもらったと
たん、ご飯も食べずに眠り込んでしまったのだった。
どうやらその間に、レジーの軍を追ってきていたアーネストさん
やルシールさんと、フィナード家に集まっていたデルフィオンの兵
士達が合流してきていたようだ。
1000
ようだ、というのは、私が到着現場にいなかったので、伝聞で知
ったからだ。
魔力を思ったより使いすぎたのか、昼近くになってようやく目を
覚ましたせい。
一人だけこんな時間まで寝こけていたのかと思うと恥ずかしかっ
たが、周囲も魔術師はそんなもんだろうと思ってくれていたらしい。
そろそろ食事をした方がいいと、起こしてくれたジナさんがそう
言ってくれた。
﹁ルナール達もね、あまり力を使わせると半日以上眠ってるわ。今
日は面倒見のいいリーラと戦闘で消耗してたルナールがぐっすりで。
サーラが二人を看てるのよ﹂
﹁あ、そういうものですか⋮⋮。魔術師になった後とか、熱出して
寝込んだりもしたんですけど、ただ眠ってるってこと少なかったも
のですから、そういうものだとは思ってなくて﹂
答えながら、ジナさんが持ってきてくれたスープとパンだけの食
事をさっさと食べてしまう。
﹁お前の魔力が多いからじゃろ、ククッ﹂
横から意見したのは師匠だ。
師匠は窓際に座らせている。食えもしない食事の前に座るなど、
拷問かと言われたので。
﹁それで、アーネストさん達はどちらに?﹂
﹁今、レジナルド殿下とお会いになってるはずよ。男爵のお嬢さん
は、人質になってた人達のところにいるみたい﹂
﹁あ、そういえば人質になってた方達、お世話とか大丈夫なんでし
1001
ょうか﹂
そもそもは分家とはいえ貴族に連なる家の人だ。自分達だけで何
でもこなすのは難しいだろうに。
﹁大丈夫みたいよ? ここで働いてた人達もいるから﹂
そういえば急襲したようなものだから、砦には内部で掃除や料理
などをしていた非戦闘員も残ってたのだろう。
﹁その人達は、無事だったんですか?﹂
﹁非常事態って鐘が鳴らされてすぐ、地下室に隠れたらしいわ。元
はデルフィオンに所属していた兵士も、その人達が隠れるのに協力
したみたいだし﹂
﹁そうですよね⋮⋮﹂
非戦闘員がその場にいたら、巻き込まれても文句など言えないの
が、この世界での戦争だ。
同国人なら、お互いに助けようとするだろう。けれどそのデルフ
ィオンの兵達の方は⋮⋮。無事に投降とか、逃げるとかできていた
らいいなと思う。
けれど私に、その全てを救い出すことなど不可能で。
せめて最初に城壁の上から移動させた兵士達の中に、そういった
デルフィオンの人がいたらいいと思う。
たぶんレジーなら、忘れずにルアインの兵士とは分けて考えてく
れていると思うんだけど。
でも敵味方で戦っちゃったら、何か罰とかあるんだろうか。
どうなるのか知りたかった私は、食事を終えるとすぐにレジーを
探すことにした。
1002
エメライン
レジーを探していたら、グロウルさんを先に見つけた。
レジーは部屋の中で、アーネストさんと話をしているという。今
後のことを打ちあわせているらしい。
だからグロウルさんが何か知っていないかと思って聞けば、デル
フィオン出身の兵については、レジーも考えがあるらしいことはわ
かった。
グロウルさんから私の心配事については伝えてくれると言われ、
彼からはアーネスト氏の娘であるエメラインさん達の方についての
ことを頼まれた。
女性ばかりなので、この砦に勤めていた人達に世話を任せている
が、様子を見てきてほしいようだ。
特に、あのエメラインさんが私と話をしてみたいと言っていたと
いう。
それならと、私は件の城塞塔へと向かった。
城塞塔の雰囲気は、ずいぶんと変わっていた。
昨日までは息をひそめて過ごす場所というイメージがあったのだ
が、今日は訪れる人などもいるせいなのか、集合住宅にやってきた
ような感覚があった。
ずっと閉じ込められていたり、魔術師くずれと一瞬だけとはいえ
戦闘行為もあったり、あまり良い印象のない場所だと思う。
だから囚われていた人に引き続きここに居させることに後ろめた
い気持ちもあったのだが、相手の方があまり気にしていないようで
良かった。
1003
訪問者は、アーネストさんのところへ集合していた分家の人や、
家族のようだ。
再会できた喜びに笑顔を浮かべている人も、既に家族が失われて
しまったのか、知らせを運んだ人に縋って泣いていた人もいる。
エメラインさんは、城塞塔の一番上の階の部屋にいた。
彼女にくっついて、ソファ代わりの寝台に並んで座っていたルシ
ールさんが、先に私に気付いた。
﹁あ、キアラ様!﹂
黒茶色の髪にいつか見たのと同じ緑のリボンをつけたルシールさ
んが、ぱっとこちらを見て手を振る。
部屋の壁はあるけど、扉は相変わらず鉄格子で向こうが見えちゃ
うんだよね。
私が作ったら石になっちゃうので、大工さん求む。これもあとで
誰かに要望しておこう。
﹁どうぞお入りになって下さい﹂
顔をこちらに向けたエメラインさんが、そういって立ち上がる。
中に入った私の前までやってきて、手を差し出しながら彼女が言
った。
﹁すでに一度自己紹介させて頂きましたが、エメライン・フィナー
ドです。ご足労いただいてありがとうございます。まだ戦後の始末
が終わっていないこともある上、男性ばかりなので歩き回らない方
がいいと言われまして、ここを動けないものですから﹂
﹁いいえ、私もエメラインさんとはお話ししてみたかったので﹂
1004
﹁なぜ?﹂
不思議そうに首をかしげる彼女に、私は苦笑して言った。
﹁昨日、ルアイン兵とエメラインさんのやりとりが面白かったもの
ですから﹂
人質だというのに、見事な脅し文句だった。
面白かったと言われたエメラインさんは、目をまたたいている。
すると隣にやってきたルシールさんが笑った。
﹁ほらね、この方ならお姉さまのことも引いたりしないって言った
でしょう?﹂
﹁本当だったわねルシール﹂
この会話から察するに、エメラインさんは言動で数々の人をドン
引きさせてきたようだ。
が、続けて不思議なことを言い出す。
﹁でも、やはりキアラさんはそうでなければと思っていたわ﹂
﹁やっぱりこの方なの?﹂
﹁間違いないわ﹂
話が見えなくて頭をひねっていると、とりあえず座ろうとエメラ
インにうながされる。
そうして書き物机ようの小さな椅子に私は座り、その向かいの寝
台にまたエメラインさんとルシールさんが座った。
そうしてエメラインさんが実に単刀直入に切り出した。
﹁実はわたし、貴方にお会いしたことがあるの﹂
﹁え!?﹂
1005
会ったことがあるってどこで? 全く見覚えがないよ⋮⋮。
思ったことがそのまま顔に出ていたのだろう。エメラインさんが
小さく笑う。
﹁覚えていらっしゃらなくても仕方ないわ。あまり関わらなかった
し、同じ場所にいたのも三か月くらいだったのではないかしら﹂
﹁同じ場所?﹂
﹁わたしは一年、貴方の上級生として教会学校に通っていたの﹂
﹁え⋮⋮﹂
驚きに、しばらくの間、何て言ったらいいのかわからなくなる。
けれど確かに、それなら私の顔を知っていただろうし、逆に私が
エメラインさんのことを知らないのも納得できた。
﹁でも、私のことどうして覚えていたんです?﹂
礼拝の時間も、開いた聖書に落書きしてたでし
﹁あなた、自分では気付いていないのかもしれないけれど、変わっ
た人だったもの。
ょう? それをたまたま見つけて﹂
﹁うわ⋮⋮﹂
思わず両頬に手をあてて呻いた。
やってました。お約束だと思って、教科書的な聖書の端に落書き
してました。ていうか聖書の中に適当な紙を挟んでおいて、それに
色々書いて遊んでましたとも。⋮⋮礼拝の時間がつまらなかったも
ので。
﹁そんなことを覚えていられるとは⋮⋮﹂
うつむく私を見て、エメラインさんがさらに追撃を重ねる。
1006
﹁それにルシールに聞いたわ。土ねずみにたかられてたんですって
? あなたならありうると思ってしまったわ、わたし﹂
笑い声は上げないものの、エメラインさんは楽しそうに言う。
ああ、ルシールさんてば、そんなことも話してしまったんですね。
黙っててほしかったけど、あとの祭りだ。だから私も思いきって、
エメラインさんに聞きたいことを聞くことにした。
﹁でもエメラインさんは、なんで土ねずみの繁殖を?﹂
魔獣を飼おうなんて発想、普通のご令嬢から出てくるわけがない。
一体どうしてそんなことに目を付け、実行しようとしたのかと思
ったのだが。
﹁普通の令嬢らしくないと思ったでしょう?﹂
エメラインさんにずばり聞かれて、私はうなずく。
﹁正直、びっくりしました。お会いしたら、ますますそう思ったく
らいです﹂
だってエメラインさんは、そういうことをしそうにない清楚そう
な容姿をしている。
私も魔術師だと言うとびっくりされるけれど、特殊能力を持たな
いエメラインさんが、奇抜なことをしたというのがすごいのだ。
しかも魔獣繁殖って、猛獣の飼育レベルに奇抜だ。
﹁お姉さまってそういう方なんです。人質になりそうになって私を
逃がして下さった時も、私のように小さな子供と、大人しやかなお
姉さまの様子に、ルアインの兵も驚くようなことはしないだろうと
1007
油断していたんですもの﹂
ルシールさんは自慢げに胸を張る。
するとエメラインさんが、微笑みを浮かべて言った。
﹁あなたよ﹂
﹁はい?﹂
﹁土ねずみをどうにかしようとしたのも、ルアイン兵相手に脅しを
かけようなんて考えたのも、元はと言えば全部あなたが原因﹂
突然に自分のせいだと言われて、私は目を丸くした。え、私何か
したっけ?
一方、そう言ったエメラインさんの方は、急に恥ずかしそうに視
線をそらした。ルアイン兵を脅した人とは思えないほど可愛らしい。
﹁あなたのこと、変わった人だと思って覚えていたのは確かだけれ
ど、それだけだったらこんなにも強く覚えていなかったわ。教会学
校から家に戻ってしばらくして⋮⋮私、あなたの噂を聞いて影響を
受けたのよ﹂
﹁噂?﹂
﹁結婚のこと。⋮⋮人の噂で聞いて、とても驚いたのよ。結婚が嫌
だからって、逃げだすことなんて、私でも出来っこないって思って
た。その時に、わたしは自分で思うほど、心が自由じゃなかったこ
とに気付いてしまったのよ。お父様は極力自由を与えてくれている
し、従ってもくれるから気付かなかったけれど。私も周囲も⋮⋮あ
る一定以上のことは﹃できない﹄﹃するわけにはいかない﹄って思
っていたのよ。貴族だから、と﹂
それはやはり結婚にからむことだった。
1008
エメラインさんは婚約の打診を受けたばかりだった。
同じデルフィオン領内の分家。
アーネストさんは悪い話ではないから受けなさいと言ったし、エ
メラインさんも結婚は父親が決めるものだし、相手も悪いうわさは
ない人だから、多少気に食わない人物でも仕方ないとは考えていた。
だから言う通りにした上で、何かを得られるように努力しようと
していたが⋮⋮そうしなくったっていいのだと、私が結婚から逃げ
た話を聞いて思ったらしい。
正直、自分の結婚でなければ、その相手は最上の条件の相手では
なかった。もっと他に良い話をみつけられるのではないかと考えた
だろう。
ただ自分のことだから、父親達の決定に従うべきだと盲目的に思
っていたのだ。
エメラインさんは、自分と自分の守るべき者にとって、もっと有
効な道を選びたいと考えた。
だから自分に任せろと父親に宣言したのだ。この土地を、ひいて
はデルフィオンにもっと有効な結婚相手を捕まえるから、と。
アーネスト氏もその意見にうなずき⋮⋮。
だけど婚約者候補だった相手が諦めきれないと言ってきた時に﹃
キアラ・パトリシエールを上回る奇抜な方法を﹄求めた末、たまた
ま捕獲した土ねずみに目をつけたのだとか。
そんな挑戦を重ね、エメラインさんは様々なことに立ち向かって
いきたいと思うようになったとか。
しかしもっと上を狙うと宣言したとか、私の話を聞いてどうして
そんな方向に走ったのか⋮⋮。
普通のご令嬢だったら、そんなことは言えないだろう。せめて別
な人はいないのかと、父親に交渉するぐらいしかできないのではな
1009
いだろうか。
やっぱりエメラインさんが、元々奇抜だったからとしか思えない。
そんなエメラインさんはやっぱり私を変だと言う。
﹁でもあなた、私の予想より斜め上よね。魔術師になって戦ってい
るなんて思わなかった﹂
その意見は否定できない。普通は結婚から逃げだしたあげく魔術
師になる人は、そうそういるまい。
﹁ま、普通はやらないでしょうね⋮⋮﹂
思わずつぶやくと、エメラインさんが楽し気に微笑んだ。
﹁でもそこが面白いのではなくて? 戦わない貴方は、たぶん貴方
ではないのよ﹂
私はぽかんとする。
戦わない私は、私じゃないなんて言われると思わなかったから。
1010
エメライン︵後書き︶
※活動報告にて、書籍購入された方への御礼のSSを上げておりま
す。
ご興味のある方がいらっしゃいましたら、読んでいただければ幸
いです。
1011
初めましての挨拶と
﹁ところで、お話ししたかったのは、今後のこともあるの﹂
驚いている私に、エメラインさんが話を進める。
﹁わたしたちは助けていただいたけれど、家に帰るわけにもいかな
いでしょう。守っていただくしかないけれど、せめて何かお手伝い
できることがあれば、と思いましたの﹂
人質にとられていたというのに、家に戻ってしまったら元の木阿
弥だ。
あと、トリスフィードから逃げてきたのだという女性がいるのだ
という。
あの、兵士に羽交い絞めにされていた薄い茶の髪の女性。彼女は
もちろん帰るわけにもいかない。サレハルドに占領されているから。
﹁うーん、怪我人の看病とか、そっちの方は人が足りなくないかも
しれませんね﹂
なにせこれから、ルアインとの迎撃戦になるかもしれないのだ。
怪我人が治るまで、今対応している人が看ていられるかわからない
だろう。
そこにエメラインさんが意外なことを言う。
﹁殿下や将軍格の方とか、お世話はたりています?﹂
﹁殿下?﹂
レジーの世話? と聞いて私は首をかしげる。
エメラインさんが気遣いで地位が上の人々のことを心配している
1012
のだろうか。でも戦時中でくつろいでる場合ではないのだから、お
茶の支度をお願いするとか、そんなことしていられるかどうかわか
らないし。
どうもエメラインさんが、そんな発想をしそうにも思えない。
と思ったら、どうやら彼女が他の人のために言っているのだとわ
かった。
﹁ああ、わたしはいらないわ。むしろ弓兵の中に混ぜてもらえばい
いと思ってるぐらいで。だけど昨日人質になりかけた方がいたでし
ょう? エイダという名の方なのだけど、危うい状況に遭ったせい
でふさぎ込んでいたのだけど、殿下のお姿をちらっと見てから、そ
ういう仕事がないかと言って元気になったものだから﹂
﹁ご迷惑なら、お断りなさっても大丈夫ですわ、キアラ様﹂
ルシールさんが私の気を軽くしようと、そう口添えしてくれた。
十二歳だというのに賢いなぁ。
﹁そうね⋮⋮。正直レジーのお世話は侍従君がついてきてるから、
他の人が手を出す必要なさそうだし。たいてい自分のことはやっち
ゃう人だし﹂
必要はないと思うな、という理由を上げてみる。
﹁あら﹂
﹁まぁ﹂
そこでエメラインさんとルシールさんが、二人とも指先で口元を
かくして、顔を見合わせていた。あれ、私何かした?
﹁殿下のこと、愛称で呼んでいらっしゃるのね?﹂
﹁あ、うわああぁぁ⋮⋮﹂
1013
エメラインさんに指摘されて気付いた。
いつもの癖で、ついレジーのこと呼び捨てにしちゃってたんだ。
そりゃあ勘ぐられても仕方ない。最近レジーと気安く話す状況とか
も多かったから⋮⋮。
﹁あの、そういうわけじゃなく⋮⋮﹂
﹁わたし、何も言っていないわ?﹂
﹁仲良しなんでしょう?﹂
とぼけるエメラインさんに、子供特有のストレートさでずばり聞
いてくるルシールさん。
確かに仲は悪くないけど、仲良しだなんて言ったらどう思われる
ことか。深読みできそうな単語でしょう、それ。
﹁ただ私の保護者的な存在で⋮⋮﹂
﹁殿下が後見してらっしゃる、と。それは一体どういう経緯でそう
なったのか、とても興味があるわ﹂
﹁後見すると、愛称で呼んでもいいのですか?﹂
逃さないと光る目と、無邪気だけど恐ろしい質問に思わず腰が浮
いてしまった時だった。
﹁あまりいじめないでやってもらえるかな? 私の軍の大事な魔術
師だから﹂
⋮⋮これは天の救いなのか、爆弾が投下されただけなのか。
悩む私を置いて、エメラインさん達はとりあえず礼を尽くすこと
を優先させたようだ。
1014
﹁殿下⋮⋮このような所にご足労頂き、ありがとうございます﹂
エメラインさん達はさっと立ち上がると、レジーの前で膝をつい
て頭を垂れた。
他人の対応を見て、ああレジーって王子なんだよねって実感して
しまう。やっぱり呼び捨てしたのはまずかった⋮⋮。
ついうつむいてしまう私の前で、レジーが二人を立ち上がらせて
いた。
型どおりの挨拶をする三人の、というかレジーの後ろにはいつも
通りグロウルさんがいるのだけど、その後ろがふと気になる。
一歩横にずれてみれば、この部屋に上がってくる階段のところに、
件の羽交い絞めにされていたエイダさんがいた。
熱っぽい視線をレジーに向けているところからして、レジーにあ
こがれと言うか、恋愛感情を抱いているのだろうことはわかった。
その様子なら、エメラインさんが可哀想になって打診だけでもし
てあげようと思ったのも理解できる。
それよりも私は、やっぱり彼女の首に下げた石が気になって仕方
ない。
やっぱりあれ、契約の石だと思うんだ。
一体どこで手に入れたんだろう。
そう思う私の頭に、ちらりと暗い想像が過る。
誰か魔術師に関わる人なのではないだろうか。そしてファルジア
の魔術師といえば、私の他にはクレディアス子爵しかいないような。
でもそんな人が囚われているわけもないし。
ただ何も知らずに、綺麗な石として持っているだけの可能性も捨
てきれない。
聞いてみたいんだけど、どう話したらいいものか。
1015
とそこで、挨拶を終えたレジーがエメラインさんに言う。
﹁キアラが話した通りだけど、私に世話をするような人間は特別必
要ないよ。冬が来る前に王都に攻め上れたらと思っているから、エ
ヴラールでゆっくりする暇もないし⋮⋮。
だから傷病者の方に回ってくれた方がいい。もちろん、軟禁され
ていたのだから、そんな気力がすぐには湧かない者もいるだろう。
有志だけで、十分だ。今のところ、君たちは守られるのが仕事なの
だから﹂
そう言ってレジーはエメラインさんの要望をやんわりと拒否した。
用が終わったらしい彼は、それなのに部屋の中に数歩進んで、私
の肩に手を置いて耳に口を寄せる。
﹁昨日の行動については、後で話をしようね、キアラ﹂
耳に痛い言葉を告げ、見事にエイダさんをスルーしてレジーは立
ち去った。
当然のことながら、エイダさんの視線が私に向けられる。う、な
んかロックオンされたような気がする。
しかも間の悪いことに、ルシールさんが変なことを口にした。
﹁殿下もキアラ様のこと、気軽に呼び捨てていらっしゃるのね。お
姉さまのことは﹃エメライン嬢﹄って呼んでいらしたのに﹂
﹁ルシールのこともよね?﹂
﹁えっとだから、それは保護者みたいなものだからで﹂
﹁だからどうして保護者なの?﹂
﹁⋮⋮その話、私も詳しく聞きたいですわ。お邪魔してよろしい?﹂
エメラインさんに詰め寄られたその時、件のエイダさんが、外に
1016
開かれた鉄格子扉の端を掴みながら話しかけてきた。
思わずじっとエイダさんの顔を見てしまう。
初対面ではないけれど、話をするのは初めてだ。自己紹介すべき
だろうかとちょっと迷ったのだ。
するとエメラインさんが先に取り仕切ってくれた。
﹁エイダさん、こちらは殿下の軍で魔術師をしていらっしゃるキア
ラさんよ。貴方を助けて下さった方だから、自己紹介なさって﹂
促されたエイダさんはうなずいた。
﹁トリスフィード伯爵家の分家筋の出で、エイダと申します⋮⋮キ
アラ様。先日はありがとうございました﹂
﹁キアラ・コルディエです﹂
﹁コルディエ?﹂
﹁あの、今はエヴラール伯爵家の縁者ということになってて⋮⋮﹂
そんな感じで、私は色々と隠したり端折ったりしながら、レジー
が保護者代わりの立場になったことについて話した。
いやー馬車に忍び込んだとか言えないでしょ?
パトリシエール伯爵家の人に追いかけられたのはいいとして、魔
術師関連の話はできないし、茨姫の森の話もちょっと避けたい。
それでも単身街道を進み、休憩いていたところで拾われ、拾った
相手が王子や伯爵家子息だったってだけでも、十分にエメラインさ
ん達は満足してくれた。
﹁王子の後見があるのは、とても心強かったでしょう﹂
﹁そう、そうなの。おかげで無事に職に付けたわけだし﹂
笑って誤魔化しながら話す私に、エイダさんが困惑した表情で言
った。
1017
﹁でも職に就くだなんて、平民扱いになったってことですよね? 伯爵令嬢だったのに⋮⋮嫌じゃないんですか?﹂
分家であってもというか、末端だからこそなお貴族だという意識
が強いものだ。だからエイダさんは平民に身分が落とされた、と感
じてしまうのだろう。
﹁元々、家を出て町の片隅で平民として生きていこうと思っていた
から、抵抗もなく﹂
そんなわけで身分差があるから、ということで、王子殿下が保護
者というか後見人だという立場なのは納得してもらった。
⋮⋮大変だった。
今ここでレジーとどうのこうのという話は、厄介なことになりか
ねない。
あと、私が伯爵家の当主と並ぶ軍の位階を持ってることは内緒に
しておく⋮⋮面倒そうだったから。
代わりに、せっかく会話の輪に入ってきたので、エイダさんの首
飾りのことを尋ねてみた。
不思議な色の石だと言って、どこの産地なのかと話をふると、エ
イダさんは母親の形見なのだと答えてくれた。そのため肌身離さず
持っているのだという。
エメラインさんが珍しそうに触れるのに便乗して、私も指先で触
れてみたが⋮⋮やっぱり契約の石だ。
でも宝石っぽいから、装飾品として持っている人もいるのだろう。
形見だからか、エイダさんは触れられるのを嫌がっている様子だ
ったので、指先でつつくぐらいしかできなかったが、充分だ。
1018
確認もした私は、これ以上問い詰められないうちにと思い、仕事
があるからと言い訳して彼女達の前から立ち去ったのだった。
1019
閑話∼彼女の第一印象∼
へらへら笑って、バカみたい。
エイダが初めて会ったキアラ・コルディエに抱いた印象は、そん
なものだった。
というか、デルフィオンに来て早々にここに放り込まれたので、
エヴラールから従軍しているという魔術師が女だという情報しかな
く、よもや件のキアラが魔術師だとは想像もしなかったのだ。
出会った瞬間は、あっけにとられたものだった。
あの時は牢の中にいた。
戦闘の混乱の中でレジナルド王子を攫うために外へ出たかったの
で、事情を了解している兵士に、自分を外へ出させようとしたのに、
それを勘違いしたエメラインに止められて難儀していた時のことだ
った。
突然に壁が崩れて、飛び出してきた茶の髪の娘と黒髪の騎士。
驚いている間に騎士は兵士を一人倒した。
他の兵士は、人質を逃がされそうになったら始末する予定だった
ので、魔術師くずれを作ろうとした。けれど兵士は扱いを間違えて、
魔術師くずれの力で死亡。
そして魔術師くずれになった兵士は、瞬く間にキアラに倒された。
その光景に、エイダはシスティナ侯爵領の戦いのことを思い出し
ていた。
かの戦場でも魔術師くずれを使っていたが、こんなにも早く討伐
できる者などいなかった。
1020
慣れているのか。
自分だったらどうだろう⋮⋮と考えたところで、エイダは顔をし
かめた。
絶対自分の方が上手くなってやる。
くずれを作り出せる石ならある。利用できる問題を片付けて、殿
下を手に入れた後でじっくりと練習したらいい。
ただ今すぐ、対抗するには分が悪い。
そう思ってじっとしていたら、エイダをただの被害者だと思った
キアラが寄ってきた。
この時にはまだ、件のキアラだとは思わなかった。ただエヴラー
ルの魔術師も若い娘なのかと思っていただけだ。
怪我の有無を尋ねられたけれど、そんなものを負うはずもない。
それよりもキアラが首飾りに興味を示したので、冷汗をかいた。
契約の石があれば、魔術師だとはバレない。そう言われて持たさ
れたけれど、大丈夫だろうか。
ウシガエルの言葉が嘘だったら、今すぐこの魔術師を炭にして逃
げるしかないと思ったが、無事に石のせいだと思わせることができ
たようだ。
その後、ようやく魔術師の娘がキアラだとわかったのだ。
一歳しか年齢が違わないキアラは、年上に見られがちなエイダと
違って、やや幼い顔立ちをしていた。
目を見張るような美人というわけではなかったので、エイダは内
心鼻で笑う。
しかも腰に吊るしている素焼き風の人形も奇怪だ。
異様なセンスなのに、なぜ一緒に居る騎士も何も言わないのだろ
う。魔術師として仕事をしていれば、別にいいと思っているのだろ
1021
うか。
だとしたらエヴラールというのはとても甘い人間の多い土地なの
だろう。そんな風にキアラのことを下に見ないと、エイダは平静が
保てなかった。
結婚を嫌って逃げたとはいえ、貴族令嬢が無事に生きていけるわ
けがない。
だから今頃とても惨めな生活を送っているはずだと思うことで、
溜飲を下げて来たのだ。
けれど実際のキアラは軍で騎士までつけられて自由に動き、自分
の意思で戦っていた。
その姿が生き生きとしているように見えて⋮⋮なぜ、とエイダは
思う。
なぜ逃げた彼女が、こんなにも自由なのか。
どうして捕まった可哀想な自分が、不自由な身のままあがかなく
てはならないのか。
もやもやとした気持ちを抱えながらも、潜入している身なので大
人しくするしかなく、唇をかみしめて今後のことを考えていると、
あの奇矯だがやたら親切なエメラインが、殺されかけてショックを
受けたのだと勘違いしてくれた。
翌日、再びやってきたキアラは、エイダのペンダントをまた気に
していた⋮⋮誤魔化せたので良かったが。
何より腹立たしいことに、殿下はこの女のことを気遣っている上、
どうやら呼び捨てにすることさえ許しているのだという。
そんな特別扱いをされるべきなのは、自分の方でなければならな
いのに。殿下のためにこうして危険を冒して潜入しているのだから。
ただ、殿下は私に気付かなかったようだ。
1022
仕方ない、一度会ったきりだ。それにここで思い出されても厄介
だ。丁寧に話せば、思い出してもらえるだろう。思い出してくれな
くとも、これからしっかりと覚えてもらえばいい。
殿下を助け出して、王宮へ戻るのだ。
そこで彼が騙されていることも、じっくりと理解してもらうつも
りだった。
⋮⋮しかし、どうしてこの女は魔術師になったのだろうと思う。
ペンダントが形見だと聞いて﹁あ、そうなんだ。うんちょっと聞
きたかっただけだからー﹂と言いながらへらへら笑っているこの女
も、魔術師になる時には、あの苦しみを経験したはずなのに。
どうして笑っていられるのか。
それが腹立たしくて⋮⋮壊してやりたくなった。
けれど今はその時ではない。砦攻めの際に上手く実行できなけれ
ば、次の機会を待つ間は、慎重に行動しろと言われている。
ウシガエルの言うことは聞きたくないが、殿下を手に入れるため
に必要となれば、その策に乗るしかない。
幸いにも、誰もエイダのことを疑う人間はいない。
だからこそもっとレジナルド殿下に近づいて、仲良くなっておき、
決行の日に自分を信じてついてきてもらわなければならないのだ。
そう思いながら、偶然にでも出会って話すことができないかと砦
の中をさまよっていたのだが、一向にレジナルド王子を見つけるこ
とができない。
さんざん歩き回ったが、エヴラールから来た兵士は、おしなべて
親切で絡まれることもなかった。
砦内にいる女性に無礼なことをしたとして、魔術師だった場合に
1023
取りかえしがつかないことになるからだと言われたが、これはやは
りあの優しい殿下が指揮する軍だからなのだろう。
なんにせよ、ルアイン軍の兵の時のように、振り払うためにうっ
かり魔術をつかってしまったら、あのキアラに察知されるかもしれ
ないので、都合が良い。
しかし夕暮れの色に空が染まり、薄暗くなってきた頃には、エイ
ダはへとへとになっていた。
今日は諦めよう。
そう思ったエイダが思わず城壁の上から下を見たその時、砦の外
に、キアラがいるのを見つけたのだった。
1024
形見の取り扱い
﹁そっか、戦わない私は私じゃないのか⋮⋮﹂
時間が経った後も、私の中にはエメラインさんの言葉が心に残っ
ていた。
﹁まぁ戦いといえば戦いじゃろうのぅ。若い娘が結婚話から逃げだ
すなんぞ、平民でもそうはあるまい。一人で生きていくには、厳し
いと知っているからこそな﹂
腰に吊り下げて連れてきた師匠が、そんな風に私の言葉に相づち
をうってくれる。
近世より、状況や衛生観念も良いんだけど、
前世の日本と違って、この世界は不自由なことが沢山ある。
元の世界の西洋中
電気や車とか便利なものがないから、腕力勝負になると女性は負け
てしまう。
たぶんそういった理由でこの世界は男性優位の社会だし、男じゃ
なければ話も聞いてくれないとか、取引すらままならないってこと
は多いはずだ。
エヴラールで引き取ってくれなかったら、私も爪の先に火をとも
すような生活をして、理不尽な目に遭ってもどうにもできない、な
んてことになっていたかもしれない。
それでも死ぬよりはマシだと思って飛び出したけれど、貴族に連
なる家でそれなりに守られて暮らしていたと自覚しているエメライ
ンさんにとっては、とても衝撃的だったのだろう。
恵まれている、と私も思っている。
1025
それは﹃もしも﹄を知っていたからこそ、できた決断だった。
だから私は、アラン達に出会わなかったら、魔術師になれなかっ
たらという気持ちを忘れたくないと思う。
砦の外へ出たのは、昨日できなかったことをするためだった。
死体は全て外に運び出され、味方と敵に場所を分けて置かれてい
た。
味方の遺体にしても、綺麗に一体ずつ埋葬することなどできない
ので、一か所に集められていた。
まずはそちらの対処をする。
死体を運び出したり分けたり、遺品を回収する作業のために、薄
暮の中でもまだそこそこの人数が外に出ていた。
その向こうにも騎兵と歩兵で構成された小さな集団が見える。
砦を囲む壁の角を曲がって現れた彼らは、周辺の索敵も兼ねて見
回っていたアズール侯爵だろう。
大きな声で歌っているのでよくわかる⋮⋮。
﹁あの男、索敵に向いてないのではないか?﹂
ぽつりと言う師匠に、私は苦笑うしかない。
﹁まぁ何か見えたら、一番早く知らせられるだろうし⋮⋮あの声で﹂
私が出てきた門からは、荷馬車が三台ほど出てきた。食料なんか
を運んできた商人だろう。荷物を搬入したので、近くの町に帰るの
だと思う。
私は少数の遺体が並べられた場所にいる兵士達へ声をかけた。
少数と言っても、数十人分はある。
1026
家族の元へ戻したりする遺品などは回収させて、そのまま寝かせ
ていたのは、私が埋葬をすると知らされていたからだろう。
私を出迎えてくれた兵士達はほっと頬を緩めていた。
次の戦闘まで間がないかもしれない現状では、土をかけて放置を
するしかないかもしれなかった。だからきちんと埋葬ができること
を喜んでいるらしい。
私の術で、地面の下へ、吸い込まれるように消えていく遺体を見
た後は、兵士達と一緒に葬送の聖句を唱えて祈る。
そうして、次に敵兵の遺体を積み上げた場所へ移動しようとして
いたら、
﹁お、お願いです! これだけでも、これだけでも⋮⋮﹂
女性がすがるような声に、思わず声の主を探した。
それは右手奥の、これから向かおうとしていた敵兵の遺体が積み
上げられて放置された場所だった。
数十人の兵を引き連れて止まっているのは、先ほど景気良く歌っ
ていたアズール侯爵の兵か。その近くに、兵士に取りすがっている
女性がいる。
ああ、と私は思い当たる。
敵兵の中にいた、デルフィオンの人の遺族だろう。
ルアインがこの砦を接取していたのだから、辺りを管理していた
家の私兵などは、雇っている家がルアインに与していたなら、ルア
イン側として戦うしかなかった。
そうして亡くなった家族の遺体を探しに来た人なのだろう。
私は足を一歩踏みだそうとした。
1027
﹁⋮⋮弟子よ。やめておけ﹂
私がしようとしたことを察した師匠が、言葉で引き止めた。
﹁でも師匠。もう亡くなってしまった人の、形見ぐらいはいいでし
ょう﹂
敵でいることができなくなった相手なのだ。元は同じ国の人なら
ば、なおさらに。
﹁お前は特別扱いされる魔術師だがな、あまり味方に睨まれるよう
なことをするのは⋮⋮﹂
﹁でも私以外に誰が言うの? 言える人なんていないじゃない﹂
兵士達に言えるわけがない。敵だったけど、元は同じ国の人だか
ら見逃してやれなんて。
相手は侯爵だ。
領地を持つ貴族には裁判権だってある。不況を買ったら罪をでっ
ちあげられて、罪人に落とされるかもしれない。さすがにレジーだ
って、全ての末端にまで目は行き渡らないだろう。
それに侯爵には大義名分があるのだ。
敵だったから、という。
何度かそれを理由に、私の埋葬に対する苦情も耳にしたことがあ
るくらいだ。
でも私だって敵になっていたかもしれない。
一歩踏みだしたか、そうじゃなかっただけ。
でもその一歩に自分や家族の命がかかっていたら、踏みだせる人
がいるだろうか。私は自分以外に何もなかったからこそ、全部を捨
てても生き残れる道を探そうって思えただけだ。
1028
﹁むしろこれから、同国人で争うこともあるだろうし。こういうこ
とのルール、レジーに考えてもらわなきゃいけないね﹂
私はそう話しながら、今度こそ歩き出した。
師匠がため息をついたけれど、ごめんとだけ言った。
近づけば、やはり思った通りの状況だった。
中年の女性が、まだ若い兵士の遺体の傍で、アズールの兵が取り
上げたらしい物に向かって手を伸ばしている。
取り上げられたのは、絵を入れるペンダントのようなものだった。
けれど貧しさからだろう、木で作られた物だった。
﹁アズール様﹂
近づけば、アズール侯爵はすぐに私の方を向いてくれる。
﹁おお、魔術師殿ではございませんか。どうかされ⋮⋮﹂
﹁遺体を、埋めに参りました﹂
そう言いながら、遺体の傍にばらりと銅鉱石をばら撒く。
﹁なのでそのペンダントも、私に渡して下さいませんか?﹂
﹁いいですとも。なんでも病魔を発生させないために、敵兵も埋め
ていると聞いております。殿下の主導だとか﹂
﹁その通りです﹂
アズール侯爵は何の疑いもなく、兵士に指示してペンダントを渡
させた。
女性が絶望したような声を上げて、さめざめと泣き出す。
受け取った私は、そのペンダントを持ったまま、地面に膝をつき、
手をついた。
﹁離れていてください﹂
1029
言われた侯爵達はそそくさと遺体から距離をとる。
数百もの遺体は、血と異臭を漂わせていて、戦場で慣れたとして
もずっと傍にいたいものではないからだろう。私と一緒に来た兵士
さんが二人、涙する中年の女性も引きずって、侯爵とは違う方向へ
離れさせた。
私は土を移動させて穴をつくり、一気にすべての遺体を埋めてし
まう。脇に移動させていた掘った分の土を、再び穴の上に戻せば完
了だ。
まとめて埋葬するしかない状況でも、野ざらしよりは数段落ち着
く。
兵士が引きずるように離れさせた中年の女性は、あっという間に
全てが土の下になってしまったことに、呆然としていた。
私はそんな彼女の傍に寄って、はい、とペンダントを差し出して
その手に握らせた。
﹁さ、早く﹂
促せば、女性は半信半疑という顔をして自分の手にした物を見て、
とりあえず立ち上がって歩き出した。
﹁ちょ、あの、魔術師殿、今のは敵の⋮⋮﹂
﹁敵は既に埋めた後です。誰が何を持ちだしたかなんてわからない
ですよね? 侯爵が口をつぐんで下さったなら、無かったことにな
るでしょう﹂
﹁そんなことができるわけがありません。殿下の臣として、目に余
る行為は見逃せませんぞ﹂
﹁大丈夫です。死体にどんなに剣を突き刺したところで、誰かを守
1030
ることもできませんし、敵が滅ぶこともありませんよ。死んだ人も
蘇りません。ただ朽ちる相手から物を取り上げて人に渡しただけで
す﹂
私の返答に、アズール侯爵は一体何を言うのだと目を白黒させて
いる。
﹁いやしかし⋮⋮確かにもう、死体になれば戦うことなどできませ
んが⋮⋮。でもこの者達が手向かってきたから、死んだ味方もいる
かもしれないんですぞ﹂
﹁それは生きている敵に向かうべき感情ではありませんか? それ
に元はデルフィオンの⋮⋮ファルジアの民です。侵略さえされなけ
れば、家族や土地を守るためにルアインに従わなくとも済んだ人々
ですから﹂
アズール侯爵は、ぽかーんと口を開いたままになる。
たぶん私のような考え方は、理解できないのだろうと思う。でも
それでいい。
ファルジアはずっと他国と戦をしてきたのだし、その間に培われ
てしまった慣習を、私の一言で変えるなんて不可能だ。
その時だった。
﹁あっれ。もう敵の遺体って埋めちゃった? 惜しいなー。売れそ
うなもの、少しぐらい拾えるかと思ったのに﹂
やたら能天気そうな声は、どこかで聞いたような気がしたものだ
った。
振り向いた視線の先にいたのは、笑顔でこちらに近づいてくる馬
車と、見覚えのある顔の青年だった。
確か前は赤い髪してたと思うんだけど⋮⋮あれ、なんで今日は茶
1031
色?
1032
変な人との再会
﹁こういう時は商人にもおこぼれを用意しといてくださいよー、お
貴族様。下々の窮状を分かってくださいますでしょう? なにせ侵
略されたばかりで、畑が荒らされてにっちもさっちもいかない村だ
ってあるわけですしー﹂
揉み手をしながら歩いて来るのは、茶色の髪の青年だ。
けれどその顔も、声も知っている。
︱︱イサークだ。
名前をつぶやきかけたが、その前にアズール侯爵が白けた様子に
なった。
﹁戦死した敵兵の所持品は、軍に接取の優先権がある。どうせ武器
や金銭は取り上げた後だろう。諦めることだな﹂
﹁あらら。それは残念﹂
うなだれたイサークを見て﹁ふむ﹂と息をついたアズール侯爵は、
私に向き直った。
﹁商売人が敵兵に喜んで集るのを見るよりは、遺品ぐらいは渡して
やっても構わないように思えてきましたよ。それでは、魔術師殿﹂
そう言ってアズール侯爵が、兵を率いて砦の中へと去っていく。
私について来てくれていた兵士達も、もう遺体はないので門の方
へと遠ざかって行った。元々、彼らは門に詰める当番の人だったの
だろう。
1033
その中に、ちらっと私に頭を下げて行った人がいた。
デルフィオン出身の人なのかもしれない。さっきの女性を気の毒
に思っていたから、遺品だけでも渡せて良かったと思ってくれたの
だろう。
あの女性も、とっくに姿が小さく遠ざかっていたし、私はほっと
した。
﹁まぁ、良かったの、弟子よ﹂
﹁うん師匠﹂
私が師匠に笑いかけていると、近くで﹁うわっ!﹂と叫び声が上
がった。
見ればイサークが、私と話をしていた師匠を指さして、ぷるぷる
震えている。
﹁ににに、人形が! お前それまさか呪いの人形!?﹂
﹁ううん。私の師匠﹂
﹁師⋮⋮!?﹂
﹁わけあって、こんな姿になってるけど、間違いなく元は人間だっ
た師匠の魂が入ってて⋮⋮﹂
﹁いやそれ、やっぱり幽霊入ってるんじゃん!﹂
こういった反応って久しぶりだなーと思いながら、私はつい笑っ
てしまう。
﹁笑い事ではなかろう弟子よ。自分の師が怪談話扱いされとるだろ
うが!﹂
﹁だって怪談話に使えそうな存在じゃないですか﹂
夜中に師匠が一人で砦を徘徊したら、十分に怪談話が出来上がる。
1034
﹁それにイサークの言う通り、確かに中身幽霊だし⋮⋮﹂
否定できないよねと思いつつ、イサークを見上げる。
﹁あの⋮⋮イサークだよね? 髪の色違うけど﹂
﹁ああこれか? うん、まぁ、色々あってな﹂
どうやら染めたらしい。イサークが自分の髪をちょいと摘まんで
笑う。
馬車で砦に出入りしていたので、商売をしに来ていたのだろうけ
ど、誰か知られたくない相手でも砦にいたのだろうか。
﹁しかし﹂
と言葉を切って、イサークは先ほど敵兵だった人達を埋めた場所
を見る。
﹁噂には聞いてたが⋮⋮お前本当にこんなことしてたのか﹂
﹁どんな⋮⋮噂?﹂
まさか敵を埋めてることで、悪評でも立ってるんだろうか。
恐る恐る聞けば、イサークがさらりと答えた。
﹁二通りだな。エヴラールの魔術師が、敵兵まで手厚く葬ってる。
魔術師の考えることはわけがわからんが、どうも病魔避けらしいっ
てのが一つ。敵と分け隔てなくするとはけしからんが、魔術師のす
ることだから、埋葬すると見せかけて悪魔に捧げる贄の代わりなん
だろうとか﹂
﹁贄ねぇ⋮⋮﹂
別にそんなもの必要ないんだけど、思ったより酷い噂じゃなかっ
1035
た。
師匠など、妙にウケて﹁うひょひょひょ、悪魔の贄とか、ウッヒ
ッヒッヒ﹂と笑っている。
そんな師匠を、イサークは実に気味悪そうに見ていた。
﹁俺は贄の方は信じてなかったんだけどな、そのしゃべる人形を見
てたらそっちの方が本当っぽくて、怖くなってきた﹂
まぁ、私だって急にしゃべる人形が現れたらびっくりするだろう。
作った当初は、我ながら不気味だなぁと思ったんだし。
今では愛嬌があって可愛いとまで感じるようになってしまったが。
﹁まぁそんなもん持ち歩いてるなら、不気味すぎてお前を怒らせた
いとは思わないか。さっきのも割って入る必要無かったか?﹂
﹁ううん、助かった。ありがとう﹂
どうやらイサークは、私が困っていると思って来てくれたようだ。
素直に礼を言えば、イサークがちょっと目を見開いて、気まずそ
うに視線をそらした。
﹁いや⋮⋮まぁほら、一応顔見知りなのに声かけないのもなと思っ
てだな、来てみただけで。役に立ったならそれでいいってことよ﹂
どうもこの人は、率直に嬉しがられると照れてしまう人らしい。
アズール侯爵とも変にこじれないで済んだから、本当に感謝して
るんだけど。
﹁それよりイサークは⋮⋮変だと思わなかったの?﹂
敵兵の遺体を埋める魔術師のことを。
でもこうして気軽に声を掛けてくれたってことは、気にしていな
1036
いんだろうと思って聞いてしまう。
﹁変? まぁ、変だろうな﹂
あっさりと言われて、ちょっとがっかりした。
﹁まぁでも、正々堂々と命のやり取りをした相手に礼儀を尽くした
って、悪いことはないだろ﹂
私は新しい意見に驚いて、イサークをまじまじと見上げた。
﹁な、なんだよ。変か? 俺の故郷はそれほど裕福でもないせいで
小競り合いなんかも多いけどな、だからって同じ地方の人間が団結
しなきゃ、侵略された時とかバラバラに動いていがみ合ってちゃ困
るだろ? だから命のやり取りをした相手との確執は、そこで勝敗
が決まったらそれでおしまいにするんだよ﹂
イサークがちょっと遠い目になりながら続けた。
﹁それに倒した兵士が、侵略を決定したわけじゃねぇ。目の前の兵
士は、税の代わりになるんだったら、家族のために徴兵に応じるし
かないだろ。他人の畑を荒らした代償は、本人の命で購ったんだ。
まだ生きてる奴には敵意を向けても、死体までどうこうしてもな⋮
⋮﹂
そこでふと、私はレジーの言葉を思い出す。
責任を負うのは自分だと言っていた。
たぶんイサークが言っているのは、同じことじゃないだろうか。
レジーが言った時には気付かなかったけれど、確かに王族が最終
的な決定をしたのだから、責任を負うことにもなるのだろう。兵士
はただ言われて戦っただけで、自ら略奪とかしない限りは、敵の恨
みの全てを被る必要もないわけだ。
1037
納得する私に、イサークが﹁そ、そうだ。お前こういうの好きだ
ろ﹂と、袋を差し出してくる。
受け取ってみれば、クッキーだった。
﹁どうしたのこれ﹂
﹁まぁ、疲れた時には甘味が一番ってな。やるよ﹂
﹁ありがとう!﹂
商人だから、その関係で手に入れたんだろう。
さっそく一個口に入れようとしたけど、考えてみれば土をべたべ
た触った後だった。それに気付いたイサークが﹁食べさせてやろう
か?﹂と言ってくる。
﹁うん、一個味見したい!﹂
カッシアでもおやつは買ってたんだけど、たまに違うお菓子も食
べたいものだ。半分くらいアランにあげちゃったしね。
イサークが﹁そーかそーか﹂と言って、クッキーを一つ私に差し
出した。
その時我に返ったように﹁やば﹂と言いたそうな顔をしていたけ
れど、もう摘ままれたクッキーを、私が食べてしまった後だった。
バターと砂糖と小麦粉の焼けた匂いと味って素敵だ。頭の中が幸
せな色に染まる。
師匠が﹁ウヒョヒョヒョ﹂と笑っているが、無視して笑み崩れな
がら食べていると、イサークが斜め上を見上げて顔を片手で覆って
いる。
なぜか照れているイサークが、誤魔化すように変なことを聞いて
きた。
1038
﹁あーそうだ。ところで、この砦攻略した時に、魔術師なんていた
か?﹂
﹁え? 魔術師?﹂
﹁いや、なんかデルフィオンに来たとかって聞いたんだが⋮⋮居な
かったならいいや。ガセネタだったかもしんねぇ﹂
忘れてくれ、とイサークはぱたぱた手を振る。
不思議なことを聞くなと思うが、もしかするとルアインが戦場に
投入する魔術師くずれの話を、誰かから耳にしたのかもしれない。
﹁なんにせよ、お前が⋮⋮まだ辛そうにしてなくて、良かったよ﹂
人を殺すのが怖くて、泣いていた話を覚えていてくれたんだろう。
﹁なんでまた、そんな苦行みたいなことしてるのか知らないが。⋮
⋮もしあの時のままだったら、ここから逃げるかって聞こうかと思
ったりして⋮⋮な﹂
逃げる。
その言葉を聞いて、私はちっとも心ひかれない自分に気付いて、
思わず顔に笑みが浮かぶのを感じる。
﹁ありがとう⋮⋮でも守りたいものがあるから﹂
﹁人か?﹂
イサークのちょっと残念そうな表情に、お人よしなんだなと思っ
て笑ってしまう。
どうせそれもあって、私にわざわざ声をかけたのだろう。
﹁家族みたいな人達。でも、私に戦わなくてもいいって人がいるか
らこの間は困っちゃってたんだけど。でも私が戦わないでいてたら、
1039
その人が殺されるかもしれないもの﹂
﹁そいつは弱いのか?﹂
弱いから、私が守らなくちゃいけないと思われたんだろう。
﹁強いと思うよ、剣の腕がどうこうっていうんじゃなくて、するべ
きことを分かってて、私みたいに怖いとか、そんなこと思わないん
だろうって人﹂
レジーやカインさん、アランだってそうだ。ベアトリス夫人だっ
て、決心してしまったら私みたいに怖いだなんて言わない。
﹁⋮⋮好きな奴か?﹂
﹁みんな大切な人だよ﹂
誰も失いたくないのに変わりはない。なのに、イサークは顔をし
かめた。
﹁お前、そんな博愛精神で生きてるような奴じゃないだろ。もしそ
うだったら、さっきのお貴族様にだって別な言い方しただろうが﹂
﹁え? まぁ博愛精神なんて持ってはいないと思うけど⋮⋮﹂
全ての人のためになんて、凡人精神の私には手に余る。
自分が知ってる人だけ守りたいっていうぐらいでも、十分容量オ
ーバーしそうなんだから。
﹁戦うって決めたきっかけがあんだろうが。たいていは誰か特定の
人間のためだろ?﹂
﹁きっかけ?﹂
魔術師にならなくちゃ、助けなくちゃと思ったのは、レジーとヴ
ェイン辺境伯の死を思い出したからだ。
1040
﹁恩人になった人達が死ぬかもしれないって、思ったから⋮⋮﹂
﹁自分の命と天秤にかけるんだ。ただの恩人じゃないだろ﹂
イサークの追及に、私は戸惑う。ただの恩人のために、命をかけ
るのは変?
﹁俺だったら、唯一無二の家族か⋮⋮自分の人生と引き換えにして
でも生きていて欲しい奴のためにじゃなきゃ、命をかける気はなら
ないけどな﹂
そこまで言ったイサークは、急に私へ手を振って、馬車に向かっ
て歩いていく。
﹁お前のお迎えが来てるみたいだ。じゃ、またな﹂
そそくさと離れる行動に驚いたが、イサークの言う通り、門から
私の方へ近づいてくる人がいるのを見て、納得する。
﹁あれ、レジー﹂
銀の髪の人間なんてそういない。しかも騎士連れだ。
関わったら面倒なことになると思って、イサークは離れたんだろ
う。
しかし総大将が護衛をつけているとはいえ、フェリックスさん一
人だけ連れて砦の外に出てくるとか、どうなのか。
近くまで来たレジーに早速注意する。
﹁レジー、こんなところまで出てきちゃ危ないよ﹂
﹁それは君にも言えることだよ。たまたま見かけたからね、早く戻
った方がいいと言いに来たんだ﹂
あっさり打ち返されてしまった。
﹁それにさっきの男は? 商人みたいだけど。知り合いだった?﹂
1041
﹁うん。敵兵の⋮⋮もう死んで使わない人のもの、売ってくれない
かって言いに来ただけで﹂
嘘は言っていない。
言っていないけれど、何故か隠したい気持ちになったせいで、そ
んな返事になってしまったのだった。
1042
変な人との再会︵後書き︶
活動報告にて書籍の御礼SS2アップしました
1043
お茶の時間と変化と
﹁あーあ。魔術師も見つからないし、さすがエヴラールから来た奴
らは警戒してて、どこも潜り込めそうにないし﹂
荷馬車の御者台で、砦から十分離れた場所でイサークは愚痴る。
﹁でも魔術師ちゃんに会えたのは良かったな。砦の中はちょろちょ
ろできなかったから、会うのも難しいと思ってたが、運が良い。だ
が、知らなかったのは間違いなさそうだから、ヴァシリーのガセネ
タだったのかもなぁ﹂
﹁空振りになる可能性があるって分かって出たんでしょうに。それ
より、ある程度内部のことも、調べたんでしょうね?﹂
同じく御者台にいたミハイルが言えば﹁そりゃあもう﹂とイサー
クは得意げに言う。
﹁砦で戦うのは不利だろうし、この周辺でどうこうするのも不利だ
ってことはわかった﹂
﹁⋮⋮どうすんですか﹂
﹁まぁまぁ、焦んなよミハイル。一勝か二勝はさせてもらうつもり
なんだから、その辺は考えるって。ただなぁ。やっぱ顔見知りを殺
すのって、やっぱ色々考えるよなぁ﹂
﹁情が移りましたか⋮⋮なんだかやたら楽しそうでしたが﹂
﹁餌を与えて喜んだ姿見たら⋮⋮ほら、犬猫でも可愛くなるだろ?
どうあっても、戦場に出てくるなら殺すしかないだろうが﹂
﹁そう決めているのなら、別にいいですよ⋮⋮殿下が約束を忘れて
1044
いないのなら﹂
﹁約束は守るさ。ミハイル、お前に兄上を後ろから刺すような真似
をさせたんだからな⋮⋮ファルジアとは戦う選択肢かあり得ないわ
けだし﹂
﹁お心が揺らいでいないようで、安心しました﹂
前を向いて手綱を持つミハイルに﹁ああ﹂と気が抜けた返事をし
ながら、イサークは砦を振り返る。
遠く、門の中へ入っていく彼女の姿が小さく見えた。
もしまだ辛いと答えるのなら、彼女が逃げるのに手を貸してやっ
てもよかった。
けれど王であるイサークとして会った時には、見逃してやること
ができない。
キアラの大切な者達も、手に掛ける可能性があるだろう。
恨まれるかもな、と心の中でつぶやいた。
◇◇◇
﹁そういえば殿下、これ食べますか?﹂
砦の中に戻ろうと促され、一緒に歩き出したレジーに、私はクッ
キーの袋を差し出す。
するとフェリックスさんが慌てだした。
﹁あの、殿下が見知らぬ者が渡した食物は⋮⋮っ﹂
﹁あ、すいません。でも私も食べましたけど、大丈夫ですよ?﹂
﹁もう食べたんですか⋮⋮!? いやでも、慣例ってのもあります
1045
し⋮⋮ちょっと袋をお貸し下さいませんか﹂
そう言ったフェリックスさんは、厩舎がある場所からやってきた
騎兵を手招きした。
﹁おいパーシー﹂
呼ばれたフェリックスさんとそう年の変わらない騎兵は、駆け足
で近づいてくる。傍にレジーまでいるので、どうして自分が呼ばれ
たんだろうと、おどおどしていた。
﹁この間、アラン様のケーキを羨ましがってただろ。これを五枚ほ
ど融通してやろう﹂
そう言ってフェリックスさんは、パーシーという騎兵さんにクッ
キーを渡した。
味の感想をくれと言われたやや丸顔のパーシーさんは、喜色満面
でクッキーをほおばる。リスのようでちょっと可愛いな。
﹁とっても美味しいれす﹂
﹁よし、行って良いぞ﹂
﹁ごちそうさまですー﹂
そうしてパーシーさんは、まだ食べてないクッキーをしっかりと
手の中に閉じ込めるようにして持ち、仲間の元へ走って行く。
その様子をじっと見て、フェリックスさんがうなずいた。
﹁確かに即効性の毒などはないようですね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁念のためですよ。キアラさんが選んだものが、たまたま毒が無か
ったという可能性もありますからね﹂
1046
フェリックスさんは即席の毒味役を使ったのだ。
私が自分で食べて安全だとわかっていなかったら、善良そうな騎
兵さんをだましたことに、良心の呵責に耐えかねてしまいそうだ。
﹁目の前で毒味をされるのは嫌だった?﹂
知らないうちに、私は微妙な表情をしていたようで、レジーに指
摘された。
﹁する理由は、わかりますけど⋮⋮﹂
万が一にそなえてのことだとはわかっているけれど、こう、目の
前で何も知らせずに毒味をさせるのを見ると、釈然としない気持ち
になる。
﹁問題ないってわかっていたんだろう?﹂
﹁いやまぁそうですけど﹂
レジーは微笑んで言った。
﹁これはフェリックスの役目だから。君は彼の仕事を邪魔しなかっ
たってだけだ。フェリックスも念のためにしたことで、あの騎兵に
本気で毒があるかわからないものを与えるつもりで食べさせたわけ
じゃない。
まぁ、儀式みたいなものだよ。それより先程の商人とはどこで知
り合ったの?﹂
﹁あの⋮⋮カッシアで。町にジナさんと出歩いた時に、お菓子をく
れた人で﹂
間違ったことは言っていない。
ジナさんと歩いて戻ったけれど、イサークと会った時は一人で城
1047
を飛び出したのだとか、そういうことを黙ってるだけで。
﹁⋮⋮餌付けされたの? キアラ﹂
﹁餌付け? ううん。くれるものはもらうけど、ついていったりし
ないもの﹂
お菓子をくれる人についてっちゃいけないのは、私だってわかっ
てる。だけど菓子に罪はない。
それにあの砂糖菓子は美味しかった。
レジーは私の返答に、そこそこ納得してくれたようだ。
﹁それなら、君の戦利品を持って私の休憩につきあわないかい?﹂
丁度いいからね、という謎の言葉を添えるレジーに、まぁ休憩な
らお邪魔はしないだろうからと従うことにした。
内側の砦の門から、さらに中庭と通って主塔へ向かう。
この砦の主が起居する場所は、主塔に作られていた。三階をレジ
ーとその騎士達が占めていて、私は二階を使わせてもらっていた。
三階のレジーの部屋へ入ると、馴染みの侍従君がパタパタとお茶
の用意をしてくれる。
四角いテーブルを前に、木の椅子に座る。この砦に男爵家の人が
詰めることが少なかったからなのか、イニオンに元々あったらしい
家具は質素な物が多い。
石枠の窓の向こうは、木戸を開け放っているので外の音が聞こえ
るが、夕暮れ時なので静かだ。昼間ならば、戦闘にそなえて剣の打
ちあいをする音や掛け声が聞こえてくるのだけど。
﹁こんなに静かな場所に二人でいるのは⋮⋮エヴラールの書庫にい
た時以来かな﹂
1048
同じことを考えたのだろう、レジーも窓の外に視線を向けている。
﹁あそこは窓も開けなかったから、風の音も聞こえなかったよね⋮
⋮メイベルさんが来るまでずっと本を開いてて。学校にいた時より
も真面目に読んでたなって思う﹂
レジーと二人だけだからと言葉をくずして答える。そうすると、
行儀悪くぐったりと椅子の背にもたれて座った時みたいに、息をつ
けた気がする。
﹁メイベルさんは⋮⋮大丈夫なの? あ、でも消息なんてわからな
いよね﹂
﹁いや。王妃がルアイン軍を招じ入れた時に、下働きの召使いの中
に紛れて逃げられたみたいだ。⋮⋮君にも教えておくべきだったね。
心配してくれてありがとう﹂
レジーは私の方に顔を向けて、微笑んだ。
﹁ううん気にしないで。レジーも無事だってわかって安心したでし
ょう。良かったね﹂
﹁そうだね。メイベルは私にとって母親代わりみたいなものだから﹂
﹁お母さん、小さい時に亡くなったんだもんね﹂
それからずっと面倒をみてくれていたのだから、レジーもメイベ
ルさんを家族のように大事に思っていることだろう。
﹁でもレジーのお母さんなら、綺麗な人だったんだろうね﹂
レジーがこんなに綺麗なんだから、さもありなんという美女に違
いない。ベアトリス夫人から連想するに、お父さんもかっこいい人
なんだろう。
1049
﹁それなり、と祖父はいつも言っていたけどね。おかげで姿絵も何
もかも、残されていないんだ﹂
﹁お祖父さんとの仲が良くなかったの?﹂
﹁祖父が完璧主義者すぎたんだ。父があまりに出来が良すぎる人だ
ったからね。その煽りを受けたせいで、今の国王⋮⋮亡くなった叔
父もこじらせたんだろう﹂
思えばレジーは、つい先ごろも身内を亡くしたばかりだった。
﹁お悔み⋮⋮申し上げたほうがいい?﹂
﹁いや、要らないよ。特に悔やみも惜しみもしていないから。むし
ろ、和平交渉で妻に迎えたのなら、その王妃をなぜ管理できなかっ
たのかと恨み事を言いたいくらいだね﹂
﹁まぁ、そうなるよね。私も継母が亡くなりましたとか言われても、
ふーんとしか言いようがないし﹂
酷い言いようだけど、その程度の感覚なのだからしょうがない。
あからさまに口に出すのは、この辺りについての感覚を分かって
くれるレジー相手にしか出来ないことだけど。
そう私は博愛主義者じゃない。
関係のない人なら、その人にも死ねば悲しむ人がいただろうにと
か、思いやることができる。けれど自分を傷つけた人に対しては、
そういった気持ちが湧かない。
どうせ私は聖人君子にはなれない。人を殺しておいて、そんなこ
と言えるわけがないんだから。
イサークの言葉を思い出していたら、レジーがぽつりと尋ねてき
た。
1050
﹁ウェントワースは、君に優しくしてくれるかい?﹂
﹁⋮⋮え? う、うん﹂
優しくない、ということはない。私のしたいことに協力してくれ
るし、守ってくれている。
まぁちょっと、動機にやや怖いものが混入してるけど。
対ルアインに関しては、私と望みが一致し続けるのだから問題な
い。
﹁彼は命に代えても君を守るだろう。だからこそ、あまり君も無茶
をしないようにね。君もウェントワースに万が一のことがあれば、
辛いだろう?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
急にそんなことを言い出すなんて、どうしたんだろう。
いつものレジーと何かが違う。
妙な不安を抱くのと同時に、部屋の扉が開いた。
1051
臨時お目付け役
侍従のコリン君が戻ってきたのだ。
お茶のポットなどを載せた盆を持った彼は、なぜかエメラインさ
んを連れてきた。
﹁お呼びと伺い参上いたしました、殿下﹂
一礼するエメラインさんの言葉で、呼んだのがレジーだとわかる。
﹁ここまで来てもらって済まないね。君も掛けてくれたらいい﹂
﹁失礼致します﹂
私の左隣にエメラインさんが座り、二人でレジーと相対するよう
な形になる。
そこに、侍従のコリン君がお茶を入れたカップを置いて行く。
クロンファード砦では慌てていたコリン君だったが、この砦に来
て二日目ということもあるし、今までの転戦中にいろんな場所での
対応に慣れたのだろう、落ち着いた様子だった。
飲んでみると、臨戦態勢の中で口にするには高級そうな茶葉の味
がした。苦さも少なくて渋みもほとんどない、どこか甘い香りを楽
しめる紅茶の味だ。
﹁この茶葉はアーネスト氏から貰ったものだよ﹂
レジーの言葉で、そういえばアーネスト氏も来ているのだったと
思い出した。彼を呼ばずに、娘のエメラインさんだけを呼び出した
のはなぜだろう。
1052
﹁気を遣って差し入れまで持参した彼には申し訳ないんだけど、午
前中に頼みごとをしておいたんだ。その件については、先ほどエメ
ライン殿にももう一度会って話しているんだけど﹂
レジーはカップから視線を私に向ける。
﹁次に戦闘があった場合に、エメライン嬢を一緒に連れて行っても
らいたい、キアラ﹂
﹁え⋮⋮﹂
どうしてエメラインさんを連れて行くのか。彼女が怪我をしたら
どうするのか、アーネストさんは泣いたんじゃないかとか、一気に
心配事が心に湧き起こる。
それからふと気付いた。
﹁お目付け役ってことですか?﹂
エメラインさんを連れていたら、私が無茶をしないと思っての配
置ではないだろうか。
するとエメラインさんが言い添えた。
﹁私は最初、お断りしたのです。わたしではきっと、あなたを止め
る力にはなれませんからと。一応、弓を引く力が衰えては一矢報い
る時が来た時に後悔することになるので、筋力を保つ運動は続けて
いましたが﹂
なにせエメラインさんは、戦ってこそキアラ、と言うような人だ。
正直ストッパー役にはならないだろう。
密かに筋トレしてたということは、間違いなく突撃する気満々だ
ろうし。
けれどレジーはそれでもいいと言う。
1053
﹁いいんだよそれで。キアラの自由を奪いたいわけじゃないんだ。
ただ他の女性も一緒だったら、ますます無茶ができないだろうと思
って。そういう経験を一度しておけば、君も二人きりで敵陣に突入
しなくなるだろうと思ってね﹂
﹁まぁ、確かに⋮⋮﹂
エメラインさんにも被害が飛ぶと思えば、確かに自重はするだろ
う。万が一の時にフォローしてくれる部隊を待つくらいは、するか
もしれない。
なにせエメラインさんが焚き付けてきたとしても、私はアーネス
トさんが涙にくれる姿を想像してしまって、きっと立ち止まるだろ
うから。
﹁わたしの方は、ある程度の混戦なら問題ないですよ?﹂
物騒なことを言うエメラインさんに、レジーが苦笑する。
﹁君が弓の名手で戦力になることはわかっているよ。アーネスト氏
もそこは心配していないようだし。⋮⋮とりあえず一度だけ、彼女
を連れて行ってもらいたい。それが今回の君へのお仕置きだよ。一
応君は連絡もなしに単独行動をしたんだしね。作戦中の行動は、事
前に打ちあわせておいてもらいたいってことを、分かってもらえる
かな?﹂
そういわれてしまうと、私もうなずくしかない。
突入するにしろ、知らせておけと言われているだけなのだ。
﹁君が結構頑固なのは、分かっているけどね。私に心配ぐらいはさ
せてほしいな﹂
﹁でも一人じゃありませんよ。カインさんもいてくれますし﹂
1054
﹁ウェントワースがいるのはわかっているよ。でも、私も君に何か
してやりたいんだ。それも嫌かな? 保護している相手を気遣うの
も、君には邪魔なの?﹂
﹁邪魔とか思ったことはありません。だけど、私はみんなを守りた
いだけで⋮⋮﹂
﹁それなら、同じことを願うのを許してくれるよね? 私も、君が
大切だから言うんだ﹂
﹁うう⋮⋮﹂
どうやってもレジーに気を変えてもらうことはできないようだ。
分厚い鉄の壁を殴っているような気分になっていた私だったが、
ぼそりと呟かれたエメラインさんの言葉に目を丸くする。
﹁何かしら。胸やけしそうな空気を感じるわ⋮⋮﹂
エメラインさんを振り返るが、彼女は表情も変えずに静かにお茶
に口をつけていた。
﹁えっ、くっ、くうっ!?﹂
むしょうに恥ずかしくなる私と違って、レジーの表情は変わらな
い。
﹁愛情の形は様々だよ、エメライン嬢。家族愛でも胸やけはしそう
になると思うんだ。君の父上もその傾向があるんじゃないかな?﹂
﹁⋮⋮荒んでいらっしゃるのですね、殿下﹂
エメラインさんの率直な意見に、私は心の中で悲鳴を上げた。
てかあんなでろでろに甘そうなお父さんなのに、なんでエメライ
ンさんてば殺伐としてるの!?
1055
﹁わ、わ、わーっ、あのエメラインさんそんなこと言って、アーネ
ストさんならもっとあれこれ心配したりするんじゃないんですか?﹂
﹁うちは私が父を心配する方なので﹂
﹁おおぅ⋮⋮﹂
既に立場は逆転していたようだ。もう何とも言えなくなった私の
頭を、なんでレジーったら撫でるかな?
﹁君ほど聡明なら、胸やけの理由も察して欲しいけどね﹂
﹁⋮⋮確かに仰る通りです。失礼を致しました、殿下﹂
さっと一礼するエメラインさんと、満足そうに微笑むレジーに挟
まれて、私は目を白黒する。
今の会話の意味がわからない⋮⋮でも教えてと言ったら、どっち
にも拒否されそうな空気を感じる。
﹁エメライン嬢を出すのは、デルフィオン男爵に人質が解放された
と見えるようにしたいっていうのもあるんだ。でなければジナ達に
任せようか、とも考えたんだけどね。氷狐は巨人の上よりも、地上
を走らせた方が有効そうだし。魔術師くずれのことを考えると、君
とは分散しておきたいからね﹂
﹁ふん、狐どもに始終うろちょろされちゃ、たまらんわい。その娘
っ子にしておけ、弟子よ﹂
黙って聞いていた師匠が、ルナール達を遠ざけたいがために、レ
ジーの案に賛成の意見を出す。
それを聞いて、エメラインさんが珍しくも目を見開いた。
﹁キアラさん、その奇怪な人形が⋮⋮今、しゃべらなかった?﹂
1056
﹁あ、うちの師匠はしゃべるんです。あのこの人形の中に、私の魔
術の師匠の魂が入ってまして﹂
﹁人の⋮⋮魂が?﹂
﹁そういうことになります﹂
豪胆なエメラインさんも、さすがにこの不思議現象には驚いたの
だろう。言葉もなく、無表情のまま固まっている。
さっきもイサークに変だのなんだのと言われたんだっけ。
でもレジーが師匠を見て叫び声をあげたことってないな、と思い
出す。
﹁思えばレジーって、師匠に驚いたことないよね?﹂
﹁いや、多少は驚いたよ。君が眠っている間に初対面を済ませてい
たから、平然としているように見えただけだと思うよ。⋮⋮ああ、
むしろ笑いが止まらなくなったかな?﹂
思い出したようにレジーがふ、と笑う。
﹁君はやっぱり奇抜な人だよね﹂
師匠に関しては、反論できなかった。センス悪いって言われない
だけマシだもの。
1057
閑話∼監視される娘︵前書き︶
この話に関連して、以前のエイダの閑話を修正しております。ご了
承下さいませ。
1058
閑話∼監視される娘
魔術師殿とエメライン嬢が退出していく。
それを扉の前で見送ったフェリックスは、入れ替わるようにレジ
ナルド王子の部屋に入った。
﹁ややご不満そうな表情でしたが、無事に了承してくださったので
すか?﹂
﹁キアラは問題ないよ。良い子だからね﹂
そう言って微笑む王子殿下だが、まぁ、魔術師殿がこの方に口で
勝てるわけもなかったのだ。
心の中でご愁傷さまです、とフェリックスは思う。
﹁ウェントワースの方は?﹂
﹁王命も同然ですからね。従うと言っておりましたよ。何を企んで
いるのだろうという顔はしていましたが﹂
表情こそさして変えなかったが、不機嫌そうな気配を滲ませたウ
ェントワースの様子を思い出し、フェリックスは口元が緩みそうに
なる。
最近のカイン・ウェントワースは、今までより感情が表に現れる
ようになってきた。
フェリックスはニヤつくほど楽しい。大いにこじれてくれと思っ
てしまう。
自分が巻き込まれるのは御免だが、他人事ならば笑って見ていら
れるのだから。
1059
﹁そして例のあの女性の件ですが。今日は二度ほどこちらを訪れた
そうです。扉番の兵士に行き先を尋ねたりしたようですが、何の用
かは漏らさないみたいですね﹂
例の女性というのは、昨日からレジナルド殿下の傍をうろつくよ
うになった者だ。
単純に考えれば、王子殿下の柔和そうな容姿に縋ろうとしている
のだと思える行動だ。今までにもそういった女性はいたので、フェ
リックスとしても対応には慣れている。
しかし一つ、問題があった。
﹁まだしばらく、彼女︱︱エイダ嬢から目を離さないようにね﹂
﹁そうですね﹂
フェリックスはうなずく。
﹁一人だけ、トリスフィードからの人質というのも気になる。キア
ラが突入した時に殺されかけていたというから、問題はなさそうだ
けど⋮⋮念の為だね。ルアインが彼女だけトリスフィードから連れ
てきたというのなら、何か理由があるのだと思う。どういった理由
にせよ、ね﹂
それに、とレジナルド殿下が続けた。
﹁王宮にいた人だからね。見間違えでなければ、服装からして召使
として王宮に上がっていたのだと思うけど⋮⋮。分家なら召使をし
ていても、おかしくはない⋮⋮か﹂
﹁私もはっきりと彼女だ、と顔を覚えていたわけではありませんの
で、なんとも申し訳ないことです。特にここ最近は、国王陛下が方
針を変えてから、殿下の傍には女性が多すぎて﹂
1060
フェリックスは思わず苦笑してしまう。
国王に排除されるかもしれない亡き王太子の忘れ形見が、間違い
なく世継ぎになると決まってからは、王妃になりたがる者が群がっ
てきていたのだ。
手のひらを返すような態度に、レジナルド殿下ともどもフェリッ
クス達近衛騎士達も肩をすくめるしかなかった。
殿下の味方を増やすのには有利な状況にはなったし、レジナルド
殿下もある程度女性のあしらいはわかっていたものの、面倒なこと
には変わりなかった。 おかげで名前を覚えても、あまりに一度に沢山の女性と関わった
せいで、数週間後には最初に会った人の名前は曖昧になったものだ。
一応王妃にかかわりがある者は警戒していたが、王妃自身が公的
な場に出てくることが少なく、女官が全員王妃について歩いていた
わけではなかった。
あげく王妃を恐れてなのか、別な理由があるのか出入りが激しか
ったのだ。
そういえばクレディアス子爵がキアラ嬢の代わりのように妻を娶
ったことは聞いたが、結局その妻の姿も見ていないな、とフェリッ
クスは思い出す。
クレディアス子爵という人物が、交流のある貴族の元にしか出入
りしないからだ。
妻は王都近くに住むそれほど高位ではない法衣貴族の娘だったは
ずだが、元からレジナルド殿下に近づこうとしなかった貴族だった
ようなので、ほとんど面識がない。そのためフェリックスは顔を知
らなかった。
﹁まぁ、そちらの懸念を置いておいても、男性だらけの砦でうろつ
1061
いても危ないからね﹂
﹁それもそうですね﹂
統制がとれているとはいえ、数千人もいれば魔が差さない者ばか
りとはいかない。
本当なら家族の元へ返してしまいたいものだが、ルアインをデル
フィオンで敗退させるまでは無理だろう。
それができれば、デルフィオンの者に彼女を預けてしまうことも
できる。殿下に執着していても、軍について行かせる必要はなくな
るのだ。
﹁それでは、暗くなるというのにまだ出歩いているようですので、
回収して参ります﹂
﹁頼んだよ﹂
王子殿下の前を辞して、フェリックスは主塔を出て城壁の上へと
出る。先ほどはそこにいるのを遠くから見かけたのだが、もう姿を
消していた。
哨戒の兵士に尋ねてみると、どうやら砦の厨房の方へ向かったよ
うだ。
しかしそこに行けば、またしてもエイダの姿はなかった。
他の職務を外す代わりに永世食事当番になった、という料理自慢
の兵士によると、エイダはここで王子殿下へお茶をお持ちしたいと
言い、兵士全員に拒否されたそうだ。
﹁客人だとわかっちゃいますが、万が一手違いなんてあっても困り
ますしね。僕等が疑われるのも嫌なので﹂
と食事当番の兵士が言う。
1062
まったくもって職務に忠実な兵士達で良かった。勝手なことをさ
れては困るのだから。
当のエイダは、断られて怒りながら中庭へ走って行ったという。
もうこの時点で、フェリックスは追うのが面倒になってきていた。
しゃべる土偶に驚かされるより、地道に追いかける方がより大変だ。
そうして内郭の砦を出たところで、案の定五人ほどに絡まれてい
るエイダを見つけた。
あまりにうろつきすぎて顔を覚えられ、女を見たら呪いの人形を
持った魔術師かもしれないから触るな、という兵士達の暗黙のルー
ルが適用されなくなったのだろう。あの土人形を持っていないので。
とぎれとぎれに、外に出たかったら配慮してやるから、少しつき
あえとか、貴方なんて眼中にないのよ、などという火に油を注ぐよ
うな発言まで聞こえてくる。
﹁おい、何をやっている﹂
フェリックスが声を掛ければ、さすがに兵士達も一斉に逃げて行
った。
残されたエイダは、手首を掴まれて痛んだのか、左手でさすって
いる。
その痛みの代償に、うろつくことが危険だと分かってくれないだ
ろうか、とフェリックスは思う。
﹁あまり出歩かないように、とお客人達にはお願いしていたはずな
んですがね。どうしてそれを破ってここに?﹂
歩き回って運動するだけなら、今日のエイダはフェリックスが嫌
になるほどあちこち移動しているのだ。十分だろう。
注意を受けたエイダの方は、拗ねた子供のように横を向く。
1063
﹁別に⋮⋮貴方に関係はありません﹂
﹁関係はありますよ。人質の保護のためにこの砦を攻めたんですか
らね。無事でいてもらわなくては。万が一にもわが軍の者が手を出
しては困りますし、むやみに貴方方がうろついて、風紀を乱すこと
を助長されても困るんですよ﹂
﹁あの人は自由にしてるじゃないの﹂
﹁あの人?﹂
﹁⋮⋮魔術師よ﹂
エイダの答えに、フェリックスはため息をつく。
﹁魔術師殿はご自身で、ある程度のことはできる方ですから。兵士
達も自分の命があの方次第になることのを分かっていますから、決
して手出しはしませんよ。貴方と同じに考えられては困りますね﹂
エイダはそれでも不服なようだ。
﹁貴方を特別扱いする理由はないんですよ。他の方々は従って下さ
っています。むしろこれ以上指示に従わずに勝手なことをするのな
ら、貴方のことを敵の間者だと疑う必要が出てくる﹂
﹁⋮⋮どうして﹂
﹁殿下のことをつけまわしているからですよ。殿下の情報を仕入れ
て、敵に伝える可能性があります。何より貴方は一人だけ、デルフ
ィオンの人質ではないんです。あからさまに怪しいじゃないですか﹂
これはしっかりと疑惑を抱いているのだと示すべきだ。
そう思って言えば、さすがのエイダも疑われるのは嫌だったのだ
ろう。
1064
﹁⋮⋮わかったわ。戻ります﹂
エイダはうなずいたものの口を引き結ぶ。そうしてフェリックス
をものすごく恨みがましい目で見てきた。
フェリックスはなんだかげっそりとした気持ちになる。親切にも
疑われないよう気を付けるよう忠告しているというのに。感謝まで
はしてくれなくとも、逆恨みだけは止めて欲しいものだ。
﹁疑われたくないのなら、後を追いまわすようなことをして、殿下
のことを煩わせないで頂きたいですね﹂
フェリックスはエイダの言葉を遮り、内砦の中へ行くよう急き立
てた。
エイダは不服そうな表情をしながらも、フェリックスがじっと見
送る中、城塞塔へ中庭を横切って走って行ったのだった。
1065
デルフィオン領 アレジア戦1
三日後、ルアインの軍が動いたと報告が来た。
しかし駐留していた砦から、デルフィオン男爵の城に戻ったわけ
ではなかった。
先に一軍が砦を離れたらしい。
周辺を警戒するには多すぎる兵は、デルフィオン男爵の兵だった
ようだ。
彼らはバラバラに砦を出て、一路、イニオン砦に向かっていたア
ラン率いる軍を追いかけてきた。
最初はアラン達も警戒したという。
なにせ敵として一度は剣を交えた相手だ。ルアインに何か脅され
て、やみくもに戦いを仕掛けて来たという可能性を考えたらしい。
けれども単身デルフィオン男爵が進み出て、元帥代理とはいえ辺
境伯子息のアランの前に跪いて合流を請い願ったのだ。
辺境伯家古参の騎兵隊長やジェローム将軍、そして生き字引みた
いなエニステル伯爵との合議によって、男爵の兵を迎え入れること
に決めたという。
早馬の内容だと経緯は詳しく分からないが、イニオン砦をレジー
が落とし、人質になっていたエメライン達が解放されたことで従う
のをやめたのだという。
これにはレジーが眉をひそめていた。
ルアインのデルフィオン軍の人々には、おそらく人質の居場所な
ど明かされていなかったはずだ。アーネストさんでさえ、二つの選
1066
択肢を考えていたぐらいなのだから。
そのため、人質が解放されたことを知らせるために、私にエメラ
インさんを同行させようとしていたのだ。
ただ、ルアイン側から何らかの形で情報が漏れたのだと考えるこ
ともできる。
問題はデルフィオン男爵達を、ルアインとサレハルドの軍が追っ
てきたことだ。
アラン達は砦へ合流するのを諦め、砦から徒歩で一日かかる場所
で、迎え撃つことにしたようだ。
アレジア川、と聞いて私はハッとする。
ゲームでアランがルアイン軍と戦った場所だ。
アーネストさんを仲間にしたアランがルアイン軍を急襲。
途中でアーネストさんとの会話で説得されたデルフィオン男爵が、
ルアイン軍を裏切って攻撃し⋮⋮最後にはデルフィオン男爵は、ル
アイン軍の兵を多く道連れにする形で亡くなってしまうことになる。
けれどゲームとは違って、人質も取り返した。だからイニオン砦
の方で戦うことになるかとばかり思い込んでいたのだ。
確かに人質が救われ、ファルジアの軍がそこにいてルアインに勝
つみこみがあるなら、男爵だって早々に離反するだろう。
しかしレジーとしても、予想より早い、と感じているようだ。
彼やアラン達の予想でいけば、イニオン砦まで進軍してきた上で、
デルフィオン男爵が裏切ると考えていたようなので。
﹁すぐ近くに仲間がいる状態で裏切った方が、安全だし、ルアイン
を倒すつもりなら内外で呼応して動いた方が効果的だからね﹂
しかしデルフィオン男爵は、早々に離反する道を選んでしまった。
1067
﹁誰かにそそのかされたかな⋮⋮﹂などと不安になるようなことを
つぶやいている。
男爵に離反をそそのかすとか、ルアインとは別の勢力が茶々を入
れてるってこと? それともルアイン内部で何か派閥争いとか、そ
ういうことが起こっているのだろうか。
あんまり複雑になりすぎると、私の頭では追いきれなくなるので
勘弁してほしいところだ。
﹁正直なところ、砦で迎え撃つより厄介だろうね。しかもデルフィ
オンを受け入れた直後では、軍の動きもガタガタだろう﹂
早馬で報告を聞いたレジーは、そう評した。どうもデルフィオン
男爵の兵が三千ほど加わっても、アラン達の分が悪いようだ。
よくわかっていない私に、カインさんがこっそり説明してくれた。
﹁一度は戦った相手ですから。実はルアインの策で仲間のふりをし
ているだけかもしれない、と思ってしまうものです。いつ裏切るか
わからない相手と隣り合っては、戦うのは不安ですからね﹂
ちょっとしたケンカならまだしも、殺しただの殺されただのとい
う深刻な溝がある相手では、隣にいるだけで警戒してしまうことだ
ろう。
私がカインさんに教えてもらっている間に、レジーはアズール侯
爵やアーネストさんと打ち合わせ、おおよそのことを決めたようだ。
﹁砦はアズール侯爵に預ける。デルフィオンの軍に関しては、アー
ネスト殿の軍を連れて行った方が収まると思うよ﹂
アズール侯爵とアーネストさんが、レジーの決定を一礼して受け
1068
入れる。
﹁出発を急がせます﹂
アーネストさんが立ち上がり、同時にグロウルさんも自分達が率
いている兵に、出発準備をさせるために立ち去った。
﹁しかし急いでも一日⋮⋮。その間に深刻なことになっていなけれ
ば宜しいのですが﹂
﹁アラン達に任せておいても、滅多なことはないと思うよ。ただき
つい消耗戦にならなければいいけど﹂
やや暗い表情のアーネストさんに答えるレジーも、心配している
のだろう。
指揮をするアラン達が動じなくても、前線で戦う兵士達はそうで
はない。言葉を尽くしてみても、信じてくれないことなどいくらで
もあるだろう。
何より魔術師くずれを出されては、動揺してしまっている兵達も
上手く対処できないだろう。
だから私は申し出た。
﹁私が先に行きます。単独で馬を走らせたら、一日もかかりません
から﹂
その分だけアラン達の負担が減る。敵も魔術師がいないなら、と
油断しているかもしれないが、その分だけ早く着けばルアインを威
圧できる。
私の申し出をレジーが検討したのは、ほんの数秒のことだった。
それから私ではなく、カインさんに視線を向ける。
たぶんそちらの方が、時間が長かったのではないだろうか。
1069
なんとなくカインさんの方を振り向けない私は、自分を見ないレ
ジーに、心の奥がざわつく。
まるで、私の保護者をカインさんと決めてしまったかのようで。
でも不安に思う私がおかしいのだと思う。だって年上のカインさ
んが保護者代わりとして扱われるのは、当然のことだ。
なのにどうして⋮⋮見離されたような気持ちになるんだろう。
許可を得たので、報告を聞くため呼ばれた主塔から出る。
けれど自分の部屋へ向かう足どりもなんだか鈍い。
旅の準備を整えるのは、慣れていたためにぼんやりしていても手
が動く。
マントを羽織り、靴ひもを確かめて、腰に吊るす以外の必要最低
限の荷物だけを一つの袋にまとめて手に持つ。
それ以外の物は、緊急時なので置いて行く。砦を放棄することが
あれば、レジーの侍従コリン君が持ちだしてくれるか、その余裕も
なければ破棄されることになる。
準備をする間は小さくなっていた不安が、ひと段落するとまた首
をもたげてくる。
でも、もたもたしていられない。
こんな気持ちは気のせい、戦いに行くのに余計なことばかり考え
てちゃいけないと自分に言い聞かせて部屋を出て、主塔を出て、け
れど中庭を横切って進み、門をくぐろうとしたところで、つい振り
返ってしまった。
顔を見られるとは思っていないけれど、なんとなく主塔を見上げ
て、窓には誰もいないことに落胆しながら、視線を降ろした時。
主塔から出て、グロウルさん達と別な場所へ向かおうと歩いてい
1070
るレジーを見つけてしまった。
﹁レジー﹂
小さな声で呼んでしまう。
心の声が漏れてしまったことに驚いた私は、でもささやき声みた
いなものだったから、遠くにいるレジーはきっと気付かないだろう
と思ったのに。
彼は足を止めて振り返った。
そうして私と目が合ったことに、珍しく動揺したように小さく口
を開いて、それから小さく微笑んだ。
それだけで、TVの砂嵐の画面みたいにざらざらとしていた心の
奥が、凪いでなめらかになっていくのを感じる。
見守ってくれるようなまなざしに、心がしゃんとした。
大丈夫、ちゃんとできると思えたから、私は小さく手を振ってよ
うやく歩きだせた。
﹁まだまだ子供だの⋮⋮﹂
数歩も行かないところで、師匠が何かをつぶやいた。
﹁どうかした?﹂
﹁いやいや何でもないぞい。イッヒヒヒヒ。わしゃ面白いがの、振
り回される方はたまったものではないだろうが⋮⋮それも分かって
受け入れているんだろうからな、言うだけ野暮というものじゃて﹂
変な笑い声以降は、まだも口の中でもごもごと言うような声だっ
たので、聞き取れない。
でも師匠が独り言を口にして、自分でウケて笑うのはいつものこ
1071
とだ。
内側の砦を出たところで、私はカインさんと、エメラインさんに
合流した。
その他にも万が一の護衛のために、レジーの騎士であるサイラス
さん率いる騎兵達20人ほどが、同行してくれる。
道中は、特に危険なことはなかった。
私は久々に自分で馬を走らせた。
長い距離を一気に詰めるためにも、カインさんと二人乗りしてば
かりはいられないのだ。馬の体力を削りすぎてしまうから。
でも休憩時にはへろへろになってしまう。なにせ最近はカインさ
ん任せにしてばかりで、一人で乗っているだけで緊張するのだ。
おかげでカインさんに心配させてしまった。
﹁やっぱり同乗するべきではありませんか? 戦場近くまでは、キ
アラさんが乗っていた馬を使って、戦場の手前で乗る馬を交換する
なら、馬が疲労しすぎることもないでしょう﹂
ちょっとだけ、それもいいかなと私は思いかける。でも、早さの
ことを考えるなら、このままの方がいいだろう。
そう思ったのに、
﹁無理しないで下さい﹂
カインさんが私の前髪を指先で救い上げるように、額を撫でた。
優しい手つきで、でもくすぐったくて身をよじりたくなる感覚に
戸惑う。
﹁疲労のあまりに、必要な時に行動できなくなっては、本末転倒で
すよ﹂
1072
わかっているのだけど、うなずくのが難しい。だって二人乗りを
しても、疲れることには変わらないと思うのだ。
するとカインさんが、私の手首を掴んで歩き出す。
﹁え、ちょっ⋮⋮?﹂
﹁今回は貴方の返事を待つのは止めます。ここからなら十分二人で
乗っても問題ないですし、どうせ現地では馬を使わないでしょう?﹂
そう言って、自分の馬の傍までやってきて私の腰を掴んで担いで
しまう。
なんとそのままカインさんは馬に乗り、さっさと私を前に座らせ
た。
座ってから気付いたが、サイラスさん達が微妙にこちらに生暖か
い視線を向けている。
そうなるのも無理からぬことだと自覚できるだけに、私は居心地
が悪くて仕方ない。けれどカインさんはそんなことを斟酌してくれ
なかった。
﹁行きましょう。彼女の馬をお願いします﹂
カインさんに頼まれたサイラスさんが、騎兵の一人に私の馬を自
分の馬に繋がせる。
出発後、次の休憩時には確かにさっきよりも体が楽だったことを
実感して、意地を張る形になってしまったな、と私は少し落ち込ん
だ。
けれどそこに追い打ちをかけてきたのは、エメラインさんだった。
﹁さすがね、キアラさん。こんなところもわたしの予想以上だった
なんて⋮⋮﹂
1073
水を飲んで木に持たれて座る私の横で、エメラインさんがしみじ
みと言う。
予想って一体何の予想だろう。
﹁これから私、デルフィオンのためにも軍事に強い人を夫に迎えた
いのよ。戦が終われば、領地の建て直しのためにもすぐ結婚しなけ
ればならなくなるだろうし。それなら、殿下の騎士は生きが良いし、
能力的にも問題ないからちょうど良いと思うの。殿下に配慮を求め
るにも有利そうだし。だけど、そういった方を落とすにはどうする
べきか、ご教授いただきたいわ﹂
﹁え、おと⋮⋮おとす!?﹂
なんとエメラインさん。夫候補として騎士のみなさんに目を付け
たらしい。
しかも超打算的で、エメラインさんらしい⋮⋮。
や、確かにレジーの騎士なら、お婿入りするのに不都合のない人
ばかりだろうし、レジーもお祝いに箔つけてくれるだろう。
実践経験豊富だから、今後のデルフィオンが無事に解放された後
も、今後何かの戦役に従軍することがあっても、役に立つ知識を持
っているだろうけど。
なぜそれを私に聞くのか、エメラインさん。
﹁カインさんという騎士とあなたのなれそめを聞きたいわ。そこか
ら自分で分析するから、任せて﹂
いや何を任せろというのか。前向きすぎだよエメラインさん! ていうかなれそめって、そんなのないよ!?
そんなこんなで混乱していた私は、次も気付けばカインさんに捕
まって、彼の馬に連行された。
1074
そして⋮⋮戦場が見えてきた。
1075
デルフィオン領 アレジア戦2
既に戦端が開かれて、前線で兵達が槍や剣を交えている。
アラン達は即席の防波堤として川を利用するため、ここで迎え撃
ったのだろう。敵が移動してくるのを迎え撃つ形になっていた。
ごつごつと大きな河原の石がルアイン兵の足を止めさせているよ
うで、あちら側もむやみに突撃しきれないようだ。
河原から突出せず、けれど有利な場所から引かない戦法は手堅く
見えた。
突撃系なアランではなく、慎重派なジェロームさんの提言による
ものか。
その中で⋮⋮大ヤギが華麗に踊っている。
岩場に強い生き物だから、あんなに元気なのかな⋮⋮。
水の中でうかつに足を滑らせては大惨事になると思うからか、河
原だけだが上流へ下流へと走り抜けながら、仙人が杖で敵兵を殴り
倒している。
衝撃でよろけたり倒れたルアイン兵にファルジアの兵士が集って、
止めをさしているおかげなのか、兵の損耗も激しくはなさそうだ。
同時に、河原が赤黒く染まっていく。
川の水に淡い赤が混ざる。
石の間に挟まるように死体が放置されている。
それを見てもう泣きはしないけれど、早く終わらせたいと焦る気
持ちが湧き上がる。けれど兵力差があるのは見てとれた。
ルアイン側はじわじわと左右に兵を広げて、上流と下流から渡河
1076
させようとしている。
それを防ぐようにアラン達も兵を振り向けているけれど、対処す
るのでやっとの状態というか。
﹁どうも勢いがないようですね。疲労でしょうか﹂
馬を近づけていきながら、カインさんがつぶやく。
私も同じことを感じていた。押し返すには覇気が足りない気がす
るのだ。
一方で中央もヤギ仙人なエニステル伯爵の独壇場っぽく見えるが、
印になるマントを縛って目立たなくしている一隊の動きが悪い。そ
れもあって伯爵が、ハリセンを持って駆け付けた芸人みたいなこと
をしているのかもしれない。
なんにせよ、これは一度引き離してルアインを押し留めた方がい
いのかもしれない。
﹁カインさん前の方に出られますか?﹂
私にうなずくカインさんが、馬の腹を軽く蹴る。
﹁お待ち下さい!﹂
﹁危険です!﹂
ゴーレム
サイラスさん達が追いかけてきてくれる。土人形無しでは攻撃力
も防御もマシュマロな私に、危機感を覚えたのだと思う。
﹁ルアインを押し返します! すぐ離れますから!﹂
振り返れば、エメラインさんも無茶な、という表情をしていた。
でもやるなら今のうちだと思うのだ。
1077
ゴーレム
居ないと思った魔術師が現れたら、ルアインも驚いて兵を引く判
断に傾きやすくなるはず。でも遠くから土人形でゆったり近づいて
は、相手を驚かせることができない。
自分でも無茶だし、怖いとは思う。
でもルアインとの戦いを繰り返して疲弊しているなら、休ませる
か勢いづかせるべきだろう。
これ以上死なせないために。
背後から来た少数の騎兵に、後方の部隊がぎょっとしたように振
り返る。
﹁ごめん、どいて! 私が前に出るから!﹂
敵だと疑われなかったのは、騎馬に戦場では不釣り合いなドレス
を着ている私がいたということと、サイラスさんが急いで小さいな
がらもファルジアの旗を掲げてくれたせいだ。
驚きながらも、ファルジアの兵達が道を開けてくれる。
﹁ちょっ、おま、キアラ!?﹂
﹁先に来ちゃった!﹂
すれ違ったアランに、端的に伝える。とんでもなく短い言葉だけ
ど、アランならこれでわかってくれると期待したい。
そうして前へ出た私を、カインさんが馬から降ろしてくれた。
数メル先では戦闘の真っ最中だ。
カインさんが敵兵に気を配ってくれる中、私は近くの岩に、銅鉱
石を握りしめた手を触れさせ、イメージする。
川底に穴を開けたところで、水が流れ込んできては浮いて来る。
1078
矢を射かける間もなく逃げられてしまうだろう。
足止めしようにも、銅鉱石をばら撒いたらすぐに流されてしまう
かもしれないので、使いにくい。
驚かせるため、強そうな生き物の姿を見せるのだ。
この世界にも私が想定する幻想生物の伝承はある。
﹁羽が無い方が動き回りやすよね? 和風で行こう! 出でよ!﹂
銅鉱石が岩に溶け込むように無くなる。同時に岩が隆起し始めた。
でも一抱えありそうな岩ぐらいじゃ足りない。もっと近くの岩も
と念じた私の魔力に従い、ルアイン軍へ向かって一直線に河原の大
石や小石が持ち上がり、一つの生き物のようにうねりながら形を作
っていく。
胴の長さは五十メルほどになるだろうか。
空高く上を向いたその先端にはワニのような口と鋭い歯。長い髭
と二本の角。体を形成する石の表面に鱗を浮かび上がらせるのは、
力の無駄遣いになるのでやめたが、これで十分だ。
カッコイイ咆哮無しというのが残念だ。
敵味方から悲鳴と怒号と黄色い声が上がる。彼らは一つの単語を
叫んでいた。
﹁龍だ!﹂
胴体が長い、トカゲというより蛇に近い方の龍だ。
驚いて及び腰になったルアイン兵とは反対に、魔術師が来たと勢
いを盛り返すファルジア兵。
私の方は龍をお披露目して終了というわけではなく、思いきり川
の対岸へ頭から突撃させた。
1079
一度高く伸びあがった龍を、滑り込むように川に沿って動かすと、
石の体に弾き飛ばされる度に、重たい嫌な音と悲鳴に怒号が発生し
た。
ぐっと奥歯を噛みしめて、聞こえるものを無視する。
河川敷をひとさらいした龍を、今度はスライディングさせるよう
に中央へ向けた。
石造りの龍を相手に、ルアイン側も必死になる。
触れて魔力を流す手を通して、突貫でやや華奢な造りになった龍
があちこち削られたり、固まっている石を引きはがされたりするの
を感じるが、まだ保てる。
しかしルアインもすぐには撤退する様子がない。
龍をハリネズミ型にして、もっと怖がってもらおうとした時だっ
た。
﹁な⋮⋮何、これ?﹂
熱が上がってくるような感覚と、背筋を滑り降りる悪寒。
風邪を引いた時みたいだけど、急に発熱するような心当たりがな
い。
﹁し、師匠。私、なんか変⋮⋮﹂
﹁ぐぬ⋮⋮﹂
気付けば、師匠も様子がおかしい。かたかたと小刻みに震えてい
る。
魔力が上手く扱えない。細い出口に向かって波立った水が押し寄
せて、空気交じりになるような感覚だ。
足下がふらついたが、異常に気付いたカインさんが手を伸ばして
くれる。支えが欲しくて、思わずその手首を掴んだ。
1080
﹁キアラさん、一度離れましょう﹂
﹁待っ⋮⋮て。あれを、少しなんとかする、まで﹂
私は歯をくいしばって、やや形が崩れ始めた龍を引き戻し、川向
うの河原に横たえた。
﹁くっ⋮⋮﹂
吐き気がせり上がってくるのを押しこめるようにして、魔力を押
し出す。
苦しくて、思わずカインさんの手首をきつく握りしめてしまった。
代わりに龍が、一瞬で無数の石の柱に姿を変えた。高さは私の背
丈ほどはないけれど、河原の石よりもやっかいな防壁になるだろう。
ただ、ルアイン兵が徒歩で乗り越えられないわけではない。
後ろから追い立てられるように石の柱を避けて、死体で幅が狭く
なった川を渡って来ようとする。
それを押し返そうとして、アラン達やエニステル伯爵の兵らしき
一隊がやってくる。
けれど元々いた兵士達の動きが鈍い。怖がっているような状態だ。
だめだ。
このままではアラン達まで怪我をしてしまう。守らないと。
なのに上手く力が入らないのはなんで?
﹁キアラさん、キアラさんどうしたんですか!?﹂
カインさんが険しい表情で呼びかけてくる。けれど返事をするの
でさえ辛い。座り込んでしまいたい。むしろ横たわって眠ってしま
たいほどだ。
1081
でもなんとかしなければと思ったその視線の先に、弓をつがえた
エメラインさんの姿が映った。
エメラインさんの視線の先にいたのは、壮年に近い年だろう黒髪
の男性だ。やや小太りな体を軍衣で包んでいる彼は三人のルアイン
兵に囲まれていた。本人は一人と切り結んで押し合いになっていて、
とてもそれ以上対応できそうにない。
エメラインは、彼の周囲にいたルアイン兵を一人ずつ矢で射抜い
た。
顔や首に矢が刺さったルアイン兵達が倒れる。⋮⋮さすが自信を
持っているだけある。エメラインさんの弓の腕はかなり良い。
囲まれていた男性は、はっとしたようにエメラインさんを振り向
いた。
﹁え、まさかエメラ⋮⋮﹂
﹁ヘンリー伯父様、無様な姿を晒してはなりませんよ。このまま戦
列に穴を開けるようなことになれば、わたしの命でお詫びしても足
りないのです。叔母上もわたしと一緒に、自らの命をもって失態の
代わりとしたいそうですよ﹂
エメラインさんが伯父というのだから、ヘンリーと呼ばれた彼が
デルフィオン男爵なのだろう。
彼女の言葉に、デルフィオン男爵が悲鳴を上げた。
﹁いやああぁぁっ、やめてエメラインちゃん! それくらいなら私
が! 私があああっ!﹂
悲鳴を上げて、必死の形相で男性がルアイン軍に突撃していく。
男爵だけを行かせてはならないと、周囲のデルフィオン兵も隊長
格の人から末端の兵まで、急に鬼気迫る勢いでルアイン兵に向かっ
1082
ていく。
それを見ていたアランやジェロームさんや彼らが率いている兵達
は、目が点になっていた。
再起動に3秒ほどかかっただろうか。
﹁と、とにかく続け!﹂
アランの号令と共に、彼らもルアイン兵に向かっていく。
ルアイン兵の方は﹁ひいぇえええええ!﹂と奇声を上げながら突
撃するデルフィオン男爵に押され、エニステル伯爵達にかく乱され
た所を、アラン達が刈り取って行く。
デルフィオン男爵側が息切れしてくると、今度はアランが前に出
て、ルアイン側もすぐにこちらを攻略するのは難しいと思ったのだ
ろう。
少しずつ引いて行く様子に、ほっとしたのだが。
また急にとてつもない倦怠感に襲われて、私はその場に膝をつい
ていた。
﹁騎士よ早く引き離せ。奴がいる!﹂
焦った声で指示する師匠に応じるように、カインさんに抱えられ
て馬に乗せられた。
﹁師匠⋮⋮奴って⋮⋮﹂
一体誰が傍にいると、こんなことになるの?
﹁陣の後方ぐらいまで遠ざかれば影響は薄くなる。そこまでキアラ
を連れていけ﹂
1083
師匠は私の問いを無視して、カインさんに指示を続けていた。
1084
デルフィオン領 アレジア戦3
後方の兵が見える場所で、私は木陰に隠れるように座らされた。
天幕に担ぎこまれて手厚く看護されていたら﹃魔術師が大怪我を
した﹄とみんなを動揺させてしまうから、魔術師が体調不良になっ
ている姿を見せるべきじゃないと主張し、目立たない場所に置いて
もらったのだ。
せっかく敵を押し返したのに、意味がなくなってしまうと言えば、
エメラインさんもサイラスさんも納得してくれた。
一応様子を見せないよう、カインさんとサイラスさんの手配で、
周囲を囲んで近づかないようにはしてくれている。
兵士が不安がっていたら﹁魔術師は次の魔術のための瞑想に入っ
ている﹂とでも言っておいてくださいと頼んだが⋮⋮それで大丈夫
だっただろうか。
いや、今はそれよりもこんな状態になった原因のことだ。
﹁クレディアス子爵が⋮⋮ルアイン軍の中にいる、と﹂
﹁わしはそう睨んでおる。師から魔力を操作された圧力だ。⋮⋮こ
の人形の中にいるせいか、少し感覚が違ったがまず間違いない﹂
師匠がすぐ亡くなった関係で、今まで師弟における強制力なんて
ものを体験したことがなかった私だったが⋮⋮たぶん、あれがそう
なんだと思う。
﹁さもなくば、あんな風にはなるわけないわい﹂
1085
前線から離れて原因からも遠ざかったせいか、確かにあの謎の脱
力感は嘘みたいになくなった。
けれどみんなが過剰に反応しそうになったのは、気付けば私の両
手の小指からだらだらと出血していたからだ。
原因は師匠によると。
﹁無理するからじゃバカモン﹂らしい。
どうも師によって体内の魔力が荒らされているというのに、無理
に術を使ったせいで、小指の先だけではあるけれど、体が砂になり
かけたようだ。
﹁痛い⋮⋮﹂
応急処置で傷は塞いだので、すぐ治るだろう。
そろそろ血が止まっている頃だと思うが、自分で見るのはちょっ
と怖い。
ミリ単位とはいえ削れた指とか、自分のでも見るのは嫌だ。
痛み止めは効いてくるまでにもう少しかかりそうだ。
手当をしてくれたのはエメラインさんだったが、彼女もさすがに
顔色が悪い。悪いことをしたなと思うと同時に、それで済んでいる
ということはエメラインさんも戦場の死体などに慣れているのだろ
う。
そういえばアーネストさんも、兵の運用はエメラインさんが主体
だと言っていたような。
泣いてばかりだった自分が恥ずかしい。
﹁あの、ごめんねエメラインさん。気持ち悪いもの見せて⋮⋮﹂
謝ると、エメラインさんは冷静な表情で首を横に振った。
1086
﹁怪我人が気を使うものではないわ。謝らなくて大丈夫⋮⋮ちょっ
と特殊な怪我だけれど、魔術師特有の物なのだと理解したわ。言わ
れなければ、滑らかすぎて削れただなんてわからないくらいよ﹂
確かに魔術師じゃないと、こんな変な怪我はしないだろう。
エメラインさんが血を拭った布などをかたずけに立ち去ると、師
匠にはとりあえず休めと言われた。
魔力を無理に動かしたせいで熱があるので、大人しく従うことに
した。
カインさんが尋ねてくる。
﹁熱はかなり高そうですか?﹂
﹁軽い風邪くらいの感じだと思います﹂
というか、自分じゃよくわからない。熱があまり高くない時は微
妙な差で判別できないし、自分の手まで熱いと額を触っても低いよ
うに感じるし。
ただ頭がぼんやりとはする。
﹁失礼﹂
カインさんが自分の手を伸ばして、私の額に触れた。
少しひやりとしていて、心地よさに思わず目を閉じてしまう。
思えばカインさんの対応も変わったな、と感じた。出征したばか
りの頃は、けっこう過保護だった。
あの当時のままだったら、そのまま砦へ帰らされていたんじゃな
いだろうか。
今は私を極力戦わせようとしてくれている。
望んだとおりに。
1087
﹁軽くはない風邪くらいですね。エメライン嬢に他の用意もお願い
してきましょう﹂
そう言ったカインさんは、マントを外して私に掛けて行ってしま
った。
ここまでしなくても⋮⋮と思ったが、確かに暖かい。これはカイ
ンさんが戻ってきても、手放すのが惜しくなりそうだ。
にしても、思ったより熱が高いようだ。
﹁これ、明日までに治るのかな⋮⋮﹂
﹁普通の奴は、わざわざ師の力に抵抗しないからのぅ。イッヒヒヒ。
どれくらいで治ったかは、後の世の奴らのため記録でも残しておけ
ばよいわ﹂
﹁でも私、師弟契約した相手じゃないしなぁ。参考になるの?﹂
そう思いながら、自分でもなんとなく額に触れてみる。やっぱり
熱の程度はわからないけど、動かした指が痛い。
削れてるのを治せないかなと思う。
想像したのは、レジーの怪我に触れた時のことだ。
入り込んだ契約の砂の魔力を表に集めようとしたら、その分皮膚
が盛り上がって傷も塞がっていた。あれと同じことができないかな
と思ったのだ。
目を閉じて、自分の手の魔力を感じ取ろうとする。
ゆっくりと魔力が循環していくのがわかる。ただ、指先だと思わ
れる場所で流れが急に向きを変える。怪我をしているからかもしれ
ない。
試しにレジーにやったことを思い出しながら、そこに魔力を少し
1088
ずつ集めていく。そうして固まれ固まれと念じた。
じわじわと、一ミリぐらい削れたところが戻っていく気がするけ
ど⋮⋮痛さのあまりに途中で止める。
じりじりと焼かれるような痛みで、目に涙が浮かびそうだ。
﹁ううう⋮⋮﹂
痛み止め早く効いてくれないかな。これじゃ試せやしない。
すると魔力を動かしていたことを感じ取ったんだろう、師匠が私
の腕をつついてきた。
﹁何を試しておった?﹂
﹁うーん、傷塞げないかなって試してみようかと思って﹂
すると師匠は意外なことを言う。
﹁わしの仮説としては、可能じゃろうと思っとるがな。ウッヒヒヒ﹂
﹁え、可能?﹂
﹁なんといっても、わしらはどんな属性の魔力を持っていようと、
最後には砂になるんじゃ。砂なら、お前の専門じゃろ﹂
﹁あ⋮⋮確かに﹂
﹁なら砂になる前の肉体ならどうかと思うたのだがの﹂
﹁どうなんだろう。本当にあれ、砂なのかな﹂
焼いた骨だってくずれてさらさらになるけど、あれってカルシウ
ムだよね? あ、でも石灰岩とか岩石にカルシウムって混ざってなかったっけ
? そしたら石とか土に含めていいのかな?
元が土だったら良くて、元が人体じゃだめとか、そういう縛りが
あったらどうしようもないし⋮⋮。
1089
うんうん唸っていたら、師匠にとりあえず血は止まっただろうか
ら、こっそり様子を見てみろと言われた。
﹁なんでこっそり?﹂
﹁魔術師は研究中の事柄を、ほいほい外に晒さないもんじゃ。隠し
玉がある方が、後で危機に陥った時に敵の油断を突くことができる
からの﹂
こそこそと語られたのは、企業秘密を守れという内容だった。
なるほどと思って言う通りにする。
カインさんのマントをひっかぶるようにして、背もたれにしてい
た木の方を向く。
そっと左の小指の包帯と、傷を覆っていた布を取ってみる。
血はとまっていた。指は⋮⋮うん? 上の方が少し平らっぽかっ
たのが、元に戻ってる⋮⋮か?
でも怪我をした後で、肉が盛り上がったような感じだ。でも時間
が経てばこれも違和感がなくなるぐらい傷っぽさはなくなるだろう
か。
﹁成功、かな?﹂
﹁そう思えるのなら、上々なのではないか?﹂
私は師匠にうなずく。
これは成功に含めていいかもしれない。
にやにやとしながら、もう一度包帯を元に戻しておく。
その作業を終えて、また元のように木に持たれて座り直す頃には、
別な懸念も心の中に湧いていた。
ちょっとの傷はこれで元に戻るけれど、作業中が痛すぎた。それ
1090
にすごく疲れる気がする。
レジーの時は必死だったし、自分の血を使ったこともあってやや
大きな傷でもなんとかなったのかもしれないが、倒れて寝込んでし
まったんだよね。
⋮⋮自分相手でも、他人相手でも、あんまり使える力でもないの
かな。
というかレジーって、まさかこの痛みで気絶したんじゃなかろう
か。
むー、と唸って、これは要練習ということにしておこうと思う。
それでさっと使えるほどの術にできなかったら、自分が削れた時
にこっそり直す分として使おう。
しかし熱がまだ下がってこない。
それもこれも、おそらくはクレディアス子爵が戦場になんて出て
きているせいだ。
確かにこんな状態になるのでは、ゲームのキアラも逆らうことは
難しかっただろう。
いつかは倒さなくては、私は前に進めないんじゃないだろうか。
事実こうして、戦場で相対することになってしまっている。ゲー
ムではその影すら画面に出てこないままだったのに。
﹁どうしてゲームじゃいなかったんだろう⋮⋮﹂
何度か考えた、答えのない問いを思い出す。
可能性としては、
一、キアラが別な理由から戦い続けていて、既に子爵は死んでい
た。
二、どこか近くにいたけど、何かのはずみで死んでしまったとい
1091
うちょっとしょぼい結末のせいで出てこなかった。
三、近くにいたけど、負けそうになったので自分だけキアラが死
んだのを見て逃げた。
この三つを考えていた。
正直、一だったとしたら、キアラは王妃に心酔でもしていたのだ
ろうか? 最近はこれが一番の理由ではないかと思っていた。二番
と三番は、なぜ子爵自身が戦わなかったのかという疑問が残る。
﹁なんで子爵は魔術を使わないのかな﹂
ぽつりとこぼせば、師匠が﹁うーむ﹂と悩みだす。
﹁魔術師になって、力が弱いということもなかろう。魔術師くずれ
くらいのことができるのならば、間違いなく前線に出てくるはずだ
が⋮⋮想像がつかんの。普通の魔術師とは違う術が使えるからとい
うことかもしれぬし﹂
師匠にわからなければ、私はお手上げ状態だ。
ただ分かっているのは、こんな状態になるということはいずれ先
方に知られるだろう。
クレディアス子爵がそう念じた後、私の攻撃が無ければ気づくは
ずだ。
そうなれば今後の戦いで、ルアイン側もクレディアス子爵を伴う
だろうし、こちらは私を戦力として使えなくなる。
だから必ず、クレディアス子爵を倒さなくてはならない。
人の運命というものは、最初から決まっているわけじゃないのだ
と思う。
でなければ、選択肢の一つを選ぶことで運命が変わるなんてこと
1092
はないんじゃないだろうか。
けど乗り越えるべきものは、いくつか決まっているのかもしれな
い、と思う。
そんな物の一つが、私にとってはその人なのだろう。
﹁どういう運命で関わるにしても、もうちょっと別な人が良かった
な⋮⋮﹂
できればクレディアス子爵とは二度と関わりたくなかったと思い
つつ、私は嘆息した。
1093
デルフィオン領 アレジア戦4
ルアインとの戦いは、一時休戦となった。
夕暮れの中、お互いにかがり火を焚いて先方の様子を伺いながら
警戒し続けている状態だ。
アランによると、交戦して川を挟んで睨み合いになるのは二度目
だったそうだ。
﹁初回は、ガタガタ言っている暇はないからってことで、ルアイン
を押し返すことで意思統一ができたんだけどな。休戦中にそもそも
はデルフィオンが⋮⋮って話が出たせいで、二回目はあのザマだ﹂
エヴラール他の兵は、初回はだますために大人しくしていただけ
かもしれない。今度はルアインと打ち合わせてこちらを裏切るんじ
ゃないかと思ってしまったらしい。
デルフィオン側は肩身が狭くて萎縮してしまった。
デルフィオン男爵もアランに臣下の礼までとってへりくだって見
せたのだが治まらなかった。
そうして戦況が押されてくると、不信感が深まってしまい、やや
泥沼状態だったようだ。
アランとエニステル伯爵は、戦列をもう少し下げることまで検討
していたが、この川よりも良い場所があまりない。
悩んだところで、私がその空気を気にもせず吹き飛ばした形にな
った。
1094
デルフィオンが勢いよく敵に突っ込む姿に、兵達もようやく懸念
を振り切って、とりあえず目の前の敵を倒すことに専念したようだ。
﹁それでお前はどうなんだ?﹂
アランに尋ねられて万歳してみせた。
﹁治りました。次の戦いには参加します﹂
そう申告したら、横にいたカインさんはやや考えてから﹁わかり
ました﹂とうなずいてくれた。
アランは﹁いいのかよ⋮⋮﹂という目でカインさんを見てから、
私に言った。
﹁敵に魔術師がいたせいでお前が倒れたと聞いたが、そっちの対策
はできるのか?﹂
﹁物理的に近づかなければいいから、遠距離攻撃を試す予定﹂
﹁⋮⋮土人形の腕がもげるやつか?﹂
領境戦で目撃したロケットパンチのことを思い出したのだろう。
﹁だいたいそんな感じで﹂
﹁それならまぁ⋮⋮。一応味方に飛ばしたり、混戦状態になったら
控えろよ。後ろで土人形だけ出して待機してるだけでも、十分威圧
できるんだからな﹂
﹁うん了解﹂
私も味方を潰したいわけではない。私のコントロールが及ばない
状態になったらあきらめよう。
アランは何かと忙しい身なので、私が戦に手を出すのか出さない
1095
のかを確認すると、早々に他の将軍たちの所へと立ち去った。
むしろ片眉を跳ね上げて不満そうな顔をしていたのは、エメライ
ンさんだ。
﹁本当に⋮⋮体調の方は万全なの?﹂
﹁熱も下がったし大丈夫!﹂
ほらほらと元気に飛び跳ねたら、エメラインさんに額に触れられ
る。
平熱だというのを確認すると﹃解せぬ﹄と言いたげな表情ながら、
私が大丈夫だというのを認めざるをえなかったようだ。
﹁魔術師の特殊な症状と言われてしまっては⋮⋮わたしのような者
にはなんとも判断できないことが、落ち着きませんね﹂
エメラインさんは解明できないことがどうも引っかかるらしい。
でも私もよくわからないので、説明しようもない。
そしてエメラインさんは、カインさんに尋ねた。
﹁騎士様の目から見ても、大事ないという判断なのですか?﹂
﹁キアラさんが大丈夫と言うのなら、そうなんですよ﹂
カインさんの答えに、ますます理解しがたそうな渋い表情をした。
﹁⋮⋮なんだか騎士様の場合、彼女が大丈夫だと言えば、死の淵に
足をつっこんでも止めなさそうに見えますわね﹂
﹁魔術師のことは、我々にはわかりませんからね。キアラさんとホ
レス師の判断に従うしかありませんので﹂
私にとっては﹁そりゃそうだ﹂という回答だったが、エメライン
さん的にはしっくりこなかったようだ。けれど彼女にもやることが
1096
ある。
﹁伯父をシメてきます﹂
そう言って、デルフィオン勢がいる場所へと歩いて行ってしまっ
た。
夜が近づいたので、戦線の後方にはいくつか天幕が張られ始めて
いる。けれどほとんどの兵士は、交代でルアイン側と睨み合いをし
なければならない。
眠るのも後ろに下がった場所で、適当にということになるだろう。
私は後で、自分で土の家を作成するつもりでいる。
⋮⋮まだ少し、体の中で息づくように活性化している魔力が落ち
着いてから、になるが。
それを話すと、カインさんが言った。
﹁無理をしなくても、あなたとエメライン嬢を押しこめる場所はア
ラン様が手配してくれているでしょう。芳しくない戦況の中では、
うら若い女性を放置することはできませんからね﹂
まぁ、あなたもエメライン嬢も、一筋縄でいかない人ですけれど。
とカインさんは付け加えた。
﹁どちらにせよ、あなたが命をかけるのはここじゃないはずです。
次の戦いでも、虚勢を張る時間が終わったら、すぐに連れ戻します
よ﹂
﹁⋮⋮十分です。ありがとうカインさん﹂
カインさんがいてくれるから、戦える。
私一人の言葉ではアランも信じてくれなかっただろうけど、カイ
1097
ンさんがわかったと言ってくれたから、大丈夫だと思ってくれたは
ずだ。
﹁次はいつになると思いますか?﹂
今はルアインも魔術師を警戒して引いた。少なくない損害があっ
たことも影響しているだろう。
これで諦めてくれたらいいけれど、睨み合いをするということは
⋮⋮もう一度戦うつもりなのだと思う。
﹁明日、レジナルド殿下が来る前でしょう。砦にいるはずのあなた
が駆け付けたことを考えたら、早々に到着するかもしれないと予想
して午前中には動くのではないでしょうか﹂
そんなカインさんの予想は当たることになる。
翌日、陽が高くなった午前中のうちにルアインが動いた。
けれど矢を射てくるばかりで、逆に川から攻め入ってくることが
ない。
むしろこちらが打って出ると引くので、アラン達は兵を突出させ
ないよう戻すのに忙しくしていた。
私も突出した兵を助けたいけれど、遠隔攻撃でピンポイントに狙
うのは難しい。誤差のあたりで確実に味方を巻き込みそうだ。
意図せず、アランが言った通りに土人形を兵の後方に出して待機
することになってしまう。
けれどそれもあまり宜しくない。
﹁これ、そのうち私が影響受けてるってバレますよね⋮⋮﹂
﹁しばらくは、何らかの作戦があるから沈黙していると捉えるかも
しれんが、この一戦が引き分けるまで何もしなければ⋮⋮まぁバレ
1098
るじゃろ﹂
師匠が私に同意した。
後方待機ばかりが続いてしまうとクレディアス子爵の影響下に入
りたくないから、後ろでまごまごしているようにしか見えないだろ
う。
かといって戦いに参加しないわけにもいかない。それこそ子爵を
恐れる理由があると思われてしまう。
できれば子爵のせいで魔術が使えないと思われたくない。
知られてしまったら、ますます子爵が私を追い詰める手を使うだ
ろう。それでますます私が戦場で役立たずなことになってしまうの
が耐えられない。
できれば効くか効かないかわからない、と先方が思っているうち
に決着をつけてしまいたいんだけど。
﹁後ろから回る⋮⋮っていっても、後方に移動されたら何もできな
くなるし、私単体でのこのこ行ったら捕まるし。横撃すると見せか
けて、物を投げて遠距離攻撃? てか、師の魔力って私の魔力を使
ったものでも影響するんですか?﹂
私の質問に師匠は苦悩の唸りを上げる。
﹁とりあえず炎や水や風などは、師の前で立ち消える﹂
﹁本当に師弟関係があると、攻撃できないんですね⋮⋮﹂
﹁やってみたので実証済みじゃ。イッヒヒヒ﹂
立ち消えるとは思わなかった。そしてやったんですか師匠。
﹁でも、派生したものはどうなんです? 火元は作っても、延焼し
た部分は術者の力じゃないですよね?﹂
1099
﹁そういう手を使った例はあるだろうが⋮⋮そもそも魔術師という
のはな、個々人でばらばらに生きているもんで、交流を持つという
こともほとんどないんじゃ﹂
﹁みんなコミュ障?﹂
﹁それも師弟関係で縛られるのが、遠因じゃろ。逃れようと思えば
遠ざかって一人で暮らすのが一番じゃ。関係性が悪化したときのこ
とを考えて、師弟になったら負い出す師匠もおるだろうしな﹂
安全性を求めた結果だったらしい。おかげで魔術師についての情
報がさらに流出しにくくなったということか。
﹁どこかに師をあらゆる手を使って殺そうとした、気概のある人の
記録はないんですかね?﹂
﹁時々お前は本当に物騒な⋮⋮お前が第一人者になるしかなかろ﹂
言われて私は考える。
そしてカインさんに言った。
﹁少し横に移動します。それから⋮⋮ちょっと試します﹂
1100
デルフィオン領 アレジア戦4︵後書き︶
次でアレジア戦ひと段落します。
1101
デルフィオン領 アレジア戦5
動かないのが一番良くない。だから私は、様々なことを試すこと
にした。
まず軍の左翼の横に出るように土人形を歩かせる。
すり足の移動で、ちょっとずつ足場をずらしていき、クレディア
ス子爵の影響が来ないぎりぎりの場所を探した。
すると、一歩踏みだそうとしたら、息が詰まりそうになる場所に
さしかかる。
慌ててそこから三歩ぐらい下がった。
一度座り込んでしまった時に、カインさんが背中を撫でてくれた
けれど⋮⋮ごめん、それされると余計に吐きそうです。
慌てて断って、落ち着くまで待つ。
それから魔術師がいるだろう方向を探した。
いつだったか、師匠を探した方法だ。契約の石はもうないけれど、
魔術師同士だから感じることはできる。
顔を想像すると嫌気がさすので、無心で、無心で⋮⋮。
﹁どうじゃ?﹂
﹁あっちからと、こっちからの二方向から考えて⋮⋮敵陣の中央辺
りに居そう﹂
一点からわかる方向より、二点で方向を測ればより正確に相手が
いる場所を推測できる。
これを確認しておけば、やることは一つだ。
1102
﹁後はクレディアス子爵が、避けなくても良い場所に打撃を与えれ
ばいいわけで﹂
私は土人形の手に、銅鉱石を握らせて地面に手を置かせる。
ずず、と土が動く音と共に土人形の手に集まり、一本の短剣を形
作っていった。
カインさんにもう一人面倒をみさせるのは難しいだろうと、地上
にいてもらったエメラインさんが、それを見て動揺したように後退
っている。
﹁いちいち腕もげると面倒だもんね。最初からこれにしたら良かっ
たのよ﹂
﹁しかし、こっちの影響下から離れたら形が崩れるじゃろ。腕がす
っ飛んで行くぐらいなら、土の塊が落ちてくるも同然だったゆえ、
そう変わりはなかっただろうが﹂
﹁それも作戦のうちだから﹂
師匠に応じながら、土人形に素振りをさせる。
しかし腕を振り回すと同時に土人形の体も右へ左へと少し回転す
るので、乗ってる方もちょっと大変だ。
﹁あわっ!﹂
よろけたところを、カインさんに掴まえられた。
これは宜しくない。投げる度にうっかり振り落とされてしまいそ
うだ。
毎回不安定な場所にいては目標を定められないので、私は一計を
案じた。
土人形から降り、今度は外回りのらせん階段がついた小さな塔を
1103
作る。
塔というか、見た目蟻塚?
とにかく土人形よりも高い場所で、ちょっとした物見の塔が欲し
かったのでこれで良し。⋮⋮少々、登るのにあたって息切れしたけ
れど。
今度は動く場所でもないので、エメラインさんも登頂する。
﹁高いわね⋮⋮﹂
さすがのエメラインさんもこういうのは初めてなのだろう。
登って高さを実感しながら辺りを見回し、それから塔の土をぽこ
ぽこ叩いて強度を確認していた。崩れないか心配になったんだと思
う。
私は息を整える間を惜しんで、次の行動に出る。
﹁ぜーっはーっ。今度こそ!﹂
急いで別行動となった土人形に、指定の場所に剣を投げさせる。
勢い良く放物線を描いた土の剣は、ある一定の距離でその形を保
てなくなりそうになりながらも、ルアイン軍の後ろに落ちる︱︱ほ
ぼ土砂になって。
それでも大量の土が空から降って来たらさぞかし困るだろう。案
の定、ルアイン軍の後方では兵の動きが乱れていた。
これなら大丈夫だと、私はルアイン軍の中心近くから後方へと次
々に剣を投げさせた。
どうせ土がくずれたものが降り注ぐだけなので、クレディアス子
爵にしても自分の影響のせいなのかどうかわかるまい。
ルアイン軍は土が降り注ぐ中で右往左往していた。
1104
土砂は中心部にも容赦なく振りかかる。そのせいか、前線の方で
も動きが乱れがちになった。
おかげでアラン達もだいぶん楽に押せている。けれどルアインは
兵を引かない。
カインさんもそこが気になるようだ。
﹁殿下の兵が来たら、さすがに撤退せざるをえないでしょうが⋮⋮。
それにサレハルドの姿が見えない﹂
﹁あちらの集団はそうではありませんか?﹂
エメラインさんは弓を使うだけあって目がいいようだ。指さした
方向には、確かにサレハルドの緑のマントが見えた。
ルアインと交ざり合うように交戦している集団の姿に、カインさ
んはじっと目を向けている。まだ何か気になるのだろうか。
レジーはいつ到着するのだろう。
もうすぐ太陽が中天に昇る。
その頃には到着できると思っていたが、ファルジア軍もそんな連
絡を受けたそぶりはない。もしそうだったら、もっと士気が上がる
だろう。
まだかなとアレジア川へ向かう道の先を見て、それからもう一度
アラン達に目を向けようとした時だった。
視線が、何かに引っかかった気がした。
何かよくわからないけれど、気になって左手に広がる河川敷の木
立に目をむける。
特に目立つものなど無い。
葉を広げる木々。風が吹くとその下に垣間見える地面や川の水面。
それを見ていた私の目の端に、チカリと銀の輝きが目に映った気
がした。
1105
﹁⋮⋮⋮⋮?﹂
思わず探して︱︱息をのんだ。
﹁か、カインさん! あ、あれ見てください!﹂
川下側から渡河した所に、青いマントの集団が見える。指し示し
た方向を見て、カインさんはエメラインさんに依頼した。
﹁アラン様に至急知らせて下さい。殿下が左翼側から攻めます﹂
エメラインさんはうなずいてすぐに即席の塔を駆け降りて行く。
この横撃を受けたら、きっとルアインも大打撃を受けるだろう。
ほっとしながら、私も攻撃ポイントをずらそうとした。
土砂が煙幕代わりになるだろうから、それでレジーの軍を直前ま
で気付かれないようにしようと思ったのだが。
﹁⋮⋮っ﹂
心臓が強く打つ。
息がつまりそうになりながら、私は急いで土人形を自分の側に移
動させた。
﹁カインさん、飛び移って!﹂
必死でカインさんを手を差し伸べさせた土人形に誘導し、倒れ込
むようにして移動した。寸前でカインさんが受け止めてくれたので、
頭からつっこむのは避けられた。この状況でたんこぶ作るのは恥ず
かしいので助かった。
﹁キアラさん!?﹂
﹁クレディアス子爵が、移動してきて⋮⋮。影響を受けてないフリ
1106
をするために、移動っ⋮⋮﹂
急いで土人形を歩かせる。レジーの軍がいる方に向かってだ。
土人形の手のひらの上に座り込んだ私を、カインさんが支えてく
れる。
一歩ずつ遠ざかる気配に、私は息苦しさと脱力感が薄れていくの
を感じた。
﹁師匠、これ⋮⋮気づかれてるんじゃないでしょうか﹂
﹁そうとも限らん。己の力の範囲がどこまでなのか、など細かく調
べたところで出てこぬわ。相手によるとしか言えないのだからな。
⋮⋮今日の攻撃は後方からだったことで、多少疑惑は抱いているだ
ろうが⋮⋮なるべく、魔術の使用時間が切れたと見せかけろ。今の
ところ自分の魔術では何もしかけて来ないところからして、あっち
ももしかすると﹃直接攻撃の術﹄が無い魔術師なのかもしれん﹂
﹁直接、攻撃できない⋮⋮?﹂
師匠の言葉を聞いているうちに、だいぶん息が楽になった。
土人形を動かしたりしたせいか、じわじわと身の内に熱が湧き上
がるような感覚に身震いする。
﹁そんな魔術があるんですか?﹂
﹁無いとは言えぬな⋮⋮。わしが知っているのは、時間を越える魔
術を使う者ぐらいか﹂
﹁時間って、タイムスリップ? そんなことできるんですか!?﹂
﹁話は後だ﹂
師匠に促されて、私は先にレジーを援護するための煙幕を作るこ
とにする。
1107
ルアイン側の右翼にばかり攻撃を集中しては不自然だ。
左端から順に中央部まで続けた時点で、私は攻撃を止めた。
これ以上は体の中の熱が上がってきて、昨日みたいになってしま
う。レジーに気づかれてしまうわけにはいかない。
土煙が晴れたばかりの箇所を、レジーの軍が進む。
あと少しと思ったところで、その行軍が止まった。
﹁え、交戦してる?﹂
﹁サレハルドの兵ですね⋮⋮﹂
かなり前から兵を伏せていたのだろう。サレハルドの軍が動きだ
して、ようやくそこに潜んでいたことがわかった。
あれ、もしかして腐葉土まで被って偽装してた?
上から見つけられなかった自分に舌打ちしたくなる。
けれどレジー達の軍も、それだけで行動を止められることはなか
った。あっさりと二手に分かれたかと思うと、一方は河川敷へ出て
そこからルアインの方へと遡上し攻撃を開始したのだ。
残る一方がサレハルドの軍と交戦し続けている。遠目では数的に
レジー達の方が劣勢に見えるので、はらはらとした。
レジーがどこにいるのかは見えないけど、そうでなくとも彼の傍
にいる人には顔見知りやお世話になった人が多いのだ。
無事でいてほしい。でも知っている人だけ救うのも、全員を救う
のも不可能だ。
﹁ルアインが引けば、サレハルドも引かざるを得なくなりますよ。
⋮⋮見て下さいキアラさん﹂
肩を叩かれて、いつの間にかぎゅっと目を閉じて祈っていた私は、
1108
カインさんの指が示す方向に目をむける。
レジー達が率いる軍の横撃に耐えきれず、ルアイン軍がずるずる
と撤退を始めている。
それにともなって、レジーの軍と交戦していたサレハルド軍も移
動しはじめていた。
レジー達は一定の場所で止まり、追撃はしないようだ。
ほっとした私は、敵の様子を確認するつもりでじっと見つめてい
た。
計三つに分かれていたサレハルド軍が、川からやや離れた場所へ
合流していく。
彼らが向かう先には、ルアイン兵の黒いマントに混ざって、緑の
マントの一団がいた。ほぼ全員が騎乗しているところから、彼らが
サレハルドの中枢部なのだと思う。
サレハルドの新王は、そこにいるんだろうか。
そう思って注視したのがいけなかったのだろうか。
赤茶けた髪の色に、既視感があった。
ルアインにその髪色の人間が多い。戦や休戦などを経て、ファル
ジアにも似た髪色の人間は多くいる。ルアイン貴族ならより赤味が
強い色になるらしい。
だからそれほど珍しい色の髪じゃない。
けれど私が高い場所にいるせいで、はっきりと見えてしまう。
髪の長さ。遠目だから多少小さく見えるけど、覚えのある顔立ち。
苦笑うような何かいたずらを思いついたような笑みが、その顔に
一瞬ひらめいて⋮⋮心の奥がすっと冷えていく。
思わず口にしかけた名前を喉の奥に押しこんだのと同時に、体中
が冷たくなるのを感じた。
1109
﹁キアラさん、体調が悪化しましたか?﹂
私はいつの間にか座り込んでしまっていた。
カインさんが気遣ってくれるけれど、こんなこと言えない。だっ
て見間違いかもしれないじゃない? 良く似た人だったからとか、
そういうことだって考えられる。
一方で心の中に浮かぶのは、笑い方まで同じ人がいる? という
疑問だ。
﹁だ、大丈夫です。終わったみたいなんで、ちょっと気が抜けたの
かも⋮⋮しれません﹂
震えた声で、そう言うのがやっとで。
血の気が引いて冷たくなった両手をぎゅっと握りしめて、心の中
で呻く。
⋮⋮イサークにとても良く似ていた。
1110
訳を聞かせてほしいんです
その時、レジーは最初から迂回してサレハルドに攻撃しようとし
ていたらしい。
私を先行派遣したので、魔術師がいるということで中央の陣に注
目が集まっている隙に、打撃を与えるつもりだったようだ。
やや遅れたふりをして、ルアインの斥候兵をしらみつぶしにさせ
てから進んだレジーだったが、予想外なことにサレハルド側も同じ
ように伏兵を配置していた。
剣を交えることになってしまったため、相手の襲撃は防いだもの
の、こちらの襲撃も効果が弱まってしまったのだ。
﹁同じことを考える将がいるとはね﹂
一戦が終わった後、アランと合流したレジーはやや厳しい表情で
そう言った。
今はもう、夜にさしかかる頃だ。
戦いの後で合流したり、追撃をしたり、その部隊を戻すまでの間
にどれだけの損害が出たのかを確かめたりした後、食事を終えたら
こんな時間になっていた。
天幕の中に集まっていたのはレジーとアラン、私とカインさんと
エメラインさんだ。
とりあえずみんなの無事や、怪我をしていないかを知りたくてこ
こまで来た私はほっとする。
そのためにあまり食べたくないけれど食事までしたのだ。おかげ
で胃が重苦しい。
1111
おおよその説明を終えたレジーは私に目を向けた。
﹁キアラ、具合が悪いのかい?﹂
﹁えと⋮⋮﹂
正直、もう自分がなにを感じてるのかごちゃごちゃだった。
具合は悪いのだと思う。昨日ほどではなくても熱が上がっている
ような感覚がまだ残っている。
けれどぼんやりするのは、どうしてもイサークの顔を思い出して
しまうからだ。
けれどそういったことをレジーに言うわけにもいかない。
あまり具合が悪そうにならないようにもしたい⋮⋮戦うなと言わ
れたくないから。
黙っていると、師匠がヒヒヒッと笑う。
﹁ルアインに魔術師がきておった。その影響で、上手く魔力が治ま
らないようじゃな﹂
﹁師匠⋮⋮﹂
﹁これは言わねばなるまい? 魔術師がいるのは報告すべきじゃろ
うが﹂
確かにそうだ。師匠が言わなくても、アランが報告しただろう。
﹁魔力が治まらない? どういった状態になるんですか、ホレス師﹂
﹁体の魔力が活性化して、発熱などの症状が起こるのぅ。⋮⋮そう
じゃろ、弟子よ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
寒気はする。
1112
だから熱があるのは間違いないんだけど、なんだか曖昧でよくわ
からない。
﹁休めば治ると思う﹂
嘘は言っていない。だけど私の顔色が悪すぎたのか、隠し事に向
かない性格が悪いのか、隣に座るエメラインさんが心配そうにして
いる。
﹁もう休んだ方がいいのでは? これがわたしのことだったら気合
いで吹き飛ばせとか、心頭滅却とか考えるけど、他の方には無茶な
ことですもの。ちゃんと治るまで休養するべきよ﹂
﹁気合いで⋮⋮?﹂
アランが何だこいつ? みたいな表情をしている。
それから私に視線を向けた。⋮⋮お前の同類か、みたいな目をす
るのはやめてくれないかな。エメラインさん側は私にシンパシーを
感じちゃってるらしいので、完全に否定できない気がするのがあれ
だけど。
まぁ、アランはエメラインさんとは初対面だから、なおさら驚い
ているんだろう。
アランもそんなことに引っかかる程度には元気なようだ。さすが
に数日戦場を走りまわっていたせいで、些細な怪我があったり疲れ
た顔はしているけれど。
さすが主人公。
﹁休んだ方がいいよ、キアラ。どちらにしても動くのは明日になる。
すぐにイニオン砦まで戻ることになるけど、その行程も何かの馬車
に乗せてもらった方がいいだろう﹂
1113
レジーに勧められて、私は大人しく自分用の天幕へ戻ることにし
た。
エメラインさんを一人で置いて行くのは心配だったけど、デルフ
ィオンの人達がいる場所へ行くということだった。そこまではレジ
ーの侍従君がついて行ってくれるそうだし、親族がいるなら大丈夫
だろう。
夜道を一歩一歩、付き添ってくれるカインさんと一緒に進む。
足下がおぼつかなく見えたんだろう、背中に手を添えるようにし
て支えてくれている。
私が言いたくないことを感じてか、カインさんはずっと何も聞か
ないでいてくれていた。心配させていると思うけど、止めないと約
束してくれたカインさんにもこれだけは口にできない。
でも誰かに嘘だと言ってほしい。
誰にも聞かせられない。
確かめようにも、サレハルドのことなんて⋮⋮。
いや、サレハルドに詳しい人なら、いる。
﹁あの、ジナさんとギルシュさんは来てますか?﹂
﹁⋮⋮いると思いますよ。呼びますか?﹂
私はうなずいた。
二人はサレハルド人だ。自分達の王のことを知っているだろう。
しかもジナさんは、カッシアでふらりと一人で出かけた私を追い
かけてきてくれた時に、イサークの顔を見ている。
顔見知りじゃないかもしれないけど、あの時のジナさんの様子を
考えると、知っててもおかしくないんじゃないかと思うのだ。
1114
確かめたかった私は、自分の天幕までジナさんを呼んでくれるよ
うにカインさんに頼んだ。
やがて二人がやってきた。リーラ達を連れて。
﹁私達に任せて。きっと女の子同士の話だろうからねん。あなたも
少し休んで来たらいいわよん﹂
私を見たギルシュさんが、そう言ってカインさんの肩を叩く。
女の子同士という言葉にちょっと変な顔をしたカインさんだった
が、決して私を害さないリーラ達もいるので、その場を離れてくれ
た。
ルナールとサーラを見張りにしてギルシュさんとジナさんは中へ
入った。
リーラだけは一緒にするりと潜り込んで、私の横にくっつく。
⋮⋮あ、やっぱりリーラって魔力吸い取ってるんだなとはっきり
わかる。
ふつふつと湧く魔力の熱が引くような、そんな感覚があった。お
かげで少し体が楽になった気がする。
師匠が嫌そうにカタカタしていたが、リーラも師匠とは反対側に
くっついたので、文句は言わなかった。
全員座ったところで私は話を切り出した。
﹁サレハルドのことを⋮⋮それに関わることを教えてほしいんです﹂
ギルシュさんとジナさんが、そういうことならと微笑む。たぶん
普通にサレハルドの情報が欲しいと思われたんだろう。
﹁なんじゃ、女子同士の秘密の会話ではないのか?﹂
﹁それだったら師匠はカインさんに預けてます﹂
茶々を入れた師匠に、私は苦笑してジナさんに尋ねた。
1115
﹁カッシアで私が会っ赤髪の男性に、ジナさんは覚えがありますか
? ⋮⋮というか、知り合いですよね?﹂
ジナさんが目を見開き、呼び出された意味を理解した表情になる。
ギルシュさんが立ち上がった。
﹁その話なら、ジナとした方がいいわん。私は周りに人が近寄った
りしないか、見張ってくるわね﹂
外へ出て行くギルシュさんを見送って、私はつぶやいた。
﹁それほど⋮⋮内緒にしなくちゃいけないんですね、イサークのこ
とは。そして最初から、ジナさんはイサークのことを知っていてあ
の時睨んでた、と﹂
﹁キアラちゃんは⋮⋮それを確信してたのね﹂
﹁今日、サレハルドの軍の中にいるのを見たんです。騎士達に囲ま
れてました﹂
私の言葉にジナさんは一度目を閉じてから言った。
﹁イサークは、今のサレハルドの国王、イサーク・ヴラドレン・サ
レハルドよ﹂
イサーク⋮⋮サレハルドの王。
聞いた瞬間に思ったのは﹁あ、騎士とかじゃなかったんだ﹂とい
うものだった。
でも騎士だったからといってどうしようもない。あそこにいて、
確実にファルジアとの戦いに身を置いていたのだから、戦いたくな
いと言って聞いてくれるわけもない。
1116
むしろ国王なら、イサークは自分で命じたはずだ。
ファルジアと戦えと。
レジーが率いる兵に向かって、剣を向けた。
﹁どうしてカッシアで、教えてくれなかったんですか? イサーク
のこと睨んでたし、あの時ちゃんとイサークがジナさんの知ってる
人だってわかってたんですよね?﹂
カッシアの町で、知り合いだったかのようにじっとイサークを睨
んでいたジナさん。
あれは、私に近づいたからだとずっと思っていた。
ジナさんは良い人で、リーラ達も私になついてくれている。イサ
ークも私に悪いことをしなかった。励ましてくれたから⋮⋮。
けどそれだけじゃない、と分かった。イサークはサレハルドの王
だって、最初からジナさんは知っていたはずなのに。
﹁一瞬のことだったから⋮⋮そんなにキアラちゃんが覚え続けてい
るとも思わなかったの。たぶんそう会うこともないだろうと思って﹂
ジナさんの言葉に、思わず膝の上に置いていた手をぎゅっと握り
しめる。
﹁忘れられません。ずっと覚えてるんです。変な人だったけど、私
が決めたことを貫き通そうってできたのは、イサークと話したから
で﹂
﹁え? キアラちゃん。イサークとそんなに長い間話してたの?﹂
ジナさんは、私がぼんやりしているところにイサークがちょっと
話しかけようとしてた、ぐらいに考えていたようだ。
あの時なんとなく話した内容を言いたくなかったから、私が誤魔
化したせいだろう。
1117
うなずくと、ジナさんが呆然としていた。
﹁よくあいつに攫われなかったわね﹂
﹁警戒はしてたの。初対面の人はちょっとって言って。けっこうひ
どいこと言ったのに、ずっと話を聞いてくれてた⋮⋮﹂
お菓子をくれて、なぐさめて、前向きになれそうな励ましまでく
れて。だから、敵だったなんて思いもしなかった。
﹁⋮⋮弱った気持ちにはさぞ、響いたじゃろ﹂
カッシアで私が勝手に飛び出して、ジナさんに見つけられて帰っ
てきたのは一度だけだ。
その前後の状況を思い出したのかもしれない。色々なことを含ま
せたように、師匠がつぶやいた。
﹁師匠はいなかったんだけど、イニオン砦でも⋮⋮会った﹂
﹁あそこにも!?﹂
ジナさんが目を丸くして、額に手を当てていた。
正体を知った今では、私もそうしたい気持ちだ。でもあの時は、
そんなことは知らなかったから。
﹁イサークは、私に接触して情報を引きだそうとしてたのかな⋮⋮﹂
﹁あいつはキアラちゃんのこと、魔術師だって知っていたのよね?
だとしたら攫うつもりだったのかもと思ってたんだけど﹂
イサークは二度目に現れた時、私を誘拐することも、おびき寄せ
ることもなかった。ただ話をして、お菓子をくれただけ。
その状況に、ジナさんも目的がわからずに困惑しているようだ。
1118
でも敵だったことには変わりない。
友達になったつもりだった。カインさんとは別の、年上のお兄さ
んみたいに思っていただけに⋮⋮思った以上にショックを受けてる。
何より彼がサレハルドの王なら、キアラは彼を殺さなければなら
ないのだ。
イニオンでのことも聞いたジナは、小さくため息をついて言った。
﹁ここまでキアラちゃんが話してくれたんだものね。どうしてイサ
ークのことを知っていて言わなかったのか、理由を話すわ﹂
1119
ジナの告解 1
﹁私はサレハルドの侯爵家の⋮⋮庶子なの﹂
ジナイーダというのが、ジナさんの正式な名前だという。
彼女のお母さんは、ジナさんが10歳くらいの頃に亡くなったそ
うだ。お母さんは下働きの女性で、当主の手がついてジナさんを身
ごもった。
望まない関係だったが、悋気の強い侯爵夫人にことが知れたら殺
されてしまう。当主に逆らえなかったのと同様、貴族が平民の女性
を人知れず殺したところで、誰にも責められないのがこの世界だ。
ジナさんのお母さんは侯爵家から逃亡し、ジナさんを生んだ後も
隠れるように暮らしていたという。
ただこのお母さんもなかなかパワフルな人で、元の出身が狩猟民
族な村だったらしく、弓の腕を生かして生活し、時にはギルシュさ
ん達の傭兵団とも関わっていたらしい。
⋮⋮ここでギルシュさんとジナさん達が知り合ったようだ。
そのおかげで﹃貴族の家で下働きをしていた女性﹄を探していた
侯爵家は、なかなかお母さんを見つけることができなかった。
しかしジナさんが10歳になる頃にお母さんが病に倒れた。
お母さんの薬代を稼ぐため、ジナさんはそれまでに習い覚えた短
剣や弓を扱うことで、仕事をしようとした。
貴族の狩猟の勢子をしたのだが、それが運命の転換点になってし
まった。
1120
﹁私がね、侯爵家の当主に顔が良く似てて。しかも狩猟をする貴族
の中に、その侯爵家当主がいたのよね﹂
当主は愛情からお母さんを探していたわけではない、とジナさん
は言う。
おそらくは生まれた子が女子なら、早いうちに取り上げて夫人の
子供として育て、手駒にしたかったのではないか、と。
とにもかくも、運命の狩猟場でジナさんは当主の配下に見つかり、
お母さんを治療する約束と引き換えに侯爵家に引き取られたのだ。
﹁幸いって言っていいのかな。侯爵夫人はもう亡くなってた。異母
姉が一人いたんだけど、あの人は私がへりくだっていたら満足して
くれたから、思ったほどいじめられたりはしなかったんだ﹂
既に庶民らしい癖が言動に浸みついてしまっていたジナさんは、
教育をほどこそうとした家庭教師に匙をなげられて以降、異母姉ナ
ターリヤの引き立て役としてあちこち連れまわされることになった。
そうして異母姉ナターリヤは、最良の物件を引き当てるチャンス
に恵まれた。
ジナさんよりも五歳上の、王太子エルフレイムの話し相手として、
王宮に呼ばれるようになったのだ。
更には、体が弱かったエルフレイムが静養として、侯爵家の別荘
に滞在することもあった。
そこに、第二王子のイサークもついてきた。
それがジナさんとイサークやエルフレイム王子の出会いだったと
いう。
﹁ナターリヤはエルフレイム殿下に夢中だったわ。あの人は最高の
1121
地位が大好きだったから。でもエルフレイム殿下はなんていうのか
しら。慎ましい人だった。色々なことに自信が無くて。自分よりも
体が強くて子供らしい行動をして大人から可愛がられやすいイサー
クに、劣等感を抱いてて。だから⋮⋮わたしなんかに声をかけてく
れたんだと思う﹂
ナターリヤを常に持ちあげ、下手をすると使用人かと思うような
真似までしていたジナさんに、エルフレイム王子は興味を示してし
まった。
﹁たぶん、劣等感が強いあの人は、惨めな立場のわたしが相手だと
安心できたんじゃないかな﹂
自虐的なことを口にしながらも、ジナさんは懐かしそうに柔らか
な表情をしてた。王子のことを﹃あの人﹄と言うからには、かなり
親しくしていたのだろうに。
エルフレイム王子が王宮へ戻った後も、彼はジナさんと話をする
機会をどうにかして作りだそうとするようになった。
15歳になる頃には、お互いに恋心を持っているのだと自覚せざ
るをえなかった。
﹁でも結ばれるわけがないのよ。王太子殿下と貴族令嬢でも庶子じ
ゃね。⋮⋮でもあの人は諦めきれなかったみたいで。それから何年
も婚約を拒否し続けていたんだけど、状況が許されなくなって。と
うとう別な公爵家の令嬢と婚約することになったの。イサークが誤
って王位についてしまわないように﹂
﹁え? でもイサークって次男⋮⋮﹂
それに今回彼が王になったのも、王太子を幽閉した上で強引に即
1122
位したという状況だったはず。
﹁そこにルアインが関わってくるの﹂
﹁ルアイン?﹂
﹁彼の髪の色を知ってるでしょう? あれは母親がルアインの王女
だったからよ﹂
エルフレイムとイサークも異母兄弟だった。
﹁ルアインって国はけっこう苛烈な国なのよ。王女を政略のために
結婚させて、油断したところを襲撃するの。で、その王女をまた別
な所へ嫁に出す、なんていうのを平気で繰り返すのよ。もちろん嫁
にもらう側には拒否しきれない理由をつけてね﹂
イサークの母王女との結婚が持ち上がったのも、サレハルドと国
境線の争いがあってね。その折り合いをつけるためのものだったら
しい。
というか状況からすると、サレハルドの王妃が亡くなって間もな
くそれをふっかけてきたので、ルアインからすると王女を嫁に出す
ために問題を引き起こしたのではないかとサレハルドでは思われて
いたようだ。
一方のイサークの母も、四度目の結婚で疲弊していた。
三度目の結婚では夫にルアインへの八つ当たり交じりに折檻をさ
れたこともあって、ルアインのたくらみも話し、大人しく王宮の隅
で過ごしているからどうか追い出さないでくれと泣くような有様だ
ったとか。
でもそのおかげで、サレハルドはルアインの無茶な要求を避け、
喧嘩を売られても退けることができたらしい。
心身が疲弊していた王女は早くに亡くなったが、その前にサレハ
1123
ルド王との間に、イサークが生まれたのだ。
けれどイサークもまた、戦争の火種になりかねない子だった。
﹁ルアインがイサークを王に押し上げる恐れがあったの。イサーク
が成人してからはサレハルド国内に圧力をかけてくるようになって。
兄のことを慕ってたイサークは、どうにかして王冠から遠ざかろう
として、わたしに婚約をもちかけてきたの﹂
﹁こんや⋮⋮え、まさか婚約がだめになったって、相手は﹂
婚約でいざこざがあって婚期を逃したと言っていたけど、まさか。
﹁そう、イサークなの﹂
ジナさんが苦笑いする。
﹁庶子と婚約してしまえば、誰もイサークを王になんて推せなくな
る。イサークは兄を守るために私と婚約したの﹂
それで一度は、もろもろのことが治まった。
国王も内部貴族の反乱︱︱一部地域の出身者が、度々お互いの猟
場に関して諍いを起こすのだ︱︱を抑えるためや、国外に波及しな
いためにルアインに借りをつくることが多く、あまり刺激したくな
かったようだが、諦めてエルフレイムを王太子とした。
﹁イサークとは別に恋愛感情はなかったんだけど、エルフレイムを
助けるためにっていう気持ちだけは同じだったから。それなりに仲
良くはやってた。だけどエルフレイムの婚約者が亡くなって⋮⋮﹂
それは事故だったといわれている。
彼女は逃げた猫を追いかけて、自分の城の城壁から転落して亡く
なったのだ。
その後すぐに、エルフレイムにルアインから婚姻の打診があった。
1124
﹁国王陛下は元々気弱な方で。当時頻発した魔獣被害でルアインに
また借りを作ってしまったこともあって、すぐ屈してしまったの。
婚姻を受け入れると決めたせいで、一番ショックを受けたのはイサ
ークだったと思う﹂
﹁お母様の国の方が来るのに?﹂
尋ねた私に、ジナさんは苦笑して首を横に振った。
﹁小さい頃からルアインを敵視する貴族からは、敵国の手先みたい
に言われてたものだから、イサークのルアイン嫌いは相当なものだ
ったの。あげく兄王子の即位を脅かすことになるのも、ルアインの
血が流れているからだし﹂
とにかく、このままでは国が乗っ取られてしまいかねない。
だから、イサークは婚姻を受け入れる理由を壊すことを計画した
のだという。
1125
ジナの告解 1︵後書き︶
長くなったので二分割で、残りは明日更新を予定しています。
1126
ジナの告解 2
﹁壊す⋮⋮ってどうやって?﹂
問い返されたジナさんはうなずいた。
﹁約束をした父王を殺すことで無効にし、自分が王位につくことで、
エルフレイムは幽閉したから婚姻などできない、と言えるようにし
たのよ﹂
それがサレハルドのお家騒動の内情だったのだ。
﹁わたしは、事を起こす前に婚約を破棄されたの。王位に就くため
に協力させる貴族達の餌として、結婚をちらつかせるのと⋮⋮巻き
込まないために﹂
でもたぶん、とジナさんは続けた。
﹁イサークが、わたしがエルフレイムのことを好きだって知ってい
たからだと思う。エルフレイムが解放された時に、力になってやれ
と言っていたから﹂
﹁それじゃ、いずれイサークは退位するつもりなんですか?﹂
エルフレイムが解放されるのは、イサークが退位する時ぐらいだ
ろう。
﹁そうよ。全ての問題を片付けたら、エルフレイムに王位を譲るつ
もりなの﹂
1127
ジナさんが、悔しそうな表情になる。
﹁この戦いに従軍したことで、サレハルドはルアインに対して大幅
に借りを返したことになるわ。でも、それだけでは今後の状況が元
に戻るだけ。だからルアインに貸しを背負わせて、なおかつファル
ジアから責任を追及する手を緩めさせる必要があるの﹂
﹁そんな魔法みたいな方法があるんですか⋮⋮?﹂
﹁正直なところ、ファルジアが勝ってもルアインが勝っても、サレ
ハルドは今よりは悪くはならないのよ﹂
ファルジアが勝った場合、サレハルドは責任を負うべき国王が交
代することで、ルアインと合同で侵略したことの責任の一端は果た
したことにできる。
ルアインに対しても、イサークが取り付けた約束事だったからと
破棄することが可能だ。
なにせ次の国王が幽閉されていたのだ。
イサークが勝手にやったことだとエルフレイムが押しきれるよう、
イサークは仕組んでいた。
﹁だからイサークは、ルアインの侵略に手を貸した。その前より、
悪くならなければいいんだから。あと、わたしと言う保険もかけて
たから﹂
﹁保険?﹂
イサークの婚約者だったというジナさん。
彼女が従軍していた理由はわかったつもりだった。なにせ彼女は
その経歴のせいで目立つから、ついて行くしかなかったんだろうっ
て。
1128
だけどそれだけじゃなかったっていうの?
﹁ごめんね。わたしは放っておかれても、そのうちファルジアに手
を貸す予定になっていたの。傭兵としてついて行ったのも、不審が
られないように、いずれファルジアに雇ってもらうためで⋮⋮﹂
﹁元からファルジアに雇われる予定だったんですか⋮⋮。でも、ど
うして。ファルジア内部で何かするつもりで?﹂
﹁いいえ。サレハルドは、ファルジアが勝ってくれた方が都合がい
いの。そのための助力と⋮⋮わたしの功績を上げるためでもあるわ﹂
言いにくそうにうつむくのは、自分の評価が上がる行動だからだ
ろうか。
﹁わたしは魔獣を連れているでしょう? わたしを自分の都合に巻
き込んで婚約した罪滅ぼしのつもりなのか、イサークは昔からわた
しが好き勝手できるようにしてくれて、ルナール達を育てることが
できたんだけど⋮⋮だから戦場ではかなり役に立つわ。そのわたし
が戦功を挙げて代替わりしたエルフレイムの味方をしたら、ファル
ジアはあまり強く出られないでしょう?﹂
納得した。
もしエヴラールに私という魔術師がいなかったら、ジナさんの価
値はかなり高いものになったはずだ。
それこそ、賠償金の交渉でサレハルド側が有利な材料にできるく
らいには。
﹁そのために、ギルシュさんと二人だけでサレハルドを出たんです
か?﹂
1129
﹁むしろわたしのことをカモフラージュするために、あちこちの傭
兵に声がかけられたの﹂
サレハルドが傭兵を召集したのはそういう理由だったらしい。
﹁わたしは顔なじみのギルシュのところに、頼んで所属させてもら
ったってわけ﹂
そこでようやく、ジナさんが知っているイサークの話が終わる。
﹁どうかしらキアラちゃん。これで、あなたの知りたいことはだい
たい分かったのかな﹂
私は自分の中にしまおうとした情報に戸惑う。
理解したけれど、でもやっぱり遠い世界の人のことみたいで。
﹁理由とかは、わかりました﹂
﹁わたしもギルシュも、事情を隠していたわけだけど⋮⋮怒ってな
い?﹂
不安そうな表情をするジナさんは、隠しごとをしていたのが気に
なったようだ。
なにせ私は、イサークが身元を偽っていたことを知ったからこそ、
サレハルドのことを教えてほしいと尋ねたのだ。様子がおかしかっ
たのも全て、そのせいだと考えたら、騙されたことにショックを受
けているとわかるに違いない。
﹁大丈夫です﹂
私は微笑んでみせる。
1130
だってジナさんは別に嘘をついたり、傭兵としての契約に違反し
ようとしてたわけじゃない。
事情はさておき、彼女の言うことを信じるならファルジアを勝た
せるためについてきたのだ。そして今まできちんと仕事を果たして
きていた。
私に近い場所にいたりしても、優しくする以外のことをジナさん
はしたことがない。
﹁ジナさんの話は疑っていません。たぶん本当だと思うんです。で
も私の知ってるイサークと、同一人物には思えなくて⋮⋮﹂
﹁あの人は、どうやってキアラちゃんに近づいたの?﹂
﹁最初は商人だって言ってて⋮⋮。急に声をかけてくるから、警戒
したらなんか落ち込み始めて﹂
うさんくさい人扱いをしたのに、私をかまおうとしたイサーク。
今思えば、私が魔術師だとわかっていたからしつこく絡んできた
んだろう。
けれど、甘い砂糖菓子を食べただけで泣いた私に驚いて、驚くほ
ど親身に話しを聞いてくれた。
戦わなければならない相手だっていうなら、あんな風に励まさな
くてもいいのに。
﹁イサークってさ、誰にでもなれなれしくするの得意なんだよね。
普通なら拒否されたらどうしようとか、嫌がられたら傷つくとか考
えて、そんなことしないじゃない? だけどその方法でけっこうな
確率で知己を増やせたせいなのか、多少すげなくされても全然堪え
ないのよね﹂
ジナさんが、どこか懐かしそうな目をしている。
1131
子供の時から知り合いだったのだから、ジナさんもエルフレイム
王子の方が好きだとはいえ、イサークともそれなりに思い出がある
のだろう。
﹁出会ったのがカッシアの時だったら、落ち込んでたキアラちゃん
の気分を上向かせるには⋮⋮丁度いい相手だったかもしれないね。
だから騙されたと思うより、利用してやったと思えばいいよ﹂
ジナさんはそう言って慰めてくれた。
ただ嘘をつかれて騙されたんじゃない。私の方にも利点があった
けど、それだけの相手だから感謝しなくてもいいし、傷つく必要も
ないのだと思えばいいと言ってくれているのだ。
でも私は、誰かのことをそんな風に考えたことがない。
イサークに救われた気持ちになったのは確かで、ずっと感謝して
いた気持ちをすぐに無しにするのは難しくて。
だけどイサークが本来はそんなことをする必要もないのだと思え
ば、善意でしたのかと思うと⋮⋮憎むなんてこともできない。
私の困惑を察したのか、ジナさんがぎゅっと私を抱きしめて言っ
た。
﹁すぐには心の整理がつけられないよね。でも大丈夫、あいつと戦
うことがあれば、わたしが代わりに殴ってやるから﹂
その言葉で、私は言い渡された気がした。
イサークとは、必ず戦うことになるのだと。そうでなければ、イ
サーク達は引けない事情があるんだとわかった。
ジナさんの温かさと、リーラの柔らかい毛並みを感じながら思う。
私の代わりに殴るというジナさんは、戦場でイサークと向かいあ
1132
う決意をもうしているんだ。
私も、あの人と戦う覚悟を決めなくちゃいけないんだ、と。
1133
悩み事は心の底に
﹁⋮⋮どうした?﹂
差し出した木杯をいつまでも受け取らないレジーに、アランは思
わず尋ねていた。
食事後、アランやエニステル伯爵、ジェローム将軍とこれからの
行動についての話し合いをしていた間は、レジーの様子は変わりな
いように見えた。
けれどアランと二人で残る頃になると、ややぼんやりとすること
が多くなってきた。
話の合間に考え込んで、アランが水を差し出しても気づかない。
今も声をかけられてようやく顔を上げたくらいだ。
﹁ああ、ごめんアラン﹂
﹁⋮⋮また具合が悪いのか?﹂
刺さった矢に塗られていた、人を魔術師に変える石の欠片。その
影響で、また具合が悪くなったのではないかと考えたのだが、レジ
ーは首を横に振る。
﹁そうではないよ﹂
﹁だけど⋮⋮キアラも敵に魔術師の子爵がいたせいか、思うように
魔術が使えない上に体調を崩したって﹂
魔術師になるには、師弟で魔力の高い石を分けて取り込む。
そうしないと、弟子だけが取り込んだ場合には体の魔力がつられ
るように活発化し、体がくずれてしまうのだ。
1134
素質のある者が、安全に魔術師になる方法らしいが、代わりにデ
メリットもある。
同じ石を分け合った師の意思に逆らえなくなる、ということだ。
キアラはクレディアス子爵と石を分け合って魔術師になったわけ
ではない。けれど魔術師になる以前に、素質を確認するために投与
された砂は、クレディアス子爵が同じ石の欠片を取り込んでいたも
のだったのだろう。
キアラが影響を受けるとしたら、子爵しか心当たりがないのだか
ら。
だからキアラは子爵が攻撃を止めさせようという圧力を受け、思
うように動けなかった⋮⋮とはいえ、あれだけ土を投げつけて戦場
の敵を混乱させたのだから、十分だ。クレディアス子爵は攻撃を続
けたことで、自分の力が影響を及ぼしていないと錯覚したかもしれ
ない。
しかしレジーは違うという。
﹁キアラと違ってそういうこともないよ。たぶん魔術師くずれなん
かを作りだすために、子爵が関わらない石を砂にして配ったうちの
一つだったんだろうね。不幸中の幸い⋮⋮という感じなのかな﹂
﹁だったらいいんだが⋮⋮じゃあ、悩み事か?﹂
珍しい、とアランは思った。
レジーは正直悩み事だらけで、すでに様々なことを悩みとして考
えていない節がある。
ほとんどは﹃処理すべき案件﹄という感じで受け止めている気が
する。
﹁悩み⋮⋮かな﹂
1135
だから目を伏せがちにしてため息をつく横顔に、一体何が起きた
んだとアランは不安になった。
レジーには処理できないことが発生した、ということだ。
彼に無理なら、アランは自分にそれが処理可能だとは思えない。
そんなわけで妙にうろたえてしまった。
﹁い、いい、一体何だ? 兵に問題が? それとも将軍たちに問題
ができたのか?﹂
兵で悩むとしたら、デルフィオンの兵のことぐらいだろうか。
戦場でも炭火のようにくすぶっていた不信感を、表出させてしま
った苦い記憶がアランの頭に蘇る。
とはいえつい先日まで敵だったものを、今日から味方だといって
も⋮⋮理解はできても、心が納得できないのも分かるのだ。
しかしそういった問題なら、レジーは扇動するなり騙してしまう
方法を見つけるだろう。
将軍たちだって、実直で常識人なジェロームが何かことを起こす
わけもなく。
エニステル伯爵が問題を起こすとしたら、ヤギの扱いについてぐ
らいではないだろうか。
他は意外に変なことはしないし、やや老齢だからこその思考の偏
りは見られてもおおむね公平な老人だ。ヤギに乗っているのに。
ちなみにあのヤギは大変獰猛だ。
昨日は興奮して鳴き声を上げて突撃したあげくに、向かってきた
敵兵に齧りついて倒していた⋮⋮ヤギなのに。実はあれ、魔獣なん
じゃないか?
とにかくそれ以外のレジーに解決できない問題なんて思いつかな
い⋮⋮と思ったが、一つ心当たりがあった。
1136
﹁キアラのことか?﹂
つぶやいたアランに、レジーが一瞬目を見開いて苦笑いした。
﹁さすがアラン。よく私のことをわかってる﹂
どうやら当たったようだが⋮⋮今さら﹃いや、違う﹄とは言えな
かった。
消去法で残った可能性を口にしただけで。何かに気づいたわけで
はないので、実に後ろめたい。
﹁キアラが何かやらかしたか? お前でどうにもできないなら、俺
からも注意するなりしておくぞ?﹂
﹁それじゃまるで母親みたいだよアラン﹂
レジーがくすくすと笑う。
言われてようやくアランは、うちの子が迷惑をかけてなかった?
と似たようなことを口にしていたと気づく。
仕方ないじゃないか。あのやや間抜けなところのある魔術師は、
保護者の師匠もあまり諌め役にならないどころか、基本的に自由に
させているみたいなので、何をしでかすかわからないのだ。
﹁何かしたわけじゃなくて⋮⋮気の毒だなと思って﹂
﹁何がだ?﹂
﹁裏切られる経験がないと、辛いだろうなって⋮⋮いや、カッシア
で私達は一度彼女をだましているわけだけど。あの時も相当ショッ
クだったみたいだから﹂
﹁また何か、あいつ抜きの作戦でも実行するつもりなのか?﹂
1137
しかし一体どこで? と思っていると、レジーは言う。
﹁なんにせよ、クレディアス子爵が戦場に居続けるなら、倒すまで
キアラは使いにくくなる。最悪のことも考えて、キアラ抜きでも戦
えるようにしておく必要はあるだろうね﹂
﹁まぁ、死んだら意味がないからな⋮⋮﹂
ここまで一緒に戦ってきたのだ。クレディアス子爵を倒してしま
えば、その後の戦いでは間違いなく力強い味方でいてくれるだろう。
そんなアランの思考を読んだかのように、レジーが﹁そうだ﹂と
付け加える。
﹁うちの騎士のローエンを男爵の城下町へ向かわせたよ。子爵の始
末をつける算段を考えるように言ってある﹂
﹁もう?﹂
手配が早すぎる。アランは驚くしかない。
﹁早くはないよ。子爵が魔術師だというなら、出てくる可能性もあ
るんじゃないかと思っていたんだ。キアラの記憶では戦場に居なか
ったらしいけど、必ずそうなるとも限らないからね。その時には先
に始末をつけておきたいと思っていたんだ。⋮⋮そこに本人がやっ
てきたとわかったんだから、実行するだろう?﹂
邪魔だから除ける、という気軽な調子で説明された。
﹁そ、そうだけどな⋮⋮。こんなに急ぐと思わなかったんだ﹂
﹁あっちも戦場には初参加だろう? そして普通なら君みたいに考
えるはずだ。一度態勢を立て直してから策を講じるだろうってね。
1138
そんな余裕はあちらに与える気はないよ。⋮⋮会わせたくないから
ね﹂
レジーは一度アランが渡した水を口にする。
﹁自分の枷になるはずだった相手なんて、キアラも見たくはないだ
ろう。少し前まで、不安がっていたのも落ち着いたみたいだけど、
子爵と戦うというだけでも負担になっている今、心理的に不安定に
させる要因は取り除いておきたい﹂
確かにキアラは、出征してから不安定だった。
人を殺すのが怖いくせに無理に戦っては泣いて、休ませようと思
っても逆に意地になって。
﹁最近はまぁ、落ち着いたよな﹂
カッシアに到着した後だろうか。まだ変な焦りはあったようだが、
それでも表情から力みが抜けたような気がした。ソーウェンでレジ
ーを根負けさせてからは、安定していると思う。
確かに嫁にされる予定だった相手とは、会いたくもないだろう。
保護者のつもりのレジーは、キアラが嫌がる相手を遠ざけるのに
ためらいがない。
けれど保護者のつもりだったら、あちらは気にならないのだろう
かとアランは思う。
﹁子爵のことはわかったんだが⋮⋮キアラの様子は見なくてもいい
のか?﹂
魔力がどうこう、というのはアランには一切わからない。
説明された内容から起こる体調の変化について想像してみて、戦
1139
いに影響があるかどうかを推測するか、実際に見た様子から考える
しかない。
けれどレジーはもっと心配なのではないだろうか。
﹁ウェントワースが見ているだろうから、任せておけばいいよ﹂
レジーの答えに納得しかけて⋮⋮アランは違和感で眉間にしわが
寄る。
何か違う気がした。
どうしてかと考えてふと思う。
レジーは今まで、護衛以外のことでウェントワースに任せきりに
するようなことを、していただろうか。むしろキアラの側にいる異
性として、多少なりと警戒していたような気がしていた。
レジーに目を向ければ、特に他意はなさそうに微笑んでいる。
聞き間違えだったのかと思うほどに。
そのことばかり気にしていたアランは、結局レジーが何を悩んで
いたのかを聞き忘れたのだった。
1140
イニオン砦へ戻ったら
ルアイン軍は、デルフィオン男爵の城へ向かって離れていった。
ファルジア軍の方は、態勢をととのえたりするため、占拠してい
るイニオン砦まで戻ることになった。
その撤収準備の間に⋮⋮と、私は早朝にアレジア川の河岸へやっ
てきていた。
一緒にいるのは、カインさんと私が無茶しない要員エメラインさ
んと、戦闘後すぐで要警戒状態なのでジナさんとギルシュさんにル
ナール達もついてきている。
あまり時間をかけられない。だけど、
﹁河川敷で疫病とか本気で目も当てられませんから﹂
この世界は大変うれしいことに蚊はいないんだけど、やっぱり川
の水にいろいろなものが流れるのとか、流れやすい状況とかはよろ
しくない。
各町や村でも井戸を使っているとはいえ、川だって生活用水にし
ているのだ。下流で病気が蔓延したら、デルフィオン領の人々が困
ることになる。
﹁さすがはキアラさんね。でもそのような知識、どこで仕入れたの
?﹂
初めてこれに立ちあうエメラインさんに質問されたが、これはど
う説明しよう⋮⋮。
視線をさまよわせていると、カインさんが助け船を出してくれた。
1141
﹁エヴラールへ移り住んでから、キアラさんは辺境伯の書庫で様々
な本を読んでいたんですよ。おそらくそこに、そういったことが書
いてあったのだと思います。ですよね?﹂
﹁あ、はい。そういうことです﹂
そういうことにしたいと思います。
うなずいていると、カインさんがやれやれといったように苦笑い
する。助けてくれてありがとうございます。
エメラインさんの方はそれで納得してくれたようだ。
﹁辺境伯家の書庫⋮⋮。きっと古い記録などもあったのでしょうね﹂
﹁ええ。昔の辺境伯様の日誌とかもありました﹂
実際にあれこれ読み漁ったので、そのあたりは嘘をつかなくても
ぽんぽん言葉が出てくる。
﹁デルフィオンはエヴラールよりも歴史が浅いところがあるの。城
の中の物も、一新されたりして⋮⋮。古い記録が無いものもあった
りして﹂
﹁どうして古い記録がないんですか?﹂
辺境のエヴラールなら、戦火で焼けたとか、戦利品のごとくルア
インの領地を取り込んで広がったり狭くなったりしていたりで、場
所によっては歴史が浅かったりするようだけど。
デルフィオンはファルジアの内側の領地だから、そういったこと
はないはずなのだが。
﹁デルフィオンは、元々はフェルグス侯爵領の一部だったの。けれ
どフェルグス侯爵が国王に離反したことがあって、家が取り潰され、
1142
時の国王の臣下だったデルフィオン家の当主などに爵位を与えて、
侯爵領を分割して統治させることになったのよ﹂
そんなデルフィオンの歴史を聞きながら、私は石で土人形を作り、
川岸から少し離れた場所に遺体を集めて行く。
川に浸かったままだった敵兵の遺体などもあったので、集めて一
気に埋めることにしたのだ。
一部、その方法が使えない遺体もあった。
ちょっとくずれすぎてて⋮⋮。川岸にそういった遺体が集中して
いることを考えると、原因は私だと思う。石の龍で思いきり轢いち
ゃったもんなぁ。
あの時は体調悪化も手伝って、必死すぎてこんな状態になるなん
てことも気づかなかった。
﹁ごめんね⋮⋮痛かったでしょう﹂
悪いことをしたと思っても、同じ状況になったら同じことになっ
ただけだと思う。だから後悔はしないけれど、もっと苦しまないよ
うにできなかったのかなと考えてしまった。
﹁あまり気にし過ぎるな。戦場で敵味方に分かれたら、仕方のない
ことじゃ。本意でない人間とて、覚悟はしておっただろう。それに
もしお前が死んだ側だったとしても、相手が済まないなどとは思わ
なかっただろうて﹂
一緒にいる師匠が、そう言って悪役みたいにくつくつと笑う。
確かにね。
たとえどんな理由があっても、兵士として武器を手に持ったら仕
方のないことだ。わかっているけど辛い。
1143
そういった遺体はその場にて埋める。集めた遺体も、広い穴を作
って一気に埋めた。
河川敷の林の中に、ぽっかりと大きな盛り土ができる。
そこに、逃げ遅れたり偵察のために潜んでいる斥候を警戒して巡
回をしていたのだろう、兵士が通りがかった。彼らは私達の様子を
見て話をしている。
﹁あれ⋮⋮何してんだ?﹂
﹁さっき将軍様達が言ってただろ。魔術師様は疫病の発生を嫌って、
魔術の儀式を毎回行うんだって﹂
なんかもう、私の魔術儀式として定着しつつあるなこれ⋮⋮。
いっそのこと魔術的な理由でやった方が勝てるとか、適当にオカ
ルトな理由をでっち上げた方が浸透しやすいのかもって気になって
きた。
﹁でも敵だろ⋮⋮?﹂
どうしても敵を埋めることは、抵抗が強い人が多いのだ。砦で困
惑していた大声のアズール侯爵もそうだった。
打ち捨てられて腐って行く、惨めな姿を晒させることに意味を見
出してしまってるのかもしれない。
ただ見回りをしていたのは、エメラインさんの父アーネストさん
配下の兵士だったようだ。
﹁でもさぁ。俺たちもアーネストさんが男爵に従ってたら、敵側で
死んでたんだよな⋮⋮。だったらせめて埋めてもらえた方がいいだ
ろうな﹂
1144
一歩間違えたら、同じ運命になっていた。
それは今回領地内で敵味方に分かれてしまったデルフィオンの人
だからこそ、思うことなのかもしれない。
けれど少しでも、自分だったらこうしてもらいたいって形でもい
いから、埋めることに同意してくれる人が増えたらいいなと思う。
気づけば、てしてしと慰めるように師匠が私の脇腹を叩いていた。
⋮⋮うん、ありがたいけどこそばゆいよ師匠。
その後、イニオン砦までは二日かけて戻った。
怪我人も運ばなくてはならないし、兵士達も一戦終えた後で疲弊
しているので、ゆっくりと進まざるをえないからだ。
砦に到着すると、アラン達は予め決めていた通りに兵達を移動さ
せたり、作業を開始させていた。
何の作業かといえば、兵の大半が外郭と内郭の間に天幕などを立
てて、そこで寝泊まりすることになるからだ。
本来の砦にある部屋等への収容人数がそれほど多くないので、そ
うしないと壁の内側に全員を収容できないので、仕方ない。
沢山兵がいるのは戦力として安心できるけれど、こういう時は人
数が多いと結構大変だと思う。
私も天幕を張らないで済む場所を作ろうかと申し出たんだけけど、
子爵のせいで体調崩した後だからと却下された。
﹁お前は自分のことを万全にしながら、何か対策でも考えてろ﹂
とアランに門前払いされたのだが、私はどうしても諦められなか
った。
1145
門の側とか結構不安でしょ。
だから勝手に、そこに石づくりの小屋とか増設しようとしたんだ
けど。
﹁キアラ?﹂
なぜかレジーに見つかった。
﹁休むように言ったはずだよね? あまり時間を置かずに会議もす
るから、一緒に行こうか﹂
笑顔で手首を掴まれて、牽引されてしまった。
その途中、内側の砦に入ったところで、砦の様子が少し変だなと
思った。
敵襲もなかったはずなのに、居残っていた側の兵士達がやや不安
げな、困惑したような顔の人がいる。
そうしてレジーの部屋に到着するより先に、アズール侯爵から早
めに状況確認をしておきたいので、と早々と会議に召集された。
そこでは戦の経過などの説明で、ほとんどアランやエニステル伯
爵、そしてアーネストさんが話すことになった。
デルフィオン男爵のヘンリーさんは、一応直前まで敵対していた
ことなどが絡んで、今回の会議には出ていない。
最後に、私は砦にいる兵の様子が変だった原因を知った。
﹁ボヤ?﹂
聞き返すレジーに、砦を預かっていたアズール侯爵がうなずいた。
1146
﹁どうも兵士同士で喧嘩があったようでしてな。それが殺人事件に
までなったようでして⋮⋮﹂
深夜に燃えた砦の一画は、冬の備えである薪などを入れておく場
所だったようだ。
まだ秋にさしかかったところなのと、戦で余裕がない状態だった
のもあり、そこにあった薪の量こそ大したものではなかった。
けれど焼け跡から、兵士の遺体が出てきたのだ。
1147
くすぶる火
﹁死亡したのは二名。喧嘩をしているのを見かけた者がいたので、
おそらくその過程で持っていた明かりの火が薪などに燃え移った、
と思われます。そのまま二名とも亡くなったのでしょう﹂
二名のうち片方は自領の兵士だったようで、アズール侯爵は﹁面
目もございません﹂といつもと違って静かな声でレジーに謝罪して
いた。
けんか騒ぎって、度々あるんだよね。
なにせ男性諸氏ばかりが集まったあげく、命の取り合いをしに行
くわけだから、緊張とか恐怖とかで品行方正にしていられないこと
もある。
基本的に、私はレジーやアランの側にいることもあって、そうい
う姿を兵士さん達も見せないようにしてくれているし、何かあって
もカインさんが避けさせてくれるので巻き込まれたことはないけれ
ど。
ギルシュさん達が来てからは、頬に痣を作ったり、たん瘤ができ
た兵士相手に、あのオネエ口調で悩み相談室みたいなことをしてた
のも見かけた。
でも火事を出したのは初めてじゃないかな。
けれど敵の襲撃というわけでもなさそうなので、話はアズール侯
爵の報告だけで流されて行った。
けれどレジーの騎士、フェリックスさんは納得できなかったよう
だ。
1148
会議の後、アズール侯爵が出て行くのと入れ替わるようにレジー
に近づいたフェリックスさんが、ひそひそと話しているのが聞こえ
てしまったのだ。
どうも、二人が焼け死ぬまで誰も気づかなかった、ということに
疑問をもったらしい。
﹁かなりきっちりと焼けていたようです。一応戦時ですから、多少
敵の姿が見えないことで油断していたとはいえ、薪も燃えて煙も出
ていたでしょうに、匂いや煙に誰も気づかずに放置していたという
のは⋮⋮﹂
⋮⋮とんでもない説明を聞いてしまったが、想像しないように頭
から追い出す。
﹁フェリックスは、アズールが些細なこととして調べを怠ったのか、
私に虚偽の報告をしたのか、どちらだと思う?﹂
レジーに尋ねられたフェリックスさんは、ちらりと笑みをひらめ
かせた。
﹁確かめるため、現場へお運びいただけますか、殿下?﹂
﹁フェリックス⋮⋮﹂
レジーの後ろにいたグロウルさんが渋い表情になる。
﹁殿下で釣るというのは、極力避けるべきだぞ﹂
﹁しかし相手が大物ですから。しかも味方となれば、警戒している
と示すだけでもあの方ならば殿下の信用を得るために、最大限努力
してくれるのではないですか?﹂
1149
対するフェリックスさんは悪人顔だ。
どうやら彼はアズール侯爵を疑っていて、それを炙りだすにせよ
撤回させるにせよ、レジーが動けばたやすくなると考えたのだろう。
﹁問題が小さいうちに表面化できた方が、後で楽だろう? そのた
めになら喜んで釣り餌になるよ。餌役は得意だからね﹂
楽し気に囮に立候補しつつ、レジーは立ち上がった。そうして近
くにいた私に釘を刺す。
﹁気になるだろうけど、キアラはちゃんと休むんだよ﹂
最初から、私が話を聞いていたと分かっていてそう言うのだろう。
﹁無理ですよ⋮⋮。気になって休めません﹂
任せるしかないのはわかっているけど、こんな話をされて落ち着
いてなどいられない。
アズール侯爵が離反などしたら、一体どうしたらいいのか。
思えば私、味方になる貴族達が絶対にレジーを裏切らないと思っ
てしまっていた。
けれど、彼らだって人間だ。何らかの理由や利害関係で、気持ち
が変わることだってあり得る。
だから連れて行ってもらいたい。
じっとレジーを見て訴えると、彼はやれやれと笑って私の後ろに
いてくれたカインさんに視線を向ける。
︱︱君はいいの? と尋ねるように。
なぜか胸が痛んだ。
1150
カインさんは私に自由にさせてくれると約束してくれてるけど、
レジーにとってはお目付け役として配置されている人間だ。だから
確認をとってもおかしくはないのに。
とりあえずそれでレジーは私を休ませることを諦めたようだ。
﹁わかった。それなら一緒に行こう。君だけでこっそりと様子を見
に行くようなことになるよりはマシだろうからね﹂
私は、レジーとそれに従うグロウルさんとフェリックスさん、そ
してカインさんと一緒に現場を見に行くことになった。
燃料を貯蔵する場所は、砦の中にいくつかある。そのうちの内側
の砦の北に問題の場所があった。
遺体も片付けられていて、跡といえば壁や床に染みついた煤の黒
ぐらいだ。まだ少し煙臭いのも煤のせいだと思う。
レジーはフェリックスさんから、どこで倒れていたかなどの説明
を受けている。
その様子を見ながら、私は部屋の外に出てきょろきょろと辺りを
見回してしまう。
アズール侯爵は慌ててここに来るだろうか? それとも全く来な
いけれど、後で何か行動を起こすんだろうか。
でも待って。なんでアズール侯爵が隠し事などする必要があるん
だろう。
あれだけ王家万歳、レジー万歳の人で⋮⋮声が大きすぎて何も隠
せなさそうなのに。
なにか些細なことを気にし過ぎてるとか?
もしくは良かれと思ってしたことが失敗して、それを見た兵士を
⋮⋮っていうのはちょっと無さそうだし。
まさか軍の資金を誤魔化してたとか? こっそりルアインと通じ
1151
てるなんてことはないだろう。
でもここでどう思うのかなんて、尋ねるわけにもいかない。誰か
が近くに潜んでいたら、相手にカマをかけてるのがバレてしまうか
らだ。
うかつな私でも、さすがに口は閉じたままにしておくのは忘れな
い。
一通りレジーが検分したけれど、その間は誰も来なかった。
では戻ろうということになって、同じ主塔に部屋を用意されてい
るので、私達はまたぞろぞろと移動する。
フェリックスさんの気のせいで、何事もなければいいなと思いな
がら。
なにせこれからルアインが砦を攻めてくるか、もしくはデルフィ
オン城下へ戦を仕掛けなければならない。妙な心配をこれ以上抱え
ると、作戦行動に関わるんじゃないのかな。
そんな心配をしていたからだろう。
﹁ルアインは⋮⋮籠城するのかな﹂
考えていたことをつぶやいてしまうと、レジーが答えた。
﹁デルフィオンの兵が抜けたけれど、サレハルドの兵がまだいるか
らね。こちらを攻撃しようと思えばできるし、もしかすると隣の領
地に駐留している軍を呼び寄せるまで、待つかもしれない﹂
サレハルドと聞くと、まだ胸が痛む。
友達になった気でいたのは私だけで、相手はただ情報源にしよう
という程度のことだったんだろうと思うと、悔しい。
でも他の人に知られたくない。ジナさんのことだって話さざるを
1152
えなくなる。
ジナさん達のことは信用していいと私は思っている。何よりジナ
さん自身が﹁ルナール達が懐いてしまったら、その相手を攻撃させ
るのってすごく難しいのよ。この子達の唯一の欠点ね。代わりに人
が飼いならせるわけなんだけど﹂と言っていた。
あの言葉は本当だろう。氷狐が大嫌いな師匠も、それを認めてい
たから。
思い出している間にも、レジーは言葉を続けた。
﹁しかし一戦交える前に、クレディアス子爵はどうにかしておきた
いね﹂
﹁次もきっと出て⋮⋮来ますよね﹂
﹁君に子爵の力が有効だとわからなくても、君という魔術師がいな
ければ戦力が大幅に下がるわけだから、必ず潰しにかかってくるだ
ろう。できれば私も、一戦交えるまえにどうにかしたいと思ってい
るよ﹂
﹁どうやって?﹂
﹁そこは色々と手を回すよ。それよりも、子爵に気を取られている
うちに魔術師くずれにしてやられないようにしないとね。ルアイン
も君や氷狐達のせいで、あまり魔術師くずれが効果を発揮しないと
学んできてるはずだ。そろそろ別な手を打ってきてもおかしくない﹂
﹁別な手⋮⋮﹂
私の知っているゲームとは、戦い方がかなり変わってきている。
こんな風に魔術師くずれを出してくることができるのに、どうし
てゲームではそんな描写がなかったのか。
1153
﹁どうして魔術師くずれをこんなに沢山作れるんでしょう﹂
何度か思い浮かべた疑問が口をつく。
契約の石を沢山見つけたから、とか?
材料が本来ならば無かったけれど、何かの拍子に見つけたのだろ
うか。
師匠の説明からすると、化石みたいなものだったと思う。
﹁なんにせよ魔術師くずれを大量投入する余裕があちらにある場合
も、面倒なことになるね。君の力が発揮できない場合に、ジナだけ
で抑えられる数しか出なければいいんだけどね﹂
﹁魔術師くずれに対処できる者となると、限られます。あまり出て
欲しくないものですな。一人や二人ならばまだしも⋮⋮﹂
話を聞いていたグロウルさんがため息をつく。
﹁このイニオン砦で囚われていた人質の元にも、魔術師くずれを作
る砂があったといいますし。ルアインはどれだけ人を魔に変える石
を持っているのかわかりませんな﹂
と、そこでグロウルさんが言葉を途切れさせた。
視線の先、主塔の入り口近くに人が立っていたからだ。
薄茶色の髪のエイダさんだ。
しばらく会っていなかったけれど、前よりもやや険がある表情に
感じられたが、それも一瞬のことだった。
彼女はとろりと笑みを顔に浮かべて言った。
﹁ルアインが魔術師くずれを作る理由を、わたし聞きかじったこと
があるんです﹂
1154
エイダさんはグロウルさん達の表情が変わるのを待ってから、レ
ジーに向かって続けた。
﹁その話を、知りたいとは思われませんか? 殿下﹂
1155
気になる発言
問いかけられたのはレジーだったが、その前に立って受けたのは
フェリックスさんだ。
﹁大変興味深い話ですね。別な場所で伺いましょう﹂
にっこり微笑んでエイダさんの手首を掴んだフェリックスさんだ
ったが、エイダさんはどうしてもレジーと話したかったようだ。
﹁え、そうじゃなくて、私は殿下と!﹂
しかしレジーの方もそれに応じなかった。
﹁そういったことはフェリックスに任せるよ。報告を後で上げて﹂
フェリックスさんが抑えている間に、レジーは主塔に入ろうとす
る。
エイダさんてそんな避け対象になってたの? 確かに今のは待ち
構えてたみたいで、ちょっと怖かったけど。
けれどエイダさんの声がその足を止めさせた。
﹁キアラ・パトリシエールが逃げなかったら、こうはならなかった
のよ!﹂
そして私の息をも、一瞬止めさせた。
私が⋮⋮逃げなかったら?
つぶやく声さえも出せない。思わずエイダさんを凝視してしまう。
1156
けれどエイダさんは私なんて見ていない。じっとレジーに目を向
けていた。レジーは、エイダさんの手首を掴んでいるフェリックス
さんに命じる。
﹁彼女をどこ空いた部屋へ。グロウル、人を呼んできてもらいたい
んだけど⋮⋮﹂
﹁承りました﹂
レジーは先を行くフェリックスさんの後を追うように歩いて行く。
それを呆然と見送った私は、グロウルさんに肩を叩かれてはっと
我に返った。
﹁大丈夫ですか、キアラ殿﹂
﹁あ⋮⋮はい⋮⋮﹂
でも声がまだ、あやふやでわずかに震えていて、グロウルさんの
表情が曇る。
﹁ウェントワース。彼女は早めに休んでもらった方がいいだろう﹂
﹁そうですね﹂
グロウルさんに促されて、カインさんが私を主塔の中へと連れて
行こうとする。背中を押されるまま歩き出してから、はっと思いつ
く。
﹁あの、カインさん。私グロウルさんに頼み事が⋮⋮﹂
﹁先ほどのことを知りたいんですよね。わかっています。けれど貴
方には誰も話さない可能性があります。もちろん同席もさせてくれ
ないでしょう﹂
1157
足を止めようとして、カインさんに抱えられるようにして主塔の
扉をくぐらされる。
﹁どうしてですか!? だって私が関係してるって、さっき﹂
﹁貴方が関係しているからですよ﹂
何とかそこで踏みとどまりたかったが、身長も違いすぎるし体格
差もある、何より前世の女子高校生よりは馬移動やらで体力がある
かもしれないけれど、毎日鍛えている人に勝てるわけがない。
結局小脇に抱えられる荷物みたいになって、階段を上がっていく
ことになったけど、私も諦めが悪い方だ。
﹁関係してるなら、なおさら知りたいじゃないですかっ﹂
﹁⋮⋮暴れないで下さいキアラさん﹂
﹁暴れずにいられません! 何としてでも私もエイダさんの話を聞
きたいんです! それでできる事があったら、あったら⋮⋮っ﹂
なんとしてでも止める。
一思いに殺すことでしか助けられないなんて嫌だ。
捕まえられた犬みたいにもがくが、どうあってもカインさんに敵
わない。
そのうちに自室へ連れ戻されてしまう。
降ろされた隙に部屋を飛び出そうと目論んでいたが、カインさん
は抱えていた私をひょいと持ち上げると、驚く私をソファーの上に
やや乱暴に放り出しかけた。
﹁ひゃっ﹂
1158
喉の奥で悲鳴を上げた瞬間、カインさんが我に返ったように抱え
ていた私をゆっくりと降ろしてくれる。
びっくりしたせいで口をつぐんだまま、私はソファーに座らされ
てカインさんを見上げる。
カインさんは横を向いてため息をついてから、私を見下ろす。
﹁落ち着いて下さい。殿下が隠そうとしても、貴方が望むならそれ
を調べてきてあげましょう⋮⋮そういう約束をしたでしょう﹂
言われて、私はうなずいた。そうだ、カインさんは私の味方でい
てくれる。
﹁あの時無理にあなたがついて行ったところで、追い払われたこと
でしょう。後で私が調べた方が、グロウル達も話しやすくなるはず
です﹂
そう言って、カインさんが私の頭を撫でる。
﹁大丈夫、貴方との約束は破りませんよ。戦い続けるあなたに協力
することを止めません。⋮⋮わかりましたか?﹂
﹁う⋮⋮はい。ちょっと冷静になりました﹂
驚いたショックで、焦る気持ちが吹き飛んだ。
おかげでカインさんが言いたいことも理解できるようになった。
確かに私があの場でまとわりついたところで、レジーは絶対に私
を入れてくれないだろうし、グロウルさんも折れてはくれないだろ
うと、今なら納得できる。
﹁それに、あの女性の口調と状況から、おおよその内容に予想がつ
きます﹂
1159
﹁え?﹂
﹁貴方が逃げたからだと言うのなら⋮⋮結婚に関することでしょう
?﹂
﹁クレディアス子爵、が? ⋮⋮まさか代わりが欲しくて?﹂
私がいないことで、代わりを求めて魔術師くずれを次々に生みだ
したのか。
しかしカインさんが想定していた答えは、それだけではなかった
ようだ。
﹁魔術師を作りだすために実験をしていただけなら、まだわかるの
ですが。私はどうして魔術師にするだけでもいいものを、結婚とい
う形にこだわったのかが気になりますがね﹂
﹁結婚に⋮⋮。そうですよね。魔術師として戦わせるためだけなら、
別に結婚しなくてもいいわけですし﹂
むしろどうして結婚にこだわったのか。
さすがに好みだったとかいうのは勘弁⋮⋮。ほんとにロリコン事
案になってしまう。魔術師としての能力がほしくて、の方がいくら
か寒気がしないんだけど。
しかしカインさんは容赦なくそこをつついてきた。
﹁クレディアス子爵に関しては、おそらくといった推測ですが⋮⋮。
貴方のような人を傍に置きたいという欲求があったのでしょう﹂
﹁⋮⋮うげ﹂
第三者の目からも、わりと本気であのカエル子爵はロリコンに思
えるんですかね? うう、想像するのも嫌⋮⋮。
﹁あのエイダという女がそこまでの詳細を知っているわけはないで
1160
しょうが、証言内容がわかればより具体的な推測もできるというも
のです。だから私が確かめて来ようというのに⋮⋮﹂
じっと私を見下ろしながら、カインさんがもむろに頬をつねって
きた。
﹁む!?﹂
痛くはないけど、なんでこんなことされてるの!?
﹁どうも約束をしたというのに、貴方は私を信用して下さらないよ
うですね。どうしてでしょうかね﹂
﹁えっとその⋮⋮ごめんなさい﹂
頬をつねられ続けるってどういうことなんだろう。謝ったのに離
してくれない。
﹁本当に反省してますか?﹂
﹁してます!﹂
だから離してほしいのに、カインさんは私の返答を聞いて横を向
いて吹きだした。
ひ、ひどい。笑い物にされた!
すねた私は思いきり頬を膨らませた。内側の空気圧ではじかれる
ように、カインさんの指が外れる。
あっけにとられた顔をしたカインさんは、くつくつとお腹を抱え
て笑い出した。
望み通りに頬をつねられる状態は脱したけど、笑いを提供する気
はなかったので、ちょっともやもやする。
1161
﹁笑いすぎですカインさん﹂
﹁ですがね⋮⋮そんな対抗のしかたする女の子が⋮⋮いるなんて⋮
⋮くくっ﹂
普通の女の子の範疇じゃないと仰りたいんですかね?
いや確かにエメラインさんはしなさそう⋮⋮。真顔で脅すか取り
引きを持ち掛けそうな気がする。塔の中でルアイン兵を脅してたみ
たいに。でも私が教えたら実行しそうで怖い。
ルシールさんも子供とはいえ私みたいに、変顔を覚悟して決行な
んてしないだろう。
エイダさんなんて絶対しないと思う。つねられたら普通に怒りだ
して泣くんじゃないかな⋮⋮。
さすがに泣かれたら、レジーもあんなに冷たい態度はとらないよ
うな気がする。エヴラールではマイヤさん達のいたずらにも怒らな
かったし、召使いのおばさん達にも親切だったから。
想像して、私はちょっと気落ちした。もしかして私⋮⋮だいぶ女
子としてずれてる?
悩み始めた私に、笑いが落ち着いたカインさんが言う。
﹁では、そこにいて下さいね。少し時間がかかると思いますが、食
事の頃にも、なるべくならば私がここに来ますからそれまで出ない
ように﹂
﹁いたっ﹂
うなずいた私の額を指ではじいて、カインさんは部屋を出て行っ
た。
1162
閑話∼炎の手が触れたものは∼
エイダが連れていかれたのは、主塔に近い城塞塔の一室だった。
小さくて石積み壁がむき出しになった無骨な部屋だ。大きめの机
が一つと、背もたれもない椅子が数個置かれているだけ。
こんなところではなく、王子の部屋には入れてくれないのかと、
エイダは不満に思ったが、仕方ないと諦める。
だってエイダを連れて行こうとしているのは、あの融通の利かな
いフェリックスという騎士だったし、とりあえずは王子と話をする
ことができるのだから。
椅子に座らされると、遅すぎるのではないかと思うような時間を
置いて、ようやく王子が来てくれた。
一緒に近衛騎士隊長がいるのはわかる。けれどなぜエメライン・
フィナードがついてきたのか。
不満に思って訝し気な表情を隠さなかったエイダに、エメライン
が無表情のまま告げた。
﹁わたしが呼ばれたのは、女性を個室に呼んで尋問するにあたって、
同性の人間が誰もいないと貴方の名誉が傷つく恐れがあるからよ。
王子の厚意だから、拒否しない方がいいわ﹂
なるほどとエイダも納得する。
王子が配慮してくれたことが嬉しくて、彼女はそれを疑おうとは
しなかった。
﹁それで、君の知っていることを教えてもらいたい﹂
1163
目の前に王子が座って、エイダに視線を向けてくる。
青の瞳が自分に向けられているだけで幸せな心地になったエイダ
は、口元をほころばせながらうなずいた。
﹁わたし捕まるより前に、トリスフィード伯爵のお城でルアインの
襲撃に遭遇していたんです。その時に伯爵夫人に逃げるようにと、
城の秘密の通路を使わせていただいて⋮⋮﹂
あらかじめ決めていた設定に添った話を口にしながら、エイダは
悲しそうに見せるためにうつむく。
﹁近くまでルアインの兵が迫っていたので、伯爵夫人は部屋に残ら
れました⋮⋮。夫人がいなければ部屋の中をしつこく探して、この
通路を探すかもしれないからと。隠し通路に入ったわたしは、恐ろ
しさでしばらく先へ進めなくてその場に座り込んでしまっていたん
ですけれど、やがて伯爵夫人を捕まえる物音や声がして⋮⋮その後、
ルアイン兵らしい人が言っていたんです﹂
そこで言葉を切り、上目遣いに王子の反応を確認する。気の毒そ
うにこちらを見る王子の表情に満足して、エイダは続けた。
﹁この女はどうだって。子爵が探していた魔術師にできそうな女の
条件を満たしているんじゃないか、と﹂
﹁条件?﹂
王子の問い返す声に、エイダはほくそ笑む。
﹁貴族の娘なら可能性はあると言っていました。それなら子爵に確
認してもらえと言って、兵士が呼びに行ったみたいで⋮⋮。ややあ
1164
って、その子爵と呼ばれた人が来たんですけれど、そこからが問題
だったんです﹂
話し続けて、少し乾いた喉を湿らせるように唾を飲みこんだ。
ああ、王子はこの話を信じてくれるだろうか。いや信じてくれる
はず、とエイダは強く思う。
だって本当のことが混じっている。
真実を言っているのだと必死に訴えたなら、きっと優しい王子な
ら受け入れてくれるだろう。
﹁子爵は﹃なんだ、髪の色は金か。年もいき過ぎている、キアラだ
ったらちょうど良い年になっていただろうに﹄と﹂
﹁⋮⋮続きを﹂
言葉を途切れさせたエイダを、王子が厳しい表情で促した。
﹁それでも魔術師にできればいい手ごまになるからという言葉と、
伯爵夫人の悲鳴と、何か暴れまわるような音が聞こえた後で⋮⋮、
また子爵が言ったんです。キアラがいれば、こんなことを試さなく
ても十分だった。あちこちに貴重な欠片を配ってまがいものを作ら
せる必要もなかったのに、と﹂
これで伝わるだろう、とエイダは思っていた。
キアラ・コルディエと名乗っているあの女が魔術師として仕えて
いる以上、王子も魔術師になる方法やその経過について聞いている
か、見ているかどちらにせよ知識を持っているはずだ。
それならばエイダが話したことから、伯爵夫人が魔術師になれる
かどうか試されたことと、なれずに死んだこと。そしてキアラだっ
たら魔術師になれたのに、彼女がいれば子爵は他の人間を魔術師に
しようなんて思わなかったことがわかるはずだ。
1165
きっとみんな、キアラを疑うようになるはず。敵にとっての隠し
玉みたいな存在になるはずだったのだ。
他にもこの話が広まれば、魔術師くずれによって怪我をした者が
キアラがいなければと恨みを抱くかもしれない。
そうなればきっと、キアラの立場は悪くなって⋮⋮情報をもたら
したエイダを王子が見直すきっかけになるかもしれない。
﹁伯爵夫人はもう、お助けできない状態になったことは察したので、
わたしはそのまま隠し通路を使ってトリスフィードの城から逃げま
した。けれど自分の領地へたどり着いても、そこは既に占領されて
いて⋮⋮力ない女の身ではそこまでが限界で、捕まったのです﹂
エイダはそこまで話して息をつく。
じっと注目されながら、作り話をするのはとても緊張した。
王子を自分の元へ引き寄せるため必要なことだと思っていても。
王子達もエイダの話を聞いて、何事かを考えているようだ。
目を閉じて腕を組む王子の姿をまたちらりと見ながら、エイダは
頬が緩みそうになるのを必死で抑えていた。
必死で苦しそうな顔をつくりながら、間近で王子を観察できるこ
とを、心から喜ぶ。
その麗しい顔を間近で見られるようになりたい。目を開いて最初
に見るのが、いつも自分であるようにしたい。
ややあって王子がエイダに尋ねた。
﹁最初、兵士達は﹃貴族の娘なら可能性がある﹄と言ったんだね?﹂
﹁え、ええ。そうです! 確かにそう言っていました。あと他にも
何か言っていたような⋮⋮。ファルジアの軍が来ても、大丈夫だと
か⋮⋮﹂
1166
その言葉に、王子が目を開いてエイダを見つめる。
﹁思い出せるかい?﹂
﹁思い出せそう⋮⋮ですけれど、少し時間が経ったのと、その時に
怖かったことばかりが先に頭に浮かんでしまって⋮⋮でも、確か殿
下のことだったかと﹂
﹁私の?﹂
﹁もう少し時間があれば思い出せるかも⋮⋮。とにかくこのお話を
殿下にしたかったのですけれど、今までずっとそちらの騎士様に遮
られてしまっていて﹂
心の底から恨めしい気持ちでフェリックスを見るが、彼はエイダ
の視線を無表情に受けるだけだ。⋮⋮いまいましい。
傍にいられるようにしないといけないのに。でなければ、王子を
救えないのに。この男が邪魔ばかりする。
しかし騎士フェリックスではだめだとやんわり伝えたと思ったの
に、王子は微笑みを浮かべながら真逆なことを言い出した。
﹁では、また何か思い出したら、その騎士を通して伝えてもらいた
い。あと、今ここで話したことについては口外しないよう。私の配
下にそのような命令違反をする者はいないだろうからね。何かあれ
ば真っ先に君を疑わせてもらうことになる﹂
そのまま立ち上がって、部屋を出て行ってしまう。
エイダは呆然としたまま、フェリックスに付き添われて部屋に戻
った。
おかしい。情報を与えたら、もっと違う反応があってもいいのに。
あまりにそっけなさすぎる。
1167
﹁あれでは⋮⋮足りないのかもしれない﹂
けれどもフェリックスを通してでは、また伝えられるまでに時間
がかかりそうだ。
だからエイダは翌日、朝靄の中をとある場所へ向かった。
礼拝堂だ。
寝泊まりしている塔のすぐ横なので、誰にも見とがめられない。
この時間には、必ずそこにいるので、あの人物は接触しやすいのだ。
礼拝堂の中に入り、祭壇の前にひざまずく彼が祈りを終えるまで
待つ。
立ち上がったところで、エイダは声をかけた。
﹁アズール侯爵閣下﹂
振り返ったアズール侯爵ニーヴンは、エイダの姿にやや不安げな
表情になった。そして彼らしくないひそめた声で問いかけてくる。
﹁そなた、王子殿下に聴取を受けていたというが、まさかあの火事
の一件か? 昨日は些細なことだからと、殿下からも話しを伺えな
かったのだが⋮⋮﹂
王子の不興を買うことを恐れる発言が先に出るアズール侯爵に、
エイダは笑いそうになる。
﹁大丈夫ですわ、侯爵様。貴方様のお名前など出してはおりません。
ただ殿下には正しい道へと戻っていただくため、あの魔術師の話ば
かりに傾きがちな道から、わたくし達と同じ道を歩んでいただける
よう、少しずつお話をしていく機会を作ろうとしているだけでござ
1168
います﹂
﹁ならば良いが⋮⋮﹂
アズール侯爵はため息をつく。
﹁殿下が新しい思想を広められるはいいのだがな、その助言をした
者がいつも特定の人物というのは良くないというか⋮⋮。敵への感
情を考えていただき、埋葬などまでしてやる必要があるのかどうか
を再考してくださればな。敵にもむごたらしく朽ちて行く死体を見
せつけた方が、よほど恐怖心を煽ることができるように思うのだが
な⋮⋮﹂
大事な王子が絡むことなので柔らかな表現を使おうとしているが、
何のことはない。アズール侯爵は敵の死体を埋めたのが気に食わな
かったのだ。
砦を奪還する戦いの後、アズール侯爵は魔術師キアラと言い争い
になりかけていた。それを城壁の上から見かけたエイダは、ここに
付け込まなければと思ったのだ。
案の定、敵兵を埋めることに衝撃を受けている風を装ってみせ、
神をたたえ、王子をたたえれば侯爵はたやすく傾いてくれた。
今ではエイダも朝早くから礼拝にやってくる、自分と同じ敬虔な
信徒と思い込んでいる。
﹁火事のことは何か言っておられたか?﹂
そして火事の一件で、思いがけずアズール侯爵はエイダを完全に
秘密の仲間として認識するようになっていた。
あれは失敗から、思いがけない効果が生まれた出来事だった。
そもそもは情報が欲しくて歩き回っていたエイダに、何度か絡ん
1169
できた男が薪部屋に引っ張り込んだので、エイダはつい燃やして処
分してしまったのだ。
目撃して、それを止めようとした男ともども。
実行した後で、エイダはこの始末に困った。そこで残っていた薪
にランプの火をつけ、薪や藁を燃やしてほどよく炎が上がったとこ
ろで逃げだそうとしたところ、アズール侯爵と会ってしまった。
とっさにか弱い女が乱暴されたふりをして、侯爵に縋ったのだが
上手くいった。絡んできた男が、アズール侯爵の領地の者だったの
も良い方向に働いた。
おかげで王子に不始末を報告したくないアズール侯爵から、さら
に信頼を得ることができたのだ。
﹁けれどわたしが説得しても、なかなか王子殿下はお話を本気でお
聞き届け下さっていないように思いましたわ。こんな貴族とも言え
ない身分の者では仕方ありませんが⋮⋮。なので、なんとか殿下の
お傍に近づけるように、侯爵閣下のご助力を頂きたいのです﹂
﹁助力?﹂
﹁わたしが聞き知ったルアインの情報を、閣下にお預けいたします。
その情報を確かめて下さいませ。そうしたら⋮⋮きっと他のお話も、
聞いて下さるようになるはずですわ﹂
1170
魔術師についての推測
翌日、アズール侯爵とジェロームさんの兵が砦を出て行った。
どうもデルフィオン男爵城近くに、ルアイン側が張った罠の情報
が入ったらしい。
情報源はあのエイダさんだ。
エイダさんは、捕まる前にクレディアス子爵達の話を耳にしてし
まっていたのだという。
トリスフィードで捕まった後でデルフィオンに移送される時にも、
兵士の話で妙なことを聞き知ったとか。
それに関しては、レジーもある程度は周囲に話を伝えてもいいと
思ったらしく、グロウルさんから概要を聞いたカインさんから、内
容を知ることができた。
﹁⋮⋮それで魔術師を作るのに、貴族が最適かも? ですか﹂
エイダさんが耳にした情報の中には、そんな話があったようだ。
彼女の言う﹃キアラ・パトリシエールが逃げなければ﹄に関連し
た話らしい。
昨日はよほどレジーが厳命したのか﹃やくたいもない話かもしれ
ないから、まだキアラには話さない方がいいと思うんだ﹄とレジー
はカインさんやアランにまで何も話さなかったようだ。
けれど、今日アズール侯爵達が出発するにあたって、さすがにエ
イダさんの情報を開示したらしい。
﹁師匠はそんな話⋮⋮聞いたことがあります?﹂
1171
﹁魔術師になるのに貴族が最適、だなどというデマか? ハッ、あ
りえんじゃろ。ケケケッ、ヒーッヒッヒッヒ﹂
話し合いをするために、部屋に置かれていた簡素な木のテーブル
の上に乗せていた師匠は、大笑いしながらカチャカチャと足を動か
している。
﹁そんなことがあるなら、各国の王侯貴族は皆魔術師になっておる
だろうよ。そうして戦争は魔術戦になるんじゃろうな。そうなって
いないということは、あり得ない話だということじゃろ。ウッヒヒ
ヒヒ﹂
﹁ですよねぇ。私だって別に貴族っていっていいのか微妙な身分出
身ですし﹂
師匠だって別に貴族ではない。だからそれは眉唾な情報だと思う。
私は師匠を載せたテーブルの上に肘をついて唸った。
﹁だとすると、どうしてそんな話になってるんだろ⋮⋮﹂
﹁伝達の過程で、ねじ曲がったのではありませんか?﹂
向かい側に座ったカインさんの話に、なるほどとうなずいた。
エイダさんが耳にするまでの間に、何かしら尾ひれ胸びれがつい
たのだろう。だとしたら、最初にあったものは何だったのか。
﹁貴族じゃないなら、女性?﹂
必ず、という条件ではないと思う。現にクレディアス子爵は男の
はず。
﹁魔術師になれるのが、女性の率が高いとかっていうことは、ない
1172
んですか?﹂
﹁うむ⋮⋮。確かに我が師も女性ではあったが⋮⋮﹂
考え込んだ師匠は、やがて頭を横に振る。
﹁有意な数といえるほどは、わしも魔術師になろうとした人間を知
らぬからのぅ。他の弟子達は男が多かったが、五人死んでわしが残
ったところで師匠は弟子をとることをやめたんじゃ﹂
﹁五人⋮⋮﹂
﹁それでも師は、こんな高確率で魔術師になれる人間に当たったの
は、珍しいはずだと言っておったな。師の兄弟弟子は二十数人が死
に絶えたと言っておったか。最後の師匠がたまたま当たっただけで、
そうでなければまだ死んでいただろうと言っていたかのう。ヒヒヒ
ヒッ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
魔術師の弟子、死屍累々すぎる。
けれどその人達は、わかっていても魔術師になりたかったのだろ
う。万が一の可能性に賭けて。私みたいに守りたいものがあったの
か、それとも何か別な理由があったのか。
﹁そういえば師匠は、どうして魔術師になったの?﹂
尋ねると、表情など変わらないはずの土偶がニヤリとした気がし
た。
﹁生きていくためじゃのぅ。ケケケッ﹂
師匠は、意外と昔のことを語らない。
1173
できれば昔のことは忘れたいらしい。ということは、魔術師の弟
子になるまではあまり幸福な暮らしではなかったということなのだ
ろう。
でも、魔術師になれなかった弟子の人数を聞いて、そうでなけれ
ば魔術師になろうなどと思わなかったんだろうなと考えた。
死ぬかもしれないとわかっていても、可能性に賭けたいと思うの
だから。
﹁でもルアイン側でそう言うのなら、女性の方が確率が高かったの
かもしれませんね。なにせクレディアス子爵の行状があれですから。
女性を集めて実験を繰り返す隠れ蓑として、そんな噂を流した可能
性もありますよ﹂
﹁考えてみれば、私に砂を飲ませようなんていうのも、もしかした
ら女だったから実験してみようとしたのかも﹂
カインさんに言われてみれば、そうだと思えた。
思い返せば、私が最初に砂を飲まされたのは、まだパトリシエー
ル伯爵に引き取られる前だ。見知らぬ女の子にわざわざそんなこと
をするのだから、女子だから試してみようと思ったのかもしれない。
⋮⋮ついでにもう一つ気づいてしまった。継母は、私が死ぬかも
しれないというのに、生きていればパトリシエール伯爵に買い取っ
てもらえるのと、殺す手間が省けると思ってパトリシエール伯爵の
実験を了承したのだ。嫌だなぁ、もう。
てことは、パトリシエール伯爵はあれを飲んで無事だった女子を
引き取ろうとしていて、うっすらと伯爵領内あたりではそれが知ら
れていたのではないだろうか。
噂を聞いた継母がパトリシエール伯爵に売り込んだのだと考える
と、突然伯爵家の人がやってきたこともうなずけるというものだ。
おそらくゲームの場合のキアラも、そうして魔術師になれるかど
1174
うかのふるいにかけられたんだろう。
﹁当たりを引いて、キアラさんを伯爵が引き取ったということです
か﹂
カインさんが納得したようにうなずく。
﹁ですね﹂
つじつまが合うので、やはり女性の方が魔術師になりやすいのは
確かだと思える。
﹁ということはあれではないのか?﹂
師匠が腕をカチャカチャと組んで言った。
﹁この砦に女子供だけ捕えたあげく、あの砂を持っている兵士がい
たのじゃろう? そして子爵がデルフィオンにいたと言うことは、
魔術師を作りだそうとしておったのではないか?﹂
師匠の指摘に、私は苦い気持ちになる。
そうか。だからエイダさんは私のせいだと言ったのだ。
キアラ・パトリシエールの代わりを作ろうとして、女性を集めて
いたのだとしたらうなずける。
エイダさんは契約の石を形見として持っていたから、なおさら適
性があるのではないかと疑われて連れて来られたのかもしれない。
私は唇をかみしめてうつむくしかなかった。
翌日戻ってきたアズール侯爵は、ルアインの罠を一つ潰して帰っ
1175
てきた。
この先にある村の住人を、ルアインの兵と入れ替えていたらしい。
どうもファルジア軍が近くを通った時に、毒入りの食物を提供し、
口にして悶え苦しんでいるところを襲撃する予定だったようだ。
イニオンの町の人間を連れて行ったアズール侯爵は、村人ではな
い者ばかりがいることを確認すると、偽装していたルアイン兵を攻
撃。殲滅したと言う。
証拠としてアズール侯爵は、村の中に隠されていた多数のルアイ
ンの鎧などを持ち帰った。
そんなイベントは、ゲームではなかったと思う。
レジーの役に立てなかったことを悔やむ私だったが、それから頻
繁にレジーの元へエイダさんが呼ばれるようになったことを耳にし、
目にするようになった。
1176
会うのを避ける理由
用事があった。
グロウルさんがその相手なんだけど、たいていレジーの側にいる
ので彼の部屋を尋ねる方が早い。
⋮⋮けれど直接レジーに聞こうとは思わなかった。侍従のコリン
君にグロウルさんを呼び出してもらおうと思っていたんだけど。
階段を上って間もなく、レジーの部屋から出てくるエイダさんの
姿を見ることになった。
ほんの少し上気した頬が、私よりも大人っぽいエイダさんに艶か
しい雰囲気を足している。そして彼女がそんな風に心の底から満足
したような表情をしているのは、彼女を送るために付き添うフェリ
ックスさんのせいではないことはわかっている。
彼女より先に、部屋を出たレジーに向けられた視線。それが全て
を物語っていた。
私はすぐに物陰に隠れたつもりだったけど、エイダさんがこちら
に一瞬視線を向けて、どこか勝ち誇ったような笑みを見せた気がし
た。
いや、そんな風に見える私がいけないのかもしれない。
そう思うのに、考えれば考えるほど、なんだかドツボにはまって
行くような気がするのはなぜだろう。
一昨日、エイダさんが主塔に入るところを見た時には、そんなこ
とは考えなかった。情報提供者として聞きたいことがあるんだろう
1177
って思ったからだ。
いつの時点から、なんとなく避けたい気持ちになってしまったん
だろう。
昨日エイダさんがレジーの部屋に入るところを見た時⋮⋮は、そ
うでもなかった。エイダさんがレジーに憧れているのは知っていた。
レジーはそんな風に女性から注目されたり、淡い気持ちを向けられ
やすい人だから。
エヴラールでも、そうじゃないのはマイヤさんや慣れている召使
いのおばさんたちぐらいだったもの。私だって未だにじっと見つめ
られたら、戦場以外だとなんだか真っ直ぐ見られなくなるんだし、
他の人だってそうだと思ったから。
誰もが憧れる王子様。
そう、昨日同じことを言ったのはルシールさんだっただろうか。
エメラインさんと一緒に、砦の塔に寝泊まりしているルシールさ
んの元を訪れた時に、言われた。
﹁だから、エイダさんもそんな風に思って憧れているだけだと思っ
ていたのですけれど⋮⋮﹂
ルシールさんはやや困惑した表情だった。
そんなルシールさんと私の耳に届くのは、エメラインさんとエイ
ダさんの話し声だ。
﹁貴方は殿下に協力する気がないのですか?﹂
﹁殿下のためにはなりたいわ。でも、わたしだって危険を冒した末
に手に入れた情報ですもの。家を失ったも同然の状態なわたしの手
にある財産なんて、もうそれしかないんだから、お願いを聞いても
らうために使うのが当然でしょ。そもそも、貴方に言われる筋合い
1178
はないと思うんだけど﹂
﹁あまりに慎みが無いからよ。貴方だって貴族の分家で生まれ育っ
たのですもの、貞淑さについて教えを受けているでしょう﹂
﹁でも殿下は嫌がってはおられなかったわ。抱きつかれたって、怒
ったのは頭の固い騎士と貴方だけじゃないの﹂
だから、とエイダさんの声は続ける。
﹁とりあえず口づけをねだるくらいのことは、目こぼししていただ
きたいわ﹂
く、くちっ!?
叫びそうになって思わず私は自分の口を手で塞ぐ。見れば、ルシ
ールさんも同じようなことをしていた。
二人で目を合わせ、思わず赤面してしまう。
だって他人の赤裸々な話を耳にして、気まずくならない人はいな
いし、居合わせてもやっぱり気まずくなるものだと思うのだ。
そこで一緒にいた師匠がぼそっとつぶやく。
﹁女の武器をふりかざすか⋮⋮。肉食系じゃの﹂
﹁肉食?﹂
前世でそんな単語を聞いたことがある。
﹁肉食獣は獲物を自らの牙で狩るじゃろ。イッヒヒヒ﹂
師匠の密めた笑い声に、エメラインさんの冷静な声が重なった。
﹁人目を気にするべきではないの? 殿下も困っておられたでしょ
1179
う﹂
﹁エメライン様方が、わたしから離れないからですよ。別にわたし
だってお見せしたいわけではありませんもの﹂
え、見せたくないって。まさか⋮⋮見せられないようなことをし
たの?
私はなんだかそわそわしてしまう。
﹁エイダさん、貴方の行動が目に余るからよ。殿下のご迷惑になる
わ﹂
﹁それを決めるのは殿下でしょう。それにわたしの身の潔白を証明
するために、毎回付き合って下さらなくても大丈夫よエメライン様﹂
﹁それでは、あなたがいざ結婚をする時に困ったことになるでしょ
う﹂
﹁かまいませんわ。殿下と噂が立ってもその方がわたしは嬉しいん
ですもの﹂
﹁エイダさん⋮⋮﹂
エメラインさんは、それ以上何も言えなくなったかのように黙り
込んだ。
破天荒だけれど、彼女自身が言ったようにエメラインさんは貴族
の常識をわきまえている人だ。決して自分がその規範から外れるこ
とはしない。
だからこそ困惑するのだと思う。
﹁お姉様は、エイダさんは何もかも失ってしまったから自棄になっ
ているのではないか、と申しておりましたわ﹂
泣き黒子のある可愛らしい顔に沈んだ表情を浮かべて、ルシール
1180
さんがそうささやいた。
﹁殿下もそう思っていらっしゃる、と﹂
言われて私は、レジーは彼女を心配しているのだろうと思った。
一方でエイダさんの気持ちもわかる気がする。
何も持っていないからこそ、なんでもできると思う気持ち。
私が学校を飛び出した時もそうだった。ただエイダさんよりは絶
望していなかった。このまま先に進むことの方が恐ろしかったから、
どうなるかわからない未来の方がまだ光が差しているように見えた
から。
﹁まぁ自棄になっていると考えれば、最も有効な庇護者の関心を得
ようとするのもむべなるかな⋮⋮。女に迫られて王子も悪い気はせ
んだろうよ、ウッヒッヒ﹂
師匠がルシールさんの意見に同意しつつ、変なことを言う。
そのせいで私はちょっと⋮⋮色仕掛けをされているレジーのこと
が気になってもやもやした。
どう表現したらいいんだろう。
兄弟が彼氏を連れてきた⋮⋮だと想像しにくい。兄弟らしい兄弟
がいたことってなかったから。
女友達が、男の人に迫られてるのを見るのに近いだろうか。
でもレジーは一般人ではない。エイダさんが何と言おうと側には
グロウルさん達が控えているはずだ。人に会うのなら、なおさらに。
だから万が一など起こらない。
⋮⋮そのはず、だよね?
1181
思い出すのは、私の部屋に入って二人きりで話すことが度々あっ
たことだ。
けれどエメラインさんを伴わせているんだから、レジーはエヴラ
ールと違ってそうそう軽はずみなことはしない、と思う。
でも悪い気はしないのなら、どうなんだろう。
だけど私は今日、目の当たりにしてしまった。
どうしてこんなタイミングでと思った。
階段を上ったところで、レジーとエイダさんを見つけることにな
るだなんて。
部屋を先に出たレジーが、彼女に考え直すように諭していた。
﹁トリスフィードについては、軍としても対処する予定だよ。そん
な風に身を売るようなことをしなくても、いずれ君の家は復興でき
るだろう。そのためにも⋮⋮﹂
話している途中で、エイダさんが抱きついた。
﹁家などもうどうでもかまわないんです! 殿下さえいて下されば﹂
﹁不安がる必要はないよ。だから私達を信頼してくれないか?﹂
困ったように微笑むレジーは、エイダさんを引き離そうとした渋
面のフェリックスさんを手で制し、抱きついたまま離れないエイダ
さんの背中に、あやすように触れる。
それを見て、やっぱりレジーはエイダさんを心配しているんだと、
私は思おうとした。
いつだって彼は、慰めたり、励ましたり、説得したりするために
私に構って、抱きしめて安心させようとしてくれる。
それだけで私は泣きたいくらいに安らいだ気持ちになって、意見
1182
が違ってもレジーは見離さないでくれるんだと思えた。
同じことをエイダさんにもしている。
ということは、私もエイダさんと同じようにレジーに思われてい
たのだろうか。
﹁同じ⋮⋮﹂
私が特別なわけじゃない。そう思うと、急に足下の床が消えてし
まうような気持ちになった。
怖くて立っているのも辛くて。
その時、師匠が小さくつぶやいた。
﹁女をはね除けられないのは、優しすぎるのか、考えがあるのか、
ほだされたのか。オモシロイことになっとるのぅ﹂
﹁ほだされ⋮⋮た﹂
エイダさんの望みを拒否できないのは、情報の取り引きがあるか
らだとわかっている。けれどいつものレジーらしくないとは思って
いた。
彼なら、望まないことを拒否する理由をいくつも作りだせると思
えるから。
なのにエイダさんにそうしないのはなぜだろう。優しいから? ほだされたから?
考えると、たまらない気持ちになった。
思わず誰かを探そうとした。話して、相談したくなる。
でもこんなこと、誰に話す?
カインさんのことが思い浮かんだけれど、男の人にわかってもら
えるだろうか。
1183
ジナさんやギルシュさんはどうだろう。私よりもいろんなことを
知っている二人なら、どうしてこんなに怖くなるのか教えてくれる
かもしれない。
思いついた私は、主塔を飛び出した。
1184
動揺の末に抱いた願い
﹁おい、キアラ、弟子! おいっ、落ち着け!﹂
走っている間、師匠が何度か呼びかけていた気がする。
﹁わかった、わしが悪かった! しまったのぅ。つい面白がって弟
子が年頃の娘だってことを失念しておった﹂
私は中庭を走って、でも怪我人がいる場所にはジナさん達がいな
くて、別な所を探そうとしたところで人にぶつかった。
﹁ごめんなさい!﹂
﹁キアラさん?﹂
謝ってさらに走り出そうとした私を、腕を掴んで引き止めたのは
カインさんだった。
﹁どうしたんですか。何か急ぐような事態でも?﹂
﹁あの、探してて。ジナさん⋮⋮﹂
﹁ジナを? 何かあったんですか?﹂
どう説明したらいいだろう。不安で怖いなんて言ったら、カイン
さんも気にするだろうし。
﹁言いにくいことですか? 私にも?﹂
そう言われて、ますます言葉に詰まる。
1185
カインさんを信じていないわけじゃない。だけど言いにくい。
どう説明したらいいか考えるけれど、その前までの段階でいっぱ
いいっぱいになっていた私は、思わず涙が出てきそうで呻く。
﹁う⋮⋮﹂
抑えようとして顔を覆う。
すると、ふわりと頭から何かに覆われて視界が一面青に染まる。
これはマント?
カインさんはマントを被せた私を、隣にいた人物に押し付けた。
﹁アラン様、一時キアラさんを保護しておいて下さい。アラン様に
呼びに行かせるわけにはまいりませんから﹂
﹁あ? ああ、分かった﹂
カインさんのものだろう足音が離れていく。突然のことに、私を
任されてしまったアランは戸惑ったようだ。
﹁ええと、キアラ。とりあえずどこか座れ。な? 落ち着けよ⋮⋮﹂
布をひっかぶって呻く人間の相手なんて、面倒だろうに。優しい
ことを言われて、とうとう目から涙が溢れてきてしまう。
マントで顔が見えないのが本当に幸いだった。
﹁う、うううぅ﹂
だけどそのせいで、謝りたいのにますます言葉が出て来ない。
アランがため息をついた。
﹁なんかこんな子供いたっけなぁ。おいキアラちょっとこっち来い
1186
よ﹂
アランに手を引かれる。
私はマントを頭から被ってお化けの仮装みたいなことになってる
ので、どこになにがあるかわからない。なのでアランに肩を押され
るようにして、石の段差があるようなところに座らされた。
﹁何があったか知らないが、泣くなよ。そもそも戦でもないのに何
なんだよ。ケンカか? 誰かにいじめられたのか?﹂
﹁⋮⋮ケンカ? どうして?﹂
なぜ私がケンカをしたなんていう発想に至ったんだろう。不思議
に思って問い返すと、アランが笑った。
﹁いや、なんかお前のその反応。騎士の子供が遊びに来る時によく
見たから、ついそんな気になった﹂
どうやらケンカをしてべそをかいた子ども扱いされたようだ。
でも、そうされるのは嫌じゃない自分がいた。なんだかほっとさ
せられてしまう。
﹁ケンカはしてないよ。ただ⋮⋮うん﹂
寂しかったんだ、と思う。
置いて行かれたような気分になったから。もう私のことを振り向
いてくれないかもしれないって。
と、そこでようやくわかった。
たぶん私は、親離れしたくない子供みたいに感じて、不安になっ
たんだ。
1187
レジーに私だけの庇護者でいてほしくて。だけどレジーには気遣
うべき相手が他にもいて。
前世のお父さんになぞらえたら分かる。
他の子にまで、自分に特別にしてくれているんだろうって思って
いたことをしているのを見て、ショックを受けたんだ。
レジーはルアインの情報を引き出すために、根気強くなだめたり
しながらエイダさんと接しているだけなのに。
わかったら、誰にも言っちゃいけないと再び思った。レジーだっ
て戦争のことだけでも大変なんだから、迷惑をかけちゃいけない。
﹁ごめんね。ちょっとホームシック⋮⋮昔のことが懐かしくなって﹂
﹁昔のこと?﹂
﹁今じゃなくて。前世の家族﹂
誤魔化すためにそう言ったら、本当に懐かしくなって胸が締め付
けられるような気持ちになる。
家で待っていたらお母さんやお父さんが来てくれる。思春期だっ
たから、何もかも話すのは難しかったけれど、何かあれば必ず聞い
てくれた。
前世の両親なら、寂しいからとなんとなくくっついて歩くことも
できた。血がつながった家族だから。
けれど、レジーは他人だ。
ぐっと歯をくいしばると、涙が少し治まった。
レジーは内心を吐露できる特別な友達だと思っているはずだ。だ
から私の寂しさを感じて、慰めてくれたりするけれど。友達なら、
隣に自分で立たなくちゃ。
今までもそう思っていたはずなのに、急に不安になったのは友達
1188
を失ったとわかったからだろうか。
力を見せつけて相手を納得させろと言ってくれたイサーク。
あの人は私が敵だってわかってたはず。なのにどうして励ました
の。
思い出してしまってマントの下で涙を拭ったところで、ギルシュ
さんとジナさんが来てくれた。
ギルシュさんはマントをカインさんに返して、自分達が引き取る
からとジナさんと一緒に近くの日影に連れて行ってくれた。
カインさんは心配そうにしていた。けれど面倒をみてくれる人に
任せたからと、アランと共にその場から立ち去った。
当然のことながら、私はギルシュさん達に泣いていた理由を聞か
れた。
二人に尋ねなくとも、理由が自分でわかった私は、ホームシック
なんだと取り繕うことができたんだけど。
問題は泣いたせいで赤くなった目だった。
﹁キアラちゃん、目をこすっちゃったのねん。ジナ、ちょっと氷出
してくれないかしらん﹂
﹁ありがとうギルシュお母さん⋮⋮﹂
﹁あらぁお母さんて呼んでくれるの? 嬉しいわぁ。もっと呼んで
呼んで!﹂
うきうきとした様子のギルシュさんに、ぎゅーっと抱きしめられ
る。
﹁ちょっ、ギルシュさん、痛い痛い﹂
ギルシュさんがっちりした体格の人だから、ぎゅうぎゅうされる
1189
とけっこう力が入って痛いんで、ちょっと力を弱めてもらえません
か⋮⋮。
でもこうされるのは嫌じゃない。泣いたせいなのか、すごく子供
返りしたように甘えたい気持ちになってしまっていたから。
﹁ああごめんなさい。可愛いこと言うものだからつい﹂
オホホホとギルシュさんが笑って誤魔化す。
﹁でも確かこの後用事があったでしょ? 女の子のそんな顔、男ど
もになんて見せられないわん﹂
ギルシュさんの発言に、前にも同じようなことがあったような⋮
⋮と思い出す。
そう、あれはたしかクロンファード砦だった。
戦闘後にべそべそした後の私の顔を見せるものじゃないって、レ
ジーがカインさんみたいに私にマントを被せたんだ。
﹁そうだよね、酷い顔してるもんね﹂
瞼が腫れてぐずぐずした顔じゃ、周りを驚かせたり心配させたり
するだろう。
﹁やだキアラちゃん。違うでしょ﹂
そこで突っ込んだのはジナさんだった。
ルナールに﹁ふーってして﹂と言ってハンカチを差し出し、冷気
でコチコチに固まったそれを私に差し出したジナさんが笑う。
﹁心が弱ってるって男なんかに見せたら、悪さをしようって思う人
1190
もいるかもしれないじゃない。心が弱ってるところを突かれたら、
誰だってころっと傾いちゃうものなんだから。そんなことになって、
気の迷いで後悔することになったら嫌でしょ﹂
ねー、とジナさんとギルシュさんはわかり合ってるかのように声
をそろえた。
﹁え⋮⋮そういう意味?﹂
じゃあ、あの時のレジーは酷い顔を見せないようにしてくれただ
けじゃなくて、私が誰かにふらっと懐いてしまうのを心配していた?
ギルシュさんは﹁それにねぇ﹂と続けた。
﹁泣いてる子って、やっぱり放っておけない気持ちになるでしょう。
魔術師だからって不用意に近づくまいとしている兵士でも、キアラ
ちゃんが若い女の子だって思い出しちゃったら、色々面倒なことが
起こりやすいでしょうからね﹂
そうか。私をか弱いと思って近づく人もいるかもしれない。そん
な認識を周囲に与えたら、こんな風に自由に一人で砦を歩くことも
できないだろう。
﹁あ、そうだ﹂
身の安全のために、自由に出歩けない女性達がいる。彼女達の健
康のためにも、戦闘がない日は砦の中庭を歩かせてあげることにな
っていた。
その時にはグロウルさんに相談して騎士を護衛に融通してもらう
ことになっていたのから、さっき探していたんだ。
1191
私はジナさんのくれたハンカチで、急いで目の周囲を冷やした。
泣き顔で会ったら、まだ普通の生活に戻れずに不安なまま過ごし
ている塔の女性達を、不安がらせてしまう。
とはいえやっぱり一瞬で腫れが引くわけもなく。
時間がかかるならと、事情を聞いたジナさんがグロウルさんを探
しに行ってくれた。手間ばかりかけさせて、ジナさんには申し訳な
い。
ジナさんが戻る頃には、目の腫れも引いたとギルシュさんにお墨
付きをもらったので、グロウルさんと彼が連れてきてくれた騎士三
名と一緒に、砦の塔にエメラインさん達を迎えに行く。
閉じ込められた生活と鬱屈するような不安な毎日に、以前はほと
んどの女性は顔色が良くはなかったのだが、アレジア川の戦い以後
は、表情に明るさが戻りつつある人が多くなった。
男爵が寝返って、合流したからだ。おかげで親族と再会できたか
らだろう。
ただ中年のデルフィオン男爵夫人だけが疲れ切った顔をしている。
﹁殿下に一時のことでも刃を向けるなど⋮⋮。こんなことならば、
やはり私は命を捨てて人質となることに逆らうべきだったのです。
なぜためらってしまったのか。今すぐにでも儚くなってしまえたら、
どんなにか心が落ち着くでしょう⋮⋮﹂
分家の人間も従ったとはいえ、最大の責任者は男爵その人だ。妻
である夫人はそれを思うだけで心苦しいのだろう。
﹁伯母様、命を使うのはここではありませんと申し上げたではあり
ませんか。やるならば最大の効果が引きだせる時にするべきですよ。
あの時は、とても伯母様の命だけでは状況が覆らなかったではあり
1192
ませんか﹂
エメラインさんが淡々と事実をつきつけ、男爵夫人を黙らせてし
まった。
ええと、慰めている⋮⋮んだよね? 死んだってマシな状況には
ならなかったと思えば、自害できなかったことを責めることはでき
ないと思えるのかな。
微妙に優しさが混じっているのかどうか分かりにくいエメライン
さんの言葉に促され、男爵夫人も塔から出る。
一緒に中庭の日が当たる場所をゆっくりと歩いていた私の側には、
ルシールさんがやってきた。
﹁キアラ様、お加減が宜しくないのですか?﹂
﹁え? ううん私は元気ですよ!﹂
泣いたことに気づかれたんだろうか。ひやっとしながら、私は笑
ってみせる。
ルシールさんは安心したように、柔らかな木漏れ日のような笑み
を見せてくれた。
可愛いなぁ。お姉様と呼ばれているエメラインさんがうらやまし
くなる。
そうしてルシールさんと話していると、寂しさは遠ざかる。
けれど一人になって、部屋に戻ると寂しさを思い出してしまった。
優しい家族がいるって羨ましい。
エイダさんは優しい家族がいたからこそ⋮⋮あんなにも必死にす
がるものを求めているんだろうか。失った家族の代わりに。
だけどレジーは⋮⋮と、こんなこと言える立場でもないのに思っ
1193
てしまう。
お願い、レジーだけは、と。
そんな気持ちを感じたように、師匠がつぶやいた。
﹁わしはお前と一連托生じゃからな﹂
何を言いたいのかがわかって、思わず笑ってしまった。
﹁⋮⋮うん。ありがとう。私、師匠とずっと一緒だから、大丈夫﹂
1194
閑話∼エメラインの舞台裏∼
﹁君には迷惑をかけるね﹂
﹁いえ、これで少しでも殿下のお役に立てるのでしたら、光栄なこ
とでございます﹂
座ったまま小さく一礼したエメラインに、レジナルドはうなずく。
﹁それでも大変だろう。彼女を懐柔するためとはいえ、他人の色恋
沙汰になど割って入りたいものではないだろう? こちらとしても
先々のことを考えれば、あまり彼女のような人は近くに置きたくな
いのだけどね。思い込みが強そうだから、何気ない言動を上手く使
って変な喧伝をされても困るから﹂
﹁重々承知しております。殿下のお名前に傷がつくのはゆゆしきこ
と。けれど、本当にあの方は誰かに思い込まされているのではない
かというくらい、頑なですわね﹂
エメラインと向かい合わせに着席しているレジナルドは、言葉ほ
どには困っていない表情で目の前の茶器に手を伸ばす。
エメラインにとって、これほど表情の読みにくい人も珍しかった。
顔だけ見たら、それほど困っていなさそうに見えるのだ。けれど
その内面では、苛ついているだろうとエメラインは予想した。
なにげなく卓上に置かれた茶器の端を弾くレジナルドの指先。無
意識に出ている行動だろうが、心が波だっているからこそのものだ
ろう。
キアラだったらそんなことを考えずに、見たとおりにレジナルド
1195
が笑っているからとか、辛そうだと感じては一喜一憂した上で、彼
の言葉を素直に信じるのだろう。
想像したエメラインは、ああそうかと思う。
だからレジナルドは、彼女に心を許しているんだ、と。
誰しも、内心を見通す人を快いと思うわけではない。自分の見せ
たい姿を信じてくれることこそが、喜びだと感じる人もいる。
この王子は、内面を他人に全てさらけ出したくない人だ。自分が
見せたい自分でいたいのだろう。決して疑わないキアラの存在はと
ても心地良いに違いない。
そういうタイプのレジナルドにとって、本心を見通そうなんて企
んだり、そうしないと落ち着かないエメラインのような人間はちょ
っと扱いが違うはずだ。
その探求心で、自分の役に立つ臣下として働いてくれた方がいい
相手だろう。
どうせ見通すのならこちらの意を察してもらおう、というレジナ
ルドのエメラインへの対応は、騎士達に対するものに近い。
だからエメラインは積極的に、エイダを抑える役目を担った。
エイダに関しては、エメラインは少々失敗したと思っている。
彼女は思っていることがあけすけに表に出る。だから最初は不安
なのだろうとか、憧れているだけだろうと思ってしまったのだ。
けれどおおっぴらな代わりに、行き過ぎて何をするかわからない。
ある意味怖い人物だった。
そこまで見抜けずに、彼女に配慮しすぎたのだろう。
﹁いえ、わたくしも彼女があれほど盲目的だとは思わずに、キアラ
様や殿下に近づけるようなことをして申し訳ございません。できる
だけ監督いたします﹂
1196
キアラに近づけすぎたせいで、エイダは余計に暴走しているのだ
とエメラインは考えていた。
挨拶もさせないようにして、一段違う場所にいる女性なのだとエ
イダに認識させていれば、キアラではなく自分が⋮⋮などという妄
想を煽ることはなかったと思うのだ。
﹁君が理性的な人で助かるよ。これで男爵位に関わることも安心し
て実行できそうだ﹂
エメラインの対応にはそれなりの満足を得ているのだろう、レジ
ナルドは先程、彼女と領地に対して最大限の配慮を含んだ提案をし
てくれていた。
﹁我が一族の不始末に、寛大なご処置をいただき感謝申し上げます。
父と伯父に代わり、改めてのお詫びと殿下への忠誠を捧げます﹂
﹁私としてもデルフィオンを直轄地にしてもね、色々と大変なんだ。
それにアーネスト殿が協力したという名目もあるから。その他にも
君個人に報いたいと思うけれど、もし何か要望があるなら聞こう﹂
しかしここまでエメラインに有利な言葉をくれるとは予想もしな
かった。
﹁意外かい?﹂
思わず驚いてしまったエメラインに、レジナルドがいたずらっぽ
く笑う。
意外でしたと素直に言うには、エメラインはひねくれすぎていた。
それよりも、今ここで自分の要望を言うべきだという目論見の方
1197
が心に湧き上がる。
﹁そうですね。⋮⋮では男爵家の後継にふさわしい貴族の男性がお
りましたら、ご紹介いただければと。そろそろ打たれ弱いデルフィ
オン家の者を、新しい風に晒して鍛えたいと思いますので﹂
﹁君だけでも十分では? 君の先見の明は確かだ。今回の男爵家の
行動にしてもね﹂
レジナルドにちくりと言葉で刺されて、エメラインは苦笑する。
自分が関わっているのが明らかなのに、全ての動きが伯父の判断
によるものだと考えてくれるような甘い人ではなかったようだ。
﹁どちらに転ぶか分からない状況で、男爵家が主家であれ傍系であ
れ存続するようにと願ったことは事実です﹂
あっさり認めることにする。
エメラインは、デルフィオン男爵家がルアインのものになっても、
ファルジアが取り戻してもこの地で存続できるように画策したのだ。
まず伯父の男爵をルアインに恭順させた。そうせねば、男爵家の
係累までが殺されるだろうと思ったからだ。
そして叔母と自分が捕まれば、弟に申し訳ないと思った伯父はル
アインの前になすすべもなくなるだろうと考えた。
一方でルシールには父アーネストに伝言を届けさせた。
現状が動くまでは決して助けに来ないよう。むしろルアインの攻
撃をしのいだエヴラールなどが挙兵する可能性があるから、そちら
に同調すべきだと伝えたのだ。
ルアインが勝てば、伯父の男爵が早々に恭順を示したことで、男
1198
爵領の半分ほどは残してもらえる可能性がある。
ファルジアに対しては、ここまで攻め上ってこられる力があるの
なら、協力さえしたらデルフィオン領は安泰だ。ただ、それ相応の
ものは差し出すことになるだろう。
家を生き延びさせるための方策だったが、思った以上の成果があ
った。
﹁そのお詫びも含めて、様々なことに手を尽くさせていただければ
と思っております﹂
エメラインの言葉に先に反応したのは、それまで黙ってなりゆき
を見守っていたアランだった。
﹁随分理性的だな⋮⋮キアラとは大違いというか﹂
つぶやくような声だったが、聞き咎めたのはレジナルドだ。
﹁君の基準はキアラだった?﹂
レジナルドの笑みに、微妙に何かが入り混じる。
少し抑え効かなさすぎではないだろうか、とエメラインは指摘し
ようかどうか迷う。ただこれも、もしかするとレジナルドにとって
はわざと見せているものかもしれないので、よく吟味したいところ
だ。
レジナルドの様子になど気づかなかったように、アランはさらり
と理由を並べた。
﹁あいつ以外に知っている身近な女っていうのが、マイヤとかクラ
ーラとか⋮⋮とにかく破天荒なのばかりだろ。そもそもキアラの類
友だと思ってたから驚いただけで﹂
1199
率直な言葉に、エメラインは片眉を上げる。
レジナルド王子の幼馴染にして従兄弟。
最もこの複雑な王子と付き合ってきたはずなのに、こんな青年だ
とは思ってもみなかった。表面上は真っ直ぐでも、もっと裏を考え
るようなことを言う人だという印象を持っていたからだ。
だからつい、笑ってしまったのだと思う。
﹁キアラ様と同じ分類に含めていただけるのなら、喜ばしいことで
す﹂
﹁うわ。変人すぎる⋮⋮﹂
アランは引き気味になった。
﹁アラン、その言い方だとキアラが変だってことにならないかい?﹂
﹁あいつは十分変だろう。そうじゃないと言う奴がいたら、顔を見
たいくらいだ﹂
そこまで言わなくても⋮⋮と思ったのだろう、同席していたグロ
ウルやフェリックスが苦笑いする。
でもエメラインも他の者も知っている。
アランは遠慮なく言うくらいに、キアラとの信頼関係を築いてい
る。
キアラも﹁ひどい!﹂とは言うかもしれないが、心底彼を怒るこ
とはないだろう。むしろ仕方ないなと笑うに違いない。
いうなれば、気楽にケンカし合える友達という感じか。
﹁うん、でもまぁ。変だと言われて怒らないんだから、自覚のある
良い変だ﹂
1200
そう言って笑うアランに、エメラインは思わず微笑んでしまった。
◇◇◇
それから二日、ルアインの側にも動きは無かった。
イニオンの町から砦へ、食料などを運ぶ馬車の他にも、元々砦で
下働きをしていた町の者や商人が活発に出入りをしていた。
だから気づかれにくかった。
そんな場所なら、いつも砦の中をうろつくエイダが紛れ込んでも
目立たない。そして彼女から小さく折りたたんだ紙を受け取ったも
のがいることも。
エイダから紙を受け取った商家に雇われた男は、勤め先を止めて
町を出た。
男が向かったのは、デルフィオン男爵の城だ。
数日後、唐突にサレハルドとルアインの軍がトリスフィードへ引
いた。
その報告をもたらしたレジナルドの騎士達は、同時にクレディア
ス子爵の暗殺失敗を告げたのだった。
1201
デルフィオン男爵の交代
ルアインとサレハルドが、トリスフィードへ撤退している。
その一報に、イニオン砦にいた人々は歓声を上げた。
﹁いやぁ良かったですな、はっはっはーっ!! きっと先の戦いで
負けた上、伏せていた兵をこちらが見つけたので、怖気づいたので
しょう! ⋮⋮うっ﹂
喜びを声でも表したのはアズール侯爵だ。彼の腕を横からどすっ
と杖で突いて黙らせたのは、エニステル伯爵だった。
﹁何かしら裏はあると存じまする。が、城は攻略が厳しくなりがち
なのも確かなこと。占拠しておくべきでござろう﹂
﹁そうだね。ではデルフィオン男爵とエニステル伯爵に先行しても
らいたい。私達は砦を引き払う準備をして後を追う﹂
レジーの指示を受けて、エニステル伯爵とデルフィオン男爵が一
日早く出発。
翌日に私達が出発した。
ルアインの動向を気にしつつ、進むこと3日。
その間に先行したエニステル伯爵から、城の内外に問題がないこ
と等の報告が来ていたので、私達はそのままデルフィオン男爵の城
下町へ入った。
昔、領主同士で争っていた時期の名残で、デルフィオンの城下町
は石積みの壁で覆われていた。
1202
灰色の壁を越えると、集まって来ていた民衆の声や目が私達に向
けられる。
﹁ファルジア王国万歳!﹂
﹁レジナルド王子万歳!﹂
そのほとんどが、歓迎の声だ。あとは私達の姿を見て話し合う声
で、強い風に吹かれた森のざわめきが声なき声となって、周囲を埋
めていくような感覚に陥る。
戦場の音とはまた違った圧迫感に、私は少し驚いた。
﹁どうかしましたか?﹂
今回も私と相乗りになったカインさんに尋ねられる。
﹁悲鳴とか叫び声以外の喧騒って、久しぶりだなと思いまして﹂
ソーウェン以来かな?
カッシアはそれどころじゃない時に町に入ったし、イニオン砦は
少し町と離れた場所だったから、迎え出てくるのは敵ばかりだった
から。
﹁でも、歓迎しているようで良かったですね。占領されて数か月経
っていますから、ルアインの統治が心地よいと思っていなければ、
ここまでファルジア軍を歓迎しないでしょう﹂
カインさんの言葉に私は首をかしげる。
﹁ルアインの統治の方がいいって、思う可能性があったってことで
すか?﹂
1203
﹁デルフィオンはさほど抵抗したわけではないので、特に町の者を
殺したり、むやみな規制もしていなかったようですから。末端の人
々は自分達にとって良い統治者かどうかだけを気にするでしょう﹂
﹁良い統治者かどうか⋮⋮﹂
生活が豊かになるのなら、確かに統治者が変わっても歓迎する人
は出てくるだろう。
﹁ただデルフィオンも、ルアインとの戦争に度々人を派遣している
わけですから。基本的にはルアインに反発する人が多いでしょうね﹂
その話に、いいかどうかは別としてほっとしてしまう。
ルアインの統治で市井の人達に苦労してほしいわけではないけれ
ど、戦い続けて解放してみたら、実は歓迎されていなかったとなる
と、さすがにがっかりするだろうから。
そしてやっぱりここでも、馬に相乗りしている私は人々に不思議
そうに見られることに。
なにせルアイン軍がかなり離れたとはいえ、何か遭った時に素早
く逃げられるようにということで、カインさんとの相乗りが義務づ
けられてしまっているのだ。
私一人で馬に乗ってたら、とろいわ避けるのは下手だわで、恐ろ
しくてそんな真似ができるか! とアランに言われた。
⋮⋮私、この戦争が終わるまでに乗馬くらいは上手くなれるんだ
ろうか。
考え事をしつつ、中央の石畳で舗装された道をデルフィオン男爵
城へと進む。
デルフィオン男爵城は、大きな堀に囲まれていた。川から引かれ
た水は、一定の方向へゆっくりと流れていて、お掘と聞いて想像す
1204
るものよりも濁っている様子はない。
馬車一台くらいの広さの石橋を渡ると、扉が開かれた門がある。
先頭集団に続いて、レジーと騎士達。次いでアランの後ろを行く
私も城の中へ入った。
通り過ぎてから何気なく振り返って、
﹁あ⋮⋮﹂
一瞬、違う情景が見えた気がした。
煙が立ち上る、城下の街並みは所々くずれて。まるで戦乱に巻き
込まれたような有様だ。
門の近くにも倒れ伏す兵士の遺体が転がり、石橋を赤黒く染めて。
その向こうに見えるのは、青地の旗に描かれた竜と⋮⋮。
﹁キアラさん?﹂
呼びかけられて、我に返る。
ずっと後ろを見るってことは、カインさんの腕越しにじーっと門
を凝視していたわけで。カインさんが不思議に思うのは当然だ。
﹁何か気になることでも?﹂
﹁いいえ、たぶん⋮⋮似た光景を絵で見たことがあったから、それ
で見たものと記憶が組み合わさって、現実に見えてるって錯覚した
んだと思います﹂
ゲーム画面で見た絵だったから、実際に見たような気になっただ
け。だと思う。
何度も写真で見た場所に行くと、デジャヴを感じたりするのと同
じことだろう。
考えてみたら、デルフィオン男爵城ってゲームでは戦闘になる場
1205
ゴーレム
所なんだよね。ルアイン軍がいなくなったことで、攻城戦はなくな
ったわけだけど。
確かここで、ゲームのキアラ・クレディアスの土人形とアランは
戦っていた。その場面を思い出してしまったんだろう。
そう結論づけながら、私はデルフィオン男爵城へ入城した。
既に到着していたデルフィオン男爵達によって、城の確認は行わ
れていた。何かが仕掛けられている様子もなかったので、速やかに
割り当てられた部屋へ移動する。
案内してくれたのはルシールさんだ。
﹁右隣がわたしの部屋で、その隣がエメラインお姉様のお部屋なん
です。遊びにいらっしゃってくださいね、キアラ様﹂
﹁ぜひ。⋮⋮って、そこは元々のルシールさんの部屋なんですか?﹂
﹁いいえ。ルアインの人が使った時に、結構物を移動されたり捨て
られたりされたので、すぐ使うわけにもいきませんので、いい機会
なので移動することにしました﹂
さしたる抵抗もなくルアインに明け渡した城だが、男爵がそれと
なく奔走しても、ある程度は作りかえられたり、装飾品が紛失した
りという被害はあったようだ。
﹁お姉様は、血みどろになったり、破壊され燃やされたりしないだ
けマシ、手を入れたらすぐ使えるんですから⋮⋮と言っておりまし
た﹂
﹁さすが効率重視のエメラインさん﹂
﹁わたしもお姉様を見習いたいと思っています﹂
目指せお姉様! なルシールさんは、エメラインさんを真似て粛
々と意見を述べた。
1206
でも自分の聖域も同然だったはずの部屋を荒らされたり、物を捨
てられたりしたら、悲しくないはずがない。ルシールさんくらいの
年齢の子供なら、泣いたっておかしくないのに立派だ。
﹁石で何か作り直したいものとかがありましたら、協力しますよ﹂
﹁あ、それでしたら⋮⋮﹂
とルシールさんが依頼してきたのは、なぜか土ねずみの像だった。
部屋のどこに置く気なんだろう⋮⋮。いいけどね。
それに私は絵心が皆無だけども、想像さえできれば具現化は問題
ない。だから作ることを約束した。
私がルシールさんと和やかに話したり、夕食を取ったりしている
間、レジー達は忙しかったようだ。
到着後の役割についてはイニオンで協議が済んでいたようだが、
城下の商人達が、挨拶をしたいと大挙してきていた。
後日に回すという意見もあったらしいが、アラン曰く、
﹁戦争には金がいるからな﹂
各領地から連れて来ている兵士さんのお給金は、各領地で持つこ
とになっているのでいいとして、食料等お金が必要なものは沢山あ
る。
その資金を、上手く市井の余力があるところからもらうためにも、
無下にはできないのだ。 また長期的なことを言えば、王家としてもあまり貸しはつくりた
くないらしい。各領地から出兵させる代わりに、その負担分くらい
の税を免除するシステムになっているので、王家の来年の収入が少
ないのも、理由の一つ。
王都が陥落している上、これから攻め込めば修繕や補修などにも
1207
お金がかかる。
私は聞いているだけで目が回りそうだった。
それがひと段落した翌日、デルフィオン男爵城の広間で、レジー
などの主要な人物だけではなく、私やルシールさん、デルフィオン
男爵家の分家の人々などが集まって、一つの儀式が行われた。
デルフィオン男爵の爵位移譲を行うためだ。
現デルフィオン男爵のヘンリーさんは、領地を守るためとはいえ
敵国に下り、一度ならず王子の軍に攻撃を加えている。
それを何もおとがめなしで許すわけにはいかない、という事情だ。
さりとて戦時中のこと。
トリスフィードへ移動したルアイン軍やサレハルド軍と戦う必要
もある上、そちらへの対処が終われば、王都へも攻め上らなければ
ならない。
デルフィオンはその中間地として、平穏を保ってほしいのだ。
そこでとられたのが、現男爵ヘンリーさんから、弟のアーネスト
さんへの男爵位の移譲という手段だった。
アーネストさんはルアインに恭順することなく戦い、いち早く王
子の軍に参入していた。
そんなアーネストさんに領主を変えておけば、ファルジア軍の兵
も快くデルフィオンの者を受け入れられる。
ルアインに与した責任は、男爵のヘンリーさん個人が爵位を失う
という形で治めたのだ。
その後のヘンリーさんの身の振り方はというと、
﹁でも兄さん、私は軍事に明るくないのです。だからエメラインに
1208
任せようと思っておりますが、その顧問としてでもどうか、助けて
ください﹂
というアーネストさんの頼みにより、エメラインさんの補佐に着
くことになる。
エメラインさんのほうは、デルフィオンの兵を率いる将軍位を得
たわけだ。
アーネストさんの親戚筋ではなく、エメラインさんが自らという
ところがなんだかとても、彼女らしいというか。
元男爵ヘンリーさんの奥様は、体調不良なのでそのままデルフィ
オン男爵城で療養。
ルシールさんは、今後の結婚のことなどもあるのでアーネストさ
んの養女という形で、引き続き男爵令嬢として暮らしていけるよう
だ。
穏やかな男爵家に関する裁定に、私はほっとしたのだった。
1209
分離実験をしよう
デルフィオン領内の防備を固めるためもあり、ファルジア軍はし
ばらくデルフィオン城にとどまることになった。
安定した状況でサレハルド軍を討つのだ。サレハルドを撤退させ
ることができれば、ルアインも動揺するだろう。
そのために少なくとも二週間はかかるらしい。
サレハルドを討つという言葉に、まだ胸が痛む。
けれど言うまい、と私は口をつぐんでいた。
ジナさんだって戦うと決めているのだ。一時は婚約者でもあった
イサークと。
それに戦場に出てきてしまったら、もう殺すか、降伏するしかな
い。イサークはそういうことをわかっていて選んだのなら、迎え撃
つ以外の方法はない。
あと希望はある、と思うから。
ジナさんの話によれば、イサークはファルジアに負けることでル
アインからの追及と、支配を逃れたいはずだ。そのためにジナさん
の活躍の場を作ろうとはするかもしれないが、ほどほどのところで
降伏してくれるだろう。
師匠にその可能性を指摘された私は、だから思い悩まないように
しよう、と心に決めた。
それに最近師匠が優しい。
眠る時にも枕元にいて、頭を撫でたりしてくれる。
そんな師匠を心配させたくないから、なるべく割り切って元気で
いなくては。
1210
さて二週間もデルフィオンの城に滞在する間、私に特別な仕事と
いうのはない。デルフィオン男爵城は破壊されている箇所もないの
で、土木作業も必要ないからだ。
かといって閉じこもっていても仕方ない。
そこで私は、また色々と魔術で実験をしたいと考えて、カインさ
んと一緒に広い庭がある場所へと向かっていた。
﹁今度は⋮⋮何をするつもりなんですか?﹂
こと実験に関しては、カインさんもやや警戒をするようになって
しまった。この間の師匠を飛ばす実験⋮⋮もとい、私が空を飛ぼう
という実験のせいだろう。
あれはきっと、重たい石で作ろうとしたのが間違いだったのだと
思う。
﹁今日のはあまり心配ないはずですよ。だって分離実験するんです
から﹂
まずはもっと軽く頑丈なもので作るべきだ。
ぱっと思いつくのはアルミだけど⋮⋮土の中に適当に混じってい
るものだろうか。それよりは鉄の方がまだどうにかできそうな気が
した。
とはいえ、鉄をあちこちから融通してもらうのは難しい。
リアルな問題で。
万の数の兵が、武装してあちこちで戦っている現状、鉄はとても
需要が高い代物だ。お値段がけっこう上がっていると聞いている。
なら、土から分離してみたらいいじゃないかと思ったのだ。
1211
上手くできれば、即席で鉄の壁とか作れちゃうかもしれない⋮⋮
どこに使うか自分でもまだ謎だけど。今のところ、石壁で槍とか騎
馬の突撃とか防げると思うし。
でも使える方法はいくらでもあった方がいいと思うんだよね。
﹁まぁ、やるだけやってみれば良いだろうがのぅ。そんなことが可
能かどうか﹂
できるとは思えないのだろう、師匠が言葉を濁していたが、それ
だけだ。落ち込んだりするより、妙な実験をしている方がいいと考
えたのだろう。
やってきたのは、北側の庭だ。
広いけれど建物の影になりがちなので、花を植えるよりも広場の
ようにしている。
そこでまずは確認をする準備のため、スコップを探した。
軍が占拠している関係で今庭師さんはいない。なのでちょっと隠
れた場所にある小屋の中からスコップを勝手に拝借し、カインさん
に護身用のナイフを埋めてもらう。
私はその場所を後ろを向いて見ないようにしたまま、少し離れた
場所で地面に手をつけて、ナイフを探した。
これができれば、土の中にある鉄がわかるということになる。土
と鉄とを別々に感知できなければ分離もへったくれもないので、ま
ずここからだ。
﹁鉄⋮⋮鉄⋮⋮鉄分⋮⋮﹂
いつも通りの感覚では、あちこちに散らばる魔力しかわからない。
それに少しでも違いがないかを近くから確認していく。
1212
最初はなかなか見つけられなかった。
魔力もどれも全部同じように思えた。なにせ色がついてるわけで
も、金属らしい硬さとかも魔力ではわからない。でも何回か繰り返
していくと、ようやくちょっと違いがわかってくる。
なんかこう、赤いようなイメージがあった。
それが固まった場所を探して、ようやくナイフを見つけた。
﹁やればできるんだなぁ⋮⋮﹂
﹁わしゃ、できるもんだとは思ってもみなかったわい﹂
師匠は純粋に驚いていた。
むしろカインさんの方が﹁キアラさんが可能だと考えたのなら、
きっと大丈夫だと思っていましたよ﹂と言った。
ヨイショされてちょっと得意な気分になったら、師匠がすかさず
つついてきた。
﹁この娘の考えを全部肯定しておったら、後で酷い目に遭うぞお前
さん。この間も、すわ大惨事になるかという状況であっただろうが﹂
さらに一時間ばかり、延々と土の中の鉄を分離させる作業を試み
てみた。
成功したといえばした。
実は最初、それが鉄だとは思えなくて戸惑った。なんか赤いのが
出てきたから。
よくよく考えてみればそうなるのは当然なんだけど、土の中にだ
って雨とか浸みこむわけで。鉄が水に触れるとそれが進行するって
のを、中学生でも分かっていたはずなのに、ちょっとびっくりした。
というわけで、地面の上にもこもこっと出てきたのは、赤さびた
鉄だったのだ。
1213
﹁精製とか、魔術で可能なのかな。酸素と分離って⋮⋮﹂
酸素は風の属性に類するんじゃないだろうか。だとすると、土属
性な私の魔術では難しいのでは。
また壁に当たったわけだけど、とりあえず集めた鉄錆を部屋に持
って行って、それをどうにかこねくり回そうと思ったので、布に包
んでポケットに入れておいた。
そうして部屋へ戻っている途中だった。
﹁私が魔術師になれたら、必要だって思ってくださるんでしょう!
?﹂
どこからか、エイダさんの叫び声が聞こえてきた。続くのは彼女
を止める複数の声だ。
私は急いでその場にかけつけた。
到着してみると、柱を背にしたエイダさんが、何かを握りしめて
いる。
彼女を取り囲むようにしているレジーの近衛騎士が、困惑した表
情でエイダさんを見ていた。
けれどエイダさんの視線が向けられているのは、フェリックスさ
んが背にかばっているレジーだ。
﹁魔術師になれるのは万が一の方だよ。他はほとんど全ての人間が
なれずに、死ぬだけだ。それで誰かに被害が及んだら、他の者が負
傷するのを覚悟で君を殺さなくてはならなくなる。私に君を殺させ
たいのかい?﹂
エイダさんを見返してるレジーの言葉は、容赦がない。優しく止
1214
めるどころか、最初から無駄だと突き放した。
それでエイダさんも引っ込みがつかなくなったのだろう。
﹁でも、魔術師がいた方がいいのではありませんか? これで魔術
師になれるかどうか試せるのですよね? 死ななかったら⋮⋮お傍
に、仕えさせて下さるとお約束下さい﹂
1215
求めるものの違い
このやりとりで、ある程度のことを私は察した。
魔術師になれば、とエイダさんがこだわるということは、彼女は
私のように魔術師になれば、レジーに重用してもらえるのではない
かと思ったのだ。
なら、エイダさんが今握っているのは、契約の石の砂だろう。
どこで手に入れたのかはわからないが⋮⋮そんなにも、レジーが
好きなのかと、私は圧倒されるような気がした。
レジーは小さくため息をついた。
﹁今の状態が限界だよ。君の望み通りに面会もしている。けれど君
は、こちらに有利な情報をもたらしていない。正直なところ、君が
先日の件以上の情報を持っているかどうか、私は疑っている﹂
﹁そ⋮⋮そんなっ﹂
﹁君がトリスフィードで得た情報はあるのだろうけれど、それから
時間が経っているだろう? ルアインの状況も変わっているだろう
から、知っていて有利になるものかどうかはわからない﹂
レジーはエイダさんの情報に、価値はないかもしれないと言った
上で、優しく微笑んでみせた。
﹁けれど先日の情報で、兵の損耗を防げたことも確かだよ。それだ
けで十分だと私は思うし、君の故郷までは間違いなく私達と共に行
動できることを約束しよう。だから君が無理をする必要はない﹂
﹁でもっ、魔術師になれば⋮⋮﹂
1216
エイダさんは悔しくて、でも悲しくてたまらないという表情にな
る。
ああ、と思った。
彼女はレジーの優しさをわかっている。同時に、レジーが理由の
ないエイダさんに特別扱いができないからこそ、なだめたり冷たく
したりして突き放そうとしていることも、感じているだろう。
でもエイダさんの望みとは違う。
彼女はレジー個人を独占したい。彼が愛情を向けてくれさえすれ
ばいいから、エイダさん自身の身を保証されたって何の意味もない
んだろう。
だから必死すぎるほど追いすがろうとするんだ。
王子としての彼が欲しいだけなら、上手く自分の持っている情報
を使うだろう。嫌われないようにしておいてレジーに恩を売り、誰
か貴族に取り入って立場を整えた後は、戦争中の恩を含めて政略的
にも結婚するのに最適な人間になる方法もあっただろう。
だけど彼女は嫌われるかもしれないのに、駄々をこねた子供のよ
うにすがる。
エイダさんはただ、レジーの愛情が欲しいだけだから。
彼女の姿に、私は胸が痛くなる。
同じだ、と思ったから。
家族みたいにわかり合って、何の見返りもなく手を伸ばし合う人
であってほしい。だから抱きしめられても、ただ安心していた。私
を見放したりしないって再確認できるからだ。
だけどレジーは他人で。
それなのに、子供みたいにレジーにあれこれと望むわけにはいか
1217
ない。それがようやくわかったから、ちゃんとしようと思ったのに。
⋮⋮こんなにも寂しい。
痛みに気づかないふりをしながらも、私はエイダさんから目が離
せなかったのだが︱︱。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
エイダさんが瓶の栓を開ける。
コルクのような栓を引き抜いたエイダさんに、フェリックスさん
が﹁早まるんじゃない﹂と手を伸ばすが、レジーは黙ってその様子
を見ながら剣に手をかけた。
背筋がぞっとした。
そんな風に自分も見捨てられるんじゃないかと︱︱だって、他人
だから。
フェリックスさんが間に合うだるとは思った。けれどきっとまた、
彼だってエイダさんに辛い言葉を使うだろう。
たまらなくなって、私は石の床に手をつく。
完全に使い慣れた魔術が、エイダさんの背後にある石の柱に伝わ
る。生き物の触手のように柱の側面が伸びて、彼女が口元へ傾けた
瓶を弾き飛ばす。
同時に走って。
目の前にいたレジーの騎士を押しのけるようにして、私はエイダ
さんを抱きしめた。私よりエイダさんの方が少し背が高いから、包
み込むようにとはいかなかったけれど。
﹁な⋮⋮﹂
1218
呆然とするエイダさんが、目をまたたく。けれど私の腕を振りほ
どきはしなかった。
﹁自分をそんなにいじめないでください。我慢してたんでしょう。
苦しいなら、少し休みましょうエイダさん﹂
見上げたエイダさんは、途方に暮れた子供みたいな目を私に向け
ていた。
今はショックでぼんやりしているだけなんだろう。
このままレジー達と接触させていると、また突き放されたことを
思い出して、悲しくなって自棄になるかもしれない。だから移動す
ることにした。
﹁何か暖かいものでも飲みましょう﹂
混乱している時に選択肢を与えても、さらにパニックを起こさせ
ることになりそうだったから、エイダさんの答えを求めずに私は彼
女を抱えるようにして歩き出した。
ぼんやりとした表情で、エイダさんは素直に足を動かす。
そんな私達の前に立っていたレジーの騎士さんたちが道を開けて
くれて、何も言わずに見送ってくれる。
レジーは大丈夫かというようにこちらを見た後、カインさんと目
くばせしたように見えた。
カインさんだけはついてきて、途中で行き合った男爵城で働く召
使いさんにお茶を頼んでくれる。
さらに適当な部屋へと誘導してくれた。
﹁ありがとうございますカインさん﹂
﹁⋮⋮私は扉の外にいますよ﹂
1219
﹁申し訳ないんですけれど、そうしてください﹂
カインさんは気をきかせて、部屋の外へ出てくれた。けれど心配
なのか、扉のすぐ側にいてくれるようだ。いろいろ有り難い。
私はエイダさんを抱きしめたまま、部屋の長椅子に座る。木製の
やや簡素な椅子は、クッションもないから少し堅かった。
その間も、エイダさんは思考停止したようにぼんやりとしたまま
だった。
つれて来たものの、私としても何かプランがあったわけじゃない。
ただ衝動的に連れ出してしまったので、次どうしようかと頭を悩ま
せた。
とりあえずエイダさんを抱えたままだった。いつもの彼女だった
らむっとして振り払いそうなんだけど、大丈夫だろうか。
﹁えっと、嫌じゃありませんか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
返事がない。
これは判断に困った。嫌だけど返事をしたくないのか、嫌じゃな
いけど返事をする気力がないのか、そもそも問いが聞こえてないの
か。
もう一回聞いてみるべきかと思ったが、その前にエイダさんがぽ
つりとつぶやいた。
﹁そんなことまでしなくてもいいって⋮⋮﹂
考え事をしていたのが、ぽろりと口からこぼれたような、そんな
言葉だった。
1220
﹁そう言って、止めてくれるって思った⋮⋮﹂
語尾を震わせながらの言葉に、私はエイダさんが聞いてほしくて
言っているんだとわかって、うなずいた。
﹁止めてくれるぐらいは、私のこと思ってくれるかもしれないって。
そうじゃなくても、冷たいことを言っても情報は欲しいから思うふ
りぐらいはしてくれるんじゃないかって、期待して﹂
エイダさんは唇を引き結んだ。
レジーは言葉で止めてはくれる。だけど強引に止めたりはしない。
私はそのおかげで自由にさせてもらえた。わかってくれない辛さ
に悩んでも、自分のやりたいことを貫くことができた。
一方で、エイダさんは自分を傷つけようとしてみせて、それを止
めてくれかどうかで愛情を測ろうとした。
普通の男性だったら、綺麗なエイダさんが必死に好きだと訴えた
ら、どこかの時点でほだされただろう。そうして彼女の望みに近い
態度で、先ほども止めてくれたかもしれない。
けど、レジーはそれを期待してはいけない相手だった。
彼は血のつながった家族でさえも、情を期待できない人がいるの
だと思い知っている。その分だけ、彼は情に訴えられても心が動き
にくいんだろう。
それを乗り越えたいなら、アランやカインさん達のように時間を
かけて信頼関係を築くしかなかった。
ただ、エイダさんにはそれができない事情がある。
トリスフィードを取り戻したら、彼女は置いて行かれてしまうの
だ。
1221
レジーも本格的な冬になるまでに、決着をつけたいはずだ。だか
らトリスフィード攻略は急ぐだろう。
それをエイダさんもわかっていたから、女子だけど最後まで従軍
できる私のように、魔術師になれればと思ったのかもしれない。
﹁レジナルド殿下は、誰のことも無理にとめたりしないわ。私が魔
術師になろうとした時も、後で怒られたけどとめなかった。殿下自
身がとても不自由な立場だったからかもしれない。それが悪い方向
でも本人が決めたのなら、って思うみたい﹂
﹁⋮⋮誰のことも、止めないの?﹂
エイダさんの問いにうなずくと、彼女は少し悲しそうな表情にな
った。強気そうな顔立ちのエイダさんが表情を曇らせると、より一
層悲しみが伝わる気がした。
野の花が萎れるよりも、大輪のバラが一瞬で萎れた方がより劇的
に見えるように。
﹁わけがわからないわ﹂
ややあって出てきたのは反発するような言葉だけど、それでエイ
ダさんが先ほど突き放されたことに、心の中で折り合いをつける気
になったのだと感じた。
おかげで少し、気が楽になった。もうさっきみたいに、突発的な
ことはしないだろう。
丁度いいことに、その時召使いさんがお茶を持ってきてくれた。
私はエイダさんから腕を離して、二人で隣り合ってお茶を飲むこ
とにする。
特に話したりはしなかったけれど、エイダさんも大分落ち着いて、
大人しくお茶に口をつけていた。
1222
そんな私達の所に、エメラインさんがやってきた。
﹁ああ、ここにいたのね。二人に、ぜひ参加していただきたいもの
があるの﹂
1223
デルフィオンの秋祭 1
﹁どこに?﹂
﹁わたしの部屋までお願いできるかしら?﹂
言われるまま、私はついていくことにする。
エイダさんも特に用事があるわけではなかったのと、あれからす
ぐレジーを追いかける気にはなれなかったのだろう、一緒に行くこ
とにしたようだ。
﹁私は遠慮した方が宜しいですかね?﹂
気を遣って離れようとしたカインさんだったが、エメラインさん
に止められる。
﹁実は、荷物を運ぶのを手伝っていただけると助かるのですが。お
時間があればで宜しいのですけれど﹂
﹁いいでしょう。わかりました﹂
護衛どころか荷運びに使われることになったカインさんだが、し
かし重い荷物があって、私やエイダさんの参加が必要って一体何を
するんだろう。
﹁何か整理するような作業なんですか? エメラインさん﹂
﹁ちょうど明日なの﹂
﹁明日って何がです?﹂
﹁デルフィオン特有の、秋のお祭があるのよ﹂
1224
ファルジアに限らず、この世界ではおおよその地域で秋祭りを行
う。
一番麦などの食料が豊富なのもあって、この時期に豊穣を祈る祭
りをするようになったのだと思う。後は他の村などとの交流を行う
こともあり、出会いの場にもなるようだ。
幼少期はそんなことも知る機会がなく、伯爵令嬢時代も逃亡防止
のため外に出したくなかったのか全くそういったものには関わらな
かったので、エヴラールで初めて実際に見ることになった。
テレビゲームのような娯楽がほとんどないこの世界のこと、エヴ
ラールには奇抜な人が多くて普通に生活していても楽しかったが、
やはりお祭りというのも面白かった。
けれどデルフィオンでは少々変わっているものになるという。
そして仮装するのだとか。
﹁この地方の言い伝えでね、魔獣の子供を拾った人の話が基になっ
ているのだけど﹂
傷ついた暗翼猫の魔獣の子供を拾ったとある村人がいた。
怪我が治る頃には魔獣もすっかり村人に懐いていたが、だんだん
と大きくなって隠しておくことが難しくなった。
なので近くの森の中に暗翼猫を置いてくるしかなかった。
それから数年後、デルフィオンに村人に懐いたものとは別の魔獣
が発生した。
村も襲われそうになったその時、助けてくれたのは何倍にも大き
く成長した暗翼猫で、その右前足の指には、村人があげた首輪が填
められていた。
という鶴の恩返し系の逸話を、エメラインさんが語ってくれた。
1225
以来、暗翼猫のために村全体がお礼に貢物をして、暗翼猫は村人
が亡くなってからも村を守ってくれたらしい。
暗翼猫がいなくなった後も、縁起担ぎとして年に一度魔獣に貢物
をするようになり、やがて暗翼猫役の仮装をする者が現れて⋮⋮と
いう感じで、仮装する人にお菓子をあげるお祭りになったそうだ。
説明を聞いて思った。
なんか秋祭りとハロウィンが混ざったみたいなやつ? と。
﹁殿下方からも、祭を行ってもいいと許可を頂いたの。ルアインの
占領下でも規制はされなかったみたいで、町でも準備をしていたみ
たいだから、今になって止めたら不満が出るだろうし、そのまま実
行した方がいいだろうって﹂
説明を受けながらエメラインさんの部屋へやってくると、ルシー
ルさんが待っていた。
﹁お姉様、おおよその物は中に仕舞いました﹂
ルシールさんは部屋の中央にデンと置かれた長櫃を二つ指さす。
私の足から肩近くまでの長さがある木の箱だ。平民はこれを椅子代
わりにしたり、もっと大きなものを寝台代わりにする。
﹁中に何が入っているんです?﹂
﹁仮装道具よ﹂
﹁え、仮装?﹂
まさか私やエイダさんも、仮装要員として呼ばれたのかな?
﹁このお祭りでは、女性側が暗翼猫の仮装をするの﹂
1226
﹁今では色々な仮装を楽しめるように、猫っぽくて背中に羽があれ
ばそれで良し、という感じになってますけれど﹂
エメラインさんの言葉を、ルシールさんが補足していく。
試しに中を見ると、猫耳がついたケープが出てきた。背中には小
さな毛皮で作った翼が縫い付けられている。なるほど、女の子っぽ
い仮装だ。
﹁まずはこれを、他の女性が集まっている場所へ運びたいんです﹂
近くの小広間へ運ぶのだと聞いて、カインさんが一つを持ち、私
やエメラインさんとエイダさん、さらに私が庭石を変化させた石人
形でもう一つを持って運んだ。
両手に作った指をわきわきさせてから櫃を担いだ石人形の姿に、
エイダさんがぎょっとした顔をしていたので、ちょっと笑ってしま
った。
﹁な、なによ。魔術を使うにしても、変な動作させるから驚いただ
けよっ﹂
可愛くない物言いだけど、顔を真っ赤にして泣きそうな表情をす
るので、全く威圧感などはない。
﹁驚いた様子が可愛くて﹂
素直にそう言うと、エイダさんは慌てたように目をさまよわせて、
うつむいてしまった。
それにしても、
﹁二つとも、魔術でなんとかしたのに⋮⋮﹂
1227
﹁そこまで重くはありませんよ。階段の登り降りまでしろと言われ
たら少し考えましたが、行き先はすぐ近くですからね﹂
後ろに続くカインさんを振り返ると、なんでもないことのように
言われてしまった。けっこう大きいし重たいんだけどすごいな。
ルシールさんも同じように思ったらしい。
﹁お兄さんすごいです! 私もお手伝いできたらいいんですけれど
⋮⋮﹂
背丈の関係でお手伝いを断ったのだけど、ルシールさんは何も持
っていないことが後ろめたいようで、そう言いながらカインさんの
側をちょろちょろと歩いては、自分も少しは支えられないかと思っ
ているようだ。
しかしカインさんは肩に担いでしまっているので、なおさらルシ
ールさんの手は届かない。仕方なく、カインさんの横を早歩きして
ついてきているのが可愛い。
カインさんも小さな子がくっついてくるのに慣れている人なので、
櫃を運びながら穏やかに応じている。
﹁もう少し大きくなったら、思う存分お手伝いしてください。それ
までは年上の者がしていることを見て学んでおけばいいんですよ﹂
⋮⋮亡くした弟さんのことを思い出しているのかな。
そうこうしている間に、すぐ目的の小広間に到着した。
扉を開いた中には、城勤めの人なのだろう年若い女の子が沢山い
た。お祭りの準備のため、本人たちが持ち寄った布などを広げたり、
縫ったりしている。
部屋の中央には衝立なども置いてあり、仮装の試着もするつもり
なんだろう。
1228
この後は役に立てないだろうからと、カインさんは櫃を扉近くに
置いて立ち去った。
その時ちゃんと師匠も預けたので、他の女性達のプライバシーも
しっかり守れるはずだ。
﹁さぁ、選びましょう! 私達が使わないと決めたものは、他の方
に貸すのよ﹂
エメラインさんは長櫃を部屋の中ほどまで引っ張って行くと、蓋
を開けて中から衣装を取り出し始める。
﹁毎年の行事なので、同じ仮装ばかりをするのもなんですし、道具
や衣装を貸し借りすることが多いんですよ﹂
ルシールさんがにこにことしながら仮装道具を取り出して見せる。
猫耳のヘッドドレス、猫耳のヘアバンド、それらに派手にレース
がついたものや、硝子を宝石に見立てて飾ったものとか⋮⋮。
え、仮装って⋮⋮そういうこと? わりと本気で派手なハロウィ
ン仮装を猫系限定でやるの?
驚きながらも私は、心の隅で納得していた。
なるほど。これは女の子だけ仮装するわけだ、と。
カインさんに猫耳とか⋮⋮ちょっと気の毒すぎるし、何かの罰ゲ
ームみたいだもんね。
でも私だって仮装で目立つとか、猫耳をつけて人前に出るとか、
あまりしたくないんだけど。
しまった。⋮⋮どうやって断ろう。
1229
デルフィオンの秋祭 2
﹁⋮⋮ええと、仮装はちょっと遠慮させて頂いてですね﹂
﹁一部が敵対したり、難しい状況だったからこそ﹃関係が修復でき
ましたよ﹄と軍の関係者がアピールしてくれるといいのだけど﹂
すかさずエメラインさんがやんわりと反対意見を口にする。
﹁それ、もっと悪いじゃないですか。私が目立たないといけないの
は、ちょっと⋮⋮﹂
﹁一緒に仮装してくださらないんですか? 私、実は楽しみにして
たんです﹂
断ろうとしたら、ルシールさんがしゅんと沈んだ表情でうつむい
た。う⋮⋮心が痛いんだけど。どうしたらいいのこれ。
﹁エイダさんも逃がしません﹂
エメラインさんがさっと立ち上がって、離れようとしたエイダさ
んを拘束した。
﹁貴方にはぜひともこの祭に参加していただきたいのです。なぜな
らこの祭は、婚期を迎えた女性には別な意味があるのです﹂
﹁別な意味?﹂
聞き返してから、私は思い出した。
エヴラールでもそういったものがあった。
近隣の村からも城下町に集まってきて秋祭りをしていたんだけど、
1230
祭りの間、男性から花か何かを贈られると告白をしたいって意味だ
とか。受け取ったらいいよって意味になるとか。そういう感じだっ
た。
概要だけ説明された私だったが、ベアトリス夫人と城下を回って
ちょっと楽しんだ後は城に帰ったので、花を持ってる男の人をちら
ほら見かけただけで、どきどきな告白シーンは目撃できなかったの
だけど。
案の定、デルフィオンの祭にもそういうものがあるらしい。
﹁付き合いたいという男性は、女性にリボンを編んで作った腕輪を
渡すのです。猫に贈った首輪の逸話に絡めているのですけれどね。
そして男性達を引きつけるには、可愛らしさを見せつけることが必
要です。猫の仮装はうってつけなのですよ﹂
自信満々に主張するエメラインさんだが、彼女に限っては可愛ら
しさという単語がこう、そぐわない感じがするのはなぜだろうか。
﹁別に、不特定多数に見せつけなくても⋮⋮﹂
﹁釣れる男は多ければ多いほど、こちらがより良い男を選べるよう
になると思うでしょう?﹂
﹁う⋮⋮﹂
その意見には、エイダさんも反論しにくいようだ。まさかエイダ
さん、釣りをなさったことがある?
﹁釣った相手が、食べる場所もない小魚ばかりでは意味がないでし
ょう。わたしが釣りたいのはただ一人だけで⋮⋮﹂
﹁分家出身では、上を目指し過ぎても不幸になるだけだと思うの﹂
1231
反論は、エメラインさんがずばりと切り捨てた。
﹁そんなことな⋮⋮﹂
﹁あるわ。だって王族なんて弓の練習一つ満足にできやしない。殿
下の叔母上、ベアトリス様だって苦労したというお話を聞いたこと
があるわ﹂
﹁いえわたしは別に弓なんて⋮⋮﹂
うん、私も弓の練習ができない苦労とか言われても、ちょっと微
妙な気持ちになる。が、巻き込まれる方が怖かったので、ルシール
さんに近寄って二人からなるべく遠ざかった。
それに男の人を釣るとか、私には未知の領域すぎて入れないとい
うか入りたくない。
﹁お、大人な話は私、まだ無理⋮⋮﹂
﹁聞いておいた方がよくありませんか? というかキアラ様も成人
済ではありませんか﹂
﹁ぐ⋮⋮﹂
ルシールさんに痛い所を突かれて、私はうずくまる。
その間にも、エメラインさんの説得は続いていた。
﹁まぁ、幸不幸は別として、より多くの相手をめろめろにさせるこ
とは、とても重要だと思うの。だって小魚さえ釣ることができない
のに、本命の大魚を釣ることができるものですか﹂
﹁⋮⋮一理あるわ﹂
どうしよう。エイダさんがエメラインさんに洗脳されつつある。
このままでは私も確実に巻き込まれる。逃げられないのなら、何
か別な解決策を⋮⋮と思ったところで、私は長櫃の中に﹃それ﹄が
1232
あることに気付いた。
﹁わ、私これにする﹂
震える手で、急いで目的物を引っ張りだして抱きしめる。
﹁え、本当にそれでいいんですか? それは子供か、約束した相手
がいるような女性が着るものなのですけれど﹂
ルシールさんにびっくりされたが、これが一番いい。
しかしルシールさんの反応を見るに、主張だけでは反対されて取
り上げられ、別な物を着るよう強制されるだろう。
取り上げられない方法は何か︱︱着ることだ。
私は素早くドレスの上から、引っ張りだしたそれを着こんだ。胴
回りがだぼっとした形で余裕が沢山あったので、無事に服の上から
装着ができてほっとする。
これこそ私の救世主。背中にちっちゃい翼がついた猫の着ぐるみ
だった。
前世の着ぐるみパジャマっぽいし、着たこともあるので抵抗感ゼ
ロだ。しかもフードを鼻先まで降ろせば、顔も隠れる。完璧だ。
﹁それでは、魔術師様だとわからないのでは? しかも可愛いと言
うより滑稽な⋮⋮﹂
﹁目立たないからいいんですよ! 私は可愛さを求めてませんし﹂
そんな話をルシールさんとしていたら、ついにエメラインさんに
気づかれた。
﹁え!? キアラさん、いつの間に! もっと可愛いこれとか、あ
1233
っ、こっちとか着せようと思っていたのに!﹂
そんなことを言いながら、猫耳ヘッドドレスを横にいたエイダさ
んにつけ、ふわふわな灰色の毛皮でつくられたドレスを当てて、ア
ピールしてくる。
可愛すぎて着たくないです。しかもそのドレス、露出が多めで私
にはハードル高いんですってば。
けれどここにいたのでは、エメラインさんやルシールさんに着替
えさせられてしまうかもしれない。
もう衣装を決めたことにして、このまま逃亡しよう。そのまま明
日までがんばってエメラインさん達と接触しなければ、この着ぐる
みを私に貸すしかなくなるはず!
﹁とにかく私、これじゃないと着ませんからぁああ!﹂
言い逃げ! とばかりに私は小広間を飛び出した。
﹁逃がしませんよキアラさん!﹂
エメラインさんがやや遅れて追いかけてきた。しかもエイダさん
とルシールさんまで。
﹁うわああん、これ着て参加するんだからいいじゃないですか!﹂
﹁目立たないでしょう! 顔も見えないだなんて、友好関係を見せ
びらかそうというのに、全く意味がないでしょう!﹂
﹁そういうのは、ギルシュさんか誰かにしてもらって! ギルシュ
さんの方が乙女だから、どんなふわふわ可愛いのでもイケるから!﹂
﹁サイズが合わない物しかないからだめよ!﹂
1234
私のナイスアイディアは、エメラインさんに即却下された。
確かにギルシュさんは上背もあって幅も大きいから、既に作って
あるものでは合うまい。
﹁早くエイダさんもキアラさんを捕まえて! そうしたら免除して
さしあげます!﹂
エメラインさんの指令に、手を引っ張られて嫌々ついてきたよう
なエイダさんが、突然やる気を出して走る速度を上げてくる。
ひぃぃぃ。
後ろを振り向き、慌てて足を早めるけれど、着ぐるみの足部分が
短すぎて速度が出せない。焦り過ぎてつんのめり、角を曲がったと
ころで転びそうになった私は、ぎりぎり間に合ったエイダさんに首
根っこを掴まれた。
﹁ぐえっ﹂
﹁わたしのために犠牲になってくださいな!﹂
﹁エイダさん良くやりました!﹂
喉が閉まった私のうめき声、エイダさんの必死の叫び、エメライ
ンさんの歓声。
そこにかぶさるように声がかけられた。
﹁何をしてるの?﹂
⋮⋮一瞬、私の頭の中が真っ白になった。
目の前に、グロウルさんを連れたレジーがいた。
レジーの方もあまりの様子に驚いたのだろう。珍しく目を見開い
ている。グロウルさんなどぽかーんと口を開けている。
1235
しかも私、フードがとれて顔を隠せていない。
そんな私をひっつかまえていたエイダさんも、とんでもない場面
を見られた羞恥が限界を超えたのか、顔色が悪い。
あのエメラインさんでさえ、魔術師取り押さえ現場を見られるつ
もりは全くなかったのか、何も言えずに固まっていた。
﹁⋮⋮ふっ、くくっ、あっはっはっはっは!﹂
やがてその場に響いたのは、レジーの大笑いする声だった。
というかもう、爆笑だよねそれ。
いやひどい有様見せてる側だし、たぶん自分だってレジーの側だ
ったら、大笑いするだろうけど。
そんな風に大笑いするレジーを見て、エイダさんはすごくびっく
りした表情をしていた。
﹁それはもしや、明日の祭の?﹂
恐る恐る尋ねてくるグロウルさんに、ようやく冷静さを取り戻し
たエメラインさんがうなずいた。
﹁ええそうです。けれどキアラ様にはもっと可愛いものを着せるつ
もりで⋮⋮﹂
﹁ははっ、それも随分可愛いけど⋮⋮っ。似合いすぎキアラ﹂
レジーはまだ笑いながらそんなことを言う。けどそれ、面白がっ
てるだけだよね?
あげく近よってくると、背中に落ちていたフードを被せてまた笑
う。⋮⋮何がしたいんだ。
1236
﹁まぁ、親睦がんばって﹂
手をひらひらと振って、レジーは立ち去った。どうやら助けてく
れる気は全くないようだ。裏切り者め。
しかしレジーの言葉で、私はあることを思いついた。
ついついにやっと笑ってしまい。
目が合ったグロウルさんに、なぜか怯えられた。
その後、戻った小広間で私は自分の提案を語り、エメラインさん
に納得させ。
なぜかエイダさんは、私が着ている猫の着ぐるみをじっと見つめ
ていた。
1237
デルフィオンの秋祭 3
翌日、借りて来た仮装を着てみた。
﹁⋮⋮くっ、恥ずかしい﹂
黒のやたらひらひらしたドレスをエメラインさんから貸すと言っ
て押し付けられ、耳だけだからと譲歩させられた、何かの毛皮で作
られた猫耳のヘアバンドをつける。
とどめに緑のリボンに金の鈴をつけたものを、チョーカー代わり
に首に結ぶ。これも気ついたら、猫耳と一緒にエメラインさんに押
し付けられていた。
それでも、エメラインさんを説得して、なんとか派手さを抑えに
抑えた結果だ。
おおおお、前世の容姿だったら、顔が洋服から浮きまくって痛い
なんてもんじゃなかっただろうなこれ。
それでもコスプレしてるみたいで、慣れない身には恥ずかしい。
﹁これで外歩くのか⋮⋮。どうしてOKしちゃったのかな私﹂
首の猫鈴みたいなチョーカーまで受け入れた理由を考えた私は、
試着をして見せたエメラインさんのすごさと、小広間の気合いの入
った黒猫仮装の群れを見ていたせいだ。
あの時はこの仮装なんて大人しいものだと思ったし、これから行
く場所はあんな人ばかりなんだからと、自分に暗示をかける。
大丈夫。もっと目立つことするんだし。
深呼吸して落ち着こうとしてると、寝台の毛布の下に突っ込んで
1238
いた師匠が騒ぎ出した。
﹁おい弟子! そろそろ出さんか!﹂
﹁ちょっと師匠⋮⋮どうしてそんなに人の仮装を見たがるんですか﹂
着替える前から﹁何を着るんじゃー? ウッヒッヒッヒ﹂と言っ
ていたのだ。
﹁孫の晴れ姿くらい見てもいいじゃろ、ヘッヘッヘ﹂
﹁最後の笑い方が、全てを裏切ってるんですけど⋮⋮﹂
何か変なものを期待しているようにしか思えない。なので毛布を
剥いで、師匠を外に出してあげた。
﹁⋮⋮⋮⋮黒いな﹂
﹁デザインの元ネタが暗翼猫ですよ? 黒くなるんですよ﹂
黒くて闇の中に紛れて飛ぶ、翼のある猫だ。
これで翼のレプリカまで背負わされたら、前世の紅白に登場して
そうな人になったかもしれないが。それは拒否ったので、大人しい
衣装ではある。
うん、そうだ。真っ白とか真っ赤とかよりは、痛さはそれほどな
い。
仮装に自分の意識が慣れてきたのか、そんな気になってきた私は、
いつも通りにベルトを腰に巻いて師匠を釣るして部屋を出た。
﹁お待たせしました﹂
扉の外には、城下までもついてきてくれるカインさんが待ってく
れていた。
1239
祭に紛れてルアインの人が暗殺とか、仕掛けてくる可能性がある
からと、護衛つきにするようレジーからも伝言が来ていたし、カイ
ンさんからもそう言われていたのだ。
そのカインさんは、一瞬私の衣装を見てから頭につけている猫耳
に指先で触れた。
﹁これ、何の素材を使ってるんですか?﹂
﹁エメラインさんが、ウサギって言っていました﹂
ふわふわしていて大変触り心地がいいのだ。カインさんもそう思
ったのだろう。何度か突いた後、私の頭を一度撫でてきた。
﹁待ち合わせはエントランスでしたよね。行きましょう﹂
促されて一緒に歩き出した私は、ほっとしていた。
変な恰好だとか言われなかったので。
自分ではそう思わなくても、他人から見ると似合わなくて不格好
な場合もある。もしそうだったら、外を歩いても恥ずかしいばかり
になるから、心配していたのだ。
安心してデルフィオン男爵城正面エントランスに来た私は、そこ
で黒い集団に飲みこまれていく。
右の人も左の人も黒、黒、黒猫の耳をつけた人だらけ。
勤めている女性の子供は、猫耳と足首まである膨らんだ形の黒い
ズボンに尻尾までつけて子猫のように可愛らしい。
成人したばかりだろう女性達は、広げると猫の頭型の扇を持って
いたり、何を使ったのかギラギラ光る翼を背負っている人や、襟が
大きく開いている服を着て、猫のぬいぐるみを背負っていたりして
いる。
1240
大人しい仮装の年配の女性でも、必ず猫尻尾と猫耳、鳥の羽を使
って作った翼を標準装備し、衣服やレースのベールにきらきらと輝
く硝子を縫い付けたりと、かなり手が込んでいた。
そうこれこれ。
ここに混じれば私は目立たない。
中に入ってほっとする私とは逆に、カインさんがやや微妙そうな
表情になる。
﹁なんというか⋮⋮すごいですね﹂
﹁はい、みなさん本当にすごいんです﹂
カインさんとひそひそ会話していると、女性達の中で頭一つ飛び
ぬけて背が高いカインさんを見つけた人が声をかけてきた。
﹁おい、ウェントワース、そこで何してんの?﹂
アランの騎士チェスターさんだ。なんだか頬を赤くして左右をし
きりに見回している。
﹁お祭では、女性が仮装して歩くのですよ﹂
側にいたエメラインさんが説明していた。
猫の仮装をした女性は、ついでにお菓子を受け取って歩くそうで
す。
説明を聞いたチェスターさんの脳裏には、彼流の楽園の姿が浮か
んでしまったようだ。
﹁え、今日って町の中、こんな女の子で一杯!? え、アラン様俺
たちも城下に行きましょう!﹂
1241
頼みます! 後生です! 明日からの活力が! とチェスターさ
んが一緒にいたアランの両肩を揺さぶりながら懇願している。
アランは微妙な顔で﹁警備の問題があるからな⋮⋮﹂と言いなが
ら、チェスターさんを連れてこの場を離れていった。
そうだ。いろんな人が街中に出てきて混み合うという話なのに、
警備とか暗殺を警戒すべき私に、なぜかレジーは参加するように勧
めてきた。
どうしてだろう。彼自身は城に籠ったままのようだし。
首をかしげながらも、私はエメラインさんが先導するのに従って、
他の女性達と一緒に城から外へ出た。
そしてすぐの場所、城から町へと続く道の脇に建てられていた石
柱の側へ行く。
エメラインさんから﹁これならいいわ﹂と許可をもらったので、
一つを使って大きな犬型の乗り物を作った。
馬くらいの大きさなので、それほど邪魔にはならないだろう。
その背中に座席らしきものを作って乗り込むと、ようやくわくわ
くしてくる。
小さい頃、大きな犬の背中に乗ってみたいと思ってこの形にした
ので、楽しい。
見上げて来るエメラインさんは、ややため息をつきそうな顔をし
ていた。
﹁確かに目立ちますけれど⋮⋮﹂
エメラインさんは、どうやら町中を足で歩いてほしかったらしい。
引っ張り出すために魔術師が参加しないと、と言ったものの、ま
さか一人で乗り物に乗ってしまうとはおもわなかったのだろう。
1242
でもごめん。こういった仮装はほら、何度か回を重ねないと思い
きったものを着るのが難しいというか、心理抵抗が弱まらないとい
うか。
しかも他の女性達はどうやら男性へのアピールのためでもあると
か聞いたし、関係ない私はそうする必要もないなら、他の人が目立
つよう広告塔でもやればいいかなと思ったのだ。
そうして一行は進み始めた。
やや赤味がかったレンガ色の街並みが、目の前に広がって、囲ま
れていく。
町では軒先に屋台なども並び、行進していく女性達と、道の脇に
避けて立ち彼女らを見る男性達などが入り混じってにぎやかだ。
男性達は、通りすがる女性に﹁飴でございます、この町をお守り
くださいませ﹂とお菓子を捧げ、女性達は手に持っていた籠などに
それを入れて行く。
その先頭を行くエメラインさんには、兵士の恰好をした人達が進
み出てお菓子を捧げている。
エメラインさんのすぐそばには、すごい着ぐるみを着たエイダさ
んがいた。
頭にフードは被っていない。頭には猫耳をつけて髪はいつものよ
うにシニヨンに結っている。
しかし首から下は、私が昨日奪って逃げた着ぐるみを、パワーア
ップさせたものを着ていた。
ベースは黒猫だ。リュック型の紐でやたら大きな翼を背負ってい
るあたりで十分に気合いが入っているのだが、糸できらきらとビー
ズを繋げたすだれみたいなのを取り付けている。
1243
肩から腰にかけてレースとビーズできらきらと飾っているのは⋮
⋮夜なべしたのかな? おかげで遠目にもすごく目立つ。
そして猫着ぐるみにチュールレースのスカートをくっつけていた。
エイダさん本人は、夜なべのせいなのか、目の下にうっすら隈が
⋮⋮。
どうして急にそんなにがんばっちゃったんだろう。
そんなエイダさんの後ろを、ちょこちょこ歩く一匹の氷狐がいる。
エメラインさんの側にジナさんがいるので、くっついて歩いている
ルナールだ。
ふんふんとドレスの裾を嗅いでみたりするルナール。
エイダさん本人には気付かれていないので良かったが、気付いた
ら驚くんじゃないかと、ひやひやしてしまう。
ちなみにジナさんは猫耳をつけていない⋮⋮羨ましい。どうやっ
て断ったんだろう。
あれこれと気にしてはいたが、それでも私なりにお祭りの様子を
見て楽しんではいた。
そして感じるのは、受け止めた向かい風がそのまま体を通過して
駆け抜けて行くような感覚。すっとするけれど、寂しいような。
﹁⋮⋮楽しいか?﹂
ふと師匠に尋ねられて、私はうなずく。
﹁楽しいです。なんか⋮⋮平和で﹂
﹁平和すぎると感じるんですか?﹂
カインさんに尋ねられて、私は少し考えてうなずく。
1244
﹁それは多分、戦いやそれを連想するものから、遠く離れたことを
しているからではありませんか?﹂
石で作った犬の隣を歩くカインさんは、そう私の違和感について
意見を口にした。
﹁母や弟が死んだ戦で、私はそう感じましたよ﹂
続けて語られたのは、カインさんがまだ成人前の歳の時のことだ。
﹁戦が終わって、弟と母を埋葬して戻ったら、戦勝祝賀でお祭り騒
ぎをしていました﹂
その視線は前や周囲に向けられていて、どこか独り言のようにも
思える。
﹁ルアインを退けて勝ったのですから、喜んで当然なんでしょう。
人によっては、そうして騒ぐことで死んでいった仲間や家族の仇を
とったのだと、実感できるかもしれません。ただ当時の私にはどう
も、落差が大きくて。戸惑いましたね﹂
カインさんの話を聞いて、なるほどと思う。
確かに、何か区切りがないと戦いが終わったのかどうかすっきり
しない。だから勝ったら盛大に祝うのだろう。
さもなければ、悲しんだままで次に向かえないから。
でもまだこれからも戦い続けなければならないと思っている私や、
一人残されてしまった寂しさの方が強かった当時のカインさんには、
どこか自分のことではないような錯覚に陥りそうになるのだろう。
1245
だからよけいに、カインさんは家族のことが強く心に残ってしま
ったのかもしれない、と私は思った。
﹁きっと、自分の気持ちだけみんなから置いて行かれてしまったよ
うに思ったから、なおさらご家族のこと、忘れられないんですね﹂
何気なく感じたことをつぶやいた後、カインさんの答える声はな
かった。
ただ数秒。前だけをじっと見つめた後で、私の視線に気づいて小
さく笑ってくれた。
1246
デルフィオンの秋祭 4
その後、篭いっぱいにお菓子を入れたエメラインさん達と私やジ
ナさん達は、何事もなく城へ戻った。
人数が減っていたのは、件のリボンを編んで作った腕輪を受け取
った人や、そのまま一度自分の家に帰る人がいたからだ。
城へ戻るなり、エイダさんがどこかへ走って行った。
﹁どうしたんです?﹂
思わずエメラインさんに聞いてしまうと、種明かしされた。
﹁今日は殿下も参加するって嘘を教えたのよ。それで大人しくお祭
についてきたんだけど、さすがにバレてしまって。たぶん今から殿
下を襲撃するのではないかしら﹂
﹁あ⋮⋮なるほど﹂
やけに大人しくエメラインさんの後ろを歩いていると思ったら、
そういう裏があったようだ。
﹁あの人、すごく殿下のことだけを思い詰めすぎているから。外へ
出たり他のひとと接したら、少しは視野が広くなるかもしれないと
思ったのだけど﹂
ダメだったかしらね、とエメラインさんがため息をついていた。
私は城の中に戻ったので、カインさんにもぜひ休んでくれるよう
1247
にとお願いし、自分の部屋に戻る。
師匠を置き、ざっと着替えて息をついた私は、部屋に置いてある
水差しの水が少なくなっていたこともあって、中身を交換してくる
ことにした。
なにせ今日はお祭りで、人があまりいない。さっと自分で入れ替
えた方が、みんなも楽だろうと思ったのだ。
真鍮の蓋つきの水差しを持って歩いて行くと、ふいに階段を駆け
上ってくる人がいた。
レジーだ。
この人が城内を走っている姿などめずらしい。驚いてじっと見て
しまっていると、レジーは私に気付くとやや焦った表情で言った。
﹁キアラ、私はどこか別なところに隠れたと⋮⋮いや、君の場合う
っかりしゃべりそうだ。ちょっとこっちに!﹂
﹁ええっ?﹂
手を引かれ、レジーと一緒に廊下の奥へと走らされる。
何事? と思っている私の耳にも、どうやらレジーが焦っている
要因がわかった。
﹁レジナルド殿下! どちらにいらっしゃいますか!﹂
﹁王子殿下は城の外へ⋮⋮﹂
﹁先ほどお見かけしたばかりですもの、外にいるわけがありません
わ!﹂
エイダさんの声だ。
しかもレジーの行先を尋ねられた誰かは、誤魔化そうとしてくれ
たようだが、あっさりと見破られてしまっている。
なるほど彼女から逃げていたのかと思っているうちに、レジーは
1248
いくつかある部屋の一つに入った。
﹁キアラはここにいて、私のことはどうにか誤魔化してくれるかな
?﹂
﹁は!?﹂
と言われたかと思うと抱えられ、誰も使っていないらしい客室の
クローゼットの中に入れられてしまった。
水差しを抱えたままの私は、あっという間に扉を閉められて、ク
ローゼットの中に一人取り残される。
呆然としている間に、何か物音がしたのでレジーもどこかには隠
れたのだと思う。
そのうちにエイダさんの悲鳴と、師匠の﹁ウヒヒヒヒヒ﹂という
声が響いてくる。
﹁なによ! まぎらわしいことしないでよ!﹂
﹁失礼な娘っ子だのぅ、ウヒヒヒ﹂
師匠の笑い声に追い出されるように部屋を飛び出したのだろう、
バタンと強く扉を開ける音と足音がする。
けれどエイダさんはそこでめげなかったようだ。
次々の手あたり次第に部屋に入ってみては、レジーが隠れていな
いか探しているようだ。
なんだか鬼ごっこみたいだなと思っていたら、私が引っ張り込ま
れた部屋にもエイダさんが入ってきた音がした。
﹁殿下! どちらにいらっしゃいますか!? せめて感想を! ウ
ケたんですか!?﹂
1249
エイダさんの呼びかけに、私は更に驚いた。
まさか、レジーのウケを狙ってたの?
ここでようやく、私はエイダさんのすごい仮装に納得がいった。
可愛いと言われたいわけではなく、笑って欲しかったのだ。
気づくと、なんだか胸が小さく痛む。
やっぱりエイダさんは本当にレジーのことが好きなんじゃないか
な⋮⋮。そうでなければ、笑って欲しいなんて思わないよね。
と考えていたら、急に隠れていたクローゼットの扉が開け放たれ、
明るさに目がくらんで私は目を瞬いた。
﹁殿下み⋮⋮なぜキアラさんがここに!?﹂
目の前にいたエイダさんが、ぎょっとした顔をしていた。
同時に私は、あのすごい衣装のままだったエイダさんが眼前に迫
っている状況に、思わず怯えてしまった。
笑うよりも、この格好で迫られるのは怖いよエイダさん!
そのせいなのか、私はとっさについ本当のことを言ってしまった。
﹁レジ⋮⋮レジナルド殿下から、この部屋のクローゼットに入って
いるように言われて⋮⋮﹂
﹁どういうことなの!?﹂
叫んだエイダさんだったが、すぐに﹁しまった﹂と舌打ちしたそ
うな表情になる。
﹁また他に気を取られているうちに、撒かれてしまうわ! 急がな
くちゃ!﹂
1250
そう言って私がいた部屋を出て、またどこかへばたばたと走って
行ってしまったようだ。
やがて物音が聞こえなくなると、
﹁助かったよ、キアラ﹂
とレジーが窓にかかったカーテンの裏から出てくる。
それでなんとなくレジーが私をこの部屋に連れてきた意味がわか
った。
﹁私のこと、囮にした?﹂
﹁ごめんね﹂
レジーは悪びれることなく謝って来た。
多分レジーは私に会うよりも前に、どこかに隠れてエイダさんに
見つかったことがあるんだろう。だからエイダさんもあちこちの部
屋を開けて確かめた上、レジーの体格でも隠れられそうなクローゼ
ットの中も見たのだ。
さらに一度は、そうして部屋を覗くなりしている間に誰かを囮に
引き止めて、レジーがこっそり逃げだしたこともあるのだろう。
一度引っかかったことがあるエイダさんは、私に気を取られてい
る間にまたレジーが別な場所へ逃げてしまったのかもしれないと思
ったのだ。
けれどレジーはさらに裏をかいて、私と同じ部屋に隠れていたと
いうわけだ。
﹁運悪く廊下を歩いている時に遭遇してしまって。彼女の気をそら
した間に逃げたんだけど、どうしても諦めてくれなくて﹂
﹁でも﹂
1251
と私は言いかけてしまう。
今回ばかりは、ただ迫るために追いかけていたんじゃないと思う、
と言いかけた。
でも、喉の奥で詰まったようにそれ以上言葉が出て来ない。
言うのが怖い。
理由を探した私は、人の恋愛に首をつっこむべきじゃない、とい
うどこかで目にした言葉を思い出す。
それに、私なんかよりも察しがいいレジーなら、わかっていて受
け入れられないと決めたのかもしれない。
だとしたら、私が何か言っても迷惑をかけるだけだし。
二人の気持ちの問題だから⋮⋮と思うが、すると胸が重苦しくな
ってしまう。
﹁どうしたの、キアラ﹂
レジーから不思議そうに尋ねられて、困ってしまう。どう誤魔化
したらいいんだろう。
﹁嫌だった? ⋮⋮そうだね、急に囮に使われて嫌な思いをさせる
ことになって申し訳なかった﹂
﹁それは別に嫌ってわけじゃなかったから﹂
隠れるためにかばってほしかっただけなのはわかっているし、特
にそれですごい被害を受けたわけでもない。友達同士なら怒るよう
なことじゃないから、レジーが気軽に私に頼ったのも別に変なこと
でもない。
﹁でも何かが不愉快だったんだろう?﹂
1252
レジーはそう言って、私の顔を覗き込んできた。
けど、言えない。エイダさんが笑ってほしいと思ってるみたいだ
よ、ってただそれだけのことが言えないだなんて。
なんだか自分がいじわるをしているみたいで、それにも嫌な気分
になる。
﹁言いにくい? それなら言わなくてもいいよ﹂
黙っていると、レジーがそう言って笑ってくれた。
いつもそうして、私がすることを許してくれることに、ひどく安
心してしまうのだ。しかもレジーは話題まで変えてくれた。
﹁そういえばお祭りはどうだった?﹂
﹁うん、なんか賑やかだった﹂
﹁少しは楽しめた? 気晴らしに連れて行きたいってエメライン嬢
が頼んできたんだ。君が最近元気が無いようだったからって﹂
﹁エメラインさんが⋮⋮﹂
警備の関係でアランもレジーも行かないのに、と不思議には思っ
ていたけれど、まさか私に気晴らしをさせるためだったとは思わな
かった。
だからか。石人形に乗って一段高いところから眺めると言った時
に、残念そうだったのは。祭りを体感する、という感じではなくな
るからだろう。
でも確かに、町中を歩いている間はイサークのことは考えなかっ
た。
﹁大丈夫。ちゃんと楽しかったから﹂
1253
イサークのことも、祭りだ仮装だと言われている間はしばらく忘
れていたので、エメラインさんの思惑通りにはなっていたと思う。
﹁それなら、お祭りに出たキアラに参加賞をあげるよ。石人形に乗
っていたって聞いたから、お菓子はもらってないんだろう?﹂
そんなことを言ってレジーが上着のポケットから何かを取りだし
た。
﹁キアラ、手を出して﹂
﹁え?﹂
言われた私は何をくれるんだろうと思いながら右手を掌を上にし
て出した。するとレジーが指を掴み、さっと中指に何かを通そうと
した。
﹁え? 何?﹂
﹁この間訪問してきた城下の商人が渡してきたものでね。装飾品は
必要ないんだけど、デルフィオンの商人と交流する気はないってい
う風に取られても困るから、受け取ったものの一つだよ﹂
レジーが私の中指に填めたのは、水色の小さな宝石がついた指輪
だった。
﹁え、ええええええ!?﹂
なんで指輪? どうして指輪?
待て。前世知識でも今世の知識でも、こんな簡単に女の子に指輪
を贈るものではないはずで。
1254
﹁驚き過ぎだよキアラ。私やアランの代わりに、祭りに出てもらっ
たというのも本当のことなんだから。指輪ならあまりかさばらない
し、万が一のことがあった場合には売ってもいいから﹂
﹁でも、指⋮⋮﹂
そんな理由なら、別にネックレスだって良かったはずなのに。
うろたえる私に、レジーはなんでもないことのように言う。
﹁お祭りの話はエメラインから先に聞いていたから。猫に首輪を贈
った話を上手く商売に使ってね、商人が中指にする指輪は、お守り
として渡すって話をしていたんだ。だからこれはお守り代わりだと
思ってくれたらいいよ﹂
⋮⋮お守り?
言われて、私は今日のお祭りのことを思い出す。
そういえば意中の人がいる場合は、腕輪を渡すのだったか。
指輪なら、そういう意味じゃない? しかも万が一の場合には売
ってしまえとか⋮⋮その、別な気持ちとかそういうものじゃないっ
てこと、だよね?
ほっとすると同時に、妙にがっかりしたような変な気持ちになっ
ていると、レジーに促された。
﹁とりあえずキアラ、そろそろ出ておいで﹂
いわれてみれば、ずっとクローゼットの中で体育座りしたまま話
し続けるというのも、確かに変な話だ。
私はクローゼットから出ようとした。
1255
立ち上がりかけたところで、水差しを持っていたことを思い出し
てひとまず足下に置いた。
だけどクローゼットは狭い。なのでかがんだときに腰が背板にぶ
つかった反動で、前に転がり落ちそうになった。
﹁わ!﹂
﹁キアラっ﹂
驚いたレジーが、前にダイブしそうになった私を受け止めようと
してくれたけど、とっさのことで支え切れなかったようだ。
私はレジーを押し倒すようにして床に転がってしまった。
それでも痛くなかったのは、レジーが守ってくれたからだ。私は
レジーと頬をくっつけるような態勢で抱えられていた。
﹁ご、ごめ⋮⋮っ﹂
レジーの方を振り返って謝ろうとした。だって床には絨毯なんて
敷いてなかった。背中とか打って痛い思いをさせたのだ。
⋮⋮ただそれだけだったのに。
私がレジーの顔を見ようとした時、同時にレジーが私の方を向い
てしまった。
唇の先に感じたのは、柔らかな感触で。
だけど頬じゃないのが、わかってしまった。
これ、たぶんレジーの口の端⋮⋮。
自分の唇が触れたんだと悟った瞬間、私は急いでレジーの胸に手
をついて離れようとした。
エヴラールの時、未遂で終わった時のような感じでもなく、偶然
1256
でこんな風になるなんて。どうしたらいいかわからなかった。
息ができない。とにかく逃げ出したかった私を、レジーは肩を抱
きしめるように押さえた。
そうして額をレジーの肩にくっつけるように抱え直される。
﹁ごめんね、嫌だったら忘れてくれていいから⋮⋮キアラ﹂
レジーに謝られて、頭の中の混乱が少し治まった。
私の方が悪かったのに。だって離れてから謝れば良かったんだか
ら。
﹁あの、えと、私もごめん⋮⋮﹂
だけど謝られたことで、ひどく悲しい気持ちになっていて。
⋮⋮私、すごく変だ。このままだと、おかしなことを口走りそう
で怖い。
﹁へ、部屋に戻る⋮⋮ね。エイダさんも遠くに行っただろうから﹂
うつむいてそれだけ言うと、今度こそ私はレジーから離れてその
場から逃げ出した。
﹁キアラ?﹂
レジーの声が追いかけてくるけれど、自分の部屋に入ってすぐ扉
を閉めてしまう。
そのまま扉に背中をくっつけたまましゃがみこんでしまった。
すると膝の上に置いた右手に、填めたままの指輪が見える。
1257
外したら、意識しすぎだと思われてしまうかもしれない。それも
恥ずかしい。
戸惑って。
結局指輪をしたまま、上から左手で覆うように押さえた。
1258
閑話∼祭の痕∼
普通の恋物語なら、死をも決意して訴えれば恋する人の心を動か
せる。
エイダもそうなることを夢見ていた。
なのにどうしてあの方の心は動かせないのか。
魔術師くずれを作り出す契約の石の粉を見せ、エイダはその決意
を見せたというのに、王子は剣に手をかけたのだ。
それを目にした瞬間、エイダは目の前が真っ暗になるかと思った。
レジナルド王子に見限られた。
そう感じたけれど、どうしていいかわからない。せめて魔術師に
なったということにして、側に置いてもらうことしか思いつかなか
った。
そして戦場で、彼を抱きしめて自分も灰になるのだ。
王子を永遠に私のものにするために。
この方法を教えてくれたのは、エイダが王子に恋をしたと知った
マリアンネ王妃だ。
︱︱恋しい人が、自分の状況や相手の状況のせいで手に入らない
辛さはわかるわ。
美しい王妃は、その顔に妖艶な笑みを浮かべていた。
そうして赤く塗られた唇から、エイダの心に火をともす言葉を紡
ぎ出す。
1259
︱︱私も手に入れられなかった。
手に入れなければと気づく前に、彼の命はファルジアに奪われ
たの。
だからあなたは失敗してはいけないわ。
心から思うのなら、誰にも⋮⋮命を誰にも奪われないようにし
なくては。
自分自身で奪った命でなければ、自分のものになったと言えな
いもの。
恋する相手を、王妃は亡くしたという。ルアインとファルジアは
ずっと戦っていたから、そういうことが起こっていてもおかしくは
ない。
しかも負けたために恋人の命を奪ったファルジアへ嫁ぎ、敵国の
王のものとなったのだ。
話を聞いたエイダは、だからか、と納得した。
ずっとルアインの衣装しか着ない王妃。
それがファルジアに染まりたくないという意思だと誰もが察して
いたけれど、もう一つ理由があったのだ。
恋する人と結ばれなかった王妃に同情し、嫌悪する相手と結婚せ
ざるをえなかった状況に、エイダはマリアンネ王妃に深く共感した。
︱︱既に結婚してしまったあなたが、思い人と結ばれるために使
える手段は二つだけよ。
この国を私と共に作り変え、王子を救うことで結ばれること。
もしくは死をもって永遠に自分だけのものにすること。
私にはできなかったからこそ、あなたに選択を間違えてほしく
ないの。
よく考えて、決めるのよ?
1260
王妃からそう言われてから、エイダはずっと一つの選択肢を目指
していた。
優しい王子に恋してもらって、そんな彼を自分が守ることで幸せ
になるのだと。
そのために魔術師の能力は役に立つ。
新生ファルジアの貴族達も、ルアインの貴族達も、利用価値があ
る魔術師のことを無視できない。魔術師である以上、エイダのこと
を尊重するだろう。そして王子を夫に持つことも容認せざるをえな
い。
けれど王子自身に拒否されることを、エイダは想定していなかっ
た。
再会した王子はエイダのことなど忘れていて、必死の訴えにも視
線を揺るがすことはない。
大丈夫。そんな真似をしなくてもいいんだ。君のことは私が守る
からと言ってほしかった。
⋮⋮こんなにも、王子を守ろうと潜入までしたエイダに報いるよ
うに。
いつも厳しい目をエイダに向けていた騎士フェリックスでさえ﹁
早まるんじゃない﹂と止めようとしてくれている。だからこそ悲し
くなった。
だから絶望しかけた時⋮⋮欲しい言葉をくれたのは、キアラだっ
た。
﹁自分をそんなにいじめないでください。我慢してたんでしょう。
苦しいなら、少し休みましょうエイダさん﹂
そう、エイダはずっと我慢していた。
1261
結婚相手に逃げられても、両親は自分を慰めるどころか面目がつ
ぶれたことを嘆くばかり。
悲しくて逃げだしただけなのに、わけのわからない男と結婚させ
られて。
あげくなりたくもない魔術師にされて。
辛くても我慢し、それを利用しようと思えたのは、王子がいたか
らだ。
彼を手に入れるために、訳が分からないながらも戦場まで行った
し、命じられる通りに人を殺して歩いた。
いつ自分が殺されるかわからない戦場でも我慢し続けたのは、全
部王子のためだったのに。
でも一番エイダのことをわかってくれたのが、エイダ自身が蔑ん
で、そうして見下していた女だったなんて。
そのことに衝撃を受けて、エイダは呆然としてしまった。
けれど柔らかく抱きしめてくれる腕と優しい言葉を、突き放すこ
となんてできなかった。
ずっと欲しかったものを、何も考えずに受け入れるのはとても楽
で。
ふと視線に気づいて見れば、もうエイダとは違う者と話を始めた
王子とは違い、フェリックスという騎士は珍しく安堵したような表
情でエイダを見ていた。
⋮⋮これで、もう迷惑をかけられずに済むと思ったのかしら。
エイダは、少しだけイラッとしたが、キアラの腕の温かさに逆ら
えずに、どこかの部屋に連れていかれてしまう。
ソファに座ってからも、キアラはしっかりとエイダを抱きしめた
まま離さなかった。
1262
今までのエイダの態度から考えると、どうしてキアラがそんなに
も自分を気遣うのかわからない。
それほど自分のことが嫌ではなかった、ということではないだろ
うか。
話してみると、やはりキアラはそれほど自分を嫌っている様子は
なく、むしろ王子に冷たくされたエイダに同情的だった。
あんなに、キアラを見知らぬ人々の前で罵ったことを知らないか
ら、そんな風にできるんだと思うと⋮⋮キアラに、自分がしてきた
ことやしようとしていたことを知られたら、と少し怖くなる。
そんな気持ちがあるからか、先ほどの状況から遠ざけてくれたキ
アラに礼を言えないうちに、エメラインがやってきてよくわからな
い仮装に参加させられそうになった。
正直、全くやる気が無かったので逃げだしたかった。
その時、なぜかイロモノにしかならないような着ぐるみを着てキ
アラが逃亡した。
変なものを着ていても、顔が見えなければいいと思ったらしい。
そんなキアラを追いかけて捕まえた瞬間を、王子に見られた。
大笑いする王子を見て、初めて彼の素の姿を見たとエイダは感じ、
同時に、気軽に会話をしていた男の友人達のことを思い出した。
とんでもない男と結婚して、魔術師になった以上会う勇気がなく
て避けていたけれど、彼らと会話をした時の楽しさを思い出したエ
イダは、どうにかもう一度、そんな風に王子と話してみたいと思っ
たのだ。
あんな風に笑わせることができたら、もっと気軽に話せるかもし
れない、と。
1263
しかし城の中を駆けまわっても、王子が見つからない。
途中で会う兵士達も引き気味だし、本当に失礼してしまう、とエ
イダは内心憤慨していた。
キアラの師匠に驚かされて、偽装に使われたらしいキアラにまで
驚かされ、エイダはそれでもあきらめずに城の中を走っていたのだ
けど。
階段を下りて角を曲がったところで、人にぶつかりそうになった。
﹁おっと﹂
反動で後ろに倒れそうになったエイダの腰を支えてくれたのは、
よく見知った人だ。
最近よく関わるレジーの防波堤、砂色の髪の騎士フェリックス。
彼だと分かった瞬間、王子を笑わせようと思ってした恰好だった
けれど、こんな姿を見られて笑われるかと思ったエイダは、恥ずか
しさに逃げたくなった。
ニヤリと笑みを浮かべたので﹁何をバカな真似をしているんだ﹂
と言われるかもしれないと思ったのだが。
けれど腰から手を離してくれたフェリックスが口にしたのは、別
の言葉だった。
﹁いつもそうしていればいいのに﹂
﹁え⋮⋮?﹂
意外すぎて、エイダは呆然としてしまう。バカにされなかったか
ら。
﹁へ、変でしょう⋮⋮?﹂
1264
驚き過ぎたからだろう。そんなことを聞き返してしまったエイダ
に、フェリックスはさらりと告げた。
﹁そういう格好も、かわいいんじゃないですか? まぁ多少イロモ
ノ系ですが、いつもの鬼気迫る様子で突撃されるよりは、ずっと見
ていて楽しいですし﹂
見ていて楽しい、というのは褒め言葉ではないとは思う。だけど、
非難されているわけではない。そんな反応は初めてだった。
﹁そ、そう⋮⋮﹂
﹁まぁその姿なら、殿下を追いかけても皆笑って許してくれるでし
ょう。それでは﹂
と、フェリックスはエイダを止めもせずに立ち去ってしまった。
王子を追いかけ続けてもいい。そう言われたエイダだったけれど
⋮⋮なぜか、その気力が無くなってしまった。
﹁とりあえず、脱ごうかしら﹂
もうこの格好をしなくてもいいような気がしてきた。とりあえず
着替えのために部屋に戻ろうとしたエイダは、階段を上がって廊下
への角を曲がろうとした。
しかしちょうど部屋の扉が一つ開いて、キアラが飛び出してきた。
彼女はまっすぐ自分の部屋に飛び込んでしまう。
一体何だろうと思ったが、今度は同じ部屋からレジナルド王子が
出てくるのを見て、エイダは目を見開いた。
1265
これは、二人で同じ部屋にいたということだろう。
ショックを受けているエイダの視線の先で、王子はキアラの部屋
の扉にそっと手を触れてうつむいた。
﹁もう少し待ったら、君は気づいてくれるのかな。それともあくま
で見ないふりをするのか⋮⋮﹂
つぶやいて、王子はエイダがいるのとは反対の方向にある通常の
階段を降りて行った。
﹁⋮⋮まさか﹂
エイダはつぶやく。
信じたくない。でも親しそうだった。自分とは話もあまりしてく
れないのに、キアラが相手だと、王子は表情が変わる。
﹁今日も、キアラの時は笑ったのに⋮⋮﹂
エイダの姿を見ても笑うどころか、驚いて逃げ出す始末だったの
だ。
しかも翌日、キアラを見たエイダは、右手中指に水色の石の指輪
をしていることに気づいた。
結婚を約束するために、指輪を身に着ける場所とは違う。
けれど石の色が、王子の瞳の色のように思えて⋮⋮。
エイダの辛さを唯一気づいてくれたはずのキアラが憎くて、その
指輪を持っていることが胸をかきむしりたくなるほど辛くて、今す
ぐ首を絞めて責めたてたくなる。
1266
なんであなたは逃げたのに、わたしが欲しかったものを手に入れ
られるの。
どうしてこんなに我慢をしているわたしが、手に入れられないの。
辛さをぶつけるように、夜になってからエイダは書き物机の上に
蝋燭の明かりを引き寄せ、紙の上に必要な事項を綴っていった。
そろそろ連絡をしなくてはならないのだ。
﹁もう、どうなったっていいじゃない⋮⋮﹂
王子の心が手に入らない。
それを認めたくなくても、目の前にその理由が積み上げられて行
くのがつらい。もう、恋し恋される幸せなど夢見られるはずもない。
ならばエイダは、他の人のものにならないようにするしかない。
それにキアラ。
彼女が逃げたせいでと思っていたし、恨んでいた。今だって彼女
さえいなければ、もしかして自分を振り向いてくれるかもしれない
と思ってしまう。
だから紙に、小さな文字でびっしりとキアラの能力についてや、
ファルジア軍の指揮系統。そしてトリスフィードへ向かう際の予想
などを書いていく。
ファルジア軍は、エイダのもたらすこの情報のせいで崩壊するの
だ。
エイダは小さく笑い声をたてた。
﹁みんな滅びてしまえばいいのよ﹂
けれど笑い声が、やがて湿ったものになっていく。
レジナルド王子を殺そうとしたら、笑って褒めてくれたフェリッ
1267
クスはエイダを恨むだろう。剣を向けられたら彼を殺さなくてはな
らない。
そしてキアラを殺したら、もう、誰もエイダの辛さに同情してく
れないだろう。
もう一度慰めてほしい。けれど憎い気持ちは消せなくて。
頬をすべる涙を拭い、唇をかみしめたエイダは、思わず書いたば
かりの手紙をにぎりつぶしそうになる。
それをこらえて、エイダは紙を小さく折りたたんだ。
1268
事故の余波は思いがけなく 1
キスなんていうものは、前世であっても自分からは遠い代物で。
同じクラスの美人な女の子が、どこそこの男子と二人で話ながら
歩いていたというだけで噂になるような年頃だった。
当時の私は、はやし立てられるの大変そうだななぁと、他人事の
ように思うぐらいの、実に平凡な中学生活を過ごしていた。
中学二年だもんね。
異性のことを意識しはじめる子は多かったけど、のんびりした土
地だったからか、あまり過激な方向に走る子はいなかったのも。私
がそういう話にリアルでは接しなかった理由の一つかもしれない、
と思う。
キスなんていうものは、マンガやアニメやドラマの中で発生する
ものだった。
そういった本やTV画面の中で、ぶつかった瞬間にキスしてしま
うシチュエーションは見たことがある。
あの時ヒロイン達はどうしていた? そのまま迫られたりしてい
たような。あ、どっちかというと一方が気を失っていたパターンの
方が多かったかもしれない。
﹁でもそれじゃ、参考にならないよ⋮⋮﹂
一晩眠っても、頭の中がぐるぐるしていた。だからもう、忘れよ
うと思う。
﹁あれは事故。事故よ事故⋮⋮。レジーだって、謝ったってことは
1269
忘れた方が、いいってことだよね?﹂
そうして彼が言った言葉を思い出す。
︱︱嫌だったら、忘れてくれてもいいから。
あの言葉、どう解釈するべきなんだろう。レジーは嫌じゃなかっ
た? それともやんわりと、自分もこんなことになるとは思わなか
ったから、私にもそういう方向で考えるようにってこと?
﹁ぐぬぬぬぬ﹂
﹁うひょひょひょひょ﹂
唸っていると、抱き上げてそのままにしていた師匠が笑い始めた。
﹁む、何ですか師匠?﹂
﹁なんかこう、表面をくすぐられておるような感覚が、ふ、ふおっ、
ぶえっくしょん!﹂
師匠が人形のくせにくしゃみをした。
それに驚いている私は、しわぶきの代わりにぶわっと風が噴き出
した。
﹁ええええっ!? 師匠、なにこれ!?﹂
前髪を逆立てるくらいには威力がある風に、私は驚愕する。
﹁わしだって知らんわい! ぶえっくしょん!﹂
ぶぉぉぉと師匠から発生した風で、私の髪が舞い上がった。
髪を押さえようとして師匠から手を離したとたん、
1270
﹁あれ?﹂
風を噴き出さなくなった師匠が、座っていた寝台の上にぽてりと
落ちる。
﹁お、止まったわい。やれやれ⋮⋮﹂
えっこいしょ、とかけ声を口にして師匠が座り直した。だけど土
偶の短い四肢では、柔らかい寝具の上だと動きにくそうで、ややよ
たついている。
﹁しかし原因がわかったわい﹂
﹁え、一体何なんです? 魔力のせい?﹂
﹁ウヒヒヒヒ﹂
本当に知りたくて尋ねたのに、師匠は笑うだけで答えない。
その時、部屋の扉がノックされた。
毎朝こうしてやってくるのはジナさんだ。私の応答する声に、小
さく扉を開けたジナさんが誘ってくれる。
﹁キアラちゃん、朝食に行きましょう﹂
﹁あ、はい!﹂
すでに着替えを終えていた私は、立ち上がったところで師匠にね
だられた。
﹁おい弟子よ。今日はわしを連れていけ﹂
﹁は? いつもは食べられないのに見たくないって⋮⋮﹂
﹁今日は食事以外にオモシロイことがありそうじゃからのぅ、イッ
ヒッヒ。ほれ、人生延長戦の爺をたまには楽しませんかい﹂
1271
師匠にお世話になってるのは確かだし、呪いの人形みたくなって
いる師匠に、できる限りのことはしてあげたいと思う。
だから不可解ながらもうなずいた。
食事時だと、最近はルナール達も一緒じゃないしね。
最近のルナール達は、ギルシュさんと一緒に食事をしに行くのだ。
どうも食事時に、騎士や兵士の中に三匹に餌を貢ぐ人間が複数人い
るんだとか。
通常量以上にいろいろもらえるので、ルナールは男の甲斐性︵?︶
なのかリーラやサーラまで引き連れて、もっと寄越せと可愛くおね
だりしてみせるらしい。
だけど魔獣でも、餌食べ過ぎたら太るんじゃないかな。
リーラ達の体重を心配しつつ、私は師匠を再び抱き上げてジナさ
んと一緒に食堂へ向かった。
いや、食堂というか正餐室? と言うべきかもしれない。
本来なら男爵一家が皆で同じ時間に着席し、朝と昼と夜ご飯を食
べる場所だ。その時には給仕の人もついて、なにくれとなく世話を
されながら食べるのだろう。
とはいえ戦時中なので、そこまで正式な食事の席にはならない。
おおよそ似た時間にそれぞれがやってきて、持ってきてもらった
食事をさっさと胃の中に入れて行って終了だ。
だから毎日のように会うわけじゃないのだけど。その日はレジー
が先に座っていた。
私は不自然にならないようにしようと思いながら、挨拶した。
﹁お、おお、おはおは⋮⋮よ﹂
1272
﹁うん、おはようキアラ﹂
だめだ、不自然になってしまった。対するレジーはいつものよう
に微笑んで普通に挨拶してくれる。
恥ずかしい。私一人だけ意識してるみたいじゃないかと思ったら、
﹁イッヒッヒッヒッヒ﹂
師匠の笑い声と共に風が巻き起こる。
﹁うぷっ、師匠、ちょっ!﹂
﹁キアラちゃんなにこれ!?﹂
慌てるジナさんに思わず師匠を放り出してしまうと、風も噴き出
し止む。
﹁師匠⋮⋮﹂
こうなるとわかっていたのだろう。私に教えてくれないまま、ま
だ楽し気に笑うい師匠をじとーっ見る。
﹁くっ、くくく﹂
あげく、レジーにまで笑われてしまった。
﹁キアラ、前髪はねちゃってるよ﹂
﹁わっ、やだっ!﹂
ジナさんに指摘された私はせかせかと前髪を触って直した。ジナ
さんにも変な姿を見られて恥ずかしい。
1273
﹁なんか、キアラちゃんが持ってると危なそうだから、師匠さんは
こっちに座ってもらおうか﹂
優しいジナさんがそう言って、師匠を自分の隣の空いた席に座ら
せる。
﹁むぅ、面白くないのぅ﹂
師匠は文句を言いながらも、大人しく着席した。でもそう言うっ
てことは、やっぱり私が持ってるからおかしなことが発生するの?
ジナさんを間に挟んだ席に座った私は、考える。
前にも、師匠が風を噴き出して飛んで行ったことがある。あの時
は師匠の頭にくっつけた、石のプロペラを回そうとして魔力を込め
たのだ。
⋮⋮ということは、私の魔力がどうしてか師匠に余分に流入して、
結果、空気が噴き出すのではないだろうか。それがどうして空気な
のかといえば、もしかしてだが、師匠の元々の属性が関係している
んじゃないだろうか。
﹁⋮⋮わかりましたよ師匠。原因が﹂
﹁ほぅ?﹂
しかし、今ここで分析結果を師匠に言うわけにはいかない。変に
意識してるってレジーにわかってしまう。
一方、師匠はカリコリと腰を掻いて笑う。
﹁わかったところで止められるんかいのぅ。弟子は修行が足りんの
じゃよ、修行がのぅ。ヒッヒッヒ﹂
﹁ぐ⋮⋮﹂
1274
そうだ。なぜ魔力がそんなに師匠に流入するのかがわからない。
師匠の飛行実験の時よりも少量みたいだけど、私は魔力を込めた覚
えはないのに。
すると黙って様子を見ていたジナさんに、食事するよう促された。
﹁とりあえず食べちゃいましょ、キアラちゃん﹂
ここでぐずぐずと師匠とやりあっていても仕方ない。私は急いで
食事を平らげることにした。
スープを飲み、サラダを平らげ、パンを半分ほど胃におさめたと
ころで私はふと気付いた。
食事と師匠のことで頭がいっぱいになったせいか、レジーのこと
を必要以上に意識しなくなっていた。
レジーの方は笑った後は特に何か言うわけでもなく、恥ずかしが
る様子すらない。⋮⋮レジーにとっては何でもないことだったのか
な。
ならば自分も気にしないようにしなくてはと、食事に専念する。
そうして食後、ジナさんが急に﹁庭に出ない?﹂と誘ってきた。
1275
事故の余波は思いがけなく 2
特に断る理由もないし、女の子同士でお話できるのは嬉しい。
なので、私はジナさんと食後のおしゃべりに興じることにした。
デルフィオン男爵の城は、防御のために高い壁で囲んだ城塞の形
式ではあるが、ずっと侵略などがなかったおかげで、中心に居住に
適した城館が建てられ、四方の庭の半分ほどが庭園になっていた。
その一画に、白い四阿がある。
数人が座ったらいっぱいになるような小さなもので、テーブルも
なく、ただ長椅子が置かれているだけだが、ちょっとおしゃべりす
るには十分だ。
しかも周囲が茨で囲まれていて、近くで誰かがこっそり盗み聞き
しようとしても、小声で話していれば内容が漏れることがなさそう
な造りだ。
隣り合って座ったところで、ジナさんが持っていてくれた師匠を
﹁はい﹂と渡される。
﹁ありがとうございます﹂
﹁⋮⋮で、レジナルド殿下と何かあったの?﹂
御礼を言ったとたんに、爆弾を落とされた。
何があったって、あったって⋮⋮とキスのことを思い出したとた
ん、ぶわっとまた師匠から風が噴き出す。そして師匠が笑い出す。
﹁イッヒッヒッヒ。かゆいかゆい﹂
1276
おじさんくさく腹をかきながら笑う土偶が、風を巻き起こすとか
シュール⋮⋮。
ぼんやりとそんなことばかり考えて現実逃避しそうになる私に、
ジナさんがずばり言った。
﹁キアラちゃん、感情の振れ幅が大きくなりすぎると、魔力がちょ
っと揺らいじゃってるのね。ルナール達もね、恋の季節になって好
きな子の取り合いをするようなケンカを始めると、無差別に雪をま
き散らし始めるのよね。その時は家の中に入れられなくて、外に一
週間ぐらい追い出すのよ﹂
﹁魔獣の恋⋮⋮﹂
﹁魔術師だから、きっと同じように感情が高まると、ちょっと魔力
も揺らぐんじゃないかと思って。あ、人間が触っても特に問題はな
いのも一緒かも。雪まき散らしているルナールを、ギルシュが﹃も
ー寒すぎー!﹄って抱えて、雪山に放り出しても何ともないらしい
から﹂
魔獣と同じにされるとは思わなかった。ていうか恋?
﹁でもそんなんじゃないんです! ただ驚いただけで!﹂
﹁何に驚いたの?﹂
ジナさんのこの誘導尋問に、言わないわけにもいかなくなって、
私はぼそりと白状した。
﹁うっかり口の端同士が⋮⋮ぶつかっちゃって⋮⋮﹂
﹁あらま﹂
ジナさんがちょっと目をきらきらさせて、口元に手を当てた。
1277
﹁やだ、キス? キスしたの? こんな話なら、ギルシュ呼んでく
れば良かったー!﹂
﹁へっ。この娘のように浮かれればいいものを、うちの弟子は浮か
れてくれんくて面白くない。ずーっと渋い顔をしてばかりでのぅ﹂
既に話を聞いていた師匠は、駄目出ししてくる。いいじゃないで
すか、どんな顔してたって。悩んでたんですよ弟子は。
﹁だって事故ですよ。キスとは認められません。ただ、直後に顔合
わせると気まずいじゃないですか。そんなことになったのも、私の
せいですし﹂
﹁んー。気まずいのかぁ。なるほどねー﹂
ジナさんがふむふむとうなずく。
﹁で、殿下はどんな反応?﹂
だけど追及を止めてくれなかった。迷った末、ここまで白状した
ら後は同じだろうと諦め、私はぽそりと告げる。
﹁⋮⋮レジーには、ごめんって謝られまして﹂
ジナさんが、なぜか﹁あちゃー﹂と言いたげな表情になって、口
元を隠していた右手で額を抑えている。
﹁どうしてそうなったの⋮⋮﹂
﹁まったく甲斐性のない王子じゃ。わしなら間違いなくご馳走にあ
りつくじゃろうに﹂
1278
﹁師匠さんは肉食ですもんねー。だけど、わたしも表面以外は肉食
な人だと思ってたんだけどな。っていうかご馳走側がそれわかって
ないから? 無理に押しても逃げられちゃったら元も子も無いとい
うか﹂
﹁何の話ですかね?﹂
二人が言いたいことは、なんとなくわかる気がする。だけどわか
りたくない。
レジーに﹁肉食のくせになんで齧らないんだ﹂って言ってるんで
しょ? でも、レジーにとって私が被保護者でしかなかったら、と
いうのを想定していないのでは。
だってレジーにも好みってものがあると思う。親子みたいに保護
する関係ならまだしも、レジーだって本当に女性として意識する相
手だったら、もしそうだったら⋮⋮。
だんだんうつむきがちになりながらも、話をストップさせようと
したのだけど、逆にジナさんに問いかけられてしまった。
﹁何の話って、普通は謝られたくないわよねってこと﹂
﹁謝るなど甲斐性がないという話じゃの﹂
﹁え?﹂
謝られたくなかった?
そんなことを言われるとは思わなかったので、びっくりしてしま
う。
﹁だって、それ以外に何を言うんですか?﹂
むしろそういう時、男の子って何て言うの!? わからなくて混
乱する私に、ジナさんが小さく笑う。 1279
﹁殿下が一方的にキスしてきたわけじゃないんでしょう? なのに
謝られたら、拒否されたような気分になるじゃない?﹂
﹁拒否⋮⋮﹂
されたように感じたから、私はあの時もやもやした?
﹁だからキアラちゃんが、本当は何て言ってほしかったのか、じっ
くり考えてみて欲しいな。何を想像したっていいのよ? そうして
出てきた答えを、怖がらなくていいの。私は相手がいじわるな人だ
ったから、嘘だと思って、信じないでいたら⋮⋮取り返しがつかな
くなっちゃった。だから間違っちゃだめよ。自分の気持ちくらいは﹂
ジナさんは師匠を抱えていない左手で、私の頭を撫でた。
﹁さーて。考える度に、頭がぼさぼさになったら可哀想だから、師
匠さんは預かっておくわね﹂
ジナさんは、私が持っていた師匠をさっと取り上げた。
﹁さー師匠さん、動物とふれあいの時間を持ちましょう﹂
﹁おいっ、どうしてそうなる!?﹂
﹁そろそろ慣れてくれたっていいじゃないですか。うちの子達も、
師匠さんの腕とかちょっと舐めたり、嗅いだりするぐらいで別に壊
したりしませんから。
﹁わしゃ、犬っころどもに舐められるのは嫌じゃあああっ﹂
﹁犬じゃないですよー﹂
1280
師匠の叫びとジナさんの応答が遠ざかる中、私は困惑していた。
﹁自分の気持ち⋮⋮﹂
たぶんジナさんは、恋愛感情のことを言いたかったんだと思う。
でも、恋愛だとは思いたくない。そのことを考えた時、私が真っ
先に思い出してしまうのはエイダさんだ。
もしエイダさんみたいにレジーに執着した時に⋮⋮カッシアの時
やエヴラールで殺されかけた時みたいに、私のお願いを断ち切られ
たら。
怖くなった私は、取りすがって謝ることで頭がいっぱいになるん
じゃないだろうか。エイダさんが自分を好きになって欲しいと、断
られても逃げられても何度も会いに行ったように。
保護者だと思っている今でさえ、見離されたように感じるだけで、
泣きそうになってジナさんやギルシュさんに迷惑をかけたのに。
自分がどうなるかわからないのは嫌だ。
しかもそんな風に追いすがられたら、レジーは嫌がるんじゃない
だろうか。
嫌がられるくらいなら、気持ちに蓋をする方がずっと楽で、レジ
ー達と今まで通り仲良くいられるんじゃないかと思ってしまう。
だから、結局は。
﹁嫌われたくない⋮⋮﹂
それに尽きる。
できればどう言ってほしかったのかなんて、考えたくない。
だからレジーが本当はあんまり嬉しくなかったのなら、事故のこ
とだって忘れてくれていいし、忘れてほしいならそうする。あっさ
1281
りとエイダさんを切り捨てたみたいに、しないでほしいだけで。
そんな風に気持ちが定まると、なんだか少し眠くなってきた。
﹁昨日、あんまり眠ってなかったからかな﹂
たぶん、四阿に高くなった陽が差し込んできて暖かかったせいも
あるんだと思う。
四阿の背もたれに寄りかかって、うとうとと目を閉じる。
椅子の上に置いていた手を少しだけ動かした時、四阿にまで葉を
伸ばそうとしていた勢いのいい茨があったんだろう、指先に小さな
痛みを感じた。
1282
事故の余波は思いがけなく 3︵前書き︶
今回ちょっと閑話風で、話主はキアラのままです。
1283
事故の余波は思いがけなく 3
※※※
はっと目を開くと、まばらな木立と離れた場所に小さな池が見え
た。
﹁あ⋮⋮森の中、なの?﹂
何か建物の中にいたような気がしたのに⋮⋮あれは、夢?
でも記憶を探ってみれば、確かに自分が来たのはファルジア王宮
の西に広がる森だ。王宮を囲む壁の中にあるので、動物も人も、王
宮に出入りできる人間でなければ入って来られない場所。
そこでうとうとしている間に、本当に寝入ってしまったのだろう。
珍しく、幸せな悩みを抱えていた夢を見ていた。
はっきりと思い出せないけれど、ここじゃない場所で色んな人と
笑いあったりしていた。
現実の私には、そんな風に話せる人もいないのに。
似たような状況があったのは、教会学校に入れられいてた時だけ。
上手く人と話せなくてまごついていた私だったけど、面倒見のいい
同級生がいたおかげで、少数の人とだけど打ち解けることもできて
⋮⋮。
﹁でもみんな、もう話すこともないんだろうな﹂
つぶやいて立ち上がろうとしたけど、変な場所に座り込んで眠っ
てしまったせいで、足腰や背中が痛い。まるでおばあさんみたいだ
1284
と思いながら、私は体を伸ばして痛みが消えるのを待った。
戻るのはゆっくりでいい。
だって子爵が来ると聞いて、思わず逃げてしまったのだから。
王妃の居室がある周辺にいたら、見つけ出されて何をされるかわ
からない。だからえ自分の居場所がわかっても、遠すぎて探しに来
られない森の中へやってきたのだ。
苛立ちを解消するために食物に手をつけてしまう質がある子爵は、
胴回りも自分の四倍はある。そのため運動を嫌うので、乗馬するか
徒歩でえんえん歩かなければならない場所までは近づいて来ない。
そんな場所だからこそ、つい安心して眠ってしまったのだろう。
地面に敷布を置いて木に寄りかかった体勢だったのに。
時間があると思うと、ぼんやりと空を見上げてしまう。
﹁飛べたら良かったのに⋮⋮﹂
そうしたら、一息に子爵の影響が及ばない遠い土地へ逃げてしま
うのに。
王妃もこうして勝手に抜けだしたりすることを容認してくれたり
するけれど、結局はあの人も私を利用したいから、逃がしてはくれ
ない。門周辺を守る兵士達は、王妃の息がかかっているものが多い
と、古参の女官から脅されていた。
だいたい、逃げたところでどうやって生きていけばいいのか。
外の世界のことなどほとんどわからない。
お金を使うことは知っているけれど、それを手にしたことがある
のは、行儀見習いに入れられた教会学校の中だけだ。
魔術師としての力があれば、生きてはいけるだろう。けれど魔術
1285
師を雇うのは貴族ぐらいだ。普通の人ではお金がかかりすぎて雇え
ないだろう。
そして貴族に雇われてしまったら、最初は隠せていてもすぐに身
元が発覚してしまう。
︱︱クレディアス子爵の妻だ、と。
前妻に似た雰囲気があるからと、子爵は自分のことを気に入って
いる。だから一時は頻繁に宴などに同伴させられたのだ。おかげで
王都で暮らす貴族や、主要な大貴族達もキアラのことを覚えてしま
っただろう。
それでいて、クレディアス子爵は私のことを大事にするわけでは
ない。
むしろ裏切られたという前妻への恨みも重なっているのか、悲鳴
を上げ、泣き叫んで嫌がる姿を見たがる。
少し似ているという私が嫌がるから、楽しいのだと笑って。
子爵の館で過ごさなければならなかった数か月は、闇の中に閉じ
込められたように辛かったものだ。しかも魔術師にされて、王妃の
ために働かなければならないのだ。
せめて、王宮にいる間くらいは子爵に触れられずに過ごしたいと
願っても、いいと思うのだ。
でも、離れるほど嫌悪感が増すばかりで、姿を見かけただけで吐
き気がする。
思い出せばうなされて。でも自害は許されなくて、王妃の女官に
何度も止められているうちに、いつしかそれも諦めてしまった。
そこでふっと思った。
1286
今ならできるのではないだろうか、と。
最近の自分は自殺未遂なんてものはしないし、子爵からは逃げ回
ってもきちんと部屋に戻っていた。そのおかげなのか、一時は見張
りがついていたようだけれど、最近は諦めたと安心されているのか
もしれない。
今だって誰もついてこなかった。これは好機だ。
私は立ち上がって、せかせかと池に近づいた。
子爵の館で一度失敗しているけど、池がそれなりに深ければ溺れ
ることができるのはわかっている。ドレスが水を吸って重たくなる
から、浮かび上がれなくなるのだ。
近づいて見れば、予想した以上に深い。小さな川が流れ込んでい
る場所なので、水もそこそこ澄んでいる。底は大きな岩が転がった
その先なので、深さも期待できそうだ。
思いきりいこう。
私はえいっと池に飛び込んだ。
冷たくて悲鳴を上げそうになったけど我慢すると、すぐに衣服が
重くなって底へ底へと沈んでいくのがわかる。試しに足をばたつか
せてみたが、大丈夫、きっちり浮かばない。
それより息が苦しい。
早く息が止まってくれたら楽になるのにと思った瞬間、誰かに腕
を掴まれた。
引っ張り上げられて、空気がある池の上に顔が出る。
思わずむせてしまってせき込んだら、背中を撫でられた。親切な
んだろうけど、苦々しい気持ちになる。
しかも呆れたような口調で言われた。
﹁なぜ池に飛び込んだんだい? しかも随分嬉しそうに﹂
1287
私としては、嬉しそうだと思ったなら止めないでいてほしかった。
おかげでずぶ濡れになっただけで、目的も達成できていない。
﹁そうです。嬉しかったんですよ。だから止めないで欲しかったん
ですけ⋮⋮﹂
抗議しようと振り返った私は、自分を迷惑にも助けようとした人
の顔を見て驚いた。
そう年が変わらない、でもやたらと綺麗な顔の青年だが⋮⋮どこ
かで見たことがある。だけど目立つ銀の髪に、王族の血を引く人だ
というのはすぐわかった。
王族とその親族でなければ、その色を持たないからだ。
年のことを考えれば、彼が誰なのかわかる。
ただ、はっきりと顔を覚えていないのでそう断定していいのか迷
った。自分が知らないだけで、王と王姉と王子以外にも貴族で銀の
髪を引き継いだ人がいるかもしれない。
そもそも、王宮に来てからも何度か見る機会があったのに、子爵
から逃げることや王妃への恐怖で心がいっぱいだった私は、王子や
国王の顔を覚えようともしなかったから。
⋮⋮どんな権力者だって、魔術師になったせいで縛られる私を救
えるわけがないのだから。
﹁レジナルド殿下、ですか?﹂
だから尋ねたのだけど、その青年は私の返事を面白がってしまっ
たようだ。
﹁私を知らない人がいるんだ、珍しいね。君の言う通り、私はレジ
1288
ナルドだよ﹂
穏やかな声で言った彼は、小さく口元に笑みを浮かべた。
⋮⋮どこかから声が聞こえる。
︱︱私の記憶が流れてしまったのね。忘れて、忘れて、と。
それより、ずぶ濡れのまま立っているところに風が吹いてきたの
でひどく寒い。だからこの寒さをなんとかしてほしいと思った私は
身震いして⋮⋮
※※※
1289
事故の余波は思いがけなく 4
﹁へくしっ﹂
﹁ほら、こんなところで眠っていたら、風邪を引きますよ﹂
﹁だって池に落ち⋮⋮、あれ?﹂
肩をゆすられて目を開けると、目の前には四阿の内装と、すぐそ
ばで膝をついて私を見上げているカインさんの姿があった。
⋮⋮なんだか頭の中が混乱してる。
目の前にいたのはレジーだったような。なんか違う場所にいた気
がするんだけど。
頬をつねったら、思い出してきた。もし﹃転生したことを知らな
い私が、学校からも逃げださなかったら﹄の場合を夢に見ていたみ
たいだ。
レジーが出てきたのは、舞台が王宮だったからだろう。
思えばゲームのキアラだって、レジーに会う機会はあったんだよ
なと思っていると、カインさんにいぶかしがられた。
﹁まだ寝ぼけてるんですか?﹂
﹁今起きま⋮⋮へくしっ!﹂
もう一度くしゃみをしてしまった。肩が寒い気がしたので、うっ
かり寝入って冷えたのか。でも秋とはいえまだ暖かいんだけどなぁ。
﹁ああ、変なところで子供みたいですよね、キアラさんは﹂
1290
カインさんが自分のマントを肩にかけてくれた。
﹁風邪ですか? こんなところで考え事をするからですよ﹂
﹁はぁ、まぁ。確かに考え事をしてました⋮⋮﹂
話すようなことではないので語尾を濁したんだけど。
﹁その指輪のことですか?﹂
カインさんはマントを胸の前でかき合わせた私の手を見ていた。
そこではっとする。
﹁誰かからもらったんですね。殿下ですか?﹂
﹁自分で買い⋮⋮﹂
﹁昨日のキアラさんに、そんな暇はなかったと思いますが﹂
カインさんの指摘に、黙るしかない。その通りでございます。カ
インさんがずっと傍にいたんだから、知ってて当然だ。
﹁あの、万が一にも一人で逃亡とか、そう言う時の資金にでもした
らいいって勧めで。ほら、お祭りの贈り物でそういうお守り的なも
のがあるんですって﹂
﹁あのお祭で、そんなお守りの意味になぞらえた贈り物なんてあり
ませんよ﹂
﹁え⋮⋮ない?﹂
私、レジーに騙された?
でも、なんでそんなことをしたのかなんて⋮⋮いや、考えちゃい
けない。なのにカインさんが追い詰めようとしてくる。
1291
﹁そもそも、家族でもない男から贈る装飾品なんてものは、全て情
が込められていると思った方がいいでしょう﹂
﹁う⋮⋮﹂
これが他の人だったらね、私ももらえないと言ってすぐ外したん
だと思う。
でも相手が王子様で、きっと自分とは金銭感覚なんかも違う人だ
し。なにより保護者役だから⋮⋮本当に万が一のためにくれた可能
性があると思ってたんだけど。
﹁私も贈るべきだったのかもしれませんね。貴方の心に負担になる
かもしれない、と思ったのでやめたのですが﹂
﹁え、なんでそんな。贈るなんてもったいな⋮⋮﹂
この流れはちょっとまずそうだ、とは思ったのだ。
けれど気づいた時には、カインさんが私の右手に触れていた。
﹁兄代わりのつもりで、と以前言いましたよね? それならなおさ
ら、他の男からの贈り物について気にするのも当然だと思いません
か? そして兄ならば何を贈ってもいいはずです。そうでしょう?﹂
ともすると真剣に言っているように見える無表情で、この世界で
のルールを語ったカインさんは、柔らかく私の手を自分の手で握り
込む。
剣を握るカインさんの手のひらは皮膚が固くなっていて、自分と
は全く違う存在だということを思い知らされるような気がした。
﹁でも、本当にそこまでしてもらうわけにはいかないですよ。だっ
て本当の⋮⋮﹂
1292
断りの言葉は、カインさんに機先を制された。
﹁本当の兄ではない、なんて言ってはいけませんよ。私を試したい
のなら、いいのですけどね﹂
﹁えっ、あ⋮⋮﹂
そんなことをしたらどうなるか、を示すようにカインさんが握り
込んだ私の手の指先に口づける。
小さなリップ音と、指先をくすぐるような感覚に悲鳴を上げそう
になった。
ちょっと待って。まさかこうなると思って手を握っていたんじゃ
ないよね?
慌てる間に、今度は手首にもカインさんの唇が触れる。
その瞬間を目にしていたせいで過敏になっていたのか、とてもく
すぐったい。それ以上に目にしているのが恥ずかしい光景で、思わ
ず視線をそらした。
同時に思い出したのは、レジーが同じように指先に口づけた時の
ことだ。私に無茶をしないと言わせたかったレジーの、脅し。
だったらカインさんのこれも、彼が自分を押し留めてほしいから、
兄であることを拒否しないよう脅してるの?
つい考え込んでしまた私に、カインさんは小さく笑った。
﹁嫌とは、言わないんですね﹂
返事ができなかった。⋮⋮嫌悪感はなかったから。
ただ怖い。カインさんは私よりもずっと大人だからこそ、気づい
たら遠くまで押し流されていそうで。そしてレジーみたいに、私の
1293
ことを待ってはくれない気がする。
﹁嫌ではないです。けど、どうしてこんなことするんですか﹂
﹁他の人に心奪われてしまったら⋮⋮キアラさんは私のことなど、
置いて行ってしまいそうで﹂
寂しいのだろうか。
取り残されるのが嫌だと言いながらも、カインさんは私の手を離
してくれる。
気持ちが落ち着いたんだろうか。だから隣に座った彼に言った。
﹁こんなことしなくても、置いて行ったりはしません。ただでさえ、
私の我がままに付き合ってくれているんですから。むしろ一緒にい
て下さらないと困るので、離れてほしくないと思ってます﹂
するとカインさんはため息をついた。
﹁もっと直接的に言った方が良さそうですね﹂
やや気が抜けたような言い方とは裏腹に、カインさんはやや乱暴
に私の腕を掴んで引き寄せた。
息をのむ間に、きつく抱きしめられる。
カインさんの腕の力が強すぎて、痛いくらいだ。いつもは安心さ
せてくれた体格差が、覆われ尽くして食べられてしまうような怖さ
に変わって、身震いしそうだった。
﹁恩など感じなくていいんです。全て、貴方が好きだからしている
だけです﹂
ささやかれた言葉に息が詰まるような気持ちになった。
1294
好き。
てことは私、告白⋮⋮されたの?
ジナさん達に以前話したように、カインさんの気持ちは薄々気づ
いていた。好意を持ってくれている、と。
でも、こんな風に告白してくるとは思わなかった。
復讐したい気持ちを果たすために、魔術師の私を自分に縛りつけ
たい気持ちの方が強いから、色仕掛けみたいなことをしてくるのだ
と思っていた。
だから、本気で好きになったわけじゃないだろうと判断してたの
に。
﹁告白されても、まだ信じられませんか? 貴方はどうも、恋愛事
を正面から受け止めたくないのだとは思っていましたが﹂
それでもかまいませんよ、とカインさんが言う。
﹁受け入れにくいのなら、命じて下さい。私が貴方から離れられな
いように。私の側にいてくれるという約束が欲しいんです。もう少
しの間、貴方が妹のままでいてくれるというのなら⋮⋮﹂
カインさんの言葉に、赤くなるよりも私は青ざめた。
どこか心の底で、カインさんは失った家族に私をなぞらえている、
と感じたから。
最初は別に考えてくれていたのではないだろうか。きっとアラン
みたいに、手がかかる子供が増えたぐらいに思っていたはずだ。
だけど私が恋愛ごとに慣れなくて遠ざけようとして兄代わりなど
と言ってしまったから、弟を失ったカインさんに家族への気持ちを
思い出させてしまったんだろう。
1295
今までその気持ちを抑えつけたり、こうして取り残されるのを怖
がっているのは、カインさんだって、ずっとそこから解放されたか
ったからだ。
その気持ちが絡んだカインさんの感情が、本当に恋なのかなんて
私にはよくわからない。
だけど守り支えてくれるこの人が、こんなにも苦しんでいるのだ。
本当は、好きだという気持ちに応じられたら、カインさんも安心
するのかもしれない。
けれど私に、告白に答える勇気なんてない。
恋愛感情を、わかりたくないなんて思っているのに。
だけど⋮⋮せめてこの戦いに勝利して、穏やかな生活を送れるよ
うになるまでは、と私は思う。
﹁大丈夫です。一緒に戦うって決めたじゃないですか﹂
戦い続けている間、敵を倒すことで安心しながらも、もう戻らな
い人達のことを考えてしまうだろうカインさんを、置き去りにはし
ない。
そう答えたけれど、彼は納得できなかったようだ。
﹁命令じゃなければだめですよ、キアラさん。不安になって、私は
何をするかわかりませんよ﹂
駄々をこねながら、カインさんが抱きしめる私の頭の上に触れる
⋮⋮。腕は背中に回されてるんだから、これって⋮⋮。
カインさんしたことに気づいた私は、暴れ出したくなる。
なんて脅迫するんですかあああ! ああもうっ、仕方ない!
﹁わ、わかりました! よほどの怪我でもしない限り、絶対私の側
1296
にいて守り続けて下さい。離れちゃだめです!﹂
そこまで言うと、ようやくカインさんは私から離れてくれた。
小さく笑みを浮かべるカインさんの表情は、それでもどこか精彩
を欠いているように見えて⋮⋮私は少し不安になる。
せめて同じ道を走っている間に、カインさんに救いが訪れますよ
うに。
そう願いながら、私はふと白昼夢のことを思い出した。
すでに記憶が薄れ始めてるけど、辛さでいっぱいの気持ちはハッ
キリと残っている。
結婚させられて、魔術師になったということはクレディアス子爵
という師の力のせいで逃げることも難しくて、流されていくしかな
くなった私。
何度も死のうとしてできなくて⋮⋮でもチャンスを見つけたと思
ったとたん、喜んで池に飛び込んだあたりは、私らしいなと思う。
どうしてあんな夢を見たんだろう。
今こうして戦うのがつらくても、守られた場所にいられるのに、
あまりにリアル過ぎて、こちらが夢だったなんて言われたら⋮⋮怖
いなと思った。
1297
トリスフィードへ向かうために
◇◇◇
気づけば、レジーがずっと窓の外を見ていた。
何を見つけたのかと、気になって側に寄ったアランは⋮⋮そのこ
とを後悔した。
二階の窓からなので、全てが見えるわけではない。
四阿の屋根も三分の一ほど彼らの姿を隠していた。
ただ、一組の男女がそこにいること。かなり接近して座っている
のが見えた。
﹁え⋮⋮う⋮⋮﹂
実に気まずい。
その二人が、知り合いどころか友人と呼べる間柄だったり、兄代
わりにしてきた相手だったりするのもあったが⋮⋮なにより隣に、
レジーがいるのだ。
ウェントワースが彼女を離した後、ややしばらく二人で話した後
で四阿を出て行く。キアラが先頭を歩き、ウェントワースがその後
に従う姿は、いつも通りの二人の様子に見えた。
その間中、アランはちらちらとレジーの様子を伺っていた。
レジーがキアラのことをことのほか気に入っていることは、近し
い者の間では衆知のことだ。
やみくもにそんな真似をするわけがないレジーのことだから、後
ろ盾がないキアラを保護するためと、よけいな虫がつかないように
1298
するためだとはわかっている。
ただ、もう今となっては普通にキアラが好きなんだろうと思うの
に。
レジーは二人の様子をじっと見つめた後は、特に何も言わずに窓
から離れた。
﹁おい⋮⋮﹂
思わず声をかけてしまったアランは、けれどそれ以上何を言った
らいいのかわからなかった。けれどレジーの方が振り返ってくれる。
﹁心配しなくても大丈夫だよ、アラン。今までもこれからもキアラ
はファルジア軍の魔術師なんだからね﹂
例えキアラが誰を好きになろうと、自分が保護することに変わり
はない。そういうことを言っているのだと思うが、アランはなにか
非常にもどかしいものを感じた。
﹁でも、お前はそれでいいのか?﹂
思わず尋ねてしまったら、レジーがふと困ったような表情になる。
それから困ったように笑った。
﹁なんて顔してるんだよアラン。そんな風に、深刻になるようなこ
とじゃないだろう?﹂
さらりと言ってみせたレジーは、本当になんでもないような顔を
していたけれど。
﹁だけど嫌なんだろう?﹂
1299
言った瞬間、レジーがふっと表情を消す。けれど口だけは彼の感
情とは裏腹な言葉を吐き出した。
﹁キアラが選択したのなら、私はそれでいいんだ﹂
◇◇◇
祭りが終わった数日後。
デルフィオンからの資金供与なども順調に進み、兵も再編されて
いく中、トリスフィードから偵察部隊が帰ってきた。
彼らの報告によると、サレハルドはトリスフィード伯爵の城で支
配体制を固め始めているようだ。
サレハルドは北国だから、少しでも南の土地がほしいらしく。以
前からトリスフィードやエヴラールの北辺の領地などを狙っていた
りもした。
だからルアインとの取り引きでも、トリスフィードを望んだのか
もしれないとレジー達は言っていた。
一緒にトリスフィードまで退いたルアイン軍の方は、船でデルフ
ィオンの西にあるキルレア伯爵領とひっきりなしにやりとりしてい
る、という。
トリスフィードとキルレア二方向から、デルフィオンへ同時に攻
め込む計画を立てているらしい。
ただし、王都でも多少の混乱が起きているようで、すぐにルアイ
ンの軍をデルフィオンへ召集することができていないようだ。
その理由が意外だった。
﹁王妃が戴冠? ルアイン国王が併合するのではなく?﹂
1300
アズール侯爵の問いかけに、偵察部隊を指揮していた騎士がうな
ずいた。
偵察部隊が戻ってきての会議に、レジー以下将軍格の人々とプラ
ス私と補助のカインさんに、グロウルさんが出席していた。
一番末席で立って報告していた騎士は、報告を続ける。
﹁左様でございます。どうやら王妃が国主となって、従うファルジ
ア貴族にはそのまま領地を据え置きにすることを約束し、ルアイン
軍が討伐した領地についてはルアイン貴族に与えるようです﹂
﹁貴族達を懐柔するつもり⋮⋮かな﹂
﹁しかし王妃が国主になるというのを、ルアイン国王が受け入れる
か? 今までルアインは、どんな国であっても併合して自国に組み
込んで来たんだ﹂
レジーもアランも、推測を口にしてはやや困惑した表情になって
いる。
﹁⋮⋮ルアイン国王と王妃の意見に相違が生じた、ということでご
ざろうか﹂
﹁元から別々に統治する予定だった可能性もあります﹂
エニステル伯爵の意見に、ジェロームさんが発言する。
私は眉間にしわが寄りそうになっていた。
先ほどまではレジーと顔を合わせにくくて、下ばかり向いていた。
会わなければもう全然平気な気がしたのだけど、姿を見ると、ど
うしても挙動不審になってしまうので、冷静さを保ちたくて顔を見
1301
ないようにしていたのだ。
だけどそんな気持ちも、王妃の行動の不可解さに吹き飛ぶ。
最初から王妃がファルジアを治める予定だったのなら、もっと何
か別な方法を使うのではないだろうかと思ったからだ。
例えば現王の暗殺。
多数のファルジア貴族を懐柔していたのだから、ルアイン軍が侵
攻してくる前に国王を暗殺して、レジーがエヴラールへ来た隙にで
も戴冠を強行することもできただろう。
そもそもルアイン軍に国土を蹂躙させる必要があったのかどうか。
何か理由をつけてルアインの貴族を兵とともに呼び寄せて、城だ
け占拠するという手もあったはず。
レジー達もそう思うからこそ、困惑しているのだろう。
﹁そのためキルレアに兵が集まらないようで、ルアインの兵はデル
フィオンへの攻撃がこのまま延びれば、トリスフィードで冬を越す
ことになるかもしれないと、笑い話に興じておりました﹂
騎士の報告が終わると、ややあってエニステル伯爵がつぶやいた。
﹁やるなら今⋮⋮でござろうな。気が緩んでいるこの時、援軍がす
ぐにやって来られないこの機を逃すのは、いかにも惜しい﹂
無言のまま、私を除いた一堂に会した者たちがうなずく。
﹁件のトリスフィード出身の女性からの情報はいかがでしたか﹂
アズール侯爵の質問に、レジーが答える。
1302
﹁多少は情報を聞きかじったようだけれど、そう多く知っているよ
うではなかったみたいだ﹂
﹁左様でございましたか⋮⋮﹂
アズール侯爵はエイダさんの情報を頼りにしていたのか、残念そ
うだった。
﹁後はトリスフィードの彼女の家が治めていた辺りまでの、道案内
くらいしかしてもらえなさそうだし、デルフィオンに一時預けてい
く方が彼女のためにもなると思うのだけど﹂
﹁お預かりすることに問題はありません。また、デルフィオン領北
辺の、トリスフィードへ行き来していた者をこちらで道案内に雇い
ますので、そのあたりについても問題ないでしょう﹂
レジーの案に、新たにデルフィオン男爵となったアーネストさん
がうなずく。
﹁それにデルフィオンとしても、このまま殿下の軍が離れてしまっ
ては、サレハルドに攻め入られて元の木阿弥になる可能性もありま
す。できれば北のトリスフィードを平定していただければと思って
おります。そのためにも兵を多数拠出したいのですが、キルレアの
こともありますので⋮⋮﹂
キルレア伯爵領のことがある。
そちらへの防御を固めなければ、兵数が揃わなくとも落とせると
ばかりに、ルアインが攻め込んできてしまうだろう。
﹁そちらの防衛に関しては、私も理解しているよデルフィオン男爵。
それよりも双方に振り分けできる実数が知りたいな﹂
1303
﹁はっ。キルレア側には私が二千を率いまして、境を封鎖する予定
です。トリスフィードへはエメラインを将としまして、三千を﹂
﹁防衛側が手薄だな﹂
アランが腕を組んだ。
﹁追って、協力領地からの増援も来る予定だ。そちらが到着するま
でに二週間ほどかかるが、増援の五千をそちらに向かわせた方がい
いんじゃないか?﹂
アランの提案にレジーがうなずく。
﹁では準備を整えるために三日。その後出発し、最初はトリスフィ
ード南端の砦ゼランを目指す﹂
これで方針が決定した。
準備が三日ということで、各自が自軍に連絡を行うためにデルフ
ィオン城の小広間を出ていく。
私も遅れながら小広間を出つつ、悩む。
トリスフィードはゲームで、ルアインに抵抗を続けていた領地だ。
王都への道筋から少々外れたところにあるので、ルアイン軍もデ
ルフィオンを占拠できれば進軍に問題がなかったからだろう。
そのためトリスフィードでの戦いに関しては、完全にゲーム外の
出来事だ。
ということは私にも戦闘に関する知識がないわけで⋮⋮向かう前
から、なんだか怖い感じがする。
1304
それに相手はルアインだけではない。サレハルド軍とも戦わなけ
ればならないのだ。
またイサークとも会うのだろう。
﹁殺さずに済む方法なんて⋮⋮﹂
どんなに考えても思いつけない。
それなら、知り合いを殺す覚悟をしなければならない。
﹁あの人は敵。あの人は敵⋮⋮﹂
私は心の中で何度もそう唱えながら、唇をかみしめた。
1305
トリスフィード領境の小さな事件
旅慣れ始めていた軍は、すぐに準備を整えた。
遅れているのは糧食の類だけれど、デルフィオン男爵領内を進む
間に、早馬や鳥で先々の街に知らせることで追加していく形で解決
した。
﹁これで相手を倒せていたらね、食料もごっそりもらえるから楽な
んだけど﹂
と微妙に恐ろしく、そして切実なことを言ったのはレジーだ。
安全圏内の旅の間は馬車を使えと言われた私は、戦意高揚のため
走り回る必要がないので休んで下さいと言われたレジーと共に同乗
していた。
一緒に侍従のコリン君も乗っていて、時にお菓子を差し出し、時
にお茶を出してくれるので、トリスフィードに到着するまでに太り
そうな予感がする。
でもコリン君がいてくれるおかげで、私もある程度緊張せずにい
られた。
さすがに翌日ほど不審な行動もしなくなったし、カインさんの発
言のせいで、気持ちが変な方向に落ち着いたせいか、師匠を持って
も扇風機のように風を巻き起こすこともなくなった。
けれど、やっぱり気恥ずかしさが残っていた。
しかもあの指輪は結局したままだ。
時々レジーが私の指を見ているのを感じると、なんだか身の置き
所がない気分になってしまうので、心の中で﹃気のせい、気のせい﹄
1306
と唱えて落ちつくというのを繰り返していた。
それはともかく、戦の話だ。
﹁君はいつも通り独自に動くんだろうけれど、あまり前に出過ぎな
いように気をつけて。またあの子爵が出てくるだろうから﹂
クレディアス子爵の話だ、とキアラにもすぐわかる。
﹁クレディアス子爵は、ルアイン軍と共に動いていると確認がとれ
ている。本当は戦場に出て来ないように暗殺を計画していたんだけ
どね﹂
﹁あん⋮⋮さつ?﹂
問い返すと、なんでもないことのようにレジーはうなずいた。
﹁そう。デルフィオン城にいる間にと思ったのだけど、一足遅くて
ね。君を安心させてあげたかったんだけど⋮⋮﹂
そんなことまで考えてくれていたんだと、申し訳なくなったとた
んのことだった。
﹃︱︱︱︱︱︱︱︱︱﹄
⋮⋮あれ?
なんだか、前にも同じようなことを言われたような?
でも、レジーがクレディアス子爵を暗殺しようとしただなんて、
今日初めて聞いたはずなのに。別な人と、そんな話をした覚えもな
い。
私は既視感に首をひねった。
1307
なんだか最近、そういうことが多い気がする。ゲームでキアラが
登場し出す場所まで来たせいだろうか。
でも、ゲームの中でキアラのために誰かがクレディアス子爵を暗
殺する、なんて言い出すシーンはない。
むしろキアラの存在は敵魔術師という以上には、王妃の女官とい
う説明ぐらいしかない、背景の薄い存在だ。
私は名前とパトリシエール伯爵の手紙に﹃女官になるには結婚が
必須﹄という言葉から、クレディアス子爵と結婚していたことを知
っただけなので、もちろんゲームのアラン達がそんなことを話すわ
けがない。
レジーは知っていたかもしれないけれど、彼はゲームでは開始前
から死んでるわけだし。
何かの錯覚かな。
そんな風に思いながら、私は次の休憩地まで静かな時間を過ごし
たのだった。
それからファルジア軍は、デルフィオンの北へ向かうのに二日を
かけた。
トリスフィードとの領境から馬で、半日ほどかかる場所で一度野
営することになる。
ここで斥候を放って領境周辺を探らせ、安全を確認してからトリ
スフィードへ侵入する予定だ。
また、ここで足を止めることで、デルフィオン領の各地から呼び
寄せられた兵と合流することになっていた。
デルフィオンから集めた兵は、男性のように騎士服を着た凛々し
い姿のエメラインさんがチェックをして捌いて行く。
1308
といっても、どこの部署に何人かを配置するというよりエメライ
ンさんの旗下に入る人数が増えて行く形なので、他の領地から来て
いる兵達はいつも通りに過ごしていた。
そんな中、少し浮いていたのがアズール侯爵の軍だ。
朝と夕の祈りを欠かさない彼らは、元々ちょっと他と行動を別に
していた。
突然歌い出すくせがあるせいもあるんだと思う。
けれど今回は、さらに排他的な雰囲気がするのは気のせいだろう
か⋮⋮。
特にアズール侯爵周辺の人間が、荷物を積んだ馬車を囲むように
固まっている。
ただ、以前よりもお祈りで歌い出すことが増えたので、アズール
侯爵領では独特な方向に宗教が進化していて、今の時期はそういう
ことをする回数が増えるのかもしれないと思えた。
そして翌日、斥候が戻ってきて報告した。
﹁領境に、ルアインの一隊を見つけました!﹂
⋮⋮この遭遇戦はあっさりと終わった。
なにせルアイン兵の数は二百人ほどだ。掃討を命じられたエニス
テル伯爵も、千の兵だけで敵を蹴散らしたという。
レジーはできれば殲滅しておきたかったようだが、二百も人がい
れば、数人は取り逃がしても当然なので、そこは諦めたようだ。
そして捕まえられたルアイン兵も、全ての者が領境の巡回を行っ
ていたと証言したので、すぐ近くに大きな軍が控えているわけでは
ないようだった。
1309
私はまだサレハルド軍とぶつかることがないようなので、ほっと
する。
けれどこれでトリスフィード伯爵領へいよいよ踏みこむことにな
った。
移動を開始した翌日、トリスフィード領に入ってから私は念のた
め、と思って魔術師の気配を探した。
時々こうして探しておけば、クレディアス子爵が伏兵の部隊に混
じっていたとしてもわかるだろう。
⋮⋮とても体育会系の兵士の皆さんについていけそうにないあの
体格で、伏兵部隊に混ざるのは無理そうな気がするけど。
何かの作戦で、根性でそんなことをしているかもしれないし。
トリスフィード領内では万が一の場合には逃げられるようにと、
カインさんの馬に乗せてもらっていたので、私は安心して気配を探
ろうとし⋮⋮。
﹁⋮⋮え?﹂
なんで後方から感じるの?
思わずカインさんを避けるようにして伸びあがり、背後を見てし
まう。
﹁どうかしましたか?﹂
﹁あの、なんか魔術師の気配らしきものを探してみようとしたら、
後ろから感じて⋮⋮﹂
しかも妙に近いのだけど。どういうことだろう。
報告を聞いたカインさんは、側にいたチェスターさんやアランに
伝言し、瞬く間に騎兵が私の周辺に集まってくる。
1310
﹁おい、あまり気取られないように下がって探すぞ﹂
アランに言われて、私は唾を飲みこんでうなずいた。
私達は、さもアラン達と一緒に用があって後方へ行きますといっ
た顔で、街道の端をゆっくりと後戻りした。
急いで移動しないのは、私が発生源を突きとめるために必要だっ
たからだ。
軍の後方から密かに追ってきているのならまだしも、軍に紛れて
いて見逃しては元も子もない。
私は目を閉じて、強い魔力を発している元を探す。
もう少し向こう。⋮⋮だんだん近づいてきてる。
やがて魔力の元の発生源の方向が変わり始めた。近くを通ってい
る証拠だ。
私は真横に来た時点で、目をあけてカインさんにわかるように指
を差したのだが。
﹁え⋮⋮﹂
そこはアズール侯爵の軍列だった。荷物を積んだ馬車を中心に、
ゆっくりと進んでいる。
私の指は、まさにその馬車を指さしていた。
もう一度確認してみたが、やっぱりその馬車みたいだ。
まさかレジーを信奉していると言ってもいいアズール侯爵が、敵
を引き入れた? そんなばかなと思っているうちに、アラン達が一
斉に行動を開始する。
1311
﹁アズール侯爵殿、その馬車を改めさせてもらいたい﹂
アランがそう申し入れ、彼の騎士達がその左右を固めてアズール
侯爵に厳しい目をむける。
一方のアズール侯爵は、アランの言葉にはっとしたように息をの
み、それからため息をついて承諾した。
﹁わかりました⋮⋮。申し訳ありません、つい出来心で⋮⋮可哀想
になってしまって﹂
侯爵の言葉に、アランが首をかしげた。
確かに聞いている限りでは、アズール侯爵は確かに馬車に何かを
乗せていて、それを隠していたらしいが、危険なものだとは思って
いないようだ。
そうしてアランの騎士達が中を探る前に、侯爵の騎士達に呼びか
けられて、中から麻の布を被った人物が出てきたんだけど⋮⋮。
﹁エイダさん⋮⋮?﹂
彼女は泣きはらしたような目で、しおしおとうなだれて言った。
﹁申し訳ありません。どうしても故郷に早く戻りたくて⋮⋮﹂
魔力の発生源は、今もエイダさんが首からかけている、契約の石
のペンダントだったようだ。
私は肩を落としてため息をつき、カインさんとアランにこっそり
と説明する。あまり広めるような内容じゃないので。
そうして事は、なぜアズール侯爵が彼女を連れてきたのかという
釈明に移ったのだった。
1312
トリスフィード領境の小さな事件 2
どうやらエイダさんは、軍がトリスフィードへ向かうと聞いて、
故郷へ戻りたいと考えたそうだ。
最初はレジー達に訴えたようだが、もちろん非戦闘員を連れて行
く余裕などない。断られたエイダさんは、神頼みをしようとしたと
ころで、熱心な信者のアズール侯爵達と出会ったそうだ。
話を聞いたアズール侯爵は、エイダさんをトリスフィード外縁近
くの故郷まで、連れて行くことを約束。
偽装のためにエイダさんに兵士のような服装をさせてみたけど、
やっぱり女性であることを隠すのは難しく、麻布を頭からかぶらせ
て荷物に偽装させ、馬車に乗せてきたらしい。
アズール侯爵が釈明する中、私はほっと息をついていた。
軍の中にクレディアス子爵か誰かが紛れていたわけではなかった
のだから。
﹁もう大丈夫です。私が感知したのは、エイダさんのペンダントで
す﹂
私は念のため前に立って庇う位置についていたカインさんに、小
声でそう伝えた。
念のため確認してみても、やはりエイダさんの方から魔力が感じ
られる。
﹁ペンダント?﹂
﹁契約の石なんです。あれって魔術師と同じように感じてしまうの
1313
で、そのせいで私、エイダさんを見つけてしまったんだと思います﹂
事情を話している間、ふと自分の頬に誰かの視線が当たるような
気がした。
気になって目だけで辺りを確認するが、誰も私の方を見ている様
子はないし、気のせいだろうか。エイダさんも目を伏せているし。
首をかしげている間に、アランがエイダさんの処遇を決定した。
﹁ここまで来た以上、帰らせるわけにはいかない。アズール侯爵達
の会話から、軍の進路などの情報を見聞きしているだろうからな。
かといって貴重な兵をそのために裂くのも論外だ﹂
そう前置きをしたアランは、厳しい判断を下す。
﹁故郷の近くを通るのは間違いない。そこでこの女を放り出せ、侯
爵殿。今後の行軍に連れて行って妙な足手まといになっても困る。
もちろんエイダとかいうお前も、そうされる覚悟はあってついてき
たんだろう?﹂
﹁アラン殿、それは⋮⋮﹂
アズール侯爵がとりなそうとした時、エイダさんは﹁わかりまし
た﹂と答えた。
﹁それで結構です。わたしは両親を見つけて埋葬してやりたいと思
っていましたし、敵地でそんなことに殿下方の軍を付き合わせるわ
けには参りません。敵兵に見つかって殺されても、殿下のお気持ち
も得られない今はもう、それでいいと思っておりますので﹂
死ぬ覚悟があって来ていると言うエイダさんに、アランが厳しい
表情のままアズール侯爵に言った。
1314
﹁本人も覚悟はあるようだ。今言った通りにしていただきたい、侯
爵殿﹂
﹁⋮⋮わかりました﹂
アズール侯爵は本当にエイダさんが気の毒で仕方なかったのだろ
う、気の毒そうに彼女を見ながらもうなずいた。
私としても、敵に占領された土地に女性一人で放り出すのは忍び
ない。
けれど私にはやることがある。エイダさんに付き添ってやるわけ
にはいかない。
それでも私だったら、つい同情して余計なことを言い出すのでは
ないかと思ったのだろう、カインさんが先に私を引き上げさせた。
﹁行きましょう、キアラさん﹂
うなずいてカインさんの馬に乗る。
そうしてもう一度振り返った時、エイダさんは諦めきった人のよ
うな笑みを口元に浮かべて、じっと地面を見つめていた。
その日の夜。
野営の時に、私の所へ集まってきたエメラインさんやジナさん、
ギルシュさんは、エイダさんの話を聞いてなんとも言えない表情を
した。
﹁ようするに、失恋のあげく自棄になったのでは﹂
単刀直入すぎて目の前に相手がいたなら失神そうなことをあっさ
り口にしたのは、エメラインさんだ。
1315
焚火の明かりが、私の作った石の長椅子に座っているエメライン
さんの黒髪と、白い頬を橙色に染めている。
﹁今まで、強烈なほど殿下に執着していたでしょう? だけどどう
あってもなびかない、そしてトリスフィードへ行きたいと家族の情
を持ちだしてもだめだったので、完全に諦めるとともに生気も失っ
た⋮⋮と思ったのだけど、どうかしら﹂
﹁わたしもエメラインさんと同じことを考えたわ。他のことは何も
見えていない風だったものね⋮⋮﹂
ジナさんが同意するも、ギルシュさんは﹁うーん﹂と頬に手を当
てて悩んでいた。
﹁ギルシュさんの考えは違うの?﹂
私が尋ねてみると、ギルシュさんはなんとも困惑したような表情
になる。
﹁こう、なんか座りが悪い気がするのよねん﹂
﹁と言うと?﹂
﹁恋だけしか見えてない、しかもあの子みたいに思い込みも強そう
な人だと、フラれたとか自分の芽はないと思った瞬間、自棄になっ
て飛び降りとかする方向に行くんじゃないかって思ってたんだけど
⋮⋮。だから殿下のとこのフェリックス君? 彼からアタシ、うっ
かりエイダちゃんが城壁とかから飛び出したりする気配があったら、
止めてくれるようにお願いされてたのよねん﹂
﹁フェリックスさんが⋮⋮﹂
1316
そんな話が裏で交わされていたとは。フェリックスさんも、色々
と気を遣って大変だなぁ。
ぱっと見は柔和そうな人だけど、エイダさんへの対応は厳しくて、
なんだか私も怒られないようにしなくちゃという気分になっていた。
﹁まぁ、あの年頃の娘は一つのことに必死になるとてこでも動かぬ
からのぉ﹂
﹁あらホレスさんたら、女心がわかってらっしゃるのねん?﹂
ギルシュさんに褒められた師匠は、ふぉっふぉっと笑って言った。
﹁そりゃわしも若い頃は、右手と左手に一人ずつ縋ってくる女がい
て、自分を選んでくれと懇願されたことも⋮⋮﹂
﹁え、師匠モテたの?﹂
疑問に思って素直に尋ねたら、なぜか師匠は沈黙した。
﹁キアラちゃんキアラちゃん、話にノってあげて!﹂
ジナさんがやや気の毒そうな様子で私を促してきたが、そうかノ
リツッコミかと応じる前に、エメラインさんが流れを断ち切った。
﹁ギルシュさんは、恋に破れたのなら自害を選ぶ方が自然だという
ことですね?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
師匠は沈黙したまま、話が続く。
﹁まぁそっちに流れる子の方が多そうって話よ? あと今回の話に
しても、ある意味自殺行為をしようとしているようなものだしねん﹂
1317
﹁そうよねぇ。敵地になっちゃった故郷に帰ろうだなんて⋮⋮失恋
しても、わたしならやらないだろうなぁ﹂
﹁ジナはほら、失恋しても﹃じゃあ男はもういらない﹄とか言って
自活の道を探しながら、心の中ではずーっと失恋相手のことを思い
続けちゃう方でしょお?﹂
いたずらっぽく微笑むギルシュさんに、ジナさんが子供のように
頬をふくらませる。
﹁ちょっとそういうこと言わないでよっ﹂
﹁別にたとえ話じゃない? 本当のことだなんて言ってないわん﹂
﹁きーっ、そのなんでもお見通しみたいな態度がむかつくわー﹂
﹁あら反抗期かしらジナ?﹂
そのままジナさんはギルシュさんにからかわれて遊ばれてしまう。
二人の会話の流れから、ジナさんは件のイサークのお兄さんのこ
とをまだ好きで居続けているみたいだ。
それなのにイサークとは一度婚約者同士になった間柄で。だけど
今度は理由があって戦う相手になって。
ジナさんも本当は辛いんじゃないかな。
そう考えた私は、なんとなく想像してしまう。
もし私が、レジーやアラン達の敵になっていたら⋮⋮。
逃げだす前の私が、予定通りに敵になっていたら、私を支配して
いるクレディアス子爵のことが怖くて従っていたかもしれない。ク
レディアス子爵の悪い評判のことから連想する限り、とても逃げだ
すどころではなかっただろう。
1318
あとはデルフィオン城で見た夢みたいに、早く逃れたいと短絡的
な行動に出ていただろう。
それでも戦場に引っ張り出されることになったら⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮⋮?﹂
ふと、私は何か思い出しそうな、変な感覚に陥る。
首をかしげているうちに、エイダさんの話は完全に流れてしまい、
エメラインさんにねだられてギルシュさんは自分の初恋について語
り始めていたのだった。
1319
リアドナ砦の小戦闘
翌日、軍はさらに北へ移動した。
領境近くには、砦が少ないらしい。トリスフィードはサレハルド
の国境に近いため、北側に砦が集中して建造されたそうだ。
それでも南に何もないわけではない、侵略されてどうしても後退
しなければならない時に逃げ込んだり、戦線を維持するための砦が
作られている。
エイダさんの故郷、トリスフィードの中でエイダさんの家が預か
っていたリアドナという地域にも砦があるらしい。
かなり昔に築かれたが、最初に想定した使われ方をしたのは過去
数度だけだという。
砦の北、少し離れた場所に町があり、分家のエイダさん家族は町
の方に館を建てて暮らしていたのだとか。
エイダさんの両親が生きているかどうかはわからないが、侵略時
に少しでも抵抗をしていたら、統治の邪魔になると判断されて殺さ
れる、というのがルアインのやり方だ。
エヴラール軍が目指しているのは、そのリアドナ砦だ。
そこにはサレハルドとルアインの兵が500人ほど駐留している。
情報をもたらしたのは、領境で捕まえたルアイン兵だ。巡回をし
てファルジア軍を警戒していたルアイン兵達は、その砦を拠点にし
ていた。
彼らが出発する前までは、どうやらサレハルドの王イサークがい
たようだが、巡回へ出発する直前にはトリスフィード伯爵の城へ行
1320
ってしまったようだということまではわかっている。
レジー達は警戒しているようだが、私はそれならまだイサークと
ぶつかるのは先延ばしされたのか、と内心で息をつく。
そんな様子に、カインさんが気づかないわけがない。
﹁先日から、何を思い悩んでいるんですか? キアラさん﹂
砦に近づいたので、いつも通りカインさんの馬に乗せられた私は、
背後からそう尋ねられてしまった。
﹁デルフィオンからトリスフィードへ入ってから、ひどくなりまし
たが⋮⋮。イニオンの砦にいた頃からですよね? クレディアス子
爵のことですか?﹂
﹁う⋮⋮⋮⋮﹂
多少は、クレディアス子爵のことも不安に思っている。どう倒す
か、見通しが立たない相手はやっかいだから。
でもある程度の計画というのは私も持っている。近くでも力が衰
えないものを使えばいい。
何となれば、ジナさん達の力を借りようと思っている。リーラ達
魔獣は、クレディアス子爵の契約の石の力になど左右されないから。
問題はクレディアス子爵の魔術が何なのか、だけだ。魔術を使う
よう仕向けて、わかったら倒す。それ以外にない。
私としてはイサークの方が問題だ。
デルフィオンの一戦からすると、彼は普通にレジー達を攻撃して
くるだろう。
けど、私は。
1321
魔術が必要だと、レジーを助けなければとなった時に、イサーク
を殺す決断ができるのかどうか。
カインさんに打ち明けて、後押ししてもらうことも考えた。私が
戦うのは怖いなどと嫌がったら、カインさんはそうしたくなるよう
な理由をくれるだろう。
でも相手はカインさんが恨んでいるルアインではないとはいえ、
サレハルドもファルジアと何度か戦ってきた国だ。
⋮⋮やっぱり、敵国だからと思うかも。そんな気がする。
でも、私がイサークと相対した時にぼんやりしてしまった時に、
事情がわからなかったらカインさんも戸惑うだろうか。
迷った末に、私は言った。
﹁⋮⋮そうです。どう倒そうかと考えてみても、結局は相手の戦い
方がわからないとどうしようもないなって﹂
﹁大丈夫ですよ。何かあっても、私が守りますから﹂
カインさんは優しい言葉をくれる。それがとても申し訳なかった。
リアドナ砦へ近づくと、砦の様子がようやく目で確認できた。
斥候の報告を私も教えてもらっていたが、トリスフィードにサレ
ハルドが攻め込んだ時、ルアイン側の魔術師くずれの攻撃で壁が一
部崩壊させられたらしい。
さすがに全てをすぐに修復できなかったようだが、元の半分ほど
の高さまでは復旧していたようだ。
ただ、壁を壊したのは土魔術を使ったわけではないらしい。
火魔術なのか、爆発で壊したような痕跡が、砦の防壁のあちこち
1322
にあった。
そのことに私は違和感を覚えた。
こんなに沢山壊せるほど、何人も魔術師くずれを使ったのだろう
か。
疑問に思いながら、私は周囲に魔術師の気配がないことを確認す
る。
エイダさんがいるのはわかっているので、それ以外の場所から感
じないので大丈夫だ。
そうしてリアドナ砦の前に布陣した軍の端で、レジーの求めに応
じて土人形を作成した。
今回は敵の数が少ないので、急いで攻略してしまいたいらしいの
で、砦の修復しかけの場所を、蹴って壊し直す。
次に砦の上から矢を射ようとしていた十数人の兵士を地上へせっ
せと移動。その間にジェロームさん率いるリメリック侯爵領の兵が
先行し、突撃していく。
続けて、私は他の進入路を作ろうとした。いくらなんでも一か所
だけでは足りないだろうと、もう一つ壁に穴を開けようとしたのだ
けど。
それよりも先に、中に入ったはずのジェロームさんの部下が飛び
出してくる。
﹁ルアイン兵が、砦後方から逃げて行きます!﹂
どうやら、早々に砦を捨てることにしたらしい。
近くにいたアランが舌打ちした。
1323
﹁やけに弓兵が少ないと思ったら、そういうことか⋮⋮。レジナル
ド殿下に伝達! 後方へ回って逃亡する兵の掃討を依頼!﹂
アランの側にいた、伝令兵が走り出す。
間もなくレジーやアズール侯爵達の軍が動き始めた。
私はとりあえずアランとジェロームさんの行動に付き合うことに
する。土人形がどたどた走り回ったら、移動する兵士さん達を踏み
潰しかねない。
ジェロームさんとリメリックの兵が戻ってくるのを確認してから、
レジー達を追った。
レジー達の方は砦後方に回った後、しばらくしてからさらに北へ
と移動を始めた。
﹁取り逃がしたからか?﹂
首を傾げるアランと共に、私達は軍の後方にいるデルフィオンの
エメラインさんの軍に追いついた。
﹁キアラさん、無事でしたか﹂
なんだか心配されていたようで、エメラインさんが馬を駆って私
のところまで下がって来てくれた。
そこにアランが割り込むようにして尋ねる。
﹁おい、後ろから逃げた奴らはどうした?﹂
﹁それが、どうも戦闘直後には逃げ始めていたルアインの部隊があ
ったようなんです。彼らがまっすぐにリアドナへ向かったので、殿
下方はそちらに本隊が隠れていると考え、先に対処することにした
ようです﹂
1324
エメラインさんが報告すると、アランがうなずいた。
﹁先にルアイン軍本隊に伝達されて先手を打たれるより、一度脅し
をかける気か?﹂
﹁そうですね⋮⋮リアドナはそれほど大きくはない町だということ
ですし、潜んでいるとしても多数ではないでしょうから、砦周辺の
安全を確保するためにも必要だという意見を殿下が入れた結果のよ
うですね﹂
そこで私が気になったのは、町のことだった。
﹁リアドナの町って、まだ人がいるんですよね? でもサレハルド
の占領下ってことは味方扱いで、特にルアイン兵が変なことをした
りしないですよね?﹂
占領下とはいえファルジアの民だからと、粗暴なことをしないか
と心配になったのだ。
﹁わかりませんよ。ルアイン側も、抵抗したとかそういう屁理屈を
つけて虐殺することだってあり得ます。しかもファルジア軍がすぐ
側にいるとなれば、軍と呼応するために民がルアイン兵を背後から
襲ったと言ったら、とても信憑性があるでしょうね﹂
カインさんの言葉に、私は思わず想像して怖くなる。
﹁レジーならそれくらい想定してるだろ。だから威圧のために近づ
くだけで済ますつもりなんじゃないのか?﹂
﹁おそらくはそうでしょう﹂
1325
アランの推測にカインさんがうなずく。
なら、すぐにどうこうという事態にはならないかも、と思った。
そしてリアドナの町が見える街道でレジーが行軍を止め、アラン
と共にリアドナの件について報告しようと、レジー達の所へ向かっ
た時だった。
再び軍が北上を始めた。
﹁なんでだ!?﹂
疑問を口にしたアランが、走って行ってどこかへ走ろうとした騎
兵を捕まえて問いただす。
どうも、リアドナの町からファルジア軍に、救援を求める人がや
ってきたらしい。
求められたなら、行かないわけにはいかなかったようだ。
それでもレジーは慎重だった。
﹁逃げ込んだのが三百人ほどなら、全軍で町の中に閉じこもる必要
はない。町中へ入る部隊と、町の前で待機する部隊、町の周辺を警
戒する部隊に分ける﹂
そう言って軍を分け、町中で動きやすい人数だけで侵入すること
にしたようだ。
間もなくアランの元にも伝達がやってきて、私はデルフィオンと
エヴラール辺境伯軍とともに、町の手前で待機と警戒をする方に振
り分けられる。
大人しく従うことにした私は、食料などを積んだ馬車をデルフィ
オン側が囲むようにして守りを固めるのを見ながら、魔術の気配を
探ろうとしていたのだが。
1326
﹁エイダさん!?﹂
荷馬車の中から飛び出した人がいた。
軍の中でドレスを着ているのは、私かエイダさんしかいないから、
間違いなく彼女だろう。
彼女は一心に、町へと走って行った。
1327
別離をもたらす火 1︵前書き︶
※戦闘ターンなので、しばらく人死に描写多めになります。
1328
別離をもたらす火 1
﹁エイダさん!?﹂
思わず追いかけようとしたが、馬から降りること自体をカインさ
んに防がれた。
﹁危険ですキアラさん。敵だって町中でまとまっているわけではあ
りません。町の中で逃げ惑った末に運悪く遭遇したらどうするんで
すか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい﹂
カインさんの言う通りだ。
私は不意打ちに弱いし、剣で斬りかかられたらあっさり倒されて
しまうだろう。それなのに敵がいるかもしれない町へ飛び込むのは、
自殺行為だ。
﹁エイダさんは、危険だとわかっていて行っているのだと思うわ。
絶望している今なら、キアラさんを振り切ろうとするでしょう。そ
んな人を止めようとしたら、キアラさんも、キアラさんを守ろうと
している方にも被害が出る恐れがあるわ﹂
だから、諦めるしかないと説得してきたのはエメラインさんだ。
理解はしてる。だけど悔しい気持ちが消えないのは、自分が知っ
ている人達だけでも全員助けたいのに、と思ってしまうからだ。で
もそんなことは自分の手だけでは無理だということも、私はわかっ
ている。
だからエメラインさんにもうなずいた。
1329
︱︱結果として、私はエイダさんを追うべきだったのかどうか。
後になっても私にはわからなかった。
◇◇◇
ここから先のレジーの動きは、後で聞き知った。
エイダさんが飛び込んで行ったリアドナの町には、レジーと騎士
達そしてアズール侯爵の兵三千が入っていた。
あまりに多人数で町へ押しかけると、道が狭くなりがちな町の中
では、逆に動きにくくなってしまうからだ。
そのためレジーの軍として動いていたエヴラールの兵士達は、ア
ズール侯爵の残りの兵と共に一度グロウルさんが預かり、アランと
合流している。
レジー達が町に入ってすぐ、火が放たれたらしい。
上を見上げればあちこちで煙が上がっていた。時折風に流されて
土を固めただけの道にも流れて来て、視界を曇らせるようになって
いった。
﹁殿下に振りかかる火の粉はわたくしが払って差し上げます!﹂
町の中央へと勢い良く突入したのは、騎兵達を率いるアズール侯
爵だ。
続くアズール侯爵領の歩兵達と町の中に踏みこみながら、レジー
は不審に思ったようだ。
﹁フェリックス⋮⋮これは、早すぎないかな?﹂
1330
﹁火の手の上がり方ですか? 場合にもよりますが、空気の感想具
合からするとあり得ないことではないかと﹂
﹁いや、火事の範囲が広すぎる。そんなに早く敵兵が町へ先行した
か?﹂
別な騎士がそう答えた時だ。
こつんと、小さな薪の欠片らしきものが上から降って来た。
一斉に警戒をする騎士達とレジーが見上げると、道に面した二階
の窓に人の姿あった。
そこにいたのは、一人の禿頭の老人だった。ゆるゆるとした動作
でレジー達の方へ向かって、何かを謝るように両手を組んで頭を下
げた。
レジーはすぐに気づく。
﹁撤収するんだ、町を出る! 侯爵にも知らせを!﹂
﹁殿下?﹂
戸惑う者と、すぐさまアズール侯爵の元へ馬を走らせる者とが一
瞬だけ交錯する。けれどすぐに理由も聞かずに皆レジーに従った。
反転しながらレジーは彼らに言う。
﹁この町の人間は、ルアイン側に何かを強要されている。火事もこ
んな早い段階で広範囲に起きているのは、町民の手で火をつけたん
だろう。先行した侯爵も今のうちに呼び戻せれば⋮⋮﹂
﹁殿下ぁぁぁぁっ!!﹂
遠くの山からも聞こえるだろう大音声で、アズール侯爵が叫んだ
ようだ。声の主自身も、間もなく他の騎兵達と共にレジーに追いつ
1331
いてくる。
﹁急ぎ撤退とは、何が起きましたか殿下!?﹂
﹁これはルアインの罠だ。きっと町の人間に協力させている。逃げ
込んだ敵兵以外にも伏兵がいるはずだ﹂
アズール侯爵に自分の推測を伝えたレジーは、急ぎ町を脱出しよ
うとした。
軍としてどんなに兵数をそろえていても、分割した少数で、しか
も町中でどこから敵兵が出てくるかわからない状態では分が悪い。
敵兵の方も、レジー達の動きに焦ったのだろう。
おそらくはもっと町の中央部に誘い込んでから、一斉に襲い掛か
るつもりだったのだろうが、予想より早く撤退しようとしているの
だから。
そのため町の路地等や屋根の上から矢が射られ始めた。
ルアイン側も、煙のせいで上手くこちらを狙えないのと、距離が
あってもいいからと射始めたからだろう。当たらない矢ばかりだっ
たが、後方にいた兵士が数人、負傷した。
﹁急げ!﹂
騎兵が先を行き、レジーを優先して逃がそうとした。
馬を駆けさせてすぐ、矢の射程範囲からは外れたようだ。おそら
く敵が足止めに必要な数を見誤ったのだろう。
けれど町を囲む石壁が見える前に、レジー達は歩を緩めることに
なる。
﹁エイダ嬢か⋮⋮﹂
1332
フェリックスがその名前をつぶやいた。
エイダさんは走ってきたが、レジー達の姿を見つけると道の中央
で立ち止まった。
﹁そなた、どうしてここに﹂
アズール侯爵がレジーより前に出て問いかけるが、エイダさんは
それを無視して、レジーだけをまっすぐに見つめた。
﹁殿下、わたしが守ってさしあげます。このルアインやサレハルド
からの攻撃も、止めて差し上げます。わたしと一緒にいることを選
んでくださいませんか?﹂
突然のエイダさんの問いかけに、レジーは不審なものを感じた。
後ろ手に、騎士達に指示をしながら応じる。
﹁君と? でもどうやって﹂
﹁簡単ですわ﹂
そう言ったエイダさんが手を伸ばすと、持っていた木の枝が、炎
に包まれる。
﹁魔術師!?﹂
驚きながらも、レジーの騎士達は彼を守るように動き出した。そ
れを見てエイダさんが笑う。
すると炎が蛇のように大きく伸びあがり、近くの家の屋根を舐め
るように動いて一軒ずつ火を移していった。
立ち上る煙が増え、空を灰色に染めて行く。
1333
﹁これで大丈夫。わたしがいるとわかりますから、後ろから追って
来るサレハルドの兵は近づかないはずですわ殿下﹂
一歩エイダさんが前に進むと、騎士達の他、追いついた兵士達が
その間に割り込もうとする。
けれどエイダさんの手にした炎から小さな火が飛び散り、地面に
落ちて小さな爆発を起こす。
悲鳴を上げる兵を、レジーは下げた。
﹁無理はしないことだ。とりあえず彼女は私と話がしたいらしい﹂
騎士達も自分の前から避けさせたレジーは、淡々と告げた。
﹁それで、君の要求は?﹂
﹁⋮⋮わたしはずっと、貴方をお慕いして、貴方を救って差し上げ
ることだけを夢見てきました。貴方様は、一度王宮で会ったわたし
のことさえも覚えていて下さらなかったけれど﹂
﹁王宮⋮⋮? 私を、何から救うと?﹂
﹁最大の壁だった国王は、王妃様が排除してくださいましたわ。お
命も、わたしと共に来て下さるなら、祝いに王妃様が見逃してくだ
さると⋮⋮﹂
夢を語りながらも、エイダさんの表情は晴れやかなものではなか
った。
いつか途中で遮られて、叱られるのではないかと怯えるような、
でも許して欲しいという望みをにじませたような、愛想笑いを浮か
べていたという。
﹁⋮⋮王妃の手先だったか﹂
1334
ぽつりとつぶやいたレジーは、騎士の一人に短く耳打ちしてから
答えた。
﹁残念だったね。私にとって一番大事なものは、自分の命じゃない
んだ。だから君の差し出すものは、何一つ私にとって欲しいもので
はないんだよ﹂
﹁一体何が欲しいのですか。王妃様にお願いしたらきっと⋮⋮﹂
﹁君の主、マリアンネ王妃とそれに従うパトリシエール伯爵、そし
てクレディアス子爵がいては、平穏に生きていけない人がいるんだ﹂
その人のために戦っていると、そう言うレジーに、エイダさんは
泣きそうに顔をゆがませた。
﹁知ってましたわ⋮⋮だから、やはりここで⋮⋮せめて他の者に殺
されてしまう前に、わたしの手で死んでください。わたしもすぐに
後を追います。そうしたら、ずっと一緒にいて、貴方を独占できる
⋮⋮。もう、そうするしかないんです﹂
エイダさんの手の中の炎が膨れ上がった。
渦を巻くように大きく燃え上がった炎に兵達が悲鳴を上げる。恐
怖から町中へ走った一部の者が、遠くで悲鳴を上げている。
﹁殿下!﹂
﹁回り込んであの魔術師を討て!﹂
レジーの騎士達が動きだす中、誰よりも早く飛び出した者がいた。
1335
﹁アズールの者達よ、続け! 王子をお守りするのだ!﹂
﹁侯爵!?﹂
エイダさんに向かって、盾で体を庇いながらアズール侯爵が走っ
て行く。レジーの制止の声をも振り切って。
﹁おのれ裏切りおって、異国の女の手先めぇぇっ!﹂
アズール侯爵は、エイダさんの話を信じきっていたのだろう。
けれど知らなかったとはいえ、エイダさんという敵をここまで連
れてきてしまったのは自分だ。その責任をとろうと考えたのに違い
ない。
炎が揺らぐほどの大声と共に突入した侯爵を、渦となった炎から
盾が守ったように見えた。
その背後には、一斉に押し寄せようとするアズールの兵士達。
押し寄せる海の波を割るように突撃して行った侯爵の剣が、あと
少しでエイダさんに届くかと言う時、炎が爆風を巻き起こすほどの
勢いではじけた。
エイダさんを囲んでいた数十人が、炎に巻きつかれながら吹き飛
ばされて道に、家の壁に体を打ち付けて倒れる。
アズール侯爵も地面に落下した衝撃を受けた後は、叫ぶこともな
くじっと炎に焼かれていた。
赤い炎の向こうで、盾を形作る鉄が、剣がゆがんで、侯爵その人
の姿を黒く染め上げていく。
侯爵の部下が悲鳴を上げた。レジー達も顔をゆがめる。
炎が消えた時には、アズール侯爵は黒く炭化して道に転がってい
た。
1336
﹁魔術を行使し始めた魔術師に、剣で立ち向かうなんて無謀よ﹂
エイダさんは、全く心が咎めた様子もなかった。
もう一度手の中にある炎を広げ︱︱そこで、エイダさんは舌打ち
した。
再度彼女が吹き飛ばしたのは、アズール侯爵の騎士だ。
侯爵自身も悲惨な目に遭ったというのに、彼らはむしろ闘志を燃
やしてエイダさんに立ち向かってくる。
何度吹き飛ばしても打ちかかってくる兵士や騎士達にエイダさん
が手間取っている間に、レジーの姿は忽然と消えていた。
兵達の多くも整然とリアドナの町の中へと姿を消そうとしていた。
自分を守るために周囲を取り巻かせている炎の壁も、レジー達の
行動を視界から隠す一助になってしまったようだ。
﹁そっちには敵がいるのに、どうして⋮⋮﹂
しかしレジーが逃げたのは、敵が潜む町の中だ。
逃げるのではないのか、とわけがわからずに呆然としたエイダさ
んは、追いかけようとしたができなかった。
エイダさんが気づいた時には、背後から剣が迫っていた。
炎の変化に気づかなければ、何も知らないまま刺し貫かれていた
だろう。
それでも避けきれず、腕が斬り裂かれる。
でもエイダさんも、戦場で一度ならず斬りつけられた経験がある。
とっさに相手を爆発で吹き飛ばして⋮⋮息をのんだ。
相手が、フェリックスさんだったからだ。
1337
道に背中から倒れたフェリックスさんは、マントが焼け焦げ、頬
も赤く火傷を負い、腕も焼けて皮膚なのか炭化した服なのか黒くな
っていた。
エイダさんを取り巻く炎を無理やりに越えて、攻撃したからだ。
﹁ちょっ、なんでこんな事を!?﹂
レジーと一緒に逃げていたと思ったエイダさんは、思わずフェリ
ックスさんに駆け寄ってしまった。
そして身動き一つしなかったフェリックスさんは、彼女が傍らに
膝をついたとたん、エイダさんの手首を掴んだ。
﹁しばらくはここで大人しくしていてもらおう。殿下が逃げるまで﹂
﹁なっ、どうして! なんでこんなことしたのよ! 死にそうにな
ってまで!﹂
﹁殿下をお守りするためだ。殺すなら殺せばいい﹂
﹁こんな怪我をしたら、止めを刺さなくたって死ぬでしょう!?﹂
喉の奥から絞り出すような声で問いかけるエイダさんに、フェリ
ックスさんが返した。
﹁泣く、ぐらいなら⋮⋮止めれば、良かった、のに⋮⋮﹂
普通だったら、淡々とした冷たい言葉にしか聞こえない返事だっ
た。
でも死にかけたフェリックスさんのその言葉に、エイダさんを恨
むような声音は無くて、本当にいつものような口調だったから。
エイダさんは何も言えずに、泣き顔のままうつむくしかなかった。
1338
私が町の門を潜り抜けて二人の姿を見たのは、その時だった。
1339
別離をもたらす火 2
◇◇◇
時間はそれよりも少し前までさかのぼる。
私は、町の中から爆発音が聞こえて異変に気づいた。
﹁え?﹂
振り返った私の周囲で、他の人々も町の方へ注目する。
町の中には、いつの間にか煙がいくつも上がっていた。多すぎる
ので、おそらく敵兵が火を放ったのだと思うけど。
﹁火事の余波で爆発? それにしてはなんだか﹂
近い、と言おうとした瞬間、また聞こえた。
﹁魔術!?﹂
背中をひやりとした感覚が駆け抜けた。町の中にはレジーがいる。
しかも少数で突入しているのに。
﹁殿下は!?﹂
﹁早くお助けに行かねば! 魔術師がいるかもしれん!﹂
周囲がわっと騒がしくなる。
私も飛び出していきたかったが、まず先にカインさんにお願いし
た。
1340
﹁ジェロームさんの方にいる、ジナさん達を呼んでください﹂
それから目を閉じて、魔術の気配を探った。⋮⋮相手がクレディ
アス子爵なら、役に立たない。魔術師がいるのかどうか確認しなく
ては動けないと思った⋮⋮のだけど。
﹁⋮⋮なんで﹂
まっすぐ北に感じるのは、エイダさんだと思う。だからもう一つ
気配があると思ったのに、それはわからない。
一方で、町の外にいくつも気配を感じるのだ。
少なくとも、エイダさん以外に三カ所から魔力を感じた。どれも
そんなに離れた場所ではない。
こちらが町に入ろうとするのを待って攻めるつもりで、隠れ潜ん
でいた?
﹁どうしよう⋮⋮魔術師くずれがいるの?﹂
﹁なにがあった、弟子﹂
﹁魔術師っぽい反応が沢山あって。エイダさん以外に三個も﹂
尋ねて来た師匠に事情を話せば、師匠も﹁魔術師くずれがいるの
かもしれんな⋮⋮﹂とつぶやく。
﹁弟子よ。まだ師の強制力は感じないのであろう?﹂
﹁うん﹂
﹁なら、魔術を使うならお前さんがどこにいるのかわからぬよう、
バカでかくない奴を使え。こっちが魔術を使うのを待ってから積み
木を崩すようなことをして、お前さんが役に立たないと兵士達に見
せて士気低下を狙いたいのかもしれん。⋮⋮しかしのぅ﹂
1341
師匠は頭をかいて言う﹁どうもあっちの魔術の使い方が妙でのぅ﹂
と。
﹁直接的に来ないということは、その子爵は直接攻撃の手を持たん
魔術師なのかもしれん﹂
﹁え? そんなのってあるの?﹂
﹁もちろんじゃ。お前が話しておった茨姫だったかの? 植物を扱
う魔術師もおっただろう。それと同じように、攻撃だけをしかける
魔術ばかりではない。わしが知ってるところでは、心を操る魔術や
過去を視る魔術もあったかのう⋮⋮ヒッヒッヒ﹂
師匠が楽し気に笑う。
﹁でも派手な攻撃をしかけて来ないのなら、戦闘では有利かもしれ
ない⋮⋮。カインさん、町の中へ突入しましょう!﹂
﹁わたしも行きます!﹂
エメラインさんがデルフィオン軍から近場の一隊を選び出して、
号令をかける。
﹁残る者は、間もなくジェローム将軍が来る、そちらに従え!﹂
カインさんの指示が、デルフィオンの騎士や、残っていたアズー
ルの兵達に伝わる。
ちょうどジェロームさんが駆け付けてくるのも見えたので、大丈
夫だろう。
ゴーレム
私は近場の地面に手を突いて、大人よりもやや大きい3メルほど
の高さの土人形を五体作りだして、町の中へ先行させた。
1342
それを追うように、私やカインさん、デルフィオンの一部隊を率
いたエメラインさんが町中へ入る。
ゴーレム
町の中は土人形より少し高い程度の石壁に囲まれていたが、その
おかげで中に煙が外に流れ難くなっていたようだ。見通しは効くけ
れど、空気がとても煙っぽい。
煉瓦造りの家々の間を走り、道なりに斜めに曲がったところで、
人の姿が見えた。
そこだけ、周囲の家が威勢よく燃え上がっている。
火の粉が舞う中、道に倒れ伏している兵士が十数人と、誰かの側
に膝をついているエイダさんがいた。
﹁エイダさん!﹂
呼びかけると、彼女は弾かれたように顔をあげて私を見る。
その時エイダさんは泣いていて、なのにこちらへ来ることもなく
町の中へ走って行った。
私には何が起こったかわからない。
けれど倒れている人達のことを確認するのが先だ⋮⋮と思ったら、
エイダさんが側にいた人のことは、カインさんが遠目でもすぐに判
別がついたようだ。
﹁フェリックス!?﹂
カインさんは荷物のように私を抱えると、馬から降りた。そこに
私を立たせてから、フェリックスさんに駆け寄る。
慌てて私もついていく。
1343
フェリックスさんの状態は酷かった。マントは既に焼けてほとん
ど灰になっていたし、鎧の背面も熱で歪んでいる。しかも熱くて触
れない。
カインさんの指示で、兵士が水をかけて鎧を外してみれば、背中
は赤く火傷になっていた。
それよりももっと酷いのが剣を持っていた右腕だった。
フェリックスさんは気絶しているようで、誰が呼びかけても応え
ず、ぐったりとしたままだ。
怪我の具合を見ていたカインさんが、苦々しい声でつぶやく。
﹁こうなると、もう切り落とすしか⋮⋮﹂
﹁待って!﹂
もしかするかもしれない。それぐらいなら試させてほしかったか
ら、私はカインさんに言った。
﹁少しでも治せるかもしれません。だから待って下さい﹂
﹁治す?﹂
反芻するカインさんに答えず、私は自分の手のひらを持っていた
ナイフで斬りつけ、流れる血をフェリックスさんの腕に落とし、そ
のまま患部に触れた。
目を閉じて、魔力の流れを感じ取る。
まずは私の魔力。それをフェリックスさんの体を形作る魔力に混
ぜていく。
﹁加減を間違えるなよ⋮⋮。この状況で、お前さんが再起不能にな
るのはあまり良くないからの﹂
﹁はい、師匠﹂
1344
エメラインさんが﹁生存者を確認して! 他は周囲の警戒!﹂と
指示する声が聞こえる。
そんな中、私はなんとかフェリックスさんの治療を試みた。
自分の手の時は、魔力の流れが滞っている場所を元に戻したら、
治っていた。フェリックスさんもそうであるよう願いたい。
フェリックスさんの腕の魔力も、やや同じような感じだった。
途切れた場所の流れをまっすぐに繋げていく⋮⋮どうなったのか
は怖いので、終わるまで見ないように目を閉じたまま作業する。
私の時と違い、フェリックスさんの場合は途切れていたりする場
所がとても多かった。
それを全部繋げて、一度自分の腕の様子と比べてから目を開ける。
フェリックスさんの腕は、炭化していた箇所もきちんと元の皮膚
らしく見えるほど元に戻っていた。
まだ軽い火傷をしたように赤くなっていたり、私の血がついたり
しているけれど、十分だろう。
ほっと息をつくと、緊張していて今までわからなかったのか、急
にめまいがしてくる。
隣でフェリックスさんの腕を確認したカインさんも、息をついて
いた。
﹁驚きました。黒くなった部分までが内側から盛り上がった部分に
取り込まれて、気づけば元に戻っていくとは⋮⋮﹂
カインさんに言われて、治癒過程がわかった。
やっぱり皮膚細胞増殖的な感じだったか。自分の手でもそうかな
と思ったので、妥当と言えば妥当だけど⋮⋮魔術で治るってなんか
1345
変だとも思う。
﹁背中、どうしましょう﹂
﹁そこまでにしておけ。背中のその火傷ぐらいなら、傷薬でなんと
でもなる。死にはせん。しかしこれ以上魔術を使うのに、本人が耐
えられんだろ。お前の方も問題じゃ﹂
師匠に中止を言い渡されたので、それ以上はやめておいた。
見れば、フェリックスさんの顔から血の気が引いている。この魔
術は、どうも本人の体力もごりごり削るようだ。
あと師匠の言う通り、これ以上治療をしたら、フェリックスさん
を元に戻すだけで私は再起不能になりそうだ。
まだレジー達がどうなったかわからないのに。
私達は立ち上がって、フェリックスさんを騎兵の馬に乗せた。
﹁レジー達はどうしたんでしょう。ここで戦闘があって、別な入り
口から逃げたんでしょうか﹂
そうカインさんに尋ねた時だった。
﹁キアラさん!﹂
他の負傷者の側にいたエメラインさんが戻ってきて、私やカイン
さんに報告してくれる。
﹁エイダさんが、魔術師だったというんです﹂
﹁は!?﹂
自分の耳を疑った。エイダさんが、魔術師!?
1346
﹁殿下方が、敵の伏兵に気づいて反転したところで、道を遮ったの
がエイダさんで。炎の魔術で周囲を燃やして、アズール侯爵も⋮⋮﹂
そしてエメラインさんが指さしたのは、道の少し端寄りのところ
にあった、真っ黒な遺体だった。
⋮⋮剣で斬られて殺された場合と、どっちがより酷い状態だろう
かと、一瞬考えてしまった。
でもエイダさんが⋮⋮。
上手く飲みこめないでいると、師匠がぽつりとつぶやいた。
﹁契約の石は、魔術師の気配を誤魔化すためだったのかもしれんな﹂
その意見にうなずくしかない。殺されかけた味方の兵士が、何の
かかわりもないエイダさんを犯人に仕立て上げるわけもなく。
さっきエイダさんを見た時も、彼女だけが無事だった。
町の中に走って行ったのは⋮⋮元々的で、エイダさんにとっては
サレハルドやルアインの軍は味方だから、なのだと考えればしっく
りくる。
ただ私が割り切れないだけで。
﹁殿下方は、エイダさんを避け、フェリックス殿達や侯爵の部下が
足止めをしている間に、町の西門へ向かったようです﹂
﹁西門⋮⋮﹂
魔術師を避けるしかないとレジーが考えるのも無理はない。
魔術師は、くずれと違って精神的に混乱しているわけでもないの
で、敵の動きを見て様々な手を使う。あげく持久戦に持ち込んでも、
自壊するわけではない。
不意を突いて一気にたたみかける手段に出るにしても、エイダさ
ん一人を抑えるためにこれだけの人が犠牲になっている。
1347
だからといって、引いたレジーの向かう先に待っているのは、エ
イダさんと対峙するより、ややマシ、程度の状況だろう。
町の中に伏兵がいたというなら、逃げ込んだサレハルドやルアイ
ンの兵よりも、もっと多くの敵がいる。
けれど魔術師よりは対処が可能だとふんだのに違いない。
本当は今すぐにでも、レジーの元へ駆けつけたい。
だけど私も、クレディアス子爵に魔術を使ってることが察知され
てしまったら、また魔術を使いにくい状況に追い込まれるだろう。
﹁炎の音が大きい⋮⋮剣で打ちあっていても、これではわからない。
探すのは諦めましょう﹂
私は唇をかみしめ、カインさんの言葉に従った。
とにかくフェリックスさんと、少数の生存者を回収して町を出る。
アズール侯爵は申し訳ないが、遺品だけエメラインさんが預かっ
た。この戦闘が終わって安全が確保できるまではここに置いていく
しかないから。
町の外へ出てすぐに、アランと共にこちらの帰りを待っていたジ
ナさんとギルシュさんが駆け寄ってきてくれた。
﹁ジナさん、今すぐ冷やして欲しい人がいるんです!﹂
顔を合わせるなり、私は頼んだ。
治療しきれなかったフェリックスさんの、背中の火傷を冷やして
ほしいのだ。
状態を看たジナさんが、薬を塗った上からルナールに冷気を吐か
せる横で、カインさんが集まって来ていたジェロームさんやアラン、
1348
エニステル伯爵に状況を説明する。
﹁バカ者めが⋮⋮老人より先に行くなど、けしからぬ﹂
アズール侯爵が死亡したことを聞いたエニステル伯爵は、そう言
って数秒だけ目を閉じた。アズール侯爵は伯爵の剣の弟子だったと
いうので、その死が堪えただろう。
﹁レジーを救援に行かないと⋮⋮﹂
全軍で、町の西へ移動しようとしたその時、周囲を警戒させてい
た兵から連絡が入る。
﹁南からサレハルドの軍が現れました!﹂
1349
別離をもたらす火 3
﹁ジェローム将軍、貴方の軍を町の西へ移動させて、レジナルド殿
下の救援へ! 念のため傭兵達もそちらへ連れて行ってくれ﹂
すぐにアランが決定し、ジェロームさんにレジーのことを任せる。
﹁承知いたしました﹂
アランの命令に、ジェロームさんはうなずいた。
そしてフェリックスさんの応急手当てを終えたジナさん達もアラ
ンの要請を受け、ジェロームさんと一緒に行動し始めた。
その姿を見送りながら、私はアランに言った。
﹁私もジェロームさんと一緒に⋮⋮﹂
﹁攻撃の本命が、町中の方だという可能性もある。ただでさえ人質
だったはずの例の女が魔術師だったんだろ? そっちにお前の天敵
がいたら、役に立たん﹂
即ノックダウンされた。
⋮⋮でも仕方ない。どこにクレディアス子爵がいるかわからない
ので、荷物にならないようにする必要がある。私が行動できるのは、
敵の場所を補足してから、遠距離攻撃ができるようになってからだ。
アランはエニステル伯爵と打ち合わせ、デルフィオン軍にも指示
を出す。
町を背にして、右をデルフィオン、中央がエヴラールとアズール
の混成、左がエニステルの配置だ。
1350
敵はおおよそ8千ほどだというので、ジェロームさんが抜けても
こちらには1万人以上の兵士がいる。まだ有利なはずだ。
﹁町の中にいる奴らはレジーを追いかけるのに腐心しているだろう。
念のため監視を置いておくが、そちらは気にし過ぎないように﹂
アランの指示を聞いている私の目にも、サレハルドの軍が見えて
くる。
緑のマントが、馬車二つ分ほどの幅と、周囲の木立や丘陵地に広
がっていた。
⋮⋮あの中に、イサークはいるんだろうか。
心臓がどきどきと嫌な音を立てる。でも決心は変わらない。
目の前に立てば、倒すのだ。私の大事な人達を守るために。
不安そうな私の顔を見たからだろう。アランが苦笑いして私の背
中を叩く。
﹁あのずるがしこいレジーが、この程度でどうにかなるわけないだ
ろ! 魔術師がいても自分で避けて逃げたなら、他もなんとかする
だろ﹂
﹁痛った! だからそれ、私は鎧着てないんだから加減して!﹂
﹁悪い悪い。しけた顔してるからと思ったんだよ。とにかくお前は
後ろに⋮⋮﹂
﹁ううん、ちょっと前に出させて﹂
アランが目を瞬き、カインさんが焦る。
1351
﹁キアラさん、クレディアス子爵の居場所がわからないとどうにも
できないのでは。確認の報告を待ってからでも⋮⋮﹂
﹁待ってる時間がもったいないもの。それなら、こっちからいるか
どうか確かめた方が早いわ﹂
いわゆる、誘い受けをすると言うと、アランは私の意図を察して
ニヤリと笑った。
﹁どうせなら、もろともにサレハルドの軍を潰してやれ﹂
先制攻撃だ。最初の一撃が、一番たやすく命中してクリティカル
しやすい。
﹁やるならドカンといけよ弟子、イッヒッヒッヒ﹂
﹁うん!﹂
私は張り切って土人形を作りだした。
町の門の前を抉ると、もしレジーが逃げてきたら厄介なことにな
るので、門から少し外れた場所の土を使う。
盛り上がった土は十数メルほどの大きさの人形になり、起き上る。
木立が近くにあったので、背中や頭に矢が刺さったように木が生
えていたけど気にしない。
それをすかさず、陣を整列させていたサレハルド軍へと突撃させ
た。
サレハルド軍は魔術師の攻撃を予想していたのか、すぐさま逃げ
に転じる。
が、逃す気はない。
1352
土人形がジャンプした。
街道からやや外れた場所、左手へ逃れたサレハルド軍の上へと水
に飛び込むようにダイブする。
その瞬間だけは、さすがに目を閉じてしまった。
悲鳴と震動、それで成果は十分に察することができる。石みたい
に固い土が落ちてきたのだ。直撃した人が無事なわけがない。
﹁デルフィオン、右だ!﹂
アランが号令をかけた。
私の左右を走り抜けていく兵士と騎馬に、ようやく私は目を開け
る。
サレハルド軍は土人形を飛び込ませ、小さな平たい土の山ができ
た場所を挟んで二つに分割されていた。
アランはすかさず右側に攻撃をしかけさせたようだ。
そして私の方は、
﹁⋮⋮来ない?﹂
全く何も感じない。体調不良もない。
てことは、サレハルドの軍にクレディアス子爵はいないのか。
サレハルドの軍の方向に感じるこれは、魔術師くずれ?
﹁アラン、サレハルドに魔術師くずれがいるかもしれない。あと子
爵はいないかも﹂
﹁それだけわかれば十分だ﹂
アランはエニステル伯爵に指示を伝達するため、伝令の兵に告げ
ようとした。
1353
﹁僕は真っ直ぐサレハルドを叩く。伯爵は左から回り込むようにし
て︱︱﹂
けれどその言葉は、途中で遮られる。
﹁申し上げます! 東側1000メル離れた場所にもサレハルド軍
が現れました! その数約5000です!﹂
﹁なっ⋮⋮﹂
そこにも!? と私も驚く。
﹁もしかすると、ルアインは町の中を担当しているのか?﹂
つぶやいたアランは、すぐに顔を上げて伝令兵に言った。
﹁エニステル伯爵に伝達。東のサレハルド軍5000を押さえてく
れ。魔術師キアラを付けるが、万が一の時にはこれは退避させる可
能性がある。とりあえず撃破するのではなく、少しずつ下がるよう
にして、持たせてくれ。難しいようであれば引いてもいい﹂
次にもう一つ伝令を飛ばす。
﹁ジェローム将軍にこちらの状況だけ伝えてこい。だがレジーの確
保が最優先だと言ってくれ﹂
そして私に向き直った。
﹁サレハルドは予想以上に、トリスフィードに兵を移動させている
可能性がある。まだ他にも一軍を隠しているかもしれない。できる
1354
だけ早期に決着がつけられるよう、エニステル伯爵を援護して来い﹂
﹁わかった﹂
うなずいて、私はカインさんに馬上に引き上げてもらった。
﹁ウェントワース、魔術師の保全は最優先だ。場合によっては有無
を言わさずこっちに戻って来い﹂
それだけ言って、アランもエヴラール軍を突撃させる波の中に混
ざる。アランの場合、動かずに司令塔になるよりも、一度自分で当
たって来るのが好みらしい。
アランの強さからすると、大丈夫だと思うけど⋮⋮。
無事を祈りながら、私はその場を離れた。
エニステル伯爵の軍を追う。
﹁到着までの間も警戒してください﹂
カインさんの言葉に、私は馬に揺られている間もカインさんに支
えてもらって魔力の発生源を感じ取ろうとした。
﹁やっぱり東側にもいる⋮⋮﹂
距離は近づいてみないとわからないけれど、こちらの方がやや強
いような。
でもおかしい。魔術師くずれだったとしたら、こんな長時間も感
じ続けるというのは⋮⋮。
﹁魔術師くずれを保つ方法って、知ってる? 師匠﹂
﹁わしとて、あれをわざと作り出すなど、この戦で初めて見たわい﹂
1355
師匠もわからないらしい。そうなると予想のつけようもない。
間もなくエニステル伯爵に追いついた。騎兵と歩兵4千の軍の中
央で、堂々と闊歩している大ヤギは目立つのですぐに見つけられる。
こちらが声をかけるより早く、エニステル伯爵の方が振り返って
くれた。
﹁魔術師殿か。伝令は既にこちらに参っておる。そちらはどう動く
つもりだ?﹂
﹁先ほどと同じように、最初に打撃を与えます。その後もしかする
と私が動けなくなるかもしれないので、伯爵がどう使いたいかを教
えていただければと﹂
私の言葉に﹁ふむ﹂と伯爵は前へ向き直って数秒考えた。
﹁しからば、敵を留めるためにも土壁のようなものを依頼したい﹂
﹁わかりました﹂
壁。確かにアランの指示を全うしようとしたら、その方がいいの
かもしれない。
ただ押し留めるだけでは、迂回されてしまう。
そうしてふとエニステル伯爵のヤギを見て、私はあることを思い
ついた。
1356
別離をもたらす火 4
私がエニステル伯爵にしようとしていることを説明した頃、木立
の向こうにサレハルドの兵が見えてくる。
緑のマントを身に着けた兵士が、腐葉土に覆われた緩い斜面をゆ
っくりと進んできていた。
私はすぐさま、進軍を止めたエニステル伯爵の側で土に手をつい
て、魔術を発動させる。
﹁壁、階段状!﹂
土がサレハルドの軍の前に立ちはだかるように盛り上がる。
階段がついているので奥行きがあって崩されにくく、しかも相手
は二手に分かれる必要があるのだ。
サレハルド軍が壁に戸惑うように進軍を停止する様子が、壁の端
から見えた。
﹁二手に分かれよ! 一方は我に続くが良い!﹂
エニステル伯爵が旗下の兵士や騎士に号令をかけると、軍の一部
を率いて一気に段を登って行った。
そのまま勢いをつけて飛び降りていく。
壁の向こうから怒号と悲鳴、剣戟の音が響き、私にもとてつもな
いことになったらしいのが推測できた。
何よりヤギに乗った老人が先陣をきってるあたりがすごい。
サレハルド軍も壁の出現に続けての突撃に、矢を射ることすらで
きなかったようで、蹂躙されているっぽい。
1357
残るエニステル軍は壁の左手から進んでいく。
右手には、私がさらに追加で魔術を使った。
巨大ぬりかべを土で作成した私は、一つだけのドミノのようにサ
レハルド軍に向かって倒す。
ちょっと息が切れるが、足止めするために十分なダメージと威圧
ができたんじゃないだろうか。
向こう側にいるエニステル伯爵達も、あの大きさなら十分に避け
られたと思う。
案の定、壁の右手のサレハルドの軍が手薄になっていた⋮⋮と思
ったら、なぜかサレハルドの兵士が数人、悲鳴を上げながらこちら
へ逃げてくる。
﹁どうしてこっち?﹂
理由は間もなく判明した。
後から逃げてきた兵士が、足から砂になってその場に倒れ、全身
が砂になってくずれる。
その場の土も、周囲をも砂にしていく土の魔術師くずれ。巻き込
まれたルアイン兵も砂になって倒れた。
魔術師くずれがいる⋮⋮しかも土の。
﹁カインさん、あれを止めないと!﹂
﹁貴方の状態は?﹂
﹁まだ大丈夫です。それにここまで何の妨害も無しですから!﹂
やっぱりこれは、魔術師くずれがいるからなんだろうと私は結論
づけた。
1358
ゴーレム
私はまた3メルほどの土人形を作りだした。
するとカインさんが﹁万が一のためです﹂と自分は下馬して、私
を馬上に乗せた。
そのままカインさんは、私の求めに応じて走る。あの魔術師くず
れを倒すために。
けれど魔術師くずれから離れようとしていたサレハルドの兵が、
急にその場に倒れた。
﹁騙された、俺まで⋮⋮どうして!﹂
サレハルド兵は叫びながらのたうちまわり、手足を振り上げる度
に風を渦巻かせる。
﹁カインさん!﹂
風は鎌鼬みたいに周囲の地面を斬り裂くように抉りながら、周囲
に散らばって十メルほどの範囲で魔力切れを起こすのか立ち消えた。
けれどカインさんはすぐ側にいた。
いく筋もの風がカインさんにも襲い掛かる。
とっさに身を低くしたもののカインさんの服の左袖が斬り裂かれ、
青のマントも大きく切れ目ができた。
それでも鎧と、庇うように前にかざした剣で大きなダメージを避
けたようだ。
風の間隙をついたカインさんが、新たな魔術師くずれに接近する。
一瞬で息の根を止め、魔術師くずれは砂になってくずれた。
その間にも、土の魔術を使う方の兵士は、周囲の木や、私が作っ
た壁までも
他のサレハルド兵が魔術師くずれにこの場を任せるつもりか、近
1359
寄ってこないのはいいけれど、このままだと足止めに利用する壁が
壊れてしまう。
近くにいたらしいエニステル伯爵の騎兵も、馬が砂に足を取られ
ることを恐れて近づけないようだ。
私は馬から降りて次の一手をと思った時だった。
﹁この程度に恐れをなすとは! けしからん!﹂
突然壁の上に駆け上がった白ヤギの上に乗る、白鬚の老人が視界
に飛び込んでくる。いつの間にぐるりと回って来たのか。それとも
ヤギが壁を飛び越えたの?
とにかくエニステル伯爵は、いつの間にか持っていた槍を、ヤギ
の上から投擲した。
風を切る音と共に、槍が魔術師くずれに突き刺さる。そのまま魔
術師くずれは砂になり、周囲と同化してその姿もわからなくなった。
さすが仙人様。
﹁大事ないか、エヴラールの騎士よ﹂
カインさんに声をかけたエニステル伯爵だったが、カインさんは
何かに気づいたようだ。
﹁それよりもエニステル卿、こちらを!﹂
呼ばれてヤギが再び壁を飛び降り、そのヤギからも飛び降りたエ
ニステル伯爵がカインさんに駆け寄る。
そうして先ほど風の魔術を放った兵士の、残した衣服を持ち上げ
るカインさんの隣で、眉間に皺を刻んだ。
﹁⋮⋮やはり、偽装か﹂
1360
偽装?
﹁ルアインの兵ですね。あちらの鎧とこちらでは造りが違う﹂
ルアインの兵? ってことはこれ、ルアイン軍なの!?
私はつい周囲を見回す。魔術師くずれだと思ったから倒して安心
していたけど、クレディアス子爵がいるかもしれない。
その時、私の視線がある一か所に吸い寄せられる。
砂地を迂回して接近して来ようとした、百人はいそうな緑のマン
トを羽織った部隊。その少し後方に騎乗している人物に。
﹁う⋮⋮﹂
血の気が引くような感覚と倦怠感に襲われる。私は馬首に持たれ
て自分の体を支えるのが精いっぱいになった。
﹁カインさ⋮⋮﹂
呼びたくても、大きな声が出ない。
だが間もなくカインさん達も、彼らに気づいたようだ。
﹁危険が少なくなったと思って、来おったか﹂
カインさんも剣を構える。エニステル伯爵が馬にくくりつけてい
た槍を手に取りながら﹁む﹂とつぶやく。
﹁あれは魔術師疑惑の子爵ではないか?﹂
﹁クレディアス⋮⋮?﹂
1361
その名前にカインさんが私を振り返って、表情を険しくする。
﹁キアラさん!﹂
私の状態に気づいて、駆け寄って来ようとしてくれる。
一方の私は、何の魔術を使われるかわからない緊張感から、クレ
ディアス子爵から視線をそらすことができずにいた。
以前見た時よりも、顔に肉が増した気がする。おかげであのカエ
ルみたいな目が目立たなくなったけれど間違いない。こんな特徴的
な顔を見間違うわけもなかった。
やがてその口が動いた。
私は読唇術なんてものは使えない。だけど何を言ったのか、わか
る気がした。
︱︱見つけた、と言ったのだ。
背筋がぞわりとする。
師匠は舌が無いのに舌打ちの音をたてる。
﹁わかったぞ弟子、魔術師の気配があちこちにあったのは、お前を
罠にかけるためじゃろう﹂
﹁わな⋮⋮?﹂
﹁あのエイダという娘っ子も魔術師だった。しかし契約の石を持っ
ているせいで、お前でもそれを見抜くのが難しかったのと同じじゃ
ろ⋮⋮。おそらく同じような手で、自分の居場所をお前の目から撹
乱して、これほど近づく機会を狙っていたのだろう﹂
そうして話している間にも、クレディアス子爵の周囲で変化が起
1362
きていた。
私が作った壁の左端から聞こえる剣戟の音に、複数の唸り声が混
じって、次第に大きくなっていく。
最前列にいた兵士が10人、喉をかきむしるように苦しみ始める
と、他の兵士に蹴り出されるようにしてよろよろと前に進んでくる。
彼らから、増していく魔力の気配が精神を集中しなくても感じら
れた。
彼ら全員が、魔術師くずれにされたのだ。
1363
別離をもたらす火 5
そんな人数を魔術師くずれにできるほど、契約の石を持っている
の? とか。
10人もいたら、お互いに戦い合ってひどいことになるんじゃな
いの? とか。
気になることは沢山あるけれど、まずはこの場を切り抜けなけれ
ばどうしようもない。
﹁⋮⋮気を、つけてっ﹂
カインさんに子爵達へ注意を向けるよう言いながら、私は崩れ落
ちるように馬から降りた。
膝をぶつけた、痛い。
地面に座り込む。でもそれでいい。
一人一人ならカインさんだってどうにかなるだろう。エニステル
伯爵だって、周囲には伯爵の騎士達も集まって来ているからどうに
かしてくれる。
だけど10人が一気に攻撃して来たら、他の兵士にまで被害が広
がって、この前線が維持できなくなる。
戦術のことはまだ熟知していない私だけど、敵味方混じり合って
パニックになったら、エニステル伯爵の軍が瓦解するかもしれない
という予想はつく。
今どうにかしなくちゃいけない。
地中の魔力に集中しようとするのが辛い。だるくて上手くできな
い上に、どんどんと寒気がしてきて涙が出そうだ。
1364
だけど根性出せ自分、何のために魔術師になったの!
﹁この一回ぐらい、再利用なら!﹂
手で地面を叩く。
既に魔術師くずれのせいで砂になっていた場所の範囲が、ざらり
と広がって近くにいた魔術師くずれの兵士達の足を捕え、周囲の兵
士達の足をもうずめさせてすぐに固まった。
⋮⋮やっぱりクレディアス子爵には効きが悪い。
子爵が乗った馬は、砂に足をとられてよたついたけれど、固まっ
たりはしなかったようだ。
隙を逃さず、エニステル伯爵と旗下の騎兵達が襲い掛かっていく。
﹁なんて無茶を!﹂
そこで戻ったカインさんが私を捕まえて、馬に飛び乗ったので、
エニステル伯爵がどれだけの魔術師くずれを倒せたのかはわからな
い。
息継ぎをするだけで精いっぱいの私は、ボールのように抱えられ
るがままだ。
カインさんは木立が前途を阻む場所を、馬を走らせて遠ざかる。
これ以上魔術で援護をするためには、子爵から離れなければなら
ないから、なるべく距離をとろうとしているのだろう。
その間だけ、エニステル伯爵にはなんとか耐えてもらいたいと願
ったが、
﹁キアラさん伏せて!﹂
1365
それほど遠ざからないうちから、後ろを振り返ったカインさんが、
緊迫した声で指示してくる。
慌ててその通りにしようとするより先に、カインさんに覆いかぶ
さられるようにして伏せたが、すぐ目の前の木が切り飛んで目を疑
った。
﹁え、ええっ!?﹂
﹁魔術師くずれが、こちらを追いかけてきているんです。振り切り
ますよ、舌を噛まないように﹂
﹁うわ、はいっ!﹂
返事をするのがやっとだ。それ以上しゃべったら、本当に舌を噛
んでいた。
小さな勾配が重なる林の中を、馬が素晴らしい速さで駆け抜けて
行く。木にぶつかる心配をしてしまったが、カインさんの方は馬が
避けると信じて、前進することを優先しているようだ。
やがてふっとだるさが抜けて行く。
子爵の影響下から出たんだ。
﹁カインさん、もう魔術が使えます。ここで降ろし⋮⋮﹂
その言葉は最後まで言えなかった。
至近に走った紫電に悲鳴を上げたかと思ったら、馬が暴れて振り
落とされた。
それでも大きな怪我をしなかったのは、カインさんが抱えていて
くれたからだ。
﹁カインさん、大丈夫ですかっ﹂
﹁大丈夫です。馬が止まっていましたし、上手く着地できたので。
1366
しかし⋮⋮﹂
再び私を抱えるようにしてカインさんが走った。まだあのだるさ
で萎え切っていた足が上手くうごかないけれど、必死でついていく。
そんな私の背後に、また雷が走ったり、火の球が投げつけられて
爆発したりする音がして恐ろしくてならない。
﹁ひいっ﹂
矢継ぎ早の攻撃に、なんとか大木の陰に隠れて周囲の様子を見れ
ば、黒いルアインのマントを羽織った兵士が三人、呻きながら私の
いる方へとゆっくり歩いて来る。
その様子は、どこかゾンビみたいだ。
﹁おい弟子﹂
魔術師くずれの伏兵に呆然としていると、師匠が小声で話しかけ
て来た。
﹁こいつらおかしいぞ。全く自壊していく様子がない﹂
﹁え⋮⋮ええっ?﹂
でも確かに、呻いていても手足が砂になるどころか、いつものよ
うに無差別に周囲に魔術をまき散らすこともない。苦しみに耐えか
ねて火をばら撒いても、そこには指向性が感じられた。
ようは、私達に向かって投げつけてくるのだ。
﹁普通の魔術師くずれならば、こんな状態にはならんじゃろ﹂
﹁え、じゃあ操られてる普通の魔術師とか?﹂
﹁それはないじゃろうな。普通の魔術師であれば、理性というもの
1367
がある。あのように操られた人間のような動き方はしないじゃろ﹂
とにかく相手は、なかなか自壊しない魔術師くずれのようだ。
予想外の事態だけど、戦うしかない。
それに彼らをこちらに引きつけられたのだから、エニステル伯爵
の戦いも楽になったはずだ⋮⋮と楽観的に考えてみる。
そして私も、クレディアス子爵から離れたので楽に魔術が使える。
﹁⋮⋮ごめん!﹂
謝りながら、私は魔術師くずれ達に向かって魔術を操った。
彼らの足下の土が大きな針のように伸び、二人の体を刺し貫く。
飛び散る血も、途中から砂になった。次いで彼らの体も砂になっ
て崩れ落ちる。
その間に飛び出したカインさんがもう一人に接近し、火弾をかい
くぐって首を斬り飛ばした。
﹁キアラさん、これで全⋮⋮﹂
カインさんが顔色を変えた。
私が振り返るより先に土で壁を作れたのは、とっさの反応だった。
それでも土の壁は吹き飛ばされ、その場に倒れた私は、再び力が
根こそぎ奪われるかのような感覚に起き上ることも辛くなる。
そんな私を抱え起こしてくれたカインさんだったが、
﹁私の元から逃げだした女か⋮⋮久しぶりに見れば、ますますアン
ナマリーによく似ている⋮⋮﹂
耳に届いた声に、私は背筋がざわりとする。
1368
何度か見かけただけの相手で、その人と関わる未来は自分で立ち
切ったはずだった。だからこんなにも嫌悪感を抱く必要なんてない
はずなのに。
まだ三十メルは離れた場所に、クレディアス子爵がいた。
馬に乗った子爵の前には、数人の魔術師くずれになったと思われ
る者達がいた。彼らはじっと私を見つめながら、何のためらいもな
く歩み寄って来る。
心の底から震えが湧き上がってきて、力が抜ける感覚と相まって、
絶望感で頭が一杯になりそうだ。
身動きできずにいる私を、カインさんが担いで走り始める。
﹁どこへ逃げようと無駄だというのに。魔術的につながりがある相
手の居場所なら、こちらはすぐにわかるのだからな。逃げれば逃げ
るほど、その分だけお前を苦しめてやろう﹂
クレディアス子爵の逃げられないぞという脅し文句と笑い声が追
いかけてくる。
無視してカインさんは走った。
そんなカインさんを追いかけて、魔術師くずれは走ってくる。
クレディアス子爵は動かない。
たぶんクレディアス子爵は、自分の師としての影響が及ぶ範囲を
知っているのではないだろうか。だから焦っていないのだ。
そして効果範囲内で、魔術師くずれ達がカインさんや私を倒し、
捕まえると確信しているのだろう。
﹁カインさんおろ、おろして⋮⋮﹂
1369
少しでも魔術師くずれを減らさなければ。そう思うけれど、担が
れているせいで揺れるのと、体に力が入らなくて身動きするのも緩
やかになってしまう。
﹁手伝っていただくには、ここでは近すぎます﹂
﹁でもっ﹂
追いかけてくる魔術師くずれ達は、足が速いわけじゃない。でも
魔術は飛び道具も同然だ。
さっきから何度も火球が投げつけられていて、当たらないのが奇
跡のように思えるくらいだ。
そう思っていたら、無暗に辺りの木をゆらすほどの突風が襲い掛
かって来る。
歩くこともできないような風圧に、カインさんも足下を掬われた。
私を抱え込むようにしてカインさんが倒れる。
呻くカインさんから、私は転がるようにして離れた。
ポケットから取り出した銅鉱石を投げつけ、土に触れる。
気合いを入れたけれど、大人ほどの大きさの土人形を二体、作り
出すのがやっとだった。
走り続けた時みたいに、息が切れて喉が痛い。
体中が熱をもつのがわかったが、ここで止めるわけにはいかない。
土人形を走らせて、向かってくる魔術師くずれにぶつける。
魔術師くずれは判断力が低下しているせいか、二人が転倒してく
れた。
でもそれで限界だった。土人形が崩れて土に還ってしまう。
こんなちゃちな手じゃだめだ。どうにかしようと、自分の血を使
うためナイフに手を伸ばしたところで、カインさんに再び抱え上げ
1370
られた。
再び移動が始まる。
けれど倒れている間に近づいていた他の魔術師くずれが、火を放
つ。
近くの木が焼け焦げて倒れてくる。それを避けたカインさんを、
風の刃が襲った。
避けられずに、カインさんの背中のマントが斬り裂かれる。鎧に
深い傷が刻まれた。
衝撃で再び地面に倒れたカインさんは、私を抱え込むようにして
庇ってくれたけれど、近くで火球が爆発した瞬間、うめき声を上げ
る。
怪我を負ったのだとすぐにわかる。起き上ってみると、いつも凪
いだ表情ばかりのカインさんの顔が苦しそうにしていた。
﹁やだ、やだカインさん!﹂
どうしよう。とにかくもう一度魔術を使おうとしたところで、カ
インさんの手が私の手首を掴んだ。
﹁落ち着いて﹂
目を開けて私を見上げるカインさんが、歯をくいしばるようにし
て起き上った。
﹁キアラさん、この先の崖の下に⋮降りる方法は、ありますか?﹂
立ち上がりながら剣を構えるカインさんに尋ねられ、私はさっと
周囲を見る。
1371
確かに十数メートル先に崖があった。
かなり高さがありそうだ。具体的に言うと四階建てのビルくらい
だろう。
降りると言っても、私やカインさんの状況からいうと、階段を作
って走り降りるのは無理だ。なるべく早く、楽に下まで降りる方法。
﹁あります!﹂
﹁では、それを作って下さい!﹂
そう言ってカインさんは魔術師くずれ達の方へ走ってしまう。
呼び止めたかったが、何か考えがあってのことかもしれない。だ
ってさっき、カインさんは私だけ逃げるようにとは言わなかった。
一緒に来てくれると信じて、私はナイフで手に傷をつけ、振るえ
る手でポケットから掴み出したありったけの銅鉱石を血にまみれさ
せる。
酷い熱を出した時のように具合が悪い。でもこれができなければ、
私どころかカインさんが助からない。
私はよろよろと歩いて崖縁まで進み、そこに銅鉱石を落とした。
﹁一気に、やれば⋮⋮っ﹂
時間をかけない方がいい。そう思って、私は一気に魔力を操った。
崖の一部が崩れて、予定通りの物ができた次の瞬間、息が止まり
そうなほど苦しくなってその場にうずくまってしまう。
でもここで寝転がってなんていられない。
﹁カインさ⋮⋮!﹂
来てくれると信じて、私は自分で作った滑り台へ身を乗り出す。
1372
崖壁を穿つように作られた滑り台は、すごい勢いで私を下へと連
れて行った。
それを追いかけるように、カインさんも滑り降りて途中で私を捕
まえてくれる。そうでなければ、地上に降りた瞬間、勢いがついた
ままどこまで転がっていたかわかったものではなかった。
けれど私を滑り台から引き離してくれたカインさんを見て、私は
息を飲む。
カインさんは既に満身創痍だった。
左腕の袖は焼け焦げ、既に胸甲は切り裂かれて半分無くなってい
た。足にもざっくりと切り裂かれた痕があって、血にまみれていた。
それでも彼はまだ戦った。
魔術師くずれは本当に思考能力がほとんどないのだろう。二人が
私を追いかけて崖を落下して、そのまま死んでしまった。
けれど一人が追いかけるように滑り台を使ってきて、一人は風の
魔術で降りてきた。
私は呻きながら、作った滑り台の一部を、魔術師くずれごと埋め
た。
もう一人は、さらに左腕を斬り裂かれながらも、カインさんが倒
した。
振り返ったカインさんは、初めて見るほどに息を切らし、ふらつ
いていた。
それでも私を抱えて進み出す。
少しでもアラン達のいる方へ。
1373
別離をもたらす火 6
後から知ったことだが、この時エニステル伯爵はまだルアイン軍
と交戦中だったものの、いくらかの人員を私達の方へ差し向けてく
れていたらしい。
クレディアス子爵と魔術師くずれが一斉に私達を追いかけていき、
伯爵の方は楽になったけれど、明らかに私達が危険な状態になると
思ったからだろう。
私達の援護をしようとした伯爵の兵は三十人ほどいた。
彼らはなんとか魔術師くずれを三人倒したものの、十人もの損失
を出し、さらにほとんどの兵が負傷した。
この数字から考えても、カインさんとその場に留まっていたら、
十数人⋮⋮もしくはそれ以上に魔術師くずれを増やされて、伯爵の
軍は敗走するほどの損害を出していたに違いない。
そもそも、カインさんが一人で数人の魔術師くずれを倒している
あたりから考えても、エヴラールの騎士やレジーの騎士達の強さが
違いすぎるんだと思う。
かといって、騎士達も戦うばかりが仕事ではないので、その対応
に走らせている間に、戦列がくずされても困るだろう。
一方、この時のカインさんは二通りある結果のうち、まだマシな
道を選んでいた⋮⋮ということは、この時はまだわからなかった。
何よりもカインさんが避けたかったのは、クレディアス子爵だっ
た。
それを狙って崖を降りる選択をしたらしい。
1374
案の定クレディアス子爵は馬で崖を降りるわけにもいかず、迂回
して私を追いかけようとしているのか、姿を見せなくなった。
魔術師くずれ達も、まだいたはずだが崖から落ちてこないところ
を見ると、クレディアス子爵と共に迂回路をとったのだろう。
しばらく歩いたところで、私は怪我と疲労で限界に達しているだ
ろうカインさんを、一時的に窪みに押しこんだ。
土でなんとか壁を作って、簡易的に姿を隠して休憩をすることに
したのだ。
これではクレディアス子爵がいる限り、いつかは見つかってしま
うことはわかっている。
それでも休ませたのは、せめてカインさんの体力を回復させ、同
時に手当だけでもしておきたかったのだ。
⋮⋮きっと、アラン達の元へたどり着くまでの間に、また戦うこ
とになるだろう。
私が全く役に立てない以上、カインさんの生存確率を上げるため
には、重要なことだった。
私もまだ子爵の影響下を出ていないので、熱を出しているのに学
校へ行った時のようなだるさと寒気があるけれど、魔術を使わない
手当ぐらいはなんとかできる。
私はカインさんの腕や背中など、衣服が裂けて露出しているとこ
ろだけでも傷薬を使った。
背中の傷は思ったほど深くはなかったが、左腕は酷い。この世界
の万能な傷薬ならどうにか治せるだろうけど、時間がかかる。
もっと休ませてあげたいのにできない自分がふがいなくて、涙が
出そうだった。
﹁あの子爵は、自分では魔術を使えないのではありませんか?﹂
1375
手当を受けながら、カインさんがそう推測を口にする。
﹁というか、こうなっても直接魔術を使って攻撃をしないのだから、
そのたぐいの魔術を使えるわけではないのだろう﹂
答えたのは師匠だ。
私にくっついたまま、師匠もクレディアス子爵の魔術について考
察をしていたようだ。
ただ、前回のように師匠までひどい影響は出ていないように見え
る。
﹁あの不自然な魔術師くずれの動きや、いつまでも自壊しない様子
から言って⋮⋮。おそらくは他人や自分の魔力を操作する方向性の
魔術なのかもしれんな﹂
﹁魔力を、操作?﹂
ようやく涙が引っ込んだので、私は尋ねる。
﹁魔力を操ることができるのなら、魔術師くずれがいつまで経って
も自壊しないことが説明できる。意のままに動かしているのは、き
っとわしが魔獣を操った時と同じじゃろ。同じ契約の石を分けて他
の者達に与え、自分も飲みこんだのだろ。けけけっ﹂
なるほど⋮⋮と思う。
それなら魔術師くずれの不自然さも納得がいくし、自分では何一
つ攻撃してこない理由もわかる。
⋮⋮ゲームで、クレディアス子爵が出てこなかった理由も。
ゲームでは魔術師くずれなど出てこなかったのだから、クレディ
1376
アス子爵も大量に契約の石を所持することはなく、魔術師の素質を
見出すためなどに使っただけなのだろう。
だからキアラの後ろをついて歩き、キアラに強制的に戦わせてい
たのかもしれない。
だとしたら、元々の話ではキアラが倒された後でクレディアス子
爵もひっそり倒されていたんだろうか。
想像したその時、ふっと意識が薄れる。
熱はさっきよりも治まったはずだけど、疲労が取り切れないから、
そのせいだろうか。
ほんの一瞬、幻覚みたいなものが見えて。
︱︱よくやったわキアラ。あの男はもう必要ないもの。
褒める言葉をささやくのは、女の声。聞いたことがないはずなの
に、とても良く知っている気がするもの。
︱︱さぁ、貴方が欲しかったものをあげましょうね。
そう言って取りだして見せられたのは、何だった。
掌に乗るような箱に入った、透き通った緑の石がついた目立たな
い銀色の指輪と、白い棒のような⋮⋮。
︱︱それしか残っていなかったの。でもそれがあれば、貴方なら
本物かどうかわかるでしょう?
そこで、はっと我に返る。
﹁むしろこの状況では厄介じゃな。石さえあれば、いくらでも魔術
を使う自分だけの兵を作り出せるんじゃからの。⋮⋮どこぞで鉱脈
1377
でも見つけたんじゃろ﹂
師匠が話の続きを語っていたので、意識が遠くなっていたのはほ
んの一瞬だったようだ。
私は傷をつけていない右手の甲をつねった。
傷の痛みぐらいでは、ぼんやりする頭がしゃっきりしてこない。
気を抜くわけにはいかないんだ。せめてアラン達のいる場所へ戻る
までは。
﹁でも師匠は今回、あまり子爵の力の影響が出てないみたいですね﹂
﹁加減しておるのだろ? あの子爵ならいつでも潰せるからと、逃
げ惑わせて楽しんでいるんじゃろ。イッヒヒヒヒ。逃げる獲物は、
少し生きが良い方が長く楽しめるからのぅ﹂
クレディアス子爵が嗜虐心を満足させるために私達をわざと泳が
せて、苦しむ様を見ているということか。
相手にとっては、私はカインさんさえいなければ楽に倒せる相手
なのだ。
おかげでまだ動けるけれど、なるほど、子爵が余裕のある表情を
しているわけだと、私はため息をついてしまう。
﹁疲れましたか、キアラさん﹂
カインさんが声をかけてくれた。
﹁まだ大丈夫です。だるいのは続いていますけれど⋮⋮﹂
本音では、このまま眠ってしまいたい。
だけどカインさんの方がよっぽど痛い思いをしている上、ずっと
1378
運んで逃げてもらっていた。私が弱音を吐いていられない。
﹁アラン達のところまで、そんなに離れていませんでしたから。も
うすぐ着くと思います。がんばりましょう﹂
なるべく心配をかけたくない。だから笑ってみせた。
カインさんはそんな私に、わずかに苦笑いしながら言った。
﹁もし、このまま本隊にたどり着くこともできなかったら⋮⋮私と
一緒に死んでくれますか?﹂
私は自分の顔から、表情が抜け落ちて行くのを感じた。
笑ったぐらいでは払拭しきれないような、危険な状況に陥ってい
ると、カインさんは感じていたんだろう。
﹁あの子爵に囚われる貴方を、見たくはないんです﹂
手を伸ばし、側にいた私の頬に触れる。その感覚とカインさんの
言葉に、私は言葉を失った。
﹁普通に魔術師として捕まるだけなら、役に立つことを約束したら
ある程度の待遇は引きだせる。けれど子爵がいる限り、貴方は死に
かけた老人のように身動きがとれない。そして子爵のあの言葉⋮⋮
明らかに貴方に執着していたでしょう。とうてい、貴方が汚されず
にいられるわけがありません﹂
カインさんが言うことはもっともだった。
誰だかと似ているとか変なことも言っていたし、結婚前に逃げら
れたのだから、かなりの確率で女だからこその酷い目に遭うだろう。
クレディアス子爵は私が唯一魔術で戦えない相手だ。何をされて
1379
もおかしくない。
でも死ぬわけじゃない。⋮⋮怖いけれど。
﹁執着されてるなら、殺される可能性が低いはずです。だけどカイ
ンさんを生かしておくわけがありません。だから私が動けなくて重
荷になっているんですから、私を置いてカインさんだけでも⋮⋮﹂
﹁置いて行きませんよ﹂
カインさんはきっぱりと言う。
﹁どうして貴方を見捨てられると思うんですか。⋮⋮貴方は私の唯
一だ。妹のような存在としても、そうではないとしても﹂
唯一と言われて、私は泣きたい気持ちになる。
こんなにも私のことを想ってくれてる。それだけで、ぎりぎりの
状況でも救われた気持ちになってしまいそうだ。
でもこれに浸ったら、逃げる気力まで溶けてしまうだろう。
それじゃカインさんも自分も助けられない。
﹁カインさんは、私にとっても唯一のお兄さんです。死なせません。
死なないで済む努力をしましょう﹂
カインさんを失ったら、アランもレジーもきっと悲しむだろう。
なんだかんだと言いつつ、二人ともカインさんを兄のように慕って
来たんだから。
私が捕まったら死ぬというのなら、捕まらないようにしなければ
ならない。
だから動きが鈍くなった頭を、なんとか動かして考える。
このままあと数百メル。
1380
崖を降りたり、とにかく離れようと闇雲に走ったために、アラン
達のいる場所までどれくらい離れているかわからない。
あの崖はけっこう長く続いているようなので、少し離れた場所へ
来たはずだけど、私達にもまだ果てがわからない。
こうなったら、無理やり崖を登る道を作って、降りて来ようとし
ている子爵の裏をかく方がいいかもしれない。
そう提案しようとした時だった。
1381
別離をもたらす火 6︵後書き︶
※書籍御礼のSSを二編活動報告に掲載しております。
1382
別離をもたらす火 7
物音が聞こえた。踏み分ける腐葉土や枝が折れる音だ。
複数の馬が、近づいてきているんだと思う。特にこちらを探して
いる様子はないけれど⋮⋮。
﹁カインさん﹂
﹁味方なら、名前を呼ぶはずです。⋮⋮行きましょう。ここでは近
づかれるとすぐ見つかります﹂
今潜んでいる場所は、窪みの前に土壁を立てただけだ。遠目なら
まだしも、近くでは不自然極まりない。
私達はそっと窪みを出た。
カインさんの腕に縋って歩く。なるべく音を立てたくないけれど、
土の上を私の足先がひきずってしまう。
時々立ち止まり、息をひそめて相手の物音を確認した。
まだ遠い⋮⋮と思う。鎧のたてる金属音が聞こえるけれど、違う
方向へ向かっているような気がする。
とはいえ、自分の耳はもう信用ならない。
長く子爵の影響下にいたせいか、頭のぼんやり具合がひどくなっ
ていた。導かれるままに足を動かすだけで、考えるのが苦痛だ。
カインさんは音の発生源を避けて、崖に沿って歩いて行く。けれ
どこのままでは、見つけられた時に避けられない。
﹁カインさん。そろそろ崖の上に上がりましょう。なんとか階段を
作ります。相手が馬なら避けられますし、子爵達も降りる場所を探
1383
して遠ざかったはずです﹂
何より崖を上がった場所の方が、アラン達に近い。
﹁できるんですか?﹂
問い返されると自信がゆらぐ。たぶんカインさんは、また私が流
血沙汰になるのを気にしているんだと思うけど、それも命あっての
ことだ。
﹁⋮⋮やらなきゃ﹂
私の答えにカインさんもうなずいた、その時だった。
空気を斬り裂く音に身構えた時には、目の前を矢が通り過ぎた後
だった。
カインさんに伏せさせられた私は、体が重くてそのまま座り込ん
でしまう。
ゴーレム
そんな私を背に、カインさんが林に向かって立つ。
ようやく私も頭が回ったが、矢避けの土人形すら作れない。
けれどもう矢は射られなかった。
﹁ほー。あのガマガエルの言うことは間違ってないんだな。本当に
弱らせられるってことか﹂
戦場で、気を張った様子もない声。
聞き間違えるわけもない⋮⋮そしてこんな時に、と私は思う。違
う人であってほしかった。
﹁魔術師がこっちに行くって予想が当たったな。抜け出してきて正
1384
解だ。さすが俺﹂
自画自賛するその人が、ゆっくりと木の陰から現れた。
少し長めの赤茶色の髪。やや鋭い灰色の目。
︱︱イサークだ。
﹁しかし、騎士までくっついてるとはな﹂
彼は一人に見えたが、間もなく馬の足音がいくつも近づいてくる。
私達は、崖を背にした場所に追い詰められていたのだ。
イサークの緑のマントを見て、カインさんも彼がサレハルドの人
間だということはわかったようだ。そもそもは、同士討ちをを避け
るための色の違いなのだから、当然か。
﹁一人きりで移動して、音を誤魔化したのか⋮⋮﹂
カインさんのつぶやきで、音を頼りに逃げたことを、逆手に取ら
れたとわかった。
しかもカインさんの声が、特に悔しそうでもなくて。凪いだ様子
が気にかかる。
一方で、イサークにも今までのようなつもりで声をかけることも
できなかった。
私を見ても、優しそうだった以前までの表情は見せてくれない。
手には抜身の剣を持ったままだ。
冷たい視線にぞっとさせられた⋮⋮まるで転がっている石を見て
いるような目だ。
やがてイサークは、こちらへ向かって歩き始めた。
イサークの強さは私にはわからない。けれど怪我を負ったカイン
1385
さんでは不利だってことは私にも予想がつく。どうやったら止めら
れるか考えても、思いつかなくて。
﹁イサーク⋮⋮﹂
でも見逃してくれとも言えない状況だと感じて、名前を呼ぶこと
しかできなかった。
イサークは、けれど足を止めた。
﹁魔術師のお嬢ちゃん。正直なところ、俺にとってお前の存在は障
害でしかない。この男の次に殺してやるから、大人しくしていろ﹂
声を聞きとめてくれても、名前を呼んでもくれなかった。
同時に、私はだめだとわかっているのに、イサークが以前みたい
に笑って私を助けてくれるだなんて甘い期待を抱いていたことを思
い知る。
イサークはもう、サレハルドの王様として私の前に立っているん
だ。
そこでふいにイサークが﹁ああそうだ﹂と思いついたように言っ
た。
﹁このめためたになった男なら、俺の障害にもならんだろ。お前、
その魔術師を殺したら見逃してやるが、どうする?﹂
明らかな挑発だろう。けれどカインさんは乗ったりはしなかった。
﹁役目を放棄した騎士など、この国では生きて行けませんよ﹂
カインさんは剣を構える。
私は血の気が引いた。
1386
一歩も引かないで、本当にカインさんは私と死んでしまう気なの?
血塗れになって倒れるカインさんの幻覚が、脳裏をよぎる。
だめ、だめだ。二人を引き離したい。カインさんを死なせたくな
い。イサークに殺されたくない。
⋮⋮でもイサークを傷つけるのも怖い。
﹁お、ちょ、弟子!?﹂
気づいた時には、私は魔術を使っていた。
周囲の地面が、一気に針山のように棘を生みだしていく。
﹁出て行って、どっかへ行って⋮⋮!﹂
つぶやく願いと同じように、その棘の波が広がっていく。イサー
クの後方に姿を現していた騎兵達は、慌てて退いて行った。
なのに、イサークは無理に前に出てきた。
足や腕を、斬り裂いて伸びる棘にかまわず、一気にカインさんと
切り結ぶ。
失敗した、とわかった。
カインさんと私の側なら、魔術で攻撃されない。そしてイサーク
はとても近いところにいたのだ。
でも私にも、これ以上の攻撃ができない。
体の魔力が治まらなくて、苦しさのあまりに胸をかきむしりたく
なる。吐けるものなら魔力を血ごと吐き出したら楽になるんじゃな
いかと思うほど。
﹁ばかものっ、命を縮める気か愚か者め⋮⋮﹂
1387
小さな声で師匠が毒づいてる。でもごめん師匠。どうせ殺される
のなら、できるだけのことはしておきたかった。
﹁ごめんね、巻き添えにしちゃった﹂
﹁謝るな⋮⋮どうせわしは生きておらん﹂
師匠の慰めが心に痛い。
それに、せめてカインさんだけでも逃がす隙を作りたかったけど。
上手くいかなかった。
私にできることは、もう一つしかない。
﹁師匠、しばらく人形のふりしててね﹂
頼んだ上で、イサークとカインさんに目を向ける。
二人は無言で戦い続けていた。
イサークが切りつける剣を、カインさんが受け流していく姿は、
示し合わせて演じる剣舞のようだ。
カインさんが押されて体勢を崩す。
イサークが入れた蹴りで転びながらもカインさんはすぐに置きあ
がり、突きに転じる。
それでも払われた。
また打ち合う。
すぐにカインさんの息が上がってきた。きっと傷が開いてるんだ。
手当した腕も、巻いた包帯に血が滲んでいるのに、イサークはず
っと口元の笑みが消えないだけの余裕を持っている。
﹁怪我が無かった時に、殺り合いたかったものだな﹂
1388
何度目かで切り結ぶと同時に、イサークが足払いをかけた。
倒れかけながらもカインさんは剣を引かない。
振りおろすかと思ったイサークの剣を受け止めるために、上げら
れたカインさんの腕。
けれどイサークの剣先は滑らかに曲線を描いて、カインさんの足
を切り、振り下ろしたカインさんの剣を跳ね上げて、腹部に突き刺
さる。
悲鳴を上げなかったのは、声が出なかったからだ。
血が滴りはじめ剣をイサークが引くと、カインさんはその場に倒
れる。
腕が、足が震える。
でも、ここで泣いて何もしなかったら、カインさんを助けられな
い。
私は膝と手で一生懸命に進んだ。
カインさんに覆いかぶさるようにして庇う。
﹁殺さないで⋮⋮﹂
もう大きな声を上げる力もない。でもまだ気を失ったりできない。
やるべきことが、まだある。
私の動きはのろのろとしたものだったけれど、全てをイサークは
邪魔しなかった。
そのことに私はほっとする。
⋮⋮よかった。それならたぶん、私の思ったことは受け入れてく
れるかもしれない。
考えていた言葉を、声に出す。
1389
﹁魔術師が欲しいんでしょう、イサーク。だから一緒に行かないか
って、言ったんでしょう?﹂
見上げれば、イサークは無言のまま視線を合わせてきた。黙った
まま厳しい眼差しで、覚悟を口にしてみろと促すみたいに。
﹁私がサレハルドに行きます﹂
宣言する声が震えた。
﹁キアラさ⋮⋮﹂
まだ意識のあるカインさんが、止めようとしてくれたのだろう。
名前を呼ばれるが、私はそれを聞かなかったことにした。
私も、本当はそんなことしたくない。サレハルドの味方になると
いうことは、ファルジアの敵になる可能性が高いのだから。
﹁カインさんを見逃してください。引き換えに、私はそちらに投降
します⋮⋮﹂
イサークは数秒考えて答えを返した。
﹁ほぅ、殊勝なことだなキアラ。だが投降したとしても、それなり
の扱いを受ける覚悟をしてもらおう。まともな対応をするかはわか
らん。なにせお前は魔術師だ。俺としても、言葉だけを信じてほけ
ほけと騙されてやるわけにはいかないんでな﹂
王としてのイサークは、やっぱり甘くはなかった。はいそうです
かと、私を連れ去って済ませてはくれない。
1390
﹁あの嗜虐性の強い子爵の元に行くのと、そう変わらない状態にな
るかもしれないが、それでもいいのか?﹂
イサークの他人を見るような冷たい視線に、身がすくみそうにな
る。
今のイサークなら、何をしてもおかしくないと思うから、心の底
から怯えてしまいそうになる。
子爵と違って、イサークには私を抑え込む術なんてない。だから
といって何をされるのか私には想像もつかない。
拷問とかされたらどうしよう。子爵に弄ばれるのと変わらないこ
とをされたら⋮⋮。
想像するだけで泣きたかった。
それでも助けたかったから。惨めに地面に座り込むことしかでき
ない私には、もうこの体一つしか差し出せるものなんてないのも、
よくわかっていた。
それに⋮⋮このまま保てるか自信がないことを思えば、少しは気
楽だ。
﹁今の私には、魔術なんて使えないから。どこかへ運んでいる間に
暴れたりとか、抵抗することもできないと思うし、カインさんを放
してくれるなら⋮⋮従う﹂
うなずいた私に、イサークが告げた。
﹁⋮⋮いいだろう﹂
﹁だめです。どうせなら、貴方一人で逃げ⋮⋮﹂
カインさんが止めようとする。
1391
そう言って止めてくれると思ってた。それにほら、カインさんは
やっぱり私を可哀想だからって殺したりしない。
﹁死んで欲しくない。だってカインさんは、この世界での私のお兄
さんみたいな人だもの。自分に優しい家族に、死んで欲しいなんて
思うわけがないでしょう﹂
﹁でもあなたが、命に代える必要は⋮⋮﹂
伸ばした指先で、カインさんの言葉を止める。
それからひっそりと、左手の甲をカインさんの腹部の傷近くに触
れさせた。
﹁レジーはわかってくれます。私がどんなに家族が欲しかったか、
誰よりもわかっているから。お兄さんみたいに大事なカインさんを、
助けるためだったら⋮⋮っ、私がこれぐらいするだろうって﹂
そこで嗚咽が漏れそうになって、一度歯を食いしばった。
カインさんはまだ反論したそうだったけれど、私は何も言わせな
かった。
流れ出てるまま止まっていなかった自分の血を利用して、フェリ
ックスさんみたいにカインさんの怪我を治そうとする。
泣いているふりをして、うつむいて。
勝手に流れる涙が、カインさんの服を濡らしていくから、イサー
クは疑わないだろう。
そうして時間を稼げるのも、ほんのわずかだと思うけれど。少し
でもカインさんが生き残れる可能性を上げておきたかった。
カインさんは魔術のせいで、そのまま昏倒してしまったみたいだ。
丁度いい。絶対抵抗しないように見えなければ、イサークが見逃
1392
してくれないかもしれないから。
限界の状態で魔術を使っているのに、なんだかさっきよりも具合
の悪さを感じない。
それでもかろうじて残ってる思考力が、カインさんの内側からの
傷を優先して直す方向へ、魔術を使わせる。
表面の傷を優先させたら、イサークに気づかれてしまうから。そ
れができないのは悔しいけれど、逆に傷薬を使えばどうにかなるは
ずだ。
それでも血が流れ過ぎたし、魔術を使ったせいで怪我をする以上
に体力が削られてしまっただろう。なんとか命を繋いでも、無事に
アラン達ファルジアの人に拾ってもらえるかわからない。
カインさんが生き残ってくれるためには、まだ奇跡が必要だけど、
私にできるのはここまでだ。
﹁⋮⋮別れは済んだか?﹂
イサークが声をかけて私の肩を掴んだのは、それから何秒経った
頃だろうか。
ここまでだ、と思ったら少しほっとした。
﹁彼を、ここから逃がしてあげて﹂
うつむいたまま言えば、イサークが少し声の硬さを崩した。
﹁まぁ、あれだけ深い傷を負ってる奴がどうこうできるわけがない
だろうし、完全に気絶しているようだな。約束は守ろう⋮⋮おい、
その男を馬に乗せて放してやれ。魔術師をこちらが手に入れたと、
あっちに教えてやらなくちゃな。さぞかし怯えるだろうよ﹂
1393
抵抗する力もない私は、なされるがままイサークに抱き上げられ
る。
首を持ち上げることもできずに、ぐったりと仰のいたままだった
けど、カインさんがサレハルドの兵によってそのまま誰かの馬に乗
せられ、縛りつけられるのを見ているしかない。
やがて馬は、軽く叩かれて促されて歩き始める。
林の向こうへ消えて行く馬の姿をかすむ視界で追っていたけれど、
いつの間にか見えなくなる。
真っ暗だ。
たぶん目を閉じたんだろうけど、それもよく自分ではわからない。
ただなんだか寒い。
その時になってようやく、イサークは私の状態に気づいたようだ。
﹁ちょっ⋮⋮おい、キアラ!?﹂
だけどもう、私は意識を手放してしまって、説明することもでき
なくなっていた。
おかげで自分の手の傷が、わずかずつ広がっていたことも、血が
止まる様子もないことも、全くわからなかったのだった。
1394
別離をもたらす火 7︵後書き︶
※活動報告に書籍の番外編に関するSSを掲載しております。
1395
閑話∼未知との遭遇 イサーク︵前書き︶
※話の最後に今回の戦闘地域の図解を入れました。
キアラやレジー、イサークがどう移動したのか、どこにいるのか
が少しは分かりやすくなるかと思います。
※以前の記述と齟齬がありましたので、一部修正しております。ご
容赦下さい。
1396
閑話∼未知との遭遇 イサーク
﹁おいキアラ! 返事しろこら!﹂
慌てた声で呼びかけながら抱えたキアラを揺さぶるのは、ホレス
の弟子が顔と名前を知っているらしい男だ。
前に会ったのは、イニオン砦だったか。
あそこでは商人だと言っていたが、それ以前にも会っていてお互
いにある程度は相手のことを知っているらしい、というのはホレス
にもわかっている。
そして何かの拍子に、キアラがイサークをサレハルドの王だとい
うことに気づいたらしいということも。
だから色々と酷なことを言っておきながら、気絶したらしい弟子
を気にしているらしいことはわかるのだが⋮⋮。
おいおい、それではますます具合を悪くして起きんだろうが!
﹁このバカモノ! 揺らし過ぎじゃ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ホレスの声を聞いた赤髪のイサークという青年は、一瞬動きを止
めてじーっとキアラの顔を見る。
どうせ口を動かしたわけでもないのにと、不思議がっているのだ
ろう。
﹁わしはこっちじゃ!﹂
1397
とりあえず話が通じなければどうしようもないので、カチャカチ
ャと腕と足を振り回して主張してみると、イサークも周囲に集まっ
ていた騎兵達もひいっと息を飲んだ。
﹁人形が! 人形が勝手に動いている!﹂
﹁魔術師の呪いの人形!?﹂
﹁俺たち殺される!﹂
そう言って騎兵達はイサークからじりじりと離れていく。
﹁ちょっ、お前ら薄情すぎんだろ⋮⋮﹂
﹁だって陛下、呪われて死ぬとか嫌ですよ!﹂
﹁戦場で戦って死ぬならともかく、呪い殺されたなんて知られたら、
うちの嫁が周囲からつまはじきにされてしまいます!﹂
それを聞きながら、なるほど偽装ではなく、この男達が間違いな
くサレハルド出身者だとホレスは納得した。北国で少々環境が厳し
いせいなのか、あの国の人間は少々信心深い。特に呪いの類を恐れ
るのだ。
思えばこのイサークという男も、最初は呪いだのなんだのと言っ
ていたか。
⋮⋮だからこそ、まだルアインに囚われるよりはマシだなと考え
た。
そして陛下と呼ばれているのだから、イサークは間違いなくサレ
ハルドの王なのだろう。
一体どうしてそんな人間とキアラが知り合ったのか。
わからないながらも、それならキアラが必死に騎士を逃がした理
由も理解できた。
キアラに対して魔術師としての価値以外にも、ある程度話が通じ
1398
る素地がある。しかも王なのだから、ファルジア貴族のクレディア
ス子爵が抗議したところで引き渡すわけもない。
騎士ならば囚われても危険だが、キアラは生き残れる確率が高い
のだ。
ならば乗るまで、とホレスは考える。
﹁呪いではないわい。失礼なことを言うでない、小童どもめ。ヒヒ
ヒヒッ﹂
自分の笑い声が不気味に聞こえるのをわかっていて、わざと笑え
ば、一番近くにいるイサークがため息をついた。
﹁それでお前は一体何なんだ? キアラの師だとか前は言ってたが﹂
﹁わしのことはホレスと呼べ。わしこそがこの娘の魔術の師だ。と
りあえずわしのことよりもな、うちの弟子が死にかけておるからな
んとかせよ﹂
﹁死にかけ⋮⋮?﹂
﹁弟子の左手を見よ﹂
イサークは、ただ怪我をしているだけだと思っていたのだろう。
言われてキアラのだらりと垂れ下がった左手を見て、最初はわけ
がわからないという表情をしていた。
しかしホレスに怯えていなかった唯一の部下⋮⋮まだ少年の金の
髪の兵士が騎兵達の前出てきて、じっと観察して言った。
﹁傷が広がってる⋮⋮? これも魔術?﹂
﹁魔術の使いすぎと、お前たちの仲間にいる魔術師のせいじゃ。こ
のままじゃと手から砂になって死ぬじゃろ﹂
1399
ホレスの言葉に﹁おいおい﹂とやや焦った声を出したのはイサー
クだ。
﹁魔術が原因って、俺たちに何ができるっていうんだよ?﹂
﹁まず傷口を塞げ、それから急いで西へ行け。あのカエルのような
魔術師から遠ざかれば大分状況は安定するだろう。同時にお前たち
が魔術師を捕まえ、死にかけていることも知らせるがいい。⋮⋮あ
の魔術師もうちの弟子を嬲りたいのなら、殺すような真似はしなく
なるじゃろうな﹂
ホレスの説明を聞いたイサークは、三秒だけ考えてすぐに指示を
出した。
﹁ミハイル、傷の手当をしろ。そっちは俺の馬を連れて来い﹂
イサークの指示通り、周囲の人間が動き始める。
﹁本当に傷が⋮⋮﹂
怪我の手当をしたミハイルが、表情をゆがめた。どう治療してい
いのかわからなかったのだろう。
血を拭って広範囲に薬を塗った後、包帯を巻いて行く。
白い布で覆われたキアラの手は、それでもじわりと血をにじませ
てくる。それでも手当をしないよりはマシだ。
後は一刻も早く移動するしかない。
﹁早くせんかい。ほれほれ﹂
﹁一国の王が人形に急かされるなんてな⋮⋮﹂
イサークはぼやきながらも連れてこられた自分の馬に近寄る。
1400
ホレスは今のうちにと、そんな彼に言い沿えた。
﹁先に言っておくが。うちの弟子を従わせたいのなら、わしを人質
にしておけ。それだけでこやつは逃げたりもできなくなるじゃろ﹂
言われたイサークは、ふうんと意味深そうな笑みを口元に見せた。
﹁そんなに弟子が大事か﹂
﹁年頃の娘じゃ。粗雑な扱いに耐えられんじゃろ。どうしてもとい
うなら、あと五十年は待つんじゃな﹂
﹁⋮⋮干物にならなきゃ脅しも不可ってか?﹂
イサークは近くにいた騎兵にキアラを渡す。
﹁脅さなくては小娘すら言いなりにできん男が何を言う﹂
内心で少し煽りすぎたかと思ったが、イサークは無言で騎乗し、
一度他者に預けていたキアラを抱え直した。
﹁とりあえず、効果を確認してからだな。⋮⋮確認できるように、
回復できればいいが﹂
それについてはホレスとしても懸念していることだったので。
﹁⋮⋮回復させられなければ、呪ってやるがな﹂
﹁え?﹂
イサークが限界まで目を見開いて、ぎょっとしていた。
顔の良い男が間抜けヅラをしている姿というのは、スカッとする
なと思うホレスは、イッヒッヒと笑い声をたてたのだった。
1401
<i181415|14946>
1402
閑話∼その手は届かなくて 1∼
炎は一つ一つ家を飲みこんでいく。
ルアインにファルジア軍を騙すために移動させられたのだろう、
町中に人がほとんどいないらしいことだけが、幸いだった。
それでもわずかに、家の中に引きこもっていた人々が逃げ出し、
川があるという町の東へ走って行く。
レジーは兵を西門へ向かわせた。
﹁小部隊ごとに分散させて、路地を使って行くように﹂
大きな通りはルアイン側に待ち伏せされているはずだ。
だからこそエイダは大きな通りを追ってきて、その先にいるだろ
うルアイン軍にわかるように左右の家に火を放ったはずだと予測し
た。
案の定、レジーの読みは当たった。路地は遮る者がいない。西門
の近くにほとんどの兵が集結できたのがその証拠だ。
そして側にいない人間のことを思い出し、代わりに犠牲にしたも
のの大きさに、息が詰まるような感覚に陥る。
﹁フェリックス⋮⋮﹂
エイダを任せていたのはフェリックスだった。だからこそ自分が
行くと、レジーに合図を送ってきたのだと思う。
彼女の行動パターンを最も予想できるだろう人物は、フェリック
スしかいなかったので、選択は間違っていない。ただ⋮⋮その前の
選択で失敗した。
だがレジーに悔やむ時間はなかった。
1403
﹁門の外には?﹂
﹁姿はありません。代わりに町の中心部、我々の後ろから来ていま
す﹂
﹁外壁から離れた場所を南下。矢を警戒してほしい。他の者達と合
流する﹂
グロウルに答え、兵を町の外へ出す。
ここまでは上手くいったが、間もなく壁の一つにぶつかる。
おそらく自分を救うために、西から回り込もうとしてくれたのだ
ろう。リメリックのジェローム将軍の軍が近くにいたが、サレハル
ドの軍と交戦していた。
おかげで西門から出たレジー達は、攻撃されることもなかったの
だ。
サレハルドは三千ほどだが、ジェローム将軍も近い数の兵を率い
ている。押し負けることはないだろうが、早期に撃退した方がいい。
﹁町といい、これといい。サレハルドとルアインはこちらを分断さ
せにかかっている。ジェロームの軍と共に、急ぎアラン達と合流す
る﹂
だから倒せと命じれば、レジーの騎士達は生き残った兵を率いて
ジェローム将軍と戦うサレハルド軍を横撃した。
さすがにレジーがこれほど早く町から出てくるとは思わなかった
のか。サレハルド軍は一度は持ち堪えようとしたものの、ややあっ
て引いて行く。
レジーはそれを追わせなかった。
﹁おそらくアラン達も、分断されているかもしれない﹂
1404
その予想は当たった。
アランはエヴラールとデルフィオンの合同軍だけで、サレハルド
との戦闘を持たせていた。
エニステル伯爵の兵は、東に現れた別なサレハルド軍への対応に
回ったという。
その東へ、キアラが一撃離脱のつもりで協力しに行ったと聞いて、
レジーは嫌な予感がした。
けれどキアラのことを不安に思うのは、いつものことだ。
魔術師で、一人で大勢の敵兵を倒すことができるけれど、体力も
並の女性程度で、身を守る力には不安が残る。
それでもウェントワースがいる。
エヴラール辺境伯から命じられた以上、何があっても彼女を守る
だろう。個人的な感情を加味しても、自分の命よりも優先するはず
だ。
どんなに複雑な思いを抱いていても、それだけは信じている。
ウェントワースはずっと長く関わって来た人物だ。アランのよう
に無邪気なものではなかったけれど、レジーだって信頼していた。
人となりを知っていたから、他の人間に取られてしまうよりはずっ
といいと思うほどに。
自分よりもずっと長く傍にいられて、抱きしめられても逃げない
ほどには彼を受け入れているキアラを見て、内心では苦しく思って
いた。
けれど彼女がカインを望むのなら、それでもいいかと思っていた。
どうしてか、彼女には自由でいてほしいと思うから。
束縛して、意に添わない思いをさせたくない。それぐらいなら、
自分が苦しい方が良いだろうと。
どうしようもなく守りたいと思った、自分と同じ感覚を持つ人だ
1405
から。
レジーは、ジナ達と自分の騎士をエニステル伯爵の側に送り出し
た。魔術師くずれがいるという情報を受けたからだ。
おそらくクレディアス子爵が関わっているはずだ。それでキアラ
が苦境にあっても、氷狐達がいれば緩和される。
自分は行きたくてもそういうわけにはいかない。
せめて目の前のサレハルド軍を追い散らし、彼女が戻ってきても
息がつけるようにしておかなければ。
そう思っていたのに。
予想以上に早く、ギルシュと、なぜか体高が人の背丈ほどになっ
た氷狐が一匹、レジー達の元に戻ってきた。
連れてきたのは、完全に昏睡状態に陥って死にかけたウェントワ
ースだ。
彼の状態が、まず信じられなかった。
ルアインの侵攻で家族を失って以来、驚くほど強さを求めて鍛錬
を続けたウェントワースが、戦場であっても倒されるという想像が
できなかったのに。
キアラの姿はない。
事情を聞くこともできない。
ただ状況からわかることがある。
ウェントワースの怪我から、魔術師くずれと戦ったらしいこと、
剣を使う相手と戦ったことも推測できた。
ウェントワース一人では抱えきれない事象を、想定しきれていな
かったということだ。
そしてウェントワースが乗せられていたのは、サレハルドの軍馬
だ。鞍につけられたままだったものからそれがわかった。
1406
彼が落馬しないように縛りつけられていたと聞き⋮⋮。
﹁キアラは、ウェントワースを助けるためにサレハルドに囚われた
のか?﹂
つぶやいた言葉に、ギルシュがウェントワースの手当をしながら
沈鬱な表情を見せた。
本当は揺り起こしてでも聞きだしたい。彼女の居場所を。
しかし戦いは続いている。
敵はあまり軍を運営したことがない人物が動かしているのかと思
ううほど、ちまちまと細分化して攻撃を繰り返してきていた。
けれどそのためにアラン達は攻めあぐねる結果になっていた。
各個撃破しようとすると、群がる蟻のように集まってきて防ぎ、
別な場所から他の隊が攻撃され、急いで小隊毎に逃げて行くのだ。
あまり南下するわけにもいかないアランは、その度に引くはめに
なる。
状況が膠着する中、エニステル伯爵の軍が引いてきた。
このまま打ち倒すのは難しい。となれば一時撤退するしかない。
﹁問題は場所だ。どこへ?﹂
アランの質問に、レジーは答えた。
﹁真っ直ぐ南下。先に攻略した砦を接取する﹂
全軍で密集陣形をとらせる。
サレハルド軍に誘い出された時に、そのまま南下するのだ。
けれど敵陣に突撃していくのだから、間違いなく犠牲は多くなる。
亡きアズール侯爵の部下達が、それならばと最も敵とぶつかる左
1407
側面を志願してきた。
王家を奉じているからこそ、裏切ることがない軍である彼らを使
い潰すと決断するのは、レジーの心に苦い思いを残した。
そのはずだったのだが。
﹁リーラっ!?﹂
振り返れば、陣の後方に対抗がジナの肩ほどの大きさにまで巨大
化した氷狐がいた。
傭兵達の声から、間違いなくリーラという氷狐らしいが⋮⋮なぜ
と考えるのも後にするしかない。
レジーはジナにリーラを操らせて、先鋭として突撃させた。
走り出した氷狐に、サレハルドの軍は驚き、次いでまき散らす吹
雪でこちらへの攻撃もままならなくなった。
そのおかげでレジー達は、少ない損害でリアドナの砦へと身を寄
せることができたのだった。
1408
閑話∼その手は届かなくて 1∼︵後書き︶
※記憶違いがありまして、前回の内容を修正しております。
1409
閑話∼その手は届かなくて 2∼
砦に到着した後も、サレハルドの軍に備えて兵を伏せておく必要
があった。
けれど交代でも休息がとれる状況になったことで、軍全体がほっ
とした雰囲気に包まれていた。
巨大化したままのリーラが、門番のように砦の崩れた箇所でお座
りしていることも、気を緩めさせる効果を与えているのだろう。
それでも負傷者や回収した死者に関わる者達は、沈鬱な表情をし
ていた。
特に、アズール侯爵領の者達の悲嘆は深いようだ。
信用して匿っていた信者仲間が、裏切り者だったのだ。そのため
に侯爵自身も殺されてしまったのだから。
彼らから改めて事情を聞いた騎士の報告によると、エイダはエレ
ミア聖教の熱心な信者として、アズール侯爵達の朝の礼拝に乗じて
近付いてきたらしい。
アズール侯爵領の人々は、基本的にエレミア聖教信者には寛容だ。
できるかぎり礼拝を欠かさない彼らと行動を共にしたことで、アズ
ール侯爵達の信用を勝ち取ったようだ。
エイダは信者のふりをして侯爵に取り入った後、イニオン砦での
火事の際にも侯爵を頼って事件をもみ消したらしい。
どうやらあの不自然な火事は、エイダが何らかの行動を見られた
と思って、兵士達を殺したのが原因だったようだ。本人は遊ばない
かと絡まれた、と話していたようだ。
1410
アズール侯爵の遺体は、レジー達を追って町へ一度入ったキアラ
達が回収していた。
その時キアラ達はエイダと遭遇したものの、エイダは何もせず、
泣きながら走り去ってしまったという。
﹁⋮⋮フェリックスにほだされたのか。それともキアラにほだされ
たのか﹂
﹁両方のような気がいたしますよ、殿下﹂
昏睡したままのフェリックスの様子を見に来た時につぶやけば、
グロウルがそう応じた。
﹁あのエイダというお嬢さんは、愛情不足そうな顔をしていました
ように感じましたので﹂
だから王宮で一度会ったきりで、レジーの方が覚えていないよう
なことでエイダは執着を見せたのだ、ということはレジーにも理解
できた。
﹁毎回、殿下の側から連れ戻されることで、フェリックスに構われ
ている気持ちになったかもしれませんし、キアラ殿には一度大人し
く慰められていましたから。特にキアラ殿には⋮⋮同じ魔術師とし
て、何か感じるところがあったのではないでしょうか﹂
グロウルの評に、そうだといいとレジーは思った。
エイダがキアラに懐いたから攻撃しなかったのだとしたら、サレ
ハルド側に囚われても何らかの融通を利かせてくれる可能性が高ま
るのだから。
1411
﹁でもキアラ殿が傷を癒す術まで持っていたとは⋮⋮。助かりまし
た。フェリックスの腕はほぼ問題ないですし、火傷も時間をかけれ
ば癒えるでしょう﹂
グロウルにうなずきながら、レジーは唇を引き結ぶ。
そこが問題だ。
キアラは今回、魔術を使いすぎているように思う。
フェリックスを助け、サレハルド軍に攻撃を行い、エニステル伯
爵の側でもルアイン軍に攻撃を加えている。
そもそも怪我を治すことに関しては、レジーの時でさえキアラ自
身が気絶してしまうほど、負担の大きなものだったようだ。
あの時よりもキアラが使える魔術が大きくなっているのはわかっ
ているが、その後十人近い魔術師くずれに追われて、ウェントワー
スと二人だけで戦闘を行っている。
彼女の体が持つのか。
何か危機的状態に陥っているのではないかと思うと、気が気では
ない。魔術師は、魔術を使い過ぎると砂になって死ぬのだ。
そこへアランの騎士が駆け込んできて、小声で知らせた。
﹁ウェントワースが目を覚ました﹂
レジーは急ぎ、近くの小部屋へ収容されているウェントワースの
元へ急いだ。
﹁キアラさんを、連れ去ったのは⋮⋮サレハルドのイサーク王です﹂
部屋に入ったとたん、その言葉が聞こえた。
問いかけるアランに、寝台に横たわったままウェントワースはぽ
1412
つりぽつりと返事を返している。
﹁相手が名乗ったのか?﹂
﹁いいえ、キアラさんと顔見知りだったようです。お互いに名前を
知っていたようで⋮⋮﹂
ウェントワースの発言に、アランが驚愕の表情になる。
﹁なんで敵国の王と?﹂
﹁そこまでは⋮⋮﹂
首を横に振ったウェントワースは、そのイサーク王の特徴を述べ
て行く。
赤味がかった髪。灰色の目。サレハルドの緑のマントを羽織り、
騎兵達を従えていたことを。
﹁イサーク⋮⋮﹂
どこかで聞いた名前だ、とレジーは思い出す。
キアラから直接聞いたわけではない。男の名前を彼女が口にして、
それが軍内の人物以外なら、レジーはかなり警戒するはずだからだ。
魔術師である彼女に、悪意を持って近づいた可能性を考えなければ
ならないからだ。
記憶を探ったレジーは、ある兵士からの報告を思い出した。
イニオン砦で見かけた、キアラが話していた商人らしき男。
立ち去るようだが、魔術師とわざわざ話していく男は誰なのかを
知る必要があるだろうと、兵士に追跡だけさせておいたのだ。
その名前が確かイサ、と言っていたか。
1413
普通に仕入れをして町を去ったというので、これ以上関わらない
のなら問題ないだろうと思っていた。
けれど彼の特徴を聞いてわかった。あの時キアラが会っていた商
人が、そのイサーク王で間違いないと。
おそらく市井の民に紛れて、偵察に来ていたのだろう。⋮⋮王自
身が、というところが理解に苦しむが。正直なところ、途上で何か
あったらどうするのかと思うような行動だ。
レジーはそのことをアラン達に話した。アランがため息をつく。
﹁魔術師について探っていたのかもしれないな⋮⋮﹂
﹁その可能性は、高いと⋮⋮。キアラさんが、自分から言っていま
した。魔術師がほしいんだろう、と﹂
ウェントワースはとぎれとぎれでも続けていた言葉を一度止めて
から、苦し気な様子で伝えた。
﹁キアラさんは負傷した私を逃がすために、自分からサレハルドに
降伏したのです﹂
予想通りの行動の結果だったようだ。
そうでなければ、ウェントワースが生きたままでいられるわけが
ない。
ただそれだけでなく、氷狐の働きがなければ、自陣に帰りつくこ
ともなかっただろう。
ウェントワースは馬に乗せられて解放された後、何か匂いを感じ
たのか、彼の元へ走ったリーラによってすぐさま発見されたのだ。
そうしてウェントワースは、レジーに顔を向ける。
﹁殿下、キアラさんを守り切れずにおめおめと生き残り、結局はキ
1414
アラさんに救われました。この上は、命に代えても⋮⋮﹂
﹁ウェントワース⋮⋮﹂
目の前で彼女を失った彼が、思い詰めるのは当然だった。命令を
受けた騎士としても、一個人としても。
ウェントワースは、急いで伝えなければならないことだけは口に
したと考えたのだろう。
その後すぐに、気が抜けたようにまた昏倒した。
﹁腹を刺し貫かれていれば、無理もない﹂
アランが眉間にしわを刻んだ表情で、ため息をついた。
﹁ウェントワースは腹を刺し貫かれていた。背中まで傷があるのに
⋮⋮どうも、内蔵の方は傷がついた様子がなかったらしい。おかげ
で薬だけでもかなり傷を急速に癒すことができた﹂
それがあったから、今日のうちに意識を取り戻せたのだろう、と
アランが言う。
﹁じゃなかったら、ウェントワースは死んでいた⋮⋮お前のとこの
フェリックスと同じく、キアラがやったんだろう﹂
どう感謝していいか⋮⋮とアランはうつむく。
レジーは彼の言葉にうなずいた。
失いかけた二人を助けて、キアラは自分が犠牲になってしまった。
何より恐ろしいのは、キアラがやはり魔術を使いすぎているとい
う可能性があることだ。
﹁生きて⋮⋮いれば⋮⋮﹂
1415
生きていてくれさえしたら。
願うしかないレジーは、一度その部屋を出る。
フェリックスについては魔術で傷を治したせいで、本人の体力も
かなり削ったとキアラが言っていたらしい。ウェントワースも同じ
治療をほどこされたことと出血量から考えて、目覚めるまでに日数
が必要になるだろう。
石積みの無骨な壁に囲まれた廊下に出たレジーは、彼を呼びに来
た騎士に連れられて、もう一つ事情を確認しなければならない人物
の元へ、足を向けた。
1416
閑話∼その手は届かなくて 3∼
﹁殿下、お待ちしておりました﹂
砦の小さな礼拝堂で待っていたのは、ジナとギルシュだった。
膝をつく二人を立ち上がらせると、レジーはすぐに尋ねた。
﹁まずは氷狐のことを聞こう﹂
リーラという氷狐がなぜ巨大化したのか、その理由を詳しく聞い
ていなかったのだ。
ジナがうなずいた。
﹁私も理由がわかっているわけではないのです、殿下。ただギルシ
ュがカインさんの手当をしている時にリーラが身を乗り出してきて、
血がついているカインさんの服を舐めたとたんに⋮⋮あのように﹂
巨大化したというわけだ。
レジーは考えた。
血を舐めた程度で、魔獣が劇的な変化をするものだろうか。むし
ろ巨大化したということは、リーラの力が増したということではな
いか。
すると、ウェントワースをキアラが治癒させたことにかかわりが
ありそうな気がしたのだが。
そこで思い出す。
フェリックスを治療した時、キアラが自分の手を切って血を傷に
触れさせながら行ったという報告を聞いたのだ。きっと治療にはそ
1417
れが必要だったのだろう。なら、ウェントワースにも同じようにし
たはずだった。
﹁キアラの血⋮⋮か?﹂
血には微量ながら自分の魔力がこもっているらしい。だから土人
形などを作る時にも、血を使うと楽なのだと聞いている。
そして氷狐は魔術師に懐きやすく、キアラに寄り沿ってはその魔
力をわずかに得ていたと聞いた。
それなら、リーラが巨大化した原因はキアラの血で間違いないだ
ろう。
心の中で結論づけたレジーは、﹁状況はわかった。ありがとう﹂
と立ち去ろうとした。
﹁あの、殿下﹂
そこでジナが呼び止めた。
振り返ったレジーは、続けてジナから意外なことを聞かされたの
だった。
翌日、リアドナにいたサレハルドとルアインの軍は、さらに北へ
と移動して行った。
これで警戒も少しは緩められる。
ほっとする中、夕刻頃にウェントワースが再び目覚めたという連
絡を受けて、再び彼の眠る部屋を訪れた。
ウェントワースについていた看護の兵も遠慮させ、グロウルも扉
の外に待機してもらっている。
1418
二人きりになった部屋の中で、レジーはウェントワースが横たわ
る寝台の側に歩み寄る。
そして傍らにあった背もたれのない簡易椅子に座った。
ウェントワースは、昨日よりは幾分顔色がいいような気がした。
やや赤いのは、怪我で熱が出ているせいだろう。
それでも話したいことがあると呼んだのはウェントワースの方だ
った。レジーはその内容を察して、二人きりになることを選んだの
だ。
彼はレジーが予想した言葉を口にする。
﹁殿下、回復しましたら、私にキアラさんの救出をお命じ下さい﹂
﹁ウェントワース。無理はしなくていい。責任を感じているのはわ
かるけれど、君が単身で潜入することも難しいだろう﹂
﹁しかし誰かは彼女を助け出しに行かなければなりません。さもな
ければ、我が軍は相当な痛手を受けます。ホレスさんが、クレディ
アス子爵は直接的な攻撃を行う魔術は使えない代わりに、魔術師く
ずれを操る術を持っているのだろうと推測していました。実際、十
人もの魔術師くずれと戦うことになって⋮⋮﹂
なるほど、エニステル伯爵からもあまりに多数の魔術師くずれが
いたことと、クレディアス子爵とともにキアラを追いかけていった
ことを聞いたが、子爵が操っていたのだ。
それを戦闘で使われたなら、かなり厳しい状況に立たされるだろ
う。
﹁魔術師無しでは、それに対抗し続けるのは難しい。そうなれば勝
利どころかアラン様や殿下さえも、失いかねません。だから最悪の
場合はキアラさんを⋮⋮﹂
1419
キアラを、殺すというのか、とレジーは冷静にその先を予想した。
本当は、ウェントワースもそんなことは言いたくないのだろう。
けれど軍全体として、そしてエヴラール領の騎士として優先すべ
き者を考えた時に、その言葉を口にすることをためらいながらも、
頭ではそうするしかないと結論を出してしまうのだ。
口の中が苦いもので満たされるような錯覚を起こす。
レジーでも一度は頭をよぎった考えだ。けれど彼にそれを言わせ
たくはなかった。
一方で彼の立場では、そう言うしかないこともわかっている。
﹁君が決断しなくてもいいんだ、ウェントワース﹂
なのにウェントワースは首を横に振る。
﹁⋮⋮もしそういうことがあったら、殺すのは私でありたいと思っ
ていました。一緒に破滅できればそれでも、いいと﹂
ずっと彼は、側にいてくれた人だった。
グロウル達のようにたいていは騎士然としていたけれど、アラン
の悪ふざけにつき合うレジーを、その時だけは同じ目線で叱るのは
ウェントワースの役目だった。
今まで深くは意識していなかったけれど、失うかもしれない状況
を越えた今、根づいていた親愛の情を再認識させられる。
﹁ウェントワース⋮⋮。私はキアラを失いたくない。だけど、君を
犠牲にもしたくない。君は、私やアランの兄代わりじゃないか﹂
兄を失うわけにはいかない。
1420
⋮⋮キアラは失いたくない。彼女がいなければ、生きていく気が
しない。
初めてレジーは、自分が命じるべき言葉を誰にも言いたくないと
考えた。
どちらも助けたい。レジーはずっと、立場や命を守るために誰か
を切り捨てる考え方をするようにしてきたけれど、これだけはどう
しても譲れないと思う。
レジーの言葉を聞いたウェントワースは、少し驚いたように微笑
んだ。
﹁⋮⋮キアラさんはそれを知っていたんですね﹂
﹁何を?﹂
﹁キアラさんが連れ去られる直前に、考えたんです。今すぐ彼女を
刺し殺せば、敵に連れ去られることはなくなる、と⋮⋮でもできな
かった﹂
そうしなくて良かったと、心底レジーは思う。
同時に、そんな風に思い詰めるほど、ウェントワースが彼女を大
切に思っていたことを感じた。
﹁キアラさんにも言いましたが、完全に冗談だと思われていました
が﹂
﹁え、言ったのかい?﹂
驚いて口に出せば、ウェントワースも苦笑いした。
﹁たぶん、キアラさんは全てお見通しだったんだと思います。私を
逃がす時にも、兄代わりに思っている私を守ろうとしたことを、家
族がほしかったキアラさんの気持ちを知っている殿下は理解してく
1421
れるだろうと言っていました。そう言われたら、家族を失った私が
⋮⋮自分が代わりになって助けたいと願っていたことのある私が、
逆の立場に立たされて気づかないわけがないと思っていたのかもし
れない。家族のように思っている相手なら、一緒に死ぬよりも、相
手に生きていてほしいと思ってしまうことを﹂
続けてウェントワースが語った理由に、レジーは胸をつかれる。
キアラは家族のようにウェントワースを気遣って、だからこそ命
に代えても助けようとした。レジーもまた、同じように思うだろう
と知っていたんだろう。
レジーは唇をかみしめた。
﹁大事なものは沢山あると、簡単に捨てられるものじゃないだろう
って他人には言いながら、キアラは自分だけは粗末にするんだ﹂
レジーやウェントワース、それにアラン達だってキアラを大事に
思っている。それをわかっていながら彼女は自分だけを犠牲にしよ
うとするのだ。
﹁その理由は、殿下もきっとわかっているでしょう。彼女は⋮⋮ぎ
りぎりのところでこの世界に執着していないんですよ﹂
前世の記憶。
それがキアラがこの情勢になることを言いあてた、原因となるも
のだ。
また、彼女をややずれた性格に作り上げたのも、前世の記憶だ。
なにせキアラには、ごく幼少のうちにこの世界のことを教え導い
てくれる大人がいなくなった。その上、前世の家族との思い出から
ある程度の知識を得てしまったため、その他の大人は彼女が基本的
1422
なことを知っていると思い込み、ほとんど何も教えずにいたのだろ
う。
そして誰もが、彼女を道具としてしか見なかった。
だからこそ、キアラは優しい前世の方を自分の本当の世界だと思
っているのだ。
現世の家族のことをどこか突き放した存在として扱えるのも、酷
い扱いにも心が傷つきすぎたりしないよう、無意識に彼女はそう世
界を認識している節がある。
記憶通りに魔術師になってから、自分が傷つくことをそれほど忌
避しなくなったのは、死んでもこれは物語の中のことで、死んでも
元の世界に戻れるのではないかという気持ちが強まったせいではな
いだろうか。
一方で経験したことがなかったという凄惨な光景や人を殺すこと
などには、顕著に反応する。
前世の記憶からすると、異質なものだからだろう。
それでは自分の考える﹃修正した物語﹄から遠ざかると感じたキ
アラは⋮⋮それすらも物語の中のことだ、と考えるようになったの
ではないだろうか。
実際にどうなのかは、一つ一つ彼女に確認してみなければわから
ない。
ただこの推測が、それほど真実から遠いものではないだろうとレ
ジーは思っている。
たぶん同じことを、ウェントワースも感じていたのだ。
﹁彼女に、ここが現実だと教える機会があればいいんだけれど﹂
﹁それなら、一つ良い方法があります﹂
1423
カインが言う。
﹁彼女にあなたを守らせてあげて下さい﹂
﹁⋮⋮どうして﹂
﹁気づいていませんでしたか? キアラさんがやっきになって戦争
を物語の中のような出来事だからと思い込んで無茶な戦い方をした
のは、殿下を守ろうとしてのことです。貴方に、守るなと言われた
から、意地になってしまったのでしょう⋮⋮彼女にとって、それが
どうしても譲れないことだったから﹂
﹁だけど守るだけなら、君だって﹂
﹁私は違うんですよ﹂
レジーは目を瞬く。
﹁キアラさんは私が可哀想だから、許容してくれていただけでしょ
う。それに⋮⋮キアラさんはきっと無事だと思います﹂
ウェントワースは続けて言った。
﹁昨日は、伝えきれませんでしたが。あちらの王も、立場があった
から厳しくキアラさんに接していたようですが、結局は端々で彼女
を傷つけまいとしていました。魔術師が欲しいのと同時に、あちら
も彼女と接触していたことで、キアラさんに情が湧いた可能性があ
ります。キアラさんもそれを利用して、私を解放させたのですから﹂
なるほど、先方もキアラにほだされた部分があるのは間違いない
ようだ。
レジーはサレハルドについて聞き知ったことからも、そう判断し
た。
1424
﹁実はジナから、キアラについて聞いた話があるんだ⋮⋮﹂
そうしてお互いの情報から推測できることを話し合いながら、レ
ジーは不思議な気分になる。
キアラのことについて、ウェントワースと深く話合うのは久しぶ
りな気がした。しかもここまでお互いの心の内までさらけ出したの
は、初めてではないだろうか。
なんとなくそれが、レジーは嬉しいような気がしたのだった。
1425
夢はいつでも優しくて
私は、水の中でたゆたっているような感じがしていた。
魚というよりも、例えるなら海草になったような、そんな気分だ。
ゆらゆらと揺れる私の横を通り抜けて行く水の流れは、時々様々
なものを映して見せるように、頭の中に映像がひらめく。
小学校の時、家族で行った海、山。
お父さんは山が好きで、泳ぎは得意じゃないからと海では女の子
みたいにパラソルの下から出てこなかった。
代わりに私を背中に貼りつかせて、泳いでくれたのはお母さんだ。
小学校の卒業式。
お母さんと近所のショッピングモールで買ったワンピースを着た
けれど、ちょうど雨の日で、うっかり跳ねた泥で汚して泣きたくな
った。
お母さんには﹁汚れが目立たない黒にしなさいって言ったのに﹂
と言われたけれど、お父さんが可愛いお洋服が台無しになって悲し
かったねと、慰めてくれた。
どこかお父さんの方が乙女な感じだったけど、反抗期になってか
ら、静かに諭してくるお父さんの方が少し怖いなと思うようになっ
たんじゃないかな。
むしろお母さんの方が、私の扱いに困ってお父さんに慰められて
た。
懐かしい私の家族。
もう会えないのかな。
1426
悲しくなるたびに、目を覚ましたらあの懐かしい世界に帰れるん
じゃないかなと、期待しそうになる。
もう一度やり直せるなら、あんなにお母さんを悩ませたりしない
のに。お父さんに肩たたきしてあげたりして、もうちょっと大好き
だって伝えられたのに。
︱︱もう一度やり直せるなら。
そんな言葉を、誰かに言われた気がする。
つぃっと、魚が素早く過るように目裏に蘇るのは、自分をじっと
見る水色の瞳。
絡みつくように握りしめてくる、私よりも大きな手。
その人の暖かな体を、最初は怖いと思ったんじゃなかっただろう
か。
警戒する猫の子を慣れさせるように、何度も膝の上に抱きしめら
れたような記憶があるような気がする。
︱︱そんなに好きだってわかるぐらいにすがりついてくるのに、
話せないのかい?
首にしがみついていたらそんなことを言われて、でもやっぱり口
には出せなくて。
助けたくても、従わされてしまえば何もできない。
助けられたくても、相手が死ぬまで縛られる呪いが相手では、彼
にもどうにもできない。
彼も、そこに囚われるしかない人だったから。
︱︱私を悩ませたくないんだね。
1427
うなずくと、わかっているよと微笑んでくれた。
言わなくてもわかってくれる。それは私が素直過ぎるからだと彼
は言う。
理解してくれるけれど、だけどそれだけでは八方ふさがりなのは
変わらない。彼も同じことを考えていたんだと思う。
︱︱どうせ逃げられないんだったら、二人で⋮⋮。
そこでふっと、たゆたっていた体が浮くような感覚に襲われた。
海底に根を張っていたのに切り取られてしまったように、不安に
なる。
﹁犬畜生にできて、わしにできんことはない!﹂
その声がとても懐かしい。
﹁傷は塞がったけど⋮⋮﹂
聞き覚えがない男の子の声がする。
﹁目を覚まさせればいいのか?﹂
力に満ち溢れたような声がそう言うと、誰かが慌てた。
﹁乱暴なことをするなと言うておるだろうに、この野蛮人め!﹂
﹁わーかってるっての。加減するって﹂
﹁そういう問題じゃないでしょう⋮⋮ああ、また熱が﹂
ちょっと水面に浮きかけたのが、また少しずつ沈んで行く。
1428
少しほっとする。
底についたら、また暖かい夢が見られるかもしれない。
﹁おいキアラ。目を覚まさなかったら、この人形壊してやるからな﹂
⋮⋮脅しなんだろうか。胸が痛む。
壊してほしくない。だけどここからどうやって出ればいいの?
じたばたともがきたいけど、私は海草みたいなものだもの。沈む
ままになる以外に何もできないのに。
﹁あの騎士、追いかけて行って殺してもいいんだぞ?﹂
やめてやめて、と思う。
だけど無理。叫ぶ声も出ないもの。
それに騎士って誰? とても大事だって気持ちはあるのに、名前
が思い出せなくて。
﹁わかった⋮⋮最終手段をとる﹂
﹁何か策でも?﹂
問われた人物が、自信ありげに答えた。
﹁お姫様ってのは、王子様のキスで目を覚ましたい願望があるんだ
ろ?﹂
﹁アンタ王様でしょうが⋮⋮﹂
﹁こまけぇんだよお前﹂
苛立つ声。そしてなんだか触られているような感覚がある。
海草だった私に手足や頭があると初めて認識できたような、不思
議な気持ちになったのだけど。
1429
くすぐったい感覚が触れたのは、どこ?
その瞬間脳裏にひらめいたのは、指先で唇に触れた人の顔、そし
て一瞬だけ、唇の端が触れあって間近で目を合わせた︱︱。
﹁く、くぅぅぅっ﹂
声が出なかったけど、手が動いた。思いきり突き飛ばすつもりで
伸ばした手が、何かに当たって、
﹁うげっ!﹂
誰かの叫び声が聞こえたけれど、その一瞬後に私の意識は再び暗
転した。
◇◇◇
眠ったまま、反応も見せなかったキアラが、小さく呻いた気がし
た。
﹁お、起きたか?﹂
覗き込んだイサークは、突然動かされた手で顎を叩かれた。
﹁うげっ﹂
予想外の攻撃にがくんと頭が揺らされて、一瞬だけ意識がとぎれ
そうになった。顎を押さえてもう一度キアラを見た時には、彼女は
また眠っていた。
1430
﹁よっぽど嫌だったんですねぇ⋮⋮﹂
金の髪のミハイルは、実に哀れなものを見る目をイサークに向け
ていた。
﹁こんな脅しが効くとはの、ウッヒッヒッヒ﹂
土色の人形が、神経を逆なでするような奇妙な笑い声をたてる。
脅しの一環のつもりで、唇に指先で触れたのは、この人形の提案
だったのだが。
ふとイサークは、その人形の背中の辺りに模様に隠れてヒビが入
っていることに気づいた。
﹁おい、背中にヒビがあるぞ﹂
﹁あ、本当ですね﹂
﹁⋮⋮むぅ﹂
自分の背中を見ることができないホレスという名の人形は、呻く。
﹁大事ない。弟子が起きれば何とでもなる﹂
そう言うのならば、そうなのだろうと思うしかない。イサーク達
には魔術のことはよくわからないのだから。
昨日だったかも、この人形が必死にキアラにくっついていたのは、
結局何をしていたのかよく理解できなかった。
﹁犬畜生にできて、わしにできんことはない!﹂
というからには犬には何かができるのか?
とにかくその後、広がらなくなったものの、治り切らなかった傷
1431
がきちんと消えたことも、うめき声を上げる程度にはキアラが意識
を取り戻しそうになったのは確かだ。
ついでにショックを与えろと言われて、脅してみたら殴って来た
ので、キアラは目覚めそうになったのだと思ったのだが⋮⋮。
﹁これ、また昏睡してんのか?﹂
キアラはまた静かに眠っている。
﹁さっき一度は目を覚ましかけたんじゃ。魔力も安定してきておる
⋮⋮。このまま休めば起きるとは思うが﹂
そこで言葉を切ったホレスは、あのどこを見ているかわからない
一本線の目をイサークに向けてきた。
﹁お前さん、あの子爵だけは近づけるでないぞ﹂
﹁わかってるって。自分で脅しておいてなんだが、とんでもない奴
隷扱いになりそうなのは予想がつくって。俺もサレハルドのために
働いてほしいわけだから、渡す気はないんだが。ただなぁ。あいつ
のキアラの執着っぷりがな﹂
一度、ルアインの将軍と会う用事があった時のことだ。
そこにあのクレディアス子爵がいた。
イサークはキアラのことを隠すかどうか迷っていたが、打ち明け
ることにした。
内密にしておいて、後でクレディアス子爵が所有権を主張してき
た時に対処するより、自分が倒して降伏させたので自分の物だ、と
今のうちに認めさせた方がいいと考えたのだ。
その時はクレディアス子爵は何も言わなかった。
1432
魔術師を手に入れたということで、ルアインの将軍の方が若干悔
しそうにしていたぐらいだったのだが。
解散する時、子爵が言ったのだ。
﹁私ならすぐにも回復させられるだろうがね﹂
どうやら見てもいないのに、子爵はキアラの状態について予想が
ついているようだ。
﹁あいにくと、あの魔術師の問題は怪我の方なんでね。俺でも十分
対処できる﹂
と答えたのだが。
魔術師についてはわからないことだらけだ。
とにかく今は、この奇妙な人形の言う通りにするしかないのだが。
こうして待つ時間というのはまどろっこしくていけない。
﹁早く目を覚ませよキアラ﹂
ささやいても、彼女はまだ目を開けない。
1433
戻ってきた現実と励ましと
寒気がした。
なんだかインフルエンザを思い出す。
頭がぼーっとして、熱が上がっているせいだってわかるのに、体
が寒くて寒くてたまらないあの感覚。
お母さんが、マスクをしながらも看病してくれたんだよね。
またインフルエンザかな⋮⋮。それにしてはなんだか、ベットの
硬さが柔らかすぎるような気がする。愛用してた煎餅布団の硬さじ
ゃない。寝つきがわるくてやめたスプリングベットとも違うような。
ああでも、とにかく寒い。
﹁寒⋮⋮﹂
毛布をきつく引き寄せようとしたら、頬にヒヤッとした堅い物が
くっついてきた。
つめたっ。だけど⋮⋮あれ、なんだか寒気が引いた?
どういうことかと思いながら目を開けると、
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁起きたか弟子﹂
土色の土偶の顔とご対面した。
なんだろう。その一瞬で夢うつつな感覚がふっとんで、ものすご
く目が覚めた気分になった。
﹁ししょ⋮⋮う、げほっ﹂
1434
喉がからからだ。
﹁三日、ろくに物を口にしておらんからの。乾いて当然じゃ。まだ
あまりしゃべるな﹂
そんなことを言う師匠の背後から、誰かが声をかけてくれた。
﹁水、飲みますか? 体起こせるといいんですけれど﹂
﹁あ、お願いし⋮⋮﹂
そこまで言って、私は全く力が入る様子のない自分の背中を、起
こすのを手伝ってくれる少年を見て目を瞬く。
金の髪には覚えがある。
ちょっと可愛いめの顔立ちをした彼は、イサークがミハイルと呼
んでいた少年ではなかったか。
今は侍従みたいな服を着ていて、体の大きさは私とそう変わらな
いのに、ぐったりとした私を支えて水を飲ませようとしてくれる。
⋮⋮完全に寄りかかった体勢になってることについては、考える
まい。彼は今、看護師さん代わりなのだから。
とにかく水だ。飲まないと話すどころではない。
ミハイル少年が支え持ってくれるカップの水を、少しずつ飲む。
本当は一気に飲み干したいけれど、介助されている身なのでミハ
イル少年が傾けるのに合わせて、ちょっとずつ口に入れるしかない。
口に含んだ水は、やたら美味しい気がした。それほど冷たくはな
いけれど、喉を通って胃に浸みこんで行くように感じる。
水を飲ませたミハイル少年は、私を寝かせてから食べたいものは
ないかなど、甲斐甲斐しく世話をしてくれた。
1435
﹁あの⋮⋮あなたは﹂
イサークの部下だというのはわかるけれど、一体どういう立ち位
置の人なのか。
﹁申し遅れました。僕はイサーク陛下の侍従でミハイルといいます。
何か口にできそうなものをお持ちしますので、少しお待ち下さいね﹂
そう言って、彼は部屋を出て行った。
ミハイル少年を目で追って、私はようやく部屋の中を見回すこと
になった。
⋮⋮戦場近くの館を接収したのだろうか。白壁の落ち着いた部屋
はそれなりに広く、ミハイル少年が出入りした扉もしっかりとした
造りだ。ただ貴族の家というほどでもない。
そしてかすかに感じる煙の匂い。
﹁師匠、ここはリアドナの中だったり?﹂
﹁そうじゃ。あれから三日経っておる﹂
﹁三日⋮⋮﹂
そんなに眠っていたのかと思うと同時に、あの状態から三日寝込
むだけで済んだのかとも考えた。
⋮⋮正直、死んだかと思ったから。
生きているということは、サレハルドに捕えられたということだ。
イサークが侍従を付けたのだから、酷い扱いをする気はない⋮⋮の
だといいけれど。
﹁でも、このままだと⋮⋮﹂
1436
ファルジアに敵対させられる。それを避けたい。
だけど私が死んだら、師匠も消滅してしまうのだ。カインさんを
助けることや敵につかまりたくないということだけで頭がいっぱい
で、あの時は師匠に謝ることしかできなかったけれど。
もう一度一人になった時に冷静にそれを選べと言われると⋮⋮や
っぱり難しい。
私のそんな物思いを知ってか知らずか、師匠が励ましてくる。
﹁今はとりあえず休め。まだ本調子ではないじゃろ。逃げるのなら、
走れるように準備しておくものじゃ、ヒッヒッヒ。逃がしたと思っ
た時の、あの男どもの間抜けヅラを想像しながら折り合いをつけて
おけ﹂
師匠のアドバイスにうなずきながら、私は首をかしげる。
﹁なんか具体的ですね師匠﹂
﹁わしゃ脱走の達人じゃからのー。牢の中から鉱山から、どこから
でも逃げてやったわい⋮⋮弟子ならば、お前もやりおおせろ﹂
それから師匠が、珍しく真剣な声音で続けた。
﹁お前の師匠はな、元は奴隷じゃ﹂
﹁どれい?﹂
突然の師匠の告白に、私は目を瞬く。
今まで師匠はそんな話をしたことがなかった。たぶん、奴隷だっ
たなんて他の人に言いたくはなかったんだろう。なのに、どうして。
﹁サレハルドより北東の国で、生まれた時にはもう奴隷じゃった。
だがとにかく自由になりたくてのぉ。脱走し続けて、殺されそうに
1437
なってもまた逃げて、出会った魔術師に一か八か今すぐわしを魔術
師にしてくれと頼んで⋮⋮わしは当たりを引いたんじゃ﹂
それで、師匠は魔術師になったのか。
前からおかしいとは思っていたんだ。まだ生きたいと言って土偶
になってまで存在を望んでいた師匠が、死ぬかもしれないような賭
けに出る理由がないように思っていたから。
でも確かに。魔術師になれば奴隷になどなる必要はない。師匠は
自由と生命を天秤にかけたのだ。
﹁わしはもっと自由に生きたかった。好きなものを見て、好きなこ
とを言って生きて行く。魔術師の師の元は、奴隷生活よりは自由だ
ったからのぉ。ついつい長居した上で終の別れまでした後も、腰の
痛みぐらいでくたばってやるものかと思いつつ移住して⋮⋮。気づ
けば干物老人になっておったか﹂
ふっと師匠がため息をつく。
﹁だからの。死んだあげくの延長戦の人生まで生きられて、わしは
たいがい満足しておる。ファルジアはまだそんなに旅もしておらん
かったからの。いろいろ見聞できた上、愉快な弟子の大騒ぎを見物
できて、いつ消滅しようとそれほど悔いはない。だからお前が決め
るといい。最後はここだという瞬間をな﹂
﹁師匠⋮⋮﹂
私が死ねば、師匠も自動的に魂がこの世から解き放たれて、本当
に死んでしまう。
それを選んでもいいと、師匠は言ってくれているのだ。
しかも私から頼まないで済むように、未練などないと説明までし
て。
1438
﹁師匠はなんでもお見通しなんですね﹂
﹁ほっほ。今頃気づいたんかいの。まぁ十六の小娘の考えることぐ
らいは想像がつくじゃろ。さ、やる気になったのなら、直せほら﹂
﹁ぎゃああっ、師匠が壊れてるううう!﹂
後ろを向いた師匠の背中に、ひび割れができていた。ていうかな
んか一部小さく欠けてる!
﹁どう、どうしてこんなことに! イサークが落としたの!? そ
れとも捨てられたんですか!?﹂
﹁あーお前さんの魔力をな、ほれ、犬どもが魔力を吸ってどうにか
したことがあったじゃろ﹂
確かにあった。リーラが私にくっついてくれて、魔力を吸われた
ら、荒れ狂ってた体内の魔力を安定させやすかったことが。
﹁わしとお前は魔力で繋がっとるわけだからな、同じことができる
じゃろと思ったんだが、なんぞ背中がすーすーと﹂
﹁もうしちゃだめですよ。私が死ぬより先に、師匠がこわれちゃう
じゃないですか⋮⋮﹂
うわーびっくりしたと思いながら、急いで師匠を直す。
その間師匠は﹁ヒッヒッヒ﹂といつも通りの笑い声をたてていた
のだった。
1439
世の中には避けられないことがあるらしい 1
﹁お、なんだ元気そうじゃねーか﹂
ノックも無しに扉を開けて入って来たのはイサークだった。
カインさんを刺した光景を思い出し、私は思わず肩に力が入る。
助けたらしいことから、私をすぐに殺すつもりはないだろうけど、
でも不安がこみ上げてきた。
それに﹁あの嗜虐性の強い子爵の元に行くのと、そう変わらない
状態になるかもしれないが、それでもいいのか?﹂って言ってた。
鞭打たれたりとかするんだろうか。私が絶対イサークに従うって
納得できるまで?
一度お友達になれたかもしれないって思った分だけ、豹変された
ことが心に刺さって余計に不安になる。
怖い、と思って思わず師匠を抱きしめてしまった。
﹁安心せい。身の保証はわしがなんとかしておいた﹂
ぼそっと師匠が告げてきた。
何のことだろうと思っているうちに、ミハイル君を従えてさっさ
か部屋の中に踏みこんできたイサークが、あっと言う間もなく師匠
を取り上げる。
﹁お前が管理しとけミハイル﹂
ぽいと投げてよこされて、ミハイル君は慌てて師匠をキャッチし
た。
1440
﹁ちっ、人質にするつもりなら、もっと丁重に扱わんかい﹂
﹁⋮⋮というわけだキアラ。お前の師匠とやらは、お前が逃げだし
たりしないようにするための、人質として預かっておく﹂
﹁え!?﹂
身の保証ってそういうことだったの!?
﹁お前が妙なことをしたら、師匠とやらは即壊す。だから大人しく
してろよ﹂
私は黙ってうなずいた。
確かに師匠はちょっと頑丈な焼き物程度の強度だ。斧なんか使わ
れたら壊れてしまうだろうし、中に入っていた魂もどっかに飛んで
行ってしまうかもしれない。
⋮⋮何かの隙を見て、どうにか師匠を補強しておかなくちゃ。
心の中で固く決意した私の枕元に、イサークは手をついて顔を近
づけてくる。
もう片方の手で顎に触れられて、肩がひくりと動いてしまった。
﹁すげー怯えようだなキアラ。お前、前会った時は自分が強いって
言ってたのにな?﹂
あの時は、あんなにも優しかったのに、今は面白がるような表情
で挑発するような言葉しか口にしない。これが本当のイサークだっ
た、ってことなんだろうか。
でも⋮⋮なんだか、ムカついた。
どう考えても抵抗できない状態の小娘を、ここまで脅す必要なん
てないはずなのに。
﹁今の私は、魔術一つ使えやしないわ。あまりつつくようなら、適
1441
当に魔力を使って自壊するわよ﹂
せっかくなんとか生き残ったんだ。やすやすと師匠を死なせたく
は無い。
だからすぐにどうこうする気なんてないけれど、捕まった以上、
私が対価として差し出せるのは魔術だけだ。逃げる場合にも、魔術
を使えなければならない。
だから魔術を使えない状況にされないよう、釘を刺しておくべき
だと思った。
﹁ふん? まぁお前の場合、あの騎士を目の前で刺した時の様子か
らすると、乱暴に扱えばすぐ死にそうだからな﹂
顎をとらえていた指先が、つ、と動いて頬をなぞる。
﹁俺を出し抜こうとするなら、それなりの手を考える。抵抗する気
がなくなるようにする方法はいくらでもある。⋮⋮知りたいか?﹂
﹁嫌﹂
即答した。
王様の顔をしたイサークが提案することなど、絶対ろくなもんじ
ゃない。カインさんに、私を殺せば助けてやるだなんて言った人な
んだから。
﹁まぁそう言うなよ﹂
イサークはさっきより、楽しそうな表情になった。
﹁聞いたら絶対に大人しくなる話があるんだ﹂
﹁やだ聞かない。とんでもないことに決まってるもの!﹂
1442
﹁聞いておいた方がいいと思うけどな。⋮⋮その服、誰が着替えさ
せたと思う?﹂
﹁⋮⋮はあっ!?﹂
今着ているのは、確かに見覚えのない柔らかい麻の寝間着だ。た
ぶん町の人のものを拝借するなりしたんだろうと思うけど。
着替え!?
私は思わず部屋にいるミハイル君を見た。彼だったとしてもちょ
っと⋮⋮と思ったけど、ミハイル君はとても気の毒そうに首を横に
振る。
﹁誰か女の人⋮⋮﹂
﹁いるわけないだろ。町の人間は、作戦の邪魔になるっつって近く
の町に俺が追い出したんだ。巻き込まれて死ぬよりマシだろって思
ってな。優しいだろ? それにお前のためだけに、強制的に面倒を
見る人間を連れて来ればいいのか?﹂
⋮⋮町の人を捕まえて、労働に従事させようとは思わない。
思わないけど、それってまさか。
﹁他の兵に任せて、身の安全は保証できないからな? 俺って優し
いだろ﹂
﹁つまり⋮⋮イサーク⋮⋮が﹂
﹁そう俺様。見慣れてるから気にすんなよ? だが逃げ出すような
ことがあれば、ファルジアに向かって叫んでやるからな?﹂
﹁⋮⋮!!﹂
いやあああああっ、イサークに裸見られたってこと!? うそう
そうそ!
叫びたいのにショックすぎて声がでない。
1443
口を開け閉めしながら涙目になる私に、イサークはちょっと横を
向いて噴き出して笑い出した。
﹁⋮⋮う、うそ?﹂
笑うってことは嘘なんでしょ!? そう思ったのに、イサークは
無情にも﹁本当だ﹂とばっさりと切り捨てた。
容疑が確定した。その瞬間私はようやく絶叫した。
﹁は、破廉恥! バカ! うそおおおおっ!﹂
ついでに手も振り回した。
ばちばちと顔や手に当たったからだろう、イサークが慌てて身を
引いたけど、気にせずまだ手を振り回して、泣きながら怒りのあま
り叫んだ。
﹁うわーんお嫁に行けないーっ!﹂
﹁だから大人しくしてたら黙っててやるから﹂
﹁信じられないぃぃぃ!﹂
﹁なんだったら俺がちゃんとした相手を紹介してやるから﹂
﹁イサークの知り合いなんて、みんな破廉恥な人に決まってるでし
ょおー! もう一生独身貫いてやる! でもその前に秘密を握った
イサークを抹殺する⋮⋮﹂
イサークを睨めば﹁囚人のくせに犯罪予告かよ⋮⋮﹂と呆れられ
たけど、知るものか。
﹁なんにせよ、それだけ怒って何もしないんだから、本気でお前魔
術使えないのな﹂
﹁さ、さっきからそう言ってるでしょう! ぐすっ﹂
1444
﹁どうぞ﹂
﹁ありがとう﹂
そこへ気が利くミハイル君が、ハンカチを差し出してくれた。泣
いて鼻水がひどくなってきたので、盛大に音をたてて鼻をかんでや
った。イサークが心底嫌そうな顔をする。
﹁おま⋮⋮嫁に行くよりも、女としてこう⋮⋮﹂
﹁囚人だから知らないもん﹂
﹁もん⋮⋮。子供かよ﹂
イサークは深いため息をついたが、私はそれなりに酷い目に遭っ
たと思うし、今でもカインさんを傷つけたことは怒っている。かと
いって身の危険満載の状態に置かれたいわけでもない。
だってカインさんが死にかけてまで守ろうとしてくれたんだ。今、
彼がどうなったかわからないけど、生き残ったのならせめてその分
ぐらいは、生き足掻かないと申し訳ないじゃないか。
⋮⋮そうしたらこれぐらいの報復で矛を収めるしかない。
本当に怒らせて、刺し殺されては困るから。
一連の出来事を見ていた師匠が、なぜか﹁ウッヒャッヒャッヒャ﹂
と笑っている。きっとイサークにザマミロ! と思っているんだろ
う。師匠はもっと笑ってもいいよ。とてもバカにしているっぽくて
私も胸がすっとするから。
なんだか疲れた表情でイサークが私に言う。
﹁まぁなんだ。とっとと回復しろよ。サレハルドに協力するって条
件で助けたんだからな。いくらなんでも一度は戦に出てもらいたい﹂
﹁⋮⋮私を働かせたいなら、クレディアス子爵を近づけないでほし
いんだけどっ﹂
1445
こうなったら不都合なことは忘れるに限る。そう決めた私は、強
気で要求した。
クレディアス子爵の件は、命と人生に関わる切実な問題だ。
脱走するにしても、できなかったにしても、それを守ってもらえ
ないと私は何もできない。だから注意したんだけど。
﹁なるべく善処している。とりあえずお前の居場所を、俺と離して
すぐにわからんようにしておいたんだが﹂
﹁あ、それダメ。魔術師同士は居場所がわかっちゃう﹂
﹁⋮⋮げ!? なんだそれ。隠しても無駄ってことだろ!﹂
心底驚いたイサークに、舌を出してべーっとしてやりたいが、で
もその分私に危機が迫る確率が高くなるのだ。鼻で笑ってる場合じ
ゃない。
というか味方にクレディアス子爵がいたんだから、知ってるもの
だと思ってた。
イサークが自分の頭を掻きながら渋い表情になる。
﹁俺の側に置くしかないのか⋮⋮。なるべく早く移動させるか。ミ
ハイル、手配しとけ﹂
ミハイル君が﹁わかりました﹂と言うのを聞いてから、イサーク
が付け加える。
﹁万が一の場合には、だ。俺の言うことを聞いて、嫌でも従え。あ
のウシガエル子爵の囚われの身になるよりマシな待遇は約束してや
る﹂
真剣な表情に押されて私はうなずいた。
1446
でもその時、建物の階下が騒がしくなる。
1447
世の中には避けられないことがあるらしい 2︵前書き︶
今回R12ぐらい?な要素が入ります。
1448
世の中には避けられないことがあるらしい 2
﹁え、何?﹂
﹁ミハイル、誰なのか見て来い。人形はこっちに寄越せ。念のため
隠す﹂
﹁ぽいっ﹂
﹁ちょっ、またわしを投げるなっ!﹂
イサークに命じられた瞬間、ミハイル君がイサークに師匠を投げ、
受け止めるのも確認せずに扉を開けて外を確認する。
イサークは﹁黙ってろ﹂と言って、師匠を寝台の下に隠した。
﹁イサーク様、件の子爵です。間もなく上がってきます﹂
ミハイル君がそう言って扉を閉め直した。
私は肩を縮めた。
まるで私が目を覚ましたのを待っていたかのようなこのタイミン
グ。気持ち悪いし、こんな状態が悪い時に会いたくない。
抵抗できずに、子爵に変なことをされたら、逃げられない。
ふと脳裏に過るのは、最近良く見る夢の中のことだ。
私は心底クレディアス子爵が怖くて、嫌悪していて。
でもどうしようもない状況になった後で、深く絶望してた。もう
この体に染みついた汚れは落ちないと思ったから、死ぬしか逃げる
手段を思いつけなくて。
だけど⋮⋮あの人と一緒にいる時だけは、それを忘れられた。
傷をなめ合ってるだけだってわかっていたけど、それでもお互い
以外にわかり合える相手がいない。だから会うのを止められなくな
1449
っていて。
もし私が学校を逃げださなければ、そうなっていたんだろうか。
気づいたら、イサークが寝台に上がってきて、私を上掛けでくる
むように抱きかかえて座った。
殺されかけた相手に拘束されて、私は何をされるのかと怯えた。
﹁さっき言った通り、引き渡されたくないなら大人しくしていろよ。
俺が何をしても従っとけ。とりあえず俺の言う通りにしろ﹂
何をするつもりなのか。聞くより先に、部屋の扉が開いた。
﹁ちょっ、いきなり入ってきてどなたですか!?﹂
人が来てるとわかっていたのに、ミハイル君は心底驚いた表情で
入って来た相手に抗議する。
部屋に踏みこんできたのは十人の男達だ。
クレディアス子爵とそれに従っているらしい黒いマントのルアイ
ン兵。それを追ってきたらしいサレハルドの兵だ。
この部屋が広めで本当によかった。先頭に堂々と立っていたのは
クレディアス子爵で、その顔を間近で見たら悲鳴を上げていただろ
う。
だって遠目でも、なんか目が血走ってそうなのがわかる。ウシガ
エルみたいな目がかっと開かれて、瞬きの回数が少ないってすごく
怖い。
その視線が、私一人に向けられている。ぞっとした。
でもイサークは私を捕まえて離さない。庇われているのか逃げな
いようにされているだけなのかわからなくて、不安でたまらない。
1450
イサークは余裕をにじませた声で対応した。
﹁おやおや突然の訪問だな、クレディアス子爵殿。俺に何か用かな
?﹂
﹁元々私の花嫁になる予定だった娘ですので。迎えに来た次第です﹂
言われたイサークが小声で私に聞く。
﹁おい、本当か?﹂
﹁結婚前に逃げたけど、もう二年前だし別人ってことになってるか
ら関係ない﹂
イサークは鼻で笑ってクレディアス子爵に視線を向ける。
﹁この娘は該当者ではないと言っているぞ。それに、ファルジアで
は重婚が可能だったのか。確か細君がいたと思うが﹂
え、子爵って結婚してたの? ⋮⋮誰だろうその気の毒な人は。
ていうかまさか、魔術師にしようとして結婚したのかな? じゃあ
王妃の側には私じゃない魔術師がいるってこと?
﹁婚儀をすっぽかされましてな。その償いも求めたいところですし、
なによりこの娘の養父から、見つけたら家に連れ戻してくれと要請
されております﹂
クレディアス子爵は笑みも浮かべずに淡々と言葉を並べた。
﹁それに⋮⋮魔術師としても、私の支配下に置くべきものでしょう。
イサーク陛下。あなたではその娘を制御できますまい。回復次第す
ぐに反抗し、お命を奪う機会を狙われることでしょうな﹂
1451
だけど目だけが、私からそらされない。
どうしてこの人は、私ばかり見るのか。魔術師になったから?
﹁いいや、俺に従うと約束してくれたばかりだ﹂
イサークは約束通り庇い続けてくれる。でも、実力行使で出られ
たらどうするんだろう。様子を見守っているサレハルドの兵士達と
戦わせて、どうにかするつもりなんだろうか。
﹁危険です。怪我をされてからでは遅いのですよ﹂
﹁信じられないか? むしろ何なら信じるんだ?﹂
クレディアス子爵がようやく焦れた様子を見せた。わずかに顔を
しかめて言った。
﹁恭順の態度が見られればとは思いますがな。おそらく無理⋮⋮﹂
﹁なら、その目で見ていけばいい﹂
子爵の言葉を遮るように言ったイサークは、我慢しろとささやい
て︱︱私の服に手をかけた。
え、何するの!?
抵抗したかったけど、寝たきりから復活したばかりで動きも鈍い。
その間にイサークの腕で体が押さえられ、えりぐりの大きな衣服の
ボタンが二つ三つと外されていく。
﹁⋮⋮っ!?﹂
ようやく腕が動いた。私は思わずイサークを叩こうとして⋮⋮自
分の手を見て気づく。
1452
まだレジーにもらった指輪をしていた。
イサークは外さないでいてくれたんだ。
レジーに、これはお守りだと言われたことを思い出す。
今ここでイサークを叩けば、彼に従っているようには見えなくな
るだろう。
そうしたらこれ幸いとクレディアス子爵に連れ去られて、ゲーム
のようにファルジアと戦わされて⋮⋮アラン達に殺されるんだろう
か。
レジーはそうして欲しいと望まない、と思う。
もしこれがレジーだったとしたら、私は何があっても生きていて
ほしい。多少のことは犬にかまれたようなものだ。レジーが無事で
いること以上に、大事なことなんてない。
なによりクレディアス子爵の場合、あの目つきからしてふりだけ
で済むわけがない。
ほんの少し、我慢するだけ。
イサークも怖いけど、それでもクレディアス子爵よりはマシ。子
爵から守ってくれると言った。それを信じるしかないから。
逡巡した私に、イサークが他の人間にも聞こえるように言った。
﹁ほら、大人しくしてろ⋮⋮約束しただろう?﹂
持ち上げた手が捕まえられて、イサークの肩に頬を押し付けるよ
うに、クレディアス子爵達から背後を向かされた。
暴れたい。でも暴れない方がいいかもしれない。戸惑ううちに、
肩を露出させられる。
見知らぬ人にまで肌を見られてるのかと思うと、本当に涙が溢れ
1453
てくる。
やだ、と思った時﹁ごめんな﹂というつぶやきとともに、イサー
クに首に噛みつかれた。
⋮⋮狼みたいに首を食いちぎって殺されるかと思った。
ほんの少し痛いだけだったのに、怖くて声を上げてしまった私の
背中を、イサークが撫でるように触れる。
爪を立てたりしないのに、一撫でごとに恐怖が煽り立てられた。
どうしたらいいのかわからない。
だから結局は、イサークにしがみついて耐えるしかなかった。
﹁ほら、抵抗しないだろう? これだけ回復してたら、子爵が同じ
ことをしようにも死ぬ覚悟で暴れるだろうよ﹂
イサークが挑発するようにくくっと笑う。
﹁さぁわかったら引き上げてもらいたいな。これから俺はまだ楽し
むつもりなんだが、見られながらする趣味はないんだよ。⋮⋮ミハ
イル、客には引き上げてもらえ﹂
後ろを向いていたからわからなかったけれど、クレディアス子爵
は何も言わず、どうやらサレハルドの兵とミハイルに促されて部屋
を出て行ったようだ。
複数の足音が遠ざかり、扉が閉じられ。
すぐにイサークは私の衣服を直して、下に落ちていた上掛けで首
まで私をくるんだ。
﹁泣くなよ。⋮⋮悪かったな。あいつをやり過ごすためだけだ。も
う何もしない。予想通り、ショックを受けた顔をして出て行きやが
ったからな﹂
1454
謝ってくれるけれど、私の涙が止まらなくて。
イサークはため息をつきながら、目元を指先で拭った。だけどそ
の指も怖くて、ぎゅっと目を閉じる。
﹁⋮⋮そんなに俺が嫌か?﹂
﹁嫌とか、考えたこと、なかった⋮⋮けど﹂
嫌いになりたくなかった。悩んでいた時に、助けてくれた人だか
ら。
だけど無理だ。もう私の心がいっぱい過ぎる。
﹁こんな酷いことをするイサークは嫌。カインさんを殺しかけたり、
エヴラールやレジーと敵対するイサークは嫌い﹂
言い始めると、だんだん止まらなくなって今までの不満が噴き出
した。
﹁嘘をついたイサークは嫌。なんで敵なのに私に接触してきたの?
なんであんなに優しくしたの。お菓子くれたり庇ってくれたり。
なのに戦わなくちゃいけないとか。お兄さんや国を守るためにファ
ルジアに侵略するとか。なんでそんなことするの。なんでさっきも
あんなこと⋮⋮っ﹂
あとは嗚咽交じりになって、自分でも言葉にならなくなった。
それも悔しくて。だけど自分じゃどうにもできなかったことが分
かっているから、泣くしかないんだ。
嫌だ嫌だと言われたのに、イサークは怒らずに聞いていた。
﹁お前に接触したのはな。魔術師を見かけたから、好機だと思って
1455
攫おうとしたんだ﹂
私の言葉が途切れると、イサークは一つ一つ答えてくれる。
﹁だけど泣いてる女を無理やり連れて行けるかよ⋮⋮。それにお前
の場合、魔術はたいしたもんだと思うが、精神的に弱いことはわか
ったからな。どうにでも勝つ方法はあるだろうと思ったし、迎えが
来たからな﹂
合間に、抱えた私の背中を叩く。
最初はさっきのことを思い出して緊張したけれど、守るように上
掛けで厳重にくるまれたことと、子供をあやすような手つきに、少
しずつ落ち着く気がしてくる。それが悔しい。
﹁俺の兄のことも口にしたってことは、ジナ達から話を聞いたんだ
な。俺がルアインの侵略に手を貸した理由とか。⋮⋮俺は国を守り
たい。救いたいと思ったら、こんな手しかなかった。⋮⋮それも、
初めは俺が考えたわけじゃないんだけどな。ミハイルが考えついて、
俺がそれに乗ったんだが﹂
あとはあれか、とイサークが続けた。
﹁泣いていたらどうにかしてやりたいと思うぐらいには、お前に情
を持ってるんだろうな﹂
情って、友情とか、同情とかそういうもの?
でも聞き返せない。そうだと言われたら、また私はイサークのこ
とを友達だと思っていいのかと考えてしまう。あんな風に裏切られ
たのに。
1456
﹁⋮⋮なんでカインさんを殺そうとしたの﹂
どうしてもそれが私の心に引っかかった。それがなかったら、イ
サークのことをこんなに恨まずに済んだ。
﹁俺も都合があってな。一度は勝つ必要があった。それに魔術師を
捕まえたなら、ルアインもこっちの働きにもう文句は言えなくなる。
お前を守ってたあの男は、一緒に囚われるような穏やかな人間じゃ
ない。お前が捕まれば死ぬだろう⋮⋮今も生きてるかわからんが﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
それについては反論できなかった。たぶん私が先に捕まっていた
ら、カインさんは責任を感じて自害しかねない。
でもやっぱり、殺されそうになったことを思い出すと、もうイサ
ークを前みたいに優しい人だと思うことはできなかった。
少しの沈黙の後、イサークは小さく笑う。
﹁カインて奴はお前の何なんだ? 男か?﹂
﹁⋮⋮お兄さん、みたいな人﹂
﹁あの時もそんなこと言ってたっけな。じゃあレジーって⋮⋮レジ
ナルド王子のことか? そっちがお前の男か?﹂
﹁レジーは、私の保護者だもん﹂
変なことを聞くなと思いながら答えれば、イサークは面白がるよ
うな顔をした。
﹁レジーって愛称で呼んでんのな、お前。そんなに特別か﹂
特別と言われて、なぜかカッとなった。
自分でもよくわからない衝動に押されて、身じろぎして反転し、
1457
イサークの肩を平手でぱたぱた叩く。
﹁ばか⋮⋮ばかっ、ばかイサーク!﹂
﹁いて、いてていて! あ、ひっかきやがった﹂
それでもさっきのように、イサークは止めたりしなかった。
なされるがままのイサークに、なけなしの反撃も尽きた私は、ま
たぼろぼろと涙が出てきてしまう。
どうして叩かれるままになってるの。カインさんのことは殺そう
としたし、アランの軍にだって攻撃をしかけてきたのに。
私に悪いと思っているからだと思うけど、その優しさが⋮⋮憎ら
しい。
暴れなくなった私を、イサークはだだをこねる子供を守るように
抱きしめた。
﹁恨んでもいい。俺は⋮⋮お前よりも、自分の国の方が大事だ。だ
けどあの子爵に連れていかれないようにだけはしてやる﹂
そしてイサークは、私が寝つくまで側にいたようだ。
﹁まだファルジアとのにらみ合いが続いてるからな。しばらくリア
ドナから動かんだろ。今晩にも俺がいる館の方に運ばせろ、ミハイ
ル﹂
﹁場所を整えて⋮⋮日没までにはどうにかしましょう。あの様子で
は⋮⋮。目つきがすごかったですね。特に陛下が噛みついた時とか、
視線で殺せるものなら、そうしていたんじゃないかって感じでした
よ﹂
﹁だろう? しっかし凄まじく執着してるな⋮⋮なんでだ?﹂
﹁僕だって知りませんよ﹂
1458
うとうととしながら、私が眠ったと思って会話をする二人の声を
聞いていた。
やがて会話も途切れ、もう誰もいなくなったと思った時、イサー
クが近くでささやいた。
﹁どうせなら、俺を滅ぼすのはお前がいいな﹂
そう言ったイサークの指先だろうか。私の前髪を撫でて、離れて
いった。
1459
伸ばされた茨 1
眠ってから、どれくらい経ったのか。
﹁起きて下さい﹂
柔らかな声と、肩をゆすられて目を覚ました。
目を開けるとミハイル君がいた。部屋の中は薄暗くなりつつある。
もう夕暮れ時なのかもしれない。
﹁もう少し安全な場所に移動します。眠っていると動かしにくいの
で、できれば起きていてください﹂
言われて私はうなずく。
クレディアス子爵を避けるための移動をする、と寝入る前に話し
ていたはずだ。イサークのことがどんなに憎らしくても、確かに子
爵よりは身の危険は少ないので、ついていくしかない。
それにしても、と思う。
イサークがなんだか変なことを言ってた。
自分を滅ぼす相手は、ってどういうことだろう。
殺しても死ななさそうな人なのに⋮⋮。それともイサークって、
実は何かポエム的なことを言うのが好きな人なんだろうか? まさ
かね。
三日も寝たきりだった私は、体に力が入りにくくなっている。だ
からミハイル君と一緒にいた体格のいい兵士が私を上掛けでくるん
で抱き上げた。
1460
サレハルドの人だと思うだけで、触れられると怖い。
肩を縮める私に、その兵士は首に掴まるように促した。落とされ
たくないので、従うことにした。
﹁あの、師匠は⋮⋮﹂
﹁先に私達が寝泊まりしている場所へ移動しています。一応は人質
ですので、別行動にさせていただいてます﹂
一緒に移動しないのかと思って聞けば、既に師匠は移動済みのよ
うだ。
ほっとした私を連れて、移動が始まる。
部屋を出ると、短い板の廊下と木の階段が見えた。階下に降りる
と小さな玄関に着き、そこで一度周囲を確認してから外へ出る。
今までいたのは、やや大きな民家だったようだ。
﹁イサーク陛下がいるのは、リアドナの町長の家です。近くの建物
にルアインの人達がいますが、場所がわかってしまうなら陛下の側
の方が安全ですので、これから陛下の隣室に入っていただきます﹂
﹁イサークの隣⋮⋮﹂
首を食いちぎられて殺されるんじゃないかという恐怖を思い出し
て、背筋がぞわっとする。とても落ち着かなさそうだけど、身の安
全に代えられない。
なんにせよイサークは約束を守ってくれているし、子爵にそれは
望めないんだから。
私を隠すつもりだったからだろう、狭い道の途中にあるその家か
らの道は、何度も角を曲がっていくものだった。相手が魔術師でな
ければ、普通に追跡を撒くつもりならこれで良かったんだろう。
たぶん、それが仇になったんだと思う。
1461
道の前を遮ろうとする集団が現れた。
でもミハイル君はそれを予想はしていた。
﹁来た﹂
ミハイル君が指示をすると、私を移送していた集団が二手に分か
れる。一方が前の集団に対応し、私を連れたもう一方が横道に入る。
そうして間もなく、大きな道に出るところには、他の緑のマント
を身に着けた集団がいた。万が一のため、援助の部隊を置いていた
ようだ。
ミハイル君が手を振ると、すぐさま私達の元に掛けつけようとし
たが。
横殴りの、緑の風に見えた。
恐ろしい速さで伸びる木や草や花が、待機していた兵士達をなぎ
倒す。
﹁ちっ。魔術師くずれまで出してくるだなんて!﹂
舌打ちしたミハイル君が、別な道を指示しようとするが、路地に
まで繁茂する植物の蔓が伸びて来た。
﹁あの娘を捕えろ﹂
その声に操られるように、姿を現した手足に植物を生やした兵士
が、植物たちを操る。
剣で斬り裂こうとする兵士達を力押しで突き飛ばした。
視界の端で、ミハイル君も植物の蔓に巻きつかれて倒れている。
私を連れていた兵士も、魔術の攻撃には対応できずに倒され、な
んとか私を下にしないように受け身をとってくれたけど、それ以上
1462
はどうしようもなかった。
蔓が絡みついて私を引きずるように兵士から離していく。
そうして大きな魔術師くずれの傍まで来た時、絶対に関わりたく
なかった人物に抱え上げられた。
息をのむことしかできない。
恐ろしさで声を出すことも無意識に押さえた。
意外に大きな手が、背中と足に触れていることが気持ち悪くて仕
方ない。衣服から漂う樟脳に似た匂いに、よけいにその人物に抱え
られているということを印象づけられる。
﹁安心するがいい、落としはしない。⋮⋮くくっ。石畳になど触れ
させては、何をするかわからないからな。おい、連れて行け﹂
間近でやや歪んだ笑みを見せ、クレディアス子爵は別な兵士に私
を渡した。
兵士は上掛けにくるまれたままだった私を荷物のように担ぎ、歩
き出す。
既に行先は決まっているようだ。
クレディアス子爵から離れて、ようやく頭が回り始める。
どうしよう。土魔術の特性は、子爵に知られてる。
石どころか、この兵士が鎧を着ていないのは、金属を私が利用す
ると思ったからじゃないだろうか。
そんなにも慎重なのに、これから行く先でも石などの利用できそ
うな物が手元にあるようには思えない。
脱出するためには、非力な私では魔術を使うしかないのに。
﹁キアラ様!﹂
1463
遠くから、呼ぶ声がする。
抱えられていて、振り向くことができない。でもミハイル君の声
だ。
声を出せるということは、彼はまだ生きているってことだけど、
怪我をしているかもしれない。
でも今の私には、どうすることもできなかった。
私はただ運ばれて行く。周囲にも数人の兵がいて、クレディアス
子爵は私の後を追いかけて来ていた。
そしてこちらもしばらく進んだ後で路地に入る。
やがて川の音が聞こえると思った場所にある、一軒家の庭に作ら
れた小屋。周囲も建て増しをした住宅ばかりで、軍の関係者などは
いなさそうなこじんまりとした場所だ。
小屋自体も茨が周りを這い、緑の中に半ば隠されたような格好に
なっている。
その中に私は入れられた。
私を置くと、兵士は立ち去り⋮⋮クレディアス子爵だけが中に入
って来た。
﹁ああ、やはりお前はアンナマリーに似ている﹂
そう言いながら、クレディアス子爵は側に膝をつくと、私をくる
んでいた上掛けをはぎとろうとした。
私は思わず上掛けを精いっぱい握りしめた。
1464
伸ばされた茨 1︵後書き︶
途中になりましたので、明日にでも続きを更新します。
1465
伸ばされた茨 2
﹁ふん⋮⋮その強情な気質も受け継いだのか。やはりアンナマリー
の親族だけある﹂
﹁⋮⋮親族?﹂
よくわからないけれど、クレディアス子爵が執着しているアンナ
マリーという人に私は似ていて、その原因は親戚だからということ
らしい。私は母似だと聞いたことがあるので、たぶん母親の親族な
んだろう。
そのせいでこんな人に執着されてたの?
唯一、この世界で薄らと優しかったような印象を持っている家族
だったのに。そう思うと怒りが湧いてきて、まだ抵抗できる気がし
てきた。
﹁まだ抗う意思があるのか? しかし土に関わる物が無ければ無駄
だろう。そのためにこんな小屋に放り込んだのだからな﹂
⋮⋮だからか、と思った。
ファルジアの一般的な建物だと、石造りや煉瓦造りのことが多い。
床はだめでも壁とか、そうでなくとも暖炉ならば土に関わるものが
必ずある。
私をイサークから隠すために、自分達が逗留している場所へ連れ
て行かなかったのかと思ったら。それだけでなく私が抵抗できない
ようにするために、こんな小屋に放り込んだんだ。
﹁さぁ、邪魔が入らぬうちにお前を躾けておこう。抵抗する気にな
1466
らなくなるようにな﹂
そう言ってクレディアス子爵が、ゆったりと私の頬を撫でさする。
気持ち悪さで吐き気がした。
﹁いやっ、離れなさいよこのロリコン!﹂
なにせこの子爵はロリコンが確定している。私がパトリシエール
伯爵に引き取られたのって、たしか10歳くらいの時だったよ!?
その時に初めてこのウシガエル子爵と会ったんだ。
それから結婚しても仕方ないだろうと言われる年齢まで指折り数
えてたと思うと怖気が走る。
しかもイサークの時みたいに、演技なんかじゃない。このままだ
と酷い目にあわされる。
魔力を操られていないのをいいことに、私は精いっぱい暴れた。
蹴り上げようとした足は、のしかかられて封じられる。
それならばと殴ろうとしたら手を拘束されろうになって、気持ち
悪いけど子爵の手に噛みついたけど、
﹁大人しくしないか﹂
頬を殴られた。
そう思った次の瞬間には、頭がぐらぐらして一瞬気を失ったよう
だ。気づけば歯が口の中に当たって切れたのか、鉄の味がする。
衝撃に呆然としている間に、体をはい回る手が、腕から肩、首へ
と撫でた子爵の手が、胸元へと降りて行く。
﹁こうして早々に私に屈していれば良かったのだ。ああ待つ時間は
長かった⋮⋮。この代償に、お前をさらった王子達は目の前でじっ
1467
くりといたぶって殺してやろう。くくっ﹂
クレディアス子爵が口にした言葉にかっとなる。
﹁お前という邪魔者は私の手の内。魔獣を飼っているようだが、魔
術師くずれを操ればいくらでも⋮⋮﹂
私は首元に顔をうずめられた瞬間、私が動かなくなったからと油
断して離していた左手で、子爵を張り倒そうとする。
﹁まだそんな気力が⋮⋮﹂
苦々しい顔をするが、残念、こっちはフェイク!
私は右の指にはめていたレジーの指輪を、長く大きな針に変えて
いた。
気合いとともに突き出した手に、針が間違いなく子爵の腕に刺さ
った感触を伝えて来た。
肉の弾力が生々しく伝わって気持ち悪い、でもこれでも気が済ま
ない。
﹁がああっ!﹂
クレディアス子爵は相当痛かったようだ。叫び声を上げながら私
から尻もちをつくようにして離れた後、怒りに任せて私の魔力を抑
えにかかった。
﹁なんというじゃじゃ馬だ。けしからん﹂
文句を言いながらも、ぐったりと仰向けに倒れるしかない私にほ
っとしたようだ。またその顔ににたりとした笑みを浮かべる。
1468
それでいい。上手く引っかかったと私は思った。
もう息苦しくなってきている上に、魔力を荒らされて意識が途切
れそうだ。この状態で闇雲に魔術を使えば、私は砂になるだろう。
レジーの指輪も砂になってしまったし、もう抵抗する方法が他に
ない。
本当はクレディアス子爵を道連れに殺してやりたかったけど、そ
うできないなら利用できないように自分を消すしかない。
⋮⋮ごめんね、と思う。
仲良くしてくれた人達。こんな私を命をかけてまで守ろうとして
くれたカインさん。一緒に滅びてもいいと言ってくれた師匠。
そしてレジー。
もう一度、会いたい。また頭を撫でて、大丈夫だって言って抱き
しめてほしかった。
家族みたいに思っちゃいけないってわかってるのに、どうしてこ
んなに慕わしいんだろう。
思い出すと覚悟が揺らぎそうで、私は木の床で隔てられた土を無
理やり扱うため、魔術を使おうとした。それぐらい無理をしたら、
きっと⋮⋮死ねるから。
けれど。
ふっと空気が変わったと思った瞬間、小屋の壁の一面が炎に包ま
れた。
急激に空気を熱し、続く壁に、床に炎が燃え移ろうとしている。
﹁くっ、なんという邪魔を! エイダか!﹂
壁際にいた子爵は、服に炎が燃え移りそうになって、慌てて小屋
の外へ逃げて行った。
1469
扉を開いた向こうには、地面に倒れた人の姿があった。
︱︱エイダさん。
彼女を見つけたクレディアス子爵は怒鳴った。
﹁貴様! なんてことをしたんだ!﹂
﹁あの子がいなければ、殿下はわたしに振り返ってくれるはずだっ
たのよ! 憎んで当然じゃない! 悠長なことをして殺さないなん
てっ﹂
﹁この馬鹿者!﹂
悲鳴が上がる。
蹴られる姿を見た瞬間、心が痛くなる。だけど庇える力は、もう
私にもない。
顔を横に向けて、目を開いていることぐらいしかできないけれど、
痛みをこらえるエイダさんと視線が合った。
その青緑の瞳が涙を流しながら、何かを訴えるように私を見つめ
ていた。
憎しみなんて一カケラもそこには見えなかった。
﹁エイダさん⋮⋮﹂
つぶやく間にも、エイダさんがまたクレディアス子爵に蹴りつけ
られた。
﹁早く火を消せ! 私の、アンナマリーが!﹂
﹁あ⋮⋮たしがっ、燃えた火を消せないのは、知ってるでしょ⋮⋮﹂
﹁くそっ、誰か! 誰か水を持って来い!﹂
1470
答えた後、エイダさんは気絶してしまったようだ。
でも彼女の気持ちが、口にした言葉とは違うことはわかった。
エイダさんはこのまま酷い目にあうぐらいならと、私を死の世界
に逃がそうとしたのだろうか?
﹁私のために、痛い思いまでさせて⋮⋮ごめんね﹂
私もエイダさんを助けられない。だけどおかげでクレディアス子
爵から逃れることができた。
やがて彼女の姿は、扉の辺りを取り巻き始めた炎に遮られて見え
なくなってしまう。
空気の熱さに悲鳴を上げそうになったけど、これで子爵が絶望し
てくれるなら願ったりかなったりだった。
けど、不意にそれがかき消えた。
もうろうとする視界に映るのは、緑と淡い薄紅の花。
綺麗だけど、薔薇ほど豪華じゃない花は、茨だ。いつの間にか茨
で包まれていた。
火や熱から守られたと思った次の瞬間、指先に棘のようなものが
刺さった。
﹁いっ⋮⋮﹂
痛みに呻いて、手を離そうとしたけと指に茨の蔓が巻き付いて、
離れない。
焦った瞬間、ふと息苦しさが引いたような気がした。すると気力
が湧いて、体の中の魔力が落ち着いて行く。
それはまるで、魔術師の契約をした時に、ホレス師匠が手伝って
くれた時のような感覚だ。
1471
何だこれ? と最初は思った。
けれど契約、契約の石、そして刺さった茨に、私は思い出す。
﹁茨⋮⋮姫?﹂
指先に巻き付いた茨が、その呼びかけに素知らぬふりをするかの
ように、しおしおと枯れていく。
目の前の淡い桜色の一重の花は、何も語らない。
だけど物言わぬ動物がじっとこちらを見る時のように、私の様子
を伺っているような気配を感じた。
まさか茨姫って、こんな遠い場所の茨にまで影響を与えられるの?
もしそうだとしたなら。だから何かあった時に、茨姫が助けられ
るようにあの石を使えと言うことだったとしたら。
﹁これ⋮⋮。絶対にそれを使いなさいって、こういうことだった、
の﹂
何か起こった時に、助けられるようにとそう思って私に指示した
のだろうか。
茨姫は、同じ石を飲みこんだ魔術師なのだろうか。⋮⋮いや、茨
姫が私が使った石のかけらを、いくらか取り込んでいたから、影響
を与えられたのか? そうとしか思えない。
だけど契約をするわけにはいかないから、魔術師にしてあげるこ
とはできないという意味なのだとしたら。
﹁はっきり言えばいいのに⋮⋮長生きし過ぎて、説明がおっくうな
のかな﹂
思い出すと懐かしくなって、目にじわっと涙がにじむ。
1472
でも、どうして茨姫はそうまでして私を助けてくれようとしたん
だろう。
そもそも私が魔術師になるって知っていた?
茨姫は、起きるはずだったことを知ることができる人なの?
茨を操るだけじゃなく、もう一つ魔術を使えるような魔術師だっ
たんだろうか。
そんな私に呼びかける声が聞こえた。
﹁おいしっかりしろ!﹂
熱くない空気とともに聞こえたのは、イサークの声だった。
◇◇◇
﹁せっかく⋮⋮ここまで来たのに。死なせないわ﹂
呟き、彼女は茨をぐっと握りしめた。
皮膚が破れて血が滴っていく。
そのうち数滴が、茨姫が膝まで浸かった泉の中に落ちて広がり、
他は赤黒い岩に絡む茨へ吸い込まれるように消えて行った。
そのまましばらく目を閉じ、じっとしていた茨姫は⋮⋮やがて大
きく肩の力を抜き、側にあった岩に縋るようにして泉の中に座り込
んだ。
銀の長い髪の先が、泉の上に広がっていく。
﹁エフィア⋮⋮今度こそ、やり遂げてみせる。だからもう少しだけ、
貸して⋮⋮﹂
茨姫は泉の中の大きな赤い石にすがりながら、願うようにつぶや
1473
いた。
1474
憎いと嫌いの違い 1
駆けつけたイサークによって、私は助けられた。
小屋が燃え落ちる前に間に合ったイサークは、茨のおかげで火傷
をせずに済んだ私を連れ、クレディアス子爵には有無を言わせず連
れ去ってくれた。
とりあえず、身の安全を保障してくれる人が来たことでほっとす
る。
茨姫のおかげで、魔力的な体調はかなり回復したものの、疲労困
憊と栄養の足りなさを訴えた私は、怪我の手当の後でご飯にありつ
き、それから清拭させてもらって休んだ。
なにせ三日寝込んだ上、水しか飲んでない状態で誘拐された上、
火あぶりになったんだし。
それに、元気にならなくちゃ抵抗できない。
子爵の一件で私は傷つくというより、とにかくやり返したい気持
ちで一杯になっていた。力が出ない使えない時にできる精いっぱい
の復讐は、死んで利用できなくすることしかなかったけど、気力体
力があれば多少は抵抗できるのはわかっている。
油断を誘って加減させたところを、こっちは全力を出して一気に
叩くつもりだ。
実行したら、子爵を殺すことになるのはわかってる。
戦場での死はただ謝る気持ちばかりだった。自分や大切な人が生
きるために、誰かを殺す自分に罪悪感があったから。今でもイサー
クやミハイル君達が死ぬ姿を想像しようと思うと辛くなる。
なのに子爵に関してだけは、勝つことだけしか考えられない。
1475
⋮⋮今まで、この世から消し去りたいほど、誰かを憎いと思った
ことはなかった。
嫌な人がいたって、どこかに行ってくれたらいいなとか、嵐みた
いに過ぎ去ってくれないかとか、そんな風にしか思わなかったから。
あの人がいる限り、穏やかに暮らせない。
何より子爵がいる限り、レジー達を守れない。
カインさんですら無事かわからないのに、レジーまで失うことを
考えたら、怖くてたまらなくなる。そんな大事な人達を奪うと言っ
たクレディアス子爵が、心底憎かった。
カインさんも、こんな風に思っていたのかな。
家族を亡くして。だけど直接殺した相手がわからないから、ルア
イン全体を憎しみの対象にしてしまったのかもしれない。
私は彼に憎まないでとは言えなかった。ただ過去に囚われ続けて
いるカインさんを、どうにかしてあげたいと思っていた。
理解できるようになった今は⋮⋮否定したりしなくて良かったと
思う自分がいる。
だから私は必ず子爵を倒さなくてはならない。
それにエイダさんのこともある。
彼女は魔術師だと聞いてはいた。
実際、クレディアス子爵に力を抑え込まれていた様子から、そう
なんだろうと思った。
そんな彼女が抵抗もできず蹴られ続けた姿を見たら⋮⋮まるで、
逃げなかったら私がああなっていたかもしれない。
そう思ったら助け出せないかと考えた。
エイダさんがフェリックスさんを傷つけ、アズール侯爵を殺した
1476
のは間違いないことだし、本当は憎むべき相手なのかもしれない。
けれど本来なら彼女は、こんなことをしなくても良かった人だ。
あともう一つ、エイダさんに同情してしまう要因があった。
イサークを呼んで来てくれたのは、彼女だというのだ。
﹁ミハイルより先にな、あの女が俺のところに来たんだよ。お前が
攫われる、なんとかしろってな﹂
寝台の横にぴったり椅子をくっつけて座っていたイサークが、そ
う話してくれた。
﹁場所と、ウシガエル野郎は魔術師くずれがいなけりゃ何もできな
いって言い捨てて、あの女が先に走って行きやがってな⋮⋮。人手
を集めるのに少し手間がかかったが、おかげでお前が燃える前にな
んとかなったわけだ﹂
情報通り、クレディアス子爵はサレハルドの騎士や兵に対して自
分ではどうにもできなかったらしい。
クレディアス子爵に従う兵も、サレハルドの国王であるイサーク
に対抗できなかったようだ。
﹁エイダさんは⋮⋮﹂
﹁あの女は子爵の嫁だって言うからな⋮⋮。悪いがそれだと手が出
せなかった﹂
だからか、と私はようやく理解した。
エイダさんが私を助けた理由も。ルアイン側の人として戦った理
由も。レジーに執着していたのも納得できる。
彼女は助けて欲しかったんだ。
1477
そして自分と同じような目にあいそうになった私に、同情してく
れたんだと思う。
だけど私を助けようとしたことを知られては、今後のエイダさん
にとってまずいことばかりだから、私を恨んでいたなんて嘘をつい
たんだろう。
﹁とにかく俺の方は、アーリング伯爵に抗議してある。あのウシガ
エルがサレハルドのいる場所に近づかないようにってな。ただ、隙
が出来たらどうなるかは疑わしいが⋮⋮﹂
そこまで話した時、扉がノックされた。
﹁お食事、お持ちしましたよ﹂
ミハイル君が、やや歩きにくそうに部屋の中に入ってくる。
魔術師くずれに攻撃されたせいで、昨日はまだ頬や手に怪我を負
っていたけど、それは治ったようだ。ただ打ち身になった足の完治
が遅れているらしい。
私も殴られた頬がまだ痛い。腫れは引いたんだけど、度々冷たい
水に浸けた布で冷やしている。正直この世界では、薬さえあれば切
り傷の方が治りが早い。
ミハイル君が、イサークと入れ替わって椅子に座り、イサークは
少し離れたテーブルで食事をはじめる。
私も全部平らげたところで、ミハイル君とイサークが交代。
座ったとたん、イサークが困った表情になった。
﹁⋮⋮重傷だな﹂
手を差し出そうとしたイサークが、その前に袖をしっかりと掴ん
1478
だ私の手を見下ろしている。
﹁あの⋮⋮ごめんなさい﹂
﹁まぁ、仕方ないけどな。強姦されかけて平気な奴はそういないだ
ろ﹂
実はクレディアス子爵を攻撃したりと、あの時はかなり冷静だっ
たと思ったんだけど、全くそんなことはなかった。
ただクレディアス子爵憎しで頭がいっぱいになっていただけだっ
た。
炎から遠ざかって落ち着いたとたん、助けようとしてくれたイサ
ーク達少数の人以外に離れられるのが、怖くなってしまった。
なるべく我慢して慣れようとするんだけど、とてつもなく心細く
なってついつい袖を掴んでしまう。今もミハイル君が座ってくれて
いる間、袖を掴ませてもらってたんだけど、イサークが手を差し出
すのも待てなかった。
﹁こうなった一端は俺にもあるんだろうがな﹂
目の前で仲間を刺し殺そうとした上で、私を誘拐したイサークが
そう言う。
﹁ていうか、イサーク陛下がつきっきりになる必要もないと思うの
ですがね。キアラ様も放置されたからといって、すぐに泣き出すと
いうわけでもないんですし﹂
最初、それに近い心理状態になりかけた私は、そっとミハイル君
から視線をそらした。大騒ぎしなくて良かった⋮⋮。
1479
﹁だって俺の女だって言ってきたもんだからよ⋮⋮。近くにいない
とおかしいだろ?﹂
ルアイン側に抗議する時に、戦利品とかより独占するのも無理は
ないと、そう思わせたかったんだろうけど。
﹁はぁーっ﹂
ミハイル君が深くため息をつく。それから数秒じっと私を見た後
で言った。
﹁まぁ、警戒するならなるべくイサーク殿下の側にいた方がいいわ
けですが。でもこのままでは有事の時に困りますね﹂
﹁陛下だろ﹂
﹁はいはい陛下﹂
ミハイル君に言い直させたイサークが立ち上がった。
﹁じゃあ慣らそうぜ﹂
そのままずかずかと私の方に近づいてくる。
﹁え、何を思いついたんです陛下﹂
ミハイル君がとまどい、近づかれた私が息をのんでいる間に、イ
サークはためらいなく私を抱え上げた。
﹁え?﹂
﹁他のやつらと接触しておけば、無駄な警戒もしなくなるだろ。と
りあえず腹ごなしに屋上まで散歩させてくる﹂
1480
イサークは部屋を出たところで私を降ろし、歩かせた。
手を繋いでくれていたけど、兵士なんかとすれ違うと心細くなる。
思わず手に力が入るせいだろう、イサークがささやく。
﹁王様が隣にいる間は、どいつも牧羊犬みたいにお行儀よくするか
ら緊張しすぎんな﹂
﹁牧羊犬⋮⋮﹂
そうは言われても、私も怖いというより心細いのであって、しか
も無意識の反応だからな⋮⋮。
困った末に、折よくイサークに話しかけて来た金の短髪の騎士さ
んらしい人の顔を、犬化する想像を試みた。
ちょっと鋭い目つきだけど真面目そうだ。顔立ち的にはシェパー
ドだろうか⋮⋮でも牧羊犬じゃないよね。
すると当人が私を振り向いて睨みつけてきた。まさか、もし犬だ
ったらとか想像していたのを察して、怒ったのかな。ごめんなさい。
びくびくしてたらイサークが騎士さんに言った。
﹁ヴァシリー、お前目つき悪いんだからあんま見んなよ。怯えてん
だろ﹂
﹁私の目つきは普通だと思いますが⋮⋮。陛下がべったりだと聞き
ましたので、首に縄をつけてあちこち放浪させないためには、この
ような顔形の女性を軍内に置くべきかと検討していただけです﹂
放浪?
あ、そうだ。イサークってサレハルドがトリスフィードにいるっ
ていう時に、なぜかカッシアに来てみたりしてた。しかもイニオン
砦にもミハイル君とだけふらふらとやって来てたりもしたし。部下
としては放浪されてるとしか思えなかっただろう。
1481
このシェパード系の人に私は同情した。ただ誤解は解くべきだ。
﹁私のことは、人に剣を取られそうになったから一時警戒している
だけ、っていうのと同じではないかなと﹂
するとシェパード系の男性が﹁ふむ﹂とあいづちをうった。
﹁なるほど、参考にさせて頂きます魔術師殿。今度は質を予めとっ
ておくことにしましょう﹂
そう言ってシェパード系の男性は立ち去った。
1482
憎いと嫌いの違い 2
﹁なんで王様なのに、自分であちこち出歩いたりしたの?﹂
素朴な疑問をぶつけると、イサークは視線をさまよわせる。言い
にくそうだなと私がわかるほどの間を開けて、ようやく口を開いた。
﹁⋮⋮⋮⋮自分であちこち見たかったんだよ﹂
たったそれだけの返事をするのに、どうしてためらうんだろうか。
﹁普通、王様や王子様ってふらふらしないものじゃないの? さす
がに外に出るならお付きの人がぞろぞろついてくでしょ﹂
というか初めて会った時にも、私にそんなことを言ってたような。
王子だったのだから、乳母日傘で育ったのも納得だ。
﹁んなのいちいちやってられっかよ。それに俺は二番目の王子だか
らな、兄貴よりも融通が利いたから﹂
そんなものなんだろうか。私は王子様の生活なんてよくわからな
いし。
﹁だけどレジーはそんなことしなかったよ。外出時はちゃんと護衛
も連れて行ってたし、邪険にするようなこともなかったけどな﹂
﹁お前のとこの王子は窮屈な奴だな。お行儀が良すぎる﹂
﹁品行方正って言ってよ。周りに迷惑をかけないようにする人なの﹂
﹁ずいぶん庇うんだな。好きなのか?﹂
1483
聞かれて、思わず口を引き結ぶ。こんなにストレートに聞かれた
のは、初めてだろうか。
つき合ってるのと聞かれたら、あっさり﹁違う﹂と答えることが
できる。エメラインさん達にそう答えたみたいに。
だけど好きかと言われると⋮⋮。
﹁仲間だもの﹂
言葉少なく答えるしかない。
﹁普通よぉ、男と女で仲良くなれば、たとえ片方だけだったとして
も恋愛に発展するもんだろ﹂
﹁保護者だもの﹂
﹁前もそうは言ってたな⋮⋮﹂
それからも、イサークは館の階段を上りながら、出会った兵士や
騎士達と立ち話をしていった。
兵士には﹁ご苦労﹂と言うだけだったりもするが、騎士を相手に
した時は不思議な会話をしていた。
﹁陛下、魔術師殿を連れて歩いていいんですか?﹂
﹁いいんだよ。それより俺、こいつに命運預けることにした。つい
でにあの件、実行部隊の準備をさせるよう、本国に知らせといてく
れ﹂
﹁兄上が、また泣きますな⋮⋮﹂
﹁涙もろかったのは、あの時限りだとは思うけどな。でもいっそ、
それぐらいの方がやりやすいだろ、これから﹂
イサークは﹁じゃあな﹂と笑顔で騎士と別れたが、私はもやっと
1484
したものを感じていた。
変な違和感が胸の奥にたまったような。
﹁イサーク、命運を預けるってどういうこと?﹂
﹁魔術師は、戦力的にはかなり強力だろ。しかもファルジアにはも
う魔術師がいないとなれば、お前の働きに命運をかけるつもりでも
おかしくはないだろ﹂
私はサレハルドの軍から脱走しようと思っているのに、彼は本気
で私が従い続けると思っているんだろうか?
だとしたら、どうしてこうまでしてくれるんだろう。
魔術師として戦わせるだけなら、私の精神状態をここまで気遣う
必要なんてない。
私がお兄さん代わりだと言ったカインさんを、殺そうとした罪滅
ぼし? ただ気の毒になった?
﹁でもファルジアにはジナさんと氷狐がいるじゃないの﹂
﹁魔獣と比べられるかよ。あんな犬ころ相手なら、魔術師を相手に
するより簡単に倒せるっての。とはいえ、やたら巨大化してたやつ
がいたが⋮⋮あれは倒すのが厳しいか?﹂
イサークは師匠みたいにリーラ達を犬に例えたが、サレハルドで
はみんなそういう認識なのだろうか。というか、
﹁⋮⋮巨大化?﹂
どういうことだろう。
﹁俺にもわけがわからんから聞いてみたんだがな⋮⋮お前のせいじ
ゃないのか?﹂
1485
私は首を横に振る。全く身に覚えがない。
﹁そもそも魔獣って巨大化するの?﹂
﹁今まではそう思わなかったんだがな。実際に馬みたいにでかい氷
狐を見た以上は、信じるしかないだろ﹂
どの氷狐かわからないけど、馬くらい大きくなったんだ⋮⋮。一
体何があったんだろう。
大丈夫かなジナさん⋮⋮と思ったところで、イサークのお兄さん
のことを思い出す。
ジナさんが好きだった人だ。さっき兄上が泣くとか騎士さんが言
ってたけど、イサークのことで泣くって迷惑をかけられてってこと
だろうか。それともイサークが無理をしようとするから、心配して
のことなのかな。
﹁そういえばお兄さんと仲、悪くないんだね?﹂
﹁表面的には悪いことになってる﹂
そう答えるイサークが階段を上り切り、扉を開ける。
すると建物の中ではなく、屋上に出た。
石造りの建物の一部だけをバルコニーのような屋上にして、その
他は三角屋根になっている。確か町長の館だって言ってたから、物
見の塔の一つとして、この屋上を作ったんだろう。
誰もいない屋上の中央まで進み出て、イサークは言う。
﹁ジナから聞いたんだろ? 俺にルアインの王族の血が流れていて、
そのせいでサレハルドが面倒なことになったって﹂
﹁⋮⋮うん﹂
1486
そこには誰もいないのに、イサークは繋いだ手を離さずに、静か
な声で話を続けた。
﹁昔から、俺は厄介者だった。ルアインがうちの王家に手を出せな
いよう、俺は役に立たない第二王子である必要があった。兄貴はそ
れを諌める第一王子でなければならなかった。お互いに不自由だと
思ってたんだろうが、そうして誤魔化している間に父親がなんとか
してくれると思ってたが⋮⋮。上手くいかなくてな﹂
ため息をついて話を続ける。
﹁兄貴にルアインの王女が嫁いできたら、ファルジアでの戦いが長
引けば、結局はサレハルドの軍も参戦させられることになるだろう。
それが分かってても、親父は手を尽くすことに疲れ果てて、もう諦
め気味になってた。それなら元凶の俺がなんとかしたかったんだが、
どうやったらサレハルドを守れるか上手い方法を思いつかなくてな﹂
そんな時に、イサークはたまたまミハイル君を見つけた。
﹁兄貴の侍従だったミハイルが、城の庭でぼんやりと物騒なことを
つぶやいてたんだよ。それを聞いてな。いい案だって思ったから俺
のとこにあいつを引き抜いて、実行することにした。全部まとめて
始末するために⋮⋮だから死んでくれと親父に言った﹂
イサークの父⋮⋮サレハルドの前王のことだ。
﹁イサークはお父さんを、殺したんだっけ﹂
﹁実際には自殺だな。問題の解決のために、俺に一から百まで世話
になるわけにはいかんとか言いやがって、自分で毒を飲んだ。優柔
不断だと不満に思ったこともあったが⋮⋮最期は立派な親父だった
1487
よ﹂
イサークは淡々と説明した。
見上げても、その横顔は苦しそうに歪んでいるわけではなくて。
イサークはその時の苦しさを、もう乗り越えたんだろうかと私は思
った。
﹁兄貴もそれを見ていた。自分自身を幽閉することにも賛成してた。
親父もそうするよう勧めたからな。だけど⋮⋮あの時初めて、兄貴
が大人になってから泣いたのを見たな。全部俺に背負わせることに
なるとは、ってな﹂
お兄さんはイサークに汚名を押し付けることになってしまうから、
それが申し訳なかったのかな⋮⋮。
﹁サレハルドは、一度はファルジアに勝つ必要がある。だから前回
の戦いでは、主にお前を潰すつもりでミハイルに策を練らせた。そ
の上で、子爵からお前をかっさらえば、ファルジアを敗退させられ
るわ、こっちも魔術師を手に入れたんだからっつって、ルアインを
威圧できると踏んだんだがな﹂
﹁え⋮⋮。そうしたら私を捕まえたのって、たまたまじゃなくて?﹂
﹁偶然じゃない。俺は最初から魔術師キアラを捕獲するつもりだっ
た。⋮⋮殺すつもりはなかった。だが、こっちの意図を外部の人間
に悟られるわけにもいかなかったからな。部下の誰かがルアインと
通じていない保証もない。俺とミハイルの策は、芯のところはわず
かな身内にしか教えていないんでな﹂
そこで﹁ああ、これでお前も入るのかな﹂とイサークが笑う。
イサークの笑みが屈託が無くて、まるで殺し合いの話をしている
1488
ように見えない。
カインさんを、そのために殺そうとしたのに⋮⋮。私も、イサー
クに怒る気持ちがしぼんで行く。
イサークの行動が、故郷を守るためだったから?
クレディアス子爵が憎いと思うのは、彼が自分のためにレジー達
を殺そうと言ったからだろうか。
﹁⋮⋮そこまで私に話したのは、ジナさんから概要を私が聞いてた
からなの?﹂
﹁まぁな。ジナがそこまでお前を信用してるんだったら、とは思っ
た。あとは⋮⋮そもそもファルジアに一度は勝つためと、戦後にお
前の身柄を使ってサレハルドを優位にするつもりでお前を捕まえた
からな。むやみに暴れないようにするには、話しておいた方がいい
と思った﹂
私は目を見開いた。
﹁⋮⋮私を、帰すつもりだったの?﹂
サレハルドが優位になる条件を引きだしたいなら、私をファルジ
アに返さなくちゃいけない。
﹁帰りたくないのか? ってか、ジナから聞いたんだろうが。時期
を見てサレハルドは負けるつもりだって﹂
﹁聞いたけど⋮⋮﹂
﹁お前は負けた後の交渉材料のつもりだったんだよ。だがお前がぼ
ろぼろになったら、むしろこっちがふんだくられる材料になりかね
ないからな。ウシガエル子爵に対しては、もっと備える必要があり
そうだ﹂
1489
イサークの意図はわかった。
誰も盗み聞きできない場所で話したことからも、おそらく嘘では
ない⋮⋮と思う。
殺すつもりはなかったと聞かされて、安心した。カインさんを傷
つける結果になった理由も納得はできた。
だけどイサークの案のまま動くわけにはいかない。
このままファルジア軍とぶつかることになれば、あちら側がどれ
だけ被害を受けるかわからないから。
幸いなことに、エイダさんのおかげでクレディアス子爵の能力に
ついてはわかった。けど、子爵本人が攻撃魔術を操れないとしても、
魔術師くずれを大量に造り出されたら、兵士達の損耗がとんでもな
いことになる。
特にクレディアス子爵は人を魔術師くずれにすることを、なんと
も思っていないだろう。だからこそ兵士を大量に魔術師くずれに変
えたりできたのだ。次の戦いでも同じようなことをするんじゃない
のかな。
やっぱり、サレハルドとの戦いが終わるまで待てない。
それじゃ間に合わないかもしれないから。
1490
憎いと嫌いの違い 3
﹁⋮⋮不満か﹂
私の表情で察したんだろう。イサークがそう言った。
﹁お前は変な奴だな。友達だからって、命まで賭けるか? 男同士
ならまだしも、お前は女だ。戦場に女が少ない理由はわかってるだ
ろ? 戦闘以外の危険を冒す可能性があるってのに、ついて来る奴
なんていない﹂
﹁私は魔術師だもの﹂
﹁強情だな⋮⋮じゃあ、お前は強くないってことを教えてやろう﹂
﹁何を⋮⋮?﹂
イサークが繋いでいた手を離した。その手で私の背中に腕を回し、
抱きしめてくる。
慌てて振りほどこうとしても全く腕が動かない。イサークは片手
だけしか使ってないのに。
﹁ほらみろ、俺を振りほどけない⋮⋮俺はあの子爵ほどは隙がない
からな?﹂
あげく、もう片手で私の顎を捕まえて上向かせる。私は間近に見
えるイサークを軽く睨んだ。
﹁降参するか?﹂
﹁しない﹂
1491
こんなことぐらいで引くような気持ちなら、人を殺すのが怖い時
点で私は戦争に出て来られなかっただろう。
﹁⋮⋮なんだかな。お前は周りが過保護だって言ってたが、わかる
気がしてきたぞ。これだけがっちり捕まってるっていうのに、どう
あっても引かないんだからな﹂
脅すつもりでこんなことをしてるだろうに、イサークは何を言っ
ているのか。
﹁レジー達は変なことしてこないもの﹂
﹁ふうん?﹂
イサークの視線が細められる。
﹁なんだか面白くねぇから、俺が少しは警戒させてやろうか﹂
そう言ってイサークが顔を近づけてくる。
何をするのかと身を引きかけたところで顎を掴まれていたのを思
い出した瞬間、頬に口づけられた。
⋮⋮頬だけなら良かった、と内心で息をついた。
動揺しないのは、もしかして子爵のせいで、あれよりマシだと思
うようになってしまったせいなのか、その前から慣れてしまってい
たのか。
﹁イサーク、悪ふざけはやめて﹂
﹁なんだ頬ぐらいじゃだめか? それに悪ふざけじゃない。どうせ
お前のことだから、追い詰められないとわからんだろうと思っただ
けだ。⋮⋮そろそろ、こんなに弱いくせに、戦場までついてきた理
由を自覚した方がいいんじゃないか? 見てる方も苛つく﹂
1492
苛つくという言葉に、私は少し怖くなる。
イサークは私個人には酷いことをしなかった。子爵からも助けて
くれた。だけど機嫌を損ねたらどうなるかわからないっていう不安
がまだある。
﹁それにしても、まさかこんなのまで慣れてるのか?﹂
﹁驚くことは、驚いたけど﹂
むしろイサークを苛つかせた不安の方が強くて、そっちが気にな
ってたまらない。
﹁ほう、慣れてるわけだな。相手はあの騎士や随分親し気にしてた
王子か?﹂
﹁だって二人は家族みたいなもの⋮⋮﹂
なんとなく言い訳めいた答えを口にすると、イサークがため息を
つくような表情になる。
﹁お前は恋愛感情が信じられないのか? だから家族だってくくり
で相手を認識してるわけだ。だが家族だと言う割に、お前は捨てら
れることを怖がってるように見えるがな﹂
捨てられることを、怖がってる?
﹁不安なのは⋮⋮お前が、家族に守られたことがないからか? 天
涯孤独だって言ってたよな﹂
イサークの指摘に、私は目の前が真っ暗になった気がした。
家族に守られたことがない。だから前世みたいにお父さんやお母
1493
さんがほしくても、それになぞらえる人がいても、いつか突き放さ
れるんじゃないかと思ってる?
今の人生の両親みたいに。無視されたり、置いていかれたり。新
しく家族になったと思っても、結局お前は家族じゃないって排除さ
れたから?
そんなことはないと言いたかった。
﹁信じてる⋮⋮もの﹂
レジー達のことを信じてる。
何も信用するものを差し出せなかった私のことを、信じてくれた。
それからも信じ続けてくれてた。
﹁ある程度はそうだろうが、一生それが続くって保証がない。なに
せお前が信じてる相手は、別の人間と家族になる可能性があって、
そうしたらお前よりもずっと優先するものが生まれるんだ。そうな
った時、偽物の家族なんて放置される﹂
偽物の家族。その言葉に息が苦しくてたまらなくなった。
﹁お前もそれが分かってるから、捨てられないために他の何かが欲
しいんだろ。例えば捨てきれないほど役に立つこととか、な。魔術
師として役に立てば、守り続けたら多少距離が開いても大事にはし
てくれる﹂
話し続けていたイサークが、言葉を止める。
そうして顎を掴んでいた手を離して、私の頬に指を滑らせた。
イサークがどうしてそんなことをするのかと思ったけど、すぐに
わかった。
吹く風に頬が冷たくなって、自分が泣いていることに気づいたか
1494
ら。
⋮⋮ずっとわからないふりをしてたのに。
私が必要だと言ってほしくてたまらなくなる理由。否定したくて
も、イサークの言葉は心の奥まで突き刺さって抜けない棘みたいに、
私を苦しめた。
彼の推測を、正しいと思ってしまったから。
捨てられたくない。必要ない人間として扱われたくない。
前世の記憶があるからこそ、そう思っちゃうのかもしれない。家
族がいる幸せを知っているから、何もないことが怖くて不安で。
でもこの世界では優しい家族なんていなかった。周囲にいるのは
みんな他人だ。
気が合うといっても、友達というだけではいつか離れてしまうか
もしれない。時には気が合わなくなって、アランとケンカした時み
たいに距離を置くことだってあるけど、家族じゃない限りは、仲直
りしても離れてしまうことだってあるはずだ。
血のつながりがないことを不安に思うのは、継母に使用人扱いを
された頃に、働かなければ追い出すと言われたりしたことが大きい
のかもしれない。
以前、それをレジーに気づかされてしまった。
私の自由を尊重するレジーに守ることを拒否された時、あの人を
失いたくないのと同時に、見離されたような恐怖を感じた。
何もしなくていいと言われると、私は混乱する。
じゃあどうしたらいいんだろうって。
私は皆が大好きだけど、皆がそれを同じように願い続けてくれる
なんて⋮⋮信じられなかったから。
1495
だけど口に出して言えない。
寂しいよ。怖いよ。だから私がずっと必要だって言って、なんて。
重たいって思われて、友達としても側にいるのを嫌がられたら、
もうそこにいられなくなってしまう。
﹁⋮⋮恨んでもいいぞ﹂
私を泣かせた相手は、じっとこちらを見つめながらそんなことを
言う。
﹁どうして⋮⋮﹂
私を打ちのめすようなことを言ったの?
そっとしておいてくれたら良かった。気づかないまま、不安でも
前に進めたのに︱︱この戦争が終わるまでは。
﹁お前には、俺を恨んでもらった方がいい。⋮⋮このままだと、お
前のためにならない﹂
﹁恨む?﹂
そうつぶやいたイサークの灰色の瞳が、いつもより優しいような
気がした。
恨めというのに、なんでそんな顔をしているのかと思った次の瞬
間には、引き寄せられて唇を塞がれていた。
ほんの少しかさついた唇に、とてつもない現実味を感じた。
数秒してから我に返って。引き離そうとしたけど、頭も腕も押さ
えられてて動けなくて。
同時に感じたのは⋮⋮違和感?
1496
とにかくこんなの違う、止めてと思ったのにイサークは止めてく
れない。呻いても、そのうめき声も全部飲みこまれた。
逃れられないと焦った瞬間に、子爵に押さえ込まれた時のことを
思い出す。
何も抵抗できないのは嫌だ。怖い。だけど振りほどけない怒りの
やり場を探して⋮⋮私は思いきりイサークの足を踏みつけた。
﹁いっ⋮⋮っ!﹂
布靴だったことが悔しい。穴が開きそうなほどするどいピンヒー
ルを履いていたら良かったのに。
顔を離したイサークが、痛みに顔をしかめていた。
せいせいするけれど、それよりも唇を拭いたくてたまらない。
﹁さすが一筋縄じゃいかない女⋮⋮﹂
そう言っている間に、私はばたばたと暴れた。
大したことはしないだろうと思ったんだろう。イサークが放した
ので、私は真っ先に石の床に手を突こうとして﹁おっとそれは勘弁﹂
とイサークに抱え上げられる。
﹁放してっ、無理やりあんなことするイサークは嫌い!﹂
﹁別に嫌いでもいいがな。嫌うよりも、俺を恨んでおけよ﹂
﹁恨めってどうして。だってもうイサークのこと恨んでるのに!﹂
カインさんを殺そうとしたのはこの人だ。そのことは今でも許し
てない。
ただ子爵から保護してくれていたし、看病もしてくれたから⋮⋮
全ては、戦争がいけないんだと思える面があるだけで。
なのにこれじゃ、個人的に私の恨みを買おうとしているようにし
1497
か思えない。
イサークの方は楽し気に笑い出す。
﹁それならいい﹂
そうして担がれた私は、途中で暴れる体力が無くなって、ぐった
りしたまま部屋に戻ることになった。
悔しくて唇を噛みしめている私を見たミハイル君が、目を丸くし
た。
﹁ちょっ、なんで泣かせて帰ってくるんですか!?﹂
ミハイル君に突っ込まれてたイサークだが、ひょうひょうと答え
た。
﹁いいんだ予定通りだからな。⋮⋮俺が連れて行けたら、こんなこ
としねぇよ。今後のことは後で話す﹂
するとミハイル君が、困惑した表情をさっと消した。
﹁なるほど⋮⋮わかりました﹂
﹁じゃ、後は任せた﹂
そう言ってイサークはあっさりと部屋を出て行き⋮⋮。私が、誰
も側にいなくても怯えなくなったことを確認したミハイル君も、用
事があるからと出て行った。
もうわけがわからない。
恨まれるためにあんなことをしたイサークの、意図は何なんだろ
う。私を怒らせてどうするの? 脱走する気持ちを強くさせるだけ
なのに。
1498
﹁何考えてるの⋮⋮﹂
私は思わず寝台に手を叩きつけた。それから突っ伏す。
⋮⋮まだ魔力は安定していても体力が不足してる。
怒ってもこればかりはすぐ回復できない。
ただただ腹立たしくて、私は自分の口を手の甲で何度かこすった。
まだ少し、感触が残っているから。
キスされたことを思い出すと、涙が浮かんできそうだ。
レジーとのことをカウントに入れなければ、口づけをするのなん
て初めてだったのに、あんなことをされてとても恨んでる。
⋮⋮なのにどうしても、私にはイサークを憎む気持ちが湧いてこ
ない。
同じように大事な人を傷つけたのに、脅しかけたクレディアス子
爵を憎いと感じても、イサークには怒ることまでしかできない。
最初に会った時に、助けられたと思ったから? それともただ混
乱してるだけ?
それともイサークの事情を理解できると思ってしまったからだろ
うか。
﹁もうやだ⋮⋮﹂
自分のこともわけがわからなくて、やみくもに逃げだしてしまい
たい。
それができないのは、イサークの側を離れてしまえば、子爵に掴
まってしまう恐れがあるから。
そうなったら、子爵の操る魔術師くずれからも、イサーク達サレ
1499
ハルドからも、ファルジアを守ることができなくなる可能性がある。
じっとしていることしかできないことに歯噛みする私とは違い、
イサークは本当に私にしたことを気にしていないみたいだった。
子爵を警戒して夜になってからも、彼は一度様子を見にやってき
た。
警戒心で一杯の私のことを鼻で笑った後は、報告を持って来た兵
士さんや騎士さんに対応していた。
中の嘆願に、ものすごく気になることがあった。
﹁夜中に呪いの人形を、侍従のミハイルが廊下に放していて、この
階に近づけないんです。止めるよう命じてもらえませんか﹂という
ものだ。
﹁深夜に出る悪魔の人形を見ると、戦場でつまずくとか不吉な話が
軍の中に広まり始めているんです﹂
呪いの人形って⋮⋮師匠のこと? 廊下で何してるの?
師匠が無事で、元気そうなのはなによりだけど、行動がよくわか
らない。
私がものすごく気になっていることを察したんだろう、イサーク
が余裕の表情で促した。
﹁気になるのか? そろそろ思うぞ。廊下に出て見てみろよ﹂
イサークの言う通りにするのは嫌だったけど、私は師匠の無事も
確認したかったので、廊下に顔を出す。
細長い廊下の中央に、一つだけ燭台の明かりが灯された廊下は、
薄暗く、明るい場所もオレンジ色の頼りない光が揺らめいて、どこ
かおどろおどろしい⋮⋮というか、この世界の廊下なんてどこもこ
1500
んな感じなんだけど。
ミハイル君が廊下のずっと端にしゃがんでいるのが見えた。
﹁はい、放流∼﹂
彼がそう言うと、ミハイル君の手を離れた師匠が、カッチャカッ
チャと音を立てながら歩き出す。
ちょうど階段を上がって来ようとしていた兵士の姿が見えたが、
その音を聞いたとたん、一目散に階下に逃げて行った。
⋮⋮師匠、本当に何してんの?
やがて廊下に顔を出している私に気づいた師匠が、カチャっと片
手を上げた。
﹁おお弟子か﹂
﹁師匠、それは?﹂
﹁夜中にある程度歩かぬと、身動きするための魔力が充電できない
からの? イッヒッヒッヒヒ﹂
そんな話は聞いたことがない、というか私の魔力で作ったものに、
そんなゼンマイみたいな機能はないはず。
でもちょっと考えて私は黙った。
師匠がわざとやってるんだと思ったから。
⋮⋮何の理由で始めたのかはよくわからないけど。
あ、でも聞けばいいんだと思って部屋から出ようとしたところで、
お腹に手を回して抱え上げられ、扉が閉められた。
﹁えっ、やだっ!﹂
強制的に引き戻されて、寝台の上に降ろされた。
1501
﹁一応あれは人質だからな。あんまり近づかれちゃ困るんだよ﹂
理由はわかったけど、どうして人の手首を掴んだまま見下ろして
いるのか。
両手の自由を奪われているせいか、昼間のことが頭をよぎって、
思わず息を詰めてしまう。
身動きするだけでもイサークを刺激するんじゃないかと、怖くな
ってじっとしてしまった。
しばらくして、イサークが言った。
﹁言うことを聞いておけよ? ⋮⋮でなきゃ、我慢してやらない。
抵抗できないように縄で縛って閉じ込める。子爵がやらかしたおか
げで、次の一戦ぐらいはお前を体調不良だって言って出さないこと
もできるからな。⋮⋮俺が誰かの首を取ってくるまで、ここで歯噛
みしていたいのなら、自由にするといい﹂
私は、うなずくこともできなかった。
それでも黙っていることを了承ととったのだろう。イサークは私
から離れて、部屋を出て行った。
言うことを聞かない状態だと判断したら、イサークはさっき言っ
たことを実行するだろう。
ファルジアが攻撃されている間に、何もできないのが一番嫌だ。
だから、ただひたすら我慢した。
抵抗せず、じっとその時を待って過ごしたのは五日後。
秋風が冷たくなったその日に、ファルジア軍のいるリアドナ砦へ
の攻撃が行われた。
1502
帰るべき場所 1
やや遠い場所、小さな丘陵の上にリアドナ砦が見える。
砦そのものが小さいからだろう。ファルジア側は最初から砦の外
に布陣していた。
青いファルジアの旗の下にいる人達の姿までは、はっきりと判別
がつかない。
レジーはいるだろう。
カインさんは生きていても、まだ戦場になんて出て来られないか
もしれないし、無理はしてほしくない。エメラインさんやアランは
前回の戦いで怪我をしなかっただろうか。ジェロームさんやエニス
テル伯爵も無事だろうか。
確認したくてもできない。
一方で、イサークの馬に同乗させられている自分を、向こうも見
分けられないかもしれないということに、少しほっとする。
私は予定通り、戦場へ連れて来られていた。
万が一ということで両手は縄で縛られている。手枷では私が簡単
に金属を変化させて、武器にしてしまうのと、不用意にあちこちに
触れられる状況では、一体何をするかわからないと警戒されている
んだろう。
イサークもこの戦いの時点では私を逃がさないと決めているのか、
他にも逃亡しにくい理由を作られていた。
例えば服。寝間着のまま担いで運ばれたんだよね⋮⋮。
一応上にサレハルドの緑のマントを着せられているけど。普通の
女性なら恥ずかしくて出歩けない格好だし、それだけで動き回るこ
1503
とに躊躇すると思う。思いきる前に捕まえてしまえばいいのだから、
十分抑止力になるだろう。
そして布靴。これは前世の靴みたいにしっかりした底のものじゃ
ない。柔らかい革が一枚使われているだけなので、石が転がったり
している場所なんて痛くて走れない。
でも正直、私にとってはどっちも欠点になるようなものじゃなか
った。
寝間着姿だって、前世だったら寝間着替わりのスウェットでコン
ビニまで行ってたんだもの。
それを基準に考えれば、別に下着姿でもないし、上からマントを
羽織っているんだから恥ずかしいことはない⋮⋮と思い込むことは
できる。
靴も考えようによっては私に有利だ。
ただ悟られてはいけない。
私は、なるべくマントを掻き合わせて姿を隠すようにして、うつ
むいていた。
今のところ、私が恥ずかしがっていると、イサークは勘違いして
くれているっぽい。
ゴーレム
﹁見えるかキアラ? できればお前には、ファルジアの左手側を遮
るようにあの土人形を出してもらいたい。ルアイン側をせき止める
ことにもなるし、加減してやればファルジアの損失もそれほど酷く
はないだろ﹂
ゴーレム
イサークは、私に土人形を出せと指示して来た。
⋮⋮こちらから言い出さなくてもいいのなら、楽だ。
﹁それなら師匠を貸して。師匠がいないとできないもの。あと、私
1504
が魔術を使うのは戦端が開かれてからにするから?﹂
﹁ふうん? まぁ縛ってるわけだからいいがな﹂
イサークはあっさり許してくれた。
こちらに探るような目を向けてくるのは、戦いが始まってからで
本当にいいのかと言いたいのかな。
私のことだから、始まる前にファルジアを助けるために動くと思
っていたのだろう。
そして私は待った。
攻撃開始の命令をイサークが下す。
双方ともにまずは矢の応酬が始まった。
その間にルアイン側は別働隊に進軍させたようだ。開けた場所の
上、砦までが登り坂になっている分だけ戦場の様子がよく見える。
私は前を掻き合わせたマントをぎゅっと握った。
指先が震える。こうしている間にも、ファルジアの人が死んでい
くことが怖い。
でもまだだ。動くべきはここじゃない。
ずっと私は、ゲームで見た俯瞰図を元に戦争を見て来た。知って
いることを図にしてレジー達に見せて、意見をもらうこともしてき
た。
その上で全部は理解しきらないまでも、アランやレジー、カイン
さんが話し合う戦術について聞きながら覚えたこともある。
より多くの勝ちをもぎ取れる瞬間を狙うこと。そのために待つべ
き時があることを。
ルアイン側に続き、サレハルド側が動きだしたことで、私は実行
した。
﹁師匠を貸してください﹂
1505
﹁ん? ああ、ミハイル!﹂
伝令に指示を伝えてたイサークが、傍にいたミハイル君を呼ぶ。
そうして私を馬から降ろした上で別な騎士に私の手を縛った縄を渡
す。
﹁兵が踏まれちゃたまらんからな。少し離れた場所で、兵も遠ざけ
ろ。ミハイルはこいつにその人形をやれ﹂
﹁⋮⋮いいんですか?﹂
﹁それがないとダメなんだとよ。逃げようとしても、どうせそう遠
くには行けないだろ﹂
イサークの指示を受けて、ミハイル君が手を縛られたままの私が
師匠を抱きしめられるように渡してくれた。
﹁反抗したら殴ってでも気絶させろ、たぶんそれで魔術も解ける。
いいな?﹂
騎士に指示を出したイサークは、戦況の方に意識を向けた。
二秒だけ、そんなイサークの横顔をじっと見る。それから私は騎
士に縄を引かれるまま、少し後方へ移動しながら師匠にささやいた。
ゴーレム
﹁⋮⋮師匠。ちょっと師匠にお願いしたいんだけど。土人形を操縦
してみない?﹂
師匠はくくっと笑った。
﹁下準備は完璧じゃぁ、ヒヒヒッ。なにせ呪いの人形だと宣伝して
やったんじゃからな﹂
﹁宣伝⋮⋮ああそれで。でも脅さなくても⋮⋮﹂
1506
サレハルドの兵を怯えさせても仕方ないのではないかと思ったが、
師匠の意図を聞いて私は納得した。
﹁一度でも助けられたと思えば、殺すのはお前の精神衛生上、抵抗
があるじゃろ﹂
﹁⋮⋮うん。師匠大好き﹂
思わずざらついた陶器みたいな頭の上にほおずりしてしまう。
﹁はっ。わしゃ﹃お祖父ちゃんだいすきー﹄と言われて喜ぶ輩じゃ
ないがのぅ、今回はそれを駄賃の代わりにしてやるわ。報酬は後で
取り立ててやるからの。⋮⋮そのためにも、死ぬのだけは避けろ。
ある程度はわしの方が動ける。こっちの動きは任せて、維持も限界
が来る前にやめておくようにな。あとは土に埋もれておくから、掘
り出すよう言うがいい﹂
﹁わかった﹂
憎まれ口を叩いた師匠は、そろそろ降ろせというように手足をば
たつかせた。
サレハルドの騎士はそれを薄気味悪そうに見ている。
﹁急げよ?﹂
﹁がんばる﹂
騎士が周囲から兵士達を退ける中、地面に師匠を置いた私は、師
匠の近くの地面に手を触れて魔術を使う。
ゴーレム
地面からせり上がるように立ち上がったのは、師匠がめりこむよ
うに頭の上にちょこんと乗った土人形だ。形はやや土偶風にした。
もうそれだけで、周辺のサレハルド兵が怯えてさらに後ろに下がる。
1507
﹁呪いの人形だ﹂
って言葉が聞こえたところから、夜のお散歩の効果が口伝えでし
っかりと広まり、師匠に怯える素地は出来上がっていたようだ。
私が左を指さすと、師匠は﹁イーッヒッヒッヒ﹂と高笑いしなが
ら、私の方に手を伸ばしてくる。
そうして手を縛っていた縄を持つサレハルド騎士をむんずと掴み
上げ、少し離れた場所にぽいと転がしてからルアイン軍の方に突撃
して行った。
突然の身内からの襲撃にサレハルドの兵が驚愕の声を上げて固ま
り、ルアイン軍からは悲鳴が上がり始める。
﹁おおっといかん、大きくなったせいで感覚がおかしいのぅ﹂と言
いながらよろめきながら進む師匠だが、たぶん足下の兵士達にその
声は聞こえていないだろう。
師匠の突撃でルアイン軍が進む動きが止まった。
けれど同時に、ひどい貧血のような感覚が襲い掛かる。
﹁くっ⋮⋮﹂
クレディアス子爵だ。
あちらの陣営とは100メル程度しか離れていない。それでは、
クレディアス子爵の影響下だということはわかっていた。
でも逃げるのは難しい。
すぐさま逃げることに集中しないと距離は稼げないし、そんなこ
とをしたらサレハルド側に止められる。
それならルアインを攻撃して、少しでもファルジア側を有利にし
たかった。
サレハルドとしてもルアインの力は削ぎたいわけだから、全く利
1508
点が無いわけじゃないだろう。後の始末を押し付けても、イサーク
には怒っているので問題ない。少し苦労してもらえばいい。
ただ、子爵どさくさまぎれにこっちを攻撃するつもりだったのだ
ろう。
渦巻く風に取り巻かれた魔術師くずれになった兵士が歩いてくる。
﹁⋮⋮私が死んでも構わない、ってことかなこれ﹂
生け捕りにしに来るかと思ったが、クレディアス子爵も私を殺し
にかかっているのかもしれない。
1509
帰るべき場所 1︵後書き︶
活動報告に﹁お見合いはご遠慮します﹂書籍のお知らせを掲載して
おります
1510
帰るべき場所 2
﹁死にたくなかったらどいて!﹂
私はまだ周囲にいたサレハルド兵に叫ぶと、奥歯を噛みしめるよ
うにして周囲の土に眠る魔力を一気に暴れさせる。
周囲数十メートルと、帯のようなラインを描いてルアイン軍の方
へと押し寄せるように地面が大きく波打ち、ゆらゆらとゾンビみた
いに歩いていた魔術師くずれを飲みこんでいった。
相手は風で土を吹き飛ばしたが、全てを避けきれずに足まで埋ま
った。
私はさらに土の波を重ねて、その後ろに迫りつつあった、別の火
だるまになった魔術師くずれともども雪崩のごとく押し流す。
それで沈静化したので、今ので二人の魔術師くずれは力尽きたん
だろう。
周囲にいた兵士達は、隆起した場所から転がるように逃げ出して
行っている。
私がむちゃくちゃに動かして固めたせいで、周囲は岩と土の高波
が固まったような有様になっていた。
私の方は立っていられずに、側に隆起してできた土壁に背中をも
たれて耐える。
ゴーレム
まだここで倒れるわけにはいかない。それにイサークに捕まった
時よりはまだ余裕がある。
視線を周囲に向ければ、ルアインの兵士は土人形に襲われ、逃げ
惑ったところに歩き回るのも困難な状況を作られ、悲鳴を上げてい
1511
るのが見えた。
そしてファルジアが、ルアインへ集中攻撃を仕掛け始めている。
敵が戦意を失う状況を、見逃すレジー達ではない。サレハルドが
呆然としている間に、そちらを片付けるつもりなんだろう。
ゴーレム
視界の向こうで、私が大きな魔術を使って魔術師くずれを埋めた
せいで維持が難しくなったせいなのか、師匠を搭載した土人形が横
倒しになった。
そのまま手足をばたつかせて暴れながら、こちらへ移動している
ようだ。土煙がもうもうと立ち上っている。
でも師匠に操縦を任せている分だけ、ちょっと楽だ。
私はなるべく土人形を崩さないよう、集中し続けながら警戒した。
ゴーレム
師匠をすぐに崩されてはたまらない。そちらへもサレハルドの兵
が走っているので、イサークの部下が土人形が崩れたら師匠を回収
するだろう。これだけ暴れたのだから、なんとしても私を抑えるた
めの人質は欲しいはずだ。
ゴーレム
それよりもクレディアス子爵だ。
土人形の様子から、私の力が弱ったと思ってこちらへ来るはずだ。
そこを血祭りにあげる。
そのために待つ。
自分では魔術で攻撃できない子爵なら、私でもどうにかできるは
ずだ。先日はイサークに奪われ、今は師匠のせいで危うい目に遭っ
ゴーレム
た子爵は、全力で抑え込もうとしてきてる。
けれど土人形と、地面の変化にだけ力を使って疲弊してはいても、
まだ前回よりは耐えられる。⋮⋮やっぱり治療が、けっこう魔力の
限界値をがりがりけずっていたみたいだ。
でも状態が良いわけじゃない。だから早く来い。
じゃないと戦える力が無くなってしまう⋮⋮と思っていたら。
1512
﹁おい、キアラ! そこまでだ!﹂
ぐいと腕を引かれて、その場に倒れ込むように座り込んだ。
見上げれば、イサークが怖い表情をしていた。
友軍にサレハルドが捕まえた魔術師が打撃を与えるのはまずいと
思ったのだろう。それで私を取り押さえに来たんだろうけど。王様
だから、ここに駆けつけるのはもうちょっと後だと思っていた。
﹁あの人形を止めろ﹂
﹁もう、私は操ってないわ。師匠が勝手に動かしているんだから﹂
腕を掴まれていると、どうしても強引な口づけや拘束されたこと
を思い出して怖くなる。
でもそれまでのことを思い出して、足が震えているのを気づかれ
ないように、堂々と半分だけ嘘をつく。
動かしてるのは師匠だけど、維持してるのは私です。
﹁クレディアス子爵が来て、お前を引き取ると息巻いてもか? こ
れだけのことをしたら、俺としても引き渡さずにいるのが難しいぞ。
俺の手に負えない状態だと言われたらどうしようもない﹂
﹁子爵は、今ここで私が潰す。サレハルドにとっても、悪い話じゃ
ないはずよ﹂
私の返事に、イサークが厳しい表情になる。
魔術師くずれさえいなければ、操れる子爵さえいなければ、ファ
ルジアはそれだけ有利になる。私が居なくても、十分にルアインと
サレハルドを押し返せるはずだ。
﹁⋮⋮無理やりやめさせられたいのか?﹂
1513
凄まれたって、もう私は数日前の何の抵抗もできない自分じゃな
い。
怖いからこそなおさらに、戦えるんだっていう気持ちを思い出す。
だからまっすぐにイサークを見返せ自分。
﹁止めない⋮⋮むしろ捕えさせてもらうわイサーク。私は絶対、レ
ジー達の敵には、ならないんだから﹂
布靴だったから靴はあっさりと脱げてしまう。縛られた手を押さ
えられていたって平気だ。
土に触れていさえすれば、銅鉱石や血がなくても魔術は使える。
一気に土で作った檻で閉じ込めようとした。
けれど勘の良いイサークはそれを避ける。
ならばとこちらの地面を隆起させて間を開けても、すぐにイサー
クが追いかけてきた。
足止めするために穴を作るも、上手く退いて落ちなかった。
けれど私がかなり本気でイサークに攻撃しようとしているとわか
ったのだろう、彼の方もそこで一度足を止めた。
向き合って対峙すると、やっぱり足が震えそうになる。
ただでさえ、先日力で押さえつけて来た相手だ。しかも私は、一
人きりで誰かと戦ったことがほとんどない。
しかもイサークは結構強い人だ。王様がそんな技量なんて必要⋮
⋮なのか。ここは紛争が多い世界だから、どうしても上に立つ人間
にも能力の高さが要求されるんだから。
その王を助けるために誰かが来たらどうしようかと思ったが、サ
レハルドの兵士は、こちらを遠巻きにして動かない。
1514
師匠という呪いの人形が暴れ出したことに加え、魔術師にむやみ
に攻撃していいのかわからないのか、それともイサークが退くよう
に指示したのか。
でも一斉に攻撃されると辛いので、そこは助かったと思った。
同時に⋮⋮イサークが、私を特別扱いしていることを感じる。
だって今みたいな宣戦布告、他の人が聞いたらすぐさま刺殺され
かねない。
イサークは自分しか聞いていない状態にしておいて、私に許す猶
予をくれているんだろう。
﹁お前、本当に黙らせるぞ?﹂
ゴーレム
イサークが剣を抜いた。おそらく私に怪我をさせて止めるつもり
なんだろう。この状態で斬りつけられたら、さすがに私も土人形を
保っていられないどころか、何もできなくなる。
私は歯噛みした。
本気でかかってきたイサークに対抗するなら、私も彼を捕えるな
んてことを言わずに、殴り倒すぐらいの覚悟が必要なんだろう。
確かにイサークにはひどいことをされた。けれど彼が救ってくれ
たこともあった。そして彼は、私を殺したりはしなかった。今だっ
て、それとなく私を保護しようとしてくれている。
だから憎めない。憎みきれない。
私には⋮⋮イサークを殺せない。だから殺さずに、足止めをしよ
うとしたのに。
しかもイサークにかまけていたら、子爵に対抗する力が足りなく
なる。焦った私だったが、
﹁⋮⋮ひゃっ!?﹂
1515
何か柔らかくて重たいものがすごい勢いで突っ込んできた。
しかもそれは私を突き飛ばすんじゃなくて、抱え込んで隆起した
土の上からごろごろと転がる。
﹁ひええええっ!﹂
こんなのは想定してない! 一体何!?
私はぐるぐると回転して目が回ったところで、そのどこか覚えが
ゴーレム
ある物体から解放される。ただでさえクレディアス子爵の圧力で弱
っていたところに、これは効いた。
⋮⋮もう少しで吐きそう。これはもう、師匠内蔵の土人形も瓦解
してるんじゃないだろうか。
でも確かめる暇なんてない。よくわからないけど、イサークから
は遠ざかったはずで。
こんな好機はない。
逃げるためにも、私は走った後みたいに息をつきながら立ち上が
って、ようやく自分にぶつかったものの正体を知った。
キュッと鋭く鳴いた生き物⋮⋮ハムスターを巨大化させたような
土ねずみだ。
﹁ここって生息地だったの?﹂
土ねずみの巣でもあったのだろうかと思ったが、そんなわけはな
い。いたら、この間リアドナ砦で土人形を使った時にも出てきたは
ずだから。
とにかく土ねずみは私に危害を及ぼさないのはわかっている。だ
からサレハルドの軍から離れようと走り出したら。再びふわっとし
た感触に包まれて、揺さぶられながら移動することになってしまっ
た。
1516
揺らされて具合は悪いが、自分で走るよりもずっと早い。だから
じっと我慢する。
しかし逃げられたのもそれほど長い間ではなかった。
悲鳴のような鳴き声を上げて、土ねずみが倒れる。
抱え込まれていた私は、再び腕を引っ張り上げられて、後ろから
抱えられて拘束された。
一匹の土ねずみが、血を流して倒れていた。思わず私は目を背け
そうになる。
他の土ねずみはこちらを向いて、低く身構えている。
でも軍の後方にあった木立の中まで移動していたみたいだ。周囲
にサレハルドの兵の姿はない。
﹁何だこいつは⋮⋮﹂
私を背後から拘束したイサークの方は、土ねずみなんて初めて見
たんだろう。困惑しながらも土ねずみに対して剣を構え直している。
そのイサークの左右にも、土ねずみがいた。
そこに笛のような音を立てて飛び込んできた矢が、イサークの足
下に刺さる。
それと同時に動く土ねずみ達。
イサークは、一斉に襲い掛かる彼らを剣で斬りつけて退けた。柔
らかな小麦色の毛に散る赤い血に、私は息を詰めた。
ただイサークも背後からの一撃を避けるのは骨だったようで、大
きく体が傾いた。後ろから拘束されていた私も振り回される。
それでも、土ねずみの攻撃に続いて斬りつけられた剣を受け止め
た。
その表情が楽し気に歪む。
1517
﹁卑怯だなファルジアの奴は﹂
﹁これぐらいは戦術のうちだろう? 自分の弱さを、卑怯という言
葉で誤魔化すのは良くないよ、サレハルドの王﹂
イサークと剣を交えていたのは、長い銀の髪を結んだ人︱︱レジ
ーだった。
1518
帰るべき場所 3︵前書き︶
※今回、アラン視点で前回までの時系列の話になります
1519
帰るべき場所 3
キアラがサレハルドに捕縛されて、四日が経った。
レジーは毎日不安定そうだった。
表面上は変わりない。
アランにもあたりさわりのない柔らかな表情で周囲に対応してい
るし、焦りを見せることもない。
でもふと、考え込む瞬間が多くなった。厳しい表情をしたままじ
っと窓の外を見ているのだ。
昨日はリアドナの町の方角で煙が上がり、それを主塔から見てい
たレジーの表情が険しくて、アランは緊張した。
いつ飛び出して行くのかわからない気がして。
キアラの状況はわからない。
ただウェントワースの話と、ジナからもたらされた情報から、イ
サークというサレハルドの王がキアラを無下に扱いはしないと推測
されている。
最終的にルアインの軛から外れたいサレハルドは、それなりに良
い状態でファルジアと取引をしたいのなら、魔術師は交渉材料にし
てくるはずだ。個人的にキアラと知り合っているというのなら、レ
ジーが保護者だということも聞くだろう。レジーが決定的に怒るよ
うなことなどしないと思う。
ただ、ルアインとそれを補助するクレディアス子爵がいる。そち
らが何かを仕掛けた時に、魔術に人の力でどれだけ対抗できるのか。
レジーは今日も無言でリアドナの方を見ているし、アランもなん
1520
となく隣に立ってあちこちを見下ろす。
ルアイン軍が引いたこともあり、物資の輸送を依頼したからだろ
う、街道を砦へ向かって来る馬車が見えた。
それを見ていて、アランは砦まで下がったレジーの判断を思う。
町よりは砦の方がデルフィオンに近い。物資や兵士の供給を受け
るにも、こちらの方が有利だ。とっさにレジーはそこまで考えたの
だろう。
そしてこれ以上南へ下らずにいるということは、このままリアド
ナを攻略して、キアラを助けるつもりなのだ。
﹁⋮⋮キアラは、無事だと思うぞ﹂
だから時期を待たなければならないけど、思い詰めるなと言いた
かった。
﹁だけどキアラは、魔術を使いすぎてる。そちらに関しては、サレ
ハルドの王もどうにもできないだろう。頼れるとしたらクレディア
ス子爵だけだが、引き換えに何をされるか⋮⋮﹂
レジーは何よりもそれを気にしているようだ。自分を治療したせ
いでキアラが倒れたり、魔術の使いすぎで指先が砂になりかけたり
したせいだろう。
﹁あいつはけっこうしぶとい。お前がいない時にも、魔術師をどう
にかして捕まえようとしたりしてた女だぞ。指が砂になりかけたっ
て、自力で元に戻したらしい⋮⋮ウェントワースが言っていた。多
少のことは自分でなんとかするだろ﹂
﹁でもキアラは⋮⋮執着がないから﹂
1521
主塔の矢間に触れていたレジーの左手が、握りしめられる。
﹁ウェントワースが言っていた。キアラがあんなにも無邪気でいら
れるのは、苦しいことや悲しいことがあっても、この世界を物語の
中だと思っているからだろうって﹂
﹁ウェントワースが⋮⋮﹂
いつもキアラの傍にいたウェントワースがそう言うのなら、間違
いないんだろう。
﹁私もそんな気はしていた⋮⋮。だけど気づきたくないと思ってい
た。だとしたら、この世界は全部夢で、死んでしまえば優しい思い
出ばかりの元の世界へ帰れる、とキアラが考えているんじゃないか
って考えてしまうから﹂
﹁それだけってことはないだろ。キアラだって見た通りのバカじゃ
ない。全部が夢だなんて、思っちゃいないだろうよ﹂
ただレジーもまた、未練が薄いから⋮⋮全てを手放して世界に別
れを告げてもいいと、そう思ってしまうから気づかないだけだろう
と、アランはそう思う。
レジーが思わずといった風に笑った。
﹁アランが一番容赦ないよね。キアラに真正面からバカバカいい続
けてるの、アランだけじゃないのかな﹂
﹁本当にバカだからだろ。⋮⋮根本的にお人好しだから、魔術師に
なってまで人助けをしようとしたり、それほど頭が良くないくせに
小難しいことを考えすぎて、変な方向に突っ走るんだよ﹂
そう言うと、レジーはますます笑った。
1522
一瞬だけのことでも、そうして明るい表情をしているのを見ると、
アランはほっとした。
主塔を降りると、なぜか馬みたいに大きくなったリーラという氷
狐が待っていた。
サレハルドとルアインの兵が一度引き、砦の外を厳密に警戒する
必要がなくなってからずっと、リーラはこんな調子でレジーの行く
先々に現れる。
﹁今まで、あまり懐かれていた覚えがないんだけどな。でも、理由
はわかってるよ﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁前はキアラに懐いていただろう? それが魔術師の魔力に引かれ
てのことだとしたら、今は私しか、魔力の名残を感じられる人間が
いないからだろう﹂
エヴラールで死にかけた一件のせいか、とアランも気づく。
あの時レジーの体に入り込んだものは、魔術師になるために使わ
れる契約の石の欠片だ。それが時々レジーの体の魔力を荒らして不
調を起こすらしい。
リーラを連れて、レジーは砦の門へと向かう。
そこには先ほど到着したばかりの馬車が数台止まっていた。荷物
を確認していたのは、エメラインだ。
軍衣を着てきびきびと歩いているのに、高く結い上げた髪の下に
覗くうなじや、わずかにわかる足の線のせいか、ドレスを着ている
時よりも煽情的な雰囲気がある。ただ誰もが、彼女の冷たい印象の
眼差しと目が合ったとたんにそれを忘れてしまうようだ。
エメラインはレジーに気づくと一礼し﹁ご依頼のものが届きまし
1523
た﹂と報告してきた。
一体何かと思えば、馬車二つ分に満載されていたのは、檻の中に
入れられた巨大なネズミだったのだ。
いや、普通のねずみと違って体型は楕円形であまりねずみっぽく
はない。柔らかい茶色の毛といい、つぶらな瞳といい、やや可愛い
と思えなくもない⋮⋮もっと小さければ。
﹁これは?﹂
﹁土ねずみだよ、アラン﹂
﹁なんでまた⋮⋮﹂
と言いかけてアランは気づく。そうか。キアラを助けるために使
うんだ。
土ねずみは、土の魔術を使うキアラにまっしぐらに向かっていき、
銅鉱石と一緒に貯蔵しようとすると聞いている。
彼らがいれば、キアラが魔術さえ使えば敵兵をなぎ倒して彼女を
奪取しようとするだろう。それにどこにいるのかわからない場合も、
土ねずみを追っていけばいい。
レジーはエメラインに言った。
﹁何匹も死ぬかもしれない。それでもかまわないかい?﹂
﹁殿下、土ねずみは本来魔獣。害獣でしかないものです。多少愛着
はありますけれど、わたくしも殺されるかもしれないとわかってい
ながら、彼らを防壁代わりにしておりましたので﹂
﹁それでもこの数を揃えられたのは君のおかげだ。ありがとう、恩
に着る﹂
レジーの礼の言葉に、エメラインは苦笑いする。
﹁気になさらないでください。わたくしもキアラさんを助けたいと
1524
思いますし、軍としても彼女は必要な人です。まずは予定通り、穴
を掘らせますので﹂
既にエメラインとは打ち合わせが済んでいるようだ。
アランも砦の外へ連れていかれた土ねずみが穴を掘る様子を見な
がら、説明を受けた。
確かにその案なら、と思うものだった。
そうしてレジーは、キアラを奪還するための人選を始めた。
土ねずみの特性を良く知っている、一度遭遇しているレジーの騎
士達が中心だ。不安なのは飼い主であるエメラインも入っているこ
とだが、彼女が一番土ねずみのことを熟知しているのだから仕方な
いだろう。
それよりも、レジーが奪還部隊の中に自分のことを入れなかった
様子に、アランはほっとしていた。
けれどそれが早計だとわかったのは、戦端が開かれたとたんのこ
とだった。
サレハルド側に、土人形が現れた。
それだけでキアラがいて、魔術を操れるぐらいに回復をしている
ことがわかる。
キアラはおそらく、サレハルド側で身柄の保全と引き換えにファ
ルジアを攻撃するように言われているのだろう。多少の損害は仕方
ない、と思ったアランだったが、土人形の次の行動に驚いた。
真っ直ぐにルアイン側へと移動していき、ルアイン兵を蹴散らし
始めたのだ。
すかさずルアイン側への総攻撃を指示したレジーは、笑いながら
馬を降り、土ねずみと共に突入する集団へと向かい始める。
1525
レジーの馬を引き受けた騎士は諦め顔だったが、アランとしては
そうもいかない。
﹁キアラが無事みたいだし、早めに拾ってくるよ。だからアラン、
後は頼んだ﹂
﹁お前、最初からそのつもりだっただろう! 自分の騎士にだけ根
回ししていたな!?﹂
﹁さすがアランだね。⋮⋮これは私のわがままだとわかっているん
だ。私が最適だろうっていう以上に、私が行きたい﹂
まっすぐにアランのことを見て、レジーは宣言した。
レジーが突入部隊には最適だという理由も、アランはわかってい
た。けれどレジーは王子だ。
﹁私が行くことで、もしかすると捕らわれる可能性もあるかもしれ
ない。その時には君の枷にならないようにする。だからアラン、君
も無理に私を救わないでくれ﹂
言われて初めて、アランはキアラが感じただろう絶望感を知った。
仲の良い従兄弟。
レジーの方が身分は高いし、必要がある場所ではアランもそう接
していた。けれどレジーは根本的なところでアランに壁を作らない
でいてくれた。
アランは幼い頃から、自分の方がレジーよりも子供っぽいことは
承知していた。
レジーは自分よりも沢山のことを既に知っていて、理解していた。
けれど偉ぶるどころか、同年代の子と遊ぶことがないレジーは、ア
ランが教える遊びや悪戯に素直に従った。
自分は何もわからないから、どんなことでも知りたいと言って。
1526
その後も一緒に怒られて仲間意識を持ってくれていた。
そんな対応も大人びたもので、完全にレジーは子供らしいとは言
えなかったし、そんなところをウェントワースも心配していたけれ
ど、でもアランは嬉しかった。
自分にも、この頭の良い従兄弟に教えてやれることがあるとわか
ったから。
そうしてレジーが足りないものを追いかけている間に、なんとか
して追いつこうと努力した。
対等な関係でいたかったからだ。
そんな相手に、死ぬかもしれなけど助けるなと言われて、ショッ
クを受けない人間がいるだろうか?
世界で一番信じてすがっていた相手にそんなことを言われて⋮⋮
キアラが、必死にならないわけがなかったのだ。
このバカ⋮⋮と悪態をつく。
﹁今はキアラの気持ちがわからないでもない。⋮⋮どうして死なせ
たいなんて思う? なんでそうすぐに命を放り出すんだ。だいたい
お前は王になるんだろ。それなのに自分の身の安全を捨てるってど
ういうことだ!﹂
なのにレジーは、珍しく悲しそうな表情で言った。
﹁代えられないんだよ。キアラだけは、他の何とも。何度考えたっ
て。それが王の資質として間違っているなら、私は王になることを
望まない﹂
キアラのためなら、王位も捨てると言うレジーにアランは絶句す
る。
1527
何も言えない間にレジーは続けて言った。
﹁アラン、君がいたから私は普通の子供らしい行動を楽しむことが
できた。おかげで少し曲がりくねった人間になっただけで済んだん
だ。後で言えなくなると困るから、今のうちに御礼を言っておくよ﹂
﹁くそっ、僕は礼を言われたいわけじゃない! 助けさせろって言
ってるんだ!﹂
﹁⋮⋮君、けっこうキアラと似てるよね﹂
﹁は?﹂
こんな時に何を言うんだ、とアランは拍子抜けする。それからふ
つふつと怒りがこみ上げて来た。
﹁お前、そんなことを言っておきながら、王になる気は多少あるん
だろ? じゃなければここまで軍を率いてこなかっただろう。だけ
どな、王だからって足を引っ張るものを全て切り捨てるのは下策だ。
どうせなら無駄に良い頭を使って、冷徹に切り捨てるだけじゃなく
て、全部手に入れてみせろよ﹂
アランの言葉に、レジーは拍子抜けしたような顔をしたあと、く
つくつと笑う。
﹁うん。やっぱり君はすごいよアラン。大好きだ﹂
﹁レジー⋮⋮おまえ、頭の中身は大丈夫か?﹂
﹁多分変なんだと思う﹂
笑い止まないままそう返したレジーは、実にすっきりとした表情
だった。
1528
﹁けど、気分がいいよ。じゃあ任せた﹂
任せたというその言葉には、帰れなくなった時のことも、王子が
いなくなった後の国をも全てひっくるめられているんだろう。怖い
奴だ。
だけどこっちも、おめおめとレジーを死なせてやりはしない。
﹁⋮⋮任された﹂
その決意を込めて返した言葉を告げ、うなずいて土ねずみの掘っ
た穴へと入って行くレジーを見送ったのだった。
1529
帰るべき場所 4
﹁レジー⋮⋮﹂
本来、彼はこんな現れ方をするような人じゃない。
彼は王子で、国王がいなくなった今、唯一の直系として戦いなが
らも沢山の人に守られなくてはならない身だ。
けれど触れたらさらさらとしているあの髪も、イサークを射抜く
ように鋭い視線を向ける青の瞳も、間違いなくレジーのものだ。幻
じゃない。
来てくれたという思いと、こんな危ないことをするなんてという
気持ちが混ざり合う。
そして本来ならこういう状況の時に真っ先に来るはずのカインさ
んの安否を考えて、私は唇をかみしめた。
レジーとイサークが睨み合う間隙を突くように、サレハルドの兵
達が駆け付けようとしていた。
けれどすぐに矢の雨に進路を断たれ、ひるんだところへ斬り込ん
で行ったのは、見覚えのある人達だ。
﹁グロウルさん﹂
レジーの騎士達。だとすると、みんな承知でレジーをここに連れ
てきてしまったの?
どうしてそんな無謀なことをさせたのか。
でも少数で突撃してきたんだろう。レジーを守るように囲む騎士
や兵士の数はそれほど多くない。
1530
こんな追い込まれた状況で戦うレジーを見るのは辛かった。そん
な思いをさせたいわけじゃなかったのに。
その間にも、レジーとイサークの打ち合いは続く。
レジーを守らなくちゃと、慌てて魔術を使おうとしたが、魔力を
操作しようとした瞬間に血の気が引いたせいなのか、何かに気づい
たイサークがレジーの剣を払った上で私を左腕で抱え上げてしまう。
ぐったりとした私の首に剣の刃を当ててレジーへの脅しに使った。
レジーは表情を消し、そのまま動かない。
﹁そんなにこの小娘が大事か、王子様は﹂
﹁キアラはか弱いんだ。早めに安全な場所に保護してあげた方がい
いだろう? 貴重な魔術師に随分な扱いをしてくれたみたいだね、
サレハルドの王。靴を履かせずに走り回した上に、痣ができるよう
なことをしないでほしいかったね﹂
レジーの言葉に私は思い出す。
しまった、魔術を扱うために土に触れたくて、靴を脱いで歩いた
から足が土まみれ⋮⋮。痣は土ねずみと転がったせいだろうか。
とにかく今、思いきり多人数に膝下とはいえ足を晒しているのだ。
指摘されると恥ずかしい。
けど、そんなことは言っていられない。私が捕まっていたら、レ
ジー達が動けない。こんな敵軍のすぐ側なのに。
﹁大人しくしていればいいものを、じゃじゃ馬が暴れるから痣なん
て作るんだ。一応こいつの元夫候補からは助けてやったんだ。多少
駄賃はもらったがな?﹂
﹁ちょっ、何を⋮⋮!﹂
なんてことを言うの! 元夫候補の件はさておき、駄賃って何!
1531
色々言いたいことが混ざったあげく、せっぱつまった事態に私は
上手く言葉が出て来なくなって、最終的にイサークを罵倒した。
﹁イサークのバカ! 大バカ!﹂
﹁うるさい、黙ってろ﹂
剣が首に押しあてられて、冷たい。
﹁しかし足手まといになるなら、俺は別にこの小娘の命など必要な
いからな﹂
イサークは鋭い目をレジーに向けている。
私を殺してもかまわないって⋮⋮本気なんだろうか。イサークの
横顔からは、私には何も読み取れない。
でもイサークは王としてふるまう必要があれば、あっさりとカイ
ンさんを殺そうとするような人だ。それを思い出せば怖くて、思わ
ず体が震える。
レジーは本気だと思ったのだろうか、取り引きを持ち掛けた。
﹁それなら、剣を捨てればキアラを解放するかい?﹂
﹁⋮⋮剣を捨ててお前が代わりに人質になるっていうなら、交換し
てやってもいい﹂
﹁殿下!?﹂
グロウルさん達が止めようとする。私は剣を捨てようとするレジ
ーに、涙が出そうになった。
どうにかしたい。けど魔術が⋮⋮。今の状態じゃイサークの剣も
変化させるのは辛い。⋮⋮ってそれでいいじゃない!
私はためらいなく剣の刃を握って自分から遠ざけようとした。ぐ
っと力を入れれば、すぐに皮膚が切れて血が流れる。
1532
﹁何やってんだキア⋮⋮ぐえっ!﹂
驚いた瞬間にイサークが私から剣を離したので、その顎を狙って
足を蹴り上げた。もしかしたら他人様に太ももあたりまで見えてし
まったかもしれないけど、気にしていられない。
イサークの腕が緩んだすきに、身をよじって地面に落下。痛い。
痛みに呻きながらも、自分の血がついたイサークの剣を魔術で曲
がりくねらせた。
﹁げっ! このじゃじゃ馬!﹂
﹁⋮⋮こっちは、素手でか弱いんだもの、なんでもありでしょ!﹂
息苦しさが増す中で私が言い返す間にも、レジーさんがすかさず
斬り込んでいた。
剣を間近につきたてられてひるむイサーク。あげく矢まで射られ
ている。
けれどサレハルドの兵も、矢やレジーの騎士達が押さえを破って
押し寄せようとしていた。その中から、グロウルさんがレジーの援
護に回る。
私は少しでも遠ざかろうとした。息が切れて、熱が上がったよう
にふらつくけれど、少しでも逃げなければレジー達の足手まといに
なる。
そんな私を、誰かが抱きかかえた。
一瞬、イサークかと思って身を縮めた。他の人だったとしても怖
くて、思わず逃げようとした。
けど、急いでいてもどこか丁寧な抱え方に覚えがあった。近づい
た時に鼻をくすぐる匂いに、日の光の暖かさと懐かしさを感じで胸
がいっぱいになる。
1533
﹁キアラ﹂
間違いなくレジーだった。
そう思ったら力が抜けて、とたんに涙が出そうだった。
﹁もう少し我慢していて﹂
言われた瞬間、レジーは私を肩に抱え直して剣を振るう。
飛んで来た氷の塊を薙ぎ払ったのだ。
振り返るようにして見れば、サレハルドの兵とは別に、また魔術
師くずれがこちらへ向かってきていた。
﹁殿下!﹂
﹁こちらは気にするな、撤収を優先する!﹂
グロウルさん達と言い合う間にも、吹雪が襲い掛かる。
全力で魔術を使っているのか、目の前が見えないほどの白い粉雪
と風だ。しかも寒い。まともに服を着こんでいないせいで余計に寒
くて死にそうだ。
この吹雪のせいで余計に乱戦になったようだ。
白い風に紛れるようにサレハルドの兵が現れ、レジーは何人かの
兵士を切り捨てた。
相手の動きよりもレジーの方が早くて、剣を振りかぶったまま倒
れたり、こちらに気づいた時には首を斬られている。
さらに吹雪の外からはこちらが見えているのだろうか、風に負け
ずに飛んで来た矢が、一人を射抜いた。撤退の援護をしているんだ
ろう。
と、そこで私はこのまま立ち去れない件を思い出し、レジーに訴
1534
えた。
ゴーレム
﹁あの、ごめんなさい。師匠がさっきの土人形に乗ってたの。この
ままだと⋮⋮﹂
私はサレハルド側に連れ戻されるつもりだったんだけど、それだ
と師匠をサレハルドに回収されてしまったら別れ別れになってしま
う。あまり距離が離れてしまったら、師匠の魔術が解けてしまいか
ねない。
﹁わかった。そっちもなんとかできると思う﹂
そう言ってくれたレジーは、自分の騎士が踊り出てきて先導しよ
うとするのを押し留めて言った。
﹁私は大丈夫だ。皆このまま吹雪に乗じるように。魔術師くずれは
サレハルドに押し付けておくんだ。だがキアラの師がさっき崩れた
土人形と一緒のようだ。アランの方が近いから、報せてくれ﹂
レジーの指示に、騎士はうなずいて吹雪の中へ。
そうして私に指示した。
﹁少しだけ、魔術が使えるかい?﹂
﹁うん﹂
何かに必要なんだろう。私は疑いもなく、周囲の土を動かそうと
した。
とたん、再び土ねずみにレジーごと抱えられた。2・3匹で寄っ
てたかって周りを囲み、とある方向へ押しながら誘導しようとする。
わかった、そっちに土ねずみの巣の入り口があるんだ。人間には
1535
わからなくても、魔獣には巣の場所の方向なんかが感覚でわかるん
だろう。それを利用したんだ。
レジー達が現れたのも、土ねずみの穴を利用してのことだったん
だろう。
そうして移動を始めた時、どこからかつぶやきが聞こえた気がし
た。
﹁⋮⋮幸せになれ、キアラ﹂
イサークの、声のような気がする。
今になって、どうしてそんなことを言うの? それとも今のは幻
聴?
疑問に思ったけれど、問い返すことはできない。
押されるまま走るレジーに抱えられて、私は顔に吹き付ける吹雪
に目を閉じてしがみついて。
やがて唐突に、浮遊感に襲われて悲鳴を上げた。
1536
帰るべき場所 4︵後書き︶
話が長くなって書ききれなかったので、明日また続きを投稿します。
1537
帰るべき場所 5
﹁ひゃっ﹂
落下感に驚いたけどレジーが私を抱えたまま着地してくれたおか
げで、怪我はなかった。
土ねずみの巣の中に入ったらしい。
暗いけど、吹雪の中から逃れたおかげで暖かい。でもまだ寒い。
それをわかっているかのように、剣を鞘に収めたレジーが横抱き
に抱え直してくれた。
進む先は真っ暗だ。前後を土ねずみに挟まれるようにして、どこ
かへ誘導されるままに進んでいる。
けど不安はない。レジーは、私にひどいことなんてしない。守っ
てくれるってわかっているから。
ただかなりの距離を歩いていることが心配だ。人を抱えて歩くに
は辛い距離だと思うのに、レジーは何も言わない。
﹁レジー、自分で歩くよ﹂
少し休めたから、さっきよりはふらつかないと思う。
﹁だめだよ、君は素足だったじゃないか。それに私がキアラに触れ
ていたいんだ﹂
暗闇の中でそんなことを言われると、うろたえてしまう。言葉が
やけに心に響く気がして。
なんとなくそれ以上反論できずにいると、ようやく暗い土の中か
1538
ら外へ出た。
月が見える。
丸くてとても明るい、満月だ。
月の光が私達のいる場所を照らしていた。
そこは川の側にある、小さな崖の下だった。大きな岩を洗うよう
な流れの早い川が黒く見える。レジーや土ねずみが立っているのは、
丸い小さな砂利ばかりだった。
そこでようやくレジーが私を降ろしてくれる。
石に直接足をつけたので、ちょっとだけ冷たい。
﹁ここか﹂
レジーのつぶやきに、私は首をかしげる。
﹁どこに出るのか知らなかったの?﹂
﹁土ねずみがいくつかの出口を作ってしまってね。どこに行くのか
はその土ねずみ次第だったから。どちらにせよ、戦場のリアドナか
らは大分離れたはずだ。他の者も、同じように別な出口に土ねずみ
と移動しているはずだよ。⋮⋮手を出して﹂
レジーに促されて縛られたままの手を差し出すと、剣で縄を切っ
てくれる。
ようやく解放されてほっとした。でも縄の痕がひりひりしたので
さすってしまう。
するとレジーが、怪我の治療をしてくれた。
最初から私を連れて他の人と離れることを想定していたのか、レ
ジーは傷薬なんかを持参していたみたいだ。
縄の痕と、イサークの剣で傷をつけた掌に包帯が巻かれて行く。
でもここでゆっくりしていていいんだろうか。敵も土ねずみの穴
1539
を見つけるんじゃないかと私はそわそわする。
﹁敵が後を追って来るとかそういう心配はないの?﹂
﹁エメライン嬢達が塞いでくれることになってる。土ねずみが穴を
塞ぎたくなる方法があるらしいんだ﹂
さすが飼い主。
﹁土ねずみも何匹か犠牲にさせちゃった⋮⋮﹂
体当たりばかりされている私だけど、あんなに外見の可愛い生き
物が剣で斬られて倒れる姿を見るのは、痛々しくて辛かった。
﹁わかっていてやったことだから、君は気にしないで。それでもい
いとエメライン嬢は言ってくれたし、砦に連れてきてしまった時点
で、君が魔術を使えば敵軍の真っただ中を走って駆けつけただろう
しね。それより﹂
言葉を切ったレジーが手に包帯を巻き終わると、私を抱きしめた。
﹁無事で良かった﹂
レジーの一言に、私は瞼が熱くなる。
本当は、誰も助けには来ないと思っていた。期待しちゃいけない
って。
そんなことをしたら、誰かが傷つく。戦争で人を殺すことはどう
しようもなくて、ようやく諦めがついた私だけど、せめて大事な人
達には傷ついてほしくなかった。
だから自分が逃げるのは二の次でいいと思った。
ファルジアを勝たせて、ついでにクレディアス子爵を倒すことを
1540
優先しようとした。クレディアス子爵がいなければ、ファルジアは
苦戦しないだろうから。
なのに、来てくれた。
私を心配してくれていたことが嬉しくて、まだ必要としてくれて
るんだと思うと、それだけで心が満たされる気がする。
嬉しくて、安心して、涙が出てくるのを止められなくなっていた。
﹁キアラ泣かないで﹂
レジーはなだめるように背中を撫でてくれる。慣れ親しんだ手の
感覚に、私はよけいに泣かされる。
﹁怖い思いをさせたね。早く助けに行けなくてごめん﹂
謝らないでと言いたかったけど、嗚咽が邪魔して何も言えない。
だってレジー達のせいじゃない。戦争についていくって、自分で
決めたからだ。
でもやっぱり怖かったから、ついレジーにすがりついてしまう。
そのまま返事もできずにいたけれど、しばらく泣いているうちに
少し気が収まったみたいで、ようやく涙が止まってきた。でも顔を
上げられずにうつむいて、レジーの胸に額を当ててじっとしていた。
すると頭を撫でながらレジーが言った。
﹁そろそろ顔を見たいな﹂
﹁やだ。泣いてひどい顔してるから﹂
即お断りした。イサークとかなら、存分に幻滅するなり酷いと思
うなり好きにしたらいいから気にしないけど、レジー達にはそんな
の見せたくない。
1541
﹁私は気にしないよ。キアラはいつだって可愛い﹂
﹁⋮⋮え﹂
あまりにストレートな褒め言葉に、私は思わず息を止めてしまい
そうになった。
そんな私の右手を、レジーがなにげなくといったように持ち上げ
た。
﹁指輪は取り上げられた?﹂
指輪がないことは、月明かりでも充分にわかっただろう。だけど
確認したいのか、指を撫でるように動かされてくすぐったい。こそ
ばゆいのとは違う、何かよくわからない感覚に私はうろたえたまま
答えてしまう。
﹁あの、子爵を刺そうと思って使って⋮⋮﹂
﹁刺すような状況になったんだ?﹂
レジーに問い返されて、私は自分が余計なことを言ってしまった
と気づいた。
私のバカ! レジーを心配させてしまうだけなのに、どうしてそ
んなことを言った。
﹁あの、大丈夫。エイダさんが助けてくれたし、その後はイサーク
も近づけないようにしてくれたから⋮⋮﹂
﹁近づかないようにさせないといけない目に遭ったんだね? 何を
されたの?﹂
﹁うぁぁ。えっと、私が魔術師だから自分が管理するって連れてい
かれそうに⋮⋮﹂
1542
﹁管理するためだと言って、刺すほど接近したんだね?﹂
これ以上否定しきれない気がして、私は逃げようとした。だって
襲われそうになったなんて恥ずかしくて言えない。
﹁も、もう質問はなし!﹂
そうして離れたら、私が頑なになる前にレジーは諦めてくれる。
そう思ったのに。
やんわりと握られたレジーの手から、自分の手が離せなかった。
離すのが怖い。
するとレジーが、私の手に自分のもう片方の手を添えて包み込む
ようにする。
﹁キアラ、私に触れられるのは嫌じゃない?﹂
静かに尋ねられて、自分でもどうしたらいいのかわからなくなっ
ていた私は、うなずく。
﹁抱きしめていても、嫌じゃなかった?﹂
﹁⋮⋮あったかいから﹂
そう返すと、小さく笑った。
﹁だったら逃げないでいてくれる?﹂
前にもそんなことを言われたような気がする。いつだったかと思
い出しながら﹁レジーから逃げたりはしない﹂と言えば、さっきよ
りも柔らかく抱きしめられて、それどころか抱き上げられた。
あっという間に、レジーは近くの岩の上に私を抱えたまま座って
1543
しまう。
重くないんだろうかとうろたえた隙に、右手を持ち上げられて指
輪が無くなった中指に口づけられる。
﹁これは嫌?﹂
﹁嫌じゃ⋮⋮ない﹂
指輪をだめにしてしまっても、怒っていないってことだと思う。
同時に胸が苦しくなる。指輪をしていないことをすごく惜しまれ
ている気がして。
でも無くなったことを確認するためだけに、口づけなんてする必
要はないのに、それって好きな人にするようなことじゃないの?
だけど聞けない。怖くて。
貴族同士なら、社交辞令で指に口づけることがあるって知ってい
るから。王族のレジーだったら、その程度の意味しかそこにないか
もしれない。
はっきりそうだってわかったら⋮⋮。
と考えたところで、私はイサークの言葉を鮮明に思い出す。
︱︱お前は恋愛感情が信じられないのか?
なんでイサークはあんなことを言い出したんだろう。考え込みそ
うになった私に、レジーがささやいた。
﹁それならこれは?﹂
問いかけられて顔を上げると、頬にレジーの唇が触れた。
ほんの一瞬のことなのに、胸の奥に甘い感覚がよぎる。頭がぼん
やりとする心地よさに、私は落ち着かない気持ちになる。
1544
だけどイサークに同じことをされた時とは、全然違う。
その理由がわかりそうな気がして、私はじっとレジーのことを見
つめてしまう。
﹁ウェントワースを守るために捕らわれたんだってわかっているけ
ど、ずっと心配していたんだ。おかげでウェントワースは生きて戻
ってくれたけど﹂
そうか、カインさんは無事に戻れたんだ。
安否がわかって私は息をつく。
レジーは微笑みながらまだ濡れたままだった頬を、さっきまで指
をなぞっていた手でそっと拭ってくれた。
﹁代われるものならそうしたかった。これから先、私の目の届かな
い場所にいさせてあげる自信がないよ。⋮⋮キアラ、それくらい君
が大事なんだ﹂
大事だと言われて、引っ込んだはずの涙がまた目に滲みそうにな
る。
﹁心配させてごめんね。でも危ないことはもうしないで。私ならな
んとかするし、レジーが殺されたり怪我するのは嫌だよ﹂
﹁こればかりは意見が合わないね﹂
正直に言ったのに、レジーは苦笑いしながらも受け入れてはくれ
ない。
ひどい、と思った私に彼がささやいた。
﹁私もこれに関しては引かないよ。だって君以上に大事な人はいな
い。⋮⋮君が好きなんだ、キアラ﹂
1545
好き。
レジーの言葉に、私は胸を突かれたように息が止まって。
その瞬間を見計らったようにレジーの顔が近づいて⋮⋮口づけら
れた。
避けることなんて思いもつかなかった。
ただ唇が柔らかいことに気づいたとたんに、顔が発火しそうなほ
どに熱くなった。
なぞられるように動かされると、背筋を震わせるような感覚に陥
る。どこかに落ちて行くような、そんな気持ちに近い。
でもイサークみたいに怖くはなくて、もっと安心させてほしいと
ねだりたくなる自分に戸惑った。
同時にあの日、イサークが何を私に伝えようとしたのか、少しだ
けわかった気がする。
死にそうになってでも助けたいと思って、危険だとわかっていて
も戦場にまでついてきた理由。
恨めと言いながら強引に口づけたのは、自分とレジーの違いを教
えようとしたんじゃないだろうか。
好きな人と、好きではない人への違いをわかれと。
⋮⋮そうか、好きだったんだ。
すとんと、私の心の中にその言葉が染み込んで行く。
いつからだろう。でもきっと、ほとんど最初の頃からなんだと思
う。
知り合ったばかりだった。一人で逃げてきて、頼りになる人も誰
もいない。正直に話しても疑われて当然の状況で、レジーだけが信
じてくれていた。
1546
でも私は、この人に恋されるわけがないだろうと思っていた。今
でも、好きだなんて気の迷いなんじゃないかと思っている。
どこか、自分とは違う世界の人みたいに思えて。
ゲームの中の王子様が、自分に恋するわけがないって思うから?
だから時々、レジーが友達の枠を踏み越えるようなことをしても、
からかわれていると思おうとしてたんだろうか。冗談だと思ってお
けば、穏やかな関係が壊れたりしないと思って。
けど唇が離れると、せつなくなる。
そのせいで、自分の気持ちが嘘じゃないと心に刻まれる気がした。
レジーは私に言う。
﹁今度は謝らないよ。嫌われたくなくて無理にこういうことをしよ
うとしないでいたけど、君がいなくなって、言えないままになるの
は嫌だと思っていた。だからもう全部言うことにしたんだ﹂
﹁ぜ、全部?﹂
﹁好きだから、戦わせたくなかった。本当は閉じ込めて、どこにも
出られないようにして君を守りたかった。私が死んだとしても君に
は生きていてほしかったから。それをわかってほしかったけど、キ
アラには通じなくて。そのうちにウェントワースばかり側に置いて、
彼を一番にするつもりなんだと思ったら、辛くなる前に離れるしか
ないかもと思ったけど﹂
﹁え、カインさん?﹂
﹁だってウェントワースに抱きしめられていても、キアラは嫌がっ
てなかった﹂
まさかデルフィオン男爵の城でのこと? ⋮⋮見てたのか。そう
とわかると恥ずかしくなる。
1547
﹁カインさんは、誰かに縋りたかっただけだと思ったから⋮⋮﹂
あの時はカインさんが亡くした家族のことが忘れられなくて、代
わりが欲しいんだと思った。男の人だから泣いたりしないだろうけ
ど、でも寂しくて辛いなら、ちょっとだけ胸を貸すような気持ちだ
っただけで。
だから彼も好きだと言ってくれたのに、私は真正面から受け取ら
なかった。受け入れるとかその前に、何かが違うと思ってしまった
から。
でも、もう違いを誤魔化せない。全部イサークのせいだ。
﹁だけど⋮⋮遠慮するのはやめることにしたんだ﹂
レジーは気分が良さそうに微笑む。
﹁君が迷惑に思ったり、束縛されて困るかもしれないけど、なるべ
く言いたいことは言っておきたい。二度と言えなくなるのは嫌だっ
たから。でも⋮⋮キアラは嫌だった?﹂
私の答えは決まっている。
ずっと決まっていたのに、知らないふりをしていただけだった。
﹁レジーの気持ちは嫌じゃ⋮⋮ないの。だけど、私なんかのこと、
本当にそんな⋮⋮﹂
嘘偽りなく好きでいてくれるの?
これは全部夢で、目が覚めたら無かったことになりそうな感じが
して怖い。
いつの間にかレジーのマントの襟元をぎゅっと握っていたら、レ
ジーはそんな私の手に自分の手を添えてくれる。それだけで、私の
1548
戸惑いもわかってくれたと思えるこの感覚が、とても嬉しい。
﹁信じられない?﹂
﹁⋮⋮少し、怖い﹂
これが現実だって認識しているはずなのに、一歩踏みこんだ気持
ちを口にするのは怖かった。どうしてこんなに怖いのか、自分でも
よくわからない。
﹁君がそんな風に思う理由を、私は理解してるつもりだよ。だから
怖くないと思えるまで、何度でも君に理解してもらえるようにしよ
うと思うんだ。そのうちに怖くなくなったら、キアラの気持ちを聞
かせてほしいな。それまでずっと待ってる﹂
レジーは無理に押してはこなかった。
私の気持ちが傾いているって、わかったからだろうか。
﹁好きだよ、キアラ﹂
夢なんかじゃないと教えるようにまたレジーが抱きしめて、同じ
言葉を繰り返してくれる。
優しい言葉に浸るように目を閉じた私は、ふと私に心の底に蓋を
してしまい込んだものを気づかせた人のことを思い出す。
イサーク。貴方は何を考えて、あんなことをしたの?
1549
リアドナ砦へ戻って 1
目を閉じて眠ったら場面が切り変わったら良かったんだけど、現
実はそうもいかない。
速やかに迎えが来るまでの間、私はレジーと一緒に川辺でじっと
していなければならなかった。
⋮⋮気まずかった。
だって告白されたばっかりなんですよ。しかも私がしり込みした
せいで、レジーは回答を保留にしてくれたんだけど。
私は恋愛だと意識したら、急に距離が掴めなくなってしまった。
好きだという気持ちに寄りかかって甘えるのは申し訳ない。
捨てられるのが怖くて、お友達か家族枠の方が怖くないかもと思
ったのは私の方なんだから。だけどそのつもりで話していいのかな。
告白したレジーの方は嫌がらない?
ああでもキスを拒否しなかったんだ私。
抱きしめられるのが居心地よくて離れにくいのは、前からだけど。
これはやっぱり、保護者だと思って安心してたからってわけじゃな
かった⋮⋮の?
意識すると恥ずかしくなってくるけれど、寂しかった反動か、離
れるのが辛くて泣きそうになるのでじっとしていた。
やがてレジーが言った。
﹁寒くないかい?﹂
薄着だから、少し涼しすぎる気はする。もう夏を過ぎてしまった
1550
から、夜は気温が下がるから。でもレジーにくっついている所はあ
ったかい。
﹁そんなに寒くないよ﹂
そう答えたのに﹁一度立ってもらえる?﹂と言われて、はっとす
る。
﹁あの、ごめんなさい。重かったでしょう?﹂
長いこと重たいものを膝の上に乗せていたら、さぞ血行も悪くな
るはずだ。小学生のころ、ずっとお父さんの膝の上に座っていたら、
足がしびれたせいで困った顔をされたことを思い出して、私は急い
で飛び降りた。
﹁キアラなんて軽いものだよ。どうせ捕まった直後は寝込んだりし
て、まともに食べていないんだろう? 前より痩せてしまったんじ
ゃないのかな﹂
重くないよと言われたら、お世辞でもうれしいと思ったんだろう
けど、心配そうに言われるとなんだか恥ずかしくなる。
﹁でも寝込んだこと、なんで知ってるの?﹂
﹁君がいつもより魔術を使っているとわかっていたからね。フェリ
ックスを治療してくれただけでも、消耗してる様子だったと聞いて
る。その後に魔術師くずれと子爵と戦って、あげくウェントワース
の治療だ。⋮⋮心配してたんだよ﹂
﹁うん、ごめんなさい﹂
どうしようもない状況だった。何度同じ目にあっても、やっぱり
1551
私は戦うだろうし、二人を治しただろう。だけどレジーを不安にさ
せていたと思うと、何もかも言い訳になりそうで、ただ謝ってしま
う。
﹁ところで聞きたかったんだけど﹂
レジーが話題を変えた。
﹁どうしてこんな格好を?﹂
﹁普通の女の子は、寝間着姿なら逃亡しないからって﹂
﹁手を縛っていたのに、それでも君が止まらないと相手はわかって
いたわけだ﹂
そう言うレジーの声が、やや低くなる。
﹁動かないでキアラ﹂
そう言って、レジーはまず私を羽織っていた緑のマントで厳重に
くるんだ。
しかも長さがたりなくて、足先まで包めないことが非情に不満そ
うだったが、その状態でもう一度レジーは私を抱えて座ってしまう。
どうやら立ち上がって欲しいと言ったのは、こうするためだった
らしい。
﹁足を人に見せて歩くなんて⋮⋮。本当はこの緑を見るのも嫌なん
だけど、君が風邪を引いてはいけないから、我慢するしかないね﹂
ため息をつく。
﹁え、でも。さっき戦場でどうせ足晒してたし﹂
1552
寝間着代わりの白い服は、ふくらはぎあたりまでの長さしかなか
った。あげく担がれたり小脇に抱えられたりしてたので、ひざ下を
晒すことになってしまっていた。
それを思い出して、気にするようなことじゃないと言いたかった
んだけど。
正直いってこれは失言だった。
﹁私にそれを思い出させない方がいいんじゃないかな? グロウル
達の記憶を抹消させたくなってしまうから﹂
﹁わ、ワカリマシタ﹂
レジーの視線が冷たい⋮⋮。私でも怯えそうになる。
でも、確かに全部言うと宣言しただけあって、レジーは思ったこ
とを私に伝えるようになったみたいだ。
黙っていても通じている感じもなんだか心が温かくなったけど、
思っていることを話してくれるのも嫌じゃないけど、その目が怖い。
そうしている間に、お迎えが来てくれた。
土ねずみが作った出口は決まっていたらしいから、回収部隊も速
やかに駆けつけられたんだろう。
﹁お待たせ致しました、殿下﹂
先頭に立って二十騎ほどを率いて来たのは、レジーの騎士ディオ
ルさんだ。彼は空の馬を連れていた。
私を一人で座らせて少し離れた場所で彼らを出迎えたレジーは、
怪我をしていないので、その馬に乗ることにしたらしい。
が、その前にと、ディオルさん達に言った。
1553
﹁毛布か何か持ってきていないかい?﹂
﹁万が一の担架代わりに積んできましたが﹂
﹁ぜひ使わせてもらおう﹂
そう言ったレジーは、毛布を受け取るなり私をぐるぐる巻きにし
た。足の先までしっかりと。もう身動きもできない。梱包された荷
物になった気分だ。
そのままレジーは、荷物状態の私を抱えて砦へ戻った。
おかげでレジーを出迎えたアラン達は、すごい悲壮な声でレジー
に尋ねたのだ。
﹁おい⋮⋮まさかレジー。キアラは見せられないような状態に⋮⋮﹂
﹁あんなに元気に、魔術を使っていたみたいなのに﹂
一緒にいたらしいエメラインさんの、惜しむような言葉に慌てた。
ちょと待って、私生きてるよ!?
﹁いや生きとるじゃろ?﹂
師匠がツッコミを入れてくれた。良かった師匠も無事に戻れたん
だ。誰かが無事回収してくれていたんだろう。ありがたい。
そんな中、一番冷静そうな人がいた。
﹁きっと殿下が見せたくないだけでしょう。少々外聞を気にする格
好だったと言いますから﹂
﹁⋮⋮そこまでだよウェントワース。まさかグロウルに聞いたのか
い? 誰かちょっとグロウルを呼んで来てくれないか?﹂
レジーがやや低めの声でそんなことを言い出すが、私はそれどこ
ろではなかった。
1554
﹁カインさん、カインさんですかっ!﹂
ちゃんと顔が見たい。無事だと聞いてたし、声も聞こえるけど、
元気な顔を見ないと安心できない。
だって最後に見たのは、死にかけて気絶した血まみれのカインさ
んだった。
怪我は治った? 後遺症とか何もない?
知りたくてじたばたもがくが、ぐるぐる巻きの毛布で腕が動かせ
ない。しかもレジーがほどいてくれない。顔は見せたって恥ずかし
くないのに!
仕方なくヘッドバンキングの要領で頭を振って﹁ちょっ、キアラ
!?﹂﹁妖怪か!?﹂﹁芋虫みたいで気味が悪いのぉ﹂と周囲に言
われながらようやく顔を出した。
﹁カインさん無事でしたか!?﹂
夜なので、砦の周囲には篝火が焚かれている。
赤味の強い光の中に、あきれ顔のアランと並んでカインさんがし
っかりと自分の足で立っていた。
﹁おかげ様で﹂
馬上の私を見上げて答えてくれたカインさんは、傷も何もないよ
うに見える。以前のままの姿に、私は安堵した。
﹁キアラさんのおかげで、生き残ることができました。御礼を言う
ことができて良かった﹂
﹁それでも起き上れるようになったのは一昨日なんだからな、お前。
1555
もう休めよ。死にかけたんだから﹂
しかし師匠を抱っこしてくれているアランが言うと、カインさん
は耳に痛いことを聞いたように少しだけ苦笑いする。
﹁とりあえずキアラをどうにかできるかな、エメライン嬢。服の予
備なんかはあるかい?﹂
アランの隣にいたエメラインさんがうなずく。
﹁前回の戦闘でも荷はそれほど失いませんでしたので、予備で持っ
てきていたものが手元にあります。とりあえず運びましょう。誰か
兵士を読んで⋮⋮﹂
エメラインさんの最後の言葉を聞いた瞬間、見知らぬ人に抱えら
れるかもしれないと思って思わず身を縮めそうになった。
味方だってわかってる。けど色々ありすぎて、自分が自由に動け
ない時に触れられるのは怖い。
するとレジーは、カインさんにミノムシ状態の私を差し出した。
﹁逃亡防止に、薄手のものしか着ていないんだ。靴もなくて﹂
﹁それでこの状態ですか。理由は把握しました﹂
受け取ったカインさんは、私のミノムシ姿の理由に納得したよう
だ。
﹁いや、靴はあったんだけど、魔術使うのに邪魔で脱いじゃっただ
けで⋮⋮﹂
思わず説明してしまうと、レジーに額をつつかれた。
1556
﹁非常事態だったのはわかるけど、実は結構目に毒だったよキアラ﹂
﹁どく!?﹂
自分の姿が目に毒だと言われた経験なんてほどんどないから、私
は呆然としてしまう。
﹁君のつま先をじっくり見た男が、私以外にもいるなんて、腹立た
しかったんだからね?﹂
そんな私に追い打ちをかけるようなことを言って、レジーは笑っ
て手を振った。
﹁じゃ、任せたよ。アラン、戦闘後の状況を知りたいな﹂
﹁あ⋮⋮うん。そう思って将軍たちを集めてある。⋮⋮けどお前、
なんか遠慮が無くなったな﹂
﹁吹っ切らせたのは君じゃないか、アラン﹂
馬から降りたレジーは、アランと歩いて行ってしまったのだった。
1557
リアドナ砦へ戻って 2
ほんの少しだけ、レジーのあっさりとした様子に私は寂しくなっ
た。しかも師匠まで持って行かれてしまった。
けど、それよりカインさんとエメラインさんだ。
﹁あのエメラインさん、土ねずみのことありがとうございます。だ
けど犠牲にしてしまって⋮⋮﹂
軍衣姿も凛々しいエメラインさんは、笑って﹁気にしないで﹂と
言ってくれた。
﹁先に殿下にも謝られたけど、元は魔獣なんだから。家に残ってい
る子達がまた勝手に増えるわ。三か月もしたら、餌をやり過ぎると
倍になるのよ﹂
増える時はネズミ算式なんだ⋮⋮。
﹁まずは身づくろいしましょう。あ、そこの方、傭兵のジナを私の
部屋の隣に呼んで来てくださいな。魔術師が戻ったから、と﹂
エメラインさんは近くにいたデルフィオンの兵に指示すると、先
導する。
カインさんもミノムシを解除してくれないので、私は抱えられた
まま移動することになった。
ただ顔を出していたので、砦の中ですれ違った兵士さんが、小声
で言い交わしていた。
1558
﹁え、魔術師殿!?﹂
﹁助けられたのか? ⋮⋮ていうか拘束されてるわけじゃないよな、
あれ﹂
﹁ミノムシに職変えしたんじゃないのか?﹂
聞いていたエメラインさんも、カインさんもくすくす笑う。
気持ちは複雑でも、笑ってくれるので私も頬が緩んだ。一時は、
もうこんな風にささやかなことで笑い合えないかと思っていたから。
そのせいか、つい目に涙が滲む。レジーと会ってから涙腺が緩ん
でしまったみたいだ。
するとカインさんが私を抱え直して、肩を支える手で目元を拭っ
た。
﹁もう大丈夫ですよ。みんないます。貴方が助けたフェリックスも、
戦闘に参加したいと言ってきかなかったくらいで。仕方なしにグロ
ウル殿が縛りつけていましたが﹂
グロウルさんはけっこう力技で行く人だったらしい。
﹁まだフェリックスさんは治っていないんですね﹂
﹁私の方は切り傷でしたから薬が効きましたが、フェリックスは火
傷ですからね﹂
﹁後で様子を見に⋮⋮﹂
﹁今日は止めておいて下さい。あなたもかなり疲れたでしょう。無
理をしたら倒れますよ﹂
カインさんに注意されるのも久しぶりで、はいとうなずきながら、
そんなことすら嬉しかった。
やがてエメラインさんが案内してくれた部屋に入る。
1559
砦の中の部屋なので、石壁に簡素な寝台と無骨な椅子とテーブル
があるだけだ。むしろそれだけの物があるだけいいかもしれない。
それに寝具を置いてくれているあたり、今日の戦闘で私を確保し
たら使わせるつもりで用意してくれてたんだろう。
﹁うう、エメラインさんありがとう﹂
衝動のまま抱きつきたいが、今の私はミノムシだ。カインさんに
降ろしてくれとお願いして床に着地する。
さて抱擁をと思ったら、エメラインさんが身支度の準備をするか
らと出て行ってしまい、その場でカインさんと待つことになった。
いつ帰ってくるかわからなかったもんね。足の汚れも酷いから、
水とかも持ってきてもらわなくちゃいけないだろう。手間をかけさ
せてしまうけど、私もすぐにあちこち動き回るのは怖いのでエメラ
インさんに甘えたかった。
じっとしていると、さすがに毛布でぐるぐる巻きだと立ちにくく
なってきた。バランスがとりずらいからほどきたいが、レジーはど
うやったのか、自分でこの包帯のようにぎっちりと巻かれた毛布が
ほどけない。
﹁あのカインさん、この毛布なんとかしてくれませんか? さすが
に苦しくなってきて﹂
頼めばカインさんがぐるぐる巻きの毛布をなんとかしてくれる⋮
⋮というか、ほどかれて初めてわかった。
﹁ああ、外れないのはこれのせいですね。⋮⋮きっちりと結びすぎ
てる﹂
1560
﹁結ぶ!?﹂
レジーは毛布を巻きつけたあげくに端を結んでほどけないように
したらしい。
私が暴れるかもしれないから? そんなバカな。
わけがわからないと思いながら、ぐるぐる巻きから脱出した。そ
れでも一応肩にはかけたままだったんだけど。そうしてみれば、レ
ジーは下のマントも端をしっかり結んでいた。
さすがにこれをほどくのは、下は寝間着だけなので遠慮したんだ
けど、それを見たカインさんが噴き出した。
﹁わ、笑っちゃだめですよカインさん。変な格好ですけどこれ以上
は仕方なかったんです﹂
﹁いえ違いますよ。殿下のお考えがあからさまで﹂
そう言いながら、カインさんが肩にかける形になった毛布の端を
首元で結んで、前を合わせて見えないようにしてくれる。
﹁あからさまって⋮⋮﹂
﹁目に毒というより、ちょっと煽情的だったんでしょう﹂
﹁せんじょ⋮⋮﹂
またしても、今までの私の人生にあり得ない単語が出てきた。前
世だって色気よりゲームだったし、今の人生でも言われたことがな
い。
誰か別な人のことじゃないかと思いそうになる。
同時に、カインさんが好きだと言ってくれたことを思い出した。
誰も好きにならないでくれと。でなければ兄代わりの立場から外
れてしまうかもしれない、なんて。
1561
レジーが好きだと気付かれてしまったら、もう兄代わりは止めて
しまう? その時カインさんがどうするのかと思うと少し怖くなっ
て、とたんに緊張してくる。
そんな時に、頬に触れられたせいだろう。私は無意識に身じろぎ
した。
カインさんはすぐに手を離し、私の顔を覗き込む。
﹁先ほども、兵士に触れられるとわかったとたんに顔色を変えてい
ましたね﹂
顔色まで変わってたの?
﹁私が怖いですか?﹂
﹁あ、えと、そうじゃなくて﹂
色々と思い出してしまったせいだ。
好きだと言ってくれたカインさんも、不意に触れてくることはあ
るけど、無理強いはしてこない。だけど今回、そういうことがあっ
たせいで、過敏になりやすいんだと思う。
そこまでわかっていながら、無意識の行動はどうにもできなくて、
ますます私は困惑した。
するとカインさんが言った。
﹁抱きしめるのは大丈夫ですか? ⋮⋮貴方が無事だったと、もう
一度確認させてください﹂
カインさんも、私が囚われたせいで不安だったろうと思うと、拒
否すべきじゃないと思った。それにさっき抱えられていた時は平気
だった。
1562
うなずけば、カインさんは私を毛布でくるむようにして抱え込ん
だ。
そのまま頭を撫でて子ども扱いしてくれるので、一瞬感じた緊張
もすぐにほどける。
ほんの十秒ほどだっただろうか、私を離したカインさんは、何か
を納得したようにつぶやいた。
﹁⋮⋮だいたい何が起こったのかはわかりましたよ﹂
﹁?﹂
首をかしげていると、エメラインさんと一緒にジナさんがやって
きた。
二人は敷布やお湯の入った桶に、拭うための布に着替えだろう衣
服など、様々なものを運んで来た。
しかしお湯まで用意をしてくれるなんて、とびっくりした。戦場
を駆けまわったら土埃まみれになるからだろうか。
﹁ただでさえ私、土魔術を使うせいで土埃がひどいもんなぁ﹂
とつぶやいたら、ジナさんがちょっと怖い表情になった。
﹁キアラちゃん、そうじゃないでしょ。無事じゃない可能性があっ
たのよ? 何もされてない? 服もろくに着てないって聞いたわ。
元気なふりをしないで。我慢しなくてもいいのよ﹂
そう言ってジナさんが、毛布にくるまっていた私を抱きしめてき
た。
どんなに鍛えていても、女の人らしい体格と香りに心のどこかが
緩んだ気がする。そのまま電気のスイッチを押したように、ぽろぽ
ろと目から涙がこぼれおちた。目を潤ませる暇もないくらいに。
1563
﹁あれ、どうして﹂
私が泣いているのを見たジナさんは、黙って自分の胸に私の頭を
抱え込んでからカインさんに言った。
﹁ここまでありがとう。後で報告には行くから、席を外してもらっ
ていい?﹂
﹁では宜しく頼みます﹂
カインさんはそれだけを言って、部屋から外に出てくれた。
ああでも、あのままだとカインさんに誤解させてしまったかもし
れない。
ぎりぎりだったけど、何もなかったのに、変にカインさんのせい
だなんて思わせてしまったらどうしよう。
ジナさんなんてすっかりそういうことがあったんだろうと思って
いるようだ。
﹁体、気持ち悪いでしょう? 綺麗にしちゃいましょう?﹂
と言ってくれるので、私は急いで報告した。
﹁あの、酷いことにはなってないのジナさん。エイダさんが⋮⋮助
けてくれたから﹂
1564
リアドナ砦へ戻って 3
私はエメラインさんとジナさんに、サレハルドに捕らわれた時に、
クレディアス子爵に襲われかけたけどエイダさんに助けてもらった
ことを話した。
二人はほっとしたように肩の力を抜いてくれた。
﹁キアラさんが心身ともにボロボロになっていたら、どうしようか
と。私、デルフィオンで療養もできるよう手配してました﹂
﹁さすがに敵地でしょ。サレハルドが捕えたって言っても、ルアイ
ンに対して元々立場が弱いこともあったし、キアラちゃんの引き渡
しを要求されて拒否できずに⋮⋮色々辛い目にあったかもしれない
って思ったわ。良かったわー﹂
﹁心配してくれてありがとうございます。基本的には、サレハルド
の王の保護下ってことになってたんだけど、子爵の方は執着があっ
たみたいで﹂
そうして毛布の装備を外し、一端衣服を脱いだり清拭したり、身
支度をととのえながら、二人にここ数日の大まかな概要も語った。
とはいっても話しにくいこともある。
子爵をかわすために、イサークが私に噛みついたり、衣服を脱が
せたこととか。
イサークに口づけられたこととか⋮⋮特にジナさんには言いにく
い。
口にできないので、その辺は誤魔化した。
けどクレディアス子爵に掴まった下りは、食べる気力があるなら
夕食をと言われて、三人で小さなテーブルを囲んでパンやスープを
口にしながら、詳細に聞き出されてしまった。
1565
﹁エイダさんが⋮⋮。キアラさんやフェリックス様とは何かと関わ
りが多かったせいかしら。彼女、リアドナの町でもキアラさんを見
たとたんに逃げてしまったと聞きました﹂
エメラインさんの言葉に、ジナさんは複雑そうな表情をしていた。
﹁でも彼女、アズール侯爵は殺したんでしょ? 関わるっていうな
ら、アズール侯爵達も随分彼女に配慮していたはずなのに﹂
ジナさんはなんの違いがあったのかと眉間にしわを寄せていた。
するとエメラインさんがつぶやいた。
﹁キアラさんの場合は同じ魔術師だから、何か思う所があったとし
て、フェリックス様の場合は⋮⋮恋かしら?﹂
﹁こい?﹂
﹁え、殿下にじゃなくて?﹂
問い返すジナさんに、エメラインさんは﹁推測ですけど﹂と話す。
﹁殿下に執着していたのは間違いないけれど、やはり自分に振り向
かないとわかった相手よりも、気にかけてくれる相手の方に心が傾
くのではないかしら﹂
レジーの代わりに応対したり、接触が多かったのはフェリックス
さんだからだという。
﹁でもこのままだと⋮⋮エイダさんとも戦わなくちゃいけないんで
すよね﹂
1566
敵だったけれど、でも私を助けてくれた人。
レジーに拒絶された時に、我慢していたんですよねと言ったら呆
然としていて。だから望んでルアイン側についているわけじゃない。
しかもクレディアス子爵の妻にされているとなれば、
﹁エイダさんは、そうなるかもしれなかった私なのに﹂
﹁どういうこと?﹂
ジナさんが首をかしげる。
だから私は説明した。転生のことは言えないけど、私が結婚させ
られそうになっていたクレディアス子爵から逃げ出して、その後エ
イダさんが子爵の妻にさせられていたこと。
話を聞いたエメラインさんは表情を曇らせ、事情を詳しく知らな
いジナさんに、子爵の評判について話してくれた。
﹁それにしても、エイダさんがご結婚なさっていただなんて⋮⋮。
教会学校を離れた後は、王都に行く機会もないから、全く情報が得
られないのよね﹂
新聞なんてものがない世界だから、行商人や旅芸人が来なければ
王都の噂話などは流れて来ないのだ。
貴族同士ならやりとりや人を散らして情報を集めるのでずっと情
報に触れることができるけど、分家のエメラインさんには難しかっ
ただろう。
﹁エイダさんが行動していたのは、強要されてのことだと思うんで
す。だから助けられるものなら⋮⋮﹂
﹁でもアズール侯爵を殺した件があるから、殿下に願ったとしても
了承してもらえるかはわからないわ。軍内の兵士やアズール家の人
から反感を買ってしまったら、ルアインと戦うのにも何か支障が出
1567
るかもしれないのだし﹂
エメラインさんは難しい表情でそう言った。
どんなに可哀想でも、アズール家の人にとっては仇だ。そして他
の兵士達にとっても味方を殺した敵でしかない。
だけど何か、抜け道はないだろうか。
﹁とにかく今日は休んでキアラさん。お水は寝台脇に置きましたか
ら﹂
﹁明日また様子を見に来るね?﹂
しばらくの沈黙の後、二人はざっとその場を片づけて持ち、部屋
を出て行こうとする。
﹁あ、そうだジナさん、あのままじゃカインさんが誤解したままか
もしれないから、その⋮⋮壊滅的事態には至っていないってことを﹂
焦って変な言い回しになったが、ジナさんはぷっと噴き出して応
じてくれた。
﹁わかったわ、ちゃんと誤解がないように教えておいてあげる。殿
下方にもそれとなく話すから、キアラちゃんが後で問い詰められな
いようにしておくから、安心して﹂
﹁ありがとうございます﹂
二人を見送り、扉が閉まると息をつく。
賑やかにしゃべる二人がいなくなると、部屋の中はしんと静まり
返った。
すると寂しさに胃が締め付けられるような気がした。
助かった。皆も無事だ。
1568
だけどまだ実感できないんだろうか。お腹もいっぱいになったし、
ジナさん達とおしゃべりしたから十分に安心できたはずなのに。
いや違う。二人にもっと一緒にいてほしかったんだ。
帰って来たけど心に不安がこびりついていて、それがもう過去の
ことだって覚えこませるために、もう少しだけ。
でも甘え過ぎだろう自分。戦闘直後で二人ともそれぞれに役目が
あるだろうし、私にばかりかまけてはいられない。
寂しさを紛らわせるために、私は早く眠ってしまおうとした。
寝台に転がって掛け布の中に潜り込んでみるけれど、なかなか寝
つけない。
目を閉じると、どうしても昼間のことが心の中によみがえってく
る。
そういえば師匠が戻って来ないけど、しばらくアランと一緒にい
るのかなと思ったら、扉をノックする音がした。
エメラインさんかジナさんだろうと思って扉を開けたら、
﹁師匠!﹂
師匠を抱えたレジーがいた。
﹁奇怪なミノムシから人間に戻りおったか⋮⋮うひゃっ﹂
﹁師匠! そうだ師匠、今回は壊れてない?﹂
思わずレジーに駆け寄って、差し出された師匠を抱きしめた。
﹁あれしきのことでは壊れとらんわいな﹂
﹁私が来たことより喜ぶなんて、妬けるね﹂
するとレジーに言われて私は慌てる。
1569
﹁あの、そういうわけじゃなくて。師匠が無事なのは知ってたけど、
さっきは話す暇がなかったからつい⋮⋮﹂
﹁そうだね、私とはじっくり話したからね。でも足りないから﹂
そう言って手を伸ばされて、髪を撫でられる。
﹁た、足りないって﹂
反芻するように尋ねた私に、レジーは笑顔を浮かべた。
﹁少し話をしよう﹂
言われて手を引かれた瞬間、師匠からぶわっと風が噴き出す。
﹁ウヒヒヒヒかゆいかゆい﹂
﹁ああっ師匠ごめん!﹂
どうしようと迷った私に、レジーがここに置けばいいよと言い、
それに従っていたらいつの間にか寝台に隣り合って座っていた。
師匠は寝台の足下側で、こちらを向いているんだけど、にやつい
てそうな気がするのは目の錯覚だろうか。
師匠の目が気になるのは、並んで座っているからだけじゃない。
私の右に座ったレジーが、握った手を離さないままだからだ。
今まで、それなりにレジーは接触の多い人だったけど、こんなあ
からさまにずっとくっついていることはなかったように思う。
落ち着かずに握られた手を見たり、師匠を振り返ったりしている
と、レジーが尋ねて来た。
1570
﹁私と一緒にいても、怖くはない?﹂
怖いと思ったことはなかったので、うなずく。現に助け出された
後もただ安心できたのに、どうしたんだろう。
﹁じゃあこっちを向いてキアラ﹂
言われて顔を向けると、レジーが私の頬に手を伸ばしてきていた。
暖かい手が触れる。頬なら特に問題ないので触れられるままにし
ていたけれど、不意にレジーが指先を滑らせた。顎下を撫でられる
のはくすぐたかったけれど、私が疑問をさしはさむ前に、彼の指が
首筋に触れた。
⋮⋮あ、嫌だと思った。
イサークに噛みつかれた感覚や、子爵に触れられたことを思い出
して思わず目をぎゅっと閉じる。
けれどレジーはカインさんのように手を離してはくれなかった。
﹁キアラ、私以外の人間が君の首に触れたんだね? それも異性と
して﹂
1571
リアドナ砦へ戻って 4
どうしよう答えたくない。
私は初めて、好きな人に他の男に触られたことを話したくないん
だなということを知った。
わざとじゃないけれど、変な後ろめたさを感じて口を噤んでしま
う。
しばらく沈黙が続いた。レジーは私が話すのを待っていたんだろ
うけど、言えない。
﹁無理じいされたことはわかってるよ。ジナからもさっき、大まか
なことは聞いたから﹂
そうしてレジーは﹁ごめんね﹂と言う。
﹁私達が、もっと早く君を助けることができていたら良かったんだ﹂
﹁そんなことないよ! むしろこんなに早く助けてくれると思わな
かったし、子爵に襲われた時だってイサークとエイダさんが助けに
来てくれたから、無事でいられたんだもの﹂
﹁でも心は傷ついたんだろう? それにイサークってサレハルドの
王のことも君は警戒してた。信用できないって思っていて、気を張
り詰めてたんだとわかったよ。結局彼は、クレディアス子爵が君に
指一本すら触れさせないことができなかったからかな? クレディ
アス子爵なんかに出し抜かれて⋮⋮﹂
﹁それは、イサークは攫われたその場にいなくって。ちゃんと助け
てくれたの、本当よ﹂
1572
﹁お人よしな君が、助けられたのに警戒するなんておかしいよ。⋮
⋮まさか、ジナに言えないってことは、サレハルドの王にも子爵み
たいに襲われた?﹂
﹁や、そんなことなくて! 襲われたわけじゃないけど無理やりキ
ス⋮⋮﹂
と、そこで私は慌てて口をつぐんだ。
﹁慌てると素直に吐くのは、変わらないみたいだね﹂
レジーが笑みを浮かべて私を見つめていた。それでようやく謀ら
れたことに気づいた。
しかしあとの祭りだ。
知られたくなかった。子爵の件は交通事故並みの出来事で、怖か
ったと人に言いやすい。だけどイサークは⋮⋮。意図を察してしま
ったら、言い難い。
それにイサークはただ私にキスをしただけで。何か傷つけられた
わけじゃなくて。元婚約者のジナさんにも言いにくいし、
うつむいた私だったが、すぐにぎゅっと抱きしめられた。
﹁私は、信頼してるはずの人間にまで、触れられるのを怖がる原因
を知りたかったんだ。⋮⋮でも君の唇を先に奪われていただなんて
ね﹂
言われた私は、レジーを裏切ったような気持ちになる。
﹁でも君のせいじゃないから。⋮⋮上書きしてもいい?﹂
どうしてそうなるの、と思う間にレジーは私の頭を支えて上向か
1573
せた。
﹁え、あの﹂
上書きって、またキスするってこと?
﹁答えは待つけど、嫌いじゃないなら受け入れてほしいんだ﹂
懇願されて私はくらりとする。この人にこんなことを言われて拒
絶できる人なんているの?
じりじりとレジーの顔が近づく。
私は目を閉じるかどうか迷いながら凝視してしまって、レジーの
手が首に回されていたことに気づいたのは、頬とこめかみにレジー
の唇が触れた後だった。
そのまま耳元に触れられても、ただ体の力が抜けて行くような感
覚しかなくなった。
どこかで、同じようなことを感じた記憶があって、妙に心地いい。
なんでそう思うんだろう。いつそんなことをした?
考えた私は︱︱時折見る夢のことを思い出す。
王宮にいる﹃キアラ・クレディアス﹄がレジーと会っている夢。
誰にも見つからないようにひっそりと、レジーが私を攫うように
連れて行って、寄り沿ってずっと話をしたり、こんな風に寄り沿い
あったり⋮⋮。
なぜあんな夢を見るんだろう。
風の匂いも、指先の感覚も、現実より少し鈍い記憶だから夢だっ
てわかるけど、私はそんな妄想を無意識にしてたのかな。
でも嫌なことも夢に見たのに。例えばクレディアス子爵に⋮⋮。
1574
背筋がぞわりとする。思わず目の端に涙が滲んだけれと、レジー
が鼻先に口づけたせいで驚いて、直前に思い出してしまった嫌悪感
が飛んで行く。
﹁何を思い出していたんだい?﹂
優しく尋ねられて、私はするりと答えてしまう。
﹁変な夢を、何度も見るの。レジーと私が、王宮で会う夢﹂
﹁それはいいね。どうやって君と知り合えたんだろう﹂
﹁私、クレディアス子爵と結婚してる状態で⋮⋮自殺しようとした
みたい。王宮に森みたいなところがあって、そこの池に飛び込んだ
らレジーに引き上げられちゃって﹂
レジーはひと呼吸分間を置いてから、尋ねる言葉を紡いだ。
﹁君は逃げようとして、私に見つかってしまったのか。それを思い
出したってことは、私と同じようなことをしたんだ?﹂
﹁え、あ⋮⋮﹂
こんな時に思い出すのだから﹃連想した﹄とわかったのだろう。
私は恥ずかしくなって、うつむきそうになる。
﹁相手が私ならそれでいいんだ。もちろん、私と一緒にいるのは良
い夢の内容だって思っているんだよね?﹂
﹁わ、悪くないと⋮⋮思います﹂
レジーとキスした夢を良かったなんて言ったら、もう告白したも
同然じゃないか。今の状態を受け入れてる時点でもう言い訳が効か
ない気がするけど。
1575
でもどこかに隠れたくなるほど恥ずかしい。レジーに捕まえられ
ているせいで逃げられないけど、ってまさかそのために拘束してる
わけじゃないよね?
﹁それならいいんだ。でも、捕らわれている間に酷い目にあったか
ら、落ち着かないだろう? 君が眠るまで一緒にいてあげるよ﹂
﹁ねっ、ねむるまでっ!?﹂
悲鳴を上げそうになった私は、ふと気づく。眠るまでと区切った
ということは、レジーにその後の予定があるということだ。
レジーをそんなに拘束するのは申し訳ない。だから断ろうと思っ
たのだが、レジーに先制攻撃を受けた。
﹁それともホレスさんがいるから平気かな?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あ゛﹂
頭の中から師匠の存在がふっとんでいた。
ぎぎぎっと頭をそちらに向ければ、寝転がって何か悶えているよ
うな動きをしている土偶がいた。
心の中で悲鳴を上げ、私は顔を両手で覆って悶絶する。
これ以上、師匠にレジーと一緒にいるところを見られたら、恥ず
かしさで死ねるかもしれない。死ななくても明日は灰になってそう
だ。
﹁わ、わたし一人でも平気っ。師匠がいるから!﹂
﹁そう言うと思った。一瞬でもキアラを一人にさせたくないから連
れてきたんだ。アランはサレハルドについてまだ聞き出したそうに
していたけど﹂
レジーは抱きしめていた私を離し、頭を一度軽く撫でてから立ち
1576
上がる。
﹁何かあれば隣のエメライン嬢を呼ぶんだよ?﹂
そう言って部屋を出て行くレジーを見送った後、私は心底気まず
い沈黙に耐えきれず、師匠に話しかけた。
﹁えーっと、その⋮⋮﹂
思いきり見られるようなところで、あんなことされてしまって、
私はとてつもなく弁解しなければならないような気持ちになったん
だけれど。
﹁ウッヒッヒッヒ、言わんでいい。どうせお前さんが王子を好きな
ことなんぞ、わかっとったわ﹂
﹁え⋮⋮﹂
ヤレヤレと言いたげに手を上に向けた師匠に、私は目を丸くする。
﹁わかってたって﹂
﹁ほぼ最初からじゃの。なにせあれだけ迫られても拒否しないんだ
からのぉ。察しようというものじゃ﹂
師匠が見たのは、エヴラールで足首を掴まれた時のことか。
﹁でも、そんなにわかるものです?﹂
あからさまだったかと思えば、そこまでではないがなと師匠が言
う。
1577
﹁基本、お前さんは用がなければ近づかないのだからのぅ。だがお
前の方は、同じことを別の人間にされると微妙なんじゃろ。だから
森で怪我をして騎士に悪ふざけをされた時など、保護者を増やして
盾にしたんじゃろが﹂
﹁増やし⋮⋮うん、ギルシュさんとジナさんに頼っちゃった﹂
考えてみれば、素足の先よりも肩の方がまだマシというものだと
思う。だけどそれだけでパニックになった。
あれがもしレジーだったら⋮⋮必死に避けることばかり考えなか
っただろうって、今ならわかる。
﹁⋮⋮実は、ついさっきまでよくわからなくて﹂
﹁恋愛感情だということか? ウヒヒヒ。お前さんの場合は、無意
識に考えないようしすぎると思ったがの﹂
それもこれも、レジーに離れてほしくなかったせいだ。今でもま
だ、レジーの言葉に答えることに戸惑っているのは、そのせいなん
だろうか。
家族だと言い張っていれば、恋心が無くなっても側にいられるか
ら?
﹁しかしまぁ、こんな人形になった後で、目の前で娘にいちゃつか
れるような微妙なことになるとはの﹂
しかもその相手がやたら挑戦的すぎる、と師匠が小さく愚痴り、
私は顔が熱くて仕方なくなった。
確かに紹介した彼氏が、父の前で堂々と娘にキスしたようなもの
で。レジーはそういうの恥ずかしくないのかな。⋮⋮だめ、なんか
もう、頭がゆだって考えがふわふわしてどうしようもない。慌てて
頭を振って考えを脳内から追い出した。
1578
﹁本当に、師匠はお父さんみたいだと思ってるよ﹂
﹁魔力のつながりは血のつながりよりも強いものじゃ。そう考えれ
ば父でいいんじゃろ﹂
﹁ありがとう師匠。ずっと大事にするから﹂
﹁わしゃお前の嫁に行くわけじゃないんじゃがの? 嫁はお前が行
くもので、わしゃ居候としてどこまでもついて行くだけじゃ﹂
﹁よ、嫁⋮⋮﹂
そう言われて思い浮かんだのはレジーだったけど。
心の中がざわついて不安になる理由がわからなくて、私はかすか
に唇をかみしめた。
1579
茨に刻まれた未来 1︵前書き︶
※今回と次の話まで、レジー視点です。
1580
茨に刻まれた未来 1
その日の会議が終わった後、部屋に戻ったレジナルドはグロウル
と差し向かいで今後のことを話していた。
﹁足りない、と思わないかグロウル﹂
差し向かいに座っていたグロウルは、コリンが置いた茶を口に運
ぶ手を止めて問い返す。
﹁⋮⋮心もとない、とは思いますが﹂
﹁敵は確かに引いた。サレハルドはジナの情報通りというべきか、
ことを長引かせたくないように先に兵を引いたし、キアラの魔術で
兵を削られたルアインは追従するしかなかっただろう。けど、ルア
インが途中から及び腰になって逃げたのは、計算違いが二つあった
からだと思うんだ﹂
一度言葉を切って、レジナルドはグロウルに人差し指と中指を立
てて見せる。
﹁一つは、ファルジア側に魔術師がいないから楽に戦えると思った
こと。あの状態から、ルアインを潰しにかかるとは思わなかったん
だろう。彼女が普通の女の子だったら大人しく従ったかもしれない
けど、キアラだからね﹂
ゴーレム
立ち上がった土人形が、まっさきにルアインへ突っ込んで行くの
を見た時には、思わず笑ってしまった。
彼女は無理をしているかもしれない。だけどあきらめてはいない
1581
と、頼もしく思ってしまった。
﹁その評価にはうなずくしかありませんな﹂
ゴーレム
グロウルも重々しくうなずいた。
思えば彼は、キアラが土人形をルアインにけしかけながら、サレ
ハルドの王とも喧嘩の真っ最中だとわかった時、グロウルは唖然と
していたんだった。
﹁二つ目は、おそらくクレディアス子爵がキアラに執着しすぎてい
たこと。キアラへの攻撃に、魔術師くずれを投入していたようなも
のだったからね﹂
﹁アラン様の方は、ほとんど魔術師くずれと戦わなかったようです
からな﹂
十分に備えていたアランだったが、魔術師くずれのために待機さ
ゴーレム
せていたジナもそのために使う必要がなかったようだ。
サレハルドも、いつもと違う形の土人形に怯え、巨大化したリー
ラをけしかけると面白いように引いたらしい。
ゴーレム
﹁おかげでホレス師を上手く回収できたんだけどね。手足をばたつ
かせる土人形には、敵兵も怖がって近づかなかったようだから。⋮
⋮今度はそのキアラがこちらにいる以上、油断して手を抜いたりは
しない。それと同時に、こちらにも問題がある﹂
﹁こちらも前回、かなり削られましたな﹂
﹁そうなんだよね﹂
前回と今回の戦闘による兵の損失は死者と負傷者を合わせて約3
500。
敵地で身動きがとれなくなるのは困るので、怪我人や遺体は急ぎ
1582
デルフィオンへ送っている。けれど補充がなければ、トリスフィー
ド内にまだ散らばっている他の兵を集めてくるルアインとサレハル
ドに勝つのは難しい。
﹁だから⋮⋮ディオルはいるかい? これを彼に渡して、鳥を飛ば
させて欲しい﹂
﹁なるほど、そちらからですか﹂
急きょ書いた手紙を渡せば、グロウルはその意図をすぐに察して
くれる。
﹁アランとは相談してあるよ。戦に関して勘のいい彼も、この意見
を支持してくれた。確約がとれてから他の将軍たちには話そう﹂
﹁わかりました早速﹂
グロウルが手紙を受け取った上で、首を傾げる。
﹁では何が不足なのでしょうか﹂
﹁⋮⋮魔術師くずれの人数が多ければ、対応できない。クレディア
ス子爵がいる以上、キアラに負担できる範囲は限られてるからね﹂
確かに、とグロウルも思う。
子爵がいる限りキアラの行動が制限され、クロンファードやソー
ウェンのように圧倒的な力を期待することができない。なのに敵が
魔術師くずれを大量に生産できるとなれば、かなり戦力的に苦しい。
とても普通の兵士には対応させられないし、騎士達もいたずらに
消耗させ、数を減らされることになる。今回を乗り切っても、王都
まで攻め上るのにはきつい状況になるだろう。
﹁だけど、ここで彼らを打ち破らなくてはならない。トリスフィー
1583
ドに長くかまけてはいられないんだ﹂
兵を疲れさせるから、という面もあるし、春まで持ち越してしま
うと食料生産に支障を来す可能性があるという理由もある。
同時にレジーが危惧しているのは、人は慣れてしまう生き物だと
いうことだ。
自分の生活や心やそういったものを守るために、人は環境の変化
に適応しようとする。そうなってから集めた兵は、ルアインへの恨
みで勢いづいていないから、動きも鈍るだろう。
それに戦が長期化してしまえば、蹂躙された地域の経済はさらに
悪化する。ただでさえルアインのせいで流通が滞っているのだ。
出征すると決めた時、ある程度の計画を頭の中で描いたレジーも、
キアラがいることで見通しが少々甘くなっていたように思う。
それだけ彼女の魔術は強力だった。
今までの戦で、これほど頻繁に使われることがなかったものだ。
使用されても頻度は高くなく。一戦に一度、大掛かりな術が使われ
るだけ。
魔術師くずれを使って来るという、今まで似ない事態は起こった
ものの、それでも一戦一戦が素早く終了したのはキアラがいたから
だ。
その有利さを少しでも失わないためにも、決着を急ぎたいとレジ
ーは考えていた。
﹁冬までには終わらせたかったですな﹂
﹁少なくとも、冬の始めには決着をつけたいね﹂
しかし今後、デルフィオンの西にはルアインに占領されたキルレ
ア、王領地を占拠したパトリシエール領がある。そこを抜けても、
1584
こちらがもたついているうちに激戦地だったシェスティナにルアイ
ン軍が展開するだろう。
シェスティナでルアインを撃破してしまえば、王都にいるルアイ
ン軍も逃げ出すしかないとは思うが。
行軍が難しくなるということもあるが、キアラにこれ以上無理を
かけたくなかった。
昨日も気丈にはしていたけれど、本当は不安だったろう。
ホレスを見て、少々妬けるくらいに安心した顔をしていた。
誰も味方がいない場所にいたのだから当然だと思う。
助け出されたことを理解していても、夢か幻みたいに思って心細
かったはずだ。重要な捕虜の扱いとしても、クレディアス子爵に襲
われるなど、危険すぎる目にもあったのだから当然だろう。
だからホレスを早く返そうとしたのだ。
本当は自分がずっと傍にいてやりたかった。でもそうすると、レ
ジーとしても耐えられるか自信がなかったのだ。
彼女を助けた直後、口づけた時に逃げられなかったことに、奇妙
なほど安心した。
同じ気持ちでいてくれると、素直に信じられた。
だから余計に、それ以上を求めたくなるのだ。どこまで自分を許
してくれるか、本当に自分と同じくらい全てを受け入れてくれるか
どうかを知りたくなって。
あの時のキアラの格好も悪かった。
透けることはないけれど、普通の服と違うと思えばどうしても意
識してしまう。
逃がさないためとはいえ、サレハルドの王は何を考えているのか。
むしろ数日側にいて、その前にも交流があったというのに、キアラ
1585
がそんなものでひるまないとわかっていなかったのかと、八つ当た
りしたい気分だ。
だから見えないようにしても、白いつま先はそのまま。目をそら
さなければならないのに、キアラを離すのは嫌で、自分でもよくわ
からない状態だった。
むしろホレスがいる方が、自制ができたのでほっとしたぐらいだ。
﹁急ぐならなおさら、キアラの消耗を防ぎたいね﹂
レジーがそう言った時だった、扉を叩く音に、隅に控えていたコ
リンが扉へ駆け寄る。そうして告げたのは、しばらくレジナルドの
元を離れていた騎士の名前だった。
早速彼を迎え入れたレジーは、口頭で話を聞くと、すぐにグロウ
ルを連れて部屋を出た。
行き先は、砦の裏。木立に覆われた小さな池を指定されていた。
急ぎたかったが、砦から少しでも離れるのならと、グロウルは十
数人の騎兵を連れて行くことを主張してきた。戦の直後でもあるか
ら、グロウルの心配は最もなので待つこにする。
それでも待機していた兵をそのまま使うことができたので、時間
はそれほどかからなかったと思う。
目的地に着くと、レジーは騎兵達を声の届きにくい場所で待機さ
せる。共に連れて行くのはグロウルだけだ。先方がそう指定してき
たからだ。
昼下がりでも、木立の中はやや薄暗い。
そんな枝葉の天蓋が途切れた場所の下に池はあり、周囲には薄紅
の花を咲かせた茨が茂っていた。
1586
さらにその手前にいたのは、黒っぽいドレスの上から旅装のつも
りなのだろう、枯れ草色のフード付きの外套を羽織った、長い銀の
髪の少女だ。
永遠の時を生きると言われていただけあって、二年前に出会った
時から姿が変わっていない。
﹁お久しぶりですね、茨姫。貴方が直接来て下さるとは思いません
でした﹂
1587
茨に刻まれた未来 2︵前書き︶
※今回の話は、レジー視点です。
1588
茨に刻まれた未来 2
正直、驚いていた。
茨姫はあの森から出て来ないと聞いていたからだ。
キアラが﹃起こり得る出来事﹄として知っていた話でも、茨姫は
こちらが仲間になることを請い、デルフィオンからほど近い王領地
で探し物をさせられるらしい。
さびれた小さな別荘は茨姫の思い出の場所なのか、その中にある
装飾品を持って来るようにいわれるという。
けれどレジー達は、まだそれも手に入れてはいない。いずれは茨
姫も仲間に引き入れた方がいいだろうと話してはいるが、デルフィ
オン西のキルレアを退けなければ、王領地まで踏みこめないからだ。
なのに自主的にここまでやってきた。
手紙を届けた騎士に日時だけを指定し、一人で。
レジーが一歩前に出ると、茨姫は小さな唇に笑みを浮かべた。
その表情は、まだ幼さが残る年頃の外見を裏切るような大人びた
雰囲気がある。
﹁貴方の問いに関係して、今後のファルジアに必要だと思ったから、
私はここに来たのよ﹂
そして茨姫はくすくすと声をたてて笑う。
﹁それにしても貴方、本当に面白いことになっているのね﹂
1589
﹁⋮⋮すぐ見てわかるものですか?﹂
﹁そうね、服の上からでもわかるのは、私だけかもしれないわ。見
事に契約の石の欠片が、表面に浮き出ていること﹂
レジーは茨姫に尋ねる手紙を出していたのは、契約の石の欠片を
矢傷から取り込んでしまった件についてだった。
時折火花が散るぐらいなら多少不快なだけで済むが、体調を崩し
がちということになると、様々な行動に支障が出る。
⋮⋮キアラに触れている時は、意識しなければ火花が散ることは
ない。そこだけは助かっているのだが。
とにかく、そのことを知ったホレスがレジーに勧めたのだ。何か
を知っているかどうか保証はできないが、他の魔術師にも意見を求
めるようにと。
﹁それをやったのはキアラだと聞いたけど。彼女は連れて来なかっ
たの?﹂
レジーは肩に残る傷の辺りに右手で触れた。
﹁あまり彼女に心配をかけたくないので﹂
そう答えた時、茨姫がふと懐かしむような微笑みを見せた。
なぜだろうと思ったが、それを追及するよりもレジーには確認し
たいことが沢山あった。
﹁ただでさえ、彼女は魔術師になる前に魔術師になる契約の石の欠
片を飲みこまされています。そのためにクレディアス子爵という魔
術師の力の影響を受けてしまうので、戦えばひどく消耗する。その
影響を少なくする方法などは、ないのですか?﹂
1590
﹁⋮⋮難しいわね。石の魔力を多く取り込んだ側に左右されてしま
うのは仕方ないわ。それを覆したいのなら、キアラが全く同じ石を
より多く取り込むしかないけれど、普通の契約の石というのはそう
大きなものではないのよ。唯一支配を逃れられる方法はあるけど、
戦えないわ﹂
﹁戦えない?﹂
﹁人よりも大きな契約の石の側にいて、それをいくらか自分が取り
込んでいれば、他の魔術師の力に影響されにくくなる。契約の石の
魔力の方が大きいから。でもそんなものは見つからないでしょうし
⋮⋮﹂
﹁運んで歩くのはリスクが高いのでしょうね﹂
レジーの言葉に、茨姫はニヤリと笑う。
人よりも大きな岩を抱えて、戦場についていくのは難しい。実行
できたとしても、その石を奪われるか破壊されてしまっては効果が
無くなるのだろう。そして大きな岩は、狙われたら守りにくい。
・・
﹁以前のままだったら、私は多少大きな契約の石を探させて、それ
を持つようにキアラに言ったでしょうけれど﹂
﹁⋮⋮以前?﹂
ひっかかりを覚えたレジーの言葉を、茨姫は聞こえなかったかの
ように無視した。
﹁けれど今のクレディアス子爵は、第二のキアラを見出そうとした
り、魔術師くずれを大量に造れるようにしたために、かなりの量の
石の魔力を体にため込んでいるでしょう。同じ石を一つ二つ追加し
ただけでは対抗できないでしょうね﹂
1591
そこまで話した茨姫は、外套の隠しから親指大の赤黒い石の塊を
を二つ差し出してきた。
﹁一応、おまじない代わりに持ってきてはいるから、これを持たせ
てみたらいいわ。けど、本当に暗示程度の代物にしかならない可能
性もある。それは伝えておきなさい﹂
受け取りながら、レジーはキアラへの影響を軽減する方法を探す
ことは諦めた。だから二番目の方法を模索する。
﹁それで、私のこの傷は治せるものですか?﹂
尋ねると、茨姫はきっぱりと首を横に振った。
﹁無理ね﹂
グロウルは落胆したようにやや肩を落とした。一方のレジーは、
ある程度想定していた言葉に、やはりそうかと思っただけだった。
﹁キアラがもっと力をつけるのを待った方がいいかもしれないわ。
あの子の発想は、私達の想像を越えるから﹂
茨姫はそう言うが、できればレジーはもうそんなことはしてほし
くない。ほんの少し怪我を直すぐらいなだまだしも、この状態にな
ったからこそ、魔術が身を削ることをより実感しているからだ。
だからこそ、レジーは質問した。
﹁では、これを利用する方法はありませんか?﹂
﹁でんっ⋮⋮﹂
1592
一歩下がった場所で、グロウルが叫びそうになって慌てて口をつ
ぐんだ。再三にわたって止めるように言っていたグロウルは、そう
いう反応をすると思っていた。
そして茨姫の回答は意外なものだった。
﹁できるわ﹂
九割がた、無理だと言われるのを覚悟していたレジーは目を見開
いた。
﹁どう使えるんですか?﹂
﹁その石は、貴方の体の魔力を荒らす。そうして膨れ上がった魔力
が、逃げ場を探してその指先から出ようとするでしょう? あなた
の魔力の属性が雷だから、放電という形になるんでしょうね。それ
を、貴方の意志で指先まで流せるようにする道を作るの。その分、
体の中の魔力をいたずらに荒らさなくなるでしょう﹂
グロウルが安堵したように息をついている。今よりレジーの体に
負担がかからなくなるのだからと、安堵したんだと思う。
けれどレジーが望んでいるのは、そんなものではない。レジーは、
足りない部分を補う代物にしたいのだ。
﹁流れ出る魔術を大きくする方法も、あるんですよね?﹂
その問いに、茨姫は目を眇めて微笑む。
﹁貴方がそう言うのを待っていたわ、無理にさせられるようなもの
ではないから。ただ⋮⋮使えば反動がそれなりに来るわよ?﹂
﹁すぐ死ぬようなものではないのなら、問題ないでしょう。それと
も回数制限が?﹂
1593
﹁いいえ、貴方がどこまで耐えられるか次第﹂
茨姫の言葉に、レジーは納得する。キアラのように、砂にならな
いぎりぎりを見極めなければならない、ということだ。
﹁なんにせよ、その道を作っていただいた方が良さそうだ﹂
﹁では時間がないから、今すぐ処置をしましょう。手を﹂
茨姫の求めに応じてレジーは左腕を差し出した。
まだ幼さが残る手が、レジーの指先を握る。
﹁覚悟しなさい⋮⋮かなり痛いわよ﹂
そう言って心構えをさせた茨姫は魔術を操る。それをレジーも感
じた。
左腕に引き裂かれるような痛みが走る。
﹁⋮⋮ぐっ﹂
歯を食いしばっているおかげで、叫び出すのは避けられた。けれ
ど立っていられない。思わずその場に膝をつく、そのおかげで、茨
姫が何をしているのか薄らと開けた目でも確認できた。
彼女の足下から伸びた茨が、レジーの腕に巻きついている。そう
して皮膚を傷つけながら這った茨が肩の傷へとたどり着いたその時、
茨が傷に溶けるように消えて行った。
それでもじくじくとした痛みは残る。
確認してみると、指先から服の内側まで蔓が這うような傷跡が残
っていた。
﹁これで道はできたわ。⋮⋮ただ何度も無理に使えば、貴方の体が
1594
壊れる。できれば、貴方に魔力を分け与えたキアラに手伝ってもら
いなさい。その方がまだ使えるわ﹂
﹁キアラに手伝ってもらう?﹂
﹁キアラの魔力を貴方を仲介して流した方が、より効率的に強い力
を扱えるし、貴方の体の中の魔力を荒らすことも少ないはずよ﹂
より強い力を扱えれば、キアラの魔術に匹敵する効果を上げられ
るだろうか。
でもキアラは嫌がるだろう。
レジーに来る反動を考えて、止めようとするはずだ。だからしば
らくの間は、伏せておくしかない。
﹁その傷跡をたどって魔力が流れわ。そこ以外を通せば、体は黒焦
げになるでしょう。気をつけなさい﹂
茨姫の忠告にうなずいた、その時だった。
﹁⋮⋮レジー!﹂
1595
茨に刻まれた未来 2︵後書き︶
※後の話の描写の関係で、一部修正しました。
1596
茨に刻まれた未来 3︵前書き︶
※キアラ視点に戻ります
1597
茨に刻まれた未来 3
それは、フェリックスさんの火傷の治療をした後のことだった。
砦の中庭⋮⋮といってもむき出しの土があるだけの場所なんだけ
ど、そこを突っ切るように歩いていると、門の方がざわついていた。
﹁敵でしょうか?﹂
一緒にいたカインさんに尋ねるも、ずっと私と行動をしていたの
だからわかるはずもない。
﹁行きましょうか﹂
カインさんはそう言って私に左手を差し出してくれる。
私はその袖をちょいと掴む。カインさんはそうされるのをわかっ
ていて、掴みやすいように手を差し出してくれてたのだ。
まだあちこち歩き回るのは不安で、これがジナさんやエメライン
さんだったら張りついていたかもしれない。
だけどカインさんにそんなことできない。そして女子二名は今忙
しくしている。
迷った末に、マントを引っ掴んだらさすがのカインさんにも困っ
た顔をされたのだ。
手を繋いでは、と言われたけどそれは私的にだめなわけで。
⋮⋮荷物扱いされたり、必要があって牽引されてる時は別だけど、
周囲の人が怖いという理由だけでは、好きな相手を自覚したのに、
自分に好意を持ってる人と手を繋ぐのは⋮⋮。
そんなわけで、袖を掴むことでお互いに妥協したのだ。
1598
大きくない砦とはいえ、移動にはそこそこ時間がかかる。てこて
こ歩いていた私に、カインさんがふとつぶやいた。
﹁なんだか懐かしいですね﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁弟も、こんな風に袖を掴んで歩いてたんですよ﹂
そう言ったカインさんの顔は、前に家族のことを話していた時よ
りもずっと、穏やかな表情をしていた。のに、
﹁今度、殿下にも同じことをさせてみようかな﹂
ぼそりと、なんか不安な言葉がつけ加えられた⋮⋮。
え、どうしてレジーに子供みたいな真似させるの? 嫌がらせ?
二人の間に何かあったのかと首をかしげながら歩いて行くと、門
の近くでアランの騎士チェスターさんを見つけた。カインさんが声
をかける前に彼はこちらに気づいた。
﹁ウェントワース、お前カモの親子みたいなことして遊んでんのか
?﹂
や、これには切実な理由があるんですけど、言うのも恥ずかしい
ので口をつぐんでおく。
﹁それより、索敵に何か引っかかったのか?﹂
カインさんはあっさりと聞き流して質問する。
﹁お前本当に面白みがないなぁ。敵じゃない。ちょっと殿下が外へ
出るって﹂
1599
﹁何のために? 殿下が周囲の警戒に出る必要はないだろう﹂
するとチェスターさんがちょいちょいと手招きして、人から離れ
た場所へ移動して行く。ついて行くと、こっそりカインさんに耳打
ちする声が漏れ聞こえた。
﹁ディオル⋮⋮茨⋮⋮来て⋮⋮﹂
それだけで私にもおおよそのことがわかった。
茨姫? 茨姫が来てるの?
人嫌いで小さな子としか会わない茨姫がどうしてと思っていたら、
腰に下げてた師匠が﹁ひょっひょっひょ﹂と笑い出す。
﹁返事が来たんだろうのぅ﹂
﹁師匠、事情を知ってるの?﹂
﹁王子の体調不良の件でのぉ。わしゃ知らんから、聞ける者に連絡
をとれとは勧めたかの。せっかくだからお前さんの魔術の参考にも、
ついて行って聞けば良い﹂
﹁うんそうする! カインさん追いかけたいんですけど!﹂
早速お願いしてみると、カインさんが渋い表情になる。
﹁ホレスさん⋮⋮﹂
﹁ひょっひょっひょ﹂
師匠がまた笑う。
﹁この娘に隠していいことなんぞないわ、必要があれば真正面から
説得するがいい﹂
1600
ここまで明かされては仕方ないと思ったんだろう、カインさんは
ため息をつきながら、チェスターさんに兵を数人貸してくれるよう
に話していた。追いかけている途中で、また襲われては困ると思っ
たからだろう。
私としてもそれは怖いので、大人しく待ってから出発した。
レジーはそれほど離れた場所にいるわけではなかった。砦から数
分進んだ林の中で、レジーが連れてきたのだろう兵士達や、レジー
の騎士さん達がいる。
というか私を見た瞬間、レジーの騎士茶の長い髪を結んでいるラ
ースさんに﹁うわ来ちゃったよ﹂みたいな顔をされてしまった。
申し訳ないけど、レジーが隠そうとするなんてろくでもないこと
に決まってるので、私は引かないつもりだ。
﹁すみません、殿下はどこですか?﹂
﹁⋮⋮あちらですよ、魔術師殿﹂
ラースさんは早々に諦めて木立の先を指さした。
池か泉? その前にレジーと、茨姫が確かにいる。
前と全然姿が変わっていないことに驚いていたら、不意に魔力の
波を感じたと思ったら、突然レジーがその場に膝をついた。
﹁え!?﹂
今のは何? 茨姫がレジーに何かしたの?
ラースさん達は、それでもレジーに駆け寄ったりしなかった。き
っと何があっても来るなと言われているんだろう。レジーの側にい
るグロウルさんも、おろおろとしたように腕を上げ下げしたけれど
動かない。
だけど私は我慢しきれなかった。
1601
﹁レジー!﹂
とうとうカインさんの袖を離して、茨姫たちの所へ走ってしまう。
カインさんはラースさんに引き止められている。
レジーの側へ着くと、振り返ったレジーが困ったような顔で微笑
んだ。
﹁こんなにすぐバレるとは思わなかったよ﹂
やっぱりわざと私やカインさん達に黙って行動したらしい。
﹁なんで内緒にしたの?﹂
﹁契約の石のカケラ﹂
答えたのは茨姫だった。
﹁それをどうにかする術を私に尋ねたのよ。だけど除去する方法は
私もわからな
いから、多少マシになる方法を使ったの﹂
さっき魔力の波を感じたのは、そのせいだったようだ。レジーも
うなずいているので、茨姫が言ったことは本当だろうけど⋮⋮。
﹁レジーの体が、楽になるんですよね?﹂
﹁大人しくしていればね﹂
てことは、大人しくしてないとだめということか。
そこで、ようやく立ち上がったレジーが茨姫に問いかけた。
1602
﹁一つ聞かせて下さい。あなたはどうして協力してくれるのですか
? 気まぐれではないのでしょう? 人嫌いという噂が立つほど他
者との接触を避けていたのに、最初から貴方はキアラには積極的だ
った。契約の石を渡したのも、キアラが、同じ魔術師になる素質が
あると知っていたからですか?﹂
すると茨姫は目を眇めて口の端を上げた。
﹁素質なんて、誰にもわかりはしないわ。ただ⋮⋮この子の運命を、
良しにしろ悪しきにしろ変えたのは、私だから﹂
﹁私の、運命?﹂
﹁貴方の運命を知っていて、それを変えるために私が手を加えた、
ということよ﹂
どういうことだろう。
運命に手を加える? でも私がアラン達の敵として死ぬ運命を避
けたくて逃げたのは、茨姫と会う前のことだ。彼女に責任なんてな
いのに。
﹁まだそのことについては話す時期じゃないわ。でも、少しはその
端緒になりそうな話をしてあげましょうか﹂
そうして茨姫は、昔話のように語り出した。
﹁⋮⋮ファルジアの王族の傍系に、銀の髪を持って生まれた子供が
いたわ。彼女は血が薄れていくことを危惧した王の命令で、いずれ
王族の花嫁として捧げられるはずだった﹂
すらすらと語る茨姫の言葉に、レジーは耳を傾ける。
1603
﹁けど、王はとある魔術師に協力させる代償として、その少女を引
き渡すよう親に命じたの。そうして魔術師にさせられた少女は、同
じような目に遭った王族の女性と出会った。その女性は王に排除さ
れたらしいの。邪魔だったから、魔術師に与えられたのよ﹂
ファルジアの王が魔術師と取引をしていた時期の話だろうか。
レジーに魔術師を探してもらった時も、既につながりが無くなっ
ていたと言っていたから、本当に昔の話なのかもしれない。
そう推測していた私に、レジーがささやいた。
﹁祖父の代までは、魔術師を使っていた形跡があるんだ。叔父は、
代々の国王が魔術師に約束していた代償や魔術師の正体を知らない
から戦に利用できなかったんだと思う﹂
教えてもらって、なるほどと思う。でも、王族の子女を生贄に与
えていたというのは⋮⋮なんだか恐ろしい話だ。
﹁なぜ、魔術師はファルジアの王族を望んだんですか﹂
﹁⋮⋮ファルジアの王族は、魔術師になりやすいと思われていたの
よ。実際は、市井の人々と確率は変わらなかったようだけど。そし
て王の方は、自分の身内以外を生贄にしたら、すぐに魔術師との取
り引きが明るみに出るから、魔術師の思い込みを放置してきた﹂
答えた茨姫は、ふと息をつく。
﹁その少女は、魔術師にさせられたその女性の協力で、なんとか逃
げ出すことができたの。助けてくれた女性は、利用されることだけ
は拒否したくて自殺してしまった。けれど逃げた少女だって、師で
ある魔術師に近づいてしまえば逆らえなくなってしまう。だから逃
れる方法を探して、森に籠った。そこで森の泉にはあり得ない大き
1604
さの契約の石を見つけたの。その傍にいるおかげで、彼女が森にい
るとわかっていて近づいた魔術師を退けることができたのよ﹂
森、と聞いてすぐに私は茨姫自身を連想する。
だから彼女はあの森から出られない? あの森の奥には、大きな
契約の石があるの? でも昔の話のはずで。彼女は遥か昔からあそ
こに住んでいるはずなのに。
混乱してくる私をよそに、茨姫は語り終えてしまったようだ。
﹁さてお話はここでおしまい。限界が来たわ﹂
﹁限界?﹂
聞き返した私だったけど、茨姫の言う限界は、すぐに私の目にも
見え始めた。
茨姫の姿が薄れ始めたのだ。
銀の髪が少しずつ輪郭を失い始める。白い肌や着ている衣服も、
その向こうにある池の姿が少しずつ見えるほど透けて行く。
﹁限界って、茨姫いなくなっちゃうの?﹂
まさかこのまま完全に消失してしまう? そう思って真っ青にな
る私に、茨姫が笑う。
﹁少し違うわ。私はこの一時だけここに移動しただけ。⋮⋮そうそ
う、今のうちに言い逃げしておくわね。その王子は私に頼んで、体
に入り込んだ契約の石の魔力を使えるようにしたのよ﹂
﹁茨姫!﹂
レジーが厳しい声を出したから、私はそれが本当なのだとわかっ
た。
1605
﹁何してるのレジー、どうしてそんなこと!?﹂
レジーを見上げて言えば、彼は私から視線をそらした。その間に
も茨姫はどんどん姿を薄れさせて、薄絹に描いた絵のように希薄に
なっていく。
﹁それについては、二人で話し合うことね⋮⋮それじゃ﹂
﹁お願い戻して、茨姫!﹂
﹁っ⋮⋮だめよキアラ!﹂
どこでもいいから掴んで引き止めようとした。そんな私の指が触
れたのは濃い霧のような感覚だけだったのだけど。
茨姫が鋭い声で注意をしたとたん︱︱私は、自分の中に流れ込ん
でくるものを感じた。
1606
茨に刻まれた未来 4
薄暗い町の光景が、目の前に広がった。
町は、戦いに巻き込まれたらしかった。
人の叫び声が聞こえる。金属音が遠くからでも耳に響く。風に運
ばれる血の臭いが鼻についた。
そんな中で、黒髪のその人は血に塗れた剣を片手に私に言った。
﹁君を縛るものは、もうないはずだ﹂
﹁今更よ、どうにもならない。エヴラールに下っても私はただの大
罪人だわ。だから殺してくれた方がいいの。今のうちに﹂
けれど彼は私の言葉を拒否した。
﹁殿下はそれを喜ばない。あの方は⋮⋮貴方のために﹂
﹁でもレジーにだって私を解放するのは無理だった! それにあの
人はもういないのに、どうやって生きて行けばいいの?﹂
私が叫ぶと、青いマントに黒髪の彼は表情をわずかに曇らせた。
⋮⋮彼も、私と同じようなことを感じたことがあるのかもしれない。
そんな風に思った瞬間だった。彼の背後に風狼が迫る。
殺させちゃいけないと思った。
彼は、レジーが私のことを話すほど近しい人だったのだ。せめて
私やレジーのことを覚えている人に、代わりに生きていてほしい。
だから土人形を動かした。けど血の気が引く感覚に、土人形が維
持できなくなる。
見れば、路上で血にまみれて倒れていた男が起き上ろうとしてい
1607
た。
せめてその上に土が降り注げばいいと思った。一緒に風狼も埋め
てしまえばいいと思ったのに、風狼は雪崩れ落ちてくる土砂を避け
てくる。
それなら自分が庇えばいい。そうして魔獣と一緒に土に埋もれて
しまえばと思ったのに⋮⋮。
※※※
﹁キアラっ!?﹂
呼びかけられてはっと我に返る。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
周囲は緑の深い木立だ。目の前には池があって。確かさっきまで
茨姫がいて⋮⋮。
そして私は、背中をレジーに支えられていた。
⋮⋮今のはなんだろう。
何度か見た夢の続きみたいな、キアラ・クレディアスになってい
たらあり得たかもしれない状況と、光景。
でも私は眠ってたわけじゃない。まさかと思うけど⋮⋮これは全
部茨姫の記憶だった? 今回までは、茨姫に触れたりしたわけじゃ
ない。なのにどうしてこんなものを見たんだろう。
でも茨姫がいないのでは、よくわからない。とにかく一端置いて
おくしかないようだ。
﹁平気かい?﹂
﹁ごめん、大丈夫⋮⋮なんか茨姫の魔術の影響なのかな。それにあ
てられたみたい﹂
1608
理由をでっちあげることにした。なにせ自分でも理由がわからな
いから、上手く説明できない。
﹁茨姫⋮⋮ほんとにいなくなっちゃったんだね﹂
池の前には、もう銀の髪の少女はいなかった。あのまま姿を消し
たんだろう。
﹁あれも魔術なんだろうね﹂
﹁たぶん⋮⋮。それよりあの話って、茨姫のことかな﹂
謎はまだ目の前に山積みになっていた。茨姫のことだけでもわか
らないことだらけだ。
あの昔話も、言いにくくてわざと遠回しに話したような感じがし
たけど、いつか全てを話してくれるんだろうか。
﹁かもしれないね。ただ、尋ねられた件については話したくないか
ら、他の話をして時間を稼いだようにも見えたけど﹂
レジーはそんな風に考えたようだ。
﹁それはちょっと意地悪な見方じゃ⋮⋮﹂
そう言うと、レジーが面白そうに口元に笑みを浮かべた。
﹁キアラに対しては斜めから推測するようなことはしてないけど。
今もほら、私が心配で来てくれたんだろう?﹂
﹁う⋮⋮うん﹂
真正面からそう言われると、答えるのがちょっと恥ずかしくなる。
1609
でもレジーが嬉しそうな表情をするので、うんと言って良かった
ような気もする。
﹁⋮⋮レジーこそ、私につつかれないように話をそらそうとしてな
い? 茨姫が、契約の石のカケラを使えるようにしたって言葉のこ
と、私忘れてないよ?﹂
するとレジーはわかっているというように微笑む。
﹁どちらにせよ、ここではゆっくり話せない。まず砦に戻ろう﹂
それは最もだったので、レジーと一緒に砦へ戻ることにした。
待ってくれていたカインさんにも詳細を尋ねられたけど、正直他
の兵士さんがいっぱいの所では話にくいので、説明を後にしてもら
う。
そうして砦へ入ると、大きな動物がそこにでんと鎮座していた。
噂には聞いていたけど、本当に大きな⋮⋮氷狐になってしまって
いるリーラだ。
﹁ほー﹂
思わずそんな声を出して、リーラを眺めてしまう。
リーラの方は私の方へ歩いてくると、ふんふんと頭あたりの匂い
を嗅いでから、肩の上に顎を置いた。
というか、大きくなりすぎて肩重っ⋮⋮。
でもこの懐かれている感じがとても嬉しい。可愛い。思わずリー
ラの頬や顎下を撫でてしまう。ああ、幸せ。
﹁ああキアラちゃん丁度良かった﹂
1610
側にいたジナさんも駆け寄ってくる。
﹁この子の体、本当に大丈夫なのかな? わかる?﹂
飼い主として気になっていたんだろう。リーラの体に問題が無い
か心配になるよね。
しかも原因が、どうやら私の血のせいだと師匠に聞いた。
リーラが巨大化前に、私の血が混ざったカインさんの血のりがつ
いた服を舐めて巨大化したっていうのを聞いて、師匠はそう断定し
たらしい。
︱︱取り込んだ弟子の魔力が大きすぎたんじゃろ、イッヒッヒヒ。
と笑っていた。どうも魔獣は、魔力を吸収しすぎると巨大化して
しまうことがあるらしい。
﹁ちょっと確認してみます。リーラちょっと大人しくしててね﹂
本人に断って、リーラの体の魔力を感じ取ろうとしてみる。
うーん⋮⋮。魔力が滞っているような感じもないし、リーラも辛
そうじゃないから体は問題ないように思うんだけど。
ただ何となくあったかい。魔力の循環を感じていると、その波に
自分の心まで揺られているような気がして、なんか、うとうとと眠
ってしまいそう。
その眠気がとても魅惑的だったけど、危ないので探るのは中断す
る。
﹁とりあえず体に問題はなさそうです﹂
﹁そう、良かった﹂
1611
ジナさんはほっとしたようだ。少しでも役に立てたみたいで、私
も嬉しい。
﹁もう戻らないかな⋮⋮。故郷に帰ってもこれじゃ家に入れられな
いから、ずっと外飼いにするしかないかなぁ﹂
ジナさんは巨大化してそこに困っていたようだ。確かに、今まで
建物の中で一緒に暮らしていたわけで。今もリーラは砦の中庭に陣
取って寝起きしているようだ。
﹁魔力を使いまくれば、縮む可能性はあるだろうがのぉ﹂
師匠の言葉に、ジナさんが考え込む。
﹁次の一戦でどうにかできるかなぁ﹂
その言葉に私は胸を突かれたような気持ちになる。
次の一戦。今度こそ子爵を倒さなくてはならない。
でもイサークはどうするんだろう。早々に降伏でもしてくれたら
いいんだけど。
ジナさんに降伏を促す良い方法がないか、聞くべきかもしれない。
でも秘密裏に連絡をとるのは難しそうだ。
﹁あの、キアラちゃん⋮⋮﹂
そこでジナさんが、私に声をかけてきた。
﹁サレハルドのことなんだけどね﹂
﹁私も、その話をしようかと思っていました。けど⋮⋮﹂
1612
迷った上で、ジナさんに近寄って小声でささやく。
﹁イサークと秘密裏に打ち合わせるなんて難しいですよね? 上手
く、早めに降伏してくれた方が、お互いにむやみに戦わずに済むと
思うんですけれど﹂
﹁うん⋮⋮そうだよね。⋮⋮わたしも少し考えてみる﹂
話しかけて来たのはジナさんなんだけど、それだけを言ってジナ
さんはうなずいて離れてしまう。
⋮⋮どうしたんだろう。何か他にも話したかったけど、私が遮っ
ちゃったのかな?
後で聞こうと思いながら、私はレジーと砦の中に入った。
とにかく考えることがありすぎる。順番に処理しながら頭の中の
整理をしなくちゃいけないと、それだけを考えていた。
1613
頑固者同士だから
連れて行かれたのはレジーの部屋だ。
﹁内密の話になるから、遠慮してもらえるかい?﹂
レジーの言葉にグロウルさんが一礼した。そのまま、仕方なさそ
うな表情のカインさんの鼻先で扉が閉められてしまった。
閉まる直前に、複数人のため息が聞こえた気がした。
すたすた部屋の中央に進んだレジーは、そこにいた侍従のコリン
君に注文をする。
﹁水でいいんだけど、持ってきてくれるかい? 長い話になるかも
しれないから、砦の外を三周するぐらいにゆっくりで頼むよ﹂
﹁え⋮⋮承知いたしました﹂
コリン君は戸惑いながらも部屋を出て行く。
そうして二人きりになった部屋の中で、レジーは椅子に座る。
王子の彼が寝泊まりするとはいえ、砦の部屋は恐ろしく簡素なも
のだ。私が借りてる部屋とそう大差はない。木の質素な長方形のテ
ーブルと、背もたれがある平民でも使っていそうな椅子が四つ。
とりあえず座ったのだから、レジーに話すつもりはあるんだろう。
どうしてとは言ったけど、冷静になってみればレジーが無茶をし
た理由はわかる。
私が、思うように魔術を使えない状況。さらに敵の戦力に魔術師
くずれが多くなり、氷狐達だけではカバーしきれなくなること。
兵を率いながら、損耗を防ぐためにも兵を守る必要があるレジー
1614
が、他の手段を求めてもおかしくはなかった。
ここまで歩いて来る間に落ち着いた私は、もっと先に確認するべ
きことを思い出していた。
﹁レジー、どうなったか確認してもいい?﹂
﹁いいよ﹂
応じてくれたレジーは、マントや上着を外して無造作にテーブル
の上に置くと、シャツの腕を捲り上げてくれた。
腕には赤黒い、茨の蔓が這ったような痕ができていた。茨が引っ
掻いて刻印したような、痛々しいものだ。
﹁こうなったのか﹂
本人もどうなるのかわからずに頼んだらしい。思いきりが良すぎ
るんじゃないだろうか。
﹁痛くないの?﹂
﹁まだ多少ひりつくけどね﹂
レジーは微笑んで見せるけど、顔色は良くない。
私が役に立たないせいだ。土ねずみを犠牲にして、グロウルさん
達も危険な目に遭わせてまで助けてもらったのに、結局はレジーの
負担を軽くしてあげることすらできない。
情けなくて、それ以上何も言えなくなって、視界がじわりと滲ん
でいく。
涙がこぼれ落ちる前に、レジーの指が目元を拭っていった。
﹁泣かないで、キアラ。君のせいでこうなったわけじゃない﹂
1615
優しい言葉にほっとする。レジーはいともたやすく私を不安にさ
せて、安心させもするんだとしみじみ思った。
﹁これ自体は、私の負担を減らすためのものだよ﹂
﹁負担?﹂
﹁指先から火花が散るだけだったら、それほど気にしなくていいん
だけどね。契約の石の砂が入り込んでから、度々熱に悩まされてい
たから。それを体に負担をかけずに発散する道を、茨姫が作ったん
だよ﹂
﹁この痕に沿って、魔力が流れるの?﹂
﹁そう言っていた。だから魔力が体の他の場所に影響を与えること
が少なくなって、楽になるらしいよ﹂
楽になる、とは確かにあの時も言っていたけど。
﹁じゃあ、体に入り込んだ契約の石の魔力を使えるようにしたって
いうのは?﹂
﹁魔力を集めて一か所から発することができるわけだから、ちょっ
とした手品みたいなことができるみたいだね﹂
私は不信感でいっぱいの眼差しをレジーに向ける。
その程度で済むのなら、レジーは私に内緒にしない。わざわざこ
こまで話を引っ張るような話があるはずだ。
﹁茨姫には他にも何か言われたんでしょう? じゃなかったら、あ
の場である程度は言えたはずだよね?﹂
追及すると、レジーがため息をつく。
1616
﹁時間を置いたから、気がそれてくれるかなと思ったけど⋮⋮難し
かったか﹂
やっぱりそういう目論見だったか。
﹁茨姫はね、手品を手品以上にする方法を教えてくれたんだよ﹂
﹁⋮⋮それが、危険なことだから言わなかったの?﹂
﹁どこまで耐えられるか次第だ、と言っていたけれど﹂
そんなことを言われたら、レジーは絶対にぎりぎりまで無理する。
そのつもりだろう。体調不良でさえ隠し続けてた人なんだから。
﹁耐えきれなくなる可能性もあるってことじゃないのかな。⋮⋮で
きれば、そういう方法は使ってほしくないよ、レジー﹂
恐る恐る止めようとした私の言葉を、制するようにレジーが言っ
た。
﹁でもね、茨姫は必要だからそれを使えるようにしていったと思う
んだ﹂
﹁必要だから?﹂
﹁彼女は君の運命を変えたと言ってた。それがとても気になるんだ﹂
確かに私も、どういうことだろうとは思っていた。
私は、自分で前世やゲームのことを思い出して、これから起こる
だろうことから逃げ出したと思っていた。茨姫と初めて会ったのは、
その後だ。
と、そこで私は思い出す。
茨姫にもらった契約の石。あれがなければ、私は魔術師になれな
1617
かった。
レジーもヴェイン辺境伯様だって殺されていたかもしれない。
だとすると、茨姫が﹃運命を変えた﹄というのはそのことだろう
か。
私の考えを話すと、レジーはうなずいた。
﹁茨姫は、もしかすると未来が見える人なのかもしれない﹂
﹁でも待って。未来が見えるような魔術を使えたとしても⋮⋮普通
は、魔術って一種類しか使えないって師匠が言ってたの。せいぜい
二種類だって。茨姫は、茨を操るだけで一種類。その他に未来が見
える魔術か何かを使えたとして、突然やってきて消えたあれも魔術
でしかできないことだし﹂
﹁あり得ないとは言っても、絶対ないってことじゃない。キアラが
前世の記憶を持ってることだって、普通ならあり得ないことだろう
?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
三つの魔術を使える人だって、いるかもしれない。それは否定で
きないんだ。
うなずく私に、レジーが教えてくれた。
﹁その茨姫が言ったんだ。君の魔力を私を介して通せば、魔術と言
って差し支えないだけの力をふるうことができるって。もちろん私
の属性に変わるから、土人形は作れないけれどね﹂
とすると、私の魔力を使って雷の魔術を使うことになる、ってこ
とだろうか。師匠も同じように風の魔術を発動したのだから、でき
るだろうけど⋮⋮。
1618
﹁私は、できることは全てやっておきたい。それがファルジアを奪
還して⋮⋮子爵達を倒すことで、君を守れることにもなる﹂
﹁だからってレジー自身まで犠牲にしなくても﹂
﹁君は?﹂
そう言ってレジーは私の手を掴んで、両手で包み込むようにした。
﹁君は自分の身を削っても魔術を使って助けようとしてくれる。元
に戻せるとしても、いつも思っていたんだ。⋮⋮君の犠牲に見合う
ものを、私は差し出していないんじゃないかと﹂
﹁そんなことない。レジーは沢山私に色んなものをくれてるじゃな
い﹂
犠牲に見合うものとか、そんな辛いことを要求するなんて思いつ
きもしなかった。ただ受け入れてくれたらそれだけで良かった。
私が好きでそうしているんだから。
﹁少し前ににね、ウェントワースに言われたんだ。君に無茶をさせ
たくないのなら、私を守らせてやれと﹂
﹁え⋮⋮?﹂
レジーを私が守れば、無茶をしなくなるってどういうこと?
よく意味がわからない私に、レジーが苦笑いする。
﹁お互いに守ることを譲れないのに、お互いに拒否することで悪循
環になってしまうからだろうね。それもあってウェントワースが言
ったんだと思うよ。でも私を含めて守りたいと思うなら、協力して
ほしい﹂
私は目を見開いた。
1619
レジーが、私に真正面から協力を求めてくれたことに。
嬉しい。でも協力したら、レジーが危険な目に遭う可能性だって
ある。だから踏み切れなくて、不安でたまらない。
﹁加減は君がしてくれたらいい。たぶん私にはできないだろう。そ
れに、側にいて君が主導権を握った方が安心できるんじゃないかい
?﹂
そう言って微笑むレジーに、私はすぐに答えを出せなくて⋮⋮う
つむいてしまった。
1620
閑話∼言えなかったのは∼
キアラを見送った後、ジナは外で過ごすしかないリーラに付き添
っていた。
大きな動物に抱きついて癒されたいと、兵士達がわくわくしなが
ら寄って来るからだ。
巨大化してからリーラはより人気者になってしまったのだ。
ジナとしては、あり得ない変化を起こした魔獣なのだから、怖が
られて忌避されるのではないかと心配していた。けれどファルジア
の人達は予想外に、頼もしいとか、大きな毛玉と言ってうっとりと
リーラのことを見ている。
そういえばギルシュのことも、ファルジアの人は慣れるのが早か
ったなと思い出す。
メイナール市で交流があった人達も、子供が懐いていたから慣れ
が早かったけれど、そうじゃなければ遠巻きにされ続けるのに。
そんなことを考えながら、ジナは近くで厳格そうな顔をしながら
数を数えていた兵士が﹁300!﹂と言うのを聞いて立ち上がった。
﹁はい、そろそろ終わりですよ∼﹂
﹁うううぅぅ﹂
ジナに促されると、リーラをひとしきり撫でていた兵士は苦悶の
表情をしていたが、周囲の兵士に肩を叩かれて離れる。
どうも﹃リーラを愛でる会﹄なるものがあり、リーラに負担をか
けないように飼い主の言うことを聞くべし、という取り決めを自主
的にしているらしい。
1621
数を数えていた兵士もその一人だ。抜け駆け禁止、ということら
しい。
ただその結成時に、微妙にギルシュが手を回していたりするのを、
ジナは気づいていた。
氷狐達はジナやギルシュにとっての武器であり、命綱でもある。
彼らがむやみに傷つけられ⋮⋮るというより、怒らせて魔獣らしさ
をむき出しにして兵士を襲っては、ジナ達は困ってしまうことにな
るのだ。
そういう思惑もあって、ギルシュは自治組織を上手く煽って作ら
せて、それに参加していない人にまで﹁リーラが可愛いなら周りの
子も上手く収めてねん?﹂と誘導しているのだ。
とりあえずこれで、今日のリーラとのふれあい時間は終わった。
リーラは外にいるしかないので、リーラを愛でる会の人と一緒に、
門の側に行ってもらう。彼らは、リーラを愛でる時間が終わるとむ
やみに干渉しないようにしつつ、保護しながら餌もぬかりなく手配
してくれる。
さて自分も休むかとジナが砦の中に向かおうとしたところで、キ
アラを送って行ったはずのカインの姿が見えた。彼はこちらに向か
って来た。
ジナに用があるとしたら、キアラに何かがあったかキアラが呼ん
でいるかのどちらかだろう。
そう思ったジナは、ごく普通に﹁キアラちゃんが呼んでるの?﹂
と尋ねたのだが。
﹁いや、君に用がある﹂
﹁わたし?﹂
1622
思わず自分を指さしてしまうと、カインにうなずかれた。
﹁何か変なことしたかしら?﹂
ジナとしてはそういう方向でしか、理由が思いつかない。
﹁サレハルドとの戦のことで、キアラさんに何かを話そうとして止
めただろう? それが気になった﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
なるほど、とジナは思う。
キアラに何か関係があることを、ジナが言えずにいたようだと思
ったのだろう。確かにそうなのだが。
﹁キアラちゃんには言わない方がいいかと、思いなおしたから⋮⋮﹂
でも口に出しそうになったのは、たぶん救って欲しいと思ってし
まうからだ。
だってキアラは、捕らわれてお兄さんのように慕っていたカイン
を殺されかけてもまだ、心の底から憎んだりしていない。それなら
もしかして、と思ってしまった。
何より彼女でなければ、そんな奇跡みたいなことは起こせない。
でもキアラはまだ16歳の女の子だ。危険な目に遭って傷ついて
いるのに、今この時に負担になりそうなお願いをすることはできな
い。
﹁キアラさんには言えないとは⋮⋮サレハルド内部のことですか?﹂
カインはそこで﹁いや﹂と自分の言葉を否定した。
1623
﹁キアラさんに貴方が頼むというのなら、個人的なことか? イサ
ークというサレハルドの国王のこととか﹂
カインはやや顔をしかめながらそう続けた。
重傷を負わされた相手のことを話すのだから、多少嫌そうな表情
をするのは当然だろう。
むしろ、殺されかけていながら冷静に名前を口にすることができ
るのだから、彼なら⋮⋮この話を聞くべき相手に運んでくれるかも
しれない、という気がした。
例えば、レジナルド王子とかに。
﹁多分キアラちゃんには、話すだけでも負担をかけさせることにな
るかもしれないと思ったの。貴方なら心配なさそうだけど、キアラ
ちゃんには黙っていてね﹂
﹁⋮⋮俺が殺されかけたからか﹂
﹁ええ。そんな相手には同情しないでしょう?﹂
カインがやや困惑した表情になる。それもそうだとジナは思う。
普通はそうだ。キアラが変わっているだけなんだろう。
彼女なら敵でもわかってくれるかもしれないと思ってしまうのは、
実際に敵になった相手にも憎しみを感じないどころか、ジナに対し
てもやや庇うような発言をしていたからだ。
お人好しというか⋮⋮よほどのことがない限り、人を憎めないの
だろう。
だから頼りたくなってしまう。
そんな気持ちを振り切って、ジナはカインをまっすぐに見つめた。
﹁貴方達は知っていた方がいいかもしれないから、言うわ。その後
のことも、できればあの殿下と打ち合わせるなりしておいてほしい
1624
し⋮⋮後でキアラちゃんがとても傷つくかもしれないから﹂
﹁一体何を?﹂
ジナは唾を飲みこんでから、それを口にした。
﹁イサークは、死んで決着をつけるつもりなの﹂
その言葉は、カインにとっても予想外のものだったのだろう。
﹁降伏して、主をルアインからファルジアに変えるつもりではなか
ったのか?﹂
﹁それだけじゃ足りない。イサークは、故郷と自分の兄をより完全
に守りたいのよ。サレハルドに対する今回の出兵の責任をより軽く
するためには、王が命を差し出すしかないでしょう﹂
降伏した後は、必ず責任の所在が問われることになる。
イサークが王として存在し続けたら、サレハルド王国そのものに
も責任は重くのしかかる。
﹁だからイサークの独断でやったことにするの。そのために、イサ
ークが殺したことにして、前国王陛下は自害なさった。兄上は⋮⋮
イサークが無理やり幽閉したのは間違いないけど、ある程度は諦め
てるから無理に出てこなかったんだと思う。そしてイサークが無理
に王位について独断専行したんだとしたら、幽閉された兄が即位し
ても⋮⋮全ての責任を被せるのは心情的にも難しくなるでしょう﹂
そんな形で、イサークはサレハルドの負債を自分の死で半減させ
ることを目論んだのだ。
﹁何よりルアインに対しても、イサークの独断で侵略に手を貸した
1625
だけだから、もうその約束を履行する必要がないってつっぱねられ
るわ﹂
キアラにも言えなかった話を吐き出すと、ジナは少しだけ胃が軽
くなった気がした。
﹁しかし死んだからと言って、サレハルドが全ての責を免れるわけ
ではないでしょう﹂
﹁だから私とギルシュが来たのよ。サレハルド側に有利な状況を作
るために﹂
﹁有利?﹂
﹁最初、ファルジアには魔術師がいないはずだった。魔術師くずれ
なんかに対抗するために、ファルジアはかなりの苦戦を強いられた
でしょう。そこに私が魔獣を連れて参戦したら? そんな私がイサ
ークを討ち取って、サレハルドに温情を願い出たらどう?﹂
﹁拒否できないだろうな。ある程度のことは考慮されるだろう﹂
カインが渋い表情のままため息をついた。
﹁だから君たちは、ファルジアの軍についてきたのか。だが、止め
るなら他にも方法はあるだろう。君がサレハルドの王を殺さずにい
るとか﹂
﹁わたしじゃだめなのよ⋮⋮﹂
ジナは唇を噛みしめた。
﹁わたしの言葉じゃ、イサークに届かない。たぶんわたしが殺さな
かったら、あの人は自害する。殿下や貴方達がそうしようとしても、
同じことになると思うの。だからキアラちゃんが無理やり救ってく
1626
れたらって、お願いしそうになった。⋮⋮ごめんなさい﹂
﹁なぜ君が私に謝るんだ?﹂
カインの不思議そうな表情に、ジナは笑いそうになる。
﹁だってキアラちゃんに無理をさせるところだったのよ。好きな人
に妙なことを背負わせられそうになったら、良い気はしなかったで
しょう?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
カインは言葉を飲みこんだように黙り込んだ。ジナはそれを肯定
の意味だと思った。
﹁どちらにせよ、私達がファルジアに勝ってほしいことに変わりは
ないわ。それでサレハルドがルアインに侵略されなくなるのなら。
だけどファルジアに占拠されたいわけじゃない。だからイサークを
止めることはたぶん、わたしにはできないわ。だからイサークが死
ぬことでキアラちゃんが傷つかないようにしてくれたら⋮⋮。傷つ
いた時に、慰めてくれたらと思うの。それだけをお願いするわ﹂
故郷を救いたい。
故国を救うことで、ジナには守れる相手が沢山いる。
ジナを受け入れてくれる傭兵団の人々。今まで優しくしてくれた
人。⋮⋮こじれすぎて、好きだったことも思い出になりつつある人。
戦友みたいに思えた相手の命を代償にしか、ジナには守れないも
のばかりだ。それが悔しいから、キアラにすがってしまいたくなっ
たのだと思う。
そんな自分が申し訳なくて、ついジナが頭を下げてしまったら、
なぜかカインがふわりと一撫でしてきた。
1627
え、と思って顔を上げるが、彼の方は特に何かを考えて行動した
わけではなかったようだ。カイン自身も少し驚いたように自分の手
をどけた。
﹁守りたいという気持ちはわかる。⋮⋮私も、守りたくても守れな
かった物があるからな﹂
無表情に戻ったカインは、そう約束してジナから離れて行った。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ジナはしばらくぼんやりとして、それからつぶやく。
﹁あれ? わたしの方が年上よね?﹂
1628
一人だけじゃできないこと
三日ほど経った午後、トリスフィード内へ入り込んでいた偵察部
隊から報告が入った。
ルアインは本格的に援軍を呼ぶことにしたらしく、占領している
王領地とのやり取りが激しくなったようだ。
ルアインの援軍は、あと一週間ほどで王領地を出発してくる見通
しらしい。
デルフィオンと接するキルレア伯爵領には軍を配置しているので、
王領地に駐屯していた兵の大多数をトリスフィードへ送るとか。
数としては8000ほどにはなるだろうと、レジー達は予想して
いる。
サレハルドは損耗が激しくないので、援軍は呼ばない方針のよう
だ。
負けるつもりなんだから、わざわざ増強するわけがないよね。
それを受けて、ルアインとサレハルドは軍を西のラクシア湖の近
くへ移動することにしたらしい。
レジーもファルジア軍をそちらへ向かわせることにした。
敵軍が肥大化する前に叩くためだ。
相手が進軍してくるのを待っていては、湖の側からデルフィオン
に再度侵入されてしまう。
アラン達もその案に同意し、翌日ファルジア軍はリアドナ砦を引
き払った。
動かせる負傷者は既にデルフィオンに送った後だったし、行軍中
1629
で身軽だったこともあって、準備はすぐにできた。
フェリックスさんもこっそり行った治療の甲斐あって、二日前に
は歩き回れるようになっていた。それどころか休まず従軍するとい
う。
﹁殿下に頼まれたころがありますので﹂
微かに微笑みながらフェリックスさんはそう答えた。
﹁それに魔術師殿のおかげで、動くのには支障なくなりましたから﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
心配だけど、フェリックスさんのような大人が決めたことだ。レ
ジーも動けると判断したから、フェリックスさんに何やら頼みごと
をしたのだろうと思うし、言葉を飲みこむ。
そんな私に、フェリックスさんは尋ねた。
﹁エイダ嬢が、あなたを助けたと聞きました﹂
﹁はい。そのせいで、エイダさんは子爵にひどく折檻されて⋮⋮﹂
今でもあの時のことを思い出すと、身震いしてしまう。
エイダさんは私の心を守ろうとしてくれた。イサークを呼んだは
いいけれど、間に合わないと思う状況だったからだろう。
あの後、ミハイル君がエイダさんを見かけたそうだ。しっかりと
立って歩いていたから、おそらくは打撲だけで済んだのだろうと言
っていた。
私はすごくほっとした。貴重な戦力でもある上に支配下に置ける
魔術師を子爵も手放したりはしないと思ったけれど、さらに八つ当
たりをされるかもしれないと不安だったから。
1630
怯えた顔になってしまったのか、付き添っていたカインさんが私
の肩に手を置いてくれる。
﹁そうですか⋮⋮﹂
私の言葉に、フェリックスさんは少しの間考え込むように目を閉
じた。
そもそもエイダさんは、町中で会った時はフェリックスさんに怪
我をさせた自分に戸惑い、後悔して泣いているように見えた。
思えば、エイダさんと一番関わった人はアズール侯爵かフェリッ
クスさんだろう。
最初からだますつもりで関わったアズール侯爵は殺してしまった
のに、フェリックスさんを殺せなかったのは⋮⋮どうしてなんだろ
う。
フェリックスさんに対しては、エイダさんも多少なりと言い合い
をしていた。だから近しい間柄になったようには思えないけれど、
意見をぶつけ合うということはエイダさんも本音を出していたとい
うことなんだろう。
だから敵地で孤独な気持ちになっていたエイダさんには、フェリ
ックスさんとの会話が大切な繋がりに思えたのかもしれない。
同じことを私にも感じてくれたから、あの時は助けてくれたんだ
ろうか。
一方のフェリックスさんは、エイダさんに助けられたことを知っ
てどう思ったのだろう。
心の内を尋ねるわけにはいかない。
そしてフェリックスさんに何かを頼んだらしいレジー。
彼はエイダさんをどうするつもりなんだろう。全く関係ないこと
1631
をフェリックスさんにさせようとしているのかもしれないけれど。
私はもしかするとと思いながら、フェリックスさんにお願いした。
﹁もし⋮⋮機会があったらでかまわないんです。エイダさんにファ
ルジアに戻るよう呼びかけてもらえませんか? もしかしたらエイ
ダさんは、逃げることを諦めているかもしれない。だから背中を押
してあげてほしいんです﹂
口を動かしながら考えていたのは、茨姫に触れた時の白昼夢のこ
とだ。
あの夢の中の自分は、エイダさんのような状況だった。だとした
ら、逃げても無駄だと思っている可能性がある。それをどうにかで
きるとしたら、少しでもエイダさんが心を預けられる人じゃないだ
ろうか。
それはレジーか、フェリックスさんなら、と思うのだ。
﹁もし会えたらでかまいません。お願いします﹂
深く頭を下げると、フェリックスさんがちょっと慌てた。
﹁魔術師殿、そんなことをされては困ります﹂
﹁でも、無理なお願いをしているんです。大丈夫だと思っても、実
行した時に何か問題が起きて、また怪我をしてしまうかもしれませ
ん﹂
だから平身低頭するのは当然と言うと、フェリックスさんは困っ
たように笑う。
﹁魔術師殿が気にすることではありませんよ。実行しようと思うな
ら、そう判断した私の責任になるだけです。それに、しないかもし
1632
れないですからね﹂
﹁ほらキアラさん、そこまでにしましょう。それ以上はフェリック
スを困らせることになりますよ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
カインさんに促されて、周囲から視線を集め始めていることに気
づいた私は、フェリックスさんの側を離れた。
それでもまだ、私は何かしなければならないような気分になって
しまう。
茨姫に触れた時の白昼夢が、今までよりも鮮明だったせいだろう
か。心にこびりついたように頭から離れない。
︱︱あれは、一体何なのだろうか。
ゲームのキアラが戦場に現れ出すデルフィオンまでやってきたか
ら、自分がそういう状況だったらと考えてしまって、そんな夢を見
るんだろうって思っていたけど。
やっぱり何かおかしい。
夢にしては⋮⋮あまりにもそれぞれのつじつまが合いすぎる。
レジーと王宮で出会う夢を見た。
そのレジーと王宮で過ごす夢も、レジーが死んだと聞かされて、
指輪をした彼の指を渡された夢を見た。
その後魔術師として戦わされたらしい私が、殺してくれるのを期
待して、憎々し気に私を見ているアランの前に立っている夢もあっ
て、そこには茨姫もいた。
そしてこの間のものだ。
あれは、アランに殺される前にあってもおかしくない。⋮⋮そし
1633
て亡くなれば、アランが悲しみ叫んでも仕方ない相手だった。
夢ってもっと混沌としたもののはずじゃない? 全てが綺麗につ
ながっている夢を見続けることなんてあるんだろうか。
そうやって考え込んでしまったせいだろう。カインさんが立ち止
まり、相変わらず彼の袖を摘まんでいた私は我に返る。
どうしたのかと見上げると、尋ねられた。
﹁何か気になることがあるんですね﹂
﹁え⋮⋮あの、そんな大したことじゃないんです﹂
思わずそう言って誤魔化そうとしてしまった。だってカインさん
には、言い難い。
すると一度は黙っていてくれたのだけど。
部屋に到着したところで袖から手を離した瞬間、カインさんが私
の手を握った。
思わず肩が跳ねてしまった私を見て、彼がふっと息をついた。
﹁キアラさん、なんとなく今のうちにどうにかしておいた方がいい
ように思えるので、言いますが﹂
そう前置きをしたカインさんが告げた。
﹁私と、距離を置きたくなりましたか?﹂
1634
彼に言うわけにはいかなかったこと
私は、思わず唇を引き結んでしまった。
彼を避けそうになる私の気持ちを、カインさんは見透かしている。
だけど正直に言えないかもしれない私のために、距離を置きたい
だなんてやんわりとした聞き方をして、逃げ道を作ってくれている
んじゃないかな。
⋮⋮私がもっと、今まで通りにできれば良かったのかもしれない。
でも自分の気持ちに気づいてしまったら、カインさんとの距離が
近すぎる気がして。
まだ囚われていた時の記憶が強くて、側にいても守ってくれると
安心できるカインさんの側にはいたいけど、本当の兄妹じゃないか
ら、手を握るのはダメな気がしたんだ。
レジーは好きだと言ってくれたのに、彼以外とあまりに近づきす
ぎたら、その気持ちを裏切ってしまっているようで。
でも、正直に言うのはためらう。
家族を亡くした心の傷を抱えたままのカインさんは、私のことを
家族のように思うことで気持ちをなだめている。
なのに突き放してしまうことになりはしないだろうか。傷ついて、
よりどころをなくしたように感じて辛い思いをさせてしまうかもし
れない。
兄のように接してくれる人を、そんな苦しい目にあわせたくない。
そもそも私は、レジーが好きだとは気づいたものの、すぐに言わ
ないことにしようと考えていた。
どうしてか不安な気持ちになることもあるし、間違いなくレジー
1635
は私をさらに甘やかそうとするだろうから。
カインさんの気持ちに気づいた時にも、同じように考えたものだ。
だからこそ、せめて戦争が終わって心の余裕ができた時になら、
レジーに好きだと言って甘えてもいいかもしれないと思うし、カイ
ンさんと冷静に話し合えるんじゃないかと思うんだ。
⋮⋮それまで、レジーが待ってくれる保証もないけど。
とにかくこの場を切り抜けなければならない。
﹁あの、そういうわけではなくて⋮⋮。変なものを見てしまって﹂
﹁見た?﹂
﹁あの、変な白昼夢を⋮⋮茨姫に触れた時に﹂
カインさんはこの話に興味を示してくれたので、私はそのまま話
した。
もし、私が王妃の側の人間になっていたら、の白昼夢を。
﹁それで、私を説得しようとしてたのが、カインさんだったんです﹂
あの夢の中で、レジーが私のことを話した相手はカインさんだっ
た。
﹁だけど土人形の崩壊に巻き込まれて⋮⋮﹂
かばおうとした私を、突き飛ばしたのはカインさんだった。
どうしてこんな私を生かそうとしたのか。絶望しか感じなくて、
呆然としそうになった。あの直後もレジーと一緒に歩いていなかっ
たら、私は戸惑って変な行動をしてたかもしれない。
今の私がした事じゃないけど、でも申し訳なくて、辛くて。
1636
﹁そうですか﹂
話を聞いたカインさんは、少し考え込むような顔をした。
﹁けれど、どうして茨姫に触れてそんなものをみたのか⋮⋮心当た
りはありませんか?﹂
私は首を横に振る。
﹁魔術師のことは、さすがに想像もつきませんね。こればかりは幻
覚だと思って気負わずに、ホレスさんに相談するしかないのでしょ
う。なんにせよ﹂
カインさんがふっと息をついて私の頭に手を乗せ、微かに微笑ん
でみせた。
﹁心を決めたから、あなたは私から離れたくなったのかと思いまし
た﹂
心を決めるというのは、私が⋮⋮好きだと思う人を決めるという
こと⋮⋮かな?
﹁あなたが私とそれとなく離れるような態度をとっていたのが、殿
下が敵の手からあなたを連れ戻してからだったので﹂
カインさんは、私の手を握っていない右手を壁につけて私の顔を
覗き込むようにする。
﹁殿下に告白されませんでしたか?﹂
1637
⋮⋮なぜそれを。
ぎょっとした私は、自分がカインさんに握られている手に力を込
めたことに気づかなかった。
困って口を閉ざす私にかまわず、カインさんは話した。
﹁貴方が囚われた後、殿下と話しました。殿下が貴方をどう思って
いるのか⋮⋮私が貴方をどう思っているのか﹂
な、ななな。二人で、なんて話をしてるの!?
レジーのことだから、実につるっと話しただろうし、カインさん
だってそういう場合に引くタイプには見えないし⋮⋮ああ、本当に
自分のことじゃないみたいで、めまいがしてくる。
驚いてついカインさんを見上げたけれど、彼は冷静そうな表情を
していた。特に焦った様子も怒った様子もない。
あれ、と思った。
デルフィオンでのことや、イサークと斬り合いをする前の発言の
ことを考えたら、もっと⋮⋮怖い顔をしているんじゃないかと想像
してたのに。
﹁殿下の気持ちは最初からわかっていましたよ。あの方も別に隠し
てはいらっしゃらなかった。むしろ違うものだと思い込もうとして
いたのは、キアラさんぐらいでしょう﹂
﹁う⋮⋮﹂
師匠にも指摘され、それもあってレジーは私に率直に言わないよ
うにしていたのだ。今更ながらに恥ずかしい。
﹁そうして話す機会を得たのも、キアラさんのおかげです﹂
﹁私の?﹂
1638
恋愛話のきっかけって、私何かしたかな?
﹁キアラさんが、私を庇って生かしたからですよ﹂
目をまたたく。
﹁当然のことだと思ったのでしょう? あれで私は⋮⋮庇われる家
族の気持ちについて、考えさせられました。私は家族に対して生き
ていてほしかったのにと、そう考える側だった。けれどあなたのせ
いで、家族なら相手に生きていてほしいと思ってしまうことを思い
知らされて﹂
カインさんが自嘲気味な笑みを口元に浮かべた。
﹁家族だと言った貴女の言葉に、アラン様や殿下もまた、家族のよ
うに大事だということを思い出させられたんですよ。⋮⋮私の手に
はまだ、守りたい弟達がいることを思い出してから、失った家族へ
の後悔が薄らいだように思います﹂
その言葉に私はほっとした。
カインさんが少しでも穏やかな気持ちになれたのなら、それが一
番いいことだ。
けど、そのことに気が向いてぼんやりしてしまったから、だから、
と言いながらカインさんが身をかがめた時。反応が遅れた。
あ、という間もなかった。
頬に唇が触れて、驚いた時にはもうカインさんは顔を離してしま
っていたから。
1639
﹁デルフィオンでは、貴女を失ったらもう手の中に何も残らないよ
うな気がしていました。けれど今は、貴女が何を選ぶとしても、静
かに答えを待っていられますよ。それでは﹂
カインさんは握っていた私の手を離し、あっさりとその場から立
ち去った。
私は呆然とするしかない。
カインさんに頬キスされてしまった衝撃と、隙を突かれてしまっ
たショックと、やっぱり嫌悪感がないのは家族のつもりだからなの
かカインさんにまで慣らされたのかもしれないという衝撃とで、頭
のなかがごっちゃになっていた。 それに、
﹁何を選ぶとして⋮⋮も?﹂
もしかしてと思う。
カインさんは私の気持ちに、何か気づいたんだろうか? そうじ
ゃなければ、言わないような言葉だと思う⋮⋮けど、わからない。
ただ何か、悟りを開いてしまったからそう言ったのかもしれないし。
とりあえず、ずっとそこに突っ立っているのもおかしいからと、
部屋の中に入ることにする。どうしてか足に力が入りにくくて、座
り込みそうになりながらやっとの思いで移動して、扉をしめて一息
をつくと。
﹁ウケケケケ﹂
扉のすぐそばで、立ち聞きしていたらしい師匠に笑われたのだっ
た。
1640
二人だからできること
﹁師匠って、他人の恋愛事とか好きですよね∼﹂
部屋の椅子に座ってため息をつくと、師匠がちゃっちゃか音を立
てて近づいてくる。私はそんな師匠を持ち上げて、テーブルの上に
乗せた。
﹁人が右往左往するのを見るのは、面白いもんじゃろ。ウッヒヒヒ
ヒ﹂
楽しそうな師匠に、聞いてみようかなと私はふと思う。カインさ
んは、何を考えているのかなとか。
けど、既にこれだけ肴にされているのだから、カインさんの気持
ちについて師匠に推測してもらうのは申し訳ないような気がしてや
めた。
そうしてうつむいていると、師匠がようやく笑いを収めた。
﹁しかし記憶なぁ⋮⋮﹂
どうやら、私がカインさんにした話が気になったようだ。
﹁茨姫の記憶⋮⋮だったのかな?﹂
﹁しかし、相手と接触したぐらいで相手の記憶が見えるもんかいの
? そもそも、茨姫の記憶とやらだったとして、どうしてそんなけ
ったいなことになったんだか﹂
﹁うーん。可能性はいくつかあるかなって﹂
1641
仮定1、茨姫がキアラ・クレディアスの転生体だった。
﹁それが一番荒唐無稽じゃろ。死んだ人間が転生して、過去に戻る
のか? どうやって魔術師の師を探す?﹂
﹁元々の茨姫⋮⋮とか?﹂
﹁なんのために同じ呼称を名乗る必要がある? そもそもお前がこ
の間話した、茨姫とやらの過去話とも齟齬が出てきそうなものだが
の﹂
﹁そうだった⋮⋮﹂
茨姫の昔話から連想するなら、彼女がキアラだったという可能性
は薄い。
﹁しかも茨姫とやらは、お前の運命を変えたと言っておったんじゃ
ろ? まだ未来が見える人間だったと思った方が、すんなりと納得
できるというもんじゃろ﹂
確かに。仮定2として私も、茨姫が未来の見える人だった、とい
うのを考えていた。
﹁でもそれだと、レジーと本来のキアラの個人的な交流内容まで知
ってるわけがないし⋮⋮。やっぱり幻覚とか夢なのかな﹂
﹁ただのぉ﹂
師匠は腰をかきながら言う。
﹁生まれる前の記憶を持ってる人間なぞ、お前以外に聞いたことも
ない﹂
﹁ですよね⋮⋮﹂
1642
茨姫に関しては、いつもこんな感じで迷宮入りしている気がする。
ただわかったことが一つ。
﹁茨姫は、本当に王族の人だったんだね﹂
銀の髪だし、そういう噂があるというゲームの設定は知っていた
けど。彼女は昔話で、はっきりとファルジア王族の人間だと言って
いた。
でも、今になるまでずっと隠れ住んでいたのは、どうしてなんだ
ろう。
﹁ま、とりあえずは移動の準備をしないと﹂
翌日から、ファルジア軍は街道を一度南へ移動させ、デルフィオ
ン領に入ってからは西へと向かった。
軍の移動も、何度も繰り返して来たことなので私もすっかり慣れ
てしまった。体力の関係上、簡素ながら馬車に押し込められること
も。
今日は馬車にジナさんとルナールにサーラが同乗して、巨大化し
たリーラとギルシュさんが馬車の横を進んでいる。
時々リーラが馬車に目を向けてきてちょっと可哀想だけど、大き
さ的に仕方ない。本当に魔力をいっぱい使ったら元に戻れるんだろ
うか?
軍の大半は、徒歩の兵達だ。
前世の日本人より体力がある人ばかり、しかもルアインを叩き出
すことに燃えて志願した人が大半とはいえ、日に何度か休憩をとる
必要があった。
1643
その時に、レジー達が離れた場所へ行くことに気づいた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
デルフィオン領に入ってから何度かあったことだから、たぶん、
他の兵達の目や敵の目がない場所で、何かをしているんだと思う。
その何かには心当たりがある。間違いなく、レジーは魔術を使え
るようにしようとしてる。
でも追いかけようかどうか、迷う。
本当は見に行きたい。危険かどうか確かめたいけど、見たら止め
てしまいそうになるだろうし、それでレジーに嫌がられたら辛い。
ぐずぐずしてると、背中をぽんと叩かれた。
振り返れば、そこにいたのはカインさんだった。馬車の近くにい
たカインさんは、休憩中の私の様子を見に来たのだろう。
﹁悩むぐらいなら、行ってはどうですか?﹂
事情を話してあるカインさんも、レジー達が何をしているのかは
察しているのだろう。
﹁キアラさん。私が命をかけても貴女を守ろうとすることを、拒否
しますか?﹂
唐突に違う話を持ち出されて、私は戸惑う。
﹁拒否なんて⋮⋮﹂
できればそんなことはしてほしくない。だけど誰かに守ってもら
うしかない。
1644
﹁嫌だとは思っているんでしょう? けど、私だって貴女に命がけ
で守られた。それを拒否されたら辛いと思いませんか?﹂
﹁思い⋮⋮ます﹂
守れたらそれだけでも十分だけど、やっぱり拒絶されたら悲しい
だろう。
﹁それなら、お互いに守り合えばいいのでは? 殿下はそうしてい
るだけだと思いますよ﹂
﹁守り合う⋮⋮﹂
相手を守りたいんだと言い合っているだけじゃ、お互いに一方通
行のような感じがしたけど、そう言われると、なんだか素敵なこと
のように思えた。
﹁理解できたみたいですね。行きましょう﹂
そう言ってくれたカインさんと、レジー達が向かった方向へ急ぐ。
軍の隊列から林を隔て、少しくぼみになった場所にレジー達はい
た。
既にレジーは何度か魔術を使おうと試みていたんだろう。慣れた
様子で、指先に小さな雷の球を作って見つめている。グロウルさん
達は、それを少し遠巻きにして周囲に目を向けていた。
私はグロウルさんに頭を下げて挨拶した。カインさんはそんなグ
ロウルさんと話を始める。
﹁レジー﹂
声をかけると、顔を上げたレジーが魔術を消し、歩み寄る私を振
1645
り返った。
﹁来てくれたんだ。見ないように離れたままでいるのかなと思って
た﹂
微笑まれて、私がためらって様子を見に来ないつもりだったこと
も見透かされていたとわかる。
﹁見るのが怖かったんだけど、カインさんに背中を押されて⋮⋮﹂
﹁君はほんとうに、ウェントワースに懐いてるんだね。手伝っても
らったことは嬉しいけど、少し妬けるかな﹂
﹁えっ、そんな﹂
懐いてるのは本当だけど、妬けると言われると私はものすごく焦
った。別にそういう意味で懐いてるわけじゃなくて。
﹁冗談だよ﹂
レジーは笑って私の頭を撫でてくれる。
⋮⋮心地よくて、ふわんとした気持ちになった。じっとして撫で
られ続けていると、本当に猫になったような気がしてくる。心なし
か瞼が重くなる⋮⋮。
﹁キアラ、喉ごろごろ鳴らしそうな顔してる﹂
レジーにまで笑われてしまい、慌てて目を開け、レジーを追いか
けてきた用事を果たそうとする。
﹁ねねね、猫じゃないもん! それより魔術は使って大丈夫だった
の?﹂
1646
﹁痛くはないけど、使うと疲れるかな。たぶんキアラほどじゃない
とは思うけど﹂
その言葉に、師匠が﹁ヒッヒッヒ﹂と笑った。
﹁疲労は王子レベルの魔力の放出なら、それほど辛くはないじゃろ。
それに自分が意思をもって使う魔術で傷つくことは滅多にないわい。
今までは無意識のもので、解放されたものはただの力となるからし
て、痛みを与えたりしたんじゃろうがな﹂
なるほど。意識してレジーが扱う場合、そして魔術の余波や、そ
の現象が自分の意志の影響から離れなければ問題ないようだ。
﹁己が操る魔術は全て、自分のもう一つの手や分身のようなもの。
それが自分に攻撃してくるわけがない﹂
﹁あ、前にも師匠がそう言ってましたっけね﹂
なるほどとうなずく私に、師匠が意地悪そうに付け加えた。
﹁だからお前さんから王子に与えた魔力は、王子の意志が加わるこ
とによって、王子にもお前にも影響は及ぼさんだろう﹂
﹁安全については理解できました、ホレスさん。あとは、これをど
うやって使うか⋮⋮。魔術ですからね。できれば剣が届かない遠く
へ向かって使いたいものですが﹂
レジーはそこで悩んでいたようだ。確かに魔術の利点は遠距離攻
撃だ。今のままじゃ、近づかないといけないので使い難いだろう。
﹁お前さんは、魔力の流れを把握するのは難しいか?﹂
﹁なんとなくは⋮⋮。でも、自分の指先から向こうは想像がつかな
1647
い感じですが﹂
﹁生粋の魔術師でなければ、そんなもんかのぅ。自分の体の中なら
わかるんじゃろ?﹂
レジーがうなずく。
﹁なら、あとは想像力の問題じゃろうな。魔力を集め、想像するこ
とでわしらは魔術を操っておる。世界の全てのものに魔力が散在し
ている以上、この大気にも魔力はある。そこに道筋をつくる想像を
せよ﹂
﹁道⋮⋮ですか﹂
レジーが考え込みながら、左手を伸ばす。
ややあってその指先から、ちりっと紫電が飛んだ。ほんの十数セ
ンチほど。
﹁火花、じゃのぅ﹂
﹁これじゃ遠くには届きませんよね。力の問題でしょうか?﹂
﹁おい弟子、やってみろ﹂
師匠が軽い調子で私に手伝えと言う。けど、私は茨姫の説明を思
い出して、うろたえてしまう。
﹁でも、私の魔力をレジーの体に流して、何かレジーの体に差しさ
わりがあったらどうしよう?﹂
﹁その茨姫はやれると言ったんじゃろが? なら死ぬことはあるま
いよ。心配なら手加減せい﹂
﹁てか、どうして師匠はそんな積極的なんです?﹂
1648
尋ねると、師匠がふんと鼻息を吐いた。
﹁これから厄介な相手とやり合うんじゃろが。使える手は増やして
おいて悪いことはない。⋮⋮先日の戦闘から考えても、あの子爵は
お前をねじ伏せられないなら殺そうとしてくるじゃろ。魔術師くず
れをお前にばかり差し向けてきたようだからの。それに、お前に生
き残ってもらわんと、わしの人生が終了するじゃろ﹂
ややつっけんどんな口調だが、師匠の気持ちは伝わる。
私を守る手段を増やすためだ。
そしてレジーが魔術を手に入れたいと願ったのも、私や他のみん
なを守るため。
﹁キアラ﹂
レジーが私に手を差し伸べる。
私が協力することで、レジーやアラン達を守れるのならそうする
べきかもしれない。
ようやく決意できた私は、差し出されたレジーの腕に触れた。
﹁肩に触れた方がいいんじゃないかな? 茨姫の作った道に魔力を
流した方がいいんだろう?﹂
﹁あ、そうだね﹂
言われて、レジーの肩に手を置く。
私はレジーに触れた手から、私の中にある魔力を渡そうとする。
でもどれくらいにしようか。ちょっと迷っていると、レジーがくす
くすと笑った。
﹁魔力っていう君の一部が私のものになるなんて、ちょっと刺激的
1649
な表現だよね﹂
﹁レジーっ!﹂
とんでもないことを口にしたレジーに怒ったが、彼は楽し気に笑
うだけだ。
でもそれで、少し緊張がほどけた気がする。
﹁やるけど⋮⋮ちょっとだけよ? 怖いから。どんな影響が出るか
も想像つかないし﹂
﹁できるよきっと﹂
うなずいて、私はようやくレジーに自分の魔力を移動させる。
肩に触れた手から、するりと魔力が奪われて行く。
そしてレジーの左手の先から︱︱今までになく大きな紫電が放た
れた。
﹁わっ﹂
大丈夫だとわかっていても、思わず身がすくむ。
﹁大丈夫﹂
一方のレジーは根性が座りすぎてるのか、動揺した様子がない。
平気そうな顔で、私を振り返って笑う。
実際、レジーの手が黒焦げになったりはしていないようだし、痛
みなんかもないらしい。
﹁だけどやっぱり、遠くに届かせるのは難しいかな﹂
レジーの言葉で、私はふと思い出した。
1650
﹁剣、使わない?﹂
﹁剣?﹂
﹁宗教画にあったと思うんだけど、こう、女神の使いが剣から雷を
放つ絵。あんな感じなら想像つくんじゃないかな? イメージ的に
は鳥を飛ばすみたいな⋮⋮﹂
私が思い出したのは、本当は宗教画なんかじゃない。
よくファンタジーゲームやアニメなんかである、剣から雷が放た
れて、離れた敵にも攻撃できるアレだ。
﹁なるほどね﹂
うなずいて、レジーがさっそく試すために自分の剣を抜きかけた
ところで、私は﹁あ﹂と気づいて別な剣を使うように言った。
﹁もしかすると、剣が黒焦げになるかも。それ、紋章入りの大事な
剣でしょう?﹂
剣なんてなくても、レジーの場合は髪色で王族だって証明できる
けど、大事な剣をダメにしてしまうのも忍びない。
そこでレジーはグロウルさんから剣を借り⋮⋮。
﹁できた⋮⋮﹂
私達から十数メートル先の木と周囲の数本が、掲げた剣先から空
へ放たれて落ちた雷によって、黒焦げになっていた。
1651
二人だからできること︵後書き︶
サンダーソードがやりたかったんです⋮⋮。
1652
エイルレーンに流れる血 1
エイルレーンは、ラクシア湖畔のゆるやかな丘陵地だ。
戦争中じゃなかったら、のんびりと散策したくなるほど、緑と湖
の碧が美しい。
一応戦場として想定していたのは、大雨で湖の増水で土と砂が堆
積したり、畑だった場所が削られた地域だ。
その周辺を改めて畑にする計画があって林を焼き払ったため、か
なり広い範囲が足場として確保できる。
けれどその周囲にも畑はある。ファルジア軍が撤退することにな
れば踏み荒らされてしまうだろう。
だから念のため、本来なら麦の穂が揺れているような畑は、先に
飛ばした鳥や早馬によって知らされた村人たちによって急いで刈り
取られていた。
放牧されていたヤギや羊も、どこかへ移動させられたらしい。
そこへ到着した私達は、全体を望める丘の上で、遠くで陽光を反
射する鎧の群れを確認していた。
ルアイン側がこちらへ侵攻してくる前に、間に合ったらしい。
斥候の報告から、こちらに減らされながらもルアイン軍が一万、
サレハルドが他に兵を置いてきたのか七千人ほどだと聞いた。
兵を減らしてきたのだから、イサークはここを決戦地にするつも
りじゃないだろうか。
﹁もう、戦わなくて済むんだ⋮⋮﹂
この一回だけ我慢したら。
1653
少なくない人が、ルアインの目を欺くために傷つくだろう。けれ
ど、サレハルドはこれ以上ファルジアと敵対することはなくなる。
そうしたらこっそりイサークの首根っこをつかまえて、落とし前
として一度殴らせてもらおう。
助けてくれたけど、あの一回のキスの分は私を守るためのものじ
ゃなかったし。戦争が終わるまで全部棚上げするつもりなら、こん
な感情は気づかなくても問題はなかったはずなんだから。
それでおしまいにして、友達には戻れないかもしれないけど、す
っきりとお別れするんだ。きっとイサークはすぐサレハルドに帰る
だろうから。
そうしたら、戦争の流れもゲームに近くなって、予想がつきやす
くなるかもしれない。
⋮⋮王妃が自分で戴冠っていう話が流れて来てる時点で、かなり
ずれてる気がするけど。
私の記憶だと、普通にルアインの王が併合してるから。というか、
二つの国の王に、ルアイン王がなったというべきか。占領してアラ
ンが立ち上がるまでに時間がかかっているので、スタート時点でル
アインが併合を各国に認めさせてた。
今回はサレハルドを味方につけてくるっていうイレギュラーがあ
ったけど、今後は、ルアインと協力するファルジア貴族だけを敵と
考えていいんだろう。
戦場として想定していた地点へ到着すると、レジーは﹁計画通り
に﹂と指示する。
一斉に所定の位置に展開していく兵士達。
整然とした姿に、私の中の緊張感が高まっていく。何度も戦って
慣れているはずなのに。足が震えそうな気がしてくるのはなぜなん
1654
だろう。
私はレジー率いる一隊と共に、湖から離れた右手側の丘の上へと
移動した。
地面に降り立つ。
湖から吹いて来る風が、少し冷たい。ラクシア湖はとても広くて、
海みたいにも見える。
そこから視線をそらして、前方へ向けた。
止まっていたルアインとサレハルドの軍が、移動してきている。
こちらの姿を確認したからだろう。このままいけば、想定した場所
で交戦することになる。
じっと見つめていると、肩に手を触れる人がいた。レジーだ。
﹁大丈夫。心配することはないよ。前以上の備えをしているんだか
ら﹂
確かにそうだ。軍の作戦としても、レジーの魔術にしても、敵側
が知らない手をいくつも持っている。
﹁ありがとう﹂
お礼を言って、私は前よりも少し落ちついた気持ちで前を向く。
背後で、カインさんとレジーが目くばせしていたことには、気づ
かなかった。
﹁彼らは⋮⋮どうすると言っていた?﹂
﹁任せるそうです。本人たちは諦めているようですね﹂
﹁私達は、せいぜい彼女に怒られないように、その瞬間を見極める
しかないかな。でも今じゃない﹂
﹁余計な情報は、返って行動を阻害しますからね﹂
1655
そうしてかわされた言葉も、その時には意味がよくわからなかっ
たので、軍を動かすにあたっての難しい話なのだろうと思っていた。
ゴーレム
やがて、敵軍が足を止めた。
レジーに促されて、私は土人形を作りだした。
ゴーレム
いつもより少し低めの8メルくらい。予め血を塗った銅鉱石を使
って作製した土人形は、立ち上がって私達の斜め前でその存在を誇
ゴーレム
示する。
土人形が現れても、敵軍は落ち着いた様子だった。あちらも慣れ
てきたのだろう。
両軍がじりじりと前進を始める。
中央を預かるアランが、やや突出するように近づいていく。
そちらで、一人が青い旗を大きく振ってみせた︱︱合図だ。
ゴーレム
私は土人形を、一気に敵軍へ向かって走らせた。
敵の左翼側が、えぐれるように人が避けて行く。一見、避けるこ
とも慣れ始めたように見えたけど、予想以上の速度で突撃させたせ
いで巻き込まれていく兵士達がいる。
ゴーレム
私はぐっと唇を噛みしめた。
そして土人形の足は鈍らせない。
間もなく、土人形は支える力を失ったように、すとんと崩れた。
細い糸で繋がっていたのが、ふっと消えたような感覚がおとずれ
る。
ルアイン軍は土人形だった土の山を避けるように態勢を整えはじ
め、その後方から一つの集団が私達がいる丘へと向かってきた。
それを見て、アラン達が率いる他のファルジア軍が敵軍へ斬り込
1656
んで行く。
けれどルアインの後方から出てきた一隊は、他のことなど見えて
いないかのように丘を目指す。
中央に、馬に乗ったクレディアス子爵がいる。周囲に、足を引き
ずるように進む集団と、その後から硬い表情でついて行く兵士達を
従えて。
﹁予定通りだね﹂
これがレジーが考えた最初の作戦。
⋮⋮他の軍に、クレディアス子爵が操る統制された魔術師くずれ
が集中しないように、わざと自分達を目立たせるのだ。
作戦会議の時、この配置はとても反対された。
標的にされやすい魔術師と、首をとりたい人間が押し寄せてきそ
うな王子を前に出すのだ。雷の魔術など、策があるんだろうとわか
っていても、みんな反対せずにはいられなかっただろう。
けれどレジーはその反対意見を想定していたように、堂々と言っ
た。
﹁最初に、クレディアス子爵を倒す。そのために必要だ﹂
1657
エイルレーンに流れる血 2
この戦で一番の問題が、クレディアス子爵が統率する魔術師くず
れ達だ。
暴れて自壊するわけではなく、標的を定めて襲いかかられたらこ
ちらはひとたまりもない。
だからこそのレジーの言葉だった。
それを受けて、アランが腕を組んだ。
﹁キアラで釣るのか。でも釣れるか?﹂
レジーがうなずく。
﹁前回の戦で、ファルジアを放置してまで彼女にこだわった。それ
でも奪われた以上、意地になって取り戻すか決着をつけようとする、
と私は予想してる。私達を倒すためにも、魔術師を取り上げるのは
とても良い手だからね﹂
ただ、とつけ加えた。
﹁前回はそれでルアイン軍も損害を被った。だからキアラにばかり
かまってはいられないだろう。さすがに文句を言われているだろう
からね。だから私もそこに配置する。魔術師と一緒に敵の王族も討
ち取れるとなれば、他の者も子爵を止めにくくなる﹂
﹁確かに、殿下を討ち取ることを優先してくるでしょうが⋮⋮。殿
下の身の安全に不安があります。釣り餌が大きすぎはしませんか?﹂
ジェローム将軍は心配そうだった。
1658
将軍格の人にはレジーの魔術について簡単に説明してある。それ
でも釣り餌が大きければ、私とレジーの方に殺到することも考えら
れるから、懸念があるのだろう。
﹁ルアインやサレハルドの側だって、魔術師同士の戦闘に巻き込ま
れるのは厄介だと知っていると思うよ。いたずらに同士討ちされる
ぐらいなら、兵は本隊を叩く方に振り分けるはずだ﹂
レジーの答えに、エニステル伯爵も﹁よろしいでしょうかな﹂と
意見をした。
﹁もし件の子爵めが、魔術師殿と殿下の方へ集中しなかった場合の
対策について、お考えをお聞かせ願えれば﹂
﹁氷狐達を配置する。後は移動中に何度か、魔術師の土人形と戦闘
訓練を受けさせただろう? 各領地の軍の騎士を選んで行ったから、
ある程度魔術を使う相手への備えになっていると思う。それで対応
しきれない想定外のことについては、アランに一任しているし、こ
ちらでも手を尽くすよ。だけど、まず子爵がこちらに来ないわけは
ないと思っている﹂
レジーは言わなかったけれど、子爵がこちらを狙うだろう理由は
他にもある。
クレディアス子爵は契約の石の関係で、自分の方が私よりも有利
だと信じているはずだ。前々回、私がそれで追い詰められて、イサ
ークに捕まったから。
前回もまだ、私を捕まえられる余裕があると思ったんだろう。そ
れほど子爵からの影響はキツくはなかった。
レジーの返事を飲みこむように時間を置いて、ジェローム将軍が
再び口を開いた。
1659
﹁サレハルドへの対応について、殿下のお心の中でご方針が決まっ
ていればお聞かせください﹂
﹁あちらも厄介だと考えているよ。前々回の様子と魔術師の報告か
ら、サレハルドの作戦立案者は今までにない考え方をしているよう
だから。前々回のように、分離独立させて各個撃破を狙われるとき
つい。けれど魔術師くずれを上手く使って、こちらが動かざるをえ
ない状況に置かれる可能性もある﹂
だからこそ、とレジーは強調した。
﹁クレディアス子爵を急いで潰すことだ。それで魔術師が今まで通
り動けるようになる。急がなければ王領地から援軍が来てしまうか
ら、こちらも全力を尽くすよ﹂
私さえ問題なく魔術が使えれば、どんな状況も覆せる。それまで
各領地の軍は耐えるようにとレジーは命じた。
現状、それ以上の策などないと考えたのだろう。将軍達はレジー
の命令を粛々と受け入れた。
兵同士のぶつかり合いに関する戦略は、アランに一任された。
そして今、こちらの予想通りにクレディアス子爵が向かってきて
いた。
周囲を固めるカインさんやレジーの騎士達、レジーが率いるエヴ
ラールの兵とアズールの兵も緊張で表情を険しくする。
なにせ魔術師くずれの数が多すぎた。
﹁十人ぐらいならと思ったんですが⋮⋮﹂
﹁想定数上限も、かなり多めに盛ったと私は思っていましたが、そ
れ以上ですね﹂
1660
グロウルさんの苦々しい声に、カインさんが応じている。
私とカインさんをリアドナで追い詰めた魔術師くずれが十人ほど。
それに足してくるかもしれないと、二十人を予想していた。
けれどクレディアス子爵は三十人近い魔術師くずれを連れていた。
一見すると、ゾンビの群れを引き連れて進む悪魔のような集団だ。
魔術師くずれではないルアイン兵も千ほどついてきているが、巻
き込まれるのが怖いのか、巻き込まれるから下がれと言われたのか、
後方に固まっている。
そんな中で、レジーが柔らかな声で言った。
﹁ルアイン軍内の状況は、こっちが思うより悪くなっていそうなの
が、こっちにとっては唯一良い材料かな﹂
﹁良い材料?﹂
﹁元々、ルアインは懲罰の代わりに兵士を魔術師くずれにしてた。
けどあれだけの数を揃えるなら、今まで手を出さなかった軽い懲罰
対象の兵士も、範囲に含めてるんじゃないのかな。ほとんど死刑み
たいな処分だし、ルアイン兵士の戦意が落ちているだろう。なら、
アラン達も戦いやすいし、少しでも劣勢になったら離反して逃げる
兵が増えるだろう﹂
﹁⋮⋮私達が、逃げるように仕向けられれば﹂
ルアイン軍は瓦解する。
﹁そういうこと﹂
レジーがうなずき、私の顔を覗き込む。
﹁厳しくなったら言って、キアラ﹂
1661
﹁まだ大丈夫⋮⋮これがあるからかも﹂
レジーが茨姫から渡されたという契約の石。それを首から下げて
いるんだけど、なんとなく体の中の魔力が荒れそうになると、石が
冷たく感じる。そうしてふと気づけば、魔力を落ち着かせてくれた。
たぶんこれは、茨姫に最初に渡された石と同じものなんだろうと
思う。
私が魔術師になるために使ったものと一緒だから、より強く作用
して、クレディアス子爵からの影響を軽くしてくれているんだ。
それでも熱っぽくなっていく感覚も、だんだんと治まらなくなっ
ていく。
たぶん、クレディアス子爵も今回こそは私を全力で抑え込もうと
しているんだろう。
あともう少し。
こちらが引きこみたい範囲へ誘い込むために、私は再び土人形を
作りだした。
それにすがるつもりだと見せかけるため、土人形を私達の盾にす
るような位置へ移動させた。
﹁キアラ、あともう少し﹂
レジーにうなずく。
タイミングは彼が教えてくれる。任せていいと思えると、一緒に
戦っていると実感できて、苦しい中でも勇気が湧いてきた。
残り五百メル、四百五十メル⋮⋮。
進んでくる魔術師くずれが放つ風に、騎兵達が姿勢を低くする。
風にあおられて手を伸ばす火を、土人形を前側に倒すように崩し
1662
て押し消した。
その間に、魔術師くずれ達は走り出していた。
﹁キアラ﹂
声に答えるように、私は地面に手をついた。
血の気が引くような感覚に、その場に座り込む。
代わりに、大地から伸びあがるように土がうごめいた。土の手は、
走る魔術師くずれ達と後方についた兵の足を捕える。
クレディアス子爵は、制約がかかった中で私が大きな術を使える
とは思わなかったのだろう。驚きながらも、自分だけは影響を免れ
ているためその場から引こうとする。
けれどそのせいで、魔術師くずれ達の統制が崩れた。
闇雲に魔術をまき散らす彼らに近づくのが難しいが、代わりに隙
が生まれる。
﹁行け!﹂
グロウルさんの号令で、前列にいたこのために選ばれていた兵達
が槍を投げる。
足止めされている魔術師崩れたちが、次々に串刺しになっていく。
丘の上に陣取ったのは、彼らの槍の命中率を上げるためだ。上から
投げ下ろした方が距離も威力も上がるから。
それでも風や炎に遮られて、無傷の魔術師くずれも多い。
一斉に騎兵達が突入した。
前衛に立つのは、魔術師くずれに慣れたエヴラールの兵士と、先
だってエニステル伯爵の側で対応して生き残った人達。そしてエイ
ダさんの魔術を見ていたアズール侯爵領の兵士達だ。
1663
魔術による広範囲の攻撃を考慮して、なるべく離れるようにして
戦っている。
魔術師くずれと接近するのは危険なので、皆槍を持っていて、一
人が気を引いているうちに、他が突き刺す者が多い。
どうしても近づけなければ、距離を離して槍を投げていた。
魔術師くずれを私が拘束しているので、それで一気に十人ほどを
倒すことができていた。
けれど統制を取り戻そうとするクレディアス子爵のせいで、魔術
師くずれの動きも組織だったものになる。
一人が自分を顧みず、近くの魔術師くずれを囲む兵士達を焼きつ
くそうとする。
他の一人は、中心にいる魔術師くずれをも巻き込む形で、凍り付
かせてしまおうとした。
あちこちへ拡散していかないだけ、まだマシな状態ではあるけど。
﹁じゃあ行くよ﹂
レジーは近くまで出かけるような口調で言うと、小さな笑みをひ
らめかせて歩き始めた。
1664
エイルレーンに流れる血 3
グロウルさんは兵達の動きを統括するために動けず、レジーにつ
いて行ったフェリックスさん達に任せながらも不本意そうに苦い表
情をしている。
カインさんはじっと私の側を離れず、けれどその行方を時折目で
追っていた。
私も止めるわけにはいかず、ただ祈るしかない。
﹁お願い、お願い⋮⋮﹂
死なないで。
でも倒さなくちゃいけない。そうじゃなければ、この後何千人と
いう兵が魔術師くずれとクレディアス子爵に殺されてしまう。
でも私にできることは、術を維持し続けながら待つことだけ。
﹁信じるしかなかろ。最初から隠し玉を使うわけにはいかんし、効
果的な使い方をすると決めたのはあの王子だ﹂
師匠の言葉に、私は唇を噛む。
レジーは雷の魔術を手に入れたけど、ここぞという時にしか使用
できない。
本当は魔術師くずれともども、クレディアス子爵も一撃で倒した
かった。けれど、子爵が何か回避策を持っていたら困るのだ。
試した後で、動きが鈍ったレジーと子爵の力で身動きがしにくい
私が固まっていては、守る側にも負担になる。
だから信じて待つ。師匠の言う通りだ。
1665
待つのは辛い。
だけど私もずっと待たせていたんだと、その立場になって気づく。
レジーは彼にしかできないことがあるから、乱戦の中にわざと飛
び込んだ。私も自分にしかできないから、守りたいからと前に出よ
うとしてきた。
それが間違っているわけじゃない。今でも必要だったと思う。
けどお互いに辛かったんだということを意識して⋮⋮なおさらに
辛くなった。
今も、一気に押しつぶしてしまいたい。けれどそれができない。
油断を誘うためにも、こちらが余力を残していることを知られたく
ないからだ。
じりじりとした気持ちで、レジーを見つめる。
レジー達は兵士達の援護をするように魔術師くずれを倒しながら、
前へ進んで行く。
慣れていても、風や炎を避けるために近づけずにいる兵士達をよ
そに、一瞬の隙をついていく。
見ている私の方が怖くて、肩に力が入るけど、レジー達は何の気
負いもなさそうな自然な動きでそれをやってのけていく。
ゲームだったら攻撃力が違う、なんて表現をするしかないんだろ
う。
鮮やかで、一人倒した後は無事な兵士達を引き連れて前へ堂々と
進むレジーに、クレディアス子爵も目を向ける。
遠くても、レジーを睨みつけているのがわかる。
その時、カインさんにささやかれた。
﹁キアラさん﹂
1666
うなずいて私は術を解いた。
騎士のみんなや兵士達が頑張った分、魔術師くずれの数は十人を
切っていた。こちらの負傷者もかなりの数になったが、かなり戦い
は楽になっている。
エヴラールの兵士達などは、動けるようになった魔術師くずれを、
わざと敵陣営に移動させる作戦に出始めた。
カインさんが手を差し伸べて、立ち上がらせてくれる。
そうして支えるようにして移動した。
魔術師くずれが倒された分だけ、前線は丘を少し下った場所へ移
動している。
けど、魔術師くずれが怖くて近づかなかったのだろうルアイン兵
が、外を回り込むようにやってきていた。
グロウルさんはそちらの対応に、後方の兵を回していた。
私はグロウルさんの傍まで近づいて行く。レジーとクレディアス
子爵の会話が耳に届くようになった。
﹁王子殿下が単独で出てくるとは、よほどファルジアは人手が足り
ないのですかな﹂
普通の兵士達を盾にするように、やや後方に引きながらクレディ
アス子爵が言う。
﹁大事な魔術師を取られないよう、守る必要があるからね。⋮⋮例
えば、既に妻を娶ったというのに、逃げた娘を追いかけ続けている
未練がましい男から﹂
レジーは笑みすら浮かべてみせていた。
1667
そんな彼に斬りかかって行く兵士達を、フェリックスさんやサイ
ラスさん達が返り討ちにしていく。
レジーも合間に一人、無表情のまま喉を狙って串刺しにした。
﹁うちの魔術師にかなり迷惑をかけたそうだね? 捕虜の扱いがな
っていないと聞いた時は、こんな風に殺してやりたいと思ったほど
だけど﹂
﹁⋮⋮そちらこそ、結婚が決まった娘をたぶらかしたのではありま
せんかな? 世間を知らない貴族の娘が、一人でエヴラールまでた
どり着けると思いませんが。誘拐と言って差し支えないでしょうな﹂
クレディアス子爵の頬が、怒りのせいかひきつっていく。
﹁誘拐? 人聞きの悪いことを。彼女は結婚を強要されても、愛情
を期待できない養父では相談もできずに泣くしかなかった。でも彼
女は弱くはなかったんだよ。たとえ私達と会わなくても、一人で生
きていけた。助けられたのは私達の方だ﹂
助けられた、というレジーの言葉に、私は泣きそうな気持ちにな
る。
いや、クレディアス子爵のせいで体調が安定しないからか、本当
に涙が滲んできた。でも周囲の様子を見ないわけにはいかない。
目をこすっていると、カインさんが支えるように肩を掴んでくれ
る。
さらに子爵に近づいたレジーは、笑って言った。
﹁そのキアラが安心して生きて行くためにも、ルアイン軍を引き入
れるような裏切り行為をした罪を償わせるためにも、君は討ち取ら
せてもらう﹂
﹁⋮⋮若造が⋮⋮﹂
1668
怒りに我を忘れたんだろう。
クレディアス子爵は完全にレジーに気を向けてしまった。私への
制約が薄れたのを感じる。
私は素早く作業を行った。
﹁レジー!﹂
名前を呼びつつ、地面を動かす。
クレディアス子爵とレジーの間に、無数の土の柱を立ち上らせる。
一斉に倒れさせていくそれが、子爵に近づくと結束が崩れてもろも
ろと降り積もって行く。
舞い上がる土煙の中、レジーとフェリックスさんが飛び込んで行
く。
視界の悪さを利用して、そのまま倒せたら良し。そうでなくとも、
視界を遮ってしまえばクレディアス子爵が魔術を使っても、レジー
達がかわせる確率は上がる。
子爵を保護しようと、ルアイン兵達も間に割り込もうとしてきた。
﹁殿下をお守りせよ!﹂
グロウルさんの号令にファルジアの兵も動き出す。
一方で、魔術師である私へ向かってくる兵もいて、レジーの側へ
近づいて様子を見ることはできない。
気を揉みながら、カインさんに庇われつつ、自分を防御するため
に小さな術を重ねたその時。
︱︱大きな光が、薄れた土煙をも吹き飛ばした。
1669
﹁⋮⋮やった?﹂
レジーの雷? それともクレディアス子爵も、何かそういう魔術
を使ったの?
その疑問はすぐに晴れる。
ようやく見えたのは、煙をたなびかせる剣を持つレジーと、少し
離れた場所に立つクレディアス子爵の、服の一部が焼け焦げた姿だ
った。
﹁おのれ⋮⋮﹂
クレディアス子爵がつぶやく。
レジーの雷の剣が発動したのは間違いない。けれど大きなダメー
ジを与えることができなかったようだ。
見れば子爵の足下には、操って呼び寄せたらしい魔術師くずれが
倒れていた。それも数秒の後に、さらりと砂に変化してくずれる。
けれどクレディアス子爵の表情は、それまで以上に険しいものに
なっていた。
1670
エイルレーンに流れる血 4
クレディアス子爵の表情は、怒りというより、悔しそうといった
ほうがいいかもしれない。
﹁王子まで、魔術師に⋮⋮﹂
光に驚いて一時退いていた兵士達が、双方ともに競り合いを再開
する中、忌々し気に呻く。
﹁王子まで、攻撃の手段を持っているというのに⋮⋮っ﹂
独り言を口にして、ぎりぎりと奥歯を噛みしめるクレディアス子
爵に、私は困惑する。
どうやらレジーが魔術師になったと勘違いしているようだけど、
何をそんなに悔しがっているんだろう。そう思ったら、師匠がつぶ
やいた。
﹁なるほどな⋮⋮あの子爵は、少々例外な魔術師だったということ
じゃな﹂
﹁例外?﹂
﹁戦うために使えるような魔術を、持っていないのじゃろ。こうし
てやたらと魔術師くずれを操れるのと関係あるんじゃろな、ヒヒヒ。
おそらく、魔力を取り込むのは得意なのじゃろ。だからこれだけの
魔術師くずれを操れるほど契約の石を取り込める。だがそれを外に
向かって、魔術として発動できないんじゃろな﹂
それならクレディアス子爵が、ゲーム戦場に出てこなかった理由
1671
もうなずける。
ゲームでは大量に魔術師くずれなど出てこなかった。ということ
は、契約の石を大量入手できなかったからで、自由に使える肉盾が
ない状態で戦場へ行けば、あっさり死んでしまうだろう。
今回はそれができるから出てきたのだろう。私の代わりに、エイ
ダさんという魔術師を手に入れたのに。
そのエイダさんは、子爵と一緒に動いていると思ったが姿がない。
ほっとしつつも、アラン達の方にいるのではないか。ファルジア
軍にこれ以上損害を与えたら、アランやレジー達でもかばいきれな
くなるんじゃないかと不安になる。
けど、全部今ここでクレディアス子爵を倒さなくては何もできな
い。
﹁なぜ王子ですらが⋮⋮。私にその力があれば、アンナマリーをこ
の手でずたずたにできたというのに﹂
子爵の元奥さんへの恨みが半端なさすぎる⋮⋮。
彼女になぞらえてる私のことも、今度こそ惨殺しかねない気がす
る。
クレディアス子爵が一歩前へ踏み出した。
レジーが剣を構え、斜め前に茶の髪のサイラスさんが出る。
また魔術師くずれを呼び寄せるのかと思ったが、クレディアス子
爵にそのそぶりはない。なのにもう一歩、二歩と進んでくる。
その足で、砂になった身代わりの魔術師くずれの死体を踏みなが
ら。
レジーがもう一度剣先をクレディアス子爵に向ける。
彼も子爵が飛び道具のような魔術は使えない、と気づいたんだろ
1672
う。
だけど何か変だ。クレディアス子爵には戦う術がないのに、どう
して前に進むの? 怒りに我を忘れてる?
そうしている間にも、レジーが魔術を放つ。
彼だけだと威力は小さいけれど、接近しているので十分当たる。
けれどクレディアス子爵の目の前に、再び魔術師崩れが出てきて
砂になってくずれた。
それだけならまだしも、レジーが何かに気づいたように飛びのい
た。
その時、クレディアス子爵を守ろうとレジー達との間に飛び込ん
できたルアイン兵が、もろりと砂になってくずれる。
魔術師くずれじゃないみたいなのに、なんで? 疑問を抱くのと
ほぼ同時に、師匠が何かに気づいたように叫んだ。
﹁おい、もっと離れるんじゃ!﹂
目の前の出来事が信じられず、呆然としている間にも、レジーと
フェリックスさん、サイラスさんが後ろに下がった。
﹁師匠、あれは﹂
師匠が嫌そうな声で答えた。
﹁おそらく、あの子爵は魔力を相手に与えることができるんじゃろ。
魔力を与えすぎれば、何ものであっても姿を保てん。魔術師よりも
いとも簡単に、体内の魔力が暴走する﹂
契約の石に耐えられないということは、魔力の荒れに耐性がない
というのと同じだ。
1673
納得しつつも、これでは魔術でも攻撃できないし、近づけない。
あげくレジー達が引いたことで余裕ができたのか、生き残ってい
る魔術師くずれ達の動きが組織だったものに変わる。
一斉にこちらへ向けて魔術を放ち始め、私はとっさに土の壁で炎
と風を遮った。
けれどその壁も、クレディアス子爵が近づくともろくも崩れてし
まう。
それに勢いづいたルアイン兵も、ファルジア兵との戦いにやる気
を出してしまった。
﹁もう少し下がろう﹂
私達の傍まで戻ってきたレジーが、私の手を引いて下がらせる。
﹁くくっ⋮⋮。人の物を奪って満足か、王子よ﹂
クレディアス子爵が笑いながら近づいてくる。
私、別に貴方のものじゃありませんと言いたかったが、たぶんク
レディアス子爵はまともにこちらの意見など聞く気はないだろう。
しかもそのまま、不可思議なことを口にする。
﹁だが王子もおかわいそうな方だ。多少はご同情申し上げる。なに
せ知らぬうちに母親を生贄にされて、死に目にすら立ちあえなかっ
たのだから﹂
﹁生贄? 母が?﹂
レジーも初耳だったのだろう。いぶかしげな表情になる。
でも生贄って、最近になって誰かから同じ単語を耳にしたような?
それを私が思い出す前に、クレディアス子爵がさらに魔術師くず
れをこちらへ向かわせてくる。
1674
カインさんとフェリックスさんが左右へ走り出した。
飛んでくる炎や剣のように伸びる氷を避け、手に持つ槍で魔術師
くずれ達を突き刺し、離脱する。
魔術師くずれ達は炎と氷柱に取り込まれるようにして息絶え、砂
になった。
﹁レジー!﹂
この距離では、レジーだけの力では届かない。手を伸ばした私に
気づいたレジーがうなずく。
けれど彼に寄り沿うようにして肩に触れた私を見て、クレディア
ス子爵は唸り出した。
近づかなければと思ったらしいサイラスさんが槍を投げつけたが、
子爵に届く前に砂になってくずれてしまった。
レジーは剣先を子爵に向ける。
﹁キアラ﹂
呼ばれて、私はレジーの肩に置いた手から魔力を流した。
ほんのわずかに顔をしかめたレジーの手から溢れた光が、空気を
紫電となって剣を這い、空気を震わせて轟音をたてながら、一直線
にクレディアス子爵へ向かう。
襲い掛かった雷は、子爵の目前で立ち消えた。
﹁⋮⋮どうして﹂
思わずつぶやく私の横で、レジーも眉をひそめた。
1675
エイルレーンに流れる血 4︵後書き︶
続きは明後日までお待ちくださいませ
1676
エイルレーンに流れる血 5
師匠がつぶやいた。
﹁魔力に魔力をぶつけたか?﹂
﹁そんなことできるんですか?﹂
﹁魔力を放出して物の形をくずせるなら、魔術に対しても同じこと
ができるじゃろ。⋮⋮見るがいいあれを。ウヒヒヒ、使い過ぎじゃ﹂
師匠が笑いながら小さな手で子爵を指し示す。
違和感がある、と最初は思った。なんでかと思ったら、
﹁痩せてる⋮⋮?﹂
レジーが言うとおり、子爵の体が少ししぼんでいた。
﹁特異体質じゃな。魔力をため込める代わりに、体が膨張するのじ
ゃろ。かといって自分にはそれしか攻撃に使える隠し玉がないのだ
から、維持する以外の選択肢がなかったんじゃろなぁ、ケッケッケ﹂
ひとしきり笑う間にも、子爵はこちらへ向かってくる。
逃げようにも、まだ魔術師くずれやルアイン兵との戦いが続いて
いる。囲まれている上、ここで逃げたらそちらに子爵がやってくる
だけだ。
﹁正直、魔力を使わせ続ければ勝てるが、倒せないとなればあちら
も引くだろう﹂
﹁⋮⋮じゃあ、これなら﹂
1677
私はその場に手をついて、土人形を二体作りだした。
一体をクレディアス子爵に突撃させる。
破壊されると反動がくる。自分の中の力が削られる感覚に呻く。
だから今度は、石の塊を投げつけた。
すぐに砂になってばらばらと落ちるけれど、こちらに意識を引き
つけて、相手に勝てると思わせるためにはこれしかない。
﹁くっ、けほっ﹂
息がしずらくなって、せき込む。砂埃が入ったのも要因の一つだ
ろうけれど。
﹁キアラ、無茶はしすぎないで﹂
レジーを心配させてしまった。でも大丈夫だと、これでクレディ
アス子爵を倒せるなら。記憶に刷り込まれた因縁を終わらせること
ができるならと思ったけれど、言えなかった。
顔を上げた私の視界に、かなり痩せたせいなのか、身軽になった
クレディアス子爵が砂埃の向こうから飛び出してきた。
私は急いで逃げようとしたのに、なぜかレジーが前に出て行った。
でもレジーの振り下ろした剣が砂になってしまう。
クレディアス子爵は自分の有利を確信したんだろう。痩せてぶか
ぶかになった袖に包まれた手を伸ばす。
レジーは寸でのところで身を退けようとした。
けれどクレディアス子爵の手に、レジーの左腕が捕まれてしまっ
た。
私は悲鳴を上げたと思う。声にならなくて。でも喉が痛い。
1678
けれど一瞬の後、目を奪うような光が視界を奪い︱︱。
光が止み、ようやく回復した目で目の前を確認した私は、息を飲
む。
その場に倒れていたのはクレディアス子爵で︱︱レジーは立って
いた。
レジーの左手の先から、発散しきれなかったのか小さな火花がち
らついている。
数秒して、ああ、とようやくわかった。
クレディアス子爵は、魔力を出すことしかできなかった。
掴んだレジーの腕には、魔力を流す回路が茨姫によって刻まれて
いた。
そのためクレディアス子爵の魔力がそのままレジーの腕を伝い、
雷の魔術となって本人に襲い掛かったんだ。
むしろレジーはそれを狙って完全に逃げずに腕を掴ませたんだろ
う。失敗したら死んでしまう可能性もあったのに。
数秒、誰もが自分の目を疑って静止していた。それを破ったのは
レジーだ。
﹁ルアインに味方した魔術師は死んだ! 残る敵を殲滅しろ!﹂
号令に我に返った騎士達と兵士達が、残った兵士達に襲い掛かる。
魔術師くずれは、クレディアス子爵が盾にしたことでだいぶ減っ
ていて、残りの二人は間もなく討ち取られる。
その中心で、私達はクレディアス子爵から少し離れた場所で彼を
見つめていた。
まだ砂になっていないということは、息絶えていない。だから警
戒していたんだけど。
1679
﹁アンナマリー⋮⋮やっぱり私を裏切るのか⋮⋮﹂
茫洋とした眼差しをどこかに向けて、クレディアス子爵はつぶや
いた。
エイダさんからイサーク達を通じて、クレディアス子爵が亡くな
った妻に今でも未練を持っていることは知っていた。
結局彼にとっては、戦争よりも自分の人生よりも、亡き妻の心を
取り戻すことの方が重要で。
だけど相手に憤りをぶつけることしかできないクレディアス子爵
は、何人代わりを手に入れても、疑似的な形ですら妻と相思相愛に
なることはできなかったんだ。
︱︱ふと、何かの情景が私の脳裏に蘇った。
私の足に縋りついて泣き叫ぶ、子爵の姿だ。
父親に魔術師として役立たずだと言われて来たと訴えていた。
普通の攻撃魔術も、何か特別な魔術も使えなかったクレディアス
子爵は、魔術師になった後はずっと父親にののしられ続けていたよ
うだ。
その父親というのも、実の親ではなかったと、夢の中の私は知っ
ていた。何人もの子供を連れてきて、魔術師になった子供だけを養
子として魔術師の家を存続させてきたようだ。
だからって同情はできない。
自分とは関係な一方的な憤りだけぶつけられて、交流しようとい
う気持ちすら持ってくれない相手を気遣えるほど、私は聖人君子じ
ゃない。
辛いから殺しかけても許してくれなどと言われて、誰が納得でき
1680
るだろう。
そうして涙にぬれた手で、私の首を絞めようとした。
私はただ、これで死ねるんじゃないかと考えていて⋮⋮。
白昼夢は一瞬で、再び戦場が目の前に戻ってくる。
それからは静かに、砂に変わっていくクレディアス子爵を見るこ
とができた。
﹁見なくてもいいんだよ﹂
じっと見つめて黙り込む私に、レジーがそう声をかけてくれる。
﹁ううん大丈夫。悪い夢が、ちゃんと決着がついたんだってわから
ないと、ずっと迷路をさまよってるように思えてくるから﹂
私は首を横に振って、再び砂になってくずれていくクレディアス
子爵に目を向ける。
なんとなく⋮⋮この白昼夢や不可思議な夢がなんなのか、わかり
始めてきた。
私は日本で生まれ育った後、この世界に生まれ変わって、私は二
度目の人生を繰り返しているんじゃないだろうか。
もっというなら、一度﹃キアラ・クレディアス﹄として生きて、
その人生をやり直しているような気がする。
それなら、この個人的な感情まで混じった記憶が私の中にあるの
も納得できるんだ。
ただわからないのは、茨姫がそれに関係しているらしいことを言
っていたことだけど⋮⋮。
そうして自分の考えに沈んでいた私は、悪い夢という言葉に、レ
1681
ジーが表情を翳らせたことには気づかなかった。
1682
流れつく場所は 1︵前書き︶
※エイダ視点です
1683
流れつく場所は 1
エイダはじっと薄暗い幌馬車の中で、膝を抱えて座っていた。
戦場の悲鳴や吹き鳴らされる合図や、剣戟の音が聞こえてくるけ
れど、じっと動かない。
子爵に蹴られた時の怪我のせいで動きにくいと言って、戦場に出
ないことにしたからだ。
クレディアス子爵も、エイダを動けないようにさせることはでき
るけれど、無理に戦わせることなどできないので、エイダを自由に
させることにしたようだ。
一度は脅されたけれど、一番の標的だったキアラを間近で見たか
らだろうか、エイダには幸いなことに、クレディアス子爵の目は完
全にあちらに向かっていた。おかげで脅しは口だけで、特に何かさ
れたということはない。
そうなって初めて、クレディアス子爵は脅す以外の方法では、無
理やりエイダを戦わせられないのだということに、ようやく気づい
たくらいだ。
今、エイダはほっとしていた。
反抗したら、どんな目に遭うかと思った。だからキアラを助けな
がらも、彼女が憎いと叫んで、嫉妬にかられた女のふりをしたけれ
ど。
キアラが死にかけたことで、エイダが嫉妬心から行動したことも
疑われなかったので、キアラには近づけないよう監視されたりもし
たけれど、それ以上は特にひどいこともされなかった。そんなこと
で、味方についている魔術師に離反されたくない、というのがルア
インのアーリング伯爵の内心だろうけど。
1684
結局はぎりぎりでサレハルドの王達が間に合い、キアラは炎の中
でもなんとか助け出された。
サレハルドの王に抱えられたキアラを見たエイダは、心に達成感
が満ちていた。
なぜかはわからないけれど、やりたいことをやったという実感が
あった。
ただほんの少し⋮⋮自分も助けて欲しいと思わなかったわけでも
ない。
そんなこと、望むべくもないってわかっている。
ファルジア軍に自分が行っても、侯爵を殺してレジーを殺そうと
したエイダは処刑されるか幽閉される。それしかありえないから。
⋮⋮死ぬのは嫌だった。
だから脅されたら従ってきた。
なのに今回だけは、どうしてか戦場へ行くことを拒否したくなっ
た。嘘をついてまで。
クレディアス子爵がキアラを殺すことに気を取られていなければ、
酷い目にあったかもしれないのに。
その時思い出していたのは、炎に取り囲まれて倒れているキアラ
が、自分に微笑みかけた顔だった。
汚されたくないのなら、きっとそうしたいだろうと思った。自分
が助けようとしたことを知られないようにできるのは、それぐらい
だったのもある。
一方で、エイダは自分だったら死にたくないだろうと考えた。今
でもまだ幸せになりたい。けれど王子は手に入らないとわかってい
る。
だけどキアラは本当に喜んでいたのだ。
1685
王子に愛されてるという実感があるから、王子を裏切らずに済む
と思ったんだろうか?
わからない。けれど、あれからエイダは、クレディアス子爵に嘘
をついて従わないという行動ができるようになった。
でもこれ以上どうしたらいいのかわからない。
本当は逃げたいけれど、行き場所がない。だからじっとしていた。
この戦いが終わったら、エイダが連れていかれる場所が決まる。
そう思っていたのだけど。
息せき切ってやってきた騎士が、馬車の幌を上げて叫んだ。
﹁魔術師殿! ここから移動します!﹂
﹁え⋮⋮負けたの?﹂
急いで移動させられるとしたら、勝ったわけじゃないんだろう。
その予想は当たったのだが。
﹁子爵がお亡くなりになりました!﹂
ずっと聞きたかったその言葉に耳を疑ってしまう、ずっと悩まさ
れ、早く死んでくれることを待ち望みすぎたんだろうか。信じられ
なくて戸惑う。
﹁まだ交戦中ですが、王妃様より万が一の場合には魔術師殿を安全
な王都へ戻すよう仰せつかっております﹂
﹁王妃様が⋮⋮﹂
エイダは迷った。迷いながらも、自分では決められずに騎士に手
をひかれるまま馬車を降りる。
外へ出ると、確かにまだ戦闘は終わっていないようだった。
1686
まだ競り合っているようだが、遠目にも押し負けているように見
える。
ファルジア側よりも数が多かったはず。耳にした他の策から考え
ても、こんなに早く押されるとは思わなかったので意外だった。
あの子爵が死んだ、というのもエイダは信じられないような気持
ちだ。だから騎士に確認してみた。
﹁子爵は⋮⋮どうやって倒されたの﹂
﹁詳しいことは近くにいなかったので不明ですが、ファルジアの王
子と魔術師が倒したらしいと﹂
キアラがやったのか。
その時、レジナルドが魔術を一部使えるなどと思わなかったエイ
ダは、彼女がやったのだと思った。
クレディアス子爵を師として魔術師になったわけではないけれど、
ある程度影響を受けて苦しんでいたはずのキアラが、それでも子爵
を倒したのだと思うと、エイダは胸躍るような気がした。
でも子爵がいないのなら、エイダはこのまま逃げてもいいのでは
ないだろうか。
そこに、丘の上から走って行く一団がいた。青い旗とマント。フ
ァルジア軍だ。
その中にふと、エイダは見知った顔を見つけた気がする。
﹁まさか﹂
エイダは騎士の手を振り払って、小走りにそちらへ近づく。
小さくても間違いない。あれは、エイダが殺しかけたフェリック
スだ。
あれからそれほど時が経っていないのに戦場に出られるのは、何
1687
か特殊な薬でもファルジア軍にはあるのだろうか。
とにかく生きていてくれて嬉しい。だけど。
エイダの足が止まった。
やめておけばいいのに、と言ったフェリックス。忠実に王子の命
令に従って動く彼は、エイダが攻撃してこなければ自分も攻撃する
必要などなかったのに、と言いたかったのだと思う。
そんな彼が自分を見つけたら。処刑すべき敵魔術師として、王子
の前に突き出すのではないだろうか。それが怖かった。
甘いことを考えがちなキアラは、エイダを庇うかもしれない。
けれどエイダが契約の砂を飲むと言って脅しても切り捨てた王子
は⋮⋮きっと聞き入れてはくれない。
フェリックスにもう一度剣を向けられるのは嫌だ。
だからエイダは、もう一度自分を連れ出そうとした騎士の元へ戻
ることにした。
まずは戦場を離れて⋮⋮それから考えようと思って。
1688
流れつく場所は 2︵前書き︶
※イサーク視点です
1689
流れつく場所は 2
クレディアス子爵が死亡した。
その報告は、イサークの元にももたらされた。
﹁キアラがやったのか? 傍に寄るとキツイって話だったのに、や
っぱ根性あるなあいつ﹂
﹁根性とか言ってる場合ですか?﹂
イサークの隣で騎乗して戦況を見ているミハイルが、ため息まじ
りに言う。
戦闘は押しつ押されつの膠着状態だった。
お互いに到着して間もない。そしてファルジア側は、こちらに準
備などさせないつもりで剣を向けてきた。
応戦したルアインとサレハルドだが、数だけならイサーク達の側
が多い。だから押し返すことはできたのだが、相手の退き方がおか
しいと思って兵の歩を止めさせてみれば、ファルジア側はちゃっか
りと軍馬を刺し貫くような、斜めに突き出した石棘の柵を作って兵
で周囲を固めて隠していたのだ。
間違いなくあれはキアラが作ったものだろう。魔術師便利すぎる。
文句を言っても始まらないので、わざわざそこへ突撃する必要は
ないとルアインと二手に分かれて挟撃を狙うことにした。
ファルジアはもちろん、中央に割り入ってルアイン側から撃破を
しようとした。サレハルド側が﹃ある程度﹄戦況が決まったら降伏
すると言ったからだ。
1690
実はこの戦の前に、イサークはあの銀の髪の王子と会っていた。
レジナルド王子が部下を先回りさせ、途中で近くを通る村の人間
に、イサークへの伝言を託していたのだ。
会うのはイサークとしてもやぶさかではなかった。
自分と接触を持とうというのだから、ジナかキアラから、イサー
ク達がいずれファルジアに下るつもりがあると聞いたんだろう。そ
れなら、サレハルドのことを交渉する端緒を掴んでおきたいし、戦
況についてこちらが退く時期なども餌に、ある程度の情報を引きだ
すこともできる。
イサークは翌日、周囲へ哨戒に出かける兵について行った。
時々そうしてイサークがうろつくことはあるので、一日ばかり遠
出をしたところで、ルアイン側にもファルジアと接触するつもりだ
と気取られることはないだろう。
途中で哨戒のサレハルド兵達と別れて合流する時間を決めた後、
イサークは二時間程かけてデルフィオン領に少しだけ踏み入った川
辺へ到着した。
場所ははっきりと定まっているわけではなかった。お互いに人目
を忍んでいるので、目印を置くのも付けるのも避けるべきだった。
だからイサークは相手の姿を探しながら川を下りはじめ、ややあ
って、さかのぼる形で進む彼を見つけた。
ファルジアの王子レジナルドは、近くで見ても肖像画を描いたら
女性達が欲しがりそうな顔立ちをしていた。キアラもこの容姿にこ
ろっといったのかと考えつつ、立ち止まって馬を降りると、ついて
きた三人の兵に馬を連れて下がるよう指示する。
それから彼に声をかけた。
1691
﹁よぉ。俺に用があるって言うから、来てやったぞ﹂
﹁応じてくれて感謝する﹂
そう言ったファルジアの王子レジナルドは、自分も連れてきた騎
士達を離れさせてイサークの傍まで来た。
単騎で敵の王に近づくというのに、口元の笑みは消えない。一筋
縄ではいかない人間だ。普通、敵味方で剣を交えた上、これからま
た戦をしようという相手と話す時に、恐怖で笑うしかないという場
合を除いて、にこやかにしていられるものではない。
﹁手短に頼みたいんだが。俺もあまり離れてると不審に思われるん
でな﹂
﹁こちらも長くは話せないよ。あまり時間をかけると君のことを殴
ってしまいそうだから﹂
表情も変えずにそんなことを言ってくる。
﹁でも、まずはキアラがそちらに滞在中、危険人物から救ったりし
てくれたことには礼を言うよ﹂
しれっと続ける言葉を聞いて、嫌味か、と苦笑いする。クレディ
アス子爵との諍いのことは聞いているんだろう。
だが、この感じだとキアラは﹃あのこと﹄はレジナルドに話さな
かったようだ。
まぁ、言い難いだろうなとは思う。一方でイサークは、気づいて
いないらしいレジナルドを見ていると、少し愉快な気分にもなった。
﹁そのキアラと、うちで雇っているサレハルドの傭兵から聞いたん
だ。サレハルドが、途中でファルジアに負けるつもりだって。それ
なら、話し合えることがあると思ってね﹂
1692
予想通りの内容に、イサークもうなずく。
﹁いいだろう。お前は次でトリスフィードについては決着をつけた
いんだろう? 他の予定が詰まってるからな﹂
﹁ご明察だよ。まずは条件を話し合うべきだね﹂
それからは細かいことについてやりとりをした。
こちらの要求。ファルジアが譲れないもの。
レジナルドは、かなり詳細なことまでジナから話を聞いていたら
しい。ジナ達、そしてあの保護者のギルシュからも信頼されている
のだろうが、ちょっと悔しい。でもおかげで、話がかなり踏みこん
だところまで進んだ。
⋮⋮これで、後を任せるミハイルも少しは荷が軽くなるだろう。
話し合った末に、レジナルドがつぶやいた。
﹁⋮⋮君は本当に、死んで王を辞めるつもりなんだね﹂
真剣なレジナルドの表情が、まるで本当に敵国の王の命を惜しん
でいるみたいでうろたえる。だからイサークは言ってしまったのか
もしれない。
﹁お前はせいせいするんじゃないのか? そうそう、キアラにはキ
スした件については謝らんと言っておいてくれ﹂
一瞬だけ、レジナルドは絶句したように目を見開いた。
﹁クレディアス子爵のせいだけにしては、反応がおかしいと思って
いたんだ。君のせいだったのか﹂
1693
それから薄らと笑みを浮かべる。
﹁⋮⋮本当は殺したくなかったんだけど、手加減が必要ないみたい
で良かったよ。できるだけ苦しみ抜いてもらいたいね﹂
ただ、とレジナルドがつけ加えた。
﹁キアラがそれを許してくれるかどうかは別だけどね。君の希望に
ついても、だけど﹂
﹁お前の部下みたいなもんだろ。なんとかしろよ﹂
﹁組織として立場を決めなくちゃいけないからそうしてるけど、彼
女は善意でついてきてるだけだよ﹂
レジナルドの言葉に絶句すると同時に思う。
だからか、と。
本来なら無我夢中で戦って戦後に悩むような﹃人を殺す理由﹄が
手に入らなくて、人を殺すのが怖いなんて言っていたのは、それも
原因だったんじゃないのかと。
1694
流れつく場所は 3︵前書き︶
※イサーク視点にて続きです
1695
流れつく場所は 3
﹁お前さ⋮⋮あいつに考えさせすぎなんじゃないか? だから戦争
で戦うだなんて理由一つでつまずいたんだろ﹂
イサークの言葉に、レジナルドも思い当たる節はあったんだろう。
﹁それでも、私は彼女に何かを強要したくないんだよ。彼女を追い
詰めたくないんだ﹂
﹁追い詰める⋮⋮?﹂
﹁キアラは小さい頃から物みたいに思われてきたから、自分を守る
ために辛いことは全部夢だったと思いたがる癖があるんだ。追い詰
めると、完全に夢の中に逃げ込んでしまうかもしれない﹂
﹁夢って⋮⋮﹂
何か事情がありそうだが、そこまで踏みこむ時間はイサークには
ない。
だから言葉をそれ以上続けることはなく、話を終わらせて、お互
いにさっさと自分の陣営に戻ったのだが。
ただ、イサークは言おうか言うまいか迷ったことを、今になって
思い出す。
﹃王子のことに関しては、キアラも目を背けて逃げられなくなった
んじゃないか?﹄と。
﹁それぐらいは意識してくれないと、骨を折った甲斐がないよなぁ
1696
⋮⋮﹂
﹁何ぶつぶつ言ってるんですか! ルアインがとうとうやっちゃい
ましたよ!﹂
側にいるミハイルが指さす方向を見れば、二方向から攻められる
形になったルアインが、最後の手段を出してきていた。
後方から十数人の鞭打たれた兵士達を引きずってくると、彼らを
全員魔術師くずれにしたのだ。
前回は、クレディアス子爵がファルジアの魔術師にかかりきりに
なり、そのためルアイン軍の損害が大きくなった。今回もファルジ
アの魔術師を倒すことに執心するだろうし、魔術師を倒してもらわ
ねばならないから、クレディアス子爵を他の場所へ向かわせること
もできない。
しかしファルジアには魔獣もいる。対抗するため、魔術師くずれ
を作り出す砂を、アーリング伯爵がクレディアス子爵に要求してい
たのだ。
魔術師くずれ達は無差別に辺りを破壊しはじめ、その副産物とし
て、ファルジアがキアラに作られせたのだろう柵を三分の一ほど破
壊していく。
何もしないわけにいかないサレハルドも、これに乗じて、中央に
突出したファルジアの部隊を攻撃した。
ただ、ファルジアから温情を引きだしたいのなら、やりすぎない
ことだ。
それでいて、ルアインにはこちらも必死に戦っていると思わせな
ければならない。
微妙なかじ取りが必要だが、こんな飛んで火にいる夏の虫は殲滅
しなければ、はたから見ても疑わしいと思われかねないだろう。
なのでファルジアの兵士達を殺し尽くせと命じたイサークだった
1697
が、そこにファルジアも切り札の一つを投げて来た。
ジナと氷狐達だ。
特に巨大化したリーラの魔力は強く、突出した部隊の近くにいた
魔術師くずれの一部とルアイン兵達は、体のあちこちを固められて
動きにくくなる。
そうしている間に救援部隊に割り込まれ、取り残されていたファ
ルジアの部隊は逃げて行った。
それでも魔術師くずれたちによって、ファルジアの柵がかなり破
壊されてしまう。
サレハルドも何もしないわけにはいかないので、松明を持たせた
兵士をリーラ達氷孤に向けて送り出していた。魔力が切れなければ
暑さも平気な氷狐達だが、炎を向けられると魔力の消耗が激しくな
るので嫌がるのだ。
おかげでジナ達も氷狐も向かって来られなくなる。
その間に、ルアインはそこから一気にファルジアへ突撃していく。
魔術師くずれがいなくとも、数の優位はまだある。ただでさえクレ
ディアス子爵達の方にキアラと共に二千ほどの兵を集中させている
のだから、ファルジアはさらに数が少ないのだ。
今でなければファルジアを劣勢に追い込めない。
だがファルジア軍へ向かって、丘を降りてくる一軍がいる。
日の光を反射する剣と青いマントの群れが見えた。
数は四千ほどだ。十分に数の優位を埋められる。そのうちキアラ
達が戻れば、戦はすぐに終わるだろう。
粛々と行進し、ファルジアに合流する一軍を見ながらイサークは
つぶやいた。
﹁そろそろ決着がつくな⋮⋮﹂
1698
間もなくルアイン軍は後退するだろう。その背後を守るような形
で動いた上で、ファルジアといくらか打ち合えばいい。
それで終われる。
するとミハイルが呼びかけてきた。
﹁殿下﹂
﹁おい、陛下って言えよ﹂
いつも通り返したが、ミハイルは何かを我慢するような表情で言
った。
﹁本当は、貴方を王にしなくても良かったのかもしれないと思って
います。エルフレイム殿下でも、同じことができたはずなんです。
⋮⋮何より、貴方みたいにほっつき歩いて、敵と情を通じて辛い思
いをせずに済んだのにと、今になって思います﹂
言った後に唇を噛みしめるミハイルに、イサークは笑った。
これが最後だから、そんなことを言いたくなったのだろう。
﹁俺がやるって決めたことだろ。そしてお前は、恩人の兄貴を助け
たかった。それに兄貴じゃ、ルアインに恭順してみせるために結婚
は拒否できなかっただろ。あれ以上ジナイーダを泣かせるわけにも
いかなかったからな﹂
小さい頃から知っているジナイーダ。
人前ではなんとか大人しそうなふりをしていたが、人目を避ける
ために木に登り、いつか元の場所に帰るためにも剣の腕は落とせな
いからと言って、こっそり剣の練習も続けていた破天荒な娘だった。
だから興味を持った。
1699
けれど彼女は兄のことが好きで。まだ軽い気持ちだったイサーク
は、すぐに妹という場所に彼女のことを置き直すことができたけれ
ど。婚約者にする時に、ほんの少しだけ昔の淡い気持ちを思い出さ
なかったわけでもない。
﹁⋮⋮なんだかな。俺、男を殴ったり蹴ったりする女ばっかり好き
になるのな﹂
﹁ご趣味は悪くないと思いますよ。どちらも貴族女性の枠に収める
のは難しそうですけれど﹂
﹁仕方ないだろ。俺も王や王子の枠には合わないんだからな。⋮⋮
おい、左開いてるだろ! 後ろの奴をそこに回しとけ! だが少し
ずつ下がれ!﹂
話しながらも、イサークは指示を飛ばす。
﹁王様の枠は、たぶん一番似合ってましたよ﹂
そんな彼にぽつりとつぶやかれた言葉は、騒がしい中でも不思議
と耳に届いた。イサークは苦笑いしてそんなミハイルの頭を撫でる。
﹁後は任せた。計画通りにな﹂
﹁⋮⋮承りました、陛下﹂
答えたミハイルに満足げに笑ってみせたイサークだったが。
︱︱それを視界の端に見つけて、表情を変えた。
﹁まず⋮⋮。もうちょい長引きそうだ。おい、全軍後退中止!﹂
ミハイルも同じものに気づいたように、顔を青ざめさせていた。
1700
戦場に落ちる光は 1︵前書き︶
※キアラ視点に戻ります
1701
戦場に落ちる光は 1
クレディアス子爵が連れていたルアイン兵を倒すのは、それほど
時間はかからなかった。魔術師が死んだことで、不利を悟ったルア
イン兵達がばらばらと逃げて行ったからだ。
私達は逃げて行く兵に構わず、急いでファルジアの本軍に合流す
るため、先を急いだ。
ゴーレム
ゴーレム
途中で邪魔する気概のあるルアイン兵もいたが、全て一緒に並走
させた土人形になぎ倒させて阻止した。
でも走りながらというのは結構辛い。途中で土人形はくずした。
﹁無理しないで﹂
私が息を切らせていたからだろう、隣を走るレジーが心配してく
れた。
﹁大丈夫﹂
でも笑顔で答えることができる。
クレディアス子爵のせいで制限され通しだったせいか、体がとて
ゴーレム
も軽い。でも魔力が安定してないのも確かで、少し熱っぽいままだ。
だから加減はしているし、土人形も続けて使うのは止めたのだ。
アラン達ファルジアの本軍は、その間も戦い続けている。
私達がクレディアス子爵と戦っている間に、予め別に賞金をつけ
て募集した兵士に氷狐の氷の剣を持たせて突入させていた。
普通の剣とは違う威力に、ルアイン兵も二の足を踏んでいる。そ
1702
のまま完全にルアインとサレハルドを分断できたようだ。
そこを避けるように、ルアインは前に進んでくる。魔術師くずれ
を使って、私が先に作っていた柵を壊したのだろう、そこから大量
のルアイン兵が流入しようとしていた。
一番私達に近い右翼側を守っていたジェロームさんが、勢いに押
されたように兵を後退させる。
それにつられて突撃して行ったルアイン兵が、いくつかの穴に落
ちていった。やや深い穴だったけれど大きくはないので、止まり切
れなかった兵士達が何人か折り重なると、後方の兵士を足止めする
障害になった。
⋮⋮これは私が、ジェロームさんからの依頼で作製しておいたも
のだ。
ファルジアの兵には、ちゃんと避けるように言って目印をつけて
おいたのだけど、ルアイン兵はそんなこと知らないし、戦場では万
が一に備えて足下を気にしながら前へ進むような余裕のある人は少
ない。
進みが緩んだところで、中央後方にいたエニステル伯爵の軍が移
動してきて、ジェロームさんの軍とともに攻撃を加える。
けれどルアイン軍もそれだけで引かなかった。
魔術師くずれを再び量産したのだ。
しかも、負傷したファルジア兵を利用して。
味方の青いマントを来た兵士から攻撃されて、さすがにファルジ
アの兵達も混乱した。
攻撃がゆるんだところでルアインは態勢を整えていく。
﹁ルアインはどれだけ契約の石を持ってるの!?﹂
﹁わからんが、無差別にばら撒けるほどにどこからか掘り出してき
1703
たようじゃな、ヒッヒッヒ。このままではヤバそうじゃ。兵の動揺
が一番厄介だからの﹂
師匠の言う通りだ。
デルフィオンでの戦いでは、元デルフィオン男爵がルアインから
離反して加わったものの、疑心暗鬼のせいで私の魔術を使っても、
敵味方を引き離すのでやっとだった。
このままじゃ被害が大きくなる。
﹁キアラ止まって。誰か弓を!﹂
同じように状況を把握したレジーが指示する。
足を止めると、私にもレジーの考えを耳打ちしてきた。うなずい
て、私は弓を持って来た兵士さんに銅鉱石を渡す。
兵士さんは素早くレジーが指定した場所へと矢を打ち込んだ。
私は地面に手を突き、鉱石の場所を元に、その左右に広がるよう
に土を隆起させる。ファルジアの兵がいない場所といるだろう場所
をそれで分断した。
﹁キアラ!﹂
レジーに手を引かれて立ち上がった私が彼の肩に手を置き、レジ
ーの持つ剣の先から雷がほとばしった。
雷鳴を響かせて、雷はレジーが思う場所へとその体を伸ばす。瞬
時に空高く上り、一気に落ちて行く。
私が土の壁で区切った、ルアイン兵だけがいるだろう場所へ。
地響きが耳に、足に届く。
絶叫の多さに、沢山のルアイン兵を倒したんだとがわかる。自分
で手を下さない分だけ必死さがないからか、その声が胸に突き刺さ
る。でもいつもより怖くないのは、レジーが主導権を握っているか
1704
らだろうか。
そんな気持ちを感じたように、剣を降ろしたレジーが、右手を肩
に触れていた私の手に重ねる。
﹁大丈夫だよ。一緒にいるから﹂
戦うことも、誰かを殺さなければならない時も。辛くても傍にい
てくれる人がいると思うと、それだけで救われた気持ちになる。
﹁悼みすぎないで。戦う相手は堂々としていてくれた方が、諦めが
つくものだから。勝った相手に謝られたら、気持ちよく恨めないだ
ろう?﹂
﹁⋮⋮う、そんな気もする、かも?﹂
確かに、殴ってきた相手が即土下座してきたら、どうすればいい
のか困ってもやもやするかもしれない。命のやりとりでもそう考え
ていいものだろうか。
ゆっくり考える間もなく、ルアイン軍が混乱する中、私達はさら
にファルジアの陣営へ走る。
その間、レジーは﹁ルアインの魔術師は死んだ! 魔術師くずれ
もファルジアの魔術師の敵ではない!﹂と兵士達に喧伝させながら
走った。
これが結構、ルアイン兵に効いたみたいだった。
後からわかったことだけど、ルアイン兵は魔術師くずれの力に頼
る気持ちがとても強かったみたいだ。
いつかレジーが、私に兵が頼り切りになるのを危惧していたけれ
ど、それが実際に起こっていたらしい。
ただルアイン兵が﹃魔術師くずれ﹄に依存した考え方になったの
1705
は原因があった。
まだ前回の戦いでクレディアス子爵が私にばかりかまけていたこ
とから、対策として各将軍に契約の石の砂が配られていた。それぞ
れが、望んだタイミングで作れるように。
でもそれを使うためには、どうしても生贄が必要になる。
それまでのルアイン軍では、規律に反すると生贄にしていた。最
初は金品を盗んで逃亡した者だけだった。
けれど脱走兵だけでは足りない。生贄にされることがわかると、
恐ろしさのあまり、兵達は脱走する者をお互いに見逃し合うように
なり、脱走者を捕まえられなくなっていたからだ。
そこで今回の戦いに先だって、ルアイン軍の将軍達は監視を強化
した上で、魔術師くずれがいれば勝てるのだと言い続けた。
逃げることも難しくなったルアイン兵達はその言葉に縋って、自
分達が生き残るために仲間を見捨てるようになったのだ。
後ろ暗い思いが依存を強めたけれど、その頼みの綱が倒されてし
まえば彼らを止めるものなどない。
ルアイン兵の端にいた者がばらばらと逃げ始めた。
ここまでルアイン軍を切り崩せば、もうサレハルドも無理に戦い
はしないだろう。
イサーク達は上手く追い込まれたふりをして、白旗を上げると思
いながら、私達はファルジア軍の前にたどり着いた。
1706
戦場に落ちる光は 2
﹁戦況は?﹂
短く尋ねるレジーに、馬上から戦場を見渡していたアランが渋い
表情で言った。
﹁見ての通り、こっちの優勢で進んでる。お前の騎士ディオルに呼
ばせてた、あいつの実家のタリナハイアから増援が来たからな。ル
アインを片付けるのも時間の問題だが⋮⋮サレハルドが﹂
氷狐達の攻撃で頼みの魔術師くずれがうまく使えず、ルアイン軍
は浮足立っていた。なのに、サレハルドが後退していかない。
﹁とりあえずルアインを壊滅させよう、何かが足りないのかもしれ
ない。あと、サレハルドにも少し揺さぶりをかけたいけど、ジナ達
は?﹂
﹁サレハルドの方が氷狐への対処を知っているせいで、あっちは攻
めあぐねてる﹂
﹁じゃ、ルアインの方に集中させて⋮⋮﹂
﹁わかった。お前は少しそこで眺めてろレジー。顔色が悪い﹂
アランに肩を押されたレジーは、ふいをつかれたせいなのか珍し
いことによろけた。側にいたグロウルさんが慌ててレジーを支える。
﹁殿下、お加減が⋮⋮﹂
﹁ちょっとさっきの負担が来ただけだよ﹂
1707
クレディアス子爵との戦闘で、レジーは何度も魔力を使った。あ
げく、クレディアス子爵がレジーを殺そうと思って魔力を放出した
のを、一度は受け止めることになったんだ。予想外の負担だったは
ずだ。
﹁レジー、少し診せて﹂
グロウルさんと一緒にレジーを一度後方に引っ張って行き、座ら
せる。
それなりに辛かったんだろう。いつもより無抵抗のレジーの手首
を掴めば、喉の奥がざらつくような魔力の荒れを感じた。
走るのも大変だったんじゃないかな。私のことを気にしてる場合
じゃなかっただろうに⋮⋮。いや、レジーは魔術を使い始めたばか
りだ。私が気をつけて見ていなかったからだ。
﹁ごめん、気づけば良かった﹂
二度も魔術を使えば、こうなってもおかしくなかったのに。やっ
ぱりクレディアス子爵との戦いが終わったからか、気が抜けて周囲
に気を配れなくなってたみたいだ。
﹁気にしないでキアラ。どっちにしろここまで来なければ、休むわ
けにはいかなかっただろう?﹂
レジーはそう言うけれど、魔力がじわじわと治まっていくと、ほ
っとしたように息をついていた。
こんなに無理をしてまで、私を助けようとしてくれたんだ。そう
思うと泣きたくなる。嬉しいけど、辛い思いをしてほしくない気持
ちは変わらないから。
1708
﹁キアラの方は?﹂
﹁これぐらいならまだ大丈夫。クレディアス子爵がいない分だけ、
気も楽だから﹂
まだ戦える。というか、せっかくルアイン側の魔術師を倒した利
点を生かさなければ。ファルジアの兵を守るためにも。
﹁行って来る!﹂
だから私はレジーから離れて、アランの方へ戻った。
﹁アラン、私はいつでも魔術を使えるけど、何かすることはある?﹂
声をかけられたアランは、真っ直ぐにサレハルドの方を指さす。
﹁リーラが立ち往生したままだ。サレハルドの抑止にもなってはい
るが、そろそろ解放してやらないとマズイ﹂
兵士の人垣に遮られてよく見えないので、馬を連れてきてくれた
カインさんの前に乗せてもらい、高い場所から確認した。
確かにリーラ達が立ち往生しているようだ。
あちらの方がやや低い場所なので、大きなリーラと周囲の騎馬の
様子、それを囲むたいまつを持った兵士の姿が見えた。
リーラ達氷狐も、熱さは苦手だ。夏でも平気で歩いていたのは魔
力があったからで、今回のように熱を近づけられると、熱さを避け
るために魔力を使う。
そのせいか、昨日よりもリーラが一回り小さくなったような気が
しなくもない。でも小さくなるまでちょうどよく魔力を使えるとも
限らないし、体に悪影響がないかどうかも心配だ。
1709
もちろんリーラ達も反撃しているが、サレハルドがいずれ撤退す
るとわかっているせいか、吹雪を起こすような弱いものしか使って
いない。
﹁カインさんお願いします﹂
﹁わかりました﹂
カインさんが、リーラ達の方へ馬で近づいてくれた。
その周辺にいたのはエヴラールの兵だ。サレハルドの降伏のこと
はアランまでしか伝わっていない。なのでサレハルドが白旗を上げ
て来た時のために、すぐこちらの攻撃を押さえられるように直下の
兵に任せたんだろう。
私が馬から降りると、カインさんが目の前に道を開けるように指
示した。
魔術師が何かするんだとわかった兵士達は、すぐに従ってくれる。
おかげで地面に手をついたままでも、少し離れた場所のリーラ達の
姿がよく見えた。
﹁氷狐の周囲の地面を浮かせます! 備えて下さい!﹂
声をかけ、最前まで伝わる頃を見計らって私は魔術を使った。
ちょうど半円を描くようにサレハルドがリーラ達を囲んでいたけ
れど、その足下から地面が隆起する。
驚いて尻もちをついたり、避けようとして後ろにぶつかるサレハ
ルド兵達の姿が、地面が斜めにせり上がったことで見えなくなる。
そして坂道を下るように、ジナさんと氷狐達がファルジア側へ避
難した。
私は隆起した場所を避けて追いかけて来ようとするサレハルドの
1710
兵を防ぐため、土の壁を横に築いていく。
エヴラールの兵が逃げられるよう、2メル毎の長方形の土壁を重
ねて行くようにした。⋮⋮ちょっと息が切れた。負担が重くなって
きたかもしれない。
﹁そこまでだ弟子。お前も少し休め﹂
荒れを感じ取ったらしい師匠が止めてきたので、うなずく。
エヴラールも前線の視界を確保するために後方に下がってきてい
る。攻めにくくなったはずだから、サレハルドも一度下がるだろう。
⋮⋮そう思ったのに。
サレハルドは迂回してきた。
不必要に戦わなくても済むはずなのに。なんでまだ向かってくる
の!?
﹁どうして退かないの⋮⋮?﹂
﹁キアラさん、魔術を使わないのなら後ろへ﹂
あっさりと私を抱えて馬に乗せたカインさんによって、強制的に
移動させられる。
振り返れば、カインさんの腕ごしにサレハルド兵とエヴラールの
兵がぶつかるのが見えた。
剣や槍で斬り合い、刺し貫き、死体が折り重なる。
相手の人数が多いからか、デルフィオンの兵も駆けつけている。
⋮⋮あ、エニステル伯爵も来てる。
このままじゃ、アランがサレハルドへの攻撃を押さえられない。
止めれば不自然になってしまう。
戸惑っているうちに、騎乗したレジー達とすれ違いかけた。
﹁レジー、これってどうして!?﹂
1711
止まってくれたレジーが、説明してくれる。
﹁ルアインの増援が来てるんだ。湖の島々に隠れて進んでたから、
気づくのが遅れたんだ。増援のルアイン軍は湖帆船から、小船で兵
をサレハルドの後方に送り出してる。だから彼らは退けないんだ﹂
私達も増援が来る前に、決着をつけるつもりで急いでここまで来
たけど、ルアイン側もこちらが動くかもしれないと、動きを早めて
いたのかもしれない。
﹁じゃあ、サレハルドとまだ戦うの?﹂
﹁そうなるね﹂
まだ戦わなくちゃいけないのか。まさか、相手が倒れるまで?
そしてレジーが前線へ向かおうとしていることに、不安を感じた。
﹁私が止めるから、せめてレジーはもう少し後ろにいて﹂
また穴でも作って時間を稼げば。そう思って言ったけれど、レジ
ーは静かな表情で首を横に振った。
﹁決着をつけるために、行かなくちゃならない。サレハルドの王も、
せっかく剣を打ち合うなら私が相手をしてあげないといけないから
ね﹂
﹁なんで!?﹂
レジーと戦ったら、余計にファルジアの兵士達の注目を集めてし
まう。お互いに手を抜いて、手打ちができなくなるのに。
予想外の方向に状況が流れていっていると感じて、背筋がぞくり
1712
とする。
そんな私にレジーが告げた。
﹁ねえキアラ。いずれ降伏するつもりなら、密かにファルジア側に
下ればいい。理由づけなんていくらでもできる。そう思わなかった
?﹂
⋮⋮ジナさんから話を聞いた時、少し思った。
戦ってみせなければルアインに疑われるというのは納得できたけ
ど、トリスフィードも落として、ファルジアとも交戦したのだから
十分ではないのかと。
けど私は政治的なこととかに疎いから、そうしなくちゃいけない
ルールみたいなものがあるんだろうと思っていたんだ。
﹁正直、トリスフィードを侵略して領主を殺した件から言っても、
このまま降伏した場合はかなりサレハルドから取り立てなくては示
しがつかない。そのまま許すことなんてできないんだ﹂
わかるだろう? とレジーが諭す。
﹁だけど全ての責任を王が被って死ねば、彼の国の次代の王は、責
任を問いにくい。国としても、彼一人を国を乱す決定をした悪者に
仕立て上げれば、敗戦に反発する民衆をも押さえることができる。
そして禍根になる血筋を持つ自分も、故国から遠ざけられる⋮⋮彼
は合理的な人だから、元から他の結末を望んでいないかったんだよ。
死に場所はここにすると言っていた﹂
﹁⋮⋮死に場所って﹂
どうして死ななくちゃいけないの。
そう思うのは、死ぬのが嫌で、レジー達を死なせたくなくて戦っ
1713
てきた自分だからで、イサークの価値感は私が理解できないものか
もしれなくて。
と、そこで気づいた。
﹁え、レジー。イサークと話したの?﹂
まるで話し合ったような言い方だったからそう尋ねたのだけど、
レジーはうなずいた。
﹁話し合った末に、私は彼の決定は妨げにくいと思ったから、せめ
て討ち取るのは自分であろうと思ったんだ。⋮⋮どうするキアラ?﹂
レジーはなぞかけのようにそう言って、馬を走らせて行ってしま
う。
私は呆然として、引き止めることもできずにいた。
1714
戦場に落ちる光は 2︵後書き︶
※活動報告に書籍の番外編SSを置いています。
1715
戦場に落ちる光は 3
﹁殿下は先日、サレハルドの王と会ったんですよ。ほんの短い時間
だったようですが﹂
振り返ると、静かな表情で私を見下ろすカインさんと目が合った。
﹁事前にサレハルドの王が、命を代償に侵略に対して酌量を求める
つもりだということを知っていましたが。その時に意志を確認して
も、この結末を譲らなかったそうです﹂
﹁レジーは⋮⋮どうしてそれを知ったの? どうして会おうだなん
て⋮⋮﹂
倒すべき相手と、何か交渉する必要があれば別だけれど、降伏す
るのはサレハルドでファルジアの方が有利なはず。交渉することな
どなかっただろうに。
﹁サレハルドの王が死ぬつもりだというのは、ジナから聞きました。
キアラさんが王と交流を持ってしまったことで、彼女は来るべき時
にキアラさんが悩んだり悲しんだりするんじゃないかと心配して私
達に相談してきました﹂
なるほど。ジナさんは最初から知っていたんだ。
⋮⋮辛かっただろうなと思う。小さい頃から知っていた相手が死
ぬのをわかっていて、それを見守るしかないなんて。私だったらと
ても耐えきれない。
﹁ジナは自分では止められないからと言っていました。だからキア
1716
ラさんがもし、無理やりにでも止めてくれたら、と願いそうになっ
たと﹂
﹁ジナさんが?﹂
カインさんがうなずく。
﹁ただ、クレディアス子爵との戦いがどうなるかわかりませんでし
た。その上でサレハルドの方までとなれば、貴女への負担が重すぎ
る。だからジナも貴女には話さず、私や殿下も黙っていました。代
わりに殿下は、自ら交渉したのですよ﹂
﹁レジーは、止めようとしてくれたの?﹂
イサークと会うのならかなり敵に近い場所へ行かなければならな
い。むやみに見つからないよう、護衛はついても少数だったはず。
そうまでして、レジーはイサークを⋮⋮カインさんをも殺しかけ
た彼を、止めようとしてくれたのだという。
するとカインさんが小さく苦笑いした。
﹁貴女のためですよ﹂
﹁私?﹂
﹁貴女が悲しむと思ったからでしょう。敵でさえ殺すのを嫌がる貴
女なら、見知った相手に死なれたらどんな衝撃を受けるか⋮⋮﹂
レジーはそうまでして、私を色んなものから守ろうとしてくれた
んだ。申し訳なくてたまらない。
﹁私も約束を違えて黙っていたのは、貴女が戦う妨げになると思っ
たからです。あの子爵のことだけでもいっぱいいっぱいだったでし
ょう? 魔術師に対抗するだけで、あなたが消耗することはわかっ
ていましたからね﹂
1717
私はクレディアス子爵と戦う前の、レジーとカインさんの会話を
思い出した。
このことか、と。
無事に終われば話せる。けれど、私が消耗して倒れていたりした
ら、イサークが死んでからそのことを知らされていたんだろう。
私は唇を噛みしめる。
でもまだイサークは生きてる。まだ何かできるかもしれない。
ただ国同士のことなんて私にはわからない。けどイサークが国や
次の王になるお兄さんが辛くないよう、守りたくてやってることは
わかる。それを邪魔していいのか、迷う。
その時、後方にリーラ達と下がっていたジナさん達が目にとまっ
た。
走って行ったレジー達の一隊を見つめるジナさんは、泣くのをこ
らえるような表情でぐっと口引き結ぶのを見た瞬間、私の心がする
りと一つの決断に傾いた。
衝動的に、馬から降りる。
﹁キアラさん!?﹂
﹁ごめん、通して!﹂
私はジナさんの元へ向かって走った。
﹁キアラちゃん!?﹂
﹁一人で来たのん?﹂
驚くジナさんとギルシュさんに、私は言った。
﹁行こう、ジナさん!﹂
1718
私はジナさんの手を掴む。ジナさんが戸惑った。
﹁ど、どこに?﹂
﹁イサークを止めるの﹂
ジナさんが息を飲んで、申し訳なさそうな表情に変わる。
﹁⋮⋮聞いたの?﹂
﹁ついさっき。だけど私は納得できない。ジナさんも納得してない
んでしょう? だから止めましょう。止めるのを手伝ってほしいん
です﹂
手伝ってほしいということばに、ジナさんとギルシュさんの表情
がさっと変わる。
﹁何をすればいいのん? 何でも言ってちょうだい﹂
﹁私が手伝えるってことは、ルナール達を使うのかしら。どうすれ
ばいい?﹂
すぐにやることを教えてくれと言った二人に、私はほっとした。
﹁ありがとうございます。まずはサレハルドが止まれるよう、ルア
インの援軍を倒したいの。そのためにルナール達を貸してください﹂
﹁ルナール達を?﹂
私はうなずく。
﹁あと、それまでの時間稼ぎをしてもらわなくちゃいけないんです
けど⋮⋮﹂
1719
﹁アラン様に依頼してきますよ﹂
私に追いついてきたカインさんが、そう言ってくれた。
﹁だいたい貴女のしようとしていることがわかりました。お二人と
もに負担だろうと思っていましたが、キアラさんができるというの
ならお任せします﹂
カインさんが素早く立ち去る。
その間にもサレハルド軍へ向かったレジーを引き戻すため、私は
ジナさん達と一緒に走った。
﹁殿下を呼ぶのは任せてちょうだい!﹂
前線の手前で、ギルシュさんが私達を止めて中へ踊り込んで行く。
恐ろしい勢いで剣を振り回すギルシュさんは、サレハルドの兵士
を叩き飛ばすようにして道を作り出し始める。そこにファルジアの
兵が群がって、姿が見えなくなった。
ややあって、そこからギルシュさんが走り出てくる。後ろにレジ
ーと騎士達を連れて。
﹁呼び出し完了よん!﹂
ひとっ走りしてきただけのように清々しい笑顔で言ったギルシュ
さんは、額の汗を拭っている。
あんなことして、それだけで済むギルシュさんがすごい。
﹁キアラ呼んだって聞いたけど﹂
﹁まずルアインの援軍を倒そうレジー。負担については、どうにか
できるから、ちょっと確認させて﹂
1720
私はルナールに頼む。
﹁お願いルナール、レジーに触れてみてくれる?﹂
私の魔力の荒れが治まるなら、レジーにだって有効なはずだ。そ
れを察したレジーが、ルナールに手を差し出す。するとルナールは、
はむっとレジーの手を噛んだ。
目を丸くしたレジーが、くすくす笑った。
﹁痛くないの?﹂
﹁甘噛みだよ。文字通り食べるつもりなんだろうね⋮⋮。うん、だ
いたいキアラの言いたいことがわかった﹂
どうやらレジーも、魔力の熱が引くのを感じられたらしい。これ
ならいける。
﹁わかった。じゃあお願い!﹂
﹁君の頼みなら、いつでも﹂
レジーはすんなりとそう言って微笑んでくれる。彼が認めてくれ
るだけで、頑張れる気がして不安が少なくなっていく。
よし、と気合いを入れて、まずはサレハルドを止めるためにもう
一つしなければならないことがある。アラン達が﹃待つ﹄間にも双
方の損害を抑えておきたい。
ゴーレム
﹁師匠、また土人形任せていいですか?﹂
﹁ケケッ。またあやつらを逃げ惑わせればいいんじゃろ? せっせ
と夜中に徘徊した労力を、二度も利用できると思えば楽しいもんじ
ゃ。ウッヒッヒッヒ﹂
1721
ゴーレム
快諾してくれた師匠を、いつかのように銅鉱石でコーティングし
て補強。それから私は陣の外まで出て、師匠入りの巨大土人形を作
成した。
ゴーレム
もちろん、師匠を呪いの人形と思っているサレハルドの兵士を脅
かすため、師匠の姿をかたどった土人形だ。
﹁お願いします!﹂
言うと、師匠はのっしのっしと戦場の外縁を通って、サレハルド
の軍を目指した。
既に悲鳴が聞こえてきているのを耳にしながら、私はレジーやジ
ナさん達を連れて、湖に近い場所へ移動した。
1722
戦場に落ちる光は 4
周囲を騎士達に囲まれていたけれど、グロウルさん達が近くの兵
を指揮する騎士に声をかけてさらに厚く守る。そこにエヴラールの
兵を連れたカインさんも合流してきて、70人近い規模になった。
私はレジーの馬に乗せられた。
師匠を動かしたせいで脈拍が早くなっているのに、走ったらどう
なるのかと思っていたからありがたい。
けれど、レジーに後ろからぎゅっと抱え込まれて、別な意味で脈
拍がまずい。
﹁れ、レジー﹂
普通に相乗りするなら、ここまでは必要ない。
内心で慌てながら、そんな風にされてもレジーから離れがたい自
分に変な焦りを感じていると、レジーがささやいた。
﹁キアラ、いつでも君のしたいようにさせてあげたいけど、彼はか
なりの頑固者だから。無理し過ぎないようにして欲しい﹂
﹁う、うん? 私も死にたいわけじゃないから⋮⋮﹂
よくわからないけど、私を心配してのことらしい。
うなずいたところで、岸と湖が見える場所まで来た。
﹁ここなら届くと思う﹂
というかこれ以上近づけない。
1723
数百メートル先では、ルアインの援軍の兵が上陸してきているし、
気づいたサレハルドの兵もそれを守るために移動してきているし⋮
⋮って、もう来た!?
﹁待てファルジアの王子!﹂
騎兵だけを連れてこちらに突っ込んでくるのは、サレハルドの緑
のマントを身に着けた集団。なぜかイサークまでこっちに来てる。
サレハルド側も100騎いるかいないかだが、騎兵はあちらの方
が多い。
近づいて来ると、先頭集団にいるイサークの声がよく聞こえる。
﹁この嘘つきめ! 俺と決着をつけて終わりにするって言っただろ
!﹂
それに対して、レジーはしれっと答える。
﹁希望は聞いたとは言ったけど、その通りにしてあげるとは言って
いないよ?﹂
﹁この屁理屈魔王!!﹂
頭をかきむしらんばかりのイサークの叫びに妙な納得を感じなが
らも、でもだめ、まず先にやることがある。
﹁グロウル、任せた﹂
それをわかっているレジーが、イサーク達を押し留める役割をグ
ロウルさんに任せた。
一番前面に出たのは、リーラを連れたジナさんとギルシュさんだ。
1724
﹁邪魔をするな! わかっているだろう! ジナイーダ様も!﹂
リーラの吹雪に足を止められた騎士が叫ぶ。
﹁わっかんないわー。わたしは今ファルジアの雇われ傭兵だし?﹂
﹁アタシはオカマだし?﹂
騎士さんの怒りの形相を見ながら、笑顔でお断りする二人がすご
い。
その二人を避けようとする者達は、グロウルさんやカインさん達
が作る壁に阻まれて、睨み合いの状態になる。
﹁今のうちに﹂
私と一緒に馬を降りたレジーが、剣を抜いて左手に持ち、切っ先
を空に向ける。
その肩に手を置いた。
﹁レジー、湖の大きな船を狙って。なるべく拡散するように⋮⋮少
し多めにするから、負担が重いかも﹂
﹁かまわないよ。それでこの一戦が終われるなら﹂
うなずいてくれるレジーに、私はいつもより多めに魔力を流す。
血の流れが、私の手からレジーの腕へと繋がるような感覚の後、
血の気が引く感覚に襲われる。
めまいをこらえた私の視界に、光がひらめいた。
一瞬で空へ駆け登った紫電の帯が、ほぼ同時に七つに枝分かれし
ながら湖へと落ちる。
閃光に視界が焼かれそうになるのと共に、雷鳴が轟音となって体
1725
に響く。
思わず目をきつく閉じて、でも確認しなくちゃいけないからすぐ
に湖の様子を見るため目を開いた。
島に寄り沿うように湖上に停泊していた船は五つあったけれど、
二つほどは前部が破壊されて煙が上がっていた。
陸へ急いでいた小船にも落下し、壊れた船の残骸と人が浮いてい
る。
魔力で作りだした雷だったせいなのか、紫電の残滓が拡散しきれ
ずに、今だにパチパチと湖面で火花を散らしている。
⋮⋮予想していたことだけど、足が震えそうになる。
目の当たりにしたサレハルドの騎兵達も、イサークも、呆然とそ
の光景に目が釘づけになっている。エヴラールの兵士でさえ、目を
そらせなくなっていた。
今のうちだ。
﹁レジー大丈夫?﹂
やや息苦しそうなレジーに尋ねると、彼は微笑みすら浮かべてみ
せた。
﹁サーラが手伝ってくれたからね﹂
言われて見れば、先ほどルナールが甘噛みしていたレジーの右手
を、今度はサーラが甘噛みしていた。くっつくんじゃなくて二匹と
もそうするって⋮⋮レジーの手、おいしいの?
でもレジーの体がふらついている様子はない。
私は寒気がしてきているのを悟られないよう、そっとレジーの肩
から手を離した。
1726
そんな私の側には、ルナールが来てくれる。くっついて熱を収め
てくれるのは嬉しいけれど、
﹁え、ルナール戦闘は⋮⋮﹂
気づいて見れば、サレハルド側も剣を持っている腕を降ろしてい
た。
イサークもそうしていて、立ち止まった彼らに対して、ファルジ
ア側の人もジナさん達も攻撃の手を止めている。
﹁これで、君達の戦う理由が無くなってしまったね、サレハルドの
王﹂
レジーが呼びかけると、イサークは心底嫌そうな表情をする。
﹁お前まで魔術師になってるとは思わなかったな、ファルジアの王
子。最初からそうして、こっちが降伏する理由を作るつもりだった
のか?﹂
﹁ある程度はこうなることも考えていたよ。それに手の内を全て晒
すわけがないだろう?﹂
﹁俺を殺すって言ったってのにな﹂
イサークはそんな約束をレジーとしていたらしい。だからレジー
はイサークの元へ一度は向かったし、イサークも自分が殺されるこ
とで、サレハルドが降伏する理由を作り出すつもりだったんだろう。
﹁ちっ、しゃあねぇ。おいファルジアの王子。降伏だ﹂
イサークは仕方なさそうにため息をついて、続けた。
1727
﹁じゃあ、取り決め通りに頼むわ﹂
あっさりとそう言って︱︱イサークは自分に剣を向けて突きたて
ようとした。
﹁⋮⋮⋮⋮!﹂
誰もが息を飲んだ。
ジナさんが止めようとしたけど、遠い。
近くにいたギルシュさんが走って手を伸ばす。それでも剣の向か
う先をそらしただけだった。
﹁イサーク!﹂
思わず駆け出す。
待って。どうして!?
ルアインの援軍もレジーのおかげでせた。不利になったサレハル
ドが降伏したっておかしくない状況になったのに。
サレハルドの騎兵達はイサークがそうするとわかっていたのかど
うか。一人だけが倒れるイサークを抱えて地面に横たえさせ、他の
人々は馬から降りて、剣を鞘に納めた。
ショックで座り込んだジナさんの横を走り抜け、私はイサークの
側にたどりつく。
誰も私を止めなかった。
たぶん、これで何もかもが終わったと思うからだろう。
レジーと他数人が、ゆっくりと私の後ろから追いかけてくるだけ
だ。
サレハルドの騎士が一人、誰かに連絡をさせるために騎兵を走ら
せた。サレハルドの全軍に降伏を知らせるためだろうか。イサーク
1728
が死んだから、と。
いや、まだ死んではいない。
イサークは側にいた騎士に、小声で何かを伝言していたのだ。
1729
戦場に落ちる光は 4︵後書き︶
※明日、続き更新します
1730
戦場に落ちる光は 5
騎士が立ち上がると、イサークは私に視線を移した。
その視線に引き寄せられるようにふらりと近づいて、私はイサー
クの側に膝をついて座り込む。
﹁どうして死んじゃおうとするの⋮⋮﹂
つぶやいた声に、答えが返った。
﹁そう決めてたんだよ。失敗した⋮⋮もうちょい急所狙うつもりだ
ったんだが﹂
イサークは、数歩離れた場所にいて悔しそうな表情をしているギ
ルシュさんを、ちらりと見た。
まだしゃべる元気があるなら、大丈夫だ。
﹁手当てする﹂
手を伸ばして問答無用で魔術を使おうと思ったら、
﹁断る﹂
そう言ってイサークは、私の手を掴んで傷に触れさせてくれない。
思った以上に力が強くて、押しても全然敵わない。
﹁お前の騎士がピンピンしてるってことは、お前、何かしたんだろ
? ごめんなんだよ余計なことされちゃ﹂
1731
それに、とイサークが言う。
﹁現実がままならないものだって、お前にわからせるにはちょうど
いいんじゃないか?﹂
﹁ままならないって⋮⋮?﹂
﹁思い通りに救えないのは⋮自分から距離がある、奴ばかりだった
んだろ。⋮⋮だから人が死ぬことに対して、耳を塞いで⋮⋮避ける
方が、楽だったんだ﹂
﹁何を言ってるの? とにかくこの手を離して!﹂
イサークの声が途切れて、弱々しくなっていく。早く傷を治さな
いと助からないのに。
誰か、と思ったけれど、周囲にいるサレハルドの騎士も、ギルシ
ュさん達も動いてはくれない。イサークが自分で死のうとしたから、
止めない方が彼のためだとみんなは思っているのかもしれない。
焦った私の目に、恐怖で涙がたまって行って視界をにじませた。
なのにイサークはかすれ声で、まだ私をからかった。
﹁あれだけ嫌がらせした上に敵だってのに、俺のために泣くのか?
やめとけよ。息絶える前に、あの王子に嫉妬で止め刺されちまう
だろ﹂
私は涙を自分の腕に擦りつけて拭って言い返した。
﹁餌付けなんてするからよ﹂
﹁はっ、そのせいかよ﹂
小さく笑って、ぐっとイサークが息を詰める。
1732
﹁それに敵とか味方とか良くわからないよ。知ってる人を死なせた
くないから戦って、殺して⋮⋮﹂
前世の記憶がなければ、レジーは死んでいた。
けれどこれがあるから、身内のはずの人達を殺されたことに怒る
には、どこか硝子を隔てた世界の出来事みたいに感じてしまう。
こちら側のものに執着が薄かったせいなのかな。辛さのあまりに
ゲームの中の出来事で、目が覚めたら日本の、懐かしい家の中で目
覚めるんじゃないかって今でも思ってしまう。
﹁こっちが現実だって、お前はもうわかってるから、知り合いが死
ぬのは嫌なんだろ﹂
﹁イサーク⋮⋮﹂
﹁これ以上に現実を感じたいなら、お前の王子に頼め。嫌ってくら
い教えてくれるだろ﹂
こんな死にかけの状況でも、イサークはにやりと笑って見せた。
﹁なんでそんな優しくしてくれるの﹂
﹁お前が、好きだったから﹂
ため息交じりのささやき声は、なんとか聞き取れた。
単純でわかりやすくて、心を突き刺すような返事。私は苦しくて
苦しくて、震える唇で﹁バカ﹂と言うしかない。
イサークは答えを返したかったようだけど、唇がわずかに動くば
かりになっていた。目も茫洋としはじめている。
だけど手の力だけは抜けない。しまいにぐっと息をつめて、横を
向いて血を吐いた。
﹁早く手を!﹂
1733
叫んでも、イサークは死にかけてるのに手の力だけは弱くならな
い。誰か、と思って振り返ったそこにいたのは、レジーだ。
﹁レジーお願い﹂
振り返って願うと、レジーは悩むような表情になる。
﹁できれば私は、彼の意志を尊重したいよ。君は、彼の意志に反し
てでもそれを押し通せるのかい? その覚悟があるなら、私は協力
するよ。それを曲げられるのはキアラ、君だけだから﹂
イサークを助けるのは、無理やり私のしたいことを押し付ける行
為だ。それでも助けるなら、レジーは手を貸してくれるという。
私は唇を一度噛みしめて、レジーに頼んだ。
﹁レジー、私の手の甲を切って﹂
レジーはうなずいて私の言う通りにしてくれた。
ナイフで傷つけられると、ちりちりと焼けつくような痛みに顔を
しかめる。
もう言葉を出せなくなったイサークが、何をしているんだという
ように、顔をしかめた。
嫌がられてる。それがわかっていても私は無視して、流れ落ちる
血をイサークに垂らす。
﹁レジー、周りから見えないようにしてくれる?﹂
死にかけたイサークの意志を無視してでもやる以上、私にできる
ことは全てしておきたい。そのために頼んだ。
1734
レジーが立ち上がる。そうして人が動き始める足音を聞きながら、
まだ私の手首を掴んだままのイサークの手を通して、彼の傷を治そ
うとした。
つながらない魔力の流れを戻す度、イサークが痛みを感じて顔を
ゆがめる。ひどい痛みに襲われているはずなのに、それでもイサー
クは気絶もせずにじっと私をにらんだ。
﹁お前⋮⋮早くあの世に行かせろよ⋮⋮﹂
絞り出すような声で、怒られる。
それでもさっきより、怪我が良くなったんだろう。また声を出せ
るようになったみたいだ。
でももう退かない。
﹁絶対に嫌﹂
﹁この我がまま娘。後で覚えてろよ﹂
嫌われたかもしれない。生きたくないと思っている人を、無理や
り回復させるべきじゃないのかもしれないっていう気持ちは、まだ
心の底にある。
だから辛くて泣きたいけど、わがままを通しているのは私だから、
ぐっと堪えた。
﹁私まだ文句を言い足りないの。⋮⋮あと、死んだほうがマシだっ
たっていうくらいにこき使うから、そっちこそ覚悟して﹂
決意を込めるように、強気で言い返す。
感謝されなくても生きていてほしい。だけど嫌がられるのは辛く
て。だからこそ現実味が増していく。
無理やり誰かの人生を、望まない方向に捻じ曲げようとしてる気
1735
がして。だからこそ実感するんだ。
自分で決めた。自分で他人に嫌がられても前に進んだってことが。
やがてイサークも、耐えきれずに意識を失った。
その数秒後に、ようやく死なないように傷をふさぐことができた。
力を失ったイサークの手から解放された私は、彼の首筋に手を当
てる。
⋮⋮脈拍がわからない。自分の心臓がどきどきしすぎて、耳につ
く。指先まで心臓になったみたいだ。
﹁レジー、お願い確認⋮⋮﹂
息苦しさの中でそう頼むと、いつの間にか傍まで来ていたカイン
さんが、イサークの脈と呼吸を確認してくれた。
﹁⋮⋮大丈夫、生きてます﹂
ほっとした。
とたんにどっと襲ってくるのは、だるさと寒気と眠気、泣き叫び
たい気持ちだ。
自覚すると、すぐに意識が途切れそうな気がする。
﹁この人を、一度ファルジア陣営に運んでください。あと、師匠の
回収を﹂
カインさんにかろうじて頼むのが精いっぱいで。
﹁キアラ、気は済んだ?﹂
優しく声をかけて、背後から抱きしめてくれた腕に抗えない。
1736
﹁レジー⋮⋮﹂
その手の指を握りしめたと思ったのを最後に、深い闇の中に落ち
るように意識が無くなった。
1737
戦の後でするべきこと 1
夢の中で、指を一つ一つなぞって数えていた。
五本ちゃんとあることを確認して、ほっとする。
指輪をつけた指だけを見せられたことも、夢だったんだとほっと
している私がいた。
すると﹁大丈夫、私はここにいるよ﹂とささやかれて、私は掴ん
でいたその人の手を縋り付くように両手で握りしめた。
﹁エヴラールが攻め込まれて、指輪をしたレジーの指だけ見せられ
たの。死んでしまったって聞いて、だから⋮⋮﹂
私の訴えにそんなことはなかったよ、と教えられた。
まだ心配だったんだね、と聞かれたから、不安で辛かったと答え
る。
彼の手が温かくて、寒さを感じて腕まで抱えると小さく笑って抱
え込まれた。
生きてる、暖かい。死んだなんて嘘だったんだ。
泣きそうになりながら言えば、そんな夢を見てたから近しい人が
死ぬのを嫌がったんだねと言われたから、うなずく。
もう二度と、残される側になりたくない。
助けようとした人まで、私のせいで死んでしまったのだから。
﹁クレディアス子爵なんて倒さなくていいよ。どうせ死ぬのなら、
二人で一緒に死ねば良かった﹂
1738
ずっと思っていたことを吐き出したら、夢だよと言われた。
﹁クレディアス子爵は君と私で倒したんだ、覚えてない?﹂
その言葉に疑問を感じながらも、だったらもうレジーは無理をし
なくてもいいって思えたから、伝えた。
﹁置いて行かないで。一人でどこかに行かないでね﹂
すると﹁望まなくても離したくないんだけど覚悟はある?﹂なん
て聞いてくる。
離したくないと言われて、嫌なわけがない。
これでようやく一人きりにされないと思って、ぎゅっとしがみつ
いたら⋮⋮。
﹁やっぱりだめだ。寝ぼけているところを言いくるめるのは卑怯だ
から、起きてキアラ﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
肩をゆすられて、私はふわふわと心地よい気分から脱していく。
﹁ほら、私の理性が残っているうちに頼むよ﹂
﹁⋮⋮りせー?﹂
﹁寝ぼけてるところも可愛いけど、後で後悔するのはキアラだよ?﹂
さらに揺すられて、ようやく意識が浮上した、と感じる。あれ、
私眠ってたの?
そうして目を開けた私が最初に見たのは、ほんの十センチも離れ
ていないところにある、レジーの顔だった。
1739
銀色の睫が長い。羨ましいくらいに。あまり日に焼けない頬は滑
らかで、でも頬に薄らと消えかけの切り傷を見つけた。
なにげなく手を伸ばそうとして、自分が掴んでいる手と、抱えら
れている状況に目を見張る。
あれ、これってまさか寝台の上なの? ちゃんとした寝具と真っ
白なシーツの上で、なんで二人で寝っ転がってるの⋮⋮。
そこまで考えて、私は叫びそうになった。すかさずレジーに抱え
込まれるようにして口をレジーの肩に押しつけられて、塞がれた。
﹁キアラが叫ぶと、まるで私が酷いことをしているみたいだし、一
斉に沢山の人がなだれ込んでくると思うけど、大丈夫?﹂
﹁なだれ込んでって⋮⋮ていうか、え? どうして?﹂
レジーと一緒に眠ってたのと言いたいが、口にするのも恥ずかし
くてもごもごと濁してしまう。
誤魔化す方法を考えながら目だけであちこち見回せば、木の梁や
天井、漆喰の壁が見える。ここはどこかの建物みたいだ。
あとお互いきっちりと服も着てるし、よくよく見れば、私は毛布
にくるまれていた。
その間に、レジーは何を言いたいのか察してくれたらしい。
﹁まず君がサレハルドの王の傷を治した後、気絶した﹂
﹁それは覚えてる⋮⋮﹂
﹁最初はジナかエメライン嬢に君のことを頼もうかと思ったんだけ
どね、君が私の指を握ったまま離してくれなくて。無理に引きはが
すのが難しい上、私もあれだけ魔術を使ったのなら、休むべきだと
ホレスさんが言ったのでね。こういうことに﹂
最後にレジーの手を握ったことは⋮⋮確かに覚えてる。そのせい
1740
でレジーが離れにくくなってしまったとは。
﹁ご、ごめんなさい⋮⋮﹂
私は申し訳なさと恥ずかしさに、ずりずりとレジーから身を離そ
うとしたけれど、抱きしめた腕を緩めてくれない。
﹁謝らなくてもいいよ?﹂
あげくに、レジーはとても楽し気に微笑んだ。
﹁実は何度も、手を離させてもらっているんだ。あれからもう二日
経ったしね﹂
﹁二日っ!?﹂
そんなに眠ってた上に、レジーに迷惑をかけ続けたのかと私は驚
愕した。まさかずっと拘束してたの!?
﹁あ、え、レジーもその間眠ったままで⋮⋮?﹂
﹁私は数時間でなんとかなったよ。魔力を通すだけだから、君より
はマシみたいだ。でも様子を見に来る度にキアラが手を握って抱え
込もうとするから、ジナと交代で私もキアラの側についていたんだ
けど﹂
レジーがふいに握っていた手を持ち上げて、何をするのかと見て
いる間に、私の指先に口づける。
﹁あっ﹂
くすぐったい感覚に驚くと、またレジーがくすくすと笑う。
1741
﹁離れがたくて⋮⋮君が側にいて欲しいって言うから、少し我慢で
きなくなった﹂
﹁我慢!? 我慢ってなに!﹂
私だって全く何も知らないわけじゃない。むしろ前世日本人だっ
た頃の方が、そういう知識に触れる機会が多かった気がする。テレ
ビとかネットとか。
だからつい色んなことを連想してあたふたしてたら、レジーが微
笑む。
﹁君が答えを返す気になるまで、待つよ。嫌われたくないからね﹂
レジーは私が安心する言葉を返してくれる。
まだ、好きかどうかと尋ねられて、私は答えられないでいた。答
えるのが怖い気持ちの半分が、さっきの夢のこと⋮⋮私が一度経験
しているらしい、キアラ・クレディアスの人生の記憶のせいなんだ
と思う。
あちらのキアラは、クレディアス子爵の妻にされたあげくに虐待
されていたし、守られた生活を経験した時間が短すぎて、キアラは
愛情が信じられなかった。
どんなにレジーが大切に扱ってくれても、結局は救い出すことな
どできないだろうと諦めていたのだ。
だからレジーはキアラを解放するため、クレディアス子爵の暗殺
を考えるけど、それより先に、ルアインの侵攻に巻き込まれて亡く
なったのだ。
ますます自分が救われることなどないと思ったキアラは、レジー
から自分のことを聞いていたらしいカインさんの説得にも耳を貸さ
ず、最後はアランに殺されることを選んだ。
1742
でも一度人生を辿ってから、過去に転生なんてできるんだろうか。
今でもそこは疑問だけれど、別世界からの転生をしている以上、そ
ういうこともあるんだろうとしか言いようがない。
とにかく、一回目のキアラの人生で、レジーと一緒に居られるか
もしれないと少しだけ夢見たとたんに、期待が打ち砕かれた記憶が
あるせいで、幸せになったとたんに何かの穴に落とされるんじゃな
いかと不安になってしまうみたいだ。
レジーの告白に答えられない理由のもう一つは、過去に取り残さ
れたままのカインさんのことだ。
キアラとしての一回目の人生を夢に見てから、カインさんにはさ
らに申し訳ない気持ちを持ってしまっている。キアラが拒否し続け
ていなければ。あの場から早く立ち去っていたら、もしかしたらカ
インさんは死ななかったかもしれない。
今回こうしてカインさんも無事でいてくれる以上、できれば彼が
思いきれるまでは妹役でいたいという気持ちがある。それが償いに
なるなら、と。
つい考え込んでしまっていたら、レジーがささやいた。
﹁ところで指ってどういうこと? ずっと寝言をつぶやいてたよ﹂
そしてうっとりするような笑みを浮かべる。
﹁あと離れないでって言ってくれたよね?﹂
私は内心で恥ずかしくて悶絶しそうになった。大暴れしたくなる
くらいだったけど、それも恥ずかしい。
いくら寝ぼけていたからって、内心がだだもれ過ぎて嫌ぁぁぁ!
1743
羞恥のあまりに、私は記憶がないことにした。
﹁えっと、そんなこと言ったかな?﹂
﹁言ったよ? こんな風に指を一本ずつなぞって⋮⋮﹂
﹁や、ちょっと、レジー、だめそれ!﹂
くすぐったい! でも確かにそんなことしたような覚えが!
﹁キアラだけしても良くて、私はだめなんだ?﹂
そう言われるとどうしていいのかわからなくなる。泣きそうにな
る寸前で、救い主が現れた。
﹁あら、お邪魔だったかしら?﹂
鳶色の髪を元気よく高く結って、灰青の目を丸くしているジナさ
んが、木の扉を開けてこちらを覗いていた。
﹁ジナさ⋮⋮はうっ﹂
勢いよく私は起き上った。今度はレジーも邪魔しなかったんだけ
ど、私の方がめまいで逆戻りした。
﹁う⋮⋮気持ち悪⋮⋮﹂
﹁無理しちゃだめだよ﹂
レジーがしれっと言って、自分は寝台から降りて立ち上がる。ち
ょっと悔しい。だいたい。慌てて起き上ったのは誰のせいだと言う
のか⋮⋮。
しかもレジーは全く恥ずかしそうではない。なんで? 悔しい⋮
1744
⋮。
﹁まだ具合が良くなってないないのかな? お水は飲めそう?﹂
﹁お願いします﹂
頼むと、ジナさんが寝台近くの卓にあった水差しから水をコップ
に注いでくれる。背中を支えて体を起こしてくれたのはレジーだ。
さっきのことがあって、背中に触れられるのもなんだかむずむず
する気がしたけれど、水を飲むと頭の中まですっきりしてきたよう
に感じた。
﹁殿下、今までのことは既に説明なさいましたか?﹂
ジナさんに尋ねられたレジーが﹁ほとんどまだだよ﹂と答える。
﹁二日眠っていたことぐらいだ﹂
﹁そうしたら、サレハルドの王のことなどはまだですね﹂
ジナさんが私に向き直る。
﹁早速で悪いのだけど、キアラちゃんがイサークをファルジア側に
連れて行くように言ったでしょう? そこからどうするつもりだっ
たのかを聞かせてほしいと思って。一応、人質扱いなのかとか状態
はどうなのかって問い合わせが来て面倒だったから、殿下の判断で
サレハルドの侍従だけはイサークに付けてるんだけど﹂
そうだ。イサークのことで少し思いついたことがあって、そう頼
んだんだ。
﹁私も聞いておきたいな。サレハルドとファルジアの交渉事に関わ
1745
ることだろう?﹂
さすがレジーは私の考えそうなことを良く分かってくれてる。
うなずいた私はジナさんとレジーに、考えたことを話した。
聞いた上で少し考えたレジーが、
﹁私はそれでも構わないよ。アラン達にも諮ってくるから、それま
で待っていてもらいたいな﹂
早速アラン達と打ち合わせに行くつもりなのか、レジーが部屋を
出て行こうとしたけれど、それを私が﹁あっ﹂と思って引き止めた。
﹁あの、説明は私がしたいんだけど、イサークの所に訪問しても問
題ない?﹂
﹁それぐらいなら⋮⋮というか、君とホレスさんがいないと意味が
ないだろうね?﹂
微笑んでレジーは私の頼みを快諾してくれた。
1746
戦の後でするべきこと 2
﹁なるほどね⋮⋮﹂
とりあえずもう一度起き上ってみた私に、ジナさんがニヤっとし
ながら言った。
﹁キアラちゃん、誰が一番か決めたのね﹂
﹁いいい、一番?﹂
﹁殿下のこと、好きだってわかったんでしょ?﹂
ジナさんの直球な質問に、私はしどろもどろになる。
﹁あの⋮⋮えと⋮⋮。なんでそうお思いに?﹂
﹁そりゃ、あれだけ接近してじっと逃げないでいればねぇ? 他の
人だったら、あんなに大人しくしてたかしらね?﹂
う⋮⋮何も言えない。確かにこれが他の人なら、急いで離れよう
として寝台から転げ落ちるとか、そういう別な醜態をさらしていそ
うだ。
口ごもる私を見る、ジナさんのニヤニヤが大きくなる。
﹁ちょっとこのままでいいかもとか思ったんでしょ? ねー師匠さ
ん﹂
﹁全くじゃ。弟子は寝とぼけておるわ、あの王子は相変わらず人の
目を気にしないわ⋮⋮﹂
﹁ひゃっ、師匠!﹂
1747
声も出さなかったから気づかなかったんだけど、師匠が枕の下か
ら這い出すようにのそのそと現れた。⋮⋮ちょっ、どうしてそんな
ところに潜んでるの!?
そしてお馴染みの素焼きの陶器みたいな師匠の顔まで、ジナさん
と一緒ににやにやしているように見えるのはなぜ。
﹁ほんと殿下、人がいても恥ずかしがらないですもんね⋮⋮あれ、
絶対そのうち人が見てる前でやらかしますよきっと﹂
﹁やらかすなんて意識が、あの王子にあるもんかいな。ヒッヒヒ﹂
﹁ああ⋮⋮わかります。周囲に誰がいたって、馬がいっぱいいるぐ
らいの感じで存在を無視されそうですね﹂
しかもレジー、酷い言われようだけど⋮⋮反論できない。ジナさ
んが見てても、すんごい平気そうっていうか普通そうだったもの。
﹁まぁ、一応理性は保ってたようだがのぅ⋮⋮イッヒッヒ。最初は
二人仲良く力尽きておったし﹂
力尽き⋮⋮って、そうか。
私が手を離さないついでに、一緒にいたレジーも練習以上の魔力
を使うことになって、眠っていたと言ってた。その時のことだろう。
﹁あの、師匠⋮⋮レジーは平気そうです?﹂
お互い、この戦いでかなり魔術を使うことになるだろうとは思っ
ていた。けれどルナール達に補助してもらってまで、魔術を使わせ
るとは予想していなかったんだ。
あげくレジーは剣でも戦っている。
師匠の目から見て、大丈夫そうか聞いておきたかった。
1748
﹁通過するだけじゃからの。それでもある程度の影響はあるが、し
ばらく犬どもがくっついたり、手を甘噛みしておるうちに引いたよ
うじゃな﹂
﹁犬じゃなくてキツネですって師匠﹂
私はレジーの状況に安堵しつつ、話題が逸れて良かったと思いな
がら起き上る。
勢い良く跳ね起きなければめまいはしないようだ。良かった。
眠っていたから寝間着姿だったので、さっさと着替えてしまう。
するとジナさんが切り出した。
﹁キアラちゃんに御礼を言いたいと思ってたの。イサークを助けて
くれてありがとう﹂
両手をぎゅっと握られて、深々とお辞儀するみたいにそこに額を
つけるジナさんに、私は慌てた。
﹁私が勝手にやったことなので、そんなお礼なんていらないですよ
!?﹂
﹁でもキアラちゃんじゃなかったから、止められなかったわ。わた
し達が止めたって真面目に聞いてもくれなかったし、戦況を変えた
って自殺しかねないって思ってたの﹂
イサークが自分に剣を突き刺した時、やっぱりかと思ったらしい。
意見を押し通すために、イサークは無茶もやらかす人だから、と。
﹁イサークを止めるには、どうしようもない状況に追い込むか、死
にそうになるのを助けるしかないって思ってた。だからキアラちゃ
んに頼むのは、申し訳なかったの。こんな風に倒れてしまうってわ
かっていたから⋮⋮﹂
1749
﹁私も、イサークがあそこまでするとは思いませんでした⋮⋮﹂
あの時は、イサークが何を考えているのかわからなかった。
ただ混乱して、止めることしか考えられなかったけど、落ち着い
て思い返す余裕ができた今なら、少し理解できる気がする。
イサークはルアインからの裏切った恨みと、それしか方法がなく
て同意して自害した王様を惜しんだ人の恨み、そして国を乗っ取ら
れないためとはいえ、負けるつもりの戦に引っ張って来てしまった
サレハルドの兵からの恨みまで自分に向けさせて、滅ぶことで大事
なものを守ろうとしたんだ。
国と、お兄さん。そしてジナさん達を。
だから彼は死ななければならなかった。誰かが殺してくれないの
なら、彼は自分で己を殺すしかないと思ったんだろう。
沢山の人の荷物を死の世界まで運び去ろうとしたイサークが、私
の荷物を持とうとしたのも、そのついでだ。
わかったけど、今でもやっぱり嫌だと思う。
だって私の持っている考え方では、そんな死の選び方を理解でき
ないから。
﹁気にしないでくださいジナさん。私がやりたいって思ってしたこ
とです。ジナさんがいなくても、知り合いが死ぬのはどうしても辛
いから、やっぱり私はわがままを言ってイサークの怪我を治したは
ずです﹂
それを聞いたジナさんは、困ったように笑った。
﹁それね、最初聞いた時は戦う時に辛い思いばかりで、キアラちゃ
んが持たないんじゃないかって心配してたけど。おかげであいつは
生き残ったんだから、そういう巡り合わせのためだったのかなって、
1750
ちょっと思うよ﹂
﹁巡り合わせ⋮⋮﹂
﹁運命っていうべきかな? イサークの運命がまだ先まで続いてた
から、キアラちゃんと会ったのかもしれない﹂
そう言って私の手を離したジナさんは、とてもほっとした表情を
していた。
﹁そういえばこの後、ジナさん達はサレハルドへ帰るんですか?﹂
ジナさんは首を横に振る。
﹁正直、最初からそうしたくないなって考えてたの﹂
﹁でもイサークのお兄さんと⋮⋮﹂
結婚するはずだったのでは。前に聞いた話では、イサークがそう
いうことにする計画を立てていると言っていた。
﹁もう無理よ。だって私、イサークとの婚約を取りやめにした後、
家を飛び出したんだもの。もう貴族令嬢でもないし、平民の傭兵よ
? そもそもエルフレイムが王になるのなら、なおさら結婚なんて
無理だわ。軍や兵が納得しても、貴族達がうなずかないでしょう﹂
そこは私も気になっていた。
王様と結婚する相手が、貴族の令嬢でなくてもいいんだろうかと。
﹁あ、でも養子とかはどうなんですか?﹂
﹁たぶんイサークはそういう準備もしてたと思う。たぶん父親の家
に交渉済みなんじゃないかな⋮⋮。でも気質的にね、私ってやっぱ
り貴族生活とか無理なのよ。しかも王様の隣にいるなんて⋮⋮。好
1751
きだからって我慢しても、破たんするのは目に見えてるわ。これば
っかりはどうしようもないと思うの﹂
貴族と平民では、生活習慣の違いも大きいし、していいことや悪
いことの基準が変わってしまう。だから生きづらくなると二の足を
踏むのは当然だと思うし、我慢し続けても、その先で破たんしてし
まう不安もあるだろう。
﹁結婚できないからって愛人なるのは絶対嫌だし。それぐらいなら
離れていい思い出にした方がマシよ。なのに武勲を上げれば行ける
だなんて、イサークの考え方がおかしいのよ。男が功を上げて爵位
をもらうのとは訳が違うんだから﹂
ジナさんはそう言いながら笑う。
﹁だからね、もし殿下方がまだ雇い続けてくれるなら、キアラちゃ
んたちに最後まで付き合おうかと思って。その後は、普通に傭兵団
の村に帰るつもり﹂
ジナさんが離れていかないと知って、私はほっとした。
でもやっぱり、ジナさんが自分の恋を諦めてしまうのを聞くのは
辛い。
だからこそ、これからイサークを説得しなくてはならないと思っ
た。
1752
戦の後でするべきこと 3
レジー達の話し合いが終わったのは、それからしばらく経ってか
らのことだ。
その間にご飯を食べたりできたので、私も時間がもらえて助かっ
た。おかげで寝起きの時よりもずっとしっかりと歩くことができる。
私はレジーやアラン、カインさんと一緒にイサークの部屋を尋ね
た。見届けてもらうためにも、ジナさんとギルシュさんにもついて
きてもらう。
部屋に入ると、イサークは寝台に横になっていた。
あの時、さすがに魔術を使いすぎた後だったせいなのか、イサー
クの全ての傷を塞ぎきれなかったようで、イサークはまだ寝台の住
人のままだった。
怪我のせいでまだ熱もあるんだろう。顔が赤くて憔悴したように
見える。
それでもちゃんと生きていたことにほっとする。
降参せざるをえない状況を作ったというのに、あくまで自害しよ
うとした人だ。ちょっとでも動けるようになったら、すぐに人の目
を盗んでトライする可能性もあったから。
イサークの側には、疲れた表情のミハイル君の姿があった。
ミハイル君は私の顔を見ると、苦笑いした。⋮⋮イサークを生き
ながらえさせても、ミハイル君はそれで良かったらしい。
あれだけ仲良くしていたんだもの。死んで欲しいなんて思ってい
なかったんだろう。
しかし無理に止められたイサークは別だったようだ。
1753
﹁余計なことしやがって⋮⋮﹂
灰色の目で睨まれる。不愉快だという気持ちがこもっているのを
感じて、思わず身をすくめそうになった。でも怪我人相手に押し負
けてるようじゃ、自分の意見を受け入れさせるのは難しい。
レジー達は私が自分でできると信じてくれているのか、何も言わ
ないで見守ってくれている。
その信頼に応えるためにも、一度奥歯を噛みしめて、お腹にぐっ
と力を入れてイサークを見返した。
﹁余計なことじゃないわ。イサークの目的はわかってる。だけど私
達ファルジアにとって、イサークが死ぬよりも生きている方が良い
と思える利用方法を思いついたから、って言ったらどうする?﹂
イサークが嫌そうな顔をする。
﹁死なせないための方便を思いついたってことか?﹂
﹁ちゃんとイサークが嫌がりそうなことだから、安心してくれてい
い。他の人も、聞けばこれがサレハルドの負債支払いの一環だって
わかると思う﹂
﹁どういうことだよ﹂
﹁強制労働してもらうの﹂
﹁は?﹂
イサークが目を瞬く。
﹁この後、私達はキルレアを攻略しつつ、パトリシエール領北の王
領地を奪還するの。その露払いをお願い。ファルジアの軍が、自国
の民と争うのは最小限にしたいから。サレハルドとの方が、あっち
1754
も戦いやすいでしょう?﹂
驚いてたイサークの表情が、困ったようなものに変わる。
﹁戦の負債を、戦って返せってことか?﹂
﹁それで良い戦果を挙げてくれれば、いくらか賠償金を下げられる
と思うよ﹂
横からレジーがにこやかに答えた。
﹁君はルアインと合同とはいえトリスフィードを侵略しているし、
伯爵の一族も殺してしまっている。賠償金だけで済ますにはけっこ
うキツイところだし、君が死ぬというのは、ファルジアの民を納得
させるためには良い手だとは思ったけどね﹂
それ以上に、とレジーが続けた。
﹁正直、君がある程度背負って死んだところで、綺麗なサレハルド
を次の王にプレゼントすることなど不可能だ。トリスフィードの民
からは今まで以上に恨まれるだろうし、ファルジアとの行商路とし
てもトリスフィードは使えなくなるだろうね﹂
なぜなら、トリスフィードの民がサレハルドの商人を徹底的に嫌
うだろうからだ。
エヴラールでも同じことが言える。ヴェイン辺境伯やアランが理
性的な判断をしたとしても、ある意味ファルジアとの交流は官民と
もに茨の道を通らなければならなくなる。
⋮⋮私はそこまで考えつかなくて、レジーにそう教えてもらった
んだけどね。そこは内緒だ。今もわかった風な顔をするようにして
いる。
1755
﹁道が困難になれば途絶える。途絶えたら、また行き来しやすい方
へ流れるんじゃないかい?﹂
ようは、ルアインの側に流れるだろう。今まで戦った意味がなく
なるよね? とレジーは言う。イサークもある程度は考えていたん
だろう。苦虫を潰したような顔をしていた。
﹁ある程度は予想している。対策についても考えてはいたが﹂
﹁でも私は戦後の苦労を、軽減する機会をも提供しようと言ってい
るんだ﹂
レジーが清々しい笑みを浮かべてみせた。
﹁キアラの提案は合理的だと思うよ? 賠償額は君が死ぬ場合以上
に削れるかもしれない。そうしてもいいと、他の将軍達の了解は得
ている。ついでに恩を売って、今後の苦労も軽減できるんじゃない
かな?﹂
聞いていたイサークは、小さく唸る。
﹁だからって、ファルジアも俺たちが粛々と従うなんて思わないだ
ろ? あっちに寝返る不安があるってのに、大人しく戦わせるか?
だから降伏した上でファルジアを戦で援助する方法については検
討したが、考えから除外したんだ﹂
﹁それについては考えがあるわ。ね、師匠?﹂
待っていましたとばかりに答えた私は、師匠に振る。
﹁キシシシシシ﹂
1756
連れてきていた師匠が、奇怪な笑い声を上げる。
﹁なるほど。わしを使ってサレハルドの奴らを怯えさせるってこと
かの﹂
﹁怯える姿を見せたら﹃あ、この人達って呪いに弱いから、従っち
ゃうんだろうな﹄って納得してくれるんじゃないかな。それを伝え
聞いた人も、可哀想な集団だから逆らわないんだなってわかってく
れると思う﹂
するとイサークが、げっそりとした表情になった。
﹁おい⋮⋮サレハルドの評判が落ち過ぎだろ⋮⋮﹂
﹁それで最終的に侵略国ではなく、共闘した国として扱われるなら
マシじゃないの? 貴方が守りたいものは、自分の名誉じゃないん
でしょう? それなら、もう一つぐらい可笑しな泥を被ってもいい
と思わない?﹂
いち早く交流を回復させるなら、イサークは生きて泥を被る方法
もある。むしろその方が、王様の失策で国民が酷い目に遭った国、
という言い訳の仕方もできるだろう。
だから、そろそろ説得されてほしいと思って一生懸命に主張して
いたら、くくっとイサークが笑い出す。
﹁お前、けっこう貧乏くじを引きたがる奴だよな﹂
﹁貧乏くじ!?﹂
﹁可哀想なフリをして、同情を買えってことだろ? その場合苛め
る人間はお前ってことだ﹂
﹁う⋮⋮﹂
1757
そうだ。これって、ファルジアの魔術師にサレハルド軍が呪われ
て、いいように操られろってことだから⋮⋮。
私、回避したはずなのに、悪の魔術師っぽくなってない?
ついでに私のイメージも落ちるってことでは。
改めて気づいて﹁うぬぬぬ﹂と唸っていると、イサークが笑いな
がら﹁いいぜ﹂と言い出した。
﹁え?﹂
﹁お前の提案に乗ってやる。おいミハイル。これから俺とうちの軍
はみんな、魔術師様に呪われた可哀想な立場になったんだ。しっか
りとファルジアの人間に、兵が怯えるように上手くやれよ﹂
イサークに命じられて、ミハイル君は微笑んだ。
﹁貴方の死んだ後の始末よりは、簡単な仕事ですね﹂
﹁そうか?﹂
﹁葬列を連れて帰るより、汚名を少しでも返上できるからと説得す
る方が楽ですからね﹂
それでは、とミハイル君は早速連絡するために退室して行った。
﹁詳しい話は後で詰めよう。君も回復するための時間が必要だから
ね﹂
レジーもそう言って部屋を出ようとするので、私は呼び止めて聞
いた。
﹁私が早く治してしまったら、だめ?﹂
﹁それは止めておいた方がいいね。君がある程度怪我を治療するこ
とはできると兵達も知っているし、君が倒れるから限界があるのも
1758
わかってる。でも繰り返して見せてはいないから、そう頻繁に使え
る代物じゃないと思ってるだけだよ。あっさり治していたら、君が
命を削るかもしれない真似をしているんだってことを、忘れる者も
出てくる﹂
レジーの考えには、イサークも賛同した。
﹁そのうち魔術でどうにかできるんだからって、仲間を助けてくれ
と直訴してくる奴も出てくるぞ。その時お前が限界に来ていて、死
ぬ可能性があるからと断ったらどうなる? 理解していても、身内
を失ったら、逆恨みしかねない。だから出し惜しみできる状況なら
やめとけよ﹂
治療対象者本人にまで言われて、私は納得した。
人の要求はエスカレートしやすい。良かれと思ったあげくに、い
つか私が逆恨みで刺される要因を作りかねないのでは、止めておい
た方がいいだろう。
少なくとも王都を奪還するまでは、誰かに殺されるような要因を
作るべきじゃない。
納得してみんなで部屋を出た。
その後は私も病み上がり状態だから休むことになり、またジナさ
んがついてくれた。
﹁キアラちゃんありがとうね﹂
また御礼を言われたので、私はにっこりと笑って言った。
﹁これで、戦争が終わったらサレハルドへ帰ってから、エルフレイ
ムさんに会えますよね、ジナさん﹂
1759
﹁え?﹂
ジナさんが目を丸くする。
﹁だってエルフレイムさんは、まだしばらく王様にはならないんで
す。王様のお妃様じゃなければ、ジナさんだって貴族の令嬢生活を
何年も送ったんですから、きっと貴族の奥様の生活にも耐えられま
すよね?﹂
仮にも、王子の婚約者をしていた人だ。
本人の言う通りに、貴族生活が全くできなかったわけがない。王
妃にならなければ、心理的負担も重くはならないだろう。
﹁何より王様があれですから。きっと率先して、面倒事は変更して
くれるでしょう?﹂
﹁キアラちゃん⋮⋮﹂
﹁だから、幸せになるために挑戦してみてくれたらいいなって。ど
うですか?﹂
最終的に決めるのはジナさんだけど、エルフレイム王子との結婚
を考える上で、一番大きな壁になるものはイサークに押しつけた。
ついでに他の壁があっても、面倒見の良いイサークは配慮してく
れるだろう。
これなら、幸せを諦めなくてもよくなるんじゃないかと思う。
ジナさんの目がうっすらと潤む。
﹁計画をイサークから知らされた後ね、エルフレイムから一度手紙
をもらったの。本当はイサークが全てを持って死んだ後も、自分は
幽閉先を出たくはない。でもあいつが命を捧げてまでルアインの影
響を払拭したのに、自分だけ逃げるわけにもいかないって。だけど
1760
王妃は持たないって⋮⋮﹂
イサークのお兄さんは、そういう形でジナさんへの気持ちを表し
たかったんだろう。
だけどもう、無理をする必要はなくなったはずだ。
﹁もう一度、話してくるね﹂
会わないと言っていたジナさんが、そう言ってくれて私はとても
安心した。
1761
閑話∼離れない手と∼︵前書き︶
※レジー視点です
1762
閑話∼離れない手と∼
扉をノックする。
部屋にはジナがいたようだ。扉を開けた彼女に招じ入れられて、
レジーは中に入った。
もう夜も更けた時間だ。
とはいえ宵の口だけれど、部屋の主は夕食も食べずにことんと眠
ってしまっていた。
寝台で毛布の中で丸まって眠る小さな姿が見える。
寝具の上に広がる柔らかそうな栗色の髪。まだ白すぎるように見
える、離れた場所に置いたランプの明かりの中に浮かび上がる横顔。
キアラはじっとしたまま寝息を立てている。
﹁今日は、泣いてないようだね﹂
小声で言えば、ジナがうなずく。
﹁ずっと見てましたけど、大丈夫みたいですよ﹂
キアラは戦の後で気絶してから、眠りながら泣き出すことが多か
った。
最初はそうではなかったな、と思い出す。
キアラがサレハルドの王の治療を終えた後。
レジーの指を握りしめたまま離さないので、アランに後を任せて
戦の前に借り上げていた家に、レジーは彼女を運んだ。
1763
回収したホレスを持ってついてきてくれたジナにキアラのことを
頼んだレジーは、自身も限界だったこともあって、寝台の横で床に
座り込んだまま眠ってしまった。
その時は、手を離しても問題なかった記憶がある。
目を覚ましたのは夜中だった。
キアラがよく眠っているのを確認して、戦の処理のことを確認す
るためにもレジーは部屋を出た。
ある程度状況を落ち着かせてくれたアランがまだ起きていたので
話をし、着替えなども済ませてから再び様子を見に行くと、泣いて
いたのだ。
子供がぐずるような小さな泣き声で、時折滲み出た涙がこめかみ
を滑る。
側についていたジナも困っていた。
家主の妻と交代で見ていたらしいが、しばらくしてこんな状態に
なったらしい。かといって起きる様子もないのだ。
﹁今までと比較すると、使った力の多さから言ってもう一日は眠っ
たままじゃろ﹂
ホレスがそう言って、全く起きないキアラの頭をぺしぺしと小さ
な手で叩いていた。
その時レジーは、キアラの指先が何かを探すように動いているこ
とに気づいた。
ふと思いついて指に触れると、レジーの手をぎゅっと握ってくる。
気絶する直前にそうしたように。
すると、泣き声も止まった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1764
ちょっとこれはいいな、とレジーは思った。妙な優越感が湧き上
がるけれど、それを抑えてジナ達と顔を見合わせる。
﹁これは⋮⋮寂しいのかな?﹂
﹁もしかするとそうなのかも⋮⋮。でも、ずっとそのままついてい
るわけにはいきませんよね?﹂
﹁じゃあ、こっちを試してみよう﹂
レジーはホレスを持ち上げ、ぬいぐるみのようにキアラに抱きし
めさせてみる。
レジーの手を離させられたキアラは、眉間にしわを寄せながら唸
り出し、またすんすんと泣きながら⋮⋮なぜかホレスに噛みつきだ
した。
﹁ちょっ、お前はわしを食う気か!?﹂
がりがりとけっこう良い音がする。
面白い絵面に笑いをかみ殺していると、ジナが慌ててホレスを避
難させた。
﹁殿下、笑っている場合じゃないですよ。あんな噛み方してたら、
キアラちゃんの歯がボロボロになっちゃうじゃありませんか!﹂
﹁済まなかった。予想外で面白くて⋮⋮つい﹂
﹁ちっ、王子が齧られてしまえばよかったんじゃ⋮⋮。わし、削れ
ておらんか?﹂
﹁大丈夫みたいですよ師匠さん﹂
やや疲れた声のホレスに頼まれて、ジナが頭を確認してやってい
た。
1765
まぁ、二階や三階の窓から落としても壊れないとキアラが前に言
っていたぐらい頑丈なので、か弱いキアラの歯では削るのは無理だ
ろう。
﹁でも、ホレスさんでも泣き止まないとは⋮⋮﹂
﹁眠っている間中泣いてたら、休めるものも休めないですよね﹂
ふーっとため息をついたジナが﹁だから﹂と言い出した。
﹁仕方ないので、殿下に私と交代でいいので付き添ってもらった方
がいいと思うんです﹂
泣く子をあやすぬいぐるみ代わりに、レジーを使いたいとジナが
言う。
ただ問題がある。レジーは人間で異性だ。
﹁⋮⋮受けるのにやぶさかではないけれど、本当にいいのかい?﹂
いろんなことを含めてそう確認したら、ジナがにやっと笑った。
﹁後のことは二人に任せます。ま、師匠さんがいるので殿下も悪さ
できないでしょう?﹂
﹁おい犬の飼い主、この王子はわしのことなんぞ無視しよるぞ!﹂
﹁師匠さんが見てれば、キアラちゃんが泣くようなことまではしな
いでしょう?﹂
そう言ってジナはキアラの頭を撫でる。
﹁ようやく、誰が一番好きかわかったんだね、キアラちゃん﹂
1766
ジナの言葉に、レジーは少しほっとするような気がした。
﹁じゃ、朝まで頼みます。他の方にもそう言づけしておきますので﹂
ジナは一礼してさっさと部屋を出て行ってしまう。
見送ったレジーは、息をつく。
心の中で迷いはあったものの、ジナまでいなくなっては諦めるし
かなさそうだ。
そう思いきったレジーは、とりあえず上着を脱いで近くの椅子に
掛けた。念のため持ち歩いていた剣もベルトも外す。
﹁お、おおおい、王子。早まるな。な?﹂
ホレスがやや硬い寝具の上でカチャカチャと腕を上下させてうろ
たえている。
レジーは吹き出しそうになるのをこらえ、平然とした様子を装っ
て寝台に腰かけた。
﹁何をうろたえているんですかホレスさん。聞くところによると、
ご経験が豊富だそうで。慌てるようなこともないのでは?﹂
﹁ふあっ!?﹂
ホレスは文字通り飛び上がった。すごいな、人形なのにそんな跳
躍力があるんだとレジーは感心する。
﹁そんなことは関係ないじゃろ! ことは娘の一大事にかかわるわ
けでだな﹂
﹁いつも余裕そうなのに、娘が相手だとだめなんですね﹂
﹁うぐ⋮⋮﹂
1767
泣いているキアラが可哀想なので、レジーは自分の手を握らせて
やりながら、ホレスを言葉でつついてみる。
すると面白いように押し黙った。表情が変わらない人形なのに、
眉間にしわを寄せているように見える。
黙り込んだホレスは、ぴたりと泣き止んだキアラをじっと見た後、
ぽつりとこぼす。
﹁正直、こんなに子供に懐かれたのは初めてじゃわい﹂
キアラ曰く、人間だった頃のホレスは﹃妖怪じじい﹄だったそう
なので、確かに子供に好かれそうな質には思えない。きっと寂しが
りのキアラにべったりと懐かれているうちに、ほだされたんだろう
とレジーは思う。
﹁まぁ、義父を怒らせるようなことはしませんよ。ましてや目の前
で。そもそも帯剣してたら眠れないから外しただけですよ﹂
﹁ぎふ⋮⋮っ!?﹂
﹁それでも見ていられないのでしたら、この辺にいてはどうですか﹂
﹁うぷっ﹂
レジーが枕の下にホレスを押しこむ。ややしばらく騒いでいたが、
すぐに静止した。
それで妥協することにしたのだろう。一応、レジーのことも信用
してはいるのだろうし。
心配性だなとレジーは小さく笑う。
正直なところ、レジーもまだ本調子とはいえない。矢で怪我を負
った後にも似た熱が、まだ体の中でくすぶっている感覚が抜けない。
目を閉じたら、すぐに深く寝入ってしまうだろう。
その前にと、レジーはキアラの涙の痕を指先でぬぐった。キアラ
はレジーの手を握ったまま、昏々と眠り続けている。
1768
口づけても嫌がらなかったキアラ。
二度とも彼女は避けなかった。
しかもこうして側にいて欲しいと望むのだから、自分のことを想
ってくれているというのは、錯覚ではないだろう。ジナもそう判断
したようだ。
だけどキアラは、答えを返してはくれない。
何か引っかかっていることがあるんだろうとレジーは思っている。
自分で納得できないと、行動できない人だから。
レジーの方も、待つつもりはある。
﹁でも、なるべく早い方がうれしいな。それまでは、これで我慢し
てあげるよ﹂
レジーはキアラの涙の痕に口づけてから、彼女の隣に寝転んで彼
女を抱きしめた。
無意識なのだろう。すり寄って来るキアラの甘い香りに、一瞬く
らりとなる。
それでも魔術の代償の方がより強力だったおかげで、レジーは睡
眠不足に陥ることだけはなかった。
そんなことを二日続けた末に、ようやくキアラが寝言を言うよう
になった。
聞いた内容から判断すると、どうもエヴラールでレジーが殺され
た場合の夢を見ていたようだ。
その時のレジーもキアラに指輪を贈っていたらしく、しかも揃い
のものを自分もしていたというから、執着度合がわかろうというも
のだ。
けれど、おぞましいことに王妃達は死んだレジーから、その指輪
1769
をしたままの指を切り取ってキアラに見せたらしい。
そんな夢を見ていれば、レジーの指を確認しようとするのもうな
ずけた。
むしろ眠りながら一生懸命指をなぞって、安心している様子はと
ても可愛かった。ついからかいたくなってしまうほど。
ただ、キアラの記憶についてを不思議に思っていた。
出会った頃は、まったく違う世界で生きていた頃の物語のことし
か話さなかったし、それ以外のことを隠している様子もなかった。
魔術師になってからだと思う。﹃もし﹄の場合の記憶をキアラが
思い出すようになったのは。
﹁今日もキアラちゃんの側にいますか?﹂
ジナが意地悪そうな顔をして聞くので、レジーは首を横に振った。
﹁逆にちゃんと意識があるキアラの隣にいると、言いくるめて襲い
たくなるからやめておくよ﹂
そう言い置いて、レジーは足早に自分の部屋に戻った。
﹁きょ、今日は別々にご就寝されるのですね?﹂
部屋に戻ると、なぜかグロウルがうろたえていた。
なぜだろう。ずっとレジーがキアラと同衾し続けるとでも思った
のだろうか。面白くて、レジーはついからかいたくなってしまう。
﹁キアラも落ち着いたみたいだしね。私の方もね、キアラを前にす
ると、気持ちが緩んでしまって止められる気がしなくて⋮⋮つい、
遊びたくなってしまうから﹂
1770
主に頬をつついてだが。
﹁ま⋮⋮まさかもう手を出したんですか!?﹂
グロウルが目を丸くする。
レジーは笑いをかみ殺しながら続けた。
﹁⋮⋮相手が何をされてもいい状態だと、逆に手を出しにくいと思
わないかい?﹂
﹁それは⋮⋮ようございました﹂
グロウルは心底ほっとしてように息をついた。
けれど、こうあからさまに襲うと思われているのも、なんだか癪
にさわる。なのでレジーは少し意地悪を言ってしまう。
﹁まさか私は、そういう方向について信用がない? 今までにも特
に不品行なことをした覚えはないんだけど?﹂
﹁めっそうもございません。ただ、かなりのご執着をしていらっし
ゃると思っておりましたので⋮⋮﹂
﹁うん、君の考えは間違いじゃないよ﹂
ずばりと言えば、レジナルドは小さく笑って部屋にある椅子に座
る。
﹁だけどそう言う意味で傷つけたくはないんだ⋮⋮まだ﹂
﹁まだ?﹂
﹁万が一にも私が死んだら、彼女は傷物になるだけだよ。ウェント
ワースならそれでもいいから渡せって言いそうだけど。彼だって無
事で済むかわからないじゃないか。少なくともこの戦争が終わるま
1771
ではね﹂
いつどういう形で、戦場で倒れるかはわからない。エヴラールで
の一矢のように、全てに気を配れない時など沢山ある。
それなのに気持ちを満たしたくて押しきっても、後で辛い思いを
するのはキアラだ。
グロウルの方はそれを聞いて、納得したような顔をしている。
そんな彼に、もう眠るから休むよう勧めて退室させ、レジーは息
をつく。
﹁キアラが、答えを返してくれるまでは、ね﹂
彼女が望んでくれるとわかったら⋮⋮。
だから今は焦らされているような気分にもなるけれど、待ち続け
られるとレジーは思う。
自分に心を向けてくれているのはわかるからだ。
1772
平穏な日々のための隠し事
サレハルド側はファルジア側の提案を受け入れた。
そのためのパフォーマンスも、もちろん実行した。
﹁皆さん、イサーク王からファルジア側の提案をお聞きになったと
ゴ
思いますが、これから私の命令にイサーク王は従わなくてはならな
くなりました﹂
ーレム
即席拡声器として、ラッパ型に丸めた紙を持った私は、土偶型土
人形の肩に座っていた。
目の前に集合しているのは、サレハルドの兵士さん達だ。詳細を
知らない人は﹁えっ﹂て顔をしているし、イサークに近しい騎士さ
ん達なんかは半笑い状態だ。
ゴーレム
土人形は右手に、黙したままげっそりした顔のイサークを握って
いる。さっき握る時に力加減が上手くいかず、何度も悲鳴を上げさ
せたからだろう。
その時サレハルド兵からも﹁まだ完治もしていない王に、むごい
⋮⋮﹂﹁容赦ない﹂と言われていたが、これから脅すのに都合がい
いでしょうとカインさんにゴーサインもらったから大丈夫だと思い
たい。
さすが殺されかけただけあって、カインさんはイサークに厳しい。
仲良くできるとは思っていないけれど、たまにちらっと殺気が覗い
てる気がするので、そこは抑えてほしいところだ。
1773
﹁ちなみに人質は、皆さんです﹂
ゴーレム
そう言うと、土偶型土人形の頭の上にちまっと設置した師匠が﹁
ゴーレム
ヒーッヒッヒ呪ってやったわい﹂と笑い出す。
それに合わせて、土人形の口の部分をカタカタと動かして見せた。
ヒッと息を飲むような声が聞こえる。
師匠の影響は覿面で、近くにいた仲間と抱きしめ合って怯えてい
る兵士までいた。
﹁ちなみに私の指示に従わないと、もれなくイサーク王はこんな感
じになります﹂
ゴーレム
と言って、土人形の左手に持たせていたイサークそっくりの土人
形を、さらさらの砂に変化させた。
ざっと落ちる砂に、集合させられていたサレハルドの兵達も注目
しながら硬直していた。
﹁皆さんにも同じ運命を辿ってもらうかもしれません。呪いを解く
方法は、ファルジア軍が王都を奪還するまで協力し続けること。ち
なみに私を倒そうとした場合も、こんな感じで殲滅します﹂
ゴーレム
近くに作っていた数人分のイサーク型土人形を、土人形の足で踏
み潰す。
勢い良くやったせいで、地響きがすごい。
この行動に、戦場で踏み潰された兵士の姿を思い出した者もいた
ようだ。
それを見ていたファルジア兵がなぜか、
﹁魔術師様の発想、怖すぎないか?﹂
﹁あの脅しは俺も怖い﹂
1774
と、早速サレハルド兵に同情心を抱き始めていたとか、私への恐
怖が増したらしいと聞いて、良かったのかどうか一瞬考えてしまっ
たけれど。
とにかくこの脅しで、サレハルド軍の皆さんはちゃんと﹃魔術師
に呪われてしまったようだ﹄とわかってもらえたようだ。
では、と後の詳細説明をミハイル君やイサークの補佐をしていた
ヴァシリーさんという方に任せて、私は一度その場を離れる。
サレハルド兵から遠ざかった場所でイサークを解放してあげると。
﹁ひでぇなお前。嫌がらせかよ⋮⋮﹂
げっそりした顔のまま文句を言われた。
この気安い様子を見られたら、呪いの件について疑われそうだっ
たので、兵士の皆さんから遠ざかってから解放したのだ。
そのうちバレるかもしれないけど、呪われたという嘘を一度は信
じてもらった後にしたかったのだ。
当のイサークは、あれだけ散々やりあった後だというのに、態度
を変えないでいてくれた。そうじゃなかったら多少なりと壁を感じ
て、私は喧嘩腰にしかイサークと話せないままだったし、気安い返
し方もできなかったかもしれないと思う。
だからこうして、軽口を叩けるのだ。
やっぱり彼はからっとした太陽みたいな人だと、今でも思う。
﹁ちょっと力加減間違っただけじゃない。それに人質みたいなもの
なんだから、ちょっとぐったりしてた方が信憑性増すんじゃないか
と思って﹂
1775
そう言ったら、ニヤッと笑われる。
﹁俺はお前を庇う時、ずいぶん優しくしてやったつもりなんだがな
?﹂
クレディアス子爵から庇った時のことを言ってるんだろう。首を
噛まれたことを思い出したせいで、恥ずかしさに顔が熱くなる。
﹁うぐ⋮⋮ある程度は感謝してるけど、ある程度以上はやりすぎだ
ったもん﹂
﹁そりゃ、俺の方は死ぬ気だったから、もうお前にあれこれ言って
やることもできないかと思ってな⋮⋮だが﹂
ゴーレム
イサークは側にあった、壁みたいな土人形の足に両手をついて、
私を追い詰めた。
﹁あの時はな、手放すしかなかったから嫌われてもいいと思った﹂
イサークがさっきまでのニヤニヤ笑いを消したから、私も魔術で
やり返すのを止め、思わず真剣に向き合ってしまう。
﹁嫌いになった方が、お前だって俺が死んだら悲しまないだろう?﹂
﹁⋮⋮じゃあ、どうして最初から優しくしたの﹂
仲良くしてくれなかったら、あんなに悲しいとは思わなかった。
ただジナさんのためだけを思って行動できたのに。
イサークが困ったような顔をする。
﹁言っただろ。二度も告白させんのか?﹂
1776
告白と言われて、私も言葉に詰まる。
そうだ、告白されたも同然だった。イサークの生死がかかった状
態だったから、あの時はむしろショックな状況だったし、告白され
た甘さとか全く感じなかったせいで、やや忘れかけてた。
どうしよう、なんか申し訳ない。私だって告白したのに放置した
ら、ちょっと辛いだろう。
﹁俺だって、嫌いな女にあれこれする趣味はない﹂
﹁⋮⋮えと﹂
それはやっぱり、キスとか以前の首に噛みついた件とかもまさか、
含まれてる?
思い出したら、ぐわっと恥ずかしさが喉元までせり上がってきて
叫びそうになった。ちょっ、どう返せばいいのこれ!?
絶叫したら周囲の人が集まってきて、よけいに公開処刑な状態に
なる気がするいやだ。
私がイサークに感じてたのは、仲の良い明るいお友達に対するよ
うなもので、でもなんかここで普通にお断りしたら、余計にマズイ
ことになりそうな気がするんだけど。
脳内でじたばた騒いだ末、私は受け流すことにした。
﹁あ、あれこれって濁されると、なんだか変な方向に聞こえて嫌な
んだけどっ﹂
﹁そうか? あれだけのことされておいて、今更だろ?﹂
﹁今更って、ちょっ、人聞きの悪いこと言わないで!? そこまで
のことされてないはず!﹂
そう言うと、イサークはにやっと笑う。
﹁あそこまで俺にさせておいて、つれないな﹂
1777
そうして私の髪を一房指に絡めて、口づけを落とした。
﹁⋮⋮ななななっ!?﹂
﹁死ぬつもりだったから言わなかったが、これからは遠慮しないこ
とにした﹂
何をと言う暇もなく、イサークの右手が、頬から顎にかけてを包
み込むように触れて来る。
﹁俺と一緒に来ないか?﹂
﹁⋮⋮サレハルドに?﹂
来いっていうほど、本気なの?
と思わず尋ねてしまったところで、さっと視界を遮るように伸ば
された腕があった。
次いで横に引き寄せられ、後ろに庇われた。
﹁うちの魔術師を勧誘するのは、止めて頂きたいですね。サレハル
ドの国王陛下﹂
ゴーレム
カインさんだ。
カインさんは土人形に乗っていなかったから、私がイサークとご
たごたしてるのを見て、走って来てくれたんだろう。
﹁お目付け役が来たか。じゃあまたな﹂
イサークはごねたりせず、そこであっさりと立ち去ってしまう。
⋮⋮こちらが拍子抜けするくらいに。
でも、助かった。この話はあまり長引かせるのは良くない⋮⋮。
1778
あんまりカインさん達に知られたくないんだよ⋮⋮。
と思ったら、わりとばっちり聞かれていたようだ。
﹁彼に、何をあれこれされたんですか?﹂
﹁う⋮⋮﹂
こちらを振り向いたカインさんが、腕組みをして私をじっと見て
いる。
どうしよう。これは兄として聞いてくれてるのか。それともデル
フィオンで垣間見せたみたいに、そこから逸脱した立場のカインさ
んが尋ねているのか。
どっちかで対応が変わるんだけど、ええっと。
﹁い、言えない⋮⋮﹂
黙秘することにした。
ただでさえイサークを嫌ってるカインさんのことだから、色々バ
レたら血の雨が降りそうだ。そうだレジーにも知られないようにし
なくては。
噛みつかれたのは、確かにクレディアス子爵を避けるためだった
し。次にキスをしたのは、私が自分の気持ちに気づかないから、自
覚させようとしてだってわかってるから。
イサークは、決定的に私を傷つけるようなことはしてない。ただ
女子として、無理やりキスしたことだけは怒っていい。
でも、それは私だけの権利だ。
カインさんやレジーがそのことで、イサークとぎくしゃくされる
のも困る。これから共同で戦って行くのに支障が出ないようにした
い。
だから黙秘する。絶対言わないと決意を込めて見返すと、カイン
1779
さんがため息をついた。
﹁隠し事をする、悪い子になったんですね、キアラさんは﹂
一応、カインさんは兄の立場で対応するつもりだったようだ。ち
ょっと、ほっとする。
イサークに続いてカインさんまで恋愛的な意味で迫って来たら、
どうしていいかわからなくなるから。答えてもいないのに、レジー
に頼るのは間違ってるし。
﹁悪い子でもいいです。秘密にしたいことだって、あるんです﹂
そう言ったら、カインさんがぽんと私の肩に手を乗せ、耳元に顔
を近づけてささやいた。
﹁だいたい想像はつきますよ。あの男に、クレディアス子爵以上の
ことをされたのでしょう?﹂
ぎく、と肩が動きそうになった。
だめだ私、耐えろ! とお腹に力を入れて身動きしないようにし
た。
﹁サレハルド側に捕らわれた後、あなたの行動が今までと少し変わ
りましたからね。でも、襲われた恐怖からだけでもなかったと感じ
ていましたが、やはりあの男のせいでしたか﹂
心の中に、冷汗が流れるような気分⋮⋮。
ちょっとカインさん。どこまでお見通しなんですか。
﹁ななななな、何にもありませんよ!?﹂
1780
黙秘すると決めた以上、私は否定するしかない。
するとカインさんが私から一歩離れ、肩から下ろした手を差し出
してくる。
﹁ええ、わかっています。とりあえずは彼を受け入れる気がキアラ
さんに無いとわかりましたので、今はそれでいいとしましょう。と
りあえず、皆の元に戻りましょう﹂
ゴーレム
どうやら質問の時間は終わったようだ。
うなずいた私は、土人形を解体して師匠を回収し、差し出された
カインさんの手を握った。
そうして歩き始めてしばらくして、ぽつりとカインさんが何かつ
ぶやいた。
﹁でも、貴方はもう選んでしまったんですね﹂
でもあまりに小さな声だったので、何を言ったのかはわからなか
ったのだった。
1781
平穏な日々のための隠し事︵後書き︶
活動報告にお遊びのSSを掲載しました。よろしければどうぞー。
1782
消えた選択肢︵前書き︶
※途中からキアラ以外の視点になります。
1783
消えた選択肢
内心で首をかしげながら歩きながら、ふと私は後ろを振り返る。
土人形の残骸の土の山と、その周囲の紅葉し始めている木立。
そこから広がる、うねるような丘陵地帯。そこにもそもそと密集
する、サレハルド軍やファルジア軍の天幕や焚火の煙。
更に先に見える、青い湖。
︱︱その景色が、一瞬ぶれる。
﹁え?﹂
いつの間にか、穏やかな風景は消えてしまった。
周囲が剣戟の音と、鬼気迫る表情で剣を振り降ろす人々の姿で埋
め尽くされる。
何が起こったのかわからない。とにかく逃げようと思った瞬間、
私の視線が彼を見つけた。
今はここにはいなかったはずの、レジー。
青のマントを翻しながら剣を振るう彼の周囲には、自分の体を凍
り付かせ、正気を失った顔で泣いたまま迫る魔術師くずれ達の姿。
氷の刃を受け止めるレジーに、炎が迫る。
辛うじてかわすした彼を、風が斬り裂いていく。
倒れたレジーを、助ける人の姿はない。フェリックスさんも、グ
ロウルさんも倒れて、他にも誰だったのかわからない黒焦げになっ
た人が転がっている。
1784
レジーを攻撃していた魔術師くずれが、さらさらと砂になって死
んでいく。
その砂を踏みしめて進み出たのは、意識なくぐったりとした私の
首を鷲掴みにした、クレディアス子爵だった。
その背後には、複数の槍で串刺しにされたカインさんの姿があっ
て。
私の足が震え始める。
笑い声を上げたクレディアス子爵は、私を放り出すとレジーに手
を伸ばす。
呻きながらも起き上ろうとしていたレジーは、クレディアス子爵
の指先がその左肩に触れた瞬間に、砂になって崩れた。
﹁なん⋮⋮﹂
何これ!? どうしてこんなものが見えるの?
やだ。なんでレジーが死んじゃったの?
﹁うそ、うそうそ﹂
思わず顔を覆ってその場にしゃがみ込む。
﹁キアラさん!?﹂
カインさんの声が聞こえた。
呼びかけてくるけど、でも、カインさんもさっき死んで⋮⋮。
﹁キアラさん、どうしましたか?﹂
肩を強くつかまれて、私はハッと﹃戻った﹄ような感覚になる。
1785
顔を覆っていた手を離して見上げると、カインさんの心配そうな
表情が見えた。
周囲に視線を向ければ、元のように穏やかな風景が広がっている。
それを確認してから、もう一度カインさんを見て、
﹁⋮⋮生きてる﹂
つぶやくと、カインさんが安堵したように息をついた。
﹁どうしました。急にまた、何か思い出したんですか?﹂
前にも同じように、白昼夢を見て私が右往左往したことがあった
からだろう。同じ状態なんだとカインさんは思ってくれたようだ。
でも、いつもとは違う。キアラが死ぬ運命だった物語の続きじゃ
なかった。
明らかに今、キアラ達が進んでいるはずの道の途中で、違う分岐
があった場合の記憶だ。
﹁何⋮⋮これ﹂
体が小さく震える。
自分に何が起きているのか良くわからないことが、とてつもなく
不安だった。
でも、そう。可能性があるとしたら。
﹁ループ?﹂
今見てしまった白昼夢は、レジーがもし魔術を扱う術が無かった
ら、あり得ることだ。レジーに魔術が扱えたら、クレディアス子爵
の力で灰になることはなかった。レジーの左腕に魔力を流したら、
1786
魔術が発動するはずなのだから。
じゃあ私は、何度かキアラとしての人生を繰り返してるの?
でも何度ループしているの?
敵魔術師だった頃と、今に近い自分と、二回?
でも敵だった時のことは詳細に覚えているらしいのに、レジーが
死んでしまう時の自分のことを、今まで全く思い出さなかったのは
なんで?
ただ何となく感じることはある。
私はたぶんあの戦いで、レジー達と自分が死ぬはずだった未来と
いう選択肢を乗り越えたのではないか、ということだった。
◇◇◇
彼女の目覚めを促したのは、魔術の効果のせいなのか、それとも
和やかな鳥のさえずりだろうか。
視界に飛び込んでくるのは優しい薄青の空と、木々の緑だ。
起き上った彼女は水筒の水を一口飲みこんでから、銀の髪を近く
の川で染めた。
濃い茶の色粉を浸みこませ、しっかりと編みこんでおく。
手を洗った彼女は、近くに繋いでいた馬に乗った。
街道を進むが、土が慣らされた道は彼女の記憶通りにしっかりと
踏み固められていた。
やがて丘の上の、景色が開けている場所へ出る。
ラクシア湖畔は静けさの中にあった。けれど以前のような景勝地
らしさは陰りをみせている。
草原が広がっていた場所は踏み荒らされ、木もなぎ倒されて燃え
た形跡があった。
1787
辺りに漂う焦げ臭さは、そのせいなんだろう。
さらに先へと小さな道で馬を進ませる彼女に、ちょうど行き合っ
た農家の女性が﹁あれまぁ﹂と声を上げる。
﹁女の子が一人で、こんなところまで? ちょっと前に戦があった
場所なのに﹂
目を丸くする農家の女性は、戦があったと言いながらも落ち着い
た様子だった。そして彼女の髪色についても、特に驚いた様子はな
いので、きちんと染めることができているんだろう。
そんな農家の女性に彼女は尋ねた。
﹁戦は、いつ終わったのか聞いても?﹂
﹁一週間前よ。驚くことにサレハルドの軍を降伏させたのよ。つい
昨日かしら、軍もデルフィオンのお城に戻ったから、すぐに私達も
家に戻れて良かったわ。今はデルフィオン新しい男爵様の兵が、こ
の辺りにいたルアインの残党を追い払ってるから安全だろうけど、
あんたみたいな小さい子が一人で馬に乗るなんて、どうしたの?﹂
﹁親戚の家まで用事があったの。それで、ファルジア軍の方は大丈
夫だったの? 王子様が討たれたとか、そういうことはなくて?﹂
彼女の問いに、農家の女性が笑う。
﹁あっはは! 多少大変だったらしいけどね、なにせ王子様が雷の
剣を操って、ルアインの増援までも倒したんだよ! きれーな紫色
の雷が船に落ちる姿は、遠くからでもよく見えたもんさ。それに魔
術師様もいるからね。荒らされた草地も慣らしていって下さったか
ら、春には放置しておいても戻るだろうし、腐敗したら片付けるの
も厄介な敵兵の死体まですっきりと埋めていってくださったしね﹂
﹁そう⋮⋮教えてくれてありがとう﹂
1788
礼を言って、彼女は馬を再び歩かせた。
農家の女性からかなり離れたところまできて、ほっと息をつく。
﹁今度こそ、誰も死なずに進めたのね﹂
本来なら。
トリスフィードで捕らわれたキアラは、炎の中で火傷を負い、フ
ァルジア軍にすぐ戻ることなどできなかった。その間にファルジア
は追い込まれる結果になる。
そこでキアラが助かった場合でも、クレディアス子爵に対抗しき
れず、ルアインの援軍に押されて後退。その時に捕まったキアラを
助けようとして、クレディアス子爵がレジナルドを殺していた。
彼女の知っている未来は、少しずつ前進している。
二人が死なずにいられる世界であるように。
だからこそ追いかけなければならなかった。
﹁待っていてキアラ⋮⋮これが最後だから﹂
つぶやいた彼女は、ぎゅっと唇を引き結んだ。
1789
移動前に会議をします
エイルレーンでの戦いを制した私達は、一度休息等の関係からデ
ルフィオン男爵の城へ戻っていた。
位置的にはすぐ南なので、移動には三日ほどしかかかっていない。
馴染んだ男爵城にたどり着いただけでものすごく安心したのだけ
ど、以前使っていた部屋に入ると、学校のない日曜日の朝のように
ごろごろとしたくなった。
でも寝転がっている暇は、ちょっとだけしかない。
すぐに今後の方針について、打ち合わせなければならないからだ。
トリスフィードでそれなりに時間がかかってしまった分、早く方
針を決めて、出発する必要がある。
本格的な冬が少しずつ近づいているからだ。
外は長袖の上に、何かを羽織ると丁度いいくらいの気温になって
いる。
ただ急ぐための策はあった。
一時間ほど経った頃、いつもの将軍達とレジーの近衛騎士、私の
補佐をしてくれるカインさんは以前も使った男爵城の会議室に集合
した。
前と少しだけ座る位置が違うのは、アズール侯爵がいないからだ。
寂しさを感じながら、状況確認をした後で方針について話し始め
たのだけど。
﹁援軍には以前より事欠かなさそうだね。日和見をしていた貴族家
から、デルフィオンへ援軍の申し出の知らせが鳥でいくつか来てい
1790
るよ。アーネスト殿に、サレハルドを旗下に入れたことまで喧伝し
てもらったけど、効果は上々みたいだね﹂
どうやらあの戦の結果を、レジーはデルフィオン男爵のアーネス
トさん経由で、様子見をしていた領地にも知らせたようだ。
﹁だからデルフィオンの国境で待機している援軍には、そのまま西
進してキルレアを攻略してもらう﹂
そういえば、とレジーがグロウルさんに尋ねた。
﹁彼らはそろそろ湖に漕ぎ出した頃かな?﹂
グロウルさんがうなずいた。
﹁エイルレーンに残されていたルアインの船を利用しまして、移動
しているはずです﹂
﹁では彼らからの連絡を待ちながら、こちらも遅れて出発して追い
かけよう。そうして直接湖を渡って、キルレアを通り越して王領地
へ向かう﹂
﹁なんというか、本気で扱き使うんですな⋮⋮﹂
やや気の毒そうな表情をしたジェーローム将軍が、笑顔のレジー
にそう言った。
﹁魔術師殿がそういう設定にしたからね。それにトリスフィードの
一件を他の貴族達にも納得させるためにも、仕事をさせたというこ
とがはっきりわかるようにしてあげないといけないと思うんだ﹂
さっきから言っている﹃彼ら﹄とは、イサーク達サレハルド軍の
1791
ことだ。
サレハルド軍には、そのままエイルレーンから船で王領地へ向か
ってもらう手はずになっている。
そうして私達ファルジア軍に先んじて王領地のルアイン軍を掃討
してもらうのだ。おかげで私達は、労せずして王領地から次のシェ
スティナ領へ向かうことができる、という筋書きだ。
にしても、敗戦の末に負った協力するという条件だったけれど、
私はこんな使い方をするとは思いもよらなかった。ファルジア軍と
一緒に湖を渡るのだとばかり。
イサーク達も、よもや単独で王領地へ放り出されるとは思わず、
ぎょっとしていたのを覚えている。
⋮⋮私はがんばってとしか言いようがなかった。
間違いなく私が、死ぬぐらいなら私が扱き使うと宣言した結果な
のだから。
カインさんもレジーも、サレハルドの王が受け入れると決めたこ
となんだから気にするなと言うのだけど⋮⋮。
﹁サレハルドはパトリシエール領まで下ってもらうつもりだけど、
一時王領地で待機して、キルレア側から西進する援軍と合流しても
らう。そこからシェスティナへ向かってもらおう﹂
﹁援軍の者達に、サレハルドの軍を任せても大丈夫でござろうか﹂
エニステル伯爵が白い髭を撫でながら、懸念を口にした。
確かに援軍の人はサレハルドと戦ったことはないだろうけれど、
彼らが国内に侵略した経緯は知っているわけで。
良い感情を持っていないだけならまだしも、協力するのが難しい
ような状態になっては困る。エニステル伯爵はそれを心配している
のだろう。
1792
﹁問題ないよ。援軍の大将には、元王女のベアトリス辺境伯夫人に
来てもらっているから﹂
﹁え、ベアトリス夫人が?﹂
驚きのあまり声を上げてしまった私に、レジーがにっこりと笑っ
た。
﹁辺境伯の怪我が快癒したらしいからね。それでも長旅をさせるの
は心配だから、叔母上をお呼びしたんだ。最適だろう?﹂
﹁まぁな。サレハルド軍を上手く扱えて、集まって来る貴族もあの
人の元の身分と血筋から、粗雑には扱えないからな﹂
その息子であるアランが、しみじみとそう言った。
ファルジア王家の王位継承権を持っているのはレジーとアラン、
そして王女だったベアトリス夫人だ。打倒ルアインを標榜して動く
貴族達は、ベアトリス夫人を粗雑には扱えない。サレハルドとやり
とりするにも、合理的なベアトリス夫人なら、しがらみに囚われる
ことなく采配してくれるだろう。
しかもベアトリス夫人自身も、戦闘要員にもなれる人なので、そ
の辺りも問題ないだろう。
なるほどと思う私の横で、エメラインさんが珍しく目を輝かせて
いた。
﹁ベアトリス様が⋮⋮﹂
そういえば、ベアトリス夫人のこと尊敬しているんだった。エメ
ラインさんにとってはアイドルのような存在なので、さぞかし会い
たいに違いない。
戦が終わるまでみんなが生き残っていれば、会えるだろう。
1793
それにしても、と私は思う。
目をきらきらとさせながら、ちょっと斜め上を見上げて夢想に浸
っているエメラインさんを、アランがじっと見ている様子に、私は
視線を向ける。
だけど最近、なんだか違う感じがするんだ。
前だったら﹁おいこの変人なんとかしろよ﹂みたいに、私に目で
物を言っていたアランだったけど、最近は﹁仕方ないか﹂と苦笑い
する表情になっていた。
エメラインさんも視線に気づくと﹁あらやだ﹂みたいにちょっと
我に返る。
私が捕まったりしている間に、色々とあったんだろうと思う。そ
れで態度が近しいものになったんだと思うんだけど。
何があったんだろ。
なんにせよ会議はすんなりと進行した。
シェスティナと王領地の情報は、レジーの近衛騎士の一人の故郷、
タリナハイアの貴族軍二千が来たとともに、いくらか入って来た。
王妃側は、ルアイン軍で王都を十重二十重に囲んでいるわけでは
なく、軍を二つに分けてシェスティナと半数ずつ割り振っていると
のこと。
王領地にはパトリシエール領の兵士とルアイン兵が駐留している
らしい。
陸地を行くにしてもここは必ず通ると思ったからだろう。
レジーとしては王領地は楽をさせてもらい、すぐにシェスティナ
へ移動したいようだ。
1794
話を聞きながら、私は王領地でのゲームのエピソードを私は思い
出す。
そこで戦闘もあるのだけど、茨姫に関するエピソードもある。茨
姫を仲間にするために必要な物を、持ってくるというアレだ。
レジーはどうするつもりなのかな。
クレディアス子爵がいなくても何があるかわからないと思うと、
茨姫がついてきてくれた方が安心なんだけど⋮⋮。
そういえば、万が一のためと思ってイサークにも王領地での戦闘
について、ちょっとぼやかしながらも話したんだっけ。
地理的に何度も行ってよくわかってるレジーの予測、という形で。
当たらないかもしれないから、一応気に留めるだけのつもりで聞
いて、という不可思議な私の話に、イサークは首をかしげていたっ
け。
とにもかくにも一週間後、私達も男爵城からほど近い港から、船
に乗って移動することが決まった。
1795
王領地へ
この世界に生まれてから、初めて船に乗ることになった。
王領地までは船で五日ほどかかるらしい。湖なので潮の流れが早
いわけでもなく、かなり風頼りになるというわりには、早い。
しかもキルレア伯爵領を戦い抜いて到着しなくてもいいのだ。兵
の損耗も犠牲も無しで到着できる。
サレハルド軍を先行させなくとも、レジーはこの方法を使うつも
りだったようだ。その初期案だと、近衛騎士のディオルさんの家、
王都に近いタリナハイア領へ渡ってそこにいるだろう兵を集め、王
都へ攻め上る予定だったらしい。
けれどレジー達が移動したと聞けば、他の領地に散らばっていた
兵も、急いで王都へ終結して、ルアイン軍の規模が膨れ上がること
になる。
リスクの高い戦いをするよりは、順に攻略した方が少人数を相手
にすることになるので、楽だと判断したようだ。
そのうち何分の一かは、イサーク達にお掃除してもらうこともで
きるのだし。
とにかく出発日になった。
デルフィオンの船や、レジーが援軍として呼んでいたタリナハイ
アの兵が乗って来た船などに、兵達が分乗する。
そうして間もなく⋮⋮アランが船酔いになった。
﹁周りで一番野生児みたいな人だと思ってたのに⋮⋮﹂
﹁野生児って、なん⋮⋮うぷ﹂
1796
船の欄干にもたれかかるように捕まり、アランは青い顔をして湖
面を見下ろしている。
﹁アランが一番、外で木登りとか野犬と戦ったりとかして暴れ回っ
てそうなイメージが﹂
﹁僕がいつ、暴れ⋮⋮うっぷ﹂
﹁まぁそれは冗談として。アランっていつも馬乗り回してどこかに
いたし、噂で大きくなったリーラにも乗せてもらったって聞いたか
ら。大きく揺れる船の上でも平気なんだと思ってたんだけど﹂
三半規管とかすごく鍛えられているんだろうと思ったので、もの
すごく意外だったのだ。
﹁ていうか、なんでお前が平気なんだ⋮⋮﹂
恨めしそうな声でアランに言われて、それもそうだなと私は首を
かしげた。
ゴーレム
﹁なんで平気なんだろう?﹂
﹁あの土人形に乗ってるせいでしょう。あれはけっこう横にも揺れ
ますからね。船よりも酷い。それに慣れているから、キアラさんは
予想外に平気なのでしょう﹂
推測を口にしたのはカインさんだ。
﹁ここにいたんですか、キアラさん﹂
﹁せっかくの船旅ですだから外見たいですし﹂
﹁それはいいですけれどね。アラン様のことを少しそっとしておい
てあげて下さい。たぶん、話すのもやっとですよこの感じだと﹂
1797
と言ってカインさんが目を向けるアランは、さっきよりもますま
す青い顔をして、口元を押さえている。
﹁さ、気分良く吐かせてあげてください﹂
そう言うカインさんに同調するように、アランが口を押さえてい
ない方の手を、追い払うようにしっしっと動かした。
確かにこれは限界そうだ⋮⋮反省して私はその場を離れる。
﹁話してたら気分がまぎれるかなって思ったんですけれど⋮⋮﹂
﹁それよりも薬の方が効くでしょう﹂
アランに近づくチェスターさんが、何かを持っている。水筒と薬
だろう。それなら、効けばよくなるだろうと納得した。
それにしても、と思う。
アランのことを気にして、構っているつもりのお邪魔虫な私を引
き離したりするところなんかは、本当にカインさんてお兄さんなん
だなと感じた。
思わず笑ってしまう。
﹁どうかしましたか?﹂
﹁いえ、カインさんて本当にアランのお兄さんなんだなと思いまし
て﹂
カインさんは少しびっくりしたような顔をした後、苦笑いしてみ
せた。
﹁そうですね⋮⋮。最近は手がかかる妹ばかりかまっていましたけ
どね、アラン様もいくつになっても目が離せない弟のままでいてく
1798
れる﹂
そう言ってカインさんが私の頭を、二度軽く撫でた。
﹁さて、その妹のようなキアラさんは、きっとこのことも知りたい
だろうと思いましたので知らせに来たんですよ﹂
﹁え? 報せですか?﹂
﹁サレハルド軍からです﹂
﹁イサークが?﹂
王領地に侵入したイサークからの連絡が来たようだ。
カインさんがうなずいた。
﹁鳥を飛ばしてきました。王領地への上陸は上手くいったそうです
よ﹂
イサーク達はルアイン兵の鎧を拝借した上で、ルアインの船で遠
回りをして王都に近い方からやってきたふりをしたそうだ。
王領地のルアイン軍は、ファルジア軍の進行状況に対応するため、
増強するために兵を送ったという話を信じ、港にイサーク達を招じ
入れた。
そうして油断したところで、湖岸の砦を奪還したそうだ。
ルアイン軍の油断を突いたことで、被害も軽微で済んだと聞き、
私はほっとした。
﹁落ち延びた者からすぐにあちこちに話が伝わるでしょうから、一
度しか使えない手ですね。でもその一度を、誰もが失敗せずにやり
おおせるとも限らない。さすがというべきでしょうね﹂
カインさんが褒めたことに、私は驚く。
1799
騎士達は仕えている領主や貴族の兵でもあり、彼らに次ぐ指揮官
の役割もする。普通の兵士とは役割が違うのだ。だからアランやレ
ジーも自分の騎士に、軍の運営を任せることがよくある。
カインさんもそんな一人だ。
だからこそ軍を動かして、戦いに勝つ難しさもよくわかっている。
そんな人が、自分を殺しかけた相手を褒めたのだから。
﹁どうかしましたか?﹂
﹁驚きました。カインさんは、恨んでいるだろう相手のことも褒め
られるなんて、すごいな、と﹂
素直に言うと、カインさんが薄らと困ったように笑った。
﹁役に立つものを褒めるのは、そう抵抗はありませんよ。ルアイン
との戦いに負けるわけにはいきませんからね﹂
なるほど。手に入れた道具で怪我をしても、役に立つのなら使う
のも褒めるのもやぶさかではない、と。
さすがカインさんは大人なんだな、と尊敬した。私だったら、助
けられた恩がなかったら、許せたかどうか自信がない。
﹁むしろ、あの状況で攫われたわりに、キアラさんは彼を恨んだり
していないんですね﹂
尋ね返されて、私はうーんと悩む。
﹁ファルジア軍の人を傷つけたことも、カインさんを殺しかけたこ
とも、思い出すと辛くなります。だけど、彼が何度も助けてくれた
ことも、本当だから﹂
1800
一つのことだけで、彼を判断できない。
﹁でも、カインさんの話を聞いて思いました。協力してもらった方
が利益が大きいですから、割り切らないといけませんよね﹂
﹁何の利益ですか?﹂
﹁イサーク達ががんばってくれたら、カインさんも危険な場所に行
く回数が減るわけです。代わりに命を張ってくれてると思えば、私
達にとっては利益になりますよね? それに何度か蹴ってやって
ますから、それで私の分はおしまいにするんです﹂
﹁蹴ったんですか﹂
﹁ええと、何回だったかな⋮⋮。レジーが助けに来てくれた時も蹴
ったし⋮⋮﹂
蹴ったり、あと足を踏みつけたりもしたか。
う、イサークのキスのことも思い出しちゃった。ときめいたりは
しないんだけど、好きな人がいるのに他の人とそんなことになった
ことに、ものすごい罪悪感がある。ちょっと落ち込んだ。
でもあれを許そうと思ったのも、イサークが気づかせようとした
からってわかったからで。少し、イサークって体張って恨まれ役買
いすぎじゃないかと思う。
一方のカインさんは、変な事をつぶやいていた。
﹁そうしたら、今でも打ち所が悪かったのか⋮⋮﹂
イサークってそんなマゾっ気のある人かな?
やがてアランの船酔いも治り、船旅も順調に進んだ。
三日後に私達は王領地の港に上陸したのだった。
1801
王領地の不審な場所
湖岸では、船が近づいていると知らせを受けて来たんだろう。イ
サークが待ち構えていた。
まずはレジーやアラン達と挨拶をしたイサークは、次にそれより
も後ろにいた私に気づいて声をかけてくれる。
﹁よおキアラ!﹂
その様子が、カッシアやイニオン砦の時みたいに気軽なものだっ
たから、懐かしくなって、ついあの時みたいに返事をした。
﹁無事で良かった。怪我はない?﹂
﹁お、心配してくれんのか? だまし討ち戦でやられるわけがない
って﹂
﹁でも流れ矢とか⋮⋮﹂
﹁俺は王様だからな、他の奴らが気にしてくれるんだよ﹂
あっけらかんと笑うイサークを見てると、そういうものなのかな
という気はしてくる。
確かにレジーだって、常に誰かが周りを固めてるんだよね。
そう思ってたら、さらに話そうとしていたイサークの肩にレジー
が手を置いた。
﹁ああ、イサーク殿。早く今の状況についての説明が聞きたいな。
砦の中に案内してくれるだろうね?﹂
微笑んではいるけど、なんかレジーの目が怖い⋮⋮。
1802
対するイサークも、にこやかな表情でさらりと言う。
﹁なんだキアラに近づけたくないってか?﹂
﹁君は前科者だからね﹂
前科という言葉にどきっとする。
意識しないようにしてたのに⋮⋮犬にかまれたと思って。だけど
レジーがその件について口にすると、罪悪感が湧いて来る。
﹁いやだね、心の狭い男は﹂
﹁心が狭くなるようなことをするからだよ。堂々と教えておいて、
今更知らないふりもないだろう? キアラ、おいで﹂
レジーが呼ぶので、私は素直にそちらに近寄る。するとレジーが
するりと腰に手を回してきた。
﹁えっ、あれっ﹂
ちょっと待って、今結構な人の前でこんなことすると思わなかっ
た!
なのにグロウルさんは平気そうな顔をしているし、フェリックス
さん達騎士も普通にしている。アランまで放置してサレハルド側の
将軍と話をしているし、ちらちらこちらを見ているのは、ちょっと
遠くにいる平の兵士ぐらいだろうか。
後ろにいるカインさんがどんな顔をしているのかは怖くて見れな
い⋮⋮。
けれどレジーは全く気にしていなかった。
﹁私が保護者になっているわけだから、キアラに近づける人間も私
が口を出すのが当然だからね。さ、案内してもらおう﹂
1803
微笑みを消さずにそう言ったレジーは、イサークが呆れたような
顔をして先導し、砦の中へ案内する間も、私の手を握って離さなか
った。
砦の入り口にも中庭にも、整列したサレハルドの兵士達がいたけ
れど。
半歩遅れて歩く私は、どう見えてしまったのか⋮⋮。
実に恥ずかしかった。
それでも手を振り払えない。できればずっと繋いでいたいからだ。
手を離したのは、砦の中に入ってからだ。
寂しいのにほっとした。
やっぱり人の目があるところでずっと手を繋ぎ続けるのは、抵抗
がある。だって恋人同士というわけではない。表向きには、友達の
ように仲が良い王子と魔術師だから。
でも手を離す時に、レジーが耳元で囁いた。
﹁ほんとは離したくないけどね﹂と。
おかげで手を離されても悲しくはなかったから⋮⋮なんだか、全
て見通されているような気持ちになる。
それも安心できたりするんだけど。
カインさんが、なんだかこの間からちょっと様子がおかしい。だ
からどう見えているか気になってしまう。
ただレジーが離れた後で、私の護衛でもあるカインさんが﹁防犯
のためには、あれは有効だったでしょうから、気にしない方がいい
ですよ﹂と言ったので、カインさんもそういう方向で捉えてくれて
いると思うのだけど⋮⋮。
とにかく現状についての説明と、これからの方針についての打ち
1804
合わせだ。
イサークは砦を奪取後、すぐに王領地内部に斥候を放っている。
もちろんルアイン兵の衣服を着せたままで。
帰ってきた者の報告によると、元々王領地にいた代官は、ルアイ
ンが王領地に攻め入る前にパトリシエール伯爵の手の者によって殺
され、兵のほとんどがシェスティナ侯爵領での決戦のため、西へ引
いたようだ。
その後、湖畔以外の二つの砦はパトリシエール伯爵の私兵が一つ、
ルアイン軍が一つを占拠しているという。
﹁ただ一個、変な場所がある﹂
﹁変な場所かい?﹂
聞き返したレジーに、イサークが困惑した顔をしていた。
﹁砦みたいな壁で囲まれた館に、パトリシエール伯爵の兵が出入り
していた。ついこの間まで頻繁にな。あと、お前達が倒した魔術師
の男。あいつも立ち寄っていたようだが﹂
﹁クレディアス子爵も⋮⋮﹂
﹁場所はここだ﹂
ファルジア側が渡していた地図の、ある一か所をイサークが指差
す。
その場所を見て私は気づいた。
⋮⋮茨姫を仲間にするため必要なものが、ある場所だ、と。
そこにクレディアス子爵が出入りしていた。パトリシエール伯爵
の兵も。
1805
ゲームではそんな繋がりの話など一切出てこなかった。一体どう
いうことだろう?
王家がクレディアス子爵と密約を結んでいたらしいことはわかっ
ているけれど、そこにパトリシエール伯爵が絡んでいたのか。
確かにクレディアス子爵が王妃の仲間になった経緯も、詳しくは
わからない。私が夢で見た一回目の殺されてしまうキアラの人生で
も説明されなかったし、そんな所へ連れて行かれたこともなかった
から。
でもそれを調べたら、何かがわかるかもしれない。
クレディアス子爵を倒したとしても、まだ王妃達が何かを隠して
いる可能性もある。
﹁今は誰もいないからな。俺たちもそこは放置している﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
つぶやいたレジーは、私を振り返る。
クレディアス子爵が関わっているのなら、魔術師が判断する範疇
のものだと思ったのだろう。
﹁あの、できればそこを調べに行きたいです。魔術に関わるもので、
王妃達には不可解なことがありすぎて。その理由を知る手がかりが
あるかもしれません﹂
レジーはうなずいた。
﹁わかった。許可しよう﹂
1806
遠くを見渡して
翌日、私達はすぐに出発することになった。
離宮まで急いで帰ってくるため、今回は少数精鋭だ。デルフィオ
ンでアーネストさんの所へ向かったのと同じ、五十人ほどの集団と、
サレハルド側の案内のための兵だけを連れて行った。
なにせキルレア伯爵領方面から進んでくる軍のこともある。南へ
進軍し、合流したところで早々にシェスティナ侯爵領へ入る予定な
ので、そちらも先に行動してもらいたい。
だからアラン達にはサレハルド軍と南下を始めてもらい、私達は
離宮からそちらへ合流することにした。
兵も移動続きだから休ませたいのはやまやまだけど、できれば冬
までには家に帰したいし、彼らも帰りたいはずだ。
そして敵に無用な備えをさせないためにも、素早く攻略すべきだ
からだ。
焦る程度には、最近風が冷たくなってきていた。
私もデルフィオンでエメラインさんに見たててもらって、上着を
身につけるようになっているほどだ。
さて離宮までの道は、ほんの一日ほどだ。
一度だけ野営して、次の日には到着できる。この野営も、冬に軍
を動かせない理由の一つだ。
ファルジアの冬はそれなりに雪が降る。北国らしく雪深い土地の
サレハルドよりはマシだが。
そんな野営の時、いつも通りカインさんが近くで夜番をしてくれ
1807
ていた。
もちろんカインさんも他の人と交代するので、長く起きてはいな
いし、私も早々に起き出せば守ってくれる人の負担が軽くなるので、
早寝早起きを心掛けている。
それに風が冷たくなっている季節だから、いくら焚火を絶やさな
いとはいえ、夜に番をしてくれるカインさんの体調も心配になって
くるので。
ただこの日はやけに早く目覚めてしまった。その後も寝つけない
ので、一応空は明るくなっているのだし、野営している場所の周り
を歩き回ろうとした。
なら、とちょうどその時にいたカインの勧めで、木より高い土の
塔を作って上った。
太陽は見えないけれど、空は薄青く明るい。その下には、湖側へ
となだらかな斜面を見せる丘陵や、点在する林が見えた。
風景としては、デルフィオンの湖畔地方と同じだけど、元は自分
も王領地に住んでいたことを思えば、遠くへ来たもんだとしみじみ
と感じた。
元の家など、身に行くつもりもないけれど。
悲しい記憶しかない場所に、望んで近づく趣味はないから。
﹁キアラさんが下りた後は、他の者が周囲を警戒するのに使えます
から。このままにしておいてください﹂
﹁あ、わかりました﹂
じっと遠くを見渡していると、カインさんが言った。
﹁朝には解体してもらわなければなりませんが﹂
1808
一緒に上まで登ったカインさんが、ふっと息をつく。
﹁どうしました、何か具合でも悪かったり⋮⋮﹂
カインさんはかなり頑健な人だ。そんな人が何でもないような時
にため息をつくなんて、疲れているのか体調が悪いとしか考えられ
なかったんだけど。
﹁そういうわけではありませんよ﹂
カインさんは子供にするように、私の頭の上に手を置いた。
﹁ただ高い場所から遠くを眺めていると、何もかも見通せるせいか、
自分の考えごとも小さく思えるような気がして。⋮⋮昔はそんなこ
とは思わなかったのですがね﹂
何か悩んでいるのだろうか。
それを聞き出していいのかわからずにいると、カインさんが言っ
た。
﹁私は多分、強欲なんですよ。全てを失いたくない。欠けた皿をい
つまでも未練がましく見つめてしまうみたいに。⋮⋮だから、家族
を失ってもそこから歩き出そうと思わなかった。そう考えていたこ
とを、キアラさんと一緒に過ごしている間に、気づくようになりま
した﹂
﹁でも、傷ついて当然じゃないですか。それは悪いことではないで
すよ﹂
家族を失って辛くない人なんていない。時間や他に出会う人との
出来事で、ちょっとずつ辛さが遠ざかるだけだろう。
1809
﹁そうですね⋮⋮今はそう思えるようになりました。昔はたぶん、
それが悪いことのように感じていたんでしょう﹂
カインさんが振り返って微笑んだ。
﹁あの頃の私は、キアラさんくらい若かったですからね﹂
でも、とカインさんが続けて言った。
﹁むやみに周囲を見ないで突っ走ったからこそ得たものもあります。
疑問を持たなかったからこそ、戦う術を磨くことに邁進できたので
すから。だから⋮⋮キアラさんも、誰かのために今そうしなければ
ならないと思えたのなら、誰がどう感じるとか、後でどうなるのか
とかを考えずに走ってみたらいいと思いますよ﹂
﹁カインさん⋮⋮?﹂
﹁貴方は未来を知っているせいで、今まで真っ直ぐに走って行った
けれど、自分の心の赴くままといった行動はそれほどしていない﹂
﹁そうですか?﹂
自分では好き勝手にさせてもらっているように思っていたので、
首をかしげてしまう。カインさんは﹁わからないならそれでいいん
ですよ﹂と言った。
﹁突然変な話をしてしまいましたね。時々、貴方や殿下達を見てい
ると、兄のように色々と言いたくなる瞬間があるんですよ﹂
それに、と続けた。
﹁貴方が前へ進むために必要な人を決めたのなら、誰を選んでも私
1810
は何も言いませんよ。ただずっと、守るのは私の役目です。それだ
けは忘れないでください﹂
では、と言ってカインさんは先に下へ降りて行ってしまう。
﹁え⋮⋮カインさん、まさか私の気持ち、知ってる?﹂
誰にも言ってはいない。察しの良いレジーなら気づいてしまった
と思うけど、むやみに彼と接近しているわけではない。それにわか
らないようにしていたつもりだったのに。
すると、置き物のように何も言わなかった師匠が、ぽつりとつぶ
やいた。
﹁何かを感じたんじゃろうな。どうせ弟子は隠すのが苦手じゃから
の。ヒッヒッヒ﹂
﹁⋮⋮隠せていませんか?﹂
﹁お前にしては頑張っておるが。考えてみれば王子と同衾してみた
り、微妙な部分で漏れておるじゃろが﹂
﹁あれは私の意識が無い間の出来事で⋮⋮﹂
心臓に悪いぐらい、驚いた。
後からジナさんには、レジーも意識を失うように寝台の横で座り
込んで眠ってしまったと聞いたけど。だから目覚めた時に、レジー
が悪ふざけをした時だけ一緒に寝転がっていたようだ。
それにしてはジナさんも全く焦った様子もなく、普通のことのよ
うに受け入れてたのが解せない。尋ねても﹁殿下がむやみに手を出
すはずがないってわかってるからー﹂とニヤニヤしながら言われた
だけで。
思い返していたら、師匠につつかれた。
1811
﹁そもそもは、お前が王子の袖や手を掴んで離さなかったせいじゃ
ろが。あやつもその辺りは目にしておったからのう。ウッヒョヒョ
ヒョ﹂
﹁うう⋮⋮﹂
カインさんは私の側にいたのだから、見ていて当然だ。じゃあや
っぱりそういうこと⋮⋮なのかな。
同じことを考えたらしい師匠が言った。
﹁あやつも、心の整理がついたのではないかの? むやみに代わり
を持つことも、復讐を成し遂げることも、お前さんのことについて
も、多少なりと冷静に見られるくらいには﹂
そうだといい、と思う。
特に家族や復讐については、心の整理がついてほしい。ずっと思
い悩んで、辛い気持ちではいてほしくないから
1812
かつて茨姫が求めた物
到着したのは、イサークが言っていた通りの館だった。
館そのものは三階建てで、離宮というだけあってそこそこの規模
がある。部屋は五十室はありそうだ。
そんなコの字型の館の周りには、砦や魔獣を警戒する都市のよう
に堅固な壁がめぐらされている。見張り塔まであるのだから、元は
砦があった場所に館を建てたんだろう。
レジーがその考えにうなずいて、教えてくれた。
﹁たぶんここは、元はパトリシエール伯爵家が持っていた砦だった
んだろう﹂
パトリシエール伯爵家は、元々現在の領地と、その北にある王領
地までを治めていたらしい。けれどルアイン王国と繋がりが深く、
昔の戦で裏切りに近い行為があったということで、領地を半分取り
上げられたのだ。
なるほど。そんな砦の一つに、壁を利用して離宮を作ったという
ことなんだろう。
一応塔から順番に中を調べた。
クレディアス子爵達は塔も使っていたようだ。
﹁監視をしてたのに、周辺に魔獣が出るわけでもないし、何を隠し
ていたんだろ⋮⋮﹂
﹁考えられるのは、実験じゃろうな﹂
1813
師匠が私のつぶやきに応じてくれた。
﹁実験?﹂
﹁人に見せられん実験で、クレディアス子爵は魔術師じゃ。想像で
きんか? ウッヒッヒッヒ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
言われて思い当たる。うん、魔術師くずれの実験とかしてたら、
確かに周辺に人が近寄らないか見張りたくなるだろう。
﹁でも普通の館にしか見えなかったって報告を受けたって、イサー
クが言っていたけど﹂
﹁サレハルドの騎士に行かせたのだろうし、魔術師の実験場だと思
って調査をしたわけじゃないのかもしれない。そうすると、隠しき
れなかったものを、見つけられるかもしれないね﹂
側にいたレジーの言葉に、あ、と思う。
そうだ、ここには茨姫が探すように言った品物があるかもしれな
い。
茨姫がここにどうかかわるのかわからないけれど、ゲームで探索
した場所に、もしかすると魔術師くずれの実験について隠されてい
る可能性がある。
﹁そうしたら、館の中を探そう﹂
﹁主にどこがいい?﹂
レジーが尋ねてきた。まずは私の知識を参考に探索するつもりな
んだろう。
﹁館の、二階の部屋なんだけど。確か右翼側だったような﹂
1814
﹁部屋の中に、隠し扉でも?﹂
私は首を横に振った。
﹁部屋にある壁に、埋まってるの﹂
﹁壁?﹂
レジーが困惑した表情になるのも無理はない。だけどそういう話
だったのだ。
﹁部屋の特徴は特に無くて、どこもある程度焼け焦げたり、ちょっ
と壊れたりしていて﹂
館の中に入ってみると、私がゲームで見たのと同じような状況に
なっていた。
玄関ホールから、あちこち穴が開いたりしていた。天井から落ち
たシャンデリアの硝子や蝋燭が散乱している。
﹁引き払う時に、ひと騒動あったような感じですね﹂
一緒に来ていたフェリックスさんの言葉に、レジーがうなずく。
﹁派手さから考えると、やっぱり魔術師くずれかな。煉瓦の壁をへ
こませるなんてそうそうできないからね﹂
﹁念のため警戒はしましょう。サレハルドの配下は放置しても、殿
下方に対しては何かを画策しないとも限りませんから﹂
グロウルさんが兵達をなるべく固めながら二階へ向かう。
部屋の様子はゲームでも詳しくは描かれていなかったけれど、文
字で簡単に説明されていたように、玄関ホールと同じように壊れた
1815
りしていた。
その部屋を分散して探って行くけれど、なかなか見つからない。
一度休憩を取り、再び探し直す。
それで見つからなかったら、他の階の部屋を探すことになってい
たのだけど。
﹁隅っこ、隅っこね⋮⋮﹂
レジー達にも伝えた情報をつぶやきながら探す。
とはいえ、四つ角などを探してもなかなか見つからない。
首を傾げていた私は、ふと足下に視線を落としたところで、大き
な木の寝台近くの壁に目を引かれた。
部屋の壁には漆喰が塗られているけれど、破壊の痕のせいでどこ
もかしこも汚れや削れがあって塗り直された場所に判別がつかなか
ったけれど、壊れた寝台が逆に壁の代わりをしたのか、その周辺は
綺麗だ。
むしろ、壊れてすぐ露出するような場所には、物を隠さないんじ
ゃないだろうか。
﹁漆喰なら、土の魔術で⋮⋮﹂
その周辺の漆喰を砂にしてはがしてしまう。
すると白く積もった砂の上に、ぽろりと装飾品が落ちてきた。
壁に塗りこめられるようにして隠されていたものだ。
﹁まさか、これ?﹂
﹁そうじゃろうな﹂
師匠が同意してくれる。声を聞いてカインさんも近づいてきた。
1816
﹁見つけたのですか?﹂
﹁たぶんこれです﹂
そう言って見せたのは、二つの物だ。
古ぼけた赤いリボンが巻かれた、紋章の掘られたカメオ。そして
宝石もついていない黒ずんだ銀の指輪。
たったそれだけだけど、確かにゲームでアランはカメオを手に入
れて、茨姫に渡していた。
その時は、茨姫の思い出の品なんだろうと思ったけれど。
﹁この紋章⋮⋮﹂
ぼんやりしていた私でも、この紋章だけは覚えている。カインさ
んは私よりも詳しかっただろう。すぐにわかったようだ。
﹁パトリシエール伯爵家のものですね。こちらは⋮⋮﹂
指輪の方を手に取って確認したカインさんは、やや眉をひそめて
から言った。
﹁とにかく調べるのは終わりと見ていいでしょう。殿下達にこれを
見せましょう﹂
一緒にいた兵士に連絡に走ってもらい、私とカインさんは集合場
所にしていた、玄関ホールへ降りる。
最初に降りてきたのは、レジーとは別行動で捜索をしていたグロ
ウルさんだ。
とても渋い表情で薄い冊子を二つ手にしていた。何か見つけたの
1817
だろうけど、あまり良くないことが書かれているもののようだ。
そしてレジーがやってきて、主要な人間だけで比較的被害の少な
い部屋の一つだった、一階の正餐室に集まった。
﹁では、見つかったものについて報告してもらおう。まずはキアラ﹂
私は見つけた状況を話して、リボンが巻かれたカメオと指輪をカ
インさんからレジーに渡してもらった。
﹁パトリシエール伯爵家の紋章か。どれくらい前のものかはわから
ないけど、きっと伯爵の親族も犠牲にしたんだろうね⋮⋮﹂
やっぱりそう思うよね。紋章入りの装飾品を持っているのなんて、
伯爵家の人間だとしか思えない。
そうすると、パトリシエール伯爵の娘だろうか。それとももっと
前に生きていた人? どちらにせよクレディアス子爵と交流し始め
たのは、だいぶん前からのことだったようだ。
こちらに関しては、その場にいたレジーや騎士達、カインさんも
予想済みだったのだろう。それほど驚きはしなかった。
けれどもう一つの指輪をじっと見ていたレジーが、さっと表情を
変えた。
﹁これは⋮⋮﹂
1818
痕跡が示すもの
驚いたものの、レジーはそれ以上何も言わない。
そこへ、グロウルさんが持ってきていた冊子を差し出した。
一冊だけとあるページを開いた状態で。
﹁これはおそらく⋮⋮クレディアス子爵による魔術師を作る実験の
犠牲者になった者の一覧です﹂
﹁そんなものがあったのかい?﹂
﹁燃え落ちた部屋の中に、残っていました。火を放ったことで安心
して確認しなかったのかもしれません。何かの要素で上手くこの冊
子が収まっていた机が焼け残ったようです。開いた場所をご覧下さ
い、殿下﹂
グロウルさんが指である箇所を指し示す。
それを見たレジーは、一瞬だけぐっと眉間に力を入れたことがわ
かった。すぐに平素の態度に戻る。
﹁王族らしい名前がけっこう並んでいるね⋮⋮。多少この状況は予
想していたけれど、名前が無いのは、名づけられもしなかった子供
なのかな。年が書いてある﹂
﹁このページの辺りは、昔からの記録を整理したもののようです。
なので一時に十数人を殺害したわけではないのでしょう。近年に近
いもので、おそらく攫ってきたと思われる女性達の記録はもう一つ
の冊子の方に、まとめてあるようです。それでも、走り書きのよう
なものですが﹂
グロウルが説明すると、レジーが見ていた冊子を閉じて他の騎士
1819
達に回す。
﹁私が見た方は、王族かクレディアス子爵家の近親者のようだね。
パトリシエール伯爵が関わり始めたのは、十二年ぐらい前なんだろ
うね。エフィア・パトリシエール⋮⋮おそらく伯爵の親族で、この
子がカメオの持ち主だろう﹂
﹁⋮⋮魔術師殿が見つけた装飾品のことを考えても、二人ともにパ
トリシエール伯爵が関わっていそうですな﹂
グロウルさんの言葉に、レジーがうなずく。
その時カインさんの元に片方の冊子が回って来たようだ。中を見
たカインさんが、小さく呻くような声を出す。知っている人の名前
でもあったのだろうか?
﹁どうしました、カインさん﹂
ささやき声で尋ねた私に、カインさんが冊子を渡してくれる。中
を見ればわかるということなんだろう。
私がページをめくる間にも、レジーがグロウルさんに答えていた。
﹁あの後のルアイン戦後⋮⋮、いくらパトリシエール伯爵家がルア
イン貴族と縁続きだとはいえ、ルアインとの交渉などを任せるのは
妙だと思ったんだ。一代前の伯爵の時には、ルアインに与したせい
で冷遇されていたはずだからね。でも、私の祖父の代で急に優遇さ
れた理由に納得できた気がする﹂
﹁というと?﹂
﹁パトリシエール伯爵は、一度妻を亡くしているんだ。王族の、公
爵家の体が丈夫ではない女性だったみたいで、十二年くらい前に死
別していたそうだけど。⋮⋮そうか﹂
1820
何かをレジーが納得したらしいその時、私はカインさんに横から
ページをめくってもらい、ようやくその記述にたどり着いた。
そこには確かに、エフィア・パトリシエールの名前と、十二歳と
いう年齢が記されていた。
﹁エフィア⋮⋮﹂
王族の母を持つ。十二歳。しかもカメオの隠し場所を知っていた。
﹁茨姫が、エフィアという子なのかもしれない﹂
﹁まず間違いないと思うよ﹂
私の独り言に応じたのは、レジーだった。
銀の髪は王族から生まれる。直系の場合が多く、二世代目以降は
極端に少なくなるようだけど、このエフィアのように三世代目くら
いなら生まれる可能性は高い。
﹁髪の色もそうだけどね。茨姫がこの建物に隠されていたものに執
着があって、しかも遠くない過去のものなら、彼女は⋮⋮何百年も
生きてきた魔術師ではなく、魔術師になってしまった子供の可能性
が高いだろう﹂
確かに、エフィアの知り合い等だったとしたら、隠し場所を知っ
ているのはおかしい。エフィア自身か一緒に指輪を埋めた人物でし
かありえない。
﹁でも、子供のままの姿ってことがあるのかな?﹂
膝の上に乗せていた師匠に﹁どうです?﹂と尋ねてみる。
1821
﹁魔術師じゃからの。どんな能力があるのかはわからんから、そう
いう事象があるとしても納得できるというものじゃ。それにのぅ、
森からずっと出なかったのじゃろ?﹂
﹁そういうことになってるらしいけど⋮⋮﹂
﹁クレディアス子爵の元で魔術師になったせいで、奴から逃げるた
めに森に潜み、何百年も生きていると噂を流したとも考えられるじ
ゃろ﹂
師匠の意見に、レジーがうなずく。
﹁やっぱり、エフィアって名前の子なのか⋮⋮﹂
ともすれば、養女の私とは義理の姉妹にあたる人だったのか。だ
から私に親切にしてくれたのかな?
そう思いながら冊子にまた視線を落とした私は、エフィアの下に
書かれた名前に目を瞬く。
どこかで聞いたことがある、と思った。
姓がなく︽リネーゼ︾とだけ書かれている人物の記述。年齢は二
十四歳だ。でもこの冊子には王族かクレディアス子爵の親族などの
貴族の名前が記載されているという。
エフィアを魔術師にしようとした場合、一番騒ぐのが母親だろう。
十二年前にその母親が亡くなっているのなら、エフィアはその後に
魔術師にされたはず。
十二年前。その頃の王族なら、五歳だったレジーもいくらかは知
っている人かもしれない。
そこで私は、レジーが驚いた表情と一緒に、レジーが五歳の時に
いなくなった人のことを思い出す。その人の名前は⋮⋮。
思わずレジーの方を見た。
1822
﹁とにかく目的物は見つけた。もし茨姫がなかなか行動せず、現れ
てもすぐ消えてしまったのがクレディアス子爵がいたせいだとする
なら、彼の死亡とこの装飾品を渡すことで、協力を求められるかも
しれない。アラン達と合流してから、使者を出そう﹂
レジーは話をまとめて立ち上がったところだった。
そこでグロウルさんが、気づかわしそうな表情で言った。
﹁どちらにせよ、今日はここから動かない方がいいでしょう。比較
的無事な部屋もあります。そこを使ってお休み下さい。野営よりは
私達も屋根と壁がある方が、楽にすごせますから﹂
﹁⋮⋮そうだね。わかった﹂
うなずいたところで、すかさずフェリックスさんが私に頼んでく
る。
﹁三階の使用人部屋は、重要物がないと思ってなのかあまり破壊さ
れていません。他の用事があるので、すみませんが殿下と一緒に魔
術師殿もそちらで食事の時までお待ち下さい﹂
カインさんもそれに同意して、グロウルさんと一緒に私をレジー
と一緒に三階へ追い立てた。
一緒に冊子を預けられた私は、どうしてみんながそんな行動をす
るのかわかる。
⋮⋮レジーのことが心配だから。
でも彼は﹃部下﹄には気持ちをさらけ出さないから、私に任せら
れたんだと。
1823
﹁仕方ないね。みんなの邪魔にならないように引っ込んでいよう﹂
苦笑いするレジーも、それを感じていたんだと思う。三階への階
段を上がってすぐ、私の手を引いて適当な一室に入った。
1824
甘えるための約束
中は使用人部屋らしく、寝台しかない簡素な部屋だった。書き物
机もなく、エヴラールの私の部屋よりも狭い。
レジーは私と並んで寝台に座った。
横に持たされた冊子を置いてから、私は机の上に置いた師匠のこ
とを忘れて来たんだとわかったけど、それぐらい私も動揺していた
んだと思う。
﹁⋮⋮キアラも、気づいたかい?﹂
﹁うん。あれ、レジーのお母さん⋮⋮なの?﹂
リネーゼ。レジーが何度か私に教えてくれた、レジーのお母さん
の名前だ。
﹁盗賊にあったというけど、身代金の要求さえないのはおかしいと
思っていたんだ。灰になって消えていたんだから⋮⋮当然か。遺体
すら見つからないわけだよね﹂
まだ繋いだままだった私の手に、レジーが少し力を込める。
﹁母をクレディアス子爵に差し出したのは、祖父だと思う。十二年
前はサレハルドと交戦したことがあったはずだから、そこに魔術師
を協力させるため、クレディアス子爵家に生贄代わりに母を差し出
したんだ。強盗にみせかけて、失踪したことにして﹂
そんなバカな、とは言えなかった。親族でもそういうことをする
人はいる、と私は知っている。
1825
﹁そんなに、お母さんは憎まれてたの?﹂
﹁父が亡くなった直後だったから、なおさら目障りだったんだろう。
ただ母は王族の血を引いていなかったから、直系ではないけれど、
銀の髪を受け継いだパトリシエール伯爵の娘も差し出したんだろう。
伯爵は自主的にやったことかもしれないけれど。ああ、そうか、だ
から急にパトリシエール伯爵が重用されるようになったのか﹂
推測を口にしたレジーは、うつむいて呻く。珍しく彼が、片手で
顔を覆うように隠した。
﹁グロウル達にもずいぶん配慮させてしまったね⋮⋮﹂
﹁みんな、お母さんのことだってわかったから、あんな態度だった
んだね。カインさんも指輪を見た瞬間にわかったみたい。すぐにレ
ジーに見せなくちゃって表情を変えて⋮⋮﹂
﹁ウェントワースにも気を使わせてしまったね。でも、こうして母
がどうなったのか、わかって良かったよ﹂
うつむいたままレジーはそんなことを言い出す。
﹁前は⋮⋮母が自分の伝手を使って、針の筵だった王宮から永遠に
逃げ出すために、自作自演した可能性も、考えてて⋮⋮﹂
﹁お母さんとレジーは仲が悪かったわけじゃないんでしょう?﹂
肉親への情が薄いレジーでも、お父さんとお母さんのことは、悪
く言ったことがないのに。そんな風に思っていただなんて。
﹁記憶もない頃から、私は母の元から引き離されて祖父の管理下で
育てられてたんだ。父が生きていた頃からね。たぶん不必要に母が
1826
祖父から攻撃されないように、祖父に私が嫌われて、とんでもない
目にあわないように⋮⋮って理由だと思うけれど﹂
そのまま口をつぐむ。
レジーが言いにくいことは何なのか、私には理解できる気がした。
自分のためでもあったけれど、レジーはその決定が不満だったん
だ。もっとお父さんとお母さんと触れあいたかった。一方でレジー
も、自分の身の安全のことを考えるとそれが一番最良の選択だとわ
かってるから、嫌だと言えないんじゃないだろうか。
やがてため息をついたレジーが、手を下ろして顔を上げる。
﹁そういうわけだから、気にしなくていいよキアラ。君も休んだら
いい。茨姫のことも考えた方がいいだろうし⋮⋮﹂
彼は気にしなくていいと言うけど、平気だとは思えなかった。
﹁もう少しここにいる﹂
﹁キアラ⋮⋮﹂
﹁一人にしておけない。寂しい時に、一人きりだとよけいに悲しく
なっちゃうから﹂
きっと私が出て行ったら、一人で鬱々と考え込んでしまうだろう。
自分を見捨てたと思っていた母親が殺されたことで、見捨てられ
たと思った自分を嫌悪して⋮⋮。それを実行したのが肉親だという
ことにも、レジーは傷ついている。
酷いことをした祖父でも、死ぬまでは叔父の国王から自分を守っ
た相手だ。一つだけの感情で語れる相手じゃない。
そんな重たい物を、ぽつんと部屋の隅にうずくまって考えるのは
辛い。全て終わってしまったことだからこそ。後悔しても、取り戻
1827
せないから。
﹁こんな時ぐらい甘えてよ、レジー。私とレジーは家族同然でしょ
う?﹂
私の言葉に、レジーは少し戸惑っている様子だった。
でもしばらく考えた後、微笑んで両手を広げた。
﹁じゃあ、抱きついて来てくれるかい?﹂
﹁え、う⋮⋮﹂
自分から抱きつく!?
私は大いにうろたえた。とっさに、とか。レジーが危ない時とか
に、抱きついてしまうことはあったけど。二人きりの場所で向き合
って、そんなことするのは恥ずかしすぎる。
だけどレジーが悲し気な表情になる。
﹁したくない?﹂
﹁そ、そういうわけじゃ⋮⋮わかった!﹂
レジーは慰めてほしいだけだし、そうすると言ったのは自分なん
だからやらなくて。
えいっと私はレジーの首に抱きつく。そうしたらレジーがひょい
と私を持ち上げて、自分の膝の上に座らせた。
﹁えっ!﹂
﹁横からしがみつくのは体勢的に辛そうだったから。ね?﹂
レジーは私が逃げないように腕を回して抱きしめてくる。確かに
横から体を伸ばすのは辛いけど、レジーは抱きしめてほしいだけな
1828
んだから⋮⋮と私は思うようにする。
でもこの態勢だと、リアドナで助けられた後のことを思い出して
しまう。
好きだと告白されて、キスされた時のことを。
レジーは優しい表情で私の頭を、髪を撫でてその手を首に滑らせ
てくる。
恥ずかしさに身じろぎしたけど、抗議の言葉が出ない。間近で見
つめ合ってしまうと、もう視線が逸らせなくて。
頬を支えられるようにして、一瞬の間の後に、引き寄せられるよ
うにレジーの唇が私の唇と重なった。
触れるだけのキスは、二度目だ。
慣れたわけじゃないはずなのに、とてつもなく安心するのはどう
してだろう。
だから拒否できなくて、全力で好きだと言っているみたいで恥ず
かしい。
しばらくは幸せな感覚に浸っていたけど、レジーはなかなか離し
てくれない。私が頭を動かそうとすると、頬に触れていた手を耳の
後ろに回して、もっと強くなる。
唇に優しく噛みつかれて、背筋が震えた。
怖くなったけれど、気づかないうちに閉じていた目をうっすらと
開けば、レジーがじっと自分を観察しているような視線を向けてい
ることに気づいた。
︱︱怖がって、私が逃げるのを待ってるのかな。
思わず反発して逃げるまいとすると、レジーが目を眇めて笑い、
キスを深めてくる。
1829
﹁⋮⋮っ﹂
息がしにくくて、頭がぼんやりしてくる。
ふと気を抜いた瞬間に歯列をなぞられて、喉の奥から自分のもの
じゃないようなか細い声が上がった。首筋から頭の奥までぞわぞわ
する感覚にめまいがしそうで、とっさにのけぞるとレジーはキスを
止めてくれた。
息をつく私の頬に、レジーが唇で触れる。
﹁苦しかった? ごめんねキアラ﹂
キスをした後だから耐性が上がってしまったのか、頬への口づけ
が前よりも恥ずかしくない。むしろキスよりもずっと普通に感じて
しまう。
だけど物足りなく感じる自分に戸惑って、私は恥ずかしさに目に
涙が浮かびそうだった。
﹁キアラが甘いから、食べ尽くしたくなるんだ。これでも大分我慢
しているんだけどね。君が一人になることがあったら⋮⋮泣かせた
くないから﹂
﹁ひとりって⋮⋮私のこと置いて行くの?﹂
思考に霞がかかったみたいで上手く考えられないけれど、レジー
がキスをしてもまだ孤独を感じていることはわかる。
問い返すと、レジーは見たことがないほど妖艶に微笑んだ。
﹁置いて行かないよ。ただキアラに嫌われたくないだけだよ﹂
﹁嫌いじゃないって、言ったのに﹂
1830
リアドナで、私はどうしても好きだと口にできなかった。カイン
さんと誰も選ばないって約束したのと、色んな記憶が混ざり合って
怖くて。
でも嫌いじゃないと言ったから、レジーはもうわかっていると思
ったのに。
﹁信じてほしいなら、もう少し甘えても許してくれるかい?﹂
レジーはそう言って、私をぎゅっと抱きしめた。
その行動が心の穴を埋めるみたいで、私はレジーに孤独を感じて
ほしくなくて肩を抱きしめる。
﹁私は離れないから﹂
何かあっても抵抗する術がある。魔術に関しても、もう私を押さ
えつけられる人はいない。カインさんも、もう自分の心配はしなく
てもいいと言ってくれた。
だからそう宣言しても、レジーはまだ不安なのかもしれない。
﹁それなら、君を手に入れたって思わせて、キアラ﹂
抱きしめた私に食らいつくように、レジーの唇が耳の下から首筋
へとキスを繰り返していく。
くすぐったい感覚に肩が跳ねる。その後に残る甘い感覚に頭がぼ
うっとする暇もなく、次の刺激がやってくる。
噛みつかれたわけじゃないけれど、まだレジーは飢えてるんだと
感じた。
唇と指で触れる場所から、甘く私を変えて行って、食べてしまわ
ないと収まらないみたいに。
1831
そんなに寂しいのに、我慢させてたのは私だ。
怖がって、理解してくれていることに寄りかかって、大事な人に
ずっと確信できる言葉をあげないまま、優しさを受け取るばかりで
我慢させ続けていたから。レジーは飢えてしまったんだろう。
今までレジーはそれをすっかり隠していたけれど、お母さんのこ
とがあって、寂しさや孤独感が強くなってどうしようもなくなった
のかもしれない。
このまま、レジーを寂しいままでいさせたくないと思った。
私は背筋を震わせる感覚にあえぎながら、どうしても今伝えたく
て、その言葉を口にした。
﹁⋮⋮好きだよ、レジー﹂
かすれた声だった。
それでも言葉が耳に届いたんだろう、レジーは私の首から顔を離
すと、息を吐き出して私を抱え直した。
彼が、何かにとても安心したんだと感じたから、私もほっとして
腕の中に収まっていた。
﹁キアラ﹂
﹁何?﹂
ぽつりとレジーが耳元にささやく。
﹁好きでいてくれるなら、たまにこうして甘えさせてもらってもい
い?﹂
あらためて聞かれると、恥ずかしい。ぼんやりしていたせいで忘
1832
れていた羞恥心を思い出して顔が熱くなるけど、私はうなずいた。
﹁うん﹂
﹁約束だよ﹂
1833
告白の後
昨日、つい雰囲気に背中を押されて、告白してしまった。
翌朝目を覚ました私は、そのことを思い出して﹁あああああああ﹂
と呻きながら自分の顔を手で覆う。
﹁恥ずかしい、恥ずかしい﹂
思い出して恥ずかしがり、使っていた部屋の寝台をごろごろ転が
る。そんなことしたからって言ったことは取り消せないんだけど、
暴れて疲れると、羞恥心が少し落ち着いてくる。
息をついて大の字に寝っ転がっていると、師匠に笑われた。
﹁壁が薄いからの。あまり騒ぐと隣の王子に聞こえるぞ? ウッヘ
ヘヘ﹂
﹁うう⋮⋮﹂
⋮⋮うん、師匠には言ったんだ。
色々ね、気を使わせたりしたのもあるけど、師匠を迎えに行った
時の私の様子がおかしすぎて問い詰められたので。
昨日、様子がおかしかったのは仕方ないと思う。
告白してキスした後、レジーがなかなか離してくれないかと思えば
﹁あ、だめだ。このままだと我慢できなくて襲いそうだから。キア
ラは部屋に戻った方がいいよ﹂
1834
とか言い出したりして。
襲うって!? と、その単語にいろいろ想像してしまって、私は
脱兎のごとくレジーの部屋を逃げ出してしまった。
とはいえ落ち着かず、とりあえず土偶を抱きしめれば安心するは
ずと思って、師匠を迎えに行ったのはいいんだけど。
食堂にそのままいたらしい騎士の皆さんに﹁あれ?﹂みたいな顔
や安堵するような表情をされる。
わけがわからないまま、でも注目されると恥ずかしさがこみ上げ
て来て、とりあえず師匠を受け取ってレジーの隣の部屋に落ち着い
た。
﹁なんで私大注目されてたんだろ⋮⋮﹂
﹁お前が王子に食われるかどうか賭けが始まってたからのぅ﹂
私のつぶやきに、師匠がとんでもない答えを返した。
え⋮⋮まさか。あれ?って言いたそうな顔をしてた人は賭けに負
けたとか、そういう意味!?
﹁そ、そもそも食われるって何! まだ告白だってしてなかったの
に!﹂
﹁⋮⋮ほぅ?﹂
師匠がその言葉に何かがひっかかったらしく、ヒョッヒョッヒョ
と笑う。
﹁語尾が過去形ということは、したんか?﹂
﹁え、えう⋮⋮﹂
﹁それで赤い顔をして、慌てて王子のところから逃げてきたんかい
な?﹂
1835
﹁うそ! 赤い顔してました!? だってレジーがっ﹂
つい頬に手をあてると、師匠がまたおかしそうに笑う。
﹁王子が何かをやらかして? それで告白したと? うっひょひょ
ひょ。好きだと言えとでもねだられたんかいな?﹂
﹁レジーからねだられたわけじゃないけど、でも﹂
甘えさせてほしいって言うほど、レジーが心弱っている様子に、
どうにかしてあげたくて。
﹁それなら、母親の死因を知った王子が可哀想だったからかいな?﹂
﹁⋮⋮う、うん﹂
どうやらレジーと私が立ち去った後、その場にいた騎士達同士で、
レジーのお母さんが魔術師くずれにされて殺されたらしいことにつ
いて情報交換したようだ。
その場にいた師匠も、当然それを聞き知ったのだろう。
﹁慰めてたら、そういう雰囲気になってたと。抱きしめられて﹃も
う私には君しかいない﹄とか言われたんじゃろうのぅ?﹂
﹁⋮⋮う﹂
﹁図星か﹂
気づけば師匠に色々と看破されていた。
﹁な、なんでわかるんですか⋮⋮﹂
﹁そういう時にモテ男が言う台詞など決まっておるわ﹂
師匠は﹁ケッ﹂と毒づきながらも、やや柔らかい口調で言った。
1836
﹁まぁ、付き合ってるんだかわからないような状態よりはいいじゃ
ろ。待たせすぎるのも蛇の生殺しみたいなものだからの。あの王子
もよくまぁ待とうなんぞと思ったもんだの﹂
﹁やっぱり、待たせない方が良かったんですよね? 私もちょっと
無理言ったかなとは思ったんですけど、レジーが先に許してくれた
から甘えちゃって⋮⋮﹂
自分に置き換えてみれば、好きだと言ったのに返事をもらえない
のは、さぞ辛いだろうと想像できる。態度で色々バレているとはい
え、自分だったら答えないうちに心変わりしてしまったらとか、嫌
なことを考えてしまいそうだ。
ちょっと落ち込んでいると、師匠がケケケと笑った。
﹁まぁアヤツには我慢ぐらいさせておけ。うっかり暴走する方が怖
いからのぅ。少し待たせておいた方が安全じゃろ、ヒッヒッヒ﹂
﹁暴走って⋮⋮﹂
そんなことを言われると、レジーにされたことを思い出してしま
う。確かにあれは暴走だったから。
⋮⋮そういった一連のことを思い出したおかげで、翌日の今も、
私は再びごろごろとすることになってしまった。
その後、ご飯だからと呼びに来たカインさんの声に慌て、のたう
ちまわった疲れでぼんやりしていた私は、朝食で顔を合わせたレジ
ーにわたわたとパニックを起こした。
師匠に笑われて、なんとか自分を保とうとしたものの、恥ずかし
さが引かなくて、どうしてもレジーを見ることができなかった。
1837
それでも私達の予定は変わらない。
探索は終えたので、アラン達に合流するのだ。
移動中はカインさんと一緒なので、あまりドキドキすることもな
かった。
とはいえあまりにレジーに構われないと、昨日のことが夢か幻だ
ったのではないかと思えてきそうだった。
それでつい、休憩時に木陰に座りながらレジーのことを目で追っ
てしまったりしたのだけど。
ふっと視線が合う。
レジーが微笑むように目を眇めると、私の側に来てくれた。
﹁寂しがらせたかい? ごめんねキアラ﹂
目の前に膝をついて視線を合わせてくれたレジーは、そんなこと
を言い出す。
﹁寂しいっていうか、その、まだちょっと現実味がないっていうか
⋮⋮﹂
本当に私告白したんだよね? てことは、レジーと付き合い始め
たってことなのかな?
でもここは学校でもなくて、戦争の途上で、私が想像してた恋愛
のこういろいろなイベントというか、そういうものからすごく離れ
た状況なものだから。どう考えていいかよくわからないのだ。
すると察したようにレジーが笑ってささやく。
﹁君が応えてくれたんだから。君はもう私のものだよ﹂
他の人には聞こえないほど小さな声だったけど、確実に私の耳に
1838
届いて、顔が熱をもちはじめる。
﹁みんなに言って回りたいけれどね、君の場合恋は、私が初めてな
んだろう? エヴラールにいる間も、特に誰かと付き合ってはいな
かったって、報告を受けてるし﹂
﹁え、う⋮⋮うん﹂
恥ずかしいけど、本当のことだしとうなずけば、嬉しそうにレジ
ーが口の端を上げた。
その笑みに見とれてしまったけど。あれ、なんか変な事言ってな
かった? 報告ってどういうこと?
疑問が浮かんでうろたえる私に、レジーは何事もなかったかのよ
うに話を続けた。
﹁人に見られるのはまだ慣れてないだろう? 君を怯えさせたくな
いから、少しずつ慣れてもらおうと思っているんだ。だから、今は
ここまでにしよう﹂
﹁まだって、まだって⋮⋮﹂
﹁そのうち、不安になる暇がないくらいにしてあげるよ﹂
呻くように繰り返す私の頭を撫でたレジーは、それだけ話してま
た自分の馬の元へ歩いて行く。
呆然と見送った私は、しばらく経ってからようやく疑問を思い出
す。
﹁あれ、報告って?﹂
師匠がため息をついた。
﹁王子がいない間も、誰かにお前の動向の監視をさせてたんじゃろ
1839
うな。もし誰かにお前さんの気持ちが向いていたら、妨害されてた
かもしれんのぅ。なかなか束縛がきつそうな奴じゃな、王子も﹂
﹁束縛⋮⋮﹂
師匠はやや呆れ気味に言っていたし、ちょっと怖い言葉のはずな
のに、なぜか私は、少し幸せな響きを感じてしまっていた。
そんなこともありつつ、行きよりも時間をかけて二日後、私達は
王領地を南下していたアラン達の軍に追いついた。
そうして、ベアトリス夫人がいる軍がキルレアを通過したこと。
パトリシエール伯爵の軍が、シェスティナへ移動したという情報を
知ることになる。
1840
閑話∼貴方にしてあげられること∼
︱︱その時、きっとキアラの手が必要になるだろうと感じたのだ。
キアラが前世の知識を使って探し出したもの。それは小さな装飾
品が二つだった。
あの子供の姿をした魔女に関わるものだというから、装飾品であ
ることは特に疑問を思わなかったのだが、指輪にとてつもなく問題
があった。
キアラから渡されたものを見たカインは、目を見開いた。
指輪の裏に掘られていた紋章。
それを目にした瞬間に思い出したのは、初めてレジナルドに出会
った時のことだ。
顔にあまり感情が浮かばない子供だったレジナルド。
それが少しずつ、アランやカインと駆け回るようになってから、
ベアトリス夫人に手をかけられるようになってからは少しずつ和ら
いで行ったように見えた。多少の違和感はあっても、自分が最初の
印象を引きずっているせいだろうと。
けれど、ある時ベアトリス夫人に言われたのだ。
﹃あの子は感情を押しこめて、表情を繕うことばかり上手くなって
しまったのね。王子としてはその方が生きやすいのかもしれないけ
れど⋮⋮﹄
それを聞いて、カインはレジナルドへの違和感の正体に気づいた
のだ。
1841
レジナルドは満たされたわけではない。満たされている人のふり
をしているだけ。
全ては無邪気に自分を仲間と認識したアランのため、両親がいな
い彼のために心を砕くエヴラール辺境伯夫妻のためだ。
その後王宮へアランについて行った時に、カインは確信せざるを
えなかった。
王宮にいるレジナルドは、子供らしくない微笑みで全てを判断し
ていく。侍女のメイベルには気を許していたけれど、やんわりと感
情を隠しながら自分が遠ざけたい者を命じていった。
祖父である先代国王の前や叔父の前では、逆に大人しい子供を演
じながら、冷めた眼差しをしていた。
それらを見て、カインは感じたのだ。
レジナルド王子は、心から頼れる相手がいないことを良くわかっ
ていて、諦めてしまっているのだと。
諦める、ということは、頼っていた人物がいたのだ。それはほと
んど記憶がないだろう父よりも、あまり会わせてもらえないながら
も、間違いなくレジナルドを一番に考えていただろう、母親だろう。
レジナルドの身を守るために、祖父の元に置くしかなかった先代
王妃リネーゼ。
カインは彼女のことについて、レジナルドの口からささやかな思
い出について聞いたことがある。優しかったこと。とても彼のこと
を心配していたこと。
そして王妃に与えられる紋章のことも。
王妃が失踪した時の、不可解な状況についてはカインも知ってい
た。
エヴラール辺境伯夫妻も探したかったようだが、状況が許さず、
1842
どうにもできないまま月日が経ち。調べた時には何の手掛もなくな
っていたという。
でも、手掛かりがなくてもおかしくはなかった。
パトリシエール伯爵とクレディアス子爵が出入りしていた場所で
見つかったのだから。
王家が生贄を捧げていた事実を知った今となっては、王妃リネー
ゼが先代王の手で闇に葬られたのだろうことは推測できた。魔術師
にされそうになったのなら、砂になって遺体も残っていないのだろ
う。
まだそのことを知らないキアラを連れて、急いでレジナルドに知
らせようとした。
寂しくても、王子として生きて行くにはそうしなければならない
のだろうと思ったカインは、せめてエヴラールにいる時だけはと、
アランと悪さをすることを目こぼしするぐらいのことしかできずに
いた。
けれど自分が気づいたから。
家族を失って、代わりを求めて、まだ自分の手の中にあったもの
に気づいたのだ。カインには優しい思い出がある。
それなら、時折しか会えないカインやアランのことを失えない大
切な家族のようなものだと言ったレジナルドはどうなのか。
どんな結末だったのかだけでも、早く知らせてやりたいと思った
のだ。
指輪を見たレジナルドは、思いの他衝撃を受けている様子を見せ
た。
それを見たカインは、どうにかしてやらなければと思えたのだ。
優しい思い出すら足りない彼に、せめて泣く場所ぐらいは用意しな
ければ、と。
1843
それができるのは自分でもアランでもないだろう。
だからグロウルがレジナルドに休むように促し、フェリックスが
キアラに付き添わせようとした時に反対しなかった。
誰もが分かっていたからだ。
レジナルドにとって心の底からの弱音を吐ける相手が、キアラし
かいないことを。
けれど、二人きりにさせることに不安がなかったわけではない。
これだけ動揺した状態で、感情を吐露してしまったら、レジナル
ドがキアラに何かしてしまうかもしれない、とも。ただ彼女はただ
の女の子ではない。
剣は持たなくても、彼女には力がある。レジナルドも本心から彼
女が拒否したら、嫌われたくないがために無体な真似はできない。
⋮⋮その予想は当たり、キアラは問題なくレジナルドを宥めたら
しい。すぐにホレスを引き取りにやってきたのだが。
﹁雰囲気、変わったわねん﹂
誰もが言わなかったことを、つるっと口にしたのは、サレハルド
の傭兵ギルシュだ。
アランが引き受けていたファルジア軍が駐留していた街まで追い
ついて、合流してすぐのことだ。安全な場所まで来たからとキアラ
から離れていたところに、ギルシュが通りかかった。
﹁キアラちゃん、落ち着いたのねん﹂
しみじみとつぶやくギルシュの視線の先には、ジナと話している
キアラがいる。
1844
いつもと同じようで、どこか違う。確かにギルシュの言うように
落ち着いたような気もするが、
﹁少し大人びたようにも思いますね﹂
どことなく表情が艶めいて⋮⋮だから最初は、レジナルドと何か
あったのではないかと思ったほどだ。
手を離すようなことを言った自分を、やや後悔するぐらいには。
彼女の気持ちはわかっていた。最初から、二人がお互いを見てい
ることも、キアラが不安定なのもレジナルドとの間に気持ちのすれ
違いがあったせいだということも。
二人とも怖がりなのだ。
相手に嫌われたくない。でも嫌がられても隠すように守りたいと
願って。
それが崩れたのは、何かしらキアラが自分の感情を自覚せざるを
えなくなったことと、レジナルドが彼女の隣だからこそ使える力を
手に入れたせいもあるのだろう。でなければ、キアラは今でもレジ
ナルドを保護したがったはずだ。
そんなことを思っていたら、ギルシュが小さく笑った。
﹁何か変でしたか?﹂
﹁違うわよん。貴方がそんな風にしみじみと言うとは思わなくて﹂
くすくすと笑った後で、ギルシュもじっとキアラを見る。
﹁女の子は愛されてることを実感すると、幸せでも辛くても艶が増
すのよね。ジナもそうだったわ⋮⋮。それにしても貴方、よくキア
ラちゃんを手放せたわね?﹂
1845
言葉で突かれて、カインは思わず苦笑いする。
﹁ようやく分かったんですよ。そういう形ではなくても、彼女が逃
げないってことが﹂
再びの戦争で、失った家族への後悔と、恨みを思い出してしまっ
たけれど。それすらも拭い去ったのはキアラだ。
望めばいつでも飛んでくる人だと、わかったから。命をかけるよ
うな状態でなければ、信じられなかったのは仕方ないことだとは思
う。
あれがあったからこそ、受け入れられた。
でなければ今でも、キアラの言うことを信じられずにいただろう。
人の心が変化してしまうことを知っている分だけ。
﹁まぁ、十代のまだ嘘が上手くない女の子相手だったからこそなの
かもねん。うふふ﹂
ギルシュの言う通りなのだろう。これがもしジナなどだったら、
いまだにカインは信じられなかっただろうから。
﹁まだしばらくはお兄さんを続けるのん?﹂
尋ねられたカインは、目を瞬く。
﹁何を言っているんですか。ずっと兄ですよ、私は﹂
これだけは譲るつもりはない。だからこそ、何かあればレジナル
ドに意見することもあるだろう。そしてレジナルドがキアラを見捨
てるようなことがあれば、攫って行くだけだ。
それぐらいの亀裂が入れば、おそらくキアラはカインにすんなり
1846
とついてくるだろう。
だからそれまでの間は。
﹁これからは口うるさい兄でいこうと思っています﹂
そう答えたら、ギルシュがお腹を抱えて笑い出したのだった。
1847
合流と目撃情報について
合流地点は、王領地のとある街だ。
高い壁に囲まれている場所でもないので、一万以上の兵が町の周
辺に野営地を広げている状態になっている。
私やレジー達は見張りの兵から連絡を先に走らせて、ゆっくりと
街の中へと移動した。街の入り口に到着すると、アランやイサーク
達が待ち構えていた。
﹁収穫はあったのか?﹂
アランの問いに、レジーがうなずく。
﹁それなりに、だね。先にそっちの状況を知りたいな﹂
﹁じゃ、まず町長の館に場所を確保してあるからそっちに移動しよ
う。お前たちの部屋も空けてもらってる﹂
そんな会話が交わされる中、私はカインさんに馬から降ろしても
らい、地上に足をつけた。
するとイサークが不思議そうに言った。
﹁お前、いつでもその騎士の馬に乗せられてんのな。自分で乗れな
いのか?﹂
﹁じょ、乗馬くらいできるもの。だけど万が一の時に、こう、私一
人で馬に乗ってるといろいろ行き届かないから﹂
説明していると、後ろからカインさんが私に言った。
1848
﹁馬を走らせながら魔術に集中なさるのは厳しいようなので、私が
お手伝いしております﹂
一応相手が王様なのでカインさんは敬語を使っているけれど、そ
こはかとなく雰囲気で﹃話があるのなら私を通してください﹄とい
った雰囲気を漂わせている。さすが殺し合いをした相手だけに、カ
インさんはイサークを警戒しているようだ。
しかしイサークの方はあっけらかんとしていた。
﹁じゃあ、一緒に行動するなら俺が乗せても構わないわけだよな?
おい、キアラ今度は俺が乗せてやるよ﹂
﹁ありがたいけどそれはちょっと⋮⋮。王様でしょう? 私の言う
通りに動いてもらえるわけがないもの﹂
ずばりと不安を口にすると、イサークが﹁それぐらい俺にも可能
だぞ﹂と言い出す。
いや、アナタ王様ですよね? さすがに冗談だと思うけど、どう
言ったら引いてくれるのか。困った私を助けてくれたのは、ミハイ
ル君だ。
﹁およしになってくださいよ陛下。こういうのは信頼関係が必要な
のですから。そちらの騎士も魔術について知識を得た上で行動をし
ているのでしょうし⋮⋮﹂
﹁ふーん。そんなに信頼してるのか?﹂
イサークにずばっと聞かれて、私はうなずいた。
﹁お兄さんみたいに思っている人ですから﹂
そう答えたら、なぜか
1849
﹁年下の妹⋮⋮よし。キアラ、俺も兄になってやろう。それなら馬
に乗るんだろう? ゆくゆくはお兄ちゃんと一緒にサレハルドで暮
らさないか? 雪が沢山降るから、雪遊びができて楽しいぞ?﹂
笑顔でそう切り出したイサークに、一歩後ろにいたミハイル君が
呆れた顔をし、アランがげっそりした表情になり︱︱レジーとカイ
ンさんの方から冷気が漂ってきた。
さすがにこれはまずい、と私は思った。
たぶん冗談のつもりだろう。私のことを気に入ってくれていると
は思うけど、今そんな誘い方をしたって、たとえ私がレジーを選ん
でいなくてもついていかないってわかるだろうから。
しかしこのままでは、まずレジーが王領地へ到着した時のような
ことをしかねない。
⋮⋮あれはまずい。意識して、付き合い始めたところにあんなこ
とをされたら、私がどんな慌て方をするかわからないという意味で。
すると師匠が突然﹁キシシシシ﹂と笑い声を上げた。
﹁サレハルドの小僧よ。キアラの兄だと言うのなら、もちろんわし
のことをお父様と呼べるんじゃろうなぁ? イッヒヒヒ﹂
﹁は!?﹂
イサークが何の話だ? みたいな顔をする。
助け舟だと察した私は﹁本当にそうですよね﹂と同意しておいた。
それを受けて師匠が、楽しそうに嘘八百を並べた。
﹁そこの騎士は兄を自任しておるから、わしのことをお父様と呼ぶ
しのぅ。王子もキアラについては必ずお伺いをたてるものじゃ。お
父様、お嬢様をお誘いしてもよろしいですか、とな。もちろん﹂
1850
イサークは﹁この人形にか?﹂と言いたげだが、レジーが悪乗り
してきた。
﹁お父様、後ほどお嬢様を食事にお誘いしたいのですが、宜しいで
しょうか?﹂
﹁へっへっへ。よかろう﹂
師匠が王子に下手に出られて喜んでいる中、私はむずむずしてい
た。
レジーが、普通の家のお嬢さんを外出に誘う許しを得ようなんて
行動を、する場面がやってくるとは思ってもいなかったからだ。な
にせ私、天涯孤独の身なので。
その間にカインさんまで同調した。
﹁ホレスお父様。兄としてはまだ妹を異性と二人だけの食事などに
行かせたくないのですが﹂
﹁ひっひっひ。娘はいつか嫁ぐものだからのぉ。食事ぐらいは、そ
のための予行演習として許してやるがいい。あまりに時間が長けれ
ば迎えに行けばいいじゃろ﹂
﹁お前ら本気かよ⋮⋮﹂
二人の発言に唖然とするイサークに、カインさんがしれっと答え
た。
﹁当然ですよ? キアラはずっと父親として、ホレスさんを扱って
きたのですからね﹂
﹁あ、はい、そうですね﹂
私が師匠のことをとても大事にしていたのは知っていても、完全
1851
に父扱いしているとは思っていなかったのだろう。
﹁土偶が父⋮⋮﹂
でも最終的に、なんか可哀想な人を見るような目を向けられたの
だけは、納得いかなかったけれど。
その後すぐに町長の館に移動し、アラン達の状況について説明を
受けた。
そこそこの規模の街だったので、館といってもそれほど大きな建
物ではない。将軍達の半分は宿等に移動し、ここにはアランとエメ
ラインさんと元デルフィオン男爵ヘンリーさん、そしてイサークと
彼らの騎士達が滞在しているようだ。
集まる場所も、館の居室の一つを使わせてもらう。
そこで聞いたのが、ベアトリス夫人率いるファルジアの一軍が、
キルレアを攻略。王領地へ入ったところだということ。
そして先に王領地からパトリシエール伯爵領へ入り込んでいたフ
ァルジア側の間者の連絡により、パトリシエール伯爵の軍が、シェ
スティナへ移動したというものだった。
﹁伯爵は、自分の領地を捨てた、ということかな?﹂
レジーの問いに、アランが渋い表情をする。
自分の領地を解放してまで、王都の手前に兵を集めて守ろうとし
ている、ということらしいのだけど。確かになぜそこまで⋮⋮と私
でも思う。
﹁パトリシエールの軍とシェスティナにいるルアインの兵を合わせ
1852
たら⋮⋮2万くらいか? 王子達もあちこちで兵力を削って、あっ
ちもこれいじょう集めにくくなってるだろ﹂
そもそものルアインの兵力供給ルートは、トリスフィードを攻略
してサレハルドを降伏させたことで、使えなくなっている。これ以
上集められないだろうということだった。
﹁だからシェスティナで決戦をするつもりなのかな? ただこちら
も、もう一方の軍と合流する予定だから、余裕で二万は越えるけれ
ど⋮⋮﹂
レジーは腑に落ちなさそうな表情をしている。
﹁ルアインの軍は、シェスティナ手前のナザントの砦にもいる。王
領地には湖側の砦と、キルレア近くにしか配置していなかったよう
だ。湖の砦にいたルアインの騎士に吐かせた通りのようだ。キルレ
ア付近のルアイン軍は、おそらくもう一方の軍が倒すだろう﹂
続けてのアランの推測に、レジーも﹁キルレア側はあちらに任せ
よう﹂とうなずいた。
﹁あともう一つ、うちの人間をルアインの兵に偽装させて送り出し
たんだが、そこから報告が来た﹂
イサークがそこで教えてくれたのは、気になっていた人の行方だ
った。
﹁ルアインの女魔術師。その姿をナザント砦近くで見かけているそ
うだ。そのままたぶん、シェスティナへ向かったんじゃないか?﹂
1853
閑話∼戻れないけれど∼
王都に戻りたくなかった。
今更戻ってもどうしようもないからだ。
もう、魔術を使うことを強制されることはない⋮⋮クレディアス
子爵が死んだから。けれど家に戻ってどうするというのか。
実家の両親は、王都へルアイン軍がやってきた混乱の中、どうな
ったのかわからない。生きていたとしても、協力者として王子達に
断罪されるだろう。
そもそも、エイダの実家の内情は、火の車寸前だったようだ。エ
イダが嫁いだ後でクレディアス子爵に何度か金銭協力を求めた上、
最後にはその対価として、王領地の鉱山についての書類の改ざんに
手を貸したとも聞いた。
どちらにせよ実家は頼れない。頼ったって、王子達の追及は逃れ
られないだろう。
エイダは、貴族を一人殺してしまっている。ファルジアの兵もか
なり殺した。
王子の騎士フェリックスも殺しかけた⋮⋮生きていたようだった
けれど。
投降したら、間違いなく牢獄に入れられるだろう。もしくは、魔
術を恐れてすぐに殺される。
せっかく自由になっても、閉じ込められるのは嫌だ。怖い。
だから死ななくてもいい、守ってもらえることに甘えて、ここシ
ェスティナまで流されてきたのだ。
言われるままに馬車に乗り、船に乗り、やってきたシェスティナ
1854
侯爵領の城下町は荒れていた。
ただでさえ万単位の兵士という、余分な人数が流入している上、
そのほとんどが他国の兵だ。元の住民を下に見て、横柄な態度で町
を歩いていた。
窮状を訴えたくとも、シェスティナ侯爵は殺害された後で、今こ
こを治めているのはルアイン貴族。聞き届けてくれるわけがない。
逃げる場所を思いつけない人間は、暗い表情をしながら耐え忍ぶ
しかないのだろう。
それ以上に、町により暗い印象を与えるものがあった。
町の住人も目をそらすのは、胴と手を縄で縛られてルアイン兵に
牽引されている人の列だ。
あまりにむごいとから見ないようにしているのか、もしくは自分
もそうなりかねないと思うからこそ、恐怖で見ていられないのか。
何十、何百という人が、縄で縛られたまま歩かされている。
一応靴は与えられていたものの、刷り切れて古ぼけたものばかり。
風が涼しすぎる季節だから配慮はしているのか、ぼろ布のような毛
布を体に巻き付けさせていた。髪はいつ洗ったのかわからないほど
土埃にまみれてばさばさだ。無精ひげを伸ばしたままの男か、まだ
髭も伸びないような少年が多い。
どこから連れてきたのかわからないが、奴隷だろう。ルアインに
はまだその風習があるという。
男ばかりなのは、奴隷兵にするつもりなのだろうか、とエイダは
思う。するとエイダが知る限りの情報以上に、兵数が増えることに
なる。
キアラは勝てるだろうか。⋮⋮そんな考えが心に浮かんだ。
クレディアス子爵という弊害は取り払った。でも魔術師くずれが
1855
いれば、そちらに対応せざるをえなくなる。キアラと、ファルジア
にいた魔獣がそれにかかりきりになれば、戦場は普通に数のぶつか
り合いになるだろう。
通常の戦は消耗戦だ。
乱戦になれば、王子だって、フェリックスだって、無事でいられ
るかどうか。
思考の中に沈んでいたせいで立ち止まってしまっていたのだろう、
エイダを連れてきた騎士が促してきた。
﹁魔術師殿。お早く﹂
一人で泊まる場所すら探したことがなかったエイダは、その指示
に従うしかなかった。
シェスティナ侯爵の城は、優美さを追及したものだ。中は戦で一
度はあちこちを破壊されたり火を放たれたりしたけれど、おおよそ
綺麗に片付けられていた。
そんな城の一室。
遠く町の向こうに広がる大地を望める部屋に、パトリシエール伯
爵がいた。
王宮で見たのと同じ裾長の上着とベストに短靴という衣服からす
と、伯爵は戦場に出るつもりがないように見える。全軍での戦いと
なると、別だろうが。
エイダをここまで連れてきた騎士が、エイルレーンでの戦いにつ
いて説明していた。
聞き終わったパトリシエール伯爵は、小さく嘆息した。
﹁クレディアスが⋮⋮そうか。あれも始末に困る男ではあったから
1856
な﹂
けれどつぶやいたのは、それだけだ。
エイダは内心で首をかしげた。普通なら、大幅に戦力が減ること
を嘆くだろうに。
もしくはそれなりの年数、あの子爵とパトリシエール伯爵は交流
があったのだから、他の感慨を抱いてもおかしくないと思うのだが。
ぼんやりと考えていたエイダは、自分の名前を呼ばれてはっと顔
を上げる。
﹁お前はどうするのだ、エイダ。すべきことを思いつかぬから戦う
のか? 人に紛れて逃げなかったのは、逃げる術が重思いつかなか
ったからか⋮⋮﹂
エイダは、予想外なことを聞かされて驚く。まるで、やることが
ないのだから逃げても良かったのに、と言いたげだ。
﹁戦わなくても⋮⋮いいと?﹂
思わず尋ねてしまったエイダに、パトリシエール伯爵が鼻で笑う。
﹁魔術師は自分の意志がなければ魔術が使えんだろう。押さえつけ
る術を持たない私達が、どうこうできるわけもない。脅せる材料に
なる親族も、既に亡いしな﹂
﹁え⋮⋮まさか両親は﹂
﹁お前も予想はしていただろう? ルアイン兵に﹃娘は魔術師だ﹄
と喧伝してこちらの動きの邪魔をしたのでな、こちらの動きの邪魔
になるからと始末させてもらった﹂
思いがけず、エイダは両親の行く末を知った。
1857
一応パトリシエール伯爵達は、脅す材料としてエイダの両親のこ
とは気に留めていたようだ。けれどエイダを戦場の駒として使いた
いけれど、両親にまで甘い汁を吸わせる気がなかったので、邪魔に
なって排除したのだろう。
エイダの心の中には、驚き以上のものが湧き出て来なかった。
全く優しくされなかったわけではない。エイダのためにと心を砕
いてくれた思い出だってあった。けれどそんな思い出もなにもかも、
政略の道具にもならないと罵倒され、あんな子爵に汚されるだなん
てと罵られたあげく、家とは縁が切れたと思えと言い渡された記憶
に押しつぶされてしまっていた。
その果てに、縁を切ったはずの娘の名前を出してのし上がろうと
したことを耳にしたせいだろうか。よけいに悲しいという気持ちが
湧いてこない。
ただ、愛情よりも利益や自分達のことが大事だったのだなと、そ
う感じるばかりだ。
﹁だから既に、お前のことを探し出そうとする者はいない。どこか
地方に潜伏でもすれば、ファルジアの王子達が躍起になって探そう
とでもしない限り、捕まらずに生きていけるだろう﹂
だから行けとでもいうように、パトリシエール伯爵は手を振って
みせた。
呆然とするしかない。
エイダはここへ来たら、作戦を伝えられて戦うように説得される
ものだと思っていた。それを受けて、エイダは戦うかどうかを悩み
⋮⋮。苦悩することで、自分が何も選ばずにいられる状況を引きの
ばしたかったのだと気づかされた。
でも、普通ならエイダに懇願してでも参戦させるはずだ。
1858
キアラという魔術師の強さと、サレハルドの合流、魔獣を従えた
傭兵。さらにはエイダは見なかったけれど、レジナルド王子まで魔
術的なものを使っていたという。
とても普通の軍では太刀打ちできないはずだ。ここでかなりの損
害を与えて、後の戦いで劣勢を覆す策があるのだろうか。
それでも、シェスティナで負けることがあれば、総大将となって
いる伯爵は、破滅するかもしれない。なのに、戦うことを止めない
のはどうしてだろう。
﹁負けない策があるのですか?﹂
問いが口をついて出る。
﹁ないわけではないがな。⋮⋮そうか、お前は確実に私達が負ける
と考えているのだな﹂
パトリシエール伯爵はそう言って小さく笑った。
﹁理由など、お前にはわからんでいい。ただマリアンネ様が夢を叶
えて下さったのだ。最後までお伴するのみ⋮⋮お前なら理解できる
のではないか?﹂
言われたエイダは悟った。
この人は⋮⋮マリアンネ王妃以外は、何も欲しくないのだという
ことを。
1859
閑話∼そうして彼女は出会う∼
その後、エイダはぐずぐすとシェスティナ侯爵城に居続けた。
部屋を一室もらい、シェスティナ城でびくびくとしながら働く召
使いに世話をされながら、この先のことを考えるけれど、やっぱり
決められない。
なにせ一人で生きて行く術がわからないのだから。
貴族令嬢が自分で物を買う機会などないから、お金の使い方も知
らない。どうやって家を借りればいいのかもわからない。そもそも
換金できそうな宝石のついた装飾品は持っているけれど、どこで換
金したらいいのかも知らなかった。
クレディアス子爵に召使い扱いされたけれど、館の外へ出る用事
をさせられたことはないので、掃除以外については全く知識がない
のだ。
貴族を頼れば、すぐにエイダの居所は他の人々に知られてしまう。
王子達がエイダを断罪したいとなったら、すぐに見つかるだろう。
やっぱりここにいて、戦の勝敗が決まるまでじっとしている? でも負けたら、王妃の元へ行くのか。それもできない、と思う。
そんな折に、パトリシエール伯爵と食事をする機会があった。
どうして自分を誘おうと思ったのか、よくわからないまま応じた
エイダに、パトリシエール伯爵は言った。
﹁お前、逃げないのなら戦場に出るか?﹂
﹁戦場に⋮⋮﹂
1860
ようやくその問いが来たのか、とエイダはむしろほっとした。
でも戦う気力もない。考えさせてほしいと言おうとして、エイダ
はふと考えて違う質問をした。
﹁伯爵は⋮⋮王妃様のためだけに戦うおつもりなんですね﹂
するとパトリシエール伯爵は、表情も変えずに語り出した。
﹁出会ったのは、まだあの方が十三の頃だ。ルアイン王国へ戦後の
交渉に派遣される中に混ざって、かの国へ行った。そのために娘を
一人生贄にしたが、おかげで王から信頼を置かれることに成功した
のだ﹂
﹁娘⋮⋮?﹂
﹁お前のように魔術師にしようとしたのだよ。上手くいかずに、死
んだと聞いたが﹂
エイダは驚きで手から力が抜け、ナイフを落としそうになった。
自分の娘を魔術師にしようとしたのか。冷たいと思ったエイダの
両親でさえ、ただ死なせるかもしれないようなことはしないだろう。
急にこの伯爵が、人の姿をした何か別な生き物のように思えた。
﹁何だ知らんのか。クレディアスが話したとばかり思っていたが﹂
パトリシエール伯爵はそう言って、淡々と食事を続ける。娘を生
贄にしたとあっさり話したその口に、肉を一切れ含んで咀嚼する。
﹁そもそも、王家に睨まれて領地を半分取り上げられた上、パトリ
シエール伯爵領は税も他の領地よりも高かったのだ。それを標準に
元に戻すために、王族が間違って生ませた娘を嫁にした。その娘を
王家が必要としていると聞けば、立場の弱いこちらは差し出すしか
1861
あるまい。帰してやったようなものだと思って引き渡した。⋮⋮娘
の存在は王家が誤魔化した﹂
魔術師にされたエイダにしてみれば、愉快な話ではなかった。
そんなエイダの表情などパトリシエール伯爵は気にも留めず、ル
アインでの話を続けた。
﹁そう、マリアンネ様のことだったな。あの頃の私は、家を再興す
るためとはいえ、ルアインにはほとんど興味がなかった。ただ血縁
の貴族がいるという利点を生かすには、それしかなかっただけだ。
そんな中で出会ったのが、マリアンネ様だ﹂
まだ十三歳だったマリアンネ王女は、兄王の顔色を伺いながら生
きていた。ルアインの王女は、侵略のために結婚を繰り返させられ
ることが多いらしい。嫁ぎ先で怒り狂った夫やその一族に殺される
こともままある。実際、マリアンネの姉の一人はそうして亡くなっ
た。
﹁そうでもして領土を広げなければ、ルアインという国が保てない
からだろう。あの国はじわじわと砂漠に浸食されているからな。国
民にも焦燥感があるのか、おそらくエヴラール以外では、ほとんど
戦で負けていないはずだ﹂
当時、もう一人の姉が別な国へ嫁がされていたので、マリアンネ
は停戦交渉の際に差し出されるのは自分だと思ったのだろう。パト
リシエール伯爵にエヴラールの様子を尋ねてきたそうだ。
﹁少しでも行く先について情報を得たかったのだろう。私は最初、
面倒だと思った。けれどその時の交渉は、引き分けの末の停戦交渉
だ。ルアイン王の機嫌を損ねたくない私は、王女の頼みを断れなか
1862
った。仕方なく相手をした私の内心に、マリアンネ様は気づいたの
だろうな﹃ルアインの情報と引き換えで﹄と取引を持ち出した﹂
パトリシエール伯爵は、取り引きをするのは気が進まなかった。
でも子供の口約束だからと言いつつも、マリアンネ王妃の申し出を
受けたようだ。自分の家をさらに引き上げるために使えるかもしれ
ないと考えて。
﹁多少はな⋮⋮死なせた自分の娘と同じ年頃の娘が必死になってい
る姿に、無意識に良心の呵責をおぼえたのかもしれんがな﹂
パトリシエール伯爵はそう付け加えた。
彼は何度もマリアンネと話す間に、自分と同じように必死になっ
ているマリアンネ王妃に同情していったという。
そうしてマリアンネ王妃が花嫁として差し出されないと決まった
後も、伯爵と王妃の縁は続いたようだ。
二度目の戦の後でいよいよファルジアに嫁いでくるとなった時は、
パトリシエール伯爵は自分の地位を確立するためにも、王妃側につ
くようファルジアの貴族を取り込んで行った。
努力の成果は、今回の戦で離反した貴族達の多さに現れている。
一通り話を聞いたエイダは、パトリシエール伯爵がマリアンネ王
妃に肩入れしたのは、良心の呵責や同情のせいではないのだろうと
思えた。
彼にそんな良心があったら、どうにかして娘を守っただろう。
ルアインに縁戚がいるのだから、亡命しても良かったはずだ。王
族の血を引くせいで、あちらでも政略婚の犠牲にはなっただろうけ
れど。
それに子供が犠牲になるのが痛ましいのなら、養女にしたキアラ
のことも、子爵に差し出そうなどと思わなかったに違いない。
1863
たぶん、まだ少女だったマリアンネ王妃に恋しただけなのだ。
年が違いすぎたから、マリアンネ王妃が成人して再会するまでは、
認めたくなかったのだろう。
恋ゆえに、他国の王女のために一生を捧げるほどに配慮するのに、
意に添わない結婚だったとはいえ娘を犠牲にし、今また見知らぬ多
くの奴隷を戦地で捨て石にしようとする。
その二面性を怖いと感じながらも、エイダは責められなかった。
自分も同じことをしたのだ。
欲望のために、アズール侯爵を駒としか見なかった。どんなに親
切にされても、内心では善良で単純な侯爵を見下して、邪魔なゴミ
のように殺してしまった。
自分と王子が結ばれるためには、仕方がないと思って⋮⋮それが
どれだけ歪んでいるかも気づかずに。
視野が狭すぎることに気づいてしまったのは、フェリックスとキ
アラの行動があったからだ。
振り返りもしないレジナルド王子と違い、役目ながらもエイダの
我がままにつき合い、彼なりの正直な言葉を口にしていたフェリッ
クス。
彼を殺しそうになって、もうその言葉が聞けないかもしれないと
考えた瞬間に、エイダは自分がフェリックスの言葉を、王子の言葉
よりも欲しくなっていたことを悟ってしまった。
そしてキアラ。
全部彼女のせいにしようとしていた。自分よりも下の存在だと思
っていたからだ。
でも、そんな風に彼女を下だと決めつけていたのは、エイダが元
1864
々自分を惨めだと思っていたからだろう。
両親にあまり顧みられず、結婚相手もうらやましがられるような
相手ではなかった。そんな時、明らかに虐げられたキアラのことを
噂に聞いて﹃彼女よりマシ﹄だと思えることが、エイダにとって心
安らぐことになってしまったのだ。
クレディアス子爵と結婚させられた後は、キアラが逃げたせいだ
と思うことで自分を慰めた。
けれどトリスフィードで捕えられたキアラを見て、エイダはそれ
は甘い考えだったとわかったのだ。もしクレディアス子爵と結婚し
ていたのがキアラだったら、エイダ以上の酷い目に遭っただろう。
エイダに猶予を与えたようなことは決してキアラにはしないに違い
ない。
捕まえたキアラを襲うことしか考えなかったクレディアス子爵の
姿に、自分への対応はかなり緩かったのだと実感したのだ。
マリアンネ王妃のことを話したからだろうか。パトリシエール伯
爵は、この際全てを話してしまう気になったようだ。
﹁お前も今のうちに逃げるつもりなら、そうするがいい。そもそも
お前に目をつけたのは、お前の父親を巻き込むためだからな﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁契約の石が大量に産出する鉱山を手に入れるため、文書を誤魔化
す必要があったのだよ﹂
確かに、クレディアス子爵は恐ろしく大量にあの石を持っていた。
領地をもたないクレディアス子爵が鉱山を所有しているわけがない。
パトリシエール伯爵領に鉱山があったのだろうと思っていたのだが、
違ったらしい。
1865
﹁見つけた場所が王領地だったからな⋮⋮元はパトリシエール伯爵
家の土地だったわけだが。王家に知られずに契約の石を確保するた
めに、書類を扱うお前の父を巻き込む必要があった。そのためにク
レディアスの妻にしたのだ﹂
﹁なん⋮⋮﹂
なんていうことだろう。エイダは呆然とする。
﹁お前に結婚相手がいたから邪魔で誘惑させ、逃亡資金をくれてや
るところまで簡単だったんだがな。式場から飛び出すとは思わなか
った。探すのに手間取った上に、クレディアスがうっかり契約の砂
を試して、殺しかけたことには驚いたが﹂
エイダの結婚式があんな結果になったのも、クレディアス子爵と
結婚させられたのも、契約の石を密かに採取するためだったとは。
すぐに考えられなくて、ぼんやりとしたままエイダは正餐室から
部屋に戻った。
部屋の中のソファに、どさりと倒れるように座る。
パトリシエール伯爵にはもういらないと言われた。
父も母も、もういない。
そして本当に、自分が子爵に捕まったのはキアラのせいではなか
ったのだ。
食事の前よりも、さらに何をしたらいいのかわからなくなってい
た。
﹁戦うのは嫌。だけど﹂
エイダは唇をかみしめる。だれか⋮⋮ここからエイダが連れ出し
てくれる人がいないだろうか。そうして何をしたらいいのか、教え
1866
てくれたら。
その時ふと思い浮かんだのは、キアラの言葉だった。
︽元々、家を出て町の片隅で平民として生きていこうと思っていた
から⋮⋮︾
キアラにできるのなら、自分でもできなくはないのでは、とエイ
ダは考えた。少なくとも、戦場で戦ったり酷い目に遭うよりは容易
そうな気がした。
でも、座った椅子から立ち上がれない。やっぱり初めてのことに
挑戦するのは、怖いのだ。
と、そこでベランダ側の掃き出し窓がこつこつと叩かれている音
に気づいた。
振り返ったエイダは、そこに立つ銀の髪の少女の姿に目を見開い
たのだった。
1867
閑話∼そうして彼女は出会う∼︵後書き︶
次はキアラ視点に戻ります。
1868
事前の打ち合わせと一緒の食事
私達は王領地の西へ向かうことになった。
早めにシェスティナを落とし、王都を解放するため、そして王妃
を倒すためだ。
ただ問題がある。
王領地とパトリシエール領についてだ。
シェスティナへ向かうまでの間には、もう砦はない。王都に近い
領地ほど侵略される恐れが少なかったため、砦を作る必要がなかっ
たからだと思う。
そのため警戒するべきは、パトリシエール領にある砦に残存して
いるルアイン兵。そして東のキルレア方面に残る砦だ。
東については、ベアトリス夫人のいる軍にそのまま任せる。パト
リシエール領については、レジーがあっさりと言った。
﹁イサーク陛下、任せました﹂
移動したのは、そこそこ広い三階建ての町長の館だ。とはいって
も部屋数的には30室くらいの裕福な商家を大きくしたようなもの
なので、確かに主要な人間くらいしか泊まれないだろう。
そんな館の居間を使わせてもらっているのだが、向かいのソファ
に座っているイサークは、やや不満そうな表情だ。
﹁俺達だけでやれってか?﹂
レジーは微笑みを崩さない。
1869
﹁冬になって事態が膠着するのは避けたいからね。そちらも来年の
春まで私達に付き合わされるのは困るのでは? それに居残り組に
してやられる、だなんて無様なことはしないと思ったのだけど﹂
要約すると﹃居残った少数の敵も倒せなくて怖気ついているのか
い?﹄ということだろう。
イサークも正しくそれを理解したのか、頬がひきつっている。
﹁お前、そんな穏やかそうな顔して結構喧嘩っ早いよな?﹂
﹁売った覚えはないけど。ただ先に挑発したのは君なんだし、あえ
て受けてくれると思っているよ。私の方もシェスティナの砦を先に
落としておく。その後、君やもう一方の軍を合流させてから、シェ
スティナのルアイン軍を攻略したい﹂
﹁⋮⋮早さを考えるなら、妥当な案だな﹂
﹁サレハルドには感謝しているよ。王領地での兵の損耗が少なく済
んだからね﹂
レジーの言葉を、イサークは鼻で笑った。
﹁まぁ、あの一戦だけじゃトリスフィードを占拠した代償には足り
ないんだろ? パトリシエール側の北の砦は落としておいてやる。
だがこっちもトリスフィードで兵数が削られてる上、呼び寄せるわ
けにもいかない。二千ぐらいはこっちに都合をつけろよ﹂
言われたレジーは、アランと小声で打ち合わせる。そうしてアラ
ンの騎士ライルさんと二千の兵がトリスフィードと一緒に行動する
ことになった。
イサークは早々に出発することになり、その準備や指揮のために
部屋を出て行く。
急ぎの話は終わったので、私達は食事をとることにしたのだけど。
1870
アランはもう済ませていて、カインさんは野営でもなければ一緒に
摂らない。
﹁さっきの約束通りにしようか。せっかく君のお父様の許可をもら
っているんだしね﹂
私の手首を掴んだレジーと、町長の奥さんが案内してくれた食堂
で食べることになった。
食事を並べてもらうと、レジーは給仕に残っていた召使いを必要
ないと言って断った。
だけど二人っきりになった⋮⋮というわけでもない。師匠がいる
から。
﹁見張ってやるわい。イッヒヒヒヒ﹂
と言う師匠をテーブルの上に置いて、食事に手をつけることにす
る。
﹁これだけの人数が町に押しかけてるのに、食事はけっこう気を遣
ってくれてるみたいだね。あまり悪印象を抱いていないのは、アラ
ンのおかげかな﹂
そう言いながら、レジーはミートローフみたいなお肉をナイフで
切って行く。
前から思ってたけど、レジーはナイフの使い方が綺麗だ。やり方
もわかっているし、それなりに何年もナイフとフォークで食事をし
てきた身だけど、こんなに優雅に食べられる気がしない。
ようするに私、雑なんだよね。
でも治したい。今まで以上に、レジーと食事する機会ができたと
したら、回りの人に﹁ヤダあの子綺麗に食べられないの?﹂とか言
1871
われるのは嫌なので。
⋮⋮その、無事に国を取り戻してね、その後もレジーが付き合っ
てくれるつもりなら、機会が沢山できるかなって。
レジーは王様になるだろうし。彼に会いたいのなら王宮に滞在さ
せてもらうことになる。忙しくなるだろうレジーに毎日会いたいの
なら、食事の時間に会うことが多くなるだろうな、と。
考え事をしていたせいで、お肉がくずれてしまった。
う、恥ずかしい⋮⋮と思って、そそくさとそれを片付けていると、
だんだん緊張してくる。完璧な人の前で、失敗するのはけっこう恐
ろしい。幻滅されないかと不安になる。
考えてみると、エヴラール城への途上とその時の滞在時以外では、
レジーと何日も一緒にいるということがなかった。
まだ子供気分だった頃だから、あれこれと気にしなかったけど、
今は大人になった分だけ人の目が気になってしまう。
そのせいで食べるのが遅かったようだ。
﹁疲れて食が進まないのか?﹂
横で見ていた師匠に言われて我に返る。そしてレジーの食事が終
わりかけてるのを見て、私は食べることに必死になった。
待たせてはいけないからと、猛然と食事を片づけ終えたところで、
レジーに聞かれた。
﹁お茶は足りてる?﹂
大丈夫と答えようとしたら、なぜかレジーが隣にいた。
しかもカップにお茶を足してくれている。
1872
﹁はっ? お、王子が給仕みたいなことしなくても⋮⋮﹂
ていうか、そういうのって私の方がやるべきじゃ!? 完全に気
が利かないっていうのが丸出しで、落ち込みそうになった。
﹁気にしないで。給仕を誰かに頼んだら、キアラの隣に座っていら
れないだろう? 王子がそんな不作法をするなんて、と言われるか
らね﹂
だから召使いの給仕も断ったのだと、堂々と言う。
﹁お腹はいっぱいになった?﹂
﹁う、うん﹂
レジーが入れてくれたお茶を見たら、ものすごくお腹がいっぱい
になった気がした。
﹁じゃあ、少し私の空腹につき合ってほしいな、キアラ﹂
そう言ったレジーが私の横髪を一筋持ち上げた。髪が動くたびに
ぞくぞくとした感じが首筋を這う。少しの間髪を指で梳いたりと遊
んでいたレジーが、噛みついた。
﹁ちょっ、レジー!?﹂
なんで噛むのと驚いて身じろぎしたら、すぐに口を離したレジー
の手から、髪がすり抜ける。
﹁甘えさせてくれるって、約束しただろう?﹂
﹁約束したけど、でも髪を噛むとは思わなくて、だって馬で走って
1873
きたばかりだから土埃とか⋮⋮﹂
﹁私は気にしないよ?﹂
目を眇めたレジーが、隣にいた私を抱きこんで、首筋に顔を寄せ
てくる。
つい先日、首筋に口づけられたことを思い出して肩に力が入る。
そんな私にくすくすと笑いながら、レジーは一瞬だけうなじに唇を
押し付けた。
﹁ひゃっ﹂
背筋にくすぐったいような感覚が走って、思わず声が上がる。
﹁おいおい⋮⋮﹂
師匠が呆れたように言ったけれど、レジーはさっぱりと無視した。
﹁早く私と接することに慣れて欲しいな。率直に言うと、キアラか
ら抱きしめられたいって思うようになって欲しいし、キスしたいっ
て思ってほしい﹂
そう言ったレジーが、私の首を両手で包み込むようにして顔を上
げさせる。
﹁とりあえずは、そこまでで我慢するから﹂
﹁とりあえ⋮⋮ん﹂
とりあえずってどういうこと? と聞く間もなく、レジーのキス
で口が塞がれてしまう。
師匠のため息が聞こえてきたけれど、キスで息が苦しくなること
1874
だけで頭がいっぱいで、そのことを考える余裕もなくなっていた。
レジーもそこまでで、甘えるのは中断してくれた。
﹁あまりここを占領してもいけないからね。君や私のお兄様に怒ら
れそうだし。また今度﹂
そう言ってレジーは、私を解放してくれたのだけど。
﹁わし⋮⋮この先が恐ろしくなってきた⋮⋮﹂
師匠が呆然とつぶやいたまま、しばらく﹁ぐぬぅ﹂とか﹁ううう﹂
とか唸り続けて、様子がおかしくなってしまった。
おかげで師匠に見られた恥ずかしさは、少し薄れたのだけど。
﹁⋮⋮慣れるの、かな﹂
レジーに言われたこと、されたことを思い出して、私は疑問に思
う。
我に返ると、つい廊下で立ち止まってしまっていて。正気に返れ
自分と、廊下の壁に頭を二度ほどぶつけていたら。
﹁キアラ、おまえとうとう頭が⋮⋮﹂
目撃したアランに、ものすごく気の毒そうな表情でそんなことを
言われた。
違うよ? おかしくなったわけじゃないからね?
抗議したのだけど、アランは全く信じてくれなかったのだった。
1875
事前の打ち合わせと一緒の食事︵後書き︶
活動報告に、お知らせを追加しております。
1876
ナザント砦攻略
翌朝、イサーク達が出発した。
その翌日には私達、ファルジア軍も出発。
目指すはシェスティナ侯爵領境の北西部にある、ナザント砦だ。
砦までは万を超す大所帯で、街道をじりじりと西へ向かって進ん
だ。おかげで馬車が使えるので、私はレジー達と一緒に移動時間を
やり過ごすおしゃべりをしていた。
何日も気を張って行動していたら、さすがに神経が擦り切れてし
まうし、斥候を先行させながら、兵達も休ませつつの進軍なので、
目的地到着まで時間がかかるのだ。
そうしてナザント砦のことを聞いていた私は、ふと疑問に思った。
思えば、今まで砦戦は何回も経験しているわけだけれど。普通は
どう攻略するものなんだろう。
カインさんに尋ねてみると、
﹁使者を送って、投降を求めるのが第一段階ですね。拒否されたら
包囲して、門を壊して突破するか、内部に人を侵入させるか。失敗
したらあちらが干上がるまで待つことになりますね﹂
﹁干上がるまで⋮⋮﹂
﹁あまりに砦の主が強情だったりすると、餓死寸前で内部で反乱が
起こることも﹂
﹁うわぁ﹂
想像するだけでぞっとする。
餓死寸前とか、経験したくない⋮⋮。
1877
﹁あとは殿下がカッシアでやったように、毒物を使うか﹂
そういえばカッシア城内のルアイン兵は、毒でほとんどが倒され
ていたんだった。
するとレジーが言った。
﹁でも、そろそろこちらの勢力の方が大きくなったんだから、一応
投降を呼びかけてみるかい? クロンファードなんかは、援軍を呼
べばルアインの方が有利だったから、まず聞きはしなかっただろう
けど﹂
そもそもクロンファードでは、ルアイン軍もこちらの姿を確認し
てすぐに軍を展開したので、投降どころの話じゃなかった。
﹁あれもキアラさんがいて、ほとんど一瞬で制圧できましたからね。
ただ、キアラさんには投降を呼びかける方がキツイことになる場合
も⋮⋮﹂
﹁え、どういうことです?﹂
投降の呼びかけで、どうして私がショックを受けることになるん
だろう。わからなくて首をかしげていると、レジーが教えてくれた。
﹁交渉決裂した場合⋮⋮もしくはこちらに受け入れない姿勢を見せ
つけるためにね、使者の首を切って寄越す場合もあるから﹂
ぞっとした。思わず自分の首を手で覆ってしまう。
﹁や、やだって言うだけじゃだめなんて⋮⋮﹂
﹁大丈夫。やるとしても矢文にするよ。うちの大事な戦力が怯えて
1878
使えないと困るからね。期限を設けて待つことになるけど﹂
怯えた私の頭を撫でて、レジーが言う。
﹁三日ぐらいでしょうか﹂
﹁こちらとしてはそれぐらいでと思うけれどね。一週間ぐらいはか
かりそうな気がするよ。それだけの期間閉じ込められて、援軍が来
なかったらようやく諦め始めるんじゃないかな。でもその前に決着
をつけたいけれど﹂
レジーは﹁冬が近いからね﹂とつぶやく。
来週になれば、じわじわと気温が下がって行く。
シェスティナで戦うにも、移動などで最速でも一週間ほど必要に
なるだろう。そこから王都へ向かうには、さらに一週間ほどかかる
だろうか。
一番いいのは、降伏を促した時にすぐルアイン軍が白旗を上げて
くれることだけど。
と、そこで私は思いついた。
﹁あ、じゃあ土人形に行かせたらどうかな?﹂
﹁は?﹂
カインさんが目を丸くした。
五日かけて王領地の山間の街道を抜け、やってきたシェスティナ
侯爵領。
一応、街道の領境はルアイン兵が通せんぼをしていたけれど、一
万の軍どころか土人形を先頭に立たせたら逃げて行ったので、悠々
と通り抜けてきた。
1879
そこからまもなく、ナザント砦へと到着した。
ナザント砦は規模が小さい、一重の砦壁で囲まれたものだった。
砦にいる人数は、おそらく三千ほどと斥候から推測が伝えられてい
る。
砦にいるルアイン兵の役目は、ファルジア軍が接近して来たら規
模等をシェスティナ侯爵の城へと連絡すること、そしてファルジア
軍の進軍を足止めすることだろう。
時間が延びれば延びるほど、ルアイン側は反撃の機会を得ること
ができるのだから。
ファルジア軍としても、砦のルアイン兵を無視して行ってもいい
のだけど、かならず後方から攻撃してくるだろう。それから対応す
るという手もあるけれど、降伏させられるのなら、その方が手っ取
り早い。
まずは教科書通りに砦を包囲した。
そしてレジーが、投降の使者について私の案を承認してくれたか
ら実行したんだけど。
﹁うっくくくく﹂
実物を見たとたん、久々にレジーの笑いの発作が来た。
グロウルさんも頬がぴくぴくしてる。アランは﹁本気かよ⋮⋮﹂
とげっそりした顔をしていたが、エメラインさんは喜色満面だった。
﹁さすがはキアラさん! わたし、こういうのを期待していたので
す!﹂
エメラインさんはお気に召したらしい。
その他の人々の微妙な表情と、あっけにとられる兵士の皆さんを
背後に、使者にした土人形その1と、土人形その2が砦へ向かって
1880
進む。
その2には、私と一緒にレジーが左肩に、最大時の半分以下には
小さくなったリーラが右肩に乗った。
﹁と、投降の使者、だと!?﹂
何も言っていないのに砦壁の上の兵士達がそう叫んだのは、土人
形その1の胸に、しっかりと﹃投降を呼びかける使者です﹄と大き
く刻んだからだ。
わかりやすくてとてもいいと思ったし、レジーとカインさん、師
匠も賛同してくれた。
一応使者と書いているせいか、ルアイン兵達は攻撃していいもの
かどうかわからず右往左往していた。
そこに手を差し出す土人形その1。
悲鳴を上げたルアイン兵だったが、ぽとりと落とされた投降を呼
びかける書状に、土人形の姿を見て砦壁の上にやってきた騎士が気
づき、びくびくしながら拾って行った。
ちなみに書状には、すみやかに回答をするよう書かれている。
土人形その1の少し後方で待機しながら、私はじりじりと待つ。
けれど十数分後に返ってきたのは、矢の雨だった。
私はリーラが吹雪で矢を遠ざけてくれる間に、土人形その2を少
し後方に下げ、土人形その1に砦壁をがりがりと手で壊させた。
﹁壊れる! 壊されるー!﹂
﹁矢が効かない!﹂
土人形に一生懸命矢を射るけれど、ちょっとの矢では土人形は倒
れない。
1881
門へ向かってガシガシと、積まれている壁の石を崩していく。
そのうちにルアイン兵が逃げて行く。勇敢そうな騎士が土人形に
剣を突き立てるけれど、巨大になればなるほどHPが高くなる傾向
がある土人形は、それぐらいじゃびくともしない。
そろそろ降参してくれるかなと思ったのだけど、敵は意外な手に
出た。
﹁ひ、人質がどうなってもいいのか!﹂
土人形が抉っている場所が門のすぐ上まで届いた頃、砦壁の無事
な場所に、数人の騎士が一人の男性を連れて上がってきた。
どこかに閉じ込められていたのだろうか。髭も伸び放題で髪もま
とめられていない。服は生成の簡素な上下だけで、裸足なのは見え
た。
﹁誰かわかる?﹂
﹁遠くてちょっとわかりにくいけど、砦に駐留していた騎士じゃな
いかな。平常時は領主ではなくて、騎士が管理してることが多いか
らね。⋮⋮とりあえず近くに来ないと重要人物かもわからないな。
力を貸してもらってもいいかい?﹂
﹁うん﹂
土人形の頭の横で立つレジーの、左肩に触れる。
彼が左手に持つ剣の先を砦に向けたところで、力を流した。
力を渡した後、それを使うのはレジーだ。彼の剣先から放たれた
雷は、まっすぐに人質だという男性を掴んでいる騎士達を打ち据え
た。
悲鳴を上げて離れたところで、砦壁の破壊を中断した土人形その
1が、一人で立ち尽くす男性をあっさりと握って確保。
1882
人質も失ったナザント砦のルアイン軍は、それでもぐずぐずとし
ていた。
けれど人質の男性をファルジア軍に預けた後、もう一度砦壁を破
壊しはじめた土人形その1が門を蹴りとばしたその時、ようやく白
旗を掲げたのだった。
1883
ナザント砦の捕虜だった人
ナザント砦を攻略したが、その後の処理の方が時間がかかった。
投降してきたルアイン兵を砦から外に出したとしても、中に潜ん
でいないとは限らない。
何人もの兵を使って一気に捜索し、ルナールやサーラを連れたジ
ナさんとギルシュさんにも協力を頼んで、三時間程でその作業が完
了した。
私はそこで砦の中に移動した。
敵が利用していた場所とはいえ、守備を固めるならやはり砦の中
に居た方が安全だからだ。
そんな私が、念のために建物の中に入れるぐらいに小さくなった
リーラを連れて部屋にこもっている間も、レジー達は仕事を続ける。
ゴーレム
ルアイン兵の武装解除や、捕虜としてエヴラールへ送る算段など、
面倒なことは沢山あった。
一応、脱走や変に暴れられては困るので、私が土人形で作った窪
みに、何分割かにして入れたので、見張るのはそう大変ではなかっ
たようだ。
そんな中に、件の捕虜になっていた人のことも含まれていた。
彼が一体どういう素性で、人質になったのかを私が知ったのは、
翌日の朝のことだった。
﹁ファルジアの近衛騎士隊長⋮⋮?﹂
﹁国王陛下の⋮⋮レジナルド殿下の叔父ですね。そちらの近衛騎士
隊長だったようです。私も何度か顔を見ていたので、間違いありま
せん﹂
1884
教えてくれたのは、カインさんだ。
いくら見張りやすい場所に追い込んだとはいえ、元気なルアイン
兵が三千人もいる近くなのだから、念のためついて歩いてくれてい
る。
なので私は、カインさんと一緒に砦壁の上を歩いていた。
ゴーレム
ここからだと、昨日土人形に作らせた窪みが俯瞰しやすい。どう
なったか様子を見に来たのは、捕虜を後から追って来るベアトリス
夫人の軍が合流したら、そちらに任せると聞いたからだ。
下手をすると、パトリシエール伯爵と戦った後じゃないと、彼ら
をここから動かせない可能性もあるので、雨に備えて溝でも掘ろう
かと考えていたのだ。窪みじゃ雨水が溜まり放題になってしまうか
ら。
そのついでにカインさんから報告として聞いたのが、昨日の捕虜
のことだったのだ。
﹁どこかの領主貴族かと思っていました﹂
﹁私もです。昨日は髪も髭も伸び放題でしたからね。声は聞き覚え
があっても、誰なのかわからなかったので、身支度をある程度させ
たら、間違いなくご本人でした﹂
﹁声だけなら、上手く変えられる人もいますものね﹂
この世界に整形技術などはないし、火傷等で判別がつかないよう
にさせる以外に、顔を誤魔化す術はない。だから身綺麗にさせたの
だろう。
ただ疑問がある。
﹁どうして国王の騎士隊長がこんなところに?﹂
﹁本人はシェスティナ侯爵領での戦いに、参加したのだと言ってい
1885
ました。国王が来られない代わりに、と。その後敗戦し、けれど国
王が暗殺されたらしいと耳にして、エヴラールの殿下の元を目指そ
うとしたけれど、ここで捕まったのだと言っていましたが⋮⋮﹂
カインさんの語尾があいまいになる。彼も疑問には思っているの
だろう。けれどはっきり疑っていると言わないので、あり得ない話
ではないのだろう。
念のため、尋ねてみた。
﹁近衛騎士隊長が、国王の側を離れて戦に参加するって、あること
なんですか?﹂
﹁無いとは言えませんね。主が身動きできない場合に、代理として
立つこともあるのが騎士ですから﹂
﹁なるほど。でも、疑っているんですね?﹂
窪みに作る溝について考えをまとめた私は、カインさんと話なが
ら砦壁から降りる。
城塞塔の中の階段を下り、砦の中庭に出た。
﹁捕虜にするより殺した方が面倒がなかっただろうに、と思ってし
まうからですね。彼を手元に置くメリットがよくわからないのです。
一応本人は、命乞いの際に近衛騎士隊長だと主張し、殿下と親しい
ので人質の価値があると主張したようです﹂
ただし、とカインさんがため息交じりに、主塔の下の方へ視線を
移す。
つられて見れば、中庭に出てきたレジーを追いかける、一人の男
性がいた。
﹁殿下、どうぞ私も戦場へお連れ下さい!﹂
1886
情熱的に訴えるが、
﹁君は長い間捕虜生活を送っていたんだ。体にも相当負担がかかっ
ているだろうから、この砦で安心して休むといい。ああ、故郷へ戻
っても構わないよ?﹂
﹁殿下!?﹂
うん。レジーとは距離があることはわかった。
そもそもレジーがあからさまな塩対応をしている。⋮⋮と、そこ
で私は気づいた。
﹁カインさん。あの騎士隊長さんは、何年前から騎士隊長をやって
いたんですか?﹂
﹁もう十年以上は﹂
その答えで納得した。おそらくレジーはあの騎士隊長を信用しな
いだろう、ということを。
なんとなく眺めていたせいだろうか、件の国王の騎士隊長が、私
に気づいてこちらに走ってきた。
カインさんがさりげなく私の前に出てくれる。おかげで国王の騎
士隊長と、間近で接することはなかった。カインさんを見て、少し
手前で相手が立ち止まったからだ。
﹁初めてご挨拶いたします、魔術師殿ですね? 実は折り入って話
が⋮⋮﹂
﹁むりです﹂
私は何か言われる前に断った。
1887
﹁は?﹂
国王の騎士隊長は拍子抜けしたような声を出す。そこに、私の気
持ちを察したカインさんが、断りを入れてくれる。
﹁殿下は魔術師殿に頼まれても、言を翻すようなお方ではありませ
んよ。むしろ魔術師殿に迷惑をかけるようなら、貴方を砦から追い
出すでしょう。回りくどい手を使うよりは、殿下にお願いし続けた
方が良いと思いますよ。それでは﹂
カインさんは言うだけ言うと、私を抱えるようにして国王の騎士
隊長から遠ざかった。
振り返ってちらりと見た国王の騎士隊長は、呆然と立ち尽くして
いた。
少しは気の毒に感じたけど、傭兵を雇うぐらいのことならまだし
も、騎士の士官のことについて私が口を出すべきでもないのだ。
しかも積極的に近づきたい人ではない。
十年前から近衛騎士をしているのなら、幼いレジーとも接してい
るはずだ。その彼が嫌がるのだから、原因があるはずだ。たぶん、
小さな子供だったレジーに国王と一緒に冷たい対応をしていた人な
のだろう。
手のひらを返すような態度を、受け入れるのさえ嫌になるくらい
に。
それで国王の騎士隊長の一件は、私からは遠い代物になったはず
だったのだけど。
どうやらそれで治まらなかったと聞いたのは、二日後。夕食を一
緒に摂ったジナさんとギルシュさんからだった。
1888
﹁あの騎士隊長さん? 名前なんていったかなー﹂
﹁バージルさんていうらしいわよん? その人がね、どうも一緒に
捕虜になったファルジアの兵士に悪評をばらまいてるのよ﹂
﹁どういうことです?﹂
パンをちぎる手を止めて聞けば、ジナさんが顔をしかめた。
﹁殿下が冷たいって、自分達が可哀想だから、誰か殿下にとりなし
てくれって言って回っているらしいの。このままじゃ行き場所がな
くて、仕事を無くすからって﹂
﹁それはまた⋮⋮﹂
レジーの評判を落とす行為だ。士官先を変えたいらしいのに、嫌
われる行動をとるのはどうしてなのだろう。
疑問に思った私に、ギルシュさんが言った。
﹁そうねん⋮⋮。彼としては、戦後のことを見据えて取り入ろうと
策を弄しているのかもしれないし。悪評を立てられては困るからっ
て、殿下が彼を配下に入れることを期待しているんでしょうねん﹂
﹁でも、総司令官の悪評を立てるだなんて⋮⋮。手の一つではある
けれど、戦場で殿下の指揮を疑うきっかけになったりしたら、問題
よ。というか、そんな手を使うような人だから、あの殿下は彼を遠
ざけているのだと思うけど﹂
とにかく状況を知ったジナさん達は、噂をばらまいている兵士に
ギルシュさんの相談室に案内し、他のファルジア兵が囲んだところ
でこんこんと諭したという。
レジーのようなタイプには、うるさく付きまとうよりも、誠実に
礼儀正しくして遠くからじっと見つめる方がより効果的だというこ
とも添えて。
1889
﹁ま、一応納得してたみたいだし、これで収まるだろうけど、殿下
に気をつけるよう言っておいてねん?﹂
ギルシュさんがウインクをしてそう言った。
1890
合流と再会と 1
ナザント砦を摂取したのは、万が一のための拠点を持つためだ。
二万はいるはずのルアイン軍と戦った後、こちらが引かなければ
ならない事態になったら、守りやすい拠点が必要になる。
それに補給拠点等も必要だ。こちらも二万を越える軍で戦うこと
になるので、補給線もかなり伸びている。シェスティナを攻略する
にあたって、集積場になる場所が必要だった。
早急に物資を運び込み、砦を使えるように整える一方で、レジー
達はシェスティナ侯爵城へ偵察部隊を派遣した。
先方からの妨害を考え、情報の拾い漏れがないようにかなりの数
を出発させたと後から聞いた。
というか、本人がそう話してくれた。
砦のレジーの部屋で、隣り合うように座りながら。
レジーが占有している主塔の部屋は、簡素ながらも綺麗に磨かれ
た木のテーブルに、木でできた三人は腰かけられそうなベンチがあ
った。もちろんクッションなど無いんだけど、戦時の砦にそんなも
のだ。
わたしはレジーとそこに並んで座っているのだけど⋮⋮私の右手
を、レジーが握ったままだった。
﹁レジー、あの、手⋮⋮﹂
﹁まだだめだよ。慣れるまでね﹂
﹁慣れ⋮⋮﹂
時々、手を繋がれたことはあった。でもこんなに長々と、握られ
1891
続けることはなかったので⋮⋮恥かしい。
なにせここには、侍従のコリン君がいる。彼の方はあまりこちら
を気にしないでいてくれてる⋮⋮というか、美しく見なかったこと
にしてくれている。その表情を変えずにいられるテクニックを伝授
願いたい。どうしたら何事もなかったかのように、お茶を出したり
できるのか。
﹁あの、恥ずかしい⋮⋮﹂
小声で訴えると、レジーが普通に握っていただけだったのに、指
を絡めてくる。
肌がこすれるくすぐったい感覚に、腰が浮きかける。すかさずレ
ジーが引き止めるように﹁離してあげないよ﹂と念を押してくる。
﹁どうして意地悪するの﹂
涙目で言えば、レジーに悲しそうな表情で﹁嫌?﹂と聞かれてし
まう。
⋮⋮正直に言えば、嫌じゃない、嫌じゃないの。好きって思って
もらえてるんだってわかるから。でも人前では恥ずかしい。
私、いつになったら慣れられるんだろうか。
思わず遠い目をしてしまう。
実はレジーの手が空く時間ができた一昨日から、同じことを繰り
返されている。
とにかくお茶を飲む時でも手を離してくれない。仕方ないので私
は左手でカップを手にした。
旅の空の下なので高級な器ではないらしいけれど、まっさらな白
い色が綺麗だと思う。これは王子用にコリン君が死守し続けている
陶器のカップだ。
1892
中に入っていた薄紅色のお茶が無くなる頃、ようやく私の手が解
放されそうな話が飛び込んできた。
ノックの音にコリン君が扉を開けると、中へ入って来たグロウル
さんがレジーに報告した。
﹁ベアトリス様が率いる、エヴラール他からの援軍が間もなく到着
されます﹂
﹁もうすぐそこに?﹂
﹁砦まで三十分ほどの距離だと﹂
質問の答えにレジーはうなずいた。
﹁出迎えに、門の傍まで行こう。キアラも﹂
促したレジーがようやく手を離してくれたので、私もほっとしな
がらついて行った。
規模が大きくはない砦なので、門の側まではゆっくりと歩いても
すぐに到着してしまう。
先に報せを受けていたのか、アランやエメラインさん、ジェロー
ム将軍やエニステル伯爵もその場に揃っていた。
門は既に開け放たれている。
砦に入り切らない多くの兵が砦の外で野営しているのだけど、門
から続く道は空けられている。
そこを粛々と進んでくる一軍の姿は、先頭にいる人の姿がほとん
ど判別できるぐらいまで近づいていた。グロウルさんがレジーをあ
まり待たせないように、知らせてくれたんだろう。
もう何か月も会っていなかった、懐かしいベアトリス様の姿が見
える。
1893
髪を首元で結んで、カインさん達と同じエヴラールの騎士服を着
て、騎乗している。毎日のようにエヴラールの城と国境を駆けまわ
っていた姿を思い出させて、私はなんだか胸が詰まるような感覚に
なった。
きっとアランはもっと嬉しいだろう。
そう思って横を見ると、なんだか固い表情をしていた。妙にレジ
ーのことを気にしながら。
不思議だなと思っていたら、レジーが小声で隣にいた私にささや
く。
﹁そういえば君のこと、ベアトリス叔母様に話していいかい?﹂
言われて私はおろおろとする。
﹁え、ええっと﹂
﹁不思議に思われて問い詰められる前に、言っておいた方がいいと
思うんだ。伯母様は今の時点で私にとって一番の近親者だから﹂
⋮⋮そうだった! 生き残っている、レジーに一番近い親族って
ベアトリス様だ! 確かに﹃彼女を紹介します﹄と言う相手ではあ
る。
でも、そんなこと言われると変に緊張してしまう。
まさかこんな戦場で、好きな人のお家に訪問してびくびくしなが
ら家族に挨拶するなんていうイベントが起きるとは思わなかったん
だもの!
あれ、でも。
﹁黙ってたら⋮⋮だめなの、かな﹂
1894
付き合っているだけだから、言わなくても⋮⋮とすごく後ろ向き
なことを提案すると、レジーが楽し気に微笑んだ。
﹁とりあえず話すのは私がするからいいよ。今のところ、君は黙っ
ていてくれればいいんだ。決して否定せずに。いい?﹂
﹁う、はい﹂
どうやら話さなくてもいいらしい。
でもそう言われると、やはり何か言わなくてはならないのではな
いかとそわそわしてしまう。落ち着かない。でも黙っていてと言わ
れた以上、何も言わない方がいいのだろうか?
そんな話をしていると、とうとうベアトリス様が門を潜ってレジ
ーの前にやってきてしまった。
1895
合流と再会と 2
立ち止まったベアトリス様は、その場で一礼する。
﹁お久しぶりでございます、レジナルド殿下。エヴラールとベルト
ラ、アーバインからの援軍を預かって参りました﹂
親族だけど、ベアトリス様は辺境伯夫人の身分に下りた人だ。
今は国難で王族が少ないから、元の立場を使ってあちこちに働き
かけたりしてるけれど、レジーに対しては基本的に臣従している側
としてふるまう。
﹁ここまで長旅をしてきて下さってありがとうございます、叔母上。
辺境伯の様子はいかがですか?﹂
﹁傷はすっかり癒えております。できれば自分がこちらにはせ参じ
たかったようですけれど、お役目がございますから。殿下もご健勝
でなによりです。我が息子はお役に立っておりますか?﹂
ちらりとベアトリス様が視線を向けると、アランがますます緊張
した様子で、背筋を伸ばした。久しぶりの親子再会だから、もっと
喜んだらいいのにと私は不思議に思う。
﹁度々面倒事を引き受けてもらって、助かっていますよ。貴方の側
から引き抜くようなことになってしまったキアラも﹂
レジーがそう言ったところで、いよいよベアトリス様が私に目を
向ける。
1896
﹁あなたも無事で良かったわ。戦場にろくに剣も使えない女の子を
同行させたのかと思うと、やっぱり不安で﹂
微笑むベアトリス様の表情は、エヴラールで見送ってくれた時と
同じように慈愛にあふれていて、私は思わず涙腺が緩みそうになる。
思わずベアトリス様へ一歩踏み出そうとしたけど、右手をレジー
に掴まれて、驚きに肩が跳ね上がりそうになった。
﹁⋮⋮!﹂
﹁ご安心下さい叔母上。彼女に関しても目を届かせるようにしてお
ります。一度は戦場で敵に捕まってしまったこともありますが⋮⋮﹂
叫ぶのは堪えた。
だめだめ。悲鳴なんて上げたら、レジーが私と手を繋いでること
に気づいてない人にまで、知らせることになってしまう。
冷汗をだらだらと流しながら耐えたのだけど。
﹁二度と奪わせはしません。大切な人ですから﹂
﹁⋮⋮!﹂
再び私は絶叫しかけた。
みんなの前でなんてこと言うの!? っていうか、その戦力とし
て大事なのかどうか曖昧な言葉選びをしてても、ちょっと目を瞬い
たベアトリス様が、私の手をレジーが握っていることに気づいて注
目してしまってる!
そして今になってわかった。
こんなやり方をするなら、確かに私が黙ってたって構わないわけ
だ。手を繋いでる姿を見せてしまったのだから、ベアトリス様は今
の言葉が極めて私的な意味だと理解しただろう。
1897
ベアトリス様もニヤニヤしてる⋮⋮。
﹁後で、今までの話を沢山伺わせていただきたいわ。もちろん、魔
術師様にも﹂
その言葉を聞いて、ようやくレジーが手を離してくれた。
がっくりと肩の力が抜けた私は、ふと横を見た時、やっちまった
な的な表情をしてこちらを見ているアランと目が合い、うなだれそ
うになった。
どうやらこうすることを、アランは知っていたらしい。そのせい
で他人事なのに緊張した顔をしていたのだろう。
でも知っていたなら、教えて欲しかった⋮⋮。
翌日、ようやく私はベアトリス様と話す時間を持つことができた
のだけれど。当然ながら色々と尋ねられることになった。
﹁それで? なんて告白されたの? どういう状況で?﹂
﹁ええっと⋮⋮﹂
﹁私、予想がつきますわベアトリス様。きっと捕虜になった後です
わ﹂
援護射撃をしてくるのは、ベアトリス様についてきたマイヤさん
だ。この二人の攻撃から逃れられるはずもない。
そして味方になってくれそうな師匠は、マイヤさんがいると聞い
たとたん、部屋に置いて行けと言われてしまったのでついて来てく
れていないのだ。⋮⋮変な衣装着せられるのが嫌だったのかな。戦
時だから、マイヤさんもそこまで色々と持ってきてはいないと思う
のだけど。
1898
マイヤさんもベアトリス様同様、髪を結んで騎士服を着ている。
戦う気満々と言うか、落としきれない血の跡があるので、斬り合い
は経験済みと見た。
とりあえず私はしどろもどろながらに話した。
ベアトリス様はレジーの親族だし、二年もお世話になった人達だ。
二人はニヤニヤしながらも嬉しそうに聞いてくれた。
それでも、レジーが先に付き合っている話をしてくれたおかげで、
あまり根掘り葉掘り聞かれなかったので、助かった。
ベアトリス様は、そんなレジーの行動を微笑ましそうに思い出し
ながら言った。
﹁あの場で自分が先に話すように仕向けておくことで、貴方が質問
攻めされないように守ったのね、あの子。それに私が貴方達の様子
から察した後で説明するのも、やりにくかったでしょうし﹂
確かに、ベアトリス様が到着した日は後で三人だけになるような
時間もなかった。話をするより先に、ベアトリス様が私とレジーの
様子を知ることになってしまう。その状態で説明するのは、さすが
に宜しくないだろう。
むしろレジーとは二人だけで話す時間が持てたはずだから、それ
でとレジーも考えたのだろう。
ベアトリス様はふと息をついた。
﹁随分と貴方に入れ込んでいるのはわかっていたけど⋮⋮。はっき
りと大事なものを作らない子だと思っていたのよね、レジナルドは。
両親のことがあるから、なおさらにね。でもそのままじゃ生きて行
くのは苦しいだろうって思ってたから⋮⋮誰かを好きになって、大
事に思ってくれるようになって良かったわ﹂
そう言われて、私はどう返していいのかわからず、困ってしまっ
1899
てもぞもぞしていると、ベアトリス様が続けた。
﹁しかも魔術師が相手なら、レジナルドのお母様のようになる心配
も低いでしょうしね。貴方は、戦えるから﹂
﹁あ、リネーゼ王妃様のこと⋮⋮﹂
﹁聞いたわ。リネーゼお義姉様のことは残念だった。私にも良くし
てくれていたから。⋮⋮我が父ながらどうしてそこまでこだわった
のか。それに、お義姉様の大丈夫だという言葉を、信じすぎた私も
⋮⋮。だから﹂
ベアトリス様が私の手を握った。
﹁このままずっとあの子の側にいてくれるのなら、何かあったら言
うのよ? 魔術でもどうしようもないことがあると思うわ。もちろ
ん、この戦争が無事終わってしばらくは、誰もレジナルドや貢献者
である貴方を批判できないでしょう。そこだけは、あの子が王位に
つくタイミングとしては良いのだけれどね﹂
確かに、この戦争に勝てたらレジーは英雄だ。国を解放した王子
に、従わない貴族はまずいなくなる。その後の施政でよほどのミス
をしなければ、ルアイン軍やマリアンネ王妃達を打倒した成果は、
いつまでもレジーに味方してくれるだろう。
ベアトリス様達には一日だけ休息してもらった。
その後、私達はシェスティナ侯爵領の平原へ向かった。
夏に、国王の軍がルアイン軍に敗退した場所。そしてパトリシエ
ール伯爵が待ち構えているだろう場所へ。
本当はイサーク達が戻って来るのを待ちたかったが、パトリシエ
1900
ール伯爵領へ移動して戻って来るのには少々時間がかかるようだ。
二日ほど遅れるということだったので、私達は先行することにし
たのだった。
1901
閑話∼生贄を呼ぶ鳥∼︵前書き︶
王妃のターンです
1902
閑話∼生贄を呼ぶ鳥∼
﹁どういうことか、説明をお願い致します!﹂
ルアインの将軍デイミアンとその副将達が謁見の間に押しかけて
マリアンネ王妃にそう言ったのは、理由がある。
ファルジア王国を併合するため兵を送り、国王を殺して王都は奪
取したものの、王子レジナルドが軍を率いて情勢が覆されようとし
ていた。
そのためエヴラールが死守され、当初のルートでは兵を送り込め
なくなった上、他二つの領地からもルアイン兵は追い払われてしま
ったのだ。
ただ夏前には、ルアイン国王ベルンハルトはもう一度兵を派遣し
ていた。サレハルド経由で兵を送ってひとまずは安心できるかと思
ったものの、やがて知らされたのはデルフィオンの陥落だ。
ルアイン国王は、ファルジアを落とすのは厳しいのではないかと
考え始めた。王位継承者を殺してしまえば、ファルジアの貴族達も
従うだろうと考えていたが、マリアンネは王子を討ち漏らしてしま
ったのだ。
ただ今のうちなら、ルアイン王国は王妃となったマリアンネにル
アイン側も騙されたことにできる。
マリアンネ王妃さえ殺してしまえば、だが。
しかし手を引こうと検討し始めた時に来たのが、マリアンネ王妃
自身が王位を宣言したという話と、王妃からの手紙だった。
1903
︽王子さえ殺せば、ファルジアは瓦解します。当初の予定の通りに
進められるでしょう︾
魔術師を召し抱えたという王子を倒すのは、難しい。けれどマリ
アンネは策があると書き送って来た上、それはベルンハルトとして
も良い策のように思えたのだ。
マリアンネが主導した、という形で事を進めたなら、後に失敗を
してもマリアンネ王妃に責任を押し付けることはできる。
決断したベルンハルトは、マリアンネの要望通りの兵を送った。
サレハルド側から陸路を使って移動しては遅くなってしまうので、
船を使ってだ。
ルアインのベルンハルト国王から兵を預かって来たのが、デイミ
アンだった。
船旅を終え、王都に直接やってきた彼だったが、すぐにマリアン
ネの命によって兵を取り上げられた。
全てファルジアのパトリシエール伯爵の元へ送り込むのだという。
マリアンネの要望を受けて連れて来たのは、ルアインに征服され
た東国出身の奴隷達だ。
おかげで直属の配下が少なく、ファルジア側のマリアンネ王妃の
配下に下った貴族の兵によって抵抗もできないまま、奴隷達は戦力
としてシェスティナに連れていかれた。
これでは何のためにここまで来たのかわからない。
﹁マリアンネ様、貴方が私を指名されたのだと伺いました。国王陛
下もそれを加味して私をここへ送り込まれたのですし、私もファル
ジア軍と戦うつもりで参ったのです。これでは動けぬではありませ
んか!﹂
1904
ずっとこの王宮で、吉報を待てとでも言うのか。
デイミアンに押しかけられたマリアンネの方は、玉座に足を組ん
で優雅に座ったままだ。慌てもせず、側に置いた鳥籠に手を伸ばし
ながら、応じた。
﹁貴方には、重要な役目があるからお呼びしたのですわ、デイミア
ン将軍。それに、あの奴隷達は将軍が管轄していらっしゃった地。
奴隷達を動かしたいとなったら、貴方に頼むのが一番ですもの﹂
﹁確かにそうですが⋮⋮﹂
ルアインの東にあった国を攻め落としたのは、デイミアンだ。海
に接し港を持つあの国は、どうしてもルアインが欲しがった場所の
一つでもある。
そのままデイミアンが統治を代行していたのもあって、確かに奴
隷を戦力として使いたいのなら、彼を動かした方がたやすいのは確
かだった。
﹁あとは貴方に、どうしても教えて欲しいことがあって、ここへ来
ていただきたかったの﹂
マリアンネは鳥籠の扉を開けた。
中に入っているのは、翠の鳥だ。マリアンネが抱えなければなら
ないほどの大きさで、長い尾を引く姿が優美だ。
﹁マリアンネ様に教えるとは⋮⋮っ?﹂
語尾が動揺で跳ね上がる。
籠の中に手を差し伸べてマリアンネが鳥に餌を与えようとすると、
鳥は鋭い嘴でマリアンネの指ごと餌をついばんだ。
嘴の先が突き刺さり、ひっかかれて、マリアンネの指からはすぐ
1905
に血が滴る。
﹁マリアンネ様!?﹂
思わず駆け寄ろうとしたデイミアンに、マリアンネは落ち着いた
声で尋ねた。
﹁ルーティス様の無実を、証言して下さらなかったのはどうして?﹂
﹁え、ルーティス⋮⋮﹂
﹁私の元婚約者。今からだと大分昔になってしまうけれど、貴方の
副将として傍にいた人よ。忘れてはいないでしょう? 私達、一緒
に何度も遠乗りに出かけたではないの﹂
マリアンネは淡々と言葉を紡ぐ。
﹁けれどあの方は、婚姻前に私を汚そうとした、国同士の契約を妨
害しようとしたという理由で、処刑されたのよね? 貴方はその時、
ルーティス様が貴方と一緒にいた間に、私と二人だけになる時間は
あったと証言した。どうして?﹂
デイミアンはぐっと唇を引き結んだ。
だが、それをマリアンネに言うわけにはいかない。
彼女は、婚約者だったルーティスが敗戦の責任を問われて処刑さ
れるのを止めるため、ファルジアに嫁ぐという条件を飲んだのだ。
﹁お兄様は、ファルジアに負けた腹いせが足りなかったの?﹂
マリアンネは兄である、国王の差し金だという前提で話す。鳥に
自分の指先から滴る血を舐めさせながら。
1906
﹁ベルンハルト陛下が、アルノルトお兄様を邪魔に思っていたのは
知っていたわ。優秀な弟が、自分の立場を覆すかもしれないことを
恐れたのでしょうね﹂
マリアンネの言う通りだ。
以前のファルジアとの戦いで、ルアインは侵略を阻止された。
けれど唐突に侵略を決めたのは、半分ほど自分よりも民や貴族か
らの人気が高かった王弟アルノルトを、密かに抹殺するための舞台
が必要だったからだ。
そうして王弟アルノルトは、勝てるわけのない戦いに身を投じる
しかなく、ルアイン内部の人間によって、交渉によって引き分けが
できるだけの条件を整えることも阻止された。
その頃、マリアンネの婚約者だったルーティスは、アルノルト王
子の親友でもあった。
弟であるアルノルトを排除したものの、有能なルーティスが自分
に反意を持たないわけがない、そんな考えに怯えた国王ベルンハル
トは、何としてもルーティスを処刑したかったのだ。
そしてデイミアンは、いつわりの証言と引き換えに将軍位を得た。
﹁さぁ仰い。ルーティス様を見殺しにしたのはなぜ?﹂
ずっと鳥を見つめていたマリアンネが、駆け寄ろうとしたまま足
を止めたデイミアンを振り返る。その後ろにいた副将達をも見すえ、
笑った瞬間。
鳥が、籠の中から飛び立った。
その姿が爆発するかのように巨大になり、空気を引き裂くような
鳴き声を上げる。
同時にデイミアン達は、目の前に迫る炎の渦を見た。
それが彼らの、最後の記憶になった。
1907
閑話∼生贄を呼ぶ鳥∼︵後書き︶
活動報告に書籍の特典情報を追加しました
1908
シェスティナ平原の会戦 1
シェスティナは、西側に広大な平原を擁する地域だ。
侯爵の城の周辺は、元々荒れ地だったのだけれど、灌漑を行って
水を引き耕作地を広げ、今はファルジア王国屈指の穀倉地帯になっ
ている。
その耕作地を踏み荒らせば、さすがにルアインも来年の収穫に響
いて統治が厄介になると考えたのだろう。夏にファルジアの国王軍
と戦った時にも、耕作地から少し離れた手つかずの荒れ地を選んで
いたらしい。
そして今回も、ルアイン軍は荒れ地に布陣してファルジア軍を待
ち構えていた。
﹁敵軍の構成が、ほとんどルアイン軍だというのは有り難いかもし
れませんわね﹂
﹁キルレアでは苦労されましたか?﹂
レジーが尋ねると、隣にいたベアトリス様が渋い表情でうなずい
た。
﹁ルアイン兵の方が少なかったものですから。デルフィオンの兵は
覚悟が決まっていたので問題なかったのですけれど。他の領地の兵
がやりにくそうでしたわ。せっかく相手がマントの色を染めてくれ
ているのだから、刃向かうのならば斬るしかないと思うのですが、
ままならないものですわね﹂
おかげで予定よりも遅れてしまった、とぼやいた。
1909
以前にも増して好戦的な気がするのは、エヴラールを侵略された
せいなのかもしれない。
生活していた土地が蹂躙されるというのは、二年しかいなかった
私でも辛かった。それにベアトリス様はヴェイン辺境伯が負傷した
ことも重なったのだろう。まなざしに、どこかルアインへの恨みが
透けているように思えるのは、気のせいではないと思う。
そんなベアトリス様は、しっかりと胸甲や小手等を身に着けてい
た。レジーと同じ銀の髪を高く結って巻き、青いマントをなびかせ
る姿は女神のように勇ましくて綺麗だ。
けれどそれよりも気になるのは、マイヤさんとエヴラールの騎士
によって遠ざけられて行く人達がいる。ナザント砦で囚われていた
バージルさんだ。
元国王の近衛騎士隊長バージルさんと配下の兵士は、砦にいるよ
うにとレジーに言われたにも関わらず、ついて来てしまっていたよ
うだ。既知だった騎士に頼んで、紛れてきたらしい。
二万人もいれば目が行き届かないのは仕方のないことで、布陣し
ようというところで自分から声を掛けてきて発覚したのだ。
バージルさんは、ベアトリス様にお傍で使えさせて欲しいと言い
出したのだけど、すかさずレジーに﹁怪我が治っていないはずだよ
?﹂と言われ、ベアトリス様には﹁怪我人では役に立たないから下
がっていらしたら?﹂とすげなく断られた。
それでも頑張ろうとしたところを﹁救護の部隊に引き渡しましょ
う﹂と、マイヤさんが流れるような動きで周囲の騎士に声をかけ、
レジーとベアトリス様がいる丘の上から牽引して遠ざけてしまった
のだった。
マイヤさんの流れるような連れ去り方に、私は感心してしまった
ほどだ。
1910
そんな私達は、ルアイン軍からかなり離れた場所で進軍を止めて
いた。
前線ですらルアイン側に矢を届かせるためには、かなり進まなけ
ればならないほど遠い場所だ。
普通ならこんなことはしない。
なにせこちらは時間をかけられては困る側で、パトリシエール伯
爵は時間がかかって、冬になって交戦できなくなっても構わない側
だ。
ファルジアが攻撃しなければ、パトリシエール伯爵は雪が降るま
で戦線を維持し続けるだろう。
けれどレジーは言った。
﹁敵を動かせる手段があって、そちらの方が有利になるのなら使う
に決まっているだろう?﹂
そうして私に指令が下った。
布陣と準備を整え終わった頃、私はカインさんと師匠と一緒に前
線近くに移動した。
そこには五百人ほどの兵士さんが、私が書いた線の中に、五つに
分かれて固まって待機していてくれていた。
私はレジーを振り返り、手を上げる合図を受けて魔術を使う。
﹁始めます!﹂
弓兵達が立っている地面が持ち上がって、石の厚い板と何個もの
車輪が連なるものが現れる。
やや驚く弓兵達だが、事前に説明と予行演習をしているので、騒
いだりはしなかった。
そんな彼らを囲むように壁を作り、前方が見えるように小さな窓
1911
をいくつか作ると、いよいよ発進だ。
﹁弓兵戦車部隊、出発!﹂
車輪がごろごろと回り出す。
石の戦車っぽいものに乗せられた弓兵達が向かうのは、敵陣だ。
けれどそのまま突入はさせない。
敵陣まで弓が届く距離まで進めたところで、後方にいた弓兵が手
を振って合図をしたので止める。
弓兵達はそこから、敵陣に向かって矢を射始めた。
もちろん敵も弓で応戦してくるが、少し後退させれば石の壁に阻
まれてしまう。
この戦車は、移動式の弓兵の壁だ。
接近して攻撃しないと、こちらの矢が尽きるまであちらは射られ
放題になる。
魔術師くずれを使えばいかようにもできるだろうけれど、無差別
攻撃系の彼らを効率良く使えるのは集団の中に放り込んだ時だ。
仕方なくパトリシエール伯爵側は少し前進してくるだろう。そう
私達は予想していたのだ。
しばらくして、思惑通り敵は前進を始めた。
なのに石の戦車に乗っていた弓兵が、なかなか退く合図を送って
来ない。頭が左右に揺れ動いているのはわかるので、ざわついてい
るようなのだけど。
﹁カインさん、師匠、どうしましょう。様子がおかしいみたいなん
ですが﹂
﹁とにかく引かせましょう。何か問題が起きて、判断が遅れている
1912
だけかもしれません。あのままではすぐに敵と白兵戦に持ち込まれ
る距離になってしまいます﹂
言われて、私は弓兵を乗せた石の戦車を後退させた。
釣られるように、敵兵も前進してくる。
ただ、近づいてくると敵の隊列がおかしいことが私にもわかって
きた。
綺麗に五列にまとまった敵の前線部隊のうち、三つの部隊が進ん
でくる。前に押し出されて来たのは、黒のマントも身につけていな
い兵士だった。
隣の兵士とは縄で腕が繋がれていて、当然ながら盾も持たず、フ
ァルジア側の弓兵の矢を真正面から受けている。
死んだ兵士を引きずるように、彼らは表情を無くしたまま前へ進
んでくるのだ。
﹁あれは﹂
カインさんが眉間にしわを刻む。
師匠が唸るような声で言った。
﹁⋮⋮ルアインは奴隷を盾として使うことにしたのか﹂
二人の言葉を聞いていた私の頭の中には、人間の盾という言葉が
浮かんでいた。
ルアインが奴隷を連れて来たようだということは、偵察部隊によ
って知らされていた。けれど白兵戦をさせる前線の兵士として使う
のだとこちらは考えていたのだ。
弓兵達も、仲間が死んでも進んでくる奴隷達の姿に、当惑してし
まったのだろう。
1913
私が弓兵をじりじりと背後に下げている間に、カインさんは近く
の兵士を使ってレジー達に伝達を走らせた。
レジーからの指示は、すぐに返って来た。
必要以上にファルジア側へ近づけさせないため、予定通りの位置
に走り出す前線の歩兵達。
その様子を見て、弓兵をその後ろに移動させてから、私は次の術
の準備に入った。
1914
シェスティナ平原の会戦 1︵後書き︶
活動報告に書籍御礼のSSを掲載、また出版社さんのサイトpas
h!plusでも、発売記念SS公開中です。
出版社さんのSSについても詳しくは活動報告をご参照ください。
1915
シェスティナ平原の会戦 2
私はカインさんに同乗させてもらい、弓兵の戦車の近くへ移動し
た。ここからなら様子が良く見えるからだ。
そして地上に降り、銅鉱石の場所を探す。先ほど斉射や退いてい
る間にも、弓兵にいくらかばら撒いてもらっていたのだ。
良い位置にあるのを確認し、術を実行した。
まず奴隷達の後ろにいる、槍を持った歩兵達の足下に段差を作っ
て転ばせ、引き離す。
﹁ごめん、落ちて!﹂
続いて奴隷達は怪我させるのを覚悟で、穴の中に落とした。
﹁キアラさん、そのままでは矢などで殺される可能性が﹂
﹁わかりました!﹂
手っ取り早く、私はその上を石壁で覆ってしまう。突然暗い穴に
閉じ込められて驚くだろうけれど、緊急避難なので我慢してほしい。
それをルアイン軍の三つの部隊全てに行おうとした。
レジーが奴隷の救出を私に指示してくれたけれど、ファルジア側
も背後のルアイン兵に隙を見せるわけにもいかない。だから弓兵は
まだ矢を射ている。
時間が経つほど命を失っていく奴隷が増えて行った。三つ目の部
隊の奴隷達を穴の中に閉じ込めてルアイン兵から引き離したけれど、
半数が生き残れたかどうか。
前線はそのまま乱戦になっていく。奴隷達を失っても、ルアイン
1916
の前線の歩兵は進んで来た。
﹁キアラさん、後ろの部隊を優先しましょう。あれも全部、前に奴
隷を歩かせて使っています﹂
﹁わかりました﹂
ルアイン軍は前の部隊を追いかけるように、全体でこちらへ向か
っている。その先頭は、先ほどと同じような奴隷と歩兵の構成にな
っているらしい。
前線の兵士の後ろで、件の戦車を一つだけ残して改造した高い台
に上がった私は、同じように対処しようとした。
奴隷になっている人達がむやみに死んでいくのは辛い。ファルジ
ア側の兵士も、人を盾にされると様々な意味で戦いにくく、命を落
とす原因になる。何より弓を射させても、ルアイン兵に当たらない
のならば意味がないのだ。
ルアイン兵が減らなければ、パトリシエール伯爵を倒したことに
ならない。
けれど数が多すぎた。
﹁⋮⋮一体、どれだけの人数を連れて来たんでしょうか﹂
それから三つの部隊の奴隷達を隔離した後、カインさんがそんな
ことを言うほどの数だった。パトリシエール伯爵は、全ての歩兵部
隊に同数の奴隷を伴わせていたからだ。
視線の先に、そんな敵部隊がざっと十は確認できた。
元々パトリシエール伯爵の軍は兵士等を合わせて二万ほど。奴隷
が一万という話だった。
だからこそこちらが布陣した場所に突撃させて来させることで、
1917
戦列を伸ばさせ、中間から後半を私が一気に潰し、置き去りにされ
た前線部の奴隷達を懐柔し、残るルアイン兵を降伏させて終わるつ
もりだったのだ。
状況は常に後方に伝えられ、前線には何度も騎兵隊が斬り込んで
いく。
レジーやアランは、こちらがむやみに殺せば奴隷達がやる気にな
ってしまうことを危惧しているようだ。懐柔することで突き崩せる
はずの一万の兵が、全てこちらに敵対心を持つことになれば、やっ
かいな肉の盾ですらいてくれなくなくなってしまうからだ。
奴隷の心理まで気にするのは、敵が大量の契約の石を持っている、
という事情もある。クレディアス子爵がいなくとも、あれさえ使え
ば魔術師くずれは作りだせる。
こちらが押されている様子なら、奥の手は使って来ないだろう。
その隙に私の魔術と軍勢で畳みかけるのなら、魔術師くずれを大量
に発生させることはできない。けれどルアイン軍の劣勢が続けば別
だ。
まず最初に魔術師くずれにされるのは奴隷だろう。奴隷を保護す
るのは、潜在的にやっかいな敵を封じ込めることにもなるのだ。
でも限界はある。
﹁カインさん、そろそろばら撒いてもらった石が、足りなくなりそ
うです﹂
どういう魔術を使う時にせよ必要だろうと、弓兵に頼んで戦場に
ばら撒いてもらった銅鉱石が残り少なくなって来た。
﹁あと二部隊でいったん引き揚げましょう。ここが潮時です﹂
1918
うなずいたその時、近くの前線へ向かう騎兵が駆け抜けて行った。
この前線が崩れてしまったら、私も戦場から遠ざからなければな
らなくなってしまう。だから助けが来たと思ったのだけど。
﹁キアラさん!﹂
急に腕を引かれた。石壁に叩きつけられるようにして、壁とカイ
ンさんの背中に庇われる。
最初は軽い鉄の音が続いて、噛み合う刃の重たい金属音が響いた。
私を背にしたカインさんが、ぐっと腕や肩に力を入れるのがわか
る。
何があったのか、状況がわからなければ動きようがない。だから
私はカインさんの横から向こう側を覗いたのだけれど。
﹁えっ⋮⋮﹂
カインさんと剣を交えていたのは、ファルジアの騎兵だった。馬
には乗っていないから、飛び降りるようにして台の上に上がって来
たのだろう。
﹁恨みはないが、死んでもらう魔術師!﹂
しかも相手に見覚えがあった。
一度剣を引いて再び切りかかる騎兵の剣を、カインさんは圧倒的
な膂力で弾き飛ばし、腕を切り裂いた上で鎧の隙間に剣を突き刺し
た。
﹁まだしゃべれるでしょう。どういう理由でこんなことをしたので
す。元王の近衛騎士のバージルも貴方の仲間ですか?﹂
1919
剣で貫いたまま、カインさんが問いかける。
そう、私を狙ったのはバージルさんと一緒に囚われていた、兵士
だったのだ。
けれど彼から話を聞き出すことができなかった。
痛みなのか、何か理由があってなのか、苦悶の表情を浮かべなが
らまだ自由だった左手で腰にあったナイフを抜いた。気づいて身を
離そうとしたカインさんの隙をついて、兵士は自分の首にナイフを
突き刺し、そのまま絶命してしまった。
﹁なん⋮⋮﹂
なんでこんなことを? 私を戦場で殺しかけたら、処刑されても
おかしくないと思ったから?
やや呆然としかけた私を、カインさんが抱えるようにしてその場
を離れさせた。
﹁とにかく一度引きましょう、キアラさん。ここでは守りが薄すぎ
ます﹂
異変に気づいた兵士や騎士達が集まってきて、カインさんの指示
を受けて四方八方へ散って行く。
主戦力と言ってもいい魔術師が前線を離れるのだ。戦い方を変え
る必要がある。
同時に、レジーの方にも暗殺の話が伝えられたはずだ。
でも待って。私を襲ったのがバージルさんの仲間なら、バージル
さん自身はどうなんだろう。味方? 敵だとしたら、誰を狙う?
﹁カインさん、レジーの方にはもしかして⋮⋮﹂
﹁同じことを私も考えています。先に連絡も走らせていますし、グ
ロウル達もいます。問題ないと思いますが、急ぎましょう﹂
1920
カインさんは私を待機させていた馬に乗せ、レジー達のいる場所
へと向かった。
1921
シェスティナ平原の会戦 3
その間、私は胸がざわついていた。
またレジーに暗殺される危険が出てきてしまった。
どうあってもこの世界の流れが、レジーを殺そうと動いてしまう
んだろうか?
いやいや。そんなことはない。ただ戦争中だし、紛争の多い世界
で王様になれる立場にいるから、どうしても標的になりやすいだけ
だ。
それでも心配だ。
一度、そうしてレジーを失った記憶があるから。ゲームの記憶だ
けじゃなく﹃逃げられなかったキアラ﹄の記憶として。
カインさんもその不安に配慮してくれたんだと思う。もちろん、
暗殺から身を守るのなら、敵からも矢が届きやすい場所から離れる
必要はあったけれど、レジーの元まで行く必要はない。
左肩をくっつけるようにして接しているカインさんは、ただ前だ
けを見ている。
やがて近づいてきた本陣は、混乱が起こった最中だった。
バージルさんが、レジーに接近していく。その周囲では、何人か
が不意を打たれて怪我をして倒れていた。
隙を狙ったんだろう。グロウルさん達も少し離れていて、駆けつ
けようとしていた。
フェリックスさんがいるけれど、後ろからも忍び寄っている兵士
がいて、レジーはそちらへ向いていた。
あげく、離れた場所で矢をレジーに向けている兵士がいた。バー
1922
ジルさんを狙っているわけじゃないだろう。彼と一緒に囚われてい
た仲間だったのを、私は覚えていた。
矢には間に合わない。誰か気づいてくれるかわからない。
﹁師匠!﹂
私は師匠に魔力を込めて投げた。
﹁ひょわあああっ!?﹂
師匠が風を巻き起こしてすっ飛んで行く。そこに矢が飛んで、土
偶ボディから発される風に巻き込まれて師匠に当たり、地面に落ち
た。
⋮⋮師匠はそのまま飛んで行ってしまった。
けれど矢を射た兵士は、失敗したとたんに何かを飲み込んで、瞬
く間に魔術師くずれに姿を変じる。体から火を噴き出し始めた。
﹁離れて下さい!﹂
叫んだ私は馬から降りると、すぐに土を操って魔術師くずれにな
った兵士を土の中に閉じ込めた。
その間にバージルさん達の方も決着がつく。
迎え撃ったフェリックスさんが足を切りつけ、腕を刺し貫いて抵
抗できなくした。他の兵士達も次々に捕えられ、レジーも背後から
襲おうとした一人を斬り倒していた。
私は先に、落ちた矢を確認しに行った。
拾った兵士さんから渡してもらって確認すれば、やはり契約の石
の砂が付着していたようだ。
1923
﹁ここまで戻ってくるなんて、そちらも問題があったのかい? キ
アラ﹂
矢を確認していたら、レジーが私のことを見つけてくれた。
﹁キアラさんにも暗殺の手が及びましたので、守りの厚い場所へ移
動させました。斬り殺しましたが、そのバージル達の仲間でしょう﹂
代わりに答えてくれたカインさんの言葉にうなずき、レジーは表
情を曇らせた。
﹁とりあえずキアラはここで待機してもらう。あの砦にわざわざい
て、こちらに保護させようとしたんだ。パトリシエール伯爵の策の
一つなんだろう。暗殺騒ぎでこちらが動じなければ、一度ルアイン
軍も引くはずだ。戦線は維持してくれ。魔術師の代わりに氷狐を﹂
最後の指示をグロウルさんに伝えると、レジーは捕えたバージル
さんに近づいた。
彼はまだ、フェリックスさんの剣で地面に腕を刺し留められたま
まだ。
無表情でバージルさんを見下ろしたレジーは、彼に問いただす。
﹁君に依頼したのは、パトリシエール伯爵かい? わざわざ囚われ
の身らしくなるよう閉じ込められてみたり、随分苦労したみたいだ
ね。何を引き換えに要求したんだ? 言えば傷の手当ぐらいはして
あげてもいいよ﹂
レジーの言葉に、ぞっとする。言わなければこのまま死ねと言っ
ているのだ。
1924
でも戦場で重要人物を狙ったのだ。即殺されてもおかしくはない。
剣をそのままにしているフェリックスさんも、情報を引き出すため
に生かしておいただけなのだろう。
私の動揺に気づいたのか、カインさんが遠ざけようとしてくれた。
でも私は首を横に振って、そのまま聞いた。分を殺そうとした理
由、そして殺す計画に加担した人がどうなったのか知りたかった。
バージルさんは痛みに呻いていたけれど、次第に顔から血の気が
失われていくにつれて、大人しくなる。
そうしてようやく、口を開いた。助けて欲しいと願うような目で
はなく、ただ静かな表情だった。もう死んでしまうからと、諦めた
のかもしれない。
﹁国王を⋮⋮殺せば。そのまま女王の騎士隊長として取り立てるか
らと⋮⋮﹂
マリアンネ王妃の指示に従って、バージルさんは国王を殺したの
だ。
﹁それだけではないだろう? 君は借財があったね。それを帳消し
にする資金でももらったんだろう﹂
﹁な、ぜ⋮⋮﹂
バージルさんはなぜレジーがそこまで知っているのかと思ったの
だろう。
﹁君達を国王ごとまとめて追い落とすために、情報を集めていたん
だよ。必要なかったみたいだけど。そんな約束をしていた君が、ど
うしてシェスティナ侯爵領に?﹂
1925
﹁⋮⋮娘と、妻が。私ならファルジア軍に入り込めるだろうと、言
われて﹂
人質をとられて、ファルジア軍に打撃を与えるように指示された
という。
レジーは一応、フェリックスさんに手当をさせるよう命じた。け
れど今からでは、その手当が効果があるかはわからない。
結果がわかったので、私はその場を離れようとした。すぐにレジ
ーに止められる。
﹁どこへ行くんだい、キアラ?﹂
﹁あの、さっき師匠を飛ばしちゃったので探しに⋮⋮﹂
と言ったところで、青いリボンをした氷狐ルナールがとっとっと
駆けて来た。
﹁ぎやああああ、犬のよだれがあああ!﹂
という師匠の叫び声とともに。
見ればルナールは師匠を咥えて持ってきてくれたようだ。
受け取ってみれば、よだれはちょっとだけだ。
﹁ありがとうルナール。師匠、よだれちょっとしかついてないよ?
拭けば大丈夫だし、そもそも連れ戻してくれたんだから﹂
﹁犬に食われた⋮⋮﹂
表情が変わらないはずの土偶なのに、なんだろう。はらはらと涙
をながしているように見える。さすが師匠。
嘆きが収まらない師匠を慰めている間に、レジーの予想通りにル
アイン軍は次第に引いて行った。
1926
今日はここで、引き分けになるようだ。
1927
シェスティナ平原の会戦 4
その後は私の出番だ。
土の中に埋めてしまった人達を、脱出させなければならない。
空気口は開けておいたけれど、真っ暗な場所に閉じ込められて一
時間近く放置されたのだ。守るためとはいえ、きっと困っているだ
ろうし怖い思いをさせただろう。
ルアイン軍が布陣した場所から離れているおかげで、私も現場に
やすやすと近づけた。
覆った土の天井を取り除いて簡単なスロープを作ると、手伝いの
兵士達が中で座り込んでいた奴隷達を歩いてファルジアの陣営まで
連れて行ってくれる。
まだ死んだ奴隷とも縄で繋がれている状態だったので、縄は切ら
れた。それでも奴隷になっていた人達は、暴れもせず逃げもしない。
暗い表情でとぼとぼとこちらの指示に従って歩いてくれる。
その中に、しっかりと顔を上げて歩く人達がいた。
どの人もまだ若い。私と同じような年の少年から、三十代くらい
までの十人ほどの男性。うつむいて泣くことも忘れたような表情の
人の中で、彼らはどうしても目を引いた。
けれどその人達も、逃げるわけではない。
少し離れるようにしてレジーとアランが現れると、一番先頭へ移
動して彼らの方から問いかけた。
﹁君達が、この軍の最高責任者か?﹂
面白がるような顔をしたレジーを見て、無表情のままアランが一
1928
歩前に出て対応した。
﹁そうだ。僕が責任者だ﹂
レジー達は話をする必要があると考えはいるけれど、唐突に襲い
掛かってくることも想定して、アランが代役をするつもりなのだろ
う。
でも一体何を話すつもりなのか。
私達が見守る中で、カインさんとそう年齢が変わらなさそうな奴
隷の青年が言った。
﹁俺達をどう扱うつもりなのか聞きたい。戦場で皆殺しにせず、保
護するようなことをしたのだから、何かに利用するつもりなのか?﹂
﹁そうだな。ありていに言うと利用するつもりだ。勿論、お前たち
は従うだろう。それ以外には何もできそうには見えないからな﹂
突き放すようにアランが言うけれど、事実だ。
奴隷達は肉盾として扱われる予定だったせいか、衣服もあり合わ
せのもので、靴もぼろぼろだ。兵士達は万が一のために保存食など
を持たされているけれど、彼らにはそれもないだろう。
逃げても飢えて死ぬか、近隣の村などで強盗をしたところで、い
ずれは捕まって殺されるだろう。
それがわかっているから逃げないのだろうけれど⋮⋮。それにし
ても大人しすぎる。まるで統制がとれていて、無気力ながらも誰か
に従っているような感じだ。
まさか、パトリシエール伯爵と何か密約でも結んでいるんだろう
か。でも同国人が死ぬのも厭わずに? 自分が死ぬかもしれないの
にそんなことをするだろうか。
頭を悩ませる私の視線の先で、アランが話を進める。
1929
﹁お前たちには国に帰ってもらう﹂
﹁は?﹂
言われた奴隷達は、目を丸くする。気力を失っていた者の半数も
驚いて顔を上げた。
戦争の兵として使われた奴隷が、捕まった末に指示されることと
いえば、戦うことだ。
﹁戦わなくて⋮⋮いいのか?﹂
呆けたようにそう問い返したのも、無理はないだろう。
﹁次の戦でもルアイン軍は奴隷を使うだろう。そして前面に出て来
た同国人達を、こちらに逃がすように。自分達の同国人を解放する
ために、唯々諾々と従っている彼らに、呼びかけはしてもらう。そ
の後は自分達の国に帰ってもらう﹂
﹁国に帰させるって⋮⋮本気でか?﹂
先頭に立つ青年奴隷の問いに、アランはうなずいた。
﹁お前たちの数が数だ。こちらとしても食料の都合をつけ続けるの
は骨だ、という事情がある。ただし条件がある。武器を与えた上で、
故郷に戻す。代わりに自分達の国のルアイン兵と戦え﹂
この言葉には、私も驚いた。
奴隷達の方はなおさらだっただろう。
﹁俺達が⋮⋮。ルアインに侵略された国の人間だと知っているのか
?﹂
1930
﹁偵察させた時に、そこまでは調べさせている。トールディ王国だ
ろう? もちろんルアインに恨みは持っているはずだ。家族は殺さ
れたか、同じように奴隷として扱われているか、なんにせよ国を取
り戻すために剣を手にする理由はあるはずだ﹂
アランはそこで、一応見届け人はつけさせるが⋮⋮と言って、ぐ
るりと集まった奴隷達を見回す。
﹁国に戻りたくないというのは、こちらとしては受け入れられない。
あと、この場でどうするかを決めてもらおう。⋮⋮察するに、お前
たちが移送されてきた奴隷のまとめ役なんだろう?﹂
そしてアランは、前に出た青年の後ろにいる、十代の少年に視線
を向ける。
﹁察するに、そいつがトールディの王族か、王家の血を引く貴族な
んだろう?﹂
先頭に立つ青年が目を見開いた。でも彼はそれ以上は表情を変え
なかったけれど、後ろに少年と一緒にいた男性二人が、慌てたよう
に彼を守る位置に立ち場所を変えた。
﹁当たりだな。お前たちはバレないようにしていたようだが、こち
らが保護するまでの間も、そいつだけは守るように複数の人間が動
いていたのはわかっている﹂
アランの言葉に、先頭の青年も認めるようにうなだれた。
私の方はそこまで観察できていなかったので、素直にびっくりし
た。同時に、なんだか統制がとれていた理由がわかった。この少年
の身分を明かしているかどうかはさておき、周囲の人間が他の奴隷
1931
達を統率していたのだろう。
いつかは皆で、もしくは少年だけでも逃がす機会を伺い、実行す
るために。
やがて、庇われていた少年が一歩前へ出た。
茶色の髪の、アランよりもやや幼い顔をした少年は、真っ直ぐに
アランを見返して言った。
﹁トールディの王位継承権五位。ルクスです。私が交渉を行います﹂
﹁公子⋮⋮﹂
先頭にいた青年の言葉で、どうやらこのルクス少年は、公爵家の
嫡男らしいことがわかった。
彼を逃がそうと周囲が必死になったのだから⋮⋮きっとトールデ
ィ王国の他の王位継承者は、殺されてしまったのだろう。
﹁武器の供給、そして国へ帰してくれるというのなら、私達には兵
を挙げない理由がありません。特に今、ルアインはファルジアを攻
めるためにかなりの兵力を裂いていて、トールディの防衛は薄くな
っているでしょう。けれど、私達にそこまでしてくださる理由を教
えて下さい﹂
何のために親切にするのか。問いかける公子の言葉に答えたのは、
レジーだった。
﹁未来への投資だよ。私達はこの国を安定させたら、いずれルアイ
ンを攻めなければならない、その時、ルアインにはもっと弱体化し
ていてほしいからね﹂
﹁なるほどわかりました。ルアインの国力を削ぐため、なのですね﹂
1932
公子はレジーの言葉に納得したようにうなずいた。
攻めなければ、と言ったことに私は唇を引き結ぶ。
この侵略戦争を終わらせても、ルアインを追い出しただけだ。報
復しきったことにはならないし、ルアインも負けを認めて大人しく
賠償金の支払いに応じないだろう。
そしてファルジアも、サレハルドの賠償金だけでは、あちこちの
補填には足りない。配下の騎士や貴族達に報い、ある程度取り戻す
ためにも、レジーはルアインが弱体化しているうちに打って出るこ
とにしている。
戦は、今回だけでは完全には終わらない。
理由がわかっていて、そうでもしなければまら国力を回復した時
に、ルアインがどんな手を使うかわからない以上、ファルジアは攻
めるべきだとわかっていたけれど。
複雑な気持ちになりながらも、私はやっぱり戦場についていくだ
ろうと思った。
結果的、奴隷達は皆こちらの条件を受け入れることになった。彼
らにとっても渡りに船なのだから当然だろう。
そうして就寝しようとした夜半に、パトリシエール伯爵は襲撃を
仕掛けて来た。
1933
シェスティナ平原の会戦 5
﹁襲撃です、起きて下さい!﹂
カインさんの声に、私は飛び起きた。
確かになんだか外が騒がしい。まだ夜は開けていない時間だ。暗
い。
天幕の中に飛び込んできたカインさんの姿が、月明かりのほのか
な光と一緒になんとか見える。
私は急いで起き上ると、師匠をいつもの場所にひっかける。戦時
なので衣服を着たまま眠っていたので、準備は靴を履いて師匠を持
てば準備は完了するのだけど。
﹁とりあえず安全が確保できる場所まで移動します﹂
カインさんはそれでもまだるっこしかったようで、私の手首を掴
んで急ぎ足で歩き始めた。
外へ出ると周囲の騒ぎが良くわかる。
周囲を取り囲んでいたエヴラールの騎士やジナさん達は出払い、
離れた場所から剣戟の音と声が届く。
﹁敵に接近されていたんですか!?﹂
﹁接近されたことには気づいたので、応戦はできたのですが、敵が
やっかいな方法を使ってきたものですから﹂
﹁やっかい?﹂
質問した私に、カインさんが暗闇の中で馬を歩かせながら、珍し
1934
く嫌そうに答えた。
﹁夜の襲撃は、こちらが気づかないうちにできるだけ接近して一気
に押してくるか、闇夜に紛れられる少数で行うものです。今回は、
二つを合わせたような⋮⋮﹂
敵が大人数でやってきたので、気づくことはできたらしい。
哨戒の兵を倒されていた上、月明かりが弱い日だったので発見が
遅れたものの、迂回して森の側から接近していた敵を見つけ次第、
レジー達は反撃を行った。
ただ、ここでも敵は奴隷を使ってきたのだ。
﹁暗い中では、前線にいる味方を誤って殺しかねないので、不意打
ちをする際には少数で突撃します。けれど敵は、奴隷を使いました。
自分達の前に奴隷を立たせて突撃すれば、敵は奴隷を先に攻撃する
ことになります。その隙に敵を殺せばいい。もしくは間違って切り
つけても、目の前にいるのは奴隷か敵だという状況を作って、闇夜
の中を突撃してきたのです﹂
敵は、とことん奴隷を使い捨てにする戦法で、ファルジア軍を戸
惑わせたようだ。
そういった奴隷を盾にした襲撃部隊が何重にも攻撃をしかけてき
た上、本隊も迫っていることで、対応が遅れているようだ。
それでカインさんは、私を戦場から遠ざけて戦いやすい場所へ移
動するために来たらしい。
ゴーレム
ゴーレム
﹁確かに土人形を出しても、暗いと障害物を作るだけですし⋮⋮﹂
ゴーレム
人の大きさ程度の土人形では焼け石に水だ。巨大土人形でも、暗
い中では上から見下ろした時に判別がつきにくいので、味方を踏み
1935
潰しかねない。
ゴーレム
﹁なので殿下が、キアラさんには敵の本隊の方を攻撃させた方がい
いと。ここなら前線から離れています。土人形を作って、移動しま
ゴーレム
しょう。地上から離れていた方が、キアラさんの無事も確保しやす
いはずです﹂
﹁わかりました﹂
ゴーレム
言われて、私は巨大土人形を作成する。
土人形の肩にカインさんと一緒に乗り、ファルジアの天幕がある
方向を迂回して敵軍がいる場所へ進んだ。
レジー達は、相手の姿が見えるように周囲に火を放ったようだ。
近くの林が燃えている。きっと、後で私が消火することを見込んで
いるんだと思う。信頼が心地いい。
ファルジアの野営地の近くでは乱戦になっていた。
白い氷狐の姿が見える。ジナさん達もあちらに出ているんだろう。
⋮⋮この時、私達の側に味方すると決めた元奴隷の人達も、前線
に立っていたようだ。
後方のルアイン兵ごと氷で足下を固めて、先行部隊にいたジナさ
ん達はそのままその先へ行く。
その後次の部隊がルアイン兵を倒した後で奴隷達を解放しつつ、
仲間に呼びかけさせて抵抗しないようにするという形で、奴隷達を
まず戦場から遠ざけた。
ルアイン側の奴隷達の中には、ファルジア側の仲間の呼びかけで、
隙を見て逃げてくる人も多く、やがてルアインの奴隷を盾にする作
戦は瓦解。
改めて普通の戦闘に突入した頃には、周囲が炎で照らされている
せいで夜戦の意味が薄くなっていた。
1936
でもここで、ルアイン側はとうとう魔術師くずれを出してきた。
契約の砂を塗った矢を射て、敵味方関係なく無差別に、先頭集団の
兵を魔術師くずれにしようとしたのだ。
そんな細かな動きまでは、その時の私にはわからなかったけれど、
魔術師くずれが現れ始めてファルジア側が引き、戦闘が膠着状態に
なったことは上から確認できた。
私は早くルアインの本隊を叩きたかった。
そうしたらルアインは撤退するしかなくなる。
むしろ、エヴラールでの戦いのように、パトリシエール伯爵達を
踏み潰してしまえば、ルアイン軍は瓦解するかもしれない。
だけど暗すぎて、パトリシエール伯爵がいそうな場所がわからな
い。
ルアインの黒いマントで上手く鎧などを覆って移動しているので、
他の兵も見つけにくく、移動して確認してみたら、遊撃兵だったと
か。攻撃しようと思ってカインさんに止められ、奴隷達の集団だと
わかったりということが何度か繰り返される。
それでも少しずつ、ルアインの後方部隊を倒していくけれど、他
の兵は森の中へと移動してしまった。
その時だった。
森の一画に、炎の柱が吹き上がった。
﹁魔術師くずれが!?﹂
そう思ったが、場所がおかしい。前線から離れた森の中でそんな
ことをする意味がなかった。
しかもその炎の柱は増えていく。旗を立てるように。
1937
﹁エイダさん⋮⋮?﹂
こんな風に、炎の魔術を使える相手を、私はエイダさんしか知ら
ない。彼女は、何かの意図があってやっているんじゃないだろうか。
﹁彼女がいるなら、どちらにせよパトリシエール伯爵達もその近く
にいるでしょう﹂
カインさんの助言に、私は土人形を移動させた。
そしてもしかしたらと思う。エイダさんは、攻撃すべき場所を知
らせてくれているんじゃないだろうかと。
ほのかな月明かりでも、あちらからは星空を背にした巨大土人形
の姿はよく見えるはずだから。
やがて、五つ目の炎が吹き上がる場所へと到着した。
﹁エイダさん!﹂
身を守るように炎の輪で自分を囲んだ、エイダさんの姿がよく見
える。
けれどルアイン兵達が、槍を投げてエイダさんを攻撃しようとし
ていた。
﹁やっぱり教えようとしていてくれた!?﹂
だから攻撃されているのだろう。敵に心臓部を晒すような真似を
したからだ。
もっと驚くことに、近づく槍や兵士を、突然生えた茨が絡めとっ
て動けなくしていく。
茨姫が、エイダさんを助けている。
1938
どういうことかはわからない。けれど考えるより先に、ルアイン
の中枢を叩かなければ。
﹁早くなさいキアラ!﹂
ほら、エイダさんもそう言ってる。
微かに聞こえたエイダさんの声に、私はうなずいて近くの騎馬隊
を土人形で蹴散らした。
そこは、間違いなくルアイン軍の中枢だったようだ。
後で死体の中からルアインの将軍を見つけることができた。
ただパトリシエール伯爵だけは逃してしまった。
ルアインの将軍と手分けをするふりをして、少数の騎士と残った
兵を連れて、シェスティナ侯爵城へと逃れて行ったのだった。
1939
エイダさんの処遇
戦闘が終わった。
エイダさんの周囲からも、騎士や兵士達が居なくなった。
それを確認した私は、急いでエイダさんに土人形の手を差し伸べ
た。
﹁エイダさん、こっち! あの、早く隠れましょう!﹂
助けてくれたとはいえ、エイダさんはアズール侯爵を殺した人だ。
ちょっと離れた場所に獰猛な大ヤギと、騎乗したエニステル伯爵
の姿が見えるので、近くにいるのはエニステル伯爵の兵ばかり。ア
ズール侯爵家と親しくしていた関係上、エイダさんを見逃してくれ
るかどうか怪しい。
下手をすると話も聞いてくれない可能性がある。
声をかけられたエイダさんの方は、ハッとした表情になった。そ
うして背後を振り向く。
視線の先を見れば、そこには茨姫が立っていた。
銀の髪の茨姫は、余裕を感じさせるゆったりとした足取りで歩み
寄りながら、エイダさんに言った。
﹁運んでもらいましょう? 私達が隠れられる場所へ﹂
エイダさんは素直にうなずき、茨姫と共に土人形の手に乗ってく
れた。
二人を両手で隠すようにして持ち上げた私は、そろそろと移動す
る。途中、野営地近くでエヴラールの騎士と会えたので、レジーと
1940
アランに伝言を頼んで、最も人がいないだろう野営地の向こうへ移
動する。
敵の襲撃を免れた場所は、安全だからこそ人が来ないだろうと思
ったのだ。
そこでエイダさんと茨姫を降ろした。
私も地上に降りて土人形を崩す。
エイダさんは、夜襲に参加するという形でここに来たからか、黒
っぽい衣服の上からルアインの黒いマントを着ていた。パッと見、
黒いドレスの茨姫とお揃いに見える。表情は固くて話しかけ難いけ
れど、でもこれは言わなくてはならない。
﹁あの、エイダさん﹂
声をかけると、エイダさんはびくっと肩を震わせる。どうやら、
エイダさんは緊張で頬が強張っていたようだ。怒ったりしているわ
けじゃないんだなと私はほっとして、そのまま話した。
﹁トリスフィードでは、助けてくれてありがとう﹂
ずっとお礼を言いたかった。あの時、クレディアス子爵から酷い
目に遭わされずに済んだのは、エイダさんのおかげだ。
するとぽろっとエイダさんの右目から涙がこぼれる。
﹁え、えっ! どうしたの、何か私変なこと言った? どこか痛か
った?﹂
慌ててエイダさんに近づいて、ぱたぱたと肩や腕に触れて確認す
ると、エイダさんがうつむいた。
1941
﹁あ、あのごめんね。勝手に触って⋮⋮﹂
そうしていたら、茨姫が呆れたように言った。
﹁貴方は素直になるべきだと言ったでしょう? 子供じゃないんだ
から、拗ねたり八つ当たりしたり泣いたりして、相手がどこまで我
慢してくれるのか試すのは止めなさい﹂
﹁わ、わかってるわ!﹂
お母さんみたいなことを言う茨姫に、エイダさんは焦った表情に
なると、私を見て、またうつむいて、それから口を開いた。
﹁貴方が⋮⋮無事で良かったわ﹂
最初の言葉を吐き出した後、エイダさんは堰を切ったように話し
始めた。
﹁わたしずっと、自分じゃなにもせず何も知らないようにしてるこ
と、見ないようにして⋮⋮全部貴方のせいだって思おうとしてた。
魔術師にされたのも、あなたのせいだと⋮⋮。茨姫が教えてくれた
わ。元々、契約の石を密かに採掘するための偽装をするために、わ
たしの父が狙われていたの。脅す材料として、わたしは目を浸けら
れていたらしくて﹂
エイダさんは、何かをこらえるようにぐっと唇を引き結んでから
続きを口にする。
﹁本当なら、王妃達の仲間に監禁されるはずだったらしいわ。その
ままだったら、わたしは死んでいただろうって、茨姫に教えられて﹂
1942
エイダさんは、シェスティナ侯爵の城で茨姫に会ったそうだ。
そうして本来辿るはずだった未来を教えられて、エイダさんは本
当にそうなるはずだったのか、茨姫の言葉を疑って確認したらしい。
﹁パトリシエール伯爵は、その予定だったと認めたわ。だけどあな
たが逃げたことで、契約の石の確保が重要になって⋮⋮。結果的に
魔術師になれたから、死なずに済んだの﹂
﹁契約の石⋮⋮﹂
エイダさんの告白内容に、ああそうか、と私の中で欠けていたパ
ズルのピースがはまる感覚があった。
だから、ゲームの時には魔術師くずれが大量に出てくることはな
かったんだ、と。
パトリシエール伯爵達は、脅す材料として確保したエイダさんを
死なせてしまった。そのせいで、彼女のお父さんは手を貸さなかっ
た。おかげで契約の石を大量に確保できなかったんだろう。
採掘できる場所は秘密裏に行動できない所だったに違いない。そ
の時のパトリシエール伯爵達は、ルアインの侵略を隠すため不審な
動きをしないことを選んだんだ。
でも、そんな﹃あったかもしれないこと﹄を茨姫はどうやって知
ったのだろう。
今はそれよりも、エイダさんのことだ。
こうしてエイダさんが魔術師になったということは、人任せにせ
ず、エイダさんが逃げられないようにするために、クレディアス子
爵との結婚で縛るつもりだったんだろう。
その時にクレディアス子爵が、たまたま契約の石を彼女で試そう
としたのかもしれない。だとしたらエイダさんは、やっぱり死ぬ可
能性があったはずだ。
1943
﹁でも、魔術師になりたくなかったでしょう? エイダさんが理不
尽な目にあったと感じていたことに、魔術師になることも含まれて
いたんだと思うの﹂
私は後から、彼女が貴族令嬢だったことを知った。
なら、魔術師として戦場へ連れていかれたり、戦わされることも
負担だったはず。それなら魔術師にされた原因は私だったと、恨ん
でしまってもおかしくない。
けれどエイダさんは、苦いものではあったものの笑みを浮かべた。
﹁⋮⋮あの子爵がいなくなって、しばらくはどうしていいのかわか
らなかったわ。言うなりになって流されて、戦場で人を殺したり、
アズール侯爵も焼き殺してしまった。もうファルジアで生きていけ
る場所はないからって。だけど、茨姫が教えてくれた﹂
エイダさんはちらりと茨姫を横目で見る。
﹁魔術師なんだから、逆に自由に生きていけるはずだって。油断し
なければ、一人旅をしたって山賊や盗賊も倒せる。誰にも邪魔され
ないだけの力があるんだって。その上で、貴方が一番したいことは
何? って聞かれて﹂
そこでようやく、エイダさんが顔を上げた。先ほどまでの不安そ
うな表情が、ようやく消えている。
﹁わたし、死にたくない。死ぬよりは魔術師になってでも、生きら
れた方がいい。ただ平民の生活なんてしたことないもの。このまま
じゃ飢えて死ぬか、目立つから外国へ行って魔術師として暮らすか
どっちかしかない。そう言ったら、茨姫がファルジアで魔術師とし
てじゃなく、普通の人として生活できる案があるって言うから、言
1944
う通りにしてついてきたの﹂
茨姫は、あの大人びた笑みを浮かべてエイダさんの話の続きを引
き取った。
﹁提案をしに来たの。エイダの身の安全と生活を保障してくれるな
ら、私はファルジアの味方をして従軍して戦うわ。エイダは戦争に
参加しない。どう? それに今回のエイダの援護も、少しは交渉の
材料にできると思うのだけど﹂
﹁あ、なるほど﹂
ぽんと手を打ちたい感じだった。
確かに新しい魔術師を召し抱えられるのなら、引き換えにエイダ
さんを見逃すのも、他の将軍達だって同意するだろう。
﹁確かに、それが一番だろうね﹂
ちょうどそこに、レジーが到着したようだ。
途中から話を聞いていたんだろう、即決する言葉を口にしながら
馬に乗って現れたレジーは、アランや騎士達を引き連れて来ていた。
﹁魔術師が味方に加わるからと言っても、エイダ嬢については軍に
いない方がいいだろう。軍内で軋轢を生んでは、戦力が拡充されて
も兵が上手く動かなくなる可能性があるからね。アランもそれでい
いかい?﹂
﹁僕も納得はできたから問題ない。アズール侯爵家はこれからも王
家の近くにいる家だからな、今後のお前に対して隔意を持たれない
ようにするためにも、それが一番の策だろう。で、どうする? こ
のままどこかの領地に隠すのか?﹂
1945
エイダさんを今のうちに移動させるべきだと思ったのだろう。ア
ランの問いに、レジーが言った。
﹁エヴラールかデルフィオン。どちらかなら融通が利くと思う。個
人的にはデルフィオンを勧めたいかな。君が魔術師で敵だったこと
を知っている者もいるけど、デルフィオンは半数がルアインに味方
をした経緯がある。その分だけ、エイダ嬢に対しても寛容だと思う
よ﹂
﹁エメラインも嫌とは言わないだろう﹂
アランがうなずくと、エイダさんもそれならと決めたようだ。
﹁とりあえず、デルフィオンでお願いします﹂
その言葉を受けて、レジー達は指示を出す。
エメラインさんとデルフィオンの騎兵が十数人やってきた。取引
に納得はしてくれるだろうけれど、それは上層部だけで済ませたい
のが、レジー達の考えだ。エイダさんの姿を見せてしまったら、ア
ズール侯爵家の騎士達が黙っていられないだろう。なのですぐに移
動させることにしたのだ。
デルフィオンの騎士と同乗したエイダさんに、レジーが近づいた。
﹁エイダ嬢。君には随分迷惑もかけられたが、感謝もしている。キ
アラを助けてくれてありがとう﹂
そう言ったレジーを見て、エイダさんは目を見開いた後、はにか
むような表情を見せた。
﹁光栄です、殿下﹂
1946
短く返した言葉に、何がこもっていたのかを私が知る術はない。
ただエイダさんが、とてもすっきりした表情だったのが、印象に残
った。
1947
茨姫と記憶 1
急ぎ立ち去ろうとしたエイダさんが、そこへすれ違いかけたフェ
リックスさんに気づいた。
言うべきことがあったんだろう。馬を止めてもらって、フェリッ
クスさんと何かを話している。
でもすぐに、二人は離れてしまう。
エイダさんは林の中に姿を消し、フェリックスさんはレジーの元
へ。
⋮⋮気になるのは、エメラインさんやジナさんと、エイダさんは
彼のことが好きになったのではないかと話したことがあるからだろ
う。でも聞くのは無粋だからと思っていると、折よくレジーがフェ
リックスさんに尋ねてくれた。
﹁エイダ嬢と、もっと別れを惜しんでも良かったんだよ、フェリッ
クス。君も随分彼女に関わっただろう?﹂
茶化すような言い方に、フェリックスさんは困ったように返した。
﹁手のかかる方でしたね⋮⋮。でも謝罪はされましたから﹂
なるほど。エイダさんはたぶん、フェリックスさんを殺しかけて
しまったことを謝り、フェリックスさんはそれを受け入れた、とい
うことなんだろう。
それで終わりというのが、こう、ちょっと寂しい気もするけれど。
お互いに生きていればまた会う機会があるかもしれない。そう考え
られる分だけ、どちらも生きていて良かったと私は思えた。
1948
﹁あの、茨姫もありがとう。前はゆっくり話せなかったけれど、ト
リスフィードでは私も助けてもらって本当にありがとう。それで⋮
⋮レジー、あれを持っている?﹂
あれ、と言うだけでレジーには何なのかがわかったようだ。
﹁持ち歩いているよ﹂
レジーが上着の内側にあるポケットから出したのは、古ぼけた赤
いリボンが巻かれた、紋章の掘られたカメオと、宝石もついていな
い黒ずんだ銀の指輪だ。
レジーはそれを茨姫に差し出して、言った。
﹁君の名は、エフィアと呼ぶべきなのかい?﹂
カメオと指輪を見せられた茨姫は、じっと見つめてからふと息を
つく。
﹁いいえ。茨姫のままで。今はもうその名前で、呼ばれるべきじゃ
ないから。カメオは渡してくれたら嬉しいわ。指輪は⋮⋮貴方が持
っていた方がいいわね﹂
茨姫はじっとレジーを見上げる。
その言葉で、やはり指輪はレジーのお母さんのもので間違いない
のだとわかる。形見だから、子供のレジーに持っているように言っ
たのだろう。
その様子を見ていたアランが、レジーに言う。
﹁この魔術師殿はうちの軍にいてくれるんだろ? キアラと一緒に
どこかで休んでもらっておいて、主要なことをかたずけたら⋮⋮お
1949
前もすぐに抜けて良い。だから先に済ませてしまおう﹂
今は戦闘直後だ。レジーもすぐには動けない。先に状況を把握し
て決定を下した後でなければ、茨姫と話をするわけにもいかない。
アランはそれを早く済ませて、ある程度で切り上げるようにレジ
ーに言ったのだ。
﹁⋮⋮ありがとうアラン。ウェントワース、君に二人のことは任せ
ていいかい?﹂
﹁承りました、殿下﹂
アランの提案通りにすることにしたレジーは、カインさんに私と
茨姫のことを任せて、指揮をとるために他の人々がいる場所へ戻っ
て行った。
フェリックスさん達もレジーに続く。
そして私は、カインさんに付き添われながら、後方にあって無傷
だった私の天幕の中に茨姫を招いた。
茨姫は私と並んで敷物の上に座る。そうすると、茨姫が本当に十
二歳の少女にしか見えない。
水しかないけれどカップに注いだものを出すと、茨姫は﹁あらあ
りがと﹂と言って受け取ってくれた。
その様子を見ながら、私はじりじりした気持ちになる。
⋮⋮沢山聞きたいことがありすぎて、どう切り出していいのかわ
からない。
どうやってここまで来たの?
どうして茨姫は、ずっとその姿なの?
どうして⋮⋮貴方は未来に起こるはずだったことを、知っている
の?
1950
でもじいっと見過ぎたんだと思う。茨姫が笑い出して、困ったよ
うに私を見た。
﹁キアラ、色々質問したいって顔をしているわ﹂
﹁え、あ⋮⋮はい﹂
私は素直に認めることにした。すると﹁ふぉっふおっ﹂と師匠が
笑い出す。
﹁端から全部質問してしまえばいいじゃろ、弟子よ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮ちょっとキアラ﹂
一方茨姫は、水を飲み切ったカップを側に置いて、とても気味悪
そうに師匠を見る。
﹁なんでしょう?﹂
﹁私は前から聞きたかったのよ。老人をその薄気味の悪い人形の中
に入れたのは、どうしてなの? 趣味なの?﹂
﹁え! 趣味ってわけでは!﹂
否定すると、今度は薄気味悪いと言われた師匠が怒った。
﹁ええい失礼な小娘め! 最近ようやく気に入り始めたこの体に文
句をつけるでない!﹂
﹁小娘じゃないわよ。私二十歳はもう越えているもの﹂
﹁ちんまい身のままでは小娘じゃ﹂
﹁私より小さいくせに、文句をつけないでいただきたいわ。そもそ
も、望んで成長しないわけではないのだから﹂
言い合いをしていた師匠が、そこでふっと言葉を変える。
1951
﹁魔術の影響だというのか?﹂
﹁⋮⋮そうね。私はちょっと特殊なのよ。死んだ相手の能力を引き
継げるけれど、代わりに成長しない体になってしまったから﹂
﹁死んだ相手の能力⋮⋮?﹂
私がつぶやくと、茨姫がうっすらと口元に笑みを浮かべた。
﹁そうよキアラ。おかしいと思っていたでしょう? 私の魔術が、
茨を操るものだけではなさそうだから﹂
1952
茨姫と記憶 1︵後書き︶
前回から間が開いてしまってすみません。
そろそろ﹁私は敵になりません!﹂もラストに近づいてきました。
もう少しだけお付き合いいただけたら幸いです。
また新連載﹁元令嬢は召喚主を成り上がらせたい!﹂はじめており
ます。ご興味がありましたら宜しくお願いいたします。
1953
茨姫と記憶 2
確かにおかしいな、とは思っていた。
茨を操り、未来のことがわかるという、二つの魔術だけならまだ
わかる。
でも一瞬で姿を消したのは? 未来のことがわかるにしても、私
のごく個人的なことまで知っているのは?
﹁茨姫は⋮⋮複数の魔法が使えるのだと思っていたの﹂
﹁例えばどんな?﹂
何を考えていたのか教えてくれと言われて、私はいくつか候補を
上げる。
﹁茨を操る魔術と瞬間移動できる魔術。あと未来のことを知る魔術
⋮⋮。でも、それでも説明できないから、もしかすると相手の過去
に起こるかもしれなかったことを、知る魔術とか?﹂
私の言葉を聞いた茨姫は、くすくすと笑った。
﹁そうね。普通に考えるとそうなると思うわ﹂
そして茨姫は、魔術を使って周囲に茨を張り巡らせた。ざわつく
音に外を見ると、天幕の周囲に茨が茂っていたので。
外にいたカインさんが、ぎょっとした表情をしていたけれど、
﹁ごめんなさいね。できれば他の人には、まだ知られたくないのよ﹂
1954
茨姫にそう言われて、私はカインさんに謝った。
﹁魔術師の内緒の話があるみたいなんです。申し訳ないんですけれ
ど、他のひとが近寄らないようにしてもらってもいいですか?﹂
﹁そういうことでしたら⋮⋮﹂
納得してくれたカインさんにお礼を言って、私はまた天幕の中に
引っ込む。
そうしてまた茨姫の側に並んで座ると、茨姫は前よりも小さな声
で語った。
﹁あなたには話しておくべきだから言うわ、キアラ。⋮⋮私が貴方
の運命を曲げることになったのは、貴方と出会ったからだったのよ﹂
﹁え、いつ⋮⋮?﹂
いつの間に出会っていたんだろう。私が小さい時?
﹁貴方に初めて触れたのは、アランに貴方が刺された直後だった﹂
﹁⋮⋮!?﹂
﹁私は、大怪我をした騎士から、貴方が絶望していることを聞き知
っていた。だから、延命させたいと思ったけれど、致命傷で救えそ
うになかった。それなら、王妃達のことを記憶から探らせてもらお
うと思って、貴方に魔術を使ったの﹂
﹁え、あの⋮⋮それ⋮⋮﹂
私は目を丸くする。
だってそれは。アランに殺されるのって﹃もし私が結婚から逃げ
なかった﹄場合のキアラの物語だ。ゲームで知ったそのままの。
そして白昼夢で見た、アランに殺される状況が脳裏に蘇った。
茨姫は、戸惑う私に構わず話し続ける。
1955
﹁そして私は、貴方の中に不可思議な記憶が眠っていることを知っ
た。ここではない世界。不可思議な灰色の道や建物が多い街並みと、
様々な風景が映し出される板がある世界のことを﹂
それは、前世の記憶だ。
コンクリートの道や建物。テレビ。けどそんな記憶を覗ける魔術
って何!?
﹁同時に、貴方の奥底には、それまでの戦いとほぼ酷似した内容の
物語が記憶されていた。こうしたい。こうだったらいいのにという
想いと一緒に。⋮⋮その時には、まだ貴方をどうこうしようと思わ
なかった。不可思議なことを知っている人もいるのだと。そう思っ
たわ。でも結果的に王妃とアランが共倒れになった後、何度繰り返
してもレジナルドを助けられなかった私は、貴方という味方を作る
ことにした。貴方なら⋮⋮レジナルドを救ってくれると思ったから﹂
私は呆然とするしかない。
茨姫が言っている言葉が、わからないわけじゃない。でもそれを
実行するには⋮⋮たぶん、私が思っていたのと違う魔術が必要だと
わかった。
相手の記憶を読み取れる、何かの魔術だ。
でもその発端が、レジー? どうして?
﹁茨姫、貴方は⋮⋮レジーと知り合いだったの?﹂
王族の娘であるエフィアなら、確かにレジーと知り合うことは可
能だ。でもレジーはエフィアの存在も知らないようだったのに。
茨姫は初めて、泣き出しそうな表情を見せた。
1956
﹁私はエフィアではないわ⋮⋮。クレディアス子爵の実験台にさせ
られて魔術師になった、レジナルドの母親よ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮!﹂
息が止まるかと思った。
レジーのお母さん!? え、でも外見は銀の髪って、レジーのお
母さんは王族の人じゃなかったはずだし、え!?
﹁レジーの⋮⋮おかあさんて、リネーゼ⋮⋮さん? 髪の色も茶色
系だって⋮⋮聞いて⋮⋮﹂
でも先代の王妃様、なの?
﹁あの子は、貴方に私のことも話しているのね。⋮⋮忘れないでい
てくれたのね﹂
茨姫はぐっと唇を噛んだ。
﹁私の魔術は、憑依よ。生き物を乗っ取ってある程度操作できる﹂
﹁憑依⋮⋮それで、茨を操って?﹂
﹁そういうことよ。茨は、私がこの植物だと憑依と言う形で最も操
りやすい植物だっただけ。だけど私は死ぬ寸前だった。魔術師とし
て生きて行くには、体が魔力に耐えられなかったから。その時復讐
と引き換えに、憑依して自分を乗っ取っていいと言ったのが、エフ
ィアだった﹂
それで、エフィアの姿形をしているのか。わかったけれども、と
てつもない事情に私は呆然としてしまう。
﹁憑依したエフィアの魔術を私は使うことができたわ。エフィアは
1957
過去にさかのぼれた。自由にいつの時間でも、ということではなか
ったけれど﹂
﹁あ⋮⋮﹂
私はようやくわかった。
茨姫がなぜ全てを知っているのか。どうしてあり得なかった過去
のことを知っているのか。
﹁茨姫、貴方は⋮⋮運命を変えるために、過去に遡ったのね﹂
茨姫はようやくわかったのね、というように微笑んだ。
順番的にはこうだ。
茨姫=リネーゼは死にかけたところで、エフィアの体に憑依した。
この時エフィアが使えた魔術と、元々の魔術の両方が使えるように
なる。
その後、レジーが亡くなったと聞いて驚くリネーゼ。過去に戻っ
て救おうとするも、レジーが死ぬのをどうしても避けられない。た
ぶん、茨姫もエフィアもクレディアス子爵を師として魔術師になっ
たせいで、どうしても手を出せない場面があったのだと思う。
結果、茨姫はアランに手を貸して王妃達を倒す方を選んだ。
でも王妃とアランが共倒れってどういうこと?
茨姫はそれを覆すために、私を使うことにした⋮⋮ということよ
ね。
﹁戦争の展開についての記憶を持っている私なら、どうにかできる
から、それで私に関わったの? でもどうやって?﹂
茨姫は、いつ私に接触したんだろう。
1958
茨姫と記憶 3
﹁貴方を動かすためには、前世の記憶を思い出してもらう必要があ
ったわ。できれば魔術師になる前に。でなければ貴方は自由に動け
ないし⋮⋮﹂
茨姫はじっと私を見る。
﹁たぶん別な世界で生きていた貴方なら、もっと別な方法を考えて
くれるかもしれないって、そんな風に期待したから﹂
確かに、私に前世の記憶がなければ、今の状況にはなっていなか
っただろう。逃げても無駄だと思って、同じような人生を辿ったに
違いない。
﹁私は、生まれたばかりの貴方を探した。まだ小さい頃から記憶が
あった方が、貴方が前世の自分に近い性格になるだろうと思って。
だから申し訳ないんだけど、家に忍び込んで貴方に魔術を使わせて
もらったわ。家を探す方が苦労したわね﹂
茨姫はまだ二歳くらいの私に憑依魔術を使い、眠っていた記憶を
掘り起こした。
だから私には、物ごころつく前には前世の記憶があったのか。
﹁エフィアからもらった魔術にはね、完全に過去に戻ってしまう魔
術と、短い時間だけ過去に戻る魔術があるのよ。エフィア自身は短
時間だけしか移動できなかったみたいで、そのせいで彼女は逃げら
れなかったのだけど⋮⋮私は、十年以上遡れた。だから過去を変え
1959
ると決めた時、私は起点になる時間を決めて何度か試行錯誤しては、
あの森の中で記録をつけていたわ﹂
茨姫は、失敗したもの。成功できそうなもの。次どうするのかを
書いては過去へ戻り、経過を見るためそのまま未来までの時間をす
ごしては戻ってを繰り返したようだ。
正直、私だったら頭がおかしくなりそうだ。
それでも茨姫は何度も試行錯誤し続けた。全ては、我が子レジー
を救うために。
﹁貴方とレジーが思いがけなく森へやって来た時は、驚かされたわ。
暗くて悲壮感しかなくて痩せこけていた貴方しか見たことがなかっ
たから、一瞬、誰だかわからなかった。でも記憶の中の貴方よりず
っと健康そうで、前向きな目をしていて⋮⋮しかももう、レジーと
出会ってくれていた。これならきっと、助けてくれると信じたわ﹂
茨姫に微笑まれ、私は気恥ずかしくてうつむいてしまう。
大したことは出来てないような気がするし、まだまだレジーを完
全に助けたことになったのかはわからないし。
﹁期待通り、レジーの運命は変えられた。でも生き残ったあの子は、
まだその先でも死ぬ運命が続いていた。⋮⋮二度目はキアラ、貴方
が助けてくれたわ。矢で射られたレジーは契約の砂のせいで死んで
もおかしくはなかった。貴方のとっさの思いつきがなければ﹂
私もあの時、この先もレジーを守らなければならないと焦った。
国境を越えたルアイン軍から守っただけではダメだったのだと。
王子なのだから、暗殺されてもおかしくないのだと心に刻んだ出来
事だった。
1960
﹁そして三度目は、エイルレーン。クレディアスから逃げるため、
貴方は大けがを負い、続く戦闘に参加できずに、レジー達はデルフ
ィオンで命からがら撤退を余儀なくされるはずだった﹂
﹁だから⋮⋮助けてくれたんですか﹂
エイダさんの放った炎に焼かれる寸前で、守ってくれた茨のこと
を思い出す。
﹁そう。その後貴方はあのイサーク王に逃がされたけれど、クレデ
ィアスの魔術について誰も知らなかったせいで、レジナルドは砂に
なり、貴方は殺された。⋮⋮ある意味、クレディアスが出て来なか
った時よりも早く、ファルジア軍の負けが決まったような状態にな
るはずだったのよ﹂
私は唾を飲み込んだ。
﹁あの後、白昼夢みたいなもので、私がクレディアス子爵に殺され
て、レジーが砂になる光景を見ました。あれは⋮⋮茨姫が見た﹃起
こるはずの光景の記憶﹄だったんですか?﹂
茨姫はうなずく。
﹁多分そうね。貴方が魔術師になる時に使うように渡した契約の石。
あれは、私がクレディアスからの影響から逃れられないかと試行錯
誤していた時に、改めて取り込んだ石と同じものなの。そのせいで、
私の魔術で見た過去が貴方にも伝わってしまうみたいね﹂
やはり茨姫の記憶で、あれは起こるはずの光景だったのか。
﹁⋮⋮そろそろこの話を止めましょうか。レジーには聞かれたくな
1961
いわ﹂
﹁え、でも⋮⋮﹂
レジーにこそ、茨姫の正体を明かすべきなのではないだろうか。
いなくなってしまった母親を探して、諦めて、そして自分を見離
したのではないとわかって、苦しがっていたレジー。彼にお母さん
は⋮⋮ちょっと変則的な形ではあるけれど、生きていることを教え
てあげたい。
でも茨姫は拒否した。
﹁だめよ。せめてこの戦争が終わるまでは。私が動きにくくなって
しまうもの﹂
﹁まだ何か⋮⋮あるんですか?﹂
この先の戦いで、どうしても茨姫が介入しなければならないこと
が。そのために、このタイミングで私達の仲間になったのではない
だろうか。
そもそも王妃とアランが相打ちになると言っていた。戦い方も知
らなさそうな王妃がどうやって? と思うし、アランが倒されるだ
なんて一体、どんな酷いことになるのか。
怯える私に、茨姫は苦笑いした。
﹁大丈夫。必要なことは私から話すわ。それで⋮⋮たぶん、大丈夫
なはず。だから内緒にしてねキアラ﹂
茨姫がそう言った直後、外で茨が無くなったらしく、カインさん
が声をかけてきた。
﹁キアラさん、もうお話は終わったのですか?﹂
﹁あ、はい。終わりました﹂
1962
﹁殿下が来ています﹂
レジーの方も、戦後の処理が終わったみたいだ。
﹁私が自分で説明するわ﹂
茨姫が答え、立ち上がり際に﹁黙っている約束、お願いね?﹂と
ささやいて天幕を出てしまう。
慌てて私も後を追った。
外へ出ると、レジーが茨姫の参戦の申し出を受け入れることを、
他の将軍達も了承したこと、密かにではあるがエイダさんのことも
了解させたことを話していた。
茨姫はそれでいいとうなずき、彼女自身のことについては、実は
﹃元王妃リネーゼ﹄だということは話さず、魔術が二つ使える特殊
な魔術師だということ。
しかも、未来が垣間見えるのだと、魔術について嘘を説明してい
た。
現状、すぐに伝達することを済ませたので、後は明日に、という
ことになった。
むしろ明日、日が昇った後にも襲撃が来る恐れがある。野営地は
少しだけ後退させることにして、早く兵を休ませることをレジー達
は優先し、私達にも早く眠るようにと言ったレジーは、足早に立ち
去った。
そこに、お母さんがいるとは思わないまま。
1963
パトリシエール伯爵の遺言 1
その朝、再襲撃はなかった。
ほっとしながら起きた私は、茨姫がレジーに呼ばれて立ち去った
後で、もらった朝食とスープをちまちま口に運びながら、つぶやい
てしまう。
﹁どうして⋮⋮話さないのかな﹂
それが茨姫の望みなら、私は黙るしかない。けれどお母さんのこ
とで苦しそうにしていたレジーのことを思い出すと、なぜ、と思っ
てしまう。
﹁まだ何か、言えない事情があるのではないか?﹂
聞いていた師匠が、ぼそりと応じてくれる。
﹁事情⋮⋮﹂
﹁あやつが本来の名前を明かさない方が、意識せずに魔術師として
扱えるだろうという配慮だとか。もしくは⋮⋮話さない限りは、昨
日本人が言っていた通り、未来のことが垣間見える魔術だと誤魔化
すことができる。過去へ戻ってきたと言うよりは、受け入れやすい
と思ったとかじゃな﹂
そこまで言っておきながら、師匠は﹁ひひひ﹂と笑って続けた。
﹁ただ単に、自分が母親だと今さら言いたくないだけかもしれんが
の。子供の頃に不可抗力で手放すことになった子供じゃ⋮⋮。色々
1964
と思う所もあるじゃろうて﹂
その言葉に、私はなるほどと思った。
茨姫の方だって、なんとかレジーを救おうとしていたのだもの。
生きていて欲しいだろうし、会いたかったはずだ。
でも、何年も⋮⋮過去に戻った分、その倍以上の年月を離れて暮
らしていたから、名乗るのが怖くなってしまったのかもしれない。
そういう気持ちを、無理に曲げてとは言えない。
﹁しかしのぅ⋮⋮いっひっひっひ。お前さん、交際しとる相手の親
と、ずいぶん冷静に話し合っておったの?﹂
﹁⋮⋮あ!!﹂
今更ながらに焦る。
レジーのお母さんだという意識が、こう、薄かったというか。茨
姫の姿がエフィアという別な女の子のものだから、意識しにくかっ
たのかもしれないけど。
﹁師匠⋮⋮次に顔を合わせるのが怖くなっちゃいましたよ⋮⋮﹂
考えてみると、茨姫って私の記憶を見た時、そのう⋮⋮レジーと
のあれこれも少しは垣間見ちゃったりしたってことよね?
それに気づくと、ますます頭を抱えてしまう。
﹁ヒッヒッヒッヒ﹂
そんな私を見て、師匠は楽し気に笑い続けていたのだった。
それから一時間もしないうちに、意外な報告がやってきた。
1965
ルアイン軍が引いたというのだ。
レジーもアランも、急にそんなことをしたルアイン軍の動きを不
審に思ったようだ。
でもルアイン軍は粛々と行動を続け、やがてシェスティナ侯爵の
城から離れ、街道を王都へと移動して視界からは見えなくなった。
こうなっては、さすがに攻略しないわけにはいかない。
ちょうどそこへ、遅れていたサレハルドの軍がやってきた。レジ
ーはルアイン軍を警戒して王都へ続く道にサレハルド軍を配置。
私達ファルジア軍は、シェスティナ侯爵の城を包囲した。
そしてここでも驚かされることになる。
パトリシエール伯爵から、騎士や兵士を投降させる意思があると
いう書簡が届けられたのだ。
その条件が⋮⋮私と一対一で話したいというものだった。
将軍達も集められた会議の中、私は同席していた茨姫に確認した。
﹁この話に乗って大丈夫⋮⋮ですか?﹂
﹁問題ないわ。あの男がしようとしていることはわかっているもの﹂
﹁これについても、未来を見ているんですか?﹂
レジーに問われて、茨姫は表情も変えずにうなずいた。
﹁パトリシエールは、魔術師を亡き者にしようとしていた。この後
で最も王妃の邪魔になるのが魔術師キアラだから﹂
﹁しかしどうやって⋮⋮?﹂
疑問の声を上げたのは、ジェローム将軍だ。
﹁親子の別れ話だと言って、対話を要求したのよ。そうして自分が
1966
用意した天幕の中で、話しをしながら魔術師を注意を引きつけたの。
その間に、天幕の中に契約の石のカケラの粉を拡散させた﹂
﹁⋮⋮そういうことか。キアラが影響を受けるだけではなく、つい
て行った人間もキアラへの攻撃手段になる﹂
アランがつぶやく。
﹁ええ。パトリシエール伯爵は魔術を使って砂になって崩れたけれ
ど、炎の魔術だったから天幕は炎上したわ。中にいた人間は逃げる
いとまもなかった。外にいる人間は自分まで魔術師くずれになって
は、被害を広げるからと近づけなかった。魔術師も殿下もなんとか
助かったけれど、怪我を負うのはさけられず⋮⋮その後の戦いにと
ても響くことになるでしょう﹂
一通り起こるだろうことを聞いたアランや将軍達が、唸る。
﹁たぶん、普通に断ってもパトリシエール伯爵は強引な手を使うだ
ろうね﹂
レジーの言葉に、同席していたベアトリス夫人が嫌そうな顔をし
た。
﹁なんとなく察しましたわ。全て拒否して攻め込んでも、伯爵は城
下の民を魔術師くずれにしようとするのではないでしょうか、殿下﹂
﹁私もそう思いますよ叔母上。ルアイン⋮⋮というかパトリシエー
ル伯爵達は、そうできるだけの契約の石を持っていると考えた方が
良いと思うのです﹂
﹁なら、絶対に飲めない要求と飲める要求を決めておくしかない﹂
アランの言葉に、レジーはうなずいた。
1967
﹁魔術師と会わせてもいいけれど、場所の設定はこちらに一任する
こと。この要求を提示してみようか﹂
決定は、速やかに実行された。
すぐに使者が出発し、パトリシエール伯爵にこちらの回答を投げ
かける。すぐに伯爵は﹃そちらの要求を呑む。ただしお互いに、立
ち会い人は五人まで﹄と返してきた。
五人まで、というところに何かしら他の策を思いついたのではな
いかとレジー達も考えたようだけれど、パトリシエール伯爵もでき
ることは限られている。
一応それで手を打つことにした私達は、会う場所の設営を行った。
天幕は柱は私が石で造り、上だけを布で覆って壁はなくしてしま
う。
弓兵は離れた場所に配置し、風下側には立たせないようにした。
契約の石の砂をばら撒くことを警戒しての措置だ。
私と一緒に同席するのは、カインさんとベアトリス様。天幕に入
らない場所に、フェリックスさんとレジーと茨姫にいてもらう。
本当は、私と一緒に同席するのはジェローム将軍になるはずだっ
た。けれどベアトリス様は、パトリシエール伯爵を油断させるため
には王族がいた方がいいと主張して、参加することになった。 ﹁でもベアトリス様⋮⋮こんな危険な場所にいらっしゃらなくても﹂
私はベアトリス様を再三に亘って説得しようとしたけれど、うな
ずいてはくれなかった。もうひと押ししてみようと、設営したばか
りの天幕の下で私は言った。
1968
﹁お願いです。お母さんを亡くすことになったら、アランに謝りき
れません﹂
するとベアトリス様はおかしそうに笑った。
﹁一番危険なのは貴方よキアラ。でも名指しされたから貴方を遠ざ
けるわけにはいかないのだけど。そして私も、貴方に万が一のこと
があったらレジナルドに謝りきれなくなってしまうわ﹂
﹁⋮⋮う﹂
﹁そもそも、私はあまりレジナルドに何もしてやれなかったから⋮
⋮﹂
ベアトリス様は寂しそうにうつむく。
﹁あの子の母親を助けてやりたかったけど、私の手は届かなかった。
今でもどうにかできなかったかと悔やんでしまうわ。だからその分
も、あの子の大切なものは無くさせたくはないと思っているの﹂
私は側にいる茨姫のことを意識した。
姿を隠すためにフードを目深に被って髪も隠している茨姫。彼女
はベアトリス様のことを聞いて、どう思ったかな⋮⋮。
肩を落とした私の背中を叩いたのは、カインさんだった。
﹁貴方はパトリシエール伯爵との対面に集中して下さい﹂
うなずいて前を見る。
ちょうど、遠くに見えるシェスティナの都市の方から、パトリシ
エール伯爵が向かって来るところだった。
1969
パトリシエール伯爵の遺言 2
ややいかつい顔立ちのパトリシエール伯爵は、馬を降りると連れ
て来た五名の騎士だけ従えて歩いて来る。
少し前に、伯爵旗下の騎士や兵士達は武器を捨て、投降を始めて
いる。
五人の騎士達も武器は持っていない。
だけど彼らには別な手段がある。警戒しなければならない。
天幕の下に入ったパトリシエール伯爵は、まずベアトリス様に挨
拶した。
﹁ごきげんよう王女殿下。今日は保護者代理ですかな? それにし
ても、投降の席に自軍の総帥が前面に出ないというのもおかしな話
ですな。叔母の背中に隠れるようなお方だとは思いもしませんでし
た﹂
この期に及んでもレジーを挑発するパトリシエール伯爵に、ベア
トリス様は苦笑いする。
﹁貴方が投降の交渉ではなく、投降の条件として我が軍の魔術師と
会いたいと言ったからよ。わざわざ殿下が前に出る必要などないわ﹂
パトリシエール伯爵はフンと鼻で笑った。
﹁一言文句を言わねば収まらないと思ったのですよ。しかし敗北を
認めた後では投獄されて会うこともないでしょうからな﹂
そうしてようやく私に目を向けた。
1970
﹁本当に恩知らずな奴だ。私が拾わなければ、お前はあの継母に殺
されるところだったのだ。継母が生んだ子供を当主にしたくとも、
長子のお前をと、親族達に反対者がおったのだからな﹂
そうしてパトリシエール伯爵は、私が知らなかった養子に引き取
る際の裏事情を話し出した。
例えば今のような、そのまま生家にいた場合に辿っていただろう
未来について。
伯爵がどれだけの金を積み、いかに継母が強欲だったか。その後、
どのように継母がいた家が没落したのかも。
でもそれらは⋮⋮残念なことに、私にはどんなショックも与える
ものではなかった。
私の中では、完全に自分とは関わりのないものになっていたから。
一通り話し終えたパトリシエール伯爵は、そこでにこりともせず
に言った。
﹁今からでも遅くない。お前は裁きを受けるのだ﹂
話の続きのように告げられた言葉だったせいで、ふと話に気をと
られそうになっていた私は、パトリシエール伯爵の背後の出来事に
気づかなかった。
何を合図にしていたのかわからない。
やってきた当初から暗い表情をしていた騎士五人は、急激に体の
輪郭を変えて行く。
鎧を突き抜けるのは硬い石。五人ともに石の棘を体から生やして
いた。
﹁魔術師くずれ?﹂
1971
茨姫が起こりうると言っていた未来では、パトリシエール伯爵だ
けが魔術師くずれになるはずだったのに、今回は他の騎士達を魔術
師くずれに変えてしまったの?
疑問を持った私を、小脇に抱えるようにしてカインさんが天幕の
下から離れた。
ベアトリス様も一緒に、天幕から数十歩距離を開けた場所まで退
避して、足を止める。
﹁キアラさん﹂
﹁はい。拡散させなかっただけマシですね! やります!﹂
魔術師くずれが相手なら、なおのこと私が戦わなければ。
私は地面に手をついて、天幕のある場所を中心に深い穴を作り出
そうとする。
﹁ん⋮⋮?﹂
上手く魔力が働かない。同じ土魔術を使う相手だから?
とにかく急いで、私は飛び出してくる魔術師くずれの体から伸び
て来る、石の棘を遮る壁を作る。
さらに壁からこちらも鋭利な棘を作り、魔術師くずれ達を貫いた。
もう痛みを感じなくなっていたのか、魔術師くずれは叫びもせず
静かに砂になる。
一方、パトリシエール伯爵はそれを見てくっくっと笑い始めた。
﹁⋮⋮なるほどこれは使える﹂
私の方は、その言葉の意味も、部下を殺されたのに笑える理由も
わからない。
1972
﹁殿下は離れて下さい。ベアトリス様も!﹂
フェリックスさんがレジーとベアトリス様をさらに遠ざける。
そのまま残ったのは茨姫だけだ。
私はパトリシエール伯爵を討つことを考えた。けれどその前に、
パトリシエール伯爵の右腕が炎と化した。
うねるように伸びた炎が、石壁を貫いた。
カインさんが炎を避けさせてくれる。
おかげで無事だったけれど、おかしい。なんでパトリシエール伯
爵はまだ余裕のある表情で、炎を操れるの!?
どちらにせよこのままではだめだ。私はパトリシエール伯爵に攻
撃をしかける。
魔術師くずれ達と同じように、石の棘を伸ばして体を貫こうとし
たのだけど︱︱パトリシエール伯爵の体に達する前に、棘の先がく
ずれた。
パトリシエール伯爵がニヤリと口の端を上げた。
そして腕から伸びた炎が再度私に襲い掛かった。
もう一度カインさんが、私を抱えて避けてくれる。
どうしてと思いながら、伯爵の様子をもう一度見た時⋮⋮茨姫が
一歩前に出た。
﹁ふふっ⋮⋮本当に王妃の言うがままなのね。ああおかしい﹂
笑いながらもう一歩茨姫が前に出ると、パトリシエール伯爵が立
つ地面の下からするりと茨が伸びる。
﹁他にも魔術師がいたのか。こんなもの⋮⋮!﹂
1973
パトリシエール伯爵は、何かをしようとしたようだ。けれど、茨
は何の抵抗もなくするりと伯爵に巻きつき、全身を締め上げ始める。
﹁な⋮⋮これは⋮⋮﹂
パトリシエール伯爵は呻きながら身じろぎしつつ、茨を焼ききろ
うとしたのか炎を隙間から吹き上げさせる。
けれど焼ききれても、すぐに第二第三の茨が巻き付いて覆い尽く
してしまう。
まるで緑の繭に取り込まれたような状態だ。
そんなパトリシエール伯爵にもう一歩近づいて、茨姫はフードを
脱いだ。
パトリシエール伯爵は、さすがにその顔に見覚えがあったようだ。
﹁お前は⋮⋮エフィア﹂
つぶやいた言葉に対して、茨姫の方はすぐに思い出せるわけがな
いと思っていたらしい。
﹁あら意外。覚えていたの?﹂
﹁なぜ、なぜ⋮⋮そのままの姿で﹂
覚えていたからこそ意外だったに違いない。彼の娘だった﹃エフ
ィア﹄が、昔の姿のまま立って歩いていることが。
﹁いやねぇ。貴方達がいたいけな少女の私を、無理やり魔術師にし
たからでしょ? 家を持ち直させるために実の娘を犠牲にして、大
事なルアインの姫のために今度は養女まで捧げて、クレディアス子
爵が国王ではなく貴方に仕えるように仕向けたりもしたのに、残念
1974
だったわね?﹂
茨姫はころころと笑う。
エフィアの姿をしていても、心は前王妃のリネーゼだ。
大人として全てを理解しているからこそ、彼女はあてこすりを楽
し気に口にしながらも、パトリシエール伯爵を締め上げる。
﹁ああ、ようやくよ。あの時はこうすることさえできなかったのだ
もの。あの邪魔な子爵さえいなければ、あなたを殺すことなど簡単
なはずだったのに﹂
エフィアと、そしてリネーゼとしての恨みをぶつける茨姫は、そ
の言葉の内容から、やはりクレディアス子爵がいたせいで彼らに近
づけなかったのだとわかった。
﹁エフィア⋮⋮なのか。しかしまさか。お前の能力は、わずか数日
の過去に戻るだけ⋮⋮ぐえっ﹂
﹁良い声で鳴くカエルね。でも飼うには適していないもの。処分し
てあげるわ﹂
茨姫はますます茨できつく締め上げる。
﹁きさ、ま⋮⋮﹂
パトリシエール伯爵は憎々し気に茨姫を⋮⋮そして私を睨んだ。
﹁あの方の、せめて二つ目の望みを叶えて差し上げたかったという
のに。⋮⋮お前と、王子さえ、いなければ!﹂
ぎりっと茨がきつく絡む音が聞こえた。
1975
﹁マリ⋮⋮。貴方の願いが、叶う⋮⋮ように﹂
最後までマリアンネの名前を呼びながら、パトリシエール伯爵は
こと切れたようだ。
言葉が途切れた次の瞬間、ざらりと砂になってくずれた。
茨はもう用を終えたからか、するりとほどけて、地面の奥へ帰っ
て行く。
﹁遺言まで、年下の王妃のことだけだなんて﹂
そして小さな砂の山を見つめながら、茨姫がつぶやく。
﹁本当に浮かばれないわね⋮⋮﹂
浮かばれないのは、おそらくはその体の持ち主のエフィアのこと
なのだろう。
きっと、実の父親がそんな風に自分を実験台にしたことを悲しみ、
最後には生きる気力も失ってしまった本当のエフィア。
仇を討った茨姫は、それでも気が収まらないのか、小山になった
砂を一度踏みつけてからそこを離れた。
﹁さ、伯爵の始末はこれで終了ね。行きましょうキアラ。話すこと
が色々とあるわ﹂
そうして何事もなかったかのように、私を誘ってレジー達の方へ
歩き始めたのだった。
1976
シェスティナ侯爵城前にて
パトリシエール伯爵を倒した。
それを聞いた兵士達はみんな安心したようで、穏やかな雰囲気の
中、指定の場所に天幕を作り始め、炊事も始めていた。
必要物をシェスティナの城下町に買いに行く人もいる。
なぜ城下町に逗留していないのかといえば、シェスティナ侯爵領
のことはベアトリス様に任せて、急いで王都まで攻め上る予定にな
っているから。
沢山の兵士を連れての行軍になるから一週間はかかるけれど、な
るべく王妃達に、時間を与えたくないみたいだ。
先日、こちら側に寝返らせた奴隷さん達もシェスティナ侯爵領に
一時とどめておいて、王妃を倒した後で帰すと聞いた。
もともと、奴隷さん達はシェスティナ侯爵領の港から上陸してい
る。なのでベアトリス様は別行動で侯爵領に停泊しているルアイン
の船と港を奪還しておくのだとか。
そんな忙しいベアトリス様は、見送りの時には話もできないだろ
うからと、今のうちに私の所へ挨拶に来てくれていた。
﹁気をつけて行くのよ? パトリシエールの戦い方も何かおかしか
ったし、王妃が何もしていないわけがないのだもの﹂
男物の服に身を包んだ凛々しいベアトリス様は、私を数秒ぎゅっ
と抱きしめてくれた。
1977
﹁はいベアトリス様。私も懸念はしているのですが⋮⋮どういうこ
となのか、わからなくて﹂
パトリシエール伯爵は無事に倒せたけれども、戦い方が変だった
のだ。
連れていた騎士達が契約の石のカケラを飲み込んでいたとしても、
全員が同じ属性というのもおかしい。パトリシエール伯爵も同じ炎
だったし。
茨姫とは、契約の石の力をどうにかする方法を手に入れたのかも
しれない、と話し合ったのだけど。どうやったのかは検討もつかな
い。
というか実験は不可能なので、検証しようもなかった。人体実験
をするわけにはいかないもの。
﹁でも、絶対になんとかします! アランもレジーも守ってみせま
すから!﹂
心配させないようにそう言えば、ベアトリス様は微笑んでくれた。
﹁ええ、あなたが頼りだわ。こんな風に魔術師に頼らなければなら
ない状況では、とてもあの子達の剣の腕だけでは、乗り越えられな
いでしょう。でも、キアラも気をつけて。何が起こるかわからない
から﹂
そうして次に、ベアトリス様は茨姫の方を向いた。
﹁エフィア⋮⋮とは呼ばない方がいいのだったわね? 今までとて
も苦労したわね。王族の一人として、何も知らないままだったこと
を詫びるわ⋮⋮。この戦が終わって、何か手が必要なこととか⋮⋮
1978
もしくは貴族としての身分を回復したいと思ったら、言ってちょう
だい。必ず力になるわ﹂
ベアトリス様は茨姫のことも抱きしめ、それから私の天幕から立
ち去った。
﹁彼女も変わらないわね⋮⋮いつもまっすぐで﹂
二人だけになったところで、茨姫が苦笑いする。
茨姫はベアトリス様とも親族だったんだものね。懐かしかっただ
ろうな。
せめてベアトリス様には、本当のことを打ち明けて話してもいい
んじゃないかと思うのだけど⋮⋮。
そこでふっと茨姫は立ち上がる。
﹁さて、私もお暇するわね。また食事の時にでも会いましょう﹂
﹁何か用事があったんですか?﹂
﹁いいえ。さっきベアトリスが出入りした時に、レジーがこちらへ
向かってきているのが見えたの。だからお邪魔虫は消えるわね﹂
﹁おじゃ⋮⋮!?﹂
レジーのお母さんにそんなことを言われて、私はおたおたとする。
一方の茨姫はくすくすと笑った。
﹁子供の恋愛に口出しするような野暮なことしたくないわ。そもそ
も違う形で出会っても、結局つき合うような二人ですものね。あの
子のことよろしく﹂
ひらひらと手を振って、茨姫は出て行ってしまった。
ええとこれ、彼氏のお母さんに応援された⋮⋮ってこと? 嫌じ
1979
ゃないけどこう、気まずい。
そうして茨姫が言ったとおり、すぐにレジーがやってきた。
﹁ぼーっとして、どうしたんだい?﹂
﹁あの、ちょっと茨姫にからかわれて⋮⋮﹂
曖昧に濁すしかない。レジーのお母さんにからかわれたの、とは
言うわけにはいかないから。
﹁そろそろ、慣れてきてくれたかと思ったんだけど。まだ恥ずかし
いかい? もう末端の兵まで、私達のことは知られていると思うけ
ど﹂
﹁う、うん⋮⋮﹂
微笑んで私の隣に座ったレジー。
彼は度々、私の元を自分から訪ねてくるようになった。
グロウルさん達近衛騎士の誰かは一緒に来ているのだろうけれど、
あの日を境に、天幕の中まで誰かを同席させたりはしなくなった。
ベアトリス様に交際宣言した後から、周囲につき合っていること
を全く隠す様子がなくなって、大胆になってきている。
当然周囲を通る人は、王子が魔術師と二人きりになっていること
はわかるわけで⋮⋮。
こうして近しい人以外にも、つき合っていることが知れ渡るよう
にしているんだと思う。この人が何も考えずに、忙しい中を縫って
会いにくるわけがないもの。
私の方も、周囲が察する様子にだんだん慣れて来ていた。
ただ私の名誉のためなのか、レジーは長居はしない。代わりに甘
えたいという。
1980
レジーの最近のお気に入り。それは膝枕だ。恋人らしいことをし
たいと言うレジーが、私にねだったことだった。
正直なところ、布を何枚も隔てているとはいえ、脚にレジーの頬
が接しているというのはとてもそわそわするものなのだけど。
レジーも子供みたいなことをしたいのかなって思うから、続けて
る。
ようやく慣れて来たのか、今日はじっとしてくれているレジーの
頭を撫でてみる気持ちになった。
ふわっとした髪に触れると⋮⋮本当に子供を寝かせているような
気持ちになって、なんだか不思議な感じ。
しばらくそうしていたら、レジーがぽつりと言った。
﹁王都を奪還したら⋮⋮。もっと長く膝枕してもらってもいいかい
?﹂
﹁うん、それぐらいなら断らなくってもいいのに﹂
私が笑うと、レジーも笑って言った。
﹁もっと過激なことをしても怒らないかい?﹂
過激って!? 一体なんだろうと思うけれど、前世の耳年増な知
識を使っても、膝枕の次に何を要求されるのか想像がつかない。
﹁例えば⋮⋮?﹂
﹁他の、恋人らしいこと﹂
レジーは曖昧な言い方をする。けど、恋人なんだものね。ただ側
にいるだけでも幸せだけど、レジーは二人で何かしたいことがある
んだと思う。そういうのを拒否はしたくないから。
1981
﹁うん⋮⋮﹂
うなずいたら、レジーが﹁良かった﹂と嬉しそうに言って、膝の
辺りに口づけて起き上った。
﹁ちょっ﹂
え、何今の不意打ちすぎる! びっくりしている私と違い、レジ
ーはいつも通りの余裕の笑みを浮かべて行った。
﹁ただの膝枕じゃ、恥ずかしがらなくなったから。たまに慌てさせ
たくなるだけだよ。これぐらいは許してくれるよね?﹂
そんな風に言われると、私も怒っているわけじゃないので何も言
えない。
仕方ないなぁと思って受け入れて⋮⋮。なんとなくこうして、レ
ジーのすることに慣れていくのかなと、そんなことを思った。
1982
王妃からの書簡
翌日、私達は出発した。
あわただしいけれど、補給に関しても、シェスティナに期待でき
ない前提で計画していたので、問題ないらしい。
街道を進む軍馬と徒歩の兵士に囲まれ、いつものように馬車に揺
られて⋮⋮二日後。
先行するエニステル伯爵の軍が、ルアイン兵を追い払った町の近
くで逗留している時のことだった。
王都からの書状を持った使者が来ている、という。
使者はファルジアの人間だが、マントは黒。本人はとても怯えな
がら、このまま兵士を辞めて故郷に帰るんだと言って、返事はいら
ないからと逃げようとしたらしい。
そんな兵士が乗っていた馬を、エニステル伯爵の大ヤギが威嚇。
怯えた馬から落ちた兵士は、そのままヤギに服の首元を食まれて引
きずられてきたとか。
⋮⋮ちょっと気の毒な話だ。本当にその兵士が、仕事を辞めたい
のならなおさら。
そもそも怯えるのも無理はない。敵軍へ書状を持って行く兵って、
殺されることが多い危険な仕事だ。その分、家族にお金が必要な人
などが受けたり、相手が捕虜にしてでも生かしたいと思うような人
がするらしいから。
彼もそこそこの報奨金を持っていた。
敵意があると思われて殺されたくないがため、ヤギに捕まえられ
た時点で剣も手放していたし、持ち物を調べても契約の石の砂は見
1983
つからなかったそうだ。
なのでその兵士は解放したようだけど、書状の中身が問題だった。
﹁王妃からの書状で⋮⋮間違いないと?﹂
レジーの問いに、書状を持って来たエニステル伯爵がうなずく。
中身が王妃からの書状だったので、急きょ会議を行うことになり、
私達は軍議のための天幕に集まっていた。
﹁左様でございます殿下。中身を先に改めさせて頂きましたが、そ
の内容が危急を擁するもののため、殿下のご裁可を仰ぎたいと考え
申しました﹂
そうして差し出された書状に、レジーが目を通す。すぐにアラン
へ回しながら、レジーは言った。
﹁王妃は、一週間後の日付を指定して、その日までに王都へ来なけ
れば、都民を虐殺すると書いてきた﹂
﹁虐殺!?﹂
思わず声を上げてしまったけれど、それは他の人も同じだった。
エメラインさんも動揺しながら言う。
﹁虐殺なんてことが可能なんでしょうか? 王都の民は、脱出者が
いてもかなりの人数がいるのでは⋮⋮﹂
﹁可能だろう。一人一人殺しに行かなくても、魔術師くずれを作る
石のカケラを粉にして、ばら撒けばいい。吸い込むか、飲むか、ど
ういう形であれ中に取り込むことによって、魔術師くずれになり、
そのまま死ぬだろう﹂
﹁ですな⋮⋮﹂
1984
レジーの回答に、ジェローム将軍が唸る。
﹁魔術師になる素質がある人間がいたとしても、三日は容易に起き
上れない状態になることはわかっている。あげくに周囲が魔術師く
ずれだらけになれば、巻き込まれて死ぬだろう﹂
アランの見解を聞いてレジーがうなずき、エニステル伯爵が見解
を口にした。
﹁急いで進軍せねばなりませぬ。今の行程では一週間を予定してお
りました。たぶんその進軍速度では間に合わないと存じまする﹂
﹁だろうね。わざわざ期限を切ったんだから、間に合わないように
障害を置くだろう﹂
私は今の一連の会話を頭の中でそしゃくする。
ようするに、王妃は期限を決めて早く来いと言った上で、間に合
わないようにさせて王都の人を虐殺した光景を私達に見せようとし
ているの?
﹁どうしてそんなこと⋮⋮﹂
﹁むしろ、王妃は逃げ出すんじゃないかと思っていたんだが﹂
アランの言葉に、私はハッとした。
︱︱普通なら逃げるはず。
パトリシエール伯爵が撤退させた兵の数は、一万以上はいたと思
う。王都に駐留しているだろう兵と合わせても、二万に届くかどう
かという数だろう。
でもルアインの占領地は、もはや王都周辺の王領地を残すのみだ。
1985
敗戦が免れない状況になって、ルアイン兵にも脱走者が増えてい
るだろう。王妃達に全ての兵を押し留めるのは難しいから、ルアイ
ンの兵数は少なくなっている。
そんな数で、魔術師を擁するファルジア軍に勝てるわけがない。
下手をすると、勝つために魔術師くずれに変えられてしまうかもし
れないと、恐れた兵がさらに逃げているだろう。
勝ち目がないのなら、王妃は逃げるのが当然だ。彼女は元ルアイ
ンの王女なんだから。
でも王妃は逃げなかったのよ、前世のゲームでも。
彼女は最後まで戦ったし、ゲームなんだからラスボスが逃げるわ
けがないと思い込んでいた私は、そのことに違和感も持たなかった。
現実のこととして考えれば、とても不自然なのに。
そこで茨姫が口を開いた。
﹁たぶん、彼女には目的があるんでしょう。母国ルアインのために、
ファルジアに少しでも打撃を与えておきたい、とか﹂
﹁なるほど。もしくは、ルアインがファルジアにすぐに報復されな
いように、ですかな? こちらの余力があれば、我々としてもルア
インを打倒してしまいたいという気持ちがありますからな。件の奴
隷達の件もありますし﹂
ジェロームさんの言葉に、レジー達はうなずく。
奴隷にされていた人達には、故郷で反乱を起こしてルアインに打
撃を与えてもらう予定だ、それに呼応するように、ファルジアもル
アインを攻撃するつもりだと、私も聞いている。
エレンドール王国を誘い、サレハルドにも協力させ、ルアインに
ファルジアの息がかかった新王朝を打ち立てさせるためだ。
放置しておいて、ルアインが大人しくしてくれればいい。けれど
1986
戦を仕掛け続けている今の王だけは、引きずり下ろさなければ次に
何をするかわからない。ルアイン本国に契約の石が渡っていないと
も限らないのだから。
レジー達は、この時に領地を削って、今回様々な協力をしてくれ
たエレンドールにも分けることで、負債を帳消しにしたいらしい。
世知辛い話だけれど、国土が荒らされたファルジアも、エレンド
ール王国への返礼をするには厳しい状況だ。
サレハルドにも早めにこちらへ賠償金を払ってもらうためにも、
少しは手助けをしてやった方がいい。
そんな事情を全て解決するための手が、ルアインへの攻撃だ。
でも茨姫は、アランが王妃と共倒れになる言ってなかったっけ⋮
⋮?
考えてみれば、王位継承権に最も近い上に国土を解放したアラン
を亡くした後、ファルジアはどうなっていたんだろう。
嫌な想像をしていたところで、茨姫が語った。
﹁そもそも、王妃は自分でも戦えるだけの力を持っている。私が見
た未来では、王妃は魔獣を操っていたわ。ファルジア軍はそれでか
なりの打撃を受けていた﹂
﹁王妃が魔獣を飼っている?﹂
アランが嫌そうな顔をする。
﹁ちっ、攻めにくいな⋮⋮﹂
﹁アラン殿の懸念通り、ファルジア軍はかなりの被害を受けていた
わ。魔獣を使うということを知らなかったせいで、死傷者で三分の
一が使い物にならなくなった。私が未来視した時には魔術師くずれ
を生みだしてぶつける戦法を使っていなかったから、今回はどうな
1987
るのか正確な所は予想がつかないわ﹂
﹁三分の一か⋮⋮痛いな﹂
他の面々も渋い表情になる。
私は茨姫の顔をそっと横目でうかがう。
アランと魔獣を使う王妃が共倒れになるということは、最終的に
は三分の一の損失では済まなかったのかもしれない。
私が居ない場合の世界だと、サレハルドも侵略戦争に出てこない
のだから、リーラ達氷狐だっていないのだもの。
人の力だけで魔獣を相手にするのは、かなりきつい。
そこで茨姫が言った。
﹁だから私は提案するわ。軍が王都へ到着する少し前に、魔術師と
王子が王都へ先行し、城に潜入して王妃を先に倒すことを﹂
1988
前途に立ちふさがる障害
﹁王妃を先に倒す?﹂
尋ねたレジーに茨姫は﹁そうよ﹂と答えた。
﹁王妃を潰せば魔獣は軍を襲わない。命令者がいなくなれば、王都
に残る人々は死なない。そうでしょう?﹂
ただし、と続ける。
﹁今ここから、少人数で王都へ急行するのは避けた方がいいわ。先
ほど王子自身が言っていたように、行軍を阻止するためルアイン軍
も出てくるでしょう。当然、王妃を先に殺すための部隊が先を急ぐ
ことを想定して、見張っているはず。ひっそりと通り抜けるのは難
しいでしょうし、囲まれては面倒よ﹂
﹁せめて王都に近づいてから、だな﹂
アランが息をつき、レジーもそれを肯定した。
﹁そうだね。とにかく先に進もう、時間が惜しい。サレハルド側に
もそう連絡を﹂
翌日、早朝から私達は王都へ急いだ。
戦闘にも備えるために、歩兵達に走らせるわけにもいかない。た
だ理由もなく急がせれば不満ばかりつのる。
だからレジーは全兵に急ぎ王都に駆け付けなければ虐殺が起きる
ことを知らせていた。
1989
兵士達は自然と早足になってくれて、二日で予定よりも早く王領
地内へと入ることができた。
でもそこで、街道をルアイン軍が塞いでいた。
レジー達と一緒に少しだけ先行し、高い崖の上から様子を見る。
数そのものはひどく多いわけではない。一万なら倒すことは可能
だけれど、足を止められるのが厄介だ。
﹁誰かに対応をさせて駆け抜けるだけでは、対応できないな⋮⋮﹂
﹁残す軍の被害が大きくなりすぎるよ。全軍ですり抜けるにしても、
やっぱり被害が出やすい。特に補給関係の馬車なんかがね。キアラ
の土人形を使っても、分断される恐れは大きいよ﹂
﹁あっちも決死の覚悟だろうしな⋮⋮。逃げて行った兵のうち、決
戦するしかないって思い詰めた人間が残って戦おうとしているんだ
ろうしな﹂
﹁また魔術師くずれにすると言って、脱走者を防止したあげくの状
態かもしれないね。だとしたら魔術師くずれも出てくるだろうし⋮
⋮﹂
アランとレジーがお互いに意見を出し合う。そうやって二人で意
見を一致させた上で、他の将軍達に諮るつもりみたい。
私としては土人形でなぎ倒して行ってもいいんだけど、人馬を置
き去りにすると先行させた部隊が孤立してしまうと危ないし。
﹁本当は、橋とかがあれば⋮⋮﹂
つぶやいて、ぽんと手を叩く。
まだ王都から遠いので魔獣が出て来たりはしないだろうし、全力
間際まで力を使っても大丈夫だと思う。それなら一つ案があった。
1990
ゴーレム
﹁ねぇレジー。土人形でなぎ倒して道作ってもいい?﹂
ゴーレム
﹁君の魔術で倒していくってことかい?﹂
﹁そう。でもその後、土人形で作った道に土壁を作って、左右を囲
むの。城壁があるような状態だから、歩兵も補給部隊も早く安全に
移動できるんじゃないかなって。敵兵はみんなが移動している間、
土人形で減らすから﹂
レジーが心配そうな表情になる。
﹁けっこう範囲が広いよ。大丈夫なのかい?﹂
﹁魔力はなんとかなると思う。それに、ここならまだ魔獣は出てこ
ないでしょう? ね、茨姫﹂
私に話を振られた茨姫は、微笑んで応じてくれた。
﹁王妃からそう遠くは離れられないから、大丈夫よ。それに私は、
貴方が変えてくれる未来に期待しているの。思う通りになさい﹂
茨姫が背中を叩いてくれる。なんとなく、お母さんに頭を撫でら
れたようなそんな気持ちになった。
﹁ありがとう﹂
そう言って、私は師匠に頼む。
﹁と言うわけで、また師匠専用作るので、操作お願いしてもいいで
すか?﹂
﹁まぁ良かろう。何もせずにお前にぶら下がっておるよりは、楽し
いからのぅ。へっへっへ﹂
1991
快諾してくれた師匠に礼を言って、私は準備にかかった。
﹁壁を作るには、銅鉱石をばらまかないと⋮⋮師匠にやってもらお
う﹂
進み続けていたファルジア軍は、街道と周囲の既に作物を掘り起
こした畑に布陣しているルアイン軍に近づく。中央に補給部隊の馬
車等を置き、前後を兵で固めながら。
畑、大変なことになるけど、春には直しに来られるといいな⋮⋮。
最後尾には、イサーク達サレハルド軍がついている。
隊列の準備が整って、誰かの出した合図を見たカインさんが教え
てくれた。
﹁キアラさん、開始してください﹂
﹁はい﹂
ゴーレム
私は軍の右翼側で、頭に師匠をのっけた巨大な土人形を作り上げ
た。
そして今回の作戦的に必要だろうと、横幅を大きめにしている。
﹁馬車と歩兵さんとが通るんだから、これぐらいかな。師匠! お
願いします!﹂
﹁イーッヒッヒッヒ﹂
師匠は笑いながら敵陣へ突っ込んだ。右翼側からやや中央より。
街道を埋め尽くす人垣を切り開くように。
敵軍も師匠が操る土人形から逃げるのだけど、かなりの数が弾き
1992
飛ばされた。速度が必要なので、師匠に急いでもらったからだ。
ルアイン軍を縦断していく師匠は、計画通りに銅鉱石をばら撒い
てくれている。
私は師匠を追いかけるように、ルアイン軍との間に街道の両端に
人の身長の二倍はある壁を作り上げていく。
﹁出発!﹂
ファルジア軍が動き出した。
次々と壁に囲まれた街道へと突入し、先行する騎馬兵達がゴーレ
ムから逃げ遅れた兵を倒していく。
ルアイン軍も、まさかこんな形で通り抜けられるとは思わなかっ
たのだろう。
慌てて兵を動かして壁で囲んだ街道の前後を塞ごうとするものの、
向こう側は師匠の土人形がいて、人が小石みたいに蹴り飛ばされて
近づけない。
もう一方は、茨姫が援助してくれた。
近くの蔓植物を操って兵士達を足止めし、時には弾き飛ばす。
カインさんの馬に同乗していた私は、そうしてサレハルド軍が壁
のある場所に入ったところで、入り口を閉ざした。
ルアイン軍は、壁を突き崩すのではなく矢を射た。
何人か当たってしまう。
それでも壁がある分、盾を上にかざすことで負傷者はごく少なく
抑えることができた。
私はその中を、出口へと急ぐ。
ルアイン兵は出口側に集まり始めていた。
1993
師匠は少しでも多くのルアイン兵をかく乱し、倒すために敵陣の
中央あたりを走り回ってくれている。
もうひと押しするために、私は周囲の土を操って近くにいたルア
イン兵の足を捕える。
相手が動けないとわかると、すぐさま壁の道から出た部隊が襲い
かかった。
倒されて行く敵兵を見ている暇はない。
﹁カインさん、これで敵は何人ぐらいになったでしょう?﹂
﹁おそらく八千⋮⋮ホレスさんがもう少し頑張って七千というとこ
ろですか﹂
まだまだ減らし方が足りない。
下手に残したまま街道を勧めば、ルアイン軍は追って来る。けれ
どこのまま戦い続けると進軍速度が止まってしまう。
﹁魔術師くずれが!﹂
叫ぶ声に振り向けば、前線に近いところで風が舞い上がったのが
見えた。魔術師くずれが風の魔術を使っているんだろう。
﹁見にくいですし、対応が難しですね⋮⋮﹂
ゴーレム
少し疲れてきたけれど、私は遠くを見渡すためにもう一体土人形
を作る。その肩に乗って視界を確保した上で、魔術師くずれを次々
潰していく。
⋮⋮全部で五人。
それ以上は作る気配が無かった。一度戻ろうかと思ったけれど、
やっぱりまだ敵兵の数をもっと減らしたい。
こちらへ戻りながら敵を蹴散らす師匠と共に、もうひと暴れする
1994
かと思ったが、その前にレジーに呼ばれた。
﹁おいで、キアラ﹂
それでレジーが何をしたいのかすぐわかった。
﹁殿下の力を使うべきですね。あちらの方が負担が少ないでしょう、
キアラさん﹂
カインさんにもそう言われて、私は素直にファルジア軍の中に戻
り、土人形から降りてレジーの側に駆けつけた。
﹁もう少し減らすなら、こちらの方がいいと思うんだ﹂
﹁お願い、レジー﹂
私が彼の肩に触れると、レジ︱は左手で剣を掲げる。
目標は敵のど真ん中。味方が混在していないからこそ、気にせず
いける。
レジーは雷を放った。
空から落ちる稲妻が、空気と地面を震わせて、わかっていてもび
くりとする。
そして戻って来た師匠が騎士の一人を手に乗せて状況を確認させ
ると、敵はおおよそ五千まで減ったようだということだった。
﹁そろそろ、損害が大きすぎて追いかけにくくなると思います﹂
この時点で、ファルジア軍は既に壁の道から全員が出ていた。
なのでレジーはグロウルさんの言葉にうなずいて、最後尾近くに
続いて戦場を離れようとした。
けれど、ルアイン軍はまだ諦めていない人達がいたようだ。
1995
騎馬兵だけが千ほどだけれど、追って来る。
そこで最後尾にいたイサークが、私達の元にやってきた。
﹁このまま先を急ぐんだろ? もう少し先で追いつかれた時点で、
俺たちが対応する。あれぐらいなら俺達だけでなんとかできるだろ。
先に行け王子﹂
馬を走らせながら言うイサークに、レジーがうなずく。
﹁頼む。あの一軍を倒したら追いかけてきてくれ。深追いすると損
害が増えるから、気をつけて﹂
﹁深追いはしないさ。うかつなことをしたら、またそこの魔術師が
やってきて復活させられてしまうだろうからな﹂
﹁あの、それなら私ももう少し⋮⋮﹂
思ったより魔力が残ってる。まだ手助けできると思ったからそう
言おうとした。
﹁無理すんなよ。じゃあな﹂
イサークは笑って手を振り、さっと後方へと移動して行ってしま
う。
やがてじりじりとサレハルド軍が足並みを落としていき、サレハ
ルド軍は交戦を始め、私達はその間に街道を進んで⋮⋮ルアイン軍
の姿は見えなくなった。
1996
最終戦の前に
夜、私達はなんとか目的よりも進んだ場所に、到着できた。
王都の横を流れるロイン川の流域には、平野が広がっている。そ
の一角に野営した。
予想をしていたとはいえ、待ち伏せと戦闘があったので、レジー
達は軍の進行を急がせたのだ。
そのせいで、まだサレハルドの軍は追いついていない。
鳥で無事を連絡して来たけれど、そこそこの損害が出たみたいで、
進行が遅くなっていると聞いた。
王都周辺はルアインの占領地も同然だ。だから周囲の警戒は怠れ
ない。
ベアトリス様が率いて来た軍が哨戒する中、それでも休めること
になって、みんなが少し安心した表情をしている。
そしてこちらに有利な材料も増えている。
増援だ。
王都へ至るロイン川は、王都のルアイン軍に警戒されている。だ
からこそ川を下って、上流にあるサウィンやコーデリーとそこに避
難していたファルジア国王の軍が、攻撃を仕掛けるという知らせが
来たからだ。
もう一つ、王都西北の領地、フーナバルとルネースからも、王都
の西へ軍が進んできているらしい。
連絡を受けて集まった場で、エニステル伯爵がふんと鼻息を荒く
する。
1997
﹁出足が遅いわ﹂
﹁まぁまぁ、ルアインに同調した領地に囲まれている場所と思えば、
集中攻撃を受ける危険を冒したくないのはわかりますしね。ここで
出て来るだけ、まだマシでしょう﹂
なだめるジェロームさんに、エニステル伯爵はまだ不満そうだけ
れど、こちらの支援をすることだけは評価するべきだと思ったのだ
ろう。それ以上は何も言わなかった。
そこでアランが話を続けた。
﹁偵察からの報告で、王都へ渡るロイン側に架かる橋の周辺には、
ルアイン軍一万人とこの期に及んで王妃を支持するファルジアの貴
族連合軍一万五千人がいるようだ﹂
﹁数の優位的には、こちらとひどい差はないね。北と西からの支援
で、ルアイン軍は分散するしかなくなるのだし﹂
レジーの言葉にアランもうなずく。
﹁港からはルアインの船が何隻か出港したらしい。おそらくは逃げ
出した将兵達がいくらかいたんだろう。むしろ僕は、逃亡が発生し
ているのに、これだけの数が王都を防衛しようとするのが不思議な
くらいだ﹂
﹁理由は、魔術師くずれにすると脅されたのか。もしくは魔獣か﹂
レジーのつぶやきに、茨姫がうなずく。
﹁その可能性は高いわね。私が見た未来でも、予想以上の兵が従っ
ていたわ。魔術師くずれにする術はなくても、魔獣を従えているこ
とで、切り札があると思わせていたのかもしれない﹂
﹁戦力的には勝っていると考えているのかもしれませんわね。こち
1998
らの軍を討ち破りさえすれば、ルアインはファルジアを占領し続け
られるわけですから﹂
ベアトリス様の意見に、レジーが苦笑いする。
﹁確かに、私達が倒されたらファルジア貴族で立ち上がれる者はい
なくなるだろうね。旗頭が無ければ、まとめられないから⋮⋮﹂
そこで茨姫が、あるはずだった未来のことを語った。
﹁そうね。私が見た未来では、旗頭のアラン・エヴラールが相打ち
になった後はひどいものだったわ⋮⋮。王位につける人間はベアト
リスしかいなかった。けれど失った兵力はとんでもなかったわ。そ
の時は参戦していなかったサレハルドからも、不利益な要求をつき
つけられたし、別な国も攻め込もうとしてきた。勝利の後も、ファ
ルジアは泥沼の中にいるような状態になっていたわ﹂
確かに⋮⋮。王様になるはずだったアランが死んだら、すぐベア
トリス様にすげ替えるのも難しかったはずだ。ゲームと同じなら、
ベアトリス様は意気消沈したままだ。あげく子供も亡くしたと聞い
たら、どれほど落ち込んだことだろう。
今もその話を聞かされたベアトリス様は、ぎゅっと唇を噛みしめ
る。
一方、自分が相打ちになるところだったと聞かされたアランだが、
ふん、と息をつく。
﹁しかし、今はその通りに進んでいるわけじゃない、だろう?﹂
﹁もちろんだ。だからこそ、私達は何としてもこの一回で王妃達を
倒さねばならない﹂
1999
レジーは茨姫に尋ねた。
﹁君が見た未来では、魔獣は橋のこちらまで来て攻撃していた?﹂
﹁鳥だから、その範囲ならばすぐに飛んで来られたわ。私が見た未
来では、王都を包囲した時点で襲いかかって来た﹂
﹁鳥か⋮⋮矢は効くのか?﹂
アランの質問に、茨姫は﹁難しいわ﹂と答えた。
﹁炎の魔術を使う鳥なのよ。射られた矢は全て落とされていたわ。
むしろ一般兵は避けることを重視した方がいいでしょう。その間に
敵兵に攻撃されることを警戒すべきね﹂
﹁しかし今回の場合、戦って勝ったとしても⋮⋮。その間に王都の
民が殺されてるんじゃろうのぅ。イヒヒヒヒ﹂
師匠が笑う。
戦闘はどうしても時間がかかる。人の足で移動し、剣や槍で戦っ
た上、状況によっては退いて仕切り直したりもする。
ゴーレム
決着がつくまで時間がかからないようにするためには、どうして
も土人形など、魔術が必要だ。
そして戦闘をしたら、すぐさま王都攻めをするとしても態勢を整
えなければ難しい。
﹁魔術で倒せればいいけれど⋮⋮。そうしている間に、形勢不利を
悟った王妃が、王都の人を殺すかもしれないし﹂
つぶやくと、レジーが言う。
﹁かと言って、最初から私やキアラが不在だとわかるのは危険すぎ
る。こちらが密かに直接対決をしようとしていることを察して、王
2000
妃は王都の民を殺す。だから一度戦う。それから隙を見て⋮⋮王宮
へ潜入して、王妃と魔獣だけを倒すのがいいだろうね﹂
﹁そうだな。魔獣さえいなければ、人同士の戦いだ。一度魔術で削
っておけば、こちらが有利なまま進められるだろう。もし魔獣が不
意に襲っても、こちらは炎の魔術に対抗するにはうってつけの氷狐
がいる。それに王妃を直接叩ける状態になれば、すぐに呼び戻すは
ずだ。そうなれば、どちらにせよ後がない裏切り者達と、国に逃げ
帰る機会を逃したやつらだ。どうにかなる﹂
そこまで話して、アランはレジーに言った。
﹁行くのは⋮⋮魔術師相手なら、キアラと茨姫と、護衛の騎士か。
レジーも行くんだろう?﹂
アランは少し不安そうだったけれど、レジーはうなずく。
﹁王妃と魔獣と二つを相手にするんだ。魔術を使える人間はいくら
いてもいい﹂
けれどそこで、茨姫がつぶやく。
﹁王子は無理に行かなくてもいいとは思うけれど⋮⋮。戦力的には、
キアラと私と騎士や精鋭の兵が十数人いれば足りるはずよ﹂
私はハッとする。
⋮⋮茨姫は、レジーのことが心配なんだ。何度も殺されかけて来
たから。
決戦になんて連れて来るよりも、魔獣を遠ざけられる手がある戦
場にいた方がまだマシだと考えたんだろう。
2001
ずっと、レジーに生きていて欲しくて頑張っていたんだもの。そ
う考えてしまってもおかしくはない。
けれどレジーはそのことを知らない。
﹁私が動けば、近衛騎士を動かせる。他の騎士達を選別して派遣す
るよりも、アランに指揮を集約して私が動いた方が効率的だ。それ
に王宮への隠し通路も、私の方が把握しているからね﹂
あっさりと茨姫の言葉を否定する。
確かに王子のレジーなら、王宮に外部から通じる道をいくつも知
っているだろう。案内役としても、彼はいた方がいい人だ。
﹁そうね⋮⋮。私も戦のことについてはそこまで詳しくないもの。
任せるわ﹂
﹁ありがとう。というわけで、アラン、頼むよ﹂
﹁いつも通りにやるだけさ。援軍の方には俺に従うよう、一筆書い
て置いてくれ﹂
﹁わかってる﹂
それで、王都への攻撃の方法は決まった。
今日はそれで休むことになった。みんな早々に軍議をしていた天
幕から出て行く。
茨姫も、何事もなかったかのように、さっさと天幕を後にした。
それを見送ってしまった私も、ずっとぐずぐずしているわけにも
いかない。立ち上がったところで、残っていたレジーに呼び止めら
れた。
そうして中にいた兵も外に待機させてしまう。
﹁どうしたの?﹂
2002
レジーは内緒の話をしたいのだろうけれど⋮⋮。
﹁キアラ、茨姫は⋮⋮﹂
一度ためらうように、レジーの声が小さくなる。でも思い直した
ように尋ねて来た。
﹁茨姫はもしかして、未来が視えるのではなくて、過去が見える魔
術が使えるのかい?﹂
2003
前夜
⋮⋮どう言うべきか。
私は迷った。ためらった後に、尋ねた。
﹁どうしてそう思ったの?﹂
﹁茨姫は、あまりに詳細に﹃あったはずのこと﹄を語り過ぎている
と思った。それに⋮⋮私の推測だと、茨姫は王宮に入ったことがあ
ると思うんだ﹂
﹁え?﹂
﹁王宮まではどうやって行くつもりだった? 隠し通路は確かに私
が口頭で教えることはできるけれど、茨姫は最初から聞くつもりも
なさそうだった﹂
レジーは続ける。
﹁彼女は、うっかり何かを忘れるような人ではないだろう? だと
したら私に﹃行かなくてもいいから、隠し通路の場所を地図に書い
て﹄と頼むだろうと思って﹂
レジーはそこに引っかかったようだ。
﹁必要がないから頼まないんだ、と私は考えたんだ。そうすると未
来が視えるわけではなくて、一度未来でそれを体験して、戦が終わ
った後に王宮の中を探索した人が⋮⋮過去へ戻ったと考えた方が自
然だろう? 彼女は今まで、王宮に近づいたことが無かったはずな
んだからね﹂
2004
レジーの言葉に、なるほどと思う。
未来のことを見ただけなら、茨姫の今の経歴だと王宮の隠し通路
のことがわかるわけがないのだもの。
⋮⋮元王妃だから、知っているとは思うけど。
あと、茨姫の方はレジーのことに気を取られて、話す内容を誤魔
化せなかったんだと思う。王宮への隠し通路のことを尋ねなかった
のも、そうだろう。
私は悩んだ。レジーのことだから、私が嘘をついたところですぐ
にお見通しだと言われてしまいそうなんだもの。
﹁そうなんだ⋮⋮。そうしたら茨姫は何か理由があって、未来が見
えているって言っているのかも﹂
まずは曖昧な肯定で逃げる。
﹁でも戦が終われば隠す意味は無くなるから、きっと全部話してく
れるんじゃないかなって﹂
次いで問題を先延ばしした。ついでに﹁茨姫が話してくれるまで
待とうよ﹂という意味も込めてみた。
これなら私から茨姫の秘密を口にしなくて済む。
レジーはふっと笑うと、ぽんと私の頭を撫でた。
﹁言えないのはわかったよ。戦が終わったら、直接茨姫に隠し事の
内容を尋ねることにするよ。君に無理に言わせて約束を破らせるの
は、可哀想だからね﹂
⋮⋮完全に嘘をついているのがばれてた。
2005
う、こんな方法じゃだめだった? それともレジーの勘が良すぎ
るだけ?
隠し通せるとは思っていなかったけど、私本当にバレバレすぎや
しないだろうか。
うろたえていたら、レジーが笑う。
﹁君はすぐ顔に出るからね﹂
﹁うぐ⋮⋮﹂
無表情の練習をしなくちゃ。そう決意する私に、レジーがさらに
言った。
﹁でも君が嘘をついても、私のためにならないことはしないと信じ
ているから。隠し事がどういうものかわからないけれど、任せるよ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
そう信じてくれていることは素直に嬉しくて、私は少しにやけそ
うになった。
翌日は一日をかけてロイルガート平原を移動した。
二万に及ぶ軍勢に、近くの町にいるルアイン兵も息をひそめるよ
うに過ごし、進行を妨げることはなかった。
夕暮れより前に、王都の横を流れるロイン川の少し手前で停止す
る。
明日になれば、上流からの援軍がやってくる。それに合わせて進
軍することになっている。
援軍の方も急いでいるものの、こちらが予想より早く着いたため、
どうしてもあと一日必要らしい。
2006
それでも決戦前夜。警戒しながらも休む時間になった今、兵士達
もどことなく緊張を感じている様子だった。
いつもよりおしゃべりをしない。静まり返った軍の様子に、私も
少し不安になる。
同時に、感慨深いという思いもあった。
明日、予定通りに行動することができれば、王妃と会うことにな
るのだ。
私は周囲の哨戒のために作った石の高台の側で、王都の方向を見
つめた。
夜になっても王都は明るく、まだぼんやりとした光が溜まって見
える。
側には護衛代わりについてきてくれたリーラがいて、最近リーラ
には慣れたのか、一緒に連れてきている師匠も近づくなと騒いだり
はしなかった。
﹁⋮⋮怖くなったか?﹂
師匠がぽつりと尋ねてくる。
﹁ううん。ただ、これで倒して終わるのかなって思うと、不思議な
感じがして﹂
そう言ったら笑われた。
﹁お前は最初から勝つ気じゃったのか? とんでもない自信家じゃ
な、イッヒヒヒ﹂
﹁え!?﹂
2007
師匠の言葉に驚いたけど、考えてみれば私の中にそういう意識が
あったのは確かだった。 ここがゲームの世界なら、その通りにす
れば勝てるだろうという気持ちがあったから。
でも今は⋮⋮。
﹁戦争になるって気づいた時は、レジーが死んじゃうかもしれない
ってことだけ考えてました。必死だったけど⋮⋮少しは、物語のよ
うに行動したら勝てるだろうって、そういう安心感はあったなって
今は思います。でも状況が変わって、敵も予想以上に強かったり、
出て来るはずのなかった敵もいたりして不安になりました。一番負
けたらどうしようって思ったのは、イサーク達に捕まった辺りです
かね﹂
ゲームではありえなかった、トリスフィードでの戦い。サレハル
ドとの戦闘。そしてクレディアス子爵との決着。
乗り越えて、レジーの魔術も必要になって、ようやく私は⋮⋮今
のこの状況の認識が変わった。
﹁今はどちらかというと、この戦争を茨姫と同じように経験した人
の知識を使ってるんだ、っていうそんな意識が強いかも﹂
﹁おとぎ話ではなくなったわけじゃな﹂
﹁はい﹂
絶対に勝てるおとぎ話ではなく、誰かが垣間見た歴史を変えた先
にある、現実。
それを認識できたのは、やっぱりこの世界の悪夢の象徴だったク
レディアス子爵を倒したことと⋮⋮レジーが私を好きだと言って、
側にいてくれたことだと思う。
だからこそ、王妃を倒すことで終わるというのが、現実感がない
2008
ような気がしてきて。
﹁でも倒さなくちゃ、前へ進めませんもんね。今度は、記憶の中に
あるもう一つの未来からは想像もつかない、本物の現実があるのか
なって思えます﹂
﹁本物の現実か。まぁ戦が終わらねば、誰も自分の元の生活に戻れ
ないからのぅ。ある意味現実離れした状態じゃの。お前の現実がど
うなるのか、楽しみじゃのう。ヒッヒッヒッヒ﹂
師匠が楽し気に笑いながら付け加えた。
﹁しかしお前のことだから、こんな日は絶対にあやつの側から離れ
んと思っておったわ。あの小娘魔術師がわざわざ付き添うのだ。し
かもあの殺しても死ななそうな辺境伯家の小僧が相打ちになるよう
な相手では、何が起こるかわからんじゃろうに﹂
師匠の心配はもっともだ。茨姫はクレディアス子爵のことがあっ
たにせよ、シェスティナまではずっと離れて行動していた。
その彼女が一緒に行くというのだから、何か難しい事態が起こる
可能性はある。
﹁さっきまで一緒にいたし。それに⋮⋮明日はずっと側にいるから﹂
たとえ負けて、最後の時になっても側にいられるなら。
遠く離れて行動する予定だったら、不安で離れるのが怖かったか
もしれないけど、側にいられるなら今別れを惜しむ必要はないもの。
﹁けっ、のろけおって﹂
師匠の毒づきに笑ってしまいながら、その夜は落ち着いた気持ち
2009
で過ごせた。
そして翌日の昼近く⋮⋮戦いは始まった。
2010
攻撃の開始
お互いの哨戒が、川の上流から移動してくる援軍を見つけたとこ
ろで、戦闘が開始された。
敵も川を船で下ってくるファルジアの援軍のことは、察知してい
たらしく、最初からそちらにあたるべく、軍を分けて配置していた。
やや上流で待機していたルアイン軍が、下って来る船に向かって
一斉に矢を放つ。
ファルジアの貴族連合軍は、街道へ続く橋の前を占拠していた。
援軍に合わせて前進して来たファルジア軍に矢を放つ。
けれど私達の方も、矢が届かない距離で一度停止した。
﹁じゃ、先に魔術を⋮⋮﹂
ひとまず撹乱のための土人形を作ろうとしたところで、敵軍の矢
が止んだかと思うと、誰も御者台にいない馬車が複数、こちらに向
かって来る。
荷台には何人かの人を乗せていた。
﹁何だろう﹂
首をかしげる私とは違い、近くでそれを目を凝らしてみていたア
ランが、軍に指示を出す。
﹁矢を射ろ! 馬ごと殺せ、たぶん魔術師くずれだ!﹂
前方に固められていた突撃部隊より前に、急いで弓兵が出て来て
2011
矢を射始める。
三台の馬車は馬が矢に射られて、川を渡った場所で止まる。
残りの四台はファルジア軍に近づいたところで馬が倒れ、乗せら
れていた人達が、横転した馬車から投げ出された。
﹁兵士じゃない⋮⋮﹂
地面に無抵抗なまま投げ出された人達は、鎧も、所属国がわかる
マントも身につけていない。それどころか、黒っぽい衣服の召使い
らしき女性までいた。
明らかに非戦闘員だ。
彼らは痛そうに叫びながら起き上るものの、すぐにその体が炎に
包まれる。間違いなく魔術師くずれにされたのだろうけれど。
﹁兵士の士気を下げないためだと思います。おそらく自分の家で雇
っていた召使い達を、生贄にしたんでしょう。戦っている者から生
贄を選ぶことになっては、いくら金を払っても逃亡者が出ますから
ね﹂
カインさんの推測にぞっとする。
﹁ルアインも、無理やり罪人を作って魔術師くずれにしておったが
⋮⋮。兵士の士気は保てるじゃろうが、こりゃ相手もここで果てる
気かいな?﹂
師匠がカインさんの話に、自分の意見を口にした。
﹁え、どうして?﹂
﹁貴族は元から使用人を人扱いしない奴がいるもんじゃが、ファル
ジアの場合は他とは少し違うじゃろ。周囲の国との小競り合いが多
2012
い分、自分の領地の人間や民にそむかれては、勝てないとわかって
いる。非戦闘員を無理やり戦場に放り込むような真似をすれば、と
ても貴族として生きて行けないのではないか?﹂
ああ、と私は思い出した。
ずっと前、ジナさんに﹃ファルジアの騎士はお行儀が良い﹄と言
われたことを。
師匠の故郷だったサレハルドや他の国だと、もっと貴族も騎士も
粗雑なのかもしれない。
今の所サレハルドの騎士さんとは交流もないし、私が脅している
側だから怯えられているので、粗雑なことをされることもないので、
よくわからないけれど。
﹁王子が勝利を収めた後、王妃に加担した罪を問われることを恐れ
て、ここで散るしかないと追い詰められたのかもしれませんね﹂
﹁それならば、後のことを考えなくともおかしくはない、か﹂
師匠とカインさんの会話で、王妃に味方した貴族達も負ける覚悟
はしていることはわかった。そのせいで、なりふり構わなかったこ
とも。
それよりも、気になることがある。
﹁でも、全員が火属性ってあるのかな⋮⋮?﹂
今までの魔術師くずれと、やっぱりどこか違う。パトリシエール
伯爵を倒した時にも思ったけれど、今回は人数も多いのに。
魔術師崩れ達は、矢の雨の中で何人かは倒れ、そのまま砂になっ
てしまう。
けれど矢をも燃やす強い魔力を持った者が、ファルジア軍の方へ
2013
と走り始めた。
しかも、後からも魔術師くずれを乗せているのだろう、馬車がま
た走ってくる。
﹁キリが無い﹂
舌打ちするアランに、私は言った。
﹁予定通りに行っていい? アラン。土人形を出して途中の魔術師
くずれも倒すわ!﹂
﹁そうだな⋮⋮遅らせるのもマズイ﹂
アランはうなずき、新たな指示を兵に出す。
﹁魔術師の土人形に続いて突撃!、土人形がうち漏らした魔術師く
ずれは、槍を持つ人間が始末しろ! それ以外の奴は距離をとれ!﹂
私は土人形を三体作る。
今回は師匠を使わず、遠隔だけで操作した。
二階建ての家ほどの高さがある土人形が走り出す。ロイン川にか
かる橋を通り抜け、途中にいた馬車を踏み潰させた。
木が壊れる音が響くと、思わず肩が震えた。
相手は、戦うために戦場にやってきた人じゃない。なのに殺さな
くてはならない。それが辛い。
でも昔とは違う。彼らはもう助からないことも、この戦いを長引
かせるほど被害者が増えることもわかっているから、ためらったり
はしない。
土人形はそのまま敵陣へ駆け込んで、敵兵を踏み潰し、蹴り飛ば
2014
していく。
ルアイン軍と違って、敵となったファルジアの貴族軍は私と戦っ
たことがない。土人形の突撃に逃げ惑い、ルアイン軍よりもたやす
く数を減らしていく。
土人形を追いかけるように、アランが軍を突撃させた。
四人ほど残ってしまった魔術師くずれは、予め敵も出してくると
考えて備えていた兵で討ち取っている。
敵の貴族軍は土人形に混乱させられ、そこに攻め込まれて浮足立
つ。けれど、なかなか後退していかない。
当初の予定通り、私はもう一つ下流側に橋を作った。
突撃させる兵の数を増やせるし、撤退させる時にも利用できる道
として。
けれどそこで、アランが渡河を停止させる。
﹁来た! 魔獣だ!﹂
指さした方向に見えたのは、炎をまとった尾の長い巨大な鳥の姿
だった。
2015
魔獣との対戦
魔獣は戦場を無視して、ファルジア軍の方へ降下してくる。
﹁こっちに来る!?﹂
私の言葉に、師匠が慌てたようにカチャカチャと腕を動かした。
﹁マズイ、逃げろ弟子。あれは強い魔力の出所に引かれているのか
もしれん!﹂
つまり私だ。
﹁キアラさん!﹂
カインさんが私を抱えて逃がそうとする。私はそれを止めた。
﹁間に合いません、それよりも迎撃します!﹂
宣言して用意していた銅鉱石を使って、地面から新たな土人形を
作った。
ゴーレム
私の手を離したカインさんが、指示を出す。
﹁早くジナを!﹂
ゴーレム
その間に、背だけ高く伸ばした土人形を立ち上がらせた。
土人形は至近まで来た鳥の魔獣に掴みかかる。
魔獣はそれを避けながら、炎の雨を降らせた。
2016
﹁避難を、私から離れて!﹂
周囲の兵士に叫んだけれど、間に合わない!?
目の前の兵士達が巻き込まれる姿を想像したけれど、それより先
に地中から伸びた蔓が傘のように頭上を覆い、炎をいくらか減殺し
た。
茨姫だ。
探せば、彼女はもう少し後方で、自分を守る蔦の天蓋を作った上
で、蔓を操っていた。
﹁矢を! 燃やされるとしても撹乱になる!﹂
アランの指示で、少し離れた位置から矢が放たれた。
魔獣は旋回してそれを避けたけれど、矢を真上や味方がいる方向
へ向かって射るわけにもいかない。
ゴーレム
それを察したのか、魔獣は矢が届かない高みに一度上ってから、
私と土人形の方へ急降下してきた。
慌てて自分とカインさんを覆う土の屋根を作る。
吹きつける炎が熱い。
思わず悲鳴を上げた私を、カインさんが庇うように抱きこんでく
れた。
ゴーレム
﹁キアラさんは、そこで土人形を操って下さい﹂
炎が止んだとたんに私から離れたカインさんは、槍を構えて魔獣
に狙いをつける。魔獣は炎を吐いた後で再び矢から逃れるように上
昇していた。
でもすぐにまたやってくる。それを狙っているのだろうけど。
2017
いくらなんでも無茶だ。槍を投げる前に炎の攻撃を受けるかもし
れない。
止めようとした私だったけれど、ふいにカインさんの槍が伸びる。
白い氷で。
降下してきた魔獣が炎を吐く。土の屋根の下に避難した私にも、
カインさんの背中から吹きつける様にして炎を払う吹雪が見えた。
そして地上に近づいた魔獣の翼に、カインさんの槍が刺さる。
甲高い、カラスに似た叫び声が響き渡った。
ゴーレム
そこへ、さらに吹雪を叩きつける氷狐達の姿が見える。
上昇した魔獣は、それでも土人形の攻撃を避けて飛んでいる。
今度はこちらを警戒して、上空を旋回し始めた。
﹁キアラ!﹂
そこに、レジーがやってきた。
﹁レジー、ここは危ないわ!﹂
いつまた炎の雨が降るかわからないのにと思ったけれど、レジー
は﹁氷狐達がいるから大丈夫だ﹂と言って私を土の屋根の下から連
れ出す。
﹁予定通り、あの魔獣を追い返そう。できるかい?﹂
﹁大丈夫﹂
レジーが剣を構える。切っ先の向こうにいるのは、魔獣だ。
私は彼の肩に手を置く。
空を魔獣が飛ぶのなら、私達が持つ最強の飛び道具を使う。そう
2018
予め決めていたのだ。
﹁⋮⋮っ﹂
レジーが剣の先から雷を放つ。
魔獣の方も、こちらの攻撃を予期していなかったのだろう。直撃
は免れたみたいだけど、尾が一部焼き切れて、血が飛び散る。
その血も炎になって地上に落ちた。
ゴーレム
さすがにふらついた魔獣は、土人形の手で払われる。
一瞬落ちかけたものの再び浮上し、魔獣は腹いせに橋の向こうの
戦場に炎をまき散らしながら、王都の壁の向こうへと飛び去った。
﹁殿下﹂
レジーの側に、フェリックスさんが駆け付けた。
ゴーレム
﹁川を下って来た援軍も、土人形の撹乱の手助けもあって、ルアイ
ン軍を押しているようです。このまま、あちらの援護に?﹂
﹁そうだね、そろそろ川を渡ろう。グロウル達を呼んでくれ。次の
作戦に移ろう﹂
フェリックさんは、魔獣が去ったことでこちらに集まって来た兵
士達を使って、あちこちに連絡を送る。
すぐにレジーの騎士十数人と、エヴラールの兵から選ばれた精鋭
たちが十人集まった。そして茨姫も。
動き出そうとしたところで、ジナさんに呼び止められた。
﹁キアラちゃん。やっぱり一匹だけでも連れて行って﹂
2019
そう言ってジナさんが背中を叩いたのは、ルナールだ。
﹁リーラじゃ大きくて目立つし、たぶん作戦の邪魔になるけれど、
ルナールなら平気よ﹂
﹁でも、無事に戻って来られるか⋮⋮﹂
最悪、私達が倒されてしまったら、ルナールは王宮に一匹で取り
残されてしまう。
助けが来るかわからない場所で、大勢の兵士に狩られるような目
にあわせるのは⋮⋮と思ったけれど、ジナさんが﹁大丈夫﹂だと言
う。
﹁氷狐なりの、万が一の身の守り方だってあるわ。それに相手が火
属性なら、氷狐がいた方がいいと思うの﹂
﹁それにねん。こっちだって急いで王都へ突入するから、あまり待
たせずに追いつくわん﹂
一緒にいたギルシュさんが、ちょっとしなを作ってそう言った。
氷狐は魔術師の不在を誤魔化すためにも、王都攻めの軍に残して
行くことになっている。ギルシュさんとジナさんと一緒に。
アランとジナさん達は、このまま王都を真正面から攻めるのだ。
敵兵の意識をそちらに向けている間に、私達が王妃を討つ計画に
なっている。
﹁わかりました。ルナールをお借りします﹂
受け入れると、ジナさんとギルシュさんはほっとしたように微笑
んだ。
﹁それじゃ、先に王都の壁を壊してしまいます!﹂
2020
ゴーレム
ゴーレム
私はまだ敵軍の中で動いていた土人形を、一斉に王都の壁に向け
て走らせた。
その意図を察したのか、敵兵も、土人形を止めようと動く。
やや小さめに設定したせいなのか、一体だけ足を崩されて倒れた
ゴーレム
けれど、他の二体が王都の壁に取りつき、破壊しはじめる。
敵軍は焦って、土人形に集中攻撃をする。
それでも二体が倒れるよりも先に、壁に大きな穴ができていた。
2021
王宮への潜入
王都への突入経路は出来た。
アランが全ての兵を橋の向こうへと移動させる。
敵の貴族連合軍は壁の向こうに避難した。劣勢に立たされたのだ
から、少しでも隠れられる場所に逃げたくなるのは当然のことだ。
そうして壁という盾を使いながら、再び魔術師くずれをぶつけて
きたため、アラン達も攻めあぐねることになったけれど。
﹁それでいい。時間がかかる分、こちらに意識がひきつけられるは
ずだ﹂
ゴーレム
レジーはそう言い、私に上流からの援軍への攻撃を指示する。
ゴーレム
私は魔獣と戦わせるために作っていた土人形を、援軍側に差し向
けた。
ゴーレム
こちらは何度か土人形と戦ったことがあるルアイン軍だったから
ゴーレム
か、、土人形への対処を優先させたようだ。
ゴーレム
魔術師くずれを作り出して土人形を足止めし、魔術師くずれが足
ゴーレム
を崩した土人形に一斉に斬りかかる。
むしろ援軍の方が土人形に慣れていなかったせいで、進軍の足を
止めた。でもそれでいい。
ゴーレム
レジーが再び、剣から雷を放った。
ゴーレム
土人形もろとも、ルアイン軍に雷が直撃する。
地響きと悲鳴が起こった。
高い場所に居ないから見にくいけれど、土人形の周辺にいた敵兵
2022
はかなりの数が死んだだろう。
そこが引き際だと思ったに違いない。ルアイン軍はすみやかに王
都の壁の向こうへと逃げて行く。
﹁あとはアランに任せよう﹂
そうして私達は、アランが率いるファルジア軍に合流する援軍の
後ろを迂回しつつ、王都の北側に広がる森の中へ侵入した。
既に放っていた索敵から、森の中には敵兵があまり配置されてい
ないことはわかっている。敵側も兵数が限られているからなのか、
森の一部を囲むように作られた王都の壁を守っているらしい。
私達は、レジーの指示に従って森の中を進む。
馬は途中で索敵の兵に預けて、戻るよう指示し、徒歩で道なき道
を歩いた。
やがてたどり着いたのは、大きな岩が点在する川原だ。
人の背丈より少し高い程度の、小さな崖になっている周辺には、
苔むしたり土や倒木の下になっている岩があった。
岩には時折直角に割られているものが混じっていて、自然のもの
ではないことがわかる。
﹁王宮を作る時に、余った石材を放置した場所だよ。こういう場所
がいくつか森の中にある。そのほとんどが囮で、ここだけが正解な
んだ﹂
いくつもある岩の間の一つをレジーが指で示した。
伸びている蔦を避けると、そこに狭い隙間があった。男性がかろ
うじて通り抜けられる程度だろう。
2023
あらかじめ用意していたランプを手に、数人の兵士が先行する。
﹁中はきちんと石で組まれた通路になっている。湿気で滑ることだ
け注意して﹂
レジーの言葉にうなずきながら、私は彼に続いて通路に足を踏み
入れた。
横幅は狭いながらも、高さが保たれた通路の中は静かだった。
敵も攻めて来ない。
ただ中を進む仲間たちの息遣いと、足音が響く。
私はランプを持たなかったから、足下が暗いし周囲もよく見えな
いけれど、前にいるレジーの背中を追いかけ続けた。
途中、二度ほど分岐点があった。
そう言う時は止まって、尋ねる密やかな声とレジーの指示が行き
来して、再び歩き出す。
30分も歩いただろうか。
さすがに狭い場所を進み続けて、少し閉塞感から不安になりかけ
た頃、道が坂になった。
﹁階段が始まる。足下に気をつけて﹂
レジーが教えてくれたので、つま先でさぐりながら階段を上った。
そうして出たのは、木の葉が黄色や赤に色づいた木々に囲まれた
場所だ。
﹁王宮の森だよ。壁からは離れている。王宮の建物からは北東の辺
りだ。ここから見つからないように王宮内に侵入するためには、も
う一つ通路を使う﹂
2024
レジーが説明しながら、予め用意していた地図を出して指さす。
﹁ここから、池を挟んだ場所にある管理小屋から王宮の地下に続く
道がある﹂
﹁先に、管理小屋周辺にいるだろう兵を倒す必要がありますね﹂
地図を覗き込んで言ったカインさんに、茨姫が言う。
﹁足止めしたり、動けなくするのは得意だけれど、声を上げる前に
口を塞げるかしら⋮⋮﹂﹁目標を決めて、順次茨姫に動きを止めて
もらうと同時に倒す方向でいきましょう﹂
﹁私も何か⋮⋮﹂
協力できることはないかと言いかけたところで、茨姫に止められ
る。
﹁キアラと殿下は、力を温存して。後で嫌というほど使うことにな
るでしょうから﹂
なるほど素直に引き下がった私とは違い、レジーはそんな茨姫に
尋ねた。
﹁ということは、かなり魔術を使わなければならない戦いになると
⋮⋮?﹂
﹁私が知っている未来では、魔術師くずれなど使わなかった。だか
らこそ魔獣を操るだけで済んだとも言えるわ。今回は、王宮の中で
も魔術師くずれに警戒しなければならないでしょう。それに⋮⋮﹂
一度言いにくそうに、茨姫が言葉を切ってから続けた。
2025
﹁今まで未来で殿下が死にかける状況だった時、回避しようとして
もさらに過酷な状況になったことがあるでしょう?﹂
クレディアス子爵との戦いも、かなり厳しかった。本当に、運の
差だったと思う。
﹁私は何度も望むままに未来を見ることができるわけではないわ。
だから私が王妃と戦ったのを魔術で見たのは、辺境伯子息のアラン
だった。彼は王妃というより魔獣と相打ちになった。彼は魔獣と戦
わない場所にいるけれど、代わりに王妃と対峙するあなた方が同じ
ように王妃と戦うことになるし⋮⋮、魔獣もその通りの能力とは限
らない﹂
だから用心して、と茨姫は言う。
﹁王妃がどういう手を使うにしても、魔術が必要になる。場合によ
っては他の兵士達はその場から避難させて、あなた方だけで戦うこ
とになるかもしれない。だから人で対処できる間は、温存すべきよ。
さもなければ、全滅することもあり得るわ﹂
﹁そうですか⋮⋮わかりました﹂
茨姫の話に、レジーやカインさん達が納得したようにうなずく。
まずは王宮への進入路の確保にかかった。
監視小屋は、森の中を巡回する役目のルアイン兵が数人いた。
まずは窓から見えない場所に移動した外の兵士を、茨姫が蔓で捕
まえて口を塞ぐ。素早く近づいた兵士達がそれを倒した。
それでも物音で、小屋の中にいた兵士が外を確認しに出てくる、
2026
茨姫の蔦が勢い良く伸びて小屋の中に入り込み、中にいた人間を
引きずり出したところで、兵士達が彼らを倒す。
倒した兵士は、私が土の中に埋めた。
証拠を消して、交代などでやってきた兵士にすぐ気づかれないた
めでもある。
王宮内への通路は、建物の床にあった。物を避けて、また狭い通
路に入っていく。元に戻すのは、茨姫が蔓を使って上手く物を動か
してくれた。
これでまた少し、時間が稼げるだろう。
2027
そして王妃と会う
王宮へ続く通路は、先ほどよりも広かった。
二人並んで進むことができるし、高さもある。
暗く、どこまで行けば出口にたどりつくかわからない場所を進む
のはとても気が塞ぐけれど、少し広いというだけでもほっとした。
何より、隠し通路を使えば敵に発見される確率は低い。
魔獣と魔術に対応するための少数部隊だから、集団に責められる
のに弱い。王妃の近くへ行くまでは、見つからずに無傷を通したか
った。
そうして私達は、無事に出口へたどり着いた。
﹁敵はいないか?﹂
様子を探ろうとするレジーに、私は言った。
﹁あ、のぞき穴作る?﹂
向こうの壁も石なら、簡単に穴が開けられる。
レジーに頼まれ、さっそくのぞき穴を二つほど開け、兵士さんが
確認していざ城内へ。
そこは、国王の部屋だった。
広い部屋の四隅に、装飾が施された両手を広げても囲めない太い
柱が四つあり、そのうちの一つが隠し通路の出入り口になっていた
ようだ。
装飾をすることで、継ぎ目をわかりにくくしていたらしい。
2028
部屋の中には誰もいない。
絹や色糸を使って模様を折り出した掛布のある寝台と、テーブル
に椅子。ソファ。長櫃やクローゼットという、一見しただけで美し
い調度品がある部屋は、誰かが使ったように荒れていた。
﹁まず王妃がいる場所を探そう。できれば兵士を生け捕りにして、
聞き出せたらいいんだけどね。もしくは⋮⋮あるはずだった未来と
同じ場所にいるのか﹂
そう言ってレジーが茨姫に視線を向けた。
﹁私が見た未来では、王妃は謁見の間にいたわ。王都の壁周辺で戦
っているのだから、同じ場所にはいると思う﹂
﹁それなら謁見の間へ向かいながら、途中で見つけた兵士を捕えて
吐かせた方がいいでしょう﹂
グロウルさんの提案で、進む方向が決まった。
再び壁に穴を開けて様子を見て、私達は国王の部屋の外へ出た。
王宮の中は意外なことに、静まり返っていた。
侵略してきたルアインも、占領できているのはほぼ王都のみとい
う状態だ。しかもファルジア軍はいつ王都に侵入してもおかしくは
ない。
こんな状況なら、逃げようと王妃に勧める臣下とか、その時間を
稼ぐために城の防備を固めるために走り回る兵士や、指揮をとる貴
族の姿があったり、声が聞こえたりするものだと思ってた。
⋮⋮うん、大河ドラマの影響かもしれない。落ちる直前の城の様
子って、それしか連想できないから。
2029
だとしても、あまりに静かすぎて拍子抜けしてしまう。
でも警戒は怠らない。
敵だって侵入を警戒して、どこかに潜んでいるかもしれない。
レジー達は慎重に周囲を探りながら進む。カインさんも万が一の
場合に備えて、あちこちに視線を配っていた。
国王の部屋は三階にあるらしい。
謁見の間は二階なので、一度階段を降りる必要があった。
階下を伺いながら進むと、二階と一階には衛兵がいたようだ。彼
らはもう逃げる気らしい。
﹁王子の軍には魔術師が二人もいるんだろ?﹂
﹁魔術師くずれを沢山ぶつけても、だめだったらしいからな。逃げ
るしか﹂
﹁今なら大丈夫だろ。監視役の兵がいないから⋮⋮﹂
そこで彼らの声は途切れる。
口を塞がれ、別なファルジア兵に剣をつきつけられて階下から見
えない場所。私や他の人々が隠れた部屋に引きこまれる。
﹁叫べば殺す﹂
そうグロウルさんに睨まれて黙った彼らは、どうやらファルジア
貴族の兵だったらしい。
ルアインに加担した貴族から、王宮に勤められると聞いて徴兵に
応じたのだという。
命さえ助けてくれるならと、彼らは王妃の居場所を告白した。
王妃はやっぱり謁見の間にいるそうだ。
2030
﹁王妃の他に兵は何人ぐらいいる?﹂
﹁たぶん何人かは⋮⋮詳しくは、そこの担当じゃないので。ただ、
ルアインから送られて来た奴隷を侍らせてるって話は聞きました﹂
﹁奴隷?﹂
小声でつぶやいた私に、師匠がささやく。
﹁魔術師くずれにするためじゃろ﹂
なるほど。沢山の兵で自分の周りの防御を固めない代わりに、魔
術師くずれを常時作り出せるようにしているわけだ。
たとえそれでも⋮⋮と、私は不思議に思った。
王妃は、何を考えているんだろう? 負けが込んでも彼女が逃げ
ない理由がよくわからない。
自分が王位についたと宣言したから? それとも、故国へ帰るわ
けにはいかないと思う理由があるの?
﹁王妃は⋮⋮倒されるのを待ってるのかな﹂
そうでなければおかしいぐらいで、ついつぶやいてしまう。する
と茨姫が応じてくれた。
﹁私が一度見た未来では⋮⋮。殺されても満足そうだったわ。おそ
らくアランを殺せば、ファルジアが混乱し続けるだろうってわかっ
ていたのでしょう。王妃はたぶん、自分が死んでもそれでいいと思
ったんじゃないかしら﹂
悪役らしいといえば、らしいなと私は思った。
そうまでしてファルジアに打撃を与えたいのは⋮⋮敵国だからだ
2031
ろうか。
とりあえず話を聞き出した兵士二人は、縛ってその部屋に転がし
ておき、疑問を引きずったまま、私はレジー達と移動を始める。
二階は、やはり頻繁に兵士が行き来していた。
﹁こればかりは、駆け抜けるしかないですね⋮⋮囮をしますので、
その間に殿下方は先へお進み下さい﹂
﹁わかった﹂
提案したフェリックスさんに、レジーは悩むこともなくうなずい
た。
フェリックさんが、五人の騎士を連れて階下へ突入する。
階段から遠ざかって行こうとした敵兵三人をすぐさま制圧する。
けれど追いかけた私達がフェリックスさんの横を通過した頃には、
待機場所等にいたらしい兵士達が、近くの扉から出て来た。
その数ざっと十人ほど。
さらに階下からも兵士が上がって来ようとしている。
私達を庇うように立つフェリックスさん達が最後尾について戦う
が、これでは負担が大きい。
﹁キアラさん?﹂
﹁ちょっとだけ!﹂
えい、と私は階段に穴をいくつか作る。兵が数人、それで転んだ
り、足が下にはまって怪我をして動けなくなる。
そうして私は、カインさんに引っ張られるようにしてレジーの後
を追い、開かれた大きな扉をくぐり抜けた。
2032
そこは謁見の間だ。
中央に道を示すように敷かれた赤い絨毯。
その先に三つの段があって、金で装飾された大きな椅子が置かれ
ている。
座っているのは、暗い緑の裾が広がらないドレスを着た赤茶色の
髪の女性だ。
名乗られなくても私は知っている。
何度も夢で見た人︱︱ファルジア王妃マリアンネ。
痩せすぎとしか見えない彼女は、優雅に立ち上がってレジーに声
をかけた。
﹁待ちわびていたわ。あなた方を殺せる日を﹂
2033
そして始まる最後の戦い
王妃は手を振って、玉座の近くに置いてあった檻を取り囲む兵士
に合図する。
檻の中にいるのは、さっきの兵士の情報通り奴隷達だった。
兵士として戦場で使うつもりだったのか、檻の中にいる奴隷は痩
せているものの男性ばかりだ。貫頭衣を着た彼らは、無気力に座り
込んでいる。
兵士達は、持っていた槍をその檻に向けた。
たぶんあの槍に、契約の石の砂がつけられている。このままでは
魔術師くずれにされてしまう。
私は床に手をついて、魔術を使おうとした。
檻を石で囲んで、槍から守るつもりだったのだけど。
耳をつんざくような烏じみた鳴き声に、思わず片耳を手で抑え、
魔術を止めてしまう。
﹁キアラさん!﹂
カインさんの叫びと、グロウルさん達がレジーを呼ぶ声、そこに
振動と轟音が重なった。
何が起こったのか、すぐにはわからなかった。
庇ってくれたカインさんが私を離してくれて、ようやく部屋の惨
状が見える。
窓と壁が壊された謁見の間は、瓦礫があちこちに散らばっていた。
檻の中の奴隷達には槍が刺さっていたけれど、その槍を持ってい
2034
た兵士達は吹き飛ばされて遠くに倒れていたり、瓦礫に押しつぶさ
れている。
ただ一人無事だった王妃は、軽い足取りで壁と窓の向こうにあっ
た広いバルコニーへ歩いて行く。
そして王妃の前に立ちはだかるように、炎の魔獣が舞い降りた。
壁を破壊したのは、この炎の魔獣だろう。
近くで見る魔獣は、胴だけなら熊ほどの大きさがある。翠と赤が
混じった羽色の鳥の魔獣は、赤い炎の羽で二重に体を覆っていた。
私達は魔獣に対抗するために身構えるが、バルコニーで衣服の裾
を風に揺らす王妃は、壇上に立ったままゆったりと言った。
﹁クレディアスに始末させようとしたのに、失敗するなんて⋮⋮あ
れだけ便宜を図ってあげたのにね﹂
小さく笑い声を漏らす王妃は、一人だけパーティー会場にいるよ
うな余裕を感じさせる。
そんなにもこの魔獣は強いのだろうか。だから危機感がないの?
﹁自分こそが王子を殺すと言う気になるように、とても未練があっ
た娘の話も逐一教えてあげたけど、むしろ娘のことにばかり気を取
られて、失敗したと聞いたわ⋮⋮。そのキアラというのはあなたね﹂
王妃が真っ直ぐに私の方を見る。
その眼差しが冷たくて、ぞっとする。私達を殺そうとしている人
だから当然だろうけれど、妙に落ち着かない。
もしかすると、夢の中で見た王妃はどんな酷いことをしていても、
敵視するような目を向けなかったせいかな。でも敵になった今、王
妃は自分の手駒を気遣う必要なんてないんだもの。
2035
そんな王妃の近くの檻の中で、槍で刺された奴隷達がうごめき始
める。
槍を引き抜いた傷口から、炎が溢れた。
鳥の魔獣が鳴き声を上げると、立ち上がって炎で檻を溶かし、ゆ
らゆらとこちらへ歩き出した。
﹁また火の属性⋮⋮﹂
全ての魔術師くずれが、火を操っている。すると師匠が言った。
﹁魔獣が関連しておるのかもしれん。どうやってかはわからぬが、
魔獣に同調しているらしき様子もあるしな﹂
﹁なるほど魔獣﹂
魔獣をどうにか使って、魔術師くずれにしているのか。
﹁何にしても、私はますます役立ちそうにないわね。王妃の方を攻
撃する。そうすれば、魔術師くずれも一部は自分の守りに使わざる
をえなくなるでしょうから﹂
茨姫の言葉に、レジーが言う。
﹁ではそのように。グロウル達は魔術師くずれと戦いながら、背後
から兵が突入してくるのを警戒。ルナールは炎への防御に徹してほ
しいけれど﹂
氷狐に同意を求めて振り返ったレジーは、はっはっはと楽し気な
顔をしながら白い冷気の息を吐いているルナールの姿に、ちょっと
笑う。
2036
﹁キアラは⋮⋮﹂
ゴーレム
﹁魔獣を倒そうレジー。師匠、土人形の方を任せます﹂
﹁おう、腕が鳴るわい﹂
レム
ゴー
ゴーレム
それだけで師匠は私の意図を察してくれた。師匠を搭載した土人
形を作り、私はレジーの斜め後ろに控える。
まずは魔獣がどう出るのか、動きを知りたくて師匠搭載土人形に
動いてもらった。
﹁イーッヒッヒ!﹂
ゴーレム
ゴーレム
土人形の操縦はお手の物になった師匠が、勢い良く魔獣へ突っ込
んで行く。
まずは魔獣に拳を繰り出す土人形。けれど建物の外にいる魔獣は
ゴーレム
ひらりと舞い上がる。
しかし土人形はそのまま王妃に突撃。
﹁大元を殺せば解決じゃあああ!﹂
ゴーレム
悪役みたいなことを言う師匠搭載土人形の頭を、急降下した魔獣
が足で蹴る。
﹁のわっ!﹂
ゴーレム
ゴーレム
魔獣は、倒れた土人形に口から吐いた炎を浴びせる。その火の威
ゴーレム
力が強すぎてか、土人形の脚部の土が熱と魔力の強さに砂になって
削れていき、土人形がその場に倒れてしまう。
でも魔獣への攻撃と同時に、茨姫も行動を開始していた。
2037
ゴーレム
壊れて落ちた花瓶の花を使い、土人形の後ろに近づいたところで
薔薇の蔓を伸ばして王妃を捕えようとする。
けれど数本の蔓は、王妃がほんの数歩避けるだけで空振りする。
でもそれが茨姫の狙いだった。
薔薇の蔓はバルコニーのフェンスを越えた。
代わりに薔薇を伝ってつながったのだろう、無数の茨がざわりと
波のようにバルコニーを覆い尽くそうとする。
ゴーレム
王妃は不愉快そうな表情に変わった。
土人形を攻撃していた魔獣を操って自分の周囲の茨を焼かせた。
﹁間違いなく王妃は魔獣を操っているわね﹂
そう言った茨姫に、魔術師くずれが襲いかかる。それを打ち払っ
たのは、レジーの騎士達だ。
グロウルさん達は、他の魔術師くずれに対峙している。
﹁焼き払いなさい﹂
王妃が命じた。
魔獣が外から全員に向かって炎を吐きかけるつもりなのだろう。
王妃の頭上で態勢を変えた。
﹁キアラ﹂
後方から動かずにいたレジーが、私に合図する。
私はレジーの肩に手を置いた。
そして魔獣が炎を吐き出すその時、レジーが真っ直ぐに掲げた剣
から、人の大きさほどの球体になった雷が吐き出された。
2038
そして始まる最後の戦い 2
炎を吐き出そうとした魔獣に、雷がぶつかる。
その瞬間、炎が四散してその余波で魔獣の嘴が折れ、胸や腹の羽
も飛び散った。
魔獣が甲高い鳴き声を上げる。絶叫するみたいに。
すかさずニ撃目を放った。逃げようとした魔獣の足が雷撃で吹き
飛ばされる。
そこで私とレジーは、魔獣に直接攻撃ができなくなった。魔術師
くずれが一斉に私達に襲い掛かったからだ。
床や瓦礫を操って魔術師くずれ達を串刺しにしようとしたけれど、
魔獣が倒れたまま放った炎を避けるため、壁を作るだけで精いっぱ
いだった。
炎で埋め尽くされて、壁の向こうの様子がよく見えない。
焦ったところに一人の魔術師くずれが飛び込んできた。
ルナールが吹雪の魔術で手足を凍らせ、相手の動きを鈍らせ、体
から吹き出る炎を抑える。
そこを、ルナールの魔術で白く染まった剣で、カインさんが仕留
めた。
でもこれでは、敵がいつ出てくるかわからない。不意を突かれる
のはまずいと思ったのだろう。
﹁キアラさん、殿下、もう少し後方へ!﹂
﹁いや、もう炎が消える﹂
レジーが言うのと同時に、炎が収まって行く。
2039
向こうでは、こちらへ一斉に向かっていたらしい魔術師くずれを、
倒そうと奮起しているグロウルさん達と、王妃を茨で縛り上げた茨
ゴーレム
姫の姿。さらには王妃の茨を焼きらせようとしたのか、魔術師くず
れを一人掴み上げた師匠搭載土人形の姿があった。
視界が晴れれば、できることは増える。
私は近くにいた魔術師くずれから倒していく。
床石を操って足を串刺しにし、動きが止まったところで背後から
騎士達が心臓を一突きにする。
師匠は魔術師くずれをバルコニーから庭へと放り投げた。
あとはもう、茨姫に拘束された王妃と傷ついた魔獣だけだ。
﹁降伏を呼びかけますか?﹂
グロウルさんが振り返って、小声でレジーの指示を仰ぐ。
レジーは首を横に振った。
﹁降伏する気はないのでしょう? この場で殺された方がいいはず
だ。だからここにいた。いつでも逃げ出すことだってできたという
のに、兵士にも最後まで王都を防衛させ、戦わせた﹂
レジーが前へ進む。
私はその途上を遮っている石の壁を消して、王妃と魔獣を警戒し
ながらレジーの後ろをついて行く。
カインさんがその斜め前を固めた。私のすぐ後ろにはルナールが
いる。
魔獣はやや甲高い唸り声を、折れた嘴の奥から吐き出していた。
けれど動かないのは、王妃が命じないからだろうか。
2040
レジーは、魔獣からそれなりに距離を取った場所で立ち止まる。
ゴーレム
私は急いでその場に膝をつき、魔力を送って師匠搭載の土人形の
足を修復して立ち上がらせた。
騎士達は王妃と魔獣を囲むように位置を変える。
そして王妃は︱︱くすくすと笑い出した。
﹁やっぱり貴方は甘いことを言わない人ね、レジナルド。情に流さ
れにくいところは気に入っていたわ。たぶんファ
Fly UP