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真実と愛で生きる - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

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真実と愛で生きる - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート
真実と愛で生きる
エフェソ書の福音 12
真実と愛で生きる
4:25-5:2
この前の所は『古い人を脱ぎすてよ、神の姿にかたどって創造された新し
い人を、しっかり身にまとえ……』という勧めでした。しかも「脱ぐ」とか
「着る」という言葉で表されるのは、決して、うわべだけパラリと何かこう
羽織か薄物のコートでも着替えるようにしてつくろうのではなく、この「脱
ぐ」と「着る」は、本当に心の深みまで新たにされて、人の生き方ごと、も
のの考え方ごと、芯を残して全部変わらなければならない……という所で、
バウムクーヘンの焼き串とか、ラッキョウの芯の話をしたのをご記憶でしょ
うか?
さて、今朗読して下さった箇所に書いてあったのは、その古い脱ぎ捨てる
べき生き方は具体的にはどんなものか……、新しい中身というか、芯からし
っかり身にまとうべき生き方は具体的にはどんなものか……ということです。
これを私たちは、三つの変身、偽りから真実へ、不潔から聖潔へ、恨みから
赦しへの変身として捕えることができるでしょう。
1.偽りから真実へ 4:25-28.
キリストに弟子入りした日から、嘘と訣別したことを知れ……と言うこと
です。馬鹿正直と言われるに違いないのですが、キリスト信者はこの点だけ
は、融通が利かない人種であることは確かです。「偽りを捨て、隣人に対し
て真実のみを語れ」これはゼカリヤ書の言葉です。(8:16)
世間の標準ですと、子供に教訓を与える時には「嘘は泥棒の始まり」と教
えて、実生活では「嘘も方便」と居直るものです。キリスト教にはそれが無
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い。何故かというと、いつも神の眼の前に立っていることを本気で意識する
からです。この本気で……という所が大事な所で、偶像の場合は便宜上、生
活の知恵で神様とか仏様とか呼んでいますが、本当の神様は自分の理性とか
人間社会の維持ですから、その人間様がこの場合はよろしいと判断を下せば、
本当・嘘と言うことにこだわらなくてもいいのです。ところが、キリスト教
にはそれが無いから、ある意味では非常に不便ですし、クリスチャンは馬鹿
だと言われるでしょう。でも、ここの所に大きな違いがあることは本当です。
例えば私が、何か恥ずべきことや大変愚かな間違いをしてしまった場合、
威厳をとりつくろって、頼り甲斐のある無謬の夫みたいな顔をして、妻に対
して良い恰好を見せる……ということはあり得ないわけです。「あんた何で
そんなアホなことしたん」と言われれば、僕の自尊心も傷つくし、彼女の方
も暫くは幻滅ですが、それでも隠したり偽ったりしている空しさと比べると、
まだ耐えられるわけですね。これは、結局私にとってキリストと神がどれだ
け現実か、本気のものかにかかわって来ます。神がデクノボウでキリストが
飾りである瞬間には、嘘もつけますが。面白いのは 25 節の最後の所「お互に
肢体なのであるから」という一句で、クリソストモスに言わせると「足と手
が目や耳を騙すようなことがあろうか」と言います。
27 節で盗みのことが出てきますが、エフェソの教会員でプロの盗賊だった
人がいたとは考えられません。これは多分、自分の管理しているものの中か
ら少しずつ「この程度のことは許されるだろう……」とつまみ食い、横領を
することを盗むと言ったのかも知れません。私も若い時に身に覚えがないで
はありません。そういう犯罪という名のつかない盗み、英語なら smartness
と「ずるい奴だ」で済ませられるような盗みは至る所にあります。
パウロは、そういう賤しい利得に未練を持つな……と禁じるだけにとどめ
ず、28 節を見ると、むしろ反対に自分で汗を流して稼いだものを誰にあげた
ら喜んでもらえるか、誰の困窮を軽減してあげられるか、いつも放出して損
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をする訓練をしてみよと言います。多分、私どもの心から我利我利亡者の幽
霊を追い出すための知恵でしょう。
真中の怒りに関する教えは、嘘と泥棒というテーマの中へどう繋がって入
って来るのか、分からない部分もあります。ひょっとしたら偽りに対する怒
りとか義憤だと思っていたものが、いつの間にか苦々しい感情に変わってい
ることがあるからでしょうか。義憤というものは確かにあると思いますが、
我々の場合、私憤や苦々しい疎ましい思いというものが、大抵何十%か含ま
れてしまいます。人の不誠実に対する怒り、卑劣を憤っているつもりで、早
くも人を憎む心、呪う気持ちがきざしております。
ともあれ、この「怒っても罪を犯すな」は面白い表現ですね。原文はもっ
と大胆な言い方で「怒るなら怒るが良い。だが罪にのめり込むな」という感
じで、これは旧約聖書のギリシャ訳から直接引いております。出典は詩篇 4
の 4 で、こうなっています。「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならな
い。床の上で静かに自分の心に語りなさい」これは怒りを翌朝まで持ち越す
なの意味でしょう。
パウロの言葉は、その後半を言い換えて、もう一つオーバーになっていま
して、直訳すると「怒っている間に日に沈まれてしまうな」で、これですと、
まあ夕日と競争で怒りを中和せよ……です。ただ、その怒りを中和するだけ
のものがその人の中にあるかどうかが問われてまいります。
怒りを後生大事に暖めて可愛がっていると、その怒りがサタンの便利な拠
点になって、苦々しい思い、疎ましさ、憎しみがあっという間に私たちの心
の全体に広がってしまうからです。
2.不潔から聖潔へ 4:29-30.
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「悪い言葉」は原文で、は「腐った」という形容
詞です。「下品な」言葉とか不道徳・不潔とつながる言葉を「腐った」言葉
と言ったものです。こういうセンスは日本の方言の中にもあるようで、紀州
弁などでも、私の幼い記憶に、父がよく「昭、またクサッタこと言う」とよ
く申しましたが、和歌山でクサッタ話というのが、このパウロの言った「『腐
った話』を一切するな」というそれに当たります。
これは決してお高くとまって、上品ぶれということではありません。ただ
クリスチャンは不道徳や不潔な冗談は一切避け、そういう会話に加わらない。
また自分の眼を不必要にそういう愚劣な印刷物にさらさない……そういう努
力をします。まあ、汚いものにさらせばさらすほど免疫ができる……という
のは悪魔の欺瞞です。後できっと後悔します。この点若い人たち、これから
高校生活や大学生活をする人たち、特に男性は、今の社会の中で余程勇気を
持って立ち向かわないと、あっという間に頭は汚染されて、口からは周りに
合わせるための「腐った言葉」だけしか出なくなります。それを言って口を
合わせていないと、周りから馬鹿にされる時代だからです。本当の勇気は「腐
った言葉」に抵抗する所にあります。「腐った」活字・絵画・映像、これに
抵抗する所にあります。
これはまた、
5 章の 3-4 節でもう一度強調されます。
私達は決して、中世の修道士たちのように性を不浄視することを奨めるの
ではありません。むしろ、やがて若い皆さんが結婚なさる時に、神から受け
る祝福として、きれいなものとして異性の体を受けることができるか、それ
とも全てが薄汚く始まるか……それはやはり「腐った言葉」と「腐った映像」
にどう抵抗したかによって決まると思います。こういう点での勇気ある抵抗
には、必ず報いは大きいものです。
さて、「悪い言葉」「腐った話」との絶縁は、年長者もやはり同じでしょ
う。クリスチャンは一つの定評を持たなければいけない。世間から見てクリ
スチャンというのは、こういうジョークには加わるが、こういうジョークに
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は一緒に乗ってこない。堅物の変人よ……という批評を我々は決して恐れて
はなりません。残虐行為とか異常な犯罪などについても同じで、フランスの
新聞でも品位ある新聞は、数行で事実を報道するに留めた……と言うのも考
えさせられますね。
ここでもパウロは単に言葉を汚すな、清く真実に保て……と教えるだけじ
ゃなく、言葉の真の用途を指定するのを忘れません。29 節後半です。我々の
口から出る言葉というものには、もっと立派な用途がある。それは必要に応
じて人を励ましたり、慰めたりして、人に力を分け与えるような言葉だとパ
ウロは言います。私たちの口も言葉もそのためにある……と言うのが 29 節の
要旨です。時々、「あぁ、口があってよかった、日本語しゃべれてよかった。
神様、感謝します」というような経験をお互いしたいものですね。
30 節で聖霊のことがどうして出されるのかですが、たぶんこれは、私たち
が不用意に薄汚れた言葉を使ったり、嘘を方便に使ったり、ケチな怒りでヒ
ステリックに大見得を切ったりする時に、一番心を痛めて傷つくのは聖霊だ
ということでありましょう。こんなお粗末な器をいとわず住み込んで、贖い
の日まで清め続けようとして下さっている方を傷つけて冒瀆するような言葉
を使ってよかろうかということです。
3.恨みから赦しへ 4:31-32.
パウロは先ず、捨て去るべき古いものを六つ列挙します。最初の
は「苦さ」ですが、「無慈悲」というより「執念深さ」です。いくら時間が
経っても和解を拒否する苦々しい思いです。次の「憤り」は原文ではバーッ
と爆発する憤り、次の「怒り」は消えずに蓄積して膨れ上がって行く憤懣で
す。「騒ぎ」と書いてある字は、むしろヒステリックなとげとげしい声で、
怒って権利を主張している人の姿です。「あぁ、私は損をした。どうしてく
れる。」という声です。「そしり」は人を罵倒したり中傷すること。「悪意」
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はその全ての根になっている毒を帯びた感情です。こういうものを全部、根
こそぎに除き去れとパウロは命じます。こういうものは、本当は除き去れな
いもので無理な注文なんですが、ただ、そこへ代わりに入れるものがある時
だけ除けます。もっとも、その入れるものを見失うとまた戻ってきますね。
32 節を見て下さい。
32.互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがた
をゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。
5:1.こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神の姿を真
似る者になりなさい。 2.また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがた
を愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかお
りのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。
代わりに入れるものというのは、キリストの十字架の経験だけです。これ
がハッキリと心の眼に映じている時だけ、苦々しい思いとか、根深い恨みと
か、「腐った映像」とかが外へ出て行くわけです。
この清めのプロセスは、一生の事業ですから、伝道の書にあるように『あ
なたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。』ということが大事なんです。
キリストの贖いを受けた素直な青年が、一生がかりでキリストに従い続けて
名実ともに清い神の子としての渉外を送ること―日本にとって必要なのは、
そういう勇ましい生涯です。
《 結 論 と 勧 め 》
偽りから真実への変身、不潔から聖潔への変身、怨念の人から赦す人への
変身―これはキリストを仰いで、聖霊を受ける時にだけ可能です。
もう二十何年も前のことですが、あるキャンプの時に私は偽りと真実、神
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は自分にとって現実の本気のものか……ということで、一つのショックを覚
えて、以来真剣に考えるようになったある小さな事件を経験しました。
その頃私たちはキャンプでよく裁判ごっこをして遊んだものです。英語手
は kangaroo court と言われる「つるし上げゲーム」です。誰もが何かその日
に事件が起こって、法廷が召集されることを心待ちにしていました。事件と
申しましても、決して物がなくなったとか……人を疑ったり傷つけたりする
ようなことは避けました。大抵、法廷に持ち込まれる事件は他愛もないこと
で、例えば水泳の時間上がって来るのが遅いとか、食事にいつも遅れてくる
とか……そういうのは反逆罪ですね。昼寝の時間に寝ないでしゃべっている
……これはもちろん共同謀議です。2 号室のキャンパーが 3 号室に入ってく
ると家屋侵入罪です。検事と弁護人がついて、証人を喚問して大袈裟にやる
わけです。傍聴人がヤジる……今から考えると、クリスチャンとしては良い
ゲームではなかったかもしれませんが、我々は結構楽しんだのです。
その時、僕はもう少しで告発されそうになった。何をやったかというと、
みずから上がってきて体をふくのにタオルが見つからないもので、そこらに
ある人のを拝借した。そしたら現場を押さえられたんです。横領罪ですね。
もっとも証人たちはわざと通り道にタオルを吊って、罠をかけていたきらい
がある。この時は幸い不起訴処分になりまして、何故そうなったかと言うと、
その日もっと人目を引く大事件が起こったのです。浴衣で首つりの人形を作
って木にぶら下げ、女の子たちを驚かせた奴が逮捕された。証人の一人はあ
まりの光景に失神したとかしなかったとか……それでみんなタオル横領罪な
んか問題にしなくなった。
でも、その時にふと……そのタオルを使う瞬間、神を意識していない自分
というものに非常に興ざめしたのです。もちろん、濡らしておいて人を困ら
せるジョークと考えれば、何でもないのかも知れませんが、少なくとも愛と
思いやりに欠けるだけじゃなく、少なくともその瞬間は神が生きておられる
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ことを意識しないで行動している。入信して何年も経つのにです。そういう、
神の世界、キリストと聖霊の世界から別の世界にちょっと休憩に入っている
つもりの時間があった! これはショックでした。結局、自分は信仰が身につ
いていないというか、今まで学んだ聖書も果たして何を学んだのか……これ
は私自身の小さな半生のうち、一つの転機でもありました。
そういう経験があってから、私は、例えばもう過去のことですが、息子の
所へ会社の電話を使って長距離電話をいつもかけてくる女の子がいたりする
と、ひどく興ざめたものです。その人の物の考え方や生き方が全部わかって
しまうような気がするからです。もっとも、神を本気で信じている人ではあ
りませんでしたから無理もありませんが……。また、某市の某所で近所の公
衆電話がたまたま壊れていて、お金を入れなくてもかかるので、長蛇の列が
できた……とか、そのお蔭で三日間そこから毎日長距離電話をかけた……と
いうような話を聞くと、一緒に愉快には笑えないのです。もちろん、律法主
義でその人を裁いているわけではありません。その話を聞いた瞬間に、私は
あのタオルを思い出すのです。もちろん、その友人に注意できるような関係
にあれば一言注意もするし、そうでなければ、「あぁ、今はあの時の自分と
同じだな」と思って、彼にとって神とキリストが更に現実になるように、ひ
そかに祈るので、決してやたらと人を裁いて自らの正義を自惚れる気はあり
ません。
こういうことは単に、生ける神の裁きの眼を畏れる―ということだけで
はありません。神がキリストによって自分の罪を贖って下さったと言うこと
も、果たして自分は本気なのか、それとも単に宗教ごっこのタテマエのよう
なものか? 聖霊がこの私の中に住んで、何とかして清め続けようとおられる。
そのことも、本当に事実として四六時中信じているのか? それとも時々別の
世界へ移って気を抜けるような、一時的自己暗示の枠組みか? ヨガの時間み
たいなものか……? 30 節にあるように、本当に「聖霊を頂いて、贖いの日
のために封印されている」のだとしたら、もちろん失敗はあるし恥ずべきこ
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とも付いてまわるが、次の瞬間にはキリストと聖霊の現実の世界に立ち戻っ
て赦しを請わねばならない。「偽りから真実へ」「不潔から聖潔へ」「恨み
から愛へ」……。
30 節に「神の聖霊を悲しませるな」とあります。この言葉は私たちにとっ
て、鋭いモニターの作用をするのです。
(1981/06/28)
《研究者のための注》
1.「あなたがたは互に真実を語り、またあなたがたの門で、真実と平和のさばきとを、
行わなければならない。」ゼカリヤ書 8:16、この前半を 25 節に引用してあります。
2.「怒っても罪を犯すな」の出典は、詩篇 4:4 です。七十人訳では 4:5 になります。
パウロは原文のまま引用しています。ヘブル語のマソ
ラ本文でも 5 節です。ところで、新改訳では「恐れおののけ。そして罪を犯すな」で、
これだと怒ることと結びつかないのですが、この訳の「恐れおののけ」は、神の前に
聖なる畏れを持つことが罪を犯さないための第一歩だということでしょうが、King
James 訳でも Stand in awe and sin not で新改訳と同じ訳し方をしています。この読
み方の起こりは、ユダヤ人の文献タルグムの中に「これは神の前における聖なる畏怖
をいう」とあるために、そういう読み方の伝統が固定したようで、本来のヘブライ語
本文の意味ということになると、やはり七十人訳やパウロの取り方が正しいとされま
す。デーリチの注解の William Taylor のも「怒れ、しかし罪を犯すな」が本来のヘブ
ライ語の意味だと断定しています。実はこの
Waj'x/T,-la;w> Wzg>rI
の
Wzg>rI
を「怒れ」と訳
すか、「おののき畏れる」と訳するかということが問題なのです。zg:r' という動詞が
ガクガク震えることから、震えるくらい憤慨する・怒るという意味と恐怖する畏怖す
るという二つの意味があります。目下の所、語学者の結論は「怒れしかし」が正しい
だろうと言います。新改訳はたぶんタルグムの註をこの一句の正しい解釈と見たので
しょうが、恐らくこれはラビ解釈一流の、言葉をひっかけての教訓だろうと思います。
念のため一言、新改訳と口語訳の違いに気づかれた方のために申し添えました。
3.「言葉の真の用途」と言いました所、29 節後半と関連して、コロサイ書 4:6 を参照
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して下さい。
4.5:1.「神にならう者となりなさい」の所、神の姿を真似る者となりなさいと言い換え
ましたが、は「模倣者になって行け」です。模倣ということは
下等なこととされがちですが、お手本が最高、完全なものである時には、模倣以上の
ものはありません。
5.最後の「かんばしいかおり」は、古代の燔祭の煙が天に届くことから取った比喩で、
神が喜んでお受け入れになるようなものを「かんばしいかおり」と言います。
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