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草創期映画興行の志向性

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草創期映画興行の志向性
草創期映画興行の志向性 ‐駒田好洋の地方巡業をめぐる一側面‐
上田 学
はじめに
19 世紀末に日本へ輸入された映画は、明治後期を通じて各地の興行文化を変容させ、や
がて大正期には都市の娯楽として不可欠な存在へと成長していく。しかし、そのような娯
楽としての映画を自明なものとして、遡及的に草創期の映画史を記述するとき、それは果
たして当時における映画の在りかたを、正しく掬いあげることができているのだろうか。
こうした問題を考える上で、草創期の映画が、幻燈と重なりあうものとして、人々に認
識されていたことを踏まえておくことが必要だろう。たとえば明治期の映画は、ときに幻
うつしえ
燈という言葉で表現されることもあった1。いうまでもなく「映画」という単語も、映画草
創期には、主に幻燈の種板や、その投影された映像のことを意味していた2。また当時の新
聞記事のなかでも、映画は幻燈の延長線上にある表象として、捉えられることがあった3の
である。
1874(明治 7)年に、手島精一により日本へもたらされた幻燈は、その教育効果に着目
されて、西洋から輸入された視覚装置であった4。その後、幻燈は明治期における〈啓蒙〉
の手段として、衛生講習会や政治演説会など、様々な教育の場で使用されることとなる。
このような幻燈をめぐる教育の言説と、草創期の映画興行は、どのように結びついてい
たのだろうか。本稿では、近代における代表的な教育装置である軍隊(第 1 章)および学
校(第 2 章)と、映画草創期の地方巡業と関連について、具体的な事例を通じて考察を進
め、この時期の映画興行がどのような志向性をもっていたのかを明らかにしていく5。
ここで、本稿において分析の中心となる資料について説明しておきたい。早稲田大学演
劇博物館は、映画の説明者かつ興行師として、明治大正期にとりわけ地方巡業で活躍をみ
せた、駒田好洋の旧蔵スクラップブック六冊を所蔵している6。このうちの一冊、「活動寫
ママ
眞會興行参考物粘簿」と筆で記され、
『中等唱歌集』を台紙代わりにしたスクラップブック
には、映画草創期のチラシが数多く織り込まれている。本稿では、これらのなかから主に
二枚のチラシを読み解きつつ、考察を進めたい。そのひとつは、1897(明治 30)年に駒田
が最初に地方巡業をおこなった、静岡の若竹座のものであり、もうひとつは、1899 年に駒
田が日本で撮影された映画を上映しはじめる直前の、同じく若竹座のものである。
このふたつの興行を取り上げたのは、次のような理由による。前者は、大都市以外の地
域で、未だ映画をみたことのない人々に向けて、駒田が映画を上映した最初の機会であり、
後者は、身近な日本の風物を撮影した映画が、彼の上映プログラムに組み込まれる直前に、
開催された興行だからである。ふたつの興行に挟まれた期間は、映画という未知の視覚装
置を、どのように人々に伝達するかという問題が、興行師にとって大きな課題になってい
たのではないかと推察される。これらふたつの資料を比較検討することで、映画が娯楽と
して広く認知される以前の、草創期の映画興行が、どのような志向性をもっていたのかに
ついて、駒田好洋という人物を中心に検討することが、本稿の課題である。
それではまず、1897 年の若竹座の地方巡業に関して、論考をはじめたい。
第一章
駒田好洋の地方巡業と軍隊
‐1897 年の事例から‐
先行研究が明らかにするように、1897(明治 30)年の 1 月から 2 月にかけて、映画は四
つの経路を通じて日本に輸入されることとなった7。そのうちのひとつが、東京の新居商会
により輸入されたエディスン社のヴァイタスコープである。ヴァイタスコープは、同年 3
月 6 日に東京神田の錦輝館で公開され、さらに歌舞伎座、浅草座、本郷中央会堂、再び錦
輝館と、東京で一通り興行された後、同年 5 月 21 日から横浜の鳶座で公開された8。この
鳶座での上映後に、ヴァイタスコープの興行は、新居商会から、広目屋の秋田柳吉と横浜
の高嶋巻之助の共同経営へと移り、さらに広目屋の店員として東京での上映に関わってい
た駒田好洋が、その後の興行を任せられることとなった9。そして彼は、自身として初めて
の地方巡業を、静岡で開催することになる。
駒田は、同年 6 月 8 日に、静岡市内の代表的な芝居小屋である若竹座で、映画興行を開
演している。このときに上映された映画は、前述のスクラップブックに綴じ込まれたチラ
シによれば、次の十六本であった(図1)。
エジソン氏電氣工塲前撒水
同電車疾走圖/世界最大の瀑布ナイヤガラの眞景/紐育
實景/佛國女傑ジョンダークの火刑光景/佛國巴里公園町の美景/メリー女王美裝就
刑の悲劇/小學校生徒運動會の實景/佛国陸軍大學校の騎兵演習/露國戴冠式の光景
マ
マ
/李鴻章紐育出發の圖/突堤の激浪/家禽と鳩を飼を食する農家の實景/大商船紐育
港を出發盛景/米國絶美の女優フラー孃小蝶の舞美景/紐育大火眞景勇壮なる消防夫
働き圖
図1
これらの上映作品は、
「同電車疾走圖」および「紐育實景」を除くと、静岡における代表
的な自由民権運動家のひとり、前島豊太郎が、彼の著である『頼古文集』のなかで、同年 6
月に若竹座で観覧したと記している映画と全く同一である10。チラシに発行年の記載はな
いが、開演月日や上映作品から判断する限り、1897 年 6 月の静岡における興行のものであ
ることは確かだろう。
なおチラシに関して、冒頭の「畏くも皇太子殿下の御上覽を辱ふせる最高尚最優美學術
上参考として最も有益なる」という表現が、教育との関連で目を引く。この「御上覽」は、
同年 4 月 26 日に赤坂離宮でおこなわれており、駒田によれば十四本の映画が上映された11
という。またチラシの多くの部分が、作品タイトルの紹介に割かれていることに注意した
い。このような表記が、その後、どのように変化するのかについては、次章で検討してい
く。
ところで、このときの興行の様子は、どのようなものであったのだろうか。当時発行さ
れていた『静岡民友新聞』
『静岡新報』のいずれも、当該期間のマイクロフィルムが欠号の
ため、詳細については把握しえないが、次の駒田の回想から、必ずしも大きな成功を収め
てはいなかったことが類推できるだろう。
かくして(東京、横浜の―引用者)大概の土地ではいづれも大入で打ち通すことが、
出來たが、地方へ出てみると仲々さうは行かない。二度目のときはさうでもなかつた
ママ
が、初めて行ふ土地では、何にしても活動寫眞を理解してゐないから困る、それが影
ママ
繪か何かだと前から知つてゐるからよいが、活動寫眞(その頃は私の辻ビラには活動
寫眞と書いた)と云つて概念すらないのだから、どうして客を呼んだらいゝのか、そ
れに一方ならぬ苦心した。12
当時の地方巡業における、これら「何にしても活動寫眞を理解してゐない」ことへの「一
方ならぬ苦心」は、駒田への聞き書きを連載した、
『都新聞』の「駒田好洋巡業奇聞」にも、
同様に記されている13。映画という未知のメディアへ、どのように人々の関心を掻き立て
ることができるのかという問題は、映画草創期の興行師たちにとって、大きな課題になっ
ていたといえるだろう。
こうした課題に対して、駒田が選んだ最初の方策は、興行が開催された地域の歩兵連隊
に映画を売り込み、その名前を借用することであった。
当時、東京で発行された『中央新聞』の記事に、「廣目屋の主人が譲り受け」た映画は、
「静岡陸軍兵営名古屋鎮台其他同地諸学校の需めに應じて出張し非常の喝采を博したり」
との記述がみられる14。ただし、この「需めに應じ」という表現を、
「静岡陸軍兵営」や「諸
学校」からの、自発的な映画上映の要請と捉えることはできないだろう。駒田は、このと
きの事情について、第三十四連隊の「營庭で活動寫眞を見せた」際に、「聯隊副官が渡佛し
た事がある」人物で、
「この種の催しを見聞して來ただけに、いろ/\斡旋してくれた」15
が、それでも上映への強固な反対があったため、
「東京には軍楽隊がある」ことを伝え、海
軍軍楽隊出身者により成るブラスバンドの「軍隊演奏を主に、活動は余興に」16すること
で、「漸く許された」と回想している。勿論、この回想を全て鵜呑みにすることはできない
が、当時の地方において、必ずしも映画への関心が高くなかったことを考え合わせれば、
駒田の方から歩兵連隊へ映画の上映を売り込んだと考えたほうが自然である。いずれにせ
よ、駒田は静岡で第三十四連隊の将兵に向けて、映画を上映する何らかの機会を得たと考
えられる。
そして、このときの上映は、以後、駒田の興行における宣伝の文句に、幾度も使用され
ることとなる。たとえば、静岡での興行後に、駒田が別の巡業先で配布したと思われるチ
ラシには、まず冒頭に「静岡第三十四聯隊/豊橋第十八聯隊/總觀覽」と記され、本文中
にも「静岡の第三十四聯隊及び同地第十八聯隊の總觀覽ありしなり」と記されている(図
版 2)。このチラシは、
「皇太子殿下の御覽」について、年を表記せずに「四月廿六日」とし
ていることからも、皇太子による映画台覧と同年の 1897 年に配布されたものであると考え
られる17。先に挙げた若竹座のチラシと比較すると、歩兵連隊に関する一文とともに、
「社
會の風教と教育上の参考材料となさんと力めぬ」などの表現が加えられ、社会教育のため
の視覚装置という点が、より強調されていることに注意したい。その一方で、チラシ全体
に占める作品タイトルの割合は、以前より相対的に小さくなっていることも理解されるだ
ろう。
こうした傾向は、その後どのように変化していくのだろうか。次章では、この興行から
二年後の 1899 年、ちょうど駒田が本郷中央会堂で、いわゆる「日本画」を上映する直前の、
若竹座における興行を中心に考察を進めたい。
図2
第二章
駒田好洋の地方巡業と学校
‐1899 年の事例から‐
1899(明治 32)年 5 月 4 日、同年新たに竣工した京都の武徳殿において、大日本武徳会
による武徳殿落成式がおこなわれ、第四回武徳祭大演武会が開会した18。大日本武徳会と
は、日清講和条約が調印された 1895 年 4 月に発足した、武道振興のための全国規模の団体
であり、当時は総裁を皇族の小松宮彰仁が、会長を元京都府知事の北垣国道が務めていた。
この武徳祭にあわせるように、駒田好洋の興行が、同じく 5 月 4 日に祇園館で開演して
いる。実際、『京都日出新聞』に掲載された広告には、「今回武德會大會を當地に開かるゝ
に付同會の御招聘に應じ當祗園舘に於て開會」19との一文がみられる。この「同會の御招
聘に應じ」たことの詳細は不明であるが、同紙の記事には、
「祗園舘の活動寫眞は武德會員
に限り無料にて觀覽せしむるにより毎日千名内外の入塲者あり」20と記されており、駒田
による売り込みなど、両者の間に何らかの関係があったものと推察される。
そして、前章で述べた静岡における歩兵連隊の事例と同様に、この武徳祭も、駒田によ
る興行の宣伝に利用されることとなった。駒田は、京都での興行を同月 10 日で切り上げた
後、第一章で取り上げた静岡の若竹座で、同月 12 日より興行を開演する22。このとき
21
のチラシには、
「今回京都に於て武德會大會開會に際し其招聘に應じ同地祗園舘に於て開會
し小松宮殿下の御上覽を辱し非常の大喝采」を得て、「歸途御當地に立寄候」と記されてい
る(図版 3)
。加えてこの興行は、戦艦富士に乗船した皇太子が清水港に寄港するという、
同月 16 日の行啓とも時期が重なっており23、チラシに記されている「皇太子殿下の御上覽」
の文字も、より大きな宣伝効果を挙げたものと思われる。
ところで興味深いことに、前章で取り上げた二枚のチラシと異なり、このチラシには上
映される作品タイトルが紹介されていない。勿論、このときに若竹座で上映した映画と、
以前に上映した映画が全く重複していたのであれば、これを宣伝しなかったことも理解し
うる。しかしながら、『静岡民友新聞』の記事には、次のような一文がみられる。
図3
昨年六月當市に開演せし寫眞に猶ほ今回新規輸入の大寫眞米國歩兵突貫の圖、米國ス
パーラに於て有名なる角力取ピーター、スピーンの相撲並に米國土人水瓜を食する等
げいしゃ
最も斬新奇抜のものを加へ中入には頗る非常の發音器を以て東京柳橋校■の「サイコ
げいしゃ
ドン/\」から當市兩替町校■の「ホーカイ節」其他市川團十郎の聲色等を聽かせ夫
より種々の活動寫眞を映したる24
こうして実際に、
「新規輸入の大寫眞」が加えられている以上、作品タイトルを紹介する
以上に、宣伝効果のあると考えられた言葉が、新たにチラシへ加えられたと考えるべきだ
ろう。それでは、新しく加えられた表現とは、どのようなものなのだろうか。ここでは、
特に教育との関連から、それを明らかにしていきたい。
まず、「皇太子殿下の御上覽」のあと、映画の観覧者として「九條公西園寺公山縣公西郷
公」が加えられていることに注目したい。駒田が実際に、九条道孝、西園寺公望、山県有
朋、西郷従道の前で映画の上映をおこなったのか、管見の限り不明であるが、こうした表
現は、あとに続く「各聯隊各學校の総覽を蒙りたる」という言葉とともに、映画興行への
権威の付与として機能することになったと思われる。この点に関連して、
「続話駒田好洋巡
業奇聞」は次のように述べている。
(福井の―引用者)加賀屋座へ上つた時の事、學校の生徒に何とかして活動寫眞を見
せやうといふつもり、いろいろ運動したが、當時は一體興行物に「敎育」等といふ字
をかぶせたものは一つもなかつた、だのに駒田氏は、宣傳文句にも「本會は社會風敎
上に注意せり」等と書込んだ位(中略)この時訪問した校長も「活動寫眞」と聞いて
「何だ下らぬからくりか」と云つた、さア駒田氏がこれにこだはつた「畏くも皇太子
殿下(大正天皇)が御上覽になつたものを、下らぬからくりとは怪しからん、縣廰の
學務課へ行つて問題にする」と迄いきまいたので校長平あやまり、交換条件に「生徒
を活動寫眞見物につれていく」との事25
細かな事実の信憑性はともかく、
「皇太子殿下の御上覽」をはじめとした「貴顕紳士貴婦
人」や、「各聯隊各學校」の映画観覧に関する実績が、少なくとも教育に関わる人々の、映
画への認識の向上に、大きな効果を発揮したことは、ここから十分に推測されるだろう。
教育に関わる人々に映画を売り込むため、チラシにおいてこれらの言葉を表記することは、
作品タイトルの紹介よりも重要であったと考えられる26。また、たとえば映写技師として
ダニエル・クロースの名前を加え、説明者である駒田好洋より大きな文字で表記している
点も、映画が西洋の〈文明〉に連なる、教育の装置であることを強調するためであると思
われる。
こうした点を踏まえつつ、再びチラシの文面に着目してみたい。興味深いことに、そこ
に記されている「入塲料」には、一等二〇銭と二等一二銭に加え、1897 年のチラシにはみ
られなかった、
「十二歳以下
各御壹人に付 金八錢」という、子供料金の表記が登場して
いるのである。この点に、地方において子供を映画観客として取り込み、興行の成功をお
さめようとする駒田の意図が表れていると考えられるだろう。
前章で述べた 1897 年の若竹座における興行でも、『中央新聞』は「諸学校の需めに應じ
て出張し非常の喝采を博したり」27と報じており、歩兵連隊の事例と同じく、
「需めに應じ」
という点には留意が必要ながらも、学校を通じた子供の映画観客への働きかけは、早くか
らおこなわれていた。このときの状況について「駒田好洋巡業奇聞」は、
「静岡市内の女學
校、小學校の校員を招待して、一日若竹座に試寫會を開いた」売り込みの結果、「小學校、
女學校の團体見物があつた」28としている。後年の回想ながらも、以下の叙述から判断す
る限り、駒田はこうした方法がもたらす興行への効果を、かなり熟知していたと考えられ
る。
客よせの方法として駒田氏が用ひたのは今日で云ふ兒童映畫それを二十年前も前に使
つたもので題してお伽活動寫眞、子供向きの寫眞を六卷位集め、
「明日初日」といふ前
夜、小學校へ交渉して生徒無料先生もおいで下さいと宣傳する(中略)子供が歸つて
家人に活動の話をする、これが又有力な宣傳にもなるし、第一子供に無料で活動を見
せてくれたといふのが兩親の好意となつて興行に現れて來る譯である29
ここから分かるように、駒田が教育に関わる人々に、映画を売り込もうとしていた理由
は、子供を映画観客として取り込むことで、それが興行そのものへの新しい動員をもたら
すと考えたからであった。そして、このことが成功を収めたからこそ、駒田は更なる映画
への権威づけを重ね、教育に関わる人々へ、映画を売り込むための手段にしていったと考
えられる。そうした点で、1912 年に駒田が『ジゴマ』(1911 年、エクレール社、ヴィクト
ラン・ジャッセ監督)の地方巡業を、教育と結びつけることで成功をおさめた30、その志
向性は、映画草創期における彼の興行から、すでに読みとることができるといえるだろう。
おわりに
これまで論じてきたことをまとめるならば、次のようになるだろう。映画という未知の
メディアへ、どうすれば人々の関心を引きつけることができるのかという、映画草創期の
興行にみられた問題は、彼の回想によれば、地方巡業をはじめた駒田にとっても大きな課
題であった。駒田は、この問題に対して、地域の歩兵連隊に映画を売り込み、その名称を
借りて興行の宣伝をおこなうことで、映画への人々の認識を高めようとした。同様に、皇
太子の映画台覧や、大日本武徳会に関連した映画興行なども、駒田の地方巡業への権威づ
けに利用された。とりわけ、教育に関わる人々に映画を売り込むために、これらの権威は
効力を発揮することとなった。さらに、そうした教育の場との結びつきは、子供やその親
たちを、映画観客として新たに開拓することにつながった。それは、やがて大正初期の「ジ
ゴマ」大流行に大きな役割を果たす、駒田による地方巡業の志向性をも示しているといえ
るだろう。
ところで、このような志向性を保証した、映画への様々な権威づけは、その後どのよう
な展開をたどるのだろうか。本稿でそれを十分に論じる余裕はなく、今後の研究課題とし
たいが、少なくともそれは日露戦争期において、実写映画の真正性を保証する権威に結び
ついていったと考えられる。そして、権威に保証された実写映画は、愛国婦人会や各地の
奉公義会などで、盛んに上映されることとなった31。そこに、映画への権威づけに関する、
新たな政治性への転回が存在したのではないだろうか。
いずれにせよ、本稿で論じてきた草創期映画興行の志向性は、その後の日本映画史の展
開とも密接に結びついているといえる。映画を先験的な娯楽のメディアとみなす視座から
は、決して明らかにしえない映画史が、そこからみえてくるのではないだろうか。
付記 本稿は、早稲田大学演劇博物館「日亜・日欧比較演劇総合研究プロジェクト」
(文部
科学省学術フロンティア推進事業)の助成を受け、2007 年 8 月の同館における調査にもと
づき作成したものである。本稿執筆の機会ならびに、貴重なご助言をいただきました、早
稲田大学演劇博物館助手の碓井みちこ氏と、本稿の着想に関して多くのご意見をいただき
ました、「近代日本における音楽・芸能の再検討」プロジェクト研究(京都市立芸術大学・
日本伝統音楽研究センター)の共同研究者の皆様に、深く御礼申し上げます。
たとえば、
「大吉の浮れ節」(『小樽新聞』1898 年 8 月 16 日)には、「幻燈の説明者頗る
非常氏」という一文がみえ、映画草創期に「頗る非常」の文句で親しまれた駒田好洋を、
「幻燈の説明者」として紹介している。
2 千葉伸夫「”映画”用語の発生と流布の史的プロセス」
『映画史研究』1 号、1973 年春、43
頁
3 たとえば、かの字「中座の活動写真」
(『大阪朝日新聞』1903 年 7 月 16 日)では、
「幻燈
の世界」のなかに映画が輸入され、
「幻燈がすっかり廢つて、活動寫眞の時代になつた」
と、幻燈の延長線上に映画を位置づけている。
4 岩本憲児『幻燈の世紀
映画前夜の視覚文化史』森話社、2002 年、125‐127 頁
5 勿論、初期映画の興行において、教育の言説が導入されることは、日本に限られたもの
ではない。たとえば、米国の巡回興行師であったライマン・H・ハウは、保守的な宗教
コミュニティーにおいて、宗教教育のために映画を上映することもあった(Charles
Musser and Carol Nelson, High-Class Moving Picture: Lyman H. Howe and the
Forgotten Era of Traveling Exhibition 1880-1920, Princeton, Princeton University
Press, 1991, pp.71-79)。
6 同館の所蔵する駒田好洋作成のスクラップブックについては、碓井みちこ氏より存在を
ご教示いただいた。なお、駒田が作成したスクラップブックは、これとは別に群馬県太
田市立新田図書館にも所蔵がある。同館での調査にもとづいた筆者の研究は、拙稿「観
客のとまどい−映画草創期におけるシネマテックの興行をめぐって−」(『アート・リサ
ーチ』7 号、2007 年 3 月、129‐139 頁)を参照のこと。
7 田中純一郎『日本映画発達史』中央公論社、1975 年、38‐66 頁
8 塚田嘉信『日本映画史の研究‐活動写真渡来前後の事情‐』現代書館、1980 年、194‐
208 頁
9 駒田好洋「珍談百出初期の興行法と世相」
『日本映画事業総覧 昭和二年版』国際映画通
信社、1927 年、466 頁
10 静岡県民権百年実行委員会『ドキュメント
静岡の民権』三一書房、1984 年、151 頁
1
塚田前掲書、205 頁、駒田前掲稿、466 頁
駒田前掲稿、466 頁
13 「駒田好洋活動昔噺
四 鹿島清兵衛の功 愈よ日本物製作」(『都新聞』1925 年 1 月
20 日)には、次のような記述がみられる。
11
12
マ
マ
翌三十一年の春から東海道を順に興行してゆく事になつた。此興行は勿論大成功で
はあつたが共通な現象は何處も初日が不の字だつた事だ、それは「活動寫眞」とい
ふ物を全く理解しなかつた爲で従つて初めてこれを見た人の驚きは全く、想像出來
ない程であつた、(中略)映写中楽屋でガサ/\といふ音がする、見ると幕の裏で手
品をするのだといきり立つた工夫が二十名程獲物を携えて頑張つてゐたといふ嘘の
樣な珍談もあつた
14 「広目屋のヴアイタスコープ」
(『中央新聞』1897 年 6 月 24 日)
、塚田前掲書、214 頁。
15 「駒田好洋巡業奇聞(3)
扨てその次は静岡へ」
『都新聞』1926 年 5 月 6 日
16 「駒田好洋巡業奇聞(4)
権利問題から泥棒騒ぎ」『都新聞』1926 年 5 月 7 日
17 1897 年の駒田は、静岡を去った後、京都の常盤座で7月 13 日から開演する(塚田前掲
書、207 頁)まで、彼の回想によれば、豊橋、浜松、名古屋で興行しており(注 15、お
よび「駒田好洋巡業奇聞(5) 百台の人力車で乗り込み」
『都新聞』1926 年 5 月 8 日)
、
その頃のチラシと推察される。
18 「武徳祭」
(『京都京都日出新聞』1899 年 5 月 5 日)。ちなみに、コンスタン・ジレルが
1897 年に撮影した『日本の剣士 Lutteurs japonais』『日本の剣術 Escrime au sabre
japonais』
(リュミエール社)は、第三回武徳祭で写されたものとされている(塚田嘉信
『映画資料発掘 12 ジレールと「明治の日本」をめぐって』私家版、1973 年 12 月、286
‐289 頁)
。
19 広告「於祇園館
活動大写真会」
(『京都日出新聞』1899 年 5 月 2 日)。なお『大阪毎日
新聞』1899 年 5 月 3 日掲載の広告にも、ほぼ同一の文章がみられる。
20 「活動写真」
『京都日出新聞』1899 年 5 月 7 日
21 「京都興行物」
『大阪朝日新聞』1899 年 5 月 5 日
22 「活動大写真」
『静岡民友新聞』1899 年 5 月 16 日
23 「東宮殿下(清水港御回航)
」『静岡民友新聞』1899 年 5 月 11 日
24 注 22 に同じ。
25 「続話駒田好洋巡業奇聞(52)
平あやまりの校長先生」『都新聞』1926 年 11 月 8 日
26 なおチラシのなかで、作品タイトルの紹介に代わって、新たに加えられた表現として、
「餘興として」の「大聲發音機」に言及しておきたい。この演目は、チラシによれば「東
ママ
京吉原京都祗園町大坂南地名古屋新地及當静岡市有名なる藝妓の妙曲美音」であった。
先に引用した『静岡民友新聞』の記事(注 23 を参照)では、この「頗る非常の發音器」
を映画上映の「中入」に上演したと記しており、芸妓の音曲が、映画上映をつなぐ演目
として機能していたことは興味深い。このことは、若竹座での興行の直後、同年 6 月 13
日の本郷中央会堂における駒田の興行に、
「日本画」である「芸妓の手踊」が登場した(塚
田嘉信『映画史料発掘 10 明治 32 年 東京における活動写真』私家版、1974 年 2 月、
301‐303 頁)ことと、奇妙な相関を示しているといえるのではないだろうか。
27 注 13 に同じ。
28 注 15 に同じ。
29 「駒田好洋巡業奇聞(101)
鹿児島入りの山越え」『都新聞』1926 年 8 月 12 日
30 永嶺重敏『怪盗ジゴマと活動写真の時代』新潮社、2006 年、78‐92 頁
31 日露戦争期の愛国婦人会による映画上映については、拙稿「初期愛国婦人会と映画‐日
露戦争期の地方遊説活動を中心に‐」(『日本思想史研究会会報』24 号、2006 年、pp.5
‐21)を参照のこと。
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