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宗教改革期アントウェルベンの印刷業をめぐる一考察 一プランタン印刷

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宗教改革期アントウェルベンの印刷業をめぐる一考察 一プランタン印刷
文学研究論集
第20号 2004.2
宗教改革期アントウェルペンの印刷業をめぐる一考察
プランタソ印刷工房を事例に
Printing in Antwerp of the Reformation Period
−ACase of the Plantin Press
博士前期課程 史学専攻 2002年3月修了
本 間 美 奈
HONMA Mima
はじめに
16世紀のアソトウェルペンは国際商業都市として繁栄し,絵画や文学など文化面での隆盛を誇っ
た。なかでも活版印刷業の興隆は目覚しく,その規模は16世紀初頭には飛躍的に拡大した1。アント
ウェルペンの商業的繁栄は外国人の商業活動に大きく依存しており2,その結果,人や物の活発な往
来とともにもたらされる様々な思想に対して,この地は開放的な性格をもつに至った。アントウェル
ペンは,内外の知識人たちの交流点であり,他方で,印刷職人や資材,運営資金の確保など工房運営
の面からも,印刷出版業に必要な条件を具えていた。こうした好条件に惹かれ,アントウェルペンに
は国内・国外から活動の場を求めて多数の印刷出版業者がやってきたが,本稿で考察の対象とするク
リストフ・プランタン(ca.1520−1589)もそうした者の一人であった。彼はフランスから移住して
きて1550年にアソトウェルペン市民となり,1555年に印刷業者としての活動を開始した。1555年か
ら彼が世を去る1589年の間に出した出版物は2000点以上にのぼる。これは当時の出版社の量的水準
をはるかに上回る分量である3。
本稿は宗教改革の影響を強く受けたアントウェルペンにおいて印刷出版業がこの時期どのような展
開を示したのかを,プラソタソ工房を具体例として探ろうとするものである。プランタソは工房を運
営する中で様々な相手と手紙で用件をやりとりしているが,これらの手紙は代々の工房後継者たちに
よって保管されてきた。同工房は19世紀半ばまで活動を続けてきたが,同世紀後半にアントウェル
ペン市に移譲されて「プランタソ・モレトゥス印刷博物館」として開館された。プラソタンがスペイ
ソ王室関係者や政治家,高位聖職者,宗教家や思想家を含む多数の人間と取り交わした手紙類は,多
論文受付日 2003年10月2日 掲載決定日 2003年11月19日
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くの人々の関心をひき,最初にプランタソの伝記を著した初代博物館長のM.ルースは,工房に保存
されていた書簡を集成して註釈を付して刊行した4。その後,他所に保存されていたプランタソ関係
の手紙も収集され,補遺として出版されている5。本稿では,第一章で,これらの手紙を主な史料と
して,プランタン工房の活動全般を,16世紀の政治的状況と対照させながら概観する。第二章で
は,皇帝の勅令や都市の条例を分析する事から,出版規制をめぐる政府と都市の姿勢が,プランタン
工房にどのような影響を与えたのかを検討する。そして第三章では,プラソタンと親交のあった「愛
の家族」の関係者との往復書簡を主な史料として,プラソタソの信仰に対する姿勢を考察する。この
ことは,第一章,第二章でみた彼の印刷出版活動とその信仰に対する姿勢との関係,いわばプラソタ
ソという一人の市民がもったこの時代に対する見方を引き出し,ひいては,16世紀アソトウェルペ
ンの市民の信仰に対する姿勢を捉える糸口になるとも思われる。
1 16世紀低地地方の政治状況とプランタン工房
16世紀の低地地方では,宗教改革の動きと相まって印刷出版業をめぐる問題が各地で発生してい
た。為政老にとって印刷出版業は,改革思想という「異端思想」を撒き散らすものとして常に警戒す
べき存在であった。低地地方を統一した神聖ローマ皇帝カール5世が,多くの厳しい異端取締りの
勅令を公布したのは,この故であった。なかんずく,アソトウェルペソは国際的商都として厳格な思
想取締りとは馴染まない性格をもっており,しかも,ヨーロッパ規模での有力な出版地であったた
め,政府にとって看過できない都市であった。プランタンの活動期である16世紀後半には低地地方
にカルヴァン主義が広く浸透していき,政府は書籍業を厳しく規制する「1550年勅令」を公布する
に至った。「1550年勅令」は,印刷出版・書籍販売を始めとする書籍業に関する業務全般と,読書・
教育や集会といった思想活動全般を規制する目的をもつもので,政府によって異端書とみなされた書
籍類の売買・所持・読書を禁じ,勅令違反老を極刑に処すことを定めた6。1555年,カール5世の後
を継いでフェリペ2世が低地地方の統治権を握ると,「1550年勅令」を厳格に執行する姿勢を表明し,
政府は各州議会や都市に勅令の厳格な実施と,違反者の仮借ない取締りを命じたのである。だが政府
が同勅令を執行させようとすればするほど,州議会や諸都市の抵抗は強いものとなった。こうした状
況は,商業振興を阻害する要素を極力排除しようとするアントウェルペン市においては顕著であった。
ところで,カール5世は確かにプロテスタントを弾圧したが,彼自身が低地地方(ヘソト)出身
でもあり,「ガン(ヘント)のカルロス」と呼ばれたようにいわば土地の人間として,低地地方の慣
習や慣行を理解し,低地地方の貴族や官職保持者といった在地の支配層の既得権益に配慮していた。
なによりも皇帝にとって,アソトウェルペン市の金融界の資金なくしては,対仏戦争の継続すら危ぶ
まれる状態であったから,自らアントウェルペン市の商業的繁栄を阻むような措置はとらなかったの
である。だが宗主権がフェリペ2世に移ると事態は全く変化する。フェリペ2世はスペイン王宮で
育ったため低地地方の事情に疎く,この地にスペイン的な絶対王政をもち込もうとした。宗教問題に
関しても,王はカトリック以外の信仰を完全に否定していたために,低地地方に定着しつつあった諸
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宗派との対話の可能性は全く閉ざされてしまったのである。1559年,王は低地地方を後にし,王の
代理としての執政職に任命されたパルマ公妃マルハレータがこの任を継承した。
1566年,折から政府の宗教政策に不満を抱いていた下級貴族が,異端審問の撤廃を求めて政庁に
大挙して押し寄せた。政府側が一時的な譲歩を余儀なくされたことから,カルヴァソ派は公けに活動
を始めた。1566年は,この後の低地地方の反乱への導火線となった年として「奇跡の年」と呼ばれ
る7。だが早くも翌1567年には,勢いづいたカルヴァン派の過激な行動を抑えるために,逆に低地地
方に未曾有の弾圧政策が敷かれることとなった。執政職は在地支配層の既得権益を考慮するマルハ
レータから,スペイン宮廷内の強硬派たるアルバ公に移り,同時にアルバ公を議長に頂く特別裁判機
関である騒擾評議会が新設された。騒擾評議会は,1566年4月から1567年4月にかけて低地地方各
地で起こった聖縁破壊といったプロテスタソトの活動や反政府運動などにかかわった叛徒を検挙し,
裁くことを目的とし,多数の者が検挙・処刑された。さらに1568年になると,「学校教師・印刷業
者・書籍業者・叛徒やプロテスタント運動の指導者」を特定して裁くことになった8。騒擾評議会は,
低地地方の従来の訴訟手続を必要としない,スペイン政府に直結した特別法廷であり,この政府の強
硬な弾圧に対し,大貴族や下級貴族をはじめ低地地方の様々な身分の老が激しく反発した。この反発
は,カルヴァソ主義の伸長という信仰世界の問題を,スペイソ政府の圧政に対する反乱へと発展させ
ていくこととなった。
以下でプランタンの出版活動を時代を追ってみてゆくことにするが,その場合,1576年「ヘソト
の和平」成立の年を境として二つの時期に分けて考察したい。「ヘントの和平」は低地地方のカトリ
ックとプロテスタントが宗派の違いを超えて,一致団結してスペイソ軍の撤退を要求するための協約
であり,騒擾評議会はこの1576年に廃止され,異端の取締りは従来の慣習に従って都市法廷に委ね
られた。プラソタンの活動前半期はスペイン政府による改革派弾圧期と重なり,他方,活動後期は低
地地方がスペイソ王に対する抵抗の姿勢を鮮明にした時期と対応する。プラソタソはこの1576年を
境に,スペイソ王側と反乱側との間に立ってバランスを取る事を余儀なくされていくのであるが,彼
が工房を運営するに際して,こうした政治状況にどのように対処していったのかを考察していくこと
とする。
1 活動前期(1555年∼1576年)
(1)1567年:カルヴァン派共同経営者の離脱
プラソタンはアントウェルペンに移住してから数年間,製本・革小物職人として身を立てており,
この時期すでにアソトウェルペソ市役人やスペイン王の秘書G.サヤスなどから仕事を請け負ってい
た。印刷出版業者として活動を開始するのは1555年になってである。プラソタソは生涯,自身をカ
トリックであると明言し続けているが,印刷出版を開始した時以来,様々な思想的立場の者と関わり
をもっている。彼が活動の当初から神秘主義セクトの書籍を印刷したことについては後の章で述べる
ことにして,ここではプランタソとスペイン政府,カトリック勢力,およびカルヴァン派との関係に
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焦点を当ててゆきたい。
1566年「奇跡の年」には上述のように政府が異端取締りに関して譲歩をみせた。そしてアソトウ
ェルペソではオラニエ公ウィレムの調停によって,制限された形ではあるがカルヴァソ派・ルター派
にも市内での説教を認める協定が政府と彼らの間で結ばれた。こうした情勢に勢いづいたカルヴァン
派は,同年8月にアントウェルペンにおいて聖像破壊の暴動を引き起こすに至った9。プランタソは
この時期コルネリス・ファン・ボンベルヘンと彼の従弟カレル・ファソ・ボンベルヘソをはじめとす
るカルヴァン派を工房の共同経営者としていたことから,1567年以降の政府による弾圧には警戒せ
さるを得なかった。市内での説教を認可した上述の協定が結ばれた際,カルヴァン派の代表者として
コルネリス・ファン・ボンベルヘソとカレル・ファン・ボソベルヘンが交渉に当たっていることから,
2人はアントウェルペンのカルヴァソ派教会の重要人物でもあったことが窺われる。この時期のプラ
ンタンの対応は,宗教改革に対する印刷業者の姿勢の一つのかたちをみせてくれる。まず共同経営者
たちの行動をみると,1567年初頭,弾圧から逃れる為にコルネリスとカレルはプラソタソとの共同
事業から撤退し低地地方を離れ10,更には彼らの後に参画していた同じくカルヴァン派のフェルナン
ド・デ・ベルヌイも,同年夏プラソタン工房から資金を引き上げて去った。1567年4月,残された
プラソタソはスペイソ王の秘書であるサヤスへの手紙で,この1566年のアントウェルペンの騒擾に
ついて触れ「陛下の御意志と公共の安寧に反して,敢えて新奇な事を導入しようと考える厚かましい
人々の集団から,この高貴なる都市が大いに浄化されたことを見まして,私は嬉しく思います」11と,
カルヴァン派による騒乱を疎ましいものと述べている。更に同年8月,同じくサヤスに,カトリッ
ク信仰を疑われるごとき共同経営者とは関係を断ち切った12,と記して自らの信仰がカトリックであ
ることを強調しているのである。
ここからプラソタソとカルヴァソ派の共同経営者との関係をどのようにみることができるのか。こ
の点に関連して注目すべき点は,共同事業の続く5年間に,プランタン工房からカルヴァソ派によ
る著作は印刷されなかったことである。ファソ・ボンベルヘソらはあくまで投資先として印刷業に関
わったようである。市内での説教を公認した上述の協定の成立に,当のファン・ボソベルヘン家の2
人が関わっており,更に「奇跡の年」にアントウェルペンで改革派文書の出版が非常に盛んになって
いる点を考え合わせると13,カルヴァン主義の共同経営者たちとプランタソの態度は非常に慎重であ
ると言える。つまり,彼らは市内で改革派文書の出版が活発になっているという状況を利用して,カ
ルヴァン主義的な文書を出版するという行動にはでていないのである。
他方で,プランタンはセイヤスに対する手紙の中でカルヴァソ派に対して否定的な見方をしている
が,その唯一の理由は彼らが騒擾を引き起こすから,というものであった。プランタンはカルヴァン
派による社会的・政治的秩序を乱す行動に対して非難することで,自分が政府に疑惑の目で見られる
ような事態を回避しようとしているのであって,本心から事業の協力者の信仰まで問題にしているわ
けではない。そのことは,プランタンがスペイン側に対しては,共同経営者の信仰がカトリックでな
かったゆえに関係を断ったと表明する一方で,その後もコルネリス・ファン・ボンベルヘンとの交流
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を続けていたことにも表れていよう14。例えば9年後の1576年,スペイン兵によるアントウェルペン
略奪で工房が危機に瀕した際に,プラソタンはケルンにいたコルネリスから9600フロリンもの資金
貸与という助力を得ることができた。クレールは,プラソタンが生涯一貫して政治的な事柄に興味を
持たず,人文主義的印刷業者として宗派を問わず当時の重要な人々と親密な関係を築いたと述べてい
るが15,コルネリスらとの関係もそうした見方を裏付けるものと言ってよいだろう。だが,政府の厳
しい取締りの中で,何故プランタソはこのような関係を維持できたのであろうか。まずは,彼が有力
老から仕事を受注し,同時に彼らを後ろ盾にしてしまう術に長けていたことが指摘される。次に述べ
るスペイン王やローマ教皇との関係は,そのことを明確に示していよう。
(2)プランタンとスペイン王,およびローマ教皇庁との関係
政府によるカルヴァン派弾圧が開始されたまさにこの時期に,プランタンはスペイソ王とローマ教
皇庁といった権威によって特別な恩恵を得る事に成功している。多言語聖書(ヘブライ語・アラム
語・ギリシア語・ラテン語・シリア語)16と改訂版教会用書籍の印刷は,プランタン工房の規模を拡
大するのに最も貢献した仕事であった。多言語聖書出版は,人文主義的学問の成果を集成して原典を
正確に理解し,注解をほどこすという,当時の学術出版の最高峰とも言える事業であった。王の秘書
である前述のサヤスを仲立ちとして17,1568年3月,プラソタソはスペ・fン王からこの事業のための
財政援助の約束をとりつけ,多言語聖書出版は学術出版者としてのプランタンの名声を高めることと
なった。
他方,改訂版教会用書籍の印刷の事業は,トリエント公会議において全カトリック教会で使用され
る礼拝用書籍を改訂するという決定がなされ,1568年,教皇ピウス5世が聖務日課書の刷新を命じ
たことに始まった。その部数は多大なものとなるはずであった。この件に関して助力を与えたのは,
プランタソと書籍納入や製本を通じて交流があったグランヴェル枢機卿であった。ローマの印刷業老
に出版独占権が与えられる動きを察知したプランタンは巨大な市場が開けたことを見て取り,即座に
この事業に参加する手立てを工作した18。そして教皇がローマの印刷業者に独占権を与える9ヶ月も
前に,当のローマの印刷業者との間で,低地地方における聖務日課書印刷の独占権を譲り受けるとい
う合意を取りつけ,低地地方の教会で使用する聖務日課書の改訂版は,全てプラソタソ工房で印刷さ
れることとなった。しかも聖務日課書のみに留まらず,プラソタソはこれを皮切りに,ミサ典礼書,
時薦書等の改訂版教会用書籍の印刷特許をも受け,更にはスペイソ向けの改訂版教会用書籍印刷の特
許をも取得している19。1571年,スペイソ王はプランタンにスペイソと海外領土向けの聖務日課書と
ミサ典礼書印刷の独占権を与え,教皇はこの取り決めを認可した。この仕事の受注に関しては,多国
語聖書印刷の際に協力した王付き司祭A.モンタヌスがプランタソの便宜の為に動いている。1571年
から1576年の間に,プランタンは王に対し総額100,000フロリン分の礼拝用書籍を送った20。
これらの受注の経緯から分かるように,プランタンは素早く状況を把握し,有力者から助力を得る
ことで工房の地位を確立していった。前述のようにプランタンは,カルヴァン派の共同経営者たちと
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の関係について政府から疑惑の目を向けられないようにする必要があった。最も警戒を要する時期に
おいて,王や教皇庁という権威の後ろ盾を得ることは,工房の利益を確保すると同時に身の安全の保
証にもなった。だが王に恩義を負った経緯から,プランタンはこの時期新たに創られた低地地方の印
刷職検定官Prototypographeに任命されることになった。同職は政府の出版業取締りの一環として設
置されたが21,検定官の任務は印刷業者の技術・能力を判定するに留まらない。認可を求める印刷業
者は印刷職検定官に対し,自らの信仰の正しさに関しては教区長か助任司祭あるいは異端審問官の証
明書を,そして素行に関しては居住地の市参事会の証明書を呈示せねばならなかった22。そうするこ
とで印刷職検定官の制度には信仰・素行に問題のある者を排除できるという狙いがあった。
(3)印刷職検定官としてのプランタンー規制か恩恵か一
プランタンは実際にどのような人物に対して認定証を出したのであろうか。ここから彼の異端問題
に対する姿勢の一端を垣間見ることができる。彼は,1570年から76年までに62名を認定している。
注目すべき点は,たとえ異端著作印刷の廉で起訴された印刷業者でも,印刷職検定官たるプランタン
の認可を受ける事ができたことである。ウィレム・ファン・パレイス23,ヤン・ファン・ヴァースベ
ルフ24,ウィリアム・ファン・コッペンス・ディスト25は,執政が都市に調査を命じて起訴された場
合を含め,禁書印刷容疑でアソトウェルペンの都市法廷に召喚されている。しかし,都市法廷はこれ
ら3名に無罪を判決しており,ここから都市法廷は「1550年勅令」を無批判に適用することを避け
たとみられる。そしてプランタンは一度は嫌疑をかけられた彼らに対しても認定証を発行した26。更
に,こうした無罪判決を受けた者の他にも,追放刑にあった者が帰還した際や,有罪判決を受けた者
の家族に対しても認定証を発行している27。結果的に,不適切な人物が印刷業に就くことを防止しよ
うとする政府の思惑を離れて,彼らが釈放後も公的な立場において不利益を被ることなく印刷活動を
再開できることを保障したと言えよう。このようにみてくると,印刷職検定官の職は政府の取締り政
策を代行する反面,印刷業者達の利益を図ることも可能であったと言える。
また,信仰に関する取締りという観点からも,この検定官の機能の有効性は疑わしい。プランタン
自身,カトリック信仰を表明している反面,その他の宗派の老との取引・交流を間断なく続けている
ことから,それほど厳密な認定は行なわれなかった可能性も強い。同業者の利益を損なうような人物
でない限り,認定を申請してきた印刷業者には認定証を付与していたと思われる28。プランタソは,
王と教皇庁から自らの便宜を図ってもらった経緯によって,政府の出版業規制に参与したものの,出
版業の活動への配慮を出来る限り重要視したとみられる。
2 活動後期(1576年∼1589年)
(1)反スペイン体制下のアントウェルペン
1576年11月4日から3日間,給与の支払いを求めて暴徒と化したスペイソ兵が都市へ流入したこ
とにより,アントウェルペンは「スペイソの狂暴」と呼ばれる略奪の惨事に見舞われた29。「スペイ
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ンの狂暴」事件は低地地方全土に衝撃を与え,カトリックとプロテスタントという宗派の違いを越
え,一致団結してスペイン軍の撤退を要求するためのヘントの和平(1576年)が,南部諸州と反乱
州との間で成立した。プラソタソは,戦時における工房運営上の困難と直面しただけではなく,スペ
イン王に対する反乱という新しい状況の中で,自分の庇護者が数多く存在するスペイン側との対応に
も,心を砕かねばならなかった。低地地方の全国議会は,以前のような王の諮問機関としての役割か
ら実際に政治を行なう機関へと移行し30,スペイン政府への不服従の姿勢を表明したからである。
1573年から1576年にかけては,多言語聖書印刷の最終段階であり,膨大な量の改訂版教会用書籍
がスペインに向けて送られた31。しかし工房は略奪によって多大な被害を蒙り,戦時状況下によるス
ペ・イソ王の支払い停止から生じた負債を抱え込んだ。プランタンは工房再建のために,確実な収入を
見込める仕事をもとめて,様々な権力者や公的機関に便宜を図ってもらうべく請願を繰り返した。
まず,1578年5月には「全国議会の印刷人」に32,同年末には,アソトウェルペソ市参事会に対し
て公式印刷人に任命されるように申し出た33。これらの反乱勢力による公式印刷人への任命に際し,
プランタンはスペイソ王付き司祭であるモンタヌスに「その間,自分の婿達は私の名において,生活
の方法を得る為に,[時代の]舵を取っている人々から命じられたものを可能な限り,印刷すること
を強いられました。」34と,自分達の工房がそうした処置を取らざるを得ないことを釈明している。
プランタソがとったこのような工房再生の手段は,印刷する書籍の内容にも影響を与えずにはおか
なかった。全国議会やアントウェルペン市参事会との関係は,フェリペ2世を攻撃する文書の印刷
をプランタンに強いる結果となったからである。そうしたもののうち,極めて攻撃的な文書には,プ
ランタンは自分の名を載せることを避け,カルヴァン派であった義理の息子や工房の職人,親戚の名
を載せている35。またこの時期に,プランタソは著名なフラソス人カルヴァン派であり,アンリ・
ド・ナヴァール(後のフランス王アソリ4世)の腹心であるフィリップ・ド・モルネの『キリスト
教の真理について』1)e la V6rite de la religion chrestienne36を印刷している。ここに至ってプランタン
は明白な反スペイン文書を印刷したことになる。
(2)レイデン工房
「スペインの狂暴」に続いてアンジュー公の軍隊による掠奪事件「フランスの狂暴」が1583年に起
こるなど,アソトウェルペンをめぐる情勢はその後も一向に沈静化しなかった。1583年1月,プラ
ンタンはアソトウェルペンの工房を義理の息子達に任せ,自分はカルヴァン派が勢力をもつ都市レイ
デンへ赴いた。プランタソ自身は移住の動機として,人文主義者でレイデン大学教授のユストゥス・
リプシウスが,プランタンにレイデソ大学の公式印刷人になるように勧めたことと,自己の健康上の
理由を挙げている37。だが,プラソタンのレイデソ移住は,以前からプランタンを庇護していたスペ
イン・カトリックの人々を驚かせ,彼らはプランタンの真意を質してきた。プランタソはリエージュ
司祭(後のアソトウェルペン司教)であるリヴィヌス・トレンティウスに対して,自分はローマ・カ
トリックであり続け,カルヴァソ派の牙城レイデンにあっても中立的な著作を印刷することを約束し
一135一
た38。レイデンでも宗教的・政治的に中立な著作が出版物の大半を占めてはいたが39,実際には『ポ
ルトガル王アソトニオ1世殿下が,カスティーリア王フェリペに対して王位を奪回するために行っ
た戦争に関する,真正かつ正当な権利の弁明』ExPlanatio veri ac legitimi juris, quo serenissimzes Lu・
sitaniae reXIAntonius el’us nominis Primus nititzar, ad bellum PhilipPo regi Castellae Pro regni recuPeratione
inferendum40といったフェリペ2世に対する非難文書なども出版されている。プラソタンはサヤスに
対し,先のポルトガル王子の庶子アソトニオが,フェリペ2世に対しポルトガル王位への要求を正
当化した,このような文書の印刷を行なったことに関して弁解の必要を感じ,自分は平身低頭して出
版を拒否したのだがアソトニオ側は「出版させる旨の命令と許可を得るためホラント州議会へ訴
え」41たのだと弁解し,続けて,レイデンでも自分がカトリックであり続けていることを強調してい
る42。この件に限らず,プラソタンの申し開きの常套手段は「強いられた」ことを強く訴えることで
あり,それによって相手の疑念や叱責を回避した。
オワユーは,プランタソがレイデンへ赴いた理由について,プランタンがカルヴァン派に共感を抱
いており,レイデソでスペイン・カトリックへの反逆に当たる内容の書籍を印刷するつもりであった
からだと述べている43。しかしながらこの見解は,やや一面的すぎるきらいがないだろうか。何故な
らば,1577年以降アントウェルペンでもカルヴァン派が公に活動できるようになり,同地はプロテ
スタント文書の出版地になっているからである。反スペイン・反カトリックの文書を印刷するつもり
であれば,アントウェルペンでも十分可能であっただろう。宗教弾圧を避けて他都市へ移っていた,
改革信条に強くつき動かされた印刷業者たちがアントウェルペンへ戻ってきたことで,活発な出版活
動を行っていた者の半数以上はプロテスタントであったとまで言われている44。ところが逆に,プラ
ンタンがレイデンからアントウェルペンへ戻ったのは1585年,一年間の抗戦の末,スペイン軍によ
ってアントウェルペンが陥落した直後であった。ここに働いているのは,アントウェルペソが最も印
刷業に適した都市だというプランタンの強い認識であったと思われる。
以上,プラソタンの活動を概観すると,一方で反乱体制に順応し,他方でスペイン・カトリックと
良好な関係を保ち続け,カトリック勢力に対して申し開きの出来る範囲で,反乱体制からも利潤を引
き出そうと努めている。彼は出版という取引の世界にあって,利益を貧欲に追求しつつも,宗教的・
政治的に敵を作らないよう慎重に行動した45。スペイン政府による厳しい異端取締りがなされる中に
あって,彼自身は表面上は同政府に従順に印刷活動を行っていた。だがプラソタソの共同経営者との
関係や印刷職検定官の職務からみると,仕事仲間の信仰が政府の目から見てカトリックではないとさ
れた場合にも,彼はそれを本心から問題視しているわけではない。プランタンがアントウェルペソに
こだわった理由は,このような多様な関係を許す環境,すなわちプランタンもそこから無形の援助を
受けたであろう,この都市が示す商業一般に対する現実的な,かつ寛容な配慮によるものではないだ
ろうか。この点を次に,印刷規制をめぐる都市の姿勢を中心に考えてゆきたい。
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皿 プランタン工房に対する出版規制
本章ではプランタンの活動前期に行われた彼の工房に対する出版規制に注目し,これをめぐる政府
と都市の姿勢を明らかにしたい。独立的気風の強い低地地方の諸都市の中でも,アントウェルペンは
代々君主から承認されてきた都市特権を堅持する姿勢を強くもっていた。政府は自らの施策を都市に
徹底させるべく市長官を任命する権限をもっていたが,実際には長官は在地の有力貴族層から選ばれ
ていた46。犯人逮捕は市長官の管轄であり,その後,市民が裁かれるのは都市法廷であったことか
ら,政府は自らの宗教政策が推進されていない場合には,都市当局に介入を繰り返さざるを得なかっ
た47。アソトウェルペン以外の諸都市でも勅令に基づいた取締りが命じられているものの,これは字
義通りには執行されてはいない48。加えて各州議会も,異端書とみなされた書籍類の売買・所持・読
書のみでも死刑に処すことを明言した勅令の内容には不満を表明していたのである49。
1 1562年プランタン工房捜査
1562年2月,工房はカルヴァン派パンフレット印刷容疑で捜査を受けた。プラソタンの留守中
に,彼の工房の職人3名が密かに『祈祷簡易手引』Briefve instruction Pour PriempOを印刷したとの通報
がブリュッセル政府に入ったのである。執政マルハレータの命により,工房はアソトウェルペン市長
官ヤソ・ファン・インメルセールの捜査を受け,この職人3名は禁書印刷の廉で逮捕され,罪状を
認めた。プラソタソはそれには直接関与していなかったとみられるが,工房親方が職人の行動に対し
て責任を追求されることは間違いなかった。そのため工房の捜査中,パリにいたプラソタソは家族を
呼び寄せ,同地でしばらく進退をうかがっていた。
ここで注目されるのは,執政と市長官がこの処置に関して意見が対立していることである。まず,
5月12日に執政は市長官に対して「勅令23条によって,印刷人親方は自分の所の職人に対して責任を
負う事が規定されているが故に,その事に関して,陛下の勅令に則した見せしめの懲罰を執行する事
も適切であろうと思われる。印刷人クリストフ・プランタソとその妻,家族が,信仰に関して全く正
統ではないとみられることから,彼の家の経営を破綻させることが必要であろう。おそらく,そのこ
とに関して,この印刷工房の校正係と読み上げ係を尋問する必要がある。」51と求あたのである。
これに対して市長官は,この事件が,逮捕された職人の叔父によって教唆されたものであることを
突き止めたものの,「プランタンの家族の行動に関しては,私はなんらかの疑わしい点があると聴取
するには至りませんでした。プランタンは現在まだパリにおり,当地で,ある訴訟を願い出ていま
す。このような事情から,(恐れながら)勅令23条に従って彼に対し要求することは,彼が不在とい
うこともあって,私には不可能と思われます。」52と,執政の要求を退けたのである。ヴートは,この
都市の姿勢について,密告者がアントウェルペソ当局にではなくブリュッセル政府に通報している点
をとりあげて,アントウェルペン都市当局が政府の異端取締り勅令(1550年勅令)の遂行に熱心で
はないことを指摘している53。
一137一
「1550年勅令」遂行に対するアソトウェルペソ市の関心の低さについては,5年後の1567年8月,
前章で述べたコッペンス・ファソ・ディストらが54,スペインの異端審問に対する憎悪を掻き立てる
ような内容をもつ文書を印刷した廉で逮捕された件に関しても指摘される。この時,執政マルハレー
タは市長官ファン・インメルセールに対し,フランドル評議会の裁判官であるヤコブ・ヘッセルスを
彼らの尋問に参加させる為にアソトウェルペソへ派遣することを主張した。マルネフは,この執政の
指示からアソトウェルペソの指導層に対する政府の不信感を見てとっている55。市長官の名が1567年
政府作成のカルヴァン派取締り台帳に記載されていたことからも56,フェリペ2世と執政は,市長官
が取締りにあたる政府の役人として適任ではないと認識していたとみられる57。ファン・イソメル
セールが市の行政の最高責任者であることは,アントウェルペンにおいて政府の宗教政策を推進する
ための障害であった。
プランタン工房の事件に戻ろう。プラソタン不在のまま,執政と市長官の間でやり取りが行われて
いた1562年4月,プランタン工房の債権所有者が工房の資材競売を申し立て,売上げから資金を回
収した。この2名の債権者のうち,1人がアソトウェルペソのカルヴァン教会に属する前述のコルネ
リス・ファン・ボンベルヘンであった。債権者の申し立てによる工房資材の競売という法的措置がと
られたことは,職人によって引き起こされた事件に巻き込まれたプランタンにとって好都合であっ
た。何故ならば,工房親方としての責任を問われ,勅令違反の廉による財産の没収が回避される結果
となったからである。そしてこの直後に,今度はこのコルネリスが中心となって共同出資者を募り,
プランタンは彼らの財政援助を受ける形で合資会社の結成に参加し,アントウェルペンへ戻って印刷
活動を再開したのである。プランタンがパリでの長期滞在中に密かにアントウェルペンに一時的に戻
ったことや58,1年半もの間パリに留まり完全に危険が去った後に帰還したことなどを考えると,プ
ラソタンと共同経営者間で事態の打開についてあらかじめ何らかの合意があったものと考えられる。
更に,アントウェルペンの市役人はプランタンがアントウェルペソに戻ると,工房競売で得られた資
金から債権者に支払いを済ませた残金をプランタンに返還している。こうしてプラソタソは,政府か
ら疑惑の目を向けられる一方で,市長官やアントウェルペンのカルヴァソ派教会の人間からは有利な
処遇を受け,次の段階への飛躍を可能にするような機会を手にしたのである。
2 詩篇印刷
カルヴァン派文書といった明白な反体制的文書の印刷でなくとも,政府から出版差し止め命令が下
る場合があった。1564年,プランタソは規定の印刷許可を得たにもかかわらず,執政の命によって
『詩篇歌集』Pseaumes de David 59の廃棄を命じられている。同年11月30日に執政マルハレータからフ
ェリペ2世に出された手紙によれば,プランタンは「セクト主義者らがいつも歌っているような様
式による,歌と各詩についての注解からなる,ワロン語訳ダヴィデの詩篇のパンフレット」60を印刷
した。だがそれは,既にブラーバント州議会の許可を受けており,聖ニクラエス教会の司祭による検
査済みのものであった。しかし執政は,カルヴァン派が同パソフレットを使用していることを理由
一138一
に,これが勅令に反しているとブラーバントの尚書を叱責し,プランタンに対し同パンフレットの印
刷・頒布を禁じ,印刷された全部数を焼却させるよう命じた。更に執政は,聖ニクラエスの司祭が同
パソフレットの翻訳中に異端的な部分は見られないと言うのであれば,それをレウヴェソ大学神学部
に点検させると言い渡した。
この経緯からも分かるように,プラソタソが内容的には異端的とは見なされない書籍を然るべき手
続きを踏んで出版しようとしても,それが政府から異端的と見なされる使い方をされていれば出版差
し止めを命じられている。他方,教会も州議会も,執政から廃棄を命じられたこのプランタン印刷の
詩篇を禁書ではないという見解をとっており,その結果,印刷業をめぐって,政府は上述のような命
令を繰り返し出さざるを得なかったのである。
3 1567年書籍業取締り
1566年から67年にかけての「奇跡の年」を通じて,政府は,プロテスタント思想の伝播に図像も
含む印刷物が強い影響力をもっていることを改めて認識せざるを得なかった61。そして1567年以降,
反乱軍に利するような活動をした印刷工房の閉鎖を指示した。例えば都市ヴィアネソの場合には,政
府は同都市制圧の後に,扇動的文書を印刷・販売していた印刷業者を逮捕するように軍に命じてい
る62。その結果執政は騒擾の収拾に一応の成果を収めた。
他面,執政マルハレータは,アントウェルペンのような都市の商業的繁栄を妨げることが得策でな
いことも認識していた63。1567年のこの時点では,執政は低地地方の在地指導層との協議を通して,
彼らの意を汲む姿勢を維持していたのである。このことは,アントウェルペンで執政によって公布さ
れた1567年5月の暫定的勅令からも明らかである。同勅令は,職業として印刷業を営んでいる者が
禁書を印刷・販売した場合には死罪および財産の没収を宣告されるが,素人が出来心から禁書を印
刷・販売した場合に際しては,相対的に軽い刑罰が科されるとしている。この暫定的勅令はアントウ
ェルペンの騒擾に対する処罰の規定として,執政と国事評議院,内務評議院,ブラーバント州議会,
そしてアントウェルペン市の間で,交渉を重ねて成立したものであった。だが同年,この勅令はフェ
リペ2世と彼の側近によって穏健過ぎると判断され廃止された。そして「1550年勅令」が判決や刑
罰適用の際の法的枠組みとして機能することになったのである64。ここでマルハレータによって都市
に対し妥協的な政策がとられる余地は立ち消え,執政職がアルバ公へと交代されるに及び,譲歩的施
策が取られる可能性は皆無となった。アルバ公は書籍業に対する強硬な取締りに着手し,1568年3
月2日の夜間に印刷業者の一斉検挙を行ない,3月16日には全書籍商と印刷所への抜き打ち検査をし
た。こうした政府の命令一下で行われる取締り・逮捕は,都市の関与するところではなく,かつてな
い政府の施策は多くの者に驚愕を与えたのである。
他方,アントウェルペン都市法廷における書籍業者取締りの実態はどのようなものであったのか。
政府が最も大規模かつ厳しい取締りを先導した1566年から1577年の間に,勅令に違反したとして都
市法廷に召喚された書籍業者は19名であった。しかしそのうち勅令の命じる通りに死刑を適用され
一139一
た者は2名に留まっている。しかも,この2名のうち1名は再洗礼派の廉で65,もう1名は再犯であ
るにも関わらず改める様子が見られないことによるものであった66。アントウェルペンでも,暴動参
加者や公的秩序を破壊する恐れのある再洗礼派は弾圧されたし,その処遇は実に厳しいものであっ
た。だが,その中で書籍業を厳しく規制しようとする一連の勅令について,都市の指導者層は無批判
に執行することには抵抗しているのである。
では,都市法廷は何故,書籍業者取締りに対してこのような慎重な態度を見せたのであろうか。ま
ずこの勅令をめぐっては裁判管轄についての懸念があった。同勅令に抵触する要件としては異端の
「恐れ」とされているだけであり,そこから,確実な異端の証明なしに,被疑老が極刑に処されるこ
ととなった。その背景には政府が「同勅令違反は反逆罪にあたる」と見なしていることが関わってい
る。反逆罪であれば都市法廷の管轄を超えてしまい,都市が堅持する「市民は都市外に召喚されない」
という権利が適用されなくなることから67,諸都市はこの権利の再確認を求め,異端問題も都市法廷
で裁こうとしたのである。だが,政府による再確認を待つまでもなく,アソトウェルペンにおけるそ
の結果は,前述のごとく,1566年から10年の間に逮捕された19名中の17名までもが,被告の事情を
斜酌され,釈放や追放刑に留まった。都市は,都市の刑事法廷の伝統が対異端勅令によって侵害され
ることを危惧して,独自の判断で判決を下したのである68。
プラソタンが印刷出版活動を行っていたのは,このような状況の中であった。前章で見た彼の活動
は,彼が極めて現実的な対処によって工房を運営したという見方を可能にする。だが本章で見てきた
ように,宗教戦争下のアソトウェルペソでは,彼のような態度は商業取引を行なう者としてむしろ少
数派のものとは言えないであろう。また,都市の公職に就いている者の間では,カトリックであって
も穏やかな思想をもつものも少なくなく,彼らは硬直したカトリシズムを斥け,改革派の主張にも耳
を傾けることもあったのである69。では,プランタン自身の信仰に対する姿勢は,どのようなもので
あったのか。プランタンの出版活動を特異なものとしているのは,神秘主義セクト「愛の家族」
HUsgesinn der Lieftenの著作の印刷である。次章では,この「愛の家族」との関係からプランタン
の信仰に対する信条についての考察を試みたい。
皿 アントウェルペンにおけるりベルタンの風土
低地地方に活動の拠点をもつ「異端」信仰はカルヴァソ派に留まらない。1534年に北ドイッ都市
ミュンスターが再洗礼派によって占拠された事件は,近隣の為政者に対し,信仰の名の下に社会秩序
の転覆が起こり得る事実を突きつけた。その直後から低地地方でも再洗礼派や改革派に対する弾圧が
行われている。アントウェルペソだけでも,1550年から1566年までの間に131人が異端として処刑さ
れ,このうち117人が再洗礼派であった70。こうした弾圧により再洗礼派の運動は抑えられていった
が,他方で,無数の穏健再洗礼派,神秘思想家を生み出していった。その中にプラソタソと密接な関
係にあった神秘主義思想家として,当時の敵対者から悪意を込めて「リベルタン」と呼ばれた人々が
みられた71。リベルタンは,人は内的経験によってのみ神を知ることができ,組織や儀式を備えた教
一140一
会や教義は重要ではないので,そうした外面的な事で悩む必要はないと主張し,ここから他の宗派に
寛容な態度をとっており,こうした立場に立つ者に一致している点は,信仰の外面的要素に重きをお
かない敬慶主義を目指す点であった。彼らが宗教戦争の時代にあって何を目指したのかを探ること
は,彼らと出版関係を通して繋がったプラソタン自身の信仰,そして出版に対する姿勢を考察するこ
とになろう。
1 神秘主義セクト「愛の家族」
「愛の家族」は,ヘソドリック・ニクラエスが指導する神秘主義セクトである。ニクラエスは,ミ
ュソスターと現在のオランダ国境との間の地方の出身で,アソトウェルペンやケルソなど諸都市を行
き来する富裕な商人であった。「愛の家族」は,ミュソスター弾圧後の再洗礼派を惹きつけたとみら
れる72。ハミルトンの要約によれば,「愛の家族」は,原罪からの魂の救済はニクラエスのセクトで
しかなされず,アダムによって損なわれた神と原初の人間との一体感は,「愛の家族」のメンバーが
ニクラエスに従って受難の道を歩みキリストにならうことで回復される,というものである。メソ
バーの資格はニクラエスのこの神的使命を理解する事であるが73,「愛の家族」の教義を定義する事
の困難さは多くの研究者によって指摘されている。ヴートは,ニクラエスが宗教の外見を重視せず,
既存の宗教と手を切る必要はなく,希望するならカトリックのミサやプロテスタソト集会への出席に
もこだわらない,と説いた点をとりあげている74。クレールも同様に「あなたが教会に留まりたいの
ならばそうしなさい,離れたいなら離れなさい,それは全く同じ事です」というニクラエスの言葉を
引用している75。またルースは,「信仰の外的なことは全く重要ではない。全ての宗教はシンボルな
のである。」という教義内容が16世紀においては衝撃的なものであったとしている76。
ニクラエスが教えを伝える為の著作の印刷を行なった印刷業者の一人がプランタンであった。彼は
アソトウェルペソで印刷活動を始めた直後に,『真正なる人生の意図に対する正義の鏡』Den Spigel
der gerechticheit tho ene anschouwinge des warachtigen levevs77をはじめとするニクラエスの著作十数点
を印刷している78。これらの著作が匿名で印刷されたことは,内容が異端的と判断される怖れが充分
にあると承知した上での印刷であったことを示している。実際,1570年と1582年の公会議におい
て,ニクラエスの著作は禁じられた79。
その後ニクラエスが独善的になり,セクト内の階層序列化を強化し始めると,「愛の家族」は分裂
していった。プランタンを含む複数の者は,ニクラエスの後継者とみなされるヘンドリック・ヤンセ
ソ(通称バレフェルト/執筆名ヒエル)が1573年に「愛の家族」から脱退し,自分のセクトで活動を
始めると彼と繋がりをもつようになり,プランタンは1580年代にバレフェルトの著作をも匿名で印
刷したのである。最初,プランタンはバレフェルトに対し,「本書に含まれている教義は,学識者個
人の名前で出版されているあらゆる著作を超えているとは思いますが…,現世および永遠の平安のた
めに絶対的に最上のものであり必要なものと思わない限り,慎重であろうとする政治的判断によっ
て」出版を企画することはできないと拒否している。プランタソは「このような出版が強情者の角を
一141一
下げさせ,あなたがお考えのような平和や平安や,真の神の国への人々の一体化を推し進めるとは思
いません。…神の国の平和と平安は,何らかの議論による徹底的な論争や反駁,また書物からではな
く,天にいます父なる神に対して確実な信頼を向けることで自分を捨てることから生じるもので
す。」80と,宗教をめぐる議論を平和を乱す無意味な事として退けている。だがバレフェルトは人々の
信仰心の低下を憂い「印刷して頂くことで彼らが手に出来るように」81バレフェルトの聖書である
r宝の書schatboeck82』とr手紙の書 ePestellboeck83』の印刷の必要を説き,結局プラソタンはバレフ
ェルトの著作を印刷したのであった。
バレフェルトの著作はアントウェルペソ在住のプランタンの親戚・縁戚や,富裕な商人たちが,商
用の際に他都市に運んでいった84。つまりプランタンと密接な関係にある様々な人々が,バレフェル
トの著作の頒布に関わっているのである。また,プランタンと交流のある著名な知識人A.オルテリ
ウス,前述のリプシウスやA.モンタヌス85もバレフェルトと親交を結んでいた。だが商人であれ知
識人であれ,これらの人々は,実際にはカトリックとプロテスタントとを問わず「目に見える」教会
に属していたことは特筆されるべきであろう86。
2 リベルティニスム
ニクラエスとバレフェルトの教えは,どのような点で人々の心を捉えたのであろうか。ヴェルウェ
イは,この時代の神秘主義セクトに傾倒した人々の心性を分析して次のように述べている。16世紀
後半,二つの宗派が闘争する中で,どちらかを選ぶことが出来ない人々にリベルティニスムは避難所
と解決を提供した。リベルタソは無神論者でも自由思想家でもなく,極めて宗教的であった。儀式の
内に信仰の本質があることを信じず,カトリックあるいはプロテスタソトの典礼の遵守に無関心であ
ったとしても,これは偽善や宗教心の欠如から来るものではない。彼らが他宗教に寛容なのは,政治
的な計算の問題ではなかった。彼らの,二つの宗派の受容やサクラメントに対する寛容は,「真実が
現れるとき,全ての意見の相違・対立・分立は,偉大な調和の前に消えうせてしまうのだから,宗教
的闘争は全て無益である」という思想に基づいていた87。プランタンが宗教戦争の渦中にあって,ど
のような勢力からも攻撃されない形で出版印刷活動をせねばならない場合,「信仰の外面要素に拘泥
しない」という愛の家族の姿勢は,プラソタソの信仰にとって救いであったのではなかろうか88。
プランタソは,工房開設時の1555年段階において工房法規を作って職人達に誓約させているが89,
この工房規約違反のうち最も罰金額が高いのは,工房内で宗教に関する話をした場合であった。この
ことからもプランタンが宗教事項に細心の注意を払って対処していた事が窺える。1581年に彼は,
この罰金を6スタ・イファーから1フラマン・ポンドに引き上げている。1フラマン・ポンド(6フロ
リン)は,職人のほぼ2週間分の賃金に相当したgo。この禁止条項は宗教をめぐるトラブルを避けね
ばならないという工房経営上の必要によるものであり,ここから,「愛の家族」関係著作の出版が公
になれば極めて危険である事を,プランタソが警戒していたともみてとれよう91。この工房規約や
1566年騒擾の際の発言は92,宗教をめぐるトラブルを回避するという必要性に基づくものであろう。
一 142一
しかし上述のバレフェルト宛て書簡に明らかなように,プラソタンが宗教論争を忌避する理由には,
議論によっては宗教問題が解決せず先鋭化するだけだ,という彼の考えも働いていたことも事実であ
ろう。
プランタソがレイデンに赴いた際に,リプシウスとオラソダ人カルヴァン派牧師A.サラヴィアと
共に交わした対話が書簡に残っている。そこでプランタソは「信仰は数多く,多様であり,それらは
互いに敵対していますし,いつもそうだったのです。全て[の信仰]は,多くの偽善と偽りをもって
います。しかし,それらが弱い精神によって生じた漬神を何ら持っていない限りは,それは卑しむべ
き事ではありません。民衆は,最初はこういったやり方を必要としています。」93と述べたことが報告
されている。ここからは彼の信仰に対する冷静な捉え方が窺われる。そして信仰の多様なあり方を認
めているという点では,愛の家族の教義に対して親近感をもっていたと言えるのではないだろうか。
これが宗教戦争の最中,政治の求める宗教のかたちと個人の信仰の間にあってのプランタンの姿勢で
あった。
ヨース・アンドリーセンは,アントウェルペンにおいて教会の対立に「無関心」な者には2つの
タイプがあると指摘した。一つ目は,商業的利害を宗教上の確信の上位に置く者で,市の行政組織に
属している者に多くみられる。彼らはどのような勢力が権力の座についても公職に留まり続けた。二
つ目は,信仰を教会組織の上位に位置づける,あるいは信仰は教会の外にあるとする立場をとる者で
ある。彼らは不寛容と狂信を嫌悪し,こうした傾向はユマニストや知識人の間にも見られたが94,変
転している状況の中での彼らの姿勢は同時代人にとって日和見的妥協や優柔不断に見えた。プランタ
ンは現実界の政治・宗教闘争の波に飲みこまれぬよう状況に適応し,出版印刷活動を展開していくに
際し,その手段として極めて自己弁護的な発言を繰り返した。しかし彼の信仰に対する姿勢は,信仰
の多様な現れ方を受け入れる一方で,各宗派の宗教論争による問題の先鋭化を避けるというものであ
った。そうした意味では,アソドリーセソの指摘する「アントウェルペソにおいて教会の対立に無関
心な2つのタ・イブ」の両者の特徴をプラソタンが備えているとも言えるだろう。
おわりに
プランタソは,スペイソ政府と反乱勢力の対立,カトリックと改革派宗教の相克の中で,どの勢力
からも利益を引き出す形で工房を運営した。そして,彼は自らの信仰はカトリヅクであると言明しな
がらも,神秘主義セクト「愛の家族」の著作を印刷し続けた。各方面から利益を引き出そうとした事
業家として印刷業者たちは,印刷業者に対する厳しい取締りをかいくぐり,政府勅令の厳しさの中で
も自らに自由裁量の余地を残していたと言える。ここで検討した彼らをめぐる諸事情は,活版印刷術
の導入後百年を経た,16世紀の印刷業界の状況を伝えている。
宗教改革・反乱期にあたる16世紀後半の低地地方においては,政府と,政府の施策に異議を唱え
る州議会や都市との間にある信仰に対する態度の齪謡は,そのまま彼らの印刷業界に対する姿勢の相
違につながっていた。州議会や都市は,政府の宗教政策を,信仰に対する彼らの感覚から受け入れら
一143 一
れなかったのみならず,それが彼らの裁判における慣行に抵触し,その特権を侵害するという危惧を
抱いていた。ブラーバソト州の場合にみられるように,禁書印刷の廉で召喚されても,それが容疑者
の改革信条のためではなく,「金銭への貧欲」といった動機であった場合には,判決を軽くするなど
の措置も受け入れられたが95,こうした意識は低地地方の都市法廷一般にとって奇異なことではなか
ったのである。この反乱の結果として誕生したオランダ共和国は,17世紀において他国では見るこ
とのできないような出版の自由を享受したと言われる96。反乱時代における出版印刷活動に対する州
議会・都市の姿勢を考えると,その後継者としての共和国の出版に対する対応は十分首肯できるもの
であると言えよう。
注
1この点についてNijhoff en Kronenberg, Nederlandsche.Bibliographie van 1500 tot 1540,8’vols, s’Gravenhage,
1923−71;Mus6e du livre(ed.),Histoire du livre et de 1’imPrimerie en、Belgique des origines d nos ]’ours. 36me partie,
Bruxelles,1924−25;Johnston, A. G.,“Printing and Reformation in the Low Countries,1520−c.1555”, in
Gilmont, J.F.,(trans. Maag, K.), The Reformation and the Book, Aldershot,1998, pp。154−183;Johnston&
Gilmont,“Printing and the Reformation in Antwerp”, ibid., pp.188−213を参照。
2中澤勝三『アソトウェルペソ国際商業の世界』同文社,1993年;F.ブローデル,村上光彦訳『世界時間1 物
質文明・経済・資本主義15−18世紀』皿一1,みすず書房,1995年,pp.173−197。
3Voet, L.,&Voet−Grisolle, J。, The Plantin Press(ヱ555−1589); a bibliograPhy of the worles Printed andPublished by
ChristopherPlantin atAntwerp&Leiden, 6 vols.,Amsterdam,1980−82(以下Plantin Press.)tl,p.1,本稿では
プラソタンの出版物全体に言及することはないが,必要に応じて書名に触れる場合には,ヴートとグリソルに
よる出版目録の書籍番号を付す。目録では書誌以外にも,プランタソの活動全般について,詳細な注釈の参照
が可能である。
4Rooses, M., Corresponclance de Christoψhe Plantin,8vols., Antwerpen,1883(rep. Kraus Reprint, Liechtenstein,
1968)(以下Corr.).
5Van Durme, M., Suppl6ment d la correspondance de Christophe Plantin, Anvers,1955(以下SuppL Corr.).
61550年勅令については,Kenney, L. A., The censorship edicts ofEmPeror Charles V in the Low Countries.15ヱ5−
1550,Ph.D. Dissertation, Maryland,1960, pp.190−194を参照した。
7森田安一編『スイス・ベネルクス史』山川出版社,1998年,p.246.
8Aerts, E. et al., Les institutions du gouvernement central des、PaysBas habsbourgeois(1482−1795),2vols., Brux−
elles,1995, t.1, pp.470−474.
9櫻田美津夫「聖画像破壊の暴動一1566年,ネーデルランデソー」『就実女子大学史学論集』第12号,1997年,
pp.37−68.
lo Voet, L, The Golden Compasses, A History(昼 Evatuvation(of the Printing & Publishing(of the()Lt7icina Plantiniana
at Antewrp,2vols., Amsterdam,1969−72, t.1, p.48.
11Corr.,1, no.28.
12Corr.,1, no.83.
13Van Nierop, H. F. K.,‘℃ensorship, Illicit Printing and the Revolt of the Netherlands”, in Duke, A. C.&Tames,
C.A., Too mighly to be/free, Zutphen,1987, p.33.
14Bouchery, H.,‘‘Aanteekeningen betreffende Christoffel Plantin’s houding op godsdienstig en politiek gebied”,
1)eGulden Passer, t.18,1940, pp.106−107.
15Clair, C., ChristopherPlantin, London,1960, p,137,ヴートも同様の指摘をしている(Voet, op. cit.,t.1,p. 98)。
一144一
16Plantin Press.,644(1, pp.280−315).多言語聖書にっいてはVoet, op. cit., t.1, pp.60−64.
17Corr.,1, no.21(1566年12月), no.116(1568年3月).
18Kingdon, R. M., “The Plantin Breviaries:acase study in the sixteenth−century business operations of a publish−
ing house”, Bibliotheque d’hecmanisme et Renaissance, travaux et documents, t.22,1960, pp.133−150.
19Voet, Op cit., t.1, p.68.
2010id., t.2, p.401.
21印刷職検定官関係の史料として,Rombouts, Ph., CertzVecats d61ive’s aux imPrimeurs des Pays,Bas Par ChristoPhe
Plantin et aatres documents se raPPortant d la charge du PrototyPograPhe, Antwerpen&Gent,1881(以下Cer−
tlvecats.)を参照。同書には,まずプラソタソが発行した認定証が収録され(pp.1−58),次にフェリペ2世に
よる検定官職設置に関する勅令(pp.59−75),更に,フェリペ2世からプランタンへの印刷職検定官任命書が
載っており(pp.76−78),その他の関係文書が続く。尚,印刷職検定官の歴史的な位置付けに関して, Remy,
F.,“De Boekencensuur:Histrisch Overzicht”, De Gulden Passer, t. 20,1942, p.11を参照した。
22 @Certzficats., P.61.
23彼に関する都市法廷の記録はG6nard, P.,Antwerpsch archievenblad(以下AA.),1e・e ser.,22, p.274;26, p.187;
活動についてはRouzet, A.,」Dictionnaire des imPrimeurs, librairies et editeurs des XVe et XVIe磁oJ63 dans les
limites g疹ograPhiques de la Belgique actuelle, Nieuwkoop,1975, pp.167−168.
24AA.,12, pp.428−430,441,458;Rouzet, ol), cit., p.243.
25AA.,10, pp.311−315, AA.,12, pp.408−409;Rouzet, op. cit., p.45.
26Willem van Parijs:Certdi’ cats., pp.21−22(1570年7月認定);Jan van Waesberge:C厩旗偽.,pp.22−23(1570
年7月);Gilles Coppens Van Diest:Certzncats., p.27(1570年8月).
27Pierre de Horne(禁書印刷で永久追放。 AA.,12, p.472;Rouzet, op. cit., pp.97−98)の息子に対する認定証は
CertzVecats., p.53(1570年8月)。 Jan Mollyns(禁書印刷で6年追放。 AA.,9, p.331,363;Rouzet, op. cit., p,
150)の息子の認定証はCerti cats., pp.42−43(1576年5月)。更に, Peter Mesensはカルヴァン派であった
が,プランタンは認定証を発行し(Cert2vecats., p.20)(1570年7月),息子を校正係として工房に入れている
(Rouzet, op. cit., pp.147−148)。
28他面,プラソタソは同業者の利益を損なうごとき無許可の業者を認めず,処置を問い合わせてきたブラーバン
ト州議会に,断固とした摘発を奨励している(Corr., V, no.693)。
29この事態に際して,かつてのカルヴァン派の共同経営者のカレル・ファン・ボンベルヘン,リエージュ司祭
(後のアソトウェルペソ司教リヴィヌス・トレンティウス)などがプラソタソに資金を用立てている(Voet, oP.
cit., t.1, p.87)。
3°川口博『身分制国家とネーデルランドの反乱』彩流社,1995年,p.90.
31Rooses, M.,Le Musee Plantin−Moretzts. Contenant la vie et 1’oeuvre de ChristoPhe Plantin et ses successeurs,19s 1吻鯵
tus, ainsi que la description du mus6e et des collections qu ’il renferme, Anvers,1914, pp.107−108,
32Corr.,V, no.793;Corr.,VI, no.812;Slenk, H. J.,‘‘Christopher Plantin and the States General”, De Gulden Pass−
er, t.43,1965, pp.248−264.
33Corr。, VI, no.814.
34Corr., V, no.801.
35その種の著作として,ラス・カサスの 『東インドで犯されたスペイソ人の圧政と残虐』Tyrannies et cruaute2
des Espagnols,perp6trees bs lndes Occidentalesが挙げられる(Plantin Press.,926, II, pp.587−589)。同書籍には,
低地地方の住民を,スペイソという専制国家に対する反抗へ奮起させるための序文が載せられている。また,
『グラソヴィル枢機卿とフォンク議長の差し押さえられた書簡』1)iverses lettres傭6膨ρ換du cardinal de Gran一
砂〃a一ノ飽〃2,deux du president」Foncq(Plantin Press.,1914, IV, pp.1782−1783)と,その蘭訳(Plantin Press.,
1915,IV, p.1783)は,彼のバトロソであるグラソヴェル枢機卿に対する非難文書である。
36Plantin Press.,1718−1720(IV, pp,1583−1586).ヴートはこの著作以外には,明らかなカルヴァン派の著作は
一145一
印刷していないと指摘し,「プラソタソは政治的にはスペイソへの忠節から逸脱したかもしれないが,概して
カトリック教会には忠実であった」と述べている(Voet, op, cit., t,1, p.99)。
37Corr., VII, no,1049.レイデン大学は1575年にオラニエ公が設立を許可した大学である。
38Voet, op. cit.,t.1, p.110;Hoyoux,」.,‘‘Les relations entre Christophe Plantin et Torrentius,6vGque d’Anvers”in
De Nave, F., Liber amicoram Leon Voet, Antwerpen,1985, pp.109−115.
39Voet, Op cit., t.1, p.110.
40Plantin Press.,64(1, pp.85−86);65(仏訳)(1, pp.86−87);66(英訳)(工, p.87).
41Corr., VII, no.1056.
421bid., loc. cit.だがヴートは,プランタンが,アソトニオによる別種の声明書を1582年(Plantin Press.,59,60,
61,1,pp.82−84)と1583年(62,63,1, pp.84−85)に匿名で印刷した事を指摘している(Voet, op. cit., t.1,
P.111)。
43Hoyoux, oP. cit., P.111.
44De Nave, Fr,,‘‘La R6forme et 1’imprimerie a Anvers”,Bulletin de la Socie’t6 d’histoire du Protestantisme belge,10/
3,1985,p.92.
45Voet, op. cit., t.1, p.128.
46Marnef, G,, Anwerp in the age Of Reformation, London,1996, p.19.
47本稿では詳しく触れられないが,アルバ公は1571年に,アントウェルペンの都市機構改変を断行した際に,市
長官が宗教勅令を遵守しようとしないことへの不満から,新設した都市総督stadsgouverneurの権威下に市長
官をおいた。これに対して市参事会は1574年,アルバ公の後任執政であるレケセンスに,市長官の司法権限の
回復を請願している(Vanroelen, J.,“Het stadsbestuur”, in Genootschap voor Antwerpse Geschiedenis, An−
twerpen in de XVIde eeuw, Antwerpen,1975, pp.38−39)。
48Van Nierop, op. cit., pp.30−31;Duke, A.,‘‘Salvation by Coercion:The Controversy surrounding the‘Inquisition’
in the Low Countries on the Eve of the Revolt”, in Duke, A., Reformation and Revolt in the Low Countries,
London,1990, PP.154−155.
49Van Nierop, op. cit., p。35.
501)lantin Press.,1452 (III, p.1242).
51SuPPI. Corr., no.6.
52Suppl. Corr.,no. 8(1562年5月17日。市長官から執政への手紙)。長官は更に「3名の職人に対し,順々に判決
を下すようにと殿下がお命じになったことに関しまして,私はそのようにするべきなのですが,彼らに対する
手続きは,他の者同様に延期されており,現在,誰に対して彼らを引き渡せばよいのか分かりません」と続け
ているが,この発言からは,書籍業者の取締りに対する都市側の熱意の無さが窺えよう。
53Voet, oP, cit., t.1, p.35.この事件に関する他の書簡としてSuppl. Corr., no.2, no.3, no.4, no.5, no.7.
54本稿134頁参照。
55Marnef, G.,“Repressie en censuur in het Antwerps boekbedrijf,1567−1576”,、De 2eventiende eeuzv, t.8,1992, p,
222.
56Clair, op. cit., P.25。
57Marnef,・Anwerp., p.86.
58Voet, op. cit., t.1, pp.37−38.
59Plantin Press.,722(1, pp.394−401).詩篇の仏訳はクレマン・マロによって着手,テオドール・ド・ベーズに
よって完成され,初版が1562年ジュネーヴで出されている。同書はカルヴァン派色が強いがカトリック側も使
用していた。だがカトリック圏では異端視される恐れがあるために,出版に際してプランタンはマロとべーズ
の名をどこにも載せなかった(Jbid. p.396)。
60 SuPPI. Corr., no.9.
61Marnef,“Repressie en censuur.”, p.222.
一146一
62Valkema Blouw, P。,“Augustijn van Hasselt as a printer in Vianen and Wese1”, Quaerendo, t.16,1986, p.98.
尚,本稿で詳しく取り上げることはできないが,実はこの時,プランタソ工房の職人であると同時に,愛の家
族の一員であり,政府軍による都市制圧直前にウェーゼルに逃亡したオーガステイン・ファソ・ハッセルト
が,ヴィアネソで扇動文書印刷をしていた(Suppl. Corr.,no。246, p.288;Hamilton, A.,Cronicα, Ordo sacerdotis,
Acta HIV. Three texts on the Family ofLove. Documenta Anαbaptistica 1>llerlandica 6, Leiden,1988, p.79;Corr.,1,
no.26;Corr.,1, no.74).この事件に関する考察として, Voet, op. cit.,t.1,pp.51−55;Bouchery, op. cit. p.113を
参照した。
63Marnef, Anwerp., p.109.
64Marnef,“Repressie en censuur.”, p.222.
6501ivier Willemsz:AA.,13, pp.192−193,200;AA.,14, pp.96−97;Rouzet, op. cit., p.249.
66Frans Fraet:AA.,8, pp.441−442, et 445;Rouzet, op, cit., p.65.
67Duke, op。 cit, pp。165−166.騒擾評議会が低地地方の慣習に抵触する理由はここに求められる。
681bid., p.159;栗原健「プロテスタソト弾圧をめぐる16世紀ネーデルラント諸都市の攻防」『日蘭学会会誌』第
27巻第1号(通巻第50号),2002年,pp.3−5.
69Duke, op. cit., p.139.
70Marnef, Anwe71)., p.84.
71詳細な定義として,Fontaine Verwey,“The Family of Love”, Quaerendo, t.6,1976, pp.222−223を参照。
72Hamilton, A.,‘‘The Family of Love in Antwerp”, Bijdragen tot de geschiedenis, t 70,1987, p.87.
73 1bid., loc・cit.
74Voet, Op cit., t.1, pp。24−25.その理由として,彼の教義や説教が不明瞭で,均整の取れた分析を拒むようなも
のである点をあげている。
75 Clair, op. cit., P.28.
76Rooses, M.,Le Mus6e Plantin−Moretus., p.35.
77Plantin Press,,1731,1732(Iv, pp.1602−1607).他の著作として,1733−1746bis(Iv, pp.1607−1620).
78ニクラエスの著作印刷に関する史料として,SuPPI. Corr., no.246(p.283);プランタンからニクラエスに宛て
た書簡Corr.,1, no.74(1567年8月);オラソダ人カルヴァン派牧師がカンタベリー大主教に宛てた書簡(1608
年)がある(Crombruggen, H. Van,“Een brief van Adriaan Saravia over Lipsius en ‘Het Huis der Liefde’”,1)e
Gzalden Passer, t. 28,1950, p.115)。 A.サラヴィア(1530−1613)はフランドルからのプロテスタソト亡命者で,
イングランドで聖職に就いたが,1584年5月から1587年11月までカルヴァソ派が支配的であったレイデンに神
学教授として滞在。
79Corr., VI, no.893(バレフェルトからプラソタソへ).
80Corr., VI, no.834(プランタンからバレフェルトへ。1579年8月22∼28日と推定).
81Corr., VI, no.893(バレフェルトからプラソタソへ).
82Plantin Press.,627(1, pp.256−259);628(仏訳).
83Plαntin Press.,629(1, pp.260−261);630(仏訳);他の著作として631(1, pp.262−264).
en Hamilton, oP. cit., P.92。
85本稿133頁参照。
86Hamilton, op. cit,, p.93.「目に見える」教会とは,組織や儀式を備えたカトリック教会や改革派教会のことを
指す。
87Fontaine Verwey, H. de la,‘‘Trois h6r6siarques dans les Pays−Bas du 16e si色cle”,Bibliothbque d’humanisme et
Renaissance:travaux et documents, t.16,1954, pp.312−330.
88ヴートも同様の見解を述べている(Voet, op.【ゴ’., t.1, p.26)。
89Sabbe, M.,“Christophe Plantin et ses contemporains” in Mus6e du livre., op, cit., pp.121−123.
90Voet, op. cit., t.1, p.101.
一147一
91時期的には,バレフェルトの著作印刷が懸念事項であったという推測も可能であろう。
92本稿132頁の引用文参照。
93Crombruggen, op. cit., p。114;本稿注78参照。
94Andriessen, J,,‘‘Het geestelijke en godsdienstige klimaat”, in Genootschap voor Antwerpse Geschiedenis, Op
cit.,1975, p.221.
95Van Nierop, op. cit., pp.34−35.
96 1bid., p.29。
一 148一
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