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金八先生と国際交流
第 7 回・図書館講演会「著者と語る」 金八先生と国際交流 − 教育を必要とする子供たちのために − 小山内 美江子∗ 第 7 回図書館講演会「著者と語る」は、2005 年 6 月 24 日午後 2 時 40 分から 4 時 10 分まで和泉図書館第 2 開架閲覧室で行われました。 ∗ おさない・みえこ/脚本家 224 司会 開会に先立ちまして、本学商学部教授・広沢絵里子図書館副館長よ りご挨拶申し上げます。 挨拶:広沢絵里子 (図書館副館長) 皆さん、こんにちは。きょうは、大変 多くの方にご来場いただきまして、ありがとうございます。 明治大学図書館では、毎年「著者と語る」というテーマで著名な方をお 招きいたしまして、皆さんがいまいらっしゃるこの建物ですが、明治大学 図書館和泉分館で、このような講演会を催しております。お手元の資料に これまでに「著者と語る」にお越しいただいたゲストの方々のお名前の一 覧が出ております。 本日は、シナリオライターとしてさまざまな人気番組を手がけていらし た小山内美江子先生をお招きしてお話しいただくことになっております。 本日の講演テーマは「金八先生と国際交流活動」ということでお話しいた だく予定でございます。資料の表に小山内美江子先生のプロフィールが紹 介されておりますけれども、小山内先生は、 『キーハンター』 、大変懐かし い番組で、私、このタイトルを見てドキドキいたしましたけれども、NHK のテレビ小説ですとか、とりわけ TBS の番組『3 年 B 組金八先生』 、そし て NHK 大河ドラマ『徳川家康』あるいは『翔ぶが如く』など、多くの作 品をこれまで手がけていらっしゃいます。 きょうは、金八先生に関連したお話で、現在の日本の教育問題などにつ いて触れていただけるのではないかということで、先ほどちょっとお話を 伺いました。 プロフィールの後半にございますが、先生は、91 年日本国際救援行動 委員会設立に参加されまして、93 年にはカンボジアの子供に学校をつく る会、現在の名称は NPO 法人「JHP・学校をつくる会」を設立して、大変 勢力的な活動をされているということでございます。 「JHP・学校をつく る会」というのはどういうものなのですかとお伺いいたしましたところ、 JAPAN TEAM OF YOUNG HUMAN POWER ということで、先生は特に 若い人の力に力点を置いて、ぜひこういう名前にしたいということで名前 を付けられたと伺いました。 本日のお話、大変楽しみにしております。先生、どうぞよろしくお願い いたします。 225 金八先生と国際交流 1 はじめに 小山内 小山内です。後ろのほうの方、顔も見えないほどたくさんの方が お見えですので、最初に、きょうのタイトルの「国際交流活動」の中で、 カンボジアで学校をつくっているという活動を 5 分ほどに短くまとめたも のがありますので、それをまずご覧ください。ある種、呼び水ですけれど も、そういうものがないと、うまく話せるかどうかわかりませんので、ど うかよろしくお願いします。 【ビデオ上映】 ナレーター 私たち「JHP・学校をつくる会」が活動しているカンボジア は、ポルポト時代の知識人虐殺により、教育が徹底的に弾圧された悲しい 歴史があります。そのため、この国が自立していくには、まず教育だと考 え、子供たちのために学校をつくりたいと思いました。 カンボジア人口の半分は 15 歳以下と言われる分、学校が不足し、現在 でも 3 部制の学校があり、青空授業も行われています。学校建設では、各 地からの要望書をもとに駐在員が慎重に調査をし、優先順位を決めていま す。建設費用は 350 万円∼500 万円かかります。孫の代まで使える丈夫な 学校づくりを目指し、ご寄付された支援者の心にこたえて、作業は設計図 どおりに進めています。 JHP は、人材育成にも力を入れています。音楽教育の分野は、楽器もな く、教師もいないため、授業は行われていませんでした。私たちは、日本 で集めた楽器を使って教師を育成した結果、各県で授業が行われるように なりました。マーチングバンドも育成しています。海を渡った中古の楽器 がカンボジアの子供たちの目を輝かせ、大いに役立っているのです。 絵画授業も 6 年目に入ります。教員養成学校の生徒たちは、カンボジア の専門家と一緒につくった教科書を使っています。葉っぱを使った授業を 見てください。 226 音楽や美術の教師が 1 人でも多く育ち、子供たちに大切な情操教育を広 めていくことが、JHP の願いです。 JHP は、地球的視野を持つ日 本の若者の育成にも力を入れま す。年 2 回のカンボジア派遣は 大学生が中心で、40 度を超え る炎天下、ブランコづくりに汗 を流します。校舎とブランコが 完成すれば、いよいよ贈呈式で す。子供たちの喜ぶ様子を見て ください。 小山内 「きょうから、この学 校は皆さんのものです。毎日、 きれいに掃除をして、大切に使ってください。」 ナレーター 学生たちは、文房具を贈呈し、 「ソーラン節」の披露など生 き生きと輝いています。 新しい校舎ができて、子供たちは、きょうも元気よく勉強しています。 私たちは、11 年間で 115 棟の校舎を完成しました。しかし、教育の機 会に恵まれない子供たちは、まだたくさんいます。JHP が建設した孤児院 には、ゴミ山で働いていた孤児 30 人が生活し、毎日学校に通っています。 将来の自立に向けて職業訓練も行われています。 JHP では、今年の夏の新潟水害、そして今回の中越地震にも、海外を経 験した若い力が駆けつけております。 きょうも元気よくブランコで遊ぶ子供たちの声が聞こえてきます。学校 にこだまする元気な声、この声と笑顔が世界中に広がりますように。 【ビデオ終了】 小山内 こういう言い方は失礼ですけど、このようなウナギの寝床のよう な会場は私も初めてで、皆さん、さぞ窮屈だろうと思いますし、どなたか 227 しゃべっているひとの顔が見えないのは、あまり楽しくないですよね。で すから椅子をご用意いただきましたが、私、立ちました。本当は膝を痛め ておりますのと、8 月 8 日に、仲間よりちょっと遅れてカンボジアに入る ために、それまでに何とかして治したいと思っているので、あまり立ちた くないのですけど、ときどき痛くなったら、ここの椅子に片方ずつ足を乗 せたりしますから、それだけはお許し下さい。 きょうここにおうかがいしたのは、生方先生から最初お誘いのお話が あって、お引き受けしたのですが、覚悟も準備も出来ないうちにきょうに なってしまいました。 さっき 8 月 8 日に出発と言いましたけれど、その前に学生たちが出発し ます。その勉強会、その他、日程がずっと詰んでおりますので、けっこう 忙しいので、きょうは、こういうお話をしましょうときちんとできており ません。 できてないのですけど、メモだけは作ってきているのでそれを頼りにお 話をして行きます。 ただ、 「著者と語る」ということになれば、『さようなら私の金八先生』 というのが一番最近のものなのですが、ほかの話もしていいというお知ら せがありましたし、こちらに伺いましたら、 「金八先生と国際交流活動」と いうタイトルになっておりますので、今のビデオを見ていただいてよかっ たと思っておりますので、それと混ぜてお話しさせていただきます。 2 カンボジアの現状 いま見ていただいたとおり、本当にカンボジアには学校がないのです よ。ないんです。さっき、これで 115 校できたと言っておりますが、本当 に学校がなくて、現在私たち JHP は 132 校目ぐらいをつくっているので はないかと思います。最初につくったのは 1993 年です。地道に 1 校 1 校 つくっていったんですけれども、あの国の学校は 2 部制です。午前の部、 午後の部です。ということは、日本の普通の子供の半分の時間しか授業を 受けてない。半分しか勉強してないという状況です。でもしばらくは仕方 がないなと思っています。 228 というのは、先生の給料がものすごく安いんです。だいたい 1 ヶ月が 2,000 ドルから 3,000 ドル。今 100 円ちょっとで計算しても、2,000 円か ら 3,000 円です。田舎のほうに行きますと、 「先生、こういうのができた から食べませんか」と野菜など持ってきてくれたり、「裏の沼でこういう 魚が獲れたから今晩これで」というふうにしてくれますが、都会ではそう はいきません。そうしますと、午前中の先生が、午後はタバコを売ってい たり、午後の先生が、午前中は畑を耕していたりというような風景は、実 際に私見ておりますので、先生の状況からいっても、全日制でその給料と いったら、先生になってくれる人がいなくなるのじゃないかと思います。 ということは、また別に考えると 2 倍の先生がいるんだと。2 倍の先生を 養成していかなければいけないのだというような思いもしますけれども、 さらに田舎に行きました。 いま受付で JAPAN TEAM OF YOUNG HUMAN POWER という、うち のリーフレットを差し上げていると思います。開けていただけると、真ん 中にカンボジアの地図がございます。その一番左下のほうにシアヌークビ ルという、この国でたった 1 つの港湾都市があります。この港は、いま盛 んに日本の ODA のお金が入って港を整備しておりますが、その地区にも 学校はないのです。なんとか補修して使えるのが昔からの 2∼3 校ありま すけれども、さらに海沿いに行くと、この港の作業をやるために来ている 労働者とか、その人たちの子供のための学校はない。ノースクール地域っ て、本当にないんですね。ぜひここにつくってくれといわれ案内された所 には、3 教室あったんです。そこは 3 部制の学校でした。もっと田舎のほ うで 3 部制ですと成立しないというか、電気が来ていないので授業が 1 時 間ぐらいしかできない。電気は、ゼネレーターで起こして回しているよう な状態ですから、電気がないと真っ暗の中でお勉強できませんから。 ただ、このシアヌークビルというところの、3 教室というのは、たまたま 水産庁の建物を借りていた。政府の建物ですので電気が来ていたので 3 部 制が成立していた。だから喜べるかといったら、そうじゃないんですね。 3 部制の上に、授業が週に 2 回ぐらいしかないんです。向こうは木曜日が お休みですから、月曜と水曜組、火曜と金曜組。これはもうお勉強じゃな いですよ。学校だとは言えませんね。だから、何としてもここには学校を 229 つくりたいと思って、一所懸命つくったんですが、地方に行けば行くほど 学校の数が足りない。 それから、そもそもこの国の国民は、今から 30 年ほど前は 700 万人ぐ らいいたんじゃないでしょうか。それがポルポトという政権が、人々を虐 殺します。どうしてあんなことが起きたんだろうと思うのですが、約 200 万人の人を殺してしまった。それも知識人や技術者を虐殺したのです。和 平協定が調印されて、この国がもう 1 回歩き直しましょうと、UNTAC が 入った 1991 年のころの人口は 550∼600 万人ぐらいだったんだろうと思 うんです。それがすぐに、1,200 万人までに人口が回復した。2 倍ですよ ね。ところが今は 1,400 万余という数字が出ています。ということは、国 民の半分は 15 歳以下だということがおわかりいただけると思います。 だから学校はいくらつくっても足りないというので、小学校を私たちは 一所懸命つくっているのですけれども、10 歳の子が 10 年たてばもう 20 歳です。小学校を、普通の日本の小学校の半分の時間しか行ってなくて成 人してしまうわけです。そうすると、この人が、今後ずっとアジアの中、 世界の中の一員として生きていくには、いかにせん教育が足りない。だか ら中学をつくらなければなりません。中学に行ける子供の数は少ないです けれども、そこは奨学金制度とかいろんなことをみんなで頑張ってやって おりまして、うちの会も最近は頑張って中学をつくっています。 3 カンボジアへの関心 友だちにも「何でそんなことをやるの」と言われることがあります。こ の国の歴史をいろいろ話していると大変ではあるのですけれども、昔、イ ンドシナ半島といいました、ベトナムがあり、カンボジアがありというと ころです。ベトナムはフランスの植民地になりましたけれど、カンボジア は委託統治国で完全な植民地ではなかったんですけど、実態は同じです。 そこで一番年若いので牛耳りやすいとして国王にしたのが、シアヌーク国 王です。その国王が、しばらくフランスの下にいたのですけれども、1953 年に独立してカンボジア王国として歩き始めました。このときのカンボジ アが、第 2 次世界大戦での日本に対する賠償放棄第 1 号の国であったとい 230 うことを、大学でも意外と教えてない。明治大学は知りませんが、知らな い人が多いのはとても残念ですね。そういうことはやっぱり忘れちゃいけ ないのです。今から 60 年前の日本は最貧国でみんなお腹がすいていたん です。本当にお腹がすいていたときに、お米を送ってくれたのもこの国で す。それが日本も豊かになると、長粒米っておいしくないわとか生意気な ことを言っておりますが、その当時は、どれほどありがたかったか。そう いう私たちがあって、その次の世代があって、その次の皆さんがいるのだ と思ったときに、あの国が豊かだったから助けてくれたんだ。それが今ど うなっているか。私たちは、その人たちに何かできるだけの力は景気が悪 いと言いながら持っています。 先ほど、ここに来る途中、時間があったので、渋谷駅のティールームと いうところに入って、冷たいアイスクリームを食べました。とてもおいし かったんですけど、丁度お昼の時間で、お店の中をぐるっと見渡したら、 ほとんど女性です。お父さんかわいそうねって内心思いました。そこで食 事をしていたのはお父さんじゃない、全部お母さんで、おいしそうなもの を食べていましたね。それを見ても、日本はそんなに景気が悪すぎるわけ じゃないのだと思いましたけれど、そんなこともあって、例えば食べ物の ことからもカンボジアという国に、私なりに関心を持っていました。 4 カンボジアの悲劇 カンボジアのこの地図を見ますと、カンボジアの悲劇というのは、ベト ナム戦争の陰に隠れてよくわからないのですが、ベトナム戦争の終わる寸 前から始まっている。というのは、ベトナムの北部にホーチミンという市 がありますけれど、これはある指導者の名前ですよね。ホーチミンという 人が、この国を統一して、南北に分断された民族が一緒になりたいと北か らずっと南のほうに独立戦争をすすめます。いわゆるベトコンとかいろん な言い方をされていますが、ベトナム戦争映画については、アメリカ映画 も実に素晴らしいものをたくさん製作しているので、あれを見ると大変よ くわかりますが、結局アメリカという国は、生まれて初めてベトナムに負 けるわけです。負ける少し前に空爆をいっぱいするんですが、それはホー 231 チミンルートといって、ベトナム人が北から南に人海戦術でいろんな物資 を運びました。実は、そのホーチミンルートというのはカンボジア国内を 通っていた。それをシアヌークさんは黙認していたんです。 これは作家的推理にしか過ぎませんけれど、ずっとフランスという白人 に頭を押さえつけられていた。隣の国と必ずしも仲が良かったとは言えな いけど、同じアジア人同士で、枯葉剤で苦しめられているときに、うちの 国内の密林を通って南に行くことについては、見て見ない振りをしましょ うと、思われたのかどうかわかりません。けれど、それはアメリカにとっ て、本当に目の上のたんこぶというか、にくたらしくてたまらない。何か ものを言うと、「綱渡りの殿下」というぐらいに、すごい外交力を発揮す る人ですが、そんなことがあった 1970 年、ちょっと国内をお留守にした 時にアメリカ支援のクーデターを仕掛けられて、国外逃亡せざるを得ず国 に帰ってくることができなくて、70 年からロンノル政権というのがこの 国の政治を司る。で、「どうぞ」とアメリカに言ったのは、カンボジア領 内だけれど空爆していいよということですね。新聞とかそういうものが 地方まで行き渡っている時代ではありません。けれども、何でうちの王様 が追い出されて、ロンノルという大将が我々の国の土地を爆撃していいと 言ったんだ? これはもういやだ、という声が蔓延してくる。それらの声を 集めて、そしてロンノル勢力を退治していったのが三派連合という新しい カンボジアの勢力です。その中で一番のリーダーシップをとったのがポル ポト派です。これが国内に入った途端に、知識人を全部抹殺していったと いう、有名な恐ろしい話で、もしもアメリカの『キリング・フィールド』 という映画をご覧になる機会があったらぜひ見ていただけると、アジアに おける東西大国が、いかにこの小さな国を 1 つの舞台にしてコネコネにし たかというのがよくわかると思います。 そんなことがあって、カンボジアは大変ひどい思いをするのです。ポル ポトがやったのは知識人、つまり宗教と教育と芸術を徹底的に破壊した。 教師の 8 割が虐殺されたり、あるいは国外に逃げています。要するに、イ ンテリはほとんどいないわけです。お医者さんも、いろんな技術者とか、 そういう人たちがみんな殺された。つまり、農本主義というのですけれど も、土を耕したところから原始共産主義というのは行くのだというような 232 ポルポトの考え方だったんでしょうが、眼鏡をかけていたというだけで、 インテリだと思って殺された人がかなりいる。 ただ、ポルポトが治めている間は鎖国をしておりましたので、そこで何 が行われているかわからなかった。ところが、今のフンセン首相ですね。 フンセンさんたちは、実はポルポト一派なんですよ。ロンノルを追い出す まではポルポト軍として一緒に戦っていた。けれどポルポト派が政権を とったときに、自分を追い越しそうな人間を粛清していくわけですね。こ れはどこの国もやっています。一番ひどかったのがスターリンだと言われ ていますけれども、伸びてくる勢力を全部粛清していく。だから、フンセ ンたちはこのままだったら殺されると思って、隣のベトナムに逃げ込んだ というのです。その人たちがベトナムの力を借りて首都奪還に戻ってく る。そしてポルポトをやっつけてしまう。あれほど強大なポルポトがどう してそんなもろくやられたかというと、それだけの人物を殺したり、手元 から逃がしてしまった。人を信用し切れなかったということも大きな原 因だったと思うのですけど、ポルポト派が首都から逃げ出すころには、彼 を取り巻く素晴らしい頭脳はいなくなっていたという現状があったようで す。そこで算を乱して東から攻められたので、西側に逃げていく。西側は タイ国境です。 その時の話を聞きますと、一般人や子供が、何だかわからないけど、ポ ルポトの兵隊と一緒になって逃げていったという話はいくらでもありま す。タイ国境側に逃げて行きますが、国境線では、タイ国軍が銃を構えて 自国領には一歩たりとも入れないということですね。でも、何としてでも 隣国に逃げ込もうとするカンボジア人に対して実際に撃つんです。恐ろ しいことですが、しかし、これは仕方がないです。国を守るということは そういうことなんだと、そう思いましたね。王様が入れていいと言ったら 入れるけれども、一歩も入れてはいかんのだと。みたいなことがあって、 今まで何が起こっていたかわからなかった各国のジャーナリストたちが、 タイのバンコク事務所から、みんな国境に行くわけです。そこで見たもの は、ものすごい風景だったわけです。それが日本のメディアを通して、テ レビとか新聞などで紹介されました。それが 1979 年です。 話のつなぎがとてもおかしいので大変申し訳ないのですけれども、私、 233 一所生懸命 25 年書いてきた「金八先生」という番組が生まれたのが 1979 年なんです。同じ年です。それで非常に心を痛めましたし、実際に海を越 えて国境線へ助けに入った日本の若者たちがいます。これが私としては、 国際救援活動の第一陣だと思っています。行ったけれど専門家ばかりでは なかった。専門家というのは、かろうじて看護婦さんとか、数少ないお医 者さんとか、その程度ですね。中にはマラリアにかかって命を落とした人 もいるのですが、救助活動の中でいろいろ住み分けができてきます。メカ に強いのが日本国際ボランティアセンター (JVC) で、教育に力を入れて いったのが今のシャンティで、曹同宗ボランティア会というのが既にタイ でそういう活動をしていましたから、これができました。そして国に帰っ たときに自立できるための技術指導をやっていこうというのが難民を助け る会 (AAR) というのです。そういうふうに得意分野で住み分けてくるわ けです。 私も、戦争のときの大変なときのことを考えれば、これは駆けつけて救 援活動をしたいなと、そう思ったんですが、「金八」を書いているのを放 り出して行くわけにはいきませんから、作家としてカンボジアの復興につ いてどうかかわれるか、それなりに考えました。そういうところはけっこ う真面目に考える人ではあるのです。 5 1970 年代の日本で 一方、その頃の日本はどうだったかといいますと、70 年代に入ってか ら騒がれますが、1975 年以降、教育現場では、非常に教科の詰め込みが行 われたので、授業についていかれない子供たちが出てきます。これで「落 ちこぼれ」という言葉が出てくる。ひどい言葉ですよね。落ちるだけじゃ なくて、こぼれちゃうというのだから、ひどいものだなと思いますけれど も、その子たちが、うっぷんを晴らしにしたことが、校内暴力です。ガラ スは目茶目茶に割られる。廊下をバイクで走る。大変なことが起きてくる 時期がやってくるわけですね。 そのときに、私には 1 人男の子がおりまして、この男の子が 1978 年 3 月に中学を卒業するわけです。中学に行っている間にいろいろ聞いた話が 234 「金八」のもとになっているんです。実は、中学というのは、私の母の体 調が悪かったために、私たち一家は横浜の人間なんですけれども、熱海と いうところに移りました。といっても温泉街ではなくて、ずっと山のほう で、名前は別荘地ってかっこいいんですけれども、ただの山の中です。 母にとっては非常によかったんです。あと 1 年か 2 年お世話をすれば、 たぶんあちらにいらっしゃるのだろうと思って、熱海に小さな山小屋を建 てて連れていったんですけれども、標高 200m で、朝起きれば、気取って言 えば森林浴ですね。目の下には網代湾があって、朝まで泳いでいたお魚が 食べられるわけです。そのうち元気になってきて、ひょっと庭を見たら、 男の人を呼んで何かやってるので、 「どうしてるの」と言ったら、 「家庭菜 園やろうと思って」と言うんです。えっ、まだ頑張る気だわって思ったん ですけれども、空気がよくて、いやなことが耳に入ってこなくて、新鮮な ものを食べられれば、人間は快復する。自然が持つ快復力の強さというの は本当にびっくりしました。私は、まち中で生まれておりましたので、そ んな山で暮らせるとは思ってもいなかったんですけれども、人間は自然の 一部であるとまさに母が立証してくれました。91 歳、天寿を全うしてあ ちらに行ったんですが、16 年一緒に暮らしたということで、大変なこと もありましたけれども、大きなものを私に残していってくれたと思ってお ります。 けれども、一番の被害者は私の息子で、中学 3 年までは一緒に暮らさな いとだめなのよという説得のもとに、彼は別荘地という名の何もない山の 中から中学まで 4.5 キロの道のりを朝晩通った。標高 200m です。 400m のところは、とても景色がよく、そこに、わが先輩、橋田壽賀子 さんがいらっしゃいました。視聴率もよいし、ギャラも高いから、高いと ころへ住んでいるんだと言うと、いやな顔をして怒りますけれど、それは そのとおりであります。 ともあれ、その不便なところへ子供のお友だちが遊びに来てくれたんで すね。これはとても嬉しかったです。都会的な子供ですから、いじめにあ わなければいいな、なんて思ってたんですけれど、遊びに来てくれる。女 の子じゃなくて男の子です。テケテケ、テケテケ標高 200m、山を上がっ て来てくれる。 235 そうすると、親としては、これを逃がしてなるものかと思いますよね。 それにはどうしたらいいかというと、女性もよく聞いておいていただきた いのですけど、「男性を逃がさないためには胃袋つかめ」って昔から言わ れていますので、何かうまいもの食わせておけば大丈夫だと思いますが、 山の中ですから、何か注文しても届けてくれるようなところではないの です。大型冷蔵庫を買って、1 週間分の食料を入れておきますから、子供 が来れば、それを開けて、あるものでつくるということについてのみ私は 非常にいい腕を持っている。つまり、八宝菜という中華料理がありますけ ど、6 種類しかなければ六宝菜、9 種類あれば九宝菜というのをつくる。そ ればかりでは飽きますので、今回は違うものにしようと思って、ご飯を炊 いて、あったかいご飯にバターを落としてかき回すとバターライスって名 前が変わっちゃうわけですね。それにホワイトソースをかけます。おしゃ れなものはしません。ダシを入れた水と牛乳を合わせて、それにメリケン 粉を溶いてかき回すとポットリしますから、これがホワイトソースです。 バターライスの上にホワイトソースを乗せて、グリーンピースか何かを散 らして、いろんなものをちょっとやる。そのころは、まだファーストフー ドの店がそれほどはやってなかったから、子供たちにとって、とてもハイ カラな味だったんでしょうね。 「おばさん、とてもおいしいけど、何てい うの」って言われたって、私答えられません。「ホワイトソース・ナポリ ターノ」とかね。ライターというのは実にいい加減なことをいう人間であ りまして、そんなことを言う。 お腹がいっぱいになって機嫌がよくなると口が滑らかになるんですね。 そこから聞いたものは、親の悪口、学校の悪口、先生の悪口、それは本当 にドキドキするくらいでした。悪口を言うだけ言うのですね。実にひど い話もありました。けれど、話すだけ話すと、何か妙にすっきりした顔を しているんです。あっそうか、彼らは聞いてほしいんだ、ということがわ かったんです。その後、私も暴走族みたいな子を取材する羽目になったこ ともあるのですけれども、これは討論しちゃいけないのだと。とにかく聞 くところから始めればいいんだというのを教えてくれたのは、その子たち です。 1 年生のときと 3 年生と、その子たちが変わっていくのです。3 年生に 236 なりますと、話は受験のことしか話しません。受験でどうだというと、自 分としては、この高校に行けと言われているけど、とても行かれないのだ。 そうすると自分の一生は決まってしまうと。それはどういうことかという と、いい高校に行かないと、いい大学に行かれない。そうするといい会社 には入れない。いい結婚もできない。つまり、もう自分の一生は決まった ようなものだ、みたいなことを 15 歳の子が言う。それはおかしいよ。お ばさんは間もなく 50 だけれども、まだ先のことがわからないのに、君に わかられてたまるか、みたいな、そういう話を中学生と一緒になってする わけですけれども、今の中学はこんなことなのかなと思うと、それはそれ なりに胸が痛んでくるわけで、あんなに仲が良かったのに、遊びに来る子 供の組み合わせとか、顔ぶれが変わってくるのです。つまり、それほど仲 が良かったのに、レベルが同じだと、そのある高校をねらうためにライバ ルになるのですね。そんなのいやだなと思ったのが、「金八」を書くきっ かけにはなったわけです。 6 「金八」始動 すぐ書いたわけではなく、別のものを書いていたときに、79 年の 6 月 ごろ、10 月番組を書いてくれないかと TBS の依頼がありました。私は、 わりあいと調べたりいろいろするのが好きなタイプですので、前の仕事が 8 月でないと終わらない。10 月番組というのは、9 月に撮り始めます。と いうことは、8 月に書き始めます。どうしたって間に合うわけがないわけ です。だから無理ですと言ったんですけれども、なかなかねちっこいプロ デューサーで、何回も何回も来られた。それと「何をやってもいい」と。 滅多に言う言葉ではありません。あの TBS が、金曜 8 時、今は 10 時が花 盛りですけれども、当事は 8 時がゴールデンタイムです。ここで、何を やってもいいなんて、普通ではあり得ない話なんですけど、なぜそんなこ とを言ったかというと、日本テレビで石原裕次郎さん全盛の『太陽にほえ ろ』という番組が、太陽サンサンと輝いていて、TBS が何を出してもかな わない。何か決まったものを 1 つ出したいのだが、そういうときに、小山 内というのは奇妙なものを出すから、あそこへ話しに行ってこいというこ 237 とで、向側と行ったり来たり、行ったり来たりの話がありました。 実生活であまり口説かれたことがないものですから、そういうふうに口 説かれると悪い気持ちがしなくて、つい、やろうかなという気になってし まったのと、10 月というのを 11 月にずらしてくれたということは、相当 考えてくれているなと思ったときに、中学生の万引き、家出という新聞記 事が出ました。けれど、あれから 25 年、昨日は、弟がお兄ちゃんを刺し てしまいました。その前の日は、子供がお父さんとお母さんをひどいこと をしてしまいました。もう、それだけで、ここ 2∼3 日、本当にどうして いいのかわからない思いなのですが、それから思うと、中学生の家出だと か、万引きといったら可愛いようなものですよ。でも、その中で追い詰め られた中学生のストレスが、その当時、その新聞記事の向こう側で、彼ら がもがいているような気がした。 だから、学校の成績だけじゃないよ、君は君の素敵なことをやったらい いじゃないか、ということを、つまり中学生の応援歌というものを書きた いと言いました。TBS としては、そういうことは全然考えてなかったよ うですが、私も、どういうものができるかわからないけれど、実はこうい うことがあるのだということを話しましたし、まさか、自分の息子の中学 3 年間に聞いた話がドラマのネタになるなんて思ってもいなかったんです けれども、そういうものが下敷きでした。 7 武田鉄矢「金八」 では主役が、なぜ武田鉄矢だと聞かれることがありますけれど、「人は 人を見ているんだ」という言葉を覚えておいていただきたいと思います。 その 2 年ぐらい前に、TBS で新春パーティーというのがありまして、そ れに呼ばれますと、次もお仕事をくれそうだ、という 1 つのステータスの ようで、いそいそみんな来るわけです。私も呼ばれてはいたのですけれど も、シナリオライターというのは 1 人で書く仕事で、年中シナリオライ ター同士で会って遊んでばかりいるわけにいきませんので、そういうパー ティでは、気になる人、あるいはどうしても話しておきたい人と一所懸命 話をします。 238 早く亡くなって残念なんですけれど、私は向田邦子さんと隅っこのとこ ろで話をしていたんですね。そこにやって来たのが武田鉄矢さんでした。 私のところへ来たのではなくて、向田さんのところにいらした。向田さん のお仕事をやられたので、ご挨拶にみえた。私は、まだお話が終わってな かったので、ちょっと後ろへ下がって見ていたんですね。あぁこれがホン モノかと思って。歌だかなんだか、コラッ、鉄矢、歯の裏が真っ黒けがど うだということを歌った人だと思って見ていた。 すると向田さんに話す敬語もちゃんとしている。あっ、これ、見た目よ りちゃんとしているみたいねぇ、というような感じで見ていたんです。そ うしたら、向田さんが「あなたのお芝居を見ていると、全身で表現してい る。それが素晴らしいわ」と言われた。向田さんというのは、人をほめる のは天才的な人ですから、聞きようによってはオーバーなアクションねっ て言っているんですけど、本人全然気がつかないで、そこが鉄矢さんのい いところだとは思いますけれども。 「そうですか。実は、私は教師を目指 しておりました」 。脇にいる私は、ヘーッてなもんですよね。それも、 「耳 の不自由なお子さんの先生を目指していました。だから、教室に入って、 『おはよう』と 1 回言ってもわからない。だからそういうときは、2 度も、 3 度も言うんです。それでわからなければこうやるんです」って、そこで タコ踊りみたいのを始めたのですよ。東京の一流のホテルのパーティ会場 の、隅っこではあるけど、そこでわかってもらうためにはタコ踊りをする というのは、実に奇妙な役者だと思いますよね。と思ったんですが、そこ で終りです。 で、いよいよ自分が「金八」を書いたときに、誰にしようかといったと きに、フッと頭に浮かんだのが、あのときの鉄矢さんだったのです。教職 を目指して、実習にも行ったというので、演技として先生が板書するより は、きっと様になっているはずだと。これは私の思い込みでしてね、やっ たら、あんなに字が下手くそだったとは思ってもいなかったんですけれど も。それと、ライブを偵察に行ったんです。そうしたら、やっぱり歌より しゃべりのほうが多いんですよね。この人いくらしゃべらせても大丈夫 だ、みたいなことがありまして、交渉したら、もう亡くなられたんですけ ど、お母様がなかなかユニークな方ですけど、今でも先生になってほしい 239 と。それが役者になっちゃった。だから、テレビの中ででも先生役ができ るなら、ぜひやりたいという話で、彼は乗ってきたということで、武田鉄 矢「金八」というのが、そこで始まったというようなことです。 3–B には実際の中学 3 年生もおりましたが、やっぱり受験が近くなる とピリピリします。番組は 10 月からですけれども、実際には三者面談が あって、この中でも、中学のことを思い出すと、そうだなと思うでしょう が、2 学期の試験があって、そして年を越すと、もうすぐ高校入試です。 私立から公立からと受けていく。その時期のピリピリしている子供を見て いるのは、1 人の親として切ない。だから、これはホッとさせようという ことで、ドラマではあるけれどこのクラスの子供を教室から出します。そ して荒川の土手に連れて行きます。 「君たちは、受験戦争と言っているけ れど、本当にこれは戦争か。どこから弾が飛んでくるか。どこから爆弾が 落ちてくるか。これは戦争じゃないだろう」ということを、金八さんがそ こで言います。「けれども、この荒川のこの水が東京湾に注ぎます。そし て東京湾から外海に出て行って、向こう側、つまりカンボジアですね。そ こにドーンと押し寄せた波が向こうに行った。そこでは、君たちと同じ年 ごろの子が、今こう話しているときでも、傷ついたり、飢えで苦しんだり、 そういう子たちがいるんだ。君たちは受験戦争だと言って、幼稚園のとき から仲良かった友だちとライバル意識を燃やしてというのは、人生として つまんないじゃないか。それはそれで、いい学校に入れるということはと てもいいんだ。その先に何があるかといったときに、この島国だけじゃな くて、その向こうにもいろんな世界があるということがわかる。そういう 人間になってくれ」ということを延々と書きます。延々としゃべったのは 鉄矢さんなんですけれども、それが「金八」という番組を通して、若い人 たちにも世界をわかってもらいたいという思いだったんです。 8 湾岸危機 「金八」は何回も何回もやりましたが、先ほど申しました母が 91 歳で 亡くなったときに、私は、1990 年、NHK で『翔ぶが如く』という大河ド ラマを書いておりました。これの途中で母が亡くなるんですね。それは非 240 常に悲しいことです。大変悲しいことですけれども、泣いてばかりいると 仕事は終わりませんので、終わってからゆっくり泣きます、なんて仏さん に言っておいて、書き終わったときが 90 年ですから、8 月にイラクのフ セイン大統領が武力をもってクウェートに侵攻したという湾岸危機が始ま ります。 そのときに、今とちょっと似ていますけれども、多国籍軍というものが 結成されて、サウジアラビアに軍隊が入っていく。フセインがやったこと はよいことではありませんからね、武力で隣の国を侵攻するということ は。だから、兵を引きなさい。そうしないと、年明けの 1 月 15 日には攻 撃を開始するよって多国籍軍が言ったんですが、フセインは突っ張ってし まって、ついに 91 年 1 月 17 日に戦争になってしまうわけです。 その前の湾岸危機の段階で、いろいろな国が結束して、フセインに通告 したり、兵隊さんを派遣しますね。そのときに日本は兵隊を出すわけには いかないわけです。というのは、まだ PKO 協力法案というものはできて おりませんから、憲法から見ても自衛隊さんを外に出すわけにはいきませ ん。先進国で兵隊さんを出さなかったのは、日本とドイツぐらいなもので す。だいたい日本は軍隊ではない。自衛隊は専守防衛のためですから、よ けいに出すわけにはいかない。そういうときに何を出すかといったらお金 を出すわけです。130 億ドルというのは大変なお金です。今でこそ 1 ドル が 107 円ぐらいを行ったり来たりしておりますけど、当時はもっともっと 高かったものですから大変でした。それだけお金を出したのに、逆にバッ シングを受けた。 「日本人は金だけ出して血も汗も流さない。顔の見えな い日本人、何考えているかわからない日本人。」大きなお世話ですよ。お 金がなかったら戦争なんかできっこないし、戦争して誰も得する人いない わけだから、そんなのやめましょう、というのが本来日本の仕事ですけれ ど、それを兵力をもってやることはできなかったのが、当時の日本の立場 だと思います。 241 8.1 顔の見えない日本人 私は、中東の人に対して、頬っぺたひっぱたかれた覚えもないのに、何 もそこで、向こうの若者の血を流し、こちらの血を流すのもいやだと思っ たし、自分の兄の世代たちが、この前の戦争のときにたくさん亡くなって いる。もっと勉強したいのに学校に行かれなくて、そしてとんでもない島 で死んで、いまだに遺骨を迎えに来てもらえない人たちもいるというこ とを身にしみてわかってる私としては、それはもう絶対いやです。けれど も、バカにされるのもいやなんですね。 ちょうど、『翔ぶが如く』が終わった。母親が亡くなった。母親が亡く なると、この先、自分はどうやって生きていこうかって考えました。年は ちょうど 60 歳、還暦です。今までやりたかったけどやれなかったことを やってみよう。子供はもう独立しているから、自分のお金と自分の時間は 自分のために使おうと思っていた矢先の湾岸危機だったわけです。日本 人の顔が見えない。じゃ、こんな顔でよかったら見てくださいというノリ で、ヨルダンの難民キャンプに行っちゃったんですよね。行っちゃうと、 シナリオライターってすぐいろいろ調べますからね。130 億ドル、どうい うふうに使ってるのと、お掃除をしたり、お食事の配給をしながら、いろ んなものをシナリオハンティングしちゃうのです。 難民さんはみんな、みんなテントに寝ているんですよね。そのテントに は made in Italy と書いてあるんです。でもそれは日本のお金で買っていま す。けれど彼らは、 「イタリーさん、ありがとう」です。全てそうですね。 難民の人が集まると、飛行機を飛ばして国に帰している。それは当時のソ 連の飛行機とか、エジプトの飛行機とか、いろんな飛行機に難民さんを乗 せて帰す。そこの飛行機ですけど、お金は日本なんですよね。だけど「ソ 連さん、ありがとう」と言うのは、とても残念な気がしました。 日本には謙譲の美徳というのがございまして、どこかに手土産持ってい きますと、たいてい「つまらないものですけど」と出しますね。私は最近 「つまらないものだったらいりません」と言うことにしています。たいて いの人が、お目めが点になっちゃって、 「どうしましょう」と言うから、い や、日本というのは素晴らしい言葉があるんだ。もし食べ物ならば、「お 口にあえばよろしいのですが」というのも 1 つありますよね。あるいはほ 242 かのものだったら、 「こういうものがお気に召すといいのですが」とか、い ろいろある。つまらないものって、お金を使っているのにそんなこと言う 必要ない。ということは、海外に行きますと、やれることはやれる、やれ ないことはやらない。ということをきちっとしないと、曖昧模糊としてい ると物事が進まない。そういうことを学んだと思います。 8.2 JIRAC ヨルダンに行ったことをきっかけに、日本国際救援行動委員会 (JIRAC) というのをみんなでつくるんですね。難民キャンプに新聞社が取材に来る んです。私はそんな知名度のある人間ではないのですけれども、大河ドラ マの放送中の作家ですから、そんな変なおばさんが来ているから、暇ネタ でとっておこうというので取材されて、そのいくつかは日本に紹介されま した。すごいタイトルで「金八先生、翔ぶが如く」なんていうのがあって、 私もちょっとびっくりしたんですけれども、それを見た方から「一緒にや ろうよ」と声がかかりました。危機管理の第一人者の佐々淳行さんという 「あさま山荘」攻略の指揮をとった方です。そういう方とか、東京芸大の 平山郁夫先生、あるいは俳優さんで二谷英明さんとか、みな仲間で、とに かくバカにされているだけではいやだ、自分たちにできることをやろうと いうふうな形で集まったのが JIRAC です。 そうしたら、その中に大学の先生がいらして、学生たちに、こういう会 ができたんだが、内情は 60 のじいさんとばあさんだと。そうなんです、 JIRAC はみんな同い年だったんですね。敗戦のときみんな 15 歳だった。 昭和 5 年生まれ、今 75 歳、偶然全員同じだった。その同級生みたいな人 が、そのとき「大学生、君たちはどうするんだ」と言ったときに、 「夏休み を利用して救援に行きます」と言って 30 人ぐらいの大学生が立ち上がっ てくれた。 戦争は 91 年の 2 月末に終わったんですが、今のブッシュのお父さんパ パブッシュは、フセインの息の根を止めなかったんですね。それで引き揚 げたために、一緒にやろうといって置き去りにされたクルドの人たちがひ どい目にあって、山を越えて隣国のイランへ逃げてきていた。このニュー 243 スは実に悲惨なものでした。そのときの大学生たちもテレビでそれを見 て、胸を痛めていた子たちなんだろうと思いますが、その人たちの救援活 動に行くということで、91 年の 7 月です。どういうところでどういう仕 事があるだろうかということを調べるために私は先乗りという形で行きま した。 当時、イランの情報というのは非常に取りにくかった。旅行社に頼んで も、最初のホテルにどこへ泊まっていいかもわからなかった。とにかく学 生を呼ぶまでに、どこで、どういう仕事をして、どういうことをするか、お 金はどのくらい必要か? 全部調べないと呼べませんからね。それで、外務 省とご縁のある人に、 「大使館が旅行社じゃないということは重々わかっ ている、重々わかっているけど、最初の晩だけは何とか泊まれるところを ご紹介いただけないか聞いてください」とお願いしました。もしダメなら ば、寝袋を持って行っているのだから、大使館の門の前で私たちは寝ると 言いました。これはべつにいやがらせでも何でもない。そこが一番安全で すからね。そう言ったら、空港に迎えに来てくれた 2 人の大使館員がおり ました。そのうちの 1 人が、一昨年暮れ近く、無残にもイラクで殺された 奥大使だったんですね。 亡くなった時は 40 半ばで、それらしく肉がついているんですけど、私 がお会いしたときは 30 歳そこそこです。スラリと背が高くて、まさかラ ガーマンだとは思ってなかったんですけど、英語がうまくて、外交官だか らあたりまえですけどね。かなり二枚目で、すんなりとしている。私、そ ういうのを見ると、あんまり好きじゃないという変なところがありまし て、最初ちょっと反りが合わなかった。向こうも、変なおばさんが、ろく に何もできないくせに学生連れて来るって、また仕事が 1 つ増えるじゃな いか、みたいな顔をしているふうに、私は受け取ったので、彼はそうじゃ なかったのかもしれませんが、そんなやりとりの中で次第にわかり合えて くるということは大きいですね。彼のおかげで、国境近くのところの難民 たちの救援活動ができた。 244 8.3 イランでの活動 実際にどういう活動をしたかというと、イラン政府としては、帰国する 難民たちに 1 週間の食料を持たせたい。けれども、2 年前まで、8 年間の イラン・イラク戦争をしていたので、お金がないのですね。そこへ日本の 変なおばさんが、何か仕事ありませんかって来たので、これやってくれま せんかというお話になった。 大学生というのは、まだ専門技術を持ってないから学生なので、食料調 達だったらできるじゃないかと思いました。私は、お腹に約 250 万円のお 金を巻いて行ったのです。それでトラック何台かのお米を買いました。油 を買いました。洗剤を買った。いろいろですね。それを家族毎の小分けを するわけです。バケツに印をつけて、1 家族でお米このぐらいと計って入 れた袋をずっと並べる。これは大学生できますよ。喜々としてみんなやっ ていた。そういう日本人の大学生を、初めて見る子供たちが見物に来る。 そのお父さんたちがとても親切で、以来私は中東の人は大好きなんですけ れど、イランの田舎の人たちにとって、大学生とは何かというと、お江戸 の時代の大地主の息子さん、あるいはお代官さんのお嬢さんなんですね。 そういう上流の人たちが、自分たちと一緒になって荷物を担いでいるなん て、彼らにとっては驚きだったんです。そういう意味で仲良くなれたとい うのは、私はとっても嬉しかったと思います。 ただ、夏ですので、お嬢さんたちは、向こうの宗教の戒律に従って素肌 を見せていいのは顔と手先だけです。だから、へジャブみたいのを着てや る。内陸部ですから午後は 40 度近い。せっかく行ったお嬢さん、汗もだ らけになっちゃったら本当に申し訳ないなと思ったので、知事さんのとこ ろにお願いに行きました。宿舎から作業場までは、ちゃんと何か着ていま すけども、仕事をしてるときは T シャツにさせていただけませんかと頼ん だんです。ものを頼むときには、たいてい手土産がいるんですね。別の言 葉で言うとワイロというんですけど、やっぱりワイロを使ったほうがいい わけで、それにはどういうものが効果的かというのを調べるのはシナリオ ライターの仕事です。 その前の年までイランで『おしん』が放送されていた。すごい人気なん ですね。日本だってはじめからあんな金持ちじゃなかったんだ。おしん 245 が、あんな寒いのに、雪の川を親と別れて流れて、 「とうちゃ∼ん」とか何 とか言いながら一所懸命働いて、それであれだけ豊かになったのだから、 イランの人間だって、負けずに一所懸命働いたら、金持ちになるよと。イ ランにとって非常に励まされるドラマだったということもあって、日本人 に対する親近感というのはすごいですね。 おしんの孫たちが来るというので、女性たちはみんなワクワクして待っ ててくれているというのがわかったものですから、NHK で、おしんグッ ズというのをいただいて行って、知事さんに、Do you know Oshin? Do you like Oshin? このぐらいの英語は私もできますので、そうしましたら、Oh, Oshin I love. I love だったらあげるわということで、 「じゃ、往復は必ず着 ててください。中の仕事は T シャツでいいです」というのをかち取りま した。 こういうワイロというのは、私は、国際交流的ワイロと思っておりま すが、そのときにその女子学生たちが、「日本って、いい国だったんです ね」って言ってくれたんです。何がいいといって、首都テヘランは東京と 同じですから、お水もきれいですけど、国境近くで蛇口をひねると出てく る水は薄い茶色なんですね。気取って、これをウーロン茶っていうんです が、そのまま飲んだら大変なことになります。すぐに、首都に「ミネラル ウォーターを送って」という注文をしながら、それが届くまでどうするか というときに、そう心配することはない。大きな鍋なり大きなやかんで煮 沸する。しばらくして私が飲んでみる。大丈夫だから飲みなさいと言う と、私が飲んでいるわけだから仕方がないから、みんなのどが渇くので飲 むわけですね。 8.4 体験して分かること 食べ物もやっぱり違うんですね。ヨーグルトが自慢の国なんですけれ ど、放っておくとナチュラルチーズになっちゃうのじゃないのというよう なヨーグルトが出てくるわけです。そうすると、「ちょっと待って。私が まず食べてみるから」と。そうすると中にはちょっと斜めな学生もいるわ けですよ。「どうして小山内さんが何でも一番先なんですか」と言うから 246 「どうぞ、どうぞ、あんたやってみてよ」と言うと、 「いや、けっこうです」 ですって。だったら初めから言うなっていうような話で、そうすると仲良 くなっていけるわけですね。この学生たちの「日本って素晴らしい国だっ たんですね」という言葉が、私に、とっても素敵に響いたのです。 つまり、T シャツかヘジャブをかぶっているかという服装の問題でも、 私は、厚底 OK、ガングロも OK、茶髪だっていい。今は、シュミーズだか、 キャミソールだか、何だかよくわからないものを着ているお嬢さんもいっ ぱいいるし、それもいいだろうと。服装というのは、私はこういう人間で すよ、という自己表現なんですよね。その表現の自由がない国がある。発 言の自由も同じで「小泉さん、このごろ人相悪くなったわね」と言っても 捕まりません。けど、あの国ではそんなことを言うと大変なことになる。 それから、街角で男の子と女の子が話をしているところへ警官が来て「親 が公認か」聞く。実は公認ではないけど「公認です」と言わざるを得ない ですよね。でも、調べられて公認じゃないということがばれれば、そのま まポイッと刑務所に入れられてしまう。なんていうことが日本で考えられ ますか。 それを現実に見たときに、当たり前だと思って暮らしていたことが、決 して当たり前ではないのだ。日本はいろんなことが自由なんだということ がよくわかった。日本というのは自由で、豊かで、平和で、そして安全だ と。この安全が最近ちょっと揺らいでいるようで、本当に心配ですけれど。 そういう意味において、すごく素晴らしい国なんだということがわかって くる。これは「君が代」を歌いなさいと教え込んで愛国は素晴らしいと言 うのとは違うのです。自分が体験してわかってみて、本当に分かった素晴 らしさなんですね。この学生たちが、この経験を生かしていろいろ活動し たいと言ったときに、私は自分の財布と健康が続く限りは一緒にやろうと 思ってしまったのがウンのつきで、いまだにやっているというようなこと です。 247 9 カンボジアへ イランには第 2 陣も行くことになっていたんですけど、私は 2 陣が終 えるまでいられなかったんですね。すると若い人たちだけでは心配ですか ら 1 陣だけで終わりで、2 陣は中止にしてしまったんです。その 2 陣に行 くために一所懸命アルバイトで行くお金をためていた子たちはおさまらな い。次、どこに行きましょうって言うけれど、そんなにあちこちの国で紛 争があったらたまらないわけですよ。 そしたら中国ですごい洪水があったんですね。あそこに行こうという声 が上がりました。一昨年あたり、アメリカのアーミテージさんが、On the boots. とか何とか言ったので、私は、On the sneaker. と言い返したんです けれども、学生が行くには、銃を担いでじゃない。私の兄の時代は銃を担 がされたんですが、銃を担がないで、 「スコップかついで、スニーカーで 行こうよ」ということが合言葉だったんです。そしたら、みんなが中国の 洪水禍救援に行こうということになり、ある筋を通して打診しましたら、 「日本の若者が行かなくたって、あの国は人海戦術の国です。洪水があっ たら衛生問題がひどいことになっている。泊まるところもないでしょう。 」 ということをしっかり言われて、「そういうお気持ちがあるならお金でく ださい」と。これは一番正直です。だから私たちもお金とは本当に大切だ なと思いましたし、これはもう行くことはできなかった。 そうこうしている 91 年秋に、カンボジアの和平協定が結ばれた。20 年 間の内戦が終わったわけです。それからまだしばらくいろいろあるのです が、92 年の 3 月からタイ国境に、先ほどお話しした難民さんが 38 万人い て、その人たちが全部国へ帰ってくる。帰還難民といいますけど、そして 選挙をする。そこからカンボジアの国として歩き始めるということが決 まった。じゃ、そのお手伝いに行きましょうということで、タイから帰っ てくる難民さんをお迎えする仕事を始めたのが 92 年です。7 月、8 月、9 月、10 月隊まで。このころになりますと、いろんな大学の学生諸君が来 てくれるようになりました。 248 9.1 カンボジアでの活動 その難民さんが帰ってきますが、列車がプラットホームじゃないところ に止まりますから、降りられないんですね。それを手を貸して降ろす。お 年寄りだったり、子供だったり、赤ちゃんですから、降りられない。その 人たちに手を貸す。そうすると、初めて自分の国を見る人たちもいるわけ で、長い間留守にしていた国に、どういうふうに自分たちが迎えられるだ ろうかと、心配いっぱいで帰ってくるわけですね。私たちのユニホームは オレンジ色の T シャツで、それを着ています。だから言葉は通じないけ ど、オレンジ色の大学生たちが手を出してくれたら安心して委ねなさいと いうお知らせがあったわけです。みんな、本当に一生懸命にやりました。 赤ちゃんの場合は、2 か月、3 か月まで首がすわらない。ここにいる若 い人はご存じないかもしれませんが、赤ちゃんは、小さいときは首をこう いうふうにしないとガクッといっちゃうわけですね。 「赤ちゃんのときは 無茶苦茶に抱いちゃだめよ。そういうときは私を呼びなさい」と言うと、 「小山内さん、また赤ちゃんです」と言うので、私、走っていって降ろしま す。「小山内さん、また赤ちゃんです」と言うので、また走っていく。と いうようなことを学生たちとやりましたけれども、まぁ、いろんなもの が降りてきます。鍋が降りてくる。自転車のハンドルだけが降りてくる。 いろんなものが降りてくる中で、私が一番悩んだのは、足に紐のついたニ ワトリです。これは食料なんだろうか、ペットなんだろうか、悩みますよ ね。そういういろんなものが降りてきて、この人たちが帰って、選挙がで きます。 その選挙寸前に、中田厚仁さんという若いボランティアの方が亡くなり ます。残念ながら、先日、JHP で勉強会に集まってきている学生で、この 中田厚仁さんの名前を知ってる者はいませんでした。すごく私悲しかっ たですね。たかだか 10 年前の話です。親は子である彼らに話してあげな かったのだろうか。我が子の問題として話してあげなかったのか。学校は 話題としてこういうものを提供しなかったのか。というふうにとても悲し かったけれども、わかっている人が話せばいいんだと割り切れば、それは それでいいことです。 249 10 学校をつくる会 ということで、難民の人が全部帰って、あの国はカンボジア王国として 歩き始めたときに、難民さんだけをやっていた私たちは仕事がなくなっ ちゃった。次に何やりましょうかといったときに、私は心の底から学校を つくりたいと思ったんです。さっき言ったように 2 部制というのはまだい いです。あの当時は、宿舎から難民さんが帰ってくるところを毎日車で往 復する間に学校がなかったんですね。子供は裸足で、きたない格好をして いるし、本当に切なかったですね。学校をつくりたいと心底思いました。 そこから JHP の目標は「学校をつくる会」というものになったわけです。 学校をつくるにはお金がいるわけです。このリーフレットの真ん中に学 校の絵があります。これが 5 教室 1 棟ですね。これは当時 300 万円、今 はもっと高くなっておりますが、そのお金がなければできないわけです。 それである方が「小山内さん、一緒に講演に回りましょう」と言ってくだ さって、私は生まれて初めて講演旅行というのをやりました。 その方は、わりあいと学術的なお話をする。私はイランのときの話をす る。カンボジアへ帰ってくる難民の人のお話を一生懸命に話して、夜旅館 に戻ってきますと、恥ずかしながら 2 人とも熨斗袋を開けまして、手に唾 つけて、一万円札が何枚あるか勘定しますと 290 万円ありました。あと 10 万足りないわけですね。 それを東京に帰ってきて二谷英明さんに話をしたら、そこにきれいな方 が通りかかった。藤村志保さんという女優さんです。そうしたら二谷英明 さんが「ねぇ、志保ちゃん。こういうわけよ」と言いましたら、志保ちゃ んが「あら、そうっ」と言ってハンドバックからパッと 10 万円、ピン札 で出してくれた。あぁ、このぐらいの女優さんになると、ピン札で 10 万 円持っているのかと、私も大変感動しましたけれども、それで学校ができ ます。 志保さんは、そのままずっと私たちを支援してくれて、今度 10 月 8 日か な、横浜の能楽堂で私たちのために地唄舞を舞ってくれます。これは武原 はんさんという方の素晴らしい舞があって、その跡継ぎが志保さんです。 ご興味があったらご連絡ください。東京の事務局で承ります。 そんなことで、学校をつくるお金はできたけれど、今度は学生を連れて 250 行くお金、といっても学生諸君には、あの会に入ったら、ただで奇妙な国 へ連れていってくれると思われるのはいやなわけです。自分のお金を、た とえ 5 万円、10 万円でも出せば、出すだけ吸収するだろうから出してく ださいと言いました。でも費用はそれだけでは足りません。飛行機代もだ んだんと高くなったりしておりますので、学生は 12 万円出してもらいま す。約 1 か月。その代わり、宿、三食の食べるもの、それから移動する車 代は全部当会が持ちます。資金はどうするかというと、素人が考えること はバザーですよね。物を売ろうと。じゃ何を売ろう。やっぱり有名な人の モノを売ったらきっと高くなるのじゃないだろうかみたいな、まぁ、積極 的といえば積極的、さもしいといえばさもしい活動を始めました。その売 り子は全部大学生です。 その中に、スラリとしてとてもきれいなお嬢さんがいたので、ハッと気 づいて、 「あなたのお父さんのネクタイも売れないかしら」と言ったら、母 と相談しますと言ってその次の日に持ってきてくれました。2 本も持って きてくれた。これはオークションにかけまして、値段はどんどん上って、 1 本 5 万幾らで売れたんですよね。すごいでしょ。これは人気絶頂の時の 現職の総理大臣、細川さんのネクタイだったわけです。以来、私は、首相 のネクタイを売ろうと決心しましてね。次は、村山富市さんです。趣味は ねぇ、細川さんにはかないません。かないませんが、律儀な方ですから、 名刺をつけてくださいます。これは電話番号なんかは何も書いてません。 「内閣総理大臣 村山富市」と、それだけ書いた名刺つきです。これはい つまで通用するかわからないと思っていましたから、大変貴重なことにな るから、さァ幾らと売ったら、細川さんぐらいの値段がついちゃったんで すね。短命だと思っていたらば、もう 1 年在任され、彼はもう 1 回ネクタ イを出してくれたんですね。首相の中で非常に売りにくかったのは小泉さ んです。ネクタイにご自分の顔写真が印刷されているんですよ。いくらな んでもねぇ。あれは、ちょっと売りにくかった。だから次は素直なのをく ださいとお願いしてあります。 時間がせまったんですけど、みんな面白そうに聞いてくださっているの でもう一つネクタイのお話です。宮崎まで行きました。本当に忙しかった し、決して若くないし、自分の体を大事にしようと思ってスーパーシート 251 に乗ったんです。そうしたらお隣に乗った方が、なんとあの長嶋茂雄さん なんですね。 「あのぉ、長嶋さんですね」 。聞くことはないですよ。そのと おりの顔してるわけですからね。それで、これと同じリーフレットを出し て、 「私は決して怪しい者ではありません。 」シナリオライターとして、変 なセリフを使っているなと思いながら言いました。こういう活動をやって おります。本職としては、ちょうど『翔ぶが如く』という番組を書きまし たと言ったら、 「あっ、申し訳ありませんけれど、見ておりません」 。それ はそうですね。夏、同じ 8 時台ですから、喧嘩ですよ。見ているわけがな いです。あっ、そうですか。じゃ、その前に『3 年 B 組金八先生』という のは。「あっ、あれはいい番組です。うちの子供にみんな見せました」 。こ れに力を得て、「すいませんけど、きょうお帰りになって人に会うのでな かったら、そのネクタイを」と言ったら、気持ちよくくださいました。こ れもそのエピソードを話して売りました。 そういうお金を全部つかんでカンボジアに行って、第 1 校目ができて、 以来ずっとやっております。 11 体験して分かり、さらに行動する このリーフレットの表と開けた右上に、オレンジの T シャツを着ている のが JHP の学生諸君です。このブランコを学生君はつくるわけです。た かがブランコ、されどブランコです。最近、学生君に「悪いけどハンマー 取って」と言うと、道具箱を見て「どれがハンマーですか」と聞かれたり します。それは、お勉強第一ならばなかなかわかりませんよね。釘をたた けということで、指たたくんですよ。日本語わかったかのなって思います がね。そうかと思うと、釘が抜けないって騒いでるんですよ。どうしてっ て思うと、釘抜きって、こういう格好していまして、先が 2 つに分かれて いる。そこに釘の頭を入れて、上にひっぱっているんですよ。いま笑って くださったのはお年を召した方だけ、学生は全然分かってないね。これを 「こうやってごらん」とやったら、 「あっ、抜けました。こういう使い方も あるんですね」と言ったのは、某国大 4 年生の男子でした。「君、これは ね、テコの原理といって、中学で習っている、高校で習っている。けれど 252 も、これは大学入試に関係ないから、君は、教科書にあった問題と、今生 きる知恵として一致してないのだ。だから、これで 1 つ覚えてよかった ね」とは言いましたけれど、私は、その子の母親ならば、よそ様に向かっ て、うちの子は釘抜きが上手ですと自慢するよりは、英語が一番ですと言 いたいですよ。そこにはやっぱり今の、勉強していく成績主義、そういっ たところの矛盾とか悩みというのは、みんな大人が抱えているのじゃない かと思います。 そういうことの中で、1 か月いろんな学生諸君が頑張ってやっています。 物のないところで頑張ると、やっぱり、別の時でも素晴らしい力を発揮す るんです。何回目だったでしょうか、1994 年冬の活動が終わって帰って きた後、阪神に大きな地震がありました。そのとき学生たちは、阪神にボ ランティアに行ったんですが、あのときにマスコミはすごいネーミングを しまして、「ボランティア難民」というんですよね。というのは、しらけ ている日本の若者と言われていたけれども、テレビであのすさまじい被災 地の様子を見て、自分も役に立てばと思って駆けつけたんですよね。駆け つけたけど何も専門技術を持って行ってないわけで、 「何かやらせてくだ さい」と言われても、区役所の人自体が被災者ですから、何をどうしてい いかわからない。という状況の中で、カンボジア、その後ユーゴを経験し た JHP の学生たちは、やっぱり一味違いましたね。私はテレビ育ちですか らそういうことをあえて言うんですけど、見ている画面の中から何をどう 見るかという訓練をちゃんとやりなさいと言いました。街は燃えている。 ということは、自分が寝る家がないのだ。じゃ、どうするか。寝袋を持っ ていこう。水が出てない。飲める水は回ってくるだろうけど、洗濯ができ ない。じゃどうしたらいいだろう。電気が来てない。じゃどうしたらいい だろうということで、私たち JHP の若者は、リュックサックに懐中電灯、 トランジスターラジオなどなど必要なものを全部背負って出かけて行きま した。だから本当に一味違う。 そして長野の県知事をしている、このへんにホクロがあって、ブローチ つけている知事さんがいますけど、あの方、私たちが行っているときに、 バイクでいろんなものを配って歩いていました。本当に素晴らしかったで す。そうすると「ありがとう、ありがとう」と言ってくれます。言われる 253 ということはすごく嬉しいけど、言われる場所にも絶対必要なものってあ るわけですよね。それはトイレ掃除なんです。それはカンボジアでイヤと いうほどやってきました。信じられないでしょうけど、カンボジアの 7 割 の学校にまだトイレがありません。だから私たちがつくった学校には必ず トイレをつくります。必ず井戸をつくります。これでワンセットですね。 そうすると、不自由な中でいかにトイレをきれいにしていくかというの は、いや応もなくそこで身につけてしまったから、阪神で役に立ったとい うことで、これは本当に学生諸君がよくやってくれて、その中で、お世辞 を使うつもりはないのですけど、明大生 5 人組というのは本当によくやっ てくれました。 交通がマヒしてしまって、自転車が必要だということになったので、た またま尼崎に知っている人がいたもので、そこに自転車を売っていると ころはないかと言ったら、ここのスーパーにあるという情報なので、とに かく出発しろと言った。第 4 陣は明大生 2 人、4 年生です。卒業試験をか けてやっているわけです。途中から電話かけてきて、そこで降りたら、次 の路地を行くと自転車屋があって、1 台幾らで売っているから買えと指令 すると、それを探し当てて買って、背負っていった救援物資をその荷台に しっかりくくりつけた。あんまり重くて逆立ちしちゃったという、おかし な話もあるんですけれども。そこから先に行ったらもう何もなくなると いう見極めがついたところで、必ずご飯を食べておきなさいと言いまし た。本当に不思議で、大阪ではこうこうと灯りをつけているのに、西宮か ら先は真っ暗という本当に不思議なところでしたから、西宮より前の食堂 へ入ってご飯食べていたら、「お兄ちゃんたち、どこから来たの」と聞か れ、感心だねと、ただでご馳走になってしまいましたという報告まであり ましたけれども、そのときの明大生たち、よくやってくれて、それぞれ違 うところに進路を、その活動の中から求めています。法学部で政治家を目 指したのは、いま大阪の府会議員に 1 人います。あとは新潟の県会議員に もなっている。この間は小平の市会議員にも、これみんな同期の明大生で すけど、他にも、学校の先生になっていたり、看護婦さんとして途上国に 行ったり、真剣に自分たちの道を探して、素晴らしいなと。こういう若い 人たちと一緒に付き合いができるという、こんなステキな老後があるとは 254 思いませんでした。 12 おわりに でもときどきは、本当に大変なこともあるのですよ。だから、みんなの 記録を 1 つの本にまとめてあります。『カンボジアから大震災神戸へ』と いう本で、これはこちらに置いていきます。学生たちが本当に自分の言葉 で書いたものをここに収録しておいたのです。でも、この本はあまり売れ ない。だからといってひがんだってしょうがないのですけれど、一歩一歩 やっていくしかないのだと。そういう図書館にきょう呼んでいただいて、 本当に嬉しかったです。 1 時間半というのが、きちんと話せなかったので大変申し訳ないと思い ながら、一応時間がまいりましたので、ここで終わらせていただきます。 ありがとうございました。(拍手) どうか、面白いなと思ったら JHP に参加してください。全部の人をカン ボジアに連れていくというわけにはいきません。けれども、私の楽しみは 若い人たちに大いに悪口を言えることです。 「それで明大生なの」なんて いびるのが、快感なんですよ。今ここで言うと、すごくムッとされてしま うのですが、カンボジアやユーゴで言うと、みんな素直に聞いてくれます。 杉田祥恵さん、どこにいる? 立ち上がって。あ、いましたね。この人は、 カンボジアでも本当に頑張って、ユーゴスラビアのゴラジデというとんで もない大変なところへ行って、勝手に「美少女隊」という名前をつけ (笑)、 もう 1 期上の明大の女子学生、日本女子大、それから弘前大などと派遣さ れて、帰還難民の家族のために羊小屋をつくってきましたが、今度卒業で、 全然別の就職を考えている。それはそれでいいと思います。 鶴森君、来てたね。この人の大学は、何か難しい名前だからよく覚えて ないんだけど、何とか開発何とか大学というところです。 チドリさんは、あなた、どこの大学。(会場より:武蔵工業) 武蔵工業、 工業と言ったって、コンクリートもろくにできないということでね。 ブランコをしっかり立てるには、コンクリートできっちり止めないとい けないんですよ。だけど、みんなコンクリートはミキサー車が持ってくる 255 ものだと思っているんですよね。 「どこにそんなの走ってる?」と言うと、 初めて愕然となって「どうするんですか」と言うから、「つくるのよ。明 大じゃ教えてくれないの、こんなこと」って、ひどいことをわざと言える のですね。 けっこう年配の方も参加してくださって、50 歳以上の人を学生君が、愛 を込めて「半世紀組」と呼んでくれています (笑)。こういう人たちがいな いと、本当に危ないですよ。食べるものひとつ、それは食べちゃいけない とか何とかという意味で。そういうところに行くと、非常に素直に年長者 の言うことを聞いてくれます。日本の中で下手に悪口を言うと、グサッと 来たりしますけれども、そういうところだと本当に信頼してくれる。それ にお互いの喜びがあるから、JHP のほうは続いているのだろうと思いま した。 少しよけいなことまで話しました。ありがとうございました。 司会 小山内先生、ありがとうございました。本日は多数の方の出席をい ただきまして、ありがとうございました。(了) 256