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当日配布資料
2008 年 9 月 20 日(土)
9 月修士論文構想発表会
13 世紀初期フランドルとフランス王権
――摂政下のフランドルをめぐって――
東北学院大学大学院
文学部
ヨーロッパ文化史専攻
博士前期課程 2 年
大沼友行
1.はじめに
歴代のフランドル伯は、1066 年のノルマン朝成立以来、ブリテン島とノルマンディーを
併せ持つイングランド王に脅威を感じ、主君であるフランス国王寄りの政策を取っていた
ことが知られている。
こうしたフランドル伯の伝統的な政策を転換したのが、ボードワン 9 世(フランドル伯と
してはボードワン 9 世、エノー伯としてはボードワン 6 世/在位 1195-1206、ラテン皇帝と
してはボードワン 1 世/在位 1204-1206)であり、従来の見解では、1214 年のブーヴィーヌ
の戦いでフランドル伯がフランス国王フィリップ 2 世(オーギュスト/在位 1180-1223)に敗
れるまでの間、一貫してイングランド寄りの政策を取っていたと考えられることが多かっ
た。
それは、ブーヴィーヌの戦いとそれに前後する戦いにフランスが勝利することによって、
ルイ7世以降続けられてきた大陸におけるイングランド領の回収に一応の終止符が打たれ、
以降1世紀に渡るヨーロッパにおけるフランスの優位を確立することに成功し、フランド
ルにおいてはこの時期以降フランス王権の力が拡大し、都市が大きく発展していったこと
とは逆にフランス王の介入をたびたび招き、後のフランドル伯領とエノー伯領の分離の遠
因へとなったことが、研究者の注目がとかくブーヴィーヌに偏りがちになっていた原因の
ひとつと考えられる。
しかし、実際は第 4 回十字軍に参加していたボードワン 9 世が亡くなったとの報が 1206
年にフランドルにもたらされたのを契機にして、フランドル伯の摂政であったナミュール
伯フィリップとフィリップ 2 世の急速な接近が見られた。この時期のフランドル伯領はイ
ングランドとの毛皮貿易に大きく依存していた都市のイングランド国王支持を除いて、摂
政をはじめとした貴族はフランス国王支持となっていた。そしてその状況は、ボードワン 9
1
世の死んだ 1206 年から 1212 年にフランドルの女性相続人であったジャンヌ・ド・フラン
ドルとフェラン・ド・ポルトガルが結婚したことによって新たな展開を見せるまで続いた。
この時代においては、それまでの独立性の高かったフランドル伯領におけるフランスとの
関係とは違いフランドル伯領においてフランスが非常に大きな影響力を誇っていた。
この時期のフランドルに関する代表的な研究として Dept の研究があげられる。Dept に
よって、はじめてボードワン9世期にイングランド党が形成されたことが指摘され、それ
に対応するフランス党と併せて、各時期ごとの各党派の盛衰や変化が明らかにされている。
また前述のジャンヌ・ド・フランドルの結婚に代表されるこの時期のフランドル内におい
て、フランス党が大きな役割を果たしていたことが併せて指摘されている。
Dept の研究は今日でも、この時期のフランドルの状況を考える上での土台となっており、
例えば、John W. Baldwin は、Dept の研究に依拠してフランス国王フィリップ2世がフラ
ンドル内に行った貨幣知行(fief-rente)に着目した研究を行っている。
本報告では、Dept の研究を補完する形で、ジャンヌ・ド・フランドルに大きな影響を及
ぼしたフランス党などのフランドル伯領内の党派に関して、Dept の研究以降に刊行された
ボードワン9世の証書集 De Oorkonden der Greven van Vlaanderen(1191-Aanvang
1206)を用いることで、ナミュール伯の摂政下で各党派を形成した人物たちがボードワン 9
世期にどのような関係であったのか。また、ナミュール伯の摂政下で争われたイングラン
ド党とフランス党の争いにボードワン 9 世期のフランドル内の内政構造が反映していたの
かどうかを明らかにしたい。
また、本報告ではフランドル伯はボードワン 8 世以降、エノー伯も兼ねたが、エノー伯
領については検討の対象外とする。
2.ボードワン 9 世の第4回十字軍参加以前のフランドル
ボードワン 9 世は 1197 年 9 月にイングランド国王リチャード 1 世(在位 1189-1199)との
間にフランス国王フィリップ 2 世を共通の敵とする同盟を結んだ。この同盟を契機にフラ
ンドル伯領内で貴族の親英勢力であるイングランド党が形成された。初期のイングランド
党はその形成をボードワン 9 世の存在に大きく依存していた。この同盟の背景には、当時
のカペー朝が王権をフランドルとの国境地帯にまで拡大してきており、イングランド以上
の脅威となっていたことが理由としてあげられる。また、その背後には封建的主従関係や
商業的関係を通してイングランドと密接な関係を築いていたフランドルの貴族や都市商人
がいたのは明らかである。
こうしてフランスとの戦端を切ったフランドル軍は、1198 年までにボードワン 9 世の姉
でフィリップ 2 世の妻であったイザベル・ド・エノーの婚資であったアルトワの北部を占
領した。しかし、ボードワン 9 世の弟のナミュール伯フィリップがフランス国王の捕虜と
2
なったため、1200 年のペロンヌ条約で和解し、改めてフランス国王の主権を確認した。こ
の時期にリチャード 1 世に続いて即位したジョン王(在位 1199-1216)は、フランドル伯領で
積極的なプロパガンダを展開し、1200 年と 1201 年には、ナミュール伯をはじめ多くの貴
族や騎士が貨幣知行を受け取っている。
フランドル内で多くの貴族や騎士が貨幣知行を受けていた理由として、フランドルの貴
族階級で貧困化が起きていたことが理由としてあげられるかもしれない。そしてフランド
ルにおける十字軍の隆盛による十字軍参加によるさらなる困窮化がフランドル内で行われ
たイングランドとフランスの貨幣知行に拍車を掛けた一因になったとも考えられる。
1202 年 4 月に、ボードワン 9 世はフランスとの関係が安定したこともあり、2 番目の娘
のマルグリットを妊娠していた妻のマリー・ド・シャンパーニュと 2 歳になるジャンヌを
残して第 4 回十字軍に旅立った。
ボードワン 9 世に限らず、フランドルにおいてフランドル伯やその家臣たちを見ると、
重大な国内問題あるいは不安定要素を抱えつつも十字軍に参加していた様子が見られる。
フランドルの家系が第 1 回十字軍から第 4 回のすべての十字軍に参加している十字軍士を
代々輩出している十字軍家系として知られていたことを考慮すると、12 世紀から 13 世紀の
フランドル伯領の伯や貴族が、十字軍に対して特別な意識を持っていただろうことが指摘
される。また、十字軍に参加するのに際して、ボードワン 9 世は何の予防策抜きに数年の
間フランドル伯領を離れることはできなかった。申し分なくフィリップ 2 世との間で和解
は成立していたが、ボードワン 9 世はこの主君を警戒する必要があり、フランドルへ介入
するための機会を与えないようにしなければならなかった。そのため、ボードワン 9 世は
教皇のフランドル伯領への保護の約束を受けてからフランドルを離れた。
3.ボードワン 9 世の第4回十字軍参加以降のフランドル
ボードワン9世と同時期に十字軍宣誓を行ったマリー・ド・シャンパーニュは、マルグ
リットを生んで、パレスティナに旅立つまでの間フランドルをボードワン9世の代わりに
統治したことは、トゥルネー司教エティエンヌがトゥルネーに律修司教座聖堂参事会の修
道院のための教会を建てる許可を与えた証書の中でも言及されている。
1203 年あるいは 1204 年に伯夫人マリーは、マルグリットを出産後にすぐにマルセイユ
に向かい、そこでパレスチナへ向かう船に乗船した。マリーは、アッコンに到着し、おそ
らくはボードワン9世に再び会うことなく、ペストによって亡くなっている。
伯夫人マリーが旅立って以降のフランドル伯領は、予てからボードワン 9 世が決めてい
た、ナミュール伯フィリップによって統治され、フランドルの摂政権とともにジャンヌと
マルグリットはナミュール伯フィリップの後見下に置かれた。
3
4.ボードワン9世の死とその影響
1204 年 4 月 12 日、第 4 回十字軍は当初の目的とは異なり、ビザンツ帝国の都コンスタ
ンティノープルを占領した。この地に樹立したラテン帝国の初代皇帝としてフランドル伯
のボードワン 9 世が選出され、5 月 16 日には聖ソフィア大聖堂にて戴冠式が行われた。
戴冠式の後、新皇帝ボードワンはすぐに小アジア遠征に取り掛かるが、亡命ギリシア人
の強い抵抗に遭い征服活動は困難を極めた。この苦境の中、信仰深いキリスト教とである
ブルガリア王カロヤン(あるいはヨハニッツァ/在位 1197-1207)が協力を申し入れた。しかし、
ラテン人たちは東ヨーロッパからの援軍を「未開人」であると軽蔑し、傲慢な態度をとっ
たため、1万4千人のブルガリア軍はそっくり敵側に回った。1205 年 4 月、アドリアノー
プルの戦闘で大敗したため、皇帝ボードワンは捕虜となり、ブルガリアの都タルノボに連
行された後、部下に看取られることなく獄死した。
1206 年にフランドルにボードワン 9 世の死の知らせが届いたとき、ナミュール伯フィリ
ップは摂政の地位にあった。ナミュール伯は、今までジョン王から莫大な貨幣知行を受け
ていたにもかかわらず、1206 年 6 月のポン・ド・ラルシュ会談を契機として、急速にフラ
ンス国王に接近していった。この会談で、ナミュール伯は、フィリップ 2 世に臣従礼を行
い、フィリップ 2 世の娘との婚約を決めた。そして、フランドル伯の女性相続人であるジ
ャンヌとマルグリットを国王の同意なく結婚させないことに同意している。
またナミュール伯フィリップは、最終的に 2 人の女子相続人をフィリップ 2 世の後見下
に委ね、1208 年には 2 人をパリに送っている。
ナミュール伯フィリップとフィリップ 2 世の接近が見られたこの時期から 1212 年まで、
フランス国王は貨幣知行をフランドル伯領内に行い、フランドルの有力貴族と直接の主従
関係をもち、その結果として摂政の権威を大きく浸食した。John W. Baldwin によると、
1212 年までには、フランドルでのフランス国王の貨幣知行は全貨幣知行の 49%にも上った。
1206 年以降、摂政ナミュール伯フィリップがフランス寄りの傾向を強める中、多くのフ
ランドル貴族もこれに追随し、フランス党を形成した。もちろん少数ながらイングランド
党にとどまった貴族もいたが、その多くは貴族の次男や三男であり、あるいは貧しい騎士
たちであり、フランドルの動静を左右することはなかった。
こうした状況は、1212 年にジャンヌがポルトガル国王サンチョ 1 世の 3 男のフェラン・
ド・ポルトガルと結婚したことによって、新たな局面を迎えるまでしばらくの間続いた。
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4.史料分析
z
ボ ー ド ワ ン 9 世 の 証 書 集 W.Prevenier, De Oorkonden der Greven van
Vlaanderen(1191-Aanvang 1206)を用いて分析。
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分析対象
Philippe de Namur(Namur 伯、ボードワン 9 世の弟、摂政)
Mathilde de Portugal(フランドル伯フィリップ・ダルザスの未亡人、フェランのおば、
アルトワを除く南フランドルを寡婦財産として領有)
以下はフランス党(ジャンヌの結婚時)
Jean de Nesls(Châtelain de Bruges)
Gautier d’Avesnes
Gilbert de Bourghelles
Siger de Gand(Châtelain de Gand)
Jean(Châtelain de Lens)
Baudouin de Comines(Châtelain de Aire)
Baudouin de Comines(Châtelain de Aire の息子)
Michel de Harnes
Roger(Châtelain de Lille)
Sybille de Wavrin
Hellin de Wavrin(息子)
Guillaume de Béthune
Guillaume(Châtelain de St.Omer)
Alard
Renaud de Croisilles
Arnoul d’Audenarde*
Rasse de Gave*
*もともとはイングランド党の首領であったが、1208 年からフランス党になっていたが、
フェランのヘント入場の妨害によって、フランス党を追放され、ジョン王の封臣に復
帰。
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5.結論及び今後の展開
z
この時期のイングランド党とフランス党の構成員は、その時期の状況によって変わる
ため、各党派を構成した人物たちに明確な共通点や差異を見出すのは難しいのではな
いかと思う。しかし、なかには比較的一貫して一つの党派に所属していた人物もいる
ため何らかの傾向が見いだせるのではないだろうか。
z
今 後 の 課 題 と し て は 、 W.Prevenier, De Oorkonden der Greven van
Vlaanderen(1191-Aanvang 1206)を読み進めていくことと、ボードワン 9 世に研究に
関しての考察がまだ不十分だと思われるので検討の必要がある。
6
参考文献
一次史料
Flandria Generosa Continuatio Claromariscensis, Monumenta Germaniae Historica,
Scriptores, Ⅸ
二次文献
Dept,G., Les influences anglaises et francaises dans le comte de Flandre au debut
du ⅩⅠⅠⅠe, Ghent: Van Rysselberghe & Rombaut, 1928
David Nicholas. The Growth of the Medieval City, From Late Antiquity to the Early
Fourteenth Century, London: Longman. 1990
Robert Fawtier. The Capetian Kings of France, Monarchy and Nation 987-1328,
Paris,1958
John W.Baldwin. The Government of Philip augustus, Foundations of French Royal
Power in the Middle Ages, Oxford, 1986
日本語文献
佐藤彰一 池上俊一 高山博 編
『西洋中世史研究入門』
柴田三千雄 樺山紘一 福井憲彦
『世界歴史体系
樺山紘一 川北稔 岸本美緒
『岩波講座
編
フランス史1』
世界歴史8
山川出版社
ヨーロッパの成長』
岩波書店
江川温 服部良久 編
『西欧中世史
朝治啓三 江川温 服部良久 編
中
成長と飽和』
『西欧中世史
下
ミネルヴァ書房
佐々木克巳 訳
プティ=デュタイイ,Ch
堀米庸三 編
『中世都市』
高橋清徳 訳
『西洋中世世界の展開』
危機と再編』
創文社
『西洋中世のコミューン』
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森本芳樹 藤本太美子 森貴子
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藤井美男 田北廣道 福留久大 編
R.H.ヒルトン
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『中世封建都市
英仏比較論』
刀水書房
山田雅彦
『中世フランドル都市の生成』
ミネルヴァ書房
2001 年
斉藤絅子
『西欧中世慣習法文書の研究』
九州大学出版会
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ジョルジュ・デュビー
1998 年
岩波書店
北西ヨーロッパ』
岩波書店
東洋書林
1973 年
『ヨーロッパ中世社会史事典』
『西欧中世形成期の農村と都市』
1995 年
1970 年
A・ジェラール 池田健二 訳
森本芳樹
1998 年
1995 年
ミネルヴァ書房
ピレンヌ,H
1995 年
松村剛 訳
『ブーヴィーヌの戦い』
7
平凡社
2000 年
1992 年
アンリ・リュシェール
木村尚三郎 監訳
福本直之 訳
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リップ=オーギュストの時代』
渡辺節夫
『フランスの中世社会
王と貴族たちの軌跡』
『フランス中世政治権力の研究』
東京書籍
2006 年
吉川弘文館
東京大学出版会
1990 年
1992 年
論文
鈴木道也 「中世盛期フランス王国の慣習法――北東フランスを中心として」
『西洋史研究』
新輯 22
1993
「ルイ 9 世の裁判を巡る一考査―アンゲラン=ド=クシー裁判(1259 年)を中心
に―」『埼玉大学紀要』第 49 巻代号
東出功
「フィエフ=ラント
考序」『北大史学』8 1961
「フィエフ=ラント
考」
『史学雑誌』73(1)
1964
「十四・十五世紀の西ヨーロッパ諸国」
『岩波講座
世界歴史 11 中央ユーラシア
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西村由美子
岩波書店
1997
「12 世紀フランドルの政治的転換期―暗殺・復讐そして反乱へ―」
『史学雑誌』第 106 編 第 1 号
高橋陽子
2000
1997
「サン=トメールのハンザに関する一考察―13 世紀を中心に―」
『西洋史学』通号 164
1991
「フランドル都市の「ブーヴィーヌの戦い」」
『西洋中世の秩序と多元性』
法律文化社
1994
「1225 年の偽ボードワン事件―フランドル・エノー伯領における―」
『富澤霊岸先生古稀記念
関大西洋史論集』
富澤霊岸先生古稀記念会
1996
「フランドル・エノー伯領の十字軍熱―第三回十字軍を中心に」
『史泉』第 91 号
2000
山瀬善一 「十三世紀末までのフランドル伯の財政」
『国民経済雑誌』第 122 巻 6 号
1970
8
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