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ヨット部史
香川県立高松高等学校 ヨット部史 高松高校ヨット部OB会 編 創部60年にあたって 香川県立高松高等学校 校長 土居 直哉 本校創立七十周年を記念して昭和三十八年に刊行された玉翠会報「玉翠記念特 集号」には、ヨット部草創の頃のことが、「本校ヨット部は発足して十年であ る。最初は生徒会の部としては認められず、同好会として多くの困難な条件と 戦ってきたことは先輩の苦しくまた楽しい思い出としてよく聞くことである。 昭和三十三年ようやく生徒会の部として認められ、運動部の末っ子として最低 の予算で出発した。当時の部員の意気込みはそれとは反比例で大的場での練習 に一段と励みが生まれ、今日の栄冠獲得の礎石をうち立てたのである」と書か れています。この年、ヨット部は、佐渡ヶ島で行なわれた全国高等学校ヨット 選手権大会で男子S級優勝・A級九位、女子S級九位・A級三位の成果をおさ め、また、国体にも県代表として出場するなど華々しい活躍をしました。 昭和三十三年度の生徒会誌「玉翠」に掲載されているヨット部の紹介記事は、 「シーマンスピリットを持った我がヨット部が今年初めて卒業生を送り出すこ とになった」と力強い文章で始まり当時の意気軒昂な様子がよく窺えるもので すが、爾来、毎年発行される「玉翠」には、部員のヨットにかける熱い思いが 書き連ねられてきました。そこには、海と風の自然を相手に競技する厳しさと 清々しさ、ヨットの魅力を追求し続けてきた者たちだけが分かち合うことがで きたであろう喜びと感動を読み取ることができます。それは、時代がどのよう に変わろうと、高高ヨット部に籍を置いた者たちがともに抱き大切にしてきた 思いに違いありません。 校友会各部の活動の歴史は、本校創立百周年にあたる平成五年度に、生徒会 の三年間にわたる努力によって「校友会史」としてまとめられました。活動の 詳細が不明な事柄もまだ多く遺されていますが、未来への飛躍を期するために は過去に深く学ばなければなりません。この度、ヨット部創部六十周年にあた り記念誌が刊行されますことは誠に意義深いことであり、ヨット部のますます の発展のために大いに裨益するものと信じております。 ヨット部が半世紀を超える長きにわたって確実な歩みを続け、輝かしい足跡 を遺してまいりましたことは誠に喜ばしく心から敬意を表しますとともに、そ の活動を温かく支えていただいております先輩諸氏、関係の皆様方に厚くお礼 申し上げまして、お祝いのことばといたします。 顧問の先生方 お名前 徳田 一雄 様 物故 岡田 一 様 物故 仲野 昭 様 物故 赤沢 斎 様 物故 今谷 浩造 様 山口 純 様 十河 秀雄 様 今西 弘 様 大橋 晶 様 溝内 孝 様 業天 隆士 様 川田 倫寛 様 坂本 浩司 様 大平 徹 様 長尾 裕隆 様 松岡 宏一 様 宮宇地 幸喜 様 玉垣 光伺朗 様 真下 拓也 様 菊井 浩之 様 安間 利枝 様 鎌田 高明 様 福家 寛幸 様 当時を振り返って 十河 秀雄 顧問時代のことを書いてほしいと依頼されたが、何分30余年も前のことで記憶も曖昧 になっており、しかも引っ越しを3回したこともあって当時の資料や記録もほとんどなく 断片的にしか書けなかったこと、お許しいただきたい。 私とヨットとの係わりは、昭和49年4月校内異動で全日制に変わった折、顧問の一人 に名を連ねたのが始まりである。後で聞いた話ではあるが前年までの勤務地が関係してい たらしい。高松高校には全日制、定時制、通信制の3つの課程があるが、当時は直島にも 学校があった。定時制の分校である。直島は今でこそ芸術の島として有名になっているが 当時は精錬所と漁業が中心で、私は教員生活の初めの3年間をここでお世話になった。こ のことから海には相当の愛着があるだろうとのありがたい配慮をいただき顧問になったと いう本当のような嘘のような話である。また、顧問になって最初に言われたことが、 「活動 場所が海であることから一歩間違えれば命に関わる大事故になることもある。穏やかな日 は良いが荒れ模様の時には何はさて置きハーバーに」とのヨット部ならではの心構えであ る。この2つだけは今も覚えている。 2年目に山口先生からヨット部を任されたが、技術的なことは何にも分からず、もっぱ ら堤防から双眼鏡で眺めるのが私の役目であった。他校が顧問(高商は冨永・宮脇、工芸 松本、高一矢野の各先生)から指導を受けていることを考えると生徒には申し訳ないと思 いつつ、最初は上級生が下級生に、その後は部員同士・クルー同士が議論を重ね試行錯誤 しながら腕を磨いていく、それが高松高校ヨット部のすばらしいところだと勝手に考え感 心して見ていた。ただ、県総体で1位・2位になりながら2週間後の四国総体に敗れ、全 国大会に出場できず悔しい思いをしたのは、この当たりに原因があったと反省している。 特に、昭和50年入学の井下君の代は11人も入部、一つ上の白石君の代も7人と賑やか で、部内での競争も激しく総体では立派な成績を上げ(卒業アルバムにはカップと賞状を持 った姿)、 『今年こそは全国』と期待が大きかっただけになおさらであった。ただ、この代は 女子ペアー(樋口・馬場)が国体に出場。県代表に決まってからは、連盟関係者の熱心な 指導もありメキメキと力を付け、国体では上位(一桁?)に入りみんなで歓声を上げたこ とが思い出される。38年間の教員生活でも国体を経験したのはこのときだけであり、名 前だけの顧問でありながら良い経験をさせていただいたと、感謝の気持ちで一杯である。 心配したこととしては、昭和52年春のことが挙げられる。新入部員が女子2名しかい なかったことである。技術指導を生徒に頼っていた関係上、この人数では来年度はどうな るのだろうかと気を揉み、このままじり貧になり廃部になったりしないかとさえ思った。 授業後の教室で、佐藤君が「先生が教えられるように練習するって本当ですか」と真顔で 尋ねたほど深刻な状況だったのである。 大的場への道が高架橋越えの一本しかなかった当時のことを考えると今では大変便利に なっている。それだけ時間が経ったということであろうか。現在の活動を聞くと、当時の 心配が杞憂に終わったことに安堵している。生徒たちに感謝するとともにヨット部関係者 の益々のご活躍を期待する次第です。 約20年前のヨット部顧問 業天隆士 約20年前の高高ヨット部顧問の特権(以下順不同) (1) まったくヨットとは何たるかを知らないまま、チャーリーの手下となり、大的場の海にほりだされる。 (2) もともと船には弱い方なので、何度か大的場の海に撒餌をしそうになる。 (3) 富永、矢野の二大御大が、ロープをズボンのバンド代わりにして、ジョナ2に立つ姿を拝める。 (4) 女木島までジョナ2で高松○業の生徒を追いかけて行ける。 (5) ヨット部顧問にとっては、ゴールデンウィークなど存在しないことを思い知る。 (6) 肉体疲労は月曜日が最大で、金曜日が一番軽いことに気づく。 (7) 大的場の海全体が巨大なトイレであることに気づく。 (8) 大的場の海底に何度も供え物(時計、眼鏡等)をする。 (9) ヨット連盟にかりだされ、世間一般の会議がどういうものかを思い知る。 (10)わずか、一年でチャーリーに逃げられて正顧問になる。 (11) 「64総体」なるものが、高松で開催されることを知る。 (12) 「64総体」が「元年総体」に化ける。 (13)総体の準備で市役所で仕事をしていて、駐車違反で切符を切られる。 (14)○○の救助艇が、沈没するのを目撃する。 (15)宇高連絡船が、巨大で、速度が速いことを身をもって思い知る。 (16)日焼けサロンにいかなくても、真っ黒になれる。しかし上には上があることを知る。○○工○高校の安 ○先生は、焼けているというより「焦げていた」 (17)海上保安庁へ菓子折りを持って、お詫びに行ける。 (18)色々な人に謝ることが、当たり前になる。(生徒が課外さぼって、ごめんなさい) (19)ほぼ毎年全国総体へ連れて行ってもらえる。 (20)夏休みにはいると全国総体へ行く準備で前半がつぶれ、全国総体が終わったら、ほとんど夏休みが終わ っていることに気づく。 (21)同僚の○○先生の乗ったボートが霧の中、一時行方不明になる。 (22) 「龍ちゃん」食堂の常連になる。(体の約半分は、学食と龍ちゃん食堂でできていた。 ) (23)元年総体が終わったと思えば、次は国体だという。(堪忍してくれ) (24)高体連の○場先生にえらく、おこられる。 (そりゃ、おこられるわな) (25)連盟の○○さんに、行方不明のお金について、濡れ衣をきせられそうになる。 (26)ヨット部顧問にとって、冬場はパラダイスであることを知る。(しかし、有効には時は消費されない) (27)日本海のうねりというものを思い知る (28)生徒と一緒に救急車にのる (29)国体の記録部がらみで、「MS Access」に妙に詳しくなる。 (30)結果として、総体2回、国体1回とかかわることになる。 ということで、勝手なことをつらつらと書きましたが、当時の「生徒のみなさん」(現在では「若年~中年?の 皆さん」)は、勉強にヨットにとよく頑張っていたと思います。私も普通の部活では、得られない(どこの部活 で船が沈む?)貴重な体験をさせて頂きました。つまらないものを書いてしまいましたが、 (締切がもうすぐだ) 、 皆さんお元気で、お過ごしください。 創部60年に寄せて ~一黄金時代を共に過ごせて~ 元顧問(平成三年度~七年度) 長尾裕隆 高松高校ヨット部創部 60 年、おめでとうございます。 私は、平成元年四月に高松高校に新規採用で赴任し、平成三年四月から平成八年三月までの五年間、 ヨット部顧問をさせていただきました。校内の男子職員の中では一番若く、それまで顧問をしていた吹 奏楽部・オーケストラ同好会でも、音楽の抜井先生の下でちょこまかしていただけなので、暇だと思わ れていたのでしょう。しかし、私としては、父親が船乗りでしたので、これも運命ではないかと勝手に 思い、楽しくやらせていただきました。ただ、顧問と言っても、始めは前年まで顧問をされていた業天・ 坂本先生の後ろにくっついていただけでしたし、両先生の異動後は、OB でもある宮宇地先生が来られ たので全くの任せきりで、大したことは何もしておらず、顧問として大きな顔は決してできません。 しかし、当時在籍していた部員たちに関して言えば、長い高松高校ヨット部の歴史の中でも黄金時代 の一つと言っても過言ではないと思います。筆頭はやはり、東四国国体少年男子スナイプ級で優勝した 尾藤宏親・上田武司君でしょう。国体の時私は計時担当として本部船に乗っていましたが、最終上に向 かう二人の艇を「なんでそっちに行くのか?」と思いながら見ていたこと(作戦だったらしいのですが) を今でも覚えています。そう言えば、鮫騒動で一時大的場海面が使えず、国分寺の B&G で練習をして いた時に、上田君が交通事故にあい、随分心配したということがあったことを今思い出しました。 また、私が顧問になった年に最上級生だった、山岡敏之・吉峰秀樹・北泉秀樹・藤野亜紀・元木千晶 君も非常に印象深いです。彼らは全員全国総体に出場しました(ちなみに私はインターハイの引率は最 初の山岡君の年の静岡県三ケ日町しか行っていません) 。吉峰君はその年の国体にも出場したはずです。 彼はその後オリンピックにも行こうかという輝かしいキャリアの持ち主ですし、山岡君も確か全日本ス ナイプで優勝したことがあったのではないかと記憶しています(山岡君は補習科時代、いつ見ても、教 室で姿勢を正して勉強していた姿もとても印象に残っています)。いずれにせよ、最初に見たのが彼ら だったというのはかなり幸運だったと思わざるを得ません。その一学年下の学年は私が初めて正担任に なって受け持った学年で、田尾和久・竹垣繁・多田和央・前川亮と男ばかりの四人でしたが、それぞれ に個性が強くこれまたよく覚えています。彼らも全員インターハイに行きましたし。 私が顧問になった平成三年は二年後に東四国国体を控えていました。顧問になって最初の五月の GW には、運営の練習と称して顧問教員が合宿をしたのには驚きました。強化費も充実し、遠征も大変多か ったと思います。まだ若く独身だったので、遠征には雑用係としてよく同行させていただきました。石 川県羽咋市、山形県温海町、愛知県蒲郡市などこんなことでもなければ行くことはなかったでしょう。 羽咋では、金沢まで用事をしに行き道に迷ったから時間がかかったのを信じてもらえず、やらしいこと をしていたのではないかとからかわれました。温海は、予定していた先生の都合が突然悪くなって、事 前合宿と直前合宿であわせて二週間も現地にいました。苦労も勿論ありましが、選手・スタッフのみな さんによくしてもらい、今となっては得がたい体験をさせていただいたと思います。 他にも、(県総体で優勝したからだったと記憶していますが)ポンツーンから着衣のまま海に放り込 まれて本当におぼれそうになったこと。インターハイ出場がかかった四国水域大会が、毎年ちょうど校 内模試と重なるので、自宅受験をさせてほしい旨の文書を作って、関係の先生にお願いに行くのが少々 気が重かったこと。課外を黙ってさぼって練習に来た部員に業天先生がお説教するのを横で聞いていた こと。国体直前の真冬に、山本悟氏(高商 OB)の操縦するゴムボートの後に乗り水しぶきをかぶって 凍えそうになりながら練習したこと。一人で引率して練習に出たら天候が急変して慌てて帰ろうとして ジョナⅡのペラに曳航ロープをからませて自力航行不能になり最後は海上保安庁に謝りに行ったこと。 等等思い出はつきません。 あの頃とは大的場のハーバーも、ジョナサンも随分変わってしまったと聞いています。しかし、高松 高校ヨット部には脈々と伝統が息づいていると信じています。最後に、顧問をしていた時に強く感じて いたことを述べさせていただいて、結びの言葉とします。 「OB・OG のみなさん。現役部員たちに、ご指導をよろしくお願いします。 」 「ヨット部顧問の思い出~12年間を振り返って~」 ヨット部顧問OB 宮宇地 幸喜 高松高校ヨット部が創部60周年を迎えられますことを、心よりお慶び申し上げます。 私は平成6年4月から平成18年3月までの12年間顧問を務めさせていただきました。 就任当初は、不慣れなことばかりでとまどうことの多い毎日でしたが、かつて自分が現役 時代にお世話になった先生方をはじめとするヨット部顧問の「先輩」方のご指導、さらに はOBの方々のご支援のおかげで、何とか顧問としての仕事を身につけていくことができ ましたことを心から感謝いたしております。 そしてまた多くの素晴らしい選手たちにも恵まれました。そもそも、ヨット部というの は今でも特別な部だと思っています。学校からハーバーに移動し、艇を整備したらすぐに 日没まで海上練習、後片づけ・・・帰宅時間は他の部より少し遅いぐらいかもしれません が、帰宅後に襲ってくる激しい睡魔は、ヨット部ならではのものではないでしょうか。強 風の中や、真夏の灼熱の太陽の下、さらには厳冬の北風が吹きすさぶ中での練習も過酷な ものでした。しかし、それらに決して負けることなく、見事に勉強との両立を果たした選 手たちには、本当に頭が下がる思いです。また、ほとんどの選手が高校からヨットを始め た初心者でありながら、猛練習を経てやがては全国の舞台で戦えるほどの技術を身につけ ていく進歩の過程は実に頼もしく感じられました。 12年間を振り返ると数え切れないほどの思い出がありますが、その中でもやはり平成 10年に行われた地元インターハイは特別な思い出です。地の利の大きいヨット競技で、 地元開催で恥ずかしい成績を残すことはできない、県内各校が「チーム香川」として一丸 となって準備を進めてきました。もちろん選手の強化だけでなく、運営の準備も長期間に わたって進められました。この間、数え切れないほどのOBの方々が、後輩たちのために 力を添えてくださりました。高高ヨット部が世代を越えて、一つになったようなそんな気 が し ま し た 。そ し て 、結 果 は ソ ロ 競 技 で 県 勢 最 高 位 の 5 位 入 賞 を 果 た す こ と が で き ま し た 。 レースの出だしが良くなかっただけに、陸上でこの報告を聞いた時は選手たちの活躍に本 当に目頭が熱くなりました。この時にOBの皆様に買っていただいたFJ1410艇は、 十年以上経った今もレース艇として大切にされていることと思います。 もちろんその他にも、普段の練習レースではなかなか勝つことができなかった強豪相手 に勝利したり、劣勢をはねのけて最終レースでの逆転勝利など予想以上の活躍をしてくれ た後に選手たちと交わす握手は格別でしたし、逆にインターハイ予選や国体予選など、引 退か全国大会かを賭けたここ一番のレースで負けてしまったときなどは本当に悔しい思い をしたものでした。勝っても負けても一つ一つのレースには熱いドラマがありました。 ヨット部の顧問をしながらしみじみと感じるようになったのは、ヨットは選手だけでな く、顧問までも心身共に鍛えてくれる競技なのだなあということです。朝から夕方まで海 上にいること自体、実は相当体力が求められますし、練習の運営も常に天候を確認しなが ら安全面に配慮したり、練習メニューを考えたりしなければならず、その時々に応じた判 断力が求められます。また、インターハイや国体にいけば、県外の様々な学校の先生方と お話をすることができ、これもまた教師としての自分に色々な刺激を与えてくれました。 この12年間で、数え切れぬほどの貴重なものを得ることができたように思います。 選手として3年、顧問として12年の計15年間のヨット部生活は、気持ちの上では自 分の人生の半分以上を占めているように感じられます。自分にとって高高ヨット部は、本 当 に か け が え の な い 存 在 だ と 思 っ て い ま す 。最 後 に な り ま し た が 、高 高 ヨ ッ ト 部 の 今 後 益 々 の発展と、選手たちの更なる活躍を心よりお祈り申し上げます。 ハーバーの思い出 蟻が蝶の羽を引いていくような物、というくらいの認識しか ないままヨット部顧問となり、5年間を過ごした。はじめてハ ーバーに行った時の海上は、水平線が黄砂でかすむ平山郁夫の 絵のような凪で、ずいぶんのどかな部活だなと思ったものだが、 それは我が失敗続きの人生でもトップ10に入るほどの大間 違いであった。 瀬戸内海が喜んでいるのか怒っているのかはよくわからな いが、どういう訳か私はひどく嵐を呼ぶ男であった。本部船当 番で行くとほぼ必ずといっていいくらい荒れまくる。ひどい時 は別の用事でサンポートに来るだけで急に暴風が始まる。 船舶免許を取るとそれはさらに顕著になり、毎回のようにうねる海上で練習しては、レスキューに走り回ると いう有様であった。他校のシーホッパーが沈したまま赤燈台の堤 防2メートルくらいにまで接近して、堤防に30人くらいの野次 馬が集まる中でレスキューしたり、フェリー航路を越えて屋島ま で流れた香大生を追いかけていったこともあった。 人を助けたというのは格好いいが、助けられたこともたくさん ある。ジョナ3にもようやく慣れた頃、係留ロープを外して離岸 のために後進をかけても全然動かない。「はてさて」と思ってい て、ふと「船外機を降ろしたかな」と思った瞬間真っ青になった こともあった。引き潮で北風の強い日、練習終わりに係留しよう として近づいたら風に吹かれてスロープに登った時も。生徒達も まさかジョナ3を押すことがあるとは思わなかったであろう。 ゴムボートをポンツーンに繋ごうとして手を伸ばしたら少し足りず、身を乗り出したら不安定になって、足を 出してポンツーンに飛び上がろうとしてもやっぱり少し足りず、12月24日の海に飛び込んだこともある。着 水の一瞬前に私の脳裏を横切った言葉は、 「実は波紋が出て水面に立てるんだよね~」であった。阿呆である。 しかし、どんな経験も無駄ではないもので、そんな風におそるおそるクロボシ(本部船船長)をしているうち に、空を見て何となくこれからの天気がわかるようになったのは収穫で、海を離れた今も何かと役に立っている。 わかるようになったといえば、海底に潜むイイダコの心もわかるようになった。海面を見て、その辺にいるだ ろうと思って針をドボンと投げるとやはりいて、針に抱きついて上がってきた。家に持って帰って食べようと思 ってレジ袋に入れて助手席において帰路についていると、ハンドルから手を離せないのをいいことに、奴らは袋 から出て助手席をフリークライミングしていたりした。 海というものは、心地がよいものだが、最 善を尽くしたと思うのに全然うまくいかず、 そのもっと上、もっと上を要求してくるもの でもある。海に出るたびに負け続けて、もっ と成熟した振る舞い方はないか、もっといい 対処法がないか、ということを思い続けると いう5年間であった。そう思わされるのが海 の良いところではないかと私は思う。 ある風の強い冬の練習の日に、遠くの海面 でヨットがバランスを崩しては走り、沈して は起こして走り、というのをぼんやり見てい るうちに、ああ、蟻が蝶の羽を引いているよ うだと心から思い、1人でおおいに感心した ことがあった。これもまた収穫である。 (鎌田高明) 第 1 期 昭和 26 年 4月 ~ 昭和 S29-1 S29-2 S29-3 S29-4 間嶋 豊 国広 昌子 阪下 美智子 宮武 和子 29 年 3月 (松井) (木村) (岡田) 第 2 期 昭和 27 年 4月 ~ 昭和 S30-1 S30-2 河野 弘 豊田 治 30 年 3月 第 3 期 昭和 28 年 4月 ~ 昭和 S31-1 S31-2 S31-3 S31-4 浅野 勲 窪田 善之助 市原 雅子 井上 和子 31 年 3月 第 4 期 昭和 30 年 4月 ~ 昭和 S33-1 S33-2 S33-3 S33-4 S33-5 S33-6 S33-7 S33-8 S33-9 S33-10 池田 俊雄 岡田 博雄 川井 彰三 栗原 季義 渋谷 幸彦 竹田 英明 田村 大司 平井 久雄 松田 啓司 柳沢 晨男 33 年 3月 昭和33年卒 池田 俊雄 昭和33年卒業 栗 原 季 義 私は昭和30年に入学、それから間もなく 平井君(当時のキャプテン)に誘われて、 当時のヨット同好会に入りました。当時の3年生 男子は浅野さん、窪田さん、女子は上 山さん、久保さん、松崎さん(当時のまま旧姓)の合計5名でした。2年生はいませんで した。女子生徒は花、わが同好会は他の高校よりも華やいでいたようです。 新人戦では、私はまだ日が浅く、ヨットの十分な知識もないままに デインギーで出場 し、レース中ランニングの時でした、前から海に潜ってしまい、転覆し失格でした。 また 昭和32年11月3日、わが高高は恒例の文化祭でした。同じこの日に時計廻り で女木島を一周して帰るビッグレースが行われた。高松市役所、香川大学、高松一高、高 松商業、高松工芸、の各チームとも2~3艇を出し参加。ところが あるから そこで わが高高は文化祭が 誰も出場しないとのことでした。 私は、 (規約では 長距離レースではデインギーでも2人乗船) ヨット部員で はなかったが、我が家の隣の高高2年生を にわかクルーに仕立てて、高高チームとして デインギーで参加することにした。 その日は好天に恵まれ、風速は5メートル前後で絶好のヨット日和でした。 途中で風が凪ぎ、潮流も東から西へと変わり ところが どの艇も潮流に翻弄されはじめ、 ひどい 艇は紫雲丸沈没目印ブイまでも流された。わが艇も女木島南端西まで流された。ここに勝 利の女神が居たのか、幸運にも運が良かったのか、島影に出来る外内両反流に巧く乗れて わが艇は、女木男木間にでることが出来た。この海峡をいち早く抜けると からのいい風が待っていた る。しかし そこで ランニングなので セールを右いっぱいに張り 今度は ランニングで操舵に入 他艇はどんどん追い上げてくる。ゴールの直前数メート ルに迫ったときは焦った、高松商業のデインギーや高松工芸のスナイプが迫ってきて めぎ合いになったが 北東 辛うじて逃げ切って 見事に一位でゴールイン せ 7時間に及ぶレー スでした。 ベテラン選手等が入り交じっての総合優勝は誠に幸運でした。私の高高でのヨット生活 は 転覆で始まり優勝で終わった次第です。 良い先輩、同輩、後輩に恵まれ、堂々と横たわる屋島山を眺めながらの日々の練習・レースは 心癒 され幸せでした。今でも 部員個々の個性ある語り口調、言葉、表情、動作など思い浮かべては、悦に 入ることがある。 私とヨット 昭和33卒 渋谷 幸彦 私がヨット部に入部したのは昭和30年である。ヨット部に入部はしたがあまり熱心 に部活動をした記憶はない。同期で誰も原稿を書いたものがいないと同級生の松田君か ら電話が来たので、当時の断片的な記憶しかないが記しておきたい。高校卒業アルバム を見てみると、顧問の仲野 昭先生を中心に10名の部員が、当時大的場のハーバーで 唯一のクルーザ「でんぶく」の上で写真を撮っている。平井、栗原、柳沢、池田、岡田, 川井、松田、竹田、田村、渋谷で、特に平井、栗原、柳沢、池田君達が熱心に練習して いた。その当時から工芸高や商業高が強くて太刀打ちできなかった。 入部したときの先輩は女生徒が2〜3人いたが、ヨットを教えてくれた記憶はない、 一人の先輩が当時話題になっていた(新入生のうら若き私は知らなかったが)石原慎太 郎の太陽の季節を読みなさいと命令され読み、海とヨット、障子を破るところを今も鮮 明に記憶している。その当時女性がヨットに乗るのも珍しく、女傑の先輩がいたもので ある。入部した年に大学を出たばかりのチャキチャキの江戸っ子の仲野昭先生が顧問に 就任されてきたが、先生というより兄貴のような先生であった。 ヨットは A 級ディンギーとスナイプの2種で、現在のような FRP 製でなく全て木造 艇、A 級ディンギーのガフは竹の棒で、セールは綿製で塩抜きが大変であった。 大的場のハーバーにはその当時から吉本さんが住んでおられて学生達の面倒を見ていた。 当時のことを思い起こしているうちに、青春時代に身についた記憶が蘇ってきた。フ レッシュウインドウを求めて波のざわめきを探したり、マークを回航するときのラダー とセールの調整、体の移動。肌で感じる微かな風とテルテールの流れの動き。風が少し 強くなり艇はヒールし、ハイクアウトする時の緊張感。ハーバーに帰ってきた艇を陸揚 げして、艇やセールを水洗いした後の汗と疲労感。真夏の真っ赤な太陽が大槌島、小槌 島の方向に沈みかけていくあの荘厳な一瞬。あれから55年も過ぎた今も身体全体の細 胞が記憶しており、この老年の身体の生命の輝きの源にもなっている。 私は高松に帰ってきて(1978) 、青春時代のヨットが忘れがたく、レース艇を買い替 えたり、クルーザを新造したりして、現在は岡崎 401(ジャーマン フェア設計)で、 クルージングや草レースを楽しんでいる。昨年(2009)はヨットクラブのレースで、OB 会会長中君の新鋭レーサー艇が優勝し、準優勝は私の艇で、奇しくも高高ヨット部 OB で占めた。 後輩諸君も又ヨットに乗ってマリンライフを楽しみ人生を豊かにしてください。 高松高校ヨット部、OB 会の益々の発展を心から祈念します。 昭和33年3月卒業 氏名 松 田 啓 司 私 は 昭 和 3 3 年 卒 業 で 、ヨ ッ ト 部 は そ の 当 時 ま だ 正 式 に は 部 で は な く て ヨ ッ ト 同 好 会 で し た 。2 年 生 の 時 に 加 入 し ま し た が 、 3 年 生 は い ま せ ん で し た 。平 井 久 雄 君 が 部 長 で し た 。当 時 は ス ナ イ プ( 2 人 乗 り )と デ イ ン ギ( 1 人 乗 り )の 2 機 種 の ヨ ッ ト が あ り ま し た 。私 は ス ナ イ プ で 岡 田 博 雄 君 と ペ ア を 組 ん で い ま した。今現在では 機種もルールも変わっているようです ね!! 我 が 高 高 以 外 に 、高 松 市 役 所 、香 川 大 学 、高 松 一 高 、高 松 商 業 、高 松 工 芸 の 6 つ の ヨ ッ ト ク ラ ブ が 同 じ ヨ ッ ト ハ ー バ ー で 練 習 し て い ま し た 。だ か ら かっていたが 何時も競争相手の練習振りがよく解 それでも 我が高高は強いチームではなかっ た 。高 松 一 高 の 部 員 は 女 子 2 名 で 他 は 全 て 男 子 ば か り で 、工 芸 か 商 業 が 強 か っ た よ う に 思 う 。当 時 の 成 績 表 な ど は 正 式 に 残 っ ているのだろうか?・・・ 当時のヨットハーバーには3階建のクラブハウスがあり 夏休みなどには合宿練習をしていたクラブもあった。 昭 和 3 3 年 の 正 月 に は 田 村 大 司 君( 当 時 は 瓦 町 の 田 村 歯 科 医 院 )の 2 階 で 好 き 焼 き を 囲 ん で 新 年 宴 会 を し た 懐 か し い 思 い 出 がある。 当時は石原慎太郎の「太陽の季節」が話題となり「太陽族」 とヨットが若者のブームを作り出していたころであった。 添付の写真は当時の大的場の防波堤の上での仲間達です。 第 5 期 昭和 31 年 4月 ~ 昭和 S34-1 S34-2 S34-3 S34-4 北泉 敞志 渋谷 和彦 半田 茂行 福井 汲夫 34 年 3月 第 6 期 昭和 32 年 4月 ~ 昭和 S35-1 S35-2 S35-3 S35-4 S35-5 S35-6 S35-7 市田山 正昭 大西 周作 藤原 典雄 八木 健一 山下 俊次 岩下 潮美 織田 久美子 35 年 3月 (濱本) (富家) 同好会からヨット部に 35年卒 藤原典雄 こ の 稿 に 相 応 し い の は 大 西 周 作 氏 で あ ろ う 当 時 の 昭 和 34 年 頃 は 同 好 会 か ら ヨット部に昇格して初代の主将になり同好会時代は校舎の油拭きで活動費を 捻出も部になってからは堂々たる校友会費を獲得して後進への轍を、東北大 もヨット部を選び三井造船でもヨット部として千葉ヨット連盟で活躍、私ま で千葉ヨット連盟のヨット教室のインストラクターとして狩り出される始末、 そんな錚々たるキャリアの持ち主に原稿の依頼をした氏は、現在、海賊で名 高いソマリアの隣国ジブチ共和国に、JICAが無償供与したフェリーボー ト (3 5 0 ト ン )の 運 航 指 導 を す る た め と 称 し て 遁 走( 1 2 月 末 強 制 送 還 予 定 ) し、急遽マウンドに出された救援投手のごとく心ならずもこの稿を書くにあ たり苦戦覚悟で格闘しております藤原典雄です。高高卒業以来三十数年海と 船を愛するその大西周作氏を先頭に、高松に生まれてこの方一歩も外地に住 んだことがないという山男、山下俊次氏、そして最近卒業以来再会を果たし た八木健一氏と香川県予選で高松工芸と高松商業に何時も惨敗していた男子 を見切り、琵琶湖国体に出場し活躍した織田久美子さんと岩下潮美さん(高 高初代の女性ヨット部選手)とは今も全幅の信頼できる仲間であると共に今 もなおゴルフに飲み会にと接点がある人たちです。そんな人達に遭わせて戴 いた高松高校ヨット部感謝と同時に神様にも感謝の気持ちです。 最後に願うことはヨットというスポーツがもっともっとメジャーになって欲 し い 思 う こ と 、 以 前 NHK の ス ポ ー ツ 担 当 に ヨ ッ ト レ ー ス の 放 送 を 希 望 し ま したが国営も視聴率が取れない剣道とヨットは歓迎できないとのこと、しか し世はデジタル時代ゆえにそのうちにカラフルで素晴らしい映像のヨットレ ースの映像が観られる事を祈っております。 第 7 期 昭和 33 年 4月 ~ 昭和 S36-1 S36-2 S36-3 尾方 敬志 多田 重信 吉田 宏基 36 年 3月 第 8 期 昭和 34 年 4月 ~ 昭和 S37-1 S37-2 S37-3 S37-4 S37-5 S37-6 S37-7 太田 耕造 喜多 克幸 黒川 憲 多田 克昭 宮脇 隆夫 横関 捷二 神垣 裕子 37 年 3月 (中西) 昭和37年3月卒業 多田克昭 昭和34年から36年まで在籍しました。2年生の頃を主体に記したいと思います。何様半世紀前 の事なので記憶も定かではありませんが、アルバム・日記等をめくりつつ思い出した事項を書きたい と思います。 2年生時に在籍した同期部員は下記の通りです。 太田耕造(立命・香川総合職業訓練校) 喜多克幸(大阪薬大・喜多薬店) 黒川 憲(高崎経済大) 多田克昭(防衛大・陸上自衛隊) 宮脇隆夫(東工大・三菱重工) 横関捷二(松山大・海上自衛隊) 中西裕子(高松在住) 同好会から部に昇格したばかりでしたが結構部員が増えました。装備艇はスナイプ(2枚帆)が2艇 とデインギ(1枚帆)が1艇、その他に女子部員の為にデインギが1艇貸与されていました。国体が 香川県で開催された時に作られたものでした。 練習場所は大的場海水浴場の東のヨットハーバーで、我々の部の他高松工芸、高松商業高校が練習 しておりました。 部室は木造ホッタテ小屋の艇の格納庫の片隅にロッカーで仕切った電気も点かない場所で、学校か ら自転車で走ってきて直ぐにユニホームもなく思い思いの服に着替えて練習です。 部活動は1年生時は主としてクルー練習で2年からスキッパーとしての練習でした。毎日の練習は、 艇が木造で古く、レースでは塗装状態が優劣に大きく影響する為、週の 3~4 日は艇の底をサンドペー パーで滑らかにして砥の粉を塗りペンキを塗り「グラウンドピアノのように」を合言葉に整備する他、 アカ浸入防止の為麻糸を隙間に詰めたり、ロープを繋いだり、端末を処理したり、シャックル等の錆 落とし、帆布の補修等が主体で、時々は手旗の練習もしました。手旗は中学まで海洋少年団に入部し ていた者が多く不得手な小生は覚えるのに大変でした。2~3 日はスタート・回頭・レース練習でし た。 部費は僅かでしたので月に 1・2 度校舎の廊下・教室の床面を油拭きするアルバイトをして部費の足 しにしました。 当時学生食堂の素ウドンが 10 円の時半日の油拭きで 1000 円頂いたと記憶しています。 我々が 2 年になった時 1 年生が沢山入部しました。中でも特筆すべきは渋谷・宮脇の 2 名の女子部 員が入部しました。渋谷さんは同好会時代の大先輩渋谷さん(33年卒)の妹さんで後年二人でイン ターハイに初めて出場して優秀な成績を収めます。 記憶に残っている事項は、34 年の夏は女木島クルージングで多数の先輩・先生が定期船できてくれ ました。 35 年には 5 月に岡山県渋川海岸からヨットハーバーまでのブルーリボンレースに参加しました。連盟 のクルーザーに数珠繋ぎで渋川海岸まで行き、国民宿舎に泊まり、翌朝レース開始しましたが、大槌 島辺りまでは無風状態、それから一転して沈艇が出る程の強風でポンツーンに着いた時には歩けない ほど疲れて何位で到着したのかも覚えていませんでした。その年の夏には高松駅の旧駅舎が燃え何本 もの線路を横断して駆けつけました。 8 月の初めには四国最北端観音崎への 2 泊 3 日のクルージングが実施され多くの先輩も来てくれま した。観音崎で宿泊中台風が通過、浜には無数のバカ貝が打ち上げられ、剥き身だけでバケツ 2 杯分 ありました。帰路は台風余波の北風で恐ろしい程の速度で僅か30分程度でハーバーに到着しました。 夏休みの最後にはインターハイ予選レースが台風の前触れの強風下実施され、多田はデインギーで 参加。ビショ濡れは必死で防水腕時計は当時学生の身では保有せず、スタート時間が判らない。そこ で応援に来てくれた先輩(半田さん・北泉さん・大西さん・多田さん・吉田さん)5 名が堤防の上に 立ち 1 分毎にしゃがみ時間を教えて下さった。それでスタートは優位な風上をトップで通過しコース の読みも当り 1 位でゴールする事ができ、第2レースは沈艇多数の中アカが 3 分の2位まであったも ののどうにかチンせずにゴール、第3レースもトップでゴール。これで高高始めてインターハイに出 場出来ると先輩・後輩から祝福されましたが、同学年の中西さん(連盟の浜本さんの親戚)から乗艇 していたクルーが選手登録されていないので失格の可能性大との情報で部長に問い質すと登録してな かったとの事でインターハイは夢幻しとなりました。が、以降いつも遊びに来ているとの悪評高き高 高ヨット部に対する連盟・工芸・商業の部員・先輩諸氏の見る眼が変わり、小生には連盟からインタ ーハイ特別参加しないかとの打診も内々にありました。 急な突風で練習していた殆どの艇がチンし(小生運良く2間バトの間に逃げ込み助かる)高松港の 堤防に流されて衝突寸前の艇をレスキューしたが潮に流され高松港の入り口で宇高連絡船のタグボー トに救助されたり、中国ジャンクを改造したヨットで世界1周を5年かけて果たして立ち寄った広島 大教授のヨットを見学したりと思い出多いヨット部での生活でした。 第 9 期 昭和 35 年 4月 ~ 昭和 S38-1 S38-2 S38-3 S38-4 S38-5 S38-6 鴨 政昭 香西 俊範 佐田 正俊 長川 伸 三井 恂子 宮脇 美子 38 年 3月 (渋谷) (宮脇) ご報告 長川様は愛艇 YUME で海外に出られ台湾を経由してパラオまで行かれてました。後に体調を 崩され残念ながら平成24年9月お亡くなりになりました。今頃は YUME で続きの旅をされていると思います。 ご冥福をお祈り申し上げます。 合掌 高高ヨット部の歴史をつづった記念誌だそうですが、38 年度卒業生としては、遥か彼方 に過ぎ去った断片的な思い出しかありません。 メンバーは、鴨君、香西君、女子では渋谷さん、宮脇さんが熱心に来てましたね。他に もいたかもわかりませんが、あまり顔を出さなかったようです。記憶にありません。ごめ んなさい。 二年のときに、スナイプ級で鴨君とメンバーを組んで熱海のインターハイで 3 位に入賞し たのがビッグニュースです。 幸いに私の自宅が浜ノ町で、ヨットハーバまで徒歩 15 分の好位置にあったので、毎日 放課後を待ちかねて暗くなるまで熱中したものです。 まだ、埋め立てになる前で、もちろん跨線橋もなく、真夏の暑い日ざしに、入れ替え操 作の蒸気機関車が踏み切りにかかって停車するのを、長い間汗をかきかき待ってました。 当時は、スナイプは全艇ヒノキの厚板張りの木製で、セールは綿、トリムはメインとジ ブーシートのみ、という現在のハイテク製品からは考えられない時代でした。 もちろん、ウエアも着古しの作業着なんかで、ぼろもいいとこでした。 でも、秋には監督の目を掠めて、沖に漕ぎ出してイイダコ釣りとか、夏には庵治の観音 の浜まで 1 泊のクルージングとか、それなりにヨットライフを楽しんだものでした。 今のレース艇は、ロープが多くてどれを引いてよいのか私にはまったくわかりません。 それなりにトリムが必要なのでしょうが。艇も軽くなったし、人間の負担が多くなったの と違いますか。 シンプルイズベスト、でのんびりしたいですね。 勝手に私の記憶を述べましたが、他の 38 年卒業のメンバーご了解を。 長川 伸 「溺れても、海が好きなわが青春のヨット部時代」 中学時代に海洋少年団の活動に参加しておりましたので、海には縁がありました。 縁があったといいますと、小学生高学年のころ、一度海でおぼれたことがあります。 冬、香西町のたぶん香東川の河口付近と思います。父親が用事を済ませている間に、何 人かの釣り人のいる岸壁を歩いていましたら、ぷかりぷかりと浮いているものがありまし た。ビンのようなもので中に白い紙切れが入っているようなのです。これは宝島の地図に 違いないと思った私は、手を伸ばして取ろうとして・・・・ドボン! 落ちてしまいました。実は、お恥ずかしいかぎりですが、泳げなかったのです! ブクブクと沈んで、もがいていると何とか海面に出ました。海面でアップアップしてい ると、付近の釣り人が何かを差し伸ばしてくれました。それにつかまり、やっと岸壁に上 げてもらいました。助かりました。(その年の夏、学校のプールで泳ぎの練習を真剣にし たことは言うまでもありません) そういった怖い目に遭いましたが、性懲りもなく海洋少年団に入り、カッター訓練に参 加したりしていました。 そして高校ではヨット部に入ったのです。 ただ、もともと不器用かつ運動神経のない私は大会等で活躍した記憶はなく、やむなく 出たレースでは散々だったと覚えております。しかし、瀬戸内海のセーリングは最高の気 分でしたね。加山雄三の若大将シリーズが始まる前でしたが、そんな気分でした! 同期の長川はスポーツマンで、部活中は常に短剣を身につけ(もちろん、今はこういう ものは持てないでしょう)、風を読んでスイスイと艇を走らせていました。私めは尊敬の まなざしを持っていたのです。当時のヨット部はバンカラな部で、汚れスタイルで裕次郎 気取りで大的場に通ったものです。 卒業後もしばらくはOBで集まり、忘年会をした記憶もありますが、いつしか私自身も サラリーマンになり転勤が多く、会からは遠さかっております。 この60年史は、その意味でも懐かしい仲間、先輩や後輩の顔も見れると期待しておりま す。 会長はじめ幹事・役員の皆様、大変ご苦労様です。ありがとうございます。 平成22年1月3日 昭和38年卒 香西俊範 第 10 期 昭和 36 年 4月 ~ 昭和 S39-1 S39-2 S39-3 S39-4 S39-5 古城 清次 佐藤 健二 中西 国之助 岩城 純子 山本 保子 39 年 3月 (湯浅) 昭和39年卒 中西 国之助 60年史の発行、おめでとうございます。 高高を卒業して、45年になり、当時の記憶を思い出すのにも、 時間の掛かる歳となりました。 入部の動機は、何となく、大的場に行って、ヨットに乗りたい なーと思った事でした。そこで、長川さんにお会いして、入部し たのですが、秋には幽霊部員になる予定でした。当時は、同好会 の意識で、運動部より、文化部的色彩が強く、自主性を大切にし ていた雰囲気が気にいってました。 しかし、8月に、大西さんが来られ、お話を聞く機会があり、勉 学と部活動は両立すること、また、長川さんがインターハイで3 位に入賞する事があり、部活動を継続するようになりました。 とは言え、女木島へのクルージングの楽しい魅力が背を押したの かも知れません。 小生は、成績では何も出来ませんでしたが、女子はインターハイ で優勝し、また、後輩が、インターハイで優勝した時は、我が事 のように非常に、嬉しかった事を、思い出します。 これらの成果から、「自艇」を作る事になったと記憶してます。 現在、小生は、職場を離れ、二宮(神奈川)に在住してますが、 毎日、海の音を聞き、伊豆大島を目の前に見ながら、生活をして ますが、高校時代のヨット部での在籍が、この環境に住ませるこ とに成ったのではと思ってます。 これからも、高高ヨット部の活躍と、OBの皆様の、ご健勝を お祈りいたします。 第 11 期 昭和 37 年 4月 ~ 昭和 S40-1 S40-2 S40-3 S40-4 S40-5 S40-6 S40-7 S40-8 S40-9 木下 政広 多田 幸男 遠山 誠司 豊島 重暉 三原 衛 山本 守 真鍋 マチ子 森 千足 割石 順子 40 年 3月 (永木) 40年卒 割 石順 子 我々は高松高校ヨット部卒業! 授業が終わるやいなやチャリンコをかっとばし大的場へ一目散。 お 決 ま り の 夕 凪 に う ん ざ り し つ つ も 、乗 れ て も 乗 れ な く て も 日 暮 れ ま で ハ ー バ ーで過ごす毎日。 そして、国体やインターハイなどであちこちに遠征したこと・・・・ 高校時代の思い出と言えば、すべてヨット部にまつわる思い出だ。 今 で も 集 ま っ て は「 我 々 は 高 松 高 校 卒 業 や の う て 、高 々 ヨ ッ ト 部 卒 業 や ! 」と みんなで納得している次第。 他 の ク ラ ブ 活 動 と ち が っ て 、ヨ ッ ト 部 の 活 動 拠 点 の ハ ー バ ー は 先 生 の 目 の 届 か ない解放区・・・ 毎 日 の 練 習 も 商 業 、工 芸 の 部 員 た ち と 一 緒 に 自 主 運 営 し て い た し 、少 な い 艇 を みんなで乗り回し、 1 年 生 も 乗 れ る よ う に 配 慮 し た り し て 、体 育 会 系 の 割 に は 和 気 あ い あ い 、と っ ても民主的なクラブ活動だった。 (ちなみに、今は各高校の顧問の先生が持ち回りで本部艇を出さないと、 高 校 生 は フ ネ が 出 せ な い 決 ま り に な っ て る し 、艇 数 も 多 く 常 に フ ネ は 余 っ て る 状態!) み ん な ヤ ン チ ャ で 、ポ ン ツ ー ン で ボ ケ ッ と し て い る と 、い き な り 標 的 に さ れ 海 に放り込まれたりしたのも 懐 か し い 思 い 出 だ 。( 今 は そ ん な 野 蛮 な こ と は 誰 も や っ て ま せ ん ! ) レ ー ス の 方 も 、男 子 は 新 潟・佐 渡 の イ ン タ ー ハ イ で ス ナ イ プ 級 優 勝 と 快 挙 を 成 し 遂 げ た け れ ど ( 女 子 は ス ナ イ プ 級 3 位 )、 女 子 は た い し た 実 力 は な く て も 、 他 校 に 女 子 部 員 が い な い た め 、ほ ぼ 自 動 的 に 国 体 や イ ン タ ー ハ イ に 行 け た と い う ラ ッ キ ー な 時 代 で 、二 年 で 新 潟 イ ン タ ー ハ イ 、山 口 国 体 、三 年 で 新 潟 国 体 に 出場。 お ま け に 山 口 国 体 の と き は 、現 地 合 宿 も あ っ た り し て 、と に か く 勉 強 そ っ ち の け、ヨット漬けの日々だった。 みんなの成績の悪さに顧問の赤沢先生や今谷先生が心配してくれて、 冬 休 み に は ヨ ッ ト 部 だ け の 特 別 補 講 な ど を 受 け さ せ ら れ た( い え 、し て い た だ いた!)のもいい思い出だ。 そ ん な 我 々 も 高 々 ヨ ッ ト 部 を 卒 業 し て ン 十 年 、二 度 と ヨ ッ ト に 乗 る こ と は な い と思っていたけど、 何故か今も乗ってる自分がいる! そ れ も ま っ た く ひ ょ ん な き っ か け か ら だ( 行 き つ け の お 店 の マ ス タ ー に 声 を か け ら れ て ! )。 当 時 た ま た ま 大 阪 に い た コ オ ロ ギ こ と 多 田 幸 男 に 声 を か け 、大 阪 北 港 ヨ ッ ト ハ ーバーでシカーラに 乗り始め、今はテーザーに乗り換えてすっかりはまっている次第! テ ー ザ ー は 軽 く て 速 く 乗 り や す い 、し か も 奥 が 深 い( 深 す ぎ て わ た し に は よ く わかりませ~ん!)ハイパフォーマンス艇。 簡 単 に カ ー ト ッ プ で き 、あ ち こ ち の レ ー ス に 気 軽 に 参 戦 で き る の も 大 き な 魅 力 だ。 今 は 再 び 大 的 場 で 、高 校 生 た ち と 一 緒 に 練 習 し て る け ど 、年 寄 り の 冷 や 水 と ひ や か さ れ つ つ も い い 年 し て や っ ぱ ヂ ィ ン ギ ー に 乗 っ て る の も ご 愛 敬 で 、 OB 会 の中会長の超リッチなクルーザーとは大違いである。 ただ、問題はここにはテーザー仲間がいないこと。 し か も 、テ ー ザ ー は 体 重 と 風 速 の 関 係 が 大 き な ウ エ イ ト を し め 、二 人 で 1 0 0 キ ロ く ら い し か な い 超 軽 量 級 の 我 々 に は 強 風 は 大 敵 。5 M を 境 に 成 績 も 大 違 い となる! さ て さ て 、我 々 に と っ て の 大 本 命 レ ー ス 、テ ー ザ ー・ワ ー ル ド が 今 年 は 日 本(和 歌山)で行われ、いよいよ目の前に迫っている。 3日後の9月19日に移動、あとは27日までレース三昧の日々・・・! ま 、ひ た す ら 吹 か な い こ と を 祈 り つ つ 、成 績 の わ か ら な い う ち に こ の 原 稿 を 送 ってしまおうっと! 2009・9・16 第 12 期 昭和 38 年 4月 ~ 昭和 S41-1 S41-2 S41-3 S41-4 S41-5 S41-6 S41-7 池田 伸芳 岩部 始 松原 芳久 三木 数一 宮崎 一郎 山本 史郎 田村 真美子 41 年 3月 (小河) 第 13 期 昭和 39 年 4月 ~ 昭和 S42-1 S42-2 S42-3 S42-4 S42-5 S42-6 S42-7 S42-8 太田 進 河原 正喜 佐々木 裕司 波多 彰 吉本 健一 斎藤 啓子 竹下 映子 宗像 佳代 42 年 3月 (大西) (大西) (吉田) 第 14 期 昭和 40 年 4月 ~ 昭和 S43-1 S43-2 S43-3 S43-4 植田 洋二 栗田 文夫 丸 宗一 土居 美紀子 43 年 3月 (小松) 第 15 期 昭和 41 年 4月 ~ 昭和 S44-1 S44-2 S44-3 S44-4 S44-5 S44-6 S44-7 安藤 孝廣 日下 一郎 斎藤 憲一 渋谷 有人 立石 康明 星合 秋峰 岡田 和美 44 年 3月 《高1の時より5回目の国体》 S.45 岩手国体 190103 スキッパー岡田和美 クルー 古竹美代子 初めて乗ったFRPのヨット ヨットは裸足で乗るものそれが決まりだった木製ヨット時代の私 知らずに裸足でFRPに乗りジャイブしたとたんひっくり返ってしまった。 トランサムに頭を向けて大の字状態ショックだった・・・・・。 S.44 年3月卒業 氏名 岡田 和美 かすかに揺れるポンツーンの上から女木島が見える。 あの何とも表現しがたい揺れの上に立っていると いつの間にか私は、この写真のような幼い私に戻っていく。 2年前の冬、頭の奥深い所に3cm大の腫瘍があると診断された。 残された1ヶ月の間に身辺整理をし、最後に行きたくなった所はあのポンツーンだった。 12月の誰もいないポンツーンの上で、今回のレースはどんな風が吹こうとも白波が立とうとも 必ず走りきってこのポンツーンに帰ってくるんだ、と海と亡き父に約束した。 いろんなレースの場面を思い浮かべながら、日に日に迫ってくる不安と恐ろしさを レースに置き換えることで、このレースを完走する事ができた。 何の後遺症もなく、以前と全く同じ自分、同じ生活に戻ることができ 2月の終わりの小春日和の日、1歩1歩自分の足で歩いてハーバーまで行った。 そしてポンツーンの上に立って「このレース只今ゴールしました」と報告する事ができ ただただ感慨深く涙をかみしめた。 この幼い私の写真は旧ヨットハーバーができて間もない頃(昭和30年頃) スロープで遊んでいるところです。 のどかにとてもうれしそうに遊んでいる様子が、大好きです。 あの旧ヨットハーバーのこっぽりとした包み込むような優しさそれでいて凛々しい クラブハウス、ポンツーン、スロープそしていつも優しく見守ってくださった吉本さんご夫妻。 私の心の中から消え去る事は、ありません。 唯一今なお残るポンツーンは、私の大切な心の糧であり、原風景です。 60年前、高高ヨット部が創部された頃、あの旧ヨットハーバーで遊んでいた子供が 今、OBのひとりとしてこうしてペンを取ることができ感無量です。 結婚後は、ヨットを続ける事はできなかったけれど何かにつけ先輩、後輩、又そこから つながっていった人達に支えられて58年、生涯を通してヨットに支えられてきました。 大変お世話になりました大先輩、又後輩の皆様に心よりお礼申し上げます。 ヨットは、私の人生にとって最高の宝です。 8003世代(高高初めての自艇)の私に とって最高のショット。大きく伸ばして パネルにして毎日眺めています。 「今日も頑張れよ。」と、セールが私に 声をかけてくれてる気がします。 第 16 期 昭和 42 年 4月 ~ 昭和 S45-1 S45-2 S45-3 植松 由量 中 博史 泉川 澄代 45 年 3月 第 17 期 昭和 43 年 4月 ~ 昭和 S46-1 S46-2 S46-3 S46-4 S46-5 S46-6 S46-7 国方 孝 河野 順 小島 英夫 小島 宏文 松本 伊三男 森谷 恭幸 弘瀬 朝子 46 年 3月 (浜田) ヨット部の思い出 昭和46年卒 小島英夫 高校生活の2年間、大的場に通ったヨット部時代の思い出は尽きません。当時の大的場 はまだ埋め立て前で、ヨットハーバーには各高校共同の部室(といっても木造小屋)があ り、そこで着替えて、ヨットの艤装をし、海へ出ていました。日曜日は、ほぼ一日海の上。 船酔いで気持ちが悪くなると言うことはないのですが、最初の頃は、家に帰って机の前に 座るとゆらゆらと揺れて、とても勉学に勤しむという環境にはなりません・・・というの が当時の不勉強の口実でした。 思い出のひとつは定期的に行われる合同の模擬レースの最中での出来事。スタート前の 混乱で香大のA級ディンギー(私が乗っていたのはスナイプ級)に体当たりし、船体に穴 を開けてしまいました。大学生に散々叱られ、修理費を弁償した?のも今となっては懐か しい思い出です。 死ぬ思いも何度かしました。大荒れの海の中、船内に水をかぶり帆走不能で立ち往生し ているところへ、真横から漁船がまっしぐらに向かって来ました。いくら大声で叫んでも 声は届かず。ぶつかるっと思った瞬間に船体が漁船と平行に向きを変え、すれ違うことが 出来ました。間一髪の出来事でした。 もっと怖い思いをしたのは、強風の中でのレース中のこと。風に耐えきれず、ヨットが 大きく傾き海の中へドボンと落ち、船と離れてしまいました。今だから言えますが、当時 はライフジャケットも付けておらず、服を着たまま自力で泳ぐしかありません。仲間たち は、まず無人になったヨットの方を捕らえようとして、私の方は後回しです。泳ぎには自 信があったので、荒波の中でも何とか浮いていたのですが、気がつくと潮に流されて高松 港の赤灯台付近にまで来ていました。このまま流されると、港に出入りする船に巻き込ま れてしまう・・・と思ったとたんに恐怖心が襲って来ました。それからは泳いで、泳いで、 泳いで、それでも潮の流れには勝てません。疲れ果てて、「あぁ、このまま力を抜けば沈ん でしまうんだろうなぁ」と・・・それからどのくらい海の中にいたのか、ようやく僚船に 引き上げられ、命拾いをして今日に至っています。高校の部活で、生死の境を経験するな んて、ヨット部ぐらいだろうなと今でも思っています。 ヨットハーバー周辺の風景はすっかり変わりましたね。高松に行った折にハーバーの 近くに足を運んでみました。女木島を臨む海の眺めは変わらず穏やかでした。 高松を離れた後も、 ヨットと付き合いながら過ごしています。大学のヨット部を経て、 外洋レース艇の二軍チームに加わったのですが、週末に仕事を終えて合宿所に直行して また出社するという生活に力尽きて艇を降りました。当時のチームはセミプロとボート ニガーの集団でしたから、シロウトが長く留まる世界ではなかったようです。 これが理由で飛ばされたのか、サウジアラビアに赴任となったのを幸いに、現地の石 油会社の艇を駆ってペルシャ湾でレースを重ねました。対岸のイランから海を渡って吹 いてくる強い風が待ち遠しかったですね。現地では他にやることが何もなかったので。 中東の後も、ババウ、NZ、南アと様々な海でヨットに出会うことになりました。 その後は伊豆多賀港をベースに艇を置き、Bluewater、Y-21 と乗り換え、今は Shamall という小型クルーザーで相模湾トラフのドロップから沖に向かって足を延ばしています。 レースの方は、伊東湾クルーザーレースに毎年出場しています。今年のレースは、前週 のレース中にエントリー艇のうちの 10 艇が強風で破損したため、8 艇のみで競いました。 満足のいかない 4 位です。 順位を競った翌週は、体がもう使いものになりません・・。 高松のハーバーには、いくつか思い出があります。 中さん、 救助艇を覚えていますか。私はあのオンボロ救助艇に乗るのが楽しみでした。 当時はルールもなく(?)、誰かと勝手に操縦して、助けの必要のない沈艇の救助に真顔で 向かったものです。ほんとにバカな高校生でした。 部長の小島もあきれていたはずです。 一番の強風も記憶のひとつです。フィン乗りだった私は、工芸・商業の先輩艇に勝つこ としか頭になく、ひとり無理をしていることに気付いていませんでした。強風下、危険 で強引な競り合いを工芸艇に仕掛け、 きわどくフィニッシュラインを超えたのですが・・。 ハーバーに戻ってきた私に、工芸艇から激しい一言。 「無茶で勝っても何も残らんで」。 言葉の地上戦ではなく、この後の互いの競い方を懸念する一言でした。このメッセージ が頭から離れないまま練習帰りの道を浜田と歩いたことを覚えています。 ところで、伊豆多賀港は熱海高校ヨット部の基地でもあります。彼らの艇庫は私の艇 のすぐ近くにあって、 ジャージ姿を見かけると高松にやってきた選手達を思い出します。 強かったですね。今はその後輩たちの練習の様子を湾内で見かけることがあるのですが、 私の記憶の中にある高高ヨット部のそれとはかなり違う、 穏やかなものです。時が過ぎ、 厳しかった高高ヨット部も変わったのか、確かめてみたいと思いつつ、遠い日々を思い 浮かべています。 第 18 期 昭和 44 年 4月 ~ 昭和 S47-1 S47-2 S47-3 S47-4 S47-5 S47-6 喜田 祥司 出口 隆一 平尾 隆吉 森崎 広志 渡辺 茂 片山 美代子 47 年 3月 (古竹) 昭和47年3月卒業 平尾 隆吉 創部 60 周年おめでとうございます。卒業以来、38 年があっという間に過ぎ去り、社会人 としても卒業を迎える年齢が近くなりました。この間、高々ヨット部での経験が私の人生 の心のよりどころとして、大きく存在し続けております。特に先輩や同僚、後輩との楽し かったり、厳しかったり又つらかったり、嬉しい思い出、今も深く心に刻まれております。 60 年記念事業で記念史ということで、当時を振り替えるものを探して見ましたが、写真、 新聞記事など何もなく、今にして思えば、形あるものを保存していなかったことが悔やま れます。ですので、同期からの報告を楽しみにしています。 そんな中、メダルが2個出て来ました。右側がブルーリボンヨットレース、左側が全国高 校総合体育大会(参加賞)のものです。 2年生の春。昭和 45 年 4 月 19 日岡山の渋川から高松ヨットハーバーまで、大槌・小槌 島経由の瀬戸内海横断ヨットレースがありました。ブルーリボンヨットレースです。現在 も継続されているかどうかは分りません。 その日は、ほとんど風も無く、穏やかに晴れた春ののどかな 1 日でした。 「春の海ひねもすのたりのたりかな」。当然気持ちはレースと言うより遠足気分で、おやつ を食べながら瀬戸内クルーズを楽しもうぐらいで、スタートしました。 艇は「スナイプ級」 (今は聞かなくなりました。無くなったんですよね。)艇番号 8003。 スキッパーは筒井。私はクルーでした。2人とも軽量で多分2人合わせて100kg少々 だったと思います。ですから、風が強いと、艇を起こすのに不利でした。当時、あんなに 体重を増やそうと努力した事が、今では嘘のような体型になってしまいました。 レースは順調に進み、大槌・小槌島を回って一路高松へと言うときに、廻りを見ると、 なんと、どうもトップらしい? このレースは一般人も参加していましたから、総合優勝 も夢ではない。俄然、遠足気分は吹っ飛び、レースに熱中しました。すぐ後方を N 艇が追 ってきています。一般の大ベテランの方です。我々からすれば神様のような存在ですが、 是非勝ちたい! 西からの追い風が、微風です。少しずつ差が縮まり、横に並びました。 ゴールはすぐそこまで迫っています。お互い笑顔で見つめ合う間に、徐々に抜かれ、N 艇は ゴールイン。ん~ん、惜しかった。でもなぜ抜かれたのか?今はもう思い出せませんが。 総合優勝は逃したものの、高校の部で優勝です。後にも先にもレースで優勝したのは、こ れが最初で最後でした。それだけに思い出深いものがあります。 第 19 期 昭和 45 年 4月 ~ 昭和 S48-1 S48-2 S48-3 S48-4 S48-5 S48-6 S48-7 S48-8 S48-9 S48-10 S48-11 S48-12 S48-13 上野 郁夫 岡田 学 小国 正明 小林 弘樹 佐野 昭夫 高田 太三 谷沢 昭彦 永山 裕二 西川 真嗣 真鍋 友範 米田 篤人 高山 宗子 渡辺 雅子 48 年 3月 (大林) (白石) 48年3月卒業 米田篤人 私の思い出と言えば、やはり高松で開催された インターハイにつきると思います。 全国から来た強豪と初めて接したとき、 とても緊張したのを覚えています。 11月いっぱい迄練習していると言っていた北海道の選手、ど んな強風でもひるまない選手など、私の 認識の甘かった事を思い知らされた数日間でした。 結果は地の利を生かせたおかげで、スナイプ級で総合6位 になりましたが、実力とヨットへの取り組み方は最下位に近 いと思えるほどでした。 でも,その後の考え方や夢の持ち方にとても大きな影響を 与えてくれ,今の自分を作ってくれたと思っています。 後輩の皆さんも、どんな大会も真剣に参加し、大事なもの をいっぱい吸収して、人生に役立てて下さい。 昭和48年卒 渡邊雅子 私 達 の 年 は イ ン タ ー ハ イ が 高 松 で 開 催 さ れ ま し た の で 、男 子 も 女 子 も 出 場 す ることができました。 地 元 の 強 み ! と 思 っ て い た ら 、レ ー ス 当 日 の 風 も 潮 も 今 ま で 一 度 も 経 験 し た ことのない様子でした。 南からの風で上マークが堤防の近くにあるのですから・・・ ま た 、ス タ ー ト の 練 習 は 上 ス タ ー ト ば か り で し て い た の に 、そ の 日 は 下 ス タ ートでした。 後 か ら 考 え る と 、下 ス タ ー ト が 常 識 な の に 、何 故 毎 日 上 ス タ ー ト の 練 習 ば か りしていたのか不思議でなりませんでした。 そしてベタ風でのレースと強風のレースが一日おきにありました。 私達の艇も案の定、沈しましたが、起こして走って完走しました。 女子は完走さへすれば、いいところまでいけるーと聞いていましたの で・・・・ で、2 位になりました。 第 20 期 昭和 46 年 4月 ~ 昭和 S49-1 S49-2 S49-3 S49-4 亀井 典彦 斎藤 一太 東谷 修 松原 富士 49 年 3月 高松高校ヨット部 60年史に寄せて 昭和49年3月卒業生の亀井典彦です。 (入学・入部は 46 年 4 月) まずもって、現役でご活躍の部員の皆様並びに中会長を筆頭とするOB会の皆様に対し、 長い長い年月にわたるご無沙汰のお詫びを申し上げます。m (__)m さて、私達の年次は、キャプテン東谷(フィン級)斉藤・亀井(スナイプ級)松原(FJ級)の 四人で活動していました。(残念ながら活躍は出来ませんでしたが。(^_^.)) 確か入学時にはもう少し部員がいたようなのですがスッカリ頭から消失しています。 1年生の時は高田太三キャプテンを筆頭に名簿でも分かるように 10 名以上の優秀かつユニーク な先輩方々がたくさんいて、私達は毎日毎日バタバタと大的場中を走り回っていたような記憶し かなく^_^;。その上、同じ場所で練習をし毎日顔を会わせているせいでしょうか?【他校の先輩 方々にもほぼ自校の先輩と同じ対応をする】という伝統が各校に根付き何十人もの先輩に一度に 仕えていたような気がします。 (笑) 『スキッパーの亀井 クルーの斉藤で~す』 二人とも顔が確認出来 なくて残念 (>_<) セールの鳥のマークは、 シギ(渡り鳥)です。 スナイプ級は、何時? 懐かしの木製のスナイプです 2年生になって試合に出るようになってからは、常に高松商業・高松工芸の後塵を拝し高松一校 と3位の座をめぐり熾烈な争いをしていた事しか覚えてなく、正式な記録なども残ってません。 私達の時代は3年生は既に引退し2年生が主にインターハイなどの公式戦に出場していました。 (今もそうなのでしょうか?)それにしても歴代でも成績は悪かった方だと思います。(-_-;) ただ幸運な事に、在籍中に〔何の大会だったか忘れましたが、〕大きな全国大会が高松ヨットハー バーで開催された事があって、全国大会の雰囲気だけはその時に味わいました。 それよりも、1年生の時には、6時限目の終了のチャイムと同時に自転車置き場にダッシュし、 同期と大的場までフルスピードで競争をしていた事。 他校の先輩に怒られ他校の1年生と一緒に砂浜をうさぎ跳びや正座をさせられた事。 A級ディンギーでの練習中にヒシャクでポコポコ叩かれてばっかりいた事。 公式レースの前日の練習中にスナイプのどてっぱらにぶつかられて大穴あけられ、徹夜でレース 直前まで修理してた事。 極めつけは、ハーバーの近くで夏合宿してる時の朝、飛び込み自殺を目撃し、挙句の果てには、 海上保安庁の依頼を受け溺死体の引き上げを手伝った事。 などなど。。。 クラブ活動の本筋から外れた思い出が目白押しです。”^_^”v 最後に私し事の話を付け加えさせて頂きます。 昭和 49 年 3 月に卒業して以来、大学・社会人〔三井ホーム㈱〕と 36 年間一度も高松に住まいし た事が無く、現在も仕事の関係で松山市に住んでいます。 転勤による転居も7回ほど行い、たぶんOB会の名簿にはその間ほとんど『住所が分からない人』 の中に入っていたと思います。^_^; OB会にも、十数年前の夏に1度出席したキリです。 たまたま、昨年の4月から高松の三井ホームと松山の三井ホームが資本統一されました。 その関係で高松の三井ホームに行った時に、現役時代にお世話になった岡田和美先輩に挨拶をと 訪ねた際に、今回の60年史のお話もお伺いし名簿に再度登録をさせて頂きました。 これを機に、現役の皆様やOB会の皆様とも交友を深めてゆきたいと思っておりますので、何卒 皆様よろしくお願いを申し上げます。 第 21 期 昭和 47 年 4月 ~ 昭和 S50-1 S50-2 S50-3 S50-4 安藤 航二 近藤 信一 寺嶋 功 横山 忠則 50 年 3月 私たちS50年卒業メンバーは キャプテン 安藤航二 副キャプテン 横山忠則 寺嶋 功 近藤信一 スナイプ スナイプ FJ FJ スキッパー クルー スピッパー クルー の4人組でした。 4人しかいませんでしたので、部活はもちろん、放課後も一緒によく遊んで いました。勉強のほうは・・・? ヨット部での戦績は、いまいち誇れるものはありませんでしたが、唯一全日 本スナイフ級四国水域予選で、安藤、横山ペアで2年の春に一般の方々に交じ り3位という成績をあげられたたった一枚の表彰状です。(下の写真です) 私、横山は高校時代に勝ったことがなかったので、ヨットへの未練が捨てきれ ずに、いまだに中会長のクルーザーB.B.syanty のボースンとして、レース活動 を行っています。ヨット部のお陰で海での遊びを覚えられてほんとうによかっ たと思います。 【横山 忠則】 30 歳で教員になりましたが、1年目から 12 年間、ライバル校高松工芸高校で ヨット部顧問を務めました。ヨットからはずいぶんと遠ざかっていましたので、 当初はヨットの進化に驚かされ、練習体制の変貌ぶりに戸惑うばかりでした。 教員にヨット経験者はとても少なく、 「昔取った杵柄」やら「芸は身を助く(滅 ぼす?)」などと祭り上げられ、香川で開催された平成5年の国体、10 年のイン ターハイでは大役を任されました。また、6年先輩の澁谷有人先生が全国高体 連ヨット専門部の会長をされており、私も役員の一人として名を連ねています。 最近は、少子化のおかげで全国的に部員不足に悩まされていますが、教員の 立場からヨットの普及に微力ながらお手伝いしていきたいと考えています。 【安藤 航二】 第 22 期 昭和 48 年 4月 ~ 昭和 S51-1 S51-2 S51-3 S51-4 S51-5 安芸 保夫 津島 寛 橋本 正司 堀 高志 水上 房子 51 年 3月 第 23 期 昭和 49 年 4月 ~ 昭和 S52-1 S52-2 S52-3 S52-4 S52-5 S52-6 S52-7 大西 真一 角陸 晋二 白石 徹 徳繁 卓司 田中 勝彦 濱川 喜亘 山下 猛 52 年 3月 第 24 期 昭和 50 年 4月 ~ 昭和 S53-1 S53-2 S53-3 S53-4 S53-5 S53-6 S53-7 S53-8 S53-9 S53-10 S53-11 井下 正 上田 晃平 河合 哲夫 佐藤 聡一 中村 真 船橋 誠 古市 昌己 吉本 彰宏 和田 純一 倉岡 伊都子 成田 圭子 53 年 3月 (馬場) (樋口) 50 歳になってしまったが、不思議と 16 歳の思い出は今尚鮮明に覚えているものだ。 授業が終わり、起立・礼の挨拶と同時にヨット部部員は各々自転車に飛び乗りヨットハ ーバーへ向かった。火曜日のハーバーが休み以外週 6 日間(日曜日は丸 1 日)の練習、今 から思うと考えられない練習量と思われる。高商・工芸・一高と本部船当番を交代しなが ら、毎日4校練習レース。この4校で県総体・四国総体も行われるので、練習にも熱が入 る理由で、海上練習においての手抜きは無かった。チャバスコスナイプチーム上田・船橋、 女子の馬場・樋口、8003ウッドスナイプチーム佐藤・古市・吉本、121FJチーム 井下・中村、125FJチーム河合・和田の 11 名は常に日焼けで黒人であった。 1 年目の夏合宿は、高松城築城した生駒親正公墓所のある弘憲寺で丑三つ時に「肝試し大 会」、夜のハーバーで二手に分かれ打ち上げ花火狙い撃ち合戦、また、市民プールでの夜の 水泳大会・・・色々な思い出もある。 スナイプチームは強風の際「沈」をし、センターボードを流し、先輩に大目玉。大きな アルミ板を買い電動サンダーを使って手作りのサンターボードを作った。FJチームはラ ダーを木の合板から作ったりもした。また、破損した船体はファイバー樹脂で修復、敗れ たスピンネーカーを縫い合わせたり、僅かな部活費の節約をした。 引退を直前の、香川県総体、四国総体では好成績を修め、大会後、顧問の十河秀雄先生 に連れて行って頂いた「豚太郎」ラーメンの『塩バターラーメン』の味は今でも忘れられ ず、私は毎年十河先生に年賀状を書いている。 現在、千葉市で歯科医院を開業し、ヨットに乗る機会も無いが、海への思いは忘れまい と「吉本歯科 http://www.yoshimotoshika.com」は船の形を外観に取り入れている。 [s53 卒・吉本 彰宏] 昭和 53 年卒業の女の子は二人しかいなかったので、結構ヨットに乗せてもらえ、1 年生 のときから国体に出場できました。昭和 50 年 8 月 三重国体(津市)では、スナイプ級少 年女子で 7 位でした。翌年の昭和 51 年 8 月のインターハイにも出場したのですが、このと きは大した成績ではなく、良いことしか憶えていないので、成績も思い出せません。ヨッ トに乗る順番待ちのときに、女子更衣室の前で風に吹かれて、気持ちよくお昼寝していた ことは憶えています。 [s53 卒・倉岡 伊都子] 昭和54年卒業 渡辺稔 我々54年卒業組は残念ながら自身でのインター杯出場はで きませんでした。 しかし、1年生のときに先輩が出場権を獲得されたことから 随行させていただくことができました。全国から名だたる高 校が集結した場所で他校とのこれといった交流はありません でしたが、初めての経験をさせていただき、たいへん良い思 い出となっています。 部活中の最高の思い出は、なんと言ってもゴールデン・ウィ ーク中に実施された合宿です。当時は体育館に寝泊りし連休 の合間の平日は、そのまま授業に出ていました。夜はOBの 参加もあり、夜遅くまでその日の反省やヨットの戦術の勉強 をしていました。 夜の体育館をひとりじめしたバスケットボールなど部活以外 の行事も楽しい記憶です。 今後の高高ヨット部のますますの発展を祈念いたします。 第 26 期 昭和 52 年 4月 ~ 昭和 S55-1 S55-2 S55-3 S55-4 内田 伸子 神崎 佳奈子 中村 直子 水野 尚子 55 年 3月 (谷口) (小比賀) 第 27 期 昭和 53 年 4月 ~ 昭和 S56-1 S56-2 S56-3 井上 裕嗣 中島 康彦 宮武 淳 56 年 3月 第 28 期 昭和 54 年 4月 ~ 昭和 S57-1 S57-2 S57-3 S57-4 S57-5 S57-6 S57-7 河津 正人 小瀧 賢二 志摩 泰生 為定 典生 中西 克信 丸山 武彦 溝渕 浩二 57 年 3月 「高松高校ヨット部」の思い出 【為定典生】 ヨット部には,中学のときにはなかったような部活に入ろうという,友人の甘い(?) 言葉に誘われるまま入部した。 私自身,車酔いをするという体質もあり,入部当初は,特に微風のときの練習,アンカ ーを打って停泊している本部船の揺れや独特な臭いなんかで,気分が悪くなることがしば しばあった。ひどいときには,自宅に帰り部屋にいると,部屋全体がゆっくりと上下に揺 れ,さらに気分が悪くなることもあった。 そんな経験をしながら,やめたいという気持ちを無理に抑え,何とか2年生の終わりま で,続けることができた。 当時は,スナイプ級に乗っていたが,あまりパッとした成績も残せずレース自体にはあ まりいい思い出はないが,いつも他校(高松商業,高松工芸,高松一高など)と一緒に練 習するという,他の部にはない独特な環境であったため,他校に友人もできたし,とても 楽しかった。 特に,学校帰りに,高松工芸の横にあった「某商店」で仲間と食べた「串カツ」と「ク リームソーダ」の味は今も忘れられない。 また,塩水に使った半渇きのジャージやスニーカーの例えようのない悪臭は,今でも何 となく覚えている。 当時の仲間とは,卒業後ほとんど会う機会はないが,今となってはいい思い出である。 【小瀧賢士】 今となっては記憶が曖昧ですが,中学校の同級生がヨット部に入部するというのを聞き, 興味半分で見学に行ったのがヨットとの出会いであり,ヨット部入部のきっかけだったと 思います。 その同級生はすぐにやめてしまいましたが,僕の方は何だかんだで2年生の終わりまで 続けました。2年生で僕らの同期はほとんどが辞めてしまい,3年生まで残ったのは,僕 と FJ 級でコンビを組んでいた中西くん一人だけだったと思います。卒業して30年近く経 ちましたが,中西くんには今でも申し訳ないことをしたなあと思っています。 ヨット部の思い出として記憶にかすかに残っているのは,夏の暑い盛りにほとんど風が 吹かない中,全く進まないヨットでぐったりしていたことや,夏合宿で丸裸で海で泳いだ ことなど,あまり輝かしくもないような事ばかりです。 とはいえ,ヨット部に入部したことは貴重な体験であり,高校時代を思い出すとき,そ の僅かな思い出の多くを占めています。また,高校入学までは毎年のように冬になると風 邪を引いていた僕が滅多に風邪を引かなくなったのも,ヨット部に入部したおかげだと思 っています。 第 29 期 昭和 55 年 4月 ~ 昭和 S58-1 S58-2 S58-3 S58-4 S58-5 S58-6 S58-7 S58-8 綾井 孝明 日下 隆 佐々木 聡 高崎 義久 長尾 嘉宏 森 英二 田岡 志保 桐原 いづみ 58 年 3月 (柏原) (松原) 第 30 期 昭和 56 年 4月 ~ 昭和 S59-1 S59-2 S59-3 S59-4 S59-5 磯部 康明 小竹 祥夫 小早川 真 寺本 身佳 三木 由美子 59 年 3月 (三野) 第 31 期 昭和 57 年 4月 ~ 昭和 S60-1 S60-2 S60-3 S60-4 S60-5 S60-6 大熊 直人 大西 邦彦 佐々木 毅 及川 恵 春日 留美 安川 美杉 60 年 3月 (軒原) (増田) 第 32 期 昭和 58 年 4月 ~ 昭和 S61-1 S61-2 S61-3 S61-4 大松 徳三 土橋 健司 山下 博幹 熊 利佳子 61 年 3月 昭和62 年3月卒業 氏名 宮宇地 幸喜 高松高校ヨット部創部60周年、おめでとうございます! 私のヨット部での思い出として、まず高高に入学して初めてヨットハーバーに行った時 のことが思い出されます。中学時代は卓球部で、日焼けとは無縁であった自分が、①とに かく黒くなりたい②インターハイに出場したい③乗り物酔いを治したいという大いなる野 望を抱き、何となくハーバーを訪れたのが全ての始まりでした。ハーバーに着くと心優し い先輩たちが笑顔で迎えてくれて、着替えるとすぐに湾内でスナイプに乗せてくださり、 「これがメインセール」「これがジブシート」「これがブーム」・・・と、実に丁寧にヨ ットの各部名称を教えてくださりました。そして、ポンツーンに降りた時には「これだけ 教えたのだからまさか入部しないとは言うまいな」というオーラが全開で、こうしてヨッ ト部に入部することになったのでした。もちろん、それだけではありません。風と波の力 だけで大海原を自由に駆けめぐる、その爽快感だけでもヨットは十分魅力的でした。 今思い返してみても、ヨット部の練習は相当厳しかったように思われます。毎日欠かさ ず行われた目をつぶって正座をしながらの反省、艇に傷を付けてしまったら「トビ」、レ ース後の長い長いミーティング・・・。1年生の頃は船酔いすることはしょっちゅうで、 また本部船当番ではジョナⅠのエンジンをかけるだけで一苦労、海に出てもマークの打ち 方 が 悪 い と 他 校 の 先 輩 か ら の 怒 号 が 飛 び 、ベ タ ベ タ で 風 待 ち の 時 な ど は 、退 屈 し の ぎ に 様 々 な「芸」が求められたりしたものです。2年生以降は、選手として一層練習に熱が入りま した。「100本タック」や「100本ジャイブ」なんかを真顔でやってみたり、どうす れば早くスピンを展開できるかなどを考えながらあれこれと試行錯誤を繰り返したりしま し た 。毎 日 、頭 の 中 で は 勉 強 そ っ ち の け で ヨ ッ ト の こ と ば か り 考 え て い ま し た 。そ れ か ら 、 真っ黒い雲に追いかけられて、逃げるようにしてハーバーに帰ってきたことも今となって は懐かしい思い出の一つです。また、当時体重が45㎏しかなかった私は強風のたびに相 当苦労したのですが、相方の後輩クルーの古沢君がしっかりと体を張って艇を起こしてく れたおかげで何とかなったような気がします。彼には、本当に色んな場面で助けてもらい ました。 もちろん、楽しかった思い出もたくさんあります。防波堤の端っこでの応援合戦は他校 に負けるまいと声がかれるまで校歌を歌い続けました。誕生日には「落とし込み」の荒っ ぽい祝福があり、ただ落とすだけでなく「バタフライ」とか「逆ロケット」とかの特別な ワザもありました。合宿では眠ったが最後、顔中にマジックで落書きをされ、「高高の怪 談」後の肝試しには恐怖で震え上がりました。シーズンオフには艇の改造に明け暮れ、こ の時だけはもはや運動部ではなく、「高高工作部」になっていました。この時身につけた 技術のおかげで、浴槽の修理ぐらいはきっと自力でできると思います。そういえばオフの 間に、ウエットスーツに身を包み、真冬の海に潜って大的場の砂浜に来ていたカップルを 冷やかすというかなり手の込んだ嫌がらせをする者もいたような・・・。 このようなヨット部での充実した日々を送ることができたのも、自分たちを温かく見守 ってくださった顧問の先生方や、先輩たちのおかげだと深く感謝しています。また、様々 なレースでがんばることができたのは、後輩たちの熱い声援があったからだと思います。 そして何よりも、この自分が最後まで部活動を続けることができたのは、泉川、曽根、井 上、中山の4人の仲間たちがいたからこそだと思います。彼らには本当に、感謝の念が尽 きません。 最後になりましたが、現役時代にご指導をいただいたりご寄付をいただいたりなどOB の皆様方には大変お世話になりました。自分もこの輝かしい伝統を誇る高高ヨット部OB の一員として、後輩たちに微力ではありますが力を添えることができればと思っています。 第 34 期 昭和 60 年 4月 ~ 昭和 S63-1 S63-2 S63-3 S63-4 井内 竜洋 上杉 邦彦 大西 英知 古沢 幸一 63 年 3月 第 35 期 昭和 61 年 4月 ~ 平成 H1-1 H1-2 H1-3 H1-4 H1-5 廣瀬 道夫 広中 俊爾 山下 博之 岡本 恵美子 谷崎 公美 1 年 3月 第 36 期 昭和 62 年 4月 ~ 平成 H2-1 H2-2 H2-3 H2-4 H2-5 H2-6 H2-7 神原 圭吾 後藤 亮 三宮 一浩 上廣 弥香 浦賀 直子 鈴木 明子 松田 由貴子 (岩本) (竹垣) 2 年 3月 第 37 期 昭和 63 年 4月 ~ 平成 H3-1 H3-2 H3-3 川田 慎一郎 筒井 雅彦 渡邊 克充 3 年 3月 平成3年度卒 年次別レポート 高々ヨット部60周年おめでとうございます。 私たちの高々ヨット部との出逢いは“平成”のスタート年でした。平成元年イ ンターハイを3ヶ月前に控え、眩しいくらいの新艇がいくつも並び、ヨットと いう未知のスポーツの新鮮さに心が躍ったことを覚えています。 ハーバーのムードが高まりつつあった中、入部早々からハーバー内の艇整理、 掃除、草刈り等々いきなりの重労働があったり、大声で校歌を歌ったり、先輩 達の活躍を目の当たりにしたりと、お祭りのようなインターハイを肌で感じた ことがその後の3年間に大きな影響があったと思います。 そ の 後 3 年 間 ヨ ッ ト に 没 頭 し た 同 期 5 人 の 学 業 成 績 は 、y = - x で 右 肩 下 が り 。 顧 問 を 務 め て 頂 い た 業 天 先 生 を 始 め 、皆 さ ん に 心 配 を お 掛 け し て し ま い ま し た 。 しかし、ヨット成績は静岡インターハイには全員出場をはたし、男子スナイプ 級 は 18 位 と 奮 い ま せ ん で し た が 、 男 子 F J 級 8 位 、 女 子 F J 級 に 至 っ て は 準 優勝をもぎ取り、石川国体でも男子FJ級9位、女子FJ級9位の成績を残す ことができました。 その後の5人は、ナショナルチームに入り五輪を目指した人、1浪1留して細 長~くヨットを楽しむ人、2浪2留してウインドサーフィンとマレーシアを愛 する人、大学を2つ卒業した人、20年近く経っても変わらず不思議な人、と 豊か過ぎる個性がそれぞれの道を歩いています。 油断をすると数十m滑走し、突然ドボンするスロープ、台風で幾度と沈没する ポンツーン、救助艇名はいつもジョナサン、と変わらぬハーバーで、変わらず 頑張っている高々ヨット部をこれからも応援しています。 では、平成3年度卒業の5人より・・・。 <吉峰 秀樹> 元 FJ ス キ ッ パ ー 大 学 か ら 数 年 前 ま で 4 7 0 に 没 頭 。 高 々 OB 皆 様 方 の 御 支 援 を い た だ き な が ら オリンピックキャンペーンもやらせていただきました。その間、熊本国体に山 岡君と出場、優勝できたことは楽しい思い出です。 思い出=練習が終わった後のけだるさの中で見る四季折々のハーバーの夕暮れ。 最高。 <山岡 敏之> 元スナイプクルー 卒業後、大学、社会人と細々とセーリングは続けて、現在はシングルのレーザ ーに乗っています。仕事上転勤が多かったのですが、高松に拠点を据えました ので少しずつ恩返しをしていきたいと思います。 思 い 出 = 24345 の バ ウ を 大 破 さ せ る も 、 自 分 た ち で 見 事 な 修 理 を し た こ と 。 <北泉 秀樹> 元スナイプスキッパー 現在、江ノ島の街、神奈川県藤沢市に在住しております。逗子までわざわざ自 転車で出かけ、ウインドサーフィンを我ながら、けなげに続けています。 思 い 出 = 24345 の 大 破 さ せ た バ ウ を 修 理 中 に ド ラ イ ヤ ー で 感 電 し た こ と 。 <来田(元木) 千晶> 元 FJ ク ル ー ヨットと離れて17年。今回ようやく懐かしく思い出してきました。2回大学 に 行 っ て 、そ の 間 別 居 結 婚 で 子 供 産 ん で 、と 波 乱 の 人 生 歩 ん で ま し た( ^ ^;) ようやく4年前に高松に戻りました。 思い出=スロープで2番のスナイプを後ろから押していた亜樹ちゃんが滑って、 船に顔面激突。歯がおれてしまったこと。重かったもんね・・、スロープすべ るもんね・・・。 <石田(藤野) 亜樹> 元 FJ ス キ ッ パ ー ↑ あ っ た ね ぇ 、こ ん な こ と・・石 川 で 越 前 く ら げ 捕 獲 し て 遊 ん だ の 覚 え と る ? ? ・・・現在は東京で日々株価の波にのる仕事をしています。 思 い 出 = 謎 の ル ー ル が 一 杯 あ り 、 ハ ー バ ー 内 で は 必 ず 走 る 、 た と え 1m 先 の 備 品を取りに行く時も。海に慣れる為の落とし込み、等々。他校の方々とも一緒 に毎日顔を合わせ練習出来ること。みなさまと一緒に過ごせた事が宝物です☆ 60 周 年 な ん で す ね 、お め で と う ご ざ い ま す 。こ れ か ら も 益 々 の ご 発 展 、心 よ り お祈り申し上げています・・・。 第 38 期 平成 1 H4-1 H4-2 H4-3 H4-4 H4-5 年 4月 ~ 平成 北泉 秀樹 山岡 敏之 吉峰 秀樹 藤野 亜樹 来田 千晶 (元木) 4 年 3月 第 39 期 平成 2 H5-1 H5-2 H5-3 H5-4 年 4月 ~ 平成 田尾 和久 竹垣 繁 多田 和央 前川 亮 5 年 3月 第 40 期 平成 3 H6-1 H6-2 H6-3 H6-4 H6-5 H6-6 H6-7 年 4月 ~ 平成 上田 武司 河田 浩和 高尾 恵司 尾藤 宏親 鎌田 恵子 高橋 桐子 日笠 五十紀 (佐藤) 6 年 3月 平成6年卒 上田 武司 挨拶:私たちは2年後に控えた地元国体に向けて香川県がたいへん盛り上がっている時期に入部しました。 そんな中、瀬戸内海サメ騒動、週末毎の仁尾合宿、先輩方の期待に応えるべく猛練習したことが懐かしく思います。 遠征のたびに送り迎えしてもらったり、ときには厳しく叱ってもらったりと顧問の先生方にはたいへんお世話になりました。 どれもこれも良き思い出です。 顧問の先生 業天先生、長尾先生、坂本先生、松岡先生 エピソード、成績 1991.6 香川県高校総体 大的場ヨットハーバー スナイプ級女子 4位(高橋・佐藤・日笠) 1992.6 四国高校総体 仁尾ヨットハーバー ・経験者の高橋は入部当初から頭角を現し、女子部員を引っ張っる存在であった。 スナイプ級 3位(尾藤・長尾) 1991.11 香川県一年生大会 大的場ヨットハーバー 1992.7 第47回国民体育大会(べにばな山形国体)香川県予選 FJ級 5位(高尾・河田) スナイプ級 2位(前川・上田) スナイプ級 優勝 (尾藤・上田) 3位(尾藤・長尾) FJ級女子 2位(中村・日笠) スナイプ級女子 優勝(高橋・佐藤) 1992.9 東四国国体リハーサル大会 仁尾ヨットハーバー 1992.3~ 瀬戸内海サメ騒動の影響で大的場での海上練習が禁止となる。 スナイプ級 42位(尾藤・上田) 代わりに国分寺町の橘池にて週末の練習が行われた。 ・4月始業式の前日に橘池からの自転車での帰り道、上田が交通事故にあい頭蓋骨骨折、 記憶喪失になる。その後長期入院、7月に無事ヨット部に復帰した。 1992.10 新人戦 大的場ヨットハーバー FJ級 3位(高尾・河田) FJ級女子 3位(日笠・畑中) ・偉大な先輩が抜けた穴を埋めるべく、懸命に練習していた時期。 1992.12 鹿屋合宿 参加(尾藤・上田・高尾・河田・日笠) ・年末に鹿児島県鹿屋体育大学にて香川県勢で合宿を行いました。 きれいな海と桜島の噴煙が忘れられません。 1993.2 明治合宿 三浦半島 参加(尾藤・上田) 葛西監督の母校明治大学にて ・大学ヨット部の厳しさ、レベルを肌で感じることができるよい機会となった。 1993.3 同志社ウィーク 琵琶湖 スナイプ級出場(尾藤・上田) ・寒さの中震えながらのレース、DNFを2回もとり散々なレースでした。 1993.5 鳥取FJ全日本 FJ級出場 (高尾・河田) FJ級女子出場 (日笠・畑中)(佐藤・長尾) ・強風の中で瀬戸内海では味わえない走りを体験しました。 1993.5 西日本ウィーク 福岡小戸ヨットハーバー スナイプ級6位(尾藤・上田) 天候不良の影響で超微風の3日間、3Rが行われた。 2Rを2,2の4ポイントで迎えた第3R、35位と出遅れた。 1993.8 全国高校総体 茨城県霞ヶ浦 FJ級女子 26位(日笠、佐藤、畑中、長尾、関川) フラットな湖面、真水、強風と慣れない条件のなか、1上トップ回航フィニッシュ5位で快走するシーンもあり、 高校最後のインタハイで最高のパフォーマンスを出すことができた。 1993.8 ジュニアスナイプワールド予選会 江ノ島ヨットハーバー スナイプ級 2位(尾藤・上田) 初日微風、後半は強風レースとなった江ノ島。安定したスコアでほぼ優勝間違いなしの第7R、 1上をトップ回航しサイドマークへ向かうも、マーク変更に気付かず旧マークを回航してそのままトップフィニッシュ。 結局そのレースは優勝した愛知県の吉村組以外はマーク未回航で全員DNFになるという大波乱となった。 1993.9 第48回国民体育大会(東四国国体) 仁尾ヨットハーバー 少年男子スナイプ級 優勝(尾藤・上田) 大会本場では西よりの微風ではなく、台風の影響を受けて仁尾では珍しい東よりの順風レースとなった。 第1Rで1位を取り調子に乗り、第2Rでも5位をとり単独首位ながら1ポイント差で福岡県が続く。 最終第3Rの1上トップは福岡県、香川県は5位。抑えてくる福岡県を風の弱い左海面へ誘導しながらのタッキングマッチに。 結局福岡県は4位、香川県5位でフィニッシュ。福岡県と同点優勝となった。 高校3年間の努力が報われる最高の結果を出すことができた。 1994.3 高校卒業 尾藤は吉峰、田尾先輩の在籍する名門早稲田大学へ進学しヨット部に入部した。 1994.8 ジュニアワールドスナイプ 静岡県三ケ日 スナイプ級 16位(尾藤・上田) 第 41 期 平成 4 H7-1 H7-2 H7-3 H7-4 H7-5 年 4月 ~ 平成 関河 寿詠 南原 健一 妻鹿 企邦 畑中 芳美 吉峰 真弓 (長尾) 7 年 3月 平成7年卒業の南原です。 私の在籍時を簡単に紹介すると、平成4年に入部(&サメ騒動勃発)し、平成5年には香川県での 東四国国体が開催されました。そして平成6年は、インターハイのFJ一本化、国体でのシーホッ パー級採用と、現在の高校ヨット種目の転換点となった年でした。インターハイも国体もご縁が無 かった私にとっては、あまり実感はありませんでしたが。 ついでになりますが、平成6年の夏は記録的な大渇水の影響で19時間断水でしたから、最後に乗 艇した時、艇を洗わずに終えたことを思い出します。 入部当初は確か11名ほどいた同期メンバーですが、3年の夏には、私(キャプテン南原) 、妻 鹿くん、長尾(吉峰)さん、畑中(岸上)さん、関河(水野)さんの5名で引退を迎えることとな りました。 当時の思い出は後ほど女性陣に語っていただくとして、いまだ潮漬けの私からは近況を少しだけ。 私は名古屋大学を経て中部電力へ就職し、現在は三河湾をホームグラウンドに活動しています。 まずはY21のスモールクルーザー。これでクラブレースやエリカカップに励んでいます。クラブ レースでは昨年は参加したレースをすべて1位で3年ぶりの総合優勝(^v^)!。エリカカップ は東海で随一の参加艇数を誇るレースで昨年はとうとう最小サイズとなってしまいましたが、着順 でも大きな船に負けません。次に会社のチームでY30に乗り実業団大型艇大会に出場。そして愛 知県連、中部学連の関係ではレース運営、ジャッジをこなしています。さらに昨年とうとうシング ルハンドを始めてしまい、カートップして香川の国体予選に出場するものの九富一家の壁が厚かっ た・・・と、学生時代に増してヨット三昧です。 こんなに楽しく乗れるのも、中部水域が丁度良いサイズのコミュニティーであるが故の特色だと 思います。現役の皆さん、名古屋大学に進学してヨット部へ来てくださいね。 では後は女性陣にバトンタッチです。よろしく。 と、折角のバトンを受け取ってみた女性陣ですが、悲しいかな南原キャプテンのような人様に語 れエピソードがございませんので、私たちの高校3年間を手短に述べさせていただきます。 南原くんの話の冒頭にもございましたが、瀬戸内海にサメ騒動が起きていた平成4年の春、私た ちは入部いたしました。当時、先輩方は湾内練習を余儀なくされていたため、私たちが初めて目に したヨットの印象と言えば、海の上を優雅に漂うセレブなスポーツ・・・であったことを覚えてい ます。 (その誤解が解けるまでに、ほとんど時間を要さなかったことは言うまでもありませんが) 時日は流れ、2年生の夏には一大イベントを経験することとなります・・・そう、 「東四国国体」 が地元である香川県三豊市仁尾町で開催されたのです。運営のお手伝いなどを通じてこの地元国体 に携われたことは、私たちのヨットに対する視野を広げる上で大変貴重な体験となりました。 そして華やかに幕を閉じた地元国体終了とともに、国体強化挺として使用されたFJの内、970 と972の2挺を高高が譲り受けました。その後、南原・妻鹿組は972で、長尾・畑中組は97 0で、そして関河はシングルハンダーとしてシーホッパー級で、それぞれの目標を目指すこととな ります。 いよいよ迎えた3年の夏、綱渡りでなんとか富山インターハイ出場の切符を手にした私たちでし たが、ここでも一騒動・・・いやいやサメ騒動があり、最終日のレースが中止となるハプニングに 見舞われたため、瀬戸内海のサメで始まったヨット人生は日本海のサメで終わりを告げたのでし た・・・。 残念ながら、部員全員が集大成として最終目標に掲げていた国体出場の夢は叶えることはできま せんでした。でも、あらゆる面で指導をしてくださった顧問の先生方・先輩方、細やかなサポート を続けてくれた後輩達のお陰で、私たちは5人はヨット(とサメ??)なしでは語ることのできない、 充実した大満足の高校3年間を過ごすことができました。 最後になりましたが、この場をお借りしてお世話になった方々へお礼を述べさせていただきます。 「本当に、本当にありがとうございました!!」 (終) 第 42 期 平成 5 H8-1 H8-2 H8-3 H8-4 H8-5 年 4月 ~ 平成 秋山 貢佐 一村 文隆 佐藤 正典 林 卓也 前田 浩一 8 年 3月 平成8年卒業の前田浩一です。 1) 挨拶: 現在東京在住(32歳独身)、ほとんど香川には帰っていませんが、 先輩・同期・後輩のみなさんから気軽に連絡もらえるとうれしいです! E-mail:[email protected] 2) 写真:添付の通りです。 3) 投稿文: 卒業後東京で生活を始めて約15年ほど経ちました。 いま人にヨット部時代の話をするとき、「あの頃は良かった、青春だった、すべてが輝いていた。」 などと単純に形容しがちですが、こうやって文章を書くにあたって改めて思い出してみると、 辛かったこと悲しかったこと腹が立ったこと、 「あの時なぜ○○してしまったんだろう。なぜ××しなかったのだろう。」と、 青い痛みと切なさが、帰着するヨットの上から見た夕日に輝く瀬戸内海の情景とともに蘇り、 胸のあたりに何かがこみ上げてきます。 ただその光景を見たのはジョナツーの上か、反省の正座の後、顔を上げた時だったかも知れません。 1年のときにパートナーと喧嘩別れをして独り者になった私は、 それまで密かに放置されていた業天先生所有のシーホッパーをお借りし、 その時高松に他に誰もいなかった高校生シーホッパー乗りになりました。 そして2年のときに都合良くシーホッパー級が国体少年の部に追加され、 国体強化選手に選ばれ、高体連のコーチの元、遠征・合宿にも参加することができました。 この時は人生の中で最も私が輝いていた時であり続けています。 しかし、県予選ではFJ級から転向した高商の3年生に敗れ、国体出場はかないませんでした。 そしてその後、国体のシーホッパー級少年の部はSRで行われることが決定し、 レギュラーセールでは先輩・同期たちのFJに堂々と渡り合っていた(記憶の中では確かにそう)にも かかわらず、 SRの遅さ、パワーの無さに絶望し、また同時に学業成績も落ち始めたため、 2年のシーズンオフ中にそれを理由に退部したいと、宮宇地先生に告げました。 人生の中でこんなに後悔するようなことは、もう無いでしょう。 現役選手のみなさんにはどんながあっても最後までやり続けてほしいと思います。 2度と取り返せない、眩しい時間の中にいる現役のみなさんがとてもうらやましいです。 現在ですが東京でヨットをすることは収入面で難しいため、仕方なくサーフィンをしています。 ヨットではなくボードの上から見る海は、風景も匂いも思い出の中の瀬戸内海とは似ても似つかず、 失ったもの、過ぎ去っていったものの尊さ、美しさが増していくばかりです。 第 43 期 平成 6 H9-1 H9-2 H9-3 H9-4 年 4月 ~ 平成 春日 布三 津村 功志 沖津 由紀子 松岡 美帆 9 年 3月 第 44 期 平成 7 H10-1 H10-2 H10-3 H10-4 H10-5 年 4月 ~ 平成 中井 浩二 堀井 実 森林 亮 太田 亮子 榊 花央 (細見) 10 年 3月 高校総体第1レース 平成10年卒業 堀井 実 平成10年3月に卒業した私の高松高校ヨット部での一番記憶に残るレースは、高 校3年時に出場した高校総体の第1レースである。 平成9年8月の盆も過ぎたころ、かの有名な「天橋立」のそばにある京都府の宮津 ヨットハーバー沖で高校総体のヨット競技は開催された。 私は、納入されてからわずか1ヶ月しか経っていない、ピカピカの新艇である「F J-1375」のスキッパーとして、3年間コンビを組み続けたクルーの中井浩二と ともに、高校総体に出場した。 大会前の私達の評価は高くなく、出場60数艇中30位程度の順位が取れればよい だろうというものであった。 私は、そのような評価に反発しつつも、内心では、その程度の実力だろうなと感じ ていた。 ところが、宮津の風は私達の味方をしてくれた。 まず、大会に先立って行われるトライアルレースで、私達の艇がトップフィニッシ ュを飾ってしまった。実力のある艇は確かに本気を出していなかったが、順位表に自 分の艇が一番上に書かれているのを見るのは爽快であった。 このように勢いをつけて望んだ第1レース、上有利の中、真ん中少し上寄りから絶 好のスタートを切った。 上マークは4位で回航した。高校総体での初めてのシングル回航。緊張した。 しかし、下マークを回航するときには5位に順位を落としてしまった。 下マークを回った直後、4位で下マークを回航したその年の優勝候補の最右翼と目 される艇がタックした。すると、1位から3位を走っていた3艇も、同じようにタッ クした。 私達の艇の前に道が開けた。彼らに合わせてタックすることも考えたが、レース前 の試走で右海面の方が走るという手応えを掴んでおり、前を行く艇がタックしたこと で新鮮なブローを掴むこともできるため、タックせず右海面にコースをとり、 しばらくポートタックで右海面を走らせた。 頃合いを見てタックした。そして、スターボードタックで艇を走らせていると、左 からポートタックで走ってくる艇が見えた。下マークでは私達の艇より先行していた -1- 4艇である。 私達の艇は、その前を突っ切ることができた。私達の艇がトップにおどりでたので ある。 トップのまま、第2上マークを回航した。もうそれからは必死である。せっかくト ップに立ったのに抜かされてたまるか、という気持ちで走らせた。 後の艇との差はそれなりにあり、下マークもトップで回航することができた。あと は最終の第3上マークに向かい、フィニッシュラインを横切るだけである。 最後の上りでは、高揚感と緊張が全身を走った。のどがカラカラに乾いた。フィニ ッシュするまで後ろの艇を懸命に押さえて走った。 そして、スターボードタックでフィニッシュラインを横切ろうとした。 しかし、フィニッシュホーンが鳴らない。 焦った。リコールなのか?でも、リコール旗は一度上がったけど直ぐ降りたはず。 リコールしていませんように、という思いを込めてタックした。 フィニッシュホーンが高らかに鳴った。 夢にまでも見た、もとい、夢にも見ていなかった高校総体でのトップフィニッシュ である。 レース後ハーバーに戻って来た。顧問の先生をはじめとする高松からの関係者が拍 手で迎えてくれた。 純粋に嬉しかった。 その後のレースは、徐々に本来の実力が出て、最終的な順位は13位であった。 せっかく第1レースでトップをとったのにという残念な気持ちもあったが、高校最 後の大会である高校総体の第1レースでトップフィニッシュを飾れたこと、これはそ の時のレース内容とともに、今も私の記憶の中に鮮明に残るヨット部での一番の思い 出である。 以 -2- 上 第 45 期 平成 8 H11-1 H11-2 H11-3 H11-4 H11-5 H11-6 H11-7 年 4月 ~ 平成 相引 勝寿 阿竹 聖和 上田 徹 千石 大介 直井 大樹 藤井 亮介 岡田 知子 11 年 3月 第 46 期 平成 9 H12-1 H12-2 H12-3 H12-4 H12-5 H12-6 H12-8 H12-9 H12-10 H12-11 H12-12 H12-13 H12-14 H12-15 H12-16 年 4月 ~ 平成 朝倉 健太 井上 由啓 大西 賢治 日下 正浩 中村 悠 濱田 昇吾 森 伊佐夫 守本 剛 山地 浩充 岡田 恵美 田邊 絢子 十河 彰子 橘 佳美 馬場 誠子 三好 奈織 12 年 3月 (平木) (鈴木) 第 47 期 平成 10 年 4月 ~ 平成 H13-1 H13-2 金森 達哉 真田 啓介 13 年 3月 第 48 期 平成 11 年 4月 ~ 平成 H14-1 H14-2 H14-3 H14-4 H14-5 H14-6 H14-7 H14-8 須山 哲吏 田中 雅樹 中名 勝俊 蓮井 誠 紅谷 浩司 小原 有加里 鍋島 陽子 松本 幸実 14 年 3月 第 49 期 平成 12 年 4月 ~ 平成 H15-1 H15-2 H15-3 H15-4 大平 翔太 末澤 聡子 中 麻梨子 藤川 裕佳子 15 年 3月 2002年よさこい高知国体 第 50 期 平成 13 年 4月 ~ 平成 H16-1 H16-2 中塚 俊輔 三好 竜馬 16 年 3月 第 51 期 平成 14 年 4月 ~ 平成 H17-1 伊勢嶋 諒平 17 年 3月 県総体レース直前の校歌熱唱 県総体スタート直前 県総体サイドマーク回航 県総体女子シーホッパーSRで優勝した 里さん 第 52 期 平成 15 年 4月 ~ 平成 h18-1 h18-2 h18-3 h18-4 h18-5 h18-6 相引 寿登 大江 亮太朗 大前 彰宏 里 益実 仙波 隆大 滝川 望 18 年 3月 皆さんこんにちは!!2006 年 3 月卒業のヨット部 OB・OG6名です。高高ヨット部 が創部 60 周年を迎えるとのこと、おめでとうございます!!それだけ多くの人がヨッ ト部に関わってきたのかと思うと、感慨深いです。 我々の代では、高高を初め香川県内のヨット部員の数が大幅に増加しました。一つ上 の代と比べると、人数は軽く 7・8 倍になったのではないかと思います。ただ、そのた めインターハイ出場が狭き門となってしまいましたが・・・。 また、2005 年に香川をはじめ西日本各地を襲った台風 14 号の被害も忘れることがで きません。ポンツーンが沈み、バース全面が流木で覆いつくされ出艇不可能となったあ の時には、自然の驚異を感じました・・・。 しかし、何はともあれ高校生活 3 年間のヨット部での活動は私たちにとって非常に有 意義で、楽しい時間でした。大学でもヨットを続けているのは一人か二人ですが、他の 者も機会があればまたヨットに乗りたいと考えています!! あと 1 年足らずで、我々はほぼ全員が社会に出ることになります。どこかで高高 OB の方にお会いする日もあるのでしょうか?それを楽しみに、社会の荒波を渡って行きま す!! 文責:滝川 ↑2009 年夏に京都で集まった時の写真です。みんな変わってませんでした!! ※同期の相引が欠席でした。 第 53 期 平成 16 年 4月 ~ 平成 h19-1 h19-2 大神 和也 宮本 昌弥 19 年 3月 第 54 期 平成 17 年 4月 ~ 平成 h20-1 h20-2 h20-3 上野 良介 二神 剛希 福田 拓積 20 年 3月 H20 年卒業 OB 上野 良介(主将) 福田 拓積(副将) 二神 剛希 ●エピソード 当初、新入部員9名(男子のみ)で活動を開始するも、1年次に 3名が退部、2年次の 夏までに3名が退部し、3名が残る。この 際、クルーを失った福田が下級生の小野を誘っ てペアを結成する。 以後新入生入部までは、後輩3名を含めて全部員6名という廃部寸 前の危機の中で活動す る。 平成 19 年四国総体をもって3名とも引退、インターハイ出 場は果たせなかった。 上記の通り、この当時は部員が少なく、女子部員は1人もいな かった。そのため、いつ 誰が見学に来ても好印象を与えられるよう、艇庫を常時きれいに保つなどして、少しでも 多くの部員を確保 することに必死だった。 ハーバー内にある「スロープ転倒注意」の赤い掲示は、この部員が活動している 2007 年 度に貼り出された。これに関して、2007 年 7 月に上野がスロープで転倒して頭をうち、脳 震盪をおこして救急車で搬送された事件がきっかけであるという噂がある。 ●成績 平成18年 新人戦 FJ 級デュエット競技 FJ 級ソロ競技 平成19年 光ウィーク 予選 A フリート 決勝フリート 3位 6位 上野・二神 7位 福田・小野 8位 上野・二神 15位 福田・小野 30位 福田・小野 33位 上野・二神 平成19年 全国高等学校選抜ヨット選手権大会(鳥取大会) 25位 福田・小野 30位 上野・二神 平成19年 県総体 FJ 級デュエット競技 FJ 級ソロ競技 平成19年 四国総体 FJ 級デュエット競技 FJ 級ソロ競技 3位 5位 3位 5位 上野・二神 6位 福田・小野 上野・二神 6位 福田・小野 圭涛衰介. 織凌。与羽牟素 …7芽ラガ>日(木) (のEi,胸ゴ縁習字。急アボ椎風に対処帥丁乞花し 燕絡入pけりざ流寸M1症。そM帯着直籏!=はス ロープ・マスを滑脈?蒻徹17繍評肌,救急ヰデ県 之中次病彪に凋囹堂ニウ、lしずいい 2Mミル塗,乾輩,測勿ナ々!ご!丁稀『,蝋, 郷ヤwT(『しに。1引湯プ改め7農詑m「こしずす。、 ら加川、ヲ「て刺.対I?,汝急隊員ハラwバネ当て7ね, MM7アハんでwMLI可潰も航押(?聞釧’ぅ「= を覚え7いず7.. =ユー 〔'--1フ 、兀ムゴ 強佇(大苛 念談、あり子了や凸鯰隼風宇内訴 統・'主?↑・麿諮綜号・昇ら・当茸へ甘'↑・応 を救髻泳圓ャ山爾州謬(「富べ劇うち『馴気耳巾 、 ~ 上 第 55 期 平成 18 年 4月 ~ 平成 h21-1 佐伯 健太 h21-2 吉川 直城 21 年 3月 第 56 期 平成 19 年 4月 ~ 平成 h22-1 h22-2 h22-3 h22-4 野村 英生 寒川 拓郎 山田 佳明 塩津 由子 h22-5 中村 江 22 年 3月 どなたから頂いたのか不明です すいません 60年史の発刊、おめでとうございます。 高松高校を卒業して40年になりました。 ヨット部の同期とは、いつの間にか音信不通となってしまいました。 これを機会に、また、復活したいと思っております。 小生が在籍した頃は、高高ヨット部は毎年、香川県で最下位(4位)でした。 元々、勉学の気分転換の気持ちで、大的場に行って、先輩諸氏の話を聞くと、 同好会の延長の様な部であると聞いたので、入部しました。 そのため、どちらかと言うと、勝負はソッチノケで、ヨットを楽しむ気持ちが強かったの を 覚えています。 発刊にあたって 高高ヨット部 OB会 会長 中 博史 香川県立高松高等学校ヨット部は昭和28年誕生しました。おりしも第8回 国民体育大会が香川で開かれた年でした。 香川県ヨット連盟50年史によりますと、当時、香川県では国体に向けて、 昭和26年からヨット連盟の発足、大的場のヨットハーバーの新設、レース用 Aクラスディンギー、スナイプ(当時は地元が艇を用意していました)の発注 を進めており香川におけるヨットの創設期でありました。また、工芸高校が昭 和26年創部、高松商業が昭和27年創部されました。 その国体で一般女子の部門で吉本キミコさん、暁子さんと共に参加した松井 昌子さんがみごと全国優勝をとげられました。 ここから我々高高ヨット部の歴史が始まりました。 爾来、ヨット部から300名あまりのOBが育っていきました。2年間もし くは3年間、瀬戸内の海で育んだ思いは今でも皆様の心に深く残っているので はないでしょうか。 ハーバーも旧大的場ヨット競技場から埋め立て工事中の間の屋島浦生、そし て現在のヨット競技場と変わりました。艇もA級ディンギー・スナイプからフィ ンが入り、現在はFJ級とシーホッパーになりました。皆様がこの歴史の息吹 を感じて頂いたら幸いです。 なお、この60年史はEDP化を図っています。表紙もあえてヨット部史に しました。これからも資料をどんどん付け加えていけるようにしております。 まだ空白の年度もできるだけ埋められるように皆様のご協力お願いします。 今回の作成にご協力頂いた皆様に心より感謝申し上げると共にこれからのご 協力もお願いして編集の言葉と致します。