...

先輩経営者は語る【大和製作所】

by user

on
Category: Documents
32

views

Report

Comments

Transcript

先輩経営者は語る【大和製作所】
テクノプラザおかや“ものづくりフェア2006”先輩経営者は語る
「製糸業からの転換」
(株)大和製作所代表取締役会長
片倉
篤
氏
戦前川岸村の三沢地区には、マルイチ、ヤマト、マルト、カネニ等の製糸
工場があり操業を続けていました。しかし太平洋戦争が始まってからは、養
蚕農家は蚕を飼って繭をつくってはいられなくなり、製糸工場も仕事ができ
なくなってしまいました。三沢地区の製糸工場は、片倉製糸のマルイチ工場
が東京の芝浦電気株式会社に工場を賃貸しし、使用料をもらうようになった
のに続いて、ヤマト、マルト、カネニの 3 工場も東芝に工場を賃貸しするこ
とになり、三沢地区の大手の製糸工場はなくなってしまいました。当社の前
身である“イリヤマト”工場は離れており、幾つかの軍需工場から買収など
の交渉がありましたが、私の親父の片倉文平は一貫してこれを断ってきまし
た。工場は自分で経営するという信念があったものと思います。その頃東京
の町工場で日産自動車の下請けをやっていた、斉藤製作所から「東京はいつ
空襲されるかわからないという状態だし、従業員も伊那の人が多い為、空き
工場になっている三沢区のイリヤマト工場に人員と設備を移して仕事を続け
たい」という話があり、また日産は軍から戦闘機のエンジンを作れという命
令をうけて、吉原工場で製造することになり部品メーカーを探していました。
そこでイリヤマト工場で土地建物等を 15.万円、斉藤製作所で機械を 15 万円
と見積もり、双方で 5 万円ずつ追加して大和航空工業株式会社という“でか
い”名前を付けて仕事を始めることになりました。製作した部品は油送管接
手と緊定ナット、その他 2・3 点でしたが、納品には納入業務のできる人が 4
人ばかりいたようですが、交代で、1 人でリュックサックに入れて背負って行
ったそうです。それでも、昭和 18 年、19 年、20 年の終戦まではなんとか経
営ができたようです。19 年の何月だったか、父が吉原工業へ荷物を持って行
って、納品した帰りに沼津が爆撃され、帰りの身延線はいっぱいで乗車でき
ない状態のところを窓からもぐり込んで、人の頭の上を越してやっと乗り込
んだなどという話をしてくれました。そんなことが 20 年の 8 月まで続いたと
のことであります。戦後は日産自動車も積載重量 6 トンのトラックから製造
を始めました。当社も前輪をとめるホイールナット、ダブルタイヤの後輪を
とめるアウターナットの加工を始めましたけれども、ナットインナーを作っ
ていた関東工業が辞めてしまい、当社でこれを作るように日産から頼まれ、
仕掛り品から手直しをしなければ良品にはならない不良品をたくさん持って
きてどうしても熱処理前の形状に加工してくれないかと頼まれて何とか加工
して納入したとのことです。しかし戦後から昭和 34・5 年ころのブルーバー
ドの生産が始まるまでは、下駄スケートの刃の部分とか、大豆を粉にする製
粉機とか、
“名和さん”といって猟銃を作っていた人に頼んで会社に来てもら
って、手作業はできるだけ少なくして旋盤とかフライス盤を使って銃身とか
機関部を作り、天竜川沿いに試射所を作って散弾の散リ具合を調べる場所を
作ったりしたことが、後のターレット旋盤を専用機に改造することや、冷間
鍛造の金型作りに役に立ったと思われます。
私は立教大学を卒業して昭和 32 年に入社しましたが、34 年、35 年頃日産
は、ブルーバードの本格的な生産体制になって、当社でもタイヤをはめるハ
ブナットとエンジンバルブを支えるバルブリテーナーが段々に増加してきて、
宮野鉄工所の自動旋盤を何台も使って切削加工をしましたが、ニ交替でやっ
ても間に合わない状態になり、切り粉も多く出て採算もあわなくなりました。
日産に相談して当時ナットフォーマーをもっている、大阪の布施螺子にこの
ハブナットを作ってもらうようにお願いし、エンジンバルブリテーナーに全
力を尽くすようにしましたけれども、完成重量は 20 グラムの製品ですが材料
は 100 グラムも使うので、当社としては冷間鍛造プレスで成形できれば実に
良い仕事になると思われました。そして、現在は福井機械となっております
が、当時は月島機械製作所の能力 100 トンの冷間鍛造プレスをバルブリテー
ナーの成形に、能力 200 トンの冷間鍛造プレスをナットインナー等の成形に
使用できると思われましたので、合計 2 台を設置することとし、八十二銀行
の黒沢支店長に資金をお願いして許可を得ました。冷間鍛造で作った製品は、
強度、精度ともに切削品より優れていたし、生産量は自動盤の 3 倍から 5 倍
になってコストの低減もできました。しかし、今度は鍛造素材をつくる自動
盤が足りなくなり増強する為に、火災の心配のない工場を軽量鉄骨で作り、
宮野鉄工所の自動旋盤を増設しました。それでも数量の増加についていけず、
自動盤を持っている外注工場を探してなんとか間に合わせるようにしました。
また、部品点数が増加する中で、ターレット旋盤にエアーシリンダーをつけ
た自家製の半自動機を、社内の猟銃を作っていた技術を応用して何台も作り、
鍛造後の仕上げ加工ができるようにしました。また、冷間鍛造をするために
はパーカーライディングといって素材を脱脂して、リン酸亜鉛被膜と金属石
鹸の被膜をつけなければならないわけですが、人力で処理していたので、と
ても大変な仕事になってしまいました。昭和 41 年、八十二銀行の石井支店長
が工場を見に来て、この木造建築は昔の製糸工場だし、火災の心配もあるか
ら、鉄骨の不燃性の工場にしたらどうか、金は銀行で心配するからと言って
くれ、岡谷工場の中心である重量鉄骨の鍛造工場と、後加工工場ができまし
た。冷間鍛造は日産関係の多くの種類の部品の発注があり、パーカーライデ
ィングの設備もしなければとても人力だけではできなくなってしまったので、
新工場にメリーゴーランド式のパーカーライディング設備を自家製で作り、
大分楽になりました。また、冷間鍛造プレスも 100 トンと 200 トンの各 1 台
も増設しました。しかし、本社の冷間鍛造後の切削加工等の後加工の工場が
必要となり、昭和 44 年の春、辰野町の羽場地区に 15,000 ㎡の土地を購入し、
8 月には 2,100 ㎡の鉄骨工場が完成し、冷間鍛造後の仕上げ加工をして辰野よ
り製品を発送するようになりました。また、15,000 ㎡のうち、天竜川よりで
ございますけれども 1,500 ㎡を丸眞製作所さんに御買いいただき、丸眞製作
所の辰野工場もできた訳でありまして、当社としては大変ありがたかった訳
でございます。また、冷間鍛造前の焼きなましを行うための純鉄炉 3 台を本
社に取り付け、パーカーライディング設備も全自動ボンデ処理装置を設置し
て稼動しております。また素材の切断加工を行う自動帯鋸盤 4 台、自動丸鋸
盤 9 台が稼動しており、辰野工場では冷間鍛造の素材作りを行うフォーマー
工場を既に昭和 48 年に建て、材料は 18φ∼30φのコイル材を使って切断、
矯正、面打ち、型抜き等を 1 秒に 1 個のスピードで同時加工するNF-550 型
ナットフォーマーを設置し、冷間鍛造の素材作りを行うことができました。
その後ナットフォーマーを増加して前のナットフォーマー工場が狭くなって
しまったので、平成 10 年 6 月に辰野にフォーマー工場を設備しました。現在
ではNF-530
PF-640
2 台、NF-550
1 台、PF-550
1 台、PF-560
1 台、
1 台の合計 6 台が稼動しております。後加工については、現在は
NC旋盤で仕上げをするものが多くなり、辰野工場で 20 台、岡谷工場で 10
台稼動しています。フォーマー加工したままで、納入先で仕上げ加工を行う
という形で納入するものも増加しており、PF-560 型の生産能力が足りなく
なっているのと、もし故障して修理するに時間がかかるとその間生産がスト
ップするし、納入先に大変なご迷惑をかけることになりますので、2 台目のフ
ォーマーが今年の 6 月に導入されます。また、PF-640 も 1 台しかありませ
んのでいずれは増強しなければなりません。その台数までは現在のフォーマ
ー工場に収納が可能かと思われます。
もう 7 年も前のことですけども、日産の経営方針が変わって下請け工場を
大切にするという方針がすっかり変わってしまいました。辰野の新フォーマ
ー工場が完成したころ、日産がフランスの自動車メーカーのルノーと提携し、
カルロスゴーンが最高責任者になって日産リバイバルプランとして 3 年間で
20%のコスト削減、2 番目として部品メーカーの削減 1,445 社あるのを 600
社にするということですから、半分以下にするということです。車両組み立
て工場の閉鎖。これは村山工場と日産車体の京都工場、愛知機械の港工場で
あります。また、ユニット工場の閉鎖として、久里浜工場、九州ユニット工
場。国内生産能力の節減として年間生産台数を 240 万台から、165 万台にす
るということでございました。3 年間で 20%のコストを節減して、しかも数
が減ってしまうということでは、これはとても容易なことじゃないなと思っ
たわけでございます。しかし、それをやらなければ 600 社の中には入れない
ということであります。今まで、毎年値下げ要求があり何とかしてそれに応
えてきたうえに、またこのような大幅な値下げをしなければならないという
ことです。生産台数も大幅に減らしたわけであります。当社ではやむを得な
いので、ある程度は日産の言うことを聞きながら、日産以外の自動車メーカ
ーの仕事をやりたいと考えていたところ、富士重工さんやいすゞ自動車さん
の仕事をしていた部品メーカーが倒産し、そのメーカーの仕事を引き継いだ
わけですけども、日産に納入する値段よりも 20%から 30%高く売れて、それ
でメーカーには大変喜んでいただいたということでございます。日産の仕事
がいかに安かったかわかりました。また自動車以外の取引先で農機具の関係
だとか、電気器具の関係、またフォーマー加工のままで納入先の部品メーカ
ーに納入するものも多くなってきました。今考えてみれば、本当に一緒に苦
労してくれた従業員一同に心から感謝したい思う気持ちでいっぱいでござい
ます。これで終わりたいと思います。ご静聴ありがとうございました。
Fly UP