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少女と海を

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少女と海を
佳 作
少女と海を
経営学部経営学科3年
山形市立商業高校
読書、ツーリング
太宰 治﹁人間失格﹂
打海 文三﹁ぼくが愛し
たゴウスト﹂応化戦争記
シリーズ
金澤
章哉 さん
所
属
出身高校
趣
味
愛 読 書
SHOYA ● KANAZAWA
76
1
﹁私を海へ連れて行ってもらえませんか?﹂
空はどこまでも青。太陽は今日も元気に輝いている。た
ま に は サ ボ っ て く れ て も い い の と 思 う。 日 差 し を 遮 る 雲
が、申し訳なさそうに漂っていた。僕は太陽に向かって煙
を吐く。
一瞬だけ煙が太陽を覆うが、
すぐに霧散してしまっ
た。今日もいつもと何も変わらない、ただ暑いだけの、う
んざりとした一日だろうと無意識下で感じていた、そんな
ある夏の朝のことだ。
眼下には青いワンピースを着た一人の少女。水色のポー
チを肩から提げている。
年の頃は十二歳前後だろうか。
真っ
黒な肩くらいまである髪をお下げにしている姿が、まだ幼
く感じられる。小学生が夏休みに入るには少し早くはない
だろうか。
僕 は 辺 り を 見 回 し た。 通 学 途 中 に 立 ち 寄 っ た コ ン ビ ニ
で、バイクに寄りかかって煙草を吸っている僕以外、誰も
見当たらない。人の前に立っての独り言でなければ、どう
やら先ほどの声はこの少女が僕に向かって発したと考える
べきだろう。
ぼんやりとそんな取り留めのないことを考えていると
﹁煙草はいけないと思います﹂
眼下の少女が眉をひそめながらそう言ってきた。やはり
これらは僕へと向けられている言葉だったようだ。
﹁ああ、うん、ごめん﹂
二 十 歳 以 上 の 喫 煙 は、 別 に 本 人 の 勝 手 だ ろ う と 思 っ た
が、とりあえず煙草を足元に捨てて、踵で踏み消す。
それを見た少女がまたも眉をひそめた。
﹁ポイ捨てはもっといけないと思います﹂
僕はため息をつき、捨てた吸殻を拾ってコンビニ前の灰
皿へと落とした。そして少女へと向き直り肩をすくめて手
を振った。
﹁じゃあ、俺はこれで。これから学校があるんだ。真面目
な俺としてはサボるわけにはいかないんだ﹂
そう言ってヘルメットを被り、バイクへと跨る。そして
キーを差し込もうとした瞬間、
﹁あのっ!﹂
突然少女が叫んだ。少女特有の甲高い声で、大きさも申
し分なかった。通行人の視線が僕たちに向けられる。これ
は大変よろしくない。なにせ学校のすぐ近くのコンビニな
のだ。誰か知り合いにでも見られたら色々と面倒なことに
なる。
﹁何?﹂
僕はとりあえずヘルメットを脱ぐ。そして少女は最初の
言葉を繰り返した。
﹁私を海へ連れて行ってもらえませんか?﹂
僕はため息をつく。
﹁そういうことは君のお父さんにでも頼みなさい。お兄さ
んはね、忙しいんだ﹂
僕は手をひらひらさせて適当にあしらった。この少女は
見知らぬ人に付いて行ってはいけないと教わらなかったの
だろうか。第一、見慣れぬ大人が小学校の前で、帰宅途中
の小学生に話しかけるだけで不審者扱いされるご時勢なの
だ。今のこの状況も決して歓迎されはしないだろう。
77
僕はヘルメットを被りなおし、今度こそキーを入れた。
しかし、そのキーが回されることはなかった。なぜなら、
その少女が切羽詰った表情を貼り付けながら、卵形のキー
ホルダーのようなものを、僕に向けて突き出していたから
だ。
﹁これ、なんだかわかりますか?﹂
少女は真剣な眼をして、そう言った。
﹁最新のDSが⋮⋮﹂
僕はポケットから煙草を取り出し、火をつける。そして
ゆっくりと煙を吸い込んで話をつなげた。
﹁そんなにも小さいとは思わなかったな。しかも操作ボタ
ンどころか液晶もなしか。タッチペンもなしかい?まぁあ
れは大して使わなかったしね﹂
﹁そんなわけないでしょう﹂
僕はすこしふざけて見せたのだが、容赦なく一蹴されて
しまった。僕は肩をすくめる。
﹁ こ れ は 防 犯 ブ ザ ー。 知 ら な い 人 に 襲 わ れ そ う に な っ た
ら、このピンを抜くんです﹂
﹁ふむ。
使用状況と使用法は間違ってないようだね。
でも、
﹁それで、貴方にお願いがあるんです﹂
﹁なにが﹃それで﹄か、俺にはよくわからないんだけど﹂
少女はなおも僕の言葉を無視して、三度目になる言葉を
繰り返した。
﹁私を海に連れて行ってくれませんか?﹂
その手には相変わらず防犯ブザーが握られていて、僕の
ほうに向けられている。
僕は深々と煙を吸い込む。
﹁知ってるかな?﹂
﹁何がですか?﹂
﹁日本では、成年の喫煙は認められてるけどさ、脅迫は犯
罪なんだよ﹂
それに対する少女の返答は
﹁人聞きが悪いです。私はただお願いしてるだけですよ﹂
﹁じゃあ、もし俺がこのキーを回すと?﹂
少女はにっこりと笑って
﹁間違ってピンを抜いちゃうかもしれません﹂
こう答えたのだった。
僕は空を見上げ、ため息とともに煙を吐く。どこかで蝉
が鳴いていた。
全く、たまに朝早く起きるとこれだ。早起きは三文の得
など、今の日本では通用しないようだ。僕は今日の時間割
を思い出した。確か一時限目は社会科学論だったか。あの
授業つまらないんだよな。
確かに俺は君の言う知らない人かもしれないけど、さすが
誤って学校で鳴らしてしまった人がいたけど、とてもひど
僕は観念して気だるく少女へ話しかけた。
﹁で、お嬢さん。
エスコート先は海でよろしいのですね?﹂
に君に危害は加えてないと思うんだけど﹂
少女は僕の意見などお構いなしに続ける。
﹁このピンを抜くと、とても大きな音が鳴るんです。前に
い音でした﹂
﹁俺は実際には聞いたことはないけど、なんでも審判の日
を知らせるが如くうるさいらしいね﹂
78
2
﹁ ヘ ル メ ッ ト は 被 っ た? し っ か り と 俺 の 肩 を 掴 ん で。
あー、少し手が届きにくいかな。じゃあ、俺の腰に手を回
して前で組んで。
そして足は閉じて車体にくっつける。まぁ
始めはあんまりスピードを出さないからそんな固くならな
いで大丈夫﹂
少女からの返事はない。僕は後ろを振り向き言った。
﹁手はここ。そう、前に回して、しっかりと組む﹂
﹁はい﹂
声が少し固い。恐らくバイクの二人乗りは初めてなのだ
ろう。だがすぐに慣れるはずだ。
﹁ところで、海って、どこの海に行けばいいの?﹂
﹁海ならどこでもいいんですけど、出来れば荒岬海岸がい
いです﹂
﹁了解。じゃあ行くよ、しっかりつかまってね﹂
僕は左右を確認し、ついでに顔見知りがいないかも確か
め、ゆっくりとバイクを発車させた。
走り始めた当初は、肩に食い込む力が強かったが、バイ
クを走らせると共に緩んでいった。サイドミラーを見ると
少 女 が 眼 を 輝 か せ て 流 れ る 景 色 に 見 入 っ て い る。 き ょ ろ
﹁ねえ!﹂
少し声量を上げてもう一度呼びかけた。またも返事はな
い。僕は諦めて、運転に集中した。無言の、風だけが聞こ
える時間が続く。
前の信号が赤になった。ゆっくりと減速し、丁度停止線
の上に止まる。僕は後ろを振り返り尋ねた。
﹁初めてバイクに乗った感想は?﹂
少女は楽しそうに笑っていた。その笑みをかたどってい
る口が弾んだ声で答えた。
﹁すごく気持ちいいです。風を感じられて。それに、すご
く面白い。いつも通っている道が、まったく違うように感
じられて。なんていうか、同じだけどどこか違う世界を進
んでいるみたい﹂
僕も思わず微笑んで言った。
﹁違う世界、ね。いいね、そういうの好きだよ。っと、信
号青になった。行くよ。しっかり掴まって﹂
僕は後ろの少女が怖がらない程度に加速する。こんなこ
とで違う世界を見せてあげられるのなら、いくらでも見せ
てあげたいと思ったから。こんなつまらない世界が、少し
でも面白く感じられるのなら。
ことがなく、全てを冷めた眼で観察して、ニヒリストを気
取っているだけなのかもしれない。みんなはこの世界をつ
僕はいつからこんな厭世主義者になったのだろうか。思
えばずいぶん昔からのような気がする。何事にも熱中する
まらないと感じないのだろうか。いや、きっと誰しもこん
きょろと首を忙しく左右に動かしている。ヘルメットから
出 た お 下 げ が パ タ パ タ と 風 に な び い て い る。 口 は 半 開 き
だ。こうしてサイドミラーを通して見ると、歳相応の可愛
らしい女の子だ。さっき啖呵を切った少女とは到底思えな
な感情を持っているのだろう。どこかで折り合いをつけて
生きているのだろう。ただ、僕が子供なだけだ。現実を、
い。
﹁ねえ﹂
僕は前を見ながら後ろに呼びかけた。返事はない。
79
社会を、世界を受け入れたくないとただ駄々をこねる子供
なのだろう。しかし、僕には受け入れられない。この世界
を綺麗と、面白いと感じられない僕は、受け入れることな
んて、出来ない。
後 ろ か ら 肩 を 掴 ん で い る 少 女 は、 相 変 わ ら ず 楽 し そ う
だ。もしかしたらこの少女も、僕と同じような考えを持っ
て い る の か も し れ な い。 さ っ き﹃ 違 う 世 界 ﹄ と 言 っ た 少
女。違う世界。ここではない、どこか違う世界。
そのまま三十分くらいバイクを走らせた。そういえば、
コンビニで朝食を買い損ねたのだった。少し空腹を感じて
きた。
信号で停止する。僕は振り返り少女に尋ねた。
﹁そういえば腹減ってない?朝ごはんは食べて来た?﹂
少女は俯いて少し恥ずかしそうに答えた。
﹁ 少 し 減 っ て ま す。 朝 ご は ん を 食 べ て こ な か っ た の で
⋮⋮﹂
﹁オッケー。じゃあ少し休憩だ﹂
僕 は そ う 言 い、 近 く に あ っ た モ ス バ ー ガ ー の 駐 車 場 へ
入った。郊外から少し離れた場所で、しかもまだ昼前だ。
ほとんど客ははいっていないだろう。僕たち以外の駐車は
二台しかなかった。スタンドを立て、エンジンを切る。ヘ
ルメットをシートの下にしまった。
﹁はい、休憩﹂
僕は入り口に向かって歩いていたのだが、少女がついて
くる気配がないので、後ろを振り返った。少女はまだバイ
クの後部座席に乗ったままだった。
﹁もう降りて大丈夫だよ﹂
少女は俯いて動こうとしない。
﹁もしかして、モスは嫌い?﹂
﹁いえ、そうじゃなくて⋮⋮﹂
少女は不安そうな顔をして、言葉を切った。
﹁ああ、お金のことなら大丈夫だよ。さすがに子供にお金
は出させられないから、このくらいはおごるよ﹂
﹁いえ、お金のことじゃなくて⋮⋮﹂
少女の声はか細い。今にも消え入りそうだった。何をそ
んなに不安がっているのだろう。そこでようやく僕は思い
至る。
﹁ほらよ﹂
少女に向かってバイクのキーを放り投げた。少女は慌て
てそれを両手を合わせるようにキャッチした。僕は苦笑し
ながら、
﹁今更逃げようなんて思ってないよ。早く来て。いい加減
腹減ったよ﹂
そ れ を 聞 い た 少 女 は 顔 を 勢 い よ く 上 げ て、 嬉 し そ う に
キーを握り締め、
﹁はい!﹂
と明るい声で答えて僕の後を小走りについてきた。
3
予想通り店内は空いていた。二人連れの主婦らしき女性
たちと、ノートを広げて必死にペンを走らせている若い男
性だけだった。
僕 は 隣 に い る 少 女 に 何 が い い か を 尋 ね、 少 女 は﹁ モ ス
バーガーとオレンジジュース﹂と答えた。
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﹁オッケー。先に席を取って待ってて﹂
そう言った後、すぐに後悔した。少女は迷わず禁煙席に
走っていったからだ。僕は肩をすくめ、注文するためにカ
ウンターへと進んだ。アルバイトの店員の女の子は、二十
歳くらいの男性と小学生らしき少女の組み合わせに少し怪
訝な顔をしたが、マニュアル通りに注文を尋ねてきた。僕
は手短に自分と少女の注文を言い、そそくさとお金を払っ
て、彼女の視線から逃げるように席へと向かった。
少女は窓の外を眺めていた。その顔は、優しい顔をして
いたが、気のせいか哀しそうな顔にも見えた。少女の視線
をたどると、僕のバイクに行き着いた。
﹁気に入った?﹂
僕は席に座って正面に座る少女に尋ねた。
﹁あのバイク。じっと見つめてるもんだからさ﹂
﹁はい、とても﹂
少女は微笑んで答え、それから尋ね返してきた。
﹁あのバイク、名前とかあるんですか?﹂
﹁名前?﹂
﹁はい、あのバイクの名前です﹂
僕は少し考え、
﹁いや、ないな﹂
と答えた。
﹁商品名はエストレヤっていうけど、特別名前とかつけて
ないよ﹂
それを聞いて少女は駐車場に停めてあるバイクを見なが
ら呟くように言った。
﹁それじゃあの子が可哀想です。ただ使われるだけ使われ
て、名前も付けてもらえないなんて﹂
﹁ふむ。なかなか斬新な考えだね。まぁ少し機能主義と似
てるかな﹂
少女は首をかしげたが、
﹁そのきのー主義とはよくわかりませんけど、私があの子
に名前をつけてあげます﹂
﹁ほう。飛び切りいいセンスのやつを頼むよ﹂
僕は冗談めかしたが
﹁ララ﹂
と少女は即答した。
僕は眉間に人差し指を当て顔をしかめた。
﹁さすがに、可愛すぎやしないか?﹂
﹁いいんです。あの子の名前はララ﹂
そう言って、少女はモスバーガーに噛り付いた。
﹁ララ、ねぇ⋮⋮﹂
僕はアイスコーヒーにストローを指してそれを吸う。そ
して、ポケットから煙草を取り出そうとしたが、禁煙席で
あることを思い出した。
﹁それはそうと、喫煙席に座る優しさくらいは見せてくれ
てもいいんじゃないかな?﹂
僕は恨みがましくそう言うと、少女は悪びれもなく
﹁ごめんなさい。喫煙と、禁煙、漢字がわかりませんでし
た﹂
とにっこり笑って答えた。今までの言動や落ち着いた物
腰から考えて、恐らく、いや、間違いなく嘘だろう。しか
し、これを機に少し質問してみようと思った。
﹁漢字が読めなかったって、君、小学生だよね?﹂
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少女は言い淀んだ。本来学校に行くべき日にランドセル
も持たずにコンビニの前にいたのだ。答えはサボったに決
まっているのだが、少女は言いにくそうに口をもごもごさ
少女はオレンジジュースを啜りながら答えた。
﹁はい。小学六年です﹂
予想通りの年齢だ。
﹁ということは、まだ夏休みには入ってないよね。それに
今日は平日だし。学校はどうしたの?﹂
と答えのわかりきった質問をした。
﹁それは⋮⋮﹂
立てて飲んだ。それから
﹁お兄さんだって、学校サボったじゃないですか﹂
と、伏し目がちに言ってきたので、僕は軽く手を振りな
がら答えた。
﹁俺は真面目だからサボってもいいんだよ﹂
﹁それ、矛盾してます﹂
﹁ほう、なかなか難しい言葉を知ってるね﹂
﹁質問がいくつか﹂
僕は突然のことで半分面食らったが、もう半分、どこか
納得がいった気がした。やはり、この子もか、と。
﹁お兄さんは、この世界を綺麗だと思いますか?﹂
それを聞いた少女は暫くの間思案していたが、小さな声
でこう聞いてきた。
僕は軽く微笑み、
﹁さすがにまだ難しかったかな。ごめん、忘れてくれ﹂
少女は首をかしげていた。
﹁よく、わからないです⋮⋮﹂
を感じるのはその人を信頼してしまったからだ。ほら、か
くも世界はこんなにも矛盾で彩られてる﹂
かなり利発だっ
僕は素直に感心した。やはりこの少女は、
たようだ。
﹁でもね、この世界は矛盾に満ちているんだよ﹂
と、火のついてない煙草を指で弄びながら言い聞かせる
ように話した。
少女は疑問を顔に浮かばせたので僕は話を続ける。
﹁いいかい?戦争があるおかげで平和を感じられるんだ。
絶望に落ちるがためにそこに一筋の希望を見出せる。失望
せている。
﹁ふーん、サボったんだ﹂
少女は俯いて
﹁今日は、その、お医者さんに行く日で⋮⋮﹂
と、何やら言い訳を呟いたようだが、どう見てもこの少
女は健康そのものだ。
﹁学校をサボって、俺とデートとはねぇ﹂
それを聞いた少女は勢いよく顔を上げてテーブルを叩い
た。顔が少し赤い。そして間髪いれずに
﹁デートなんかじゃないです!﹂
と大きな声で反論してきた。気まずいことに、近くにい
た主婦らしき人たちが一旦話を中断してこちらを見てき
た。そして小声で話し直した。
﹁わかった。悪かった。デートなんかじゃないな?とりあ
えず落ち着いてジュースを飲もう。な?﹂
僕は慌てて少女にオレンジジュースを差し出した。少女
は素直にそれを両手で受け取り、そのままジューッと音を
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﹁どうぞ﹂
﹁まず一つ目。君が言った世界っていうのは、日本とかア
メリカとか、そういった国々が集まって出来ているこの世
界という意味かい?﹂
﹁いえ、違います。説明しにくいんですけど⋮⋮、そう、
例えば両親がいて、友達がいて、学校があって、その中で
暮らしている私がいて⋮⋮。そしてそれは、生きている人
みんなにも、もちろんお兄さんにもきっと似たようなこと
が言えて⋮⋮。お兄さんが言った世界とは違った意味の、
もっと身近に感じることができる、そういった世界という
意味です﹂
やはりこの子は聡明のようだ。いや、早熟と言ったほう
が適切かもしれない。
この僕でさえ、
同じような疑問を持っ
たのは、確か中学生に入ってからだったと思う。
ちらりと僕を見てくる。
その眼に映っ
少女は上目遣いで、
ているのは、懐疑と不安だ。自分の言っていることが理解
されているのかという懐疑と、自分がおかしな子供と思わ
れていないかと言う不安だ。
﹁ふむ、なるほどね﹂
僕 は そ の 眼 を 見 据 え て、 に や り と 笑 っ て 次 の 質 問 を し
た。
﹁じゃあ、二つ目。それは、世界にある美しい風景や動植
物のことを指してるんじゃないよね?﹂
﹁はい。こう、なんていうか、もっと違う、もっと大きな
意味で⋮⋮。ごめんなさい、うまく言えないです﹂
﹁充分だよ﹂
少女の言いたいことはすぐにわかった。僕も似たような
問いかけを、幾度もなく自分自身にしてきたのだから。そ
して、その答えはすでに出ている。一貫して変わることの
ない答えだ。
﹁そうだね⋮⋮﹂
少女の問いに対する返答は、僕の中でもうすでに出てい
る事だが、しばらくの間、どのように少女に伝えたらいい
かを整理した。やがて、ゆっくりと、口を開いた。
﹁これはあくまで俺の思っていることだ。あまりに一方的
な考えで、自己中心的なもの。聞く人によっては鼻で笑わ
れるかもしれない。呆れられるかもしれない。だけど、俺
はそれはそれで構わないと思う。だから、君も参考程度に
聞いて欲しい。いい?﹂
少女は小さく頷いた。
﹁俺は、この世界は決して綺麗なんかじゃないと思う。大
人たちの殆どは、お金を稼ぐことに腐心し、子供たちの殆
どは、ただ流されるように生きて、そうした大人になって
いく。もちろん、全員が全員、そうだなんて思っているわ
けじゃない。中にはきちんと自分なりの信念や考えを持っ
て生きている人がいることも知っている。だけど、俺はあ
まりにもそうじゃない人たちを見すぎてしまった。あまり
の世界が綺麗なんかじゃないと思う理由はさ⋮⋮﹂
にもこの世界に浸りすぎてしまった。そして、俺が一番こ
僕は、少女の顔を真っ直ぐ見つめる。少女も、僕の顔を
真っ直ぐ見つめる。
﹁俺も、結局は、その人たちと、何一つ変わらない人間だっ
てことなんだよ﹂
自分が嫌悪している人たちと、自分も結局は一緒だなん
83
それなのに、なぜこんな知り合って間もない、それも名
前も知らぬ少女に話したのだろう。適当にこの世界は綺麗
だよ、と、心にもない嘘を言ってあしらうことも出来たは
ずなのに。
少 女 は ま だ 僕 の 顔 を 瞬 き も せ ず に 見 つ め て い る。 恐 ら
く、僕の話した内容を半分も理解できてないだろう。しか
し、その本質は、直感で理解出来ていると思った。
てわかってしまって、それを認めてしまって、この世界を
綺麗だなんて、素直に受け入れられるはずもない。そんな
僕が、
この世界を綺麗だなんて思えるはずもない。それが、
僕の回答だ。
僕は、この話を他の誰にも話したことはなかった。両親
にも、恋人にも、数少ない気の許せる友人にも。そして、
誰にも、話すつもりもなかった。恐らくこれから先も、誰
かに話すこともなかっただろう。
4
その後、僕たちは取り留めのない会話をした。学校で流
行っている遊びや、好きな教師や嫌いな教師の話。自分の
失敗談や、最近見た映画の話などを。
そして一段落ついた頃には二人のトレーは空になってい
た。
﹁よし、大分涼んだことですし、そろそろ行きますかね﹂
﹁はい、行きましょう﹂
僕は煙草を咥え、ジッポで火をつける。紫煙が空に吸い
込まれていき、白煙が僕の口から吐き出された。
しますよー﹂
と、駆け寄って、バイクのボディーに貼られた犬のステッ
カーを軽く指でなでた。
﹁さて、感動の再会もすんだところですし、そろそろ出発
駐車していたバイクが見えると少女は、
﹁お待たせ、ララ。暑い中待たせてごめんね﹂
少女が笑いながら皮肉を言い、僕も﹁違いない﹂と笑っ
た。
僕はトレーを持って立ち上がり、少女もそれに習う。ゴ
ミを分別して捨てて、店員のマニュアルに従った音声を背
に受けてドアを開ける。
降り注ぐ日光と地面で暖められた熱気が、容赦なく肌を
刺す。吹き抜ける風まで生暖かいのだから救いがない。
﹁相も変わらず太陽さんは真面目ですこと﹂
僕は手のひらを目上に翳しながら空を見上げる。
﹁お兄さん程じゃないですけどね﹂
きっと、この子も同じようなことを感じているはずだか
ら。この子はどこか、僕に似ていると感じたから。
﹁お兄さんも⋮⋮﹂
少女の固く閉ざされていた口がゆっくりと開く。
﹁やっぱりそんな風に考えているのですね﹂
少女の年齢には似つかわしくない、落ち着いた雰囲気を
漂わせ、凛として発せられた言葉は、どこか寂しそうに次
の言葉を紡いだ。
﹁私も同じ答えです﹂
そして、少女は優しく、切なそうに微笑んだ。
﹁あ、煙草﹂
84
少女が見咎めて、非難するような目つきでこちらをじっ
と見てくる。
ケットを弄り、キーを取り出した。ちゃらん、とキーホル
ダーが乾いた音を立てた。少女はキーを顔の高さまで持ち
上げた。キーホルダーがもう一度高い音が鳴った。
﹁お兄さん、犬好きなんですか?﹂
﹁ん?﹂
少女はキーにつけていた犬のキーホルダーをまじまじと
眺めている。
﹁だって、バイクにも犬のシールをつけているし、ほら、
このキーホルダーにも﹂
﹁ああ、実家のほうで犬を飼ってるんだ。犬は好きだよ。
正直で、忠実だ。嘘をついたりもしない﹂
﹁私も大好きです﹂
と、少女は﹁えへへ﹂と可愛らしく笑った。
僕は少女からキーを受け取り、ヘルメットを取り出す。
そしてそのうち一つを少女へ手渡した。少女はそれをしっ
かりと被り、あごの下でホックをとめる。パチンと小気味
いい音がした。
僕は手に持った煙草を捨てようとしたが、また少女にあ
の眼を向けられると考え、暫く迷った末に、靴の裏で火を
消して吸殻をポケットに突っ込んだ。
僕は少女の視線を避けるように、首を真横に向けて再び
煙を吐き出す。
﹁煙草は体に悪いんですよ﹂
﹁うん。知ってる。よく知ってる﹂
﹁じゃあ、何でやめないんですか?﹂
﹁この歳になるとさ、もう軌道修正はできないんだ﹂
僕はさらに続く少女の詰問から逃げるためにヘルメット
を取り出そうとシートに手を伸ばしたが、少女に鍵を預け
ていたことに思い至った。少女に向かって手を出して
﹁キー頂戴﹂
と促した。
少女も、こちらに手を差し出してきた。
﹁何?﹂
﹁煙草と交換です﹂
﹁あのさ⋮⋮﹂
僕はため息と共に煙を吐き出した。
﹁キーが無いと、バイクは動かない。つまり海まで行けな
いんだ。それはお互いに困るだろ?﹂
そ れ を 見 た 少 女 は 満 足 そ う に 微 笑 み、 バ イ ク へ 向 か っ
た。そして、バイクによじ登ろうと、必死に手足をバタつ
しかし、少女は返事をすることもなく、尚も手足を動か
している。
ぴょんぴょん飛び跳ねている。僕は後ろから声をかけた。
﹁手を貸そうか?﹂
かせた。うまく登れないらしく、シートに両手を乗せて、
﹁ですから、煙草を渡してください。そうすれば返します
から﹂
少女は頑として譲らない。炎天下の下。無言でにらみ合
う僕たち。太陽の光は、無慈悲に僕たちに降り注いだ。先
に根負けしたのは僕のほうだった。
﹁わかったよ。渡すよ。渡すからキーを返してくれ﹂
少 女 は 嬉 し そ う に 煙 草 を 受 け 取 る と、 両 手 で 左 右 の ポ
85
見かねた僕は、少女の脇を抱え、ひょいと持ち上げて、
バイクの後ろに座らせた。
少女はたどたどしく
﹁あ、ありがとうございます﹂
と、お礼を口にした。
﹁どういたしまして。でも、返事くらいはして欲しいな。
さすがにもう、少なくとも無視しなくてもいい間柄くらい
にはなったんじゃないか?﹂
僕は冗談を交えて言った。少女はハッとして、
﹁ す、 す み ま せ ん。 夢 中 に な る と、 周 り が 見 え な く な っ
ちゃって﹂
﹁ふーん。ああ、そういえば、初めてバイクを走らせたと
きもそうだったね﹂
少女の眼が軽く見開いた。
﹁あ、ごめんなさい、全然気づかなかったです﹂
﹁ そ っ か。 ま あ 無 視 さ れ て た わ け じ ゃ な い と わ か っ て よ
かったよ﹂
少女は若干顔を伏せて
﹁初めて体験したことだったので、つい夢中になっちゃっ
て⋮⋮。もしかしたら今後もそういうことがあるかもしれ
ません﹂
僕は笑いながらキーを回しエンジンをかけた。そして振
り向いて後ろに座る少女に顔を向けた。
﹁了解。じゃあ話すときは止まったときに振り向いてから
話すよ﹂
少女がにっこりと微笑んだのを見て、バイクをゆっくり
走らせた。
5
バイクは僕たちを乗せて国道を走る。最短距離をいくな
ら、
いくつかショートカットできる道も知っていたが、カー
ブが多かったり、狭かったりするので、後ろに少女が乗っ
ている今は、少し遠回りになっても走りやすい道路を選ん
だほうがいいと考えた。
太陽は依然輝いていて、雲はボイコット中らしい。直射
日光が肌を焼く。この暑さだ。途中こまめに水分補給等の
休憩を挟みながら、バイクは海に向かって進んでいく。
少女は相変わらず嬉しそうだ。時折サイドミラーに移る
少女の眼は、ただ純粋に変わり行く世界を楽しんでいた。
ミラーの中にいる少女を横目で見ていた僕は、そういえ
ば、と、ある疑問を感じた。そういえば、この少女は何故
学校をサボって、しかも見ず知らずの僕に頼んでまで、海
に行きたかったのだろうか?
今までこの質問をしなかったのは、もちろん聞くのを忘
れ て い た と い う こ と に 他 な ら な い が、 そ の 主 な 原 因 と し
て、興味が無かったからと言うのが大きいと思う。他人に
も、そして自分にさえも無関心な僕だ。余計なこと、無駄
なことはしない主義。それが今までの僕の行き方だ。しか
し今の僕は、少女にそれを尋ねてみたいと思っている。こ
んなことは、いったいいつ以来だろう。もう記憶に無いく
らい昔のことのように感じられる。
﹁ねえ!﹂
僕は少女に聞こえるよう、大きな声を出した。しかし、
反応はない。相変わらず飽きもせずに景観を楽しんでいる
ようだ。
86
﹁ねえ!﹂
ミラー越しの少女は、まったく変化ない。
僕は繰り返す。
そういえば、さっき夢中になると周りが見えなくなるとか
言 っ て い た こ と を 思 い 出 す。 し か し こ れ ほ ど の 集 中 力 と
は。もしかしてこの子は稀に見る天才なのかもしれない。
﹁ねえってば!﹂
今度は首を九十度少女のほうに向けながら叫んだ。する
とやっと、僕が何か話していることに気がついたようだ。
﹁え?何ですか?﹂
僕はちらちらと前方に顔を向けながら、叫び続けた。
﹁君が海へ行きたい理由は何なの?﹂
﹁え?何ですか?よく聞こえません!﹂
﹁海へ行きたいりーゆーうー!﹂
﹁ごめんなさい!よく聞こえないです!﹂
後ろにいる少女の声が聞こえているのだから、僕の声は
風下にいる少女へ届きやすいと思ったが、そうではないら
しい。
聞 い て み た い と も 思 っ た が、 確 か こ の 先 暫 く 信 号 は な
かったはずだ。かといってわざわざ停止してまで聞くこと
でもない。僕はミラー越しの少女に向かって苦笑しながら
軽く首を振って、
﹁ な ん で も な い ﹂ と 小 さ く つ ぶ や い て、
バイクを走らせることに専念した。少女も小さく頷いた。
信 号 の 無 い 片 側 二 車 線 の 直 線 が 続 く。 僕 は 遅 過 ぎ も せ
ず、かといって速過ぎもしない速度で、ぼんやりと走って
いた。
後方から来た一台の青いバンが車線変更し、僕たちを右
側から追い越して、
また左車線へ、
つまり僕たちの前を走っ
ていった。
﹁お兄さん!﹂
後ろにいる少女が風に負けないように叫んだ。
﹁何?﹂
僕も叫び返す。
﹁抜かれましたよ!﹂
﹁うん、そうだね!﹂
僕が適当に相槌を打ち、そのままの速度で走り続けた。
すると少女は不満げに、更に強く繰り返し叫んだ。少女の
小さな左手が、ば僕の肩をばんばんと叩く。
﹁抜 か
―ーれーまーしーたー!﹂
僕は思わず頬が緩んだ。﹁わかりましたよお嬢さん。お
望みの通りに﹂と、口の中で呟く。僕は一度、アクセルを
大きくふかす。すぐさまクラッチを握り、ギアをあげる。
そしてアクセルを再びふかす。これらを一連の動作で行っ
た。それにバイクが応える。エンジンが唸り、咆哮をあげ
る。
﹁しっかり掴まっていろよ!﹂
バイクは見る見るうちに加速し、追い越していった青い
バンに再び追いついた。僕はウィンカーをあげ、サイドミ
ラーで背後に車がいないか確認して右車線に出る。そして
また加速する。青いバンの右に並んだ。
そのときサイドミラーを見ると、少女はバンの運転手に
手を振っていた。楽しそうに笑いながら、
一生懸命手を振っ
ていた。
僕は更に加速し、バンを追い抜き、ウィンカーを上げ再
び左車線に戻る。サイドミラーに写った壮年の運転手の男
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性は、苦笑いをしながら少女に手を振り返していた。
少女は前に向き直った。身を乗り出すように僕の顔の横
で声を上げて心底楽しそうに笑った。つられて僕も思わず
声を上げて笑った。
﹁あはははは!﹂
僕たちの声が澄み渡る青空の下で大きく響き渡る。風が
その声を乗せてどこまでも流れていく。
空はどこまでも青かった。僕たちは、ただ理由も無く楽
しくて、馬鹿みたいに口を大きく開けながら笑い続けた。
そのどこまでも青い空の下を、ただただ笑いながら走り続
けた。
6
太陽が頭上で白く輝き、それからゆっくりと下がり始め
た 頃 だ っ た。 背 後 の 少 女 が﹁ わ ぁ﹂ と 感 嘆 の 声 を も ら し
た。
交差点を曲がると、前方に小さく海が視界に入った。
﹁お兄さん、海ですよ!﹂
少女は僕の肩に両手を乗せて、身を乗り出している。す
ごいはしゃぎようだ。
﹁うん、わかったから。とりあえず手を前に回して。危な
いから﹂
﹁だって、海ですよ、海!﹂
少女の手は僕の前に回されはしたが、依然としてはしゃ
ぎ続けている。僕は苦笑しながらも、どこかこんな気持ち
も悪くないなと思っていた。
さっきは小さかった海が、もう果てもなく見えるくらい
近づいた。前方に駐車場の標識がみえてきたので、徐々に
スピードを落として進む。
﹁はい曲がるよ﹂
すっかりと落ち着きをなくなってしまった少女に一声掛
け、ゆっくりと駐車場内に進入する。辺りを見回し、空い
ている場所を探す。平日だというのに、中々の混み具合だ。
ようやく駐車できるスペースを見つけて、ゆっくりとバイ
クを止めた。
﹁はいお疲れさま﹂
少女は元気にバイクから飛び降り華麗に着地を決めた。
ヘルメットを脱ぎ、僕に差し出しながら
﹁ありがとうございます﹂
と、眩しく微笑んだ。
﹁何か食べる?お昼も過ぎたことだし、そろそろお腹減っ
たでしょ?﹂
少女勢いよく振り返った。お下げが大きく弧を描いた。
﹁いえ、そんなことよりも海です!﹂
僕は朝食が足りなかったという事もあり、海よりも﹃そ
ん な こ と ﹄ の 方 が 重 要 だ っ た の だ が、 ぴ ょ ん ぴ ょ ん と ス
テップを踏んでいる少女の前では、それを言うのは憚られ
た。
﹁お兄さん、早く早く!﹂
海へ小走りに走っていた少女が途中振り返り、僕を急か
す。しかし僕はこの太陽の下、汗をかきたくもないので、
特 に 歩 幅 を 広 げ る わ け で も な く、 ゆ っ く り と 歩 い て い っ
た。すると少女が見かねて、僕の方に走って戻ってきた。
そして腰に両手を当て、前かがみになり、無言で僕の眼を
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覗き込んできた。
﹁わかったよ﹂
僕は渋々歩を速めた。少女はまた駆けていく。そのまま
海に近づくと靴を脱ぎ捨て波打ち際にまた駆けていった。
海岸は結構な混み具合だ。大学生くらいのカップルや、
数人の男女のグループが目立つ。流石に大学生と小学生と
いう組み合わせはいないようだ。
僕は少女が脱ぎ捨てた靴を広い、浜辺に腰を下ろした。
海に入るつもりもなかったので、浅瀬で飛び跳ねる少女を
ぼんやりと眺めた。これじゃまるで保護者じゃないかと、
僕は独り苦笑した。
﹁そんなにはしゃぐと転ぶよ﹂
僕の忠告は少し遅かったようだ。少女が水に足を取られ
て尻餅をついた。それを見た僕は思わず噴き出してしまっ
た。
間の悪いことに少女は噴出した僕を見ていたようだ。慌
てて眼をそらす。すると、
﹁お兄さんも﹂
少女はじと目で僕を見上げてきた。僕は視線をそらした
まま知らない振りをしたのだが、少女は尚も繰り返した。
﹁お兄さんも﹂
僕はこのまま無視し続けるのは無理だと覚り、仕方がな
く答えた。
﹁俺も、何をしろって?﹂
﹁お兄さんも、海に入ってください﹂
大体は予想していたが、やはり予想通りの返答が返って
きた。しかし、これには素直に従うわけにはいかない。先
ほどからこの少女に主導権を握られている気もするし、第
一、僕は海が嫌いだ。何故なら僕は泳げない。小さい頃に
溺れて以来、僕は水が大嫌いだ。例え踝までしか水がない
としても、嫌なものは嫌なのだ。僕ははっきりと首を横に
振った。
﹁俺はいい。一人で思う存分楽しんでくれ﹂
少女はまたも視線で訴えてくる。しかし今回は僕も譲る
つもりはない。
﹁駄目なものは駄目﹂
少女は拗ねたように口を尖らせた。
﹁わかりましたよー。私一人で楽しみますよー﹂
そう言って、時折僕に大声で話しかけながら、声を上げ
て水と戯れた。僕は浜辺に座ったまま、ぼんやりとそれを
眺めた。
しばらくの間遊んでいた少女が、はしゃぎ疲れたのか、
海からあがってきて、僕の隣に足を抱えて座った。
﹁面白かったですよ。お兄さんも入ればよかったのに﹂
少女の顔はまだ緩んでいる。余程楽しかったようだ。
﹁それはよかった。でも、俺は謹んで遠慮させてくれ﹂
少女は頬を膨らませたが、僕は見なかったことにして話
題を変える。
﹁あんなに騒いだんだ。喉乾いたろ。休憩ついでに飯も食
おうぜ﹂
少女は申し訳なさそうに僕を見上げて
﹁朝ごはんもお兄さんに出してもらって、それにジュース
とかも⋮⋮。これ以上の迷惑は⋮⋮﹂
僕はため息をついた。
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﹁あのさ﹂
と、うな垂れている少女に話しかけた。
﹁迷惑なら今日の朝にとっくにとびきり大きいやつをかけ
られたんだ。だから今更遠慮するのはなし。いい?﹂
﹁はい⋮⋮﹂
少女はまだ沈んだ顔をしている。ぼくはまたため息をつ
い た。 ど う や ら 僕 の 言 い た い こ と は 伝 わ ら な か っ た よ う
だ。直接言いたくなかったのだが、このままでは罰が悪い
のも確かだ。
﹁いいんだよ。その迷惑のおかげで、俺は今、久しぶりに
楽しいんだ。だから早く飯に行くぞ!﹂
少女の顔がみるみる明るくなった。全く。奢ると途端に
現金になる友人たちとは正反対だ。
﹁あ、ならいい場所を知ってるんです。お昼ご飯買ってそ
こに行きませんか?﹂
﹁いい場所って⋮⋮。前に来たことあったの?﹂
﹁はい、一昨年に、一度だけ﹂
そうか、だから最初にこの海岸を指定したのかと思い至
る。僕は少女に笑いかけ、
﹁じゃあ、そこで優雅にランチとしましょうか﹂
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少女が案内した場所は、若者で賑わっている浜辺から数
百メートルは離れていた。すぐ後ろには青々とした木々が
連なっていて、海辺には大きな岩も目立つ。
﹁へぇ。静かでいい場所だね。ここが君だけのお気に入り
の場所ってわけだ﹂
﹁はい。秘密の場所です﹂
そ う い う 少 女 の 顔 は 誇 ら し げ で あ り、 少 し 哀 し げ で も
あった。
僕たちは木陰に並んで座った。僕は焼きおにぎりを、少
女には焼きそばとコーラを渡して、
﹁では、早速頂きますか﹂
﹁はい、頂きます﹂
それぞれ昼食を食べ始めた。少女は空腹だったらしく、
一生懸命割り箸を動かしては口に運んでいる。口の周りは
ソースで不器用なルージュが塗られている。僕は笑ってポ
ケットからティッシュを出し、少女に渡した。少女はそれ
を見て、何のことだかわからなかったようだが、僕が口を
指差してやると、慌ててティッシュで拭いた。それを見て
僕は笑った。少女も笑った。
僕のほうが先に食べ終わり、食後の一服をと思いポケッ
トに手を入れたが、少女に没収されたことを思い出した。
﹁ねえ、煙草。一本だけ頂戴﹂
﹁駄目ですよ。あげられません﹂
﹁一本だけでいいから﹂
僕がそう言うと、少女は少し考え、
﹁じゃあ、
一本だけなら。でもその代わり、
その他の煙草、
くれませんか?﹂
僕は胡乱気に少女を見つめた。
﹁別にいいけど、吸うときは親や先生に見つからないよう
にしろよ﹂
﹁吸いませんっ!私はただ、今日の記念にと思って⋮⋮﹂
﹁記念、ねぇ。まぁいっか﹂
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少女は嬉しそうにポケットに手を入れたが、手に当たっ
た感触に、苦笑いに似た表情を浮かべた。
﹁あの⋮⋮。さっき海で転んじゃったときに⋮⋮﹂
煙草のパッケージは海水に使ってふやけていた。当然、
中の煙草も湿っているだろう。
﹁しょうがないな全く﹂
僕は少女が手に持つ煙草の箱から一本だけ抜き取り、口
には咥えず、ポケットの中に入れた。少女は煙草を大切そ
うにポーチの中にしまった。
それから僕たちは並んで太い木の幹に背を預けて、眼を
瞑って蝉の声と波の音を聞いた。不思議と、蝉の声が不快
に感じなかった。人の声も、車の音も、空調の電子音もな
い世界に、僕たちはいる。この世界を愛おしく思った。
不意に右肩に重さを感じた。見ると少女が寝息を立てて
いる。慣れないバイクの緊張と、海での疲れが来たのだろ
う。寝顔はどこまでも穏やかだ。何の装飾もない、素のま
まの小学生の顔があった。僕はゆっくりと息を一つ吐き出
し、空を見上げた。
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気がつくと、太陽が海の上で赤くなろうとしていた。僕
は 慌 て て 飛 び 起 き た。 慣 れ な い 早 起 き な ど す る も の だ か
ら、
いつの間にか僕も寝てしまったようだ。腕時計を見る。
三十分程度しか眠ってないはずだ。しかし、僕の肩で寝て
いたはずの少女がいない。
﹁おい!どこだ!﹂
僕は叫び、少女を探して辺りを見回すが、それらしい人
影はない。
﹁返事をしろってば!﹂
僕は焦燥感に駆られた。体の中で何かが急き立てる。こ
れ は 責 任 感 か ら か。 知 ら な い 少 女 を 海 へ 連 れ て き て、 見
失ってしまったという社会へ対する責任感からか。いや違
うと僕は否定する。そんなくだらないものではない。一片
の偽りなく、ただ僕は純粋に少女の身を案じたのだ。そん
な責任感など曖昧なものよりも、ただ、僕の横で笑ってい
た、あのはた迷惑な一人の少女を思って僕は必死に叫び続
けた。
靴が濡れるのも忘れて、僕は海へ走り出した。膝までが
海水で濡れた。しかし、そんなことは気にならなかった。
夢中で少女を探した。
そのとき、
﹁お兄さん﹂
背後で、声がした。少女が、岩の陰でひざを抱えて座っ
ていた。
僕は思わず声を大にして
!﹂
﹁お前な、聞こえてたなら返事くらい ――
その先が、僕の口から出ることはなかった。少女が泣い
ていたからだ。
﹁さっきまで、悲しくて泣いてたんですけど、この涙は嬉
し泣きですよ。こんな私でも、必死で探してくれる人がい
たってわかって、嬉しくて﹂
僕は少女の傍まで水の中を歩き、隣に黙って座った。暫
く少女は泣いていたが、ゆっくりと話し始めた。
﹁ララという犬がいたんです。ララは私が産まれた日に家
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に来た、とても賢いラブラドールレトリバー。私たちはい
つ も 一 緒 で し た。 丁 度 一 昨 年 の こ の 日 も ラ ラ と 一 緒 で し
た。 向 こ う の 浜 辺 に い た 両 親 に 黙 っ て ラ ラ と こ こ ま で 来
て、ここの浅瀬で遊びました。始めは浅いところだったん
ですけど、段々と調子に乗って、深いところまで行ってし
まって。そこで私は溺れました。どうして溺れたかは覚え
てません。大きい波が来たのかもしれません。でも、私は
海水を飲んじゃって、苦しくて、ただ必死に水面に顔を出
そうとしたことしか覚えてないんです。気がついたのは陸
の上です。騒ぎ立てる両親と私の隣でぐったり横たわって
いるララ。ああ、ララが助けてくれたんだなって思って、
ま た 眠 り に 落 ち ま し た。 次 に 眼 を 覚 ま し た の は 病 院 で し
た。消毒液くさい病室の中で、両親が私を見て喜んでいた
のを覚えています。そのとき初めて、ああ、私助かったん
だなと思いました。でも、その代わり、ララは⋮⋮﹂
こえなくなるって。ですから、最近は聴力が落ちてきまし
た。周りが煩かったり、何かを被ったりすると、殆ど何も
聞こえないんです。その人の口の動きを見れば、どうにか
内容は理解できるんですけど、まだ完璧と言うわけじゃあ
りません。そのせいか、友達もどこか余所余所しくなりま
した。私から距離を置いている感じで、以前のように接し
てくれなくなって⋮⋮。もう全部が嫌になって、逃げ出し
たいって思っていました。そんな時です⋮⋮﹂
少女は涙に濡れた目を僕に向けて、
﹁ララが、お兄さんに会わせてくれたんです﹂
優しく微笑んだ。僕は
﹁俺なんかに会っても、何にもならないだろ﹂
と顔を伏せたが、少女は首を小さく横に振った。
﹁お兄さんは、初対面の私をここまで連れてきてくれまし
た。突拍子のない私の問いかけに、真剣に答えてくれまし
た。そして、今、こんな私を必死に探してくれました。だ
から⋮⋮﹂
﹁今日、お兄さんに会えて、本当によかったです﹂
少女は静かに僕を見つめる。その声は、少し真剣で、少
し照れているようでもあった。
ようなことを怒鳴りあって。でもそれはきっかけに過ぎな
9
少女はそこで目を伏せた。僕は黙って少女の言葉に耳を
傾ける。
﹁それからです。眼に見えて両親の仲が悪くなったのは。
お前がしっかり見ていなかったからだって、お互いに同じ
かったのだと思います。以前から何度か大声で言い争って
いましたので⋮⋮。
最近は離婚って単語も聞こえてきます﹂
﹁お兄さんはお昼に、世界は綺麗なんかじゃないっていい
﹁うん、言ったね﹂
﹁私も昨日までそう思っていました。なんてつまらない世
ましたよね?﹂
た。これから益々聞こえにくくなるだろうとも。手術をす
界なんだろうって。でも、今は違います﹂
少女は一旦話を区切り、両手で耳を覆うしぐさをした。
﹁私は、命は助かりましたけど、音が聞こえにくくなりま
し た。 溺 れ た と き の 後 遺 症 だ と お 医 者 さ ん は 言 っ て ま し
るには少し難しい場所なのだそうです。失敗したら一切聞
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﹁へぇ、どうして?﹂
﹁お兄さんみたいな人がいるってわかったから﹂
﹁俺なんて、どうしようもない人間だと思うけどね﹂
﹁でも出会って、たったの数時間だけなのに、私にとって
はすごく大事なことを気づかせてくれた人です﹂
﹁それは光栄だね。で、その大事なことって何?﹂
﹁お兄さんのような人がいるなら、この世界もつまらなく
ないのかもしれないって﹂
﹁俺は、俺みたいなやつが世界を駄目にしてると思うけど
ね﹂
﹁またそんなこと言って。少なくとも私にとっては⋮⋮﹂
﹁ん?私にとっては、何かな?ん?﹂
﹁ ち ょ、 ち ょ っ と そ の ニ ヤ ニ ヤ 笑 う の や め て く れ ま せ ん
か?不愉快です。もう!いいからそろそろ帰りましょう!
向こうに着いたら真っ暗になるんじゃないですか?﹂
﹁はいはい。それでは、
帰るとしましょうか、お嬢さん?﹂
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﹁今日は本当に、ありがとうございました﹂
初めて少女と出会ったコンビニで、少女は丁寧にお辞儀
をした。太陽はもう隠れてしまって、代わりに月が顔を出
している。
﹁どういたしまして。今日は俺も楽しかったよ。さあ、早
く帰りな。両親が心配してるかもよ﹂
﹁そうだといいんですけどね﹂
少 女 は 舌 を 出 し て 悪 戯 っ ぽ く 笑 っ た。 そ れ か ら 少 し 考
え、思い切ったように﹁あのっ﹂と声を出したが、思い直
して首を振り、
﹁また、どこかで!﹂
と元気に手を振った。僕もそれに応え額の上に二本指を
持ってきて、ピッと離しながら
﹁ああ、またどこかでな﹂
僕一人を乗せたバイクが、ゆっくりと少女から放れてい
く。
﹁あのっ!﹂
その背に少女の声が届く。
﹁もしお兄さんが煙草を辞めたら ――
!﹂
バイクの音にかき消されながらも、僕の耳を打った。
﹁お兄さんの恋人になってあげてもいいですよ!﹂
僕は思わず笑い出した。
﹁考えとくよ!﹂
僕は前を向いたまま叫び返した。僕は少女に聞き取られ
ないと思ってそう言ったが、何故か、少女はそれを理解し
たような気がした。
空は下弦の月が輝いている。完璧とは程遠い細長い月。
周りには星が寄り添っている。
明日も暑くなりそうだ。
でもそれも、悪くないかもしれない。
後日談
最近友人によく﹁煙草の本数減った?﹂と聞かれるが、
これは別にあの少女を意識してのことではない。これは、
まぁ、あくまで健康のためだ。それ以外に理由などない。
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