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映画「南京」から見えるもの - The Truth of Nanking
映画「南京」から見えるもの 「南京-戦線後方記録映画-」 (昭和13年東宝映画文化映画部製作) 南京陥落の翌日の一九三七年十二月十四日の午後、早くも記録映画撮影隊が南京に入った。彼らは軍の協力 のもと、十五日から正月にかけて城内の様子をくまなく撮影した。そうして出来た記録映画『南京』から 見えるものについて、映像の専門家である水島総氏とともに、当時の南京の街を徹底検証する。 (平成十九年三月三十一日、チャンネル桜・番組などをもとに再構成しました) 水島総 日本文化チャンネル桜代表 東中野 修道 亜細亜大学教授 日本「南京」学会会長 冨沢 繁信 日本「南京」学会理事 ■ 陥落二日後から撮影開始 水島 映画『南京』から見えてくるものということで、お話し頂きたいと思います。 この映画は意外と知られていないんですよね。撮影したのは東宝映画文化映画部です。その後、昭和十五年にそれ まであった数多くのニュース映画、記録映画の製作会社を一つにまとめ、社団法人日本映画社、日映として誕生して おり、今日にいたっています。 日映は戦地にカメラマンを派遣し、歴史的な記録映画を次々に発表しました。全国の映画館は鈴なりの観客にあふ れ、勝ち戦に酔いしれたといいます。 世紀を越えた今、この映画が我々の目にどう映るのでしょうか、最初にご覧になった時の印象はいかがでしたか。 東中野 世間で言われていることと、全く違った世界がここにある、これこそ当時のありのままの南京であったと思いました。 冨澤 全く同じ意見です。我々はふつう南京と言いますと、「南京事件」を思い出すのですが、この映画には、 その 「南京事件」という言葉が一回も出てこない。これは何を意味するのかということです。 水島 これは、いくら宣伝映画だとはいえ、本当に直後に南京に入って撮影したものです。これから見えてくるものがある と思いますね。 それではこの映画『南京』をご覧頂きたいと思います。 映画「南京」の最初の部分・上映 (行軍する日本軍~陥落直後の南京城内~城壁~城門~散乱する武器~海軍艦艇~飛行場~兵民分離 ~入城式~祝宴~戦死者荼毘~) 水島 戦死した兵隊さんを荼毘にふすところまでを見て頂きましたが、改めていかがですか。 東中野 最初、火災の煙が出ておりましたね。当時、中国軍は清野(せいや)作戦ということで民家などを焼きはらうことを しましたが、特に下関【シヤーカン】は焼け野原になっていました。城内も陥落前から中国兵によって放火が行われ ていた。それがまだ続いていたと考えられますね。翌年の一月か二月には、消防隊を編成して消火しているのですが、 陥落直後にはまだありませんでしたから。 水島 清野作戦というのは、ご存知ない方も居られると思いますが、中国軍が退却するときに敵に使わせないために総て を焼いてしまう。そのために日本軍が困ったという話が聞かれますね。 東中野 この考えは中国では一世紀頃からありました。二千年の伝統にたった戦い方と言えるでしょうね。 水島 日本軍の戦い方にはなかったですからね。だいたいが利用するということですから。 このほかの写真を見ても、攻める以前から城内で煙が出ています。 冨澤 私が印象に残ったことは、行軍する兵士が重い荷物を背負って前屈みになって歩いていることです。 東中野 この映画を撮影した白井茂カメラマンが『カメラと人生』という本を自費出版で出しておられるのです。 これによりますと、十二月十四日の午後に白井撮影隊が南京に入っており、十五日から撮影を開始しています。 したがって、あの画面の兵隊さんは十五日以降だと思います。 水島 中山【ちゆうざん】門の情景が映っていましたが、ガランとしていますね。 東中野 中山門、それに光華門は、ずうっと畑つづきなんですね。日本軍のやるべきことは、どこに中国兵が潜伏しているか …その問題だけで、とても人を殺すなんて…。また、人が居ませんから(笑)。 水島 この映画を見たら、「人と見れば殺しまくり、女とみればレイプする」なんて、とんでもないということが よくわかり ます。戦争している所に住民がいるはずがない。 ■ 逃げ口がふさがれて 東中野 南京城の長さは、山手線と同じ三十四キロです。日本軍は、この城門を攻撃したわけですが、その跡が画面に よく 映っていましたね。城門は内側から土嚢で封鎖されていましたから、城門を破壊しないと入れないのです。 水島 中国軍は逃げ道を自分で塞いでいたのですね。いろいろな長い紐を繋ぎ合わせて壁面を降りた跡を写した画面は リアルでした。 東中野 あの場所の挹江【ゆうこう】門は北西の方角にあって、揚子江への玄関口なんです。そこへ逃げられなくなった兵隊 が、ハーグ陸戦法規に反して、軍服を脱いで、逃亡しています。それが挹江門の画面によく出ていました。 水島 いろんなものが散乱していましたね。 東中野 脱出できる者は揚子江を渡って脱出し、脱出をあきらめた者は安全地帯へ潜伏していました。これは日本軍に とって大きな治安上の問題となりました。 冨澤 挹江門では中国兵が同士撃ちをしているのですが、その跡は画面に出ていなかったですね。 東中野 挹江門には小さな脱出口があったのです。十二月十二日、陥落の前日に逃げようとした中国兵がこの脱出口に 殺到した。ところがそこには、友軍の逃亡を防ぐための督戦隊が待っていまして、逃げようとした中国兵を撃ち殺し ました。 水島 あれだけ門に土嚢を積み上げられると、日本軍も入りにくかったけど、自分たちも逃げ道を塞いでしまったわけです ね。 最後に城内に残っていた中国兵は何人だったのですか。 東中野 中国兵が城内にどれだけ居たのか、よくわからないのです。五万という説、十万という説、いや七万という説もある。 仮に七万としますと、偕行社の『南京戦史』によりますと、三万人が戦死、一万五千人が揚子江を渡って逃亡。 三千人が陸路を突破して脱出。とすると、一~二万人が安全地帯に逃げ込んだのでないかと。 この安全地帯に潜伏した中国兵を摘発しなければならないということになったのです。 ■ 死体はどこへ行った 水島 まず安全地帯以外の場所には中国人は居ないということですね。それからあの画面を見ていると、武器が散乱して いるとか、死体は片付けられているとか、この短い時間でやったことが考えられますが。 東中野 中国兵の死体はそんなにありません。数百くらいでした。 中山門にしても、光華【こうか】門にしても、中国兵を使って死体の清掃をしています。十七日の入城式のためにです。 だから死体がないんだと思います。 冨澤 捕虜収容所の場所は、正確にはどこにあったのですか。 東中野 捕虜収容所にかんしては二説あります。一説は飛行場の北、中山路の南ですね。 そこで、佐藤振寿カメラマンが 「見た」と言っておられるのです。もう一つは、挹江門の近くの中山北路の所にあったようだと、これは兵隊さんの 記録にあります。それ以上については、ちょっとわかりません。 冨澤 入城式には全部の兵隊が参加したのでなく、選ばれた人達だけが行ったのだと聞きましたが。 東中野 そうですね。警備の要員も多く残りましたから。 冨澤 この映画で宴会の場面がありましたが、あのように酒を飲んで、「酔っぱらった兵士達が街へ繰り出して悪いことを やった」という話があるのですが、その点はいかがですか。 東中野 冨澤繁信先生が書かれました『南京事件の核心』(展転社)のご本の中に、一日一日の事件の記録が出ていますが、 そこで十二月十七日の入城式の日と二月の上旬が事件の多いピークなんですね。ラーベ日記にも、「一日千件の 強姦があったという」との記述がありますが、伝聞なんですね。その伝聞がどこから出たかというと、いまだにわから ないんですよ。つまり根も葉もない噂なんです。 水島 「南京事件」とか、「南京虐殺」というのは、伝聞ばかりというのが特徴なんですね。具体的な話がない。その意味で この映画から見えてくるものがあると思いますが、私が一番強く印象に残るのは、画面に出てくる兵隊の顔なんで すよ。どの顔にも殺気だったものがないんです。特にお弔いの場面で感じますね。 ■ 住民の安心した表情 冨澤 日本軍は南京戦でどれくらいの方が亡くなったのでしょうか。 東中野 南京戦だけで死者は千六百人です。負傷者が四千六百人ですから、死傷者は合計六千二百人です。南京の城門が 陥落してからの日本軍の課題は、安全地帯の中に軍服を脱ぎ捨て、武器を隠し持って潜伏した中国兵を摘発する ことでした。安全地帯からは小銃弾が三十九万発、拳銃弾が二十九万発、手榴弾が二千五百発、戦車砲弾が三万 九千発もの武器弾薬が第七聯隊によって摘発されたのですね。彼らを放置しておいたら、市民にとっても日本軍に とつても危険が及んだわけです。 水島 この後、戦闘部分の再現シーンもあるかと思うのですが、映画の後半部分を見てみたいと思います。 映画「南京」の一部分上映 (戦闘の再現場面~慰霊祭~廃墟~難民~難民区の住民~家族~復旧作業~新聞を見る) 水島 この街の雰囲気をご覧になっていかがですか。 東中野 いろんなことがありますね。安全地帯にはほとんど死体がありませんでした。 冨澤 よく日本軍が楽に城内に入ったのでないかと思われていますが、この映画の一番初めに激戦の模様が出てまいり ます。これは、第六師団の兵士が書いた文集『転戦実話』を編集した『1937 南京攻略戦の真実』という本があるの ですが、その本でも中華門外のクリークを渡るシーンと同じ戦闘シーンがあります。 東中野 画面ではクリークを楽に渡っているように見えますが、実際には、城壁の上から物凄い銃撃を受けていたのです。 その中を決死隊が渡っていくわけです。舟を漕いでいるのは工兵なんですね。自分は立ったままで、歩兵を乗せて いる。そのために撃たれるんです。そのように自分を犠牲にして歩兵を送り込むわけですね。 冨澤 私はこれが日本軍の強さなんでないか。泣く子も黙ると言われた第六師団の強さとは、こういうことを言っているの でないと思うんです。 水島 この敵前上陸の映像は昼間ですが、実際には夜間にやられたものを、映画として再現したのだと思います。 ドキュメンタリーですが、一般の方にわかりやすいように写しているのですね。映画を作る我々の側から言いますと、 画面に出てくる芝居の下手さ加減です。それがリアルに映っているのは、余裕があったという感じですね。 東中野 先ほどの映像で安全地帯が出てきましたが、竹か何かの柵がありましたが、実際には境界線になるようなものは 何もなかったのです。日本軍は「安全地帯は尊重するけれど承認はしない」という立場だったんです。しかし、日本軍 が心配したとおり、中国兵が軍服を脱いで潜伏した。これが非常に大きな問題を起こしたわけですね。それで、摘発 した。そうしなければ安全地帯に居る避難民にも被害が及ぶ。それは是非とも避けたいということです。映画では ナレーションでも言っていますが、避難民はホッとした。それだと思いますね。ところが、捕まった兵士はハーグ陸戦 法規でも、「名前と階級だけは答えなくてはならない」。調べたところ下士官、兵ばかりだったんです。それを指揮する 将校がいないことがわかりましたので、もう一度、兵民分離という形で将校を摘発せざるを得なかった。 ■ 捕虜殺害と虐殺の関係 冨澤 それから、「虐殺派」の人達は「南京で捕虜を殺した。これが虐殺の証拠である」と言っています。 その点についてどう考えるべきでしょうか。 東中野 二つのことが言えると思います。一つは戦時国際法上、果たして捕虜だったのかどうか、捕虜とは認定されない不法 戦闘員だったのかということ。二つめは南京の欧米人が、それをどう認識していたかです。 彼らの認識では、処刑は 国際法違反だということは、一度も出ていないということです。これは東京裁判でも出ていません。 戦争捕虜、POWを不法に処刑したという声はどこからも出てこないのです。 水島 外国ですら合法と認めていると……。 東中野 と考えてよろしいんじゃないでしょうか。 水島 よく言われる便衣兵が紛れ込んだということですね。 東中野 あの処刑が、戦後になって「南京大虐殺」と言われ始めた火ダネなんですね。 翌年の一月の末に日本の陸軍は、ドイツ、アメリカ、イギリスの外交官を呼んで歓待していますが、夜中まで談笑が 続いたと言われています。その中には日本軍の歩哨に殴られたというアリソン公使も居ました。そのアリソン公使も 日本軍の不法殺害など、一言も言っていない。実名で責任をもっての発言の中には、日本軍の不法殺害を言ったもの はないのです。 水島 虐殺があれば重大ニュースになるはずですね。 冨澤 住民は、便衣兵が摘発されて安心しているのです。兵民分離の査問の場面の住民の顔から見ても……。 水島 一番大切なのは、この映画に出て来る人が役者じゃないということですね。役者じゃない人達にいくら「笑え」と言っ ても出来るわけがない。あの住民の人達の穏やかな顔、恐怖感を持っていない顔、どの顔を見ても、その表情を見れ ばわかると思いますね。それから竹の棒を使って、四人ずつ中に入っていく場面がありますが、何をされるかわから ないという表情じゃないですよ。子供の表情を含めて恐怖の表情がないということが大事なことだと思います。 単純なようですが、いい証拠になると思いますね。 ■ 急速な治安の回復 冨澤 それから「虐殺派」の人達の本に、慰霊祭の席で松井大将が「お前達は何をやつたんだ」と訓示をしたじゃないかと 言います。この点はいかがですか。 東中野 松井大将は「完全無欠な占領」を求められたんです。ところが、幾つかの小さな不祥事件が発生してしまった。その 小さな事件で日本軍の評価を左右されるので、松井大将は非常に気になさった。それを咎められたと考えるべきだ と思いますね。「大虐殺」があったからでなく、完全な南京占領を考えておられたということです。 冨澤 理想的な軍隊を考えておられた。「それに比べると」ということですね。 東中野 先ほど画面で住民登録の場面が出ていました。「安居の證」の交付ですが、この登録にもとづいて国際委員会は 南京の人口は二十五万と発表するんです。 南京陥落の直前の南京の人口は二十万だと国際委員会は言っています。それが一カ月後に二十五万になったと いうことは、人口増ということも考えられます。しかし城門が全部閉められていましたから、人口の異動がないと 考えますと、陥落前も二十五万、一カ月後も二十五万だったのかもしれません。となると市民の人口は変わらない。 したがって虐殺はなかったと考えられます。 水島 さきほど市民の表情について申しましたが、あれだけの人数がずらっと並んでいる。虐殺があるのなら、いくら市民 でもあんなふうに並ばないですよ。 この行列は日本軍のヤラセだろうと言う人がいるかもしれません。しかしレイプもされる、殺されるというなら、 怖くて人は集まらないですよ。人が集まっているということは、非常に大事なことだと思います。日本軍は恐ろしい という噂が半分でもあれば集まらないですよ。 冨澤 安全地帯は皇居前広場の四倍だったというのです。とすると皇居前広場一つの広さに五万人の住民がいたことに なる。そこで警備をしていた日本軍は全部で千六百人でしたから、四百人の兵士が五万人を管理していたことに なります。皇居前広場で五万人の中から一人でも殺したら すぐにでも目につきますよね。 水島 だいたい千六百人で警備するような所で虐殺があったら、大混乱ですよね。とても警備などしていられないですよ。 それから、食事をしている住民の表情を見ていても、「何だ、お前たち撮っているのか」といった顔をしています。そこ のところが大事だと思いますね。「虐殺派」の人達は、こんなに住民が集まった理由について答えられないと思い ますね。仮に強制的だとしたら、なぜあんなに自然な表情をしているんだとね。 東中野 この映画が私たちに訴えていることは「急速に治安の回復が進んでいる」ということですね。市民の人達はすっかり 安心しきっている。日本軍に対する恐怖感が全然ないということです。 水島 それは動画だからこそわかるのですね。 東中野 ただ、日本軍は敵の兵士を市民から分離せざるを得ませんでしたから、摘発を行ったわけです。 この写真は二〇〇三年の三月二十二日のドイツの新聞ですが、ここで「サダムはどうした」と書いてある。非常に 厳しいイラク軍兵士摘発の写真です。これに比べますと、当時の日本軍の平民分離は、ただ手を上げさせてチェック しているだけです。戦争が終わった後には、こういう問題はつきものなんですね。 水島 この写真と比べると、日本軍のやり方は礼儀正しいというか、優しいというか・・・。 中国兵の表情も「終わってよかった」といった顔をしていましたね。 東中野 もちろん反抗的な兵士もいましたから、それは佐藤振寿カメラマンが目撃したように、処刑ということは、当然、 つきまといますね。しかし、大部分は労働に動員されていったわけです。 水島 それから最後の場面の慰霊祭ですが、松井大将がきちっとこの日を意識されて、神主を連れてきたり、祭壇を作られ ているということです。これは相当余裕があるということです。 あの慰霊祭の会場となった飛行場の遠方にポツポツと歩哨が見えましたけれど、あの程度ですものね。 ■ 平和な正月風景 東中野 アイリス・チャンは「日本軍が南京を陥落させて、城内になだれ込んで、二十五万から三十五万人を虐殺した。二万 から八万をレイプした」と書いていますが、ちょっとそういう痕跡を見いだすことは難しい。市民の表情が穏やかで 安心しているんですから。 冨澤 市民はあの安全地帯にしかいなかったのですから。 水島 繰り返しますが、市民の表情を見てもらうことだと思います。 映画『南京』後半部分上映 (正月風景~正月の街の様子~子供たち~自治委員会の発足祝賀~野戦病院~次の戦場へ出発~行軍) 水島 最後の場面について、ご感想はいかがですか。 東中野 雪が降っている場面がありましたね。あれは十二月二十八日なんです。それから正月を迎えるという流れがよく出て いますね。のどかな、平和な年末だったということがよくわかります。 水島 餅つきをしたり、門松やしめ飾りを工夫して作ったりしていますが、ああいうのは余裕がないとできませんね。 「六週間にわたり、殺戮とレイプをやり」ながら……(笑)ではね。門松やしめ飾りは神様の行事じゃないですか。 そんな血なまぐさい殺戮が行われている横で、しめ飾りが作られるなんて……少なくとも日本人には考えられない ことです。あの兵隊さんたちの穏やかな顔は印象的ですよね。 東中野 中国人は、爆竹を鳴らして旧正月を迎えます。画面では子供達が爆竹を鳴らして遊んでいましたが。 水島 あの場面は、子供達を連れて来て撮ったのかもしれません。(これはマイナスに厳しく見た方がいいので申しますが)、 遊んでいる子供達に、カメラマンが爆竹を渡して「これで遊べ」と言って撮ったのかもしれない。ただ、あの子供達の 表情ですね。キャッキャッ喜んでいる。少なくとも脅かされて、強制的にやらされたかどうか、子供の表情を見れば 誰でもわかると思います。やはり役者じゃないわけですからね。今度の映画で登場している沢山の人達の表情という のが、何よりの証拠になるのでないかと思います。 東中野 二つ言えるのでないでしょうか。一つは、恐ろしい日本軍であったのなら、そういう日本軍のところへは行かないです ね。第二点は、子供達が喜々として遊びに興じていますね。だから、南京全体が急速な治安回復の中にあったという ことでしょう。 水島 この時は、「南京大虐殺」と言われていませんから、子供達も自然に映っていたのだと思いますが、あの子供達の中に 若い綺麗な娘さんが自然に笑っている。普通の商家か住民の子供なんでしょうが、これものんびりと興じている。 冨澤 我々はよく「何万という日本の兵隊が南京を取り囲んで南京を攻めた。その兵士達がそのまま南京に残って虐殺、 強姦をした」と聞くのですが、あの当時、年末から正月にかけて南京にいた日本兵は四千人だけでした。 松井大将は「南京を制圧したら多くの兵隊を留まらせる必要はない」と、他の戦場へ転進させたわけです。 したがって、南京に留まったのは、奈良の三十八聯隊と津の三十三聯隊の中から二千人ずつが南京を警備した。 画面の餅つきをしていたのは、そのうちの誰かなんですね。だから、何万人かの兵士がいつまでも南京に居座って 悪いことをしたというのは……。 水島 年末までには次のところへ行っているわけですね。四千人が二万人をレイプしまくったという話は……(笑)。 四千名の兵士が二十五万の市民を警備した。それに加えて中国人による自治体制が出来ていたことも明らかなん ですね。 ■ カメラマンの自信 冨澤 もう一つ、南京といえば「南京事件」と結びつけて考えがちですが、この映画では一言もそういう言葉は出てきま せんね。何もなかったのか、隠していたのか……その点について。 東中野 市民の自然な表情を見るにつけて、とてもあの場所で掠奪、強姦、殺人が蔓延していたとは、考えられないことです。 併せて、南京の国際委員会が日本兵の不祥事件を記録して、日本大使館へ持ち込んでいますが、その中での殺人は 合計二十六件ですね。それも実名で証言しているケースは一つもない。さらに戦後、国民党宣伝部が作った『戦争と は何か─中国に於ける日本軍の暴虐』という本が「南京で暴虐事件があった」と言ったわけですが、これも全て匿名 です。この『戦争とは何か』を読んでみますと、「十二月三十日、市内で焼き討ちが続いている」と書いてあるんです。 でも先ほどの映画では感じられないことです。「誘拐事件が発生している」とか、「日本軍が人狩りをしている」とか 出てくるわけですが、そういう南京なら、あの画面のような子供が爆竹で遊んでいるような自然な姿はあり得ないと 思いますね。 水島 お正月とか、大晦日というのは、今の我々以上に大きな行事だったと思います。だから画面に除夜の鐘が出てきて、 百八つの煩悩を消していくわけです。そんなところで人狩りの命令を上の者がするわけがない。 それに旧正月の習慣を持つ中国人には、日本人の正月の感覚がわからない。だからそういう奇妙な告発が出来るの でないかと思いますね。 それからもう一つ、映像の問題として、「虐殺」があったとしたら、映画の画面からどう隠すだろうということです。 この映画が面白いのは、ワイドショット、広い光景を撮った場面が多いことです。撮られて都合の悪いものがあれば、 カメラマンは狭い絵のワンショットにする。広い絵にすると、隠したものが写るかもしれないからです。 子供のグループ・ショットでも、平気で後ろまで見えるような画面です。ごまかしたいのであれば、子供を一隅に寄せ て撮りますよ。これがないということから、カメラマンがかなり自信を持って撮っているということなんです。 東中野 広い視覚の映像は、ありのままの現実を撮っているということなんですね。 水島 余裕を持って撮っているのです。意図のある宣伝映画なら、とてもああいう絵はできない。 東中野 この後、十カ月の間、蒋【旧字で】介石政府は毎日のように、外人記者会見をやっています。三百回あった記者会見の 席で、一度も「南京で何かが起きた」という話は出てこないのです。外人記者も質問していません。 南京は静かであったということが、国民党宣伝部も認識していたのでしょう。 冨澤 日本人の平均的感覚が、この映画の感覚だったということです。 東中野 最後の場面で、門から部隊が出ていきますね。この門がどこの門か、画面が欠けているのでわからないのですが、 仮に和平門としますと、あの部隊は金澤第九師団であろうと考えます。 あれを見てわかるのですが、三十キロある完全武装で一日二十キロ歩いています。鉄兜を被って、三八式歩兵銃を 持って、弾薬を百二十発、それに背嚢ですね。三十キロを持って歩くのですから、「紙一枚でも重いので捨ててくる」と いうのです。次の戦線へ移動するわけですから、掠奪など考えられないですよ。 水島 それから、行進している兵士の鉄兜を見ていますと、中に中国兵のドイツ式の鉄兜を被っている兵士が何人かいる。 リアルな感じを受けましたね。また、病院から歌を歌って出ていく場面がありましたが、あの歌が下手なんです。(笑) 宣伝映画なら、あんなバラバラな歌はないですよ。あれもそのまま撮っているということです。 カメラマンたち、あるいは撮影協力した軍の余裕ですね。 ■ 避難民に救援物資 東中野 これは土井海軍中佐の『支那警備記念』という本です。昭和十三年三月に出版されたものです。その中に出てくる 話ですが、下関の右手に保国寺というお寺に四千人の避難民がいたのです。食べる物が何もなかった。そこで正月 の日に船を横付けしまして、もちろん長谷川第三艦隊司令官の許可を得て、救援物資を陸揚げするんです。 翌日、お寺へ行ったところ、爆竹を鳴らして歓迎してくれたと書いてあります。 そのように海軍は救援物資を届けていた。もし、陸軍がおかしなことをやっていれば、海軍から「何やってるんだ」と いう声が当然出てくるはずですね。 水島 「恥だ」という声が起こりますよ。それがないということです。 東中野 急速に治安の回復が進んでいって、その後は食糧問題ですね。土井海軍中佐は食糧供給をしたわけですね。 水島 食糧問題を逆手に取って、「食糧がないから殺したんだろう」と言う人がいます。それから「捕虜を虐殺した」とかね。 しかし、実際には捕虜を逃がしてもいるんですね。 東中野 相当逃がしていますね。それに実際に労働者としても使っていました。その姿が画面に出てきましたね。 水島 最後の方に出てきたのが捕虜なんでしょうね。 先ほど冨澤先生が言われた四千人の兵士で管理していたという話は知られているようで知られていない。二十五万 人を四千人で警備した。その四千人が「六週間にわたって殺しまくり……」というなんて(笑)。 いろいろ夜中に悪事を働いたという話がありますが、どうも中に潜んでいた蒋介石軍の攪乱兵がやったのでないか と……。 東中野 証拠はありませんが、考えられます。ただ、日本兵の不祥事件も何件か、十件前後あったと言われています。 しかし、敗戦後、呉に進駐してきた連合軍が昭和二十年十月から年末までの七週間の間に十四人の市民を殺害 していますから、それに比べたら、日本軍は呉の連合軍よりも規律正しい軍隊であったと言ってよいと思いますね。 ■ 歴史の真実の記録 水島 「南京大虐殺」がなぜ生まれたか、について、このようなフィルムを見ると、本当にわからなくなってきますね。今日は、 五十六分の映画『南京』をご覧いただいたのですが、これを見て、「南京大虐殺」なるものが本当にあったのか、是非、 この映像をお買い求め頂いて、ご自分で見て頂きたいと思います。 最後に一言ずつご感想をお願いします。 東中野 我々の先輩が一つになって戦った、この南京入城は、燦然たる歴史の一頁として、世界の歴史に残るであろう。 この映画は当時の本当の記録として、後世の我々に遺して頂いたという思いがしております。 冨澤 この映画は、敵の首都占領という世紀の快挙を皆で祝おうということで作られた。その中には「南京虐殺」などと いう暗い影は一つもありません。清らかな気持の溢れている映画だと思います。 水島 お二人のお話のとおりだと思います。 この映画は、この会社とも相談して、英語版を作って流したいと思いますね。宣伝映画だとしても、この人々の 表情を見てくれ、「虐殺」があれば、これだけの人数が集まるか、……という貴重な記録映画でございます。 今日は本当に有り難うございました。 (文責・岩田圭二)