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2015 Morita Obituary
「巨人」
小さな人だった。僕が盛田さんに初めてお会いしたのは教養部の大きめの講
義室で行われていた生命科学関係の総合講義の時だったと記憶している。受験勉
強の暖め直しのような教養部の授業、誰かがとっくの昔に証明したことを理解し
覚えるための作業が毎日毎日続く中、最前線で活躍される研究者が何か大事なこ
とを解明するために必死に脳みそを絞り込んでいる様子を解説してくれる講義を
楽しみにしていたと記憶している。正直のところ、あまりに内容が難しすぎて僕
には理解できない授業がたくさんあった。それでも、全くわからないことを理解
しようしていた科学者の姿勢に憧れた。盛田さんの講義のテーマは筋肉がいかに
力を出すかという話だった。学生受けを狙って媚びることを全くしない本格的な
研究講演であった。元々声の小さな盛田さんが、その声を振り絞ってミオシン分
子がいかに ATP を加水分解しつつアクチン繊維を動かすか、それが段階的な
ATP 加水分解触媒作用と共役したミオシン分子の構造変化であるというご自身
の発見とその後の研究の展開について熱く解説されていた。この盛田さんの研究
成果は、ミオシンのみならずダイニンやキネシンといったモーター蛋白質が生体
エネルギーを物理的な力に変換する分子機構を理解する上の原点であることを知
ったのはずっとあとのことである。この授業でホタテ貝が最小限のエネルギーで
殻を閉じ続けることができるのは貝柱筋ミオシン ATP 加水分解作用の特徴から
説明できると教わった。説得力があった。目からホタテの殻が落ちた。
それから数年後、1988 年 4 月、気がついたら僕は盛田さんから僕の卒業研
究のテーマについて説明を受けていた。ホタテ貝が殻を閉じ続けるための力を維
持しているミオシン上のアクチン接触部位をちょうど卒業された大学院生が決定
したのでそれをさらに解析する研究だ。その頃我々化学第二学科生物有機化学講
座は八木康一教授の最終年で盛田さんは助教授だった。盛田さんの研究は飛ぶ鳥
落とす勢いで、キャッチ機構と呼ばれるホタテ貝省エネ収縮の機序を決め、筋肉
が力を出すことを説明する新しい分子機構モデルを発表し、さらにキャッチ機構
の研究からそれとよく似たラッチ機構と呼ばれる血管平滑筋省エネ収縮の分子解
析を展開されているところだった。盛田先生の指導のもと、大量のホタテ貝やら
ウサギやら豚大動脈が次々と研究室に運び込まれ、そこからミオシンが精製され、
その酵素機能が解析されていた。蛋白質分子の化学的な解析から生体機能を理解
する、まさに理学という言葉がぴったりの研究スタイルだった。
当時の研究室には「モリタキョウ」という言葉が存在した。盛田さんは常に
強い信念を持ち、それを躊躇なく学生に伝えた。うまくいかなかった実験データ
ーを携え、それに対する自分の解釈が甘いままこの実験はうまくいきませんなど
と盛田さんに報告に行くと、徹底的にやり込められる。もっと実験しなければだ
めよ、慎重にやりなさい、集中しなさいと畳み掛けてくる。あまりにうまくいか
なくて、今日は久々文献でも調べようと机に向かっていると、うまくいっていな
いときに実験しなくてどうすると後ろから浴びせられる。信じて実験していれば
救われる、モリタキョウなのだ。退官される年の冬、卒業研究をしていた二人の
4年生が冬休みの正月あけに旅行に行きたいと盛田さんに伝えた。その結果、こ
の女子学生二人は元日に超遠心分離機を使って筋抽出液から蛋白質を精製するこ
ととなった。モリタキョウ伝説を書き始めたらきりがない。
しかし、このモリタキョウが大事だったのだ。ミオシンの研究に一段落つけ
たあと、僕は修士課程の学生が始めた平滑筋ミオシンホスファターゼの研究を引
き継いだ。当時、世界中の平滑筋研究者がこの酵素に注目しその制御機構の研究
を始めていた。平滑筋抽出液の原料として僕はニワトリ砂肝を使おうとした。豚
大動脈と比べ砂肝は簡単に入手でき、またその抽出効率もとてもいい。競争に勝
つためには効率のいい原料を使うべきだと僕は主張した。盛田さんは許してくれ
なかった。豚の大動脈を使わなきゃだめよ、と言って聞かなかった。既に5年ま
えに洗礼を受けていた当時の僕に選択の余地はなかった。一日の札幌近郊で消費
される豚の 60 頭分の大動脈をと殺場から譲り受けてきた。その抽出液から平滑
筋ミオシンホスファターゼの新しい調節蛋白質を精製することができた。今から
ちょうど 20 年前のことである。その道産子蛋白質とともに僕がアメリカに移っ
た後、ニワトリ砂肝にはその蛋白質が全く発現していないこと、世界中の研究者
が砂肝を使って再現しようとしたが失敗したことで最初の報告のあと5年ほどこ
の研究を独占できたことを知ることになる。もうずいぶん昔になるが僕が最後に
盛田さんにお会いしたとき、あのときどうして豚大動脈にこだわったのかを聞い
た。盛田さんは砂肝と大動脈でミオシン ATPase の性質が大きく異なる、それを
調節する因子も違うかもしれないと思ったそうだ。ミオシンの酵素活性解析から
生命現象を見つめ続けた盛田さんならではの考察である。モリタキョウなしに現
在の平滑筋収縮制御のモデルは完成しなかった。
退官されるまでの7年間、盛田さんのもとで働いたが一回もぼくに学生につ
いての愚痴をこぼしたことがなかった。ほかの人たちが、「いまどきの学生は」
とか「僕が君ぐらいの頃には」愚痴をいっているときでもその話に乗っていた記
憶があまりない。研究指導において厳しくできたのは、自分の卒業した大学の後
輩たちを信じていたからなのだと思う。実際、退官後もあの元日超遠心ガールス
をはじめ多くの卒業生が盛田さんを慕い親交を深めていた。研究室の飲み会など
であまり説教や昔話をする方ではなかった。酒など飲んでいないで実験しなきゃ
だめよ、と思われていたのかもしれない。しかし、あるとき盛田さんが少し昔話
をしてくれた。自分が学生のとき研究所には女子トイレがなく吹雪のなか隣の建
物のトイレに行ったことを聞いた。女性が大学で生き残ることはいろいろな面で
大変だったのだと教えていただいた。たった一回のことだった。僕の記憶が正し
ければ、盛田さんは北大理学部初の女性教授だったはずだ。ほかにいらしたとし
ても当時は少なくとも一人だけだった。盛田さんの退官記念パーティの席で多く
の来賓の先生方が女性研究者の大変さを語られていた。盛田さんが退官されたあ
との 30 年間に我が北大理学部は何人の女性教授を生み出せたのか僕は知らない。
在職中だけではなく退官されたあとも女性研究者を常に励まし支えていた。すべ
ての苦労を知り尽くしている盛田さんには自然の行動だったのであろう。盛田さ
んは真の開拓者なのである。不動の岩盤に小さな割れ目を入れた盛田さんの偉業
は間違えなく北大理学部同窓会の宝であり、そして自分の仕事を進めるために見
えない敵に挑んできた姿勢は我々の模範であり、これが伝統になってほしいと思
う。盛田さんは僕を含め多くの人の心のなかに生き続ける。
江藤真澄 トーマスジェファソン大学 医学研究科
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