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ポール ・ レオトー、 あるいは内面の都市ー(2〉

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ポール ・ レオトー、 あるいは内面の都市ー(2〉
Lかautaud
ville
intかrieure
って、フランス国内を二分する論争が行われることになるドレフェス
フェスが知人だったことほ1度もないし'彼の『文学日記』
事件の前年にあたっているが'ポ-ルにとって'アルフレッド・ドレ
ドレフェスの名が登場することほない.政治的にも1八九三年とほ、
下院選挙でジョレスら社会主義者が進出し'それとほぼ反対の政治的
傾向を持つ植民地政策を推進する財界組織であるフランス植民地連盟
(2)
洋
一
、あるいは内面の都市IS
二九
ころ、ポ-ルの外部にほ父フィルマンに代表されるパリの演劇界の華
き、恋人ジャンヌ・マリエとサン-ジャック街で同棲してから'ポ-
ポ-ル・レオト-
梅本
インド会社だったことほすでに述べたし'もちろん対植民地貿易を中
はじめ、階級差が生まれ、社会主義老たちが議会に進出するという'
父フィルマンとの同居ほすでに考えられない。すでに'一七歳のと
ばで除隊を許され、パリに環ったポ-ル。二1歳のポ-ルにとって、
がl九歳の年には、兵役に参加したものの、極度の近視のため兵役半
て六年経過し、その間、様々な職を転々とし'一八九1年、つまり彼
り一八九三年は重要な年だったと考えねばならない。義務教育を終え
を収めながらも、ごく自然に就職の道を選んだポ-ルにとって'やは
た'ポ-ルとほとんど歳のちがわぬ女性と生活し、学校で優秀な成績
実の母ジャンヌ・フォレスティエに去られ'コメディ-=フランセ
-ズのプロンブタ-として働-父フィルマンと'父の後妻に迎えられ
九世紀の終わりを特徴付けるような'それらの出来事ではない.
われにとって、一八九三年が重要であることは、政治経済社会的に一
るが'ポ-ルにとって'そしておそら-'ポ-ルを見守-続けるわれ
心にこの会社が運営されていたことほ想像するのほ易しいことではあ
本
ルはほとんどレオト-家から独立していたと考えられる。父と暮した
が成立する年でしかない。植民地主義、それに伴う帝国主義が台頭を
梅
実に図式的かつ凡庸な年がこの年だった。ポ-ルの最初の就職先が、
にさえI
の上で重要な年であることはない。一八九三年とは、約70年間に亘
-
、あるいは内面の都市-(2)
la
ポ-ル・レオーPaul
制作座の夜
ou
ポ-ル・レオト-にとって一八九三年とほ重要な年になる。エッフ
ェル塔が完成してから四年経つこの年が、歴史上、つまりフランス史
一八九三年
Ⅳ
ポ-ル・レオト-
、あるいは内面の都市-榊
たことである。「当時はただ貧かった」とロべ-ル・マレによるインタ
三年とほ、ヴァソ・ペグェ-ルの手によって、ポ-ルの詩作が発表さ
のためのノ-トとして、『文学日記』を記し始めるのである。一八九
で続けられた読書は、当時の文学の最先端にあった象徴派の詩人たち
の作品をその対象としていた。ヴェルレ-ヌ、アルチュ-ル・ランボ
、そしてステファ-ヌ・マラルメ。そうした詩人たちの名前ほ、ポ
-ルにとって神と同じだった。彼らの詩を暗唱し、ポ-ル特有のあの
抑揚で友人たちにも語ってみせていたし、その友人たちの中には、ア
ドルフ・ヴァン=べヴェ-ルもいたのである。ポ-ルのヴェルレ-ヌ
ところで、一八九三年当時、アドルフ・ヴァソ=べヴェ-ルは、リ
ュニェ=ポ-率いる劇場、制作座で働いていた。制作座には、少しば
かり説明を要するだろう。
一九世紀末の演劇が'新たな演劇に向けての胎動期にあたっていた
の進むべき道について忠告を求めたムネ-シュリなどに代表される
のは周知の通りである。一方で、ロマン派演劇以来の、ポ-ルが将来
と'直ちに近くの花屋に立ち寄り'花束をつ-り'花屋の店員にヴェ
<聖なる怪物>と呼ばれる偉大なる俳優たちの系譜が永々と続いてお
り'他方で、スタ-たちの神話的演技に頼ることのない新しい演劇を
夢見、それを実現させようとしていた二つのグル-プがあったことは
知られている。その二つのグル-プには、アンドレ・アントワ-ヌと
いう元ガス会社の社員だった男と'リユニェ-ポ-という男がそれぞ
ニェ-ポ-は、彼の先達であるポ-ル・フォ-ルの後継として'象徴
と結びつき、「人生の断片」を舞台にのせるべ-活動し、一方、リユ
れのリ-ダ-として存在しており'自由劇場と制作座という劇場を各
語り、「私は、ヴェルレ-ヌが嬉しそうな顔をしたので満足していた」
(1)
とつけ加えている。もちろん、二一歳のポ-ルが、ヴェルレ-ヌやマ
々が運営していた。アントワ-ヌは'キミ-ル・ゾラの自然主義文学
ことを願うのも自然なことである。と同時に、自らの周囲におこる日
詩作するだけでな-'それをなるべ-人目につ-ような形で発表する
ラルメのような詩を書きたいと思うのは当然のことだ。そして、自ら
-ルは、「ヴェルレ-ヌはキョロキョロしていたが、あきらめた」と
マレに聞かせている。もちろんマレは、「ヴュルレ-ヌはあなたが贈
り主であることに気がついたか」との質問を忘れはしなかったが'ポ
ルレ-ヌに届けさせた、という逸話をポ-ルは誇らし気にロべ-ル・
とマラルメへの心酔は度を越えていた。ある日、ポ-ルは、ヴェルレ
-ヌがスフロ街のカフェのテラスに腰を落ち着けているのを発見する
制作座
ヴユ-の中で回述するポ-ルだが、金銭的な貧しさとほ正反対の、精
たそれらの欲望を実現するのに手を貸そうとするし'ポ-ルは、詩作
アドルフ・ヴァン-ペグェ-ルは、ポ-ルの内部におこりつつあっ
ル・レオト-だけではあるまいo
常を書き留めておくことで'詩作の源泉にしたいと考えるのほ、ポ-
三〇
れるきっかけがつくられる年であり'『文学日記』の第一貢が記され
る年でもある。
する間にも、彼とアドルフ・ヴァソ-ペグェ-ルとの友情が続いてい
われわれが思い出さねばならないのは、ポ-ルが様々な職を転々と
昧の毎日があった。あれから何年も流れた。
々しい生活があり'家の内部では、愛犬タバと床にねころび、読書三
梅本
神的豊かさは保ち続けていた。ヴァン-ペグェ-ルに影響を受ける形
-
せよ
つまり'おそらくヴァン=ペグェ-ルにとって制作座とは'象徴派
の入口だったのだろうが、ポ-ルにとっては、イプセンといった新た
主義文学と結び、目に見えない幻想的なものを舞台の上で可視化する
作業を試みていた。もちろん、そうした演劇史上の常識にも属する二
ソ-ペグェ-ルと、象徴派に敬意を表し'彼らの詩作を愛しながら
も'父フィルマンに代表されるような<聖なる怪物>の世界を自らの
な劇作家を発見する場所だったのである。文学者をめざしていたヴァ
あるまい。ポ-ルに象徴派の詩人たちの作品の存在を教えたヴァン=
背後に持っているポ-ルとの差異が'制作座についての互いの姿勢の
ルが'リユニェ=ポ-の制作座で働いていたことは、決して偶然では
ペグェ-ルが、自らの仕事を制作座に定めることは理由のないことで
相違に反映しているのだろうが、ポ-ルと'われわれにとって制作座
分法にほ、数々の問題があるものの、アドルフ・ヴァン=ペグェ-
ほなかろう。
はないoもちろんポ-ルは、父フィルマンの演劇的素養と環境の中で
の重要性は'制作座とは演劇にとって何であったかという問題の中に
物>たちによる、いわゆる商業演劇を超えるべき対象としていたわけ
全-正反対の傾向を持つ自由劇場と制作座は、共に'<聖なる怪
それほど数は多くなかったに
であり、文学や芸術を志す若者たち
育ったわけだし'その後'文学を好み'特に象徴派の詩作に親しんだ
ことから、演劇と文学との交点にあった制作座という場が、ポ-ルに
難-ない.もちろん'自由劇場が常に自然主義文学の作品ばかりを上
ポ-ルにとって'具体的な意味の上で重要なのは、演劇と文学との融
対して持っている重要性ほそれなりに納得できる。だが'制作座が、
a-=ル=プランス街の七階の一室を、アドルフ・ヴァン=ペグェ-
ルと共に借りていた。ヴァン=ペグェ-ルは、ポ-ルを何度も制作座
に招待したのだ。制作座の常連の客には、当時を代表する作家、芸術
アルフレッド・ヴァレットは、主に象徴派の詩人たちの詩集を出版し
家たちが多かったが'その中に、アルフレッド・ヴァレットがいた。
たわけですね。そこにほ'少しばかりエキセントリックが若者た
ていたメルキュ-ル・ドゥ・フランス社という出版社の社主であり、
(3)
'あるいほ内面の都市-佃
世の中を変えようと思った老などいなかった。
ポ-ル・レオJ・-
梅本
戯曲を見に行ったのだ。イプセンとは、私たちにとって、『民衆
の敵』などを書いたある種の革命家だったわけだ。だが、本当に
ポ-ルは'ヴァソ=ペグェ-ルの紹介で、制作座でアルフレッド・ヴ
ァレットに出会ったのである。
レオト-1いや、いや、それは言い過ぎだ。私たちはイプセンの
ちが集まり'フランスの新たな思潮がまきおこった。
あなたはそこでイプセンや、メ-テルランクをご覧になっ
1八九三年、ポ-ルほ、パリのリユクサンブ-ル公園近くのムッシ
演し、制作座が象徴主義の劇作ばかりを上演していたと考えるのは早
マレ
かった」と言う。そう断言するポ-ルに'インタヴュア-であるPべ
-ル・マレはこのように尋ねる。
(2)
は存在していない.しかしポ-ルは、「私は制作座だけにしか通わな
合といった抽象的な位相におけるものでほないのだ.
が'これらのいずれか'あるいは両方に集ったことは想像に
-
計だろうOそうした分輝は、主催者側にはあったろうが、観客の側に
ー
ポール・レオト-
メルキュール・ドゥ・フランス社
、あるいは内面の都市-S
なのか。制作座でヴァレットと瞬時の間出会ったポ-ルほ'後に、制
ポ-ルが敬意を表わしてやまない文学者の作品が、この社から出版さ
a-ル・ドゥ・フランス」を出版しはじめたのほ1八九〇年のことで
とっていたのだろうか。さらに'この社が、社と同名の雑誌「メルキ
ある。アルフレッド・ヴァレットと知己を得て、後に、ポ-ルがこの
雑誌に'演劇批評を連載し、さらに『文学日記』をその死に至るまで
連載しっづけることを'当時のポ-ルほすでに考えていたろうか。メ
ルキュ-ル・ドゥ・フランス社の一室に、自分の机を置き、クロニッ
クを書き続けたポ-ルの姿は、このときにすでに決定していたのであ
る。もちろん'一八九五年、メルキュ-ル・ドゥ・フランス社ほ、ま
だ新顔の出版社にすぎなかったが'アシェット社、フランマリオン社
など、当時からすでに大出版社だった他社に比べて、詩を中心とした
文学の書物に限って出版活動を行い、雑誌を持つといった新しい戦略
で出版界に登場したことで、すでにかなり重要な地位を占めていた。
つまり新しい
主義運動の砦とし、自らも二冊の小説『処女』
メルキュ-ル・ドゥ・フランス社と同じような戦略
自らの職業をはじめて選ぶことのできる時間がやってきた。もちろ
ト・編集者という職業を夢見ていたわけではない。多-の若い文学青
自身が劇評を担当することで、ポ-ル・クロ-デル'モ-リス・メ-
支援となっていたことは明らかだろう。
ん、当時のポ-ルは'後にわれわれが知るような批評家・エッセイス
同時に、食べるために様々な職を転々と移っていたポ-ルにとって、
フランス社に出会-ことは'すでに夢の実現を意味していた。そして
ポ-ルにとって、アルフレヅド・ヴァレットとメルキュ-ル・ドゥ。
ル社が出版社とJて登場するのは一九二年のことである。二一歳の
文学と思想・批評、さらに雑誌を持つ1を持つ
-
テルランクといった若い文学者たちの作品を出版するための相互的な
ルランクの作品が含まれていたことは周知の通りであり、ヴァレット
制作座のレパ-トリ-の中に、クロ-デルの『黄金の頭』やメ-チ
った人々の作品を出版した.
(3)
クロ-デル'メ-テルランク'ジャム、レニエ'モレアス--とい
自社と同名のすばらしい雑誌で演劇批評を担当したほか、ジイド、
『離れて』を書き、
一八八九年にメルキュ-ル・ドゥ・フランス社を設立したアルフレ
ッド・ヴァレットは格別の希望に輝いていた。かれは若い社を象徴
エ-ル・アスリ-ヌは、メルキュ-ル。ドゥ・フランス社とアルフレ
ッドヴァレットについて'その評伝の中で次のように書いている。
ガリマ-ル社の社主ガストン・ガリマ-ルについての評伝を記したピ
ところで、今世紀のフランスで最も重要な出版社となるガストン・
の中で決して忘れられないものになるだろう.
から、制作座におけるポ-ルとヴァレットの出会いは、ポ-ルの生涯
ドゥ・フランス社との関係はポ-ルの死まで継続することになるのだ
れていたり'未来に出版されたりすることを、ポ-ルほ本能的にかぎ
だ六年しか経っていない年である。だが'レニエなり'ジャムなり、
一八九五年とほ'メルキュ-ル・ドゥ・フランス社が設立されてま
三二
作座を指揮するリユニェ-ポ-の推薦状を手にしてメルキュ-ル・ド
ゥ・フランス社に出向くことになる。以来、ポ-ルとメルキュ-ル・
アルフレッド・ヴァレットとポ-ル・レオト-の出会いほなぜ重要
梅本
年と同じように'詩人になることを望んでおり'詩の発表できる
の出版を要請するこ
つまり、読者を得る場を捜していたのだった。だから、アルフレッ
ド・ヴァレットに、リユニェ=ポ-の手紙をそえて会見を申し込んだ
ときも'ポ-ルの希望は、彼の詩集『エレジ-』
とだったのである。
もちろんリユニェ=ポ-の推薦状ほ、当時、制作座で仕事(正確に
をしていたアドルフ・ヴァン=ペグェ-ル
長-書き続けようと思いほしなかったろうし'事実、一八九三年一一
月三日に『日記』が書き始められたといっても'『日記』の第二日と
は、一八九四年四月七日とい-日付を持っている。その間に五か月の
日々が流れたのだ。思い出しておかねばならないのは'ジャンヌ・マ
リエのことである.7時は'同棲までした間柄だったのに'この年、
ジャンヌとポ-ルの仲ほ'決定的な破綻の時が訪れている。アルフレ
ッド。ヴァレットに出版を要請することになる詩集のタイトルが『エ
レジ-』(=悲歌)であることも考えておかねばなるまい。とにかく、
まず記念すべき『文学日記』の第一日を読んでみなくてはなるまいo
ジャンヌと私が別れてからはじめて今夜'フユジェ-ルの夢を見
いていたのだが、そのイメ-ジは実にほっきりしていて'こうして
た。まだ決して情熱的な夢でほない。私は、彼が歌っているのを聞
ち'辻馬車が走るのを見ながら、一方で、文学者たちが議論にふける
にポ-ルの家でコ-ヒ-を飲んだロ-ルという女性が誰のことなの
る。おそら-歌手であるフユジェ-ルとほ一体誰のことであり、夕刻
ンヌとほ、ジャンヌ。マリエのことであることは、われわれにもわか
これといった決意もなく'ポ-ルほ『日記』の第一頁を記す。ジャ
と答えた。今ほどうするかよくわからない。
(5)
女の母の許だ。一昨日、別れしなに辻馬車に乗るとき彼女はこう言
った。「金曜日にもどるから、そのとき会える」。私ほ、「いやだ」
私の家でコ-ヒ-を飲みながら'フユジェ-ルのことを少しと、ジ
ャンヌのことを沢山話したからかもしれない。ジャンヌほ今晩、彼
をはっきり見ることができる。この夢ほ、昨晩ロ-ルがやってきて
起きて着替えても'またそのことを書きつけている今でも、彼の姿
不定期だったが、とにか-書き続けられた『文学日記』の最初の一貫
文学への道を志しはじめるからばかりではない。彼の死の三日前まで
一八九三年がポ-ルにとって重要なのほ'彼が制作座に通い始め、
『文学日記』の誕生
座で上演されたのほ、一八九三年のことなのである。
するのは'一八九五年四月、そして、イプセンの『民衆の敵』が制作
以上の日々が流れてゆ-のである。アルフレッド・ヴァレットと会見
のを'みすぼらしい姿で見つめていたポ-ルの決心がつくまで、一年
-、じつと彼らの姿を見つめていただけだった。エッフェル塔が建
だが'その間、ポ-ルほ'制作座で見かけた新進の文学者が集うカフ
ェに出入りを始めていた。だが、彼ほ、彼らに声をかけるわけでもな
を制作座で見かけ'1八九五年にやっと会見が実現することになるの
が'リユニェ-ポ-に転んだものだろ-。一八九三年に、ヴァレット
はリユニェ=ポ-の秘書)
-
が記されることになるのは'他ならぬ'7八九三年二月三日のこと
なのだ。
、あるいは内面の都市-榊
三三
始まりの時は偶然やって-る。ポ-ル自身も決してこの『日記』を
ポ-ル・レオト-
梅本
ポ-ル・レオト-
'あるいは内面の都市-S
れわれがすでに知っているエビソ-ドが突然登場するだけだ。ヴァレ
(7)
ットはポ-ルに、「ここに来るのに紹介状など必要ない」と語ったと
三四
とは'『日記』の第一日が記されただけのことであり'それ以外の重
要性を持っていないのかもしれない。あのロべ-ル・マレさえ、フユ
ジェ-ルやロ-ルという記念すべき第一日を飾る固有名詞について質
問もしていない。それらは、おそら-'どうでもよいことなのかもし
を記し、そし
ルが創作したという慎ましい事実を含めて、ポ-ルの第一日日の日記
は、ただ記されたにすぎない。
それに続く'一八九四年四月七日の日記には、当時ポ-ルが通って
世紀末の文学界
ポールの将来
もしポ-ルの物語がこの先何も語るべきものを持たず、アルフレッ
ド.ヴァレットを知り、メルキュ-ル・ドゥ・フランス社で詩人とし
て活躍する将来をポ-ルが持っていたなら、われわれはここで彼につ
いて語るのをやめねばならない。幼少時に母に去られ'次々とパ-I
ナ-を代えるふしだらな父の許にいたことで読書を続け'そして、そ
の読書を糧に、詩人としてデビユ-する磯会をねらっており'やが\て
その時間が訪ずれ、彼は大詩人になったとしたなら、別に、われわれ
の様子が記され、同年八月二四日の
るようになったのは、先述した通り、l九五〇年代のロ1.(-ル・マレ
にょるラジオ・インタヴユ-のときが初めてであり、彼の極-少数の
だ。もちろん、ジュリアン・ソレルとは、スタソダ-ルの『赤と黒』
師」とさえ呼んだステファ-ヌ・マラルメも'生涯に亘って知ってい
産も'リユニェポ-も、象徴泥も、ヴュルレ-ヌも、ポ-ルが「わが
読者をのぞいて、彼を知る者は少なかったのである。もちろん、制作
の主人公の氏名であり、後に、ポ-ルは'スタンダ-ル論を書-位だ
うQアルフレッド・ヴァレットとの出会いによって、ポ-ルは'われ
たポ-ル・ヴァレ--も、ポ-ル・レオト-にとって重要だっただろ
ポ-の紹介状と共に、アルフレッド・ヴァレットをたずねたというわ
れわれも知ってお-べきだった。だが'ヴァレットに『ユレジ-』を
八九五年の四月という日付の指定のない文章があらわれ、リニーエ- われが知るようなポ-ルになったのだから、ヴァレットについて、わ
読んだ日付が知れる程度の重要さだろう。10月二八日を最後に'一
からこの一行ほ重要かもしれないが、それも'読書記録を一行記し、
「ジュリアン・ソレル。はとんど模範だ」と一行記されているだけ
(6)
ずか数行記され、それに次いで記された10月二八日の日記には、
a-で語ったことのあるヴェルレ-ヌに花束を贈ったエビソ-ドがわ
はポ-ルに興味を抱いたりはしない。ポ-ルが'はじめて人に知られ
それも今となっては、何のために、そして何故、その学
Ⅴ
要性ほない。
ともあれ'ポ-ルの『文学日記』ほ記されはじめた。
そのまま放置されている。というか'むしろ、一八九三年〓月三日いう1行のみがわれわれには新しいが、別にとりたてて、その文に重
釈をほどこされた全一九巻の『文学日記』だが'第1頁に関しては、
か、われわれにはわからない.ポ-ル自身によって'かなり詳細に注
梅本
といっても、第1日以来、五
-
ておそらく詩集『ユレジ-』に収められるはずの二-三篇の詩をポ-
か月も放置されたものは<日記>とも呼べはしない
れない.ジャンヌと別れ、『日記』
-
日記が次に続-が、そこにはポ-ルが、ロべ-ル・マレとのインタヴ
-
校に通ったのかはわからない
いた学校
-
たのだ。たとえば'インタヴユ-の中で、ロべ-ルマレの質問に次の
ような反応をするポ-ルを発見するとき、われわれは驚きさえするの
見せたのも、別に、ポ-ルの文学的野心を実現させるためではなかっ
だ.幼少時代の事実についての質問を終え、7八九五年の部分にさし
の最初の四分の1ほどを朗読する.そし
してマラルメ。ポ-ルからそのような名前を引き出すことに成功す
ポ-ルが、「ロマン派と象徴派を合わせたようなものだ」と自己批判
いイマ-ジュに満ちた『エレジ-』について'五〇年以上経ってから
(以下RMと表記)
事なはどに裏切られるのである.
ロべ-ル・マレ
りましたか?
ポ-ル・レオト-(以下pLと表記)
こう
、あるいは内面の都市-S
いや、誰にも一度も見せた
が当時お書きになった詩についてです。それを誰かにお見せにな
した伝記的手続をお許し下さい。おうかがいしたいのは、あなた
1八九五年に釆ましたo
ような部分にさしかかるとき'われわれとPべ-ル・マレの期待は見
するのを期待していたろうし'その期待はかなえられる。だが、次の
な固有名詞が登場するだろうことを知っていたはずだし、ある面で幼
る。インタヴュア-としてのpべ-ル・マレは、もちろん'そのよう
人たちがポ-ルに及した影響について尋ねるoまずボ-ドレ-ル、そ
中間を飛ばして'最後の四行を朗読する。次いで、ポ-ルに当時の詩
て'「そこで止めておいて欲しい」というポ-ルの制止をふりきり、
と1言発言し、『エレジ-』
ロべ-ル・マレは、まず、「お気に召さないかもしれませんが--」
かかったロべ-ル・マレは'当然のことのように、アルフレッド・ヴ
ァレットにポ-ルが見せた『ユレジ-』
についての質問をする。
RM
ポ-ル・レオト-
文学上のキャリアですか?
つまり、読まれるとは、他者
あなたほ、昔好きだったものをよく忘れてしまうとおっしゃ
の方がずっと好きだ。
いた時代を私ほ後悔している。だが、それでも、今よりあの時代
その証拠に、誰の話題にもならないクロニックを書き続けて
急には信じられません。
いや遣う.私は文学的野心など持ったことほない。
の賛同を得ることですね?
それは読まれるためですね?
雑誌に書くことを始めたかった。
l体何を?
始めたかったからだ。
では、出版なさりたかった動磯は何だったのでしょう?
そんなことはない。
い、同時に'不特定の読者の賛同を得たいことでほありません
に会い'それが出版されることを願
それはそうですが、メルキュ-ルに持って行くとは、まず社
いや、メルキュ-ルに持って行けば十分だった。
から、当然--・。
しかし、あなたは'それを出版なさりたいと思われたのです
全くない。
りませんか?
どなたかの賛同を少しでも得ておきたいと思われたことはあ
ことはない。
主(ヴァレットⅠ訳者注)
る。だから、今、あなたが文学的野心を持っていなかったと考え
三五
pL
pM
RM
RM
か?
pL
PL
RM
PL RM
PL
PL
RM
PL
RM
梅本
ポ-ル・レオトー、あるいは内面の都市1榊
梅本
書き給え」といったので'散文を、単に何の野心もな-書いた
ヽ._.-
pL
ルが当時
つまり一八九五年
-
持っていた精神状態ほ'われわれ
セーヌ左津を体験する
ことになる。しかも.ポ-ル自らが語る通り'「誰も話題にすること
は'アルフレッド・ヴァレッ-の言う通り、散文を書いて1生を送る
ばしば会うようになる。『文学日記』第一巻の1八九六年三月二二日
ることになり、ヴァレットともメルキュ-ル。ドゥ・フランス社でし
に書きほするものの、一八九六年には、すでに『感傷主義についての
しい詩句に囲まれて四〇歳を迎えられたら--」などと、1八九五年
の一人だが、ここでわれわれが注目するのは、ヴァレットが後世に名
ある。ティナンとは、今では完全に忘れられてしまった世紀末の作家
うに作家に金を賭けるのなら、私はティナンに賭ける』。」との一節が
る。
出版する際、注の形で次のような文を滑り込ませていたことなのであ
の編集者的才能の欠如を嘆くことでほな-、ポ-ルがこの日の日記を
試論』なる散文執筆に苦しむポ-ルの姿が記されている。詩人への夢
字を記すだけだ。
を残しはしなかった一人の作家に固執していたという事実をあげて彼
(10)
は夢で終わりほしたが、ポ-ルはそのことに何の感傷もない。ただ文
(9)
にほ、「ヴァレットほよく私にこう言う。『もし馬に金を賭けられるよ
九六年のしばらくの問、彼は『感傷主義についての試論』に力を入れ
はアドルフ・ヴァン=ペグェ-ルを通してしか近づ-ことのできなか
った文学界への入口を与えられたのである。ヴァレットの勧めで一八
だが、ポ-ルほ、アルフレッド。ヴァレットのおかげで、それまで
否'消すことほないのだが、自らの姿を別のものに変えてしまった。
ほとんど世紀末の詩人としてデビユ-しかけた姿を消してしまう。
たちの目標になることはないだろうO彼は、アルフレヅド・ヴァレッ
トの「散文を書け」という忠告を誠実に一生に亘って守り抜くことで
ステファ-ヌ・マラルメのように、ポ-ル・レオト-は文学を志す着
ない。リエクサンブ-ル公園からパンテオンに延びるスフロ街のカフ
ェにその姿を自らの目で認めたポ-ル・ヴェルレ-ヌや、断と捧いだ
小説を除いて、ポ-ルはほとんど公式の<文学史>に名を残すことほ
か。それは、今世紀の文学史が証明している。後に触れることになる
そうした文学的野心の欠如が、後のポ-ルにどんな効果を与えたの
三六
のない」散文を書き続けるのであるo『文学日記』にも、「何千もの美
発表したのは、それだけである。『今日の詩人たち』なるアンソロジ
-を発表するものの'その中にポ-ルの作品は含まれていない。彼
ランス」の一八九五年九月号に『エレジ-』を発表する。だが'詩を
ている通りなのである。確かにポ-ルは、「メルキュ-ル・ドゥ・フ
とロべ-ル。マレが想像するようなものではな-'ポ-ル自らが語っ
-
リ-・ドルモワなどによって書かれたポ-ルの評伝を読む限り、ポ-
ず、こうした質問が矢継早に発されることは実によくある。だが、マ
フランスのインタヴユ-番組は'ゲストの模嫌を損ねることを省
:'f.i
私の精神状態をよく覚えている。その上、ヴァレットが'「散文
全くそんなことはない。私はヴァレットに詩を渡したときの
たくなるのほ、それを忘れてしまったからでしょう。
を
の
当時'私は毎週日曜の午後六時までアルフレッド・ヴァレットと
メルキュ-ルの編集室ですごした。編集室には、エショ-デ・サン
-ジェルマン街の一五番地の小さなアパルトマンの一室があてら
れ、そこでこの雑誌が始められたのである.
ポ-ルが記す通り、当時メルキュ-ル・ドゥ・フランス社は、今日
ではその代名詞ともなっているコソデ衝にはなく、サン=ジェルマン
・デブレ教会の裏にあたるエショ-デ・サン=ジェルマン街にあっ
た。ポ-ルが当時勤務していたのは'バルブロン不動産会社であり'
これまたサン-ジェルマン大通りからセ-ヌ川に向かって少しばかり
歩いたヴォルテ-ル河岸1七番地にあった.給料は月額五〇フランだ
ったが、母ジャンヌの姉でもあり'父フィルマンの最初の妻ファニが、月二〇フランをポ-ルに仕送りしており'計七〇フランで毎月生
活していた。彼の住居ほ'サヴォワ街にある今では存在しないホテル
・サヴォワの一室だった。サヴォワ荷とほ、エショ-デ・サン=ジェ
ルマン衝からわずか二-三分の所である。さらに、一八九六年六月に
は'ホテル・サヴォワをひき払い、フォッセ=サン=ジャック街のホ
テル・ヴォ-クランに移っている.
ポ-ルに関する様々な住所を示したのは、何も'われわれがポ-ル
の存在をより近-感じたいからばかりではない。父と共に暮らしたク
-ルプヴォワを飛び出し、初めて独り暮しをしようとしたムッシュ=ル=プランス街四五番地のホテル、そしてジャンヌ・マリユと生活
を共にすることになるフォ-ブ-ル・サン=ジャック街一三番地、さ
らにアドルフ・ヴァソ=ペグェ-ルと共に住むことになるムッシュ-
'あるいは内面の都市-糾
ることにあるパンテオンの裏にあたるア・,、ヨ荷の一部屋を、先に挙げ
た住所と共に考えてみる必要があるからでもある。それらの住所の共
通点ほただ一点、つまり'いずれもパリ市の五区と六区という非常に
限られた地域に集中していることである。パリの五区とは、カルティ
エ・ラタンと呼ばれる地区と'そして六区とはサン=ジェルマン.デ
プレと呼ばれる地区と、各々重なっていることは周知の事実だろう。
ヵルティエ・ラタンはパリの大学の中心であるソルポンヌを中心とし
て発達し'サン=ジェルマンほ教会を中心とした商業地であると共に
多くの出版社が集まる地域でもある。わずか三年ほどの間にポ-ルほ
めまぐるし-引っ越しを重ねるのだが'それもごく狭い地域の内部に
ほ、すべてを踏破するのに三
おけるものであり、彼が移動する地域-年に一度
る父の住むク-ルブヴォワを除けば
〇分も必要とほしない。
五区と六区とは'もちろん、セ-ヌ左岸である。左岸とは、コメデ
ィ-=フランセ-ズがあり'ゆるやかな坂道がモンマルトルの丘に向
かって延び、やや低層の建物がたち並ぶポ-ルが幼少時代をすごした
二区や九区のあるセ-ヌ右岸とほ、明らかに対照的性格を持ち合わせ
ている場所なのだ。オ-スマンの都市改革以来、取り残されてしまっ
たような九区に対して、五区、六区-すなわちセ
史>が運動していた。演劇において、アンドレ・アントワ-ヌの自由
劇場も、リユニェ=ポ-の制作座もセ-ヌ右岸にあり、当時のセ-ヌ
左岸ほ、まだ砂漠のような地ではあったが、象徴派の文人たちが集ま
り'彼らの書物が出版されることになるのはいずれもセ-ヌ左岸にあ
る出版社からだった。もちろん'ポ-ルがその事実に意識的だったか
どうかはわからないが'少な-とも、一八九三年から九六年にかけて
三七
-ル=プランス衝一四番地の屋根裏部屋、兵役除隊後、ポ-ルが借り
潔-ル・レオト-
梅本
-
(ll)
ポ-ル.レオト-
世紀末の文学界
いたことは事実である。
'あるいは内面の都市-糾
彼が育ったセ-ヌ右岸の陪さ
とは正反対の新しい動きが生まれつつある空気を胸一杯に吸い込んで
ポ-ルはそうしたセ-ヌ左岸の空気
梅本
ソ'デュジャルダソ'アレクサンドル・ナタンソン、エロルド、ヴ
ィエレ-グリファン、フォンテナ。
マザリ-ヌ街の古道具屋で'余り高価ではないが、かなり美しい
三八
仕事用の椅子を買った。
とクリッシ-広場に面したレストラン・ラテユイ-ユで昼食をとる。
ルメだった。葬儀の後、ポ-ルは、マラルメやメルキュ-ルの仲間たち
コペ、モ-リス・パレスがいた。そして追悼の演説を行ったのはマラ
儀の日、すでにポ-ルはアルフレッド・ヴァレットを知った後のことで
あり'彼はメルキュ-ルの仲間たちと葬儀に参加する。フランソワ.
とはヴェルレ-ヌの晩年であり'彼はその二年後にこの世を去る。葬
ヌがいるのを見かけたことはすでに知っている。もちろん1八九四年
らの姿を見出すことほ'ポ-ルにとって栄光以外の何ものでもなかっ
ているだけではあるが、そこに記されていない唯一の名は<ポ-ル.
の一周忌を横会に集まった文学者たちの固有名詞がひたすら並べられ
そうしたポ-ルの一種の勝利宣言とも受け止められる。ヴュルレ-ヌ
集う多くの文学者たちを知るようになる。引用部分に見られるのほ、
いたのは、日曜の午後だけだったが'ヴァレット夫人であるラシルド
の周囲にいる文学者たちに接近する。当初メルキュ-ルに出入りして
『ユレジ-』がメルキュ-ルに受け入れられ'ポ-ルはヴァレット
そしてその1年後、ヴェルレ-ヌの一周期にあたる一八九七年にな
ると'彼の『日記』も少しばかりの規則性を得る。あるいは、編者で
た。次いで仕事用の椅子を買う0もちろん、それもまた、ポ-ル自身
ルキュ-ルでも会った。彼は'私に向かってボ-ドレ-ルを嘗めあ
私たちが出会ったのはセ-ヌ街の煙草屋の出口だった。そしてメ
次いで発表したころである。
は『レオナルド・ダ・ヴインチ方法序説』、『テスト氏との一夜』を相
てよいだろう。ポ-ルが'ヴァレットに紹介されたころ、ヴァレリ-
か。ヴァレリ-は一八七一年生まれであり、ポ-ルとほ同世代といっ
儀のときだったが'ポ-ル・ヴァレリ-とはどのように知りあったの
レオト->なのである。世紀末を色彩る文学者のサ-クルの中に'自
が主宰している<火曜会>にも漠を出すようになり、メルキュ-ルに
あるポ-ル自身の意図かもしれないが'少な-とも『日記』は、月に
メ'キャ-ル'ディエル、ロ-デンバック、ラシルド'ファニ-
、フォ-ル、ティナ
次いでクリッシ-大通りのジュアンヌで昼食。会食者
1二時、墓地に集合o
一〇時、サント=クロテイルドでミサ。
ヴェルレ-ヌの一周忌。
-
レオン・デシャン、ヴァレット、ヴァレリ-
、
マラル
の決意表明であるQ彼がマラルメを初めて見たのはヴュルレ-ヌの葬
われわれほ、一八九四年にポ-ルがスフロ街のカフェにヴェルレ-
(12)
-
最低l-二回は記されるようになってくる。1八九七年l月一五日金
曜日
げた.私ほこ-いってやった.「その通り、ボ-ドレ-ルがいた.
そして、それからマラルメだよ」。当時ほ、私はまだマラルメに夢
中だった。ヴァレリ-は、私をマラルメの拠に連れていってくれる
ほずだったが、マラルメほその前に死んでしまったし'ヴァレリはユイスマンスの拠へも私を連れていってくれるはずだったが、ユ
イスマンスもその前に死んでしまった。その二人から、私は逃れら
れたわけだ。
ポ-ルは六〇年後にそ-回述する.もちろん、インタヴュア-のロ
べ-ル・マレと共に、われわれもなぜ「二人から逃れる」、などとい
ぅ言葉遣いをするのか、少なくともポ-ルは当時'二人を尊敬し、マ
ラルメを「わが師」とまで呼んだではないか、と疑問を持たざるを得
「時間の無駄使いをしなくて
ばないし'後に述べるポ-ルの小説『情人』にせよ、ポ-ルの演劇批
ュ-ル・ドゥ・フランス」連載中や'あるいは、書物として出版され
評集『テアトル・ドゥ・モ-リス・ボワサ-ル』にせよ雑誌「メルキ
たその時には、それほど多-はないものの反響はなかったわけではな
い。だが'それらは、出版後、年月が経つにつれ忘れられてしまっ
た。だが'そうしたポ-ルの前にあった忘却の大きさと正比例するよ
ぅに、ふ-れあがってゆく『文学日誌』の量によって、ポ-ルは人々
の興味の対象になったのである.その固有名詞を記せば誰でもが知っ
ているだろうフランスの某女性デザイナ-ほ、眠りにつく前の一時'
毎晩、ポ-ルの『文学日記』を少しずつ読んでいるとさえ、ある週刊
誌の中で告白している。
だから、われわれもまた、1九五二年にポ-ルにインタヴユ-を行
ったロベール・マレと共に、ポ-ルへ疑問をぶつけてみなければなる
ヽ
ない.だが'ポ-ルの答は実に冷たいo
まい。なぜ『日記』をつけるようになったのか。そして'その<日
ヽ
ヽ
済んだということだ。気取った物言いをする人々など今では好きでほ
ヽ
ヽ
記>ほ、なぜ『文学日記』と名付けられたのか。もちろん、『文学日
ヽ
にすぎないのである。
日常の出来事を書き記した
記』の中にほ文学的記述も見られるし、文学についての記述も多いの
ヽ
ない」。と79あれ、そのような事情から、ポ-ルが、あのロ-ム街で
のメンバ-にほならな
だが、それ以上に'これはただの日記-
意識的な練習なのか'それとも無意識なはけ口となっていたのか、と
ある。ロべ-ル・マレは'それが自分自身を説明し表現するための'
は、「自然につけはじめた」と何の感情も込めずに応答するだけでほ
時のポ-ルがジッドの日記の存在を知っていたはずがないし'ポ-ル
書き始めた年であることを知らせることで開始される。もちろん'当
三年とほ'正に、ポ-ルの生涯の友となるアンドレ・ジッドが日記を
ロべ-ル・マレの手続は、ポ-ルに、彼が日記を書き始めた1八九
-
催されたステファ-ヌ・マラルメの「火曜会」
かったのである。
再び『文学日記』について
われわれが関わっている一八九三年から始まる数年間の問に、ポルの『日記』が定期的に記されるようになってきたことほすでに述べ
た通りだ。なぜ<日記>をつけるのか、との疑問ほ当然発せられるべ
きである.ポ-ルに関して、その主なる出版物とは全一九巻に及ぶ
『文学日記』なのであり、生前、あるいはその死後に出版された小
'あるいほ内面の都市-S
三九
説、批評、書簡の類を全て合わせても、『文学日記』の量にほ遠く及
ポ-ル・レオト-
梅本
もの
(13)
尋ねる。
ポ-ル・レオト-
'あるいは内面の都市1S
それは私が生きたものを再び生きてみる1つのやり方だったo
(14)
めた文章は、ポ-ルの『日記』の中には全-発見できない。ポ-ル自
らの生きた事件が、事実が、生活が、人生が、ポ-ル自らの手で記載
々が出会うだろう多少なりとも感傷的でしかも内省的な自己主張を込
ら、少しずつ少しずつ彼の考察が抜け落ちて-る。青年期に多-の人
自分自身を生き直してみることなのである。だから、彼の『日記』か
重要なのは、ポ-ルが『日記』によって、つまり'書くことによって
そうではない。それは自分を二重化するためのひとつの方法だった0
人的な何かを思い出すために'記録することがあるだろう。
いなかったのだが'それが次第に原則と化して-る。もちろん人は個
ポ-ルはそう答える。最初は<日記>をつけることを原則とはして
梅本
(15)
の分析からも、ポ-ルの『日記』はひたすら遠去かり続ける。ただ、
記したピエ-ル・アスリ-ヌもまたポ-ルの日記を、同時代の証言と
んで当時の出版界の大立着でもあったガストソ・ガリマ-ルの評伝を
リであり'その時代のパリがポ-ルの視線で掃えられているのであ
事実が並置されてゆ-のだ。
して用いている。ポ-ルが意図した通り、彼の『文学日記』には、主
ポ-ルの周辺におこったことだけが、飾り気のない文体で並べられて
-
ずばらばらに投げ出されている。換言すれば、ポ-ルが生きた空間と
の見た芝居
観的な考察が欠如しているからこそ'そこには客観的で信用に値する
し,同時代を生きた人々-たとえばアルフレッ
占領下の人々の動向を示すために、ポ-ルの日記が使用されている
究対象としたヒュ-メ-ト・R・ロットマンの『セ-ヌ左岸』には'
用している。たとえば、第二次大戦前後のパリ・セ-ヌ左岸をその研
くの人々がポ-ルの『文学日記』を時代の証言の貴重な資料として使
これからのわれわれの興味の対象となる.確かにわれわれの他にも多
確たる意図もないまま五〇年に亘って書き継がれる『文学日記』が
それにいつも『文学日記』という題を与えていただけのことだ。
それは椀曲な言い回しだ。何か出版しなければならないとき、私は
えない。
『日記』は、決して『文学日記』と呼ぶのにふさわしいものではあり
られたポ-ルだったが'当初は'全-出版を目的にほしていないこの
・フランス社によって、文学界の中心のひとつに立つことを義務付け
なぜ『文学日記』と名付けられたのか。もちろんメルキュ-ル・ドゥ
ところで、必ずしも文学ばかりをその対象としていない<日記>が
四〇
ゆくだけなのだ。ポ-ルの出会う人々、ポ-ルの読んだ書物、ポ-ル
それらが『日記』の内で放り出され、何の関係も持た
されてゆくだけのことだ。未来に釆たるべき目標からも'現在の事実
(16)
17 4
生きた時代とは、一八九〇年代中葉から、1九五〇年代初頭までのパ
る。
7
パリ'1九〇〇年
二人のボール
アルフレッド・ヴァレットを介してポ-ルは沢山の文学者と知り合
った。ジャン・ドゥ・ティナン、レミ・ドゥ・グ-ルキン、そして特
異な詩人・劇作家アルフレッド・ジャリ.ヴァレットに導かれて'ポ
-ルは撞く自然に彼らと交遊関係を結んだのである。すでに述べた通
り'彼はパリの文学界の先端にいる人々と触れあうことで、自らの文
学的野心を実現させようとしたわけではない。ポ-ルは、ただその中
について、彼らと言葉を交すことがこの上もない快楽に感じられただ
けである。ポ-ルが勤めるバルブロン不動産会社の社員たちは、ポルが文学者という別の顔を持っていたことなど知るよしもない。ただ
地味で、小柄な学歴もない男だったという記憶しか持ち合わせてはい
ないはずだ。
一八九七年四月、ポ-ルはフォッセ=サン-ジャック街のホテル・
ヴォ-クランの一室をひき払い'後に、メルキュ-ル・ドゥ・フラン
ス社が現在に至るまで拠をかまえることになるコンデ街に移り、その
1番地の建物の屋根裏部屋を借りるo彼がもう一人のポ-ル、すな
わちポ-ル・ヴァレリ-の知己を得るのは'彼がコンデ街1
1番地に
住んでいた当時である。コンデ街とは'サン=ジェルマン大通りから
オデオン交差点を南下したところにある、オデオン座の東側をヴォ-
ジラ-ル街まで走る街路である。メルキュ-ル社は、後にその二六番
-ル・ヴァレリ-が'しばしばコソデ街二番地を訪れたからであ
セ-ヌ街の煙草屋でポ-ル・ヴァレリ-と知り合ったポ-ル・レオ
ト-ほ、マラルメへの称賛を共有することで、たちまち'ヴァレリ-
、1八九四
一八九八年から'7八九九年にかけてのポ-ルの『日記』にはヴァ
レリ-の名がよく登場する。たとえば一八九八年一〇月一〇日にポ-
してみる必要がありそうだ。
への敬意を除くと存在している。われわれは、この地理的性格に注目
ルが共にセ-ヌ左岸に住んでいたという地理的性格だけが'マラルメ
-がポ-ルよりわずか一歳年長であるとい-同世代性と'二人のポ-
んど無縁であり'独学で自らの文学的視野を広げたポ-ル・レオト
-。すべての面において対照的だったこの二人の共通点は'ヴァレリ
年にやっとパリに拠を定めたポ-ル・ヴァレリ-。学校教育とはほと
ったのである.生粋のパリジャンであるポ-ル・レオト-
に1八九1年から、「コンク」誌に詩を発表しっづけており'マラル
メの火曜会の常連だった。当時ほ'陸軍省に勤務するユリ-トでもあ
街セ-トに生まれ、モンペリエ法科大学に入学した秀才であり'すで
ることだが、今ひとりのポ-ル、つまりポ-ル・ヴァレリ-は南仏の
ず'様々な職業を転々としていたことは、すでにわれわれが知ってい
ったと言ってよい。レオト-は、最低の学歴しか持ち合わせておら
と意気統合するのだが、これら二人のポ-ルは、多くの面で対極にあ
る。
ルほこう書く
今晩、ヴァレリ-が私のところにやってきて'私の原稿を見てこ
ぅ言った。「君の書体はエジソンの書体にとてもよく似ている」。
四1
(17)
地に移り、ポ-ルはその一室で五〇年に亘って仕事をすることになる
のだが、一八九七年の1時期、すでにポ-ルはコンデ街に親しみを感
、あるいは内面の都市-何
じ、思い出の場所のひとつになっていたに違いない。というのも'ポ
ポ-ル・レオト-
梅本
-
Ⅵ
ポ-ル・レオト-
、あるいは内面の都市-榊
さらに、同年一1月二九日にはこう書-
ほとんど毎晩'私たちはパリを散歩した。辻馬車の二階に陣取り、
置かれ、ノ-トにほ彩しい書き込みがあり'黒板もあった。(中略)
四二
ヴァレリ-
彼は書いた
ポ-ル・レオト-に
親しく交際していることを示す重要な資料ではあるが'もっと重要な
のは、今'引用した1一月二九日分の『日記』に、ポ-ルが詳細な注
釈をはどこしていることである。もちろん、一八九八年の一一月二九
ったエスタカ-イ橋で休んだ.そして、彼がサン=プラシッド街に
あるユイスマンスの家に行く時間が来ると、そこから戻った.話し
たのは、ほとんど彼の方で私は聞いていた。彼は、ときには、邪摩
なくらいに私をおどかしたものだ。彼の話は'複雑で、彼の文学へ
の考えは'非常に抽象的な性格を持っていたからだ.彼は聞き手を
必要とtていたに違いない.こうした関係において、私が彼にもた
らしたのは、余りに貧弱なものでしかなかった。
二人のポ-ルの対照的性格は、われわれのポ-ル、つまりレオト-
も勘付いていた。だが'ヴァレリ-が、ポ-ル・レオト-にどんな話
階に陣取った二人の青年が、文学談議をしながら、パリの街路から街
をしたかは'われわれの興味の対象ではない。それより'詩馬亭の二
刊されたのは一九四三年のことであり'ポ-ルが加えた注釈ほ、その
路をさまようその光景が、われわれの興味の対象である。毎晩、彼ら
1巻の発行から二
公刊に向けてのものであることは記すまでもあるまい。その注釈は二
とが述べられる.ヴァレリ-の死は、『文学日記』
年後のことだ。もうひとつの注釈は、日記の本文よりずっと長い。
ロワイエ=コラ-ル小路に向いていた
当時、ヴァレリ-ほ'ゲ-=リユサック街のホテル・アンリⅥに住
んでいた.彼の部屋
の様子を私は今でも思い出す。小型円卓の上に小学生用のノ-トが
-
少しずつではあるが、文学的キャリアを積みつつあった。その速度の
今ひとりのポ-ルほど華々し-はないものの、われわれのポ-ルも
『感傷主義についての試論』
が、世紀末のパリを何よりも有弁に語っていないだろうか.
の文学談の背景として、右岸のグラン=ブ-ルヴァ-ルからノ-トル
ダムまで、さらにカフェ・プレヴォ-のバグァロワ-ズなる飲物まで
の第一巻に収められているが、それが公
は、ノ-トルダムの裏のセ-ヌ河岸へ行き、今ではな-なってしま
終点から終点まで行き、場末まで行った。ある晩はジムナ-ズ座の
梅本
ヴァレリ-が'夕食を済ませてから、私の家にやってきて、.散歩に
-
つある.まずヴァレリ-が書いた紙片をポ-ルがまだ所有しているこ
日分の日記は'『文学日記』
(19)
(18)
前のボンヌ=ヌ-ヴェル大通りでバグァロワ-ズを飲み、日曜に
昔、作家がいて
-
ント
さそった。私が仕度をしている間'彼ほ私の紙をとってこう書い
た。
もちろん'ヴァレリ-の名が頻出することは、ポ-ルとヴァレリ-が
コ
遷さは'もちろん彼自身の野心の欠如がその原因だろうが、それでも
彼は'彼なりの方法で文章を書き続ける。『エレジ-』
-ル・ドゥ・フランス」誌に掲載されたことほすでに述べたが、その
が
「メルキュ
マラルメの死
ほとんど私だけ
だが'ポ-ルにとって、自分の原稿は大して興味のあるものでほな
かった。『感傷主義についての試論』さえ、「これは'
その意味で、
「メルキュ-ル」誌に掲載された『試論』
のために書き記される」という宣言と共に始められ、
特にマラルメ、ヴェルレ-ヌとゲィクト-ル
象徴派とロマン派の
・ユゴ-の影響を大きく被った詩作は、あえてここに訳出しておく必
エクリチエ-ルの椀能を有しているだけだったのだ.
ポ-ルの関心
『日記』と同じ
要もあるまい。晩年のポ-ル自身も、彼の目の前で『エレジ-』の一
にも見られる通り、彼は、彼自身が将来どんな原稿を記すべきか、な
は'自分の内部には向けられていないoポ-ル・ヴァレリ-との交遊
る光明であったと同時に、マラルメは私に'最も強烈で完全な表現
き'それは私にとって'啓示であり、舷尊であり、美の中に侵入す
が亡-なったことを伝えた。彼はわが師だった。彼の詩を知っ七と
今朝、新聞が、ヴァルヴァンの小さな家で'昨日'突然マラルメ
その中心ともいえるステファ-ヌ・マラルメが一八九八年九月九日
に亡くなる。翌九月10日の『日記』にポ-ルは次のように書-.
岸>的な空気も彼の関心の中心にある。
メルキュ-ルに集-文人たち'ポ-ル・ヴァレ-ァ-ヌ・マラルメなのである。彼らを取り囲む、世紀末の実に<左
'さらに、ステフ
アルフレッド・ヴァレッ-'そしてアドルフ・ヴァン-ペグェ-ル、
ポ-ルにとっての外部とほ、まずメルキュ-ル・ドゥ・フランスと
できることかもしれない。
『感傷主義についての試論』にそれほど関心を向けていないのも納得
といってもレオ-トに関心を持つ者ほ多くほないが1-たちが'
のである。そのために'ポ-ル・レオト-を論じるとき、多くの論者
どという問題を持ってはおらず'彼の外部に自らの関心を向けていた
にしても、
節を詩読するPベ-ル・マレに、あえてこの詩について語る必要ほあ
だが、アルフレッド・ヴァレッ-の忠告を守ったポ-ルほ'詩作か
ら散文へと転じる。それが『感傷主義についての試論』であり、「メ
ルキュ-ル・ドゥ・フランス」誌の1八九六年六月号、1八九七年四
月号、一九〇〇年二月号と、三度に亘って、掲載されている。詩作
でほマラルメ、ヴェルレ-ヌ、そして散文でほスタンダ-ルをモデル
と考えていた当時のポ-ルにとって、初めての散文作品には'当然の
こととして、一八九四年ころポ-ルが初めて読んだ『パルムの僧院』
に書き
の影響が色濃くあるし、きわめて倒置法の多い文体は'象徴派の影響
の下にあるといってもよい。だが'この試論の二度目の原稿をアルフ
レッド・ヴァレットに渡したあと'「全員1致で掲載が決まった。こ
んなことはめったにない」とヴァレッ-は言った、と『日記』
記サボ-ルにほ、喜びの感情があふれていた。そして、この二度目の
掲載が終わったあと、ポールは'結局は断ってしまうものの、ポ-ル
・フォ-ルから、別の原稿を依顕される。ともあれ'ポ-ルにも、執
'あるいは内面の都市-糾
四三
筆依額といったものが来るようになったのである。
ポ-ル・レオト-
梅本
-
を'象徴沢的手法に載せたつまらぬ作品にすぎないのだ。
るまい、と付け加えているし、事実、『エレジ-』ほ、感傷的な若さ
-
ポ-ル・レオト-
、あるいは内面の都市-榊
がったように、「メルキュ-ル」の仲間たちとポ-ルとの親しさと対
極にあるような遠さが、ポ-ルにとってのセ-ヌ右岸なのだった。
この間にもポ-ルは何度も引っ越す。まずコンデ街二番地を引き
払い、サン=ジェルマン・デプレ教会から一本セ-ヌ寄りのジャゴブ
街に越す。だが'そこにも長くはとどまらず、パンテオンの丘をセ-
一五世風の椅子を見た。他の写真ではマラルメがその上にすわって
家で』の写真で見たことのある白い陶器の暖房器を見た。私ほルイ
て彼を訪問していただろう。私は、かつて『我々の同時代人たちの
った.もし彼の突然の死が避けられていたなら、ヴァレ--に導れ
私はマラルメが生活していたあの優美で小さなアパルトマンに入
一六日のことだった。
って大きな意味を持っていたのは当然のことである。1九〇〇年一月
ないだろう。だが、ロ-ム街というセ-ヌ右岸の街路ほ、ポ-ルにと
ヌ川を渡ったろうし'ヴァレリ-との散歩のことも思い出さねばなら
マンをたずねることになる。もちろん不動産業のために、何度もセ-
ルは、マラルメの死の一年後、初めてロ-ム街のマラルメのアパルト
と考えたのは、もちろんステファ-ヌ・マラルメである。そしてポ-
と共に、ポ-ルとヴァン-ペグェ-ルがこのアンソロジ-に収めたい
人たち』というアンソロジ-の編集である。多-の詩人たちの作品群
ヴァン=ペグェ-ルにほ'ある書物の企画が持ち上がる。『今日の詩
ところで、ポ-ルが、ボナパルト街九番地に移ったころ、ポ-ルと
地である。左岸での移動は続く。
ポ-ルが移るのはサン-ジェルマン大通りに程近いボナパルト街九番
い。どこも雑音、騒音の煩がひどいというのがその理由である。次に
感傷的な理由があるからなのだが、その場所にもポ-ルは耐えられな
かつての恋人が住んだ場所に身を落ちつけるとは、もちろん、そこに
ヌ川と反対に下だったフィヤソティ-ヌ街に移る。フィヤソティ-メ
つまり、マラ
へと至る詩句を示してくれたので、詩作を私にあきらめさせもした
んだ。素晴しい白鳥ほついに救われた。
-
ろうが、ポ-ルとマラルメの距離が、マラルメの死によって無限に広
んだカフェ・プレヴォ-は、ロ-ム衝からさして離れてはいなかった
地域だったのだ。もちろん、ヴァレリ-と共に、バグァロワ-ズを飲
マン大通りと、サン=ラザ-ル街に狭まれたセ-ヌ右岸にあった。ク
-ルブヴォワを飛び出してからのポ-ルにとって、セ-ヌ右岸は遠い
ロ-ム街とは、当時ポ-ルが親しんだセ-ヌ左岸ではなく、オ-ス
のことだろう。
とになるポ-ルにとって、マラルメとほ「唯一の人」であるのは当然
て、詩を発見し、そして、マラルメの死の直前、詩作をあきらめるこ
連れていって-れなかったことを悔いている。だが、マラルメによっ
ポ-ルは'ヴァレリ-が、ロ-ム街のマラルメの「火曜会」に彼を
そしてどんな価値があったのか。彼は唯一の人だった。
(p)
マラルメは死んだ。彼は無礼な怪物によってクリスタルを打ち込
ということがわかったからだ。(中略)
ルメの詩を模倣することは'ほとんど名誉も長所もないだろう
のようなやり方で他に上手く行くものは何もない
街七番地の住居は、かつて'ジャンヌ・マリエが住んだ場所だった。
梅本
のだoというのも、私は、何も彼の詩句に匹敵するものはな-、こ
四四
いた。私は彼が長く生活していたほとんどの空間を見た。
(21)
-
ディ-=フランセ-ズの脇を通り過ぎるだけで到達できるポ-ルの生
のパリ九区ほ一体どうなってしまったのか。左岸から橋を渡り'コメ
だが、ポ-ルと共にわれわれが垣間見たことのあるあのセ-ヌ右岸
んどをポ-ルほすでに知っており、家具や部屋を記述しながら、そし
ヴァレリ-と共に訪れるほずだったマラルメのアパルトマンのほと
てそれらの記述から生前のマラルメの姿をたどろうとする。
ヌ左岸にあるパリ五区と六区を何度も移住を重ねながら、ポ-ルは、
出会いをきっかけに'アルフレッド・ヴァレットを介してポ-ル・ヴ
ァレリ-を初めとする文人たちと親しく交流することができた。セ-
葉を交すことはなかったものの.アドルフ・ヴァン=ペグェ-ルとの
を知った。最も敬意を持っていたステファ-ヌ。マラルメと親し-言
思い出してみれば、ポ-ルはこの一〇年間の問に'実に多-の人々
右岸'l九〇〇年三月八日木曜日
はなかった。
って右岸に赴いたにしても'彼には幼少時の記憶が廷えってくること
-ム街のアパルトマンを訪ねたことさえあった。だが、いくら橋を渡
-した地域に足を延ばしたこともあったろ-。そして、マラルメのロ
たのだろう。バルブロン不動産会社の社員としてポ-ルはもちろんそ
帰ったマルティ-ル街の住所
幼少時のポ-ルが、実に親し気に感
じたそれらの地域は二八歳のポ-ルにとって、その当時どう感じられ
まれたモ-エ-ル街、そして、父フィルマンが毎晩異なる女性を連れ
まれ故郷は'ポ-ルの中で一体どうなってしまったのだろう。彼が生
世紀末を色彩る文学芸術運動の中心にいた。制作座の前衛的な舞台を
してすべて整える事件にポ-ルは遭遇するのである.その日の
否'忘れてはいなかったが、自らの関心の外にあったことが'一瞬に
の剣、元旦のパルテ嬢の私への贈物、そして私の思春
こう考えざ
だが、一九〇〇年三月八日木曜日、ポ-ルが忘れてしまっていた、
原稿を掲せられるようになった。ク-ルブヴォワで生活しているとき
記』を読んでみることにしよう。
何度も目にしたし'「メルキュ-ル・ドゥ・フランス」誌にも自らの
に'よ-やく彼の視野に収められるようになった文学に、そして文学
んポ-ル自らの意志故の行動であるとほいえ、ポ-ル・レオト-とい
界に、彼は、かなりの速度に接近することになった。それほ、もちろ
正午、不動産の仕事でアンジュ-街に行く途中、コメディ--フ
ランセ-ズが燃えているのを見た。私は(私のために)
う氏名を文学界の中心に刻もうなどという野心はなかったことはすで
に触れておいた。セ-ヌ左岸のご-限られた狭い地域で行動していれ
る.をえなかった。あの永遠の炎のような役者(ソシュテ-ル)た
『エルナニ』
私の幼少期には沢山の思い出がある。ゲィクト-ル・ユゴ-、
ば、否が応でも'文学を志す若者なら、ポ-ルと同じ様な方向に進ん
だことほまちがいあるまい。目の前には、少し前なら夢の中にでも登
場するような人物が実際に声を持ち'自らに話しかけもするのだ。こ
『日
-
期--それは、私にとって、コメディ--フランセ-ズの廊下、楽
ち-
屋、絵に囲まれた事務所なのだった。
(22)
れは歴史の流れ、つまり、7九世紀末から現代に至るまでパリのセヌ左岸が持っている歴史の流れなのであり'ポ-ルは、その只中に身
、あるいは内面の都市-S
四五
を置いたのである。
ポ-ル・レオ・1-
梅本
ポール・レオト-
、あるいは内面の都市-凹
だことなど忘れてしまっていた。別にそれが忌しい過去であり、そこ
上の関係はなかった。むしろ、ポ-ルは、彼がマルティ-ル街に住ん
つまり、コメデ
ンセ-ズの内部に行ったこともある。ポ-ルが初めて夢のような時間
しかし、当然、存在するはずの自らの過去の象徴
ィ--フランセ-ズが、この日、焼け落ちてゆくのを凝視していると
Gallimard,undemi
Robert
siecled'iditionfran
(以下次号)
とさえある。そして、何よりも、ポ-ルは、コメディ-=フランセ-
してゆく。
Gaston
Paris(以下Eと記す)p.57
PaulL6autaud.Entretiens
p.59
p.59
p.56
p.)4
p.))
JZp.1)
p.12
p.6)-p.62
p.)0
JZp.)0
(以下J[と記す)p.9
Pau)Lかautaud〉Journal
littかraireZ,MercuredeFrance})955,Paris〉
caise.Ba)land,)984,Paris(邦訳・天野恒雄、みすず書房'三九貢)
PierreAssou)inev
avec
を境に'自らの文筆を別の方法に、象徴派の模倣から別の方向に、移
セ-ヌ右岸とは、セ-ヌ左岸のように健全な地域ではない。乳母
のマリ-・プゼに抱かれて街路を歩くポ-ルの目には、商人の子供た
ちが道で遊ぶ姿や'街娼の姿さえ写っていたのである。ク-ルブヴォ
ワ'そしてセ-ヌ左岸に住む間'それらのイマ-ジュはポ-ルの中で
次第に希薄なものになってゆき、目の前で動いている歴史に比べれ
った。
ば'とるに足らぬものに見えはじめ、ついには、忘却されてゆ-のだ
だが、今、目の前で、コメディ-=フランセ-ズが燃えている。炎
に包まれている。もちろん、制作座に通うポ-ルにとって、演劇の上
で'コメディ-=フランセ-ズは保守的そのものであり、あえて'そ
の舞台で上演されているものを見ようとする場所ではない。旧態依然
とした倒すべき対象である。だが、それでも、目の前で、その対象、
打倒すべき対象が炎に包まれるのを見るとき、その中に彼の思い出の
すべてがつめられていることを、突然、感じるのだ。火炎と共に、思
い出が消えてゆくのではない。コメディ--フランセ-ズの火事によ
って'ポ-ルはコメディ-=フランセ-ズの中には、実に豊かな彼自
身の思い出があったことを深-感じるのである。
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逆に'おぼろげだった思い出が鮮明なものになる。ポ-ルは、この日
人、ムネ-スユリを訪ね'俳優か文学者か、という選択をゆだねたこ
-
ズから歩いてさほど遠くない地区に'何年もの間、住んでいたのであ
Mallet,Gal)imald))95),
術に優れていたク-ルブヴォワ時代のポ-ルは、<聖なる怪物>の一
すでに、われわれは、フィルマンやポ-ルと共に、コメディ--フラ
この一〇年間、父フィルマンとまれに会うことはあっても、それ以
四六
をすごしたのは'コメディ-=フランセ-ズでのことだったし、朗読
父フィルマンは、コメディ--フランセ-ズのプロソプタ-だった。
梅本
から逃れたいと念じていたわけではない。ただ単に忘れていたのだ。
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el)eo)89)¢8)
(1竹(16川5)
84)
p.69
p.69
p.23
p.69
p.23
p.24
四
p.2)
'あるいは内面の都市-榊
七
p.32∼p.33
p.34
ポ-ル・レオト-
梅本
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