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男性性とヘレニズム - ASKA-R:愛知淑徳大学 知のアーカイブ(リポジトリ)
愛知淑徳大学論集一文学部・文学研究科篇一 第33号 2008.361−70 “The Road from Colonus”における 男性性とヘレニズム Masculinity and Hellenism in“The Road from Colonus” 平 林 美都子 HIRABAYASHI Mitoko ヴィクトリア時代、ヘレニズムに傾倒した英国知識人は少なくない。Matthew・Arnold、 John Symonds、 Walter Pater、 Oscar Wildeがその代表者である1)。ヘレニズムは彼らによって さまざまなイメージで語られているが、西洋的ヘブライズムの対極的特徴として共通して挙 げられるのは、個人主義や自発性である。さらに重要なのは、「ヘレニズム」がヴィクトリ ア時代に同性愛の娩曲表現として使われていたことである2)。自由奔放に個人の生/性を表出 するヘレニズムに対する憧憬は、20世紀初頭のエドワード朝にも続いていた。Susan Grove HallはE. M. Forsterを念頭に置きつっ、エドワード朝のヘレニズムの影響を次のように語っ ている。 At the end of the Edwardian period, Hellenism still expressed a common ideaL England was considered the center of a new Hellenism in scholarship, education, theater, philosophy, art and morality;Hellenism was a living force which was concerned intimately with thought,1ife, and conduct.3) フォースターの場合、古代ギリシア文化(ヘレニズム)の知識や興味は、ケンブリッジ大学 の師Nathaniel Weddの指導によるものが大きい。その一方で、彼はペイターからもギリシア 文化に対する影響を受けていたとRobert Martinは指摘している4)。マーティンによれば、 フォースターがペイターから継承したものは、「現代のイギリスで再現することができるギ リシア神話」、っまり「ディオニュソスとデメテルの話」であり、その神話が伝えている 「同性愛物語」だったという(Martin 102)。ギリシア文化に対するフォースターの関心が同 性愛的志向を内包していたとすると、そのきっかけを作ったのは必ずしもペイターだけに限 らない。たとえばRichard Dellamoraは、ギリシア文化はエドワード朝の中・上流階級の同 性愛者にとって、現実か想像上のものかは別にして、セックス・ッアーという形で商業化さ れることもありえたという5)。実際にフォースター自身も、1902年にはイタリア、1903年に はギリシアへと旅行していた。 ヘレニズムの影響を受けたフォースターの代表作といえば、“The Road from Colonus” 一61一 愛知淑徳大学論集一文学部・文学研究科篇一 第33号 (1904)、The Longest/burnay(1907)、 Maurice(1914/1971)である。『モーリス』は周知の通 りカミング・アウトの小説であり、『果てしなき旅』においてもリッキーとアンセルの同性 愛的傾向はかなりはっきりと描写されている。他方「コロヌスからの道」には明白な同性愛 的描写はないため、そうした含蓄を読み取る批評も従来はなかった。しかし、その前年に発 表された“Albergo Empedocle”と並べてこの作品を読んでみると、両者には興味深い類似点 が見えてくる6)。「エンペドクレス館」でヘレニズム的な愛に挫折して記憶喪失に陥るハロル ドは、老齢を迎えて忘れっぽくなったLu(ras氏と重なっていくのである。実際のところ、 「コロヌスからの道」ではギリシアの神話的世界が復元されるし、なによりも、主人公ルー カス氏は「40年前のヘレニズムに熱中していた」のだ7)。この曰くありげな記述は看過すべ きではないだろう。 ルーカス氏にとって40年前といえば1860年代。ちょうどその頃、ペイターは後に Renaissanceの一部となる論文“Winckelmann”を発表した。ペイターはその論文の中で、ド イッの美術史家ヴィンケルマンがギリシア彫刻を熱烈に賛美するのは、ヴィンケルマン自身 の生活における若者たちとの親密な友情と関係があるのだと説明した8)。ヘレニズムへの憧 憬には男性の肉体美に憧れてそれを賛美する同性愛的傾向が含蓄されているのである。ま た、デラモラが説明する当時のイギリスの性の文化的風土を考えれば、フォースターに男性 の肉体への憧憬があったことは想像に難くない9)。フォースター自身の好みの男性が労働者 階級や有色人の若者兵士、警官だったということは、彼が知性よりもむしろ「男らしい」肉 体を持っ男性に惹かれたことの証となるだろう。ここから、ヴィンケルマン、ペイター、 フォースターと繋がる肉体賛美を基にしたヘレニズム的欲望の系譜が、たしかに浮かび上 がってくる。 本稿は、フォースターの短編「コロヌスからの道」に散見する暗示的な表象を辿ることに よって、テクストに埋め込まれたルーカス氏の同性愛的欲望の実態を明らかにしたい。 男性性の喪失 まず、「コロヌスからの道」のタイトルから明らかなインターテクスト、『コロヌスのオイ ディプス』との関連を説明しておこう。ソフォクレスの『コロヌスのオイディプス』は、主 人公オイディプスが父を殺して母を姿るという運命を呪って、自ら両目をっぶし、娘であり 妹でもあるアンティゴネに手を引かれてコロヌスへ辿りつく話だ。目は睾丸の腕曲表現であ N 1 ることを考えると、オイディプスは自ら去勢して男性性を喪失したということになる。っま り、彼自身の意思によって家父長的権威を失ったのである。ところが、新たな神託により、 死後葬られた土地の守護神になることを告げられると、オイディプスは娘たち(アンティゴ ネとイスメネ)を振り切り、彼女らを先導するように一人で歩いていく。その後まもなく、 彼は娘たちにも死に場所は教えずに亡くなる。オイディプスはこのように、最期には英雄た 一62一 “The Road加m Colonus”における男性性とヘレニズム (平林美都子) る男性性を取り戻すのである。 他方、「コロヌスからの道」のルーカス氏は、老齢のために男性性を喪失した老人として 登場する。ギリシア旅行の一行は、ルーカス氏、娘Ethe1、彼女の婚約者Mr. Arthur Graham、彼らの友人Mrs. Foman、そして現地の通訳の5人である。ルーカス氏は身の回り の世話をされる老人として描写されている。ところが、彼は偶然見っけたプラタナスの大木 の洞の中で自然と一体化する夢想体験をすると、その直後から今までとは一変した風景が見 えるようになる。これはルーカス氏にとり、自分で末路を決めるという主体性を取り戻す機 会にもなりえたはずだった。しかし、結局は娘のエセルによって妨害されてしまい、ルーカ ス氏は他人の事柄や話に関心を喪失した老人として、ロンドンで生き永らえることになるの である。 『コロヌスのオイディプス』が男性性の喪失から回復への物語だとすれば、「コロヌスから の道」はそれに失敗した物語だといえる。それでは一体なぜ、ルーカス氏は男性性を回復し 得なかったのであろうか。 「性の秩序」の混乱 20世紀初頭、ヴィクトリア時代の家父長制度が凋落の兆しを見せ始めていたのは周知の ことである。そして「コロヌスからの道」でも、登場人物たちの「性の秩序」は最初から混 乱していた。 作品中、ルーカス氏とエセルはオイディプスとアンティゴネに喩えられているものの、父 娘関係の有り様はまったく違っていた。ルーカス氏の末娘エセルは、「寛大で愛情深 N x x x N N N N x N N [く]」、「人生を父に捧げ、老齢の慰めとなっていると世間では理解されていた」(96、傍点 筆者)が、実際のところ、彼女はヴィクトリア朝的「家庭の天使」でも「孝行娘」でもな かった。ルーカス氏が足を滑らして水溜りで濡らしてしまったとき、エセルは父の粗相をと がめ、乾いた靴下とブーッを手渡す。父を子ども扱いする彼女の言動に、「家父長」に対す る尊敬の念は感じられない。 一方、ルーカス氏も子ども還りしたような行動をとる。オイディプスが娘たちを振り切 り、むしろ先導して梨の木の洞に着いたのは、自らの最期を迎える清めの儀式のためだっ た。彼だけが自分の行動の目的を知っていたのであり、だからこそ皆の案内者となったので ある。ところがルーカス氏は、「明白な理由もないのに」(95)随行者を振り切るように先 に進んでいった。彼はただ、娘の「配慮や思いやりに飽きて」(95)いたからであり、予定 地に皆よりも先に着こうとして、「子どもじみたはやる気持ちで」(95)ラバを駆り立てた のである。「エセルの姿を半時間でも見ないことをうれしく思っている」(96)ルーカス氏 は、親の過保護から自由になりたがる子どものようでもある。 娘に世話を焼かれることに対するルーカス氏の反抗は、女嫌いの表れだといえるかもしれ 一63一 愛知淑徳大学論集一文学部・文学研究科篇一 第33号 ない。彼が同行者フォーマン夫人に苦手意識を持っているのもそのためだろう。フォーマン 夫人(Mrs. F()rman)は、名前(‘foreman’=「親方・監督」)からの連想どおり、支配力の強 い女性だ。ルーカス氏が先に予定地に着いたとき、「彼の意見を遮る」(96)フォーマン夫 人がいないことにほっとしているほどである。名前だけしか登場しないルーカス氏の妹Julia はさらに曲者だ。オイディプスにとって、アンティゴネは娘であり妹でもあった。ならば、 ルーカス氏にとり、ジュリアとエセルは娘と妹役に分裂した同一人物とも考えられるだろ う。エセルでもありうる独身のジュリアを、ルーカス氏は「恐れて憎んでい[る]」 (102)。エセルがアーサーと結婚した後、このジュリアがルーカス氏の家政を仕切ることに なっていた。つまり、父は娘/妹の支配から抜け出せないのだ。エセルは木の洞にいる父を マーリンに喩えたが、たしかに彼は、こうした女たちによって無力にされたマーリンだとい えよう。 ルーカス氏がマーリンならば、アーサーの名を持っグレアム氏はマーリンの弟子というこ ともできそうだが、このテクストに明白な男の連帯は見られない。その一方で、グレアム氏 も「性の秩序」の異端者であることは間違いない。「熟練したボクサー」(104)だと形容さ れている彼は、「体格の良い自分の身体を自己満足気に眺め」る自己陶酔的な男であり、同 性愛的なイメージがある。また、グレアムのような肉体派男性を「尊敬する」(105)エセ ルを、同性愛者の隠れみのではないかという読み方もできるだろう’1)。 ルーカス氏の求める男性性 「性の秩序」が混乱したテクストにおいて、ルーカス氏の男性性に再度焦点を当ててみよ う。ルーカス氏は老いによって子ども還り、あるいは女性化した。では、彼が回復しようと する男性性とは何だったのか。ルーカス氏が皆を振り切るように逃げ出した冒頭の場面に 戻ってみよう。彼が到着した場所は、アネモネやアスフォデルが咲き、せせらぎの音が聞こ えるプラタナスの森だった。 At the present moment, here he was in Greece, and one of the dreams of his life was realized. Forty years ago he had caught the fever of Hellenism, and all his life he had felt that could he but visit that land, he would not have lived in vain[...] Yet Greece had done something for him, though he did not know. It had made him discontented, and there are stirrings of life in discontent[_] ‘Greece is the land for young people[_]but 1 will enter into it, I will possess it. Leaves shall be green again, water shall be sweet, the sky shall be blue. There were so fo託y years ago, and Iwill win them back. I do mind being old, and 1 Will pretend no longer.’(96−7) ルーカス氏は「40年前にヘレニズムに熱中」(96)しており、この地の訪問は彼の生涯の夢 一64一 “The Road加m Colonus”における男性性とヘレニズム (平林美都子) だった。「ヘレニズム」が同性愛を示すコードであったこと、そして「40年前」が何時を含 意するのかはすでに説明したとおりである。ここから、ルーカス氏が男性の肉体美を憧れる 同性愛的欲望を抱いていたことは、十分推測できるだろう。そして彼はいまギリシアにいな がら、この地に不満を持っている。にもかかわらず、その不満に「生命の躍動感」(96)を 感じているのは、かっての欲望に今も取り付かれていることを証している。しかし、彼は老 齢のためにそれが適わないからこそ、「若者たちの土地」(97)であるギリシアで、若さへ の願望が彼の内に芽生えていくのである。40年前の緑の木の葉、甘い水、青い空を取り戻 したいという願望は、明らかに自分自身の若さへの希求であろう。と同時に、ここには、彼 が40年前に抱いた男性の肉体美への憧憬や同性愛的欲望も含蓄されているはずだ。ルーカ ス氏が長年抑圧していたクィアなセクシュアリティは、このとき彼の意識の中に目覚めたと いってもよいだろう。 ルーカス氏にとり、老いは男性性の喪失を意味した。彼が老いを嫌悪し、老いと戦いたい と思うのは、単に若さの希求のためだけではなく、男性性の回復のためである。したがっ て、彼の若さへの願望には逆説的に死への願望が共存していたのである。 クィアなヴィジョン ルーカス氏のクィアな願望は、一つのヴィジョンとして彼の前に立ち現れる。根元から水 が湧き出ているプラタナスの大木を見っけ、空洞になっている木の洞に入り込んだときのこ とである。 [_]he had the strange feeling of one who is moving, yet at peace−the feeling of the swimmer, who after long struggling with chopping seas, finds that after all the tide will sweep him to his goaL So he lay motionless, conscious only of the stream below his feet, and that all things were a stream, in which he was moving.(98) プラタナスの木の樹皮に捧げ物が吊るされていたことから、その木は神殿の役割を果たして いたと思われる。プラタナスは再生を象徴する木である。この木の洞を子宮と解釈し、ルー カス氏の再生のヴィジョンを子宮回帰一生まれ変わり一だと解釈することも、もちろん可能 であろう。しかし彼の夢想するヴィジョンには、逆波との格闘後、潮の流れによって目的地 まで運ばれるような自然との一体感が強調されている。ペイターはギリシア彫刻の中に「人 間が自分自身と調和し、肉体的性質と調和し、外界と調和する」人間一男性一像を見つけ た12)。ルーカス氏が夢想した体験もまさに調和した感覚だったのだ。さらに「水浴者」のイ メージも重要だ。戸外の水浴はヴィクトリア朝ヘレニズムの肉欲的なモチーフであり、 一65一 愛知淑徳大学論集一文学部・文学研究科篇一 第33号 フォースターも、性的抑制からの象徴的解放として使用していたことを考えると、裸の水浴 者の描写には明らかに同性愛者の含蓄が見て取れるだろうB)。 N N N N N N x N 洞の中での夢想体験は、ルーカス氏の視界を一変させた。すなわち、「想像もできない、 x N N N N x N x N 説明もできないものがすべてのものを横切[り]」(‘something皿imagined, inde丘nable, had passed over all things’98、傍点筆者)、覆いが取り払われたかのように、抑圧・隠蔽されて いたヘレニズムの神話的世界が目の前に広がったのである。 There was meaning in the stoop of the old woman over her work, and in the quick motions of the little pig, and in her diminishing globe of wool. A young man came singing over the streams on a mule, and there was beauty in his pose and sincerity in his greeting[_]there was intention in the nodding clumps of asphode1, and in the music of the water.(98) 「豚」と「アスフォデル」(スイセン)はこの短編の中で繰り返し登場する重要なイメージで ある。豚は大地の女神であり生死のサイクルを司るデメテルへの捧げ物、そしてアスフォデ ルは黄泉の国の女神であるペルセポネに捧げる花だ。『コロヌスのオイディプス』のコロス の中でも、デメテルとその娘ペルセポネ、アスフォデルの花は何度か言及されている14)。っ まり、ルーカス氏の目には、宿の老婆と傍らの豚がデメテルとその捧げ物へと変身したので ある。L. L. Leeは老婆を‘a decayed Demeter’と形容しているが、ルーカス氏のヴィジョンを 通して見る光景という意味で、彼女はデメテルその人だといってもよい’5)。デメテルは陽気 な牧歌神とは違う。彼女はペルセポネを探して回る放浪者のイメージを持ち、黄泉の国の娘 との再会を喜ぶ。つまり、デメテルはオイディプス、ひいてはルーカス氏にふさわしい女神 なのである。プラタニステがルーカス氏にとってのコロヌスに転じたとき、この地は彼に とって祝福された死に場所になったのである。 同時にもう一つ重要なのは、ルーカス氏はもはや老人ではなく、情熱的な男性として再生 した実感を持っていることだ。彼の視線はラバに乗った若者に向けられる。歌を口ずさみな がら、水の流れを渡る若者の「姿勢が美しく、挨拶には誠実さがある」(98)と感じるルー カス氏のまなざしには、ホモエロティックな欲望が漂う。そして彼のまなざしを若者が受け 止めてくれたという確信も持っている。ルーカス氏はこのとき「男」の欲望を抱いたといっ てもよいであろう。なぜなら、この瞬間、彼は「ギリシアだけでなく、英国、全世界、そし て人生を発見した」(98−9)と感じ、その結果、「男の全身像の模型」(99)をプラタナスの 神殿への捧げ物にしたいとまで思うからだ。樹皮に吊るされた「小さな腕や足や眼の模型」 (98)が損なわれた身体の各部位の回復を願うものであったように、男の全身像は、ルーカ ス氏の損なわれていた男性性回復を祈願するものであるはずだ。だとすれば、男性性回復の 願望とは、ギリシア人の若者とのまなざしの交換からも推測できるように、40年間抑圧さ れていた彼のヘレニズム的志向、すなわち同性愛的欲望であったともいえよう。 一66一 “The Road from Colonus”における男性性とヘレニズム (平林美都子) この地に留まりたいというルーカス氏の願いに応じるように、宿の住人も彼を手招きして くれた。彼らと「世界の外観を変えてしまうような最高の出来事」(103)を共有したいと いうルーカス氏の願いも、思わせぶりだ。この表現には、従来の西欧の価値観を逸脱した N N N N N へ N N N N N N l 1 N N N N N 「何か想像もできない、説明もできないもの」(98)が含意されている。プラタニステで、 死の国への入り口である女神の住む地で、ルーカス氏は抑圧されてきた男性の情熱を取り戻 して死ぬことを期待したのである。 ヴィジョンの消失 しかしながら、ルーカス氏はオイディプスを真似ることはできなかった。彼の再生と死の ヴィジョンは旅の仲間の暴力的な行動によって消失し、それに呼応して、ルーカス氏の男性 性回復のヴィジョンも消滅するからである。 まず、ルーカス氏の宿泊を予想して彼のラバを小屋に連れて行こうとしたギリシア人の若 者は、グレアム氏に一喝され、その高貴さに陰りを見せる。次に、豚は通訳に安値で買わ れ、デメテルの捧げ物という地位から転落する。さらに、ルーカス氏はグレアム氏によって 体ごと持ち上げられ、ラバの鞍の上に乗せられる。身体的行動を完全に支配されたルーカス 氏は、再び子ども扱いされてしまうのである。 ルーカス氏が連れ去られることに対して、宿の住人たちは一旦は抵抗を試みた。子どもた ちはグレアム氏に石を投げっけ、若者は立ちはだかってルーカス氏のラバの手綱を奪おうと した。ところが、若者は「熟練したボクサー」であるグレアム氏に殴られ、アスフォデルの 花の茂みに大の字に倒れてしまった。若者の美しい物腰や風情は完全に損なわれ、女神に捧 げられた花は彼の血で汚されてしまうのである。この地はコロヌスの女神の神殿の輝きをた ちまちにして失い、ルーカス氏のヴィジョンも消失する。このとき「元のお父さんに戻った わ」(105)と安堵するエセルの言葉は皮肉だ。たしかに彼女の言葉通り、彼は娘に従順で 無力な老人に戻るのである。 ヘレニズムが同性愛の娩曲的表現であるならば、ルーカス氏が期待した「世界の外観を変 えてしまうような最高の出来事」は、通常の性規範からすれば「危険な光景」(105)だっ たのは言うまでもないだろう。結局、ルーカス氏の男性性は回復せず、世界の外観も変わる ことはなかったのである。 アスフォデルの球根の意味するもの 物語の第2部は、ロンドンに帰って数ヵ月後、ルーカス氏とエセルとの朝食場面から始ま る。ルーカス氏は数週間後に結婚を控えたエセルに向かって、近隣の騒音について愚痴り出 す。 一67一 愛知淑徳大学論集一文学部・文学研究科篇一 第33号 ‘First the door bell rang, then you came back from the theaten Then the dog started, and after the dog the cat. Ant at three in the morning a y皿ng hooligan passed by singing. Oh yes then there was the water gurgling in the pipe above my head.’(105) ルーカス氏の愚痴は、石和田昌利が指摘するように、コロヌスに転じたプラタニステの光景 とロンドンを対置させる16)。それは田園と都会、静寂と騒音であり、一言で言えば、聖と俗 の対象である。オレンジを食べる豚は吠える犬に、ラバに乗って歌う美しい物腰の若者は朝 3時に歌いながら通り過ぎる不良少年に、無言の宿の子どもたちは隣家のうるさい子どもた ちに、そして、清水のせせらぎは排水管を流れる汚水の音に変わってしまった。言葉がなく ても呼応し合えたプラタニステと違い、ロンドンでは抗議の手紙すらエセルによって握りつ ぶされ、隣家に届くことはない。男性性を回復し損ない、死ぬことも叶わなかったルーカス 氏は、今や老いを生きるだけの生活である。 朝食の途中、アテネからフォーマン夫人の郵便物が届いた。郵送されたものはアスフォデ ルの球根だった。その球根を包んであった古い新聞に、プラタニテスで夜中にプラタナスの 大木が倒れて宿が倒壊し、宿の住人5人が全員死亡したという記事が載っていた。事故が起 こったのは4月18日。偶然にもルーカス氏らが立ち寄った日の夜のことだった。プラタニ ステについてルーカス氏が記憶していることが、「通訳が豚を買った場所」(107)というの は意味深長だ。今となっては、ルーカス氏にとり豚は女神の棒げ物でもなく、プラタニステ もただの古びたギリシアの村にすぎないのだった。 では、アスフォデルの球根は何を含蓄するのであろう。それは、死の死、すなわち、ルー カス氏がプラタニステに留まっていれば体験しえたかもしれない「最高の出来事」一ゼゥ スから雷による呼びかけと英雄としての死一を獲得できなかったことを意味する。さらに もう一っの意味もある。黄泉の国に咲くアスフォデルは、ロンドンではルーカス氏の温室を 飾る花となる。人工の環境に置かれたとき、アスフォデルは不自然に生きることになるのだ ろう。それはまさに雄雄しい死を逃したルーカス氏の生を象徴しているのである。 注 1) Peter Jeffreys,6. 2)Richard Dellamora, Masonline 1)esire,33. 3)Susan Grove Hall’s unpublished dissertation,“Victorian and Edwardian Hellenism and E. M. Forster’s Idylls …md Odes”(U. of Louisville,1980). Peter JeifEreys, Easterve Questionsより引用した(32)。 4)Robert Martin.マーティンによれば、フォースターがペーターの励仇s W 1助‘c抑孤ηを読んだのは1905 年のこと。そのとき彼は不快に感じたが、後、ペイターを同性愛作家のリーディングリストに挙げたら しい。マーティンはさらに「現在のイギリスで再現することができるギリシア神話は、ディオニュソス とデメテルの話だ。[中略]その神話が、露骨にとまでいわないが、伝えているのは同性愛物語である」 一68一 “The Road from Colonus”における男性性とヘレニズム (平林美都子) と言い、フォースターがこれをペーターから継承したと指摘する(Martin 101−102)。 5)Dellamora,“E. M. Forster at the End,”279. 6)‘‘Albergo Empedocle”の同性愛的読解は、 Dellamora(1994)を参照のこと。 7)E. M. Forster・(IOIIected Short Stories, Penguin,96.以下、本稿での“The Road From Colonus”からの引用また は引用の翻訳は()に頁数を記す。 8) Pater,191. 9)Dellamora,279. 10) Antony Copley,123−128. 11)大熊栄はフォースターの世界に登場する「欲望派」の女たちが惹かれるのが、「頭の単純な肉体派の 男、マッチョウだ」と言い、これらの「女たちはすべて作者のホモセクシュアリティの隠れみのなので はないか」と指摘している(202)。 12) Pater,222. 13)Kestner, 255−267;Jef丘ey Meyers,184. 14)『コロヌスのオイディプス』683−690、1557、1600. 15) L.L. Lee,563. 16)石和田昌利、50. 文 献 Copley, Antony. 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