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﹃私の履歴書 人生越境ゲーム﹄

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﹃私の履歴書 人生越境ゲーム﹄
 ﹃私の履歴書 人生越境ゲーム﹄ 青木昌彦著 日本経済新聞出版社
八九ページ﹁戦線逃亡﹂から引用
そんな中、六一年の三月に東京・南青山にあった私の四畳半の下宿にプロ通派のメンバーが全員集まった。清水
と北小路が、革共同に合流しようと切り出した。彼らは我々もすぐ同調すると思っていたらしい。だが即座に西部
が﹁まっぴらごめん﹂と言った。私もこれまで思想的にも相容れず喧嘩してきた連中に、政治的便宜主義、ご都合
主義で頭を下げるのはとんでもない話なので、一も二もなく同意した。他の連中もそうだった。
一〇四︱一〇五ページ﹁留学作戦﹂から引用
夏の終わりになってやっとビザが下りた。羽田空港には島成郎、生田浩二、唐牛健太郎、西部邁らブント時代の
仲間が総勢二十人前後も見送りに来てくれた。思えばそこは、四年余り前に我々が根こそぎ現行犯逮捕された場所
だ。だがお互いそのことは胸に秘め、空港のターミナル屋上で何か激励の声を大声で叫んでいる元ブント勢に別れ
を告げて、私は飛行機のタラップを登った。新しい人生ゲームが始まるという思いを胸に抱えながら。
一四五︱一四六ページ﹁経済学に迷い﹂から引用
このころ、かつてブントから一緒に﹁戦線逃亡﹂し、東大教養学部で経済学を教え始めていた西部邁と交友を
つ
再開した。彼は新古典派経済学の批判からさらに進んで、社会学や言語学などの本を広く渉猟し、その読みの深さ
は舌を巻くほどだった。
︵中略︶
西部が七五年に出版した﹃ソシオ・エコノミックス﹄
︵中央公論新社︶の中で、私の社会学や経済学、哲学を継ぎ
は
接ぎした当時の稚拙な統合の試みを﹁異形だ﹂と批判したのは、いささかボディー・ブローのように効いた。私が
この問題に、私なりの納得いく解決を見出すのには、まだそれから二十年という時間を要した。
西部は﹁青木と俺とは双曲線のように、無限の彼方からやってきて、今は近づいているが、そのうちまた無限の
彼方に別れていくだろう﹂と言った。彼は北海道出身、私は湘南出身で、家族背景でも我々二人は遠く離れたとこ
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ろから来た。そして、私の再婚の式の夜の飲み会で口論となり、それ以来絶交した。彼の予言通り、私たち二人は
思想的にも再び遠くに離れる存在となった。だが、このころの勉強が、私にとってあとに実ることになる。
﹃私の履歴書 人生越境ゲーム﹄ 青木昌彦著 日本経済新聞出版社 二〇〇八年四月二四日 一版一刷
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︿情報提供者さんからのコメント﹀
経済学徒であるなら、本書を通して、青木氏の人生を追体験するのは非常に有益です。経済学をコテンパンに葬
る西部さんとは一味違った該博さ、学問の歩き方をしてます。
蛇足ですが、唐牛氏も多く出てます。かつ一六七ページには唐牛氏の写真まで掲載されてます。
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