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第2部講演会録 PDF形式:280KB

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第2部講演会録 PDF形式:280KB
数寄屋造りの魅力
○「数寄屋造り」とは?
今日は数寄屋という建築の魅力についてお話をするという、大変難しい事を引き受け
てしまった。建築では共通する形式を「~造り」というが、特に住宅では、公家や武家
など社会の上層を構成する人々の住宅を、それぞれ「寝殿造り」や「書院造り」などと
いっていた。「数寄屋造り」という表記は大正初期の本に初めて出てきたと認識してい
るが、江戸時代にはある共通した雰囲気を持つ様式が出てきており、これを今から見て
いきたい。
「書院造り」や「寝殿造り」は、形、デザイン、素材などのかなりの部分がそれぞれ
で共通していて分かりやすいが、
「数寄屋造り」は装飾的・意匠的な要素が強く、
「フォ
ーマルではない感じ」という意味で使われる事が多い。「数寄屋造り」とは、共通する
様式がないのが様式だという、禅問答のような建築である。
住宅史上としては 数寄屋造りを考えないという考え方もあり、また、書院造りから
派生したとされる説や、中世に流行った草庵での隠遁生活が源流だという説もある。そ
れが茶の湯の空間としては茶室数寄屋になり、貴族が庭に造る茶屋になり、それらの構
成・手法が硬い書院にも取り込まれていったという考え方もあって、数寄屋造りの概念
規定がまだまだ議論が必要なのである。
では、そもそも「数寄屋」とはどういう言葉か。「すき」の元の意味は、好きさ加減
が尋常じゃない、偏愛しているという事だが、室町時代後半になると茶の湯が数寄とい
う事に収れんしていく。文献に最初に出てくるのは 16 世紀半ばだが、
「すき」はすでに
茶の湯に関わる事を指している。
天正 14 年(1586)1 月 16 日 『御湯殿の上の日記』
「くわんはく(関白)、こかね(黄金)のすきのさしき(数寄の座敷)もちて御まいり
候て、小御所にて御目にかけてまいらせ候て、くわんはく御ふるまいにて」
公家が茶の湯の文化を取り入れたのは武家に比べて遅く、この記録が公式的に茶の湯
を受け入れた節目になる。これによると豊臣秀吉が御所に組み立て式の金の座敷を持ち
込んで茶事を行ったとなっている。ここで茶室という言い方はせず、数寄の座敷といっ
ている。また、当時の宣教師が編纂した辞書でも数寄屋=茶の湯をする場所となってい
て、桃山時代には数寄屋は茶室とほぼ同じ意味に使われていた事が分かる。
「数寄屋造り」は、「書院造り」の中に茶室として採用されている意匠という考え方
もあるし、
「書院造りを「真」とした上で、幾分工夫をして堅さを取った座敷を「行(数
寄屋造り)
」あるいは「草(茶室)
」とする捉え方もある。
○「書院造り」-もてなし空間の歴史
それぞれ時代ごとの代表的な建物を挙げると、平安は「寝殿」、鎌倉・室町になると
「会所」や「主殿」という建物が出てくる。「茶室」は江戸時代になって出てくる言葉
で、当時の民家では無縁だった畳を敷きつめられた小座敷・茶座敷の事を指している。
「寝殿造り」と「書院造り」では何が違うか。まず、「寝殿造り」は、目的が固定さ
れた部屋がなく、屏風・衝立などを適宜組み合わせて場を整える「調度によるしつらえ」
を行っていた。普段はがらんとした部屋になるのが特性。
そして時代が進み、鎌倉・室町になると寄合が盛んになってくる。公家、さらに武家
が社会の中心になってくると、最初からある用途に対応した集会所(会所)を造る機能
分化が進んだ。寄合のセッティングが簡単にできるようにするためである。
「もてなし」
の場、客を迎えて楽しく過ごすための場の固定である。そうなると会場だけではなく、
中国方面からの美術品(唐物)を鑑賞する楽しみ、食事をするという設備も増えていき、
専用の建物に独立していった。室内をどう快適に美しく整えていくかというインテリア
デザインが同時に起こり、現在の和風住宅の源となる「書院造り」が生まれた。
「数寄屋造り」が現れる前段階として、日本建築の源流となっている「書院造り」が
かくにょ
ぼ
き えことば
あった。14 世紀半ば、本覚寺 覚如 の伝記を描いた『慕帰 絵詞 』の一場面から当時の
寄合の状況を見ていく。
かきのもと の ひ と ま ろ
絵の中の掛け軸に和歌の神様である 柿本 人麻呂 が描かれていて和歌会の会場とし
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EA
て場を作っている事が分かる。全体の部屋は板敷きだが、会場はコの字型の畳の上に人
が座っている。ここでの畳は移動できる家具のような扱いで、古代からの寝殿造りの役
しとみ ど
割と大きくは変わっていない。障子などの横にすべる建具が出てくる前なので、 蔀 戸
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という吊り上げる形式の板で仕切られている。横には料理を作る台盤所があって、茶釜
でお茶の準備をしている。こういった寄合が頻繁に開催されるようになると専用の場所
を造るというのは自然な流れであるし、寄合の準備のために必要な設備も配置したひと
まとまりの建物が形成されてくる。
3T
次は、室町幕府の 8 代将軍足利義政が最後に造営した銀閣寺を見ていく。義政はいわ
ゆる普請道楽で、京都周辺に色々な山荘・別荘を建てたが、晩年に、遊びの要素だけで
構成して作ったのが 東山殿。義政が亡くなった後、禅宗 相国寺派の寺として 慈照寺(通
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称銀閣寺)となった。現在残っているのは銀閣と東求堂の二つの建物のみだが、義政は
相国寺の僧によく相談しながら建築した事が寺の記録に残っており、会所の様子や
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3T16A
どうぼう し ゅ
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同朋 衆 と呼ばれる側近の人々が行った部屋の装飾などについてかなりトレースする事
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が出来る。会所の中心になったのは 18 畳敷きの部屋(当時は畳敷きが一般的ではない
ここ の ま
ので、3 間×3 間の部屋で 9 間 という)
。当時の建築技術では外回り 1 間毎に柱を建て
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るという事をする。仲先生のお話にもあった庭との一体感を考えると柱は抜きたい所だ
が、この時代にはまだできなかった。義政はこの主室を畳敷きにする事を 相国寺に相
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談しており、それに対して将軍の使う部屋なので畳敷きの 9 間もいいのではないかと回
答したというやり取りが残っている。15 世紀後半は応仁-文明という京都市内外が戦
場となって荒れた時代だったが、将軍クラスの住まいだと畳敷きが一般的になっていっ
たという例証でもある。
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そして、この主室には花や掛け軸を飾る造り付けの棚、床の間の前身である押し板が
造られた。別室には 違棚飾りに 唐物といわれる美術品を飾り付けて、客が鑑賞する場
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を作っている。また、壁は紙の貼り付けで襖や壁をキャンパスとしているので、おそら
く風景画などが描かれていたのだろうと推定される。その他、公家達の大切な遊びの一
つである舟遊び用の舟を入れておく小屋が図面上で確認されている。大変広い庭で、花
鳥風月を愛でる風流な生活を大事にするコンセプトで茶屋を作っていたようである。
東求堂は、その位置が当初から少し動いていると推測されているが、現存する書院造
りでは一番時代が早いとされている。義政はこれを阿弥陀堂として作った一方で、厚く
む
そ う
そ
せ き
尊敬していた 夢 窓 疎 石 に仕えるようなつもりもあったといわれている 。東求堂内に
ある「同仁斎」は 4 畳半の書斎。これが茶室の原型だという事は江戸時代からいわれて
いる。ただし、茶室として備えなければならない要件は畳敷きと床の間だが、この「同
仁斎」は付書院と違棚はあるが床の間はない。厳密には茶室と同じとはいえないかもし
れないが、将軍の書斎に、「同仁斎」という、人間は皆平等、身分の隔てがないという
意味の名前をつけているのは、後の茶室に通じる思想・ルールがある。また、同朋衆の
記録と文化財修理時に「囲炉裏ノ間」という墨書が出てきた事から、室内に囲炉裏が切
ってあった事は間違いない。飾り棚にはお茶に使う道具が飾られ、付書院には書斎に関
わる書物や文房具が置かれていたとされている。これが書院造りとしては一番古いもの
で、これをベースにして現在の日本住宅へと歩みが始まっていく。
○「茶室」と「茶屋」について
同じく中世に出現した茶屋・茶室の意匠や素材、形について少しお話していきたい。
桂離宮の書院は「古書院 」
「中書院 」
「新御殿」の 3 つの部分に分かれ、最初に建築
されたのが 古書院 (元和年間)と推定されている。古書院からは、池を向いた月見台
が張り出している。
う り ばたけ
これは 八条宮智仁 親王が造営されたもの。元和 4 年ごろとされる書状に「瓜 畠 を
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EA
鑑賞する軽い茶屋を作っている所に近衛さんが遊びに来る」といった記載があり、私は
この「軽い」という表現が非常に大切だと思っている。私がそもそも研究としている京
都の町屋をどう表現するかという事になるが、元禄時代の文学者・井原西鶴が小説の中
で町屋の事を「軽い」と表現しているのは名文句だと思っている。寺社など本来なら重
厚に組み立てる所を軽く、建物自体も風景の中にとけ込むように造る。これが京都の建
はいやしょう え き
築が持っている特性ではないかと思う。また別の方で、灰屋紹 益 のいう豪商も、 八条
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宮智仁 親王が建てられた「仮庵」だといっている。京都の町屋の事を「 仮屋 建て」「
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仮屋 普請」というが、ここでは決して安普請のような表現としては使っていない。つ
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まり、ここでいう「軽い」や「仮」という表現が「数寄屋造り」の本質を突いているの
かなと思う。
参考までに、京都は丹波・北山といった良質な木材を産出する産地を控え、桂川(保
津川)などを筏で組んで流してくる。丁度、桂離宮の反対側にも筏浜があり、川から運
んだ木材をふんだんに使ったと思われる。誰もが認める名建築であるのに、実際に仕事
を手がけた大工の所見を聞くと地の木材を使っていただろうとの事であった。
茶屋についていくつかご紹介していく。先ほど 仙洞御所の復原写真があったが、寛
か と う
永 13 年、ここの茶屋及び書院にて茶事や飾りの鑑賞を楽しんだという記録がある。花頭
ま ど
窓 が庭を向いていて、上段中段の部屋がある個性的なデザインの茶屋である。
伏見稲荷 大社の右手に移設された 茶屋は、寛永 18 年頃、伏見稲荷大社 の神主であ
った羽倉氏が後水尾天皇より退職金代わりとして拝領したとされている。大きな建築で
な げ し
はないが、個人的には最も好きな建築の一つ。長押 を打つという書院造りの約束事を
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守りつつ、床柱の丸太や花頭窓、主になる部屋と次の間との間に菱形模様の欄間を設け
るなど動きを与えている。書院の骨格を持ちつつ、風合いの優しい表現にしているので
ある。お気づきになった方も多いだろうが、この花頭窓という意匠は養浩館の櫛形ノ御
間と同じである。
次は桂離宮の茶屋についての記述。ここでは舟遊びがひとつのポイントである。小高
しょう か て い
い丘の上に立っている 賞 花亭 という茶屋の横に舟着きがある。橋や舟で渡るというの
は異なる世界を結びつける意味があり、茶屋という世界では大切な役割を持っている。
養浩館庭園でも舟着きと思しき箇所があるので参考になるのではないだろうか。なお、
桂離宮には茶屋はいくつかあるが、茶室は 松琴亭内にある一室のみである。
茶室が茶屋に変わって流行してくると、茶屋は一旦下火になるが、江戸時代になって
また復活してくる。その成果の一つが 修学院 離宮であり桂離宮である。茶室との違い
く ど
で分かりやすいのは 竈 という設備があるかどうか。茶室は炉を切っているが、茶屋は
実用的な煮炊きの設備を造形的に洗練させて持ち込んでいる。茶の湯を受け入れつつあ
った公家の世界では、むしろ茶屋のほうが伝統的な設備として好まれる場合もあった。
寛永元年(1624)7 月 18 日(昕叔顕晫『鹿苑日録』)
「庭中に山を築き、池を鑿つ。池中に船有り、橋有り、亭有り。
亭に上りて四面の山を見れば、天下の絶景なり」
さらに、16 世紀に建てられた万里小路家の茶屋では、丸太普請といって材料・形状
も違う山から切り出したままの状態の木材(黒木)が用いられている。竹や丸太、加工
しづらい木材を利用する事で、自然の趣を映している。聖武天皇が万葉集に残した歌に、
いへ
ま
「あをによし奈良の山なる黒木もち造れる 室 は 座 せど飽かぬかも」とあるが、当時の
中国の流れを汲んだ建築様式ではなく、自然の黒木で作った山荘に行くと全く飽きない
という事である。ここで「いえ」を室とあてられているのも意味があって、外界から切
り離された閉鎖的で落ち着く構造というのは、茶室にまで継承されていったのだろうと
考えられる。
それから数寄屋造りでは有名な、西本願寺の庭園内に立っている飛雲閣。3 階建てで
非常に複雑な屋根を組み合わせた派手な外観のため、秀吉の建設した聚楽第の遺構だと
お ち ん
いう説もある。しかし、中の在りようを見ると、むしろ本願寺の「御亭 」の系譜をく
む建物と考えたほうがいいと思っている。
さて、茶室は都会にいながら人工的に山里を思わせる静寂な隠居所を作ることで楽し
みを見出していった。これを市中の山居としている。16 世紀「洛中洛外図屏風」のひ
たちうり
とつに 立売 という当時の繁華街が描かれている部分がある。当時の建物としては先進
AE
的な 2 階建てがちらほら見える中に、周囲に木々を植栽した、静かな雰囲気の小さい建
物がある。市中の中に風流な環境で、隠者のような住まいをこしらえて、数寄(茶の湯)
の場所にしていたといわれており、茶室とはっきり記録があるわけではないが、様々な
考証をすると茶室でもおかしくないという推測が出来る。
○「数寄屋造り」とは
先ほど、建築の表現として「真=書院造り」
「行=数寄屋造り」
「草=茶室」と申し上
げたが、「草=茶室」とは土壁に丸太、狭くて小さい室に行き着く。そして格式的な建
築表現である「真=書院造り」との間に来るものを、とりあえず「行=数寄屋造り」と
するのはやや乱暴だろうか。
数寄屋造りについては、「書院造りの持つ格式的な建築表現を排除した軽快で瀟洒な
意匠を示す建築」とご説明できるかと思う。私が大事に思っている言葉で、“異風にな
く、けっこう(結構)になく、さすがてぎわよく、目に立たぬ様よし ”というものが
ある。これは、千利休が京都に構えた屋敷を見た人がその佇まいの印象を書き残したも
ので、決して強い自己主張はしていないけれども深い印象を残している様子が伺える。
また、同じ屋敷を見た別の人の記録にも 、
“寺ともなく武家とも見へざる家あり・・・
他家にかはり様子 しほらしき 事絶言語”とあり、これも同じく強い自己主張をしてい
ない建築である事が分かる。これは建築に携わるものとして、数寄屋に関わらず心がけ
てほしい哲学ではある。
最初に申し上げたように、数寄屋造りを何らかの型式に当てはめて説明する事は難し
いのだが、数寄屋造り=「和」の建築と表現する事ができるのではないだろうか。数寄
屋や茶室は人を平和にする建築であってほしいと常々思っているが、白川静先生の『字
訓』で「和」を調べると、意味のひとつとして“なぐ:心がおだやかになり、静まるこ
と”とあり、これは言い表すのにちょうど良い表現だと思った。部屋に入ると穏やかな
優しい気持ちになれる空間がある、これがまさに数寄屋建築の魅力である。
やや言葉遊びのような話も多かったので、最後に江戸時代後半の大徳寺玉林院南明庵
をケースに、数寄屋大工の感性について触れておきたい。元々大工とは何でも造る職だ
ったが、黒木の丸太普請という、ひとつひとつ形が違う素材を組み合わせて造るような
建築が現れてくると、茶屋を得意とする数寄屋大工と寺社建築を行う 堂宮大工に分か
れていった。堂宮は周囲を圧倒するような役割が要る建築であるし、数寄屋は自己主張
しない穏やかな建築なので、向いている方向が正反対。そのため、比較的早く茶室のた
めに仕事をする特殊な大工が出てきた。
今からご紹介する南明庵は、大坂の豪商・鴻池家の位牌堂として造られたもので、1740
年頃の建築。当時の当主は茶事を嗜んでおり、仏事だけでなく茶事もできるようにと表
千家に依頼して牌堂と茶室 2 つを組み合わせた庵をつくりあげた。こちらは禅寺なので、
基本は中国式をベースにした外観で、段を起こして床を敷き、板張りの縁を配置してい
る。しかしよく見ると、花頭窓が左右非対称に配置されたり、庇や柱の自然材、土間に
赤楽焼を使用したりするなど、茶室の雰囲気も持たせている。室内に入ると、みな平等
という精神の茶事にも利用するという事で、床の素材が畳と板という差はあるものの、
床と天井の高さを同じにしている。そして、ここがすごい所で、空間の違いを示すため
に、上に丸太の長押を一本すっと通している。これがなかったら、本当に平凡な何の評
価もされない建築になったと思う。よく見ないと見過ごしてしまいそうな、象徴的な仕
方、茶屋や数寄屋の手法といっていいだろう。
南明庵の 図面の記録を見ると本堂は 大徳寺出入りの堂宮大工、茶屋は表千家に信頼
されていた数寄屋大工と、二人の大工の合作である事が判明している。本来の茶室は一
部屋あれば完結するものだが、時代が進むと、複数の部屋を移動しながら楽しみを重ね
るという事が流行ってきた。こういう記録がなければ一人の大工が手がけたと思うくら
い、非常に一体感がある素晴らしい建築に仕上がっている。近年の研究では、大きな寺
社を建築する堂宮大工が数寄屋をよく勉強していた事も分かっており、堂宮大工がこう
いった建築を行っていたというのも興味深い事である。ご清聴 ありがとうございまし
た。
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