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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ) Title Author(s) Citation Issue Date URL カラッチ デル・ブラーヴォ, カルロ / 甲斐, 教行 五浦論叢 : 茨城大学五浦美術文化研究所紀要(16): 183-216 2009-09-30 http://hdl.handle.net/10109/1080 Rights このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属 します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。 お問合せ先 茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係 http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html ︻翻 訳︼ カ ラ ッ チ 教行 訳・ 註 解 カルロ・デル・ブラーヴォ 甲斐 五 浦 論 叢 第 16 号 を反マニエリスム様式と定義づける公認の立場はたちまち色褪せてい 、一五〇〇年代か ルネサンス美術へのさまざまな仮説を提起した後 ら一六〇〇年代にかけての過渡期の美術に関心を向けるなら、それら イル・マニーフィコはすでにそうした体験の甘美さについて書き残し て孤独のうちに地上界を観想する態度を反映するもので、 ロレンツォ・ 観想の表現として理解されなければならない。それは精神の眼によっ 一五〇〇年代の倫理に内在していた観想的人文主義と活動的人文主義 それはミケランジェロの選択肢とは部分的に異なるものだった。︹ラ ︹ペルジーノの︺選択肢は、前述した伝統精神と、師匠の美点へ この の精神的、プラトン的愛ゆえに、ラファエッロによって継承されたが、 うに、物語表現の説得的な語り口を超越した、中断されることのない く。 そ し て マ ニ エ リ ス ム を 反 古 典 的 様 式 と 解 釈 し、 ラ フ ァ エ ッ ロ や ていた。もっとも彼は同時に、絶対者に向かう観想と比べたとき、自 ︶ ティツィアーノのような一五〇〇年代の画家に古典主義の概念を適用 分がより卑小で地上的な次元にあることを自覚していたのだが。 ︵ することも、歴史的一貫性を欠いた不確実なものに感じられてくる。 という二つの道が、古典主義や反古典主義などの後代につくられた抽 ファエッロとミケランジェロに︺共通するのは、現象界から一定の距離を 実 際、 わ れ わ れ は す で に 一 連 の 仮 説 に お い て、 一 四 〇 〇 年 代 と 象概念よりも、いっそう深い部分に目を向ける契機となるのではない ろ、あり余る愛から迸り出た霊的種子に過ぎない。観想的文学と同様 る。このため具体的制作物はただその論理的帰結か、せいぜいのとこ このうち第一の道 ︹観想的人文主義︺は、美術に適用された場合、実 務的な現象界から距離を置いた内的観想による上昇をその本質とす は そ の 霊 的 上 昇 は 地 上 的 性 格 が い っ そ う 希 薄 で、 ﹁優美﹂││人知を も、さして重要ではなくなってしまう。ただミケランジェロにあって 的交流も、視覚的な喜びで観者を惹きつける主題や造形言語の多様性 完全な観想段階の痕跡としての意味しかもたなくなり、他者との直接 置く最良の慣習的造形言語の使用とその昇華、そして作品を内的上昇 に観想的美術は、文献学的、言語学的認識という人文主義の価値観が 超えた、ただ天与の才によってのみ直観しうる美││の追求ゆえにま かと考えた。 前提として生き続けるかぎりにおいて、現象界から一定の距離を置い すます神秘性を高めていた。 ﹁優美﹂は、自然物よりも多様性の魅力 グラーツィア グラーツィア の結果としてとらえる価値観であった。したがって習作素描はただ不 た自らの言語、つまり最良の慣習的言語を追い求め、最終的には昇華 ︹観 一四〇〇年代から一五〇〇年代にかけての過渡期には、これら 用された 。ともあれ、このような観想的方向性にとって、重要なのは に、超越的形態の最初の反映物である裸体の表現にきわめて頻繁に適 の少ない素描や絵画といった限定的な手段を通じて、主題とは無関係 想的人文主義︺の原理に二つの傾向が存在したように思われる。つまり 内面の純粋性であった。外部にあらわれた表現は結果にすぎず、相対 による完全な解放をめざしてきた。 地上的価値に距離を置くその度合いが、一方は少なく他方は多い、そ 的なものでしかなかった。したがって表面上の成果を特に重視し、作 ︶ のような二つの傾向である。思うに、ペルジーノはその最初の部類に 業によって磨きあげ、素性の異なる他の表現要素と組みあわせること ︵ 属する。彼は ︹画中の諸要素の︺大きさに統一感を与えたが、それは思 2 185 1 カラッチ に見えないだろうか。そんなつもりはまったくない。私はただ、いわ る。だがこれでは私がいわゆるマニエリストの価値を貶めているよう 脱した地上的な方向性であって、本質の誤解に根ざすものと理解され る精緻きわまる画面構成は、思うに、ミケランジェロから部分的に逸 にしかならない。その意味で、後続世代のいわゆるマニエリストによ によって、多様性の魅力を追求しても、結局はその本質を歪めること 選択肢とみなすことができよう。 ニエリスト﹂によるイタリア風の要素の導入と同等に、人文主義的な ンズィーノによるあのドイツ風の要素の導入も、デューラーや北方﹁マ 択肢に含めるなら、たとえばロマニーノ、ポントルモ、ロット、ブロ めて、造形言語の多様性等に代表される世俗的活動を人文主義的な選 マニエリストの世代にいたるまで存続していた。このように視点を改 どっぷり浸かっているため、目新しく新味のある表現を絶えず必要と 史的傾向を体現していることを示したかっただけだ。彼らは現象界に 態度、他者への伝達などをめざす根本的な感覚ゆえに、完全に世俗的 むしろその現象界への密着、歴史的個別性、地上的自由、作業重視の だがこのあたりで今回提示する新たな議論へと話題を転換しよう。 そのためには、いわゆるマニエリスムも理念上﹁孤独﹂とは程遠く、 ゆるマニエリストが、他ならぬ活動的人文主義の美術のある特定の歴 した。美術における活動的人文主義とは、多様な大きさや、折衷主義 ︶ かつ社交的な性質を備えていたと強調しておこう。これが﹁マニエリ ︵ の多様な造形言語によって、想像力の多様性を誇示する自由だとも言 りわけ着想においても諸要素の組合せにおいても、慣習という自らの 時間の感覚は、多様性に暗黙のうちに含まれる動的特質によって、と らした。そのうえ、活動的人文主義は美術に時間の感覚をもちこんだ。 ﹁さりげなさ﹂を誇示することで、広範な理解と俗世間的成功をもた 具体的制作物に転換するこのアリストテレス的作業は、熟達、権威、 える。思索による解明、研究、実践、構成力を用いて内的イメージを 的にも外面的な儀礼を付け加え、安定した地上的体系の中の規範的モ 正反対のものを表現させるにいたった、と。それは本来の意図に偽善 び観想的人文主義表現の双方を歪曲し、あげくのはてに本来の意図と れわれはこう信じてもよかろう。つまり対抗宗教改革は、活動的およ たそれよりはるかに観想的な存在がミケランジェロである。そこでわ 大きさの統一は世俗的価値に距離を置く観想的資質の反映であり、ま スム﹂の意味だとすれば、﹁署名の間﹂までのラファエッロの作中の 反対物への転化を避けようとする多様性の周期的な更新によってもた この思想に従うなら、活動的人文主義の基本的傾向は、個々の地域、 時代、人物が互いにその表現の相違点を強調するようになるちょうど 示しており、それは同時代のアリストテレスおよびホラティウスの詩 人々が言葉をその精神から切り離し、また言葉自体を歪曲したことを デルとして提示したのである。一五〇〇年代後半の芸術家が、ポント その時期、つまり一四〇〇年代半ばから八〇年代にかけて、さらにレ 学の称揚および歪曲と表裏一体の関係をなしている。実際︵リーが極 らされる。 オナルドからジョルジョーネ、ロット、セバスティアーノ・デル・ピ めて明晰に論じたように ︶、自然模倣を事物の理想的再現とみなすア ︵ ︶ ルモ、ラファエッロ、ミケランジェロの表現を﹁規範﹂としたことは、 オンボ、一五一〇年代のラファエッロ、ロマニーノ、そしていわゆる 4 186 3 五 浦 論 叢 第 16 号 めた一五〇〇年代半ばに世俗化され、﹁理想的再現﹂の概念も対抗宗 リストテレス理論は、対抗宗教改革の倫理が絶対的支配力を発揮し始 たという相違があるにすぎない。 忠誠を示す点で共通しており、ただそれが後続世代の立場からなされ ニエリストの外的表現とは異なるとはいえ、変化という共通原則への ミ メ ー シ ス 教改革が理想とする倫理的表現と合致させられるようになったことが 知られている。このように自然模倣の目的を内的なものから外的なも 要約すると、一五〇〇年代末から一六〇〇年代にかけての過渡期を 代表する芸術家の様式を﹁反マニエリスム様式﹂と定義づけるのは、 ミ メ ー シ ス の へ と 力 ず く で 変 更 す る こ と に よ っ て、 自 然 模 倣 は ホ ラ テ ィ ウ ス の 私には一面的なものに見える。観想的であれ活動的であれ、もしこれ デーレクタンド・モネーレ ﹃詩法﹄の言う娯楽的教化と一致するようになった。人々はまたして らの後期人文主義者が何かに対して反発しているとすれば、それは思 レッテラ アルス・ポエティカ も字面を追うことで、ホラティウスのメッセージがもつ精神を力ずく うに対抗宗教改革システム全体への反発以外の何物でもないだろう。 *** で改竄した。ホラティウスは自らの詩文全体の文脈から、繊細であり ながらいささかも教条性や啓蒙臭をもたない、賢明な忠告を授けてく デコールム デコールム れている。だが今やホラティウスの適正論も、対抗宗教改革の倫理体 系にふさわしい意味に変容する。適正論とは本来、穏当で個々の性格 主だったと思われる。多くの要素が、彼が外向的な人物だとわれわれ たり縮小されたり、首尾一貫しない大きさで描かれることによって、 一 6 187 に適した表現を指すものにすぎなかったのだが。 対抗宗教改革特有の、語義を曲解する傾向は、必然的に、観想者が 自らの方向性に固有の地上的表現を見いだすことを困難にした。なぜ に信じさせる。マルヴァジーアの言葉を借りるなら、彼は着想が非常 最近私が関心をもった一五〇〇年代末から一六〇〇年代初頭にかけ ての芸術家のうち、ルドヴィーコ・カラッチは外向的な芸術観の持ち ならあらゆる外的表現は、それが敵方の領域に具体物として存在する に豊かで、﹁同じ題材を︵中略︶続け様に二十通りも異なる方法で表 レッテラ 以上、つねにその罠に陥って縛りつけられる危険を担うからである。 現することができた ﹂。この意味で彼の性格はティントレットに近かっ ︶ ︹かくして対抗宗教改革は︺ 、 観 想 者 が ま す ま す 他 者 に は 伝 達 し が た い、 たと言える。また彼のいくつかの作品では││ ︽洗礼者ヨハネの説教︾ ︵ 直観でしか把握できない﹁霊的世界﹂へと逃避するようにしむけるこ らの周囲の環境にとって目新しい表現を用いることで、まさに活動的 その想像力の非連続性を示している。またやはりマルヴァジーアに称 ︵ 図 1︶ を と り あ げ る だ け で 十 分 だ が │ │ 作 品 の 構 成 要 素 は 拡 大 さ れ 人文主義の一五〇〇年代最後の周期的更新を体現していたのではない 讃 さ れ た そ の ︹人物の︺多 様 な 表 情 と、 多 様 な 様 式 構 成 は、 多 様 性 を ︶ かと考えている。一四〇〇年代半ば以降、原則として一世代に一度こ 喜ばしいものとみなす修辞学の伝統にしたがって、興味深い表現をた ︶ ︵ の潮流が体験してきたあの更新と、彼らはまったく同じ方向性を保っ えず追求し続ける傾向があると思われる。最後にそのこれ見よがしの ︵ ていた。したがって、ルドヴィーコとチーゴリの表現は、いわゆるマ とになる。その一方私は、ルドヴィーコ・カラッチとチーゴリが、彼 5 カラッチ ︶ らかさ ﹂であり、裸体などの肉体の彼方に超越的価値を垣間見るとき ︵ 多作ぶりも、彼の中でますます増大していったティントレット的性格、 の判断停止に他ならない││を喪失するからである。地上的人文主義 ︶ 修辞学との類比を用いるなら、ルドヴィーコは、対抗宗教改革による の諸価値は、自らの名声の顕彰を約束する文人に対する関心、肩書き ︶ への、高い報酬への、貴人風の身なりへの、そしてルドヴィーコのあ ︶ ︵ ︵ ︶ アリストテレスとホラティウスの詩学の専制的、教条的解釈に対抗し の愛情深く説得的な教育活動への関心にも見てとれ る。それは彼の愛 ︶ ︶ ︵ 四 バルディヌッチの伝えるところでは、チーゴリは対抗宗教改革期の ︵ ︶ 画家サンティ・ディ・ティートの構図法に関心を抱いたという 。チー 見える。 て、説得的で、大胆で、人目を惹きつけ、恐怖や感動を与える芸術を ︵ ︵ とって馴染み深いもので、他ならぬアルベルティも画家に﹃雄弁家﹄ 一五七六年 人文主義者、哲学者︺は、修辞学を弁証法と対置することに よって、その普遍的性格を無言のうちに称揚し、キケロとエラスムス 以来の修辞学の伝統をルドヴィーコの時代の直前の対抗宗教改革期ま ︵ ︶ で延命させた。 14 さ て こ れ ら す べ て が 活 動 的 人 文 主 義 の 特 徴 だ と す れ ば、 マ ル ヴ ァ ジーアのわずかな回想に暗示されているように、アリストテレス倫理 動的人文主義の伝統に属し、しかも彼の雄弁がおそらくルドヴィーコ 証であろう。われわれの以下の主張は、チーゴリが雄弁を旨とする活 ゴリが対抗宗教改革と自らの立場とを区別して考えていたひとつの例 学とホラティウス詩学本来の意味の温存も、やはり人文主義の思想と がアリストテレスの推奨する明解な表現をめざすことで、対抗宗教改 ︶ を対抗宗教改革的な意味にではなく、ホラティウスの言う適切さの意 ︵ 性的な表現を与えられる者はいなかった﹂という。 ︶ ︵ ︶ 芸術から注意を逸らしてはならないと教え る。したがって、肉体の美 ︵ りあって、制作に必要な着想が生まれなくなることを避けるために、 他者との雄弁な交流や混合物の中にとりこまれることで、純粋性や観 もそれ自体が愛の対象ではなく、﹁芸術を完璧なものにするのに役立 五 想などの本質的性格││それはまさに﹁コレッジョの天使のような清 16 活動的人文主義は、たとえプラトニズムの要素をその構成に組みい れても、その性格に変わりがない。なぜならプラトニズムの要素は、 内的イメージから制作作業への自覚的移行は、純然たるアリストテ レス的特質である。︹この気質の芸術家は︺ 、想像力が別種の心象と混ざ 革の規範性を乗りこえたという示唆を与えるであろう。 デコールム のそれよりも︵古代の修辞学の定義にしたがうなら︶ ﹁アッティカ的﹂ ︶ みなされよう。その回想によれば、ルドヴィーコは教育によって二人 ︶ ︵ 11 ︵ とみなしうるものであったことを納得させるであろう。またチーゴリ *** 情深く荘重で非連続的な造形上の雄弁さと密接に対応しているように ︵ ﹁自信と熟練﹂ 、 ﹁さりげなさ﹂の帰結だと言えよう。ふたたび古代の 13 生みだしたと言える。この種の修辞学は一四〇〇年代以来人文主義に 7 を 読 む よ う 勧 め て い た。 と り わ け マ リ オ・ ニ ツ ォ リ オ ︹ 一 四 九 八 │ 二 味にとるという前提で言えば︶ ﹁表された動作に、彼ほど適切かつ個 三 12 188 15 8 9 の 従 弟 の 異 な る 性 格 を 和 ら げ よ う と 望 ん で い た。 そ し て︵﹁ 適 正 論 ﹂ 10 五 浦 論 叢 第 16 号 ︵ ︶ つように、もっとも美しい要素を抽出する﹂ための手段となる。内面 この言葉は、彼の造形表現を文学表現と比較しようとするわれわれを 勇気づける。チーゴリの造形表現は、ルドヴィーコ・カラッチと同様 ︵ ︶ ︵ ︶ ︵十一︶ ︶ ︵ ︵十二︶ ︶ ︵ た。このように動的で多様性に富んだ、つまり魅力的で観者を引きこ られるべきだという考えにチーゴリを導いた。実際あるとき彼は、僅 ︶ ロの芸術が︵つまり彼のもまた︶完全なプラトン的性格から離れた一 時期のものである。実際、観想的人間にとって、研究を通しての絶対 者 の ヴ ィ ジ ョ ン の 増 大 よ り も 有 意 義 な 青 春 は あ り え な い。 と こ ろ が ︶ かたちにすべきであると、 つまり報酬を得るべきであると考えていた。 *** ウト・ピクトゥーラ・ポエーシス アンニーバレのボローニャ時代の作品には、観想による判断停止が かりか ︹個々の要素の︺区別をももたらした。 部分に分割した。最後に、ヴェネト風の強い色調の対比は、多様性ば 輪郭線との融合は、そこから動感は救いだしたものの、それを多くの ために﹂。フィレンツェ派の堅実な線描と、コレッジョのしなやかな している人物が示すような、椅子の背のごとき連続的秩序から逃れる 書きこんでいる。﹁数多くの人物群に区別を与えること。ここで直立 27 表現の次元において思いだされるのは、チーゴリがホラティウスの ︵十︶ ︵ ︶ ﹁詩は絵の如く﹂を踏まえつつ、 ﹁詩を物語る絵と呼ん だ﹂ことである。 チーゴリは研究の労苦を地上的次元でとらえ、結果をはっきりとした ︵ し分離する手法でもあった。今日ウフィツィ美術館にある、キリスト ︶ 苦労を惜しむな、若者たちよ、そしてこの道の大家となれ。諸君の若 ︶ ︵ の冥府下りを表した素描︵図6︶の下方に、チーゴリ自身次の註釈を ︵ その報いは諸君の心身の汗に対して用意されたものだ﹂。ヴァザーリ ︵ によればトリーボロもまた、一五二五年以降に制作した︽天使︾像の 九 さと命を削って、他人より秀でた者となれ、そこにこそ報いがある、 む語り口は、構図、輪郭、色調において、個々の対象を必然的に区別 18 少な報酬を悲しみ嘆きながら、弟子たちにこう語ったという。﹁学べ、 ︵十三︶ ︽ ア ブ ラ ハ ム と イ サ ク ︾︵ 図 5︶ の 動 感 に こ の 巨 匠 の 卓 越 性 の 証 を 見 も 動 感 に 満 ち た も の と 映 っ て い た。 ア ッ リ ゴ ー ニ 枢 機 卿 は ま さ し く 繁にあらわれる。ルドヴィーコの造形上の語り口は、同時代人の目に たはその行動の相違点を明確にすることによって、多様性の魅力も頻 4︶、 ま 刻な主題の中にも楽しい着想を挿入 し、人物類型や感情︵図 ︵ てほしい││大きさの不統一が内面の不統一をあばきだしている。深 ステパノの殉教︾︵図2︶や︽聖ペテロの召命︾︵図3︶を思いうかべ 的な昇華ではなく完璧な美術作品の制作を目指すチーゴリは、﹁ほと ︶ ︶ に、 雄弁を意図した説得的な表現である。チーゴリにおいても││ ︽聖 ︶ ︵ んどまったく他人と交わらず﹂ 、 ﹁果てもなくかぎりもなく﹂素描し、 ︵ 絵画から自分の注意を逸らすリュートの弦を引きぬいてしまったとい ︶ ︵ らえる態度にもあてはまる。制作作業への没頭を地上的な意味にとら 公フェルディナンド ︹一世︺であったにせよ││からの自由としてと ︵ もはや地上の絆からの昇華ではなく、パトロン││よしんばそれが大 活動的人文主義の文脈上のものである。同様のことは、自由の概念を う 。また彼は﹁驚異的な作業能力をもってい﹂た が、その能力もまた 19 えるこうした態度は、自分の仕事が報酬というたしかなかたちで報い 25 七 21 23 ︶ 189 八 報酬に不満を洩らしたという。だが註釈すると、この逸話はトリーボ 22 26 17 20 24 六 カラッチ らである。それは人間の表現意欲や、工房での日常生活のさまざまな イメージに垣間見られる超越的要素によって、優しく忘れさられるか て法悦境において乗りこえられ、自然界や芸術作品の中のさまざまな といった外的区分は意味を失う。なぜならそうした人間の意図はやが 律的素描︵図7︶ 、ゆっくり仕上げられた絵と素早く仕上げられた絵、 随所に認められると思う。︹このとき︺歴史画と風俗画、準備素描と自 になった事実は、同時代のプラトン主義の潮流に生じた変化を指しし レの理想が実現せずに、彼自身遠からず﹁手法の混 淆﹂を試みるよう どの現象界の要素をまったくもたない様式のことである。アンニーバ 素と混淆すまいと決意していた。純粋性とは、博識ぶりや折衷主義な 導き手として定義づけ、その純粋性を称えるとともに、それを他の要 コレッジョを﹁天使﹂として、すなわち絶対者への架け橋、否むしろ はアンニーバレの他のあらゆる表現とこのうえなく適合する︶、彼は ︵十五︶ ︶ 局面、あるいは芸術家自身が創造しつつあるイメージをまえにしたと めすものに他なるまい。その変化とはすなわち、対抗宗教改革に組み ︵ き、不意に訪れる恍惚の瞬間に他ならない。 ゴスティーノに比べ、 ﹁自然の原理にあまりにも傾倒しており﹂、︵少 ンニーバレは、彼より教養豊かで経験を積んだルドヴィーコおよびア マルヴァジーアの次の表現はこの意味に理解すべきである。つまりア このように自然形態の中に垣間見られる霊性を観想するにあたっ て、その自然は絶対的価値への架け橋としてのみ関心を惹く。思うに、 │九七年 スペインの詩人・学者︺に見るように、絶対者へと向かう霊的 │一五九七年 哲学者・文学者︺と ︹フェルナンド・デ︺ヘッレーラ ︹一五三四 うに変質したプラトン主義は、 ︹フランチェスコ・︺パトリーツィ︹一五二九 義と言語純粋主義さえもこの避けるべき対象の中に含まれる。このよ イル・マニーフィコ︺やベンボのようなルネサンス期の著作家の伝統主 こまれる危険をもつ特定の表現を避ける傾向であり、ロレンツォ ︹・ なくともその青年期には︶コレッジョとティツィアーノだけを敬愛し ︶ 傾向と、言語がもつ地上的性格とが両立しがたいことにもはや気を止 ︵ たという。二人の巨匠はこの文脈で﹁最初の高名な自然模倣者﹂と形 ︶ めない。 ︵ 容されている。この定義をわれわれは、美術史や様式史の常識にとら 自然形態の中に垣間見られる霊性に注がれた観想のまなざしは、﹁天 使的﹂巨匠のそれにせよ、自分自身の芸術行為の目標としてのそれに われることなく、絶対者の最初の反映を追求する芸術家という意味に 理解することができる。その一方で、カラヴァッジョの︽ユーディト︾ せよ、プラトン的には絶対者に寄せる愛であり、世俗の尺度に照らせ ︶ ︵図8︶について意見を求められたアンニーバレは、﹁︹この女性は︺あ ︵ るが、それは忘却の対象でしかない︵﹁かかった時間はどうでもよい﹂ 現象界に密着しすぎているため、昇華への展望が閉ざされている、と ︵十六︶ ︶ とあるときアンニーバレは急いで仕上げられた絵について述べた。﹁肝 34 時間や世俗の仕事に追われることのない状況においてこそ、人は魅惑 ︵ いう意味でだが。実際、マルヴァジーアがアンニーバレの青年期の書 ︶ 十四 ︶ 心なのはそれがどんな風に描かれたかだけ だ﹂ 。 ま さ に そ れ ゆ え に、 ︵ 31 30 筆者と執筆年代を額面通り受けとることができないにせよ 、内容的に ︵ 簡とみなした二通のうちの一通において︵これらの書簡は、たとえ執 29 190 32 ば常軌を逸した狂気に他ならない。世俗の尺度とはたとえば時間であ 33 まりにも自然そのものだ﹂としか答えようがなかった。それはつまり、 28 五 浦 論 叢 第 16 号 ︵ ︶ 慮を、またそれゆえ、主題も様式も普遍的なものを選び 、かつその普 ︶ 的な心の庭園へと歩み入ることができた。法悦とは、恋慕する霊魂が ︵ 遍性にさえ特別な重きを置かないという最大限の配慮をおこなうこと ︶ プ ラ ト ン 風 の﹁ 英 雄 ﹂ と は ま さ に 愛 す る 者 の 謂 い に 他 な ら な い。 思想家︺は神が人間 ︹ジョルダーノ・︺ブルーノ ︹一五四八│一六〇〇年 ︵ ︶ に内在する身近な存在であると飽くことなく主張した 。また神の二次 ︶ ﹁崇高の中の休息 ﹂ 。この庭園での休息は、上昇の手段としての芸術行 的な反映としか語らうことのない身にも、絶対者をめざす性質が宿る ︵ クィエース・イン・スブリーミー 為の第一目標であり、個々人が全身で上昇を続けていくとき、作品は ことを認めた。これはタッソの次の認識と通じ合う。すなわち、﹁盲 ︶ ただ終結した一過程の痕跡として乗りこえられるべきものとなる。ま 目で好色な愛人たち﹂さえ﹁﹃神の光を享受することだけを望んでい ︵ た他者に対して作品がもつ意味とは、くりかえすが、せいぜい他の気 ︶ る﹄のであり、神の光は﹃われらが肉体というこのはかなくも滅びや ︵ 高き霊魂に種を播こうと望むありあまる愛と徳の発露││ ︹フラミニ すい塊の中でさえも光輝く﹄﹂ 。これは肉体の中では上位の価値をもつ ︶ オ・︺ノービリ ︹一五三三│九〇年 哲学講師・歴史家・ギリシャ文学者︺が ︵ はまさに精神の輝きを追求したアンニーバレの行為の普遍性に対応す ると思われる。またアンニーバレは、詩と美術を言語学と関連づけよ うとする人文主義の潮流とは異なり、 そうした努力には無関心だった。 なぜなら、彼は若い頃にはたまたまコレッジョの純粋な造形言語に学 の矛盾に気づくことなく、フランチェスコ・パトリーツィやフェルナ んだが、その後は絶対者へと向かう緊張と造形言語の折衷主義との間 われわれがアンニーバレのものと仮定した観想的人文主義は、思う に、一五〇〇年代末における古代およびルネサンスのプラトニズムへ ムの特質が普及していた可能性を否定するものではない。その特質と 霊感は文献学的、言語学的関心よりもはるかに重要な原動力であった。 じられている。﹁パトリーツィにとって、生き生きとしたプラトン的 ︶ 45 ︵ は、タッソが聖なる事象の哲学すなわち至高知を分かちもつと述べた 彼 は そ の 霊 感 に し た が っ て、 詩 の 真 の 起 源 は﹃ 熱 狂 ﹄ に あ る と 指 摘 ︶ この奥義の頂点を形作る法悦のヴィジョンであり 、またいかなる理性 した ﹂。また﹁言語はたえず歴史に合わせて落ち着きなく揺れうごく。 ︵ 的表現であれその﹁体系に組みこまれて﹂汚染をこうむることを危険 フェイディアスと彼以後のあらゆる形態の探求者に生命を与えたあの ︵十七︶ ︵ ︶ ンド・デ・ヘッラーラの類似した傾向││すでに述べたが、くりかえ 42 の関心の再燃と対比できる。アンニーバレが文学の教養を欠いていた れよう。 44 43 そう││に接近していったからである。両者はそれぞれ次のように論 *** ものほど明るく輝くと主張したフィチーノの思想と一致する。これら である。 俗界の労苦に暇を乞うて、美の傍らに身を横たえることであり、︹ ト 41 創造主、父、教師、後援者の愛に認めたように││としてのみ理解さ ︵ ル ク ァ ー ト・︺タ ッ ソ ︹ 一 五 四 四 │ 九 五 年 詩 人・ 文 学 者 ︺が 言 う よ う に、 35 とみなす自覚である。したがって、特定の地上的表現を採用しない配 39 40 191 36 というのは有名な話だが、そのことは当時の人生観の中にプラトニズ 38 37 カラッチ ﹃卓越した美のイデア﹄を表現するために、絶え間なく飽くことなき 究と黙想の楽園、真実と美に寄せる信仰のことと考えられる。そして 徴は、タッソの書簡集や﹃対話篇﹄にうかがわれる、霊性、瞑想、研 モノディ ︵ ︶ から一六〇〇年代初頭にかけてタッソ、ブルーノ、ヘッレーラ、エリ そこでわれわれはアンニーバレが、純粋な観想者としてであれ、│ │後に見るように││折衷的な観想者としてであれ、一五〇〇年代末 てはまるように見える。 備え、基本的には単旋律である ﹂というマッツァーリによる定義があ ︵十九︶ 時代の様式には、やはり﹁タッソの﹃対話篇﹄は叙事=抒情的調子を エリュシオン 探求の対象となってきた新しい ︹言語︺形態。それはそのつど最終形 ︶ この非物質的側面をさらに強調するなら、アンニーバレのボローニャ ︵ 態として受容されながらも、つねに更新されていく。詩的言語とは、 永遠の理想が歴史の中でさまざまに姿を変えていく現場に他ならな ︵十八︶ い﹂ 。それゆえ、︹外的︺表現、名声、︹様式的︺混淆といっ た移ろいや すい歴史の一側面はひとまず置き、 ﹁天使﹂たるべき巨匠たちが、わ ︶ れわれを至高の想像力の高みへと連れさってくれる可能性だけを指摘 ︵ しておこう。 ザベス朝詩人など、多くのヨーロッパの詩と文化に影響を及ぼしたプ ラトニズムを体現する、画家として最大の存在であったと提起してお ︶ ︵二十︶ ︶ ︵二十一︶ ︶ 実際アゴスティーノは、その模範的な情報伝達プログラムによって、 スティーノの体系性とは敵対する存在と自認していたことがわかる。 バレが自分をルドヴィーコの活動的人文主義とは異質の、そしてアゴ それを学者ぶった態度と決めつけ た。これらの証言からは、アンニー ︵ てい る。その一方彼はアゴスティーノの論理的な芸術観に堪えかねて、 ︵ ニーノより好ましいと断言することで、ルドヴィーコとの相違を示し の純粋性と他の要素との混淆を望まず、またコレッジョをパルミジャ 一五八〇年の書簡︵それはたとえ偽筆にせよ、アンニーバレにふさ わしい思想を含む︶において、アンニーバレ・カラッチはコレッジョ *** 代の若き日々に、エミーリア地方とパドヴァの文化圏で、古代および ︹思想と形態の︺類比というこの仮説を補強するために、次のことを つ け く わ え て お こ う。 そ れ は ア ン ニ ー バ レ が 過 ご し た エ ミ ー リ ア 時 50 こう。 46 ルネサンスのプラトニズムがふたたび関心を集めていた事実である。 一五七五年から九五年にかけての二十年間のタッソ、一五七七年から 九一年にかけてフェッラーラ大学で講じていたフランチェスコ・パト リーツィ、そして一五八三年に自著﹃徳についての普遍的哲学﹄にお ︶ いて﹁形而上学で物理学を解決した﹂フランチェスコ・ピッコローミ ︵ ニ ︹一五二〇│一六〇四年 ︺がそうした面々であった。 思想 家 ︵ そのうえ、エットレ・マッツァーリがアンニーバレのエミーリア時 代の活動と同時期のタッソの作品中に指摘する、高貴さ、生命力、熱 狂、大胆、決然、みずみずしさといった性質は 、多くの註釈者がアン ニーバレの若い頃の絵画に用いる形容を想起させる。ただ彼らは結局 のところこの画家の﹁自然らしさ﹂を提唱するのだが、今回のわれわ れの解釈に賛同する者にとって、彼らの言う﹁自然らしさ﹂とは唯物 52 49 論的にとらえられたものとしか映らない。マッツァーリの挙げる諸特 51 48 192 47 五 浦 論 叢 第 16 号 自分が美術の外に目的をもっていることを示していた。それゆえ美術 の彼が何の感動も受けていないのではないかと疑う者のまえで、︽ラ ︵二十六︶ ︶ オコーン︾を何も見ずに素描するや、﹁われわれ画家は手で語るべきだ﹂ ︶ ︶ ︵二十七︶ がその時点まで内心もっとも苦慮していたのは、むしろ同じカラッチ ︵ ︶ ぎすまし、彼のわずかなモットーがもつ叡知でひとびとを感嘆させた まつわる絶え間ない内的葛藤、それらがアンニーバレを沈黙の内に研 その動機が重要だからだ。困難な人間関係、表にあらわれない区別に 観想界では世俗界とは逆に、理性よりも信仰が、具体的な表現よりも 自らの動機を、無言のうちに区別することにあったようだ。なぜなら ノとは︺異なる次元││すなわち観想的次元││で思考していたかを ︶ い。ここで、アンニーバレがそのように考えていたという実例を挙げ が、そのようなことは他者との交流を本分とする思想では認められな 等と考えていたため、美術はそれ自体で自足した世界だと考えていた ない﹂という観想的思想を分かちもっていた。彼はまた美術と詩を同 ︵ 区別を与えており、この点でタッソの言うあの﹁美は言葉で記述でき ニーバレは、霊感に基づく美術と推論から導かれる美術とに根本的な 他者との交流とも歴史的制約とも無縁の存在だからである。実際アン 一族の画家たちの似たような表現の﹁活動的﹂ないし体系的な動機と、 彼をガレリーア・ファルネーゼの足場から追放したのである。だが彼 とはいえアンニーバレは最終的にはアゴスティーノというもっとも ︵ ︶ 危険な人物への反抗に成功した。注意を散漫にさせるという理由で、 立や群衆を回避せよという助言と結びつけることができる。 リオ第二﹄で披瀝した観想に際しての孤独のすすめ 、つまり意見の対 ︵ とのみ親交を保つ ﹂ようになってしまったことも、タッソが﹃マルピ ︵ ざす理屈と学識から遁れようとして、最後には﹁自分の流派の追随者 ︵ それ自体に完全に没頭するのではなく、美術の教育上の目的を支える ︶ と述べた。したがって、彼がアゴスティーノや他の訳知り顔が振りか ︵ さまざまな訓練にもとりくんでいた。アンニーバレは、おそらくは活 ︵二十二︶ ︶ 60 動的人文主義に組みする者に対してもそのことを実証することができ ︵ 61 た。しかしアゴスティーノは、暗黙に、そしてあからさまに、攻撃を 続けた。暗黙に、という意味は、対話の万能性を、すなわち地上的理 性の領域の普遍性を認めていたアゴスティーノは、それだけでも十分 ︵二十三︶ ︶ に全体主義的だったからである。またあからさまに、という意味は、 ︵ 彼が弟を攻撃し、怒らせたからである。アンニーバレはときには沈黙 ︵二十四︶ 59 明かしている。というのは観想的世界では、芸術は人知を超越した、 し、ときには混乱した返答をしたが、それは彼がいかに ︹アゴスティー 62 53 55 のだった 。 芸術家としての彼の人生の根源の部分││天から賜った画業と、そ の研鑽││にしたがって、アンニーバレは自らの芸術上の動機を従兄 ︵二十八︶ ︶ たちのそれと区別しなければならなかった。バルディのアカデミアで 64 ︵二十九︶ ︶ 命を縮めたほどだっ た。ルドヴィーコは﹁絶え間ない労苦で生来の鈍 ︵ 術のためなら研究、労苦、不自由のすべてに立ちむかい、最後には寿 ︵ の優美さと純粋性を、アゴスティーノの理屈や学識ぶった態度と対比 ︵二十五︶ ︶ はカラッチは三人とも﹁このうえなく勤勉で熱心だっ た﹂ 。そして美 ︵ してい る。またあるとき彼は ︹ルドヴィーコ・︺アリオスト ︹一四七四│ ︶ 一五三三年 詩人︺とタッソとどちらが君にとって偉大な詩人かと問わ ︵ 58 193 54 よう。たとえば一五八〇年の書簡のひとつで、彼はコレッジョの美術 63 56 れて、 ﹁ラファエッロ﹂と答えている 。またあるときは、無言のまま 65 57 カラッチ ︶ ロ・︺フィレンツォーラ ︹一四九三│一五四三年 著述家︺が述べたように、 ︵ さ を 補 う ﹂ こ と を 望 ん で、 ﹁余人の及ばぬほど﹂研究をおこなった 。 ︵三十二︶ ︶ そうした価値の崇拝に没頭する者は、自らをその犠牲や生け贄にする ︵ アゴスティーノは勤勉な学究肌で、 ﹁自分に自信をもち、困難を乗り ことをも辞さない。 ︶ したがって、素早い仕上げにせよ、完成度の高い仕上げにせよ、そ れぞれが各人異なる動機を宿していたことになる。最初に挙げた素早 しかしルドヴィーコとアゴスティーノの熱意が現世の枠組みに完全に 収まるものであるのに対し、アンニーバレのそれはまったく異なって ︵三十︶ ︶ い仕上げとしては、ルドヴィーコがティントレットの手法にもっとも ︵ ︶ いた。実際、マルヴァジーアがアカデミアの魅力のひとつに数えあげ レ ス コ 画︵ 図 9︶ が 挙 げ ら れ よ う が、 こ れ は ︹ ル ド ヴ ィ ー コ の 場 合 は ︺ るべく親しく身を委ねる態度と理解する必要がある。さもなくば、ア 熟 達 し た 技 術 を 誇 示 す る 機 会 と し て、 ま た ︹アンニーバレの場合は︺他 ︵三十一︶ ︶ ンニーバレが労苦を嫌い面倒な仕事を避ける傾向があったと主張した ︵ 成度の高い仕上げも、︹ルドヴィーコの場合は︺勤勉と完全無欠への欲求 ヴ ェ ー ル を 超 え て 芸 術 家 / 観 者 に そ の 存 在 を 最 大 限 に 啓 示 す る ま で、 さていよいよ、飲食や会話を中断してでも﹁あらゆる作業、あらゆ る動き、あらゆる動作、あらゆる身振り﹂を素描したという三人の従 昇華/制作過程を引きのばそうとする欲求として理解できる。さてこ ︶ その作品に満足することがなかった﹂という逸話が意味をもつ。つま ︵ と し て、 ま た ︹アンニーバレの場合は︺美 の 聖 な る 光 が 地 上 の 不 透 明 な 兄弟たちの逸話である。彼らはときには﹁食事をしながら、同時に素 こで若き日のアンニーバレが絵を﹁精魂込めて仕上げた後も、決して らの研鑽中には﹁冗談や小話、悪ふざけ、勝負事がふんだんにあり、 りそれらの絵は︵ちょうどヴァザーリが観想的芸術家であるトリーボ 71 75 絶えず快活な雰囲気に満ちていたため、芸術上の困難はそれによって ロの作品について述べたように ︶時間を省みずに仕上げられたもので ︶ 和らげられ、感じられなかったり、何の苦にもならなかったりした ﹂。 あった。したがってそれは、中庸を良しとするアリストテレス的倫理 ︵ このような情熱的で快活な活動は、︹各人の︺気質に応じて異なる動機 に敵対 し、かつ卓越した感覚を備えた色彩画家であったクリストーファ 76 ︵ ︶ を宿していたことだろう。それは作業が性に合うという動機であった ノ・アッローリにとっても重要な手本となった。そのクリストーファ ︵三十三︶ ︶ り、技術を習得し、イメージを蓄えようとする野心であったろうし、 ノの絵に関して、 幸福な視覚世界への上昇のための時間の忘却でなく、 77 ︵ そうした蓄えは将来、心の中のイメージを具体的な生産物に移す作業 ︵三十四︶ ︶ 作業がもたらす労苦のみをあげつらうことができたのは、アリストテ ︵ 過程の能率を高めたことだろう。だがアンニーバレの動機は、現世に レス的な作業称揚を優先する無理解なバルディヌッチだけであ る。 ︵ ︶ 描をした。片手にパンを、他の手に鉛筆か木炭をもって﹂。そして彼 う。 者との交流という約束事の忘却として理解できる。また次に挙げた完 ︵ 近づいたときの絵とか、アンニーバレのパラッツォ・ファーヴァのフ 72 た、あのアンニーバレの芸術への愛は、観想の密かな掟につねに応じ ︵ こえるために、このうえなく厄介で難しい課題を追いもとめて﹂いた。 66 67 あの伝記作者の陥った矛盾をわれわれもまたくりかえすことになろ 73 68 ありながら、絶対的価値の輝きに法悦を感ずることにあった。 ︹アーニョ 74 70 194 69 五 浦 論 叢 第 16 号 レ の 双 方 に 共 通 す る 快 活 さ、 同 時 代 史 料 が 二 人 の 青 年 期 に つ い て 証 こうした ︹プラトニズム的︺芸術観の中に、表面上の現象の背後に存 する深い動機を求めるなら、われわれはアゴスティーノとアンニーバ では、三人とも若かりし頃、夕刻に裸体アカデミーから帰ると、﹁記 三人のカラッチ全員が関心を抱いていた視覚的記憶力の修練も、お そらくは異なる動機に基づいていた。マルヴァジーアが述べるところ ︵三十五︶ ︶ 憶力を鍛える﹂ため、夕食前に同じ人物像を記憶だけで素描したとい ︵ 言したあの快活なふるまいをも区別して考えることにしよう。気晴ら ︶︵三十六︶ う。マルヴァジーアはつけくわえているが、これらの素描はモデルを ︵ しの楽しみ事や息抜き、それはときには自律的素描︵図7︶、風景 ︹素 ︵四十︶ ︶ まえになされた素描よりも﹁目を惹きつけ、恐るべき出来映え﹂だっ いっそう真剣にとりくむべき課題に立ちむかう新たな気力と、人間ら ヴィーコかアゴスティーノにこそふさわしい伝達力のある表現を念頭 た と い う。 こ の 人 目 を 惹 く 形 態 表 現 と は、 マ ル ヴ ァ ジ ー ア が、 ル ド しい誠実な気持ちとの源泉でもあった。そうした気晴らしは、 思うに、 に置いていたことを示している。たしかに伝達力のある表現を目的と ︵ 描︺ 、 カ リ カ チ ュ ア な ど の 芸 術 的 形 態 を と る こ と も あ っ た が、 そ れ は ﹁熱狂﹂の記憶とそれを待望する幸福感によって動機づけられる場合 する者は、同時に蓄積型の教養、イメージのレパートリーの増大、そ 発達によって大きく増進する資質なのだ。だが思うに、同じことはア と、 それとは異なり、その﹁熱狂﹂の過渡的な低い段階││それはジョ して慣習的作業法を求める傾向にある。つまりそれは視覚的記憶力の ︶ 求愛者が侍女と長話をするようなもの││を体現する幸福感によって ︵三十七︶ ︶ ンニーバレには当てはまらない。アグッキの回想によれば、アンニー ︵ ︶ 動機づけられる場合とがある。そしてこうした楽しみ事が、フィレン のまえに置いているかのよう﹂であったという。またマルヴァジーア チョ・デル・ビアンコの﹁このうえなく滑稽な着想﹂、象徴的な判じ物、 に 観 察 し た も の は 暗 記 す る 必 要 が な い と、 あ る 友 人 に 断 言 し た ほ ど ︶ 両者をそれぞれの文脈において、アンニーバレに近づけることができ だった ﹂。おそらくこのような視覚的記憶力の発達は、人生の間に遭 ︶ るだろう。クリストーファノとアンニーバレとの近似性についてはす 遇できるすべての美を、時間や状況の如何に関わらず所有したいと願 ︵ でに述べた。バッチョについて思いだされるのは、彼が簡単な方法と ︶ う気持ちがもたらしたのだろう。ノービリが述べるように、﹁熟視し、 88 87 ︵四十一︶ ︶ 解できない者だけだっ た。またマルヴァジーアは、少なくともボロー ︵ アンニーバレはときには﹁まったく単純で愚鈍﹂とみなされること もあった。だがそう考えたのは、彼のこのうえなく大きな善良さを理 ︵ ﹁ごくわずかな工夫﹂で﹁素敵なもの﹂、つまり装飾山車を作りだした ︵三十八︶ ︶ 観想する以外、︵中略︶所有する術がない ﹂あの美のすべてを。 ︵三十九︶ ︶ して制作中の彼のあの名高い集中ぶり は、あくまでも天与の才の呼び ︵ 讃したことである︵ ﹁私の女中だって︵中略︶できただろう よ﹂︶。そ 83 声に従うためのもので、作業計画を立てるためのものでは決してない。 89 ︵ 手腕をガリレオ ︹・ガリレイ 一五六四│一六四二年 科学者・思想家︺が称 ︵ によれば、彼は﹁強靱な︵中略︶記憶力をもっていたため、一度熱心 86 82 81 カリカチュア、侏儒の素描、玩具、風景画に求められるとするなら、 ︵ バレは︽ラオコーン︾を何も見ずに素描したが、﹁あたかも現物を目 エロイチ・フローリ︵ ルダーノ・ブルーノの﹃勇ましき狂気﹄に見るように、ペネロペーの 85 79 ツェでは、クリストーファノ・アッローリ工房の快活な賑わいや、バッ 80 84 195 78 カラッチ ︵四十二︶ ︶ アンニーバレの観想的な若き日々とは鋭く対立するものであったが、 ︵ ニャ時代には彼の外見はぼんやりした感じだったと記憶していた。だ ファルネーゼ天井画︵図 ︵ ︶ ︶の時代のローマにあっては、彼の心を深 から人によっては彼をその真価ほどには評価しなかった。アンニーバ ︶ くとらえていた。﹁天上の愛と世俗の愛の争いと平和﹂というプラト ︵ レは地上の諸条件から自らを解きはなとうと望んでいたため、質素な ン的主題は、そこではプラトニズムの神秘的緊張 とは正反対の象徴図 ︵四十三︶ ︶ め歪められたラファエッロだった。ラファエッロは少なくとも﹁署名 但しそれはアリストテレスやホラティウスと同様に、本来の意図が予 らに有名な手本を用いることで、 理解しやすい説明的な作品となった。 像体系にとりこまれていた。またその対抗宗教改革的な構成意図も、 *** ︶ ︵ ︶ の間﹂までは観想的であって、対抗宗教改革が課すことを望んだよう ︵ な規範性はもたなかったからである。 た忠実きわまりない追随 者﹂であったアンニーバレは、﹁ローマでは デコーロ とスカンネッリ の後を受けて、アン マルヴァジーアは、マンチーニ ニーバレのローマ時代の作品の中に﹁それまで以上に困難で骨の折れ 若きアンニーバレがパラッツォ・ファーヴァの﹁イアーソンの間﹂ のフレスコ画︵図9︶を公にしたとき、チェージをはじめとする好敵 手たちは、そこに明瞭で多様で卓越した人物構成や、品位、博識と技 る着想﹂、以前に較べていっそう﹁計算づくの﹂手法、情熱の低下を 術を権威主義的な世俗の倫理に従属させていたことが明らかである。 それまで以上に困難で骨の折れる着想を見いだす必要を感じ、この土 ストゥディアータ 量の誇示を期待していたに違いない。だが彼らはそこに人物の溢れか ︶ 認めるとともに、この変化の原因をローマという環境の厳しい要請だ ︵ えった構図や﹁いかがわしい﹂様式、全体の粗描きのごとき様相を見 ︵四十四︶ ︶ 彼らは職業上の知識と技量が十分に示されることを期待したのだ。彼 地の気質でそれに慣れていった ﹂ 。﹁この土地の気質﹂とはおそらく、 らが選んだのは、ホラティウスとアリストテレスにおいては詩学とし すでにそこに根づいていた地上的で体系的な文化、ホラティウス風の ︶ か関わりをもたず、芸術にとっては外的な、歴史道徳のための力業、 品位と、内的イメージを生産性に転化する作業をアリストテレス風に ︵ 品位と理想的模倣という掟だ。これらの画家の外的目標は、主として 讃美する芸術文化をこそ意味するものだろう。そのことは、ガレリー デコールム 教育上のものであった。そのことは、ここで求められたのが、明瞭で ア・ファルネーゼの見事な﹁境界柱﹂︵図 ︶を実現するにあたって 多様な、また当然の義務として、卓越した構成と様式であったことか のプロセスの説明からも推測できる。それは理解しやすく所を得た、 ︵ と考えた。曰く、﹁ローマの習慣にしたがって描くことにかけてもま 96 て、これを非難した。好敵手たちのこのような判断からは、彼らが芸 95 わりがなくなり、ただ誤解を生みだすだけとなった。 は芸術が彼に啓示する内的ヴィジョンに没頭していたのである。あま 94 同様に地上的な性格をもつ。それはラファエッロに代表されることさ 91 りに霊的な次元に ︹生きていたため︺ 、客観的な尺度はもはや彼とは関 ︵ 暮らしで満足せよと、虚しくアゴスティーノに説いたものだった。彼 90 らも推測できる。地上的、否むしろ体系的なこれらの価値は、まさに 11 98 196 93 10 97 92 五 浦 論 叢 第 16 号 多様で心地よい肢体の構想に始まり、習作、生きたモデルに基づく部 せざるを得ない。マルヴァジーアによれば、当時彼らは神秘、ヒロイ 時代の若き日のこの二人の画家の関心を惹いたのだとわれわれは確信 スキッツィ ︶を経て、それら各部の統合にいたるものであった。そ 分研究︵図 ︶ ズム、キメラ等の美術上の崇高な概念に関する助言や観察や方法論さ ︵ して生産性のみを追求したまったく地上的な││つまり昇華という予 えも、互いに交換しあっていたという 。 テルミニ バリオーネとマルヴァジーアは、ガレリーアの仕事の報酬の少なさ に失望したアンニーバレが、ひどい憂鬱症と枯渇状態に陥ったと語っ ︵四十七︶ ︶ ゼの﹁境界柱﹂を奇跡として称讃する者に対するアンニーバレの苛立 ている。だがマンチーニの記述によれば、この憂鬱症は﹁何か別の不 ︵ ちからも推しはかることができる。彼は、あれほどまでに長い間知力 ︶ 運か打撃のせいでも、さらにまた他の原因によっても﹂彼を襲ったに ︵ ︶︵四十五︶ する失望とは、霊感への帰順を否定してまで彼が選びとった、世俗の ︶ 感じてクアトロ・フォンターネに引きこもったアンニーバレは、﹁た を超越したプラトン的な内容を、つまり天与の才や熱狂をその本質と タ ッ ソ も フ ラ ン チ ェ ス コ・ パ ト リ ー ツ ィ も 同 様 の 誘 惑 に 抗 し え な かった。二人とも、アリストテレス的精神の体系的構造の中に、理性 た﹂。実際、作業を再開した彼は、ヘッレーラ礼拝堂のための二つの で 素 早 く 描 く よ う な、 彼 本 来 の 容 易 な 手 法 に 戻 ろ う と い う 気 に な っ ぎで疲れはてていたため、それほど簡潔さと厳格さをもたず、直描き だ才能にのみ頼る、言わば、戯れ心での﹂制作を始め、﹁研究のしす する詩および美術を組みこんでいた 。そして忘れてはならないが、フ 物語︵図 ︶ ランチェスコ・パトリーツィは、アンニーバレが若き日を過ごしたボ 日で彩色を施した﹂という 。だがその﹁物語﹂を観察するなら、その 14 ︵四十八︶ ︶ ︵ ︶ に人並みはずれて恵まれており、 ﹁ 大 変 な 善 良 さ と、 く つ ろ い で 好 ま 告げ た。シスト・バダロッキオは絵画にかけては﹁驚くべき容易さ﹂ ︵ 美 点 を 称 え る 気 持 ち も、 即 座 に 訪 れ た 愛 情 の 喪 失 に よ っ て 終 わ り を 13 ︵ ローニャ時代にフェッラーラで教鞭をとっていた。その後友人のクレ 容易さとはせいぜいのところ、昇華に身を委ねる術を失った男の作業 ︶を﹁直描きで下絵を用いずに﹂素描し、 ﹁わずか数 メンス八世によってローマに招聘され、アンニーバレがローマに到着 上の容易さに過ぎないことが、明らかに見てとれる。バダロッキオの ドメニキーノとアルバーニが根っからの﹁アリストテレス的﹂芸術 家として成長していった様子を見ると、アンニーバレがローマで実践 していたプラトン風の﹁神秘﹂の歪んだとりいれかたが、ボローニャ 105 、 する一五九七年まで、同地でプラトン哲学を講じていたのである。 どである。 ルヴァジーアの次の記述を読めばその思いは強まる。つまり、消耗を このまったく外面的な方法論については、他ならぬマルヴァジーアさ ︵ 100 ザーリ的な言い回しを用いて、その反プラトン的な性質を指摘したほ ︵四十六︶ 諸価値そのものの再評価と表裏一体をなしていたのかも知れない。マ ︵ を傾けて没頭した以上、うまくいかないことなどありえないと主張し 違いないという。とすれば、あるいはこの相対的な報酬の少なさに対 102 たのである。美に寄せる愛に親しく身を委ねる態度とはかけ離れた、 服は、マルヴァジーアが記憶するところの、ガレリーア・ファルネー 測しがたい神秘的天分を考慮に入れない││このような芸術観への屈 12 えもが、 ﹁自らの天与の才にあまりにも無理を強いたために﹂とヴァ 104 103 106 101 197 99 カラッチ ︵ ︵四十九︶ ︶ R. W. Lee, ‘Ut Pictura Poesis’ etc., “The Art Bulletin”, 1940, p.197 1954, p.30. Mirandola e di Pietro Bembo, a cura di G. Santangelo, Firenze G. F. Pico, in Le epistole ‘De imitatione’ di Giovanfrancesco Pico della Vasari- そらく彼は自らの偉大な才能をそのようなことで低めたくな ︵4︶ ss. 自在な C. C. Malvasia, Felsina pittrice, Bologna 1841-44, I, p.345. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.345. この一節はボスコリの﹁筆さば C. C. Malvasia, op. cit., I, p.296. Baldinucci-Ranalli, 着想に関連して、この一節はバルディヌッチがボスコリについ せんせい 勇気づけようとする医師に向けて放たれた、マンチーニが伝える苦悩 ︶ ︵ ︶ ︵9︶ ︵ ︶ ︶。 Baldinucci-Ranalli, III, p.76 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.292. C. C. Malvasia, op. cit., I, pp.331, 327. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.263. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.345. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.265. 1956, p.XL. Q. Breen, introduzione a M. Nizolio, De veris principiis etc., Roma を参照。 R. W. Lee, op. cit., p.219 ︵8︶以下を参照。 較が有効であろう︵ きの闊達さと熟達ぶり﹂に関するバルディヌッチの一節との比 ︵7︶ ︶。 III, p.73 て 記 し た 一 節 と 比 較 す る の が 有 益 で あ ろ う︵ ︵ た。もうお気遣いは無用です。︹時計は︺もう音を出しません。︹私の︺ 時は終わったのです﹂ 。 ︵ 1979 ︶ , in Idem, Le risposte dell’arte, Le Carlo Del Bravo, I Carracci Lettere, Firenze 1985, pp.139-156. 原註 ︵ 1978 ︶ , in Idem, Le risposte dell’arte, Firenze C. Del Bravo, Il Tribolo ︵ 2︶ ﹁ミケランジェロは︵中略︶ただ芸術を完全にすることしか考 ︵ ︶ ︵ ︶ えていなかった。したがってそこには風景も、樹木も、建物も ︵ ︶ ︵1︶ ︹拙訳﹁トリーボロ││静寂と自由の境地﹂、﹃五浦論叢﹄ 1985, p.111 ss. ︵6︶ に満ちた言葉 。 ﹁今度ばかりは、医師、時計の輪は壊れてしまいまし ︵5︶ ︶。 Milanesi, VII, p.216 しい振る舞い、優れた才能を備えた若者﹂であっ た。しかしアグッキ ︵五十︶ ︵ ︶ かったため、そこには注意を払わなかったのである﹂ ︵ ︶ あふれる弟子の技術と美点を伸ばしたいというプラトン風の欲求とし ︵ ︶ て解釈するなら 、勤勉なアルバーニに新たに信頼を寄せることによっ ︵ する信仰の、さらなる敗北と映る。最後に残ったのは不安である。不 れわれにとっては、アンニーバレの心の自由と、直観や天与の才に対 て師匠が自分をとりもどしたとマルヴァジーアが評価する一件は、わ 110 摂生、死病、与えられた時が尽きたという決定的な自覚。そして彼を ︵3︶ とマルヴァジーアはともに、なぜ彼が忠実で勤勉なアルバーニよりも 107 師に愛されたのかを理解していない。今もしこの偏愛を、機敏で才能 108 ない。さらに、技術上の多様性や美しさもない。なぜなら、お 198 109 十一号、二〇〇四年、四五│九五頁︺ 10 14 13 12 11 111 五 浦 論 叢 第 16 号 ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ Baldinucci-Ranalli, III, p.238. G. B. Cardi, Vita di Lodovico Cardi Cigoli, Firenze 1913, p.49; Baldinucci-Ranalli, III, p.276. Baldinucci-Ranalli, III, pp.277-278. Baldinucci-Ranalli, III, pp.276, 277, 244. Baldinucci-Ranalli, III, p.263. G. B. Cardi, op. cit., p.29. Baldinucci-Ranalli, III, p.266. Vasari-Milanesi, VI, p.61. Baldinucci-Ranalli, IV, p.193. の記述を参照︵ ︶。 Baldinucci-Ranalli, III, p.279 G. B. Cardi, op. cit., p.28. G. B. Cardi, op. cit, p.37. Uffizi, 8865F. 以下も参照。 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.350. etc., Roma 1672, pp.22-23. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.344. G. P. Bellori, Le vite ︵ ︶バルディヌッチ ︹による伝記の中︺の︽聖ヒアキントゥスの殉教︾ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ C. C. Malvasia, op. cit., I, p.269. F. C. Vasoli, L’estetica dell’Umanesimo e del Rinascimento, in Momenti e C. C. Malvasia, op. cit., I, p.283. ︶。 Arcangeli, Sugli inizi dei Carracci, “Paragone”, 79, 1956, p.32. ︶こ れ は フ ラ ン チ ェ ス コ ・ ア ル カ ン ジ ェ リ の 見 解 で あ る ︵ ︵ ︶ ︵ ︵ ︶ ︵ ︶ problemi di storia dell’estetica, Milano 1959, I, p.397; L. Anceschi, ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ Le poetiche del Barocco letterario in Europa, ivi, p.495. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.344. Plotino, Enneadi, a cura di V. Cilento, Bari 1947, p.99. E. Mazzali, introduzione a T. Tasso, Prose, Verona 1959, pp.XXXXXXI. ︵ ︶以下を参照。 F. Picinelli, Mondo simbolico etc., Milano 1653, II, p.32. エンブレム文献に関して、カルラ・ランゲデイクから貴重な助 G. Mancini, Considerazioni sulla pittura, Roma 1956-57, I, p.219. ︹ ma p.388 ︺ . V, p.338 T. Tasso, Il Ficino, in T. T., Opere, a cura di B. Maier, Milano 1963-65, C. C. Malvasia, op. cit., I, p.266. ss. ︶ , a cura di P. D. Pasolini, Roma 1895, p.15v e di Torquato Tasso ︵ con le postille autografe F. Nobili, Il trattato dell’Amore Humano 言をいただいた。 ︵ ︶ ︵ ︶ ︶ ︵ ︶ ︵ T. Tasso, Il Minturno, in T. T., Opere cit., V, p.394. L. Anceschi, op. cit., p.495. C. Vasoli, op. cit., p.397. E. Mazzali, op. cit., p.XXVI. G. Bruno, op. cit., p.58. G. Bruno, Gli eroici furori, Milano 1864, p.73. 以下を参照。 ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ E. Mazzali, op. cit., p.XXVI. E. Mazzali, op. cit., pp.XXXV, XL, XXIII. E. Garin, Storia della filosofia italiana, Torino 1966, II, p.657. ︵ ︶以下を参照。 ︵ ︶ ︵ ︶ 199 36 35 34 37 38 40 39 41 49 48 47 46 45 44 43 42 16 15 24 23 22 21 20 19 18 17 28 27 26 25 31 30 29 33 32 カラッチ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ E. Mazzali, op. cit., p.XXXVII. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.269. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.269. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.344. C. C. Malvasia, op. cit., I, pp.265, 295. C. C. Malvasia, op. cit., I, pp.276, 343. T. Tasso, Il Minturno, in T. T., Opere cit., V, p.411. C. C. Malvasia, op. cit., I, pp.268-269. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.344. G. B. Agucchi, Trattato, in D. Mahon, Studies in Seicento Art and Theory, London 1947, p.254. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.327. T. Tasso, Il Malpigilo secondo, in T. T., Opere cit., V, p.86 e passim. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.295. G. B. Agucchi, op. cit., p.253; G. P. Bellori, op. cit., pp.72-73; C. C. Malvasia, op. cit., I, p.327. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.268. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.334. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.264. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.265. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.277. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.265. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.334. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.338. ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ A. Firenzuola, Celso etc., in A. F., Opere, a cura di A. Sereni, San Casciano Val di Pesa 1958, p.534. C. C. Malvasia, op. cit., I, pp.292, 274. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.291. Vasari-Milanesi, VI, p.61. Baldinucci-Ranalli, III, pp.720-721, 736-737. Baldinucci-Ranalli, III, p.443. を参照。 C. C. Malvasia, op. cit., I, pp.338, 343 G. B. Agucchi, op. cit., p.235; C. C. Malvasia, op. cit., I, G. P. Bellori, op. cit., pp.47-48. C. C. Malvasia, op. cit., I, pp.274, 275. G. P. Bellori, op. cit., p.71; C. C. Malvasia, op. cit., I, p.266; etc. G. P. Bellori, op. cit., p.71; C. C. Malvasia, op. cit., I, p.327. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.329. F. Nobili, op. cit., p.13r. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.345. G. B. Agucchi, op. cit., p.253. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.334. Baldinucci-Ranalli, V, pp.36-37. Baldinucci-Ranalli, V, p.35. Baldinucci-Ranalli, V, pp.31-34, 38. Baldinucci-Ranalli, III, p.736. G. Bruno, op. cit., p.58. を参照。 pp.277-278 e 334 ︵ ︶たとえば ︵ ︶たとえば ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ 72 79 78 77 76 75 74 73 93 92 91 90 89 88 87 86 85 84 83 82 81 80 ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ 200 59 58 57 56 55 54 53 52 51 50 63 62 61 60 71 70 69 68 67 66 65 64 五 浦 論 叢 第 16 号 ︵ E. H. Gombrich, Symbolic Images etc,. Edinburgh C. C. Malvasia, op. cit., I, p.346. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.333. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.296. F. Scannelli, Il Microcosmo della pittura etc., Cesena 1657, p.95. G. Mancini, op. cit., I, Roma 1956, p.219. 1972, p.13. ︶ 以 下 を 参 照。 ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ と比較 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.346; Vasari-Milanesi, II, p.204 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.318. G. Mancini, op. cit., I, p.218. op. cit,. I, p.31. G. Baglione, Le vite etc. , Roma 1642, p.108; C. C. Malvasia, C. C. Malvasia, op. cit., II, p.312. E. Mazzali, op. cit., p.XLII. せよ。 ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ プラトン風の愛情がいかにたや C. C. Malvasia, op. cit., I, p.318; 照。 すく終わりを告げるかについては、 G. Bruno, op. cit., p.60 を参 ︵ ︶ ︵ C. C. Malvasia, op. cit., I, p.318. Malvasia, op. cit., I, p.369. ︶ ・ G ・ Bアグッキがローマから聖堂参事会員ドゥルチーニに 宛 て た 一 六 〇 九 年 九 月 一 二 日 付 の 書 簡。 以 下 に 載 録。 C. C. ︵ ︶ F. Nobili, op. cit., p.16r. C. C. Malvasia, op. cit., I, p.318. ︵ ︶以下を参照。 ︵ ︶ ︵ ︶ G. Mancini, op. cit., I, p.219. ︶。 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.345 H. Janitschek, L. B. Albertis kleinere kunstheoretische ︶。 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.265 ︶ 。﹁二 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.331 の代わりに Missere の Signore’ Magnifico ならずその美徳に応じて、自らの肩書きが上がっていくべきだ ヴ ィ ー コ ︺は、 次 第 に 見 栄 を 張 る よ う に な り、 年 齢 や 実 力 の み 人の従弟にも増して自分を尊敬させる術を知っていた彼 ︹ルド 意をうまく勝ちとった﹂︵ ノの名声を称える機会を作ろうと約束して、︵中略︶彼らの好 ︵四︶﹁フェッランテ・カルリ氏は ︵中略︶ ルドヴィーコとアゴスティー ︵ ス テ ィ ー ノ の小 心 さ を 融 合 し よ う と も く ろ ん で い た の で あ る﹂ ニーバレの辛抱のなさを、そしてアンニーバレの機敏さとアゴ あった。つまり彼はいつの日か、アゴスティーノの勤勉とアン ︵三︶﹁まさにそれこそがルドヴィーコがつねに目指していたことで ︶。 Schriften, Wien 1877, p.145; p.147 勧 め る ﹂︵ 立 つ ﹂。﹁ い か な る 画 家 も 詩 人 や 雄 弁 家 と 親 し く 交 わ る こ と を 豊 富 な 知 識 を も ち、 歴 史 画 を 美 し く 構 成 す る の に 非 常 に 役 に 画 家 と 共 通 す る 装 飾 を 多 く も ち あ わ せ、 多 く の こ と に つ い て ︵二︶より正確には、﹁詩人や雄弁家を自分の楽しみとせよ。彼らは る﹂︵ 絵の中に、他と似通った顔や表情はひとつもなかったことであ ︵一︶﹁感嘆すべきは、ルドヴィーコがボローニャに残した数多くの 訳註 111 と考えた。すなわち 201 94 100 99 98 97 96 95 103 102 101 106 105 104 107 110 109 108 カラッチ 代わりに ︶。﹁グ ivi, p.327 と呼ばれたいと考え、聖堂参事会員ドルチー Illustre ニ氏にそのことをあからさまに訴えた﹂等々︵ イド ︹・レーニ︺よりも先に売値を釣り上げ︵中略︶、後進に対 ︶ ﹁︹ Ranalli, III, p.276 ; チーゴリは︺ほとんどまったく他人と交わ らず、自分自身と自らの研究との対話だけで満足していた。た だし、とりわけフィレンツェの彼の部屋に通って、しばしば彼 た貴人風の、とりわけ絹の服を身にまとい、冬にはヤマネコの 城塞のためにいくつか作品を制作することになり、描くべき二 めることが頻繁にあった。︵中略︶あるとき彼はフィリーネの ﹁︹チーゴリは︺音楽とこの楽器の演奏のために、おおいに筆を休 リ ュ ー ト のお供をした貴人や文学者のグループは別である﹂ ︵ ivi, p.277 ︶ ; ︶。﹁愛情をもって教 p.327 枚のうちの一枚が彼に依頼された。︵中略︶しかし彼は、演奏 して、十分な支払いを受けるように教えた﹂等々︵ 育し、慈愛をもって修正した。報酬も受けず、下心もなく、全 したい気持ちに負けて、絵の仕上げをぐずぐず先延ばしした。 ︶。﹁ま p.327 ︶。 原 文 に は、 初 出 稿、 単 行 本 と p.327 き愛情と心を捧げた﹂ ︵ 皮を裏打ちしたマントを着ていた﹂︵ もに本文中に原註 の位置指定が欠けているが、この位置に該 ければならない﹂ ︵ G. B. Cardi, op. cit., p.49 ︶﹁︹ ; チーゴリは︺フィ レンツェのサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂にいくとき、 ある。 ︵中略︶芸術に役立つように、美しい人体だけを愛さな て、必要となるさまざまな着想を生みだすのに苦労するからで 力がそうした心象に妨げられるため、作品に適した状態となっ をして、さまざまな心象で想像力を満たしてはならない。想像 ︵五︶ ﹁︹チーゴリは︺弟子たちにこう助言していた。︵中略︶気晴らし を制作していたとき、彼に悪意を抱くローマの画家が忍びこん ︵七︶チーゴリがローマのサン・ピエトロ大聖堂で閉じこもって板絵 て力一杯弦を引きぬき、演奏はおろか二度と目に触れないよう が︵中略︶思い通りいかなかったことに気づき、 リュートをとっ のである。ルドヴィーコはこれを知ると、この趣味のために絵 板絵の仕上げよりリュート演奏の方を好んでいます﹄と答えた えたとき、チーゴリは何をしているのかと尋ねられて、﹃彼は このためもう一方の絵を依頼された ︹別の︺画家は、仕事を終 セルヴィ通りは決して通らず、カステッラッチョと呼ばれる側 で、その構図を盗んで版画化し、チーゴリの方が版画の構想を 当することは明らかである。 に顔を向けていた。これはただこの道の商店が並べている厚紙 盗んだように見せかけた。チーゴリはこの汚名を濯ぐべく、﹁絵 ︶。 ivi, p.244 の樽を目にしないためであった。なぜなら、頭部や腕や脚など の周囲の囲いをすべて開けさせ、万人監視のもと足場に昇り、 分の敵対者の虚偽をあばき、彼らをやりこめるとともに、彼が なしに、別の構想によって仕事に着手した。このようにして自 にした﹂︵ 人体の不様で当惑させる部分を目にするだけで、着想が堕落し、 下塗りと物語の粗描きをおこなった。何日か後、天幕も覆いも Baldinucci- 想像力がかき乱されるからだと彼は言った﹂︵ Baldinucci-Ranalli, ︶ 。 III, p.276 ︵六︶ ﹁︹チーゴリは︺果 て も な く か ぎ り も な く素 描 し た ﹂︵ 202 14 五 浦 論 叢 第 16 号 ︶。 Baldinucci-Ranalli, III, p.263 いばかりか、驚異的な作業能力をもっていることを全ローマに 自分の作品の構図を立派にするために版画を利用したのではな たく素晴らしい。なぜならその楽しげな微笑によって、この動 ている。楽しさと恐怖を同時に示すこの男の子を見るのはまっ 中に逃げこんでいる。子犬はふざけてこの子の胴に跳びかかっ 知らしめた﹂ ︵ に給与とガレリーアの上の部屋を与えようとした。彼はそれに に逃げこんでしがみつくことで、恐怖心をはっきり示している 物の戯れが彼を楽しませていることがわかるうえ、若い娘の胸 つ ね に 感 謝 し つ つ も、 そ の 申 し 出 を 決 し て 受 け よ う と は し な からである﹂︵ Baldinucci-Ranalli, III, p.279 ︶ 。 ︵ 十︶ 二﹁ ︹チーゴリは︺エンポリで、われらの主が十字架から降ろされる ︵八︶ ﹁大公 ︹フェルディナンド一世︺は︵中略︶幾度となく彼 ︹チーゴリ︺ かった。これはおそらく、自由を愛するがゆえに、君主への務 トは美しい姿勢と、憔悴しきった様子で描かれており、見る者 物像には、機敏さと悲しみとが同時にあらわれている。キリス 場面︵図4︶を描いた。 ︵中略︶キリストの身体を運ぶその人 G. B. Cardi, すべての心を動かさずにおかない﹂ ︵ G. B. Cardi, op. cit., p.28 ︶ 。 ︶﹁ある人物がこの絵を見て、おそらくは実際以上に自分を良く 十三 見せようと思ったのであろうが、絵の知識もないために、この 絵は美しいが、あまりにも動きがありすぎる、と言った。それ G. B. Cardi, を 耳 に し た枢 機 卿 ︹本作の委嘱主︺は、 思 慮 深く 冷 静 な 態 度 で、 動感はチーゴリの卓越性に由来すると返答した﹂︵ その傍らで地面に座しているのは非常に美しい若い女で、近く かくも偉大な人間が、いやもし彼が肉をまとった天使ではなく 思うだけで気が狂い、心の中が悲しみでいっぱいになります。 の哀れなアントニオ ︹・アッレーグリ、通称コレッジョ︺の不運を している。そのうち一五八〇年四月二八日付の書簡に曰く、﹁あ アンニーバレがルドヴィーコに送ったとされる書簡を二通紹介 ︶。 op. cit, p.37 ︵ 十︶ 四 マルヴァジーアはその﹁カラッチ伝﹂の中で、パルマ滞在中の ︵ めは欠かさぬながらも、好きなように自分の研究、とりわけ遠 近法の研究に専念したいと望んだからであろう﹂︵ ︶ 。 op. cit., pp.29-30 ︵九︶ある高位聖職者の依頼で︽博士たちの中のキリスト︾を描いた チーゴリは、 ﹁その絵の値打ち相当と彼が考えていた四〇ドー Baldinucci- ブラ ︹昔のスペインの金貨︺の代わりに、きっかり四〇ジュリオ ︹ 教 皇 ユ リ ウ ス 二 世 の 名 に 因 ん だ 硬 貨 ︺を 受 け と っ た ﹂ ︵ ︶ 。この少し後、本文で引用された台詞が続く。 Ranalli, III, p.266 ︵十︶ ﹁もしあの偉大な男 ︹ラナッリの註釈によればチーゴリ︺が、詩を物 語る絵と呼んだとすれば、われわれは逆に、絵は黙せる詩であ る と 言 う こ と が で き る。 そ れ ゆ え 古 代 の 詩 人 た ち が こ れ ら 二 つの芸術を、いわば同じものだと考えていたのは正当だった﹂ ︵ ︶ 。 Baldinucci-Ranalli, IV, p.193 にいる老婆に微笑んで話しかけながら、一人の可愛い男の子を 人間であったとしたならですが、この地で没し、有名になって ︵ 十︶ 一﹁聖人の後ろには同僚の修道士の生き生きとした頭部が見える。 抱きしめる身振りを示す。この子は子犬を怖がって彼女の胸の 203 カラッチ 星に上げられることもなく、不運のまま死なねばならなかった ある﹁抒情﹂を兼ねそなえている、の意。 ︵ 二十︶ルドヴィーコ宛の一五八〇年四月一八日付の書簡︵︵ ︶参照︶ をあまりにあけすけな態度にたやすく駆りたてたあの狂気を して﹁ここでアンニーバレはたぎる情熱をある程度抑制し、彼 ︵ 十︶ 五 ローマのサン・マルチェッロ・アル・コルソ聖堂の祭壇画に関 れわれもともに微笑み喜びを感じずにはおられないほどの優 は﹁およびもつきません﹂。 ﹁なぜならコレッジョのプットはわ すべくとりいれたあなたのパルミジャニーノ﹂もコレッジョに に曰く、﹁この偉大な男 ︹コレッジョ︺からすべての優美を模倣 ︶。 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.269 抑え始めたため、ルドヴィーコの慎重さとアゴスティーノの研 美と真実性を備えて、息づき、生き、微笑んでいるからです﹂ 。 とは﹂ ︵ 究 が よ う や く 気 に 入 る よ う に な っ た。 こ こ で は 彼 も 手 法 の 混 ︶ 。 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.269 り、人工的なところや無理強いされたところがない、自然なも さが好きです。それは真実らしいのではなく真実そのものであ し、そうしたくもないのです。私はこの純正さが、この清らか せん。︵中略︶しかし私は ︹コレッジョの純粋性を︺混淆できない アーノの作品を見にいかないうちは、私はまだ満足して死ねま ま た 同 月 二 八 日 付 の 書 簡 に 曰 く、﹁ ヴ ェ ネ ツ ィ ア に テ ィ ツ ィ ゼ︺ 、パルミジャニーノの手法をひとつにしようとした﹂︵ C. C. ︶ 。 Malvasia, op. cit., I, p.283 ︶ ﹁ あ る 男 が 彼 に 絵 を 見 せ て、 急 い で 描 い た も の だ と 弁 解 し た。 十六 C. C. ﹃かかった時間はどうでもよい﹄とアンニーバレは答えて言っ た。 ﹃肝心なのはそれがどんな風に描かれたかだけだ﹄﹂︵ のです﹂︵ も の を 見 る こ と が で き る だ ろ う、 と 手 紙 に 書 き ま す。︵ 中 略 ︶ ︶﹁私の兄に、絶対 ︹パルマに︺こなければだめだ、信じられない 二十一 工房の助手となった。そし仕事の道を歩み、絵筆以外の脇道を 彼には言いたいことを言わせておいて、私は絵に専念します。 ︶ 。 Malvasia, op. cit., I, p.344 ︶ ﹁アンニーバレは、かろうじて読み書きを覚えただけで、父の 十七 歩 む こ と は な か っ た た め、︹ 教 養 豊 か な ︺兄 の 美 点 を 羨 ん だ が、 彼も私のようにして、多くの理屈や学者ぶった態度をやめると ︵ 淆を試み、ティツィアーノ、コレッジョ、パオロ ︹・ヴェロネー ︵ ︵ それを軽蔑しているふりをするしか術がなかったので、︵中略︶ とつのことを立派に成しとげるだけでも大仕事なのだ﹂ ︵ C. C. も の か。 彼 は あ ま り に も 多 く の こ と に 手 を 染 め て い る が、 ひ よ、 と 聞 か さ れ た ア ン ニ ー バ レ は こ う 答 え た。 恐 く な ど あ る ︶。 op. cit., I, p.269 ︶﹁ある日のこと、アゴスティーノが君を追いこそうとしている 二十二 信じています。それらは時間の無駄ですから﹂︵ C. C. Malvasia, ︵ そのことで彼を愚弄した。そして、己の状態に満足し、己の分 際を知り、生まれつきの条件以上を望まないのが良いことだと つけくわえた﹂ ︵ ︶。 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.266 ︵ 十︶ 八﹁卓越した美のイデア﹂は、 ヘッレーラの ﹃註釈録︵ Anotaciones ︶ ﹄ からの引用︵ L. Anceschi, op. cit., p.495 ︶。 ︵ 十︶ 九 厳粛な語りとしての﹁叙事﹂と、孤立した瞬間的な感情表出で 204 30 五 浦 論 叢 第 16 号 ︵ ︵ ︶ 。 Malvasia, op. cit., I, p.344 ︶ ﹁アゴスティーノは自分が年長ゆえ弟より功績に優れていると 二十三 考 え、 忠 告 や 指 図 に よ っ て あ ま り に も 彼 を 威 圧 し た ﹂︵ C. C. ︶ ﹁;すべてはアゴスティーノの堪えが Malvasia, op. cit., I, p.265 た い 学 者 ぶ り が 原 因 で す ︹とアンニーバレはルドヴィーコに書きお くっている︺ 。彼は私のやることなすこと気に入らず、あら探し ︵ ︵ ︶﹁彼らはバルディのアカデミアを決して離れることなく、朝の 二十八 一時間は石膏レリーフを、 宵始めの二時間はモデルを素描した。 ︹三人とも︺このうえなく勤勉で熱心だった。彼らの出席ぶりと ︶。 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.268 優秀さは他の全員の嫉妬を引きおこしたが、年長の巨匠たちも その例外ではなかった﹂︵ ︶﹁それゆえ、もはやくりかえさないが、彼らが堪えしのんだ大 二十九 変な研究・労苦・不自由は信じがたいほどだった。それは彼ら ︶。 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.334 ばかりして私を怒らせ、不機嫌にしました。また絶えず詩人や 誰も老年には達しなかった﹂ ︵ ︶。 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.277 ア ン ニ ー バ レ の 愛 は、︵ 中 略 ︶ あ ま り に も 強 力 な 魔 術 で あ り、 効果的な誘いであった﹂︵ ︵ ︶。 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.265 ︶﹁労苦を非常に嫌い﹂﹁工夫してつねに面倒な仕事を遠ざけた﹂ 三十一 ︶﹁ 前 述 し た ル ド ヴ ィ ー コ の 基 礎 と、 ア ゴ ス テ ィ ー ノ の 労 苦 と、 三十 が寿命を縮めた原因となり、 生来頑健なルドヴィーコを除いて、 ︵ ︵ 文筆家や宮廷人を足場のうえに連れてきて、私の邪魔をしたの です﹂ ︵ ivi, p.295 ︶ 。 ︶アゴスティーノと討論中のルドヴィーコの曰く、﹁アンニーバ 二十四 レはすべて気づいていたが、口数の少ない者らしく、首を振っ ていた﹂ ︵ C. C. Malvasia, op. cit., I, p.276 ︶ ﹁;アゴスティーノは ローマで大勢のひとびとと古代彫刻の知識を披瀝しあい、特に 乗りこえがたい︽ラオコーン︾について、いつものように精力 ︶﹁美女とは、うっとりとして眺められるもっとも美しい対象で 木炭で何も見ずにその彫像を正確に壁に素描してみせ、︵中略︶ ように見えた︵中略︶ので彼は驚いた。程なくアンニーバレは は一言も発さず、まるで ︹この彫刻の︺優れた価値がわからない ︵中略︶さらに、美をあたかも神のようにみなして、美しい女 えに天上の事物への憧憬へと私たちは魂を差し向けるのです。 のです。したがって、その美徳ゆえにその瞑想へ、その瞑想ゆ あり、美とは神が被造物たる人間に与え賜うた最大の贈り物な 三十二 ﹃われわれ画家は手で語るべきだ﹄と笑って言った。こうして、 性の心の祭壇に、みずからをいけにえとして捧げようとするの ︵ 会話上手や詩作を鼻にかけていたアゴスティーノの気分を害し です﹂︵アーニョロ・フィレンツオーラ﹃女性の美しさについ 的な熱弁をふるっていたが、 ︵無駄話の嫌いな︶アンニーバレ た﹂ ︵ ivi, p.343 ︶ 。 二二頁︶。 ︶﹁ある日 ︹アレッサンドロ・アッローリは︺ 、自分だって老人の手法 三十三 て ﹄、 岡 田 温 司・ 多 賀 健 太 郎 編 訳、 あ り な 書 房 二 〇 〇 〇 年、 二十一 ︶参照。 ︵ ︶参照。 二十五 二十四 ︶ ︵ ︵ 二十六 二十三 ︶ ︵ ︶参照。 ︵ 二十七 ︶ ︵ ︵ 205 カラッチ ︵ ︵ いるのだ、と彼に説いた。クリストーファノ・アッローリはこ だ け で 満 足 し て い る わ け じ ゃ な い、 中 庸 の 道 を 歩 も う と し て してさらにこの後も二人の悪ふざけの数々が紹介されている。 な旅人を殺す気か﹄、と二人は言ったものだ﹂ ︵ ボ ロ ー ニ ャ 人 が い る と こ ろ か ら 逃 げ だ す よ う に な っ た。 ﹃哀れ 高く、中庸ということがなかった。というのは、ある卓越した ︵ Baldinucci-Ranalli, III, pp.720-721 ︶ ﹁;絵の良し悪しの判定にか けては、彼 ︹クリストーファノ・アッローリ︺の好みは実に水準が て数多くの制作をしたが、とりわけ、ペンで芸術家たちの全身 とで、仕事からの気晴らしと休息をおこなった。そのようにし くんでいるときには、戯れに何かを素描したり描いたりするこ ︶ 。そ ivi, p.343 れに答えて、中庸をいくのは荷馬車とけだものだ、と言った﹂ 作品を見ると、 ﹃これには値段はつけられない﹄と言い、その ︶﹁アンニーバレは、多くの研究と労苦の所産である大作にとり 状態から少しでも外れると、 ﹃これにはまったく価値がない﹄﹂ 像や顔の肖像を素描した﹂︵ G. B. Agucchi, op. cit., p.235 ︶ ﹁;そ の よ う な カ リ カ チ ュ ア に よ る 風 刺 は、 若 い 頃 か ら つ ね に ア ン 三十六 と言ったからである。また他の者は良いと評価したものの、良 ニ ー バ レ の 天 性 の 主 題 で あ り ま た 特 技 で あ っ た。 彼 は こ の よ ︵ と最良の間に位置する作品を見せられたときは、何も答えず、 る。 ︵中略︶だが作品を仕上げるのに大変苦労した。素描に関 は彼ほど色彩に完璧な趣味をもった男をもたなかったと言え ︹素描︺に囲まれている﹂ ﹁前記の風景 ︹素描︺では農夫の踊りが ︶ ﹁;私は彼らの手になる、大きな紙に描かれた風景 pp.277-278 たので、非常に腹を立てた︵後略︶﹂︵ C. C. Malvasia, op. cit., I, うな素描によって、もっとも親しい者にさえ無言のうちに牙を むいた。ある日など師匠のルドヴィーコ自身も容赦されなかっ してもそうで、彼のいと高き知性に手が従うまでに長い時間が 描かれ、またあるものには舞台に上がった笛吹きが、また別の ていた。彼らは師匠の才能を信奉し、快活に騒ぎ暮らし、とき 206 関わりあいにならないようにした﹂︵ ivi, pp.736-737 ︶。 ︶ ﹁クリストーファノ・アッローリについては、われわれの故国 三十四 かかった。このため彼の素描や習作は疲れ切ってみすぼらしく ︶ さ I, p.338 ; らに、アゴスティーノが自分を除け者にして晩餐 の集いを開いた仲間たちに一矢報いたエピソードが記されてい には互いに悪ふざけをしあったが、悪ふざけとは名ばかりのも C. C. Malvasia, にはぼろ帽子のカリカチュアが描かれていた﹂︵ る。 ﹁要するにこうしたものが彼らの悪ふざけであった。あま のだった。ある男が大変苦労して非常に美しい婦人の肖像画を ︶﹁同じ家と部屋は、彼の多くの若い弟子たちのために充てられ り頻繁なので、最初はパルマの人々はこぞって彼らを家に泊め いくつか仕上げ、慣例のように壁に向けて置いておいた。する ︶。 ivi, p.334 見える﹂ ︵ Baldinucci-Ranalli, III, p.443 ︶。 ︶に対応する本文中の引用を参照︵ C. C. Malvasia, op. cit., 三十七 たものの、彼らがあまりに気違いじみた馬鹿騒ぎを頻繁に引き と委嘱主に見せる段になって、彼は大恥をかき、窮地に陥り、 ︶ ︵ 三十五 ︵ おこすのを耳にして、誰も彼らを招かなくなり、誰もが二人の 71 五 浦 論 叢 第 16 号 ︵ ︵ ︵ 彩と煙のすすで描き加えられていたからである。それはすべて 被害を被ることになった。︹肖像画には︺あごひげと頬ひげが油 た。それらの多くを彼らはすぐに焼いてしまったが、現存する 復習し、小さな紙に要約して表すことで、記憶力に無理を強い 部屋に引きこもって、素描したのと同じポーズを記憶によって 恐るべき出来映えである﹂ ︵ ︶。 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.334 いくつかを見るかぎり、実物 ︹による素描︺よりも目を引きつけ、 仲間のしわざだったが、誰がやったかつきとめることはできな かった﹂ ︵ Baldinucci-Ranalli, III, p.736 ︶。 ︶一 六 三 七 年、 ト ス カ ー ナ 大 公 フ ェ ル デ ィ ナ ン ド 二 世 と 三十八 バレもおおいにそうであったため、ときにはまったく単純で愚 ︶﹁ 彼 ら は 得 も 言 わ れ ぬ 善 良 さ を 備 え て い た。︵ 中 略 ︶ ア ン ニ ー 四十一 宮殿前で演じられた喜劇﹃神々の婚宴﹄の装飾山車プランに関 鈍だと思われた。使用人の無駄遣いにも文句を言わず、不出来 ︵ して、ガリレオ・ガリレイが評して曰く、﹁バッチョよ、お前 な料理にも、召使いの不手際にも、その他の失敗にも、決して ヴィットーリア・デッラ・ローヴェレとの婚礼を祝してピッティ は素敵なものを考えついたぞ、しかもこんなに簡単な方法でだ。 ︶。 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.329 不満を漏らさなかった﹂︵ ︶﹁ 彼 は 自 分 の 性 に 合 わ な い 宮 廷 や 宮 廷 人 の 高 慢 ぶ り を 敬 遠 し 四十二 ごくわずかな工夫なので、私の女中だってお前と同じように思 ︵ ぶりを示し、長話や騒音を聞くのを大変いやがった﹂。そして 活気に満ちた彼だったが、芸術に打ちこむときには極度の集中 ︶ ﹁;彼はいつもぼんやりしていて、つねに孤独で、古 cit., p.71 代人か哲学者のようであった。それはまた、彼がその美徳にふ は彼を外見から判断して、評価しなかった﹂︵ G. P. Bellori, op. て、自分の身なりにはほとんど気を遣わなかったため、一般人 仕事中に彼の家の外の通りで互いにボールを蹴り合って騒音 さ わ し い 敬 意 を 払 わ れ ず、 彼 の 過 去 ︹の業績︺に よ っ て 認 め ら いつきさえすればできただろうよ﹂︵ Baldinucci-Ranalli, V, p.35 ︶ 。 ︶ ﹁集いや楽しみ事にかけては、他の誰よりも快活でくつろいで 三十九 を立てる若者たちにこう叫んだ。﹁えいなんと腹の立つことか。 四十三 なぜお前たちは双方が一個ずつボールをもたないのだ。向こう ︵ れない原因となった﹂ ︵ C. C. Malvasia, op. cit., I, p.327 ︶。 ︶﹁しかし ︹アンニーバレは︺宮廷人ぶって得意がる兄アゴスティー ゴ ー ル の 連 中 は ︹ こ ち ら の ︺長 椅 子 ま で ボ ー ル を 運 び、 こ ち ら に い る のように思い通りにして、 ここから立ちさればよいではないか。 お 前 た ち は ︹ 向 こ う の ︺下 水 道 ま で ボ ー ル を 運 び、 お 互 い が こ を話さなければならない人のようにふるまっているのを見て憤 ノ︺が数人の騎士と連れだって歩きながら、まるで大切な用事 ノの性格をいやいや堪えしのんでいた。︵中略︶彼︹アゴスティー ゴ ー ル ここはひどいありさまだ。私の頭を壊さないでくれ。仕事をす て自分の部屋に着くと、一枚の紙をとり、そのうえに眼鏡を掛 ティーノよ、自分が仕立屋の息子であることを忘れるな。やが 激すると、彼を脇に呼んで、耳元で諄々とこう告げた。アゴス ︶。 Baldinucci-Ranalli, V, pp.36-37 るのに頭が百個欲しいときに、お前たちはなんということをし てくれるんだ﹂ ︵ ︶ ﹁夕刻に裸体アカデミーから帰ると、食卓に着くまえに、まず 四十 207 カラッチ ︵ ︵ ︵ けて針に糸を通している父親を素描し、アントニオとその名を ようには決して見えない﹂︵ ︶ 。 Vasari-Milanesi, II, p.204 ︶﹁アンニーバレ・カラッチは、ファルネーゼ家のロッジアの美 四十七 し い 作 品 を 仕 上 げ た 後、 落 胆 し て ひ ど い 憂 鬱 症 に 陥 り、 ほ ど ︵ た。素描ができあがり、それを兄に送ったところ、兄は非常に な く こ の 世 を 去 っ た。 と い う の は、 か の 君 主 の 寛 大 さ か ら み 書き入れた。またその脇に鋏を手にした年老いた母親を素描し 動揺し感情を害したため、ほどなくして︵中略︶彼と別れ、 ロー て、自分の労苦が名誉とともに報いられると期待していたのだ ︶ ﹂ 。 ﹁ローマにありてはローマ人のごとく行動せよ﹂︵郷 fueris 機卿の利益を非常によく配慮していることを示そうとして、ア いう男のせいで、裏切られたからである。この男は、自分が枢 が、枢機卿の寵愛を受けていたスペイン人のドン・フワン某と マに出発した﹂ ︵ G. P. Bellori, op. cit., p.71 ︶。 ︶ルビの部分を直訳すると、 ﹁君がローマに着いたとき︵ cum Romae 四十四 に入りては郷に従え︶の意。マルヴァジーアの原文にこのラテ ン ニ ー バ レ へ の ︹報酬を︺受 け 皿 に 出 し て 与 え た が、 あ れ ほ ど ン語の一節が引用されている︵ ︶。 cit., p.108 作をつくり、モデルを裸にしてその脚や腕をひとつひとつ、見 わかりやすいものでなければならない。それをもとに多くの習 それらはまた美しく、それぞれの場所にふさわしく、心地よく、 表したルネッタで手ひどく失敗した。そこで師匠は自分をとり 度で色を塗る手腕を身につけていなかったため、聖人の説教を せていたが、フレスコ画の手法、つまり漆喰に必要な素早い速 自分の門下生の中でもっとも優秀だと称讃し、大きな期待を寄 ︶﹁アンニーバレはこのもう一人の弟子 ︹シスト・バダロッキオ︺を、 G. Balione, op. の研鑽と洗練によって十年間も継続された労苦に対し、︹その報 の流派以外も含む他の者たちが、ガレリーア・ファルネーゼの テルミニ かくも美しい境界柱におおいに驚嘆し動揺するのを見て、非常 酬は︺た っ た の 五 〇 〇 ス ク ー デ ィ 金 貨 だ っ た ﹂ ︵ ︶。 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.296 四十八 ︶ ﹁ ア ン ニ ー バ レ は ロ ー マ で タ ッ コ ー ネ や ア ル バ ー ニ そ し て自 分 四十五 ︵ た 通 り に 素 描 す る。 そ れ か ら 全 体 を ひ と つ に 合 わ せ て、 下 絵 もどし、漆喰を全部削ぎおとさせ、フランチェスコ ︹・アルバー に苛立った。 ︵中略︶ ﹃まずさまざまに異なる姿態を構想する。 に移す。モデルを同じ高さに置き、同じ光で照らして見るまで 四十九 は、決して陰影を施して仕上げることはない。これでうまくい ︵ ニ︺にやり直させた﹂ ︵ C. C. Malvasia, op. cit., I, p.318 ︶。 ︶﹁ シ ス ト 氏 は 非 常 な 善 良 さ と、 く つ ろ い で 好 ま し い ふ る ま い、 かないはずがあろうか。それでも諸君にはこれが奇跡に見える 優れた才能を備えた若者で、 芸術全般に才能を発揮しましたが、 絵 画 に 関 し て は 驚 く べ き 容 易 さ に 人 並 み 外 れ て 恵 ま れ て お り、 のか﹄ ﹂ ︵ ︶ヴァザーリの一節はパオロ・ウッチェロ伝に含まれる。﹁あま ローマの若者たちより見事に素描しました。それどころか、ア ︶。 C. C. Malvasia, op. cit., I, p.346 りに激しい研究によって天与の才を害する者は、︵中略︶何を ンニーバレ氏はつねづね、彼自身より見事に素描すると述べて 四十六 制作しようと、 ︵中略︶それは容易さと優美をもってなされた 208 五 浦 論 叢 第 16 号 ︶参照。 四十八 いました﹂ ︵ C. C. Malvasia, op. cit., I, p.369 ︶。 ︵ 五︶ 十︵ ︵ ︶ 拠として﹁アリストテレス主義﹂を提示するが 、ここではもっぱらプ ラトニズムの敵方の思想として否定的に扱われている。解釈の典拠と なるのはマルヴァジーアやバルディヌッチ、ベッローリら一七世紀の 出す。歴史を平板に読み解くのではなく、解釈の中に鮮明な対照を導 評伝作者たちが伝える画家たちの消息であるが、デル・ブラーヴォは こ こ 数 年、 デ ル・ ブ ラ ー ヴ ォ の 比 較 的 近 年 の 研 究 で あ る ミ ケ ラ ン ジェロ論を紹介してきたが、ミケランジェロ論を扱う以前に、本誌上 入するのが、管見の限り、デル・ブラーヴォの潜在的傾向であるよう 訳者後記 では﹁ルカ・デッラ・ロッビアの人文主義﹂、﹁想像力の甘美な世界│ に見えるが、本稿はそのもっとも劇的な事例であろう。 紹介してきた。今回はこれらの論考に続く、﹁カラッチ﹂と﹁ヴァラ 化という外的な価値観を与える否定的なシステムとして定義づけられ 本 稿 に お い て 対 抗 宗 教 改 革 は、 ア リ ス ト テ レ ス の 自 然 模 倣 論 と ホ ラティウスの適正論を体制に奉仕する形に力ずくで歪曲し、そこに教 そこに独自の解釈を加え、カラッチ一族の資質の相違を効果的に抉り │一四〇〇年代美術における多様性と観想﹂、﹁トリーボロ││静寂と ンタン﹂の二つの論考を紹介したい。上記論考から今回掲載分までを る。それに対し、 表現の多様性をめざすチーゴリおよびルドヴィーコ・ 自由の境地﹂といったデル・ブラーヴォの七〇年代の論考を連続して 連続して読むことで、七〇年代におけるデル・ブラーヴォの芸術解釈 改革システム全般への人文主義の立場からの反発として解釈される。 ば唱道されてきた﹁反マニエリスム様式﹂ではなく、むしろ対抗宗教 カラッチの芸術は、活動的人文主義の継承としてとらえられ、しばし の展開が理解できるはずである。 ﹁カラッチ﹂は冒頭部分において、﹁トリーボロ﹂で示した歴史認識、 ﹁観想﹂と﹁多様性﹂の二つの人文主義的立場の対比を確認する形で アンニーバレ・カラッチについての分析は、評伝に忠実に基づきな がらも、見事な総合力によって創作上の法悦に生きるプラトニストの 開始される。そしてラファエッロとミケランジェロという﹁観想的人 文主義﹂のふたつの様態と、 ﹁活動的人文主義﹂の体現としての﹁マ 肖像を描き出している。プラトニズムへの美術への適用は、デル・ブ は制作態度にみられる倫理的傾向として捉えられる。特定の様式への ニエリスム﹂への言及ののち、一六世紀後半の対抗宗教改革期以後を 本稿では、プラトニズム的な地上的倫理の超越と敵対するものとし て、つまり作品の具体物としての完成、心に浮かんだ着想の具体的作 執着は、敵方である体制的価値観にからめ取られる恐れがある以上、 ラ ー ヴ ォ の 考 え で は 特 定 の 様 式 と 結 び つ く も の で は な い。 ﹁プラトニ 品への自覚的移行、作業効率、地上的な栄光と高い報酬をめざす倫理 いかなる地上的な形式からも自由な、また主題の選択からも自由なプ 扱う本稿の論題へと移行する。 として、 ﹁アリストテレス主義﹂という視点が新たに導入される。後 ラトニズムが想定される。このような気質は、アンニーバレと同時代 ズム様式﹂という具体物は存在しない。そうではなく、プラトニズム 年デル・ブラーヴォは﹁ジョルジョーネ﹂においてニュートラルな典 209 1 カラッチ を持たない。のちに﹁ヴァランタン﹂で展開される、主題選択を通じ を開くものであった。この種のプラトニズムは、特定の主題にも執着 注いだアンニーバレが、ローマ時代に﹁手法の混淆﹂へと転向する道 それは同時に、ボローニャ時代にコレッジョの﹁純粋な﹂手法に愛を パトリーツィのプラトニズム思想││の中に位置づけられる。しかし の精神的潮流││フェルナンド・デ・ヘッレーラとフランチェスコ・ いう。 気ままな制作方法に戻ろうとしても、取り戻すことができなかったと たび放擲した霊感の翼は、その後彼がヘッレーラ礼拝堂の仕事で昔の 選択した。その結果、彼の精神は消耗し、ひどい憂鬱症に陥る。ひと ニャ時代の制作方法を捨てて、周到な努力と計算に基づく制作方法を リーア制作中のアンニーバレは、霊感の赴くままにしたがったボロー 体系的、アリストテレス的なアンニーバレとの間に形成される。ガレ かくして論文は、アンニーバレの悲劇的な最期の言葉で閉じられる ことになる。 して繰り返されていく。 ニズムとアルバーニやドメニキーノのアリストテレス主義との対比と そして若き日のアンニーバレと残り二人のカラッチとの対比は、ア ンニーバレの弟子の世代においても、シスト・バダロッキオのプラト ての作者の倫理観の表出は、アンニーバレの文脈では成立しないこと になる。 デル・ブラーヴォの立論においてつねに要となるのは﹁自然﹂の解 釈である。アンニーバレがカラヴァッジョに与えた﹁あまりにも自然 そのもの﹂という形容に﹁現象界に密着しすぎている﹂という解釈を 与える一方で、同じ画家がコレッジョに与えた﹁自然模倣者﹂という 形容に、﹁絶対者の最初の反映を追求する芸術家﹂という解釈を与えて、 その相違を浮き彫りにしているが、説得力がありかつ美しい解釈であ ︵本誌掲載︶も参照され なお、本稿の続編である﹁ヴァランタン﹂ たい。本稿も﹁ヴァランタン﹂も、文意を明らかにするために、原註 を地上的理性に従属させるシステマティックな価値観を持つアゴス 論 文 の 核 心 部 分 で、 三 人 の カ ラ ッ チ は 劇 的 に 対 比 さ れ る。 他 者 と の雄弁な交流における活動的人文主義を体現するルドヴィーコ。美術 た。いずれの訳稿においても、難解な箇所はデル・ブラーヴォ門下の 配慮であった。 またいつものことながら、原著にない図版を大量に補っ たが、こうしなければ本文の真意が図りかねる箇所も多いと考えての ると言わねばならない。 ティーノ。言葉では伝えがたい神がかりの法悦を生きるアンニーバレ。 で示された典拠を実際に参照し、 訳註に訳出した。かなりの分量となっ こうした観点から、一人ひとりを区別した上で解釈された彼らの数多 ︵1︶ C. Del Bravo, Giorgione ︵ 1987 ︶ , in Idem, Bellezza e pensiero, Firenze 註 同門である Alberto Desideri 氏より貴重な示唆を受けた。記して謝す る次第である。 くのエピソードは、訳注に補訳した出典と本文とを対比して読むこと で、さほど苦労なく理解できるだろう。 もうひとつの劇的な対比は、ボローニャ時代の観想的、プラトニス ト的なアンニーバレと、ローマでのガレリーア・ファルネーゼ時代の 210 五 浦 論 叢 第 16 号 ︹ 拙 訳﹁ ジ ョ ル ジ ョ ー ネ ﹂、﹃ 五 浦 論 叢 ﹄ 十 三 号、 1997, pp.65-70. 二〇〇六年、九五│一一三頁︺ ︹かい のりゆき/本学教育学部准教授・所員︺ 211