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光の道の彼方へ

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光の道の彼方へ
光の道の彼方へ
桐谷瑞香
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
光の道の彼方へ
︻Nコード︼
N6636BH
︻作者名︼
桐谷瑞香
︻あらすじ︼
エネルギーを自供自足できる都市を選定し、実行する政策を開始
してから三十年︱︱その都市の一つである東波市の大学院に通って
いる君恵は、海外で若手研究者として活躍している学と出会い、久
しぶりに大学に来た彼の道案内人を引き受ける。その途中、ある研
究棟で変わった石を拾い、不思議な音が聞こえてくる光の方へ歩い
て行くと︱︱なんと六年前の過去に戻ってしまっていたのだ。やが
て現代へ帰還するために奔走する中、二人にとってゆかりのある姉
妹と邂逅する⋮⋮。
1
優しくも切ない過去と現代を生きる人たちの物語。
◇◆﹃空想科学祭FINAL﹄参加作品◆◇
2
1、エネルギー管理都市︵前書き︶
この作品は﹃空想科学祭FINAL﹄参加作品です。
3
1、エネルギー管理都市
︱︱その道の先には何が続いているのだろう?
真っ暗な闇の中に現れた、光の先にあるものは︱︱
カーテンの隙間から漏れる明るい光が、ベッドで寝ている女性の
顔を照らしていた。彼女はそれから避けるように布団を被ったが、
一度目覚めてしまったため、眠りにつきにくい。少しだけベッドの
上で転がっていたが、眠気はやってこなかったため、仕方なく起き
あがった。
目の前には鏡が置いてある。そこには肩より長い黒髪で、意気消
沈とした女性の顔が映しだされていた
﹁これはなかなか酷い顔⋮⋮。今日は土曜日か⋮⋮実験はお休み﹂
立ち上がってカーテンを開けると、そこから燦々と光が射し込ん
でくる。視界には大きな研究施設やアパート、自然豊かな木々が並
んでいた。そして所々にある広大な空間には風力発電のプロペラが
回り、太陽光パネルが家の屋根を覆い尽くしていた。
いつもと変わらない光景を眺めつつ、脳を活性化させるために顔
を洗いに行く。その途中でノートパソコンの横にある、破られた紙
切れたちが目に行くと、思わず眉間にしわが寄った。その一枚には
“受験票”と書かれている。彼女は目を逸らしつつ、ぎゅっと唇と
とうなみ
噛みしめて、部屋を後にした。
ときざわきみえ
時沢君恵は、東波大学大学院の修士課程に在籍をしている、一人
4
暮らしの理系大学院生。東波大学の理系大学生は八割が大学院に進
んでおり、国内や世界で活躍する研究者になるために上に進む者も
いれば、君恵のように理系だからなんとなく上に進む者など、色々
な人がいる。
また研究室によって活動スタイルは違っており、君恵の所属して
いる所では拘束時間に決まりはなく、基本的に研究の進め方は自分
次第だ。精神的にも体力的にもまだ万全な状態ではないので、今日
の活動は控えることに決める。
顔を洗った君恵は、麦茶を飲むために冷蔵庫を開けると、ある事
実に気付いた。調味料と飲み物だけしかなく、食材がないのだ。
深々と息を吐きながら寝間着から私服に着替え、朝食兼昼食を求
めて仕方なく外出の準備をする。ついでに延滞している本を返却す
るために、それもバックに詰めていく。
外に出ると、雲一つない青々とした空が続いている。多少汗ばむ
が、今日は湿気が少ないので夏にしては比較的過ごしやすい。息抜
きにサイクリングをするにはいい日かもしれない。
近場の食料品店に向けて自転車を漕ぎ始めようとしたが、突然ポ
ケットに入っていた携帯電話が振動したのだ。それは一斉送信され
たメールだった。そこにはこう書かれている。
東波市にお住まいの皆様
本日、東波大学理工学研究科において、大量に電気を使用する実
験を行うため、電気の使用は極力控えるようにしてください。よろ
しくお願い致します。
そしてその下には時間ごとに使用可能な電気の量がグラフとなっ
て示されていた。これよりも多く使うと市が大停電に見舞われるた
5
め、市民が個々に努力するだけでなく、役所の方でも調整をし始め
るだろう。
﹁研究科程度でこのメールが流れるのは久々かも? たいていは工
場とか、大学をあげての実験とか、大規模なところばかりだから﹂
このようなメールの内容は意外にも珍しいことではない。あまり
驚くまもなく、携帯電話をしまい、今度こそ自転車を漕ぎ始めた。
* * *
国外からの驚異も薄れ、国内では中央集権制から地方分権制へと
移行し始めた頃、根本的にエネルギー分配に関して見直す事件が三
十三年前に起こった。
やがてその事件をきっかけに、今後も特定の地域に発電所を置き、
そこで大規模に発電して、各地にエネルギーを供給するのは危険だ、
発電から各地域に分散させようという動きが出てきたのだ。
つまり究極のエネルギーの自給自足︱︱それを達成するために政
府は検討に検討を重ねた結果、約三十年前にまず“エネルギー管理
都市”を設置して、様子を見るところから始めたのだ。
これは公募して決定した、全国各地の自治体をエネルギー管理都
市と定め、その都市内では内部で作ったエネルギーのみを使用する
というものである。また、ただ細々と自給自足をするだけではなく、
エネルギー供給地域の規模を拡大したり、更新を続けることができ
れば、国から莫大な補助金が支給されるのだ。
この政策の狙いは、エネルギー供給の分散化だけでなく、自給自
足をするために必要な人材の創出︱︱つまり新たな雇用を生み出す
ことも狙いとしていた。また、海外からも注目を集めている政策で
もあり、長期に渡って成功すれば、その地に海外から訪れる人も多
くなり、上手くやりくりすれば観光地としても賑わいを見せること
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ができると考えられている。
つまり自治体にとって、国からの補助金や観光による利益が得ら
れる可能性があるので、非常に魅力的な政策であった。
しかしその分、制定や三年ごとの更新時のハードルは高い。国か
ら派遣された人間によって綿密にエネルギーの需要と供給の比率を、
書類を通じてチェックする。更新時には正しい比率であるかどうか
確かめるために、工場や学校レベルはもちろんのこと、果ては家庭
レベルにまで調査する可能性もある。
これでは実現は無理だろう︱︱と制定や更新をされなかった場合
はまだよく、日々の暮らしは変わらず、細々と暮らしていけばいい。
万が一、制定され三年後の更新までの間に自給自足が達成できな
かった場合は、厳しい現実が待っている︱︱。
そのため、それを防ぐために各自治体には電気を始めとするエネ
ルギー資源を管理、適切に分配する人たちがいた。非常にやりがい
のある仕事であるが、責任も重く、なるためには試験を突破しなけ
ればならないのだ。
* * *
君恵は食料品店で野菜や肉、お総菜を買い物カゴに入れつつ店内
を回る。電力の使用を控えているため、若干薄暗いがそこまで苦で
はない。ただ冷房の温度も高めなのか、暑い外を歩いてきた君恵に
とっては快適な休憩場所とはならなかった。
レジにて精算後、帰りに備えて店先で水分を補給していると、併
設されたレストランとの間にある小さな発酵タンクが目に入る。そ
こでは賞味期限が過ぎたお総菜やレストランから出た生ごみなどを
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投入して、発酵する過程でできたガスを燃焼エネルギーに変換して
バイオマス発電として動いていた。また発酵後の残渣は肥料として
も利用できるため、周りを囲んでいる木々の立て看板には﹃肥料は
自給自足です﹄と書かれている。一種の店側のアピールらしい。
飲み終わり、帰路に着くために歩き始めると、長袖のワイシャツ
を捲りあげ、眼鏡をかけている、ひょろりとした控えめに髪を茶に
染めた青年が視界に入った。市販で売られている一番大きなスーツ
ケースを転がしており、その足取りは明らかに重そうである。呼吸
をする様子も激しく、傍から見てもあまりいい状態ではない。
飲み物を持っていないのだろうか。あの様子では数分後には熱中
症になって、倒れている可能性がある。しかしここで水を渡すのは、
いい歳の男性に対してお節介ではないだろうか。一人で考え込んで
いると、突然青年の方から弱々しい声で話しかけてきたのだ。
﹁あの⋮⋮すみません。ちょっと道をお尋ねしたいのですが﹂
そう言えばよく人から道を聞かれやすい人間だったと君恵は思い
つつ、青年に返事をした。
﹁なんでしょうか、私がわかる範囲で良ければお答えします﹂
かどかみ
彼は少しだけ顔が明るくなり、君恵の元に近づいてきた。
﹁ありがとうございます。東波大学理工学研究科、門上研究室なの
ですか、わかりますか? 久々に大学に来たのですが、モノレール
がまったく来なくて⋮⋮。初めて駅から歩いてきたので、途中で道
がわからなくなってしまったのです﹂
﹁歩いて⋮⋮! それはお疲れ様です﹂
最寄り駅から大学までは歩いて三十分以上かかる。これでは汗だ
くになっているのも納得できた。
﹁タイミングが悪かったですね。一時間くらい前から間引き運転に
なっているんですよ﹂
﹁どうしてですか?﹂
青年はきょとんとした顔をしている。久々に来たと言っていたが、
ここ数年は来ていないのだろう。
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﹁五年半前のエネルギー管理都市の更新後、市から知らせがあった
んです。これまでは受け身の姿勢で技術を維持していたけれど、今
後は攻めの姿勢で技術革新をしたいと。そのため、それ以後実験や
製造過程で大規模な電力を使用する場合には、市全体で電力を使う
量を抑えているんです。だから昼のモノレールが間引き運転されて
いるんですよ。一、二時間に一本がいいところですね﹂
﹁僕が修了して、この町を出た後の更新だったからそのことは知ら
なかった⋮⋮。そんなに変わっていたんだ﹂
彼は感心しながら、風景はたいして変わらないが、以前とは仕組
みが変わった町並みを眺めていた。
﹁あ、そうだ、研究室までどう行けばいいんですか?﹂
﹁ちょっと待っていてください﹂
青年をその場に待たせて、君恵は自転車に荷物を乗せて転がして
くる。
﹁私も大学に少し用があるので、ご一緒しますよ。研究室まではわ
かりませんが、研究科の棟までは把握できますので﹂
﹁いや、しかし⋮⋮﹂
﹁ここ数年で、新しい研究棟が随分建てられたんですよ。迷いたい
のなら、それでもいいですけど?﹂
にっこりと君恵は微笑む。少しくらい息抜きに歩くのもいいかも
しれないと思ったのだ。
﹁は、はあ⋮⋮。それならお言葉に甘えて﹂
そう言うと、青年は名刺を差し出してきた。今時電子媒体での交
換が主流であるため、紙の名刺など珍しい。自転車のストッパーを
あさいまなぶ
下ろし、両手で受け取った。
﹁浅井学です。五年半前にここの理工学研究科を修了して、海外の
大学院で博士課程に進んでいました。今は研究員として下積みを重
ねています﹂
そこには世界の工業大学で最も有名な大学名と校章が印刷されて
いた。予想以上に優秀な人であるという事実に驚きを隠せない。
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﹁意外ですか?﹂
﹁そう言うわけでは⋮⋮﹂
﹁別に構いませんよ。研究者っぽいオーラなんて出せないですから。
あの、差し支えないならお名前を伺っていいですか?﹂
﹁はい。東波大学大学院生命環境科学研究科の修士課程に所属して
いる、時沢君恵です﹂
そして先ほど買った水を学に差しだした。
﹁よろしかったらどうぞ。喉渇いていませんか?﹂
今度は躊躇いもせずに、学は笑顔で受け取った。
﹁ありがとうございます、君恵さん﹂
キャンパスは食料品店から十分ほど歩けば入れるが、そこから研
究棟まではさらに十分は歩かなくてはならなかった。
君恵にとっては毎日自転車で通学している道であるため、歩いて
みるとまた違った風景が広がっている。二人で木々に囲まれた道を
進んでいった。
﹁ここら辺の風景は変わっていないね﹂
﹁さすがに外の雰囲気まで変えるお金はありませんから。︱︱五年
前、理工学研究科を始めとして、新しい研究棟が次々とできて、改
修工事も始めたんです。その影響もあって、部屋の配置が変わって
いる可能性が高いんですよ﹂
﹁そうなんだ。もしかしたら僕の探し物も捨てられてしまったかも
しれない⋮⋮﹂
だいぶ学の話し方が砕けてきて、君恵はほっとしていた。学は学
部時代に早期卒業をしているため今は二十九歳、君恵は浪人してい
ると言ってもまだ二十四歳︱︱さすがにこれだけ歳が離れているの
に、敬語を使われるのは気が引けたため、ため口で話してください
とお願いしたのだ。
﹁君恵さんは二年生だよね、実験は?﹂
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﹁︱︱休日ですし、お休みです。あまりがつがつ続けていても、体
が持ちませんから﹂
視線を逸らして静かに呟く。その返答は半分正しくもあり、半分
は嘘である。
﹁僕も研究が嫌になって一週間くらい無断で研究室から逃亡したこ
とあるよ。必死に実験しているのに、データが出なくて、すべてか
ら放り投げたくなった。でも︱︱結局戻って来たけどね﹂
﹁研究が好きなんですね。だからさらに上を目指して海外で博士課
程を?﹂
﹁⋮⋮まあ、そういうところかな﹂
視線を下げて、歯切れ悪く言う姿が気になった。つい口を開こう
と思ったが、ぐっと堪えて閉じた。君恵にとっても触れてほしくな
い出来事はある。他人の過去に触れてはいけない︱︱。
世間話や東波市の移り変わりを話していると、あっという間に理
工学研究科の棟まで辿り着いた。しかし十棟以上立ち並んでいるた
め、違う研究科の君恵にとってはどれが行きたい棟かはわからなか
った。奥には新しく建てられた研究棟があり、手前にあるC棟には
改修工事が入る予定で、既に人の気配はない。だが学はその棟を見
上げていた。
﹁ここの棟だったんですか?﹂
﹁そうそう、これじゃ引っ越したみたいだね。︱︱案内、ありがと
う。ここからは一人で大丈夫。今度会えたら、ご飯でもごちそうさ
せて﹂
﹁いえ、そんな気を使われても⋮⋮!﹂
﹁いやいや、いなくなってからの変革模様が知ることができて助か
ったよ。︱︱それじゃ、またね﹂
颯爽と振り返り、大きなスーツケースを転がし始める。夏のある
日に突然現れた優男の青年。ほんの少しの時間であったが、気分転
換には充分であった。だがこれ以上踏み入れても仕方ない。
﹁あ、あの⋮⋮!﹂
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呼びかけると学が立ち止まり、不思議そうな顔で振り返る。
﹁⋮⋮探し物、見つかるといいですね﹂
﹁あまり期待はしていないけどね。ありがとう﹂
学は憂いの表情を浮かべながら、再び背を向けて歩き始めた。
暑い夏の日、君恵は彼の白いワイシャツが棟の中に入って見えな
くなるまで、ぼんやりと眺めていた。
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2、光のオルゴール
君恵は学を見送ると、自転車の進路を図書館に向けて進み始める。
しかし彼のあの表情が脳内からなかなか消えなかった。
探し物とはなんだろうか。あの表情からすると、とても大切なも
ののように思われる。どこにあるかもわからないもの、もし探すの
が大変なら手伝ってあげるべきじゃないだろうか︱︱?
ついつい名残惜しくも立ち止まり、振り返って研究棟を見た。
だが突然、鼓膜に突き刺さるような爆音が聞こえてきたのだ。
﹁いったい何の音!? 理工学研究棟の中庭? あそこには確か実
験用のプレハブ小屋があった気が⋮⋮。もしかしたら危険な実験で
もしている?﹂
学がどの方向に進んだかはわからないが、直進していけばプレハ
ブ小屋に当たるかもしれない。
数秒躊躇ったが決断を下し、自転車をその場に止めて学の後を追
った。そのおかげか、白いワイシャツを着た彼を早々に見つけるこ
とができた。既に物品を出し終えて何年も経っている研究棟の中は
暗く、太陽の光が唯一の光源となっている。廊下を走る音に気づい
た彼は、目を瞬かせながら振り返った。
﹁君恵さん、どうしたの?﹂
﹁中庭のプレハブ小屋で危険な実験をしているようなので、それを
知らせに﹂
﹁プレハブ小屋ってことは、かなり大きな実機スケールの実験をし
ているんだね。ご心配ありがとう。ここの棟になかったら、プレハ
ブ小屋を避けて移動するから﹂
学は君恵の気持ちを有り難く受け取りつつも、マイペースに階段
を上っていく。引き返しても良かったが、探すのを手伝おうと思っ
てきたため、そのまま彼の後を追った。
鬱蒼としている三階で、学は鍵のかかっていない、ある研究室の
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ドアを開けた。
机が規則正しく置かれ、その上は埃で覆われている。随分前に引
っ越してしまったようだ。だが彼は迷いもせず一つの机に向かった。
窓際にあり、ちょうどそこだけ光が照らしている。そして、その引
き出しを手前に引いた。
そこには一冊のノートと伏せられた一枚の写真が入っていたのだ。
学はノートを取り上げると恐る恐るページを開こうとした。
それと同じくらいに、君恵の耳に優しくも切ない音が飛び込んで
くる。
﹁オルゴールの音?﹂
聞き覚えのあるメロディーに惹かれて思わず廊下に出た。廊下の
奥の方から聞こえてくる。自然とそっちに向かって進み始めていた。
︱︱ずっと昔に聞いたことがある。いったいどこで?
音は少しずつ大きくなっていくが、音を出している物体は見つか
らない。
ふと、途中で何かを蹴ったのか、音をたてて転がっていく。視線
を下げれば、手のひらサイズほどの石が転がっていた。手に取ると、
透き通っているがやや黒みがかった石である。
﹁君恵さん、どうかしたの?﹂
学がノートと写真を持って近寄ってくる。
﹁オルゴールの音が聞こえたから、誰かいるのかと思いまして﹂
﹁僕は聞こえないけど?﹂
﹁でも確かに音が⋮⋮﹂
今も流れ続けているメロディー。軽やかにどこまでも響き渡って
いるようだ。君恵はさらに奥に向かって歩く。学もつられて進んで
いると、彼女が握っている石を見て目を丸くした。
﹁その石は?﹂
﹁さっき拾いました。珍しい色だから誰かの忘れ物ですかね。︱︱
ほらさっきよりもはっきりと音が聞こえます。きっとあの太陽が照
らしている廊下の先ですよ﹂
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光の加減からか、廊下の先がよく見えないが、君恵ははっきりと
言い切った。オルゴールは突然音が鳴り始めた、つまり誰かがネジ
を巻いたということだ。その人に聞けば、この音楽が何かを教えて
くれるだろう。
学の制止を振り切り、君恵はその光のもとに行くと、ちょうどプ
レハブからまた爆音が聞こえた。外をちらっと見つつ、二人は廊下
を渡りきった︱︱。
やがて光で照らされている廊下から出ると、君恵は突然変わった
風景に目を丸くした。さっきまでいたC棟の廊下には荷物も何もな
く埃が溜まっていたが、この棟に入った途端荷物が大量に置かれて
いるのだ。おまけに人がいる気配すらあり、冷房まできいている。
表示された看板を見れば、そこには理工学研究科D棟の文字が。
﹁改修工事をするのはC棟とD棟のはずなのに、まだD棟の引っ越
しは終わっていない?﹂
首を傾げるが、さらなる異変に気づく。オルゴールの音が聞こえ
なくなっていたのだ。確かにこの棟から聞こえてきたはずだが、な
ぜだろうか。
学は険しい顔をしながら、きょろきょろと辺りを見渡している。
そして後ろを振り返ると、目を大きく見開いて君恵に迫ってきた。
﹁どうかしましたか?﹂
﹁君恵さん、さっきの石を見せて﹂
驚く間もなく腕を捕まれて、学の視線の高さまで持っていかれる。
思わぬ接近により君恵の頬が赤らむが、彼は焦った表情で彼女の手
を凝視していた。握っていた手を開くと、そこには︱︱何もなかっ
た。
これには持っていた君恵の方が驚きを露わにする。
﹁さっきまで持っていたのに! 手を開けるまで、確かに石を持っ
ていた感触が⋮⋮﹂
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﹁感触は所詮、人の思いこみだ。︱︱もしかして用が済んだから無
くなった? それならあの石はやっぱり⋮⋮﹂
君恵など存在しないかのように、一人で考え込み始めた。しかし
腕は握られたままである。軽く動かして、手をふりほどこうと思っ
たが意外と強い力で握られていた。
﹁あの⋮⋮﹂
学は急に顔を上げて君恵と視線を合わせる。意図に気づいてくれ
たのだろうと思い、胸を撫で下ろそうとしたが、学は焦った表情の
まま廊下を見渡し、そして君恵の腕を握ったまま大股で歩き始めた
のだ。
﹁浅井さ︱︱﹂
﹁黙って!﹂
穏和だった学にぴしゃりとはねのけられ、若干ショックを受けた。
そんな君恵の心境など知らずに、彼はある小部屋のドアを軽くノッ
クをして誰もいないことと、ノブを回して中に入れることを確認し
た。そして次の瞬間、腕を強く引っ張って、君恵を部屋の中に押し
込んだのだ。
思ってもいなかった展開に脳内は混乱するばかり。部屋は物置な
のか、埃を被った段ボールでいっぱいだ。程なくして学も入り、静
かにドアを閉め、鍵をかけた。
学はドアに背をつけつつ、眼鏡越しに真っ黒な瞳で君恵を射ぬい
てきた。真剣な眼差しで見つめられ、君恵の鼓動は心なしか速く動
いている。
理由を聞くために口を開こうとすると、学が人差し指を唇に置い
た。まだ黙っていろというとか。
すると廊下から一団の声が大きくなって聞こえてきた。お腹が空
いた、今日は何を食べようかと、俺は食堂の豚丼を食べるなど、内
容からして昼ご飯を食べにいく団体だ。
そういえば朝から何も食べていなかった︱︱そう君恵は考えた途
端、お腹が鳴りそうになったが、ぐっと堪えて鳴るのを極力小さく
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する。その時、不意に君恵の頭の中に何かが引っかかった。
しばらくして団体が通り過ぎ声も聞こえなくなると、学は息を吐
き出し、頭を抱えながらドアに背をつけたまま座り込んだ。
﹁偶然の可能性がかなり高いけど、まさか技術的に確立できていた
なんて⋮⋮﹂
﹁浅井さん、いったいどういうことですか?﹂
﹁⋮⋮君恵さん、積まれている新聞から一番新しいのを取ってくれ
るかな? たしか隣の研究室は一ヶ月経った新聞はこの物置部屋に
入れているはずだから﹂
君恵は頭の中に何かが引っかかったまま、言われたとおりに新聞
の束を探し出し、最もドアの手前に置かれている日付が新しそうな
ものを取り上げた。
だが一面の記事を見た瞬間、君恵は固まった。
その様子を横目で見ていた浅井は肩を竦める。
﹁やっぱり思っていた通りかな﹂
﹁いえ、古い新聞を取ってしまっただけですよ。新しいのを探して
きます!﹂
君恵がその新聞を放り出して、また別の日付のものを探し始める。
だが探しても、探しても、それより日付が新しい新聞はない。ふと
思い出したように手を叩いた。
﹁ここの部屋に入れた新聞は、この束が最後だったのではないです
か? それなら︱︱﹂
﹁君恵さん、窓の外を見てごらん。何が見える?﹂
うっすらと笑みを浮かべている学がカーテンによって閉じられた
窓を指で示す。段ボールの間をすり抜けて、光が漏れているカーテ
ンにそっと手を付けた。鼓動を落ち着けるために、大きく深呼吸を
した。
そして少しだけカーテンを開けて、そこから外の景色を眺めると、
愕然とする。
廊下から聞こえた話の内容の違和感、綺麗な新聞の日付はいずれ
17
も気のせいだったとできるが、外の景色は誤魔化せなかった。
﹁新しく建てられた研究棟がない⋮⋮。それに外が騒がしい、こん
なにさっきまで人はいなかったのに! どうして?﹂
﹁正確な日時は言えないけど、おそらく僕らは︱︱﹂
廊下からまた別の団体の騒がしい声が聞こえる。内容としては今
年の夏のオリンピックについてだった。その開催地は、君恵が六年
前に観戦した開催地︱︱。
﹁︱︱過去に戻ってしまったのかもしれない﹂
窓越しから蝉がやかましくないている。
だがそんな音など、今の君恵の耳には入ってこなかった。
18
3、時空旅行理論
タイムトラベル︱︱その名の通り日本語で言えば時空旅行。それ
は過去や未来へ、時空を越えて旅をするという意味だ。
あくまでお話の中だけの存在であり、実現しないことだと君恵は
思っていた。
だが、学ははっきりと言ったのだ、﹁過去に戻ってしまった﹂と
︱︱。
* * *
﹁学さん、言っている意味がよくわからないのですが﹂
﹁そのままの意味だよ、過去に戻った、つまりタイムトラベルして
しまったんだ。六年前ということは、僕が修士課程の二年で、君恵
さんは大学入学前ということかな﹂
﹁けど、本当にできるはずが︱︱﹂
﹁理論は昔からできている。後は実際に行えるかどうかだけだった。
まあそこが一番難しかったんだけど﹂
深いところまで知ったような口振りだ。大学まで歩いている途中
で聞いた話では、学はエネルギー工学を専攻しているはずである。
それとどう結びつくのか。
﹁まず、ワームホールって聞いたことある?﹂
﹁小説や映画で名前程度は⋮⋮﹂
君恵は本をよく読む方であるが、SF関係の話はあまり手を付け
ていない。それを見越してか、学は説明を付け加える。
﹁簡単に説明するとワームホールというのは、時空のある一点から
別の離れた一点を繋ぐトンネルのような空間領域なんだ。それを上
19
手く利用することができれば、過去に戻るタイムトラベルも可能だ
と考えられている﹂
﹁それは現在と過去をワームホールで繋ぐということですか?﹂
﹁そういうこと。︱︱ただすべてが理論上のことであって、タイム
トラベルをするには、三つの問題があったんだ。一つ目がワームホ
ールをどこから調達するか。二つ目が穴の維持や拡大をできるかど
うか。三つ目がそれらを実行するための必要な物質はなんなのか﹂
学が指を三本立てながら説明してくる。
途中で部屋の前を誰かが通るときは、静かにするよう合図をして
くれた。冷静に指示をしてくれるため、君恵はとんでもない状況に
置かれているにも関わらず、パニックにならずにすんでいる。
﹁一つ目の問題はすぐに解決することができた。非常に小さな世界、
量子レベルの世界でワームホールが現れては消えるということが推
察されたんだ。つまりそこから調達すればいい。しかしここで問題
が発生する。それが二つ目だ﹂
外から鐘の音が聞こえる。昼休みが終わった時間だろうか。君恵
はちらっと時計を見たが、自分の時計では鐘が鳴るはずのない時間
を示していた。
﹁二つ目の問題はワームホールの穴を維持や拡大ができるかどうか。
ワームホールは理論的には瞬時に潰れて、すべてを飲み込むブラッ
クホールに変貌すると言われている。だから穴を維持し続ける必要
がある。また発見された穴は非常に小さいため、拡大する必要があ
る。そして︱︱それを解決するには、ある物質の存在が必要となっ
た。そして三つ目の問題になる﹂
少しだけ間を置いてから、最後の問題へと移る。
﹁三つ目の問題は、その必要な物質を作り出すのは非常に難しいと
いうこと。ワームホールを潰れないようにするためには、負のエネ
ルギーを持ち、空間を押し広げる反動的な作用をする物質︱︱俗に
“エキゾチック物質”とも言われている物質が必要ということがわ
かっている。そんなもの仮説上の物質だけど、タイムトラベルする
20
にはなくてはならないものだ。既に実証されているカシミール効果
を利用すれば、負のエネルギーを持ち微少な空間を作り出すことが
できるが︱︱あまりに小さすぎるから、タイムトラベルは現実とし
ては無理というところが数年前までの考えだった﹂
学が一息吐き、そっと耳をドアに付けると、どの研究室も昼食に
行ったのか廊下は静まり返っていた。視線を君恵に戻すと、笑みを
浮かべながら口を開いた。
﹁実は僕はこの大学に在籍しているとき、エキゾチック物質の研究
をしていたんだ﹂
思ってもいない告白に、君恵は目を大きく見開いた。学は躊躇い
ながらも口を開く。
﹁本来は物理学から見たエネルギーの基礎研究をしていたけど、昔
から興味があって片手間にそっちも勉強していたんだ。タイムトラ
ベルの根本である量子力学は、普段も必要な知識として勉強してい
たから、応用の一つとして勉強していた。あとは不可能なことを可
能にしてみたくて︱︱研究者として、それは譲れなかったんだ﹂
修士課程時代の学ということは、今の君恵と同じ立場である。こ
の世のことはすべて科学で証明することができる︱︱その考えはわ
からなくもないが、限りなく不可能なことを自分で証明したいとは
思えなかった。
︱︱こういう人が研究者に向いているんだろうな。純粋に研究を楽
しんでいる人が。
ひょろりとした体格で眼鏡と、いかにも文化系に見える彼が、頼
もしく見えた瞬間でもあった。
﹁そんな中でたまたまできてしまったんだ、その物質らしきものを﹂
﹁それって凄いことじゃないですか⋮⋮!﹂
﹁けど本当に鍵となる物質かはわからない。それにその大きさは指
先に乗る程度、つまりようやく肉眼で見える大きさ。元からあるワ
21
ームホールを大きくしたとしても、せいぜいミクロの物体を十倍に
するくらい。人間が通れる大きさに拡大するまではできないよ﹂
そして大きく溜息を吐いた。基礎研究の観点から見れば充分な成
果であると思うが、応用研究としてはまだまだ物足りないものなの
かもしれない。
﹁その成果は誰かに話したんですか?﹂
﹁最も信頼していた二人だけ。その時の直属の教授と、同期の女性
だけには話した﹂
過去形の言い方が少し気になる。
﹁反応が悪かったんですか?﹂
﹁そうだね。驚いてはくれたけど、笑って流された。言い方も悪か
ったかな、興奮していて、全然理論的じゃなかった﹂
苦笑いをしながら、学は髪をかきあげる。当時の彼にとっては大
発見のことだった。けれど周囲からの反応がなければ、それはただ
の空回りであったと痛感するかもしれない。
﹁⋮⋮さて、話を元に戻すと、タイムトラベルはいくつかの問題点
さえクリアすれば達成できると言われている。特に膨大なエキゾチ
ック物質と呼ばれるもの︱︱手のひらサイズぐらいの物質ができれ
ば、人間が通れるくらいの大きさにワームホールを拡大できると推
測されている﹂
手のひらサイズという言葉を聞いて、君恵ははっとした。右手を
開き、何もないことを確認する。
ようやく長々とした学の話の意図が分かってきた。なぜタイムト
ラベルをしたという理由を、丁寧に教えてくれているのだ。
﹁わかったみたいだね。僕が実物を見てないからわからないけど、
おそらく君恵さんが拾った石のようなものは、エキゾチック物質の
固まりではないかと思うよ。︱︱そして他の要因が偶然に生じて、
ワームホールが現れ、拡大し、過去へと戻ってしまったわけ﹂
学は涼しい顔でさらりとまとめを言ったが、君恵にとっては事の
要因に自分が大きく関わっているのに気づき、顔がひきつり始めた。
22
﹁私のせいですよね、私があれを拾わなければ⋮⋮!﹂
﹁たとえ君恵さんが拾っていなくても、僕が拾っていた可能性はあ
る。偶然に偶然が重なっただけだから、思い詰めないで﹂
﹁けど⋮⋮!﹂
﹁し、静かに!﹂
学が慌てて君恵を黙らせた。緊張感が部屋の中に伝わる。
外から聞こえるのは女性と男性の話し声。
まなぶ
﹁⋮⋮まったく門上先生ったら、急にこんな雑用を押しつけて。時
々抜けているあの性格、どうにかならないのかしら、学﹂
﹁時々ならいい方じゃないかな。隣の研究室なんか、よくあること
らしいし﹂
学の眉間にしわが寄った。二人の男女はドアの前を通り過ぎてい
く。
﹁知っている? そこの部屋、ほとんど物置状態らしいわ。数年前
まみ
の新聞なんかざらにあるらしいって。いい加減に処分してほしいわ
ね﹂
﹁そうなんだ。︱︱ねえ、真美、今晩暇? 聞いてほしいことがあ
るんだけど⋮⋮﹂
﹁明日早いから、少しだけね。何の話?﹂
﹁いや、資料がないと言いにくいから、夜にきちんと話す﹂
廊下を歩いている二人の気配が消えるまで、学は唇をぎゅっと噤
んだままだった。
﹁学さん⋮⋮﹂
重い空気の中、たまらず君恵が口を開くと、学はゆっくりと立ち
上がった。
﹁六年前だから、僕はまだここにいるよ。気をつけなくてはね、さ
すがにはち合わせたら歴史上の観点からして危険だから。とりあえ
ず一通り説明も終わったし、ここから出て、現代に戻る方法を考え
ようか。夏の暑い日に、こんなところにいたら脱水症状を起こしか
ねない⋮⋮﹂
23
君恵は未だに不安定な精神状態のままドアの方に歩み寄り、学の
顔を見上げる。すると彼は頬を緩めた。
﹁大丈夫、きっと何とかなるよ﹂
その言葉だけが唯一の救いだった。
なるべく人と接触しないようにしながら、廊下を走り、階段を駆
け降りる。前方から人が現れた場合には、瞬時に顔を隠しながらそ
の場をやり過ごす。特に学など、本人がそのエリアにいるのだから、
絶対に顔を見られてはいけない。
やっとの思いで外に出ると、燦々と陽の光が降り注いでいた。君
恵は指の隙間から、目を細めて空を見上げた。
ああ、確かに自分はこの時代に存在している︱︱そう思わずには
いられなかった。
﹁なるべく大学から離れて、ネットカフェ辺りで正確な情報を仕入
れることから始めよう﹂
ネットカフェなら値段次第で個室で活動できるため、その提案に
は賛成だった。大学から少し離れた、学生が訪れにくそうな少し高
めの店に移動する。しかしこの時代の彼も訪れるのではないかとい
う考えがよぎった。だがそれはないとはっきりと言い切られる。
﹁あの日は夜遅くまで研究室にいた。その後、どこにも寄らず家で
すぐに寝てしまったよ﹂
﹁よく覚えているんですね﹂
﹁⋮⋮僕のタイムトラベルの理論を初めて彼女に話した日だから、
覚えているよ﹂
それ以上は言わずに、人目を避けた道を歩きながら、店へと向か
う。
学の複雑そうな表情を見て、君恵の心に少しだけ雲がかかった。
︱︱特別な女性だったのかな、真美さんという方は。
そんな人に対して相手をされなければ、傷つくのはもちろんだろ
24
う。おそらく二人は︱︱。
︱︱余計なことを考えるのはやめよう。今は元の時代に戻ることだ
けを考える。学さんだけでもどうにか返さないと現代の科学にとっ
て、大きな損失となるから。
真っ白いワイシャツを着た彼の背中を見ながら、君恵はそう思っ
たのだ。
人生に躓いで迷い路に入り込んでいる君恵よりも、広がり続ける
世界に果敢に飛び込んでいく学の方が価値としては上だと思ってい
るから。
25
4、未来からの手紙
大学から遠く、駅から近い場所に目的のネットカフェはあるそう
だ。途中で君恵はスーパーで買い物をし、自分のだけでなく、学が
着る服も一式買う。彼はそれを有り難く受け取り、ワイシャツ、パ
ンツスーツ、革靴から、半袖、ジーパン、運動靴という動きやすい
格好に着替えた。念のためと、サングラスと帽子も購入済みだ。
﹁違和感なく着こなしていますね﹂
﹁これが僕の通常のスタイルだよ。学会とか、公の場に参加すると
きしか、スーツは着ていない﹂
今回東波市に来たのも、国内で学会があった帰りについでに寄っ
ただけだと言っていた。スーツケースが大きかったわけもそこで知
ったのだ。
﹁⋮⋮置きっぱなしになっているスーツケースとか、盗まれないと
いいですが﹂
﹁僕たちがどのタイミングで戻るかどうかにかかっているかな。⋮
⋮ワームホールを繋ぐ時代も気まぐれだから、こればっかりはどう
にもならない﹂
﹁︱︱それって、つまり未来を繋ぐワームホールを開けたとしても、
同じ時代に戻れる確証はないんですか!﹂
﹁⋮⋮ごめん﹂
端的に、けれどはっきりと学は言った。それは君恵の心の中を迷
走し始めるのには充分な内容だ。意気揚々と動こうとしていたのに、
一気にやる気が削がれてしまう。おそらく小部屋の中の告白は、混
乱している君恵を考慮して良いところだけを述べたようだ。
木陰に差し掛かったところで、君恵は俯いて立ち止まった。
﹁変に期待させて、本当にごめん﹂
﹁謝らないでください。私たちの力ではどうにもならないことです
から。ただ︱︱﹂
26
﹁ただ︱︱?﹂
﹁いえ、何でもないです。早く行きましょう﹂
顔を見せずに学を差し置いて歩くのを再開する。
言えるわけがない。言ってしまえば、彼の心を揺るがしてしまう
可能性があるから︱︱。
﹁︱︱時沢⋮⋮君恵?﹂
どこからか凛とした少女の声が聞こえてくる。その声を聞いて君
恵は耳を疑った。歩き始めて間もなく突然止まった君恵に対して、
学は目を瞬かせている。脳裏をよぎるのは彼と交わした、数少ない
約束︱︱。
﹃この時代の人とは極力接しない︱︱特に名前を知っている相手に
は、絶対に﹄ この時代での自分たちの存在は、歴史を改変させてしまう恐れが
ある。特に知っている人と交流すれば、多かれ少なかれ、事後に変
化を与えるだろう。
だが、彼女の声を聞いた君恵はそれを守りきれなかった︱︱。学
が止める間もなく、振り返ってしまったのだ。
話しかけてきたのは黒髪のショートカットで快活そうな少女。シ
ョートパンツにノースリーブと、真夏の太陽とよく似合いそうだっ
た。
みき
﹁ああ、やっぱり君恵だ!﹂
﹁美希だよね?﹂
﹁そうだよ、久しぶり! 覚えていてくれてありがとう!﹂
﹁忘れるわけないよ。だって︱︱﹂
それから先のことは理性が働いて飲み込んだ。
美希は中高と同じ学校で、会えばそれなりに話す同級生だった。
彼女は現役で東波大学に入学したが、君恵は浪人をしているため、
大学入学にはズレが生じている。
27
﹁どうしたの、こんな所に?﹂
﹁モチベーションを上げるために、普段の大学はどういう様子なの
かなって来てみたの。生の様子が知りたくて﹂
これは事前に用意していた回答である。これならすぐに去っても
違和感はない。
﹁それなら、あたしに言ってくれればゆっくり案内したのに﹂
﹁そうだったね、すっかり忘れていたよ。でも大丈夫、一通り見た
からもう帰るね。それじゃ﹂
本当は話し込みたかったが、隣から学の無言の圧力が伝わってき
たため、それはやめておいた。名残惜しかったが、もう会うことも
ない友人との会話を打ち切り、背を向ける。
それにも関わらず、美希は目を細めながら二人の背中を眺め、ゆ
っくり口を開いた。
・・・
﹁︱︱本当に急いでいるの? 六年後の君恵、そして浅井学さん﹂
ごくりとつばを飲んだ。
︱︱今、何て言った?
その言葉に対して、本日最も動揺した君恵の手を学はきつく握り
しめてきた。今度こそ振り返らないようにするための処置だろう。
表情は見えないが、君恵以上に虚を突かれているはずなのに、まっ
たくその気配は感じられない。
その状態のまま足を一歩踏み出そうとしたが、次の内容を聞いて
しまったためにそれはなかった。
﹁タイムパラドックスとか気にしているんだよね、浅井さん。未来
の人間が過去の人間と交流してしまったら、未来が変わる可能性が
あるって。でも心配しなくて大丈夫だよ。あたしとなら影響は少な
い﹂
一息置いて、美希はさらりと口に出した。
28
﹁だって︱︱そう長い命じゃないから﹂
︱︱どうしてそんなことが言えるの?
油断していた君恵の涙腺が一気に崩壊する。とっさに口を押さえ
たがただの気休めだった。横にいた学は君恵の頬に流れる涙を目の
当たりにし、目を丸くしていた。
﹁どうしたの、大丈夫?﹂
後ろにいる美希には聞こえないように小さな声を投げかけてきた。
だが辛うじて返答するしかできない。
﹁すみません⋮⋮、つい⋮⋮﹂
それは君恵にとっても同級生たちにとっても衝撃を与えた出来事。
六年近く前の出来事だが、記憶は未だに色褪せてはいない︱︱。
しかし次の言葉では、深刻そうな内容を言った直後とは感じさせ
ないほど、美希は口調をガラリと変えた。
﹁⋮⋮なんてね、今度検査入院するから、万が一変な病気があった
ら困るなって思っただけ。︱︱二人とも、今はとりあえず安全な場
所で情報収集ってとこかな? けどさ、今時、身分証明書なしで入
れるネットカフェなんてほとんどないよ。良かったらあたしのアパ
ートに来る? インターネット環境くらいは完備しているよ﹂
君恵や学が美希の変わりように困惑している中、彼女は一人だけ
で話を進めていく。ゆっくりと近づき、二人の真後ろまで来ると、
声を潜めて発してきた。
﹁︱︱早く六年後に戻らないと、戻りたい時間がずれるよ? 浅井
さんが活躍する時代がずれる⋮⋮ならまだしも、なくなるかもよ?﹂
学は考えながら、唇を堅く噛みしめつつ目を伏せた。そして君恵
の手を離すと、ゆっくり美希の方へと振り向いた。
やがみみき
﹁君は誰だ?﹂
﹁あたしは矢上美希。タイムトラベルに興味がある、東波大学理工
学部の一年生。よろしく﹂
29
美希は学生街から少し離れたところにあるアパートに住んでいた。
自転車で通学するには許容範囲であるが、徒歩だと若干遠い距離だ。
道中の会話は彼女が質問してくる話題を君恵が簡単に答える程度
で、あまり会話は続かなかった。学はその様子を少し離れたところ
から見ている感じだ。
美希に対して不信感を抱くのは仕方ないだろう。君恵だって、彼
女が何を考え、何を知っているかは定かではなく、その上この少女
と再び話すことになるなど思ってもいなかったため、戸惑うことも
多く会話が進まない時が多かった。
アパートの中には美希の後に学が踏み入れた。部屋の中をじっく
りと見渡しながら奥に歩いて行くが、驚くくらいに整理整頓されて
いた。テレビとパソコン、そしてベッドと勉強机の上に授業で使用
する参考書が何冊かある程度だ。おそらくクローゼットの中に他の
ものは収納されているだろうが、予め来客が予想されていたような
状態である。
﹁まずはテレビを見る? 二人にとっては過去を振り返るようなも
のだけど﹂
テレビを付けると、ちょうど昼間のワイドショーがやっていた。
そこには二人がいた時代でも見る司会者の若かかりし頃の姿が映っ
ている。ニュースの内容は各地のエネルギーの自給自足の状態につ
いて。この年は確か東波市の査定年である。
膝を付いて食い入るように見ていると、美希は冷えた麦茶を差し
出してきた。
﹁これで信じた? この年が六年前だって﹂
﹁そうですね、再認識させてもらいました﹂
学は正座をし、背筋を延ばして、真正面から美希を見据えた。
﹁さて、本題に入りましょう。あなたはいったい何者ですか。どう
して僕たちが六年前から来たと見抜けるんですか。はぐらかさない
で教えていただきたい﹂
30
﹁あたしが今から言う話を信じてくれるんですか?﹂
﹁内容によります。あまりにも嘘めいていたら、すぐにここを去り
ます﹂
﹁わかりました﹂
美希は肩を竦めると、机の引き出しから一通の手紙を取り出し、
学に手渡した。端っこが若干焦げているが、中身を読むには支障が
ない。
﹁大学に入学して、授業を終えて帰ってきたある日、机の上にそれ
が置かれていた。︱︱それは今から六年後にいる姉から届いたメッ
セージだった﹂
内容は簡単に言えばこうだ。
タイムトラベルは理論的には既に説明でき、あとは実証するだけ。
だが実証にはいくつもの問題点があり、現実的に考えれば無理だろ
う。しかし偶然が重なれば実行できる可能性もなくはない。
一方、美希が大学一年生の夏に、六年後の未来から偶然にもタイ
ムトラベルした男女が現れる。その一人はこの大学志望の中高時代
の友人だ。
この時代の美希なら、二人に手を貸しても、すぐに他の人に喋ら
なければタイムパラドックスを起こす可能性は極めて低い。他の人
と言うのは、その時代の姉も含んでいる。
そしておそらく男性の方が、何らかの突破口を見いだすはずだか
ら、彼の指示に従って動くこと。
これは時間との戦い︱︱早ければ早いほど、彼らが戻る時代のズ
レは小さくなる。
ただし注意点としては、彼らに出会っても自らを含む未来のこと
は聞いてはならない。
31
やがみまみ
末筆には小さく、六年後の“矢上真美”と書かれていた。
学は手紙にしわが入るくらいに強く握りしめ、文字を凝視してい
た。
この手紙は確かに君恵と学を助ける理由として捉えていいかもし
れないが、たやすくこの内容を受け入れられるだろうか。美希は腕
を組みながら立ち、読み終わった二人を見て口を開いた。
﹁正直これを読んだ直後は嘘だと思った。でも姉の彼氏は、密かに
タイムトラベルについて研究しているみたいで、そういう学問領域
もあると知った。これから六年でもしかしたら劇的な変化があって、
何かを過去に送ることができる時代になっているのかなってね。あ
くまであたしの願望、実現していたらきっと楽しい未来だなと思う﹂
今度は君恵が固まる番だった。
学の彼氏とはこの文章を書いた真美のこと。その人はさっき一緒
に話していた、数少ない彼の実証実験を知っている人で︱︱。
﹁真美からの手紙か。このさっぱりした簡潔な内容、どこかで読ん
だことがあると思ったよ﹂
﹁あたしの言うことやこの手紙の内容、信じるの?﹂
﹁︱︱どうせ僕たちだけでは限界がある。手伝ってくれる人は多い
方がいい﹂
﹁あたしがあなたをこの時代のあなたに意図的に会わす可能性もあ
るのに、信用するつもり?﹂
﹁真美ならそんなことしないよ。だから妹である、君もしない。そ
れじゃ、駄目かな?﹂
微笑を浮かべながら、学は美希を見上げる。
ほんの少しだけ彼女の頬が赤くなったような気がしたが、すぐに
顔色は元に戻った。
﹁本当に六年後の彼氏さんもいい人過ぎるんだね。簡単に人を信用
するなんて﹂
﹁これでも吟味している方だよ。それでも裏切られることはあるけ
ど⋮。︱︱改めて、矢上美希さん、短い間ですがよろしくお願いし
32
ます﹂
﹁お願いします、美希﹂
学が頭を下げたので、君恵も慌てて下げた。
美希は、はあっと息を吐きながら、顔を上げた。
﹁できる範囲だけど、精一杯手伝う。ちょっと変わった夏を過ごし
たいしね﹂
そう言って、歯を出して、にこりと笑った。
33
5、真美と美希
﹁今いる年が、どのような年かというのはわかった。次に必要なの
は、この時代から未来に向けてタイムトラベルができるかどうかだ﹂
昼食も終え、美希から色々と聞き出したところで、学は早速切り
出し始めた。紙に問題点を書き出していく。
﹁パソコン使ってもいいよ?﹂
﹁何かを考えるときは自分で書き出した方がいい。自由にスペース
を利用できるし、僕はこのスタイルが一番しっくりくる﹂
書き終えると顔を上げて、君恵と美希を交互に見てきた。
﹁まずこの時代では、既にタイムトラベルの理論は確立されている。
あとは実証のみだ。必要なのはエキゾチック物質と呼ばれる負のエ
ネルギーを持つ物質。あとはワームホールを少しでも大きなものを
自然界から発生させるための衝撃、の主に二点が重要となってくる﹂
﹁膨大なエキゾチック物質を誰かが作れているレベルまで実証試験
は進んでいるかどうか⋮⋮が一つのポイントでしょうか﹂
﹁その通り。片手間に研究していた僕は小さなものしか作れなかっ
た。でも他の人はどうだろう? 例えば東波大学の量子力学専攻の
准教授に、タイムトラベルについて興味を持っている人がいる。僕
も何度か話したことがあるけど⋮⋮何かを知っていそうな雰囲気だ
った。もしかしたら︱︱作り出しているかもしれない﹂
﹁⋮⋮その人わかる、少しお腹が出ている中年の佐竹准教授でしょ
う。授業を受けているから知っているよ。あとで当たってみる﹂
美希は顎を手で押さえながら言葉を返した。
﹁他にも東波市は別名、研究都市と言われることもあって、研究者
が多い。片端から量子力学とか、タイムトラベルに関係ありそうな
人に会って、話を聞いてみるのもいいかもしれない﹂
﹁けど、仮に物質を作りだしていたとしても、その物質を手に入れ
ることはできるんですか?﹂
34
君恵は学の話の途中で、無理矢理ねじ込ませた。学はつい視線を
泳がせる。
﹁そこはどうにかして、もらうしかないでしょう。⋮⋮黙って持ち
出すことも考えなくてはね﹂
﹁それは犯罪です。私、六年前にそんな重要なものが盗まれたとい
うニュースは聞いたことがありません﹂
はっきり言い切ったが、学はすぐに反論し返す。
﹁確かにそんなニュースは聞いたことないけど、こう考えてみてよ。
その物質は貴重な存在だとわかっている。もしある研究所で作り出
すことに成功したとしたら、世界中からこぞって奪いにやってくる
かもしれない。盗まれた場合でも、これ以上目を付けられたくなか
ったから、公表しないんじゃないかな?﹂
すらすらと言葉を並べるのに驚きもしたが、君恵は決して首を縦
には振らなかった。
﹁盗みは犯罪です。リスクが高すぎます。捕まったらこの先の未来
がどうなるか、保証はできませんよ﹂
きつすぎるくらいに言った方がいいと思い、遠慮なく言葉を発す
ると、急に学は視線を下げた。
﹁⋮⋮わかりました、君恵さん。とりあえず大学のその准教授に聞
くところから始めよう。︱︱次に衝撃を与えるってことだけど⋮⋮
これは相当な衝撃を与えないと無理だと思う。コンクリート同士で
衝撃を与えるくらい、いやそれ以上かも﹂
﹁最低でも工事現場でも行かないと無理ってことだね。それ以上だ
ったらどうするつもり?﹂
美希が的確に突っ込むと、学は眉間にしわを寄せた。
﹁⋮⋮爆破かな。それくらいしか僕は思いつかない﹂
﹁それはさすがに今後に影響を与えると思いますよ。特に音は誤魔
化しきれません!﹂
﹁音か⋮⋮。そうだ、君恵さんは覚えていない? ある工場で六年
前に大きな爆発事故があった夏の日を﹂
35
君恵の目が大きく見開いた。記憶の片隅にあったものが中央へと
やってくる。言われれば思い出せるが、自発的に思い出せず、“過
みつなが
去”として脳内では処理されていた。
﹁バイオ燃料を作っていた、三永工場での爆発事故ですね。発生原
因はわからず、確か死者も出たという⋮⋮三十三年前の事故を思い
出させるような事故だったとか﹂
途中まで話してはっとした。これは君恵たちにとっては過去の出
来事であるが、美希にとっては未来の出来事。そんなことを迂闊に
喋っては駄目だ。口を閉じようとしたが、彼女は涼しい顔をしてい
た。
﹁あたしが喋ったり、行動したりしなければ、別に大丈夫でしょ。
どうせ知ったところで簡単に変えられる未来じゃないし﹂
その言い分も一理ある。意見を学に求めようと視線を向けると、
首を傾げていた。
﹁たぶん大丈夫じゃないかな、詳細まで話さなければ。彼女が知っ
ても何もできない大きな出来事だから、歴史的な大きな矛盾点は生
まれないはず﹂
﹁わかりました。でも今後は気を付けます﹂
﹁まあ衝撃に関しては、少し置いておこう。他にもいくつか考えは
あるけど、その前に調べたいことがあるから﹂
﹁とりあえず深く突っ込んだ情報が欲しいね﹂
美希はすっと立ち上がり、ショルダーバックを肩からかけた。
﹁佐竹准教授に話を聞いてくる。浅井さんは、自分とはち合わせる
とヤバいから、インターネットを使って、自由に調べていていいよ。
君恵はどうする?﹂
﹁私も一緒に行っていい? 六年前の私は東波市にいないし、外の
状況も知っておきたい﹂
裏の理由を言ってしまえば、学と一緒に調べものをしても、どう
せ役には立たないと思ったからだ。それに研究者である彼は、どち
らかというと一人の方が集中できるかもしれないと感じ取っていた。
36
﹁そうだね、少しくらいなら大丈夫じゃないかな。まあ名乗る場合
があったら、念のために誤魔化しておいて﹂
﹁わかりました﹂
君恵も唯一この時代に持ってきたバックを抱えて、美希の後に着
いていった。
﹁気をつけて行ってらっしゃい。何かあったら電話︱︱いや無理か。
文明が進みすぎているし、おそらくワームホールを通ったときにな
んらかの磁場が発生してやられた可能性がある﹂
学は携帯電話の電源を入れたが画面は黒いままだった。君恵も同
様の操作をするが結果は同じだ。
﹁さて、どうするか⋮⋮﹂
﹁浅井さん、今からパソコンのフリーメールのアカウントを取った
らどうですか?﹂
﹁ああ、なるほど! それはいいアイディアだ!﹂
陰りがさしていた学の顔が急に明るくなる。美希の言葉通り、す
ぐにアカウントを取り、アドレスを書いたメモ紙を彼女に渡した。
﹁まめにチェックはするね。相談したいことがあったら遠慮なくど
うぞ。図書館とかで調べてくれても嬉しいけど、陽が暮れる前には
帰ってきてね。お腹空くから﹂
さっき昼食を食べたばかりなのに、その台詞に思わずクスッと笑
ってしまった。学は懐中時計を取り出すと、時刻をこの時代に合わ
せた。それを見て、君恵も腕時計の針を進ませる。そして彼からメ
モ紙を受け取ると、二人は学に見送られながら外に出た。
まだ太陽は高い位置にあり、照りつける日差しが肌に突き刺さる
ようで辛い。ついつい日陰を探してしまう状態だ。
﹁歩いて十五分くらいかな。途中で街路樹がある道を通るね﹂
﹁ありがとう。︱︱それにしてもよくパソコンのフリーメールを思
いついたね。びっくりした﹂
37
﹁そうかな。連絡手段は必要になってくることは目に見えていたか
ら、現時点で使えるものを考えれば、何ができるかわかると思う﹂
﹁そういうもの⋮⋮か﹂
美希の発言に、君恵は過去にも似たような言葉を聞いたことがあ
るのを思い出した。
高校三年生の文化祭の出し物で飲食物を売ることになり、彼女は
小道具担当だったが、気が付けば全体を統括する人になっていた。
なぜなら次々に助言をし、アイディアも出していくからだ。先生も
彼女の頭の回転の速さには脱帽しており、なぜそんなに色々なこと
を思いつくのかと聞いたら、さっき言ったことを返されたのだ。
成績や運動神経も良く、人望もあり、こういう人が世の中を引っ
張っていくのだなと、当時の君恵は思っていた。
だが︱︱未来というのは読めないものである。
大学に近づくにつれて、会話の内容も今後のことから世間話に近
くなり、敷地内に入ったときにはすっかり高校時代並みに打ち解け
ていた。
﹁まだ平日で人がたくさんいるから、少し遠回りして行こうか。ほ
ら、あそこに見えるのが理工学研究棟﹂
元の時代で見たものより若干少ない研究棟が並んでいた。新しい
棟がある場所は、この時代では更地が広がっている。
棟に近づくにつれて、だんだんと君恵は緊張してきていた。この
行動によって未来になんらかの不都合は起こらないだろうか︱︱と
思うと、いつも通りの行動ができなそうだ。だがそれは美希には話
さず、自らの胸の内に留めておく。
ようやく目的の棟に着き、入ろうとしたとき、突然誰かが呼びか
けてきた。
﹁あれ、美希? 美希じゃない!﹂
呼ばれた本人は振り返ると目を丸くした。彼女より少し背が高く、
長い髪を棚引かせている女性がいたのだ。腕には図書館の本が抱え
込まれている。
38
﹁お姉ちゃん、どうしたの?﹂
﹁今から研究室に戻るところ。まだ研究する気力は戻らないけど、
さすがにどうにかしないといけないから⋮⋮。そういう美希は研究
棟に何の用?﹂
﹁レポートの質問をしに来た。時間もないし、形振り構ってもいら
れないからさ﹂
﹁どの分野? 私が教えるのに﹂
﹁お姉ちゃんが苦手な量子力学。教えてくれるの?﹂
美希が横目で姉を見ると、ううっと声を漏らした。
﹁⋮⋮人に教えられるレベルではない、その分野は。量子力学って
ことは、佐竹先生? 気をつけてね、あの人、あまりいい噂は聞か
ないから﹂
﹁忠告ありがとう、じゃあね﹂
美希は姉の横を通り過ぎると、少し先に進んでいた君恵に追いつ
き、棟の中に一緒に入った。姉の後ろ姿は颯爽としており、一目だ
け見た感想としては“かっこいい女性”。さばさばした性格の妹と
も相通じる所がある。
極力君恵の顔を映像に残したくないので、防犯カメラがついてい
るエレベーターは避けて、階段を登り始める。四階まで登るのは少
し疲れるが、いい運動にはなる。
﹁今のが、真美お姉ちゃん。量子力学が苦手なくせに、それも多少
は扱う研究室にいて⋮⋮頑張れって感じ。最近元気がなかったけど、
ようやくふっきれてきたみたい﹂
﹁へえ、あの方が真美さん⋮⋮素敵なお姉さんだね﹂
︱︱そしてこの時代の学さんの彼女。すごくお似合い。
今夜、この時代の学は真美にタイムトラベルに関する話を打ち明
ける。しかし笑って流されるらしい。
もし真美に、自分は未来からタイムトラベルをして、この時代に
来たと言ったら、今晩の彼女は学に対して、どういう反応をするだ
ろうか。学の話を親身になって、聞いてくれるのではないだろうか
39
︱︱。
﹁この階だよ﹂
美希に言われて、廊下を歩き始めると、突然照明が消えた。
40
6、光無き探索
﹁何、停電?﹂
﹁意図的に照明を切ったみたい。冷房は効いている﹂
手をかざせば冷たい風が吹いていた。外から他の棟の様子を見る
と、同様のことが起こっている。
﹁エネルギー資源管理委員が危険と判断して、先に照明だけ切った
みたい。今日は急に暑くなってきたから、冷房を付ける人たちが増
えたってところか。⋮⋮これからどうするつもりだ? 市内の人口
が急激に増え始めた関係で、エネルギーの供給量が追いつかなくな
り始めている。いずれ需要が供給を越えて、東波市のエネルギー管
理都市の更新が難しくなるかもしれない﹂
﹁それよりも次の更新前に他の自治体や海外から燃料とかを買い取
るとなったら、いっきに東波市の信用が地に落ちてしまうわよ﹂
君恵が入学する前年、受験勉強で明け暮れていた夏は過去三十年
で最も暑い年だった。その影響でほとんどの市で苦戦を強いられた
らしい。しかし翌年の更新では、全国でもトップレベルの需要と供
給量の差の数値だったのだ。
﹁東波市のエネルギー委員がいくら優秀でも、今年の猛暑はかなり
厳しい戦いをしいられるかもしれない﹂
* * *
エネルギー管理都市に選定された自治体が、もし更新時までに自
給自足が達成できず、他の自治体から買い入れる場合は、非常に高
い税が換算される。つまりあまりに買い入れ量が多いと、完全なる
赤字自治体へと変貌する恐れがあるのだ。
41
しかしそれに対して自治体として何もしないわけではない。それ
ぞれの自治体の公務員の中に“エネルギー資源管理委員”という、
通称“エネルギー委員”が活躍しているのだ。
電力に関する取りまとめが仕事の大半で、例えば各エネルギーの
供給状況を見るのが一つであり、太陽光発電や風力発電が適切に動
いているかどうか、送電線のロスは限りなく少なくなっているかな
どをチェックしている。また電力が町の隅々までに行き渡っている
かどうかも確認しているのだ。他にも国や近隣の自治体のやり取り
など、仕事はたくさんある。
一方、国にも全国のエネルギー管理都市を統括している省庁があ
り、日々の管理だけでなく、自治体のペナルティによって得たお金
を回収し、他の自治体に補助金として分配する人がいる。憎まれ役
として言われつつも、国全体を見るのは非常にやりがいのあること
らしい。
そして彼らが活躍するのが夏と冬である。なぜなら一番電力供給
が逼迫するからだ。
* * *
君恵と美希は窓から射し込んでくる光を頼りに廊下を歩き、やが
て一番奥にある部屋へと辿り着いた。ネームプレートには“佐竹”
の文字が。ドアは指紋認証によって開くらしい。
美希がドアをノックするが、何も反応はなかった。何度も叩くが
結果は同じである。
﹁佐竹先生、いませんか?﹂
ドア近くで叫び、何気なくノブに触れて回してみると、なんと回
42
ったのだ。二人で顔を見合わす。
﹁⋮⋮もしかしたら今回は照明を落としだけでなく、実験器具等で
電気を止めないよう申請しているもの以外は、全部落ちているかも。
ちょっとだけ覗こうか﹂
君恵は美希の申し出に対して頷くと、ゆっくりドアを開ける。そ
して廊下に誰もいないことを確かめてから、するりと中に入り込ん
だ。
部屋の中は少しだけカーテンが開いて射し込んでいる光以外の光
源はない。真っ暗に近い状態であったため、より慎重に歩を進める。
﹁手分けして探そう。形は⋮⋮石でいいんだっけ?﹂
﹁石も一つの形で、様々な形があるらしいよ。固体であるのは確か
だけど、粉末や粒状のものとかも考えた方がいいって﹂
学は自分が偶然作ったものは石であると言ったが、人によって形
態は異なるはずと道中で話してくれていた。
大きく二つの敷地に分かれている部屋を手分けして探し始める。
君恵は机が雑多に並んだ奥の部屋を担当し、まずは端から引き出し
を覗いていく。中身は紙だけでなく、機械の部品やガラス器具など
様々な種類のものがあった。
﹁⋮⋮物置、いや秘密基地みたい﹂
一番奥まで行って、全体を見渡したときの印象だった。何でも探
せばあるという環境だが、はっきり言って整理されていない。上手
く使えばここで有意義な実験ができるだろう。
作業を再開し、大きな引き出しを開けると、大きな黒い箱が目に
飛び込んできた。それを机の上に置き、じっと見つめる。重量とし
てはあった。まるで何かを隠している箱。まさか︱︱。
﹁こんなところで何をしているのかな?﹂
目の前に集中していたため、突然話しかけられても適切に反応が
できなかった。ねっとりとした声とともに、すぐ後ろに男性が現れ
43
たのだ。
﹁人がいないときに黙って忍び込むのは泥棒さんと同じだよ。お仕
置きをしなくてはね﹂
その声色が気持ち悪く、背筋に悪寒が走った。動かないままでい
ると、右手を背に回されてきつく押さえ込まれる。
﹁色気はないが、悪くはないかな﹂
耳に息を吹きかけるように言葉を発する。あまりのことで固まっ
ているうちに、急に腰を触られ始めたのだ。非常に不快、一瞬で我
に戻る。
﹁や、やめてください!﹂
﹁不法侵入の疑いで警察に突き出そうか?﹂
うっと声が詰まった。そんなことされれば確実に公恵がこの時代
の人間でないということがばれてしまう。そんなことになれば、二
度と戻れる保証はない。
﹁少し遊んでくれれば、何も見なかったことにするよ。︱︱胸はあ
まり大きくないんだね、揉んで大きくしてあげようか?﹂
毛深い手が前の方に伸びてきた。
もう限界だ、声をどうにか発しようとする。
﹁へ、へん︱︱﹂
﹁ド変態ですね、佐竹准教授﹂
手がさっと離れ、君恵と佐竹は左を見た。美希が携帯電話を片手
に対峙しているのだ。
﹁証拠を撮らせて頂きました。嫌がる学生のお尻を触り、さらに胸
まで触ろうとする。数日間豚箱に押し入れることはできますね﹂
﹁お前⋮⋮! こっちは不法侵入されているんだぞ! 困るのはそ
っちじゃないか!﹂
﹁学生が先生の部屋に入ってはいけないという法律がどこにあるん
ですか? 入るのが駄目なら、“学生がここに踏み入れることを禁
ずる”とか書いておけばいいじゃないですか。でも書けなかった。
なぜなら学生を連れ込みたかったから﹂
44
佐竹の顔が徐々に青くなっていく。君恵はそっと離れ美希の隣へ
と移動した。
﹁不法侵入らしき疑いと、明らかなセクハラなら、どっちが世間的
には厳しい目を向けられるでしょうか、先生?﹂
﹁こ、こうなったら、お前等の恥ずかしい写真を納めるまでだ!﹂
佐竹がにやにやしながら、襲ってこようとしているのに対して、
美希は至って冷静だった。
﹁⋮⋮脳髄まで変態か﹂
美希は右足を瞬時に持ち上げて、華麗に佐竹の側頭部にかけて、
蹴りをお見舞いしたのだ。そのまま彼は机の上に上半身だけ飛ばさ
れ、気を失ってしまっていた。あまりに綺麗に蹴りが入ったので、
君恵は思わず感嘆してしまう。
﹁手加減したはずなんだけど、入れ所が悪かったかな。まあいいや、
今のうちに適当に物色しておこう﹂
美希は何もなかったかのように、再び作業を始める。その様子を
見て君恵はある黒い箱を彼女に指で示した。
﹁ねえ、美希、これ怪しくない?﹂
﹁黒い箱? 開けられるかな﹂
蓋を開ける場所は一カ所だけであり、金具で留められているとこ
ろを外せば開くだろう。明らかに何かを隠しておきたい箱、もしか
したらこの中に︱︱。
﹁開けるよ﹂
美希の言葉に対して、しっかり首を縦に振った。そして金具を外
すと小気味のいい音と共に開かれる。蓋を開けると、そこには︱︱。
﹁すぐにでもあの変態野郎、大学から追い出してやる!﹂
階段で降りる中、美希が怒りで湯気が吹き出そうな勢いで進んで
いた。
﹁いや、仮にもまだ授業とかあるし、後任とか決めるのに大変じゃ
45
⋮⋮﹂
﹁変態の授業なんか受けられるか! あたしが大学の教育局に写真
をばらまけば一発で左遷よ。誰だ、タイムトラベルに興味があるっ
て言ったのは!﹂
あの黒い箱の中身は︱︱際どい格好の大量のフィギュアやエロ本
ばかりであった。他にも同じような箱を見つけたが、どれも中身は
似たようで、タイムトラベルのタの字もでてこなかったのだ。怒り
のあまり、美希がもう一蹴りお見舞いしようとしたが、君恵に止め
られている。
代わりに脅迫めいた手紙を置いていった。その後はさらにメール
でも脅すらしい。
美希は中高と空手部に所属しており、当時は君恵も胴着姿の彼女
をよく見ていた。まさか今回も躊躇いもせずに足を上げるとは思っ
ていなかったが。
﹁変態、本当に変態。あたしに触っていたら、もう処刑ものよ﹂
﹁そこら辺にして、誰が聞いているかわからないんだから﹂
本来なら被害者の君恵が怒っているはずだが、美希がここまで憤
慨しているとつい忘れてしまいそうだ。思い出すだけでも背筋に悪
寒が走るような思いだが、美希の素晴らしい蹴りを思い出してどう
にか忘れようとした。
やれやれと溜息を吐いていると、階段の下から大きな段ボールを
抱えて、五十半ばの男性が登ってくるのが目に入った。足取りは遅
いが、一段一段確実に上ってくる。
﹁エレベーターも止まっているんだ。かなり逼迫しているのかな﹂
しかし男性が二人の横を通り過ぎ、あと一段で踊り場に出ようと
いうところで、彼は躓いてしまったのだ。
﹁大丈夫ですか!﹂
君恵はとっさに声をかけて手を差し伸べた。段ボールの中身は踊
り場中にばら撒かれる。
﹁ああ、すまない。だんだんと足腰が弱っているようで⋮⋮﹂
46
男性は君恵の手を丁重にお断りし、一人で立ち上がった。
﹁いつ電気が戻るかわからないから、階段を使っていたが、これか
らは待つことも考えないといけない﹂
白髪が見え隠れしている眼鏡をかけている男性で、感じのいいお
じさんという印象を受けた。
﹁拾うの、手伝いますね﹂
﹁すみません、ありがとう﹂
一番遠くに散らばった物から手を付け始める。美希もそれになら
って拾い始めた。
段ボールの中に入っていたものはだいたいが本だが、印刷した論
文や書類も入っている。また小さなボールも転がっており、それが
拾うに一番厄介であった。
ふと拾った本のタイトルに目が行く。タイトルは︱︱﹃時空旅行
travel﹄という文字がいくつもあったのだ。
の理論﹄という、新しめの本である。そして拾った論文の中には﹃
Time
︱︱この人もタイムトラベルに興味が?
君恵と美希は拾った物を段ボールの中に詰め込むと、男性は微笑
みながらお礼を言った。
﹁どうもありがとう、お嬢さん方。見かけない顔だが、どこの研究
室の子たちかな?﹂
﹁あたしはまだ大学一年生なので、研究室はまだ決めていません。
先生にレポートの質問をしに来ただけですから﹂
﹁私は彼女に付き合っているだけで、所属は別のところです﹂
﹁そうか、そうか。つまり髪の短いお嬢さんは、今から勧誘すれば
入ってくれる可能性があるわけだね﹂
美希の方を見ながら言ってくる。
﹁私は門上。基礎物理を元にして、エネルギー問題に関して研究を
している。興味があったら、いつでも来てほしい﹂
﹁ありがとうございます。では門上教授、お気をつけて﹂
二人は笑顔で送り出すと、門上は再びゆっくりと階段を登り始め
47
た。
彼の背中が見えなくなった途端、君恵は表情を曇らせる。
﹁あの人が門上教授か。お姉ちゃんもいい教授だよって言っていた
けど、本当みたい﹂
﹁ええ、本当に雰囲気からしていい人そうね﹂
︱︱なら、なぜ学は教授のことや、修士時代のことを口にしようと
したとき、言葉を濁らせたの?
美希の言葉にあいまいに返答しながら、そのことが脳裏をよぎる。
門上の笑顔に引かれつつも、心の底から信用していいのかどうか躊
躇っていた。
帰りに図書館により、何冊かめぼしい本を借り、食材を購入して
から、美希の家へと戻ってきた。学がいた机の周りには、真っ黒に
書かれた何枚もの紙が散らばっている。
﹁お帰り。日が暮れる前に帰ってきてくれたんだね﹂
﹁学さんがそうしてほしいって言ったから、急いで帰ってきたんで
すよ﹂
今日の夕飯はあまり時間を取られたくなかったのでカレーだ。夕
方には電力規制もおさまり、テレビも普通に見ることができた。
学は美希のエロ准教授についての報告を聞きつつ、テレビを横目
で見ていた。多少なりとも期待していたため、若干残念そうだ。
﹁これは研究所に行くしかないかな⋮⋮﹂
﹁あの学さん。今日、たまたま出会った人がタイムトラベルについ
て調べていたようなのですが⋮⋮﹂
﹁大学の人で?﹂
﹁はい。︱︱門上教授というお方です﹂
学の表情が固まった。それを気にしないふりをして話を進めてい
く。
﹁いい人そうでした、穏和な優しいおじさんという感じで。その人
48
から話を聞いてもいいのではないかと思ったのですが﹂
﹁⋮⋮まあ外面はすごくいいからね。心の中では何を考えているか、
わからないけど﹂
ぼそっと呟かれる。美希も彼の異変に気づきつつも、口は出さな
かった。
﹁何があったんですか?﹂
﹁別に。たまに聞く話だよ。︱︱他人が書いた論文を自分が書いた
ように名前をすり替える⋮⋮ということが﹂
研究者の世界では、論文を雑誌に投稿したり、学会に参加する、
特許を取るなど、その学問で有名になるためにはそれらの数をこな
す必要がある。特に論文は多くの人に名前や研究内容を知ってもら
ういい機会ではあるが⋮⋮。
学は視線を逸らし、テレビの画面をじっと見つめる。まるでその
話にはもう触れないでくれという行為のようだ。
君恵はそっと背を向け、美希と共にカレーを作り始めた。
日は沈み、夜が訪れていた︱︱。
49
7、迷い込む暗き道
ここは︱︱どこだろう。
君恵は真っ暗な闇の中で、一人ぽつんと立っていた。
暗いところは嫌いだ。
望んでもいないのに、心まで暗くなってしまう。
思い出したくないことを、思い出してしまう。
進もうと思っていても、立ち止まってしまう。
自分の行ってきたことは無駄だったのか、間違っていたのか︱︱。
頬に涙が伝っていく。もう流れきったと思ったのに、まだ流れる
のか。
いい加減に未来に向かって進まなければ︱︱けれど過去を見てし
まっている。
なぜなら未来に続く道には、拒絶を示すかのように未だに小さく
切り刻まれた白い紙吹雪が待っているから。
あれを越えなければ、現実を見なければ︱︱。
* * *
全身に汗をかきながら、床で寝ていた君恵は飛び起きた。呼吸も
荒くなっており、内容を振り返らなくても悪い夢を見たのはわかっ
ている。
50
﹁嫌な夢。今日は疲れたから、夢なんか見ずに眠れると思ったのに﹂
美希は隣にあるベッドの上で、静かな寝息をたてて寝ている。そ
の逆側、少し離れたところに学がタオルケットにくるまって横にな
っている姿が︱︱見られなかった。
いると思っていた相手がおらず、目を瞬かせる。
トイレにいる気配はない。まだ朝日が昇りかけている時間帯に散
歩でも行っているのだろうか。
突然いなくなってしまい少し不安に思ったが、学の鞄は置いてあ
ったので、時間が経てば戻ってくるだろう・
予定の起床時刻までまだ時間はある。もう少し体力を戻すために、
再び横になって目を閉じた。そして数分後、君恵の意識はまどろみ
の中へと消えていった。
ちゃぶだい
﹁技術総合研究所に行ってみないかな?﹂
三人で小さな卓袱台を囲みながら、学が話を切り出してくる。エ
キゾチック物質はそれなりの実験環境が整っていないと作り出すの
は難しいため、必然的に大きな総合研究所に目が向けられる。実用
化を第一と考えて研究を進めている所だが、まだ基礎研究レベルで
あるタイムトラベルに興味を持っている研究者がいるという噂だ。
﹁僕も変装して行ってみようと思う﹂
﹁けどもしこの時代の学さんと出会ったら︱︱﹂
﹁この日は教授に話をしに行っている。その後は校内の敷地を散策
して、家で休んだかな。教授以外の誰かと会おうと思っていなかっ
たはずだ﹂
今日はおそらく門上にタイムトラベルのことを話に行ったが、相
手にされなかった日︱︱。
﹁僕の従兄弟で研究に興味があって来たという、適当な設定で行け
ば大丈夫︱︱﹂
﹃次のニュースです。昨夜遅く、東波市にある技術総合研究所に何
51
者かが侵入したという事件が起こりました﹄
アナウンサーの声を聞くと、三人は一斉に顔をテレビへと向けた。
そこには大学街から少し離れたところにある研究所が映っている。
﹃厳重なセキュリティを突破し、侵入されましたが、すぐに警備員
会社の者が来たため、何も盗られずに犯人は逃走した模様です。警
察では聞き込み調査などを繰り返し、犯人を特定し、不法侵入の疑
いで逮捕する見通しです。では、次は︱︱﹄
﹁何が目的で侵入を? 変な人がいるものね﹂
美希が食後の麦茶を飲みながら、ぼんやり眺めている。
﹁けど研究所としては少しでも機密情報が漏れたら、大きな損失だ。
先に論文や特許を取らないとそれまでの研究の意味がなさないから﹂
﹁そんな日に研究所の中に入れるの?﹂
﹁夏休みは基本的に一般公開されているから、ある程度中までは入
れると思うけど⋮⋮。公開休止していたら、報道を知らずに来たっ
ていうところで無理矢理押し切ろう﹂
﹁浅井さんって、結構行き当たりばったりなんだ﹂
﹁発想がどんどん出てくるって言ってくれないかな?﹂
照れ笑いをしながら、学は残っていたミニトマトを食べる。
君恵は横顔を見つつ、彼の言動を思い出していた。
︱︱学さんは早朝いなかった。私たちがいないところで何を⋮⋮。
まさか︱︱!
一瞬脳裏に嫌な考えがよぎったが、それを振り払うのかのように、
一気に麦茶を飲み干した。
今はとにかく六年後に戻ることだ。それは何よりも最優先されな
くてはならない︱︱。
その後、簡単に打ち合わせをした。表向きは軽い研究所見学、そ
れに付け加えて交渉して研究所の内部まで入れるようにする。あく
までも今回は見学、それ以上でもそれ以下でもないということを付
け加えられて。
52
技術総合研究所は大学付近にあるモノレールの駅から二度乗り継
ぎ、大学とは逆側の方向に進んでいく。その間に見た移りゆく風景
は君恵が東波大学に来たばかりと同じであり、まだ発展途中の市で
あった。
学はいつも使っている眼鏡よりも縁が太いものを購入し、髪型も
よりぼさぼさにする。そして服装も人目に付かないシンプルなもの
にすると、かなり若返って見えた。
﹁あとは少し声色を変えれば、従兄弟ってことになるだろう﹂
学の立場は三人の中で最も危険であるはずなのに、その表情は非
常に生き生きとしている。何度かそこの研究所には訪れているが、
毎回違う発見があって面白いと言っていた。つまりただ単に見学が
楽しみなだけらしい。
研究所の最寄り駅に着くと、親子連れの団体も降り、共に研究所
に向かっていた。今日の一般公開は中止かと思われたが、訪れみれ
ば特に何もなかったかのように振る舞われている。話を聞いてみる
と、侵入された場所は裏口であり、基本的に見学コースには犯人の
形跡がなかったため、通常通り運営していると言われた。
逆にそれ以外の部分は警備が厳しくなっているというのが、察す
ることができる。
研究所の見学コースに入ると、親子連れ以外にも東波大学の学生
と見られる人たちもいるため、三人が混じっていても特に違和感は
ない。
君恵は展示物に思わず見入っていた。研究のことを一般の人に対
しても分かりやすく説明をしたり、実物も置いてあるため、畑違い
の研究をしている君恵にとっても興味のそそられるものが多い。
﹁職員の方々がお疲れ気味の人が多い。表情も暗いから、まだ犯人
の目処はたっていないと見ていいね﹂
学は展示物を見つつそう指摘してくる。知らない人から見たら研
究で疲れているのかと思ったが、何度か出入りをしている彼らの普
53
段の様子を知っている学が言うのだから、正しいのだろう。
やがて順路の一番奥まで来ると、学は近くにいた若い研究員に話
しかけた。
﹁すみません、もっと実験をしている姿を生で見たいのですが、そ
ういう場所はないのですか? 以前、友人が見たと聞いたのですが﹂
﹁申し訳ありませんが、今日はそれ以上見学することはできません。
また後日来て下さい﹂
﹁どうにかなりませんか。それを楽しみに来たんです。次にいつ来
られるかわからないんです!﹂
﹁すみません、上からもそう言われていて⋮⋮﹂
﹁そこをどうにかお願いします!﹂
﹁ですから︱︱﹂
しばらく学と研究員のやりとりが続いていると、次第にその場に
いた人たちの視線を集め始めた。研究員はその視線に気づき、表情
を一転させる。学に耳打ちをし、順路から離れて、小部屋へと案内
された。もちろん君恵と美希も一緒に来ている。机とテーブルはも
ちろんのこと、研究関係の雑誌が脇に置かれている、来客用のスペ
ースらしい。
﹁上司を呼んでくるので、少し待っていて下さい﹂
自分では判断ができないと思い、上に判断を仰ぐのだろう。研究
員の後ろ姿を見届けると、学がにやりと笑みを浮かべる。それを見
て、君恵は溜息を吐く。
﹁初めからこういう展開を狙っていたのね、まな︱︱いえ、浅井さ
ん﹂
﹁だいたい人っていうのは体裁を保ちたがるから、少し強めに押し
ておけばどうにかなるものだよ﹂
学のことは敵にしたくないと誓った君恵であった。
十分ほど待っていると、さっきの研究員が白衣を着た背の高い女
性を連れてきた。
﹁貴方たちが研究室見学をしたいと言った人たちでしょうか?﹂
54
﹁はい、そうです。非常に勉強になると聞いて訪れたのですが⋮⋮
何かあったのですか?﹂
﹁少し立て込んでいまして。︱︱ニュースをご覧になっていないの
ですか?﹂
﹁ニュースって何のことでしょうか?﹂
まったく知らない状況でいくらしい。もちろん演技であるが、そ
のような素振りも見せずに、やりとりを始めた。
いくら無理だと言っても、どうしても見たいとひたすら言い続け、
とうとう根負けした女性研究員が大きく息を吐いた。
﹁⋮⋮わかりました。警察のチェックが終わった研究室でいつもは
公開している場所がありますので、そこだけご案内します﹂
﹁すみません、無理を言ってしまい﹂
﹁いいんですよ。これほど熱心に研究のことについて興味を持って
くれる人がいるということは、有り難いことですから。では、ご案
内します﹂
小部屋から出て、通常の順路の先にある道へと進んでいく。子供
たちの喧噪で騒がしかった広間から、照明が少しだけ落とされた廊
下に入ると、別世界に入ったような印象を感じる。どちらかという
と、馴染みの空間に来たという言葉が正しく、君恵が普段研究室に
向かっている雰囲気と似ていた。
﹁一つお聞きしたいのですが、こちらの研究所ではタイムトラベル
について研究をしている方がいらっしゃると聞いたのですが、本当
ですか?﹂
静かな空間に来ると、学は一気に確信を突いてきた。だがそれで
も表情は穏やかで、ただの純粋な好奇心で聞いている風に見せてい
る。
﹁タイムトラベル⋮⋮? そうですね⋮⋮昔はいたらしいです﹂
﹁本当ですか?﹂
55
﹁ええ。ただ結果が出なかったので、必然的に解散しました。今は
行っていませんよ。︱︱では、これからご案内する場所の説明を致
しましょう﹂
女性はそれ以上のことは知らないようで、説明の合間に学がさり
げなく聞いても、すべて首を傾げるだけだった。学だけでなく、美
希まで加勢しているが、いい情報は得られそうにない。研究所の奥
に来たとはいえ、これでは無駄足になりそうな状態だ。
君恵は二人が並んでいる姿を見ると、美希が真美とダブり、学と
真美で並んで歩いているように見えてしまう。ゼミなどでお互いに
言い合いつつ、切磋琢磨に向上していく姿が自然と思い浮かぶ。非
常にお似合いの組み合わせだ。
ぼんやりと考えごとをしていると、冷房や人が歩く音以外に、ま
た別の音が耳に僅かだが入ってくる。どこかで聞いたことがある音
色︱︱それはオルゴールの音だった。
﹁あの時の音?﹂
立ち止まって耳を澄ますと、ワームホールを潜る時に聞いた、あ
の音が確かに耳に入ってきたのだ。
前方にいる人たちは話していて、この小さな異変に気づかないの
だろうか、それともまた君恵だけが聞こえるのだろうか。突っ立っ
ていると、学が振り返ってきた。
﹁どうかした?﹂
﹁⋮⋮すみません、お手洗いに行きたいので、先に行ってもらって
もよろしいですか? すぐに追いつきますので、だいたいの場所を
教えてもらえれば行きます!﹂
女性研究員がすぐ右の通路を指で示した。
﹁お手洗いはその先にあります。研究室はこの廊下を道なりに進ん
だところですので、わかると思いますが⋮⋮別に待っていますよ?﹂
﹁いえ、先に行って下さい、お願いします!﹂
何気なくお腹の辺りを触りながら主張すると、彼女は何らかの意
図として察してくれたのか、先に進んでくれたのだ。ほっとする間
56
もなく、いそいそとお手洗いの方に向かった。
﹁学さんの演技癖が移ってきたかも⋮⋮﹂
お手洗いに行きたいなど、もちろん嘘。けろっとした表情で廊下
を移動する。
運良く向かった通路の先に進むと、オルゴールの音は鮮明になっ
てきた。そして地下へと続く階段のところで音は最も聞こえてきた
のだ。
この先に何かあるかもしれない︱︱ただの直感であったため、こ
れだけを学に報告するのは躊躇われた。
︱︱この先に何の部屋があるのだけ確認したら戻ろう。時間的にそ
れが限界だ。
知りたいという好奇心が躊躇っていた心を上回った。誰もいない
のを確認してから、階段を降り始める。
地下は二階まであり、一階よりさらに奥から聞こえてくるようだ
った。照明がどんどん暗くなっていく。鼓動が速くなってくる。
地下二階に着くと、正面と左右、そして階段の脇にドアがあった。
その時、正面のドアの向こうから足音が聞こえてきたのだ。君恵は
慌てて、その逆である階段脇のドアに向かった。最も古びている、
改修された後もないドアだったため、何かの音が漏れるならこうい
う条件であると思ったのだ。
予想通りドアを開けるとオルゴールの音がはっきりと聞こえた。
ここまでくれば一音、一音まで把握できるが、何の曲かはまだ思い
出せなかった。
よく見ればもう一枚ドアが奥にある。明かりは点滅している蛍光
灯のみ。
ゆっくりと近づき、ノブを回して引くと、軋んだ音と共に開くこ
とができた。
中は中央にランプが灯っているだけで、ほぼ真っ暗だった。
﹁すみません、どなたかいらっしゃいますか?﹂
小さく声を発するが、さすがにこんな明かりの中では誰もいない
57
らしく、反応はない。そしてドアを開けてからは、あのオルゴール
の音は聞こえなくなった。
首を傾げつつ、時間的にもう厳しいと思い、ドアを閉めようとし
た瞬間、突然両手で背中を押されたのだ。勢いそのままに部屋の中
に押し込まれる。何も構えていなかったので、地面に転がり込んで
しまった。
﹁誰ですか!﹂
すぐに振り返ったが、光と闇の中を隔てていたドアが閉まり始め
ている。その後ろには人の姿が︱︱。
﹁ちょっと何するんですか!﹂
立ち上がり、ドアに近づいたときには、拒絶の音を立ててドアを
閉められた。そしてドアの前につっかえ棒のようなものがかけられ
る。
顔面蒼白になり、慌ててノブを回して押すが軋んだ音がするだけ
だった。
ドアを必死に叩いて、叫ぶが何も反応はない。
人が階段を登っていく音が聞こえたが、やがて聞こえなくなった。
﹁そ、そんな⋮⋮﹂
崩れ落ちるように君恵は座り込む。目にはうっすら涙が浮かんで
いる。
僅かな明かりしかない空間に、君恵は閉じこめられた。
58
8、理想論と現実問題
︱︱どうしてこんな目にあわなくちゃいけないんだろう⋮⋮。
十歳くらいの少女は床でぐったりした状態で横になっていた。頭
痛はし、呼吸も段々弱々しくなっていき、動くのもままならない。
︱︱冷房をつけようと思ったらつかなかった⋮⋮気がする。
その日の最高気温は三十五度を越えるため、各自熱中症には気を
つけるよう天気予報は伝えていた。祖母のお見舞いに行った母親に
も、﹁今日も暑くなるから、冷房をつけていなさいよ﹂と言われた。
だからその言葉通りにスイッチを押したが、何も反応しなかった。
冷蔵庫を開くと涼しかったため、しばらくそのまま開けていたが、
やがて冷気はなくなっていたのだ。
テレビでも見ようと思ったが電気もつかなかったため、暑い太陽
の光の下で、寝転がった状態で読書をしていたら、少しずつ体が重
くなっていった。
やがて読書を終えると、急に喉に乾きを抱き始めた。立ち上がり、
温くなった冷蔵庫まで行こうとしたが、途中で躓き、そのまま動け
なくなってしまったのだ。
︱︱水、水が欲しい⋮⋮。誰か、誰か⋮⋮。
これが熱中症であったと気づくのは、もう少し先のことだ。
全身から汗を出し切り、意識が少しずつ遠のこうとしたとき、激
しくドアが叩かれた。
︱︱誰かいる⋮⋮。
だが、声に出すのも困難な状態に既に少女は陥っていた。助けを
求めようにもか細い声を出すしかできない。
やがてドアを叩く音が静まると、どうにか保っていた意識が再び
遠のき始める。
しかし次の瞬間、鍵穴を回す音がし、一人の女性が切羽詰まった
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表情で入ってきたのだ。
﹁時沢さん、時沢君恵ちゃん!?﹂ 女性は倒れ込んでいる君恵を見ると、顔を強ばらせた。
﹁君恵ちゃんよね、話せるなら返事をして!﹂
﹁︱︱きみえ⋮⋮です﹂
﹁よかった、まだ喋れるわね。でも危険な状態には変わりない。︱
︱救急車呼んで、早く!﹂
﹁は、はい!﹂
管理人のおじさんが、血相を変えて携帯電話を操作し始める。女
性はタオルから冷えきった保冷剤を取り出し、それを君恵の脇の下
に挟み、首筋にも当てた。そして背中を起こした君恵に、持ってい
たスポーツ飲料を口に少しだけ含ませた。
﹁ごめんなさい、本当に。停電に気づかなくて。辛かったでしょう
⋮⋮﹂
彼女の顔はどこか泣きそうだった。だから君恵はあえて微笑んで
見せた。
﹁でも⋮⋮お姉さんが来てくれたから、だいじょうぶ⋮⋮﹂
東波市とはまた別のエネルギー管理都市の一つに住んでいた君恵。
そこは需要と供給のバランスがぎりぎりにも関わらず管理都市を申
請、制定されたが、案の定二年目の猛暑には耐えきれず、各地で停
電が勃発したのだ。
細心の注意を払いつつ、エネルギー管理委員は大停電にならない
よう、こまめに適宜停電をずらしながら起こしていたが、運悪く君
恵の周辺では長時間停電状態になってしまったのだ。
他の家では留守にしているか、異常に気付いた人が多数であった
ため、事なきを済んだところが多かった。だが君恵を始めとして、
熱中症に陥った人も何人かいたのも事実である。そして、それに気
づいた管理委員によって、命の危険が及ぶ前に大多数の者は救出さ
60
れたのだ。
それは君恵が初めて憧れた職業であり、人だった。
以後、エネルギー問題や環境問題などに興味を持ち始め、いつし
かそのような問題を取り扱う仕事に就きたいと思ったのだ。
そして行き着いたのが、君恵を救ってくれた、公務員の職の一つ
であるエネルギー管理委員。筆記試験や面接試験等を突破しなけれ
ばならず、目指すにはそれ相応の覚悟が必要である。
君恵も覚悟はし、勉強をし続けていた。そして向かえたその年の
試験。
結果を見れば︱︱一次試験より先に進むことはできなかった。
* * *
突然何者かに突き飛ばされ、部屋に閉じこめられた君恵は、何度
か間を置いてドアを叩いて助けを求めたが、何も反応はない。
絶望の中に陥りそうになったが、どうにか自分に対して鼓舞をし、
若干明かりが見える奥へと進み始める。足下に注意をしながら進み、
明かりの下に来ると、そこには木の机が置いてあり、様々な書物が
開いて置かれていた。新しい物から黄ばんでいる書物まであるが、
机自体に埃は被っていないため、つい最近、もしかしたら今日もこ
の部屋を使っていたかもしれない。
﹁何の本かしら⋮⋮﹂
英文で書かれた本を何気なく覗き込む。だが読んでいくうちに、
目が見る見るうちに丸くなっていく。
﹁もしかして、かつてここで研究を⋮⋮?﹂
“Time”という文字が頻繁に出てくる、その本の表紙を見る
と、思った通りのタイトルであった。
61
﹁直訳すると、時間旅行⋮⋮。研究していたっていうのは本当だっ
たんだ。徐々に縮小して、お金がないから、こんなところで?﹂
﹁︱︱こんなところって言うのは失礼な話でだな﹂
外の明かりがドア先から見えたと思ったら、すぐにその光はなく
なってしまった。
そして中に入ってきた人が、靴で床を鳴らしながら、君恵に向か
ってくる。
﹁どこから迷い込んだのかな? お嬢さん?﹂
始めは暗くて見えなかったが、やがてその人の姿が明かりに照ら
されて露わになってくる。ぼろぼろの白衣を着た、ほっそりとした
長身の四十代半ばの男性。
徐々に迫ってくる男に対して、君恵は下がり気味になり、途中で
机に当たってしまった。その衝撃で写真立てが落ち、ガラスが飛び
散る。
﹁どこから来たかと聞いているんだよ﹂
﹁⋮⋮上の研究所から﹂
﹁鍵は閉めたはずだが﹂
あまりにも近くに来ていたため、思わず若干視線を逸らす。
﹁開いていましたよ。たまたま中を覗いた時に、誰かに背中を押さ
れて閉じこめられたんです﹂
男が左手を君恵のすぐ脇の壁に付けた。
﹁本当か?﹂
﹁ほ、本当です⋮⋮﹂
男がすぐ目の前におり、吐息がかかりそうな勢いだ。しばらくそ
の状態でいたが、やがて男は手を離して君恵から離れた。解放され
ると思わず腰を抜かしてしまい、しゃがみ込む。呼吸が荒い。精一
杯威勢を放ちつつも、息を殺して耐えたためだろう。
﹁まあいい。まったく誰がこの部屋に君を閉じこめたのか。ここに
は極秘資料がたくさんあるのに﹂
男は写真たてを拾いつつ、机の上を整理し始めた。紙や資料はま
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とめられ、本は適当に紙を挟んで積み上げられていく。
﹁⋮⋮タイムトラベルについて研究しているんですか?﹂
﹁そうだよ。⋮⋮へえ、よくわかったね。それに驚かないんだ、そ
ういうのが研究対象だって﹂
﹁知り合いに興味半分で勉強している人がいるので﹂
勉強するだけなら誰でもできる。極力オブラードに包みつつ返し
た。
これは絶好のチャンスかもしれない。この人は佐竹と違って、確
実に何かを知っている。エキゾチック物質も作り出しているかもし
れない。
立ち上がると、先ほど落とした写真たてに目がいった。
何かの集合写真だろう。桜の木の下で人々が仲良く並んでいた。
目の前にいる男性の若かりし頃の姿や、優しそうな笑顔を浮かべて
いる男性︱︱。
﹁門上教授⋮⋮?﹂
﹁君、彼のことを知っているのか? 研究室の人間か?﹂
君恵が門上のことを話題に出すと、彼︱︱田原の目つきが鋭くな
った。それに対して一瞬圧倒されたがしっかりと首を横に振る。
﹁違います。たまたま階段で転んだところを助けただけです﹂
﹁なんだ、名前を知っているだけか﹂
空気が自然と緩んだ。彼は君恵を一瞥だけすると、再び作業に戻
った。背中まで向けられ、これでは非常に話しかけづらい。このま
ま大人しく戻った方がいいのだろうか、だが︱︱。
﹁君の知り合いはどうしてタイムトラベルのことを勉強しているの
?﹂
急に田原が話しかけてきた。君恵は学のことを思い浮かべたが、
首を傾げ気味になる。
﹁どうしてでしょう⋮⋮。あまりそのことに関しては話したことが
ないんですよね﹂
この時代に来て、美希と出会ってからは二人で話すという機会は
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なくなっていた。よくよく考えれば、ただ単に“興味があるから”
としか聞いたことがない。
﹁ふうん。まあタイムトラベルについて研究する人なんて、物好き
なやつなんだろうね。︱︱君は過去に興味はあるかい?﹂
﹁過去に?﹂
田原は机を整理し終えると、椅子に座って足を組んだ。
﹁︱︱君だってあるだろう。あの時に戻りたい、あの出来事の前に
戻りたい。そうすれば、あのような事にはならなかったのに⋮⋮と
いう葛藤が﹂
君恵の鼓動が波打った。
﹁だから過去に戻ってやり直すんだ。正しい方向に進むために﹂
﹁でもそんなことをしたら、未来が変わってしまう。それに貴方や
生まれるべき人たちも、いなくなってしまう可能性があるのではな
いですか?﹂
﹁さあ、それはやってみなければわからないだろう。もしそうだっ
たとしても、知ることはできない︱︱。だってそうだろう? 消え
てしまったら、もう過去には戻れないから﹂
彼は軽く目を伏せ、一音一音しっかり発言をする。
﹁世の中には努力や想いだけでは解決できない問題がたくさんある。
だからそれを無駄にしないために、そして最善の選択をして前に進
むために、自由にタイムトラベルをする必要があるんだ﹂
その言葉に君恵はとても惹かれた。
もしあの時、違う選択をしていれば︱︱今、抱いている、不安定
な感情にならずに済んだだろう。
もしあの時、違う生き方をしていれば︱︱今、抱いている悔しさ、
悲しさ、苛立つ感情はなかったかもしれない。
目をゆっくりと開けると、田原は立ち上がった。そして君恵の脇
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を通り抜けていく。
﹁それに僕の研究はいずれ多くの市民を救うことになるだろう。だ
から決して邪魔をしないでくれ。この研究は個人だけでなく、多く
の人を救う可能性を秘めているんだ﹂
﹁いったい何をする気ですか?﹂
﹁︱︱そうだいいことを思いついた﹂
田原が近づき、君恵の左手首を強く握った。
﹁痛っ⋮⋮!﹂
﹁ちょうど被検体を探していたんだ。ほぼ完成したから、最終チェ
ックとして君が試しにタイムトラベルしてくれ﹂
﹁はい⋮⋮!? どうして私︱︱﹂
言い返す前に君恵の鳩尾に田原の拳が入った。的確に急所を当て
られた衝撃で意識が飛んだ。最後に君恵の視界に入ったのは、田原
の口元が大きくつり上がっている姿であった。
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9、過去と共にあるもの
“もし”とか、“だったら”とか、“であれば”とか、人生の中
で何度も考えたことがあった。しかしその言葉は何も意味をなさず
に、ただ呟いた後は切ない空虚感が漂うだけだった。
無意味だというのは知っている。
そこからは何も生み出せないのは知っている。
呟いたら、過去に戻れるわけではないと知っていた。
けれども、もし過去に戻ってやり直せることが可能なら、やり直
したい︱︱そう思ってしまうのは、おそらく未だに過去に執着して
いるからだろう。
* * *
どれくらい気を失っていたかわからないが、目覚めた瞬間には君
恵の両手は結ばれ、近くにあった机の脚を両手と体を挟んだ状態に
なっていた。目の前には何やら得体の知れない機械、中央はガラス
に覆われている。そしてその中には薄らと黒ずんでいる、人の顔ほ
どの石のようなものがあった。
﹁エキゾチック物質?﹂
﹁君、いったいどこまで知っているの?﹂
田原が太い電源を持ちながら、君恵を不思議そうな顔をしてのぞ
き込んでくる。
﹁これは僕が作りだした、ワームホールを大きくするために必要な
物質。ようやくこの量までできた﹂
鼻歌をしながら、田原はコンセントに差した。
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﹁今まで物とかマウスでやったことはあったけど、人を移動させる
のは初めてだ。どういう結果になるかな﹂
段々と周りの状況が見えるようになってきた君恵は、その言葉を
聞いて顔色を変えた。
学だって言っていた、タイムトラベルの理論は構築されているが、
実証までは程遠い。この時代から六年後を生きている学でさえ、そ
う言っているのだ。必然的に君恵の口からは次の言葉が出てきた。
﹁そんなの、できるわけ⋮⋮!﹂
﹁時間がない﹂
田原は冷めた目で見下ろしてきた。
﹁一刻も早く過去に戻って資源を得るか、未来に行って知識を得る
かしないと、この市はエネルギー管理都市から外れ、負のスパイラ
ルに陥ることになるぞ﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
急に飛び出した彼の発言に首を傾げた。確かにこの年は近年稀に
みる猛暑であり、翌年更新予定だったエネルギー管理都市の多くが
更新できなかった。だが東波市は更新できているはずだ。
﹁今、東波市はエネルギー供給と需要状況が、逼迫した状態にある。
それはどの自治体もそうだろう。だがな、我が国の研究の最先端を
走るこの都市が、更新できなかったら、どれほどの絶望感に陥ると
思う?﹂
田原がこの部屋の光源の一つであるランプの明かりを大きくした。
それにより、今まで見えなかった多数の張り紙が目に飛び込んでく
る。そこにはいくつもの式が書かれた紙が張られており、英語での
ディスカッションが書き連ねられている。
﹁年々環境は変わっていく。人間にとって住みにくい場所となって
いく。それをよりよくするためには、人間の知識だけが唯一の対抗
策だ!﹂
そしてある張り紙を勢いよく叩くと、壁が振動した。赤いペンで
書かれた文字は日本語で訳すと、“知識こそ唯一の武器”。
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﹁前回の更新直後、環境の変動から、このままでは維持し続けるの
は困難だという意見が出た。そのため再生可能エネルギーに関する
研究がさらに盛んになり始めた。しかし、技術的にはある一定の水
準までいっていたため、思うように伸びなかった。そこで思いつい
たんだ。この時代に資源がなければ、他の資源がある時代、場所に
行って入手すればいいって﹂
突飛な発想に君恵は目を丸くした。その考えにまで発展すること
に対して、思わず感嘆してしまう。
﹁タイムトラベルの理論が実証できるかもと思われた時期があった
から、不可能ではないと思った。それを受けて、極秘のプロジェク
トチームを発足したが⋮⋮ある人の声によって解散。その後は僕だ
けがその研究に身を捧げて、ついにここまできたんだ!﹂
田原は君恵の目の前にある装置をまるで我が子のようにそっと撫
でた。
﹁マウス実験で一度はこの場から消すことができた。きっとどこか
の時代で生きているはずだ。︱︱まあ、あとは死んだが、一度でも
できれば充分だ﹂
﹁なっ⋮⋮! 一度だけの実験で、しかも消えただけって⋮⋮生き
ているかどうかも不明確じゃないですか。それで人を使って実験を
する気ですか!?﹂
あまりの確率の低さに驚きを通り越して呆れてしまった。そんな
の始めから、人を殺すことに変わりはない。
﹁実験はやらなければ、何も始まらないのだよ!﹂
田原が狂ったように叫び始めた。その隙に君恵は結ばれた縄をほ
どこうとしたが、固くてびくともしなかった。
﹁本を見ながら、丁寧に固く縛ったからほどけるはずがない﹂
それを行えるほど長く気を失っていた自分に対して、心の中で舌
打ちをした。
田原が近づいてくると、動ける足で思い切って蹴り上げる。まっ
たく警戒していなかったのか急所にあたり、田原の顔も歪んだが、
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次の瞬間足を持たれてしまう。
﹁成功したマウスも元気のいい子だったよ。君ならいけるんじゃな
い?﹂
爪が露出した肌に食い込んできた。血が若干滲み出る。足を持た
れたまま顔を寄せられ、あいている手で手加減なく頬を叩かれ、床
に倒れ込んだ。
﹁っ痛⋮⋮!﹂
﹁さて、話すことは話した。もし成功したら、戻って報告するんだ
よ? あとエネルギー資源も持って帰ってきてよ? 無理なら論文
とかの知識だけでもいいから﹂
﹁仮に行けたとしても、戻って来られる保証はありません﹂
﹁それは自分でどうにかしなさい。肉親や友人に知られないまま死
ぬのは嫌だろう?﹂
その言葉に言葉が詰まった。まさにその通りであり、君恵たちが
必死になって戻ろうとしているのは、その理由が第一にあるからだ。
この時代の両親や友人に会うとなれば、この時代の自分とも会わな
ければならない。その矛盾した展開になれば、何らかの不都合は起
こるはずである。
﹁︱︱どうして私なんですか﹂
﹁見てはいけない物を見たから。ここでこの研究を続けていること
は絶対に知られてはいけない。知られたら、僕はここから追い出さ
れるからね﹂
田原が機械のスイッチを押す。少しずつ光を発していき、部屋全
体が明るくなっていく。
︱︱どうして私がこんな目に。ここでどこかに消えても、誰も気づ
かないじゃない。だって私はこの時代の人ではないから。
好奇心でここに来てしまった、自分の選択に恨んだ。本当は引き
返す予定だったのに、それがこんなことに︱︱。
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目には涙が溜まり、唇を噛みしめた。こんな状況だったが、急速
に最近の出来事を思い返していく。
憧れの職に就くための試験に落ちた。理由はわかっている、勉強
量が他の人よりも足りなかったからだ。それでもほんの僅かの差で
落ちたと知り、途方に暮れていた。
そんな中で︱︱学と出会ったのだ。心の底から研究が好きで、好
きなことを職としている彼の姿が眩しかった。そんな彼と出会った
のは些細なきっかけ。過去の偶然が重ならなければ起こらなかった
ことだ。
ふと突然耳の奥に何度も君恵を導いてくれた、オルゴールの音が
再び聞こえてきた。優しくも、どことなく激しさも感じる綺麗な音
色。 力が入っていなかった手をぎゅっと握る。今までただ漂っている
だけだった意識が、そこに集中し始めた。
そして同時によぎる、永遠の眠りについたある人の顔。
もう話すことも触れ合うことも、できなくなってしまった。
死に顔を見た時、君恵は思ったのだ。人の死はいつやってくるか
わからない、だから生きているうちに精一杯やらなければと︱︱。
︱︱ああ、ようやくわかった。この音をどこで聞いたか。
ゆっくり、ゆっくりと確実に脳内に引っかかっていたものが繋が
ってくる。
目にも力が入ってきた。そして歯を食いしばり、縄をどうにかほ
どこうと、捻り始める。田原は機械の方に見入っており、君恵の抵
抗には気づいていないようだ。縄が擦れて、痛みが手首から全身に
響く。捻るだけでは厳しいと判断し、今度は机の脚を使って、切り
目を入れ始めた。
ようやく君恵の行動に気づいた田原は眉をひそめた。
﹁何している? あと数分で機械は温まるよ。そしたら君は未知の
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世界へと行けるんだ。わくわくしないかい?﹂
君恵は大きく息を吸い込み、睨み返した。
﹁あいにく今を生きるので精一杯で、これ以上欲張れません﹂
﹁けど過去に戻ってやり直したいとかは思わないのかい?﹂
君恵は口元を緩めた。
﹁過去があるからこそ、今の東波市があり、今の私がある。過去を
否定することは、今を否定することになる。だから︱︱戻りもせず
に目の前の道を進むのですよ、人間は﹂
その言葉を発するのと同時に、左右を繋いでいた縄は切れる。
同時に外と繋ぐ空間が突然開かれた。眩しい光が目に飛び込んで
きたため、つい目を瞑りそうになったが、光の中にいるシルエット
を見て、逆に見開かれた。
﹁君恵さん!﹂
﹁なんだ、お前は!?﹂
学は頬が腫れ横たわっている君恵を見ると、顔をひきつらせたま
ま田原の方へ向かった。そして急に現れた人物に驚き、呆然とした
まま突っ立っている田原に対し、右の拳で一発殴ったのだ。
無抵抗の状態で殴られたため、そのまま後ずさって机に当たり、
その衝撃で上に乗っていた本が崩れ落ちた。
﹁君恵さん、大丈夫!?﹂
学は駆け寄り、君恵を優しく起こした。
﹁大丈夫です、少し無茶しただけですから⋮⋮﹂
両腕を前に出すと、案の定血が滲んだ縄と擦り切れた腕が露わに
なった。
﹁無茶って何しているの! 女性なんだからもっと体を大事にしな
きゃ⋮⋮﹂
学は縄をほどくと、持っていたハンカチで君恵の右腕を包んでく
れた。見る見るうちに血に染められていく。もう使い物にならない
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はずなのに、嫌なそぶりはまったく見せなかった。
﹁くそう、いったい何なんだ⋮⋮﹂
田原が頭を抱えて、立ち上がろうとしている。二人は立ち上がり、
学に促されて出口の方へと後退し始めた。
﹁学さん、あの人、タイムトラベルについて研究しているらしいん
です﹂
少し背伸びをして下がり際に耳打ちをする。学の眉間がさらに険
しくなった。
﹁嘘だろう?﹂
﹁あの機械が時空移転装置と言えばいいのでしょうか。嘘か本当か
知りませんが、マウスを一度消したことがあるらしいと⋮⋮﹂
学は目を細めて、機械の中心部を見た。そこにあるやや黒ずんだ
大きな石を見ると、目を瞬かせる。
﹁まさか、本当に︱︱﹂
﹁お前、いったい何者だ! 邪魔をしやがって!﹂
田原の口調がより荒々しくなってくる。学はとっさに君恵を背に
隠した。
﹁随分と連れに迷惑なことをしてくれたみたいですが﹂
﹁なんだ、彼氏か。なら、こんなところに来ないよう、注意してく
れよ﹂
﹁すみません、初めて来た建物だったので、迷ってしまったみたい
です﹂
真摯に謝った学であったが、表情は警戒心丸だしであったため、
逆に田原の機嫌をより損ねたようだ。目元がぴくぴく動いている。
﹁お前ら、ここから出られると思うなよ。二人ともバラバラに過去
と未来へ送ってやる!﹂
君恵は思わず学の袖を掴んだ。彼もそれに応えるかのように、腕
を伸ばしてきた。
﹁モルモットは大人しく︱︱﹂
﹁︱︱私の研究室を出てから、随分と大胆な行動に出るようになっ
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たんだね﹂
さらなる突然の乱入者に、君恵は思わず振り返る。落ち着いた声
であるが、若干トゲのある言い方をしたのは、昨日会った、初老の
男性︱︱門上であった。その後ろには真美と美希の姿が。学は決し
てそちらに向かって振り返らなかった。
田原は門上の顔を見ると、半歩だけ下がる。
﹁どうして教授がここに⋮⋮﹂
﹁所用で来ていてね。タイムトラベルに関しての資料が一番残って
いるのがここだからと思い来たら、焦った表情をした顔見知りの少
女と会い、まさかと思って降りてみたら⋮⋮﹂
門上はちらっとタイムトラベルで使用する機械を見た。
﹁まだやっていたのか、君は﹂
﹁まだとはなんですか! これがあれば、東波市⋮⋮いや、日本は
⋮⋮!﹂
﹁その気持ちは分かる。だが、技術的に成立しなければ、厳しいと
いうのはわかるだろう﹂
肩を竦めると間もなくして、装置から妙な音がし始める。そして
若干だが煙も発生し始め、田原が慌てて駆け寄る時には、破裂音と
共に装置は壊れてしまった。
あんぐりと口を開けた田原は縋るように装置を触る。
﹁どうした、煙なんか出して。これからだろう⋮⋮﹂
﹁︱︱おそらく彼女をタイムトラベルさせようと思っても、同様の
ことが起こっただろう。その装置は所詮予備実験ぐらいしかできな
い。実機にするなら、もっと検討を重ねなさい﹂
門上が諭すと田原はその場に崩れ落ちた。そして他人の目も気に
せず、泣き始めたのだ。
ただ彼は研究に没頭していただけだろう。しかしそれが思わぬ方
向に行ってしまった。誰かが止めれば良かった。だが︱︱残念なが
ら、彼にはいなかった。
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10、狙われる研究
その後、門上はかつて一緒に研究をしていた同僚と共に田原の事
情聴取に当たることになった。田原が言っていた、タイムトラベル
の共同研究者の一人はなんと門上であったのだ。それに関しては、
学はまったく知らず、事実を知るとただただ唖然としているばかり
だった。
そして今、君恵は美希と共に真美の車に乗っていた。怪我の治療
を彼女の家で行うためだ。研究所でしてもよかったが、侵入者騒ぎ
を聞いた野次馬たちが未だにおり、余計な心労を増やさないための
手段だった。
ちなみに後に聞いた話によると、君恵を部屋に押し入れたのは、
夜中研究所に侵入した男であり、何か目ぼしいものを探そうとした
が見つからず、しばらく地下に潜って隠れていたが、偶然降りてき
た君恵に顔を見られたと思い、閉じこめたらしい。そして慌てて地
下から上がってきたところを現場検証に来ていた警察が不審に思い、
職務質問をかけたところ逃げようとしたため、その場で取り押さえ
たそうだ。
一方、学はいくら待っても君恵が戻ってこず、何かあったと直感
的に思い、研究所内を探し始めたのだ。同じような空間が続いてい
るため、迷っただけという意見もあったが、彼は探すのをやめずに、
地下へと辿り着いたそうだ。
美希や真美から一連のことを聞くと、君恵は助手席の中で肩を竦
めた。
﹁貧乏くじを引いたみたいですね⋮⋮﹂
﹁でもあなたのおかげで犯人は捕まったわ。田原さんの所業も知る
ことができたし﹂
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学はその場には同席せず、一人で先に美希の部屋に戻っている。
さすがに親しい人の前に顔を晒すのは、過去の自分と会うぐらいに
危険だと判断したからだ。
別れ際、君恵の頭を軽く撫でると、安堵の表情を浮かべていた。
﹃無事で良かった、本当に﹄
初めて見た表情に、君恵は数秒見惚れていた。
﹁︱︱まったくあなたの彼氏、妙に気を使っているのね。別に怪我
の治療くらい同席しても構わないのに﹂
ちょうど水を飲んでいた君恵はその言葉を聞いて、つい気管支に
水を入れてしまい、むせてしまった。
﹁大丈夫?﹂
﹁か、彼氏じゃありません!﹂
﹁違うの? 美希から聞いたけど、彼、とても焦った表情で探して
いたって言うから、つい⋮⋮﹂
﹁ただの同伴者です。普通に過ごしていたら交わる人ではありませ
ん﹂
そう、ただの同伴者。元に時代に戻るまで、数奇な運命を共に歩
いているだけの存在。優しくしてもらっても、それは後輩に対して
面倒見がいいというだけだろう。
やがて真美のアパートに着き、彼女の部屋の中に上がった。何年
も住んでいるため、部屋は様々なもので溢れていた。しかしそれ以
上に物が散乱しているのだ。数日は片づけていないと考えていいだ
ろう。
﹁お姉ちゃん、相変わらず汚い⋮⋮﹂
﹁うるさいよ、美希。そんなこと言うなら、掃除してよ﹂
﹁⋮⋮台所だけ片づける﹂
溜息を吐きながら、妹は姉の台所を片づけ始めた。
﹁適当に座って。どこを怪我した?﹂
﹁足に爪を食い込まされたり、頬を叩かれたり⋮⋮。あとは腕の部
分が酷いですかね﹂
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﹁充分に警察に突き出せるレベルだけど﹂
﹁そうですね。けど大丈夫です、消毒してもらうだけで。騒ぎにな
って、両親とかに困らせたくないです﹂
はっきり言って、警察沙汰になるのが一番困る。やんわりと受け
流すと、真美はあまり納得できない表情であったが、その後は特に
触れなかった。
消毒をするとしみたが、腕の部分に包帯を巻いてもらう頃にはあ
まり感じなくなっていた。
﹁これで大丈夫かな。あとで門上教授が話を聞きたいって言ってい
たけど、明日の朝とか都合は付く?﹂
﹁大丈夫です。お話できることはあまりないと思いますが﹂
﹁じゃあ、教授にそう伝えておくわ。よろしくね﹂
真美は押入れの奥へと救急箱をしまい込み始める。もともと奥に
あったのを引っ張りだしたため、物がさらに散乱している。
背を向けて片づけている彼女に対して、君恵は疑問に思っていた
ことを次々と突きつけることに決めた。
﹁︱︱あの、門上教授は昔から今までタイムトラベルの研究をして
いたんですか?﹂
﹁そうみたい。確か七年前から本格的に研究し始めて、あの研究所
でチームを作ったらしい。けど、まったく成果が上げられず、予算
も付かなくなって、三年前に解散。非常に難しい研究だったから、
実質消滅に近かったわね﹂
部屋に飛び出ていた物を無理矢理押入れに突っ込むと、急いで閉
めると、勝ち誇ったような表情をしていた。
﹁真美さんはよく知っていましたね、そのこと﹂
﹁お酒の席で偶然教授から聞いてね。たぶん大学の研究室だったら、
知っているのは私だけじゃないかな﹂
﹁他にも研究室に人はいるのにですか?﹂
﹁むしろ誰にも話さないつもりだったと思う。私は、不可抗力で聞
いてしまった。思わず喋った後に顔色変えていたし。︱︱タイムト
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ラベルなんて、リスクの高い研究をするべきじゃないって言ってい
たわ﹂
﹁確かに結果を残せるかどうか難しいですからね﹂
﹁違うわ。研究者としてのリスクよ﹂
﹁研究者?﹂
君恵は真美を見上げながら首を傾げる。仮にも研究者の端くれで
ある大学院生、結果を残さない以外に何か問題があるのだろうか。
﹁ねえ、あの時に戻ってやり直したいとか、未来の自分を見てみた
いとか、考えたことはない?﹂
﹁それはありますけど、今を生きるので精一杯ですから、実際にや
ってみたいとは思いません﹂
田原からも似たような質問をされたが、はっきりと言い返すこと
ができた。
﹁模範解答に近い、いい返答ね。けど世の中そういう人ばかりじゃ
ないのよ。︱︱タイムトラベルできるのなら、多額のお金を払って
でも、その研究者を拉致してでも達成したいという人間は大勢いる
もの。もし世間に大々的に発表でもすれば、間違いなくその後は安
穏な生活は送れないでしょうね﹂
その話を聞いて、君恵ははっとした。
学は真美と門上に自分でまとめた理論、そして僅かであるが実際
に作ったエキゾチック物質を見せたという。もしその時、門上や真
美がタイムトラベルを研究することのリスクを知っていたとしたら
︱︱本気で話を受け取らず、笑って受け流すかもしれない。学のこ
とを守るために︱︱。
﹁タイムトラベルも実現すれば凄いことだから、狙っている人は多
いけど、最近の傾向として新エネルギーに関する発表も注意する必
要があるのよね。特にこの国では﹂
台所を片づけた美希が、麦茶をコップに注いで持ってくる。それ
77
を真美はお礼を言ってから受け取った。
﹁エネルギー管理都市に対しては、達成できなければ厳しい罰則を
︱︱それはむやみに都市を増やさないための処置として適切だと思
う。一方で、達成できなそうだけれども、都市として認めてしまう
場合もあるって聞いた。罰則金を受け取るのは、財政難の国にとっ
ても有り難いころだから﹂
麦茶を半分程度飲むと、窓の外から見える風力発電に目をやった。
﹁だから無理矢理にでもエネルギーや資源を得ようとしたがる。も
し新たな技術が生まれたのなら、それに飛びつくでしょうね、技術
も人も︱︱﹂
もしこの言葉の内容を門上も抱いているとしたら、もし門上が君
恵の思ったとおり、心優しい人間であるのならば︱︱学はとんでも
ない勘違いをしていることになる。
﹁どうかしたの?﹂
コップを持ったまま固まっている君恵に対して、真美が覗き込ん
できた。表情を緩めて、慌てて首を横に振る。
﹁いえ、何でもありません﹂
﹁そう? 何か言っちゃいけないことでも言ったかと思った﹂
﹁そうではないです⋮⋮。ただ、びっくりしました。政府が定めて
いる基準って、意外に緩かったんですね﹂
﹁そうね。私も内部の人と話す機会がなかったら、知らなかった。
まあそれくらい努力しなさしってことかもしれないけど⋮⋮。解釈
なんて、人それぞれよ﹂
真美は目を細めながら、君恵を眺める。日の光をバックにした彼
女の表情は、穏やかでもあったが、どことなく寂しそうでもあった。
﹁お姉ちゃん⋮⋮ついでにゴミ捨ててくる﹂
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背後から美希が低い声でぼそりと呟いてくる。君恵はびっくりし
て、思わずその場から飛び退いた。
﹁あら、そんなこともしてもらってもいいの?﹂
﹁邪魔だから。狭い廊下に飛び出している。⋮⋮ああ、もういい加
減にして! 同じ姉妹とは思えない!﹂
﹁何を言っているの、立派に血は繋がっている姉妹よ。︱︱そうい
えば美希、あなたいつから検査入院するの?﹂
妹の怒りをさもなかったかのように受け流す姉。顔をぴくぴくと
ひきつらせつつ、美希はゴミをまとめ始めた。
﹁お盆直後から一週間くらい。別に何ともないのにさ、せっかくの
夏休みがもったいない﹂
﹁医者が言ったんだから、つべこべ言わない。何もなかったら、焼
き肉でもおごってあげるわよ﹂
﹁特上カルビ頼んでやるからね。じゃあちょっとゴミ出してくる﹂
去り際にぶつくさと言いながら、美希は部屋からでていった。
﹁できる妹がいると、非常に助かる!﹂
﹁真美さん、少しはご自分でやられた方がいいと思いますよ。いつ
までも美希が近くにいるわけではないですし﹂
﹁そうなのよね。あと半年もすれば、私も大学院を修了するし、美
希とまた離ればなれなのよ!﹂
﹁それもそうですが、それよりも︱︱﹂
言いかけた瞬間、急に君恵の喉に何かが詰まる。そしてむせたよ
うに空気を吐き出した。
﹁大丈夫!?﹂
真美が君恵に近寄って背中をさする。大きく、温かい手によって
安心感を生み出される。
﹁大丈夫です。少しむせただけですから﹂
それはまったくの嘘であり、本当の原因はわかっていた。
︱︱未来のことは、これから未来がある人には言ってはいけない。
ようやく呼吸が落ち着いてきた時に、不機嫌そうな表情の美希が
79
戻ってきた。
﹁最低限ゴミくらいはどうにかしてよ﹂
﹁うん、わかった。ありがとう!﹂
﹁⋮⋮反省しているのなら、底抜けに明るい返事をしないで﹂
美希は君恵の治療が一通り済んだのを確認すると、声を投げかけ
た。
﹁そろそろ、出る? あまり遅くなってもあれだし﹂
﹁あら、一緒にご飯食べてもいいのよ?﹂
﹁食材がない家で食べられるか。︱︱君恵の門上教授からの聞き取
りは明日だっけ?﹂
﹁ええ。田原さんの聴取で忙しくて、全然連絡取れないから、今日
は無理。君恵さん、十時くらいに門上教授がいる居室に来てもらえ
るかしら?﹂
﹁はい、大丈夫です。よろしくお願いします﹂
どうせ明日も予定は特になく、元の時代に戻るために奔走するだ
けだ。むしろタイムトラベルについて研究をしていた門上なら、何
か知っているかもしれない。そっちから話を聞きだした方がいいだ
ろう。
君恵と美希は真美のアパートを後にし、帰路に着いた。夕陽が沈
みかけている、温かな色が二人を照らしている。ようやく落ち着け
る状態になった君恵は大きく息を吐き出した。
﹁長い一日だった⋮⋮﹂
思わず本音がぽろっと出てしまう。それ対して美希は微笑んでい
た。
﹁本当に無事でよかった。もし君恵に何かあったら、浅井さんが黙
っていられないからね﹂
﹁だからどうして学さんの話題が出るの⋮⋮﹂
﹁血相を変えるってこういうことを言うのだなって思ったくらい、
焦っていた。大切にされているんじゃない?﹂
﹁違うよ。同情されているだけでしょ、この時代に来てしまった同
80
じ立場の人間として﹂
美希と接しているのを見ていても、誰にでも優しく接するのだな
とわかってしまう。それに出会ってからまだ二日しか経っていない。
濃い時間を過ごしているとはいえ、所詮はそれくらいの仲だ。
夕陽が沈んでいき、一方では月が顔を出し始めている。タイムト
ラベルという、偶然ではあるが人類にとって偉業を成し遂げている
が、自然界ではさも何もなかったかのように、時が流れていた。
81
11、真実を導く者
翌日、三人は東波大学へと向かっていた。夏休みも真っ盛り、キ
ャンパス内には研究室に所属している四年生や、大学院生くらいし
か見られず、比較的静かだ。
二人が家に戻ると、学は元の時代に戻ったら門上に色々とタイム
トラベルに関する話を聞こうと、明るく振る舞っていたが、一方で
どうして自分が出した話を受け入れてくれなかったのかと自問自答
していた。
君恵は真美から聞いた話から推測だが、門上の想いを伝えようと
思ったが、あくまで推測。元の時代に戻ったら、はっきりと本人の
口から聞くことを期待することにした。
この日の早朝も学の姿は見当たらなかった。思い切って理由を聞
きだすと、研究が滞っている時は、よく散歩している習慣があり、
それが今回も癖として出てしまったらしい。妙な考えが働いてしま
った君恵は、心の中で学に対して謝っておいた。
途中で君恵は図書館に向かう学と美希と別れ、昼食までには合流
すると約束した。本当は彼も行きたかったようだが、そこはぐっと
堪え、聞きたいことをメモした紙を君恵に手渡している。
﹁何かあったら、お姉ちゃんを呼んでね。ああいう性格だけど、面
倒見はいいから﹂
﹁美希、もう少しお姉さんのことを優しく扱ったら?﹂
﹁そんなことしたら図に乗るって。いつまでも一緒にいられないん
だから﹂
姉に対して厳しい発言は、どう言っても変わらないようだ。
その姿勢や言葉に対して、まるで美希は自分自身の今後のことを
わかっているのではないかと、錯覚してしまいそうになる。
82
研究棟への道は、一昨日美希と一緒に行ったため、迷わず行くこ
とができた。棟に入り、部屋までの道のりは予め聞いておいた道を
進んでいく。
朝であったため、非常に静かであり、ほとんど人とすれ違うこと
はなかった。今日は比較的涼しい方であるため、おそらく突然の停
電は免れると思うが、それでも研究棟の中は薄暗い。
本来いるべき時代で学と共に歩いた廊下を、今度は一人で歩いて
いく。ある大きめの部屋を通りすぎる際、君恵は何気なく窓越しに
青年を見ると、思わず足を止めてしまった。
六年前の学である。君恵が会った彼よりも、まだ幼さが残ってお
り、髪も真っ黒だ。パソコンと睨み合いながら、多方面に散らばっ
ている論文をちら見している。
﹁︱︱学さん、俺の領域まで侵入しないでくださいよ﹂
﹁はいはい、ごめんね﹂
﹁無視っすか! ⋮⋮まあスイッチ入ると、あの真美さんでさえ無
視ですからね。今日はやけに気合い入っていますから、特別に許し
てあげますよ。それにしても真美さん、遅いな、どうしたんだ?﹂
ほんの少しだけ開いているドアの隙間から聞こえてきた会話は、
後輩らしき少年が折れる形で終わっている。
時に髪をかきあげつつ、紙を睨みつけながら書いている姿は、あ
の穏やかな表情を浮かべる、君恵が知っている学の姿ではなかった。
﹁実験している姿はもっと凄いのかしら。あれが︱︱研究者として
の浅井学﹂
たった二日間だけしか過ごしていなければ、知らなくて当然かも
しれないが、どことなく寂しい想いでもあった。
学生がいる部屋を通り過ぎて、二、三部屋隣の小さな部屋に門上
の居室はあった。“在室”のところが光っている。君恵が軽くノッ
クをすると、部屋の中から返事があった。
83
﹁失礼します﹂
中に入ると、整理整頓された部屋の奥に、柔和な笑みを浮かべて
いる門上が座っていた。
﹁わざわざすまないね、休みのところ﹂
﹁いえ、どうせ暇ですし﹂
もしかしたら元の世界に戻るための手がかりになる話が聞けるか
もしれない︱︱そう思うと、いても立ってもいられなかった。
勧められた席に座ると、門上は脇に置いてあった書類を手に取っ
た。
﹁まずは昨日の出来事を話してほしい。特に田原と出会った辺りを
詳しく﹂
﹁わかりました﹂
門上に言われたとおり、始めは軽く話し、地下室に入ってからは
詳しく話す。オルゴールのことは、君恵にしか聞こえなかった可能
性があるので、そこは避けて話を続けていく。また学の存在も親し
い友人とし、名前は伏せる。度々、門上が質問を入れつつ答えてい
くことによって、より深みのある中身になった。
﹁︱︱というわけで、皆様のおかげで何事もなく終えることができ
ました﹂
﹁無事だったのは何よりだ。もし機械が発動してあの場から消えて
いたら、時空の中で身体が分解したり、さまよったりする可能性が
大いにあり得たからね﹂
﹁タイムトラベルのリスクというのは、何年経っても変わらないも
のですか?﹂
﹁もしかしたら研究次第によっては、何十年後にはかなりの改善が
見られているかもしれないけど、数年ぐらいでどうこうなるレベル
ではない﹂
では君恵と学はなぜ成功したのだろうか。
そしてこの時代から、元の時代まで戻ることはできるのだろうか。
考えたくはなかったが、これからタイムトラベルすることが、非
84
現実的な行為ではないかと、脳裏をよぎってしまう。
﹁まあ世の中には偶然に不思議なことが起こるというから、はっき
り言えないがね﹂
門上は書類を机の上に置くと、両手を組んで、そこに微笑んでい
る自分の顔を乗せた。
﹁時沢君恵さん﹂
﹁はい﹂
・・・・・
﹁それで︱︱君はいったいいつの時代の、時沢君恵さん?﹂
その言葉を聞いて耳を疑った。何かの聞き間違いではないだろう
か。
そう思ったが、門上は微笑んでいるが、眼鏡の奥にある瞳からは
鋭い視線で君恵を貫いていた。
これは意図的に発した言葉だ、視線を逸らせば認めたことになる。
ごくりと唾を飲み込む。
しらを切るか、本当のことを話すか。
﹁大学の学生ではないことは既にわかっている。真美君から聞いた
話だと、美希君の高校時代の同級生だと聞いているが、この時代の
時沢君恵はまだ受験生だ。今は勉強の息抜きかね?﹂
﹁⋮⋮そうですね、東波大学に入学を希望していて、キャンパスや
周りの見学を⋮⋮﹂
﹁昨日、君の自宅に電話をかけたが、ずっと家にいたというが?﹂
しらを切るつもりが、まんまと罠にはまった。視線が下がりそう
になったが、どうにか維持し続ける。
﹁身分証明書は持っているなら、見せてくれ﹂
鞄の中に学生証と免許証はある。しかしその発行年日は、この時
代より先だ。
﹁時沢君恵さん?﹂
ここで本当のことを言ったらどうなるのだろうか。
85
そもそも本当のことを言えるのだろうか。
そして門上がなぜその事実を知りたがっているのだろうか。
理由を知りたいという欲求にかられた。だが学の顔を思い浮かべ
ると、ここは何としても逃げ切るしかない。適当な理由を脳内に思
い浮かべて、口を開こうとした。
﹁私は︱︱﹂
だが口を開く直前に突然大地を揺るがす程の爆音が聞こえてきた
のだ。
座っていた君恵と門上でさえ、あまりの揺れに反射的に机の下に
潜ろうとした。本棚からは何冊か本や物が投げ出され床に散らばる。
︱︱いったい何事⋮⋮!
そう思わずにはいられないほど、初めて感じる恐怖であったが、
幸い揺れはすぐに収まったため、被害を受けることはなかった。
﹁大丈夫かね?﹂
﹁は、はい⋮⋮。いったい何だったんですか?﹂
門上は立ち上がり、目を細めて窓から外を眺める。そして君恵を
手で拱いた。その指示に従って外を見ると、目を大きく見開いた。
真っ黒い煙が大量に発生しているのだ。その脇からは赤い炎が見え
る。
﹁あれはどこかの工場が爆発したのかな? だいぶ範囲が広そうだ﹂
﹁工場⋮⋮何の工場ですか!?﹂
君恵の顔がさっと青くなった。あれだけ激しい爆発があったのだ、
工場の種類によっては、さらなる被害が予想される。門上はパソコ
ンを開き、インターネットを繋いだ。軽く検索すると、すぐにその
みつなが
場所が判明した。
それは︱︱三永工場だった。
﹁三永⋮⋮!?﹂
記憶の片隅に追いやられていた断片が中央に戻ってくる。学が話
しに出した工場の名前だ。死者も出た爆発事故︱︱それが今起こっ
ているのか。
86
学はワームホールを少しでも大きなものを自然界から発生させる
ために、大きな衝撃が必要と言っていた。それを誤魔化す候補とし
て、この事故が挙げられた。しかし既に起こってしまったため、実
行することは︱︱無理である。
﹁爆発の原因はまだ不明なようだ。だが数時間前にチェックしたと
きには、特に工場内で目立った変化はなかったらしい﹂
﹁なら、老朽化とかですか?﹂
原因は六年経った君恵がいた時代でもまだわかっていない。門上
は視線を下げた状態で腕を組んだ。
﹁︱︱あの工場は藻類のバイオ燃料を大量に製造しているところだ。
もしかしたら誰かが油に引火させたのかもしれない﹂
﹁それは事件じゃないですか! そんな話聞いたことがありません
!﹂
﹁そんな話とは、どんな話、いつの話?﹂
目を細めて門上が君恵を見てくる。はっとして口を押さえるがも
はや遅い。完全にボロが出てしまった。しかし未来に関する事なの
に、未だに体は異常をきたしていない。
︱︱これは話してもいいということ?
君恵は唇を噛みしめながら、意を決して見上げた。もうこの人に
は小細工はきかない。直球で勝負するまでだ。
﹁︱︱私のことを話す前に聞かせてください。門上教授はどうして
タイムトラベルの研究をしているんですか、どこまで研究されてい
るんですか?﹂
逆に切り替えしてきたのに驚いたのか、門上は目を瞬かせていた。
そして次の瞬間、にこりと微笑んだ。
﹁昔、タイムトラベルを主とした小説を読んで、それが実際に行え
るかどうか興味を持った。それと不可能なことを可能にしてみたか
った﹂
どこかで聞いたことがある内容を聞き、君恵は門上とあの人が被
ったような気がした。
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﹁そして次の質問の答えは︱︱﹂
﹁教授!﹂
門上の言葉は突然現れた男子学生によって遮られた。さっきこの
時代の学の隣にいた学生だ。おどけた様子ではなく、彼の顔はひき
つっていた。
﹁た、大変です!﹂
﹁落ち着きなさい、どうしたんだ?﹂
﹁ま、真美さん⋮⋮じゃなくて矢上さんが、さっき爆発があった工
場に寄ってから研究室に来るらしいのですが、まだ来ていないんで
す! 連絡も取れないんです!﹂
﹁なんだって!?﹂
門上は虚を突かれたような表情をしていた。君恵でさえ、思わず
口を抑える。
﹁︱︱このことは誰かに言ったかい?﹂
﹁研究室にいた人たちは知っています。どこで爆発があったか一緒
に調べていたので﹂
﹁皆、研究室にいる?﹂
﹁いえ、浅井さんは⋮⋮﹂
俯きながら答える様子だけで、すべてを察することができた。真
美は学の彼女だ。彼氏が心配して飛び出していくのは当然だ。
﹁︱︱気になることがあるから、私も現場に行ってくる﹂
﹁教授!?﹂
彼はひっくり返った声を出す。だが門上はそんな彼の様子を見向
きもせずに、支度をした後に鞄を持って、部屋を出ようとした。ふ
と君恵の前を通り過ぎる時にちらりと視線を向けられる。
﹁君も来た方がいい。一緒に行くかい?﹂
﹁いや、連れが⋮⋮﹂
図書館で調べものをしている、学と美希の顔を思い浮かんだ。彼
らと離れて行動するのは、昨日の経験から危険だとわかっていた。
しかし次の門上の言葉は驚きのあまり返答できなかった。
88
・・・・・・・
﹁その人たちを連れて、一緒に来た方がいい⋮⋮戻りたいのなら﹂
呆然としている君恵に背を向け、門上は足早に部屋から去ってい
った。男子学生もつられて廊下に出ている。
︱︱門上教授はいったい何者? それよりもこの事故が戻るのに必
要な出来事?
もう向かうべき場所は決まっていた。廊下に出ると、駆け出し始
め、一目散に図書館へと向かったのだ。
89
12、干渉される過去
図書館へと急ぐ中、君恵はある歴史的な事件を思い出していた。
それはテロではないかと囁かれ、今のエネルギー管理都市を制定
する政策を作るきっかけとなった、三十三年前の事件だ。
大規模な火力発電所地帯に、何者かが侵入した後に石油が引火、
炎上した。火災は広範囲に渡り、作業員だけでなく、消防にあたっ
た者など、二十人以上が亡くなり、重軽傷者も百人は越えた。
それだけでも大惨事ではあるが、その後長期に渡って電力の供給
量が減少し、ある大都市圏が数ヶ月間不自由な生活を強いられるこ
とになった。そして、夏の暑い時期であったため、需要が供給を遙
かに上回り、冷房を付けられない地域が多発し、結果的に多数の熱
中症患者を出し、死者も出してしまったのだ。
それをきっかけに、大規模発電に頼るのは危険と意見が大多数の
知見者から出て、今の情勢へと移動している︱︱。
今回爆発が起こったのは、石油代替え燃料として利用されている
バイオ燃料を製造している工場だ。藻類からたくさん油が取れると
知られ、研究が進んでからは、急速に発達した事業の一つ。東波市
では三永工場のバイオ燃料にかなり頼っている。
かつての発電所の爆発と、燃料を作る工場が爆発︱︱いずれも今
後の生活が不自由になる事故であり、一刻も早く収束させなければ
ならないだろう。
だが、それよりも今は真美の安否が気になる。
そして門上が言っていた﹃戻りたいのなら来なさい﹄という発言。
このまま元の時代へと帰れないかもしれないという考えも常に抱
きながらも、君恵はキャンパスを駆け抜けていった。
学と美希は図書館のエントランスホールに近い場所で、本を積ん
90
で読んでいた。君恵が血相を変えて戻ってきたものだから、かなり
驚いている。
﹁君恵さん、どうしたの?﹂
﹁あの、さっき爆発音が聞こえませんでしたか? 三永工場が爆発
したそうで⋮⋮﹂
﹁三永工場⋮⋮!? 今日がその日だったか! ああ、これでまた
別の日程と誤魔化し方法を考えなければ⋮⋮﹂
自分本位な考えを発した学に対して、こめかみがピクリと動いた。
﹁学さん、真美さんが三永工場に寄っていたって⋮⋮﹂
﹁知っている﹂
美希の顔から血の気が消えた。一方、学は一言で君恵の言動を切
り捨てる。
﹁美希ちゃん、真美は助かるから安心して。怪我も軽傷だから﹂
﹁それは本当?﹂
﹁本当だよ。この時代の僕が一緒に救急車に乗ったから確かだ﹂
美希の表情が少しだけ緩んだ。だが激しい爆発音がもう一度聞こ
え、積んであった本が崩れた。学はそれを戻そうとしたが、その後
爆発が数回続いたため、結局は崩れたままだ。
外を見れば包んだものを死に至らしめるような、真っ黒い煙がさ
らに大きくなっている。
﹁爆発音が⋮⋮五回以上だと?﹂
学の眉間にさらにしわが寄った。君恵は三永工場の事故はニュー
スでしか知らない。だが記憶にある限りでは、近くで作業していた
作業員が不運なことに一名だけ命を落としたと言うが︱︱。
﹁大変だ! 三永工場の爆発で発生した炎が隣の工場にまで近づい
ているらしい。付近に住んでいる友達とかいたら、すぐに避難する
ように伝えてくれ!﹂
図書館に飛び込んできた大柄な男性が汗だくの状態で、あらん限
りの声を使って叫ぶ。
学の手から握っていたペンがするりと抜け落ちた。
91
﹁僕がいた世界と違う。こんなに悪化していない﹂
﹁待って、それってお姉ちゃんはどうなるの!﹂
﹁それは⋮⋮わからない。けどきっと消防の人が助けて︱︱﹂
﹁もういい。あたし、現場に行ってくる。何かがわかるかもしれな
いから﹂
美希は学を睨み付け、鞄も持たずに飛び出していった。君恵もす
ぐに後を追おうとしたが、隣にいる顔面蒼白な青年を置いて行くこ
ともできない。
﹁学さん、行きましょう。私たちのせいで、何らかの過去が狂った
んじゃないですか? 埋め合わせができるかわかりませんが、ここ
でじっとしていても何も始まりません﹂
﹁いや、しかし、この時代の僕もあそこに向かっている。もし鉢合
わせになったら⋮⋮﹂
﹁真美さんの安否が気にならないんですか。仮にもお付き合いして
いた仲なんでしょう!﹂
﹁ど、どうしてそれを⋮⋮!﹂
学が頬をひっぱたかれたような表情をした。そういえば真美と学
の関係は、本人からではなく、この時代に来て美希から聞いたもの
だ。
﹁そんなこと、どうでもいいでしょう! 今もお付き合いが継続し
ているのかどうか知りませんが、この瞬間に彼女に万が一のことが
起こったら、違った未来が発生しますよ!﹂
半ば投げやりに言った内容が多々あった。発する度に君恵自身の
心の中が傷ついていくのもわかっていた。だが彼はこれくらい言わ
ないと動かない程、頑固であるという事も何となく気づいている。
前に向かってひたすら走り続ける、君恵が好きな彼であり続けて
ほしいなら︱︱自分の心が傷つくことなど、どうでもよかった。
学は本を片づけるのをやめて、自分の鞄を握った。そして懐中時
計を開く。裏側をふと見ると、日付とイニシャルが掘られている。
どうやら記念品のようだ。
92
﹁︱︱太陽もまだまだ昇っている時間帯、気温も上がっていく。こ
こから三永工場までは若干距離がある。現場まで軽く運動すること
になるけど、いいかい?﹂
申し訳なさそうな、でもはっきりとした口調と意を決した表情を
している学を見て、君恵は首を縦に振った。
﹁ええ、構いませんよ﹂
工場に近づくにつれて、渋滞も発生したため、タクシーを使った
移動をしなくて良かったとつくづく思っていた。走り、歩きつつ、
ようやく工場に着くと、空は一面黒い煙で覆われている。
﹁皆さん、危ないですから、避難してください!﹂
警察官が必死に誘導しているが、ざわめきあう野次馬が引く気配
はない。また泣きじゃくっている人々が、警察官にしがみついて叫
んでいる。
﹁夫がこの工場で働いているんです! 大丈夫なんですか!?﹂
﹁怪我をされた方は既に病院へ搬送しています。残っている人は現
在全力で救出しています。落ち着いて、作業員のほとんどは無事で
すから!﹂
逆を返せば、何人かは残っている。下手をすれば作業員以外の人
も︱︱。
﹁作業員のほとんどってことは、それ以外で偶然この工場に来てい
た人はどうなんですか!?﹂
噛みつくように聞いているのは美希だった。君恵が思っているこ
とと同じことを聞いているのだ。
﹁それは私の口からは⋮⋮。とりあえず病院に搬送されたのは作業
員だけです﹂
﹁そんな⋮⋮!﹂
崩れ落ちそうになった美希だが、眉を尖らせながら、どうにか立
ち続けていた。しかし次の瞬間、黄色いテープを無理矢理越えよう
93
としたのだ。さすがに警察官で抑えられ、テープから引き離されそ
うになる。
﹁美希ったら、中に入ってどうするつもりよ!﹂
君恵が声を投げかけるが、聞こえないのか返答する素振りも見せ
ず、とうとう美希は警察官の制止を振り切って、黄色いテープを越
えて行ってしまった。野次馬をかき分けて彼女を止めようとしたが、
既に遅く、ただ彼女の背中を眺めることしかできない。
﹁美希ったら、無茶にも程がある!﹂
君恵も勢いに乗って飛び出したかったが、より警戒が濃くなって
いた。
渋々と野次馬同士の間をすり抜けながら群衆の外へと出る。眼鏡
をかけ、帽子を深く被った学が君恵を出迎えた。だが彼よりも君恵
はその後ろにいる初老の男性に目がいった。
﹁門上教授⋮⋮!﹂
門上に対して背を向けている学はびくっとしつつ、道の脇に寄っ
て、さらに帽子を深く被った。
﹁来たんだね⋮⋮お連れの人も一緒に﹂
学の背中をちらっと見つつ、険しい顔をしたまま君恵に視線を合
わせる。
その門上から視線を逸らすことができなかった。何かを値踏みさ
れているような気がしてならず、迂闊なことはできない。しかしお
そらく数秒だったが、彼に対して君恵の意志を伝えるには充分だっ
たようだ。門上は翻しながら、言葉を発する。
﹁二人とも、こっちに来なさい。とにかく時間がない﹂
それだけ言うと門上は群衆から離れて進み始めた。君恵もすぐに
追おうとするが、学は動こうとしない。
﹁どうしたんですか?﹂
﹁⋮⋮さすがに僕は⋮⋮﹂
君恵は門上の背中を一瞥して、学の手を握りしめた。門上に顔を
見られたくないからか、それとも彼を信用できない立場にあるから
94
か︱︱。言葉を選びつつ説得する。
﹁門上教授は、真美さんを助ける考えでもあるんじゃないでしょう
か﹂
﹁教授が? なぜ?﹂
﹁わかりませんが⋮⋮。それに私、さっき会ったときに言われたん
です。“戻りたければここに来るように”と。はっきりと聞いてい
ませんが、門上教授はタイムトラベルについて深く知っているはず
です。そして今が大切なタイミングじゃないのでしょうか?﹂
﹁それならどうして教授は僕の話を⋮⋮!﹂
﹁それは︱︱あとで戻ってからご自分で聞いてください。さあ、行
きますよ﹂
渋々と歩き始めた学の手を引きながら、二人は進み始める。
未だに学は過去に作ってしまった門上への疑いと拒絶が晴れてい
ない。しかしそれを晴らすには周囲から背中を押されつつも、最後
は自分で進まなければならない。
立ち止まっていた自分を動かすのは、意外にも些細なきっかけだ。
そのきっかけを学にも与えられたらと君恵は思う。
門上は工場の敷地内を囲んでいる、人の背丈の倍以上もある塀に
沿って早足で進んでいた。所々に監視カメラが設置し、塀の上の部
分には電線が張ってあるため、不法侵入をするのは困難だろう。
﹁門上教授!﹂
君恵が呼ぶと、門上は少しだけ振り返った。
﹁どこに行くのでしょうか?﹂
﹁︱︱ここの工場に知り合いがいてね、いくつか出入り口を教えて
もらったことがある。矢上君はバイオ燃料を製造している研究者に
話を聞きに行くと言っていたそうだから、おそらく中央にある小会
議室にいると思う﹂
鉄格子で作られたゴミ置き場の前に立ち止まり、周りに誰もいな
95
いことを確認すると格子の中に入り込む。そして壁面に接している
ある部分を押すと、壁がドアのように開いたのだ。
古典的な隠し方にあんぐりと口を開けてしまいそうだが、意外と
そういう方がわからないものかもしれない。門上に続いて、二人は
敷地内に入り込んだ。
﹁通称、藻類によるバイオ燃料製造工場は、近年国内外︱︱いやこ
こ数年の時代を通じて、注目を集めているところだ。良質な油を効
率よく、大量に製造できていることから、東波市がエネルギー管理
都市として更新し続けられる、一つの要因となっている﹂
﹁時代を通じて⋮⋮﹂
﹁ねえ、時沢さん、もしある場所でエネルギー資源が大量にあり、
一方で枯渇している地域がそこに行く移動方法がわかっていたら、
人はどんな行動をとる?﹂
﹁⋮⋮移動して、分けてもらうか、奪います﹂
﹁その通り。ではもし未来と過去を自由に移動できる方法がわかっ
たら、どうなる?﹂
やや後ろに歩いている学が唾を飲み込んだ。君恵もすぐにその答
えに気づいた。
真っ黒い煙が目の前に近づいてくる。人の命を奪いかねない、恐
ろしい煙が。
﹁⋮⋮未来の人が過去のものを奪っていく﹂
﹁⋮⋮そうだ﹂
﹁けどそんなことをしたら、結局未来の資源はなくなるじゃないで
すか。矛盾しています!﹂
﹁世の中そこまで冷静に考えられる人ばかりではない。それに資源
ではなく、不幸な事故により、既に未来には存在しない研究報告書
とかも、奪われる可能性がある﹂
門上は背を向けているため、どんな表情をしているかわからない。
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しかし、今、君恵たちに何を伝えたえたいかはわかった気がした。
﹁この事故は未来から来た人たちによるもの︱︱?﹂
髪を揺らす風が吹いた。その風は焦げ臭さも乗せて、君恵の鼻に
入ってくる。
目の前には黒々とした煙に包まれた建物が。
救出までのタイムリミットはこく一刻と迫っている。
97
13、光の道の彼方へ
君恵は自分があまりに突飛な発言をしている事に気づき、その発
言を誘導した門上に食いかかった。
﹁そんな推測だけで決めつけないでください。今は真美さんを救出
︱︱﹂
﹁三十三年前の大惨事も、未来から来た人が多少は関与しているか
もしれないと言ったら、耳を傾けてくれるかい?﹂
これには学も君恵も目を丸くした。門上は建物の周りを辿りなが
ら、中に入れるドアを探していく。
﹁当時、二十代半ばだった私はちょうどあの火力発電所に見学をし
に行っている際、事故に居合わせてしまい軽傷を負った。事故が起
こる前に、不意に三人組が光の中から突然現れるのを見てしまった
のだ。彼らは一刻も早く設計書を探し出そうと言っていたが⋮⋮そ
れから間もなくして大爆発が起こった。重傷者、死者は多数。だが
︱︱その人たちの名前はどこにも載っていなかった﹂
鍵が開いている裏口を発見すると、門上はドアを引いた。ここま
では煙が回っていないのか、中に入っても代わり映えのない廊下が
続いている。
﹁死者の中には身元不明者もいたそうだ。おそらくそれが彼らだろ
うが⋮⋮、まったく身元がわからないのはおかしな事で、ずっと不
思議に思っていたよ。その後、たまたま学会でタイムトラベルにつ
いて研究している人に会って話を聞き、ある仮説を立てたんだ﹂
﹁その時代の人間ではないから、身元は公表できなかった⋮⋮と﹂
君恵は堅い表情でそっと自分の腕をさすった。今は生きているが、
もしこの時代で命を落とすようなことがあれば︱︱誰にも見届けら
れることなく、葬られる。思わずぞっとした。
98
﹁そう私は仮定している。一方で、私は発電所の事故と彼らの存在
が、偶然ではないかもしれないと思った。あくまでも仮定だ、真実
はわからない。だが彼らは過去の遺失物を未来に持ち出そうとして
いた。実行できたなら、未来も変わってしまう可能性がある︱︱そ
れを防ぐために、あのような激しい爆発が起きてしまったのではな
いかと思ってしまうのだよ。今回も状況が似すぎているから、同じ
ことを考えてしまっただけだ﹂
君恵の言う通り、門上の発言はほとんどが推測であり、何も根拠
はない。だがタイムトラベルに関しての研究がどの程度進んだとし
ても、それらを証明するのは非常に難しいことではないかと君恵も
思う。本当ならば、学に意見を聞きたいところだが、彼と親しい人
間が目の前にいる状況ではできなかった。
﹁︱︱さて、話が長くなったね。これからが本題だ。まず矢上君を
助けようと思う。彼女のいるところは検討が付くが、おそらく未だ
に救出されていないところを見ると、運悪く火や煙に囲まれた部屋
にいる可能性が高い﹂
俯いていた学がぱっと顔を上げた。そして顎に手を当てる仕草を
すると、なるべく低く、君恵だけに聞こえるように声を出した。
﹁⋮⋮僕が知っている過去では、運が良かったと聞いている。もう
少し火の周りが早かったら︱︱危険だったと﹂
﹁そんな⋮⋮!﹂
過去が確実に悪い方向へと変わっている。早くしなければ︱︱焦
る想いだけが先行し、考えが上手くまとまらなくなっていた。
どうにかしてない知恵を振り絞っていると、不意に聞こえてきた
のだ、場違いなほどに心を癒す音が︱︱。
﹁え⋮⋮またあのオルゴールの音?﹂
﹁時沢君、何を言っているんだい? どこからオルゴールの音が流
れてくるんだ?﹂
﹁何も聞こえないよ⋮⋮﹂
また君恵だけしか聞こえないのだろうか。これで三度目だ。元の
99
時代から、この時代へタイムトラベルする前に聞こえ、そして研究
所でタイムトラベルに関して研究している部屋に辿り着くまでに聞
こえていた︱︱あのオルゴールの音色。
次の瞬間、門上や学の制止の声を聞かずに君恵は走り始めていた。
何も根拠はない。だが、あの音は君恵を再びどこかに導いている
と直感が物語っているのだ。
間もなくして、通路の角を曲がったところで美希と鉢合わせした。
﹁君恵!?﹂
﹁美希、何をやっているの! 危ないでしょう!﹂
﹁そういう君恵だって、なんでいるの。ここから先は煙が回ってい
て、先に進めない⋮⋮﹂
悔しそうな表情で歯噛みをしながら、後ろに視線を送る。彼女の
言うとおり、黒い煙が廊下にまで漏れていた。
﹁あの先が小会議室のはずだ﹂
学がぼそっと言うと、美希が回れ右をして戻ろうとする。だが君
恵は彼女の腕を両手で握りしめた。
﹁行かせて!﹂
﹁行っちゃだめ! 美希が死んじゃう!﹂
﹁人の命なんて、いつ尽きるかわからないんだから、行かせて!﹂
その言葉が君恵の心の中に突き刺さる。美希の発言の一つ一つが、
確実に刻まれていた。
必死に抵抗するが、少しずつ腕から手がずり落ちていく。もう数
秒も持たない︱︱その時、門上が声を投げかけた。
﹁待ちなさい、その部屋に行くために一つ考えがある﹂
美希は抵抗するのをやめ、鋭い視線で門上を見据えた。彼は複雑
な顔をしながらポケットから手のひらより一回り小さいサイズの物
を取り出し、それを三人に見せてきたのだ。
君恵と美希は形の悪い石のようなものに眉を潜める。だが学は信
じられないという表情をして、じっと見つめていた。
100
﹁⋮⋮エキゾチック物質⋮⋮?﹂
﹁その通り。小さいが、私が密かに作っていたものだ。これで君た
ちを元の時代に戻そうと考えていたが⋮⋮﹂
﹁エキゾチック物質は、空間に存在するワームホールを拡大する物
質。ワームホールは未来と過去を繋ぐのはむしろイレギュラーで、
本当は同じ空間に存在するある場所とある場所を繋ぐ役割をしてい
る﹂
学が声色を極力低くして簡単に説明した。言ってしまえば、この
物質は空間同士を繋ぐものを拡大する鍵、これを利用すれば真美の
元へと行ける可能性がある。
﹁︱︱使いましょう、これを﹂
躊躇いもなく君恵が発言した内容に対して、誰よりも驚いたのは
美希だった。
﹁待って、そんなことしたら、君恵たちが戻れなくなるじゃない!﹂
﹁二度と戻れないわけじゃない。遅くなるだけよ。これだって門上
教授が作ってくれたもの。時間をかけて、また作れば戻れるでしょ
う﹂
﹁時沢君、私が言うのも変だが、もう少し時間をかけて考えたらど
うだ? これは偶然に作り出せたもので、私の仮説によれば、過去
と未来を移動したら、なるべく早く戻らないと望んだ時代に戻るの
は困難になる。ワームホールにも繋ぐ時代が決まっていて、時間が
経つにつれてずれる可能性があるんだぞ!?﹂
﹁お姉ちゃんを助ける方法はまだある。︱︱そうだ壁をぶち破ろう
!﹂
門上と美希が必死に君恵を止めに入っているが、想いは譲れなか
った。
本来あるべき未来とは違う、姉が事故で亡くなるという過去にな
るのは、あってはならない。そして君恵たちがきっかけでそれが起
きてしまったのなら、こちらとしては謝っても謝り切れない。
101
君恵は学を見上げた。学の方が二十センチ以上高いため、見上げ
ると自然と帽子の隙間から彼の表情が目に入ってくる。
彼は︱︱静かに微笑んでいた。
﹁いいの、君恵さん?﹂
それに対してしっかり頷いた。
﹁︱︱たとえこの決断が今後にとって辛い道に続いていたとしても、
決して後悔はしません。だって自分で選んだ道だから。それに人生
なんて険しい道ばかりでしょう。そう簡単に上手い話はない︱︱﹂
そして命に変わるものは何もないから︱︱。
君恵は顔が強ばっている門上と美希に対して、にこやかな顔をし、
エキゾチック物質を取り上げた。
﹁さあ真美さんを助けに行きましょう﹂
﹁さあって⋮⋮けどワームホールっていうのをどうやって作るの!﹂
﹁何らかの衝撃で、少しでも大きなものを作り出せばいいんですよ
ね﹂
学ではなく門上に意見を求めると、頷いて返された。
﹁そう言われている。爆発とか⋮⋮が一つの有力候補かもしれない﹂
その時タイミング良く、爆音が聞こえた。引火範囲が広がってい
るのかもしれない。このままではこの建物に居続けることも危険で
ある。
﹁あとは運しかない﹂
門上は天井を見上げて嘆息をする。一つの手段を投げかけたが、
はっきり言って現実的ではない。
︱︱本当にそれは運なのかしら。偶然でも運でも、振り返ればそれ
が必然になるのではないかしら⋮⋮?
物質をぎゅっと握りしめ、溢れ出てくる黒い煙の方に目をやった。
既に呼吸が通常通りにできなくなっている気がする。
﹁お姉ちゃんが⋮⋮。やっぱりあたし、中に行く!﹂
102
﹁それは駄目だって! 今度検査とはいえ入院するんでしょう。も
う少し体を労って!﹂
君恵が必死に美希を止めていると、何の前触れもなく、今まで体
験したことのない爆音と衝撃が君恵たちを襲ってきたのだ。
その瞬間君恵は垣間見た︱︱本当に目に見えるか見えないか程度
の小さな白い穴が。
﹁ワームホール!﹂
無意識に叫ぶと、皆の意識がそこに集められる。エキゾチック物
質を持った手を近づけると穴が大きくなり、手のひらほどのサイズ
になった。
﹁これがワームホール⋮⋮?﹂
美希は初めて見るものに対して、目を見張った。君恵もまじまじ
と見るのは初めてであったが、そこでゆっくりと眺めている場合で
はない。
学は爆発の衝撃で座り込んでいる君恵から物質を取り上げると、
それを穴のすぐ傍に近づけた。すると見る見るうちに穴は大きくな
り、人がどうにか通れるほどの大きさになったのだ。
﹁真美のいるところまで繋いでください!﹂
しかし必死に叫ぶが一見して特に変わった様子はない。穴の先は
白い靄がかかっており、その先は見ることができなかった。
﹁⋮⋮行ってみよう﹂
学が堅い表情のまま、ワームホールを見据える。君恵は美希と手
を取って正面まで歩む。門上も進もうとしたが、君恵はちらりと振
り返って言葉を投げかけた。
﹁門上教授は何かあったら困りますので、ここにいてください。美
希も⋮⋮って言いたいけど、無理そうね﹂
﹁当たり前よ。お姉ちゃんを助けるのはあたしなんだから!﹂
何か言いたそうな顔をしている門上に対して、君恵は頬を緩まし
た。
﹁貴重なお話をありがとうございました。また戻ってきたら、今後
103
どうすればいいか教えてください。六年後の時代に戻らなければな
らないので。よろしくお願いします﹂
﹁くれぐれも気を付けて。良き道が通じているように︱︱﹂
先ほど広がったワームホールであるが、再び小さくなろうとし始
めた。その前に学が先陣を切って穴をくぐる、最後にちらりと門上
の顔を見て。君恵と美希も鼓動が速くなる中、鞄を抱えて同時にく
ぐった︱︱。
くぐった瞬間、天井は一面黒い煙で覆われている部屋に辿り着い
た。小会議室に着いたと判断していいだろう。体を屈めて、手分け
して探すことにする。
﹁真美さんーー!﹂
﹁真美ーー!﹂
﹁お姉ちゃーーん!﹂
三者三様で真美を呼ぶが返事はない。あまり広くはない部屋だが、
返事をないことから、二パターンが考えられる。部屋を間違えたか、
それか︱︱。
﹁真美!﹂
学の悲痛な叫びが君恵の耳に飛び込んでくる。口元をタオルで覆
いながら駆け寄ると、既に美希が近くにおり、二人でぐったりと倒
れ込んでいる真美を呼びかけていた。
﹁お姉ちゃん!﹂
﹁真美、真美!﹂
妹と彼氏が、彼女に向かって呼びかけている。たった少ししか話
をしたことがない君恵には立ち入れない状況だった。激しく煙が出
ている場所から近かったため、とりあえず部屋の中央に移動するよ
う促す。
君恵は部屋の中を眺め、出入り口の近くが煙で覆われていること
を確認した。あそこを突破しなければ外には出られない。だが非常
104
にリスクが高かった。
﹁勢いで行動するのも考えものね﹂
できればもう一度ワームホールが開いてほしい。だが学が持って
いるあの石は、だいぶ小さくなっていた。四人通るのに必要な時間
を維持し続けるには困難かもしれない。
﹁お姉ちゃん! あたしのこと、わかる!?﹂
今後のことについて考えを巡らせていた君恵は、美希の飛び上が
るような声を聞いて振り返った。真美がうっすらと目を開けている
のだ。
﹁美希⋮⋮君恵さん⋮⋮それに︱︱学?﹂
呼ばれた本人はとっさに真美から後ずさった。この時代の彼と最
も親しい存在︱︱ここで邂逅してしまえば、今後のことが誤魔化し
きれない。
だが真美の意識は若干朦朧としているのか、学をぼんやりと眺め
ているだけで、成長した彼を指摘することはなかった。
﹁いったい⋮⋮どうなっているの?﹂
﹁工場の油が引火して、爆発したらしい。それで火事が発生して⋮
⋮﹂
﹁つまり爆発の衝撃で気を失っていたというところね。よかったわ、
重度な一酸化炭素中毒ではなさそうで﹂
真美は美希に支えられながら起きあがる。せき込みながら口元に
手を当てた。
﹁助けに来てくれたのは嬉しいけど、脱出はできるの?﹂
﹁うん、それがね⋮⋮﹂
美希が歯切れ悪く返答するのは、彼女もこの状況の危険さがわか
っていたからだろう。真美は深く溜息を吐いた。
﹁後先考えないで行動するなんて、美希らしいというか、学らしい
というか⋮⋮。貴方たち、少しは成長しなさいよ﹂
力はあまり入っていないが、真美が笑っているのがせめてもの救
いだった。
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少し離れたところで様子を見ていた君恵だが、今後の行動を話し
合うために三人の元へと向かおうとした。
だがその時、再び激しい爆発音がした。
今までで最も大きな衝撃により、歩いていた君恵は吹き飛ばされ、
近くにあった棚に激しく背をぶつけたのだ。
﹁⋮⋮っ痛!﹂
﹁君恵!﹂
あまりの痛みに悶絶しながら、そのまま床に倒れ込む。背中から
痛みが全身に駆け巡る。
ふと頭上から何か妙な音が聞こえているのに気づいた。目をうっ
すら開けると、棚の上に積んであった本が落下してきたのだ。
顔が一気に強ばった。逃げるのは不可能と判断し、とっさに顔を
隠す。それでも今からくる激痛には歯を食いしばって耐えなければ
︱︱だが直前で誰かが君恵を抱きしめたのだ。
﹁⋮⋮え?﹂
確認する間もなく、本は降り注ぎ、君恵ではなく、君恵を抱きし
めた誰かの上を直撃した。
すぐ近くからくぐもった声が聞こえる。男としては華奢な手であ
るが、君恵の手よりは遙かに大きな手。そして優しく包み込んでく
れている、少し茶色がかった髪の青年が目に入る。
本による強襲が済むと、彼は呻き声をあげながら、ゆっくりと起
きあがった。君恵もそれと共に起きあがる。
﹁学さん、どうして⋮⋮﹂
帽子は外れ、痛々しい表情を間近で見ると、つい涙が目元に溜ま
り始めてしまった。
﹁どうしてって、助けたかったから。何もしなかったら、絶対に後
悔すると思ったから﹂
痛みのあまり君恵に向かって倒れ込んでくる。そんな彼を優しく
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受け止めた。
﹁⋮⋮無理しないください。研究室に籠もってばかりの人で、体力
なんてないんでしょうから﹂
﹁⋮⋮その通りだね﹂
ほんの少しだけ心が落ち着く時間だった。
その時ふと周囲に見えたのは、黒い煙やちらつき始めた赤い炎。
そしてどこから見える、明るい光の穴と白い穴。
︱︱穴?
君恵は顔を上げ、違和感があった方に視線を向けた。そこには人
の顔ほどの小ささであるが燦々と輝いている光の穴と、そこから少
し離れたところにある先ほど使った白い穴と同様のものが出現して
いるのだ。
﹁ワームホールが開いた? ⋮⋮だ、誰か、エキゾチック物質で穴
の維持を!﹂
美希は立ち上がり、学が君恵を助ける際に投げ出した物質を取り
上げて、穴の近くにまでいった。すると白い穴は少しずつ大きくな
り始める。一方で何もしていない光の穴の大きさは同じままだった。
﹁物質が小さいから、片方しか効果がないのかもしれない⋮⋮﹂
懸命に美希が願うと白い穴は大きくなっていき、やがて人の大き
さほどになる。真美は目を丸くして、穴に近づいていく。
﹁これは何?﹂
﹁空間同士を繋ぐトンネルだって。これを通れば安全な場所に辿り
着くはず﹂
﹁それって、ワームホールっていうのかしら。本当にあったんだ⋮
⋮﹂
感嘆している真美の元まで、君恵は学を支えながら歩いていく。
﹁穴が二つあるけど、白いほうを通ればいいんだよね﹂
﹁たぶん。こっちは大きくなっていないから﹂
美希は真美の手を引き、白いワームホールに踏み込もうとした。
君恵も続こうとしたとき、急に学の胸元が光り始めたのだ。何事
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かと思った彼は、そこからあるものを取り出した︱︱懐中時計だっ
た。それが燦々と光り輝いているのだ。その輝き具合はもう片方の
穴とよく似ている。
﹁学さん、これはただの懐中時計ですよね?﹂
﹁そうだよ、真美を通じて教授からもらった記念品。旅立つ僕へ渡
した品︱︱﹂
君恵もその時計を持ってみたが、見た目よりも若干重かった。ま
るで内部が何かで詰め込まれているような、たとえば細かな粒子と
か︱︱。
﹁この中にあるの、エキゾチック物質じゃないですか?﹂
﹁まさか!﹂
君恵が思いついたことを言うと、学は即座に否定する。その時計
を燦々と輝いている光の穴に何気なく近づけると拡大した。これに
は学は虚を突かれたような表情をしている。
﹁嘘だ⋮⋮。だって、これは教授からもらったもので、教授は僕が
立てた理論を、物質を真っ向から否定して⋮⋮興味ないって言い切
ったのに、どうしてだ!﹂
﹁︱︱だからそれはただの表面上の言葉ですよ。真実を自分で聞い
てください﹂
今はそれしか言い切れなかった。
君恵は矢上姉妹を見渡した。話に付いていけなく首を傾げている
真美と、驚いた顔をしていたが今ではにっこりと笑っている美希。
﹁ここでお別れかな。きっと無事に戻れるよ、あたしは信じている。
ほんの数日だけだったけど楽しかった﹂
﹁こっちこそ、美希⋮⋮色々とありがとう。あなたがいなかったら、
たぶん無理だった﹂
光輝く穴は人の大きさほど広がる一方、白い空間が続いている穴
は小さくなり始めていた。
﹁そうかな。君恵だったら、あたしがいなくても大丈夫だったよ。
最後はきちんとやり遂げる人だって知っているもの。︱︱もう行か
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なきゃ。教授には適当に言っておいてあげる﹂
そして美希は真美と穴に片足に踏み入れた時、君恵は堪えきれず
に最後の言葉を発していた。
﹁︱︱美希と再会できてよかった。本当にありがとう! ずっと忘
れないから︱︱﹂
﹁大袈裟ね、そっちでも会えるでしょう。︱︱またね﹂
そう言い、真美と美希は白いワームホールへと踏み入れ、白い空
間の中へと消えていった。
君恵は学に視線を合わせるとお互いに頷きあい、光り輝く穴へと
踏み入れる。
温かな光の中に入った瞬間、あのオルゴールの音が聞こえてきた。
一生忘れない友人が好きだった音楽のオルゴールバージョンが︱︱。
途中で白い紙吹雪が舞っている中を君恵は躊躇いもせずに通り抜
けた。決して振り返りもせず、一つの通過点として進んでいく。
そして懐中時計から発する光に導かれながら、君恵と学は光の道
の彼方に向かって歩き続けていった︱︱。
109
14、彼方の先にあるのは
何もない真っ白な空間の中に、誰かが目の前に立っていた。私よ
り少し背が高くて、活発的な女の子。
振り向けば向日葵のような笑顔を振りまき、動き始めれば軽やか
にどこかに行ってしまう。勉強も運動もでき、人付き合いも良く、
私にとって彼女は憧れの対象の一人だったかもしれない。
そんな彼女は背中越しから微笑み、口元を動かした後に歩き始め
てしまった。
“さようなら”、そう読みとることができた。
どことなく寂しい表情を浮かべたまま彼女が行ってしまう。追い
かけようとしたが、足が石のように重くて動かない。叫ぼうとした
が、何かが詰まったのか喉から声が出ない。
ただ、私は行ってしまうのを見送るしかできなかった。
永遠なる別れ︱︱それが最後に見た彼女の姿だった。
* * *
目を開くとぼんやりと薄暗い天井が視界に入った。冷房がきいて
いるのか仄かに涼しい。長く息を吸い、吐くと、徐々に視界が鮮明
になってきた。そして君恵は自分が置かれている状態に気づき、飛
び起きた。
ソファーで横になっており、薄手の毛布が掛けられていた。どこ
かの休憩室のようで、冷蔵庫や火の元、机や椅子が完備されている。
カーテンが閉められているため外は見えないが、おそらく光がまっ
110
たく入ってこないことから夜の時間帯だろう。
小さな机を挟んだ向かい側には、学が胸を上下させながら眠って
いる。とりあえず彼も生きていることに安堵した。
﹁ここはどこ?﹂
﹁ようやく目覚めたんだね﹂
聞き覚えのある優しい声に君恵は視線を向けた。白髪が目立つよ
うになってきた初老の男性︱︱門上が微笑みながら立っていたのだ。
﹁門上教授⋮⋮? 私、結局戻らないで、教授の元に帰ってきたん
ですか。︱︱そうだ真美さんは無事ですか!?﹂
﹁真美は私ですけど⋮⋮﹂
門上の後ろから、若干困惑した表情の真美が現れた。なぜだろう
か、さっき会った彼女より、さらに大人っぽくなっている気がする。
﹁思い出したかい、矢上君﹂
﹁そうですね⋮⋮六年前の出来事なんて、しかもあの事故の前後で
すよね? 記憶が曖昧で正直わかりません﹂
﹁連れ出したときは、かなり衰弱していたからね。一酸化炭素とい
うのは思った以上に怖い存在だよ﹂
門上は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いだのを君恵に手
渡した。
・・・・・・
﹁お帰りなさい、存在するべき時代に﹂
その言葉を聞いて、大きく目を見開いた。
門上はそれ以上何も語らずに、麦茶を自分と真美の分を注ぐと美
味しそうに飲む。君恵もつられて飲むと、とても冷たく美味しかっ
た。
視線を近くにあった日付も載っている電波時計に向ける。そこは
さっきいた時代から六年後︱︱つまり君恵と学が本来いる年だった。
ふと、ポケットの中にある携帯電話が振動しているのに気づく。
中身を確認すると大量のメールが流れ込んできたのだ。
111
﹁本当に戻って来られたんだ、元の時代に⋮⋮﹂
携帯電話の日付は丸々三日進んでいる。君恵たちがあちらの時代
で過ごした日数と同じだ。
手を握れば確かに感触はあり、コップ越しから冷たさが伝わって
くる。生きてこの時代にいることができるのが、信じられなかった。
﹁門上教授がここまで連れてきてくれたんですか?﹂
﹁そう。君たちが建替え中の棟の中で気を失って、横たわっている
のを発見してね。︱︱いつ戻るかと心配していたけど、案外早く戻
って来られたようで良かった﹂
その内容を聞いて、君恵は耳を疑った。門上はタイムトラベルに
ついて研究をしているのは、過去に会った経験からわかっている。
だが今の口調はまるで︱︱。
﹁︱︱ちょうど三日前、私は浅井君が来る前にかつて使用していた
居室に忘れていたものを取りに来ていたんだ。そして戻ろうとした
ときに、二人が光の中に消えていくのを見た。さすがにあれは驚い
たね、忽然と姿を消してしまった二人、探しても見つからないから、
神隠しとかでも起こったかと思ったよ﹂
不可能と思っていたことを科学で証明したい︱︱そう言っていた
人からその言葉が出て、君恵は正直唖然としてしまった。逆を取れ
ば、それほど君恵たちが体験したことは非常に不可思議なことだっ
たのだろう。
﹁そんな中で矢上君と再会し、行方を考えている時に、﹃光の穴を
通じて空間から空間へ移動することは可能ですよね?﹄と彼女から
助言を頂いて、別の場所に移動した、もしくはタイムトラベルした
のではないかという、結論になったんだ。あの日は別の研究室で大
規模な衝撃を与える実験をしていたしね﹂
門上の言うとおり、タイムトラベルをする直前に、体が振動する
程の衝撃実験が行われていたことを君恵は思い出した。あの時の衝
撃によって、ワームホールが現れたのだろうか。
一方で、真美が腕を組みながら、君恵のことをじっと見つめてい
112
るのに気づく。
﹁あの、顔に何かついていますか?﹂
﹁どこかで会ったことがあるかなって、思い出しているんだけど⋮
⋮﹂
﹁美希の友達でしたので、“その時”に顔を見たっていうのもあり
ますよ﹂
﹁違う、あの時は人の顔を見ている余裕なんてなかった。だからも
っと違う時﹂
﹁︱︱六年前の事故前とか﹂
﹁⋮⋮記憶が曖昧だから、はっきり言えない﹂
ほんの少し前まで名前で呼び合っていた仲であったが、覚えてい
ないというのは若干ショックではあった。ただそれは君恵にとって
は数時間前のことであり、彼女にとっては六年前のこと︱︱時の差
は埋められるものはない。
﹁さて、次に君たちはどこに行ったのだろうと考えていた時に、六
年前に時沢君恵さんという、不思議な女性にあったのを思い出した
んだ。なぜかこの世界に“二人”存在し、タイムトラベルについて
妙に詳しく知っていた女性を。︱︱タイムトラベルについて研究し
ていたことがあったとはいえ、事実を認めるのは彼女の言動を見る
まではわからなかったがね﹂
目を細めて、記憶を探りながら言葉を紡いでくる。門上にとって
も、違う時代の人と出会う初めての体験だったのかもしれない。
﹁そして彼女と一緒にいた彼の顔を思い出して︱︱今と繋がったわ
けだ。確証はなかったが、可能性の一つとして信じたかった。その
後は二人が戻ってくるのをただ待っていようかと思ったが、六年前
の浅井君が進んで私や矢上君に助言を求めてくるはずがないと気付
き、少しでも状況を変えようとしたんだ﹂
門上はちらりと真美に視線をやる。
﹁︱︱そこであの事故の時に、一緒にいた矢上美希君に、君たちの
道案内を頼もうと思った。物を違う空間に送るのは成功したことが
113
あってね、一か八かだったが⋮⋮矢上真美君からの手紙を彼女はも
らっていたかい?﹂
﹁⋮⋮はい。六年後からの真美さんの手紙、私も読みました﹂
君恵が答えると、門上と真美は感嘆した声を漏らした。
﹁上手く行って良かった﹂
﹁こちらこそ、ありがとうございました。美希のおかげでかなり助
かりました。最終的には六年前の門上教授や真美さんと会い、土壇
場の状況でしたが戻ることができました︱︱懐中時計の中に入れら
れたエキゾチック物質の塊により﹂
﹁︱︱浅井君が握っていたものだね。あれは私から彼への称賛のつ
もりで贈ったものだ。あの歳であそこまでのタイムトラベルの理論
をはじき出すものだから︱︱。意外な所で役に立って良かった﹂
門上から学への想いがこの時代に戻してもらったと言っても、過
言ではないかもしれない。
やがて隣のソファーで眠っていた学がうめき声と共に瞼を開いた。
最初は君恵と同様にぼんやりとしていたが、君恵、そして門上や真
美を見ると飛び起きる。同時に自分が帽子も被らず、顔を二人に晒
しているのを知り、慌て始めた。
﹁ぼ、僕はこれで失礼︱︱﹂
﹁浅井学君、落ち着きなさい。私と君は同じ時を過ごしている者同
士だ。何も慌てることはない﹂
学は眉を顰めながら、二人を眺めると、さっきとは容姿が変わっ
ていることに気づく。一方は歳を取り、一方は大人びた様子に︱︱。
視線は自然と君恵の方に向かれる。
﹁君恵さん、僕たちは戻って来られたのか? タイムトラベルでき
たのか?﹂
﹁そうみたいです⋮⋮﹂
﹁なら、六年前のバイオ燃料工場での事故はどうなったんですか!
114
?﹂
門上と真美に向かって叫ぶと、二人は数瞬思い出す時間を要した
が、あまり間を置かずに答えてくれた。
﹁私も含めて重軽傷者は多数、死者は三名、そのうち身元不明者が
二名ほど︱︱﹂
﹁あれだけ大爆発だったのに?﹂
﹁火の周りが速かったけど、運が良かったわ。私も美希や門上教授、
そして学に助けてもらわなければ危険だったでしょうね⋮⋮﹂
﹁本当か? 僕が知っている過去はもっと小規模の爆発で、真美も
軽い一酸化炭素中毒に⋮⋮﹂
﹁学、何を言っているの? あれを小規模と言ったら、いったい他
の小さな爆発はどうなるの? 私も重篤な中毒よりだったの、覚え
てないの?﹂
学と真美の発言がまったく噛み合っていない。これは君恵たちが
戻ってしまったことにより、過去が変わってしまったのだろうか。
﹁これはパラレルワールド︱︱並行世界が原因かな。二人が知って
いる過去はおそらくこの世界の過去と少しだけ変わっている。浅井
君が知っている過去と、矢上君が体験したことに違いがあることか
らわかるように。まあ根本的なことには影響はないと言われるから、
あまり深く考えなければ大丈夫だろう﹂
すらすらと仮定を述べる門上の姿に学は呆然と眺めていた。
それはそうだろう。かつて指示を仰いでいた教授がタイムトラベ
ルの研究に興味がない人間だと思っていたが、実は積極的に研究し
ている人間だと知ってから一日も経っていない。すんなりと受け入
れられるはずがないだろう。君恵も真美も、彼から発せられる沈黙
を破ることはできず、黙ったままだ。
しばらく沈黙の時間が続くと、ようやく俯いていた学はぼそっと
呟いた。
﹁⋮⋮教授﹂
それを聞いた門上は彼に近づいていった。穏やかな笑みを浮かべ
115
ているが、どことなく緊張しているようにも見える。
﹁久しぶりだね、浅井君。君の活躍は聞いているよ。海外で博士号
を取り、論文も既に何本も雑誌に掲載されていると聞いた。かつて
教えていた身としては非常に嬉しいよ﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます。門上教授も元気なようで良かったで
す﹂
﹁まだまだ後任に譲る気はないからね﹂
ぎこちなく挨拶をしている二人が、君恵にとっては複雑な気持ち
だった。ここで助け船を出してもいいが、それでは心の底から吹っ
切れないだろう。
そして学は何度か躊躇いながらも、ようやく確信を突いた話をし
始めた。
﹁︱︱教授はタイムトラベルの研究をしていたんですね。僕、全然
知りませんでしたよ﹂
﹁誰にも話す気はなかった。矢上君には偶然にも知られてしまった
が、学生には誰にも話さないつもりだった﹂
﹁⋮⋮どうしてですか。僕は多少ですが研究までして、それを説明
した⋮⋮なのに!﹂
震える手で机をばんっと叩いた。君恵はぎょっとしたが、彼の崩
れていく表情を見て、声が出せなくなっていた。
﹁僕は教授のこと信用していた。誰よりも信用していた。だからタ
イムトラベルについての自分なりの理論をすべて話した。それに修
士論文を元にしたエネルギーに関する投稿論文もすべて書ききって、
教授に託したのに、どうしてあんなことしたんですか!﹂
﹁︱︱君を守りたかったからだ﹂
即座に帰ってきた予想外の返答に、反論しようとしていた学は言
葉が出てこなかった。
116
﹁浅井君、投稿論文が雑誌に掲載され始めて、何か変わったことは
なかったかい? 例えば名も知らない企業からの執拗な勧誘、講演
会の頼み、無駄に豪華な研究所への勤務の誘いなど︱︱良さそうな
条件に見えるが、よく考えれば穴だらけの話を聞いたことはないか
?﹂
﹁⋮⋮あります。まだ僕はそのレベルではないと思い、すべて断っ
ていますが。特に実践に近いエネルギー関係の論文を出したときは
多かったですね﹂
﹁無理矢理どこかに連れ去られるというのはなかったかい?﹂
学の顔はどんどん渋くなっていく。
﹁⋮⋮あります。すぐに警察が来てくれて、難を逃れましたが、あ
れにはびっくりしました﹂
﹁︱︱そういうことが起きるのを恐れて、君を第一著者として論文
を投稿することをやめたんだよ。世界中、特に国内ではエネルギー
に関係する論文は敏感だ。また珍しい研究︱︱タイムトラベルも悪
用される恐れがあるから同様なことが言える。もし優秀な人材が現
れれば、その知識を奪いにやってくる。最悪、たいした設備のない
研究所で一生を過ごすことになるか、馬車馬のように働かされて、
若くして死を迎えるだろう﹂
そう言って、門上は持ってきていた鞄から、パソコンの外部メモ
リと印刷された論文を学に手渡した。そこの第一著者は“Mana
bu ASAI”と書かれている。
﹁君を第一著者にしなかったのは本当に悪く思っている。君が成長
するのを待ってから、投稿することも考えたが、それでは遅すぎる。
この知識や君自信の存在を、いち早く世界に広めさせたかったから、
海外に出る前に無理矢理第二著者として雑誌に載せさせたんだ﹂
﹁やけに速かったのはそのせいですか⋮⋮﹂
学は渡された論文を受け取り、黄ばんだ紙に目をやった。
﹁君が成長して、自らが書いた論文とそれに付随する世界を受け入
れる器になったら、これを返そうと思っていた﹂
117
そして門上は学に視線を向け、諭すように優しく微笑んだ。
﹁おそらく君が決めた道は、非常に険しい道になるだろう。だが、
浅井君なら大丈夫だ。私の研究室に入った頃のように、はっきりと
した信念を持ち続けている限り︱︱﹂
そう言って、軽く学の肩を叩いてから、彼に背を向けて歩いてい
った。
呆然としていた学の目から、僅かであるが涙がこぼれ落ちる。そ
れが床に着く前に門上に向かって叫んでいた。
﹁教授!﹂
﹁なんだい?﹂
口をパクパクさせながら、僅かに躊躇っていたが思い切って声を
発する。
﹁また⋮⋮教授から教えこいて頂いてもいいですか? 僕がやりた
いのは、この国のエネルギー改革、海外での研究では少し的外れな
んですよ﹂
門上は目を丸くして振り返った。そして柔和な笑みを浮かべたの
だ。
﹁こちらこそ、君のような若手からぜひとも刺激を受けたい﹂
それは学にとって最大の賛辞の言葉であった。流れそうになった
涙を拭い、彼もようやく微笑んだ。
﹁ありがとうございます﹂
外が少しずつ明るみ始めていた。長かった夜は終わり、始まりの
朝を迎える。
長きに渡ってあったわだかまりが溶け、それぞれの新たな道が作
り出された︱︱。
118
119
エピローグ:そして道は続く
あれから一年後︱︱。
東波市はエネルギー管理委員の見事な手腕により、無事にエネル
ギー管理都市の更新を乗り越えられ、今年度も多額の補助金をもら
っていた。何度も猛暑日が襲ってきたにも関わらず乗り切ったのは、
研究都市としての維持もあるかもしれない。
その日、君恵はある人の墓地の前に立っていた。数年経っている
はずだが、丹念に掃除をされているため、綺麗な状態のままだ。花
を筒にいれ、線香に火を付けると、後ろから青年が近寄ってきてい
た。
一年前よりもさらに大人っぽくなったが、未だにどこかあどけな
さが残っている青年だ。
﹁学さん、ここまで来なくて良かったのに﹂
﹁いや、彼女にはお世話になったし、ご挨拶をしなくてはと思って
いたから﹂
そして“矢上美希”と墓所に書かれた彼女に想いを馳せながら、
線香を供える︱︱。
空は青く、太陽も燦々と輝いており、太陽とよく似合う美希には
ぴったりの日であった。
矢上美希は、六年前のバイオ燃料工場の事故後に、以前から予定
していた検査入院をしていた。その途中で腸の手術をすることにな
り、ほぼ成功すると言われていたが、途中で容体が急変、かえらぬ
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人になってしまったのだ。
当時の君恵は、彼女の突然の訃報を聞いて、しばらく信じられな
い日々が続いていた。だが葬式に出て、瞳を閉じた彼女の顔を見た
瞬間、死の事実を受け入れたのだ。
そして同時に知ってしまった︱︱人はいつ死ぬかわからないとい
うことに。
あのタイムトラベルの際、二度と会えない人と思わぬ再会をし、
始めは戸惑うことも多かった。同時にもう一度永遠の別れを体験す
ることを考えると恐ろしかった。
だが︱︱彼女の元気そうな顔を見た時、これから起こることなど
忘れて、“今の時間”を大切にしようと思ったのだ。
そして最後に見た彼女の笑顔は、今でも君恵の記憶の中に残って
いる︱︱。
君恵と学は久々の対面であったため話のネタは尽きることなく、
墓所から近くの駅まで並んで歩いていた。年末に少しだけあったが、
基本的には国内と海外にいる身、せいぜいテレビ電話がいいところ
だ。
﹁真美さんに教えてもらったんですか?﹂
﹁そうだよ。実は早めにこっちに到着していてね、君恵が美希さん
の墓参りに行ったと聞いたから、つい﹂
﹁へえ、まだに連絡取り合っているんですか⋮⋮﹂
少しだけ頬を膨らませつつ聞くと、申し訳ないような顔をされた。
﹁友達として付き合っているだけだって、それは本当だよ。僕たち
は恋人というより、ライバルという関係が最も正しい表現だと気付
いたことで別れたんだよ。あとは僕が海外に行くって言ったのも一
つのタイミングだった。⋮⋮異性同士の親友もありだろう?﹂
﹁まあ、そういう関係は悪くないですけど、真美さんの旦那さんに
恨まれるようなことはしないでくださいね、あと私にも﹂
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眉をしかめながら下からじっと見上げると、学は何度も何度も頭
を下げた。
あのタイムトラベルをした後︱︱学から君恵に連絡を取りたいと
言ってきたのだ。好意を持っていた君恵にとっては思ってもいない
申し出だったが、突然のことに真意を疑いそうになっていた。だが
真美に﹁恋愛には超奥手だから、これが精一杯の努力。だから少し
でも好意があったら、受け取ってあげて﹂と耳打ちをされたのをき
っかけにして、交際を始めたのだ。
ちなみに真美は三年前に結婚しており、国のエネルギー管理委員
として、夫と共に全国を駆け回っているらしい。
君恵はというと、無事に今年度の試験は合格し、来年度から東波
市を含む県のエネルギー管理委員として働くことになっている。何
度も挫けそうになったが励まされながら、そして自分の意志を保ち
続けながら、最後はやりきったのだ。
そして学は︱︱。
﹁来月から大学に戻ることになったよ。海外でやっていた大きな研
究の目処が経ったからね﹂
﹁門上教授の下で、ですか?﹂
﹁そうそう。タイムトラベルの方はさすがに研究する余裕はないけ
ど、エネルギーの方で極めていきたいと思うんだ。︱︱エネルギー
資源や知識がないからって、過去に戻ろうという愚かな人が出てこ
ないためにも﹂
駅に向かう途中で開けた場所に出た。そこから広がるのは一面青
い海と空。海風が君恵の髪をなびかせる。
﹁そうですね。すべての時間にそれらを求めて、過去や未来に大惨
事が起こることを防がなくてはならないですから﹂
君恵は学の横顔をちらりと見た。
﹁教授はタイムトラベルをしても、根本的なところは変わらない、
変わるのはせいぜい人の気持ちだけと言っていました。︱︱そう、
私たちの旅も、結局未来自体は何も変わらなかった。でもあの旅を
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過ごしたことで、気づいたこともありますよね﹂
学が門上から修了祝いに渡された、懐中時計には凝縮されたエキ
ゾチック物質が詰め込まれていた。それは門上が学の仮説や理論を
認め、称賛し、そして論文を投稿できなかったことへの詫びを入れ
たことで、やったことだ。
一方で、時折君恵を導いてくれた、あのオルゴールの音︱︱あれ
は美希が好きだった音楽であった。まるで立ち止まっていた君恵に
対して、常に前に向いて進んでいた彼女が進むよう、促していたよ
うにも感じる。
﹁過去は変わらない、けど未来を変えるのに必要なのは︱︱人の想
いだけですよね︱︱﹂
そう君恵は言いながら、にっこりと笑った。
頬を赤くした学はそっと君恵の手を握り、それを握り返した。
その光景を、二人を導いた少女が光輝くその先で、笑いながら眺
めているようにも感じられていた。
了
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エピローグ:そして道は続く︵後書き︶
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
今後もより良いものが書けるよう、精進致します。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n6636bh/
光の道の彼方へ
2012年9月6日03時33分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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