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両犬戦闘期間におけるイギリスの年金の変貌
両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 樫 原 朗 (神戸学院大学助教授) 1 はじめに 19世紀の末から20世紀の初頭にかけて、かなりの西.欧主要諸国は社 会保険を芙施したが、同時に老齢に対する保障についても対応策をと り始めていた。それはドイツにおけるような強制保険によるか、拠出 制を断念して単純に国家が老齢年金を支給する制度をとるかのいずれ かであった。イギリスでは1908年に無拠出年金を成立させたが、この ような無償のものはすでに1891年にデンマークが、1898年にニュージ ランドが、1905年にフランスが、そして1908年にはオーストラリアも 実施していた。フランスの場合は無拠出年金の他に、1881年法による 船員に対する強制廃疾保険の実現以来、若干の業種に実現されたが、 1910年4月5日の法律により一般的な強制年金保険も実現された。 ところで、世界的に社会保障におけるもっとも深刻な問題は老齢年 金から生じていると考えてよいであろう。無拠出年金の場合は、一般 的に制度の拡張につれて、程度の差はあれ、いずれ深刻な財政の限界 が生じてくる。その場合、救貧制の転化と考えられるような抑制策が とり入れられるか、さもなければ保険への転換策がとられざるをえな くなる。イギリスの場合、当初は無拠出制を徐々に拡大したが、やが てその限界に直面する。出生率の低下と平均寿命の伸びが重なり老齢 者は人口構成のうえで重要な部分をしめるようになるが、その年金費 −97− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 用の捻出は国際経済における企業の競争力の問題もあり容易ではなか った。さらに、婦人への参政権の拡大は老齢者層の栗の重要性を増す こととなった。老齢者の福祉の必要に効果的に対応しなければならな いという問題と、財政の中にしめる年金コストを運営可能な範囲内に いかにしておさめるかが重要な問題となる。 このような議論がイギリスにおいて再度生じたのが1923年から25年 にかけてであった。この時期の年金討議の際に保険と扶助の相対的価 値について種々論じられた未、1925年に保険への転換がはかられたの である。もっとも第2次大戦までの期間は扶助と保険の併用の時期で あった。 この保険制(拠出制)の採用は長期的には完全自足のプランであり、 保険の技術的法則のいくらかを守ることの必要性を示したものである が、注目すべきことは老齢者の福祉の必要に対処すべく早期成熟化策 がとられたことであった。そして早期成熟化策の結果、将来における 支払能力の維持のために可変的な国家補助金に依存することを強調し た。この意味において国家の年金保険の原理がいかなる商業保険組織 の静態的年金原理とも部分的には異なることを示したものであった。 そうすれば、その運営はうまくいったかというと決してそうではな かった。件数とコストの増加については常に警鐘が鳴らされていた。 両大戦間期間の20年間に全体として物価はむしろ下がりぎみであった にもかかわらず年金の費用は7千万ポンドにも達していた。他方、受 給者の方からは生計費に対して年金水準が不十分であることについて 常に不満が存在した。大戦が始まりインフレで生計費が上昇すると遂 に補足年金が登場することとなった。しかも、これらは来るべき事態 の発端にすぎなかった。それゆえ、両大戦間期間の20年の間に、年金 の古くて常に新しい問題があらわれているといえよう。以下、無拠出 −98− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 年金の展開、拠出年金の成立、大戦までの拠出年金の運営とその間題 などを検討してみよう。 2.無拠出年金の展開 1908年の老齢年金法は70歳以上の老人に週5シリング以下の年金を 支給することを規定していたが、その経済的最低条件は年あたり資力 が31ポンド10シリングをこえないこと(週12シリング)であった。5 シリングの年金を得るためには資力は年21ポンドをこえてはならなか った。そして週1シリング減少した場合には老齢年金のスケイルを変 更することにしていた。.これが20年もの論議の末に成立した無拠出老 齢年金であった。 この法律は1911年には改正され、就業に失敗した人々に付されてい た資格喪失は除外され、救貧法による受診に対する資格喪失の規定も 廃止され、新規定がとってかわることとなった。その結果、年金受給 者が現実に労役場あるいは救貧法施設の居住者になったときにのみ年 金の支払をおえることに制限された。資力の計算に関する規定も改定 され、計算に関する除外も緩和された。例えば、友愛組合、労働組合 からの、あるいは国民保険法のもとでの疾病給付は計算から除外し、 資産価値の計算に際しても、その最初の25ポンドは完全に除外、次の 75ポンドの年価値は5%にするなどの改正を行なった。その結果、受 給者の殆んどは満額の年金を獲得することとなった。1912−3年に年 金を与えられた人々の93.6%は5シリングの年金であり、この年の年 金費用は12,137,777ポンドであった。なお、この比率はその後もほぼ 不変であった。 ところで、この年金は70歳以上の困窮者に対するものであった。70 歳以前の拠出年金は1925年まで成立しなかった。しかし、1921年の健 一99− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 康保険には70歳以前の廃疾についての規定があった。そしてこの規定 が65歳での拠出制による年金制度への途を準備することとなった。 1911年と1925年の間、国民保険法と老齢年金は同時に働くことにな ったが、国民保険法は決して老齢年金には影響を与えていなかった。 老齢年金は一部門と委員会のみによって管理され健康保険と何らの関 係を有しないまま1924年まで次第に拡大発展していった。 1916年の秋には特別に困窮している人々について2シリング6ペン スを追加することが決定された。その結果、1917年3月の最後の金曜 日の年金受給者947,780人のうち511,263人は2シリングあるいはそ れ以下の余分の給付を受け、308,435人が5シリングを受けた。わず かに3,704人のみが4シリングあるいはそれ以下であった。(1)さらに 1917年8月には特殊困窮条項(′special hardship ′provisons )は取り除かれ、資力については軍隊の手当やある種の任意貯蓄から 得た収入の除外が認められた。一方、完全年金を得るための可能な収 入基準も約31ポンドに引き上げられた。すなわち、(1)同一の家に住ん でいる夫婦の一人が年金受給者である場合は年63ポンド、すなわち、 すべての源泉からの夫婦あわせての資力は週24シリング3ペンス、(2) (2) 他の場合は年31ポンド10シリング、過12シリング1与ペンスであった。 1818年には第1次大戦は終結した。その間のインフレによりすべて の人の収入は名目的には増加したが、生活費も2倍に上昇していた。 老齢者のニードもますます高くなっていた。それにもかかわらず、 1918年3月終りの年金受給者数は2年前よりも3万人も減少していた。 このようななかで、年金問題が帰還兵や増加してゆく老齢労働者 階級の投票に影響を及ぼすであろうとの恐怖が終戦直後の数ヵ月間、 政界指導者をなやましていた。そして老齢年金のより寛大を企画の要 求の叫びは政治的目的の多くの組織により次第に浸透していった。孝 一100− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 れゆえ、1919年1月に再建されて以来、内閣は現在の年金の再建の可 能性の検討を始めていた。大蔵大臣レジナルド・マッケンナ(Regina− 1d Mckenna)はライランド・アドキンス(Ryland Adkins)を委 員長とする各省間委員会を1919年4月3日に仕命し、「現在の法定年 金制において、年金率あるいは資格に関して、もし必要とすれば、い かなる変更がなさるべきかを考察し報告すること」(3)を指示したので ある。この委員会は夏の期間を通じて50人以上の代表者や証人に全う など非常に綿密な調査を行ない、11月7日に報告をした。しかし、こ の報告は年金制度を決定的に変化せしめるものではなかった。多数派 報告には10名が署名、少数派報告には7名が署名したが、他の1名は どちらにも署名しなかった。 多数派報告は資力調査をなくして70歳から過10シリングの年金を支 給することを要求した。また、救貧法の戸外救済の受給は問題とせず、 その他の資格についても緩和することを求めていた。少数派報告は資 力調査を除き多数派報告を受け入れていた。少数派の人々は資力調査 は節約に水をさすとの多数派の考え方に賛成しなかったのである。 ところで、この委員会の構成は少数の友愛組合の人々をのぞいて議 会の支持者や官吏により構成されていた。それゆえ、この報告書は委 員の構成の点から考慮すると政府の期待したようなものではなかった。 ギルバート(Bentley B.Gilbert)によると、その論理は社会民主 制の一般原則の正当1生の確信を証明するものであった。例えば多数派 報告は次のようにいっている。「われわれの目ざしている最終目標は −‥……そのニードが特殊な老齢・廃疾・失業あるいはその他の形態の 不能から生ずるものであれ、あるいはそれが窮乏に拡大するか否かを とわず、必要とされるあらゆる場合に、完全かつ十分な公的扶助が役 立てられる制度である。このような制度は一方においては老齢年金及 −101− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 び国民保険、他方において福祉として再生される救貧法によりしめら れている分野をカソヾ−するであろう」と。(4) 報告書はいかなる種類の部分的な制度も適格性を確立するための困 難を直接的にあらわすものであると述べた。政府部門は年金に関する かぎり、その収入を評価する立場になかった。しかも評価のための行 動は部分的な年金の受給に値する多くの人々が資産を隠す結果となっ た。また所得税限度を使用することは内国税収入機関を悩ますであろ う。それかといって、普遍的拠出年金は依然不可能であると考えられ ていた。そこで多数派は「われわれは資力限度は全廃され、老齢年金 は70歳ですべての市民に与えられるべきであると唱えることを無抵抗 にしいられた。われわれはいかなる他の方法も現在の制度に対する非 常に深刻な反論を取り除くものではないとの意見である」と述べた。 その結果が週10シリングの普遍的年金の提案であった。しかし、その 費用は当時の年金費用が1800万ポンドであるに比べ、資力限度を全く ともなわない場合4100万ポンドと計算されていた。(5) 内閣はこの報告書を不信の念をもって討論していた。年金資金の調 達は世論がたえうる限度において追加課税によらねばならないことは 明らかであった。社会福祉と公共財政という以前からではあるが常に 新しい問題がたちはだかっていた。イギリス経済は斜陽化しつつあっ たにもかかわらず、ポンドの国際的地位をなんとか保ちえたのは国内 における財政の保守主義によるものであった。それにもかかわらず、 老齢年金はこの時期の不発爆弾であった。すでに労働組合会議(T・ U・C)の証言によると、彼らは60歳で1ポンドの普遍的年金を要求 する決議を提出していたのである。 その結果が1919年の老齢年金法であった。11月7日付の報告書は12 日に発表された。下院では12月19日、3読会を1日にしかも1時間半で 一102− 両大電間期間におけるイギリスの年金の変貌 通過せしめるために議事規則の中止が同意された。この時までに法案 の要項は発表されていなかったが、動議の議決にさいし、ボナー・ロ ー(Bonar Law)は政府は委員会の勧告を完全には受けることはで きないが、何らかのことはなされねばならないことを認めていた。と きの首相ロイド・ジョージは次のようにいっている。 「この規則は人々の自由をまもるために確立されたものであるけれ ども、それらを中止することが必要となる異常に危急な場合がある。 貧困な老齢者にいくぼくかの馳走を準備するために行なったことは議 会にとって非常に名誉なことである。−−一一一一”−われわれは国がそのあら ゆる負担にもかかわらず、より少し重い負担を受け入れる準備をする ことを誇りに思う」と。(6) しかし、資力限度をやや緩和することを含んで基礎年金額を10シリ ングに引き上げる(1000万ポンドの追加支出)以上に新しいものは殆 んど何もなかった。(7)1920年の10シリングはその購買力において1914 年の5シリングよりもほぼ÷少ない価値のものでしかなかった。もっ とも、以後は不況の到来により小売物価は下落した。 1919年の一つの重要な変化は被救済貧民であることによる年金受給 資格の喪失を完全になくしたことである。もとの法案では、前2年以 内に救貧法救済を受けたものには年金の支払を禁じていた。この規定 は1910年に修正されていたが、個人の救貧法救済と年金との同時受給 は不可能であった。1919年の措置は教区当局が国民年金を補充するこ とを認めたのである。その結果、1920年以後この金額は上昇した。もっ とも、両大戦間期間におこった70歳以上の救済額の劇的な上昇の主た る原因は老齢者の救貧法医療サービスの利用増加によるものであった (1908年法のもとでもこの場合は年金の受給資格を喪失せしめなかっ た)。 −103− 両大戦同期間におけるイギリスの年金の変貌 1919年の改善はつつましやかなものではあったが、それでも、老齢 夫妻が週20シリングの年金を受けうるということは、他の福祉立法に よって定められた額と比較すると寛大なものであった。国民健康保険 のもとでの疾病給付は家族がいかに多くても15シリングだけであった。 失業保険による20年代初期の給付水準も1921年春の一時的な例外をの ぞけば15シリングであった。(8) ところで、1919年以後、財政の崩壊と失業の増加の圧迫のもとに、 連合政府は年金の増額についての一切の議論を拒否した。むしろ逆に、 1921年秋の国民経済についてのゲッデス・プログラム(Geddes pro− gramme)の実質的な項目は州立学校教員の年金の引き下げですらあ った。(9)当然、年金の増額や拠出年金などは問題にならないように考 えられていた。しかし逆に、このような事情の中に、キャノン・ブラ ックリーやチェンバレンの亡霊が復活する余地が生まれようとしてい たのである。 1918年には婦人に参政権が与えられたが、それは大蔵省へ新たなる 要求をするパワーとなった。70歳以上の老齢者の70%は1918年に選挙 権を与えられた婦人であった。選挙権者は1915年の850万から1919に は2150万に増加していた。その結果、1924年の総選挙における自由党 の選挙綱領は「老齢年金に付加された節約による資格喪失は除外さる べきである。リベラルの政策は‥‥‥…老齢者あ負担や心配を貧民の家 庭からとり除くことに集中する」といっていたし、労働党もより注意 深くではあるが、老齢者により寛大な施与(Provision)を約束して いた。(川 この選挙の結果、労働党は1924年1月22日に内閣を組織した。そし て1月25日には、第1次労働党内閣の大蔵大臣フィリップ・スノーデ ン(Philip Snowden)は年金の給付条件を39ポンドをこえない資産 一104− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 については現在控除されているいかなる控除をも廃止することとし、 その結果、支払に必要となる支出を決める財政決議の動議を提出した。 しかし、スノーデンはアドキンス委員会が推進しようとした普遍的老 齢年金の提案を支持しなかった。というのはそれにより、直ちに1800 万ポンドの余分が必要となり、やがて2900万ポンドが年々必要となる ためであった。ただ、彼自身は労働組合や友愛組合を通ずる社会的節 約(communal thrift)と個人的節約(貯蓄)の間に区別があって 昼ならないと信じていた。これまでも、資産を計算するのに際し、親 類や以前の雇主からの慈恵的施与を含めたことに非常な憤りが発せら れていた。それゆえ、スノーデンの提案はこのようなものを一定額ま で計算から除外することにあった。(11)その支出決議と法案は長い討議 の後成立し、1月1日付で実施されることとなった。 これが無拠出年金の運営の根本的修正の最後の企てであった。翌年 には議会には拠出年金法案が提出されたのである。もっとも、無拠出 年金のこのような推移の過程において拠出年金の予備的な作業は1923 年から行なわれていた。 注 (1)Arnold Wilson and G.S.Mackay,01d Age Pensions,An Hi− StOrical and Critical Study,1941,p.58. (2)Ibid.,p.66. (4)Bentley B.ノGilbert,British Social Policy,1914−1939,1970, p.237. (5)Gilbert,ibid.,P.237. (6)Wilson and Mackay,ibid.,p.72. (7)Gilbert,ibid.,Pp.238−9. 年金の最高額を10シリングにあげ、年資産が49ポンド17シリング6 −105− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 ペンスを越えない人々に年金を与えることを可能にするものであっ た。その追加費用は1025万ポンドと見積もられ、委員会により勧告 されたよりも 500万ポンド少ないものであった。 (8)Gilbert,ibid.,p.239. (9)工bid.,p.240. (10)Wilson and Mackay,ibid.,p.74. (11)Ibid.,p.75. 3 拠出制年金 1924年の老齢年金法は財政をも考慮に入れた場合、無拠出制度とし て可能なかぎり拡大したものであった。それゆえ、これ以上の前進は 殆んど期待されなかった。しかし、当時の状況は満足するには程遠い ものであった。ウェッブは、比較的多額の費用が社会サービスに使用 されているにもかかわらず、福祉の構造の谷間に多くの老齢者がと り残されていることを、すでに1923年に示唆していた。このウェッブ の示唆は新たな関心をよみがえらすこととなった。その結果、保守党 のボナー・ローは1923年2月に各省間委員会を任命し、これに社会福 祉の綜会化の問題を調査する義務をおわしめていた。この時期より扶 助と保険の相対的価値に対する見解の推移が再びみられることとなる。 委員たちは「ホワイト・ホールの最も深い不活動期」を通じて審議し、 多くの保険数理的ならびに行政上の情報を準備し、その報告を12月( すなわち、1923年の総選挙における保守党の敗北以後であるが、ボナ ー・ローをひきついだスタンリー・ボールドウィン(M.Stanley Baldwin が就任する以前)に発表した。この報告書は上記のこと ばかりではなく、福祉行政に大きなギャップがあることも認めたが、 −106− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 その解決には給付構造の完全な再建によらねばならないと宣言してい た。この委員会報告の公表は1924年1月のベヴァリジの「すべてに対 する保険」(Insurance for All and Everything)というパンフ レットの出現とほぼ一致するものであった。ベヴァリジの計画は自由 党の夏季学校会議(Council of Liberal Summer SchooIs)の後 援のもとに、当時ロイド・ジョージが所有していたテゝイリー・ニュー ズによって発行されたものであった。このパンフレットは後のベヴァ リジ報告「社会保険ならびに関連サービス」の予告篇以上のものでは 殆んどなかったといわれているが、このパンフレットは同様に、人口 の大きなグループことに寡婦及び孤児に対する国民福祉の規定に明確 なギャップが存在することを明らかたしていたという。そしてベスト ・セラーになったという。ベヴァリジはこのパンフレットで、救済策 として、健康・失業・扶養家族・廃疾及び寡婦年金を含む「全面的な」 (alトin)保険プログラムを提案していた。ベヴァリジはこの提案を Nation and Atheneum に1924年1月12日付で発表したAl)この時期 には失業及び健康の両保険制度によってイギリス国民は拠出制度に なれ親しんでいた。労働組合や雇主によって時には疑惑や敵対の念が いだかれたが、健康保険は一般的になっていたし、失業保険も止むを えざる二つの弊害の一つとして認められていた。そしてこの時期には これらの保険の拡大の要求はかなり活発になりつつあり、議会の保守 党のメンバーも社会主義者のメンバーも次第に全面的な保険に関心を むけつつあったのである。 このような社会サービスの拡大に対する公衆の関心の高まりと1924 年1月22日の第1次労働党政府の成立は不可避的に保守党の間にプラ ンニング活動を刺激していった。歴史家マリオット(J.A.R.Marriot )の指揮のもとに少数の陳笠議員が数ヵ月間にわたり綜合的な国民保 −107− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 険制度の立案にたずさわっていた。一方、保守党のリーダーたちは自 身の陳笠議員による出しぬきに好意をもたず、自身で福祉サービスの 可能な拡大を考え始めていた。以前から私的な案を作成しつつあった ネビイル・チェンバレン(Neville Chamberlain)は、党は公式に 綜合的な保険を考えるべきであるという提案のメモをボールドウィン 首相に送っていた。チェンバレンの計画は生活費のかせぎ手の四つの 主要なニー’ド、すなわち1、失業・疾病・老齢・死亡をカソヾ−する強制的 かつ拠出的なものであった。そして年金は老齢者が第一線から引退し 失業を緩和するのに役立つほどの額でなければならないと考えていた。 これより1年以前にはボールドウインは綜会的な保険に疑いの念をいだ いていたといわれるが、今や祝詞を送り、チェンバレンにリバープー ルのアクチュアリーのフレイザー(Dancan C.Frazer)とともに保 守党が採用してもよい保険計画を立案するよう求めていた。そして3 月の終り頃にはボールドウインは政党が準備しつつある社会立法の大 規模なプログラムに言及していたのである。(2) ところで、1924年10月9日のマクドナルドの議会の解散の結果、福 祉プログラムの全面的な解体再構成の考え方は消え失せて、次第に特 殊的な限定されたものとならざるを得なくなった。ボールドウインも チェンバレンも現在の年金制度を拡大強化するために、財政方式を転 換して、拠出制を通じて普遍的な資力調査のない年金制度を確立する ことを強調するに至ったのである。 1924年10月29日の総選挙により保守党は勝利を得て政権にかえり咲 いた。その結果、老齢者に対する配慮は政治的必要というよりは社会 的必要に転換していた。ここからボールドウインーチャーチルーチェ ンバレンの三者の連けいによる拠出制老齢年金制定への具体的な動き が始まるのである。チャーチルは1925年の金本位制の復帰により経済 −108− 雨大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 の安定が可能となると考えていた。そしてイギリス経済の安定化への 再地がための一部分として「極度に不幸な状態にある者への保障」を 望んでいた。(3)チャーチルの経済政策がかようなものとすれば、ボー ルドウインの政策もむなしく予想された経済ならびにその他一般の進 歩と歩調をあわせたものであり、ボールドウインの社会的理想主義に よるものであった。新しい年金計画もその一部であったといえよう。 彼は彼の政治の主要な目的を「言葉のあらゆる意味において人々の生 活を一層よくするように努力することにおいてあらゆる階級の人々を 結びつけることである」(4)としていた。しかし、それは一面では明ら かに労働党への牽制でもあった。彼は以前から労働党が年金を資本課 税に結びつけることにより階級闘争の武器として使用しようとする傾 向があることに遺憾の意を表わしていた。そこで、嘉一ルドウインや チャーチルは穏健と社会改良の奨励により、労働党のより強力な措置 への熱意を鎮圧しようとしていた。もっとも、社会主義は労働党の理 想であっても、マクドナルドやスノーデンが最もよく知っていたよう に遠い将来のことであり、その意味で労働党の政策の推進力が議会の 闘争や革命的学説よりは、経済的困窮や不満にあることを彼は理解し ていなかったようであった。(5)しかし、それでも労働党の立場の理解 について他の人々より進んでいた。いずれにしても、経済の安定にお いて労働者には年金という形で分け前を受け、雇主もまた租税の救済 という形で分け前を受けさせようと考えたのである。そしてこのような 考えのもとに具体的な福祉立法をうち立てようとしたのがチェンバレ ンであった。 チェンバレンは住宅法と地方行政法ならびに拠出年金法の三つの大 きな業績をあげているが、拠出年金制度は住宅法より長期継続的であ り、地方行政法よりはるかに一般的影響を与える貢献であった。チェ ー109− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 ンバレンは政治に実際的なビジネスライクなアプローチをもたらし た0彼の目的は社会福祉行政を「肉体がそれをひきつぐ大きな不運 から人々を守るために(to ensureagainst allth。giantills that fleshis heirto) 国家と雇主と労働者の三者のパート ナーシップというゆるぎなき基礎の上に置くこと」(6)であった。無拠 出制はなるはどその運営も簡単ではあったが、納税者に莫大な負担を かける以外には拡大できなかった。保守党はイギリスの商品の価格が 高すぎるために外国商品との競争上不利をこうむっているとの自身の 党の議員の不平の声に包囲されて、これ以上課税を強めることはでき なかった。一方、老齢人口の増大は社会的事実であった。それはヴィ クトリア時代の人口の増大と寿命の延長の見込みによるものであった。 1891年の人口の調査では40−60の年代の人々は560万人であったが、 1921年のそれでは970万人に達していた。30年後には老齢者・虚弱者 は現在の倍になるであろうと予測されていた。(7)年金は拡大されねば ならなかったが、それは政敵とみられていた労働党によってではなく、 保守党が現在の政権にある期間に片づけようとしたのである。 ところで、拠出年金の制定に関して重要なのが、アンダーソン委員 会である。この委員会は1923年の稔選挙後、ボールドウインの辞任以 前に、当時労働省の事務次官であったホーレス・ウィルソン(Hora− ce Wilson)のイニシアティブのもとに設置されたジョン・アンダー ソン(John Anderson)を委員長とする半官的な委員会であった。 この委員会はその地位の変則的な異例の機関であり、その二つの報告 書は奇妙な歴史をもっていた。というのは、委員のメンバーには大蔵 省の代表者がいなかったこと、またボールドウインはその役割を承認 していなかったし、知らなかったと信じられる理由もあるという。委 員会は1924年1月保守党が政権から離れる以前に中間報告をした後、 −110− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 1924年7月に大蔵大臣スノーデンに完全な報告書を提出した。しかし、 スノーデンが年金計画の基礎として報告を利用しようとする意向があ ったか否かは不明である。おそらく労働党はアンダーソン・レポート を考慮しなかったと考えられている。というのは保守党などとはおよ そその考え方を異にしていたからである。(8) チェンバレンが内閣に彼の年金計画(保健省に提出したもの)を提 示したとき、彼自身のプランを党の委員会とアンダーソン委員会によ って集められた資料を会わせることについて、大蔵大臣チャーチルと 接衝するよう要請された。彼はチャーチルとの会見において、大蔵大 臣が所得税の大幅な減税をもりこんだ第1次予算計画をたてているこ とを知った。チャーチルは1924年11月に労働者階級に対する給付は所 得税の減少とバランスするようにチェンバレンに望んだ。そして12月 3日に内閣は年金を翌年度の立法計画の一部分とし、国王の演説のた めの適切な文章を作成するようチェンバレンに指示したのである。そ れゆえ、チェンバレンの最終的な案の提出はチャーチルにおうとこ ろが大きかった。当時あ大蔵省の官吏であったグリッグ(P.J.Gri一 gg)も年金はチャーチルがボールドウイン政府に推進せしめたとし ている。(9)それとともに、数カ月の間に、チェンバレンが以前には関 心をいだくことを殆んど期待することができなかった複雑かつ高価な 年金措置を可能ならしめたのはアンダーソン委員会の報告であった。 アンダーソン委員会は特に当時の1908年以来の年金制度を拠出年金 に切りかえることに強く反対していた。その理由はこのような転換が、 かって賃金稼得者であったこともなく、今後の拠出制のもとでも資格 を得ないであろう多くの困窮者ことに婦人を排除してしまうことであ った。それかといって現在の無拠出年金と並んで拠出年金を制定する ことも不平等を結果するとの理由で拒否していた。それゆえ、唯一の 一111− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 残された代案は65歳で始まり70歳で終る限定された拠出年金を創設す ることであった。この方式の採用は国民健康保険及び失業保険には非 常な節約になると考えられた。 保守党の拠出年金の立案の柱はアンダーソン報告にもとづいて現在 の年金と結合することであった。それは年金の運営の単純化と将来の みだりな変更を防ぐことが意図されたためでもあった。それゆえ、一 部の例外を除き被保険者の範囲は国民健康保険の拠出者に限定された。 それが早期成熟化対策にも役立つこととなったのである。もともと健 康・失業ともに連結される予定であったが、失業保険は範囲がせまく、 扱うところが職業紹介所であり不便であった。 基本年金は拠出者と彼の寡婦は65歳より10シリングであった。この 金額は無拠出年金と同額であった。そして拠出年金を受けている人は 70歳で、ミーンズ・テストや居住期間及び国民性のテストなしに、自 動的に1908年の無拠出年金に移行するものであった。拠出年金を無拠 出年金に連結するこノとは後者を前者の水準に安定せしめる効果を有し、 租税による支払の政治的な移り気をそらすものであった。(川なお、計 画では16歳までの子供を扶養する場会、最年長の子供に5シリングを 認めていたが、法案では費用の問題で14歳とされた。そして、最年長 者以外のすべてに3シリング、孤児に7シリングとされた。拠出は男子 の強制被保険者については被用者4÷ペンス雇主4与ペンスで合計9ペン ス、女子被保険者は被用者2ペンスと雇主2与ペンスの合計4与ペンスで あった。そして、寡婦・児童に対する年金は1926年1月から、通常の 老齢年金については1928年1月としていた。以上のようなものが、 1925年4月初め境までにチャーチルによってひきいられ、チェンバレ ン、プライヴィ・シール卿(Lord Privy Seal)、ソールズベリp 卿(Lord Salisbury)を含んだ年金委員会の提案した草案の骨子で −112− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 あっ ̄た。 注目しなければならないことは、老齢年金・寡婦年金とも受給資格 要件としての要拠出期間が短かかったのみならず、さらに健康保険と 結合して早期成熟化をはかったことである。拠出条件は給付の型によ !り異なっていた。例えば寡婦年金の受給資格を得るには104回の拠出 がなされることを条件にLとい牢。老齢年金を受けるためには被保険 者は通常年金受給年齢に達する以前の5年間拠出していなければなら なかった。しかし、早期成熟化のために、1925年法は、もしこの制度 が1926年以前に実施されていたとした場合に当然拠出年令の受給資格 が発生していたと考えられるような人々に対しても年金を支給する規 定を設けたのである。それゆえ、保険制度が1926年以前に実施されて おり、そして当然年金制度の対象となるような職業に夫が従事してい たとすれば、1926年1月4日から通常の寡婦年金及び手当の支給も受 けられたのである。 ここで重要なのはその考え方である。まず第1は年金をどのような ものとみるかである。ロイド・ジョージの保険制度の場合は、国民最 低限の考え方が基礎にあり、実質的ではなくとも最低生活保障の原理 が一応具体化していたが、長期給付としての労働者年金保険において は最低生活保障は認められていなかった。チェンバレンは給付は国家財 政がたえうるだけ大きいのがよいとはいったが、決して給付が十分で あるべきことを主張しなかった。老齢年金は個人の節約と産業の年金 制度創設のための基礎的部分として必要であると、彼は考えたのであ る。(11)それゆえ、「努力し、それを増加し、さらに完全な独立を成就 するような人々を奨励する」(12)にたるほど十分な土台であるべきであ ったのである。この原則はチェンバレン原則と称されている。この点 において生活保障を義視するベヴァリジの考え方と異なっていた。も ー113− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 っとも、それ以外の保障をも重視する点においてはl同じであったけれ ども。しかし、職域年金や企業年金は1920年代には公務員や学術専門 職関係者、少し後になって上層サラリーマンに及んだ程度であった。 もう一つは年金財政についての考え方と現実の姿である。一般に内 閣委員会は理想的な案は受益者が彼ら自身の年金の費用の殆んどすべ てを支払うも’のであると考えていた。これが「保守党の社会改良の良 い例である」(1カとチャーチルはいっていた。しかし、現実にはこの目的 を達成することはできなかった。年金を自足的な基礎におくには事実 上給付のない一世代の拠出を必要とするであろう。しかし、政府は被 保険者が16歳で拠出していたとすれば蓄積していたであろう基金に対 して財政的に責任をおうことにより、拠出のない世代を救済すること に決定したからである。その結果、年金給付は早期に開始され、現在 の老齢者も恩恵をうけることとなった。だが、その資金の年賦償還に ついては何らの規定もなかった。大蔵省はこの費用を最初の10年間に 均等に支払うことにしたのである。もっとも、16歳での新規加入者は たしかに65歳から70歳までの年金の費用の殆んど全額と無拠出年金の 約20%を吏払うはずであった(1936年の新規加入者は55%、1946年で 80%)(1勧さらに人口の老齢化などの問題の対処との関連において、10 年目ごとに男子1ペニー、女子キペンスの割合で拠出を引上げて、 1956年には年金制度に加入する労働者は新年金のみならず、1908年の 無拠出年金の全費用を負担するはずであった。 ところで、大蔵大臣は費用の後の世代への蹴課は正当化されると論 じていた。まず第1は、拠出率は失業に対する重い負担のために、彼 自身の時代に支払ったよりも少なくなるであろうことであった。さら に重要なことは現在の年金費用の上昇時に戦争年金費用が漸減するこ ことであった(この費用は事実上賦課方式であった)。(用 −114− フーー 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 これらのことはやがては年金制度は自立することを意味するもので あったが、すべてを拠出から調達することを意味するものではなかっ た。というのは、1935年の第1次の政府のアクチュアリー報告がいう ように、「国家に何らの費用をも課さないという意味での自足的( self−SuPPOrting)であるのではなく」て二逆に当面は国庫への依 存度は大きくなるものであった。通常の退職年金の場合、いわゆる過去 勤務債務は雇主によって引き受けられ、長期にわたって消却されるが、 土の部分は国家が引き受けたのである。(摘 また、寡婦及び孤児のカバーにおいて、この制度はかなり保険数理 上の不足牽こうむることとなった。当初、大蔵省の支払は拠出からの 全収入のほぼ半分となる。この最初の不足は65歳以上の第1グループ の年金支払が拠出開始の2年後に始まる事実により棒引きされていた。 「このような年金費用の調達についてのチェンバレンの大胆な解決は 社会の費用に転化することであった」。(用 いずれにしても、この計画は老齢人口の驚異的な増加を予想して、 政府はその負担の一部分を将来の受給者と雇主による直接的負担に振 りかえようとしたのである。ただ、70歳以上の年金に関するかぎり、 10年間は拠出は始まらなかった。そしてその後20年間にわたって、次・ 第に拠出を増額することにより年金費用を自給化しようとするもので あった。それにしても当面、拠出者の利益は二重であった。(1)70歳の かわりに65歳からの年金と、(2)非常にきらわれたミ一㌢ズ・テストか らの解改であった。 内閣は4月22日に計画を承認し、チェンバレンは4月29日のチャー チルの予算演説の後に議会に提出した。しかし、すでに早くからこの 法案については利害関係者の論争が行なわれていたのである。 一115− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 注 (1)Gilbert,ibid.,p.240. (2)Ibid.,p.241. (3)Maurice Bruce,The Coming of the Welfare State,1968, (4thand revised ed.,)p.248. (4)Quoted by Bruce,ibid.,p.249. (5)Bruce,ibid.,p.249. (6) K.Feiling,The Life ofNevilleChamberlain,1946,p・132. (7)Wilson andMackay,ibid・.,p.87. (8)Gilbert,ibid.,pp.242−3. (9)Feiling,ibid.,p.132.チェンバレンは1925年5月1日の日記に次 のように書いている 「ある意味で、それは彼(チャーチルのこと)の企画である。われわ れはこの種のことは保証されて・いた。しかし、もし彼がそれを予算計 画の一部分に入れていなかったならば、われわれがそれを実現してい たと、私は思わない。私の意見では、彼はイニシアティブをとり推進 せしめたことに特別な個人的な名挙を受けるに値する。」 (10 Gilbert,ibid.,p.244. (11)Bruce,ibid.,P.251. (12)Jain Macleod andJ.Enoch Powell,The Social Services− Needs andMean更,1952,p・27・ (13)Gilbert,ibid.,p.244. (14)Wilson and Mackay,ibid.,pp.86.105. (15)Ibid.,Pp.87−8. (16)Ibid.,p.105. (17)Gilbert,ibid.,P.245. −116− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 4 拠出年金形成に及ぼした状勢と利害関係者の 論争 法案に対する批判は三つの方面から起った。それは労働者側と国 民健康保険の認可組合と他は産業界からであった。その批判は(1)無拠 出制が選ばれるべきこと、(2)給付が不十分であること、(3)産業に対す る負担がきびしいこと、(4)認可組合の運営とその利害に関すること、 などであろう。 (1)及び(2)は主として労働組合および議会の労働党からのものである。 彼らの主張によれば年金は無料の賜り物を意味し、それゆえに将来の 受益者の収入からの拠出の強制は擁護しえないというものであった。 労働者はすでに労働組合、友愛組合、簡易保険に拠出し、さらに国営 保険にも拠出しており、これ以上保険料を支払う余地はない。のみな らず、フラット・レイトの拠出は逆進的な課税であると論じていた。 また、いかなる場合でも、これらの支出は賃金の負担として商品のコ ストに追加され、価格は上昇して消費者に転嫁するばかりではなく、 輸出もとまると論じられた。彼らは「拠出制は勤労に対する課税であ り、無拠出制は吉に対する課税である」という考え方をしていた。(1) 例えば、ランズベリー(G.Lansbury)は5月18日に下院で、保険を 通じて社会から個人に負担を転嫁することにより、チェンバレンはエ リザベス救貧法を裏切ったとさえ論じていた。(2)それとともにより大 きな問題は年金額が少ないことであった。大人の生存費水準は週10シ リングをはるかにこえていた。戦争年金や貧民救済さえも、はるかに 寛大な尺度になっていた。そのようななかで提案された額の年金の実 現は困窮の尺度に対する政府の見解ともみられ、他の給付率もそれに よって引下げられるであろうことを危惧していた。そしてその結果、 −117− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 国家の補助を受ける労働者の群団をつくり、雇主には有利であるとし ても他の労働者への妨害となるというものであった。(3) しかし、結局のところ、労働党の反対はそう大きくはならなかった。 ジョン・ウイートリー(JolmWheatley)は第2読会を拒否する動 議を下院に提出していたが、労働党の案がどういう形をとるべきかに ついては何ら明確にしていなかった。単に拠出原理を勤労に対する追 加的負担と攻撃し、提供される額があまりにも少ないと論じていたに すぎなかった。ノとりわけ労働党の困難は党として年金に関して何らの′ コンセンサスにも到達することができないことから生じてタ、た。(4)一 部には「もし労働党がひきつづき政権についていたならば、彼らは無 拠出制をとり入れたであろうj5)といわれているが、スノーデンが拠出 制に好意をいだいているという信条は労働党の代弁者を深刻になやま せていた。おそらくスノーデンが大蔵大臣のとき普遍的無拠出年金は 不可能であると考えていたことからも、この推測は信頼をおくことが できよう。 雇主側からの問題は、顆をみない不況による沈滞の時期に新しい負 担を課するのは不都合であることであった。これらの費用の増加は経 常経費を増加する。現在多くの企業が赤字経営であるにもかかわらず、 外国との競争が輸出価格の上昇を不可能にしている。どこれ以上の費用 の負担は海外市場の喪失と企業の閉鎖を招くというものであった。さ らに、年金受給開始年齢の引下げについても重要な疑問がだされた。 例えば、死亡率の減少の結果、65歳以上まで生存する人々の数が増加 しつつあり,、それに応じて労働年齢も拡大されつつある。65歳は必ず J しも虚弱を意味しない。ノとれらの人々が年金を受けとることは資金の 浪費につながると論じられた。これに対し、保健省長官チェンバレン は労働者は政府の援助のもとに自身で拠出することより、むしろ節約 −118− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 を奨励することとなると主張した。それはチェンバレン原則にもとづ く考え方として当然でもあらた。のみならず、図は現実に無拠出年金 を経営する余裕がない。むしろ問題は拠出年金か、さもなければすべ てなしかであるといっていた。(6) ところで、これらに比べ、はるかに困難かつ影響が大きかったもの が認可組合、ことに簡易保険のそれであった。これらの機関はいかな る福祉計画の中にも自身に対する脅威をみていた。ことに寡婦孤児年 金は簡易保険組織にとって特別の脅威に思われた。ほんらい寡婦年金はr ロイド・ジョージの国民健康保険に姿をみせる予定であった。これを 含めることを不可能にしたのが簡易保険であった。1911年には簡易保 険会社は老齢に関するものを提供していなかった。それにもかかわら ず、簡易保険業界は最近遺族となった寡婦に対する支払(単純な一時 金の給付であれ、過あたりの年金の形であれ)の中に、潜在的な競争 をみていた。それゆえ、彼らは集金組織を動員して圧力を加えて寡婦 年金を除外せしめ、さらに認可組合となることにより国営保険に参加 し、自身の業容をも拡大していった。 1925年に再度、年金計画がうかびあがるにともない、保険業界は正 面きって反対しえない社会福祉についての政治的関心の復活を心配し ていた。友愛組合は頼りにしていた保守党が寡婦年金を考慮している ことを憂慮していた。しかし、両党とも年金制度の何らかの拡大を約 束していたので、通常の政治的圧力とか抵抗は殆んど役にたたなかっ た。もっとも、短期的には危惧されたが、長期的には保険業界には害 はないと考えていた。むしろ、保険は国家の年金を補足するために必 要であると考えていた。そうであるとすると、立法は保守党が政権にあ る間に行なわれる方が安全なものになると考えていた。ことに簡易保 険業界にとっては、国民保険法の形成と1923年の簡易保険法の成立に −119− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 大きな役割を果たした業界の大立物キングスl)−・ウッド(Kingsley Wood)が保健省の政務次官になっていたことは、強味であると考 えられていた。(7) ところが、このようななかで彼らにとっては驚くべきことが起ろう としていた。1924年に社会保険の大拡張を考慮するよう勧告した一つ の要因は失業率の目だった減少であった。それは直接にはイギリス経 済とは何ら関係のないものであった。フランスのルールの占領とドイ ツ鉱山ストが石炭価格の引上げと失業の減少をもたらしたのである。 しかし、1924年にドイツのフランスに対する受身の抵抗をやめ、ドイツ の石炭ストが終るにつれて、1925年の夏には失業はもとの状態に復し ていた。 手の過程が老齢年金の立案に影響することとなった。政府のアクチ ュアリーであるアルフレッド・ワトソン(Alfred Watson)は非常 な危惧を表明したメモを保健省に提出していた。彼は労働省が失業が 予想以上によくないことのために拠出年金をおそれ始めていると述べ ていた。すなわち、当初考慮していた年金に必要な費用の課税を補償 するための失業保険料率の引き下げはもはや不可能と考えていた。そこ で目をつけられたのが認可組合の大部分が有している巨額の余剰であ った。拠出率は失業保険のかわりに健康保険について引き下げられる と主張したのである。チェンバレンもこの考え方を支持した。それは 農業労働者は健康保険に加入していたが失業保険に加入していないこ とを理由とするものであった。すなわち、失業保険料を引き下げた場 合、農業労働者階級は拠出の引下げから生ずる利益から除外されるが、 健康保険の保険料の減少は万べんなく仝労働者階級にも恩恵を及ぼす というものであった。(8) その結果、法案は失業保険料を据置く一方、健康保険について男子 −120− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 の強制被保険者拠出を1ペンス、女子の拠出については喜ペンス引き 下げるものであった。労働者及び雇主の双方からの拠出は男子9ペン ス、女子4−をペンスで変更はなかった。ということは健康保険及び 年金の双方に対する労働者が直接支払う額は男子週あたり8ペンス、 女子3÷ペンスであった。そして他方で、認可組合の収入から年金 におよそ240万ポンド、すなわちその収入の約10%を援助することで あった。しかも問題はそれだけではなかった。健康保険は認可組合が 管理運営していた。それゆえ、ロイド・ジョージの保険に年金が入っ ておれば当然年金も管理しえたであろう。ところが事実はその管理か ・ら除外された上に、年金の実質的な部分が彼ら認可組合ゐ肩にかかる ことを知って、激しく反抗することとなった。もっとも、労働組合は 早くから簡易保険グループが新しい年金を運営することに反対をして いた。それゆえ、こうした措置は労働者団体の支援をとりつける素地 を作ったとも考えられる。(9) しかし、これらの憤りの爆発もやがてやや緩和されていった。ギャ ゼット紙は内閣に敵対することは望ましくないことを業界に想起せし めていた。拠出の減少は認可組合との約束違反としてきびしく批判さ れたが、年金受給年齢の引下げは組合の基金には問題なく有利であっ たし、また法案に対する労働党の反対には組合自身の反対と共通する ものが全くなく、逆に提案された年金額が不十分なことと保険原理を 攻撃することに基礎をおいていることにおびえていた。のみならず、 この間題と関連して、健康保険の運営者たちは第3読会の直前の7月 頃には、労働党はもちろん、保守的な産業主義者などからも批判され ていた。余剰の蓄積と関連して、マンチェスター・ユニイテーの疾病 表が疾病の発生を事実よりもはるかに大きく設定していると論ぜられ たのである。(川 −121− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 こうして、1925年の拠出年金法案は明らかに国民健康保険との関係 において論ぜられるようになったが、その議論は認可組合の将来に対 する警鐘でもあった。20年代の組合の行動に対する批判の蓄積は、そ の後のベヴァリジの異常なまでの努力にもかかわらず、やがて国家の 保険から排除することになる。それゆえ、拠出老齢年金の成立は保険 プログラムの変化の過程であるといえよう。㈹ 注 (1)Wilson and Mackay,ibid.,p.89. (2)BruCe,ibid.,pp.251−2. (3)Wilson and Mackay,ibid・,p・,90・ (4)Gilbert,ibid.,P.246. (5)H.E.Raynes,Social SecurityinBritain,AHistory,1957. p.202. (6)Wilson andMackay,ibid_.,PP.91−2. (7)Gilbert,ibid.,pp.247T8. (8)Ibid_.,pP.248−9. (9)Ibid.,p.249・ (川 Ibid.,pp.249−50. (11)Ibid.,p.251. 5.拠出年金の運営とその後の変遷 拠出原則の年金への適用はこの国では新しいものであったが、外国 ではかなりの国で実施されていたし、イギリスでは他の分野ではすで に経験を有していた。この時期の保険法は1924年の国民健康保険法( 1911年からの規定を統合したもの)と1920年の改正失業保険法であっ 一122− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 た。拠出年金は国民健康保険と結合されたが、それは運営が容易であ り被保険者が多くなることと早期成熟化にともなう財政上の理由によ るものであった。被保険者増に関しては失業保険法によってカバーさ れていない農業労働者、家庭の使用人、屋外労働者を含むため失業保険 につなぐ場合よりも 350万人増となった。 こうして、健康保険との組合せは拠出年金を利用できる人々の範囲 を自動的に決定することとなった。そして健康保険法での徴収・計算 の制度は年金のために利用せられ、認可組合によって国民健康保険の ために維持されていた個々の人の拠出の記録は年金の目的のために役 立ったのである。保険料の徴収についての印紙の貼付の制度も利用せ られた。組合せの効果は年金の資格の発生から保険の終結する時点ま での年金保険の運営を健康保険の中に埋没せしめることであった。 1908年の老齢年金制定のさいの議論では、拠出年金の致命的な欠陥 は給付の開始が遅れることであったが、1925年法では国民健康保険と 組合せることにより、すなわち国民健康保険法のもとでの保険と拠出 の関係は拠出年金に対する保険と拠出の関係として取扱うことにより、 克服することとした。国民健康保険法における被保険者の大多数は拠 出年金法の始まった日(1926年1月4日)に自動的に年金(保険と拠 出に関するかぎり)資格が与えられた。というのは、年金受給の特殊 な条件は拠出年金法の通過以前の国民健康保険に対する拠出によりみ たされていると考えられたからである。 それゆえ、年金制度発足の初期において、年金制度に全くあるいは 殆んど拠出する見込のない人々に年金の権利を与えることとなった。 この譲歩はもちろん大蔵省への費用の増加であった。なお、これら二 つの制度の運営は結合されていたが、財政的には全く別であり、組合 の勘定には影響はなかった。その結果、被保険者に帰した利益は(1)受 −123− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 給資格年齢が70歳から65歳になったこと、(2)資力及び財産に関する制 限は被保険者に限り廃止されたこと、である。 年金は収入や貯蓄その他の所得の調査なしに認められた。年金受給 者は収入のある職業から退くことは要しなかった。拠出年金法の成立 はふるい無拠出年金法を廃止したわけではなく並行して運営された。 そして拠出年金を受ける人が70歳に到達したとき、年金は旧法のもの とみなされたが、旧法につけられていた資格や資力調査などの要件は 除外された。 そこで以後の拠出年金の運営と変遷に移ろう。第2次大戦の開始まで の運営は二つの明白な、しかし矛盾する結論を与える。第ノ1は1925年 濠は保険数理的には健全で殆んど政治的に非難されることはなかった。 第2は老齢者の経済的困難の緩和はその目的に関するかぎり、成功に はほど遠いものであったことである。 まず、1929年に労働党政府は法律を改正して、1926年1月4日以前 に死亡した被保険者の寡婦に55歳で年金を与えることにしたことによ り、年金名簿に50万人、約50%を潜在的に追加した。この法律による 給付は60歳以上の婦人に対しては1930年7月1日に始まり、1931年1 月1日には55歳以上に拡大して32万人の新しい年金受給者を増大せし めた。その結果、1929年法は直読的に国家の財政負担をいちぢるしく 拡大した。寡婦年金は急速にふくれあがり、1929−30年は350万ポン ド、1930−31年は780万ポンド、1931−32年は1,050万ポンドに達し た。 最終の拡大は1937年の寡婦・孤児・老齢(任意拠出)年金の追加で ある。1937年法は強制年金のための所得最高限度、年250ポンドをこ えるが400ポンド以下である聖職者や小売商人・婦人服裁縫師などの 自営独立労働者などに年金権を拡大した。この年金は1938年1月3日 −124− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 から実施された。この法律はblack−COated workers pension と いわれているが、一般には成功とは考えられなかった。保健省は有資 1格者とみられるものの200万弱のうち、70万人が申込むと予定してい た。しかし、実際には1938年10月の終りまでに272,000人が申請した にすぎなかった。しかもその与が拒否されたのであるJl) 以上のようにして、チェンバレンーチャーチルの1911年の制度に対 する補足は完成した。チェンバレンがいったように、「労働者に対す る保障の円」(2)は一応の完成をみたのである。 そこでその効果はどうであったかである。1937年の任意拠出が始ま. る前までに約2000万人が1925年法により保険され、300万人以上が給 付を与えられたが、そのうち200万人近くが65歳以上の老齢年金受給 者であった。拠出は3200万ポンド、支出は旧無拠出老齢年金への1600 万ポンドとともに7230万ポンド(65−70歳年金2090万ポンド、70歳以 上2760万ポンド、寡婦・孤児年金2,380万ポンド)であり、同時に失 業保険に対する拠出は4100万ポンド、給付は3500万ポンドであったが、 3,700万ポンドが失業扶助に追加的に支出され、公的扶助には2,500 万ポンドが使用されていた。 このうち、どの程度が租税を通じる再分配を支配するかは容易に計 算しえない。1937年に250ポンド以下の所得の人々は直接税の形で 1400万ポンドを支払った。間接税で4,700万ポンド、社会保険拠出で 5700万ポンドであった。これに対し、2億ポンドから2億5千万ポン ドのサービスの形の富の再分配があったと推定された。しかし、これ は失業率が半減していた場合に、全国民所得が増加していたであろう 額を出るものではなかった。(3) ともかくも、そのサービスは有効ではあったが、30年代には労働者 階級自身の間の所得の再分配によって克服されたであろう以上に困窮 −125− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 が存在していたこともあって、両大戦間期間に老齢者に経済的独立を与 えるにはあまり成功しなかった。所得の再分配は行なわれたとしても、 慎重な政策によって行なわれたのではなくて、注意深く完成された進 歩的な諌税体系によるところが大きかった。1931年から1939年の間に おける、65歳以上で救貧法救済を受けたものの数の統計によると、平 均年5%上昇していた(1931年1月1日現在で約215,000人)。さら に驚くべきことに、この数が定期的に増加し、他の困窮統計の数字の 上下によっても影響されなかった。 それゆえ、拠出、無拠出制とも、週10シリングの年金給付では不十 分であると、1930年代に繰り返し不平が述べられていた。もっとも、 既に述べたように、20年代から30年代を通じての低率の年金にはその 思想的役割が存在していた。そして、それゆえに、何ら他の資力を持 たない老齢者の中に極度の困窮があったのも当然であろう。10%ほど が公的扶助当局に援助を求めねばならなかったし、多くの人々は家族 の援助を必要としていた。さらに、ある種の人々はそのニードの調査 を受けることにしりごみをして耐え忍んでいた。1936年のヨークの調 査において、ラウント1)−(SeebolmRowntree)は、貧困原因の うち、「老齢による貧困がいかなる他の単「の原因によるそれよりも はるかにきびしいものである」ことを示していた。65歳以上の、老齢者 のうち、拠出年金の資格のない人は生存水準にも達しない10シリング の受給すら70歳まで得たねばならなかった。それゆえ、公的扶助を申 請する老齢者の10%という数字はおそらく老齢者の間に存在している 異常な貧困の広がりを十分に反映するものでないことを論証していた(4) このような事情の結果、生活可能な年金を求める労働党及び労働姐. 会の運動は、1930年代以後、不況とも重なって、ますます激しさを加 えていった。1937年の労働党の年金改革案には、年金はノ常勤の職を退 −126− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 いた者だけに支給さるべきであるという条項が入っていた。もちろん、 これには労働党の政策が絡んでいた。というのは、この方策は高齢者 の引退と、家族をかかえている若年者の仕事の増加に役立つと考えた からであった。60歳ないし55歳への年金受給年齢の引下げが求職競争 の減少に役立つと論じられたのである。(5)こうした考え方は、′老齢者 の一層安価な競争を排除することにより、労働の供給を制限しようと する初期の労働組合の態度と一致したものであった。事実、1939年に 労働党のグリーンウッド(Arthur Greenwood)は年金計画の改善 を勧告したが、その中で、溺酬のある雇用からの引退を条件に単身者 に週1ポンドの年金を支給することを提案していた。(6)′この提案につ いては政府は拒否したが、結局、老齢者の異常な困窮は1940年の老齢 寡婦年金によって確認されることとなった。この法律は第1に年金受 給年齢を婦人被保険者については60歳に、被保険者の妻については65 歳に引き下げるものであった。しかし、これとともに年金についての 考え方において特に重要な変化が認められるのが、この法律の第2の部 分である。この部分は扶助局によって管理されるニードにもとづく補 足年金(supplementary pension)を導入したのである。この補足 年金の費用は第2次大戦の終結前に仝年金費用のほぼ与をしめるよう になった。 ところで、補足年金の説明に先立って考慮を用するのは思想の変化 についてである。20年代から30年代を通じて年金額は週10シリングと されていた(それは失業者に対する配慮とほぼ同様な線にそって展開 されていた)が、10シリングの概念の基礎には、国家扶助は私的貯蓄 に対する補足、あるいは、私的貯蓄の基礎をなすものとの考えがあり、 それゆえに、もし、私的な貯蓄や他の資力がなければ、個々の受給者 は被救済貧民になった場合にのみやっと生きていけるというものであ ー127− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 った。それゆえ、グリーンウッドが提案をした頃には、彼自身も明言 しているように、不十分な国家年金で生活している老齢年金受給者の 困窮に対するたたかし1はよく知られたものになっていたのである。 多くの老齢夫妻は、他の資力がない場合、週1ポンドでかろうじて つつましやかな生活を支えていた。栄養に関する当局は食糧だけで老 齢者は7シリングを要するとしていた。それゆえ、7シリングと10シ リングの差額から衣服・住宅・光熱費などの生活必要費を捻出すること はもはや不可能であったJ7)労働党の提案の基礎にはこのような現実 が存在していた。 これに対し、当時の首相チェンバレンは老齢者の状態は真に同情に 値するものであるとし、保健省長官時代の1925年には拠出年金を押し 進めたこと、政府も無関心ではないことを明らかにしていた。しかし、 いまや放棄も延期もできない巨大な国防計画のただ中にあることも忘 れることはできなかった。もちろん費用だけの問題ではなかったが、 1909年の875万ポンドから、1925年の2500万ポンド、1930年には4,6 00万ポンド、そしていlまや6,900万ポンドを上回ろうとしていた。そ の他の社会サービスの費用も巨額にのぼっていた。そしてさらに年齢 構成の変化と賃金穣得年齢層の比率の下落により、やがてより少ない 人々が重い負担をしなければならない状態が近づきつつあった。(8) チェンバレンは、労働党の年金プランを検討した後、報酬のある雇 用からの引退を要件とすることに最も難色を示した。いまだ適応能力の ある雇用からの引退を年金支給の要件とするのは保険原則に反すると 彼は考えた。また65歳以上のものの強制的な引退は多くの産業に熟練 労働者の不足がみられるので国民的な利益に反するとも考えたのであ る。このような理由と費用のために政府はこの案に反対したが、直ち に調査をすることを約束していた。 −128− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 この調査は9月初めの大戦の勃発によって1時中断されたが、11月 に大蔵大臣は早急に結論を出すと約束した。(9) その結果、1940年1月23日、大蔵大臣サイモン卿(SirJohn Simon )は二つの部分からなる法案を提出した。第1の部分はすでに述べた とおりである。第2の補足年金の部分は困窮状態にある老齢年金受給 者に、世帯資力調査によって決定される補足給付受給の権利を与える こととするものであった。 この方式はその収入が扶助局の定める生活基準額を下回る年金受給 者にその不足分を補足年金で受けることを可能にするものであり、さ らにその他のニ」ドの基準額に加えて、家族手当をも年金受給者の必 要の一部分とし_て追加することにしていた。それゆえ、この補足年金 はこれまでの考え方の基礎を一変するものであったといえよう。戦時 中に静かに進行した改訂の中に、大きな変革を読みとることがテき う。 ところで、補足年金を得るためには困窮状態にあることを証明する 必要があったが、その基準は制度発足の8月当時、1人で生活してい る単身者には19シリング6ペンス、2人とも年金受給者の場合には32 シリングとした。すなわち、他に全く収入のない者に対す、る通常の給付 額は、拠出・無拠出あわせてこの額が正当としたのである。したがっ て、老齢年金以外に何の資力もない場合には、19シリング6ペンスに なるように、9シリング6ペンスの補足年金が与えられることとなっ た。さらに、5シリング以上の一定額までの適当な家賃を支払ってい ると増額される。なお、当然他の収入があれば減額される。例えば、 7シリング6ペンスまでの退職年金は差し引かれないが、10シリング を受けてY、れば、2シリング6ペンスのみ差し引かれる。年金受給者 が10シリングの収入があれば5シリングのみが考慮されることになっ ていた。 一丁129− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 困窮についての世帯資力調査は決して好まれなかった。もっとも、 無拠出年金の場合、常に行なわれていたし、失業扶助局は世帯資力調 査を実施していたので、それは決して新機軸ではなかった。しかし、 非難によってそれは取り除かれ、困窮度決定法(Determination of Npeds Act)による個人資力調査がとってかわった。これは子供の 所得を全く考慮せず、ただ家計への少額の寄与とみなすのみで、申請 者の補足年金受給資格を奪うことのないように配慮したのみならず、 ある種の所得及び貯蓄を保有することを認めるものであった。(川この ような考え方は明らかに20年代及び30年代の態度からの離脱を示すも のとして重要であった。困窮度の調査があったため、救貧法的救済で あったとはいえ、保険や年金給付をこえた額を認めることは、年金、 健康、失業給付があまりにも少額であり、さらに何らかの補足を要す ることを少なくとも老齢者については認めざるを得なくなったことを 示している。のみならず、それは⊥時的にしろその根本にあった考え 方の放棄であった。失業扶助局が失業者のために躊躇しながら行なっ たことが、ついに戦時のインフレの脅威のもとに1940年の補足年金と して老齢者について完成されたのである。同時にこれらの措置は純然 たる拠出年金の観念からの離脱であった。もっとも、耳の提案者から も、一時的便宜的措置であると考えられていたが、その基底にはプロ グラム自体(拠出年金、失業給付も含め)が、低率のフノラット拠出が 労働者のたえうるすべてであると考えられていた時代の産物であった といわねばならないであろう。(11) 雨大戦間期間の経済状況を考えれば、ノこれらの仮定は全く正しいとい えよう。週1ペンスから2ペンスのわずかの増額すら激しく抵抗され た。しかし、その結果は納税者による、年金及び失業保険制度への巨 額の補助金の増額であった。もし、計画が保険数理計画として何らか −130− 両大戦間期間におけるイギリスの年金の変貌 の名望をたもとうとすれば、拠出は給付に近づかねばならない。この ことは、人口のうちますます増大する年金受給者を支援する費用が、 1 ますます少なくなる生産的貸金労働者を中心とする拠出者にふりかか ることを意味する。老齢年金の場合ことにそうである。それゆえ、将 来の問題はますます大きくない保険拠出が巨大な逆進税的補助所得税 制としてみなされることをいかにして防ぐかであった。(】か 注 (1)Gilbert,ibid.,p.252. (2)チェンバレンが1925年5月18日、下院で速べた言葉である。 (3)Bruce,ibid・・p・252(T・Barra,RedistributionofInc?meS throughPublic Financein1937,p.233) (4)B.Seebohm Rowntree,Poverty and Progress,A second SOCial surVey Of York,1942,pp.66r7. Barbara E.Shenfield,’Social Policies for Old Age,1957, 清水金二郎監修訳『老齢者のための社会保障』95頁。 (5)Shenfield,ibid.,前掲訳書、96頁。 (6)Wilson and Mackay,ibid.,p.207 (7)Ibid.,p.207. (8)Ibid.,p.207−8. (9)Ibid.,p.208−9. (10)Shenfield_,ibid.,前掲訳書97頁。 (11)Gilbert,ibid.,Pp.253−4. (12)Ibid.,p.254. −131−