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「認識論」という語の起源について Author(s)

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「認識論」という語の起源について Author(s)
Title
「認識論」という語の起源について
Author(s)
ファイヒンガー, ハンス; 渡邉, 浩一
Citation
Issue Date
URL
人間存在論 = Menschenontologie (2013), 19: 55-68
2013-07-01
http://hdl.handle.net/2433/198984
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
「認識論Jという語の起源について
5
5
﹁認識論﹂ と い う 語 の 起 源 に つ い て
探索の結果をお知らせするものである。次第しだいに遡って
ハンス・ファイヒンガ l
渡遺浩一訳・解題
ライブツィヒの﹃哲学協会﹄の問題告知板にしばらく前、﹁い
この語を見いだすことは私にはできなかった。
すべての形而上学的・倫理学的論究に認識論的研究が先行
私はついに一八三二年にまで至っているが、これ以上遡って
しなければならないということを最初に明断に意識に上らせ
つ、どこで、誰によって﹃認識論胃
rEEZV85﹄ と い う
よって議論が盛りあがり、この件についてさまざまな見解が
たのは、周知のようにロックである。というのも、デカルト
語は最初に用いられたのか?﹂との問いが見られた。それに
一八世紀︺の中葉と今世紀︹ H 一九世紀︺の六0年代末とで、
表明されたが、その間で主張が揺れていた両境界は前世紀︹ H
おいて、自身の諸研究が生じてきた経緯、その著作が偶然か
ら。ロックはその著作官頭に印刷された﹁読者への手紙﹂に
やスピノザ等が認識論について提示した事柄はむしろ折に触
惹くものだったので、これを機に私は語をできるだけ詳しく
ら始まり依頼されて書き継がれたという事実、そして︵幾人
それゆえ百年以上の違いとなっている。私自身は、この表現
跡づける気になり、まさに現今、認識論的諸問題が討議の対
かの友人と一緒に哲学的諸問題を解きあかしてみようとした
て初めて自身の﹃知性新論﹄へのきっかけを得たのだったか
象となっているからにはこの論点は世間一般のためになると
ところ、さまざまな困難や疑問がわきあがってきて︶﹁私た
れての発言でしかなかったし、ライプニッツはロックによっ
いう期待と、この間いに関わっている多くの人々はきっと認
は今世紀の六0年代初頭ないし中葉に出てきたという見解に
識論という語の歴史的起源をご存じでないという||おそら
ちはおそらく誤った道に踏み入ってしまっており、そうした
与していた。この論争はあまねく哲学の諸サークルの関心を
く必ずしも不当ではない||予期とをもって、ここに自らの
56
ない﹂と思うようになった経緯について語っている。これが
おそらく学者582E3としての認識論の誕生であったのだ
が、この学が形而上学から解き放たれるまで、そしてドイツ
られた。少なくともバ lクリの一七O九年の﹃視覚の理論︹ H
視覚新論︺﹄︵日︶やプリ 1 ストリの一七七五年の﹃人間の心の
理論﹄︵ロ︶以前にはその用例は見られないようである。
j︶である。﹁理論 4Z25﹂という語はイギリスからドイツ
に伝来したが、この語はおそらくそのイギリスで最初に用い
ルスもそうした﹃理性論﹄︵ 9︶を一七五六年に著し、その第五
版が一七九O年にも出版されている。同様に特筆されるのは
エlバi ハルトの﹃思考と感覚の一般理論﹄︵凶︶︵一七七六年
の地で独自の名前を与えられるまで、それまでには多くの年
月が移りゆかねばならなかった。ロックはその諸研究を
一六九 O 年 に ﹃ 人 間 知 性 に つ い て の 試 論 ︹ H人 間 知 性
カントの基礎的著作以来、認識論に関して﹁理性批判
ZBS実与野﹂という語が広まったが、われわれは、当時は
この語が﹁認識論﹂の語の位置を占めていたということがで
きる。その時期のラインホルト、マイモン、ベック等の書物
にこの語は頻繁に見られ、おおよそわれわれのいうところの
研究に先立ってひとは自らの能力を検査し、いかなる事物が
知性にとって取り扱いに適しているかを見てみなくてはなら
論︺﹄︵ l︶と名づけ︵シェ i ラl︵2︶はこれを一八六O年に﹁知
性論︿再三信号三宮2ぽ﹂と呼んでいる︶、それはライプニッツ
の﹁人間知性についての新たな試論︹ H人間知性新論︺﹄︵ 3︶
の表題にも引き継がれている。さらにパ lクリの認識論的著
作も﹃人間の知識の原理に関する論文︹ H人知原理論︺﹄︵ 4︶
認識論の範囲をカバーする形で用いられている。かくして例
えばティ lデマンは一七九四年に﹃テアイテトス、または人
間の知について||理性批判への寄与﹄︵日︶を著した。カント
も理性批判をこの意味で一個の新たな学と見なしたのであり、
︵一七一 O年︶という表題を与えられている。これ以降ドイ
ツでも認識論的研究が盛んになったが、それは例えばアンド
レアス・リユデイガ l の﹃すべての観念が感覚を起源とする
カント以後の最初の体系的な認識論は︹K ・L ・︺ライン
ホルトによる一七八九年の﹃表象能力の新理論の試み﹄︵凶︶で
−
このことの自覚を︹﹃純粋理性批判﹄︺第一版序文で不足なく
明確に表明している。
ということについての討論﹄︵ 5︶︵一七O四年︶、クル lジウス
の﹃人間の認識の確実性と信頼性﹄︵5 ︵一七四七年︶という
書物︵﹁認識p8BS5﹂の語はグリムによればルターが初
出である︶、 G F ・マイア l の﹃理性論︹ H論理学︺﹄︵ 7︶
|
これについては﹃︹理性論︺綱要﹄︵ 8︶︵一七五二年︶も出版
ある。しかしただ、その第一部は表象能力の理論を取り扱い、
第二部は認識能力の理論と呼ばれ、それで内実に即してこれ
に認識論という名称もまた与えられたのだった。しかるに、
この語はラインホルトには一切見られない。どの箇所でも彼
−
されており、それをもとにカントは論理学の講義を行ったの
だが、そこにも認識論的研究が含まれており、カントの手稿
本に見られる認識論的傍註は最近D r.B ・エルトマンが﹃プ
ロイセン年報﹄に公表した||・といった具合である。ライマ l
が用いるのは右のような聞のびした語の組み合わせであり、
﹁認識論的﹂という形容詞を他の言葉でいうために幾つもの
文を要している。この著作はカントの﹃純粋理性批判﹄に対
して、マクロ lリンの石率の理論﹄︵店︶︹||正しくは吉
率論﹄︺︶がニュートンの﹁自然哲学の数学的諸原理﹄︵凶︶に対
するのと同様の関係にある。それは、本来の意味では認識論
的といえない部分をすべて除去して素材を体系的に仕上げた
最初のものだった。ラインホルト自身は﹁根元哲学
巴058E4E−
。
目
。
℃Eo﹂という表現でわれわれが今日認識論と
呼んでいるのと本質的に同じことを言い表そうとしている。
表象能力および認識能力の理論には欲求能力の理論が続くは
ずであった。当時の書物の中には今日われわれが認識論と呼
び慣わしているものに対してさまざまな名称が見られるが、
例えばフィヒテの﹃知識学当己SRF
き
∼SE ︹H全知識学の
基礎︺﹄︵日二七九四年︶、ブ l タ l ヴェ l ク の ﹃ 論 証 学
−
。
その証拠である。﹁超越論哲学]つEDRB号
ロ
。
由
。H
sfrニ
U
E
o﹂と
いう表現もこれに数えられるが、ただしこれは厳密にカント
的な意味では単に認識論という以上のことを含んでいる。独
識 の 哲 学3 止ま§宮内侍下町込町ささ 内﹄︵幻︶︵一七九一年︶、
h
h
ショ
ペ
ン
ハ
ウ
ア
l
の
一
八
一
l
八
年
出
版
の
著
作
﹁
意志と表象と
しての世界﹄︵ぎにおける﹁悟性論的 ESEa
5v研究﹂が
ggミ町民EUS町三﹄︵却︶︵一七九四年︶、アピヒトによる﹃認
h
ヘ品、。忌﹄足立︵出︶︵一七九九年︶、フリースの﹃理性の新批判ミ
g
n
FE 汗
O七年︶、マイモ
ン
の
﹃
新たな論
同
町
可
不
可
お
ど
も
﹄
︵
凶
︶
︵
一
八
理学の試み、または思考の理論 F3RPR3q3gsh
品目汗ミq
「認識論」という語の起源について
57
自の名称がなかった時点では、認識論的研究は形而上学に数
rBEg
え入れられた。ひとが﹁認識説甲
官。﹂というごく
−
o
手近な表現に思い至ったのはかなり後のことである。私はこ
れをまず、一八O八年に﹃認識説または形而上学﹄︵お︶を出版
した W ・T ・クル lクのもとに見いだす。ただしクル lクは
﹁認識説﹂を常に形而上学と同一のものとして用い、﹃手引き﹄
︵弘︶や﹃体系﹄︵きでもそうしているし、彼の﹃辞典﹄︵ぎでも
認識説と形而上学とは完全に同一のものとして用いられてい
る。− 1 どれほどクル lクがこの点でカントと相違している
のかここで検討することはしない。この後﹁認識説﹂の語を
見かけるのは珍しいことではなくなる。例えば一八二 O年に
﹃純粋理性の意識にしたがう認識説﹄︵幻︶を著したベネケのも
とに、一八二四年に﹃学の一般的草案﹄︵お︶︹||正しくは﹃学
のための:::﹄︺の第三部人間学的部門で﹁認識説﹂を取り扱っ
ているJ ・E ・ V −ベルガ l のもとに、一八二三年︹||正
しくは一八二二年︺に﹃認識説と思考説の体系の草案﹄︵型を
出版した息子の方の︹エルンスト・︺ラインホルトのもとに、
といった具合である。これ以降は認識論的著作はごく稀にし
か見られなくなる。一八二三年から一八五八年にかけてこの
語は、少なくとも表題にはもはや現れず、ようやく一八五八
年にゼングラ lが﹃認識説﹄︵ぬ︶を書き、一八六二一年にシュミッ
ト・フォン・シユヴアルツエンベルクが﹃認識説の草稿﹄︵訂︶
を、一八六八年にエ l ルマンが﹃自然科学としての認識説﹄
︵ぎを書き、一八六九年にシユトゥットが﹃唯物論的認識説﹄
︵お︶を書いて、それにモントゴメリ lが﹃経験の見地からの
58
カントの認識説﹄︵お︶で論駁している。しかしながらこの年以
ずこの著作の執筆とともに﹁認識論﹂という表現が登場した
ものと想定しないわけにはいかない。その著作の第一巻︵全
ーこれらの表現をさらに遡って発見できないからにはーーーま
T
来この表現||これはグリムの﹃大辞典﹄
﹃ドイツ語辞典﹄
第三巻︵一八六二年︶八七一頁︺には見当たらないーーーはさ
見通しのよい認識論の発展史を提示している。その第一部は
自然に思いついたのは、︹E ・︺ラインホルトの﹃認識能
五二二頁︶は完く欠けるところのない認識論を提供しており、
しかも緒論として、今日なお通用する実に読み応えがあって
らに稀になり、その位置にいよいよ﹁認識論思
ggE F
5﹂
臼田 8
という語が登場する。いまやわれわれはこれを探索しなけれ
ばならない。
﹁人間の意識の発展﹂を扱い、第二部は﹁人間の認識能力の
批判﹂となっている。第二巻では、︹認識論と︺厳格に区別
用語法のための同義語論の基礎づけ﹄︵ぎという一八一一一年出
版の彼の後期著作の一冊には、この語を探しても見つからな
晩年の︹K ・L ・︺ラインホルト︵一八二三年︹没︺︶の諸
著作にはこの語は見られない。﹃哲学的諸学における一般的
的解明を、明断にしかもわれわれの時代に書かれでもしたか
のような表現をもって区別している。この発見は私にとって、
一巻の結論がまとめられている。ラインホルトはきわめて厳
しく論理学的解明、心理学的’認識論的解明および形而上学
の第一章は﹁形市上学の認識論的基礎﹂といい、ここでは第
された仕方で形而上学||詳しくはまず﹁形而上学的弁証
論﹂、それから﹁形而上学的理念説﹂ーーーが提示される。そ
い。一八二五年に出た同人の伝記﹃K ・L ・ラインホルトの
学説と文芸作品﹄︵お︶︹|||正しくは﹁:::生涯と文芸活動﹄︺
この著作が忘れ去られているだけになおさら驚くべきもので
あった。かくも精密なあのユ lバl ヴェ lクすらこれを挙げ
力の理論﹄によって﹁認識論﹂という表現が形成されたとい
うことである。とはいえ、それはかなり後の出来事であった。
は子息のエルンスト・ラインホルトの手になるものであるが、
先に述べた一八二三年出版の彼の﹁認識説﹄︹ H︵お︶︺と同様、
ここにもかの︹認識論という︺表現は現れていない。
かりである。しかし、とにかく形而上学と認識論とを分離す
るのであれば︵そしてこのことはいまや一般的になろうとし
える認識論的問題と形而上学的問題の相関関係についての明
そうした決定的な分離に貢献した最初の人であることは忘れ
られてよいはずがない。ここにきてようやく目ざめたかに見
ているように思われるが︶、エルンスト・ラインホルトが自
覚的にこれを行い、そして自身の用語法によって少なからず
ておらず、わずかにエルトマンがそっけなく言及しているば
そこで注目されるのは、一八三二年から三四年にかけて出
版されたその息子の方のラインホルトの著作﹃人間の認識能
力の理論と形市上学﹄︵ぎで﹁認識論早宮
SE室
町02E ﹁認
−
−
識論的。件。B E
室
町0225F﹂﹁認識論者肘件。BEmaZ22S ﹂
という表現が既にまったく周知のものとされていることであ
るが、それでいてラインホルトはこれらの表現を自分が最初
に造ったとはどこでもいっていない。にもかかわらず私は
「認識論」という語の起源について
5
9
断な意識が、ラインホルトにはこのうえなく望ましい強さで
もって見いだされる。彼は幾度となく︵特に第二巻五二頁で︶
﹁自分が主張しているのは、哲学的諸学の体系連関において、
かったのだから|||、しかし認識論の歴史を書く者はこの著
認識能力の理論つまり認識論が形市上学に先行しなければな
らないということである﹂と口にしている。なるほど認識論
の発展にとってこの著作はほとんど、あるいはまったく意義
をもつことはなかったが||まさしくまったく顧みられな
作を考慮に入れないわけにはいかない。なぜなら、そこに初
めて﹁認識論﹂の語が登場するからというだけでなく、この
著作が実質的に、今日なお注目に値する認識論とそれに基づ
く形而上学との試みを含んでもいるからである。これについ
てなお言い添えておくと、新たな名称を造り出させ、またと
くに﹁認識説﹂という語を拒否させる主な動因は、手ごろな
−
形容詞が求められたところ、これを﹁認識説尽ぽEgg ozd
﹂
からは造り出せず、﹁認識説者肘件。B 吉
・
一
回
∞
−oE
2﹂という表現
もやはりふさわしいものではなかったのに対して、﹁認識論
的﹂や﹁認識論者﹂は実にふさわしい名称であるというよう
な事情であったかと私には思われる。
ンホルトとカントの哲学・ I 認識論の批判︵附その著者へ
既述のように、この著作はほとんど世の共感を得ることは
なく、﹁認識論﹂という新たな表現も採用されるべくはなかっ
た。なるほどア iベルトが一八四O年に﹃エルンスト・ライ
の献辞︶﹄︵お︶という試論︵﹁認識論﹂の語が表題に現れるのは
これが最初である︶を著しているが、この試論中でア l ペル
トが新たな表現を用いる仕方はまったく不十分である。その
時期の他の著作中にはこの語は、私の目の届く範囲では、ご
く稀にしか見られない。ロ lゼンクランツの﹃カント哲学の
歴史﹂︵却︶ 1 1彼とシューベルトの編纂したカント著作集の第
一二巻ーーではこの似つかわしく手ごろな表現は稀にしか使
用されず、その代わりにありとあらゆる似つかわしからぬパ
ラフレーズが用いられている。﹁認識説﹂もやはりごく稀で、
﹁認識論﹂はただ一例だけ︵コ一九六頁に︶認められ、﹁認識論
的﹂﹁認識論者﹂は見いだされなかった。
ここから先、私は語の痕跡をすっかり見失ってしまった。
表題には見られず、当時の書物の中で行き当ることもなかっ
た。しかるに、不意にこの語は一八六二年、 E ・ツエラーに
よる名高い講義﹁認識’論の課題と意義について﹂︵ω︶︹||
正しくは﹁意義と課題:::﹂︺||これをもってツエラーは﹁論
理学および認識’論﹂についての自身の講義の幕開けとした
|!で再浮上した。これによって件の名称は成句として人口
に謄災することとなった。しかしながら、このことについて
はなお幾つかの困難がある。ツエラ lは﹁認識目論
prB宮山田E
J
E
8
5﹂と書き、﹁認識論開山岳OBEZF85﹂と
は書いておらず、ただ講演そのものの中でときおり後者の書
き方をしているだけで、これは彼にとってこの︵﹁認識﹂と﹁理
論﹂の︺合成語が目新しいものと感じられていたことを示唆
しているように思われる。ーl 実際、それに加えて、講義中
に﹁認識論的﹂という形容詞が認められないということもあ
る。ところでこの語の公式の導入と同時に||私はいってお
6
0
れは一八四四年出版の第一版でも同様であった︵例えば第一
巻二一、二三頁。二二頁で彼はたしかに﹁認識作用の理論
リシア哲学史﹄第二版の第二巻にはこの語はいまだ見られず、
ここではツエラーは﹁認識説﹂という表現で通しており、こ
きたいのだが||同じ著者の﹃ギリシア哲学史﹄︵引︶にはある
注目すべき変化が生じていた。一八五九年に出版された﹃ギ
た。この語は他でも頻用されており、例えば一八六九年にシユ
学﹄︵羽︶の第三版において序文でこの語を用い、ツエラ!と同
様、それに続けて認識論についての講義を行うことを予告し
ツエラーにもいえる。この語はツエラi の講義以降、頻出す
るようになった。ドロ lピッシユは一八六三年出版の﹃論理
だけでなく、﹁認識論的﹂という形容詞||これは実に似つ
かわしいーーーをも使用したはずである。そして同じことは
くように見える旨を述べた上で、同所で認識論の課題をすっ
きりと描き出し、また同時に彼はそれを形而上学の課題と
一八七四年に︵﹃哲学月報﹄第十巻︵灯︶二三二頁で︶、ひとび
との意見がいよいよ﹁認識論﹂という表現へとまとまってい
の こ の 秩 序 を 初 め て 厳 密 な 仕 方 で 提 示 し た 。 ラ i スは
順序で築き上げてゆく方へと意見はまとまっていった。ヴン
トは自身のライプツイヒ大学就任演説においてわれわれの知
学の三つの学と見なし、これらを厳密に区別し、そしてこの
ランゲ等のところに幾度となく見いだされる。とかくするう
ちに言わず語らず、論理学、認識論および形而上学を理論哲
この語はかなり広範囲に浸透している。これ以降この語は、
ヴインデルパント、ヴント、ツォルベ、ハルトマン、キルヒ
マン、ユ lパlヴェ lク、コ l エン、エルトマン、ロッツェ、
認識論について書き︵号、一八七O年にブノワが﹃ロックの
認識論の叙述﹄︵必︶を出すというように、七0年代初頭までに
想家における認識論的・倫理学的哲学説の萌芽について﹂︵但︶
という論文を書き、一八七O年にカンベがアリストテレスの
ナイデヴインが﹃哲学月報﹄第二巻に﹁ソクラテス以前の思
百85号mF宮58目﹂とはいっているが、﹁認識論﹂とはいっ
ていない︶。これに対して一八六三年出版の第三巻では﹁認
識論﹂の語がいたるところで用いられているが、他方で﹁認
に、ツエラーが当時この語を目新しいものと見なしていたよ
識論的﹂という語は私には依然発見しえなかった。それゆえ
うに思われるのである。とはいうものの、ツエラーもこの語
の造り手ではなく、これは既に一八五五年出版のプラントル
−
の﹃論理学史﹄︵必︶第一巻に見られ、その四頁、四九七頁で彼
は﹁認識論早宮
SEaJE030﹂を﹁論理学﹂とはっきり
区別している。第一巻四五一頁ではプラントルは﹁認識論
prBE室
町020﹂と書いている。目を惹くのは、語の新し
E
い合成||これはやはり﹁混成語﹂でしかないーーを一語に
まとめるのを障るかのように、ここでも﹁認識 論 ﹂ と い う
慎重な書き方になっており、また形容詞も見当たらないこと
である。それではプラントルがこの語を新たに案出したのだ
ろうか||私はそうではないかと思うのだが||、それとも
彼はそれをラインホルトやアl ベルトから受け継いだのだろ
うか。もしプラントルが後二者のことを知っていたなら、た
ぶんまったく跨暗いなく﹁認識論﹂と書いただろうし、それ
すっぱり切り離す。この名称がいまや支配権を握っているこ
うな他の試みすべてを抑え込むのに役立っており、それは他
という語がやはり非常に手ごろであるということが、右のよ
の理由、例えば﹁知識学﹂や﹁弁証法﹂という語によって︹﹁認
とは明らかで、他の諸々の試みが世の共感を得ることはな
かった。ハ l ゲ ン バ ッ ハ と フ リ ー ド リ ッ ヒ は ﹁ 思 念 論
識論﹂に︺反対する理由を上回る。なるほど前者の﹁知識学﹂
を幾人かのへ iゲル派の人々は導入しようとしているが、と
はいえ彼らの権威も、上述の単純ながらきわめて重要で有効
な実用上の理由の前に引き下がらざるをえないだろう。とか
ると同時にそれに対する歴史的な正当性をもった造語が導入
くするうちに言わず語らずひとつの普遍妥当的な用語法への
道が拓け、不必要な実用性を欠く造語は廃されて実用的であ
Hライフツィヒ︺の仲間内でも攻撃されている
される。そしてこのうち正当とされるのは他でもない﹁認識
論﹂という語であり、なるほどこの語は言語学的観点から頻
りに、当地︹
が 、 し か し 、 こ れ は 例 え ば ﹁ 社 会 学 ∞25Z虫色のような、
その野蛮な組成にもかかわらず普及した語ほどひどいもので
はない。論理学、認識論そして形而上学は厳密に区別されて
わけではないという洞察が得られたときには、なおいっそう
きたし、いつかついに、必ずしもあらゆる哲学者が学識ある
義勇兵として自身の一存で新たな術語を導入する権限をもつ
とかの術語とがおいおい共有財産となるように、また、認識
論が論理学なり形而上学なりに帰せられ、そのために混濁や
い結果になるだろうということは。望むらくは、かの三一区分
かつ有用であること、そしてそれに従うのは誰にとってもよ
分け隔てられるだろう。次のことは少なくとも歴史の発展の
結果として明らかである、すなわち、そうした三区分が必要
考究というようにその形容詞形を用いており、ふさわしい形
かわしいという事情と、さらに﹁認識論者同町宮
BEM印昏g星野良﹂
ろう。既に述べた、﹁認識論的﹂という形容詞がもっとも似つ
ゲもまた﹁諸概念の批判PE片号門出品円高。﹂を﹁認識論﹂と
同義的に用いているとはいえ、まず顧みられることはないだ
容詞が必要とされることが新たな名称の造り出される、王な動
因であることを証している。しかしながらこの提案は、ラン
頁︶において﹁概念批判国持ユ出
EHF﹂という特徴的な語を
導入しようとし、その直後にも﹁概念批判的Z包器EtRF﹂
やはり似つかわしくなく、これではふさわしい形容詞が手に
入らない。デュ iリングは自身の﹃批判的哲学史﹄︵必︶︵二一二二
得たものとはいえそうにない。﹁理性批判﹂という結合語も
という語も確かに多用されるが、﹁批判﹂が単に哲学だけで
なくあらゆる学の主要問題であることからして簡にして要を
上手くいかないようである。﹁批判寄正巴﹁批判的宵EEF﹂
りさせようとしたが||プラトンの意味でのデイアレク
ティ lクならわれわれのいう認識論に含まれるとはいえーーー
識論を指すものとして台頭し、デユ lリングもこれを仲間入
ロEoEFW﹂という表現も、シユライア l マッハ l以来再び認
2F﹂を流行らせようとしたが無駄だった。ハルトマンは
。
﹁悟性論
U
S
E
Z位。﹂というショ l ベンハウア l の表現を幾
。
−て き た が 、 後 に 続 く 者 は な い 。 ﹁ 弁 証 論
度となく使っ
z
「認識論」という語の起源について
6
1
62
て、他の哲学的な国家のいずれにもこうした特色はこれまで
闘争を費えとしてドイツが獲得したのがこの区別なのであっ
あちこちに出現しているこれら︹三つ︺の領域を混合しよう
という試みがエネルギッシュに抑え込まれるように。数々の
理学や形而上学に絡み入ってしまわぬようにやはり留意し、
混乱の生じることがないように。しかして認識論の方でも論
シャ!の﹃近世哲学史﹄︵臼︶の諸版にまで調査を広げることは
表現も﹁認識論的﹂という形容詞も見られなかった。フイツ
レンブルクの﹃論理学研究﹄︵日︶第二版には﹁認識論﹂という
ていた、と想定してさしっかえないと思っている。トレンデ
とに生じてきたにせよ||新たに造り出されたものと見なし
表現を新たに造り出したか、あるいはl lかすかな記憶をも
から受け継いでいる。これに対して私は、プラントルはこの
使 わ れ て お ら ず ︹ | | 実 際 に は 一 八 六O年の﹃近世哲学史﹄
容易にできようが、そこでは私の知る限りこの表現は一度も
なかったが、やがて﹁認識論﹂も翻訳されるだろうし、どの
みちその︹三区分という︺特色も普及してゆく、だろう。最も
明断な仕方では、この三つの領域の区別はヴントが先に挙げ
初版第三巻の一八、一九頁に﹁認識論﹂の語が見られる 1 1 1
、
︺
同じことはエルトマン等にもいえるが、しかしながら、私に
た︹ライプツィヒ大学就任の際の︺小講演︵﹁経験科学に対
する哲学の影響について﹂︵必︶︶において述べているのが認め
はこうした探索によって結果が異ってくるとは思われない。
この調査に際して留意しておくべきは、そうした表現がまっ
られる。
探索の手をよりいっそう広げ、歴史の進展の中で﹁認識論﹂
私の探索の結果は||おそらくより適した立場からなお補
たく無自覚に習得され使用されるものだということである。
頭ないが |
i |、それゆえ以下の通りである。すなわち、カン
完されうるもので、私はこれを決着済みと称するつもりは毛
いことではないだろう口私はこれについてはとくにユ lパl
のために用いられてきたさまざまな表現を跡づけるのは難し
ヴェ i クの﹃論理学﹄︵叩︶を挙げておく。たしかに彼は認識論
トの諸研究によって既に前世紀︹リ一八世紀︺末には新たな
と論理学とを混同する誤りを犯しはしたが、﹁歴史的な見通
し﹂をもって材料を将来の認識論の歴史のために積み上げて
えるべくさまざまな試みがなされた。﹁認識説﹂という表現
術語の必要が生じ、当時、ある共有される表現に市民権を与
い る 。 そ れ に し て も 注 目 さ れ る の は 、 ユ l バ lヴェ l クが
一八五七年に著したその﹃論理学﹄の第一版序文で既に﹁認
識論的﹂という表現を用いていることである。私の見るとこ
ず息子の方のラインホルトが一八三二年にこの語を実際に造
上の創始者は父親の方のラインホルトであるが、とはいえま
一般的な規定とはならなかった。﹁認識論﹂という語の精神
は一八O八年に現れたが、この名称の創始者であるクル l ク
が認識説を形而上学と混同し同一視したことは別としても、
序文の複写においてこの表現を後になってはじめて挿み込ん
ろ、ユ l バlヴェ I クは︵もし彼が、まずありそうにないこ
とだが、私の手許にある一八六八年付の第三版の中の第一版
だのでないとすれば︶これを︹エルンスト・︺ラインホルト
「認識論」という諾の起源について
6
3
いえ、認識論的研究そのものが背景に退いていたという単純
り出して使用し、直ちにその形容詞を用いた。この語はとは
﹁認識論﹂という語の歴史のために
に刺激されて、目下私の自由に扱えるそのための資料の範囲
D r ハ ン ス ・ フ ァ イ ヒ ン ガ l が本誌︹リ﹃哲学月報﹄︺
の今年度の第二分冊で取り扱われた興味深くなくもない問い
それゆえ事柄を弁えぬ人々、例えばへ l ゲルと彼の学派など
はこの語をやはり用いてこなかったが、しかしヘルバルトに
的にはエルンスト・ラインホルトの一八三二年以下刊の﹃人
内で補足的探索を行った。私が見いだしたことは、実は文献
な理由によって、一般に受け入れられるには至らなかった。
よって﹁認識説﹂は心理学に引き入れられた。プラントルお
ら し く す る も の で あ る 。 私 は 現 在 ︹I︺
・ H −フィヒテが
一八二九年からーーーそして三0年代にもっとも豊富にーー−
間の認識能力の理論﹄より前に遡るものではないが、かの︹﹁認
識論﹂という︺語が二方面から同時に生じてきたことを確か
よびユ I バl ヴェ l ク が そ れ を 再 び ︵ 前 者 が ﹁ 認 識 論 ﹂ を
一八五五年に、後者が﹁認識論的﹂を一八五七年に︶用いた
ことで、いよいよこの語は表立って世に広まっていったもの
と見える。
しかしながら、なにより新たに興ったカント研究が、その
で、﹁認識論﹂の語がこの文通の中で、とりたてて第三者か
m ・日・ヴァイセに宛ててしたためた書簡を保管しているの
生じてきているのを確かめることができる。ここで私が目に
ツエラ l の貢献によってこの表現は一八六二年、小ラインホ
ルトのもとに登場してから三O年の後に、ついに人口に輸相夫
するまでになった。カント研究の高揚とともにこの新しい表
の汎論理主義に対する闘争の中で自身の知友をなお次の点、
するのは、フィヒテが既に一八三一O年の五月以来、ヘ 1ゲル
学にふさわしい名称ももっ必要があることを改めて自覚し、
現も広がりを見せている。ーーもっとも実際には二度目の創
すなわちーーーヴァイセが当時やはりそうしようとしていたよ
らの影響をさしはさむことなく、いわば有機的かつ恒常的に
出、または想起ではあるのだが。そうした語にとっては表題
に用いられることが決定的な青山味をもつものなのである。 E ・
る の で は な く 、 む し ろ あ る ﹁ 先 予 学5258RE﹂、﹁学に
うに||客観的、形市上学的な論理学から哲学の体系を始め
ついての学﹂を、そもそもまず人間精神にとっての客観的認
ラインホルトは表題に用いなかったので、この語は普及しな
そこで彼はすばらしく明断にこの新たに命名された学に課題
であるという点でまた、ヘ Iゲルから脱却させようと努力し
識の可能性に決着をつけることを課題として先立たせるべき
かった。まずツエラーが講演においてこれを表題に活用し、
とプログラムも設定して見せたのだが、それ以来この表現は
ていることである。一八三二年の九月一三日からフィヒテは
広まって、いまやこれは支配的になっているし、今後もそれ
はそうだろう。
自身の体系のこの第一部門ーーというのは、そのようにフイ
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ヒテはこの﹁先予学﹂を見られたがっているからだがー
D r.ハルムス氏がわれわれに注意して下さったことによ
の著作﹃人間学主義﹄︵日︶等において、単に間に合わせに用い
ると、﹁認識論﹂という語については既に氏の一八四五年刊
いう短縮形を用いており、これは私の資料では||ヴアイセ
しあたりただ簡便のために、﹁認識論思−
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g号 ﹂ と
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ころでこのフィヒテの書簡に答えてヴアイセは、おそらくさ
至ったというファイヒンガ i氏の仮説は、それゆえ支持され
トルとユ l バl ヴェ l ク に よ っ て は じ め て 再 使 用 さ れ る に
際に首尾一貫した仕方で使用されている。この表現がプラン
られているのでなく、カント以降の諸体系を把握・評価する
agzg﹂という名称を用いている。と
の理論↓525母門田−
対 し て ﹁ 認 識 作 用 の 理 論 叶 宮2ぽ号回開件。
Egと と か ﹁ 認 識
がフィヒテに宛てた書簡を私は所持していない||まず第一
なし
頁︵体系的哲学のための論考、二八五頁︶︵日︶も参照のこと。
ハルムス﹃フィヒテの哲学﹄、キ l ル 、 一 八 六 二 年 、 一 五
にフィヒテが一八三二年四月二六日付の書簡に編み入れた
の理論﹂ないし﹁認識の理論﹂という形にとどまっている。
ヴアイセの返信の引用に認められる。フィヒテは﹁認識作用
E ・ブラウトウシエツク︺
編集者︹F ・アシャ Iゾン、 J ・ベルクマン、
これに対してヴァイセはこの時以来﹁認識論﹂という語も出
フイヒテの著作ーーーこれは件の﹁認識作用の理論﹂を叙述し
版物の中で使用し、まず一八三二年から翌年にかけて出た
たものである||の書評のなかで、すなわち一八三四年の﹃ハ
の 論 文 に 頻 出 し 、 一 八 三 七 年 に フ ィ ヒ テ の 雑 誌 ︹ H ﹃哲学・
イデルベルク年報﹄上で用いている。爾後この語はヴアイセ
一八五二つ/五四年の﹁論理学﹂の講義冊子では﹁認識論﹂は
思弁神学雑誌﹄︺に所載のものなどがそれにあたる。
論理学の別名であるとヴアイセは述べており、この語はわれ
のことはショ l ペンハウア l についての私の著作︵一八五七
われ門弟の仲間内でそのまま通用する表現であった。ーーーこ
年︶︵臼︶もついでながらその証拠となる。
ルドルフ・ザイデル
ー ー は る か に 下 っ て 一 九 八 一 年 のilk −日・ケ l ンケの再
ここに訳出したのはハンス・ファイヒンガl ︵
EmE
ま
凡
∼2SEh﹄第一一巻︵そこでのロックについての叙述箇所︶
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SEER号可
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与U53ωE︶ の ﹃ 哲 学 史 C
調査によって、言葉に関しては一八一九年のテンネマン
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2 一八五一了一九二二二︶による一八七六年の﹃哲学
︿
概 念 の 実 質 的 な 創 出 者 と さ れ たE ・ラインホルトについても、
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︶
フアイヒンガ l の 論 文 は そ れ
印
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ゆ え 、。
内容的には乗り越えら
れた先駆的業績であり、さしあたっては歴史的ドキュメント
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E守、、同省、寺崎町主主 HFNFH −
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ュolロロ色色。目印。ロ︿2BEE−−。Fom︺
言
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﹃BP.
時点で実質的規定にも達していることが確認されている
にまで遡りうること、またファイヒンガーによって認識論の
既に一八二七年には﹁認識論﹂の語を用いており、二九年の
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寄 与 ミ むななもと第一一一号︵第二分冊、八四
月報
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§
∼
凡
九O 頁︶所載の論文
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昌弘2 者OHAg
吋
一八八’一八九頁︶に現われたルドルフ・ザイデル︵周忌。R
ZSEEZEo−−−である。
弓
号∞君。ュ23
﹁認識論がそもそも科学的デイシプリンであるとすれば、
最も重要なものである﹂。||二O 世 紀 も 四 分 の 一 を 過 ぎ よ
されたためか、わが国ではこのディシプリンの形成・展開に
ということになるだろう。翻ってしかし、既製品として移入
それは哲学の諸々のデイシプリンのうちで最も若々しくまた
うという時点でフリッツ・マウトナーはそのようにいってい
年 で は 、 と き に ナ イ1ヴ に 形 而 上 学 へ の 傾 き を 示 す 英 米 圏 の
関する事実認識は必ずしも十分に共有されておらず、また近
る が ︵PINYE
EFNSNω ・﹀2・日再SEEmpgF
白 F
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叫
明、守町内忌む与与下、主2§EF回
︶、遡ること
己
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FoxvN−
mゆ
およそ半世紀、認識論的な研究動向が高まりをみせるなかに
一九世紀までを﹁古典的﹂の一語で片付けてしまうような傾
臣g司 えE2Emo− − お そ ら くFZBEZZo号 の 翻 訳 語
と見られるーーーの文脈で、認識論史に関してプラトンから
あ っ て 当 時 二 四 歳 の フ ア イ ヒ ン ガ lは、当の語がE ・ライン
一八五五年のプラントルおよび一八五七年のユ lパlヴェ l
ホルトの一八三二年の著作に由来し、また、中断を挟んで
理学および形市上学とのきびしい緊張関係に置かれていた事
情を伝える本論文は、右のような状況に照らしてみるならば、
向も見受けられる。その形成・定着のただなかで認識論が論
こうした調査の常として、語の初出についてはその後さら
改めて﹁治療﹂という積極的な意味をもつに至っているよう
クの用例がその動向の本格化の契機であるという調査研究を
に遡った用例が見いだされている。あわせて訳出した同誌上
にも思われる。
﹃哲学月報﹄誌に発表した。
での、ザイデルとハルムスの報告と、とりわけ以上を踏まえた
切
H WOES−回目F g号 5、およびこれに呼応して同誌上︵第四分冊、
解
題
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a号−、一八三五’一八九二︶等による議論ば己 CORF−与件。
「認識論」という語の起源について
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