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経営理念と保険思想 - 生命保険文化センター

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経営理念と保険思想 - 生命保険文化センター
経営理念と保険思想
一阿部泰蔵と矢野恒太一
小林 惟司
(千葉商科大学教授)
はしがき
1.新しい経営理念
2.現代の経営と若者
3.経営理念の明確化
4.経営理念の差別化とJobの結合
5.経営理念とボランティア
6.経営理念と倫理規定
7.日米企業の取締役会
8.日本の企業環境
9.企業理念の根幹は企業保全
10.これからの経営リスクと経営理念
11.ビッグバンと経営理念
12.保険会社の経営理念
13.『保険雑誌』にあらわれた保険思想
ア.保険的思想の測定
ィ.保険思想の養成
ウ.類似保険の弊害
エ.生命保険商売
一331
経営理念と保険思想
オ.粟津清亮の獅子吼一保険事業ト道徳カ.保険業者の社会的地位
キ.保険業者の社会的勢力
ク.第一生命保険相互会社
14.矢野恒太の経営理念
15.阿部泰蔵の経営理念
16.『修身論』と阿部泰蔵
まとめ
はしがき
明治期の産業の指導者(キャプテン・オブ・インダストリー)たち
が、かかげた経営理念は、いずれも利潤追求、資本蓄積を自己目的と
なす精神によって支えられていたことは周知のとおりであるO
その社会的背景には明治国家のめざす殖産興業、富国強兵の旗印が
あったからであるO
本稿の目的とするところは、明治期に創業した二つの特徴的な保険
会社の経営理念と、その理念を生むにいたった当時の保険思想につい
て考察するO
1.新しい経営理念
経営理念には、時代により変わるものと変わらざるものの二面を含
んでいるO まず、最近の経営理念の変化をみることとするO
いまや、利潤追求、資本蓄積をうたいあげる経営理念は影をひそめ、
その一方では「和」、「誠実」、「努力」、「信用」、「誠意」、「奉仕」、
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経営理念と保険思想
「責任」、「創意工夫」というお題目をならべた経営理念では人材を
集められなくなってきているO その結果企業そのものの発展すら阻害
することになりかねないことに気づきはじめたO
これに気づいた会社と気づかない会社が、大きな格差を生むことに
なってきた。ここに清涼飲料水を売る会社があるO一つは、その飲み
味のよさだけを強調した広告宣伝活動を行っている。しかしもう一つ
の会社は、環境保全という全く飲料水とは関係のないと思われること
を全面に打ち出した広告をするO一見それは飲料水と無関係としか、
大衆には映らないO Lかしそうではない。清涼飲料水の空カンが、あ
ちこちに捨てられて、それが公害の元凶、環境破壊の元凶となってい
るところに眼をむけたのであるO
この会社は、さらに逆転の発想をするO 自動販売機である。本来こ
の機械は清涼飲料水を買うためのものである。しかし、その逆を考えh
その会社の清涼飲料水の空カンを入れると、金券が出てくる機械を発
明した。しかも他の会社の空カンとは、バーコードで選別して金券は
その会社の空カンのみに適用され、その金券は、その会社の販売店で
通用する共通券となっているO あちこちに捨てられている空カンは、
次々とこの機械に投入され、再び新しい需要が創出されてゆく、町は
きれいになり、商品も売れる、まさに一石二鳥であるO
環境保全と商品は、ここで見事にドッキングするわけである。
商品そのものの宣伝を全くしなくとも、環境保全という大義名分は
何人たりとも首肯させる力をもっている。
この会社の経営理念は、町をきれいにするO環境保全・美化に奉仕
するという一貫性をかかげて、大きな成功をおさめつつある。
日本企業の経営理念には、他国ではみられない特色がある。それは
訴える力が乏しいことである0
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経営理念と保険思想
今日、日本企業の多くの経営理念をみると、全部ではないけれども
社会、公共への奉仕という点で、上述の清涼飲料水の会社ほど徹底し
て、工夫をこらしているとは断言できないように思われるO
サービス、貢献、社会貢献という言葉はちりばめられていても、そ
れらがじかに一般社会とどういうかかわりをもっているか、いまひと
つ結びつかないのはどうしたことであろうか。企業活動を外からみる
とその企業が、いかなる社会貢献をしているのか、判然としないもの
が多い。正体不明の霧がおおっている。この霧をはらすものは何か、
それは経営理念の訴求力であるO
経営理念は、ただ単に商品の販売量を増加させるためにあるのでは
ないO もっと根本的なその集団の構成員の行動を左右するだけの力を
もつものであり、お題目やお経の文句とはちがうO
2.現代の経営と若者
とくに現代の若者たちの間では、「会社」というもののとらえ方が
以前とは全くちがってきていることに気づかされることが多いO
かつて会社は、自分の一生を託する生活の砦(とりで)であって、
ひとたび入社すれば、どんな仕事を与えられようと、唯、黙々と努力
をつみかさねていれば、やがては、人の見るところあって引き上げら
れ順路をたどり、定年まで無事つとめ終わる、その間に妻をめとり、
子をもうけて次代にひきつぐという構図が一般的であったO
しかし今は全くちがうO フリーターという会社に属さないで生活し
ている若者が激増しているO かれらは、このゆたかな社会に生まれた
新種であるO 国自体が貧しい時にはその存在すら考えられなかった種
族であるO かれらとて会社に入って上記のような平穏無事の一生を送
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経営理念と保険思想
りたいのであろうかO
いまやかれら新種族たちは、賃金を欲しないO賃金以上のものを欲
しているO それは何か、自己実現という至上の幸福であるO
マズローがかつて提唱して一世を風摩した欲求の5段階説の最上位
に位する欲求であるO生理的欲求はみたされ、安全の欲求もみたされ
社会的欲求も何とか満足させ、自我の欲求も一応適当にみたされたこ
の社会で、さいごにのこされたハードルは、自己実現の欲求なのであ
るO もしこれが実現できれば、人間は、たとえようのない至福の境地、
幸福の絶頂、満足の極致を味わうことができるO
たしかに一昔も二昔も前ならば、そこにいたる道は遠い、一生かけ
て到達する、けわしい路のりだったから、まず経済的貧窮をくぐり第
1段階から第2段階、さらには第3段階へと徐々にのぼる必要があっ
たO そこにさまざまの人生哲学が生まれ、古人聖賢の格言も生きて働
いたのであるO徳川家康が「人生は重き荷物を背負いて長き坂道をの
ぼるが如し」といった格言が人生の指針として尊重されたのも、家康
のような男ですら、こういうのだからましてわれわれは、当然がまん
するほかはないという、いわばあきらめの心境をみちびきだす方便と
しても使われたのであるO
3.経営理念の明確化
しかし、今日の若者たちにはこの格言の意味はほとんど通じなく.なっ
ているO若者にとって企業とは自己実現のための場所と初手からきめ
てかかっているからであるO かれらには長い時間をかけて家康のよう
に坂をのぼりやがて自己実現の場に到達するというような気の長い話
は最初から受けつけないO入ったその日からすぐに自己実現がなけれ
-37-
経営理念と保険思想
ばすぐにやめてしまうO かれらには、まて暫しがないし、辛抱はかれ
らにとっては、何の美徳でもないのである。
企業は、かれらにとっては、かれらの自己実現のための場を提供し
ている存在でしかない。
また、自分の身をおく会社が、どういう形で社会に貢献しているかO
会社が何を目的としているか、何をしているかを新入社員は知らないO
わからなくてやめる者もいれば、やめずにそのままぶらさがって会社
のお荷物となってゆく者とにわかれる010人の新人のうち2人は優秀、
6人は普通人、あとの2人は箸にも棒にもかからない厄介者という分
類になるというO しかし、その中の2人の優秀者は、会社における自
らのアイデンティティがわからないと辞めてゆくO
これを防止するには、会社の目的、即ち経営理念を明確に具体的に
社員に周知徹底させることであるO
そのためには、その内容を具体化して事前に知らせる。具体化した
ものを見せること、そして周知させるルールを社内につくること、会
社の経営理念と合致しているかどうか、そこに変わるもの(革新)と
変わらざるもの(伝統)を弁別してわかりやすく説く、場合によれば
マニュアル化も求められるO しかし、マニュアルには、これを絶対視
しては組織の硬直化をまねき、粉糾した事態に直面すると手も足も出
なくなる危険があるO
こうした場合、従来は0.J.T(on thejob Training職場内訓練)
で、先輩の背中をみて自ら学んできたO しかし、今日のように在学中
からアルバイトで社会性と経済性を身につけた新人たちは、こういう
システムにはもうなじまなくなってきているO かれらはすぐにフリー
ターの世界に入ってしまうO新人のメンタリティが大きく変ってきた
ことに気づかないO 手をとるように教えるマニュアルをみせてかれら
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経営理念と保険思想
に納得のゆくまで、くりかえし手順をのみこませる手間が必要である。
昔の人事部というのは幹部になるための登龍門だった。いまの人事
担当者は、何が世の中にとって役に立つかを社員一人一人に教育しな
いと優秀な新人の脱落を未然に防止できないO
いままでの人事は新人のやりたいことを整備して、これをベースに
して組織をつくることをせず、既存の旧体制の企業文化論の中にむり
やりに新人を封じ込めてしまったといってよいO
大学の講義に財務論、マーケテイング論はあっても、ヒューマンリ
ゾース ディベロップメント論(人材開発論)がないのは不思議であ
るO ヒューマンリゾースなくしては、物財のマーケテイングは成立し
1)
ないのにこれに気づくのが大変に遅れたO ソロモン・S・ヒュブナー
が、人材論が、物財論に先立つことを1世紀も近い前に熱唱していた
のにこれを真撃に取り上げなかったことはかえすがえすも残念である。
いま西欧の大学ではこれに気がついて、人材開発論が、脚光を浴び
ているのは皮肉といわざるをえない。日本の大学でも経営者論をとり
あげるようになったO
会社の人事部は、ようやくその本来の使命にたどりついたといえようO
注1)ソロモン・S・ヒューブナー小林惟司訳F生命保険経済学」慶応通信 昭和37年
4.経営理念の差別化とJobの結合
今日の新人は、従来とちがい、あるていどみなプロフェショナル志
向をもっている。
したがって、かれらを企業に定着させるのは、会社の経営理念を具
一39-
経営理念と保険思想
体化して事前に知らせるか、具体化したものをかれらに直接見せる必
要があるO それにより、会社に対する責任(Accountability)の所在
が明確になり、新人のやる気が生ずるO会社に入っていったい何をや
るのか不明のままでは、責任も権限も義務も生じないOJob(仕事)
が、確定してこそこの三つは発生するのだから、まず、新人のJob
をきめ、そのJobが、会社の経営理念のどの部分を担当するのかを
はっきり知ることが必要である。これを行うのが、人事部の仕事とい
うことになろう0
日分の会社が社会とどういうかかわりをもっているのかO
どのようなJobをどのようにして選ぶか、その際、会社は、製品
の差別化ではなくて、理念の差別化をも同時に行う必要に迫られるO
新人採用のときに、経営理念の差別化が役立つO えてして会社は賃
金というような物で差別しようとする。賃金は有限であるが、人間の
力は無制限にでてくるO しかも、人間の能力には、さまざまな角度か
らの無限のとらえ方ができることがきわめて重要であるO偏差値一辺
倒ではこれができないO
物の面のみからみるからこのような考え方をしていくと、結局マー
ケットをせばめてしまうのであるO賃金志向は、物の一面観にすぎな
いことを知る必要があるO長い間の偏差値一辺倒教育の弊害がここに
もあきらかに及んできているのであるO
新人は、会社の経営理念を通じて社会に参加するよろこびを見出す
のであるO
5.経営理念とボランティア
ボランティアは、通常無償の行為といわれるO これは対価が目的で
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経営理念と保険思想
はなくて、そのプロセスに参加するところに別の対価を求めることに
なる。まさに欧米化であり、個性化であり、個人が豊になった現今の
あたらしい現象であるO
この方式はいったい、どのような環境で働いてゆけるか、仲々むず
かしい、そこには労働法理の整備も必要であるし、そのための改革の
エネルギーは絶大なものとなるO
しかし、実行しなければ、今後の企業の存立にかかわるから、真剣
に取組むと、前述のような、経営理念の具体化と事前周知ということ
につきるO 冒頭の清涼飲料水の会社の経営理念は、まさに見事にこの
要請をかなえたものであるO ここでもうひとつ見落としてならないの
は企業不祥事(企業犯罪)の防止のための倫理規定をもりこんだ経営
理念の確立が急がれることであるO
6.経営理念と倫理規定
経営理念に倫理規定をもりこむことは、すでに米国では行われてい
るO「企業責任宣言」を小冊子にして関係者に配布している1兆円産
2)
業があるという。日本の企業でこのような事例は知らないO
一企業が、経済界、はたまた一般市民にこういう企業倫理をもって
経営していきますと公表してこそ、その企業の実践につながるのであ
るO 日本企業に企業倫理が欠如しているとはいわないが、それは人情
的、独善的、そして観念的であるO企業に企業倫理があることを天下
に明確に公表し、大衆にこれをはっきり周知徹底させることが必要で
ある。これがあってこそ、その上にたってはじめて企業倫理の実践が
可能となるO その大前提自体が、日本企業にはない。経営理念はかか
げられているO Lかしその内容は一企業内にしか通用しないO およそ、
一41-
経営理念と保険思想
まわりの社会に参加する力が乏しいO最高のサービス、社会的貢献を
うたっているけれど、それがどう具体的活動に結びついてゆくのかを
明確にしている企業は寡聞にして知らないOかつて松下幸之助存命の
ころの松下経営には少なくとも企業倫理という一本の筋が通っている
ことは、われわれ消費者にも何となくわかったものであるO
それは、松下氏がことあるごとにPHP運動などで自己の所信を率
直に表明していたからであるO
ほかの企業は、おしなべて企業倫理の実践の阻害要因があまりにも
大きい。その中で最大のものは、日本古来の伝統に根ざす、みんなで
渡ればこわくない、一蓮托生、一億総ぎんげ、連帯責任、で片づけて
しまう慣習にあるO この慣習は、欧米のあくまで個人責任追求、契約
優先の思想とは相容れないO欧米で発達した役員の責任保険など、日
本の風土に根づくかすこぶる疑問であるO なぜならこれは企業内で責
任ある地位につく人々の能力に対して企業がかけておく保険であって、
命令系統や責任追求の経路が点と線とで明確に結ばれ、システム化し
ている欧米のような社会ではじめて実現される保険であるO
日本のように個人の能力を測定する慣習もなく、人間を能力でなく
人格で判断する社会では、まずこの保険は成立しないとみてよかろうO
医師賠償責任保険、公認会計士職業賠償責任保険、建築家賠償責任保
険など、もろもろの職業賠償責任保険は、一個の職業人としての過失
ミ、
による事故に対して包括的にかける保険であるO これらの保険は、い
ままでは損保会社で扱っていたが、内容的には、日米で差はないO た
だし、この保険は、賠償責任を追求される主体がはっきりしていない
と成立しない0個人責任が不明確で、きわめてあいまいな連帯責任に
よる伝統的な処理のしかたをする日本では、あまり発展性はのぞめな
いであろう0
-42-
経営理念と保険思想
注2)小林基茂「企業倫理実践の難しさとその日本的背景の一考察」I・G・I経営戦略
研究所 平成9年12ページ。
3)久枝治平『契約の社会・黙約の社会』日経新書 昭和55年 28ページO
7.日米企業の取締役会
しかし、いつまでもこのような状態がつづくと国際基準から離脱し
て金融ビッグバンの大波にのみこまれて再び浮上できなくなるO
役員になるということは日本ではおめでたいことであるが、北米で
は必ずしもそうとは限らない。
米国企業の経営は、取締役会(Board of Directors or Trustees)
4)
と経営執行取締役会(Board of Officers)の二重機関制度になって
いるO前者は大手株主やオーナーから構成されていて、そこで社長を
公募するO だから米国企業では、社長を含めて課長補佐クラスまでを
OfficersというO アクチュアリーも含まれるO そして社長ないし、
これにつぐ数名が、経営執行取締役となり、これが後者の経営執行取
締役会を構成する。かれらは、純然たる経営執行担当役員で、重い経
営責任を負い、もし会社に損害を与えれば、前者の取締役会の決議で
罷免されるO だから各役員はそれにそなえて役員責任保険に加入するO
とくに公募して採用された社長ともなると、すでに100以上の企業
経営を成功させてきた強者でも、向こう4年間に約束した経常収益を
上げられなかったときは、その減益分を役員責任保険でカバーする必
要があるO米国企業のトップに、非常に若い人が多いのは、日本のよ
うに一つの会社で一生をかけて下から昇進してトップにたどりついた
-43一
経営理念と保険思想
のではなく、経営のプロとして場数を多くふんできた人間しかトップ
になれないからであるO だからきびしい日常業務をこなしてゆく、と
くに経営執行役員は、重要な手紙は自分ですべて書く、1日に30∼50
通などふつうであるO そうしないとちょっとしたミスが命とりになる
からであるO
前者の取締役会は特定案件の最高意志決定機関であるから、箸の上
げ下ろしまでいちいち口を出さないO その代わり、社長を含めた執行
役員の経営行動には充分眼をひからせていて、悪いとみるやすぐ罷免
したり、きつい監督、指導をするO ちゃんとチェック機能が働いてい
るO
従って執行役員はうかうか出来ない。ニューヨークでアタッシュケー
スを下げているのはたいていこのオフィサーたちであるO手ぶらで歩
いているのはだいたい平社員というのもうなづけるO
自動車会社の社長をわたり歩いたアイア・コツカなどはきわめてす
ぐれたプロの社長として高い評価をえたのであるO
日本のような他流試合厳禁の社内昇進型では、アイアコッカのよう
な社長は生まれないし、日本の取締役会は、米国のような二重構造で
チェック機能をもっているのとくらべると、そこに大きな格差を生む
ことになるであろうO米国のような二つの取締役があって一つがもう
一つを監督、指導、人事権まで発動することで、経営理念も、たんな
るお題目でなく、直接、消費者に訴えかけるものとならざるをえなく
なる。
米国企業は、創設時には、弁護士と保険会社がよばれる。まず弁護
士のアドヴァイスをうけ、事業目的が明確になれば、こんどは人材の
5)
一人一人について能力を測定する。とくに社長の場合、向こう何年間
の経営計画を捏出させて、その間、かれの経営によっていくらの利益
-44-
経営理念と保険思想
があがるか金銭的に明確に算出されるO かりにこの予想金額が1年間
に150万ドルとすれば、この150万ドルと換算された社長候補の能力に
ついて会社側は保険をかける。これが個人の能力に対する役員の責任
保険であるO
保険会社がよばれるのはこのときである。
Board of Officersは、弁護士、保険会社の立合いのもとに採用が
きまるO もちろん社長候補の契約金額が150万ドルに対して100万ドル
しか利益があがらなければ残りの50万ドルは保険会社が補填するとい
う契約がとりかわされるO
日本とは逆に、米国では多額の役員保険に加入したことは、かれの
すぐれた能力のバロメーターであるし、それがまたかれの誇りであるO
この役員保険の保険金が支払われなかったことは、かれの能力が証明
されたことになるのであるO
今日、世間で喧伝されている製造物賠償責任保険も多額の保険料を
支払われている商品には欠陥などの懸念材料によって日本では商品不
買という現象もおこってくるO従って日本ではこの保険がかかってい
ること自体、決して外部に公表しないO
しかし、米国では逆であるO 内容発表がきめられていることが多い。
6)
米国では、欠陥商品はさけられないという考えから出発しているO し
たがって欠陥商品で事故が発生して、賠償責任がまっとうできないこ
との方を重大視するO企業の社会的責任を果たしえないということは
存在に値しないという宣告をうけることになる。製品に保険をかけて
おくことは、企業の社会的責任をあきらかにすることであると考えるO
日本ではまだ、自動車損害賠償責任保険を除いてこの考え方は普及し
-45-
経営理念と保険思想
ていないO
注4)マクリーン小林惟司訳F生命保険』慶応通信 昭和46年 48ページ 訳者注
5)久枝浩平、前掲書 29-30ページ
6)久枝浩平、前掲書 32ページ
8.日本の企業環境
日本は、人種のるつぼといわれる米国とちがい純粋培養された単一
民族であるO したがって米国は契約と法で行動基準をつくり自らをき
びしく律することとしたO しかし、日本の場合はお互い同志長い間、
意志の疎通は慣習と道徳で言わず語らず行われて間違いはおこらなかっ
たO単一民族の枠の中でのびのび自由に生きてきたO今さら契約だの
行動基準だのとさわざ立てることはあるまいというのが本音だったO
人々は自然発生的な風俗、習慣と、温和な自然環境にはぐくまれた道
徳に従って十分生活できたO
わが国には「われわれは良き市民にならなくてはならないO会社と
いえども市民であり、国民である。企業は利益をあげる、そうしなけ
ればならないが、自分の所属するコミュニティのために、企業市民と
しての義務、企業倫理について説明したい」というような、あるいは
単に「われわれはこのようにすべきである」という形のいわゆる宣言
7)
法がきわめて少ないO
日本人は、そのようなことは、法律できめなくとも、暗黙の了解で
道徳的に判断すればよいとしているO 日本の法律は罪刑法定主義の刑
法に属するものと行政組織や政治のやり方をきめた手続法が中心であっ
-46-
経営理念と保険思想
て、それらは市民の意志や企業の意志を素直にのべる基本法とは相容
れないO
日本では、基本法をうち出す必要をみとめていないので、基本法に
もるようなことは、日常の暗黙の道徳の中にくくってしまって、それ
にもれたものだけを「これをしてはならない」という形の法にしてい
るのである。
こういう国柄だからこそ、米国の一兆円産業の出した「企業責任宣
言」のような「宣言」は出すはずがないのであるO
米国のように雑多な民族の寄り合い世帯を一つにまとめてゆくには
企業自体もわかりやすい具体的な言葉で世間にその所信を明確に表明
しなければ、企業の存在自体があやうくなる。
日本の企業のように抽象的なお題目をならべていても、だれもとが
めだてする者はいないO だいいち、そういう宣言を書いたとしても世
間は、無関心なのである。
ただ、かつての三井家、住友家をはじめとする江戸末期の大商人た
ちは、それぞれ、きわめて具体的、実践的な家訓を残して引きついで
いるO この家訓は、今日の経営理念であるO財閥当家の家訓はいずれ
も自らの所属するコミュニティのためにできる限りの努力をすること、
そして、顧客第一主義の姿勢を貫いていること、お客あっての店とい
う意志を貫徹している、そのための具体的商売のしかた、心得がこと
こまかに記されているO いわゆる行動基準、ないしマニュアルであるO
これこそ「宣言法」である。
かつての日本のお家継続にあたっては、「宣言法」が一つの知恵と
して立派に通用していたことを雄弁に物語るものであるO
それが、いつのころからか、黙約の社会へと変質してしまったのは
日米の風土の違いであろうか0
-47一
経営理念と保険思想
注7)久枝浩平 前掲書 40ページ
9.企業理念の根幹は企業保全
保全とはInsurance(Assurance)のことである。企業を救うもの
は、企業保険、事業保険と昔はいったが、ここでいうのはそういう狭
い意味ではなく、株主代表訴訟に対する戦略、コーポレート・インシュ
アラン.ス(企業保全)が、いま海外の大手企業では盛行していること
を言うのであるO
どういうことかというと、これは、役員たるもの自分の主義主張が
堂々と仕事の世界で通用する天地神明に誓ってやましいところは全く
ないということ、そして企業倫理を直ちに実行できる勇気と実行力を
もっていること、これが役員のパーソナル・インシュアランスであるO
そういう役員ばかりあっまった会社が、コーポレート・インシュアラ
ンス(企業保全)を実践している会社ということであるO
経営者としてやはり自分をしっかりみつめ、そして企業の中の責任
ある立場で経営を行えば、つまり、コーポレート・インシュアランス
が出来ていれば、今回のような、見苦しい企業の犯罪や不祥事は、ま
ずおきることはなかったはずであるO
株主代表訴訟などにおびえることもまったくなくなるのであるO
経営者自身が身を持するに厳でなければいけないO
犬養毅が逓信大臣(今の郵政大臣)になったとき、古島一雄を呼ん
で、「逓信次官になれ」というので「郵便だの、貯金だの、知らんか
ら」とことわると「逓信省には水力、電気などいろいろの利権の亡者
どもがおしよせてくる。そいつらをおまえのところで全部撃退してく
-48-
経営理念と保険思想
ト・
れ、それがお前の仕事だ」といったO それから古島は犬養のとなりの
部屋にいて、かれのところにくる利権屋どもを次から次へと追いかえ
したO つまり犬養の防波堤になったのだ。犬養にとって古島一雄はあ
きらかに一つの保険であったにちがいない。これがまさにキャビネッ
ト・インシュアランスなのであるO
米内光政が、佐世保鎮守府の長官のとき、岩鉱や漁区の関係で利権
屋の来訪が多かったO そのころ軍港の金塊引揚について長官の許可を
9)
とる策動があったが、首席参媒に対応させて相手にしなかった。その
後、一味は詐欺罪でつかまった。もし安易に乗っていたら大汚職事件
になるところだったO本人に欲がないO倫理観念がしっかりしていた
からこそ事件を未然に防止できたので、犬養や米内に少しでも不純な、
弱い性格とさもしい根性があったら、今日みる企業犯罪と同じことが
新聞紙上をにぎわしていたに違いないO
米内長官のところへは、いろいろの問題をもちこんでくる者が多かっ
たが、決して直接面会して諾否をいわない、やむをえずあっても用件
をきくだけで、「自分は従来の事情がわからないから、首席参媒に話
してもらいたい」といって土地の事情にくわしい者に廻した。
今日、企業のトップが、総会屋との関係を追求されて醜態を天下に
さらしているが、かれらは、そういう人物に直接会って諾否をせまら
れる場面にまけてしまったのであろう。米内のように会はないことな
のであるO会ったらおしまいなのである。
いろいろの出入業者とか、取引先からの誘引は、ポストがあがるほ
ど、強くなるO それにうちかつことができるかどうかO企業倫理を実
行するために、どういう規定をもっているか。
米国では、きちんとした規定がある。ある一定の金額以上の身分不
相応の贈り物ほうけないO別にそのようなものをもらわなくても生活
-49一
経営理念と保険思想
には何の影響もないからというO むしろそれを受取ったことで、将来
の輝かしい可能性の芽をつむことになるからであるといっているO
将来の芽をつまないためのものが、パーソナル・インシュアランス
(P.I)であり、個人にP.Iをつけることで、団体・政府・会社のコー
ポレート・インシュアランス(C.I)が、出来上るのであるO
犬養にしろ、米内にしろ、やはりかれらは生得的に自らに倫理保険
をかけていたといってよいであろうO
今日の企業経営者に、経営理念なく、したがって企業倫理もなく、
自らを律する高い志操も高潔な魂もなく、あるのはただの強欲な、金
銭欲と物資欲だけというのでは、いかに経済的に豊かになったとはい
え、余りにも淋しい限りではなかろうかO
かつての生命保険の創業の理念の中には、阿部泰蔵のように「われ
ら会社をおこさんとするのは友人知人の不幸をみるにしのびずこれを
たすけんとする相互扶助にあり、利益の如きは眼中におかず」といっ
た企業倫理の宣言があることをわすれてはなるまいO
わすれたとしても、今日、企業倫理実践の難しさを見るにつけ、せ
めて保険業界の創業時にこの言葉があったことを世界中に公表、宣言
すべきであるO近時、米国企業が、今日の日本の企業犯罪で50万円の
罰金でみそぎをしたといわれる某社に対する当局の態度をみて、ヒザ
をたたいてよろこび、「これで、ビッグバンで、米国は日本に勝った」
と叫んだというウソのようなほんとうの話をわれわれはもっと真撃に
うけとめなければなるまいとおもう。
注8) F古島一雄清談J毎日新聞社 昭和26年 279ページ
9)緒方竹虎F一軍人の生涯』文芸春秋新社 昭和32年 203ページ
ー50-
経営理念と保険思想
10.これからの経営リスクと経営理念
さまざまな経営リスクのうち、企業・団体を壊滅にまで追い込むリ
スクは、企業犯罪リスクであるO
これを防止する保険は、以上のべたように、個人ではパーソナル・
インシュアランス(P.I)であり、企業・団体では、コーポレート・
インシュアランス(C.I)であるO
さらにその根幹をなすP.Iの構成要件該当性は何といっても、内な
る道徳律であるO
イマニェル・カントが、今から210年まえに叫んだ次の言葉こそ、
現代によみがえらせる必要があるO『実践理性批判』でかれは言う。
おも
「それを惟うこと頻りなればなるほど、ますます畏敬と讃仰の念ひに
満たされるものが二つあるO それは天なる星辰と内なる道徳律である。」
このカントの言葉は、いまや、海底の怪魚シーラカンスのように人
の目にふれることはなくなった。しかし厳然として生きているO数年
まえに絶滅したはずの怪魚は生きていたことが証明された。シーラカ
ンスは、海中で、何億年も生きつづけて、やがて21世紀をむかえるO
いまこそ、世界人類を破滅から救うものは、この道徳律以外にはな
い。ユネスコ憲章の中に、「戦争をおこすもとは、われわれの心の中
にあるO」という名言は、これを言いかえれば「世界、国家、企業、
さらには個人すべてを根本から破壊するものはわれわれの心の中にあ
るO」と。
その心の中の道徳律の喪失がおそろしい。もっとも尊い人間の気品
とか品性とかが全く失われた現代こそ、カントの道徳律の復活を希求
するのはひとり筆者だけではあるまい。
一51-
経営理念と保険思想
11.ビッグバンと経営理念
いまや、金融ビッグバンは目前にせまっているO銀行・証券・保険
が、グローバル・スタンダード(国際基準)で測定されるO
企業犯罪を起こした企業も、日本国内ではきわめて甘い法網の中で
何とか生きのこれたとしても、世界の桧舞台では決して生きのこるこ
とのできない時代がやってきたのであるO
今回の金融不祥事(これは金融犯翠というべきという人が多い)に
対する日本の罰則の甘さ、前述のように金50万円で、みそぎをすませ
たと思っている日本に対して、米国の企業家たちは、ヒザを打って
「これで、ビッグバンで、米国は日本に勝った」と叫んだというが、
さもありなんと思われる。
かれらのよろこびをぬかよろこびとさせるには、カントの道徳律を
内に堅持した役員たちのパーソナル・インシュアランスで企業保全
(コーポレート・インシュアランス)を行い、日本にとってもっとも
むずかしい企業倫理実践をひとつずつ確実につみあげて、世界企業に
伍していささかの遜色のないものになる必要があるO
現代社会は、人権派・教育刑論者・社会的リハビリテーション論者
が、横行潤歩し、応報原理はいまや風前の灯となっているO個人刑に
は、種々の考えがあってもよいが、これが企業犯罪となると簡単には
いかないO その及ぶ範囲がひろく、社会のすみずみにおよび、一企業
の倒産によって路頭に迷う人々は、その下請企業まで含めれば彪大な
ものとなるO経済的損失にとどまらず、道徳的荒廃は世代を通じて伝
10)
播して止まるところを知らない。かつてなかった「倫理的低圧社会」。
となったとき個人でも血圧が降下して、脈拍とクロスすると死が訪れ
-52-
経営理念と保険思想
るように、やがて遠からず国家は死亡する。生けるものは必ず死ぬO
国家も同じであるO過去にも幾多の例があるO危険なことはたとえ公
共の利益となることであっても、自分にとって都合のわるいことには
見て見ぬふりをする。これが蔓延すれば、倫理的圧力の極度に低い社
会が出現するO この社会は、戦時中にいやというほど味わった「高圧
的全体主義社会」からみれば、実に気楽で居心地のよい社会であるO
その中に首までドップリつかって半世紀もたてば、その極楽の壷の
中から出てきたらとたんに風邪をひき肺炎をおこして死んでしまうO
ビッグバンという巨大なカナヅチが、この壷をこっぱみじんに粉砕
してしまうのだから、中にいる人間としては相当の覚悟がいるO
今日では、低圧社会の中で、唯一、高圧の内部圧力を持続して集団
の生命を今日まで維持してきたのが企業であったO少なくともわれわ
れは、今日の日本を支えているのが、企業であると信じてきた。その
企業の内部圧力が急激に低下しはじめ、内燃機関が停止寸前にまで追
いこまれていることに気づくのが遅れたO これが今日の企業犯罪の源
流だったのであるO社会の犯罪の激増とともに企業さえも汚染されつ
つあった。もう一つの「高圧社会」は学校だったが、これすら低圧に
なっているO法然禅師が、「炎のうわざまにのぼり、水のくだりざま
に流る、菓子の中に酢きものあり、甘きものあり、みなこれ自然法蘭
の道理なり」といったように、「高圧社会」は、自然と「低圧社会」
へと流れていくのが、道理なのである。とはいうものの、この自然の
道理に身をまかせていては、やがて人間の社会秩序は保たれないO秩
序ある進歩こそが人類の幸福への一歩である。この秩序を守るのが、
人間の内なる道徳律であるO不気味な暴力的存在に対して、さわらぬ
神に崇りなしの態度で対処すれば、「倫理的低圧社会」となり、この
ような社会は、暴力による挑戦や破壊に対してきわめて「弱い」社会
一53-
経営理念と保険思想
である。
総会屋を、撃退した某社は、株主総会が何と17時間も続いた。その
うち99%は、議長たる社長の言葉でうめつくされたというO総会屋の
1の質問に対して社長は、特別大きな朗々たる声でその何十倍の時間
をしゃべりつづけ、ついに根まけした総会屋は、そのときを最後に再
び現れることはなかったという。その総会の17時間のうち昼食弁当は
実費をあつめ、休憩もとらず、ぶっつづけで続けたというその社長の
バイタリティにさすがの総会屋も退散rしたというから、企業のトップ
はまさに命がけであるO体をはってコーポレート・インシュアランス
(企業保全)をしたのであるO
これからの企業では、役員になるにはこれだけの覚悟がいる。生や
さしいものではないO高給と乗用車と秘書はそのために用意されてい
るのであるO
米国の企業の経営理念は「こういうことを目標に、この目標を実行
するには、こういう方法で、こういう変革をして、こういう投資で、
いつ頃にこれだけのものを達成する」というきわめて具体的な計画と
責任が、実践の約束としてもりこまれている。これに対して日本の経
営理念をみると、先端企業のものでも「すぐれた品質とサービスを提
供し、生活文化の向上に貢献する」とか「誠意をもって協調し、積極
性のある健全経営を目指す」とか「自らの責任を自覚し、創意工夫と
挑戦の精神をもって、」という紋切り型の言葉がきらぽしのようにな
らぶO どの業種でも殆ど同じだから、これらの経営理念は、どの業種
にもそのまま通用するO本来ならば経営理念をみれば業種が明確にわ
かるはずなのにそれを発見できないO お題目だからであるO
日米の経営理念を比較すれば、その企業の内部圧力の違いをまざま
ざと感じさせられる。とても同じ土俵の中で勝負できそうもない0
-54-
経営理念と保険思想
いままではそれでよかったとしても、今後は果たしてどうなるであ
ろうか。
注10)竹内靖雄『経済倫理学のすすめ」中公新書 平成元年131ページ。
12.保険会社の経営理念
さて保険会社の経営理念は、何といっても、そのときどきの世間の
保険思想の影響を必ずうけるO では思想とは何かというと、ある辞書
には「判断以前の単なる直観の立場に止まらず、このような直観内容
に論理的反省を加えてでき上がった思惟の結果、社会・人生に対する
11)
全体的な思考の体系。」と定義されているO Lかしこれだけでは何の
ことだかさっぱりわからない。
「思想」というのは、人の考えであって、それが各個人の行動を全
体として指導する意義をもっているもの、人が生きていくための指針
というほどの意味である。
さて「思想」というのがわかったとしても「保険思想」とは何かと
なるとさらに厄介であるO学問にはセクショナリズムがあって、思想
というのも細分化されて、経済思想史、法思想史、文芸思想史、はて
は各国ごとに日本思想史、インド思想史、イギリス思想史などさなが
ら百家争鳴のありさまであるO学問のこのようなセクショナリズムは、
12)
日本独特のもので外国にはないO 日本の学問の「ナワバリ」意識にそ
まらずに、ひたすら学問的な真理を追求する必要があるO
経営理念と保険思想を研究するうえで思想を理解するにはその思想
を成立させた歴史的社会的基盤を知る必要がある。それをたどってゆ
一55-
経営理念と保険思想
くとインドをはじめとするアジア諸国の保険思想まで手をひろげざる
をえないO それは日本への影響が色濃く夫々の国にはっきり残されて
いるからであるO
注11)中村元『学問の開拓』佼成出版社 昭和61年11ページ0
12)同 上12ページO
13.『保険雑誌』にあらわれた保険思想
まず、保険思想という言葉が、明治30年代の『保険雑誌』にいかに
多く登場しているかを示す必要があるO
明治32(1899)年1月の『保険雑誌』第39号(以下『雑誌』と略すO)
に中村敬三は「保険的思想二就テ」と題し、述べて
「吾人が即時ノ快楽ヲ制シ将来ヲ慮り以テ保険契約ヲ為スバ何故ソ
ヤ是レ蓋シ保険的思想アルガ故ナリ若シ保険的思想無シトセンカ
仮令如何二勧誘スルモ之ガ契約ヲ見ルコトナカル可シ
凡ソ人類ハ即時ノ愉快ヲモ欲シ又将来、快楽ヲモ願フモノナリ然
り而シテ即時ノ快楽ヲ欲スルノ念大ニシテ将来ヲ慮ルノ情小ナル
者ハ保険的思想二乏シキノ徒ト謂フテ可ナリ之二反シテ将来ヲ慮
ルノ情大ニシテ即時ノ快楽ヲ欲スルノ念小ナル者ハ保険的思想二
富ム者ト謂フテ可ナリ 果シテ然ラバ 余輩ハ保険的思想ノ厚薄
ハ人類ノ其将来ヲ慮ルノ念ガ即時ノ快楽ヲ欲スル情二超過スルノ
程度二依テ判断スルニ如クハナシト云フニ躊躇セザルナリ」
といい、アジア人はこの思想にとぼしく、英・悌人はこの思想に富
むという0
-56-
経営理念と保険思想
また、保険的思想が胚芽する土壌の三条件をあげているOすなわち、
(1)法治国家であること、法律によって国民の生命財産を保護してい
ること。(2)国民の知的水準が高いこと、知識がなければ、将来に対
する配慮はできないこと。(3)国民が自己の利益にのみ走らず、他人
の利害に対する配慮を怠らぬこと、他人の利害を慮ることこそ即時の
情を制して将来を慮る原因という(『雑誌』第41号明治31年3月)O
ア.保険的思想の測定
保険的思想の深浅は、その国の保険金額の大小と加入者数によると
して、明治32(1899)年の列国を比較するに、まず、米国が第一であ
り、70余の大生命保険会社をもち、保有契約は邦貨換算で125億2350
万円強、収入保険料4億8173万円強、人口平均契約高152円強、英国
は同137円弱、ドイツは同44円弱、スイスは同40円、フランスは38円O
これに比べて日本の生命保険会社大小あわせて30余、保有高1億8,00
0万円、年間収入保険料6,930万円、人口平均契約高は、わずかに4円
という有様であった(『雑誌』第41号明治32年3月)。当時の生命保
険の統計だけで、保険的思想の盛衰を速断することはもとよりできな
いが、将来を慮る念の深浅を計る尺度となり、保険的思想に富む国が
いずれかはこれによりあきらかとなるであろうO
中村敬三によれば「夫レ保険的思想ノ要素タル即時ノ快楽ヲ制スル
ノ念ト将来ヲ慮ル念トノ二者ハ所謂先見ノ思想ヨリ来ルモノニシテ之
レガ契約者ハ常二者移ヲ廃シ層一層ノ勤務ヲ以テ保険金額二対スルー
定ノ保険料ヲ払込マザル可ラズ故二此ノ思想アル者ハ一方二於テ勤勉、
貯蓄、節倹ノ良風ヲ養成セラル 働惰ニシテ専修ナル人民ヲ有スル国
家ト勤勉ニシテ節倹ナル人民ヲ有スル国家トカ如何二其興廃ノ跡ヲ異
ニセルヤハ古今東西ノ歴史こ徴シテ歴々タリ」(『雑誌』第41号明治
-57-
経営理念と保険思想
32年3月)
と結んでいるが、その後の日本は98年後の今日、見事、契約高、人
口平均契約高において世界一となっていることの意味をもう一度考え
直してもよいであろう。
ただ、加入契約高(人口一人当たりの保険金額)で日本1,604万円、
米国4万3,000ドル、フランス15万5,000フラン、ドイツ2万9,000マ
ルク、カナダ5万ドル、イギリス1万2,000ポンドという数字面から
みる限り、日本の保険思想の深浅の度合を98年前と比べてみるとうた
た感慨深いものがあるO
ィ.保険思想の養成
13)
明治35(1902)年には「保険思想の養成」の項をかかげて
保険事業が日本に輸入されて20年になるが、保険思想の発達は、遅々
たるものであるO つまりこの場合の尺度は、保有契約高、人口1人当
たりの保険金額、それに年間収入保険料の国際比較のことである。こ
の指標で保険思想を想定していたのであるO
もっとも20年間にいくぶんか発達したけれども、しかしその発達が
不健全であって「保険事業ノ誤解、害用等ハ斯業ノ美点ヲ発揮スルヨ
リハ其欠点ノミヲ暴露セシメ、特こ生命保険二於テ其甚シキヲ見ル、
……此ノ如キハ全ク保険思想ノ秩序的養成其事業ノ根本的研究ヲ怠リ
タルニ起因スルモノ」と断じ、これを救済するにはまず根本的の教養
を始める以外にはないO「国家力教育ノ方針ヲ経済的二執り教科書其
他二保険ノ事ヲ挿入シ政府力率先保険契約ヲ締結シ時宜二由リテハ人
民こ保険契約ヲ強制スルコト」と思いつめているO
保険が国定教科書に登場したのは、それから20年余の大正15(1926)
年をまたねばならなかった0
-58-
経営理念と保険思想
また一方では、業界で資金を出して保険教育の機関、保険講習所、
代理店養成所の設立を希望しており、エクイタプル生命が保険思想の
普及のために、各大学長に対して、会社の長期保険講習会への学生の
派遣を依頼し、応募学生に生命保険の理論と実際を伝授し、さらに旅
費、滞在費、日当を支給している。卒業後は、保険会社の代理人に採
用し、近い将来、かれらをもって生命保険の開拓者に仕立て上げる計
画であると報じ、「我邦ノ保険会社ト錐トモ今ヤ資力ノ豊富ナルモノ
砂キニアラス此種ノ公共的動作ヲ試ムルモノ無クシテ可ナランヤ」と
保険会社の決起を促しているが、業界がやっとみこしをあげたのは、
それから61年後の昭和38(1963)年の外務員試験をまたねばならなかっ
たのであるO
このように、明治35(1902)年という早い時期に、第二次大戦後に
導入されるにいたる各種の改革が、すでに提案されていたことは驚く
に値するO
ウ.類似保険の弊害
この当時、北陸地方、とくに富山における講の発達が著しく、ある
場合にはこれが、保険の普及を阻害する要因ととらえられていたO
しかし、それとは逆に「富山地方ハ保険事業二於テ其発達実二全国
中有数ノ箇所二有之現二北陸生命本社ノ外三十二近キ各社代理店モ夫
レ夫レ他市郡二比シテ何レモ好果ヲ結居候」というが、「近頃何々講
又ハ何済会等ノ名称ヲ以相互保険類似ノ無責任ラシキ者二三四五続立
ノ模様ニテ未夕其幣ヲ現スニハ至り不申候へトモ追々流行二連レ嘗テ
広島島根等二起リシ如キ惨状ヲ反覆シ引テ眞正ナル保険事業ヲ阻害セ
スヤト案シ申候」といい「福井県ニモ多数ノ類似保険ガ良民ヲ害毒セ
シ事」とのべ、さらに医師が、被保険者の死亡診断書の料金が高額な
一59-
経営理念と保険思想
のは「眞実ナル保険事業ヲ以テ投機的事業ト誤解シ」としてしまうお
14)
それがあると切言しているO
このような事態は、ほかにも多く詐偽、瞞着、篭絡等で保険の効用
を阻害する事実も、保険思想の発達により解決するので、被保険者の
不利益を放置することはできないというO
本来、被保険者は、だまされやすく、無知であるから、会社の選択
をあやまったことがわかれば、その会社の非行を追求するであろう。
一つの保険会社のあやまちは、すべての会社の災難となるO
しかし、時勢のおもむくところ、人心は次第に賢くなり僻遠の人々
もいつまでも無知でいることはないOかれらの間にも、時の経過とと
もに、保険思想が普及して、保険に対する正しい理解で、かつて自ら
があざむかれていたとさとったならば、これこそ保険業の危機であるO
信用は失墜して、排斥の聾があちこちにあがる、保険に加入した者は、
「薄志ノ矯児」で、加入しない者が「先見アル達眼ノ士」ということ
になるO こうなったのは「無謀ノ社員」、むしろ「無謀ノ会社」であっ
て、「無謀ノ社員」はすでに去り、その悪影響をうけるのは、「着実
15)
ナル保険会社」であるO
地方官庁は、県下の保険会社と社員の調査をすべし、そして悪徳者
の排除に努力しなければならない。正当な勧誘を行おうとする者は、
保険数理、保険法理、その他保険の概要を身につけないと「不徳ノ人」
となる。
保険学会は、真率な管理者、博識な学者、着実な社員メンバーであ
るから、これらの弊害を排除する対策を講ずるよう望む。もし学会が
これを見過ごせば、世間は、保険学会員を疑うであろう。
以上の論旨からみると、明治31(1898)年当時の日本の保険営業に
対する世間の評価がよくわかり、この是正のため、業界、学界が立上
-60-
経営理念と保険思想
がり、その二年後の明治33(1900)年、ついに保険業法の制定をみる
にいたったのは、けだし当然のことと云えるであろうO
これをみれば、当時は、『保険雑誌』の輿論形成に対する影響は決
して小さくはなく、寄書の記事は、保険学会(粟津清亮)の選択によ
るもので、権威をもつものであったO この雑誌は「生命火災海上並二
其他ノ保険こ関スルー切ノ論説事項ヲ掲載シテ斯道ノ発達ヲ図ラント
ス」という雄大な目標をかかげていたのであって、これが保険に対す
るオピニオンリーダーとしての存在を、内外に示していたことは特筆
されるO
工.生命保険商売
保険思想が発達、普及してくると、これを逆用して「射利罪悪ノ源
泉」とするようになるO保険会社は十分これに注意してなるべくその
不利をさけることであるO「富山福井力保険詐欺ノ巣窟トシテ屡累ヲ
16)
保険会社へ被ラシメタルコトハ当業者ノ普ク知テ相警戒スル所ナリ」O
「就中恐ルへキハ富者力其雇人小作人等ノ身体虚弱ナル者」をえら
んで加入させて「其早死ヲ希図シ保険金ノ支払ヲ受ケテ利殖ノ速ナル
コトヲ楽シムニアリ、彼等ハ之ヲ生命保険商売ト称シ、投資ノ一大良
:.1、
法ナリト言ヘリ」とは驚くべきことが実際にあったのであろうかO
これは、まさに、天保15・弘化元(1844)年、あのエリザー・ライ
18)
トがイギリスでみて驚いた「保険のせり市」そのものであるO
かれは、これに義憤を感じて、帰国後、不可没収法をマサチューセッ
ツ議会に上程し、これを通過させ、今日われわれはその恩恵をうけて
いることは周知のとおりであるO
日本には、イギリスのような公開の「保険のせり市」はさすがにな
かったが、それと類似のことが「富山、福井二限ラス他ノ他方ニモ漸々
-61-
経営理念と保険思想
其形跡ヲ現ハシ釆リテ迷惑ヲ被ムレル会社甚多シ」という状態であっ
たから、この悪風は、洋の東西を問わず人間の欲望のおそるべきを知
るO もし「法律完全ニシテ医師責任ヲ重ンシ募集貞正直ナリセバ此ノ
如キ害悪ノ流行スル余地無キコト無論ナリ」しかし「悲哉今回ノ社会
ハ末夕其程度マデ進歩セサルカ故二 保険会社ノ各自二於テ充分是等
二対スル策ヲ講スルノ外二道無カルへシ」であった。
このように、保険をトバクの一種とみて、射利を意図する「生命保
険商売が盛行しつつある社会であっわから、これをみた矢野恒太は、
それから4年後の明治35(1902)年に「非射利主義生命保険会社」の
設立を企図して、「第一生命保険相互会社」を設立したのもうなづけ
るものがあるO これについては、後述する。
オ.粟津清亮の獅子吼一保険事業ト道徳この保険事業の現状に憂いをもった粟津清亮は、ついにたまりかね
19)
て『保険雑誌』に論説「保険事業ト道徳」を発表し、獅子吼するO
「保険事業ノ光輝アル正面ヲ仰望シテ其社会道徳二興フル所ノ功験
ヲ思考セヨ」とO「保険事業ハ富源ヲ洒養シ財産ヲ保全スルノ方法ト
シテ吾人ノ零落困僚ヲ救済シ人こ恒久ノ資産ヲ保護シ民ヲ衣食二緯然
タラシム」というのは、保険の本義であるが、つづいて述べることが
今日の保険当事者とちがうところであるO
すなわち「夫レ衣食足テ祀節備バリ恒産アリテ恒心存ス祀節ハ徳義
ノ先導者ニシテ恒心ハ浮薄 猫忌 残忍 貧戻等ノ有ラユル無道ノ天
誅者ナリ」というが、果して、これは今日通用するかすこぶる疑問で
あるO かれは、保険事業にもうひとつの役割を附与するO それは破壊
主義の鎮撫者となって、社会の害悪を止め、その道徳を進歩させるこ
とであるO しかし、「我国現時ノ保険事業ヲ観察スルニ」かなしいこ
-62-
経営理念と保険思想
とに徳義の先導者となれないどころか、「群立セル会社ノ当事者ハ乱
走狂駆頗躍シテ魔界二歓迎セラルベク猛進シツツアリ」というまこと
に今日とあまり変わらない状況であった。
粟津は決してあきらめないO全国五十余の保険会社が日に日に立派
な社屋をかまえ、莫大な支出をしているが、社会のため斯業のためを
思う者あるや、いわんや、道徳に貢献せんとするにおいておや0 日分
は、営利を目的とする者にむかって、慈善を行えとはいわないO とは
いうものの、「不知不識ノ間こ社会ノ徳義ヲ発達セシメ得ルノカアレ
ハナリ」しかし「之力悪事、煽動者トナリ徳義ノ破壊者トナルニ至リ
テハ」だまっているにしのびないO「近頃斯業ノ状態日々二非ニシテ
20)
前途ノ頗ル憂フへキニ激セラレ警醒ノ声ヲ放タントスルニアルノミ」
というO そして、かれは、生命保険会社にあっては、談話会が設けら
れたといっても、これは或事件に関する共同の利益を図る動機で出来
たものなので、まだ事業全体の進歩発達にむけて企画されたものとは
いえない。さらに進んで強固な実力ある団体をつくられることを切望
するという、これはまさに今日の生命保険協会設立への提言といえよ
っO
貧富の差益々ひらきそのゆきつくところ貧富の衝突、社会主義の勃
興であるO このときにこれらの危険をさけて社会の安穏を保つのは、
保険事業以外にはないO われわれの責務は重大であるO ここに思いを
いたすべLと結んでいるのであるO
力.保険業者の社会的地位
当時の保険業者の社会における地位は『保険雑誌』誌上で述べて
「今ノ世ノ中二保険制度其者ヲ非難スル人ハ殆ント無キニモ拘ハラ
ス保険事業力社会二重要視セラレサルノミナラズ之二同情ヲ寄ス
ー63-
経営理念と保険思想
ル者至テ少ク従テ保険業者ト言へハ所謂 保険屋ナル名称ノ下二
社会ノ軽侮ヲ受クルハ呈慨嘆ノ至ナラスヤ是レ一時斯業二従事ス
ル人物力貧乏華族老朽官吏……被免社員等当該種類中ノ劣等モノ
こ限リシカ如キ観アリテ募集貞力其醜随ナル運動ヲ以テ一般社会
ヲシテ保険ヲ厭忌セシメタルト同時二相上流ノ者ハ会社ノ当事者
ヲ信セサルニ至リシニ由ルナリ保険業者ノ社会二於ケル地位力此
ノ如クニ止マル間ハ彼等力如何こ努力スルモ斯業ハ到底眞正ナル
発達ヲ致スヲ得サルナリ予ハ我保険者力今日尚総テ劣等人物ノ集
合ナリト言フニアラス中二ハ尊敬スヘキ紳結少カラスト堆トモ是
等ノ光明ハ尚多数ノ劣等者ノ為こ蔽ハレ社会ハ依然トシテ之ヲ蔑
視セルヲ如何セン故二斯業近来ノ衰運ヲ挽回シ尚進ンテ益之ヲ隆
盛ナラシメンニハ斯界一致協力シテ従業者ノ改善ヲ図ルヲ以テ急
務ナリトス即チ社員就中外交ノ任二当ル者ハ教育アリ礼儀アリ高
尚ナル人士ヲ採用シ重役支配人ノ如キハ徒二人貞ヲ多クセスシテ
社会ノ交際場裡二出テ恥シカラサル人物ノミヲ以テ組織シ現在残
留セル多数ノ障劣ナル品性ノ堕落セル社員ヲ放逐シ 詐欺師重役
悪徳重役……等ヲ斯界ノ圏外二排斥シテ此善美ナル制度二相当
ナル従業者ヲ作ルヘシ然ルトキハ膏二斯業ノ隆盛ヲ見ルノミナラ
21)
ス社会二其勢力ヲ振張スルコトヲ得へキナリ」O
明治35(1902)年の生保業界は、新設は2社、解散会社が5社、7
社が包括されて解散まち、42会社のうち12社が経営上破綻の状態で、
22)
業界の信用は下落していたO まさに上記のような論評の矢が放たれる
ほど、内国会社の総保有件数は減少傾向をたどり、まさに苦難の時期
をむかえていたのであるO
-64-
経営理念と保険思想
キ.保険業者の社会的勢力
さらにその対策として保険業者の社会における勢力と題し、次のよ
うに述べるO
「今日我保険業者ノ無勢カナルモ亦甚シカラスヤ 被保人ニハ叩頭
頓首シ官庁ニハ叩頭頓首シ代理店ニハ叩頭頓着シ破落戸ニハ恐迫
セラレ裁判ニハ敗レ唯「コムミッション」ヲ得ルニ汲々トシテ名
誉ヲ思フノ余地ナク社会二馳辟スルノ余勇ナシ之ヲ諸外国ノ保険
業者力一国ノ大臣二尊敬セラレ社会ノ経済ヲ左右シ外交問題マテ
モ惹起セシムル勢カニ比シテ如何ソヤ保険業者ニシテ萄モ此ノ如
キ希望ト抱負ナクンハ是レ斯業ノ賊ナリ予ハ信ス我保険業者モ亦
人間ナレハ勢力ヲ望ムノ念慮無キニアラサルへシト果シテ然ラバ
其社会的地位ノ上進ヲ図ルト同時二或ハ機関新聞雑誌ヲ発行シ又
ハ演習会ヲ開キテ社会ト言論シ或ハ其財力ヲ利用シテ社会二有益
ナル事業ヲ企画シ又ハ之二賛同シ例へハ病院ヲ設立スルカ卿キ消
防隊ヲ組織スルカ如キ或ハ必須ナル国債地方債等二応スルカ如キ
社会的活動を演シテ其勢力ヲ拡張スルコトヲ勉ムヘシ被保人ヨリ
預りタル多クノ準備金ヲ以テ高利貸ヲ営ミ配当金賞与金ヲ貧リ手
二.l、
数料ヲ着服シテ能事了レリトスルカ如キハ斯業ノ賊ナリ」O
と仲々手きびしいが、この中で提案されているいくつかの点は、そ
の後、病院経営(日生病院)、社会的活動(日生劇場、フイランソロ
フィー、メセナ)などで、次々と実行にうつし、いま現に実行されつ
つあるのは周知のとおりであるO とくにメセナ活動は企業を存続させ
る条件であり、いまや企業活動の一環にくみこまれてしまっている4
企業にとって大切なのは、どんな変化にも対応できる柔軟な頭脳と組
織であるO
ー65-
経営理念と保険思想
ク.第一生命保険相互会社
明治35(1902)年は、わが国最初の相互組織として第一生命保険相
互会社が設立されたが、これについても、述べて
「矢野君ノ主唱こ成レル第一生命保険相互会社ハ或ハ是等ノ点二於
テ予輩ノ希望ト理想ヲ実行スルモノこアラサルカ之力本邦二囁矢
タル相互組織ヲ以テ特色トスルカ如キハ予輩ノ重キヲ置ク所こア
ラス相互会社ト堆トモー歩ヲ誤レハ被保人ヲ害スルコト株式会社
ト揮フ所ナレハナリ予輩ノ大こ同社ノ成立ヲ喜フ所以ハ同社ノ社
会的地位勢力カ其出発点二於テ衆劣ヲ擢スルニアリ代理店ヲ置カ
ス募集貞ヲ派セルバ被保人代理店二叩頭頓首セサルナリ五百円以
下ノ契約ヲ結ハサルハ其見識ヲ高ウシタルナリ特こ其主タル出資
者ハ総テ是レ当時我社会二我財界二雄飛セル紳据こシテ加フルニ
義務アリ権利ナク薄利ニシテ万一ノ場合ニハ損失ヲ免ルヘカラサ
ル資金ヲ斯業二供出シタルハ近来ノ美事トシテ吾人ハ之ヲ軽視ス
24)
へカラサルナリ」O
つづいて、保険会社はたとえ株式組織であっても被保人相互間の救
済を行うものであるから相互会社の発生をみるにつけても株式会社の
当事者も保険会社の社会的評価とその勢力の向上という点を満足させ
るよう邁進することを請ふと結んでいるO
矢野恒太が、生命保険の相互主義を主張したのはきわめて古く、明
25)
治23、4(1890・1891)年頃からであり、明治26(1893)年に発行し
た「非射利主義生命保険会社の設立を望む」がその第一声である。
翌年、かれは「共済生命」を設計し、明治28(1895)年に渡欧して
ドイツ最古のゴータ生命に入り、満1ヶ年事務見習をして、明治30
(1897)年に帰朝してから、政府に入って相互会社法および保険取締
法の起草に参加し、この法案が、明治33(1900)年法律第69号保険業
-66-
経営理念と保険思想
法となったものであるO矢野は、明治34(1901)年12月、官を辞して、
第一生命を起したO
注13)『保険雑誌』第79号 明治35年6月
14)『保険雑誌』第30号 明治31年4月
15)『保険雑誌』第32号 明治31年6月
16)『保険雑誌』第33号 明治31年7月
17)『保険雑誌』第33号 明治31年7月
18)小林惟司『続・保険思想家列博j保険毎日新聞社 平成9年 54ページ。
19)『保険雑誌』第33号 明治31年7月
20)『保険雑誌』第33号 明治31年7月
21)『保険雑誌』第81号 明治35年8月
22)『第一生命八十五年史』昭和62年 54ページ。
23)『保険雑誌』第81号 明治35年8月
24)『保険雑誌』第81号 明治35年8月
25)矢野恒太『新しきこころみ』大正10年元旦 6ページO
14.矢野恒太の経営理念
第一生命創業時の経営理念は、矢野自身の筆になる『我社の特色』
(明治35年9月刊)に赤裸々に表明されているO
まず、相互会社の説明から入るが、
「相互会社とは、明治33年中保険業法を以て始めて規定さられし
『営利を目的とせさる法人』にして、株式、合資、合名等の商事会社
とは全く新規別異の者なり、保険業法第二条には
-67-
経営理念と保険思想
保険事業ハ株式会社又ハ相互会社こ非サレハ之ヲ営ムコトヲ得スと
26)
規定せり」。と宣言し、この両者を「ホテル」と「倶楽部」、「商店」
と「会」、「請負」と「自営」と巧みな比喩で、比較説明し、加入者
を「会社の客」と「会社の主人」の違いに帰し、
「株式会社は営業税所得税等を課せられるとも、相互会社は之を課
せられす、故に株式会社の利益は株主の所得なれとも相互会社の
利益は保険契約者(即社員)の所得なり」
このなかできわだっているのは「非営利性」の説明である。これに
つづいて会社の主体は社員すなわち保険契約者であることを会社への
参政権をとおして説明し、株式会社との相違をあきらかにする。
参政権とはまさに相互(mutual)と同意語であるO社会連帯であるO
矢野の統計学者としての見識が如実に表れている。
参政権について
、It`
「我社は相互会社でありますから、保険契約者即社員で、重役の撰
挙も決算の総会も、社員即契約者か集って行ふのて保険を契約す
れは同時に株主になるものてすから、完全な参政権かあるのであ
27)
ります。」。
当時は、大阪生命事件があり、生命保険会社の買収合併が相次ぎ、
契約者をどこかにおきわすれた感があったO そういう時だけに矢野が
非営利怪をうたい、契約者に参政権をみとめたことは当時の民衆の眼
にきわめて新鮮に映じたことはあらそえなかったO
また、社員の責任は有限とし、保険料の外出金の責を負うことはな
いとして、その不安を除去したO連にいえば、経営者にとってもっと
28)
も重い道をえらんだのであるO
このような経営理念は、明治生命創業者、阿部泰蔵が「利益の如き
は眼中におかず」として背水の陣で起業したのと似ているO その形態
-68-
経営理念と保険思想
は株式会社であったが、期するところは、全く同じであった。
また、第一生命は、ゴータ生命にならい高額契約中心で、1,000円
未満の保険金を契約しないとした。これは、相互主義経営における効
率化と経営性の追求をめざしたものであったO
非営利性の旗印Lは、結局、無代理店主義の効果と相まって経営効
率を高め、新契約平均保険金は、他の三社(明治、帝国、日本)の倍
以上となったO
代理店を置かずという経営理念も特筆すべきもので、保険思想が十
分普及していない時代の遺物とみた矢野は、オールド・エタイタプル
社にならい無代理店主義を標傍したO早くも創業の翌年には、新聞広
告により無代理店主義の経営理念を普く天下に公表したO これによる
代理店手数料の事業費への圧迫はさけられた。その点、経費は少なく、
創立初年度より効果を発揮したO しかし矢野はこれに満足せず、営業
費は総収入の1割以下にあるべLとの信念をもち
「我邦ノ保険契約者ハ他国ノ保険契約者ヨリモ不廉ナル経営費ヲ負
担セルコト甚夕遺憾二堪ヘス我社ハ夙二之ヲ憂ヒ外国二於ケル良
会社ノ如ク営業費ノ総額ヲシテ総収入ノ1割以下二降ラシメント
ノ宿志ヲ有シ非常二此点二注意セルこモ拘ラズ尚未ダ其ノ1割4
分以下二下スコト能ハザルハ窃二恵塊スル所ナリ」(第一生命
29)
『第七回報告書』)O
矢野の第一生命の特色は、以上のように創業時の経営理念に如実に
赤裸々に表明されているのである。
明治生命より21年後に創立した第一生命の矢野は、株式会社をとら
ず相互会社をとったが、そのため、相互組織を世上人心に訴えるのに、
大変な苦心を払い、ついにはその普及のため相互主義の新聞社をも創
立経営せんとの気持にまでかられたのである。
-69-
経営理念と保険思想
これは、阿部の明治生命の宣伝弘報は、福沢の「時事新報」が担当
し、大いに実績を上げている事実をみて、矢野が「今日文明国に於て
新聞ほど大切な機関はない。」「然るに我国の新聞が如何なる目的で
作られ如何なる人に依りて書かれているかといふと、大部分営利の目
30)
的に供されて居る。他の言葉で云へば、新聞は経営者本位である。」
「そこで僕は、僕自身が見度い様な新聞を作って貰ひ度いと思ふので
ある。全国から僕と同感の人を一万人以上作って、此会員だけの読む
31)
新聞を作りたいのであるOJ O
lO年を期して1個のロンドンタイムスぐらいの権威ある新聞をつく
り、指導者たるものこの新聞を必読するのを意図することO
この新聞には矢野の独創が17項目にわたり述べられていて見事であ
るO もし実現していたら今日まで続いていたであろうO
政治経済の記事を中心、外国電報通信は原文と説明をつける。
文字は5号活字以上、一行の記事でも執筆者署名、記事の誤りは幾
年まえのも訂正し、紙面の過半が正誤で埋まってもよいO論説は簡潔、
記事なければ無理にうめず、余白のままとするO米欧支三ヶ国には大
公使格を特派員としておくO広告不用、姉妹紙として夕刊新聞発行な
どO これに外国電報も婦女子にも分るようにやさしく要領を掲載、半
娯楽的、半指導的の上品な家庭新聞を発行。
以上のような内容の大半を公表して愛読の賛成者を募集している。
矢野は、生保人としても成功したが、新聞人としても大成功を収め
たことは間違いあるまいO その独創力と文章力と民心収控術において
類稀なる能力をもっていたからである。
注26)前掲、F第一生命八十五年史』57ページ0
27)前掲、『第一生命八十五年史』59ページ0
-70-
経営理念と保険思想
28)前掲、F第一生命八十五年史J64ページ。
29)前掲、『第一生命八十五年史」84ページ。
30)矢野恒太 前掲書15ページ。
31)矢野恒太 前掲書17ページ。
15.阿部奉蔵の経営理念
阿部泰蔵の経営理念の根底には、日本を1000年以上にわたって支配
してきた儒教思想があったことは注目されるO この点は矢野恒太も同
様であるが、阿部の場合はさらに濃厚である。それは、かれが、当時、
著名な法学者であると同時に、日本で最初の『修身論』を表した倫理
学者だったからであるO
この著書の存在は、福地誠氏の研究により近時はじめて世に知られ
るにいたったO福地氏は、日本に二つしか存在しない阿部泰蔵の『修
身論』を発掘し世に紹介したO それはあたかも若山儀一の保険資料の
発見にも比すべき業績であるO
福地氏は、述べて
「暗い重苦しい時代を経験した私にとって明治の初期に自由主義の
修身教科書が文部省から発行されていたこと、その著書が日本に
はじめて近代的生命保険事業を創業した阿部泰蔵であったことに
驚き、創業者阿部泰蔵の埋もれた業績の発掘、紹介を試みること
とした。
阿部泰蔵の修身論は、私の調べた範囲内では国会図書館と三田の
慶応義塾図書館にしか残っていないO しかもその内容について紹
介した資料は全く見当らないO修身論は刊行後120年以上経過し
-71-
経営理念と保険思想
ており、コピーが出来なかったO その為両図書館に通い、転記し
12)
た。」
福地氏の努力によって発掘された阿部の『修身論』は、120年の星
霜を感じさせない、新しさに満ちていて今日のわれわれを驚かせるO
これが、明治の道徳教育の脊骨を形成するに与っていたことは余り
知られていないO
福沢は、明治25年11月30日の「時事新報」に「教育方針変化の結果」
をかかげて、注目すべき発言をするO
「明治十四年来政府の失策は一つにし足らずと錐も、我輩の所見を
以てすれば、教育の方針を誤りたるの一事こそ失策中の大なるも
のと認めざるを得ずO蓋し政治上の失策は影響する所少なからざ
れども、一旦その過に心付て之を改むるときは、恰も鏡面の曇と
一般にして、痕跡を拭ひ去ること難からずと錐も、教育の誤に至
りては之に異なりO喩へば阿片煙の如く全身に毒を感じて、表面
の徴候に現はるるは幾多の歳月を費やすが故に、其中毒の甚だし
きに至り、遠に心付て非を改むるも、愈々回復の効を見るまでに
は又幾多の歳月を費やさざるを得ずO」とは今日にも適用するO
さらに
「君に忠ならざるものは即ち不忠なり、国を愛せざるものは即ち国
を害するものなり云々とて、極端より極端に走りて是非黒白を争
33)
ふときは、其弊害却て大ならざるを得ずOJ O ともいい、今日の
日本の姿をそのまま言いあてているのに驚かされるO
阿部の修身論は、師、福沢諭吉の先見と気骨を継承して余すところ
なく、「近来杢運(学問のこと)ノ隆盛二際シ訳書ノ出ルロバ一日ヨ
リ多シ 然レドモ修身書ヲ訳スル者有ヲ見ス 恐クハ学者本ヲ棄テ末
二趨ルノ弊ナキ能ハサラン事ヲ 是余ノ浅晒ヲモ顧ミスシテ此書ヲ訳
-72一
経営理念と保険思想
スル所以ナリ」
原書は、米国のフランシス・ウェーランドの The Element of
MoralScience(1835)であるO前編は道理を論じ、後編は実行を説く・
明治5(1872)年6月のこの阿部訳は、訳者の阿部に抜群の漢学の素
養があったので、詩経、書経からの引用も随所にあり、訳書とはいえ、
当時24才の白面の青年阿部の創作ともいえるO それはあたかも、鴎外
の「舞姫」との関係に似ている。なかでも、「己所欲施之於人」は、
阿部のもっとも好んだ言葉で、本書の巻頭にまず大きく掲げてあるO
この言葉こそ阿部の一生を支配した「おのれの欲するところを人に
施せ」これを逆に言えば「おのれの欲せざるを人に施すなかれ」の孔
孟の教えに相通ずるO
阿部が、明治生命を創立するにあたり
「同志の此会社を起さんとするや、其目的相互救済にありて、利益
の如きは殆ど眼中に置かず」
という精神に凝固したのは「おのれの欲するところを人に施せ」の実
践であったO
それにしても矢野恒太の第一生命のように相互組織をとらず、株式
会社としたのには、理由があるO
「当時余等の考ふる所に依れば、生命保険会社は資本を要せざるも
のなれど、未だ保険の何たるを解せざる世人は其無資本なるを見
て、却て危供の念に駆らるることなきやを保せざるより、則ち株
34)
金拾万円を募集して資本金に充てたり、」。
注32)福地誠 私家版『阿部泰蔵と修身論j平成8年
33)『福沢諭吉全集』第13巻 岩波書店、昭和35年 575∼576ページ
34)『阿部泰蔵博』明治生命編 昭和46年134ページ
ー73-
経営理念と保険思想
16.『修身論』と阿部泰蔵
阿部の「修身論」の後編 巻二をみると、第一章、仁恵ヲ論ス
第二章 第一条 窮迫ノ人二対シテノ仁恵、第二条 悪人二対シテ
ノ仁恵、第三条 己ヲ害スル者こ対シテノ仁恵 の三条があり、これ
はまさに論語の「仁」であり、その根幹を成すものであるO またこれ
は同時に保険の倫理的価値の証明であるO
以上の考察からもわかるとおり、明治生命の創立時、阿部を動かし
たものは「営利ではなく、主として互助共済の必要に対する社会的関
35)
心」であったことがわかるであろうO
阿部の修身論の注目すべき点は二つあるO
まず一つは 個人主義的、自由主義的色彩が強いことO そして何よ
りも経済の倫理性を強く打ち出していることであるO
第二は、君主制には全く触れていないことであるO そのため明治新
政府の旗印たる 忠孝、忠君愛国の道具として使われることはなかっ
た。
本書の原書は、自由の国 米国で10万部を売りつくしたO その基調
は北米の民主主義であるOかれの師匠たる福沢は英米系の民主主義を
基本にしていたから、阿部が、この書の翻訳を思い立ったのもわかるO
しかし、明治の執政府は、ドイツのプロイセン憲法を採用し、英米
系を排し、明治22(1889)年の教育勅語以来一貫して天皇制維持のた
めドイツの立憲君主制を日本に移植していたから、阿部の修身論は、
うけ入れられず、今日まで日の目をみることがなかったO 当時、それ
をうけ入れる土壌がなく理解されなかったO 日本は、昭和20(1945)
年の敗戦までドイツ流を押し通して自滅し、目がさめて、福沢諭吉の
-74-
経営理念と保険思想
『帝室論』がにわかに脚光をあびることになったのは周知のとおりで
あるO
戦前、天皇制を維持し、運営するには、プロイセン憲法の立憲君主
制の方が、政府にとって都合がよかったからであるO
ここで不思議にたえぬのは、明治生命創立後、この自由主義、自立
的個人主義の主張が、阿部の口から再び聞くことはなかったことであ
るO企業経営責任者たる阿部は、当時の社会思潮を肌に感じ時勢の流
れを洞察しつつ、お家大事に会社を守り通したのではなかろうか。む
しろ今日、漢学者流の阿部の姿が後世に伝わっているが、かれのさら
に重要な側面に、日本最初の自由主義思想家があったことを今日のわ
れわれは忘れるわけにはいかないO かれは元来口数少なく、騒がず、
黙って、事に処する人であったから、かれの眞意を問うてみたい気が
するO
注35)小泉信三「阿部泰蔵」F代理店通信j昭和29年7月
まとめ
90年代に入ってから企業組織は、数々の大規模な危機に直面してい
る。海外では大地震、テロやオフィスビルの爆破事件などが頻繁に起
こっているし、国内でも阪神大震災や地下鉄サリン事件のような大事
件が発生しているO 内外の悲劇をきっかけに企業は真剣に危機管理体
制の抜本的な確立と見直しを迫られているO
有効な災害対応・危機管理戦略のツールとしてテレワークなどが注
目されているO
しかし、企業の危機はこのような目にみえるものばかりとは限らな
一75-
経営理念と保険思想
いO そのもっとも大きな危機は、企業不祥事であるO むしろ不祥事と
は、退却を転進、敗戦を終戦といいかえた日本語のごまかしであり、
むしろ、はっきり企業犯罪というべきであるという識者もある。
この企業犯罪という危機を救うものは、事後ではおそく、すべて事
前に先手、先手と打たないと回避できないO保険は、損失が発生して
後に、これを事後的に処理する使命をもっているが、企業犯罪につい
てはこの原則はあてはまらない。
気づくのが一日遅れれば社会経済に及ぼす傷はそれだけ深くなるO
恐ろしいのはそこである。
阿部泰蔵や矢野恒太の時代には果して企業犯罪が成立したか頗る疑
問であるO おそらくそのような犯罪が発生する土壌がなかったといっ
てよかろうO もちろん、さまざまな犯罪は、当時の『保険雑誌』で指
摘されているが、企業自体の浮沈にかかわるような倫理にもとる犯罪
は一切なかったO
それは、創業者の心の根底に倫理の思想がうめこまれていて、それ
が、いかなる誘惑や外圧にも、屈せず、微動だもしなかったからであ
る。
かれらのかかげた経営理念は、きわめて平易な言葉で、万人がわか
る内容であった。
しかも、理念が、理念でおわらず、必ず実践に結びつく実行力をそ
なえる「動く言葉」であったことであるO
当然のことながら、それは、単なるお題目ではなかったのであるO
-76-
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