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見る/開く - 東京外国語大学学術成果コレクション

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見る/開く - 東京外国語大学学術成果コレクション
東京外国語大学論集第 83 号(2011)
345
『カンツォニエーレ』310 番、311 番の時空
林 和宏
1. 対比と照応
2. 楽園喪失
3. 神話の終焉
1. 対比と照応
西風が戻り、美しい季節を連れ帰る、
さらに、温かい家族の一員たる花や草を、
燕のさえずりと小夜啼き鳥の鳴き声を、
そして純白と真紅が綾なす春を。
野原は微笑み、空は晴れ渡り、
木星は嬉しそうに間近の愛娘を眺め、
大気と水と土は愛に満ち溢れ、
ありとある生き物はふたたび愛することを欲する。
しかし私にとっては、悲しいかな、戻って来るのだ、
この上なく重い溜息が、私の心の奥底から引き出されて、
私の心の鍵を天へ持ち去ったあのひとによって。
そして小鳥たちの歌声も、花咲く野も、
美しく清らかな貴婦人たちの麗しい仕草も、
ただの砂漠であり、荒荒しく獰猛な獣にすぎない。
(310 番)1)
あの小夜啼き鳥が、あのように麗しく鳴いているのは、
亡くした子供らか愛しい連れ合いを思ってだろうか、
その甘美な声は空と野を充たしている、
じつに悲しい流麗な調べに乗って。
こうして夜通し私に付き合い、
思い起こさせようとしているようだ、わが残酷な運命を、
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『カンツォニエーレ』310 番、311 番の時空:林
和宏
しかし私自身のほかに私には責める相手がいない、
なぜなら女神たちに死神が力を及ぼすとは思いもしなかったのだから。
おお、安心している者を騙すことの何とたやすいことか!
太陽よりもはるかに明るいあの二つの美しい明かりが
暗い土塊に変わるのを見ることになろうなどと誰が思っただろう?
いまや私は悟っている、わが残忍な運命に従って、
涙に暮れつつ生きながら学ばねばならないのだ、
この地上には喜ばしくかつ長続きするものは何ひとつないことを。
(311 番)
ソネット 310 番は、春の訪れとともに自然界のあらゆるものにもたらされる喜びに満ちた愛
の再生と、春の訪れによっていっそう募る、愛するラウラを失った詩人の悲しみとの、鮮やか
な対比で名高い。次の 311 番は、310 番の主題と空間を受け継ぎながら、逆に、自然界の一羽
の小夜啼き鳥と詩人とのあいだの、嘆きと悲しみにおける照応をクローズアップする。またこ
の2篇のソネットは、筆者の見方によれば、それぞれ同じ 11 行目の呼応する表現が死後のラウ
ラをめぐって一対の関係をなしている。
私の心の鍵を天へ持ち去ったあのひとによって。
(310 番、11 行)
暗い土塊に変わるのを見ることになろうなどと誰が思っただろう? (311 番、11 行)
310 番の「あのひと」はラウラを指しており、天に昇ったラウラ、厳密にはラウラの魂を問
題にしている。他方、311 番のほうはラウラの眼が土塊に変わったことを言っている。死後の
ラウラの行方は、魂は天へ、肉体は地へ、と二つの方向に分かれることになり、ラウラを追い
求め続ける詩人は、相反する両者のあいだで葛藤を余儀なくされ、これが『カンツォニエーレ』
の第二部の中心テーマを構成するのだが、いずれにせよ死後のラウラは二つの側面をもつこと
になる2)。たとえば、近くの作品から例を拾えば、少しまえのソネット 300 番は 1 つの作品の
うちにこの両方の側面を取り上げている。
どれほどおまえが妬ましいことか、欲張りな大地よ、
私が見ることを奪われたあのひとをおまえは抱きしめ、
どのような私の心の戦いにも平和をもたらしてくれた
あの美しいお顔の表情を私から隠しているがゆえに!
東京外国語大学論集第 83 号(2011)
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どれほど天が妬ましいことか、閉じ込めて閂を掛けるとは、
欲深くおのれのうちに迎え入れて、
美しい四肢から解かれたあの魂を、
ほかの人間には稀にしか開かないにもかかわらず!
(300 番、1‐8 行)
このソネットでは妬みの表現をまとって、1 連目と 2 連目にそれぞれ示される、肉体は地
(terra)へ、魂は天(cielo)へ、という死後のラウラの二つの行方が、310 番と 311 番に振り分けら
れた形になっている。しかも同じ 11 行目にそれぞれ「天」ciel(o)と「土塊」terra が配置され、
この隣り合う 2 篇のソネットはいっそう見事に結びつけられている。天と地の対比は回心を主
題とする『カンツォニエーレ』第二部の至る所に見られる空間構造であるが、この 2 篇とくに
310 番は『カンツォニエーレ』にとって親しいもう一つの空間すなわちヴォークリューズの岸
辺の表現に関し重要な位置を占めていることを、前半と後半の対比のうちに決定的な移行を読
み取ることによって示してみたい。
2. 楽園喪失
アヴィニョン近郊のヴォークリューズの谷を流れるソルグ川の岸辺は、アヴィニョンの教皇
庁に出入りしていたペトラルカの隠棲の地であり、ギリシアのヘリコン山の詩泉になぞらえて
愛した場所であるが、ペトラルカの詩の世界では、詩人が愛の思いに耽り、しばしばラウラが
姿を現わす特別な空間として登場する。ただし、ラウラは現実に姿を現わすのではなく、詩人
の追想や想像のうちに現われる。ラウラの生前におけるその代表的な例はカンツォーネ 126 番
「澄みきって、清らかな、甘い水の流れよ」の中に見られる。
美しい枝々から降り注いでいた
(思い起こすだにあの光景の甘美なること)
花びらの雨が彼女の膝の上に。
彼女はゆったりと腰を下ろしていた、
大いなる栄光のうちに慎ましく
花の雲にすでに愛し包まれて。
花がひとひら、裳裾の上に落ちてゆく、
あるいは、あの日
純金と真珠さながらに見えた
金髪の編み毛の上に。
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『カンツォニエーレ』310 番、311 番の時空:林
和宏
あるいは地面に、舞い降りてゆく、あるいは波間に、
あるいは美しく宙をさまよいながら
囁いているようだ、ここを治めるのは愛神です、と。
(126 番、40 - 52 行)
いまはラウラのいないヴォークリューズの岸辺に詩人は佇んで、かつてこの場所で見かけた
ラウラの姿を追想する。詩人は過去の至福の時間の中にほとんど浸っている。追想の内側にお
いてであるが、この岸辺はまさに地上に現出した天国であり、そこには愛が満ち溢れている。
ラウラの死後においては、ラウラを失った絶望に沈みこむ詩人の夢や想像のうちに彼女が姿
を現わして再会が果たされる。それらの再会のうち、ヴォークリューズの岸辺に佇む詩人の前
にラウラが出現したことを語る詩が、
連作と言ってもよい 279 番と続く 2 つのソネットである。
もしも小鳥の鳴く声や、緑の枝葉が
夏の微風にやさしくそよぐ音や、
澄みきった波のしわがれた呟きが、
花咲く清らかな岸辺から聞こえたならば、
どこに坐って愛の思いを巡らせつつ書いていようとも、
天がかつて私たちに示し、いまは土が隠している彼女を
私は見、聞き、そして理解する、なおも生きて
かくも遠くからわたしの溜息に答えてくれているのだと。
「ああ、どうして時を待たずに命を使い果たすのですか?
―と、憐れみ深く私に言う―何のために絶え間なく流すのですか
悲しい目から痛ましい涙の川を?
わたしのために泣いてはいけません、なぜならわたしの日々は
死んで永遠のものとなり、内なる光のなかに
眼を開いたからです、外に閉じたあのとき」
(279 番)
なんとしても見てみたいものを二度と見られなくなってから、
それをこれほどはっきりと見ることのできた場所に、
これほど自由に過ごした場所に、
これほど愛情深き嘆きで空を満たした場所に、かつて居たこともなく、
秘かに安心して溜息の吐ける場所が
これほど多くある谷をかつて見たこともなく、
東京外国語大学論集第 83 号(2011)
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愛神がキプロス島で、あるいはほかの岸辺で
これほど麗しい巣に恵まれているとも思わない。
水の流れは愛を語る、そして同じようにそよ風も木々の枝も
そして小鳥も、魚も、花も、草も、
みながともに、私が愛し続けることを願いながら。
(280 番、1 - 11 行)
いったい幾度、わが甘美な隠れ家に
他人ばかりか可能ならば自分自身からも逃れて、
草と胸をわが眼から溢れ出るもので濡らし、
溜息でまわりの空気を切り裂いてきたことか!
いったい幾度、独り、恐れに満たされ、
影深く暗い場所に踏み入って、
死が奪い去った、それゆえしばしば私に死を呼び求めさせる
あの気高い喜びを、思いを凝らして探したことか!
あるときは、ニンフ、あるいは女神の姿で
ソルグ川のなかでもひときわ澄みきった底から現われ出て、
岸の上に腰を下ろし、
あるときは、さわやかな草の上を歩きながら、
生身の貴婦人のごとく花を踏むのを、私は見た、
私の身を案じる表情を浮かべて。
(281 番)
カンツォーネ 126 番の追想と同様、ここでもラウラのまわりは愛に満たされ、そして季節こ
そ夏と春の違いがあるものの、これら 3 篇に描かれるヴォークリューズの岸辺が、310 番のソ
ネットの前半 8 行にまったく同じ姿で再び現われる。しかし、そこにラウラはいない。詩人は
ラウラがこの世にいないという現実を痛切に感じている。春をもたらす西風は詩人に吹かず、
代わりに溜息だけが溢れ出る。ラウラを欠いたヴォークリューズの岸辺は、詩人にとって殺伐
たる砂漠に過ぎない。この 310 番以降、夢の中に現われることはあっても、ラウラがヴォーク
リューズの岸辺に現われることはもはやなく、
最後には詩の世界からも消え去る。
したがって、
前半に美しい岸辺の光景を置き、しかし後半でそれを否定する 310 番の内なる変化、地上楽園
から砂漠へのこの推移は、ラウラの幻影の享受からその非情な喪失へと向かう詩集の決定的な
方向性を1篇のうちに凝縮したものと言える。
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『カンツォニエーレ』310 番、311 番の時空:林
和宏
3. 神話の終焉
空間における変化に対応して、時間においてもある決定的な変化が認められる。310 番の前
半に描かれる春の岸辺は、毎年つねに甦る光景であり、ここに認められる時間は、絶えず巡り
来たる時間、永遠回帰する時間である。しかし詩人はこの至福の時間から放り出され、この世
を去ったラウラは決して戻って来ないという、往きて二度と再び帰らぬ時間の中に立ちすくん
でいる。つまり 310 番は、ラウラの喪失を、時間的構造においては、絶えず巡り来たる時間、
言い換えれば永遠から、往きて帰らぬ時間への変化として表わしている。失われた至福の時間
は、6 行目「木星は嬉しそうに間近の愛娘を眺め」がゼウスとアプロディーテーに言及してい
ることによって、神話的世界とつながることがほのめかされているが、次の 311 番では、11 行
目に「なぜなら女神たちに死神が力を及ぼすとは思いもしなかったのだから」とあるように、
ラウラを女神とみなしており、ラウラの存在によって現出した至福の時間は明らかに神話的性
格が与えられている。永遠の命を持っているように思われた女神ラウラとともに詩人が生きて
いた時間は、永遠が支配するまさに神話のそれであった。しかし神話の時代は長く続かず、
「こ
の地上には喜ばしくかつ長続きするものは何ひとつないことを」
(14 行目)詩人は悟らざるを
得ない。永遠の存在が生きていた神話の時代は終わり、いまはすべてのものを儚く流し去る時
間のなかにおのれがいることを、詩人は苦く自覚している。ここでいう神話とは、もちろん文
字通りのギリシア・ローマ神話のことではなく、地上において神的なものを身近に感じること
ができる時間を指しており、イタリア文学史の文脈で言えば、聖フランチェスコやトマス・ア
クィナスが登場し、
キリスト教がひときわ隆盛をみた 13 世紀の熱い宗教的雰囲気を最後に呼吸
したダンテが、天使として、奇跡として、ベアトリーチェをこの地上に力強く存在させ、彼女
の神的な力について物語ったことを神話と呼ぶことができるという意味においてである。しか
しペトラルカは、ラウラのうちにベアトリーチェを求めながらも、ラウラはもはやベアトリー
チェではない、と言おうとした、あるいは、言わざるを得なかった。永遠に支配され、支えら
れたダンテの世界はすでに過ぎ去り、ペトラルカにおいてはラウラさえも運び去る非情な時間
が流れ始める。なお 311 番の最終行「この地上には喜ばしくかつ長続きするものは何ひとつな
い」は、詩集全体の予告であり総括であるソネット第 1 番の同じく最終行「この世の喜びはみ
な短い夢である」に合致するけれども、310 番、311 番の時点では、楽園喪失、神話の終焉をそ
こに読み取ることのできるラウラの喪失は自然の死によってもたらされたものであり、最終的
には、夢から完全に醒めることを決断したペトラルカ自身の手によってラウラなる存在は葬り
去られることになる3)。
東京外国語大学論集第 83 号(2011)
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注
1)
ペトラルカ『カンツォニエーレ』からの訳出はすべて Santagata 1996 のテクストによる。また読解に際し参
照した注釈書等はほかに、Leopardi 1851, De Sanctis 1964, Carducci-Ferrari 1899, Chiòrboli 1924, Sapegno
1972, Zingarelli 1964, Contini 1982, Amaturo 1974, Apollonio-Ferro 1972, Fenzi 1993, Dotti 1996, Bettarini 2005
である。
2)
林 2002、林 2005 を参照されたい。
3)
林 2004 を参照。
参考文献
Amaturo, Raffaele 1974. Petrarca, Bari, Laterza (1ª ed. 1971).
Apollonio, Mario-Ferro, Lina, 1972. Francesco Petrarca, Rime e Trionfi, a cura di Mario Apollonio e Lina Ferro,
Brescia, La Scuola.
Bettarini, Rosanna 2005. Francesco Petrarca, Canzoniere. Rerum vulgarium fragmenta, a cura di Rosanna Bettarini,
Torino, Einaudi.
Carducci, Giosuè–Ferrari, Severino 1899. Le Rime di Francesco Petrarca di su gli originali, commentate da Giosuè
Carducci e Severino Ferrari, Firenze, Sansoni (rist. anast. 1972).
Chiòrboli, Ezio 1924. Francesco Petrarca, Le "Rime sparse", commentate da Ezio Chiòrboli, Milano, Trevisini.
Contini, Gianfranco 1982. Letteratura italiana delle origini, Firenze, Sansoni (1ª ed. 1970).
De Sanctis, Francesco 1964. Saggio critico sul Petrarca, Torino, Einaudi (1ª ed. Napoli, Morano 1869).
Dotti, Ugo 1996. Francesco Petrarca, Canzoniere. Edizione commentata a cura di Ugo Dotti, Roma, Donzelli.
Fenzi, Enrico 1993. Francesco Petrarca, Il Canzoniere e i Trionfi, a cura di Enrico Fenzi, Roma, Salerno Editrice.
Leopardi, Giacomo 1851. Rime di Francesco Petrarca con l'interpretazione di Giacomo Leopardi, Firenze, Le Monnier
(rist. anast. 1989, 1ª ed. Milano, Stella 1826).
Santagata, Marco 1996. Francesco Petrarca, Canzoniere, edizione commentata a cura di Marco Santagata, Milano,
Mondadori.
Sapegno, Natalino 1972. Francesco Petrarca, Dalle Rime e dai Trionfi e dalle Opere minori latine. Pagine scelte e
commentate a cura di Natalino Sapegno, Firenze, La Nuova Italia (1ª ed. 1938).
Zingarelli, Nicola 1964. Le Rime di Francesco Petrarca, con saggio introduttivo e commento di Nicola Zingarelli,
Bologna, Zanichelli.
林 和宏 2002. 「
『カンツォニエーレ』における回心とラウラの死」
『東京外国語大学論集』第 63 号、pp. 123-130.
林 和宏 2004. 「
『カンツォニエーレ』の結末――愛の放棄が意味するもの――」
『東京外国語大学論集』第 68
号、pp. 88-97.
林 和宏 2005. 「ペトラルカ『カンツォニエーレ』における夢の中の回心」
『東京外国語大学論集』第 70 号、
pp. 49-59.
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『カンツォニエーレ』310 番、311 番の時空:林
和宏
Spazio e tempo di Rvf 310 e 311
HAYASHI Kazuhiro
Il sonetto 310 del Canzoniere è famoso per il bel contrasto fra il lieto rinnovarsi della natura
di Valchiusa in primavera e l'infelicità che il poeta sente rinascere piú pesante che mai. Il sonetto
311 continua la scena e il tema del precedente ma qui accompagna il poeta il canto pietoso
dell'usignolo che condivide la simile sorte. Questi due sonetti solidali formano una bella coppia
riguardo a Laura morta. Rispettivamente allo stesso verso 11 descrivono Laura: l'anima che è
andata al cielo (310) e il corpo che si è fatto terra (311).
Il bel paesaggio della riva del Sorga di Valchiusa nelle quartine del 310 è lo stesso in cui
ritorna dal cielo Laura davanti al poeta. Questa riva, che è nel Canzoniere lo speciale luogo caro
all'amore del poeta, diventa il paradiso se c'è Laura come la canzone 126 mostra. Ma ora che
Laura è morta e neanche immaginariamente riappare, per il poeta la riva paradisiaca non è che un
deserto. Dal punto di vista spaziale in questo cambiamento dalla bella riva al deserto è condensato
il passaggio dal godimento del fantasma di Laura alla sua perdita che è lo svolgimento
fondamentale del Canzoniere.
Il rinnovarsi della natura in primavera significa il tempo circolare, il tempo che ritorna
eternamente. Ma il poeta è fuori di questo beato tempo. Lui che si dispera per la morte di Laura
sente il tempo che passa e non torna piú. Dal punto di vista temporale la perdita di Laura è
rappresentata dal passaggio dal tempo eterno al tempo che porta via tutto. Quello in cui il poeta
poté vivere con Laura come dea è il tempo mitico. Nella perdita di Laura, che è il tema centrale del
Canzoniere, si può vedere il passaggio dall'eternità mitica al tempo spietato.
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