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南宋思渓版の過去・現在・未来

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南宋思渓版の過去・現在・未来
南宋思渓版の過去・現在・未来
落合俊典
国際仏教学大学院大学教授
要旨
本稿は、南宋思渓版の有する仏教学的・文化史的意義を過去・現在
・未来の三視点から考察するものである。
南宋思渓版を過去から投射すると浙江省湖州思渓で刊行されたこの
蔵経は東アジア各地域に伝播したが、刷り部数や施入先などの詳細は
全く不明である。また前思渓と後思渓との目録上の関係性も明確にな
っていない。中国各地に伝播した思渓版は殆ど消滅した。後世への影
響が見られるのは思渓版の覆刻である元版(普寧蔵)に伝えられ、さ
らに明版(嘉興蔵、万暦蔵)として普及し元・明代の仏教思想界への
影響を保った。
現在からの視点では、現存する南宋思渓版は中国に一蔵、日本には
数的に六蔵ほど現存している。増上寺の南宋思渓版は『大正蔵』の対
校本に用いられており、大蔵経テキスト学上極めて重要な役割を担っ
たことは論を俟たない。しかし、未だにその影印本は刊行されておら
ず具象的な検証が遅れていて、一日も早い影印本の上梓が待たれてい
るところである。
宜蘭:佛光大學佛教研究中心, 2015年04月,頁045-064
046 漢傳佛教研究的過去現在未來
未来からの視点として、南宋思渓版の影印刊行事業が進行している
ことを記すものである。楊守敬が日本で購入した南宋思渓版は現在中
国国家図書館に所蔵されているが、日本の旧蔵寺院は京都にある法金
剛院であることが判明している。法金剛院本は江戸時代前期に蒐集し
た混合蔵であるが、主に南都(奈良)の海龍王寺等に存した宋版を勧
進したもののようである。欠巻や部分欠などは法金剛院の照山慧晃等
が補写している。中国国家図書館蔵本には補写本が多く、今次の影印
では愛知県知多半島にある岩屋寺蔵本をもって補うこととした。岩屋
寺蔵南宋思渓版は十五世紀中葉に施入されているが、もとは経箱と奥
書から京都の高山寺に蔵した宋版(湖州版)であることも明らかにな
った。
以上過去・現在・未来の三視点から南宋思渓版を考察し、その意義
を論じた。
キーワード:南宋思渓版、岩屋寺、桂大納言入道、楊守敬、
中国国家図書館、国際仏教学大学院大学
南宋思渓版の過去・現在・未来 047
一、過去からの視点
南宋思渓版蔵経は湖州版とも称されるが、これは浙江省湖州思渓で
刊行されたことに依る。 杭州の市街から西北に約 50 ㎞行ったところ
に、嘗て円覚禅院という寺院が存した。北宋の末期に密州観察使王永
従夫妻や弟王永錫らの王氏一族の支援によってこの円覚禅院で開版さ
れた一切経(大蔵経)を南宋思渓版(思渓版蔵経、思渓版)という。
北宋末の靖康元年(1126)に雕印が始まり、南宋の紹興 2 年(1132)
1
に 5,480 帖の版が完成を見たとされるが 、王氏一族の没落で刊行が一
時途絶えた。
円覚禅院は後に寺格が上がり、法宝資福禅寺となり、檀越も宋室の
趙氏に変わって淳祐年間(1241 ~ 1252)に再び開版されるに至った。
これを後思渓とも資福蔵ともいうが、内藤湖南はこの総数を 5,740 帖
2
としている 。しかし、追雕補刻の帖数は 450 帖であるので、一見す
ると総数は 5,930 帖とならなければならないが、これは巻数と帖数と
が異なる点から出てきた数字であろうと思われる。
従来この前思渓と後思渓について種々議論がなされてきたが、現在
進めている諸蔵の調査や目録の研究によって新たな知見が得られると
期待されている。
さて南宋思渓版が登場すると南宋の各地に伝播したと推測される
1
2
『 湖州思渓円覚禅院新雕大蔵経目録 』1 巻,『 昭和法宝総目録 』 第 3 巻,
頁 667 ~ 685。内藤湖南の跋文に依れば、この円覚禅院での開版が前思渓
で 550 函 5,480 巻仕立てという。
『 安吉州思渓法宝資福禅寺大蔵経目録 』2 巻,『 昭和法宝総目録 』第 1 巻。
頁 908 ~ 926。総巻数については前掲の内藤湖南跋文に依る。
048 漢傳佛教研究的過去現在未來
が、日本への伝播も数多く、かつ現存する思渓版も多い。
次に示す用例は、過去に於いて重要な役割を果たし、また未来に於
いても大きな役目を務めるであろう南宋思渓版である。
愛知県知多半島の先端に位置する岩屋寺は、その開基は詳らかでは
ないが、寺伝では霊亀元年(715)元正天皇の勅願により行基(668 ~
3
749)を開祖として建立されたという 。
この岩屋寺には南宋思渓版 5,157 帖(重要文化財)が所蔵されてい
ることで知られているが、蔵経の来歴は大野城主佐治盛光(さじもり
みつ)が宝徳三年(1451)九月に寄進したとあるだけで旧蔵寺院に関
することは触れられていない。佐治盛光寄進の典拠は、岩屋寺に所蔵
される宝徳三年写の『大蔵経目録』(上下)の下巻奥書である。
全蔵五千九百十巻 五百四十八函
宝徳三稔辛未九月 日
大野城主佐須氏(朱書)
願主右衛門尉盛光法名道西居士
これ以外に伝来を証する古文書等はない。そこで蔵経そのものを見
ていくと幾つかヒントが得られる。刊記は除くとして、岩屋寺の南宋
4
思渓版に日本で書写された奥書は概略次の 10 点である 。
3
4
山本錠之助著『 岩屋寺誌 』,知多郡内海町第二尋常小学校発行。昭和 9 年
5 月,頁 15。
前掲書 147 頁~ 155 頁参照。なお奥書は、このほか十数カ所見つかってい
るが、現在調査中であり、点検はまだ過半に至っていない。この稿、上
杉智英「 岩屋寺一切経について」( 未定稿 )( 平成 24 年 10 月 5 日に開催さ
南宋思渓版の過去・現在・未来 049
①大般若波羅蜜多經卷第六百 一帖
奥書「自正和二年癸丑正月八日至于文保元年丁巳六月九日五ケ
年間一部六百卷奉轉讀之了 經弁七十二歳」
…正和二年(1313)、文保元年(1317)
②光讃般若波羅蜜多經卷第八 一帖
奥書「暦應四年三月五日奉轉讀畢 高經六十一」
…暦應四年(1341)
③十地經論卷第一 一帖
奥書「正安四壬寅五月七日探玄記十地品談義之次爲防後日廢忘
加自由之愚點了更ニ不可及外見穴賢々々定失義理違論旨事多
歟然而只偏爲散愚曚也後學必ズ重可刊定之矣 華嚴宗末資經
弁五十七」
…正安四年(1302)
④同卷第六 一帖
奥書「徳治二年四月廿一日於栂尾十無盡院之住坊春季傳法會勤
仕之間加愚點了定多紕繆歟勿論々々後學能々可刊定更ニ不可
擬點本者也今日當地談義了以此結縁功徳必證菩提分法成普賢
行願矣華嚴宗末學沙門經弁記之生年六十二」
…徳治二年(1307)
れた国際仏教学大学院大学戦略プロジェクトの学内研究会での発表資料 )
による。
050 漢傳佛教研究的過去現在未來
⑤高僧傳卷五 一帖
奥書「弘安四年五月十九日一覧了 隠老法助」
…弘安四年(1281)
⑥高僧傳卷七 一帖
奥書「仁和寺准后御記也弘安四年五月廿八日於開田松窓敬以披
覧了 老隠法助」
⑦高僧傳卷十 一帖
奥書「弘安四年六月十九日見之了權化之 神異誠有所以哉可貴々々」
⑧高僧傳卷十二 一帖
奥書「同廿五日敬拝見之了 法助」
⑨高僧傳卷十三 一帖
奥書「弘安四年六月廿八日拝覧了 法助」
⑩高僧傳卷十四 一帖
奥書「弘安四年六月廿八日一部十四卷披覧了
願生々世々結法縁於彼高僧耳
沙門法助
已上開田殿御自筆之御日記也
此傳一部十四卷桂大納言入道殿自筆本之點也末代重寶輙
不可取出之矣于時永仁元年十二月三十日一部奉轉讀之了
南宋思渓版の過去・現在・未来 051
經弁四十八」
以上の奥書の中で①と③と④と⑩に見られる経弁(1246 ~ 1326)
は、鎌倉時代中後期の高山寺を代表する学僧である。高山寺十無尽院
の第三世であり、重要な書物を書写しているが、中でも高山寺に遺存
する『伝受類集鈔』25 巻は極めて重要な書といえる。また『別尊雑記』
57 巻や『曼荼羅集』3 巻等を書写し、高山寺の教学を確立維持に努め
たことがよく分かる。
②に出てくる高経(1281 ~)も高山寺の学僧である。⑤以降の『高
僧傳 』 に頻出する開田殿とは開田准后(1227 ~ 1284) であり、 父九
条道家の寄進によって高山寺に観海院が建立され、法助も一時期住ん
でいたと言われている。
このように見てくると岩屋寺の南宋思渓版が高山寺に旧蔵されてい
た可能性が十分推測されうるであろう。併せて高山寺の資料から一切
経の所蔵状況を見てみよう。高山寺には『唐本一切経目録』上下二巻
なる書が存するが、この本は書誌解題に依れば鎌倉初期の書写という
5
ことである 。
5
石塚晴通「 唐本一切経目録巻上巻下書誌解題 」( 高山寺資料叢書第十八
冊『 明恵上人資料第四 』所収。1998 年。東大出版会 )
052 漢傳佛教研究的過去現在未來
▍写真1.岩屋寺蔵『高僧伝』卷十四奥書
唐本は宋版を意味し、「本資料の唐本一切経は福州版と思渓版との取
合せであったものと解され」ると述べられている。高山寺からは福州
版の一部が見つかっているが、宋版すなわち思渓版の一切経は全く残
っていないようである。
不幸なことに、この大部の宋版一切経は、現高山寺経蔵には
伝はらず、山外に散ったものも聞かない。恐らく、現経蔵本
とは別置の建物ごと焼失等により、一括して失はれたもので
6
あらう 。
高山寺には二種の唐本一切経がかつて存在したようである。『高山寺
聖教目録』(建長目録)には以下のようにでてくる。
一切経二部之内
一部唐本 納西経蔵 刑部入道渡進
6
前掲書 358 頁。
南宋思渓版の過去・現在・未来 053
一部 納東経蔵 宰相僧都真辺進一切経
7
高山寺に南宋思渓版の一切経が所蔵されていたことが明らかになった
が、岩屋寺の南宋思渓版が高山寺から伝来したものと断定するには、
若干の疑義が残っている。それは岩屋寺蔵本に全く高山寺の所蔵印が
見られないことである。この疑問点に関しては、高山寺資料調査に長
年関わり、かつ『唐本一切経目録』の解題を草された石塚晴通先生が
岩屋寺調査に来られた折に質問したところ、一切経が収蔵されていた
東西の経蔵には所蔵印が押されていなかったと考えても少しも問題な
いということであった。
この見解は十分説得力があると考えられるが、直接の徴表とはなら
ないので別の観点から補強したいと思う。
それは岩屋寺の『高僧傳』十四帖である。鎌倉時代に政治的な立場
では最高位に上がった開田准后法助が、「開田(院)の松窓に於いて
敬って以って披覧し了んぬ」といい、「弘安四年六月十九日、之を見
了んぬ。権化の神異、誠に所以有る哉。貴ぶべし、貴ぶべし」とまで
述べ、「弘安四年六月廿八日、一部十四卷披覧し了んぬ。願くは生々
世々に彼の高僧に法縁を結ばれんことを。」とこれまた最上の表現で
敬意を表している対象の桂大納言入道なる人物である。歴史上ほとん
ど無名に近い桂大納言入道とは何者であろうか。
高山寺の学僧経弁は「已上開田殿の御自筆の御日記なり。」と開田
准后法助が閲読したことを記録している。続けて「此の(高僧)伝一
部十四巻、桂大納言入道殿の自筆本の点なり。末代の重宝、輙ちこれ
7
宰相僧都真辺については未詳。
054 漢傳佛教研究的過去現在未來
を取り出すべからず。時に永仁元年十二月三十日、一部奉ってこれを
転読し了んぬ。 経弁四十八」と記す。
准后法助に対して学僧経弁は「御自筆の御日記なり」と二度も「御」
を使用している。その法助が「権化」と言って「敬って以て披覧し」
たという桂大納言入道は、まさにいとやんごとなき貴紳であったので
ある。
桂大納言入道は俗名藤原光頼(1124 ~ 1173)、 権中納言藤原顕頼
の長子。母は権中納言藤原俊忠の女。若くして参議となり、階位を上
っていったが、平治の乱で官位を辞し、出家している。時に長寛二年
(1164)である。承安三年(1173)には没しているので出家後十年足
らずで逝去したのである。
慈円(1155 ~ 1225) は『 愚管抄 』 の中で「 光頼大納言カツラ入道
トテアリシコソ、 末代ニヌケデゝ人ニホメラレシカ 」 と賞賛してい
る。実際に桂大納言入道の仮名点の『高僧伝』を閲読するとその学識
の高さに驚嘆するのである。十四帖のなか、偈文を除く全てにわたっ
て詳細な仮名点が施されている。これは鎌倉時代にあって特別貴重な
書物であったと考えられる。
以上のよう観点から岩屋寺の思渓版一切経の旧蔵寺院を高山寺に特
8
定するのは決して困難ではないと見なされるのである 。
8
『 岩屋寺誌 』を書いた山本錠之助も「 之れに依って当山の大蔵経は、旧
と京都の高山寺にあったものである事が解る」( 同書 154 頁 )と述べてい
る。岩屋寺の奥書がついた宋版は、昭和 11 年 11 月 8 日、東京上野寛永寺
で開催された第 22 回東京大蔵会に出品されている。山本錠之助氏はこの
大蔵会の記録を参照しているが、このころにはすでに高山寺旧蔵説が出
ていたようである。
南宋思渓版の過去・現在・未来 055
二、現在からの視点
9
日本に現存する主な南宋思渓版は以下の通りである 。
東京都増上寺蔵思渓版 ...................................................... 5,356 帖
10
茨城県最勝王寺蔵思渓版 ......................................................5,195 帖
(但し東禅寺版・開元寺版を含む混合蔵)
愛知県岩屋寺蔵思渓版 ..........................................................5,157 帖
奈良県唐招提寺蔵思渓版 ......................................................4,494 帖
(但し磧砂版・和版を含む混合蔵)
奈良県興福寺蔵思渓版 ..........................................................4,354 帖
(但し磧砂版・祥符寺版を含む混合蔵)
岐阜県長瀧寺蔵思渓版 ..........................................................3,752 帖
京都府大谷大学図書館思渓版 ..............................................3,374 帖
埼玉県喜多院蔵思渓版 ..........................................................2,781 帖
9
奈良県長谷寺蔵思渓版 ...................................................... 2,220 帖
11
奈良県西大寺蔵思渓版 ......................................................... 696 帖
12
梶浦晋「 日本的漢文大蔵経収蔵及其特色 」( 沈乃文主編『 版本目録学研
究 』第 2 輯。2010 年 )。中川由莉「 日本国内における宋版一切経の現存状
況 ― 奈良県下を中心に―」(『 豊山長谷寺拾遺 』第四輯之一、宋版一切経。
2011 年 )
10
『 増上寺三大蔵経目録解説 』増上寺。1982 年。
11
『 豊山長谷寺拾遺 』第四輯之一、宋版一切経。2011 年。
12
『 西大寺所蔵元版一切経調査報告書 』奈良県教育委員会編。1998 年。
056 漢傳佛教研究的過去現在未來
和歌山県金剛峯寺蔵思渓版 .....................................................443 帖
東京都お茶の水図書館成簣堂文庫蔵思渓版 .........................317 帖
愛知県本源寺蔵思渓版 ...............................................................54 帖
これらには磧砂版などを含む混合蔵もあり、更に詳細な調査が必要
であるが、 取りあえず合算してみると 38,193 帖となる。 数的には思
渓版が六蔵ほど残っていることになる。
南宋思渓版がテキストとして今日的意義を有しているのは大正新脩
大蔵経の校訂に用いられたことが大きい。しかしたとえ高麗再雕版を
底本とした大正新脩大蔵経の対校本として採用されなかったとしても
テキスト的価値が減ずることはない。なによりも宋版大蔵経の中で最
も中心的位置を占めていることが大きい。宋版大蔵経の濫觴はもとよ
り開宝蔵であるが、如何せん五千四十八巻の内、現存するのが十二巻
足らずという事実は覆い隠せない。もちろんその復刻版とされる趙城
金蔵版や高麗版が現存し、その概要を窺い知ることは出来ない訳では
ないが、趙城金蔵版は全蔵
いではないし、高麗初雕版は千八百巻程
度であり欠損は大と認めなければならない。高麗再雕版はほぼ完全
いであるが、しかしこれは契丹版やその他の修訂が施されておりテキ
ストとしては独立的な位置にあるとも言える。
大正新脩大蔵経の校訂には対校本として宋版、即ち南宋思渓版が用
いられ、ついで元版、明版も採用された訳であるが、この校訂の記号
として三本を示す○に三の特殊記号が頻繁に見かけることは周知のこ
とである。この三本と、高麗本すなわち高麗再雕版との異同が少なか
らず見られるように三本は同系譜に属する刊本大蔵経という位置がづ
南宋思渓版の過去・現在・未来 057
けできる。畢竟、元版や明版の代表格が宋版、即ち南宋思渓版という
ことになるのである。
宋版と称される版を時系列に挙げれば、開宝蔵(北宋勅版)に始ま
り、福州版の東禅寺版、開元寺版と北宋時代の版があり、ついで南宋
の時代になると思渓版、磧砂版と続き、それぞれがその後の元代にも
印刻されていたようである。
開宝蔵 ( 北宋勅版 )
東禅寺版 ( 崇寧蔵 )
開元寺版 ( 毘盧蔵 )
思渓版 ( 円覚蔵・資福蔵 )
磧砂版
…開宝五年 (972)
~太平興国二年 (977)
…元豊三年 (1080) ~政和二年 (1112)
…政和二年 (1112) ~紹興二十一年 (1151)
…靖康元年 (1126) ~紹興二年 (1132)
…淳祐年間 (1241 ~ 1252)
…嘉定九年 (1216) ~咸淳八年 (1272) 頃
このような展開の中で北宋代の東禅寺版と開元寺版が取り上げられな
かったのは一定の理由があると推測される。
日本に現存する東禅寺版と開元寺版は以下の如くであるが、大正新
脩大蔵経編集の時代にあって、宮内庁書陵部の北宋版は必ずしも善本
と言えないと考えたのではないだろうか。あるいは増上寺蔵の南宋思
渓版と比して欠損が大きいという理由もあったかも知れない。
日本に現存する東禅寺版大蔵経
教王護国寺 ............................................................................. 6,087 帖
醍醐寺 ..................................................................................... 6,096 帖
(開元寺版を含む混合蔵)
金剛峯寺 ................................................................................. 3,750 帖
058 漢傳佛教研究的過去現在未來
(開元寺版を含む混合蔵)
本源寺 ..................................................................................... 1,861 帖
日本に現存する開元寺版大蔵経
宮内庁書陵部 ..........................................................................6,263 帖
(東禅寺版を含む混合蔵)
知恩院 ......................................................................................5,969 帖
(東禅寺版を含む混合蔵)
金沢文庫 ..................................................................................3,490 帖
(東禅寺版・和版を含む混合蔵)
教王護国寺 .................................................................................639 帖
中尊寺 .........................................................................................227 帖
(東禅寺版を含む混合蔵)
本源寺 .........................................................................................255 帖
しかし、恐らくはもっと現実的な事情に依るものと考えたほうがよ
いのかも知れない。それは増上寺には高麗再雕版も南宋思渓版も元版
も明版も皆一同に
っていたことは重視しなければならない。
それではテキストとしての優劣はどうであろうか。これは今日から
の観点でも容易に決着を見ない評価であろうが、歴史上そのような観
点から評価を行った事例が見られないことから資料的な限界に依るも
のと想定される。つまり、南宋思渓版の流布状況が優位にあり、また
版本の完成度からも一段上に位置づけられていたように推測されるの
である。ただ
かな一例として高山寺の明恵は福州版と湖州版との目
録上の比較対照を行っているから本文までの比較が広範囲に行われた
南宋思渓版の過去・現在・未来 059
場合には当然の帰結として優劣が論じられることも起きてきたかも知
れない。このことに関する資料が高山寺から発見されることを期待す
るばかりである。
三、未来からの視点
それでは南宋思渓版は未来においてどのような役割を果たすであろ
うか。すでに『大正新脩大蔵経』に対校本として使用され、またテキ
ストデータとして CBETA にも入力され世界の研究者が南宋思渓版を
脚注の記号で認めることが出来ているのである。これで十分と考えら
れるが、2010 年版の CBETA では高麗再雕版の影印本によって『大正
新脩大蔵経』の誤植を訂正している。そうであるならば、宋版におい
ても同様な展開が見られるのは時代の趨勢であろう。だが残念ながら
南宋思渓版の影印本は未だ刊行されていないのであって、そのような
状況下では CBETA 編集者の営為も到底及ばないことである。
上記のような事態になる前に、筆者は南宋思渓版の影印本刊行を日
本の有力な寺院に持ちかけてみたことがある。だが実現には至らなか
った。最終的に実現可能とされたのが今回紹介する、中国国家図書館
(中国)と国際仏教学大学院大学(日本)との共同編集に依る企画で
ある。ここに使用される南宋思渓版は、中国国家図書館に所蔵されて
いる思渓版であって、 楊守敬(1839 ~ 1915) が日本で購入し清国に
持ち帰った 4,300 帖余を中心とした宋版である。中国国家図書館はそ
の後 300 帖ほどを購入して全体で 4,600 帖ほどの総数になっている。
我々が中国国家図書館古籍館で 2012 年 10 月 8 日と 9 日の二日間にわ
たって調査した結果、楊守敬は京都の法金剛院所蔵の思渓版を購入し
060 漢傳佛教研究的過去現在未來
13
たことが判明したのである 。
その証左は全帖の冒頭に法金剛院の印記を押印した一紙が貼り付け
てあることから明らかである。
元禄九年丙子二月日重脩
皇圖鞏固 帝道遐昌
佛日増輝 法輪常轉
山城州天安寺法金剛院置
また補写された経巻も多く、それらの奥書には法金剛院の照山慧晃
(しょうざん えこう 1656 ~ 1737)の名が見られる。慧晃は当時著名
な学僧であったが、梵語辞典の『枳橘易土集』(全 15 冊)を著すた
めに南宋思渓版を求め、元禄九年(1696)二月に所願成就となったの
である。この後慧晃は泉涌寺長老となり、さらに唐招提寺の長老にも
なり、元文二年(1737)82 歳で示寂した。
以上のことから中国国家図書館蔵の楊守敬寄贈南宋思渓版 4,300 帖
14
の旧蔵は法金剛院であると判明したのである 。
さて、 未来
13
14
の本題に入ろう。 中国国家図書館では本蔵の影印本
中国国家図書館古籍館の南宋思渓版調査は、 李際寧氏と石塚晴通先生、
上杉智英、定源両氏( 国際仏教学大学院大学文科省戦略プロジェクト研
究員 )ならびに筆者の計五名で実施した。調査点数は約 800 帖。
中国国家図書館古籍館での調査では法金剛院のさらに元の所蔵者の一部
が分かった。 それは奈良にある古刹、 海龍王寺である。 僧玄昉(~ 746)
ゆかりの寺院であるが、 中世にあっては叡尊(1201 ~ 1290) が復興に寄
与しているのでこの前後に伝来した可能性もある。しかし、その他の所
蔵印記も見られることから慧晃は諸所から蒐集したと考えられる。
南宋思渓版の過去・現在・未来 061
刊行を主要な事業の一つに挙げたが、 南宋思渓版の全蔵
いとはい
かず、どうしても日本の各地にある思渓版をもって補うより手立ては
なかったのであるが、暗中模索の先に一つの光明が照らされ徐々に大
きくなってきた。その道筋を開拓していったのは方廣
(上海師範大
学)、李際寧(中国国家図書館)の両氏である。及ばずながら筆者も
少しく尽力し、愛知県岩屋寺蔵の南宋思渓版の画像を提供出来るよう
話しを進めているところである。もしこの計画が成就したならば、岩
屋寺蔵の南宋思渓版は漢伝仏教の主要な規範テキストを日本の有数の
仏教知識人(桂大納言入道、明恵)に知らしめたばかりでなく、未来
の CBETA 校訂作業にも絶大な影響を与えるテキストとなり得るので
ある。それは南宋思渓版の代表的存在として位置づけられるのと同義
語に他ならない。
揚州の或る出版社はこの企画を単なる影印本として上梓するのでは
なく、『開宝遺珍』に次ぐ精巧な経典として世に出したいと意欲的で
ある。 真に実現した暁には宋代の華麗な文化の精粋が華開くであろ
う。
062 漢傳佛教研究的過去現在未來
▍写真2.中国国家図書館蔵南宋思渓版の
各帖の表紙見返しに付された印
南宋思渓版の過去・現在・未来 063
引用書目
( 一 ) 佛教典籍和古籍
『湖州思渓円覚禅院新雕大蔵経目録』1巻,『昭和法宝総目録』第3巻。
『安吉州思渓法宝資福禅寺大蔵経目録』2巻,『昭和法宝総目録』第1巻。
( 二 ) 專書和論文
『 岩屋寺誌 』, 山本錠之助 , 知多郡内海町第二尋常小学校発行 。 昭和 9 年 5
月。
『増上寺三大蔵経目録解説』,増上寺。1982年。
『西大寺所蔵元版一切経調査報告書』,奈良県教育委員会編。1998年。
『豊山長谷寺拾遺』第四輯之一,宋版一切経。2011年。
山本錠之助,「之れに依って当山の大蔵経は、旧と京都の高山寺にあったも
のである事が解る」(『岩屋寺誌』)。
上杉智英,「岩屋寺一切経について」(未定稿)(平成24年10月5日に開催
された国際仏教学大学院大学戦略プロジェクトの学内研究会での発表資
料)。
中川由莉 ,「 日本国内における宋版一切経の現存状況― 奈良県下を中心に
―」(『豊山長谷寺拾遺』第四輯之一,宋版一切経。2011年)
石塚晴通,「唐本一切経目録巻上巻下書誌解題」(高山寺資料叢書第十八冊
『明恵上人資料第四』所収。1998年)
梶浦晋 ,「 日本的漢文大蔵経収蔵及其特色」( 沈乃文主編 『 版本目録学研
究』第2輯。2010年)
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