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4月(632号) - 東京新潟県人会

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4月(632号) - 東京新潟県人会
長岡市立寺泊中学校(旧・寺泊町立寺泊中学校)
第23回
■教育目標
創造する力
広い心
たくましい実践
寺泊中学校 校旗
平成8年 吉の丘に完成した新生寺泊中学校
地域の次代を支える人材育成を目指して
に創立十周年を迎え、十一月には
地域の協力を得て記念式典を盛大
長岡市立寺泊中学校長
に実施しました。そして十一年目
森 紀 之
の寺泊中学校は、合併により長岡
市の中学校として大きなステージ
の中で新たなスタートを切ってい
当校は平成八年四月に大河津中
学校と旧寺泊中学校の統合によっ
ます。
て、両地域の中間点にある吉の丘
新しい長岡市歌の冒頭に﹁守門
に開校しました。この統合の最大
岳から日本海﹂と歌われるように
の狙いは地域の次代を支える若者
新長岡市にとっても寺泊の存在に
たちが互いに顔見知りとなり、恵
は大きな期待が寄せられていま
まれた環境の中で経験を共有する
す。 こ の 地 域 を 支 え る 心 温 か く、
事により、有意な人材を育成する
たくましい人材の育成に一層努力
ところにあると聞いています。
していきたいと思います。
私 は 平 成 十 六 年 度 よ り 赴 任 し、
毎年八月に実施される成人式に
■寺泊中学校の沿革
出 席 さ せ て い た だ い て お り ま す。
昭和二二年
寺泊町立寺泊中学校開校
十六年度の寺泊町主催の成人式対
寺泊小学校の校舎に併設
︵生徒四五四名︶
象者は、統合校舎に始めて三年間
昭和二七年
汐見台に新校舎完成
を 過 ご し た と い う 人 た ち で し た。 ︵生徒八二五名︶
その後、長岡市との合併、長岡市
野積・夏戸の分校生徒合流
昭和二九年
体育館・音楽室完成
長からの祝辞を受けた最初の成人
昭和五三年
火災により廊下の一部を焼失
昭和五四年
式となりました。各地で成人式の
火災により校舎二棟十五教室を
焼失、町を挙げて義援活動開始、
あり方が問題になっております
同敷地に耐火校舎を再建
が、寺泊ではどの年度も自らの手
平成
八年
寺泊中学校・大河津中学校と統
合
で企画する立派な成人式で、これ
校 旗・ 校 章・ 校 歌 を 一 新﹁ 新・
ら若者達の姿からも統合の願いが
寺泊中学校﹂誕生
生かされているものであろうと思
︵生徒四五八名︶
吉の丘に新生寺泊中学校舎完成
います。
平成十八年 市町村合併により長岡市立寺泊
中学に改称︵生徒三四九名︶
新寺泊中学校は、平成十七年度
( 3 )
魅力と活力あるまちづくりに邁進
していく所存でございます。
長岡の新たな財﹁海の寺泊﹂に寄せる思い
長岡 市 長
忘れられない汐風の匂い
橋 本 寛 二
東京寺泊会第七代会長
︵昭和三十五年卒業︶
加わり、青春期に肌で浴びたふる
さとの汐風を、それぞれが堪能し
ている姿は、伝統ある寺泊会名物
の風景となっている。
( 4 )
民 夫
﹁ 佐 渡 へ 八 里 の さ ざ 波 越 え て、
鐘が聞こゆる寺泊﹂は寺泊人の誰
もが肯くおけさの一節である。眼
前の佐渡島と大海原の日本海そし
て朝夕に時を知らせる寺の鐘、こ
の 詩 情 は 太 平 洋 を 抱 く 鎌 倉 で は、
決して味わう事ができない寺泊の
原風景である。このふるさとで生
まれた旧寺泊中学校は、四十九年
間 で 九、六 一 二 人 を 輩 出 し、 全 て
の生徒に懐かしさを刻みながら平
成八年に閉校した。そして次代を
繋ぐ統合新校舎の許でその身を委
ね、新長岡市立の中学校としてそ
の一翼を担っている。
かつて戦後処理の荒
廃期に入学した、教科
書の無かった第一期生
以来多くの同窓は健在
である。この深遠なる
思い出を風化させる事
なく、ある者は東京寺
泊会で語り継ぎ、更に、
古希を越えた当時の集
団疎開組も輪になって
海上から見た懐しい寺中旧体育館
寺泊港まつり 好評を博す海上花火大会
賑わう魚のアメ横
遠方に弥彦山を望む寺泊海岸
森 今後とも、﹁前より前へ!長岡﹂
を 合 言 葉 に、 市 民 と 一 丸 と な り、
平成十八年一月、南北十六 に
わたり美しい海岸線を持ち、佐渡
に最も近い景勝の港町として、年
間二四〇万人の観光客が訪れる県
内屈指の観光地﹁寺泊﹂は、新・
長岡市の一翼として新たなスター
トを切りました。
長 岡 市 が﹁ 海 を 持 つ ま ち ﹂ に
なったことは、これからの長岡市
の観光振興にとって、大きな可能
性が広がるものであり、その拠点
として寺泊はとても個性、魅力輝
く地域であります。本年一月、佐
渡市と﹁集客プロモーションパー
トナー都市協定﹂を締結し、首都
圏からの誘客や観光キャンペーン
の共同実施など、観光振興に向け
た協力体制を確立いたしました。
新 長 岡 市 の キ ー ワ ー ド は、﹁ 共
存共栄﹂です。各地域が培ってき
た 個 性 的 な 文 化 や 伝 統 を 失 わ ず、
特色を発揮することで、まちの活
力が生まれるものと思います。
km
五十六段の
階段を登り
つめた丘の
上に、教職
員の管理棟
と教室をエントランスホールで巧
みに分離配置した新鋭校舎は昭和
二十七年十二月完成。日本海を眼
下に佐渡・弥彦を一望する校舎敷
地を﹁汐見台﹂と名づけ﹁港見下
す我が母校﹂と、文豪
漱石の門
人
松岡譲︵本名 善譲︶が作詞
した校歌に寸分の偽りもなく詩わ
れている。
えが、その歴史の重みを今更のよ
うに実感している。
●渡辺 功氏のプロフィール(寺泊中学校昭和38年卒業)
新制・寺泊中学校一期生
東京寺泊会
相談役
︵昭和二十五年卒業︶
渡 部 作 次
卒業式の朝﹁君たちが、寺泊中
学校で学んだ生徒のルーツになる
よ﹂と担任に言われた時は、その
意味が理解できなかった。開校の
年に入学し、三年間在籍した最初
の卒業生であったことが後で判っ
た。我々昭和二十二年の入学組は、
今でも同期会を東京と寺泊の中間
地で開き、交流を深めている。
一方、寺中を卒業してから汐見
台に完成した新・寺泊中学校建設
に際し、東京在住の実業家︵寺泊
出身︶故
小林源次郎氏は、ふる
さとの教育予算だけでは少なかろ
うと、校旗・緞帳装置・視聴覚機
器から教材用自動車等々を惜しみ
なく寄贈。同氏は、折りあらばこ
のように町のインフラ整備を支え
な が ら、 上 京 後 進 者 の 支 え に も
なった。ふるさとへの思慕にも応
え郷人組織﹁東京寺泊会﹂を創設、
初代会長として物心両面にわたり
尽力された。歴代会長も同氏の尊
い思いを継承してきた﹁東京寺泊
会﹂は、今年、創立五十二年を迎
( 5 )
昭和二十二年四月、戦後の制度
改革により、六・三・三制の施行に
伴い新制寺泊中学校が誕生。当時
は独自の校舎が無く、大正六年に
創られた寺泊小学校︵国民学校を
改称︶の校舎に併設。正面に職員
玄関、左右に中学校・小学校と振
り分けた校舎で学ぶ。
昭和二十五年、町は中学校新校
舎 建 設 を 最 優 先 事 業 と し て 着 手。
同年、建築
士制度が発
足。寺泊で
最初に一級
建築士の資
格を取得し
た本間敦夫
氏が、校舎
の基本設計
を担当。風
光明媚な海
岸町・寺泊。
1947年 新潟県長岡市寺泊生まれ
1965年 多摩美術大学デザイン科入学
1969年 多摩美術大学中退し、週刊「少年ジャンプ」より、手無 功(たなしこう)のペンネーム
でデビュー。同年、別冊「少年ジャンプ」で藤山寛美をモデルにした「ほんまにあほかい
な」を連載。その後、フリーとなり、双葉社を中心に活動。
1978年 ペンネームを河合一慶に改名
し、双葉社の「100てんコミッ
ク」で「忍者マン一平」を連載。
これがヒットとなり、日本テレ
ビ(NTV)でアニメ化される。
1985年 小学館「コロコロコミック」で
ファミコンの高橋名人をモデル
にした「高橋名人物語」を連載。
1993年 生地寺泊にUターンし、漫画家
活動を続ける。現在、会社員と
しての仕事の傍ら、ネット上で
公開するため、新作を製作中。 代表作:左から、「ほんまにあほかいな」「高橋名人物語」「忍者マン一平」
マンガ家 渡辺 功氏制作の一コマ
開校時併用していた寺泊中学校・小学校
旧寺泊中学校 汐見台校舎
校舎を設計した
本間敦夫氏
渡部作次氏…昭和22年寺泊中学校入学組の卒業写真
ろす我が母校﹂の校歌と共に消え
限りです。
ど、寺泊の自然を感じながらの行
港見下ろす我が 母 校
てしまったが、そこに培われた歴
事も、辛くて甘い想い出になって
当寺では、寺中出身者を中心と
史を永遠に残そうと、閉校記念事
した、ふるさとの若者を応援しよ
います。
魚の ア メ 横 ・ 角 上 魚 類
業 の 一 環 と し て 町 の 総 意 を 得 て、
うと本堂を解放し、時折ライブ会
代表 取 締 役 社 長
私は二∼三年生にかけ生徒会長
高 台 の 跡 地 に 記 念 碑 を 建 立 し た。
場 と し て 提 供 し て お り ま す。 ア
に選出され、副会長は長年寺泊町
柳 下 浩 三
是非皆さんが見に来て下さる事を
コ ー ス テ ィ ッ ク や、 テ ン ホ ー ル
長を務めた高橋誠さんでした。最
︵昭和三十一年卒業︶
心より願っている。
ズ が 響 き、 時 に は 日 本 の ト ッ プ
近のような難しい問題もなく、穏
ミュージシャンも交えてのイベン
やかな学校生活であったと思って
昭和二十年代の後半、寺泊中学
校に入学する頃、自分でも驚く程
トを開催致します。またこの本堂
おります。私達は昨年還暦を迎え、
寺中とふるさとの仲間達
熱狂的な阪神タイガースのファン
は、寺中出身の油彩画家・橋本直
それを記念し、寺泊中学出身者も
になっていた。そして将来は阪神
行氏に壁画を制作して頂きまし
多数参加した高校の同期会を、﹁ホ
の選手になりたくて野球部に入っ
た。阿弥陀経にある蓮の花が浮上
テルオークラ新潟﹂で開催しまし
光澤山養泉寺住職
た。全学年の生徒数が千人近くい
する幻想的なシーンは訪れる者を
た。ここは東京新潟県人会の生み
倉 井 静 秋
たが、町はずれに新しく建てられ
魅了します。又、寺中出身のサー
の親である大倉喜八郎翁ゆかりの
︵昭和四十五年卒業︶
た丘の上の校舎には、まだ広い屋
フィン仲間達にも囲まれ、母校を
ホテルであります。県外からのお
外グランドが無く、野球部と陸上
誇りに思っている次第です。
越しの方々に、新潟らしい﹁おも
寺泊は寺院が多く、私は町のほ
競技部は歩いて三十分位の小学校
ぼ中心地にございます寺の息子と
てなしの心﹂でお迎えするよう心
のグランドまで通って短時間の練
して生まれ、寺中こと寺泊中学校
掛けております。中学卒業後、就
一番懐かしい中学時代
習をしていた。そのせいか対外試
で学びました。体が弱かったので、
職・ 進 学 と 離 れ 離 れ に な っ て も、
合をしても寺中の野球と陸上は弱
少しでも鍛えたい一心で柔道部に
今ではその当時の仲間が一番懐か
ホテルオークラ新潟
かった事を覚えている。
入りましたが、当時はどの部活動
しく感じられます。
取締役総支配人
も活発で、卓球・体操・バレー・
藤
田 正 四
私は優等生型ではなく、ガキ大
将の方だったので、よく先生にピ
剣道など小さな体育館は満杯状態
︵昭和三十七年卒業︶
ンタやげんこつを食らう事があっ
でした。体格の良い先輩に圧倒さ
た。今の時代では考えられない事
れながら、校舎中廊下十周や、真
寺 泊 中 学 校 を 卒 業 し て、 は や 〝
ではあるが、その頃は当たり前で、
冬のグランド駆け足、腹筋・ウサ
四十五年になります。一学年七ク 長岡に海原ひらく寺泊
むしろ卒業してからは、そんな先
ギ跳びと続き、とてもきつく感じ
ラスの大所帯でしたが、高台の校
財となるも
生の方が懐かしく又思い出に残っ
ましたが、この鍛錬で現在の体の
舎から見下ろす日本海に沈む夕日 前より前へ
ている。
基礎が出来上がったと感謝してお
の素晴らしかった印象が鮮明に
〟
ります。この体育館は昨年十二月
残っております。夏には、中央か
その中学校の校舎も平成八年に
大河津中学校との統合で山の方に
に 解 体 さ れ、 色 々 な 思 い 出 が 詰
ら金山海水浴場までの遠泳大会や
︵取材
移転し﹁緑の松の丘の上、港見下
まった場所が無くなる事は寂しい
シーサイドを走るマラソン大会な
本部広報 田尻加代子︶
( 6 )
☎〇四二
贈呈がありまし
した。
五五一
―
六
―〇四八番
し ﹂の掛け声。拍手で承認されま
☎〇四二
平成十九年度東京守門会総会・新年会開催
◎ 吉田
正彦 会長
れました。
二月四日㈰東京上野精養軒に於い
た り、 記 念 品 の
て東京守門会総会・新年会が開催さ
四
―四六三 五
―六四四番
豊島新潟県人会総会・新年会開催
◎ 野口
清次 会長
第五十六回豊島新潟県人
会総会が平成十九年一月
た。 お 二 人 と も
一〇〇%の作付けが目標との頼もし
十五日㈪午後五時三十分よ
いお話を頂戴して、上村監査役が総
星野市長から災害の復旧が進んで
おり、今年は、財政厳しい中でも
新潟県中越大地震発生から三年
大変お元気で会
目、今年は、開会五分前犠牲となら
り大塚寿司常会館において
れた方々に黙祷を捧げ襟を正しての
催されました。第一部総会
りで会場は一気に盛り上がり時間を
員 一 同、 心 か ら
拍手を贈った次
会を締めました。
三十余名の出席者により開
開催でした。故郷から星野市長、野
開会の辞を、本間六郎副会
れました。角田ふじ江副会長の閉会
案の全議案が全会一致で可決承認さ
して平成十九年度事業計画案、予算
会計報告、星野幹事の監査報告、そ
なども企画します。又、趣味の倶楽
入れます。物産展、講演会、演奏会
舞踊、歌謡、短歌、俳句等︶を取り
り。カラオケのほか勉強会︵料理、
月例懇親会は毎月十三日︵土日祭
日に当る場合は翌平日︶午後六時よ
恒例により野口会長が議長として選
平成十九年度事業計画をここにご
紹介いたします。
譲りたいとの内山
開会宣言。続いて若手に会長職を
での開催となりました。姉崎役員の
錚々たる方々をお招きし、一〇四名
誼郷人会会長方、目黒名誉顧問と
正彦の併記で感謝状贈呈しました。
旧守門村長野村学、守門会会長吉田
に、
長期の会長職ご苦労様を込めて、
を頂戴しました。今年は、内山顧問
橋副会長、目黒名誉顧問からお祝辞
新潟県人会副会長、魚沼市関係の友
の辞で一部を終了し、続いて第二部
部︵旅行、写真、ハイキング、ゴル
忘れて楽しい時を過ごしました。
の新年会に入り、田中幹事の司会で
フ等︶を随時行っています。
長、続いて野口会長の挨拶、そして
行われ、乾杯の音頭を里見相談役に
行 い、吉 田 新 会 長
け て、趣 旨 説 明 を
前会長の意向を受
リュームを上げてカラ
⋮拍手三波春夫さんの守門音頭ボ
野村名誉顧問のご発声で〝乾杯 〟
オケ演芸大会時間一杯
が選任されました。
出演お断りの盛況会場
で大賑わいフィナーレは、
恒例守門の
はまあぁー久し振り
け、両者握手で引き継ぎ完了。吉田
盆踊り、
役員の桜井春二が万歳三唱
担当役員の説明に会場から﹁異議無
︵事務局
髙橋貞吾
記︶
す旨の力強い挨拶。
続いて議案審議、 で締め、
和やかに散会となりました。
新会長の守門会の発展に全力を尽く
門 会 の﹁ 印 ﹂を 受
内山前会長から守
守門の盆踊り
十八年度事業報告、及び早川幹事の
力強く発声を頂き、そして来賓とし
西東京市緑町二 六
― 三
―
℡〇四二 四
―四六三 五
―六四四
野口清次会長
︵本部広報
田中
実
記︶
吉田会長挨拶
星野市長お祝辞
出され、小林秀夫副会長による平成
村名誉顧問、東京方面からは、髙橋
二部新年会は、椿副会長の歓迎、
開宴のことばに続いて新潟県人会髙
は小林副会長の司会により、 第です。そして恒例のカラオケと踊
集合写真
問合せ先 〒一八八 〇
―〇〇二
て本部新潟県人会事務局長菊池義昭
様のご祝辞を頂きました。そしてこ
の度、里見正平相談役と内藤正夫会
員が目出度く米寿を迎えられるに当
( 7 )
地区県人会・
郷人会だより
三
―九二一 九
―八二四番
城下町と自然収入し
も十一月にオープン。
が様変わりし、病院
☎〇三
﹃城下町新発田会﹄
新年会開催
◎ 築井
松治 会長
二月四日㈰、東天紅上野店飛鳥の
間において、第六回目の新年会が開
催されました。
ご来賓として、東京新潟県人会・ かないところ、今後
下越連合会名誉会長の横野さんはじ は産業振興に力を入
ご来賓は、
皆さま
﹃鹿瀬﹄
の応援団!東京鹿瀬会総会
︵第十三回︶
・新年会開く
◎ 佐伯
益一 会長
東京鹿瀬会は一月二十五日、中野 く活動してゆくべきである﹂と、例
サンプラザに於いて第十三回総会・ えを挙げて訴え、
感銘と共感を得る。
並びに新年祝賀会を開催した。
総会は短時間の内に淡々として進
ふるさと阿賀町からは町長はじめ み、
用意した議案は全て承認された。
八名の出席を頂き、出席者は来賓・
暫時休憩のあと、新年懇親会に入る。
始めに神田町長からは郷里の現況に
れる必要がある。今
触れながらのご挨拶、県人会会長代
会員合わせて百名を超す盛況であっ
め、柄澤加治川村人会会長、市から
から種を蒔き、やがて芽が出、花が
励ましとお祝いのご挨拶があり、澤
田社長の観光へのお誘いがあった。
た。
片山市長、小川市議会議長、篠田ま
野県議の祝電披露、奥阿賀観光㈱多
で書いた長さ3メートルに及ぶ巻紙
理の春日副会長、遠藤町議会議長から
ちづくり支援課長をお迎えし、総勢
て頂く﹂と取り出したのがナント毛筆
く旨数多くの施策等語られました。
冒頭、佐伯会長は謝辞のあと﹁最近
咲き、実ることを願って頑張って行
ボケが進んでいるのでメモを読ませ
五十名の参加を得て行われました。
たい。尽力を期待したいと述べられ
杉原幹事長の司会で始まり、築井 横野さんからは、県人会百年目に
会長から昨年の亀戸天神藤見の集い は是非とも下越連合の立ち上げをし
や、八月末の故郷新発田まつりへの
に一同ビックリ。
︵一杯飲んで下書き
祝宴が始ると各テーブルはお酌の
応酬で大賑わい、
互いに久闊を叙す。
話されました。
等大変重要の旨
会同士との交流
新しく市となった加治川村等の郷人
心として、佐渡おけさ・新発田甚句
しい会員の紹介があり、第二部アト
行くことを固く誓い、力強い乾杯で
長共々協力して市の運営に当たって
に行き渡り、吉池㈱高橋会長からは
原稿なしで一気に書き上げたと、後で
ご来賓では今
回みごと三選さ
と音頭の踊りをカラオケを間に交え
踊り参加等の活動が報告され、
また、 ました。続いて小川議長さんから市
れた片山市長か
ながら、
楽しい懇親会を集いました。
聞いた︶この中で会長は、県人会・ 抽選会では用意した景品がほぼ全員
ら挨拶があり、合
最後に会員全員の一本締めで楽しい
奉仕活動をするもので、むしろ出費を
懇親会に入りました。司会者から新 ﹁ボランティアとは自発的に無償で
オケファンの待望も虚しく、及川幹
事ながらご厚志に感謝。余興はカラ
多数の塩鮭のご寄贈があり何時もの
ラクションへ。婦人部あやめ会を中
固い握手を交す佐伯会長と
神田町長
責任者を守り立てて力を合わせ楽し
︵鹿瀬会・広報委員
記︶
不足なのである。
会となる。鹿瀬の会は何時も時間が
いにエールの交換を行い五時過ぎ閉
りのみ。最後は県人会、鹿瀬会で互
極めて難しい。
自らが選んだ指導者・ 事の日本舞踊と佐渡おけさの大輪踊
余儀なくされている。活動や運営は
郷人会のボランティア活動に触れ
併して十万五千
会もお開きとなりました。
︵築井誠一
記︶
総会フィナーレ
( 8 )
懇親会模様
人の人口になっ
たこと。昨年駅前
全員集合写真
☎〇四二
五八六
―
九
―一五六番
日野新潟県人会総会及び新年懇親会 平成十九年 東京台東新潟県人会
新年祝賀会開催
◎ 板谷越
巌 会長
〇
―六五五番
理矢部副会長、吉住台東区長、高柳
三
―八七三
新年祝賀会は、平成十九年二月十
の方で思い出もたくさんあり、議
日㈯午後六時より﹁浅草ビューホテ
区議会議長からご祝辞を頂き、和や
☎〇三
員会館内では同姓の長島衆議院議
ル﹂に於いて、百七十人が出席して
かな中懇親会へと⋮。
ご挨拶では、ご本人のお母様が新潟
り新年懇親会を寿司正で開催。廣川
員︵山古志出身︶の郵便物が間違っ
開催された。
んをお迎えし、また衆議院議員長島
さん、佐渡汽船東京案内所の増田さ
来年、再来年と元気でがんばりま
会長︶に対し黙祷を捧げご冥福をお
者で一番の長老︶に負けないよう、 ︵元東京新潟県人会副会長、元当会
参加︶より頂戴し、八十六歳︵参加
祈りした。
青柳副議長、田中、寺井、伊藤、関
村両都議会議員、
さらに区議会から、
の後、東京新潟県人会、米山会長代
高志副会長︵会長代理︶
、立川新潟
て入ってくるなどのエピソードも披
◎ 関崎
千里 会長
県人会会長樋山さん、本間さん、八
総勢三二名の参加で例年どおり二
月十一日十二時より総会、十三時よ
王子新潟県人会会長高地さん、竹田
開催に先立ち、多大な功績を残し
露。乾杯の音頭を清水さん︵夫婦で
土肥名誉会長の発声で乾杯。宴に
昨年三月に他界された、豊島豊太氏 入ったあと、深谷衆院議員、保坂参
昭久氏、同小川友一氏も初参加で駆
しょうとのご発声で懇親会のスター
一言ずつご挨拶を頂いた。
根、河野、水島、各議員一同壇上で
も会員を増やそうと力強いお言葉を
憂。カラオケも絶えることなく飛び
ゲームも景品が盛り沢山で一喜一
舎から二ヵ月も早くふきのとうが届
雪だったが今年は暖冬で、先日、田
盛り上がった。中締めを池田元上野
ん、沢竜二さんの歌、そして福引と
後にした。
︵高井
忠
記︶
( 9 )
院議員、中山前衆院議員、服部、中
けつけていただきました。
祝賀会は、小林副会長の開会で幕
ト。初参加で落語家の東家夢蔵さん
を開け、念頭挨拶に立った関崎会長
頂 き、 廣
出しての盛り上がり、中締め、万歳
いた。我が県人会も越後魂で、今年
警察署長、万歳三唱を青柳副議長、
が飛び入りで小噺をご披露。ビンゴ
川副会長
三唱に続き故郷を思い出しての﹃ふ
も郷土愛でつながる人の輪を広げま
閉会の辞を柴山副会長に閉めて頂
会員減少気味の中、新会員も三名
参加。当会長の挨拶ではなんとして
からは東
るさと﹄を合唱し名残惜しみながら
しょう﹂と念頭挨拶をされた。続い
は﹁昨年の今ごろ、故郷は大変な豪
アトラクションでは、芸者さん、
振袖さん、松浪さんの舞踊、白井さ
京新潟県
閉会となった。
県人会代表や
友好団体代表
ら約七十余名
の来賓の紹介
も積極的に参加する事を誓い会場を
台東区富山両
今年も関崎会長の下、皆で結束し
て活動し、又本部東京新潟県人会に
て台東区長野、 き、盛会の内に散会となった。
人会の年
増員を第一目標として新しい企画に
今年は当県人会の五十周年の記念
ご 案 内、 すべき年であり、新役員の下で会員
参加への
呼びかけ。 チャレンジする所存であります。
中村信也
記︶
長 島 衆 議 ︵日野新潟県人会事務局
院議員の
集合写真
間行事の
参加された皆さん
三
―七八四 一
―四六一番
七
―七一一番
金子光雄助役の出席となった。
いての説明に同席されたため、急遽
☎〇四七 ―
三八八
首都圏えちご吉田会
︵会長渋木久弥︶
が東京分水会
︵名誉会長村上昭治︶
と懇親交流会
◎ 渋木
久弥 会長
会が開催された。
をお迎えして両郷人会初の懇親交流
東京分水会の岡本満会長は、
また、
金子助役を出迎えた後、当日開催の
去る二月二十五日㈰お茶ノ水ホテ
続いて星野 幹事の司会に ル聚楽において、燕市金子光雄助役
より少人数と
いうこともあ
義則︵長岡︶菊池義昭︵本部新潟県
井野新田︶星野正明︵善久寺︶原田
︵尾崎︶金子孝治︵帯織︶田中実︵今
席者は以下のとおりです。浅野謙治
の出席者により開催されました。出
より東京新潟県人会館において六名
皆様には今年もよい年となります様
とともに可決決定しました。会員の
がりです。そして総会決議案は酒宴
を賜り、酒宴は栄町言葉で大盛り上
事務局長菊池義昭様より来賓の挨拶
り。浅野会長の挨拶につづいて本部
で楽しい楽しい宴会の始まり始ま
県入りで、燕市の研磨技術などにつ
たところ、当日安倍総理大臣の新潟
動きなどをお聞きすることとしてい
依頼し、合併前後の苦労話や最近の
元分水町長の小林清燕市長に出席を
民検討委員会が新庁舎建設基本構想
とめており、また燕市新庁舎建設市
会︶として施策ごとに各委員会を立
燕市まちづくり住民会議︵百人委員
後の諸施策について百人を公募し、
会長の挨拶の後、金子助役より合併
会会長の挨拶および村上分水会名誉
☎〇三
第十五期東京栄町会総会・新年会開催
◎ 浅野
謙治 会長
新年明けましておめでとうござい
ます。栄町会員の皆様におかれまし
てはお健やかに新春をお迎えのこと
とお慶び申しあげます。
故郷の西蒲原郡吉田町や分水町 東京味方会の総会へ向かわれた。定
り総会と懇親
は、昨年の合併により燕市となり、 刻を少し過ぎたところで、渋木吉田
人会事務局長︶出席者が少数の為総
お祈り申し上げます。そして来年の
市民案の作成など、なつかしい地元
会と同時進行
会は成立しませんでした。
﹁総会資
総会には大勢の皆さんにご出席賜り
さて、第十五回東京栄町会総会が
平成十九年一月二十日㈯午後十二時
料については各自、後で目を通して
ますようお願い申し上げます。
金子助役さんを囲んで
︵広報
登石
正中
記︶
れ、盛会裡に終了した。
までにない盛り上がりだと大変喜ば
楽しむなど、会員の皆さんよりこれ
で懇親交流がはかられ、カラオケを
に話がはずみ、それぞれのテーブル
懇親交流会は分水会棚橋かう副会
長のご発声で乾杯し、和気あいあい
のことばでお話された。
ち上げそれぞれ提言の方向で取りま
ください。
﹂と、星野幹事より冒頭
十三 十
―四
一四六一
幹事 星野正明
川越市下赤坂
七五八番二号 ℡〇四九 二
―五六
六
︵内︶
―八六八
㈱星野広告
︵広報
田中
実
記︶
( 10 )
集合写真
に挨拶がありました。私︵田中実︶ 問い合わせ先
が後で会計報告書に目を通しました 会長 浅野謙治 品川区戸越六 ―
℡〇三 三
ところまったく適正に処理されてい
―七八四 ―
ると見て取れました。監査のお役を
頂いておりませんので正式な報告に
はなりませんが、この場をお借りし
て感想を報告させて頂きます。越権
行為となりますがお許し下さい。
平成十九年度首都圏つきがた会総会
五周年記念事業予算等を承認
飾区新潟県人会新年会
当面の急務
会員増強が
☎〇三
☎〇三 三
―八〇七 〇
―八七七番
二月十日㈯午後六時。京成青砥駅
下車、
地元
﹁かつしかシンフォニーヒ
です。県人
議員、
区議、
東信用組合田中理事長、 て い き た
を 合 わ せ、
ルズレインボーホール﹂に於いて標
会本部行事
◎ 加藤
勲 会長
題の会が来賓、会員合わせ一三〇名
には協力し
周年を迎えるが、更なる発展向上の
キッカケとするべく記念事業とし
が参集して盛大に開催された。当日
◎ 曽山
孝一 会長
れた。
ふるさとから金子市議会議員、 て、ふるさとからは中学の恩師や各
は来賓として青木区長、平沢衆議院
二月十八日㈰東京新潟県人会館で
首都圏つきがた会定期総会が開催さ
お招きし賑わいのある記念交流パー
和平地域審議員会長、金子支所長、 界、各層の方々五十名ほどを東京に
登石商工会長、神保JA地区担当理
事の五名。
県人会からは廣川副会長、 ティーなどの事業計画を提案させて
いただいたのでよろしく願いたい。
﹂ 東京新潟県人会会長代理春日副会長、 い﹂と述べ
られた。続
菊池事務長の二名。そして、池田首
外本部役員八名の臨席があった。
と、挨拶が行われた。
三
―六〇一
〇
―七四四番
日副会長からはあいさつの中で本部
た。
午後九時、本部高橋副会長の手締
めで散会となった。
を堪能した。
り、全員で伝統あるふる里の輪踊り
おけさを披露。後に続けと輪が広が
県人会同好会の皆さんが場内で佐渡
踊りと盛り上がった。フィナーレは
第二部、乾杯の後祝宴に入った。
しばらく歓談の後恒例のカラオケ、
佐渡おけさの輪踊り
︵本部広報委員会︶
( 11 )
都圏西蒲原会長、吉田東京味方会長
行事協力への謝辞があり、その後来
恭尚氏から、﹁最近思うこと﹂
と題し、
いて青木区長から区の現状、本部春
各位のご臨席を賜り、総勢五十八名
定刻、恒例の会旗の入場後最初
その後、審議に入り会則の一部改 正の追加議案を含め全議案とも原案 に加藤会長があいさつ﹁会も創立
賓あいさつと続き第一部を終了し
のもとで盛大に執り行われた。
三十二年を迎えました。親睦の輪を
左から県人会山田副会長・歌手みさとみゆきさん・加藤会長
もって二十七地区ブロックがまず力
総会に先立ち曽山会長からは、﹁こ どおり承認された。
れまで、会員の親睦を深めるにさま
最後に、来賓として金子新潟市議
会議員ら四名様より祝辞を頂いた
ざまな取り組みを行ってきた。初め
日本人が忘れていることの一つとし
後、講演会に移り、ふるさと出身で
ぞれ参加さ
てご恩、お蔭様、もったいない、と
てとなる納涼会、一昨年に引き続き
れた会員か
いう言葉の大切さなど体験談を交え
台東区お住まいの西徳寺住職の木村
ら喜んでい
行った鬼怒川温泉一泊旅行は、それ
ただくこと
月につきが
た会創立五
︵つきがた会幹事長
木村
記︶
今 年 は、 十
五周年記念事業の成功を期しての
挨拶で閉宴となった。
が で き た。 た貴重なるお話を頂いた。
曽山会長の挨拶
三
―八一一 三
―八五九番
事業報告及び会計報告、監査結果と
あいさつがあった。総会は前年度の
☎〇三
◎ 島田 治男 会長
〇
―二〇〇番
いて来賓あいさつでは吉沢支所長か
ら提案され、拍手で承認された。続
リーにてアドレーション・アート展
佐藤方紀氏がお寺を解放し、四泊五
☎〇四八 ―
六四三
佐渡・相川の妙圓寺に合宿し﹁佐渡海府の海﹂
に挑戦!
東京白根会第四十四回総会懇親会開催 アドレーション・アート展が開催
◎ 庭山
仁爾 会長
二月十七日㈯十二時よりJRお茶
の水駅下車。ホテル聚楽で会員百余
め五名、在京からは東京新潟県人会
ら﹁この四月から市政都市として発
が開催された。
AAIは一九九七年、
今年の作品を見ると、どの作品も
ドイツ人のカール・P・レオンハー ﹁明るく﹂
﹁鮮やか﹂
﹁夢のある﹂素
名、郷土より吉沢支所長、県議はじ
会長代理廣川副会長、東京味方会吉
足し新潟市南区白根となり、南区の
ツベルガー氏とご夫人の祐美子さん
るが、東京相川会の幹事でクリエイ
えた汀を、鮮烈に躍動的に描かれて
晴らしい作品だった。カール先生の
完成させた。
日の合宿をこなし、この度の作品を
田会長他四名が参集し標題の会が賑
人口は四四、
八百人としてスタート
が始められた﹃創作絵画集団﹄であ ﹁空と海﹂は日本海に沈む夕日に映
去る二月十四日㈬∼十七日㈯、梅
平成十九年度の事業計画案が役員か
が満開の横浜市大倉山記念館ギャラ
やかに開催された。
致します﹂と述べられた。
おり、深井さんも夕凪の﹁入崎海岸﹂
( 12 )
総会は最初に山口副会長が会長代
理として壇上から﹁庭山会長が急用
ティブデザイナー深井富枝さん︵昨
佐渡の荒海に、永遠に寄せては返す
で欠席ですが、いつもと変わらず楽
白根名物たこ合戦協会の佐藤会長
から﹁今年の合戦は六月七日∼十一
しく親睦の輪を広げたい﹂と元気に
ディングドレスを出品︶が所属して
金波・銀波の錦繍のサンセットを多
を幻想的に捉え、その他の作品にも
に皆さんのおいでをお待ちしており
おり、
一昨年には、
現在空き家になっ
彩に描写している。
秋、県人会文化祭に手編みのウェ
ます﹂と呼びかけがあった。今年
ている深井さんの実家をセミナーに
日に行われます。日本一の大凧合戦
も会場内には側壁に大きな凧が飾ら
ドンデン山、鷲崎観音寺住職︵波の
開放し、
一行十五人を佐渡の虜にし、
今年も、九月に同セミナーの開催
計画があり、今年度は佐渡市の小学
ファンにした。
昨年は
音楽プロ
写真家︶との出会い、そして﹁願﹂の
れ、会員も合戦を楽しみにしている
デ ュ ー
景勝も訪ねたいと言っている。
生や父兄の皆さんとの絵画教室や、
サーをし
圓寺住職
でもある
︵広報
本間
壯平
記︶
ながら妙
このリピーターが佐渡の観光に少
しでも役立って欲しいものである。
佐渡・相川妙圓寺にて合宿セミナー
の皆さん (前列)佐藤住職・カー
ル先生ご夫妻・奥田・深井さん
様であった。
︵本部広報委員会︶
午後三時、万歳三唱しお開きと
なった。
れ楽しんだ。
舞台では踊り、カラオケと時間を忘
第二部懇親会は味方会吉田会長の
音頭で乾杯。酔いが回ったところで
広い会場も大盛況
地元の名門長岡高校から東京教育大 事 長 で あ
さながら 歩く長岡藩
学へ進学、一路教職への道を突き進 り、その経
営によるフ
三條和男さんと知り合って、かな ショナリズムの現し身というわけ んだ。
りになる。これまで、長々と話し込 だ。
教師としては、江戸川区立小松川 レンド幼稚
むという機会はなかったが、顔を合
第三中学からスタートを切り、中学 園︵ 牛 久 ︶
私も﹁歩く長岡藩﹂若しくは﹁長
わせればすぐ打ち解け合えるのだか 岡精神の語り部﹂だと感じている。 二校、高校八校に奉職。都立杉並高 の園長であ
ら、お互いの理解はずっと続いてい
る。西武拝
校の校長を花道とした。
とにかく、長岡藩の歴史、人物、
たように思う。
その精神を語り出したら止めどな 在職中の本領は進路指導面で顕著 島線の武蔵
そもそもは、私の前任の東京えち く、河井継之助、小林虎三郎から始 であったようだが、意外だったのは 砂川駅から
ご巻町会々長、佐藤与三郎さん︵故 まった熱弁
野球との関わりである。
﹁高校 高 田 馬 場、
人︶とのつながりで、巻町会の宴席 は、 山 本
時代は体操部︵と新 日暮里を経
に出て下さった三條さんと私が、お 五 十 六 に
聞部︶だったが、野 て常磐線の牛久まで、朝六時の出発
互いに少々酩酊気味の顔をしてあぐ 至ってクラ
球部には憧れていた﹂ でおよそ二時間半。決して楽な道程
らをかき、二人で並んで写っている イマックス
とかで、先生兼監督 ではない。
写真がある。日付が記されていない と な り、田
として本気で甲子園 ﹁週に二∼三日ぐらい。丁度いい
が、十年以上前であることは間違い 中角栄に注
を 目 指 し た と い う。 年寄りの散歩ですよ﹂と言いながら
がない。
初めに染めた色が濃い﹂
と、
事実、武蔵村山高校 ﹁染物は、
ぐ大河の流
時代の教え子にはプ 幼児教育の重要性を説き、その教育
その後は、これも私の前任の首都 れ。今回の
圏西蒲原会々長であった 田貞次さ 取 材 で も、
ロ野球選手︵ヤクル 者魂は倦むことを知らない。
ん︵東京味方会々長︶との関係であ 時間にして四時間余、都合二回に及 ト・西沢浩一投手・現コーチ︶も出
帽子を横っちょに被り、何やら重
る。東京新潟県人会では、 田さん
そうな鞄をぶら下げて歩くさまは、
て
いるというから驚きだ。
ん
だ
の
は
、
自
分
の
こ
と
は
さ
て
お
い
て
、
の前の文化教養委員長が三條さん 話が専らそちらに靡くがゆえであっ
そして、三條さんが監督として汗 一見布袋様の福々しさと屈託のなさ
で、私は 田さんの後を務めた。
を流していた頃、二歳年下の私はと と見えるが、それは該博な知識の光
た。
いえば、連日ナイターの実況中継に を和らげ、隠し、しかもその根底に
その 田さんが語る三條さんは、 和して同ぜずの一徹を秘めて
﹁日教組全盛時代に教職にあって、
明け暮れていたわけで、当時の野球 和して同ぜずの一徹を秘めるもの。
生まれは長岡市の旧長原町︵現草
国粋主義を貫いた精神は本物﹂とい 生津︶
、実家は浄土真宗のお寺で、 の話をすれば、つうと言えばかあで 青年の血気を抱いたままの老成円熟
うことになるが、要するに米百俵の 唯 敬 寺という。昭和八年、父桃園 話が通じることを発見した。
は、蓋し達人と言うべきであろう。
精神をバックボーンにした長岡ナ さん、母マキさんの三男に生まれ、
︵広報
池田
孝一郎
記︶
現在は早稲田電子専門学校の副理
今日は
さ ん、
長
⑯
⑮
会
会長 三條 和男さん
武蔵村山新潟県人会
今日は
さ ん、
長
⑮
会
フレンド幼稚園発表会(平成 19 年2月 16 日)
( 14 )
〝市町村だより〟あれこれ
にはいよいよ駅部の高架橋工事も始
められることになった。
その新駅の構造は、地平レベルが
新潟県下の市町村広報その他から
在来線、二階レベルが自由通路で、
北陸新幹線がやって来る
や が て 新幹線は三階レベルとなっている。
は、 こ の 一方、北陸新幹線の開業が現実の
平成二十六年度末の完成を目指す
北陸新幹線の工事が上越市を中心に
金 沢 か ら ものとして近づく中、上越市では、
進められている。
更に延び、 その開業効果を最大限反映して行け
高崎∼長野間︵東京∼高崎間は上越
福 井 を 経 るようにと、昨年十二月に新幹線・
新幹線と共用︶が平成九年に開業して
て 新 大 阪 まちづくり推進プロジェクトチーム
いることはご存知の通りで、現在行
に 至 る 約 を立ち上げた。たまたま新駅周辺に
われている工事は長野から金沢まで
七 〇 〇 キ 出現した環濠集落の釜蓋遺跡なども
である。
ロ メ ー ト 地域の資源として上手に取り込んで 力を要望していくことを確認。協議
ル の 路 線 の観光や産業の振興、大々的な上越 合意書にサインした。
長野から飯山を通って新潟県内に
会議終了後、篠田市長は﹁観光客の
入る新線は、上越︵仮称︶
、糸魚川を となるわけだが、上越市の近郊では、 ブランドの確立が急務となる。
増加や物流の活性化など、政令市と
通って富山県に入り、新黒部︵仮称︶
、 平成十年に長野∼上越間が着工し、 四ケ国フェリー航路開設へ
富山、新高岡︵仮称︶
、石動、そして 平成十三年には上越∼富山間が着工 日本と韓国、ロシア、中国の四ケ なる今、この航路開設の持つ意味は
国五都市が連携する﹁中・日・韓・ロ 大きい﹂と述べて、期待を示した。
金沢に至る。
した。
新幹線新駅の上越駅︵仮 フェリー航路五都市首長会議﹂が、二 横浜でにいがた花ジャック
称︶は、北陸新幹線の新潟 月六日新潟市で開催され、同航路の その新潟市は、四月一日の政令市
県内における中核駅とな 早期開設に向け積極的に取り組むこ 移行記念として、市の花〝チューリッ
プ〟を生かした多彩な催しを行う。
るもので、現在の信越本 とで合意した。
線脇野田駅西側に設置さ 会議には、新潟市の篠田市長、聖 古町通のアーケード内をグループ
籠町の渡辺町長と、韓国の束草︵ソク で仮装して歩く﹁チューリップ
れることになっている。
花
︵四月二十九日㈰午前十時
チョ︶市、トロイツア港があるロシア パレード﹂
上越市内では、約三分
、白山公園の空中庭園を花絵
の二がトンネルになるが、 のハサン地区、中国の琿春︵こんしゅ から︶
、
﹁花絵コンテス
明かり区間といわれる高 ん︶市から首長が参加、旅客やコンテ で彩る﹁花絵制作﹂
︵四月二十八日㈯午前八時から午
架橋部分では、橋脚の列 ナなどの貨物の利用促進を図ること ト﹂
、そして、来年のサミット開
が建ち並んでおり、今春 や、各国中央政府などに積極的に協 後四時︶
着々と進む北陸新幹線工事
北陸新幹線ルート図
( 20 )
新潟
新潟港
韓 国
ウラジオストク
トロイツァ港
中 国
ロシア
琿春
日本海
束草港
日本海横断フェリー航路
人、②四月二十九日㈰∼三十日㈪の
に法定協議会設置の運びとなる。
組七十人︶を募り、横浜の名所赤レン
ゴールの目標は、平成二十年四月
ガ倉庫やみなとみらい などで花絵
一日、つまり一年後である。
湯沢全国童画展入賞作品決定
の制作を展開することになっている。
日本童画の父・川上四郎記念・第
この春、みなと横浜は新潟色に染
十一回越後湯沢全国童画展の入賞作
まる。
新市の名称は﹁村上市﹂に
品、入選作品が決定した。
今回は、全国から二百五十四点の
昨年十一月号でお伝えした村上市
及び岩船郡有志町村の市町村合併は、
作品が寄せられたが、文字通り北海
十月十五日の町長選挙で推進派町長
道から沖縄まで全国くまなく応募が
が誕生した荒川町も加わって、六市
あり、そのうち新潟県内からは、湯
町村︵村上市・朝日村・荒川町・山北町・
沢町内からの二点を含めて四十点で
神林村・粟島浦村︶となり、任意協議
あった。
催をパートナーとなって共同誘致し 会から法定協議会︵四月︶への合併ス
審査は、
二月六日、
小野かおる氏︵絵
昨年十二月二十六日の第五回任意 ようとしている横浜のまちを新潟の ケジュールは順調に進んでいるかに 協議会では、佐藤度会長︵村上市長︶ 本作家・東京造形大学名誉教授︶
、豊
花で埋め尽くそうという﹁にいがた花 見えた。が、ここへ来て︵二月末︶粟 が新市の名称について︵村上市、岩船 口協氏︵長岡造形大学理事長︶
、親跡
ジャック﹂などが、それである。
島浦村が合併協議からの離脱を表明、 市、いわふね市の中から︶
﹁村上市﹂ 峻氏︵前新潟県立近代美術館副館長︶
特に、横浜での﹁にいがた花ジャッ またまた足並みが乱れることになっ を六市町村長︵当時︶の統一見解とし の三氏によって行われ、入賞入選作
ク﹂では、前
た。
品六十七点が選出された。
て提案。
日新潟市内で
二月二十四日、本保健男村長が住
︵広報
池田
記︶
﹁こだわりを打ち砕き、万難を排
花摘みをし
民説明会の席上で﹁合併しても、粟島 して前へ進むことが大願成就の第一
て、その後一
のような離島では過疎化が進むだけ﹂ 歩﹂と各町村の理解を求め、更に一月
泊二日のバス
として、三月議会にも法定協議会の 二十一日の第六回協議会では合併基
ツアーで横浜
設置議案を提出しない方針を打ち出 本項目の合意を得ていた。
に乗り込む参
したもの。
従って、粟島浦村を除く五市町村
加者︵①四月
これにより県北地域の合併は、村 ︵村上市、朝日村、荒川町、山北町、
二十一日㈯∼
上市と岩船郡四町村と、数の上で逆 神林村︶ではこれまでの積み上げを受
二十二日㈰
戻りとなるが、全体スケジュールは け、三月の議会定例会で法定協議会
の組三十五
これまで通り進められて行く。
設置・予算議案の議決を行い、四月
花絵制作(昨年)
赤レンガ倉庫(横浜市)
21
第5回協議会(村上市民ふれあいセンター)
記念大賞「うれしい日」
尾崎 要 画
( 21 )
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