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喉平手打ち幸せ

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喉平手打ち幸せ
『カミヒトエノキズナ』
男1 父 男2 大翔
男3 父の友人
女1 大翔の彼女
男1、男2が食事をしている。男1は長毛のカツラを頭に乗せ、エプロンを着用している
が、仕草に女らしさは無い。黙々と食事をする二人。
男1 …………どうだ。
男2 ……ん?
男1 どうだ。
男2 ああ、いいよ。まあまあ。
男1 そうか。
再び無言で食事をする二人。男2が食べ終わる。
男2 ごちそうさま。
食器を片付けようとする男2。
男1 ああ、いい。お母さんがやっとくから。
男2 ……そう。
そう言って、男1は男2の食器を片付け始める。立ち上がり掛けた男2は再び座る。
男2 …………あのさあ、親父。
返事は無い。洗い物の音がかすかに聞こえる。
男2 あのさー!
やはり返事は無い。
1
男2 おーい!おやじー!
やってくる男1。仁王立ちし、自分のカツラを指差す。
男2 ……大事な話があるんだ。
男1 フンッ!フンッ!
鼻息荒く、エプロンをはためかせる男1。
男2 ……わかったよお袋……。
男1 分かれば良い。
台所へ去り掛ける男1。
男2 戻るなって!話があるんだって!
男1 ちょうど良かった。私からも大翔に話がある。腹にすえかねていた所だ。
男2 え、なんだよ。
男1 私は親父じゃ無い。ましてやあのさーでもおーいでも無い。
男2 分かったってば……。
男1 分かれば良い。
またも去り掛ける男1。
男2 だから戻るなって!話があるんだって!
男1 話って何だ。儲け話か。
男2 なんで俺が持ち掛けるんだよ。
男1 じゃあなんだ?吉本は録画予約してあるぞ。
男2 ありがとう。
男1 毎週録画と言ってな、登録しておくと、ビデオが勝手に録ってくれるんだ。
男2 ああそう、うん、知ってるよ。
男1 便利になったもんだ。
男2 便利になったね。
男1 とにかく、吉本のことは心配するな。
男2 わかったありがとう。
去り掛ける男1。
2
男2 吉本じゃないんだって!
男1 …………吉本じゃ……ない?
男2 ああ。
男1 違う番組を……?しかし、そんないくつも予約できるのか?
男2 それはできるんじゃない?
男1 そうか、それならやっておこう。
男2 そうじゃない!テレビじゃない!
男1 ビデオか?
男2 ビデオでも無い!
男1 ビデオでも……。
男2 この家を出ようと思う。
男1 ……家出ってことか。
男2 人聞きが悪いんだよ。第一家出だったら予告しねーよ。
男1 家出じゃなくてなんなんだ?家を出るんだろ?そう言ったじゃないか。
男2 そりゃ、家を出るとは言ったけど……ちょっと、一人暮らしでもしてみようかなって。
男1 ちょっと一人暮らしってお前。メイちゃんのお散歩じゃ無いんだから。
男2 まあ良いじゃないか。その方がお互い気楽だろ?
男1 気楽……。しかし、お父さんがなんて言うか。
男2 ちょっと聞いてみてよ。
男1 そんな訳だが、どうする?お父さん。
男1、おもむろにカツラとエプロンを外す。なにやら今まで以上の男気。
男1 男ってもんはー!いーつかはー!一国!一城のー!あるじにー!
男2 アパートだけどね。
男1 いいじゃないか!うみの男だよ!
男2 海は関係ないよね。
男1 北の酒場だよ!
男2 酒場じゃないよアパートだよ。
男1 与作だよ!
男2 与作じゃ無いよ大翔だよ。
男1 ひろとの「ひろ」はー!大海原のー!……ばらー!
男2 ……惜しい!
男1 ひろとの「と」はー!駆けっこのー!けっこー!
男2 ……残念!
3
男1 一人暮らしおおいにけっこう!けっこうー!けだらけー!猫だらけー!
男2 必要以上に癒されちゃうね。まいいや、とにかく親父は賛成なんだね?
男1 反対のー!反対なのだー!
男2 なんで急にバカボンなんだよ……。
男1 バカボンのぱぱなのだ!
男2 はいはい。バカボンのパパです。
男1 大翔のパパなのだ!
男2 わかってるよ……。
男1 なんでも良いのだー!
男2 「それで良いのだ」って言えよせめて。
男1 死ねば良いのだ!
男2 そういう事言わないだろ。
男1 人がゴミのようなのだ!
男2 もうなんだか良く分かんないよ。お袋に変わってくれよ。
男1、カツラとエプロンを着ける。
男1 お父さんが賛成なら、私は何も言うまい。
男2 ありがとう、お袋。
男1 しかし、なぜ今、一人暮らしなんだ?
男2 いや、そりゃあ、ほら、
男1 なんだ?
男2 家事とかを自分でやって、ああ、実家とはなんとありがたい物かという事をね。感じ
て来ようかなと
男1 ……既にそこまで分かっているのなら、わざわざ実践しなくても良いんじゃないか?
男2 いや、うーん。
男1 別の理由があるのか?
男2 なんだよ、別の理由って。
男1 女でも出来たか。
男2 い、いや!そーゆーわけじゃっ
男1 おとうさーん!ひろとに女が出来ましたよー!
男2 うるさいよ!近所迷惑!
カツラを外す男1。
男1 なーにー!ヤッちまったか!
4
男2 古いんだよ!下ネタやめろ!
男1 男は黙って!三こすり半!
男2 意味分かんないよ!下ネタやめろ!
男1 まあ良い。女が出来ると、一人暮らししたくなるよな。
男2 いや、まあ、うん。
男1 一緒に住むのか?
男2 や、それはまだ分からないけど。
男1 お前も社会人だ。お前の収入の範囲で好きにすれば良い。
男2 うん。ありがとう。
男1 会社行かなくて良いのか。
男2、ちらと時計を見て、
男2 うん、もうちょっと。
男1 そうか。父さんは結構やばいぞ。
男2 だったらもう行けよ!
男1 大翔と、仕事と、どちらが大事かと言えば、やっぱり仕事かな。
男2 だから行けって!
男1 一人暮らし大いに結構だが、別にうちに連れて来たって良いんだぞ。
男2 いや……。
男1 変な声が聞こえてきても、父さん気付かないフリするから。
男2 そういう問題じゃ無いんだって。
男1 どういう問題なんだ。
男2 ほら、だってうち、特殊だから。
男1 特殊?特殊か?
男2 …………特殊だろ。
男1 やっぱ珍しいのか?木造平屋建てって。
男2 家の造りじゃないんだよ!
男1 あ、そうか。サザエさんちも木造平屋建てか。
男2 家の造りじゃないんだよ!片親ってことだよ!
男1 ……片親?……ははは!全然意味わかんない。
男2 意味分かるだろ!親が一人しかいないって意味だよ!母親が死んでるって意味だ
よ!
男1 ええ!マジで?お前のお母さん死んでるの?
男2 死んでるだろ!死んでるから親父がそんなわけわかんない事してるんだろ!?急に
ノリが軽すぎるだろ!
5
男1 おい、お前ちょっと言い過ぎだぞ!ノリが軽いだなんて。
男2 ノリが軽いのはもうどっちでも良いだろ!
男1 考えてみれば、どっちでも良かったかも知れないな。
男2 ……俺は恥ずかしいんだよ!片親なのはまだ良い。全然良いし気にした事も無い。で
もな、親父の気が狂ってるのは恥ずかしくて仕方ないんだよ!こんな家に彼女なんか
呼べるか!
男1 …………そうか。
男2 ……なんだよ。
男1 じゃあ決まり事作ろう。
男2 決まり事?
男1 入って来ないでって時は、赤い傘を玄関に立てかけて置くことにしよう。
男2 いや……だからさ、そういう事じゃないんだって。
男1 まあとにかくそうしよう。そうすれば父さんと母さんがいちゃいちゃしたい日にも安
心だ。
男2 だからさ……。そういうのだよ。母さんとか言ってんなって。
男1 ……どういう意味だ。
男2 大の男がいつまでもさあ。
男1 ……そうだな、もっと堂々といちゃいちゃすべきか
男2 違うって……お袋は居ないんだろ?どうせ死んでんだろ!?俺も良い大人なんだか
ら、隠すなって……。
男1 …………。
男2 なんとか言えよ!
男1 ……いや。
男2 ああそうかい。俺とは口も利きたくないか。……じゃ、俺は仕事行くから。もう、こ
の家には戻らないから。
男2、去って行く。
周囲が急激に変わり、ずいぶん昔のようだ。
男3が駆け込んでくる。
男3 大丈夫か。
男1 おお!よく来てくれた!
男3 ……酔っているのか?
男1 酔ってる?酔ってるって?俺が?
男3 ……雅子は?
男1 ……寝てるよ。
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いつの間にかそこにあったベッドを指差す男1。ベッドからは様々な管が伸び、予断を許
さない状況がうかがえる。
男3、ベッドに駆け寄る。
男3 雅子!
男1 よく寝てる。
男3 容態は……。
男1 ……。
男3 容態はどうなんだ!
男1に掴み掛かる男3。
男1 ……なあに、明日には起きるさ。だってそうだろ?ゆっくり寝たって朝には目が覚め
るだろ?そういうもんだろ?覚めない事なんかあるか?
男3 お前……。
男1 覚めるさ。覚めるに決まってる。お前だってそう思うだろ?なあ。
男3 ……医者はなんて言ってるんだ。
男1 …………医者の言う事なんて、アテになるか。
男3 医者はなんて言ってるんだ!
男1 お前医者と俺どっち信じるよ。なあ、医者と俺ならどっちに金貸す?
男3 なにワケ分からないこと言ってるんだ。医者はなんて言ってるんだ!
男1 俺なら医者には金貸さないね。だって絶対俺より稼いでるもんな。
男3、男1を殴る。
男3 しっかりしろよ!酔っ払ってる場合じゃないだろ!
男3、男1を引きずって枕元へ行く。
男3 しっかり見ろよ。明日目が覚めるように見えるか!?しっかり見ろよ!寝ぼけた事ば
かり言わずに、ちゃんと見ろよ!
男1、振りほどく。
男1 ……医者の野郎がよう。……もう起きないとよ。
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男3 …………そうか。
男1 笑わせるよな。起きないなんてアリかよ。医者がそれ言っちゃダメでしょ。
男3 それが医者の仕事だ。
男1 はーご大層な仕事ですなあ!諦めるのが仕事ですか!俺はこの間まで、医者ってのは
諦めないのが仕事かと思っていたよ!
どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
男3 ……お前が大翔くんを育てて行くんだろ。いつまでも飲んだくれて、クダ巻いてる場
合かよ。しっかりしろよ。
男1 ……そうだな。
立ち上がり、子供の様子を見に行こうとする男1。
男3 …………お前、再婚しろよ。
目を血走らせ、男3に殴りかかる男1。しかし、酔っ払っているため簡単にいなされる。
男1 お前まで!お前まで諦めるのか!俺に諦めろと言うのか!
男3 その方が良いんだ!お前のためにも、大翔くんのためにも!
男1 俺は諦めない!諦めるもんか……。
男3 ……雅子のために人生を棒に振る事はない。お前も、大翔くんも。
男1 棒に振るなんて
男3 あとは、うちで何とかするから。
男1 え?
男3 お前が諦めないのなら、俺たちも諦めない。俺だって、実の妹が、このまま死ぬなん
て悔しい。お前が闘うなら、俺も闘う。雅子は実家に引き取る。医者がなんと言おう
と、俺たちは諦めないから。
男1 でも……。
男3 お前は大翔くんを無事育て上げることだけ考えろ。立派に成人させることだけ考えろ。
男1 ……雅子の側に居たいんだ。
男3 いつでも会いに来れば良い。一人で闘う必要なんて無いんだ。俺たちにも手伝わせて
くれよ。
男1 …………わかった。
男3 それと、大翔くんのためには、やはり再婚した方が良い。
男1 それだけは御免だ。
8
男3 子供には母性が必要なんだ。母親が居た方が良い。
男1 だが、それは……。
男3は去り、周囲の雰囲気が急激に変わる。いつの間にか男1は居なくなっており、ただ
のベッドになったそれから男2と女1が顔を出す。
男2 しあわせだなあ……。
女1 ちょっと、なんで加山雄三なの。
男2 ふたりをー。ゆーうやみがー。つーつむー
女1 うるさい!なんで加山雄三なの!
男2 ぼかあ、幸せなとき、つい口ずさんでしまうのさ。
女1 もしかして悪い病気なんじゃない?
男2 ただの加山雄三好きだよ。なんで病人扱いなんだよ。
ベッドから立ち上がり、冷蔵庫から飲み物を取り出して飲む女1。
女1 大翔のお父さんてどんな人?
男2 急に話題変えるねえ。
女1 だって私、加山雄三に興味ないもん。
男2 スティーブン・セガールにちょっと似てるよね。
女1 よねって言われても知らないって。へえ、似てるの?
男2 加山雄三がね。
女1 もう良いよ雄三は!
男2 スティーブン・セガールって、大の親日家でね、日本語めちゃめちゃ上手いんだよ。
女1 ……で?
男2 親日と言うと台湾というイメージだけど、なかなかどうして、インドネシアなんかも
女1 大翔のお父さんの話はどうなったの!?
男2 ……うーん。
女1 なに?
男2 ……インドネシアって、島ばっかりで狭そうな印象があるけど、
女1 話を逸らすなって!
男2 ……あんまり話したくないんだよね。
女1 ……そういうわけにもいかないでしょ。
男2 そうなんだけど。
女1 じゃ、お母さんは
男2 もっと話したくないんだよねっ。
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女1 はあ?もしかしてマザコンなの?
男2 え、マザコン?
女1 ……そうなの?
男2 うーん、マザコンって、
女1 そうなの!?
男2 そうじゃなくて、マザコンって、マザーコンプレックス?
女1 当たり前でしょ。それ以外にあるの?
男2 分かんないけど、マザーボードコンポーネントとか?
女1 なんかパソコン用語っぽいけど、そんな単語あるの?
男2 分かんない、多分無いんじゃない?で、マザーコンプレックスって日本語にするとど
ういう意味?
女1 だから、お母さんに甘えたりすることでしょ。
男2 結衣は貧乳がコンプレックスだとか言っていたけど、それは
顔面を殴られる男2。
女1 気にしてるって意味でしょうがっ!気にしてんだから言うな!
男2 「甘える」ではなく?
女1 貧乳に甘えるってどういう意味なの!?
男2 …………。
女1 なに。
男2 母親のことを気にしているかと言われれば、そりゃあ、気にしてはいるよ。
女1 ……そう。
男2 それをマザコンと呼ぶなら、俺はマザコンなんだろう。
女1 よく分かんないけど、なんか複雑そうだね。
男2 複雑だよ。ザ・コンプレックスだよ。
女1 ……離婚、したとか?
男2 うーん……。
女1 そう。私全然気にしないから。
男2 あ、いや、今のはそうじゃなくて。
女1 え?
男2 よく分からないんだよ。
女1 分からない?
男2 物心ついた時には、もう……
女1 居なかったの?
男2 いや、えーと、
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女1 いたの?
男2 そこが複雑でさ……
女1 え、そこって複雑になるの?イエスかノーじゃないの?
男2 とんでもなくグレー。
女1 え、今はどうなの?
男2 更にグレー。
女1 なんで未だにグレーなの!?
男2 黒に近いグレー。
女1 え、黒ってどっち!?居るの?居ないの?
男2 少なくとも家には居な……あ、いや、居る……と言うか、違う人が
女1 違う人ってなに!?再婚?
男2 再婚は絶対してない!
女1 ……それは断言できるんだ。
男2 うん、まあ。再婚は出来ないよね。
女1 再婚出来ない事情があるの?
男2 うん……多分。
女1 煮え切らない男だなあ!
男2 煮え切らないと思われるかも知れないけど、
女1 意気地なし!
男2 意気地なしな所もあるかも知れないけど、
女1 フニャチンヤロウ!
男2 フニャチ……ちょ、それはちょっと言い過ぎじゃない?
女1 え?言い過ぎ?
男2 ……え?……え!?
思わず自分の股間を見る男2。
女1 今度会わせてよ。
男2 え?なに?
女1 大翔のお母さんに。
男2 お袋に!?
女1 ……無理なの?
男2 無理と言うか……。
女1 煮え切らないなあ……。
男2 親父の方がハードルは低いんだけどな。
女1 いやいや、女の方からしたら、お母さんの方がハードル低いんだって。
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男2 いや!それは無い!
女1 なんで大翔が決めるの!?
男2 だってそうなんだよ。こればっかりはもう、しょうがないんだよ。
女1 ああ、だから、やっぱり近くには居ないってこと?
男2 近くに……居ないと言うか、居ると言うか……。
女1 ハッキリして!
男2 ああ!複雑な家庭環境が憎い!
女1 居ないなら居ないで良いから!
男2 居ない!と、言えない事もない!
女1 だからどっちなの!
チャイムが鳴る。
男2 ……ん?NHKかな?
女1 受信料払ってないの?
男2 BSの追加料金の徴収かも。居留守しよう。
チャイムがしつこく鳴る。
女1 そういうのちゃんと払いなよ。
男2 なんだよ、結衣ってNHKの関係者の方?
女1 んなわけないでしょ。面白い番組いっぱいあるんだから払いなよ。
男2 いや、払ってるって。地上波はね。だってホントにBS見れないんだよ。本当に見れ
ないのに「お宅のアパートは、見れるハズですよ」とか言われるのも面倒だし。
女1 まあじゃあそれ説明したら?
チャイムがしつこく鳴る。
男2 しつこいなあ。
男1 居るのは分かってるぞー!
男2 げ!親父!?
女1 お父さん?
男2 ……居留守しよう。
女2 なんで!……私出てくる。
そう言って、寝巻きのまま玄関へ向かう女2。
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男2 ああ!ちょ!
追いかけようとするが、服を着ていないため、手間取る男2。
玄関の方から話し声が聞こえてくる。
男1 ああ、大翔……女!?
女1 はじめまして、私……
男1 大翔……大翔なのか?
女1 あ、いえ、私は大翔の
男1 いつからだ?
女1 え?
男1 いつからなんだ?
女1 ……えーと、え?三年くらい?
男1 お前……
男2 なんだかややこしいことになってるな……。
男1 いや、綺麗だ。
女1 はあ、どうも。
男1 ……声はどうしてるんだ。
女1 ……どうしてると言うと?
男1 なにか……ケアしているのか。
女1 まあ……ガラガラする時はのど飴を舐めますが……。
男1 そうか……。のど飴か……しかし……胸には、何か詰めないのか?
打撃音が寝室にまで響いてくる。
男2 親父……。
女1 普段は入れてます!
男2 そうなんだ……。
男1 いや、休日に押し掛けて悪かったな。これ、遅くなったが引っ越し祝いだ。
女1 ああ、どうもご丁寧に……。
男1 上がっても良いか?
女1 ええ、どうぞ。
二人、来る。男1はカツラを被っている。頬が真っ赤になっている。手には買い物袋。
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男2 お袋バージョンなのかよ!
女1 え?
男1 っ!……大翔!?
女1 どういう事?
男1 どうなっているんだ。
男2 二人と言うか、一人なんだよ。
二人 なるほど。
男2 うそつけ!
女1 いやいや、つまり、お父さんが一人で育ててくれたんでしょ?だから二人と言うか一
人と言うか、なんかややこしい感じなんだよね?
男2 あ、うん。よくわかったね。
男1 私だって分かっているぞ。二人と言うか、一人。ふっふっふ。つまり、大翔は実は双
子だったんだ。それを使ったトリックで
男2 この人は彼女。結衣。
男1 はじめまして。
女1 はじめまして。
男2 この人は……。
男1 母の雅子です。よろしく。
女1 よろしくお願いします。
二人、がっちりと握手をする。
男2 ……なぜ疑問を持たない。
女1 だから、母親代わりもしてきたわけでしょ。さぞご苦労なさったでしょうね。
男1 分かってくれるか。
女1 もちろんです。
再びがっちりと握手をする二人。
男2 ……なぜ意気投合なんだ。
男1 良い子じゃないか。
男2 え、ああ、うん。なんか複雑。
女1 良いお母さんね。
男2 うん、もっと複雑。
女1 今度お父様にもお会いしたいんですが。
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おもむろにカツラを放る男1。
男1 どうも、父の義明です。
女1 はじめまして。
みたびがっちりと握手をする二人。
男2 なんで自然なんだよ!
女1 さぞご苦労なさったんでしょうね。
男1 良い子じゃないか!
男2 え、ああ、うん。
男1 付き合っているのか?
男2 まあ、うん。
男1 ……なんだ?煮え切らない男だな。
男2 煮え切らないと言うか、うーん。
男1 この意気地無しが!
男2 この展開って……。
男1 フニャチンヤロウ!
男2 おうい!言い過ぎだろ!
女1 言い過ぎじゃないでしょ?
男2 ……ちょっと。
男1 言い過ぎじゃないのか。
女1 全然言い過ぎじゃないですよ。
男2 なんで俺ばっかり損するんだ!お前だってひんにゅ
すかさず強烈な平手を見舞う女1。
男1 ひん?ひん、ってなんだ?
女1 私、家が貧しかったんです。
男1 ……そう。貧窮していたんだね。
女1 はい。私、貧窮なんです。
男2 ……不自然じゃないか?
男1 そうか、君は貧窮か。
女1 はい。もう言わなくて良いです。
男1 貧窮か……。
女1 心なしか、私の胸を見ていませんか?
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男1 いや、その。
女1 胸は関係ありませんからね?
男1 ああ、うん。もちろんだ。胸は関係ない。胸が大きいか、えーと、大きくないかは、
女1 もう良いです。逆にムカムカしてきます。
男1 胸焼けか……。
女1 おい。
男2 親父……息子の彼女にセクハラするな。
男1 ああ、わるい。つい出来心で。
男2 人聞きが悪いんだよ。
男1 ……それで、大翔。
男2 なんだよ。
男1 まあ、立ち話もナンだから。
男2 ……え?ああ、うん。掛けたら。
三人、座る。
男2 …………えーと。
男1 ああ、これ、引越祝いだ。
スーパーの袋を手渡す男1。食材が顔を覗かせている。
男2 ……なんでネギ?
男1 その方が良いかと思って。
男2 豆腐に、鶏肉に……。
男1 なんだか鍋の材料みたいだな。
男2 おい……。
男1 そうだ。鍋にしよう。
男2 京都行くみたいに言うな。
男1 大翔、今晩は鍋にしよう。
男2 なんで夜まで居る気なんだよ!
男1 お構いなく。
男2 いやいや。
男1 ああ、ノドが渇いたなあ!……お構いなく。
男2 ……は?
男1 お構いなく!
女1 お茶でも出しましょうか?
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男1 あー!こりゃすみません、お構いなく。大翔、それ仕舞ったらどうだ?
スーパーの袋を示す男1。
男2 あ、ああ。
立ち上がり、仕舞いに行く男2。
男1 ついでにテーブルか何か出してくれよ。
男2 ああ、うん。
男1 その袋の中にプリンが入っているから。
男2 えー?なんだってー?
男1 プリンー!入ってるー!
男2 だからなにー?
男1 お構いなくー!
男2 うん、構わねーよ。
女1 あ、じゃあいただいたプリンでお茶にしましょうか。
男1 いやあ、なんかお茶をせがんだみたいで申し訳ない!お構いなく!
女1 次からは、お茶出して欲しいなら素直にそう言ってくださいね。
ちゃぶ台を持ってきた男1。
女1 大翔。
男2 ん?なに?
女1 お茶。
男2 はあ!?
男1 プリンはどうした?
男2 冷蔵庫に入れたよ。
男1 なんで持ってこないんだ!
男2 だってあれ、くれたんだろ?
男1 お構いなくって言ったじゃないか!
男2 だから構ってねーだろ!
男1 お前それでも日本人か!言葉の裏を読めよ!
男2 なんで怒られているのかさっぱり分からない!
男1 胸に手を当てて考えてみろ!
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男1の胸に手を当てる男2。
男1 俺のじゃない!
女1の胸に手を伸ばす男2。強烈な平手打ちを食らう。
女1 触っても楽しくないだろ?
男2 そうだった。
再度平手打ちされる男2。
女1 自分だけが不幸だなんて思わないでよね。叩く方だって痛いんだから。
男1 だったら叩かなきゃいいのに。
女1 なんです?
男1 みんな苦しみながら生きているよな。うん。誰だって辛いよな、うん。
女1 その通りです。さ、はやくプリンとお茶。
痛そうにしながら台所へ戻る男2。
男1 …………時に、君は大翔と結婚するのかね?
女1 え?
男1 どの程度の関係なんだ?
女1 大翔からは……。
男1 なにも。俺は大翔に嫌われていてね。
女1 そうでしたか。
男1 どうするんだ?
女1 てっきり大翔が話していると思っていたんですが……
男1 ところが何も聞いていないんだ。
女1 結婚しようと思っています。来年。
男1 来年?式の日取りはもう決まっているのか?
女1 はい。お父さんも出席できると大翔は言っていたんですが。
男1 え?出席できるなんて言ったかな?いや、言ってないと言うか、聞いてないが。
女1 やっぱりそうだったんですね。
男1 え?
女1 お父さんの話をする時って、歯切れが悪いから。
男1 あいつはだいたいいつも歯切れが悪いが。
18
女1 いつも以上に歯切れが悪くなるんです。
男1 そりゃかなりのもんだな。
女1 ちゃんと挨拶にも行かずすみません。
男1 いいよ。どうせあいつが行きたく無いって言ったんだろ?
女1 そうなんです。
男1 だが、知ってしまったからには、俺も君の実家へ挨拶に行かなきゃな。
女1 はい。是非いらしてください。
男2、お茶とプリンを持ってくる。テーブルに並べられるそれら。
男2 なあ、親父。
男1 なんだ。
男2 プリン、二個しかないけど。
男1 当たり前だろう。彼女が居るなんて聞いてないんだから。
女1 私は食べるよ。プリン好きだから。
すばやくプリンを奪い取り、一瞬にして平らげる女1。
男2 あー!おい!そんなん俺だって好きだよ!
男1 俺も食べるぞ。買ってきたのは俺だ。
同様に一瞬にして消費されるプリン。
男2 おーい!……おい……。なんて無常なんだ……。
男1 それより大翔!お前来年結婚するのか!?
飛び散るプリン。
男2 だー!きたねえ!食ってからしゃべれ!
飲み込む男1。
男1 お前、なんで結婚すること黙ってたんだ。
男2 あ、あぁ、わるい。……話そうとは思ってたんだけど、なかなかタイミングが無くて。
男1 そういうの黙ってちゃだめだろう。
女1 そうだよ。言ってくれてると思ってた。
19
男2 ……悪かったよ。で、まあ、来年結婚するから。その内招待状も送るから。
男1 肉か魚か選べってやつだろ?
男2 それメインじゃないけど、まあ、選ぶのが多いね。
男1 魚選ぶ奴なんているのかねえ?
男2 結構いると思うけど。
男1 肉の方が高いに決まってるのにな!
男2 そうとも限らないだろ。
女1 魚も案外高いんですよ。
男1 母なる海だもんなあ。
男2 そうだよ。
男1 母なる海と言えば、招待状はどういう形で来るんだ?
女1 ……どういう?
男2 なんの話?郵送するけど。
男1 いや、郵送とかじゃなくて、雅子の名前は入るのかって聞いてるんだ。
女1 雅子?
男2 お袋だよ。
女1 ああ。
男1 どうなんだ。
男2 そんなの、親父の名前だけに決まってるだろ。
女1 ちょっと、大翔。
男1 …………そうか。
男2 ……なんだよ。なにショック受けてんだよ。
男1 いや。
男2 もう良いじゃないか。
男1 え?
男2 そろそろ本当のことを教えてくれよ。
女1 大翔?
男2 なんで親父はそんなカツラまで被って、お袋の振りをする必要があるんだよ。
男1 ……なあ、大翔。
男2 なんだよ。
男1 お前、中学の頃、お母さんのことを気持ち悪いって言ったよな。あの時お母さん、す
ごくショック受けてた。
男2 ……当たり前だろ。ロングのカツラ被ってるオッサンなんだから。
いつの間にか、大翔はガクランを羽織り、風景は過去にさかのぼっていた様だ。男1はカ
ツラを着用する。
20
男1 それでも、母さんは母さんなんだ。
男2 はあ!?キモイんだよオッサン!
男1 母親に向かってオッサンとはなんだ!せめてオバサンと言いなさい!
男2 あんたは母親じゃなくて父親だろ!
男1 母親に向かってあんたとはなんだ!せめてあなた様と言いなさい!
男2 うるせーよ!人の話聞いてんのかよ!?あなた様はツッコミどころがおかしいんだ
よ!
男1 母親に向かってうるせーよとはなんだ!せめてやかましくてらっしゃいますと言い
なさい!
男2 だからそれがやかましくてらっしゃるんだよ!俺の話聞いてんのか!?そのカツラ
取れよ!もうやめろよ!
男1 母親に向かってカツラとはなんだ!ウイッグと言いなさい!
男2 だからツッコミどころがおかしくてらっしゃるんだよ!会話になってらっしゃらな
いんだよ!
男1 だいぶ良い日本語になってきたじゃないか!
男2 やかましくてらっしゃるんだよ!どなた様のお陰だと思ってらっしゃるんだよ!
男1 それはもちろん私だ!
男2 そうでらっしゃるよ!あなた様のお陰だよ!
おもむろにカツラを取る男1。ガクランを脱ぐ男2。
男1 あの時は、どういうわけか感謝されたっけなあ。
男2 あれは感謝じゃないんだよ。おめーのせいだって言いたかったんだけど、俺も思春期
で頭がおかしかったんだよ。
男1 それからしばらく、お前は盗んだマウンテンバイクで夜の校舎の窓ガラスにガムテー
プを貼りまくっていたよな。
女1 なにその尾崎豊の劣化版みたいな素行。
男2 懐かしいな。
男1 父さん正直、お前が何したいのか、分かってやれなかった。
男2 俺もどういう意味があるのかよく分からないまま突き動かされるようにやっていた
けど、一階はみんな窓を開けにくそうにしていたよ。
男1 とにかくなんか表現してるんだなって思ってたよ。芸術って感じがしたよな。
女1 ……親バカなの?
男1 それに小学生の時は、授業参観に母親が来て欲しいと嘆いていた。
21
再び風景は過去にさかのぼる。黄色い帽子を被る男2。カツラを被る男1。
男2 なんで授業参観にお父さんしか来ないの?
男1 お母さんは忙しくてな。
男2 お父さんはお仕事じゃないの?
男1 お仕事はお休みが取れるが、家の仕事は休めないことが多いんだ。ご飯は毎日食べる
だろう?
男2 ……ふーん、そっかあ。
男1 ……お母さんに、授業参観に来て欲しいか?
男2 そりゃあね。みんなはお母さんが来てるから。
男1 ……そうか。
男2 もしお休みが取れたら来てよね、お母さん。
男1 ……ああ、休みが取れたらな。
男2 運動会にも来てよね。
男1 ああ、そうしよう。
男2 お父さんとお母さん二人で来てよね。できたらで良いからさ。
男1 …………ああ。
男2 たまにで良いからさ。
男1 約束しよう。
そして更に時間は過去にさかのぼる。男2は園服を羽織る。男1はカツラを取る。
男2 なんで僕にはお母さんがいないの?
男1 ……お母さん……か。
男2 お母さん死んじゃったの?
男1 死んでなんかいない。
男2 じゃあどこにいるの?
男1 どこ……。
男2 やっぱり死んじゃったの?
男1 お父さんじゃだめなのか?
男2 みんなはお父さんもお母さんも居るのに、どうして僕だけお母さんが居ないの?
男1 お母さんは、入院してるんだ。
男2 入院ってなに?
男1 だが……すぐに良くなる!
男2 お母さんに会えるの?
男1 ああ。すぐ会える。明日会える。
22
男2 本当!?
男1 ああ、本当だ。明日会える。明日、お母さんに会えるから。
風景は現在に戻る。園服と帽子を取る男2。カツラをじっと見詰める男1。
男1 俺は、間違っていたんだろうか。
女1 それは誰にも分かりません。誰も、他人の人生を責めることなんて出来ません。
男1 ……ありがとう。
女1 本当のお母さんは、どこに居るんですか?
男1 ここに居る。
女1 え?
男1、手に持ったカツラを掲げる。
男1 ……これでは不満か?
男2 そんな偶像になんの価値があるんだ。
女1 お母さんに会う事は出来ないんですか?お父さんや、大翔や……私は。
男1、カツラを被る。男1の声に、一瞬、どこからか女性の声が被ってくる。ラジオの周
波数が合ったような感覚。
男1 …………ここに居る。いつでも会える。
男2 ふざけるなよ。
男1 ……ふざける?
男2 もうやめてくれよ。
男1 ……大翔。
男2 母親が居ないなんて、もうどうでも良いよ。
男1 ……どうでも良い?
男2 今時、そんなの珍しいこっちゃない。離婚でも死別でもなんでも良い。そんな事より
俺は、父親がそんなカツラをかぶって外をうろうろしていることの方がよっぽど恥ず
かしいよ!
男2が無理矢理カツラを脱がし、床に捨てる。チャンネルが遠くなる。機械音。
男1 ……雅子。
23
カツラを踏みつける男2。
男2 これはお袋じゃない!お袋なんかじゃない!ただのカツラだ!良く見ろよ親父!
男1 雅子……。
男2 しっかりしてくれよ!
女1 何があったかは知りませんが、お父さんも、前に進んだ方が良いんじゃないですか?
再婚するとか
男1 君は、大翔と結婚したいか。
女1 ……え?
男1 結婚って、なんだ。
女1 寄り添うことだと思います。夫婦になる事だと思います。
男1 それは紙切れ一枚の話なのか?夫婦とは、紙切れ一枚で繋がったり、離れたりするも
のなのか?
女1 そうじゃありませんけど、
突然やってくる男3。周囲の雰囲気が変わる。
男1 雅子に、会わせてもらえないか。
男3 何度来ても、ダメなものはダメなんだ。
男1 俺は夫だ。どうしてダメなんだ。
男3 ……俺を困らせないでくれ。
男1 いつでも会いに来いと言ったじゃないか!お前がそう言ったから、俺は……お前達に
任せたのに……!
男3 両親は、お前達の結婚に反対だったから
男1 それとこれとは話が別だろう!
男3 だが、お前には会いたくないんだそうだ。
男1 俺は親たちに会いに来たわけじゃない。雅子に会いたいんだ。
男3 両親にとっては同じ事なんだ。
男1 ……会わせて欲しい。
男3 お前たちを会わせるわけにはいかないんだ。
男1 ……俺……たち?
男3 ……お前たちだ。
男1 大翔も……大翔も会えないのか。
男3 それが、両親の頼みなんだ。
男1 そんな……そんな事ってあるか!?
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暴れだす男1。押さえつける男3。
男1 騙したのか!俺を騙したのかお前!
男3 静かにしろ!警察を呼ぶぞ!
男1 あーー!!あーーーーー!!!
男3 お前だって、本当は介護せずに済んでラッキーだと思っているんだろう?
男1 ……お前……!!
男3 お荷物は俺たちが背負ってやってるんだ。感謝しろよ。
男1 殺してやる!殺してやる!
地べたを叩いて怒る男1。その男1に、男3は紙を放る。離婚届だ。
男3 自分で離婚するのと、裁判所に離婚させられるのと、どっちが良い?
紙を拾う男1。ビリビリに破る。
男3 ……それが答えってことだな。
去っていく男3。
男1 ……あー!あーーー!!
風景が変わる。女1が思い出の中に入ってくる。手には婚姻届。テーブルに向いながら、
婚姻届に記入していく。
男1 …………金が無いから、結婚式は出来ないな……。
女1 ごめんね。うちの両親が反対してて。
男1 それはまた別だよ。俺に甲斐性が無いのが悪いんだし。
女1 ごめんね。
男1 ……金が貯まるまで、先延ばしにするか?結婚。
女1 ……ううん。式なんて要らないから。
男1 そうか。
女1 式なんて、お金掛かるし、いろいろ大変そうだし。全然良いよ。
男1 でも、やりたかっただろ?ちょっとくらいは。
女1 …………そりゃあね。
男1 式をやらないと、なんだかあっけないな。
25
女1 そうだね。
男1 この紙一枚で結婚しちゃうんだな。
女1 ……うん。
男1 まるで、この紙だけで繋がってるみたいだな。
女1 そんな……寂しいこと言わないでよね。
男1 ……わるい。
女1 キッカケが紙きれ一枚でも、私たちの結婚は、そんなもんじゃないでしょ?
男1 そうだな。
女1 あなたが死んだらさ、再婚して欲しい?
男1 なんだいそりゃ。
女1 年齢によるよね。
男1 そうだな。
女1 三十代なら再婚したいかなあ。
男1 俺はそんなに早く死ぬのかよ。
女1 四十代なら悩むよね。
男1 子供が居たらどうだろう。
女1 難しいね。
男1 ……まあ、良いんじゃないか?死んだ時の話なんて。
女1 …………。
男1 雅子?
女1 私は、再婚しないかな。
男1 ……え?さっき、三十代ならするって言ったじゃないか。
女1 分かんないけどね。やっぱりしない気がする。
男1 そう。ま、死んだ時の話なんて、どうでも良いよ。
女1 再婚して欲しくないでしょ?
男1 ……かもね。
女1 でしょ。だから再婚しないであげる。
男1 そうかい。
女1 私って一途だなあ。ねえ嬉しい?
男1 ああ、嬉しいよ。
女1 本当かなあ。なんかどーでも良いって顔してるよ。
男1 はは。そりゃあ、死んだ後にどう思うかなんて想像も出来ないよ。明日の気分だって
分かんないんだから。
女1 昨日のご飯も覚えてないしね。
男1 今を生きてるから。
女1 はいはい。
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男1 ……書けたぞ。
婚姻届を手渡す男1。
女1 …………私が死んだら、再婚する?
男1 そんな話はもうよそう。
女1 再婚する?
男1 ……お前が死んだら再婚しちゃうから、だから、そう簡単に死ぬなよな。
急激に風景が変わる。
男1 夫婦ってのは、紙切れ一枚でなるもんじゃ無い。紙切れ一枚で引き離されるもんじゃ
ない。
男2 分かってるよ。
男1 お前は分かって無いよ。
男1 俺は反対だ。お前はまだ若過ぎる。
男2 若くちゃいけないのかよ。
男1 若さが取り返しのつかないことになることもある。
男2 ……親父は勝手だよ。
男1 勝手?
男2 親父のことなんか無視して結婚しても良かったけど、祝福して欲しくてこうして話し
てるんじゃないか。
男1 ……俺だって、祝福したいに決まっているじゃないか。
男2 なんだよそれ。
女1 私に何か足りないことがありますか?
男1 そうじゃない。
女1 ……お母さんのことですか?
男1 ……俺は、若かったんだ。大翔が生まれてからも、仕事で帰りが遅くなる事もあった
し、ストレスをパチンコに逃げたりもした。職場の飲み会でも常に深酒をして、帰り
が遅くなる事も多かった。俺は、雅子の不調を気遣ってやれなかった。
男2 ……それで、どうなったんだ。
男1 夕食の買い物に出た時に、事故を起こして。
男2 ……そうか。
男1 何年かは昏睡状態だったんだが、しばらくして死んだ。
男2 ……俺は、お袋の事なんかどうでも良い。
女1 ちょっと大翔。
27
男2 俺は親父のお陰で、惨めな思いなんか一つもしなかった。
女1 ……え。
男2 授業参観だって三者面談だって、親父は欠かさず来てくれた。
男1 せめて、それくらいはな。
男2 朝飯も毎朝作ってくれた。最初は日の丸弁当に冷凍食品が精一杯だった弁当も、段々
上達していって、遂にはビーフストロガノフとかチョコレートフォンデュとか持たせ
てくれるようになった。
女1 お弁当だよね?
男2 俺はお袋がいなくても、それ自体を恥ずかしいとか、惨めだとか思った事はなかった。
親父が、一生懸命俺を育ててくれたから、俺は、寂しいなんて思った事はなかった。
俺がもし親父と同じ状況になったとして、親父みたいに頑張れる自信は無いよ。子供
を一人で育てるなんて、想像も出来ない。
男1 俺と同じ状況になんて、しちゃあだめなんだ。
男2 でも、親父だって俺をここまで育ててくれたじゃないか。最初から俺には無理だなん
て決め付けないでくれよ。
男1 大翔……。だが、しっかり考えているか?紙切れ一枚ですることじゃないんだぞ。
男2 紙切れ一枚じゃいけないのか?
男1 ……なに?
男2 最初はなんだって、紙切れじゃないか。生まれて出すのも紙切れだし、就職活動だっ
て結局は紙切れから始まって、紙切れだけで落とされていく。その最初の紙切れを書
く時、誰だってその後の自分の事なんて想像も出来ないもんじゃないか?
女1 行き当たりばったりかも知れませんが、私たちも頑張ります。……これを被って、人
一倍頑張ってきたお父さんには及ばないかもしれませんが
女1、手に持っている婚姻届を見せ付け、床に落ちているカツラを拾いながら。
男1 だが……。
遠く離れていた周波数が、次第に合い始め、女1の声に、女の声が被ってくる。
女1 …………結婚式も挙げられなくて、婚姻届だけじゃ、紙切れ一枚で繋がってるみたい
だなって、あなたは言った。
男1 ……え?
女1 ……私たちは、式は挙げられなかったけれど、そんな程度の繋がりじゃないよって、
私言ったよね。……あなたは、納得してくれたと思ってた。
男1 ……雅子……?
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男2 え?
女1 ……これが私だなんて、やめてよね。
男1 だが、俺や、大翔にとってはそれが支えだったんだ。
女1 ……そんなの、紙切れ一枚が結婚の全てだって言ってるのと、どう違うの?
男1 それは……。
女1 ……父親として、……母親として、苦労して、努力して、大翔を育ててきてくれて、
ありがとう。
男1 いや。
女1 なんにも手伝えなくてごめんね。
男1 ……そんな事ない。お前が、支えてくれた。
女1 ……祝福してあげてよ。私たちの時みたいな思いをさせちゃ、可哀想でしょ?
男1 ……そうだな。
女1 それと……。
周波数が徐々に遠のく。
男1 なんだ?
女1 兄さんを許してあげてね。
男1 ……え?
女1 兄さんも苦しんでいたんだから。板ばさみで。
男1 そうか。
女1 大翔。
男2 ……え?
女1 お幸せにね。
男2 え……ああ。
男1 なあ、雅子。……そっちはどうだ?
女1 ……。
女1は微笑み、力なく崩れ落ちそうになる。それを慌てて支える男1。
男1 雅子!
女1 ……え?
男1 え?
暗転。余韻の間にテーブルに鍋が用意され、三人は鍋をつついている。エプロンをしてい
る男1。しばし黙々と食事をする。カツラを被り、
29
男1 これ、食べなさい。春菊。
男2 あ、ああ。
男1 豆腐は?大豆イソフラボンだぞ。
男2 もらうよ。
かいがいしく鍋の具をよそう男1。
男2 …………ほとんど話せなかった。
女1 え?
男2 お袋と。
男1 ……ああ。
女1 軽々しく再婚だなんて言ってしまって、すみませんでした。
男1 ……いや、良いんだ。無理もない。
男2 黙ってる方がどうかしてんだよ。
女1 大翔。
男1 ……すまない。
男2 死んでるなら死んでるって、言えば済む話じゃないか。
男1 それだと、母親としての俺は仮の存在……偽りの存在になってしまう気がしてな。そ
れに、認めたくない部分もある。それは、今でもだ。
男2 ……それでも、折を見て本当のことを話すのが礼儀ってもんだろ。
男1 すまなかった。
女1 まあ、良いじゃない、聞けたんだから。結婚は、
「折」としては悪くないと思うけど。
男2 まあ、そうだな。
男1 ……君の家にも、行かなきゃな。
女1 ええ、是非。
男2 カツラはやめろよ。
女1 大翔!
男2 ……お袋だって言ってただろ。そんなもんに頼るなって。
男1 ……そうだな。
男2 親父はまだ良いだろ。俺なんて、ほんの少しも覚えていないんだからな。思い出せる
のは、親父がカツラを被った姿だけなんだから。
男1 悪夢のようだな。
男2 実際よくうなされたよ。
男1 せめて似合ってれば良かったんだが。
男2 そういう問題じゃないんだよな。
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女1 式にも出ていただけるんですよね?
男1 ああ、喜んで。……大翔、肉は?
男2 まだいっぱいあるし……
奪う様に器を取り、鍋の具をよそってあげる男1。
男2 ああ、うん。
女1 染み付いてますね。
男1 そりゃあ、二十年母親やってるからね。
女1 二十年ですか……。
男1 なんだか、あっという間だったな。
女1 大変だったんでしょうね。
男1 そんなこと無いよ。楽しかった。
男2 ありがとな。……親父も、お袋も。
男1 …………ああ。
女1 ……で、なんでまたカツラを?
男1 え、あ、これは……
男2 カツラに固執しないで欲しいって、お袋は言ってたよな?
女1 言ってたね。
男1 なんだなんだ、二人して。最初で最後の共同作業か?
男2 最後じゃねーよ。カツラ脱げよ。
男1 お前、カツラにこだわり過ぎだぞ。
男2 はあ?
男1 もう気にするな。これはカツラじゃない。
男2 じゃあなんなんだよ。
男1 だから、そのう……地毛だ!
男2 嘘つけ!
女1 地毛なら切ってあげましょうか?
男1 カツラだ!カツラだから切るな!
男2 もうなんなんだよ……。
男1 まあ良いじゃないか!これから店もある。気分を高めておきたいんだよ!
女1 え?店?
男2 ……なんだよ、店って。
男1 え?そりゃあ
男2 わー!え!?そうなのか!?
男1 そうってなんだ?
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男2 夜の仕事か!?
男1 昼の仕事だけじゃ苦しかったからなあ。
男2 知りたくなかったー!
男1 男手一つで子供を育てるというのは、並大抵の苦労では
男2 やめろー!黙れー!
男1の首を絞める男2。音楽盛り上がっていく。
男1 最初は抵抗があったが、なかなかどうしてそっちの方も
男2 死ねー!死ねー!
女1 ちょっと大翔、ホントに死んじゃう!
男1 お前もどうだ?結構可愛い顔してるから指名ナンバーワンも夢では
男2 黙れー!お前なんか我が家の恥じゃー!死にさらせー!
男1 うぐぐぐぐ……
女1 お父さんが死んじゃう!お父さんが死んじゃう!
音楽に徐々に声は掻き消されて行き、幕。
32
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