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15.宋と北方王朝

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15.宋と北方王朝
15.宋と北方王朝
□1.朱全忠の建てた【①】を先駆けに、主に節度使により華北に五つの短命な王朝が相次いで成立した。その周辺
で興亡した諸国をあわせ、唐の滅亡から宋の統一までの時代を【②】とよぶ。このうち【③】は建国援助の見返り
に【④】を契丹に割譲した。武断政治(軍人による専制政治)が続くなかで、貴族層は没落し、かわって形勢戸と
よばれる新興地主や大商人が台頭した。
□2.後周の節度使【⑤】は 960 年に【⑥】を都に宋(北宋)を建国した。彼は科挙の最終試験に皇帝が実施する【⑦】
を創設して、
【⑧】にもとづく皇帝独裁体制を強化した。科挙合格者の多くは形勢戸や大商人で占められ、【⑨】層
を形成した。
□3.軍事力の低下した宋は周辺の異民族王朝と講和条約を結び、平和を維持した。その一つが遼と結んだ【⑩】で、
宋が歳幣として銀や絹を贈った。その後、宋は深刻な財政難となったため、皇帝の神宗により宰相に登用された【⑪】
は新法による改革を行い、前漢の武帝も実施した均輸法や、中小商人への低利貸し付け策である【⑫】
、貧農への低
利貸し付け策である【⑬】などを定め、彼らの救済を軸に富国強兵に努めようとした。しかし大地主や大商人を出
身とする官僚は、
【⑭】を中心に【⑮】を形成し、改革を支持する新法党と対立したため、政治は混乱した。
□4.1126 年、遼を滅ぼした金が開封を占拠し、
【⑯】や欽宗らを北方へ連行した。この出来事を【⑰】という。江
南に逃れた高宗は都を【⑱】に移して南宋を建てた。金との対決を主張した主戦派の【⑲】に和平派の【⑳】が勝
利した結果、南宋は金と【㉑】を境界とし、貨幣を贈る屈辱的な和平を結んだ。
□5.形成戸や【㉒】
(科挙官僚を出した形成戸)は多くの【㉓】とよばれる小作人を使役し、荘園を経営した。とく
に長江下流域は新田開発やベトナムから伝来した【㉔】の普及などにより、中国農業の中心となったため、「【㉕】」
といわれた。また喫茶の習慣が普及し、
【㉖】が陶磁器生産の中心として発展した。
□6.宋では国家による都市への商業統制が廃止されたこともあり、商工業が隆盛した。都市の城外には交易場とし
て草市が成立し、
【㉗】とよばれる小都市に発展した。また商人組合の【㉘】や手工業者組合の【㉙】が形成した。
貨幣経済も進展し、大量の銅銭のほか、
【㉚】や会子といった紙幣も流通した。
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑯
⑰
⑱
⑲
⑳
㉑
㉒
㉓
㉔
㉕
㉖
㉗
㉘
㉙
㉚
42.ナポレオン時代
□1. 1799 年に統領政府を樹立したナポレオンは第一統領に就任した。財政整理のためにフランス銀行を設立し、
1802 年には、イギリスと【①】を結び、
【②】を解体させた。この成功を背景に終身統領に就いたナポレオンは、宗
教協約(
【③】
)により、革命以来対立していた教皇と和解して旧教を復活させた。1804 年には個人の自由・私有財
産の不可侵・法の下の平等など革命の成果を明文化した【④】を発布した。同年ナポレオンは皇帝となり【⑤】を
開始した。
□2. ナポレオンの皇帝即位によりフランスの強大化を恐れたイギリスは、首相に復帰したピットの提唱で【⑥】を
結成した。ナポレオンはイギリス上陸をねらったが、
【⑦】でイギリスの【⑧】に敗れ、その野望はついえた。しか
し、
【⑨】では露・墺連合軍を撃破し、これにより【⑥】は解体した。1806 年、ナポレオンが西南ドイツ諸邦をあわ
せて【⑩】を結成すると、10 世紀以来の【⑪】は消滅した。同年、ナポレオンは【⑫】で【⑬】を発布した。これ
はイギリス経済に打撃を与え、またフランス産業による大陸市場独占をねらったものだったが、逆にイギリス製品
にたよっていた大陸諸国を圧迫することになり、反ナポレオン感情を高揚させる結果となった。1807 年にはプロイ
セン・ロシアと【⑭】を締結させ、プロイセンはポーランドの地(ナポレオンの傀儡国家【⑮】を建国)を失うな
ど領土は半減した。
□3. ナポレオンの征服は自由・平等といった仏革命の精神をヨーロッパ各地に浸透させた。しかしその精神は各地
で民族意識を芽生えさせ、圧政や支配からの開放をめざす反ナポレオン運動へと発展した。プロイセンではシュタ
インや【⑯】らにより農奴解放などの改革が行われ、ナポレオン占領下の【⑫】では【⑰】が「【⑱】」の講演を行
ってドイツ人の民族意識を鼓舞した。スペインでは、ナポレオンの兄ジョゼフの国王就任を機に反乱が発生した。
□4. 1812 年、
【⑬】無視から始まった【⑲】遠征でナポレオンが大敗すると、各国は第 4 回対仏大同盟を結成して
21 】
解放戦争に立ち上がった。1813 年には【⑳】に勝利し、翌年にはパリを陥落させた。ナポレオンは皇帝を退位し【○
22 】が即位したが、その不人気と、
23 】での各国の紛糾を見たナポレオンは再び帝位に
に流され、ブルボン家の【○
【○
24 】へと流された。
ついた。しかし、英のウェリントン率いる連合軍に敗れ、最後は大西洋の孤島【○
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑯
⑰
⑱
⑲
⑳
㉑
㉒
㉓
㉔
58.日露戦争、韓国併合、辛亥革命
□1. 義和団事件後もロシアは清朝の領土である東北地方(満州)に駐留しつづけ、さらに朝鮮へ進出しようとした。
この動向を危惧したイギリスは 1902 年、
「
【①】
」とよばれた非同盟政策を放棄して【②】を結んだ。1904 年、中国
東北地方と朝鮮の支配をめぐり【③】戦争が始まったが、翌年【④】が起こると、ロシアは戦争遂行の余力を失っ
た。さらに日本海海戦などでの日本の勝利を受け、アメリカの【⑤】大統領の仲介で【⑥】条約が結ばれた。
□2. 朝鮮は日清戦争後、
【⑦】と改称したが、20 世紀初めの 3 度にわたる【⑧】の過程で、日本の保護国とされた。
都の漢城(現ソウル)には韓国統監府がおかれ、
【⑨】が初代統監となった。1907 年の韓国軍の強制解散を受けて、
【⑩】が韓国各地で激化し、運動家の【⑪】はハルビン駅で【⑨】を暗殺した。1910 年に日本は【⑫】を行い、統
監府に代わり、朝鮮総督府を設置して、安全な植民地とした。
□3. 清朝では義和団事件後、新軍(西洋式軍隊)の増設、
【⑬】の廃止(1905)
、
【⑭】の発布や【⑮】の公約(1908)
などの諸改革を行ったが、一方で【⑯】や民族資本家らの支援を受け、清朝打倒をめざす革命運動も盛んとなった。
1894 年にハワイで【⑰】を組織していた孫文は、1905 年、東京で【⑱】を結成し、【⑲】を提唱した。清朝が外国
21 】が発生し、1911 年 10 月には【○
22 】で湖北新軍
からの借款のために【⑳】の国有化を図ると、これに反対して【○
23 】が勃発した。翌年、孫文を臨時大総統として【○
24 】が南京を都に建国されたが、孫文は清朝の実
が蜂起して【○
25 】と密約を結び、
26 】の退位を条件に、臨時大総統の地位を譲ることを約した。この結果、清朝は
力者だった【○
【○
25 】は北京に都を遷し、彼の専制に反対する【○
27 】などの勢力を弾圧して帝政を宣言した。しかし、
滅亡したが、
【○
28 】が争う状況が
内外からの反対により帝政は取り消された。彼の死後、北京政府の実権をめぐり、地方出身の【○
続いた。
□4. 日露戦争での日本の勝利は列強の圧迫に苦しめられたアジア諸国に影響を与えた。オスマン帝国では 1908 年
29 】革命が起こり、
30 】憲法が復活し、専制皇帝が退位して、立憲君主政に移行した。カージャール朝の支配
に【○
【○
31 】が発生したが、イギリスやロシアの干渉により挫折した。
したイランでは 1905 年に【○
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑯
⑰
⑱
⑲
⑳
㉑
㉒
㉓
㉔
㉕
㉖
27
○
28
○
29
○
30
○
31
○
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