...

ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)

by user

on
Category: Documents
15

views

Report

Comments

Transcript

ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)
論 説
ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)
―ヨーロッパ人権条約の実施制度の全体像の把握―
竹 内 徹
はじめに
一 人権裁判所の判決の執行に関する前提問題
二 判決の執行監視の基本的特徴および性格
1 執行監視に関わる機関とその構成
2 執行監視手続
(1)1976 年規則のもとでの執行監視
(2)現行手続のもとでの執行監視の流れ
(3)標準手続と強化手続
(4)公正な満足の支払いの監視
3 協議・協力・支援に基づく執行監視
(1)執行の遅延および不執行への対応
(2)人権信託基金の設立とその活動 (以上、本誌 265 号)
三 判決の執行監視の機能状況
1 標準手続に係属する判決および公正な満足の支払い
2 法制度および社会制度の重大な構造的欠陥に起因する人権侵害
―強化手続に係属する判決
(1)強化手続に係属する判決の特徴
(2)国内裁判所判決の執行の遅延または不執行
(3)裁判の不合理な遅延
(4)拘置所での劣悪な態様の拘禁
(5)まとめ
3 関係締約国が執行に反対している判決
(1)キプロス紛争とそのヨーロッパ人権条約上の処理
(2)判決の執行状況―ギリシャ系避難民の財産権の侵害
(3)EU 加盟のコンディショナリティの閣僚委員会による利用
結び
法政論集 266 号(2016)
103
論 説
三 判決の執行監視の機能状況
1 標準手続に係属する判決および公正な満足の支払い
執行監視の特徴の一つとして指摘したように、標準手続に係属する判決
の執行は、判決執行部と閣僚委員会担当事務局の活動を通して確保するよ
うになっている。では、どのくらいの割合の判決がこのような処理のされ
方をしているのか。
2014 年末の時点で閣僚委員会に係属している 10,904 件の判決の内訳は、
標準手続に係属するものが 3,834 件、強化手続に係属するものが 6,718 件
4
4
4
となっている(未分類の判決が 352 件)1)。したがって、判決数についてい
えば強化手続に係属するものが全体の 62%を占めていることになる。た
だし、閣僚委員会に係属する判決の多くは、法制度や社会制度の構造的欠
陥を条約違反の原因とする、いわゆる同種反復判決である。こうした判決
のうち人権裁判所が最初に下したものを「リーディング・ケース」とする
と、全 1,513 件のリーディング・ケースの内訳は、標準手続に係属するも
のが 1,149 件、強化手続に係属するものが 328 件となっており、全体の
2)
76%を標準手続が占めている(未分類の判決が 36 件)
。2014 年に執行監
視が終了した 208 件のリーディング・ケースのうち、標準手続に係属する
ものは 192 件、強化手続に係属するものは 16 件であった 3)。
このように、構造的欠陥の存在を明らかにしている判決であっても、そ
のすべてが強化手続に分類されているわけではない。強化手続の利用はあ
くまでも「重大な」構造的欠陥に限るということだろう 4)。ここで示した
1) Supervision of the Execution of Judgments and Decisions of the European Court of
Human Rights: 8th Annual Report of the Committee of Ministers 2014(Council of Europe,
2015)
[hereafter, Execution of Judgments: Annual Report 2014 ], p. 30.
2) Ibid., p. 29. これらの数字には、構造的欠陥を原因としない単発的な人権侵害に
関する判決も含まれている。こうした判決は、侵害された権利の重要性などから
緊急の個別的措置を必要とするものでない限り標準手続に分類されていると考え
られる。
3) Ibid., p. 30.
4) 先に述べたように、重大な構造的欠陥の存在を明らかにしている判決は強化手
続の対象になる。実は、標準手続と強化手続から成る制度を判決執行部が閣僚委
員会に提案した時点では、
「重大な」という文言は抜けていた。この文言は閣僚
委員会によって追加されたのである。参照:CM/Inf/DH(2010)45final, Supervision
of the execution of the judgments and decisions of the European Court of Human Rights:
Implementation of the Interlaken Action Plan―Outstanding issues concerning the
practical modalities of implementation of the new twin-track supervision system,
104
ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)(竹内)
4
4
4
4
4
4
統計から明らかなように、締約国で生じる人権侵害事態の多くは標準手続
によって、すなわち閣僚委員会が関与することなく解決されているのであ
る 5)。
同じように閣僚委員会の関与が控えられる傾向にある、公正な満足の支
払いの監視についても統計を確認しておく。2014 年には 1,389 件の判決が
新たに閣僚委員会に係属し、1,094 件の公正な満足が支払われた 6)。このう
ちで、人権裁判所が定めた期限内に支払いが行われたものは 930 件であっ
た 7)。少なくともこれらについては閣僚委員会が関与することなく支払い
が行われたといえる。さらに、監視の受動的性格を踏まえれば、それらの
多くは関係締約国によって半ば自動的に支払われたと考えても差し支えな
いように思われる。ただし、支払いを証明する書類が閣僚委員会に提出さ
れていない判決が相当数累積していることには注意が必要だろう 8)。
2 法制度および社会制度の重大な構造的欠陥に起因する人権侵害
―強化手続に係属する判決
(1)強化手続に係属する判決の特徴
標準手続とは異なり強化手続では閣僚委員会が執行監視に関与する。強
化手続に係属する判決の多くは、冷戦の終結後にヨーロッパ人権条約の締
約国となった中東欧諸国に対するものである。強化手続に係属するリー
ディング・ケースの 61%が中東欧の 8 箇国によって占められており 9)、ト
Document prepared by the Department for the Execution of Judgments of the European
Court of Human Rights and finalised after the 1100th meeting(December 2010)
(DH)of
the Ministers Deputies, 7 December 2010, paras. 2-10.
5) なお、判決は標準手続と強化手続の間を移動することが可能だが、これはまれ
にしか生じない。2014 年に標準手続から強化手続に移された判決は 2 件であり、
強 化 手 続 か ら 標 準 手 続 に 移 さ れ た 判 決 は 9 件 で あ っ た。 参 照:Execution of
Judgments: Annual Report 2014, p. 41.
6) 二つの数字の間には比較的大きな差がある。これは、一つには、条約の違反が
認定された場合でも、すべての判決で公正な満足の支払いが命じられるわけでは
ないためである。
7) Execution of Judgments: Annual Report 2014, p. 29 and 45.
8) そのような判決は 2015 年 11 月の時点で 1,071 件にのぼっている。参照:No
information related to payment or received information incomplete, Status as of 25
November 2015(Prepared by the Department for the Execution of Judgments of the
European Court of Human Rights).
9) 8 箇国は、ロシア、ウクライナ、ブルガリア、モルドバ、ルーマニア、セルビア、
アゼルバイジャン、ポーランドとなっている。これらは上位 8 箇国であり、残り
の 中 東 欧 諸 国 は「 そ の 他 」 に 分 類 さ れ て い る。 参 照:Execution of Judgments:
法政論集 266 号(2016)
105
論 説
ルコを加えるとその割合は 69%に達する。筆者の調査によれば、2014 年
に人権会合で討議され決定が採択された判決または判決グループの数は延
べ 106 件であり、このうちの 71 件が中東欧諸国のものであった。ここに
トルコを加えるとその数は 83 件にのぼり、西欧諸国については 23 件の判
決または判決グループが審査されたに過ぎない。こうしたことから、判決
の執行監視が近年強化されたという場合、それはとりわけ中東欧諸国につ
いて当てはまるといえる 10)。
強化手続のもとで審査されている人権侵害にはどのようなものがあるの
か。強化手続に係属するリーディング・ケースのうちで最も多いのは、警
察または治安部隊によって行われる生命権侵害や拷問に関する判決であ
り、全体の 20%を占めている。その代表例にはチェチェン紛争で発生し
た文民の殺害や失踪についての判決がある。次いで、拘置所または刑務所
での劣悪な態様の拘禁に関する判決(14%)、裁判の不合理な遅延に関す
る判決(11%)、国内裁判所判決の執行の遅延または不執行に関する判決
(7%)となっている 11)。これらは、いずれも法制度や社会制度の重大な構
造的欠陥に起因する人権侵害であり、そのことを理由に強化手続に係属し
ている。
チェチェン紛争については既に研究が行われている 12)ので、以下では、
国内裁判所判決の執行の遅延または不執行、裁判の不合理な遅延、拘置所
または刑務所での劣悪な態様の拘禁について、閣僚委員会が人権裁判所判
決の執行監視にどのように取り組んでいるのか、事例研究を通して明らか
にする。その際、近年では判決の執行監視における人権裁判所の役割に注
目が集まっていることを踏まえて、この点に関する人権裁判所の活動の限
界についても併せて考察を行う。
Annual Report 2014, p. 41.
10) 閣僚委員会の人権会合は、今や主として中東欧諸国の人権問題を討議する場に
なっているともいえるだろう。判決の執行監視は、執行監視の流れの説明の箇所
で指摘した改善によって強化されてきたと考えて基本的にはよいのだが、西欧諸
国については閣僚委員会による集団的監視から抜け落ちる傾向にあるといえるの
かもしれない。
11) Execution of Judgments: Annual Report 2014, p. 40.
12) 小畑郁『ヨーロッパ地域人権法の憲法秩序化―その国際法過程の批判的考察―』
(信山社、2014 年)133 頁以下。
106
ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)(竹内)
(2)国内裁判所判決の執行の遅延または不執行
ここではウクライナの事例を取り上げる。ウクライナでは、国に一定の
行為(多くの場合が金銭の支払い)を命じる国内裁判所判決の執行が遅延
する、またはそうした判決が執行されないことがしばしば生じている。人
権裁判所がこの問題について条約違反を最初に認定したのは 2004 年で
あった 13)。以来判決の執行を監視してきた閣僚委員会は、この問題を解決
するための措置がほとんどとられていないことを理由に 2008 年に中間決
議 14)を採択した。実は、この中間決議が採択された時点で、人権裁判所は
200 件以上の同種反復判決をウクライナに対して下していた。つまり、人
権裁判所が条約違反を繰り返し認定しても、それは国内裁判所判決の執行
の遅延または不執行という問題の解決にとって効果的ではないのである。
そこで人権裁判所は、2009 年 10 月の Yuriy Nikolayevich Ivanov 判決 15)で
パイロット判決手続の利用に踏み切った。冒頭に述べたようにこの手続は、
条約違反の原因である法制度や社会制度の構造的欠陥を特定し、それを是
正する措置を指示することで人権裁判所判決の執行を促すことを目的とし
ている。元軍人である本件の申立人は退職金などの受給を求めて国内裁判
所に訴えを提起し、その支払いを国に命じる判決を得た。しかし判決の一
部は執行されなかった。人権裁判所は判決が執行されないことについて条
約 6 条 1 項の違反を認定し、それが法制度の様々な不備に起因することを
指摘した 16)。しかしながら、それらの不備を是正する措置については、次
のように述べたのである。
本件で当裁判所が扱っている構造的問題は、性質上、大規模で複雑な
ものである。それらは一見したところ、国内の様々な当局を巻き込んだ、
おそらく立法的および行政的性格の包括的で複雑な措置の実施を要求す
る。確かに、この点についてウクライナによってとられる措置を監視す
るには、閣僚委員会のほうが適した立場にあり、その素養が備わっている。
…[中略]…
13) Zhovner v. Ukraine, Judgment of 29 June 2004.
14) Interim Resolution CM/ResDH
(2008)1(Adopted by the Committee of Ministers on 6
March 2008 at the 1020th meeting of the Ministers Deputies).
15) Yuriy Nikolayevich Ivanov v. Ukraine, Judgment of 15 October 2009.
16) Ibid., para. 84.
法政論集 266 号(2016)
107
論 説
…当裁判所は、問題を解決するために何が最も適当な方法であるのか
を決定し、被告国によってとられるべき一般的措置を指示することは、
閣僚委員会に委ねる 17)。
こうした理由から人権裁判所は、国内裁判所判決が執行されないことに
ついては、それを是正する措置を指示しなかったのである 18)。
それでは、閣僚委員会はどのように Yuriy Nikolayevich Ivanov 判決の執
行監視に取り組んでいるのか。ウクライナは 2010 年 2 月に行動計画を採
択して閣僚委員会に提出した。閣僚委員会は、この行動計画を審査する目
的でウクライナと判決執行部が協議を行うことを、同年 6 月の人権会合で
求めた 19)。こうして人権信託基金の支援を受けて同月中に政府高官と判決
執行部が 2 日間にわたって協議を行った 20)。この協議は立法的および行政
的措置を含む包括的計画の必要性について議論することを目的としてお
り、Yuriy Nikolayevich Ivanov 判決を執行するために必要な広範な措置に
17) Ibid., paras. 90 and 92.
18) なお、本件で人権裁判所は、条約 6 条 1 項の違反の他に、国内裁判所判決の不
執行に対する実効的な救済手段が存在しないことを理由に、同 13 条の違反も認
定した。そして、13 条の違反については、それが構造的欠陥に起因することを指
摘したうえで、主文で、被告国は判例法で確立された条約の原則に沿った実効的
な救済手段を 1 年以内に整備しなければならないと述べた。したがって、正確に
は、パイロット判決手続は 13 条についてのみ利用されたということになる。実
効的な救済手段の整備についてのものではあるが、興味深い事例であるため、人
権裁判所によるこの指示が本判決の執行を効果的に促したのかについて確認して
おく。本判決は 2010 年 1 月に確定したため、実効的な救済手段の整備はそれか
ら 1 年以内に行われなければならない。ウクライナは 2010 年 12 月と 2011 年 7
月に期限の延長を請求した。人権裁判所は 1 度目の請求に対しては半年間の延長
を認めたが、2 度目の請求は拒否した。その結果、ウクライナは期限内に実効的
な救済手段を整備することができなかった。重要なのは、こうした状況において、
判決の執行をウクライナに働きかける有効な手段が人権裁判所にはないというこ
とである。2 度目の請求を拒否した際に人権裁判所は、これ以上遅滞することな
く必要な措置をとるようウクライナを手助けする最善の地位にあるのは閣僚委員
会だとしたうえで、閣僚委員会と協力するようウクライナに求めることしかでき
なかったのである。参照:DH-DD(2011)757, Communication from the Registry of
the European Court concerning the judgment delivered in the case of Yuriy Nikolayevich
Ivanov against Ukraine, 27 September 2011.
19) CM/Del/Dec(2010)1086/19, Decision adopted at the 1086th(DH)meeting of the
Ministers Deputies, 1-3 June 2010.
20) ウクライナは人権信託基金によるプロジェクトの対象国になっている。参照:
拙稿「ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(1)―ヨーロッパ人権条約の実施
制度の全体像の把握―」名古屋大学法政論集 265 号(2016 年)1 頁以下、23 頁、
注(66)。
108
ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)(竹内)
ついて意見が交わされた。
この協議の成果は閣僚委員会によってフォローアップされている。すな
わち、閣僚委員会は、包括的計画を立てて判決の執行に取り組むよう
2010 年 9 月の人権会合でウクライナに求め 21)、11 月の人権会合では中間決
議 22)を採択し、必要な改革を法律と行政慣行に行うよう要請した。これに
応えてウクライナは、
「国内裁判所判決の執行に関する国の保証について
の法律」
(以下、
「判決執行法」とする)と題する法案を 2011 年 1 月に議
会に提出し、翌年 6 月に成立させた。この法律は、国に対して下された判
決の執行手続と、執行の遅延に対する救済手段を定めている。
こうして法律は制定されたが、それは条約の要求を満たすものでなけれ
ばならない。この点について、ウクライナからの要請を受けて判決執行部
は、2011 年 3 月に法案の条約適合性に関する意見を提出した。これは人
権信託基金の活動の一環として行われている。また、判決執行法が制定さ
れると、直後の人権会合で閣僚委員会は、当該法律のテキストを提出する
ようウクライナに要請した 23)。そして、判決執行部は判決執行法の審査を
行い、様々な問題点とその改善策を指摘して、更なる措置を必要とする多
数の未解決の問題が残っていると結論付けた 24)。閣僚委員会は 2012 年 9 月
の人権会合でこうした評価を是認し、指摘された問題点について詳しい情
報を提出するようウクライナに求めた 25)。閣僚委員会、判決執行部および
ウクライナの間でのこうした遣り取りはその後も繰り返されており、その
成果として 2013 年 9 月には判決執行法の改正が行われている。
たとえ条約の要求を満たす法律が制定されたとしても、そのことによっ
て閣僚委員会の監視が終了するわけではない。2014 年 12 月の人権会合で
閣僚委員会は、判決執行法で定められた制度が実効的に機能していないこ
21) CM/Del/Dec(2010)1092/5, Decision adopted at the 1092nd(DH)meeting of the
Ministers Deputies, 14-15 September 2010.
22) Interim Resolution CM/ResDH
(2010)222(Adopted by the Committee of Ministers on
30 November 2010 at the 1100th meeting of the Ministers Deputies).
23) CM/Del/Dec(2012)1144/25, Decision adopted at the 1144th(DH)meeting of the
Ministers Deputies, 4-6 June 2012.
24) CM/Inf/DH(2012)29, Assessment of the measures already taken and of the measures
still envisaged, Memorandum prepared by the Department for the Execution of Judgments
of the European Court of Human Rights, 19 September 2012, paras. 19-37.
25) CM/Del/Dec(2012)1150/26, Decision adopted at the 1150th(DH)meeting of the
Ministers Deputies, 24-26 September 2012.
法政論集 266 号(2016)
109
論 説
とを指摘し、解決策を見つけるためにヨーロッパ評議会が提供することの
できる協力のあらゆる可能性について、検討を行うようウクライナに求め
ている 26)。
(3)裁判の不合理な遅延
ここではポーランドの事例を取り上げる。ポーランドでは、審理の遅延
によって合理的な期間内の裁判を受けられないことがしばしば生じてい
る。人権裁判所がこの問題について最初に条約違反を認定したのは 1998
年の Podbielski 判決 27)であった。この他、初期の代表的な判決として 2000
年の Kudła 判決 28)がある 29)。
閣僚委員会は、以来これらの判決の執行を監視してきたが、2007 年に
中間決議 30)が採択されるまでは目立った活動は確認できない。ここには、
ポーランドが両判決を執行するための措置を積極的にとってきたという事
情があるように思われる。確かに、中間決議が採択されるまでに、裁判手
続の簡略化と審理の迅速化を目的とした民事訴訟法および刑事訴訟法の改
正、裁判の遅延を監視する制度の導入、裁判官の増員、IT システムの導
入といった多様な措置がとられている 31)。要するに、判決の執行が円滑に
行われている、あるいはそう考えられているうちは閣僚委員会は関与を控
えるということだろう。
したがって、判決の執行を妨げる事態が発生すれば閣僚委員会は関与を
強めることになる。ポーランドが提出した 2007 年までの統計は、同国の
裁判所の事件処理効率が向上する一方で、1 年間に提起される事件数も増
加傾向にあるため、裁判所に係属する未処理事件の数が僅かにしか減少し
26) CM/Del/OJ/DH(2014)1214/26, Decision adopted at the 1214th(DH)meeting of the
Ministers Deputies, 2-4 December 2014.
27) Podbielski v. Poland, Judgment of 30 October 1998.
28) Kudła v. Poland[Grand Chamber], Judgment of 26 October 2000. この判決の紹介
および解説として、参照:戸波江二ほか編『ヨーロッパ人権裁判所の判例』(信
山社、2008 年)150 頁以下(申惠丰執筆)。
29) 閣 僚 委 員 会 に よ る 判 決 の 執 行 監 視 は、 民 事 裁 判 の 遅 延 に 関 す る も の は
Podbielski 判決グループとして、刑事裁判の遅延に関するものは Kudła 判決グルー
プとして行われている。
30) Interim Resolution CM/ResDH
(2007)28(Adopted by the Committee of Ministers on
4 April 2007 at the 992nd meeting of the Ministers Deputies).
31) Ibid., Appendix I.
110
ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)(竹内)
ていないことを示していた。そして、2008 年には未処理事件の数が増加
に転じた。これまでにとられた措置では不十分であることが明らかになっ
たのである。
閣僚委員会はこうした事態に敏感に反応した。すなわち、2009 年 6 月
の人権会合で、裁判の遅延が構造的性格の人権侵害であることを指摘した
うえで、その解決策の徹底的な検討を行うこと、および、裁判手続を迅速
に進めて未処理事件の数を減少させるために必要なすべての措置をとるこ
とをポーランドに求めた 32)。そして、同年 12 月の人権会合では、それらの
措置について行動計画を提出するよう求めたのである 33)。
ポーランドは 2010 年 3 月に判決執行部と協議を行い、翌年 11 月に行動
計画 34)を提出した。これを受けて閣僚委員会は、その審査を行うよう直後
の人権会合で判決執行部に指示した 35)。この行動計画では、それまでにポー
ランドがとった措置が中心に報告されており、中間決議以降も民事訴訟法
や刑事訴訟法の改正をはじめ様々な措置がとられてきたことが分かる。一
方、今後の計画については僅かにしか記載されておらず、不明確になって
いた。そこで、ポーランドと判決執行部は 2013 年 3 月に協議を行い、更
なる措置を必要とする未解決の問題について話し合った。そしてその結果、
ポーランドは行動計画を更新して同年 7 月に閣僚委員会に提出した 36)。な
お、その際に示された統計によれば、2012 年には未処理事件の数が減少
に転じており、それまでにとられた措置が一定の成果を挙げていることが
分かる。2013 年 9 月の人権会合で閣僚委員会は、こうした傾向が持続す
るよう今後も必要な措置の検討を行い、行動計画を更新するようポーラン
ドに求めている 37)。
32) CM/Del/Dec(2009)1059, Decisions adopted at the 1059 th(DH)meeting of the
Ministers Deputies, 2-5 June 2009.
33) CM/Del/Dec(2009)1072, Decisions adopted at the 1072 nd(DH)meeting of the
Ministers Deputies, 1-3 December 2009.
34) DH-DD(2011)1074, Communication from Poland concerning the Kudła and
Podbielski groups of cases against Poland, 22 November 2011.
35) CM/Del/Dec(2011)1128/15, Decision adopted at the 1128th(DH)meeting of the
Ministers Deputies, 29-30 November and 1-2 December 2011.
36) DH-DD(2013)787, Communication from Poland concerning the Kudła and Podbielski
groups of cases against Poland, 4 July 2013.
37) CM/Del/OJ/DH(2013)1179/11, Decision adopted at the 1179th(DH)meeting of the
Ministers Deputies, 24-26 September 2013.
法政論集 266 号(2016)
111
論 説
ところで、人権裁判所は、閣僚委員会の以上の活動にもかかわらず依然
として裁判の不合理な遅延が数多く生じていることから、2015 年 7 月の
Rutkowski 判決 38)でパイロット判決手続の利用に踏み切った。本件で人権
裁判所は、裁判の遅延について条約 6 条 1 項の違反を認定し、それが裁判
運営に関する様々な欠陥に起因することを指摘した 39)。しかしながら、そ
れらの欠陥を是正する措置については、Yuriy Nikolayevich Ivanov 判決に
4
4
4
関して先に引用したものと同主旨の理由により、いかなる詳細な措置も指
示することを控えると述べたのである 40)。そして、人権裁判所は主文で、
「被
告国は、適当な法的およびその他の措置を通して、国内裁判所が条約 6 条
1 項および 13 条の適切な原則を遵守することを確保しなければならない」
と述べた 41)。上に見たように閣僚委員会による監視のもとで様々な措置が
議論され、実施されているなか、このような漠然とした指示にどのような
意義があるのか、就中それが判決の執行を効果的に促すかどうかは疑問で
あるというほかない。
(4)拘置所での劣悪な態様の拘禁
ここではロシアの事例を取り上げる。ロシアの拘置所では、過密収容や
生活に不可欠な設備の不備を理由とする、非人道的なまたは品位を傷つけ
る取り扱いがしばしば生じている。人権裁判所がこの問題について条約違
反を最初に認定したのは 2002 年の Kalashnikov 判決 42)であったが、まずは
それ以前の出来事を確認しておく必要がある。というのも、ロシアは
1996 年にヨーロッパ評議会に加盟したのだが、その際のコミットメント
の一つに、
「多くの未決拘禁施設における実質的に非人道的な状態が遅滞
なく改善される」ことが含まれていた 43)からである 44)。
38) Rutkowski and Others v. Poland, Judgment of 7 July 2015.
39) Ibid., para. 207.
40) Ibid.
41) Ibid., point 6 of the operative provisions.
42) Kalashnikov v. Russia, Judgment of 15 July 2002. この判決の紹介および解説とし
て、参照:戸波江二ほか編・前掲注(28)209 頁以下(戸波江二執筆)
。
43) Opinion No.193(1996)on Russia s request for membership of the Council of Europe,
25 January 1996(Adopted by the Parliamentary Assembly of the Council of Europe),
para. 7(ix).
44) 冷戦終結後の慣行としてヨーロッパ評議会は、加盟時になされる民主主義、法
の支配および人権の尊重に関するコミットメントを条件に中東欧諸国の加盟を認
112
ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)(竹内)
ロシアはコミットメントを履行するために次のような措置をとった。す
なわち、まずは、拘置所の建設および修繕を行うことであり、そのための
計画(2002 年から 2006 年まで実施される)を 2001 年に承認した。そし
て次に、未決拘禁の件数を減らすことであり、2002 年には新たな刑事訴
訟法が発効した。注目すべきは、こうしたコミットメントの履行を確保す
る方法である。コミットメントを遵守しない評議会加盟国に対して閣僚委
員会は、先に述べた評議会規程 8 条の決定を行うことができる。ただし、
これは例外的な対応と考えるべきだろう。というのも閣僚委員会は、1995
年に定めた手続で、少なくとも年に 3 回の会合をコミットメントの履行監
視活動に充てることを決定したのだが、この監視が対話と協力に基づくこ
とを繰り返し確認しているのである 45)。デモステネス計画および第二デモ
ステネス計画のもとで中東欧諸国に対する支援活動が行われてきた 46)こと
も合わせて考えれば、加盟国にコミットメントを遵守させるための取り組
みは、人権裁判所判決の執行監視とアプローチにおいて近似しているとい
える。
Kalashnikov 判決が下されると上の措置は判決の執行監視手続のもとで
審査されることになった。閣僚委員会は 2003 年 6 月の人権会合で中間決
議 47)を採択し、拘置所での劣悪な態様の拘禁が構造的性格の人権侵害であ
ることを指摘したうえで、刑事法分野で行われている改革を継続するよう
めてきた。特にロシアの評議会加盟については、参照:庄司克宏「欧州審議会の
拡大とその意義―ロシア加盟を中心に―」国際法外交雑誌 95 巻 4 号(1996 年)1
頁以下、14-19 頁。なお、このコミットメントは評議会加盟後に履行されるもの
であり、加盟前に満たさなければならない条件とは異なる。
45) Declaration on compliance with commitments accepted by member states of the
Council of Europe, 10 November 1994(Adopted by the Committee of Ministers at the
95th session); Procedure for implementing the declaration of 10 November 1994 on
compliance with commitments accepted by member states of the Council of Europe, 20
April 1995(Adopted by the Committee of Ministers at the 535th meeting of the Ministers
Deputies).
46) デモステネス計画は 1990 年から行われ、その後、それと並行して第二デモス
テネス計画が開始された。ロシアは両計画の対象国である。これらの計画は、民
主主義の構築のすべての側面におけるヨーロッパ評議会と西欧諸国の知識と経験
を、中東欧諸国と共有することを目的としており、具体的な活動としてはワーク
ショップの開催や研修プログラムの実施などがある。詳しくは、参照:Andrew
Drzemczewski, The Council of Europe s Co-operation and Assistance Programmes with
Central and Eastern Countries in the Human Rights Field: 1990 to September 1993,
Human Rights Law Journal, Vol. 14(1993), p. 229ff.
47) Interim Resolution ResDH(2003)123(Adopted by the Committee of Ministers on 4
June 2003 at the 841st meeting of the Ministers Deputies).
法政論集 266 号(2016)
113
論 説
要請した。これに応えてロシアは拘置所の建設および修繕を行うための新
たな計画(2007 年から 2016 年まで実施される)を 2006 年に承認した。
一方、未決拘禁の件数を減らす取り組みについては、刑事訴訟法の関連規
定が条約の要求を満たしているかということと、その適用状況が審査の焦
点になっている。判決執行部は、閣僚委員会の要請を受けて行った審査に
おいて、
多くの場合に刑事訴訟法が正しく適用されていないことを指摘し、
未決拘禁の制度を条約適合的に運用するために必要な措置を提案した 48)。
2007 年 2 月の人権会合で閣僚委員会は、それらの措置を検討するようロ
シアに求めた 49)。未決拘禁の利用を例外的な場合に限定することは 2010 年
3 月に採択された中間決議 50)でも要請され、ロシアは同年 4 月と翌年 12
月に刑事訴訟法の関連規定の改正を行った。
ところで、人権裁判所は、閣僚委員会の以上の活動にもかかわらず依然
として劣悪な態様の拘禁が数多く行われていることから、2012 年 1 月の
Ananyev 判決 51)でパイロット判決手続の利用に踏み切った。本件で人権裁
判所は、申立人の未決拘禁について過密収容を主な理由に条約 3 条の違反
を認定し、それが未決拘禁の利用と拘禁施設の運営に関する様々な欠陥に
起因することを指摘した 52)。しかしながら、それらの欠陥を是正する措置
は、やはり Yuriy Nikolayevich Ivanov 判決に関して先に引用したものと同
主旨の理由により、指示しなかったのである 53)。なお人権裁判所は、判決
理由のなかでロシアがとり得る措置を提案してはいるが、それらの多くは
Kalashnikov 判決の執行監視の過程で閣僚委員会や判決執行部によって既
48) CM/Inf/DH(2007)4, Detention on remand in the Russian Federation: Measures
required to comply with the European Court s judgments, Memorandum prepared by the
Department for the Execution of Judgments of the European Court of Human Rights, 12
February 2007.
49) CM/Del/Dec
(2007)987, Decisions adopted at the 987th(DH)meeting of the Ministers
Deputies, 13-14 February 2007.
50) Interim Resolution CM/ResDH
(2010)35(Adopted by the Committee of Ministers on
4 March 2010 at the 1078th meeting of the Ministers Deputies).
51) Ananyev and Others v. Russia, Judgment of 10 January 2012.
52) Ibid., para. 191.
53) Ibid., para. 194. なお、本件で人権裁判所は、条約 3 条の違反の他に、劣悪な態
様の拘禁に対する実効的な救済手段が存在しないことを理由に、同 13 条の違反
も認定した。そして、13 条の違反については、それが構造的欠陥に起因すること
を指摘したうえで、主文で、被告国は判決中に述べた要求を満たす実効的な救済
手段を整備する期限を閣僚委員会と協力して 6 箇月以内に定めなければならない
と述べた。
114
ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)(竹内)
になされてきた指摘を繰り返すものであり、人権裁判所が主導的な役割を
果たしていないことは明らかである。
それでは、Ananyev 判決以降、閣僚委員会はどのように判決の執行監視
に取り組んでいるのか。注目すべきことに、同判決については、パイロッ
ト判決手続を利用したことの意義は次に述べるような形で現れた。
判決執行部は、人権信託基金のもとで、「未決拘禁、および未決拘禁の
態様について異議を申し立てる救済手段についてのパイロット判決、準パ
イロット判決および制度的または構造的問題を明らかにしている判決の執
行」というプロジェクト 54)を 2012 年 7 月から開始した。これは、未決拘
禁に関する規則や救済手段を対象国が整備するのを支援することを目的と
しており、Ananyev 判決がこのプロジェクトの採択に影響を与えたことは
想像に難くない。そして、同判決の執行に向けては次のような活動が行わ
れている。すなわち、ロシアは 2012 年 10 月に行動計画 55)を閣僚委員会に
提出したのだが、この行動計画は同プロジェクトによる支援のもとで判決
執行部および専門家との協議を経て作成されたのである。閣僚委員会は同
年 12 月の人権会合で包括的かつ長期的な計画に基づくものであるとして
この行動計画に満足を示し 56)、2014 年 6 月の人権会合では同プロジェクト
が提供する機会を最大限に活用するようロシアに求めている 57)。
(5)まとめ
以上の事例研究を踏まえて、閣僚委員会がどのように判決の執行監視を
行っているのかをまとめておく。個々の事例に特徴的な点は既に述べた通
りだが、そのなかから強化手続のもとでの監視に共通するものを指摘して
おく。それは、閣僚委員会による監視と判決執行部および閣僚委員会担当
事務局による監視を巧みに組み合わせていることである。行動計画の作成
の際に行われる協議や、行動計画の審査、関係締約国がとった措置の審査、
そして必要な措置を関係締約国に提案することは、いずれも条約や判例法
54) 参照:拙稿・前掲注(20)23 頁、注(68)。
55) DH-DD(2012)1009, Communication from the Russian Federation concerning the case
of Ananyev against Russian Federation, 10 October 2012.
56) CM/Del/Dec(2012)1157/20, Decision adopted at the 1157th(DH)meeting of the
Ministers Deputies, 4-6 December 2012.
57) CM/Del/OJ/DH(2014)1201/15, Decision adopted at the 1201st(DH)meeting of the
Ministers Deputies, 3-5 June 2014.
法政論集 266 号(2016)
115
論 説
の知識を必要とする極めて専門性の高い作業だといえる。こうした作業は
個人資格の専門家で構成される判決執行部と閣僚委員会担当事務局によっ
て担われている。彼らはいわば、「条約の利益の擁護者」として機能して
いるのである 58)。これに対して閣僚委員会は、判決執行部と閣僚委員会担
当事務局のそうした評価や提案を基礎に人権会合で討議を行い、それらを
受け入れるよう中間決議や決定において関係締約国に要請している。した
がって、単に個人専門家が審査をして必要な措置をとるよう求めているだ
けではなく、それは締約国集団の意思としても表明されているのである。
このように、一方では、関係締約国がとった措置の審査をはじめとする専
門的な知識と能力を要する作業を判決執行部と閣僚委員会担当事務局に委
ねることで、そこに各国の政治的考慮が介在することを防ぎ、他方では、
それらの専門家による評価や提案を関係締約国が受け入れるよう人権会合
の場で政治的意思を集団的に動員して働きかける仕組みになっているので
ある 59)。
判決の執行監視の成否は、こうしたプロセスをどれだけ粘り強く継続で
きるかにかかっている。事例研究はこのことを示しているだろう。いずれ
も、閣僚委員会、判決執行部および閣僚委員会担当事務局が関係締約国へ
の働きかけを繰り返すなかで、徐々にではあるが着実に判決の執行に向け
て進展していると評価することができる。
一方で、人権裁判所が判決の執行監視に関与することには限界があるこ
とが明らかになった。人権裁判所の活動のなかでこれまで特に注目されて
きたのは、
判決を執行するための措置を関係締約国に指示することである。
しかしながら、人権裁判所は、国内裁判所判決の不執行、裁判の不合理な
遅延および拘置所での劣悪な態様の拘禁については、何らの(具体的な)
措置も指示しなかった。その理由はいずれも、それらが複数の要因が絡み
58) Fredrik Sundberg, Control of Execution of Decisions under the European Convention
on Human Rights―A Perspective on Democratic Security, Intergovernmental
Cooperation, Unification and Individual Justice in Europe, in Gudmundur Alfredsson,
Jonas Grimheden, Bertrand Ramcharan and Alfred de Zayas(eds.), International Human
Rights Monitoring Mechanisms: Essays in Honour of Jakob Th. Möller, 2nd edition
(Martinus Nijhoff, 2009), p. 465ff. at pp. 470-471.
59) この点については次のものも参照。Ba㶆ak Çalı and Anne Koch, Foxes Guarding
the Foxes? The Peer Review of Human Rights Judgments by the Committee of Ministers
of the Council of Europe, Human Rights Law Review, Vol. 14(2014), p. 301ff.
116
ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)(竹内)
合って発生する高度に複雑な問題であり、解決には広範な措置が必要にな
るため、というものであった。そして、そうした措置の決定は閣僚委員会
が行っている判決の執行監視のなかで行うほうがよいとしている。このよ
うに、高度に複雑な問題については、とるべき措置を人権裁判所が関係締
約国に指示することでその解決を図ることよりも、閣僚委員会のもとでの
プロセスを通して解決することが、人権裁判所自身によって選好されてい
るのである。
3 関係締約国が執行に反対している判決
(1)キプロス紛争とそのヨーロッパ人権条約上の処理
閣僚委員会は以上の事例研究で明らかになったものとは異なる方法で判
決の執行を促すことがある。その例として以下では、キプロス紛争で生じ
た人権侵害を扱った判決を取り上げる。これらの判決は上で取り上げたも
のとは次の点で異なる。すなわち、一つには政治紛争に起因する事案だと
いうことであり、もう一つには関係締約国が執行に反対しているというこ
とである。
1960 年にイギリスから独立したキプロスでは、多数派のギリシャ系住
民と少数派のトルコ系住民との間で対立が続いていた。そして、1974 年
にギリシャ人将校が起こしたクーデターに乗じて、トルコが軍事介入し、
ニコシア以北を占領した。これにより、占領地域に居住していたギリシャ
系住民は南部への避難を余儀なくされた。1983 年には占領地域において
トルコ系住民が「北キプロス・トルコ共和国」として独立を宣言した。ト
ルコはこれを、いかなる国からも独立した国であると主張したが、国連安
全保障理事会は決議 541 において独立宣言の無効を確認した。このような
2 国間の軍事衝突とその後の占領・分断という状況で発生した様々な人権
侵害が、国家申立および個人申立を通してヨーロッパ人権条約の実施機関
に持ち込まれたのである。なお、キプロス紛争については、国連によって、
ギリシャ系およびトルコ系住民の共同体間対話を通した解決が模索されて
きた。
人権裁判所は、1989 年にヨーロッパ人権委員会に申立が付託された
法政論集 266 号(2016)
117
論 説
Loizidou 事件で、キプロス紛争に関する事案を初めて扱った 60)。本件の申
立人はキプロス北部に複数の土地を所有しているが、トルコによる占領以
降そこに近づくことができなくなった。こうした事態について人権裁判所
は、1996 年の判決(本案)61)で第一議定書 1 条の違反を認定した。そして、
1998 年の公正な満足についての判決 62)では、申立人が被った金銭および
非金銭損害に対する賠償を命じた(以下、
「Loizidou 判決」という場合は
1998 年の判決を指すものとする)。しかしながら、トルコは 5 年以上もの
間その支払いを拒否していた。その主な理由として、トルコは、避難民の
財産権の問題はキプロス紛争の全般的政治的解決合意で処理しなければな
らないと主張した。
人権裁判所は、2001 年には、キプロスがトルコを相手取って行った申
立について判決(キプロス対トルコ判決 63))を下した。本判決では数多く
の条約違反が認定されたが、それらを大別すると、ギリシャ系避難民の財
産権の侵害(Loizidou 事件と同様の問題)、行方不明となったギリシャ系
住民とその親族の権利の侵害、キプロス北部のギリシャ系住民の権利の侵
害、トルコ系住民の権利の侵害、となる。Loizidou 判決に対する態度から
すれば、トルコが本判決にも反対したことは想像に難くない。トルコは人
権裁判所のすべての手続に参加しなかった。そして、判決後にトルコを介
して国連事務総長に提出した書簡において、「北キプロス・トルコ共和国」
の大統領は、本判決の執行は 1974 年以前の状態に戻すことを意味してお
り「完全に問題外」だと述べたのである 64)。
こうした状況において閣僚委員会は、どのように判決の執行を促してき
60) キプロスはトルコによる人権侵害を主張して 1974 年、75 年および 77 年にヨー
ロッパ人権委員会に申立を付託した。当時はトルコが人権裁判所の管轄権を受諾
していなかったため、これらの申立の最終的な処理は閣僚委員会に委ねられた。
人権委員会が条約違反を認定する報告書を採択したにもかかわらず、閣僚委員会
は違反の有無については判断せずに手続の終了を決定した。参照:Resolution DH
(79)1(Adopted by the Committee of Ministers on 20 January 1979 at the 298th meeting
of the Ministers Deputies); Resolution DH(92)12(Adopted by the Committee of
Ministers on 2 April 1992 at the 473rd meeting of the Ministers Deputies).
61) Loizidou v. Turkey[Grand Chamber], Judgment of 18 December 1996. この判決の紹
介および解説として、参照:小畑郁・前掲注(12)337 頁以下。
62) Loizidou v. Turkey[Grand Chamber], Judgment(Just satisfaction)of 28 July 1998.
63) Cyprus v. Turkey[Grand Chamber], Judgment of 10 May 2001. この判決の紹介およ
び解説として、参照:小畑郁・前掲注(12)347 頁以下。
64) Letter dated 6 June 2001 from the Permanent Representative of Turkey to the United
Nations addressed to the Secretary-General, UN Doc. A/55/986-S/2001/575.
118
ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)(竹内)
たのか。キプロス紛争の中核である避難民の財産権の問題について検討を
行う。
(2)判決の執行状況―ギリシャ系避難民の財産権の侵害
閣僚委員会の活動を検討する前に、判決を執行するためにこれまでにと
られた措置を確認しておく。
Loizidou 判決で命じられた公正な満足の支払いは、1998 年 10 月にその
期限を経過した。トルコは 2003 年 12 月に公正な満足を支払い、閣僚委員
会は同月の人権会合で同判決の執行監視の終了を決定した 65)。
キプロス対トルコ判決の執行に関しては、2003 年 6 月に、
「
[北キプロス・
トルコ共和国]憲法 159 条 4 項の適用がある北キプロス・トルコ共和国内
の不動産の補償についての法律」
(以下、
「2003 年法」とする)が制定さ
れた。この法律は、ギリシャ系避難民がキプロス北部に所有する土地・建
物について、金銭による補償と南部の土地・建物との交換による補償を定
めていた。人権裁判所は、2005 年 3 月に、避難民が財産権の侵害などを
訴えた Xenides-Arestis 事件の受理可能性決定で、国内的救済完了原則の観
点から 2003 年法が尽くすべき実効的な救済手段か否かを検討した。そし
て、土地・建物の返還(原状回復)について定めていないことを理由に、
2003 年法を訴えられた干渉の基本的側面を規律する完全な救済制度と考
えることはできないと述べた 66)。
こうした判断を受けて 2005 年 12 月には、「[北キプロス・トルコ共和国]
憲法 159 条 1 項(b)に規定する不動産の補償、交換および返還のための
法律」
(以下、
「2005 年法」とする)が制定された。この法律は、2003 年
法が定めていた補償方法に加えて、避難民の土地・建物の返還についても
定めている。避難民の土地・建物は「北キプロス・トルコ共和国」の憲法
上は同「共和国」の所有となったが、そのうちで、所有権が私人に移転さ
れていない、または私人によって利用されていないものが返還の対象にな
る。ただし、
軍事利用を含めて公益目的に利用されているものは除外され、
また、国の安全や公序を害する場合にも返還は認められない。2005 年法
65) Resolution ResDH
(2003)190(Adopted by the Committee of Ministers on 2 December
2003 at the 862nd meeting of the Ministers Deputies).
66) Xenides-Arestis v. Turkey, Decision of 14 March 2005.
法政論集 266 号(2016)
119
論 説
の実施機関としては不動産委員会(Immovable Property Commission)が設
置され、2006 年 3 月から請求の処理を行っている。人権裁判所は、2010
年 3 月に、Demopoulos 事件の受理可能性決定で国内的救済完了原則の観
点から 2005 年法の実効性を審査した。そして、2005 年法は利用可能で実
効的な救済の枠組みを提供すると述べて、申立人がそれを利用していない
ことを理由に不受理決定を下した 67)。返還は僅かな土地・建物について認
められるに過ぎないという申立人の主張 68)に対しては、人権裁判所は、土
地・建物の現在の利用状態に関係なくその返還を命じることは非現実的で
あり、すべての場合に返還を命じることは恣意的で無思慮である危険さえ
あると述べた 69)。
こうした判断を受けて閣僚委員会では、避難民の財産権の問題について
執行監視を終了するか否かをめぐり意見の対立が生じた。そして一時は、
トルコが人権会合を欠席するという事態にまで発展した 70)。ただし、そこ
での主要な対立点は 2005 年法の是非にあるのではなく、閣僚委員会も基
本的には 2005 年法を避難民の財産権の問題の落とし所と考えているよう
である。閣僚委員会による監視は続けられている。
(3)EU 加盟のコンディショナリティの閣僚委員会による利用
先に述べたようにトルコは、避難民の財産権の問題については、キプロ
ス紛争の全般的政治的解決合意で処理するべきだとして判決の執行を拒否
してきた。このことからすれば、Loizidou 事件の公正な満足の支払いが、
2003 年 12 月に行われたことは注目される。というのも、当時は、アナン
67) Demopoulos and Others v. Turkey[Grand Chamber]
, Decision of 1 March 2010, para.
127.
68) どの程度の割合の土地・建物が 2005 年法のもとで返還の対象になるのかは定
かではないが、2009 年 11 月までに不動産委員会が下した 85 件の決定のうち、土
地・建物の返還を認めたのは 4 件であった。ほとんどの決定は金銭による補償を
認めるものであった。参照:Ibid., para. 40.
69) Ibid., paras. 111-119.
70) トルコは、2011 年 9 月に、閣僚委員会が避難民の財産権の問題について執行
監視を終了するまでキプロス対トルコ判決の執行監視の議論には参加しないこと
を閣僚委員会に通知した。そして実際に、同年 11 月から 12 月にかけて行われた
人権会合を同判決に関する限りで欠席した。ただし、それ以降の人権会合では同
判決に関する議論にも参加している。参照:DH-DD(2011)1079, Communication
from the government of Cyprus in the case of Cyprus against Turkey, 23 November 2011,
para. 36; CM/Del/Dec(2011)1128/20, Decision adopted at the 1128th(DH)meeting of
the Ministers Deputies, 29-30 November and 1-2 December 2011.
120
ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)(竹内)
国連事務総長による仲介のもとでキプロス紛争の解決案(いわゆるアナン・
プラン)
の作成が具体的な進展を見せていたのである 71)。これらのことは、
避難民の財産権の問題は(アナン・プランによる)全般的政治的解決合意
で処理するという主張をトルコが部分的にであれ明確に修正したことを意
味しているだけでなく、そうせざるを得ない差し迫った事情が存在してい
たことをも窺わせる。同様のことは、アナン・プランの作成と並行して行
われた 2003 年法の制定についてもいえるのであり、キプロス対トルコ判
決の執行については、2005 年法に取って代わられたものの、2003 年法の
制定が転換点だったといえる。以下では、トルコの態度のこうした修正が
どのようにしてもたらされたのか検討する。
トルコは 1999 年に EU の加盟候補国として認められ、加盟条件である、
いわゆるコペンハーゲン基準 72) を満たすために法制度改革を進めてい
る 73)。こうした取り組みは、2001 年以降、特に「加盟パートナーシップ
(Accession Partnership)」の制度によって規律されてきた。加盟パートナー
シップとは、コペンハーゲン基準に関係する分野で加盟候補国が優先的に
改善しなければならない事項を具体的に特定するとともに、その実施に向
けた支援を EU が行うことを定めたものである。コペンハーゲン基準の充
足度は、EC 委員会(Commission of the European Communities、現在ではヨー
ロッパ委員会(European Commission))が作成する加盟に向けた進展につ
いての定期報告書で評価され、その評価に基づいて加盟パートナーシップ
71) アナン・プランは、2004 年 4 月に、それぞれギリシャ系住民とトルコ系住民
の住民投票にかけられた。トルコ系住民の投票では過半数の賛成を得たが、ギリ
シャ系住民の投票では反対が過半数を占め、結局、アナン・プランは否決された。
72) 1993 年 6 月 に 開 催 さ れ た コ ペ ン ハ ー ゲ ン・ ヨ ー ロ ッ パ 理 事 会(European
Council)は次のことを確認した。すなわち、
「加盟国たる地位は、民主主義、法
の支配、人権および少数者の尊重と保護を保証する制度の安定性、機能する市場
経済の存在、ならびに、連合内で競争の圧力と市場の諸力に対処する能力を、候
補国が達成していることを要求する」とした。民主主義や人権などに関する最初
のものは政治的基準、市場経済に関する後二者は経済的基準といえるだろう。参
照:Copenhagen European Council, Presidency Conclusions, 21-22 June 1993, p. 13. ヨー
ロッパ理事会の文書は全て同理事会のホームページ< http://www.consilium.europa.
eu/en/european-council/ >から入手した。なお、最終閲覧日は全て 2015 年 11 月 25
日である。
73) キプロス紛争がトルコの EU 加盟に与える影響と、トルコの EU 加盟がキプロ
ス紛争の解決に与える影響については、参照:八谷まち子「トルコの EU 加盟と
分断キプロス問題」法政研究(九州大学)70 巻 4 号(2004 年)157 頁以下。
法政論集 266 号(2016)
121
論 説
の更新が適宜行われる 74)。EU のこうした活動はヨーロッパ評議会の活動と
無関係ではない。トルコについての加盟パートナーシップが定める政治的
基準のなかには、ヨーロッパ人権条約に言及する項目がいくつか存在す
る 75)。要するに、
政治的基準、特に人権に関する EU の加盟条件として、ヨー
ロッパ人権条約の実施状況が考慮されているのである。閣僚委員会は判決
の執行を促すために、このことを次のように利用した。
Loizidou 判決で命じられた公正な満足の支払いを拒むトルコに対して、
閣僚委員会は繰り返し中間決議を採択してきた。なかでも、2001 年 6 月
の人権会合で採択された中間決議は次のように述べている。
閣僚委員会は、…
…[中略]…
[ヨーロッパ人権]裁判所の判決を執行することをトルコが拒否して
いることが、条約の締約国およびヨーロッパ評議会の加盟国としての同
国の国際的義務の明白な無視を示していることを宣言したうえで、事態
の重大さを踏まえて同国が本判決を完全にかつこれ以上遅滞することな
く遵守することを強く要求した、
[前回の]中間決議(Interim Resolution
DH(2000)105)を想起し、
…[中略]…
この判決上の義務をトルコが遵守することを、機構が利用することの
できるすべての手段によって確保する当委員会の決意を宣言し、
この目的のために適当と考える行動をとるよう加盟国の当局に要請す
る 76)。
その後、閣僚委員会では、2003 年 3 月の会合で EU の立場が次のよう
74) EU は 2005 年 10 月にトルコと加盟交渉を開始し、
現在では国内法制度の調整は、
この交渉を通して行われるようになっている。ただし、交渉開始後も加盟パート
ナーシップの制度は継続することとされ、実際に 2006 年 1 月と 2008 年 2 月には
その更新が行われている。
75) ヨーロッパ人権条約ないしヨーロッパ人権裁判所に言及する項目の数は、加盟
パートナーシップが更新されるごとに、4(2001 年)、8(2003 年)、12(2006 年)、
14(2008 年)と増加している。
76) Interim Resolution ResDH(2001)80(Adopted by the Committee of Ministers on 26
June 2001 at the 757th meeting of the Ministers Deputies).
122
ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)(竹内)
に表明された。
EU は、
[ヨーロッパ人権]裁判所の強制的管轄権とその判決の拘束
的性格を含めてヨーロッパ人権条約を受け入れることが、ヨーロッパ評
議会の加盟国たる地位の要件だということを、もう一度強調しておきた
い。条約のこの義務に留意して、EU は、Loizidou 事件で 1998 年 7 月
28 日にヨーロッパ人権裁判所によって下された判決における義務を、
トルコが今日まで未だに遵守していないことを遺憾に思う。EU は、明
らかに法的性格のものであり、その執行が政治的考慮によって影響され
ることのない、この判決を遵守するよう被告国に再び求める 77)。
また、2003 年 5 月に更新されたトルコの加盟パートナーシップには、
「ヨーロッパ人権裁判所の判決の尊重」という項目が新たに加えられた 78)。
これを上の中間決議に対応してとられた措置だと考えることも不可能では
ないだろう 79)。少なくともいえるのは、Loizidou 判決の執行監視に関する
閣僚委員会の活動がこの項目の追加に影響を与えたということである。
EC 委員会の 2002 年の定期報告書は、トルコによる人権裁判所の判決の不
執行が深刻な問題であることを指摘したうえで Loizidou 判決に言及して
いる 80)。そして、そうした判決の不執行を理由の一つに、トルコがコペン
ハーゲン基準の政治的基準を十分に満たしていないと評価した 81)。2003 年
5 月の加盟パートナーシップの更新は、この定期報告書における評価に基
づいて行われたのである。なお、2002 年 12 月に開催されたコペンハーゲン・
77) CM/Del/Act
(2003)832/H54-1, Record, minutes and proceedings of the 832nd meeting
of the Ministers Deputies, 19 March 2003.
78) Council Decision of 19 May 2003 on the principles, priorities, intermediate objectives
and conditions contained in the Accession Partnership with Turkey, Official Journal of the
European Union, L. 145, 12 June 2003, p. 40ff. at p. 43. Cf. Council Decision of 8 March
2001 on the principles, priorities, intermediate objectives and conditions contained in the
Accession Partnership with the Republic of Turkey, Official Journal of the European
Communities, L. 85, 24 March 2001, p. 13ff.
79) Fredrik Sundberg, supra note 58, p. 473; Elisabeth Lambert Abdelgawad, The
Execution of the Judgments of the European Court of Human Rights: Towards a Noncoercive and Participatory Model of Accountability, Heidelberg Journal of International
Law, Vol. 69(2009), p. 471ff. at p. 502, note 135.
80) 2002 Regular Report on Turkey s Progress Towards Accession, 9 October 2002, p. 26.
81) Ibid., p. 47.
法政論集 266 号(2016)
123
論 説
ヨーロッパ理事会は、2004 年 12 月の理事会でコペンハーゲン基準の政治
的基準をトルコが満たしていると判断した場合には、同国との EU 加盟交
渉を遅滞なく開始することを確認した 82)。
EU を介したこうした働きかけはトルコに大きな影響を与えたようであ
る。2003 年 6 月にトルコは、公正な満足の支払いに必要な措置を開始し
たことを閣僚委員会に伝え、10 月までに支払いを済ませると述べた 83)。た
だし、その期日までに支払いは行われなかった。そこで EU が再び影響力
を 行 使 す る こ と に な っ た。EU は、 同 年 10 月 の 閣 僚 委 員 会 の 会 合 で、
Loizidou 判決について EU としての共通の立場に至ったと述べ、それをト
ルコに通知したのである 84)。トルコは同年 12 月に公正な満足の支払いを
行った。
公正な満足の支払いに際してトルコは次のような注目すべき発言を行っ
ている。
トルコ政府は、
[ヨーロッパ人権]条約のもとでの約束に従ってヨー
ロッパ人権裁判所の判決を尊重する決意を再確認する。この観点から、
そして、
条約 46 条 2 項のもとでの閣僚委員会の手続を終了させるために、
1998 年 7 月 28 日の判決で裁判所によって裁定された金額がヨーロッパ
評議会に預けられた。それはヨーロッパ評議会事務総長によって申立人
に送金され、
閣僚委員会はこの処置について通知された。この支払いは、
裁判所に現在係属している事件や将来の同種の事件にとって決して先例
となるものではなく、本件における裁判所の別の判決に関してトルコ政
府の立場を害するものでもない 85)。
このように、公正な満足を支払った理由としてトルコは、人権裁判所の
判決を尊重することと閣僚委員会による執行監視を終了させることの二つ
を挙げている。ただし、前者については、今回の支払いは先例となるもの
82) Copenhagen European Council, Presidency Conclusions, 12-13 December 2002, p. 5.
83) CM/Del/Act(2003)844/H54-1, Record, minutes and proceedings of the 844th meeting
of the Ministers Deputies, 19 June 2003.
84) CM/Notes/860/H54-1, 3 November 2003.
85) CM/Del/Act
(2003)862/H54-1, Record, minutes and proceedings of the 862nd meeting
of the Ministers Deputies, 26-27 November and 2 December 2003.
124
ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)(竹内)
ではないと述べていることから分かるように、単なるリップサービスであ
り、本音は後者にあった。EC 委員会の定期報告書が示唆するように、執
行監視の終了は EU との関係では加盟条件の一部を充足したことを意味
し、監視の継続はその逆を意味する。要するに、判決を執行することには
依然として反対しているが、上に見たように執行せざるを得ない状況が
着々とつくられていくなか、閣僚委員会の監視に抵抗し続けることはでき
ないということにトルコは気づいたのだろう 86)。また、トルコは、当時、
Loizidou 事件と同種の事件が人権裁判所に数多く係属していることを懸念
していた。これらのことを合わせて考えれば、それらの事件が人権裁判所
から閣僚委員会へと経路を辿るよりは、避難民の財産について補償のため
の法律を整備して対処したほうがよいとトルコが考えたとしても不思議で
はない。実際、2003 年法はそうした同種の事件を処理するために制定さ
れたと述べられているのである 87)。
以上のように、Loizidou 判決およびキプロス対トルコ判決の執行監視に
おいては、EU を介した働きかけが直接的および間接的に効果を発揮した
といえる。しかし、それが常に有効であるとは限らない。Ila㶆cu 対モルド
バおよびロシア事件はこのことを示している。本件で人権裁判所は、2004
年 7 月の判決で、申立人の違法な拘禁について条約 5 条の違反を認定し、
恣意的な拘禁を終了させるために必要なすべての措置をとり申立人の即時
の釈放を確保するよう関係締約国に命じた 88)。人権裁判所のこうした命令
にもかかわらず、ロシアの非協力的な態度により判決は長期間執行されな
かった。EU は、2005 年 9 月以降、判決の執行を求める発言を閣僚委員会
の会合で繰り返し、ときには解決に向けた措置の提案も行ってきた 89)。し
86) 引用したトルコの発言にあるように、Loizidou 事件では、公正な満足は申立人
に直接支払われるのではなく、ヨーロッパ評議会を介して申立人に支払われた。
これは異例の措置といえる。また、閣僚委員会は、Loizidou 判決の執行監視の終
了を決定する最終決議においてトルコの当該発言に留意(taking note of)しており、
これも異例の措置である。これらの措置がトルコによって要求されたものである
ことは明らかであり、公正な満足が支払われた背景には、こうした閣僚委員会の
側の譲歩もあったといえる。
87) CM/Del/Act
(2003)862/H54-1, Record, minutes and proceedings of the 862nd meeting
of the Ministers Deputies, 26-27 November and 2 December 2003.
88) Ilaşcu and Others v. Moldova and Russia[Grand Chamber], Judgment of 8 July 2004,
points 14-15 and 22 of the operative provisions.
89) CM/Inf/DH(2006)17rev33, Memorandum prepared by the Secretariat, 29 June 2007,
paras. 64-121, 149-185 and 261-317. EU は閣僚委員会の会合において 58 回もの発言
法政論集 266 号(2016)
125
論 説
かしながら、ロシアの態度は容易には変化せず、すべての申立人が釈放さ
れたのは 2007 年 6 月のことであった。トルコに比べてロシアは EU から
の圧力を感じにくかったといえる。本件では、むしろ、各国が外交協議を
通して判決の執行をロシアに求めていたことが注目されるかもしれな
い 90)。いずれにせよ、Loizidou 判決およびキプロス対トルコ判決の執行監
視が、トルコが EU の加盟候補国であるという特殊な事情のもとで行われ
ていたことには留意する必要があるだろう。
結び
本稿では、人権裁判所中心思考のもとで従来の研究では見落とされがち
だった、閣僚委員会が行っている判決の執行監視活動を検討した。その結
果、一口に閣僚委員会による判決の執行監視といっても、事案の性質に応
じて閣僚委員会の対応は多様であることが明らかになった。執行監視の機
能状況について、本稿で明らかになったことを改めてまとめると、次のよ
うになる。
まず指摘できるのは、実際には、閣僚委員会の関与が控えられている場
面が多くあるということである。公正な満足の支払いの監視と標準手続の
もとでの監視がそうである。前者は、期限を過ぎるまでは支払いを証明す
る書類が関係締約国によって提出されるのを待ち、書類の提出後は申立人
が判決執行部に異議の申し出を行うことで監視システムが動くという、受
動的な仕組みになっている。これは、人権裁判所の命令を関係締約国は当
然に遵守するだろうという考えを前提にしている。そして、実際に、大半
の判決については、こうした監視のもとで問題なく公正な満足の支払いが
行われている。
標準手続に係属する判決は人権会合での審査の対象になることはなく、
その執行は、判決執行部と閣僚委員会担当事務局という個人専門家集団の
活動を通して確保されている。すなわち、行動計画の作成からその実施に
至るまで、判決執行部や閣僚委員会担当事務局が、協議を通して関係締約
を行ったという。参照:CM/Inf/DH(2006)52revised2, Memorandum prepared by the
DGII, 7 May 2007.
90) Ibid.
126
ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)(竹内)
国に判決の執行を促している。その意味では、判決を執行する措置が関係
締約国によって当然にとられるだろうという前提には立っていない。締約
国で生じる人権侵害事態の多くは、こうした標準手続のもとで解決が図ら
れている。
一方、少数の人権侵害事態に限られてはいるが、強化手続に係属する判
決については、閣僚委員会が執行監視に関与する。強化手続でも、標準手
続と同様に、判決執行部と閣僚委員会担当事務局が監視のあらゆる段階で
関係締約国と協議を行う。ただし、この手続の対象となる、複雑または大
規模な人権侵害や関係締約国がその是正に協力的でない人権侵害について
は、個人専門家の決定(たとえそれが裁判所の判決という法的拘束力のあ
るものであっても)や意見だけでは解決に向けた必要な措置を関係締約国
がとるための十分な動機付けにはならず、閣僚委員会による政治的影響力
の行使が必要だと考えられているのである。そうした影響力の行使は、通
常は、閣僚委員会が、判決執行部と閣僚委員会担当事務局の意見を基礎に
人権会合で討議を行い、それを受け入れるよう中間決議や決定において関
係締約国に要請するという形で行われている。また、標準手続にも当ては
まることだが、判決の執行監視が協議・協力・支援のアプローチに基づく
ものであることも、ここで指摘しておくべきだろう。閣僚委員会のこうし
た活動が判決の執行に向けた進展をもたらしてきたことは、事例研究で確
認した通りである。
しかしながら、まれにではあるが、閣僚委員会のこうした働きかけが有
効でない場合がある。Loizidou 判決とキプロス対トルコ判決はその典型例
といえる。トルコはこれらの判決を執行することを拒否した。こうした事
態に直面して閣僚委員会は、EU 加盟のコンディショナリティを利用する
という手段に訴えたのである。これは、判決執行部や閣僚委員会担当事務
局の意見に基づいて閣僚委員会が判決の執行を関係締約国に促すという、
上に述べた通常のプロセスとは明らかに異なる。誤解を恐れずにいうなら
ば、閣僚委員会の対応はもはやヨーロッパ人権条約の枠組み内のものと考
えることは困難であり、閣僚委員会はそれを越えたところから圧力をかけ
ているのである。判決の執行を確保するために閣僚委員会はこのような方
法に訴えるすべを持っているのであり、そのこと自体は、実際の利用例が
僅かにしかないとしても、軽視できるものでも、また、するべきものでも
法政論集 266 号(2016)
127
論 説
ないだろう。
以上のことを踏まえて、本稿の冒頭で指摘した人権裁判所中心思考の問
題に議論を移したい。人権裁判所中心思考の根底にある、ヨーロッパ人権
条約の実効性を確保するうえでは人権裁判所が決定的な役割を果たす、と
いう考えが、本稿の研究に照らせば完全には支持され得ないことは明らか
である。人権裁判所の判決の執行についていえば、そのような考えは、公
正な満足の支払いと、せいぜい標準手続に係属する判決の一部にのみ妥当
するといえる 91)。そして、このことは、人権の国際的保障制度のなかでヨー
ロッパ人権条約を裁判所によって実施される制度と位置付けてきた従来の
理解が、一面的なものであることを示している。むしろ、その実施制度の
強調されるべき特徴は、裁判所による実質的処理の後に政治的機関による
形式的処理を置いて、両者を組み合わせているという点にある。すなわち、
確かに、ヨーロッパ人権条約のもとでは、人権裁判所がすべての申立を処
理し、権利侵害がある場合には条約の違反が認定され、締約国の法的責任
が確定する。そして、関係締約国は、その法的責任に従って判決を執行す
ることを要求される。しかしながら、判決の執行を確保する手段としては、
閣僚委員会において政治的意思を集団的に動員して働きかけるという方法
が採用されているのである。こうした組み合わせは他の人権条約、例えば、
日本も締約国となっている自由権規約や、しばしばヨーロッパ人権条約と
比較される米州人権条約の実施制度には見られない。いずれの条約も前者
91) 人権裁判所の判決から一般的措置をとる関係締約国の法的義務を、当然には引
き出すことができないことは、既に述べた通りである(参照:拙稿・前掲注(20)
8 頁、注(22))
。これは、本来、人権裁判所が行う裁判の目的や性格に関する詳
しい検討を必要とする問題だが、これまでのところ閣僚委員会は、法的義務の有
無の問題を未解決にしつつも、判決の執行監視において関係締約国に一般的措置
を要求するという実行を積み重ねてきた。そして、その結果、事例研究で見たよ
うな司法制度改革や刑事制度改革が行われているのである。このように考えると、
人権裁判所の判決が被害者個人の救済にとどまらない広範な影響を関係締約国に
及ぼすようになったのは、閣僚委員会の活動によるところが大きかったといえる。
この点からも、人権裁判所が決定的な役割を果たす、という考えは支持できない
だろう。また、本稿では、判決の執行監視活動のみを検討の対象としたが、条約
の実施機関としての閣僚委員会の活動は、これにとどまらない。近年、閣僚委員
会が、人権裁判所の判例法を受容するよう締約国に要請していることは、注目に
値する。この点については、参照:Toru Takeuchi, The Role of a Political Body in
Disseminating the European Convention on Human Rights Standards into the State
Parties: With Particular Focus on Follow-up Activity of the Committee of Ministers,
Nagoya University Journal of Law and Politics, No. 258(2014), p. 103ff. at pp. 114-117.
128
ヨーロッパ人権裁判所判決の執行監視(2・完)(竹内)
の要素は備えているが(自由権規約は実施機関として裁判所を設置してい
るわけではないが、締約国の法的責任を明確にする(この場合、確定させ
るわけではない)という点は個人通報制度について当てはまる)、後者の
要素は欠如しているのである。
それでは、法の支配が確立していると考えられてきたヨーロッパの国を
対象とするヨーロッパ人権条約において、以上のように、人権裁判所の権
威と判決の拘束力だけでは人権侵害を是正できない場合がある、という考
えに基づいた制度が採用されていることを、どう受け止めるべきか。この
点に関しては、南北アメリカの国を対象とする米州人権条約の実施制度に
も簡単に触れておきたい。米州人権条約は実施機関として米州人権裁判所
を設置している。同裁判所は、付託された事件において同条約の違反を認
定した場合、国内法の改正や責任者の処罰など様々な措置を関係締約国に
命じる 92)。さらに、判決の執行監視も裁判所自身が行っている 93)。この限り
では、米州人権条約の実施制度は、ヨーロッパ人権条約に比べて裁判所が
より大きな役割を果たす仕組みになっているのである。しかしながら、こ
のことは必ずしも米州人権条約の実効性を高めることには繋がっていな
い。米州人権裁判所の判決は、その多くが執行されないままになっている
のである 94)95)。結局、ここには、人権の国際的保障において裁判所が果た
すことのできる役割の限界という問題が潜んでいるといえるだろう。
92) こ の 点 に 関 す る 米 州 人 権 裁 判 所 の 詳 し い 実 行 に つ い て は、 参 照:Jo M.
Pasqualucci, The Practice and Procedure of the Inter-American Court of Human Rights,
2nd edition(Cambridge University Press, 2013), pp. 196-247.
93) この点については、参照:Ibid., pp. 303-306.
94) 米州人権裁判所の判決の(不)執行に関する詳しい統計として、参照:Fernando
Basch, Leonardo Filippini, Ana Laya, Mariano Nino, Felicitas Rossi and Bárbara
Schreiber, The Effectiveness of the Inter-American System of Human Rights Protection: A
Quantitative Approach to its Functioning and Compliance with its Decisions, International
Journal on Human Rights, Vol. 7, No. 2(2010), p. 9ff.
95) 米州人権裁判所の所長を 1999 年から 2004 年まで務めた Cançado Trindade は、
判決の執行監視を行う閣僚委員会のような機関が存在しないことを、米州人権条
約の実施制度の「空白(gap)
」だと述べている。Trindade は、米州人権条約の締約
国の代表で構成される部会を米州機構内につくり、その部会に判決の執行監視任
務を負わせるという提案を、在任中に何度か行ってきた。参照:Antônio Augusto
Cançado Trindade, Compliance with judgments and decisions―The experience of the
Inter-American Court of Human Rights: a reassessment, Dialogue between judges,
Implementation of the judgments of the European Court of Human Rights: a shared
judicial responsibility?, Proceedings of the Seminar 31 January 2014, p. 10ff. at pp. 10-13.
法政論集 266 号(2016)
129
Fly UP