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明治大学教養論集 通巻四四一号 (二〇〇九・ 一 ) 一 一二九`一 五八頁

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明治大学教養論集 通巻四四一号 (二〇〇九・ 一 ) 一 一二九`一 五八頁
明治大学教養論集通巻四四一号︵二〇〇九・一︶一三九 一五八頁
“映画 人 ” 志 賀 直 三 の 軌 跡
﹃阿呆伝﹄などを手がかりに
永 井 善 久
一三九
現代劇部が製作し、昭和二年二月に公開された﹁青蛾﹂という映画のスチール写真である。写っている女性はこの作品
まず最初に、三種類の資料を御覧いただきたい︵次頁参照︶。︻図版1︼は、阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画の
去った者たちも少なくない。本稿で取り上げるのも、そうした人物のひとりである。
と、とりあえずは見倣せよう。これに反して、大衆メディアの寵児や支配者となることを欲望しつつも、あえなく敗れ
の場合、本人の意向がたとえどのようなものであったにせよ、メディアとは大変に幸福な関係を取り結ぶことができた
の中で押しもおされぬ”名士”としての威信を確立する︿志賀直哉﹀。一見逆説的だが、考えてみると至極当然とも言
えるこのような大衆メディアをめぐる機制を、わたしはこれまでいくつかの論考において検討してきた。︿志賀直哉﹀
昭和初年代、大衆的なるものとは隔絶しているというイメージを獲得することで、かえって大衆化したメディア状況
1
時
しろ鈴木君や同じ吐の管業部πにゐ
である。が、外國映欝の配給はむ
と﹄恐らく外霞業者り巾では
る大橋三彌君等の仕事で亀.志賀君
の胞負とする所は國際文化映欝協
舎喝に依る救育映諾、それも從楽試
みられてゐるやうな見えすいた劾
り十二年に晦朝し、 一吟は阪妻立
最若年者であらう。
礎磨理財科を出て大正八年渡米
マゼステツクの大率にニケ年遊學
し+年渡英ケンブリツチ穴學に入
三十二年三月生れの當年三十一歳
明治大学教養論集 通巻四四、 号︵..○〇九・ ︶
︵其六︶
泰西映謁肚の
士賀直三君
の文士志賀直哉氏の令弟で、明ド治
誼繭懲腰的敏胃映面劇ではな︵、
最近E篤﹁巖窟王﹂を突賓させ
シアや伊太利ドイツあたりで盛ん
て外映高界に鮮かな鮎在振りを見 花昌ニヴアーサルの撮影所へ入つ
にやつてゐる丈化映書O製作であ
せ、W更にワーナー暁面り一九二九 たこともあるが、これが抑も映露
界入りの初めで、今年の暮藤浪無 これは﹁曲木知の世界を知・bせ
年作品の目本・配給擢を獲得して
鳴氏と知リ同氏の大日本映論協倉
るといふのが主題で﹁科攣、地
を後媛することになリ、蹟浪毘轍
丈等の實翼映茜を主とするもので゜
入の﹁鰻窟王﹂日本配給催をも同﹂
時に暖受けたものであるが、其後 あるといふ。事務所は泰西映0町杜
とともに東庄京橋日吉町二り日本
藤浪氏とは亭情あリ分離し現在は
鈴木俊夫君を相手に專ら猫立して 鑛樂會館内にあり、自宅は晩布匿
新進氣鎗の陣膏を固めてゐるもの
三河姦町二十七である。
躍其の名を大ならしめた泰西映岳
肚を主宰し、別に國際丈化映露協
會を統裁して湖洲に釣三ケ月滞在
南滞の空前なる買窩映置を物した
りして、兎殉映岱入の間に話題と
なつてゐる志賀直三君に、白樺汲
加賀直介氏に丈唖の電鎮志賀直畿氏の令
で本名は志賀醍三、﹁冑蛾﹂の典術監督で
婦の柑乎役ミ双つ療わ“です、
あり、太藁スタジオ焚術部長ですが現代
的な典睨ご、豊か叛天分な見込まれて英
四〇
『大日本ユニヴァーサル』昭2・5
【図版2】
『芝居とキネマ』昭2・3
【図版1】
【図版3】『国際映画新聞』昭4・9
子脅百貫・子準,II卿
L ・… 乙ゐてへ別[’隅L、かtLs}P;1二
し蝦 青1
同.1噂.L:「Ptb,ろ」三 t’11,でかい二r‘1;㌻r,・n阜簡司ヒゆ
遇峡』Lユ.靴tドttet
1曲∩「卜1:「Ln駄『匡.,んてヒ’騨ひ嵐L:1Sコの眠の駒黒、!1甲Oh「弔川動i
でヒロインを演じた英百合子。だが注目したいのは彼女ではない。彼女の背景にある﹁カフエートカゲ﹂の斬新な美術.
舞台装置である。後述するように、この作品では本場ハリウッドから来日したハロルド・スミスの撮影とともに、美術
やセットが絶賛された。続く︻図版2︼は、同年に同じ会社が製作、七月に公開された映画﹁美しき奇術師﹂の中で、
ヒロイン英百合子の相手役を勤めた新人二枚目俳優﹁加賀直介﹂である。残念ながら、阪妻側とユニヴァーサル側がト
ラブルを起こして契約を破棄し、現代劇部も解散の憂き目をみたため、彼の出演作はこの映画一本きりということになっ
てしまったのだが。最後の︻図版3︼は、昭和四年に文化映画の製作会社を主宰するのみならず、外国映画の配給会社
をも立ち上げた新進映画プロデューサーの紹介記事である。生憎なことには配給事業が失敗し、この人物は早くもこの
年のうちに映画界からの撤退を余儀なくされてしまう。
じつはこれらの図版はいずれも志賀直哉の弟、直三の仕事を紹介した資料だが、こうして美術監督、映画俳優、プロ
デューサーとその経歴を並べてみると、同じく映画︵映像︶メディアをめぐって多彩な活動を展開したひとりの人物を
想起させずにはおかない。戦前、舞台美術を学ぶためにベルリンに留学、帰国後には日活、松竹に入社し映画スタi
﹁山内光﹂として活躍する一方、プロキノ︵日本プロレタリア映画同盟︶といった左翼映画活動にも関わり、太平洋戦
争中には対外プロパガンダ誌﹃FRONT﹄を発行する東方社の初代理事長などを歴任、戦後は文化映画︵科学映画︶
ユ を製作する東京シネマの主宰者として、内外から高い評価を受けた作品群をプロデュースした人物、岡田桑三である。
もちろん岡田の場合、映画人としての経歴は彼の人生の大半を占めており、わずか二、三年程度︵映画の原作に携わっ
た期間を含めても五年ほど︶のキャリアしか持たない志賀直三と比較するのは、岡田に対していささか礼を失すること
一四一
になるかもしれない。本稿はある意味では、岡田桑三のネガとしての”映画人”志賀直三の軌跡を辿ることになるだ
ろう。
“映画人”志賀直三の軌跡
明治大学教養論集 通巻四四一号︵二〇〇九・一︶ 一四二
ところで直三の映画事業に対して、兄志賀直哉の評価は当然のことながら低い。実際の経験を材料にしたと思しき
﹁弟の帰京﹂︵﹃女性﹄大一五・一︶でも、﹁順三﹂︵直三がモデル︶が書いた映画の原作の内容に関しては何ら言及がな
されていない。これは志賀直哉自身が、直三の書いた原作の内容について全く知らなかった可能性が高いことを意味す
る。つまり何の興味もなかったのである。あるいは﹁菰野﹂︵﹃改造﹄昭九・四。初出原題﹁日記帖﹂︶でも、﹁お話にな
らぬ結果﹂と﹁弟﹂の事業はまともに取り上げられていない。もちろん、映画事業失敗後の直三の放堵極まりないふる
まいに心底困憲させられた志賀直哉であってみれば、これは当然の処遇とは言えよう。しかしながら、直三の自伝﹃阿
呆伝﹄︵新制社、昭三三・一︶を手がかりに当時の資料を調べてみると、一時的にではあれ、直三が映画ジャーナリズ
ムの世界で相当に注目されていたことがわかるのである。本稿は、大正末から昭和初頭という日本映画界が産業基盤を
システマティックに整えつつも、いまだ様々な可能性や混沌とした要素を抱えていた時代に、映画界に果敢に飛び込み、
熱中のうちに翻弄され、やがて退場を余儀なくされた人物の軌跡を追うことで、この時代の映画という大衆メディアに
賭けられた夢の輪郭と、その裏面に存在したある種のいかがわしさを照射する試みである。
その人から日本人を一人推薦してほしいと頼まれているんだが⋮⋮それがね、映画の仕事なんだ﹂
と、突然のお話しにわたしも驚いたが﹁いや、実はね、わたしの親しい田漢という人が、今日本に来ているんだが、
﹁直三君、君支那に行つて見る気ない?﹂
その頃、谷崎潤一郎さんが藍屋に居られ、わたしは時折、お邪魔していたが、或る日
2
実はその少し前に、奈良に居た直木三十五さんが伊藤大輔氏と製作した菊池寛原作﹃第二の接吻﹂を、一寸お手
伝いしたことがあり、その以前にもわたしは東京で日活のシナリオを書いていた。
これは﹃母校の為めに﹄という、浅岡信夫の日活第一回作品で、監督も、阿部豊帰朝第一回作品ということで製
作された。
それを谷崎さんも知つていられ、わたしのことを心にとめていて下さつたのだ。︵﹁阿呆伝﹄、二二二頁︶
幸か不幸か、田漢と中国でプロパガンダ映画を製作するという計画は中国の政情不安のために実現しなかったのだが、
直木三十五が呼びかけ、少なからぬ文壇人の賛同を得て大正十四年三月に設立された連合映画芸術家協会の映画製作に
関係したという記述は興味深い。というのも田島良一が指摘するように、連合映画芸術家協会は松竹、日活など大手製
作会社が製作のみならず配給権をも支配するブロック・ブッキング制度への挑戦を標榜し、東亜キネマから牧野省三が
ヨ ママ 独立する直接のきっかけとなっただけでなく︵マキノプロダクション︶、直木の発想はその後独立プロダクションが籏
出する際のイデオロギー的基盤となったからである。もっとも﹁第二の接吻﹂改め﹁京子と倭子﹂︵大正十五年一月公
開︶を製作した時期は、連合映画芸術家協会の製作費が極度に逼迫しており、直木自身が述懐するように、あるいはこ
ら の作品に直三はほとんど関わらなかったかもしれない。
一方、大正十四年九月十日封切の日活現代劇﹁母校のために﹂。水泳出身のスター俳優鈴木伝明を松竹蒲田に引き抜
かれ、急遽、学生相撲や陸上競技で鳴らした浅岡信夫をスタ!に仕立て上げるべく製作された、日活としても相当に力
を入れた作品である。ヒロインを日活現代劇のトップ女優岡田嘉子が演じ、ハリウッドで修業したジャッキーこと阿部
豊が帰国後第一回作品としてメガホンを採った。いわば鳴物入りで作られた作品であり、興行的にも期待に背かないヒッ
”映画人”志賀直三の軌跡 一四三
明治大学教養論集 通巻四四一号︵、.○〇九・ ︶
【図版4】 『日活映画』大14・11
一四四
トを収めた。ただし﹃阿呆伝﹄に﹁シナリオ﹂とある
のは誤りで、直.二は原作を書いたのみである︵脚本は
畑本秋一︶。周知のように大正末から昭和初期は現代
劇映画の過渡期であった。教養のある市民、いわゆる
新中間層が実質的に厚みを増し、お涙頂戴の新派風の
ヨらら
作品からモダンで明朗な作品へと各映画会社が趣向を
ヨアヤ
転換し始めたのである。当時の批評をみると、原作の
出来を平凡とするものが大半だが、新聞や雑誌などで
紹介された梗概やスチール︵︻図版4︼︶からはスポー
ツ競技の場面をクライマックスに据えたモダンな恋愛
らお 劇であったことがわかる。つまり直三は当時の映画界
の動向をそれなりにしっかりと把握していたと思われ
るのである。
そして直三の映画界への関与は谷崎潤一郎の推薦に
よってさらに深まることになる。
谷崎さんは、わたしの中支行きが↓場の夢と消
え去つてしまつたことを気の毒に思つて下さり、
又別の話を勧めて下さつた。
それはユニヴアーサル映画会社が今度、阪妻と提携して京都に撮影所を設立するから、わたしにその気があるな
ら、中心になつてやつている立花良介氏に話しをしよう、というお話だつた。この話はとんとん拍子に進んで、わ
たしは照子を連れ京都太秦に乗込んで行つた。大正十五年の暮のことである。︵﹃阿呆伝﹄、二二一二∼二二四頁︶
ら 当時人気絶大だった阪東妻三郎を擁する阪妻プロダクションの経営者で配給会社一立商店の社長立花良介が、ユニヴァー
サル映画の日本支社︵その後、大日本ユニヴァーサル映画に改組︶と大正十五年九月に提携し、阪妻・立花・ユニヴァi
り サル連合映画を設立した事件は、業界および映画ファンの注目の的だった。本場ハリウッドの一流会社が日本映画の製
ロ 作に協力し、さらにその映画が海外でも配給される可能性を期待したからである。契約に従って、カメラをはじめとす
る最新の機材のほか、数名の技術者がアメリカから阪妻プロ太秦撮影所に招じられた。このように斯界の熱い注目を浴
びる中、直三は美術部の主任として撮影所入りしたのである。最初に手がけた作品は鈴木重吉監督、英百合子主演の
﹁青蛾﹂。その美術監督としての手腕が絶賛されたのは前述した通りである。いくつか当時の批評を書き抜いてみよう。
最後に特筆したいのはライトと撮影とセツトである、ユ社の本場から来ただけに、兎に角撮影は凄い、ライトもサ
ンアークの有難味を見せる、扮装も如何にも白粉を塗つたらしく見せない、セツトも寸法のとり方が可成り変つて
一四五
さうしてキャメラの良さ。︵中略︶しかも此セツト、 決して金をかけた
ゐた、兎に角凄い︵勇﹁新映画批評 青蛾﹂、﹃都新聞﹄昭二・二・一こ
セットの良さ︵後に記す難点を除いて︶。
“映画人”志賀直三の軌跡
明治大学教養論集 通巻四四一号︵二〇〇九・一︶
といふ程のものではないとのこと。それで、セット担当者志賀直三氏の名を記しておく。
映画批評 青蛾﹂、﹃キネマ旬報﹄二五四号、昭二・三・一、四七頁︶
セツトを作つた志賀直三君の仕事は全く認めてもいい。君にもつとい\材料を与へたい。
一四六
﹃青蛾﹄を見
︵木村千疋男﹁主要日本
映画の為のセツトの新らしい形式を君は作らうとは思はないだらうか。︵鈴木俊夫﹁日本映画月評
る﹂、﹃映画時代 ﹂ 昭 二 ・ 四 、 七 四 頁 ︶
ちなみに最後に挙げた引用文を執筆した鈴木俊夫は、この当時ユナイテッド・アーティスト日本支社の宣伝部長の地
位にあり、後述するように、二年後に直三の映画事業をサポートした人物である。こうして直三の映画美術監督として
のキャリアは華々しくスタートした。
ところが阪妻側とユニヴァーサル側の契約には、よく知られるように重大な問題があった。じつは阪東妻三郎主演の
作品は以前からの契約で松竹の配給となっており、大日本ユニヴァーサルが配給できるのは阪妻が主演しない時代劇か
現代劇に限られていた。そのためユニヴァーサル側は期待したほどの収益を得ることができなかった。しかも現代劇部
にはスターバリューのある男優が在籍しておらず、いきおい話題づくりの奇を街った企画に頼らざるをえない。たとえ
ば﹃キネマ旬報﹄二五二号︵昭二・二・一一︶で阪妻プロは﹁金三千円懸賞映画脚本募集﹂として、一等二百円の賞金
で大々的にシナリオ募集を行った。おそらくその際一等に選ばれたと思われる﹁美しき奇術師﹂においてヒロイン英百
合子の相手役に抜擢されたのが、演技に関してはずぶの素人、直三であった。このにわか作りの俳優をスターに仕立て
け 上げるためにファン雑誌をはじめとするメディアが動員された。先に掲げた︻図版2︼はその一例である。
わたしの名前も加賀直介と決り、
て来た。︵﹃阿呆伝﹄、二二八頁︶
スティル写真が撮され、早々と宣伝された。すると直ぐフアンレターが集まつ
まだ映画が上映されていないにもかかわらず生産される映画スター。今日のわれわれにも馴染み深い、メディア:・・ッ
クスによって生じる倒錯性。ことによると直三は、この時大衆メディアの威力をまざまざと実感したのではなかろうか。
あ さらに想像を逞しくするなら、撮影の際に、カメラの背後に羨望のまなざしをもって自分を見つめる大衆の存在を直三
が意識したということも、あながちありえないとは言えないだろう。ヴァルター・ベンヤミンは言う。﹁それ︵器械装
置によって自分から切り離すことが可能になった鏡像11映像−引用者註︶は運搬可能になった。ではどこへ運搬され
るのか。大衆の前へである。当然ながら、このことは映画俳優の念頭を一瞬たりとも去らない。器械装置の前に立って
め いても、結局は大衆を相手にしているのだということを彼は知っている。この大衆こそが、彼をチェックすることにな
る﹂と。映画とその周辺メディアを通じて遭遇した大衆。不可視でありながら確実に存在するこのカオティックな存在
を標的に、後に直三は事業を展開することになる。
話を﹁美しき奇術師﹂に戻そう。燥っていた不満が爆発し、ついに昭和二年五月の末に阪妻側とユニヴァーサル側は
り 提携を破棄する。折あしく﹁美しき奇術師﹂の完成とほとんど同時であった。そのためこの映画の公開は二ヶ月も遅れ、
松竹の協力で七月二十九日に漸く封切の運びとなった。しかしながら直三の演技の評判は、﹁加賀直介氏は素直に演じ
て居ると云つた程度﹂、﹁加賀直介事志賀直三は、そのタイプは驚くべき立派なものだが、演技は、まるで素人で、一寸
お ロ 一四七
悲しくなつた程﹂と芳しいものではなかった。こうして大衆の憧れの的、映画スターとして成功する可能性は脆くも潰
えたのである。
“映画人”志賀直三の軌跡
明治大学教養論集 通巻四四一号︵二〇〇九・一︶ 一四八
さて、阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画が崩壊した後の直三の足取りだが、﹃阿呆伝﹄によれば、文部省社会教
の 育課の教育映画部の嘱託となったとある。こちらは現在調査中だが、文部省内で撮影と現像が可能となったのは昭和二
年度のことである。また田中純一郎﹃日本教育映画発達史﹄︵蝸牛社、昭五四・九、五六頁︶にも、文部省社会教育局
庶務課に映画部が新設され省内で複製や撮影が可能となったのは昭和二年九月とある︵ただし、社会教育課が普通学務
局から独立し、社会教育局に格上げされ、局内に庶務課が設置されたのは昭和四年七月のことなので、この記述は少々
正確性に欠ける︶。直三が文部省の嘱託となったのはこの時期以降のことと思われる。
東西映
次に直三の”映画人”としての活動が再びメディアで取り上げられるのは昭和四年のこと。外国映画配給事業と文化
映画製作会社のプロデューサーとしてである。
わたしは文部省の社会教育課の嘱託をすると同時に、銀座七丁目の鉱業ビル三階に二室の事務所を設け、
画社と国際文化映画協会を主宰していた。︵﹃阿呆伝﹂、二四五頁︶
﹁東西映画社﹂は﹁泰西映画社﹂の記憶違い、場所も日本鉱業会館の﹁四階﹂である。泰西映画社が配給事業を、国
こ 際文化映画協会が文化映画製作を行った。泰西映画社が最初に配給しようと試みたのが、フランスのルイ・ナルパ社の
製作になる巨編﹁巌窟王﹂。大日本映画協会を主宰しヨーロッパ映画の輸入に携わっていた藤浪無鳴との提携である。
ハお り 藤浪無鳴とはやがて挟を分かつことになるが、ユナイテッド・アーティスト日本支社を昭和二年八月に退社していた鈴
木俊夫が入社し、様々な映画雑誌で大々的な宣伝が行われた。
そして、もう一方の国際文化映画協会の活動も目覚しいものであった。
文化映画的なものでは、昭和五年であつたか、全米国の一流新聞社の代表者十数名を、日本内地と満洲特に満鉄
ママ 沿線の視察に日本が招待したことがあつた。この視察団に、帰りのお土産に持たせて帰えす映画を至急に作製せよ、
お という満鉄からの命令であつた。︵﹃阿呆伝﹄、二四六頁︶
当時の新聞記事を調べると、アメリカの記者団の来日と﹁朝鮮・満洲﹂等への旅行は、昭和四年五月十日から八月二
日にかけてのことである。﹃国際映画新聞﹂三〇号︵昭四・八、三九頁︶によれば、直三ら一行は記者団よりも一足先
の六月二十九日に大陸から帰国し、京都や奈良、琵琶湖などを撮影したとある。さらに興味深いのは、同記事の中に
﹁協会ではこれを﹁伯林﹂の向ふを張つて交響楽的に編輯すると意気込んでゐる﹂という記述が見えることである。﹁伯
林﹂とは言うまでもなく、ベルリンの一日を描いたワルター・ルットマン監督のドキュメンタリー、﹁伯林−大都会
交響楽﹂を指す。日本では昭和三年九月に公開され、モンタージュを多用したその前衛的手法が賛否両論の喧しい論議
を呼んだ。直三らが製作した、後に﹁日本︵・︶満洲﹂と題されることになるこの文化映画に、はたして本当にそのよ
うな実験的な編集が施されたかどうかは少々疑わしいが、映画というメディアの可能性を追求しようとする旺盛なチャ
レンジ精神が窺えるエピソードだと言えよう。完成したフィルムは七月二十五日に幣原喜重郎外務大臣官邸で試写が行
われ、外相ほか集まった人々の絶賛を浴び、十三本のプリントがアメリカに輸出されることとなった。﹃阿呆伝﹄にも、
﹁とまれ、わたしの事業の方は順調であつたのだ﹂︵二四七頁︶と記されているように、映画というメディアに賭ける直
三の情熱は大きな果実を結ぶ可能性に満ちていた。冒頭で取り上げた︻図版3︼はこのような映画製作だけでなく、ワー
一四九
ナi・ブラザース映画の配給権をも手中に収めた前途洋々たる若き”映画人”の紹介記事だが、しかし思わぬ陥穽がこ
の後直三を待ち受けていたのである。
“映画人”志賀直三の軌跡
明治大学教養論集 通巻四四一号︵二〇〇九・一︶
一五〇
ることになった。こうして映画界における信用と大金を失った挙句、泰西映画社は最初に輸入した﹁巌窟王﹂すら配給
かり合い、事態は泥仕合の様相を呈するようになる。その結果、泰西映画社および直三も誹諺や中傷の渦に巻き込まれ
あ 社も配給権の獲得を宣言し、パラマウント支社も騒動に加わるといったように、大衆の夢を標的として欲望同士がぶつ
映画社のほかに小山寛商会︵小山兄弟商会︶にも配給権を二重売却しており、さらにはファースト・ナショナル日本支
クサーたちが蚕く映画界において、直三のような﹁お坊ちやん﹂は恰好のカモにほかならなかった。佐々木弦雄は泰西
映画に成功したワーナー・ブラザース映画の配給権は、大変に魅力に富んだ投資対象であったのだ。だが海千山千のフィ
リアン、アル・ジョルスン主演の﹁ジャズ・シンガi﹂︵一九二七年︶によって不完全ながらも他社に先駆けトーキi
奔が繰り広げられたのか。
お この時期、映画界最大の関心はトーキー︵発声︶映画であった。ヴァイタフォンシステムを開発し、人気ヴォードヴィ
ラザース映画の配給権獲得を発表したのであった。では、なぜワーナー・ブラザースの配給権をめぐってこのような狂
お る。翌三年に権利は立花良介の一立商店に移るも、四年には再度ワ!ナー映画社が独立、直後に新宿武蔵野館の元支配
む 人である角間啓二が起こした角間商会が配給権を引き継ぐことになる。そのようなさなかに泰西映画社がワーナー・ブ
お 佐々木弦雄が輸入し中央映画社が配給を行ってきたが、昭和二年に佐々木がワーナi映画社を立ち上げ配給権を行使す
がなかったため、この前後、同社作品の日本における配給をめぐっては紆余曲折の経過を辿っていた。従来同社作品は
蹟きの石となったのは、ワーナi・ブラザース映画の配給権である。日本にはワーナー・ブラザース社の正式な支社
3
しえぬまま、
はかなくもその幕を閉じたのであった。
ママ いざ契約という時になつて、ワーナi・ブラザースの方では中井個人では困る、何か経歴を有する会社組織なり、
団体でなければ、という話で、東西映画社々長志賀直三名儀が使用された。この契約が大変なインチキで、九州か
らもう一人権利を買つて契約したという人が出て来たりして、わたしも大狼狽。早速九州の人と協同戦線を張つて
前権利者の佐々木某を訴訟に及んだが、裁判にもならぬ内に佐々木某は死んでしまい、われわれは泣寝入りとなつ
た。そしてワーナi・ブラザースの代理人という方から逆に、契約不履行か何かで訴えられ、結局わたしは破産の
宣告を受け、東西映画社も国際文化映画協会も、一場の夢と散りはててしまつた。こうした窮地に追い込まれると、
記事によると﹁妻子なく寂しい生涯であつた﹂
わたしという男は、ガクリと崩折れてしまう。︵﹃阿呆伝﹄、二五五頁︶
お 佐々木弦雄が死亡したのは昭和五年一月五日のこと。享年四十九歳。
という。
な欲望を利用した事業に直三が関わるという事件があった。
“映画人”志賀直三の軌跡
一五一
ので本稿では触れない。しかしながらただ一つ、今日的視点から見れば︿大衆の負の夢﹀としか言いようのない、巨大
映画事業に失敗した後の転落のさまは﹃阿呆伝﹄に大略書かれており、大衆メディアとは直接的な関係のないことな
4
明治大学教養論集 通巻四四一号︵二〇〇九・一︶ 一五二
今度の話というのは斯うだ。今のNHKの斜向いの幸ビルの二階に、満洲武装移民協会というのがあつた。これ
は人口過剰の内地から武装させた農民を満洲に移民駐屯させ、国内の人口問題と、国威発揚を兼ね行うというもの
で、老将軍が理事に名を並べていた。で、協会からの話というのは⋮⋮
内々の話であるが、今度の満洲事変で莫大な戦利品やら没収した物資が満洲に山積されて居り、これ等の整理処
分というものが、全く手の付けようもない始末で、唯放置されたままになつているのだが、軍部で云うところのこ
れ等の逆産物資︵逆賊の財産という意味だそうだ︶の処分整理方をあなたに一任するから、それによつて得るとこ
ろの利得を軍関係の諸機関に差出せ。わが武装移民事業も大いにそれに期待する処がある、以上、というわけだ。
甚だ以て痛快である。よろしい、わたしに出来ることなれば身を以て当りましようということになつた。
︵﹃阿呆伝﹄、二八一∼二八二頁︶
﹁満洲﹂をめぐって渦巻く軍の謀略と大衆の欲望。ルイーズ・ヤングは、満洲事変の報道の際に大衆メディアが国民
の戦争熱をいかに煽ったか、また満洲に関するプロパガンダによって﹁世論﹂がどのように構築されたのかを詳らかに
した。またヤングによれば、﹁満洲国が建国されてからわずか六カ月後の一九三二年九月までの時点で、八四以上の地
方組織が移民計画を立案していた﹂のである。兄、志賀直哉が書いた小説﹁菰野﹂には、この団体︵小説中の表記は
﹁国防協会﹂︶の発会式がラジオの現場中継で全国放送されたという記述がある。これが事実だとするならば、この発会
式は大衆の欲望を軍部の思惑通りに動員するための一種のメディア・イヴェントであったとも見倣せよう。じっさいに、
む 新聞を調査したところ昭和七年十二月二十二日に二百名もの名士出席のもと、﹁国民国防協会﹂の発会式が大々的に挙
行されたという報道が見つかった。
もはや結論を述べる時が来たようだ。前述したように、大衆メディア状況の中で︿志賀直哉﹀は大衆的なるものを超
越しているというイメージを獲得することで、逆にメディアから”名士”として遇された。他方、直三のポジとしての
れ 岡田桑三は、戦時下において軍部に協力するかのごとき対外プロパガンダ誌を発行しつつも、逆にそうしたメディアを
通じて自らの理想の達成を目指すといったように、状況を可能な限り利用しようとするしたたかな姿勢を示した。それ
に対して本稿の主人公は、映画という大衆の夢を標的としたメディアの世界に飛び込み、過渡期にあった映画界の潮流
に乗るべく情熱を燃やすも、志なかばにしてはかなく潰え去った果てに、ラジオを通じての武装移民の呼びかけという
大衆の欲望の暴力的な動員に加担してしまった、いわば大衆メディアに愚直なまでに密着した生を歩んだ人物であった。
晩年の志賀直三は、世俗に煩わされない風流人として余生を楽しんだという。それは大正末から昭和初年代にかけての
膨張する大衆メディア状況に飛び込んだ者が持ち得た、ある種の諦観の結果なのかもしれない。
“映画人”志賀直三の軌跡
一五三
︵5︶ ﹁舞台装置を志賀直哉氏の令弟直三氏に頼んでおいたが、今はそれを何うすべくも無い﹂︵﹁映画界泥ぱなし︵一︶﹂、﹃演劇・映
文子﹄ー恋愛映画のポリティクスー﹂︵﹃演劇研究センタi紀要﹄W、平一八・一︶を参照。
︵4︶ ﹁接吻﹂という題名が検閲に際しどのような力学を発動させたかについては、志村三代子﹁﹃第二の接吻﹄あるいは﹃京子と倭
︵3︶ ﹁直木三十五と連合映画芸術家協会﹂︵﹃日本大学芸術学部紀要﹄三七号、平一五・三︶。
見せてもらったことを回想している︵﹁面白き人々 第二回﹂、﹃週刊朝日﹄昭二六・一・一四、四〇頁︶。
平一四・九︶を参照。なお、直三は獅子文六との対談の中で、若き日に岡田桑三にマックス・ラインハルトなど演劇関係の本を
︵2︶岡田桑三に関しては、川崎賢子・原田健一﹁岡塁三映像の世紀ーグラフィズム・プロパガンダ・科学映画i﹄︵平凡社、
野﹂/﹁日記帖﹂論 ”名士”の︿実験小説>1﹂︵﹁明治大学教養論集﹄四二五号、平二〇・一︶を参照されたい。
︵1︶ 特に、﹁︿志賀直哉﹀、昭和三年1﹁赤西蠣太﹂への恋ー﹂︵﹃昭和文学研究﹄五〇集、平一七・三︶、および﹁志賀直哉﹁菰
註
明治大学教養論集 通巻四四一号︵二〇〇九・一︶
一五四
︵6︶ たとえば松竹の場合には大正十三年に斬新な発想を持った城戸四郎が蒲田撮影所の所長に就任したことや、小市民映画のはし
画﹄大一五・二、四二頁︶。
りとなった島津保次郎監督﹁お父さん﹂︵大正十二年︶、﹁日曜日﹂︵大正十三年︶など、日活の場合なら、日活モダニズムのパイ
オニア村田実の台頭、アメリカニズムが遺憾なく発揮されその洗練された演出が評判となった阿部豊﹁足にさはつた女﹂︵大正
︵7︶ 一例。﹁ストーリーと脚色は中の出来﹂︵景天﹁新映画批評︹母校の為に︺﹂、﹃都新聞﹄大一四・九・一〇︶。
十五年︶など、過渡期の指標となる作品や事例には事欠かない。
︵8︶ 参考までに大正十四年九月三日の﹃万朝報﹄に掲載されたストーリー紹介を全文引用する。
﹁◇製糸工場の経営者橋口俊造︵星野弘喜︶は富の力で一切を解決する主義の男であつた、工場の上流にある和泉屋染物店工
場から流す濁水の為め製糸作業が妨げられるので買収して了はうと企てたが、応じないのでその番頭を籠絡して和泉屋の内情を
探り債権を継承して突然破産の申請をした◇俊造には娘京子︵高島愛子︶があつた、甥の林進吾︵浅岡信夫︶はA大学の運動選
手であつたが、正義の念強く伯父の無暴を憎んで和泉屋親娘に同情した◇和泉屋の主人は遂に人生に絶望して自殺を図り住家に
火を失して娘小夜子︵岡田嘉子︶も失神して倒れたが進吾が猛火を冒して救ひ出し、為あに彼は重傷を負つた◇AO両大対の対
校競技は彼の負傷臥床の為め残念にもA大学の敗靱に帰さうとしたが、病を押して彼がグラウンドに駈けつけたので戦機は転換
しA大学は勝利の栄冠を得た◇それが為あ再び傷の破れた進吾の尊とい血汐は栄あるグラウンドの土を紅に染めた﹂。
なおファン誌﹁週刊日活﹄には、三回にわたって岡田嘉子の名義で前半部分のストーリーが詳しく紹介されている︵大一四・
︵9︶ 当時直三の愛人だった一色照子。昭和二年には三木本英子の芸名で日活作品﹁阿里山の侠児﹂︵田坂具隆監督、浅岡信夫主演︶
一〇・三∼大一四・一〇・一七︶。
︵10︶ 阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画に関しては、岡部龍﹁阪妻・立花・ユニヴァーサルとその周辺︵上︶︵下︶﹂︵﹃映画史研
に出演している。
究﹄一一、一二号、昭五三︶が詳しい。
︵11︶ 一例﹁阪東妻三郎映画がユニヴァーサル社の手で配給される旨、立花良介氏から発表されたのは近来のグレイト・ニウスであ
る。若し此の計画がうまく行つて、妻三郎映画が、立花氏の希望通り世界中に配給されるやうにでも成れば、日本映画の存在を
世界的に知らしめるだけでも、我等日本人の痛快とするところではないか。一日も早くそうした日の来らん事を切に祈る﹂︵田
村生﹁編輯後記﹂、﹃キネマ旬報﹄二三九号、大一五・九・=、六〇頁︶。ただしユニヴァーサル側は日本映画の海外への紹介
ではなく、日本国内の配給館でアメリカのユニヴァーサル作品と太秦撮影所で製作された日本映画を併映することにより、従来
︵12︶ ﹁▼今回所内に美術部を新設し主任には志賀直三氏︵志賀直哉氏の令弟にして日活の﹁母校の為めに﹂の原作者︶が入社し、
の洋画ファンに加えて邦画ファンをも観客に取り込むところにその意図があった。
其任に当る事になつた﹂︵﹁妻三郎太秦通信 十一月十七日調査﹂、﹃キネマ旬報﹄二四六号、大一五・=・二一、五九頁︶。
ママ ︵13︶ ﹁助演者が志賀直三事加賀直介氏近藤伊与吉氏山上紀夫氏川浪良太氏と云ふ珍らしい顔振れですから室めし珍品映画が出来上
る事でせう﹂︵山本緑葉﹁関西各社撮影近況﹂、﹁映画時代﹄昭二・六、一〇六頁︶とあるように、話題性を狙った配役であった
と推測される。ちなみに山上紀夫はシナリオライターおよび映画監督、川浪良太も監督であり、近藤伊与吉を除くといずれも演
︵14︶ 写真には次のようなキャプションが付けられた。﹁加賀直介氏は文壇の重鎮志賀直哉氏の令で本名は志賀直三、﹁青蛾﹂の美術
技の素人であった。
監督であり、太秦スタジオ美術部長ですが現代的な美貌と、豊かな天分を見込まれて英嬢の相手役となつたわけですL。
︵15︶ この時期の日本の映画界におけるスターダム生成の力学に関しては、藤木秀朗﹃増殖するペルソナー映画スターダムの成立
︵16︶ 久保哲司訳﹁複製技術時代の芸術作品﹂︵﹃ベンヤミン・コレクションー 近代の意味﹄、筑摩書房、平七・六、六二頁︶。
と日本近代1﹄︵名古屋大学出版会、平一九・一一︶が綿密な分析を行っている。
︵17︶ ﹁妻プロ太秦通信 六月四日調査﹂︵﹃キネマ旬報﹄二六四号、昭二・六・一一、六一頁︶に完成した旨の記載がある。﹃阿呆伝﹄
︵18︶ 芳原薫﹁主要日本映画批評 美しき奇術師﹂︵﹁キネマ旬報﹄二七二号、昭二・九・一、一〇五頁︶。
︵二二九頁︶には撮影完了の直後に提携の破棄が生じたと書かれている。
︵19︶ 阿野春弥﹁日本映画月評 美しき奇術師﹂︵﹃映画時代﹄昭二・一〇、七一頁︶。
︵20︶ 中田俊造﹁吾国に於ける教育映画の近況﹂︵文部省普通学務局社会教育課﹃映画教育﹄、東洋図書、昭三・五、四七頁︶。
︵21︶ ﹁⋮⋮原作が文豪大ヂユーマ翁不朽の名篇だけにこの映画の日本配給権獲得については激甚な競争を起したが遂に空前の権利
金を払つて新設の泰西映画社の手に帰した﹂︵﹁泰西映画社へ 名作﹃巌窟王﹄﹂、﹃二六新報﹄昭四・四・二七︶。﹃キネマ旬報﹄
一五五
︵22︶ 藤浪無鳴は徳川無声とともに、大正六年三月に帝国劇場でトマス・インス監督の大作映画﹁シヴィリゼーション﹂が上映され
三二九号︵昭四・五・一、八頁︶にも﹁近く輸入されるモントクリスト伯爵﹂の見出しで紹介がある。
た際に弁士を務めたことで知られる。
︵23︶ 鈴木俊夫の泰西映画社入社を報じる記事は﹁キネマ旬報﹄三三一号︵昭四・五・二一、一一頁︶を参照。
“映画人”志賀直三の軌跡
明治大学教養論集 通巻四四一号︵二〇〇九・一︶
一五六
︵24︶ たとえば﹃映画時代﹄の昭和四年九月号には、﹁巌窟王は何故大ものか﹂という鈴木の文章が掲載された。鈴木は泰西映画社
が支払った高額の権利金を宣伝材料の一つにしている。また﹃キネマ旬報﹄や﹃国際映画新聞﹄には数度にわたり広告が掲載さ
︵25︶ 国際文化映画協会の活動について、﹃阿呆伝﹄にはこの事例のほかに、昭和四年八月にドイツの飛行船ツェッペリン伯号が日
れた︵このほか﹃映画教育﹄、﹃映画往来﹄などにも広告の掲載が確認できる︶。
本に飛来した際に、海軍機に後の名カメラマン鈴木博が搭乗してニュース映画を撮影し、それがかなりの評判を呼んだとの記述
︵26︶ ﹁満洲の実写 外相邸で絶讃﹂︵﹃二六新報﹄昭四・七・三〇︶を参照。
があるが、残念ながらそのことを報じた当時の資料は見つからなかった。
︵27︶ ﹁国際文化晩画協会の﹁日本・満洲﹂完成﹂︵﹃国際映画新聞﹄三一号、昭四・九、四四∼四五頁︶を参照。
︵28︶ ﹁ワーナー映画社の刷新と今後の方針﹂︵﹃国際映画新聞﹄=号、昭三・一、四八頁︶。
︵30︶ ﹁一立商店と別れて ワーナi社甦生﹂︵﹃キネマ旬報﹄三三四号、昭四・六・二一、八頁︶。
︵29︶ ﹁二八1九年度ワーナー映画 一立商店が獲得﹂︵﹃キネマ旬報﹄三〇五号、昭三・八・二一、三〇頁︶。
︵31︶ ﹁ワーナー映画社の事業を継承し 角間啓二氏の進出 配給、興行の両途に活躍開始﹂︵﹃キネマ旬報﹄三三七号、昭四・七・
︵32︶ ﹁問題のヴアイタフオン 遂に泰西映画社が掌握﹂︵﹃二六新報﹄昭四・八・六︶。泰西映画社のワーナー・ブラザース映画配給
二一、八頁︶。
権獲得を報じた記事は、他に﹃都新聞﹄︵昭四・八・一二︶、﹃キネマ旬報﹄三三九号︵昭四・八・=、九頁︶、﹃国際映画新聞﹄
︵33︶ ﹁ワーナi・ブラザーズが開発した、動いている映像と録音された音を同期させるためのシステム。︵中略︶このシステムは、
三一号︵昭四・九、五頁︶などがある。
映写中に映画と同調させたシェラック製のレコードを使用していた。しかしこのレコードは壊れやすかったことに加えて、同期
ム・システムのムービートーンに切り換わった﹂︵スティーヴ・ブランドフォード他著、杉野健太郎他監訳﹃フィルム・スタディー
維持作業が困難だった。そのため、まもなくこの方式はすたれ、フォックスの開発した光学録音方式のサウンド・オン・フィル
︵34︶ アメリカのファースト・ナショナル本社はこの年ワーナー・ブラザース社に買収され、日本支社も翌五年に﹁ワーナー・プラ
ズ事典−映画・映像用語のすべてー﹄、フィルムアート社、平一六・七、三三頁︶。
︵35︶ この間の事情を詳しく報じた﹃二六新報﹄の見出しと消息を列挙する。﹁今度は、ワーナー何処へ 洋画界の波紋﹂︵昭四・七・
ザース・ファースト・ナショナル映画会社﹂と名称を改めた。
三一︶、﹁問題のヴアイタフオン 遂に泰西映画社が掌握﹂︵昭四・八・六︶、﹁発声試写室は 泰西が新設 十月から実現か﹂︵昭
四・八・一六︶、﹁ワーナー関西配給﹂︵昭四・八・二〇︶、﹁▼⋮ワーナi新映画九本、いよいよ泰西映画社に着きました﹂︵昭四・
八・三〇︶、﹁ワーナーの配給 小山商会獲得﹂︵昭四・九・一九︶、﹁わアく映画の話 彼方でもこちらでも御用と 仰言るワー
ナー映画﹂︵昭四・九・二九︶、﹁パ社ワーナー 合併成立す社長はズーカー﹂︵昭四・九・二九︶、﹁何処へ行く ワーナー映画
巷説は乱れ飛ぶ﹂︵昭四・一〇・=二︶、﹁パ社とワーナー 合併 遂に取やあ﹂︵昭四・一〇・三一︶、﹁ワーナー発声篇 六十
の 十四編題名決定﹂︵昭四・一二・一七︶、﹁﹁巌窟王﹄紛争 泰西の委譲で 一切解決す﹂︵昭四・一二・二六︶。
八本が 束になつて来る﹂︵昭四・=・=二︶、﹁ワーナー映画 問題解決 F・Nが掌握して﹂︵昭四・=・二三︶、﹁来年度
︵36︶ たとえば﹁わアく映画の話 彼方でもこちらでも御用と 仰言るワーナー映画﹂︵﹃二六新報﹄昭四・九・二九︶には、﹁し
かも小山商会と泰西映画社はこの問題についてあまりかんばしくないうはさのうつにまき込まれて居り之に対し泰西映画社は近
く堂々たる声明書を出し悪宣伝を一蹴して見せると力んでゐる﹂といった記述が見える︵ほぼ同一の文章が﹃国際映画新聞﹄三
︵37︶ 昭和四年十二月二十六日の﹃二六新報﹄の記事﹁﹃巌窟王﹄紛争 泰西の委譲で 一切解決す﹂を全文引用する︵なおほぼ同
二号︵昭四・一〇、三頁︶にも﹁どうく廻りの ワーナー映画﹂と題して掲載されている︶。
一の文章が、﹃キネマ旬報﹄三五三号、昭五・一・=、=二頁にも掲載されている︶。
﹁﹃巌窟王﹄を輸入して起つた泰西映画社は業務いまだ緒につかぬ中種々の問題にわざはひされて其消息を絶つてゐたが、去廿
三日同社代表者志賀直三氏と小山寛商店との間に提携成り、同映画を始め﹃マノン・レスコー﹄﹃ドン・フアン﹄外既封切ワー
ナーブラザース映画数本の全国配給権は改めて小山寛商店がその委譲を受け、泰西映画社自然消滅の後を受けて旧同社事務所に
営業所を設置した、整備成れる同社は今後大いに活躍する手筈とある、ちなみに志賀直三氏は専ら国際文化映画協会に力をそ\
ぐ事となり、小山寛商店と同じく京橋区日吉町鉱業会館四階に事務所をおいてある﹂。
ちなみに﹁巌窟王﹂は昭和五年四月四日に名古屋の千歳劇場で小山寛商会の配給により公開された。なお東京では松竹座で新
設の合同貿易合資会社の配給により五月八日に公開された。問題の﹁ジャズ・シンガi﹂等のワーナー・ブラザース作品はさら
に一騒動あった末に、関東配給はヤマニ洋行、関西配給はドノゲー映画商会ということで落着した。なお記事中には、直三が国
際映画文化協会で映画製作を続ける旨の記述があるが、その後も活動を続けたのかどうかは管見の限りでは不明である。ただし
昭和五年一月発行の﹃映画教育﹄二十三号には志賀直三、小谷ヘンリー、横山一良の連名で国際文化映画協会の挨拶状が掲載さ
一五七
れている。横山一良については詳らかではないが、小谷ヘンリーは周知のごとくハリゥッド帰りのカメラマンとして映画界にお
“映画人”志賀直三の軌跡
明治大学教養論集 通巻四四一号︵二〇〇九・一︶ 一五八
いて重きをなした人物である。直三が協会の延命をはかるため斯界の著名人の名前を借りた可能性も窺える。また昭和五年四月
一日発行の﹃キネマ旬報﹄三百六十一号に掲載された映画関係業者総覧には、国際文化映画協会について﹁教育文化映画製作配
︵38︶ ﹃キネマ旬報﹄三五四号︵昭五・一・二一、九頁︶。なお同記事中で佐々木は﹁斯界にあつては名物男の一人﹂、同じくその死
給﹂と記載されている。
を報じた﹃二六新報﹄︵昭五・一・九︶でも﹁斯界に在つて奇人の名高かりし﹂と形容された。
︵40︶ 前掲書、二〇六頁。
︵39︶加藤陽子他訳﹃総動員帝国−満洲と戦時帝国主義の文化1﹄︵岩波書店、平=二・二︶を参照。
︵41︶ ﹃万朝報﹄︵昭七・一二・二三・夕刊︶、﹃中央新聞﹄︵昭七・一二・二三・夕刊︶、﹃都新聞﹄︵昭七・一二・二三︶を参照。なお
三紙を整理すると、
名誉会長 大井成元大将︵男爵︶
会長 一條公爵
副会長 高山公通陸軍中将
同 安東昌喬海軍中将
︵42︶ ﹃岡田桑三映像の世紀﹄︵前掲︶を参照。
という組織である。さらに、大迫大将の国防の重要性を訴える演説が聴衆に感銘を与えた旨の報道がなされた。
※本稿は、日本近代文学会春季大会︵平成十九年五月二十七日、 成践大学︶における口頭発表の一部を論文化したものである。会場
において貴重な御助言をいただいた方々に感謝致します。
︵ながい・よしひさ 商学部准教授︶
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