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古代における漢一品・漢文の受容と和語・和文表記

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古代における漢一品・漢文の受容と和語・和文表記
駿 台 史 学
第
一〇 九 号
一一 一六 頁 、 二 〇 〇 〇 年 三 月
卜。8 0も P 〒 轟
研 究 ノ ー ト
ω⊂Z 一
)﹀ ︻ ω=一〇﹀ ス⊂ (ωニコΩロ一M
{一
もゆ梓
O﹁凶
O国一刀①く一
①≦ )
古 代 に お け る 漢 語 ・漢 文 の 受 容 と 和 語 ・和 文 表 記
吉
村
武
彦
日本 列 島 に 居 住 し て いた人 々 が 、 今 日 のよ う な 和文 (や ま と 言 葉 ) のよ う に、 話 し言 葉 の順 に 表 記 が でき る よ う にな った のは 、 天 武 朝
能 性 が 強 いと 思 わ れ る。
め
に
キ ー ワ ー ド ⋮和 語 ・和 文 表 記 ・人 制 ・部 民制 ・古 体 歌
じ
こ ころ
とも
す なほ
こ とば
すぢ
がた
こと ば
およ
こころ
訓 を 以 て録 し つ。 即 ち、 辞 の理 の見 え 匝 き は 、 注 を 以 て明 し 、 意
ことば
は 一句 の中 に、 音 と 訓 と を交 へ用 み つ。 或 る は 一事 の内 に、 全 く
字 に於 ては 即 ち難 し。 已 に訓 に因 り て述 べた る は、詞 心 に逮 ばず。
・ゑ
全 く音 を 以 て連 ね た る は 、事 の趣 更 に長 し 。 是 を 以 て、 今 、 或 る
もじ
の表 記 法 と の関 係 で注 目 す べき で あ ろ う。 た だ し、 こ う し た部 分 的 な和 語 表 記 が でき る よ う に な っても、 和 文 の 表 記 と は 直 接 つな が ら な い可
と こ ろが 、 部 民 制 の表 記 は ﹁
馬飼﹂ ﹁
鳥 養 ﹂ の よ う に和 語 の読 み の と お り の漢字 表 記 と な る。 こ の表 記 法 は 、 和 歌 にお け る 古 体 歌 (略 体 歌 )
に漢 語 表 記 であ る。
的 名 称 があ る。 そ の 一方 、 ﹁
都市﹂ ﹁
大 夫 ﹂ の よ う な漢 語 の職 名 も あ る。 し か し 、 五世 紀 の人 制 にお け る職 名 は ﹁杖 刀 人 ﹂ や ﹁典 曹 人 ﹂ のよ う
し か し、 ﹃魏 志 ﹂ 倭 人 伝 に は ﹁
邪 馬 台 ﹂ な ど の 国 名 の ほ か、 ﹁
卑 狗 ﹂ (彦 か ) や ﹁
卑 奴母 離 ﹂ (夷守 ) のよ う な字 音 を利 用 し た 和 語 表 記 の官 職
頃 だ と い わ れ る。 そ れ ま で の文 章 は、 基 本 的 に 漢文 で表 記 さ れ て いた こと が 明 ら か に な って き た。
要旨
ZO﹂ 8 .ζ 舞
は
こと
﹃古事 記﹄ は、 いわ ゆ る 変 体 漢 文 で書 か れ て い る。 そ の序 文 に、
い にし へ
上 古 の時 は、 言 と意 と並 に朴 に し て、 文 を敷 き 句 を構 ふ る こと、
(1)
彦
武
村
吉
か たち
さと
の況 の解 り 易 き は、 更 に注 せ ず 。 (
新 編 日本 古 典 文 学 全 集 ﹃古 事
記 ﹄)
葉 と い う時 点 では、 和 文 を そ の ま ま のか た ち で表 記 し、ま た そ の結 果、
何 ら か の 記録 と し て残 存 し てい た こと を想 定 す る のは不可能 と な った。
た。 話 し言 葉 を 文 字 に つづ る こと は容 易 だ と想 定 し ていたか ら であ る。
か つては 声 の世 界 と 文 字 の世 界 と を 、 そ れ ほ ど区 別 せ ず に考 え てき
今 日 の研 究 で は、 和 文 の文 字 化 にお け る そ の意 味自 体 が 問 わ れ て いる
た と は い え、 この よ う な か た ち で小 益 す る の は も は や 不 十 分 であ る。
し か し、 和 歌 の文 字 化 に 関 す る 最近 の 研究 を 、文 献史 学 に ひき つけ
改 新 詔 が大 宝 令 に よ って潤色 さ れ て いる こと は 明 ら か にな った が 、 元
そ のた め、 た と え ば ﹃日本 書 紀 ﹄ 孝 徳 朝 の大 化 の改 新 詔 に関 す る論 争
か ら で あ る。 この文 字 化 の意 味 が投 げ か け て いる 課 題 は 、実 は 和 歌 だ
と み え る。 ﹃古 事 記﹄ の文 章 化 にあ た って、 文字 表 現 の 難 し さ を 述 べ
に お い て、 改新 詔 の原 型 が 和 文 か 漢 文 か の議 論 が存 在 し た。 行 政 区 画
け で は な い。 研 究 史 の う え では、 万葉 歌 の表 記 に象 徴 さ れ る よ う に和
の 詔 は和 文 で は な か った。 し た が って、 原 改新 詔 が 和文 であ る のか凄
の ﹁郡 ﹂ の表 記 を め ぐ る郡 評 論 争 にお い て、 元 の和 文 を 漢 文 化 す る際
歌 の文 字 化 の研 究 が進 展 し てい る。 し か し、 実 際 に 問題 にな る のは 、
た も の であ る。 七 一二年 (和 銅 五 ) の年 時 を も つ、 こ の大 安 万侶 の悩
に、 後 の知 識 に基 づ い て ﹁評 ﹂ の字 を ﹁郡 ﹂ に改 め たと い う説 が提 起
和 歌 も そ の中 に入 る和 文 の 一群 の世 界 で あ る。 宣 長 は さ ら り と 述 べた
文 で あ る の か、 と い う問 い か け自 体 が成 り た た な く な った。
で き た の であ る。 し か し 、 こ うし た考 え方 は近 代 の研 究 者 ば か り で は
が、 少 な く とも 宣 命 や寿 詞 (祝 詞 は別 で あ ろ う) も 含 ま れ る 。 これ ま
み は ど う や ら 本 当 の こと であ った。
な か った。 し ば し ば 指 摘 さ れ て い る よ う に、 本 居 宣 長 が そ の著 ﹃古 事
で の研 究 で は、 和 歌 の分 野 が突 出 し てい た。 し か し、 宣 命 や 寿 詞 を 入
れ て総 合 的 に考 察 し な け れば な ら な い。 な ぜ な ら宣 命 や 寿 詞 は 、 和 歌
記 伝 ﹄ に お い て、
但 し歌 と祝 詞 と 宣 命 詞 と 、 これ ら のみ は、 いと古 より、古 語 のま 、
つい て概 観 し て お こ う。
奈 良 時 代 前 半 の こ と に な る が、 ﹃続 目本 紀 ﹄ 天 平 二 年
さ
かた
(七 三 〇 ) 三
さ て、 考 察 を 進 め る前 に倭 国 な い し町 本 国を と り ま く 、言 語 状 況 に
以 上 に公 的 な、 儀 礼 的 な 性 格 をも つか ら であ る。
なが
に書 伝 へた り、 これ ら は 言 に文 を な し て、 臨 く つゴ り て、 唱 へ挙
ききめで
て、 神 にも人 にも 聞 感 し め 、 歌 は詠 め も す る物 に て、 一字 も 違 ひ
て は悪 か る故 に、 漢 文 に は書 が た けれ ば ぞ かし (﹃本 居宣 長全 集﹄
九 、 一八頁 。 筑 摩 書 房 )
を
諸 藩 ・異 域 、 風 俗 同 じ か らず 。 若 し訳 語無 く は、 事 を 通 す こと 難
月 辛 亥 条 に、
と こ ろ が、 稲 岡耕 二氏 を は じ め と す る近 年 の古 代 文 学 研 究 者 の研 究
け む。 傍 て粟 田朝 臣 馬 養 ・播 磨 直 乙安 ・陽 胡 史 其 身 ・秦 朝 元 ・文
と 述 べ てい た か ら でも あ った 。
に よ り、 こう し た自 動 的 和 文 表 記 説 が 根 底 的 に批 判 され た。 七 世 紀 中
)
(
.
・異域 の共 通 語 と し
る。 ま た、 詰 番 と異 域 の語 を 最大 限 に 評価 す れ ば、 こ こで は唐 だ け に
うま でも な く中 国 語 であ る が、 ここ では ﹁諸 藩 ﹂ と位 置 づ け ら れ て い
つ弟 子 を と ら せ、 漢 語 を 学 習 さ せ る の が、 そ の趣 旨 で あ る。 漢 語 は い
と い う太 政 官 奏 がだ さ れ、 承 認 さ れ てい る。 粟 田馬 養 ら 五人 が 二人 ず
漢 猛旧を使 用 し て、 ど の よ う に和 語 ・和 文 を 表 現 し て い ・た のか 、 そ の
性 も あ る。 そ れ は と も か く、 東 アジ ア共 通 の文字 ・言 語 であ った漢字 ・
あ る の で、 少 な く と も朝 鮮 三 国 では そ れ ぞ れ微 妙 に異 な って いた 可 能
ま た、 ﹃延 喜 式﹄ に、 ﹁百 済 通 事 ﹂、 ﹁渤 海 通事 (
渤 海 訳 語 )﹂ の 名 称 が
紀 ﹄ に ﹁新 羅 語 ﹂ (天 平 宝 字 五 年 ︿七 六 一﹀ 正 月 乙 未 条 ) と み え る 。
蕃 国差 別観 か ら き た読 み であ ろ う。 ﹁あ づ ま ﹂ の地 名 に か か る枕 言 の
限 定 さ れ な い可 能 性 があ る。 東 アジ ア全 体 の薯
プ ・セ スを 重
元 貞 等 五人 に仰 せ て、 各 弟 子 二人 を 取 り て漢 語 を 習 は し め む 。
て漢 語 が 想 定 でき る か ら であ 範 。 中 国 語 が文 字 と し てば か り か声 の世
﹁鳥 が 鳴 く ﹂ と 同 類 であ る 。 な お 、 韓 は ﹁三 韓﹂ の韓 であ り、 ﹃続 日 本
魏
し (﹃新 撰 姓 氏 録 ﹄ 左 京 諸 蕃 条 )、 秦 長 元 は唐 で出 生 、 文 元貞 は渡 来 一
(新 日本 古 典 文 学 大 系 ﹃続 目本 紀 ﹄ 二)
敵
世 か と い急
地 理志 で あ る。 そ こに は ﹁そ れ楽 浪海 中 倭 人 あ り、 分 れ て百 余 国 と な
経 験 が あ範 ・
な お 、 五 人 のな か に は渡 来 系 が多 く、 陽 侯 氏 は階 の場 帝 の 子孫 と称
な お、 播 磨 乙安 は馨
日本 列島 と関 係 す る倭 の ・
﹂と が 記述 さ れ 毒
和語 の表 記
声 の世 界 の 和 語 表 記
て み た い と思 発
語
和
と
容
暖
さ て、 こ の漢 語 の学 習 は通 訳 と し て の訳 語 の育 成 に あ る。 し た が っ
す。 歳 時 を 以 て来 り、 献 見 す と 云 う ﹂ と み え る。 し か し 、 こ こ に は
一
激
て、 対 外 関 係 にお い て は それ ぞれ の他 国 語 を 自 国 語 に訳 す こと であ り、
﹁倭 人 ﹂ の語 が あ るだ け で、 和 語 の表 記 は み えな い。 中 国 で ﹃前 漢 書 ﹄
界 でも 共 通 語 と し て機 能 し て い た の であ る。
語
漢
%
文 字 化 の問 題 と は レ ベ ルを 異 にす る。 端 的 に い えば 、 声 の世 界 に お け
に つい で編 纂 さ れ た の は ﹃魏 志 ﹄ (三国 志 魏 書 ) で あ る・ そ の 東 夷 伝
国 名 ﹁邪 馬 台 ﹂ が、 和 語 を中 国音 で表 現 し た も の であ る。 こ こ には 対
・
あ
る 異 言 語 の変 換 作 業 であ ・て、 文 字 の世 界 の問 題 に は直 接 つな が ら な
倭 人 条 、 い わ ゆ る ﹃魏 志 ﹄ 倭 人 伝 を 調 べ てみ る。
言 の書 籍 は・ ﹃前 漢 重日
﹄
畝
い。 中 国 の言 葉 は漢 語 と 認 識 され て い た が、 朝 鮮 半 島 の言 葉 は ど の よ
﹃日本 書 紀 ﹄ 敏 達 十 二年 是歳 条 によ れ ば ﹁韓 語 ﹂ と よ ば れ てお り 、
馬 ・ 一大 (一支 か)・末 盧 ・伊 都 ・奴 ・不 弥 ・投 馬 ・邪 馬 台 国 と 、 斯
﹃魏 志 ﹄ 倭 人 伝 と いえ ば 、 反 射 的 に邪 馬 台 国 を 思 い浮 か べ る 。 こ の
﹁か ら さ ひづ り﹂ と読 む。 さ ひ づ りと は、﹁意 味 のわ から な い言 葉を し ゃ
馬 国 以下 二 一か国 の名 が 記載 さ れ て いる。 そ し て最 後 に邪 馬 台 国 に敵
,
べ る こと ﹂ (
﹃岩 波 古 語 辞 典 ﹄ 補 訂 版 )。 こ の時期 は 百 済 を 介 し て、 朝
対 す る狗 奴 国 。 人 名 と し て は、 倭 国 の女 王 であ る卑弥 呼 と壱 与 (
台与 )、
う に捉 え ら れ て い るだ ろ うか 。
鮮 や 中 国 の文 化 を 輸 入 し て い る。 実 際 に解 せな い こと があ った にせ よ、
一
ω
さ ら に各 国 の官 職 の名 称 と し て卑 狗 ・卑 奴 母 離 な ど が あ る 。 ﹁卑 狗 ﹂
そ の名 を伝 え てい る。 邪 馬台 の 国 名 も ﹁や ま と ﹂ な い し ﹁や ま ど﹂ と
そ し て、 そ の 一部 の国 名 は 、 対 馬 ・壱 岐 ・糸 島 な ど のよ う に今 日 ま で
へ
の字 に つい て、 ω 卑 狗 は ピ コと 読 み う る。 ② 卑 狗 は ﹁彦 ﹂ の字 で書 き
ヨ 訓 み (﹃岩 波 古 語 辞 典 ﹄ 補 訂 版 )、 奈良 県 の大和 で い いだ ろ う。 これ は
へ
な ら わ し て いる と こ ろ の ひ こと い う言 葉 に あ た ると み る こと が でき る、
三世 紀 の言 葉 を 現代 に つなげ る重 要 な史 料 であ る。
次 に、 五世 紀 の金 石 文 を取 り あ げ てみ よ う。
ヘ
と いう こと は ま ち が いな い よ うだ 。 ﹁卑 奴 母 離﹂ も ﹁夷 守 ﹂ (﹃日 本 書
紀 ﹄ ﹃万 葉 集 ﹄ に み え る) と想 定 し て い いだ ろ う。 意 味 不 明 の和 語 が
国
卑
狗i卑奴騨i
末
盧
国
伊
都
国
爾
支i糠
国
兜 馬 触 陣 奴騨i
多
国 弥
弥i弥 弥 那 利i
馬
桝 轍
狗
狗古智卑狗i
③
原也
四尺廷刀八十練因 十振
稲荷山古墳﹄︺
・治天下獲□□日歯大王世奉事典曹人名元図星 八月中 用大鉄 釜井
江田船山古墳出土銀鍔銘大 刀 (
熊本県菊水 町)
埼玉県教育委員会 ﹃
埼玉
︹
埼玉県教育委員会 ﹃
稲荷山古墳出土鉄剣金象嵌銘概報﹄・
多支歯大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百錬利 刀記吾奉事根
・其児名加差披余其児名乎獲居臣世 々為杖 刀人首奉 事来 至今獲加
比
屋已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲 居其 児名半畳
・辛亥年七月中記乎獲居臣上和名意富比塊其児多加 利足尼其児名
稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣 (
埼 玉県行 田市)
︹
市原市教育委員会他 ﹃﹁王賜﹂銘鉄剣
・此 廷 □ [
︹刀 力 ︺
日本 列島 か ら出 土 し た銘 文 は、 次 の三点 であ る。
ハる 支
概報﹄吉 川弘文 館︺
多 いな か では、 意 味 が 判 断 でき る貴 重 な 言 葉 であ る。な お官 職名 には、
一
役
㈹
市 を つか さ ど る ﹁都 市 ﹂ や大 夫 な ど 中 国 的 呼 称 の官 名 もあ る。 しか し、
、
ω 稲 荷 台 一号墳 出 土 ﹁王 賜銘 ﹂ 鉄 剣 (千葉 県 市 原 市 )
︹
安力︺
・王 賜 口 口 敬 □
小 稿 で は和 語 の官 職 名 が 確 認 でき れ ば い い。
こ の よ う な和 語 の名 称 を 表 示 す れ ば 、 表 1 の よう にな る。 人 名 の ほ
か国名 (
地名)・官職名な どの固有名詞 が、漢字 で表 記 され て いた。
狗i卑 奴 母 艦
国
そ の他
官(長 官)i副
鵡
村
古
卑
弥
語
和
動
国
不
胎
刑
表
伊 支 局i弥馬 畷
国
母離i
馬
騰
邪馬 台 国
奴
離
対
奴
名
職
官
名
国
一
(
国宝 銀象 嵌銘大 刀﹄
・三 寸 上 好圃 刀 服 此 刀者 長 寿 子 孫 洋 々得 口 慰 也 不 失 其 所 統 作 刀者
名 伊 大回 害 者 張 安 也
︹
東 京 国 立 博 物 館 ﹃江 田船 山 古 墳 出 土
吉 川 弘 文 館 。 た だ し 、 一部 改 変 ︺
シ
マ
カ フチ の アタ ヒ
が 確 か な 和 語 の字 音 表 記 であ ろう 。 こ の ほか 、 ﹁斯 麻 ﹂・﹁開 中 費 直 ﹂
な ど の和 語 も み え る。 いず れ も 捌 ・⑧ と 共 通 す る固 有 名 詞 であ る。
これ ら 金 石 文 史 料 の ほか 、 ﹃宋 書 ﹄ 倭 国 伝 も あ る。 し か し 、 当 時 の
倭 国 王 は国 名 の ﹁倭 ﹂ を 姓 と し 、 実 名 か ら 一字 の好 字 を 名 前 (た と え
文 には、 霧
の名 が み え
に いた ・ 八 人 の和 名 の個 人 名 が 漢 字
年 七 月 中 記 ﹂ の紀 年 銘 を も ち 、 西 暦 四七 一年 の作 成 であ る。 鉄 剣 の銘
王 の時 代、 倭 国 王 は 宋 の皇 帝 か ら ﹁安 東 将 軍 ・倭 国 王 ﹂ の よ う に冊 封
人 名 ・官 職 名 な ど に・ 和 語 が 字 音 で表 記 さ れ て いた ・ 五 世 紀 の倭 の 五
でも な い。 不 臣 の朝 貢 国 であ ・た 三 世 紀 の邪 馬 ム・国 の時 期 に、 国 名 ・
﹃魏 志 ﹄ や ﹃宋 書 ﹄ の中 国 文 献 が漢 文 で書 か れ て い る こと は い う ま
ば ワ カ タ ケ ル の武 ) にし て いた の で、 名 前 にも 和 語 は み られ な い。
の字 音 で記載 さ れ て いる ほか 、 雄 略 天 皇 であ 姦
を 受 け て いた。 人名 .官 職 名 も 中 国 風 の表 記 に変 わ り 、 和 語 は記 され
す べ て漢 文 で書 か れ て いる が 、 ω に は和 語 が みえ な い。 ② は ﹁辛 亥
難
る。 ま た、 この時 期 ワカ タ ケ ルが 居 住 し た 斯 鬼 宮 の官 名 が和語 であ る。
ムリテ
露
撤
② と同 じ よ う に 。カ タ ケ ル の名 が み え る ㈹ の大 刀 銘 には 、 元 利 弓 と 刀
系 の人 物 であ る。 張 が 姓・ 安 が個 人名 とな る・
(な いし 伊太 和) の個 人 名 が み え る 。 た だ し 、 著
り 上祖 暮
語
和
自 体 の製 作 者 伊 錦
は張 安 と いう藥
量
魁
い矢
知多薄
暖
こ の よ う に倭 人 の個 人 名 が和 語 と し て字 音 で記 さ れ て いる。
銘 鉄剣 には ヲ ワケ の官 職 名 が ﹁杖 刀人 首 ﹂、 ⑧ 銀 錯 銘 大 刀 に ム リ テが
キ
敵
な お 、 働 の金 錯 銘 鉄 剣 と関 連 し、 東 京 国 立 博 物 館 所 蔵 の朝 鮮 半 島 出
﹁典 曹 人 ﹂ と し て表 記 さ れ て い る。 邪 馬 台 国 時 代 にお け る 和 語 の官 職
シ
語
漢
%
土 の有 銘 環 頭 大 刀と の関 係 が い わ れ て いる。 銘 文 は ﹁不 畏也 □令 此 刀
名 と は 明確 に異 な ・て いる。 官 職 名 に ﹁都 市 ﹂ のよ う な 漢 語 が 採 用 さ
お
主 富 貴 高 遷 財 物 多 也 L であ る が、 中 野 政 樹 氏 に よ り象 嵌 技 術 の質 の同
れ た か ら であ る。 次 に こ の問 題 を考 え てみ た い。
さ 2
五世 紀 後 半 の雄 略 朝 の同 時 代 史 料 で あ る金 鍔 銘 鉄 剣 に は ﹁杖 刀 人﹂、
人 制 の表 記
が 、人 名 ・官 名 には和 語 が字 音 で表 記 さ れ て いた。 と ころ が 、 ② 金 錯
芳 ・ 日本 列島 内 では鉄 剣 ・鏡 な ど の銘 文 は ・文 は 漢 文 で書 か れ た
て いな い。
猷
一性 、 東 野 治 之 氏 に よ って書 風 の類 似 が指 摘 さ れ て い る。 た だ し、 凍
文 の文 体 であ り、 韓 語 は みら れな い。
と こ ろ で、 ω ∼ ⑧ の金 石 文 に続 い て注 目 され る の が 、 ﹁癸 末 年 ﹂ の
紀 年 銘 を も つ和 歌 山 県 橋 本 市 の隅 田八 幡 神 社 所 蔵 の人 物 画 像 鏡 銘 。 こ
カ
ひと
銀 鍔 銘 大 刀銘 に は ﹁典 曹 人 ﹂ の語 があ った。 興 味 深 い こと に 、 ﹃日本
サ
の鏡 は 坊 製 鏡 で、 癸 末 年 は五 〇 三 年 が い いだ ろ う。 ﹁日 十 大 王﹂ (日十
シ
書 紀 ﹄ の同 じ雄 略 紀 を 中 心 に表 2 の よ う に人 の史 料 が み え る。 私 は こ
ヲ
の読 み は各 説 あ る) や ﹁今 州 利 ﹂ な ど の人 名 、 ﹁意 柴 沙 加 宮 ﹂ の 官 名
一
-,
吉村 武 彦
ぶ
.
ひと
ウ
マ
カ
﹃日本 書 紀 ﹄ の読 み は和 語 と し て読 ん だ 可能 性 が強 い 。 と い う の は、
し
れ ら * *人 の語 が象 徴 す る史 料 を 、 治 天 下 の王 (後 の天 皇 ) と 仕 え 幸
ア ソ
雄 略 八 年 二 月 条 の本 文 ﹁典 馬 ﹂ (
人 ) の本 注 に ﹁典 馬 、 此 云 二千 麻 桐
ヒ
る (仕 奉 ) と い う 関 係 を 結 び 、 **人 で表 記 さ れ る 職 務 に従 事 す る人
比 一
﹂ と み え る か ら で あ る 。 つま り 、 ﹁典 馬 ﹂ は 漢 語 、 読 み は 和 語 と い
う こ と に な る 。 ま た 、 神 代 第 九 段 の 本 文 に あ る ﹁持 傾 頭 者 ﹂ は キ サ リ
せい
制 と い う職 掌 体 制 で捉 え て いる。
さ て、 こ れ ら人 制 の史 料 のう ち 、 杖 刀 人 のよ う に 二字 (杖 刀 ) 以 上
モ チ 、 ﹁持 帯 者 ﹂ は 八 八キ モ チ 、 注 の ﹁造 編 者 ﹂ は ワ タ ッ ク リ の 古 訓
雄略8年2月
典馬(人)
雄略9年5月
家人
雄 略10年9月
養鳥人
雄 略ll年5月
川瀬舎人
, 編
者 木
春 作
者
金
ナ
モ
リ
語 表 記 で はな く 、 和 語 読 み の順 に漢 字 で ﹁夷 守 ﹂ と 表 記 す る。 後 述 す
漢 語 で表 記 す れ ば ﹁守 夷 ﹂ にな る はず であ る。 と こ ろ が、 こう し た漢
夷 守 は、 ﹁夷 を守 る﹂ 意 味 であ る か ら へ﹃魏志﹄ 倭人 伝 は、 そ の官職 )、
守 ﹂ と 表 記 し て、 ヒ ナ モ リと 読 ん で い る。
番 歌 の左 注 に ﹁夷 守 駅 家 ﹂ の地 名 が み え る。 地 名 ・人 名 を 問 わ ず ﹁夷
り と し て の ﹁兄 夷 守 ・弟 夷 守 ﹂ が み え る。 ま た、 ﹃万 葉 集 ﹄ に は 五 六 七
る。 ﹃書 紀 ﹄ では景 行 十 八 年 三 月条 に地 名 と し て の ﹁夷 守 ﹂ と 、 人 名
と こ ろが 、 こ こ で参 照 し た い のが ﹃魏 志 ﹄ 倭 人 伝 の ﹁卑 奴 母 離 ﹂ で あ
ヒ
る こ と は 、 ﹃書 紀 ﹄ 編 纂 の時 点 を 下 限 と す る 読 み と い う こ と で あ る 。
に和 語 と し て読 ま れ たと いう こと に はも ち ろ んな ら な い。 確 実 に い え
と こ ろ で 、 ﹃日 本 書 紀 ﹄ 雄 略 紀 に み え る と い う 理 由 で 、 雄 略 の 時 代
お の語 を 含 む 表 記 は漢 語表 記 で、 ︿動 詞 プ ラ ス目 的 語 の 名 詞 ﹀ 人 と い う
漢 手 人 部,宍 人 部
あ ろう 。
が あ る 。 雄 略 紀 の注 を 参 照 す れ ば 、 こ うし た古 訓 ど お り に読 ま れ た で
者
人
宍
雄略7年
, 作
者
,
帯 者
持 盾
者
る よ う に、 後 世 の 二次 的 な部 民 制 の表 記 と 同 じ で あ る。 こ こ では 表 記
で はな く、 ヒ ナ モ リ と い う形 態 の和 語 が 三世 紀 前 半 に存 在 し て いた こ
と に注 目 し た い。 ウ マカ ヒと 同 じ形 態 だ か ら であ る。 史 料 が 少 な い の
で確 証 はな い が、 言 葉 の う え で は ウ マカ ヒ が邪 馬 台 国 の時 代 (三 世 紀
(6)
者
玉
湯人
, 作
者
,
実 者
雄略3年4月
人,河 上 舎 人 部,史
着
綿
造
㏄部
局史
宍 人部,厨
部
人
舎
上
河
雄 略2年10月
人
厨
たなすえのてひと
構 造 を も って い る。 と ころ が 、 こう し た 漢 語 の表 記 にも か か わ ら ず 、
切
含
を
砒者
(
事
人 磯波
大 舎人,舎
' 人 ﹂
︽
船人
部
人
宍
幻
雄略即位前紀
離
乗燭人
舎 π才
景行40年
部
雄 略23年8月
者
人
舎
' 入
作 笠者,作
人
負聾者
ひと
記
入
雄 略14年4月
部
神 代 第9段 一 書
, 作
者
,
頭 者
手末才技
ふみ ひと
持 傾頭 者,持 番 者, 者,看 者,実 者,造 綿 者,宍 人 者
うまかい
制
人
な
主
の
紀
書
本
陀
哀
雄 略14年1月
盾 者,作 金 者,作 木 編 者,作 玉 者
神代第9段 本 文
人
を含 む)
事(者
記
年
紀
前 半 ) に存 在 し ても 不 思 議 でな いか ら であ る。 敷 術 す れ ば 、 次 の よ う
伴 氏 の氏 の表 記 が 和 語 な の で、 和 語 表 記 と な る。
三世 紀 前 半 の状 態 を 記 し た ﹃魏 志 ﹄ 倭 人 伝 に は、 ﹁都 市 ﹂ の よ う な
詞 プ ラ ス動 詞 ﹀ プ ラ ス部 か ら な る和 文 読 みを そ の ま ま漢 字 で表 記 し て
の表 記 であ る。 衣 縫 部 ・鷹 甘 部 ・玉 作 部 ・日祀 部 ・矢 作 部 な ど 、 ︿名
や はぎ
中 国 的 官 職 を 除 く と 、 倭 国 内 の官 職 は ﹁卑 奴 母 離 ﹂ の よ う に漢 字 の字
い る。 大 宝 令 の施 行 細 則 と さ れ る官 員 令 別 記 の職 種 表 記 も、 甲作 ・鞭
ひ ま つり
音 を 利 用 し て表 記 さ れ た 。 都 市 の読 み は音 か 訓 か 、 定 か に でき な い。
作 ・靹 張 ・羽 繕 (職 員 令 造 兵 司 条 ) な ど同 じ タ イ プ で あ る。 五世 紀 の
たま つくり
と ころ が、 五世 紀 後 半 の金 石 文 に は ﹁杖 刀 人 ﹂ や ﹁典 曹 入 ﹂ な ど の よ
人 制 と 対 比 でき る共 通 の撃
たか か い
う に、 漢 語表 記 の人 制 の官職 名 が 存 在 し た 。 ・ の漢 語 表 記 の官 職 の読
㈲ 養鳥人一
き ぬぬ い
こ こ で問 題 にし た い の は、 いわ ゆ る職 業 部 (井 上 光貞 氏 の いう品部 )
み は、 漢 語表 記 にも か か わ ら ず 和 語 読 み の可 能 性 が あ る。 も ・と も 、
㈲ 典馬 (
人 )1
にな る 。
魏
ヒ ナ モリ や ウ マカ ヒ ・ト リ カ ヒ のよ う な 在 来 型 の職 掌 と 、 中 国 か ら 新
以 上 のよ う に、 人 制 の表 記 は漢 語 表 記 であ ・た。 と こ ろ が部 民 制 の
α
一
ほ 表 記 は和 語 順 の表 記 に変 化 し て い ・・ ご く 例 外 的 に捕 鳥 部 万 (
崇 峻即
と 対 照 でき る、 和 語 表 記 であ る。 前 項 で述 べ た ウ マカヒと同 じ であ る。
馬 飼 (馬 養 )・馬 飼 (馬 養 ) 部
鳥 養 ・鳥 養 部
は少 な い が、
リソ
倣
別 な例 外 を 別 と す れ ば 和 語 読 み で想 定 し て い い よう に思 わ れ る。
た に導 入 し た よ う な 官職 と では 差 異 が でる か も し れ な い。 し か し 、 特
語
和
と
春
暖
献
よ うな 表 記 が 多 い。 そ こ で、 人 制 から 部 民 制 へと シ ステ ム が変 化 し た
位 前 紀 ) の よう な 人 名 が みら れ る が、 こ の浦 島 部 も ふ つう は鳥 取 部 の
次 に、 部 (
部 民) の制 度 の漢字 表 記 に つい て考 察 を 進 め た い。 部 民
時 期 に、 漢 語 表 記 か ら 和 語 表 記 へと 変 化 し たと 考 え る こ と が で き る。
部 民 制 の表 記
制 の開始 時 期 は 、 五 世 紀 末 か ら 六 世 紀 前 半 と 想 定 さ れ る。 現 在 のと こ
と ・ ろ で、 す で に述 べ た よ う に人 制 の表 記 は漢 語 であ る が、 読 み は
3
語
漢
る
け
お
ろ、 六 世 紀 後半 に築 造 さ れ た 島 根 県 松 江 市 の岡 田 山 一号 墳 出 土 の鉄 剣
和 語 であ った可 能 性 が 強 い。 部 民 制 が つく り出 され た時 、 人 制 段 階 の
献
に、 ﹁各 (額 ) 田 部 臣 ﹂ と 象 嵌 され た名 代 の部 が 確 実 な 最 古 の 史 料 で
和 語 読 み の通 り 、 部 の表 記 が 和 語 のま ま漢 字 で表 記 され たと 考 えた い。
け そ こ で、 名 代 ・子 代 の表 記 の仕 方 に影 響 さ れ、 職 掌 部 の漢 字 表 記 が和
あ る。
名 代 や子 代 の部 は 、穴 穂部 (
穴 穂 宮 )・小 長 谷 部 (長 谷 列 木 宮 ) の
語 風 に変 化 し た と 想 定 し た の であ る。
ヒ ナ モ リか ら はじ ま り 、 ウ マカ ヒ や キ ヌ ヌ ヒ の表 記 に は、 助 詞 が含
け の和 語表 記 であ る の で、 一般 的 に いえ ば 和 語 表 記 と な る 。 ま た 、 蘇 我
ま れ な い。 こ の事 実 を ど のよ う に評 価 す れ ば い い のだ ろ うか 。 三世 紀
よ う に宮 号 にち な ん で名 づ け ら れ る。 宮 号 は地 名 や 建 造 物 の特 徴 な ど
部 や大 伴 部 な ど の いわ ゆ る 豪 族 所 有 部 (部 曲 ) の表 記 も 、 蘇 我 氏 や大
彦
武
村
古
い う ま で も な い が、 助 詞 の表 記 を 加 え た 和 文 の表 記 が 不 可 能 であ った
態 に合 わ せ た と考 え て い いだ ろ う 。 助 詞 の問 題 と 関 係 し て いる こと は
にヒ ナ モ リ の表 記 が でき て いる 事 実 か ら み れ ば 、 ヒ ナ モリ のよ う な 形
ニヲ ハの助 詞 や 助 動 詞 な ど の付 属 語 は 使 わ れ て いな い。 助 動 詞 や助 詞
は 一部 改 変 )。 古 体 歌 は基 本 的 に体 言 と 用言 と か ら な り 、 い わ ゆ る テ
て いる ﹂ のよ う な 大 意 であ る (日本 古 典 文 学 大 系 ﹃万 葉 集 ﹄ 二、 表 記
と 読 み 、 ﹁葛 城 山 に立 つ雲 のよ う に、 立 って も坐 っても妹 のことを 思 っ
は 、 各 種 の様 態 ・時 制 な ど を 示 す か ら 、 助 動 詞 ・助 詞 のな い古 体 歌 の
時 代 であ る こと は い う ま でも な い。
以 上 の よ う に、 部 民 の表 記 は 、 目 的 語 のA (名 詞 、 た と え ば 鳥 ) を
読 み 方 次 第 で、 元 の歌 が 微 妙 に変 化 す る 。 解 釈 ば か り か 、 歌 自 体 の質
こ こ では 詳 述 す る 余 裕 が な いが 、 古 体 歌 か ら 新 体 歌 への プ ロセ スを
Bす る (動 詞 、 た と え ば養 う ) と い う 動作 (これ が 職 種 と な る) を 、
であ る。 こ の表 記 法 は漢 語 では な く、 し か も ﹁卑 奴 母離 ﹂ のよ う な 字
少 し ふ り か え ってお き た い。 こ の研 究 の推 進 役 であ る 稲 岡 耕 二氏 の論
も 変 わ って こよ う。
音 表 記 でも な い。 和 文 の読 み のと お り 、漢 字 の名 詞 ・動 詞 を 利 用 し て
和 語 の読 み のと お り ﹁A B (た と え ば 鳥養 )﹂ の 漢 字 で表 記 し た も の
表 記 し たも の で、 和 文 表 記史 のう え では 一つの画期 を な し て いる だ ろ
発雲
立座
妹念
(巻 十 一、 二 四 五 三 )
第 3 次 発 掘 調 査 報 告 書 ﹄ で は 、 ﹁年 代 は 評 制 下 で、 天 智 九 年
(六 七 〇 ) の庚 午 年 に始 ま る戸 籍 調 査 の完 了 か ら、 木 簡 に み る ﹃里 ﹄
遺跡
伴 遺 物 は 、 七 世 紀 後 半 の土 器 ﹂ と さ れ て いる 。 ま た 、 ﹃西 河 原 森 ノ内
問 題 は こ の木 簡 の年 代 であ る。 ﹃木 簡 研 究 ﹄ 八 に よ れば 、 ﹁木 簡 の共
●自 舟 人 率 而 可 行 也 其 稲 在 処 者 衣 短 評 平 留 五 ± 且 波 博 士 鵬
・椋 直 □ 之 我 □ □ 稲 者 □ 以 得 故 我 者 反 来 之 故 汝 卜 部
原 森 ノ内 遺 跡 の木 簡 を 契 機 と す る 。 と り あ え ず 釈 文 を紹介 し てお こう。
であ る 。 こ の論 文 は 、 一九 八 五 年 十 二 月 に木 簡 学 会 で発 表 され た西 河
文 を と り あ げ て、 研 究 状 況 を か いま 見 た い。
(
隠)
最 初 に検 討 し た い のは 、 一九 八 六 年 に発 表 さ れ た ﹁木 簡 と 表 記 史 ﹂
う。
こ の部 民 表 記 と の 関係 で対 照 す べき 問 題 が 、 和 歌 の古 体 歌 (いわ ゆ
古 体 歌 か ら 新 体 歌 へ
新体歌と柿本人麻呂
二
る略 体 歌 ) の表 記 であ る。 節 を 改 め よ う。
-
﹃万葉 集 ﹄ には 、 周 知 の よう に古 体 歌 (略 体 歌 ) と 新 体 歌 (非 略 体
葛山
歌 ) と が 存 在 す る。 古 体 歌 は典 型 的 な 例 を あ げ れ ば 、
春楊
いも
おも
妹をしそ念ふ
五 十 戸 ﹂ (六 四九 ∼ 六 六 四年 ) の木 簡 と ﹁山 部 五 十 戸 ﹂ (六 六 三 年 ) の
の初 例 であ る 天 武 十 二 年 (六 八 三 ) ま で の間 と 考 え ら れ る﹂ と 書 か れ
み
立 ち ても 座 ても
のよ う な 表 記 と な る。 合 計 一〇字 の漢 字 か ら な り、 一見 す れ ば漢 詩 の
発 つ雲 の
て いる 。 上 限 の庚 午 年 に つい ては 、 ﹁平 留 五 十 戸 ﹂ の時 期 を ﹁白 髪 部
かづ らき
葛城山 に
よ う な 表 記 であ る。 こ の歌 は 、
やな ぎ
春楊
)
(
し て、 ﹁やま と 歌 の表 記 の始 ま りを 人 麻 呂 の時 代 と し 、 人 麻 呂 に よ っ
ぼね
(= ○ ○ )
法 隆寺 幡 と を 区 別 す る 山 尾幸 久 氏 の見 解 に基 づ い て い る 。 ﹁平 留 五 十
む
三 六 四)
却秘曲愈
又 反 将見
ま たか へり み
て ﹃新 体﹄ の綿 密 な表 記 が考 案 さ れ た﹂ と結 論 づ け る。 こ の見 解 はす
たゆ るこ と な く
黍 継 残
絶 事無
戸 ﹂ を ﹁* *部 五十 戸﹂ と共 通 す る と み れ ば 、 文 面 か ら いえ ば 上 限 は
の かは ゆ
監 飛
ゆく みず の
で に述 べた よ う に、 一九 八 六 年 (昭和 六 一) 十 月 の時 点 であ る。
あな し
病足之川由
ち な み に新 体 歌 と は、
まき むく の
巻向之
舟藤 羅
であ り、 作 歌 と は
驚 灘
注水之
さ か のぼ る。
さ て、 稲 岡氏 は こ の木 簡 を ﹁漢 文 では な い、 素朴 な 和 文体 書 簡 ﹂ と
み て、 私 的 通信 文 であ る こと に注 目 し て いる。 そ の結 果 、 漢 文 では な
椋直□之。我が懸口稲爵 以て得た・が故に我者反り来たり。故
く和 文 と し て読 ま れ た と判 断 し て いる。 稲 岡氏 によ れ ば 、
翻
是 に汝 卜 部 、 自 ・舟 人 を 率 て行 く 可 き也 、 其 の稲 の在 処 者 、 衣知
であ る。 前 者 は 天 麻 呂 歌集 新体 歌L、 後 者 は 天 麻 呂 作 歌 L と な る。
一
倣
と な る。 私 的 な 通 信 文 と い う性 格 か .
り注 意 し た いの は、 卜 部 や 旦 波博
な お、 ・ の論 文 では法 隆 寺 の金 堂薬 師仏 光背 銘 三 天 造 像 銘 ・辛 亥
ω
(
稲 岡 ﹁総 訓字 表 記 への志 向 と そ の転 換 ﹂ 下 、 三 一六 頁 )
魁
士 、 そし て お そ ら く椋 直 にも 個 人 名 が み え な い点 であ る。 ・れ は 三世
年 銘 観 音 造 像 銘 な ど の銘 文 類 の検 討 か ら・ 窪 く と も 七 世 紀 の 中 葉 に
評 平 留 五 十 戸 旦 波 博 士 の國 そ。
(
81)
暖
紀 の ﹃魏 志 ﹄ 倭 人 伝 や五 世 紀 の金 石 文 銘 に あ る在 来 系 人 物 の 個人 名 と
語
和
激
は、 漢 字 を 用 い てや ま と言 葉 の語 順 のま ま に記 す こと が 可能 にな って
稲 岡 氏 は、 天 武 朝 ま で の和 文 表 記 は付 属 語 の書 か れ る こと の少 な い
比 較 す ると 、 興 味 深 いも の が あ る。 そ れ は とも か く、 本 題 にも ど って
検 討 を 続 け よ う。
文 字 化 さ れ てい な い和 文 であ る。
を 保 存 し て い る ﹁人 麻 呂 歌 集 ﹂ の注 記 を も つ部 分 、 と り わ け略 体 歌 群
記 への歩 み を ﹁新 し い表 記法 の開 発﹂ と考 え て いた。 そし て、﹁略体 ・
の意 義 ﹂ に お い て、 人 麻 呂 の表 記 の原 点 を略 体 表 記 と捉 え、 非 略 体 表
稲 岡氏 は す で に・ 一九 六九 年 に発 表 し た 天 麻 呂 歌集 歌 の筆 録 と そ
に は ﹁古 体 ﹂ のお も か げ が み られ ると い う。 こ の ﹁古 体 ﹂ の表 記 が、
非 略 体 と い う呼 称 を 不適 当 だ と思 う の は、 (略 ) 表 記 者 の 意 識 と は か
﹄ の な か でも ・と も古 い表 記
人 麻 呂 の時 期 の 一般 的 な 書 き 方 だ と す る。 こ の よ う に略 体 歌 を天 武 朝
け離 れ た名 称 であ り、 表 記史 の上 か ら 仮 り に名 付 け る と す れ ば、 古 体
﹁古体 ﹂ の表 記 と す る。 そ し て、 ﹃万華
いた﹂ と さ れ て いる。 し か し、 そ の和 文 と は助 詞 や 助動 詞 の大 部 分 が
語
浅
略
論
猷
の和 文 表 記 と 認 め 、 略 体 歌 よ り付 属 語 の表 記 を 綿 密 化 し た非 略 体 歌 、
と新 体 と言 う べきも の﹂ と述 べ て いた。 そ の後 の研 究 で この 認識 を発
ハハ さ ら に緻 密 な 作 歌 は そ の後 の時 期 に書 か れ たも のと 位 置 づ け る。 つま
展 さ せ 、 一九 九 一年 に ﹃人 麻 呂 の 表 現 世 界 -
古体 歌 か ら新 体 歌
り 、 人 麻 呂 は略 体 歌 ← 非 略 体 歌 ← 作 歌 の順 に書 き継 いだ と考 え る。 そ
問 題 に し て いる の で、 ﹁最 古 の万 葉 仮 名 文 ﹂ を と り あ げ る 。 東 野 氏 は
ね
﹄ を 提 起 し た の であ る。 こ の書 物 は 二章 構 成 か ら な り、 第 一章
ロ 大 津 市 の北 大 津 遺 跡 か ら出 土 し た、 い わ ゆ る ﹁音 義 木 簡 ﹂ を 姐上 に の
へ一
古 体 歌 試 論 ﹂、 第 二 章 が ﹁新 体 歌 の 世 界 ﹂
お が ﹁漢 字 と のた たか い1
口
ぼ せ る。 釈 文 は次 の と お り。
田賛 畑須□ 田 詮 胴粧御母
ロ ロ須ロロ 采 取 体 ゆ畝□
積殿皮 被 開
[]
□粗
と ころ で、 文 献 史 学 の立 場 から い えば 、 第 一義 的 に は和 文 の表 記史
七 世 紀 後 半 と想 定 さ れ る人 工的 な 溝 か ら 出 土 し た 木 簡 であ る が 、
□□里
□廻
であ る 。 こ こ に稲 岡 氏 の新 し い峰 が つく ら れ、 そ の考 え が集 大 成 さ れ
た の であ る 。
最 近 では 、 ﹁文 字 を推 敲 し て作 歌 す る﹂ 問 題 か ら ﹁声 の 歌 ﹂ に い た
が を 正 確 に掌 握 す る こと が 重 要 であ る。 この意 味 では七 世 紀 後 半 、 特 に
﹁賛 11 田須 久 (たす く )﹂、 ﹁詮 11阿 佐 ム加 ム移 母 (あ ざ む か む や も )﹂
る ま で、 古 体 歌 ・新 体 歌 に対 す る新 た な展 開 が み ら れ る。
天 武 朝 前 後 の和 文 の文 字 化 を 正 し く捉 え る必 要 が あ る。 そ し て次 に、
や ﹁糖 11久 皮 之 (く は し、 釈 文 は ﹁
反 ﹂ であ る が、 ﹁之﹂と す る 東 野 説
一
□
柿本 人 麻 呂 の評 価 の問 題 があ る。 か つて古 代 史 の通 史 の な か で、 ﹁付
が いい)﹂ な ど が 記 載 され て い る・ 東 野 氏 は ﹁あ ざ む か む や も ﹂ に注
10
(
□
属 語 を つけ る こと な ど 簡 単 に思 わ れ る が・ 古 代 人 に は な か な か 困難 で
目 し、 詮 (謳 の異体 字 )﹂ の字 が 、 ﹁あ る文 章 の中 で使 わ れ て い て そ こ
口口□□
鵡
あ った よ う だ 。 近 年 、 稲 岡 耕 二氏 が こう し た展 開 に お け る柿 本 人 麻 呂
で の読 み方 を 記 す意 味 が あ った﹂ と考 え る。
こ の遺 跡 の年 代 を、 東 野氏 は林 博 通 ﹃大 津 京 ﹄ によ って天 智 天 皇 の
の役 割 を 重 視 す る説 を 唱 え て い る。 特 定 の個 人 の功 績 に 帰 す る か ど う
か は 別 と し て、 天 武 ・持 統 朝 の前 後 に和 文 表 記 の歴 史 が 画期 的 な時 代
大 津 宮 時 代 と推 定 し 、人 麻 呂 が活 躍 し た 天 武 ・持統 朝 よ り 一世 代 古 い
村
吉
を 迎 え た こと は 確 か であ る﹂ と述 べた こと が あ る。 人 麻 呂 の 作歌 にお
と考 え る。 そ し て、 ﹁こ の木 簡 か らす れば 、 漢 字 の訓 も 相 当 固 定 し て
あ け る 意 味 を 認 め な が ら 、 も う少 し集 団 的 な要 素 を 配慮 し た方 が い いと
い て、 漢 文 の訓 読 も盛 ん だ った と み てよ い の では な いか 。 お そら く 日
お いう 思 いか ら であ る。 引 き 続 き検 討 を 加 え た い。
本 語 を 書 き表 す方 法 は、 古 く か ら いく つか 出来 上 が って い て、 それ ら
この東 野 説 に対 し 、 稲 岡 氏 は辞 書 的 な 注 が み ら れ るか らと い って、
が時 に応 じ て使 いわ け ら れ た り、 併 用 さ れ た のだ ろ う ﹂ と 指 摘 す る。
和 文 の表 記 に関 す る稲 岡耕 二説 の主 要 な論 点 は 一 ﹁新 体 歌 と柿 本 人
﹁音 仮 名 で ﹃文 章 が仮 名 書 き され る ことも あ った﹄ と す る の は、 飛 躍 し
和 文 文 字 化 への途
麻 呂 ﹂ で述 べた 。 こ の稲 岡 説 に対 し、文 献史 学 から 批判 的な論 陣 を は っ
過 ぎ て いる﹂ と批 判 し 、 ﹁田須 久 ﹂ や ﹁阿 佐 ム加 ム移 母 ﹂ は ﹁文 章 ﹂ で
2
て いる のが 東 野 治 之 氏 で あ る。 小 稿 では、 お も に和 文表 記 の成立 期 を
はなく 、 ﹁謳 ﹂・﹁賛 ﹂ の注 と し て意 義 あ るも の と し か考 えら れ な いと す
る。 稲 岡 氏 にお い ては、 多 様 な 日本 語 の表 記法 は考 え 難 いの であ る。
癸亥 年 山 部 五十 戸 婦 為 命 過願 造 幡 之
であ る。 ﹃法 隆 寺 献 納 宝 物 銘 文 集 成 ﹄ の備 考 で は、 癸 亥 年 を ﹁養 老 七
は、 事 実 と し て存 在 す る。 そ の徴 証 の 一端 が ﹃日本 書 紀 ﹄ 天武 十 一年
の優 位 性 は認 め ね ば な ら な い。
八 月 条 の ﹁礼 儀 ・
の問 題 を 確 認 す る ・と は、 重要 であ る。 現在 のと ・ろ 、稲 岡氏 の仮 説
か ら であ る。 稲 岡氏 の批判 は当 然 の こと であ る。 こ のよ う な方 法論 上
部分 (
和 語) を足 し て いけ ば 必 ず全 体 (和文 ) にな る と は か ぎ ら な い
では決 着 し な いだ ろ う。 和 文 は 和 語 か ら 構 成 さ れ る。 しか し こ の場合 、
が、 相 当 に古 く か ら存 在 し て いた ・と が想 定 さ れ る。 し か し 、 ・れ は
柔
記 す る よ う な形 態 では な い。 たと え て いえば、
つま り、 鳥 養 の よ う な目 的 語 の名 詞 に動 詞 を続 け て書 く よ う な 書 式
部 の成立 も天 智 朝 以前 にな る ・と は ま ち が いな か ろ 需
﹁委 ホ 部 栗 ﹂ が 六 四八 年 前 後 .
の木 簡 と 想 定 され る こ と か ら み て、 職 業
九九 九年 十 二月 の木 簡 学 会 で発 表 さ れ た 難 波 宮 跡 北 西 部 出 土 の木 簡
ま た、 岡 田山 古 墳 出 土 の鉄 剣 銘 ﹁各 (
額 )・田部 ﹂ が 六世 紀 後 半 、 一
q
D
年 (七 二 三)﹂ と す る樋 、 天 智 二 年 (六 三 三 ) であ ろ麺 。
凝
(六 八 二 ) 三 月 余 の 薪 字 一部 四 + 四 巻 L であ 咳
テ ニ・ ハな ど の助 詞 裏
和 文 と和 語 と を対 立 点 と す る 論 争 は 、 両者 が 納 得 す る よ う な か た ち
倣
言 語 之 状 を 詔 す ﹂ であ る。 両 者 と も詳 し い内 容 は 不 明 であ る が、 前 者
あ る。 し た が って、 こ の よ う な部 民 制 の表 記 を積 み重 ね ても、 和文 化
部 は いわ ゆ る豪 族 所 有 部 (
部 曲 ) であ る が、 職 業 部 も 六世 紀 後 半
ま で には鳥 養 や馬 飼 の よ う な表 記 にな った であ ろ う。
よ ・て全 体 への転 化 に つな が ら な い事 例 であ る。 ・う し た本 質 的差 異
﹃魏 志 ﹄ 倭 人 伝 の ﹁卑 奴 母 離 ﹂ を ﹁夷 守 ﹂ と 表 記 す る よ う な か た ち で
・う し た論 争 の決 着 は、 天 智 ・天 武 朝 前 後 の新 た な木 簡 な ど の新 史 料
を 理解 し た う え で、 略 体 歌 と の比 較 を試 み る こと は そ れ ほ ど無 意 味 で
いず れ に せ よ、 天 武 朝 に お け る ﹁日本 語表 記改 革 の新 た な う ね り﹂
額 田部 は名 代、
語
和
と
春
暖
の ﹁新 字 ﹂ に つい ては小 島 憲 之 氏 が ﹁古 字 と の差 、 そ の訓 話 、 音 義 な
(
29)
ど の 記事 を説 く小 学 書
﹂ と す る。
への途 は質 的 に異 な る と い わ ね ば な ら な い。 これ ま た、 部 分 の加算 に
数
以 上 の よ う に、 和 文 表 記 化 の稲 岡 説 に対 す る批 判 説 を検討 し てき た。
ロ
語
漢
る
け
串
献
の出 土 を ま た な け れば な ら な い だ ろ う。 小 稿 で検 討 し た い こと は、 第
むす び に代 え て1
・寿 詞 と 古 体 歌
は な か ろ う。 今 後 の研 究 課 題 の 一つには な る だ ろ う。
宣 命
一
稲 岡 耕 二氏 に よ る和 文 表 記 の研 究 を 手 がか り に し て、 和 歌 の文 字 化
三
一節 ﹁声 の世 界 の和 語 表 記 ﹂ の末 尾 で述 べた部 民 制 の表 記 問題 であ る。
鳥 養 ・鳥 養 部 や馬 飼 ・馬 飼 部 な ど の名 負 い の氏 や職 業 部 の表 記 が い
つ成 立 し たか 、 詳 細 は不 明 であ る。 し か し、 す で に取 り あ げ た ﹁山 部
五 十 戸 ﹂ の法 隆 寺 系 幡 銘 か ら み て六 六 三年 (天 智 二) ま で さ か の ぼ る
こと は確 実 であ る。 そ の平 絹 幡 と は、
薦
村
吉
の問題 を考 え てき た 。 最 後 に同 じ 和 文 表 記 と 考 えら れ る宣 命 と寿 詞 を
こ の木 簡 の年 代 観 は、 同 じ遺 構 か ら出 土 し た ﹁粒 評 石 見 里 ﹂ (後 の
播 磨 国 揖 保 郡 石 見里 の地 名 ) の表 記 か ら、 ﹁七 世 紀 末
后 ・賞 賜 な ど に拡 が って い く と指 摘 し て い る。 古 く は ﹁す こぶ る単 純
松 本 雅 明 氏 は、 宣 命 の起 源 を 即位 儀 礼 に も と め、 そ こか ら改 元 ・立
編 纂物 であ る こと を 考慮 す る と 、 同 時 代 の史 料 と し ては 木 簡 の方 が 価
九 七) 八月 条 にあ る が、 こ の宣 命 よ り は古 い。 ま た 、 ﹃続 目本 紀 ﹄ が
﹃続 目本 紀 ﹄ か ら みえ る。 ﹃続 目本 紀﹄ の宣 命 第 一詔 は、 文武 元年 (
六
(天 武 朝 末 年 以
考 え てみ た い。 いず れ も 多 く の研 究 が あ る が、 問 題 提 起 的 な 論 文 を 取
後 か) の年 代 ﹂ が想 定 さ れ てい る。 宣 命 は ﹃日本 書 紀 ﹄ に は な く 、
な も の﹂ であ ったが 、 後 に荘 厳 な も の に発 展 し た と考 え て いる。 これ
値 が高 い。 そ れ は と も か く 、 七 世 紀 末 ま で には 宣 命 書 き が 行 な わ れ て
あ り あ げ て、 今 後 の研 究 課 題 を 探 り た い と思 う。
ら は継 承 す べき 視 点 であ ろ う。 松 本 氏 は初 期 の宣 命 を ﹁詔勅 の和 文的
いた こと が 判 明 し た 。 た だ し 、 先 の松 本 説 の是 非 を 検 証 す るよ う な 性
お な 翻 案 ﹂ と し て捉 え て い る。 今 一つ真 意 が 掌握 でき な いが 、 ﹁詔 勅 の
格 の史 料 では な い。
と ころ で、 最 近 の宣 命 研 究 に は成 立 史 論 が 少 な いが 、 な ぜ 和 文 体 の
和 文 への翻 訳 ﹂ と い う意 味 であ れ ば、 再検 討 す る 必 要 が あ る だ ろ う。
む し ろ ﹁単 純 な 宣 命 ﹂ が、 中 国 式 の詔 勅 の影 響 を 受 け 、 そ れ を 取 り 込
し か し、 宣 命 を ﹁新 し く 現 れ た 長 歌 の表 現 形 式 を 採 る こと によ って
な ど の大 書 ・小 書 問 題 も あ るが 、 宣 命 形 式 の言 葉 が 天 武 朝 以前 にさ か
じ な け れ ば な ら な いだ ろう 。 ま た 表 記 の問 題 と し て は、 い わ ゆ る助 詞
白
旦命 を 書 き 記 さ ね ば な ら な か ・た のか 、 宣 命 の起 源 に さか のぼ ・て論
成 立 し た﹂ と考 察 し た こと は 、 批 判 的 に継 承 す べき であ る。 と いう の
のぼ ると す れ ば 、 和 歌 と 同 じ よ う に ﹁古 体 (略 体 )﹂ と し てし か 存 在
化 し た も の と考 え ・ べき であ ろ 急
は、 松 本 氏 は柿 本 人 麻 呂 によ って発 展 し た 頒 歌 と の関 係 を 想 定 し て い
基 盤 はな い はず であ る。 宣 命 の成 立 時 期 の問 題 と とも に、 表 記 の問題
ん で羅
る か ら で あ る。 小 稿 で紹 介 し た 稲 岡 氏 の研 究 はま だ 現 わ れ て いな い の
も あ ら た め て研 究 す る必 要 があ るだ ろ う。
実 で あ れば 天 智 朝 に さ か の ぼ る。 柴 田氏 は寿 詞 の呪術 的性 格 を 述 べた
与 二大 錦 下 巨 勢 人 臣 八進 二於 殿 前 ハ奏 二賀 正 事 一
﹂ に着 目 し て いる が 、 事
氏 は ﹃日本 書 紀 ﹄ 天 智 十 年 (六 七 一) 正 月 条 の ﹁大 錦 上 蘇 我 赤 兄 臣
寿 詞 の問 題 に つい て は、 柴 田実 氏 の研 究 を 参 照す べき であ ろ う。 柴 田
お 宣 命 が 上 位 か ら 下 位 の者 への言 葉 と す れば 、 そ の逆 が寿 詞 と な る。
で、 研 究 史 の時 期 的 な 制 約 はあ る。 た だ し 、 人 麻 呂 と の関 係 に注 目 し
た こと は 、 は な は だ 興 味 深 い。
現 在 のと こ ろ、 も っと も 古 い宣 命 書 き は奈 良 県 明 日香 村 の飛 鳥 池 遺
跡 (飛 鳥 藤 原 第 八 四次 調 査 ) 出 土 の木 簡 であ る。
世牟止言而□
□ 本 止飛 鳥 寺
う え で、 何 ら か の儀 礼 を伴 な う も のと考 え て いる。 具 体 的 には 、 新 嘗
●
・□ □ 口 口 (
3、)
の
ユ
(
祭 (大嘗 祭 ) や新 年拝 賀 ・皇 子 誕生 な ど と 関 係 す る と 指 摘 す る。 た と
し た 研究 によ れ ば、 宣 命 ・寿 詞 と和 歌 には儀 礼 と 関与 す る と いう 、 共
る。 ﹁ま つりご と ﹂ の 一部 と し て、 成 立 期 の和 歌 を 捉 え て い る 。 こ う
お え ば新 嘗 祭 には、 新 室 が つく ら れ、 寿 歌 や寿 詞 が 唱 え ら れ る の であ ろ
通 の性格 が 認 め ら れ る こと にな る。 と す れば 、 そ の和 文表 記 にあ た っ
て、 相 互 間 の影響 を考 慮 し て いか ね ば な ら な いだ ろ う。 ﹁ま つりご と﹂
う。
祝 詞 の成立 を考 察 す る う え で、 そ の表 記 問 題 か ら 興 味 深 い指 摘 が 出
に関 係 す る散 文 的 世 界 と芸 能 的 世 界 と では違 いも生 じ てく る だ ろう 。
おソ
さ れ て いる。 藤 原 宮出 土 の文書 木簡 には 、
し か し、 宣 命 ・寿 詞 と和 歌 は 口哺的 世 界 の意 思表 現 であ り 、 初 期 の表
簡﹂ や
御 門方 大夫 前白 上毛 野 殿 被 賜
な お、 小 林 芳 規 氏 は先 に紹介 し た 北大 津遺 跡出 土 の ﹁青 葉
記 には共 通性 も憶 測 でき る の では あ る ま いか。
㈲
あ る。 ・う し た文 書 形 式 は 公
以上 博 士御 前白
宮 守官
ラ
価
と い う よ う な ﹁宛 先 の前 に白 す ﹂ 記 薬
飛鳥 池遺 跡出 土 の 別 の木 簡 例 か ら、七 世紀 後半 には日本 語 の語順 によ っ
コ
し
髭
繊
式 令 には み ら れ な いが 、祝 詞 に類 例 が み ら れ る。 わ か り や す い例 で い
て漢 字文 を綴 る ・
、と や、 漢 文 訓 読 が 行 な わ れ て いた ・
、と を 指 摘 し て い
解
えば 、 竜 田 風神 祭 条 に含 ま れ る
綴 の献に鶴さ- (
集
語
和
へまミ
魁
竜田縫 難
と い う祝 詞 であ る。 ・う し た ﹁- の前 に白 す﹂ と いう 文童・形式 は、 天
は な は だ粗 雑 な デ ッサ ン に終 わ ってし ま った 。 全 体 と し て今 後 の研 究
(
仙)
の覚 え書 の域 にも達 し て いな い。 し か も 最近 、神 野志 隆 光 氏 ら が 強 調
暖
数
式 に と ってか わ ら れ た。 し か し 、祝 詞 のよ う な特 殊 な 事例 には 後 代 ま
す る ﹁書 く こと の意 味 ﹂ を考 え る 問題 提 起 にも十 分 に応 え て いな い。
とし たが・
語
漢
略
で残 存 し た と考 え る の であ る。 確 か に成 立 す る 可能 性 の強 い見 解 であ
し か し、 も は や時 間的 余 裕 も な い の で、 こ ・ で潤 筆 せ ざ る を え な い・
漢 語 ・漢 文 の受 容 か ら和 語 ・和文 の表 記 の歴史 を考 え考
あ
る。 そ ・ では ﹁祝 詞 の中 に は、 (略 ) そ の成 立 が 天 武 朝 に ま で 遡 る も
武 朝 ご ろ には広 く 行 な わ れ て いた が 、 一般 の公文 書 では大 宝令 制 の書
敵
研究 領 域 を ま た い で いる の で、多 く の研究 文献 を 見 落 し て い ると 思
ハおね
.
.
、
(1 ) 酒寄 雅 志 ﹁
渤 海 通 事 の研 究 ﹂ (﹃
栃 木史 学﹄ 二、 一九 八 八 年 )。 遠 山 美
都男 ﹃
古 代 王 権 と大 化 改新 ﹄ 三 一二 頁 (
雄 山 閣 ・ 一九 九 九 年 )
。
・
王
わ れ る が、 ご海 容 を乞 いた い。
の が あ る﹂ と指 摘 さ れ てい る が、 祝 詞 か ど う か は 別 にし て天武 朝 は 律
令 制 的 祭 祀 や儀 礼 が整 備 さ れ る時 期 にあ た る。 儀 式 の継 続 性 の必要 か
ら、 文 字 が記 録 さ れ る こと も考 慮 し てお き た い。
儀 礼 と の 深 い つな が り を 想 定 し な け れ ば な ら な い 。 最 近 、 犬 飼 隆 氏 は
(2) 新 日本 古 典 文 学 大 系 ﹃
続 目本 紀 ﹂ 二 (
岩 波書 店 、 一九 九 〇 年 ) の脚 注
以 上 の よ う な 松 本 ・柴 田 両 氏 の 研 究 に よ れ ば 、 宣 命 と 寿 詞 は 各 種 の
儀 礼 に お け る ﹁歌 の 座 ﹂ の 筆 録 の 可 能 性 か ら 、 和 歌 木 簡 を 考 察 し て い
の
q
彦
武
村
士ロ
等 によ る。
年 )。
(3) 日本 語 の歴 史 1 ﹃民族 の こと ば の誕生 ﹄ 三 五 一頁 (平 凡社 、 一九 七 八
有 銘 環頭 大 刀﹄ 東 京 国 立 博物 館 、 一九 九
五 五 、 一九 九 四年 )。.吉 田孝 ﹁
魏 志倭 人 伝 の ﹃都市 ﹂﹂ (﹃日本 歴 史﹄ 五 六
(4) 西 村 敬 三 ﹁卑 弥 呼 の遣 魏 使 ﹃
都 市 年利 ﹄ に つい て﹂ (﹃季 刊 邪 馬 台 国 ﹄
七 、 一九 九 五 年 )。
二年 。
(5) 東 京 国 立 博 物 館 ﹃
修 理報 告
(6 ) 吉 村 武 彦 ﹁倭 国 と 大 和 王 権 ﹂ (﹃
岩 波講 座 日本 通 史﹄ 二 、 一九 九 三 年 )
。
(7) 日本 古 典 文 学 大 系 ﹃日本 書 紀﹄ 上 、 四 七 七頁 (
岩 波 書店、 一九 六七 年)
。
以 後 、 特 に こと わ ら な い時 は 同書 を使 用 す る。
・自 舟 人 率 而 可 行 也
第 三次 発 掘 調 査 報 告 書 ﹄ (
中主町数
其稲在処者衣知評平留五十戸旦波博士家
であ る 。 な お 、 ﹃西 河 原 森 ノ内 遺 跡
其稲在処者衣知評平留五十戸旦波博士家
育 委 員 会 ・中 主 町 埋 蔵 文 化 財 調 査 会 、 一九 八 七 年 ) で は、
(
直力)
(
往力) (
不力)
・椋 口 口 之 我 □ □ 稲 者 馬 □ 得 故 我 者 反 来 之 故 是 汝 卜 部
・自 舟 人 率 而 戒 行 也
と な る (表 記 は 、 新 字 に改 め た )。
其稲在処者衣知評平留五十戸旦波博士家
後 に稲 岡 氏 は これ ら の所 見 によ り 、
(
直)
︹
牲)
(
不)
・椋 □ 佃 之 我 □ 駐 稲 者 馬 □ 得 故 我 者 反 来 之 故 是 汝ト 部
・自 舟 人 率 而 可 行 也
と 改 め て いる (﹃人 麻 呂 の表 現 世 界 ﹄ 二頁 、 岩 波 書 店 、 一九 九 一年 )。 小
第 一 ・二次 発 掘 調 査 概 要 ﹄ (
中主町教育委員会 ・
論 では 時 系 列 を 重 視 し て叙 述 し た 。
中 主 町 埋 蔵 文 化 財 調 査 会 、 一九 八 七 年 )。 山 尾 幸 久 ﹁里 制 に関 す る 予 備
(17 ) ﹃西 河 原 森 ノ内 遺 跡
的 考 察 ﹂ (﹃立 命 館 文 学 ﹄ 五 三 五 、 一九 九 四 年 )。 後 者 の論 文 に よ れ ば 、
(8 ) 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹃日本 書 紀 ﹄ 前 、 六 一頁 (
吉 川弘 文館 、 一九 六六 年)
。
(9 ) ﹃日本 書 紀 ﹄ 上 、 二九 三頁 。
歌集古体 歌の時 代-
え ちのこほりへるの
さ
と
第 三 次 発 掘 調 査 報 告 書 ﹂ では 、 ﹁こ の木 簡 が 、 付
人麻呂
﹂(﹃
声 と文 字 上 代文学 へのアプ ローチ﹄塙書房、
二 一 ・二 二、 増 量旦房、 一九 九 七 年 ・九 八 年 )、 ﹁声 と 文 字 序 説 -
(22 ) 稲 岡耕 二 ﹁
総 訓字 表 記 へ の志向 と そ の 転 換﹂ 上 ・下 (﹃万 葉 集 研 究 ﹄
(21 ) 稲 岡 前 掲 ﹃人 麻 呂 の表 現 世 界﹄。
四 六- 一〇、 一九 六 九 年 )。
(20 ) 稲 岡耕 二 ﹁人 麻 呂 歌 集 歌 の筆 録 と そ の意 義 ﹂ 七 三 頁 (﹃国 語 と 国 文 学 ﹄
(三 〇 頁) と 記 す。 名 前 の問 題 は 、 別 の機 会 に考 え た い。
札 のよ う に名 ま で書 か な く ても 、 そ の人 物 が 特 定 でき た ため と思 われ る﹂
(19 ) ﹃西 河 原 森 ノ内遺 跡
と な る (同書 二 頁 )。
て行 く べき な り 。 其 の稲 の在 処 は 、 衣 知 評 平 留 五 十 戸 の旦波 博士 の家 そ﹂
あり か
稲 は 、 馬 を 得 ざ る が 故 に、 我 は 反 り 来 た る 。 故 是 に汝 ト 部 、 自 ら舟 人 率
庚 年 年 (六 七 〇 )∼ 天 武 五 年 (六 七 六 ) 前 後 と な る か (
同 三 四五 頁 )。
(8
1 ) ﹃人 麻 呂 の表 現 世 界﹂ によ れ ば ・ 鼠 壁 □ (ふ ・ す )・ 我 が 口 口 (
きし)
(10 ) 新 編 日本 古 典 文 学 全 集 ﹃万 葉集 ﹄ 一、 三 〇七 頁 (
小 学館 、 一九 九 四年)
。
﹂・﹁部 民 制 再考 -
﹂ (﹃日本 古 代 の 国 家 と 都 城﹄ 東 京大 学 出版 会 、
名 代 ・子代 を 中 心 と し て一
以 下 、 ﹃万 葉 集 ﹄ は同 全 集 を使 用 す る。 た だ し 、表 記 を 変 更 す る 場 合 が
あ る・
若 倭 部 に関 す る憶 説
(11) 狩 野 久 ﹁部 民 制 -
一九 九 〇 年 )。
(12 ) 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹁令 集 解 ﹄ 前 篇 、 一〇 二頁 (吉 川 弘 文館 、 一九 六 六
年 )。
(13 ) ﹃日本 書 紀 ﹄ 下 、 一六 四頁 。
国 語 研 究 論集 ﹄ 明
(14) 吉 村 ﹁倭 国 と 大 和 王 権 ﹂。 こ こ の記 述 は、 こ の拙 稿 に基 づ い て いる。
(15 ) 稲 岡 耕 二 ﹁木 簡 と 表 記史 ﹂ (﹃
松 村 明教 授 古稀 記 念
治 書 院 、 一九 八 六 年 )。
(16 ) これ は稲 岡 論 文 に掲 載 さ れ た釈 文 。 翌 年 の ﹃
木 簡 研究 ﹄ 八 (一九 八 六
︹
馬 不 力︺
・椋□□之我目口稲者□ 口程故 我者 反来 之故 是汝卜部
︹
持 往 力︺
年 ) に掲 げ ら れ た釈 文 は、
の
(
髭
繊
譜
和
と
容
暖
一九 九 九 年 )。
(23) 吉 村 武 彦 ﹃日本 の歴 史 ③
九 }年 )。
古 代 王 権 の展 開 ﹄ 三 二九 頁 (
集 英 社 、 一九
(24) 東 野 治 之 ﹁最 古 の 万葉 仮 名 文 ﹂ (
﹃書 の古 代 史 ﹄ 岩 波 書 店 、 一九 九 四年。
漢 字 ・漢 文 の受 容 と 展 開1
﹂ (﹃
長 屋王 家 木 簡 の 研究 ﹄ 塙 書 房 、 一
初 出 は 一九 九 二年 )。 な お、 東 野氏 の和 文 の表 記 に つい て は ﹁日本 語 論
1
九 九 六 年 。 初 出 は 一九 九 三年 ) を 参 照 の こ と。
﹃大 津 京 ﹄ 一〇 七 頁
(ニ ュー ・サ イ エ ン ス社 、 一九 八 四 年 )。
(25) ﹃日本 古 代 木 簡 選﹄ 一八 八頁 (
岩 波 書 店 、 一九 九 〇年 )
。
林博通
な お 、 ﹃古 代 近 江 の遺 跡 ﹄ (サ ン ライ ズ 出 版 、 一九 九 八 年 ) で は 第 二章
(26 )
万 葉集 e ﹄ 四 一八頁 (明 治 書 院 、 一九 九
﹁大 津 京 と 周 辺 の遺 跡 ﹂ で紹 介 さ れ てい る が 、特 に年代 へのき口及 は な い。
(27) 稲 岡 耕 二 ﹃和 歌 文 学大 系 七 年 )・﹁
総 訓 字 表 記 への志 向 と そ の転 換 ﹂上 、 三 二 八 頁。
(82) 沖森卓也 ﹁木簡 ・現れた古代・奎 ㎎﹂ 天 五頁 (﹃上代木簡資料集成﹄
お・食
﹂ 一八
国 語 研 究 論 集﹂ 汲古 書 院 、 一九 九 八 年 )
一九九 四 年 ). な お 、 沖 森 氏 には ﹁和 文 体 の成 立 ﹂ (﹃東 京 大
学国 語 研究 室 創設 百 周年 記 念
天 武 飛 鳥 朝 ﹁新 字 ﹂ 撰 定 の周 辺
一九 九 九 年 )。 な お 、 東 野 治 之 ﹁法 隆 寺 伝 来 の幡 墨 書 銘 ﹂ (﹃日本 古 代 の
(30 ) 東 京 国 立 博 物 館 編 ﹃法 隆 寺 献 納 宝 物 銘 文 集 成 ﹄ 一四五 頁 (
吉 川弘 文館 、
九頁 (﹃万 葉 以 前 ﹄ 岩 波 書 店 、 一九 八 六 年 )。
(29) 小 島 憲之 ﹁文字 の揺 れ1
が あ る。
激
掲
.
語
漢
あ
代
古
こと 。
葬 制 と 社 会 関 係 の基 礎 的 研 究 ﹄ 大 阪 大 学 文 学 部 、 一九 九 五 年 ) も 参 照 の
(31 ) 狩 野 前 掲 ﹃日 本 古 代 の国 家 と 都 城 ﹄ 一六 一頁 。
(32 ) 松 本 雅 明 ﹁宣 命 の起 源 ﹂ (﹃日本 古 代 史 論 叢﹄ 吉川 弘文館 、 一九六 〇年 )
。
(一九 九 八 年 )、 同 ﹁奈 良 国 立 文 化 財 研 究 所 年 報 ﹄ 一九 九 八 l H。
(33 ) 奈 良 国 立 文 化 財 研 究 所 ﹁飛 鳥 ・藤 原 宮 発 掘 調 査 出 土 木 簡 概 報 ﹄ 十 三
(34 ) ﹃飛 鳥 ・藤 原 宮 発 掘 調 査 出 土 木 簡 概 報 ﹄ 十 三 、 四頁 。
藤 原宮 木 簡 の
(35) 柴 田実 ﹁古 代 の寿 詞 に つい て﹂ (
前 掲 ﹃日本 古 代 史 論 叢 ﹄)。
(36) 奈 良 国 立 文 化 財 研 究 所 ﹃藤 原 宮 木 簡 ﹄ 一、 解 説 ﹁付 章
祝 詞 ﹄ 四〇 一頁 (
岩 波書 店、 一九 五八年 )。
記載 形 式 に つい て﹂ (一九 七 八 年 )。
(37) 日本 古 典 文 学 大 系 ﹃古 事 記
(38) ﹃藤 原 宮 木 簡 ﹄ 一、 解 説 三 四頁 。
五、 一九 九 九 年 )。
(39) 犬 飼 隆 ﹁
観 音 寺 遺 跡 出 土 和 歌 文 筥 の史 的 位 置 ﹂(
﹃
国 語 と国文 学 ﹄七六 -
研
(40) 小 林 芳 規 ﹁飛鳥 池 木 簡 に 見 ら れ る七 世 紀 の漢 文 訓 読 語 に つい て﹂ (﹃汲
古 ﹄ 三 六 、 一九 九 九 年 )。
(姐) 神 野志 隆 光 ﹁
文 字 と ・ と ば ・﹃・本 語﹄ と し て書 く ・と ﹂ (﹃万 華
、漿 日
房 、 一九 九 七 年 )
。
(一九 九九 年 十 二 月 二十 日 受 付 、 一九 九 九 年 十 二 月 二 十 日受 理 )
究﹄ 三
の
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