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さきたま古墳群紀行

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さきたま古墳群紀行
さきたま古墳群
日本列島の古墳は25万基あるとされる。それぞれの地域の支配者の墓と考えられ
る前方後円墳は、岩手県から鹿児島県まで5200基を数える。全長300メートルを超
えるものが7基、200メートル以上のものが35基にものぼる。奈良県桜井市にある
箸墓古墳が最も早い段階の古墳の一つとされている。
古墳時代とは、弥生時代(紀元前5、4世紀から紀元3世紀に及ぶ。)に続き、前方
後円墳など盛土をもった大規模な古墳及びその影響の下に出現した小古墳の築造
が盛んに行われた時代のことで、最近では3世紀半ばころから7世紀後半までの期
間と考えられている。したがって、末期は飛鳥時代と重なる。400年間に亘るこの時
代の時期区分については諸説があるが、ここでは3期説に従って、その特徴を記して
おくこととする。
〔前期〕 4世紀代の古墳では竪穴式石室内に長大な割竹型木棺を納める葬法が主
流であった。副葬品では武器や装身具の外、鏡・碧玉製腕飾りなど儀式用具、祭器が
中心を占めていたが、これは被葬者が司祭的首長の性格を強くもっていた証しと考え
られている。
〔中期〕 4世紀代には、丘陵の自然地形を利用して築造する古墳が多かったのに対
し、5世紀代になると、平野部に位置して周濠をめぐらす巨大な前方後円墳が出現す
る。誉田(こんだ)山古墳(羽曳野市、応神陵とも称される。)や大山(だいせん)古墳
(堺市、仁徳陵とも称される。)などはその典型である。この時代の古墳の副葬品中に
は、武器・武具・装身具・馬具など倭の五王の時代以降の中国・朝鮮との政治的関係
の緊密化を反映して大陸系のものが多いといわれている。また、副葬品中の儀器・祭
器の比重低下は首長の権威の表現形式に変化が生じたことを示すとみられている。
即ち、5世紀代はかつての司祭的首長が政治的支配者に転換する時代と考えられて
いる。
〔後期〕 6世紀以降、古墳の性格に大きな変化が生じた。一定地域に密集する古墳
群の出現は、古墳築造者が首長以外の地域有力者層にまで拡大したこと示すものと
みられている。
〔生産活動の発展〕農業技術はこの時代、大きな発展を遂げた。鉄製農具の大量生
産と政治権力による大規模な土木・水利事業の結果、耕地の拡大と改良とが可能と
なり、後世の律令時代における農業の基礎が作られたと指摘されている。
1 さきたま古墳群の構成
現在、さきたま風土記の丘古墳公園には8基の前方後円墳と1基の大型円墳があ
る。1937年(昭和12年)の調査では、奥の山・中の山古墳の南西に50メートル前後
の前方後円墳大人(うし)塚や小円墳9基を確認し、中の山の東に戸場口山が一部破
壊されながら存在したことを記録している。両古墳の北には、距離を隔てることなく現
存する白山古墳や一部削られているものが5基、空中写真より判断できるものが7基
ある。以上のことから、現在確認しうる古墳群の規模は、方向角45度で台地の縁に
沿うように1.5キロ、幅500メートルに亘り、前方後円墳10基、大型の円墳1基、中
型の円墳3基、小型の円墳31基から成り立っていたものと推定されている。
さきたま古墳群
(埼玉県立さきたま資料館「ガイドブック さきたま」 3ページ)
2 さきたま古墳群の築造時期
さきたま古墳群における前方後円墳の築造の開始は5世紀後半とみられている。
最初に作られたのが稲荷山である。その後、二重の方形周濠に囲まれた前方後円墳
という特異な周濠を有する形が、双子山・鉄砲山・戸場口山・瓦塚と継承される。二子
山から出土した須恵器、埴輪は6世紀前半代のものであり、鉄砲塚からは6世紀中葉
に比定できる埴輪が出土している。戸場口山と瓦塚は墳丘の配列からみて、中の山・
奥の山よりも築造は古く、6世紀後半とみられている。
3 稲荷山古墳から出土した「辛亥銘鉄剣」
稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣と銘文
(埼玉県立さきたま資料館「ガイドブック さきたま」 8ページ)
1968年(昭和43年)8月、さきたま古墳群内にある稲荷山古墳の発掘調査が行
われ、出土した鉄剣は奈良県の元興寺文化財研究所で銹化防止のための科学的処
理を行うこととなった。他の出土品とともに保存処理の契約が結ばれたのは1978年
5月(発見されてから10年後)のことであった。同年9月、X線によるレントゲン撮影の
結果、鉄剣の表に57字、裏に58字の金錯銘文のあることが判明した。長さ75セン
チメートルの鉄剣の銘文は上記のとおりである。ただし、読み方には諸説がある。
「辛亥(かのとい)年」については、471年説と531年説とがあるが、471年説が有
力である。
「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」は「大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)天皇=雄
略」(在位456又は465∼479年)とみなすのが通説である。
「杖刀人」は大王の護衛を任務とする武人、「首(おびと)」は(首長、隊長)と考えられ
ている。
「斯鬼(しき)宮」は、「磯城(しき)」(奈良盆地南東部一帯の呼称)と音が近似してい
る。
「左治」、「左」は「たすける」の意であるから、天下統治を支え、たすけたことを意味
する。
「この鉄剣銘文は、古代国家の形成や氏姓、氏族伝承などを考察する上での貴重
な資料であり、文字使用のありようを検討する際にもみのがせない」と指摘されてい
る。
丸墓山古墳から見た稲荷山古墳
(埼玉県立さきたま資料館「ガイドブック さきたま」 6ページ)
なお、金錯銘鉄剣が発見された稲荷山古墳は墳丘全長120メートルの前方後円
墳である。しかし、前方部は1937年(昭和12年)に土を取られて破壊され、後円部
だけが(円墳のように)残っていた。発掘調査の結果、古墳の周囲に長方形の堀が二
重に巡り、墳丘の西側と中堤の西側に「造出し」と呼ばれる広場があったことが分か
っている。
古墳が作られた時期は、出土した遺物からみて、さきたま古墳群の中で最も古く、
5世紀後半から末くらいの頃と考えられている。
また、土を取られてなくなっていた前方部が現在は復元されている。
1968年発掘調査が行われた頃の稲荷山古墳
(埼玉県立さきたま資料館「ガイドブック さきたま」 7ページ)
ふたごやま
4 二子山古墳
二子山古墳は、さきたま古墳群の中で最も大きな前方後円墳であるが、単に、さき
たま古墳群中で最大であるだけでなく、武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県の
一部)の中で最も大きな古墳である。主軸長は135メートル、後円部の径は66.5メ
ートル、高さは12.8メートル、前方部の幅は93メートル、高さは14.65メートルで
ある。周濠はややゆがんだ長方形で二重に巡っている。墳丘と中堤の西側には造出
しが付いている。中堤の部分は現在遊歩道になっている。内堀部分は現在水を湛え
ているが、築造当時は水がなかった(空堀)だったと考えられている。出土した埴輪の
形などから6世紀初頭前後に築造された古墳と考えられている。
5 丸墓山古墳
直径が105メートルある日本最大の円墳である。墳丘の高さもさきたま古墳群の中
で一番高い。墳丘に積まれた土の量は二子山古墳よりも多いとの試算もあるという。
出土した埴輪から6世紀前半に築かれたと推定されている。
公園の駐車場からこの古墳に至る道は、1590年、石田三成が忍城を水攻めにし
た時に築いた堤防の跡といわれている(「石田堤」)。そして、見通しの利く丸墓山古墳
の頂上に陣を張ったと伝えられている。
○ この外にも多くの古墳があり、その全部については紹介できないが、一つだけ、
将軍山古墳に設けられている展示館について記しておこう。館内に多くの石室
の様子や副葬品等が展示されているが、とりわけ注目されるのは、墳丘の崖面
の土層を剥ぎ取ったパネルである。黒い粘土と黄色い土とを交互に搗き固める
「版築」という方法で墳丘が築造されたことが分かり、古代人の土木工事技術の
高さに驚かされる。
6 さきたま古墳群(さきたま古墳公園)への行き方
JR高崎線の吹上駅で下車。朝日バス、佐間経由行田車庫行に乗車。バス停産業道
路で下車。交差点を右方向へ行く。徒歩15分で古墳公園に着く。右手には埼玉県立
さきたま資料館がある。
また、秩父鉄道の行田市駅で下車。行田市循環バス・西循環コースに乗車、埼玉古
墳公園で下車、という方法もある。
【参考】 江田船山古墳の鉄刀
江田船山古墳は、熊本県玉名郡和水町にある前方後円墳である。この古墳から出
みね
土した鉄剣の棟の部分に75文字の銀象嵌がある。この銘文の釈文やその意味につ
いては諸説があるが、近年、稲荷山古墳の鉄剣銘文との比較検討により、次のよう
に解されている。
獲加多支鹵大王の世に、典曹人のムリテなる者が、子孫の繁栄を願って制作を命
じたもので、刀を作ったのはイタカ、銘文の作者は張安である。
「典曹人」という官職名については、三国時代の蜀に「典曹都尉」という塩の製造と
専売をつかさどる職のあったことが指摘されているが、日本の古代においてどのよう
な役割を果たした職なのかは分かっていない。
【参考文献】
埼玉県立さきたま資料館『ガイドブック さきたま』 2002年
新編埼玉県史別冊『辛亥名鉄剣と金石文』 ぎょうせい 1983年
『日本大百科全書』 小学館 1994年
京大日本史辞典編纂会編『新編日本史辞典』
大塚初重編『探訪 日本の古墳 東日本編』
東京創元社
有斐閣
1992年
1983年
岸俊男「稲荷山古墳の鉄剣」
『歴史と旅』
池田道也「江田船山古墳の鉄刀」
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『歴史と旅』 1984年5月号
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【付記】
1984年5月号
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おし
忍城
さきたま古墳群の丸墓山古墳の頂上に登り、北西の方向を見ると、遠くかすかに城
の櫓が見える。それが忍城の跡である。この城(館)は鎌倉幕府創設期の功労者であ
る忍一族の城であり、15世紀の後半には忍大亟(おし・だいきょく、と読むか? 大田
道灌と姻戚関係にあったといわれている。)が当主となっていた。当時、成田(熊谷市
成田)には勢力を伸ばしていた成田氏15代の後裔・親泰がいた。親泰は、予てから
地形的に見て戦略的な要地である忍の地に目を付け、これを狙っていた。
親泰は大田道灌が殺害された(1486年・文明18年)あと、忍氏を攻める機会を狙
っていた。たまたま、扇谷上杉氏が忍氏と計り、山内上杉氏を攻める密議をしている
のを知った成田氏は山内上杉氏と謀り、忍館を急襲し、落城させた(1489年・延徳
元年)。
成田親泰は、翌延徳2年から忍城の築城に取り掛かり、延徳3年、竣工なった忍城
に成田の地から移住した。成田氏は以後100年間に亘り、この地を地域支配の拠点
にしたが、後北条氏が関東の覇者となって以降はその傘下に入った。
豊臣秀吉の小田原(北条氏)攻略軍の一翼を担った石田三成は、1590年(天正1
8年)6月、忍城を完全に包囲した。石田三成は堤を築いて忍城を水攻めにしたが成
田軍は屈せず、防衛戦を繰り広げた。しかし、同年7月7日、小田原在住の当主氏長
から和睦開城せよとの命令が城に届き、石田軍に城を明け渡した。
丸墓山古墳の項でも触れたが、忍城攻防戦に際して石田三成が水攻めのために築
いた堤防のあとが今も一部残っている。
(2010年10月31日記 三国雄大)
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