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ダウンロード - 全国遺跡報告総覧

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ダウンロード - 全国遺跡報告総覧
仙台市文化財調査報告書第84集
仙台市 文化財分布調査報告 Ⅲ
仙台市打l生 地区の石碑分布調査
岩 切 城 跡 基 本 調 査
H召
和
60年 3月
仙台市教育委員会
仙台市文化財調査報告書第84集
仙台市文化財分布調査報告 Ⅲ
仙 台 市村,生 地区 の石碑分布調 査
岩 切 城 跡 基 本 調 査
日
召和
60年 3月
仙台市教育委員会
本市も21世 紀 を展望 した都市整備 に着実 にス
ター トした観 がある。 それに伴 う市街地 の拡大
も漸次行 われ、都市碁盤 の整備 に関す る諸事業
の計画 スケ ジュール化も徐 々に進展 しつつ ある。
こ うしたなかで、あ らゆる文化財資源 の保護、
保存 に関わる諸問題 もまた露顕 しつつある現況
がある。昭和49年 刊行の文化財分布地図は昭和
58年 になって一部補強整備 を実施 し、その取 り
扱 い上 に寄与 してきたところである。
.す
しかし、昭和58年 以前の分布状況 に関
る調
査は充分 とはいえない中でプロ ットされた分布
図であって、その補強整備 はどうしても必要で
ある。従 って、 これまでも地区別、年度毎 に再
調査 を実施 し、資料 の蓄積 を重ねてきてい る。
この資料 の蓄積は、いずれ文化財分布地図の
改訂 に継 げて行く所存である。
今回の文化財分布調査 に関す る報告書 もこの
一環 として調査 された ものの一報告 である。
この調査、報告に関 しては、地元住民はもと
より、宮城県文化財地区指導員の森剛男氏等の
多大の御協力をいただ きましたこと、哀心よ り
感謝 を申 し上げますとともに、今後の文化財保
想の発揚 に一層 の発展 を期待 してやみませ
護思―
ん。
昭和 60年 3月
仙 台 市 教 育 委 員 会
教育長 藤
井
黎
次
目
序
文
目
次
例
言
仙 台市柳 生地 区 の 石碑分 布調査 報 告 ……… … …… …………… ……… ……… …… ………… ……
1.は
じめ に…… …… …… …… ………… ……… ……… ………… …… ……… ………… ………
1
1
Ⅱ .柳 生地 区 の概 況・………… ………… ……… ………… ……… …… ……… ……… ……… … …1
柳 生地 区 にみ られ る石 碑 一 覧表 ……… …… …………… ……… …… ……… ……………… 2
岩切城 跡基 本 調査 報告 … … ……… …………… …… ……… ………… …… … …… …… …… …… … 13
1.は
じ
め
に
…
…・
…
…
…
…
中
…・
中
●
…
●●
・
…
中
●中
‥
●●
…
●¨
¨
― ・
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・
中
●
…
,…
…
…・
…・
…
… ・
…
…・
…
中
中
●
…
…
●中
…
● ●●
…
…
13
・………… 14
Ⅱ .岩 切城 跡 周 辺 の遺跡 分布調査 報告 …… ……… ………… ……… ……… ………・ァ
1.は
じめ に…… ……… ……… ………………… ………… ……… ……… …… ………… …… …14
2.調 査 の概 要 … Ⅲ………… …………… …… ………… ……… ……… …… ……… ………… -14
Ⅲ .岩 切城 跡 の追構群 調査 … ………… …… ………・… … …… ……… … …… …… ………………24
中
1.1よ
じ
め
0中
中
●
¨
中
に
●
中
●
●
中
中
¨
●
…
…
● 中
●
…
…
…
…
…
…
…
・
中
中
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●
中
●
…
…
…
●
・
中
●
…
…
…
…
…
…
・
・
…
…
…
…
…
・
・
24
2.西 郭 につ いて……… … …………… …… ………… ……… ……… …… ……… ……… …… 24
3,東 郭 につ いて…… ………・…………… … … … ………… ……… ……… … … ………………25
Ⅳ .中 世 城 郭 の あ り方 か らみ た整備 試論 … ……… ………… ……… …… ……… ………… …… 28
1.中 世 山城 整備 の 現状 ……・…………… …… … … …… ……… …… ……… ………… …… …28
2.岩 切城 跡 の整備 試論 …… …………… …… ……… ……… ……… …… ……… …………… 29
例
ロ
1.本 書 は仙 台市 教育 委員会 が これ まで行 って きた仙 台市柳 生地 区 の石 碑 の調査 結 果 と岩切城
肋基 本 調査 の結 果 を報 告書 にま とめた もので あ る。
2.仙 台市柳 生地 区 の 石碑分布調査 の作 成 にあた っては 、東北 学 院大 学民俗 学研 究会 中富洋 、
日下勉 、五 十嵐 憲 一 、並 び に仙 台市 教育委 員会社 会 教育課 文化 財 管理係 山 口宏 が執筆 し、編
集 を山 口宏 が行 った。
「岩切城 跡 周辺 の遺跡 分布調査 」 を宮城県 文化財保
3.岩 切城 跡基 本 調査 の作 成 にあたっては、
「岩切城 跡 の遺構 群調査 」 を宮城 県 東耳ど歴 史 資料 館 の小 井 川和 夫 、「 中
護地 区指 導員 森 剛男 、
世城 郭 の あ り方 か らみ た整備 討 論」 を奈 良国立 文化財 研 究所 の 高瀬要 ― が それ ぞれ執筆 し、
編 集 を山 口宏 が行 っ た。
4.遺 跡名 の あ とにあ る「 C-237」
な どは仙 台 市 文化財 分布 図 の追跡 番 号 で あ る。
仙台市柳生地区の石碑分布調査報告
仙 台市柳生 地 区 の石 碑分 布調査報告
I. │よ じめ に
本報告 は仙台市 の柳生地区で行った石碑の分布調査結果 をまとめたものである。
1.調 査期間
昭和 59年 3月 1日 ∼昭和 59年 3月 29日
昭和 59年 6月 1日 ∼昭和 59年 6月 20日
2.調 査組織
調査 主体
仙 台市 教育委員会
調 査 員
中富洋 、 日下勉 、五十嵐 憲 ― (東 北 学院 大学民俗 学研究会 )
(敬 称略
(西 中 田三丁 目) 柿 沼 善 一 、 山 口惣 一 郎
丹野 み つ子 、牌 良武
(西 中 田一丁 目)
生字 沢 日) 佐藤 保 之介
阿部伝 吉
(柳
(柳 生字北 原 )
佐藤 文能
(柳 生字 雷
佐藤健 二 郎 、阿部 篤治 、佐藤 平 治
(柳 生字上 河 原 )
佐藤 克郎
(柳 生字育ヨ野
阿部 久右 ェ門 、阿部 多門、佐藤 萬
(柳 生字北 )
阿部 耕 作
(柳 生 二 丁 目)
調査協 力
)
)
)
Ⅱ .柳 生 地 区 の 概 況
本地 区 は仙 台市 中 田 の西方 、名取 川南岸 の 自然堤 防群 に立地 して お り、仙 台市 の近郊農 業地
域 と して知 られ て い る。近 年 、大規模 な区画 整理 事 業 が行 われ、 その様相 も一 変 しよ うと して
い る。
この柳 生地 区 は古 来 よ り住 みや す い環境 にあった ら し く、弥 生時代 か ら古墳 時代 にかけての
追跡 が広 く分 布 して い る。特 に、東北 南 半 におけ る土 師 器 の編 年 上 に位 置 づ け られ て い る栗遺
跡 や方形 周溝 墓 が確 認 された安 久東遺跡 な どは著 名 で あ り、 また、中世史 を考 える上 で 貴 重 な
史料 ともなって い る板 碑群 の分 布 の 多 い ことも、岩切 や高砂地 区 と並 んで古 くか ら知 られて い
る地 区 で あ る。近 世 に至 って は、仙 台藩 主伊 達 政宗 が伊 達郡 茂庭 村 か ら職 人 を招 いて営 ませ た
といわれ る和 紙 の生産地 と して も しられ、豊富 な水 とコ ウゾ ・ ミツマ タを利 用 しての紙 を漉 く
農 家 が繁 栄時 には 160戸 を越 す ほ どだ つた と伝 え られ て い る。 しか し、 その後 近 代紙 にお され
て、現在 は佐藤 氏宅 1戸 だ けが伝 承 して い るにす ぎな い。
3
2
ユ
在
地
西中田一丁目207
丹野みつ子宅裏
)
西中国一丁目1752
(道 路沿 い
観音堂境内
中田一丁目315
所
理
明
丹野 みつ子
西 中田一 丁 目207
不
宝泉寺
中国一 丁目8-16
管
者
命地蔵)
板
石
上
(馬 頭観昔 )
(延
同
石碑
石仏
│
│
四月十四 日
乃至法界平等利□
睡ヨ 為□□禅定
巧頭観世音
旧十一月 廿八日
――
¬
│―
―
明治四十一年名川
明治四十二年旧四月四 日
1薩
馬頭観世音ギ
大久 きみ 営年 四十二才
不
銘
柳 生地区 にみ られる石碑 一 覧表
石碑・板碑等 の種類
考 (い われ等
)
上
呼んで い る。
(正 安 3年 (1301年 )文 保 2年 (1318年 )元 応 2年 (1320年 )
他、無紀年)
。仙台市文化財分布地図では、 C635 中国伊豆野権現古碑群 と
。15基
・ 同
もらったとい う。
新幹線建設工事のため、昭和54年 3月 に現 在地 に移 された。他
にも同様 の碑があったが、移転の除、個人個人に持 っていって
してからな参 りにいった。現在、桜井家 には昭和31年 の F延 命
ilFr帳 が残 されている。
地蔵誌名中
占』 とい う〕
進料理 をつ くるため、桜井宏では前 日から準備 したとい う。 また
この 日は餅 を札;き 、重箱 に入れて、 お参 りにきた子 ども達 にわ
け与 えたとい う。it日 はまず、F止 員が桜井家 に集 まり、食事 を
10月 24日 に行われて いた。 この 日のナマスやアブラゲなどで精
戦前まで地蔵i止 があり、桜井なつ氏 の義父勘四郎氏 がf歳 元 をし
ていた昭和初 めに盛んだった。ltl員 は90数 名お り、主に田
TIIの
女性であった。祭 りはジゾウサ ンノモチモ ライなどといわれ、
いた。 それをとろ うとした長者の美しい娘オステが沼 に引 きこ
まれたため、村人達 が供養のために建てたとい う。
230年 前 (宝 た
fの 頃 )こ の地は広 い沼で、沼 には道 の 花 が咲いて
新幹線建設工事 のため、昭和54年 3月 に現 在地 に移 された。
備
4
在
西中国一丁 目20
中田村ネ
申社
所
地
理
者
西中田一丁 目2012
爾宜 牌良 武
管
碑
碑
穂
穂
石
石
石
石
石碑・板穂等 の種類
,時
(裏 )
柄]4申
(裏 )
己
卯四月吉 日
明治十二己卯歳七月廿日
営町 若者中
営町中
明治六 癸酉年四月十二 日
(裏 )文 政二
神
小牛田
金剛山
山
金刀比羅神社
伊達松園書
天照皇大神宮
昭和九年旧四月八日
厳島神社
延命地蔵尊
伊豆権現大菩薩
銘
考 (い われ等 )
FD・
伊勢参 りの記念に建立 したとい う
・ 中田の町区の人々が建立 したとい う
・ 金華山参 りの記念 に建立 したという。
。人名の中に中田村の初代村長の壱岐平六の名もある。
・
・ 正 月や節供 日に、丹野家で供物 をあげる。
・ 絵馬 が奉納 されている。
正月や節供 日に、丹野家で供物 をあげる。
灯籠が奉納 されている。それぞれは次のようである。
名取市開上町 柿沼義寿
①奉納 昭和三十九年四月
福島県内郷 柿沼新五郎
②奉納 昭和三十九年四月
木村嘉吉
③奉納 昭和三年十一月廿八日 中田町
以前は山下家の屋敷があったと伝え、山下公董氏の父で中田村
神社の別当であった諦順氏は、生前イズノゴンゲンベ ットウと
呼ばれ、占いとかをよく行い、弱い子 どもを強 くするため、 ト
リコ(別 当の子として何年か育てる)を 行ったという。また、丹
野みつ子氏の父はイズノゴンゲンノオジと呼ばれたとい う。
備
6
5
理
西中田三丁目227
柿沼喜―
管
西中田 二 目227
「
柿沼喜一宅地内
地
西中田三 目238
「
山口惣一郎
在
西中田二丁目1627
所
者
)
石
碑
)
)
E(オ スワサマ
れ
市
じ(オ テンノンサマ
碑
石碑 (縛 り地蔵
/卜
/jヽ
石
石碑・板砕等 の種類
│
1/N
交
l袋 原村
′
¬
大正二年
馬梃神
七月十七 日
右L」凹1者 権大正1智 遠 回 IJ
回 時正保二年
□剛 盤聖み
青
明治十七甲中年二月1ツ (日 │
春日大神
天照皇大神
4申
八幡大
明治十二冽jl
銘
ID・
考
(い
われ等 )
平な を祈願 して縄 をしばっていったとい う。
。この碑は縛 り地蔵 と呼ばれ、戦前 まで縄で幾重 にも縛 られてい
た。縛 り地蔵は「吹 き出物の カ ミサマ」 と呼ばれ、実際 に病 気
日 に は 必 ず 供 え る。
・ 旧F下 7月 28日 がお祭 りで、祭 りの時は、ユ芋・魚・酒 ・オフカ
シを供 える。 この時期 は半い里芋の採れる時で、収穫 したばか
りの もの を供 える。 この供 え物は神棚 にも供 える。 また、節供
蛇 の神様 らしいので、蛇 を殺すなと子 ども達 に言 いきかせた。
けた。オテ ンゾンサ ンノマツ リとも ば れた。御神1西 をあげ、
'子
山ロー族が集 まり、飲食 した。一族以外は参加 しなかった。キ
ュウリビキといってキュウリの酢の物 を供 えた。現在はウチマ
ツリで赤飯 を供 えるぐらいである。
じっ
うちの 1つ で、もう1つ の宏は没落 し、その家で天神様 を市
ていたとい う。 その没落 した分宏 と関係 が深 いのが、惣一郎 さ
ん方で、現在でも天神様の旗や提灯 を預 っている。
旧F下 の 6月 25目 がな祭 りの日で、前の 日に腹 を立て、提灯 をつ
15か 16代 日にあたるとい う。市朗方は本家 から分家 した 2つ の
じったとい う。山口宏 は大
た石がとんで きたの を御神体 として市
阪冬 の陣後、逃 れて きたダンナマサが先祖で、山国市朗 さんは
以前は天神 のれ」
付近 に山国家一族の古 い募 があ り、改葬 したと
「 ヨウデ ン」にあっ
きに、刀等 がでた とい う。建立 に関 しては、
・ 伊勢参 りの記念に建立 したとい う。
・ 袋原の八坂神社から持 ってこられたとい う。
備
地
柳生字沢目20番 地
佐藤 保之介
柳生字沢 目20番 地
佐藤保之介宅地内
明
者
9
不
理
柳生字耳ヒ原33
阿部伝吉
管
柳生字,ヒ 原33
阿部伝吉宅隣
柳生字野添 1番 地
在
8
7
所
碑
石
小jTHl(石 製)
碑
碑
板
石
石碑・板碑等 の種類
昭和九年旧一 月廿八 日
だけ
言 神 社
種子
享保三年
地蔵 の浮彫
八月十一 日
銘
考
(い
われ等)
中田のおばあさんが来ていたとい う。
・ ォヤ クシサ ンと呼ばれて、戦前は、中田の人たちが武運長久を
祈願 しにきたとい う。 また、月に 1回 サ ンダイオヤ クシとして
。以前 に家 の庭 に雷 が落 ちたので、建立 したとい う。
・ 1基 は ジ ョウゲ ノニ ョライサ ン と呼 ば れ、 1基 は、 ヤ マ ノカ
サ ン と呼 ば れ てい る。
。2基 で紀 年銘 は な し。
たとい う。
別当の阿部宏では、 4足 の肉、キ乳 を食べ てはいけないとされ
ていた。片端 の子 が生 まれるといわれた。 しかし、鳥、えは食
べ てもよい といわれた。
神酒 を供 えて、皆で飲んだ。
年取 の 日(12月 31日 )1引 よ、オヤ クシサマに注連縄 をは り、初詣
は、 4軒 で行った。 1月 14日 のアカツキマ イリにも 4軒 でお参
りす る。 その際、正月師 りをオヤ クシサマの裏の椿の本 に納 め
オヤクシサマの祭 日は、旧暦 9月 1日 で、鳥居 に旗が立て られ
阿部家 4軒 が集 まり祭 りを行 う。 この 日、別当の阿部宏 がオフ
カシ、魚 を重箱 につめてふ るまい、供 える。 この前で皆で飲食
し、御幣もこの時取 り替 える。
毎月30日 をオ ミキといい、この晩 に 4軒 の阿部家が集 まり、御
は神の怒 りに触 れて馬か らふ り落 されたとい う伝承がある。
オヤクシサマの管理 は阿部伝吉氏で、代 々別当と呼ばれ、祭 り
を執 り行 う際、供 え物のあげおろしをしたとい う。
このオヤ クシサマの前 を馬から降 りずに通 り過 ぎよ うとす る者
Eさ
オヤ クシサマ と呼ばれているが、伊豆権現 と薬師如来が合市
申と信 じられてお り
れているとい う。オヤ クシサマは怒 り易 いオ
沢目地区の人々に信T「 されているよ うで、よく供 え物 や花が供
えられて99hり 、清掃等 もきちんと行 われている。
備
14
12
者
靱生卒雷 雷神社航
抑生字上河原S″ 付近
41m生
字IL79
佐藤■真能
阿部■驚冶
柳生字上河原57
靱室字■■原硝
佐藤健二蔀
―
理
管
柳生字上河原隠
佐藤障二郎宅内
―
地
抑生字】 3磐蠅
阿部`原 僚吉
在
田部伝吉氏所な分畑
所
1碑
穂
碑
霧
石
石
碑
石
石
仏
藤
板
石
灘
―
穂
石
石
碑
石
小JTB(石 鋤
板
石警・ 候碑等の饉
圃
□
□
西 くま│の 堂みち
や
熱帯
文化十四年八月昔日―
南 L__」
十屈七日
「
十
年
元口 三年十月吉日
十一月 音
―
富
児子 多
山1
神
文政十却
導1師
燕寿寺
紺
│□
女蒔申
育耳匠コ
(婁 )丈 繰十四費卯幾キー打朔目建立
大 神
銘
瞬租元甲申
療 串
馬頚観世昔
八月吉 日
文化十年
薦 申
六月吉 日
刻
金毘羅大権現
(裏 )支 政二年
山水
`
考
(い .ね れ等)
.。
ー
えものをする
・ 氏料として,ほ ってお り、モブ ビには供―
"「
。家の1前の小 より出上したもの。
●オヤクシサマ と呼ばれている
ユ基あ り、紀年露なし。
備
在
地
1
柳生字■■環ψ‐
!隆 藤 辛1治 宅内
所
理
佐藤 平治
aln4字 上河原32-1
管
著
銘
山 神
穂
穂
穂
石
石
石
穂
足□ 多
山獅
文化十四年丁丑九1月 吉日
穂
石
!1
庶 申
巳 待
I
│
│
1
十
年
I九 月
│
曽村中
繰 山
穂
石
憶
│
(ヽ
ヽわれ等 )
とを記倉
雷4議 は神社がことに│あ ぅた.こ ―
ら
するため、昭和 o年 から奮紙ではじめ―
れた。
、佐藤患三廊安、佐藤―
巌柱佐藤寛郎蒙―
HH家 、阿部患内宏、阿部卓難察、口即舅
一宏II可 部伊三郎宏、前部厚之助索の 3
戸で組織されている。
考
●庭より出生したもの│で 、紙濃│き の起源が記されているとぃ.う こ
とで、ここに建│て たという。
nl」
月23日 にイ
手われる 嵐 場所は議に加入している察の持ち回りで
ある。講の場所Ⅲ いたる家をヤ ドモ トという。
。
ワ3日 の朝は、穂を 掻員で情掃 t― 、宿元に集まる。接leaを 掛け、
―
どを膳 のをて供える。その前で皆で会食
赤鋲、 身、煮付 整―
'こ
する。
西十二年二月御ほ
露神社左中田村柳生区1明 全
村内各神社於前日コ称中'E ]村 神社柳生営神社勤
蕪也区民
請年久村民之所信仰不可4 鱗
謀建碑於其址以為記念F r謂 伝造棗銘日
雷神社々蔭 お母
I被 神仏 存吉風 辮炉
1常 宝尊崇
卜
辛
大正八年二月 仙基
泉 麟
旨
前匠コ 何部勇之重
刻
石
石確・ 振確等ゆ種類
在
VIt寺 境内
所
地
理
帷 学,t78
籐 │文能
答
者
種
碑
様
碑
仏
仏
穂
穂
穂
石
石
石
石
石
石
石
石
石
石盛 Ⅲ版碑等の種類
ζ
旧十二月廿日
ー
(嘉 )施 主 佐藤与エ門
切治十年
為奇治菩梶建立
久太郎
寛政三亥天
南無阿弥陀
人 月中流
浦無面弥陀彿
七月十六日立,寺
資本四千未夭年 1
―
八□ 稔
剰二
傘緯供養
入月上洗│
三体 の仏様の浮影
-
三体の仏様の浮彫
馬翻
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1
│
!念 佛修行
安数二卯年八月日連幸
安永七戌年
楽継
八月朝 日敬白
南無口螂
永勘
.阿
念
八月苦日
文政二□
馬頭縄世苦
刻
□.
□
備
考
(い
われ等)
17
在
地
柳生字北78
柳生字上河原321
佐藤 平治宅内
所
理
者
柳生字上河原151
阿部 久右門
柳生字上河原321
佐藤 平治
管
‐
石
卑
仏
穂
仏
石
石
石
石
板
碑
石
石碑・ 板碑等 の種類
銘
廷命
仏像 の浮彫 子安
地蔵
2基
備
考
(い
われ等)
た。
「 ヨマツリ(夜 祭 り)J15日
祭 日は旧暦10月 14日 と15日 で、14日 は
子ばれている。
は
「オマツリ(お 祭 り)」 とΠ
人幡4申 社は総本家 の阿部久右門氏宅 の管理であ るが、祭礼の時
八幡ネ
申社は阿部 久右門氏宅 を総本家 とする阿部家20余 軒 の氏神
「オハ チマ ンサ ン」と呼ばれ
として信仰 されてお り、氏子からは
「イタサガ ミ」ともいわれ、
てい る。 このオハ チマ ンサ ンはまた
戦争中 には柳生の婦人会で毎月15日 武運長久 を祈願 して参拝 し
てもらっている。
紀年銘 な し。
佐藤平治氏 の父平二郎氏 が屋敷内の土 中よ り発見 し、始め藁 を
叩 く台 にしていたが、夢 をみて、板碑であることを知 り、屋敷
神 の隣 に祀 ったとい う。平二郎氏 の命 日には住職 を呼び祈祷 し
柳生寺十一世文乗代 ・ 君島忠吉氏 の孫 が亡 くなった際、供養のために建立。
。この地蔵様 は、子 どもの風邪 をなる して くれるとい う信仰 があ
発願主
り、風邪 をひいた時 に、川原 から石 を拾 って きて、水で洗 い、
君島芯吉
子 どもの年の数だけ供 えるとい う。
昭和十人年春彼岸
南無阿弥陀佛
八月吉 日
文化五辰年
中央 に仏像の浮形
文化三□ □ □
念佛供養
拾月上浣
嘉永四 □ 年
念佛供養
八月吉 日
瞬□
PO
所
在
地
管
理
者
石碑・板碑等 の種類
銘
考
(い
われ等
)
正月の元朝参 り、アカツキマ イリの時 には氏が八幡ネ
申社 に参詣
した。 アカツキマ イリには正月の注連飾 りを裏の木におさめて
きたが、 3年 前 か ら注連飾 りを焼やすよ うになった。
話人が島居から旗を取 りはずし、総本家に帰 して祭は終 了となった。
戚 に使 いにや り、「オマツリだか らゴゼ イ」といって招待 した。
招待 された人は、当日必ず生産 としてお菓子や酒、布 をもって
いった とい う。15日 の夕方 に
「ハ タオロシ(旗 降 し)」 といって世
メ、魚 などを作 り、これ を入幡神社、各家 の神棚、仏壇 に供 え
る。 またこの日には「オマツリブルメエ」 といって、親類 を呼
んでごちそ うした。オマ ツリの数週間∼数 日前 までに子供 を親
そして氏子代表 として柿 を総本家 が供 え、皆で祈祷 し、全員で
飲み食いをして解散 となる。 この飲み食 いは神前 にゴザ を敷 い
て行 うが、料理は当番 の宏がオニ シメ等 を用意する。
15日 はオマツリである。 オマツリには各家でオフカシ、オニ シ
め られる。
供 え物は米 (1升 )、 カッシャゾキ (お 頭付 き)、 野菜、果物、御
神酒である。 この供 え物は最後 の飲 食の時別当 さんが食べ る。
集 まり世話人が供 え物 を供 え、別当が祈祷 をあげることか ら始
ツリには、夕方 6時 頃氏子 となっている家 から戸主 力y申 社前 に
では久右門氏宅で用意 していた。注連縄 をな う時 には特別 の作
法 があ り、座敷に新 しいゴザ を敷 き、井戸から汲んだ水 を茶わ
んに用意 して戸主がなったとい う。茶わんに水 を用意す るのは
縄 をな う時 に唾 をつけ られないか らだという。10月 14日 の ヨマ
除 し、総本家で保管 している「奉納入幡ネ
申社」 と記 された旗 を
2本 鳥居の両脇 に立てる。 またその際 に鳥居 に注連縄 を張 る。
注連縄は現在世話人 が用意す るようになったが、10年 ほど前 ま
ていたが、10年 ほど前、中田村神社の神主 が死亡 したので、彼
の娘の嫁 ぎ先の愛島の道祖神社 の神主 に依頼するようになった。
祭の準備 は ヨマツリ当 日に当番 になっている家で人幡神社 を掃
その役 に当 り、主 に祭典費の徴集 を行 う。当番は氏子 の中 から
毎年、1軒 ずつ交替でその役に当 り、主 に祭礼の時 の供 え物 と
食事 の用意 をす る。別当は、以前、中田村神社 の神主 に依頼 し
は、総本家 の阿部宏 と世話人、当番、そ して別当が中心 となっ
て祭 りを執 り行 う。世話人は総本家より依頼 された宏 1軒 が、
備
在
地
克郎宅内
理
同
上
宅地南側
同
阿部 耕作
柳生二丁 目64
柳生二丁目64
阿部 耕作宅北側
多門
柳生字北751
佐藤 萬
阿部
柳生字北17
柳生字熊野41
佐藤 克郎
管
柳生字北751
佐藤 高宅地内
柳生字北17付 近
佐藤
柳生字 熊野41
所
者
/Jヽ
穂
板
祠
(オ
)
イセサマ)
T4
ヤ クシサ マ
板
(オ
市司
碑
板
/1ヽ
碑
碑
碑
日如来)
板
石
(大
板
石碑・板碑等 の種類
□
□
□
□
│
建評
│ │
│
往生
文紆
嘉永元申歳
馬頭観世音
二 月十六 日
國
銘
考 (い われ等 )
・ 先祖 が伊勢参 りにいき、神札 を受けて きた。以後 これ を小布
司に
奉納 し、祭 るようになった。
・ 紀年銘 なし、 3基 あり。
・ 仙台市文化財分布図 において C-669、 関場古碑群 としている個
所である。
う。 また、以前は絵馬 を奉納 した人 もいた。
。旧関根部落の氏神で、 4月 8日 が祭 日。祭 りは、祠 に
米、神酒
野菜 を供 え、全員で参拝する。
・ 耳病治なの信T「 がある。 ここか らカワラケ をか りて耳 をこする
と病 いが治 るといわれ、治 るとカワラケ を倍 にして返 したとい
・ 紀年銘 なし、 2基 あり。
'Eる うことで、現 在地 に うつ した。
す るのは悪いとい
・ 阿部家の祖である盲目の坊様 が、のっていた,時 が死亡 したので
その霊 を供養す るため建立 したとい う。
。50年 ぐらい前まで屋敷裏の竹林 にあったが
、放置 しておくのは
よくないとい うことで、阿部家 のフルランバ に移 した。 ところ
が、馬の霊 を
馬頭観音 と、先祖 を斤
Eる フルランバ を一緒 に
らったところ、佐藤家の ものだと判 り、移 した ものだとい う。
。以前、阿部忠 内氏 の管理す るものだったが
、巫女に祈祷 しても
備
図 1.仙 台市柳生地区石碑分布図
岩 切 城 跡 基 本 調 査 報 告
岩 切 城 跡 基 本 調 査 報 告
I.
は じめに
岩切城 跡 の所 在 す る岩切 は、本 市 の北 東 、七北 田川 が仙 台平野 に向 かって注 ぎ出す谷 口部 に
位 置 す る。
古 くは、東 へ の道 、浜 街道 、 そ して黒 川以北 へ 通 じる古 街道 の分 岐 点 にあ り、七北 田川 の河
川交通 と相 まって、古 代 交 通史上 の要 所 とい える。
源 頼朝 の奥 州平 定後 の 文治 6年 (1190)3月 、陸奥 国留守職 と して伊 澤 左近 将監 家景 が任 じ
られて以降 、伊澤 氏 は代 々 多賀 国府 周辺 に居住 し、後 に留 守 氏 と称 して地 方 の 有 力武 士 と して
頭 角 を現 わ し、鎌 倉時 代 には、現在 の 多賀城 ・岩 切 ・利 府 ・ 高砂 一帯 を領地 と し、塩 釜神 社 領
もその 支配下 に治 め て いた ともい われ る。正 安 の頃 (1299∼ 1302)に な る と、七北 田川沿 い に
は「冠屋 市場 」 や「河 原 宿 五 日市場 」 な どの市 が開 かれ 、岩 切地 方 は陸奥 国 の政治
。経 済 の 中
心 と して栄 えた とい う。
岩切城 は、 そ うした 中世 の 時代 的 背景 の も とに築 かれ た留 守氏代 々の拠 城 で あって、鬼柳 文
書 に見 られ る「岩切 城 の合 戦 」 の 舞台 ともなった著名 な中世 山城 で あ る。
そ こで 、昭和 57年 8月 23日 付 をもって岩切 城 跡 は国 の史跡 指 定 を受 け、今年度 よ り、岩切城
跡 をど う保 存 し、今後 、 ど う活用 して い くべ きか を考 えるべ く、下 記 の よ うな基本 調査 を実施
す る こと と した。
調 査 作 名
調
査
調
者
岩 切 城 跡 周辺 の 宮城県文化財保護地区指導員
森
道 跡 分 布調 査
岩 切 城 跡 の
追 構 群 調 査
剛
からみた整備試論
主任研究官
高 瀬
夫
代表 佐
考
岩切城 跡 周辺 の詳細 な分 布調査
の詳細 な確認調査
の あ り方 か らみ た岩切城 跡 の整
要
一 備 につ いて の試論
岩切城跡周辺に分布する板碑 (中
藤
備
全 国的 な中近 世城 郭 の 環境 整備
岩 切 城 跡 周辺 の 宮城 い しぶみ会
板 碑 分 布 調査
容
岩切城跡 に現在み られる遺構群
考古科長 小井川 和
奈良国立文化財研究所
内
男
宮城県東北歴史資料館
中世城郭 のあり方
査
政
人
世の石碑)の 詳細 な調査
これについては今回の報告書 には
掲載 していない。
昭和60年 度の分布調査報告書で報
告す る予定である。
Ⅱ日岩切城跡 周辺 の遺 跡分布調査報告
宮城 県 文化 財保護 指 導委員
森
剛
男
1. は じめに
岩切城 跡 は昭 和 57年 8月 23日 付 で国 の史跡 に指 定 され 、 その後仙 台市 、利府 町 教育 委員会 が
連 繋協 議 を重 ね、昭和 59年 度 は史肋岩切城 跡 管理 計 画 につ い て、文化 庁 や 県 並 管理 計 画策 定委
員会 の 先 生方 の指 導 を得 て、近 くその報 告 が ま とま るこ とになった。 と りわけ、岩切城跡 を中
心 とす る七北 田川流域 は、 中世 を知 る城 館跡 、関連 す る石 造物 、埋 蔵 文化財 包蔵 地 等 の 資料 が
数 多 く分 布 す る と こ ろで あ る。
今 回 、岩切 城跡 が史跡 と して国 の指 定 を受 けた こ とに鑑 み、 中世 に関係 す る遺肋 資料 が どの
よ うに分 布遺 存 し、 どん な範囲 に広 が って い るか を、現地 に即 して踏査 し、一 層 の 資料 充足 を
図 るこ とをその主 眼 と して実施 した分布調査 で あ る。
その結 果 、流域 には 中世 陶器、 中国青磁 片 、 中世板 碑 な ど中世 を反映 した資 料 が密度 高 く分
布 し、遺 存 して い る様 子 が 明 らか に なった とい える。
こ うした踏査 結 果 に もとづ き、岩 切城 肋 を と りま く中世 の歴 史環 境 の 資料 整備 や保護保 存 に
役 立 て て行 くこ とは、 また とない機 会 と考 えて い る。
なお、現地 踏査 は、仙 台 市教育委員会 か らの依 頼 によって行 った もの で 、 その成 果 を ここに
ま とめ て報 告 す る もので あ る。
調査期 間 は昭和 60年 2月 18日 か ら 2月 22日 の 5日 間 となった。 また、 その対象遺跡 は以下 の
14件 に及 んで い る。
(6)入 生沢遺肋 QO
(7)大 正 囲遺肋 CD
(2)岩 切畑 中遺跡
(8)新 宿 囲追跡 19
(3)稲 荷 館跡
(9)東 光寺城 跡 10
催)今 市追跡 と板 碑鰤
(5)岩 切 洞 ノ回の板 碑群帥 住0 笹森城 跡
10
(1)北 畑遺 跡
鴻 ノ巣 遺跡
若 宮 前遺跡
入 生 沢横 穴群 と台屋 敷横 穴群
岩切 洞 ノロ板 碑群 の 不 明板 碑 の ゆ くえ
洞 ノロ遺跡
なお、踏査 にあた っては、岩切地 区 の住 民 の方 々 に多大 な御協 力 をいた 。いた こと を ここに
記 して感謝 を申 し上 │ず る次 第 で あ る。
2.調 査 の 概 要
本調査 は史跡岩切城跡周辺、特 に七北田川流域 に中心 をおいて実施 したものである。 なお、
調査 の方法 としては、表面観察 をつぶ さに行 い、地形判読踏査、遺物 の表面採取、 そして詳細
な記録 とい う方法 で実施 した もので あ る。
(1)北 畑 遺跡 (C-237)
七北 田川南岸 の沖 積地 には 、 七北 田丘 陵 が西 か ら東 へ 延 び、 その 先端 が舌状 になって沖 積地
へ ところ どころ張 り出 した台地 が あ る。
遺跡 は南光台 、鶴 ヶ谷 の新興 団地 に接 し、市 街化 の進展 によって宅地 化 が進 んで い る と ころ
とな って い る。
また、遺跡 の 範囲 は仙 台市 と泉市 にまたが って分布 し、 泉市分 は「長哺 B追 跡 」 と呼称 され
て い る。仙 台市分 は市境 東側 の台地 縁 辺 か ら斜 面部 分 にあって 、全体 の三 分 の一 を 占め 、他 は
泉市分 となって い る遺跡 で あ る。
昭和 53年 には、 泉市 長 lth B追 跡 の開発 問題 が浮 上 した際 、宮城 県 、仙 台市 、泉下 の三 者 は立
会 踏査 を実施 して い る。 その折 に確 認 され た遺 構 は、包蔵 地 の他 に方形状 の墳丘 が 7基 認 め ら
れ て い る。 なお、墳 丘 の性 格 につ いては不 明 で ある。
その後 、泉市 の長 lLB B遺 跡 は、 開発 に伴 う発掘 調査 が 実施 され、近世 か ら旧石 器時 代 まで の
複合構 造 をもつ遺跡 で あ るこ とが判 明 して い る。
次 に仙 台 市域 内 に確 認 された方形状 の墳 丘 の概 要 につ いて記 して報 告 した い。
泉市
1号 墳 丘
(図
│
-1)
墳 丘群 の な かで は最 も北 に位 置 して い る もの
で 、丘 陵 の 東縁 の斜 面 に遺 存 して い るもので あ
る。保 存状 況 は極 めて良好 で あ る。
平 面形 態 は方形 を呈 し、 そ の規模 は一 辺 7∼
8m、 墳 丘 の遺 存 高 は 1.5mで 、 その周 囲 には
3mの 浅 い溝 状 の窪 み が巡 って い る。
l
幅約 1∼
Ⅱ区
↓
(図
-2)
,
2号 墳 丘
前号墳 丘 の南東 、約 7mの 東斜 面 に位 置 して い
る、平面形態 は前記 同様 の 方形 を呈 し、 その規
模 は一辺 2.5m、 高 さ 0.7mと 小 ぶ りで あ る。
周 囲 の溝状 の窪 み は東辺沿 い を欠 いて いて 、三
方 にのみ認 め られ て い る。
3号 墳 丘
(図
鶴 ヶ谷
-3)
1号 墳 丘 の南約 12mに 位 置 している。平 面形 は
図 2.北 畑追跡 略図
方形 を成 し、極 め て 良 く保 存 されて い る。 その規模 も一 辺 6m、 高 さ 1.2mで あ る。 その四方
には、幅 1.5∼
4号 墳 丘
(図
3.Omの 溝状 の窪 み が巡 って い る。
-4)
3号 か ら南 に約 20mの 位 置 にあ る。平 面形 態 は前号 とは異 な り、長辺 約 7m、 短辺約 5m、
高 さ約
lmの 長方形 を呈 して い る。周 囲 には溝状 の窪 み も全 周 して い る。
5号 墳 丘
(図
-5)
全体 的 に保 存 が悪 い。現存 形 で 1辺 2m、 高 さ40cm程 で あ る。三 方 には 幅 60cm程 の溝状 の窪
み が浅 く巡 って い る。
6号 墳 丘
(図
-6)
5号 の 南辺 に近 接 し,本 墳 丘 の西辺 は市境 の小 道 で半壊 されて い る。平 面形 は 、 ほぼ長方形 と
お もわれ る。 その 規模 は、 東辺 が約 5m、 南北 辺 はやや長 い。溝状 の窪 み は西辺 を除 き、幅約
lmで 三方 に浅 く巡 る。 高 さはほぼ 50cmと 遺 存状 況 は 良 くな い。
7号 墳 丘
(図
-7)
南辺部 は北 畑 集落 に通 じる小 道 で破 壊 されて い るもので、 6号 の 南約
2mに 立地 して い る。
保存状 況 は極 めて悪 い。規模 は一辺約 4m、 高 さ約 50cmで あ る。溝 状 の窪 み は認 め に くい状 況
で あ る。
(2)岩 切 畑 中遺跡 (C-221)
七北 田川 は北 の陸 前丘 陵 と南 の七 北 田丘 陵
市集落 の谷 口 か らは開 口 して平野 へ 注 ぐ。遺
跡 は今市 か ら上流 約 500∼ 800mの 南岸 の 自然
地 や宅地 、水 田 か ら構 成 されて い る土地 利 用
,
堤 防上 に立地 して い る。標 高 は10∼ 12mの 畑
醍 罐 蓼
の 間 を、北 に寄 り、南 に寄 りなが ら流 れ、 今
麹
.ザ
゛
ユ
i鰺
で 、 田子 堰 の南 岸 に位 置 して い る。
麟
この 自然堤 防上 か らは、縄 文時代 か ら中世
期 にかけての追 物 が散布 して いて 、複 合遺跡
の様相 が強 い遺跡 と して注 目 され る。 と りわ
写真
1.岩 切 畑 中遺 跡 の 南 東側
一―古瓦及び須恵器一一
け、 この追跡 内 には稲荷 館跡 と呼 ば れ る中世 の居館跡 が あって、遺跡 範囲 の約 4割 を占有 して
い る と考 え られ る。
また、微地 形 を観 察 す る と、
鶴 ヶ谷 団地 の北 に あ る笹森城 跡 の下 か ら仙 台 バ イパ ス を横 切 り、
岩切 今市 へ 通 じる小 路 を境 に標 高差 が認 め られ、この地 形差 は大 き く、時 代差 を意味 す る形状 と
考 え られ る。
小 路 の北側 の伊藤 忠 氏屋 敷 附近 か ら北 西部 には弥 生土 器片 が散布 して い るが 、 その周辺 、 あ
るいは以南 には全 くな い。以南 か ら東南 へ 遺物 の散布 が広 が り、古墳 時代 以降 、 中世 の 資料 の
散布地 となって い る。
今 回 の 踏査 によって 、新 た に稲荷 館肋 の東 南部 の水 田内 か らも遺物 の散布 を確 認 、
その 南部 に
あ る大 井堀 付 近 を南端 と し、 東 は今市付 近 の水 田 を南北 軸 とす る範 囲 に拡 大 され るこ とが明 ら
か になった。
遺物 の 散布状 況 をみ る と、稲荷 館跡 周辺 の水 田や畑地 か らは古 瓦 (布 目瓦)の 分布 もみ られ、
特 記 すべ きこ とと考 え られ る し、 また、北 西部 に限 っては弥 生土 器片 の分 布 が あって注 目す べ
きこ とで あ る。特 に伊藤 忠 氏宅 の北 西部 に遺存 す る土 塁 の盛土 や その西側 の畑地 に集 中 して い
る こ とは、弥生時代 の遺構 の存 在 を裏付 け るもの と して重 要 と考 え られ る。 この弥 生土 器 は 、
桝 形 囲式期 の もの と考 え られ る。
(3)稲 荷館跡 (C-531)
この遺跡 は、七北 田川南岸 の岩切畑 中稲荷地 区 に所 在 して い る。伊 藤 忠 氏宅 の北 西部 には今
なお土 塁状 の 高 ま りが あ り、現在 七北 田川南岸 の堤 防 と して利 用 されて い る。 やや南 には伊 豆
佐 比 賣神 社 が鎮座 す る所 が あって、雑木林 に覆 われた小 塚 が あ る。 その裏 手 に狐 を示Eる 祠 が あ
って稲荷神 社 と称 されて い る。字名 と しての稲荷 は、 こ こに起 因 す る もの と考 え られ る。 しか
し、 この小塚 は、現状 の形態 は「 く字」状 になって いて 、先般仙 台市 教育委 員会 が発 掘調査 を
実施 した際 、南 の農道付 近 まで延 びて いた こ とが明 らか に なって い る。 この農 道 は昭和 11年 頃
に付 設 された とも いわれ 、 その時 に土 塁状 の 高 ま りが削 りとられ、当時 まで は南 と東 に続 いて い
た とも予想 され る。 また、館肋 の 中央部 を東西 に走 る道路 脇 では、昭和 53年 頃排 水 路 工事 の際
に も、断 面 には幅 5∼ 6m、 深 さ lm程 の溝 跡 が認 め られて い る。 また、土 師器 や陶 器等 の遺
物 も出土 して い る。遺物 の 出 土 す る場 所 は 、伊 藤 氏屋 敷 の西側 土 塁 の南端部 分 の西外側 に集 中
して い る。 こ うした貴 重 な資料 は 、溝 や土 塁 、 その 規模 な どと一連 の もの と考 え られ、文献 で
み る「 稲館」 に関連 す る もの で あろ う。
この稲荷 館跡 について、
現存 す る遺構 か らみ た規模 は、伊 藤 忠 氏宅 の 西側 を南北 方 向 に延 び る
土 塁 は、基 底幅約 6m、 高 さ約 2m、 上 幅約
m屈 曲 しなが ら走 って 、 さ らに「 L」
長約
5mの 規模 をもって、稲荷 館 北側 の東西道 か ら約 95
字 に東 へ 折 れ約 80m延 びて消滅 して い る。 しか し、総延
190mが 遺存 して いて堂 々た る もので あ る。 ま た、稲荷神 社 の西側 には段 差 も残 って いて
土 塁 の延 長部 分 とも考 え られ る。南側 に現 存 す る土 塁状 の遺構 は南辺 を画 す る もの とも考 え ら
れ る。基 底部 約 3m、 高 さ約 2m、 上 幅 1.5mと 観 測 で きる もので あ る。過去 に仙 台 市 教 育委員
会 が発掘調査 を実施 した際 に検証 された溝状遺構 SD-1、
SD-3、 SD-4は
、 この土塁
に付合す る位置 にあることを考 えると、非常 に興味深 い ものである。
鰺 触
14)今 市遺跡 (C-200)
岩切 今市橋 の東 方 、七北 田川甫岸 一 円 の 自
然堤 防 一 帯 に広 が って い る追跡 で ある。今 回
の詳細 な踏査 の結 果 、岩切 中学校 周辺 か ら東
へ 広 が り、 さ らに県道岩 切 バ イパ ス を越 えて
鴻 ノ巣 遺跡 へ と連続 す る範囲 が認 め られ、従
来 の広 が りをは るか に越 えた遺肋 範 囲 とな る
よ うで あ る。 この 範 囲 一 円 か らは、 中世 陶器
を主体 とす る遺 物 が濃 密 に分 布 していて、今
市 や冠屋 市場 、河 原 宿 五 日市 な る文 献上 の地
名 の存 在 を考慮 す れば、市 内 を代 表 す る中世
写真 2
岩 切今市遺跡 の東側
一―中世陶器――
町並遺構 が包蔵 す る所 で あ り、極 めて重 要 な遺 跡 で あ る とい える。 この散 布地 内 か らは、新 た
に 2基 の板 碑 が確 認 された。特 に中世 陶器 が集 中 し確 認 されて い る。 また、 この地 域 一 帯 は 、
山崎 か ら今 市橋 、 さ ら には 、七北 田川沿 い を東 へ 走 り、鴻 ノ巣 そ して余 ロヘ と連続 し、古 代 か
ら中世 にか けての村 落 遺構 の存 在 を知 り得 る貴 重 な地 域 と して注 目 され る。
一―新 しく確 認 された板 碑 ―一
く第 1号 碑 〉
仙 台市 岩切 三所北 48の 関根 氏所 有 の畑地 に建 つ 単碑 で あ る。碑 は板状 の粘 板岩 を使 用 し、風
化 崩落 は な く、極 めて保 存 良 好 の もので あ る。板 碑 の 頂 部 は三 角 状 に なって い る。彫 刻 文 字
は浅 く見 えに くい状 況 で は あ る。石 材 や形状 か らみ て、石 巻 や河北地 方 で み る板 碑 と酷似 す る
もの とみ て よ い。
碑 面 は痛平 な割 石 面 が不1用 され、種子 は大 き く、板 石上部 、通 台 の上 に施 され てい る。銘 文
や年号等 は認 め られ な い。種子 はキ リー ク (阿 弥 陀如来 )と み える。板碑 の基部 は地 中深 く埋
め られ て い る。
板碑 の規 模 は、地 上 高約
110 cm、
幅約 35cm、 厚 さ約 18∼ 20cmで 、裏 面 は割 石痕 の起伏 が観 察
で きる もので あ る。
く第 2号 碑 〉
仙 台 市岩切 三所北 114の 今野 氏所 有 の宅地 内 に建 って い るもので単 碑 で あ る。碑 は楕 円形 の 安
山岩 質 の 自然石 が使 用 されて い る。碑 の頂部 は三 角形 を呈 して い る。種子 の左脇 は大 き く崩落
して いて、下部 の蓮 台 や銘 文 は半 壊 して西 向 に建 立 され、基部 は コ ンク リー トで かため られて
い る。 全体 的 に大型 の 碑 で、種 子 や蓮 台 も大 き く深 く刻 まれて い る もの で あ る。
稗 面 には アー ン ク (胎 歳 界大 日如来 )が 彫 刻 され、下部 に銘 文 と年号 が刻 まれて い る。
板碑 の規模 は 、地 上
200 cm、
最 大幅 80cm、 厚 さ50cmを 計測 。木 造 の堂 に安置 されて い るが、
位 置 や向 きにつ いて は、現位 置 を保 って いた か ど うかは判 断 で きない。
(5)岩 切洞 ノロの板 碑 群
この板 碑群 は 、東北 本線岩 切駅 か ら旧塩 釜街道 を西 へ 200m、 岩 切 交 番 所 の 西 隣 加 藤 友 男
氏 屋 敷 内 に建 立 され て い て 、 そ の数 4基 で あ る。 この 周辺 には古 くか ら周知 された碑 群 も も
っ とあった と伝 え られて い るが (洞 ノロ古碑群 )、 今 は な い。 この 4基 の板 碑 は 、古来 、街道
筋 に立 って いた が、生垣 等 にか くれて いて 目 に とま る こ とは な かった もので あ る。板 碑 の 内容
や形態 もそれ ぞれ異 な る も の の よ うで あ るが、保 存状 況 は、刻 まれた種子 さえ風 化 し判読 で き
な い程 になって い る。 また、 この付 近 には 、中世 陶器片 や土 師 器片等 の上 器片 が散布 して い る。
く第 1号 碑 〉
平 らな安 山岩 の 自然石 を利 用 し、表 を南 面 に向 けて建 立 されて い る。碑 石 の形 は ほぼ 四角 で
項部 はやや細 くなって い る。碑 面 は数条 の 亀裂 が入 り、各 所 に崩落 痕 を残 し、種子 は風化 の た
め判読 しに くい 。上部 に大 きな種子 、その下 方 に銘 文 が施 されて い る。基 底 は土 中 に埋 め られ て
い るが、銘 文 は下 に続 いて い る。種 子 はキ リー ク (阿 弥 陀如 来 )に 読 め 、鎌 倉時代後期 の「元
亨 」(1321-1324)と 判読 した いが定 かで は な い。碑 の規模 は 、高 さ 110
cm、
幅 55cm、 厚 さ38cm
と比較 的大 きい もので あ る。碑石 の台 は角石 を利 用 して いて土 中 に埋 って い るが裏 に も も う一
つ の台石 が認 め られて い る。
く第 2号 碑 〉
第 1号 碑 か ら40cm離 れ て建 立 され て いて群 中 で最 も大 きい もの で あ る。碑 は南 に傾 いて い
て 、右脇 が大 き く崩落 し、種子 は その痕跡 を留 め て い る状 況 で あ る。下部 左脇 には年 号 ら しき
亥」み が 認 め られ る が 、極 め て 判 断 がむ ず か しい。碑石 は先細 りの安 山岩 で あ る。碑 面上部 の
左 寄 りには 2つ の種子 の刻 み が認 め られ るが 、追存状 況 は悪 く判 読 不可能 で あ る。 この碑 の規
模 は、 高 さ 130
cm、
幅 70cm、 厚 さ40cm、
で あ る。基部 は土 中深 く埋 め られて い る。
く第 3号 碑 〉
安 山岩 質 の割石 材 を利 用 した碑 で、形状 は三 角形 を呈 して い る。第 2号 碑 に寄 りそ うよ うに
南 面 して建 立 されて い る。碑 面 には種子 だ けが刻 まれ てい る。種 子 はバ ン (金 岡」
界大 日如 来 )
で 、他 の碑 石 よ りも太 く、薬研彫 で あ る。
埋 没 して い る部 分 が 多 いた め か、
種子 以外 には 文字 は
確 認 で きないが、碑 文 の 配列 か らす る と種 子 の下部 には何 らかの彫 刻 が あ るか も知 れ な い。規
模 は地 上 高 さ70cm、 最 大幅 45cm、 厚 さ30cm、 項部 は笠型 の三 角形 を呈 して い る。
く第 4号 碑 〉
この碑群 の 中 で は最 も東寄 りに配 され、北 西方 向 に面 して立 って い るもので あ る。形状 は板
状 を呈 し、材 質 は安 山岩 を利 用 した 自然石 で三 角形 で あ る。碑 面 は上部 か ら板状 に厚 さ 4 cmで
大 き く崩落 して い る。種子 が配 され る部 分 で あ る。下部 には銘 文 が確 認 され るが、風化 が著 し
く、判読 は不可 能 で あ る。規模 は高 さ90cm、 幅 60cm、 厚 さ18cmで あ る。
これ らの碑群 は、先述 の今 市遺跡発 見 の もの に比 して、壮厳 さは な く、蓮 台 や装飾 は な い。
(61 入生沢 遺 跡 (C-184)
遺跡 は、岩切 今市橋 か ら西 へ 1,l kmの 入 生沢横 穴群 が点在 す る丘 陵 の南端 か ら南 方 にかか る
緩傾斜 面 に立地 して いて 、県道 白石一塩 釜線 で南縁 を成 して い る。 また、東 西 は深 沢 か らの小
沢谷 によって区画 され る。 この地 には 2基 の 鳥居 が あつた。 その 1基 は清水観 音堂 と 1対 にな
って い るが、他 の 1基 は小 型 の もので大理石 で造 られ た もので あっ た。 しか し、過 般 の宮城 沖
地 震 の際倒 壊 して しまった と言 うこ とで あ る。
七北 田川北 岸 にあ る この遺 跡群 の なかで は、石 器等 が発 見 され る縄 文時代 の追跡 と しては唯
一 の遺肋 で もあ る。
散布 す る石 器 は、頁岩 質 の無茎 の石鏃 や チ ップ等 で あ る。 その他 には土 師器 の 高邪 、内黒
の
雰 類 の小 片 が確 認 されて い る。
(7)大 正 囲遺跡 (C-220)
市境 の阿 比古地 区 か ら七北 田川 は大 き く蛇 行 して南下 し、 田子堰 で水量 を増 しなが ら北 上 し
て今市橋 へ 流 れて い る。 この遺跡 は この 間 の北 岸 の標 高 11.Omの 自然堤 防上 に立地 して い る。
遺跡 の 西辺地 区 は、昭和 53年 頃 の開 田 によって土取 され た際発 見 され た遺物 や遺構 で追加 され
た所 で あ る。 この 当時 、東西 70m× 南北
100mの 畑地 は50cmの 深 さで削平 されて水 田面 と同 じ
くされ、 土 師 器、須 恵器 、 さ ら に炭化物 や焼 土 塊 が集 中 して確認 された所 となって い る。土地
の古 老 の話 によ る と、昔 、須恵器 の平 瓶 、長頸壺 、堤 瓶等 の 完形 の土 器 が掘 り出 され た とも言
って い る。 した が つて、 この七 北 田川北 岸 の蛇 行沿 いの 自然堤 防上 には、大規模 な奈 良 ・平 安
時 代 の追跡 の展 開 が期 待 で きる ところで あ る。
(81 新宿 囲遺跡
(C-219)
遺肋 は七北 田川北 岸 の東光寺西 方 に位 置 して い る。 その中心 は、 これ まで斎藤 幸太郎 氏所 有
の牛小 屋 周辺 の畑地 全域 と され、遺跡 の北境 は阿 比古地 区 か ら東 光寺 、今市橋 へ 東 西 に延 び る
多賀城 用水堀 が境 と されて いた が、今回 の踏査 の結 果 、 この堀 を隔 てて北 側 の畑地 に も土 師器
片 が散布 す る こ とが認 め られ、西側 の小 沢 を越 えて も確 認 で き、付 近一 帯 は奈 良、平 安時代 の
集落跡 と考 え られ る。 中世 の遺物 等 の発 見 は な い。
(9)東 光寺城 跡 (C-508)
今市橋 を渡 りつ めて突 きあた りの山陵 が東光寺 、付 近 一 帯 の丘 陵部 は東 光寺城跡 ともなって
い る。 しか し、城 跡 と しての遺 構 に 関 す る調 査 もな い まま に今 日 に 至 って い るが、 中 世 の 古
碑群 が集 中す る ところ と して 、伊 東信雄博 士 の踏査 記録 は著 名 で あ る。 この遺跡 は史跡岩切城
肋 (高 森城 ・鴻 の館 )か ら連続 す る陸 前丘 陵 の 東南端 にあって 、史跡 の 副郭 た る位 置 に あた る
城 跡 とも考 え られ る。 この城 跡 は古 い地 形 を観 察 す る と、大 き くみ て低 い南 郭 と一段 高 い北 郭 、
小 さな沢谷沿 にやせ 尾根 を整形 した腰 郭 と堀切 状 遺構 か ら成 って い る。南郭 の規模 は東西 90m
×南北 130mと 推 定 され る。現在 東光寺 や東光幼 稚 園等 に利 用 されて い る。 昭和 55年 頃 の公 園
造成 の際 、山門 の 西側 の切 り出 し面 で 、幅 5m、 深 さ 2m程 の掘 切状 の遺構 が観 察 され 、南郭 の外
郭施 設 で は な い か と考 え られ た。一 段 高 い北 郭 は 、磨崖 仏 を通 る登 り坂 を登 りつ め た所 に展 開 し
て い る。七北 田川 の蛇 行 とともに開 けた低 平地 が眺望 で きる。郭 の 規模 は東 西 110m× 南北 75
mで ある。以前 は東辺 を画 す る位 置 に高 さ lm程 の土 塁状 の 高 ま りがみ られた が、墓所 の拡 張
工 事 が及 んで削平 され て しまった。 また、北 郭 の 西部 、 つ ま り北 郭 の平場 か ら西 南方 向 に延 び
る尾根 の杉林 の 中 には、堀切 遺構 と通路 によって連続 す る段 状 の腰 郭 が認 め られ る。各 郭 の 東
辺 に位 置 す る付近 は、 自然地 形 を段 状 に削平 し小 規模 の平場 を形成 して いて、北部 雑木 林 には
通路状 の 郭 が認 め る こ とがで きる。
同 知 の 遺 跡 と して東 光 寺 横 穴 群
(C-032)も
あ る。 最 も高 い 所 に も城 郭 と しての 遺 構 が
認 め られ る。 主郭 とな る部 分 か らは遠 く離 れて は い るが、 多賀城跡 や利府 も眺望 で きる所 で東
郭 の 可能性 も大 で あ る。 この平場 の 東側 は切 り立 った崖 面 となって い る。北 西 の尾根 道 は宕切
城 肋 へ と続 き、 その尾根部 は小 さな平場 群 が連 な り、 その西側 に も堀 切 と段 状 平場 が認 め られ
る。 こ こは北 口 に位 置 す る と こ ろで もあ り北 門 と考 えれば 、東光寺城 跡 は東西 340m× 南北 280
mの 範 囲 に築城 され た城 館跡 で あ ろ う。
10
笹森城跡
(鶴
ヶ谷城 )(C-512)
仙台市鶴 ヶ谷館下 に所在す る笹森城 は、標高約 50m、 七北田川や岩切地 区 を一望で きる舌状
台地 の先端 に立地 している。 しか し、古 くか らの上取採取地 となっていて、すで に90%は 破壊
されて しまった。文献的 には天正年間まで鶴 ヶ谷治郎 が居館 としたといわれ、眼下 には大隅屋
21
敷跡 が水 田 に囲 まれてみ える。 この屋 敷跡 は初代 兵藤 大隅 久俊 か ら 5代 兵藤 大隅信 俊 が住 い と
した所 で あ る。 また、兵藤 氏 は岩切 の荒野 を開拓 し、大 井堀 (薄 ヶ沢用水 )を 築工 した とも伝
え られ、 こ こ笹森城 跡 周辺 の遺跡 と しては中世 を語 る貴 重 な遺構 で あろ う。
笹 森城 跡 に関 す る追構 の存 在 す る可能性 が 考 え られ る所 とい えば、東側 の緩 や かな地 形 と守
屋 氏宅 の 裏 手東側 の段 状 の平場 と言 えるか も知 れ な い。 また、大 隅屋 敷跡 の西側 には、水 田地
帯 に張 り出す「 コの字 」状 の 高 ま りが観 察 され る。土 塁 か も しれ な い。
10
鴻 ノ巣遺跡 (C-135)
仙台市 にある中世 を語 る遺肋 としては最 も規模 の大 きい遺肋で あろ う。過般、宮城県 や仙台
市 の発掘調査 によって、 その成 果 が報 じられて いる。追跡 は縄文時代 か ら近世 にまで及ぶ複合
遺跡であ ることが判明 している。 とりわけ中世陶器が散布す る範囲は広 く、更 に西方 の今市遺
跡 との中間 にある三所北地区 にまで広がっている。従 って、今市遺Frtも 鴻 ノ巣遺跡 も一連 の這
跡であり、現在登録 されて い る各追跡 は、総括的 に再編す る必要 があろ う。
12
若宮前遺跡
(旧
入山館跡 )(C-522)
岩切字若宮前 11番 地他 に立地す るこの追跡 は、岩切城跡 の東南、東光寺 の東側 で、七北 田川
に向 って苦状 に張 り出す、標高35mの 低丘陵 に位置 している。昭和 50年 、仙台市教育委員会 が
宅地造成 のための発掘調査 を実施 し、 その一部 が報告 されている。
調査 の成 果 として、調査区 A地 点 からは、細長 い尾根上 を平 らに整地 し、北西一南東方向 の
2間 × 6間 の掘立柱建物跡 の検証 があり、 また、 これ ら遺構 に伴 う出土遺物 として中世陶器 が
発見 されて いるこ とから、中世 に営 まれた遺構 で は な いか との判 断 がなされて いる。更 に北
東部 では掘 り方 に段 状 をもつ溝 も発 見 されている。調査 区 B地 点 の 標 高36,7mの 最 高部 か ら
は、地 山面 を整地 し盛土 による築造の塚状遺構 が発見 され、塚内 からは竪穴状 の土壊 と中世陶
器 が多数発見 されている。
調査後 はこの追T/tl内 には八坂神社会館や住宅 が密集 し、大 きく変化 して しまった。岩切城跡
と深 い関係 にあった天王社 を祀 ったのが八坂神社 と伝 えられて いる。
10
入生沢横穴群 (C-030)
岩切台屋敷地区 の裏山 には深 い沢谷 をは さんで入生沢 と台屋敷 の横穴古墳群 がある。すで に
開口す るものは30∼ 40基 程で あるが、深 い林 の中 には大変 な数 の古墳 があることは間違いない。
これ らは、 いずれも標柱 によって案 内 され保護 されて いる もので ある。
ここ真坂 の山合 い を抜 け青麻神社へ 、 さらに利府町 へ 通ず る小道 があって、 この道 の開削 に
よって多 くの横 穴古墳 は、半壊 、全壊 されて い るもの も多 い。 この横 穴群 の規模 は沢谷斜 面 一
帯 に認 め られ、3段 に巡 って いて、100穴 状 の横 穴群 となって広 範 に及 んで い る。
また、入 生沢横 穴群 の位 置 す るやせ尾根部 の 高 い所 には 、径 10m程 の平垣 面 が あって、周 囲
を通路 がめ ぐる。 そ こには「 文政 13年 一電 公榊 ―十 月吉 日」 の碑 が あ る。 高 さ60cm× 幅 50cm×
厚 さ40cmの 規模 の もの で あ る。
10
岩切洞 ノロ板 碑群
(C-656)
岩切 1同 ノロ 160-10、 加藤 智雄 氏 の宅地 内 に在 った と されて いた石 碑群 は、昭和 56年 以降突 然
消 失 した こ とが明 らか に され、 その行 先 をつ きとめ る間 もな い まま今 日に至 った。
これ まで、 この地 洞 ノロ 160番 地 の加藤 正次 郎 の畑地 に 2基 の碑 が あって、分 布地 図 の 中 で
C-656と
して登録 されて いた。板碑 は、1基 は元応 元年 (1319年 )、 他 は建 武 2年 (1335年 )
の 年号 を もつ もので 、岩切 地 区 の 中世 の歴 史 を知 る貴 重 な資料 と して注 目 されて いた石 碑 で あ
る。今 回 の分 布調査 の主 眼 は、 この稗 の行方 の探査 に もあっ た。
付近 の調査 の結 果 、次 の よ うな事柄 が判 明 した。昭和 56年 当時 、加藤 友男 氏屋 敷 の裏 手 にあ
った畑地 を、カロ
藤 智雄 氏 が買 い求 めて宅地 造成 を行 った際 、岩 切 洞 ノロ 101番 地 在住 の加藤 倉
之助 氏 が、 ここか ら この板碑 2基 を運 び出 した こ とが わ かった。 この頃 、 この地 区 で火 災発 生
したが、石碑 の 在 った所 だ けは難 を免 がれた と して、 その後 、岩切 観 音 前 1番 地 の 田代毅 氏 に
譲 り渡 され、所 在地 を変 えて しまった。 こ う して 、 この 2基 の板 碑 は、 日向 ,焉 頭観 音古 碑群 の
所 有者 で あ る田代 氏宅地 内 に移設建 立 され、氏 の庭 石 の一 つ と して 付設 され て い る。
19
洞 ノロ遺跡
(C-304)
洞 ノロ遺跡 は、岩切 駅 の北 西約 300m、
1同
ノロ北側 の町並 の
裏 手 にあ り、七北 田川北 岸 に形成 された、 自然堤 防上 の標 高約
8mの 沖積地 に立地 して い る。今 回 の踏査 の結 果 、遺跡 は東側
と北 西方 向 へ さ ら に広 が りをもつ もの と考 え られ る。特 に北 西
側 で は、深掘 耕作 によ る畑地 か らは、 中世 陶器 や土 師 器片 が採
取 で きた し、 また、 「 かむ リハ イ ツ」 の建物 周辺 か らも、 こ う
醇盈
途
写真
3.洞 ノ ロ遺跡 北 西側 の 畑
一―中世陶器――
した遺物 の散布 を確認 して い る。 前段 に述 べ た、洞 ノロ板 碑群 一 帯 と中世 陶器散布地 を統合 し
た範 囲 を もって 「洞 ノロ追跡 」 と認 定 す る こ とも可能 で あろ う。
また、洞 ノロ か ら化粧坂 、 そ して大前地 区 、 さ らに東北 新幹線 用地 の 間 には 、 「条 里水 田 」
遺構 と考 えられ る水 田帯 が観察 され、 多賀城 跡 方 向 に広 がって い る。今後 、古代 ― 中世 史 を考
える上 で重 要 な追跡環 境 を もつ地 区 で あろ うと考 えて い る。
Ⅲ日岩切城跡の遺構群調査
小井川
和
夫
1.は じめに
岩切城 は、「高森 館」、「鴻 の館」 とも呼 ば れ、仙 台市 東郊 、岩切 の 背後 にひ か える標 高 106
mの 丘 陵上 に立地 す る。 この地 域 は県 西部 の丘 陵 間 をぬ って東流 す る七 北 田川
(冠 川 )が 沖棲
地 へ 注 ぎ出 す位 置 で あ り、館跡 頂部 か らは仙 台 平野 を一 望 す るこ とがで きる。
館肋 の立 地 す る丘 陵 は 、 奥羽 山系 か ら派 生 して県西部 に展 開す る陸 前丘 陵 の一 支群 ・ 七北 田
丘 陵 に合 まれ、館跡 は そ の東端部 に位 置 す る。北部 を菅 の 沢 (比 高約 75m)、 南部 を神 谷 沢 (比
高約 70m)に 画 されて東西700m、 南北
400m以 上 の規模 をもつ 。
岩切城 跡 は、 東 西 にの び る丘 陵 の尾根 を主 軸 と し、 その南北 に派 生 す る小 丘 陵 をも と り込 ん
で構 築 され て お り、各 尾根上 には大小 数 多 くの平場 がつ くり出 されて い る。地 形 や堀 り切 りな
どの遺構 の状 況 によって、 ほば 中央部 のやせ 尾根部 分 を境 に西郭 と東 郭 に区分 で き、両 者 には
平場 の形態 ・ 配置 の様 子 に も違 いが認 め られ る。
2.西
郭 につ い て
西郭 は、 東西 にの び る尾根 上 に造成 された平場 群 、 その 東西 両側 か らの び る二 つ の小 丘 陵上
に造成 された平場 群 の二部 分 か ら成 り、 それ らは館跡 の南 を画 す神 谷 沢 が北 に深 く入 り込 む最
奥部 を三 方 か らと り囲 む よ うな位 置関係 にあ る。各部 分 は各 々堀 り切 りによって断 たれ、 それ
ぞれ独立 した存在 に なって い る。
西側部 分 は 、項部 の 幅 が15mほ ど と推 定 され る細 長 い小 丘 陵 で、北 か ら順次 高 さを減 じる 7
∼ 8段 の 平場 が造成 され てい るが、 ほば 中央 で空堀 によって切 られ南北 に三 分 されて い る。平
場 群 の 中 にあって南端部 の平場 は土 塁 によって以北 と遮 断 され、 また、下段 平場 を伴 うな ど、
やや異 なった役割 を担 った場 所 で あ るこ とが想 定 され る。
中央部 分 は、先 に述 べ た よ うに沢 の のび に相 対 す る位 置 にあ り、東西40∼ 50m、 南北約 20m
の 項部 平場 と、 その 南辺 に と りつ く幅 10mの 広 い下段 平場 な どによって構 成 されて い る。平場
縁 辺 は直線 的 に整 形 され、斜 面部 も切 り立 って お り、南斜 面東部 には下段 平場 か ら頂部 平場 ヘ
斜 め に登 る通路 が設 け られて い る。 また、頂部 平場 北 東 隅 、下段 平場 南西 隅 には土 塁状 の わず
か な高 ま りも認 め られ る。西側部 分 とは堀 り切 り内 に設 置 された土橋 によって連絡 されて い る
が、土橋 に面 す る下段 平場 南 西部 では土 塁上 高 ま りが一部 途切 れ、 通路 が設 定 されて いた こ と
が推 定 で きる。 この よ うに中央部 分 は整然 と した遺構 の配 置状 況 を呈 して い る。 なお、西側部
分北端部 の西側 、 及 び中央部 分北側 の下段 平場 か ら北 へ の び る尾根 上 には 、1,
2条 の堀 り切
りが設 け られ て お り、 これ が西郭 の西 ・北 限 を区画 す る施 設 で あ る とみ られ る。
東側部 分 は、標 高
107mの 本 館跡 中最 高位 の平場 を北 端 と して南 にの び る 5つ の平場 によっ
て構 成 されて い る。最 高位 の平場 は「― の九 」 と通称 され、南北 に長 い不整形 で あ るが、 30×
、 二 の丸」 と続 き、さ らに、その南 東側 に 2つ の平
70mと い う広 い面積 を持 つ 。以下 、「二 の九」「
場 が接 続 して い る。また、「三 の九 」以南 の斜 面 には 、その 内 に面 と して くい違 うもの もあ るが、
幅 10mほ どの腰 郭 が と りつ く。各 平場 は整然 と段 をな して連続 し、 また その 面積 も極 立 って広
く、本 館跡 で は 中枢 的 な位 置 を占め た地 区 で あ ると考 え られ る。 ところで、館跡 の主 軸 とな る
「 二 の 九」は こ
「 一 の九 」、
東西 の尾根 は、 この地 区 で はや や南 東 に折 れ た後 、西 へ のび て お り、
の尾 根上 に「
、 三 の九」 以下 は それ か ら南 へ の び る小 丘 陵上 に あた る。従 って東郭 へ は「二 の九 」
部 分 か ら尾根 づ たい に連絡 して い る。 また、南斜 面部 の腰 郭 も東側斜 面 を巻 いて尾根 へ と通 じ
て い る。 中央部 分 との連絡 は、 「― の九 」 に中央部 分 項部 平場 との 比高 が 5mあ り、 さ らに堀
り切 り底 面 との 間 は落差 が 8mに も及 ぶ急 斜 面 となって い るこ とか ら直接 的 にはで きず、 中央
部 分 か らは南側 下段 平場 か ら東側部 分 の西斜 面 を経 て「二 の九」 または「三 の九 」
へ 連絡 した
もの と思 われ る。 なお、 「― の丸」北東部 の丘 陵上 に も約 10mの 落差 をもって 3∼ 4段 の平場
が造成 されて い る。
東郭 へ 通 じるや せ 尾根部 分 は約 60mの 距離 が あ り、西 郭際 と東 郭際 にそれ ぞれ堀 り切 りが切
られ て い る。東郭 際 の堀 り切 りには土橋 が設 け られ て い る。
3.東
郭 につ い て
東郭 は、堀 り切 りに面 した部 分 に造成 され た標 高88mの 不整形 の 平場 とそれ を巻 く下段 平場
を頂点 と して北 ・ 東 。南 にの び る小 丘 陵上 につ くられ た平場 群 によって構 成 されて い る。
頂部 平場 の南 東部 は、各 方 向へ の び る小 丘 陵 の基部 にあた り、 90× 50mの 広 い範 囲 の平垣 面
が確 保 され重要 な平場 で あった と考 え られ るが、 後 世 に手 が加 え られ た形 跡 もあっ て詳細 につ
いては明 らかで な い。
南 にのび る小 丘 陵 は、西斜 面 は神 谷 沢 か ら派 生す る沢 に面 して急傾斜 で あ るが、東側 はゆ る
や か に傾斜 して お り、南部 で は大 き く東 へ 張 り出 して い る。 明確 な平場 は西縁部 に あた る小 丘
陵 頂部 に 3つ 造成 されて い る。 それ らの うち南端 の平場 は頂部 平場 面 に さ ら に高 さ 2mほ どの
壇 状 の 狭 い平場 がつ くられ て い るもので 、本 館跡 内 の平場 にあっては異 質 な構 成 になっている。
こ うした異 質性 は西 郭 西側部 分 南端部 の平場 に も認 め られ、 ともに眺望 の き く丘 陵端部 とい う
立地 上 の共 通性 が あ る。東側 で も尾根 や谷 に面 した斜 面部 に段 によって区 画 された平場 がつ く
られ て い るが、段 は地 形 の高 さに沿 ってのび、平場 面 も地 形 に応 じて傾斜 して お り、 それ らは
丘 陵地 形 を大 き く変更 した もので は な いか と考 え られ る。
東側 にの び る尾根部 分 も南部 東側部 分 と同様 の様 相 を呈 し、特 に南 の谷 にの ぞんだ斜 面 には
多 くの段 が形成 され て い る。 この東 にの び る尾 根 上 には 、東 郭頂部 平場 か ら約 250m離 れ て
「桝
形状 」 とい われ る遺構 が配 されて い る。尾根状 に15× 15mの 平場 を設 け、 その東 西 両端 を空堀
で区 画 す る もので 、空堀 は丘 陵斜 面部 で は腰 郭 となって平場 を巻 いて い る。 また平場 縁 には土
塁 も築 かれて い る。東 郭 内 に配 され る平場 な どとは様 相 の異 な る構 造 で あ り、 この部 分 の もつ
重要性 が うかが われ る。 東郭 の 東端 を画 す る施 設 で あろ う。
北部 で は、館跡 の北 を画 す る菅 の 沢 か ら分 岐 して南 へ のび て くる沢 をは さんで 、北 お よび北
東 にの び る小 丘 陵上 に遺構 が配 され て い る。北 にのび る小 丘 陵上 には 、東 郭頂部 平場 か ら 2∼
3段 の小 平場 を経 て幅 20m、 長 さ80mの 広 い平場 が造成 され て い る。丘 陵端 は急 斜 面 となって
菅 の沢 にの ぞむ。北 東 にの び る小 丘 陵 は、 やせ尾根 となって、次 第 に高 さ を減 じなが ら山裾 ま
で連続 す るが、約 80mの びた ところで堀 り切 りによって切 断 され 、遺構 は丘 陵基部 の頂部 に平
場 が、西 斜 面 に細 長 い 3∼ 4段 の段状 の平場 がつ くられて い る。斜 面部 の段 状 の平場 は、 沢 を
見下 ろす よ うに設 置 され 、 また一部 は沢 の の び を遮 るよ うに西 へ まわ りこんで い る。同様 の段
状 の平場 は北 にの び る丘 陵 の東斜 面 に もみ られ、北部 の遺構 群 は、 この 沢 を大 き く意識 して構
成 されて い る と推 定 で きる。
総 じて本 館跡 の遺構 を概 観 す る と、西 郭 は整然 と造成 された平場 群 か ら成 るの に対 し、 東郭
は 自然地 形 を利 用 した平場 が 多 く、 その様相 は大 き く異 って い る とい える。
本 館跡 にお け る主要 な進入 路 は現在 の と こ ろ三 方 向 か らの もの が推 定 され る。 一 つ は南側 か
ら丘 陵 の 尾根 づ た い に西郭 西側丘 陵南端部 に至 る もの で あ る。現在道 路 と して使 用 されて い る
ため遺構 の詳細 は不 明 で あ るが、丘 陵南端 か ら南 東 へ 90m離 れた部 分 は丘 陵鞍部 にあた り、
「岡
橋 」 と呼 ば れて い るこ とか ら堀 り切 り、土橋 の存 在 が推 定 され る。
また、東郭 か らは尾根 づ た い に「桝 形状 」遺構 へ 至 った と考 え られ る。他 の一 つ は北 か ら沢
沿 い に東郭北 端 に と りつ くもので あ る。
なる、 これ らの諸遺構 とは別 に、東郭 の北 東 の丘 陵上 には 、頂部 平場 とそれ を取 り巻 く下段
平場 、段 状 遺構 か ら成 る遺構 群 が広 い範 囲 に造成 されて い る。 す で に述 べ た よ うに、 これ らは
丘 陵 と して は東郭 に連 続 す るが、堀 り切 りによって切 られ、 また その間 に遺 構 が認 め られ な い
部 分 が在存 す るこ とか ら、館跡 と直接 的 に結 びつ け るこ とはで きないが、遺構 の形状 や位 置 か
らみ て、性 格 を違 えた何 らかの 関連施 設 で あ る と考 えるこ とはで きる。
0
図 3.岩 切 城 跡遺構概 略図
100
Ⅳ E中 世城郭 の あ り方 か らみた整備試論
高
瀬
要
一
1.中 世山城整備 の現状
全 国 に残 る所 謂 中世 山城 と呼称 され る遺 跡 の正確 な数 は押 え られ て い な いが、近 年調査 が進
み つつ あ る各 県単位 の 中世城 館跡 の分布調査 の成 果 か ら、大略 の推 計 を試 み る と以下 の よ うに
な る。
これ まで に調査 が終 了 し、報告 書 が刊 行 された県 は11県 で あ り、 そ こで確 認 され た中世 城 館
跡 の総 数 は 7,313ヶ 所 にのぼ る。各 県 の広 さの違 いや、地 勢 、歴史 の地 域性 といったバ ラツキ
は あ る もの の 、 これ らを単純 平均 す ると 1県 あた り 665ヶ 所 の 中世城 館 が確認 された こ とにな
る。 まだ調査 の行 われて い な い県 に も、 ほぼ同数 の 中世城 館 が残 って い る もの と仮 定 す ると、
全 国 には 665ヶ 所 ×45都 府 県 (北 海道 のチ ャ シと沖縄 県 の グ ス クは本 州 の 中世城 館 と同 じ枠 の
中 で考 え難 いので 、 ここで は除 外 す る。)で あ るか ら、約 3万 ヶ所 の 中世城 館 が存在 す る もの
と想 定 で きる。 この うち一 覧表 に城 館跡 の立 地 が記 され て いて山 項 ・ 山腹 ・ 丘 陵上 等 に立地 す
る城 郭 ・ 砦 ・ 居 館 と、 山麓部 ・平地 に立地 す る城 郭 ・ 居館 とが比較 的容 易 に分類 で きる静 岡県
の報 告書 をも とに分 類 ・ 集 計 す る と、静 岡県 で は総 数 669ヶ 所 の うち 410ヶ 所 が山頂 ・ 山腹 ・
丘 陵上等 につ くられた城 郭 や砦 ・ 居 館 といった広 い意味 で の 中世 山城 にあた り、残 りの 259ヶ
所 が山 麓部 や平地 につ くられ た城 郭 ・ 居 館 で広 い意味 での中世平城 (館 )と 呼 べ るもので あろ
う。 つ ま り中世城 館遺 跡 の約 6割 が山城 とい うこ とにな る。 この比率 を全 国 に及 ばす と 3万 ヶ
所 の O.6倍 で あ り 1万 8千 ヶ所 の 中世 山城 が存在 す る と考 え られ よ う。 しか しこの うち、国指
定史跡 となって い る城 郭 は岩切城 跡 をは じめ と して、現在 の ところ43ヶ 所 と数 少 な い。
これ らを年代 的 にみ る と鎌 倉時代初 頭 に さかのば る もの か ら、南北 朝 、室町 時代 を経 て戦 国
時 代 、近 世初 頭 に築 かれた もの まで が含 まれ、年代 的 には か な りの幅 が あ る。 また、 その規模
や形態 も数百 言 程度 の砦 、物 見台 とい った もの か ら、数十万 ど にわた る大規模 な もの まで さま
ざまで あ る。
これ ら中世 山城 の現状 を整備 とい う面 か ら概 観 す る と、大 きく三 つ の タイプ に分類で きよ う。
第 一 は整備 とい う点 で は、全 くの手 つ かず の状 態 で あ り、 山林 あ るいは畑 等 と して土地利 用
が な され て お り、遺跡 内 の道 路 も山仕事 、畑 仕事 の ための通 い道 が あ るの み とい う状 態 の城 郭
で あ る。史肋 と しての利 用 は研 究者 あ るいは好 事 家 によ る調査 、探 訪 とい った もの に限 られて
い る。 大 多数 の 中世 山城 は この状 態 におかれ て い るが、宅地 造成等 大規模 な開発 が な い限 り、
遺構 は比較 的 良好 な状 態 で保 存 され て い る。 史跡等 文化 財 の指 定 は受 けて い な い もの がほ とん
どで あ る。
第 二 には 、岩切城 跡 の よ うな現状 にあ る中世 山城 で あ る。 一 応 園路 が整備 されて お り、 中心
部 の主要 な郭 は、清掃 や年 に 1、 2回 程度 の刈 払 い等 の 管理 が行 われて い る。説 明板 も数 は少 な
いが備 えで あ り、史跡 指 定 を受 けて い るこ とも多 いが、 それだ けで は な く、 さ ら に国定 公 園 ・
県 立 自然 公 園 あ る い は都 市 公 園等 に指 定 され て い る場 合 も少 な くな く、 あ る程 度 公 園的利 用 が
定着 して い る。 しか し、城 跡 を整備 す る とい う明確 な意識 をもって公 園化 が な されて い る場 合
は ほ とん どな く、遺構 につ いて は 中心部 の 目立 つ ところの み が整 備 の対 象 と され、 それ も現状
維持 で あ り復原 的 な整備 は行 われて い な い。 園路 も遺構 とは無 関係 に歩 きやす い よ うにつ くら
れて い る。数 と して は第 一 の タイプ に と うて い及 ば な い もの の 、 か な りの数 の山城 で この種 の
整備 が実施 されて い る。 国指 定史肋 で は岩切城 跡 の他 に宇津 峰 (福 島)、 霊 山 (福 島)、 金 山
城 跡 (群 馬 )、 滝 山城 肋 (東 京 )、 八王子城 跡 (東 京 )、 春 日山城 跡 (新 潟 )を は じめ30余 り
の城 跡 が あ り、次 に揚 げ る第 二 の タイプ以外 の ほ とん どの もの が、程度 の差 こ そあれ ほば この
状 態 で あ る。
第二 は史跡 公園 と して整備 が な されて い る中世 山城 で あ る。数 は少 な く、私 の知 る限 りで は
国指 定 史跡 に限 られて い る。北 か ら順 に挙 げ る と上 之国勝 山館跡 (北 海道 )、 柚 山城 跡 (福 井 )、
山 中城 跡 (静 岡)、 正法 寺 山荘 跡 (二 重 )、 小 谷城 跡 (滋 賀 )、 富 田城 跡 (島 根 )、 宇土城 跡
(熊 本 )の
7ヶ 所 で あ る。 これ らの城 肋 で は整備 に先 だ って 、発 掘 調査 が行 われ、 その成 果 と
既 応 の研 究調査 とを合 わせ 、 それ らをも とに整備 計 画 が立 案 され、 実施 をみ て い る。発 掘調査
で確 認 され た建 物 跡 を平 面的 に表 示 す るこ とや、堀 や土 塁 を修 復 す るこ とな どが行 われて い る
が 、通路 の復原 につ いては 不 明 な部 分 も多 く、必 ず しも城 郭本 来 の 通路 を歩 け るよ うには なっ
て い な い。
以上 の よ うに中世 山城 の 整備 の 現状 は、他 の遺肋 、例 えば古墳 や寺跡 、城 郭 で い えば近 世城
郭 な どに比 べ て進 んで い る とは言 えない。 また整備 内容 も現状 維持 を主体 と して お り、本 々の
間 にの ぞ く角 が とれ て丸 く低 くなっ た土 塁 や 、埋 もれて浅 くなった堀 な どが もた らす 『風 化 し
自然 に同化 しつつ あ る人工 』 、 あ るいは『 つ わ もの どもが夢 の あ と』 とい うイ メー ジがふ さわ
しい場 所 となって い る。 言 い か えれば 、 それだ け想像 の 余地 は多 い もの の 、歴 史 の素養 の あ る
人 や 中世城 郭 を勉 強 して い る人 で なければ城 郭 の 当時 の 姿 や使 われ方 な ど、 中世 山城 の具 体 的
な実態 は なか なか理 解 で きな い とい う現状 で あ る。
2.岩 切 城 跡 の 整 備
中世 山城 の整備 の現状 は以上のよ うな こ とで あり、 その問題点や是非 についてはいろいろな
考 え方 があると思 う。 こ うした現状 をふ まえた上での岩切城跡 の整備 の方向 もい くつか考 えら
れ よ うが、 ここで は私 が期 待 す る岩切城 跡 の 整 備 の あ り方 を列記 し、今後 の整備 を進 めて い く
上 での検 討 課題 に して いただ ければ と考 える。
城郭 の 当時 の通路 が どのよ うに設定 されていたのかを解明 し、 そのルー トに沿 って歩 ける
①
よ うに園路 を復原す る。
敵 に備 えた防禦の正面 と、裏側 にあたる揚手 をは じめ とす る城郭 の基本的構造 を理解 で き
②
るよ うにす る。
戦闘 に備 えた城郭 の荒 々 しい面 と、一方武士 の 日常生活 の中 にあるゆ とりや文化 といった
③
相反す る側面 を空間 として表現で きないか。
山城 と山麓部 の居館、主要街道、 また少 々離 れて いるが多賀城 との関連 など、広域的 な歴
④
史環境 を理解 で きるよ うな整備 を行 う。
③
岩切城跡 を東西 に分 けると、西側 の一 の郭以下 がある部分 と、東側 の一 画 とい うことにな
るが、前者ではで きるだけ復原的 な整備 を行 い中世 山城 を理解 して もらう場 とし、後者 は城
郭 の立地や環境 の保全、景観 の修景 を行 うとともに、広場 を中心 とした公園的利用はもっぱ
らここを中心 とす るとい うよ うに明確 に空間 を分 けた らどうか。
⑥
一の郭 および三 の郭で確認 されて いる柱穴 の再調査 を行 い、城郭 の年代 や各郭 の性格、建
物 としてのまとま りなどを解明す るとともに、 その成果 を整備 に反映 させ る。
以上、思 いつ くままに記 したが、 これ らをすべ て満足 させ るには、相 当な調査 と計画立案ヘ
の摸索 が必要 である。委員会 を設 けて叡智 をあつ め るとい うのも一案 かと考 えるが、 いずれに
してもこれまでにない思 いきった整備 が実現す ることを願 うとともに、 また、 それがで きるの
も仙台市 をおいて他 にないと考 える。
室めて い く
†ヤ
)て 歩 け る
1(
と理 解 で き
ヒとい った
質域 的 な歴
,こ とにな
後 者 は城
日は もっぱ
9性 格 、建
十画 立 案 ヘ
いず れ に
ヾで き るの
う
岩切城跡 地形瀕I量 図
図 5。 岩切城跡周辺の遺跡分布図
職
録
員
文化 財 調査 係
社 会教 育課
課
長
阿部
達
係
長
佐藤
隆
主
事
渡部 弘美
主
幹
早坂 春 ―
主
事
結城
慎一
教
諭
渡辺
教
諭
菅原
和夫
主
事
主浜 光朗
主
事
本村
浩ニ
ク
斎野裕彦
篠原
信彦
ク
長 島栄 一
小 野寺和 幸
ク
及川
格
千葉
仁
文化財 管理 係
ク
係
長
佐藤 flk美
主
事
岩 沢克輔
ク
山口
宏
教
諭
ク
主
佐藤 美智雄
事
教
諭
ク
松 本清 一
佐藤
洋
ク
金森
安孝
ク
佐藤
甲ニ
ク
鈴 木 善弘
ク
吉岡
恭平
派遣職 員
高橋勝 也
″
工藤
哲司
主
事
高橋
仙台市文化財調査報告書刊行 日録
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第 23集
第24集
第25集
誠
天然記念物霊屋下 セ コイヤ化石林調査報告書 (昭 和 39年 4月 )
仙台城 (昭 和42年 3月 )
仙台市燕沢善応寺横沢穴古墳群調査報告書 (昭 和43年 3月 )
史跡陸奥国分尼寺跡環境整備並 びに調査報告書 (昭 和44年 3月 )
仙台市南小泉法領塚古墳調査報告書 (昭 和47年 8月 )
仙台市荒巻五本松窯跡発掘調査報告書 (昭 和48年 10月
仙台市富沢裏町古墳発掘調査報告書 (昭 和49年 3月
仙台市向山愛宕山横穴群発掘調査報告書 (昭 和 49年 5月 )
仙台市根岸町宗禅寺横 穴群発掘調査報告書 (昭 和 51年 3月
仙台市中田町安久東造跡発掘調査概報 (昭 和51年 3月
史跡遠見塚古墳環境整備予備調査概報 (昭 和51年 3月
史跡遠見塚古墳環境整備第二次予備調査概報 (昭 和 52年 3月 )
南小泉遺跡―範囲確認調査報告書― (昭 和 53年 3月 )
栗追跡発掘調査報告書 (昭 和 54年 3月 )
史跡遠見塚古墳昭和 53年 度環境整備予備調査概報 (昭 和54年 3月
六反田追跡発掘調査 (第 2・ 3次 )の あ らま し (昭 和 54年 3月 )
北屋敷遺跡 (昭 和 54年 3月
枡江追跡発掘調査報告書 (昭 和 55年 3月 )
仙台市地下鉄関係分布調査報告書 (昭 和 55年 3月
史跡遠見塚古墳昭和 54年 度環境整備予備調査概報 (昭 和55年 3月
仙台市開発関係遺跡調査報告 1(昭 和55年 3月
経 ヶ峯 (昭 和55年 3月
年報 1(昭 和55年 3月 )
今泉城跡発掘調査報告書 (昭 和 55年 8月
三神 峯追跡発掘調査報告書 (昭 和 55年 12月
)
)
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)
泰
第26集
第27集
第28集
第29集
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第84集
史跡遠見塚古墳昭和55年 度環境整備予備調査概報 (昭 和56年 3月
史跡陸奥国分寺昭和55年 度発掘調査概報 (昭 和56年 3月
年報 2(昭 和56年 3月 )
郡山追跡 I― 昭和55年 度発掘調査概報― (昭 和56年 3月 )
山田上 ノ台遺跡発掘調査概報 (昭 和56年 3月 )
仙台市開発関係追跡調査報告 2(昭 和56年 3月
鴻 ノ巣遺跡発掘調査報告書 (昭 和56年 3月 )
山口追跡発掘調査報告書 (昭 和56年 3月 )
六反田遺跡発掘調査報告書 (昭 和56年 12月
南小泉遺跡―都市計画街路建設工事関係第 1次 調査穀告 (昭 和57年 3月 )
】ヒ前追跡発掘調査報告書 (昭 和57年 3月 )
仙台平野 の遺跡群 I― 昭和56年 度発掘調査報告書― (昭 和57年 3月 )
郡 LL追 跡 Ⅱ―昭和56年 度発掘調査概報― (昭 和57年 3月
燕沢遺跡発掘調査報告書 (昭 和57年 3月 )
仙台市高速鉄道関係追跡調査概報 I(昭 和57年 3月
年報 3(昭 和57年 3月
郡山遺跡―宅地造成 に伴 う緊急発掘調査― (昭 和57年 3月 )
栗遺跡 (昭 和57年 8月
鴻 ノ巣追跡発掘調査報告書 (昭 和57年 12月 )
茂庭一茂庭住宅団地造成工事地内追跡発掘調査報告書― (昭 和58年 3月 )
郡山遺跡 皿―昭和57年 度発掘調査概要― (昭 和58年 3月
仙台平野 の追跡群 I― 昭和57年 度発掘調査報告書― (昭 和58年 3月 )
史跡遠見塚古墳昭和57年 度環境整備予備調査概報 (昭 和58年 3月 )
仙台市文化財分布調査報告 I(昭 和58年 3月 )
岩切畑中遺跡発掘調査報告書 (昭 和58年 3月 )
仙台市文化財分布地図 (昭 和58年 3月 )
南小泉遺跡―都市計画街路建設工事関係第 2次 調査報告 (昭 和58年 3月 )
中田畑中違跡発掘調査報告書 (昭 和58年 3月 )
榊明社窯跡発掘調査報告書 (昭 和58年 3月 )
南小泉追跡―青葉女子学園移転新営工事地内調査報告 (昭 和58年 3月 )
仙台市高速鉄道関係遺跡調査概報 Ⅱ (昭 和58年 3月 )
年報 4(昭 和58年 3月 )
今泉城跡 (昭 和58年 3月 )
下 ノ内浦遺跡 (昭 和58年 3月 )
南小泉追跡―倉庫建築 に伴 う緊急発掘調査報告書― (昭 和58年 3月 )
山口追跡 Ⅱ一仙台市体育館建設予定地― (昭 和59年 2月
燕沢遺跡 (昭 和59年 3月 )
史跡陸奥国分寺跡昭和58年 度発掘調査概報 (昭 和59年 3月 )
郡山遺跡Ⅳ―昭和58年 度発掘調査概要― (昭 和59年 3月 )
仙台平野 の追跡群皿一昭和58年 度発掘調査報告書― (昭 和59年 3月 )
年報 5(昭 和59年 3月 )
富沢水田遺跡―第 1冊 一泉崎前地区 (昭 和59年 3月 )
南小泉遺跡―都市計画街路建設工事関係第 3次 調査報告 (昭 和59年 3月
仙台市高速鉄道関係遺跡調査概報 皿 (昭 和59年 3月 )
戸 ノ内遣跡発掘調査報告書 (昭 和59年 3月 )
後河原遺跡 (昭 和59年 3月 )
六反田遺跡 Ⅱ (昭 和59年 3月 )
仙台市文化財分布調査報告書 Ⅱ (昭 和59年 3月 )
那 山追跡 V― 昭和59年 度発掘調査概報― (昭 和60年 3月 )
仙台平野の追跡群Ⅳ (昭 和60年 3月 )
仙台城三 ノ丸跡発掘調査報告書 (昭 和60年 3月 )
山田上 ノ台遺跡 ―昭和59年 度発掘調査報告書― (昭 和60年 3月 )
中田畑中違跡 ―第 2次 発掘調査報告書― (昭 和60年 3月 )
欠 ノ上 I追 跡発掘調査報告書 (昭 和60年 3月 )
南小泉遺跡 ―第12次 発掘調査報告書― (昭 和60年 3月 )
南小泉遺跡 一第13次 発掘調査報告書― (昭 和60年 3月 )
仙台市高速鉄道関係遺跡調査慨報Ⅳ (昭 和60年 3月 )
年報 6(昭 和60年 3月 )
仙台市文化財分布調査報告書Ⅲ (昭 和60年 3月 )
)
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仙 台市文化財調査報告番第34集
仙 台市文化財 分 布調査報 告 Ⅲ
l召
和 ∞ 年 3月
発行 仙 台 市 教 育 委 員 会
仙台市1回 分町 B―
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仙台市教育委員会社会教育課
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爛 東 北
プ リ ン ト
仙台市立町24‐ 24T E L63二 1166
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