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塩川正十郎東洋大学総長のお別れ会

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塩川正十郎東洋大学総長のお別れ会
校長室だより
第 128 号
平成 27 年 12 月 2 日
塩川正十郎東洋大学総長のお別れ会
東洋大学附属牛久中学校高等学校
校長
遠藤隆二
11 月 26 日(木)、東洋大学白山キャンパス「井上円
了ホール」において、16:00~17:00、17:00~18:00 と
2回に分けて、東洋大学総長塩川正十郎先生のお別れ会
がしめやかに執り行われた。安倍首相はじめ現内閣の閣
僚や森元首相、福田元首相など故人と関係の深い政財界
人、東洋大学関係者など約千名が別れを惜しんだ。
【次第】一 開式
一 黙祷
一 おもいで
一 お別れの言葉
一 お礼の言葉
一 献花
1921(大正 10)年、大阪に生まれ、1944(昭和 19)
塩川正十郎東洋大学総長のお別れ会の様子
年、慶応義塾大学経済学部を卒業、1967(昭和 42)年、
衆議院議員初当選、以降 11 回当選、この間、運輸大臣、
文部大臣、内閣官房長官、自治大臣・国家公安委員長、
財務大臣等を歴任し、2003(平成 15)年に政界を引退
された。東洋大学との関係では、1988(昭和 63)年に
理事・理事長に、2004(平成 16)年に総長に就任され
た。2015(平成 27)年9月 19 日、肺炎のため、大阪
市内の病院で逝去された。93 歳であった。政府は「正
三位」の位階と「銀杯一組」を追贈している。
開式の後に「おもいで」として東洋大学での在りし日
の塩川総長の DVD がスクリーンに映し出され、
「塩爺」
の愛称で親しまれた笑顔と言動が蘇り、在りし日を彷彿
させた。とてもダンディーでおしゃれ、はっはっはーと
塩川正十郎東洋大学総長の座右の銘の書①
笑いながら歯に衣を着せずぴしゃりとものを言う。白山
キャンパス2号館のスカイホールで初めてお会いした
時、「君が牛久の校長か」と気さくに声をかけていただ
いたのが懐かしい。
お別れの言葉は主催者の東洋大学福川理事長と友人
代表の福田康夫元首相。福川理事長は、
「塩川総長の御
遺志をついで新しい日本を拓く東洋大学を目指して努
力していくことを誓います。」とお別れのことばを述べ
た。福田元首相は友人として、塩川総長の官房長官時代
の仕事ぶりを、「要所要所でぴたりと物事を決めて下さ
る。あの姿勢には本当に感心させられた。」と在りし日
塩川正十郎東洋大学総長の座右の銘の書②
の思い出を語り、別れを惜しんだ。お礼の言葉ではご遺
族の方が最後の看取りの様子を語られ、涙を誘った。厳粛な中に参列者一人一人が献花を捧げ、別れを惜しんだ。
写真①の座右の銘「一樹陰、一河流、他生縁」は、聖徳太子「説法明眼論」にある教えで、
「雨を避けるために同じ木
陰に身を寄せることや、同じ河の流れの水を汲むというような些細なことでも、前世からの縁であるから人との出会い
は大切にしなければならない。」と言う意味。
写真②の座右の銘「無尽蔵」は、
「いくら取っても尽きないほどの豊富なさま」を言うが、自分の中にしまっておく宝
(自分のもっているもの)は尽きることがないほど豊富でありたい、尽きることのないほどの宝をもつように努力した
いと言う意味。仏教では「すべてのものを包み込むりっぱなものをもつように努力する」という意味らしい。
塩川総長は「書」を嗜まれ、座右の銘を書き残している。写真にある「一樹陰、一河流、他生縁」と「無尽蔵」は、
「人との出会いを大切にする」総長、
「尽きることのないほどものを蓄え、それを次から次と湧き出す」総長そのものを
表現しているようにも思える。うどん、特にきつねうどんが好物だったらしい。相撲を見たり(日本相撲協会運営審議
会委員)、囲碁をしたり(財団法人関西棋院理事長)
、歌謡曲を歌ったりする(毎年 11 月に日本テレビで放送する「ベス
トヒット歌謡祭」の大会実行委員会名誉会長)のが好きだったらしい。笑顔と親しみのある庶民肌の「無尽蔵」の総長
だったとも言えよう。また、何事にも恐れず大きな独特な声でぴしゃりと直言される姿や、律義で気さくに声をかけ、
励ましてくれる姿から頼もしい武士のよう(特定非営利活動法人武士道教会理事長)な人でもあったと言えよう。
政府は、逝去された 2015 年9月 19 日、塩川総
長に「正三位」の位階と「銀杯一組」を追贈してい
る。古代律令制度の下では、従三位以上を「貴」と
称し、又は「星の位」とも言われ、上級貴族の位階
であった。「正三位」は「大納言」職に相当し、勲
等では「勲一等」に相当する。現代でも 1926 年(大
正 15)の位階令により、勲章・褒章と並ぶ栄典制
の1つとして位階制度が存続している。今日では、
位階が物故者を対象とする栄典となり、国務大臣経
験者の他、政府の重要な官職にあった者、学術分野
では多大な功績のあった人物が死後に叙せられる
のが通例となっている。
塩川総長は 2000 年の 11 月、勲一等旭日大綬章を授章されている。戦前の制度では官吏(官僚)と軍人が中心であっ
たが、日本国憲法下の制度では、国民各層を対象とし、毎年2回、春と秋に叙勲が発令される。私たちに馴染みのある
ものは文化勲章であるが、勲一等旭日大綬章は国家や公共に対し、大きな功績のあった人に授章される。
聖徳太子が冠位十二階を制定し、冠位の等級・名称・色彩を定めている。冠位等級「1」の名称は「大徳」で色彩は
「濃紫」、
「2」は「小徳」
「薄紫」
、
「3」は「大仁」
「濃青」
、
・・・という風に。律令制度下では、天皇は「白」
、東宮は
「黄丹」、冠位等級「1~2」の名称は「親王・王・臣下 1 位」で色彩は「深紫」である。冠位等級「3~6」の名称は
「王・2~5位・臣下2~3位」で色彩は「浅紫」
・・・という風に定められていた。これを見ても分かるように、古代
では、身分が高く高貴な人は「紫」と縁が深かった。時代が変わり、位階に相当する服色も変化してきているが、現在
もお寺のお坊さんの袈裟にその名残がある。「紫」は現在でも高貴で品格のある色と見なされている。
塩川総長の「正三位」や「勲一等旭日大綬章」に思いを巡らしていたら、赤紫色で光沢のある実の「ムラサキシキブ」
が目に留まり、シャッターを切った。聡明な女性という花言葉に魅かれ、引っ越してきた 20 年位前に植えた「ムラサ
キシキブ」の熟れた実である。源氏物語の作者紫式部に引きずられ、
「ムラサキシキブ」の赤紫色の実がとても気に入っ
ている。源氏物語には光源氏の恋物語が花鳥風月の自然描写とともに描かれているが、
「ムラサキシキブ」という植物は
登場していない。この植物の名前の由来は諸説がある。江戸時代の初期に「実紫(ミムラサキ)」や「玉紫(タマムラサ
キ)
」と呼ばれていたものを、江戸の植木屋が紫式部になぞらえて「ムラサキシキブ」とつけたとか、果実が重なり合っ
てついているので、京都の人が「紫重実(ムラサキシキミ)
」と呼んでいたのが変化したとか、の説である。いずれにせ
よ、「ムラサキシキブ」は才女紫式部をイメージし、「ムラサキシキブ」の赤紫色で光沢のある実は、高貴で品格を彷彿
させる。塩川総長の「正三位」と「勲一等旭日大綬章」は正に「紫」であり、功績大の高貴で品格のある色である。
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