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20世紀における「自由貿易帝国主義」

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20世紀における「自由貿易帝国主義」
(169)
20世紀における「自由貿易帝国主義」
第 1次世界大戦期イギリス通商政策構想」を
素材として
秋
富
創
〔キーワード〕 イギリス,第 1次世界大戦,通商政策,自由貿易帝国主義,
商務省
はじめに
今からおよそ半世紀前,いわゆる「自由貿易帝国主義」(The Imperialism
of Free Trade)論がギャラハーとロビンソンによって唱えられた 。イギリス
帝国主義の原因に関する諸研究では当時,いわゆる「ホブスン-レーニン」理
論に基づく古典的なマルクス主義的解釈 を別とするならば,「制度上の帝国
(
式の帝国)
」の創設・生成に注目する,政治 的・法制
的解釈が影響力を
有していた 。ギャラハーとロビンソンは,このような法制的支配を伴う「
式の帝国」
,すなわち通常一般的に想起される植民地とは実は,「水面から顔を
出している氷山の一角」(icebergs solely from the parts above the waterline)に過ぎない存在であり,水面下には氷山の本体部
,すなわち「非
式
の帝国」
(informal empire)が隠れていると主張することによって,これまで
にない新しい帝国主義論を世に問うたのである。伝統的な歴
ば,19世紀中葉は「
は「アフリカの
学の解釈に従え
式の帝国」が縮小した平和な時代であり,19世紀後半
割」に見られるように「
義」の時代である。しかし,
「非
式の帝国」の存在を重視するギャラハーと
ロビンソンからすると,そのような時代区
結果の産物であり,
「非
式の帝国」が拡大した「帝国主
式の帝国」を全く
は「
式の帝国」のみに注目した
慮に入れていない不十
なもの
である。19世紀におけるイギリスの工業化は,自国経済の拡大とともに世界
(170)
の周辺地域の開発を促進し,
「中心」的地位に就いたイギリスと「衛星」的地
位に追いやられた周辺地域が,工業製品と食糧・原材料を
完的な関係を形成した。イギリス政府は「可能ならば非
必要ならば
換し合うという補
式な手段によって,
式の併合によって」
(by informal means if possible, or formal
annexations when necessary),すなわち自らの国是である自由貿易政策に従
い,素直に市場を開放する相手に対しては「非
そうではない相手に対しては武力行
式」という安上がりの手段,
による植民地化という手段といった具合
に,利害関係を持つ様々な地域それぞれの状況に応じて最適ないかなる手段を
も強かに行
することによって,世界貿易における自らの優位性を確立しよう
としたのである。このような「非
式」的手段を優先しようとする政府の意思
は 19世紀を通じて一貫して働いていたため,同世紀後半の「帝国主義」時代
においてイギリスは,自国自身の事情というよりはむしろ現地の国際状況,す
なわち,保護主義的な他国の侵略によって現地の開放的市場が失われる可能性
が生じた,といった個別の状況に応じて,
「
「アフリカの
式の帝国」の樹立,すなわち
割」に参画せざるを得なくなった 。
しかしその一方で,このような「自由貿易帝国主義」論はあまりにも斬新な
説であったため,激しい反駁にさらされることにもなった。ギャラハーとロビ
ンソンによると,イギリスは 19世紀一貫して自ら自由貿易政策を採用し,状
況に応じて様々な手段を行
することによって,世界中の諸地域がそれを採用
するように説得し,あるいは力ずくで強制した。しかし,南米経済
の専門家
であるプラットは,19世紀中葉のイギリス政府が,同世紀後半とは異なり一
貫して「非干渉かつ自由放任」
(non-intervention and laissez-faire)の思想
に基づく政策を実行していたのであって,
「貿易目的での,新たな地域(南米)
に対する間接的な政治的覇権(非
式帝国化)」を目論むことはあり得なかっ
た,と主張して彼らの説に真っ向から異を唱えた 。さらにマクドナーは,コ
ブデンやマンチェスター学派といった当時の自由貿易政策の主導者たちが根本
的には反帝国主義者であったと指摘し,「自由貿易帝国主義」という表現自体
が間違いであると主張した 。問題は,ギャラハーとロビンソンの説とこれら
(171)
の批判との折り合いをどうやってつけるかであるが,筆者の私見によるとそれ
は不可能なことではない。ギャラハーとロビンソンは,19世紀中葉と後半の
経済政策を断絶的に捉えるというマルクス主義的な伝統
観 を批判する一方
で,両時期の連続性を強く意識するあまり,
「帝国主義」という表現にこだわ
り過ぎたのではないだろうか。確かにプラットが主張するように,19世紀中
葉のイギリスは「非干渉かつ自由放任」の思想に拘泥していたため,諸外国に
門戸開放と機会
等を要求すること以外に,私企業の海外事業を直接援助する
といった介入は行わなかった。このような非干渉的な政策が転換するのは,大
不況を迎え,他の欧米諸国との経済的競争が激しくなった 19世紀後半におい
てである 。しかし 19世紀のイギリスには一貫して,当時の国際
共財とでも
言うべき「自由貿易」という制度的枠組みを各国に普及させるという
命が課
されており,ときには「非干渉かつ自由放任」という表現にはそぐわない行動
を起こすことも要請されていた。いわゆる「覇権安定論」を踏まえて換言する
ならば ,19世紀のイギリスには,第 2次世界大戦後に IM F= GATT 体制を
先導したアメリカ同様に,世界中に自由貿易政策を拡散させて,世界経済の成
長を牽引するという唯一無二の役割が課されていたとも
えることができる。
このような役割が「帝国主義」的な行為に見えるかどうかという問題は別にし
ても,当時のイギリスには,
「非干渉かつ自由放任」という政策原理とまさに
並立する形で,自らを世界貿易の中心地に据え,自由貿易体制の発信基地とし
て位置づけるという,非干渉といった言葉のイメージとは余りにもかけ離れた
大胆かつ積極的な政策が存在していたとは言えないであろうか。「自由貿易帝
国主義」論から「帝国主義」という言葉が持っている独特のドグマを取り去
り,当時のイギリスが担っていた世界的役割を表現するものとして,その説を
柔軟に再解釈することは不可能ではないであろう。
このように「自由貿易帝国主義」とは,当時の工業・貿易立国イギリスによ
る,自由貿易政策に基づく世界戦略を表しているのであって,
「帝国主義」と
いう言葉のインプリケーションをめぐる論争に問題を矮小化することはふさわ
しくない。19世紀後半には欧米諸国との競争が激化するに従い,アジア・ア
(172)
フリカ・南米といった後進国市場への退却を一層強めていったものの,イギリ
スは 19世紀一貫して,
式の帝国とそれ以外の国との違いを問わず,それら
の国々から自らが等距離に位置する「中心的・単一的な貿易国家」(a central,
isolated trading nation)であり続けたか,少なくともそうであることを望み
続けていたのである 。本稿は,
「自由貿易帝国主義」論をめぐる以上のよう
な柔軟な再解釈に基づき,
「第1次世界大戦期イギリス通商政策構想」を素材
として,20世紀における「自由貿易帝国主義」論の可能性・妥当性を
るものである。この時期は,イギリス
察す
上かつてない規模で経済ブロック=関
税同盟形成の世論が高まり,19世紀以来伝統的な自由貿易政策に基づく,
「中
心的・単一的な貿易国家」戦略が大きく揺らいだときに当たる。我々はこの時
期,戦後に向けて企画立案された通商政策構想に着目することを通じて,20
世紀においてもなお引き続き,この戦略がイギリスによって採用されていたの
かどうかについて検討してみたい。
Ⅰ 連合国との関係
本論に先立ち,まず我々が取り上げる「通商政策構想」の意味について
てみたい。周知のように第 1次世界大戦は
上初の
え
力戦であり,
戦国は戦
地に赴く戦闘員のみならず,国内に留まっている非戦闘員までをも
動員する
必要性に迫られた。したがって彼らには,現在の 力戦体制に対して国民の協
力を仰ぐためにも,大戦という現在の混乱が一時的であることを国民に認識さ
せ,いずれは訪れる平時=戦後の展望を「戦後構想」という形で説得的に明示
するという,重大な任務が自ずと与えられていたのである。大戦期に企画立案
された様々な戦後構想の中でも特に,戦後の通商=貿易政策に関して言及され
たものがここで言う「通商政策構想」に他ならない 。
大戦期は,19世紀以来「中心的・単一的な貿易国家」政策を採用してきた
イギリスにとって,大きな転換点となった。まず 1915年には,奢侈品輸入を
抑制して外貨・輸送
舶不足を補うため「マッケナ関税」(M cKenna Duties)
が導入され,前世紀中葉の穀物法廃止以来遵守されてきた,基本的には一部の
(173)
嗜好品を除き関税を賦課しないという自由貿易政策の伝統があっさり崩され
た。さらにこの時期国内では,20世紀初頭の「関税改革運動」においてジョ
セフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain)の薫陶を受けた「関税改革主義
者」
(Tariff Reformer)と呼ばれる人々が,
式・非
式を問わず様々なチャ
ネルを通じて,イギリスが連合国および帝国との間に関税同盟を形成し,戦後
におけるドイツの経済的脅威に備えることを強く主張した。彼らによると,現
在の戦争の結果ドイツが決定的に敗北することはなく,ドイツは現在,戦後自
国製品を洪水のようにイギリスに輸出するという,
「戦後の経済戦争」に関す
る計画を立てている。このようなドイツの脅威に対抗するためには,戦後イギ
リスが連合国および帝国と経済的に協力し合い,関税同盟を形成しなければな
らない 。大戦期のイギリスはこの後,これら両者との経済協力の形態につい
て,膨大な時間を費やし検討を重ねることになるのである。
連合国との経済協力については早くも 1915年 9月,フランス側から打診が
あった。このときフランスはイギリスに対して,
「終戦時連合国が協調して,
ドイツによる連合国への大量輸出を防ぐ」ことを非
式に提案しただけであっ
たが,イギリスはこのとき初めてフランス側の意図を知ることになった。事態
は翌月クレマンテル(Clementel)が商務相に就任すると大きく動き出す。ク
レマンテルはフランス商務省内のいわゆる改革派であり,ドイツとの「戦後の
経済戦争」に備えるため,大戦中に連合国間で芽生えた協調・団結心を背景に
「連合国経済ブロック」を形成し,
「原材料の共同管理」や「特恵関税の相互付
与」を行うことを熱心に主張していた。さらに彼は,競争に基づく「無秩序な
市場経済」を,協調に基づく「秩序づけられた経済」に転換させることを目指
し,国際経済の組織化を目論んでいた。クレマンテルは 1915年 12月,「連合
国が『大戦に起因する経済問題』を議論するパリ会議」を将来開催するとの旨
をイギリスに伝え正式に参加を要請したが,実際のところイギリスはこの話に
あまり乗り気ではなかった。彼の
渉相手となるイギリス側の商務相ランシマ
ン(Runciman)は根っからの自由貿易主義者(Free Trader)であったし,
彼のお膝元である商務省(Board of Trade)自体が 19世紀以来自由貿易政策
(174)
の旗振り役であったため,
「連合国間の貿易」に対して「連合国と中立国(非
戦国)との貿易」を差別的に扱うという,クレマンテル流の経済ブロック構
想に難色を示していたからである。クレマンテルとランシマンはこの後数度会
談し,来るべき会議に向けてプログラムを作成したが,議論の中では結果的に
クレマンテルの主張はことごとく退けられ,
「対連合国と対中立国との
易条
件は平等に扱われる」というイギリス側の主張が多く反映されることになっ
た 。
イギリスはこのように,クレマンテル流の経済ブロック構想に反対するとい
う 1点においては一枚岩を保っていたが,他方で内部に大きな意見の対立を抱
え込んでいた。大戦期に浮上した喫緊の課題として,
「必須工業」
(essential
industries)保護の問題がある。必須工業とは,それ自体小規模な工業である
が,重要な他の工業にとってその供給が必要不可欠であり,戦前には大部
ド
イツからの輸入・供給に依存してきたものと定義され,染料・磁石・光学ガラ
ス・亜
・タングステンといった工業が該当した。大戦という事態の緊急性に
鑑みれば,政府がそれらに対して何かしらの援助を与えることはもはや当然の
ことと見なされていたため,問題の焦点はそれらを保護する方法如何にあっ
た。商務省大臣方のランシマンは,これらの必須工業といえども関税政策に
よって保護することには明確 に 反 対 だった 一 方 で,商 務 省 通 商 局 ア シュリ
(Ashley)を中心とする事務方の官僚は少なくとも 1916年の春には,必須工業
に対して関税政策を行 することを厭わないという方針を打ち出していたので
ある 。
1916年 6月にパリで開催された「連合国経済会議」(Economic Conference
of the Allies)には,イギリス・フランスを始め,ロシア・イタリア・ベル
ギー・セルビア・ポルトガル・日本の合計 8ケ国が参加した。会議では(A)
大戦期・
(B)戦後の過渡期・(C)それ以降,という 3つの時期区
に従って
連合国間の経済協力問題が議論され,最終的には決議(パリ決議)が取りまと
められたが,フランスとの事前
渉において周到な根回しを行ったイギリスの
優位はもはや動かなかった。
(A)の議論とは異なりポレミカルな議題が多数
(175)
含まれていた(B)の議論においてイギリスは,
「対連合国と対中立国との
易条件は平等に扱われる」という自らの原則を押し通したのみならず,敵国で
あったドイツに対する差別的貿易の適用期間についてもできる限り短くするこ
とを目論み,戦前ドイツとの貿易に大きく依存していた農業国ロシア・イタリ
アもこれに同調した。このため,ドイツ抜きでの経済ブロック形成を目論むク
レマンテル構想の敗北は決定的であった。
(C)の議論において中心を占めたの
は必須工業保護の問題であったが,クレマンテルにたいした収穫はなかった。
イギリスはすでにこの頃,必須工業保護に関する大臣方と事務方の主張を折衷
させて,関税政策を含む様々な選択肢,たとえば国営企業化や補助金
付と
いった政策手段によっても必須工業を保護する,という現実的な方針を打ち出
しており,会議ではこの主張に
って各国に政策的な裁量権を認める,すなわ
ち各国は関税政策を採用してもよいし,採用しなくてもよいという決議が採択
されたのである。後日イギリス商務省は次のように回想している。「連合国経
済会議は,関税による連合国間の特恵について何も規定しなかった」と 。
Ⅱ 帝国との関係
1916年前半期,イギリス国内では連合国との経済協力問題と並び,帝国と
の経済協力問題に関する議論も進行していた。すでに同年 3月には,戦後の通
商政策を議論する政府委員会の設置が
表され,連合国経済会議後の 7月に
は,統一党(保守党)自由貿易主義者であるバルフォア卿(Lord Balfour of
(戦後の)商工業政策に関する委員会」,通称バル
Burleigh)を委員長とする「
フォア委員会が正式に任命された。バルフォア委員会には,企業経営者・労働
者・弁護士・学者・国会議員といった各界代表者が委員として参画しただけで
はなく,自由貿易主義者と関税改革主義者が一致団結して混成部隊を構成し,
大戦によってもたらされた状況の変化に即して,新しい合意事項を形成すると
の期待が込められていた。委員の中には,チェンバレンとともに関税改革運動
を先導してきた,ヒューインズ(Hewins)のような人物が含まれていたため,
関税改革主義者がこの委員会を,帝国関税同盟形成に向けて世論を扇動するた
(176)
めの,プロパガンダ機関として位置づける可能性もあった 。
バルフォア委員会では最初の数ヶ月,パリ決議(B)に由来する過渡期の政
策が議論されたが,委員会の風向きが変わったのは,その議論が一段落した
1916年 11月のことであった。このとき,議論が遅々として進まないことに痺
れを切らしたヒューインズが突如,関税や帝国の問題に対して政府が関与を強
めるように勧告するとの決議を提案したのである。このとき彼は,他の委員か
らその決議への支持を取り付けることには失敗したが,どうやら委員会の議論
の舵を切ることには成功したようである。委員会は翌月バルフォア委員長の提
案により,
「将来の通商政策の一般的(恒久的)な問題」に関する議論を始め
ることを確認し,彼自らが議論のたたき台となる「明確な提案」を次回委員会
において提示することになった。この提案の存在こそが,委員会におけるその
後の議論の行く末に大きな影響を及ぼすことになったのである 。
多少の推論を
えて述べることが許されるならば,この提案作成の背後には
商務省の存在があったと言ってよい。実はバルフォアは,提案の計画を
表す
る前日,委員会の書記からある「秘密の覚書」を受け取っていた。その内容の
骨子は次の 2点に集約される。第 1に,ある工業を保護するための関税は,他
の工業に対して影響を及ぼす。第2に,帝国特恵関税は,輸入食糧に対する新
たな関税の導入を必然的に伴うため,連合国および中立国,あるいは国内農業
利害との関係に影響を及ぼす。前者は,イギリスにとって決定的に重要なのは
輸出工業の利害であることを強調し,関税が原材料コストを押し上げる要因と
なり,輸出工業の競争力を阻害することがないように注意を喚起している。た
とえば,
舶という最終製品を製造する造
業に対して鋼材などの原材料を供
給する立場である,鉄鋼業を保護するような場合である。後者は,イギリス本
国と植民地との産業構造の違いを前提とするならば,イギリスが特恵関税を導
入して帝国関税同盟を形成するためには,国の内外を問わず様々な利害との軋
轢を招く可能性が高い,食糧関税の新規導入が必須となるということに注意を
促している。この覚書自体は,当時バルフォア委員会書記を務めていた,商務
省通商局官僚アシュリの手によって書かれた可能性が高く,また彼自身が,商
(177)
務省における「反クレマンテル」勢力の中心人物だったことを合わせて
慮す
るならば,まさに商務省はバルフォア委員会に対して,「反経済ブロック=反
関税同盟」という自らの
えを浸透させるための絶好のチャネルを手に入れて
いたことになる 。
1917年 1月の委員会においてバルフォアが提示した「明確な提案」とは,
まさにこの覚書の内容を踏襲したものであった。委員会が,目前に迫っている
帝国会議開催に鑑みて「帝国特恵」問題の議論を優先させる決定を下した後,
彼は関税政策の必要性に疑問を呈して,まさにその覚書の申し子であるかのよ
うなある決議を提案したからである。この決議の中で彼は,関税は帝国諸国で
はなく自
自身の必要性のために導入されるべきであり,帝国特恵が導入され
る場合には非関税手段−たとえば,
通・通信の安価・迅速な手段,港湾の改
善,帝国全体の資源開発−によって実行されるべきだと主張した。彼は国内で
食糧関税批判が根強いことを見越した上で,
「経済ブロック=関税同盟」形成
には帰結しない帝国特恵の方法を編み出し,その方法によって帝国間の経済的
紐帯を強めることを目論んだのである。関税改革主義者は,帝国特恵関税をな
いがしろにしたその決議に激怒したものの,何人かの関税改革主義者を含む委
員会の大勢は,食糧関税を棚上げした帝国特恵関税を受け入れることには合意
したため,後日委員会は造
業利害を代表する委員ブース(Booth)が提案し
た決議を修正する形で,食糧以外を対象とする帝国特恵関税を許容し,関税を
いくつかある政策手段の中の 1つとして位置づけるという決議を採択した。こ
の結論は,関税政策を全く認めないというバルフォアの極端な提案よりは「中
道」に位置していたが,関税同盟の形成に必須な食糧関税を退けたのみなら
ず,関税政策自体を相対化するに至ったという点で,事実上関税改革主義者に
引導を渡し,商務省に軍配を上げたものであった。この後関税政策問題におけ
る議論の焦点は,食糧関税から工業製品関税へと移ることになる 。
このように国内で取り決められた合意内容は,1917年 4月,戦時帝国閣議
(Imperial War Cabinet)の場に持ち込まれることになった。この会議にはイ
ギリス本国を始め,当時国内の政治問題で身動きがとれなかったオーストラリ
(178)
アを除く各自治領とインドの代表が参加したが,その中ではニュージーランド
首相マッシー(M assey)が 1人気を吐いて熱心に帝国関税同盟の形成を主張
し,会議にある決議を上程するに至った。しかし,彼の行動に対する他国の反
応は残念ながら芳しくなかった。カナダ首相ボーデン(Borden)は,イギリ
ス国内で食糧関税に対する合意がないことを盾に取り,「大西洋横断の
舶輸
送費による帝国特恵」を提案し,
「特恵関税による帝国特恵」という議論自体
を葬り去ろうとした。非関税手段による帝国特恵に注目するという点では,彼
の議論はバルフォアの議論と同根である。さらに,イギリス 首 相 ロ イ ド =
ジョージ(Lloyd George)は ボーデ ン の 主 張 に 完 全 に 同 調 し た 上 で,マッ
シーが提案した決議から「それぞれの関税によって」という文言の削除を求め
た。最終的に戦時帝国閣議は,南アフリカ代表スマッツ(Smuts)の提案を受
け入れる形で,各国が特恵原理を認めた上で,そのための具体的な政策につい
ては自己裁量に任せられるということで決着した。すなわち採択された決議で
は,各国は特恵原理さえ遵守すれば,あとは強いて関税政策を採用しなくても
よいということが示唆されているのであり,イギリス帝国はまさに,帝国特恵
関税の全面的導入の拒否を合意することによって,
「反経済ブロック=反関税
同盟」という方針を決定したことになる 。
Ⅲ
政府の決定
このように,今やクレマンテル流の経済ブロック=関税同盟の構想は,連合
国内のみならずイギリス帝国内においても支持され得ないことが明らかになっ
た。イギリス政府に残された,関税同盟問題にかかわる最後の仕事とは,食糧
関税以外の関税,特に工業製品に対する関税をどう扱うかということであっ
た。ここでは再度バルフォア委員会が議論の舞台となったのである。
一般的に言って,大戦期に保護の対象として議論された工業は 2種類ある。
第 1は前述した「必須工業」であり,これについては連合国経済会議=パリ決
議において対応策が示されていた。この決議を受けてバルフォア委員会はすで
に,保護する工業を指定し援助を与える「特別工業庁」
(Special Industries
(179)
Board)の設立を勧告していたのである。必須工業のカテゴリーに
類される
工業の多くが,ドイツに依存してしまっている状況が明らかになった今となっ
てみれば,もはやそのような工業に対して国家が,関税を含む様々な手段に
よって救いの手を差し出すことに異論はなかった。議論の焦点はまさに,
「基
軸工業」
(staple industries)と
類される第 2の工業の方に存在した。基軸工
業とは 19世紀を通じてイギリス経済を先導し,これからも重要であり続ける
と期待される工業であって,繊維・石炭・造
・鉄および鉄鋼・機械といった
工業を指していた。バルフォア委員会では 1917年後半期以降,自由貿易主義
者と関税改革主義者との間で,これらの工業についてどの程度保護の対象にす
るのかということについて激しい議論となったのである 。
自由貿易主義者からすると,最も重要なこととは,イギリスが世界市場で輸
出競争力を維持するために,最も安価な工業原材料を手に入れられるというこ
とであった。彼らはそのためには,たとえ敵国であろうともドイツとの貿易に
もためらうことはなかった。彼らは,工業原材料のコストを必然的に上昇させ
る関税によらない手段によって,工業を活性化すべきだと信じていた。他方で
関税改革主義者からすると,まさに関税こそが,国内市場を保護し,工業に蔓
する不安感を取り除き,投資や企業の組織化を促進し,帝国特恵を実現して
くれるものであった。彼らにとってみれば,関税とはまさに全ての工業・帝国
問題を解決してくれる「魔法の杖」であり,全輸入工業製品に対して一律に導
入されるべき措置であった。興味深いのは,委員会において関税に対する支持
が思いの外多く,一部の自由貿易主義者・法律家・学者といった面々が擁護に
回ったという点である。しかし,彼らが関税政策を支持したのは,関税改革主
義者の目標である関税同盟の形成に共感したからではなく,それが工業の安心
感につながり,外国との通商
渉の道具となり,歳入の拡大をもたらすからで
あった。換言すると彼らは,関税が持つ実践的な機能面に注目したからこそそ
れへの支持を表明したのであって,決して関税改革主義者の主張に取り込まれ
たわけではなかった 。
委員会内部におけるこのような対立に直面した委員長バルフォアは,またし
(180)
ても「秘密の覚書」を引き合いに出すことによって事態の収拾を図ることに
なった。彼によると,イギリスにとって重要な工業とは鉄・鉄鋼業ではなく,
造
業に代表される輸出志向の工業であった。さらに,それらが繁栄するため
には関税などの保護政策によるのではなく,何よりも原材料が安価で入手でき
るということこそ必要であった。そのため彼は,全輸入工業製品に対して一律
の関税導入を求める関税改革主義者の主張を退けた上で,基軸工業に対する関
税導入可否の決定権限を持つ「ある独立組織」の設立を提案した。これはまさ
に,関税によって保護されるべき基軸工業の種類を極力
り込み,輸出工業に
とっての原材料コストを極力押さえ込もうとする「選択的関税政策」
(selective tariff policy)の導入を意味していたと言える。バルフォアによるこの提
案は最終的に,委員会内部における多数派の支持を得ることに成功し,政府に
提出される最終報告書にその旨明記されることになった。このように,イギリ
ス政府に強い影響力を持ったバルフォア委員会の結論とは,
「覚書」の存在を
通じて商務省の影響を強く受けたバルフォアの意見がまさに反映され,事実上
関税同盟の構想や,それと親和的なクレマンテルの構想を退ける内容となって
いたのである 。
おわりに
イギリスにとって第 1次世界大戦とは,19世紀を通じて国是となっていた
自由貿易政策や「中心的・単一的な貿易国家」政策からの決別を意味し,以前
は異端に過ぎなかった関税改革主義者の主張に光を当てる役割を果たした。し
かしその決別とは実際のところ,事実上見せかけの現象に過ぎなかった。本稿
が検証したように大戦期のイギリスでは,連合国および帝国との会議の場にお
いて,あるいは帝国問題と密接な関係を有する政府委員会の場において,クレ
マンテル流の経済ブロック構想や関税同盟構想を徹頭徹尾退ける,商務省の思
想が根強い影響力を持っていた。商務省や,その意向を汲んだ政府委員会で
は,必須工業の保護政策や基軸工業に関する選択的関税政策の実行が決定され
たが,これらは大戦期における経験を踏まえた極めて現実的な対応策であり,
(181)
たとえ関税政策を含んでいるとしても決して彼らの思想と根本的に矛盾する措
置ではなかった。イギリスは第 1次世界大戦期においても 19世紀と同様に,
式の帝国とそれ以外の国との違いを問わず,それらの国々から自らが等距離
に位置する「中心的・単一的な貿易国家」であり続けようとしていたのであっ
て,経済ブロック化によって世界経済からの隔離を目指していたわけではな
い。すなわちイギリスは,20世紀においても「自由貿易帝国主義」を志向し
ていたのである。
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History, vol.35, no.3, 2006, p.618.
秋富創「現代イギリス関税政策の形成と発展」廣田功編著『現代ヨーロッパの社
会経済政策』日本経済評論社,2006年,第 1章,11-12頁。
Akitomi, op. cit., p.618.
秋富創「第 1次世界大戦期における連合国・帝国会議とイギリスの通商政策構
想」『社会経済 学』第 69巻第1号,2003年,73-81頁。
同論文,77-78頁。
(182)
同論文,78-81頁;Akitomi, op. cit., pp.625-627.
Ibid., pp.627-628.
Ibid., pp.628-629.
Ibid., pp.629-630.
Ibid., pp.630-633.
秋富,前掲論文,86-89頁。
Akitomi, op. cit., p.638.
Ibid., pp.638-639.
Ibid., pp.639-641. 終戦直後の 1918年 12月に行われた 選挙では,バルフォア
委員会の勧告に った政策が選挙 約として取り上げられた。秋富「現代イギリ
ス」18頁。
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