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神保町と読書の記憶

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神保町と読書の記憶
小特集本の街・神保町で考える
神保町と読書の記憶
一一読むことの物質性/身体性 (
p
h
y
s
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c
a
l
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t
y
)
伊藤氏貴*
2
0
1
3年 1
0月 5日(土)
リパティアカデミ一公開講座講義録
全体のタイトルは「神保町と近代出版 1
0
0年」ということですが、私は
出版の現場にいるわけではありませんで、出版物を「読む」ということを
仕事としています。自分として文芸評論ということも一方でやっているの
ですけれども、それよりも、いま若者に本を読ませることも自分の一つの
仕事と考えています。ほんとうにこのままではまずいなと、日々感じてお
ります。
我々の頃は、本を「読んでない」ということは恥ずかしいことだったの
ですけれども、いまの学生は全然さらっと「読んでない」と言うんですね。
まずゼミの自己紹介のときに「自分はあまり本を読まないから J と言うん
です。ここは文学部なのに、何をしに来たんだろう(笑)。最近の若者は謙
虚なのでそういうふうに言うのかと思って話をしでいきますと、本当に読
んでないので、びっくりするんです。じゃ何をやっているのかということ
ですけれども、ゲームのようなことが多いのでしょうか。あるいはインター
*いとう・うじたか/明治大学文学部准教授
29
ネットですね。
ただし、目にしている文字の数で言うと、実は自分が学生だったときよ
りも、むしろ増えているんです。少なくとも「書く」ということは以前よ
り増えているのです。
私は以前、高校の英語教員を Lていたのですけれども、当時思っていた
のは、高校生が書〈日本語は何かと英語の翻訳ぽ〈なって Lまうんです。
なぜかと言うと、彼らが 1日のうち、 1年のうちで一番文章を書く機会が多
いのは、英語の教科書を日本語に訳すことなんですね。自分で日本語で書
こうとしても、主語がやたらに多い日本語らしからぬ日本語になっていた
のです。
ですが、いまの学生はそんなことな〈て、結構こなれた日本語を書くの
です。なぜだろうと思ったら、インターネットが出てきて、プログである
とか、メールであるとか、いまはツイッターとかフェイスプックとか、そ
ういうところで自分の言葉を自然に書〈機会が非常に増えているからです
ね。彼らは量という面から言えば書いてはいるのです。
『読む」ほうはというと、文字は確かに読んでいるのかもしれませんが、
例えば自分たちで書くフェイスプックとかメールとかをお互いで読むわけ
ですから、読む機会のほとんどがそういう類いのものになって〈る。本や
雑誌ではなくて、ネットで、いまの学生はスマホで字は確かに量は読んで
いる。情報は得ている。しかし、そのことが本当に彼らの中で経験として
蓄積されているのだろうかということです。
『読む」というのは、ただ情報をとりいれるということではなくて、自分
の中に取り込んで、経験となって積もってい〈ことだろうと思いますが、
そういう自分の中に層を重ねていくような読書が、これから果たして可能
かということを常々考えております。
そのことと神保町がどう関係するのかということです。多少無理がある
と思いつつ、そのことをお話しできればと思っています。
さて今日のタイトルは、『神保町と読書の記憶一一読むことの物質性/身
体性 (
p
b
y
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i
個目t
y}jと、あまり聞き慣れない英語をそこに置いてあります。
要は、電子書籍みたいなものが普及していく。これは間違いなくそうなる
だろうとは思います。そのことによって「読む J という経験がどう変わっ
30
ていくのかということです。あるいは街に出るということと、読書という
のに、どういう関係性があるのかということを、少し考えたいと思ってお
ります。
神保町は、書底街として非常に有名なところで、世界最大の書庖街だと
思います。ロンドンに行ったりしても、書庖衝はありますけど、規模はこ
ちらのほうが断然大きい。「出版」ということに関して、あるいは売る『書庖」
としては世界最大なんですが、さてでは『書く』とか『読む」ということ
に関して、神保町という街がどう関係するのかということをお話しできれ
ばと思います。
1 書くことの p
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t
y
-筆記具の歴史:粘土板、石板、紙、タイプ、ワープロ
概論というか一般論から入りますが、「書く」ということが、どういうふ
うにいままで変化してきたのかということを、少しだけご一緒に見てみま
しょう。
筆記具の歴史を見ると、ごく初期の『書<J 行為は、粘土振に模形文字
を押したりとか、石板を彫ったりとかするわけです。それがもう少し便利
になりますと、木とか、竹とか、あるいは紙になって、紙に書いていたの
がタイプになって、ワープロになります。いまは多くの場合では、私も実
際原稿を書〈ときはパソコンで打っています。それを、ちょっと前までは、
プリントアウトしてファックスで送ってみたいなことをしていましたけれ
ども、いまは出版社とのやりとりもメールで送る。ゲラも、ついこの前ま
ではファックスで来ていたのですけど、最近は PDFというので来るのです。
そうすると、一切紙を使わないということになります。
ではそれによって何か変わるのか。未だに文字を使っていますし、内容
がそれによって変わるということは、あまりないかもしれません。でも、
実はその中から、だんだん身体性 (
p
h
y
s
i
c
a
l
i
t
y)というものが失われつつあ
るのではないかということです。粘土板に押しつけていくとか、石板を彫
るというのは、なかなか大変な作業だと思います。紙に書しこれは後で
3
1
も言いますけど、紙に書くとやり直せないですね。万年筆で書いたら、消
せばいいのですけど、消した跡が残りますよね。でも、パソコンで打った
ものは、いくらでも痕跡を残すことなく後から直せます。
•r
書 {J にまつわる語 :wri
t
e
,
配r
i
b
e
,
町r
i
r
e毎「掻 {J
倒えば『書く』という言葉は、英語で w
r
i
t
eという言葉があります。あ
るいは s
c
r
i
b
eという言葉があります。この w
rというのは、本来はいまの
w
r
i
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eというよりものすごく強い音でした。ちょっと汚いのですが「クワツ」
c
r
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b
eというのもすごい硬い音です。 s
c
r
iという音が
という音がしていた。 s
) ここの音です。「クツ」という音で
あります。そこにフランス語(氏自e
すけれども、こういう音が入ります。日本語の「かく Jもカ行ですね。「カツ」
という音です。だから、モノとモノがぶつかるというか、引っ掻しこの
音がいろんな言語において「かく」という言葉の語源になっているという
ことです。粘土板なり、石板なりにキズをつけて彫り込んでいくような、
それが「か<J というものの原初的な営みであった。書くことの物理性の
中に自分の身体性みたいなものが現れるわけです。
例えば「かく」ということを漢字で考えちゃうとついついわからなくなっ
ちゃうのですが、「か<J という一つの大和言葉に中国語の「書」を当てた
場合と、「掻」を当てた場合とがあるということ。つまり、漢字が入って〈
る前の日本人は『書く」と「掻く」は同じだったわけです。
これはよくいろんなことにあって、我々の
r.J
と植物の
r
花」は同じ
語源です。漢字が入ってくる前は一緒なんです。植物でも人聞の顔ですね。
「芽」があって、「花」があって、「葉」がありますね。これは漢字で書いちゃ
うと全〈関係ないような印象がありますけれども、本来大和言葉では「め」
も「はな Jも「は Jも同じイメージであったわけです。たぶん何かに出てきて、
端っこに付いているものを『め」と呼んだり「はな J と呼んだり。この「端
(はな )Jも一緒ですね。『出端(でぱな}jとか「初端(しょっぱな}jの「はな J
と言いますけど、これも出っ張ったところという意味です。漢字にしてし
まうとわからないところがありますが、もとの一番本来的な部分に帰ると、
我々がいま「かく」という言葉が、やはり音からしでも、引っ掻くに近い
ような、強い身体性を持った言葉だったということがわかります。
32
しかし、これがだんだん「掻く」強さみたいなものがなくなって、表面
的になっていくわけです。もう彫り込まなくてもいい。紙の上をなでるだ
けでいい。鉛筆はまだ跡が付きます。昔は活字の印刷だったので、触ると
窪みがわかりま Lたけれども、いまは本を触っても窪まないですね。
-奥行きの喪失=歴史、不可逆性の喪失
それによって何が変わったのか、彫り込んでい〈ことから文字の痕跡が
次第に浅くなっていくことで何が変わったのか。
マクルーハンという人は『奥行きの喪失 J ということを言います。有名
な言葉「メディアはメッセージである」。これはどういうことか。メディア
は何を使って伝えるか。その伝えるものですね。口で伝えるのか、本で伝
えるのか。手紙で伝えるのか、メールで伝えるのか。その伝える媒体によっ
て中身も変わるのだということを意味しています。メディアによってメッ
セージの中身も変わる。メディア自体が 1つのメッセージなんだと。極端
な話をしますと、同じニュースでも、新聞で見るのと、テレビで見るのと
では、中身が変わってくるのだということです。テレビの伝え方と新聞の
伝え方は遣いますよね。限られた時間の中で伝えるテレビと、何度も読み
返せる新聞とで、伝え方が変わってきます。あるいは新聞と書物でも遣い
ます。背表紙のある書物の場合は何度も繰り返して読みます。新聞は何度
も読む人はいないと思います。その日に読んで捨てていく。要するに、メディ
アによって伝える中身も変わってくるというのが『メディアはメッセージ
である」ということです。となれば、我々が、本で読むのか電子書籍で読
むのかによって、実はそこに違いが出てくるはずだということになります。
マクルーハンのこの「メディアはメッセージである」という言葉は世界
的に有名になるのですが、彼はその後、自分でその言葉をもじって r
メディ
アはマッサージである」とも言いました。いまは情報が多すぎて、メディ
アが伝えるものが我々の中まで入り込まないで身体の表面を軽〈流れてい
るだけだと。心地よいシャワーのお湯みたいに、決して我々の中には入ら
ないで、表面を流れていくだけだという意味で r
マッサージ J という言葉
書 <J ことの物質性の変遷と対応し
を使っています。先ほど申しました、 r
ていることがわかります。
3
3
初めの話に戻りますけれども、文字に触れる機会自体は我々の聞で増え
ていっていると思います。ついこの前、小林秀雄の『読書について』とい
う本が文書春秋から出ました。その後書きに木田元さんという哲学者が書
いていましたけれども、自分が若いときにドストエフスキーを読みたかっ
た。でも本が手に入らなくて、図書館に行っても、近くの本屋に行っても
な〈て、持っている人を訪ね歩いても、『罪と罰』の上・中・下の『中」だ
けがどうしても見つからない。その『中」をいろんなところを探し歩いて、
やっと「中」を見つけたときの喜びというのを語っていました。これは身
体性を伴った読書体験です。けれども、もう我々はどこでも文字が手に入
るわけです。文字に飢えるということはないと思いますが、その分浅くなっ
てしまっていないだろうかということです。
原研哉という建築家に、『白』といういいエッセイがあります。我々が持っ
ていた文化は『白」の文化だというのです。それはどういうことか。この r
白
』
というのは『白紙』のことです。書道を思っていただければわかりやすい
と思うのですが、白紙にものを書〈ときの緊張感。いまから白紙にものを
書くというときに、一点間違えたら、あるいはうまくいかなかったら、最
初からやり直し。その紙全部が無駄になる。しかしいまはワープロで、何
度でもやり直しができる。そうすると、書く側も、『後でやり直せばいいや」
という意識のもとに書〈ようになるのじゃないかということです。
紙に手で書いていたときの時代、例えば作家になりたいという人は、尊
敬する作家の生原稿を見に行くのです。なぜかというと、その作家はどう
いうふうに書き直したかということが、その原稿用紙の上にあらわれてい
るので、執筆しているときの作家の頭の中がわかるわけです。でも、いま
の作家たちはみんなおそらくワープロで書いていると思いますので、そう
すると書き直しの跡とかもわからない。
『文事界』という文襲春秋の出している雑誌がありますけれども、その新
人賞を護った人というのは、必ずその原稿用紙の初めの 1ページ・ 2ページ
を、文書春秋に寄付するという決まりがあるそうですけれども、いまはみ
んな原稿用紙に書いてないので、新人賞を取った人は、自分の原稿の 1ペー
ジ・ 2ページだけをわざわざ原稿用紙に書いて、それで文事春秋に寄付して
いるそうです。いつまで続くでしょうか。
34
原研哉が言っていますが、ネット上の文字というものは、永遠に書き替
え続けられるということなんですね。これは出版ではない。一番わかりや
すいのがウィキペディアというインターネット上の百科事典でしょう。百
科事典といえば平凡社だ、プリタニカだと、かつては読まないけれども、
とりあえず自分のうちがどれだけ教養があるかを示すためだけに、百科事
典や文学全集が応接間に置いてありましたけれども、あれは紙ですから、 1
回つ〈ってしまうと、また情報が変わったときには改訂ということがなさ
れるわけです。でも、改訂は大変なので、できるだけしないで済むように、
そのとき最善のものをつくるわけですが、ウィキペディアだといつでも直
せるわけですから、誰かが気づいたら直せばいいということなので、不可
逆性、 1回ゃったら変えられないのだという覚情とかそういうものが、「書く」
という営みから失われているのではないかということです。これが現代の
状況だと思います。ここでいう「書く」ことの身体性 (
p
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y
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i
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i
t
y)という
のは、
q回ゃったら取り戻せない J という不可逆性のことです。
では、「書く」ことがこういうふうに変わっていったときに、「読む J こ
とはどう変わるかということですが、そこへ行く前に、街からも身体性と
いうものが失われつつあるのではないかということを考えなければならな
いと思います。
2 街の p
h
y
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I
i
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y
1)東京という都市を読む
ロラン・バルトというフランスの文芸評論家に『表象の帝国』という本
があります。翻訳によっては『記号の帝国』となっているのもありますが、
これは日本に滞在したときの印象をもとにして書かれた「日本論」です。
ちょっとしか日本にいなかったわりには、なかなか深いことを言っていて、
いまでも読まれている本です。
東京というのは不思議な街だというのです。ほかにヨーロッパのどの衝
とも遣う。真ん中にポッカリ穴があいている。普通、衝というものは中心
が一番密度が高いのに、東京というのは真逆で、中心が一番空虚である。
皇居のことなんですけどね。一番いい土地に緑があれだけ溢れている。パ
3
5
ルトはフランス人ですから、パリとは逆だ、と。
街ごとの特性というのがあったわけです。パリならパリ、ロンドンなら
ロンドン、東京なら東京。でも、これはよく言われていることですが、現
在は全ての衝がアメリカ化しているということです。
弘も、そんなにヨーロッパに何度も行っているわけではないのですが、
いま仮にこの建物を出たときに突然目隠しされて控致されてヨーロッパの
どこかの衝に連れていかれて、そこ急に解放されたとすると、ここはロー
マだとか、ここはパリだということが、たぶんすぐわかると思うのです.ロー
マと、パリと、プラハと、ウィーンとで、全然街並みが遣いますから、一
瞬にしてここはどこだとわかる.でも、アメリカはちょっとわからないと
思います。そして、どこに行ってもマクドナルドとスターパックスがある
ようになって、さらにわかりにくくなってきているわけです。衝が持って
いる個性というものがなくなりつつある.これはガートルード・スタイン
という女性がアメリカに行ったときに、『アメリカにはソコがない』という
言い方を Lます.ソコというのは也e
r
eです.そこに Lかない土地の風景と
いうか、街固有の風景みたいなものがないということを言いましたげれど
も、実はアメリカだけではな〈て、日本もどんどんそうなっている.アメ
リカ的なものがどんどん入ってきて、たとえば浦安のほうにアメリカの遊
園地みたいなところからだんだんネズミが漫食して今度はランドだけでは
なくてシーとか言って、どんどん領土を拡張しています。
明治の学生を見ていて悲しいのは、何でこんな個性をもった衝にいるの
に、それを活かさないのかということです.弘が中学生・高校生のときから、
わざわざ電車で通ってきて歩き回っていた場所が目の前にあるのです。知
らないんですね.本屋がいっぱいあるということを。それが貰きです.こ
こよりは浦安の地理のほうが詳しいのです{笑)
0 どこにどういう個性を持っ
た本屋があるのか知らない.本は買うとしてもAmazonで済ませる.歩い
て本屋巡りをするという身体的経験を持たない.神保町駅とキャンパスの
直緯距躍しか知らない.ネズミの固なら何がどこにあるか全部知っている
というのに。
衝の持つ個性というものは守ろうとしないと失われてしまう。陣内秀信
さんという建築が専門の方は、『東京の空間人類学』という本の中で、東京
36
というのがどのように特異な衝であるのかということを語っています。江
戸の部分と、明治の部分と、大正・昭和の部分とあるわけですけれども、
この本によると、実は江戸から明治にかけての東京、江戸から東京という
のは、そんなに大き〈変わらなかったのだというのです。つまり、我々の
イメージだと、明治時代になって近代化になって急に r
江戸』という都市
が『東京」という都市に樺変わり Lたというふうに思いがちですけれども、
実は江戸から東京というのは非常に緩やかだったといいます.なぜならば、
道路などはほとんど変わらなくて、それぞれの人が自分の敷地の中で何か
新しい洋館を建てるとか、家のつ〈りが洋風になるとかはあっても、街並
みそのものはあまり変わらなかったというのです。大き〈変わったのは、
江戸時代の明暦の大火、いわゆる r
振袖火事」ですね。江戸のほとんどが
焼けてしまった。あのとき土地の整備がなされて、あとは関東大震災と空
襲のときに、かなり変わったけれど、維新で大き〈変わったわけではない。
ただ、この人が危慎 Lているのが、現在はどこもか Lこも似たようなピ
ルだらけになって、そんなピルをいっぱい建てちゃって……ということで
0年前に御茶ノ水で降りて、坂を下っていったときには、
す。ここは私が 3
右側に趣のある建物と、温度 Lい立て看板と、それで衝の個性をつ〈ってい
たんですけれども、残念ながらこの辺りは、どこぞの大学がこんなものを
建ててしまったせいで個性がな〈なりつつあります。そこに勤める身でな
にをいう資格もありませんが、まだ神保町のところは古い古書盾衝で個性
が残っているので、こちらはぜひ残していただきたいなと思います。自分
にとって神保町は本ばかり読んで過ごした青春の街、しかし本屋を冷やか
しては、高〈て買えずに悔し涙でとぼとぼ帰った衝であります。
2
) 神保町という衝を読む
神保町というとどういう個性があるのか。一つはカレー屋さんが多いと
いうことです(笑)。これは都市伝説ですけれども、何でカレー屋が多いか。
信憲性はないのですが、本屋で本を買って、すぐ読みたい.ご飯をちょっ
と食べていこうというときに、カレーだと片手で食べられますよね。ほか
にそういう食べ物はあまりないですよね。そばとかラーメンだとはねちゃ
うし、それでカレー屋が多いのだと。
37
あと、神保町になぜ衝の個性が残っているのかということに関しては、
これも本当は信湿性はあまり高くないのかもしれませんが、司馬遼太郎が
r
街道をゆく』という本の中で、このように説明しています。戦前に、日本
に留学していたロシア人の学生がいて、エリセーエフというこの人は日本
英利世夫」と護字をつ〈る
びいきで、自分の名前も漢字を当てて(板書) r
んです。それぐらい日本を愛していました.日本にいるとき夏目撤石のと
ころに出入りしたりして、撤石の日記にも出てきます。戦争当時はハーバー
ドの教授になっていたようですげれども、ここだけは焼かないでほしいと
いうことを政府に進言して、それで神保町は焼けずに残ったという。そう
いう説もあります。残るべくして残ったのか傭俸によって残ったのかとい
うことは、わかりかねますけれども、おかげでここは昔ながらの街並みを
残す。
3
) 文学の中の空闘を読む
衝に特徴があるということと、読書が、あるいは書物が、どういう関係
があるのかということです。 lつの関係は、文学の中に衝が出てくるという
ことです。『文学散歩』という言葉がありますけれども、何で文学散歩をす
るのか。あるいは地方に行〈と文学館というのがあります。文学館も今後
はどうなってい〈か心配でなりません。たとえば地方に行〈と、私以外誰
もお客さんがいない。館員が 3人で、 3人して私ひとりを案内して〈れる。
大丈夫だろうかと思うのですけれども、文学館が意味があったのは、まず
その土地が描かれるということと、そこの土地で生まれ育った作家たちが
文学を書いてい〈といったときに、その中にその土地の記憶というものが
文学の中に繁栄されているのではないかということで、文学館というもの
が評価されているところはあると思うのです。このどちらも、文学の物理
性=身体性の問題です。
田愛{よしみ)の r
都市空間のなかの文学』
そういう点で一番有名なのカ噂S
です。これも非常に有名な本ですけれども、例えばベルリンという都市と『舞
姫』の太田豊太郎というのが、あそこの場所でなければ書けなかったのだ
ということです。あれがロンドンだと、また話が遣う。ベルリンという特
殊な都市の中で、あの物語がつくられていくのだということです。この本
3
8
以来一挙に「文学」と「街」との関係性というものを調べるというか、研
究する人が非常に増えてきたということになります。
さてでは、神保町に関して具体的にどういう文学があったかということ
を駆け足でご紹介したいと思います。
3 文学における神保町の記憶
制作家たちの記憶
まず、神保町が舞台になったというのではなれ神保町と実際かかわり
のあった作家たちについてです。鐸々たる人たちがいるわけです。
正岡子規。神保町のそばに大学予備門予科という帝国大学に入る前の官
立学校があって、この近くで正岡子規は野球を一生懸命ゃった。野球がお
好きな方はご寄じでしょうけれども、野球を日本に広めたのは正岡子規で
すよね。私は野球は全〈見ませんのでわかりませんけれども、『野球』とい
う名前を付けたのが正岡子規だ、というのはウソなんですけれども、 Lば
ら〈そういう伝説がありました。ペースポールを r
野球』と訳したのが正
岡子規だという.なぜならば、正岡子規は本名は升(のぼる)というので
すけど、 r
の(野)
Jr
ぽーる(琢)
Jで「野醸』になっている(笑)。まあこ
れは出来過ぎだという感じですけれどもね。でも野球が好きだったのは本
当です。結核になるまでは、この辺で野球をやっていたようです。
樋口一葉。私、樋口一葉が書いたものは全部読みましたけれども、神保
町そのものは出てきませんが、彼女は十代後半はこの辺で生活をしていた
ようです。いまも文房堂というのがあるのですけど、その裏あたりに住ん
でいたようです。
谷崎潤一郎というと、日本語蛎殻町が有名ですけれども、実は神保町に
少しの問、明治 4
3年からちょっと住んでいたらしいです。いまでいうプッ
クハウス神保町の辺りに住んでいたようです。
与謝野鉄幹・品子。この二人は住んでいたわけではな〈て、神保町とい
うよりも御茶ノ水に近いほうですが、文化学院というのがありますが、あ
れを創設したのが与謝野鉄幹・品子です。
小林秀雄は、生まれたのが神保町のそばでした。
39
江戸川乱歩は、ほんのちょっとここに住んだということもありますし、
すずらん通りにある天ぷら屋 (
r神田はちまき J
) に通ったようです。ここ
には井伏鱒二とか、吉川英治という人たちも集っていたようです。食通で
知られる池波正太郎が通ったのは、神保町というと広げすぎちゃいました
けど、もうちょっと神田の須田町とか、あっちのほうの有名な『まつや」
というおそば匡さんですとか、甘い物屋の『竹むら」とか、あそこも古い
建物がいっぱい残っているところです。
向田邦子は、神保町の有名な『柏水堂」という昔からあるお菓子屋さん
がひいきで、よ〈あそこのプードル型のケーキがお好みで、いらっしゃっ
ていたようです。
遠藤周作は、三省堂本底のすぐそばにある、いま『ミロンガ』という名
前になっていますが、そこの喫茶底をよく使っていたようです。当時は『ら
んぽお』という名前でした。
村上春樹もこの近〈の喫茶唐「スイング」でアルバイトをしていたそう
です。
村上砲も、ここの近〈にある美学校という美術の専門学校に通っていま
した。
もちろん本を買いに〈るというような意味では、いろんな作家が通った
と思いますが、もう少し深い付き合いで生活をしていたとか、そこに入り
浸っていたか、あるいはそこで働いていたという人たちが、結構いるのだ
ということです。
次からは、作品の中に神保町を登場させた作家たちです。
1)轟鴎外(1
862-1
抱2
)
『雁』の中に姐板輔が出てきます。
2
)夏目撤石 (
1
8
6
7-1
9
1
6
)
激石はこの辺ゆかりの漂い人で、明治大学のすぐ下のところの錦肇小学
吾
校、いまはお茶の水小学校と言いますカ章、そこの小学校に通っていた。 r
輩は描である
名前はまだ無い J の石碑がそこに建っています。撤石は明
治大学でも少し教えていま Lた.小林秀雄も少し教えていました.ニコラ
40
イ堂も、井上眼科病院も『それから』に出てきます。井上眼科病院は激石
が実際に通ったようです。眼科としては日本でかなり早い個人病院です。
松栄亭というのが須田町のほうにあって、よ〈激石が通って、いまでも撤
石のために考案 Lたという洋風かき揚げというのが有名です。まつやもそ
うです.
『門』には当時の神保町の様子が細かく描写されています。
『宗助は駿河台下で電車を降りた。(これは、いわゆるチンチン電車で
す。あそこがちょうど大きな交差点になっていて、あそこはよく乗り
換えで撤石自身も使ったようです) 降りるとすぐ右側の窓ガラスの中
に美しく並べてある洋書に眼がついた。{やっぱり本匡さんなんですね}
宗助はしばら〈その前に立って、赤や育や舗や模様の上に、あざや
かにたたき込んである金文字を眺めた.表題の意味はむろんわかるが、
手に取って、中を Lらべてみようという好奇心はちょっとも起こらな
かった.本屋の前を通ると、きっと中へはいって見た〈なったり、中
へはいると必ずなにか欲し〈なったりするのは、宗助から云うと、す
でに一昔まえの生活である o (逆に、一昔まえはそうだったということ
ですね.本屋の前を通ると、あの本が歓
L
<なるというこの気持ち、
ほんとによ〈わかります) た だ 阻S伽 yo
fGam
b
l
i
n
g (博実史)と云う
のが、ことさらに美装して、一番まん中に飾られてあったので、それ
がい〈ぶんか彼の頭にとっぴな新しい味を加えただけであった oJ
私が初めに申し上げたことをちょっと思い出していただきたいのですが、
本というものは、中身もあるのですけど、自に付くのは表紙なんですね.
本の装丁.中身より装丁に惹かれるということがあります.そういう読書
の入り方っていうものもあるのだろうと思うのです。内容だけであったら、
いまだったら r
青空文庫』ですとか、洋書のものだったら『プロジェクト・
グーテンペルク』を見ると、古いものが全部ただで読めるのです.でも、やっ
ぱり装丁の r
赤や育や舗や模様の上に、あざやかにたたき込んである金文字』
に、宗助はこのときちょっと暗い気持ちなので本に興味なくなっています
が、それでも美 Lい装丁のHis崎町 o
fGamb
l
i
n
g
、たぶん内容に全然興味な
4
1
いと思います。博打の歴史には興味ないと思いますが、それでも、この本
を見たいなと思うのだということです。
さらにこうあります。
「ふと気がついてみると角に大きな雑誌屋があって、その軒先には新刊
の書物が大きな字で広告してある。梯子のような細長い枠で紙を張っ
たり、ペンキ塗りの一枚板へ模様画みたような色彩を施したりしてあ
る。宗助はそれをいちいち読んだ。著者の名前も作物の名前も、一度
は新聞の広告で見たようでもあり、またまったく新奇のようでもあっ
た
。
」
ここに雑誌屋というのがあって、そこで文字に引かれている様子が非常
によくわかると思います。この前後も、ぜひあとでお読みいただくと、ちょ
うど百年ぐらい前の神保町を宗助という青年がどういう思いで去来してい
たのかということがわかります。それはやはり神保町という街でなければ
ならないのです。
『こころ』では、先生がプロポーズを、本人ではないですけど、本人のお
母さんに向かつて r
奥さん、お嬢さんを私にください J rよござんす。差し
上げましょう J e,ここは一番のクライマックスですね。この行為によっ
て友だちの K が自殺してしまうというきっかけをつくった、自分としては
思い切ったことをやった後ですが、そのあと「小石川の下宿を出て、水道
橋へ曲がり、猿楽町、神保町、小 1
1
1町 j と、この辺をうろうろするという
のが出てきます。
激石自身にとっても非常に近しい衝であったでしょうし、作品の中にこ
ういうふうに青年のさまよい歩く衝として出てくるわけです。迷ったとき
に、宗助もある意味迷っているわけですが、そこに本屋がいっぱい並んで
いる。そんな雰囲気の街だろうと思います。
あれが日本橋とかだったら、また遣う物語になっちゃうだろうと思うの
です。本に憧れる主人公がいて、そこにきれいに飾られた本があってという、
そこが物語と連動しているのではないか。衝の持つ記憶が文学の中に影響
を与えているというのでしょうか、そういう例だと思います。
42
3
)村上春樹 (
1
9
4
9-)
もうひとつ別の例ですが村上春樹です。皆さん、あまりお読みにならな
いかもしれませんが、 rノルウェイの森』という、初期の傑作とされている
作品です。「僕』というのが主人公で、『直子 J というのが同級生ですが、
その直子が自費する前に、散歩道の途中で神保町の三省堂があるところを
歩く。ここからかなりの距離を歩いています。四ッ谷、市ヶ谷、飯田橋、
靖国神社、本武道館前、九段下から神保町交差点へ行って、御茶ノ水へ行っ
て、それから東大前、駒込まで。非常に健脚ですね。(笑)轍石の時代なら
わかるんですが。でも、村上春樹ファンはこの道を今でも歩〈んですね。
ただ、ここで 1つ言いたいのは、村上春樹もこういうふうに土地の固有
名を出すというのはだんだんなくなるのです。今年ものすご〈売れた、『色
彩を持たない多崎つ〈ると、彼の巡礼の年』というのには名古屋が出てき
ます。しかし、名古屋が出て〈るのは、日本がトヨタの国であって、トヨ
タで名古屋というその連想だけであって、名古屋でなければという土地の
記憶というのはなくなるんですね。土地はたんなる記号でしかない。村上
春樹はどんどんどんどん、こういうふうに土地の記憶みたいなものをな〈
してい〈わけです。そこには 1つは彼の戦略があるのかもしれません。世
界じゅうの人が翻訳してもすぐわかるようにということで、風物を伴った
土地でなしトヨタの衝という記号を使う。あえてそういうふうに固有性
みたいなものをだんだん稀薄にしているのかもしれませんが、初期は違っ
た。自分がアルバイトをしてよ〈馴染んだ衝を主人公の内面とリンクさせ
て描いています。
4
) さだまさし(1952-)
『樺樺』
或る日湯島聖堂の白い石の階段に腰かけて
君は日溜まりの中へ盗んだ樺樺細い手でかざす
それを暫〈みつめた後で
きれいねと云った後で曙る
指のすきまから蒼い空に
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金糸雀色の風か舞う
喰ぺかけの樺様聖橋から放る(御茶ノ水の駅前ということになります
ね)
快速電車の赤い色がそれとすれ違う
川面に波紋の拡がり数えたあと
小さな溜息混じりに振り返り
捨て去る時には
こうして出来るだけ
遠くへ投げ上げるものよ
君はスクランプル交差点を斜めに渡り
乍ら不意に涙ぐんで
まるでこの町は青春達の姥捨山みたいだという(いつも学生に『君た
ちは青春の姥捨山で生活しているんだJ と言うんですけど)
ねェほらそこにもここにも
かつて使い棄てられた愛が落ちてる
時の流れという名の鳩が舞い下りて
それをついばんでいる
喰ぺかけの夢を聖橋から放る
各駅電車の樽樺色がそれをかみくだく
二人の渡紋の拡がり数えたあと
小さな溜息混じりに振り返り
消え去る時には
こうしてあっけなく
静かに堕ちてゆくものよ
これはこの場所でなければ書けないです。橋の下を川、水があって、電
車がそこを横切る。ものすごい複雑な地形をしているわけです。だから御
茶ノ水はなかなかエスカレーターを付けることができな〈て、エレベーター
工事もあと何年かかかるらしいですけど、非常に複雑な構造です。べつに私、
さだまさしが特に好きというわけではなく、梶井基次郎の『樽樺』を授業
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で扱っていたら、「先生、さだまさしの『樺様』というのがあるから、聞い
てみて」と学生が言ったので、ああこんなのあるのだと初めて知りました。
ちょうどこの衝が出てきますし、おそらくさだまさしは梶井の『樺標』を
踏まえていると思います。あるいは高村光太郎の『レモン哀歌』も意識さ
れているだろうと思いますし、レモンを投げるというのは、芥川龍之介の『蜜
柑』という短い小説があるのですが、これは汽車の中から蜜柑を投げると
いう、そういういろんな文学的な記憶が、この中に集積されている。もの
を書くという行為は、いままで読んだものを積み重ねていく作業なんだと
いうことを、このさだまさしの中に見ることができるのですけど、だんだ
んこういうイメージというのが、衝が持っている、場所が持っているイメー
ジというのが薄らいでいるのではないだろうか。
5
)三浦しをん (
1
9
7
6
)
最後に、三浦しをんという若い書き手ですが、映画にもなりましたけれ
ども r
舟を編む』。辞書をつ〈るという話で、辞書をつくるということに関
大渡海』という国語辞典を神保町の街で編集、出版する。その
する話で、 r
ときの地味な苦労が非常におもしろく書かれています.
さて、こういうふうに神保町あるいはその周辺は、いろんな文学作品の
舞台にもなっているわけですけれど、これがいつまで果たして続〈でしょ
うか。
4 読むことの p
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yと神保町
マクルーハンのところで少し考えましたが、同じ小説を電子書籍で読む
のと、背表紙付きの本で読むのとで、同じ情報でも読み手にとって何か変
わることがあるのでしょうか。、ある実験によると『ある」みたいなんです。
手でめくって読むほうが記憶が残るという実験があるのです。
私自身の経験からしても、本がどういう形だったかということが意外と
記憶を呼び起こすときに重要だったりするのです。大学院のときの友だち
で、本を買うと、すぐ箱とかカバーをその場で捨てるという友だちがいた
んです。本が増えすぎて少しでも厚みを減らしたい、とその場で捨てちゃう。
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ですが、そうすると本棚が真っ茶色なんです(笑)。逆に私は自分の本棚と
いうのは、本棚を見ただけで、背表紙を見ただけで、あって気がつくこと
とかがあるんですね。その本が文庫本だったのか、ハードカバーだったの
かということでも、多少印象が違うだろうと思うのです。それはなぜかと
いえば、どんなに情報化が進んで、あるいはデータ化が進んだとしても、我々
自身が身体をもっているかぎり、何かを受けとめるというときには必ず自
分の体と連動しているからだろうと思うのです。
もちろん、ある文学作品を理解するときには、その舞台となっ亀場所に
行かなければ、その作品がわからないかというと、そんなことはないと思
います。でも実際に行ってみたら、やっぱりより深〈わかるというか何か
を感じるというか、そういうことを誰でも経験すると思うのです。だから
こそ文学散歩というものが存在するのだと思うのです。
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文学散歩」を始めたのは松尾芭蕉だと言っていいと思います。松尾芭蕉
は、ある意味自分の生活を捨てて文学散歩に出かける。昔の歌に詠まれた
場所を訪ねるというのですけれども、これはかなり倒錯しています。一種
おかしなことなんですね。なぜならば、古い歌の場合、詠んだ人自身はそ
の場所に行ったことがないことが多い。平安時代の人が東北の松島のこと
などを詠んでいても、京都からわざわざ行ったはずがないわけです。あく
までイメージで詠んでいる。それなのに芭蕉は、詠んだ本人が行ったこと
のない場所へ行ってみようと思って、そこ本当に行ってみる。そうすると、
より新たな理解といいますか、より深く自分の体に浸透するかのようにし
て理解できるということだと思います。
体で覚えるってよくスポーツで言いますけれども、そういうふうに、我々
は体をもっているかぎり、やはり体で覚える、感じるということはあるの
じゃないかと思うのです。
ですから、電子書籍と紙で読むことの違いというのもあると思います。
きょう皆さんにお配りした紙は、ちょっと黄色っぽい紙ですけど、もう
ちょっときれいなコピー用紙はなかったのかと。何だ、こんな安っぽい紙
だと恩われるかもしれませんが、それが記憶の助けに、もしかしたらなる
かもしれません。あの時のあの紙、汚い紙だったなとか、ありますよね。
一番わかりやすいのは「字」だと思います。我々もほんとに活字に慣れ
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てしまいましたけれども、私自身も大学の卒論は全部手書きでした。 1文字
間違えるとそのページを最初から書き直すということをやるわけです。自
分が書いたものが、例えば大学の紀要みたいなものに載るというと何が嬉
しいかというと、手書きの文字が活字になると、何か自分の格が上がった
というような感じがしました。けれども、いまはいきなりみんな活字です。
ですが、同じ手紙をメールでもらうのと、ちゃんと紙に書いて手紙でも
らうのとでは全〈意味が遭うと思うのです。たとえば、愛する人から熱烈
な恋文ならぬ恋メールをもらったとしても、それでほんとうに嬉しいのか
なと思います。とりあえずそれをもう一回紙に書き直してほしいという気
がします。封筒を聞けるときの、こうやって……。早く聞けたくて、でも
ピリッというのではなくて、きれいに開けたい。そういう感覚というものと、
自分の経験というのは必ず連動していると思うのです。
例えば、本を探すというのも、いま私もAm
a
z
o
nをどうしても使います。
そうすると、ほんとうに親切で、買った本にあわせて、次に「こういう本
ありますよ」と向こうからいろいろ教えてくれるわけです。大きなお世話
と思いつつ聞くと、これ良さそうだなと、意外とそこが当たっていたりす
るのですけど、本屋を一軒一軒足で歩いて探したときの本というのは違う
と思うのです。さっきの木田元さんではないですが、探して探して手に入
れたときの喜びと、その本を読む経験というのは、決して別のことではな
いだろうと思います。
ですから、この衝に来れば、神保町に来れば、自分が探しているものが
あるかもしれない。でも、すぐには見つからないほうがいいわけです。ちょっ
と探すという、その手問。どういうところを探せば自分の目指す本が見っ
かりやすいか。それも通っていくうちにだんだんわかるわけです。あの本
屋だったら置いてあるかもしれないということですね。
いま図書館に行っても学生は本が探せないですね。明治の図書館も結構
大きいところで、 3層ぐらいになっていると、自分の欲しい本がどこにある
のか探せない。それは自分の体を使って探ぎないと、いつまでたってもわ
からないのだと。こういうところに、すぐ手に入りやすい情報だけを入れ
ていても、結局右から左へマッサージのように流れていってしまうと思う
のです。ですから、私としても、ここへ来る消費者というか、ユーザーと
4
7
してですけれども、神保町というこの街の個性を、ぜひ残してもらいたい
と願っております。
ローマは一日にしてならず。衝の個性というのは一朝一夕にできるもの
ではありませんので、積み重なった歴史が、その都市固有の相貌をつくる
わけです。どんなに個性的な建築家がデザインして個性的な建物をつくっ
たとしても、それは一番上の層でしかない。今度オリンピックが来て、新
しい国立競技場とができたとしても、街そのものは一朝一夕にできはしま
せん。でもボンベイが滅びるのは一瞬でした。だから街の個性は積極的に
守ろうとしなければならない。
そしてその衝を通じて、自分の身体を通して読書の経験が自分の中に層
として積み重なっていく。街を歩くということと、本を背表紙付きの本で
読むことというのは、自分の中に経験として蓄えるために非常に重要な
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yとしてあるのではないかなと思っております。
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読書案内
講義の中で触れた書物を紹介する。諸版のあるものは比較的最近の出
版物で入手しやすいものを掲げた。
-マーシャル・マクルーハン、栗原裕・河本仲聖共訳『メディア論』、み
すず書房、 1
9
8
7
∞
・木田元 r
なにもかも小林秀雄に教わった』、文襲春秋、 2 8
、(文春新書)
∞
.ドストエフスキー、米川正夫訳『罪と罰』、角川書庖、 2 8、(角川文庫)、
改版。亀井郁夫訳、光文社、 2
側臥(光文社古典新訳文庫)、ほか
∞
・原研哉『白』、中央公論新社、 2 8
・ロラン・バルト、宗左近訳『表徴の帝国』、新潮社、 1
9
7
4
、(創造の小径)。
筑摩書房、 1
9
9
6
、(ちくま学芸文庫)、ほか
・神内秀信『東京の空間人類学』、筑摩書房、 1
9
8
50 (ちくま学芸文庫)、
1
9
9
2
・司馬遼太郎『街道をゆ< 36 本所深川散歩、神田界隈』、朝日新聞社、
2
似臥(朝日文庫}、ほか
・前田愛『都市空間のなかの文学』、筑摩書房、 1
9
8
2
0 (ち〈ま学芸文庫}、
1
9
9
2
・森鴎外『舞姫』、『雁J (文春文庫)、ほか
・夏目撤石 r
吾輩は猫である』、 r
それから』、『門J (岩波文庫)、ほか
9
8
7 (講談社文庫)、 2ω4
・村上春樹『ノルウェイの森』、講談社、 1
0
・村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年=C
o
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J、文書春秋、 2
0
1
3
T
s
・梶井基次郎『棒樺』、角川書庖、却 1
3、(角川文庫)、ほか
・高村光太郎『レモン哀歌高村光太郎詩集』、集英社、 1
9
9
1、(集英社
文庫)、ほか
・芥川薗之介『蜜柑J (角川文庫)、ほか
・三浦しをん『舟を編む』、光文社、 2
0
1
1
49
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