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Kobe University Repository
Kobe University Repository : Kernel
Title
松右衛門帆(MATSUEMON : JAPANEAE SAIL CANVASIN
19C)
Author(s)
松木, 哲
Citation
海事資料館研究年報,26:1-10
Issue date
1998
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005693
Create Date: 2017-03-31
松右衛門帆
松 木 哲
1
. 松右衛門帆以前の帆
江戸時代前期に長崎に入港した中国船を画いた
江戸時代の和船は、松右衛門帆と言われる帆
松浦家の図巻はもちろん、その後長崎で土産用
を使用していた 。 しかしこの松右衛門帆は天明
にさかんに印刷された長崎版画の中国船も網代
年間に高砂の松右衛門が創製した帆布であり、
9世紀近くのヨーロッパ人の絵で
帆であった 。 1
それ以後全国に急速に普及したため、江戸時代
も中国船の帆は網代帆として画かれている O 大
後期から明治にかけて、それどころか所によっ
型の船では網代帆が広く使用されていたと見て
てはおそらく昭和になっても、松右衛門帆が使
よいであろう 。 もっとも同じ網代帆でも、粗く
用されていた 。和船の帆を 一変させた松右衛門
編んだ網代ではなく密に編んだ網代を使 った船
帆がどのような帆であ ったか、またその 帆がな
が増えている O
ぜ大きな影響を和船の帆に及ぼしたかを理解す
網代帆は帆を下ろす時は扉風畳みにしなけれ
るためには、まずそれ以前の帆がどのような帆
ばならず、かさ張 って邪魔になるが、中世には
であ ったかを知 っておく必要がある 。
まだ木綿が普及しておらず、布は麻か絹であっ
たから、安価な木綿が手に入るまでは、 官船な
-網代帆
鎌倉時代の絵巻物に遣唐使船を描いたものが
ど特殊な船はともかく、 一般の船は高価な布帆
あるが、帆は網代帆として描かれている 。網代
を使用できなか ったに違いない 。
帆は竹などを薄くそいだものを編んで、
作った帆
・ムシロ帆
で、現在でも敷物として使 っているアンペラの
絵巻物に出てくる中世の小型船は、ムシロを
ようなものである O もっとも当時の網代帆は、
縦横につないだ帆を揚げている O ワラなどで編
龍のように粗く編んだものを、風が抜けないよ
んだムシロは、材料が手に入り易く作るのも簡
うに問に笹などを挟んで 2枚重ねていた 。 この
単だが、網代に比べると重くしかも雨が降って
網代帆は、中国では近世まで使用されていた 口
水を含むと相 当な重量になり、扱いにくいだけ
江戸時代初めの朱印船では、小型の帆には布の
でなく船の重心が高くなって転覆の危険性もあっ
帆が用いられているが、 主な帆は網代帆であり、
たのではないかと想像される D
写真 1 網代帆の例(朱印船)
写真 2 ムシ口帆の例(江戸時代初期)
木綿が日本に伝わったのは意外に早い時期だ、っ
のよい木綿は衣料品として歓迎されたに違いな
たようだが栽培は定着せず、実際に普及し始め
い。帆も江戸時代に入ってからは次第にムシロ
たのは江戸時代前期からである O 木綿の布が安
帆から木綿帆へと代わってきた。しかし衣類と
く大量に出回るようになると、扱い易く軽い木
違って船の帆は風が抜けないだけの厚さがある
綿の帆が急速に普及し、ムシロ帆は姿を消して
か、あるいは日の詰まった布でなければならず、
しまった O と言われているが、北陸地方ではそ
また風の力を受けて破れないだけの強さも必要
の後も使用されており、後述の今西氏家舶縄墨
である O
私記に、「三国あたりには、ハガイソウという
江戸時代中期までの木綿布にはあまり厚手の
変わった船があり、帆はコモで上下に帆桁があ
ものがなかったらしく、帆は布を重ねて綴じ合
り、帆を帆柱の上の方に揚げるとの話だが、詳
わせて刺帆として使用していた。刺帆は松右衛
しいことは知らなしリとあって、木綿帆ではな
門帆の出現によって取って代わられたため、ほ
い船の存在を記しているばかりでなく、ムシロ
とんど残っていないが、わず、かに残っている例
の値段も書いてある O なおごく一部ではあろう
を見ると、布を重ねて刺しを入れる作業は大変
がムシロ帆は江戸時代後期どころか明治になっ
な仕事量だった事が理解できる
O
布に刺しを入
ても生き残っていた。島根県浜田市に残ってい
れるのは、火事装束の半纏、東北地方のコギン、
る客船帳に、丹後由良とその川向いの神崎の船
現代でも柔道着などに見られるが、人の着るも
にムシロ帆をもっていた船があったように画か
のとは桁違いに大きな帆全体に刺しを入れる作
れており、天保 7年(18
3
6)から意外にも最後
業は、人件費の安かった江戸時代でも相当な費
0年(1887) まで 1
5回の寄港が記録され
は明治 2
用になったであろう
O
ている O すでに松右衛門帆が普及していたどこ
摂津名所図絵にある大阪の船道具屋の届先を
ろか、キャンパスの帆が使われていたかも知れ
見ると、ノレンに「帆木綿いろいろ Jと書かれ、
ない時期になっても、まだムシロ帆をもった船
庖の中には大きく巻いた帆木綿がある O この名
があったという珍しい記録であり、おそらくム
0年(17
9
8
) の出版であるから、
所図絵は寛政 1
シロ帆の最末期の例であろう
まだ松右衛門帆は出現しておらず当然刺帆の時
O
-刺帆
代であり、巻いた帆の木綿には粗く縦横に刺し
木綿は戦国時代末に日本に再渡来し急速に普
が入れてあるのが見える O しかも左上には、近
及した。絹は高価で庶民には手が届かず、麻は
所の女性はこの帆木綿に刺しを入れる仕事で稼
粗くて保温性がよくないから、柔らかく保温性
いでいる、と記してあり、結構なアルバイト収
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舵具広
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図船道具屋の庖先(摂津名所図絵)
入になっていたらしい。ところが、残存する刺
帆では、幅約 1尺の薄い木綿布を 3枚横につな
いで 1反とし、それを 2枚重ねて細かい間隔で
横方向に刺しを入れている 口刺し糸は太い木綿
糸 2本を使用していたり、細く裂いた布をよっ
て刺し糸に使った例もある O 薄い布に太い糸を
通しているため、本来は 3尺あったはずの布は、
たて敏ができて幅が 2尺 5寸以下に縮んでしまっ
たものがある 。 この刺し方は、摂津名所図絵の
刺し方とは全く違っており、船道具屋では 2枚
を粗く綴じ合わせた状態で販売し、船が風待ち
などで暇になったときに水主たちが細かく刺し
て帆に仕立てたのかも知れない 。
天明年間一天明 5年(17
8
5)と 言われるがー
に松右衛門が、幅 2尺 5すの厚手木綿帆布の試
織に成功すると、面倒な刺しの手聞を掛けない
でよい丈夫な帆布として急速に普及したと 言わ
れるのはもっともであろう
O
その結果として、
船具屋の下請けで稼いでいた帆布を刺す内職が
消えてしまったに違いない 。
写真 3 刺
帆
しかし、文化 1
0年 (
18
1
3)に浦賀奉行所同心
組頭の今西幸蔵が書いた「今西氏家舶縄墨私記J
-3-
では太い糸で帆一面に細かく
刺しをいれるような面倒な仕
事はしていなかったようであ
るO
刺しは水平方向に入れるか
ら上下方向には全く補強され
ておらず,薄い木綿布 2枚 だ
けで風の力を受けていた。し
かし l反の両側に取り付けて
ある綱の上端を帆桁に、下端
を甲板上に渡した大回しに結
び付けてこの綱で風の力を受
けるから、帆布が吹き破られ
ないように水平方向だけに補
写真 4 刺帆の刺し方
強の刺しを入れたのであろう O
刺しは厚手の松右衛門帆で
には、まず刺帆の説明をした後に、ほかに太糸
も、力のかかる部分の補強や、積み上げた荷物
を縦横 2筋ずつに織った松右衛門帆があり、幅
に擦れる帆の下の部分に刺しを入れる事はあっ
が広く 2尺 2、 3寸で品質には上下があると述
たが、刺帆のように全体に入れる必要はなくなっ
べている O 江戸に出入りする船は浦賀の番所に
た。なお帆の下部の荷物と擦れて傷みが多かっ
届け出る事になっていたから、著者は松右衛門
たらしく、帆の下部に別布で、作った裾帆をつな
帆を使用し始めた仁方の船を見ていたはずであ
いで、傷みがひどくなるとこの部分だけを取り
るO 松右衛門帆が出現してから 3
0年近い文化 1
0
替えられるようにした船もあった。
年でも、まだ刺帆の説明を主としている所を見
ると、松右衛門帆を使用している船はあまり多
2
. 松右衛門帆
くはなかったのではないだろうか。なお刺帆だ
・松右衛門帆の特徴
けでなく帆ムシロの説明もあり、この時期になっ
松右衛門帆は、高砂在住の松右衛門が天明 5
てもまだムシロ帆が使われていたらしいことを
年(17
8
5)に創製したと言われる厚手の広幅帆
示している O 記事によれば、ムシロは近江の物
布である
が最上で 14~16枚が 1 両とあるから、ムシロと
て西洋のキャンパスが輸入され始めてからも使
いっても安くはない。寸法は長さ 6尺 5寸、幅
用されていただけに、実際に使用されていた帆
3尺 1~ 2す位と書いてあるから、ムシロ帆、
布があちこちに残っている O ただし帆の形のま
O
江戸時代後期はもちろん、明治になっ
刺し帆、松右衛門帆と次第に幅が狭くなり、 1
反の幅が 3尺 1~ 2 寸から 2 尺 2~3 寸程度へ
と変わってきたように見える O しかし現在残っ
ている松右衛門帆は、
2 尺 4~5 寸位の幅が多
いのでこの記事の寸法は少し狭いように思われ
るが、初期のものは狭かったのかも知れない。
また刺帆にもいろいろな種類があったらしく、
江戸湾内で使われていた押送り船の帆は房州刺
しといってあまり太くない糸で刺しており、な
かには碁盤刺しというごく手軽な刺しもあると
述べている
O
この碁盤刺しが摂津名所図絵に描
いであるような刺し方かも知れない。小型の船
-4-
図 2:松右衛門帆の組織図
横糸は 2本を並べた平織りの布である 。糸はよ
りをあまり強くせず、織り目も少し粗く織って
いるので、厚手の布にもかかわらずしなやかさ
がある。もっとも残っている帆布は実際に帆と
して使用されていたため、雨風にさらされて堅
くなっている場合が多く、また布の厚さも一定
していないので、手触りは資料によってまちま
ちである O 布の両端だけを縦糸 l本としている
のは、その部分だけを少し堅くして織物の縁が
伸びるいわゆる耳だれを防ぐためであり、松右
写真 5 松 右 衛 門 帆 (1反分)
衛門の特徴の 一つになっている D 織物の専門家
の話では、この両耳を固めてその中間を柔らか
く織るのは、優れたアイデアであるとの事で、あっ
た。
-寸法
現在残っている資料の幅は表のとおりだが、
これらの資料は使用した帆布であり、使用状態
によって縮みの量が違っているはずで、使用す
る前の織の幅を示す数値ではない。なお新しく
織った松右衛門帆を力を加えないで 3年間雨風
にさらした結果では、
5~8% の収縮であった 。
高砂には松右衛門の子孫が在住しており、そ
写真 6 松右衛門帆の織目
の家に試織帆布といわれるものが 2点保存され
ている D この布はいつ織ったものか分からない
ま保存されている例は極めて少なく、解体して
が、巻いた状態で保存され使用した形跡はない。
帆布だけにしたもの、裁断して船箪笥の覆いな
幅は長さ 7尺 1すのものが 2尺 4寸、長さ 5尺
どに再利用したものが多い 。
8寸のものが 2尺 4寸 2分といずれも 2尺 5寸
松右衛門帆は、組織図のように布の両端 1寸
よりも狭いところを見ると、現在の工業製品と
ほどを縦糸を 1本とし、それ以外の縦糸および
違って 、織り幅を規格化していたかどうか疑問
残存する松右衛門帆の寸法
番号
2
3
4
5
6
7
8
9
1
0
1
1
1
2
1
3
中
高
2尺 4寸 8分
2尺 5寸 4分
2尺 4寸
2尺 3寸 9分
l尺 9寸 5分
2尺 4寸 5分
2尺 4寸 5分
2尺 2寸 6分
2尺 2寸 3分
糸 数 (2本組/尺)
縦糸
1
6
0
1
4
5
1
4
3
1
6
4
1
6
0
1
4
1
1
4
4
1
7
6
1
6
2
1
5
8
1
5
4
1
7
8
2尺 3寸 6分
2尺 3寸 6分
2尺 4す 6分 ~
横糸
1
2
7
1
3
5
1
1
9
1
2
4
1
4
9
1
2
0
1
2
8
(
15
7
)
1
5
4
1
4
9
1
3
0
1
4
1
1
0
1
残存長
備
1
7
.
8尺
3
5.
6
尺
5
2
.
8
尺
1
4
.
5尺
1
3
.
9尺
2
0
.
5尺
4
5尺
5.
4
尺
小 木海運資料館
考
上時 国家 I やや薄 手
向上 E 織むら多し
地冗の織りか
地冗織りか
北前船の里資料館 I
向上 E やや 薄 手 弥 帆 か
二国竜朔館 紺 染 の 痕 跡 幅 は 概 寸
水橋郷土資料館
伊藤家 I 横 糸 が 1本縦横に刺し入
敷物に転用か
伊藤家 E 縦 横 に 刺 し 入 袋 に 転 用
伊藤家 E 部分 的 に 残 存 横 方 向 に 刺 し 入
尺
5
尺
5.
2
伊藤家 W
ほとんど使用せず敷物に転用か
伊藤家 V 縦横に刺し入
神戸 商船大
ほぼ同じものが 7反残存
覆いに転用
-5-
図 3:帆の全体組み立て図(造船心得集)
で、織り手によって多少差があったのではない
の 2倍以上になるので、松右衛門帆を織ってい
だろうか。
た織機は特別に作った専用の織機だ、ったのでは
長さは帆の高さに合わせて決める寸法だが、
ないかと想像している O 松右衛門帆は当時の木
今までに調べた資料の中で最も長い帆布は約 5
3
綿産地であった姫路周辺で、織っていた可能性が
尺(16m) あり、少なくともこれだけの長さは
あるが、織機についてはまだ調査しておらず、
つながずに 1枚の布として織る事ができたよう
特別の織機を使っていたのか、松右衛門帆の織
である O 手織り機では、織った布を織り手の体
機が残っているのか分からない。また横糸を 2
の前に巻き取るが、厚手の松右衛門をこれだけ
本入れるのに、大型の梓を作り 2本の糸を入れ
の長さに巻き取ると、太くなり過ぎて織るのに
て一度に
邪魔になる C また織り幅が 2尺 5寸と通常の機
回続けて通すのか、どちらの織り方だ、ったのか
写真 7 帆布の周囲に取り付けた綱
写真 8 各反の合わせ目
6
2本の横糸を通すのか、通常の梓を 2
も分からない 。なおこれだけの太い糸を織るに
遠く離れた所で、は見様見真似で、織って使用した
は相当な力が必要だっただろうとの専門家の感
帆があったかも知れない 。
想であった 。
-重量
松右衛門帆の重さを計測した例は少ないが、
-価格
松右衛門帆は、それまでの刺帆に比べて高価
松右衛門帆を転用した箪笥覆いは 1平方尺あた
であったが、刺す手間が省ける上に丈夫なので
り9
5
gで、あった 。この帆布は最も厚くしかも長
急速に普及したと言われる O ではその価格差は
らく使用して縮みが大きいようなので、おそら
どの位であったのか、前述の今西氏家舶縄墨私
く重い方の例であろう 。 また大阪市が復元して
記には両方の価格が記されている 。
いる菱垣廻船の帆に使用するために織った松右
その記事によると O 刺帆 1
2尋の値段は 7
0
4
5
衛門帆は、帆の断片の糸の太さを調査して復元
匁位、それに対して松右衛門帆は同じす法に換
0
8-9
0匁と 5割増から 2倍の値段とな
算して 1
り、しかも値段の幅が刺帆よりも少ない 。残っ
ている松右衛門帆を見ると厚さに差があるから、
帆布の厚さによって価格が違っていたのであろ
つ。
松右衛門帆がどの程度の早さで普及したかを
示す資料はないが、先に述べたようにあまり 急
速ではなかったように思われる O もちろん上方
と江戸を往来する菱垣廻船や樽廻船はいち早く
採用したであろうが、全国的に普及するには価
格以前に生産量の問題があり、多数の船の帆す
べてに使用するだけの量を供給するには、相当
な期間が必要だったのではないだろうか。現存
する松右衛門帆の中には、織りむらが多く製品
として販売されたのではなく、地元で、織ったも
のではないかと思われるものもある D 上方から
写真 1
0 修理した帆
写真 9 補強刺しを入れた松右衛門(角は縦横に補強刺し)
- 7一
写真 1
1 織りむらの多い松右衛門帆
したが 7
8
g
/平 方 尺 と な っ た
の重さを計算して見ょう
O
O
この重量から帆
写真 1
2 帆に押しである黒印(兵庫
北二改)
千石級の和船の帆を
2
4反、高さ 6
6尺とすれば、面積は l反の幅 2尺
押しである O この帆は薄手の帆布を使用してお
5寸として 3,
9
6
0平方尺となり、その帆布重量は
3,
9
6
0X8
0
g
/平方尺 =317kg
り、弥帆と思われる帆で、そのため傷みのない
まま残っているのであろうが、この程度の小型
となる。それに周囲などに取り付ける綱類の重
の帆は組み上げた状態で船具屋が納入すること
量として 6割を加算すれば総重量は 5
1
0
k
gとな
があったのかも知れなし L この帆を収蔵してい
るO
る資料館には、明治 3
0年ころ製作の北前船の正
これだけの重量の帆を陸上で完成して船に積
確な模型が寄贈されているが、その模型の帆に
み込むのは、重量だけでなく全体の容積からも
も同じような黒印が押してあり、この模型の帆
不可能であろう O 大型の和船では、
5~6 反を
寄せ集めて 1ハカイとし、このハカイを 4つゆ
も同時期に同じ船具屋が納入した可能性が強い。
この北二は後述の北二平商庖であろう
O
るく綴じ合わせて 1枚の帆としていた。いくつ
かのハカイに分けていたのは取り扱いの便利さ
3
. 工楽松右衛門
のためである o 2
4反を 6反づつのハカイに 4分
・履歴と土木工事の工夫
割して製作すれば、
1ハ カ イ の 重 量 は 約 1
3
0
k
g
松右衛門帆にその名を残す工楽松右衛門は、
となり何とか運びこめる程度の重量になる。明
4
3
) に兵庫県の高砂で生まれ、始
寛 保 3年(17
治後期の和船に乗っていた経験者からの聞き書
め漁師をしていたが 1
5才ころから船に乗り始め
きでは、港で風待ちしている時に、帆の傷んだ
0歳のころには兵庫で御影屋の船頭
た。その後 2
部分を取り替えたりしていたとの話があるから、
となったとのことだから、船乗りとしても優れ
荷物を積んでいない時に胴の間で帆の補修や組
た才能の人物だったに違いない。島根県浜田市
み立てを行ったのであろう
それにしても、帆
の客船帳に兵庫御影屋の船に乗っている松右衛
全体を広げるだけの広さのない狭い場所での作
門の名前がある O 安永 8年(17
7
9)入港の船頭
業は大変だったに違いない。また松右衛門帆で
が松右衛門であり、また 3名の船頭が連記され
D
も、帆が風をはらむと高く積み上げた荷物に擦
8
2)入港の時の
ている記録では、天明 2年(17
れるため、帆の下の部分は擦れどめのため刺し
船頭が松右衛門と思われるから、これが高砂の
を入れて補強する事があり、この作業も水主の
松右衛円であれば3
9歳にあたり御影屋船頭、の最
風待ち時の仕事であった。
後の時期にあたる。ただしその後寛政 4年と 5
0年ころかと推定さ
しかし、製作時期は明治 3
年 (
1
7
9
2、 1
7
9
3
) にも御影屋の船頭松右衛門の
れる帆が保存されており、この帆は 4反が組み
入港記録があり、これも同じ松右衛門とすれば
立てたまま残っている珍しい資料だが、各反と
5
0歳ころになる
も同じ高さの所に、兵庫、北二改の丸い黒印が
頼まれて船頭をしていたのか、同名の別人なの
-8-
O
ほかの仕事をしながら、時々
か分からないが、少なくとも天明 2年の方は今
右衛門帆の創製者としてよりは、一般的な創意
話題にしている松右衛門と考えて間違いないだ
工夫の人として有名だったのだろうか。
ろう
-松右衛門帆の販売と喜多二平
D
4
0歳頃に船を下り天明 5年(17
8
5)には松右
松右衛門が新しい帆布の創製に努力した事は
衛門帆を創製した 。4
2歳の時に秋田から木材を
疑いないが、その生産販売 にはどの程度たずさ
筏に組んで輸送し、以後度々輸送にあた ったと
わったのか。げんに創製した直後には秋田から
の事である O その後は土木工事に乗りだし、松
の材木の回送に携わっており、その後も北海道
5歳の頃には地
前で築港工事 に従事した 。 また 6
で活躍し、函館には寄り州を埋めたてて船のタ
元の代官から高砂港の改築 と川深えを f
衣頼され、
デ場を作ったといわれるなど、港の工事に関係
さまざまな道具 を工夫して 工事に当たり、その
する 話 はあるが、松右衛門帆に関係する業績は
功によって工楽の姓を授か ったが、数年後の文
無さそうである D 新しい帆布は兵庫の豪商北風
化 9年(18
1
2
) に6
9歳で没した 。墓 は高砂の十
家の一統喜多(北とも書く )二平が扱 って販売
輪寺 にあり 。文化 9年逝、 工楽松右衛門定栄建
していたようだが、発明者松右衛門がどの程度
之と刻まれている O なお大正 5年に高砂神社に
関係していたのか分からなし 、 喜多二平商応は
松右衛門の銅像が建立されたが二次大戦中に供
新しい帆布を扱 って相当な収入を得た らしく、
出したため、昭和 4
2年に再建したものが高砂神
兵庫の般若林八王寺 には帆布の形を模した松右
社に現存している O
衛門の顕彰碑を建立している D もっともこの碑
以上の来歴 は没後 1
0年の文政 5年 (
1
8
2
2)に
は北二平が松右衛門の徳をしのんで碑を建てよ
出版の、大蔵永常著「農具便利論」の記事を参
うと思いなが ら果たせなか ったので、八王寺の
考とした。この本は日本各地の農機具 を集めて
僧侶が北二平に代わって嘉永 6年(18
5
3)に建
その特徴を述べ た本だが、農機具とは縁のない
立したと記されており、 喜多二平の死後建立さ
松右衛門の事績を大々的に取り上げている 。松
れたものである O 喜多二平 はこの寺の大檀那で
右衛門没後まもない著作であり子息から聞いた
あった D
とあるから、松右衛門関係の記事は信用してよ
喜多二平家は、安永年間に北風家の 立て直し
いだろう 。 しかし、もちろん帆布の創製を取り
に手代として大いに努力した功によ って、最初
上げてはいるが、内容の大部分は港の改修工事
の別家 として暖簾分けした北風の筆頭別家で、
に使用するために松右衛門が考え出したさまざ
代々船具商を営んできた家である
O
北風家の記
まな珍しい船や道具をはじめとして、沈船引き
録「北風遺事j では、喜多二平が帆布の改良に
揚げなどの工夫の紹介にあてている O 当時多く
苦心し、松右衛門の協力を得て完成して裏庭に
の船乗りから歓迎され急速に普及し始めていた
織場を設けて松右衛門に織らせた。その帆布を
はずの松右衛門帆について、あまりにも簡単に
北風家 に出入りする船に売 っていたのが、次第
扱 っているような印象を 受 ける O その 当時は松
に全 国の船に賞用されるようになったと 書いて
あり、「農具便利論j の記事 とは少々違 ってい
る9 この「北風遺事」は昔の資料に基づいてい
るとはいえ、後世の編纂であるからそのまま信
用はできないが、松右衛門がその後あまり帆布
の販売 にはかかわらなか ったらしい事を見ると、
二平が松右衛門帆の創製に深い関係があ ったの
は間違いないし、松右衛門帆の販売と 普及に重
要な役割を果たしたのであろう
O
喜多二平商庖は明治 に入 ってからも松右衛門
帆を取り扱い、明治 1
5年出版の「豪商兵神湊の
魁」に兵庫匠町の船具商喜多二平が記載されて
写真 1
3 工楽松右衛門の碑
おり、その庖先 の図には庖 の奥に巻いた帆布が
-9
J
プ
1:)
図 4:喜多二平商店の庖先(兵神湊の魁)
並べられ、また庖先には帆布を積んだ荷車が見
られる O 先に紹介した資料の北二改の黒印はこ
の商庖のものであろう
D
この屈では帆布を販売
するだけでなく帆の仕立てをヲ l
き受ける事もあっ
たらしい 。喜多二平商庖がいつ頃まで松右衛門
帆を扱っていたのか分からないが、外国貿易の
窓口として急成長した神戸港では西洋型船関係
の商売が早くからさかんになっており、「豪商
兵神湊の魁」にも西洋型船の造船所や船具商な
どがいくつも名をつらねているから、 喜多二平
商庖も早い時期に松右衛門からキャンパスに切
り替えてしまったかもしれない 。
4
. 終わりに
各地に残る松右衛門帆を調べた結果、倉Ij製以
後たちまち全国に普及したといわれる松右衛門
帆がどのような帆布だったのか、ほぼ理解する
写真 1
4 船頭松右衛門の錦絵
ことはできた。しかし、この新しい帆布を創製
するに至った経過や松右衛門と喜多二平との関
しないでもない 。
係、使用していた織機や主な生産地、普及して
また船頭松右衛門の錦絵があり、松右衛門は
行く経過や生産されなくなった時期など、調査
当時はどのような事で有名だ、ったのか。江戸時
しなければならない事も多く残されている O
代の川柳や本に取り上げられているかも知れな
松右衛門帆は厚織りの木綿だが、酒蔵では醸
い。また当時のトピックスはよく芝居に取り上
造したモロミを厚織り木綿の袋に入れ圧力をか
げられるから、松右衛門を 主人公とした芝居が
けて酒を絞っていた 。 この酒袋は組織は違うが
あった可能性も考えられる O そうすればどのよ
松右衛門帆と同じような厚さの織物だが、松右
うな話だ、
っ たのか。松右衛門帆は和船の関係者
衛門帆とどちらが先に考え出されたのか、上方
には広く知られているが、それに関係する資料
は酒造が盛んであるだけでなく木綿の産地でも
はあまり研究された事がなく、松右衛門の事績
あったから、どちらが先に厚織の木綿を使い始
ともども今後の研究にまっところが多い。
めたのか、両者には何か関連がありそうな気が
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