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研究成果Vol.20(P1

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研究成果Vol.20(P1
シュルレアリスムと写真
犬 伏 雅 一
教 授
芸術計画学科
平成 25 年度
極めて即物的にブルトンの『ナジャ』に接して
真はバルト風な言い方をすれば現実のアナロゴと
みよう。まず、この書物には写真と図版が挿入さ
して提示され、そのインデックス性については疑
れている。写真はおおざっぱに区分けすると建造
う余地はなく、ただこのインデックス性からは紡
物と街路の風景、商店のファサード、人物、舞台
ぎだしようのない物語が、アナロゴンとしての写
写真、そして作品の写真である。図版の方もいさ
真をドキュメントとして活用し、現実の表象とし
さか乱暴であるが、手書きのものと手紙や広告
て展開されている。ロマンフォトでは虚構性に現
などである。
『ナジャ』について、現代思潮社版翻
実性を加味するために、現実性の濃度を高めるた
訳のあとがきで、峯尾雅彦は「『ナジャ』は文学に
めに、写真が存在しており、それ自体は現実のア
あらわれた最も美しい愛の物語といえる」と述べ
ナロゴンであるにしてもすでに現実性を持った記
ている。物語と図版の共在は先行事例があるが、
号としての使用であって根本において虚構性に統
物語と写真との密接な連携ということでは、
『ナ
率されている。
(ただし、完全に統率されるかは問
ジャ』は一つの画期である。
いとして残る)一方、スミスのフォトストーリー
フランスはロマンフォトの誕生地であり、それ
は、アナロゴンとしての写真が現実の物語を編成
を思うとその先行形態として『ナジャ』を見つめ
するいわば垂直的なインデックス性を帯びてお
ることも可能であろう。しかし、ロマンフォトが
り、一方で、現実の物語の編成によって写真自体
物語に密接に組み込まれた写真の配置を持ち、い
が編成されてもいる。あくまで、写真のインデッ
わばライフ張りのフォトストーリーであるとする
クス性の強度がフォトストーリーの存在基盤では
と、
『ナジャ』における写真はどうもこうした古典
ある。とはいえ、そこでは、双方向的に言葉とい
ハリウッド映画式のシームレスな物語構成のエレ
うメディアのイマージ性と写真メディアのイマー
メントとにはなっていないと思えるのだ。
ジュ性が編成し合って、いわばハードな現実の表
もう少し正確に話を進めるならば、ロマンフォ
象を形成する形で、シームレスにメービウスの帯
トは全体の虚構性に真実性を付加するための
のように相互規定的に連続している。
(だが、しか
ヴァーチャルナなエージェントとして写真をシー
し、このシームレスな位相空間に綻びがあるので
ムレスに組み込んでいる。これに対して、たとえ
はという問いが残る)
ばユージン ・ スミスのフォトストーリーでは、写
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つまり、ロマンフォトとフォトストーリーとい
う対極を占めるように思える言語と視覚イマー
らも崩れている。部外者性は否定されている。つ
ジュのハイブリッド的存在は、シームレスで連続
まりメービウス的な空間が類比的に図形化され
的な表象空間を作り上げていることでは何等変
て一見外部が成立するかに見えるがそれ自体が
わるところはないのである。しかも現実のアナロ
虚構であることが突きつけられている。自動筆記
ゴンとしての写真をとらえた思考はいずれにし
やその一つのドキュメンとも言える今風にいえ
ても深部には達し切っていない。
ばアール ・ ブリュットへのブルトンの関わりか
さて『ナジャ』に対して、このような座標軸の設
らすると、言語による物語編成そのものが主体の
定からの凝視は、どのような座標を付与しうるの
統率性というあやうい虚構によって成立してい
か。
『ナジャ』をフォトストーリーの虚構性のみで
るのである。そうだとすると、写真以外の図版に
解析することは困難である。そこに布置されてい
ついては言うまでもなく、類比的に思考を巡らせ
る写真は、現実のアナロゴンとしての性格が極め
ば、世界存在への自然主義的確信に依拠した写真
て濃厚である上に、そもそも『ナジャ』において
のアナロゴン性についてあるいはインデックス
展開される物語は現実の表象であって、この限り
性についてナイーヴに共感することはブルトン
ではスミスのフォトストーリーに接近する。しか
には在り得ない。メービウスの帯が開示する位相
し、
『ナジャ』に展開される写真は、ライフ張りの
空間のシームレスな構築ルールに棘として刺さ
現実の垂直的アナロゴンといった特性が希釈され
せる一種の外部性としての写真が『ナジャ』にお
てもいる。たとえば、ポートレートはポートレー
いて感づかれていたのではないか。つまり、シュ
トとしてコンテクストから切断されて、言語に
ルレアリスムの写真があるのではなく、写真はそ
よって主導されるべき編成への結合価を孕んでお
もそもシュルレアリスムと等根源的な何かだと
らずフラットな記号性がかなり濃厚である。建物
いうことである。
の写真、店のファサードの当然ながらアジェを連
想させる写真もフォトストーリーのような形で物
語にシームレスの組み込まれてはいない。そして
もっとも根源的なフォトストーリーとの差異は、
『ナジャ』が単純な現実の表象としての物語では
ないことにある。
ブルトンにとって、先行的にハードに存在す
るナジャとの物語があり、それを言語メディア
によってイマージュ化する営みという形で『ナ
ジャ』が生成するはずがない。スミスのようなド
キュメンタリーのターゲットとなるハードな世
界そのものが存在し、それが取材源となる構図は
取材者がすでに取材対象であるという枠組みか
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