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兵役拒否の思想

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兵役拒否の思想
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Author(s)
兵役拒否の思想
寺島, 俊穂
Editor(s)
Citation
Issue Date
URL
大阪府立大学紀要(人文・社会科学). 1992, 40, p.17-31
1992-03-31
http://hdl.handle.net/10466/12343
Rights
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/
兵役拒否の思想
良心的兵役拒否と徴兵忌避
島
覚悟してなされるが、それが制度化されている国では厳しい審査のの
行為を意味する。それは自己の行為を公に示し、処罰を受けることを
拒否、平和主義者が兵役に就くことを嫌がることやソロ!の場合のよ
的指示、行政的命令を受諾しないこどを意味し、国旗に対する敬礼の
の実例を見てもわかるように、それは国家に対峙しうる価値観をもっ
をもって明示的になされる行為である。欧米における良心的兵役拒否
う切々たる感情のほとばしりであるのに対し、良心的兵役拒否は信念
消極的に逃避を計ろうとしている。徴兵忌避が﹁死にたくない﹂とい
行為である。これは、隠れてなされる行為であり、参戦することから
なされるのに対し、後者はあくまでも政治的行為であり、民主主義的
づいておらず、多くは既存の立憲的秩序に反する宗教的原理に拠って
為だという点である。もうひとつには前者が必ずしも政治的原理に基
然のこととして公衆の面前でなされ多数の人びとの正義感に訴える行
いのに対し、後者は不正なシステムを変革していく戦術なのだから当
て認識しているのは、ひとつには前者が公開の場でなされる行為でな
のがその例である。ロールズが良心的拒絶と市民的不服従の違いとし
ハこ
てはじめてなしうる行為であり、主としてプロテスタント系の平和主
国家の内部でその基本法の正当性を認め、かつそれを受け入れている
戦争のあることを認め、自衛のための戦争までも否定してしまうので
市民によってなされるのである。したがって、彼の場合、正義に適う
り
ていない場合は非合法行為であり、その意味で市民的不服従︵9︿臨
ともあれ、ロールズが、﹁無論、実際の状況においては、市民的不服
ハこ
従と良心的拒絶の間には明確な区別はない、というこ乏﹂を認めなが
α尻09臼Φ⇒oΦ︶と重なり合う。しかし、この点については良心的兵役
良心的兵役拒否は、明示的になされる公的行為であり、制度化され
義者やエホバの証者によってなされてきた。
例である。一方徴兵忌避とは、さまざまな手段を用いて兵役を逃れる
うに税金を支払うことが重大な不正に加担すると考えそれを拒否する
的、良心的、かつ政治的な行為﹂と定義され、一方良心的拒絶とは法
さ
ことをねらってなされる行為であって、法に反する、公共的、非暴力
ズによれば、市民的不服従とは﹁通常、法や政府の政策を変えさせる
穂
ち認められれば代替業務に就くことによって兵役を免除されるのが通
良心的兵役拒否とは、宗教的・道徳的信条によって兵役を拒否する
俊
はなく、正義にもとる戦争には参加しないという選択的な良心的拒絶
ハユ
のみを正当化し、普遍的な平和主義の立場には立っていない。それは
拒否と市民的不服従を区別する見方もある。たとえば、ジョン・雨雪
ルズは﹃正義論﹄のなかで良心的兵役拒否をも含む良心的拒絶
︵oo霧。凶Φ黒鼠。臣8密。・巴︶と市民補診服従とを区別している。ロール
一17一
寺
的、消極的なのに対し、市民的不服従は政府の決定や法律に反抗する
る。つまり、良心的兵役拒否が個人の良心に発する行為であり、個人
という決意によって結ばれた、組織された少数派である﹂と述べてい
派によって支持されていると思われても、それに反対の立場をとろう
結ばれているというよりも、共通の意見と、たとえ政府の政策が多数
的不服従者とを区別しなげればならない。後者は共通の利益によって
また、ハソナ・アレソトは、﹁われわれは良心的兵役拒否者と市民
いとしており、当然彼の視点とはずれてこよう。
点を置いて、戦争に関わる正義の問題にアプローチしていくことを狙
ようとしているからである。しかしここでは、あくまで人間の側に基
の側にあり、正義に陰った決定や分配を実現する原理的基礎を導出し
らも、両者の区別に固執するのは、彼の正義論の基点が政治システム
時代から見られ、普遍的な神の意志に従おうとする世界宗教であるキ
て展開してきたといえる。しかし、良心的兵役拒否自体は古代ローマ
然のことながら良心的兵役拒否の実践は、徴兵制度の整備と踵を接し
もくろみがあって初めて発生する行為だからである。したがって、当
ない。それは、国民を兵役に就かせ、戦争に動員しようとする国家の
るいは兵役が課せられないところでは、良心的兵役拒否は問題になら
とが明らかになってくる。つまり、徴兵制度が確立される以前や、あ
れが徴兵令や徴兵制度という近代国家の仕組みに対する抵抗であるこ
良心的兵役拒否を市民的不服従の一形態として捉えるとしたら、そ
の一形態と捉えている。
が法制化される以前や法制化されていない国にあっては市民的不服従
法に違反する行為だという点に重点を置いて、良心的兵役拒否をそれ
否との区別は判然としなくなってくる。私は、むしろ両者とも特定の
ハ ロ
行為であり、集団的、積極的だということである。しかし、市民的不
リスト教の成立以後の現象である。もちろん良心に基づく行為は、ソ
﹁押殺すなかれ﹂という戒律の非妥協的な実践であることは事実とし
ハユ
れたものではない。とはいえ、ほとんどの場合、良心的兵役拒否が
クラテスに見られたようにそれ以前からあり、何もキリスト教に限ら
ハリリ
服従もソローの納税拒否に見られるように個人の良心に発する行為で
あり、良心的兵役拒否もその主張が公衆に明示されれば、ヴェトナム
戦争のときのアメリカでのように、その行為は伝播していくであろう。
良心的兵役拒否が良心に発し個人において貫徹される行為でありう組
﹁ただ一人になって自己と対面しなければならない恐怖は、悪事を思
た。したがって、良心的兵役拒否の﹁良心﹂は何も宗教的良心に限定
いという規範および感情的抑制は古くから人間の道徳意識となってい
て押えておかねばならない。
い止まらせるのに役立つ強力な説得者であるけれども、この恐怖はそ
する必要はない。しかし、実際に良心的兵役拒否を行ったのは、絶対
織化、運動化に適していないことは事実だか、戦争に対する反対のひ
の本来の性質として、他人を説得できるものではない。この種の良心
的平和主義者に多く、それが制度化されている国でもすべての戦争に
﹁汝殺すなかれ﹂というのは宗教的戒律だが、人を殺してはならな
的反対であっても、多くの良心が偶然に同じことを考え、良心的参戦
反対することを日常の振る舞いによって証明できる者にのみ認めてお
とつの現れとして、政治的有効性をもつ場合もある。アレントも、
拒否者が市場に集合して公衆にその主張を述べるとすれば、政治的重
り、キリスト教信仰による兵役拒否者が多かったのは事実である。と
らセロ
要性をもつようになる﹂と述べており、市民里下服従と良心的兵役拒
一18一
よって立てられたものだからです﹂というように国家の命令に従うこ
従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神に
たからである。キリスト教のなかにさえ、﹁人は皆、上に立つ権威に
国家の決定に従うべしという政治的義務感や社会的同調指向が強かっ
ところで、良心的兵役拒否が多くの人のとる道とならなかったのは、
は信仰にのみ存するのではなく、より広く求めていくべきである。
ら兵役拒否という行為がなされる可能性がある。その際、良心の基盤
い。ほかの宗教であれ、個人の道徳律であれ、生命を尊重する思想か
はいえ、良心的兵役拒否はキリスト教にのみ関わっているわけではな
動員される人間の側から考える契機となると思われる。われわれは、
た人びとがいるという事実は、戦争というものをそれに巻き込まれ、
要る個人の政治的行為なのである。厳しい状況の下でも兵役を拒否し
立てておきたい。いずれにしても兵役拒否というのは、大変な努力の
かの方法で直接拒否するという意味で兵役拒否という包括的な概念を
稿では両者の差異よりも共通性に注目して、兵役との関わりをなんら
に関わりたくないという基本的なレヴェルにおいては同じである。本
良心的兵役拒否と徴兵忌避とは概念的に区別できるが、ともに戦争
は少ない。
多く見られたのはこのような徴兵忌避であり、良心的兵役拒否の事例
しいような状況で行われる、消極的な方法である。近代日本において
兵役拒否者の味わった苦難の歴史を無にしないためにも、いかなる根
らむ
ンは、﹁だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさ
拠によって戦争を拒めるかを理論化していく必要がある。
︵1︶混ず昌幻①≦﹃℃冨§軸ミミ鳶箋ら魯O尊重酵乙αqΦ”↓げ①切Φ貯ロ昌
℃同Φω。。oh国鷲く。同αq巳くΦ﹃。。詳団勺﹃Φωq。﹄O刈どb・ω①膳●ジョン・ロールズ
著、矢島鉄次監訳﹃正義論﹄︵紀伊國屋書店馬一九七九年︶、二八二頁参照。
︵2︶奪ミこ俗脱.ω①o。1ω$・邦訳、二八五−二八六頁参照。
︵3︶きミ・もb.ω①ω1ω謡●邦訳、二八一i二八七頁参照。
︵4︶ミ鉢も.ω◎。b。●邦訳、二九五頁参照。
︵5︶奪ミ.も●ω謡●邦訳、二入七頁。
︵6︶雪目9≧Φ巳ρ、.Ω<昌UぎげΦ島Φ9ρ..ぎ9§ミ§智慧§b
ナ・アーレソト著、高野フミ訳﹃暴力について﹄︵みすず書房、一九七三
ZΦ毒嘱O﹃犀”缶巴80ロ唇切戸OOO︸O︿四二O︿一〇げ”昌40こHO①Oo讐冒・OO・ハソ
一19一
とを正当化している教えもある。しかるに、イエスの教えの基本的トー
い﹂ということばに明らかなように、非暴力的でかつ非報復的である。
へけり
イエスの人格と教えに依拠する限り、、平和主義が帰結するはずなのに、
そのキリスト教のなかから正戦論が生まれ、キリスト教の指導者の多
くが正義の戦争を肯定しているからでもあるが、キリスト教徒として
の良心よりも国家への義務を優先させたためである。この政治的義務
感は、さまざまな仕掛けで形成されていくものであり、戦争のときは
人びとを国民としてまとめあげ、戦争に反対する者を非国民として、
あるいは共同体への義務を果たさない卑怯者として糾弾し、同調的な
雰囲気のなかで反抗することはきわめて困難なこととなる。良心的兵
役拒否とは、孤立した厳しい状況のなかで行われる行為なのである。
一方、徴兵忌避は﹁死にたくない﹂という素朴な感情によってなさ
れる行為である。戦争は厭だというのは、きわめて自然な感情である。
もちろん、そこには軍隊組織での自由のない、暴力的な生活への嫌悪
もあろう。徴兵忌避は、正面切って戦争に反対することがきわめて難
注
年︶、五一頁︵訳文一部変更︶。
︵7︶智ミこb.O刈.邦訳、六一頁。
︵8︶ソクラテスは、 ﹁世の大多数の人たちが繧くに同意しないで反対す
ヌ心的兵役拒否の思想と法制化
良心的兵役拒否とは、元来自己の信仰上の理由によって、たとえ祖
国の防衛のためであろうと武器をとらず、兵役を拒否することを意味
していた。その多くは、国家の命令よりも神の命令のほうが上である
るとしても、そのほうがまだしも、ぼくは一人であるのに、ぼくがぼ
く自身と不調和であったり、自分に矛盾したことを言うよりも、まし
という信念のもとでなされる行為であり、キリスト教信仰のもとでな
した一例として、北アフリカの青年マクシミリアヌスが、地方総督の
者たちはローマの兵役に服することを禁止され、実際に﹁兵役を拒否
いるのだ。⋮⋮キリスト教徒には、殺すことはゆるされておらず、む
へよ
しろ殺されるままになるべきである﹂と述べた。実際に初期教会の信
野蛮きわまる罪であり、その野蛮さが、罰せられないことを保証して
た場合には名誉ある美徳になる。だが、それは罪がないのではなく、
のだが、それは個々の人が犯せば罪になり、国家の各においてなされ
カルタゴの司教︶は、﹁この世は血でおおわれている。殺人というも
のであみ。キプリアヌス︵O薗Φo白信ωO巻臥鋤昌⊆ω 二一〇1二五八、
期の教会において純粋な形で教義化されただけでなく、実践もされた
二の﹃良心的兵役拒否の思想﹄によれば、それはカトリック以前の初
良心的兵役拒否は、すでに原始キリスト教団から見られた。阿部知
いのである。
リスト教信仰は、原理的に国家を相対化し、神を普遍化する性向が強
個人が直接神と向き合う契機を内包しているからである。つまり、キ
されてきた。というのも、キリスト教が民族を越えた世界宗教であり、
なのだ﹂︵プラトン著、加来彰俊訳﹃ゴルギアス﹄︹岩波文庫︺︵岩波
書店、一九六七年︶、一一六−一一七頁︶と述べているが、このよう
な私と私自身の調和において私自身が良心の役割を果たしている。
︵9︶ ﹁汝殺すなかれ﹂というのは、モーセの十戒のなかの殺人の禁止に
由来する道徳律である︵﹃旧約聖書﹄﹁出エジプト記﹂二〇章=二節、
﹃聖書﹄︹新共同訳︺︵日本聖書協会、一九八七年︶、旧約聖書の部、
一二六頁、モーセがシナイ山で神から伝授された言葉。ただし当該邦
訳では﹁殺してはならない﹂となっているが、ここではより一般的な
表現に従う︶。
︵10︶ ﹃新約聖書﹄hロ⋮マの信徒への手紙﹂一三章一節、﹃聖書﹄、新約
聖書の部、二九二頁。
︵11︶同右、﹁マタイによる福音書﹂五章三九節、八頁。そこでは、﹁目に
は目を、歯には歯を﹂という報復主義に反対してこのことばが書かれ
ている。また、ルカ伝のなかにも﹁あなたの頬を打つ者には、もう一
方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではな
らない﹂︵同右、﹁ルカによる福音書﹂六章二七節、一=二頁︶という
言葉が見られる。
前に引きだされ、二一歳で︹二九五年︺死刑に処せられたことがった
えられている﹂。
ハ り
しかし、三=二年にキリスト教が公認宗教になってからは、初期の
一20一
一一
の教父︶においてすでに見られた考え方である。アウグスティヌスは、
ティヌス︵︾霞Φ国霧︾ロ磐。。江昌⊆。。一一一五四一四三〇、古代キリスト教
じて正義の戦争︵ぴ①一一q日 U仁ψけqヨ︶の観念が培われ、それはアウグス
﹁殺すことは許されぬが、しかし戦争においては、敵を殺すことは正
ハユ
当であるのみならず、称賛すべきである﹂と述べたという。中世を通
教父アタナシゥス︵﹀↓げ印づ⇔ωごωζ餌σQづβ。・二九六頃−三七三︶は、
のキリスト教において斥けられていたことが正当とされたのである。
れば肯定されるようになった。初期の、すなわち公認宗教になる以前
戦争中であっても一定のルールが守られるべきだという考え方を骨子
人びとからすれば、正義の戦争は、西洋文化の生み出した伝統であり、
う観念のポジティヴな側面を主張する立場もある。そのような立場の
の争いをした歴史があることは否定すべくもないが、正義の戦争とい
キリスト教徒が異教徒に残虐に振る舞った事実や宗派問で血みどろ
者も含まれており、正義の戦いとはかけ離れたものだったからである。
組織されたもので、異教徒に残虐に振る舞い、十字軍のなかには聖職
はこの規制の外にあり、異教徒に支配されたエルサレム奪回のために
いに疑問が付される。彼の生きた時代にも続けられていた十字軍遠征
とされた。ただ、これらの条件が厳格に守られたかどうかというと大
ハヱ
ゲルマン民族によるローマ襲撃を目の当たりにし、ローマ人がそれに
としている。つまり戦争中においても正しい行いが追求されるという
殉教者に見られた非妥協的な平和主義は影をひそめ、正義の戦争であ
対して自己防衛しようとしたことを正当化するために、﹃神の国﹄に
戦争の目的においてと同様に戦争の手段においても正当なることを要
請している。ジェームズ・ターナ:・ジョンソンは、﹁正義の戦争の
り、騎士道精神に体現されていたものである。正義の戦争の観念は、
のがそれである。それは、キリスト教中世において培われた伝統であ・
おいて、領土の拡大だけを目指す戦いを不義の戦いとし、敵から危害
ハき
を受けたときに自己を守るのが正義の戦いだとした。ただ正義の戦争
ハゑ
は、必ずしも防衛戦争に限られたものではないが、一定の条件つきで
認められたのであり、﹁慈悲﹂の戦いとしてのみ人.を殺すことは許さ
伝統は、西洋文化が暴力を規制し、抑制しようとして払ってきた主要
くと認定される必要があり、戦争は善をすすめ悪を懲らしめる意図に
よるものでなければならず、教会の権威者によって正しい理由に基づ、
る戦争が正義の戦争だといいうるためには、合法的な主権者の命令に
==一五一七四︶も正義の戦争の観念を継承した。彼によれば、あ
中世最大の神学者トマス・アクィナス︵日ゲ。ヨ霧︾ρ⊆冒舘
も禁止されていた。
徹底した平和主義をとり、.メノナイト派やハットライト派はその流れ
諸宗派のなかで福音主義的再洗礼派︵国く雪σq①ぎ巴︾冨げ碧け翼ω︶は
的に追求する平和主義的宗派も存在する。宗教改革によって生まれた
聖書の教えを厳密に受け取り、﹁汝殺すなかれ﹂という戒律を非妥協
西洋のキリスト教徒の多くは正義の戦争を認めていると思われるが、
徳的規欄となりうるということである。
という観念自体に、戦争を抑制する力があり、戦争行為そのものの道
な努力が結実したものである﹂と主張している。つまり、正義の戦争
ハむり
れ、戦争においても正しくあり、敵に信義を守り、むやみに暴力を用
いてはならず、兵士以外の一般市民は戦闘に加われず、聖職者の参戦
基づくものでなければならず、復讐心や権勢欲に動かされてはならず、
を汲んでいる。これらにクエ日照:とブレズレソ派を加えた各宗派が、
ハ 非戦闘員の生命を保護し、聖職者が参戦することはあってはならない
一21一
に渡った。
い、獄死した者も多数でたが、その多くは迫害を逃れアメリカ植民地
因を取り除くために生きることを宣言した。彼らは、苛酷な迫害に遭
﹁内なる光﹂に従って一切の戦争、闘争を拒否し、あらゆる戦争の原
の始祖ジョージ・フォックス︵○①o﹃σQΦ閃。捌 一六二四−九一︶は、
を堅持している。そのなかでも注目されるのはクエーカーであり、そ
﹁歴史的平和教会﹂と呼ばれ、現在にいたるまで戦争に反対する態度
によるものとして認められ、ごく少数を除いて非戦闘業務に服した。
兵役拒否者の数は、約八OOO人であり、そのうち半数は宗教的理由
れ、処刑された者が二三〇誘いた。第一次大戦中のアメリカにおける
れ戦争遂行に関係するという考えから業務を拒み、軍法会議にかけら
が軍隊内の非戦闘業務に就いた場合においても、どのような業務であ
統領命令によって非戦闘業務の範囲も定められた。良心的兵役拒否者
和教会︶に属する者だけに兵役免除を認めており、一九一八年には大
ユ
残りの半数は、申請が却下され、なおも拒否し続けた者は罰金から懲
ハユ
役までの刑罰に処せられた。
良心的兵役拒否の法制化に与って力があったのは、アメリカに渡っ
たクエーカーであった。彼らは、インディアンに対して友好的であり、
第二次世界大戦に際してアメリカでは一九四〇年に選抜徴兵法が制
きく改善された。この法律は約六年半にわたって施行されたが、その
早くから奴隷制に反対したことでも知られるが、ペンシルヴェニアで
自分たちを含むキリスト者の良心的兵役拒否が制度化されることを条
ハむ
件に、賛成投票せざるをえなかった。これは、直接武器をとることは
間に七万数千人の申請者があったとされる。これに違反したかどで投
定されたが、良心的兵役拒否条項は、宗派を問わず﹁宗教的教育およ
しないが、宗教的見地からみて問題のない代替業務に就くことによっ
獄された者は約一万六〇〇〇名でそのうち良心的兵役拒否者は
一七五六年英仏戦争に当たって軍隊をつくる法案が議会に出された際、
て兵役を免れることができることを規定したものである。マサチュー
六〇八六名で、代替業務を拒否したばかりでなく、そもそもはじめか
ら召集に応じなかった者がその過半数を占めていた。そのうち
び信念を理由﹂として参戦を拒む者は申請できるようになるなど、大
セッツ、ロード・.アイランドでも同様の規定が設けられて挙り、
一七七五年に始まる独立戦争の義勇軍募集に当たっても宗教的理由で
ハ 四四一一名がエホバの証者であった。エホバの証者とは、聖書のこと
.ぱを真理と捉え、創造主エホバを唯一の神とみなし、その子キリスト
参戦を拒むことができた。独立戦争期には国民皆兵の徴兵制度はなかっ
たから、歴史的平和教会の自由にも幅があったが、南北戦争︵一八六一
の再臨を説く宗派である。一八八四年にワッチタワーを正式名称とす
心的兵役拒否者に対して戦闘義務を免除し、翌年の参戦に伴って選抜
第二次大戦に際して最も頑強な兵役拒否者となった。
協会﹂︶がピッツバ:グに創設され︵一九〇九年にニューヨーク・ブ
ハヨ
ルックリンに移転︶、伝道の中心になった。彼らは、戦争を認めず、
る芝90げ↓o毛興国匡Φき畠↓鑓9ω09Φ耳︵﹁ものみの塔聖書冊子
−六五︶に際し合衆国史上初めて一八六三年に国家徴兵法が制定され、
六四年に良心的兵役拒否条項も規定された。
徴兵法︵ωΦ一ΦO帥一く① ωΦ二一〇Φ ︾O叶︶が制定されたが、ここでも良心的
イギリスの場合注目されるのは、良心的兵役拒否が必ずしも宗教的
第一次大戦の勃発を契機として一九一六年に国防法が制定され、良
兵役拒否の規定は継承された。世尊では厳密に特定の宗派︵歴史的平
一22一
理由によって行われたのではなく、道徳的・政治的理由による拒否者
ソドを除いて、代替業務が義務づけられている。社会主義国で建国当
︵17︶
徴兵制を断行した。国民の厭戦感情にもかかわらず、政府は徐々に徴
く集まらず、一九一六年越は一八−四一才の独身男性にのみ適用する
意する必要がある。また、カトリック系の国では法制化されている国
侵略行為を宣伝したりする戦争宣伝を犯罪と規定していたことにも留
値や個人の反抗を認めたがらないためであるが、多くの社会主義国で
これは、社会主義のほうが政治体制として一元的であり、多元的な価
兵制を強化していき、既婚の男子を召集し、婦人や老人を労働力とし
が少なく、たとえ法制化されている場合でも、フランスのように遅かっ
ハま
たことに気づく。
初から良心的兵役拒否が法制化されていたのは旧東ドイツだけだった。
て徴用し、この法令のなかに盛られていた良心的兵役拒否条項の調査
これまでアメリカとイギリスの事例を中心に見てきたのだが、良心
が数多く見られたことである。第一次世界大戦に当たりイギリスでは
も厳格にしていった。イギリスでは、徴兵制の制定より以前に徴兵反
徴兵制度がなかったので兵員不足に悩み、当初義勇兵を募ったがうま
対同盟が結成されており、一万人もの会員を擁し、人間の生命を神聖
的兵役拒否は元来宗教的理由によって行われたものだったが、次第に
そのことは法制化の面に現れており、先にも述べたように、アメリカ
なものとし、人を殺すということを否定して、武器をとることを拒み、
一九一八年までに一万六〇〇〇人の徴兵拒否者があったが、その多く
では第二次大戦参戦の前に﹁歴史的平和教会﹂だけでなく、宗派を問
宗教以外の道徳的信条によるものまで認める方向にあることがわかる。
は独立労働党のメンバ:と、クエーカ:をはじめとする平和主義者で
わず﹁宗教的教育及び信念を理由﹂に参戦を拒否することができるよ
あらゆる手段をもって義務兵役の導入に反対していた。実際に
あ、っ腿これらの徴兵拒否は、必ずしも宗教的な理由によるものでは
うになったことに示される。それでも良心的兵役拒否の﹁良心﹂が宗
教的良心に限定されていた点が問題であった。これはヴェトナム戦争
なく、むしろ帝国主義のために戦わされるのを拒否するという理由に
よるほうが多かった。
のとき実際に問題化した点である。たしかに良心的兵役拒否者の多く
.︵19︶
ランド、オランダ、スウェーデンなどで良心的兵役拒否が法糊化して
フィンランド、イスラエル、ノルウェー、オーストラリア、ニュージー
らの国のほかにも、旧東西ドイツ、ベルギー、カナダ、デンマーク、
てやっと実現した。一九五四年に始まるアルジェリア戦争において参
ま
戦よりも投獄を選ぶ若者が続出したことがその引き金になった。これ
争という観念が戦争目的と戦争手段に一定の制限を課すとしても、戦っ
を愛せよ﹂という神の命令と戦時においては相手国民を憎まねばなら
さ
ないという矛盾を鋭く意識してなされた行為である。たとえ正義の戦
れ﹂という戒律と人を殺すことを命ずる戦争との矛盾や、﹁汝の隣人
相対化しうることも明らかである。良心的兵役損否は、﹁汝殺すなか
フランスでは、良心的兵役拒否の法制化は遅れ、一九六三年になっ
いる。最近では、一九九一年六月スイスで国民皆兵政策に終止符が打
ている敵国の兵士が通常の意味で犯罪者ではない以上、彼らを殺すこ
がキリスト者であったことは事実であり、神によって国家への忠誠を
たれ、宗教・倫理上の理由による良心的兵役姫否を容認することが国
とを正当化することには矛盾が残る。また、﹁人を殺してはならない﹂
︵20︺
民投票で決まった。これらの国では、オーストラリア、ニュージーラ
ま 一23一一
というのは日常道徳になっているのだから、良心的兵役拒否の思想的
基盤は何もキリスト教に限定されるのではなく、より広く求めていく
波書店、一九八二年︶第四巻第一五章、三〇〇1三〇二頁参照。
︵5︶F.パーキンソン著、初瀬龍平・松尾雅嗣訳﹃国際関係の思想﹄︵岩
る道徳規範の違い、すなわち二重の道徳基準の存在という矛盾の自覚
より広く求めるとしたら、日常生活と戦争という極限状況とにおけ
︵8︶冨日①ω↓β旨興璃。ゲ諺oP曹鴨き、S§ミ職§貸ミミ偽事禽ミミ。、
︵7︶同右、三一−三二頁参照。
︵6︶﹃良心的兵役拒否の思想﹄、二九頁参照。
波書店、一九九一年︶、八頁参照。
が良心的兵役拒否の基盤になりうるのではないかと思われる。という
ミ無、郎§ミ貸§儀護身、ミ馬暑、§心ミ遷﹂勺憎ぎ88ロ”℃鼠口090ロ
ことができるのではないか。
のも、良心とは自分自身に矛盾しないことであり、戦争というシステ
戦争においては、他人の生命を奪う行動が正しいとされてい置目この
であり、普段は他人の生命を奪う行動が最大の悪とされているのに、
ということが重要だからである。戦争というのは﹁集団的価値倒錯﹂
︵12︶同勢、一二七−一二九頁参照。
︵11︶同右、 一一四−一一五頁参照。
︵10︶同国、四七−四八頁参照。
︵9︶ ﹃良心的兵役拒否の思想﹄、四〇一四六頁参照。
¢多く㊦涜#︽勺器ω9μOcoH℃b◎島・
ような倒錯した論理が戦争の論理であり、そのような矛盾に対する自
︵13︶稲垣真美著﹃兵役を拒否した日本人−灯台社の戦時下抵抗i﹄
ム自体が道徳的に矛盾したものだということをどのように意識するか
覚を日常的に鋭利なものとしていくところに、良心的兵役拒否の普遍
の下で戦争を正当化するのではなく、戦争システムからの人類の解放
︵15︶同右、=二四一=二六頁参照。
︵14︶﹃良心的兵役拒否の思想﹄、一〇六一一一〇頁参照。
︹岩波新書︺︵岩波書店、一九七二年︶、九一=頁参照。
を図っていく必要がある。そのような意味において、良心的兵役拒否
︵16︶﹃朝日新聞﹄、一九九一年六月三日朝刊参照。
的な基盤が見いだされよう。正義の戦争の論理のように、一定の条件
の思想と実践は戦争そのものの存在理由を原理的に問いかけるものだ
︵17︶﹃良心的兵役拒否の思想﹄、一七五頁参照。
一24一
口。﹄︵﹄=一己 H⑩Oc◎︶”薯・卜。刈Hーミ㊤参照︶。
れた︵OoユOoげΦP監Oo昌。。oδ口二〇器O菖Φo江oP旨勲ミ偽0く。ピ﹃Q。.
う特定の戦争にのみ反対する可能性も排除しているという批判がなさ
個人の良心の質を差別しているのであり、また、ヴェトナム戦争とい
は、宗教を信じずにいかなる戦争にも反対する人びとの立場を否定し、
︵19︶現行法の規定が宗教的信条による兵役拒否者しか認めていないこと
︵18︶同右、一八五一一八七頁参照。
といえよう。
︵4︶アウグスティヌス著、服部英次郎訳﹃神の国﹄︵一︶︹岩波文庫︺︵岩
︵3︶同工、二七頁。
︵2︶同県、二三頁。
六九年︶、二二頁。
︵1︶阿部知二著﹃良心的兵役拒否の思想﹄︹岩波新書︺︵岩波書店、一九
注
︵20︶マタイ伝には、﹁あなたがたも聞いているとおり、﹃隣人を愛し、敵
中心人物は、独仏戦争直前のヨーロッパの軍事情勢を視察した山県有
こ
政官の徴兵告諭のなかに﹁血税﹂という字句があることから﹁血税一
朋であった。徴兵令が制定されると、前年=月二八日に出された太
自分を迫害する者のために祈りなさい﹂︵五章四三節︶というイエス
揆﹂と呼ばれる徴兵反対︼揆が一八七三−七四年目明治六一七年︶に
を憎め﹄と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、
のことばが低えられている︵﹃聖書﹄﹁マタイによる福音書﹂、前掲邦
かけて全国各地に起こうている。菊池邦作の﹃徴兵忌避の研究﹄によ
らずに終息したものの、その原因が明治政府に対する人民の政治的不
として血を絞り取られることと早合点して、起こったものは大事に至
いてすべて西日本に起きたが、﹁血税﹂の字句に関して、血税とは税
れば、一揆ば一五回にわたって発生し、秋田県平鹿に起きた騒動を除
訳、新約聖書の部、八頁︶。
︵21︶日本友和会著﹃良心的兵役拒否一その原理と実践ll﹄︵新教出
版社、一九六七年︶、四九頁参照。
︵22︶久野収﹁市民的権利の立場から﹂﹃展望﹄第一六一号︵一九七二年
五月︶、一四頁参照。
大暴動になった。これは、徴兵制が施行されていた一八七三年から
ハ り
満に基づくものはほとんど暴動化し、数万、数十万の農民を巻き込む
地心改正、太陽暦の採用などのほかの改革と同様に西洋の模倣で、中
最も激しい抵抗であり、このようなことが起こりえたのは徴兵制が、
一九四五年の七三年にわたる兵役拒否の歴史のなかで、期間は短いが
近代日本においては良心的兵役拒否を実践した人はわずかだが、一
世以来の兵農分離からの大転換であり、民衆に負担を強いるものだっ
三 近代日本における兵役拒否の態様
方徴兵忌避を実践した人の数は多い。ということは、近代日本の形成
兵制の成立時に厳しい抵抗運動が起こったことにその予兆が見られた。
近代日本における兵役拒否は徴兵忌避に重点が置かれるのだが、徴
抵抗した人はいたということである。
も、徴兵制という強制的な措置に対して徴兵忌避という消極的手段で
反対することが困難な雰囲気も存在したが、そのような状況のなかで
つまり、抵抗精神をもった個人が十分に確立されず、表立って戦争に
国民の厭戦感情を消し去ることはできなかったことを指し示している。
れの手段として広く用いられ、﹁徴兵養子﹂という言葉が公然と使わ
このようなことが起こりえたのである。養子縁組も、合法的な徴兵逃
戸時代であり、その頃はまだ戸籍制度が整備されていなかったために、
実施当初の徴兵該当者満二〇才の壮丁︵成年男子︶が生まれたのは江
当時は戸籍改窟によって徴兵を免れる者も後を絶たなかった。徴兵
の庶民にとっては支払い不可能な代人料を払うことによって徴兵を免
ハさ
除される者がいるなど徴兵の負担が不公平なことへの反発があった。
て三年間の服役期間を伴う徴兵は働き手を奪うことを意味し、大多数
たからである。もっと深いところには、一揆の担い手である農民にとっ
ハヱ
が天皇を中心とした同質的な政治社会を創る方向でなされていき、個
日本における近代国家建設は徴兵制度の創設と一体となっており、徴
れた。田中義一内閣、犬養毅内閣の内務大臣鈴木喜三郎は、代人制度
人の尊厳や権利を普遍化する文化的土壌にも欠けていたが、それでも
兵令が制定されたのは一八七三年︵明治六年︶一月一〇日で、制定の
一25一
廃止後徴兵養子になって徴兵を逃れたが、﹁徴兵忌避を取り締まる警
いう徴兵忌避の風潮が広がることを防ぐには、これ以外の方法を見出
は矛盾なのだが、﹁現役三年の徴兵よりも一年以下の重禁鋼を選ぶと
な徴兵忌避の一例だが、一八七三年施行の徴兵令の常備兵免役概則の
であった﹂ことは皮肉を通り越して滑稽でさえある。これは、合法的
合法化されていった。徴兵免除規定が大幅に縮小・削除された
徴兵令の改正ごとに合法的な徴兵逃れは難しくなり、徴兵忌避は非
ハおり
すことができなかったのである﹂。
おおもとじめ
察の大元締である内務大臣が、合法的とはいえ、みずから徴兵忌避者
ひとつとして養子があげられていたからである。ほかにも、代人料の
一八八五年︵明治一八年︶頃から見られ、八九年︵明治二二年︶の大
へ り
支払い︵一八八三年に廃止︶、生活困窮による徴兵免除、猶予資格の
ら り
ある大学への進学、海外渡航・留学による徴集延期ということなどが
いたる者﹂であり、厳しい罰則にもかかわらず多くの徴兵忌避者が出
︵15︶
又は喜喜し若しくは身体を殿疑し疾病を作為し其の他詐偽の所為を用
になっていった。非合法の徴兵忌避者とは﹁兵役を免れんが辱め逃亡
ハど
改正以降敗戦に至るまで次第に非合法的な手段による徴兵忌避が主流
認められており、一八七五年︵明治八年︶から八四年︵明治一七年︶
にかけてはこれらを利用した、組織的とはいえないが、さまざまな合
ハエ
法的な徴兵忌避運動が主流をなしていたといわれる。
③作為による病気、体力消耗に大別されるが、一番多かったのは逃亡
た。非合法の徴兵忌避の手段は、大体①逃亡・失踪、②身体の殿損、
︵16︶
の第一条で﹁日本帝国臣民にして満十七歳より四〇歳迄の男子は総て
失踪であり、一八九七年︵明治三〇年︶までに四万八五五七人に達し
一八八九年︵明治二二年︶には徴兵令の大改正が行われ、新令はそ
兵役に服する義務あるものとす﹂と定めた。免役については、第一七
ている。そのうち一九〇二年︵明治三五年︶までに所在が発見された
ハコ
ロ
条で﹁兵役を免ずるは廃疾又は不具等にして徴兵検査規則に照らし兵
役に堪えざる者に限る﹂とし、国民皆兵の原則が確立された。兵役制
逃亡者がいた。一九一六年︵大正五年目以降は毎年二〇〇〇人台で、
者は三・五%弱であった。これは累計であり、毎年五一六〇〇〇人の
︵9︾ ︵10︸
度は、常備兵役、後備兵役、国民兵役の三種からなり、常備兵役は満
落選者は一年間予備徴員とし、現役の欠員補充要員とした。予備徴員
ハユ
を終わった者および丙種合格者は国民兵役に編入された。徴兵忌避者
種合格者、乙種合格者の順に抽選を行い、当選者は現役に徴集された。
あった︵ただし、日露戦争後現役期間は二年に短縮︶。徴兵検査の甲
小銃の引鉄を引けないようにしたり、醤油を飲んで心悸昇進させ、心
衰弱を図る方法が用いられ、ほかにも事故を装って右人差指を殿験し、
た。一般には徴兵検査の半年か一年くらい前から近視鏡をかけ視力を
てきている。徴兵検査に合格しないためのさまざまな手段も用いられ
一九三〇年︵昭和五年︶には二〇〇〇人を切り、それ以降も徐々に減っ
は刑罰︵一カ月以上一年以下の重禁重刑に三円以上三〇円以下の罰金
ハ ソ
臓病を装うという方法などがとられた。
二〇歳から現役三年︵海軍四年︶、予備役四年︵海軍三年︶、計七年で
を付加︶に処せられた上に、優先的に抽籔によらずに徴集された。新
もっとも、合法的な徴兵逃れはなくなったわけではなく、徴兵期間
ヘヨ
の短縮または免除を意味した六週間現役兵制度があった。これは、
弱くするとか、検査の数日前から下剤を用い、下痢を起こし、身体の
令は一方、第一九条で﹁公権の剥奪若しくは停止を附加す説き重輕罪
ハヨ
の訊問若しくは拘留中の者は徴集を延期す﹂と定めているから、これ
一26一
●
一八八九年︵明治二二年︶一一月の改正によって発足した制度であり、
るというものである。これは、兵役上の特権であり、実際には六週間
ら国民兵に編入され、引き続き七年間教職にいれば、兵役を免除され
出て小学校の教職に就いている者のみを対象として、六週間服役した
ならない。
かったが、日本の民衆の厭戦感情の強さを表しているように思われて
たのは事実であり、それはもちろん戦争を押しとどめる力にはならな
いを強いられる。近代日本において徴兵忌避のほうが圧倒的に多かっ
う規範的要請から発している側面が強い。徴兵忌避は、消極的でどこ
ハ かに後ろめたい感情を隠している場合が多く、徴兵忌避者は孤独な戦
現役兵は戦争や事変には一人も召集されておらず、当時三年という陸
近代日本における良心的兵役拒否についていえば、判明している事
一九一八年︵大正七年︶まで二九年間続いた。この制度は師範学校を
軍歩兵の服役年限からみても、非常に大きな優遇措置だったといえ
例は少ない。日本における良心的兵役拒否は、キリスト教徒矢部喜好
ハタ
あソ
る。このような優遇措置を政府が講じたのは、軍国主義教育という重
が日露戦争開戦の翌年︵一九〇五年︶、入隊の前日連隊長に﹁汝殺す
なかれ﹂という神の律法に従い参戦拒否をする旨を伝え、若松裁判所
責を教師に負わせる代償措置だったと考えられている。そのため、徴
兵忌避を意識して師範学校に入学した者が、師範学校では軍国主義教
で行ったものであり、組織的な取り組みは見られなかった。一九四一
とし、一五年戦争のときも何例か見られるだけで、それも個人が単独
に回され、徴兵忌避のかどで軽禁固ニカ月の刑に処せられたのを嗜矢
・ ︵紹
押し付けるという矛盾した事態が生じたのである。
育を徹底的に注入され、自らも児童・生徒に対して軍国主義の鋳型を
ハ これらの例からもわかるように、合法、非合法を問わず、徴兵を逃
年︵昭和一六年︶に成立したプロテスタント系の日本基督教団にして
ている。キリスト教徒のなかで宗教的良心と現実との矛盾に悩んだ者
ハ も、戦時下において組織温存のため戦時体制に迎合したことは知られ
れる試みがさまざまな形でなされてきた。徴兵忌避は広範に抱かれた
ヘヨ
民衆感情の現れであり、徴兵制度の網の目をかいくぐる民衆の知恵で
もいることは事実であろうが、それが良心的兵役拒否という形で現れ
もあった。ただ、昭和期にはいり、国民総動員体制の強化と憲兵や特
高警察の活動強化のため、表面に現れた徴兵忌避者は漸減し、満洲事
そのなかでも注目されるのは、兵役拒否の指示が指導者から出てい
たことは少ない。
変のあった昭和六年︵一九三一年︶には大正六年︵一九一七年︶の三
ハ 分の一以下に減っている。また、戦争によるナショナル・ショック、
たわけではないが、ひとつの集団内で良心的兵役拒否の連鎖反応が起
こった灯台社の場合である。灯台社は、ニューヨーク州に本部を置く
心に結成されたキリスト教団で、﹁エホバの証者﹂と呼ばれる宗派で
軍国主義教育、ナショナリズムの高揚によって、好戦的な雰囲気も醸
ハま
成されていったが、それでも徴兵検査が﹁男子一生中最大の厄日﹂で
だったといえるであろう。
ある。灯台社の教義は、聖書中の神エホバをもって唯一の最高至上神
﹁ものみの塔聖書冊子協会﹂の日本支部で一九二七年に明石順三を中
徴兵忌避は﹁死にたくない﹂という人間の自然な感心の発露である
とし、神の子イエス・キリストを全人類に対する唯一の救い主とし、
あることに変わりはなく、徴兵忌避は近代日本の隠された政治的伝統
面が強い。良心的兵役拒否の場合、むしろ﹁人を殺したくない﹂とい
一27一
だという再臨思想を中心にしている。灯台社は、聖書のことばを絶対
キリストによって建設される地上の﹁神の国旨だけが唯一の救いの道
というものがおこらないであろうし、現在の悪の体制下の世では全員
﹁兵士の全員が信仰によって兵役拒否をするようならばそもそも戦争
︵29︶
の真理として受け取り、カトリックの三位一体説を反聖書的で偶像崇
しょうがありません﹂と答えたという。これらは軍隊内兵役拒否であっ
がそういう信仰に生きる可能性も考えがたいので、その間には返事の
ハヨ
ハ たが、明確に反戦の意志表示をした点で良心的兵役拒否といえる。明
拝につながると批判し、自らは教団組織化せず、自発的に集まる団体
として出発した。灯台社の人びとは、神を唯一とし、偶像礼拝を拒否
石真人の場合は、獄中転向し一九四一年に仮出所し世田谷の原隊に戻っ
おり
し、天皇の神性も否定した。この宗派の教義では、﹁戦争は否定され
たが、村本は獄中でも反戦の立場を固持し、兵役拒否を貫いた点で日
心なキリスト教徒で、少年時に洗礼を受けている。一九二九年東京大
があげられる。イシガオサムは一九一〇年八幡市に生まれ、両親は熱
︵石賀修。彼は自分の名前をカタカナ表記していたので、それに従う︶
純粋に個人の示した良心的兵役拒否の実例としては、イシガオサム
本においては稀有な例である。
ヘヨ
るべきものであり、軍人として人を殺すことも、またはそれを援助す
ハおり
ることも、罪であるとされる﹂。
かずお
熱心なエホバの証者である村本一生は一九三八年に召集された。彼
は応召したが、軍隊内で﹁皇居遥拝﹂の最敬礼を行わなかった。不思
ぽさと
議なことに、この行為は不問に付された。順三の長男、明石真人は
一九三九年一月に入隊、その一週間後に﹁自分はキリスト者として聖
も、すぐに叱責せず、翌日営倉入りの処分に付した。彼は、銃器返上
といって、銃を返上した。内務班長はショックを受け、中隊長の大尉
男Φ。。一ω冨冨。ぎ8田舞。口止戦争抵抗者インターナショナル︶の存在を
格であり、兵隊に行かずにすんだ。発病した頃エスペラントを学び初
療養生活を余儀なくされる。一九三三年徴兵検査を受けたが、丙種合
学文学部西洋史学科に入学、卒業後大学院に進むが、肺浸潤にかかり
の意志を変えなかったので、憲兵隊で取り調べられ、一九三九年六月
ハき
一四日軍法会議で懲役三年の判決を受けた。村本は、明石真人の銃器
知る。WRIは、﹁戦争は人道に反する罪悪である。したがって、わ
書の“なんじ殺すなかれ”の教えを守りたいので、銃器をお返しします﹂
ハヨ
返上の知らせを聞き、﹁もはや一刻も神の意に添わぬ軍隊の環境のな
れわれはいかなる戦争をも支持せず、戦争のあらゆる原因を除去する
め、エスペランティストでクエ4カーの文通相手をとおしてWRI︵芝胃
かにいるべきではない﹂と思いつめ、脱走をはかった。順三のところ
ために努力する﹂ことを目的とし、クエーカーとほかにはアナーキス
ハま
に戻ったが、順三の説得で兵営に戻り、﹁脱走未遂﹂のかどで軽営倉
トらによって構成されていた。彼は一九三四年二月に入会した。
︵39︸
われる簡閲点呼にはつねに病気を理由にして﹁不参願﹂を出している。
一九三七年、福岡に戻り、療養生活を続ける。丙種合格者に対して行
け、真人と同日別の軍法会議法廷で懲役二年の判決を受けた。取り調
三日間の処分を受けた。営倉から解放された彼は、﹁私の銃はお返し
ハ します﹂といって、銃器を返上した。村本も、憲兵隊で取り調べを受
べ中、﹁兵隊がみなお育みたいなクリスチャンになって銃を返したら、
ラーゲルレーヴの﹃エルサレム﹄をスウェーデン語から翻訳出版した
ハ あと、一九四二年彼は自らの転機を感じた。長い間の療養生活で彼の
戦争に負けるじゃないか﹂という憲兵もいたが、彼はそれに対して
『
一
点呼の日出席せず、岡山憲兵分隊に自首する。イシガは厳しい取り調
こうという思いが強まっていたのである。彼は一九四三年八月一日、
内部に変化が生じ、これからは社会のなかで自分の態度を表明してい
時に、灯台社は神を撰んだのであり、既成教団の大半は国家権力を神
ハま
よりも上において、その前に屈服したのである﹂といえるが、このよ
威に従ふべし﹀︵ロマ書=二章一節︶という聖句との矛盾に直面した
きなり﹀︵使徒直伝五章二九節︶の聖句と︿すべての人、上にある権
関わる問題でもある。
べを受け、自らの考えを撤回してしまう。家族のことを思い、世間の
目を恐れてのことでもあるが、刑を受けてライ診療所で働こうと決心
むり
し、点呼を受け、看護兵になろうと考えてのことだった。同年一二月
︵8
三日、﹁罰金五〇円﹂という予想外に軽い刑罰を受けた。釈放後一年
一方、徴兵忌避は潜在的なものまで含めれば、かなりの数に上るも
うなことが起こりえたのは、キリスト教の日本における根づき方とも
間女子商業高校で教鞭をとり、その後自責の念から、鹿児島県鹿屋の
のと思われる。ここでは、兵役拒否を良心的兵役拒否に限定してしま
関係するだろうが、一人一人の個人の内面における道徳意識の確立に
ライ療養所﹁堕在敬愛園﹂で看護士見習いとなって働いた。一九四五
自分の行為の不徹底さを恥じ、WRIを退会し、﹁敬愛園﹂で一〇年
ちろん、政治的行為として見た場合、良心的兵役拒否の方が勇気が要
をつけるのではなく、後者をも積極的に評価したいがためである。も
うのではなく、そこに徴兵忌避を含めたのは、両者の問に価値的優劣
間働き続けた。
り、他者に与えるインパクトも大きいことは確かである。しかし、徴
年七月になって応召、福岡の部隊に衛生兵として配属された。戦後、
らタ
これらの例からもわかるように、日本の場合良心的兵役拒否といっ
ゆえに、もっと正当に扱われてよいのではないかと思われる。たしか
兵忌避は﹁死にたくない﹂という人間の自然な感情に基づいているが
の点が欧米における良心的兵役拒否との違いだが、これはもちろん良
に極限状況の政治的行為において死の危険は避けられるものではなく、
ても最初からその意思を明示して、戦争に抵抗したわけではない。こ
心的兵役拒否が法事化されていないことにもよる。しかし、たんにそ
らでもある・日本の場合でもキリスト教の信者のなかから愚的兵役
家の命令に対抗できるような個の確立が十分になされていなかったか
する世間の眼と戦わねばならないからであり、主体の側からいえば国
力が非常に強く、兵役拒否者は兵役に服せざる者を非国民として糾弾
れを平和を求める心性の基底に定位させ、戦争や暴力のない世界を積
かと思われる。このような厭戦感情は逃避的で消極的なものだが、そ
たくもない﹂、﹁無駄死にしたくない﹂ということであったのではない
したがって﹁死にたくない﹂というのは、実際には﹁殺したくも死に
れば死をも含む厳罰に処せられるという覚悟の上でなされたのである。
﹁死にたくない﹂という感情から発した徴兵忌避であろうと、見つか
拒否者がでたが、キリスト教徒総体がそうだったわけではなく、既成
極的に創っていく意識に転化させていかねばならない。
れだけのことではなく、客体の側からいえば、日本社会では同調化圧
のキリスト教団は、天皇制とも戦争とも対決しなかった。むしろ異端
とみなされた灯台社の人びとのなかから拒否者がで、組織的な基盤を
もつ教会勢力は現実に妥協的であった。﹁︿人に従はんより神に従ふべ
一29一
抗・反乱一﹂﹃みすず﹄第六六号︵一九六四年一一月︶、 一〇頁、
︵17︶同右、二八六頁参照。
﹁西人之を稻して血税と云ふ其の生血を以て國に報ずるの謂なり﹂と
﹃徴兵令﹄、一一〇頁参照。さまざまな兵役拒否の実例については、
︵18︶菊池邦野景﹁天皇制下の軍隊における異端−徴兵忌避と兵士の反
いう箇所がある︵﹃明治五年法令全書﹄内閣官報局刊、四三三頁一法
﹃潮﹄第一五八号︵一九七二年九月︶の﹁日本人の兵役拒否と抵抗の
︵1︶一八七二年︵明治五年壬申一一月二八日︶の徴兵告諭のなかには
令の文中のカタカナ部分はひらがなに書き改めた。以下め引用でも同
体験﹂のなかの﹁︿いかにして私は徴兵・兵役を逃れたか﹀一一〇〇
時代東北などに見られたくロペらし﹀のための兵隊志願者の除き、全
︵23︶菊池邦作は、﹁極言すれば、少数の職業軍人志望者および農業恐慌
︵22︶同右、四七〇1五〇三頁参照。
︵21︶同右、四七〇頁参照。
︵20︶ ﹃徴兵忌避の研究﹄、四六六頁−四六七頁参照。
法令全書﹄第一一号、一四四頁参照。
︵19︶明治二二年法律第二九号︵明治二二年一一月=一日︶﹃明治二二年
人の証言﹂、︵一二八一一九八頁︶参照。
じ︶。
︵2︶菊池邦作著﹃徴兵忌避の研究﹄︵立風書房、一九七七年︶、一一ニー
一一四頁参照。
︵3︶同右、 一一四頁参照。
︵4︶E・H・ノーマン著、大窪悪二言﹃日本の兵士と農民﹄︵岩波書店、
一九五八年︶、七七−七八頁参照。
︵5︶大江志乃央著﹃徴兵制﹄︹岩波新書︺︵岩波書店、一九八一年目、
六九頁。
︵6︶徴兵令、第三章常備兵免疫概則、第一一条、﹃明治六年法令全書﹄
といえる。少なくとも一人として兵隊にゆきたいなどと考える者はい
国数十万以上に上る当時の壮丁のことごとくが、徴兵忌避者であった
︵7︶ ﹃徴兵忌避の研究﹄、一一〇頁参照。
なかったと断言しても決して不当ではないと思う﹂とさえ述べている
︵内閣官報質置︶、七一〇頁。
︵8︶ ﹃明治二二年法令全書﹄︵内閣官報局刊︶、法律第一号、一頁。
︵同右、三七九−三八0頁︶。
人の徴兵忌避を語るのは、タブーではない。、でも、よしたほうがいい、
︵25︶ ﹃徴兵忌避の研究﹄、三二四頁。
﹃徴兵忌避の研究﹄、一一〇1一一一頁参照。
うっかり口を滑らすと、非難の矢が射こまれてくる﹂と述べている
﹃明治二二年法令全書﹄、法律第一号、三頁。
﹃徴兵令﹄、一〇八頁︵明治二二年の徴兵令第二二条に基づく規定︶。
︵宗左近著﹃縄文まで﹄︵筑摩書房、一九八二年中、二二九頁︶。
︵26︶たとえば、宗左近は、﹃縄文まで﹄のなかで﹁敗戦までの自分と知
﹃徴兵忌避の研究﹄、二七八頁参照。
﹃徴兵令﹄、 八 五 頁 。
−﹂、一一頁参照。
︵以︶ ﹁天皇制下の軍隊における異端i徴兵忌避と兵士の反抗・反乱
︵9︶同右、三頁。
︵10︶ ﹃徴兵令 ﹄ 、 八 三 頁 参 照 。
15 14 13 12
︵11︶同右、八三一八四頁参照。
) ) ) )
一30一
注
16
)
︵27︶ ﹁︿いかにして私は徴兵・兵役を逃れたか﹀一一〇〇人の証言﹂の
なかの矢部春の手記、一八七−一八八頁参照。
局にこれが出されたことをほんとに神の恵みと感じるとともに、この
恵みをいたずらにうけることなく、神の前に正しい歩みをとらなくて
た﹂と述懐している︵イシガオサム﹁憲兵と兵役拒否の問一神を信
はならないと決意をあらたにした。それは当然召集拒否を意味してい
教団の責任についての告白﹂︵一九六七年三月二六日︶鶴見俊輔編
じて生きるよろこびについて﹂﹃文芸春秋﹄一九六六年三月号、
︵28︶日本基督教団総会議長鈴木正久著﹁第二次大戦下における日本基督
﹃平和の思想﹄︹戦後日本思想体系4︺︵一九六八年、筑摩書房︶所収、
二五六頁︶。
︵41︶ ﹃戦争拒否111人の日本人﹄、八六−八七頁参照。
三〇七−三〇八頁参照。
︵29︶ ﹃兵役を拒否した日本人−灯台社の戦時下抵抗1﹄、二四頁参
︵42︶イシガの場合、﹁良心的兵役拒否が、罰金でいわば認められたとこ
ろの稀有の例だったといえよう﹂︵﹃良心的兵役拒否の思想﹄、一六二
照。
︵30︶園山、二九−三二頁参照。
頁﹀。
=一四頁。
︵44︶ ﹁灯台社の信仰と抵抗の姿勢一明石順三と﹃黄金時代﹄ll﹂、
︵43︶ ﹃戦争拒否一11人の日本人﹄、八八頁参照。
︵31︶同右、三二頁参照。.
︵23︶佐々木敏二著﹁灯台社の信仰と抵抗の姿勢−明石順三と﹃黄金時
代﹄1﹂同志社大学人文学科研究所編﹃戦時下抵抗の研究ーーキリ
スト者・自由主義者の場合lI﹄︵みすず書房、一九六八年︶所収、
一二四頁。
︵33︶ ﹃兵役を拒否した日本人−灯台社の戦時下抵抗Il﹄、八一頁参
照。
︵34︶同右、七八−八六頁参照。
︵35︶同右、八七頁。
︵36︶同右、八九頁参照。
︵37︶同右、九一一九二頁参照。
︵認︶同右、一五五頁参照。
︵39︶山村基毅著﹃戦争拒否1111人の日本人﹄︵晶文社、一九八七年︶、
七一頁参照。
︵40︶イシガはのちに、﹁四二︵昭一七︶年の末に﹁エルサレム﹂第一部
の出版を見ると、十年来親のすねをかじってきたわたしは、いまの時
一31一
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