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大江健三郎の時間意識

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大江健三郎の時間意識
大江健三郎の時間意識
−神話的思考と歴史認識の基底にあるもの
蘇 一一
1、はじめに
時間は空間とともに世界認識の基本形式である。私たちは宇宙・世
界や自然などを中心として見るか、認識の主体としての人間を中心に
みるか、あるいは人間と世界・宇宙との関係から見るかによって様々
な概念規定を行っている︵例えば、物理学における客観的・科学的な
時間、哲学側の観念的解釈、心理学の主観的な解釈など︶。しかし、
ここでは時間の発生や意味、属性など、時間概念をめぐる歴史的な考
察をするつもりはないので、時間に対する観念の類型と変遷について、
その大まかな流れだけを確認する。今日においても宗教や地域などに
よって独特な時間感覚を保っている社会も存在しているし、人類の発
展史とともに時間観念も同じ方向へと変化してきたとは言えない。が、
,時間認識における四つの対照的事象i量/質、可逆性/不可逆性を両
直線的時間︹四︺
近代社会
円環的時間︹二︺一 ヘレニズム
量
極とする二つの軸を横断させたところに生じる時間は、次の通りであ
る。一
終末論的時間
ヘブライズム
線分的時間︹三︺
不可逆性
質
反復的時間︹; 原始共同体
ギリシャ的時間
可逆性・
原始共同体における無限反復の時間は太陽の運行や季飾の瞬間など
が時間把握の基準となり、また自然の巡りや天体の動き自体が時間そ
のものでもある。ヘレニズム文化においては、時間には始まりも終わ
りもなく、周期的に循環するものとされる。そこでは時間というもの
も自然の回帰性や循環性と同じく、環を描くように運動すると見なさ
れた円環的時間観が生まれる。ヘブライズム文化の時代になると、円
環構造のギリシア的時間観と対立しながら世界には始まりと終わりが
あるとするキリスト教的時間観が登場する。時間は天地創造と終末と
いう出発点と終着点を持つ線分であり、世界は終末に向けて直進する
ものとされる。一方、自我に目覚める近代になると、例えばニュート
ンの力学などの物理学の成果もあり、この宇宙には絶対的時間と絶対
的空間が存在し、時間は太古から無限に延びてくる直線だと認識され
る。その後、アインシュタインの相対性理論によって絶対的な時間は
否定され、新たに時間と空間の本性が分析されるなど多様な展開を繰
り返してきた。このように科学的・宇宙論的見地だけではなく、哲学
的思索も絶え間なく続いてきたが、今日の私たちが一般的に感じ取っ
ている時間は直線的な一一である。
カレンダー的な時間の世界に住んでいる現代人にとっては、時間に
は過去・現在・未来の三つの位相があり、過去から現在へ、また現在
から未来へと流れてくるとされる。旧記の時間、暦的な時間は直線的
な時間であり、歴史記述の対象となっているのも直線的な時間である。
言神による宇宙創生という始まりの地点と破滅という終わりが想定され
ている線分的な時間とは違って、直線的な時間意識は時間そのものが
世界や宇宙とは独立に存在し、均質な時間が無限に進んでいると見な
される。
大江健三郎の小説は、現在から過去へと遡及していく時間構造を呈
示している。現在の時点から記憶と回想.のメカニズムを介して、過去
のある時点︵第二次世界大戦の末期、敗戦の日などの幼年時代、文壇
デビュー当時など︶に立ち返って現在を語るというサイクルを繰り返
一9一
しながら物語を展開していく。文学作品は直線的時間という現実の時
間︵作品外の時間︶に拘束されない自由な時空間を創出することが可
能な世界ではあるが、大江が創り出しているのは神話的なものである。
本稿では、現代の核時代という危機・混迷状態を乗り越える方途とし
て、想像力の発揮を促している大江が、神話的想像力に基づく創作活
動、つまり神話的思考へ傾倒していく際の道程を時間意識の変化を通
して考察する。そうはいっても、大江の時間意識がどれほど哲学的な
意味を持つのかを確認するのが目的なのではない。論者が時間意識に
注目するのは、︿神話形成﹀という文学的戦略は、大江の現実認識や
歴史認識に深く関わってくると見ているからである。大江の創作を六
〇年代後半から始まる︿神話形成﹀の時期を中心に大きく分けてみる
と、五七年のデビュー当時から一カ年間︵1︶、六〇年代後半から八
○年代前半︵H︶、八○年代以後半から現在まで︵皿︶、と三つの時期
として考えることができる。本稿では、1からnと皿︵︿神話形成﹀
的創作態度を示している時期︶へ至るまでの時間意識の変化と神話的
時間を成立させる要因について考える。そして神話的思考によって表
出されている歴史認識についても併せて考えてみたい。ただし、Hと
皿は同じくく神話形成V的時期とはいえ、構築されている神話の世界
は必ずしも同一のものとは見なされない要素がある。二つの時期にお
ける異質の面についてはいずれ明確にしなければならないだろうが、
八○年代以降の︿神話形成﹀がどのように転調されていくのかについ
ては別のところで論じることにする。文学的手法の変化という外面的
・形式的な面からではなく、より深層的な時間意識という側面から︵1
からH・皿への移行の道程を︶の考察が、Hと皿の時期における神話
世界の異質の要因を探ることにもつながってくることを予想しつつ、
本論を進めたい。
2、死に対する恐怖−直線的時間意識
第−期の小説内の時間を特徴づけているのは直線的な時間感覚であ
る。その具体的な様相を﹁セヴンティーン﹂︵﹁文学界﹂六一.一︶を
通して見ておこう。六〇年代の政治的状況を背景にしているこの作品
は、家族からも学校の仲間からも孤立無援な十七歳の少年が、皇道派
に帰依することによって自己の存在感を回復する過程が描かれている。
少年の死に対する極度の恐怖に直線的な時間構造が現れる。
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ も ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
おれは暗闇になれた眼がおれの船室のガラクタの形と影に幽霊を見
出すのを惧れて眼をつむったまま、眠りの恐怖がちかづいてくるの
を怯えて待っていた。眠りにおちいるまえにおれは恐怖におそわれ
るのだ。死の恐怖だ、おれは吐きたくなるほど死が恐い、ほんとう
におれは死の恐怖におしひしがれるたびに胸がむかついて吐いてし
吏かのだ。齢か於恐い殆ば、ごの懸い生の齢ど、脅億年な沿ねがナ
ひど無倉見でゼ津で耐沁なげ沁ばな㊧ない、どいかごどだ。ひの世
へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ も ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
界、この宇宙、そして別の宇宙、それは何億年と存在しつづけるの
に、診沙ばぞのかいだずつどゼ功なのだ、永遠に!拾沁ば沿か0
へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ぬ へ も ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
死後の無限の時間の進行をおもうたびに恐怖に気絶しそうだ。おれ
は物理の最初の授業のとき、この宇宙からまっすぐロケットを飛ば
した無限の遠.くには︽無の世界︾がある、いいかえれば︽なにもな
てしまった。、︵傍点は引用者︶
い所︾にいってしまうのだということを聞かされ、そのロケッドが
結局はこの宇宙にたどりつくのだ、無限にまっすぐに遠ざかるうち
に帰ってくるのだ、というような物理教師の説明のあいだに気絶し
少年は死後の自分の在り方、つまり死後の世界を想像し恐怖の虜に
なっている。広井良典によれば、死には﹁別れとしての死﹂と﹁無と
しての死﹂の二つの側面がある。他者との関係における死が﹁別れと
しての死﹂であるなら、他者とは関係を持たない﹁﹃死そのもの﹄と
私との関係﹂における死は絶対的な﹁無としての死﹂である。、死後の
世界が絶対的な無の世界と捉えることができるのは、自分との究極的
な別れとしてである。宇宙全体の中で自分の生と死はどのような位置
にあり、いかなる意味を持つのかを考えめぐらす少年の死生観とも言
える。まず、少年は死んだ後の世界を信じている。死後の世界は﹁な
にもない所﹂、﹁無の世界﹂として字義通りに何も存在しない世界であ
一 10 一
るが、生の世界とは違ヶものとして存在していると信じられているの
は確かである。そして少年が死んでも時間は止まらず無限に進行する。
その﹁無の世界﹂で無限の時間を過ごさないといけないことに恐怖し
ているのである。↓紅玉九年書き下ろしの﹃われらの時代馳において
も同じく雍に対する恐怖が描かれている。生きる希望も自殺する勇気
もない二十四歳の青年は死を次のように考えている。
死は空を荒れ狂う嵐だ、地上のすべては死の影にくろずんでおびえ
ている。死が夢のなかにも影をおとして眠っている青年をさいなむ。
死が象徴されている夢だ、いまおれが見ている夢、幼い時分から絶
望的な恐怖におののきながらくりかえし見てきた夢、その意味は既
にわかっている、死だ、宇宙のはるかな遠方、暗黒のなかに存在し
ヘ ヘ ヘ へ へ
ている小さな遊星、それへかれ︸人だけが連れて行かれる。,︵ゴシ
ッ ク 体 と 傍 点は原文V
ここでは、死の世界は﹁宇宙のはるかな遠方、暗黒のなかに存在し
ている小さな遊星﹂として認識されている。死後の世界はただ﹁無の
世界﹂ではなく、この世界とは別様に存在している。死後の世界が絶
対的な無の世界だという理解や、宇宙の中で︸つの遊星として存在す
るという意識は無と有として異なっているように見えるが、時間が宇
宙や世界とは独立に存在するという認識においては湿雪するものであ
る。死後の世界が無であれ、遊星であれ、直線的時間意識である点に
おいては変わりないのである。、少年にとって時間は始まりも終わりも
なく直進しており、自分の死後も無限に続く。死んだ後も続くだろう
その時間に対する恐怖が死を恐れる原因である。では、死後の世界に
対する恐怖から解放されるためにはどうすればいいのか。
石や樹は不安がなく、不安におちいることがきでない、おれは私心
を棄てることによって天皇陛下の石や樹になったのだ、︵誌略︶そ
うだ、そうだ、忠とは私心があってはならない、私心をすてた人間
の至福が忠なのだ! しかもおれは不意に、死の恐怖からまぬがれ
ているのをさとった、おれはあれほど絶望的に恐れおののいた死を
いまやまったく無意味に感じ、恐怖をよぴさまされなかった。おれ
が死んでもおれは滅びることがないのだ、おれは天皇陛下という永
遠の大,樹木の一枚の若い葉にすぎないからだ。おれは 永遠に滅び
ない! 死の恐怖は克服されたのだ! ああ、天皇よ、あなたには
わたしの神であり太陽であり、永遠です、わたしはあなたによって
真に生きはじめました!,
それは人間の時間に比べてゆったりとした時間が流れるように見え
る自然︵樹木︶の一部に帰依することである。少年にとって吐き気を
もよおすほどの死の恐怖から解放される唯一の道は、﹁大樹木の一枚
の若い葉﹂、つまり、一つの系統が永遠に続く﹁万世一系﹂の皇統に
合一させることである。自然の時間に回帰することは、直線的に流れ
る現実の時間から超越し、﹁永遠﹂という超時間性を得ることを意味
する.直線的時間を生きる有限の人開存在が永遠性・永続性・絶対性
を追求する態度そのものとして考えられる。このように初期の作品に
現れる時間意識を整理してみると、始まりも終わりも明示されないま
ま無限に続く時間、死後も個の死とは関係なく続く時間、その時間︵死︶
に対する恐怖、死の恐怖から逃れるための超越的な時間を求める、直
線的な時間意識を呈示していることがわかる。ところが﹃万延元年の
フットボール﹄︵﹁群像﹂六七・↓∼七︶における時間意識は、第−期
のそれとは一線を画している。近代が始まろうとする時期の一山村の
,三所家を中心に百年間の歴史を問い直しているこの作品では、埋もれ
っている。その時、根所詮の兄弟にとって時間とは﹁現在する過去︸、
ている規在の可能性を過去に見出し、過去を掘り起こして再解釈を行
﹁過去する現在﹂のように可逆的で反復可能なものである。︵大江の
作品の中で︶歴史意識が出てきた最初の作品として評価された、﹃万延
元年のフットボール﹄は、歴史認識における独特な時間意識として注
目に値する。
3、﹁現在する過去﹂、循環する時一円環的な時間意識
一 11 一
ある。
次の引用は、﹁蜜三郎H僕﹂が万延元年の︸揆の指導者である曾祖
父に自己同一化し﹁百年を跳びこえて万延元年の梱揆を追体験﹂しょ
うと企画し、肉体訓練に励んでいる﹁鷹四﹂の姿を眺めている場面で
この一秒間のすべての雪片のえがく線条が、谷間の空間に雪の降り
しきるあいだそのままずっと維持されるのであって、他に雪の動き
はありえないという不思議な固定観念が生れる。一秒間の実質が無
限にひきのばされる。雪の層に音が吸収されつくしているように、
時の方向性もまた降りしきる雪に吸いこまれて失われた。懸葎ナ冷
﹁時﹂。素直で駈げでい澄鷹西ば、曾祖父の弟でみか、優の弟だ。
費年附のか恭での瞬面がごの一瞬附にびひレか酷な伊でいる。,︵傍
点は引用者﹀
﹃万延元年のフットボール﹄の﹁谷間の村﹂は百年間の時間︵歴史︶
が村の隅々まで充満している。死者と生者がともに息を吸っている空
間である。百年を生きてきた根所志の人は、﹁過去﹂という時間の中
に消えてしまうのではなく、﹁現在﹂を浮遊している。百姓一揆の指
導者たる曾祖父兄弟、アジア主義を標榜、アジアの国々を侵略した時
期、満州で得体の知れぬ仕事をして原因不明の死を迎えた父、第二次
世界大戦の時、出兵し戦死した長兄、敗戦後予科練から復員してきて
は朝鮮人部落を襲撃し、撲殺されるS次、六〇年安保闘争の時、学生
たちの政治行動に参加したが、転向してアメリカを転々した後﹁谷間
の村﹂へ帰郷し自殺する鷹四、これら.根所葬の死者たちは﹁あらゆる
時代に遍在する﹂。それは現在に遍在する過去であり、過去も現在も
区別されずひとまとまりの時間となっている。カッシーラーによれば、
神話の時聞は﹁終わりが始めであり、始めが終わりであるような時間﹂
であり、﹁一種の永遠﹂であるような時間である。抑凶状の運動のよう
に無限反復する時間があるだけである。したがって、神話的思考にお
いては、﹁時間を過去、現在、未来という、超然と分類された諸段階
に切りはなすやり方は、いわば維持されえない。神話的意識は絶えず
こうした差異を均し、のみならず最終的にはその差異を完全な同一性
に包みこもうとする傾向と誘惑にかられている﹂。“﹁僕﹂にとって時
間は=人の一揆の首謀者があらゆる時代に遍在する﹂場所として捉
えられている。つまり、﹁僕﹂は線条的に流れる時間を物質化・空間
化された時問として捉え、過去・現在・未来という時間の位相を解体
していくのである。
一方、村共同体が毎年行っている門御霊祭﹂と﹁念仏踊り﹂を通し
ても、直線的な時間を逸脱し、過去と現在を往復するような時間構造
を確認することが出来る。現に生きている者が遠い過去の死者に扮装
し、死者の生きた時代を再現することによって、過去と現在の境界は
無化される。﹁御霊﹂が甦る瞬間を祭りの気分で経験する村人は、生
と死を繰り返す神話の時間を生きているのである。
原初的な神話的思考の捉える死は、けっして霊魂と身体との明確な
分離、その﹁切りはなし﹂を意味しない。すでに以前に示したよう
ヘ ヘ へ
に、生と死とが置かれている諸条件のこうした分離、それらの明確
な対置は神話の思考様式に矛盾するものであり、神話にとっては両
者の境界はあくまで流動的なものなのである。こうして、神話にと
へ
っては死もまたけっして存在を無化するものではなく、別の存在形
式への移行にすぎない、iしかも別の形式そのものも神話的思考の
基本的−根源的位層では、これまた一貫して感覚的な具体性をもつ
ものとしてしか考えられないのである。死者もまた依然として﹁存
在している﹂のであり、その存在は物理的なものとしてしか捉えら
れないし、物理的にしか記述されえないのである。死者が生者と比
べるとカない影のように見えるとしても、やはりこの影はまだ完全
に現実性をもつている。こうして、死者は姿形や特徴においてだけ
ではなく、その感覚的−身体的要求においても生者に似ているので
ある。驚︵傍点は原文︶
﹁御霊﹂として迎えられるのは、万延元年の一揆を指導した曾祖父
の弟、朝鮮人部落襲撃で死んだS次と朝鮮人部落の娘などの、奇怪な
一 !2 一
死をとげた過去の人物たちである︵鷹四の自殺後には分陰も御霊に加
わる︶。この﹁谷間の村﹂は死が存在の無医ではなく、﹁別の存在様式﹂
として捉えられる、生と死、過去と現在が流動的な空山である。
レヴィロストロースが、オーストラリア原住民の諸部族の儀礼を三
つに分類しているシャープの理論を借りて共時態と通時態の矛盾を統
一する体系を作る﹁野生の思考﹂を説明しているところをみると、神
話時代の﹁神聖祥福の雰囲気﹂を再現する﹁記念儀礼︵歴史儀礼︶﹂、
﹁生者であることを止めた人間を祖先に逆転換﹂させる﹁喪葬儀礼﹂、
そしてこの二者をプラス・マイナスして恒常性と周期性を維持する﹁調
節儀礼﹂の三つに分けている。ロ儀礼は﹁全世代の生者と死者とを﹃連
接的﹄過去﹂につなげる役割をしている。﹁記念儀礼﹂︵過去←現在︶
と﹁喪葬儀礼﹂︵現在←過去︶は過去を現在に持ち込み、逆に現在を
過去に送り込むことで遠い神話の世界を生きている。﹃万延元年のフ
ットボール﹄における﹁御霊祭﹂とは、自殺する鷹四まで﹁御霊﹂と
して祭られるように、生きることを止めた生者を祖先へ回帰させる﹁喪
葬儀礼﹂である。また毎年のお正月に行われる﹁御霊祭﹂は周期的・
循環的時間を表しており、日常の直線的時間から円環的時間に身を入
れる瞬間である。周期的行われる儀礼は﹁現在化された神話的時間を
無再現に利用すること﹂を意味する。くりかえされる際の時間は、現
在化され、遠い過去の時間も再現される。この反復は﹁神々や祖先の
神話的な時を創始する効果をもつ﹂のである。M
か離れて、生息ッチャンと妹は草を採んでいる。そしていつのまに
か僕もまた、ギ三兄さんの脇に寝そべっているし、ピカリとオユー
サンも草採みに加わった様子だ。陽はうららかに楊の新芽の淡い緑
を輝やかせ、大檜の濃い緑も夜来の雨に新しく、洗われて、対岸の
山桜の白い花房が揺れている。時はゆっくりとたつ。威厳ある老人
ヘ ヘ ヘ へ も ヘ ヘ へ し ヘ へ も ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ も ヘ へ
があらわれて、何ぞかくとゴまるや、走りで山にゆきて稼を去れ、
ざひナば神汝等にみ齢ばねたまばじ、とわれわれを叱りつけるので、
とるものもとりあえず、急いで大檜の根方に向けて走り登るのだが
:・⋮ 時は循環するようにたち、あらためてギ二心さんと僕とは草
原に横たわって、玉野ッチャンと妹は青草を採んでおり、娘のよう
なオユーサンと、幼く無垢そのもので、障害がかえって素直な愛ら
しさを強めるほどだったヒカリが、青草を謹む輪に加わる。陽はう
ららかに楊の新芽の淡い緑を輝やかせ、大胡の濃い緑はさらに色濃
く、対岸の山桜の白い花房はたえまなく揺れている。威厳ある老人
は、再びあらわれて声を発するはずだが、すべては循環する時のな
かの、秘やかで真面目なゲームのようで、急ぎ駈け登ったわれわれ
は、あらためて大檜の島の青草の上に遊んでいよう⋮⋮
ギi兄さんよ、その懐かしい年のなかの、いつまでも循環する時に
生きるわれわれへ向けて、僕は風通も導通も、手紙を書く。この手
紙に始まり、それがあなたのいなくなった現世で、僕が生の終りま
で書きつづけてゆくはずの、これからの仕事となろう。、 ︵傍点は
このような可逆的・反復的な時間が語り手の内面を通して表象され
る代表的な作品として﹃懐かしい年への手紙﹄︵一九八七︶がある。
個としての根拠地、超越的な世界のモデルとして人造湖を造ろうとし
た﹁一一兄さん﹂が反対派によって殺される。水に浮かんで発見され
た﹁ギi兄さん﹂の遺体を﹁オセッチャン﹂と﹁僕﹂の妹が引き揚げ
るが、引用のところは﹁僕﹂によって﹁ギー兄さん﹂の死を回想する
ものである。
自ら造った煉獄のモデルの島で﹁ギi兄さん﹂の魂が浄化される瞬
間、その瞬間は季節のめぐりのように﹁いつまでも循環する﹂。﹁ギー
兄さん﹂の魂が地獄と煉獄を経て、天国へ昇っていく過程、またその
過程を自分の死と再生を重ねてみる﹁僕﹂にとって、時間は円環的な
大江は普遍的な原型や神話的シンボルなどを媒介にして、過去と現
在とを同一の相において眺め、現代に神話的な喚起力を呼び起こそう
とする。これが、直線的な時間を生きている現代人に想像力を喚起さ
原文︶
小説の最後の部分である。
ギ!兄さんよ、僕はこのシーンにかさねて、その朝のテン窪大凶の
島の眺めを思うのだ。ギi兄さんは草原に横たわっている。いくら
一ユ3∼
をもたらすための異化装置であることは明らかであろう。﹁物語の直
リアリティを支える軸として沈殿する。盟
係性であり、少なくともその限りにおいてしか、それは生きている
ことができない。それは信仰と儀礼をとおしてくりかえし現在化さ
れる行為のなかで、数多くの歴史的時間を垂直につらぬきながら、
ヘ
ヘ
へ
ヘ
ヘ ヘ
幾重もの倍音をもつ暗喩的同一性のひとつの次元を、共同体の生の
として不断によみがえらせる信仰を失ったときに、それはたんなる
史料か語り草にすぎない。神話の本質は、過去と現在のあいだの関
せるための、﹁従来まで自明とされていた事柄に対して根源的な変質﹂
線的・継起的展開とか、人間の性格の一貫性や統一への期待とか、人
間の精神的発展の因果律的な関係への信頼とかいった、従来まで自明
とされていた事柄に対して、根源的変質をもたらすような手法上の変
革﹂挿という﹁神話的方法﹂は大江文学においても当てはまる。神話的
らの理論を踏まえて、﹁現実と神話とのあいだの関係をめぐる観念﹂︵腫
﹁神話それ自体を位置づけする神話﹂︶、すなわちメタ神話も同じく通
間の関係性に見ている。暗喩的記号として多様な意味を呈示してくれ
ることこそが神話の機能である。真木は、神話の時間性を通時のこと
ばによって語られる共時的な構造としてとらえているケネス.パーク
真木は神話の本質を第三の時間、つまり過去と現在、神話と現実の
ヘ ヘ ヘ
ヴィジョンを作りだすための仕掛けとしては、この他にもHとm期の
作品の中で繰り返し語られる﹁魂の離陸﹂πと両性具有の神話などがあ
る。﹃燃えあがる緑の木﹄三部作では両性具有の﹁サッチャン﹂が登
場する。﹃同時代ゲーム﹄では、﹁壊す人﹂を中心とする土地の神話と
歴史を書く者である﹁僕﹂と、﹁壊す人﹂の巫女とされる妹という双
子の兄弟が、男女両性を具有した一人の人間のように描かれている。旭
両性具有の神話は﹁反対の一致﹂、﹁全体性﹂を希求する人間の精神の
そこにある。
表出、つまり、人間の﹁分割のない全体としての究極の実在.﹂、﹁原初
直線的時間に生きている大江が作品の中で創出している神話はメタ
神話である。そのメタ神話を通して過去と現在の関係性を追究してい
ると言える。原初の時間に戻る、復帰する、再現するという理念の時
間意識、つまり円環的な時間意識が過去中心的であるように、メタ神
話を創り出すことも、現在と未来より過去に目を向ける過去中心的態
度だと言える 歴史学者の研究対象が過去であるとはいえ、その志向
するところは未来である。ミンコフスキーが﹃生きられる時間﹄で、
生の本質は未来に方向付けられており、過去の出来事や記録などは﹁生
きられる時間﹂の分析においては二次的なものにすぎないといい、過
去より未来を優先に取るべきことを述べている。彼によれば、未来は
過去から汲み取った認識が過去の延長線上に投影・反映されるところ
に未来があるのではなく、未来は生命の躍動によって開かれる。人間
る。神話的時間が近代以後の社会においても力を及ぼしている所以も
の状態﹂へのノスタルジアである。四循環する魂﹁魂の離陸﹂という村
独特の死生観や球形の両性具有乃のシンボルなどによる神話的ヴィジョ
ンは円形的時空間を構築していく。このように神話的思考を創作方法
として捉えている大江における時間は、現在から過去へ、また過去か
ら現在へと逆行可能なもの、反復的・円環的時間、永遠回帰の神話的
時態の言語によって語られるものだとし、機能面においてはメタ神話
も神話と同じであると見ている。神話とメタ神話は﹁現実の歴史性を
もって流れる時間の総体を、神話の共時性のうちに吸収する﹂箆のであ
時間である。
4、時間意識と歴史認識
真木悠介は神話的世界における時間には、三つの時間があるとする。
すなわち、私たちが生きる現在、神話そのものの中の時間︵過去︶、
神話的過去と現在の間の距離としての時間である。三つ目の時間とは
測定も分割もできない時間であって、時間というより﹁記号論的な関
係﹂として表れ、極めて暗喩的だとする。親
神話がひとつの共同体の生のリアリティをささえるカは、神話的過
ヘ ヘ ヘ へ も へ
程そのもののカではなく、神話的過去と現在とのあいだにある、こ
の暗喩的同一性のカに他ならない。神話的過去を、現在の生の意味
一 14 一
の﹁活動性と期待、欲望と期待、祈りと倫理的行為﹂という現象は﹁生
きられる未来の基礎を構成﹂するという。餌生命の躍動のうちに未来を
含んでいることを意味する。このように﹁生きられる時間﹂のような
未来優先・未来中心の考え方はヘーゲルやハイデガーなどと同じく未
来 志 向 的 な 時 間 意識と言える。
一方、ミンコフスキーの表現を借りると、真に生きられた時間は過
去であり、過玄にこそ歴史の鍵があるとする歴史哲学者としてベンヤ
ミンがいる。ベンヤミンによると、私たちの世代には、かつての諸世
代との﹁秘密の約束﹂、つまり抑圧された過去からの﹁救済︵解放ご
という使命感が与えられている。歴史の対象となるのは過去であり、
その時の過去は、さっとひらめく一回限りのイメージとして存在する
とされる。一瞬のひらめきのような過去は、﹁危機の瞬間﹂として捉
えるときにこそ真なる過去となり、﹁支配階級に加担してその道具に
なってしまう﹂危機から逃れることができる。そこでベンヤミンは、
歴史的唯物論者は歴史主義の歴史記述者の﹁勝利者への感情移入﹂と
いうやり方を止揚し、ある時代の勝利者に対して﹁距離を保った観察
者﹂として﹁歴史を逆撫でする︸ことを目指すべきことを提案する。%
ベンヤミンにとって、未来構想や自己の現存在の成就は問題ではな
い。彼がいうように、希望は他者たち︵過去の死者たち︶のために
あるのであって、現在のわれわれにあるのではないからである。﹁わ
れわれ﹂に与えられているのは、過去の可能態としての死者たちの
﹁希望﹂に応答し、その声に耳を傾け、その期待を実現させる﹁使
命一のみである。ベンヤミンの歴史的時間は、こうして、﹁いま−
こそ−その−とき﹂の切断と過去への遡及から開始する。篇
このように、ベンヤミンにおける歴史の時間は過去への遡及から始
まるのである。そこで、今村は人間のコスモスを時間意識によって二
つのタイプで分類している。未来←現在←過去という未来優位の時間
意識を持つ﹁意志的人間恥がその︸つであって、未来志向的人間と言
ってもいいだろう。いま一つは、未来←過去←現在というふうに、未
来は過去を媒介にして︵現在に︶到来する、あるいは、︵未来が過表
のなかに含まれていて︶未来を含む過去が現在に到来するという﹁ロ
ゴス的人間﹂である。ηこのタイプにとって現在の意味と方向に対する
決め手は過去である。﹁ロゴス的人間﹂のタイプは、現在は︵未来を
含む︶過去から来ると考える。現在におけるすべてが過去によって決
められるという意識は、ある意味で過去優位主義・過去中心主義とも
言える。このような立場では、過去は無数にあり得た可能性で充ちて
おり、現在は過去のあり得た可能性の一つが形をとって現れていると
される。故に、歴史的時間とは無限の可能性で開いている過去から現
在へと流れてくるという思.考が生まれるのである。つまり、過去とい
う他者とどのように向き合うかによって未来も決定されるという認識
である。
﹃万延元年のフットボール﹄は大江の作品の中でもっとも大江の歴
史意識が反映されている作品である。処そしてその歴史意識は神話的時
空間の中で表象されている。大江が万延元年︵一八六〇︶から百年の
間の歴史を神話的手法によって捉え直しているのは、つまりこの作品
が捉えている過去とは、あり得た可能性として過去である。このよう
に過去に現在の可能性を探る大江は過去中心的・過去優位的認識と言
える。
現在の視点から過去の出来事を記録に残す歴史家にとっては、﹁過
去から現在への、そして現在から過去への絶え訳ない反復﹂短は歴史自
体の作用であり、︵過去/現在という対立概念を用いる﹀彼の仕事の
中心でもある。過去を生きていない歴史家が歴史記述の際、記憶とい
うのは歴史の原材料の一つである。人間の記憶のメカニズム自体が、
現在との関係において過去から生成されてくるものであるし、その意
味で神話は集団的な人間の記憶の歴史とも言える。時間意識において
過去中心的な歴史観を持っている大江は、現在←過去←現在と物語を
進行させる際、記憶、想起、回想などの︵語り方の︶形態を採る。歴
史認識における記憶の問題について述べている大江のエッセイの中に
次のように部分がある。
一 15 一
過去をどのように記憶するか、過去の記憶をどのように選択し維持
し、選択して再生するかということで、その記憶の持主の今日の現
実における在り方がきまるわけですし、あるいはその人間の二目の
現実における生き方が、かれの過去の記憶の選択の仕方をきめるわ
けですけれども、同時に、未来に視点をうつしていえば、どういう
未来の現実が存在するかを想像するその想像力にもまた、その人間
のあり方を決定する力がある筈です。そこで過去の記憶を歪曲して、
一方的に記憶することにより現在の自分の在り方を擁護しようとす
る人たちがめざすのは、未来についてもやはりある強靱な抑制をへ
ての、 一方的.な未来像の選択である筈です。そうした一方的な選択
を過去から現在、そして未来へ持続していこうとする一貫性が、そ
の人間の人格ということになるでしょう。釦
大江は過去に対する記憶を個人の人格の問題として捉えている。そ
してその限りで大江にとっての歴史とは﹁全体的な記憶﹂、﹁公正な記
憶力﹂である。記憶が歴史の原材料であり、個人の記憶はその第一次
的な材料だとすると、﹁記憶の想像的な性質は、歴史に本質的な影響
を持つ﹂のであり、﹁家族、宗教、言語、都市といった異なるレベル
で集団的な記憶を生み出しながら、﹃歴史﹄と呼ばれる形態﹂を生成
していくのである。鍋記憶は﹁それ自体螺旋状の運動﹂であり、それの
運動によって物語が終わった時点では現実は潜在的な可能性と等しく
なり、その意味では現在は過去と同一のものとされる。犯
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ も ヘ ヘ ヘ ヘ へ も ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
記憶と歴史の関係と同様、過去と現在の関係についても、混同や懐
主義に陥るべきではない。我々は今や、過去が部分的には現在に依
存していることを知っている。過去が現在において意識され、これ
ヘ
ヘ ヘ ヘ
ヘ
ヘ
へ
ヘ ヘ
ゆえ現在の関心に答えている限り、あらゆる歴史はたしかに現代史
なのである。このことは不可避であるばかりではなく、正当でもあ
る。歴史とは持続なのであるから、過去は過去であると同時に現在
でもある。勢 ︵傍点は引用者︶
現在の可能性が秘められている過去、その過去を現在化する一つの
方法が記憶であり、集団的な人間の記憶が神話だとすると、大江の︿神
話形成﹀的手法についてはこのように考えることができる。大江の作
品が直線的な時間意識から円環的な時間へと移行していったのは、過
去にこそ現代社会が抱えている問題解決の答えがあるとする過去中心
的な歴史観がまずあり、その方法的拠点としているのが神話的思考、
︿神話形成﹀である。しかし、過去に目を向けるのは、個の一生のよ
うに人類の歴史も不可逆的で死滅に向かっているという意識から来る
ニヒリズムではなく、現在と未来が抱えている危機状況︵例えば、核
時代という人類自滅の危機︶を乗り越える道を、文学的想像力によっ
て探り続けているからである。過去は未来を含んでおり、未来の決め
手は過去であるとする﹁ロゴス的人間﹂の、過去との積極的な関わり
方の結晶体として神話があるのである。
5、おわりに
以上、六〇年代後半から始まる大江の︿神話形成﹀的傾向一神話二
時空間を構築する創作態度一の根底にあるもの、特に時間意識の変化
を中心に考察した。そこでは、作品内部の時間が直線的な時間意識か
ら円環的・循環的時間意識へと移行していくことによって神話的時空
間が構築されていく過程を確認できる。一方、大江の神話世界は、語
り手が持つ時間意識だけでなく、同じトポス、同型の人物、同一の素
材を繰り返し駆使することによっても形成されている。また、本稿で
は触れていないが、第m期に当たる作品、特に﹃燃えあがる緑の木﹄
三部作︵一九九三∼︸九九五︶と﹃宙返り﹄︵一九九︶においては終
末論的時間意識が顕著となる。そこで、第−期から第m期までの大江
の小説内の時間は、直線的時間︵1︶←円環的時間︵H︶←線分的時
間︵閥終末論的時間・皿︶のように変化してきたと言える。
現在と過去の境界がなく、過去も現在も一つの全体をなすものされ
る円環的な時間が第■期の作品の特徴であった。神話的時間経験の基
本形式は永劫︵永遠︶回帰である。神話的時間は、一回限りの歴史上
の出来事を否定し、同一の出来事が周期的に反復するものとされる。
一 16 一
このような時間意識では、過去も現在も未来も一つの全体と見なす、
いわゆる全体的世界観が働いている。その一方、神話的時間を生きる
ということは、﹁過去する現在﹂﹁過去する現在﹂の中を生きることで
あり、過去にこそ未来のすべてが秘められていると見なされ、未来に
対する意識が欠如されていることから、︵通常の歴史認識においては︶
過去中心的だと言える。そうすると、神話的時間と歴史認識の問題は
いかに説明できるのか。エリアーデは、古代人の時聞に対する永遠回
帰の観念は、時間や生成によって汚されていない存在論を示しており、
瀕神話世界を生きる古代社会の特色は歴史を重視しない﹁歴史の棄却﹂、
﹁歴史への敵対﹂跡であると捉えている。 ︸見、今日における神話的思
岡田英弘は﹃歴史とは何か﹄︵文藝春秋、二〇〇一二一︶で歴史
成立条件として﹁直進する時間の観念﹂、﹁時間を管理する技術﹂、
﹁文字で記録をつくる技術﹂、﹁ものごとの因果関係の思想﹂の四
つを挙げている。︵一六頁﹀
大江健三郎﹃セヴンティーン﹂﹃性的人間﹄︵新潮社、一九六八・
=榊六頁
四︶一四一頁
広井良典﹃死生観を問いなおす﹄︵筑摩書房、二〇〇一・十一︶
﹃われらの時代﹄︵新潮社、一九六三・六︶二二三頁
広井良典 前掲書 二〇〇頁
﹁セヴンティーン↑前掲書 一八一∼一八二頁
大江健三郎﹃万延元年のフットボール﹄﹃大江健三郎全作品︵第
H期︶1﹄︵薪潮社、 一九九四・十周︶ 一四三∼一四四頁
カッシーラー﹃シンボル形式の哲学︵二V神話的思考﹄木田適訳
︵岩波書店、一九九一・九︶二=二頁
一ユ7一
考−神話的時間意識として永遠回帰の神話的時間を描き出す一は、原
初の状態に戻ろうとする反歴史的・非歴史的態度にされがちであるが、
大江の︿神話形成﹀は彼の歴史意識の表出の一つの結晶である。エリ
アーデの永遠回帰の神話に対しては、ヴィンフリート・メニングハウ
ス の よ う な 解 釈が有効であろう。
カッシーラー同書 ニニ○頁
カッシーラー 同書 三〇一一∼三〇三頁
レヴイーーストロース﹃野生の思考﹄大橋保夫訳︵みすず書房、一
九七六・三︶二八四頁
M・エリア1デ﹃聖なる空間と時間﹄久米零丁︵せりか書房、 一
九七四・一〇︶九四∼九六頁
大江健三郎﹃懐かしい年への手紙﹄︵講談社、一九八七・︸○︶
同上
四七〇∼四七↓頁
富土川義之﹁小説の可能性を求めてーポスト・モダニズムの小説﹂
Jイエ﹂ 一九七八年七月創刊号︶ 一六四頁
当てられている森の樹木の根方﹂に着陸し、ある時間を待って新
しく生まれる子供の方に降りてくるという思想である。
反復して語られる。﹁魂の離陸﹂は、人が死ねばその魂は身体か
ら離れグルグルと旋回しながら上昇し、﹁生まれる前から自分に
﹁魂の離陵﹂は、谷間や﹁在﹂の人間の死生観としてHと皿期に
(「
2
3
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17
回帰を明示的に物語る神話は、歴史の経験をすでに自らの中に取り
込んでおり、かつては例年の、日常の出来事であった反復の構造を、
少なくとも大きな歴史的循環に対して要求することによって、歴史
の経験を最後に転換して﹁古代的存在論﹂に取り戻そうとしている
のである。曲線となり、円環をなすことによって、歴史は時間を破
棄する神話の構造の抽象的な補完となることをやめる。歴史はそれ
のである。
この図式は真木悠介の﹃時間の比較社会学﹄︵岩波書店、一九九
七・十︸﹀で提示していること︵心八七頁︶を簡略に表饗したも
自身が神の顕現となり、ある地点でその単純な継続、その時間の流
れを破棄し、超歴史的な意味を獲得する。駈
註記
1
@同書 一一五∼一一六頁
買Bンフリート・メニングハウス﹃敷居学1ベンヤミンの神話の
パサージュ﹄伊藤秀一訳︵現代思潮新社、二〇〇〇、一〇︶一七
この他にも﹃懐かしい年への手紙﹄の﹁ギー兄さん﹂の美しさが
二∼一七三頁
両 性 具 有 的 なものとして描かれている。
M・エリアーデ﹃悪魔と両性具有﹄宮治昭訳︵せりか書房、七四
36 35
・九︶=二八∼=二九頁、 一五五∼一五六頁
プラトンは原初の人間を球形をした両性の存在として見ている。
﹃饗宴﹄森進一訳︵新潮社、一九六八・人V四七∼五二頁
真木悠介﹃時間の比較社会学﹄︵岩波書店、︸九九七・十一︶二
三四∼二三五頁
同書 二三四∼二三五頁
同書 五六頁
E・ミンコフスキー﹃生きられる時間1﹄中江育生、清水誠訳︵み
すず書房、一九七二・三︶一〇二頁
ヴァルター・ベンヤミン﹃ベンヤミン・コレクションー﹄久保哲
司訳︵筑摩書房、一九九五・六﹀六四六∼六五︸頁
今村仁司﹃ベンヤミン﹁歴史哲学テーゼ﹂精読﹄︵岩波書店、二
〇〇〇・十一︶︸七七∼一七八頁
伺書 上掲書一八二頁
井口時男/松原萩一/室井光広﹁座談会 大江全作品ガイド﹂﹃群
像特別編集大江健三郎﹄︵講談社、一九九五・四︶で松原新一
が指摘している。
ジャック・ゴフ﹃歴史と記憶﹄立川孝一訳︵法政大学出版局、︸
九九九・八︶三頁
大江健三郎﹁記憶と想像力﹂﹃持続する志﹄︵講談社、一九九一・
十二︶三五頁
港千尋﹃記憶一﹁創造﹂と﹁想起﹂の力﹄︵講談社、一九九六・
十二V一六九頁
W・J・T・ミッチェル編﹃物語について﹄海老根宏訳︵平凡社、
一 九 八 七 ・八︶二八六頁
ジャック・ゴフ 前掲書 二〇三頁
M・エリアーデ﹃永遠回帰の神話i祖型と反復﹄堀一郎訳︵未来
社、一九六三、三︶一一五∼一一六頁
@18 一
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