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Philip J. Gallagher (Eugene R. Cunnar & Gail L.
Mortimer eds.) : Milton, the Bible and Misogyny
滝沢, 正彦
言語文化, 28: 63-66
1992-02-10
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/8936
Right
Hitotsubashi University Repository
Philip J.Gallagher(Eugene R.Cunnar
&Gail L。Mortimer eds.):
ノレ㊧1渉on,云h6Bぎ616 ‘z%4 ノレグゑso9:y盟夕
滝 沢 正 彦
すでに別のところで述ぺたことであるが(・》,近年のきわめて生産的な知的営為の一つであ
るフェミニズム批評が,便利な「反面教師」としてMiltonを引き出す機会が増えている(2》。
たとえばRobert Gravesのような,極端に歪められたMilton像は論外としても(3》,伝統的
にr父権主義者」r女性差別主義者」とされてきた詩人を文脈抜きに取り上げて,これが西欧
の男性中心的支配思想の代表であると宣言することが,かりに女性解放を含むフェミニズム
思想の戦略としてさしあたりは有効であるとしても,それでもなお,17世紀キリスト信仰思
想の中での詩人の位置,その作品の受容史,とりわけ今世紀の厳密な作品解釈を無視するこ
とは,長期的には,その学問的誠実さにおいてフェミニズムの倫理性を疑わせることになろ
う。本書は最近のフェミニズムのMilton批判に対する反論を意図すると同時に,ナイーヴ
な信仰の側の弁護論に対しても反論しようとするものである。
20年近く前,Irene Samuelは,Miltonの生涯を賭けた知的営為をr信仰の合理化」と要
約した㈲。程度の差はあれ,総じてプ・テスタント諸派は,カトリック教のr釈義」を廃し
て,「聖書のみ」にその信仰の根拠を求めたから,Samue1の言うMiltonの「信仰の合理化」
は,まずはr聖書の合理化」にあった筈である。こうして本書は,『失楽園』と『闘士サムソ
ン』の徹底的な精査を通して,Miltonの聖書理解と実際の聖書記述を丹念に洗い出す。その
洗い出しの視点は,両作品における男と女の関係,男と女の描かれ方である〔5》。
本書の半ばを占めるのは,『創世記』1章26∼27節(以下Aと略す)と,2章7∼24節(以
下Bと略す〉の記述の矛盾,およぴそのMiltonによる「合理化」の分析である。Miltonは
『離婚の教義と規律』の中で,神が人間をプラトンの言う「おとこおんな(ヘルモアプロディ
テ)」に造ったのではなく,「男と女」に造った(A)事実を重視する。そして,その理由を
r人が一人でいるのは良くない」(B)と言う聖書記述に求めている。この男と女の関係をr会
話(conversation)」r人間愛(fellowship)」と呼んでいることはよく知られているが(6》,こ
のr会話」r人間愛」を構築する理論的土台としてMiltonはAとBとを言わば総合してい
る。しかし,周知のように,AとBとでは,人間創造の過程に関して決定的な相違がある。
Aにあっては,男と女は同時に創造されており,Bにあっては,女は男の後で創造されてい
る。しかも,Aでは,人間は(男も女も)神の天地創造の最後の作品であるのに対して,Bで
は,女だけが最後の作品であって,男は植物・鳥獣の先に造られている。どちらが真実か。
過去一世紀の聖書学が,創造神話が二度,形を変えて登場する文献学的理由を明かにして
64言語文化 Vo1.28
はいる。したがって,今日の我々は,文献学的には納得できる。Miltonは勿論この近代聖書
学を知るはずがなかったが,実は,我々にとっても,もし我々が合理的信仰なり,信仰の合
理化なりを目指そうとするならぱ,問題は解決されていないのである。とりわけ「聖書のみ」
を信仰の礎えにしようとすれぱ,いずれかを採り,いずれかを捨てなけれぱならないはずだ。
「聖書のみ」を信仰の基礎にするにもかかわらず,いや,r聖書のみ」の立場を取るがゆえに
こそ,聖書をr改訂」しなければならない。これを,御都合主義のr解釈」と呼ぶことはで
きないだろう。Miltonの直面していた問題の一つは,このr改訂」の基準・根拠を何に求め
るかであった。
Miltonが合理的説明に悩んだ個所はここだけではない。なぜ神の被造物である蛇が人間
を誘惑しなけれぱならなかったのか。人間は罪を犯した後,なぜr神と同じ」(3章22節)に
なったのか。原罪の責任は人間にあるのか,あるいは,そういうものとして(予定説!)人
間を造った神の側にあるのか。善悪の区別を知らない堕落以前の人間が悪を為しうるのか。
善悪の区別を知らない人間の行為の責任をなぜ人間がとらなければならないのか。女に対す
る男の支配が,原罪への罰として与えられている(同16節)ということは,堕落以前の男と
女は平等であったのか。
平等であった。そして,その平等を回復することがエデンを追われた人間の苦難の歴史の
栄光であった。そうMiltonは考えた。いささか晦渋な本書の全体を一口で要約すれぱ,そ
ういうことであろう。たしかに,聖書には一度も登場していないr平等(equa1)」という言
葉が,『失楽園』の中には35回も使われている。しかし,ここで言う「平等」とは,二人の
(都合四人の)rおとこおんな」の間の平等のことではない。事実,男と女は違った資質を与
えられている。Miltonのいうr平等」は,責任主体としての平等性である。この一点におい
て,人間は他の動物と決定的に区別される。とすれぱ,フェミニストのように,『失楽園』の
中で,美しさや強さや優しさや理性などがどの程度どちらの性に与えられているかを計量し
てこのテキストの性差別度を判断するのは,Miltonを決定的に誤読することにつながる。
なぜ平等か。平等でない限り,原罪の意味を聖書から合理的に引き出すことができないか
らである。男も女も,すでに堕落以前に,平等の責任主体として存在していたとしない限り,
なぜ男と女が(女によって男が,ではない)罪を犯すことによって神に罰せられなけれぱな
らないのか,Miltonには合理的に説明できなかった。そしてそれは今日の信仰者にとって
も説明できないはずだ。したがってMiltonはr聖書のみ」の信仰にしたがって聖書をr改
訂」せざるをえなかった。人間を人間たらしめるその原理的基礎において,Miltonは男女の
平等の思想に到達した。本書はそう主張する。この主張は,「序文」の末尾のつぎの一節に見
事に要約されている。
There is no need,however,to overstate one’s defense ofMilton,whose magnanimity
transcends cultural prejudices;the blind bard is a noble exponent of human equality,
and I hope that my efforts will contribute,however partially,to the progressive
demonstration that he is among the most powerful allies the modem feminist move一
Philip J.GaHagher:z%〃∫oη,’hεB必」εαη4躍∫so即ッ
65
ment can hope to find in Westem culture.(p.8)
しかし,それにもかかわらず,本書はフェミニズムの側からのMilton再解釈なり再評価
なりを目指したものではない。ほとんど逐語的な厳密な言葉の分析を通しての(そして,そ
れだけ本書が読み辛いことも事実である)著者のr解読」が辿り着いた結果としての(フェ
ミニストによってそう呼ぱれ得るならぱ)フェミニズムである。したがって,いますこしフ
ェミニスト・ミルトンを引き出しうる個所,たとえば,『闘士サムソン』のダリラの再評価な
どは,ここではこぼれ落ちてしまう。さすがにダリラをサムソンの妻とする聖書のr改訂」
には注目するが,『失楽園』分析の細かさはここにはない。(本書は著者の死後出版であり,
あるいはこの部分の書き直し,補充の計画が未完成のままであるのかもしれない。)
逆に言えぱ,それだけ本主張に説得力があるとも言える。戦略が先にある一部のフェミニ
ストの論文には見られない新鮮さがある。フェミニズムの道具としての文学批評ではなく,
文学批評の中から結果として主張されるフェミニズム,それは,比喩的に言えぱ,「文学の
み」に徹することによる文学の「改訂」であろう。その意味で,本書は,Milton研究者より
もフェミニストに一読を薦めたい一冊である。
注
1.r“the irrational/Death”一『失楽園』脱宗教化の試み一」,『英語青年』1990年7
月号,pp.2−6
2。たとえばElaine Showalter,Annette Kolodnyなど。もちろん彼女達の主張の一部に
は傾聴に値する新鮮さはある。しかし,これらを無批判に引用する織田元子にはその新
鮮ささえ感じられない。本格的ミルトン批評としては,たとえぱKatherineM.Rogers,
Th6 丁猶ozめ」εεoη昭 ∬θ彦)繊z孟召’且 π摺云oη (ゾ〃商o卿』y ∫犯」L∫彪昭云z‘擢,Seattle,1966;
Marcia Landy,‘Kinship and the Role ofWoman in勘耀魏Los4〃〃歩on S鰯∫θs iv,
1972;Sandra Gilbert,‘Patriarchal Poetry and Woman Readers:Renections on
Milton’s Bogey’,蹴z4xciii,1978.フェミニストのミルトニストも勿論いる。たとえ
ぱ,Stella P.Revard,璽Eve and the Doctrine of Responsibility in勘泌奮6」乙os4P〃L4
1xxxviii,1973.一般にはフェミニストとされていないが,Barbara Lewalski,‘Milton
on Women−Yet Once Mord,餓1’oηS伽4’εs vi,1974はLandyへの説得力のある反論
になっている0
3。Robert Graves,彫歩o〃名〃飾oπ,Cassel1,1942;Penguin Bks,1954
4.Irene Samue1,‘The Regaining of Paradise’玉n B.Rajan ed.,P漉oη伽4P㍑πσo彪,
Toronto,1968
5.勿論この種の先行研究がない訳ではない。たとえば,Geneva Bibleの‘Adam for
GodandEveforAdam量を‘heforGodonly,sheforGodinhim’と書き改めた点を重
視する好論文Ame Ferry,‘Milton’s Creation ofEve’,S酷xxviii1988などは注目に値
する。
6.CfJohnJ.Halkett,〃ゴ伽伽4云h91伽げ漉∫ガ吻oη助AS云紛げ孟hθ肋oκθ
66 言語文イヒ
VoL28
丁観6雄α舷 ‘勘耀4ゑs6Los♂’,Yale UP.,1970
Philip J.Gallagher(Eugene R.Cunnar&Gail L.Mortimer eds・):
ルf記’oη,孟hθ Bめ彪 ‘zη4 〃飽o卿y
(Univ.of Missouri Press,Columbia and London,1990)x十185pp.
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