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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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<資料・研究ノート>スンダ(西ジャワ)の貴族(menak)につ
いて
田中, 則雄
東南アジア研究 (1972), 10(3): 409-421
1972-12
http://hdl.handle.net/2433/55708
Right
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Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
東 南 アジア研究
1
0
巻 3号 1
9
7
2年1
2
月
ス ンダ (
西 ジャワ) の貴族 (
me
nak)につ いて
田
中
雄*
則
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nak,Sundane
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は
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イ ン ドネシアは多 くの民族か ら構成 され,そ してそれ ぞれ の民族 が各 自の言語,文化,社 会,
歴史,慣 習法 の もとに生活 してい る。 イ ン ドネ シアの中心で, イ ソ ドネシア人 口の6
4パ -セ ン
トが住む ジ ャワ島におい て さえ,東部 の一 部 とマズ ラ島には マズ ラ人が, 東部か ら中部には ジ
ャワ人,そ して西部には ス ソダ人が住 んで,それぞれ異 な った社会 を形成 してい る。
イ ン ドネ シアにおいて,政 治的,文化的に最 も大 きな影 響力を持 ってい るのほ,言 うまで も
な くジ ャワ人で あ るが, ジ ャワ人につ いで,勢 力を持 ってい るのが ス ソダ人 であ る。
この ス ソダ人 の社会を過去 にお いて,指導 して きたのが,ス ソダの貴族,メナ ック (
me
na
k)
で あ った。
969年か ら71年 にか け て, ス ソダ各地 を しば しば訪ね てみ たが,独立後2
0数年 を-,そ
私は 1
の間に多 くの変革 を受け たに もかかわ らず,今 日なお メナ ックは ス ソダ社 会に大 きな勢 力を持
っていた。
メナ ックが なぜ この よ うに,過去か ら現在 にかけ,大 きな勢 力を ス ソダ社 会に持 ちつづけ る
ことがで きたのか,考察 してみ たい と思 う。
1
)
Ⅰ ス ンダ地方 とス ンダ人
ス ソダ地方,す なわ ち西 ジ ャワ地方は,北 部の ジ ャワ海寄 りには海岸平 野がひ らけ てい るが,
中部か ら南部にかけ ては山岳地帯 におおわれ てい る。 この山岳地帯 の諸 高原 と山麓地帯が,袷
涼 な気候,肥沃 な火山灰土壌,お よび乾季 に も十分 な雨量 に恵 まれ る ことな どと相 まって,覗
*東京都立紅葉川高等学校
1
)スソダ各地を案内し,そして多 くのメナ ックを紹介して くださった Dr
.
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a の諸氏および, 嚢重な資料をみせてくださった J
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aの諸氏に深 く感謝する0
40
9
東南 アジ7研究
1
0
巻 3号
在 ではイ ン ドネシアで も最 も豊か な農業地帯 とな ってい る。 乾季 に赤茶 け た中部 ジ ャワか ら西
部 ジ ャワに入 り,青 々 した水 田に接す るとこの ことが良 く理解で きる。
ジ ャワ島では一般に気候 が良 くて,水 に恵 まれ た山麓地帯か らひ らげ,暑 くて療病 の地であ
る海岸平 野 の開拓は遅れ た。海岸平 野がひ らかれ るよ うに な ったのは, 貿易が さか んに な って
か らであ り, それ も河 口の海 港都市 か らであ った。
現在 で もジ ャワ島に関 しては,農業地帯 として豊か なのは雨量 の多 い山麓地帯 で あ り,潅翫
設備が乏 し く, そ して乾季 に雨 が降 らない北 部平野 の農村 は一般 に貧 しい。
自然条件 に恵 まれ た ス ソダ地方 の, しか もサ ラク (
s
al
ak)山麓 の涼 し くて,雨量 に恵 まれ た
Bo
gor
)地方 2) に イ ン ドネシア最古 の ヒ ンズ ー文化 の タル マ (
Tar
uma) 国3)が誕生
ボ ゴール (
したの も決 して偶 然の ことではない。
しか しこの ヒンズー文 化 の中心 は,そ の後 中部 ジ ャワ-,そ して東 部 ジ ャワ- と遣 り, ス ソ
ダ地方は ジ ャワ史 の圏外におかれ て しまった。
6世紀, 回教時代 に入 って再 び ジ ャワ史 の舞 台に登場 して くるが, この間 の ス ソダ史
そ して1
Tj
i
badak)
4
)
お よび東 ス ソダ地方 の カワ リ (
Kawal
i
)
につ いては, ボ ゴール とその南 のチバ ダ (
〔
チ ア ミス (
Tj
i
ami
s
) の北 ,2
0km〕付近 にあ るわずか な碑文 と口碑伝 承にた よ らなければ な
らない。 これ らに よって タル マ国の後に ス ソダ国,そ の後に パ ジ ャジ ャラ ン国が存在 し, また
東 ス ソダの チ ア ミス付近 5) に ガル ー (
Gar
uh)国が存在 し, パ ジ ャジ ャラ ン国 と密接 な関係が
あ った ことが推定 され てい る。
これ らは いずれ もヒソズ-王 国で あ ったが, そ の遺跡 か らみ る限 り, いずれ も小規模 な もの
であ り, 中部お よび東 部 ジ ャワの ヒンズー遺 跡 とは比べ ものにな らな い
。6
)
しか しいずれに して もス ソダ地方が,西 は ボ ゴールを 中心 と した地域 よ り, また東 はチ ア ミ
スを中心 と した, いずれ も自然条件 に恵 まれ た,気候 の良 い,豊か な山麓地帯 よ りひ らかれ て
い き,そ して徐 々に, 長年 月をかけ て, 内部の諸高原が開拓 され てい った もの と考 え られ る。
1
6世紀, 回教王 国のバ ンテ ン, チ ィレポ ソ両 王国の勃 興に よ り, パ ジ ャジ ャラン王 国は威 さ
れ,東 ス ソダほ マ クラム王 国の支配下 に入 ったが, オ ラ ンダ東 イ ン ド会社 の登場 に よ り,1
8世
紀初頭, ス ソダ地方 のほ とん ど大 部分 は オ ラ ンダの支配下 に入 った。 しか しオ ラ ンダ側 の報告
2) ボゴ-ルほ 「
雨の町 (kot
ahudj
an)」ともよばれている。
3) ボゴールの近 くのチアンペア (
Tj
i
ampe
a) に 5世紀頃のものと考えられるタルマ回の碑文がある.
4)Tj
i
ba
dak の町に入る手前の Tj
i
t
j
at
i
h 川沿いの小高い丘の上に, 1
030年 のスソダ王 Mahar
aj
a Cr
i
J
aj
abhupat
iの碑文があった。 しか し現在 ここにはな く,古老の話では博物館に納められたとのことで
ある。
5)現在でもスソダ地方で最も豊かな水田地帯であると言われている。
6)独立後, スソダ地方のヒソズ-遺跡の発掘がさかんであるO 筆者はガル- ト (
Gar
ut
) 高原のレレス
(
Le
l
e
s) 付近のチャンデイ ・チャンコアンの発掘現場を訪ねてみたが, 非常に規模の小 さいものだっ
たo ヒソズ-の石像 もスソダ各地にい くつも散在 しているが,筆者の見たものはいずれも小さなもので
あった。
41
0
田中:スンダ (
酉ジャワ)の貴族 (
me
na
k)について
に よると, この時代, この地方 は まだ人煙全 く稀 で,人 口 も稀 薄であ った と言 うか ら7
)
, 諸高
原の開拓 は まだ充分進 んで いなか った もの と思われ る。 この地方 の開拓が進み,人 口も増 加 し,
文字通 り恩 寵の地にな ったのは, オ ラ ンダの支配下 に入 ってか ら後 の ことで あ る。
ス ソダ人 の人 口は 1
966年 で約 1
7
00万人 と推 定 され るが 8'
,これ は ジ ャワ人 につ ぐ人 口数 で,そ
れだけに ジ ャワ人に対す る対抗意識は強 い。 ジ ャワ人 とス ンダ人 との対立はす でに オ ラ ンダ人
も早 くか ら指摘 してい ると ころであ るが,ス ソダとジ ャワとの境 界を流れ るプ レべス (Brebes)
の近 くのチ ・プマ リ (
Tj
i
pe
mal
i
)川が ス ソダ人 に とって 「禁断 の川」 を意味 し, ス ソダ人が
この川を渡 ると神霊 の意 に反 して,不孝 に な ると言 い伝 え られ てい る ことか らみ る と9
)
, かな
り古 い昔 か ら対 立があ った もの と考 え られ る。
ス ソダ人 とジ ャワ人 を比 較す る とス ソダ人 のほ うが ス ソダ美 人に象徴 され るよ うに,一般 に
色が 白い。住盾 もジ ャワ人 の土間式に対 して, ス ソダ人 は高床 式で あ り,集落 もジ ャワ人 の よ
うな きち っと した集村で な く,不 規則でか な り分散 してい る。 そ して村落 の共 同体規制 もジ ャ
ワの よ うに強 くな く, と くに土地 に対す る規制 が非常 に弱い ため, ジ ャワ島 の中で,最 も大土
地所 有制 の発達 した ところ とな ってい る。
I
I ス ンダ社 会 とメナ .
.
Jク (
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nak)
1
0
)
ジ ャワ社 会につ いては, プ リヤイ (
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j
i
) 〔ジ ャワの マ タラム王 国やそ の他 の小君 主 たち
s
ant
r
i
) 〔ジ ャワ住民 の うちで イ ス ラム教- の関心
に仕 え る廷 臣 とそ の家族 た ち〕 とサ ン トリ (
が最 も強 い もので,主 と して商工業者〕 お よび アバ ンガ ン (
abangan) 〔
精霊信仰 の名残 りを幾
Cl
i
ford Geert
z) の研究
分 と どめた農 民〕 の三 社 会集 団 に分類 した ク リフ ォー ド・ギ ア- ツ (
951
年か ら1
954年にかけ てお こなわれ た兼 ジ ャワの実 態調査 を もと
が有 名であ る。 この研究 は 1
に した ものであ るが, ち ょうどこの調査 が行 なわれ ていた同 じ頃, ス ソダ社 会を ア リシ ャバ ナ
7
)戸数一万戸足 らずであった と言 う。
拙稿 「オランダ東印度会社の西ジャワにおける義務供出制について」 『
南方史研究 Ⅰ
』南方史研究会,
1
960,pp.11
6-11
7)参照。
8) インドネシア中央統計局の発表によると西部ジャワの人口は,1
966年末で 23,1
62,
000人である。(
谷口
五郎 『
インドネシア』改訂版,鹿島研究所出版会,昭和45年,p.105) これからジャカルタ,チ イレボ
ン,クラワン,バンテン等に屠住の非スソダ人の人口を引けば,スソダ人は約1700万人位と推定 される。
なお1930年のF
に
T
i
勢調査では西部ジャワの人口は 1,140万 (ジャワ・マズラ全体で 4,078万)で,その内,
スンダ人は 846万人である。(『南方年鑑』昭和18年版,東邦社,昭和18年,p.832,842) なお,スソダ
人の人口増加の状況を示す と,1895年 2,195,000人,1900隼 2,436,000人,1905年 2,697,000人,1915
年 3,000,000人である. (
S.Al
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n.1954,p.i
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,1
920,p.5. 松岡静雄訳 『
爪畦史』岩波書店, 大正 13年,
p.50
10) me
nak は中世ジャワの戦士に対する尊称であるが,これがスンダに入って貴族の称号となったと言 う。
(
Ai
l
s
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na前掲書 p.1脚注)
4
1
1
東南 アジア研究
1
0
巻 3号
(
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ahbana)l
l
)
が 研 究 し, 1
954年 「プ リア ンガ ンに おけ る ス ソダ人 の階 級構 成 研究
序説 (A pr
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udy ofcl
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he Sundanes
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n Pri
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angan)」 な
る修 士 論 文 を コ- ネル大学 に 提 出 した。
j
aj
i
,ス ンダで は menak)
女 史 は この 中で,ジ ャワ,ス ソダいず れ の社 会 も貴 族 (ジ ャ ワで は pri
と農 民 (ジ ャ ワで は Wongt
j
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l
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k,ス ンダで は dj
al
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eut
i
k) に 明瞭 に分 け られ る と し, ス ソ
menak) と農 民 (dj
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ma l
eut
i
k,t
j
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j
ah) の 2集 団 に 分 類 し研 究 をす す め てい
ダ社 会 を貴 族 (
る。
ギ ア - ツの 3集 団 に よ る ジ ャワ社 会 の分 業
削まこの後 に 発 表 され た の で あ る浴, ス ソダ社 会 に
関 しては, な お 依 然 と して ア リシ ャバ ナ の分 類 が 妥 当 で あ る と考 え る。 そ れ は ス ソダにお い て
ほ ジ ャ ワの よ うに サ ン トリを プ リヤ イや アバ ンガ ンに 対 す る一 つ の社 会 集 団 と して認 め る こ と
は 困難 で あ り, また ジ ャワの サ ン トリが 果 た して い る よ うな社 会 的 役 割 は ス ソダで は メナ ック
が果 た して い る と思 わ れ るか らで あ る。
ス ソダの メナ ックは ジ ャ ワの プ リヤ イ ほ ど ヒ ソズ ー的要 素 は 強 くな い。 彼 らは ジ ャ ワ文 化 に
0世 紀 初 頭 まで マ ク ラム王 国 に伺 候 し, 社 会 的地 位 の象徴 と して ジ ャワ語
憤 慨 の念 を い だ き,2
を使 用 して い たほ どで あ るが 1
2
)
, ヒ ンズ ー的 要 素 は ジ ャワの プ リヤ イに 比 較 す れ ば 非 常 に少 な
い。 む しろ宗 教 的 には ス ソダ地 方 は ジ ャ ワ島 の 中 で 最 も回教 の盛 ん な所 で , そ してそ の 回教 の
指 導 的 役 割 を メナ ックが果 た して い るの で あ る 。13) また ジ ャ ワのサ ン トリが果 た して い る よ う
な商 工 業 者 と して の 経 済 的役 割 を も また, 土 地 所 有 者 で 経 済 力 の あ る メナ ックが 果 た してい
る
。14
)
ジ ャワの プ リヤ イ もス ソダの メ ナ ック も と もに, 先 祖 を 王 侯 や, 地 方 土 侯 に持 つ 伝 統 的 な 家
系 と高 い官 職 に 由来 す る もの と して理 解 され て い る が
)
15 ,
どち らか と言 えば , ジ ャ ワの プ リヤ
l
l
)女史の消息につ き,バン ドソ教育大学社会人類学教授 Ha
r
s
oj
o,S.
S.氏に聞いた ところ,病気でな くな
った とのことであ った。
1
2
)Al
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na
・前掲書 pp.
6-7
。筆者はスメダンでメナ ックの伝統芸能を見せてもらったが,それはジャ
ワ ・ヒンズー的なものであ ったO またバン ドンの南, ソレアン (
Sor
e
a
ng) でメナ ックに会 った時,そ
のメナ ックも昔 メナ ックは ジャワ語を使用 していた と語 っていた0
1
3
) ス ンダではメナ ックは最 も熱心な回教徒であ り, そ してモス クや 回教学校 (
pe
s
a
nt
r
e
n) の維持にあた
ってい る。筆者はガルー トやスメダンで このよ うな状況を見聞す ることがで きた。
1
4
) これ らの点につ き実態調査を行なえなか った ことを残念に思 ってい るが, チ カジャン (
Tj
i
ka
dj
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n)(〟
ルー トの南)で会 ったメナ ックは大土地所有者で農園,製茶工場,養蚕工場等を経営 し,同時にモスク
回教学校を持 っていて, -ジであ った. またバルブル ・リンバ ンガン (
Bal
ut
i
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-1
i
mba
nga
n) (ガルー
トの北)のメナ ックも小規模ではあるが商店を経営 していた。
Tj
i
boda
s
) の大土地所有者は農園経営の他に金融業お よびバス, トラック
バ ン ドンの北,チボダス (
等の運輸業を営んでい る。(
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56
.pp.
1
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. これの英訳が Z
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9
61に
載 っている。
)
筆者はバ ン ドソ教育大学社会人類学の Ha
r
s
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o
,S・
S・教授 とこれ らの点について話合 った時,教授 も
スソダのメナ ックは ジャワのサ ン トリが果た しているような社会的役割を も果た してお り,ス ンダはメ
ナ ックと農民の二集団に分類す るほ うが妥当であ ると話 してお られた。
1
5)C・va
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9
31.p.
70
6.
41
2
田中 :ス ンダ (
西 ジャワ)の貴族
(
me
n
a
k)について
イは官吏 と しての色彩 が濃厚 であ り, これ に対 して ス ソダの メナ ックは伝統 的家系 を もつ貴族
と しての意味 のほ うが濃厚で あ る。 これ は ジ ャワでは レ- ソ ト (
r
e
gent
,土侯 )以下 の諸役人,
1
9世紀初め, ダー ソデル ス(Daendel
s
)
,ラフル ス(
Ra
刑es
)
,全権 委員 (
Commi
s
s
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)
らに よ り, そ の領主的性格 を抑制 され, オ ラ ンダの土着民官吏化 してい った のに対 しで 6
)
,ス
ソダでは コー ヒーの義務供 出制に よる莫 大 な収益 が政庁 の財政 を支 えたため, 自由主義政策 は
Pr
e
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el
s
el
)(
1
677
-1
871) の もとに, レ- ソ ト以下 諸
実 施 さj
tず, プ レア ンゲル制 度 (
役人 の領主的性格は温存 され, ジ ャワに比べ土着 民官 吏化が遅れ たためであ る。
ス ンダの メナ ックがいつ成立 したかにつ いては良 くわか らないが, パ ジ ャジ ャラ ン王 国時代,
各地 に後 の レ- ソ ト (
土侯) の前 身 と考 え られ る ものが成立 した もの と思われ る。 後世,彼 ら
はいずれ もパ ジ ャジ ャラ ン王の末南であ ると称 してい る。17)
パ ジ ャジ ャラ ン王 国滅亡後, マ タラム王国の支 配下 に入 った時, マ クラムは この在地有 力土
侯 を ブパテ ィ (
bupat
i
) に任 命 し,彼 らに統治 させ た。 オ ラ ンダ東 イ ン ド会社 の統治下 におい
て も,会社 は住民の統 治を これ ら土侯 (オ ランダは これを レ- ソ トとよんだ)にい っさい まか
せ, コー ヒー等 の輸 出商 品の栽培 と供 出を彼 らを通 じて行 なわせ た 。18) 会社 倒産 (
1
799) 後 も
この プ レア ンゲル制度 (
1
677
-1
8
71)は存続 され, これ ら土侯 の性格に変化 ほお こ らなか った。
r
e
gent
) は世襲 され 19)
, 彼 らの もとに執政 (
pat
i
h), 郡長
この土侯,す なわ ち レ- ソ ト (
(
wedana), 副郡長 (t
j
amat
,as
i
s
t
en wedana) らの諸役人がいて彼 らを助け た。 これ らの役
職 は いずれ も レ- ソ トの一族, お よびそ の子孫 に よって占め られ た。
そ こで この レ- ソ トを頂 点 と した一つ の同族 集 団が各地 に成立 し,それが官職 と結 びつ き,
そ して また,彼 らはお互 いに婚姻を通 じて結びつ い てい ったので2
0
)
,彼 らは ス ソダ社会に一つ
の上 層社会集 団 と しての メナ ック階級を形成 してい ったので あ る。
メナ ックの象徴 と して ほ (
1
)
称号 とそれ に ともな う官職 ,(
2
)
プサ カ (
pus
aka),(
3
)
メナ ックに
ふ さわ しい生活 と生活態度等があげ られ る。 称号 は マ クラムよ り与 え られ る もの と, オ ラ ンダ
r
an (皇太子 の意味で, スメ ダ ン
よ り与 え られ る ものがあ る。 メナ ックの最高 の称号 は Pange
n (レ- ン トの最 も普通 の称号), Adi
pat
i(オ ラ ンダ
の レ- ソ トのみ これを称 した)で, Rade
1
6
)一時ジャワ戦争 (
1
8
2
5
3
0
)や強制拭培制度の実施 (
1
8
3
0
) のため, オランダは レ-ソトの協力を得る
ため後退させたが,強制栽培制度への批判が高まるにつれ,再び土着民官吏化が進め られた。
1
7
)Va
nRe
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s
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Pe
n,1
8
6
7
.p.
1
0
.
1
8
) この点については前掲拙稿を参照されたい。
1
9
) レ-ソトの職は法的にはオランダの任命であったが,実際には政策上の配慮か ら世襲が認め られた。こ
91
3
年である。
の世襲が廃止されたのは1
2
0
)スメダンのレ-ント家の系図 (
1
9
6
8
年作成のもの)によれば,スソダの各 レ-ソト家が互いに婚姻によ
り結びついていることがわかるOスメダンではとくにバンドン,チ ァンジュ-ル, 1
)ソバソガン,ガル
ー トのレ-ソト家との関係が深い。
マックス ・-ーフェラール (
Ma
xHa
ve
l
a
a
r
) によれば,1
9世紀中頃のルパ ック (
Le
b
a
k) とチァソ
ジュールのレ-ントは一族であるo (
Mul
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a
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,Ma
xHa
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r
,1
4
edr
uk.1
9
3
2
.p.1
4
7
.朝倉純孝訳
7
年,p.1
8
8
.
)
『マックス ・--フェラ-ル』 タイムス出版社,昭和1
4
1
3
東南 アジア研究
1
0
巻 3号
の中将 に相当す る),Ra
ngga(
普通執政や郡長に与 え られ る),
Nga
be
hi
,Te
menggung,De
mang
の順で これに続 く。 Ra
de
n の息子 は Aom,娘 は Dj
ua
g であ る。 女性 の最高 の称号 は夫人 で
Rade
nAj
u,娘 で Rade
nAdj
e
ng であ るが, これ らはいずれ も
ジ
ャワ起源 であ って, ス ソダ
idal
a
m,Nj
it
e
me
nggung,Nj
iwe
dana で あ る。 最低 の称号 は Masで下級貴族
語 では Nj
(
Sant
ana)が一般に これを称 した .21)
プサ カ (
Pus
aka.世 襲 の意)は,いわば 日本 の三 種 の神器 の よ うな もので,呪 力があ ると考
え られ,代 々世 襲 され た。 ス ソダ, ジ ャワいずれ も, ク リス (
短剣 ),袷,傘,柿 ,装身具 等
であ る.22)メナ ックの生活 と生活態度は,そ の立居振舞,礼儀作法等においていず れ もジ ャワ
の プ リヤイの影 響を非常 に うけ てい る。
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ メナ ックの権威 の精神 的基盤
メナ ックの精神的権 威 の源泉は超 自然的 な力があ ると考 え られ るそ の貴種 にあ る。 現在 で も
あ る特定 の レ- ソ トの蓋 はそ の土地 の人 々の信 仰 の対象にな ってい る。23'だか らこそ またそ の
象徴 としての プサ カが呪 力あ る もの と して尊 重 され たので あ る。 この貴種尊重は プサ カ ととも
に家系 図 を尊重す る ことにな る。24
) この系 図につ いては オ ラ ンダも早 くか ら注 目し,1
9世紀 な
かば, ス メダ ンとスカプラ (
Suka
pur
a)で副理事官 をつ とめた A.W.Ki
nde
rdeCamar
e
c
q
は,勤 務地 の レ- ソ トの系 図を報 告 してい る。25)
筆者 は スカプラ, リンパ ソガ ン, スメダ ンの三 カ所 の レ- ソ トの系 図を見 ることがで きたが,
この中で スメダ ンの ものが 最 も詳 し くて 完備 していた。 スメダ ンの レ- ソ ト家は ス ソダで も
最 も家格 が高 く,称号 もマ タラム王か ら最高 のパ ンゲ ラ ンを与 え られ た唯一 の レ- ソ ト家であ
る。かつ て マ クラム王が この地 を支配 した時,まず スメダ ンの レ- ソ トに東 ス ソダ全 体 の統 治 を
まかせ た くらいであ る。 現在 で も,パ ンゲ ラ ン ・スメダ ン財 団 (
J
aj
as
anPange
r
anSume
dang)
をつ くり, まだ多 くの土地 を保有 し,一族 の教 育資金や伝統文化 の保存 にあて, そ の地方で大
21
)Al
i
s
j
ahbana
,前掲書 p.19-20・
22)筆者はスメダンでプサカを見せてもらったが,宝石をち りばめた黄金作 りのクリスや冠,装身具であっ
た 。
プサカは疫病や皐魅の予防にも役立つと考え られ,場所によっては住民のために行列が行なわれ,普
Al
i
s
j
ahbana,前掲書,p.21
)
たプサカを洗った水が病気に効 くとも考えられていた。(
23)筆者はスンダで各地のレ-ソトの墓を訪ねたが, リンパンガンの Rade
nWi
dj
aj
aKus
mah,スメダンの
Pange
r
anSur
i
aKus
mahAdiNat
aI (1
836-82在位)
, およびチア ミスのあるレ-ソトの墓は, そ
の土地の人々に尊崇され,種々な祈願の対象となっていた。とくにスメダンの前記 レ-ソトは財産や奥
さんや子供 (
94人)に恵まれていたので,これ らの欲 しい人はこの墓に祈願するとのことで,墓地の中
でもとくに白布で囲まれていて,特別なあっかいを うけていた。
24) ほとんどの家は Sa
l
s
i
l
a
h(
家系固)を持ち,その家の重要事項を特別な木 (
普通は宗教書)に書きこん
だ。(Al
i
s
j
ahbana,前掲書,p.33。脚註)
25)A.
W.Ki
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862.pp.1
59-1
60.
4
1
4
田中 :スンダ (
西 ジャワ)の貴族 (
me
na
k)について
きな力を持 って い る。
スメ ダ ンの レ- ソ ト家 の詳細 な系 図は,1
9
6
8
年 パ ソゲ ラ ン ・スメ ダ ン財 団に よって作成 され
ar
ah Sumedang)」を もとに, 各地 の レ- ソ ト家 の
ていたが, この系 図は 「ス メダ ン史 (Sudj
系 図 とオ ラ ンダ人, イ ン ドネシア人歴 史家 の研究を参照 しなが ら作成 され てあ った。基 本 とな
表 1 ス メ ダ ン史 (
Sudj
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Kol
om l・Na
biAdam より Pa
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Suna
nTuakan の娘 Nj
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a
r
と結婚 した SunanTj
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nda の娘,
2
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Put
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ukOe
moe
m と結婚す。
注 :Na
bi
-預言者。Kandj
i
ng-王。Kol
om 2ほ Na
biNoh に始まって Si
l
i
wa
ngiとなる。
Na
biNob-ノア。 Ka
ndj
i
n
g Na
biMuhama
d-マホメット。
41
5
東南 アジア研 究
1
0
巻 3号
った 「ス メ ダ ン史」 は昔 の レ- ソ トの邸宅 の一 部 の一室 に保存 され てあ ったが, これは 1
9
01
年
ア ラ ビア書 体 で筆写 され た詳 細 な レ- ソ ト家 の系 図であ り, また戸籍 で もあ った。 そ して これ
は ア ラ ビア書体で あ るた めか ,1
91
9年 に ローマ字化 され, さ らに 1
9
01年 以後 が補足 され てあ っ
た 。1
91
9年 本 で, 1巻 1
3
3ペ ー ジ, 2巻 53ペ ー ジの大部 の もので あ り, ス ソダ語 で書 かれ てあ
った
。
「ス メ ダ ン史」(
表 1 ・図 1参 照 ) に よる と, スメ ダ ンの レ- ン ト家 は チ ィレポ ソ王室 出身
an Sant
ri
) とパ ジ ャジ ャラ ン王 の子孫 (女) との結婚 に よ
の パ ンゲ ラ ン ・サ ン トリ (Panger
ってで きた もの と してあ る。 この こ とは チ ィレポ ソ王国 の勢 力が この地 に のび て来 て,土着勢
図 1 Sume
dang 家系図
(
Sudj
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r
a
hSume
da
ng よ り作成)
Na
biAdam
Na
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( ジブ ト王)
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(
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チ イレボン王家
-PangeranSantri(スメダンの始祖)
(
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5
70-15
89)
Kus
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1
589-1
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604-1609)
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609-1
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7)
Kus
maDi
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aV (1627-1666)
Kus
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aVI(1666-1
706)
×印は結婚
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l
バ ンテン王家
田中 :スンダ (
酉 ジャワ)の貴族
(
me
n
a
k
)について
力 と結合 した ことを意味す るであろ うが, 同時に また この地 の回教が チ ィレボ ンよ り入 って き
たで あろ うことを うかがわせ る。 これ は チ ィレボ ンに隣接す る地域 と して,地理 的に も充分考
え られ る ことで あ る。
しか しここで注 目す べ き ことは祖先 を マホメ ッ トと してい る ことであ る。 す なわ ち 「ス メダ
biAda
m (
Nabiは預 言者 )か ら始 ま って NabiMuhamadに な り,
ン史」 第 1ペ ー ジは Na
チ ィレポ ソ, バ ンテ ン両王 国の始祖 Sun
anGunungDj
at
i
,そ して Pa
nge
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anSant
r
iとな り,
第 2ペ ー ジに入 って, パ ジャジ ャラ ン王, シ 1
)ワ ンギ (
Si
l
i
wangi
)が 出 て くるが, この シ リ
ワ ンギ もまた, Na
biAdam の 9代 目の子孫 Na
biNoh の第 2子 Ba
gi
ndaSj
ah を先祖 と し
てい る。 す なわ ち預言者 マホ メ ッ トの子孫 が, 同 じく預 言者 ノアの子孫 であ るパ ジ ャジ ャラ ン
王 の兼高 の娘 と結婚 してス メダ ン家が で きあが った よ うに な ってい る。
これ が 1
9
6
8
年 作成 の系 図 では ス ソダの ガル -王朝 を中心 に して,その子孫 の シ リワンギ王 の
曽孫 (女)が, エ ジプ ト (
Me
s
i
r
)王 の子孫 であ る チ ィレポ ソ王室 出身 のパ ンゲ ラン ・サ ン ト
リと結婚 した よ うに表現 され, 回教 の預 言者 たちに結 びつけ ていない。 す なわ ち 「ス メ ダ ン
史」 は回教預 言者 の子孫 であ る ことを強調 し,1
9
6
8
年 の系 図は ス ンダ人 の間に伝 承 され てい る
民族 的英雄 シ リワンギ王 の子孫 であ る ことを強調 してい る。
ス ソダの レ- ソ トが この よ うに先祖 を マホメ ッ トとし26
)
, この ことを強調 した ことは, この
地 - の回教 の浸透 と相 まって, レへ ソ トが従来 もっていた アニ ミズ ム的権威 (超 自然力を持 っ
てい る と言 う) と,王は神 の化神 であ る と言 うヒンズ ー的権威 (シ リワンギ王の子孫 で あ る こ
とに よって)に, さ らに回教 の カ リフ的権威 を加えた ことに な る。
事実, レ- ソ トは オ ラ ンダの-土着 民官 吏 と化す るまでは, 単に行政上 の長であ ったば か り
) だか らこそ,宗教税であ るジ ャカ ト (
Dj
akat
,モ ス クや
では な く,宗教 上 の長で もあ った 。27
Pi
t
r
ah,断 食終 了時に納 め る) の一部 を徴収す る権利 を持 ってい
聖職者 に納 め る)や ピ トラ (
たのであ る。 また彼 らの住居 と役宅 は, 必ず聖樹 ワ リソギ ソの繁 る広場 (
al
una
l
un)を 中心
に した南側 におかれ,西側 には モス クを配置 してい る。 (図 2参 照) そ して彼 らの部下,郡長
(
wedana)
,副郡長 (
t
j
amat
) もまた この形式 にな らってい る。
す なわ ち政 教一致 と同時に,彼 らがそ の長であ る ことを形 の上 で示 してい るのであ る. レソ トが この よ うな権威 を持 っていたか らこそ, オ ラ ンダは法的には レ- ソ トの任命権を持 ちな
r
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s
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ha
p,レ- ソ ト統 治県) を設置
が らも,彼 らの世 襲を認 め,新 たに レ- ソ トス- ップ (
2
6) チァソジュールのレ-ントの先祖 Wi
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rI (1557没)はシリワンギ王の子孫で,彼の母は
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iの娘であるとしている。(
Al
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,前掲書 p.33,脚
チ イレボン王室の始祖 S
注)このようにスソダではほとんどのレ-ソトが,先祖をシリワンギ王とパンテンやチ イレポソのスル
タンにしているので,マホメットを先祖にすることができる。
27
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92
0
.p.50
7.
41
7
東南 アジア研 究
1
0
巻 3号
図 2 レ-ントの住屠
(
スメダンの例)
副理事官邸
広
0
場
ワリンキン樹
0 0 0 0 0
した時 で も,彼 らの一族か ら レ- ン トを任命 し28)
,植 民地統治に利用 したのであ る。
1904年, プーカ (Boeka) は 「イ ン ド入門 (De l
ndi
s
che °i
ds)」 誌上において 「ジ ャワの
d op Java)」 につ いて論 じてい るが,彼はその中で, 「そ の地方を支配 してい
首長 (De hoof
た レへ ン トの一族 で な く,博学 と西洋的知識に よって政和 こ任命 され た レ- ソ トは,住民に首
長 として認 め られ る よ うにな るのに非常 な努 力 と時 間が必要で あ る。 それで も レへ ソ トの一族
ほ どの勢 力を持 つ ことはで きない。 そ して侮辱 された と考 え る貴族や,そ の他 の不満分子が復
讐 を考 え る よ うに な る。 しか し他 の出 自の レ- ソ トも政府 の手厚 い保護 と与 え られ た権 力に よ
って,表 だ って住 民か ら軽蔑を うけ ることは ないO
」 と言 って29)
, 伝 統 的首長 が依 然 として住
民に尊 敬 され てい ることを述 べてい る。
一般 の メナ ックも以上 の よ うな精神的 な権 威 を もってい る レ- ソ トの一族 であ るがゆえに,
住民か ら尊 敬 の念を もってむ か え られ たので あ る○ だか らこそ, オ ラ ンダは一般土着 民官吏 を
ほ, 「高級
メナ ックか ら多 く採用 したのであ る。 1940年において もなお, ス ソダの女流作家30'
役人 の子孫 で,貴族 の称号 を持 ってい る者 が,教 師でかつ 住民の教育 的発展につ くしてい る者
よ り, 住民か ら尊敬 され,要求 され てい る。
」 と書 いてい る。
2
8
)2
0世紀に入ってか ら,オランダはスカブミ (
Sukabumi
)に新 しい r
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pをつ くったが,そこの
レへソ トにスメダンのレ-ソトの一族を任命した。
2
9
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.26,1904.p.335
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0(
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a
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na
,前掲
書 p.1
5
)
41
8
田中:スンダ (
西ジャワ)の貴族 (
me
na
k)について
しか し オランダの レ- ソ ト等の 土着民官 吏化が進み, 彼 らが単 な るオ ラ ンダの -役人 と化
し,宗教的権威 を失 うにつれ,一般 のメナ ックもまた精神的な権威 を徐 々に失 ってい ったので
あ る。
Ⅰ
Ⅴ
メナ ックの権威の経済的基盤
メナ ックの権威 の政治経 済的基盤はす でに述べ た よ うに,政 治権力す なわ ち官職に結 びつい
てい る点にあ る。 メナ ックでなければ役人になれ なか ったのであ る。 この ことは後年, オ ラン
ダが身分でな く,学校教育を うけた ものか ら土着民官 吏を採用す るよ うにな って も,教育を う
け る機会に恵 まれ たメナ ックが,やは り多数 を占め て,そ こに大 きな変化ほお こらなか った。
1
9
25年, ジ ャヮ島全体 の執政 (
pat
i
h)
, 郡長 (
we
dana)3
9
9名車, 非貴族 は1
6
6名 (
4
0%)で,
他は全部,貴族であ った 。31)
それゆえ, メナ ックの権威 を支え る経 済的基盤 の第一は官職 に ともな う収入であ る。
ス ソダの農民は彼 らの領主であ る レ- ソ トその他 の首長 (
hoof
d) に対 して, 夫役 と貢納 の
義務があ った。 夫役には まず職 田 (
ambt
vel
d)で の労働があ った。 職 田は役人 の俸給 として
役職 に付随す る ものであ るが,役職は しば しば世襲化 されたので,職 田は役人の私有地化す る
ことが多か った。その他には首長の邸宅 の手入れ,道路普請,供奉等があ った。
貢納 には収穫 の二十分 の-を納め るチ ュウク (
t
j
uke) があ った。 レ- ソ トは このチ ュウク
と磯 田のそれぞれ一部を配下 の役人に分かち与 えたのであ る。
レ- ソ トは また回教の長で もあ ったか ら,すでに述べた よ うに宗教税 の d
j
akatと pi
t
r
ahの
一部を 自己の収入 とした。 このほか,水牛の売 買お よび屠殺税,通行税,渡船税等が レ- ソ ト
に納 め られた。 そ してメナ ックは レ- ソ トの一族 としてそれぞれ の レ- ソ トの もとで役職を与
え られ,収入 の道を得たのであ る。
しか しレ- ソ ト以下諸役人達 に とって最大の収入 とな ったのほ, コ- ヒーの義務供 出制に と
もな うものであ った。彼 らは オラソダと農民の間にあ って,莫大 な収益をお さめた .
3
2
)
しか しこの よ うな収 入 も, プ レア ングル制度の廃止 (
1
8
71) とその後の土着民官 吏化政策 の
進展 につれ, これ ら領主的特権は消減 させ られ,失 われ てい った。
メナ ックの経 済的基盤 の第 2は,土地所有に よるところの ものであ る。 オ ラ ンダ東イ ン ド会
社時代, ス ンダの レ- ソ トお よび郡長 ら有力者達は義務供 出制の負担に耐 えかね て,逃 亡 して
きた農民を 自己の手 もとに受け入れ, 隷農 (
menunpang)として 開墾 と耕作にあた らせ た 。3
3
)
31
)Al
i
s
j
a
hbana
,前掲書 p.1
5.
3
2)前掲拙稿を参照されたい。
3
3
)東インド会社時代末期にはスソダの農民の過半数は隷農 (
Me
numpang) となった。(
前掲拙稿 p.1
2
3)
0
この数字はジャワ島全体についてであるから貴族にはジャワのプリヤイとスソダのメナックの両方が含
まれている。
41
9
東南 ア ジア研究
1
0
巻 3号
この当時, ス ソダ (プ リア ンガ ソ)地方はほ とん ど荒蕪地におおわれ ていたので,労働 力を
獲得 した これ ら有力者達は開墾 して所有地を拡げてい ったのであ る。 会社崩壊後 もこの傾 向は
続 き, こ うしてメナ ック達は大土地所有者 とな ってい ったのであ る。
1
9
0
4
年, ケル ン (
R.A.Kern)は 「イ ン ド入門 (Delndi
s
c
he°i
ds
)
」誌上で 「プ レア ンゲ
ルの状況,大土地所有」, す なわ ちス ソダ地方 の大土地所有について論 じてい るが, その中で
彼は, この地方の大土地所有 の原因につ いて,次の よ う芦述 べてい る。
3
4
)
(
1
) 同郷人の購入に よる。
(
2
) 荒蕪地 の開墾に よる。 これは後に法律 に よ り制限 され たが,他人名儀で開墾が行なわれ
た 。
(
3
) 荒蕪地に コー ヒーを植 え, また 5年後には世襲的個人 占有地に して もらうと言 う条件で
政府 の農園を維持管理す ることに よって。 この よ うな方法で1
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7
2
年か ら1
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8
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年 の間にいわ
ゆ る 「独立農園 (
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」 がで きた。 しか し,土地を拡張 して コー ヒ-を植 え
た り, また維持す る手段を持 ってい るのは,富裕 な土地所有者に限 られ ていたので, これ
らの土地 の大部分は これ ら富裕 な土地所有者 の手に入 った。 これ らの土地は初めは当然畑
であ ったが,後に一部は水 田に改め られ た。
(
4) 山獄地帯 で,主 として畑,水 田を略奪す ること (
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e)に よって。 と くに1
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年以
前 は まだ荒野で,その後急速 に水 田化 してい ったバ ソ ドン高原において。
以上 4点を大土地所有成立 の原因 としてあげてい るが,現在
(
1
9
0
4
年)では(
1
)
の同郷人か ら
の購入が最 も重要 な原 因であ るとし,大土地所有拡大 の原 因を純経済的な ものに求めてい る。
しか し彼は大土地所有者 として, (
1
)レ- ソ トの一族 (
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n), (
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)土着貴族
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)村人 (
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n) の三者 をあげ,(
1
)と(
2
)
,す なわ ち メナ ックが大土地所有
者 の主要構成員であ ることを示 し3
6
)
, さらに 「土着民官 吏は レ- ソ トー族お よび,土着貴族で
あ ったが, しか しこれ らの人数が官吏 の数 を上 回 ったため,最近では最 も有名な家族でない と
なれ ない。そ こで レ- ソ トの家族 の一員以外 の土着貴族は官吏- の道を閉 され て しまった。 た
とえあ って も収入が少 な く,名誉 的な ものであ った。土着 民官吏の数 の停滞は,それか ら閉め
出 され た大土地所有者 を して, さ らに土地 の拡大 と改 良に心を 向け させ た。彼 らは耕作に対 し
て愛情を持 ち, また手段 も所有 し,勉学 の意欲があ り,教義があ り,発展進歩に対 して,一般
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35)在地化したメナック。
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aはスンダの大土地所有の基本的原因として,土地の個人的占有権と非村民に対する土地の
1
)
メナックの家族,(
2
)
富裕な村民,(
3
)
商人,(
4
)
-ジ (
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)
自由譲渡をあげ,大土地所有者としては, (
をあげ,土地はメナックにも県民にも良い投資として考えられたとのべている0 (
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,前掲書
p.53)
4
2
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田中 :ス ン〆 (
西 ジャワ)の貴族 (
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nak) について
大衆 よ りは るかに有能であ った。
」 とのべ, さらに大土地所有者は開拓者 として, また国民の
て果 た してきた役割を高 く評価 してい る。
この よ うに メナ ックは大土地所有者 としての経済的基盤を持 っていたので, メナ ックの身分
が官職 と結びつかな くな った後において もなお,大土地所有者 として農民に対 して権威を維持
し続け ることがで きたのであ る。
耕作に対す る道案 内 として有益であ るとし, メナ ックが大土地所有者 として, また開拓者 とし
お
わ
リ に
現在 メナ ックは 伝統文化 の継承者 として 以外の身分的, 精神的権威は 失 って しまってい る
96
0年の土地改革に もかかわ らず,
が,権威の経済的基盤の一つであ った土地所有については,1
彼 らはなお依然 として土地を保有 し,土地所有者であ ることには変わ りはない。 しか し,分割
相続で, しか も子 どもが多 いため,一般的にはかな り細分化 され ているよ うであ る。 また彼 ら
は教育に熱心で,経済力があ るので,子弟に高等教育を うけ させ てい るため,中央,地方の官
庁ではなお依然 として彼 らは勢力を持 っている。
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