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カティンの森事件を事例に - 岡山大学学術成果リポジトリ

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カティンの森事件を事例に - 岡山大学学術成果リポジトリ
学 位 論 文
現代史 における歴史認識 の共有
- カテ ィンの森事件 を事例 に-
平成 24年 3月
氏名
岡野詩子
岡山大学大学院
社会文化科学研究科
現代史における歴史認識の共有
一 カティンの森事件 を事例に-
は じめに
序論
7
1 カテ ィンの森事件 の二面性
9
2 先行研 究
第 1章
17
3 現在 の動 向、解決 法の模 索か ら歴史認識
カテ ィンの森事件 の概 要
1 カテ ィンの森事件 とは
2 当時のポー ラン ドを取 り巻 く国際情勢
3
ドイ ツ犯行説 とその根拠
4 真相 の解 明
5 真相解 明後 の処理
第 2章
共産主義時代 にお ける西側諸 国の研 究
1.西側諸 国の研 究 -パ リ亡命雑誌 『クル トウ- ラ』・・・・・・・・・・・・・・
35
2.ポー ラン ドにお ける地下出版 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
50
第 3章
遺族 に対す るイ ンタ ビュー調査
1 イ ンタヒュ- の 目的
手法
2 イ ンタ ヒュ-対象者 に関す る情報
3 イ ンタ ヒュ-の全内容
4
イ ンタヒュ-分析
-2-
第 4章
現代史 にお ける評価 と今後 の展望
1.現代史 の中でのカテ ィンの森事件 の位 置付 け ・・・・・・・・・・・・・・・・
92
①共産主義時代 か ら現在 までの状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
92
②欧州人権裁判所 を通 じた真相究明の模 索 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
98
③ 2009年 9月第二次世界大戦勃発 70年 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
00
④ 201
0年 カテ ィンの森事件虐殺 70年 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
02
⑤ カテ ィンの森事件 に関す る公 開資料 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・
1
03
2.現代史 の再認識 、共有 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
1
5
① ポー ラン ド人の歴史認識 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
1
5
② ロシア人の歴史認識 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
2
3
③今後 の展望 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
3
0
第 5章
カテ ィンの森事件 の 「
灰色性」 と歴史瓢織 の 「
重層性」
1.カテ ィンの森 事件 の 「
灰 色性」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
3
3
① なぜ カテ ィンの森事件 は 「
灰色」であ り続 けるのか。・・・・・・・・・・・・・
1
3
3
②事件解決 の可能性 の模 索 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
38
2.歴史認識 の 「
重層性」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
3
9
① カテ ィンの森事件 か ら、それ ぞれ の レベル で何 を重視す るのか。・・・・・・・ ・
1
3
9
② それ ぞれ の歴史認識 にお け るニュア ンスの差異 とは。・・・・・・・・・・・・・
1
42
結論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
45
参考文献 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
48
参考資料 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
6
3
-3-
はじめに
研究の視 点 と方法
本稿 は 、1
9
40年 に NKVD (
ソ連 内務人民委員部 )に よってポー ラン ド人将校 ら約 22,
000人が殺
害 され たカテ ィンの森 事件 1を研 究対象 と してい る。カテ ィンの森事件 は、第二次世界大戦 中に起
こってか ら 70年以上経つが、現代史 の影 の部分 と して未 だに解決 してお らず 、ポー ラン ドとロシ
ア間にお ける対立のひ とつの象徴 となってい る。本稿 は、真実解 明に向 けて戦後 どの よ うな研 究
が行 われ てきたか、また一方 で事件 の真相 究明 とは別 に、 シンボル化 され た この事件 が、政 治的
に どの よ うに黙殺 、または利用 され てきたかを、亡命者 に よる研 究、遺族へのイ ンタビュー調査、
国民への世論調 査機 関のア ンケー ト調査報告 な どを用 いて分析す るものである。 そ して、 こ うし
た分析 を通 じて、現代 史の中でカテ ィンの森事件 に対す る歴史認識 が ど う変化 したか、また今後
それ を ど う共有 してい くかを考 え、そ こか ら事件解決 の方 向性 を模 索 していきたい。
ポー ラン ド・ロシア間の 「
歴 史の空 白」となってい るカテ ィンの森事件 につ いて、国家、国民、
遺族 が どの よ うに考 え、それ を ど う表 明 してきたか を包括 的 に検証 でき る第一次資料 は皆無 に等
しい。 そ こで本稿 では、次の資料 を分析す ることに よって、多面的 にこの課題 にアプ ローチ した
い。 まず一つ 目の資料 と して、戦後パ リに亡命 したポー ラン ド人 らによって発行 され た雑誌 『ク
ル トウ- ラ』の全号 を検討 し、共産 主義体制 下での西側諸 国で事件 の真相 が ど う考 え られ ていた
か を分析す る。『クル トウ- ラ』は、多数 ある亡命 系雑誌 の うち、ソ連 の影響 を受 けない姿勢 を強
く示 してお り、唯一定期的 に、また大量 にポー ラン ド国内 に持 ち込まれ た西側 の反体制雑誌 で あ
る。二点 目は、遺族 に対す るイ ンタ ビュー調査であ り、それ によって時代 の変化 に伴 い翻弄 され
る遺族 の姿、そ して事件 が政 治化 してい く過程 を明 らかに してい く。 さ らにそ こか ら彼 らが解決
の形 と して求 める方 向 を明 らかにす る。そ して三点 目は 、1
990年 以降 に完全ではないが公 開 され
た ソ連公文書館 の機 密文書か ら、歴 史事実 と して明 らかになってい る内容 、未 だ機 密 とされ てい
る内容 を考察す る。 四点 目は、新聞や世論調査等 な どの現代性 を帯びた資料 か ら、近年 の動 向 を
本稿では地名 Ka
申1の邦訳として原則として 「
カティン」を使 うO しかしながら、邦訳の書名なとで 「
カチン」
が使われている場合は、この限りではない。
1
-4 -
整理す る。
序論 では、カテ ィンの森事件 の研 究方法の 2側面 を挙 げ、事件 の事実追究 の側面 か らだけでは
な く、事件 が政 治化 してい く側面 に焦点 に当て るこ とが本研 究のオ リジナ リテ ィであることを明
確 に してい る。 そ して、それ ら 2つの側面の関連性 を共産主義時代 と体制転換後 で比較 し、それ
ぞれ に関す る先行研 究 を整理す る。
第 1章 では、カテ ィンの森 事件 の概要 を説 明す る。事件発生以前、す なわち第二次世界大戦 に
お けるポー ラン ド、ソ連 、ドイツを取 り巻 く国際情勢 、1
990年以降 に明 らかに され た事実 を含 め、
事件 の詳細 を説 明 してい る。
第 2章 では、共産 主義時代 の西側 の研 究 と して、戦後パ リに亡命 したポー ラン ド人 らによって
作 られ た雑誌 『クル トウ- ラ』 を取 り上 げ、事件 に関す る記事 を全て ピ ックア ップ して紹介す る
とともに、『クル トウ- ラ』 と事件 との関わ りも考察 してい る。
第 3章 では、事件 の遺族 に対す るイ ンタ ビュー調査 を下 に、遺族 の 目か ら見た時代 の変化 を分
析 す る。 戦後 、共産主義時代 、体制転換後 を通 して、時代 に翻弄 され た遺族 の証言 か ら、国際 関
係 の中で事件 が政治的 に利用 され てきた ことを確認 したい。
第 4章 では、現代 史 にお け る評価 と今後 の展望 について論 じてい る。 近年 の動 向を新 聞や世論
調 査か ら整理す るとともに、 ソ連公文書館 によって公 開 され た機 密文書 か ら、今現在 、歴史事実
と して何 が明 らかにな り、何 が未 だ明 らかにな っていないかを考察 してい る。
第 5章では、第 4章までの分析 を踏 まえて、カテ ィンの森事件 の 「
灰色性」、つま り白黒つかず
なかなか解決 に至 らない状況 を指摘 し、そ こか ら浮 かび上 がった解決 の可能性 の選択肢 を探 る。
そ して、国家、研 究者 、国民 、遺族 の レベル での歴 史認識 は ど うな され てい るのかを論 じ、それ
ぞれ の レベル か ら見 られ る歴 史認識 の重層性 、お よびそ こか ら生 じるニ ュア ンスの差異 は何 を示
す のかを考 え る。
全ての章か らの分析 、議論 に基づ いて、西側諸 国の研 究 、遺族 へのイ ンタビュー調査 、近年 の
動 向な ど多面的 な方 向か ら考察す ることで、事件 の事実追究の側 面だけではな く、事件 が政治化
してい く過程 を明 らかにす る。 そ して、事件 の政治化 が国家、国民、遺族 な ど様 々な立場 による
歴 史認識 において、 どの よ うな影響 を及 ぼすのかを も考 え る。将来 に向 けて 「
過 去の克服」問題
-5-
に取 り組 み、ポー ラン ド ・ロシア関係 を改善す るた めには、歴史 の負 の部分 を無視す るべ きでは
な く、それ がカテ ィンの森事件 の教訓であ り、歴史認識 の共有 に際 しての重要なェ レメ ン トの う
ちの一つであ ることを確認 したい。
-6-
序論
1.カテ ィンの森事件の二面性
カテ ィンの森 事件 の研 究は、 これ まで主 に事実追究の側 面が大部分 を 占めてきた。 この歴史的
事件へのアプ ローチ方法は様 々であ るが、本研 究では、事実追究 を一つ 目の視点 と し、二つ 目と
して 「
政 治の道 具」 と しての側面 に焦点 を当て る。 一つ 目の事実追究 に関 しては、 これ まで、主
にポー ラン ド人 、 ロシア人な ど、多 くの研 究者 が事件 の真相究明 に向かい、殺害 され た者 のプ ロ
フ ィールや殺害場所 を細 か く特定す るところまで調 査が進 め られ てきた。 しか し、 ロシア側 の公
文 書館 の資料 が全て公 開 され てい るわけではな く、全真相解 明までには至 っていない。
二つ 目の 「
政 治の道具」の側面か らの研 究は、事件 を取 り巻 く国内外 情勢 によ り国家 、国民 そ
して遺族 が翻弄 され た過程 を見出す ことで ある。真相究明の研 究 とは別 に、 この事件 をポー ラン
ド、 ロシア人の記憶 の 中に どの よ うに定着 させ るか を巡 って、様 々な立場 の人が様 々な方法で労
力 を費や してきた。 共産主義時代 下では、事件 は隠蔽 され 、人 々がその事実 を記憶 の奥底 に沈 め
るよ うに圧力 が加 え られ た。 しか し、1989年 の体制転換 によってポー ラン ドに非共産 党政権 が樹
立 され る と、反 ソ (
反 ロシア)政権 は、今度 はポー ラン ドのナ シ ョナ リズムを高揚 させ る象徴 と
して この事件 の真相 究明を声高 に叫ぶ よ うになった。 同時 に、 この事件 の真相究 明がポー ラン ド
とロシア との政治的駆 け引きの材料 と して扱 われ るよ うにな り、事件 が 50年経 った後 に もまた政
治化 していった。 そ うしたプ ロセ スの中で、犠牲者 の遺族 たちは、沈黙 を強要 され た り、表舞 台
に引きず り出 され た り、翻弄 され続 けた。
換言すれ ば、一つ 目と して挙 げた事実追究 に関す る研 究 は事件 の詳細 を明 らか にす ることで あ
り、二つ 目は事件 の真実 とは別 に、その事件 が共産 主義、体制転換 での体制 下で どの よ うに政 治
的 に利用 または黙殺 され てきたか を明 らかに し、将来 に向けて解決 の道筋 を模 索す ることであ る。
今現在 までは どち らか とい うと一つ 目の研 究の方 が主流で あ り、ポー ラン ド国内だけではな く国
外 で も多数 の文 献が出 され てい る。 二つ 目の研 究はそれ ほ ど多 くな され ていない ことか ら、本研
一7-
究 は二つ 目の方 を中心 に進 めてきた。 カテ ィンの森 事件 をめ ぐるポー ラン ド ・ロシア間 にお け る
政 治的問題 の新 たな展 開、現代史か ら見 る人 々の歴 史認識 、事件 の持つ特殊性 、ポー ラン ドとい
う枠組みの中での歴史認識 の 「
重層性」な どか ら、事件 をめ ぐる論争 の構 図を整理 してい きたい。
そ して、文献資料 だ けではな く、イ ンタビュー調査 か ら得 た遺族 の生の声や 、最新の動 向を伝 え
る報道 な ど、多方面 にわた る資料 か ら実証 、分析 に よ り、事件 の あ りうる解決 の方 向性 も考 えた
い。
① 共産 主義時代
事実追究、そ して 「
政治の道具」 の側面 は、共産 主義時代 では反対のベ ク トル を向いていた。
共産党 当局は、事件 を公言す ることを禁 じるな ど徹底的 に取 り締 ま り、事実究明 に乗 り出そ うと
す る者 に対 しては圧力 をかけた。
政治的 な側面 では、事件 が表舞台 に出ない よ う事実は黙殺 され てきた。 これ は後 に 「
歴史の 白
鍾 (
Bl
a
壬
ePl
a
my)」の中の項 目に含まれ る。 「
歴 史の 白斑」 とは、共産主義時代 で普及 が禁止 、隠
蔽 され たポー ラン ドの歴史や文化 に関わ る事柄 を示 し、1
98
0年代 半ばに広 まった。ポー ラン ドで
は第二次世界大戦で受 けた被 害か ら、ナチ ズム とス ター リニズムはほ とん ど同 じよ うに批判 され
てい るが、「
歴史 の 白斑」はス ター リン(
J
os
e
phS
t
a
l
l
n)
時代 の事実の隠蔽 を指す こ とがほ とん どであ
る。例 えば、カテ ィンの森事件 、独 ソ不可侵条約秘密議定書 に基づ く 1
93
9年 9月 1
7日の ソ連 の
ポー ラン ド侵攻 、お よびバル ト諸 国 とポー ラン ド東部 を ソ連 に、西部 を ドイツに併合す る取 り決
め 、1
9
40年 か ら 1
9
41年 にかけてのポー ラン ド人の東部移送 な ど、当時資料 がないため調査不可
能 とされ ていた事柄 である。 しか し、 これ らはすで に国外 お よび検閲の範 囲に及 ばない ところで
研 究者 によって調査が委ね られ ていたのは明 らかである。
こ うした ことか ら、事実追究、そ して 「
政治の道 具」の側面は、共産 主義時代 ではカテ ィンの
森 事件 の事実 を隠蔽 し、事件 自体 を社会 か ら消 し去 った こ とか ら、事実 に対 して反対のベ ク トル
を向いてい ることが分 か る。
-8-
②体制転換後
一方 、体制転換 によ り民主化 への道 を進 み出 した ことか ら、言論 の 自由が認 め られ るな ど政治、
社会的状況 が変化 した ことで、事件 はポー ラン ドのナ シ ョナ リズムの象徴 とな り、事実究明が叫
ばれ るよ うにな る。 ロシア側 も体制転換 の波 に逆 らえず、事件 をスター リンの犯罪 と強調 した う
えで、公文書館 の資料 が徐 々に公 開 し始 めた。 さらに、ポー ラン ド ・ロシア間外 交 にお ける政 治
的駆 け引 きの中でカテ ィンの森事件 の事実究明が重要なカー ドと して使 われ るよ うにな る。 この
よ うに、事実追究、そ して 「
政治の道具」 の側面は、事件 の事実 に対 して共産主義時代 は反対 の
ベ ク トル を向いていたのに対 し、体制転換後 は双方 の面の事件解決 か らその求 め る先は必ず しも
一致 しないが、それ で も事実追究 に対 しては同 じ方 向を向いてい る。
2.先行研究
①事実追究の側 面
カテ ィンの森 事件 の事実追究 にお ける先行研 究 と して 1
9
43年 か ら現代 にかけて出版 され てい
る主要な文献 をい くつ か紹介す る。以下の文献は、『カテ ィンの森事件 に関す る参 考文献 一 覧 1
9
43
年から1
99
3年 に出 され た文献 』 (
Hr
z
,[
1
993
]
) に基づいてい る。それ らの文献 を、(
1
)
外 国語 (
ポ
a
ー ラン ド語以外)で出版 され た文献、(
2)
亡命 先で出版 され た文献、(
3)
地下出版 、(
4)
ポー ラン ド国
内での正式出版 の項 目に分 けて、それ ぞれ ごとに主要文献 をサーベ イす る。 さらに、近年 出版 さ
れや主な文献 も挙 げたい。
(
1
)外 国語 (
ポー ラン ド語 を除 く) で出版 され た文献では 、1
9
43年 に ドイツで出版 され た 『カ
Ma
t
e
r
l
a
l
,[
1
9
43
]
)がカテ ィンの森 事件 に関す る最初
テ ィンにお け る大量虐 殺 に関す る公式資料 』 (
の資料 で ある。 しか しなが ら、 これ は事件発覚後す ぐ ドイ ツがプ ロパ ガ ンダを 目的 と して出版 し
た ものなので、学術的な文献 とは言 えない。英語 での文献で最 もよく知 られ てい るのは 、1
96
2年
J
a
n
us
zK Za
wo
d
n
y)
著の 『カテ ィンの森 の夜 と霧
に ロン ドンで出版 され たヤヌシュ ・ザボ ドニー(
第二次大戦 をめ ぐる大虐殺事件 の真相記録 』(
za
wod
n
y
,[
1
962
]
)である。著者 は第二次世界 大戦 中、
国内軍の一員 と して ワル シャ ワ蜂起 にも参加 し、現在 はア メ リカ に住み 、政治学 、国際 関係 学 を
専 門 と して教鞭 を執 ってい る。この文献で著者 は、当時のポー ラン ド人将校 た ちの取 り巻 く背景、
-り-
虐 殺 の要 因、そ して事件発覚後 の調 査等 を記す ことで、彼 らの運命 をた どってい る。 さ らに、著
者 はカテ ィンの森事件 の 目撃者 、関わった人たちへ のイ ンタビュー も試 みてい る。無論 、 ソ連側
の資料 にはあたれず、西側 の調 査か ら得 られ た情報 によるものであることは言 うまで もない。1970
年代 には、イギ リス人作家 のル イ ス ・フ イソツギボ ン(
Loul
SFl
t
Z
Gl
bbon)
のカテ ィンの森 事件 を題
材 に扱 った文 献が何冊 か出版 され てい る (
Fl
t
Z
Gl
bbo
n,[
1
971
],
[
1
975]
,[
1
977a
]
,[
1
977
b]
)
。 そ して、
1
991年 にニ ュー ヨー クで出版 され たア レン ・バ ウル(
Al
l
e
nPa
ul
)
著 『カテ ィン
知 られ ていないス
ター リンによるポー ラン ド人の虐 殺』Pa
ul
,[
1
991
]
)
では、犠牲者 の家族 3組 が戦争勃発 か ら戦 中 ど
の よ うに生 きて きたかを描写 してい る。主 にそれ らの家族 の 日々の生宿 (
主 に戦時 中) を歴史的
事項 に沿わせ なが ら本文 での話 が進 め られ てい る。2006年 にはポー ラン ド語版 が出版 され たPa
ul
,
[
2006]
)
。
(
2)
亡命先で出版 され た文献では、ポー ラン ド人の亡命 先つま り西側諸 国であ り、多 くはイギ リ
ス、アメ リカ、フ ランスで出版 され た文献 がある。 まず 、1948年 にロン ドンで出 され た 『カテ ィ
かれ た文 献の中で一番古 く、そ して 当時の事件 に関わ る資料や 記録 を集 めた もの と して貴重な文
献 であることで知 られ てい る。 そ して 、1949年 に、アダム ・モ シンスキ(
Ada
m Mos
z
yhs
kl
)
による
オ スタシュコフの捕虜 たち』(
Mos
z
yhs
kl
,[
1
949]
)
が ロン ドンで出版 され てい る。 この文献は主 に、
3 つの収容所 で捕虜 であったポー ラン ド人 たちの名 前、生年月 日、職業等 が記 され てい る。 コジ
ェル スク収容所 は約 5,
200人、オ スタシュコフ収容所 は約 1
,
300人、スタロビエル スク収容所 は約
3,
000人 の名前が記載 され てい る。他 には 、 1
97
4年 出版 でプ ロニ スワフ ・ム イナル スキPr
o
nl
S
壬
a
w
kl
)
による彼 自身の回顧録 である 『ソ連 の捕虜 にて』(
Mb,
na
r
s
kl
,[
1
974]
)
や 、1
98
2年 にブ リュ
Mb,
na
r
s
ッセル で出版 のア レクサ ン ドラ ・クフ イア トフスカニヴィア トウ(
Al
e
ks
a
nd
r
aKwla
t
OWS
kaVl
a
t
t
e
a
u)
に よる 『1940-1
943 カテ ィン』(
Kwl
a
t
O
WS
ka
Vl
a
t
t
e
a
u,[
1
98
2]
)
が ある。本項 目ではい くつ かの文献
しか紹介 していないが、他 に も数 多 くのカテ ィンの森事件 に関す る文献 が出版 され てお り、 この
こ とは西側諸 国で多 くの人 々がカテ ィンの森事件 に関心 を示 していた こ とを表 してい る と同時 に、
ポー ラン ド国内 と違 い、事件 について 自由に 口にす ることができた とい うことを明 らか に してい
-1
0-
る。
(
3)
地下出版 もカテ ィンの森事件研 究では重要な役割 を果た してい る。 当時、ポー ラン ド国内で
は検閲が常 にあ り、特 に 1
98
0年代 には地下出版 の形 が取 られ た。反政府 に対す る取締 りが厳 しい
中で、特 にカテ ィンの森事件 に関 しては当時 タブー であったため、歴史家、作家等 の人 々が違 法
98
0年 には、カテ ィンの虐殺 40周年 と して、イエ ジ ・ウオイェク(
J
e
r
z
y
な方法で出版 し続 けた。 1
Lo
」
e
k)
による 『カテ ィン事件 』(
Loe
k,[
1
98
0]
)
、ユゼ フ ・チ ャブスキ (
J
6Z
e
fCz
a
ps
kl
) による 『非人
」
間的な地で』(
Cz
a
ps
kl
,[
1
98
4]
,[
1
985]
,[
1
98
6]
)
が出版 され てい る。
(
4)
国内での正式出版物 をい くつか挙 げた。検閲 を突破 して正式 に出版 され てい ることもあ り、
ソ連 に都合 の 良い よ うに解釈 され た文献 もある。1
9
45年 には、ク ラクフの情報 宣伝局 によって 『カ
テ ィンの真実』が出版 され た(
wo
」
e
w6dz
klUr
z
卑
dI
nf
or
ma
c
」
11Pr
o
pa
ga
nd
ywKr
a
ko
wl
e
,[
1
945]
)
。 この
文 献では、カテ ィンの森事件 は 1
9
41年秋 に ドイツが行 った犯行 だ と記載 され てい る。 1
952年 に
は、ボ レスワフ ・ヴィチ ッキ(
Bol
e
s
壬
a
wW6
J
C
I
C
kl
)
の 『カテ ィンの真実』が出てお り、 これ も同様 に
犯行 は ドイツによるものだ と書かれ てい る (
W6
J
C
I
C
kl
,[
1
952]
)
。
以上の文献は前述 の とお り、事件 の事実追究 に焦点 を当てて書 かれ てい る。 これ らほ とん どは
共産主義時代 に出版 され た ものであ るが、 当時 ソ連側 か らの資料 は一切公 開 され てお らず、事件
証拠 の確証 がないに もかかわ らず、現在 明 らかに され てい る事実 と異な る部分 が ほ とん どない と
い うことを明記 してお きたい。 当時 、数少 ない資料や 関係 者 の証言等 か らここまでの事実解 明 に
辿 りついたので あろ う。現在 では、 ロシアか ら事件 に関す る文書 が全てではないが公 開 され てい
る。 これ によって、それ までは加 害者側 の資料 が一切 ないまま研 究 を され ていたのが、 ソ連崩壊
か らポー ラン ドに新 しい文書 が公 開 され た ことで研 究方法 は変わ ったのは確 かで ある。 最 も決 定
的 なのは 、1
940年 3月 5日付 のポー ラン ド人将校 の運命 を決定付 け るべ リヤ書簡 である。 この書
Vya
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、べ リヤ(
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簡 では、スター リン、モ ロ トフ(
カガ ノー ヴィチ(
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、 ヴォロシー ロフ(
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カ リ一二 ン(
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l
nl
n)
、ミコヤ ン(
Ana
s
t
a
sI
va
no
vI
C
hMl
ko
ya
n)
が NKVD に対 し、ポー
ラン ド人戦争捕虜 を裁判 な しに処理 す るよ う、つま り 「
最高刑 、銃殺」 を命 じてい る。 現在 のカ
テ ィンの森事件研 究 では、共産主義時代 での西側諸 国の分析 とソ連 が公 開 した資料 を照 らし合 わ
-ll-
せ 間違 いが無い ことを再度確認 し、そ して事件 の経緯 を文 書か らある程度正確 に実証 で きるよ う
になった と言 える。
(
5)
現在 の文 献 もい くつか紹介す る。現在 のカテ ィンの森事件研 究は 、1
990年 以降の事件 に関す
る機 密文 書が公 開 され新たな事実が浮 かび上がってい るものの、や は り基盤 とな るのは上記 で挙
げた よ うな文献 であ る。共産 主義時代 での調査は ソ連側 の資料 がない中での ものであ り、言 わば
確 実な証拠 はなかった。 よって、現在 の文献 は 1
990年以降の ロシア (ソ連 )の公 開資料 か ら、こ
れ までの西側諸 国の調 査 を実証 し、その具体性 を追究す るものあることを付 け加 えてお きたい
。
201
0 年 に国民記憶院 (
I
PN I
ns
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t
utPa
m1
号
CNa
r
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we
J
) が 『真実 と嘘 によるカテ ィンの森 事件』
(
I
ns
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m1
号
C
1Na
r
odowe
J
,[
201
0]
)を出版 してい る。1
0本 の論文 が掲載 され てお り、前半は共産
党 当局 による抑圧 に関す る考察、真相解 明に向けてのイ ギ リス-亡命 したポー ラン人の活動 、1
951
-52年 のア メ リカ議会 の議論 な どを記述 した論文 である。後半は、国際法上での事件 の位 置付 け
に関す る考察、欧州 人権裁判所への提訴 の状況 、体制転換後 にお ける公 式、非公 式な場 での教育
な ど、比較的現代性 を帯びたテーマ を扱 った ものである。
ア ンジェイ ・ブシェ ヴォジニ ク (
And
r
z
e
JPr
z
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wo血1
k) は闘争殉教地保護評議会 (
Ra
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号
C
IWa
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k1M冒
C
Z
e
hs
t
wa) 事務局長 を 1
992年 か ら 201
0年 まで務 めた。 カテ ィンの森事件 はブ
シェ ヴォジニ クに とって非常 に多 くの時間をか けて調査 してお り、主 に、2000年 のカテ ィン、 ミ
エ ドノイエ、ハル キフの墓地建設 において ロシア との交渉等 に携 わっていた。 それ までブシェ ヴ
オジニクが従 事 した調 査 をま とめた ものが、『カテ ィンの森事件
真実 と記憶 』(
pr
z
e
wo血1
k,[
201
0]
)
で ある。 現在 の調査だ けではな く、事件発 生か ら共産主義時代 、体制転換 、現在 へ と時 系列 で記
述 され てお り、非常 に精密 にま とめ られ てい る。ブ シェ ヴォジニクはカテ ィン 70年追悼式典 の主
催 責任者 であったが 、201
0年 4月 1
0日のポー ラン ド大統領機 墜落事故 によって命 を落 と してい
る。
ア ンジェイ ・クシシュ トフ ・クネル トは (
And
r
z
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JKr
z
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z
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ofKune
r
t
) はブシェ ヴォジニクの後任
で 201
0年 4月か ら闘争殉教地保護評議会 の事務局長 を務 めてい る。クネル トもブ シェ ヴォジニク
同様 に歴史家 である。『カテ ィン 免れ た真実 』 (
Kunr
t
,[
201
0]
)には 、1
921年 3月 1
8日のポー ラ
e
ン ドとソ連 とウクライナ との国境 を定 めた リガ条約 か ら、 ドイツ側 のカテ ィンの森事件 の公表 に
-1
2-
よ りポー ラン ドとソ連 との関係 が こ じれ 、国交断絶 にまで至 った 1
943年 4月 25 日まで、 日付 ご
とに出来事が記述 され てい る。 その中には、収容所 での捕虜 の状況 も書かれ てお り、1
990年以降
に公 開 され た ソ連公文 書館 の資料 を駆使 した文 献であるこ とが分 か る。
ロシアの公文書館 が持つカテ ィンの森事件 の関係 資料 は 18
3冊であ り、現時点 (
201
1年 4月現
荏 )では、 うち 1
37冊 がポー ラン ド側 に渡 され てい る。残 り 46冊の うち、 1
0冊は公務 上の使用
に よるもので 、36冊は機 密扱 い となってい る。それ らのポー ラン ドに渡 され た文書は 、1
990年代
にポー ラン ド人専門家 に公 開 され た ものばか りで、新 しい内容 を含む文 書は現在 の ところ見つ か
っていない。今後 、順調 に文 書公 開が進 めば、将校殺害の詳細 の特定、名誉回復 な どに今後 の綿
密 な事実追究 につなが ってい くで あろ う。
② 「
政治の道具」 と しての側面
「
歴史 の 白斑 」 に関 しては、地下出版 か らは じま り、歴 史 に対す る政 治的な圧 力 に関す る研 究
は現代 で も多 々あ り、一般的な議論 がな され て きた。以 下、先行研 究 と して 「
歴史の 白斑」、お よ
び 当時の言論 統制 下での地下出版や メデ ィアの状況 に関す る文献 をサーベ イ した。
『「
歴 史の 白斑 」百科事典 』 (
po
l
s
kl
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a
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l
C
t
WOEnc
y
kl
o
pe
d
yc
z
ne-POL
WEN,[
2000]
)は、ア
ル ファベ ッ ト順 に事柄 が並んだ百科事典 であ り、全 20巻 で成 り立 ってい る。その事柄 とは、歴史
(
教会 の歴史 も含む)、社会科学、哲 学、文化 、思想 、文学な どの主 に人文科学 の分野 に関す るも
のである。 これ まで影響力 を持つ社会構造 を通 して、無条件 に社会 か ら締 め出 され表 に出なか っ
たイデオ ロギー な どを暴いてい る。 そ して、それ だ けではな く、文書化 し記録 と してポー ラン ド
史 に残 し、国の文化 の豊か さを伝 え、歴史 の隠蔽や沈黙 を排除す ることで、ポー ラン ドの人間、
社会 、歴 史、事実、人間の 口述 、道徳 、歴 史、アイデ ンテ ィテ ィの証 明 と して示 すための機会 を
与 えることを本書の 目的 と してい る。カテ ィンの森事件 の項 目は第 9巻 にあ り、20ペ ー ジに及ぶ
Po
l
s
kl
eWyd
a
wnl
C
t
WOEn
c
y
k
l
o
pe
d
yc
z
ne-POL
WEN,[
2002]
)。
記述 が見 られ る (
『歴史 の 白斑 、
汚点
ポー ラン ド・ロシア間問題 (
1
91
8年 -2008年)』(
r
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dRo
t
f
el
d
,
To
r
k
no
u
w,[
2011
]
)
は、 「
ポー ラン ドとロシア間の歴 史の見直 し団体」 によって出版 され た。 この団体は 、2002 年 1
月 にプーチ ン大統領 (
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O
VI
C
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l
n)がポー ラン ドを訪 問 した際 に設立 され 、ポー
-1
3-
ラン ド ・ロシア間の歴 史の見直 しを共同で行 うことを 目的 と してい る。
本書はメ ンバーで あるポー ラン ド人 とロシア人 によって書かれ てい る。内容 は 20世紀史、と り
わ け両国 において議論 の的 となってい る 「
歴史の 白斑」 と言 われ る歴史事項 、例 えばカテ ィンの
森 事件や 1
92
0年 ポー ラン ド・ソ連戦争 、第二次世界大戦の勃発要因、戦後 の秩 序形成 な どを両国
の研 究者 が検証 し、未来へ向 けて事実 を明 らかにす るとともに、両国民 の歴史の相互理解 を 目指
す ことを 目的 と してい る。
具体的な内容 と して、第一部 は、「
始ま り 1
91
7年 か ら 1
921年 にお けるポー ラン ド・ソ連 関係 」、
「
1
920、30年代
1
920、30年代 にお けるポー ラン ドとソ連 の転機 」、第二次世界大戦の勃発
第
二次世界大戦 の勃発要 因、ポー ラン ド、ソ連 、そ して不況」、「ソ連 と ドイツ間のポー ラン ド (
1
939
年から 1
941年) 赤軍の侵攻お よび第 4次分割」、 「
カテ ィンの森事件
真相解 明への過程 、犠牲
者 の追悼」、 「
戦争 (
1
941年 か ら 1
945年) 政治 とその結果」であ り、時代設 定は戦前、戦 中であ
る。第二部 は、戦後 であ り、 「
戦後 1
0年 間 (
1
9
45年 か ら 1
955年 ) 勝利 と解放」、 「
雪解 け
年 ソ連共産党 20回大会 、 1
0月の春、 自立への奮闘」、 「自由への道
目指 して」、 「
戒厳令 、 ソ連 の主導
還 、独立
1
956
文化領域 か ら自由への道 を
モ スクワとポー ラン ド危機 1
98
0年 か ら 1
981年」、 「自由の奪
ポー ラン ドとロシアの体制転換
相違点 と共通点」、 「
援助 か利用
ポー ラン ドとソ連
の経済関係 」。第三部 は 1
98
9年以降であ り、 「
ロシア と独立国ポー ラン ド 1
990年以降の政治 関
係 」、「
進展 と変化
ポー ラン ド人 とロシア人の相互認識」、「
記録 の受 け継 ぎ 公文 書の公 開」、「
現
在 のポー ラン ドとロシア修史
ポ ・ソ関係 史 にお け る現時点での研 究」 である。 これ ら一つ一つ
の項 目に対 して、それ ぞれ ポー ラン ド人 とロシア人の両方 か ら記述 され てい る。
本書の特徴 はポー ラン ド人 とロシア人が共 同で関係 史 を、と りわけ 1
989年以降の現代 のポー ラ
ン ド人 とロシア人の相互理解 を検証 してい る点であ り、 これ までその よ うな文献 がほ とん どなか
ったので大変興 味深 い。 両国の研 究者 が 「
歴史の空 白」 を直視 し、歴史認識 の共有へ乗 り出だそ
うと してい るのが伺 え る。
『紙面での革命
1
976年 か ら 1
989年 -1
990年 のポー ラン ドにお ける地 下出版 』 (
B壬
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J
O
WS
ka
,
[
201
0]
)が国民記憶 院か ら出版 され てい る。共産主義時代 での地下出版 は人民民主主義国だ けでは
な く、全世界 で も大 きな出来事であ ると認識 され ていた。 著者 は、国民記憶院 において収集 した
-1
4-
文 書や資料 を下 に、地 下出版 は出版社会 において革命的な役割 を果た した とい う点 に注 目してい
る。
同 じく、国民記憶院 か ら 『記者 の力、記者へのカ
ジャーナ リズム業界 に対す る抑圧手段 』(
r
e
d
wol
s
z
a
,Ll
ga
r
S
kl
,[
201
0]
)が ある。新聞記者 の間での一般的な意 見では、戦後 のポー ラン ドの新 し
い体制作 りに注 目していた。記者 た ちはプ ロパ ガ ンダそ して隠蔽 や担造 を体現化 していた。共産
主義時代 での政治的転換 の時期 に闘争的な運動 において、その よ うな記者 たちの意 見が増大 した。
本 書では、職業的 グループに対す る公安機 関の動 向のメカニズムや社会 の分極化 を描 きなが ら、
ジャーナ リス トと しての姿勢 で書 かれ てい る。 18人の著者 によって、それ ぞれ の刊行物 にお ける
公 安機 関 との関わ りを表 してい る。
『制度 の 中の紙面
pRL (
Pol
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kaRz
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pos
pol
l
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aLudowa ポー ラン ド人民共和 国)時代 にお ける
地 下出版紙 』 (
Ma
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c
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WI
CZ
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ga
r
S
kl
,[
201
0]
)について、地下出版物 、すなわち共産 党 当局の承認
は得ず出版 され てお り、言 わば反体制 を表 す最 も重要な武器 であった。様 々なテーマ を扱 い、ポ
ー ラン ド社会 の言論 の 自由のために勇敢 と決然 を示 す場 で もあった。本 書は、共産主義体制 下の
社会 で言論 ・表 現の 自由に規制 がかか る中、地下出版物 が力 を増 大 させ 情報発信 の重要 な役割 を
果 た していた こ とを明 らかに してい る。地 下出版 を通 して力 を増 してい く戦後 の地下出版物 、若
者 による出版物 、農 民 に対す るパ ンフ レッ ト、反体制運動 で亡命 した人 々のための情報誌 、公 安
機 関による宣伝物 な どは、豊 富なテーマ を扱 ってい る。本 書では、その よ うな重要な役 目を果 た
した地下出版物 を紹介す るだ けではな く、 当時の政 治や社会 に とって都合 の悪 い事実 を公安 当局
に よって担造 ・隠蔽 され ていた こ とを明 らかに してい る。
『pRL 時 代 の 政 治 とメ デ ィア の シ ステ ム にお け るテ レ ビ放 送
政 治 と視 聴 の 狭 間 で 』
(
pokoma
I
gna
t
owI
C
Z
,[
2003]
)は、共産主義時代 では、テ レビ放送 はポー ラン ド人 に とっての 一番
の娯楽であ り、国内や 世界情勢 を知 る手段 で もあった。 TVP テ レビ局は、当時の政 治 システムに
よって共産党指 導部 の意 図で機 能 していた とともに、国民 の社会意識 を コン トロールす る役割 も
あった。 TVP テ レビ局は、視聴者 と共産党 当局 を満 足 させ よ うと したが、視聴者 の期待 と政治的
決 定 との狭間で、両側 か ら批判 に さ らされ る。 ポー ラン ドのテ レビ放送 は、共産 主義体制 をサポ
ー トす るための役割 を果たすべ きツール で あったが、実際 にはそれ らの批判 によ り危機 を招 く要
一1
5-
因 となった。 そのため、テ レビ局は公共の放送 を独 自で コン トロールす ることで、共産 党 当局 に
よる放送 の独 占を破 ろ うと した。 しか しなが ら、結 局は政 治の力 に打 ち勝つ ことはできず、テ レ
ビ局の試み と政治が絡 む現実 とはかけ離れ た ものになった ことを本書は明 らかに してい る。
『1
9
44年 か ら 1
970年 のポー ラン ドにお ける検 閲 と歴史研 究 』 (
Rome
k,[
201
0]
)は、出版社や論
文 の編集 、ポー ラン ド科学アカデ ミーの権 力での学術研 究 にお け る検閲 メカニズムを共産党 当局
を通 して明 らか に してい る。 マル クス主義 の思想 は、言論 の 自由を規制 す る一つ の重要 なェ レメ
ン トとされ てい る。著者 は、歴史 に関す る研 究論文 にも検 閲が入 り、歴 史家は 自由に執筆す るこ
とができなかった とい う問題 があった ことを明記 してい る。 内容 と して、第一章 は 1
9
44 年 か ら
1
945年 にか けての民主的検閲機 関の試み、検閲方法、国外 との接触 の制 限、第二章は、検閲の道
具 と してのマル クス主義、第三章では、検 閲 され た歴史 と して、戦間期 の第二共和国の評価 、国
内軍 とワル シャ ワ蜂起 に関す る検閲 、共産 主義時代 にお け る歴史研 究の試み、ク リステ ィーナ ・
ケル ステ ン を事例 に、で本書 は構成 され てい る。
『
研 究者 の権力、
研 究者 に対す る権力 』(
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a
c
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O
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O
WaI
ns
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t
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m1
号
C
1Na
r
odo
we
J
,[
201
0]
)では、
タブー を扱 う研 究者 に対す る公安 当局の抑圧 が共産 主義体制 下で機 能 していた こ とをテーマ と し
てい る。 ポー ラン ドで共産主義 に関心 を示 す研 究者 は、その勢力 に対 して攻撃 を しかけ る 目的 を
主 と して持 っていた。共産党勢力は、研 究者 の研 究活動 の方法や形成 の方 向性 に圧力 をかけ、そ
して、時 と して彼 らのキャ リアを潰 した り、国外 の研 究者 との接触 を制 限 した りな ど、研 究者 も
抑圧 の対象 となった こ とを本書では明 らかに してい る。
この よ うに、カテ ィンの森 事件 の事実追究だけではな く、共産 主義時代 の抑圧 、歴史 の歪 曲、
言論統制 に関 して、戦後 の歴 史認識 の形成 の過程 を表す先行研 究 は以上 の通 りで ある。 しか しな
が ら、共産党 当局の抑圧 は周知 の事実であったにもかかわ らず、それ らは問題 と して顕在化 され
ず 、共産 主義時代 ではその よ うな研 究はほ とん どな され ていない。すなわち、体制転換 以降 にな
って初 めて本格 的 に始 め られ た研 究 ばか りである。 その うち、カテ ィンの森事件 はそれ らの文 献
に一つの事例 と して触れ られ てはい るが、歴史 の歪 曲や言論統制 、「
政治の道 具」と しての事件 を
コンテ クス トに用 いた研 究 を文献では確認 しづ らい。 そ こでそれ を確認 す るために、本研 究 の課
題 と して、遺族 へのイ ンタビュー調 査、す なわちオー ラル ヒス トリーの手法が有効だ と考 えた。
-1
6-
これ は歴 史家の間だ けの議論 だけではな く、遺族 とい うポー ラン ド国民 か らの声 を直 に聞 くこ と
で、彼 らが各時代 で何 を見て きたのか、そ して何 を望んでい るのか、それ がポー ラン ド ・ロシア
関係構築 のために ど う活 か され るべ きかを考察 してい る。遺族 レベル だ けではな く、ポー ラン ド
国民 レベル か ら、 さらにロシア人か ら見た事件 をも世論調 査か ら分析 してい く。未 だかつて この
よ うな方法で研 究がな され ていない ことか ら、本研 究のオ リジナ リテ ィー とも言 える。そ こか ら、
事実追究 とは別 に、「
政 治の道具」と して扱 われ るカテ ィンの森事件 の も う一つ の側面 を考察 した
い。
3.現在 の動 向、解決法の模 索か ら歴史認識
さらに、現在 の動 向を整理 し、現代史の 中でのカテ ィンの森事件 の位 置付 けを明 らか に し、解
決 法の可能性 を探 りたい。 そ して、戦後 のカテ ィンの森事件 をめ ぐる国民感情の変化 、国家 間関
係 上の論議 を分析す る中で、隣国 との発展 的な外交 関係 を形成す るためには、現代史の負 の遺産
を どの よ うに解決 してい くべ きか とい う問題 に も取 り組み たい。事件 は現代史の影 の部分 であ り、
単 に白黒 の決着 をつ け られれ ばいい とい うだけの問題 ではない。政治 と国民の感 情が複雑 に入 り
混 じり、 どの方 向が本 当の解決 につなが るのか を慎重 に考 えなけれ ばな らない。
カテ ィンの森 事件 の真実 を巡 っては時代 の流れ に翻弄 され た歴 史があ らわにな り、国家や 国民
な どのいろい ろな レベル での解決 法が模 索 され てい る。なぜ 70年 も経つ にもかかわ らず、解決へ
の道筋が確立 され ないのか、要す るになぜ 事件 が 「
灰色性 」 を持 つのか を、ポー ラン ド ・ロシア
の双方 の 「
正義」、そ して西側諸 国 とソ連 (
ロシア) との政治的な関わ り、そ して戦後史の評価 の
見直 しとい う観 点か ら考察す る。解決法 を考 える前 に、なぜ 「
灰 色性」 を保つ状況 に陥 って しま
ったのかを考 える必要 がある。
そ して、事件 の遺族 に対す るイ ンタビュー調査や 、ポー ラン ド国内で行 われ た世論調 査 によっ
て、事件 の真相解 明が国民感情 の中で最 も求 め られ てい ることを明 らかに してい きたい。加 えて、
実際 に真実が どこまで明 らかにな ってい るのか を考察す る。 1990年以降 にロシア (ソ連)はポー
ラン ドに対 し事件 の機 密資料 を全てではないが公 開 してい る。 これ までは、関係 者へのイ ンタ ビ
ューや 、証言 な ど西側諸 国の調査か ら事件 の概要は漠然 と認識 は され ていた。 この ソ連公文書館
-1
7-
で発 見 され た資料 か ら、それ までの西側諸 国の見解 が確実 な ものである と実証 され た。 とは言 っ
て も、資料全てが公 開 され たわけではな く、今現在 も機 密扱 いになってい る資料 もある。そ こで、
現在 まで進 んでい る調査つま り公 開資料 を も紹介 し、何 が明 らか になっていないのかを考察す る
こ とで、その内容 の確定か ら最終的 な議論 の方 向性 を論 じたい。 明 らか に され ていない資料 の公
開は、事件解決 の鍵 にな るのは無論 の こと、それ に よってポー ラン ド国民が一旦 は納得 し、ポー
ラン ド ・ロシア関係 改善への前進 につなが るか も しれ ない。
これ らを踏 ま えて、両国の歴史認識 の共有 とい う観点か ら、相 互の利 害関係 を十分 に考慮 しつ
つ 、現代史 の負 の遺産 とど う向 き合 ってい くのかを、事件 の事実 をめ ぐる争点 を軸 に論 じてい く。
国家間関係 にお いて、互いの立場 がぶつか り合 う中で、歴 史責任 の問い直 しを ど うい う方法でい
かな る関係性 の 中で行 えるか とい うことが課題 であ る。 そ うした今後 の国家間関係 を見直す うえ
で、歴史の負 の部分 か ら目を逸 らすべ きではない ことが、カテ ィンの森事件 か ら得 た教訓である。
そ して、事件 の事実 を ロシア ・ポー ラン ドの双方 での究明す るこ とは 「
正義」へ の第一歩 につ な
が ることも強調 してお きたい。
-1
8-
第 1章
カティンの森事件の概要
第二次世界大戦でポー ラン ド国民は多大な犠牲 を強い られ た。犠牲者 の数 は 600万人 を超 えて
い る。重軽傷者 を含む と 2,
000万人以上 の人 々が戦争 の被害 を受 けた と言 われ 、当時のポー ラン
、
ド全人 口 3,
000万人余 りの 中で 、5人 に 1人が死亡 し、3人 に 2人が被害 を受 けた ことにな る。 こ
の 中には 270万人のユ ダヤ 系ポー ラン ド人が含まれ てい る。戦前のユ ダヤ人人 口は 330万人であ
った。つま り死 を免れ たユ ダヤ人 はわずかに 60万人 にな る。ユ ダヤ 系ポー ラン ド人 を含 めて、ポ
ー ラン ド国民 はま さに絶滅 の淵 に立た され ていたのである。
これ まで第二次世界大戦の 中で、カテ ィンの森 事件 は世界 でそれ ほ ど周知 され ていなかった。
1
940年 の事件発生か ら、 ソ連 が犯行 を認 め るまで約半世紀以上かか った異例 の事件 であ る。 この
000人余 りのポー ラン ド国民である将校 たちが犠 牲者 となった。 しか も、事件 の真相 は
事件 で 22,
西側諸 国の調査 を通 して分 か ってい るにもかかわ らず、 ソ連 によって長年担造 され た事実が結論
付 け られ てお り、ポー ラン ドや ドイ ツはそれ ぞれ の立場上 、事件 の全事実 に 目をつぶ らざるをえ
なかった。 しか し、1
989年 の体制転換 か ら 1
991年 の ソ連崩壊 とい う時代 の変化 に伴 い、徐 々に
事実が明 るみ に出 るよ うになった。
カテ ィンの森事件 は、共産 主義時代 の 中で長 くタブー とされ て きた。 1
991年 の ソ連崩壊後 、機
密 とされ てきた文書 か ら真相 が徐 々に明 らかになってい る。 ポー ラン ドとロシア間の 「
歴史 の空
白」 とな ってい るこの事件 は どの よ うな ものであったのか、そ して事件 に関わった関係 諸 国の動
向や 当時の国際情勢 につ いて順 を追 って説 明 していきたい。
1.カテ ィンの森事件 とは
1
939年 9月 1日、ナチ ス率 い る ドイツ軍 がポー ラン ドに侵攻 した ことで、第二次世界大戦が勃
発 した。9月 3 日にはイギ リス とフランスが ドイツに対 し宣戦布告 を してい る。 そ して 、8月 23
日に ドイツ とソ連 が手 を結 んだ独 ソ不可侵条約 に したがって 、9月 1
7日には ソ連軍がポー ラン ド
-1
9-
東部 か ら侵攻 した.独 ソ不可侵条約にはポーラン ドを東西に二分割 し、両国でそれぞれを支配下
に置 くことを約束 した秘密議定書が含 まれてお り、ポーラン ドは両国に分割 占領 されることにな
った .9月 27日にはワルシャワは降伏 し、28日には独 ソによる新 しい友好国境条約が結ばれポー
ラ ン ド分割が完了する.
国 1- 1
出所
1
9
39年の独 ソ不可侵条約 による領土分割
伊東, [
1
988]
, p1
59
ソ連軍はポー ラン ド東部を制圧 するとす ぐに ソ連 占領下のポーラン ド軍 を解体 し、その将校 ら
を捕虜 として拘束 した。その後 、ポーラン ド軍将校 たちは 1
9
40年の夏 までにスモ レンスク周辺の
3 つの収容所 に収 容 されたが、近郊のカテ ィンの森や その他の地域 で射殺 されその ままの姿で埋
め られていた.ナチスはこの大量処刑 の情報 を入手 し、当時 まだ ドイ ツの 占領下にあ ったカテ ィ
ンの森の遺体埋葬現場 を発掘 した ところ、約 4
,
0
0
0人のポーラン ド軍将校の連体 が横 たわ ってい
たの を発見 した.
-20-
図 1-2 カテ ィンおよび他の地域の位置
出所
ザス ラフスキ ー,[
201
0]
,
px
1
9
43年 4月 1
3日、 ドイ ツのグ ッ- ルス 〔
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s
)宣伝相 はラジオの- ル リン放送
9
40年春か ら夏に殺害 された と
を通 して、スモ レンスク郊外のカテ ィンの森 で ソ連当局 によって 1
思 わ れる数千人 のポーラン ド軍将校 たちの遺体 を発見、そ して全 ての将校 が頭部 をピス トルで撃
ち抜 かれてお り、その ままの姿で埋 め られていた と発表 した。 ソ連 側 は この ドイ ツの発表 に直ち
に反論 し、ナチスが この大量処刑 を行 った と主張 した.当時、ポーラン ド政府 は行方不明の将校
たちの消息 を何度 も尋ねたが、 ソ連政府 は十分 な回答 を しなか った.そ こで、ポーラン ド政府 は
スイ スの国際赤十字 に この事件の調査依頼 を したが、国際赤十字 は ソ連の同意 があれば依頼 を受
け る と答 えた。 しか し、このポーラン ド政府 の行動 は ソ連 に対 する敵対行為 とみ なされ、 ソ連 は
ポー ラン ドとの国交 を断絶 した .1
9
41年 7月 30 日のポーラン ド- ソ連協定で持 ち直 したポーラ
ン ドとソ連の外交 関係 は、カテ ィンの森事件に よって再び破綻 した.
1
9
45年 に第二次世界大戦 が終結 し、 ドイ ツが敗戦 国 とな り、ポーラン ドは ソ連 によって共産主
義体制下に組み込 まれた.ポーラン ドと同様 に共産主義圏の一 国 となった東 ドイ ツ及び、ナチス
-21-
時代 を全否定す るこ とによって再出発 した西 ドイツ もカテ ィンの森事件 の真相究 明を ソ連 に求 め
ることもできず 、歴史上の タブー となった。 カテ ィンの森 事件 は長年 ドイツの犯行 と して認識 さ
れ た。
2.当時のポー ラン ドを取 り巻 く国際情勢
① ポー ラン ド ・ソ連 関係
1
939年 8月 23 日に締結 され た独 ソ不可侵条約 の 中にあった秘密議定書 に よって、ポー ラン ド
はモ ロ トフエ リッベ ン ト口 ツプ線 で東西 に分割 され た。 そ して 、9月 28日には、両国は新 しい友
好 国境条約 に署名 し分割 は完 了 した。かつてポー ラン ドは 1
8世紀 に 3度 にわた って、ロシア、プ
ロイセ ン、オー ス トリアによって分割 され 、1
23 年 の間地 図上か ら姿 を消 したが、第一次世界 大
戦後 の 1
918年 に独立 を果た し、第二共和国 を樹立 した。 しか し、その後 2
0年 で再び分割 され 国
家 は消滅す ることにな る。ポー ラン ド東部 は ソ連 によって 占領 され た。1
940年 2月か ら 1
941年 6
月 までの間に約 1
5
0万人のポー ラン ド人が ソ連 のシベ リヤな ど奥地 に強制的 に移送 され 、強制労
働 を強い られ た。 これ は、 ソ連 占領 地域 においてポー ラン ド指導権 を排 除す るた めであった。 一
方 、イギ リス とフランスは ドイツに続 くソ連 のポー ラン ド-の侵攻 を止 めよ うとは しなかった。
それ は、対独戦争 において ソ連 が味方 にな る可能性 を考慮 したか らであった (
伊東 [
1
988
]
,p1
65)。
ロン ドン ・ポー ラン ド亡命政府 の ヴワデ ィスワフ ・シ コル スキ (
W壬
a
d
ys
壬
a
w Euge
nl
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ZSl
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s
kl
)
首相 は ソ連 に対 して好意的で あ り、ポー ラン ドとソ連 の国交正常化 に向 けて力 を尽 く した。 1
941
年 6月 22日に独 ソ戦が勃発 した ことで、ポー ラン ド亡命政府 の政治的立場 は極 めて困難 な もの と
な った。 シコル スキはイギ リス政府 の強力 な後押 しの下に領土問題 を挙 げ、いち早 くソ連 との国
Augus
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s
kl
)、カジ ミ
交 の回復 を主 張 した。 これ に対 して、政府幹部 のア ウグス ト・ザ レスキ (
エ シュ ・ソスンコフスキ (
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kl
)、マ リア ン ・セイダ (
Ma
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敵 論 を唱 え、 い っ さい の 妥 協 を拒 ん だ。 当時 の 大 統 領 ヴワデ ィス ワ フ ・ラチ ュ キエ ピ ッチ
(
W壬
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Z) も反対派 を支持 した。
1
941年 7月 30 日に反 対派 閣僚 の一斉辞任 によって、 ソ連 -ポー ラン ド協定が調印 され た。 こ
-22-
れ によって、 ロン ドンのポー ラン ド亡命政府 とソ連 の外交 関係 の復活 、 ソ連 の作戦 にお けるポー
ラン ド軍 の創設 、 ソ連領 で 自由を奪 われ たままにな ってい るポー ラン ド人全員 に恩赦 を与 えるこ
とに ソ連側 は同意 した。
さらに、同年 8月 1
4 日、シコル スキはポー ラン ドエ ソ連軍事協定 に調印 した。 この協定 では、
ポー ラン ド軍 を即座 に ソ連 で創設 す ること、同軍は主権 国家 ポー ラン ドの軍隊の一部 とな るこ と、
ソ連駐留 のポー ラン ド軍兵士 は俸給 、食糧 、扶養 を赤軍兵士 と同様 に受 けることな どが取 り決 め
られ た。
ポー ラン ド亡命政府 は、 ソ連 に抑 留 され てい る大量のポー ラン ド人の解放 と保護 に全力 を尽 く
した。 そ して、ポー ラン ドエ ソ連 軍事協定 にな らって ヴワデ ィス ワフ ・ア ンデル ス (
W壬
a
d
ys
壬
a
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r
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An
d
e
r
s
)将軍の指揮 下で、ポー ラン ド軍 を再編成 した。 しか し出頭 してきた将校 の人数 は極
端 に少 なかった。 シコル スキが直接 スター リンに将校 たちの行方 を尋ね て も、確 かな返 事 を得 る
こ とができなかった。 スター リンはそれ以上その間題 に触れ ることを拒 んだのであ る。
② ポー ラン ド ・ドイツ関係
ナチ ス ・ドイ ツはポー ラン ド内で 「
虐待 され てい る」少数民族 である ドイツ系住民の保護 をあ
げた。 しか し、虐待 の事実はな く、ナチ ス ・ドイツが東方 に 自分 たちの 「
生活 圏」 (レ-ベ ンスラ
ウム) を確保 したかったのである (
渡辺 ,[
1
991
]
,p4)
。 そ して 、1
939年 9月 1日に ドイ ツはポー
ラン ドを攻撃 し始 めた。 ポー ラン ド北部 の ヴェステル プ ラ ッテが大戦勃発 の地 をなってい る。 ポ
ー ラン ド軍は主力軍 を国境沿いに配置 し防衛 につ とめた。 しか し、最初 の防衛線 は 9月 3 日まで
に崩れ 、そ して、勝敗 は一週間で決 ま り、9月 27日にワル シャ ワは陥落 した。ポー ラン ドはイギ
リスや フランスか らの援助 を期待 した。しか し、英仏 は ドイツに宣戦布告 を したにもかかわ らず、
この時点で実際 に ドイ ツ と戦闘 を交 えることはなかった。9月 28日には、独 ソ間の新 たな友好 国
境 条約締結 に よ り、国家 と してのポー ラン ドは地図上か ら消滅 した。
ドイツの 占領地域 はポー ラン ド人 口の約 616% で人 口は約 2,
200万人で あった。 ドイツ系住民
の多い地域 は ドイツに併合 し、残 りの地域 はクラクフを首都 と した総督府 と し、ハ ンス ・フラン
ク (
Ha
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Fr
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k)が総督 とな り統治 した。 ドイツ人の厳 重な監督 の下でポー ラン ド警察が
-23-
機 能 した。ナチ ス ・ドイツの支配 下の下で、ポー ラン ド人 はかろ うじて支配民族 のための労働 力
と して生 き残 ることを許 され た。 ドイツ側 はポー ラン ド人 を独立 の文化 的存在 と しては計画的 に
抹殺 しよ うと していた。 なぜ な ら、ポー ラン ド人は ドイツ人 よ り劣等民族 とい う考 え方 があった
か らであ る。 ドイツの 占領政策 は、編入地域 をゲル マ ン化 し総督府 を植 民地 と して経済的 に搾 取
す ることを 目的 と していた。 ポー ラン ド人 の精神的 ・文化 的指導層 を文 字通 り物理的 に抹殺 し、
1
988]
,
残 りの人 口は教育水準 を低 く抑 え、ドイツ人のた めに働 かせ るとい う政策 が とられ た (
伊東 [
pp1
601
61)
。
1
939年年 1
1月 6 日にはクラクフのヤ ギェ ウオ大学の教授 ら 183人が、大学 に呼び 出 され反 ド
イ ツ的な教育指 導 を行 ってい るとい う理 由でナチ ス親衛 隊 に逮捕 され た。 ドイツのザ クセ ンハ ウ
ゼ ン収容所 に送 られ 、強制労働 に従事 させ られ たため、そ こで命 を落 とす者 も多数 いた。そ して、
戦争 が終わ るまでに、ポー ラン ドの医師の 45% 、裁判 官 ・弁護士の 57% 、教師の 15% 、大学教
授 の 40% 、高級技 師の 50% 、初級 ・中級技 師の 30% 、聖職者 の 18% を失 った (
伊東 [
1
988]
,
pp1
601
61)
。 中等 以上の教育施設 は閉鎖 され るか解体 され 、図書館や公文館 は閉鎖 され た。編入
地域 ではポー ラン ド語 を話す ことさえ許 され なかった。
大戦終了まで、 ドイツ人入植 者 を入れ るた めに 248万人 にのぼ るポー ラン ド人が先祖伝来の土
地や家屋 を奪われ追 い立て られ た。 また 、246 万人 にのぼ るポー ラン ド人が無差別 に徴発 され 、
ドイツ内の工場 に送 られ て重労働 に従事 させ られ た。多 くの徴発労働者 は悪条件 のた め死亡 した。
少 しで も規則 を破 った り、抵抗 の意 思 を示 した者 は、即決裁判 に よって見せ しめのため街頭 で処
刑 され た (
伊東 [
1
988]
,pp1
601
62)。
しか し、9 月 に ドイ ツに敗れ た とはいえ、ポー ラン ド政府 と国民は決 して降伏 しなか った。 モ
シチ ッキ ・ポー ラン ド大統領 (
I
gna
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yMo畠
c
I
C
kl
)と政府 はル ーマニアに逃れ たが、当時ル ーマニア
も ドイツの圧 力 を受 けていたため、ルーマ ニア政府 に よって拘束 され た。9月 30日、モ シチ ッキ
は大統領職 を辞任 し、 ラチ ュキエ ピ ッチが後 を継 いだ。 ポー ラン ド国外 に逃れ たポー ラン ド有力
政 治家の間で、亡命政府 を形成す る動 きが起 こった。シコル スキ とチ ャーチル (
Wl
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OnChur
c
hl
l
l
)
の尽力 によって亡命政府 と国民会議 は 、1939年 11月 にフランスのパ リか らイ ギ リスの ロン ドン
- と移 った。
-2
4-
ドイツ占領 下で も、ポー ラン ド国民は ドイ ツに協力 しよ うとす る勢 力は現れ なかった。そ して、
戦争 の最 中に地 下組織 が誕生 した。 ロン ドン亡命政府 は、 この最大の武 装地下勢 力 を統御す る と
1
98
0]
,
pp1
8218
3)。
ともに国内を地下国家 と して統治 していた (
山本 ・井 内,[
③ ソ連 ・ドイツ関係
1
939年 8月 23 日、 ドイ ツ とソ連 は独 ソ不可侵条約 に調印 した。 それ まで相互 に非難 し合 って
いた ヒ トラー とスター リンが手 を組 んだ こ とは、世界各 国 に とっては衝 撃的な こ とであった。 こ
の条約 は、次 に述 べ るよ うな点 で ソ連 と ドイ ツ両国を拘 束す るもので あった。「1.相手国に対 し、
単独 でまたは他 国 と共同 して、いかな る侵 略行為 にで るこ とも、いかな る攻撃 を加 えることを も
しない。 2.相 手国のいかな る交戦敵国に対 して も援助 を与 えない。 3.相手国 に敵対的な集 団
には、た とえ間接 的 にも参加 しない。」(
フ レミング,[
1
966]
,p1
95)さらに、この条約 の裏 に東欧 ・
バル ト諸 国一帯 を独 ソで二分割す る とい う秘密議定書が ヒ トラー とスター リンに よって交わ され
ていた。その 中のポー ラン ドの領 土の取 り決 めは次の とお りである。 「
ポー ラン ドの領土的 ・政治
的再編 については、ナ レフ ・ヴィス ワ ・サ ンの河川 を ドイ ツ とソ連 との勢力圏の境 とす る。」 (ミ
コワイチ ク,[
2001
]
,p1
8)ヒ トラーは、ソ連 と不可侵条約 を結ぶ ことでポー ラン ドを征服 す ること
に際 し、 ソ連 が介入す る可能性 を排除 したので ある。 そ して、調印か ら 8日後 の年 9月 1日に ド
イ ツはポー ラン ドに攻 め込み、そ して ソ連 は 1
7日に東部 か ら侵攻 、その後 28 日に両国は新 しい
友好条約 に署名 し、独 ソ不可侵条約 の秘密議定書で定 め られ た通 りにポー ラン ドは分割 され た。
1
9
40年夏、ドイツはルーマニアを 自己の勢 力圏 に しよ うと し、スター リンは勢力圏 に定 めてい
なかったバル カ ン諸 国への ドイツの進 出に強い危機 感 を覚 え、 ドイツに対 し不快感 を表 明 した。
モ ロ トフ とヒ トラー との会談 で、モ ロ トフは ドイツ軍のフ ィンラン ドの撤退 、 ソ連 とブル ガ リア
の相互援助条約 の締結 、ボスポ ラス、ダー ダネル ス両海峡 への拠 点の設 置 を求 めた。 しか し、 ヒ
トラーは これ らの要求 を受 け入れ なかった。これ によって、両国間の対立点 を解 消す る どころか、
利 害の相違 を際立たせ たのだった。
1
9
41年 1月、ドイ ツがルーマ ニアに軍隊を送 った ことか ら、両国の関係 はい っそ う緊張を増 し
た。そ して 、3月 に ドイツはブル ガ リア にも軍隊を送 った。4月 に ソ連 とユー ゴス ラビア との間に
-25-
友好不可侵条約 を締結 した ときに ソ連 と ドイツの関係 の不和はい っそ う明確 にな った。 ドイツは
この条約 が公表 され た 4月 6日にユー ゴスラビアを攻撃 し始 め、1週間で降伏 させ た。
1
9
41年 6月 2
2日に ドイツ軍の ソ連侵攻 によ り独 ソ不可侵条約 は破棄 され た。 フ ィンラン ド、
ハ ンガ リー、ル ーマニア、イ タ リアが この戦争 に参加 しこ とで、 ソ連 は簡単 に ドイツを打 ち負 か
す ことができる と考 えたが、 この戦 いでは ドイツが勝利 した。 ソ連 は ドイツを降伏 に追 いや るこ
とができないだろ うとい う見解 が、ほ とん どどこで も採 られ た。
1
9
42年 11月 1
9 日にスター リングラー ドで ソ連軍は反撃 を開始 し、1
943年 2月初頭 に ドイツは
ソ連 に敗れ た。 これ は、 ドイ ツに とって大戦 中に経験 した最初 の敗北で あ り、独 ソ戦だ けではな
く第二次世界 大戦全体 の転機 とな った。
ドイツ軍 を ソ連領 か ら追い出 し、さらにベル リン進撃へ と導いたのは 1
943年 7月の クル スクの
戦 いであった。 この戦いは史上最大 の規模 の戦車戦 であった。 ソ連 はス ター リングラー ド戦で 自
信 を強 めていた こともあって、数的 にも ドイツよ りは優勢 であ り、勝敗 は 目に見 えていた。 この
戦 いの勝利 の後 、 ソ連 は ドイ ツを完 全 に圧倒 し、着実 にベル リン-進撃 を始 めたのであった。 そ
して 、1945年 5月 2 日に ソ連軍はベル リンを占領 し、5月 8日には ドイツは降伏 した。
3. ドイツ犯行説 とその根拠
1
943年 4月 1
3 日、 ドイツのグ ッベル ス宣伝相 は ラジオのベル リン放送 を通 して、 スモ レンス
ク郊外 のカテ ィンの森 で ソ連 当局 に よって 1940 年春 か ら夏 に殺害 され た と思われ る数千人のポ
ー ラン ド軍将校 たちの遺体 を発 見 した と発表 した。
これ に対 して、 ソ連側 は 4月 1
5 日に次の よ うな声明を発表 した。
「この 2、3 日グ ッベル スは、 ソ連 当局 がスモ レンスク地方 で 1940年春 にポー ラン ド軍将校 を
大量 に射殺 した とい うでた らめを広 めてい る。 ドイツ ・ファシス トらは もっ とも卑 しむべ き嘘
をつ き、すで に明 らかな よ うに、みずか らの罪 を隠す こ とにた め らうことも知 らない。 ポー ラ
ン ド人捕虜 は 、1941年 当時 、スモ レンスク地方 に住 む他 の多 くの ソ連人 とともに建設 工事 に従
-2
6-
事 していたのだが、この人 々が、ソ連 軍か同地か ら撤退 した 1
941年夏 に、 ドイツ ・ファシス ト
らの毒牙 にかかったのであ る。 ドイツ ・ファシス トらの発表 は、ポー ラン ド人捕虜 の こ うした
悲劇 的 な運命 に関 して、い ささか疑 いの余地 を残す ものではない。 グ ッベル スの発言 が、虚 構
と誹謡 とによ り、ヒ トラー一派 の血塗 られ た犯行 を隠蔽 す ることを狙 ってい るのは間違 いない。
ヒ トラー一派 は ソ連 が 1
9
40年春 にその残虐行為 をお こなった と主張 してい るが、彼 らは こ う報
渡辺 ,
[
1
991
]
,
p
p10-l
l)
じることでみずか らの責任 を転嫁 しよ うと してい るのである。」 (
これ によって、 ソ連 と ドイツは真 っ向か ら対立す るこ とになったのである。 そ して 4月 18日、
ソ連情報局は再び説 明 を行 った。
「ドイツ ・ファシス トの殺人者 たちは、何万人 とい う罪 なき人 々の血 で染 ま った手 を してい る。
占領 した国々の人 々を組織 的 に抹殺 し、子供 、女性 、老人 に対 して も情 け容赦 がない。 ポー ラ
ン ドだ けで も数十万人 を殺 害 してい る。彼 らの卑 しい嘘や 中傷 に編 され る者 はいないだろ う。
このむ ご さ極 ま りない担造の 中にゲシュタポのや り方 を容易 に見出す ことがで きる。実際 には、
1
941年 、スモ レンスクの西 にはポー ラン ド人捕虜 がいたのであ る。 ソ連軍が スモ レンスクか ら
撤退す ると、捕虜 は多 くの ソ連市民 と共 に、 ドイツ ・フ ァシス トの餌食 になったので あった。
ドイツ軍 にす ぐに殺害 され た者 もいれ ば、特別 な機会 のために生か され た者 もいた。 ドイツ ・
ファシス トらは無防備 の何 千人 とい う人 々を射殺 し、その死体 にはゲ シュタポの文書館 にあっ
た偽 の文書 を持 たせ 、 ソ連 の大地 に埋葬 した。埋葬場所 と して グニエ ス ドグォの古墳 が使 われ
2001
]
,
p5
7)
たが、その存在 について ドイツ・ファシス トは何 も語 っていない。」(ミコワイチ ク,[
ソ連 は、カテ ィンの森一帯 をナチ ス ・ドイツ軍 か ら奪還 す るや いなや 、 自己の犯罪 をナチ ス ・
ドイツの仕業 に見せ か けるよ うに努 めた。
ドイツ当局は、独立 の国際委員会 、ポー ラン ド赤十字 、 ドイツ法医学委員会 の 3つの組織 を設
立 し独 自に現場 を調査 した。この調査で、将校 たちは 1
940年 3月か ら 4月の間に殺害 され た と結
論付 け、その期 間のカテ ィンの森一帯は ソ連 の 占領 地域 で あった ことを報告 した。 ソ連 は ドイツ
-27-
の報告 に対 して直 ちに反論 したのは言 うまで もない。
カテ ィンの森 事件 の全容 は、それ 以後語 られ るこ とはなかった。 ソ連 はず っ と黙秘 を し、 ドイ
ツの犯行 であ ると主張 し続 けた。連合 国、関係諸 国 も事件 を ソ連 の犯行 と唱 え ることはなかった。
4.真相 の解 明
1
9
45年 1
1月 か ら ドイ ツの戦争責任 を裁 くニュル ンベル グ裁判 が開かれ た。一部 、カテ ィンの
森 事件 が取 り上 げ られ たが、 ドイツ とソ連 の主張は平行線 をた ど り、真相 の解 明までには至 らな
か った。 そ して、カテ ィンの森事件 は歴史上の タブー とな った。 戦後 、ポー ラン ドは ソ連 の支配
下 に入 っていたため、そ して ドイツ も敗戦 国であったため、真相解 明へ の要求 を言 い出す こ とが
で きなかったのである。 そ して、連合 国側 も事件 の事実追及 に乗 り出そ うとは しなかった。
1
98
5年 3月 にゴルバチ ョフ (
Ml
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v)書記長 が就任 した ことで、国内改
革 に乗 り出 し、ペ レス トロイカが始 まった。公的な真相解 明が可能 にな ったのは、言 うまで もな
くポー ラン ドの体制転換 で ある 1
98
9年 以降で ある。1
99
0年 4 月 にポー ラン ドのヤルゼル スキ
(
W⊃
」
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s
kl
)大統領 がモ スクワに赴 いて ソ連 の ゴルバチ ョフ大統領 と会 談 した と
きに、 ソ連側 は初 めて公式 に事実 を認 めた。 ソ連公文書館 で発 見 され た内務人民委員部捕虜抑 留
者総局作成 の名簿や若干 の関連文 書 をヤルゼル スキ大統領 に渡 したので ある。
その時点 で明 らか になった事実は次の通 りである。1
93
9年 にポー ラン ド東部 を侵略後 、赤軍は
約2
5万人 を捕虜 と した。 ポー ラン ド人将校 は ロシアの 3つの収容所 に送 られ た。1
939年 11月か
9
40年春までの間に、コジェル スク収容所 には約 5,
00
0人の将校 な どが、スタロビエル スク収
ら1
容所 には約 4
,
0
00人が、オ スタシュコフ収容所 には約 6,
50
0人がいた。1
9
41年 7月 3
0日に調印 さ
れ たポー ラン ド- ソ連協定で、 ソ連領 にい るポー ラン ド人全てに恩赦 を与 えるとい うこ とであっ
たが、解放 され ていないポー ラン ド人が多数存在 し行方 が分 か らな くな っていた。 そ して、ア ン
デル ス将軍 を筆頭 に ソ連領 内でポー ラン ド軍 を創設 す る時 に、出頭 して くる将校 の人数 が極端 に
少 なかったのである。約 1
5,
00
0 人の将校 が行方不明である と判 明 した。 ポー ラン ド亡命政府 は、
行方不明の将校 について ソ連 当局 に幾度 も尋ね ていたが、十分 な回答 は得 られ なかった。さらに、
-28-
将校 たちか らポー ラン ドにい る家族への音信 は 1
9
40年 3月 に突然途絶 えていた。 シコル スキは
1
941年 1
2月初旬 、モ スク ワに赴 き直接 スター リンに問いを投 げかけた。 しか し、スター リンは
「
満州 に逃 亡 した。」と暖味な返事 しか しなかった。そ して、それ以上 この間題 に触れ ることを拒
んだ。 こ うした理 由か ら、ポー ラン ド亡命政府 は ソ連 に対 し疑 いを持 ち始 めた。 そ して 、1
9
43年
4 月の事件発覚後 か らま もな くポー ラン ド亡命政府 はスイ スの国際赤十字 に中立的な調 査 を求 め
たが、それ によ りソ連 はポー ラン ド亡命政府 を批判 した。 国際赤十字 も関係 国 (ソ連) の同意 を
得 られ ない ことか ら、カテ ィン-の調査団派遣 を断念 した。 その後 、 ソ連 はポー ラン ド亡命政府
に事件 は ドイツの犯行 だ と声 明す るよ う要求 したが拒否 したため、 ソ連 は亡命政府 との国交断絶
を言 い渡 したのである。
ドイツ法 医学委員会 、1
2か国か ら成 る国際委員会 、ポー ラン ド赤十字の 3つ の調査団が独 自に
事件 の調査 を行 った。 3つ の調査委員会 は次の よ うな点で、一致 した結論 を得 た。
「
①死体 を縛 っていた ヒモは ソ連製 である。②死体の中には突 き刺 した跡 があるものがあ るが、
これ は ソ連 の銃剣 によるものであ る。③ 死体の多 くか らソ連 の新聞が大量 に見つかった。④死
渡辺 ,[
1
991
]
,p1
2)
体 に撃 ち込まれ た弾丸は ドイ ツ製 である。」 (
上 に挙 げた 4番 目の点 については、ドイツ側 は即座 にこの弾丸を 1
939年以前 にポー ラン ドや ソ
連 に輸 出 していた こ とを立証 した。 犯行 を特定す る上で一番重要 な点は、 この虐 殺 がいつ行 われ
たか とい うことであ る。 1
9
41年 夏の終 わ り頃 まで、カテ ィンの森一帯は ソ連 の支配 下にあった。
その後 、1
9
41年 6月 22日に独 ソ戦が勃発 し、 ドイ ツが ソ連領 内を攻 め入 り始 めた。 それ か らカ
テ ィン一帯は ドイツの 占領 下 とな り、1
9
43年 4月 に ドイツによって事件 が発覚 した。 そのた め、
虐殺が 1
941年夏頃 よ り以前 に行 われ ていれ ば ソ連 の犯行 にな り、それ以降であれ ば ドイツの犯行
にな る。3つの調査団は約 3年前の 1
9
40年春頃 に虐殺 が行 われ た と結論づ けた。つま り、 ソ連 の
犯行 であった とい うことが判 明 したのであ る。 その根拠 は、亡 くなった将校 を埋 めた場所 の地層
が特殊 で、死体 は実質 ミイ ラ化 していた こ と、数 ヶ月で特定困難 な骨 にな るところが、書類や 身
分 を証 明す る物 とともに保存状態 良好 な死体 となって残 っていた こと、 日記 、新 聞、未投函の書
-二
り-
簡 に よ り殺 害 の 日時 が特 定 され た こ とか ら、 カテ ィンの森 で発 見 され たポー ラ ン ド人将校 4,
1
43
人は 1
9
40年 4月頃 に殺 され た と結論付 けて い る (ミコ ワイチ ク,[
20
01
]
,p60)
。 この事件 は KGB
(ソ連 秘 密警 察 ) の前 身 で あ る NXVD 長 官 べ リヤ が ス ター リンの命 令 で 、幹 部 メル クー ロ フ
(
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v)及 び その部 下た ちに行 わせ た犯行 で あ った。 その証拠 と して、
1
9
40年 3月 5日に ス ター リン らのサ イ ンが入 ったポー ラン ド人 将校 処刑 の決 定 の文 書 が 明 らか に
な ってい る。 コジェル スク収容所 にいた将校 た ちは カテ ィンで、オ ス タシュ コフ収容所 に収容 さ
れ ていた警 官 らは ミエ ドノイエ で、 そ して ス タロ ビエル ス ク収容 所 の将校 らはハ ル キフでそれ ぞ
れ 殺 害 され て い る。
では、 なぜ この事件 が起 こったの だ ろ うか。 ソ連側 も ドイ ツ側 もポー ラン ドを支配 す る上 で 、
ポー ラン ド民族 主義派 の 中核 グル ー プ、つ ま り将校 が存在 して ほ しくな か ったの は事実 で あ る。
ソ連 はポー ラン ド東部 を 占領 す るや いなや 、支配 に支障 を きたす ポー ラ ン ド指 導者 を捕 虜 と して
ソ連領 内 の収容 所 に移送 し、組織 的 に抹殺 す る決 断 を下 した。 当時 ソ連 に とって利用価 値 が あ る
と判 断 され た者 は生 き残 され てい る。 そ して、 これ らの人 々に共産 主義 教育 を叩 き込み 、戦後 の
ポー ラン ドの共産化 を円滑 に進 め るた めに利用 した ので あ る。 一方 、 ドイ ツ もポー ラ ン ド指 導者
層 を抹殺 した が ってい た こ とは、ドイ ツ軍 のポー ラン ド占領 期 間 を通 して理解 す る こ とがで き る。
ポー ラン ドをナチ ス と 2分 割 した ソ連 が、ポー ラン ドを共産 主 義 下 に置 く上 で支障 をきたす と思
われ るポー ラン ド軍将校や警 察 な どの権 力機 関や抵 抗運動 の指 導者 を裁 判 もな しに物理 的 に抹 殺
した。
カテ ィンの森 事件 は 、 ス ター リン時代 の ソ連 に よる組織 的 な犯罪 で あ ったが、 ソ連 崩壊後 にポ
ー ラン ドに手渡 され た ソ連 の機 密資料 には 、それ を確認 しただ けではな く、ナチ スに よ る暴露 に
対 して国家 ぐるみ の事実 にす り替 え、隠蔽 を行 な った こ とが記 され てい た。 冷戦 時代 にはそれ に
基 づ いた プ ロパ ガ ンダ外 交 を展 開 したが、結 局 、 ソ連崩壊 とい う時代 の流れ の変化 の 中でそれ が
破 綻 してい った (
兵藤 ,
[
1
997
a
]
,
p60)
。
-3
0-
5.真相解 明後の処理
① ポー ラン ドの立場
戦後 のポー ラン ドは共産主義下にあったため、ポー ラン ド人 に とってカテ ィンの森 事件 を 口に
す ることは タブーで あった。 しか し、時代 は移 り変 わ り、 ソ連 では ゴルバチ ョフによるペ レス ト
ロイカの流れ か ら、 ソ連共産 党の土台 を揺 さぶ り始 めた。 その中でポー ラン ドとソ連 の関係 も複
雑 に変化 した。 ポー ラン ド人 の心の 中にあったカテ ィンの森事件 に対す るソ連へ の不満 、不信 が
徐 々に表 面化 し、ヤルゼル スキ政権 もソ連政府 に対 し、 よ り具体的な形 で真相 の究明を求 め ざる
を得 な くなったのであ る。
1
995年 6月 にカテ ィン虐 殺 55周年追悼行事 が行 われ た。 ヴァ ウェンサ (
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a) 大統領
はエ リツ ィン (
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n) 大統領 に行事への参加 を招請 したが、エ リツ ィン大統
領 に代 わ りフ ィラー トフ (
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v) 大統領府長官が出席 した。 これ は、いた
くポー ラン ド人 を失望 させ た。 ヴァ ウェンサ大統領 は追悼 演説 の 中で
「
2
万人のポー ラン ド人 が
何 ら取 り調べ もな く、1
940年 3月 5 日に署名 され た一片の文書で銃殺 され たが、 これ はスター リ
ン、モ ロ トフ、 ミコヤ ンな どの ソ連最高指導者 の承認 の下で行 われ た。」 (
兵藤 ,[
1
997b]
,p66) と
い うことを強調 しつつ、将来 に向けて両国民の和解 を呼び かけた。 さらに、エ リツ ィン大統領 の
メ ッセー ジ と して 「
カテ ィン記念式典 は全体主義体制 下で数十年 にわた る嘘 と沈 黙 を打 ち破 り真
実 が勝利 した証左 であ る。」 (
兵藤 ,[
1
997
b]
,p66) と確認 は したのだが、ポー ラン ド人は 「ソ連 か
らの謝罪 はなかった」 と不満 をつ の らせ た。
1
996年 1
1月 にチモ シェ ヴィッチ (
W壬
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Z)・ポー ラン ド首相 は、 ロシアを訪
問 した際 、ポー ラン ドのかね てか らの念願 であるカテ ィンの森事件 の虐 殺現場 にポー ラン ド人犠
牲者 の墓標 の建設 が遅れ てい ることを取 り上 げ、必 要経費 はポー ラン ド側 で負担 す る用意 があ る
1
997
b]
,
p68)
。
と申 し出てお り、その促進 に努 めてい る (
兵藤 ,[
カテ ィンの森 事件 か らすで に半世紀以上過 ぎたが、 この事件 は未 だ最終的 に決 着 していない と
考 えてい るポー ラン ド人は少 な くない。
-31-
② ロシア (ソ連 )の立4
1
98
7年 4月 に、ヤルゼル スキ大統領 が ソ連 を訪 問 した。 その中で、 ゴルバ チ ョフ書記長 は 「
両
国関係 の歴史 の中に事実の担造や 隠殺 、いわ ゆる 『空 白』があってはな らない。」 と述べて、関係
の改善 を約束 した。 そ こで両国関係 史 を見直す 「
合 同歴史家委員会」が発足 した。 見直 しの対象
7年 か ら 1
945年 が中心で あ り、(
1
)1
91
7年 か ら 21年 ソ連 の二月革命 とポー ラン ド共和国
は 、191
の成立 、(
2)1
938年 の スター リンによるポー ラン ド共産 党の強制解体 、(
3)第二次世界大戦での ソ
連 軍のポー ラン ド侵攻 、(
4)1
939年 か ら 42年 にかけての ソ連軍 によるポー ラン ド人の強制移送 、
(
5)ナチ スに対す る行動戦線 、(
6)1
943年 の ワル シャワ蜂起である。 この うちカテ ィンの森事件 は
(
4)
に含まれ る (
加藤 ,[
1
98
9]
,p25)。
1
988年 7月、ゴルバチ ョフ書記長 はポー ラン ドを訪 問 し、ヤルゼル スキ大統領 と会談 を し、共
同声明が発表 され た。
「
両国の対等 な関係 、主権 、 自主的な政策決定権 の尊重 を主張 し、共 に社会主義の刷 新 とい う
共通の 目標 を示す が、その基礎 とな る国民性 と歴史的な条件 には大 きな違 いが あるこ と認 め、
互いに 『絶対的な真理』の主張は しない と述べ てい る。 ゴルバ チ ョフ書記長 の下での ソ連 、ポ
ー ラン ド国民 に向 けて、いわ ゆる制 限主権論 を否定 した ものだ。」 (
朝 日新 臥 [
1
988
a71
5]
)
しか し、スター リン時代 のポー ラン ドとソ連 とに関係 す る歴史 の空 白については、「
専門家 によ
る真相究 明の作業 を早 める」 と声明で述べ たにす ぎなかった。 多 くのポー ラン ド人は、 ゴルバチ
ョフ書記長 か らカテ ィンの森 事件 に関す る発言 を期待 していたが、具体的 に出 ることはな く、失
望 した。
1
992年 1
0月 には、エ リツィ ン大統領 か らヴァ ウェンサ大統領へ 、1940年 3月 5 日のスター リ
ン らのサイ ンが入 った、ポー ラン ド人将校処刑 の決断 を下 した文書 を含む資料 が一部公 開 され た。
1
993年 8月 にエ リツ ィン大統領 が ロシアの大統領 と して初 めてポー ラン ドを公式訪 問 した。 ワ
ル シャワ市内の軍人墓地の中にあるカテ ィンの慰霊碑 を訪れ 、 ロシアの元首 と して初 めて献花 を
行 った。 その慰 霊碑 には、 ソ連時代 の碑文 と して 「
カテ ィンの土 に眠 る ヒ トラー ・ナチ ズムの犠
-32-
牲者 ポー ラン ドの兵士 に捧 ぐ」 と記 され ていたが、事実 に したが って書 き換 え られ たのは言 うま
で もない。エ リツ ィン大統領 は 「
カテ ィンの森犠牲者遺族 の会」 関係者 と会談 し、率直 に許 しを
求 めた。 ソ連 、そ して ロシアがカテ ィンの森事件 の悲劇 について スター リン時代 の事実 を認 め、
機 密資料 を提供 す るとい う誠意 を示 した。 この よ うな形 で過去の過 ちを認 め、 ソ連時代 に決 して
出す ことができなか った機 密資料 をポー ラン ドに手交 した ゴルバ チ ョフ、エ リツ ィンの行動 は評
価 され るべ きであるとも思われ る。
③ ドイツの立場
第二次世界 大戦終結後 の 1
945年 11月 20 日か ら ドイ ツのニュル ンベル グで、第二次世界大戦で
の主要戦犯 に対す る国際軍事法廷 が開かれ た。このニュル ンベル グ裁判 は、非軍事化 、非ナチ化 、
民主化 、工場解 体 といった連合 国に よる新生 ドイツの指針 の行 く末 を象徴 した ものであった。 こ
れ によって、ナチ ス部 隊、突 撃隊、親衛 隊、治安警 察、ゲ シュタポな どのナチ ス党関係 者 が裁 か
れ た。連合 国軍が逮捕 したナチ ス指導者戦犯は 23人で ある。各被告 は、絞首刑 、終身禁 固刑 、有
期禁 固刑 、無罪 の判決 を言 い渡 され た。 カテ ィンの森事件 も一部 取 り上 げ られ たが、 ドイツ とソ
連 の主張は真 っ向か ら対立 し、平行線 をた どった。 ソ連側 も究明 をため らった。 アメ リカ とイギ
リスも真相 の究明には乗 り気 ではな く、結局は何 も解 明 され なかった。
実際は ソ連 の犯行 だ とわか っていたにもかかわ らず真実 が うや むや に され たのは、ニ ュル ンベ
ル グ裁判 がナチ ス時代 を全否定 した もので あ り、 も し連合 国の主要な一員 であった ソ連 の犯行 と
決 めつ け ると、ナチ ス時代 を一部肯定す ることではないに して も、ナチ スを裁 く法廷 で連合 国の
戦争責任 が問われ かねない こ とにな って しま う。ナチ ス時代 にナチ スがや った とす るこ とが、ニ
ュル ンベル グ裁判 では都合 が良か ったのである。
真犯人で あるソ連 は公 に罪 を問われ ていない。 ニュル ンベル グ裁判 では、連合 国は ソ連 に対す
る宥和政策 をはねつ け ることがで きなかった。そ して、ドイツ 自身 もナチ スに対す る反省 が深 く、
事実 を重 く受 け止 めていた。 ドイツの反省 によって、カテ ィンの森事件 は議論 の対象 に さえもな
らなかった。 そ して、 ドイツ側 か らソ連 の犯行 だ と告発す ることは困難 であ り、公式 には うしろ
めた さか らできない状況 にあった。 ポー ラン ドや ドイツを含む世界 の国 々は、 ソ連 の犯行 だ と分
-33-
か っていたに もかかわ らず 、 1990年 に ソ連 が公式 に事実 を認 め るまで ドイツの犯行 だ とされ てい
たのである。
カテ ィンの森事件 の辿 った複雑 な経路は、ソ連 の徹底的 な隠蔽 工作か ら始まってい る。そ して、
ソ連 の隠蔽 が戦後 明 るみ にでなかったのは西側諸 国がそれ を黙認 していたか らで あ り、事件 は単
に被害者 と加 害者すなわちポー ラン ドとソ連 だ けの問題 ではない ことが分 か る。これ に関 しては、
第 5章で詳 しく述べてい る。 1990年以降、事実が公表 され 、これ まで封印 され てきた真相 が明 ら
か にな る と、今度 は政治的な側面で も事件 の事実究 明に関連性 が出て くるよ うにな る。 ソ連 側 か
ら未 だ全 ての資料 が公 開 され ていない ことか ら、事件 の決 着は一筋縄 ではいかない ことが後 の章
で浮 き彫 りになってい く。
-3
4-
第 2章
共産主義時代における西側諸国の研究
1.西側諸 国の研究 -パ リ亡命雑誌 『ウル トウー ラ』
本章では、ポー ラン ドが第二次世界大戦後 ソ連圏 に組み込まれ ていた時代 に、カテ ィンの森事
件 が西側諸 国で どの よ うに語 られ て きたか を分析す る。 ここでは、パ リ亡命 出版社 のイ ンステ ィ
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が発行す る文 芸誌 『クル トウ- ラ (
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a)』 に焦点 を当
テ ュー ト・リテ ラツキ(
て る。
共産主義時代 では、ポー ラン ド国内でカテ ィンの森事件 を 口にす るこ とができない状況 にあっ
た。 その よ うな 中、戦後 多数 の亡命者 が身 を寄せ た都市の一つで あるパ リでは、ポー ラン ド人 亡
命者 が中心 となった出版社 のイ ンステ ィチ ュー ト・リテ ラツキ(
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kl
)
が、カテ ィンの森
事件 を頻繁 に取 り上 げるひ とつのセ ンター になっていた。 その活動 の中心 に、文 芸誌 『クル トウ
- ラ』があった。『クル トウ- ラ』は、文芸誌 ではあるが、政治、社会 に関す る論文 、エ ッセイ も
数 多 く取 り上 げてお り、在外 ポー ラン ド知識人、文化人の学際的 な論壇 であっただけでな く、 ソ
連 支配体制 に対す る抵抗 のシ ンボル で もあった。 この よ うな性格 を持つ雑誌 の誌 上で、隠 され た
ソ連 の残虐 な行為 を暴 こ うとす る活動 が盛 んに行 われ たのは、当然の成 り行 きで あった と言 え る。
さ らには、『クル トウ- ラ』の編集者 の一人である、ユゼ フ ・チ ャブスキ、そ して ロン ドンか ら 『ク
ル トウ- ラ』へ投稿 していたスタニスワフ ・シフ イアニエ ピッチ(
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壬
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)
は、カテ
ィンの森事件 の虐殺 か ら奇跡的 に免れ た人物 で あった ことを忘れ てはな らない。彼 ら二人の証言 、
また ドイ ツの調 査委員会や ポー ラン ド赤十字か ら発掘調査作業 に関わった者 たちの回顧録等 は、
事件 の詳細 を知 り得 る貴重な歴史資料 であ り、『クル トウ- ラ』はカテ ィンの森事件研 究 において、
さ らにそれ を人 々に広 める うえで非常 に重要な位 置 を占めていた と言 え る。
なお、同 じイ ンステ ィチ ュー ト・リテ ラツキ出版 か ら、1
962年 よ り 『ゼ シュテ ィ ・ヒス トリチ
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ne
)
』とい う歴 史 をテーマ に扱 った学術雑誌 が出版 され てい る。これ は、ポー
ュネ(
ラン ド人歴史研 究家 たちが、亡命先 で検閲 の介入 な く自由に討論 できる場 を提供 す るとい う目的
で刊行 され た雑誌 で ある。 この 『ゼ シュテ ィ ・ヒス トリチ ュネ』 でカテ ィンの森 事件 に関す る学
-35-
術 的な研 究が沢 山な され てきたにも関わ らず、本稿 では文 芸雑誌 である 『クル トウ- ラ』 に絞 っ
て分析 した理 由は 2点 ある。 1点 目は、イ ンステ ィチ ュー ト・リテ ラツキ出版 の創 始者 であるギ
エ ドロイツの人脈 を使 い、著名 な歴史家、文学者 、作家、詩人等 に投稿 を依頼 してい る点で、『ク
ル トウ- ラ』が文芸誌 であ りなが ら学際的 な論壇 と しての役割 、ポー ラン ド国民 のオ ピニオ ン リ
ー ダー的役割 も果た していた ところにある。 そ して 2点 目は、多数 ある亡命 系雑誌 の うち、特 に
『クル トウ- ラ』が共産主義体制 か ら文化 的、政治的 に独 立 した、つま りソ連 の影響 を受 けない
姿勢 を強 く示 してお り、唯一定期的 に、また大量 にポー ラン ド国内に持 ち込まれ た西側 の反体制
雑誌 であ ることであ る。共産 主義体制 下のポー ラン ド国内で 『クル トウ- ラ』 を読む こ と自体 、
反 体制 の意思 を示す ことで もあ り、執筆者 たちはあ る程度 そ うした読者 を念頭 に置いて執筆 して
いた。つま り、『クル トウ- ラ』がカテ ィンの森事件 を取 り上 げ ること自体、す でに大 きな反 体制
活動 であ り、ポー ラン ド国内の世論形成 に大 きな影響 を与 えた と言 える。
1
947年 の初刊 か ら 1
989年 までの 『クル トウ- ラ』全てに 目を通 し、カテ ィンの森事件及び近
いテーマの記 事 を ピックア ップ した。 そ してそれ を 5つのカテ ゴ リー に分 け、年代順 に並び替 え
て、その内容 を分析 した。 これ まで、『クル トウ- ラ』の雑誌 自体 を分析 してい る研 究、編集 に関
わ った人物 に関す る文献は数 多 く出版 され てい るが、カテ ィンの森事件 関連研 究 、エ ッセイ、資
料等 だけを抜粋 して分析 してい るものは皆無で ある。そ して最後 に、『クル トウ- ラ』が戦後 の現
代 史研 究 で どの よ うな役割 を果た したか、またその 中でカテ ィンの森事件 が どの よ うに語 られ て
きたかを考察 し、ポー ラン ド国内の (
主 に地下出版 による)研 究 との違 いを明 らかに していきた
い。
カテ ィンの森事件 は、事件 か ら約 70年経つ に もかかわ らず、ポー ラン ドとロシア との間で未 だ
決 着 していない。現在 、 ロシア側 が何 も語 ろ うと しない こ とで、解決へ の道 も閉 ざされ て しま っ
てい る状 態であ る。 現代史の 中でのカテ ィンの森事件 の位 置付 けを明 らかに し、両国間の歴史認
識 のす り合 わせ を行 うことは、今後 2国間の、また言 い換 えれ ば悲劇 的な歴 史 を共有す る隣国同
士 の関係 を未来 に向 けて再構 築 してい く上 で、避 けて通 ることのできないプ ロセ スであ る。本章
は、そ うしたプ ロセ スの一端 を担 うもので もあ る。
-36-
2.パ リ亡命 出版社 ・イ ンステ ィチ ュー ト ・リテラツキ ロns
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イ ンステ ィチ ュー ト・リテ ラツキ出版 は 、1
9
46年 2月 に ローマでイエ ジ ・ギェ ドロイツ(
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)
の主導の下で設立 され 、1
9
47年 にはパ リ郊外 のメゾン ・ラフ イソテ (
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)
に移
命政府 が あ りす でに各地か らの亡命 先 とな ってお り文化機 関 も数 多 く設 立 され ていた-ではな く
パ リを選 んだのである。
1
9
47年 か ら月刊誌 『クル トウ- ラ』が出版 され た。共産主義時代 のポー ラン ドでは、出版 への
検 閲が厳 しく言論 も統制 され ていた。『クル トウ- ラ』は戦後 のポー ラン ド人亡命者 たちに とって、
共産主義 国ポー ラン ドに対 し文化的 、政治的な見解 を示す ことのできる数少 ない場 のひ とつで あ
った。 この雑誌 は、ポー ラン ド人だ けではな く、 ウクライナ人、ユ ダヤ人、 リ トアニア人、 ドイ
ツ人な ど、ポー ラン ド文化 に賛同を示す人 々皆 によって読 まれ た と言 われ てい る。 さらに、フ ラ
ンスに在住す るポー ラン ド人 だけではな く、 ロン ドン、西 ドイツ (
当時)な ど様 々な所 か ら 『ク
ル トウ- ラ』へ投稿 され てい るの も一つの特徴 である。
出版 当初 、『クル トウ- ラ』は文化的、そ して文学的な題材 を扱 った記事 がほ とん どで、政治的
な記事は少 なかった。ギェ ドロイ ツの当初 の 目的は、『クル トウ- ラ』を通 してポー ラン ド文学や
文化 を世界 に広 めることであった。 そのた めに、ギェ ドロイツは 自ら作家や詩人へ執筆 を依頼 し
『クル トウ- ラ』に掲載 してい る。例 えば 、1
951年 にフランス-亡命 し、1
98
0年 にノーベル文学
賞 を受賞 したチ ェスワフ ・ミウオシュ (
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)は、ギェ ドロイツの良き理解者 そ して協
力者 とな り、数 多 くのエ ッセイや詩 を 『クル トウ- ラ』に投稿 してい る。そ して 、2
0世紀 で最 も
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)
傑 出 したポー ラン ド人作家であるグスタフ ・
-ル リング ・グル ジンスキ(
も、イ ンステ ィチ ュー ト・リテ ラツキ出版設立 当時 か らギェ ドロイツの編集活動 に協力 を してい
る。 グル ジンスキは 1
9
40年 に地下活動 に従事 していた と して NKVD に逮捕 され ソ連 の強制労働
収容所 で過 ご した経験 がある。
編集長 であるギェ ドロイツが政治 、特 に東側 での問題 に対す る西側 の見解 に興 味 を持 ち始 め、
それ が徐 々に編集者 たちや投稿者 た ちに影響 を与 えた。元 々、ギェ ドロイツは東 ヨー ロ ッパ地域
-37-
に興味 を持 ってお り、ポー ラン ドが文化的、政治的 に独立 し、民主化 され るためには ウクライナ、
リ トアニア、ベ ラルー シ との戦後 の国境 、民族 間題 の解決 (
いわゆる m B 問題)が必要不可欠 だ
La
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,[
2007]
)。 その考 え方 に賛同 したのは、ギェ ドロイツの最 も重要な協力者 の う
と していた (
a
ちの一人であ るユ リウシュ ・ミエ ロシェフスキ(
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Z
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WS
kl
)
だ った。 ミエ ロシェフスキは
記者 であ り、時事評論 家で もあった。主 に現代政治 に関す る記事 を 1
949年 か ら投稿 し続 けた。そ
してポー ラン ドを解放 へ と導 く上で ULB 問題 の重要性 を 『クル トウ- ラ』で訴 えていた。
1
950年代 か ら 『クル トウ- ラ』は政 治的な要素 を含む よ うにな った。例 えば 、1
956年 6月のボ
スナ ンでの労働 者 に よる暴動 、そ してその後 ソ連 の影響 を受 けず 自主的 な路線 で政策 を推 し進 め
よ うした ヴワデ ィスワフ ・ゴム ウカ (
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d
ys
壬
a
w Go
mu
lka
)政権 を、『クル トウ- ラ』は政 治的 に
支持 してい る。ギェ ドロイツ らの一番 の活動 は、『クル トウ- ラ』をポー ラン ド国内へ送付す る試
968年 の 3月事件等 による亡命者 を援助 し、そ して 、1
970、1
980
み を行 った こ とだった。さ らに、1
年代 に起 きたス トライキが共産主義 か らポー ラン ドを解放 す るとの期待 を抱 き、『クル トウ- ラ』
を送 ることに よって国内のイ ンテ リたちへの支援 を強 めていった。これ らの活動 か ら、『クル トウ
- ラ』は徐 々に亡命 先 にお け る文化 、政治的な機 関 と しての地位 を高 めていった。他 に も、亡命
国で様 々な雑誌 が出 され てい るが、『クル トウ- ラ』以上 に反共産 主義派 を支援 す ることに興味 を
示 さず、『クル トウ- ラ』とは反対 に国内へ雑誌 を送 り込む ことに対 して積極 的ではなかった。も
ちろん、地 下出版 を通 して出版物 は国内へ浸透 していったが、『クル トウ- ラ』ほ ど社会 へ与 える
影響 は大 き くなかった。西側諸 国でのギェ ドロイツの外交的イニ シアチ ブは、共産主義圏内で社
会 が徐 々に変化 してい く中で重要な役割 を果た し、それ は ノーベル賞 を受賞 したチ ェス ワフ ・ミ
ウオシュや レフ ・ヴァ ウェンサの活動 と同様 に、共産主義社会 に大 きな影響 を与 えた。
『クル トウ- ラ』 は この よ うに して、西側諸 国 にお ける主要な東 ヨー ロ ッパ の亡命雑誌 と して
の地位 を急速 に高 めてい くとともに、東西対立の時代 にお ける自 らの反 共産主義 とい う姿勢 を明
確 に していった。 また同時 に、ポー ラン ド人亡命者 自身がポー ラン ド人 と してのアイデ ンテ ィテ
ィを表 明す る役割 も担 うよ うにな った。『クル トウ- ラ』は、イエ ジ ・ギェ ドロイ ツが亡 くな る
2000 年 まで刊行 され た。現在 では、『クル トウ- ラ』 は共産 主義下のポー ラン ドお よび近 隣諸 国
の動 向を知 ることがで きる重要な資料 となってい る。
-38-
他 にイ ンステ ィチ ュー ト・リテ ラツキ出版 にお ける代表 的な出版物 と して 、 1
953 年 か ら、『ビ
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』シ リー ズが、そ して 1
962年 か ら、『ゼ シュテ ィ ・
ブ リオテカ ・クル トウ- リー(
ヒス トリチ ュネ(
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)
』 とい う季刊誌 が刊行 され 、 これ は現在 も続 いてい る。
現在 、イ ンステ ィチ ュー ト ・リテ ラツキ出版 は、パ リに住むポー ラン ド人 によって出版活動 、
運 営 を続 けてい る。 しか しなが ら、1
98
9年 の非共産党政権 の誕生、お よび 1
991年 の ソ連崩壊以
降 は、上記 の役割 を終 え、新 しい展望 を持 って活動 してい ることは言 うまで もない。
3.『タル トr
9- ラ』 におけるカテ ィンの森事件 - 1
947年か ら 1989年
『クル トウ- ラ』は 1
9
47年 か ら 1
98
9年 にかけて 507冊出版 され た。 その中か らカテ ィンの森
事件 に関す る記事 を 34本 見つ けることがで きた。さらにそれ を、①一般 向 けの記事、②学術論文 、
③文学的作品、④書評 、⑤声 明 ・読者 か らの手紙 と、5 つ のテーマ に分類 した。各項 目では、ま
ず年代 ごとに どの よ うな記事があ るか簡潔 に紹介 し、次 にそれ ぞれ の記 事の内容 を検討す る。
① 一般 向けの記事
1
940年代 では 、2つの記 事 を見つ け ることができた (
Kr
z
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mus
kl
,[
1
949]
,
Koma
r
nl
C
kl
,[
1
9
48]
)。 ど
ち らもニ ュル ンベル グ国際軍事裁判 を題材 に した記 事であ るが、その中でカテ ィンの森事件 の記
述 がい くつか見 られ た。 1
945年 1
1月か ら翌年 1
0月 まで開かれ た この裁判 では、主 に ドイツが戦
争 犯罪 で裁 かれ た。 カテ ィンの森事件 に関 しては、 ソ連 が ドイツの犯行 であると告発 したが、イ
ギ リスもアメ リカ もこの告発 に対 しては支持 をせず 、結局裁判 で この事件 が扱 われ るこ とはなか
った。一つ 目の記事 の筆者 は、 も しこの裁判 の結果 の根拠 を究明す ると、 ソ連 の政治 にお けるボ
ル シェ ビキ党 、つま り NKVD が犯罪組織 で あった ことが明 らかである と述べてい る。二つ 目の記
事 の筆者 は、カテ ィンの森事件 につ いては確 かに真相 を明 らかにすべ き と述べ、そ して この犠 牲
者 は軍人 とい う身分 のため追 い詰 め られ ソ連 の捕虜 となった者 た ちであ るが、全体的 に見て犠 牲
者 の大部分 は軍 の捕虜 たちではな く住民なのだ と強調 してい る。 さらに、ポー ラン ドは第二次世
界 大戦 中で特 に ドイ ツの侵攻 によ り犠牲者 の数 が一番 多い国で、強制収容所 で殺 され た人 々の数
-39-
は 700万 にもな るが、 これ についてはニュル ンベル グ裁判 では追及 され ていない と強 く非難 して
い る。
1
970年 は、カテ ィンの森事件 30周年 であ り、それ に関連 した記事が載せ られ てい る (
KI
C
l
hs
k
l,
[
1
970]
)。アルゼ ンチ ン在住 の筆者 は、『クル トウ- ラ』の編集長 イエ ジ ・ギェ ドロイツ と交友があ
り、カテ ィンの森事件 30周年 の追悼 と して記事 の掲載 を依頼 した。筆者 はポー ラン ド国内ではカ
テ ィンの森事件 を 口にす ることはできないが、誰 の犯行 で あるかは周知 であると述 べてい る。
978年 の 『クル トウ- ラ』には匿名 ではあ るが興味深 い記事 を見つ けることがで きた
そ して 、1
(
Anonm,[
1
978
]
)。 あるカ トビッツェのポー ラン ド文学学会 で、作家であるア ンジェイ ・ブ ラ ウ
l
ンが、ポー ラン ド国内での検 閲の厳 しさ、特 にカテ ィンの森事件 に関す る陳述へ の検閲 について
述 べてい る。 ワル シャ ワの USI
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or
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l
OnAge
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y)
の通信員 、 ロン ・ペ ンシュタイ
ンが このブ ラ ウンの発表 に興 味 を持 ち、ア メ リカ当局へ電報 を打 った。 それ に対 し、ポー ラン ド
局 のボイス ・オブ ・アメ リカは このペ ンシュタイ ンの電報 をいち早 く調べ、その 中の、「ソ連 によ
って 1
9
40年 に虐殺 は行 われ た」とい う記述 を削除 した。 この一連 の出来事 を、ワシン トン ・ポス
トのジャ ック ・ア ンデル ソンが記事 に した。 ボイス ・オブ ・アメ リカのポー ラン ド局長代理 の フ
ェ リックス ・プ ロニ ッキはペ ンシュ タイ ンの報告 がアメ リカ とソ連 の政 治的な相 互関係 に危害 を
及 す可能性 を感 じ、ソ連 に とって都合 の悪 い記述 を削除す るとい う行動 に出たのであった。当時、
共産主義 下の国 々 と違 い、言論 の 自由を有す るアメ リカで この よ うな検 閲が起 こ りえたのは、 ソ
連 に対す る政 治的な配慮 か らだ と思われ る。
②学術論文
このカテ ゴ リーでは、筆者 の体験や記録 が中心 となってい る。1
955年 5月号 では 、1
940年 当時
ポー ラン ド赤十字社 の秘書であったカジ ミエ シュ ・スカル ジンスキ(
Ka
z
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r
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yhs
kl
)
が 1
9
43
年 の 6月 に ドイツ軍の指揮 下でカテ ィンの森 に赴 き、その時の印象 を書 き記 してい る (
Ska
r
z
yhs
k
l
,
[
1
951
]
)。 ポー ラン ド赤十字社 は当時、ポー ラン ド総督府 の 中で唯一ポー ラン ドによる主権 が認 め
られ ていた組織 であった。事件発覚後 、 ドイツ軍の命令 でポー ラン ド赤十字社 の 中か ら代表 で何
人 かが、 ロン ドン亡命政府 には内密 でカテ ィンの森 へ調査 に行 った。 スカル ジンスキはまず スモ
ー40-
レンスクに行 き、それ か らグニェズ ドグォ駅か ら数 キロ西へ行 った ところにある発掘現場へ赴 き、
そ こで、遺体や 将校 たちが持 っていた身分証 明書や 手紙等 を調査 した。遺体の状 態や手紙 の 日付
等 を見て、虐殺 は 1
940年春頃 に行 われ た と彼 は確信 したのであった。彼 の調 査結果はポー ラン ド
亡命政府や連合 国に とって価値 のあ るものであったが、 ドイツは この報告書 をプ ロパ ガ ンダに利
用 し、そ して連合 国 とソ連 との衝突 を期待 した。 しか し、 スカル ジンスキは ドイ ツに協力す るこ
とを拒否 し、さらに戦後 、共産 主義者 の下で成立 した挙 国一致臨時政府 (
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畠
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1
Na
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J
)
との協力 に も応 じなかった。 共産 主義下のポー ラン ドで彼 の報告 書は ソ連 に とって都
合 が悪 く、スカル ジンスキは身の危険 を感 じ 1
946年 5月 にロン ドン-亡命 した。そ して、その報
告 書はポー ラン ド亡命政府 に、つ ま り西側諸 国 に提 出 され た。
1
970年 5月 に ヴワデ ィス ワフ・
ア ンデル ス将軍が亡 くな り、
彼 を追悼 した特別号 が出版 され た。
その特別号でア ンデル ス将軍のイ ンタビュー記 事が掲載 され た (
s
l
e
ma
S
Zo
,[
1
970]
)。 イ ンタビュ
k
ーは 1
967年 7月 に行 われ てお り、この中でア ンデル ス将軍はカテ ィンの森事件 に関わ るポー ラン
ド人将校 につ いて興味深 い ことを語 ってい る。 1
939年 9月の時点で 1万人以上の将校 た ちが ソ連
軍 の捕虜 とな り、3 つ の収容所 に送 られ たのは周知 の事実 である。後 にア ンデル ス将軍 が知 った
こ となのだが、 ソ連 軍はポー ラン ド人将校 に対 して戦争 が終わった後 どこに行 きたいか とい うア
ンケー トを行 った とい うのである。選択肢 は 3つ あ り、その うちの一つ を選 ぶのだが 、 1つ 目は
「
ポー ラン ド-帰 る」、2つ 目は 「
中立国へ行 く」、そ して 3つ 目は 「ソ連 に留ま る」であった。
将校 の大部分 は 2つ 目の 「
中立国へ行 く」を選 んだそ うである。数少 ない将校 が 「ソ連 に留ま る」
を選び、そ して彼 らはモ スクワのル ビャンが へ送 られ たのだった。つま り、3つ 目を選 んだ者 た
ちは虐殺 か ら免れ た とい うことで ある。
1
98
9年 には、国際法 にお けるカテ ィンの森事件 に対す る国の責任 についての記事が書 かれ てい
る (
Ma
r
e
k,[
1
989]
)
o筆者 はカテ ィンの森事件 にお ける ソ連 の責任 とは何 か、そ してその責任 か ら
どの よ うな影響 が及 ぶかを分析 してい る。 ニュル ンベル グ裁判 では扱 われ ることはなか ったが、
ソ連 の国際的な責任 は権 限の ある裁判 を通 して審理 され る必要が ある。筆者 は、カテ ィンの森事
件 にお け るポー ラン側 の行動 と しては懲罰 を与 え、賠償 を得 る以外 に要求す るものはない と結論
2
NKVD、後のソ連国家保安委員会 KGB本部がある地名Oそこには刑務所もある0
-41-
付 けてい る。この記事が掲載 され た 1
98
9年 には、まだ この種 の戦争 犯罪 を裁 く常設 の国際司法機
関はなかったが 、1
998年 に国際刑 事裁判所 が設置 され たので、カテ ィンの森事件 が今後 国際的な
場 で審議 され ソ連 の戦争犯罪 が追及 され ることにな るか も しれ ない。
上述 の記事 と同 じ号 に、1
939年 9月 にスタロビエ スル ク収容所 にいた元兵士の回顧録 が掲載 さ
れ てい る (
Grl
a
,[
1
98
9]
)
o筆者 は 1
939年 8月 に兵卒 と して徴兵 され 、 ドイツ軍侵攻 の際 に戦闘 に
e
参加 し、そ して ドイ ツ とソ連 との国境近 くで ソ連軍 の捕虜 とな り、スタロビエル スク収容所へ送
られ た。 収容所 での 日々の生活 を綴 ってい る。収容所 には筆者 の よ うな兵卒だけではな く、将校
や警察官 もいたが、一時、 ソ連軍人 が兵卒 たちだけに政治 に関す る講義 を行 った りしていた。 兵
卒 たちにはいつ か解放 され る と話 していたのに対 し、将校や警察官たちへは死ぬまで働 かせ る と
い う言動 を耳に した と筆者 は思い起 こ してい る。 さ らに、筆者 は ソ連兵 によるポー ラン ド人将校
の処刑 を 目に した とい う。 これ は貴重な証言 だ と言 える。 2 週間のスタロビエル スクでの滞在 の
後 、収容所 を出て西 に移動す ることにな り、その際 に見張 りの隙 を見て列車か ら脱 出 したので あ
った。
③ 文学的作 品
このカテ ゴ リーでは、ユゼ フ ・チ ャブスキの書いた記事 がい くつかあ る。チ ャブ スキは 1
939年
9 月 に ソ連軍の捕虜 とな りス タロビエル スク収容所 へ送 られ たが、奇跡 的 に銃殺刑 を免れ た。 そ
して 、1
941年 7月 の ソ連 -ポー ラン ド協定 によ り解放 され 、その後 、ア ンデル ス将軍指揮 下の在
ソ-ポー ラン ド人部 隊に入 り、行方 の分 か らないポー ラン ド人将校 たちの捜索 に携 わっていた。
まず一つ 目は 1
956年 4月号 である (
Cz
a
ps
kl
,[
1
956]
)。フル シチ ョフ (
Nl
kl
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ye
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C
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us
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)
の スター リン批判 か ら 2ケ月後 であ り、ポー ラン ドは文化 、社会 、政治 にお いて 「
雪解 け」の時
期 を迎 えていた。 その最 中でチ ャブ スキは、 ソ連 の 中でカテ ィンの森事件 の真相 の解 明 をいち早
くすべ きだ と強 く主 張 し、 さ らにカテ ィン とい う名 前は将校虐殺 の悲劇 のシンボル であ り、 コジ
ェル スク収容所以外 の 2つ収容所 か ら行方 の分 か らな くなった将校 たちをい ち早 く捜索すべ きだ
と述べてい る3。実際 、1
990年 にゴルバチ ョフが公式 に罪 を認 めるまで、ソ連 が真相 を語 ることは
3
当時、
まだオスタシュコフ収容所、
スタロビェルスク収容所にいた将校たちの処刑現場が見つかっていない01991
-42-
なかった。二つ 目は 、 1
962年 であ り、チ ャブスキ 自身が 『非人間的な地 で』 (
Cz
a
ps
kl
,[
1
962]
)と
い うソ連 の捕虜 だ った時 の 自身 の回顧録 第二版 を出版 した際 に投稿 した記 事で あった (
cz
a
pk
s
l,
[
1
962]
)。 この記 事で、 ソ連 の作家 でスター リンの死後 ソ連 で顕著 にな った社会 の 自由化 の雰囲気
を反映 したイ リヤ ・エ レンプル グ (
I
l
yaGr
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gOr
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VI
C
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nbur
g)の 「
雪解 け」について若干論評 し
てい る4。 さらに、 ドイ ツに罪 をきせ た ことは ソ連 の器用 な戦略であると してい る。チ ャブスキを
は じめ、『クル トウ- ラ』の編集者 たちは、ソ連 との関係修復 には ソ連 が過去 の認識 を改 めること
が第一条件 で あると主 張 してい る。
その他 に、1
965年 3月号 では、スタニス ワフ ・ゴス トフスキ(
st
a
nl
S
壬
a
wGos
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ows
kl
)
が実体験 をも
とに記事 を書 いてい る (
Gos
t
ows
kl
,[
1
965]
)。 ゴス トフスキは大戦 中 ドイツ軍 の捕虜 で あ り、1
9
43
年 4月 に ドイツ軍 の命令 で軍人捕虜 の代表 と してカテ ィン-赴 いた。彼 は当初 か らある一つの疑
い を持 っていた。1
942年 の時点で ドイ ツ軍 によってすでに将校 たちの遺体が発 見 され ていたのに
もかかわ らず 、公表 したのはなぜ 翌年 1
9
43年 4月だったのであろ うか。ゴス トフスキは、ヒ トラ
ー がスター リン と連携 した く、そのためにはカテ ィンでの遺体の発 見が、今後 の交渉 において障
害 とな るか も しれ なかったのではないか と推測 してい る。 ドイツのグ ッベル ス宣伝相 がカテ ィン
の森 で約 11
,
000人の遺体 を発 見 した と公表 した とき、実際 ドイツは さらに ソ連領 内で殺害 され た
多 くの将校 の数 を知 っていた。 しか し、発掘 され た遺体の数 はかな り少 な く、 ドイツは ソ連 に全
ての犠牲者 に対 して責任 を取 るべ きだ と考 えていた。 当時オ スタシュコフ収容所 とスタロビエル
スク収容所 については内密 に され ていた。
1
976年 11月 に再びユゼ フ ・チ ャブ スキが記事 を出 し、そ こでイギ リス、 ロン ドンでのカテ ィ
ン慰霊碑 の除幕式 での、イギ リス政府 に対 して批判 してい る (
Cz
a
ps
kl
,[
1
976]
)
。慰霊碑 に 「
1
940
年 」を刻む ことにイギ リス政府 は難色 を示 し、そ して除幕 式 にも出席 しなかったのである。 「
1
9
40
年 」 を入れ るとい うことは、イギ リス側 が公式 に ソ連 の犯行 だ と認 めることにな る。冷戦 によ り
緊張が続 いてい る中で、イギ リスは ソ連 に刺激 を与 えないために この よ うな姿勢 を示 したので あ
年になって埋葬場所が発見され、発掘作業が始まった。
4 「
雪解け」という言葉は、ソ連 ・東欧諸国の歴史において 1
9
5
6年以降の一時期をさしており、由来はイリヤ ・エ
レンプルグ著のタイ トルからきているOエレンプルグは、スターリンの重罪は共産主義者のエリー トの中で行わ
れた粛清であると書いているが、カティンの森事件はそれとは異なり、犠牲者の数や統計に関しては文書が公に
されていないのでスター リンの犯罪という前提で検討するのは難 しいと述べている0
-43-
る。何 よ りもソ連 自体、そ してポー ラン ド政府 も慰 霊碑 を作 るこ とに反 対 していた。 当時すで に
ザ ヴォ ドニー、 フ イソツギボ ンな どが文献 を出 しカテ ィンの森事件 の事実 を明 らかに してい るの
に、イギ リス政府 はそれ らの文献、そ して事件 の真相 を知 らないはずはない と、チ ャブ スキは強
く批判 してい る。
④書評
『クル トウ- ラ』の中で一番 カテ ィンの森事件 に関す る記事が多 く見 られ たのは書評 であった。
ヴワデ ィスワフ ・ア ンデル スよ り』(
Anonm,[
1
948]
)につ いて ヴラガが書評 してい る(
Wr
a
ga
,[
1
949]
)
。
l
この文献は 1
948年 に ロン ドンで出版 され てい るが、評者 は戦後 ま もな くにもかかわ らず限 りある
資料 を隈 な く調 べ、充実 した内容 になってい ると高 く評価 してい る。 さ らに、使 われ た資料 の ほ
とん どは原本 で あ り、そのお かげ調 査結果 を主観的 に公表 す るこ とを避 け られ たのではないか と
述 べてい る。も う 1冊は、ソ連 軍 による逮捕 、連行 、強制労働 を題材 に した文献 に関す る書評 で、
Wr
a
ga
,[
1
947]
)
。
同 じくヴラガが投稿 してい る(
ス タロビエル スク、オ スタシュコフの捕虜 たち』(
Mos
z
yhs
kl
,[
1
949]
)
について レビエ ジェフスキの
書評 がある牡e
bl
edz
l
e
Wkl
,[
1
950]
)
。 この文献は 、1
9
49年 にロン ドンで出版 され てお り、3つの収容
所 で捕虜 であった (
コジェル スクで約 5,
200人、オ ス タシュコフで約 1
,
300人、スタロビエル スク
で約 3,
000 人)ポー ラン ド人将校 の名 前、生年月 日、職業な どを記 してい る。評者 は、 この文献
の情報源 を高 く評価 してい る。 まず は一つ 目の情報源 は、行方不 明の将校 たちの リス トで、 これ
は1
9
41年 に在 ソ-ポー ラン ド人部 隊の指揮 官の下で、そ してその何年後 かに在 中東 -ポー ラン ド
人部 隊の指揮官 の下で さらに詳 しい資料 を集 め作成 され た。 いずれ の機 関 も虐殺 か ら逃れ た者 た
ちか らの情報 も得 てい る。二つ 目の情報源 は 、1
943年 に ドイツで出版 され た 『カテ ィンにお ける
Ma
t
e
r
l
a
l
,[
1
943]
)
で あるが、 これ は事件発覚直後 の調 査報告 であ り、
大量虐殺 に関す る公 式資料 』(
遺 体の数 に関 しては比較的信 悠性 が あると評価 してい る。 そ して三つ 目の情報源 は、カテ ィンの
森 で発掘作業 に携 わったポー ラン ド人か らの証言 である。
-L
4
4-
さらに、1
955年 には 『戦争 の歳月 』(
Goe
t
e
l
,[
1
955]
)
についてヤ シンチ クの書評 が ある(
J
a
s
l
e
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zk
y
,
[
1
955]
)
。 ゴェテル は 、1
943年 にポー ラン ド人で初 めてカテ ィンに行 き、遺体発掘現場 を見た人物
で ある。
1
960年代 には 、1
965年 ニ ュー ヨー クで出版 され た 『
6時 30分 で止 まった時 間
知 られ ていな
wl
t
tl
n,[
1
965]
)
についてのザモル スキの書評 (
za
mor
s
kl
,[
1
966]
)と、1
966年
いカテ ィン事件 よ り』(
l
パ リで発行 され た 『カテ ィンの虐 殺 』 (
Mo
nt
fr
t
,[
1
966]
)
へ のチ ャブ ス キの書評 が あ る(
Cz
a
ps
k
o
l,
[
1
966]
)
。後者 の文 献 につ いては、特 にカテ ィンの森事件 をフ ランス側 の視点 か ら見た特徴 を述べ
てい る。
1
970年代 にはカテ ィンの森事件 に関す る書評 はな く、1
98
0年代 に 2つの書評 がある。 1冊 目は
『痕跡 の安全 』(
odo
」
e
ws
kl
,[
1
98
4]
)
で 、1
98
4年 にパ リで出版 され 、1
939年 の ソ連軍侵攻 、ポー ラン
ド人移送 、収容所 、そ してカテ ィンの森事件 について書 かれ てい る。書評 はプ ロンスキ(
Br
ohs
k
l,
[
1
985]
)
が行 ってい る。2冊 目は 1
988年 にロン ドンで出版 され た 『カテ ィンの森 』(
畠wl
卑
t
e
k,[
1
988
]
)
で、シフ イアニエ ピッチの書評 が ある(
Swl
a
nl
e
WI
CZ
,[
1
989]
)
。著者 は 1
950年 か ら 1
956年 まで ソ連
内の収容所 にお り、その時 にカテ ィンの森 事件 が囚人の中で密か に話題 になっていた と書いてい
る。 この文献の書評 を投稿 したシフ イアニエ ピッチ は、カテ ィンの森事件 か ら奇跡的 に生還 して
い る事件 の生 き証人 の一人で ある。 シフ イアニエ ピ ッチは、 この記事の 中で西側諸 国で出版 され
たその他 のカテ ィンの森 事件 に関す る主要な文 献 を列挙 し、内容 を短 く紹介 してい る。
1
947年 か ら 1
989年 までの書評 で、全ての評者 は、カテ ィンの森事件 は ソ連 の犯行 によるもの
だ と認識 してい る。つ ま り、西側諸 国では事実 を隠す ことな く自由に見解 を示せ た とい うことが
明 らかである。
⑤声 明、読者か らの手紙
1
96
4年 にユゼ フ ・チ ャブスキが抗議 の手紙 を出 してい る (
Cz
a
pkl
,[
1
964]
)
。あ る本 の中で、「
オ
s
ス タシュ コフ、 スタロビエル スク収容所 の囚人たちがカテ ィンで殺害 され た」 とい う記述 があっ
た。チ ャブスキは これ に関 し、カテ ィンで殺害 され たのは コジェル スク収容所 にいた者 たちで あ
る と してい る。 オ ス タシュコフ、ス タロビエル スク収容所 にいた者 たちが どこで殺害 され 、埋 め
-45-
られ たのかはその当時 ではまだ分 かっていなか った。
1
98
0年 の 5 月号 で社会 自衛 委員会 の声 明が出 され た(
Ko
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t
e
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moo
b
r
o
n
yS
po
壬
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c
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J"
KOR"
,
[
1
98
0]
)
。1
98
0年 はカテ ィンの森事件 40周年 であるが、まだオ スタシュコフ、 スタロビエル スク
収容所 か ら連れ 出 され て殺害 され た将校 た ちの人数 、そ してその遺体が どこに埋 め られ てい るか
も分 かっていない。 さらに、 ソ連 はまだ ドイツの犯行 だ と主張 していた。社会 自衛委員会 は この
声 明で、カテ ィンの森 事件 の真相 の解 明を求 めただけでな く、 さらには 1
93
9年 9月 1
7日以降の
ポー ラン ド人市民 に対す るソ連 の犯罪 をも明 らかにす るとともに、裁 きを与 えるべ きだ と要求 し
てい る。
同 じ号 に、事件 4
0周年 の追悼 と して上記 とは異な る声 明 も出 され てい る。3
2人の ロシア人が
「
カテ ィンの森 事件 を決 して忘れ ることな く、そ していち早 くソ連 が罪公式 に認 めるこ とを求 め
る」 とい う声 明に署名 してい る。
4.『タル トr
)- ラ』 とカテ ィンの森事件 との関わ り
① ユゼ フ ・チャ ブスキ
ユゼ フ ・チ ャブスキは、イ ンステ ィチ ュー ト・リテ ラツキ出版 での編集者 の うちの一人であ る
とともに画家 と して も知 られ てい る。上記 で も述べ てい るが、第二次世界大戦が始ま る とす ぐに
動員 され 、その後 ソ連軍の捕虜 とな りスタロビエル スク収容所へ送 られ た。 そ して奇跡 的 に虐 殺
か ら生 き残 り、
1
9
41年 7月 3
0日に調印 され た ソ連 -ポー ラン ド協定 による特赦 で解放 され た後 、
再び軍隊に入 り、ソ連 軍 によって移送 され たポー ラン ド軍将校 たちの行方 の捜索 にあたっていた。
編集長 の ギェ ドロイ ツ とは、戦時 中ポー ラン ド軍のイ ラク滞在 中に出会 い、約半世紀来 の友人 で
もある。 戦後 、パ リに移 り、 ギェ ドロイツ らとともにイ ンステ ィチ ュー ト・リテ ラツキ出版 を立
ち上 げ、亡 くな る 1
9
93年 まで編集者 と して従事 し続 けた。『クル トウ- ラ』へ は、カテ ィンの森
事件 に関す る記 事だ けではな く、様 々なジャンル をテーマ に投稿 してい る。 カテ ィンの森事件 に
関す る記事は前述 の通 りである。
彼 の代表作 、『非人間的な地で』(
Cz
a
ps
kl
,[
1
96
2]
)
は、イ ンステ ィチ ュー ト・リテ ラツキ出版 によ
-46-
って 1
949年 に出版 され た。 そ して、第二版 は 『ビブ リオテカ ・クル トウ- リー』 シ リー ズ 76号
と して 1
962年 に出版 され てい る。チ ャブスキは 、1
939年 9月の ソ連軍侵攻 によって捕虜 とな り
ス タロビエル スク収容所へ送 られ たが、
虐 殺 は免れ るこ とはできた。この書籍 は 、1
942年 か ら 1
9
47
年 にかけて、 ソ連軍 の捕虜生活 、後 に解放 され ア ンデル ス将軍 と共 に行方不明の将校 た ちの捜 索
に従事 した筆者 の回顧録 であ る。 カテ ィンの森事件 については全 く触れ ず、 さらに将校 たちの行
方 の調査報告 も書かれ てお らず、これ は筆者 が-ポー ラン ド人 と して考 え方や洞察力 をふまえて、
ソ連 で ど う過 ご し、生 き残 ったかを語 ってい るもので ある。ポー ラン ド国内では 、1
982年 に地下
で出版 され てい る。
② スタ=ス ウフ ・シフイア二エ ピッチ
スタニ スワフ ・シフ イアニエ ピッチは、戦前 よ り ドイツ とソ連 の経済比較 につ いて研 究 に従 事
し、 ヴィ リニュスの大学で教鞭 を執 っていた。第二次世界 大戦が勃発す るとす ぐに軍隊 に召集 さ
れ 戦闘 に参加 したが、ソ連軍の捕虜 とな りコジェル スク収容所へ と送 られ た。1
940年 4月頃 か ら、
収容所 にいた仲 間が次 々 と移送 され て (
処刑 へ と向か って)いた中、4月 29日にシフ イアニエ ピ
ッチ も移送 され るこ とになった。仲 間たちがカテ ィン近 くのグニ ェズ ドグォ駅で列車 を降 り、車
で移送 され てい く中で、彼 だ けが列 車 に留 め られ処刑 を免れ た。彼 の研 究の専門が ドイ ツ との関
係 において ソ連 に とって役 に立つ とみな され 、生 き残 ることができた と考 え られ てい る。その後 、
ル ビャンカそ して収容所 を転 々 と した後 、チ ャブスキ と同様 、1
9
41年 7月 30 日に調印 され た ソ
逮 -ポー ラン ド協定の特赦 によ り解放 され 、1
9
42年 4月 に解放 され クイ ビシェフ5の在 ソ連 ポー ラ
s
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a
nl
S
壬
a
wKot
)
大使 と共 にクイ ビシェフを去 った。
ン ド公使館 で勤務 し、後 にスタニス ワフ ・コ ッ ト(
戦後 は ロン ドンに住み 、在外研 究 と してイ ン ドネ シア、ア メ リカ、カナ ダで再び教鞭 を執 った。
シフ イアニエ ピッチ と 『クル トウ- ラ』の関係 は 、1
948年 よ りギェ ドロイツ との手紙 のや り取
りか ら見 るこ とができ る。 1
9
48年 2月の ギェ ドロイツか らの手紙 には、シフ イアニエ ピ ッチがカ
テ ィンの森事件 を経験 してい るこ と、そ して ソ連 の経 済 ・政 治事情 に精通 してい ること等 を挙 げ、
5 当時、在ソ連ポーラン ト
公使館があった01
9
3
5年から1
9
9
0年までこの都市はタイビシェフと呼ばれていたが
現在はサマーラという名称に変わっている0
-47-
『クル トウ- ラ』への協力、投稿 を依頼 してい る6
。その後 、シフ イアニエ ピッチは亡 くな る 1
997
年 まで頻繁 にギェ ドロイツ と手紙 のや り取 りを し、情報交換 、論文投稿等 で 『クル トウ- ラ』運
営 に協力 を してい る。
前述 の とお り、『クル トクー ラ』の 1
9
50年 2,3月号で レビエ ジェフスキが 『カテ ィンの リス ト
Mos
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y
hs
kl
,[
1
9
49]
)
の書評 を してい るが、 これ は仮名 を使 ってシフ イアニエ ピ ッチが書い
虜 たち』(
た ものである (
Le
bl
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dz
l
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WS
kl
,[
1
95
0]
)
。1
9
49年 1
2月のシフ イアニエ ピ ッチか らギェ ドロイ ツ-の
手紙 に、 「
家族 の安全のた めに 自分 の名前 は一切伏せ てほ しい」 と記 され てい る7。 シフ イアニエ
ピ ッチ とい う名 前が出て しま うと、ポー ラン ド国内 にい る家族 に ソ連警 察の手が伸び ることを恐
れ たためであ る。
1
976年 にイ ンステ ィチ ュー ト・リテ ラツキ出版 よ り彼 の著書であ る『カテ ィンの闇 』
(
s
wl
a
nl
e
WI
CZ,
[
1
9
76]
)
が出版 され てい る。この文献では、シフ イアニエ ピッチが ソ連 の捕虜 であった時の回顧録 、
そ して 自身が見たカテ ィンの森事件 について書かれ てい る。『クル トクー ラ』 では 、1
98
9年 にカ
テ ィンの森事件 に関す る書評 を投稿 してい る(
S
wl
a
nl
e
WI
C
Z
,[
1
98
9]
)
。
③ 『クル トウー ラ』 とカテ ィンの森事件
『クル トクー ラ』 は上述 の通 り、国外 にい るポー ラン ド人だけではな く国内にい る人 々に とっ
て も、社会 ・文化 ・歴史 にお けるポー ラン ドとい うアイデ ンテ ィテ ィを再確認す るための最 も重
要 な雑誌 であった ことには間違 いない。『クル トウ- ラ』はパ リで発行 され たが、唯一ポー ラン ド
-送 られ た雑誌 であ り、特 にイ ンテ リたちの間で読 まれ ていた。例 えば、イエ ジ ・ギェ ドロイ ツ
は クラクフのヤ ギェ ウオ大学付属 図書館へ 『クル トクー ラ』 を送付 した と言 われ てお り、特別 の
研 究者 だ けが手 に取 ることができた。 当時 、共産主義勢力 はそ こまで検 閲 しなか った。 さらに、
非合法的 な経路 では あったが、一部 の一般 人の間で も読 まれ るよ うにな った。 そ こか ら、人 々は
今 まで詳細不 明であったカテ ィンの森事件 の事実 を知 るこ とができたのである。
1
9
4
8年 2月 2
4日付手紙、イェジ ・ギェ トロイツからスタニスワフ ・シフイアニエピッチ-O(
未公開資料 ・パ
リ、インスティチュー ト・リテラツキ出版所蔵)
71
9
4
9年 1
2月 3
0日付手紙、シフイアニエピッチからギェ トロイツ-O(
未公開資料 ・パリ、インスティチュー ト・
リテラツキ出版所蔵)
6
-48-
戦後 、カテ ィンの森 事件 の文献は西側諸 国で多 く出版 され てお り、その書評等 が 『クル トウラ』が掲載 され てい る。 国内では事件 を 口にできない状況 下で も、イ ンテ リたちによって 『クル
トウ- ラ』が読 まれ 、事件 に対す る西側諸 国の動 向 を知 ることができたのである。 また西側諸 国
に対 しては、た とえば前項 で記 した 2名 が、事件 の 目撃者 と しての彼 ら自身 の体験 を 『クル トウ
- ラ』で公表す るこ とで、カテ ィンの森事件 に対す る西側諸 国の人 々の認識 を深 め させ る役割 を
果 た した。
5.『タル トr
9- ラ』 の分析
本章の分析 を通 じ、次の点が明 らかになった
(
1
) 『クル トウ- ラ』は、文芸誌 で あ りなが ら、カテ ィンの森事件 を頻繁 に取 り上 げてお り、学術
的 にも資料的 にも価値 の高 い情報 を提供 す るとともに、 自由に この間題 を語 ることができる場
となっていた ことが、全号 をチ ェ ック してカテ ィンの森 事件 関連 の文 献 を ピックア ップす るこ
とで改 めて確認 され た。
(
2) 『クル トウ- ラ』が国内外 で影響力 を持 った理 由 と して、それ がポー ラン ドの知性 と教養 を代
表す る著名 な執筆 陣 に支 え られ ていた こ と、国内のポー ラン ド人 と亡命 ポー ラン ド人 の同胞 と
してのアイデ ンテ ィテ ィを確認す る場 と して広 く認知 され ていた こと、創設者 、編集者 の経歴
と人脈 が雑誌 の性格 と質 に大 きな役割 を果た した こと、ポー ラン ド国内に大量 に送 り込まれ て
国内的 にも認知度 が高かった こと、著名 な知識 人や文化 人 を擁 した文 芸誌 とい うスタンスを崩
さなか った こ とに よ り、単 な る反響宣伝 の政治雑誌 に陥 らず、ポー ラン ド人の知性 と不屈の意
思の発露 とい うレベル での議論 を維持す ることができた こと、等 をあげることができる。
(
3)『クル トウ- ラ』では度 々カテ ィンの森事件 の記事、文 献 を取 り上 げてい るが、年代別 に見 る
と、80年代 が一番 多 く、 1
0本 の記事が掲載 され てい る。 そ してその中で、特 に 1989年 に集 中
してい る。 この こ とは、国内の政治動 向、国民運動 と密接 に連動 していた ことを示 してい る。
(
4)『クル トウ- ラ』 に掲載 され たカテ ィンの森事件 についての記事の多 くは、筆者 自身の回顧録
や書評 であった。書評 は、西側 で発行 され た資料や 文献 になかなかふれ ることのできないポー
ー49-
ラン ド国内の人 々に とって、外 国の研 究の一端 を知 る貴重な情報源 で もあった。
(
5)
国内の地下出版 での議論 が、カテ ィンの森 事件 の詳細や虐殺 され た将校 の特定な どに関心 を向
けてい くのに対 し、『クル トウ- ラ』誌上での議論 は、西側 の研 究動 向を伝 える、西側政府 が こ
の間題 を政治的 に処理 しよ うと した ときそれ を批判す る、現代 の国際 関係 史の 中で この間題 を
とらえよ うとす る努力がな され た、等 の点 で特徴 が見 られ た。
(
6) 『クル トウ- ラ』は、国内では公表す ることが難 しい体験者 の回想録や 、事件 の真相 に迫 る率
直な意 見を掲載 してお り、 この事件 を解 明 しよ うと努力す ると同時 に、事件 を風化 させず世界
に訴 え続 けるとい う大 きな役割 を果た した。
6.ポー ラン ドにおける地下出版
1
976年 か ら 1
990年 までポー ラン ド国内にお ける地下出版 は機 能 した。地 下出版 の 目的は、国
内の共産 党 当局 の主導下での情報流通 を独 占を打 ち破 るた めであ り、検 閲 を防 ぎ、非合 法的な出
版や反体制派 に よる出版 で ソ連 に とっで 情報統制 され ていた内容 での文 献が出回 るよ うになった。
1
976年 か ら 1
980年 にかけて、約 300冊の本お よび小冊子 、約 200冊の雑誌 が出 され 、同時 に
35の地下出版社 が創 設 され た。1
980年代 にな ると、共産 主義下の国で初 の労働者 による自主的な
労労働組合 で非共産 党系組織 である 「
連帯」が発足 した こ とで、社会 にお ける反 体制運動 が活発
にな り、それ に連動 す るよ うに地 下出版 の動 き も盛 んにな った。 1
980年 8月か ら 1
981年 1
2月の
間 に非合法出版社 の数 は 1
60社 に増 え、約 1
60冊の本 お よび小冊子 、約 3,
200冊の雑誌 が、そ し
て1
981年 1
2月 1
3日か ら 1
98
7年 1
2月 31日までには
、
1
,
736冊 の雑誌 、3,
1
32冊の本や 小冊子 が
出回 った。1
981年 1
2月 1
3日に戒厳令 が発令 され た ことに よ り (
1
983年 7月 2
2日まで)、作家や
出版 を担 う人 々が次 々に逮捕 され た りな ど厳 しく取 り締 ま られ るよ うになった こ とか ら地下出版
の状況 は変化 した。 しか し、その よ うな厳 しい条件 の中で も情報 統制 を何 とか して打 ち破 ろ うと
人 々は立 ち上 が り、新 たな出版活動 が現れ た。 1
98
2年 の時点では 、31
3冊の本や小冊子 、785冊
の雑誌 、そ してかろ うじて 35社 が戒厳令 の中、定期刊行物 を出す こ とに成功 してい る。
特 に、戒厳令発令 中での出版物 は非常 に重要だ と言 われ てい る。国内中の情報 が管理 され 、人 々
-50-
が外 の情報 を得 られ ない中で、地下出版 は特 に人 々の情報 収集 に一役 を買った。 さらに、地 下出
版 では、カテ ィンの森 事件 な ど共産 主義体制 下に公 の場 で 口にす ることができなかった ことだ け
ではな く、小説 、エ ッセイ、演劇 、映画、詩 、 日記や 思い出、イ ンタ ビュー、歴史、政治、経済 、
社会 な どを 自由なテーマ を扱 っていた。この よ うな ことか ら、地下出版 は情報伝 達だけではな く、
Zbl
e
ws
kl
,[
2008]
,pp4246)
。
人 々の娯楽 を提供す る役割 も担 っていた ことが分 か る (
この よ うに、共産 主義時代 の西側諸 国のカテ ィンの森事件研 究 は、地 下出版 を通 じてポー ラン
ド国内に広 め られ た ことか ら、地下出版 は本項 で挙 げた 『クル トウ- ラ』 とも密接 な関連性 を持
ち、情報提供 とい う大 きな役 目も果た していた ことが明 らかである。
-51-
第 3章 遺族に対するインタビュー調査
1.イ ンタ ビューの 目的 ・手法
これ は 、2009年 5月か ら 8月 にかけて、カテ ィンの森事件 によって父親 も しくは夫 を失 った遺
族 に対 して行 ったイ ンタビュー調査 である。 このイ ンタビューの 目的は、事件 の遺族 らが事件 以
降 どの よ うな人生 を送 り何 を考 えて きたか を明 らか にす ることに よ り、カテ ィンの森事件 の真相
とは別 に、時代 の局面でカテ ィンの森事件 が どの よ うに扱 われ て きたか を明 らか にす ることで あ
る。すなわち、歴史的空 白となった第二次世界大戦 の悲劇 的事件 であるカテ ィンの森事件 が、戦
後 の冷戦体制 下で、また冷戦体制崩壊後 の世界 の中で どの よ うに政治利用 され て きたか を、遺族
の個人的体験 をた どることによって浮 かび上が らせ たい。
遺族 の高齢化 が進む と、世代的の問題 関心 にも隔た りが生 じて しま うだろ う。現在 、遺族会 で
活動 してい る子 ども世代 は主 に 70歳代 か ら 80歳代 の人 々であ る。 あ と 1
0年 20年 もたてば、彼
らの生の戦争経験 の証言 を得 ることは難 しい。本 イ ンタビューの実施 と分析 によって得 られ るで
あろ う成 果は、彼 らの歴史認識 、お よび社会意識 の変化 を政治的 な利害 関係 がな く捉 えるこ とが
で きるこ と、そ して現在 で も政治的 に利用 され るこの事件 を、国家 レベル だけではな く国民 レベ
ル の視点か ら歴史観 を分析す るこ とができるこ とである。
本来、歴史は史料 に基づ き記述 され なけれ ばな らないのは確 かである。 そ して、そのテーマ の
登 場 人物 の行 為 を史料 の裏 付 けな しで記 述 す る こ とは歴 史 の意 に反 して い る (
渓 内 ,[
1
995]
,
pp1
41
1
42)
。これ まで、カテ ィンの森事件 の遺族 が肉親 との別れ か ら現在 に至 るまで、ど う考 え、
生 きてきたかを証 明す る史料 は皆無 に等 しい。 そのため、イ ンタ ビュー とい う方 法か らその空 白
を埋 め、時代背 景や歴 史的事実 に関す る証言 を史料 と照 ら し合 わせ るこ とで、歴 史学 と してのイ
ンタビューの位 置付 けを合理的 に証 明 したい。
イ ンタ ビュー の方 法は次の通 りで ある。 イ ンタ ビューの対象者 は、ポー ラン ド南部 ク ラクフ ・
カテ ィン遺族会 (
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)
に属す る人 々 と
-52-
す る。遺族会 につ いて述べ てお きたい。 まず 、全 国 を取 りま とめ るカテ ィン遺族連盟 (
Fe
de
r
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」
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Rodz
l
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t
kl
C
h)
があ り、それ は 1
992年 1
2月設立 され た。本部 は ワル シャ ワにあ り、国内各地
の遺族会 を統括す る。そ して、各都市 (
全 国 34都市)に も遺族会 が置 かれ てお り、それ らはカテ
ィン遺族連盟 とつなが りを持つ。
ポー ラン ド南部 ク ラクフ ・カテ ィン遺族会 は 、1
98
6年 か ら 1
989年 の間に一部 の遺族 による地
下出版等 の資料収 集 を主 に活動 を始 めた。徐 々に他 の遺族 もその活動 に協力す るよ うにな り、1
990
年 7月 5日には裁判所 の承認 を得 て登録 され た。この遺族会 の会員 らによ り執筆 され た文 献 『1
989
年から1
995年 までのポー ラン ド南部 クラクフ ・カテ ィン遺族 の歩み 』(
St
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eRodzl
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Ka
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aPol
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klPo
hl
dnl
OWe
J
,[
1
995]
)が 1
995年 に出版 され てい る。遺族会設立 に至 る経緯 か ら当初
の活動 (
ク ラクフでのカテ ィンの森事件 に関す る展示会 開催 、クラクフの慰霊碑 の建設 ・除幕式、
カテ ィン ・ミエ ドノイエ ・ハル キフ-の訪 問記録 な ど)がま とめ られ てい る。会員 は約 800人で
ある (
2003 年現在)
。遺族会設立の 目的 と して 、(
a
)カテ ィンの森事件犠牲者 の墓地訪 問の企画 、
(
b)カテ ィンの森事件 にまつわ る場所 、墓地や慰霊碑 の保護 、(
C
)遺族会会員 の 中での相互協力 、
(
d)資料収集 、遺族会 の集会 、展示会 の企画 、(
e
)他 の都市や 国外 の遺族会 との緊密な関係 を結ぶ
こ とが挙 げ られ てい る (
St
o
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ys
z
e
nl
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i
a
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ynl
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aPol
s
klPo
hl
dnl
OWe
J
,[
1
995]
,p 21)
。
自身が クラクフに留学 していたた め、そ こにあ るポー ラン ド南部 クラクフ ・カテ ィン遺族会 に
属 す る人 々 とコンタク トを取 ることができた。 クラクフを選 んだ ことに関 して、特 にこの遺族会
が特殊性 を持 つわけではない ことを付 け加 えてお きたい。
イ ンタ ビュー方法 に関 して、聞き手が質 問をあ らか じめ用意 し、対象者 にはそれ に対 して 自由
に答 えて も らう。対象者 ごとに質問 を変 え るのではな く、同一条件 で行 った。 また、事前 に遺族
会 -イ ンタビューの告知 、質 問表 を見せ 、承諾 して くれ た人 に対 して個別 に予定 を相談 した。 注
意 点 と して、回答 が暖味 にな る可能性 が否定できない。年代や事柄 の回答 に対 しては、他 の諸 資
料 をつ き合 わせ て検証 してい く必要 がある。 それ で も、本 イ ンタ ビュー によって、対象者 の話 を
で きるだ け忠実 に書 き残 し、歴史史料 と して残 したい。言語 の面 においては、ポー ラン ド語 と 日
本語 との表現の違 い によって誤訳 が起 きない よ う、 これ に関 して もな るべ くポー ラン ド語 の表 現
に沿 った邦訳 を進 めた。 イ ンタビュー後 、まずはポー ラン ド語 の音声記録 を起 こ した。 そ して、
-53-
その原稿 を対象者へ送付 し、修正、付 け加 え等 を して も らい、そ して論文への実名 による個人情
報 の利用お よび公表 の承諾 を得 た。
実施期 間
場所
2009年 5月 2
0日か ら 2009年 8月 4 日まで。
各 対象者 の 自宅 、 も しくはポー ラン ド南部 ク ラクフ ・カテ ィン遺族会 事務所 (
住所
ul
,31
540,
Kr
a
k W,Pol
s
ka
)
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1
C
Z
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6
質問項 目
1.氏名 、生年月 日、出生地。
2.父親/夫 の名前、階級 、 どこで殺害 され たか。
3.最後 に父親/夫 を見たのはいつか。
4.父親/夫 と通信 が途絶 えたのはいつか。
5.いつ、 どの よ うに して殺害 され たのを知 ったか。
6.戦 中 どこに住 んでいたか。 そ して父親 /夫 の連行 に よって、家族への抑圧 が あっ
たか (
危機 に さらされ たか)。
7.共産主義時代 の間、調査 を試 みたか。 それ に対す る政府 の圧力があったか。
8.1
989年 の体制転換後 、真相究明に向けて状況 が どの よ うに変化 したか。 自 ら何 か
行動 を起 こ したか。
9.遺族会 の活動。
10.カテ ィンの森事件 に関 して現在 の抱 える問題。
1 1.ポー ラン ド、 ロシアに対す る率直な気持 ち。
イ ンタ ビュー での時代設定 と して、戦 中、共産 主義時代 、体制転換期 と大まか に区分 してい る
が、その区分 した中で も指導者 によって体制 の状況 は全 く異な る。 カテ ィンの森 事件 の転機 つ ま
990年 で ある。 ポー ラン ドの体制転換 は 1
989年 、 ソ連 の社会
りソ連 が犯行 を公式 に認 めたのは 1
主義崩壊 は 1
991年 で ある。 1
980年代 あた りか ら、事件 を語 りやす い雰囲気 になってお り、体刺
崩壊 は予知 され つつ 、 ソ連 の事件 の公式見解 そ して体制転換 は一連 の流れ であることを付 け加 え
-5
4-
てお きたい。
2.イ ンタ ビュー対象者 に関す る情報
質問 1、2:
氏名 、生年月 日、出生地。父親4
4
4
9
夫の名 前、階級 、 どこで殺害 され たか。
・人数
2人)
1
3人 (
男性 1人、女性 1
ポー ラン ド南部 ク ラクフ ・カテ ィン遺族会代表 によって適 当な人 を紹介 して も らい承諾 を得 た
人 々。各 人考 え方 に偏 りがあ るか も しれ ないが、遺族会 の公式見解 とは言 えず とも、遺族 の全体
的 な感情 を代表 してい ると考 え られ る。
・年齢層
70代 か ら 90代
・子 ども世代 1
2人、妻世代 1人
・クラクフ在住者 12人、 ワル シャワ在住者 1人 (
ワル シャワの遺族会 に所属)
・埋葬場所 に よる対象者 の内訳
-カテ ィン(
ka
yh) 3人
t
- ハ ル キ フ(
Char
k6W) 5人
- ミエ ドノ イ エ (
Ml
e血 o
」
e) 3人
- ピコプニアPykownl
a
)
6 1人
- コジェル スク収容所 か ら生還
1人
ヵテ ィン、ミエ トノイェ、ハル キフに続 き、新たに発覚 した埋葬場所O発掘 は され てい るがまだ墓地は建設 され
ていない。 ピコプニア(
By
k
o
wma
)
は ウクライナ ・キェ フ近郊 に位置す る。
8
-55-
対象者 の詳細 (
敬略称 )
[1】カテ ィン(
Kat
y血)
① マ リア ・シェ ミンスカ ・パペ シュ(
Ma
r
l
aSl
e
ml
hs
ka
Pa
pe
r
z
)
1
932年 2月 1
1日生 、モ ドリン(
Modl
l
n)
、戦争 勃発 当時 (
1
939年時点) 7歳 、
父親
ル ドグィク ・ナ ポ レオ ン ・シェ ミンスキ牡udwl
kNa
pol
e
onSl
e
ml
hs
kl
)
1897年 1月 31日生、クラク フ(
Kr
a
k6W)
、殺害 当時 43歳 、職 業
軍人 (
少佐 )
Ma
r
l
aPa
w壬
ows
ka
)
② マ リア ・パ ブ ウオプスカ(
1
930年 4月 1
0日生、スタニスワプ フ(
St
a
nl
S
壬
a
w6
W)
、戦争勃発 当時 9歳 、
父親
ヤ ン ・ザ レスキ(
J
a
nZa
l
e
s
kl
)
1
902年 1月 18日生まれ 、ザル ジェ(
Za
mdz
l
e
)
、殺害 当時 38歳 、職業 裁判官 (
陸軍 中佐 ・予備軍)
Ma
gda
l
e
naBz
ows
ka
)
③ マ グダ レナ ・プ ゾフスカ(
1
939年 7月 1
6日生、クラク フ(
Kr
a
k6W)
、戦争勃発 当時 15ケ月、
父親
イエ ジ ・プ ゾフスキ(
J
e
r
z
yBz
ows
kl
)
1
903年 7月 4 日生、カ リシ ュ(
Ka
l
l
S
Z
)
、殺害 当時 37歳 、職業
鉄道員 (
陸軍 中佐 ・予備軍)
【2】ミエ ドノイエ (
Mi
e
dno
j
e
)
④ ヴワジスワ ヴァ ・クシャノフスカ (
最初 の夫 の名字)、ル シン (
2番 目の夫 の名字)
(
W壬
ad
ys
壬
a
waKr
z
a
no
ws
ka[
最初 の夫 の名字]
、Rus
l
n[
2番 目の夫 の名字]
)
1
91
3年 8月 1日生、 シフ イエ ジ ョバ (
畠wl
e
r
Z
OWa
)
、戦争勃発 当時 26歳
夫
ユゼ フ ・クシャノフスキ(
J
6z
e
fKr
z
a
nows
kl
)
1
909年 3月 1日生、サ ンボル(
Sa
mbor
)
、殺害 当時 30歳 、職 業
-56-
技師 (
一般民の犠牲者)
⑤ ミハ リナ ・ビア ウェ ツカ(
MI
C
h
a
l
l
naBl
a
壬
e
c
ka
)
1
925年 9月 9日生 、 ス ウコ ピッェ(
Su
lko
wI
C
e
)
、戦争 勃発 当時 1
4歳
父親
ミハ ウ ・ヴワジ ス ワフ ・カ ニ ク(
MI
C
ha
壬W壬
a
d
ys
壬
a
wKa
nl
k)
1
8
9
5年 8月 1
6日生 、 リバ ジ ョピッェ(
恥 ba
r
z
o
wI
C
e
)
、殺 害 当時 4
5歳 、職 業 警 官
⑥ ヤ ドグィガ ・グジブ(
J
a
d
wl
gaGr
z
y
b)
1
926年 1月 6日生 、パル チ ンツェ伊a
l
c
z
y
hc
e
)
、戦争 勃発 当時 1
3歳
父親
ヤ クプ ・ク リマ (
J
a
k
u
bKl
l
ma
)
1
8
9
3年 7月 2日生 、ザ グジェ(
Za
g
6
r
z
e
)
、殺 害 当時 4
7歳 、職 業
警官 (
警 察署長 )
9
4
0年 4月 10日に、カテ ィン関係 の家族 とい うこ とで NXVD に逮捕 され 、4月 13日には北 カ
※1
ザ フス タン-移送 され た。
[
3】ハル キ フ(
Cha
r
k
6
W)
① ズ ビグニエ フ ・シェカ ンスキ(
zbl
g
nl
e
WSl
e
ka
hs
kl
)
※ ポー ラン ド南部 ク ラクフ ・カテ ィン遺族会代 表
1
9
3
7年 9月 7日生 、 ビ ドリン(
Byd
l
l
n)
、戦争 勃発 当時 2歳
父親
ロマ ン ・シェカ ンスキ(
Ro
ma
nSl
e
ka
hs
kl
)
1
9
0
7年 2月 6日生 、キエル ツェ(
Kl
e
l
c
e
)
、殺 害 当時 3
3歳 、職 業 教師 、校長 (
陸軍 中佐 ・予備 軍)
② ダヌー タ ・ベ ウ トフ スカ(
Da
n
u
t
aBe
祉o
ws
ka
)
1
927年 1
1月 1
6日生 、 スバ ウキ(
s
uwa
壬
kl
)
、戦争 勃発 当時 1
3歳
父親
レオ ン ・ヤ ン ・パ ンチ ャキエ ヴィ ッチ 牡e
o
nJ
a
nPa
nc
z
a
kl
e
WI
C
Z
)
1
8
9
7年 5月 1
6日生 、 ノ ビ イタル グPo
v
j
yTa
r
g)
、殺 害 当時 4
3歳 、職 業
-5
7-
将校 、騎 兵 隊少佐
③ ヤ ニーナ ・ソ リンスカ(
J
a
nl
naSol
l
hs
ka
)
1
932年 6月 1
3日生 、 ク ラクフ(
Kr
a
k6W)
、戦争 勃発 当時 7歳
父親
ア レクサ ン ドル ・フェ リックス ・コラ レフスキ(
Al
e
ks
a
nde
rFe
l
l
ksKor
a
l
e
ws
kl
)
1897年 1
1月 20日生 、 ワル シャ ワ(
Wa
r
s
z
a
wa
)
、殺 害 当時 43歳 、職 業
陸軍大佐
④ ハ ンナ ・マル スカ(
Ha
m aMa
r
s
ka
)
1
939年 8月 23日生 、 ワル シャ ワ (
Wa
r
s
z
a
wa)、戦争 勃発 当時生後 1週間
父親
ボ フダ ン ・ザ ク シェフスキPo
hda
nZa
kr
z
e
ws
kl
)
1
91
2年 6月 22日生 、 トウワ
ロシア(
Tu壬
a
)
、殺 害 当時 27歳 、職 業
鉄道員 、学生 (
陸軍 中佐 ・
予備 軍)
⑤ ヤ ニーナ ・ポ ッ ドグル チ ク(
J
a
nl
naPod
g6
r
c
z
yk)
1
929年 9月 1日生 、 ブ シェ ミシル 伊r
z
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l
)
、戦争 勃発 当時 1
0歳
父親
シモ ン ・ス コチ ラス(
Sz
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nSkoc
z
yl
a
s
)
189
4年 1
0月 27日生 、 ヴァ ドピッ ェ(
Wa
dowI
C
e
)
、殺 害 当時 46歳 、職 業
陸軍 中佐
[
4】ピコプニ ア(
Byko
wni
a)
① ゾフ イア ・チ ェシェル スカ(
zo
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i
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e
S
l
e
l
s
ka
)
1
931年 2月 1
1日生 、 ドゥロホ ピ ッチ(
Dr
o
hob
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z
)
、戦争 勃発 当時 8歳
父親
ヤ ン ・プ リ ドレ グィ ッチ(
J
a
nFr
ydl
e
wI
C
Z
)
1890年 3月 24日生 、 ス ター リーサ ンボル (
St
a
r
y Sa
mbor
)
、殺 害 当時年齢 不 明、職 業
法律 家 (
陸
軍 中佐 ・予備 軍)
※1
940年 4月 1
0日に、カテ ィン関係 の家族 とい うこ とで NXVD に逮捕 され 、4月 1
3日には北 カ
ザ フス タン-移送 され た。
-58-
[5】コジェル スタ収容所 か ら生遭
①ベルナデ タ ・シェグ ロフスカPe
ma
de
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aSz
e
gl
ows
ka
)
1
93
4年 5月 1
6日生、 ヴィ リニュス(
Wl
l
no)
、戦争勃発 当時 5歳
父親
スタニ スワフ ・シフ イアニエ ピッチ(
st
a
nl
S
壬
a
w Swl
a
nl
e
WI
C
Z
)
1899年 1
0月 26日生 、ダ ウガフ ピル ス
ラ トビアPyne
bur
g)
、1
940年 当時 41歳 、職 業
ヴィ リニ
ュスのステ フ ァン ・バ トリー大学教授 (
法律家 、経済学者 )
。
※1
940年 4月、仲 間たちがカテ ィン近 くの グニェズ ドグォ駅で列車 を降 り、車で移送 され てい く
中で、彼 だけが列車 に留 め られ処刑 を免れ た。彼 の研 究の専門が ドイツ との関係 において ソ連 に
とって役 に立つ とみ な され 、生 き残 ることができた と考 え られ てい る。 戦後 ロン ドンに留ま り、
その後 イ ン ドネ シア、アメ リカ、カナ ダで教鞭 を取 る。
3.イ ンタ ビューの全 内容
質問 3 :最後 に父親P
y夫 を見たのはいつかD
・カテ ィン
パペ シュ さん
戦争 が始ま る 1ケ月前 に父親 は徴兵 され 、家族 と別れ ることになった。戦争勃発
後 、父親側 のお じのいつ クラクフ-移 る。 当時 、 自分 は 7歳 、弟 は 5歳 だった。
パ ブ ウオプスカ さん
プ ゾフスカ さん
1
939年 8月 27日に父親 と別れ る。父親 は徴兵 され た。
戦争 が勃発 した時は、まだ 15ケ月だったか ら何 も覚 えていない。
・ミエ ドノイエ
クシャノフスカ さん
1
939年 8月 の終わ り。
939年 9月 9日、ザモ シチ近 くのヤヌフ(
J
a
n6
W)
で。
ビア ウェツカ さん 最後 に父親 と会 ったのは 1
ドイツ軍 の空襲 か ら東へ逃 げていた時で、その時 に父親 は これ以上遠 くに行 かず 引き返 す よ うに
家族 に言 った。
-5
9-
グジブ さん
1
939年 9月 1
7日の朝、父親 は警察署長 と して部 下 と一緒 に逮捕 され た。
・ ハル キフ
シェカ ンスキ さん
1
939年 当時 2歳 だったので覚 えていない。
ベ ウ トフスカ さん
1
939年 9月 3 日か ら 6 日の間に父親 は戦争へ行 った。
ソ リンスカ さん
マル スカ さん
1
939年 9月 1日か 2 日に父親 と別れ 、その後疎 開 した。
生まれ てまだ 2週 間程 だったので何 も覚 えていない。
ポ ッ ドグルチ ク さん
父親 は命令 を受 け、ボフニアか ら早 めに旅 立 って行 った。 自分 と母 と妹 も
ボ フニアを去 る。9月 4 日に トマ シ ョフ ・ルベル スキで、父親 が軍隊で移動 す るところを見かけ
た。 自分 た ちも ドイ ツの空襲 か ら逃 げる。9月 1
0日に父親 は トマ シ ョフ近 くの森 の中にいた家族
の ところへ来て、そ こで父親 と別れ を交わ し、伝令 が来たので父親 は命令 に従 いバ イクで去 って
行 った。 自分 たちは、父親 の同僚 の将校 と一緒 に逃 げ続 けた。9月 1
7日の時点 で東か らソ連 が攻
めてきたので、また来 た道 を戻 らな けれ ばな らなか った。 父親 はル ヴフ近郊 で ソ連軍の捕虜 にな
っていた。
・ピコプニア
チ ェシェル スカ さん
1
940年 4月 1
0日/
1
1日の夜 中に NKVD によって逮捕 され た。2日後 の 4月
1
3日には家族 も逮捕 され 、母 、兄 、姉 、 自分 も NKVD によって移送 され た。
・コジェル スク収容所 か ら生還
シェグロフスカ さん
1
939年 8月 28日か 29日。父親 が軍 隊に行 く時 に別れ を交わ した。
-60-
質問 4 :父親 4
4
4
'
夫 と通信 が途絶 えた の はいつ か。
・カテ ィン
パペ シュさん
1
939年 11月 に コジェル ス ク収容所 か らお じ宛 に手紙 が届 く。 家族 は ク ラクフに
い るお じの家絵 に身 を寄せ て い る と思 った か らで あ る。 手紙 の 中 には妻 や子供 た ちの こ とも書 か
れ ていた。当時 、収容所 にいた将校 は一人- 通 だ け、検 閲付 きで手紙 を書 くこ とが許 され ていた。
母 親 が返 事 を書 く。
パ ブ ウオプスカ さん
1
940年 2月 1
7日に コジェル スク収容所 か ら手紙 が届 く。
1
939年 1
2月頃 、母親 は コジェル スク収容所 か ら手紙 が届 いた。母 親 は返 事 を
プ ゾフスカ さん
書 いたが宛 先 不 明で戻 って きた。
・ミエ ドメイエ
ク シャ ノフスカ さん
1
940年 2月 頃 に ロシアの カー ドを受 け取 る。 唯一 の手紙。
ビア ウェツカ さん 唯一 の手紙 は、1
939年 1
2月 1日に投 函 され 、ロシア語 で住 所 書 かれ てい た。
中身 には 、父親 はオ ス タシュ コフの収容所 にい る と書 かれ ていた。 家族 がその手紙 を受 け取 った
のは 1
9
40年 1月 20日。 家族 へ の心配 も書 かれ ていた。
グジブさん
1
939年 11月 か 1
2月。オ ス タシュ コフ収容所 か らの唯一 の便 りには、家族 へ の心配
の他 に、暖 か い服 、 にん に く(
健康 のた め)
、50ル ー ブル を送 って欲 しい と書 かれ ていた。
・ハ/
レキ フ
シ ェカ ンスキ さん
父親 は 3通 の手紙 を出 していた。 それ らは ス タロ ビエル スク収容所 か らで、
そ こにい る とい うこ とがわか った。
ベ ウ トフスカ さん
1
9
40年 3月 21日に一度 だ け電報 が届 いた。 手紙 の内容 は 「自分 は健康 で大
丈夫 だ。」 と書 かれ ていた (
皆 同 じよ うに書 か され てい た)。
ソ リンスカ さん
1
940年 3月 22日の手紙 が最後 の父親 の知 らせ だ った。その前 は、1
939年 1
1月
29日、1
2月 24日、1
9
40年 2月 8日に届 いてい る。
-61-
マル スカ さん
1
940年 にスタロビエル スク収容所 か ら手紙 が届 く。
ポ ッ ドグルチ ク さん
1
940年 3月 1
7日にスタロビエル スク収容所 か ら電報 が届 く。父親 とその
友人のサイ ンがあった。電報 は ドイツ語 で書かれ てお り、友人宅 に届 け られ ていた。母親 は 4月
30日に返事 を出 したが宛先不明で戻 ってきた。
・ピコプニア
チ ェシェル スカ さん 父親 か らの便 りは全 くない。父親 の消息 を知 ったのは 1
991年 になって初 め
て。 1
9
40年 4月 1
3日の夜 に 5人の NKVD の役人が来 て、手 に持 て るだけの荷物 を用意 しろ と言
われ た。
・コジェル スク収容所 か ら生還
シェグロフスカ さん
コジェル スク収容所 か らの手紙 はない と言 ってい る。他 の書類等 はあるの
に コジェル スク収容所 か らの手紙 だ けはない。6 つ年上の姉 はただ覚 えていないだけ と言 ってい
る (
当時本人は 6歳 )
。母親 は夫 が コジェル スク収容所 にい るとい うことを知 っていた ヴィ リニュ
スか らはた くさんの人が逮捕 され 、収容所 に送 られ 、そ こか ら手紙 を出す ことが あった。 ヴィ リ
ニ ュスに届 いた手紙 を街 が届 け先 を探 し、その時 に名字 を見て、 自分 の父親 は コジェル スク収容
所 にい る とい うことが分 かった。父親 は誰 か知 り合 いに手紙 を送 った と思われ る。おそ らく、母
親 は子 どもの安全のために手紙 を隠 したのではないか と思 う (
子 どもは何 も知 らず にコジェル ス
ク とい う名 を 口に して しま う恐れ があったか らだ と考 え られ る)
。
質問 5 :いつ 、 どの よ うに して殺害 されたのを知 ったかO
・カテ ィン
パペ シュ さん
1
9
43年 4月、 ドイツ当局 によって発刊 され たポー ラン ド人向けの新聞に父親 の名
前 が載 っていた。
パ ブ ウオプスカ さん 1
943年 6月 、ドイ ツが発行 したル ヴフでの新聞に父親 の名前が載 っていた。
-6
2-
プ ゾフスカ さん
新 聞の犠牲者 リス トに名 前はなかった。 1
991年 になって初 めて知 った (
※1
9
43
年 4月 1
3日の ドイ ツによる事件 の発表 はカテ ィンのみ)
。
・ミエ ドノイエ
943年 のカテ ィンの公表 の際 に、自分 の夫 もカテ ィンで死 んだ と予測 した。
クシャノフスカ さん 1
確証 を得 るこ とはできなかった。
ビア ウェツカ さん
1
943年 のカテ ィンの公表 で父は も う生 きていない と悟 った。毎 日ゴル リッツ
ェの中央広場 でカテ ィンの犠牲者 の名前 を読み上 げる放送 を聞きに行 った。 1
990年 になってか ら
オ スタシュコフ収容所 の犠牲者 リス トで父の名 前 を見つ け、初 めて消息 を知 った。
グジブさん
1
940年 4月 1
3日に北カザ フスタン-移送 され る (
1
9
46年 の 5月 か 6月 に帰国)
。そ
こで母 は、オ ス タシュコフ収容所 の父宛 に手紙 を出すが、宛先不 明で返 って くる。兄がア ンデル
ス将軍の軍 に入 り、テ- ラン、パ レスチナ か ら兄は 「
ポー ラン ド政府 は消息不明の将校 たちを捜
索 してい る」 とい う手紙 を出す。 しか し、家族 の元へ は届 くことはなかった。 1
946年 にな ってや
つ と、 ロン ドンにいた兄は家族 を探 し当てた。兄 に よると、父の消息の情報 は何 もなか った。 し
か し、イギ リスでは 3つの収容所 にいた捕虜 たちに関す る議論 があった とい う兄か らの知 らせ に
て、父は も う生 きていない と予測 した。
・ハ/
レキフ
シェカ ンスキ さん
1
943年 のカテ ィンの発表 の際、父は も う生 きていない と予測 した。正式 に知
ったのは 1
990年。
ベ ウ トフスカ さん
カテ ィンはスタロビェル スク収容所 か ら離れ ていたので、生存の可能性 を信
じていた。 1
990年 まで 情報 が何 もなかったので、家族 はず っ と父 を探 し続 けた。
ソ リンスカ さん
1
9
43 年 の時点 で、 も う父は生 きていない と予測 した。正式 に知 ったのは 1
990
I
I
■
-
マルスカさん 1991年 なって初 めて父親 の消息 を知 った。
ポ ッ ドグルチ ク さん
1
9
43年 の時点で、家族 は父が生 きてい ると思 った。なぜ な ら、 ドイ ツが公
一63-
表 した犠 牲者 リス トに父親 の名前がなかったか ら。 しか し、長 い間父親 か らの連絡 はな く、徐 々
に望みは薄れ ていった。正式 に消息 を知 ったのは 1
991年 である。
・ピコプニア
チ ェシェル スカ さん
1
99
4年 になって初 めて、 ウクライナでのポー ラン ド人犠 牲者 リス トにて父
親 の名前 を見つ けた。
・コジェル スク収容所 か ら生還
質問 5 :どの よ うに して父が生 きてい ることを知 ったか。
シェグ ロフスカ さん
1
9
41年 4 月 に ソ連 の収容所 よ り知 らせ が届 く。 (
Us
t
Wyms
kl
C
hLa
g
r
6w
Re
pu
bl
l
kaKo
mlWZSRR ロシア連邦 中北部 にあるコ ミ共和国の収容所) 1
9
43年 にテヘ ランの国
際赤十字か ら小包 が届 き、父親 が西側 の国にい ることを知 る。
質問 6 :戦 中 どこに住 んでいたかD そ して父親 の連行 に よって、家族 への抑圧 があったか (
危機
に さらきれたか)O
・カテ ィン
パペ シュさん
クラクフ。子 どもだ ったた め特 に恐怖 を感 じるこ とはなかった。 クラクフは当時
ドイツの支配 下だったため、 ソ連 に対 してではな く ドイツに怖 さを感 じていた。 戦争 中、地下組
織 の中での中学校 に通 った。
パ ブ ウオプスカ さん
ズ ウオチ ュフ。1
9
40年 6月 には ソ連 軍 による逮捕 、シベ リア移送 を避 ける
Bo
r
ys
壬
a
w)
へ移 った。そ こもソ連支配 下であ り、抑圧 を恐れ 、不法滞在 なが らひ
た めにボ リス ワフ(
っそ りと暮 ら していた。1
9
41年 6月の独 ソ戦勃発 によ りボ リスワフは ドイツの支配 下に入 った。
家族 が一番恐れ ていたのは ソ連 当局 による逮捕 だった。なぜ な らカテ ィン関係 の家族 は 1
9
40年 2
月頃か らシベ リア-移送 され てい るのを知 っていたか ら。
プ ゾフスカ さん
クラクフ。 ドイツに対 して恐れ を抱 いていた。 カテ ィンに関 しては特 に何 も話
-6
4-
され ていなか った。
・ミエ ドノイエ
クシャノフスカ さん
ジェシ ョフ。夫 が捕虜 となってか ら帰 って こない ことに不安 を感 じた。 ド
イ ツに恐れ を抱 いていた。
ビア ウェツカ さん
ゴル リッツェ。 ドイツの抑圧 を恐れ ていた。 戦時 中、二度 ドイツ当局 によっ
て逮捕 され たが、当時 の恩師の機 転 によ り強制 労働 収容所 への移送 は免れ た。
グジブ さん
カザ フス タン。 も うすでにカザ フスタンに移送 され た とい う恐怖 を味 わった。
・ハル キブ
シェカ ンスキ さん
クラクフ。 ドイツを恐れ ていたの と同時 に、NKVD によってシベ リアや カザ
フスタンに送 られ るこ とにも恐怖 を感 じていた。
ベ ウ トフスカ さん
9
41年 か らノ ヴィタル グ。静 かで安定 した生活 を送 るために、
ワル シャ ワ。1
ワル シャ ワか ら父親 の家族 のい るノ ヴィタル グ-移 った。 も しそのまま ワル シャ ワに残 っていた
ら、兄 をワル シャワ蜂起で失 っていたか も しれ ない。
ソ リンスカ さん
1
9
39年 ボフニア。1
9
43年 か らソク ウカ(
so
k6
ka ビア ウイス トック近 く)。1
9
48
年 か らワル シャ ワ。 父親 の情報 が全 くなか ったので、特 に恐れ はなかった。最初 は父親 が捕虜 に
な ってい るとは知 らなかった。1
9
43年 まで父親 の身 に何 が起 きたのか分 か らなかった。1
9
43年 に
は も う父は戻 って こない と思 った。戦争 中、 占領 、食料不足 に不安だった。
マル スカ さん
母親 は ワル シャワ。子 どもたちは祖 父のい るクラクフ ・プ ワシ ョフ地区 に住 んで
いた。 ドイツに対 して恐怖 を感 じていた。
ポ ッ ドグルチ ク さん
ボフニア。 まだ子 どもだったため ドイツ占領 にお ける恐怖 はなか った。 父
親 について も大丈夫 だ と思 っていた。 なぜ な ら捕虜 は丁重 に扱 われ ると思 っていたか ら。
-6
5-
・ピコプニア
チ ェシェル スカ さん 戦争勃発 当時はル ヴフ。1
940年 に家族 は ドゥロホ ピッチ ュP r
ohobyc
z
)
へ移
った。家族 は北 カザ フス タン(
Kus
t
a
na
J
S
klObw6d)
移送 され た こ とによって、死 の恐怖 を感 じた。
NKVD の役人は 「も うポー ラン ドには帰れ ない。 ポー ラン ドは消滅 した。お前たちは ここで死ぬ
のだ。」 と言 って きた。家族 は 、6年後 の 1
946年 5月 に帰国できた。 兄はア ンデル スの軍 に入 る
がモ ンテカジー ノで戦死 した。
・コジェル スク収容所 か ら生還
シェグロフスカ さん
ヴィ リニュス。 ソ連軍の侵攻 によ り、NKVD によって逮捕 され ない よ うに
9月 1
9日か らヴィ リニュスの中で住所 を変 えた。
質問 7 :共産主義時代 の間、調査 を試 みたか. それ に対す る政府 の圧力があったかD
・カテ ィン
パペ シュ さん
死亡証 明書の変更 を願 い出た (
1
945年 5月 9 日に戦争 で死んだ とされ ていた)
。
生活費 も求 めた。結 果は変わ らず。 1
988年 か ら個人的 に行動 できるよ うにな り、再度 、証 明書 に
「
1
940年 4月 30 日死亡」 との記載 を求 めた。沈黙 を保つ ことが身の安全 には不可欠 だ った。仕
事場 では、 自分 の父親 がカテ ィンで亡 くな った ことを知 られ ていたが、幸い誰 も外部 に漏 らさな
か ったお か げで安全だ った。公共 の場以外 では話 され ていた。公 安局 C
L
J
BUr
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卑
dBe
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C
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hs
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wa
)
は、反 共産主義的 な活動 を していないか絶 えず見張っていた。2人のい とこは UB によって一時拘
束 され ていた ことがあ る。
パ ブ ウオプスカ さん
父親 について隠 さな けれ ばぼ らなか った。沈黙 を保 った。母親 は仕事 を失
うことを恐れ た。娘は大学 に行 くことができなかった。
プ ゾフスカ さん
国際赤十字 に捜索 を依頼。結果は得 られ ず。正式な死 亡証 明書 を受 け取 ってい
たので、(
カテ ィンで殺害 され た とは思 っていなかった)特 に行動 を起 こ していない。カテ ィンに
つ いて、内輪 では話 され ていたが深 く理解 していなかった。抑圧 も特 になかった。
-66-
・ミエ ドノイエ
クシャノフスカ さん
ポー ラン ド赤十字 に調査依頼。沈黙 を保 てば、安全だった。
息子 の- ン リク ・クシャノフスキ さんは、アメ リカの政治学 ・国際関係 学者 で あるヤヌ シュ ・K ・
za
wodny,[
1
962]
) を地 下出版 で読む機会 があった。
ザ ヴォ ドニー の文献 (
ビア ウェツカ さん
1
945年以降 に家族 は独 自で調査 し始 めた。国際赤十字 に依頼 したが結果は得
られず。1
947年 4月 24 日にモ スクワのポー ラン ド大使館へ も願 い出た ところ 、1
947年 7月 1
6日
に大使館 よ り 「ミハ ウ ・カニクは解放 され 引 き揚 げた」とい う答 えが返 ってきた。これ によって、
家族 は父が生 きてい る と信 じた。
共産主義時代 はカテ ィンにつ いて話せ なか った。 ク ラクフのヤ ギェ ウオ大学 に入 り、そ こに教授
た ちにカテ ィンについて話すべ きでない と言 われ る。理解 のある教授 に恵 まれ た。
グジブ さん
何 か行動 を起 こす ことが怖 か った。父 がカテ ィンの森事件 で、そ して 自分 がカザ フ
ス タンにいた ことは決 して 口外 しなかった。沈黙 を保 てば、何 も抑圧 はなか った。 1
957年 に母 が
兄 のい るイギ リス-行 き、そ こでカテ ィンの詳細や 、他 の 2つの収容所 について も詳 しく知 った。
・ハ/
レキブ
シェカ ンスキ さん
絶 えず父 を探す努力 を していたが、事実 を明 らかにす ることは難 しく、共産
主義下では何 も言 わなけれ ば何 も抑圧 はなかった。沈黙が生 きてい くた めの最善 の方法 だった。
学校 、職場 では密告 を恐れ一切 口に しなかった。
ベ ウ トフスカ さん
ポー ラン ド赤十字、モ スクワ、 スイス- も文 書 を送 ったが何 も確 かな答 えは
得 られず。返事 には 「
その よ うな人物 は ソ連 にはいない」 と書かれ ていた。 カテ ィンについて何
も話 さない ことが安全だ と分 かっていた。 父親 の こ とを聞かれ た ら、戦争 で死んだ とだ け言 って
いた。
ソ リンスカ さん
ソ連 の赤十字 に文 書 を送 った。返 事 には 「
その よ うな人物 は ソ連 にはいない」
と書かれ ていた。母親 は 1年 半の間仕事 を得 ることができなかった。本人 と姉 は大学教育 を受 け
ることができなかった。 ワル シャワの よ うな大都市 に住 んでいたか ら。 全て、父親 の関係 だ と悟
った。
-67-
マル スカ さん
学校 で歴史 を教 えていたが、生徒 にカテ ィンの事実 を言 うことができなかった。
特 に危険 に さ らされ ることはなか った。
ポ ッ ドグルチ ク さん
1
9
43年 、1
957年 、1
9
59年 に国際赤十字 に文書 を出すが、返事 には 「
その
よ うな人物 は ソ連 にはいない」 と書 かれ ていた。本 人 と妹 は大学教育 を受 けるこ とがで きなか っ
た。 しか し、本 人は シロンスク地方 で高等 教育 を受 けるこ とがで きた。母親 は父親 がス タロビエ
ル スク収容所 の捕虜 だ と認 めていなかったので、そのおか げで未 亡人 と してのお金 をも らうこ と
ができた。沈 黙が安全 につなが る と分 かっていた。
・ピコプニア
チ ェシェル スカ さん
家族 は何 もで きなか った。 カザ フス タン-送 られ たが、奇跡的 に生 き残 る
こ とがで きたか ら。 またシベ リア-移送 され るのではないか といつ も恐怖 を抱 いていた。家族 は
共産主義時代 には階級 の敵 とされ 、そのた め姉 は大学教育 を受 け ることが難 しか った。 日々の生
活 も厳 しく、いつ も公 安局 に見張 られ ていた。 自分 は周 りの人の助 けを借 りて大学で勉 強す るこ
とができた。 カテ ィンの森事件 について何 も話す ことができなかった。1
99
4年 まで、父親 がそれ
に関わっていた とは知 らなかった。母親 は、家の外 で シベ リアにいた ことを話 さぬ よ う注意 した。
母親 は赤十字 に捜索 を願 い出たが結果は得 られ なかった。
・コジェル スク収容所 か ら生遣
シェグロフスカ さん
抑圧 され た理 由 と して、父親 は戦後 イギ リスに留 まっていた こと、母親 が
カ トリックに信仰深 かったので、共産党 には入 らなかった ことが挙 げ られ る。姉 は 自分 のキャ リ
ア とは関係 ない仕事 に就 か され た。 自分 自身 も共産 党関係 には関わ らなかった。 高校卒業試験 の
現代社会 の科 目で一番低 い成績 を取 らされ た (
他 の成績 はほ とん ど高かったの にかかわ らず)
。家
の 中ででは、いつ も反共産主義的な雰囲気 が漂 っていた。1
95
7年 になって、母親 はパ スポー トを
SB Shl
Z
baBe
z
pl
e
C
Z
e
hs
t
wa-秘密
得 て、父親 の所へ行 くことができた。共産主義時代 はいつ も sB(
警 察)
に見張 られ ていた (
父親 がイ ギ リスにいたた め、 スパ イか ど うか監視 され ていた)
。母親 の
心配事は、父親 がカテ ィンか ら生 き残 り、イギ リスでは名 の知れ た研 究者 であった ことか ら、秘
-68-
密警察か ら何 か しらの抑圧 を受 け るのではないか とい うこ とだった。
質問 8a:1989年 の体制転換後 、真相究明に向けて状況 が どの よ うに変化 したか。
・カテ ィン
988年 にクラクフで最初 のカテ ィン追悼
パペ シュ さん 1943年 の時点か ら事実 は分 かっていた。1
石碑 が置かれ る。教会 も沈黙 を保 たなかった。
パ ブ ウオプスカ さん
公式 にカテ ィンの犯罪 が ソ連 によって認 め られ 、テ レビ、 ラジオ 、新聞で
も取 り上 げ られ るよ うにな り、本 も出版 され た。遺族会 も設立 され 、カテ ィン-行 けるよ うにな
った (
ハル キフ、 ミエ ドノイエの情報 はまだない)
。1
98
9年 8月 にアダム ・マ ツェ ドンスキ9が当
時非合法では あるがカテ ィン-赴 く (
最初 の訪 カテ ィン)
。
プ ゾフスカ さん 公 の場 で話せ るよ うになった。 1
989年 までは個人 同士の会話 で も慎重 だったか
■
-
・ミエ ドノイエ
クシャノフスカ さん
大 きな変化 が あった。 カテ ィンだけではな く、ハル キフ、 ミエ ドノイエ に
関 して も明 らかになっていった。
ビア ウェツカ さん 50年 間沈黙 を保 っていたカテ ィンを 口にで きるよ うにな った。1986年 か ら遺
族会 の試みが始まった。 自分 たちは次世代 に事件 を伝 えていかなけれ ばな らない と悟 った。
グジブさん
1
989年 になって遺族会 が設立 され てか ら、父 に関す る証 明書、名 前が載 ってい る リ
ス トを得 た。
9
ァダム ・マツェトンスキ(
Ad
a
mMa
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o
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)
,1
9
31年 -,ポーラント南部クラクフ・カティン遺族会の設立者のう
ちの一人。
-69-
・ハル キフ
シェカ ンスキ さん 全 てではないが、徐 々に事実の解 明を求 めることができるよ うになった。1989
年 に遺族会 も設立 され る。事件 の詳細 も明るみ に出てきた。
ベ ウ トフスカ さん
1
991年 にエ リツ ィン大統領 が資料 を公 開 した こ とで、家族 はハル キフの こと
を知 るこ とがで きた。未 だに父親 がいつ殺 され たか、いつ スタロ ビエル スク収容所 を出たかな ど
分 かっていない。 リス トで父がス タロビェル スク収容所 にいた ことが分 か る。 1
940年 に届 いた手
紙 の送 り先 と場所 が一致 した。
ソ リンスカ さん
990年以降 になってス タロビエル スク収容所 の捕虜
家族 の願 いにかかわ らず 、 1
た ちも殺害 され た とい うことが分 か る。
マルスカさん
1
98
9年 以降、カテ ィンの森事件 を 口にでき るよ うになった。遺族会 に入 った。
ポ ッ ドグルチ ク さん 1989年以降 、全てを話す ことができるよ うになった。1
990年代 に遺族会 の
委員 にな り、 1
991年 7月 1
0日にハル キフ-赴 き埋葬式 に出席 した。
・ピコプニア
チ ェシェル スカ さん =1989年以降 に、シベ リア抑留経験者会 を設立 した。社会は、カテ ィン、シ
ベ リア移送 についてあま り知 らず、あま り興 味 さえ示 さない よ うになってい る。 1980年 に連帯が
出てきてか ら、徐 々にカテ ィンの森事件 、シベ リアについて話せ るよ うになった。 自分 は 1
98
0年
年代 に大学 にて講義 を し、学生たち と議論 し合 った。 1989年以降 になって、遺族会 が存在 できる
よ うになった。
・コジェル スク収容所 か ら生還
シェグロフスカ さん
最後 の質問 と合 わせ て。
-70-
質問 8b:1989年 の体制転換後 、真相究明 に向けて 自ら何 か行動 を起 こ したか。
・カテ ィン
パペ シュ さん
1
988 年 までは何 もできなかった。連帯ができてか ら行動 を起 こす よ うになった。
Se
J
m ポー ラン ド共和国下院)とセナ ト (
se
na
t
最初 は死亡証 明書の変更 を求 める。2006年 には (
ポー ラン ド共和国上院)に 4月 1
3日をカテ ィン追悼 の 目にす るよ う文書 を提 出10。(
すでにテ レビ
番組 では 2000年 にこの 日はカテ ィンの 日で あると放送 され ていた。
パ ブ ウオプスカ さん
ヨー ロ ッパ 内の国際赤十字 に文書 を送 るが、結果 は得 られ ず。 ソ連 は常 に
「
その場所 には誰 もいなかった」 と偽 っていた。
プ ゾフスカ さん
家族 が書類 を紛 失 して しまったので、何 もできなかった。
・ミエ ドメイエ
ククシャノフスカ さん
1
989年 間では何 もできなかった。夫 の名 前は ミエ ドノイエの リス トに載
っていた。彼 の弟 の一緒 にいたか も しれ ないが、未 だに消息が分 か らない。
ビア ウェツカ さん
2003年 までク ラクフのカテ ィン遺族会 に関す る文 献全ての出版 に携 わった。
自分 も文献 を書いた。資料収 集 をす ると共 に、1
995年 になって初 めてカテ ィンの森事件 の年表 を
作 ることがで きた。
グジブ さん
1
957年 に母 が兄 のい るイギ リス-行 き、1
970年代 に帰国 した。イギ リスで得 たカテ
ィンに関す る資料 をポー ラン ド-持 ち帰 ろ うと したが、兄 に止 め られ る。当時 は荷物検査があ り、
資料 が見つか り逮捕 され ることを案 じたか ら。 1989年以降、裁判所 に訴 えを起 こ したが、裁判官
は提 出書類 が不十分 で あるとの理 由で、父の詳細 を証 明す る文書の発行 を拒否 した。
・ハ/
レキフ
シェカ ンスキ さん
1
98
0年代 に 2度 ロン ドン-赴 く。西側 で出版 され てい るカテ ィンの森事件 の
文 献 を読むた め。妻 の家族 が ロン ドンに住 んでい る。
02
0
0
7年 1
1月 1
4日にセイムで、4月 1
3日をカティンの森事件犠牲者追悼の日とする決議が可決されている。
1
-71-
ベ ウ トフスカ さん 1
989年 まで国際赤十字 に文書 を出 し続 ける。1
989年 9月頃 に合法ではないが
カテ ィン-赴 く (
当時ハル キフはまだ発 見 され ていない)
。その旅行 でオ スタシュコフ収容所 か ら
生還 した人 と知 り合 い、彼 か ら収容所 の様子 な ど情報 を得 ることができた。地下出版 でユゼ フ ・
チ ャブスキの本 を読む機会 があった。
ソ リンスカ さん
個人 で何 か行動 を起 こす のは難 しい と思 っていた。遺族会 、カテ ィンの森 事件
に関す る組織 が進 めていって くれ ることを期待 していた。
マル スカ さん
1
98
9年 以降 になって真相解 明に向けて遺族会 に入 った。
ポ ッ ドグルチ ク さん 1989年以降 、全てを話す ことができるよ うになった。1
990年代 に遺族会 の
委員 にな り、 1
991年 7月 1
0日にハル キフ-赴 き埋葬式 に出席 した。
・ピコプニア
チ ェシェル スカ さん 文献 を書 き、資料 を集 めた。母親 は死ぬまで、ほ とん ど何 も語 らなかった。
・コジェル スク収容所 か ら生遣
シェグロフスカ さん
特 に何 も していない。
質問 9 :遺族会 の活動。
・カテ ィン
パペ シュ さん
遺族会会員。遺族 の人の声 を集 める。5年前か ら通い出 した。
パ ブ ウオプスカ さん
プ ゾフスカ さん
設 立 当時か らの遺族会会員。
カテ ィン遺族会連盟(
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」
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kl
C
h)
の会員 で もある。
・ミエ ドノイエ
クシャノフスカ さん
ビア ウェツカ さん
遺族会会員。
遺族会会員。設立 当初 の運 営委員。
-72-
グ ジブ さん
遺族会会 員。 シベ リア抑 留者 の会 の会員。
・ハル キ フ
シ ェカ ンスキ さん
ポー ラン ド南部 ク ラクフ、 カテ ィン遺 族会会長。
ベ ウ トフスカ さん
遺 族会運 営委員。
ソ リンスカ さん
マル スカ さん
遺族 会会員 (
ワル シャ ワ)。4年 間 ワル シ ャ ワのカテ ィン博物館 で勤務 した。
遺族会 会員。
ポ ッ ドグル チ ク さん
遺 族会秘 書 を務 めた。
・ピコプニ ア
チ ェシェル スカ さん
シベ リア抑 留者 の会 の副会長。 カテ ィン遺族会会 員。
・コジェル ス ク収 容所 か ら生還
シ ェグ ロフスカ さん
遺 族会会員 。
質 問 10 :カテ ィンの森 事件 に関 して現在 抱 え る問題 。
・カテ ィン
パペ シ ュ さん
ロシア はカテ ィンの森 事件 を戦争 犯罪 だ と認 め るべ き。 ロシアが罪 を認 め、国際
的 な法廷 で裁 かれ 、そ して世界 へ公表 す るべ きだ。
パ ブ ウオ プスカ さん
ロシア は事件 の資料 を全 て公 表 す るべ き、 そ して カテ ィンの森 事件 (
国際
刑 事裁判所規 定 に よる1
1
)を 「
戦争 犯罪 に関す る罪 」
プ ゾフスカ さん
とされ るべ きだ。
12
カテ ィンの森 事件 にお い て、ポー ラン ドとロシア との 関係 の問題 はま だ終 わ っ
▲
▲国際刑事裁判所(
I
CC I
nt
e
ma
t
l
O
na
lCnmna
lCo
u叫国際社会における最も重大な犯罪に対する常設の国際司法機
99
8年 7月に国際連合全権外交使節会議において採択された国際刑事裁判所ローマ規程(
I
CC規程)
に基づき、
関0 1
2003年 3月にオランダのハーグに設置されるOここで言 う最も重大な犯罪 とは、主に 「
集団殺害犯罪 (
ジェノサ
イ ト罪)
」、「
人道に対する犯罪」、「
戦争犯罪」である。
12 「
戦争犯罪」 他国に対 して侵略戦争を仕掛けた り、敵兵 ・捕虜に対 して非人道的な扱いをすることOまた、民
間人に対 しての殺零巨
、追放、逮捕なとも含まれる0
-73-
ていない。 ワル シャワのカテ ィン博物館 13を もっ と充実 させ るべ きだ。
・ミエ ドノイエ
クシャノフスカ さん
グジブ さん
回答 な し。 最初 の夫 につ いてはあま り話せ ない。
ロシアは これ までカテ ィンの森事件 を明 らか にせず 、 自らの犯行 さえも認 めなか っ
た。 さらに現在 もカテ ィンをジェ ノサイ ドだ と認 めていない。
ビア ウェツカ さん
最後 の質問 と合 わせ て。
・′
、′
レキ I
J
シェカ ンスキ さん
現在 まだ十分 に明 らか に され ていない、西 ウクライナの ピコプニア、ベ ラル
ー シの ミンスク付近の クロパテ ィに埋葬 され てい る約 7500人の調 査 を早急 にす るべ き。すでに発
掘 され てい る 3つ の現場 (
カテ ィン、 ミエ ドノイエ 、ハル キフ) と同様 の手段 でポー ラン ド人が
殺 害 され埋 め られ てい る。 ピコプニアの リス トはす でに入 手 してい るが、クロパ テ ィの分 はまだ
ない。 そ してその 2ヶ所 に墓地 を早急 に建設すべ き。すなわち、まだ明 らか に され ていない場所
も含み、虐殺 にお け る全真相 の解 明 を要求す る。現代 のポー ラン ド社会 では、カテ ィンの森 事件
がそれ ほ ど深 く浸透 していないので、歴史 の風化 を避 けるために次世代 に伝 えてい くこ とが必 要
だ。
ベ ウ トフスカ さん
ロシア側 か らの情報 がな さす ぎ る。全資料 の公 開、殺害 日等 の具体的な情報
が欲 しい。 カテ ィンの森 事件 を 「ジェノサイ ドに関す る罪 」
ソ リンスカ さん
マル スカ さん
と認定 され るべ き。
1
4
事件 の全真相解 明。遺族会 の 中で も意 見の食 い違 いが生 じてい る。
答 えるのが難 しいが、一番 重要な こ とは事実 を明 らかにす ること。 ポー ラン ド社
会 では賠償 を求 めるべ きだ と言 われ てい るが、私 たちはそれ を期待 してい るわけではない。
ポ ッ ドグルチ ク さん
ハル キフは今 日ウク ライナ に位 置 してい るが、 ウクライナ で も共産主義者
▲
jヮルシャワの軍事博物館の中にカティン博物館が設置されているoMuzeu
m Ka
叫
Wa
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Po
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ka1
3,
02
0
90
,
「
集団殺害犯罪(
ジェノサイ ト罪)
」 国際刑事裁判所が管轄する対象犯罪のうちの一つ。国民的、人種的、民族的
または宗教的集団を、全部または一部は破壊する意図を持って行われる一定の行為。例 ナチスによるユダヤ人
99
0年の旧ユーゴスラビアにおける民族浄化製作の施行、ルワンダにおける部族間の虐殺0
迫害、1
1
4
-7
4-
が犯罪 を起 こ した と人 々が認識す ることが簡単ではな くな ってい る。人 々は今まで、 自 らの考 え
を変 えよ うとす ることに恐怖感 を抱 いていた。 今後 の行方 について、全 ては ロシア次第であ る。
・ピコプニア
チ ェシェル スカ さん
最 も重要なのは、事件 を風化 させず次世代 へ伝 えてい くこ とであ る。賠償
ではな く、ただ真実だ けを知 りたい。 カテ ィンの森事件 、そ して 1
50万人 ものポー ラン ド人の ソ
連 への移送 に関す る事実 を明 らか に し、資料 を公 開すべ きである。
・コジェル スク収容所 か ら生還
シェグロフスカ さん
最後 の質問 と合 わせ て。
質問 11 :ポー ラン ド、 ロシアに対す る率直な気持 ちQ
・カテ ィン
パペ シュさん
ポー ラン ド政府 はカテ ィンの森事件 に関 してまだ大 した行動 を起 こ していない。
一般 のポー ラン ド人 とロシア人は和解 してい ると思 うが、 ロシア政府 はポー ラン ドに嫌悪感 を表
してい る。 しか し、ア ンジェイ ・ヴァイダ監督 の映画 『カテ ィンの森』 を見 ると、 ロシア人はた
ま にはポー ラン ド人 を助 け、礼儀 正 しい態度 を取 ってい る。
パ ブ ウオプスカ さん
現在 ポー ラン ドは ロシアに恐怖心 を抱 いてい る。 ロシアは資料 の一部 を公
開 したが、今では再び打 ち切 ってお り、未 だ全ての資料 を公 開 しよ うとは しない。 ポー ラン ドの
地理的な立場 、つま りヨー ロ ッパ での政治的、地理 的な状況 にお いて、ポー ラン ドとロシアの関
係 は良好 であ るべ きだ。ポー ラン ドには 18世紀以来、歴史的背 景 にお けるロシア-の偏 見がある。
プ ゾフスカ さん
ポー ラン ドは絶 えず ロシア よ り弱 い立場 に立た され てい る。 2 国間 にお け る歴
史的事実 の確立 は必須 だ。 隣国関係 において、他 の問題 に関 して も、ポー ラン ドはいつ も弱い。
国境 を按す る国同士では従属 にお ける問題 がいつ も生 じてい る。
-75-
・ミエ ドノイエ
クシャノフスカ さん
ロシア に対 して、特 にボル シェ ビキ-の嫌悪感 が ある。以 下、息子- ン リ
ク ・クシャノフスキ さんの意 見
現在 、ポー ラン ドはあま り行動 を起 こ していない。 なぜ な ら自
ら行動 を起 こす ことに対 して恐怖心 があるか らだ。 ロシアは民主主義 に欠 けてい る。現在 、ポー
ラン ドとロシアはオー プ ンに話 し合 いができる状態ではない。 ロシアはいつ も真実 を言 わない。
グジブ さん
一般 の ロシア人 は貧 しい。 自分 は今現在 もロシア人 を恐れ てい る。 いつ もロシアは
国家体制 に脅か され てお り、未 だに ロシア社会 は貧 困状態 だ。 自分 はポー ラン ドが共産 主義か ら
解放 され 、 自由な国になって嬉 しい。
ビア ウェツカ さん
ポー ラン ド社会 は、 ゴルバチ ョフ大統領 とエ リツ ィン大統領 の表 明に敬意 を
表 し高 く評価 した。 さらに、虐殺 に関わった当時の人 々の名前の一部や機 関を公表 した ことに対
して も評価 してい る。 カテ ィンの森 事件 は、未 だ道徳的 に も法的 にも清算 され ていない ことを残
念 に感 じる。唯一の試み と して、ニ ュル ンベル グ裁判 の場 があったが、何 の解決 にも至 らなか っ
た。 これ は ソ連 の過 ちだけではな く、連合 国の過 ちで もあった と言 える。私 そ して私 の同胞 は、
決 して ロシアに抑留 され た同胞 たちの ことを忘れ は しない。 ポー ラン ド人はカテ ィンで虐殺 され
ただけではな く、カザ フスタン、 ウズベ キスタン、 シベ リアや他 の地で も命 を落 と してい る。未
だ にその跡 がない ところもあ る。西 ヨー ロ ッパや ア メ リカの人 々は この ことを知 らない。人は、
カテ ィンの森事件 は他 の事件 と同様 に国家 のテ ロ リズムの犯罪 だ と言 うことがで きる。 どの国家
も 自国の歴史か ら目を逸 らしてはな らな く、偽 りに よって 自国の伝統 を築いてはな らない。 だか
ら、絶 えず帝国主義 の視点か ら統治 してい るロシアは、今後 にお いて もスター リン主義 の視点 を
賢 く排除 してい くだ ろ う。 ポー ラン ド人は第二次世界大戦 での闘 いにお いて ソ連 軍の勇敢 さを正
しく評価 しない とい うわけではない。 ロシアはカテ ィンとい う犯罪や事実の解 明 に向けて道徳 的
な評価 を下 し、それ を認 めるべ きだ と思 う。世界 は本 当の共産主義の犯罪 の歴史 を知 るべ きで あ
る。 ポー ラン ド人は、その共産主義 の犯罪 の公式な全事実解 明を期待す る権利 が あ り、それ を待
ち望んでい る。また、その犠牲者 の家族 にも道徳的な権利 がある。ここか らポー ラン ドに対 して、
ポー ラン ド人捕虜や犠牲者 の個人情報 に関す る文書 を求 め るので ある。 ポー ラン ド人 には、 この
-76-
事件 をス トラスプール の国際裁判1
5
で告発す る権利 があ るのだ。ロシア人、かつての ソ連人 は、今
は打 ち切 ってい るが、カテ ィンの森 事件解 明の終結 に向けてポー ラン ド人 と共 に努力 してい くべ
きだ。 カテ ィンはただの戦争 犯罪 ではな く、人道 そ してジェノサ イ ドに対す る犯罪 とい う世界 の
意 見 も得 てい る。 ポー ラン ドとロシア 、2 国間の友好 関係 を可能 にす るための道 を探す必要が あ
る。公正 さにお ける許 しや対話 での必要条件 を忘れ てはな らない。 自分 に とってカテ ィンの森事
件 は、いつ も良心 に関わ る問題 と して心 に残 ってい る。ぺ シュコフスキ神父1
6
は次の よ うに述べて
い る。 「
カテ ィンの真実 は全人類 の中にある。」 自分 は、遺族会 が ソ連 の抑圧 に対す る犠 牲者 にお
け る史実調査 、その史実 を広 めよ うと してい ることを高 く評価す る。
・ハル キブ
シェカ ンスキ さん
ポー ラン ドは ロシア との関係 を改善 してい くべ きだ。 ロシアは最後 まで事実
の解 明をす るべ きであ る。 そ して、犠牲者 の追悼 を続 けてい く。
ベ ウ トフスカ さん
ポー ラン ド人は、発掘 作業 、3 か所 の墓地の建設 な ど今までた くさんの こ と
を してきた。ロシアは何 も していない。全 く無実の者 たちに(ドイツ)
に罪 を被せ るのは然 るべ き事
でない。 スター リンはた くさんの ロシア人 を殺害 したが、ポー ラン ド人犠牲者 の方 が少 ない とい
うロシアの議論 は道徳的ではない。 一度 、 ロシアは犯行 を認 めたが、今 ではカテ ィンの森事件 は
戦争 で起 きた こ とであ り、 も う過 ぎた ことだ と述べ てい るのが理解 し難 い。 国際裁判 に持 ち込み
たい。
ソ リンスカ さん
カテ ィンの森事件 を二国間の対立 に持 ち込む には、 ロシアは強大す ぎ る。 ポー
ラン ドは真相解 明に向けて行動 もで きない。戦争 、 占領 は も うた くさんだ。今後 も追悼 を続 けて
い くべ きだ。 ポー ラン ド国内では、国の権 力者 同士 で対立 が起 きてい るため、カテ ィンの森 事件
に関 しては何 の進展 もない。遺族会 はいずれ 国際裁判へ持 ち込 も うと してい る。 自分 は ロシア に
友好 を示 す ことがで きない。 なぜ な らロシアはカテ ィンの森事件 をも う過 ぎて しまった ことと述
▲
⊃欧州人権裁判所(
Eur
o
ea
p
n Co
ur
tofHu
ma
n Rl
g
ht
) 1
95
9年にフランスのス トラスプールに設置されるO対象は欧
州評議会加盟国である。国家間の紛争を扱 う国際連合の国際司法裁判所とは異なり、国家対国家だけではなく、
個人や団体の国家に対する提訴も受け付けている。
16 ズジスワフ ・
ぺシュコフスキ神父(
ksZd
z
I
S
I
a
wPe
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z
ko
ws
kl
)
,1
91
8年 8月 2
3 日生-2
00
7年 1
0月 7日0 1939年 1
0
月からコジェルスク収容所で過こし、虐殺を免れ奇跡的に生還 した。
-77-
べ てい るか らだ。
マル スカ さん
墓地へ行 けるよ うになったのは よか ったが、事実 が全て明 らかに され ていない以
上 、カテ ィンの森事件 はまだ終わっていない。 ロシアはポー ラン ドの政 治 に意 見 を し、いつ も反
発 して くるところに恐怖 を感 じる。
ポ ッ ドグルチ ク さん
共産主義体制崩壊後 の体制 の 中で もロシア社会 は貧 しく思 える。 ポー ラン
ドとロシアは絶 えず隣国同士で、 良い関係 を築 いてい くべ きだ。
・ピコプニア
チ ェシェル スカ さん
共産主義時代 に ソ連 国民だけではな く、他 民族 に対 して も抑圧 を していた
とい う事実 を、 ソ連 、 ロシア、そ して ロシア人はその歴史認識 の共有 をす るべ きだ。 ポー ラン ド
に とって ロシアはいつ も脅威 である。現在 もロシアは、 と りわけポー ラン ドとの関係 において、
ソ連 の抑圧 に関す る証拠資料 を未 だ隠 してい る。私 たちの国の関係 が変 わ らない限 り、 良い方 向
へ進む こ とがで きないだろ う。共産 主義が崩壊 しただけでは十分 でないのは事実 である。 そ ソ連
や p
RL (
ポー ラン ド人民共和国) による犯罪へ対す る判決や非難 がないか らである。 シベ リア、
カザ フス タンにいた ロシア人 は移送 され て きたポー ラン ド人 に手助 けを していた。 良い人 々で あ
る と同時 に貧 しい人 々である。 しか しなが ら彼 らには、歴 史の担 造や共産主義下での教育のせ い
で、歴史的な知識 は欠 けてい る。 自分 は共産主義が崩壊 して嬉 しいが、まだその非人道 的な体制
に対す る清算 はな され ていない。 いつかまた この体制 に戻 るのではないか と恐れ てい る。
・コジェル スク収容所 か ら生還
シェグロフスカ さん
ポー ラン ド人家族 だ けではな くロシア人家族への賠償 の問題等 か ら、 ロシ
ア政府 は許 さなかったが、ロシア人はかつて墓地 を建設 した。これ か ら先 50年後 にはカテ ィンの
文 書は全部公 開 され るだろ うと予想 してい る。 まだ調査が完全 に終わっていない ウク ライナやベ
ラルー シの現場 も調査 され 、 よ り多 くの こ とが知 られ るよ うにな るだろ うと考 えてい る。連合 国
は、ポー ラン ド亡命政府 か ら 1
943年 4月 1
3日以前 にポー ラン ド人将校 は も う生 きてはいない と
知 っていた。 カテ ィンは ロシア人 に とって も重要で あるべ き。 なぜ な ら、彼 らに もスター リンに
-78-
よる犯罪 があ り、それ を明 らかに していかなけれ ばな らないか ら。 1970年代 に夫 が客員 教示 と し
へ招 かれ る。そ こで、ロシア人や西側諸 国の人 々 と交流 を
て ドウプナ Pubna モ スクワ州 の都市)
持 った。 自分 の意 見 と しては、ロシア人が全員悪 いわけではな く、カテ ィンの森 事件 は NKVD の
犯行 であ る。 ロシア人 と交流 を持 ち始 めてか らこ う思 うよ うにな った。 そ して、 ロシアは未 だ に
消息の分 か らないポー ラン ド人の捜索 をす るべ きだ。
5.イ ンタ ビュー分析
力テ ィンの森 事件 の研 究は序章で も述べ てい るが、二種類 に分 けるこ とができ る。ひ とつは事
実追究で ある。 これ はまだ完 全 に終 わってお らず、未 だポー ラン ドとロシアの関係 にお ける外 交
問題 の しこ りと して残 ってい る。 これ に関 してはポー ラン ド人 も しくは ロシア人研 究者 が行 って
い る。 も うひ とつは、戦後 の事件 の政治的利用追究 である。戦後 の共産 主義時代 は事件 を隠そ う
と し、そ して体制転換後 は ロシア批判 の材料 と して事件 が扱 われ てきた。換言すれ ば、前者 は事
実 を詳細 に明 らかにす ることであ り、後者 は事件 の真実 とは別 に、その事件 が各 体制 下で どの よ
うに政治的 に利用 または黙殺 され て きたか を明 らか にす ることで ある。 したがって、後者 の研 究
においては、事件 の 当事者 でない外 国人が研 究す る意義が あると考 える。つま り、第三者 による
違 った視 点で、事件 の本質、決着へ の方 向性 、現代 史 にお ける事件 の政 治的利用 を見出 してい く
こ とが重要だ と考 え る。 そ こで、カテ ィンの森事件 の遺族 の 目か ら見た時代 の変化 を実証的な方
法 で分析 す るた めにイ ンタビュー とい う手法 を選択 した。 イ ンタ ビュー を行 う価値 は、歴史家 の
中だけの議論 ではな く、実際のポー ラン ド国民 の中での議論 を発掘 でき るところにある。
戦後 、共産主義時代 、体制転換期 を通 して時代 に翻弄 され た遺族 の証言 は、国際関係 において
事件 が政 治的 に利用 され た点 では非常 に重要 になって くる。例 えば、父親 の消息 を知 った時期 、
1
989
共産主義時代 での遺族 に対す る抑圧 、自らの真相解 明に向 けての行動 、ロシアに対す る感情 (
年 以前 と以後 とでの変化 、現在 のポー ラン ドとロシアに対す る率直な意 見)、最終的な要求 (
真相
の解 明、賠償 、謝罪 、国際裁判へ提訴)な どの証言 か らで ある。 これ らか ら分析 す るこ とで、遺
族 の共産 主義時代 の弾圧 、社会意識 の変化 、 ロシア に対す る感情 、今後 の対応等 を見出す こ とが
-79-
き る と考 え る。
① 消 息 を知 った時期
(
質問 5 「
いつ 、 どの よ うに して殺 害 され たの を知 ったか。」 よ り)
まず 、遺族 の カテ ィンの森 事件 に対す る認識 と して、父親 の消 息 を知 った時期 が重 要 で あ る。
殺 害現場 がカテ ィンで あ るこ とは 、1
943年 4月 1
3 日に ドイ ツに よって公表 され 、新 聞 の犠 牲者
991年 にな ってエ リツ ィンに
リス トに父親 の名 前 が載 っていた人 と、そ こには掲載 され てお らず 1
よ る資料 の一部 の公 開 で初 めて消 息 を知 った人 と 2通 りあ る。 さ らに、 当然 ミエ ドノイエ 、ハル
キ フの犠 牲者 の遺族 は後者 に 当ては ま る。 この事実 に よって、共産 主義 時代 での生 き方 が変 わ っ
て くる。
1
943年 公表 の犠 牲者 リス トに載 っていた遺 族 、つ ま りマ リア ・パペ シュ さん (
1
932年 生 ・女性 ・
カテ ィン) とマ リア ・パ ブ ウオプスカ さん (
1
930年 生 ・女性 ・カテ ィン)は 、カテ ィンで父 を亡
く した とい う事 実 を背負 いな が ら生 きて きた。 国際 赤十字 に調 査依頼 をす る以外 、 自 ら行動 を起
こす こ ともで きず 、 さ らに失 業や 大 学教育 を受 け られ ない とい った抑圧 を受 けて きた。 一方 、マ
グ ダ レナ ・プ ゾフ スカ さん (
1
939年 生 ・女性 ・カテ ィン) の場 合 、 コジェル ス ク収容所 か ら父 の
手紙 を受 け取 ってはい るが、 リス トには名 前 が な く、 「
1
945年 5月 9 日戦死 」 とい う証 明書 が あ
ったので 、 どこかで戦死 した のだ ろ うと考 えていた。 ま さか、カテ ィンで殺 害 され た とは思 って
もいなか った。つ ま り、プ ゾフスカ さんは 1
990年 までカテ ィンの森 事件 をほ とん ど認識 していな
か った。
ミエ ドノイエ 、ハル キフの遺 族 は 、1
9
43年 4月 1
3 日の ドイ ツに よる公表 で、 ほ とん どが 自分
の父親 、夫 は も う生 きていない と悟 ってい る。 一方 、 ダヌー タ ・ベ ウ トフスカ さん (
1
927年 生 ・
女性 ・ハ ル キフ) は、 カテ ィンは ス タロ ビエル スク収容所 か ら離 れ てい たのでカテ ィンには関 わ
っていな いだ ろ うと考 えてお り、ヤ ニーナ ・ポ ッ ドグル チ ク さん (
1
929 年 生 ・女性 ・ハル キフ)
も父親 の生存 を信 じて いた。 どち らにせ よ、 ミエ ドノイエ 、ハル キフの遺族 は 1
991年 まで 情報 が
得 られ ず 、消 息 の確証 を得 ないま ま過 ご して きた。
ゾフ イア ・チ ェ シェル スカ さん (
1
931年 生 ・女性 ・ピコプニア)、ヤ ドグィガ ・グジブ さん (
1
926
-8
0-
年 生 ・女性 ・ミエ ドノイエ)はカテ ィンの森事件 に関わ る家族 と して NXVD に逮捕 され 、北 カザ
フスタンに移送 され てい る。 チ ェシェル スカ さんは 、1946 年 に帰国後 も父親 の消息 を知 り得ず、
1
99
4年 にな って初 めて ウクライナ のカテ ィンの森事件犠牲者 リス トによって知 った。54年 もの間
全 く父親 に関す る情報 がなか った とい うこ とである。 また、グジブ さんはカザ フスタンに移送 さ
れ る前 に、オ ス タシュコフ収容所 にいた父親 か ら手紙 があったのでそ こにいた こ とは分 かってい
た。 その後 、兄 がア ンデル ス将軍の軍隊に入 り、テ- ラン とパ レスチナ で 「
ポー ラン ド亡命政府
は消息不 明の将校 た ちを捜索 してい る」 とい う情報 を得 て、カザ フスタンにいた家族 に手紙 を出
す が届 くことはなかった。 1946年 になって、ロン ドンにいた兄 は帰国 していた家族 を探 し当てた
が、その後 の父親 の情報 は何 もなかった とい う。 しか し、イギ リスでは 3つ の収容所 にいた捕虜
た ちに関す る議論 が出てい るとい う兄か らの知 らせ で、父親 は も う生 きていない と悟 った。
ベルナデ タ ・シェグロフスカ さん (
1
93
4年生 ・女性 ・コジェル スクか ら生還) は 、1
941年 に 4
月 に ソ連 の収容所 よ り手紙 が届 き、父親 (
スタニス ワフ ・シフ イアニエ ピッチ)が生存 してい る
こ とが分 か る。さらに 1
943年 には国際赤十字か らの知 らせ よ り西側 の国にい るとい うことを知 る。
つま り、 この質問に よって 、1943年 4月 1
3日の時点でカテ ィンの森事件 によって父親 が殺害
され た、も しくはカテ ィンか ら生還 した と知 った遺族 、5
0年 もの間消息が分 か らなかった遺族 が
い るが、大体は 1
943年 の ドイツに よる公表 で父親 ・夫 の生存の可能性 は低 い と薄 々感 じていた よ
うである。 ドイ ツの公表後 に ソ連 は 自分達 の犯行 ではない と声明 を出 してい るが、遺族 は誰一人
ドイツの犯行 だ と信 じず、最初 か らソ連 に よるものだ と思 っていた。 これ は、手紙 か らソ連軍 の
捕虜 であった とい うこ とと、1
939年 9月 1
7日に独 ソ不可侵条約 による東側 か らの ソ連 軍の侵攻 、
そ して さ らに時代 を遡 った歴 史的な背景か らソ連 に対す る不信感 が ドイ ツに対す るもの よ り元 々
大 きかったのではないか と考 え られ る。一方 、戦時 中、総督府 内 に住 んでいたほ とん どの人た ち
は ソ連 に対 して よ り ドイツに対 しての恐怖 の方 が大 きかった と答 えてい る。
その後 、遺族 に とって共産主義時代 は苦悩 に満 ちた ものにな り、1
98
9年 の体制転換後 はまた違
った形 で悩ま され る とい うよ うに時代 に翻弄 され る遺族 の苦慮 が、 これ 以降の質 問で明 らかにな
ってい く。
-81-
② 共産 主義時代
ここでは共産 主義時代 に父親 ・夫 の消息調査 を試みたか、そ してカテ ィンの森 事件 に関わ って
い るとい う理 由か ら何 か しらの弾圧 を受 けたか とい う質問か ら、共産主義時代 にお ける遺族 の社
会意識 を分析 してい く。
a)沈黙 を保 つ
(
質問 6「
戦争 中 どこに住 んでいたか。そ して父親 の連行 によって、家族への抑圧 があったか。(
危
機 に さらされ たか。)」 よ り)
ほぼ全員 が 口を揃 えて、沈 黙 を保 つ ことで弾圧 は受 けなかった と答 えてい る。 共産主義下では
事件 を 口にす ることができない状況 だったので、 自 らの身 を守 るために 口を閉 ざ していた。パペ
シュ さんは、職場 では父親 がカテ ィンで殺 され た こ とを知 られ ていたが、幸い誰 も外部 に漏 らさ
なかったおか げで安全 だった。ベ ウ トフスカ さんは、父親 について質問 され た際 には、「
戦争 で亡
くなった。」 とだ け答 えていた。ハ ンナ ・マル スカ さん (
1
939 年 生 ・女性 ・ハル キフ) は歴史 の
教師 を していたが、生徒 にカテ ィンの森事件 を教 え ることはできなかった とい う。 ビア ウェツカ
さん (1925年生 ・女性 ・ミエ ドノイエ)はクラクフのヤ ギェ ウオ大学で、教授 たちにカテ ィンに
つ いて話 すべ きでない と言 われ 、理解 のあ る教授 た ちのお かげで危険 に さらされ ることはなか っ
た。 グジブ さん もチ ェシェル スカ さん もカテ ィンは もちろん、北 カザ フスタンにいた こ とも決 し
て 口外 しなかった。 一方 、ポ ッ ドグルチ ク さんの場合 、母親 が夫 はスタロビエル スク収容所 の捕
虜 であった ことを認 めなかったので、未 亡人 と しての金銭 的な援助 を受 けていた とい う。沈黙 が
安全な生活 につなが る と分 かっていたのである。
何人かはプ ライベ ー トな場 では話 され ていた と証言 してい る。 プ ライベー トと言 って も、信頼
で きる関係 にあ る人 々の間だ と推測 できる。 さらに、当時子 どもだった彼 らは母親 か ら外 では絶
対 にカテ ィンを 口外 しない よ うに注意 を度 々受 けていたそ うであ る。 さほ ど事態 を理解 できない
子 どもが 口を滑 らし、外部 に漏れ るのを母親 が案 じたためであろ う。 この よ うに共産主義時代 で
は、父親 ・夫 がカテ ィン関係 者 も しくは ソ連 の捕虜 だったい う事実か ら、いつ誰 が密告 をす るか
も しれ ない とい う恐怖 と隣 り合 わせ で、身 の安全のために 口を閉 ざ していた とい うことは当然 だ
-8
2-
と納得 できる。
b
)消息の調査
(
質問 7 「
共産主義時代 の間、調 査 を試みたか。 それ に対す る政府 の抑圧 があったか。」 よ り)
父親 ・夫 の消息調 査 を試み たか とい う質 問について述べ てい く。 ほぼ全員 がポー ラン ド、スイ
ス、モ スク ワ等 の赤十字 に捜索依頼 を してい るにもかかわ らず、「ソ連 にその よ うな人物 はいない。」
とい う皆揃 って同 じ内容 の返答 を受 け取 ってい る。パペ シュ さんは、死 亡証 明書 の変更 (「
1
945
年 5月 9 日戦死」 とされ ていた。)や賠償 の要求 を したが、結果 を得 られ るこ とはなかった。プ ゾ
フスカ さんは、上述 の通 り、 コジェル スク収容所 にいたにもかかわ らず 、1
943年 の犠牲者 リス ト
に名前がなかった こ とで、ま さか父親 がカテ ィンで殺害 され ていた とは思わず、正式な死亡証 明
書 を受 け取 っていたので特 に行動 を起 こす ことはなかった。 ビア ウェツカ さんは 、1
9
45年以降 に
国際赤十字 に捜 索 を願 い出 るな ど独 自で調 査 を始 めた。結 果は勿論得 られ ることはなか った。 モ
スクワのポー ラン ド大使館 にも調 査 を依頼 した ところ、1
947年 7月 1
6日に 「ミハ ウ ・カニ ク (
ど
ア ウェツカ さんの父親 の名前)は解放 され 、国へ引き揚 げた。」 とい う答 えが返 ってきた。これ に
よ り、父親 の生存 を信 じたにもかかわ らず 、1
991年 に公 開 され た ミエ ドノイエ の リス トに名前が
載 っていたので ある。 この ソ連 による事実 を供述 していない文書 は、今後 国際法廷で裁 かれ る上
での重要な証拠 にな るに違 いない と、 ビア ウェツカ さんは語 っていた。
以上の こ とか ら、遺族 たちは何 か しらの捜索 を行 っていたが、情報 を得 るこ とは一切 なかった。
あま り繰 り返 し追及す ると、今度 は家族 の安全が危機 に さらされ るこ とは明 らかである。この間、
カテ ィンの リス トに載 っていた遺族以外 は 、 「
5月 9 日戦死」 とい う死亡証 明書以外 に文 書 を得 る
こ とはなかった。 そ こでパペ シュ さんの よ うに、 リス トに載 っていたの にかかわ らず、その よ う
な文書 しか受 け取れ なかったために変更 を願 い出た とい うのは、かな り危険な行動 だったに違 い
ない。他 の遺族 に関 しては 、50年 以上の間、全 く音沙 汰がない とい うことは も う生存の可能性 は
ほぼない と考 えるのが必然だったであろ う。
-8
3-
C
)抑圧
(
同質 間 7よ り)
大抵 の遺族 は 、カテ ィン関係 者 で あ るた めに高等 教育 を受 け る こ とが で きなか った、 そ して母
親 が仕 事 を得 るのが難 しか った と答 えてい る。 ヤ ニーナ ・ソ リンスカ さん (
1
932年 生 ・女性 ・ハ
ル キフ) の場 合 、母親 が戦後約 1年 半 の間仕 事 を得 るこ とがで きなか った、本 人 と姉 は大学教育
を受 け る こ とが で きなか った。 その理 由は ワル シャ ワの よ うな大都 市 に住 んでい たか らと、全 て
は父親 の 関係 だ と悟 っていた。 ポ ッ ドグル チ ク さん も妹 と共 に大 学 に進 む こ とは で きな か った。
しか し、本 人 は周 りの手助 け もあ り、 シ ロ ンスク地方 で高等 教育 を受 け るこ とが で きた。 チ ェ シ
ェル スカ さんの場合 、家族 が シベ リア抑 留経験者 そ して父親 が ソ連 の捕 虜 だ とい うこ とで、常 に
UB に監視 され 、日々の生活 も苦 しか った。姉妹 は大学受験 をす るこ とさえ難 しか ったが、本 人 は
周 りの人 々の助 けを借 りて大 学 で勉 強す る こ とがで きた。 一方 、父親 の生存 を知 ってい た シェ グ
ロフスカ さん も共産 主義時代 は抑圧 を受 けていた。 父親 の ス タニ ス ワフ ・シフ イアニエ ピ ッチ が
カテ ィンか ら生還 し、 その後 ロン ドンに留 ま っていたのは周知 の事実 で あった。 常 に SB の監視
下 にあ り、西側 諸 国 の スパ イ ではな いか と見張 られ ていた。母親 の心配 事 は、父親 がカテ ィンか
ら生 き残 り、イ ギ リスでは名 の知れ た研 究者 で あった こ とか ら、何 か しらの抑圧 を受 け るので は
な いか とい うこ とだ った。 そ の抑圧 と して 、本 人 は高校 卒 業試験 で他 の成績 は ほ とん ど高 か った
の にかか わ らず 、現代 社会 の科 目だ け最低 点 を取 らされ て いた、姉 は 自分 の専 門 と全 くか け離 れ
た仕 事 に就 か され て いた。 家 の 中で は常 に反 共産 主 義的 な雰 囲気 が漂 っていた と語 って い る。 そ
の後 、1
957年 に母親 はイ ギ リス- の亡命 が認 め られ てい る。
したが って 、1
98
9年 まで家族 は共産 党 当局 か ら階級 の敵(
wr
6gkl
a
s
o
v
j
y)と見 な され 、職 を得 られ
な い、高等 教育 を受 け られ な い、常 に監視 、 とい う抑圧 を受 けて きた こ とにな る。補 足す る と、
実 際 はカテ ィン関係 者 だか らとい うよ りは 、将校 で あ る父親 も しくは夫 の名 前 が ソ連 軍捕虜 リス
トに登録 され お り、 そのた め共産 党 当局 に 目を付 け られ 上記 の よ うな抑 圧 を受 けた とい う。 外 で
は事件 を 口にす るこ とはで きない、 そ して 日常生活 を妨 害 され るだ けで はな く、彼 らの人生 ま で
狂 わ され るこ とにな り、 これ らの抑圧 は彼 らに多大 な精神 的苦痛 を与 えた に違 いな い。
-8
4-
d)情報の入手
(
同質 間 7よ り)
共産主義時代 では事件 につ いて全 く語 ることがで きなか った と言 われ てい る反 面、地 下出版や
裏ルー ト等 で情報 は少 なか らず得 ていた よ うで ある。ヴワジスワ ヴァ ・クシャ ノフスカ さん (
1
91
3
年 生 ・女性 ・ミエ ドノイエ) の息子 の- ン リク ・クシャノフスキ さんはアメ リカの政治学 ・国際
za
wodn
y,[
1
962]
) を地下出版 で読 む機会 が あっ
関係 学者 で あるヤ ヌシュ ・ザ ヴォ ドニーの文献 (
た。 ズ ビグニエ フ ・シェカ ンスキ さん (
1
937年生 ・男性 ・ハル キフ)は 、1
980年代 に 2度 ロン ド
ン-赴 き、そ こで西側 で出版 され た文献 を読む ことができた。ベ ウ トフスカ さんは地下出版 を通
してユゼ フ ・チ ャブ スキの文 献 (
cz
a
ps
kl
,[
1
962]
) を読む機 会 を得 た。 グジブ さんの場合 、 1
957
年 に母親 が息子 のい るイギ リス-行 き、1970年代 に帰 国 した。イ ギ リスで得 た資料 をポー ラン ド
-持 ち帰 ろ うと した ら、息子 に止 め られ断念 した。 当時は荷物検 査が厳 しく、資料 が兄 を見つ け
られ逮捕 され ることを息子 が案 じたか らで ある。 ポー ラン ド国内では全 く研 究が進 んでいない 中
でのアメ リカ、イギ リス、フ ランスな ど西側 の先行研 究は、 目にす る機 会 を得 た遺族 に とっては
驚 きの事実で あっただろ う。
実際 1980年代 に入 って、連 帯が発足 してか ら少 しずつ外 で話 ができ るよ うにな った と言 われ て
い る。パペ シュ さんに よると、1988年 にはク ラクフの教会 畔 o畠
C
1
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Z
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a
)
に最初 のカテ ィン追悼 石碑 が置かれ た とい う。 ビア ウェツカ さんは 、1
98
6年頃 か ら正式ではない
が遺族会 の活動 を始 め、若者 たちに伝 えてい く役割 を試み ていった。チ ェシェル スカ さん も同様
に、連帯 が出て きてか ら、徐 々にカテ ィンの森事件 、シベ リア抑 留 につ いて話せ るよ うになって
きた と答 えてい る。そ して、その間題 について大学で講義 を し、学生 たち と議論 し合 った とい う。
1
98
0年代 になって国内情勢 が緩 和 され 、それ までひ っそ りと暮 ら していた遺族 は徐 々に情報収
集 な どの活動 を始 め られ るよ うになった。そ して 、1989年 の体制転換 か らそれ までの状況 が一変
し、 よ うや く抑圧 か ら解放 され 、 自由を得 られ るよ うにな ったのだが、そ こか ら新たな問題 が生
じ、時代 の移 り変わ りによって翻弄 され る遺族 の姿が次の項 目か ら浮 き彫 りになってい く。
-8
5-
② 1989年以降体制転換以降
1
98
9年 の体制転換 か ら、カテ ィンの森事件 に対す る世の 中の状況 の変化 、遺族 の真相解 明に向
けての行動 、現在 の抱 える問題 、 ロシア、ポー ラン ドに対す る率直な意 見を聞き取 り、遺族 を取
り巻 く環境 、彼 らの意識 の変化 を分析す る。
a) カテ ィンの森事件 に封す る世の 中の状況の変化
(
質問 8 「
1
989年 の体制転換後 、真相 究明に向けて状況 が どの よ うに変化 したか。 自ら何 か行動
を起 こ したか。」 よ り)
1
98
9年 の体制転換 によ り、ポー ラン ドは共産主義か ら解放 され 、民主主義への道 を歩む こ とに
な った。そ して 、1
990年 4月 1
3日にポー ラン ドのヤルゼル スキ大統領 がモ スクワ-赴 いた際 に、
ゴルバチ ョフ大統領 が公式 に犯行 を認 めてい る。 さらに、1
991年 に ミエ ドノイエ、ハル キフで発
掘 作業が行 われ 、そ こで殺害 され た人の リス トも公 開 され た ことで、カテ ィン以外 の遺族 が父親 ・
夫 の公式な消息 を初 めて知 ることができるよ うになった。 1
992年 1
0月 には、エ リツィ ン大統領
か らヴァ ウェ ンサ大統領へ 、1
940年 3月 5 日のスター リン らのサイ ンが入 った、ポー ラン ド人棉
校 処刑 の決断 を下 した文書 を含む資料 が一部公 開 され た。
全員 が公 の場 で事件 を話せ るよ うになった と答 えてい る。パ ブ ウオプスカ さんは、公 式 に犯罪
が ソ連 に よって認 め られ た こ とで、テ レビ、 ラジオ 、新聞で も取 り上 げ られ るよ うにな り、文 献
も出版 され るよ うにな った。 1
98
9年 には遺族会 も設立 され 、実際 にカテ ィン-行 けるよ うになっ
た と答 えてい る。 グジブ さんは、遺族会 か ら父親 の死亡証 明書、名前が載 ってい る ミエ ドノイエ
の リス トを得 た。ベ ウ トフスカ さんは 、1
991年 に公 開 され た資料 の 中のスタロ ビエル スク収容所
の リス トに父親 の名前 があ り、1
940年 に父親 か ら届 いた手紙 の送 り先がそ こと一致 し、ハル キフ
で父が殺 害 され た と知 った。 しか し、未 だ にいつ ス タロビエル スク収容所 を出たか、いつ殺害 さ
れ たかの正確 な 日は分 かっていない。 ソ リンスカ さんは、家族 が望み をかけていたにもかかわ ら
ず 、スタロビエル スク収容所 にいた捕虜 も殺害 され ていた ことが分 か り落胆 した。 シェカ ンスキ
さんは、全 てではないが、徐 々に真実の解 明をもとめ ることがで きるよ うにな った と述 べてい る。
チ ェシェル スカ さんは 、1
989年 になって、カテ ィン遺族会 、シベ リア抑留経験者 の会 は設立 され
-8
6-
た こと、カル タ(
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kKARTA ポー ラン ド及び 中東欧現代史 を取 り扱 う非政府 系の機 関)
や 国民
記憶院で記録や 情報 を集 め、それ らを徐 々に公 開 し始 めた ことは非常 に大 きな変化 だ と答 えてい
る。 なぜ な ら、約半世紀 の間語 られ ることもな く、社会 では タブー とされ てきた 中で、次世代 で
は ほ とん ど知 られ ていないか らで ある。
体制転換期 か ら公 の場 で も語 られ るよ うにな り、遺族 も 日々の緊迫感 か らよ うや く解放 され た。
パ ブ ウオプスカ さんは、職場 で 自分 の父親 がカテ ィンの リス トに載 っていた ことを告 げ ると、同
僚 たちは驚 いた とい う。遺族 に とって体制転換 は、今まで張 り詰 めていた ものか ら解 き放 たれ た
よ うに、精神的 にも快方へ向か うものだった と言 える。それ で終わ りではな く遺族会設 立 を始 め、
遺族 が動 き出す ことで国は対応 を迫 られ 、国家間の問題 に発展 され てい くことにな る。 つま り、
ソ連 が犯行 を認 めた ことで、 よ うや く今後 の対応 に向けてのスター トライ ンに立 てたのだが、そ
の後遺族 は国家 間でカテ ィンの森事件 が政 治的 に利用 され てい くのを 目のあた りにす ることにな
る。
b)真相解 明に向けての行動
(
同質 間 8、質問 9 「
遺族会 の活動」 よ り)
パペ シュ さんはまず死亡証 明書 の変更 (
1
9
40年 4月 にカテ ィンで殺害 とい う証 明)を願 い出た。
200
6年 にはセイム (
Se
J
m ポー ラン ド共和 国下院) とセナ ト (
se
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t ポー ラン ド共和国上院)に
4月 1
3日をカテ ィン追悼 の 日とす るよ う文書 を提 出 した17
。 グジブ さんは 、1
98
9年以降、裁判所
に訴 えを起 こ したが、裁判所 は提 出書類 が不十分 とい う理 由で、父親 の詳細 を証 明す る文書の発
行 を拒否 した。代 わ りに、遺族会 か ら証 明書 を得 てい る。 ビア ウェツカ さんは、集会や 資粁展示
会 、特 に学校 で議論 を行 うな ど積極 的な活動 を行 ってきた。 さらに、様 々なメデ ィアでカテ ィン
の森事件 を語 る機会 を得 てきた。1
9
95年 には遺族会 の歩みや記録 を書いた文 献 を友人 と共 に出版
してい る。ベ ウ トフスカ さんは 1
98
9年 9月頃 に、合法ではないがカテ ィン-行 くこ とができた。
その際 に、オ ス タシュコフ収容所 か ら生還 した人 と一緒 にな り、彼 か ら収容所 の様子 な ど情報 を
得 ることができた。 (
その時 にはまだ ミエ ドノイエ、ハル キフについては公表 され ていない。)マ
1
72
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7年 1
1月 1
4日にセイムで、4月 1
3日をカティンの森事件犠牲者追悼の日とする決議が可決されている。
-8
7-
ル スカ さんは 1989 年 以降 に真相解 明に向 けて遺族会 に入会 した。 ポ ッ ドグルチ ク さんは 、 1
991
年 7月 1
0日に発掘 作業終了後 のハル キフの埋蔵場所へ最初 の遺族代表 と して赴 いた。チ ェシェル
スカ さんは、文 献 を出 しそ して資料 を集 め続 けた。 一方 、母親 は亡 くな るまでほ とん ど語 るこ と
はなかった。
ほ とん どの遺族 は、遺族会設立後 す ぐ入会 し、そ こで 情報 の共有や イベ ン トの開催 な どの活動
を してきてい る。共産 主義時代 な ら決 して集 ま ることのできなかった人 々が 1
989年以降 ほ とん ど
初 めて顔 を合 わせ 、同 じ苦難 を背負 ってきた者 が共 に行動 を起 こす ことで、会員 のほ とん どは高
齢 であ りなが らも、遺族会 は現在 も機 能 してい る。
C
)現在抱 える問題
(
質問 1
0「現在 の抱 える問題」 よ り)
事件 か ら 70年経 った今、遺族 の考 える問題 を挙 げることは、遺族 の歴史認識や 問題意識 、そ し
て現代史 にお けるカテ ィンの森事件 の位 置付 けを測 る上で非常 に重要で ある。
ほ とん ど全員 が、事件 か ら 70年経 った今で も解決 していない と思 ってい る とともに、ロシアに
対 してい ち早 く事件 の全真相 の公表 を要求 してい る。 これ に関 しては、共産主義時代 と変わ らず
事実の追求の姿勢 を表 してい る。変化 した点は、その ことを隠 さず公 の場 で言 え るよ うになった
こ とであ る。 ロシア に対 して賠償 を求 めてい るわけではない、ただ事実 が欲 しい、そ う答 えた人
が多 く見 られ た。 そ して、カテ ィンの森事件 を歴史 の中で風化 させ ないために、次世代 へ伝 えて
い くことが重要だ と感 じてい る。シェカ ンスキ さんの意 見で、「
現代 のポー ラン ド社会 では、カテ
ィンの森 事件 がそれ ほ ど深 く浸透 していない」 とあ るが、実際、戦争 を振 り返 ることは少 な くな
り、事件 を知 らない若者 もい るか も しれ ない。2007年 9月 にア ンジェイ ・ヴァイ ダ監督 の映画 『カ
テ ィンの森』が公 開 され 、一時国内外 で話題 にな り、戦争 犯罪 の歴史認識 とい う点ではポー ラン
ド社会 に少 なか らず影響 を与 え、興 味 を再び示 した国民 もいたで あろ う。 しか し、だか らとい っ
て、国民 が立 ち上が って真相 の解 明 を求 め る旋風 が巻 き起 きた とは言 い難 い。 カテ ィンの森 事件
だ けに限 らず、戦争 の追憶 は時代 と共 に薄れ てい くのは事実であ る。 そ こで遺族 が 自分 の父親 ・
夫 に関す る具体的な情報 だけを求 め るのではな く、歴史の風化 を避 けるため、そ して将来のポー
ー88-
ラン ドとロシアの歴 史認識 の共有 に向けて も次世代 へ伝 えてい くのは彼 らの役割 で もあ るだろ う。
さらに、何人かは国際裁判へ持 ち込む ことを提言 してい る。2009年 11月 にポー ラン ド各地か
らの 1
3人の遺族 が欧州人権裁判所へ訴 えを起 こ してい る。これ に関 しては第 4章で明記す る。 し
か しなが ら、国際裁判 が事件解決 に向けての大 きな進歩 をなす とは今の ところ言 い難 い。
d) ロシア、ポー ラン ドに封す る感情
遺族 の ロシア に対す る見解 と して、 ロシアには嫌悪感 を示す人 が多か った。 カテ ィンの虐殺 を
認 めない どころか ドイツに罪 を着せ 、共産 主義時代 の間、力で制圧 した ソ連 とい う国の体制 か ら
も偏 見を持 ってい ると感 じられ た。一方 、ロシア人その ものには憎悪 の感情はない と答 えてい る。
実際、シベ リア に抑 留 され た遺族 はそ こで ロシア人 か ら援助 を受 けた、 あるいは共産主義時代 に
夫 の ロシア出張 に同行 しそ こで ロシア人 と交流 し悪 い印象 は受 けなかった と話 した遺族 もいた。
一方 、その体制 下での ロシア人は貧 しい と同情の念 も示 した人 々 も見 られ た。 さ らに、共産主義
時代 の名残 のせ いか、ポー ラン ドはまだ ロシアの政 治的な圧力 を恐れ てお り、強 い姿勢 で臨 めな
い と答 えた人 もい る。 カテ ィンの森事件 に限 らず、なぜ共産主義時代 の ソ連 の犯罪 が 、1991年 の
崩壊後 か ら現在 まで世界 に公 に され ず、清算 されず 、 しか も事実 を隠蔽 しよ うとす るのか と不満
を言 う遺族 も度 々見受 け られ た。 したがって、 これ らの見解 か ら、ポー ラン ド人 、特 に遺族 の ロ
シアに対す る不信感 は、ロシアその ものの国の体制や政治的 な方 向性 か ら生 じてい るよ うであ る。
彼 らの中でポー ラン ド ・ロシアの関係 改善 の前提 と して、まずカテ ィンの森事件 の解決 が最重要
だ と答 える人 々は少 な くない。
6.イ ンタ ビューか ら見 える事件 の別の側 面一 時代 に翻弄 され遺族
本 イ ンタ ビューでは、カテ ィンの森事件 が持つ 2つの側面 、つま り 「
事件 の真相解 明」だけで
はな く 「
政 治の道具」と しての事件 にも着眼点 を置いた。多 くの研 究が事件 の真相究明に向かい、
殺 害 され た者 のプ ロフ ィールや殺害場所 を細 か く特定す る ところまで調 査が進む 中、それ とは別
に、 この事件 をポー ラン ド、 ロシア人の記憶 の中に どの よ うに定着 させ るかを巡 って、様 々な立
-8
9-
場 の人が様 々な方法 で労力 を費や してきた。共産主義時代 下では、事件 は隠蔽 され 、人 々がその
事実 を記憶 の奥底 に沈 め るよ うに圧力が加 え られ た。 しか し、 1989年 の体制転換 によってポー ラ
ン ドに非共産党政権 が樹立 され ると、反 ソ (
反 ロシア)政権 は、今度 はポー ラン ドのナ シ ョナ リ
ズムを高揚 させ る象徴 と して この事件 の真相究明を声高 に叫ぶ よ うにな った。 同時 に、 この事件
の真相究 明がポー ラン ドとロシア との政治的駆 け引 きの材料 と して扱 われ るよ うにな り、事件 が
50年経 った後 にもまた政治化 していった。 そ うしたプ ロセ スの中で、犠牲者 の遺族 た ちは、沈黙
を強要 され た り、表舞台 に引 きず り出 され た り、翻弄 され続 けた ことをイ ンタビュー調 査で明 ら
か に した。
本 イ ンタビューは、虐殺 の正確 な記録 を追い求 めるのではな く、遺族 の声 を直 に聞 くことで時
代 に翻弄 され た遺族 の意識 を分析 してい くことが 目的であった。 そ して、 このイ ンタビューか ら
現代史 にお け る困難 な問題 を ど う捉 え位 置付 けてい くかを考察 してきた。
共産主義時代 は事件 を 口にす るこ とがで きず、関係者 で あるこ とか ら共産党 当局か ら何 か しら
の抑圧 を受 けて きたのは遺族 の証言 か ら明 らかであ る。 その状況 下で も遺族 は、父親 も しくは夫
の消息の情報 を得 よ うと していた。 実際、西側 での研 究は進 んでお り、地下出版 で国内へ持 ち込
まれ た文献か らそれ を読み取 るこ とができる。
しか し、体制転換後 、 自由にな り遺族 の真相解 明に対す る期待 が高ま ったのだが、今度 はカテ
ィンの森 事件 がポー ラン ドとロシア との間の政治的 なカー ドと して利用 され るよ うにな った。遺
族 たちは賠償や謝罪 が欲 しいわけではな く、ただ真実 を知 りたい、そ して ロシアが事実 を認 める
こ とを願 ってい るのである。 そ うで あるに もかかわ らず、国家間の関係 構築 にお いて事件 が政 治
化 し外交 問題 が生 じてい る状況 であ る。遺族 が ど う生 きて きたか を見 ることによって、戦争 中、
共産主義時代 、体制転換後 とい う主 に 3つ に区分 され た時代背 景の変化 をよ り明確 にす ることが
で きた。
事件後 60年 たった 2000年 にカテ ィン、ハル キフ、ミエ ドノイエ-の墓地の開設1
6
は、遺族へ安
堵感 をもた らした。 イ ンタビュー対象者 の ほ とん どは一度 は父親 が葬 られ てい る地 に足 を踏み入
18
ヵティン 2000年 7月 28日、ハルキフ 2000年 6月 17日、ミエ トノイェ 2000年 9月 2日に墓地が開設さ
れ た。
-90-
れ てい る。墓地 の開設 は、様 々な問題 を抱 えなが らも、事件解決 のプ ロセ スの中での大 きな成 功
で あった。
両国間の現代 史 においてカテ ィンの森事件 は解決すべ き問題 の優先性 か ら見 る と、位 置付 けは
高 い。 あ と数十年 もすれ ば、現在活動 してい る子供 世代 の遺族 がいな くな る。残念 なが ら孫世代
以降はあま り積極的 に参加 していない印象 が見受 け られ た。 関係 者 が減 ることは事件解決 に向 け
て立 ち上が る人がいな くな ることであ り、それ は事件 が 自然 と時効 になってい くこ とを意味す る。
カテ ィンの森事件 とい う 70年前の将校虐 殺 か ら現在 に至 るまで、歴史的事実だけではな く、時
代 が移 り変わ る社会 の 中で事件 が政治化 してい く過程 を、遺族 の証言 か ら裏付 けることができ る。
イ ンタビュー を通 して遺族 が最 も望 んでい ることは、繰 り返 し述 べてい るが事件 の事実 を明 らか
にす るこ とだ。 事件 の政治化 は全真相解 明 とい う着地点は同 じか も しれ ないが、遺族 の望み との
間 に少 なか らず溝 がで きつつ ある とい うことが、イ ンタビュー を通 して確認 できた。
カテ ィンの森事件 の究明は 、1
9
40年 に起 こった事件 の真実 を明 らかにす るとい うことだけでは
な く、ポー ラン ド ・ロシア間 に存在 す る政 治的摩擦 の象徴 と して、 さらには東西対立の象徴 と し
て、それ ぞれ の時代 にそれ ぞれ の方法で利用 され てきた ことが浮 き彫 りとなった。その ことこそ、
現在 まで引き継 がれ たカテ ィンの森 事件 の も うひ とつの真実 と言 える。本 イ ンタ ビュー はそれ を
実証す るための大変意義深 い ものであるだろ う。
-り1-
第四章
現代史における評価 と今後の展望
1.現代史の 中でのカテ ィンの森事件の位置付 け
①戦後か ら共産主義時代か ら現在 までの状況
第二次世界大戦での枢軸 国 による戦争犯罪 は、 と りわけニュル ンベル グ裁判や 東京裁判 に関 し
ては、様 々な場 で多 くの議論 が展 開 され てい るので、本稿 ではその本質 を考察す ることは しない。
ポー ラン ドは大戦 中、二つの大国である ドイツ とロシア (ソ連)、つま りヒ トラー とスター リンに
挟 まれ 、多大 な犠牲 を強い られ た。 ポー ラン ドではそれ ら 2つ の犯罪 がほ とん ど同 じよ うに批判
され てい る。2 つの犯罪 の後 処理 の違 い と して、ナチ ス ・ドイツの犯罪 は国際裁判 で裁 かれ判決
が下 され 、刑 も執行 され てい るが、カテ ィンの森事件 を含む ソ連 の犯罪 は裁 かれ ていない とい う
こ とであ る。 ニ ュル ンベル グ裁判 で もカテ ィンの森 事件 が表沙汰 に取 り上 げ られ ることはなか っ
た。ソ連 の犯行 であることは 1
943年 の事件発覚後 の ドイ ツが設置 した特別調査委員会 か ら明 らか
で あ り、連合 国側 も事実 を認識 していた。 しか しなが ら、ニュル ンベル グ裁判 はそれ 自体、ナチ
ス ・ドイ ツを全否定 した ものであ り、 も し連合 国の一員 で あった ソ連 の犯行 と決 めつ け ると、ナ
チ ス ・ドイツを裁 く法廷で連合 国の戦争責任 が問われ かね ない こ とにな って しま うとい う背景 が
あ る。実際、ニ ュル ンベル グ裁判 にせ よ東京裁判 にせ よ、その構成 は戦勝 国の裁判官 に よるもの
で あ り、敗戦国の戦争犯罪人 に対す るものであった。 そのため枢 軸 国が犯 した犯罪行為 が対象 と
され 、大戦 に関わった全て国の戦争 犯罪 を国際法廷 で裁 くとい うものではなかった。 も し、仮 に
数 万人の一般住 民 を犠牲 に した ドレスデ ン空襲や広 島 ・長崎 の原爆投 下、カテ ィンの森 事件等 、
連合 国側 が犯 した犯罪 をも同 じ法廷 で裁 かれ ていた ら、また歴史 は大 き く変わっていたであろ う
(
藤 田,[
1
995]
)。
共産主義体制 下ではカテ ィンの森 事件 は ドイツの犯行 と認識 され るとともに、公 の場 で人 々が
口にす ることさえ禁 じられ 、それ を破 る者 に対 しては処罰 を与 えた。あ らゆる場所 で 「
カテ ィン」
とい う言葉 が排 除 され たので ある。 それ に関 して共産党 当局の指 導の下で、 ソ連 の見解 が客観 的
-り二-
に記 述 されて い る、そ して ソ連 に とって都合・
の悪い記述 は削除 されてい る当時の文献 と百科事典
を紹介 す るD
94
5年 にはクラクフの情報宣伝 局 によって Fカテ ィン
序論 で も先行研 究 として挙 げてい るが 、1
の真 実』 が 出版 された〔
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1
945Ⅰ
)
。 この文献で
は、カテ ィンの森 事件 は 19
41年秋 に ドイ ツが行 った犯行 だ と記 載 されてい る。 19
52年 には、ボ
レス ワフ ・ヴィチ ッキの Fカテ ィンの真 実』が 出版 されてお り、 これ に も同様 に犯行 は ドイ ツに
よるもの だ と書かれてい る (
W 句nc
kl
,[
1
952]
)
。 ドイ ツの犯行 とい うのは 当時の ソ連の公 式見解 で
あ り、 これ らの文献 は勿論検 閲 をク リア してお り、そ して疎僧 的な要素 を含 んだ文献で あるこ と
が分か るD
次 に、共産主義時代 の百科事典 (
1
965年 出版 、全 1
3巻 )を見てみ る。 「
Ⅰ
こ」の項 目の ところに、
「
EATYLI
NA」の次 は 「
Ⅰ
こAUAI
」 で あ り、 托こ
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n寸」 がない こ とが見て取れ る。
周 4- 1.1965年出l
Eの百科事典
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,p537 (
左 下 矢印の部分)
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聖霊 悪 法
一方、体制 転換直後の 1
991年 に出版 された 1巻本の 百科事矧 こは 「
Ⅰ
ぴJY由」の説明が ある。
同 4- 2. 1
991年に出版 された百科事典
出所 Enc
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,[
1
991
]
,
p36
5 仲 央下部の 四角で囲んでい る部分がカテ ィンの項 目)
このことか ら、共産 主義時代で はカテ ィンの森事件 を公の場で 口にす ることがで きなか っただ
けではな く、百科事典の よ うな人 々が手にす る一般的な書物か らもカテ ィンの森事件 が消 されて
いたこと、事実 とは異 なるソ連の 見解 を認知 させていた こと、そ してそれ らは親戚 的 に行われて
いたことが分か る。
共産主義時代 でも事件 の事実は周 知 きれて いたが、その証拠な しで確証 を得 ず言わば憶測で語
ロシア)側 か らの公開文書による決定
っていた.それが、新 しい情報 つま り 1989年以降の ソ連 (
的な証拠な どか ら、近年 の研究は主にこれま での調査 を再確認 するもの となったO すなわ ち、共
産主義時代 での西側諸国の調査患 具 はほ とん ど正確で あったこ とが実証 された とい うこ とで ある。
次に、近年 のポーラ ン ド・ロシア関係 につ いて記述す る。両国間 には、カテ ィンの森 事件 やシ
ベ リア強制労働 な どソ連時代 にポ ーラン ド国 民にふ りか かった悲劇 の真相 究明や被害者 に升する
r
O年 4月 12 E
]、大
賠償や謝罪問題 といった多 くの課題 が残 されて いる.プー チン大統領 は、20C
-9
4-
統領就任前 にクワシニエ フスキ大統領 (
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) と電話会談 し、カテ ィンの森事
件 の合 同調査 を提案 し合意 した。 さ らに、プーチ ン大統領 は過去 の清算 問題 に対す る姿勢 は積極
的 かつ建設的で あ り、スター リン政権 の歴 史 に対 して 目をつぶ る気 はない とい う内容 の発言 を し
た。 ロシア側 か ら自発的 に問題解決 に取 り組む姿勢 を示 したので あった。 そ して、発言 だけでは
な く、 ワル シャ ワを訪 問の際 にポー ラン ド地下政府及び国民軍兵慰霊碑 に、ボスナ ンで もポー ラ
ン ド地下政府記念碑及びボスナ ン暴動記念碑 を訪れ て花束 を捧 げた。 これ はプーチ ン大統領 の意
思 によ り急速実現 した もので あった。 これ ら一連 の行動 は、両国がパー トナー と して過 去の苦 い
歴 史 を共 に克服 してい くための精神的準備 が よ うや く整 った ことを示 した。
2002年 1月 1
6日と 1
7日にプーチ ン大統領 はポー ラン ドを公式訪 問 した。 8年ぶ りの ロシア大
統領訪 問であった。 1
7日は 、1
9
45年 の ソ連 軍 によるワル シャワ解放 か ら 57回 目の記念 日であっ
た。 プーチ ン大統領到着以前 のポー ラン ドは、両国関係 新構築へ の期待 と過去の清算 問題 か ら生
じる懐疑 とが入 り混 じった複雑 な空気 が漂 っていた。しか し、公 式訪 問 日程 が進行す るにつれ て、
ク ワシニエ フスキ大統領 をは じめ とす るポー ラン ド主要人 とプーチ ン大統領 との関係 は按近 し始
めた。 この 2 日間で実務 レベル にお け る具体的な決 定はな され なかったが、総括的 には この機会
をポー ラン ド ・ロシア関係 の転換点 と言 うにはまだ早す ぎ るものの、少 な くとも新関係 構築の出
発 点 となった とい う評価 は定着 しつつ あった。
しか し、200
4年 4月 、 ロシア連邦最高軍事検察庁 は 、1
990年 4月 27日か ら始まったカテ ィン
の森事件 の訴訟手続 き(
調査 No1
59)を、被疑者 の死亡、お よび ロシア検察が事件 の調査 は ロシア
の機 密事項 に関係 す る とい う理 由で終了す るこ とを明 らか に した。そ して 、2005年 3月 1
1日に、
調 査 No1
59の終了が公式 に発表 され た。カテ ィンの森事件資料 1
83巻 の うち 11
6巻 が ロシアの国
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,[
201
0]
)
。
家機 密 に関わ るとされ た (
そ して 、
201
0年 4月 7日に行 われ たカテ ィン 70年 追悼式典 に、
ポー ラン ド・トウスク首相 (
Do
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k)とプーチ ン首相 が共 に出席 した。これ まで ロシアの指導者 がカテ ィンを訪れ た こ
とがな く、 これ は異例 の出来事であった。 プーチ ン大統領 が演説 で 「
全体主義 に よる残虐行為 を
正 当化す ることはで きない」 と述べ た こともあって、 このプーチ ン首相 の式典 出席 は評価 され た
が、その時点 での ロシア側 か らの新たな情報 の公 開等 はなかった。
-95-
しか し、4月 1
0日のポー ラン ド大統領機 墜落事故以降、ロシア側 に協力的な対応 が見 られ るよ
うになった。4月 28日に、ロシア公文書館 は、メ ドペー ジェフ大統顔 (
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の指示 で、スター リン ら指導部 が将校 たちの銃殺 に同意 した署名入 り文 書な どの実物 をイ ンター
00万人のアクセ スがあった とい う (
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,[
201
0
ネ ッ トのサイ トで公 開 した1
9
。お よそ 2
429]
,
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,[
201
0428
a
]
)
。そ して 、5月 8日、対独戦勝 6
5周年式典 のため訪 露 していた
l
ポー ラン ドの コモ ロフスキ大統領代行 (
当時) (
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) は、 ロシアのメ ドペー ジ
ェフ大統領 と個別 に会 談 した。その際、メ ドペ ー ジェフ大統領 は ロシア検 察 当局の捜査資料 6
7巻
(
全1
8
3巻)を引き渡 し (
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,[
2
01
058
]
)、さらに今後順次資料 の引き渡 しを行 うと
明言 した。
0年追悼式典 開催前の 3 月末 に、 ロシアの新聞のイ ンタビューで
一方 、 ロシア公文 書館長 は 7
1
9
40年 に NXVD によって殺害 され たポー ラン ド人 に関す る新 しい文書が存在す ると発言 したが、
どの よ うな文書 かは述べず、ただ現在 も機 密文書 となってい るとだけ述 べた。 この文書 は、カテ
,
8
7
0人 の犠牲者 の名前が載 った文書の うちの一つ
ィンの森事件 同様 、ベ ラルー シで殺害 され た 3
で 未 だ に 明 らか に され て い な い 「ベ ラル ー シ の カ テ ィ ン リス ト」 だ と推 測 され て い る
(
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,[
2010 44)
。4月 7日のカテ ィン 70年追悼式典 にて、プーチ ン首相 がその リス
]
l
ト明 らか にす るか と思われ たが、残念 なが らその よ うな行動 は見 られず 、ポー ラン ド国民 を落胆
させ た (
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a
,[
201
047
a
]
)。つま り、現在 、ロシアによって公 開 され てい る全犠牲者 21
,
8
57
l
人 の うち、カテ ィン 4,
421人 、 ミエ ドノイエ
6,
31
1人、ハル キ フ 38
20人、 ピコプニア 3,
435
人 は犠 牲者 リス トにて明 らか にな って い るが 、残 り 3
,
8
70 人 は未 だ に消息 不 明 の まま で あ る
(
Aba
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l
nW,[
2007
]
)
。 そ して、キエ フ近郊 ピコプニアでは発掘調査が 2
001年 か ら幾度 かにわたっ
O
て行 われ てお り、現時点では ピコプニアでは、カテ ィン、 ミエ ドノイエ 、ハル キフに続 く 4番 目
の墓地建設 が進 め られ てい る。
19
右記のア トレスにて公開されているoh
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4-3 各地域ごとの甥牲者の牡
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,
[
2
0
1
0
,
46]
したがって、カティンの森事件記念式典の主催、プ-チン首相の式典出席、梁料の一部公開な
と、ロシア側か らの和解-向けての歩み寄 りが見えたが、遺族が望む文書の未公表なと事件の全
容が明らかになっていない部分が多く、最終的な解決に向けてはまだまだ時間がかか りそ うであ
る山遺族は未だ消息の分からない犠牲者の情報を長い間待ち続けている山
2
0
1
0年 1
1月 2
5日には、ロシア下院で 「
カティンの森事件はスタ- リンの犯罪である」と4
5
0
人中 3
1
5人が承認 した山翌月 1
2月にメ ト--シェフ大統領がポ-ラン ドを公式訪問した際に、カ
2
0
1
1年 4月)で 1
8
3巻中 1
3
7
ティンの森事件の機密梁料を新たに渡 し、その後も含めて現時点 (
-9
7-
巻 がポー ラン ドに公 開 され た ことにな る。残 り 1
0冊は公務上の使用 で 、36冊 は機 密扱 い となっ
てお り、それ らが今後公 開 され るか ど うかは今 の ところ分 か らない。
2011年 4月 1
1日には、コモ ロフスキ ・ポー ラン ド大統領 、メ ドペー ジェフ大統領 は墜落事故が
起 きたスモ レンスク、そ してカテ ィン-追悼 のために訪れ た。 スモ レンスクに事故犠牲者 の慰 霊
碑 が作 られ たが、 ロシア側 に よ り別 の碑文 にかけ替 え られ て ことが明 らかになった。新 たな碑文
には、カテ ィンの森 事件への言及 が削除 され ていた。現時点では、国際的な コンクール で募集 し、
碑文 につ いて も両国間で協議 す る方 向で決 着 してい る。 それ以前 に、事故の調査 は ロシアが一任
してい ること、事故 の原 因について、 ロシアはポー ラン ド側 の操縦 ミス、ポー ラン ドは ロシア側
の誘導が原 因 と し、責任 問題 が真 っ向か ら対立 してい る。 事故直後 の ロシア側 の熱心な対応 か ら
両国間の関係 は改善の兆 しが見えたが、再度悪化 しつつ あ る現状 である。
② 欧州人権裁判所 を通 じた真相 究明の模 索
カテ ィンの森 事件 が国際裁判 に持 ち込まれ てい ることも述べてお きたい。訴状 の一つ と して、
2009年 5月 24日にポー ラン ド各地 の 1
3人の遺族 が欧州人権裁判所 へ訴 えを起 こ した (
Doc
ume
nt
,
[
2009]
)。その内容 は、「
カテ ィンの森事件 を国際法の規定 に よ り戦争犯罪 、人道 に対す る犯罪 も し
くは集団虐殺罪(
ジェノサイ ド罪)
に認定 され ること。欧州人権条約 に基づいて現実的そ して効果的
な方法で人権侵害が認 定 され るこ と。」である (
Ka
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kl
,[
201]
)。2009年 1
1月 2
4 日には裁判所
0
は ロシア-カテ ィンの森事件 の遺族 による提訴 な らび に 6つの質問事項 を伝 え、 ロシア側 か らの
返答 の期 限を 201
0年 3月 1
9日まで と した。質問内容 は次の通 りである。
1
)「ロシアは、原告 の親類 の死亡調査 を欧州人権条約第 2条(
生命権)に基づ いて適切 にかつ効
(
率 よく行 ったか。特 に、原告 は殺害 の証拠や決定 を裏付 け る手続 きを含む調査資料へのアクセ ス
権 を十分 に与 え られ たか。」
(
2) 「
ロシア政府 は 2004年 9月 21日付 のカテ ィンのケー スの訴訟手続 き(
調査 No1
59)
の中止決
定書の コピー を作成す ることを原告 か ら要求 され た ことについて。」
(
3)「
当事者 が原告 の親類 に関す る文書 、NXVD が直接 関係 し作成 した リス トの記録 、原告 の親
類 の うちの 3人の身元確認 について 1
9
43年 の発掘 に関す る文書の作成 を求 め られ た こ とについ
1981
て。」
(
4) 「
原告 の試みは、彼 らの親類 の消息の情報 を得 るた めに、 ロシアは要求 に応 えるために顧慮
したか。原告 は、条約 第 3条(
拷 問、非人道 的な待遇 または刑罰 の禁止)
に よって、法の保護 を奪わ
れ るよ うな扱 いを受 けたか。」
(
5) 「
原告 が犯罪 の犠牲者 であ ることを、そ して/ も しくは親類 の死亡に関す る調査資料 へのア
クセ スを否定 され た こ とは、条約第 6条(
公正公 開の審理 を受 け る権利)と矛盾 していないか。」
(
6)「
原告 には、条約 1
3条(
公 的救済の権利)
に よって求 め られ る裁量 において、申 し立てに対す
るロシア国内で考 え られ る効果的 な救済法はあったか。」、以上 6つ の質 問が ロシア にな され た 。
そ して 、3月 1
9日にロシアか らの返答 があった (
Rz
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pol
l
t
a
,[
201
0 43a
]
)
。 それ によると、
「
ポー ラン ド人が射殺 され た とい う確証 はない。」、「ロシアはカテ ィンの森事件調 査 をす る義務 は
ない。」、さらに文書では 「
虐殺 」、「
犯罪」とい う単語 を使 われず、「
問題」、「
カテ ィンでの出来事」
Rz
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z
pos
po
lt
a
と記 され てお り、無論 ロシア側 か らの事件解決への協力 を得 るこ とはできなか った (
l
,
[
201
043
b]
)
。 したがって、ロシア側 が応 じない限 り、国際法廷での裁 きも前 に進 めない とい うこ
とである。 この欧州 人権裁判所への訴 えは一部 の遺族 による活動 であ り、ポー ラン ドの遺族会員
全 てに浸透 してい るわ けではないのが現状 であ る。
現時点では (
201
1年 7月 1
2日現在)、6つのカテ ィンの森事件 に関す る訴状 が欧州 人権裁判所
に提 出 され てい る。その うち 2つの訴状 が受 け入れ られ 、同時 に裁判所 は欧州人権条約 の第 2条、
3条 を犯す ロシアのポー ラン ド人 に対す る全ての行為 を検討す ることを決定 してい る。そ して 、3
つ の訴状 は形 式的な理 由か ら無効 とされ た (
TVP2
4,[
201
171
2]
)
。
ポー ラン ド国民の総意 と しては、以降の項 目で示 す世論調査で も表 され てい る通 り、国際裁判
にて ロシアが裁 きを受 けるこ とではな く、現在 も封 印 され てい る全資料 の公 開、そ して ロシアが
事実 を認 めるこ とを求 めてい る。 国際裁判 で最終判決 が下 されれ ば、名 目上事件 の解決 を意味す
る。 ところがそれ は両国間に とっては通過 点 にす ぎず、また新たな溝 ができ、関係 改善 の方 向性
を見失 う恐れ が ある。新 しい対立 を生むのであれ ば、欧州 人権裁判所 に判断 を委ね るこ とはあま
り大 きな意味 をな さないか も しれ ない。第三者 を挟 んだ裁判 の判決 による強制執行 か らではな く、
互 いに歩み寄 り理解 を示 し、歴史認識 の共有 を進 めてい くことが事件解決へ残 され た選択肢 では
19
91
ないか とも考 え られ る。
③20
09年 9月第二次世界大戦勃発 7
0年
1
939年 9月 1日にポー ラン ド北部 のグダンスク郊外 の ヴェステル プ ラ ッテ-の ドイツ軍の侵攻
で第二次世界 大戦が勃発 した。 そ して 、20
09年 9月 1日に開戦 70年 の記念式典 が開催 され た。
戦争勃発 の直接 の当事 国である、 ドイツ、ロシア、ポー ラン ドをは じめ、EU加盟 国や ア メ リカな
ど約 20カ国の代表者 が式典 に出席 した。
ヨー ロ ッパ諸 国 とロシア との間では、大戦勃発 の見解 が異なってい る。 ヨー ロ ッパ諸 国では、
1
93
9年 8月 2
3日に締結 され た独 ソ不可侵条約 の 中のポー ラン ド分割 の秘 密議定書 に基づ き、1
9
39
年 9月 1日に ドイツが西部 ポー ラン ドに侵攻 し、その 1
7日後 に ソ連 軍がポー ラン ド東部 か ら軍 を
進 めてい った こ とで大戦が始 まった とされ てい る。 つま り、 ドイ ツ とソ連 にお け る協定合意 こそ
が大戦の引き金 を引いた との解釈 である。一方 、ロシアは 、1
938年 9月の ミュ ン- ン会 談でイギ
リス とフ ランスのナチ ス ・ドイツに対 して宥和政策 を とった ことが 、 1年後 の ドイツ とソ連 との
協定、つ ま り独 ソ不可侵条約 を締結 す るこ とになった と主 張 してい る。 ドイツの圧力 を軽減 させ
るために、 ソ連 も ドイツに対 して融 和的な姿勢 を取 らざるを得 なかった とい うのであ る。 ミュン
- ン会談 こそが大戦の起点である とい うのが ロシアの主張である (
毎 日新聞,[
200
995]
)
。
この式典 の背景 と して 、2
009年 8月 20 日に、 ロシア国営テ レビは 「
秘密議 定書の秘 密」 とい
う ドキュメンタ リー番組 を放送 した。これ は独 ソ不可侵条約締結 7
0年 に合 わせ た ものである。そ
の 中で、ポー ラン ドは 1
93
4年 に ドイツ と軍事協力な どの項 目を含む条約 を締結 し、これ は ソ連 に
対抗 した ものだ と述 べ、 さらに 「ドイツ と最初 に手 を組 んだのはポー ラン ドであ る」 と指摘 して
い る。 それ に対 し、ポー ラン ド側 は、戦争 勃発 の原 因がポー ラン ドにあ るとの印象 を与 えてい る
と批判 したが、ロシア外務省 は、テ レビ番組 の内容 にまで干渉す ることはできない と返答 した (
毎
200
982
9]
)
oこの よ うな ロシア国内の背景か ら、プーチ ン首相 は開戦 7
0年 の式典 に臨ん
日新聞,[
だ。
プーチ ン首相 は、式典 の前 日の 8 月 31 日付 けでポー ラン ド紙 「
ガゼ タ ・ビボルチ ャ(
Ga
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a
wybor
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)
」へ記事 を投稿 してい る。独 ソ不可侵条約 については、 ドイツ とは梼曙 な く協定 を結 ん
-1
00-
だ こと、 さらに第一次世界大戦後 のベルサ イユ条約 、 ミュ ン- ン協定 にお けるイ ギ リス、フラン
スの宥和政策 、 この協定 によってポー ラン ドとハ ンガ リー もチ ェ コスロバ キアの領土の割譲 を要
求 した こ とな ど、 ドイツ とソ連 の協力だけが戦争 を引き起 こ した原 因でない と主 張 してい る。 そ
して、カテ ィンの森事件 に関 しては、犠牲者 に対 し遺憾 の念 を表 してい るが、同時 に 1
920年 のポ
ー ラン ド ・ソ連 戦争 に よって捕虜 になった ソ連軍 に対 して も、カテ ィンの森事件 同様 、互いの民
Ga
z
e
t
aWybo
r
c
z
a
,[
200
9831
]
)。
族 に対す る悲劇 を共 に受 け止 める必要があるとも述べてい る (
さらに、プーチ ン首相 と トウスク首相 は式典 を前 に会談 し、その後 の記者会 見で両国間の歴 史
認識 をめ ぐる対立 にお いて、検証すべ き歴史問題 が あると指摘 した (
東京新 臥 [
20
0991
]
)
。そ し
て、カテ ィンの森事件 の資料公 開を、 トウスク首相 が要求 したの に対 し、プーチ ン首相 は前向 き
な姿勢 を示 した。
記念式典 の演説 で、プーチ ン首相 は、フ ァシズム との戦 い とその勝利 は多大な損害 を祖 国に与
えた こと、第二次世界 大戦での犠牲者 の うち約半数 は ソ連 国民で あると強 く主張 した。 そ して、
前述 での 「
ガゼ タ ・ビボルチ ャ」紙への投稿 の とお り、第二次世界大戦 は 1
93
4年 か ら 1
9
39年 の
間の協定 、つま りミュン- ン協定での宥和政策 をは じめ とす るナチ ス との協力が引き金 とな り、
結 果 と して悲劇 を引 き起 こ した と述 べてい る。 スター リン時代 の過 ちを認 め、過 去 を克服 し、新
しい関係 を築 き上 げ るとい う願 望 を述べてい るが、カテ ィンの森 事件 な ど、 ソ連 時代 の不 当行為
に関 して直接触れ るこ とは していない。 プーチ ン首相 の演説 は、第二次世界大戦 の勝利 は ソ連 の
「
正義」 と し、戦争へ と導いた責任 は他 の国に もあるとい う見解 を示 した。
ドイツの メル ケル (
An
ge
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he
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r
ke
l
)首相 は、演説 の中で ドイツのポー ラン ド侵攻 は ヨ
ー ロ ッパや世界 に多大な危害 を加 えた と謝罪 し、 ドイツの首相 と して この式典 に出席 で きた こ と
は、我 々のパー トナー シ ップ、協力、友好 の証 だ と述 べてい る。一方 、1
,
20
0万人以上の ドイツ人
が戦後 のポー ラン ドとの国境 の取 り決 めに よって居住地か ら追放 され たのは不 当であ り、 この点
も認識 され るべ きだ との見解 も表 した。
トウスク首相 は、ほ とん ど ドイツ軍 による攻撃 に関 して述べてお り、 ロシア側 か ら受 けた被 害
については触れ ていない。一方 で、ポー ラン ド ・カチ ンスキ大統領 は、 ロシアに対す る批判 の発
言 が見 られ た。カテ ィンの森 事件 は 1
920年 のポー ラン ド・ソ連戦争 に よるポー ラン ド軍の ソ連章
一1
01-
撃退への復讐 であると、そ してポー ラン ド人はその真実 を知 る権利 があ ると主張 してい る。
ポー ラン ドとロシア との間では、大戦 にお ける歴史認識 をめ ぐる対立 が現在 もまだ続 き、 この
時点か ら見 る と両国の歴史の共有 か ら和解への道 の りは遠 そ うである2
0
。
④2010年 カテ ィンの森事件虐殺 7
0年
2
01
0年 4月 7日にロシア側 の主催 でカテ ィン追悼 70年 の式典 が行 われ 、 トウスク首相 とプー
チ ン首相 が共 に出席 した。 これ まで ロシアの代表 がカテ ィンを訪れ るこ とがなか った ことか ら、
プーチ ン首相 の式典 出席 は評価 され たが、その時点 での ロシア側 か らの新たな情報 の公 開等 はな
か った。プーチ ン首相 は演説 で、まず 1
9
30年代 に同 じカテ ィンの地 で殺害 され た ソ連 国民 につい
て触れ 、そ してカテ ィンの森 事件 に関 して も 「
全体主義 に よる残虐行為 は明 白で、決 して正 当化
す ることはできない」 と述べ た。 ロシア側 の主催 で式典 が行 われ た理 由 と して、アメ リカの影響
力 が東欧へ も増 してきてい ること、北大西洋条約機構 PATO)
の東方拡大 によるロシアの東欧 に対
す る影響 力の低 下へ の危機感 が ロシアには あった こ とを指摘 したい。 さ らに付 け加 えるな らば、
ヨー ロ ッパ との安定性 を図 るために、まず は反 ロシア感情 が強いポー ラン ドをは じめ とす る東欧
諸 国 との関係 修復 が不可欠 だ との判断がな され た背景があ る。
この歴史的な式典 の 3日後 、4月 1
0日のポー ラン ド側 の主催 での式典 には、カチ ンスキ大統領
夫妻 、遺族 が出席す ることになっていた。 一貫 して ロシア とは敵対姿勢 を とっていたカチ ンスキ
大統領 は 7 日の式典 には招待 されず、別 日程 でポー ラン ド主催 での式典 を行 う必要があった。 同
じ年 の秋 に大統領選挙 を控 えていたため、国民 が高い関心 を寄せ るカテ ィンの森事件 の 70年追悼
式典 に参加 しな けれ ば選挙 に大 きな影響 を及 ぼす可能性 が あったか らで ある。 ライバル政党所属
の トウスク首相 だけが ロシア に招待 され た ことで、今後 の対話 の窓 口が一本化 され て しま うか も
しれ ない状況 だ った ことか ら日程 を分 けて式典 を行 わなけれ ばな らなか った とい う背景 がある。
こ うした ことか ら、今回 のカテ ィン 70年 式典 は、ポー ラン ドによって、そ して ロシアに よって も
政 治的 に利用 され た こ とにな る。 その最 中での大統領機 墜落事故であった。
墜落事故後 、4 月 28 日には ロシア側 か ら新 たな文書の存在 、公表 の提示 があった (
TVPI
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2
0 2
0
0
9年 9月第二次世 界大戦 勃発 7
0年 -ロシア、 トイツ、ポーラント各国首脳の演説-1
02-
(
参 考資料
1
巻末 )
,
[
201
0428
]
)
。そ して、メ ドペ ー ジェフ大統領 は、カテ ィンの森事件 について 「
歴史 の担造であ り、
それ は国外 にい る人 たちに対 して も罪 を犯 し、我 々 も同様 に罪 を犯 して きた。事件 に興 味 を持 つ
ロシア国民、外 国の人 々に対 して、その真実 を伝 えな くてはな らない。 しか しなが ら、 ソ連 はか
っ て法 と自由 を黙殺 す る体制 にあ り、それ を実現 させ る こ とがで きなか った。」 と述 べ てい る
(
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a
,[
201
0 57)
。5月 8日、第二次世界大戦戦勝 65年記念式典 のた め、 コモ ロフス
l
]
キ大統領代行 (
当時)がモ スク ワ-向った際 、メ ドペー ジェフ大統領 と個別 に会 談 した。その際、
メ ドペー ジェフ大統領 は、カテ ィンの森事件 の捜査機 密 フ ァイル 1
8
3冊の うち 67冊 を引き渡 し、
引 き続 き資料 の秘密解除 を進 めてい くと述 べた。事件 に関す るロシア側 の証左資料 のポー ラン ド
- の引き渡 しは これ が初 めてである。 これ らの資料 の引渡 しが順調 に行 われ分析 が進 めば、事件
の全貌解 明や被害者 の名誉回復 につなが ると思 われ る。前述 の通 り、現時点 (
201
1年 4月)で 1
8
3
巻中 1
37巻 がポー ラン ドに公 開 され てお り、残 り 1
0冊は公務上の使用 で 、3
6冊は機 密扱 い とな
ってい る。
同年 9月 2日には ミエ ドノイエで 、9月 2
5日にはハル キフで遺族 出席 の 7
0年追悼式典 が行 わ
れ た。ハル キフでは コモ ロフスキ大統領お よび アザ ロフ (
Mykol
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a
r
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v)・ウクライナ
首相 が出席 した。 コモ ロフスキ大統領 はキエ フ近郊 の ピコプニア にカテ ィン、 ミエ ドノイエ、ハ
ル キフに続 き 4番 目の墓地 を早急 に建設 したい と演説 で述 べてい る。
⑤ カテ ィンの森事件 に関す る公開資料
9
43年 によっ
最初 のカテ ィンの森 事件 に関す る文献はすで に述べてい る通 り、ドイ ツによって 1
て出版 され た 『カテ ィンにお ける大量虐殺 に関す る公式資料』であ る (
Ma
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l
a
l
,[
1
9
43
]
)
。そ して、
その後 のほ とん どの文献 は、 ソ連 側 か らの資料 がない 中で 、1
9
48年 にロン ドンで出版 され た 『カ
9
95年 か ら、1
998年 、
る。全 4巻 か らな る 『カテ ィンの森事件 に関す る文 書』は、第 1巻 目の 1
2001年 、2
00
5年 の順 に出版 され てい る。
カテ ィンの森事件 の関連記録文 書は旧 ソ連公文書館 に保 管 され てい る。1
9
90年 にポー ラン ドと
ロシア との間で 「
文化 、科学 、教育 の分野 にお ける共同宣言」がな され 、それ に よ り全 てではな
-1
03-
いが歴史家や アー キ ビス トがポス トソ連 の保有す る文書へ のアクセ スが可能 にな った。 しか し、
ソ連時代 の文 書の公 開までには至 らなかった。 1
990年 4月 1
3日、すなわちゴルバチ ョフがカテ
ィンは ソ連 の犯行 と認 めた 日に、東部地域 にいたポー ラン ド人戦争捕虜 の悲劇 に関す る ソ連共産
党 の文書が初 めて公 開 され た。しか しなが ら、それ は ソ連側 によって取捨選択 され た ものであ り、
完 全な公 開であったわけではない。 その後 、 ロシア人歴史家たちがカテ ィンの森 事件 の事実 に近
づ け る よ う学術 界 で働 きか けた 。 1
991 年秋 に、 ポー ラ ン ド国家文 書最 高管理機 関 (
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」
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Koml
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」
1Ros
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J
S
kl
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J
) との間で、ポー ラン ド側 によ りロシアの豊富な文書へ
のアクセ ス-向 けての協議 が始まった。 その 目的の一つ と して、ポー ラン ド人戦争捕虜 の行方 に
992年 4月、 コジェル スク、オ スタシュコフ、スタロビエル スク収
関す る文書の出版 があった。 1
容所 にいたポー ラン ド人戦争捕虜 の殺害 に関す る文 書収集 を行 う共同編集 グルー プの結成 が決議
され た。 その後 ま もな く、9 月 にロシア政府文書間題 にお ける委員会 が保有す る、収容所管理 に
関わ る国家文 書の複写許可が 4月の決議 に付 け加 え られ た。 1
992年 1
0月 にはエ リツ ィンによ り
新 たに文書が公 開 され 、1
9
40年 3月 5日付 のスター リン らのサ イ ンが入 ったポー ラン ド人戦争楠
虜殺害決定の文書 (
べ リヤ書簡)な どが明 らかにな った。(
Ka
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yhDokume
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y Zbr
odnl
,To
m1
,[
1
995]
,
pp4950) そ して 、 1
992年 中にそれ らの公 開文 書 のポー ラン ド語訳 が出版 され てい る (
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kl
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JAka
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lNak,[
1
992]
)。
u
全 4巻 か らな る 『カテ ィンの森事件 に関す る文書』は 、1
939年 9月 1
7日以降の ソ連 のポー ラ
ン ド侵攻 か ら、将校 らを捕虜 と しその後 の彼 らの運命 を辿 ることができ、公文書館 の文 書 を集 め
た最初 の学術的 な文 献である。文書 のほ とん どは前述 の とお りソ連公文 書館 の ものであ るが、そ
れ だけではな く、本書 にはポー ラン ドを始 め関係諸 国の機 関や報道資料 か ら事件 に関わ る重要事
項 の資料 も掲載 され てい ることも付 け加 えてお きたい。第 1巻 は、『戦わず して捕虜 へ 、1
939年 8
月 -1
9
40年 3月』、第 2巻 は 『全滅 、1
940年 3月 -6月』、第 3巻 は 『カテ ィンの森 事件 に関す る
文 書、第三巻 、生 き残 った者 の運命 、1
9
40年 7月 -1
943年 3月』、第 4巻 は 『カテ ィンの森事件
に関す る文書 、第四巻 、カテ ィンの反響 、1
943年 4月 -2005年 3月』 と、各巻 のテーマ に基づい
て、年代 、 日付順 で文 書が紹介 され てい る。
-1
04-
a
)第 1巻 『
戦わず して捕虜へ 、1
939年 8月 -1940年 3月』
第 1巻 の最初 は 、1
939年 8月 23 日に ドイツ とソ連 によって交わ され た独 ソ不可侵条約 の内容
で ある。 そ こにはポー ラン ドを東西で 2分割す る秘密議定書 も付 け加 え られ てい る。
1
939年 1
0月 2日付 で、べ リヤ とメフ リス (
Le
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hl
l
S
) はスター リン-捕虜 の扱 い に関す る
Ka
yhDo
t
ku
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odnl
,Tom 1
,nr36,[
1
995]
,p1
27)。NKVD は、捕虜 を民族 、
文 書 を送 ってい る (
領 土、職 業、軍 の階級 ごとに厳密 に分類 していた。 当文書 には、 ウクライナ とベ ラルー シ国籍 を
持 つ戦争捕虜 、両国に住む他 の国籍 の住民 の解放 、ポー ラン ドの ドイツ分割部 出身の戦争捕虜 は
ドイツ側 との交渉での引き渡 し、ポー ラン ド人将校 をは じめ、職 業 ・階級 ごとに収容所 を分類 、
うち将軍 、大佐 、中佐 、その他 のポー ラン ド上級 国家公務員 、軍 関係公務員 はス タロビエル スク
収容所へ 、情報機 関員 、防諜機 関員 、憲兵 、警察官 、看守 はオ ス タシュ コフ収容所へ、 ドイツに
分割 され たポー ラン ド領土出身の戦争捕虜 は コジェル スク収容所 とプテ イヴル収容所へ な ど記載
され てい る。 (
ザ スラフスキー ,[
201
0]
,pp18
20)
続 いて 、 1
0月 8日付 でべ リヤは捕虜 、衛兵 、近隣村 落住民 に対す る秘密警察 の実務 の原則 と方
法 についての指令 に署名 した (
Ka
t
yhDokume
nt
y Zbr
odnl
,To
m1
,nr46,[
1
995]
,
pp1
501
52)
。ソ連秘
密警察はそれ まで 自国民 を弾圧 し、強制収容所 を組織 して きた経験 の蓄積 か ら、その機 能 を把握
していた。 その経験 に よ り、秘密警 察は捕虜 の態度 を常 に監視 していた ことが当文書で読み取 る
こ とができる (
[
201
0]
,ザ ス ラフスキー ,
pp21
24)
。 その監視 か ら 「
使 えそ うな」ポー ラン ド人捕
虜 と、「
ポー ラン ド再興」のために戦お うとす る反 ソ的な捕虜 とを見極 め、後 の処刑 か否 かの選別
に役立てたのであろ う。
1
939年 1
0月末 か ら 1
1月初旬 にかけて、 ドイツ とソ連 との間でポー ラン ド人捕虜 の交換 が行 わ
れ た。 ドイ ツ支配 下地域 出身のポー ラン ド兵約 43,
000人が ドイツ側へ、 ソ連支配 下出身の兵士約
1
4,
000人が ソ連側 に引 き渡 され た (
[
201
0]
,ザ ス ラフスキー ,p25)。 1
0月 27日付 の文書では、ナ
チ スによる迫害 を恐れ た ワル シャワ近郊 出身のユ ダヤ人が、 ドイ ツ側 に引き渡 され るの を拒み ソ
連 に残 ることを望んでい るとい う報告 が され てい る (
Ka
yhDoku
t
me
nt
yZbr
odnl
,Tom 1
,nr8
0,[
1
995]
,
pp21
8220)
。翌 日、 1
0月 28日には、指導部 よ りべ リヤ宛 にその願 いは聞き入れ られ ない との返
答 がある。 (
Ka
yhDoku
t
me
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yZbr
od
nl
,Tom l
,nr81
,[
1
995]
,p221)
-1
05-
他 に、1
939年 1
0月か ら 1
940年 にかけて、戦争捕虜 の収容所 での生活状況や 、各収容所 の捕虜
数 の統計 、国籍 、階級 、職業別 の人数 、収容所 での死亡者 ・自殺者 につ いて、収容者 に よる戦争
捕虜待遇 の国際規範適用 の訴 え、捕虜 の規律違反 、収容者 の政治意識 な どが逐一報告 され 、それ
らが文書 と して多 く残 され てお り、それ によって当時の収容所 での 日常生活 が見て取れ る。
ポー ラン ド人将校 の運命 について 、1
940年 3月 2日付 のべ リア と当時の ウクライナ共産党第一
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v) がスター リンに提 出 した
書記 であったニキー タ ・フル シチ ョフ (
ものがある。そ こでは、ポー ラン ド人戦争捕虜 の家族 のカザ フスタン-の移送 が提案 され ていた。
(
Ka
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yhDokume
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odnl
,Tom
l ,
nr208,[
1
995]
,p460) そ して 、3月 5日には、べ リヤ か らスタ
ー リン-宛 てたべ リヤ書簡 では 、25,
700人 (うち 1
4,
700人はポー ラン ド人将校 、ll
,
000人は西 ウ
ク ライナ 、西ベ ラル ー シ地域 にい る捕虜) を証拠提 出な しに最高刑 すなわち銃殺刑 に処す るこ と
Ka
yhDokume
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odnl
,To
m
が書かれ てい る (
1 ,
nr21
6,[
1
995]
,pp469475)
。 それ には、スター
リン、 ヴォロシー ロフ、モ ロ トフ、 ミコヤ ンの署名 もされ てい る。 同 日、戦争捕虜 の銃殺刑 の決
定 が文書 と して残 ってい る (
Ka
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kume
nt
y Zbr
odnl
,Tom 1
,nr21
7,[
1
995],p476)
。
b)第 2巻 『全滅 、1940年 3月 -6月』
第 2巻 では、 コジェル スク、オ ス タシュコフ、 スタロビエル スク収容所 、西 ウクライナ、西ベ
ラルー シの捕虜 21
,
8
57人の処刑 の実行 、処刑 を免れ た者 の処置、そ して 1
9
40年 3月か ら始まっ
た捕虜 の家族 の移送準備 に関係 す る文書が掲載 され てい る。
1
940年 3月 7日、すなわち捕虜 の処刑 が決定 した 2日後 に、べ リヤ によって捕虜 の家族 を 4月
1
5 日までにカザ フスタン-移送 、そ して 1
0年 の刑 を言 い渡す よ う命令 す る文 書があ る (
Ka
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odnl
,Tom 2,n 2,[
1
998]
,
pp4346)。4月 1
0日には、家族 の移送計画の決議 を示す文
r
書 が出 され てい る。その中で、北カザ フスタン-は 22,
000人 か ら 25,
000人の家族 を移送 させ る計
Ka
yhDokume
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odnl
,To
m 2,
nr81
,[
1
998]
,
pp1
61
1
67)
。
画 があった (
1
940年 3月 23日か ら 25日の間で、スタロビエル スク収容所 にい る捕虜 の処刑 地であるハル キ
フ の 準 備 は整 い 、移 送 列 車 は ス タ ロ ビエ ル ス ク で待 機 して い る との報 告 が あ っ た (
Ka
yh
t
Do
ku
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yZbr
odnl
,Tom 2,nr29,[
1
998]
,pp8586)。
-1
06-
捕虜 の処刑 決定か ら、NXVD の間で各収容所 の責任者 が挙 げ られ 、人員配 置の指令や報告 に関
す る文書 が度 々見 られ る。 そ して、各収容所 か ら処刑 の場 へ向か う手段 、ルー トの計画 も見 られ
る。コジェル スク収容所 か らスモ レンスク、カテ ィン-の移送 は 1
940年 4月 3日か ら始 ま り、そ
Ka
t
yhDoku
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nt
yZbr
odnl
,Tom 2,nr18
4,[
1
998]
れ ぞれ の 日に移送 され た人数 も記載 され てい る (
,
pp293295)
。オ スタシュコフ収容所 か らカ リ一二 ン (
1
931年 か ら 1
990年 までの名称 で、現在 の
地名 は トヴェ リ)の移送 は 、4月 24 日か ら 5月 1
3日までの期 間で、 日付 、出発時間、移送人数
ご とに表 で示 され てい る (
Ka
yhDokume
t
nt
y Zbr
od
nl
,Tom 2,nr182,[
1
998
]
,pp291
292)
。 ス タロビ
エル スク収容所 か らの移送 は 、
4月 5日か ら 5月 1
2日の期 間に、
名簿 リス トの 3,
8
91人の うち 3,
885
人 がハル キフ- 、3人 がモ スクワ- 、2名 がハル キフの病 院へ 、 1人 は名前の重複 とい う詳細 であ
る。加 えて、各 日に移送 され た人数 も記載 され てい る (
Ka
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odnl
,To
m 2,nr1
96
,
[
1
998]
,pp31
4318)。 これ らの文書 によると、当時 コジェル スク収容所 には 4,
599人 、オ ス タシュ
36
4人、 スタロビエル スク収容所 には 3,
895人いた ことが分 か る。
コフ収容所 には 6,
1
940年 5月 1
9 日頃の時点で、 コジェル スク、オ スタシュ コフ、スタロ ビエル スク収容所 か ら
処刑 地へ、そ してユー フヌフ (
モ スクワか ら南西 1
50km の都市)の収容所へ移送 され た人数 が報
告 され てい る (
Ka
yhDokume
t
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y Zbr
od
nl
,Tom 2 nr203,[
1
998]
,
pp327330)
。
,
実際の処刑 に関 しては 、4月 1日に署名 され 、5日にメル クー ロフに対 してオ スタシュ コフ収容
所 の捕虜 が 3
43人 に処刑 が実行 され た との報告 があった (
Ka
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yhDokume
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od
nl
,Tom 2,nr60
,
[
1
998]
,p1
29)。4月 1日と 2日には コジェル スク収容所 の 69
2人の名 前が載 ってい る 7枚 の リス
トがあ り、その リス トは 3日に収容所へ送 られ てい る。4月 3日に最初 の 7
4人 が 、4 日に 323人、
5日に 28
2人がスモ レンスク近郊 のカテ ィン-向か ってい る。スタロ ビエル スク収容所 では 、4月
3 日に得 た 6枚 の リス トによ り、5日に 1
95人 、6日に 200人 、7日に 1
95人が収容所 を出発 して
い る。
第 2章 で記述 したカテ ィンでの処刑 を免れ たス タニスワフ ・シフ イアニエ ヴィ ッチ に関す る指
示 書 も明 らか になってい る。 それ は 1
9
40年 4月 27 日の文書で、 コジェル スクに収容 のシフ イア
ニエ ヴィッチ とオ スタシュコフに収容 の 1名 を残す よ うに と (
Ka
yhDo
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ku
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y Zbr
odnl
,To
m2
,
nr
1
45,[
1
998]
,pp2
432
44)、そ して 28日にはシフ イアニエ ピッチ をモ スクワのル ビヤ ンカ NXVD
-1
07-
刑 務所 へ移 す よ う指示 が出 され た (
Ka
yhDoku
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m e
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odnl
,Tom 2,nr1
49,[
1
998
]
,p246)
。実際、
シ フ イアニエ ピ ッチ は 4月 29 日に コジ ェル スク収容 所 を出発 し、30 日にカテ ィン近郊 の グニエ
ス ドグォ駅 に他 の捕 虜 と共 にいたが 、彼 だ け列 車 に取 り残 され た。彼 は他 の捕虜 が列 車 を降 り、
車 で どこかへ運 ばれ て い くの を 目撃 してい る。カテ ィンは グニエ ス ドグォ駅 か ら 3km ほ ど しか離
れ ていない。
1
940年 5月 21日か ら 25 日の間 の報告 では、その時点 での 3つ の収容所 か ら処刑 地お よびユー
フヌ フ収容所 に移送 され たポー ラン ド人捕 虜 の人数 が記載 され て い る。 3 つ の収容所 か ら処刑 地
4,
587人 、ユ ー フヌ フ収容所 へ は 395人 の移送 が行 われ た (
移送 中の死 亡者 がお り、 よって
へは 1
394人 と記録 され てい る。)(
Ka
yhDo
t
kume
nt
y Zbr
odnl
,
Tom 2,nr21
5,[
1
998]
,pp3L
4
43
46)。そ して、
m に位 置す る
ユ ー フヌ フ収容所 へ移 送 され た捕 虜 は 、6月半 ば には そ こか らモ ス ク ワか ら北 500k
ヴォ ログダ近郊 の グ リア ゾ ヴィェ ツの収容所 へ移 され てい る。
C
)第 3巻 『生 き残 った者 の運命 、1940年 7月 -1943年 3月』
第 3巻 では、ポー ラン ド人捕虜 処刑 の終 了か ら、 1
943年 4月 1
3 日の ドイ ツに よるカテ ィンで
の遺 体発 見の発表 まで の収容所 の状況 に関す る文 書 が集 め られ てい る。
消息 が不 明 にな った捕虜 の家族 か ら、国際赤十字 を通 して ソ連 当局 に多数捜 索願 が 出 され てい
た。 その 中には 、 ジュネー ブ の国際 赤十字 が家族 か ら捕虜 の消息 を求 め られ てい るこ とを、直接
ソ連側 に対 して伝 え る文 書 が あ る。(
Ka
t
yhDokume
nt
y Zbr
odnl
,To
m 3,
nr46,[
2001
]
,pp1
421
43)こ
の よ うな国際 赤十字 か らの文 書 は度 々見 られ る。
1
940年 7月 1日頃 の時点 で、処刑 か ら免 れ た コジェル スク、オ ス タシュ コフ、ス タロ ビエル ス
ク収容所 にい た捕虜 の数 は 39
4人 で あ り、彼 らは グ リア ゾ ヴィェ ツの収容所 に移送 され た。文 書
で は そ の 394 人 の軍 の階 級 別 、予備 軍 で あれ ば そ の職 業 ご とに人数 が記 載 され て い る (
Ka
yh
t
2001,
pp525
4)。 その他 、収容 所 に関 して 、 日常生活や 衛 生状況
Do
ku
m e
nt
yZbr
odnl
,Tom 3,n 2,[
r
]
9
40年 1
2 月 には、捕虜 と家族 の手紙 のや り
や 労働 、捕虜 と看 守 の対立 な どが報告 され てい る。 1
取 り、家族 や知 人 か らお金や荷物 を受 け取 るこ とが許 され た (
Ka
t
yhDokume
nt
y Zbr
odnl
,To
m 3,
nr
。そ して、同 じく して グ リア ゾ ヴィェ ツの捕虜 は、彼 らの家族 がカザ フ ス タン89,[
2001
]
,p226)
-1
08-
送 られ 、悪条件 の中での生活 を強い られ て るとい う情報 を知 りえた ことも報告書 の中で記 され て
いる (
Ka
yhDo
t
kume
nt
y Zbr
odnl
,To
m 3,
nr12,[
2001
]
,
pp298
302)
。
2
1
941年 6月 2
2 日の独 ソ戦勃発 によ り、べ リヤは捕虜 の移動 計画 を承認 してい る。 コジェル ス
ク収容所 に残 っていた 909人 の将校 はグ リア ゾ ヴィェ ツの収容所へ 、 リグィウの収容所 の兵卒、
下士官は ウクライナ東部 の空港建設 に従 事す るために移送 となった (
Ka
yh Dokume
t
nt
y Zbr
odn
l,
Tom 3,[
2001
],p2
6)。他 の収容所 か らも捕虜移送 の命令 が出てい る。 そ して、 ソ連領 内にい る捕
虜 はポー ラン ド人だ けではな く、 ウクライナ人、ベ ラルー シ人、 リ トアニア人、 ラ トビア人、エ
ス トニア人な ども含まれ る。最 も大規模 で行 われ た移送 は 、6月 29 日付 の文書 で リグィ ウの収容
所 の撤退 であ り、400の列 車の車両が必要 とある (
Ka
t
yhDokume
nt
y Zbr
od
nl
,To
m 3,
nr1
70,[
2001
]
,
pp298302)
。
1
941年 7月 1
0 日付 の文 書 には、唯一 ソ連 の機 密文書で 「
カテ ィン」 とい う名称 が出て くる。
文 書の内容 は、カテ ィン付近 に ドイ ツ軍が攻 める前 に、スモ レンスクの収容所 にい るソ連人囚人
載 され てい る。1930年代初頭 か らカテ ィンの森 はすでに囚人や逮捕者 の処刑場 となっていた。1941
年 6月 の独 ソ戦勃発 によ り、 ドイツ軍 がスモ レンスク付近 に攻 め入 る前 に、収容所 に残 っていた
ソ連 人 囚人 の移 送 が 間 に合 わな か ったた めにカテ ィンで の処刑 に至 った と され て い る (
Ka
yh
t
409)
。
Do
ku
m e
nt
yZbr
odnl
,Tom 3,nr18
2,[
2001,pp408]
1
941年 7月 30 日にポー ラン ドエ ソ連軍事協定が結 ばれ 、両国は共 に ドイ ツを敵 と して戦 うこ
とに合意 した。8月 1
2 日には ソ連最高議会 はポー ラン ド人捕虜 の恩赦お よび ソ連領 内での解放 を
法令 と して定 めた (
Ka
yhDo
t
ku
m e
nt
yZbr
odnl
,Tom 3,nr1
96,[
2001
]
,
pp44044 。 1 月 1日付 のべ
1
)
0
リヤか らスター リン- の報告 は、ポー ラン ド人の恩赦 と彼 らの移住先 にお ける法令 の執行 に関す
るものである (
Ka
yhDokume
t
nt
y Zbr
odnl
,To
m 3,nr207,[
2001,pp464466)
。 ポ ・ソ軍事協定 に基
]
づ き、 ソ連 内でポー ラン ド軍 を再編成す ることにな った。 しか し、出頭 す る将校 の数 が極端 に少
ない ことか ら、1
941年 1
2 月初 めにポー ラン ド亡命政府首相 シ コル スキがモ スクワ-訪れ ること
にな る。 その訪 問に対 して、 シコル スキに提示す るための ソ連領 内のポー ラン ド人捕虜 の数 を示
した ものを ソ連側 は準備 していた (
Ka
yhDokume
t
nt
y Zbr
od
nl
,Tom 3,nr21
7,[
2001,pp493495)。
]
-1
09-
そ して、1
2月 3日の シ コル ス キ、ア ンデル ス将軍お よび ス ター リン との会 談 の 内容 が議 事録 と し
て残 ってい る (
Ka
yhDo
t
k
u
me
n
yZb
t
r
od
nl
,
To
m3 nr221
,[
2001,
pp499509)
。1
9
42年 4月 4日の文
,
]
書 では、べ リヤ か らス ター リン- 、 ポー ラ ン ド軍 の ソ連撤 退 、イ ラン- 向か った こ とを報告 して
2,
1
55人
い る。 イ ラン- は 42,
25
4人 が 、 うちポー ラ ン ド軍 30,
099人 、軍人以外 のポー ラン ド人 1
Ka
yhDo
t
ku
me
n
y Zbr
t
o
d
nl
,To
m 3 nr236
が 向かい、1
47人 は病気 の た め ソ連 に留 ま った とあ る (
,
,
[
2001
]
,pp5
425
43)。中東へ 向か ったポー ラン ド軍 の人数 が解放 され た と言 われ てい る人数 よ り少
な く、 ソ連領 内 のポー ラン ド人兵士 を徴集 す る時 間 が さほ どなか った こ とに対 して、ポー ラン ド
側 は抗議 した が、 ソ連 側 はそ の兵士徴集 を早 々 と締切 った。 1
942年 9月 には、 ソ連 か らのポー ラ
ン ド軍 の撤退 終 了の報 告 が され 、9月 1 日の時点 で 69,
91
7 人 がイ ランに向か った とされ てい る
(
Ka
t
y
hDo
k
u
me
n
y Zb
t
r
o
d
n
l
,To
m 3 nr240,[
2001,pp530531)
。 一方 、1
939年 1
1月 1日の時点 で
,
]
ソ連 邦 内 に在 住 してい たポー ラン ド人 には ソ連 国籍 を与 え られ た。 1
9
43年 1月 1
5 日付 の文 書 で
は 、それ らのポー ラ ン ド人 を強制 的 に ソ連 国籍 に変 更 、 も し拒 む者 がいれ ば処罰 す る と決 定 され
てい る (
Ka
yhDo
t
k
u
me
n
yZb
t
r
o
d
nl
,
To
m 3,
nr243,[
2001
]
,pp560563)。
d)第 4巻 『カテ ィンの反響 、1943年 4月 -2005年 3月』
第 4巻 は、 ドイ ツに よるカテ ィンの森 事件 の発 覚 か ら始 ま り、 ソ連 とポー ラン ドそ してア メ リ
カ 、イ ギ リス とのや り取 り、 カテ ィンの調 査 、そ して戦後 か ら現代 の動 向までの事件 に関わ る文
書 を見 るこ とがで き る。
1
943年 4月 1
3 日、ベル リンの ラジオ で宣伝相 グ ッベル スが カテ ィン一帯 にポー ラン ド人将校
の遺 体 が埋葬 され て いた こ と、 これ は ソ連 の犯行 で あ る と公表 した。 当時 の ドイ ツに よ る報道 内
容 が確認 で き る (
Ka
yhDo
t
k
me
u
n
t
yZb
r
od
nl
,To
m4,
n 1,[
2006]
,p43)。 この報道 に ソ連 は反論 し ド
r
イ ツの犯行 と主 張す るが、 こ こで ソ連 が ドイ ツの犯行 と反 論 させ るた めの指令 の よ うな政府 内部
の文 書 は特 に見 当た らない。4月 1
5日にモ スク ワで グ ッベル ス に よる ソ連 へ の事件 に関す る中傷
は報道 され て い る。
4月 21日は ス ター リンがル ー ズベル ト (
Fr
a
nkl
l
nRoo
s
e
ve
l
t
) とチ ャーチル宛 に手紙 を出 してお
り、その 中身 は ドイ ツの公表 に対す るコメ ン ト、そ してポー ラン ド政府 の対応 には疑 うものが あ
ー1
1
0-
り、 ヒ トラー との陰謀 に関わ りソ連 との同盟 関係 を危 うく させ よ うと してい る とい う内容 で あ る
(
Ka
t
yhDokume
nt
y Zbr
od
nl
,Tom 4,nr 9,[
2006]
,pp5458)
。 とい うのは 、 1
7日にポー ラン ドと ドイ
ツの赤十字社 は スイ スの国際赤十 字 に調 査 を依 頼 してお り、その こ とか ら4月 1
9日に ソ連 の 『プ
ラ グダ』紙 で ポー ラン ド政府 はナチ ス ・ドイ ツ と接 触 を図 って い る と報道 され たか らで あ る (
Ka
yh
t
Do
ku
me
nt
yZbr
odnl
,To
m 4,nr 7,[
2006]
,pp4952)。 ス ター リンは 24日の メモ で 、イ ギ リス首相 は
ポー ラン ドと ドイ ツの陰謀 の可能性 を問題 視 してい るが、 ス ター リンは特 に重要 な問題 には して
お らず 、 カテ ィンの森 事件 にお いて ポー ラ ン ドが ドイ ツに接触 す る可能性 は低 い と、 イ ギ リス政
府 に対す る見解 を書 い てい る (
Ka
y
thDoku
me
nt
yZbr
odnl
,Tom 4,[
2006]
,
p1
2)。25日には、在 ソ連
ポー ラン ド大使 の タデ ウシュ ・ロメル (
Ta
de
us
zRo
me
r
) がモ ロ トフに呼び 出 され 、ポー ラン ド ・
ソ連 の国交断絶 を言 い渡 され た。 同 日、 ス ター リンか らチ ャーチル - の電報 に よって、 ポ ・ソの
国交断絶 が通 達 され た。 (
Ka
yhDo
t
kume
nt
y Zbr
odnl
,To
m 4,
nr1
5,[
2006]
,
pp6
466)。
その後 、ポー ラン ド赤十字 お よび ドイ ツ側 が結成 した国際調 査 委員会 は、カテ ィン- 専 門家 を
派 遣 し本格 的 な調 査 を開始 した。6月 にはポー ラン ド赤十字 に よる報告 書 が 出 され てい る (
Ka
yh
t
Do
ku
me
nt
yZbr
odnl
,Tom 4,nr34,[
2006]
,pp1
071
1
5)
。 一方 、永 世 中立 国で あ り戦争 の圏外 に立 っ
て い るスイ ス国際赤十 字 は ソ連 に配 慮 して調 査 に加 わ るこ とを拒 否 して いた。 しか し、 ドイ ツ側
の要請 に よ りスイ スの専 門家 も ドイ ツ側 が結成 した調 査団 の一員 と して カテ ィン-派遣 され た。
ソ連 軍 が スモ レンス クに迫 りカテ ィンを ドイ ツか ら取 り返 す と、NXVD は独 自に調 査 を始 め出
す。 1
9
43年 1
0月 5日か ら 1
944年 1月 1
0日にか けて、95人 に対 して聞 き取 り調 査 が行 われ てお
り、その報告 書 が見 られ る (
Ka
yhDoku
t
me
nt
y Zbr
odnl
,Tom 4,nr42,[
2006]
,pp1
291
6
4)。 そ して 、
ソ連 民 だ けで構 成 され 、 は じめか ら ドイ ツ人 の有罪 を確 信 す る外 科 医 の ニ コ ライ ・プル デ ン コ
(
Nl
kol
a
lBur
de
nko) を委員 長 と したプル デ ンコ委員 会 が結成 され た。 そのプル デ ンコ委員会 の調
査報告 資料 の多 くを見 るこ とがで き る。 プル デ ンコ委員会 の ドイ ツに よ る犯行 とす る所 見は、 ポ
ー ラン ド人捕虜 を射 殺 す るの に使用 され た いた ピス トル の弾 丸が ドイ ツ製 で あった とい う事実 を
主 な根拠 と していた (
Ka
yhDokume
t
nt
y Zbr
odnl
,
Tom 4,nr65,[
2006]
,
pp28028
6)
。 さ らに、プル デ
ン コ委員会 の行 った 目撃者 か らの 聞 き取 り調 査 で、 「
処刑 は 1
941年 8月 -9月 に行 われ た」 との
証 言 が浮 上 した (
Ka
yhDoku
t
me
nt
yZbr
od
nl
,Tom 4,nr58,[
2006]
,pp239255)
。す なわ ち、この証言
-111-
は1
9
41年 6月 22日の独 ソ戦勃発 によ り、8-9月のカテ ィン一帯は ドイツの 占領 下で あることか
ら、 ドイツの犯行 と裏付 けるものであった。
ニュル ンベル グ裁判 において、モ スクワでニュル ンベル グ裁判組織委員会 が設 立 され 、事件 を
ドイツの有罪 を確定 させ るた めに、起訴 の証拠準備 が前 もって行 われ た。証人の リス ト、 ドイ ツ
の犯行 を決定づ ける文 書準備 が委員会 の議事録 に書かれ てい る (
Ka
yhDo
t
ku
me
n
t
yZbr
od
nl
,To
m4,
nr8
4,[
2006]
,pp356359)
。委員会 の議 事録 は他 にもい くつかあ り、そ して 1
946年 7月 1日に裁判
Ka
t
yhDo
kume
nt
yZbr
o
d
nl
,
To
m
でカテ ィンの森事件 が扱 われ 、
裁判 中のや り取 りの記録 が見 られ る (
4,
nr8
5,[
2006]
,pp360430)
。 しか し、カテ ィンの森事件 は 「
証拠不十分」で裁判 か ら除外 され て
い る。
1
951年 にアメ リカ議会 はカテ ィン問題特別委員会 を設置 した。1
952年 にア メ リカ国務省 は、こ
の委員会 の委員長名 で ソ連大使 に手紙 と決議 を送 り、カテ ィンの森事件 に関す る証拠資料 の提供
を ソ連政府 に求 めた。 ソ連政府 は国際関係 の共通の規範 を侵害 し、 ソ連 への誹誘 である と抗議 し
た。1
952年 3月 3日に この出来事 を 『プ ラ グダ』紙 に掲載 してい る (
Ka
yhDo
t
kume
nt
yZbr
o
d
nl
,
To
m
4,nr90,[
2006]
,pp438
439)。 1
952年 1
2月 にはアメ リカ議会 でカテ ィンの森事件 が ソ連 内務省 に
よって 1
939年 に計画 され 、処刑 が実行 され た と認定 され てい る(
本稿 p1
37参照)(
Ka
yhDo
t
k
ume
n
y
t
zb
r
o
d
n
l
,
To
m4
,
n
r92,[
2006]
,ppL
4
42445)。
1
959年 3月 に、KGBの長 官はフル シチ ョフに対 して 、1
9
40年 のポー ラン ド人捕虜処刑 に関す
る証拠資料 の破棄 を提案 してい る。これ は ソ連 NKVD 特別評議会 の組織 にお け る証拠資料破棄 と
い う責任 問題 が問われ る文書の うちの一つであ る (
Ka
yhDo
t
ku
me
n
t
yZbr
od
nl
,To
m4,
nr93,[
2006]
,
pp445447)
。そ して、この文書 に よると、1
959年 の時点で事件 の証拠資料 の存在 が明 らかになっ
ていた ことが分 か る。
1
970年代 に入 ると、イギ リスで もカテ ィンの森事件 が表舞台 に出て くる。 イギ リスでのカテ ィ
ンの森事件 に関す る文献の出版や 、テ レビ番組 で記録映画 が放送 され るな ど、反 ソ的なプ ロパ ガ
ンダ運動 が出てきてい ることが ソ連 当局 に報告 され てい る (
Ka
yhDo
t
kume
nt
yZbr
od
nl
,
To
m4,
nr9
4,
[
2006]
,p44 )。 1
973年 には、 ロン ドンにカテ ィン慰霊碑 の建設計画が進行 中であることに対 し、
7
ソ連 当局 は抗議 してい る (
本稿 p1
36 参 照) (
Ka
yhDo
t
ku
me
n
t
yZbr
od
nl
,To
m 4, nr99,[
2006]
,
-1
1
2-
pp45
4455)
。
1
98
7年 には、カテ ィンの森事件 も含む 「
歴史の 白斑」 (
本稿 p8参照)の解 明 を 目的 と したポー
ラン ド ・ソ連合 同歴史調査委員会 が設置 され る (
Ka
t
yhDoku
m e
nt
yZbr
odnl
,Tom 4,nr1
02 [
2006]
,
pp459472)
。1
988年 には、ソ連 当局はポー ラン ド人のカテ ィン訪 問制 限の緩和 を決定 した (
Ka
yh
t
03
,[
2006]
,
pp472475)
。
Do
ku
m e
nt
yZbr
odnl
,Tom 4,nr1
ゴルバ チ ョフが最高首脳 とな り、 グラス ノスチ政策 か ら共産主義圏の歴史研 究 の方法や方 向 も
変 えるこ とによって、独 ソ不可侵条約 の秘 密議定書や カテ ィンの森事件 の問題 が ソ連 に とって政
治的 に無視 で きない状況 になった。 1
990年 2月 2
2 日には、 ソ連 共産党 中央委員会 国際局局長 の
ヴァ レンテ ィン ・ファ リン (
Va
l
e
nt
l
neFa
l
l
n) が ゴルバチ ョフに宛 てた手紙 で、カテ ィンの森事件
に関す る機 密文書の存在 が発覚 し、それ は NKVD の犯行 を裏付 けるもので あることが伝 え られ た。
フ ァ リンは、文 書が発 見 され た以上 、 これ までの ソ連 の見解 を通す ことはできない と考 え、 この
犯行 をべ リヤ とNKVD 組織 になす りつ けることをゴルバチ ョフに提案 してい る (
Ka
yhDokume
t
nt
y
2006]
,pp498501)
。1
990年 4月 7 日に、共産 党 中央委員会政治局は NKVD
zbr
odnl
,Tom 4,nr118,[
のカテ ィンの虐殺への関与 を TASS通信 に報道 させ ることを決定 した。この ことは 4月 1
3日に報
道 され 、 ソ連側 はカテ ィンの森事件 に対 しスター リンの犯罪 の一つであ ることに深 い遺憾 の念 を
示 し、今回発 見 され た文書の コピー をポー ラン ド側 に渡 し、今後 も文書 の捜索 を続 けてい くと発
表 した (
Ka
yhDo
t
kume
nt
y Zbr
odnl
,Tom 4,nr1
21[
2006]
,pp50
4505)
。同 日の 4月 1
3日、ヤル ゼル
スキ ・ポー ラン ド大統領 がモ スクワを訪れ ゴルバチ ョフ と対面 してい る。 その会 談の際 にカテ ィ
ンの森事件 を言及す ることを共産 党 中央委員会 が決定 した文書 もある (
Ka
yhDokume
t
nt
y Zbr
odn
l,
Tom 4,nr1
23,[
2006]
,pp50650 )。 11月 3 日には、ポ ・ソ間関係 の歴史 に関す る文 書や 、そ して
7
ソ連 の犯罪 を暴露す るよ うな文書 も明 らか に してい くとい う目的 で、研 究調査 を開始す るよ う、
ゴルバチ ョフが指示 してい る。 これ は今後 ポー ラン ドと 「
歴史の 白斑」 問題 を話 し合 ううえ不可
欠 にな って く るで あ ろ うとも記 して い る (
Ka
t
yh Do
kume
nt
y Zbr
odnl
,To
m
4,
nr 1
26,[
2006]
,
pp50951
3)。 この ゴルバチ ョフの指示 が、本文献 において ソ連公文書館 の資料 で 「
機 密」 と記 さ
れ た最後 の文 書である。
その後 の文書 には 、1992年 10月 1
4 日にはエ リツ ィンが ヴァ ウェンサ大統領 にべ リヤ書簡 を合
一1
1
3-
む文書の コピー を手渡 した こ とや 、カテ ィン、 ミエ ドノイエ、ハル キフの慰霊碑や墓地 の建設 、
2005年 のカテ ィン虐殺 65年 に際 してポー ラン ド共和国下院のセイムは事件 の事実解 明 を今後 も
求 めるとともに、 ロシア との関係 構築 にも努 め る意 向を示 した ことが書 かれ てい る。
e
) 『カテ ィンの森事件 に関す る文書』か ら見 る公開資料 の考察
前述 の とお り、現在 の時点 で全ての文書 が公 開 され てい るわけではない。未 だ機 密扱 いで封印
201
1年 4月)で 18
3巻 中 1
37巻
され てい る文 書 も存在 す る。すでに示 してい るとお り、現時点 (
がポー ラン ドに公 開 され てお り、残 り 1
0冊は公務上の使用 で 、36冊は機 密扱 い となってい る。
8
70 人の犠
公 開 され ていない資料 の一つ に、カテ ィンの森 事件 同様 、ベ ラルー シで殺害 され た 3,
牲者 の名 前が載 った文書の うちの一つで未 だに明 らかに され ていない 「
ベ ラルー シのカテ ィン リ
ス ト」がある (
本稿 p96 参照)。遺体埋葬場所 は ミンスク近郊 のクロパテ ィ付近 だ と言 われ てい
870人の家族 は 、70年 近 く経 った今 もその消息 を得 られ ていない と
る。すなわち、殺害 され た 3,
い うことにな る。
カテ ィン、 ミエ ドノイエ、ハル キフ、 ピコプニアで殺害 され た捕虜 の リス トは出てい るが、彼
らが何月何 日に収容所 か ら処刑 地 に向かい、 どんな罪状 で処刑 され 、 どの場所 で誰 が射殺 を実行
したのかな ど処刑 に関す る具体的 な情報 はない。おそ らく一度 に大量の人数 を射殺 してい るた め、
一人一人 の詳細 はないのか も しれ ない。 しか し、遺族 が最 も欲 しい情報 は 自分 の家族 の最期 が ど
の よ うであったかを知 りたい とい うことではないだろ うか。
『カテ ィンの森事件 に関す る文書』 に掲載 され てい る公 開資料 を通 して、カテ ィンの森事件 は
NKVD そ してスター リンの事件 の関与 を裏付 ける文 書は出 され てお り、それ は ソ連 (
ロシア) ち
認 めてい るが、 ソ連 (ロシア)人、個人個 人 に責任 を追及 し裁 くよ うな文書は見 られ ない。 実際
に、 ロシア検察 は、被疑者 の死亡や ロシアの機 密事項 に関係 す る とい う理 由で事件 の調査 を終了
してお り、被疑者個人 を誰一人裁判 にかけてお らず、調査 の対象 にも していない。
も し今後 、未 だに機 密 とされ てい る資料 の引渡 しが順調 に行 われ分析 が進 めば、事件 の全貌解
明や犠牲者 の名 誉回復 につなが ると思われ る。 しか しなが ら、現在 の ロシアが犠 牲者 の名誉回復
を承認 して しま うと、同時 に被疑者 の特定 そ して法廷での措置 を取 らざるをえない よ うにな り、
-1
1
4-
そ うす る とロシア国家全体が、カテ ィンの森事件 に今一度 目を向 けな くてほな らな くな る。大祖
国戦争 のために多大 な犠牲 を強い られ なが らも貢献 した歴 史 を持 つ ロシアが、独 ソ不可侵条約 で
密接 な独 ソ協力 関係 を持 った こと、ニュル ンベル グ裁判 のために ソ連 が犯行 に関わっていない と
す る証拠 を徹底 的 に準備 した こと、共産主義時代 では事件 を隠蔽 した こ とな ど、 これ らの再確認
は ソ連史全体 に影響 を及 ぼす可能性 もある。 そ して、 ソ連 時代 の犯罪行為 とは全 く無縁 な世代 が
その代償 を負 うことにな るで あろ う。 カテ ィンの森 事件 の機 密文 書は、事件 その ものだ けではな
く、 ロシア (ソ連)全体の過 去 と現在 にお ける歴史認識 に非常 に大 き く関わってい るこ とが理解
で きる。
2.現代史の再認証、共有
① ポー ラン ド人の歴史認識
a)世論調査
2
009年秋 にジェシュフ大学の社会学者 クシシュ トフ ・マ リツキ教授 (
d
rKr
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ys
z
t
o
fMa
l
l
C
kl
)がポ
05の高校 で 、5
,
308人の高校生 を対象 にア ンケー トを行 った結果が 2
01
0年 4月 7 日
ー ラン ドの 1
付 の新聞 「
ジェチ ュボスポ リタ(
RZ
e
c
Z
pos
pol
l
t
a)
」に掲載 され た。高校 生 に とって一番興味 のある時
代は 「
第二次世界大戦」の 4
5%であ り、続 く 「
共産 主義時代」 は 28
%であった (
図 4-4参照)。
共産主義 下では、第二次世界 大戦 についてはプ ロパ ガ ンダのため事実が事実 と して伝 え られ てい
なかった。体制転換後 、歴史が歪 め られ て教 え られ ることがな くなったが 、2
0年 がたち、学校 で
は第二次世界大戦 をテーマ に した授 業 にか ける時間は徐 々に短 くなって きてい る。 しか し、戦争
で親類 を亡 く した家族 はほ とん どいないポー ラン ド人の中で、祖 父母 か らの話 が高校生 たちの家
族 への興味 を引き起 こ した と言 われ てい る。
-1
1
5-
図 4-4.ポー ラン ドの高校 生が どの時代 に一章興味 を持 っているか
第二次世界大戦
共産主兼時代
1989年 以 降
他の 時 代
出所
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4578
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67ht
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,[
201
047C
])のデー タにもとづ き筆者作成。
l
l
ア ウシュ ビッツ」、32%が
そ して、戦争 にまつわ る場所 は どこか とい う質問に対 して 、44%が 「
「
カテ ィン」 とい う結果 にな った (
図 4- 5参照)。「
カテ ィン」の割合 が高 くな ったのは、ア ン
ジェイ ・ヴァイダ (
And
r
z
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JWa
J
da) 監督 の映画 『カテ ィンの森』の影響 、お よび 、カテ ィンの森
事件 で亡 くなってい る先祖 がい ると答 えた高校生が一番 多かった ことに よるものだろ うとマ リツ
キ教授 は述べてい る。 ア ウシュ ビッツはナチ ス ・ドイツに よる最大の犯罪 であ り、カテ ィンはポ
ー ラン ド人 に とって ソ連 による犯行 だ と認識 され てい る。 現在 の高校生 の方 が、前世代 と比べ て
容易 に ソ連 の犯罪 を知 られ るところにあるとい う結果であろ う (
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,[
201
047
b,
C
]
)
0
図 4- 5.高校生が考 える戦争にまつわ る場所
ア ウi/ユヒ ノツ
カティン
他の 強 制 収 容 所
ワルシャワ
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マイタネ ウ
出所
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,[
201
047C
])のデー タにもとづ き筆者作成。
l
-1
1
6-
201
0年 4月に世論調査中央研 究所(
CEBOS Ce
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aOpl
nl
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c
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J
)
2
1
がカテ ィンの森
事件 に関す る世論調査 を公表 した。 この調査は 201
0年 3月 4 日か ら 1
0日にかけて、「
カテ ィン
70年式典お よび ロシア首相出席」をテーマ として、ポー ラン ド人成人 995人を対象 に行われ た。
その 2年前の 2008年 4月にも、同様 にカテ ィンの森事件 に関す る世論調査が行われてい る。
質問 1「自分 の住む地域 にカテ ィンの森事件 に関す る慰霊碑、墓地等はあるか。」に対 して、「
は
い」と答 えた人は 2008年 4月では全体の 1
9%、
201
0年 3月では 25% と 2年で 6%増加 してい る(
図
4- 6参照)
。反対に、半数以上の人々が各地の慰霊碑 の存在 を知 らないことになる。
図 4-6.「自分の住む地域 にカティンの森事件 に関す る慰蓋碑、墓地等はあるか。
」
はい
いいえ
分 か らない
2008年 4月
1
9%
63%
1
8%
0年 3月
201
25%
62%
1
3%
出所 ht
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/
SPI
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201
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CEBOS,[
201
04
]
)、
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/
Wwwc
bospl
/
SPI
SKOM POL/
2008
/
K_070_08PDF (
CEBOS,[
20085]
)のデー タにもとづき筆者
作成。
質問 2 「
カテ ィンの森事件 はポー ラン ド ・ロシア関係 において障害 となるか。 も しくはすでに
大 きな意味をな さないか。」では、「
障害 となる」と答 えた人が 2008年 4月の 67%か ら、201
0年 3
月 には 81
%まで増 えている (
図 4- 7参照)
。2年の間でポー ラン ド人にとってカテ ィンの森事件
を重 く受 け止 め、両国間の関係改善 において重荷 になると感 じた人が多 くなった ことを示 してい
る。
21
1
9
8
2年設立のポーラント世論調査機関O
-117-
図 4- 7.「カテ ィンの森事件 はポー ラン ド・ロシア関係 において障害 となるか。も しくはす で
に大 きな意 味 をな さないか。」
2008年 4月
障害 とな る
障害ない
とな ら
分 か らない
67%
1
9%
1
4%
出所 ht
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Wwwc
bospl
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SPI
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201
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CEBOS,[
201
04]
)、
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/
Wwwc
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/
SPI
SKOM POL/
2008
/
K_070_08PDF (
CEBOS,[
20085]
)のデー タにもとづ き筆者
作成。
質問 3 「
カテ ィンの森事件 に関 して、ロシアに求 めることは何 か。」では、① 「
謝罪 」 (
2008年
52%、201
0年
57%)、② 「
ロシア公文書館 の全資料公 開 」 (
2008年
「
事件 をジェ ノサイ ドと して公式 に認 めること。」 (
2008年
年偽 り続 けて きた ことに対す る責任追及 」 (
2008年
58%、201
0年
53%、201
0年
38
%、201
0年
56%)、③
53%)、㊨ 「ソ連 が長
42%)、⑤ 「
調査お よび被疑
者 の公表 (
すでに亡 くなってい る人 に対 して も)」 (
2008年 43%、201
0年
27%)、㊨ 「
遺族への
賠償 」 (
2008年 33%、201
0年 26%)、「
⑦現在生 きてい る被疑者 を罰す る。」 (
2008年 32%、201
0
年 21
%)、⑧ 「ロシアの教科 書 においてポー ラン ド側 の視点か らの記述への考慮 」(
2008年 22%、
201
0年
21
%)が結果で ある (
図 4- 9参照)2
2
。お よそ半数以上 のポー ラン ド人 が ロシアの謝
罪 を求 め、全真相解 明つま り機 密文 書の公 開、事件 をジェ ノサイ ドと認 めることを求 めてい る。
つ ま り、両国間の和解 に向けてカテ ィンの森事件 の解決 は必須条件 であ ると考 え るポー ラン ド人
は多い よ うだ。反対 に、当時 の被疑者 の公表や法廷 での裁 き、 さ らには遺族への賠償 を求 めるポ
ー ラン ド人は 2008年 と比べて減少 してい る。事件 か ら 70年経つ現在 、被疑者 も遺族 もかな り高
齢 なのは確 かだ。被疑者 を探 し出す のは困難 であ り、賠償 ではな く全真相解 明を求 めるのは時代
の流れ か ら反 映 し、 さ らに遺族へ のイ ンタビューか ら見て も明 らかであ る。
続 いて、カテ ィンの森事件 70年追悼式典 にお けるロシア首相 の出席 について、ポー ラン ド人の
期待 を問 う調査 も行 われ た。① 「
プーチ ン首相 の式典 出席 はほ とん どプ ロパ ガ ンダ的で あ り、世
2
2対象者は最大 4つまで答えることができたO
-1
18-
界 にロシアの働 きを見せ よ うと してい る。」 (
そ う思 う 74%、そ う思わない
1
1
%、どち らとも言
えない 1
5%)② 「
ロシアは歴 史の障害 を解決 、そ して事実の公表や清算 を したい と思 ってい る。」
(
そ う思 う 26%、そ う思わない
56%、 どち らとも言 えない
1
8%)③ 「ロシアは ロシア史上 に
お けるスター リンの全犯罪 を清算 したい と思 ってい る。」 (
そ う思 う 1
9%、そ う思わない
どち らとも言 えない
63%、
18
%) ㊨ 「ロシアはポー ラン ドとの関係 を改善 したい と思 ってい る。」 (
そ
う思 う 43%、そ う思 わない 39%、どち らとも言 えない 1
8%)⑤ 「
プーチ ン首相 の式典 出席 は、
そ う思 う
ポー ラン ドとロシア間のカテ ィンの森事件 に対す る関係修復 にお ける転機 である。」 (
24%、そ う思 わない
55%、 どち らとも言 えない
21
%) (
図 4- 8参照)
図 4- 8. カテ ィンの森事件 70年追悼 式典 における ロシア首相の 出席へのポー ラン ド人の期待
そ う思 う
そ う思わない
どち らとも言 えない
①
ほ
よ
り、世界
プーチ
とん
うと どプ
してい
に
ン首相
ロシアの働
ロパ
るロ
ガ
の式典
ンダ的であ
きを見せ
出席 は
74%
11
%
1
5%
②
そ ロシアは歴
たい
して事実
と思 ってい
の公表や清算
史の障害
るロ を解決
を し、
26%
56%
1
8%
③
るスター
したい
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リンの全犯罪
ロシア史上
ってい るロ にお
を清算
け
1
9%
63%
1
8%
係
④ を改善
ロシアはポー
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と思 ってい
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るロ
43%
39%
1
8%
⑤
復
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ィンの森事件
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ける転機
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ドとロシア間のカテ
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の式典
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出席 は、
24%
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21
%
出所 ht
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201
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K_0
46_1
0PDF (
CEBOS,[
201
04]
)のデー タに もとづ
き筆者作成。
-1
1
9-
トウスク首相 とプーチ ン首相 の式典 出席 が、事件 の解 明、関係 修復 に対す る転機 につ なが る と
答 えたのは、わずか全体の約 4分 の 1である。つま り、半数以上が今後 の両国間において何 の意
味 もな さない と答 えてい るこ とにな る。7 割以上が、式典 出席 はプ ロパ ガ ンダ的 だ と答 えたが、
今現在 もロシアの行 いに対 して批判 的なポー ラン ド人がかな り多い とい うことが明 らかだ。全体
的 に見て、ロシア側 が主催 し、ロシアの首相 が初 めて出席 す るカテ ィンの森事件 70年 式典 は、ポ
ー ラン ド人の心 にはあま り響 いていない よ うに思われ る。
さらに、同機 関で 70年追悼式典 な らび に大統領機 墜落事故後 の 201
0年 5月 8日か ら 1
3日まで
1
,
000人 のポー ラン ド人成人 を対象 と した世論調査が発表 され てい る。3月 に行 われ た調査 と同様
に 「
カテ ィンの森 事件 に関 して、 ロシアに求 めることは何 か」 に対 して 、66%が、 ロシア公文 書
館 にあるカテ ィンの森 事件 の資料 を公 開すべ き(
3月 と比べ 1
0%減少)
、58
%がカテ ィンの森 事件 を
ジェノサイ ドと認 めるべ き(
3月 よ り 5%増加 )
、46%が ロシアは謝罪すべ き(
3月 よ り 1
1
%減少)とあ
る。そ して 、43%が ロシアは責任 と取 るべ き と答 え、33%は調査お よび被疑者 の公表 を求 めてい る
(
3月 よ り 6%増加)
。遺族へ の賠償 と答 えたのは 1
0%減少 して 1
6% とな った (
図 4- 9参照)。
別 の質問 に対 して、歴史 にお ける問題や認識 をロシア と共有す るべ きだ と答 えたのは 48
%であ
り、ほぼ半数 のポー ラン ド人 が ロシア との歴史認識 の共有 を望んでい ることが分 か る。 さらに、
ポー ラン ドと ドイツにおいては 52%、ポー ラン ドと ウクライナ では 45% とい う結果であった。続
いて、大統領機 墜落事故後 において 、71
%のポー ラン ド人 がカテ ィンの森 事件 の解 明への機会 が
出てきた と述 べ、 これ は以前 と比べ大幅 に増加 してい る (
TVP2
4,[
201
0 524]
)。以上の結果は、
70年追悼式典 、墜落事故か ら、国民のカテ ィンの森事件 に対す る関心や今後 の期待 が高 ま りつつ
あ る中で、両国関係 の障害 を取 り除 くためには、まずは文 書の公 開、つ ま り事実 を明 らかにす る
こ とが必要不可欠 であ ると国民の大部分 が答 えてい るとい うことを示 してい る。
-1
20-
図 4-9.カテ ィンの森事件 に対 して ロシアに求める ことは何か
〔
D
5
2%
5
7%
②
5
:
3
瑞
%
.
5
⑦
†
5[
瑞
E
]2010 年 5月
E
]2010 年 3 月
㊨
□2008 年 4月
L.■. 33% 38
㊨
3
%
†.
42
4
4
%
:
瑞
㊨
⑦
⑧
①謝罪
② ロシア公文 書館 の全資料公 開
③ 事件 をジェ ノサイ ドと して公式 に認 めること
④ ソ連 が長年偽 り続 けてきた ことに対す る責任 追及
⑤調査お よび被疑者 の公表 (
すで に亡 くなってい る人 に対 して も)
⑥遺族への賠償
⑦ 現在生 きてい る被疑者 を罰す る
⑧ ロシアの教科書 にお いてポー ラン ド側 の視点への考慮
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Wwwc
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SPI
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201
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0PDF (
CEBOS,[
201
04]
)、
出所 ht
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/
Wwwc
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SPI
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2008
/
K_070_08PDF (
CEBOS,[
20085]
)、
ht
t
p/
/
Wwwc
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/
SPI
SKOM POL/
201
0瓜_067_1
0PDF (
CEBOS,[
201
05]
) のデー タにもとづ き筆者
作成。
b)ア ンジェイ ・ヴァイダ監督映画 『カテ ィンの森』
2007年 9月 にア ンジェイ ・ヴァイダ監督 の映画 『カテ ィンの森』が公 開 され た。 この映画は国
内外 で話題 にな り、戦争犯罪 の歴史認識 とい う点でポー ラン ド社会 に新 たな影響 を与 えた。 この
映画で改 めてカテ ィンの森事件 に興 味 を示 した国民 もいれ ば、 この映画 で初 めて事件 を知 った国
民 も少 なか らず いたで あろ う。映画 『カテ ィンの森 』は、ただ ソ連 に抹殺 され たポー ラン ド人将
校 、それ に翻弄 され た遺族 らの悲劇 を描 いてい るだ けではな く、 ロシア人がポー ラン ド人 を助 け
-1
21-
る場 面 もあ る。カテ ィンの森 事件 自体 、ポー ラン ド人 の反 ロシア感 情 を増 幅 させ るもの で あ るが、
ヴァイ ダ監督 も、映画 『カテ ィンの森 』 は反 ロシア を掲 げ るものではな い と語 ってい る。
ロシア で 『カテ ィンの森 』 は、一部 の都 市や 映画祭 で上 映 され ただ けで一般公 開は され てい な
い。201
0年 4月 2日に ロシアの国営 の 『文化 チ ャ ンネル 』 で 『カテ ィンの森 』 が放送 され た。 そ
して、大統領機 墜落事 故後 の 11日には ロシアの国営テ レビで も放送 され 、約 280万人 の ロシア人
が 『カテ ィンの森 』 を視聴 した こ とにな る (
Rz
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甲OS
POl
l
t
a
,[
201
0 421
]
)。 それ まで、カテ ィンの
森 事件 を詳 しく知 らない、 も しくは ドイ ツの犯行 だ と考 えていた ロシア人 は少 な くな い。 このテ
レビ放送 の前 、社会 は ロシア人 が罪 を認 め るこ とに対 して批判 的 で あった。 しか し、放 送後 、 ロ
シア人 の カテ ィンの森 事件 に対す る感 じ方 が少 なか らず変化 して きてい るよ うで あ る。 ロシア人
が事件 の 中身 を知 った こ とで 、世論 の事件 へ の見方 が変 わ り、 この こ とが今後 の ポー ラ ン ド ・ロ
シア関係 に影 響 して くるのではな いか とい う意 見が あった (
Rz
e
c
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pos
pol
l
t
a
,[
201
0 41
2]
)。 この よ
うに、 ヴァイ ダ監督 の映画 は反 ロシア的 だ と感 じさせ ず 、 ロシア人 の歴 史認識 に何 か響 かせ る も
の が あった こ とが うか が え る。
さ らに、 ロシアでの放送 に始 ま り、 リ トアニア、 ポル トガル 、 カナ ダ、 ウク ライナ 、 ア メ リカ
な どに よ り映画 のテ レビ放送 の許 可 の 申 し入れ が あ った。 そ して 、欧州 議会 で もカテ ィンの森 事
件 の展示会 に加 え、映 画 も上映 され た (
TVP24,[
201
0 41
3]
)
。 大 統領機 墜落事 故 が起 き、大統領
一行 はなぜ 、 どんな 目的 でそ こへ 向 か って いたのか 、カテ ィンの森 事件 とは どん な もの なのか を
世界 が知 るきっか け と して ヴァイ ダ監督 の 『カテ ィンの森 』 は大 きな役 割 を果 た してい る と言 え
る。
0年 8月 1
0 日、 ロシアの メ ドペ ー ジェフ大統領 が、 ヴァイ ダ監督 に友好 勲章 を贈 る大統領
201
令 に署名 した と大統領府 は発 表 した。 この勲章授 与 は ロシア側 か らの歩 み寄 り、 そ して 両国関係
の和解 を 目指 す動 きを示 した と考 え られ る (
朝 日新 聞,[
201
0 811
]
)。
-1
22-
③ ロシア人の歴史認識
a)世論調査
ロシアの世論調査機 関2
3
が 201
0年 4月 1
6日か ら 1
9日にかけて 1
8歳以上の ロシア人 1
601人 を
対象 に世論調査 を行 なった。結果は次の通 りである。① 「
初 めてカテ ィンの森事件 を知 ったのは
いつか」 とい う質問に対 して 、3分 の 1の ロシア人 が 「
大統領機 墜落事故後 にカテ ィンの森事件
を知 った」 とい う結果であった。 そ して 、 1
88%が 「
今 までに一度 も事件 を耳に した ことがない」
と答 えてい る。1
77%が 「
プーチ ン首相 の式典 出席 によって 」、1
58%が 「
大統領機 墜落事故 によっ
て」詳細 を知 った とある。1
72%が 「
ゴルバ チ ョフ台頭以前の ソ連時代 」、7%が 「
ペ レス トロイカ」
で 、61
%が 「
1
990年代 」、1
01
%が 「
21世紀 になってか ら」、初 めて事件 を知 った とい う結果 にな
った (
図 4- 10参照)
。
図 4- 10. 初めてカテ ィンの森事件 を知 ったのは いつか
ヨルハチョフ台
頭以前のソ連時
72
%
代 1
出所
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1
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TVP24,[
201
0423]
)
のデー タにもとづ き筆者作成。
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② 「
誰 がポー ラン ド人将校 を射殺 したか。」 とい う質問 に、 「
分 か らない」 と答 えた人 が 474%
に ものぼ る。3
49%が 「ソ連 の犯行」、1
77%が 「ドイツの犯行」と答 えてい る (
図 4- 11参照)。
23
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0
2年設立のロシアの非政府系の機関で世論調査、経済調査等を行っ
てい る。
-1
23-
図 4- 11.誰がポー ラン ド人将校 を射殺 したか
出所
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201
0423]
)
のデー タにもとづ き筆者作成。
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③ 「
NKVD に よって殺 害 され たポー ラン ド人将校 に関す る文書の存在 を知 ってい るか。」では、
「
知 ってい る。文 書は存在 す る。」 と答 えたのは 255%、 「
知 ってい るが、文書 の存在 は確 かでは
ない。」 は 275%、 「
初 めて聞いた。」は全体のほぼ半数 (
47%) であった (
図 4- 12参 照)
。
図 4- 12.NKVD によって殺害 され たポー ラン ド人将校 に関す る文雷の存在 を知 って Llるか
出所
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0423]
)
のデー タにもとづ き筆者作成。
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-1
24-
④ 「
1
990年 にロシアはカテ ィンの森事件 を ソ連 の犯行 と認 めた こと、そ して責任 は ソ連 にある
と知 ってい るか。」では、 「
知 ってい る」は 235%であ り、 「
初 めて聞いた」 と答 えたのは 764%と
い う結果であ る (
図 4- 13参照)
。
図 4- 13.1990年 に ロシアはカテ ィンの森事件 をソ連の犯行 と認めた こと、そ して責任 は ソ連
にある と知 っているか
出所
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TVP2
4,[
201
0423]
)
のデー タに もとづ き筆者作成。
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C
4 月の大統領機 墜落事故お よびア ンジェイ ・ヴァイダ監督 の映画 『カテ ィンの森』が ロシアの
テ レビで放送 され てか ら、 ロシア人でカテ ィンの森事件 を知 る人が 43%だったのが 74%まで増加
した。お よそ 3分 の 1の ロシア人が両国間の関係 を修復 しなけれ ばな らない と答 えてい る。映画
『カテ ィンの森』 をテ レビ放送 で見た ロシア人 はお よそ 280万人 にものぼってお り、 この ことが
事件 を知 るロシア人 の増加 の主な要 因にな ったのではないか との見方 が ある。今回の事故 によっ
て、 ロシアのメデ ィアで もカテ ィンの森事件 が取 り上 げ られ るよ うにな ったのは事実で ある。 さ
らに、事故 が ロシア とポー ラン ドの関係 に影響 を及 ぼすか とい う質問 に対 して 、3
4%が何 の影響
も及 ぼ さない 、30%が両国間の関係 は修復 に向か う、お よそ 20%が関係 は悪化す ると答 えてい る。
最後 に、両国間の問題 について 、21
%の ロシア人が、 ロシアは 1
939年 の ソ連 のポー ラン ド侵攻 、
-1
25-
ス ター リンの犯罪 を認 めた くな い と考 えて い る (
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,[
201
0 428
b]
,TVP2
4,[
201
0
l
。 この ロシア人 に対す る世論調査 が示 してい るよ うに、ポー ラン ド人 とは反対 に、 ロシア
423])
人 は 自分 の国で起 きた事件 を これ までほ とん ど知 らなかった ことが明 らかになった。 ロシア人 も
ソ連 の国の体制 によって、カテ ィンの森事件 だけではな く、 ロシア人 自体が受 けた犯罪 まで も隠
蔽 され 、それ が社会 の明 るみ に出 ることはなかったので ある。しか し、事件 か ら 70年経 った現在 、
プーチ ン首相 の式典 出席 、そ してポー ラン ド大統領 をは じめ政府 の要人 を乗せ た飛行機 の追悼 式
典 へ向 う途 中での墜落事故が、ロシア人 に とってカテ ィンの森事件 を知 る大 きなきっかけ とな り、
今後 ロシア人 にお ける事件 の認識 が少 しずつ変化 してい くのではないか と推測 でき る。
b) ロ・
>アにおけるカテ ィンの森事件研究
まず、 ロシア人研 究者 によるカテ ィンの森事件 に関す る文献 をい くつ か挙 げたい。 当然、 ソ連
時代 では国内で も機 密事項 とされ ていたため、全て ソ連崩壊後 の研 究で ある。
1
991年 に ウラジ ミール ・アバ リノ フ (
W壬
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W)による 『カテ ィンの迷 宮 』(
Aba
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W
,
[
1
991
]
) が 75,
000部 も発行 され た。著者 自身で歴史上の史実 を突 き止 め、 自身で 目撃者 か ら証言
を得 た りな ど資料収 集 を行 った。 1
99
4年 には、ナ タ リア ・レビエデ ィェ バ (
Na
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Wa)
に よる、ポー ラン ド人将校 が過 ご した収容所 の歴史 、お よび彼 らの殺害 に関 して細 か く記 した文
献 『カテ ィン
人道 に対す る犯罪』が出版 され 、ポー ラン ド語版 は 1
998年 に出てい る (
Le
bl
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W
,
[
1
998]
)。 レビエデ ィェバ は歴史家 であ り、 と りわけ第二次世界大戦の国際関係 史 を専門 と してお
り、「
ポー ラン ドとロシア間の歴史の見直 し団体 」(
本稿 p1
3参 照)の一員 で もある。そ して 、2001
年 には、イネ ッサ ・ヤ ジポ ロフスカ (
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ka)、アナ トリー ・ヤ プ ウオ コフ (
Ana
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w)、ヴァ レンテ ィナ ・バルサ ダノバ (
wa
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nowa)に よる 『ソ連 ・ポー ラン ド、
ロシア ・ポー ラン ド関係 にお けるカテ ィンシン ドロー ム』 (
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da
nowa
,
[
2001
]
)が出版 され てい る。 (
ポー ラン ド語版 は出ていない。)著者 らは事実解 明の概 要、そ して ソ
連 お よび ロシア政 府 のカテ ィンの森 事件 に対す る姿勢 の変化 を表 してい る。 ヤ プ ウオ コフは ソ
連 ・ロシア最高軍事検察庁 の調査 メンバー の一員 で もあった。 1
998年 には ワル シャ ワで 『カテ ィ
ン
国家機 密 を守 る犯罪 』 (
J
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kow,Zol
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,[
1
998]
) が出てお り、 これ は ロシアでは
r
-1
26-
出版 され てい ない。『ソ連 ・ポー ラン ド、ロシア ・ポー ラ ン ド関係 にお け るカテ ィンシ ン ドロー ム』
は 『カテ ィン
国家機 密 を守 る犯罪 』 をカバ ーす る形 で、新 た に ロシア 国内で出版 され た もの で
○畠
r
ode
kKARTA,[
201
0]
,pp1
21
3)
。
ある (
201
0年 に ロシア人研 究者 で あ る ヴィク トル ・ザ ス ラフス キー に よる 『カチ ンの森
ポー ラ ン ド
指 導階級 の抹 殺 』の邦訳 が出版 され た24。本項 目では、ロシア人研 究者 に よるカテ ィンの森 事件研
究 の代表 と して 、ザ ス ラフス キー の著書 を紹介 した い。 ヴィク トル ・ザ ス ラフス キー は レニ ング
975年 にカナ ダに移住 し、そ の後 ア メ リカや イ タ リアで教鞭
ラー ド生 まれ の ロシア人 で あ るが 、1
を取 り、亡 くな る 2009年 まで ロー マ のル イ ス ・グイ ド ・カル リ社会科 学 自由大 学 の教授 で あ り、
専 門は第二次 世界 大戦後 の ソ連 (
ロシア)・イ タ リア政 治 関係 史 で あった。
本 書 の特徴 と して 見 られ る点 は、 ロシア人 か ら見 たカテ ィンの森 事件 とい うこ とで あ る。数 多
くあ る文 献 は、 ほ とん どポー ラン ドも しくは西側諸 国で出版 され た もの ばか りで あ り、ザ ス ラフ
ス キー 自身 、西側 に移 り住 ん だ ロシア人 で は あ るが 、 ロシア人 と しての側 か ら見解 を示 した本 書
は非常 に興 味深 い。
カテ ィンの森 事件 に関す る主要 な学術文 献 うちの一つ と して、前述 の通 りヤ ヌ シュ ・K ・ザ ヴ
オ ドニー の文 献 が挙 げ られ る。 ロシア人研 究者 が初 めてカテ ィンの森 事件 をテー マ に調 査 で き る
よ うにな ったの は ソ連崩壊後 で あ り、 当然 それ まで は誰 も ソ連側 の資料 を扱 って の研 究 をす る こ
962年 にザ ヴォ ドニー の文 献 が 出版 され た。 彼 は 1
9
43年 4月 の
とはで きなか った。 そ の最 中 、1
ドイ ツが設 立 した国際 医学調 査員会 の現地調 査 の資料 、調 査 に同席 した人 々の証 言 な どか ら、 ソ
連 の資料 按せ ず 犯行 現場 に も行 けず遺 体 の科 学的分 析 も していな か った が、犯行 の責任 は ソ連 に
あ る と結 論付 けた。 この文 献 は西側 で得 られ るあ らゆ る資料 か らソ連 の犯行 だ とい う見解 を裏 付
けてお り、事件 を知 る上 では まず欠 かせ な い もので あ る。一方 、2006年 出版 の本 書 は 、 ロシア人
の視 点 か らで あ るこ と、 ソ連 崩壊後 に公 開 され た資料 に基 づ いて い るこ とが特徴 で あ る。 ちなみ
1
991年 の ゴルバ チ ョフ政権 下で明 らか にな ったカテ ィンの森 事件 の関連文 書 で最 も重要 な もの を
掲 載 、解 説 して い る。 両文 献 の著者 ザ ス ラフスキー とザ ヴォ ドニー の事件 の実証 部分 は ほぼ一 致
24 pu
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,[
2
0
0
6
]
)の邦訳である0
-1
27-
してい る。つま り、資料公 開 に伴 い ロシアで も様 々なカテ ィンの森事件 の文献 が出 され てい るが、
それ らか らも 1
962年 のザ ヴォ ドニーの見解 が正確 であった ことが確認 され た とも言 える。
西側諸 国つま り主 にイギ リスお よびアメ リカ とザ スラフスキー との事実認識お よび解釈 の違 い
について、ザ ス ラフスキー も事件 は ソ連 の犯行 と断定 し、 これ に関 しては西側 との見解 に相違 点
はない。 しか し、注 目したいのは本文献 中で何度 が強調 され る、「
西側政府 の積極的な封助 がなけ
2
01
0
]
,
p73)とい
れ ば ソ連 は事件 の 自己責任 を隠 し通す ことはで きなかった。」(
ザ スラフスキー ,[
うところであ る。つま り、 ソ連 の隠蔽 政策 に西側 は加担 したお かげで 、1
99
0年 まで事件 が表舞台
に出 るこ とはなかったのであ る。 これ まで、カテ ィンの森 事件 は ソ連 の犯行 とい う前提 で進 め ら
れ てきてお り、西側諸 国の ソ連への協力 にそれ ほ ど光は当たっていなか った。事件 の責任 は ソ連
だ けではな く西側諸 国にもあ り、その責任 問題 は戦後 の東西対立 の中で複雑化 してい った。言 い
換 えれ ば、将校虐殺 の悲劇 か らその後 の処理 でポー ラン ドを苦 しめたのは ソ連 そ して西側 の国々
で あ り、両各 国 には連帯責任 があることを表 してい るのではないだろ うか。西側 は事実 が分 か っ
てい るにもかかわ らず 目をつぶ り、そ して ソ連崩壊後 は ソ連 の犯行 だ と断定す る立場 に変わった。
多か らず責任逃れ の よ うな立場 を とってい るかの よ うであ り、西側 が敢 えて 自己責任 を追求す る
こ とは していない。 ここがザ スラフスキー と西側諸 国 との解釈 の違 いだ と考 え られ る。
次 に、事件 の解釈 の仕方 で ある。ソ連史 にお ける 1
9
30年代 のスター リン政権 による大粛清 につ
いては周知 の事実であ る。 これ に よ りソ連 国民 1
00万人以上が銃殺 され た と言 われ てい る。 それ
に比べ るとカテ ィンの森 事件 で殺 害 され た約 2
2,
00
0人のポー ラン ド人将校ついては、ス ター リン
主義犯罪 の うちの一つであ り、犠牲者 の人数的 にも ソ連 国民の犠 牲者 の方 が断然 多 く、カテ ィン
の森事件 は特 に例外 をなす とは言 えない とザ スラフスキー は記 してい る。 それ では、なぜ カテ ィ
ンの森事件 が国際関係 史の中で重要な位 置 を示 してい るのか。事件 の発端 は 1
9
39年 8月 2
3日に
締結 され た独 ソ不可侵 条約 にお け るポー ラン ドの 2分割 が取 り決 め られ た秘密議定書か らである。
つ ま り、 ドイ ツ ・ヒ トラー、そ して ソ連 ・スター リンの 2つの全体主義国が手 を組 んだ ことか ら
事件 は始まっていた。 その後 1
9
41年 6月 22日の独 ソ戦勃発 に よ り、連合 国は ドイツ ・ヒ トラー
を打倒す るために ソ連 ・スター リン と組む必要があ り、それ を達成 させ るには ソ連 の犯罪つま り
カテ ィンの森事件 に 目をつぶ らざるを得 なかったのである。戦争 犯罪 を裁 くニュル ンベル グ裁判
-1
28-
において も、裁判 自体が ヒ トラー を全否定 した ものであ り、 も し連合 国の主要な一員 で あった ソ
連 の犯行 と決 めつ け ると、 ヒ トラー を一部 肯定す ることではない に して も、ナチ スを裁 く法廷 で
連合 国の戦争責任 が問われ かねない ことになって しま う。 そのた め、イ ギ リス、アメ リカはカテ
ィンの森事件 を裁判 にかけることに対 して乗 り気 ではなか ったのである。そ して、冷戦時代 、様 々
な文献が西側諸 国で出版 され 、当時 の関係 者 の証言等 によ りソ連 の犯行 だ と分 か りきっていた。
しか し、 も しそ こで西側諸 国が事件 の真相解 明に乗 り出 した とす ると、連合 国 と して ソ連 と手 を
組 んだ こ と、ニ ュル ンベル グ裁判 で敢 えて事件 には触れ ない よ うに した ことが明 らかにな る。 当
然西側諸 国に対 して も責任 がふ りかかって くることに恐れ を感 じ、事件 を全面的 に取 り上 げない
よ うに したのではないだろ うか。 この よ うに、ザ ス ラフスキーは ソ連 と連合 国の協力 を 「
不 自然
な連合」 (
ザ スラフスキー,[
201
0]
,pl
o) と表現 してい る。 そのため、カテ ィンの森事件 は全体主
義 両国 ドイツ とソ連 の 1
939年 か ら 1
941年 にかけての協力関係 、それ以降の全体主義 国 ソ連 と連
合 国 との協力関係 の 中で踊 らされ た ことで非常 に複雑 な経過 を辿 ってい る。 したがって、カテ ィ
ンの森事件 は、ドイ ツ とソ連 の協力関係 、ソ連 の全体主義、そ して ソ連 と西側諸 国の協力 とい う、
あ らゆる方面か ら彼 らの都合 によ り複雑化 し、ただ ソ連 の犯行 で済ま され るべ きではな く他 に も
責任 問題 が生 じてい る とい うので ある。
本書は、 ソ連 の機 密文書 に よる事件 の実証 、そ して さほ ど明 るみ に出なかった西側諸 国の事件
へ の加担 を大 き く取 り上 げてい るこ とで、 これ までの研 究書 とは異な りカテ ィンの森 事件 の言 わ
ば裏 の側面 を書 き記 してい る点では非常 に興味深 い (
岡野 、[
201
0C
]
)
。
次 に、ロシア人 が活動す る 「
メモ リアル 」団体 について も触れ たい。 「
メモ リアル」団体は 1
989
年 1月 に設立 され 、 ソ連時代 の政治的抑圧 、特 にス ター リン時代 の犯罪 を明確 にす るとともに、
ソ連時代 の人権保護 に も努 めるこ とを 目的 と してい る。 「
メモ リアル」団体は独 自の文書館 、図書
館 を持 ち、資料 収集 にも力 を入れ 、展示会や集会 の開催 、文献出版 な ど幅広 く活動 してい る。 そ
の 中でポー ラン ド人 に対す る抑圧 、 と りわ けカテ ィンの森 事件 は 「
メモ リアル」団体 に とって も
重要な問題 で あ り、声高 に真相解 明を叫んでい る。
「
メモ リアル」団体 にお けるカテ ィンの森事件 に対す る活動 は 、1
980年代終 わ りか ら 90年代
頃 に始まった。当時 の主な活動 と して四点挙 げ られ る。一点 目は 、1
988年 か ら 1
989年 の間に、「
メ
-1
29-
モ リアル 」団体 トヴェ リ支部 の団体員 か らミエ ドノイエの遺体埋葬場所 が特定 され た との通知 が
初 めてな され た。二点 目は 、1
989年 9月 か ら 8月お よび 1
990年 4月 にモ スク ワで、 ソ連 で初 め
てカテ ィンの森 事件 に関す る展示会 が行 われ 、事件 の概要お よび真相 が公共の場 で紹介 され た。
三点 目は 、1
991年 8月の ミエ ドノイエ の公式な遺体発掘作業 に団体員 がオブザーバー と して参加
した。四点 目は 、1
992年春 に 3人の団体員 によって 、1
940年 3月 5 日に ソ連 の最高権 力者 がポー
ラン ド人将校 の処刑 を決定 した文 書の存在 が明 らかに され た。(
エ リツ ィン大統領 が ヴァ ウェンサ
大統領 にその文書 を手渡 したのは 1
992年 1
0月 である。) (
○畠
r
ode
kKARTA,[
201
0]p1
1
3)
その後 も現在 にか けて活動 を続 けてお り、今 日では射殺 され たポー ラン ド人将校 の名 誉回復 に
向 けての尽力、お よび事件 に関 して未 だに機 密 とされ てい る資料 の調査 を主 と して活動 を行 って
い る。 この よ うに、 「
メモ リアル 」団体 は、 自国の歴史すなわ ち ソ連 時代 の政 治的抑圧 に直視 し、
それ を見直す とともに保存す ることを下に機 能 してい る。 そ して、カテ ィンの森 事件 に関 して言
えば、ポー ラン ド人 と りわけ事件 の遺族 とロシア政府 との懸 け橋 とな り、その存在 を大 き く しつ
つ ある。
したがって、ロシア人の間で もソ連崩壊前か ら事件調査 に乗 り出そ うと していた こ とが分 か る。
しか し、多か らず本格 的な研 究がな され るのは無論 ソ連崩壊後 で あ り、今現在 もロシア政府 が全
資料 の公 開へ踏み切 らない ことか ら、ロシア人研 究者 もそれ 以上前 に進 めないのは明 らかであ る。
ロシア人 の中か らソ連 の政治的抑圧 を明確 に し、 ロシア政府 に真相究明 を求 めることは、ポー ラ
ン ド人将校 を対象 に した事件 だけではな く、 ロシア人 自体 も受 けた抑圧 つま り自国史の暗い部分
を直視 しよ うとす る動 きの表れ だ とも言 える。
④今後の展望
201
0年 4月 にカテ ィンの森事件 は発生か ら 70年 を迎 えた。70年 とい う大 きな区切 りによって、
ポー ラン ド国内の世論 は盛 り上が りを見せ た。 そ して、プーチ ン首相 が 4月 7 日の式典 に出席す
るな ど、少 なか らず ロシアか ら和解へ向けての歩み寄 りが見 られ た。 そ うした中、4月 1
0日、カ
チ ンスキ大統領 がポー ラン ド側主催 の追悼式典 に向か う途 中、墜落事故 で死亡す る事件 が起 きた。
これ に対 し、 ロシア側 の事故調査の全面協力な どのポー ラン ドに対す る配慮 によ り、両国間の距
-1
30-
離 は徐 々 に縮 ま った よ うに見 えた。 しか し、事件 の全面解 決 に向 けての課題 はま だ取 り残 され て
お り、今後 の ロシア のポー ラ ン ド- の対応 が注 目され る。 ポー ラ ン ドとロシア との関係 改善 の た
め には、カテ ィンの森 事件 を含 めた過 去 の清 算 と両国の歴 史 の共有 は必 要不可欠 で あ る。同時 に、
そ うした新 しい関係 を模 索す るプ ロセ スで、係 争 中の歴 史認 識 を どこで決 着 させ るか を巡 って は、
激 しい綱 引 きが水 面 下 で行 われ て い る。
これ までカテ ィンの森 事件 2つ の側 面 、す なわ ち 「
事件 の真相 解 明」 と 「
政 治 の道 具」 と して
の事件 の側 面 を持 って い るこ とを明 らか に して きてお り、特 に 2つ めの側 面 で あ る歴 史 の空 白の
政 治利用 が現在 の国家 間関係 に とって重要 な意 味 を持 って い るこ とを考 察 した。 ポー ラ ン ドが 、
ヨー ロ ッパ の地政 学 的再編 の 中で 自 らの新 しい地位 を築 い てい く上 で、様 々なカー ドを切 って ロ
シア との交渉 で優位 に立 と うとす る こ とは 自然 な こ とで あ る。 ま た、ポー ラン ドの政 治 家 に とっ
て 、カテ ィンの森 事件 へ の コ ミッ トメ ン トは国民 の支持や 期待 を得 るこ とにつ な が るで あろ う。
他 方 、 ロシア に とって も EU に加 盟 した東 欧諸 国 との、 さ らには EU 自体 との 関係 を見直す上 で、
歴 史 の清算 は避 けて通れ ない問題 で あ る。
いずれ に して も、未 来 に向か って隣 国 との 関係 を形 成 して い く上 で、過 去 の歴 史 は隠蔽 した り
無視 した りで きない もので あ るこ とをカテ ィンの森 事件 は教 えて い る。 両国の現代 史 に刺 さった
トゲ を、 ど うや って抜 いて傷 口を癒 す のか は、 さま ざまな方 法 が あろ う。本研 究 で行 った遺 族 に
対 す るイ ンタ ビュー調 査 を分 析 す る限 り、遺族 が最 も望 ん でい る こ とは 、カテ ィンの森 事件 の真
実 を明 らか に し、 ロシア に罪 を認 め させ る こ とだ とい うこ とが確 認 で きた。 同時 に、ポー ラン ド
の世論調 査 で も大部 分 の人 々が全真相 の解 明 を求 めてい る こ とが 明 らか にな って い る。 一方 、欧
州 人権裁 判所 で客観 的お よび公 正 な裁判 へ の要求 は一部 の遺族 の運動 に とどま ってお り、また そ
の進展 も見 られ ない。 当事者 以外 の第三者 と して、 国際法 廷 を挟 む こ とは事件解 決 へ の可能性 を
生 み 出す か も しれ な いが、ポー ラン ド国内全体 に浸透 して いない ところか ら、現 時点 で大 きな変
化 はないが、今後 の進展 に注 目 したい。
201
0年 1
2月 に 「
ポー ラン ド ・露 対話 と和解 セ ンター」 (
拠点
ワル シャ ワ とモ スク ワ)設 立 の
調 印 が コモ ロフスキ大 統領 お よび メ ドペ ー ジェ フ大統領 の立会 いの下な され た。2
01
1年 1月 か ら
の活動 が開始 してい る。それ 以前 の 2
009年 9月 に トウス ク首相 とプー チ ン首相 に よって提 唱 され
-1
31-
た「
ポー ラン ド・ロシア間の困難 な問題 に立 ち向か う会 」(
pol
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koRos
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a
wTu
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h)
や 201
0年 4月 7 日のカテ ィン 70年追悼 式典 で両首相 が この よ うな機 関設置 に対 して合意 した こ
とによ り、「
ポー ラン ド ・露対話 と和解セ ンター」が設立 され た。セ ンターは、ポー ラン ド・ロシ
ア間にお ける歴 史、文化 、国家遺産 の分野 で相互理解 を深 めるこ とを 目的 と してい る。 主な活動
と しては、両国への教育活動 の援助 、学会 、シンポ ジ ウム、専門家や学術研 究者 の指導 の下で講
演 を行 うことや 、若者 の理解 を深 め るための両国で交換留学な どを企画 してい く。 さらに、両国
で調査のための関係文 書へのアクセ スを容易 にす ること、担造 され た歴 史 に対抗 し、今 日の両国
関係 の相 互対話 を円滑 に進 め ることも 目指 してい る。 こ うした国家 レベル でセ ンターが創設 され
た ことか ら、歴 史 に関 して言 えば ロシア政府 もポー ラン ド政府 も両国の 「
歴史の空 白」 の直視 を
これ以上先送 りにで きない とい う動 きの表れ だ と考 え られ る。今現在 、 目立 った活動 は見 られ な
いが、今後 、カテ ィンの森事件 に関 して も和解へ向 けて、セ ンターが両国の対話 を実現 し、その
か け橋 とな ることで重要な役割 を果たす ことに期待 したい。
-1
32-
第 5章
カティンの森事件の 「
灰色性」と歴史認識の 「
重層性」
1.カテ ィンの森事件の 「
灰色性 」
① なぜ カテ ィンの森事件 は 「
灰色」であ り続 けるのか。
カテ ィンの森事件 は、事件発生か ら 70年以上経つ にもかかわ らず、未 だ解決 の兆 しが見えない
状況 であ る。本項 目では、なぜ事件 が 白黒 の決着がつかず 「
灰色」の状 態であるのか とい う問い
に対 して、考 え られ る理 由を考 えたい。
a
)「
正義」は どこにあるのか。
まずは、 「
正義」 は どこにあるのかについてである。 「
正義」 を語 る上 の前提 と して、カテ ィン
の森事件 に対す る共通の認識 そ して評価 について考 える必 要があ る。つ ま り、ポー ラン ド人 とロ
シア人がそれ ぞれ事件 に対 して共通認識 をあるのかか ど うかであ る。 ポー ラン ド人は、 自身 をス
ター リン、 ロシア (ソ連)の被害者 と捉 えてい る。 事件 に よ りポー ラン ド国家の 中で も階級 の高
い、言 わば国家 の運 営 に携 わ るよ うな人 々が抹殺 され 、甚大な被 害 を被 ったので ある。 一方 、 ロ
シア人 に とって、 ソ連 史 には 1937年 か ら 1
939年 の大粛清 によって ソ連人 1
00万人以上 の銃殺 、
第二次世界大戦末期 の国内住 民の強制移住 な どがあ り、カテ ィンの森事件 はスター リン政権 の犯
罪 の中の一つ と して例外 をなす ものではない と捉 え られ てい る。 そ もそ も、全 ロシア国民が事件
を認識 してい るわけではない。現 に、第 4章で示 した よ うに、201
0年 4月 に行 われ た ロシア人 に
対す る世論調 査 (
本稿 p123 参照)では、 ゴルバチ ョフ台頭以前の ソ連時代 か ら事件 を知 ってい
たのはわずか全体の 17%であった。さらに、お よそ 34%の人 々が 201
0年 4月のプーチ ン首相 のカ
テ ィン 70年 追悼式典 、ポー ラン ド大統領機 墜落事故か ら初 めて事件 を知 った とい う結果であ る。
そ して、調査が行 われ た時点 で、カテ ィンの森事件 の責任 は ソ連 にある と知 ってい るか とい う質
問 に対 して、初 めて聞いた と答 えたのは 74%にも及 んでい る。 この よ うに、ポー ラン ドでは、国
民誰 もが知 ってい るに対 し、 ロシア人 にはそれ ほ どカテ ィンの森 事件 の認識度 が高 くない ことが
-1
33-
分 か る。 さらに、 ロシアの社会 自体 が過去 の暗い部分 を直視す ることを避 けてい る。 ポー ラン ド
社会 では反共産 主義体制運動 は愛 国主義 と捉 え られ 、そ して、共産主義時代や その清算 の研 究 に
お いて も国家の正 当性 を示す もの とされ てい る。 しか し、 ロシア社会 では、過去 の清算 に対す る
その よ うな動 きは見 られ ない。共産 主義勢 力 と対立す る試 みはな く、それ は社会 の中で愛 国主義
NowaEur
opaWs
c
hod l
a
,[
201
0]
,
pp 798
3)。この よ うに、これ までは
と同一視 され ることはない (
n
両国民の事件 の認識 に温度差 があ ることか ら、「
正義」を語 る上での共通の評価 ができなかった と
い うことにな る。
201
0年 4月の 70年追悼式典お よび大統領機 墜落事故は、多 くの ロシア人が事件 を知 るきっか
け となったのは確 かである。 現時点 でのポー ラン ド ・ロシア両国民、それ ぞれ が事件 か ら見据 え
た願 いや動 きは次の通 りであ る。 ポー ラン ド人の願 いは、遺族へ のイ ンタビュー調査や 世論調 査
が示 してい る通 り、全事実 を知 りたい、 ロシアが事実 を再認識 しては しい とい うことである。一
方 、 ロシア人 に関 しては、 ソ連時代 に圧力 を受 け、 スター リン主義の被 害者 であ り、その事実全
てが公表 され てい るわけではない。 それ以前 に、 ロシア国民 に対す るス ター リンの犯罪 も明 らか
に し正 しく認識す るとい う動 きが 「
メモ リアル 」団体 によって行 われ てい る。
こ うした中で、ポー ラン ド人 もロシア人 もスター リン体制 の被 害者 で あるい う主張は、両国民
の共通認識 であ ると言 える。 しか しなが ら、カテ ィンの森 事件 とい う事例 か ら見 ると、 ロシア人
に とってはそれ ほ ど重要視 され ていない よ うである。 そのため、両国民 の認識 に差異が生 じ、互
いの 「
正義」を主 張 し合 うこ とで対立が生 じるのは明 らかであ り、「
正義」は どこにあるのか、何
が 「
正 しい」 のかを一概 に言 うこ とはできない。
そ して も う一点付 け加 える と、体制転換 以降か ら、事件 の真相 究明が叫ばれ る中、少 しずつ情
報 の開示 はな され てい るが、全文 書公 開までは現時点では至 っていない。201
0年 11月 に、 ロシ
ア下院 に よる 「
カテ ィンの森 事件 は スター リンや他 の ソ連指導者 の直接 の命令 で行 われ た」 と認
め る声明を賛成 多数 での採択や 、1
2月の メ ドペー ジェフ大統領 のポー ラン ド公 式訪 問な ど、両国
の和解へ 向けて動 き出 し始 めたのは確 かで ある。 しか しなが ら、 この よ うな国家 間の表 面的な歩
み寄 りは見 られ るが、実際 に ロシア側 か ら積極的 に真相究 明に乗 り出そ うとい う動 きは見 られ な
い。 ロシアに限 らず どの社会 も、 自国の歴 史の黒い部分 に 目を向 けた くない ものである。 そ もそ
-1
34-
も、ソ連 (
ロシア)に とって第二次世界大戦の中にお ける独 ソ戦では、大祖 国戦争 と して約 2,
0
00
万人の犠 牲者 を出 してい る。 大戦 において、 ドイツは支配 拡張、侵略 を 目的だったのに対 し、 ソ
連 は ヨー ロ ッパ をナチ ス ・ドイツか ら解放 す るため とい う名 目の下で戦 った とされ てい る。 多数
の ソ連 自国民の犠牲者 を出 しヨー ロ ッパ を解放 したのだか ら、その名 目で他 の国 々に対す るソ連
の戦争犯罪 は仕方 なかった とい うロシア側 の言 い分 も成 り立つのか も しれ ない。 しか し、そのた
めに捕虜 の処刑 や民 間人への虐待 な ど、ル ール を犯 して もよい とい うわ けではない。 ポー ラン ド
人将校 を殺害 しなけれ ば、 ソ連 は戦争 に勝 てなかった とは言 えない。結 果的 には、 この戦争 には
連合 国側 が勝利 し、それ によって ソ連体制 の正統性 を支 え る要因 にな り、連合 国側 にカテ ィンの
森 事件 を糾弾で きる余 地はなかった。連合 国は、第二次世界大戦 にお け るソ連 の 「
正義」 に 目を
つぶ らざるをえなかったのであろ う。
,
000万人の ロシア人犠 牲者 の遺族 、
こ うした ことか ら、カテ ィンの森事件 の事実解 明は、約 2
国民の感 情への配慮 か ら、 ヨー ロ ッパ解放 に手 を尽 く した とい う名 目を全て とは言 わないまで も
一部否定す るこ とにな りかね ない。 ロシア側 の本音 と しては、大祖 国戦争 の正 当化 を覆 され ない
た めにも、カテ ィンの森事件 は何 処か らの審判 も下 されず 、このまま 「
灰色」の状態であ り続 け、
時代 と共 に風化 してい くことを望んでい るのではないだろ うか。 第二次世界大戦 とい う大 きな枠
組 みか ら見れ ば、 ソ連 に とってカテ ィンの森事件 は先 を見越 しての、つ ま り戦後 ポー ラン ドを共
産 主義体制 下に組み込むために、反 ソ感情 が強い指 導者層 を排除す るた めに起 こ され た もので あ
った。 それ が後 と して大祖 国戦争 にお ける 「
正義」 であるのかを断定 して言 うには問題 が複雑 で
大 きす ぎる。
b) ロシア (
ソ連) および西側諸 国 との事件 の関連性
次 に、カテ ィンの森 事件 は単 にポー ラン ドとロシア (ソ連)だ けの問題 ではない とい うことで
あ る。戦後 、 ソ連 は事件 を ドイツの犯行 と決 めつ け 、1990年 までその姿勢 を変 えることがなかっ
た。 ソ連 が犯行 を隠 し通す こ とがで きたのは、英米 つま り連合 国側 の態度 が不透 明だったか らで
あ るとも言 える。 これ に関 しては、第 4章 で も紹介 してい る、 ロシア人研 究者 ヴィク トル ・ザ ス
ラフスキー著 『カチ ンの森
ポー ラン ド指 導者階級 の抹殺』(
ザ スラフスキー,[
2
01
0]
)で も述べ ら
-135-
れ てい る。 まず 、戦後 の ドイ ツの戦争犯罪 を糾 明 したニュル ンベル グ裁判 では、カテ ィンの森事
件 は証拠 不十分 で深 く追及 され るこ とはなかった。 その裏 には、ニュル ンベル グ裁判 はナチ ス ・
ドイツを裁 くもので あ り、連合 国側 であった ソ連 に犯行 を追及す るわけにはいかなかった事情 が
あ る。 そ して、ポー ラン ド人将校殺 害は共産主義時代 の西側諸 国での調 査 によって、 ソ連 の犯行
で あるとい う見解 が通 っていた。 しか し、西側諸 国の政府 が事件 の真相解 明に乗 り出 した とす る
と、連合 国 と して ソ連 と手 を組 んだ こと、ニュル ンベル グ裁判 で敢 えて事件 には触れ ない よ うに
した こと、独 ソ不可侵 条約 に よる侵 略、戦後 の共産 主義支配体制 に連合 国は 目をつぶ った こ とが
明 らかになって しま う。 当然 、西側諸 国は責任 がふ りかか って くることに恐れ を感 じ、事件 を全
面的 に取 り上 げない よ うに したのではないか と考 え られ る。 カテ ィンの森事件 が辿 った経緯 は、
ドイツ とソ連 の 1939年 か ら 1941年 にか けての協力関係 、それ以降の ソ連 と連合 国 との協力関係
の 中で事件 は踊 らされ た ことにな る。
実際、イギ リス、アメ リカは事件 に対 して どの よ うな姿勢 を取 ったのであろ うか。 まずイ ギ リ
スについて 、1
943年 4月の ドイツによる事件公表後 、カテ ィン一帯は ドイツ軍が支配 していたた
め、公正 な調査 を実施す るこ とはで きず、十分 な情報 を得 られ ない状況 か ら立場 をはっき りさせ
なかった。 そ して、チ ャーチル は、 ソ連 の協力 を得 たいがために、敢 えて事件調 査 に触れ よ うと
と しなかった。その数 か月後 、亡命 ポー ラン ド政府付 イギ リス大使オー ウェン ・オマ レー (
Owe
n
o■
Ma
l
l
e
y) は、独 自で入手 した証拠 を下に、将校殺 害は ソ連 に よるものだ と結論付 け、事件 に関
す る覚書 を作成 してい る。しか し、チ ャーチル はオマ レーの覚書 を表 に出そ うとは しなか った (
ザ
ス ラフスキー ,[
201
0]
,p7
4)。1
976年 には、ロン ドンのカテ ィン慰霊碑 に 「
1
940年」と刻 む ことに
イ ギ リス政府 は難色 を示 し、そ して政府代表 は除幕 式 にも出席 しなかった。 「1940 年 」 を入れ る
とい うこ とは、イギ リス側 が公式 に ソ連 の犯行 だ と認 めることにな り、冷戦 によ り緊張が続 いて
い る中で、イ ギ リスは ソ連 に刺激 を与 えないた めにこの よ うな姿勢 を示 したのであ る。
一方 、アメ リカについて、ルー ズ ヴェル トも当初 はイギ リス と同様 の立場 を取 った。バル カ ン
問題 の特使 で あったジ ョー ジ ・アール (
Ge
o
r
geEa
r
l
e) は、ブル ガ リア とオー ス トリアで大使 を経
験 してお り、それ らとの接触 を得 てカテ ィンの森事件 の情報 を入 手 し、事件 は ソ連 の犯行 であ る
とルー ズ ヴェル トに伝 えていた。 しか し、ルー ズ ヴェル トはアール の情報 を受 け入れず 、同盟 国
-1
36-
で あるソ連 との関係 に影響 が出 るこ とを懸念 し、アール を任務 か ら外 し、遠 く南太平洋 のサモア
に とば してい る。 1
950 年 に、カテ ィンの森事件 か ら奇跡 的 に生 き残 ったユゼ フ ・チ ャブスキは、
国際的な放送 で知 られ てい る放送局 の 「
ボイス ・オ ブ ・ア メ リカ」でポー ラン ド向け放送 を準備
す る際、カテ ィンの森 事件 を言及す ることを特 に禁 じられ てい る。 そ して、アメ リカ議会 の対応
と して 、1
949年 には、民 間のカテ ィン虐殺調査委員会 が設 け られ 、事件 についてメデ ィア と世論
を喚起す る活発 な運動 が行 われ た。 そのた め、アメ リカ議会 はカテ ィン問題特別 委員会 の設置 を
決 定 し、事件 資料や証言 を集 め、全体で 2,
400ペー ジに及ぶ数巻 の調査文書 を公刊 した (
ザ スラ
フスキー,[
201
0]
,p82)
。1
9
43年 の時点 で ドイツ軍の捕虜 となってお り、オブザーバー と してカテ
ィン発掘現場 に連れ ていかれ たフ ィラー ト大佐 (
J
ohnH Va
nVl
l
e
t
)は 、1
952年 のアメ リカ議会 で
証言台 に立 ってい る。そ して議会 は、カテ ィンの森事件 は 1
939年 に計画 され 、NKVD に よってポ
ー ラン ド人将校 らの殺 害が実行 され た と承認 した。
冷戦 中、 このアメ リカ議会 による結論 は、 ヨー ロ ッパ の世論 と西側諸 国の歴史研 究者 との間で
共有 され ていない。 無論 、共産主義圏諸 国では支持 され ることはなかったのは言 うまで もない。
イ ギ リス政府 もアメ リカ政府 の結論 を公式 に認 めない ことを決定 してい る。
この よ うに、カテ ィンの森事件 はなぜ半世紀 もの間、事実が明 るみ に出なかったのか に対 して、
ただ ソ連 の犯行 であった と済 ま され るべ きだけではな く、他 の国 に対 して も責任 問題 が生 じてい
ることにな る。 現在 も、カテ ィンの森事件 - ソ連 の犯罪 、 とされ てお り、裏側 で起 きていた他 の
国 々の事情は追及 され ていない。
C
)戦後史の評価 の見直 し
前項 目で、 ロシア (ソ連)お よび西側諸 国 とカテ ィンの事件 との関連性 を述べ たが、そ こか ら
浮 かび上がった、戦後 史の評価 の見直 しとい う新たな一面 をを指摘 したい。
戦後 、カテ ィンの森事件 は、戦勝 国であ るソ連 によって事件 の存在 自体 を社会 か ら抹殺 され た。
他方 、 ソ連 との関係 の複雑化 を懸念 した西側諸 国、主 にア メ リカ、イギ リスは、事件 の責任 問題
を追及 しよ うとは しなかった。事件 の黙認 は、戦勝 国の暗黙の了解 であった とも言 える。西側諸
国では、亡命研 究者や事件 関係者 らによって事件 が語 られ てきたが、それ が政府 の黙認 の姿勢 を
-1
37-
打 ち破 るわけで もな く、西側諸 国の人 々の関心 を奮 い立たせ るわ けで もなかった。戦後 の民主化
とい う観 点か ら、 この よ うな西側諸 国の態度 に問題 はなか ったのであろ うか。 冷戦 において、カ
テ ィンの森事件 の事実究明は政治のカー ドとな り得 たが、 ソ連 との衝突 を避 けるために西側諸 国
はそのカー ドを利用 しよ うとは しなかった。 この 「
敢 えて事件 をを黙認 した」 とい う事実は、戦
後 の民主化 の歴 史 において、西側諸 国に対 して も倫理的な問題 と して問われ ることにな るか も し
れ ない。歴史の負 の遺産 の清算 に対 して、 ソ連 だけではな く西側諸 国 も ソ連 の公 式見解 を黙認 し
ていた とい う事実 を直視す ることは、戦後 史の評価 の見直 しとい う大 きなテーマ につ なが るが、
本稿 の直接的 な分析対象 ではなか ったので、 この ことは問題 を指摘す るに とどめたい。
以上、カテ ィンの森 事件 の 「
灰色性」 を、ポー ラン ドとロシアの共通 の認識 ・評価 、大祖 国戦
争 での ソ連 の 「
正義」、西側諸 国 との事件 の関連性 、歴史の負 の遺産 の清算 、戦後史の評価 の見直
しとい う観点か ら考察 したが、問題解決 にお ける共通の基準が定 ま らず 、現時点 で も歴 史の評価
の軸 が明瞭でないのは確 かで ある。 そのた め、カテ ィンの森事件 は依然 と して 「
灰色」のままで
あ り続 けてい る。
②事件解決の可能性沿模 索
カテ ィンの森 事件 の 「
灰色性」の考察 した上で、解決 に向けての着地点の可能性 を考 えてみた
い。 まず 、 ロシアが国家 と して事実 を再認識す るこ と、事件 に関す る全文書公 開が挙 げ られ る。
遺族へのイ ンタ ビュー調査 を通 して、最 も彼 らが望 んでい ることは、謝罪や賠償 、実行 犯 を裁 く
こ とではな く、上記 二点であるこ とが明 らかになってい る。すなわち、遺族 は肉親 の辿 った運命 、
そ してその事実関係 を知 ることを懇願 してい るのである。そ して、ポー ラン ド国民 も遺族 と同様 、
事件 の資料公 開 を求 めてい ることを世論調 査か ら裏付 けてい る。 この よ うに、全真相解 明が、国
民 が納得 す る方 法であ り、真実 さえ分 かれ ば、ポー ラン ド人 に とって、 ロシア人 に とって も事件
解決 のひ とつの区切 りとな る と考 え られ る。 それ に よ り、ポー ラン ドとロシアは隣国関係 を築 き
上 げる上で互 いに前進 できるのではないだろ うか。
次の可能性 と して、ポー ラン ドとロシアが互いに歩み寄れ るか ど うかである。遺族 へのイ ンタ
ビュー調 査や世論調 査で も表 され てい るよ うに、現代 のポー ラン ド人は ロシアに対 して不信感 を
-1
38-
示 す人が多いのは明 らかであ る。一方 、 ロシア人のカテ ィンの森 事件 の認識 は さほ ど高 くない こ
とが世論調査で示 され てお り、そ して事件 はスター リン政権 下の多 くの犯罪 の一つ と して、その
残虐性 は他 と異 な らず例外 をな さない と考 え られ てい る。 したが って、一方 か らの不信感 そ して
両国民の事件 の認識度 の違 いか ら、同 じ土台 に立つ ことが難 しい ことが分 か る。 事件 の全真相解
明が最優 先事項 であ るとい う条件 が両国に確立 されれ ば、ポー ラン ド人 もロシア に対 して寛容 に
なれ る可能性 があるか も しれ ない。そ して、ロシア人 もカテ ィン 70年追悼式典お よびポー ラン ド
大統領機 墜落事故 によ り事件 の認識度 が高 まったのは確 かである。 両国民の歴史認識 に必要 な条
件 を確立 し、それ を前提 と してでき るところは譲歩 し合 い、互いが歩み寄れ る環境 を作 るこ とが
で きれ ば両国間の関係 構築 も円滑 に進むのではないだろ うか。
2.歴史認識の 「
重層性」
① カテ ィンの森事件か ら、それ ぞれの レベルで何 を重視す るのか O
本項 では、ポー ラン ドとい う枠組 みの中での歴史認識 が ど うな され てい るかを考察 したい。 立
場 が違 えば歴史上の事実 に関す る見方 は異 な る。 ポー ラン ドの国家、研 究者 、国民、遺族 のそれ
ぞれ の 目線 か らカテ ィンの森事件 に対す る歴史認識 において何 を重視す るのかを論 じてい く。
a
)国家 レベル :「
政治の道具」 と しての利用
これ までの研 究は、ほ とん ど国家 レベル での歴 史認識 が議論 の対象 で あった。 共産 主義時代 で
は、ポー ラン ド共産党 当局が、 自国の歴史家 に対 し、政治的 に都合 の悪 い事実、つま りポー ラン
ド政府 自身は もちろん、 ソ連 の歴史上の汚 点 とな る事実 を語 るこ とを禁 じていた。 ドイ ツの責任
転嫁 を知 りなが らも公 の場 で言及 で きず、国家が事件 を封 印 していた。 すなわち、国家 が政治的
な理 由か ら事件捜査 の指導権 を握 っていた ことにな る。第 4章の共産主義時代 の状況 で も述べ た
とお り、百科事典 の よ うな一般人が手 にす る書籍 か らもカテ ィンの森事件 が消 し去 られ 、第 3章
の遺族 のイ ンタビュー調査 によって、身内が事件 の関係 者 であることか ら、抑圧 を恐れ なが ら日々
の生活 を送 っていた こ とが分 かってい る。 常 に ソ連 がバ ックにつ いていたが、実際 に国民 に対 し
-1
39-
て、言論統制 、事件 関係者や規制 を破 る者 に抑圧 を施 してきたのはポー ラン ド共産党 当局 であ り、
これ は政府 の方針 であった ことは言 うまで もない。
体制転換後 、政府 は これ までの姿勢 とは一変 し、真相解 明 を叫ぶ よ うにな り、ポー ラン ド ・ロ
シア関係 において、外交のカー ドと して利用す るよ うにな る。 ヨー ロ ッパ の中で新 しい地位 を築
いてい く上で、様 々なカー ドを切 って ロシア との交渉で優位 に立 と うとす ることは 自然 な ことで
あ る。 そ して、内政 にお いて も、事件への コ ミッ トメン トは国民の支持や期待へ とつなが る。
こ うした理 由か ら、国家 に とってのカテ ィンの事件 は、共産主義時代 では人 々を弾圧す るもの
と して利用 され 、体制転換後 は、内政や外 交の 「
政 治の道 具」 と しての利用 とい う面が重視 され
てい る。政治状況 によって姿勢 は一変 してい るが、ポー ラン ド政府 自身 、元 々事件 の犯行 は ソ連
に よるもの と分 かってお り、共産主義体制 下ではバ ックにい るソ連 を恐れ 、真実 を公 にす るこ と
はできなかった。
「
政治の道具」 の中で、国の レベル では国家 と しての対応 、まず は ロシア政府 に対 し事件 の全
証拠資料 の公 開 を求 め、そ して事件 の責任 を認 め させ たい と考 え られ てい る。 なぜ な らば、公的
な姿勢 と しての公式 見解 の表 明は、過去の傷 を癒 し、政治的な和解 の基盤 を作 る前提 の もの と し
て認識 され るか らであ る。
b)研究者 レベル :ソ連の公式見解 に黙認 、政治の影響 を受 ける
研 究者 レベル では、共産主義時代 では事件 の真相 を究明 しよ うとすれ ば、共産 党 当局 か ら圧 力
が加 え られ た。 ソ連 の公式見解 に 目をつぶ らざるをえなか った。 しか し、 ソ連側 か らの情報 がな
い 中で、研 究者 は西側諸 国にい るカテ ィン関係者 か らの記録や証言 を共産党 当局 の 目につかない
ル ー トか ら入手 し、事実認識 へ と導 こ うとす る者 もいた。 実際、第 2章 で分析 した とお り 『クル
トウ- ラ』は、在外 ポー ラン ド知識 人、文化人の学際的な論壇 で あっただけでな く、 ソ連支配 体
制 に対す る抵抗 のシ ンボル で あ り、唯一定期的 に、また大量 にポー ラン ド国内に持 ち込 まれ た西
側 の反体制雑誌 である。『クル トウ- ラ』地下出版 を通 じて国内に反 体制派情報 を流通 させ る役割
を果た していた。
一方 、共産党 に近 い研 究者 は、カテ ィンの森事件 についての ソ連 の見解 をポー ラン ドの見解 を
-1
40-
同 じレベル で扱 うことで、中立的立場 を とっていた。無論 、ソ連側 の資料 に按す ることができず、
事実 を隠 し担造す るプ ロパ ガ ンダに惑わ され 、 ソ連 の責任 を否定 し続 け ることで、 自分 たちの研
究者 と しての立場 を政 治傾 向 に結び付 けた。先行研 究お よび第 4章の共産主義時代 の状況 で も示
した とお り、国内での正式出版物 は、検閲 を突破 して正式 に出版 され てい ることもあ り、 ソ連 に
都合 の良い よ うに解釈 され た研 究 も行 われ ていた。
体制転換後 、研 究者 は ロシアか ら公 開 され た文 書の分析 、将校殺害状況 の詳細 の特定、検証 の
結 果、得 られ る事実 関係 の詳細 を明 らかに してきた。現時点では、公 開 され た文 書か ら分 か る範
囲での研 究は され尽 され てい る。次 の段階 に進 めるか ど うかは、 ロシア側 が保管す る残 りの機 密
文 書の公 開次第である。
すなわ ち、研 究者 レベル では、国外 と りわけ西側諸 国のポー ラン ド人研 究者 の間では、カテ ィ
ンの森事件 は ソ連 の犯行 であ ると理解 され てお り、それ を地下出版 と通 して国内へ伝 えていた。
国内では、ある程度事実は認知 され ていたが、研 究者 と しての立場 を守 るために ソ連 の公式 見解
に黙認 し、そ して研 究者 も政 治の影響 を受 けていた ことが分 か る。現在 は、事実認識 そ してその
調 査、情報 の伝達が彼 らの重視す る役割 で もあ る。
C
)国民 レベル :ナ シ ョナ リズム につなが る歴史認証
共産主義時代 では、 ソ連共産党 当局へ抵抗す る反体制派 と して活動 をす る国民 もいた。地 下活
動 を通 しで 情報 を伝 える側 、そ してその情報 を得 る側 とで、危険 を顧みず行 っていた こ とが、 当
時 の反体制派 を盛 り立ててい く社会 を作 りあげてい った。 そ うした局面 でカテ ィンの森 事件 の真
相 は世 に広 ま り、人 々の歴史認識 を形成 していった。第 3章の遺族 に対す るイ ンタビュー調査で、
1
98
0年代 にはすでに多 くの人が事件 を知 ってお り、徐 々に学校や職場 な どで も話せ る雰 囲気 があ
り、実際 に議論 し合 い、事件 に対す る認識 を深 めていた ことが証言 によって明 らかに され てい る。
換言すれ ば、政 治的 な環境 か ら言論 の 自由が制 限 され た社会状況 と、その よ うな状況 下で も国民
の歴史認識 は高まっていた ことか ら、社会 と国民はね じれ た状態だった と言 え る。
体制転換後 は、真相 究明な ど、反 ソ (
ロシア)とい うポー ラン ド人の感情 を一体化す ることで、
外 に向けての結 束力 を固めて きた。 カテ ィンの森事件 は、言 わばポー ラン ド人のナ シ ョナ リズム
-1
41-
を高 めるための要素 が揃 っていたのか も しれ ない。 こ うした中で国民の感情 も国家 に よって政治
利用 され るよ うにもな る。
201
0年 4月の 70年 カテ ィン追悼 式典 が近づ くにつれ て、一気 に認識度 が高まった ことが第 4
章 のポー ラン ド人 に対す る世論調査 よ り明 らかにな ってい る。加 えて、 ロシアに対 して事件 に関
す る全資料公 開 を求 める国民 が半数 以上 を 占めてい ることも世論調査か ら分 かってい る。 この よ
うに、国民 に とっては反 ソ感 情 と して事実解 明の要求、ナ シ ョナ リズム を高 め させ るた めの動機
と して事件 が認識 され てい るのではないだろ うか。
d)遺族 レベル :犠牲者の追悼 、社会への浸透
遺族 レベル に関 しては、第 3章のイ ンタ ビュー調査で詳細 に記述 してい る。遺族 は、事件 の関
係 者 であるこ とか ら特 に共産主義時代 では、事件 を 口に してはな らない もの と して認識 していた。
その よ うな状況 下で、情報 を得 られ ず、肉親 の安否情報 を得 られ ない中で も、秘 密警察 の 目の届
かない範 囲で、感情 を押 し殺 しなが らも、遺族 は事件 を絶 えず認識 し続 けてきた。
体制転換後 に初 めて肉親 の消息が分 かった遺族 が多数お り、 さ らに、それ まで抑 え られ ていた
主 張や言論 が表 面化す ることによって、遺族 自身 も前 に出て事実解 明を主張す るよ うにな り、歴
史認識 も強まってきた。 こ うした こ とか ら、時代 の局面で翻弄 され た遺族 の間で歴史意識 が変化
す る過程 が見 られ た。遺族 に とって、犠牲者つま り肉親 を事件 で亡 く した ことか ら、犠牲者 に対
す る追悼 が優先的であ るのは間違 いない。 そ して、イ ンタ ビュー の中での彼 らの辿 って きた経緯
か ら、ポー ラン ド人 もロシア人 も歴 史か ら目を逸 らすべ きでない と強 く願 ってい る。遺族 とい う
事件 関係 者 の立場 か ら、事件 を風化 させず 、次世代 へ伝 え る、社会へ浸透 させ たい とも願 ってい
る。 国民 レベル と同様 に遺族 レベル で も、感情的な部分 か ら事件 の早急 な真相解 明を望む ことを
最 も重視 してい る
-1
42-
② それ ぞれの歴史認識 におけるニ ュア ンスの差異 とは
国家、研 究者 は、政治が主体 とな って、つま り内政や外 交そ して ロシア側 の動 向に左右 され て
それ ぞれ の歴史認識 を形成 してい る。 そ して、国民 、遺族 は感情論 か ら見 る歴史認識 が大 きい よ
うである。
共産主義体制 の終蔦 か ら体制転換 を通 して、事件 を取 り巻 くポー ラン ド社会 の変化 は、すで に
何度 も述 べてい るが、外的な変化 と しては ロシアが事実 を認 め、少 しなが らも真相解 明 に乗 り出
した こと、内的な変化 と しては言論統制 が解 除 され た こ とである。体制転換 とい う大 きな変化 で、
国家 レベル か ら国民 、亡命者 、遺族 の様 々な レベル での歴 史観 が あ らわ にな り、それ が重な る部
分 もあるが差 異 もある。 ここでは、その差異が何 を意味す るのかを考 えてみたい。
現代史 の枠組 みの 中で形成 され 、語 られ てきた歴史は誰 の声か らによるものなのか。逆 にこれ
まで誰 の声が最 も抑圧 され沈 黙 させ られ ていたのか。 これ までのカテ ィンの森事件 の研 究は国家
レベル での議論 が対象 であった。つ ま り、歴史上でのカテ ィンの森事件 の事実は、国家の 目線 で
常 に見 られ 、歴 史認識 も掌握 され ていた ことにな る。それ が 1
990年代 に入 り、ソ連 が崩壊 し、事
件 への ソ連 の関与が明 らかになった。 ポー ラン ド国内では言論 の 自由が認 め られ 、約半世紀 もの
間沈黙 を守 り、犠牲者 の遺族 がその沈黙 を破 り始 めた ことで、遺族 の声 が公的な場 に出 るよ うに
な った。これ によ り、それ まで国家のス タンスでの歴 史認識 が社会 でまか り通 ってきていたのが、
遺族 の声 が発せ られ ることで、国家 もそれ を無視す るわけにない よ うになった。 さらに同時 に、
同 じポー ラン ド人 と して遺族 と同 じよ うに言論統制 を強い られ て きた国民や 、公 開 され た文書 の
分析 な ど客観的 に事実 を見据 える研 究者 も加 わ り、国家、研 究者 、国民 、遺族 、全ての 目線 か ら
の解釈 が重な り合 い共有す る部分 も出てきたが、それ ぞれ の解釈 のニュア ンスの差異か ら、国内
で も歴史認識 に微妙 なずれ が生 じて きた。 すなわち、言論 の 自由を得 た ことで、それ まで潜 めて
いた遺族 の声 が表 に現れ るよ うにな るが、姿勢 を 1
80度変 えた国家の声や 、事件 をナ シ ョナ リズ
ムの象徴 と して掲 げ る国民の声 によって、結局は 「
政治の道具」 と してそれ ぞれ の歴史観 が左右
され 、現在 の歴史認識 の形成 につ ながってい る と言 える。
国家、研 究者 、国民、遺族 全ての歴史認識 を一体化す ることは、それ ぞれ の政 治的、社会的立
場 上、困難 であろ う。 事件 の全事実解 明がそれ ぞれ の立場 での歴 史認識 で重層す る部分 ではあ る
-1
43-
が、その解釈 の 中で認識 に対す るニ ュア ンスの差異 が生 じてい る。今後 もカテ ィンの森 事件 の状
況 は変わ りつつ あると考 え られ る中、この事件 と向かい合 う際 に、国家 レベル か ら国民、亡命者 、
研 究者 、遺族 の様 々な レベル で歴史的な知識 を どの よ うに持つか、歴史 の記憶 を どの よ うに受 け
止 めるかが歴 史認識 を共有す る上 で極 めて重要 であると言 える。
-1
44-
結 論
本研 究で明 らかにな った点は三つ ある。
一つ 目は、 これ までの分析 、議論 か ら、共産主義体制 か ら民主化へ とい う体制転換 、そ して現
代 で、カテ ィンの森 事件 は事実究明の他 に、ポー ラン ドのナ シ ョナ リズムの象徴 の一つ とな り、
内政 ・外交の駆 け引きの中で も利用 され るな ど、「
政治 の道具」と しての側面の強 さが増 してきた
こ とであ る。 その裏付 け と して、国民の面 では、遺族 が時代 の局面、つ ま り各政 治体制 よって翻
弄 され続 けてい るこ とを遺族 に対す るイ ンタビュー調査か ら、ポー ラン ド国民の事件 にお ける社
会意識 の高ま りは世論調査か ら確認 してい る。事実究明ではな く、「
政治の道 具」と しての側面 を
本研 究の 目的 と した ことか ら、特 に遺族へ のイ ンタ ビュー調査 を通 して政治的な問題 に発展 して
い く過程 で遺族 が翻弄 され てい る様子 を明 らか に した。そ して、国家の面では、共産主義時代 は、
事件 に関わ る人 々を取 り締 ま り、組織的 に事件 を社会 か ら排除 していたが、体制転換後 は一変 し
て事実究 明を叫び出 した。 こ うした ことか ら、時代 の変化 に伴 い事件 が 「
政治の道具」 と化 して
い く過程 が政局や 国民感情 を翻弄す ることによって、それ が現代 のポー ラン ド国家、国民、遺族
の歴史認識 に直接結びついてい る。
二点 目は、現代史 か ら見 る人 々のカテ ィンの森事件 に対す る歴 史認識 、そ して事件 が持つ特殊
性 を明 らかに した。 現在 ではカテ ィンの森 事件 を知 らないポー ラン ド人 はほ とん どいない。現代
の若 い世代 は、学校 の歴史の授業で習 うほかに、家族 が事件 の犠 牲者 で ある、あ るいは遺族 では
な くて も事件 について家族 か ら聞か され てい る。そ して 、2009年 のア ンジェイ ・ヴァイ ダ監督 の
映画 『カテ ィンの森』、201
0年 カテ ィン 70年追悼式典 か ら 4月 1
0日の大統領機 墜落事故は、若
者 だけではな く全ポー ラン ド人の心 にカテ ィンの森 事件 に対す る歴史認識 を植 えつ ける形 にな っ
た。共産 主義体制 下で事件 が表舞台 に出な くとも、地下出版 な どを通 して、公安局の 目が及 ばな
い ところで 情報 が流通 していた。 カテ ィンの森事件 は、過 去か ら現代 を通 して絶 えず現代史の 中
で存在感 をあ らわに し、それ がポー ラン ド人の歴史認識 に対す る意識 の高 さに結 びついてい る。
そ して、事件 自体がポー ラン ド人の記憶 に入 り込み、歴 史 を振 り返 るための拠 り所 となってい る。
-1
45-
こ うした ことか ら、共産主義時代 の西側諸 国での研 究 (
『クル トウ- ラ』、地下出版 の普及)、遺族
に対す るイ ンタビュー調査、現在 の動 向お よび ポー ラン ド国民感情 (
世論調査)か ら見て も、人 々
のカテ ィンの森事件 に対す る歴史認識度 は高い ことが分 か る。
そ して、カテ ィンの森事件 は第二次世界 大戦での一過性 の出来事ではな く特殊性 を持 つ ことを
指摘 したい。今現在 も事件 を取 り巻 く状況 は変わ りつつ あ り、第 5章ではなぜ未 だ 白黒 がつかず
「
灰色」 な状態 であ りつづ け るのか を述べ た。 それ を踏 ま えて、 あ りうる解決 の可能性 を考察 し
てい る。 全面解決 とはいかず とも、イ ンタ ビュー調 査や世論調査 か ら分 かったポー ラン ド国民の
願 い、す なわち事件 の真相解 明が解決への一つの区切 りとな ると考 え られ 、それ がポー ラン ドと
ロシア関係 の新たな構築 につなが るのではないだろ うか。
三つ 目は、ポー ラン ド国民 に とって 「
事件 の真実 を明 らかにす ること」が最 も重要で あ り、そ
れ は ロシアの ソ連公文書館 の未 だ機 密 とされ てい る資料 の公 開が非常 に大 き く関わってい るこ と
が分析 の結果明 らか になった。 これ までの公 開資料 によ り歴史的事実 と してすで に明 らかにな っ
てい る部分 もあ るが、まだ明 らかに され ていない ものの内容 の確 定、それ こそポー ラン ド国民 が
望む ものであるのは言 うまで もない。最終的な議論 と して、全事実すなわち全機 密資料公 開 を実
現 させ 、それ に よって真実 をポー ラン ド ・ロシア双方 で究 明す ることが 「
正義」への第一歩では
ないだろ うか。
本研 究 では、カテ ィンの森 事件 をめ ぐるポー ラン ド ・ロシア間 にお け る政治的 問題 の新たな展
開、現代 史か ら見 る人 々の歴 史認識 、事件 の持つ特殊性 、ポー ラン ド人 の歴史認識 の重層性 な ど
か ら、事件 をめ ぐる論争 の構 図を整理 して きた。 そ して、文献資料 だけではな く、イ ンタビュー
調 査か ら得 た遺族 の生の声や 、最新 の動 向 を伝 える報道 な ど、多方面 にわた る資料 か ら実証 、分
析 によ り、それ らを明 らかに した。
歴史認識 は、現代 の時間軸 を広 げて認識 す るこ とであ り、歴史 を抜 きに して現在 を認識す るこ
とも未来 を展 望す るこ ともできない。その中で、未来へ向けて国家間の関係 を構築す るためには、
「
歴史の空 白」 問題 と向き合 う必要性 が極 めて高い ことが分 か る。 国家 間関係 において、互いの
立場 がぶつか り合 う中で、歴 史責任 の問い直 しを ど うい う方法でいかな る関係性 の中で行 えるか
とい うことが試 され る。そ うした今後 の国際関係 を見直す うえで、「
過去の克服 」の方 向へ進 んで
-1
46-
い くために 「
歴 史の空 白」か ら目を逸 らすべ きではない こ とが、カテ ィンの森事件 か ら得 た教訓
で ある。
そ して、カテ ィンの森事件 の全体像 を今一度直視す るこ とは、 これ までの戦後 史の評価 を見直
す ことに もつなが る といえる。事件 の責任 問題 に関 して、 ソ連 だ けではな く、西側諸 国 もソ連 の
公 式見解 を黙認 していた とい う事実 を直視 す ることは、戦後 の民主化 とい う観点 か らその歴史 の
評価 を見直す ことにな る。戦後 6
5年以上積み重ね られ てきた歴史の問い直 しは、事件 の真実 とは
別 に、「
過去 の克服」に対 して向き合 わなけれ ばな らない も う一つの課題 であ るとカテ ィンの森事
件 は教 えてい る。
本稿 では、カテ ィンの森事件 の事実 とい う核心 に迫 らず 、事件 を取 り巻 く国家 、国民 、遺族 、
そ して関係諸 国な ど様 々な立場 か ら内実や その歴史認識 を検証 して、言 わば事件 の外枠 と言 え る
部分 を分析 して きた。 これ か ら先、残 りの機 密文書 の公 開で新たな事実 が浮 かび上が ることや 、
国家体制 の変化 で歴 史論争 に対す る政策 が新たに確 立す る可能性 がある と考 え られ る。 その 中で
国家間にお ける 「
過 去の克服 」問題 を議論 す る際 に、事件 の外枠 を固めた これ らの分析 が役立つ
形 になれ ば幸いであ る。 そ して、未 来へ向 けて、国際関係 上で実務 レベル での 「
過去の克服」へ
の突破 口が どの よ うに見出 され るのかを探究す ることを今後 の課題 と したい。
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第 1章
カティンの森事件の概要
伊 東孝之 [
1
988]『ポー ラン ド現代史』 山川 出版社。
伊 東孝之 ・井 内敏夫 ・中井 和夫 [
1
988]『世界各 国史 20 ポー ラン ド・ウクライナ ・バル ト史』山
川 出版社。
-1
51-
伊 東孝 之 ・直 野敦 ・萩 原 直 ・南壕信 吾 [
1
993]『東欧 を知 る事典 』平凡社。
の怨念 」『世界 週報 』 (
時事通信社 )、70 (
1
2)、pp2225
。
倉 持俊 一 [
1
98
0]『ソ連 現代 史 I』 山川 出版社。
成 瀬 治 ・黒川 康 ・伊 東孝 之 [
1
98
7]『ドイ ツ現代 史』 山川 出版社 。
成 瀬 治 ・山 田欣 喜 ・木 村靖 二 [
1
988]『世界歴 史体 系
ドイ ツ史 3 - 1
980年-現在- 』 山川 出版
社。
兵藤長雄 [
1
997a
]「ク レム リン極秘文 書 に見 るカチ ンの森 事件 の真相 とその後 (
上) ソ連 ・ポー ラ
ン ド関係 の一側 面 」、『外 交 フ ォー ラム』 (
都 市 出版 )、1
0(
9)、pp 6068
。
--
[
1
997b]「
ク レム リン極秘文 書 に見 るカチ ンの森 事件 の真相 とその後 (
下)ソ連 ・ポー ラン
ド関係 の一側 面」、『外 交 フォー ラム』 (
都 市 出版 )、1
0(
l
l)、pp 6469
。
フ レミング,DF (
小幡 操訳 ) [
1
966]『現代 国際政 治史 I』岩 波書店 。
本 間精 一 [
1
988]『ポー ラン ド未 だ滅 び ず』東洋 出版 。
ミコワイチ ク,ス タニ ス ワフ (
広瀬佳 一 、渡辺 克義訳 )[
2001
]『奪 われ た祖 国 ポー ラ ン ド ミコワ
イチ ク回顧録 』 中央公論 新社 。
山本俊 朗 ・井 内敏夫 [
1
98
0]『ポー ラン ド民族 の歴 史 』三省 堂。
渡辺 克義 [
1
991
]『カチ ンの森 とワル シ ャ ワ蜂起』岩 波書店。
朝 日新 聞 [
1
988a
]「
ポー ラン ドの 自主性 尊重
ソ連 書記長 と共 同声 明」、7月 1
5日号。
--
[
1
988
b]「ソ連 書記長 の置 き土産 (
透 視鏡 )」、7月 21号。
--
[
1
990]「
カチ ンの虐 殺 、 ソ連 がポー ラ ン ド大統領 に謝罪
ゴ大 統領 、哀悼 の意 」、4 月 1
4
日号。
--
[
1
995]「
カチ ンの森 で虐 殺犠 牲者 追悼
ポー ラン ド政府 主催 (
地球 24時 」、6月 5日号。
--
[
1
999a
]「
歴 史へ の謝 罪 (
声欄 )」、4月 1
6日号。
--
[
1
999b]「
勇気 あ る告 白
--
[
2002]「
『過 去 』清算 に課題 を残 す
負 の遺産公 開 (
声欄 )」、4月 18日号
ロシア大統領 のポー ラン ド訪 問」、 1月 1
9日号。
-1
52-
第 2幸
共産主義時代 における西側諸 国の研究
『ウル トウー ラ』 に掲載 された文献
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第 5車
力テ ィンの森事件の灰色性 と歴史認識の重層性
近藤孝 弘 [
1
998]『国際歴史教科書対話』、中央公論社。
高橋哲哉 [
2002]『<歴史認識 >論争』、作品社。
西川雅夫 [
1
992]『自国史を越 えた歴史教育』、三省堂。
ノラ,ピエール編 (
谷川稔監訳)[
2002]『
記憶の場
岩 波書 店
フランス国民意識の文化-社会史 第 1巻』、
。
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カテ ィン、ロシア国内の問題
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モ リアル団体」の活動家、ア レクサ ンデル ・グヤ ノフ"
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62-
参考資料
資料 l.20
09年 9月第二次世界大戦勃発 7
0年- E
)シア、 ドイツ、ポー ラン ド各国首脳 の演説-2
5
① ロシア首相 :ウラジ ミール ・プー チ ン
「
戦争へ と専 らW=ナチス との協定」
親愛 な るポー ラン ド共和国大統領 閣下、首相 閣下、 ご来席 の皆様 、友人の皆様。
我 々は、各 国の代表 と して人類 史上最 も残酷 で恐 ろ しい戦争 が始まった地、グダ ンスクに集 ま
りま した。 そ して、将校 、警察官 、パルチザ ン、抵抗運動 に参加 した人 々、女性 、子 ども、年配
者など1
,
00
0万人 ものの犠 牲者 に対 して、勝利 の英雄 と しての敬意 を表すた めにここに集 ま りま
した。空襲や懲罰部 隊 による犠牲者 もいます。様 々な信仰 、国籍 、そ して政治 に対 して異な る見
解 を持 った人 々で、 この戦争 で亡 くなった人 々です。
ファシズム との戦い と勝利 は、背 を向けるこ とのできない損失 とい う大 きな犠牲 を払 いま した。
,
0
00人の赤軍兵士 と将校 が、今 このグダンスクの地 に眠 っています。このポー ラン ドの地 に、
約 53
ここで命 を落 と した 60万人 ものの赤軍兵士、つま り我 が国民が眠 っています。第二次世界 大戦で
の約 5
,
500万人の犠牲者 の うち、お よそ半分 が ソ連 国民なのです †この ことを考 えてみて下 さい。
この道徳的な見解 か ら、我 々、つ ま り各 国の代表 は、犠牲者 の方 々に敬意 を しめ さなけれ ばな り
ませ ん。 そ して、 この戦争 で起 きた悲劇 を記憶 に留 めてお かなけれ ばな りませ ん。
第二次世界 大戦勃発 7
0年 を迎 えた今 日、何 が戦争勃発へ導いたのかを考 え る必要 があ ります。
卑怯 さ、陰謀 、戦闘の表舞台以外 での戦い、その他 、それ らに対抗す るために犠牲 まで払 った、
戦争 を引き起 こ した原 因 とは何 なので しょ うか。第二次世界大戦は、歴 史の流れ の 中で始ま った
のではあ りませ ん。そ して、この ことについて今 日話 され てい ることに同意 します。この戦争 は、
元 々、第一次世界大戦後 に ドイツを懲 らしめるために取 り決 め られ たベルサイユ条約 か ら始 まっ
ています。 ま さに、1
93
0年代後半でナチ スによって これ が利用 され たのです。 この 当時、集団安
全保障 を作 り出せ なか った とい う事実 に注意 を向けなけれ ばな りませ ん。第二次世界大戦 に先立
った悲劇 的な出来事 を分析 しつつ 、その結果 を も う一度考 えるべ きです。 したがって、ステ レオ
タイプな考 え、そ して固定 され た考 えを捨て、歴史の歪 曲や歴史の事実 の忘却 を取 り除 く必 要が
あ ります。過激派 との協力、すなわち第二次世界大戦でナチ ス との協力 が人 々を悲劇 へ と導 いた
こ とを忘れ てはな りませ ん。協力 ではあ りませ ん、つま り戦争へ と導いたつま り、 自らの問題 に
25 第二次世界大戦勃発 7
0年、ロシア、 トイツ、ポーラント各国首月
削こよる演説
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63-
他 人 を利用 して解決す るとい う陰謀 なのです。 1
93
4年 か ら 1
9
39年 の間の協定へ の理解 にお ける
全 ての試みは、道徳的 な見解 か ら受 け入れ がた く、結果 と して何 の意味 もな く悲劇 を引き起 こ し
たのです。 ま さにこの一歩が悲劇 を導 き、第二次世界大戦 の勃発 を招 いたのです。 これ らの過 ち
を忘れ てはな らな く、認 めなけれ ばな りませ ん。我 々の国はそれ を して きま した。 ソ連人民代議
員 大会 は、ま さに独 ソ不可侵条約 は道徳的でない ことを認 めてきま した。 そ して、他 の国々にも
自 らの過 ちを政治の リー ダーの レベル だけではな く、政治的な決断 をす る レベル と して認知 して
も らいたいのです。
もちろん、犠牲者 の方 々について も忘れ てはな りませ ん。 この認識 な しでは、安全な世界 を築
き上 げることはできないで しょ う。我 々は、冷戦 とい う世界 の分裂 、そ してその結 果 を取 り除 く
こ とはできませ ん。我 が国は過去 の過 ちを認 め、実際 に新 しい原理 に基づいた方法 で新 しい世界
を築いています。 ま さにこの我 が国の体制 のお かげでベル リンの壁 を取 り除 くことができ、実際
に、そ して実質上、分裂 な しに ヨー ロ ッパ を立 て直 した と言 えます。我 々は、ゼ ノフォー ビア、
人種 に対す る嫌悪 、信頼 の欠如 と闘 って克服 しなけれ ばな りませ ん。現代文 明にお ける政治 のあ
り方 は、共通 の道徳的 な原理 を持 つべ きです。 この方法 にお ける唯一の進歩 こそが、第二次世界
大戦の結末 か ら克服 し、世界平和 を構築す るのだ と確信 しています。歴 史的な清算 ではな く、協
力 そ してパー トナー シ ップを 目的 と した ロシア と ドイツの関係 こそが健 全な相互理解 の一例 だ と
言 えます。そ して、ポー ラン ドとロシアが歴史や その清算 にお け る過去の積み重な りを乗 り越 え、
よい関係 を築 いていけ ることを願 います。
最後 に、今 日の式典 の参加者 の方 々に申 し上 げます。 ヴェステル プ ラ ッテや スター リング ラー
ドで戦 った人 の友人がいます。 イ タ リアや ノル マ ンデ ィー で戦 った人た ちもいます。 さらに、 ワ
ル シャワ、プ ラハ 、ベル リンでの戦闘 に参加 した人たちもいます。 あなた方 の英雄 は我 々の心 に
留 ま り、平和 を求 めて闘い、勝利 を得 た証 なのです。
ご清聴 あ りが と うございま した。
② ドイ ツ首相 :ア ンゲ ラ ・メルケル
「
我 々に手 を差 し伸べ て くれ ま した。」
大統領 閣下、首相 閣下、親愛 な る友人の皆様 、司教殿 、皆様
70年前 、 ドイツがポー ラン ドを攻撃 した とい うヨー ロ ッパ史 の中で も最 も恐 ろ しい一幕 があ り
ま した。 その後一年 もの間、破壊や人間の権利 を認 めない よ うな屈辱 が続 きま した。 これ まで歴
史上ポー ラン ドの他 に ドイツの支配 下に苦 しんだ国はあ りませ ん。特 に、 この戦争 でポー ラン ド
とい う国は破 壊 され 、都市や農村部 は焼 き尽 くされ 、1
9
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4
4年 の ワル シャワ蜂起 ではほ とん どの建
物 は残 らず、ポー ラン ド人 に対す る損害 をほ とん ど避 けることはできませ んで した。
-1
6
4-
ここ、 ヴェステル プ ラ ッテでは、私 、 ドイツの首相 と して ドイツ支配 下の残虐 な行為 に耐 えた
ポー ラン ド人 の運命 を振 り返 ります。 そ して、 ヨー ロ ッパ のユ ダヤ人殺教 を振 り返 ります。 ドイ
ツの絶滅収容所 でおぞま しい死 を遂 げた 600万人 もののユ ダヤ人 について も呼び起 こ します 。1
00
万 の人 々が ドイツの支配 に抵抗 して殺害 され ま した。 ドイ ツによって悪夢 を引き起 こ した中で病
気 、貧困、飢餓 によって、人 々が病気 になった り、亡 くな った りとい う結果 を回顧 します。 人 々
が この残虐行為 に苦 しんだ ことに対 して表現す る言葉 もあ りませ ん。犠 牲者 の方 々に対 して遺憾
の意 を表 します。我 々は、同 じ行為 を繰 り返 さない と分 か っています。
傷跡 は絶 えず明 白ですが、我 々の課題 は何 が起 きたか とい う責任 を受 け入れ るこ とです。 ま さ
に この精神 で、 ヨー ロ ッパ は大陸 にお ける力 と脅威 か ら大陸の安全 と平和 に向けて変わって きま
した。 これ らの出来事 は、実は奇跡 と隣 り合 わせ なのです。
我 々 ドイツ人は、西 ドイツ と東 ドイツが協力 そ して和解 に向けて進 んでいった こ とを今まで一
度 も忘れ ませ んで した。今 も忘れ てはいませ ん。 あなた方 が我 々に手 を差 し出 し、70年 前か ら歴
史 の暗 く大 きな穴 だけではな く、20年前 の喜 ば しい 日、ベル リンの壁崩壊 そ して ドイ ツの統一 、
ヨー ロ ッパ の統一 につ いて も振 り返 ってい るのは本 当に奇跡 だ と言 えます。
自由 と団結 に向けての ヨー ロ ッパ の意 向は、鉄 のカーテ ン崩壊後 に現実化 しま した。 同様 に、
ポー ラン ドをは じめ他 の国々で も、人 々は 自由を 目指 して きま した。我 々はポー ラン ド人、ハ ン
ガ リー人、チ ェコ人、 スロバ キア人、そ して ミハ イル ・ゴルバチ ョフ氏 の ことを忘れ てはな りま
せ ん。我 々は、 ヨハネ ・パ ウロ 2世の よ うに、許 しに向けた真実や覚悟 を示 さな けれ ばな りませ
ん。 そ して、ポー ラン ドや他 の東 ヨー ロ ッパ の国々が北大西洋条約機構や欧州連合 に加入 した こ
とは、正 しく、 しか るべ き決断 を した と言 えます。
我 々は 1
939年 よ り長 い道 の りを歩んできま した。今 日、我 々の国 と同 じ平原 にある国々 との間
では、 とて も良い関係 を築いています。統一 を可能 に した力 こそが、我 々の歴史 を認識 した こと
に至 りま した。
我 々のカ トリック中央協議会 の言葉 を引用 します。「
私 たちは共 に歩みたい未来 を見なけれ ばな
りませ ん。 しか し、私 たちの歴史 のあ らゆる側 面 を忘れ てはな らず、その意味す ることを軽視 し
てはいけませ ん。」
同様 に、第二次世界 大戦で家 を失 った ドイツ人 について も申 し上 げます。 カ トリック中央協議
会 が主張 した ことにつ いて (
第二次世界大戦後 のポー ラン ドと ドイツの国境 問題)理解 は してお
り認 めてはいますが、 この ことか ら再び ドイツの戦争責任 の話 に戻 るこ とは避 けた く思います。
この思いで、かつて悲劇 を経験 したグダンスク-、今 日では修復 され美 しくなった この街へ 、70
年経 った今や っ とた ど り着 きま した。
大統領 閣下、首相 閣下、私 を ドイツの首相 と して この式典 に招待 して頂 き、 とて も感謝 してい
ます。 これ は我 々のパ ー トナー シ ップ、協力、友好 の証 だ と思います。私 は本 当に感謝 していま
す。
-1
65-
③ ポー ラン ド首相 :ドナル ド ・トウスク
「平和の基盤 とな る歴史」
なぜ ここに、そ して今、今 日、9月 1日にグダ ンスクに、他 の場所 ではな く、他 の 日ではな く、
ヨー ロ ッパ の代表者 た ちが集 まったので しょ うか。
なぜ 、これ までポー ラン ドの代表者 たちが 9月 1日にグダンスクに集 まっていたので しょ うか。
なぜ 、ここグダ ンスクに 9月 1日に、戦闘員や若者 た ちが ここにいたので しょ うか。なぜ な ら、9
月 1日にグダ ンスクでは、人類史上最 も大 きな悲劇 が始ま ったか らです。 この悲劇 、その足跡や
しる し、全体的な悲劇 の前触れ が、 ここの 目に見える範 囲全てにあ ります。
ここに、我 々のそばで、ナチ スのポー ラン ド侵攻 による最初 の犠牲者 が出ま した。 ま さに この
場所 です。少 し先 にシュ トウツ トホフ イエ収容所 を分 け隔 てた鉄条網 が見えます。 人間同士 を敵
に した この戦争 は、た くさんの この よ うな強制 収容所 を作 り出 しま した。 この収容所 では、他 の
とも同様 に軽蔑 か ら、意味 もな くポー ラン ド人 、 ロシア人 、ユ ダヤ人、そ して ドイ ツ人が殺 され
ま した。
さ らにも う少 し先 を、今度 は反対 の方 向を見 る と、カシュブイ地方 の小村落の ピア シニッァか ら
さほ ど遠 くない ところに森 があ ります。 ここには、戦争 が始まって 1週 間 目には多 くの人 々がい
ま した。 ポー ラン ドの教師たち、エ ンジニアた ち、そ して軍人やエ リー トたち、彼 らは罪 もな く
射殺 され たのです。
ここ、ポモー ジェ地方 のた くさんの場所 では、茂 った森 では恐 ろ しい秘密が隠 され ています。
この戦争 は悲劇 的な側 面 を持 ってお り、なぜ な らこの ピア シニッァで もナチ ス ドイ ツは障害 を持
つ人 々、精神病 を持つ人 々、多 くの同胞 たちを森 で射殺 したのです。戦争 が始まって最初 のポモ
ー ジェでの一週間では、小村落や街 か ら本 当に多 くののポー ラン ド人が家か ら追い出 され たので
す。
同 じく少 し遠 くを、私 の実家 の方 を見 ると、墓地があ ります。 ソ連 軍の墓地です。本 当に多 く
の若者 たちが ここに眠 っています。 1
9
45年 の早春 に彼 らは人生 を終 えま した。彼 らは我 々に 自由
を もた らそ うと命 を捧 げま したが、解放 は与 えて くれ ませ んで した。我 々は彼 らに敬意 を表 し、
この墓地 を心 に留 めてお きたい と思います。
なぜ 、 この戦争 の残虐行為 の例 と して これ らのグダンスクや ポモー ジェ地方 を挙 げるので しょ
うか。 なぜ な ら、 これ らの残虐行為 の記憶 、人 々や全ての民族 の壊滅 に対す る記憶 は、今後 再び
起 こ りえる戦争 に対 して、最 も大事で最 も有効的な盾 とな りうるとい うことを、私 たちは深 く確
認 してい るか らです。 1
939年 のグダンスクでの出来事や 、この時 の世界 での恐 ろ しい出来事 につ
いて忘れず、戦争 の記憶 に基づ く責任感 を持 てば悪夢 は も う起 きない と、誰 もが分 かってい るの
です。我 々が共 に責任 を感 じるこ とで、 この よ うな悲劇 は も う起 こ らないで しょ う。
グダンスクは希望の地で もあ ります。 た くさんの傑 出 したポー ラン ド人の中で、 ここグダ ンス
-1
66-
クで希望や 、連帯の勝利や 、新 しい ヨー ロ ッパ を強固に した多 くの価値 あるもの も直視 して きた
レフ ・ヴァ ウェンサがいます。 この地で連帯が発足 し、戦争や暗い状況 を跳ね返す よ うな ヨー ロ
ッパ が生み出 され ま した。戦争 の記憶 があれ ば こそ、戦争放棄 の対す る考 えが現れ 、 も うこの よ
うな戦争 は起 こ らないで しょ う。 これ は最 も基本的な我 々の取組みなのです。
9月 1日のグダ ンスクでは、みな さん、モ スクワか らローマ-、 ロン ドン、パ リか らワル シャ
ワ-、ス トックホル ムか らバル カ ン-、バル カ ン諸 国か らアメ リカ合衆 国へ。例外 な しで、 あな
たたちこの取組みが我 々を悲劇 か ら守 るとい うことをここで言 わなけれ ばな りませ ん。 自由 とい
うものはいつ も捕虜 よ りも良 くあ るべ きだ、独裁 よ りも民主主義、偽 りよ りも真実 、憎 しみ よ り
も愛 、軽蔑 よ りも敬意 、不信 よ りも信頼 、そ して最後 にエ ゴイズム よ りも団結 の方 が良 くあ るべ
きなのです。私 には、 ここに誰 が座 っていたのか、あなたたちの周 りに誰 がいたのか、同胞 のみ
な さん、 この考 えを共有 しない人 はいないで しょ う。我 々は、 ここに ヨー ロ ッパ を築 き上 げてき
ま した。 この取組み に基づいて ヨー ロ ッパ の統一だけではな く、 ロシア、 ウクライナ、ベ ラルー
シ と我 々のい る全ての大陸 に安全体制 を築 き上 げなけれ ばな りませ ん。
我 々は、今まで生 き残 ってきた民族 と して、悲惨 な歴史 にもかかわ らず、悲劇 にもかかわ らず、
平和 と大 きな信頼 とい う感覚 を信 じてい くとい う証 を見せ るためにここにいます。他 の 目的 では、
ここに集 まった意味が あ りませ ん。歴史の解釈 は様 々であ ること、人 々それ ぞれ 自分 の記憶 があ
ること、 しか し事実 とい うものは一つ しかない とい うことを私 は申 し上 げたいのです。歴史 を他
の誰 かに向け るのではな く、歴史 は平和の基盤 とな り、 これ らの出来事 にお ける歴 史は平和への
基盤 とな るとい う事実 を忘れ ない よ うに しなけれ ばな りませ ん。
今 日は、ユ ダヤ人虐 殺 について も触れ ま した。 1
00万人 ものの戦死 した方や殺害 され た方 に対
して敬意 を表 しま した。90パーセ ン トが破壊 され た グダンスク、キエ フ、 レニ ング ラー ド、 ドレ
スデ ンについて も触れ ま した。我 々ポー ラン ド人は特 にワル シャワを忘れ てはな りませ ん。
同 じくヒ トラーの言葉 も忘れ てはいけませ ん。 それ は戦争 か ら最 も大 き く、最 も悲惨 な最初 の
シ ンボル的な言葉 です。独 ソ不可侵条約 を結ぶ前 日、8月 22日にア ドル フ ・ヒ トラーは将軍たち
との会合 で、戦争 の本 質 にあた ることを、悪夢 の本質 につ いて言 ったのです。戦勝者 には何 の責
任 もな く偽 りを言 うこ ともでき、弱者への同情 はゼ ロ、力 を持つ者 だけが正 しい とも言 ったので
す。
新 しい ヨー ロ ッパ の秩序の中で、 ヒ トラーの考 えは許 され ませ ん。我 々は ヨー ロ ッパ を築 き上
げてきま した。 そ して力が正 当化 され ない、正 当化 され るべ きものが正 しくあるべ き とい う考 え
で世界 の秩序 を築いていかなけれ ばな りませ ん。勝利者 は真実 に反 してい るところに利益 は ある
とは述べませ ん。皆、例外 な しに真実 を探 し求 めてい るのです。 も し我 々が共 に安全体制 を築い
ていきたいのな ら、弱 さにお け る支配力の強 さへの誘惑 を断 ち切 らな けれ ばな りませ ん。我 々は、
ヨー ロ ッパ の統一 させ た原理 を信 じなけれ ばな りませ ん。 弱者 に対 しては軽蔑 をせ ず、ただ弱者
で あると認識 しなけれ ばな りませ ん。
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最後 に、先 ほ ど聞 こえま した ヴェステル プ ラ ッテでの戦争 の不必要性 を示 した一斉射撃の よ う
に、我 々も平和へ向けて進 めていかなけれ ば、ポー ラン ド人 に とって、そ して ヨー ロ ッパ の人 々
に とって今 日の大事な集 ま りに何 の意味 もあ りませ ん。我 々が ここにい るのは、複雑 な歴史 に背
いて、悪 い誘惑 に背 いて、我 々の間で信頼 を築 き上 げるためなのです。 そ して 、 1
0年前か らこの
ヴェステル プ ラ ッテで永久 に留 め られ てい る 「
戦争 は も うい らない」 とい う言葉 を繰 り返す ため
に、我 々は ここにい るのです。 ご清聴 あ りが と うございま した。
④ ポー ラン ド大統領 :レフ ・カチ ンスキ
「いつ も国難が伴 うが、真実 は一つである昏」
ご列席 の首相 の皆様 、大統領 閣下、国会議長 閣下、皆様
今 日で最 も悲惨 な戦争 、第二次世界大戦が勃発 して 70年 を迎 えま した。我 々は ヴェステル プ ラ
ッテ にいます。 ヴェステル プ ラ ッテは強豪な敵 に対 して勇敢 に立 ち向か った とい うシンボル 的な
所 です。 ここか ら 2、300キロ離れ た ヴィェル ンとい う街 では、最初 の空襲 があ り、1,
000人 もの
の人が亡 くな りま した。 これ が 2つ 目のシンボル であ り、 この戦争 の全体のシンボル とも言 えま
す。
すでに 2世代近 く経 っています が、 この戦争 は考慮 を求 め続 けています。 この戦争 の原 因は何
で あったので しょ うか。全体主義 、国家主義、そ して排外 的愛 国主義が原 因であったのは疑 い も
あ りませ ん。 第一次世界大戦後 のベルサイユ体制 が、我 々のい る大陸、そ して世界 の平和の構築
へ の試みであったのは間違 いあ りませ ん。ベル サイユ条約 は我 々の国の独立 を承認 しま したが、
ポー ラン ドだ けではな く、フ ィンラン ド、エ ス トニア、 ラ トビア、 リ トアニア、ハ ンガ リー 、チ
ェ コスロバ キア、そ して最後 にセル ビア人 ・ク ロアチア人 ・スロベ ニア人王国、後 のユー ゴスラ
ビア、スロベ ニア、ク ロアチア も独立へ と導いた ことを言 う必要があ ります。 この条約 は民族 の
独 立の原理 を認 め、少数民族 に対す る一義的な権利 も認 めていま した。 それ ほ ど複雑 な原 因はあ
りませ んで したが、先 ほ ど申 し上 げた よ うに、全体主義体制 の中でそれ らうちの本質が姿 を現 し、
その転機 と して第三帝 国が成立 したのです。第三帝国、過激 なイデオ ロギー、報復 -イデオ ロギ
ー を掲 げ、そ して 自らのナチ スのイデオ ロギー で、 ヨー ロ ッパ の文 明が生み出 した全ての財産 を
否定 したのです。
1
93
3年 か ら 1
9
38年 の間 に、 ドイツは この全体主義 を通 して協定 を結ぶた めに努力 してきま し
た。 フランスや イギ リス とい う西側 の大国 と協定締結への交渉 に骨 を折 りま した。1
9
33年 の秋 に
は、ポー ラン ドは戦争 勃発防止 を働 きかけま したが、何 も結果は得 られ ませ んで した。 この よ う
な条件 下で ドイツ と不戦条約 を結 びま した。 これ よ り早 くに、 ドイツは ソ連 とも同 じく不戦条約
を結びま した。 その当時では、 この条約 と 6年後 に結 ばれ た独 ソ不可侵 条約 とを比較す るとは思
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って もみませ んで した。政治の宥 和政策 は最初 にア ンシュル ス-、後 に ミュン- ンで行 われ ま し
た。 ミュン- ン協定の意味 を考 えなけれ ばな りませ ん。 ウインス トン ・チ ャーチル が、「
名誉 と恥
とでは恥 を選 んだのに、戦争 を避 けることはで きなかった」 と然 るべ き事 を発言 していま した。
ここに我 々の国がなすべ き役割 について問いたい と思います。我 々は ミュン- ンにいませ んで し
た。 ミュン- ンにいませ んで したが、その影響 と してポー ラン ドもチ ェ コスロバ キアの領土 を侵
す ことになったのです。領土の侵害 とい うのは当時、そ して今 日で も好 ま しくない ことなのです。
問題 は全体主義だけではあ りませ ん。 問題 は、あ らゆる帝国主義的な、そ してネオ帝国主義的
な傾 向なのです。我 々は、昨年 これ を確信 しています。 ポー ラン ド軍 もチ ェコスロバ キア分割 に
参加 した ことで、チ ェ コスロバ キアの領土が侵 され ま した。 これ は間違 いだけではな く、罪 なの
です。 ポー ラン ドでは この罪 を認 め、言 い訳 も しませ ん。 も し言 い訳 が見つかった と して も、そ
の言 い訳 を言 うことは あ りませ ん。 ミュン- ンか ら、現在 につなが るこ とを学び、帝国主義 に屈
してはな りませ ん。帝 国主義 にもネオ帝国主義的な傾 向に も屈 してはな りませ ん。 いつ も、 ミュ
ン- ン協定の よ うな迅速 で悲劇 的 な結果 を得 る とは限 りませ ん。 しか し、 この よ うな結果は時 と
して起 こるのです。現代 ヨー ロ ッパ は、そ して世界 は、 これ を学習 しな けれ ばな りませ ん。 ミュ
ン- ン協定の一年後 に戦争 は勃発 し、それ に先立つ もの と して 、1939年 8月 23 日に独 ソ不可侵
条約 が結 ばれ ま した。 これ はただの不可侵条約 ではな く、 ヨー ロ ッパ の多 くの地域 を分割す ると
い う協定で もあったのです。
我 々の国はその当時 どの よ うな状況 であったので しょ うか。私 は今朝 か ら申 し上 げてい ること
を も う一度繰 り返 して 申 し上 げたい と思います。 ポー ラン ドには、反 コ ミンテル ン-の参加 の申
し入れ があ りま した。提案 さえあ りま した。ポー ラン ドはそれ を拒否 し、参加 しませ んで したが、
その同盟 は機 能 され続 けま した。1939年 の戦争 、1939年 9月 、1
0月の経過 は よ く知 られ てお り、
今朝 これ につ いて申 し上 げた と思 います我 々の国は戦争 に負 けて終わ りま した。 なぜ な ら、その
よ うに終わ らなけれ ばな らなかったか らです。 ポー ラン ドは支配 に置かれ ただけではな く、例外
的 な悲劇 の 日々を過 ご してきま した。私 の母 国では 、550万か ら 580万人 ものポー ラン ド人やユ
ダヤ人の命 が失われ ま した。彼 らは この戦争 の犠牲者 であ り、そ して世界全体では 5,
000万人の
人 々が戦争 の犠牲者 にな りま した。 ホ ロコー ス トだけではな く、 ソ連 と ドイツによ り勃発 した戦
争 による他 の犯罪 にもよるものです。
カテ ィンの森事件 に対 して も考慮 がな され るべ きです。 この現在 の時点で知 られ てい る事実 の
点 か らではな く、その原 因の解 明 を求 めてい るのです。 なぜ 、何万人 もののポー ラン ド人将校や
警 官、ポー ラン ド軍、国境警備団 が敵 とされ な けれ ばな らなかったので しょ うか。 それ は復讐 だ
ったのです。 1
920年 にポー ラン ドが攻撃 に対 して撃退 した ことか らの復讐 に違 いあ りませ ん。そ
れ は共産主義 とい うこ とも申 し上 げることがで きます。 いいえ、 ここでは共産主義 ではあ りませ
ん、排外的愛 国主義なのです。 それ は、共産主義の制度 の 中の排外的愛 国主義だったのです。 リ
ッベ ン ト口 ツプ とモ ロ トフの協定 は、賢 く締結 され た ものではあ りませ ん。相手 を出 し抜 くため
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だ ったのです。 スター リンは、 ドイツはフランスや イギ リス との戦闘 に疲れ果て、負 けるのは時
間の問題 だろ うと思 っていま した。 ヒ トラーは、西側 を制圧 し、それ か ら東側へ と勢力 を広 げよ
うと考 えていたに違 い あ りませ ん。 両国 とも間違 った ことを思い込んでいたのです。ナチ ス ドイ
ツが打 ち負 か され た悲惨 な戦争 が勃発 しま した。今 日、 も う申 し上 げてい ることですが、 この戦
争 で何 百万人 ものの赤軍兵士 をは じめ、 ロシア人、 ウクライナ人、ベ ラルー シ人、 グル ジア人、
アゼルバ イジャン人、そ して他 の多 くの民族 が亡 くな りま した。彼 らに敬意 を表 します。 そ して
彼 らは勇敢 さを示 して くれ ま した。ナチ ス体制 は制圧 され ま したが、ポー ラン ドは独立 を完 全 に
取 り戻す ことはできませ んで した。
ヨー ロ ッパ には鉄 のカーテ ンが下 りま した。我 々の国の方 ではない、カーテ ンの西側 では、過
去 を見直す時代 が始ま りま した。 この考慮 の効果的な もの と して、防衛 条約 、その後すでに 60年
の間、安定、 自由、全体 において少 な くとも民主主義の機 関 と して存在 してい る北大西洋条約機
構 が挙 げ られ ます。 これ は成功 した試みの一つ だ と言 えます。 しか し、 この同盟 は義務 であ るこ
とを忘れ てはな りませ ん。今 日、 この同盟 にはポー ラン ド、 ドイツが加 盟 してお り、両国は各 自
の利益 を互い に尊重 し合 う義務 が あ ります。 この同盟 は必 要であ り、今後 も存在 してい くで しょ
う。 しか し、今 日の ヨー ロ ッパ は防衛条約 の概念 だけを念頭 に置いてい るわけでは あ りませ んで
した。初 めか ら全ての考 えに基づ き機構 を築 き、今では ヨー ロ ッパ連合 と呼ばれ ています。 人類
史上、 よ り関心のある試みであることには間違 いあ りませ ん。 同様 に、少 な くともここまで大 き
な成功 を成 し遂 げた と言 えます。
この共同体 の範 囲内で、確実 に言 えることは力のバ ランスの原理 が少 な くとも協力 において規
則 の代 わ りを務 めるものです。 これ を達成 させ るための条件 は何 で しょ うか。最初 の条件 は、少
な くとも、共 同体 にお ける価値 、そ して 自由、民主主義、社会的多元性 です。 2番 目の条件 は、
帝 国主義への希望 を諦 め ること、少 な くとも影響 を及 ぼす範 囲以上の願 望 を諦 めることです。 こ
れ な しで ヨー ロ ッパ の統一はあ り得 ませ んで した。そのおかげで、我 々は今 27カ国の統一が実現
したのです。 将来、 もっ とた くさんの国が加盟 し、そ うな ると全 く新 しい性質 を持 つ ことにな る
と思います。 この性質 は体制 の価値 を受 け入れ るとい う一つの条件 の下で、誰 に対 して もオープ
ンであるべ きです。大 国 とい う概念 を持つ国には この同盟 の中に居場所 はな く、平等 とい う考 え
を持つ国だけが加入す ることがで きるのです。 ヨー ロ ッパ が協力 し合 うことは、二つの国が寄 り
かか りあ うた めの足場 を求 めるこ とではあ りませ ん。広 く、様 々な面か らの協力が必要なのです。
そ して、国 と国民の間だけではな く、国 と国の間において も民主主義 を求 める必要 があ ります。
も しその よ うにできた ら、1
939年 か ら 1
945年 の間 に起 きた理解 できない悲劇や犯罪 を最後 まで
生み出す ことはなかったで しょ う。
この実現のための道 は短 くはあ りませ ん。私 は この場 で、価値 そ して真実 を拠 り所 に して、進
むべ き道 が安定す るよ う願 ってい ることを表 明 します。真実 に関 しては、それ は度 々苦痛 を伴 う
ものですが、勝利者 そ して敗者 もまたそれ を明 らかに していかなけれ ばな りませ ん。私 たち、キ
ー1
70-
リス ト教徒 に とっては、真実はいつ も一つでな けれ ばな らず、勝者 も敗者 も同 じよ うに明 らかに
していかなけれ ばな りませ ん。
我 々、ポー ラン ド人 は真実 を知 る、我 々の民族 に起 きた悲劇 の内容 を知 る権利 が あ ります。今
まで誰 も追い求 めるこ とを諦 めることはあ りませ んで した。全 ヨー ロ ッパ は複数主義、 自由そ し
て民主主義 を、困難 であって も真実 に向けて進 んでい ると深 く信 じています。なぜ な ら、我 々は、
先 ほ ども申 し上 げた よ うに、自 らの過 ちを認 めることができるのです。過 ちを認 める必 要があ り、
3万人 もの虐 殺の決定 とチ フス等 の伝染病 の被害者 を同 じ話 で片付 けることはできないのです。
これ は真実の方 向へ到 達す る権利 のための道 ではあ りませ ん。私 の国だ けに限 らず 、 ヨー ロ ッパ
全体 に とって この真実へ到達す る権利への道 が必要なのです。
ご清聴 あ りが と うございま した。
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