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プルーストの眼 : ラスキンとホイッスラーの間で
真屋, 和子
一橋論叢, 122(3): 432-450
1999-09-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/10613
Right
Hitotsubashi University Repository
橋論叢 第122巻 第3号 平成11年(1999年)9月号 (82)
プルーストの眼
−ラスキンとホイッスラーの問で1
プルースト︵一八七一−一九二二︶の未完の小説﹃ジ
ャン・サントゥイユ﹄に登場するポルトガル国王は、オ
ペラ座でオペラを観賞したあとブルターニュ公爵からの
お供の申し出を退け、ジャンと一緒に帰ることを望んで
次のように言う。﹁ジャン君がしてくれるラスキンとホ
イッスラーの訴訟事件の話がもうすぐ終るんだが、とて
︵1︺
も面白いのでね[⋮]。﹂よく知られた美術論争裁判に象
徴されるように、ラスキン︵一八一九−一九〇〇︶とホ
イッスラー︵一八三四−一九〇三︶は、いわば敵対関係
にあった。
プルーストはホイッスラーに理解を示し、彼の絵を好
んでいた。一方で、自ら︽ラスキン賛美者︾と認めるプ
ルーストはラスキンに傾倒し、彼の思想をわがものとし
真 屋
和 子
て摂取し同化した。このように対立する二人の問に位置
して、プルーストが両者の美についての論争に対してと
った立場はどのようなものであつたか。﹃失われた時を
求めて﹄の中ではこの訴訟問題は扱われていないが、プ
ルーストの書簡の中に彼自身の見解がある程度記されて
いる。本稿では、まず、訴訟事件をめぐるプルーストの
考えかたが、創作活動における彼のものの見かたにいか
に通じているかを示し、さらに、プルーストのなかでラ
スキンとホイッスラーが占める位置を、ブルーストの作
品に考察を加えることによって探っていく。
ラスキン対ホイッスラー事件
一八七七年、ロンドンにグローヴナー.ギャラリーが
432
想だにしな・かった。﹂
て、二百ギニーを要求するのを聞くことになろうとは予
公衆の面前にぴん一杯の絵の具を投げつけることによっ
がほとんど意図的な詐欺の様相に近づいている。[⋮]
なかった。これらの作品では教養のない画家の気まぐれ
を激しく批判する。﹁作品を画廊に受け入れるべきでは
ン・落下する花火︾︵一八七五年頃、デトロイト葵術館︶
た暗闇に火の粉が飛んだような絵︽黒と金のノクター
の絵をみて怒りをあらわにするが、なかでも、墨色をし
ラーの作品八点が並べられる。ラスキンはホイッスラー
ンズ、ギュスターブ・モローなどの作品と共にホイッス
開設された。その柿落としの記念展に、バーンnジョー
︵4︶
うな色のしみ﹂などと書かれた。
ひと撫で﹂によって描かれたとか、﹁筆を拭ったかのよ
判し、また別の雑誌には﹁調和﹂の名のもとに﹁絵筆の
ある雑誌はこの絵を﹁泥と煤の色﹂で描かれていると批
ノクターン︾を真勢な芸術とはみなさない立場をとった。
ーに対する批判がなされた。﹃タイムズ﹄は︽黒と金の
護にたち、新聞や雑誌でもさまざまな論調のホイッスラ
ズは、ホイッスラーの絵を認めながらも、ラスキンの弁
もに伝わって。くるやりとりがあった。バーン・ジョーン
以来﹂のことで、判例がなかった。戸惑いが滑稽味と.と
この種の訴訟は﹁宗教裁判所に召喚されたヴェロネーゼ
ーの絵は﹁悪い冗談か否か﹂が審議された。なにしろ、
われたこの裁判では絵が法廷に持ち込まれ、ホイッスラ
りゆきをロベール・ドニフ・シズランヌの﹃英国現代絵
ミンスターで裁判が行われた。プルーストは、ことの成
スキンを訴え、翌七八年一一月二五−二六日にウェスト
や色の鮮明さ、考え抜かれた構図、細部の綿密さなどか
画家たちの絵の特徴とは対照的である。彼らの絵の輸郭
約三〇年ほど前にラスキンが擁護したラファエル前派の
たしかに︽黒と金のノクターン︾は、この出来事より
︵2︶
ホイッスラーはこの言葉を名誉駿損にあたるとしてラ
画﹄やゴンクールの﹃目記﹄などを読んで知ったと思わ
と描かれたなどと評されても無理はない。構図と調和の
らすれば、非難の的となった作品が、泥や煤の色でさっ
ール・ド・モンテスキウ・からも聞いていたであろう。
大切さについては﹁ラファ土ル前派主義﹂という論評の
れる。またホイッスラーに肖像画を描いてもらったロベ
︵3︶
ラ・シズランヌによると、ハドルストンを長として行
433
h O)ru :
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( 83 )
平成11年(1999年)9月号 (84〕
第122巻第3号
一橋論叢
中で、ラスキンが熱心に説いている。彼らが絵の部分と・
たのです。Lところで、ちょうどその頃ラスキンはロセ
二日間にわたる議論の応酬の末、ホイッスラiは絵を
的な調和す胃昌昌庁を求めている。
ホイッスラーは輸郭すらなく漠然とした、おそらく音楽
えぱ六力月かけるとします。ところが一気に描きあげる
を加える作品の場合、あなたがそれを製作するのにたと
もの、あなたの素描画[O09劃①]なのです。入念に手
なたが丹念に筆を加えたものより、即座にさっと描いた
ッティにこう書き送っています。﹁私が好きなのは、あ
非難する法務長官を言い負かして勝訴し、名誉をまもっ
ものは、多年にわたる夢、愛情、そして経験の帰結なの
部分の調和、部分と全体との調和に心を砕くのに対し、
たが、莫大な訴訟費用によって破産に遣いこまれる。ラ
です。﹂ここにおいて二つの星は、おそらく互いに敵意
このように一兄相容れないようにみえるものを結びつ
いるのです。
︵6︺
を合んではいても同一の光によって同じ地点を照らして
スキンには一ファージング︵四分の一ペニー︶の損害賠
償が命じられたのに対し、彼が負担しなければならない
︵5︺
訴訟費用一万フランの募金活動が、ただちに開始された。
プルーストの書簡ーラスキン対ホイッスラー
プルーストは、この訴訟事件から二〇年以上も後の一
下に感じとり、見クけだす能力を備えている、とプルー
にあると思われるものの隠れた類似やつながりを、水面
けるのは、プルーストの得意とするところである。両極
九〇四年二月マリー・ノードリンガー宛の書簡で、対立
ストは自負する。なるほど﹃失われた時を求めて﹄にお
事件をめぐってー
する二人について、次のような面白い見解を示している。
ラスキンに対する訴訟の際にホイッスラーはいってい
互いに反対に位置すると思われていた二つの方向、ゲル
一体となっていたりする。作品のマクロの視点からは、
シャルリュスという人物についても、美徳と悪徳が澤然
いても、海と陸は融合するし、部屋の内と外は照応する。
ゃいます。しかし私は全生涯の経験によづてそれを描い
ます。﹁この絵を私が数時間で描いたとあなたはおっし
434
マントのほうとメゼグリーズのほうは隣り合うことにな
るし、時間的にも、過去と現在は結合を見せるにいたる。
またプルーストがラスキンの著書﹃アミアンの聖書﹄を
訳した際、訳注で配慮したのは、一兄したところ関連性
がないようでいて、類似する考えを、彼の他の著作から
見つけ、指摘することによって、彼の本質的特徴を示す
ようにしたことであうた。プルーストのものの見かたあ
るいは世界観は、異なる要素のあいだに類似を見いだす
能カに支えられている、といウても過言ではない。
こうした彼の特別な能カは別にして、心情的にも、ラ
スキンとホイッスラーのうちいずれかを悪くいうことな
どプルーストには考えられなかったであろう。一九〇四
年ノードリンガー宛の同じ手紙のなかで、プルーストは
両者に公平に敬意をはらうているように思われる。彼は
ノードリンガーに、ホイッスラiの自己弁護の書﹃敵を
作るための優雅な方法﹄︵一八九〇︶を贈ったのだが、
﹁偉大な人物﹂の本に自分の名前を書きこむことは恐れ
多くてできない、﹁犯罪的﹂ですらあると書き、もしそ
うするなら、ラスキンの﹃アミアンの聖書﹄にでてくる、
魂の不滅を願って﹁大聖堂に自分の名前を刻みこむ心な
いロンドン子のようLになづてしまう、とたとえて書い
︵7︺
ている。だが、同じ手紙の終りではいくぶんかラスキン
に肩入れしているように感じられなくもない。
ある晩ホイッスラーに会いました。そして彼は、ラス
キンは全然絵がわかっていないのだと私に言いました。
ン]が他の人たちの絵についてとりとめのないことを語
そうかもしれません。でもいずれにせよ、彼[ラスキ
っている時でさえ、彼の誤った考えはそれはそれとして
﹂苧
愛すべき見事な絵を描写し、いきいきと叙述していま
も詩人ラスキンをプルーストは認めているのだろう。彼
ここでは、おそらく美術批評家としてのラスキンより
はラスキンには終生会わなかったが、ホイッスラーとま
メリー.ローランのサロンで一度△酉うている。ホイッス
ラーが﹁ラスキンは絵がわかっていない﹂というのは、
訴訟事件をふまえてのことであると思われる。ちなみに、
裁判でラスキンの弁護にあたった法務長官ホー力−卿が、
間題の絵に美を感じることができず、説明を求めたのに
435
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5 )
(
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対し、ホイッスラーは、︽黒と金のノクターン︾の葵に
ついてわからせるのは、音楽家が﹁ある小曲における独
特のハーモニーの美﹂を音楽のわからない者に説明する
以上に不可能なことだ、と語り、﹁教養ある芸術家﹂で
あれば、彼の絵に見いだすであろう美を、ラスキンなら
︵9︶
ば認めないにちがいない、と確信をもって述べている。
ラスキンにいわれた﹁教養.のない画家のきまぐれ﹂とい
う表現を、ホイッスラーは逆手にとったかたちで答えて
いるのである。
はこの問いに対する返答であり、これによって彼は拍手
務長官はすかさず問う。ホイツスラーの機知に富む一言葉
百ギニーを要求するに値する仕事であるのかどうか、法
時問で﹁手早く仕上げて﹂しまったと答える。それが二
ホイッスラーは、彼の用いた表現を繰り返しながら、短
と皮肉混じりのユーモアを込めてたずねる法務長官に、
かかったか、どんな﹁手早さでそれを仕上げた﹂のか、
︽黒と金のノクターン︾を描くのに、どれほどの時間が
法務長官による反対尋問に対して発せられたものである。
全生涯の経験によって描いた﹂という言葉も、このとき、
訴訟の際、ホイツスラ■が述べた﹁数時間でというが、.
第122巻第3号
橋論叢
︵10︶
プルーストは一九〇五年のノードリンガー宛の書簡で
喝采をあびる。
も、ホイッスラーの﹁全生涯の経験によって描いた﹂と
いうこの言葉に言及し、フ一の上なく美しい言葉だLと
っと描き上げる作品は﹁何年にもわたる知識によるも
書いている。そしてラスキンがロセッテイにいった、さ
の﹂であるという言葉をふたたびとりあげたうえで、ま
︵H︶
たしても両者の共通性について述べている。手紙のなか
に引用されているホイツスラーの言葉は、ゴンクールに
よっても﹁まったく美しい﹂として、﹃日記﹄のなかに
一八九三年四月五日付で書きとめられている。プルース
トはゴンクールによってこの言葉を知ったのかもしれ
ない。だがこれと共鳴する言葉を、対立関係にあるラス
︵螂︶
キンから見つけだすことは、プルーストだからこそでき
るこの手紙のなかでも、ラスキン賛美者としての、また
たのではないだろうか。裁判のことがふたたび話題とな
ホイッスラー愛好家としてのプルーストの顔がと帖にの
ぞく。
﹁お年玉にラスキンの見事な新版をもらいました。﹂
436
﹁私がホイッスラーに会ったのはたった一晩だけです
ラリー・エディション︶のことである。
1母親からの贈り物であるラスキン全集︵ライブ
術は道徳とは別ものだとホイッスラーがいうのはもっと
いように思われます。﹃テン・オクロック﹄の中で、芸
を考えれば考えるほど、それらは相容れないものではな
評価している。﹁ラスキンとホイッスラーの理論のこと
ラスキンとホイッスラーの間で
︵脆︶
またひとつの真実を述べているのです。﹂
的なものにつながるという時、別の次元からですが彼も
もです。しかし、ラスキンがあらゆる偉大な芸術は道徳
が、その時私は彼にラスキンを少しほめさせました
よ1. ﹂
−プルーストは、嬉しそうでもあり得意気でもあ
る。
﹁殺風景な寝室には芸術作品の複製画が一枚だけある﹂
1それはホイッスラーによる力ーライルの肖像で
そもそも、二〇年以上も前の出来事が、なぜノードリ
ンガーとの問で話題にのぼるのか。なぜラスキンとホイ
ある。この肖像画については、顔よりも外套に重点が置
かれている、といって力ーライルがホイッスラーに不満
ッスラーの名前が対で出てくるのか。いづたいプルース
プルーストのラスキン熱は、一八九九年頃始まるとさ
トのなかで二人は同等の位置をしめていたのか。
をもらしたというエピソードが残されている。﹁彼の着
ている外套は︽母親︾のドレスのように摺曲をなしてい
︵鴉︶
ます﹂とプルーストは書いており、のちにこの絵をレー
れる。﹃アミアンの聖書﹄の翻訳もこの頃手がけ始める
﹂
このようにホイッスラーとラスキンのことを、あたか
きているかという確信を得ることによって、悲しみのな
接したプルーストは、故人がいかに自分のなかに強く生
ナルド・アーン宛の書簡に模写している。
もパランスをとろうとするかのごとく、かわるがわる書
かに慰めを見いだしている。同年一月二七日、ラスキン
︵M︺
いている。さらに興味深いことには、芸術と道徳の間題
の死を悼むプルーストの記事が﹃芸術骨董時報﹄に載る。
が、翌年一月二〇目、ラスキンはこの世を去る。計報に
について述べながら、同じ書簡の最後で、両者を対等に
437
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( 87 )
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以後、彼は翻訳を進めるかたわら、ラスキンに関する文
章つぎつぎに発表する。しかしその一方で、一八九五年
に書き始めた未完の小説﹃ジャン・サントゥイユ﹄が、
一九〇〇年には完全に行きづまっていた。
﹃アミアンの聖書﹄は一九〇二年に翻訳が完了し、二
気遣いは、同時に、両者に通じていたノードリンガーに
対する心くばりでもあうたといえよう。
さらに、一九〇五年五月一〇日から六月一八日までマ
ラケ河岸の美術学校でホイッスラー展が開かれていたこ
とも、この画家の名がしばしば話題にのぽる理由の一つ
ーを見に行きたいが、なかなか行けない、ということが
はならないし、体調はまったくすぐれない、ホイッスラ
にあげなければならない。ラスキンの仕事を進めなくて
麻と百合﹄の翻訳を決意したのは、一九〇三年から翌年
プルーストの気がかりになづていた。六月二一−ニニn口、
年後に刊行された。続いてプルーストがラスキンの﹃胡
にかけてである。したがって、先に紹介した書簡が書か
を友としてすでにアミアンを訪れて、聖堂の石をつぶさ
ほとんど死にそうになって︶私は広場で辻馬車をひろい、
無理を押して出かけた。﹁死の危険をかえりみず︵ああ、
前中、プルーストにとっては就寝の時問に疲れた身体で
はたして彼はホイッスラー展に行った。六月一五目午
﹁いまだにホイッスラー展へは行っていない。あの永遠
︵岬︶
の、しかし放浪する美が消えうせはしないかと心配だ。﹂
ジョルジュ・ド・ロリスに宛てて次のように書いている。
れたのは﹃胡麻と百合﹄を翻訳中のことになる。プルー
ストの頭からラスキンが離れないのは当然である。しか
も手紙の受取人であるノードリンガーは、イギリス人で
あり、プルーストの翻訳の仕事の良き協力者であった。
に調べたことがあウた。彼女はまたホイッスラーの友人
彼女は絵や彫刻を勉強していたので、ラスキンの案内書
チャールズ・ラング・フリーアとも知り合っている。こ
ホイッスラーの絵をみに行きました。﹂六月二四同付の
︵㎎︺
書簡でこのようにノードリンガーに宛てて書いている。
どい状態であったことをノアイユ伯爵夫人にも手紙で伝
みにいってから四目問は、言葉では表現できないほどひ
のことを知ったプルーストは﹁よきホイッスラー支持
たがって彼が、ラスキンとホイッスラーに対してみせた
者﹂フリーアが﹁ラスキン賛美者﹂である自分を軽蔑す
︵脆︶
るのではないか、と案じて彼女に書きおくっている。し
第122巻第3号
橘論叢
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えている。また、プルーストは疲労困懲していたにもか
かわらず、ホイッスラー展から帰ったその日に母親のた
めに会場の見取図を作り、どのような作品が展示されて
いるかを書き送っている。しかし、この手紙には作品を
みての印象や感想は書かれていない。﹁ほとんどみんな
よホイッスラーの作品を前にしたプルーストの脳裏にラ
スキンの言葉が浮かんでいたのである。
ホイッスラー展が開催された年と同じ一九〇五年に、
プルーストによる﹁読書について﹂という論評が﹃ラテ
﹃胡麻と百合﹄の訳者の序文となるものである。このこ
ン復興﹄誌の六月一五日号に掲載された。これはのちに、
忘れました﹂とだけ記している。
︵㎎︶
ろプルーストが、ラスキンに対し、距離をとって接して
.た。また、虚栄心の強い画家が、大衆の気をひくために
方法を目のあたりにして少々幻滅を感じた﹂と書いてい
︵21︶
る画家のアトリエを二度目に訪れた際には﹁画家の創作
評判に価しないように恩われる﹂と述べ、ロンドンにあ
ュは、ホイッスラーの版画について﹁できが良くなく、
手紙に﹁残酷﹂だと思う、と書き送っている。ブランシ
この一文を読んだプルーストは、ノアイユ伯爵夫人宛の
によるホイッスラーについての論評が掲載されているが、
︵一八六一−一九四二、肖像画家、プルーストの友人︶
岡じ雑誌の同じ号に、ジャック・エミール・ブランシュ
そうとしていた時期であったということができるだろう。
キンとのいわぱ内的対話を通じて、自分自身をあぷりだ
いたことがこの序文によってうかがえる。それは、ラス
ホイッスラ﹁の美しい作品をフリーアが多数所蔵して
いることを知うたプルーストは、ノードリンガー宛の手
紙のなかで、フリーアに対し、サン・マルコ聖堂の見事
なアーキヴォルトを彫刻し彩色した人物についてラスキ
ンがいった言葉を援用しながら、次のような文章で敬意
を払っている。﹁私はその男が誰であったか知らない。
けれども彼が白分の喜ぴ、そして繊細なまなざしと趣味
をそこにこめたアーキヴォルトを見るだけで、彼は芸術
家であり、幸福な者であり、賢人であった、とはっきり
︵20 ︶
断言することができる。﹂プルーストは記憶によってこ
の文を書いたのだろう。﹃ヴェネツィアの石﹄にあるラ
スキンの文章は次の通りである。﹁そのアーキヴ才ルト
の意匠を考えた人も、それを楽しんだ人も、賢く幸せで、
またけだかい人であった、と私は信じる。﹂いずれにせ
439
7/ - ; h a)Iil :
( 89 )
橋論叢 第122巻 第3号 平成11年(1999年)9月号 (90)
あちこちに騒動の種をまき散らし、巧みに虚像をつくっ
て偉大だと信じこませようとした、とも記していた。ブ
ランシュのこの記事にふれながらプルーストは、ノード
リンガー宛の書簡の中で、芸術分野におけるエリートた
ちによって、ホイッスラーが正当に評価されていないこ
とに遺憾の意を示している。﹁彼は洗練された趣味の持
主であったことから、偉大な画家でも何でもなかったの
に、そう信じこませることができたのだ、とみなされて
いるのです。.ジャツク・ブランシュは[⋮]いっそう情
熱をこめて、同じ意見を表明したのです。それは私の意
︵”︶
見とはまったく違います。﹂
そしてプルーストはいう。彼が大画家でないとすれば、
誰が大画家なのかと。ブランシュの記事からニカ月後、
﹁美の教師﹂︵﹃生活芸術﹄一九〇五年八月一五日︶と題
する論評をプルーストは発表し、そのなかでラスキンの
芸術的判断−ラファエル前派の擁護、メソニエヘの傾
倒、そしてホイッスラー軽視1に疑問を呈している。
ホイッスラーのアトリェを訪れて、ブランシュの感じ
た幻滅が、われわれに思い起こさせる言葉−びん一杯
の絵の且ハを投げつけて⋮。現実にはありそうもない描き
方であったとしても、このたとえは﹁残酷﹂すぎはしな
いだろう。なぜならば訴訟事件よりはるか前、ラスキン
は﹃近代画家論﹄のなかで同じような表現を用いて、想
像カについて説いているからである。この言葉の意味を
めぐって検討を加えることは、プルiストが、ラスキン
とホイッスラーに見出した両者の共通点を探ることにも
つながるであろう。
ラスキンによれば﹁想像に訴えることがまず大切﹂と
考える画家は、一流とはいえない。もし想像力に訴える
も十分﹂であるはずだからだ。﹁投げた人の手柄ではな
だけなら、﹁インクびんを壁へ投げつけてできたしみで
い。想像力の豊かな人がみればおそらく手のかかった絵
よりもその突拍子もない黒ずみの方にはるかに興味をお
ぼえるだろうが。﹂
︵鴉︶
画家は想像力に訴えたり、あるものを想起させるだけ
では不十分で、見る人の想像を﹁導く﹂必要がある、と
ラスキンはいう。.この﹁導く﹂には尊大な意味合いはな
い。どこかですでに見たことのあるような風景を連想さ
せるだけでは、兄る人に新しい宇宙を発見させる契機と
はなりえないであろう。だがすぐれた作品にふれるとき
螂
い照明をあてて、自然の法則の一つをあきらかにしてい
見するために、旅立つ必要はない。見慣れた風景に新し
代画家論﹄のなかでいっているように、未知の世界を発
である。プルーストがいうように、またラスキンが﹃近
ではなく、多くのすぐれた芸術家の眼で宇宙をみること
ルーストにとっての真の旅とは、新しい風景への旅立ち
もとはちがったふうに見えることがある。たとえば、プ
ふだん見慣れているものが、画家の眼をとおして、いつ
スラーが深いところでつながっているとすれぱ、まさに
のだ。プルーストが指摘するように、ラスキンとホィッ
の音楽﹂であり、﹁こころのメロディ﹂であるべきな
まっているためだという。ラスキンによれば、絵は﹁目
こだわりすぎていて、﹁手が心に従う﹂ことをやめてし
ある。彼らの失敗の多くは、細部にあまりにとらわれ、
まりにも入念に手をいれるので注意を促しているほどで
いうものではない。彼はラファエル前派の画家たちがあ
ど問題ではなく、仕上げにかける時問も長ければよいと
︹蝸︺
たり、ある種の真実を示していたり、新しいものの見か
この点においてであろう。
ホイッスラーの影−︽オパール色の海︾−
たをあらわして、いたりするような、偉大な芸術家の作品
︵24︶
に接することによって、新しい宇宙への旅立ちが可能に
なる。これがラスキンのいう導きの意味であろう。した
ところで、こうした訴え方は作品の価値とはなんら関係
画家が手をぬいて描いたいい加減な絵が想像力に訴えた
ーミ巨邑9のアナグラムである、ともしばしぱ指摘さ
おとしている。エルスティールヨgマは、ホイッスラ
象派画家エルスティールが創りだされていく過程に影を
ホイッスラーは、﹃失われた時を求めて﹄のなかの印
がない、というのがラスキンの考え方である。ホイッス
れる。だが一作品の随所にホイッスラーという名があら
がって、インクびんを投げてできるしみと同じように、
ラーとの法廷闘争の二〇年以上も前に、すでに彼はホイ
に同時代性を盛りこむのには役立っていても、深い影響
われる割には彼に重要な役割が与えられておらず、作品
とができるであろう。
はあまり感じられない。草稿やタイプ原稿の段階で、ラ
ッスラーの反論に対する答えを用意していたともいうこ
ラスキンにとっては、しかしながら輸郭の有無はさほ
441
h O)W :
;f) - ;
( 91 )
スキンやターナーなどの名前が削除され、最終的に匿名
オパール色の湾にはケルクヴィルの入り江が描かれてい
めに、最終稿に先行する草稿にも目を転じてみたい。
どのようにホイッスラーが取り込まれているかを知るた
この点をいっそう明確にし、プルーストの小説空問に、
観が透かしみえるのとは対照的である。
眺めることにようて、その海に﹁個性﹂を付与しようと
現した︽オバール色の湾︾というフィルターをとおして
ない海を、ホイッスラーが青とぱら色のハーモニーで表
ケルクヴィルの海岸に立ち、どこにでもある﹁個性﹂の
カイエ29︵一九〇九終−一九一〇初︶では、﹁私﹂が
終稿には見あたらない。
る、と﹁私﹂は教えられる。しかし、いずれの挿話も最
︵η︶
一九〇五年のノードリンガー宛の書簡でプルーストは、
努めている。この断章は、最終稿では次のようになって
色の海︾をご存知ですか、お目にとまりましたか。実は、
の青と銀色のハーモニーによって表現されたオパール色
いたとき、エルスティールが私に、それがホイッスラー
いる。﹁すでにバルベック湾に神秘性が失われ、私にと
って、他の何とでも置きかえられるもの[⋮]となって
私はこの祝福された海岸がどこなのか知りたいのです、
︵%︶
そしてそこに住みにいきたいのです。﹂これらの絵を、
の湾であると語ることによって、突然それに一つの個性
︵29︶
をとりもどしてくれた[⋮]。﹂
ベック︶で﹁私﹂は、エルスティールと初めて出会う。
︵一九一〇︶では、ケルクヴィル︵最終稿におけるバル
オバール色の湾﹂に重ね合わせている。また、カイエ28
かも、ゲルマント家のもつ神秘性について語る際のたと
にいるのに対し、.最終稿では、﹁私﹂はパリにいる。し
違いがある。草稿では、﹁私﹂が海岸なり海辺の避暑地
総合のように思えなくもない。だが最終稿には決定的な
この最終稿の描写は、先行する草稿にみられる内容の
そして、﹁去年展示された﹂ホイッスラーによる水彩画
する﹁私﹂が、眼前に広がる海を﹁ホイッスラーの描く
カイエ32︵一九〇九−一九一〇頃︶では、海岸を散歩
るプルーストの意図を、草稿に読みとることができる。
何らかのかたちで白分の小説のなかに取り入れようとす
^鴉︶
﹁フリーア氏所蔵の︽オバール色の海岸︾と︽オパール
ホイッスラー展でみた絵にふれて次のように書いている。
性と普遍性を獲得した作中画家をとおして、両者の芸術
第122巻第3号 平成11年(1999年)9月号(92)
一橋論叢
42
えとして、﹁個性を取り戻してくれたのと同じように−・﹂
と、用いられているにすぎない∼
小説の主人公が、海を前にしてホイッスラーの描く海
を思う最終稿での場面は、それまでとは異なる。主人公
は、祖母とのバルベック滞在中に、時聞と日によって表
情を変える海の景色を楽しむ。海辺にたたずむのではな
く、ホテルの窓越しに景色を眺めていることはとりわけ
重要である。窓枠が額ぶちの役割を演じるからであるこ
とはいうまでもない。ホテルの部屋のベッドに寝そべっ
て眺めていたある夕暮れの海と空が、主人公に、チェル
シーの巨匠.†イッスラーお気に入りの蝶の署名入りの
︽グレーとぱら色のハーモニー︾を恩い起こさせる。実
︵30︶
際に、窓の下方にねむっていた小さな蝶を署名に見立て
る念のいれようである。プレイヤッド版の注には、同じ
題の肖像画を恩わせるとしてホイッスラーによる作品が
一点あげられているが、肖像画と海の景色とではかけ離
れすぎている。むしろ、ここにあげるべきは、川辺を描
いた蝶の署名入りの油彩画︽ぱら色とグレーのヴァリエ
ーシヨン、チェルシー︾︵フリーア美術館︶ではないだ
ろうか。いずれにせよ興味深いのは、プルーストがホイ
ッスラーを実在の画家としてそのまま小説のなかに取り
入れようとしている事実である。ホイッスラーを作中画
家エルスティールと合体させて溶け込ませ、小説の緊密
な構造の柱の一本に組み入れることをプルーストは考え
なかったのだろう、か。
と題された文章には、ホイッスラーを思わせる要素がい
カイェ28の、プルーストによって︽画家一①葛巨旨①︾
くぶん加わっている。ひとつは、作中画家が英国とアメ
リカにも住んでいたという設定であり、もうひとつは、
画家の家を訪れた主人公がアトリエで目にする作品のな
かに、ホイッスラーのある作品から着想をえたと思われ
る描写がみうけられ.ることである。その一節を読んでみ
よう。﹁索具装置が竃窪形をなし、その頂部の要である
綱の絶妙な結ぴ目によって、船は頂点から宙づりにされ
たようにみえるのだが、索具装置は、もう一方か実物の
船よりいっそう高く、巨大で、優雅な船のようなものを
天空に描いていた[⋮]。﹂このあとも綱具、帆柱、帆な
︵引︶
どの錯綜するさまが書かれている。
ングの連作のなかでも代表的な作品︽ラザーハイス︾を
テムズ河畔を描きあらわした、ホイッスラーのエッチ
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れているが、︽オバール色︾の絵については、次のよう
についての、文章による細部にわたる描写が繰り広げら
ィネ画廊に展示された時、ボードレールの注意をひいた
想起させる一文である。この作品は一八六二年にマルテ
な贈物の挿話が付け足しのように書き加えられているだ
紡佛させるのは、スワン夫人の描写である。彼女の真づ
エルスティールの絵とは関係ないが、ホイッスラーを
︵拠︶
スラーを選んでいる。
ネに書き直したりして試行錯誤のすえ、最終的にホイッ
段階で、マネにしたり、バルビゾン派にしたり、再びマ
を書いたかということをめぐって、プルーストは草稿の
する本の著者ということになっているが、何に関する本
写︾において、ヴェルデュラン氏は、ホイッスラーに関
一方で、﹁見出された時﹂のなかの︽ゴンクールの模
れていた[:・]。﹂
︵鎚︶
私に贈ってくれたが、その一枚には、[⋮]花火が描か
たばかりの二枚の︽オバール色のヴァリエーシヨン︾を
いる。﹁私が帰ろうとしたときであった。彼は描きあげ
けで、しかも、この贈物の挿話は最終稿では削除されて
ことでも知られている。﹁船具、帆桁、綱具のすばらし
い錯綜。霧と、溶鉱炉と、渦巻く煙との混沌。巨大な都
︵躯︶
市の深く絡み合う詩趣。﹂このように︽ラザーハイス︾
について書いたボードレールの論評を、プルーストは読
んでいたはずである。プルーストのこの一節は、最終稿
では削除されているが、作中画家の絵として、ホイッス
ラーの作品を用いることも考えなくはなかったというこ
とになる。しかし、︽オバール色︾の絵ではなく、エッ
チングの作品だからこそ言語に置き換えることができた
のではないだろうか。ハーモニー、ノクターンといった.
っては、色彩が単純化され、対象物の形が輸郭を失い、
題のつけ方からしてもわかるように、ホイッスラーにあ
それらが澤然一体となって、絵は限りなく音楽に近づく。
このような作品を文章化することは、プルーストをもっ
てしても、ホイッスラーもいうように、音楽を説明する
れた大手毬の花のうっとりさせる白さ、まるい雪だまを
いる雪のかたまりのようである。それらはサロンに飾ら
白なマフとケープは、春が近づいても溶けないで残って
たとえば、一九二二年の棒組校正刷りには、エルステ
より困難であろう。
ィールのアトリエを訪れた主人公がそこで目にする作品
44
したかたちと呼応しあって﹁長調の白のシンフォニ一﹂
を奏でている。この条を書くにあたってプルーストが想
を得たのは、詩人テオフィル・ゴーチエからとも、ロー
トレックの描く、ミシア・ナタンソンからともいわれるが、
室内の白い花や装飾品が、白のドレスと共鳴しあうさま
は、まぎれもなくホイッスラーの︽白のシンフォニー︾
︵肪︶
と題された一連の絵である。
ラスキンの眼
つぎに、ラスキンとプルーストそれぞれの文章に考察
を加えることによって、彼らのものの見かたの一例を示
したい。はじめに、プルーストの描くコンブレーの教会
を、続いてラスキンによるサン・マルコ聖堂の描写をみ
てみ よ う 。
一瞬ののち、ステンドグラスは、孔雀の尾のように変
化するかがやきを帯ぴ、ついで、ふるえ、波うちながら、
フランボワイヤン様式の雨、幻想の雨となづて、薄暗い
岩山のような円天井の上から、湿った内壁に沿ってした
たり落ちた[⋮]。また次の瞬間には、菱形をした数々
の小さなステンドグラスが、なにか犬きな胸当の上にで
も並べて置かれたサファイアのような、深い透明度と、
の
硬
度
と
を
も
っ
て
し
ま こ わ れ そ う に な い ほど
づ た︵
[粥
−︶
]。
聖マルコの獅子が、青地一面にちりぱめられた星を背
景に、一。同く掲げられ、そして遂には、まるで歓喜のあふ
れるごとく、アーチ群の波がしらは砕けて大理石の泡と
なり、自らをはるか高く蒼窩の中に放り上げ、閃光や、
彫刻によって表わされた水煙のうずとなるが、それはあ
たかも、リドの岸辺に当たって僻ける波が、砕け散る前
に凍りついて、そこに海のニンフたちが珊瑚やアメシス
︵帥︶
トを嵌め込んだかのようである。
コンブレーの教会の、硬質の固体であるステンドグラ
スが、流体の水のイメージで、生きたもののように描か
れる。ついで﹁サファイア﹂の比楡によって、深く澄ん
だ海が凍ったかのように、ステンドグラスは凝結して輸
郭をとりもどす。きわだつ動と静の対比。光の彩が織り
なすシンフォニー。そして、時間の流れにそった主体の
印象Lまるでラスキンの文章を読んでいるかのよう
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な錯覚に陥りそうになる。
プルーストによる教会の描写と同様に、動的な水のイ
メージとその静止とが重ねあわせられているサン.マル
コ聖堂の描写は、プルーストが愛読していたラスキンの
﹃ヴェネツィアの石﹄のなかにある。ラスキンにおいて
は、空に向かって上る波が崩れようとする瞬問、プルー
ストにおいては、光の強度が最高に達したとき、時問が
とまったかのように視像が固定される。一方は下降する
線をえがき、もう一方は上昇する線をえがく。だがとも
に動きの美が印象として捕えられ、その美を結晶させる
役割を担った宝石によって描写に残響が与えられている。
石でできた建築物を水のイメージで描くなら、海はど
のように表現されるのだろうか。っぎの一節は、プルー
ストの小説の主人公が、祖母とバルベックの海岸へ休暇
を過ごしにでかけた際の、ホテルの窓から見える景色の
描写である。主人公は、窓枠と景色をホイッスラーの絵
のようにみたてた時と同じ部屋にいるが、時問的にはこ
ちらのほうが、ホテルに着いてからの日が浅い。
山なみのうねるまばゆいばかりのこの広大な曲馬場、
あちこち磨かれて透明に見えるエメラルドの波の雪白の
いただきに、視線を投げるのだが、その波は平静さのな
かに狂暴をはらみ、ライオンの威厳をもったしかめっ面
で空高く打ち上げられてはまたなだれして、崩れ落ちる
︵鎚︶
その斜面には太陽がゆらめくほほえみをつけ加えていた。
海を描くのに、山の隠楡が用いられ、海と山がいわば
二重焼付けになっている。巧みなのは、プルーストは山
と海の両方を恩わせる︽エメラルド︾に蝶番としての役
わりをあたえていることである。このように、文体とい
う作品のミクロの次元にも、対立するラスキンとホイッ
スラーを深いところで結びつけた、プルーストのあの同
じ眼を認めることができる。作中画家エルスティールの
海の絵においても、海を描くのに陸の﹁名辞﹂が、陸を
表現するのに海の﹁名辞﹂が用いられている。文学をこ
ころざす主人公がエルスティールのアトリエを訪れた際、
蒙を啓かれることになる絵である。そして、主人公は小
︵39︶
説の終わり近くで次のようにさとる。作家にとって真実
がはじまるのは、異なる二つの対象をとりあげ、それろ
に共通する要素をメタファーの﹁環﹂によって結びつけ
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在中に﹁この偉人[ラスキン]の眼で山を眺めたい
ところでプルーストは、一八九九年の秋エヴィァン滞
るときであると。
ているのである。霧、水煙、風のそよぎ、大気の動き、
この文章を読みながら考えてほしいと、読者にうながし
ンのものと比べていかに優れているか、彼自身が書いた
光の変化、これらすべてが消しさられた輸郭となってあ
︵ω︶
から﹂とバリにいる母親に宛てて、ラスキンの作品が部
らわれている。﹁もの﹂に輪郭はなくとも、そこには自
﹁エメラルド﹂になるとき、押し寄せる波のごとく海を
然の真実のすがたがある。葉が太陽の光に向き。をかえて
分的に訳されているラ・シズランヌの本を送るよう書い
ている。ラスキンの眼で眺めた山とはどのようなもので
あろうか。彼の著作﹃近代画家論﹄には、自分自身の体
表わす言葉が入り込み、この語をきっかけとして山は海
初めにたいまつ、次いでエメラルドになる。谷のはるか
どの葉も太陽の光を反射し、送ろうとひるがえるとき、
はラスキンから影響を受けていないとはいえないが、彼
るのかもしれない。文体の類似については、プルースト
のこの二つの文を結びつける﹁環﹂の役割をも担ってい
験にもとづいて自然を描写した、次のような一節がある。
奥まったところに緑の葉むらが、水晶の海の巨大な波の
が意識的にラスキンをまねたというよりも、ラスキンに
と重なり合う。︽エメラルド︾はプルーストとラスキン
空洞のようにアーチ型をなしてつづく、その波のわき腹
共感を覚える過程を通じて、白らを発見することができ
の鏡であった、とはいえないが、彼にとってラスキンは、
至らなかったようである。一方、ラスキンはプルースト
ルーストのものの見かたに深い影響をあたえるまでには
いに興味をもった■かもしれないが、彼の絵や芸術観がプ
プルーストは、ホイッスラーをめぐる出来事や絵に大
た結果、生じたことであるといったほうがよいであろう。
に沿ってイワツツジの花が勢いよくはしり、泡立ち、オ
レンジの小枝の銀片は水煙のように空中に打ち上げられ、
灰色の岩の壁にあたって無数に散らばる星となって砕け、
徴風が銀の波をもち上げたり落としたりするにつれて、
︵刎︶
薄れたり明るく輝いたりしている。
ラスキンは、ターナーのとらえる自然現象が、 プッサ
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自分をうつしだす鏡だった、といえるのではないだろう
︵5︶§ミら﹄翼
閉雪宗①こ昌08寝﹃穿;Oぎ貢=旨一霊ユω二<ら.軍
以下Ooミ雨魯§氏§Sききミ9ぎ冒9をOo葦と略記。
︵6︶oo§魯oミ§富きき§一ぎ婁㌧異8黒與σ=らみ.
﹁ジョン・ラスキン﹂と題する論評のなかでプルース
︵7︶Oミ’;P軍﹂o;カ嘉斥貝§㊦嚢§ミ㌧ミ§ω一
か。
トは、ラスキンがターナーについてのべた次の言葉を、
﹁旨﹃胃︸oo−レ××≡二岨o。。ら﹂賢
ミ塞き旨§sきき§ミ募一一§冒巨ω箒一.要〇一①宗ω
ー展で、後者の絵をみている。くoキ黒菖吻ミ§臣富S富.
意した。プルーストは、美術学校で開催されたホイッスラ
感銘を受け、同じような構図で肖像画を描かせることに同
ーと黒のアレンジメントzo■7画家の母親︾を目にして、
ライルは、一八七二年にホイッスラーのアトリエで︽グレ
ZO.㌣トマス・カーライルの肖像︾のことである。カー
︵13︶ Ooミ.一く一〇P亀−お.︽グレーと黒のアレンジメント
曽×もーお9×曽一pω§
くo宇ooコo0E﹃戸旨星§ミ一︸oooトーo9××一〇〇.蜆012.ooミ.一
いるが、同じ挿話がゴンクールの﹃日記﹄に記されている。
宛の審簡で、ホイッスラーの語る昼食の挿話をとりあげて
︵12︶ Ωo目o〇一﹄鼻§■9戸o、竃.プルーストはシドニ.シフ
︵11︶ Ooミ.一く一P卜N一
..斥=o鼻:・o串..という言葉を用いている。
︵10︶ 冒彗鶉﹃一8.ミ.も一竃、法務長官とホイッスラーは、
︵巨oμ.L竃o︶らー㊤N.
︵9︶寄9コ留彗§一;涼一ぎω巨まo葦一−o邑旨一嚢ω
︵8︶Oo⋮二くら‘睾
ラスキンにあてはめて書いている。﹁まだこの世に生を
受けていない世代の人たちが自然を見るのは、墓の奥で
︵〃︶
永遠に閉じられてしまったこの眼によってなのである。﹂
︵1︶ζ賢富一?o冨寸盲§旨§§,票茎poo⋮−
ヨ彗只霊ユω二竃ro1竃N.o﹁∼o易戸o§ぎぎぎ“雨.
b§§も曇8Φ忌き隻oぎ竃gミ一§鷺餉g彗三箒象.
竃泳ミミぎ−塗−﹄=凧一ぎ①し雪一ら.宝o.以下本杳をo■り
︵2︶﹄o巨彗邑Pき;9§︷鷺§§雨書﹁ぎミさミ
b・と略記。
完星防ホ︷ミー向O写o〇一U︸向−↓1OOO斥団目ら>訂嵩︸目μo﹃奉価ααo﹃.
巨;−=σ冨qOα.レ×只一01>=昌一−O註昌﹂O;O・§・
︵3︶o︷.畠∋昌o①こ仁一窃まOo昌o胃戸さ富§ミ’き§︷.
具彗昌詠葛;oσき聖o胆慧レヌ霊ωo烏=①彗匝向一彗.
ミ吻きざミ雨ミ慰§ざ眈−。。竃−冨軍8竺二鼻昆冨一Φ冨;
ヨ凹ユ昌㌔胃貝冨鼻p0N1o.ω﹄ーら.窒o.
︵4︶カoσ胃;o;2畠冨⋮p合軸雫;昌竃晶巨窒o昌.
ド§oo邑冨:目ぎ§耐き㎞旨§ミ§皆︸ニニ彗く雲一
冨⑩9暑.ω彗ム竃.
448
団彗宍.麦二凹量畠二〇〇ζ−罫き⋮∼昌ω;凹≡一
一M一卜軸§二きミo竺一量貝嚢二勇
昌︸具∼身﹂塞蜆ら.曽o.
o.−8.
︵15︶Oミー.<’Pムω .
︵16︶§ミら。亀、この頃プルーストは﹃胡麻と百含﹄の翻
訳の推敲などについても、ノードリンガーと何度か手紙で
︵〃︶§界pN豪
相談している。
︵18︶§、も.§9§トo二ぎ§一§’嚢.
︵19︶、§.らo﹄P§.
一20一婁・ら§ミ旨;カ冨貫§ら§ミ§ぎ一
一21一﹄凹8嚢・窒一二一賢豆︽﹄彗9書。董=一邑
=写害二q.一〆曇令p一;
葦一、己。、二目 卜 昌 き § 雲 § こ § ・ 雨 ニ ニ 身 曇 9
?婁トo邑op曇ムら.一。。’
暑菖二賢ネ向轟昌①ωω星葦①・’§§§雲饅ま目
一22一〇§’く一〇.§19里彗・コ①阜呉P彗.
一23一−。す。穿貫き∼§まミ§﹂妻一;α.1く’
冨o戸pミo1
一24一。;冨貫き、§§ミ§﹄σ曇ニニ一一’姜’
o・彗こ3目害・葦﹄s一§閉§㌧ミ一§§§、§ミ一
爵;、、、二α・と二㊤oζ−墨﹄g二舅葺↓§き
§雨き、ぎ豊ε呉肉逼§しぎqa’×≡’曇ξ−掌
ξ§;s員三・§ぎ§ぎ§膏§ζ雨き二=ε−
δoo司、冨oo〇二戸pぎM﹂く一p︷芸.以下㌧ざミoぎさぎ軸、冒
く①=。凧婁。コ忌辰墨箒しさ亘9一一嚢貝睾貝
ンの影響については言彗>昌葛けト、︸ミ§§耐註完蕎雲曽
膏§吻も雨&筥を完宅と略記。プルーストにおけるラスキ
奏ざ鳶雪§寓き.§§きき§一き嚢﹄ぎ一.
一25一喜二畠葺事①・雰昌凹姜彗︾し§§吻§寺1
ユ①U﹁oドo彗写①﹂o雷を参照のこと。
。ミ雨。一、ミ§、§ミ爵;曇二〇1’誉ol翠昏ω貫
︵26︶ Oo葦一く一〇1墨N.この手紙でプルーストがいっている
き軋§ま§員=ぎq&1﹄;嚢−彗葦ら.§1
絵の一方は、ホイツスラーの水彩画︽オパール色の海岸︾
と考えられる。︽オパール色の海︾と題された水彩画も一
九〇五年の美術展に出品されていたが、フリーア所蔵では
ついて一一一.目及した上で、フリーアとヴアンダーピルトがそれ
ない。また、別の手紙でプルーストは、オパール色の絵に
ぞれ所蔵する夜の帆船を描いた作品を、とりわけ賞賛して
バタシー︾と︽ノクターン一バタシー︾と推測される。い
いる。力夕。グからは、これらは^ノクターン・青と銀−
ずれにしてもプルーストがホイツスラー展でみた絵のうち
一§軋・;p§−曇一。≦昌ξ邑一§§§§吻き
ヴアンダービルト所蔵の作品は、後者の油彩画のみである
旨§雨吻きき§§嚢§睾牡二。。事①一;弟戸
︵27︶§トol嚢.9§軋.’o.睾
p竃oo1
一磐O顯毒M;・>一勺.嚢彗。岨尋。’ξξ;弟戸
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o.雪①.
︵29︶きミら■曽o。。^青と銀色・トルーヴイル︾︵フリーア美
術館︶と題されたホイツスラーの油彩画がある。
︵30︶−§も.嚢− ネ ㌧ § . 一 ; § ’ 一 § −
︵31︶Oき。蔓>>.=①嚢’一。岬ミ。.=く。﹂還婁軍.
§;9凹邑冨曾ぎ彗一︽書嚢;⋮ω=5旦目一・。︾
三〇ミ§。﹃§§き一・ミ“ミ§;自ω.戸慧一彗・
p;吋弓二−も・雪ω・プルーストがみに行つた一九〇五年
のホイッスラー展に︽ラザー一イス︾は出品されていた。
く。一二§§§雲§§ζ雨旨§8き董ミ;蓬雨・・
p§1。;§§こ帽ζ雨一§二童萎。ρ、一.。一〇邑.
巨O目嘗﹄]≦仁ω伽oα①Oブ国H冒①9−ooピOP心一〇〇一N一〇・
一32一〇す邑。己彗童饅豆§・ミ蜆8§§§戸Oき.
富貝寄景§ρ暑.一ω蜆’さ9
︵33︶ミ∼一一P嚢ζ;亭。ユ津⋮①員O§§ミ§、
邑ぎ§こsミ。急§さ§・§童二書姜身巾曇ω・
之姜麦く雪二萎らo.鼻①ド旨ざ邑量合φ①目彗野。
ま曇箒二.穿∼=こ⋮雪ニニ一巨箒昌二①邑昌㎝
薫書閉e:目き§一・包.一さ§§§ζ§§§s・コ。
︵34︶ 完↓︶−く一〇P M o 〇 一 − ω ① o ・
O。二〇鼻P琴
︵35︶ 完↓、一−も、竃ム、^白のシンフオニー。三人の少女︾︵フ
リーア美術館︶を合め、︽白のシンフオニ←と題された
に開催されたホイツスラー展でそのうちの三点をプルース
ホイッスラーの油彩画は少なくとも四作ある。一九〇五年
トは目にしているはずである。くoオ向魯富ミ§§吻ss.
︵36︶完宅Lもー㎝o.
§ζ雨旨§sきき§;き雨・’署.鼻曇買Mω・
一37一ぎ菱P§婁§ξ§曽鳶;・§。α・シニω・
︵39︶完ド、二く一〇﹂箪o︷−>巨﹃orS.o芦o〇二8.冨9拙
︵38︶完弓﹄もー撃
稿﹁プルーストとターナー﹂﹃蓼文研究﹄六四号、慶塵義
gご豪二旨⋮等員眈琶葦①二目婁邑こ二§的§
整大學蓼文學会、一九九三年。声曽巨ぎζ婁戸令、o冨片
g5慧§§§ぎs亘婁一目.一津一竃㎝・
︵40︶Ooミ.﹄一P器↓.
︵42︶ρω.b−’o−嚢一S書笑一P旨§§§ξき§一ミミ
︵刎一害菱戸き∼§ミミ婁ピ一ぎ・二〇−冒ら葦
§匝きぎ注轟一=σ冨q&。一曽−ら.30。.ラスキンのこの作
著作のうちの一冊である︵oo﹃﹃.﹄も.ωo。↓︶。
品は一ブルーストが﹁暗記している﹂という、ラスキンの
[付記] 本論文は、一九九九年三月二二日に東京ラスキン協
会で行った講演のために準備した原稿に、その後の研究成果
の引用文については、御木本隆三訳︵春秋社︶を、プルース
を加えたものである。なお、ラスキンの﹃近世鉦家論﹄から
筆老が訳出した。
トの﹃失われた時を求めて﹄からの引用については、井上究
一郎訳︵筑摩書房︶と鈴木適彦訳︵集英社︶を参照しつつ、
︵一橋大学講師︶
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