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明治学院大学機関リポジトリ http://repository.meijigakuin.ac.jp/
明治学院大学機関リポジトリ
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
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ゴーメンガーストの方へ―事後記憶と小説
林, 完枝
明治学院大学英米文学・英語学論叢 = Meiji Gakuin
University, the journal of English & American
literature and linguistics, 129: 15-43
2014-02-15
http://hdl.handle.net/10723/1861
Rights
Meiji Gakuin University Institutional Repository
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
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事後記憶と小説
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anguage・と書く(2)。彼は自分の氏名の由
来について,また大西洋を横断・往還してきた家系について,知りえたことを
叙述するが,確証できるわけではない。収集した情報は断片ばかりで信憑性に
乏しく,情報提供者による意図的差し控え・歪曲や意図せざる記憶違いもまた
排除しえないのである。とはいえ,回顧録と称するからには,それなりの実証
可能性を前提としていなければならない。ゆえに,この著書には,人名や地名
や西暦年がふんだんに盛り込まれている。「このドラマはフィクションです。
実在する団体や個人等とは無関係です」と明言することは,回顧録には許され
ないのである。
家族と限らず国家と限らず,話す主体は誰でもが自己創出・自己創作に駆ら
れるのではあるまいか。とすれば,その衝動は何故なのか。その原動力は何な
のか。聴き手を退屈させないストーリーを語ること,夜を徹して語り続けるこ
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ゴーメンガーストの方へ
事後記憶と小説
記憶の変移と J
・G・バラードの辺境地
とはシェヘラザードにとって命懸けの行為である。昼に編んだ織物を夜に解き
ほぐすペネロペイアは,明日にはまた言い寄る男たちを言いくるめなければな
らない。
アゴタ・クリストフ (19352011
) の三巻から成る小説の第一巻は英訳で
150頁ほど,「魔女」ともされる祖母の家に母親が幼い双子の息子を預ける
ところから始まり,双子の片割れが国境を越えるまでの数年間を一人称複数で
語っている(3)。1頁から 3頁の断章 80ほどで構成され,「祖母の家に到着」,
「祖母の家」といった短い題名が各断章に付されている。その 11番目の断章に
おいて,双子が文房具店にて紙,鉛筆,大きな分厚いノートブックを入手する
経緯が書かれている。12番目の断章では,「ぼくら」が父親の持っていた辞書
と祖母の家の屋根裏で見つけた聖書を頼りに独学するさまが描かれている。二
人は紙に書いたもの(下書き)を交換し辞書を片手に綴りの間違いをチェック
し合い内容を評価し合い,「良」と判断されればノートブックに書き写し,「不
良」と判断されれば焼却する。したがって,第一巻『ノートブック』は,双子
の共同作業によって事後的に成立した産物として現前する。記述内容の客観性
への忠実さが,焼却を免れるための判断基準である。
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(N,pp.
2627)
それゆえ,次のような記述方針が要求され宣言される。
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ゴーメンガーストの方へ
事後記憶と小説
記憶の変移と J
・G・バラードの辺境地
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27)
感情に動かされず曖昧な表現に振り回されず,見聞したことや事実を忠実に記
述すること。しかし,事実記録の無媒介性,即時性,即物性を徹底するのであ
れば,第 11断章と第 12断章から書き始めそのあとで時間系列に沿って「祖母
の家に到着」を置くべきだったのではあるまいか。そんな疑問が生じないわけ
でもない。客観性への拘りを標榜しながら第一巻には西暦年や人名や地名は何
故か記述されない。「ぼくら」が出会う人びとは,祖母,母,幼い妹,父,司
祭,家政婦,従卒,士官,兵士,靴職人,文房具屋等,続柄,職業,社会的立
場で呼ばれるか,「兎口」等の渾名で呼ばれる。国境近い村に駐屯する外国軍
や外国語についてもまた具体的な国名あるいは民族名は明らかにされない。正
規の教育にも与れず極貧のなかで生き延びるしかない「ぼくら」が幼すぎて母
国語も外国語も習得できず自国と外国との区別もできない,というわけではな
いのだ。「ぼくら」は類稀な独学者であり,生活の現場において複数の外国語
を習得し,外圧に屈することもなく誰の言いなりにもならない精神と肉体の鍛
錬に日々明け暮れる。レコードや蓄音機,ジープ,脱走兵,空襲,パルチザン,
解放軍,ある占領軍の撤退と別の占領軍の侵入といった記述から,第二次世界
大戦中から戦後にかけての東欧・中欧であろうことは推測できるが,西暦年や
人名や地名が明記されていない,あるいは削除されているので,簡潔な文体で
書かれた『ノートブック』は,あたかも「むかしむかしあるところで」始まる
民話的雰囲気を湛えているが,内容的には,戦中の過酷な環境で何とか生き延
びる孤児の壮絶な物語として『異彩の鳥』(1965)を想起させるほどの「グラ
ンギニョル」,シュルレアリスム的不気味さが浸潤している。したがって,良
識ある大人なら,青少年の健全な成長に悪影響を及ぼしかねぬ叙述,子どもに
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記憶の変移と J
・G・バラードの辺境地
は読ませたくないお話として『ノートブック』を「禁書」扱いしかねない。た
とえば,占領軍兵士たちによる「兎口」(と呼ばれる少女)の輪姦死の挿話や,
母と幼い妹が砲弾によって爆死し埋葬されるが祖母の家を訪ねた父が遺骨を掘
り出してから立ち去り双子が遺骨を磨き上げオブジェにして飾る挿話がある。
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147)
遺骨は文字通り「衣装棚の骸骨」であるが,双子にとっては忘却されざる記憶
痕跡であり魔除けの隠喩ともなっている。住民二,三百人が兵士たちに両側を
挟まれライフルで脅され家畜の群れも同然に強制連行される様子を双子が目撃
する断章「人の群れ」は,抑制のきいた記述になっている。「ぼくら」は目の
前の出来事の意味を理解できず,司祭に尋ねるが理由を教えてもらえず,家政
婦からは,「目撃したことをさっさと忘れるのがなによりよ,ああいうことは
あんたたちの身には起こらない,あの人たちは畜生なんだから」と諭される。
(N,pp.
9596)すなわち,不都合な事実を見て見ぬふりをすることが悩まず
生き延びるコツであると大人たちから教えられるわけである。黙認と忘却はた
しかに外国軍の占領下にある非常事態においてあるいは非常事態が常態化する
環境にあってはやむなく要請されてきた生存スキルであろう。出来事の意味は
事後的に理解できるが,即時性を尊重する『ノートブック』は,及的語りに
よる事実の補足や真相の解明には無関心である。
イェールジ・コジンスキー(193391)の『異彩の鳥』では第 1章の冒頭 2
頁にわたって斜体で,物語の時代背景および幼い少年が僻地の農家に預けられ
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・G・バラードの辺境地
た経緯が三人称過去形で説明される(4)。第二次世界大戦勃発数週間後,東ヨー
ロッパのある大都市から,ジプシーともユダヤ系とも見なされる 6歳の少年が
何世紀にもわたって「文明の光」とは無縁なまま取り残された迷妄に満ちた寒
村に疎開し無学文盲の農民に預けられるのだが,それは幼いわが子の生き延び
る可能性を少しでも高くしたい両親の究極の選択によるものである。この前置
きのあと,少年の一人称の自伝的語りが,彼が目撃し経験する数々の残酷な挿
話を交えて最終章での「声の回復」まで続く。少年自身は匿名のままではある
が,他の登場人物たちには呼び名があり,スラブ系地名も頻出し,ドイツ軍や
赤軍への言及もある。したがって,『異彩の鳥』には民話的雰囲気が『ノート
ブック』より希薄であり,ポーランド生まれの著者の自伝的小説であろうと読
者は容易に推測してしまう(5)。
『ノートブック』の最後から 2番目の断章「ぼくらの父が戻る」では,墓を
暴いて数年後にまた祖母の家にやってきた父が息子たちに国境越えの手助けを
求める。(祖母はすでに死亡している。)監視塔,戒,有刺鉄線が張り巡らさ
れたフェンス,地雷等,待ち受ける困難をどう乗り越えるのか,子ども時代を
境界で過ごしてきた双子は越境の手助けを受諾し,最終断章「訣別」では父の
身元判明につながりかねないものすべてを焼却させてから,越境を試みる。
(双子には身元判明につながる公文書が存在しない。)父が先に歩き,地雷を踏
み倒れる。父が残した足跡をって双子の片割れが向こうの国に越境する。も
う一人は祖母の家に戻る。第二巻『証拠』で初めて読者は,残った片割れの名
がルーカス(Lucas
)であると知らされる。第二巻第 1章から第 7章までは,
父祖の地にとどまったルーカスの凄絶な青年時代を三人称で語っている。地雷
の爆発と爆死した身元不明の男の件でルーカスは軍曹に尋問されるが知らぬ存
ぜぬを通す。その際,ルーカスは自分が知恵遅れと呼ばれてきた理由を,幼い
とき空襲で受けた心理的外傷による精神障害であると告げる。(第三巻ではな
んと脊椎に傷を負ったことが明かされる。)さらに,ルーカスの母と幼い妹が
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・G・バラードの辺境地
砲弾を浴びて死亡したのは終戦の数日前であると三人称過去形で書かれている
が,これはその 2段落前に,ルーカスが屋根裏部屋でノートブックに書き込ん
だか,あるいは,遺骨オブジェを眺めながら記憶をっているだけかもしれな
い。
(最早,二人で作文を見せ合い意見交換してから清書することはできない。
)
この第 1章終り近くで,ルーカスは本屋兼文房具店に鉛筆,紙,ノートブック
を買いに行き,店主ヴィクトールと会話するがその会話内容から,ルーカスが
15歳であり母親が彼を祖母に預けたのは 6年前である,と読者は初めて知ら
される。ルーカスには身元証明となるものがないと知らされたヴィクトールは
友人ペーター・Nに会うように助言する。ルーカスは革命党事務局にて書記
官ペーターに面会を申し入れ,自分の実在を証明する公的書類を一切持たない
ままだったルーカスが戦後を生き抜くのに必要な身元証明となる公文書を作成
してもらう。
第二巻第 8章において,クラウス(Cl
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)が汽車で帰国しホテルに泊まり
その翌日,かつてよく通っていた本屋を訪ねる。そこで彼は店主からルーカス
と呼びかけられる。店主の中年男はペーター・Nであると自己紹介する。ク
ラウスは国境越えした方の双子の片割れであり祖国にとどまった片割れルーカ
スをやっと探しに帰国したのだと主張するが,ペーターには信じられない。資
本主義国外務省発行のパスポートを見せられても,そんなもの何の証拠にもな
らないとペーターは一蹴する。ペーターがルーカスと知り合ったのはルーカス
が 15歳のときであり,ルーカスは 30歳のとき失踪したまま音信不通である,
とペーターは経緯を伝えてから,ルーカスから託されたものを自称クラウスに
渡す。
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・G・バラードの辺境地
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クラウスは,ルーカスが残してくれた 5冊のノートブックの存在こそがルーカ
スの実在証明になるとペーターに告げるが,この第 8章の結尾には一種の「ど
んでん返し」,「ねじの回転」が用意されている。
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299)
すなわち,K町当局から D国大使館に対して D国パスポート保持者クラウス・
Tの本国送還を要請する公文書である。クラウス・Tが有効な D国パスポー
トを所持し 30日有効な観光ヴィザで本年 4月 2日に入国し,3回ヴィザを更
新したが,8月に 4回目の延長を申請し却下されたにも関わらず不法滞在を続
けている,というものである。当局の尋問において,クラウス・Tは当国に生
まれ子ども時代を当地の祖母宅で過ごしたこと,そして双子の片割れルーカス・
Tが当地に戻るまで滞在し続けることを希望すると述べたが,ルーカス・T,
クラウス・T両者の公文書記録は存在しない。当局の報告書追記に,クラウス・
Tの所持品の中に原稿を発見した,とある。原稿のうち第 8章部分のみクラウ
スが書き足したものだが大部分はルーカスが書いたものでありルーカスの実在
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・G・バラードの辺境地
を証明しているとクラウスは主張するが,筆跡も一貫して同一人物によるもの
であり,紙も古くなっていないことから,クラウスが K町に滞在したこの半
年間に執筆されたものと検証される。つまり,第一巻と第二巻はいずれも D
国人クラウス・Tによる作品,しかも自伝でさえなくフィクションである,と
当局は D国大使館に報告し,次のように締め括っている。
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客観性・検証可能性に支えられた簡潔な公文書が小説に突然介入する(ように
見える)とき,読者はこれまで手に取っていた書物から一旦視線を離すのでは
あるまいか。「このドラマはフィクションであり実在する団体や個人等とは無
関係である」と承知していても,読者は,これまで読み続けてきた物語内容の
信頼性を揺るがすような証拠を提示する公権力の現前によって,虚実皮膜を破
られたような気がするのではあるまいか。実際のところ,パスポートは再発行
可能であり偽造可能でもあり,公文書はしかるべき場所で保管されていてもそ
の内容ゆえに機密扱いされ,面倒な手続を経てやっと閲覧できるか,ごく限定
されたエリートにしかアクセスできないこともある,出来事から何十年も経て
公開される場合もあれば,未公開であり続ける場合もある,と私たちは知って
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ゴーメンガーストの方へ
事後記憶と小説
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・G・バラードの辺境地
いる。火災や戦災等によって公文書は取り返しつかなく失われることもある,
とも知っている。個人の公的記録など実は「砂の器」のように脆い。
『1984年』
(1949)の全体主義国家では,歴史的事実の恒常的な書き換え・改讒は真理省
公務員たちの重要な職務である。(個人の記憶など,公権力はいつでも検証不
能にすることができるのだ。)また,『蜘蛛女のキス』(1976)の終盤,第 15章
で,読者が公権力による電話盗聴・監視とそれに基づく報告書を読むとき,こ
の小説がフィクションであると承知のうえで,歴史的事実に全面的に基づいて
いるとまでは言えないにせよ独裁国家に起こった幾つかの出来事に何らかのイ
ンスピレーションを得ているだろうとは想像できる。記述内容の真偽,公文書
の公開・非公開・秘匿は公権力に帰属し,お墨付きの真偽は権力を揮うことが
できる。では,公共圏において倫理主体としてフィクションを書くこと,作家
にとっての「表現の自由」とは何だろうか。
イアン・マキューアン(1948 )の『贖い』(2001)は三人称の語りで 350
頁近く進んだところで,第三部が次のように締め括られる(6)。1940年クラッ
パムで,ブライオニーが姉シーリアとその恋人ロビーに会い謝罪してから帰る
場面である。
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349)
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ゴーメンガーストの方へ
事後記憶と小説
記憶の変移と J
・G・バラードの辺境地
第三部の後に,一人称での語りで 20頁ほどの「ロンドン,1999年」が置かれ
ている。「わたし」,77歳の作家ブライオニー・タリスは最初の小説になるべ
きだった最後の小説となるものをようやく脱稿したところである。194
0年 1
月に初稿,最新原稿は 1999年 3月,59年間にわたって何度も改稿された小説,
それがタリスの小説『贖い』である。全体の半分を占める第一部,すなわち
1935年夏の一昼夜の出来事の叙述さえ,作家タリスの創作ということになる。
何故,創作と改稿に 60年近く明け暮れてきたのか。
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事後記憶と小説
記憶の変移と J
・G・バラードの辺境地
法を味方につけるのでなければ真実は公表しえない。法は出版差し止め,発売
禁止,出版物回収を申し渡すことができる。公権力の側にある関係者から裁判
で訴えられかねない内容を一部孕んだ回顧録は出版不可能である。したがって,
自分ひとりで考えるにとどまらず,読者を想定して書く,世間に発表するとな
れば,素材の転置,変形,偽装が行われる。脳血管性認知症の進行により最早
先が長くないことを覚悟したタリスは,作家の想像力をもってしてなら倫理的
に許されるだろう「嘘」,フィクション,現実には叶わなかったこと,すなわ
ち,1940年 6月に戦地で病死したロビーと同年 9月ロンドンの地下鉄が爆撃
されたとき死亡したシーリアのために二人には叶わなかった再会の喜びと愛の
確認を,自作小説になかで実現する,でっちあげる。
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371)
書くこと,公表することもまた命懸けの行為である。公文書が無慈悲にも地名
や人名や数字を連ねるとき,個人の資格において危うい想像力を交えて書かれ
たものは,汚辱に満ちた世界史にかな断片,かな痕跡しか残せなかった死
者たちへの鎮魂歌にも聞こえてくる。(少女ブライオニーが想像力の過剰と根
拠なき正義感ゆえに犯した罪,すなわち未来を嘱望されていた青年に罪をき
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事後記憶と小説
記憶の変移と J
・G・バラードの辺境地
せることになる目撃証言をしたこと,それへの贖罪が,作家タリスのライフワー
(7)
クとなる。)
それでも,物語内で起こった出来事の,複数の解釈ではなく,
無媒介の客観的事実は何なのか,知りたがる読者は確実に存在するだろう。唯
一無二の真理の現前への憧れは根深い。
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アゴタ・クリストフの第三巻『第三の嘘』は第二巻の末尾に添えられた公文
書への抵抗でもあり,第一巻および第二巻の記述内容の書き換え・補遺である。
不法滞在を理由に警察署に収監されたクラウスは独房で回顧録を書き始める。
真実を書くのがあまりに辛かったので孤独を紛らわすために双子という設定に
して想像し創作した結果が『ノートブック』と『証拠』であると認めたうえで,
彼は子ども時代を病院で過ごしたこと,病院に担ぎ込まれたときは昏睡状態だっ
たこと,当時は 4歳で戦争が始まった年だったことなどを書く。それ以前はど
うだったのか,白い家に両親と幸せな生活,子ども部屋にもうひとり眠ってい
る,そんなイメージは現実に叶わないことを夢見てきた残像にすぎないのか,
出来事の記憶痕跡なのか,いずれとも判然としない。病院から再教育センター
に移され,そのセンターが空襲で破壊されてからは,国境近くの森に住む老女
に預けられる。
「ぼく」は彼女を「祖母」と呼ぶことになる。
第三巻第一部は,「ぼく」が 15歳のとき国境を越え,新天地で公共圏に通用
する身元証明書を作成してもらい長らく暮らしてきたが,病気を患い先が短い
と自覚し故郷に死に場所を求めて帰郷した経緯を語っている。この一人称単数
の語りに,『ノートブック』最後の断章,すなわち一人称複数の越境挿話とは
異なる越境の「真実」が現れる。さらにその 15頁ほど後には,三人称の語り
で越境挿話第 3ヴァージョンが割り込むが,この第 3越境挿話の記述(三人称)
は,第 1越境挿話(一人称複数)と第 2越境挿話(一人称単数)の書き換えと
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なっている。三人称語りは一人称語りよりも信憑性が高い,という前提にたっ
ている。
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359)
何故少年は国境警備員に虚偽申告をしたのか。彼が再教育センターで嘘をつく
ようになったのは,同施設内の他の子どもたちへの嫉妬や羨望ゆえであった。
戦争を生き延び,「祖母」の死後彼女の家がコミューンに接収されると知った
とき,彼は「祖母」の警告を思い出す。すなわち,「決して真実を口にするな。
質問を理解できないふりをしろ。白痴だと思われたらなおさら有利だ」と。戦
争,革命,新たな占領軍の駐留,支配層の交代,拷問や粛清等に脅かされると
き,「嘘」をつくことは一般人にとっても自衛・生存のための政治的手段であ
る,たとえその嘘によって自己同一性の証明ができなくなるにせよ。この第三
巻第一部の終わりで,本国送還直前,彼は首都にある D国大使館のオフィス
で係の者から,クラウス・T(Kl
ausT)の名が電話帳に記載されていること,
こちらのクラウスはこの国でも最も偉大な戦後詩人であること,筆名はクラウ
ス・ルーカス(Kl
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)であることを知らされる。第三巻第二部では,
Kのクラウスが Cのクラウス(すなわちルーカス)を不承不承自宅に迎え,
双子の片割れは再教育センターが空襲されたとき母ともども死亡し,父は戦地
から戻らなかった,と嘘を言う。現在は妻子との幸せな家族生活をしていると
嘘八百を並べる。彼が嘘をつき通せる理由の一つは,自称クラウスの D国パ
スポートが証拠になるからである。Cのクラウスはルーカス・Tの実在を証明
できる公的証拠を全く持っていないのだ,心許ない記憶の残骸以外は。Kの
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クラウスは,Cのクラウスから渡された未完の原稿を完成させるため,彼の視
点からの回顧録に着手する。すなわち,書記行為のリレー,送り届け・受取で
ある(8)。その回顧録は戦争が勃発した年から始まる幸せな家族生活の崩壊ドラ
マであり,クラウスがルーカスの実在を否定する心理的外傷が語られる。これ
がルーカスについた嘘につながっている。(つまり,ついた嘘には何がしかの
真実が含まれる。)戦後,クラウスは 14歳で植字工見習となり,長らく印刷所
に勤務するのだが,そこで印刷される新聞の中身が真実とは正反対のものであ
ると確信することになる,ウィンストン・スミスと同様に。政府やマスメディ
アが作り出し公表・宣撫する虚偽・歪曲情報に抵抗するかのように,彼は密か
に詩作に励むことになったのである。
何故書くのか,書き続けるのか。ブライオニー・タリスは自分の死後にしか
事実に基づく作品は出版できないと覚悟しながら,同時に,13歳の少女の過
剰な想像力と誤解に基づく目撃証言ゆえに犯した罪を贖う可能性を 60年近く
模索することになった。『証拠』第 6章で,ルーカスはヴィクトールが残した
タイプ原稿をペーターから渡され,その原稿を自宅に持ち帰って自分のノート
ブックに写す。読む人は書く人になる。(またしても,書記行為のリレーであ
る。)その一節にこうある。
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263)
ほぼ 10頁に亘ってヴィクトールが姉を殺害するにいたる物語が,書くに値す
ることを書けないスランプを主題として一人称で語られている。それよりも前,
第 4章で,ヴィクトールは書くことに専念するために書店を売却したいとルー
カスに申し出ている。
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237)
このヴィクトールがクラウスことルーカスの創作した登場人物であるにせよ,
書き写す,書き続ける,書き加える,書き直すクラウス/ルーカスの姿勢は,
ブライオニー・タリスのそれに通底している。(読むことと書くことには覚悟
と責任が要請される。)また,女性作家が男性の書き手・語り手を主人公に据
え,男性作家が女性の書き手・語り手を主人公にするという異性装マスカレー
ドも,興味深い。
アゴタ・クリストフの三巻本は一貫して登場人物の家族名についてはカフカ
のヨーゼフ・Kのようにイニシャルのみ残し,地名,国名についてもイニシャ
ルあるいは不特定で押し通し,第二巻・第三巻では,『百年の孤独』(1967)に
おけるブエンディーア一族の人名のたらい回しにも似て,呼び名を反復し倹約
する。西暦年はついに一度も言及されない。固有性,個人性を連想させかねな
いものは,周到に排除されている。物語の普遍性を醸成するためか,政治的寓
意性をしのばせるためか,冷戦下にあって官憲の監視や検閲をはぐらかすため
か,いずれとも確言できないが,アイデンティティの自明性に対する不信があ
るのは確かだ。私たちの身元証明は,帰属する国家の権威のもと,しかるべき
法にのっとって登録され保管されている公文書,そこに記載されている人名や
生年月日や住所によって限定されている。
ゴーメンガーストとは何か。この文字とこの音の羅列に初めて遭遇するとき,
誰でも違和感は覚えずにはおれまい。マーヴィン・ピーク(191168)が残し
た大作は,著者の死によって第三部までしか完成しなかったので,『ゴーメン
ガースト』三部作あるいは『タイタス』書と呼ばれている(9)。ジョン・ウォト
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ニーによれば,もともとタイタス一代記として構想されたという(10)。第一部
『タイタス・グローン』(1946)はタイタスの誕生から第 76代ゴーメンガース
ト当主である父セパルクレイヴのの失踪後にタイタスが第 77代として戴冠
するまでの 1年余を扱い,第二部『ゴーメンガースト』(1950)は主にタイタ
スの少年時代とゴーメンガーストの存亡危機を扱っている。1950年代にピー
クはいわゆるパーキンソン病,早発性老化,震顫麻痺の症状に見舞われ長きに
わたる闘病生活を強いられた(11)。第三部『タイタス・アローン』(1959)は先
行する二作品の頁数に比べると,ほぼ半分の量である。第三部は 122章から成っ
ているが,章によって頁数のばらつきが目立ち,長くて数頁,最も短い章は 7
行しかないので,「章」と呼ぶのは憚られる。むしろ,「断章」と呼ぶべきだろ
う。(アンドルー・マーヴェルの詩に肖れば,「帝国よりも広く緩やか」に長命
を許されていたら先行二作品に近い質量になっていたかもしれない。)今日私
たちが読むことができるのは生前に出版された第三部までと,死後解読され出
版された第四部断片(3頁ほど)のみである。『ゴーメンガースト』の最後で,
タイタスが母ガートルードに別れの挨拶をして城を出るとき,彼の耳に母の声
が聞こえてくる。
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747)
『タイタス・アローン』では,時間も空間も数値化されない放浪の果て,タイ
タスは未知なる都市にりつく。(その都市の名は最後まで明かされないし,
都市の名前をタイタスは問いかけもしない。要は,それがゴーメンガーストと
はまるで違う,ということなのだ。)彼がこれまで根拠なく思い込んでいたこ
と,すなわちゴーメンガーストの外の世界が存在することが証明されたのであ
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るが,この「素晴らしき新世界」は,ゴーメンガーストが存在することを知ら
ない,そんな奇怪な固有名など耳にしたこともない。
タイタスは未知なる都市において,「住所不定,器物損壊,不法侵入」の廉
で捕まり拘禁されてから法廷に召喚される。担当判事とのやり取りのなかでタ
イタスは,ゴーメンガーストは手や足と同様,自明すぎて説明できない,と言
い募る。すでに判事は精神病院ないし更生施設の責任者である友人に次のよう
なメモを書いていた。
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このメモには照会番号がついているので,公文書と見なされうる。カスパー・
ハウザーか,あるいは『素晴らしき新世界』(1932)の野生児への待遇が容易
に連想される。確かに,身元を証明する公文書も所持せず放浪し,自らを由緒
ただしき第 77代グローン伯,ゴーメンガースト城主であると名乗る若者を,
アトラスにも記されていないような奇怪な固有名を聞いたこともない人びとが,
精神異常,誇大妄想癖,虚言癖と疑うのも当然である。ゴーメンガーストの他
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にも世界は存在するとタイタスは実感できるが,ゴーメンガーストは存在しな
いと確言する「素晴らしき新世界」の人びとの存在は,タイタスを深刻なアイ
デンティティの危機に陥らせる。つまり,ゴーメンガーストの存在が否定され
れば,彼の過去・来歴(読者にとっては『タイタス・グローン』と『ゴーメン
ガースト』両テクスト)も否定されるし,彼がゴーメンガーストを後にした根
拠も消え失せる。ゴーメンガーストは少年時代の夢の痕跡にすぎないのか,孤
立無援の子どもが非情な現実から逃避するためにでっちあげた架空のお城なの
か。タイタスはどうすればゴーメンガーストの実在を証明できるのか。彼は一
度捨てたゴーメンガーストを,今度は探しに行かねばならない。
『タイタス・アローン』においてタイタスは未知なる地での放浪を熱に浮か
されたように何度も繰り返し,その度に保護されたり拘束されたりする。第
69断章でタイタスは重篤な熱病ゆえに倒れるが,科学者の娘チータによって
救助され,手厚い看護をうける。熱病に冒され譫妄状態にあるタイタスの断片
的譫言の数々を継ぎ接ぎして,聴き手チータはストーリーを織り上げる。
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870)
チータが,自分の世界が実在するようにゴーメンガーストも実在すると信じた
かどうかはともかく,タイタスがゴーメンガーストという名の場所とそこに生
きる人びとに取り憑かれていることは,疑いようがない。そして彼女にとって
タイタスの譫言断片から再構成されたゴーメンガースト世界は,彼女が現に生
きる不確かな世界ではとうてい叶いそうもない魅惑的なファンタジーである。
この類稀なゴシック・ファンタジーを具現するタイタスにチータが惹かれるの
も無理はない。したがって,彼女の愛を拒むタイタスに対して復讐を誓ったチー
タは,彼女が再構成したゴーメンガースト物語を悪意と憎悪をもってグロテス
クに歪曲し,タイタス 10歳の祝典仮面劇のパロディとなるスペクタクルの台
本を書き,大がかりに準備し,彼の面前で派手に上演する。この出来事は彼に
屈辱を与えるという所期の目的を達成するが,タイタスを発狂させるには至ら
ず,彼がゴーメンガーストの実在を確かめる旅に出る決意をさらに強固にする。
ゴーメンガーストとは何か。『タイタス・グローン』の冒頭では,それは次
のように立ち現れる。
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『タイタス・グローン』および『ゴーメンガースト』二作を通じてゴーメンガー
スト城と森と山,周辺地域は過剰なまでに緻密に描出される。ひとによっては,
エル・エスコリアルを,また,遺跡として発掘される以前住民たちが生活して
いただろう頃のペトラ,マチュピチュ,ティカール,アンコール・ワット等を
イメージするかもしれない(12)。辛亥革命の年に盧山のクリンに生まれ少年時
代を天津で過ごしたマーヴィン・ピークが,ゴーメンガーストを構築する際に,
紫禁城や宣統帝溥儀を一部モデルとしたという推測もできる(13)。しかし,絶
えざる増築と絶えざる腐食,隠し部屋や秘密の通路など,城の住人にとってさ
え迷宮であるゴーメンガースト建築群は,ピラネージの版画集『幻想の牢獄』
を連想させる(14)。ただし,ゴーメンガーストは後世に発掘されるのを待つ廃
墟ではなく,奇怪な建造物群によって生み出された人びとが生息する有機的生
命体として描かれている。
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ゴーメンガーストの方へ
事後記憶と小説
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622)
ゴーメンガーストは巨大な岩塊・鉄塊をいわば筋肉・骨格とし,そこに様々な
動植物が棲息・共生・寄生している。(ゴーメンガーストの実在・存続こそが
住民の実在・存続の条件である。)ゴーメンガーストの呼吸によって生じた隙
間で傀儡たちが蠢くというこのイメージは,まさに「グランギニョル」上演に
うってつけであろう。ゴーメンガースト城の居住者たちは,城の「外」の生を
渇望する伯爵家の跡取りタイタスとその姉フューシャを例外として,ディケン
ズの長編小説の脇役たちにも劣らぬ個性的「変人」ばかりであり,奇矯な外見
や性格,特異な身体技法や個人言語を付与されている(15)。居住者たちを分か
ちがたく結びつけているのは,ゴーメンガースト以外に世界は存在しないとい
う信条である。(「異端」を容赦しない「経典の民」のパロディとも読める。)
この信条は城の外壁に棲息する職人集落にも共有されているが,いかなる根拠
に基づくのか。
『ゴーメンガースト』のクライマックスで城およびその周辺が未曽有の大洪
水に見舞われたとき,ゴーメンガーストは文字通り,絶海の孤島と化す。いつ
もは外壁にへばりつくようにして祖先と変わらぬ貧しい暮らしの中,城への貢
物である木彫り彫刻に黙々と従事する誇り高い職工集団もまた,やむなく城内
35
ゴーメンガーストの方へ
事後記憶と小説
記憶の変移と J
・G・バラードの辺境地
に避難する。(彼らには彼らなりの伝統への誇りがあり,城からの干渉を好ま
ないのである。したがって,階級闘争の素地はない。)ゴーメンガーストは国
境を持たない,他国との交渉もない,外国なり他民族なりの侵略に怯えること
もない,これまで続いてきたことがこれからもずっと続いていくという文化・
伝統に支えられている閉鎖時空であり,変化・変革はタブーである。伯爵家の
起源や血統の正統性すら領民は気にかけない。妄信とも無関心とも評されかね
ないこの心性は,難解にして複雑きわまりない儀典体系への忠誠と万世一系の
グローン家の血統によるものである。「不磨の大典」に沿って儀式が滞りなく
遂行されることが,ゴーメンガーストの生存・延命を可能ならしめる。日々の
儀式は由緒正しきグローン一族の政治的役割であるが,とりわけ,ゴーメンガー
スト城主に重くのしかかる。名目上の支配者は日常生活を事細かな儀式によっ
て管理されているが,この役割とそれに伴う責務の遂行以外には,公務から離
れて自分の趣味に没頭できる。第 76代当主は,自分専用の図書館に閉じこも
り,「不磨の大典」とは無関係な書物に囲まれる幸せを噛みしめる。夫人ガー
トルードもまた,跡取り息子の出産という妃としての義務・役割を果たすや,
育児のできる若い乳母をさがすように,また,次に息子に会うのは 6歳になっ
てから,と娘の乳母だった老女スラッグに命じてから,さっさと自室に引きこ
もる。伝統的に決められた役割を演じ,社会的立場に応じた義務を遂行してい
る限りは,誰にも文句を言われる筋合いではない。対人関係においても出来事
についても,儀典事項に抵触しない限り無関心でいられるし,いわゆるコミュ
ニケーション能力など磨く必要もない。タイタスが失踪した第 76代城主の跡
を継ぎ,「不磨の大典」に記載されている類似事例に倣い正式に第 77代として
戴冠の儀式を受けるとき,彼はまだ 2歳にも満たない幼子であったが,物心が
つくにつれ,自分が城主としての役割・義務にすでに絡めとられている傀儡に
すぎないことに耐えられなくなり,個人の自由を求めてついにはゴーメンガー
ストの外に出る,という城主としては背信行為に及ぶのである。つまり,記憶
36
ゴーメンガーストの方へ
事後記憶と小説
記憶の変移と J
・G・バラードの辺境地
にれないほど長期にわたって守られてきた法と伝統への反逆である。
すべては予め「不磨の大典」に記録されており,万世一系の血統は私利私欲
に走れず伝統と法を忠実に執行する傀儡でしかない,ある意味で完璧な「法治
国家」モデルであるゴーメンガーストにおいて,太古より伝わり膨大な量に集
積された複雑怪奇な公文書・法体系を記憶し使いこなせる大儀典長こそが,実
は,最高の権力者なのであり,法典に記された一字一句への固執が,ゴーメン
ガーストへの忠誠の証しである。
『タイタス・グローン』および『ゴーメンガー
スト』には,伯爵一族がこなさなければならない儀式がたびたび出てくるが,
その特徴はグロテスクと非効率,修辞と文彩,言葉と事物との一致である。た
とえば,生後間もないタイタスが受ける洗礼式は,まず,大儀典長サウアーダ
ストの宣言で始まる。
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ついで,赤ん坊は文字通り,しかるべき儀典の頁の間に挟まれて窒息死しそう
になる。書字や書物が圧力・暴力として後嗣の身体に行使される。
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37
ゴーメンガーストの方へ
事後記憶と小説
記憶の変移と J
・G・バラードの辺境地
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儀式はしばしば想定外の出来事に見舞われるが,大事なことは,「不磨の大典」
に書かれたことを厳粛に執行する,その堅固な意志,書字への忠誠心である。
膨大なテクストを記憶し読解する能力は大儀典長にのみ必要とされるので,他
の人びとは他力本願,自らの記憶力を鍛えようともせず,事象に無関心となる
傾向がある。上昇志向のスティアパイクはこの最高の祭祀職を得ようとただひ
とりで権謀術策に邁進する。彼は,サウアーダストの焼死とその後継者バーケ
ンティンの死を実行し,大厨房の下働きから大儀典長にまで上りつめ,第
77代城主の姉を言葉巧みに誘惑し,「不磨の大典」の一部を密かに改竄してタ
イタスを事故死に見せかけて殺してからフューシャと結婚しようと陰謀を企む。
つまり,彼は変化・変革をタブー視するゴーメンガーストの法と伝統の裏をか
き職権を濫用する,目的達成のためなら手段を選ばぬ反逆者である。
『タイタス・グローン』および『ゴーメンガースト』二作には伝統と法に割
り振られた役柄に満足できない登場人物は何人かいるが,その中でもスティア
パイクは際立つ。フューシャの気を惹くために「人間は平等である」とゴーメ
ンガースト住人にふさわしからぬ発言をするが,彼にとって発話は他人を値踏
みし利用価値を判断する手段である。二作品の登場人物たちのなかで,彼は群
を抜いて身体能力と狡猾さとコミュニケーション能力に恵まれており,城内の
情報収集に余念ない。ゆえにトリックスターの彼がプロットを次々と繰り出す
のである。彼は,第 76代城主セパルクレイヴの双子姉妹コーラとクラリスが
妃ガートルードを憎んでいることを察知し,身体障害があり知能も低い双子姉
妹の心理を巧みに操り取り入り,セパルクレイヴがこよなく愛する専用図書館
の放火と炎上へと誘導し,サウアーダストを焼死させ,憂鬱気質の城主の狂気
を誘発する。また,双子姉妹の存在に嫌気がさしたときには言葉巧みにして
38
ゴーメンガーストの方へ
事後記憶と小説
記憶の変移と J
・G・バラードの辺境地
監禁し放置し餓死させる(16)。
マーヴィン・ピークが『タイタス』書の着想を得て書き始めたのは第二次世
界大戦勃発後である(17)。兵役任務の隙間を縫うように書き溜められ書き継が
れていった『タイタス・グローン』は,1930年代を画家・イラストレーター・
詩人として生きてきた彼にとって耐えがたい現実からの逃避という側面もあっ
た。『タイタス・グローン』と『ゴーメンガースト』の主題は,スティアパイ
クの陰謀とその破綻,タイタスの自由への憧れである。『ゴーメンガースト』
のクライマックスで第 77代城主が反逆者を死闘の果てに殺害し,城が存亡の
危機から脱するとき,一時的にタイタスは救国の英雄扱いとなるが,そのこと
は彼に「家出」を翻意させるに十分な理由にはならない。作者の現実逃避が主
人公の現実逃避にスライドする。ところで両作品ともに,身の程知らずの僭称
者から政体を守る,という主要プロットとはあまり密接に絡まっていない挿話
が無視しがたい質量で幾つも書き込まれている。たとえば,
『タイタス・グロー
ン』におけるフレイとスウェルターの確執と死闘,ケダをめぐる二人の若き木
彫り職人の相討ちと彼女の私生児出産,『ゴーメンガースト』におけるベルグ
ローヴとアーマ・プルーンスコラーの結婚,学校生徒たちの悪ふざけゲーム,
教授連の授業風景や彼ら同士の反目などであり,画家・イラストレーター・詩
人としてのキャリアが遺憾なく発揮されている(18)。ゴーメンガーストはグロ
テスクで奇怪な登場人物や出来事を許容してくれる有機的生命体,作者にとっ
ていくらでも想像力の翼を広げられ悪夢めいた迷宮を果てしなく彷徨える特権
的場である。それは,国境を争い大量破壊兵器が投入され侵略と強奪と殺戮が
横行する世界大戦の現実とはかけ離れている。
タイタスがゴーメンガーストから離脱し旅路の果てにりつく未知の都市は,
自動車が走行しヘリコプターが飛び,監視装置が作動しアンドロイドかロボッ
トのような警邏が不審者を尾行し,科学テクノロジーによる破壊光線兵器を工
場施設で研究・生産し住民に対して使用し,「川下」地帯には犯罪者や難民が
39
ゴーメンガーストの方へ
事後記憶と小説
記憶の変移と J
・G・バラードの辺境地
滞留する世界である。(「ホロコースト」という言葉が臨終のマズルハッチの口
から洩れる。)それは,資本主義や産業革命や消費社会と一切無縁なゴーメン
ガーストとは全く別物であり,同時代読者の世界に近い。『タイタス・アロー
ン』には,1945年,ヨーロッパでの第二次世界大戦終結間もなく,ピークが
戦争画家として,解放されたばかりのベルゼン強制収容所を訪れたときの経験
が色濃く反映されているという(19)。タイタスはこの未知の都市に何らコミッ
トできず,ゴーメンガーストの実在を確認する衝動に駆られる。つまり,義務
を伴わぬ自由を求める現実逃避は,第二部においてはゴーメンガーストからの
亡命であったが,第三部においては亡命先からの逃避,故郷への帰還である。
『タイタス・アローン』の最終頁で,旅路の果てに,タイタスはようやく見覚
えのある風景に遭遇し,ゴーメンガーストの実在と自分の正気を確信するが,
巨礫の向こうに聳える塔群を見しようとはせず,踵を返して,また旅に出る
ことにする(20)。ひとつの不条理世界を後にしてりついた別の不条理世界,
そこからも離脱し,もとの不条理世界の実在を確かめたと確信したタイタスが,
これから歩む先にある世界もまた不条理であろうことは容易に想像できる。
世界史上には千有余年続いたビザンチン帝国もあれば 15年ともたず崩壊し
た満洲帝国もあった。かつて栄華を極めた帝国や王国や都市国家とて,廃墟に
なって発掘されたり世界遺産に登録され,手なずけられる。世界史上にはシチ
リアやリトアニアのように侵略者が次々と交代する土地もある。世界地図には
何度でも国境線が引き直され国名や地名も変更される。ゴーメンガーストはそ
んな現実の地政学の外に置かれる。もっとも,『タイタス・アローン』で叙述
された匿名都市が第二次世界大戦後のヨーロッパの無秩序と混乱を示唆してい
るように,ゴーメンガーストは城外の動向に目を向けることなく自足する頑迷
固陋な為政者や不透明で非効率的な官僚組織の政治的諷刺として読めないわけ
ではない(21)。それでも,ゴーメンガーストに棲息する人びとは死者も含めて,
グローバル市場経済や高度情報管理社会から免れている。役割・責務が限定的
40
ゴーメンガーストの方へ
事後記憶と小説
記憶の変移と J
・G・バラードの辺境地
に画され外への離脱を夢見る程度の自由が許される相対的には安定した自閉的
時空間,それは現実からの逃避であるとともに現実が失った記憶痕跡でもある。
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p.
345.ちなみに,この小説がカヴァーする歴史的時間は 1913年から 2008年ま
でである。ポストメモリーは,Mar
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,2012)に由来する概念であるが,「事後」という訳語は,フロイ
トの「事後性」(Nacht
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( 2) Edwar
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age,2000),p.
3.
サイードは同書の謝辞において,1994年,白血病化学療法からの復調期に回顧
録の執筆を始めたと記している。序文には次のような一節がある。・
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x)酷似した文言を,『タイタス・
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アローン』のエンディングに見出せる。・
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943)少年の人間的成長をゴーメンガーストへの帰還
を断念する根拠とする主人公タイタスそして著者ピークを,C・N・マンラヴは
批判している。 C.N.Manl
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,1975),pp.
24956.
( 3) クリシュトーフ・アーゴタはハンガリー生まれでスイスに移住し,LeGr
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(1986),LaPr
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(1988),LeTr
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(1991)をフランス
語で書いた。 本稿はフランス語読みのアゴタ・クリストフを採り, 英訳版
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(London:Mi
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所を括弧内に頁数で示す。 TheNot
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(New Yor
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,1976
),pp.
34.第 2版において,著者は
序文が置かれるべきところに跋文を置き,東西冷戦時代において『異彩の鳥』出
版後,国内外のポーランド人同胞からの批判・偏見にさらされた事情を語ってい
41
ゴーメンガーストの方へ
事後記憶と小説
記憶の変移と J
・G・バラードの辺境地
る。
( 5) バンタム版『異彩の鳥』(1978)には後書が置かれるべきところに,著者を紹
介する文章が 5頁近く記載されているが,第二次世界大戦時の著者の体験につい
ては,『異彩の鳥』の少年主人公の体験をほぼなぞっている。SeeJ
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( 6) I
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age,2002)に依拠し,引用箇所を括
弧内に頁数で示す。
( 7) SeePet
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an,2006),pp.
12943.
( 8) SeeMar
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ook,2011)に依拠し,引用箇所を括
弧内に頁数で示す。他にも,ペンギン版,バランタイン版,オーヴァールック版
ペーパーバック TheGor
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ook,1995)を参照した。
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3536.ウィニントンは,清朝のみならず
孔子の子孫にもグローン一族とのパラレルを見ている。
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ナール『ピラネージの黒い脳髄』,多田智満子訳(白水社,1985)。
(15) ディケンズ小説の登場人物たちとの類似には誰でも気づくであろう。 See
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99101.ビザールな登場人物と自閉的・迷宮
的建築構造という点で私が連想するのは,ラース・フォン・トリアーの映画『キ
42
ゴーメンガーストの方へ
事後記憶と小説
記憶の変移と J
・G・バラードの辺境地
ングダム』
(1994)である。SeeSt
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(London:
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(16) ゴーメンガースト城において飽かず陰謀を企みかつ迷宮めいた城内を文字通り
跳梁跋扈するスティアパイクは,非常に魅力的な登場人物である。彼の権力志向
と破壊衝動が 1940年代のピークの現実逃避を具現していると言えよう。残され
た数々のスケッチやペンギン版『ゴーメンガースト』表紙イラストからもそれは
窺える。ピークが 1940年代半ばに書いたある手紙に ・
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たことからも,このディケンズ的名前に固執していたようである。Wi
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(London:Pet
erOwen,2006).
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