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ィスラエルへの旅 (ー 9 6 0)

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ィスラエルへの旅 (ー 9 6 0)
イ ス ラエ ル ヘ の 旅
§1
(■ 960≧
_
事 のお こり
Amos de‐Shalitは イス ラエ ル の生れ、 高等教育 はス イ スで 受 けた。 PhDは
Zurichの ETHよ
り。 そ こでの 同級 生 に Val Telegdiが居た。
両者共 よ くでき、夫 々核
理論 と核 実験 (のちに素粒 子実験)の 分野で大活躍 をする ことにな る。
所で、Ⅵki WeisskOpfは
Manhattan Prttectの
終了した戦後、MITに居つく。
やがて、ⅥkiはⅥsiting Prolと
一年ゆく。 Vikiは Wienの都心に生まれ
してParisに
たユダヤ系の男。 子もりはフランスのおばさんだったので、子供のフランス語は堪能。
しか し大 人 の (インテ リの)フ ラ ンス 語 は しゃべれ なかった。
な フ ラ ンス 語 を修 得す る好機 とな った。
戦後 のパ リ滞在はま とも
パ リでの物理の講義 は 勿論 フ ランス語。
時々
パ リの学 生や 同僚か らフランス語 の訂 正 を受 けた とか。
CERNの
TH DIVで
Yが Vikiに あった時 (1957,1958,一‐)、Ⅵkiは Yに 云
「ぼ くはウ ィー ン生れ、 ア メ リカ に大分居 たが、今 尚、英 ・佛語 には手 を焼 く。
本 をよむ に も ドイッ語 に比 べ 、英語 の ものは 2倍 、佛 語 の ものは 3倍 か ゝる。
」
った :
と。 Yに
Yは 内心考 えた : Yの 日 ・英 ・
独 … ・の本 を読むス ピー ドの比は どうかな … ・。
はかねて英 ・佛語 ペ ラペ ラの Vikiにひが み を十分 に感 じて 居た のだか ら (Viki
に とって独 語 は mOther tOngueである)。
Vikiは戦後 のパ リ滞在 中 に 昔 の師 匠 の Pauliをスイ ス、Zurichの ETHに 訪れ
る。
そ こで 出色 の大学院大学生 AmOsと
(PANICの 項
Valに あふ。
この 件 につ いては既 に述 べ た
参照)。
Amosは Zurichで医学専攻 のユ ダヤ系女子 学生 に会ふ 。 それ が Mrs.de‐
Shalit
とな る。
Amos夫 妻 は Weitzmann lnst.のあるRehOvOtに住む 。 夫 は Weitzmann lnst.
で理 論物 理 学者 として働 き、妻 は医者 と して、往診 も して いた。
Amosは 若 くして核理論で芽 を出 し、1958 subba calで CERN Th.D
にきた
とき には、母 国イス ラエル では Weitzmann lnstituteの
所長 だ った 。 nuclear shell model
の papers(th.)で
有名な男で もあった。
CERN Th Div
CERNの
で Amosは
sitOr、
しか もす ぐに CERNの
Yの とな りに officeをも らって ゐた。 Vikiも
DG予 定者 となる。
Ⅵ kiと Amosは 共 に核屋
だか ら、 し ゅっち ゅう (CERN内
で )行 き来 して 物理、 etc,の議論 を して居た。
りの Amosの
o皿ceに NP(Th.又
は Exp)の お客や Ⅵkiが きて 、話 が面 白そ うにな る と、
Yは Amosの
officeに
乗 りこんで 、話 に加 は る。
か う して Amosと Yは 大 の な かよ しにな った。
とな
す ぐにお互 に dinnerに呼 び 、
呼 ばれ るよ うにな る. 4人
partyの 方が多か った。
の ときもあるが、 しば しば他 の couplesもまじえての dinner
時 には Viki夫妻 も加 はる。
こんななかか ら、PANICの 第 一 回が企画 されて行 った ことは、既 にのべ た。
Amosは 帰 国 してのち、Yの 一 家 をイ ス ラエルヘ 招待 して くれた。 Yyと
一才
を こしたばか りの幸 夫 の 3人 の往復旅費 (air fare、
ェコ ノミー )と 滞在費 つきで ある。
これ がわれわれ のイス ラエ ル 行 きの背景である。 時期は Pass‐
overの 直前 の一 週間――
Passヽ
Overに は世界 中 の 」ewsが 故国 に もどって 祝 い たが って、イス ラエ ルのホテル、宿泊
施設は満杯。 だか らそ の 時期 は (ユダヤ教徒 でな い)わ れわれ はさけて くれ とい う訳だ。
§2
イス ラエル ヘ
さ うした 訳で、G e n ёv e か ら P a s s _ O v e r の直前 一週間 をイ ス ラエ ル
s i t に出か
け、帰 りはアテネ に数 日滞 在 して G e n ёv e に もどる といふスケジュー ル を立てた。
ギ リシャ行 きを加 えた のは、C E R N の
T h . D i v に 来て居たギ リシ ャの核物理学
者カネ ロポ ロスが母 国 へ 帰 リギ リシャ A E C と デモ ク リ トス研究所 の ボス にな ってゐて、ア
テネ にぜひ寄 れ とさそ って くれたか らで ある。
ラホボ着
Tel Avivの
空港 には、
lVeizⅢ
a n n l n s t .人
のがむかへ にきて いて、
Weizmann lnst.
の ( 外人) 宿 舎 まで 送 りと ゞけて くれた。
ラホボ はワイ ッマ ン研 究所 の ある町で ある。
Inst.の
食堂 の場 所 を教 へ て も らいひ、又 ミル クは朝 しか 買 へ な いか ら、子供用
にミル クは朝 の うちに沢 山 買 ってお くよ うに との ことだ。 イ ス ラエ ル のき ま りによれ ば
親 と子 を二 しょに食 べ て は い けな い。 親子丼 な どは とんで もな い といふ 訳 だ。 中食や
夕食 には牛 肉 もで る。
そ の とき子 牛 のた めの ミル ク、 ミル ク製 品は禁止で ある。
従っ
て デザ ー トもク リー ムや ミル クをつ かはな い ものが 出る。
甘 味 はた とへ ばハチ ミツだ。
コー ヒー に ミル ク とか ク リー ムを入れ る こと もで きな い。
豚 と豚 肉 の製品 ( ハム 、 ベー
コ ン、 ソー セ ー ジ等) も 禁 止。
勿論 こうした厳 密な きま りは、 誰で も入 って これ る[ 従って ユ ダヤ の規則 に忠実
な ( 小うるさ い) ユ ダヤ教 徒 も入 って これ る] レス トランや大学 ・研 究所 の c a f e t e r i a ぞ
なで
は、 文句が つ け られぬ よ う、 ユ ダヤの規則 に則 った 食事 しか出さな いの だ。
だか ら朝食 には ミル ク コー ヒー 、 テ ィー 、 卵 や チ ー ズ、魚 ( ヘ リング、サ ー デ
ィ ン) 、 フル ー ッはあって も、ハムやベ ー コ ンな ど豚 の ものは一 切な い。
友 人 の 家 によ ばれ 、 うるさい ユ ダヤ信者 が い な けれ ば、 多 くの ( 欧米 になれ親
しんだ) イ ス ラエ ル の物理 学者 は 欧米なみ に 自由にふ るまふ。
しか し彼等 の 家 の 台所 には ナ ベ 、カマ、皿 、ナイ フ、 フ ォー クを 2 セ ッ トもっ
一つ はュ ダヤのきま りにあったもののため ( だか ら豚なぞはけっしてふれさせ
な い) で 、ュダヤの信者がきたとき使ふ のである。 欧米流 にハム等 自由にあつかふには
てゐる。
もう一方 のセ ッ トを用ゐる。
こうしてジレンマを上手にさけるのである。
かういふ訳で子供 の食事は朝買いだめしたものでまか なふ。
勿論欧米 に開化
したイス ラエルの友人によばれた夕食は、全 く欧米なみで、ユ ダヤ のきま りとは無縁であ
った、
といふ よ りそ うした 「自由な ユ ダヤ人」 しか非 ユ ダヤ の友人 にはな りに
くいのである。 僕の ワイッマ ンにつとめる友人 (物理学者)は 皆開化 した人たちだった。
だか ら彼等 に夕食に招待 された ときは、子供のミール も含 め、全 く普通である 一―一―
欧米なみ。
ミールについての蛇足
い。
ヴェジテ リアンでミルクや ミルク製品 (バター、チー ズ)を たべ る者は少 くな
イ ン ドのヴェジテリアンで卵を食べ る人 (物理屋)に 出食はし (日本への sitorだ
った)、いささか驚 いたことが ある。
アラブの人たちは、ユ ダヤと同じく豚をたべない。
更にアラブ人はコー ラン
の定めに則 って殺 した羊、山羊、ラクダ、_¨しかたべな い。
国際会議な どでモス レムの
ー
人達 をパ ティゃデ ィナー に呼ぶ時 にはホス ト側 に心の準備 があった方がよい。 ヴェジ
テ リアン対策 も必要で会議前に食事 についてのアンケー トをとってお くのがよい。
Chinaに は唐 の昔か ら (特に元朝以降)モ ス レム (清員教徒)が 多 く住みつき、
一寸 した町や村でも清員教徒 のための肉屋や レス トランがある。 Chinaの 大学 の国内及
び外国の学生用宿舎には、 自炊用の台所 (ナベ、カマ、サ ラ、ホウチ ョウ、……つき)が あ
るが、必ず Chinese用とモス レム用の 2つ があって、国内の清員教徒 のみな らず中近東か
らのモス レム系留学生が困 らないよ うにしてある。
ワイ ツ マ ン研 究所 Weizmann lnst.Of Science
ワイ ツ マ ン研 究所 の 周辺 は樹木や 草花 に みちみ ちてゐた。
しか しよ くみ る と
定時的 に散水 で きるよ うな 仕掛 (シカ ケ)が 整 ってゐて、時折水 を草花 に与 へ てゐ る。
か らこそ
だ
といふ よ りは水 を時 々 与 へ るよ うに して あるか ら、草や 木が研 究所
∬住居 の周辺が緑 と花 にあふれ て ゐた ので ある。
や 周辺 の g u e s t h o u s e , s t a の
イ ス ラエ
ル は乾 いた沙 漠 の多 い土地 である。
研 究所 の 中 には 欧米 の大 学 。研 究所 な ら普通 に み られ るよ うな偉大 な学者 の 肖
像や写真 は 一 つ もな い 。 ユ ダャ の立 法 によれ ば形 あ る もの をき ざんで崇 拝 ( 尊敬 ) の 対
象 に して はな らな いか らだ。 E i n s t e i n や B o h r の 胸像等 も寄与 されて所有 してゐ るが 、一
般見学者 の 目につ かな い地 下室 の某所 に しまひ こまれて ゐ る。
ワイ ツマ ンは ノー ベ ル賞 を も らった chemist。 また Israelの初代大統領 。 彼
の名 を冠 したのが W e i z Ⅲa n n l n s t . なのだ 。
物理 ・化学、 …. と色 々やってゐて 日本 の理
研 みたいな ものだ。
ワイツマ ンのゼ ミナールでは毎 日一 回話 した と思ふ。
僕 の仕事 のほか に、T h .
D i v で どんな話題 ( ソ‐r e a c t i O n やS U 3 も 含 めた とお もふ) が あるか とか、C E R N や
の実験 につ いて も討論 した。
い ろな試 み が あっ た 。
当時 Q E D の
BNL
p o s s i b l e b r e a k d o W nfも
ashionableで
、 いろ
そ ん な 話 を して ゐ て 、 結 極 ど うな ん だ と聞 か れ て Many
calculations but no thOughtと
答 へ た。
この一 句 、イス ラエ ルの友人にあふたび、何 10
年 にもわた って、お 前 の この一 句は今 もお ぼえてゐ る とい はれた。
ワイ ツマ ンで会 った人 々 は
Amos de一 Shali(ヮ イッマ ン所長、核 理)
Lipkin(核 理 、SU3後 素粒子論 に変 る)
Talmi(核
理)
」.Eisenberg(emulsion、宇宙線でで きた cascade hyperonの candidateを み
つ けた。のち H.E.exp)
G.Yekutieli(emulsiOnの宇宙線屋)
etcで ある。
上 に記 した人は夕食 に我 々3人 をよんで くれた。
小 さい子 の イ タヅ ラにず
い分迷惑 をか けた こと もある。
ANLか
ら UKに
サバテ ィカルできて ゐた シェー フ ァー も同 じ頃 ワイ ツマ ンヘ
visitしてゐた。 Mossbaner effectを つ か って Lab exp.でス ペ ク トル線 の gravitational
red shi乱
を明示 した 一― 一 腕 のよい実験 系で あ る。
ワイ ツマ ンで 働 く研 究者達 はす べ て 欧米 で教 育 を うけ学位 を とった もの ばか り、
ワイ ツマ ン (大学 院が あ る)や イス ラエル の あち こちで は大学 づ く りに大童。
イ ス ラエ
ル に生れ 育 ち、教 育 されて 学位 をとるのがで るのは、Harariの 世代 か らで ある。
Amosや
何 人か の家 には ピア ノが あ り、 又美 術本や大冊 が本 棚 に並 んでゐた。
当時 流行 した HiFiの レコー ド版 も沢山あった。 そ の 中 で も Yの 目 につ いたのはバ イ ブル
に関連 した考古学 の成果 を書 いた 2冊 の大 型本 (各 25ド ル)で あった。 一つ は写 員集 、
一 つ は古文 書 (エジプ ト、ス メール、バ ビロニ ア、ア ッ シ リア、ヒッタイ ト、_.ビ ブ ロス、
_)の
コ レクシ ョン最 で ある。 11linoisに居た とき Univ of Chicago pressのこの大 冊 に
手が出なか った。
Amosに
それ が 、 ヮイ ッマ ンで 我 々 を inviteして くれた 家 の どこに もあった。
きいた ら、イ ス ラ エ ルでは旧約 を小学校 で 習ふ ので、 (科学者 な ら)誰 で もそ こに
か いて ある ことの考古 学 的 “
証明 "に 関心 が あるんだ 、 との こと。
さ う云 へ ば CERNの
Th.Divの Headを しば らくつ とめた M Fierzは 考古 学 、
人類学 につ いて 何 で も知 って ゐた (尤も、」auchに よ る と Fierzは知 ったかぶ りの名 人だか
ら文字 通 りとるな と僕 に こっそ りい って くれ たが )。 Fierzは
第 一 次大戦後 の Wienで
」ensen(人類学者 )ら人文 系新進 の学者達 と親 交 が あ り、とびぬ けて学識 (万学 に通 ず)が あ
つた 人だ。
「
母が子 に云 ふ。 お前 のお じいさ
゛
ソ ドムの町の運命 を知 る者 な らす く答 られ る。
Amosは あとでナ ゾナ ゾを教 へ て くれ た。
ん は私 の夫 。
さて私は誰でせ う ?」
イス ラエ ル あれ これ
Shoppingの とき Amosが ヮイ フの車で助 けて くれ た。 Mrs.De― Shalitは医者
な ので、往診 中 は どこへ駐車 して も OKで ある。 それで Amosは 、平 気 で illegal parking
仕事 の能率は上 々 。
をす る。
医師 は便利 な ものだ とお もう。
勿論 poliCeにバ レた ら
大事だが。
イス ラエル に約 1週 間居 たが、そ の間に Amosの 車で エル サ レムやアスケ ロン
ヘ つ れて いって もらった。
ヽ新 エル サ レム (イス ラエ ル治下 )に あ
当時 エルサ レム 旧市 は ヨル ダ ン治下で、
るダヴ ィデ ホテル の屋上か ら旧市街 をなが めただけだ。
ったか らそ こへ い って死海文書 を見 学 した。
ヘ ブル ー 大学 はイスラエル側だ
当時イス ラエル か ら ヨル ダ ンヘ の入 国 は可
能 で、エルサ レムの旧市街 へ 入れたが 、一 旦 国境 を こえる とイ ス ラエル ヘ は戻れな い。 ベ
ツ レヘ ム も、名 あるエルサ レムの 旧跡 もす べ て アラブ治下な ので、 遠 くか ら眺めるだけ。
残念至極 。
アス ケ ロンヘ は (ヨ リコ 、ユ キオ をワイ ツマ ンにの こして )Amosと そ の長男 と
一 しょに Amosの
carで行 った。
サ ム ソ ンが 倒壊 した と云ふ Templeの あ とをみた。
イス ラエ ル の人 々
イ ス ラエルは人類 のるつ ば のよ うに思 へ た。
皆 ユ ダヤ教 を信 じユ ダヤ 人な の
で あるが 、 何 千年 も住 んで いる と どう して も現地人 とにて くる。
ア フ リカやイ ン ドか ら
きた ユ ダヤ 人 は夫 々 アフ リカやイ ン ドの 人 とそ っ くりの顔 を して ゐ る。
英独佛伊 西露 に
長 く住 んで ゐた といふ ユ ダヤ 人た ちは 夫 々の 国 の人 と何 か し ら似 か よ って ゐる。
シナ ゴ
ー グで何 百 年 と伝承 されて きた、お いの りや 歌 も、字 で書 けば 同 じな の によみ方 うたひ方
にお 国ぶ りが あ る。
や は り北米や 西欧 か らきた ユ ダヤ人 の方 が ア フ リカや 中近東 ・イ ン
ド亜 大陸か らきた人たちよ り豊か さ うだ った。
脚注
需
パ ピルスや 粘土 版 の有 名乃至重要文書 の英訳 が もう らして ある。
メシ ュの物語 、ハ ム ラビ法典 、死者 の書 e t c , e t c . …
ギルガ
6
イス ラエ ル でのエ クス カ ー シ ョンの一つ は、マ づ ―
ダヘの 旅 だ った。
イ ゼ ンベル グ、タル ミ等 と
sitOrである Yと
(Argonneか らの
ユダ
ア
sitOr)シュ リフ ァー ら
7∼8人 が 車 2台 に分乗 しての旅だ った。
ラホボか らベー ル シバ ヘ 南下 、死 海 の 南端 へ で て 、その 西岸 を北上 して、マサ
ダヘ ゆ く。
当時 ア ラブのテ ロの頻 発地 で あった のでベー ル シバの 先 でイ ス ラエル 軍 の検
問所 で 足 どめ を く らふ。
ユ ダが どうして もマサ ダヘ ゆきた■ぃと交 渉 し、 何が あ らうとも
我 々 の責任 で ゆ くといふ 一 サ ッ (イ ッサ ツ)を 入れて よ うょ ぅ死海 の方 へ ゆ けた。 そ の
ため死 海 は眺 めるだ け。 手 をつ け 1分 で も泳 ぎたか った の にその時 間 の余裕がな く、死
海 のほ と りを、た ゞひたす ら北上 す る。
海文書 の 出た所 と聞 く。
ひ どい道 だ。
対
L岸 (東
岸)の 坂 山の洞 穴が死
今な らケ ー ブル カ ー でマサ ダの 廃到薇 で ゆけるそ うだが、僕た
ちの い った ときは死海 の海岸で carか らお りて 急な坂道 をマ サ ダまで登 山 した。 登 って 4
年 も死 守 した といふ マ サダの廃墟 をみ る。 雨水 をた める貯 水 池が い くつ もほ られてゐる。
よ くぞ こん な所で何 年 も頑 張 った ものだ と思ふ。
死 海 の海 :岸にひ ろが る平地 には、上か
らだ とロー マ 軍 の兵営 、マサ ダを封 鎖 した長城 のあ とが よ く 見 えた。
イス ラエ ル語
新 生イ ス ラエルが 独立宣言後 、 まづや った ことャ
ま イスラ エ ル 語 の創成で ある。
イス ラエ ル の 文字 は右 か ら左 へ の横 が き、 子音 の みで、 文 ヤ
こは母音 を入れ な い。
これ は
くさび型 文字や エ ジプ トの古代 文学 と同様、文 に母音 を入れ な い方式 で ある。
話 し言葉 と して のイス ラエ ル語 は ロー マ にユ ダヤ が亡ぼ されて以 後 、次第 に失
はれ て いっ た。
そ れ に、 イス ラエ ル の 民が各地
近東 か らイ ン ドーーー
い方 にも差が でて くる。
― 一―
束 ・中 ・西欧、 ア フ リカ、 中
に離散 して 2000年 もたつ と、シナ ゴ ーグで 歌 う神 へ の賛歌 の うた
これは ラテ ン語 を母 語 とす るラテ ン 系の今 の コ トバがイ タ リヤ、
ス ペ イ ン、 フ ランス、ル ー マニ ア、 _で ちがふ こと、又 教 会 でうたふ ラテ ン語 のよ み方が
各地 で ちがふ ことと同様 で ある。
それ 故 、 新 生イ ス ラエ ル では歌 、パ レステ ィナ等近 隣
のモス レム の 発音等 を勘 案 し、言語 学者等 専 門家 と政 治家 よ りなる委 員会 で 「
新生イ ス ラ
エル 語」 を倉1成し、 これ を教 育 の場 とラジオで ひ ろめた ので ある。 これ は明治政 府 が維
新後 、標準 日本語 をつ く り出 した の にや や似て 居 よ う。
ラ ジオが 既 にあ った ことは、 日
本 の 場合 よ リイス ラエ ル の方が有利 だ った。
音楽 家た ち
さ う云 へ ば、 旧ソ連で は、バ レー 、 オペ ラ、音楽 に ついて は classicは一 流、 し
か しス ター リン後 の新作 はいただ けな い ものが 多 い。
一 流 の 音 楽 家や作 曲家 、 演奏 家 の 中 には東側 で も 西側で もユ ダヤ 系 の割 合 は高
い。
か う した ユ ダヤ系の音楽家た ちは、殆 どがキエ フ及 び そ の近辺 (数 100km以 内か)
の古 いユ ダヤ の シナ ゴー グの音楽担 当の家 系 に由来 してゐ る 。 メニ ュー ヒンもコー ガ ン、
…
と数 へ 上 げれ ばキ リがな い。 音楽 の才能が何 10世 代 に もわた って うけつがれてゐる
といふ 訳だ。
ユ ダヤ人 の音楽 の底 力 をみせ つ け られ る想 ひ。
ユ ダヤ系が めだつ のは科
学や大金持 (ロスチ ャイル ドや石 油王、等 々 )に 限 らな い。
Weizmann lnst.の 予算
この第 一 回 の イス ラエル 滞在 中 に、Weizmann lnst.のsenior staffら
は million
dollar deicitと
云ひあってゐた。
よ く聞 くと予算 年度が まだ半ばだ と云ふ の に、 (少くと
も物理では)も うすで に予 算 を 1×106ド ル も超越 してゐると云ふ ので ある。
へ られな い ことだ。
て ゐた といふ。
日本では考
何 で も研 究熱 心 の 余 り金 をつ か って ゐ る 中 に気が つ い た らか うなっ
どうして 解 決す るのか 興 味津 々で 聞 いて ゐ る 中 に、 どうや らイス ラエル
では どん どん研 究費 を使 ひ、誰 も予算 を余 り気 に しな い らしい。 予算 が足 りな ければ、
Inst.
の headが アメ リカ ヘ いって (ユダヤ系 の)金 持ち の 間 に帽子 をまはせ ば、不足分位 す ぐ集
る といふ ことで ある らしい。
Amosの
Weizmannの
事実 この million do1lar dettcitも
director、
「
募金」集 めで事 が収 った とか。
イス ラエル の 国 と民の富 よ りも、イス ラエ ル以外特 に北米や 欧州 にゐるユ ダヤ
系 の会社や事業主、金持 の 富 の方が ケタ違 ひ に大 き いので 、イス ラエル の国 の予算 で 物事
が まかなはれてゐると見 るのが、そ もそ も見 当違ひなので ある。
同 じよ うな事 はギ リシャにつ いて も云 へ るのか も知れな い。
ギ リシャ内 の富
よ りもギ リシャ以外 の 国 に住 んで活 躍す るギ リシ ャ系 の 人 々 の富 の 方が はるか に大 きいの
アル メニ ア人 も同様 といへ よ うか。
で ある。
さういへ ば、戦後 Oppenが IASの 所長 になった とき、Oppenが 帽子 をまわ し
て不 足分 の研究所予算 をたち どころに調達す る と聞 いた。 (Von Neuaannの
の R&Dで
お金が うん といった ことも あ らう。)
computer
どこにゐて もユ ダヤ系の人 のや る ことに
す つか り感心 した。
キブッ
第 ― 次大戦後 、世界各地か らユ ダヤの人たちが約東 の地 へ ともどって来た。 金
そ こで キ ブ ツ と云ふや り方 が あち こち につ く られた (集団農場 の
一 種)。 私物 を殆 どみ とめず、下 着 も含 めて共有財産 で農 。牧 を行 ふ。 新 生児 も乳 ばな
持が多 くはなか った。
れすれ ば、子 供達 は共 同でそ だて る。
財産 は共 有 。
仕事 も共働 。
子供達 は兄弟 姉妹 のよ うに育て られて、成年 に達 して も coupleにな る者 は稀 と
か。 これが キ ブツに とって よそか らの嫁 さが し、婿 さが しといふ難 題 を もた らした とか。
キ ブツ に合 はな くなった成 人 は、職 をさが してキ ブツを去 る。
ユダ
アイゼ
ンベル グ もこうした経歴 の持主だった。
キ ン
'‐
種1窺
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あ1標│^
ご│′
■
'│■
乾 いた土地
で ある。
イス ラエルの古代植樹
イスラエルは乾 いてゐるので、植生 ・農業 のための水 の確保 は この上な く大切
ヨルダン川の水の利用 一―一― 配水 の しかた 一 ― ― 一 は常 に外交 とか
かはる。
ヨルダンの水をひいての農地拡大作は 1960ご ろにはじまったばか り。
こ ゝで古 代 の知恵 も生きてくる。 イスラエルの多 くの部分で雨が少 くても昼
夜 の温度差が大きい。 海か らの湿 り気をおびた空気は夜露をもた らす。 木 (オリーブ、
等)の 、まわ り (木か ら少 しはなれた円周上)に 石を荒 くつんで 円い垣 をつみあげると、
夜露を効果的にとりこんで 1本 の木を支へ るに十分な水が得 られる。 木をまば らに植え
てお くと (密に植 へ ると水不足になる)け っこう木 の実 の収穫がある。 しか し木を切 り
スカスカの石垣 をこはせば、 もとの草木のな い荒地 になってしまふ。 2000年 以 上前には
こうした方 式でオ リー ブなどの疎林があった。 のちに木を切 られ、世話するものもなく
なって荒地 になった。
そ こで昔の方式の復元 も試 み られてゐる。
の水をひかな くて もそ こそ この収穫が上る。
これな らヨルダン川
木 を植へ る密度は永年 のカンでき められる
さうな。 古代の智恵はすばらしい。
発展期のイスラエル
1960ご ろのイスラエルは独立後世界各地か らユダヤ系移民が 「
約束 の地」に帰
国し、人口増は新生児 よ り移民の方が多かった。 到る所開発の ラッシュの筈だったが、
1960前後では、 日本の初オリンピック前の東京 に比べれば、ずっとのんび りしたベースだ
つたや うに思ふ。
イスラエルが急激に様がは りするのは 1960年代おはりごろか らではなか らうか。
エクソ ドス、ギ リシャヘ
pass overが近 づ くと我々はイスラエル をはなれた。 我 々がラホボを去る時、
欧米か らユ ダヤ系の人たちが pass Overを故国でむかへ るべ くイスラエルヘやって くる。
その一人が Marry Ge11_Mannだった。 挨拶 して別れる。
帰 りはギ リシャに 6日 ほど寄った。 3日
こ りの 3日 間は観光。 CERNの
間はギ リシャ AECの
invitation、
の
Th DivにKanelopo10usとい う中年 になってか ら工学者
か ら核屋に転向 したギ リシャ人がゐた。 彼はギ リシャに帰って、 ギ リシャの AECの 高
官になった。AECは デ モ クリトス研究所 といふ原子 力 ・原子核 の研究所をつ くった。 Y
は AECの コンサル タ ン トとして inviteされた らしい。
ギリシャの原子力研究 について
ad ceを もとめ られ、AEC主 催 の dinnerにもよばれた。
のこ りの 3日 間はアクロポ リス、考古学博物館な どをまわってす ごした。
ギ リシャはオ リー ブオイルをたっぶ りつかふ。
どの料理 にも、サ ラダもオイ
ルづ けと我 々 には思 へ た。 6日 間、オリー ブオイル の過剰 にまゐった。
ギ リシャはイ タ リア と並 んで、 魚 の市場 にタコが 並 んでゐる。
来タ コ を食す るのがギ リシャ人だ。
ミノア文明以
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イ ス ラエ ル ヘ の旅 ( 1 9 6 0 ) へ
の追記
「ラホボ 着」 へ の追記
テル ・アヴ ィヴ空港か ら Weizmann lnstitute(WI)迄 、WIの carで 送 られた
ことにつ いて は既 に触れた。 wIの
guest houseに着 いて、そ の 中 に ある諸道 具 (電気機
具等 )の 使 ひ方 を教 え られた。
主 に WIの cafeteriaの
場所、朝食 に何 が あるか、又そ の
注 文 の 仕事 、特 に 1才 の幸夫のための ミル クの 買 ひだめ等 、事 細か に注意 を受 けた。
れ な い異邦人 へ の暖 い心 くば りで ある。
多分 Amosの
指示で あ らう。
な
欧米 か ら里帰 り
の ユ ダヤ系
sitorと違 って、Yyは タブラ.ラサ だ ったか らだ。 中食迄 には Wiの 物理屋 に
会 ふ の で、中 ・夕食 につ いての注意 はなか った。だが、 ミル クが買 へ るのは朝 だけだか ら、
幸 夫 用 に必 要なだ け、朝 の うちにミル クを買ひだ め をす るよ うにす す め られ た。 Guest
houseの roomの 中には小 さな冷r a庫
が あ った
翌朝 WEの
cafeteriaに朝食 を と りにゆ く。
西欧の大学 ・研 究所 の cafeteria
とハ ー ドの部分 は似て ゐ るが、f00dの 様子 は全 くの様 変わ りで ある.
ミル クや ミル ク 。
プ ロ ダ ク ト (朝食 の ときだ けだ さ うな)が あ り、 コー ヒー 、紅 茶、 パ ン、 ピタ (広 く中近
東 で 食 べ られて い る薄焼 きパ ン。 イ ン ド ・アフガニス タ ンではチ ャパ テ ィー と呼 ばれ る発
酵 しな いパ ンの こと)は あるが、毛 物 の 肉類 は全 く見 られ な い。 魚 は あった。 鱈 とか
ニ シ ンの 油 (水 ?)び た し、 何や ら野 菜 (ハー ブ)の つ い た液体 につ か って ゐ る。
ンダ 様 のニ シンか な ?
オラ
バ ナナ、オ レンジ な ど菓物 はあった。 勿論欧米 でみなれ たハ ム、
ソー セ ー ジ、セ ラミ等豚 の ものは一 切出 るはづ もな い。
朝 は コ ー ヒー や紅 茶 にミル クを
入れ られ た。
WIの cafeteriaの中 ・(夕)食には牛 肉がで る。 イス ラエル で は牛や 羊なぞ の親
子 を と りまぜ て は い けな い。 牛 肉の料理 がで る と、食 事 中 に仔 肉用 の ミル ク を混 ぜては
な らな いの が きま りで ある。 だか ら中食後 コー ヒー にミル ク(やク リー ム)を入れて はな ら
な い し、 デザ ー トもミル ク の混入 は駄 目と いふ訳 で あ る。
日本 の親子 丼 な どイス ラエル
で は もって の他 の ものである。
また 鱗 の な い魚 (海の 生物)も 食 べ て は い けな い。
タ コ、 イカなぞ がそれ ら
に該 当す る。
「
イ ス ラエ ル 語 」 へ の追 加
R a c a h は R a c a h 係 数 をみつ けた数理物 理学者。
ユ ダヤ 系 の 人。
北イ タ リアに長 く住 み つ いた
先祖 を 1 0 0 o 年 もた どれ る と云 ふ名 門 の 出。
G a l i l e O , T O r c e 1 l i (空度
真 を表 はす 単位 T o l l に名 が残 る) 、Volta(電 圧 の ボル ト
に名 を残 す) 以 後 、 ( 物理 の主 流は アル プス を越 え、英 ・ベ ネル クス ・佛 ・独 ・喚 に移 って)
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沈 退 した イ タ リアの物理学 を、EnricO Fermiが復活 させた 頃、 ロー マの 北 のイタ リアにあ
つて、頑張 った のが Racahは Bernardini、
Rossi(CR屋 、Coincidence circuitを
発明、戦
争直前 アメ リカ に渡 り、CR、 特 に nuclear interactionと
air shOwerで活躍、 のち X線 天
文学 の創始者 と して活躍 、 小EB稔の 師 匠)と ともに、 イタ リア物 理学 の 覇 を競 ったのであ
った。 Racahは
イス ラエ ル 建国 を喜 び、先祖 の故地 に里帰 りした。
しか し老年 の Racah
は、若 者 と異 り、 もはや 新 生イス ラエ ル語 を修 得 しえず死 去 した。
「
キ ブツ」 へ の追加
キ ブツは第 一 次大戦後 (従って イス ラエル といふ 国はで きて ゐなか った)、イス
ラエ ル の故 地 に世界各地 か ら、 もどって きた まづ しい人々のた め の ものだ った。
欧米 に
居 る豊 かな ユ ダヤ 系 の金持 の援助 で、土地 を買ひ必 要 な建物や 農 ・牧道 具 をそ ろへ て出発
で きた新共 同生活 の職場だ った。
ソ連 の コル ホ ー ズ、毛澤 東指導下 に進 め られた農村 の集 団農 団 に似 てゐ る面が
多 い。
第 二 次大戦 まで のキ ブツは平和 的 にふ えて行 った。
イ ス ラエ ル 独立後 は様相
が一 変 し、 周辺 の ア ラブ諸 国 とくにパ レス テ ィナ人 との 関係 は、最 早平和 的 とは云 へ な く
な る。
イス ラエ ル の VISA
イス ラエル ヘ 行 く前、イス ラエル の Ⅵ SAを Bernの 領事館 に と りい行 った。 こ
れが Genevaに 最 も近 いイ ス ラエル の領事 の居 る所 だ ったか らだ。 よ い Bern見 物 の機会
と もな った。
Amos tt CERNの 友 人達か らの教 えで、 旅券 にでな く、別 の紙 の VISAに して
も らった。 旅券 にイス ラエ ル の VXAが
ある と、そ の旅券持参者 は ア ラブ の 国 々 に行 くと
き、 ア ラブの 出入 国管 理事 務で入 国 を拒 否 され 、 国外 退去 とな るか らだ。
そ の頃、 アラ
ブの 国 に ゆ く予定 はなか ったが、エ ジプ ト等 へ は今後 是非行 きた い とは思 って ゐた ので、
Amosの 忠告 に従 った のだ。
尚、再言す るが 、 イス ラエル 領 の新 エ ルサ レムか ら、 ヨル ダ ン治下 の 旧パ レス
チナ には入 国で きた。
しか し一 旦 アラブの治下 の 国 に入 る と、そ こか ら直接 のイス ラエ
ル領 へ の 再入 国はできな い 時 だった。
そ れで 今 回 の イ ス ラエ ル 行 き に当って は、残念 に も、 旧イ ス ラエ ルや ベ ツ レヘ
ム等 ヨル ダ ン治下 の名所 め ぐ りはす っぱ りとあき らめた。
070914
体 み
(エ ッ セ ィ )
江戸 時代 、 町の商 家 に 勤め る使 用 人 の 体み は、 お 盆 と正
た。
月 だ けだ っ
盆の休み に は、一 晩泊 り (位 )な ら、丁 稚 や 小僧 の 親元 帰 りも許 された
。
明治 開化 と もに 、 日本 に も 「± 8麗半 ドン、 日曜 お 体み 」 の 万式が
輸
入 ・施 行 された 。 僕 の 学校 時代 も この 体 み の ス キ ー ムが 踏襲
され て きた し、
・
所
銀行
もこれ
に
、
従 った 。 しか し日本 の デ パ ー トは この スキ ー ム を とらず、
百貨店 は週 の wttrttng dayの どれ か を独 自に 休 日 と し (火 とか
木、或 は金 曜)、
週 末 の 書 き入れ 時 は営 業 して きた。 欧米 で は (キ リス ト教 徒 の
営 業 す る)店
や 百貨 店 は 日8理休 み を厳 守 し、日本か らの 旅 行 客 を戸惑 はせ た もので
ある。 逆
に欧 米 か ら 日本 へ 来た 客 人 は、 デパ ー トで 日曜 に 買物 が 出来
て大 層 便 利 と大 喜
び。
a しか し、欧米でも、ユダ ャ人の経 営する店等は土曜が休みである。
欧米で威曜が体みの食料品店 (ユダャ専用の食料 品店は、Chlneseの と共に
世
界中の町にある)等 に出会せば、Ownerが ユダ ャ系にきまってゐた。
イスラエル でも、すべて (役所、学校、研究所、オフ ィス、店、百
姓 ・… )が 土曜体日で ある。 イスラエルの一 日はユダヤの決ま りによれば (モ
スレム と同 じ<)夕 方 (日没)から始まる。 百姓も牧人も上0理
は休み。 誰も働
いて はいけないのである。 主曜は料理 (労働)が できなぃか ら金
曜につ<っ
ておいたものを食 べる。 牝牛の子tしぼりも±0麗
は禁止 。 しか し牝牛の乳が
はつて苦 しがるのであれば、 乳を搾る。 これは牛を助け る為で、 しぼった乳
は桶 に入れたま ゝ、牝牛の倶」
に置<(桶 をあま り動すと、労働 した事になる)。
牛が撃t 桶を蹴飛ばそ うとほ った らか し。 だか ら上 曜にタクシーを呼ぶ訳には
ゆかない。 (運 転手が働 くことになる)。 汽車もどうして も運転 しなければ
な らないものを除 いて 休み。 ユダヤの律法はイスラエル の公 的行事に於いて
は守 らなければな らない。 少数とは云 へ、律法違反に 目を光 らせる人々が
ゐ
るか らだ。 誰でも出 入 りできるオフ ィス、 銀行、 レス トラン、デパ ー ト
、学
校、商店等々 は文匂が来ないよう、ュダャの きま りを守 らざる を得ないのだ。
(「
イスラエルの旅」参 照)。
ユダヤ人に とって、土曜に働いてょぃの は戦場の軍隊 (戦争のとき
相手が休んで <れ る訳が ない)と 救急医だけ。 出産も放置出来ぬ。 働 いて
もよいと認められるのはこの位だ ったかな。 これが伝統的なきま りに忠実な
ユ ダヤ人の ありようで、それはユ ダヤ人が何 処に居ようとイスラエルの
国内外
で同 じことなのだ。
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因み にモス レムの休 日は金l麗
日。 キリス ト教、 ユダヤ教、マホメ
ッ ト教で体日が 1日 づつ早 <な る (日→上→金)。 宗教の uniQuenessの為に
は同 じ曜 日の体みは困ると云6、
訳か。
江戸時代の相撲とりは 「―年を二十日で暮 らすいい男」と云はれた。
当時大相撲は一年二場所 (蕎 ・冬)2× 1 0 ttFB3だ
けだ った。 今は、六場所 6
×1 5 日 働かされる。 多すぎて相撲とりの怪我が絶えない。
ちなみに 1950-1960の ころの Genёve州1の小学校は子供達が つ
かれないように、木曜と日曜が金休だった。
体みのとり方は人々により所によ り様反で ある。
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